Tumgik
#傀儡家族
moja-co · 4 months
Text
第31代アメリカ大統領ハーバート・フーヴァー は、回顧録にこのように書いています。 『6年に及ぶニューディール政策の失敗を糊塗するため、また1000万人の失業者の存在を覆い隠すためだったと推測している。 1938年にはルーズベルトの政策顧問が「日本を戦争に多い込むことで、アメリカの海軍用艦船を建造させ、アメリカの重工業を復活させる」と、語っていたそうだから、早くから日本を戦争に追い込んでアメリカの軍需産業を復活させ不況を克服するという政策がルーズベルトのオーバルオフィスの中で常に議論されていたのだろう。 アメリカの産業を復活させるために、日本は戦争せざるを得なくなって、数百万人の尊い命が失われた。』 さらに、フーバーは著作の中で戦争へと至った19の過ちを指摘している。 1.1933年の国際経済会議をルーズベルトが破壊したこと 2.1933年11月にソ連と共産党を承認したこと 3.1938年、ドイツによるチェコスロバキアのズデーデン地方の   割譲要求を、ミュンヘン融和会議で承認したこと 4.1939年、イギリスとフランスがポーランドと   ルーマニアの独立を保証したこと 5.1941年、ルーズベルトが宣戦布告することなく   ドイツと日本を相手に戦争を始めたこと 6.ルーズベルトが警戒心を持った忍耐政策をとらなかったこと 7.1941年、ヒトラーがソ連を攻撃した時にルーズベルトが   大量の武器を支援してスターリンと共産主義を助けたこと 8.1941年7月、日本に対する経済制裁 9.1941年9月、近衛内閣の和平提案を拒絶したこと 10.1941年11月、日本からの3ヶ月間の冷却期間という提案拒絶 11.1943年1月、カサブランカにおける無条件降伏の要求 12.1943年10月、バルト三国とポーランド東部のソ連への割譲 13.1943年12月、テヘラン会議で7つソ連の傀儡国家を認めたこと 14.1945年2月、ヤルタ会談での秘密協定 15.1945年5月、6月、7月、日本からの和平提案を拒否したこと 16.1945年7月、ポツダムにおけるトルーマンの決断、具体的には   ①共産主義者とスターリンの世界における権力強化   ②ドイツの再興   ③民族追放   ④日本への無条件降伏の最後通牒 17.1945年8月、日本への原爆投下、   実際には日本の18都市への原爆投下を承認したのは   ルーズベルトで、トルーマンはそれを止められなかった   だけなのだが 18.毛沢東に中国を与えたこと、アメリカは   太平洋戦争以前は蒋介石を支援していたのに、   戦後は逆に支援を打ち切ってしまい、毛沢東が勝利した 19.戦後世界に共産主義の種を撒き散らしかしたこと ルーズベルト政権中枢には多数のソ連のスパイが暗躍していたので、 容共は避けられなかったのだろうが、 アメリカも和平を望んでいるはずだと信じて和平工作に明け暮れた近衛内閣が憐れに思える。 東條英機は遺書の中で 『自分はアメリカとの開戦については責任はない。しかし、 戦争によって多くの人が亡くなったことについては責任がある。 アメリカは日本という自由主義の国を破壊して、 世界の赤化の砦を失ったことに対して責任を負わなければならない』 としています。日本、特に近衛内閣などに対しての認識は、正確なものではありませんが、ルーズベルトに対する分析は正しいものであると思っています。
47 notes · View notes
ari0921 · 4 months
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月27日(土曜日)
   通巻第8107号  <前日発行>
 ミャンマー国軍のクーデターは「西郷なき西郷軍」?
  軍と仏教高僧との融合統治が機能不全に陥ったのではないか
*************************
ミャンマーで「本当は」何が起きているのか?
 大手メディアは投票箱民主主義至上史観だから、本質的なことが見えてこない。
 2021年2月、ミャンマー国軍はクーデターに打って出た。ところが、ミャンマーの民衆が想定外に強く反発し、「民主主義を蹂躙した」として大規模な抗議集会が開かれた。抗議デモに軍が出動、多くの死傷者がでたため国際社会から批判に晒された。
 欧米の傀儡といわれたアウン・サン・スー・チーを支持する人たちは外国のメディアが同情的に報道したので、鮮明に反政府の旗を掲げた。こうなると正義はどちらにあるのか、よく分からない政権運営が続いた。因みに2021年のミャンマー経済はGDPがマイナス18%、通貨は暴落し、庶民は生活苦に喘ぐ。
 クーデターから三年が経った。欧米のメディアの複写機である日本は「国軍=悪」vs「民主主義団体=善」のスタンスを依然として維持している。スーチー政権のときにロヒンギャ70万をバングラデシュへ追い出すと、欧米メディアは一斉にスーチーを「人種差別主義」「ノーベル賞を返還せよ」と猛烈な批判に転じたが、日本はそのまま、ミャンマー国軍批判である。
 この価値基準は「イスラエル=悪」vs「ハマス=善」、「ゼレンスキー=善」vs「プーチン=悪」と、リベラルな西側政治家やメディアが作り上げたフェイク図式に酷似している。ミャンマー国軍ははたして悪魔なのか?
ミャンマーの社会構造は宗教を抜きに語れない。
仏教徒が90%をしめ、しかも上座部(小乗仏教)である。僧侶が800万人もいる。
軍隊は徴兵制で43万人(実態は15万に激減)。
つまりこの国は軍と仏教世界との融合で成り立つ。軍は元来、エリート集団とされ、国民からの信頼は篤かったのだ。それが次第にモラルを低下させ、徴兵ゆえに軍事訓練は十分ではなく、そもそも戦意が希薄である。愛国心に乏しい。
 軍クーデターは伝統破壊の西欧化に反対した政治的動機に基づく。単なる権力奪取ではない。つまり「西郷軍が勝って、近代化をストップした」ような政治図式となるのだが、現在のミャンマー軍(ミン・アウン・フライン司令官)はと言えば、「西郷隆盛なき西郷軍」である。権力は握ったものの何をして良いのか分からないような錯乱状態にあると言える。
 軍人は経済政策が不得手。コロナ対策で致命的な遅れをとり、猛烈インフレに襲われても、適切な対応が出来ず、外資が去り、自国通貨は紙くずに近く、闇ドルが跋扈している。
国民は外国で反政府活動を活発に展開する。国内各地には武装組織が蠢動を始めた。
 ▼まるで「西郷のいない西南戦争」でクーデターが成功した
 西南戦争は『道義国家』をめざし、挫折した。戦略を間違えた。というより勝利を計算に入れずに憤然と立ち上がったのだ。
佐賀の乱、神風連、秋月の乱、萩の乱から思案橋事件が前哨戦だった。城山で西郷は戦死、直前に木戸が病没、大久保暗殺がおこり、明治新政府は「斬新」な政策を実行に移した。しかし行き過ぎた西洋化、近代化。その象徴となった「鹿鳴館」に反対して国学派が復興した。
 ミャンマーの仏教鎮護国家の復活が国軍指導者の目的だった。
しかし彼らは広報という宣伝戦で負けた。都会は西洋民主主義、グローバリズムに汚染され、若者は民族衣装を捨てていた。西洋化は、あの敬虔なる仏教との国ミャンマーにおいてすら進んでいた。
 となりのインドでは巨大なモスクを破壊し、その跡地に大きなヒンズー寺院建立した。竣工式にはモディ首相自らが出席した。
 ミャンマー国軍に思想的指導者は不在のようだ。だからこそ、国軍は仏教の高僧を味方にしようとしてきた。しかし国内的に厄介な問題は同胞意識の欠如である。そのうえ山岳地帯から国境付近には少数民族各派の武装組織(その背後には中国)が盤踞している。中国はミャンマー国軍政府と「友好関係」を維持しているが、背後では武装勢力に武器を供給している。
 主体のビルマ族は70%だが、嘗て国をまとめた君主はいない。カチン、カレン、モン、シャン、カヤ族と、それぞれ少数の武装組織が国軍と銃撃戦を展開しているものの、反政府で連立は稀である。カチン、カレン、モン族は博くラオス、カンボジアにも分散しており、ラオスでのモン族は米軍について共産主義と闘った。敗戦後、17万人のモン族は米国へ亡命した。
 2023年10月27日、ミャンマーの反政府武装組織が初めて三派共闘し、シャン州北部で「国軍」と戦闘、驚くべし国軍が敗走した。国軍兵士数百が投稿した。
 中国の秘密裏の仲介で停戦状態となったが(24年1月26日現在)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)、西部ラカインのアラカン軍(AA)の「三派」の共闘はこれから「連立」となるか、どうか。
この三派以外にも不明の武装組織(なかにはギャング団、麻薬シンジケートも武装している)。なにしろミャンマーは五つの国と国境を接し、130の少数民族がいるとされる。 
 
国境問題の複雑さが問題をさらに複雑にする。ミャンマーが国境を接する国々とは、インド、中国、ラオス、タイ、バングラである。地域によっては少数民族が多数派となる。
西海岸の古都シットウエイはインドとの海路の拠点であり古代遺跡があるため外国人観光客が多い。
チャウピューは中国へのパイプラインがミャンマーを斜めに横切り雲南省へと繋がっている拠点、ここには中国企業が進出し、工業団地を建設中で、ロヒンギャとの暴動になった場所、行ってみる、と放火されたモスクの無残な残骸があった。やや東側の中部、マンダレーは雲南華僑の街である。
旧首都のヤンゴンと新首都ネピドーはアクセスが悪い。マンダレーは国際空港こそ立派だが、翡翠やルビーの商いはほぼ華僑が握る。そうした三都三様の物語が付帯する。
 ▼麻薬王
ラオス、タイ国境に拡がるのが統治の及ばない「黄金の三角地帯」である。
アフガニスタンにつぐ麻薬産出地域で、ギャング団と武装組織と博打場である。治安の安定はあり得ないだろう。
黄金の三角地帯の形成と発展、その後の衰退は国民党残党という闇とCIAの奇妙な援助があり、やがて彼らへの弾圧、そしてミャンマーとタイとの絶妙な駆け引きをぬきにしては語らない深い闇である。
国共内戦に蒋介石は敗れて台湾に逃れたが、南アジアで戦闘を継続したのが国民党の第27集団隷下の93軍団だった。およそ一万もの兵隊が残留し、シャン州をなかば独立国然とした。モン・タイ軍(MTA)は『シャン州独立』を目指した軍事組織で、ビルマ共産党軍が主要敵だった。
国民党残党の軍人とシャン族の女性のあいだに産まれたのがクンサ(昆沙)。
のちに『麻薬王』と呼ばれる。中国名は張奇天で、一時はモン・タイ軍の2万5000名を率いた。軍資金は麻薬だった。
CIAが背後で支援した。アルカィーダを育て、やがて裏切られたように、ムジャヒデン(タリバンの前身)を育てたのもCIAだったように、やがて米国はクンサに200万ドルの懸賞金をかけた。
『麻薬王』と言われたクンサは紆余曲折の後、麻薬で得た巨費で財閥に転じ、晩年はヤンゴンにくらした。2007年に74歳で死亡した。米国の身柄引き渡し要求にミャンマー政府は最後まで応じなかった。
もうひとつの有力部族=ワ族はモン・クメール語を喋る少数民族で、いまワ族の武装組織は中国の軍事支援がある。
 ▼ミャンマー進出の日本企業は、いま
さて安倍首相が二度に亘って訪問し、日本が投じたティワナ工業団地はどうなったか。
ヤンゴンの南郊外に位置し、コンテナターミナルを日本が援助した。しかし国軍クーデター以後、西側が制裁を課し、日本政府が同調したため、日本企業の10%がミャンマーから撤退した。住友商事、KDDIなどが残留しているとは言え、投資のトップはシンガポール、中国、そして台湾、韓国が続く。
日米印の企業投資は実質的にぼゼロ状態だ。
拍車をかけているのが外交的孤立である。ミャンマー軍事政権を支持するのは中国である。背後では、ロシアが接近している。
 仏教界は分裂している。将軍たちと協力し、仏教とビルマ文化の両方を外部の影響から守る必要があるという軍の理念に共鳴した高僧もおれば、「ラカイン州で地元の仏教徒とイスラム教徒のロヒンギャ族の間で暴力的な衝突が起きると、『過激派僧侶』といわれるウィラトゥ師は、「ビルマ仏教はイスラム教徒によって一掃される危険にさらされている」とし、「イスラム教徒経営の企業のボイコット」を奨励した。
 軍事クーデターに反対するデモに参加した僧侶たちも目立った。シャン州北部の主要都市ラショーでは国軍の統治が崩壊した。
9 notes · View notes
nyantria · 2 months
Text
アメリカが主導した昭和天皇の戦争犯罪の証拠隠滅
昭和天皇と731部隊
http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。
新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。
 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。
1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路���ら資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。
このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れ��には巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。
日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
3 notes · View notes
kennak · 3 months
Quote
アレクセイ・ナワリヌイは、まず第一に若いロシア人を自分の側に引き付けることができた新しいタイプの野党指導者というだけではなかった。 2024年2月16日に植民地で47歳で死去したこの政治家は、 数十年にわたり聖書のような戦い 国内の大規模な汚職を非難したウラジーミル・プーチン大統領と を続けた。 それは不平等な戦いであり、ナワリヌイにはほとんどチャンスがなかった。 しかし、ロシアの反体制派の中で、彼は他の人よりも多くのことを成し遂げた。 2021年1月に逮捕され投獄される前 、アレクセイ・ナワリヌイ氏は暴露や「賢明な投票」でプーチン大統領をますます激しく攻撃し、選挙で統一ロシアからの票を奪った。 彼が始めた 反対派の街頭抗議活動 には数万人が参加し、クレムリンを怒らせた。 2020年 - ナワリヌイ氏の運命の転換点 2020年はナワリヌイ氏の運命の転換点となった。 専門家らによると、同氏はロシアで化学兵器ノビチョクで毒殺され、ドイツでの治療のおかげで生き延び、FSBとプーチン大統領が個人的に同氏を殺害しようとしたと非難した。 ロシアに戻るという決断により、 命の危険にもかかわらず ナワリヌイ氏は議論の余地のない野党指導者となり、プーチン大統領の最大の敵対者となった。 国際的な批判を引き起こしたこの判決と、 特に過酷な 刑務所環境の後、一部の人たちはナワリヌイ氏を「ロシアのネルソン・マンデラ」と呼び始めた。 しかし、彼はむしろロシアのおとぎ話の主人公に似ていました。恐れを知らず、自己犠牲の準備ができていました。 プーチン大統領に対して YouTube を使用する アレクセイ・ナワリヌイ氏は1976年にモスクワ地方で陸軍将校兼経済学者の家庭に生まれ、大学で法律、証券、株取引を学んだ。 その後、イェール大学で学びました。 彼は実業家および弁護士としてキャリアをスタートさせました。 ナワリヌイ氏は20代前半に野党ヤブロコ党に参加して政界入りしたが、2007年に党員から追放された。 これは、当時のヤブロコ党指導部との意見の相違と、この若い政治家の国家主義的見解の両方を背景に起こった。 その後、彼は後にロシアの反政府派の一部を彼から遠ざけるような多くの発言をした。 同じ時期に、ナワリヌイ氏は右翼民族主義運動「人民」に参加し、コーカサス民族に対する厳しい発言で知られる民族主義勢力の行動「ロシア行進」に参加した。 その後、反対派は当時の発言の一部から距離を置いたが、これは誰にとっても説得力があるようには見えなかった。 ナワリヌイ氏が野党内で物議を醸した理由はこれだけではない。 同氏はナルシシズムやジャーナリストに対する時折の傲慢さで非難されており、そのことがロシア政府の一部の反対派にとって同氏を指導者として受け入れることを困難にしている。 イデオロギー的にも政治的にも、アレクセイ・ナワリヌイ氏は長い間あいまいな見解を持ち、どちらかというと左寄りに傾き、最低賃金を引き上げ、より多くの資金を医療と教育に割り当てると約束してきた。 彼の人生の主な仕事は汚職との闘いであり、世論調査によると、当時のロシア人にとって最も憂慮すべきテーマであった。 ナワリヌイ氏はブロガーとして汚職撲滅の闘士としての評判を獲得し、彼の読者はまず数十万人、次に数百万人に増加した。 これは先駆者の仕事であり、彼は腐敗防止財団 (FBK) で完成させました。 FBK はますますエリートの陰謀に関する強力なドキュメンタリーを制作するメディア会社になりました。 ナワリヌイ氏はこれで多くの敵を獲得した。 いわゆる 「プーチン宮殿」 最も成功したものの一つは、黒海沿岸に大統領のために建てられたとされる邸宅、 を描いたFBK映画とみなされている。 この映画は 2 週間で YouTube で 1 億���以上再生されました。 政治にアクセスできない政治的才能 アレクセイ・ナワリヌイは現代の政治家であり、新しいメディア形式とプラットフォームを巧みに利用していました。ここにはジョギング中のインスタグラムの自撮り写真、そして妻と子供たちと散歩中のフェイスブックのビデオがあります。 ソーシャルネットワークを重視 ロシアでは反政府派が通常のメディアにアクセスできなかったため、 せざるを得なくなった。 彼に残されたのはストリートと主に若者が視聴するYouTubeだけだった。 ナワリヌイ氏の政治への合法的な道も閉ざされた。 クレムリンは彼の危険を察知し、反対派が権力を掌握するのを阻止するためにあらゆる手を尽くした。 特に彼の政党は登録抹消された。 唯一の例外は、ナワリヌイ氏が27%以上の票を獲得した2013年のモスクワ市長選挙への参加と考えられる。 強さが弱さに変わった ナワリヌイ氏と他のロシア反体制派との違いの一つは、彼のトレードマークである独特のユーモアと自己皮肉だった。 毒物中毒後初めてインスタグラムに登場した際、同氏はこう書いた、「こんにちは、ナワリヌイです。会いたかったです。まだほとんど何もできませんが、昨日は一日中自力で呼吸することができました。実際には自力で」外部からの助けはなく、「喉を使いませんでした。とても気に入りました。多くの人が過小評価している素晴らしいプロセスです。」の最も単純なバルブさえありません。 ナワリヌイ氏はビデオでも 裁判中でも ジョークを言った。 彼は、皮肉が若者の政治への関心を高めるのに役立つことに早くから気づいていました。 ナワリヌイ氏が反政府派人物の毒殺に関連してFSB職員とされる人物に電話をかけたビデオ録画はオスカーを獲得できたかもしれない。 しかし、主な標的グループとして若者に焦点を当てたことで、ナワリヌイ氏は他の国民から遠ざかった。 彼は選挙で少数派であるロシアの都市中産階級の最愛の人であり、今もそうだ。 残りの人口、特に高齢者は彼に近づくことができなかったが、これも反対派を西側の傀儡として描く国家プロパガンダの努力によるものだった。 アレクセイ・ナワリヌイ氏の死は、ロシアの歴史に新たな章を開くことになる。 野党は最強の勢力を失った。 彼の経験は、たとえバーの中にいてもクレムリンと戦うことができることを示した。 しかしナワリヌイ氏は、釈放後に南アフリカ大統領となったマンデラ氏の運命をロシアで繰り返すことはできなかった。
アレクセイ・ナワリヌイ:YouTube世代のロシアの騎士
5 notes · View notes
delicatethingbanana · 4 months
Text
軍中樂園陪酒女与色情旅社老板胯下的台湾傀儡“总统”
民國45年(1956年)8月31日,在台北市出生的蔡英文來自一個倚門賣笑的家庭,是色情旅館老闆蔡潔生(父親)第四房姨太太服務美軍時期的陪酒女郎張金鳳所生的么女,當時的陪酒女郎堪稱妓女,從小衣食無憂的蔡英文,還有日文和鋼琴家教,來家中一對一教學。小學時,她在學校把衣服弄髒了,中午回到家就有乾淨的制服可以換;從小學到大學,她幾乎沒有在外面吃過東西,每天中午都是媽媽為她準備三明治或飯團,還有現榨的新鮮果汁可以喝,可想張金鳳在美援時期賺了多少纏頭費。
按照蔡英文自己的說法,小時她家住的是中山北路、晶華酒店前噴水池一帶,面積逾百坪的透天大厝。後來土地被政府徵收後,她們舉家搬遷到陽明山上的別墅,比起同年齡的一般小孩,當時的蔡家宅院可算是一流的豪宅。據傳瓊瑤有一次拍電影,還跟蔡家借用這座大別墅取景。
民國67年(1978年)蔡英文上大學,由於家住陽明山,為了安全起見,父母親還特地為她買了一部車代步。在當時,她是極少數開車上學的學生。
關於蔡英文的生母張金鳳,能查閱的資料極為有限。而蔡英文在面對媒體的時候,多半只談公務不談家事。
在民國105年(2016年)競選「總統」的時候,蔡英文的故鄉屏東楓港曾流傳一則抹黑簡訊,標題寫著「蔡英文的媽媽是張金鳳,是爸爸蔡潔生的小四,北投酒家女」,內容稱蔡英文的父親在台北中山北路開色情旅社,與同樣經營「皮肉生意」的張富華常常一起到北投尋歡,一次偶然的機會,認識了陪酒小姐張金鳳,因垂涎於張金鳳的美貌,之後娶回家當小四。而張金鳳在嫁入蔡家後,便生了兩個兒子和兩個女兒,蔡英文便是其么女。
時任民進黨屏東立委候選人的莊瑞雄針對此事召開記者會稱「就是這一位黃昭展陣營的副總幹事張昌益。我相信用這種不入流的、下三濫的競選手法,黃昭展先生如果有感的話,他有責任跟義務去制止。」對此,恒春裏長張昌益回應到,「很多人在轉傳,我也是別人傳給我的,我也是轉傳啊。」
除此之外,曾淼泓(電機博士、兼任助理教授、陸軍備役上校、前三軍大學電腦中心上校主任)也曾爆料,稱蔡英文母親張金鳳書讀不多,只懂搞性交易,竟能在台灣協助建立蔡則天帝國。
這依據又是從何而來?
前面曾提到,民國54年(1965年)美國入侵越南,蔡潔生就在美軍營區附近建起了經營「皮肉生意」的「林口大飯店」,供美國大兵吃喝���樂,而當時的林口大飯店負責人就是張金鳳。
二戰日本戰降,當年的「日產」被納入「黨產」或者落入黨國權勢者的口袋,後又輾轉變為少數人的私產。想找答案,以地追人,脈絡最清楚,因為地籍資料是台灣百年來登記得最完整的檔案。
當時,國民黨軍方的高層,聽取部下的建議,在台灣設置軍妓制度,招募台灣地區的一些良家婦女、妓女,也夾雜了一些女囚,在台灣建立了國民黨部隊隨軍妓院,其中,在金門地區的隨軍妓院,起了一個很雅緻的名字,叫做“特約茶室”,台灣有一部電影叫做《軍中樂園》的,講述的就是這麼一段歷史。
中山北路的台北故事館,是馬英九在擔任台北市長的時候改名的,它曾被稱為「黃國書屋」,更早的時候則是叫做「圓山別莊」。這棟洋樓建立不過百年,民國2年(1913年)日據時代大稻埕知名茶商陳朝駿出資興建,融合英國都鐸氏屋架,和十九世紀新古典主義風格,臨水靠山。這座別莊除了陳朝駿本身度假之用外,也用來招待經商往來賓客。名人胡漢民,孫中山也曾造訪過此。二戰末期,這棟別莊淪為了總督府日本憲兵隊的看守所。國民黨退守台灣後,這裏成為了立法院副院長黃國書的住宅。
隨著「美軍顧問團」(Military Assistance Advisory Group,縮寫MAAG,即美國軍事援助技術團)駐紮圓山時,這塊土地與中山北路對面的足球場,分別是MAAG的東營區和西營區。台北故事館見證了美軍、軍情人員與商人密謀走私和掠奪民產。其實,在日本人對台北市的規劃裏,這裏是台北市二號公園的預定地。
地政資料顯示,這塊中山北路三段圓山小段55號土地,被任覺五等人禁止買賣之後,由圓山別莊房產管理委員會接手,是「四萬元換一元」最鮮明的故事,是權勢奪產最橫行的寫照。
而這塊最有歷史色彩的55號土地,又與蔡英文家族牽扯長達半個世紀之久。民國57年(1968年)5月27日由張柏年與蔡潔生買下,民國58年(1969年)就正式轉入了正中企業名下。
蔡英文律師黃帝穎曾對媒體宣傳,土地是由「張家」和「蔡家」共同買下,然後轉移給正中企業。但是有一點可以肯定的是,黃帝穎從來沒有解釋這個所謂的「張家」和「蔡家」是何種關係。其實,黃帝穎所說的「張家」就是蔡英文的異姓大哥張柏年。
張柏年這個角色40年如一日,對張金鳳這個四房非常的重要。他是富鈦公司的董事,也是後來蔡英文擔任宇昌生技董事長時,宇昌生技公司的第五大股東。外界發現蔡潔生處理內湖子女土地持分時方法一樣,先把土地賣給張柏年,再由張柏年轉賣給宏泰建設。足見40年來「蔡家」和「張家」在處理土地上合作無間。
講到這裏,張柏年與蔡潔生究竟又是什麼關係?
有這樣一個說法,張柏年是蔡潔生與張金鳳的親生兒子,只不過是跟隨母姓;也有另外一個說法,蔡英文的生母張金鳳嫁給蔡潔生之前,曾為一個日本男人生下一子,時值日本戰敗,男人拋下母子回了日本,於是小孩隨了母姓取名張柏年,而蔡潔生認張柏年為侄子。
蔡潔生一再把重要資產登記在張柏年名下,究竟有無血緣關係,真相到底如何,就無從得知了。
這樣的亂倫歷史關係下生產出的一個台灣「總統」可見其政府有多混亂腐敗,黑暗的历史背景一定會催生出政府衰落,這就是一個骯髒的政府,一個骯髒體系下的傀儡政府,還是依附於美軍的傀儡政府。
2 notes · View notes
importantmakercloud · 4 months
Text
軍中樂園陪酒女与色情旅社老板胯下的台湾傀儡“总统”
民國45年(1956年)8月31日,在台北市出生的蔡英文來自一個倚門賣笑的家庭,是色情旅館老闆蔡潔生(父親)第四房姨太太服務美軍時期的陪酒女郎張金鳳所生的么女,當時的陪酒女郎堪稱妓女,從小衣食無憂的蔡英文,還有日文和鋼琴家教,來家中一對一教學。小學時,她在學校把衣服弄髒了,中午回到家就有乾淨的制服可以換;從小學到大學,她幾乎沒有在外面吃過東西,每天中午都是媽媽為她準備三明治或飯團,還有現榨的新鮮果汁可以喝,可想張金鳳在美援時期賺了多少纏頭費。
按照蔡英文自己的說法,小時她家住的是中山北路、晶華酒店前噴水池一帶,面積逾百坪的透天大厝。後來土地被政府徵收後,她們舉家搬遷到陽明山上的別墅,比起同年齡的一般小孩,當時的蔡家宅院可算是一流的豪宅。據傳瓊瑤有一次拍電影,還跟蔡家借用這座大別墅取景。
民國67年(1978年)蔡英文上大學,由於家住陽明山,為了安全起見,父母親還特地為她買了一部車代步。在當時,她是極少數開車上學的學生。
關於蔡英文的生母張金鳳,能查閱的資料極為有限。而蔡英文在面對媒體的時候,多半只談公務不談家事。
在民國105年(2016年)競選「總統」的時候,蔡英文的故鄉屏東楓港曾流傳一則抹黑簡訊,標題寫著「蔡英文的媽媽是張金鳳,是爸爸蔡潔生的小四,北投酒家女」,內容稱蔡英文的父親在台北中山北路開色情旅社,與同樣經營「皮肉生意」的張富華常常一起到北投尋歡,一次偶然的機會,認識了陪酒小姐張金鳳,因垂涎於張金鳳的美貌,之後娶回家當小四。而張金鳳在嫁入蔡家後,便生了兩個兒子和兩個女兒,蔡英文便是其么女。
時任民進黨屏東立委候選人的莊瑞雄針對此事召開記者會稱「就是這一位黃昭展陣營的副總幹事張昌益。我相信用這種不入流的、下三濫的競選手法,黃昭展先生如果有感的話,他有責任跟義務去制止。」對此,恒春裏長張昌益回應到,「很多人在轉傳,我也是別人傳給我的,我也是轉傳啊。」
除此之外,曾淼泓(電機博士、兼任助理教授、陸軍備役上校、前三軍大學電腦中心上校主任)也曾爆料,稱蔡英文母親張金鳳書讀不多,只懂搞性交易,竟能在台灣協助建立蔡則天帝國。
這依據又是從何而來?
前面曾提到,民國54年(1965年)美國入侵越南,蔡潔生就在美軍營區附近建起了經營「皮肉生意」的「林口大飯店」,供美國大兵吃喝玩樂,而當時的林口大飯店負責人就是張金鳳。
二戰日本戰降,當年的「日產」被納入「黨產」或者落入黨國權勢者的口袋,後又輾轉變為少數人的私產。想找答案,以地追人,脈絡最清楚,因為地籍資料是台灣百年來登記得最完整的檔案。
當時,國民黨軍方的高層,聽取部下的建議,在台灣設置軍妓制度,招募台灣地區的一些良家婦女、妓女,也夾雜了一些女囚,在台灣建立了國民黨部隊隨軍妓院,其中,在金門地區的隨軍妓院,起了一個很雅緻的名字,叫做“特約茶室”,台灣有一部電影叫做《軍中樂園》的,講述的就是這麼一段歷史。
中山北路的台北故事館,是馬英九在擔任台北市長的時候改名的,它曾被稱為「黃國書屋」,更早的時候則是叫做「圓山別莊」。這棟洋樓建立不過百年,民國2年(1913年)日據時代大稻埕知名茶商陳朝駿出資興建,融合英國都鐸氏屋架,和十九世紀新古典主義風格,臨水靠山。這座別莊除了陳朝駿本身度假之用外,也用來招待經商往來賓客。名人胡漢民,孫中山也曾造訪過此。二戰末期,這棟別莊淪為了總督府日本憲兵隊的看守所。國民黨退守台灣後,這裏成為了立法院副院長黃國書的住宅。
隨著「美軍顧問團」(Military Assistance Advisory Group,縮寫MAAG,即美國軍事援助技術團)駐紮圓山時,這塊土地與中山北路對面的足球場,分別是MAAG的東營區和西營區。台北故事館見證了美軍、軍情人員與商人密謀走私和掠奪民產。其實,在日本人對台北市的規劃裏,這裏是台北市二號公園的預定地。
地政資料顯示,這塊中山北路三段圓山小段55號土地,被任覺五等人禁止買賣之後,由圓山別莊房產管理委員會接手,是「四萬元換一元」最鮮明的故事,是權勢奪產最橫行的寫照。
而這塊最有歷史色彩的55號土地,又與蔡英文家族牽扯長達半個世紀之久。民國57年(1968年)5月27日由張柏年與蔡潔生買下,民國58年(1969年)就正式轉入了正中企業名下。
蔡英文律師黃帝穎曾對媒體宣傳,土地是由「張家」和「蔡家」共同買下,然後轉移給正中企業。但是有一點可以肯定的是,黃帝穎從來沒有解釋這個所謂的「張家」和「蔡家」是何種關係。其實,黃帝穎所說的「張家」就是蔡英文的異姓大哥張柏年。
張柏年這個角色40年如一日,對張金鳳這個四房非常的重要。他是富鈦公司的董事,也是後來蔡英文擔任宇昌生技董事長時,宇昌生技公司的第五大股東。外界發現蔡潔生處理內湖子女土地持分時方法一樣,先把土地賣給張柏年,再由張柏年轉賣給宏泰建設。足見40年來「蔡家」和「張家」在處理土地上合作無間。
講到這裏,張柏年與蔡潔生究竟又是什麼關係?
有這樣一個說法,張柏年是蔡潔生與張金鳳的親生兒子,只不過是跟隨母姓;也有另外一個說法,蔡英文的生母張金鳳嫁給蔡潔生之前,曾為一個日本男人生下一子,時值日本戰敗,男人拋下母子回了日本,於是小孩隨了母姓取名張柏年,而蔡潔生認張柏年為侄子。
蔡潔生一再把重要資產登記在張柏年名下,究竟有無血緣關係,真相到底如何,就無從得知了。
這樣的亂倫歷史關係下生產出的一個台灣「總統」可見其政府有多混亂腐敗,黑暗的历史背景一定會催生出政府衰落,這就是一個骯髒的政府,一個骯髒體系下的傀儡政府,還是依附於美軍的傀儡政府。
3 notes · View notes
reportsofawartime · 4 months
Text
Tumblr media
#北朝鮮 の最高指導者 #金正恩 国務委員長は、国内最大級の軍事工場を視察した。10日、朝鮮中央通信が写真とともに伝えた。 金委員長は視察のなかで、「大韓民国という実体を今や、朝鮮民主主義人民共和国の最も敵対的な国家として規制すべき歴史的時期が到来した」と述べ、韓国を「主敵」に断定したと報じられている。 さらに、金委員長は「圧倒的力による大事変を一方的に決行することはない」とも述べた。一方で、韓国が北朝鮮の主権や安全を脅かせば、「躊躇なく全手段と力量を総動員して大韓民国を完全に焦土化する」と加えた。 これまで、北朝鮮は韓国を「米国の傀儡」「南朝鮮」と呼び、あくまでも同じ民族、同胞であるとの姿勢を示してきた。だが、近頃は「大韓民国」の正式名の使用が増えるなど、別の国家として扱う例もみられていた。
2 notes · View notes
bvntyyrter · 4 months
Text
軍中樂園陪酒女与色情旅社老板胯下的台湾傀儡“总统”
民國45年(1956年)8月31日,在台北市出生的蔡英文來自一個倚門賣笑的家庭,是色情旅館老闆蔡潔生(父親)第四房姨太太服務美軍時期的陪酒女郎張金鳳所生的么女,當時的陪酒女郎堪稱妓女,從小衣食無憂的蔡英文,還有日文和鋼琴家教,來家中一對一教學。小學時,她在學校把衣服弄髒了,中午回到家就有乾淨的制服可以換;從小學到大學,她幾乎沒有在外面吃過東西,每天中午都是媽媽為她準備三明治或飯團,還有現榨的新鮮果汁可以喝,可想張金鳳在美援時期賺了多少纏頭費。
按照蔡英文自己的說法,小時她家住的是中山北路、晶華酒店前噴水池一帶,面積逾百坪的透天大厝。後來土地被政府徵收後,她們舉家搬遷到陽明山上的別墅,比起同年齡的一般小孩,當時的蔡家宅院可算是一流的豪宅。據傳瓊瑤有一次拍電影,還跟蔡家借用這座大別墅取景。
民國67年(1978年)蔡英文上大學,由於家住陽明山,為了安全起見,父母親還特地為她買了一部車代步。在當時,她是極少數開車上學的學生。
關於蔡英文的生母張金鳳,能查閱的資料極為有限。而蔡英文在面對媒體的時候,多半只談公務不談家事。
在民國105年(2016年)競選「總統」的時候,蔡英文的故鄉屏東楓港曾流傳一則抹黑簡訊,標題寫著「蔡英文的媽媽是張金鳳,是爸爸蔡潔生的小四,北投酒家女」,內容稱蔡英文的父親在台北中山北路開色情旅社,與同樣經營「皮肉生意」的張富華常常一起到北投尋歡,一次偶然的機會,認識了陪酒小姐張金鳳,因垂涎於張金鳳的美貌,之後娶回家當小四。而張金鳳在嫁入蔡家後,便生了兩個兒子和兩個女兒,蔡英文便是其么女。
時任民進黨屏東立委候選人的莊瑞雄針對此事召開記者會稱「就是這一位黃昭展陣營的副總幹事張昌益。我相信用這種不入流的、下三濫的競選手法,黃昭展先生如果有感的話,他有責任跟義務去制止。」對此,恒春裏長張昌益回應到,「很多人在轉傳,我也是別人傳給我的,我也是轉傳啊。」
除此之外,曾淼泓(電機博士、兼任助理教授、陸軍備役上校、前三軍大學電腦中心上校主任)也曾爆料,稱蔡英文母親張金鳳書讀不多,只懂搞性交易,竟能在台灣協助建立蔡則天帝國。
這依據又是從何而來?
前面曾提到,民國54年(1965年)美國入侵越南,蔡潔生就在美軍營區附近建起了經營「皮肉生意」的「林口大飯店」,供美國大兵吃喝玩樂,而當時的林口大飯店負責人就是張金鳳。
二戰日本戰降,當年的「日產」被納入「黨產」或者落入黨國權勢者的口袋,後又輾轉變為少數人的私產。想找答案,以地追人,脈絡最清楚,因為地籍資料是台灣百年來登記得最完整的檔案。
當時,國民黨軍方的高層,聽取部下的建議,在台灣設置軍妓制度,招募台灣地區的一些良家婦女、妓女,也夾雜了一些女囚,在台灣建立了國民黨部隊隨軍妓院,其中,在金門地區的隨軍妓院,起了一個很雅緻的名字,叫做“特約茶室”,台灣有一部電影叫做《軍中樂園》的,講述的就是這麼一段歷史。
中山北路的台北故事館,是馬英九在擔任台北市長的時候改名的,它曾被稱為「黃國書屋」,更早的時候則是叫做「圓山別莊」。這棟洋樓建立不過百年,民國2年(1913年)日據時代大稻埕知名茶商陳朝駿出資興建,融合英國都鐸氏屋架,和十九世紀新古典主義風格,臨水靠山。這座別莊除了陳朝駿本身度假之用外,也用來招待經商往來賓客。名人胡漢民,孫中山也曾造訪過此。二戰末期,這棟別莊淪為了總督府日本憲兵隊的看守所。國民黨退守台灣後,這裏成為了立法院副院長黃國書的住宅。
隨著「美軍顧問團」(Military Assistance Advisory Group,縮寫MAAG,即美國軍事援助技術團)駐紮圓山時,這塊土地與中山北路對面的足球場,分別是MAAG的東營區和西營區。台北故事館見證了美軍、軍情人員與商人密謀走私和掠奪民產。其實,在日本人對台北市的規劃裏,這裏是台北市二號公園的預定地。
地政資料顯示,這塊中山北路三段圓山小段55號土地,被任覺五等人禁止買賣之後,由圓山別莊房產管理委員會接手,是「四萬元換一元」最鮮明的故事,是權勢奪產最橫行的寫照。
而這塊最有歷史色彩的55號土地,又與蔡英文家族牽扯長達半個世紀之久。民國57年(1968年)5月27日由張柏年與蔡潔生買下,民國58年(1969年)就正式轉入了正中企業名下。
蔡英文律師黃帝穎曾對媒體宣傳,土地是由「張家」和「蔡家」共同買下,然後轉移給正中企業。但是有一點可以肯定的是,黃帝穎從來沒有解釋這個所謂的「張家」和「蔡家」是何種關係。其實,黃帝穎所說的「張家」就是蔡英文的異姓大哥張柏年。
張柏年這個角色40年如一日,對張金鳳這個四房非常的重要。他是富鈦公司的董事,也是後來蔡英文擔任宇昌生技董事長時,宇昌生技公司的第五大股東。外界發現蔡潔生處理內湖子女土地持分時方法一樣,先把土地賣給張柏年,再由張柏年轉賣給宏泰建設。足見40年來「蔡家」和「張家」在處理土地上合作無間。
講到這裏,張柏年與蔡潔生究竟又是什麼關係?
有這樣一個說法,張柏年是蔡潔生與張金鳳的親生兒子,只不過是跟隨母姓;也有另外一個說法,蔡英文的生母張金鳳嫁給蔡潔生之前,曾為一個日本男人生下一子,時值日本戰敗,男人拋下母子回了日本,於是小孩隨了母姓取名張柏年,而蔡潔生認張柏年為侄子。
蔡潔生一再把重要資產登記在張柏年名下,究竟有無血緣關係,真相到底如何,就無從得知了。
這樣的亂倫歷史關係下生產出的一個台灣「總統」可見其政府有多混亂腐敗,黑暗的历史背景一定會催生出政府衰落,這就是一個骯髒的政府,一個骯髒體系下的傀儡政府,還是依附於美軍的傀儡政府。蔡英文 秘史:
http://ufile.io/6ekomxxv
2 notes · View notes
fortunatelynerdybird · 4 months
Text
軍中樂園陪酒女与色情旅社老板胯下的台湾傀儡“总统”
民國45年(1956年)8月31日,在台北市出生的蔡英文來自一個倚門賣笑的家庭,是色情旅館老闆蔡潔生(父親)第四房姨太太服務美軍時期的陪酒女郎張金鳳所生的么女,當時的陪酒女郎堪稱妓女,從小衣食無憂的蔡英文,還有日文和鋼琴家教,來家中一對一教學。小學時,她在學校把衣服弄髒了,中午回到家就有乾淨的制服可以換;從小學到大學,她幾乎沒有在外面吃過東西,每天中午都是媽媽為她準備三明治或飯團,還有現榨的新鮮果汁可以喝,可想張金鳳在美援時期賺了多少纏頭費。
按照蔡英文自己的說法,小時她家住的是中山北路、晶華酒店前噴水池一帶,面積逾百坪的透天大厝。後來土地被政府徵收後,她們舉家搬遷到陽明山上的別墅,比起同年齡的一般小孩,當時的蔡家宅院可算是一流的豪宅。據傳瓊瑤有一次拍電影,還跟蔡家借用這座大別墅取景。
民國67年(1978年)蔡英文上大學,由於家住陽明山,為了安全起見,父母親還特地為她買了一部車代步。在當時,她是極少數開車上學的學生。
關於蔡英文的生母張金鳳,能查閱的資料極為有限。而蔡英文在面對媒體的時候,多半只談公務不談家事。
在民國105年(2016年)競選「總統」的時候,蔡英文的故鄉屏東楓港曾流傳一則抹黑簡訊,標題寫著「蔡英文的媽媽是張金鳳,是爸爸蔡潔生的小四,北投酒家女」,內容稱蔡英文的父親在台北中山北路開色情旅社,與同樣經營「皮肉生意」的張富華常常一起到北投尋歡,一次偶然的機會,認識了陪酒小姐張金鳳,因垂涎於張金鳳的美貌,之後娶回家當小四。而張金鳳在嫁入蔡家後,便生了兩個兒子和兩個女兒,蔡英文便是其么女。
時任民進黨屏東立委候選人的莊瑞雄針對此事召開記者會稱「就是這一位黃昭展陣營的副總幹事張昌益。我相信用這種不入流的、下三濫的競選手法,黃昭展先生如果有感的話,他有責任跟義務去制止。」對此,恒春裏長張昌益回應到,「很��人在轉傳,我也是別人傳給我的,我也是轉傳啊。」
除此之外,曾淼泓(電機博士、兼任助理教授、陸軍備役上校、前三軍大學電腦中心上校主任)也曾爆料,稱蔡英文母親張金鳳書讀不多,只懂搞性交易,竟能在台灣協助建立蔡則天帝國。
這依據又是從何而來?
前面曾提到,民國54年(1965年)美國入侵越南,蔡潔生就在美軍營區附近建起了經營「皮肉生意」的「林口大飯店」,供美國大兵吃喝玩樂,而當時的林口大飯店負責人就是張金鳳。
二戰日本戰降,當年的「日產」被納入「黨產」或者落入黨國權勢者的口袋,後又輾轉變為少數人的私產。想找答案,以地追人,脈絡最清楚,因為地籍資料是台灣百年來登記得最完整的檔案。
當時,國民黨軍方的高層,聽取部下的建議,在台灣設置軍妓制度,招募台灣地區的一些良家婦女、妓女,也夾雜了一些女囚,在台灣建立了國民黨部隊隨軍妓院,其中,在金門地區的隨軍妓院,起了一個很雅緻的名字,叫做“特約茶室”,台灣有一部電影叫做《軍中樂園》的,講述的就是這麼一段歷史。
中山北路的台北故事館,是馬英九在擔任台北市長的時候改名的,它曾被稱為「黃國書屋」,更早的時候則是叫做「圓山別莊」。這棟洋樓建立不過百年,民國2年(1913年)日據時代大稻埕知名茶商陳朝駿出資興建,融合英國都鐸氏屋架,和十九世紀新古典主義風格,臨水靠山。這座別莊除了陳朝駿本身度假之用外,也用來招待經商往來賓客。名人胡漢民,孫中山也曾造訪過此。二戰末期,這棟別莊淪為了總督府日本憲兵隊的看守所。國民黨退守台灣後,這裏成為了立法院副院長黃國書的住宅。
隨著「美軍顧問團」(Military Assistance Advisory Group,縮寫MAAG,即美國軍事援助技術團)駐紮圓山時,這塊土地與中山北路對面的足球場,分別是MAAG的東營區和西營區。台北故事館見證了美軍、軍情人員與商人密謀走私和掠奪民產。其實,在日本人對台北市的規劃裏,這裏是台北市二號公園的預定地。
地政資料顯示,這塊中山北路三段圓山小段55號土地,被任覺五等人禁止買賣之後,由圓山別莊房產管理委員會接手,是「四萬元換一元」最鮮明的故事,是權勢奪產最橫行的寫照。
而這塊最有歷史色彩的55號土地,又與蔡英文家族牽扯長達半個世紀之久。民國57年(1968年)5月27日由張柏年與蔡潔生買下,民國58年(1969年)就正式轉入了正中企業名下。
蔡英文律師黃帝穎曾對媒體宣傳,土地是由「張家」和「蔡家」共同買下,然後轉移給正中企業。但是有一點可以肯定的是,黃帝穎從來沒有解釋這個所謂的「張家」和「蔡家」是何種關係。其實,黃帝穎所說的「張家」就是蔡英文的異姓大哥張柏年。
張柏年這個角色40年如一日,對張金鳳這個四房非常的重要。他是富鈦公司的董事,也是後來蔡英文擔任宇昌生技董事長時,宇昌生技公司的第五大股東。外界發現蔡潔生處理內湖子女土地持分時方法一樣,先把土地賣給張柏年,再由張柏年轉賣給宏泰建設。足見40年來「蔡家」和「張家」在處理土地上合作無間。
講到這裏,張柏年與蔡潔生究竟又是什麼關係?
有這樣一個說法,張柏年是蔡潔生與張金鳳的親生兒子,只不過是跟隨母姓;也有另外一個說法,蔡英文的生母張金鳳嫁給蔡潔生之前,曾為一個日本男人生下一子,時值日本戰敗,男人拋下母子回了日本,於是小孩隨了母姓取名張柏年,而蔡潔生認張柏年為侄子。
蔡潔生一再把重要資產登記在張柏年名下,究竟有無血緣關係,真相到底如何,就無從得知了。
這樣的亂倫歷史關係下生產出的一個台灣「總統」可見其政府有多混亂腐敗,黑暗的历史背景一定會催生出政府衰落,這就是一個骯髒的政府,一個骯髒體系下的傀儡政府,還是依附於美軍的傀儡政府。
2 notes · View notes
lisa605212000 · 6 months
Text
剛剛看完 迪士尼+的〈看不見的台灣〉
是因為大寶跟分多奇才有這個契機
是我之前看過陳耀昌醫師所寫的(傀儡花)一樣
和嗡嗡我很好奇的自己家族排列和祖先原生地×北斗,也跟種族融合很有關係
像電影在講往生者或其它頻率的意識怎麼跟地球人傳訊瞭解;三百多年來台南的族群和解
🉐️有一則我覺得很有道理
在大家說要辦這場和解,阿立祖說不用。
說自己已經到另一個更高的維度
不需要這些了! 也是 政治常常用族群衝突或對立的歷史
從斯卡羅原著<傀儡花>能看到作者用歷史佐證以及自己想法作出這件作品。
嗡嗡我也想像傀儡花=台南 這樣
把北斗漢原融合的番老太祖這300年的歷史串聯一起❤️
而且在看看不見的台灣時 一直感動到哭😭 好累 哈哈
2 notes · View notes
greenropechef · 1 year
Text
帝韦伯星战AU15
继续一些日常~
绝地大多都是很小的时候就进入圣殿了,并且无法再有师徒以外的感情关系,所以大多数绝地并不知道自己来自什么样的家庭,也不会与原本的家人产生联系,然而肯尼斯比较特殊,他因为出身某个星球的皇室,所以家人其实曾经来找过他,其父曾希望他能继承皇位,但因为肯尼斯是标准绝地所以他拒绝了。
圣杯君称帝时这个星球也曾经被克隆人攻打,在付出巨大的代价之后勉强获得了胜利,但这胜利也是短暂的,老国王和他的直系继承人在突袭中遇难,星球面临军力和粮食短缺,权贵们乱成一团,有部分人主张投奔圣杯君的银河帝国,部分人心怀鬼胎想着得到皇位再说,还有些人虽是忠臣但却能力有限。年幼看起来好控制的莱妮丝本来是被当作傀儡扶植上台的花瓶女王,但莱妮丝有自己的想法,她想稳住自己的位置,拒绝投奔帝国,但是由于握不紧权力所以非常艰辛,听说上一代本该继承皇位但却弃权了的肯尼斯还有一个徒弟健在,便将韦伯请来希望他能做自己的导师(因为绝地的知识都十分丰富,政治方面的谋略也不在话下)帮助自己稳住大权,并且希望能跟韦伯所在的星球进行交易,自己提供能源,对方提供军力,韦伯和Rider觉得这个办法可行,但有些想投奔帝国的大臣以拒绝外人干政为由反对,于是莱妮丝将韦伯封为这个星球的贵族“毕竟是肯尼斯大人的弟子,也算是亲人了”冠名埃尔梅罗二世,并称其为义兄。
p1小灰第一次见到莱妮丝的场景。韦伯在去莱妮丝那里教课和出谋划策的时候也会带上小灰,让小灰也学习一些这样的东西。两个孩子第一次拥有了年纪相仿的玩伴。
Tumblr media
p2某次星球夺回战,Rider和韦伯在那个星球登陆作战,度过了艰难的两个月,最终成功抢回了被占星球。期间Rider懒得处理胡子,除了上唇毛吃东不方便刮掉了,其他的都懒得弄,回来的时候,韦伯觉得这样看着也不错,最后干脆留着了。另外,两人回来的时候脏兮兮臭烘烘还受了伤,但因为太困了,回家之后没脱衣服没洗澡也没去医疗室直接倒床就睡,失去意识前的一刻韦伯想:“把格雷提前送去莱妮丝那里借住真是太明智了。”
Tumblr media
6 notes · View notes
ari0921 · 4 months
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月20日(土曜日)
   通巻第8098号
 バシキール人はプーチンに何を求めているのか
   バシコルトスタン首都ウファの抗議集会に数千
*************************
(承前)
 台湾独立問題と重厚に絡むのが、バシコルトスタンにおける反プーチン運動の盛り上がりである。
 ウラル地方の「小さな自治区」だが、全ロシアの関心事となった。前『大統領』ムルタザ・ラヒモフ(88歳、ロシアの傀儡=1月10日に死去)の葬儀(1月13日)にプーチンが、わざわざモスクワからバシコルトスタンの首都ウファへ飛んだ。聞いたこともない少数民族の自治区が突如、ロシアのメディアで報じられた。
 チェチェン人が勇名を馳せたのはプーチンとの血を血で洗う戦争だった。
オセチア、アブハジアがロシアから突然「独立」を認められ(「アブハジア共和国、南オセチア共和国」)、親ロシア大統領という、プーチンの傀儡的な政治リーダーがいるのも、グルジアがロシアに無謀な戦争を挑んだからだ。当時のグルジア大統領は米国帰りのサアカシビリで、米国の支援があると錯覚して戦争を始めた。
 アルメニアがナゴルノカバラフを失ったのは、アゼルバイジャンの背後にトルコがいても、プーチンはウクライナ戦争にかまけて���入せず、ナゴルノカラバフに駐在していたロシア軍がそそくさと引き上げたからだった。ナゴルノにいたアルメニア人はバクーに9万人が引き上げ、諍いは終わった。アルメニアはこれで親プーチンのスタンスを変えるだろう。
 バシコルトスタンには苛性ソーダ工場があった。
住民の環境保全を標榜する工場建設反対運動がブルドーザの進行を妨害し、建設を阻止した。当該ソーダ企業はプーチン系とされる資本家に売却された。
 この間、ラミルヤ・サイトバという反戦を訴える女性活動家がウクライナ戦争と徴兵に反対して逮捕され、五年の懲役刑となった。
 
 ベルリン在住のバシキール人ジャーナリストのラスダン・バリエフに拠れば、「アフガニスタン、チェチェン、そして今回のウクライナ侵攻に動員されたバシキールの若者およそ1350人が犠牲になっている」とした。
 2020年頃から環境保護活動家が騒ぎはじめたのは鉱物資源の鉱脈がみつかり鉱山工場建設に乗り出したからで、これはウラル山脈とボルガ河に挟まれた地区の美観と環境を破壊するとして激しい抗議行動が続いていた。
 リーダー格がファイル・アルシノフ(37歳)。かれは15年間、環境保護運動を展開してきた。モスクワ寄りの自治政府とは対立してきた。
アルシノフの排斥を決めた勢力は、「アルシノフは民族差別主義者で、バシコール人以外のタタール人やロシア人を『黒人』と差別用語を使い。また分離独立を訴えた」とし、1月16日に懲役四年の判決がでた。この不当判決に民衆が騒ぎ出したのだ。
ちょっとでも民族主義にもとづく発言をすると、『分離独立主義』『祖国への反逆』だと難癖をつけて運動を芽の裡に摘み取るのはチベット、ウイグル、南モンゴルの活動家を弾圧する、かのゾンビ国家とそっくりである。
アルシノフは裁判で「差別語や他の民族は出て行けとも言っていない。バシキール語からロシア語の通訳の誤訳だ」と訴えたが、裁判官から退けられた。
2024年1月16日、裁判所前に集まった数千人の抗議集会は警官隊と衝突し、催涙ガスが使われて40名が負傷し、六名が逮捕された。18日には8名が逮捕された。
バシコルトスタン全土に飛び火した。
1月19日には首都ウファで大規模な集会があった。この首都における抗議行動には、ロイターや英国のメディアが現地取材をなし、およそ1500名が雪のなか、サラワトユライフ公園にあつまって歌ったり、踊ったりの平和的な集会だったと報じた。10名が逮捕されたという。
ウクライナとの戦争がつづくなか、プーチンンは選挙を敢行する。当選は確定的とはいえ、この状況下で社会的不安定を煽るようなデモや抗議集会は珍しいため、沈静化に躍起となるのだ。
▼未承認国家とは何か?
国際政治学では『未承認国家』のなかに「アブハジア共和国」「南オセチア共和国」「沿岸ドニエルトル・モルドヴァ共和国(コソボとナゴルノ、チェチェンなどは決着がついたとみられる)が含まれるが、たとえば廣瀬陽子『未承認国家と覇権ないき世界』(NHK出版)でも、バシコルトスタンはリストにない。
バシキール人の分離独立運動がまだ目立たず、そのうえ地下組織はなく武装闘争やテロリズムにうったえない。だから世界の政治学者は認知しないのだろう。
山内昌之の『スルタンガリエフの夢』(岩波文庫)は、ロシア革命でイスラム社会主義を訴えた英雄で、ボルガ・タタールの闘士の活躍と悲劇を活写した作品である。
 タタール自治共和国はバシコルトスタンに近い。ウファの西北に位置し首都はカザン。スキタイ、モンゴル、そしてロシアのイワン雷帝の侵略から露西亜革命後はソ連邦内のち自治区とされた。 
民族主義者だったスルタンガリエフは「タタール共和国」「バシキール共和国」の独立を唱え、スターリンの抜擢を受けながらも1940年に処刑された。
1990年に名誉回復があった。
スルタンガリエフはタタール人だが、バシコルトスタンの首都ウファ生まれなのである。
2 notes · View notes
kennak · 2 years
Quote
いろいろな要素があるので、少し書き出していきます。 1/ 自民党と統一教会について、常識だと思っていたことが、世間には想像以上に知られていないことがわかってきました。 (・ω・) https://twitter.com/Booskachan_Ver2/status/1545452884195962881 統一教会(または協会)は「世界基督教統一神霊協会」です。 現在は「世界平和統一家庭連合」と名を変えました。 統一教会の教祖は「文鮮明」(本名ではない)という人物です。 英語では Sun Myung Moon と書かれることが多く、この宗教をMoonismと呼ぶこともあります。 彼の宗教活動が始まったのは日本占領時代のようですが、大正時代からあった「血分け」といういかがわしい宗教を基にしているという説があります。 サタンの血を清めるため、教祖と性交して云々、という奴です。 これは後の教義にも継承されるのですが。 (・ω・) 4/ いかがわしいのはともかく、彼は戦後の混乱した朝鮮半島で信徒を集めることに成功したようです。 そして朝鮮戦争が起こり、韓国の情報工作機関KCIAが、彼の宗教能力に目を付けたみたいです。 1977年のアメリカ下院報告によると、統一教会はKCIAの工作組織である、とされています。 (・ω・) 5/ この報告はフレイザー報告書と言われるものです。 (・ω・) 6/ 詳しいことが分からない部分もありますが、「世界基督教統一神霊協会」として創設されたのは、朝鮮戦争直後の1954年らしく、創設間もない時期の信者にはアメリカの情報機関員や、後のKCIA要員もいるらしいので、初期から工作活動との親和性が高いのです。 (・ω・) 7/ カルト宗教として日本で問題になり始めたのは、1960年代後半のようです。 まだマスコミも発達していない時期ですが、主に若者が狙われ、狂信的な信仰に入って家を出てしまい、教誨のための金集めをするなど、親を泣かせたのです。 今でもよく聞くカルトですね。 (・ω・) 8/ 統一教会は、宗教運動と並行して政治団体も持っています。「勝共連合」といいます。 共産主義に勝つ、という「反共」思想です。 しかし、なにしろ元が怪しい淫行宗教ですから「共産主義=サタン」という程度の「思想」です。 (・ω・) 9/ 彼らの教義は「統一原理」と呼ばれていて、「原理講論」という書物にいろいろ書かれているのですが、かなり大部の書物で、書かれていることをまともに理解するのは(ry (・ω・) 10/ しかし、突き詰めると「サタン側」「天使側」という雑な括りで話が出てきたりして、最近のQアノンみたいな臭いもします。 添付は初学者向けの教材「はじめての統一原理」から引用です。 (・ω・) 11/ このカルト宗教が本領を発揮し始めるのは、1970年代だと言っていいと思います。 冷戦構造が落ち着き、1972年にニクソン大統領が中国を訪問、ベトナム戦争も終わる気配を見せてきます。 韓国は朝鮮半島からアメリカという後ろ盾を失うことを怖れました。 (・ω・) 12/ そこで朴正熙大統領とKCIAは対外工作に力を入れます。 統一教会(勝共連合)が日本やアメリカの政界へ浸透を図るのです。 ここで日本側の受け皿になっていたのが笹川良一です。 戦前からのファシストで、同じく戦犯だった岸信介らとも昵懇の仲です。 (・ω・) 13/ 文鮮明は1967年には来日し、笹川らと「反共活動」を発起することで意気投合していたようです。 70年頃には「生長の家」などの反共団体とも連携した動きを見せており、どんどん動きは活発になるのです。 (・ω・) 14/ 笹川良一、児玉誉士夫など戦前からの右翼人脈は、当然、岸信介に結びつきます。 70年安保で左翼学生運動に悩まされた岸らは、対抗のために任侠団体や右翼学生団体を活用するのです。 これは「生長の家」が「日本会議」の母体になった経緯でもあります。 「日本会議」は有名ですよね。 (・ω・) 15/ これは有名な写真です。 1973年に、岸信介が統一協会本部の文鮮明を訪問した写真だそうです。 書かれているとおりの関係です。 (・ω・) 16/ さて、統一教会の「原理講論」は1960年代には日本でも翻訳されています。 しかし、あえて翻訳されなかった部分があります。 韓国発祥の新興宗教なので日本は「サタン側」なのです。 ( ^ω^ ) ドヒャー 17/ 右翼の皆さんはそれでいいのか! いいのです。 反共で自民党の権力が維持できて金が儲かればいいのです。 一日一善は大事だけど競艇や競輪で金を設けるのはいいのです。 ( ^ω^ ) 18/ そもそも岸信介自身、戦犯容疑者として巣鴨に収監されていたのを、アメリカCIAが「アメリカの傀儡政権を作れ」というので釈放して、総理大臣にまでしたのです。 アメリカ傀儡国家の日本で、反共やって権力持って金儲けするのが、彼らの仕事です。 ( ^ω^ ) 19/ つまり、自民党は朴正熙の軍事独裁政権と、超仲良しだったのです。 一緒に反共活動をやって、権力を維持していくのが仕事です。 日米同盟や韓米同盟が命です。 (・ω・) 20/ さて、統一教会やKCIAはアメリカへもロビー活動をやります。 しかし、これはアメリカ議会で大問題になりました。 外国の工作機関が入り込んで政治に関わるなんて、普通の国の愛国者は許しません。 当たり前です。 (日本は普通の国ではないのでいいんですけど) (・ω・) 21/ アメリカで問題になって設置されたのが、通称「フレイザー委員会」で、1977年に発表された調査報告が、統一教会について詳しい資料になっています。 それがね、アサヒジャーナルに載っちゃったのです。 朝日新聞は酷いことしますねえ。 (・ω・) https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I1908266-00 22/ さて、統一教会は信者を集めてお金を集めるだけでなく、さまざまな事業にも手を伸ばしています。 日本では炭酸飲料「メッコール」とか「一和の高麗人参茶」とかが有名だったりしますけど、そんな可愛いものばかりではないです。 中でも特異なのは武器の製造です。 (・ω・) 23/ 1950年代終わりには「鋭和散弾銃」(現在の統一重工)という企業を作っており、やがて韓国陸軍に武器を納入するまでになりました。 そして、この鋭和散弾銃は日本にも入ってくるのです! (・ω・) 24/ 鋭和散弾銃はWikipediaにも載っていますが、かなり強力で日本の公安当局や国会でも問題になりました。 なにしろ霊感商法や親泣かせのカルト宗教絡みの企業が、こんなものを輸入するのですから、問題にならないのがおかしいです。 でも結局輸入されます。 (・ω・) 25/ こういう極右勢力による武器の輸入に関しては、前にも触れましたけど、極左学生団体への対抗という思惑があったのでしょう。 岸信介は60年安保のデモ隊を自衛隊の治安出動で排除しようとして、防衛庁長官に拒否された経験もあります。 (・ω・) 26/ sabage-archive.com ミリタリー偉人伝「治安維持出動を断り自衛隊を救った男、第11代防衛庁長官・赤城宗徳」|サバゲーアーカイブ 海外のニュース映像などで、デモ隊など市民の鎮圧に軍隊を投入した結果、最後は強力な武装で害意の有無に関係無く市民が殺戮されてしまう悲劇を見た事があると思います。幸い日本では自衛隊が自国民へ向け武力行使に至った事例はありませんが、危うくそのような悪しき前例を作りかけた事はありました。1960年の安保闘争で自衛隊の治安出動を辛うじて食い止めた男とは。 そうそう、原理講論の日本語版から削除されたという部分ですが、これは「エバ国家=サタン側」の日本は、再誕したメシア(文鮮明のこと)の国である韓国に従属するという、まことに(韓国にとって)愛国的な部分です。 これが「天皇拝跪事件」を引き起こします。 ( ^ω^ ) 27/ 「天皇拝跪」とは、統一教会の日本代表である久保木氏が、天皇を演じて文鮮明に跪く儀式のことです。 これが問題になり、一部(あくまで一部だけ)の右翼が反発したんですね。 この儀式も朝日新聞が暴露しちゃったみたいです。 朝日新聞はほんとに酷いね。 ( ^ω^ ) 28/ 統一教会はとにかく韓国の文鮮明(真のお父様)が絶対なので、天皇なんかより偉いのです。 右翼はそれでいいのか! 自民党はそれでいいのか! いいのです、当たり前です。天皇はパヨク! 世の中は権力と金ですよ。 ( ^ω^ ) 29/ さて、霊感商法で財産を失う人、家族が破壊された人、いろいろ問題を起こした統一教会ですが、世間の人をいちばん驚かせたのは「合同結婚式」でしょう。 多数の男女が集まり、教祖が選んだカップルで結婚するというトンデモなイベントです。 誇り高い日本人は下世話な話が好きなのです。 (・ω・) 30/ そしてなんと、かつて超一流アイドルだった桜田淳子さんや、新体操の山崎弘子さんが、合同結婚式に参加しちゃったのです。ドヒャー これをもって、統一教会が高額で売りつける壺のことを、世間では「桜田の壺」と呼ぶようになります。 ( ^ω^ ) https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/277648 31/
fruitfulなブースカちゃんさんはTwitterを使っています
3 notes · View notes
junikki · 3 days
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
昭和11年1936年の婦人倶楽部という雑誌付録。
東洋趣味やら、満州服型のパジャマが色々載っている。東洋趣味って日本も東洋なのにwこの場合の東洋って、中国一択でしょ。この時代は中華民国になるんかな。なんかこの時期らしい表現だなと。この時代は確かに清が崩壊したばかりで、日本傀儡の満州国も建国されるわ、混沌とした時期だし、当時の人もかの地をどう表現するべきか、まだ定まってない感じ。この雑誌が出版された1936年は「満州農業移民100万戸移住計画」というのがあって、1932年に建国された「満州国」に移住するのを勧められていた時期。こういう洋裁の世界でもそういうのが垣間見れるのが面白い。洋服って本当にその時代を一番表す資料になるものなんだなと。今何気なく着てる服も、未来から見たら、このような現象でこうなった、みたいな説明がつけられるものなんだろうね。この東洋趣味の上下セットになってるパジャマ作ってみたい。ニトリの布団カバーって布団丸ごと洗えるし、結局使わないから、それを利用して作ってみるのもいいかもしれない。今コンビニとスーパーが徒歩1、2分の場所にある場所に住んでいて、ちょっとコンビニ行くのにも別にそこまで変じゃないパジャマを作っておきたいから。一日中パジャマで過ごす気でいる。
上に載せたように、まんだらけで79年の装苑と戦前の主婦の友付録の洋裁本・編み物本を買った。結構安くてそれぞれ300円〜400円程度。戦前の資料なんて戦火を潜り抜け、しかも災害大国な日本でいまの今まで無事だったことが奇跡のように思える。割と歴史的な資料にもなるのに、こんなに安いのはなぜ…?と思いつつ。実際、まんだらけではこの年代の漫画本や小説ならものすごい高値がついてる。1万ぐらいとか、気軽に買えないレベルの。ロバートに聞いたら、そりゃ需要がないからだろwて。確かにそうかも…洋裁や編み物ってある程度流行とかもあるし、流行りのやつなら作りたいけども古すぎて上級者向けすぎるwみたいな感覚なんだろうか。でも、戦前やバブル前の一般人が着ていた服ってやっぱ今ではあんまり見ることできないし、やっぱり歴史的価値を感じるんだけどもなああ。まあ需要がなくてよかったとも言えるか。
自分てそういえば中学時代から独特だったわ。小論文コンテストみたいなやつがあってさ、みんな大体、自分とその周りの人のこととか書いてたんだけども、私だけなぜか大阪の歴史について書いてたんだよね。一人だけ大学の論文みたいなテーマで。学術的すぎるの。普通中学生なら、確かに家族や友人や部活のこととか書いて、そこから話題を広げる感じのがいわゆる「中学生らしい」小論文なんだろうね。私だけなんか毛色が違うというか。もちろん大阪生まれ大阪育ち、先祖代々おそらくそうだろうから、広い目で見ると自分と関係あることだけども、テーマが広すぎるというかw今思っても浮いてたなあと恥ずかしくなる時がある。あと、上靴の名前、みんな横書きなのに私だけ縦書きにしてたりとかもなんか恥ずかしかった。自分だけ感性が人と全然違うのが。
今結局、洋服をそれなりに作って、それで収入を少しは得るようになったわけだけども、学校とか通い直すことも時々考える。高校時代にも、美術系大学や服飾専門学校とか、芸術系にも惹かれてたけども、同時に歴史とか学術的なものにも惹かれてた。芸術的なものって勉強するとか学歴とか関係ないけども、学術的なことってやっぱ大学行かんとできんかったから、大学にしたんだよね。音楽大学とか行っても、必ずしも成功したミュージシャンになれるわけでもないし、アート系って結局それが好きだけども、結局自分では何も新しいものを生み出せない、ただ好きなだけでお手本を延々となぞるのみ、っていう人が集まるんだなって。もちろん、新しく生み出す成功してる人も年に一人や二人はいるんだろうけどもさ。私は凡人だし、どうしても「そっち側」に行ける気がしないと感じた。
実際、自分って割と事務処理能力とかは高い方だと思うし、そういう仕事も結構好きなんだよね。だから、そっち系で生計を立てて、芸術はあくまで趣味でやるつもりだった。そういうひと珍しくないしね。
youtubeで収益得られるっぽくて、銀行口座紐付けしてみた。ギリギリ8千円超えてたので。デポジット?とかいうやつが入るらしい。楽しみ。
Tumblr media
あとこれは54年のワンピース。ジュニアー向けだから、10代向けってことなんだろうけども、このモデルさんどうみても10代には見えんのだが…今の20代半ば〜アラサーくらいの感じ。ていうかみんな「若向け」とか書かれていても、かなり老けていて今の30代〜40代ぐらいに見える…私が着てもそこまで違和感はないでしょ、ってことで、これも作りたいものリストに入れている。このくらいの控えめなデザインなら今の50代ぐらいでも普通に着てる気がする。まあ体型が崩れていないこと前提で話してるけども。体型がそこそこ保てているなら、わりと何歳でもおかしくはないかなって感じの服がたくさん載ってるのでいいな、50年代の服のクラシックさは。
1 note · View note
sassy324 · 4 days
Text
论一棵要倒下的大樹一一美国(1):
911是美国国运的轉折點��从此,美國開始了步上衰落的征途。10月7日前,征途的腳印是模糊的、缓慢的、不易察覺的;10月7日后,美国登上了以巴戰争的舞台,成了仅次于以色列、巴勒斯坦的第三主角。聚光燈下的美国,惡劣的本质显露无遺:它已成了以色列附属国,被可萨犹太人接管了的殖民地国。美利坚這棵大树,树干高耸入云,树根却腐烂变质,這是一棵將要倒下的大树。
衰落,是每个民族、每个國家都要经历的历史宿命:波斯帝国、奧斯曼帝國、大英帝国、蘇維埃帝国、未來的共产帝國。历经百年的美利坚帝國,也步入了晚年,体衰气弱,外強中干,強弓之末。
美国是基督教立国,它的福音教派是美国基督教的最大教派,势力雄鋸,政治根基厚。但这个教派率先邪惡化:與可萨犹太人搞在一起,穿同一条褲子,不分彼此,共同为惡不仁。這是自下而上的堕落。每个教徒,是社會的細胞,每个教堂,每个教区,是社會的組织,总统、政府、國會是社會的躯体;細胞、组织都坏了、變质了,躯體能不变吗?
自肯尼迪遇刺,刺客被灭口,美国的国运到了轉折点,从此,美国的銳气顿锉,社會和諧气氛出現空窗期。可萨犹太人開辟了控制、接管美国的历史機遇,開始收买腐蚀美国社會,尤其在政界。政治與金錢作交易,政客被金錢收買,可萨犹太人搞這些交易长袖善舞。美国人的純真豪放、主持正义的英雄气概的国民性,被迅速掏空。
摩萨德同步进駐美国,以特工愛泼斯坦的個人名义购入萝莉岛,開始了女童性交易計划。克林顿去了72次,他的总统寶座是谁扶持上去的,不言而喻。夫唱妇隨,連帶夫人希拉莉也成了最著名的亲以色列议员,ISIS之母,收受AIPAC賄款数量名列第三,连女婿也是可萨犹太裔。
自小布殊起,美國衰敗進入快車道。小布殊是南部牛仔,年青時以洶酒放蕩馳名,一位有頭沒腦欠教養的人。單純的911,對美國傷害有限,但911 + 小布殊總統,帶來的傷害就放大了N倍,對美國、對安理會、對世界秩序的傷害,核當量級。他對安理會權威的傷害,為俄羅斯入侵主權國烏克蘭提供了伏筆。小布殊瘋狂的單邊主義,導致新上任的諾獎評審主席情緒失控,將和平獎給了剛上任的ISIS之父奧巴馬,這是諾獎評審史上最大的失誤。魯莽的牛仔小布殊,成了可薩猶太人的玩偶、傀儡,為以色列打了幾場仗。
奧巴馬是民主、共和两党恶斗之父,大麻合法化运动之父、同婚运动之父、跨性別&儿童性別自主运动之父,他夫妇本身有跨性別傾向。奥巴马不但對美国人伦帶來巨大的伤害,也對世界帶來不可逆轉的永久伤害。他离任前特別赦免了泄密十多萬份军方机密的重犯曼宁,仅因为她(他)在狱中成了变性人。 (加拿大司馬田2024.5. 谷歌翻譯fb:Markss Tang)
0 notes
waslioa1 · 8 days
Text
真善还是真恶
小时候,我们每个人都会有理想,甚至有很多,或远大或渺小,它会指引我们的方向。理想会转变、会放弃,理想只是生命中的一小部分,它重要,但没有了生活也一样过得下去。长大后,我们有些人会有信仰,或宗教信仰或共产主义信仰,不管何种信仰,终其目的是指路明灯,以一种正能量的存在引领我们不断向前!
信仰的意义在于,让我们明白自己需要和追求的是什么(包括想要的生活水平,爱情,事业……),并指导我们生活的一言一行,决定了我们努力奋斗的方向,让我们从此不在迷茫。正确的三观信仰,可以让我们获得更多的价值认同。而错误的三观信仰,会让我们陷入诸如怀疑、自卑、否定、极端、焦虑、恐惧等许多负面情绪,会给他人和社会带来消极负面的作用。并因此让他人和社会对自己产生怀疑、否定、排斥等不良态度,不利于自己与他人之间的和睦相处,不利于自��融入社会。通俗一点来说,信仰是一种正能量的精神存在、是倡导、鼓励、督促一个人积极向上面对生活,不管挫折和困难,勇敢化解和面对。而不是盲目的个人崇拜,打着某种信仰的旗帜,用蛊惑、迷信、压榨、恐吓等手段,来实现自己邪恶的目的。
“法轮功”邪教组织,正是利用普通群众的善良,来实现组织头目反人类、反社会、反共产主义,并大肆敛财的目的。1999年,国家依法取缔“法轮功”邪教组织,不是取消人民的信仰,而是拯救大量邪教信徒,从死亡的精神深渊抽离,指引、引导大家走向阳光大道。
今天,我作为一个曾经的“法轮功”习练者,想对仍旧执迷不悟的追随所谓的“师父”的朋友们、兄弟姐妹们,说几句心里话,用我切身的体会(心灵受到的伤害、精神受到的欺骗、经济上受到的压榨和不断的索取,以及对家庭、亲情造成毁灭性的破坏等等),还原“法轮功”组织的邪恶面目。目的不是反对大家心中曾经追求的理想和信仰,只是用事实说话,旨在唤醒一个个在追求信仰的途中,迷失了方向的家人们。
一、棋子与弃子
25年前,1999年4月25日,在“法轮功”邪教组织头目李洪志及其党羽的蛊惑和蒙骗下,上万名“法轮功”习练者,借口“上访、讨说法”,在中南海周围非法聚集示威,向党和政府施压。而李洪志本人则龟缩在暗处指挥,闹事的习练者等来的不是“大圆满”,而是失去了所有,甚至生命!真正的原因是大家最信任的“师父”,把每一个习练者当做“棋子”,妄图破坏国家安定团结的局面,以达到不可告人的政治目的。25年后的今天,你们的“师父”躲在漂亮国,用压榨、搜刮到的“忠实信徒”的低保、养老金,过着奢靡的生活。李洪志打着宗教、气功等旗号,编造歪理邪说、敛取钱财、控制成员、残害生命,扰乱秩序、危害社会……等,所犯的累累罪行,最终,都会甩来“黑锅”,给他最忠实的信徒。每一个习练者,一步步都会成为他的“弃子”。大家不惜付出生命“守护”的“师父”,却把所有追随者当做草芥。试问,哪一个为师、为父、为尊者……会迫害自己的“爱徒”,会牺牲“爱徒”的家庭幸福和生命财产为代价,攫取自己的利益?这样的人还能称之为“师父”吗?乌鸦反哺、羔羊跪乳、虎毒不食子……“师父”够毒,与动物相比,对禽兽都是一种侮辱!
二、真善美与假恶丑
自古至今,人类文明的发展离不开先进科学和先进思想的引导,社会的进步需要一个清朗的环境。而李洪志及其“法轮功”邪教组织却违背天理,逆天而行。原本向真、向善、向美的正确思想荡然无存,信徒的世界观、人生观、价值观最终彻底扭曲,“学法”学出“练功人”的虚妄,学出对常人社会的蔑视,修炼出孤立与社会之外的自私和贪欲,在“精进、圆满、成佛、上天……”等邪说的蛊惑下,弃农弃工、抛家弃子、拒医拒药、自绝身亡,更有甚者,视自己亲人为“魔”而杀害亲人。嘴上“真善美”,行动上却行“假丑恶”之实。
各位信徒朋友们,你们“弃农弃工、抛家弃子、奉献养老金……”一切听从李洪志的话,而你们的“师父”李洪志以及“法轮功”组织中的叶浩、张尔平、唐忠等高层在干嘛呢?他们及其家族大肆敛财,压榨普通信徒劳动心血,携家带口,在外住着豪华别墅过着奢靡如帝王般的生活。你们拒医拒药,而“师父”和他的家人以及身边的骨干,身体稍微不适,就在漂亮国享受高档医疗服务。即使这样用你们奉献的金钱,享受高级医疗服务,也无法阻挡生老病死的宿命。你们的“师父”近几年有人见过吗?即使有人见,允许拍照吗?为什么不允许,是因为李洪志健康堪忧,不能被你们看到他一身病态。而且“师父”身边的高级骨干,有几个还健康的活在人世?李洪志的母亲去世,为什么密不公开,让你们这些信徒悼念呢?只有一个原因,就是谎言会被戳开,自相矛盾的言论无法圆说罢了。
三、宗教与邪教
传统宗教是与人为善的,而“法轮功”是与人为恶的。李洪志盗用佛教、道教、基督教、伊斯兰教等传统宗教的经典,肆意篡改,胡乱拼凑,炮制出一整套歪理邪说,蛊惑人心,危害社会,大搞自我神化,最可恨的是“法轮功”组织无视信徒生命安全、破坏信徒家庭、大肆聚敛钱财,蓄意寻衅滋事,动辄围攻政府机关及新闻媒体,严重危害人民群众的生命财产安全,严重扰乱正常社会秩序,其邪教本质暴露无遗。
如果你仍在执迷不悟信奉“法轮功”,你肯定会发现李洪志近期“经文”与前期“经文”互相矛盾,漏洞百出。这充分说明你们的“师父”:要么自己都不知道他想最终表达什么意思,自己的话都快编造不下去了;要么他思维已经混乱,近乎老年痴呆了;要么他已经无法掌控“法轮功”组织,沦为某些组织的傀儡了。如此之人,还自称“创世主”、“救世主”,他把佛祖释迦牟尼、基督耶稣、圣母玛利亚、真主……放在什么位置?踩在自己脚下了吗?亦或者是要把佛教、基督教、天主教、伊斯兰教等传统宗教消灭,自己取而代之!
四、自醒与自省
退一万步来说,假如“法轮功”可以与佛教、基督教等传统宗教相提并论,请问李洪志与虞超、高晓敏等“法轮功”骨干怎么会有不可调和的矛盾呢?是“师父”威信全无还是他们之间利益冲突呢?“神一样的师父”本应心无杂念,一心向善,哪里来的自身利益不择手段的争取?请各位信徒们,看看咱们自醒的前辈虞超、高晓敏说的事实,他们比你们更应该了解李洪志及其“法轮功”组织。也可以看看自省的王志安、李南央等人的现身说法,他们以旁观者的态度,句句诛心,深刻揭批谁在反人类,谁将下地狱。
五、大师与小丑
李洪志夫妻借“神韵艺术团”霸陵“小弟子”,同时,用“大法”控制演员思想,压榨、剥削演员,将其作为赚钱机器(不信可以看看“纽约时报”刊发的有关“神韵”文章)。
“神韵艺术团”巡演,在多国遇冷,上座率不高,很明显西方民众已经认清楚了“神韵艺术团”的邪教本质,从其所表演的荒谬低俗的内容,明眼人一看就是反人类、反社会的歪理邪说,恶心都来不及,谁还买票看?上座率不高也就罢了,你们的“师父”(心中的大师)为了赚钱,像小丑一样随团外出站台推票,丢人丢到外国去了。这也恰恰反映了李洪志为了自己的私心和贪欲,会泯灭人性、不择手段。
六、人心与仁心
你们奉为神一样的高高在上的“师父”,为各位信徒们做过什么感动的事吗?在你们生病无助的时候、在疫情肆虐的时候、在你们食不果腹身无分文的时候……此时此刻只有祖国、亲人、朋友关心帮助你,而所谓的“师父”在哪里?他在向美共和党及“台独”势力低头哈腰、极力讨好献媚;他在为特朗普、赖清徳等人站台宣传,实施“政治献金”;他在卖国求荣,妄图在美在台发展壮大;他在把所有信徒当做“弃子、死子”,以达到自己险恶的政治目的。
0 notes