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#泣いたけど最後迄頑張りました
locoluqua · 1 year
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#locoluqua#ロコルクア#赤穂市#相生市#たつの市#佐用町#宍粟市#たつの市kidsカット#キッズカット#キッズカット男の子#可愛すぎる#可愛いkids#キッズヘアー#泣いたけど最後迄頑張りました#美容院#美容室 https://www.instagram.com/p/CqREb32Sq0s/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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tsukishiro-himari · 11 days
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「数年前備忘録」
疲れ過ぎると突然泣けてくるし唐突に笑う
ライブを、歌を、生き様を届けたい一心で
立っているよ
イタクァのラストの歌は
いつも今日で最後と思って歌っています
NärCon、そしてツアー最後のステージでは
今迄でいちばん伸ばして歌いました
目を開けた時
青空と沢山の拍手が聴こえ
その光景を一生忘れないと思った
#lappelduvide2022
移動時間
海外の空を見ていると大きくて広くて
風もこんなに気持ち良かったんだなあって
泣きそうになるよ
日本行き最後の飛行機に乗ります
帰り道は想いが巡りやっぱり切なくなります
大きな空や異国の色んな思想
文化を持っている方々との交流は
私の小さい思考や世界を
思いがけないところへ
いつも連れて行ってくれます
ありがとう
I will always think of you and send you my love.
#lappelduvide2022
日本に着きました
蝉の鳴き声が大きくてびっくりしちゃった あっという間に季節が巡っていくんだね
ただいま
#lappelduvide2022
季節の匂いが切ないのは
思い出を思い出すからかな
ケロちゃんがあっけらかんと
人生の教科書みたいなことを言う
「生きてると辛いこともたっくさんあるけど
逃げんと立ち向かっていかないかん時が
あるねんで」と
エピローグで唐突に言うからそうだよね
と泣いちゃう
色んな伝えたいことがあって
毎日どうすればいいか今は未だ
分からないけど
生きてる
車掌さんに手を振ったら振り返してくれた
電波塔
人間の背骨みたいに感じて惹かれるのかも
ゆいちゃんが遂に休職する事が出来て
「あかちゃんが泣くことが
おしごとなのとおんなじで
必要な時間なんだよ。全部大丈夫。」
といいねいいねしたよ。ずっと味方だょ。
苦しい時に支えてくれた言葉や存在は
私の中にずっと遺っています
怯んでしまわず、臆さず 
少しづつでも。
女子高生の鞄からねぎが出てるの、可愛い
今日は練習を終え
帰ってから気付いたら寝てしまっていて
「人間は"眠る"が充電だったんだ」
と当たり前のことに気が付きました
ひとつ出来ても
次々に出来ないことに直面してまさに
人生を感じているけれど、絶対に諦めない
実は最近
「自分と上手く付き合えない期」
に入っていて
色んなことが目に入り
頭を抱え込んだり寂しかったり
したのだけれど
当たり前に環境が変われば
全く動揺しない訳がなく
歯を食いしばる時はいつだってあるけれど
まだ頑張りたいっていつも思うのは
応援してくれるみんなの存在のおかげだよ
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izmsao · 1 month
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【2024/03/28】
こんばんは。
今日は午前中に肺の炎症誘発処置をしました。
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3回目です。
正式名称は【胸膜癒着術】と言うちゃんと医学的根拠を持って認められている処置らしいです。
何でも肺の周りって胸膜という膜があるらしく、肺が破れた場合、薬であえて炎症を起こして炎症が治る過程でその胸膜と肺の壁?がくっつき、穴を塞ぐ…と言うものらしく。
医学難しいね、胸膜って何よって感じですけど。
まぁどっちにしろ
あえて炎症を起こして穴塞ぎにいくパワー療法という私の解釈で間違いないようで
だって炎症を起こすんですよ…??あえてね…??そんな治療法ある…???パワーじゃん…???な〇やまきん〇君もびっくりだよ……だって普通は炎症が"起こってから"病院に行くもんじゃないですか…医学って奥が深いですね…さすが国家資格(???)
ついでにいうとその胸膜?を炎症させる為の薬。先日の絵日記でチラッと書いてはいましたが【50%ブドウ糖】を投与して頂きます。50%はブドウ糖で残りの50%は恐らくただの水…なんですかね…?超医療的な砂糖水?なイメージ(多分違う)
それにしてもただ砂糖水漬けにするだけで炎症起こす体内(内臓)って凄いデリケートなんだな〜って思いました(どんな感想よ) 。超医療的とは言え、砂糖水であんな痛くて苦しくなるの…??? 人体マジ不思議すぎ……
Twitterも実況みたいにやかましくてすみませんでした(懺悔)。苦痛に苦痛が重なるのと、どう足掻いてもその苦痛がどこにも逃がせないのでとにかく何か、どうしても何か気を紛らわせたかったんです。リアルでも苦痛で呻きながら携帯ポチポチしての反復横跳び。想像するとなんかやたらシュールでウケますね。どうか笑ってくれ。
この処置も3回目ということで、看護師さんも私が予想以上にかなり痛がるのを把握して下さっていて、今回は処置前からもう痛み止め服用して点滴を通して完璧なる事前準備をして頂きました。
看護師さんの優しい気遣いと機転のおかげで3回処置の中で1番まだ楽に耐え忍ぶことが出来ました。それこそTwitterで実況出来るくらいには余裕ありましたよ今回…本当にありがたい……それでも痛くて苦しくて涙ぼろぼろの涎だらだらでしたけど…笑
普段、泣くって行為を全くしないので久々に泣けて良かったんではなかろうかって感じです。涙ぼろぼろする場面なんて早々ありませんからね…
痛みって不思議とずっと同じ波長で続くといつかはちょっと慣れて落ち着いてくるんですよね。脳が錯覚させるか何かで。それと今回は痛み止めを先に通して頂いてたので、落ち着いてくるのも比較的、本当に早かったです。よく考えれば「あえて炎症を起こさせてる」んだから痛いに決まってるよね…笑
本日もSun先生に処置して頂きました。2回目からもう子ども騙しはしてくれませんでした笑 いつもの淡々とした感じで「はーい薬入ってますよー、入りましたよー」って感じです。まぁ、変にフレンドリーより淡々として頂いてる方が個人的には楽なのでありがとうございますという感じです。
その代わり私は駄々こねますけど<(^o^)>┌┛’
今日もSun先生が処置に来られる迄にひたすら看護婦さんに駄々こねてました。マジで28歳児。
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いい大人が情けないかもしれないけど痛いの嫌だもん、大人も子どもも関係あるか。
28歳児にプライドなんて無いんでね
処置前に友人の創作子ちゃん(推し)を誠に勝手ながらロック画面にさせて頂いて呻きながら電源ボタン押して画面見ては励ましてもらってました…勝手にロック画面にしてごめんね…そして本当にありがとうございました…改めて推しの力は偉大なり……( ߹ᯅ߹)
本当に励まされて、痛いけどまだ頑張れる、いつもより全然余裕じゃん!!って鼓舞まで出来ました。
本当にありがとうさとみん。一生ちゅきちゅきらぶりー…
あとは処置中、相部屋の方に申し訳なかったなあ
と思います。2時間半?ひたすら呻き声を聞かせてしまっていたので…(かと言って我慢しろと言われても無理なレベルですが)相部屋の皆さんもそれぞれの理由で入院してらっしゃるのに…しょうがないにしても、申し訳ないが勝ちますよね。1番の被害者…
処置の後は散々嫌々していた頭洗いに行きました。
行きたくなくて毎日看護婦さんが「今日は髪洗ったりされますか…?」って聞いてくださってるのに首を横に振り続けてたんですけど、髪も長いしさすがにベタつきが気になったので渋々行ってきました。
看護婦さんに髪を全部洗ってもらうというVIP待遇付きでね!!!(ドヤ)
むしろだから行ったまである。自分でやれとか言われたら絶対行かない。お風呂本当に嫌いなので。行ったらすっきりするし後悔しないんですけどね、どうしても行くまでで諦めてしまいます。
昨日はそろぼち何か描きたいなーと思ってましたけどまさか今日も処置が来るなんて夢にも思わず(朝一番に告知されました)いくらこれまでより楽でも、ちょっと疲れてしまったので描く気力は無いです。
処置が終わったあと主治医の先生が来てくださって「肺の穴も、もう今更手術して胸開いたところで目視できないほど小さくなっているから見つけられないし、後は気合いで治して閉じてくれ」と言われて
それが出来れば今頃とっくに退院しとるわwwwwwwwい!!!!
って若干ツボりながら「はい……w」って返事しまし���。本当ネタすぎる。こんだけ経っても未だ穴閉じない自肺、やる気ないんか???笑
主人に似て究極の面倒くさがりかな???笑
処置自体は2時間半くらいで、それ以外はフリーダムに元気に過ごしてます。きっと皆が思ってるよりピンピンしてる。そんなに悲観もしてませんので、ご安心ください。元はと言えばこの病状自体は自業自得なので。自分がやってきたことのツケが回ってきてるだけ笑
大体の膨大な自由時間はネットサーフィンしたり今さらずっとやれてなかったあつ森やったりしてます。あつ森、本当に何やっていいか分からなくて釣りと素潜りしかしてない…(元々釣り好き)
改めてちゃんとあつ森やって感じましたけど、マジどう森シリーズの中で1番完成されたタイトルですね…私は結構クリエイティブが試されるゲーム苦手傾向があるので(自由研究とかすごい苦手な子どもだった)今回のあつ森は自由すぎて逆に何していいか分からなくなって止まっちゃうんですけど……今まで欲しかった機能とか出来ることが多くてそりゃあ大人気になるよなあ〜って感じました。
これ以上のどう森シリーズとしてのタイトルはこれから越えられないんじゃないかと思う。わりと本気で。
疲れてしまったので、とりあえず穴が塞がることを願いつつ後はまったり過ごします。
今日も忙しい中なのに沢山構って頂いて、心配して頂いてリプ等も皆さん本当にありがとうございました。その優しさに私は今日も救われている…
実況ツイートは一部消しますが、このご恩は忘れません…本当にありがとうございました…
皆、ずっと元気でいてくれよな……
最後に超超余談ですが…(もはや読まなくていい)何故に通称:Sun先生と呼んでいるかと言うと、本名が日本語訳まんまのお名前だからです。珍しいしめちゃくちゃ良いし素敵なお名前だなあ、と思って。あと第1印象と本名のギャップがえげつなかったのでわりとすぐ覚えてしまった笑 今回1番お世話になっている先生でもあるので、また改めて描きたいですね(既に絵日記で描いてますが)
Sun先生も「様子見します」と仰ってたので、明日からまた様子見です。早くまたクランプアップテストにいけますように…そろそろ行ってくれ…?そして合格してチューブ抜けてくれ…???刺さりっぱなしでもう2週間超えました。
では、おやすみなさい
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bottegatramoda · 2 years
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【親子サンダル作り体験】 8月最終日、家族で体験に来てくれました。 一週前にご予約頂いていたのですが、当日息子さんがイヤイヤ病で頑なに行きたくないとの事で、一週延期の開催となりました。 こちらも今日は来るかな?めっちゃイヤイヤされたらどうしよう…とドキドキしていましたが、元気よく入って来て、やる気満々で革を選び出したのでホッと一安心。 いっぱいおしゃべりしながら、黒子に徹してくれたお父さんのチェックが入りつつ、無事完成✨ 自分がやりたくて予約しました!というお母さんもこだわりの一足が仕上がり満足のご様子。 靴にはいつも泣かされているとの事だったので、足に合った一足が出来上がって何よりでした。 お母さんの夏休みの自由研究完成✨ さて、息子さんは後少しだけ夏休みだそうなので、宿題頑張ってね👍 また遊びに来て下さい。お待ちしております♪ サンダル作り体験は夏季限定の為、9/15迄となります。 気になる方はお早目にご予約ください。 #8月 #夏も終わり #親子体験 #物作り #物作り好きな人と繋がりたい #レザークラフト #レザークラフトハンドメイド #サンダル #サンダル作り体験 #夏の思い出 #手作り #ハンドメイド #夏季限定 #ご予約受付中 https://www.instagram.com/p/Ch_vsdAr0XC/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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vjbab · 3 years
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2021.1.12(火) 非国民とののしられそうなオジ日記。 一言で表すなら、推しのワンマンを観に大阪迄、という話。   スジャータは岩の様相で横浜→名古屋まで。 梅田駅のクレープ。 味は問題無いしメイドさんは可愛いのですが、飲み物までのタイムラグがあると、このように待つ、という実例。クレープ立てるの欲しいね。 BIGSTEPは心斎橋アメリカ村のランドマークビル。その3Fのピンボールセンターが胸熱圧巻! 好き者は一度来たらいい。泣ける。泣け! 最近の推しアイドル「にっぽんワチャチャ」 春から関東を拠点に頑張るとのこと。 今後どうなるか分からないけど、勇気をもって踏み出した仲間とのファーストステップは存在を知ってしまった以上、オジサンとしては応援しとかないとね。義理を欠くってなもんです。 メディア見るとダルマさんが転んだばりに、動いたら捕まえて死刑!位の教条的な空気が支配してますね。 それはそれで大切ですが、次に止めたら今度は文化的な営みはトドメを刺されるかもねーと、思いつつ。 誰かに「正義!」と太鼓判押されて、ハイそーですかと信じられるほど真っ直ぐじゃござんせん。 DNAの二重螺旋バリに捻くれてますサーセン🤪 https://www.instagram.com/p/CJ-qSvdjh9_/?igshid=q92mvreu8kf6
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abeya38 · 4 years
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終戦の日を無視して趣味三昧
相も変はらず、戦後日本といふ社会が戦後日本であり続ける事を目的としたやうな「終戦の日」関連行事にはうんざりしてゐる。
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英霊に対して、祖先に対して、そして何より8月14日にいはゆる「終戦の詔」を発布され、翌15日に玉音放送を行はれた皇統に対して、実に申し訣ないので、靖國神社などへ参拝する事も出来なくなつてしまつた。
この日、靖國では党利党略、私利私欲の見本市が開催されてゐる訣だが、これを神前にて喧しく批判する事すらも、英霊の御霊に対して誠実ではない、至誠に悖る事と思ふので、私は敢へてこれを無視して、趣味三昧となるしかない。 無論、我が家に於ける祭祀は眞心を込めて斎行されるが、対外的には趣味三昧と映る訣だ。 何度でもいふが終戦は講和発效によるものであり、サンフランシスコ講和條約発效の昭和27年4月28日がそれである。 安倍晋三はこの日を「主権回復の日」として、まるでこの事実を隠蔽するかのやうな態度である。このやうな者をこそ売國奴とか國賊といふ。 戦後日本といふ社会の中では「忖度される立場の者」であつても、いや、さうである程「アメリカ様、國連常任理事國様に対する忖度」が大事なやうだ。 社会生活に於いて、忖度も必要であると思ふが、それが國家の政であるとか、学問であれば、そのやうに事実を曲げてはならぬし、目先の損得などで、道理を曲げてはならぬのだ。何故ならば、それは社会と規範とを破壊するからだ。 社会の維持に必要だとした事により、社会自体を破壊するといふ、そんな本末転倒はならぬといふだけの事、当り前の事である。 ポツダム宣言受諾に関する大詔は、昭和20年8月14日に発布された。 玉音放送はその翌日8月15日である。 しかし、これが発效するのは同年9月2日の降伏文書による。 降伏文書が終戦ではない。これは停戦である。 昭和20年の停戦から、昭和27年の終戦までの7年間、我が國は独立を奪はれて、アメリカの侵略占領下にあつたのだ。 兎に角早急に、講和を締結し、侵略軍を引き揚げさせたい。 その爲にはGHQ起草の「日本國憲法」も制定した。 その日本國憲法で認められてゐない「軍」も、マッカーサーに命じられる儘に、日本國憲法を無視して「警察予備隊「後の自衛隊」」として健軍した。更に朝鮮戦争に出兵して、戦死者も出た。 占領下の日本は、出鱈目も良い所だ。 更には、このやうな出鱈目に対して、議論をしても良いがこれを一切否定してはならないといふ事が、講和要件として盛り込まれてゐる。 占領下の事を学ぶには、自分の「村」に「とんでもない強盗団」がやつてきたのだといふ具合に考へると良いらしい。私としては迂遠な気もするが、単純化する事と客観視し易い事が良いのだらう。 この村は、神代からの共通の祖先を持つ人々が暮らす、平和で豊かな文化的な傳統ある村であつた。 そこに、自分や家族を人質にして、ご先祖様や傳統、文化を貶め、破壊する卑劣な野蛮人が、強盗として押し入つて来てしまつたのだ。 無論、侵入を阻止する爲に我が身を捨てた父や兄がゐた。それ以前にも近隣の村々を荒らし支配してゐた強盗団を征伐しに戦へ征く者もゐた。 大和男兒が、防人が、戦で死ぬのは仕方のない事であるし、こちらも敵を討つのであるから、賊が如何な大軍であれど、前線や激戦地には黒人や植民地の奴隷兵を用ゐたとしても、これを卑怯とはいはぬ。 だが、村の中で罪もなく暮らしてゐた母も赤子も老人も、それこそ敵の捕虜までも無差別に焼き殺された。誤つて女子供、老人を死なせたのではない。それをこそ攻撃目標としたのである。このやうな野蛮行爲は品性下劣な卑怯者であり、アングロサクソン系の常套手段でもある。決戦の戦場に呼び出された隙に、村と妻子を焼かれた勇敢な先住民戦士の無念は、世界中に埋もれてゐる。 世界といふ言葉が白人社会とその國々を指し、人間といふ言葉が彼らを意味してゐるといふ野蛮さが、実際の世界中を席巻したといふ事実は、神代から命を繋ぐ人類史の汚点である。 仮に、彼らに尊ぶべき賢明な祖先がゐたのだとすれば、このやうな悪行をしでかした子孫が祖先の御霊に対して「おれは人間をやめるぞ!」と叫んで自滅の道を突き進む様を嘆かずにゐないであらう。
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「人間をやめるだと?良い齢をして、いつ迄もそんな馬鹿をいふものではない。故郷のおふくろさんも、あの世のご先祖も泣いてゐるぞ。人でなしめ!」 本来、このやうな物事を、正しく量るものが「法」であり、恐れられ疎まれる乱暴者や卑怯者に忖度して定めるものを「無法」といふ。 ともあれ、村を構成する一族郎党、皆が討ち死し、全てを焼かれては、この村を維持してゆく事が出来なくなり、村の未来がない。 祖先から受け継いだこの村を、家督を、傳統を、何よりもこの命脈を、遠い未来の子等にも必ず託さねばならぬ。子等へと託すものであるから道理を外れてはならぬ。 村長である神主さんは、苦渋の決断として、強盗に門を開いたのだ。 降伏すれば村長さんの命はないだらう。村長さんとしては村の守りを固めて徹底抗戦すればこちらに地の利があり、その爲の戦力も整へてゐた。継戦すれば敵は兵站を必要とする寄せ集めであるのだから、十分に勝機もあり、その後に降伏するにしても條件を良くする事も出来たが、村と村人達の未来の方を選んで下さつたといふ事だ。本人に尋ねた事はないが状況的にさうなのだ。 しかし、村長さんの決意を余所に、その村も村民もただでは済まなかつた。 「平和」の美名の元に、少なくない数の妻や娘が強姦され、手向かひした者は殺され、赤子も踏み殺された。村の人々は餓ゑ、村の中枢(東京)ですら餓ゑた野犬に食ひ殺される人が出るやうな状況となつた。 これは意図的に強盗団が食糧を制限した爲である。制限した上で闇米を取り締り、社会規範を破壊し、自分達に協力する「裏切り」を推奨したのだ。 このやり方で勢力を伸ばした者達は後に「穀物メジャー」と呼ばれる。 合戦では戦闘すれば討ち漏らす事がある。しかし、兵糧攻めはその範囲内の者を最終的に全滅させる事が出来る理屈だ。配給の食糧だけで暮らし、闇米を拒否した山口良忠判事はそれが原因で亡くなつてゐる。逆に農家である私の家では当時、大きな家屋を新築した。 辛く苦しい戦が続いた事、惨めな占領下での暮らし、餓ゑ、食糧など格差の拡大と社会の混乱。それらの原因は偏に強盗団が無法を働く事にあつた。だが、それは誰もいへない。いふ者があれば投獄されたり、職を追はれたりしてゐた。 詰り、それらの原因は「村長である神主さん」と「村の有力者達」が悪いといふ事にすり替へられてゐつた。しかし、表立つて村長さんを批判するのは、村長さんの政の下で問題を起こしてゐた者達や犯罪者達だけであり、以前と同じやうに村長さんを慕ひ守る者もゐたが、多くの人はそのどちらもしなかつた。 どちらもしない代はりといふ訣でもないだらうが、終戦の日といへば、村長さんの決断を皆が聴いた日の事をいふやうになつた。皆の命や暮らしを守り続けて、安かれと祈つて下さる村長さんに実質的な責任を擦り付けた。 責任を取る汚れ役だから、村長さんには後何代かの間は、ゐて貰はないと都合が悪い。都合の良い便利な生贄は生きてゐてこその生贄といふ訣だ。 実質的には裏切りを行ふ卑怯卑劣な者達は、強盗団の卑劣さを知りながらも、それに倣ひ、強盗団の虎の威を借る狐となつて世渡りする。それこそが「大人の判断」「現実的」 と嘯くのだ。強盗団はそんな彼らにとつて、今では頼もしい「お友達」「親分」なのだといふ。 しかし、そんな者共であつても虎の威といふ免罪符があるとはいへ先祖伝来の文化や規範を破壊してゐるのだから、何処か負ひ目を感ずるのであらうか。さういふ者ほど表面的には「村長さん萬歳!」といふナショナリズムを装飾、僞装をしたがるのだが、 どうにも彼ら自身にはその自覚がないやうだ。ただの気狂ひである。 「目は口ほどに物をいふ」といふが、その歪な態度こそがこの事実を物語つてゐる。直ちに精神病院に入つて抗精神病薬で廃人になれ! さて、話を占領下の出来事に戻すが、強盗団は自分達に手向かひする者が出ては困るので、占領して支配するのに都合の良い「法」を勝手に拵て、「それを呑まなければ村から出てゆかない。お前達も更に酷い目を見る。人質がまた死ぬぞ。」と脅すのだ。 強盗団とその走狗に脅される儘に「無法」を制定したものの、それには「お前達は戦をしてはならぬ。武力も持てぬ。」と明記してある。明らかに武力占領されてゐるからこその「無法」であつた。暴力団のやる「場所代」「用心棒代」といふやつである。「本当なら暴力団みたいなのがゐるから、場所代をせびられたりするので、その爲に用心棒が必要となるのに、その暴力団を用心棒とするのか?」といふマッチポンプだ。 だが、問題が起こつた。 隣村では他の強盗団同士の諍ひが始まつたのだ。 大軍を擁する強盗団は一枚岩ではない。多数の強盗団の連合なのだ。 日本村に築いた瓦礫の山で、お山の大将として威張つていたアメリカ強盗団は、隣村での諍ひに乗り込んで、また荒稼ぎし、可能な限り独り占めする心積もりであるから、ソ連強盗団を放置出来ない。 だが、この「金になる村」を留守にして、他の強盗団に荒らされるのは困る。自分達の常套手段を他の強盗団に真似されるのは許せない。 「よし!お前ら日本村では「ヒノキの棒(竹光?)」を装備する事を認める!最低限(案山子)はお前らでやれ。主な役割は兵站だから気にすんな!心の友よ!」 「し、しかし!アメリカ様の定めた不磨の大典でそれは禁じられてます!」 「こまけーこたーいいーんだよ!」 「しかし、大典の改正手続きが通らない事には・・!」 「おい。・・・いふ事きかねーと、わかるよな?」 そんなやり取りではない筈だが、概ねさういふ事だ。 そんな侵略占領下の状態が7年。 占領の終結、独立の回復と共に、村は開放されるだらうといふ希望は打ち砕かれた。 「ソ連強盗団が調子乗りやがつて、許せん!お前らはこちら陣営に組み込んでやるから心配するな!心の友よ!」 「大丈夫だ!占領軍はこれから在日アメリカ軍といふ呼称にして、今後もお前の村を守つてやるから、安心していいぞ!用心棒代も少し安くしてやる!」 実質的な「占領の終結」も「独立の回復」もない儘に、表面的な「終戦」と「平和で自由な戦後日本村」が与へられたのだ。無論、そんな戦後日本村ではアメリカ強盗団の悪行は部分的に、枝葉の部分は批判される事はあるが、占領下に行つた本丸、その根幹には誰も触れない。敢へて触れたとしても、それを擁護する曲学阿世の徒ばかりである。 若し、あなたの家に架空請求業者から電話があつたとして、その請求額の多寡を問題とするだらうか? 「請求は100万円だつたが、頑張つて交渉した結果、なんと50万円で済んだ!俺らの交渉力、スゲー!」 「でも今回だけの特例にしてくれるらしいから、この事は一応、内緒なんだ!振り込んだ後だと減額は勿論、クレームは受け付けないルールになつてるさうだから、相手の気が変らない今がチャンスだ!このお得な金額の内に振り込まう!助かつたぜ!」 いや、架空請求の詐欺なんだから、その請求自体が無效だろ。 実際に振り込んだなら、詐欺罪成立だろ。 そんな基本的な事すら見えない歪な村で生まれ育つた者達はいふ。 「「ヒノキの棒」が認められるといふ事はこれもイケる筈だ!」 「『浮いた』50万円でみんなの装備を整へたんだ!アメリカ様ありがたう!」 「みんな 丸太(集団的自衛権、日本國憲法改正)は持つたな!行くぞォ!」
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「行くぞォ!」ぢゃねーよ。頭大丈夫か?阿呆過ぎるだろ! 「ヒノキの棒」が良いならば「ヒノキの丸太」も認められる筈だといひたいのは分るが、それにより明らかになるのは貴様らの知性が絶望的だといふ事実のみである。 もう理屈も事実も知らなくて良いから! ただ一つだけ覚えて置いて欲しい! 「日本國憲法は憲法に非ず!」 ■ 國體護持總論 ■ 祭祀の道 ■ 日本占領年表
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oharash · 5 years
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氷の子どもたち
普段俺が使うホテルより絨毯の毛足が長かった。指定された部屋の扉を開けると、優しく左腕を引かれそのまま抱きすくめられた。身長に12センチも差があるので俺の視界はほぼ塞がれる。カシミアの柔らかなセーターが頰に心地よかった。
「会いたかった、かっこよくなったねアヅ。ねえBOSEのスピーカーの新しいのもAirPodsもDavisのブレスも買っておいたよ。お腹減ってない? お寿司とる?  水はヴォルヴィックだったよね、さっき下で買っておいた。ガウンあるから着替えて、その前にシャワー浴びる?」
俺の返事なんかひとつも聞いていない。バックパックを腕から抜かれジャケットを脱がされそのままバスルームに手を引かれる。「一緒に入りたいけど、疲れてると思うからまずはゆっくりして。着替えは置いておくからね。髪は俺が乾かしたいからそのまま出てきて。かっこいいねアヅ、大好きだよ」俺の前髪を分けて頰にキスをして、ユウくんはにっこり笑ってカーテンを引いた。
バスタブには俺の好きなラベンダーソルトが入れられていて、温度も俺の好きなやや熱め。シャンプーを泡立てて体をボディソープで流して体をバスタブに沈めた。バス移動で凝り固まった体が内側から柔らかく膨らむようだ。ユウくんがこれを準備している姿が目に浮かぶ。ユウくんは俺が好きだと口にしなくても、俺が自分で選んだものをほぼ覚えているんじゃないだろうか。湯気が柔らかく頰を包み込む。バスタブから上がり、足の指の間まで丁寧に洗ってバスルームを出た。
ユウくんは俺の顔にローションをつけ、脛や肘ににはボディクリームを塗り込んだ。髪にはアウトバストリートメントを丁寧にもみこみ、手を拭いてから頭を軽くマッサージしてくれた。「アヅみたいな髪質にはコレがいいらしいよ。本当にお腹へってない? トレーニング食もあるよ。ドライヤー熱かったら言ってね」
ユウくんの長い指が俺の髪を梳く。頭皮に時折触れる固い指先が心地いい。俺はこの部屋に来て一体何語喋ったのだろうか。
冷風まで使って丁寧に髪を乾かしてユウくんは俺の顔を覗き込む。「体のマッサージは素人がしない方がいいよね?」「…いいよ、軽くなら」目を細めたユウくんの顔がテレビで見るソレと一緒で俺は急に気恥ずかしくなる。
キングサイズのベッドに横た���られて、背中を優しくなぞられる。マッサージオイルを塗ったユウくんの手はいつもより暖かい。ユウくんは意外にマッサージが上手くて、筋肉を刺激しすぎず俺の体をほぐしていった。肩と背筋、腰を優しく刺激されて俺は息を漏らした。
「エックスゲームの決勝、スマホに映像落として何回も見たよ。すごいクールだった。おめでとう」
大きな大会に出れば特番が組まれて、翌朝も情報番組で演技がノーカットで流されるトップアスリートが俺の背の上で嬉しそうに話す。ちなみにその話は電話で100回聞いた。
「…俺もユウくんの世界選手権みたよ、テレビで。闘争心出ててかっこよかったよ」これは一度も話していない。
「まじ⁉︎ 嬉しいーーーーーけどだせえええーーー俺」
背中にユウくんの体温が覆いかぶさる。肩を優しく掴まれて軽く揺さぶられた。
「…負けたし」
「そうだね、完敗だったねアレ」
「うう〜意地悪。次勝てばいいじゃんとか頑張ったねとか言わないよね。そういうとこ好き」
それは言わない。言ったって仕方ないからだ。どうして負けて、次何をすればいいかはユウくんだけが知っている。
耳に生温かく濡れたものが触れる。ピアスを舐められる。入浴とマッサージでゆるんだ体はそれほど硬ばらなかった。
「…ユウくん、当たってる」
「当ててるんだよ」
 氷みたいに低い声が、耳から下半身まで貫ぬくように響いた。
「ねえ、もう我慢できない。アヅ、お願い」
顔を左に向けると、ユウくんの潤んだ目がすぐそこにあった。子どもみたいに切実なのに生々しい欲が滲んでいる。俺と違う柔らかい髪がさらさらと流れた。
ユウくんの唇の端に触れるだけのキスをする。いいよ、と口に出すのが恥ずかしい。いつか言えるんだろうか。
うつ伏せにされたまま、上半身のガウンを剥がれる。首筋から背中、腰までゆっくり時間をかけてキスをされる。リップ音をたてるのが前より上手くなっている。舌の感触と音に思わず深い息がもれた。背中一面にユウくんの体温を感じて唇と指先の熱さに切なくなる。視界をシーツに塞がれている分、感覚が鋭敏になっている。
尻から太もも、ふくらはぎまで唇が降りてゆく。足の指迄口に含まれる頃にはもう俺の我慢も限界に達していた。
優しく体を反転させられて、ガウンの前をはだけられる。ユウくんは俺の話は全然聞かないが、俺の体には最大限の遠慮を持って触れる。俺も正直、ユウくんの体に触れるのは恐ろしい。俺たちが普段どれだけの努力をして体を作り上げているかお互いによく知っているからだ。
「あは、アヅももうこんなになってる。えっちだね。嬉しい」
アンダーを下げられ、固い指先が俺のちんこの先端に触れた。甘さで足の指が痺れた。すぐに指が離れる。「アヅ、口開けて。あーん、て」。言われるままでに口を開けると、ユウくんの指がそっと入ってきた。俺とユウくんの腹に挟まれたちんこが切ない。ユウくんのちんこはさっきからずっと固くて、ユウくんのルームウエア越しに俺の太ももにちょうど当たっている。
ユウくんは俺の目をじっと見ながら舌をつまんだり歯列を撫で上げたり、上顎を優しくこすったり喉奥まで指を入れたりとやりたい放題だ。笑うと細くなる目に欲が表面張力を張っていて、俺は情けなく、大人しく口を開けている。声が漏れてしまう。唾液が頰を流れてゆく。
ユウくんは俺の唾液まみれの指を口から乳首にうつして、ゆっくりゆっくり縁を描く。中心にふれないように、ゆっくり。
「乳首勃ってきたよ、かわいいね。ちょっと大きくなったね。自分で触ってるの?」
耳元でささやかれる。中心に触れて欲しくて身をよじってしまう。
「ねえ、答えてよ…言えなきゃちゃんと触ってあげないよ? 」
耳を口に含まれて、ねちょねちょとした唾液の音に混ぜてそんなことを言う。触られない乳首もちんこも、ぐちゃぐちゃにされている耳ももうよくわからなくなってくる。
「アヅはえっちなのに、そうでないふりをするよねえ、変態」
ぐっとちんこを下腹部に押し付けられる。俺のちんこの先がほんの少しユウくんのウエアにこすれた。ユウくんは一枚も脱いでいないのに。
「どうなの? 言えなきゃやめちゃうよ?」
「…わってる」
「なあに? 聞こえない」
指が胸から離れてゆく。俺はとっさにユウくんの背にしがみついた。
「触ってる、触ってるからあ…! オナニーのときに、乳首も触ってる…」
前髪を掴まれて上を向かされる。ユウくんの目は白目が澄んで潤んでいる。
「よく言えました。ご褒美あげるね」
ゆっくり乳首をこすられる。溝に指先をひっかけるようにして。俺の一番好きな刺激だ。もう片方は舌先でつつくように舐められて、俺は思わず声をあげた。
「やらしいなあアヅ。こうやってこすられながら舐められるの好きだもんね。女の子みたいに感じて、声出してかわいいね。すごい可愛い」
口を犯されて耳をぐちゃぐちゃにされて、乳首まで舐られて、気持ち良さと比例して下半身がどんどん疼く。ユウくんがゆっくり乳首を刺激するほど、ちんこが痛くなってくる。
「すごい、アヅのちんこもうドロドロ。ちょっと触ったらイっちゃいそうだ」
「や…」
「嫌じゃないでしょ、でもまだダメだよ、今日はいっぱい我慢しようね」
髪をなで付けるように頭を撫でられる。悪魔のような囁き。ユウくんは指でいじる乳首を変えながら、俺の腹の手術痕に舌を這わせた。手術のあとに造った腹筋に埋もれて、縫合跡はデコボコになっている。そこを何度も何度も丹念に。そこだけに気持ち良さとは違う暖かさを感じて、鼻の奥が痛くなってくる。
揺蕩うような暖かさに包まれていると、膝を抱え上げられた。自分に足の間にユウくんの頭が見えた。
「ちょ、それやだって…!」
ちんことアナルの間にユウくんの舌が這う。ユウくんはわざと俺が恥ずかしがるような体位にするのが好きだ。それで俺が感じてしまうからだけど。いつからこんな体にされてしまったのだろう。
「嘘、アヅこれ好きでしょう。ほらお尻の穴もヒクヒクしてるよ」
アナルの周りを、乳首と同じく円を描くように舐める。散々焦らされた体はそれだけで震えてしまう。
「恥ずかしいねアヅ。そうだ、もっと恥ずかしいこと言ってみようか。お尻の穴舐めてください♡って言ってよ、俺に」
人のアナルのそばでそんなことを言う。足を持ち上げられて大きく開かされて、ちんこがひんやりとする。これ以上恥ずかしいことがあるだろうか。この鬼。
「ねえアヅ、言ってよ。聞こえないよ?」
アナルのふちを濡らした指でこねくりまわす。俺の体はすっかりユウくんのおもちゃだ。
「アナル、舐めてください…」
「違うでしょ、お尻の穴、でしょ」
乳首をきつくつねられる。熱くなった乳首がちぎれそうで体が跳ねた。
「い…っ、俺のお…お尻の穴、舐めてください」
ゆっくり、俺の局部を生温かい舌が這い出した。縁を撫でるように柔らかく、やがて穴に入れるくらい強く。抵抗がゆるみ、ゆっくりとほぐされてゆく。
「すごいな、普段はあんなにクールなのに。足こんなに開いてそんな恥ずかしいこと言ってアナル舐めおねだりしちゃうんだ。アヅまだ中学生なのに変態だね。もう俺以外とセックスできないね?」
ユウくんの指が俺の袋を優しく刺激する。もうよくわかんない。ちんこが破裂しそうなこと以外。
ひとしきり俺の尻をいじめて満足したのか、ユウくんはしばらく俺の頭を抱いて髪を楽しそうに梳きだした。
「ねえ、一回イきたいでしょ。今だと入れた瞬間にいっちゃいそうだもんね。口がいい? 手がいい? 教えて」
「…どっちも」
「わ、欲張りだね。まあ三回くらい出せるよね」
言った途端後悔した。
俺をベッドに座らせて、ユウくんは床に膝をついて俺の股間に顔を埋めた。膝に負担がかかると言ったら「すぐ終わるから平気」と有無をいわさず座らされた。
「ねえ、こっち見てよ」
 ユウくんが俺のちんこを舐めながら上目遣いで見上げてくる。金メダリストが年下の男のちんこを舐めてるなんて誰が想像するだろう。裏からゆっくり舐めあげてくびれ部分にも深く舌を入れる。小さな口をめいっぱい開けて咥えてくれる。この時ばかりはユウくんを征服してる気分になってもよさそうなものだが、どう考えても征服されてるのは俺の方だった。ユウくんの癖のない髪に指を入れながらユウくんの淫らな姿を見る。魔物に囚われた気分だった。
同時に乳首をいじられたかと思うと尻に指を入れられた。ゆっくりと抜き差しされ、やがて一点だけをゴリゴリと刺激される。俺はあっさりと射精した。
ユウくんは口を開けて俺の精液を確認させると、ゆっくりとそれを飲み下した。
「アヅ、お尻に指入れるとすぐイっちゃうよね」
「…ていうかもう、指入れないとイけない」
「うそマジ⁉︎ えっすごく嬉しい、アヅ大好き」
息が苦しくなるくらいハグをされた。出した後でよかった。途中でそんなことを口走ったら「じゃあ今からここでオナニーして見せて♡」と言われかねない。一回出した後は少し冷静になる。
「俺もユウくんに口でしたいんだけど…してもらってばっかりなの、悪いし」
「えっダメだよ、アヅにそんなことさせられない。二十歳になってからね。ねえだから、後ろ向いてお尻の穴広げて」
今アンタ自分が何て言ったか覚えてる?   そもそもそっちだって19歳じゃないか。
何を思ったって、俺はユウくんには逆らえない。初めて会った時からそうだった。競技は違うけど、ユウくんは金メダル最有力候補だったりCMなんかにも出てたから、顔と名前くらいは俺でも知っていた。オリンピックの選手村で声をかけられてそのまま連絡先を交換させられて、会って二回目で「俺ら付き合うべきだと思う。そう思わない?」のひと言でこんなことになった。三回目で服の中に手を入れられた。シーズンが終わると、俺にオフがあると言えば彼の拠点までのチケットが送られてきた。俺が暮らす群馬から彼の日本での拠点である名古屋までの新幹線バス飛行機全てを網羅した電子チケットが送られてきた時点で、俺は無駄な抵抗を悟った。俺は押しが弱い方ではないし、嫌なことは嫌だと言える性格だが何故だか彼には何も言えない。前回そんなことを漏らしたら「俺だけっていうのはもう運命だよね」と言われてハグされ、抜かずの3発をキメられた。
ふらつく膝を立ててシーツに顔を押し付ける。ユウくんがそんなことで許してくれるわけがないので、両の手で尻に手をかけた。
「もっとちゃんと広げて。できるよね?」
ユウくんの要求に応えるために、ぐっと脚の角度を広げる。ユウくんの唾液で濡れたアナルが室温に晒されて、冷たいはずなのに脈打つようにそこだけが熱かった。陽気な電子音が耳を打つ。思わず身じろぎをしたら、ユウくんが俺の手を優しく抑えた。振り払うことができずに俺は固まってしまう。
「ユウくん何やってんの…?」
「アヅに会えない間のオカズ。大丈夫、このiPodネットに繋いでないから。もうちょっとそうしててね。さすがの体幹だね。ココ以外全然ブレてないよ」
アナルをおもちゃみたいにつつかれて体が跳ねた。生温かいローションが垂らされて、シーツが俺の涙を吸った。恥ずかしくて死にそうだ。それでもユウくんの視線が二重になったみたいで、俺のちんこはしっかりと芯を取り戻していた。
「ちんこ大きくなってるよ。自分でアナル広げてるとこ動画に撮られて感じてるの? すっごいエロいしかわいいね。…もういいよ、苦しかったでしょ」
膝を崩され、腕をとられてマウントをとられる。そのまま体重をかけずに俺に覆いかぶさって、ユウくんは俺の目尻を舐めた。俺は顔も下半身もぐちゃぐちゃなのに、ユウくんは未だに一枚も脱いでいない。
「意地悪してごめんね。アヅが可愛いから泣か���たくなっちゃう。ねえ始めは前と後ろどっちがいい?」
「…前。ユウくんも脱いでよ」
「いいよ。アヅが脱がせて」
腹筋だけで体を起こして、ユウくんのTシャツを体から抜く。腹筋もだけど、ユウくんは首から肩にかけての筋肉とラインが一番カッコいい。スウェットを脱がせるとユウくんのアンダーウエアもぐっしょり濡れていた。嬉しい気持ちになって手を入れると「だーめ。アヅはそんなことしなくていいんだよ」と手をとられて、再び押し倒された。
 ユウくんがゴムをつけている間、俺はパブロフの犬みたいにちんこが入りやすいように膝を立てて脚を広げる。女みたいだと思うけど、初めからこの人に俺は女の子にされてきた。ユウくんの鉄みたいなちんこが押し当てられる。ゆっくり息を吐くと、ぴったりの呼吸でユウくんが身を沈めてきた。圧迫感と体を開かれる暴力的な感覚に、悲鳴に近い声をあげる。悲鳴のはずなのに甘い、切ない音だった。
「あ、あ、あ、」
ゆっくりとちんこを全部俺の尻に収めて、ユウくんは大きく息をついた。俺の頭を抱いて髪を撫でる。俺とユウくんの心臓を隔てるのはお互いの皮膚だけだった。
みんなこんなことをしてるのか。こんな気持ちを知って。
「…よく頑張りました。嬉しい、アヅのこんな顔見れるの世界で俺だけでしょ」
額に、まぶたに、頰に、顎に唇にキスを落とされる。その熱がゆっくり離れると律動が始まった。ゆっくり、徐々に激しく突き上げられる。膝を抱え上げられて、俺は自分の脚ごしにユウくんの顔を見た。
「すごい、アヅの中超気持ちいい。お尻にちんこ突っ込まれて気持ちいい? ねえ」
「…気持ちぃ、ユウくんのちんこ、すご、気持ちぃ、もっとして、」
 この間覚えたばかりの拙い技で、尻にきゅうと力を入れる。ユウくんのちんこの形がより伝わって、俺は身も世もなく声を上げた。
「あ…アヅ、本当にえっちだね、どこで覚えてきたの?」
「ちが、ユウくんだけ、好き…」
「うん…」
ユウくんが言葉少なになって俺の顔の両側に手をつく。限界が近い時の体制だ。先に射精してしまった俺は霞む視界を開いて、ユウくんの揺れる前髪をかきあげた。イくときの顔は絶対に見ていたい。
ユウくんがギュッと眉根を寄せた。全身を震わせてゆっくり俺の上に落ちてきた。今度は俺が、彼の頭を撫でる番だった。
「ドライオーガズムって知ってる?」
色んな液体でドロドロになった体を洗い流してバスタブに入る。俺を背中から抱きながら、ユウくんが物騒なことを言い出した。
「…射精しなくてもイケるってやつ?」
「そうそんな感じ。そうしたら無限にイケるでしょ、今度やってみよ」
「ユウくんさ、思いついたこと全部試そうとしてるでしょ俺で」
「そんなことないよ。俺、アヅとやりたいけど永遠に叶わないことあるよ、制服プレイ」
お湯を背後に向かって弾いた。鼻か口に入ったようでユウくんはむせている。
「ひどー。俺中学も高校もろくに行けなかったから憧れなんだってば」
ユウくんが俺の背に体重を預けてきた。指が腹にまわり、腹筋を撫でる。
「アヅの腹筋すごいよね。彫刻刀で刻んだみたい。かっこいいなあ。ほんとに世界一かっこいいと思う。もう初めて見たときに好きになったよね。あの決勝、俺未だにyoutubeで見るよ。インタビューもすごいクールで、子どもなのに通り一遍のこと言わなくて、全然笑わないのにちゃんと自分の言葉で真面目に喋ってて、こんなかっこいい人いないだろって。選手村で会ったときは本当に運命だと思った」
「ユウくん」
「うん?」
「俺、今回のオフシーズンはニュージーランド行く」
換気扇の音がやけに大きく響いた。
「…うん。応援する。でも怪我しないでほしい。ハーフパイプの動画たくさん見たよ。かっこいいけど、死ぬ怪我もあるって見て怖かった。アヅの技はすごいから、命がけでやらなきゃいけないんだろうけど、怪我しないで」
お互い様だ。俺も命に関わる大怪我と隣り合わせだが、そっちだって選手生命に関わる爆弾を抱えている。一昨日、二位に終わった大会で「負けは死も同然」だとユウくんはインタビューで応えていたが、正直な言葉なのだと思う。選手生命も、生命も、俺たちにとっては同じなのだ。
俺をまたいでいる右足首に目をやった。悔しいので持ち上げてやる。抗議を無視して足首に唇を寄せる。手術痕はなくても、ユウくんの右足首が怪我をする前に戻ることはない。ユウくんは体が柔らかいのでやすやすと脚が上がった。白くて滑らかな皮膚を舐めて、甘く噛む。
「アヅ、本当にやることかっこいいよね。どこで覚えてくるの、本当に中学生?」
ユウくんの声に喜色が滲んでいる。じわりと、体の芯が暖かくなった。
「来週から高校生」
「うん、おめでと…制服着たら写真送ってよ」
 明日になったらまた、俺は群馬に、ユウくんはトロントに帰る。
 恋が恐ろしかった。囁かれた優しい声にようやく現実感がわいて、ユウくんと別れることよりも、彼が存在していることに俺はまた囚われる。
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mswcf-blog · 7 years
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初めてのロッキンが終わって、2日ほどたった。頭を悩ませたけどあまり上手く言葉に出来ないけど、もうこのままいく。いま出てくる言葉で十分かな。 ROCK IN JAPAN FESTIVAL2017。 今年が私の初めての、ロッキンになった。ひたちなか海浜公園は思ってたよりも、すごく広くて驚いた。11日はShout it Out、12日はキイチビール&ザ・ホーリーティッツを撮影した。あと実はもうひとバンド撮影させてもらった。すごくすごくすごく楽しかった。今迄で一番長く感じた2日間だった。いつまでも撮りたい、もっと撮りたいと思った。すごく勉強になった。良い経験させてもらったなあって本当にありがたかった。憧れのアーティストや、カメラマンが目の前を通り過ぎていく環境に、私はもうずっと胸がいっぱいだった。 会場に着いて一番最初に見たのはthe HIATUS。GRASS STAGEの大きさと、たくさんのお客さんに感動しまくりだった。そこから会場を1人で歩き回ってライブを見たりして、あっという間に撮影の時間になった。初めてのロッキン撮影はShout it Out。出会ってまだそんなに時間がたっていないのに、今回大事なタイミングで呼んでもらえたことが嬉しかった。一瞬が燃えて、散っていくようなシャウトのライブ。私はその散りゆく一瞬を拾い上げてゆく。青春を歌う人の瞳は青く燃えているように見えた。私もあの時この歌に救われたんだって思い出した。 1日目の最後にみたサンボマスターは、完璧にスーパーヒーローだった。キイチビールのタフさんと2人で泣きながらみたの絶対に忘れない。 2日目は朝早くからキイチビール&ザ・ホーリーティッツ。 急遽出演が決まったからホテルがもうどこも満室で、私は1日目の夜は、茨木にあるじいちゃんの家に泊まった。ひたちなかからは少し距離があるからじいちゃん家の最寄駅に着いたのは夜中。いつもなら絶対寝てる時間なのに、じいちゃんとばあちゃんは2人で駅に車で迎えに来てくれた。家に着いた���、ご飯を出してくれた。次の日の朝も、始発の電車に乗らなきゃ行けない私を駅まで送ってくれた。昨日私が夜中なんかに来たから絶対全然寝れてなくて疲れてるだろうに、「しっかり頑張りなさいよ」って2人は見送ってくれた。いらないって言ってんのに、お小遣いまでくれた。泣いちゃいそうだった。久しぶりに会ったばあちゃんは、色んな事を少し���つ忘れていってしまっているみたいで���しかった。 始発の電車に乗っても、会場の最寄駅に着けば人が沢山いて、会場に着けたのは出番ギリギリだった。キイチビールの5人が、大きなステージに立ってリハーサルしている時点で私はもう泣きそうだった。最前列には、笑顔のこっけさんが、裏には元さんがいた。私はまた泣きそうになった。 ほんとに良いライブだった、ほんとに。 やったのは15分で3曲だけ。短い時間だったけど、本当にカッコよくて楽しくって、「みんな見てよ!聞いてよ!出会ってよ!キイチビールに!」って思った。当たり前だけど、私は涙が止まらなかった。終わった後も止まらなかった。恥ずかしくらい普通に泣いてた。キイチビールの写真を撮ってることが、私は嬉しくて誇らしかった。ここに連れて来てくれるのが早すぎる。次はもっと長い時間やってほしいと思ったし、バンドのこれからが楽しみだと思った。 2日間、自分と同い年くらいのバンドが夢みたいな場所に連れてきてくれたのが私は嬉しかった。私も、もっと頑張ろうって思った。必ずまたここに戻ってこれるように、ここで写真が撮れるように、これからもっともっと頑張ろうと思った。ライブの写真を撮るのが好きだし、もっと良い写真撮れる人になりたい。頑張ろう。写真が好きなのと同じように、音楽が好きだ。 たくさん笑って涙が出た2日間だった。 あの日信じたものに間違いなんてなかった。悲しくなったりもう無理だって思う日もたくさんあったけど、ちゃんとご褒美があったよ。これからだって思えた。よかった。また次に向かって私は私をがんばろう。 ヒーローは歌ってた。 何度だって立ち上がるんだよ 君よもう悲しまないでくれ 強く願って明日をかえたい ロックンロール イズ ノットデッド 誰にも言えない孤独だとか 君の不安を終わらせに来た 君が生きるなら僕も生きるよ ロックンロール イズ くたばるものか ロックンロール イズ ノット ノットデッド。 ってね。伝説だ。
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tsukishiro-himari · 7 months
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「数年前備忘録」
役に立つ自分を作ろうと必死で練習し
加入当時のお披露目では15曲
ステージに立たせて頂きました 
バンドリハやお家に帰ると
自分の無力さに泣いてばかりでした
責任や悲しみから潰れそうになったり
苦しいこともありますが
それ以上にきっと変わらず
愛しています
与えられた試練には
血汗涙を流す勢いで打ち込むけれど
それは変わらず、愛故にだけれど
時々私が頑張る事は
良くないと思う時があります
でも、続けるからには
力を抜く事も今は分からず
我慢が必要な時あります
そして私みたいな人が居る事を
伝えてくれて知りました
寄り添い照らしたい、私でも
夏のもくもく雲
可愛い
空と電線の風景がだいすき
最近は電波塔の美しさに惹かれています
活動を通して様々な方と
ひとつのものを作り上げていく過程で
時に食い違うことがあれど
お互いに妥協せず
断念してしまわず
突き詰めていこうとする心を感じる度に
感動してしまうんです
中学生くらい迄アトピーが酷く
プールの授業でも包帯を巻いて
入っていたんです
少しづつ良くなっていったけれど
関節の曲げ伸ばしが出来ない位
ひび割れてた時期もあって
アイドルを始めた頃も
また酷くなった時期がありました
グループへ加入した時も
全身の肌荒れが酷く自信も無く
それでもまた少しづつ
上手に付き合える様になり
そして良くなってきて
最近は演出的に肌を出すことも増え
公開される迄は恐くて仕方ないけれど
受け入れてもらえた時自信になりました
今の状態がいつ迄続くかは分からないけれど
美しくある努力は怠りません
みて居てくれたら嬉しいです
周年記念ライブが終わりました
私が伝えたいこと
どんな時も変わらない
節々で痛いほど感じるんです
伝えていきます
今日迄も、そしてこれからも
いつもみていてくれて
本当に本当に、ありがとう
すごく眠たくて何度寝かを繰り返し
その度夢をみて
最後に「私も夜鷹役をやりたいです」と
自分の中の小学生が
学芸会での役決めで発言できたルートの声で
起きたよ
最近いぬを
「ぬい」と呼ぶことにはまっていて
道行く「ぬい」たちが可愛くて仕方ないよ
人間椅子さんの新アルバムの
キャッチフレーズ
「人生は苦楽。苦あればこそ楽が輝く。」
を忘れず頑張っていきたい
喫茶店でアイスココアに
ラム酒をお好みでかけてってしていて
美味しかったな
お家でもしてみたいな
レトルトのカレーに
蒟蒻が入っていたのだけど
蒟蒻、カレーに合うのだと感動....
運命の出逢い───
優しく強く美しい人になれる様に
頑張るからね。
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cherr-blossom · 5 years
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illuminart@Amahl e i visitatori di nott
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19日は、夕方から夜迄
新宿村で、リハ有りました♩
19日は、竹之内先生一人での指導でした♪
18日
皆で、じっくり話し合って,決めた後
19日から、マエストロ稽古&本番に向けて
決まった場所の歌や演技,動きの練習を
集中的に、やり込み初めています♫
私は、特に...演技や動き
ぎこちなさと,ままならない感じ
モロに出まくっていますが
私も
歌だけでなく
演技や動きも必死に頑張っています♬︎
この日の
暗譜&動き&動き&一人ずつは
色々な意味で、すごく大変でしたが...
一人でやるの、今回のアマール公演が初めてなので
始終、すごく緊張しっ放ししたが...
中々、上手く表現出来ませんが
楽譜有りか無しか,皆での時と一人での時
etc…色々と状況変わって来ると
自分の課題etc…色々なものが
どんどん見えて来る事がわかったり
etc…すごく良い勉強に&刺激になって
更に、もっと学びたい!極めたい!成長したい!
etc…の気持ちが更に強まっています( ๑•̀ω•́๑)✧*。
コレは常日頃から感じていますが
また更に,どんどんと...ですねヽ(•̀ω•́ )ゝ✧*
動きについて色々教えて下さった
合唱団のリーダーetc…優しい先輩方
的確な御指摘(休符の事)をして下さった竹之内先生
私の声に対して「すごく綺麗よ」と言って下さったり
「息遣いとかを、もっと...こう...」(ブレス関連)
と的確なアドバイスして下さった
アマールチーム仲間の優しい先輩方
etc…
色々と、皆様
本当に、ありがとうございます☆°。⋆⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝
「ちゃんと変わりたい!成長したい!」
「マエストロetc…の先生方や仲間の皆様
etc…全員に認められたい!」
という気持
常日頃から、ちゃんと持ち続けていても
やっぱり、今迄は
「ソロ、自信ない〜(><)」,「無理〜(TT)」
っていう調子で引っ込んでいた
チキン&ビビり&ヘタレな私だったので
声に関しては、何も言われなかったのですが
こんなチキン&ビビり&ヘタレな私でありながらも
「ちゃんと変わりたい!成長したい!」
「マエストロetc…の先生方や仲間の皆様
etc…全員に認められたい!」
という気持ち、本当に
常日頃から、ちゃんと有るので
やっと、今回になって
思いっ切り、主役&ソロ&二重唱に初挑戦していて
「声、すごく綺麗よ」と
この日、初めて褒められた時は
すごく嬉しかったし
「ちゃんと変わりたい!成長したい!」
「マエストロetc…の先生方や仲間の皆様
etc…全員に認められたい!」
という気持ちが、更に強まって来たと同時に
「これからも、逃げずに、どんどん積極的に
色々な事にチャレンジしていこう!!」と決意固めたのと
「これからも、逃げずに、どんどん積極的に
色々な事にチャレンジを頑張っていけば
こんな私だって
変われる!変わるんだ!成長出来る!成長するんだ!」
という...自信とか,確信湧いて来ました( • ̀ω•́ )✧
更に燃えて来ました(`・ω・´)/
優しい先輩方や竹之内先生から、折角頂いた
貴重な教えや御指摘,アドバイスを
上手く,忠実に,大切に,実行出来る様
短期間の間に、歌,演技,動きを完璧にこなせる様
課題全部クリア出来る様
自分のソロ(「泣かないで」〜)だけでなく
お母さんとの二重唱(←駒井先生が言う、愛の二重唱)も
美しく,華麗に,バシッとキマる様
etc…もっと,たくさん頑張るぞー(๑• ̀д•́ )✧+°
それと...
すごく優しくて
優秀で素晴らしい(←まだまだな私よりも)
マエストロetc…の先生方&先輩方の
教えや御指摘,アドバイスetc…
言う事を、ちゃんと良く聞いて
分からない事あったなら
先生方や先輩方に
たくさん聞いたりして,吸収していきながら
やり込んでいくのも頑張るぞー( ・̀ω・́ )✧
愛の二重唱、なんて素敵な響き(ノ´∀`*)
私のソロの部分(+お母さんとの愛の二重唱)は
すごく綺麗な場所なので
そう呼ぶに、ふさわしいと思います(∩˘ω˘∩ )
お母さんとの二重唱が愛の二重唱なら
私のソロは、愛のアリア?レチタティーヴォ?
でしょうか(*´▽`*)?
つい言ってみました(o´∀`o)
皆様、本当に
お疲れ様ぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜・:*+.(( °ω° ))/.:+
ありがとぉぉぉぉぉ〜〜〜〜〜✧*。٩(ˊωˋ*)و✧*。
最高過ぎぃぃぃぃぃ〜〜〜〜〜⸜(๑⃙���'ᵕ'๑⃙⃘)⸝⋆*
大好きだぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜⸜( ´ ꒳ ` )⸝✩︎⡱
これからも末永く宜しく御願いします(✿´∀`✿)
アマール公演、頑張るぞー(っ`•ω•´c)
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ptwtd · 5 years
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小1の時は100点以外を取った事無かった、幼稚園の頃から悔しいと涙を流す私を見て母親は頭が良くなるだろうと思ったらしい。中学を卒業すれば皆んな自分が住んでいる市の中の高校に行くが(公立の場合)こちらは田舎も田舎で思考が古いため尚更私立より公立、そして頭の良い高校に行けば名前で凄い〜と言われる始末である。三校有名校が並んでおりそのトップの前を通る度に「ほら、〇〇高校だよ!将来行くんだから、お祈りしなさい」と冗談半分だが毎回言われて育った小学生時代。塵も積もれば山となる一種の洗脳である。
中学2年生の頃、お腹の病気となった。レントゲンや体内にカメラを入れたい殆どの外科内科に行ったが悪い所は見当たらない、スレトレスから来るものである。精神外科には行かせてくれなかった、子どもの時から薬を飲むのは強いから、という理由である。それでもどうにかしたかった私は絵に基づいて心理状態を読むお婆さんが個人でしている心理カウンセラーの元へ促されて行った。通わなければならない為月一程定期的に通った中3、ある時私が中学の本気で悩んでいる人間関係について勇気を出して話してみた、こちらはお金を30分程の会話のために出し遠い此処まで通っているしプロの人は目の前にしかいない、他に助けはいない。当たり前である。だが、そのお婆さんはその話を聞いて笑った。その人からすればもう50年以上前の生活環境なんだから分かるはずがない、だがそれで自殺する子だっているその集団体に入る事を生きた時点で国から強いられた10代はソコが全て、ソコしか知らない生死を決める場所なのだ。驚いた。それから行かなくなった私は受験ギリギリで頼み込んで精神外科に連れてって貰った、薬を注意されてた私は逆に想像しか出来ぬ薬に対し、薬を飲めば確実に治ると思い込んでいた。だがこれも失敗しかも長期戦の治療に対してそんなすぐ治るはずもない、その頃には他の病気も重なっていた。
私は市内で3位の公立高校を中学を入学して少し後に受験希望をしていた。だがこのままでは5教科、約5時間のテストに机に座っている事もままならない。人生の分岐点であった中学から得意で小さい頃から憧れていた英語のコースがある私立も視野に入れていたそこは母の母校でもあるカトリックで上品さも兼ね備えている、2年生になればオーストリア留学という公立では体験出来ない事もある。
大きな決定弾は指定校推薦枠を沢山持っているという事、一番の決め手だ。長年の歴史と先輩方のおかげ、また私立だからお金も掛けている。学習院、白百合、早稲田、上智、その他諸々。学習院は従姉妹が行っていた所だ、天皇家御家族が出れば「ほら、〇〇(従姉妹の名前)が行ってる大学と同じ子だよ!」出る度に繰り返される。また、他の従兄弟は東大へ行っていた、偶にというかよく九大や鹿大に従兄弟が行っているんだと自慢される事があったそんなの正直心の中では見下していた、だって私の従兄弟は東大なんだもん。敢えて言うものでも無かったのは態々言って優越性を取る程の事でもないほどちっぽけだと言う事を今迄の周りの喜び具合やその人への尊敬の眼差しで分かっていたから。
理由はそう。将来の夢なんて小さい頃から強く願う物何て無かった周りに合わせて何となく適当に吐いていた、頭の良い、偏差値の良い高校大学に行く目的何て今考えれば何も無い。そこを目指せばそこへ行ければそれが全てだから。だからその2つがある東京、沢山の頭が良い人達が居る東京。そこへ行く事が私の全てを肯定するのである。また中学生から好きになったNEWS、地方組から番協に行く事は出来ない、まっすーが大好きな東京ドームへ行く事は出来ない。友達に会う事は出来ない。偶々遭遇するかも、何て微かな期待を胸に街を歩くなんて事は無い。只あの小さな都会で同じ空気を吸えてる人達が羨ましかった。
そんな私は指定校推薦の全ての大学の偏差値を調べ上げた、自分の今の状態からここまで上げれば行ける、だからこの高校に行く。そこまでの決意を持って中学代表推薦枠として受け見事合格。
だが行く事が出来なくなってしまった、その時の私は家に居ることが精一杯だった、出たくない。どうするのこれから先、留年だよ?留年?どうだって良い。そう、何も考えられない思考停止状態。
通信制も勧められたが本当に高校卒業も考えられなくなった、行く価値も無い。そんな時入院し出会った人と関わりながら気付いて焦った。今の時代頭が良いだけじゃないコミュ力だと。やっと今を見れた先生達に会いに行って決めた場所、先生は私の話を聞いて自分の事の様に涙を流した人ってこんな人も居るんだ、何だか新鮮だった。
高2の頃やっと進路に向けても先を見据えて考えられるようになり聞いてみた、「え?東京何て行ける訳ないでしょう」私は何の為にあの高校へと受験をしたのだろうか、ずっと中3から確実に行きたい〜大学と名前は上げていたはずだ。無力さを痛感した。
実際に調べても手の届かない様な金額、奨学金パンフレットを請求すれば通信制は奨学金の対象ですら無いと書かれてあるものもあった。格差だ。
そこからだ、ひたすら飛ぶようになったのはヤケ酒現象なのは分かっている。でも私は四年間学生として行くことが出来ない。せめて関東じゃなくて″大阪の親戚が居る所にして″その頃は大阪住みの友達も居たから頻繁に大阪へ足を運んでいた。自分が行っている高校と提携している留学センターへ話を聞きに行ったり。出来ないなら働こうかじゃないと上京する術がない。そんな高4ギリギリの春の大阪と梅雨の時期の東京で滅多に会わない人達と話を聞いたり早稲田の授業を受けたりし強く大学に行きたいと思った、最後の三者面談では大学受験柄載っている分厚い本を持って泣きながら説明をした、行きたいんだ、と。だが先生達は関西の大学、短大をお勧めした。違う、関西じゃ駄目なのである。
そんな私は悶々としたまま働きながら上京しようか鹿児島の英語学校に行こうか迷いながら卒業した、実際まだ迷っている。入学金200万円の話をする時親は苛々している、どうするのと。200万円かかってるんだから、行きなさい。頑張りなさい。こんな事正直言いたくないだが見た儘であり行きたい理由は?と聞かれたらここを書かざる終えない。
前者をボソっと吐いたところ貴方にそんな生活力があるの?と。それを養ってから行きなさい、と。正直英語学校の作文を書く気になったのはこれを書けばまだ悩める時間を先延ばしに出来るからである。そのまますぐに受験がありふと気付いた今受ければ来年行けば良いという選択肢を潰してしまうと。だが既に時遅し。作文は出してしまった。
合格、家族は喜んだ、ばあちゃん、じいちゃんは喜んだ。知ってる、分かってた引きこもりの私がやっと終わると安心する事を。でも私が東京に行きたい事は消えないんだよ、小学生のあの時から。それなら19歳から家を出るより1ヶ月以内上京生活を楽しみたいと言っている私はまだ可愛い方だと思う。〜の為にとは言わない。でも私は東京に行きたいし東京に行きたい目的を聞かれても長年培ってきたものだから困る為上記述べる。
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theatrum-wl · 7 years
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【アンケート企画】 「2016年の3本」その1
WLでは読者のみなさんから2016年に見た舞台作品の中で印象に残った3本を、その理由などを書いたコメントとあわせて募るアンケートを実施しました。29名の方にご参加いただき、昨年に引き続き今回も多彩な作品が並んでいます。
印象深い個々の作品を思い出していただくとともに、この1年間のそれぞれの観劇体験の集合体として、舞台芸術の今を考えながら読んでいただけるのではないかと思います。今一度その輪郭を感じながら、新しい年をスタートしていただければと思います。多くの方がご参加くださったので、その1とその2に分けて到着順で掲載します。
一息人生 (観劇人(たまに脚本書き))   ・劇団ショウダウン『撃鉄の子守唄』(シアターグリーンBIG TREE THEATER) ・劇団新人類人猿『歪んだ肖像』(金沢市民芸術村 PIT5アート工房)  ・香川県立高松桜井高等学校演劇同好会『わたしの星』(丸亀市綾歌総合文化会館アイレックス 大ホール) 少し早いですが、今年の3本はこれで決まりかな、と。それほど圧倒的な3本でした。 ショウダウンはよく観ている劇団です。何度も泣かされていますが、今回は嗚咽を漏らしてしまいそうに。展開も予想できるのに、涙が止まりませんでした。近年観たエンタメの中でも特に良かったです。 新人類人猿は初見。太田省吾TRIBUTEでの観劇。太田さんのコトバが好きでしたが、映像でしか触れる機会のない自分にはその演劇の持つ力はあまり分かっていませんでした。ですがこの作品を観て、その力が、全てとは言わないまでも、分かったような気がします。沈黙はこれほどまでに心を揺さぶる。 桜井高校演劇同好会は、2月に朗読劇を観て以来。彼女たちが駆け回る姿はいつまでもこの時を終わって欲しくないと思わせてくれました。それでも、いつかは終わる。舞台と客席を共にする時間、この一瞬にかける想い。"誕生肯定"を強く感じた舞台でした。 (年間観劇本数: 約300本)
仁科 太一  (学生) ・Schauspiel Köln 『Die Lücke』 演出 Nuran David Calis ・Schauspielhaus Wien 『Imperium』 演出 Jan-Christoph Gockel ・Opéra Grand Avignon 『Espæce』演出 Aurélien Bory ドイツ留学の間に観た劇で個人的に印象に残ったものを挙げます。 1.ドイツで難民問題をテーマとする作品をよく見かけました。その中でもケルンの公立劇場で観た『Die Lücke(裂け目)』は、劇場近くのトルコ系移民が多く住む通りで実際に起きた右翼テロを扱った作品で、移民の人々のリアルな存在を感じました。上演前に例の通りを案内され、モスクでお祈りし、上演では実際の市民と俳優扮するドイツ人代表が熱い議論を展開します。 2.クリスティアン・クラハトの小説「帝国」を脚色した作品で実在したヌーディストに俳優が扮します。裸が出てくる劇はいくつかありましたが、その極め付けがこの作品でした。小劇場の距離感もあり強烈な体験でした。 3.アビニョン演劇祭の一演目で、基本的にセリフがなく、巨大な衝立や吊物バトンを駆使します。いきなりオペラ調で歌い始めたりとナンセンスですが、俳優の力量に圧倒されます。 (年間観劇本数:100本)
北村 紗衣 (研究者) ・ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー『ハムレット』 ・オレゴン・シェイクスピア・フェスティヴァル『十二夜』 ・テアトル・ド・アナール『従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔の上で辿り着いた最後の一行──およそ語り得るものについては明晰に語られ得る/しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならないという言葉により何を殺し何を生きようと祈ったのか? という語り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語』(SPACE 雑遊) ブログに詳しく書きました。http://d.hatena.ne.jp/saebou/20161224/p1 (年間観劇本数:102本)
はぶ (営業) ・エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ『瞑るおおかみ黒き鴨』(銀河劇場) ・ネルケプランニング『パタリロ』 (紀伊國屋ホール ) ・AND ENDLESS 『ENdolphin』(全労災ホール スペースゼロ) 演出の西田大輔さんの作品が好きだなぁと改めて感じた。役者がどんなに頑張っても、演出と脚本のつまらない舞台はつまらない。 (年間観劇本数:20本くらい)
本儀 拓 (舞台音響家) ・テアトル・ド・アナール『従軍中のウィトゲンシュタインが(略)』(りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館) ・東京デスロック『亡国の三人姉妹』(りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館) ・阿佐ヶ谷スパイダースPresents『はたらくおとこ』(電力ホール) テアトル・ド・アナール『従軍中のウィトゲンシュタインが(略)』は新潟公演ならではだったのではないかという演出(舞台上仮設舞台で、時によって背景に劇場の客席が浮かび上がる)が抜群に良かったです。 いずれの作品も演劇ならではの良さを存分に発揮して、舞台の上から力強く、観客に向けて社会に向けて問いを投げかけていました。 世界的な右傾化、日本の国政の暴走など、暗い話題ばかりの年ですが、まだ希望はあると信じさせて、前を向かせてくださる作品があることを心強く思っています。 (年間観劇本数:14本)
すずき としお (印刷屋) ・維新派『アマハラ』(奈良 平城宮跡) ・東京No.1親子『あぶくしゃくりのブリガンテ』(駅前劇場) ・壱劇屋『SQUARE AREA』(王子小劇場) 『アマハラ』は、松本雄吉さんが亡くなってしまったことからの維新派最終公演という事もあり、特別な1本になってしまいました。ただ、感傷からの選択ではなく、作品としても神々しい素晴らしい1本だったと思います。維新派の旅(公演の情報が入ってから、観劇日程を決めたり、宿の手配をしたり、観劇前後の観光を含め全てが維新派の公演だと思っています)が、来年から無くなってしまうのが、本当に残念でなりません。『あぶくしゃくりのブリガンテ』は、福原充則さんの脚本が冴えた1本でした。佐藤B作さんに対する容赦ない演出も素晴らしかった。『SQUARE AREA』に関しては、何の情報もなく観たのですが、壱劇屋のクオリティの高いパフォーマンスには、正直驚かされました。選んだ3本は、オリジナル脚本の作品を選びましたが、木ノ下歌舞伎、歌舞伎女子大学が新しい歌舞伎の世界を展開していて、とても面白かったのも印象深かったです。 (年間観劇本数:133本)
野呂 瑠美子 (一観客) ・劇団昴『ザ・グリークス』(Pit 昴) ・劇団東演『琉球の風』(東演パラータ) ・BTLive 『冬物語』  今年の収穫は、ギリシャ悲劇10本をまとめて1本にしたという「ザ・グリークス」を通しで観られたことだ。アガメムノンの娘殺しから殺されたはずの娘の再生の確認まで、板橋の小さな空間を血と人で充満させ、遥かミケーネとトロイアを彷彿とさせてくれた。 劇団東演はいつも真面目で真摯な舞台づくりで、感心させられる。芝居に掛ける情熱も社会問題に対する意識もしっかりとしていて、問題意識を共有できる。今回の沖縄問題は役者全員、胸に迫る名演であった。 NTLのほかにBTLも観られることはラッキイだ。中でもジュディ・デンチとケネス・ブラナーの「冬物語」を観られたことは至福に尽きる。文句なく、うまい。 (年間観劇本数:約100本)
文月 路実 (編集者・ライター)   ・ホリプロ『娼年』(東京芸術劇場 プレイハウス 他) ・On7『ま◯この話~あるいはヴァギナ・モノローグス~』(KAAT) ・パルテノン多摩×FUKAIPRODUCE 羽衣『愛いっぱいの愛を』(パルテノン多摩 きらめきの池ステージ) 1.石田衣良の小説『娼年』『逝年』を三浦大輔が翻案して上演。舞台における性表現をとことん突き詰め、主演の松坂桃李はじめ俳優たちが身体を張ってギリギリのところまでセックスを表現した。大規模公演であっても一ミリも妥協せずストイックなまでに自らの表現を追求する三浦大輔はやはり天才。 2.1996年のアメリカの戯曲を大胆かつスタイリッシュにアレンジし、On7の女優7人の生の声も入れ、女性器というテーマを様々な角度から描いたパワフルな作品。女性器についてのシリアスな話やユーモラスなエピソードを自らの経験も交えて語る女優たちが清々しかった。 3.様々な男女の物語を羽衣の名曲に乗せて描いた作品。青空に囲まれた水上ステージは、日が落ちると暗い森のなかにいるような幻想的な雰囲気に。池のなかにざぶざぶ入り、ずぶ濡れになりながら熱唱する役者たちの姿と、野外公演ならではのダイナミックさに圧倒された。 (年間観劇本数:74本)
kiki (勤め人) ・あやめ十八番『ゲイシャパラソル』(サンモールスタジオ) ・日本のラジオ『ムーア』(RAFT) ・monophonic orchestra『この町に手紙は来ない』(3331Arts Chiyoda) ゲイシャパラソル:近未来の芸者置屋を舞台に描かれる、名前と政治と恋の物語。さまざまなモチーフや手法や音楽がスタイリッシュにまとまって、あっという間の125分。人物の描き方にも厚みがあり、役者が映える舞台となっていた。 ムーア:観ている間だけでなく観終わってからもじんわりいろいろ思ったりしてしまう感じが面白い。表現に抑制と諧謔が効いて、題材(児童連続殺害犯を描いた絵本)に比して後味は悪くない。緻密さとしんと張り詰めた濃密な緊張感が印象的だった。 この町に手紙は来ない:暮れていく世界に生きる人々の償いと再生を綴るクロニクル。空間も音も光も美しくて、6つの短編の間を埋める余韻と多彩な役柄を演じ分けるキャスト陣の魅力に引き込まれた。 (年間観劇本数:179本)
だゐず (ME) ・ムシラセ『女には至らない病』(The 8th Gallery) ・江古田ぐるぐる『あのコは悪意のかたまり』(新宿眼科画廊) ・緊縛夜話/美喜ヲの劇『魔法少女喪失編』(ザムザ阿佐ヶ谷) 本当に女たちのお話が好きなんだなぁと自分の事ながら思った。 選ばせて頂いた三本とも、よくある女同士のギスギス劇なんかではない。アプローチは違っても、そこに息づいている女たちの、甘い虚構への夢見と、冷ややかな現実に対する認知が刻み込まれるように描かれている。 「女には~」芝居/演出/美術、全てにおいて会場を生かしきった傑作。アイスピックで刺されるような鋭い台詞が時折挟まれ…、ラストシーンはまさに淑やかな悪夢…! 「あのコ~」導入から、コメディな空気を纏いつつも全くシャレにならない話。エピローグ以降を思うと全く笑えない。 笑いとシリアスのさじ加減、場面設定が絶妙!ずっと観ていたくなった! 「魔法~」アニメから古典、科学、さまざまなモチーフを使い、軽やかに男女の業へ楔を打っていく、毒薬のようなお話。 緊縛という題材にドキドキしながら観に行ったが、芝居と緊縛が呼応する稀有な舞台。(年間観劇本数:30本)
矢作 勝義 (穂の国とよはし芸術劇場芸術文化プロデューサー) ・てがみ座『対岸の永遠』(シアター風姿花伝) ・鵺的『悪魔を汚せ』(駅前劇場) ・風琴工房『insider-hedge2』(下北沢ハーフムーンホール) 小劇場演劇の中から選んだ。いずれも、人間の弱さや欲望などのダークな面を描き出した3作品となった。 てがみ座・長田育恵の脚本は、風姿花伝という小空間に初顔合わせの文学座の上村聡さんの演出との組み合わせが良く、劇団員の石村みかと客演の半海一晃の親子の葛藤を中心に、凝縮した人間模様をダイナミックに描きだしていた。 鵺的は、3作品の中でも最もダークサイドを描いた快作。高木登の脚本を寺十吾の演出により、ダークさをある種のエンターテイメントに昇華した作品。特にラストシーンの福永マリカの笑い顔が脳裏から離れないほど印象的だった。 風琴工房・詩森ろばは、この作品に限らず立て続けに素晴らしい作品を送り出した。難しいことをシンプルに、ドラマチックなことを淡々と、真面目なことをコミカルに描きつつ、俳優との組合わせが上品で素晴らしく、劇場ではない空間を生かしながら、作品魅力を最大限に引きだした演出だった。 (年間観劇本数:161本)
薙野 信喜 (無職) ・可児市文化芸術振興財団『お国と五平/息子』(パトリア日田) ・ホリプロ『娼年』(久留米シティプラザ) ・ヨーロッパ企画『来てけつかるべき新世界』(西鉄ホール) 東京や関西に観劇に行くことはなかなかできないので、九州に来てくれる公演はなるべく見逃さないようにはしている。選んだ3本はずばぬけておもしろかった。 ほかにも、木ノ下歌舞伎「勧進帳」、東京芸術劇場「三代目りちゃあど」、北九州芸術劇場「彼の地」、青年団リンク・RoMT「ギャンブラーのための終活入門」、ラッパ屋「筋書ナシコ」、PARCO PRODUCE「ベント」など楽しめる公演が多かった。ダンスでは、PARCO STAGE「Sutra」、enra「PROXIMA」、ANTIBODIES Collective「DUGONG」が楽しめた。 九州の劇団の公演では、そめごころ「ココ、ドコカ、目覚める風景。」、非常口「チャチャトゥールの穴」、バカボンド座「歩くモーゼと原人」が印象に残った。 (年間観劇本数:143本)
町田 博治 (会社役員) ・Mrs.fictions 『上手も下手もないけれど』(花まる学習会王子小劇場) ・埼玉県立芸術総合高等学校 『解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話』(国立劇場)  ・千葉県立松戸高等学校 『見よ、飛行機の高く飛べるを』(東京芸術劇場 プレイハウス) Mrs.fictions 『上手も下手もないけれど』劇場の楽屋を舞台に男優と女優の関係の変化、成長の経過を描き、展開させた濃密な15分間に驚いた。 埼玉県立芸術総合高等学校 『解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話』1月関東大会で観て感銘を受けたが更にブラシュアップされていた。終演後オノマリコさんに素晴らしい作品に出会えたことをお伝えしたら、埼玉総合が彼女達の作品として仕上げてくれたのでと仰っておられた。これ迄で一番涙を流した作品となった。 千葉県立松戸高等学校 『見よ、飛行機の高く飛べるを』 凄い作品を観た。観終わって誰かに感動を伝えたくて、人ごみに知り合いを探した。高校生達のほぼ完ぺきな演技が素晴らしい。古風な所作、多数の俳優が出入りするがタイミングも完璧。構成が良い。全国大会への審査には通らなかったが個人的にはベスト。再演があれば、今の配役で観ておきたい。(年間観劇本数:234本)
「2016年の3本」その2へつづきます
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numa-chi · 4 years
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私はうつ病です。昔の事も思い出せず、感動せず、感情もわからず、物を覚えられず、体を動かすのもつらく、毎日ただひたすら苦しく、生きているだけでお金がかかるのに生きてる意味ってありますか? 長谷部 和彦, 元公立小学校 教諭 回答日時: March 13, 2020 長くなります。よかったら読んでください。 まず、私から提案したいと思います。 私の家に遊びに来ませんか。鹿児島県のとある田舎町で農業を営んでいます。新規就農してからまだ半年余りなので、アルバイトをしながら何とかやっている状態ですが。 独り者です。バツイチです。質問者の方が男性でしたら、何日か泊まっていただいても構いません。 柴犬と猫とヤ��、ニワトリがいます。 以下、陰鬱な内容を含みます。耐性の無い方は読まれない事をオススメします。 私もうつ病でした。 それも重度のうつ病でした。主治医には、最終的には脳に電極をつけて電気ショックを施すことを勧められたぐらいです。 入院治療も2度行いました。 最初の入院は、自殺未遂をしてから運ばれました。施錠された病室に隔離されました。常にモニターで監視されていて、トイレなどハナから丸見えです。 1週間の後、一般病棟に移りました。 職場には、主治医からうつ病の為3か月の休職が伝えられました。 2週間後くらいから、躁状態に入りました。 室内では腹筋、腕立てを繰り返し、外出許可をもらってはランニングに勤しみました。 自分自身が何故うつ病になってしまったのか自省し、退院してから復職する迄のやるべき事リストを作り上げました。 前向きな様子を見て、主治医も退院時期を前倒しにしました。 一月後、退院しました。 退院してから、先ずは主夫業に精を出しました。 過剰なまでの不安と心配を与えてしまった妻の為、��起きして犬と散歩に行き、朝ごはんを作り、掃除、洗濯を済ませ、夕ごはんの買い出しに行き、夕ごはんを作って妻の帰りを待ちました。 週に2回の通院は、あえて15キロの道のりを自転車で通いました。散歩にも出かけ、野の花や小鳥なんかをスケッチしたりもしました。 全てはうつ病を克服するためだけに、日々を過ごしました。認知療法、行動療法、薬物療法すべて行いました。 1か月後、再発しました。 休職期間も残り1か月ともなると、緊張と不安が絶え間なく襲ってきます。また寝れない日々が続きます。食欲もなくなり、何をするのも億劫です。 復職1週間前ともなるとある思いが心を支配します。 (死にたい…) とにかく私は死にたかったのです。 いわゆる、希死念慮です。 簡単に言うと自殺願望なのでしょうが、色んな自殺の方法を探りました。 結局は首を吊る事に落ち着きました。 妻の居ない日中に、何度も何度もタオルなどで首を吊りました。でも死に切れませんでした。 勇気を振り絞って復職しました。 3か月ほど働いたでしょうか。職場での日々は、私にとって正に地獄でした。常に緊張していました。頭が上手く回転しません。真っ直ぐ歩くことさえままならず、何故か柱や机の角にぶつかりました。トイレに用がなくても頻繁に入り、周りの好奇な目から逃げました。その度にトイレの窓から飛び降りたい気持ちになりました。自殺を試みた人間に対して、同僚は腫れ物に触るように対応します。 毎週末、今日こそはと思い、首つりを繰り返しました。しかし、最後まで出来ません。 私は思い込みの世界で生き、想像の世界で苦しんでいました。 自殺未遂をしてから、うつ病と告知されてから、いやもっとずっと前から私は、私自身の妄想に自縄自縛の状態でした。 あいつは仕事が出来ない。 あいつのせいでみんな迷惑している。 自殺未遂するぐらいなら仕事を辞めればいいのに。 それでも上司は私を励まします。 君なら出来る。死んだ気になってがんばりなさい。みんな君の事を心配しているんだ。恩返ししないとね。 妻も私を励ましてくれました。 折角、頑張って公務員になったのに、今辞めたらもったいないよ。家のローンはどうするの。その年から転職なんて出来ないよ。あなたの大好きな柴犬も手放して、動物も飼えないようなアパートに移る事になるよ。今が頑張りどきよ。 私はもう限界でした。いや、もうとっくに限界だったのでしょう。主治医からは兎に角強い睡眠剤と抗うつ剤を処方してもらいました。 起きていても何時もボーッとしていました。 漢字もどう書くのかよく分からなくなりました。 ひらがなさえ、「あ」と「お」の違いさえよく分からなくなり、度々授業中の計算ミスを子どもに指摘されました。 ある日、子どもに問いかけられました。 「先生、なんで死のうと思ったの?前の先生が、H先生はぼくたちのことが嫌いで死のうとしたって言ってたけど、本当?」 「そんなことないよ。死のうとなんかしてないよ。」 咄嗟に取り繕いました。 代行の先生が、断片的で恣意的な情報を子どもたちに伝えていたようでした。 再休職することになりました。 うつ病の原因は今だからよく分かります。 新しい学校に移動したものの、子どもたちと以前のような信頼関係を築けないことからの自己嫌悪。 同僚とも良好な関係を持てないことからの苛立ち、不安、不満。 それらから派生するように、仕事への自信喪失。 40過ぎても子どもを持てないことへの落胆。 35年住宅ローンの重圧。 自分の故郷が地震と津波で壊滅的な状況なのに、何も出来なかったことへの後悔。 妻とも友人とも、会話が噛み合わないことからの孤独感。 当時の私は客観的に見ても、八方塞がりでした。 でも多くの方たちも、多かれ少なかれ40も過ぎれば仕事や家庭で問題を抱えています。しかし、うつ病にはならないでしょう。だからこそ私は私自身に失望しました。失望感は再休職したことからさらに募り、積み重なった失望感は、絶望感へと集約されました。 再休職して、私はまさに生きるしかばねの様でした。 以前の休職期間のように、前向きにうつ病治療をすることも有りません。ただ、ただ死なないように生きているだけです。 誰かの歌詞にあったように、 私は小さく死にました。 当時の私は死にたいと云うよりも、「楽になりたかった」のです。 40も過ぎて再休職し、再び同僚や子どもたちに迷惑をかけ、上司の配慮や期待にも応えることが出来ず、その上、妻への罪悪感は筆舌に尽くし難いものがありました。 いつ自殺が成功しても大丈夫なように、定期的に遺書を書きました。妻への謝罪、同僚たちへの謝罪、両親兄姉への謝罪、毎日毎日こんな自分が生きていることが申し訳ありませんでした。 妻は週末になると、神社へとわたしを連れ出しました。近所の神社、箱根神社、鶴岡八幡宮、春日大社にも行きました。 2時間で2万円もするカウンセリングも受けました。 主治医から処方される薬は、5種類まで増えました。病院でのカウンセリング担当医は、大学を卒業したばかりのような若い女性です。彼女なりに真摯に私と向き合ってくれましたが、私は彼女から助けてもらえるとはとても思えませんでした。主治医で院長でもあった先生は、薬を処方するだけです。もしうつ病が治らず、教員を退職する事になったら精神障害者として生活保護を受けるしかないと言われました。 一向に良くならない私の状況に、妻は失望し、疲弊しました。あとで知った事ですが、リストカットなどの自傷行為をしていたようです。 毎晩、妻から叱責をされるようになりました。 このままだとどうなるか分かる?あなたがうつ病を治さないとどうなるか分かる?いい加減、治してよ!どれだけあなたが沢山の人たちに迷惑を掛けているのか分かる?だから早く治して! 時には包丁を持ち出され、一緒に死のうと懇願されました。 一度、人は道を踏み外すととことんまで堕ちるのだと思いました。しかも、底がありません。どこまでも堕ちるのです。 生き地獄でした。 翌年の4月、私は別の学校に移動し復職することになりました。 私は私を偽りました。うつ病は治っていません。しかし、治った事にしないと妻がもちません。 治ったと偽り、主治医にも復職を許されました。 復職して、3週間後の朝、自宅の梁に電気コードを括り付け、椅子を倒し首吊り自殺しました。 死んでいませんでした。 気づくと愛犬の柴犬が必死に私を舐めていました。 何も見えません。呼吸が止まっていたのでしょうか。私は必死に呼吸をしました。呼吸を繰り返し繰り返し行うと暗闇に光が差し込んできました。 何故かコードは解けていました。今際の際で、コードを解いていたようです。しかし自分が何をしたのか暫く理解できませんでした。失禁していることに気づきました。脱糞までしていました。眼球は出血し、白目部分は真っ赤に染まっていました。左半身が上手く動きませんでした。 その日、再入院することになりました。 主治医から、電気ショック治療を勧められました。一定の効果は期待できるが、全身に激しい電気ショックが流れるので多少の骨折や記憶の欠落などのリスクは覚悟してくれと言われました。妻の反対で行いませんでした。 もはや、自分が何をしたいのか、生きたいのか死にたいのか全く分かりません。ただただ矮小で卑屈で社会のゴミのような存在だと思いました。 生きている意味などあろうはずもありません。 でも私は生きていました。あの日以来首を吊るのも止めました。何も考えず何もせず、出されたものを食し排泄し、夜になれば睡眠剤でぐっすり寝て朝になれば看護師に起こされ、何もない1日が始まります。 2か月後退院しました。暫くして、教員を辞めました。無職になりました。新築の家も売りに出しました。妻には当然ですが、見放され東北の実家に帰ることになりました。実家にはまだ思春期の姪たちがいたので、兄がアパートを探してくれそこに1人で暮らす事になりました。 私は何も考えなくていいように、中古のゲーム機を買って一日中ゲームをしていました。たまにスーパーに食料を買いに行きますが、誰かに見られるのが恥ずかしくて、短時間で目につくものをそそくさと買ってアパートに戻ります。何も考えません。感情も有りません。風呂にも入りません。歯も磨きません。ある時、履けるパンツが無く、Tシャツを逆さにして履きました。チンチンが寒かったです。 以前の主治医から実家近くの病院を紹介され、紹介状も持たされていましたが、そこの病院に行く事は有りませんでした。もう精神科医も抗うつ剤も睡眠薬も私には必要ありませんでした。 なぜなら私は人の形をした、ただの醜いぬけがらでしたから。 時間も季節も、世間も仕事も、私には何の意味も有りません。物欲、金欲、食欲といった欲求もありません。ただ日々死なないように生き、金を食いつぶし、秋が来て、冬が来て、春が来ました。 定期的に父から電話がありました。その日は今までにない雰囲気で、もうアパートを引き払えと言ってきました。 実家で両親と兄家族と暮らす事になりました。 父は頻繁に私を外に連れ出しました。80も近い父の運転で、被災地の風景を見たり、故郷の野山を見たり、桜を見たりしました。 5月過ぎ、父が帯状疱疹になりました。 6月になると、胃腸に何らかの不調を訴えるようになりました。 7月、近隣の中核病院に入院することになりました。 最初は泌尿器系の病気が疑われ、手術を受けましたがあまり体調が改善されません。その後、ガンが疑われましたが、その部位が分からないと言われました。原発不明ガンと診断されましたが、本人には告知していませんでした。 父が体調を崩してから、病院の送り迎え、入院の準備や手続き、お医者さんの対応など、私が行いました。初めは嫌々でしたが、結局手が空いているのは私しかおりませんから、仕方なく対処していました。 原発不明のガンなので、具体的な治療方針が決まりません。何故か、一時退院が許されました。 退院してから、定期的に通院する事になりました。その日は泌尿器科の受診の日でした。泌尿器の主治医がお休みで代理の先生に診てもらいましたが、受診後父の様子が変で、帰り道に尋ねるとガンだと告知されたと言います。 何年ぶりでしょうか。私の中に忘れていた感情が芽生えました。 怒りです。 その日告知してきた先生は、あくまで泌尿器科の主治医の代理で、しかもガンの部位はおそらく消化器系だろうと言うことで告知する時期は消化器科の主治医と治療方針と共にこれから考えていきましょうという段取りになっていたのです。 父の落胆は見るからに明らかでした。父はタバコも吸いません。深酒もしません。健康番組が大好きで、健康に人一倍気を使っていました。 食事の世話も私が行っていましたが、食欲もめっきり無くなりました。歩くのも酷く疲れるようになりました。 私は消化器科の主治医とアポを取り、抗議の為病院に赴きました。何の相談もなく、科も違う代替先生が告知をしてしまった事に、平謝りでした。 それから私は、ガンについてできうる限り勉強しました。通院の際は、ノートを持ち込んで先生の所見を事細かくメモしました。 PET検査なるものでガンの所在が分かるかもしれないと聞き、検査機のある病院まで連れて行きました。 しかしながら、ガンの所在、及び部位は特定できませんでした。 8月になり、いつも以上に辛そうな父を見て再入院させる事にしました。病院に着くともう自力では歩くことが出来ず、車椅子に乗せて診察室まで連れて行きました。 父は気丈で弱音を吐くことを聞いた事がありません。 私が小学生の頃、車のドアで親指を挟み、骨が見えていても自分で運転し整形外科に行き、夕方には仕事をしていました。 私が中学生の時には、母が粉砕機で薬指を切り落としてしまいました。側にいた父は、すぐさま薬指を拾い、氷袋に入れて母を病院まで連れて行きました。指はくっつきませんでしたが。 そんな父が、自ら車椅子に乗っている姿に愕然としました。 主治医からは、胸水が溜まっているのでお辛いので��ょうと言われました。とりあえず、入院治療することになりました。 胸水を抜いてもらい、多少楽になったのか父に少しだけ笑顔が戻ってきました。後から来た母とも談笑していました。 数日後、父は永眠しました。 死因は、原発不明ガンとのことですが直接的な死因は、窒息死です。深夜になって吐いたものが気管に詰まり、自力では解消されず看護師が気づいた時には亡くなっていたのです。 解剖はしませんでした。 母の取り乱しようは筆舌に尽くし難く、身内一同呆然としました。 それでも、お通夜や葬儀は粛々と進められます。 葬儀が終わり、明日早朝に火葬を残すのみという晩の頃、私は葬儀会場で棺の中にいる父と2人きりになりました。 止め処無く涙が溢れてきました。あんなに泣く事はもはやないだろうと思います。 おそらく1時間ほど泣き続けたでしょうか。その間、私は心の中で同じ言葉を繰り返していました。 (ごめんなさい。ごめんなさい。) (もう大丈夫だから。) ほぼ平均寿命とは言え、父は80手前で亡くなるような人ではありません。ましてや、ヘビースモーカーで高血圧の祖父より早死にするような人ではないのです。 では何故、こうも早逝してしまったのか。 原因は、私です。 私の存在がストレスとなり、私のうつ病が治らないこともストレスとなり、40過ぎの息子が無職になって帰ってきて引きこもりになっている現実がこの上なく父に負担を掛けたのは間違いありません。帯状疱疹になったのも、胃腸に不調をきたしたのも、がんと診断されて1か月余りで亡くなったのも、私のせいです。身内は誰も口には出しませんが、みんなそう思っている事でしょう。 それなのに私は、父の棺の前で1時間ほど泣いて泣いて泣き疲れた後、気づいたのです。 うつ病が治ったと…。 皮肉なものです。父の病と死が、私のうつ病を寛解に導いたのです。 半年前まで、私は私の抜け殻でした。 何もせず、何も考えず、ただ無意味に時間とお金を浪費する肉の塊に過ぎませんでした。他人と会話する事は勿論のこと、身内ですら顔を見て話すことも出来ませんでした。 それが3か月前から止むを得ず、父の世話をするようになってお医者さんと交渉したり、看護師と話したり、父の様子を親戚に伝えたりするうちに何となく、うつ病は回復の兆しを見せ始め、最終的にに父の死によって寛解に至ったのです。 父は全く意図していなかったでしょうが、結果的に父の病と死が、私を深い深い谷底から救ってくれたのです。 結局のところ、私のうつ病を治したものは医者でも無く、カウンセリングでもなく、ましてや薬でもありません。タイミングときっかけ、そして行動です。 以下は私の経験則からの私見です。異論がある方もいらっしゃると思いますが、ご容赦ください。 うつ病は、薬で治る病気ではありません。 一般的な解釈としては、うつ病は過剰なストレスなどにより、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンといった神経伝達物質が上手く働かなくなり、シナプス間における電気信号が不調となる為、活動性が低下し、感情が失われていくとされています。 抗うつ剤などの薬は、上記の神経伝達物質を良好に分泌させる為のものですが、あくまで一時的なものです。言わば、身体が疲れた時のユンケルみたいなものです。ユンケルのような滋養強壮剤の効果は、有って小一時間ぐらいらしいです。医者に聞きました。寧ろ(俺はりぽDを飲んだから元気だ!)といった暗示の副作用の方が大きいといいます。抗うつ剤も同じです。気休め程度にしかなりません。しかも抗うつ剤を服用し続ける事は何の根本的な解決にはなりません。また様々な種類があり、強いものを飲み続けると廃人になるようなものも有ります。ハイリスクローリターンです。 私が知っている精神科医で、うつ病を本気で治せると思っている人はおりません。彼らは、薬を処方し点数を稼ぎ、報酬を得ているに過ぎません。私が暫く通院していた病院は、正にそうでした。2年ほど通いましたが、沢山の精神病患者で寛解に至った方を私は知りません。私の主治医だった精神科医は、患者を1時間待たせ5分の問診で処方箋を書き、効率よく病院に富を蓄積させます。おそらくそれが出世の処方箋なのでしょう。 先日、NHKドラマで阪神淡路大地震を体験した精神科医の話がありました。患者の話を30分でも1時間でも真摯に聞く先生でした。私もそういう精神科医に出会ったら違っていたのでしょうが。 現実は違います。それでも精神科医に診てもらいたければ、開業医をお勧めします。少なくとも組織の中にいる精神科医はダメです。 カウンセリングもお金と時間がかかるばかりで、効果のほどは期待できないと思います。 中には、行動療法や認知療法で寛解する方もいらっしゃるとは思いますが、私は懐疑的です。 そもそもうつ病の根幹的な治療は何か? まず、うつ病に至ったストレスを無くすことです。私は公務員という立場や家のローン、世間体などから仕事を辞めるという選択肢を選ぶのか遅すぎました。 そして、死なないように生き、どこかのタイミングで行動を起こすことです。具体性に欠けますが、深い深い闇の中にいて、抗うつ剤や他人の空虚な言葉が一筋の光になる…なんて事は現実的ではありません。 最初はどんな行動でも構いません。ポイントは、うつ病を患ってからした事がない行動です。 よくうつ病を患った人に、「神様から休みなさいって言われているんだよ。」という方がいますが、うつ病患者は休んでいるわけではありません。深く傷つき、深い闇の中でいつ終わるとも分からない嵐が過ぎ去るのを息を殺し、感情を捨て、ただただ耐えているのです。 話が逸れました。 質問者の方は、生きている意味があるかと問いかけられていますね。 私の答えは、「ない」です。 そもそもが、生きているだけで意味がある人間なんてどれほどいるのでしょうか?人間は人間を特���視し過ぎです。過去には、人間ひとりの命は地球よりも重いと言った政治家が居ました。馬鹿げています。 この地球には、既知の部分だけでも175万種の生命体がいるそうです。未知を含めたら500万とも800万とも言われています。その多種多様な生き物が懸命に命を繋いでいます。その中で、何故人間の命だけが尊いと言えるのでしょうか。 周りを見渡せば、ニュースを見れば犬、猫より価値の無い生き方をしている人が沢山います。蜂や蟻よりも生産性の無い生き方をしている人間がありふれています。 人間の命、そのものには意味がないのです。 あるとすれば、意味ではなく「時間」だと思います。 そして時間があるからこそ、「行動」ができるのです。 重度のうつ病患者は、行動が出来ません。 行動が出来ないということは、時間が止まっているのです。 故に今のあなたが、生きている事の意味を問いかけるのははっきりいって無意味です。 それはあなた自身が本当は理解されているはずです。 けれども今あなたがその漆黒の闇を抜け出せるその日が来た時、あなたの(生)に価値が生まれます。あなたが自分の足で、自分の意思で前に進み始めた時、時間が再び動き出します。 生きている限り、意味はなくてもあなたには「時間」がある。時間があるという事は、あなたの人生は何度でもやり直せるのです。 更にあなたが価値ある、より良い行動をとることで、あなたの(人生)に意味が生まれると思うのです。 人の(生)に意味があるとすれば、価値ある行動を実践した時、初めて生まれると思うのです。 人の人生の評価は何で決まるのでしょうか? 財産、出世、肩書き…人それぞれでしょうが、私は行動だと思います。どれだけ価値ある行動を人生で出来たか、だと思うのです。 だからまずあなたがするべき事は、死なないように生きることです。そして、私のようにきっかけを待つか、自らきっかけを作り行動することです。 正直言って、私のようなきっかけを待つことはお勧めできません。 だからこそ、私のところに遊びに来ませんか? もしかしたら、何かのきっかけになるかも知れません。仮にならなくても、きっかけのきっかけぐらいにはなるかも知れません。 私は今、農業に従事しています。何故、東北から南九州に来て、農業をしているかの経緯は割愛しますが、私はうつ病が寛解してから2年ほどの、50手前のおじさんです。 うつ病が治り、取り敢えず3つの事を目標に掲げました。 ①飼っている柴犬を、日本一幸せな柴犬にする事。 ②最低限、父の年齢まで生きる事。 ③世界の真理を一つでも多く学ぶ事。 です。 農業では、無農薬、無化学肥料での、循環農法を実践しています。なるべく、F1の種に頼らず固定種の種から作付けして、この土地に合った野菜を育て、種取りをして、安全、安心な、究極的には硝酸態窒素を過剰に含まない、ガンにならない野菜作りを目指しています。 知らない土地に来てからの挑戦なので、苦労もありますがやり甲斐も有りますし、生き甲斐も感じています。 何よりも、何度となく死んでしまってもおかしくない我が身がこうしてお天道様の光を浴びて働けることが、嬉しくて嬉しくて仕方が有りません。 昔、ドイツの哲学者が言っていました。 (自らを否定して否定し尽くした時、あなたは超人となるだろう。) 私のうつ病期は、自己否定の繰り返しでした。 もちろん、私は超人には成れておりません。 ただ、周りの人達よりちょっとだけ物事の本質を理解出来るようになったかなと思います。 一昨日、東日本大震災から9年経ちました。 2万人以上の方が亡くなられました。 彼らにはもう時間が有りません。行動を起こすことも出来ません。 だからこそ我々生きている人間は、然るべき行動により、震災を語り継ぎ、亡くなった方たちを忘れずに生きねばなりません。 あなたは生きている。 あなたには時間がある。 あなたは行動を起こせる。 大丈夫。時は必ず訪れます。 最後にアメリカの詩人の言葉をご紹介します。 (寒さに震えた者ほど 太陽の暖かさを感じる 人生の悩みをくぐった者ほど 生命の尊さを知る これから私は幸福を求めない 私自身が幸福だ) 長文につき、乱筆、乱文ご容赦ください。
https://jp.quora.com/%E7%A7%81%E3%81%AF%E3%81%86%E3%81%A4%E7%97%85%E3%81%A7%E3%81%99-%E6%98%94%E3%81%AE%E4%BA%8B%E3%82%82%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%9B%E3%81%9A-%E6%84%9F%E5%8B%95%E3%81%9B%E3%81%9A-%E6%84%9F%E6%83%85%E3%82%82/answers/202981897?ch=2
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trustloverss-blog · 6 years
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恥蹴ました
如何も
俺です今晩は今日は御早う御休み
こんな処迄覗いて呉れた ッて事は
そこそこ俺のファン若しくは気に成 ッて呉れとる
俺マニアやと信じて
一寸俺の話でも 。
天樂 で tenga ッて言いやす
厭らしい玩具想像した其処の御前
変態やな 、其の感性嫌いじゃ無いで
好きな物は酒と煙草と音���と
こんな俺を暖かく見守って呉れる支えて呉れる
愛して止まない仲間。
嫌いな物は虫と汚い欲でしか生きれへ ン奴
揉め事とか急かされる事も苦手なザO型人間
ヤラシイ事も好きやけど其れ岳でしか
繋がれへ ン様な関係性は御免やな 。
後は何やろな 、出逢ったからには
御前も御前も 蒙 俺の。
唯の知り合いな ンかで終わらせたく無い殻
ゆ ッくりじっくり教えて 、御前の事
知っていって俺の事 。
後は彼女の話でもしとく ?
一番俺の近くで俺の悪い処だらしない処
善え処俺 ッて言う人間を知り尽くした人
こ ンなハッキリ人に言葉を伝えれて
不器用ながらに真っ直ぐ俺を愛して呉れる人
多分何処探しても 、此れ以上の人は居ら ン。
俺の全部任せとるし甘え倒しとるし
明日も頑張ろな ッて手繋ぎ直して
何回も御互いぶつかって泣いて笑ってを繰り返して
其れでも傍に居たい ッて心の底から思えた
大事で大事で堪ら ン俺を変えて呉れた人
多分此奴が居らな支えて守って呉れて無かったら
多分 進む事も笑う事も毎日を普通に
生きる事も諦めて止めてたやろな ッて
大袈裟じゃ無く本気で思う。
取り敢えず俺の生きる糧で有る事は間違い無い
愛しい人 。明日も一緒に頑張りたい人
阿寒な 、終わら ン殻 此の辺で。
こ ンな感じで此奴始め
俺の周りを囲って呉れとる奴等は本物やし
良くこ ンなオッサンと呆れずにずっと
添い続けて呉れとるだけあるな ッて我ながら
思うぐらい最高な奴等ば ッか。
何時も有難う阿呆共 、御前等が居る殻
こ ンな世界で生きてます
まあ 、俺ってこんな感じ。
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