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#レーニン 世界の思想家 22
anamon-book · 8 months
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レーニン 世界の思想家 22 和田春樹・編 平凡社 装幀=平野甲賀
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shintani22 · 2 years
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2022年3月22日
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新サッカースタジアム建設に向けた「広島商工会議所・サンフレッチェ広島 街頭樽募金活動」報告 2022年3月22日(火)17:30~18:30 紙屋町シャレオ中央広場周囲
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川村が左膝負傷 復帰まで2カ月(中国新聞)
J1広島は22日、同日の練習で負傷したMF川村拓夢(22)が広島県内の病院で検査を受け、左膝外側側副靭帯(じんたい)損傷と診断されたと発表した。復帰まで約2カ月の見通し。川村は今季、期限付き移籍先の愛媛から復帰し、主にボランチでリーグ戦に3試合、YBCルヴァン・カップに2試合出場していた。
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「ヤシマ作戦」が電力逼迫警報でトレンド入り。特務機関NERVも緊急の節電呼びかける(ハフポスト)
警報発令を受け、様々な災害・防災情報をアプリやSNSで迅速に発信する「特務機関NERV(ネルフ)」が節電を呼びかける画像をTwitterで投稿した。
“電力需給ひっ迫”広島では(広島ホームテレビ 3月23日)
東京電力管内の「電力需給ひっ迫警報」は解除されましたが、関東地方では引き続き節電が求められています。
政府は電力需給の厳しさから東京電力の管内に「電力需給ひっ迫警報」を出して家庭や企業、自治体などに節電を呼びかけていました。
警報は解除されましたが火力発電所の停止が続いているため、生活に支障のない範囲の節電への協力が引き続き求められています。
一方、中国電力ネットワーク管内の電力使用率は90パーセント前後で推移し余力があることから、利用者へ節電の注意喚起は行わないとしています。
また22日、東京電力管内へ最大10万キロワットの電力を3回に分けて融通したということです。
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NHKや民放、照明落としニュース放送 電力需給逼迫警報受け(毎日新聞)
政府による電力需給逼迫警報の発令を受け、NHKや民放キー局は22日午後のテレビのニュース番組で、節電のためスタジオの照明を通常よりも落とすなどして放送した。
政府、「電力逼迫警報」を解除 東電管内、効率利用呼び掛け―天候回復で暖房需要減(時事通信 3月23日)
政府は23日、東京電力ホールディングス管内に出した「電力需給逼迫警報」を同日午前11時に解除したと発表した。管内の1都8県で天候回復に伴い暖房需要が減っていることや太陽光による発電が増えたことが要因。一般家庭や企業への節電要請も併せて解除した。
ただ、16日の福島県沖地震の影響で一部の火力発電所の運転停止が続いている。今後も気温が低下すれば需給が再び逼迫する可能性は残る。
電力の安定供給には、供給に対する需要の割合を示す「使用率」を97%以下に抑えることが必要とされ、需給バランスが大きく崩れると大規模な停電につながる恐れがある。このため、効率的な電気の利用を呼び掛けている。
東電によると、管内の使用率は23日午前9時台で93%。当初、同日のピーク時には需給が「非常に厳しい」に相当する97%まで上昇することが見込まれたが、東電は予想を「やや厳しい」水準の93%に引き下げた。
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ロシア、北方領土交渉の中断発表 ビザなし交流も停止、制裁に反発(共同通信)
ロシア外務省は21日、北方領土問題を含む日本との平和条約締結交渉を中断すると発表した。北方領土への旧島民の墓参などを目的とした日本とのビザなし交流の停止や、北方領土での日本側との共同経済活動から撤退する意向を表明した。ウクライナ侵攻に伴う制裁に日本が加わったことへの反発が理由とみられる。
ロシア外務省の声明は「ウクライナ情勢に関する日本側による一方的で非友好的な関係制限」を交渉中断の理由とし「このような条件下では両国関係にとって重要な文書の署名を議論することは不可能」と説明。「2国間関係に及ぼす損失の責任はすべて日本側の反ロシア的行動にある」と非難した。
日ロ平和条約、交渉中断 ロシア外務省が表明(時事通信)
ロシア外務省は「日本政府の決定に対する対抗措置」として声明を出した。「ウクライナ情勢に関連して日本がロシアに対し行った一方的な規制が、明らかに非友好的であることを考慮し、措置を講じた」と説明した。
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ロシア女優、ウクライナ侵攻受け亡命 『グッバイ、レーニン!』出演(AFPBB)
【3月22日 AFP】人気映画『グッバイ、レーニン!(Goodbye Lenin!)』(2003年)への出演で国際的に知られるロシアの女優チュルパン・ハマートヴァ(Chulpan Khamatova)さんが20日、ウクライナ侵攻を受け亡命していることを明らかにした。
ハマートヴァさんは、20日にユーチューブ(YouTube)で公開されたロシアのジャーナリスト、カテリーナ・ゴルデーワ(Katerina Gordeeva)氏によるインタビューで、ラトビアの首都リガに数週間、滞在していたと語った。
「戦争が始まった時、休暇中だった」「最初は待とうと思った。その後、戦争に反対する嘆願に署名した。それから、帰国は望ましくないと明らかになった」
「私は裏切り者ではないと分かっている。祖国をとても愛している」と訴えた。
帰国するためには、戦争が起こっていると言うことをやめるか、特別軍事作戦を支持しなかったことを謝罪しなければならないだろうと指摘。
「自分の目で見ていることや、ウクライナ人の友人から何が起こっているか教えてもらったことをどうした���無視できるというのだろうか。自分自身と全世界にうそをついて、偽りの中で生きていくことになる」と述べた。
ロシアのノーベル賞受賞者、メダル寄付へ ウクライナ難民を支援(AFPBB)
【3月22日 AFP】ロシアの独立系紙編集長で、昨年ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)を受賞したドミトリー・ムラトフ(Dmitry Muratov)氏は22日、自国の侵攻を受けるウクライナの難民を支援するため、同賞のメダルを寄付すると発表した。
ロシアの主要な反体制メディア、ノーバヤ・ガゼータ(Novaya Gazeta)の編集長を務めるムラトフ氏は、フィリピン人ジャーナリストのマリア・レッサ(Maria Ressa)氏と共にノーベル平和賞を受賞した。
ムラトフ氏はSNSのテレグラム(Telegram)への投稿で、自身と同紙はウクライナ難民を支援するため、メダルの寄付を決めたと発表。「この世界的に有名な賞を競売に掛けられるオークションハウスからの連絡を待つ」と呼び掛けた。
その上でムラトフ氏は「平和を望む難民や、けがや病気で緊急治療を要する子どもたち」とメダルを共有したいとつづった。
ノーバヤ・ガゼータは反体制的な視点からの報道を行う、ロシアでは残り少ない報道機関の一つ。2000年以降、同社の記者と寄稿者計6人が殺害されている。
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豪、宇宙司令部を開設 中ロの野心に対抗(AFPBB News)
【AFP=時事】オーストラリア政府は22日、宇宙司令部を開設した。米国の宇宙軍に倣った新たな防衛機関で、「すでに争いが繰り広げられている」宇宙で自国の地位を確立する任務を負う。
ピーター・ダットン(Peter Dutton)国防相は空軍に向けた演説で、宇宙が「今世紀中に軍事的な重要性を増す領域となることは間違いない」と指摘。中国とロシアを名指しした上で、両国をはじめ「宇宙を共有すべきものではなく、自国の領土とみなす」すべての国が抱く地球外での軍事的野心に対し、宇宙司令部が明確な対抗策となると説明した。
職員は陸海空軍や民間企業から採用され、「自称SFマニア」のキャス・ロバーツ(Cath Roberts)空軍副司令官が指揮を執る。
ダットン氏は、宇宙司令部の規模について「当初は控えめなものになる」と述べ、人員や予算などの詳細については明らかにしなかった。一方で、将来的には「宇宙軍」が必要になるとの見解を示した。
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【本日 (3/22)の広島県内の感染状況】(広島県)
新型コロナ 湯崎知事「横ばいから微増」 医療負荷は 広島・直近の感染状況(RCCニュース)
「横ばいからやや微増となっている。」(広島県 湯崎英彦知事)
年末から始まり、広島県内では、過去にない感染規模となった新型コロナの第6波。県によりますと、直近の1週間で人口10万人あたりの新規感染者数は、21日時点で180.0。今月になってから新規感染者数は横ばいから微増の傾向が継続していると分析しています。
湯崎知事は、「まん延防止等重点措置」が解除されて以降、昼・夜ともに人流が増えたことが要因と指摘しました。
一方で、病床の使用数は県のシミュレーションを下回り、病床への負荷は軽減されているといいます。
「現在の傾向が継続すれば、一般医療と両立可能な水準が維持できると考えています。」(湯崎英彦知事)
感染者の中で60歳以上の人が占める割合が低下したことが背景にあるといいます。また、65歳以上の3回目のワクチン接種率の増加とともに感染者数が減少する傾向もあるとみています。
新型コロナに対する抗体の保有率では、2回目接種後よりも3回目接種後の方が抗体の数が多い結果になったと説明しました。さらに3回目の接種により死亡率や病状の重症化率も低下しているとしています。
「今後は感染対策の徹底とワクチン接種の両輪で進めることが重要です。3回目接種を推進することで、この感染症との闘いを優位に進めていくことができるものと考えています。」(湯崎英彦知事)
湯崎知事は、大規模接種会場などを活用し、積極的なワクチン接種を呼びかけました。
【国内感染】新型コロナ 43人死亡 1万4906人感染(22日17:30)(NHKニュース)
東京都 新型コロナ 4人死亡 3533人感染 前週より4300人余減(NHKニュース)
大阪 コロナ 8人死亡 998人感染確認 約2か月ぶり1000人下回る(NHKニュース)
コロナワクチン 3回目接種受けた人 全人口の35%に(NHKニュース)
政府が22日公表した最新の状況によりますと、国内で新型コロナウイルスワクチンの3回目の接種を受けた人は4447万2895人で、全人口の35.1%となりました。
3回目を接種日別に見ると、一日の接種回数がこれまでで最も多いのは先月26日の112万1293回でした。
実際はこれ以上に接種が進んでいる可能性があり、今後、増加することがあります。
また、ワクチンを1回接種した人は、合わせて1億215万3541人で、全人口の80.7%、2回目の接種を終えた人は1億50万6158人で全人口の79.4%です。
このうち、5歳から11歳の子どもを対象にした接種で1回目を受けた人は19万3503人、2回目の接種を受けた人は13人となっています。
全人口にはワクチン接種の対象年齢に満たない子どもも含みます。
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miyakawastuff-blog · 6 years
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こんばんは
みや00:22
こんばんは、お便り有難う御座います、さて、今夜はもう一歩踏み込んで私と政治経験ということからお話しを始めさせていただきます、既に書いたかと思いますが、私は1951/7/26生まれです、現在67、団塊世代の尻尾的な世代です、幼いころ60年安保闘争がありました、私が小学生のころです、新小岩に住んでおりましたが、地元に大同製鋼、日経アルミの工場がありました、当時の新小岩は労働者中心、そして、赤線歓楽街、朝鮮人部落なだが混在している新興のまちでした。60年当時、先にあげた工場労働者によるデモが町中を練り歩いて下りました、子供たちの間でもデモの真似事が流行っておりました、私も参加したのですが、意���も分からず、町中を集団で「安保反対」などと、叫びながら練り歩いた記憶があります、これが、はじめての政治体験でした、そして中学校にはいって、2年の時だったと思いますが、1964年、ジョンソン米大統領の時代、フランス領だったベトナムに俄かに戦争の硝煙の匂いが漂い始めました、トンキン湾事件が勃発し、これを契機として、米国による北爆が始まりました、以後泥沼ぼベトナム戦争が始まりました、日本国内もこの戦争を契機に騒然として来ました、とりわけ1968年にフランス、ほかヨーローっパ各国、公民権運動、黒人解放運動で揺れていたアメリカにおいて、ベトナム反戦運動が世界規模で始まりました、日本でも各大学でベトナム反戦運動が取り組まれるようyになりました、この年私は高校2年でした、定時制高校に通っていて、それまで中核派活動家、中学校時代の友人と「べ平連」の集会、デモに散発的に参加してましたが、この年、初めて全都定時制高校共闘会議の正式メンバーとなり、政治活動を本格的に開始しました、毎日、各校に撒くビラ作り、週一回の定例会議、同じく、日曜日に行われていた、70年安保粉砕の街頭デモに参加しておりました、東大闘争、早稲田学館闘争にも乞われて、外人部隊の一員として参加した事があります。街頭では主に「旗持ち」をやっていました、初期9メンバーで、後の足立高校全学共闘会議議長が二代目旗持ち。書記長をやったらしいのですが、彼は「逮捕」されてしまったそうです、私らの共闘会議は非暴力主義をうたっており、わたしの時代は機動隊と直接衝突することはなかったのですが、時代が許しませんでした。非暴力といっても機動隊の弾圧は許してくれません、デモリーダーが逮捕されたりしました。そんな中、大学進学しました、無党派でしたが、共産党系自治会との実力衝突は避けられませんでした、所謂うちゲバというyものです、この煽りを食って、自治会幹部によるテロ、脅迫で学校に行けなくなりました、結局学校は中退してしまいました、大学一年の時でした、ちょうど交際していた女性がいて、彼女の口利きで町工場に就職しました、そこをはじめとして、町工場を転々としました、落ち着いたのは水処理を専門とする「、設計事務所でした。中学校までは、数学、技術家庭、理科、が得な得意な、どちらかというと理系人間だったので、仕事にははやくから馴染めました、そんなこんなで、数年がたち、製図の基本を覚えた段階で改めて設計専門で、機械製造業を生業とするメーカーに就職しました、そこで組合運動を経験しました、ちょうど、障害者の解雇騒動があり、それに関わってゆく中で、従来のマルクスて、レーニン的、世界観(労働観)に基づく組合運動の限界を感じるようになりました、この問題を契機に政治運動からはなれて行きました、自分でものを考えるようになったんです、哲学書と格闘する毎日が始まりました、現在の諸般にかんする社会的、政治的アプローチのコアはこのころ考えたものです、60で仕事をやめたあと、2111.3.11の東北大震災が起きました、当自は東京でも一日中揺れていた記憶があります、特に被害らしい、被害はありませんでした、数日後、福島原発が大変なことになっていると、反原発仲間から情報が寄せられました、とはいえ当時は情報が錯綜していて、何が起こっているのか皆目検討がつきませんでした、そんあ状態で、やがて、福島原発では日本で始めて、いや、世界ではじめて、メルトダウンが起きているらしいとの情報がはいってまいりました、常識を超える放射能漏室、爆発事故がおきたと焦りました、映画の「渚にて」同様の核戦争並みの原発事故と認識しました、科学技術信仰の慢心と捉えるよりなく、文明そのものへの疑念を抱かせました、共産党、自民党などの良い原子力神話が吹っ飛んでしまいました、ここから私の脱原発運動への参加が始まりました、学生運動時代のオールドレフト仲間だった、「9条改憲阻止のかい」が中心となってできた、経済産業省前脱原発テントに参加しました、週かいの泊まり当番、毎日の官邸前デモに参加しておりました、福島への支援ボランテァにもいったことがあります。、福島小高地区の津波跡は目を覆わんばかりでした、十数メートルの津波の傷跡は凄まじいものがありました、世界観が変わるほどの衝撃を受けました、鴨長明の「方丈記」が好きになったのもこのころでした、人間の営みの無常観がひしと伝わってくるのですね、これが私の「福島体験」です。  最近はフェイスブックで知り合った、風力発電に反対している、北海道のグループと連絡を取って、再生エネ問題の勉強をしております、、さて、遅くなりました、ここいらでやめますね、一方的に話して済みませんでした、では、、
続けます。現在ひまにあかせて、詩誌「遊撃」同人になって、詩を投稿したり、他人と自己意識、共感は可能か?、人間と労働、市民社会と資本主義などをテーマにマルクス、サルトル、ネグりをテキストにしての哲学の勉強をしております、そして、個人ブログを結果などを書き連ねております、年のせいか、最近腰が重くなってしまいました、数年前は沖縄、高江、福島、大阪、福井と各地をフットワークよく行っていたのですが、最近はひきこもっております、内省のときというのでしょうか、自分の考えを纏めるのに忙しく、他人の意見に興味がなくなってしまったんですね、作文、作詩のかていでものを高く的に考えるのが楽しく、思うんですが、哲学にしても文学ににしても、個人の考えと、歴史としての哲学なら哲学の蓄積の重層性に思いをいたすんですね、つまり、自分の考えははるか、ギリシャ時代の哲学者の頭の中に既にあり、同じことを問題にして、既に解答を出していたのではないか、こういう思いです、しかし、問題ですが、意識の言語化、内発性、追体験と言う事を考えると、哲学は科学と違って、積み上げということが殆んど不可能な分野ではないかとの思いもあるんですね、それゆえか、自分の考え、アイデアを代々の歴史(哲学)に学ぶこと、思想史に範をとる作業のまどろっこしさを感じるんですよね、読書の意義がわからなくなります、本を読むことの意義、ことに哲学するうえでの読書の意味が難しくなりますね、いきおいじぶんの考えなり、アイデアを著者にぶつける作業なのではないかと思うのですが、これは他人との対話でも可能な体験なのではないかと主のですね、ここまで来て思うのですが、内省と言う事の意味です、たにんとの対話のかわりにに自分の分身である、書いたもの、あるいは言葉を取っ掛かりにした、自分内、「対話」というものが可能ではないかとも思われるんですよね、この限りでいえば「読書」の意義が薄れてゆくのは必然的ではないでしょうか?言葉は自己増殖いたします、言葉を発した瞬間言葉は凝縮し、過去形になります、本に書いてある「思想」とはみなこのようなものと思うんですね、ピンナップされた「思想」こそ哲学書の思想なんだと思います、ちょっと議論が抽象的になってすみません、何時も考え始めるとこんな感じです、詰まるところ、先ほどのべた「言葉の自己増殖」とはこう言う事なのですね、暴走してすみませんでした、終わりにします、どうもです。お便り待ちます、
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carrying space #02 レポート
carrying space #02レポート
  carrying space #02
http://raccoondogsteakettle27.tumblr.com/post/164882775542/carrying-space-02#164882775542
  1.
  9/21
  成田で刺身を食べ、ビールを飲んだ。87番ゲートで、ロシア人男性に話しかけられた。ぼくはロシア語を話せないので、英語でのやりとりを試みた。すると、彼の表情は徐々に曇っていった。中年でスキンヘッド、背たけはロシア人の平均身長からしたら、あまり高くはない。澄みきったスカイブルーの瞳をしている。彼は仕事で日本に来ていたと言う。茨城に滞在していたようだ。これから母国に帰るとのこと。15:40の便で、ウラジオストクへ飛んだ。飛行機の造りは荒くみえ、ところどころ汚れが目立っていた。
  ウラジオストク国際空港。ATMで現金がおろせなかった。出立前に少し調べたところ、ATMでのキャッシングが、最も低いレートで現金を手に入れることができるらしい。だから、事前に換金しなかった。ATMから現金が引きおろせないのが、時間帯の問題なのか、カード自体の問題なのかは、わからない。空港の換金所も閉まってしまい、もう使うことができない。マニラでは遅くまで換金することができた。当然だが場所によって運営形態は異なるのだろう。
どうしようもない。朝まで待たなければならない。「サハリン島」を読み、メモを書くことにする。それで時間をやり過ごすしかない。明日、ユジノサハリンスクに到着したら、カード会社に問い合わせてみることにする。それでだめなら、まず手持ちの4000円を換金し、次の手を打つべきだろう。まったく、やってしまった。こんなことなら、多少レートがあがったとしても、成田で現金をおろし、換金しておくべきだった。ぼくがATM操作にあたふたしていると、ロシア人男性が英語で操作方法を教えてくれた。実践してみたけれども、だめだった。
  ロシア美女の美しさ。けして触れてはならない存在のように思えてならない。
  空港にたむろする様々な民族が、世界の狭さを表している。
  飛行機の窓から外をみると、下の方に雲がみえた。その雲と地上の、どちらがどちらかわからず曖昧蒙古としている。遠くをみると地上と空が溶けている。
  9/22
  サハリン、ユジノサハリンスク空港。日本よりは気温が低いが、思ったほどではない。空港近辺には英語表記が全くなく、茫然としていた。困っていた。ATMもなく、換金所もない。しばらくうろうろしていると、バスの停留所らしきところがみえた。バスの運転手に駅まで行きたいと英語で伝えたが、通じない。もうひとつのバスの運転手もだめだった。立ち尽くしていた。途方に暮れていた。すると、後ろから英語で声をかけられた。現地のロシア人青年だった。最初タクシーの運転手かと疑ったが、どうやら違うらしい。マニラでの苦い経験を思い出した。いくつかのことを話し、何に困っているかを伝える。彼は、ひとまずバスで市内へ向かおう、とぼくの分の運賃も払って、バスに乗せてくれた。
  バスの窓の外には閑静な住宅が並んでいる。建物は洋風なつくりだが、赤、青、緑、黄などの原色に近い色合いで塗装され、ミニマルな構造。ロシア構成主義を思わせる。
彼の名前はセルゲイで、大学で英語の講師をしている。自分の大学の同僚に日本語を話せるひとがいるから、と電話をかけてくれた。電話のむこうは、日本語が堪能な、現地人女性だった。ぼくは彼女に日本語で要件を伝え、電話を彼にかわる。彼はぼくの要件を彼女から聞き、電話を切った。
  メインストリート、レーニン通りも、建物に統一感があり、色彩がカラフルだった。ミニマルで、統一感のある空間は嫌いではないが、街全体にその光景が繰り返されると、やや重たい印象をもってしまう。銀行にいったが、キャッシングできなかった。限度額を超えているのだろうか。その後、いくつかのアプローチを試みてみた��ものの、状況はうんともすんともいわない。君は疲れているようにみえる、とセルゲイはぼくを気遣い、タバコを吸わせ、水を買い与えてくれた。朝食もごちそうになった。駅前のファストフード店に入った。店ではロシアの最近の音楽がかかり、ハンバーガーがそろっていた。ロシア少女が、音楽にからだを揺らし、注文の対応をする。そばかすに、はにかんだ表情が素敵だった。窓辺の席にすわる。セルゲイはロシアの最近のポップミュージックが好きではないらしかった。窓越しの空には異様な数の燕が飛び交っていた。
ホステルに向かった。住所は把握していたものの、建物の外見は知らなかった。所在地付近に着いたが、これといってホステルらしき建物は見当たらない。セルゲイは一緒にホステルを探してくれた。周囲で工事をしている男性や、通りがかった人たちに場所をたずねたところ、ホステルは、立ち並ぶ巨大ぼろアパートのうちのひとつのなかにあるらしかった。
  工事中のぼろアパートの玄関には、パスワード入力式のセキュリティがかかっていた。セルゲイはインターフォンでおそらく管理人であろう人物に連絡をとり、パスワードを入力する。ロックが解除され、中に入った。階段は歪み、高さはまちまちで、ときどきつまずきそうになる。何度か違う階の部屋をノックしてしまったが、そのたびに部屋の住民にホステルの場所を聞き、なんとか3階のホステルらしき部屋の前にたどり着いた。
ノックをするとドアは開き、隙間からこわもてのロシア人男性が怪訝な表情をのぞかせた。彼はホステルのスタッフで、ホステルはここで間違いないようだった。中に入ると、セルゲイがスタッフに事情を伝えはじめる。おそらく、ぼくに現金がないこと、このホステルに予約してあることなどを伝え、ひとまず荷物をおかせてくれないか、と頼んでくれたのだろう。このホステルの宿泊代は一週間で約7000円と安いが、カードで支払うことはできない。セルゲイとこわもてのスタッフの交渉中、ぼくは申し訳なさそうな、困ったような、けれども予約はしてあるのだから冷静な、といった微妙な顔を演出し、じっと二人のやりとりをみていた。なるべく疑われないような態度を示す必要があると感じ、それを模索していた。最初首を横に振っていたスタッフだったが、セルゲイが何度も頼んでくれたからか、交渉がまとまったようだった。セルゲイが言うに、今夜は泊めるが、明日までに宿代を払ってくれ、とのことだった。セルゲイは、心配だから、お金を手に入れることができたら連絡するように、また何か困ったことがあったら連絡してくれ、と言って去っていった。こわもてのスタッフは、人差し指でぼくをこまねき、ホステルの中を案内した。
  カードについて調べたところ、海外でのキャッシング手続きをしていなかったため、キャッシングできなかった���とがわかったし、そのため何度カードを出し入れしてもキャッシングできなかったことがわかった。キャッシングするための手続きは審査のために最低でも約一週間かかるわけだが、一週間後には旅程の終盤なので、キャッシングできるようになった時には、キャッシングする必要がなくなっている。そして今キャッシングできなければ、その時までここに滞在することはできない。ということは今キャッシングできなければ意味がないということだ。つまり、今回キャッシングで現金を得ることはないということだ。
  日本とは時差が2時間ある。まだ感覚が合わない。今日、ある日本料理屋にいった。観光客むけの内装とメニュー。その店の日本人オーナーと話しをすることができた。オーナーのM氏と少し会話し、アルバイトで一週間雇ってくれないか、と頼んでみた。キャッシングできない以上、なんとか現金をつくる必要があった。せっかくだし、ロシアの仕事を体験してみてもよいだろう、というやけっぱちな思惑もあった。けれども、それはだめだと言われた。ロシアでは人を雇うのに、いくつもの書類と審査が必要なのだ。ましてやMさんはユジノサハリンスクの市民として、ある重要な役割を担っていた。もし、その審査なしに人を雇ったことが行政にばれたら、まずいことになる。彼はぼくみたいな形でアルバイトをしたいという人は初めてだと言った。また彼は、ぼくのとんちんかんな懇願に、いかにロシアが知られていないか、と言った。
  Mさんは、札幌で育ち、ホテルを二つ経営している父のあとを継いでいた。たまたま旅行でソ連にいくことになった彼は、ハバロフスクで当時のソ連人が日本人墓地を綺麗に保ち、礼儀正しく振る舞う姿を目にし、そのことを印象的に覚えていた。その時にまたソ連に来たいと思ったようだ。1983年くらいのこと。
数年後、彼は稚内からフェリーでサハリンの港町コルサコフにむかった。コルサコフのとあるパーティで、当時のKGBの大物と出会い、サハリンのホテルの経営をもちかけられるが、適当にあしらう。しかし、その後、KGB職員のはからいで、何度もサハリンにくることになり、結局その年の正月はサハリンで過ごすことになった。そのままホテル経営の一端を任されるようになったが、ソ連崩壊と同時に、当時のクセのある女オーナーにクビを切られ、路頭に迷う。契約書類を巧妙に偽造され、借金を負うことになった。タクシー運転手などをして食いつないでいたところ、ホテル経営時代の仲間からの支援を受け、今の店をはじめることになった。けれども、当初はただ次から次へと金をつぎ込むだけで、店は火の車だった。数年前やっとのことで軌道にのった。近年の子供のワクチンの支援や音楽などの文化活動の功績が認められ、現在は、市民としてある重要な立場を担っている。
ロシアでは、一年契約で、職の管理が徹底している。労働手帳があり、そこに経歴が記載される。だからアルバイトでも簡単に雇うことができない。もし行政に黙ってアルバイトをしたとしても、ぼくが入ることによって誰かの仕事なくなる。仕事を奪われたそのひとは、きっと行政に報告するだろう、とのこと。ロシアで、急にアルバイトを雇うことは難しいと言う。
労働手帳は、辞める理由も明記しなければならないため、従業員の経営者への態度は、丁寧なものにならざるをえないようだ。失敗しても頭をさげ、クビにならないように謝る。退社の際には、円満に退社した旨を手帳に書くようにお願いする。そのために、金を出すこともあるそうだ。
サハリン人は大陸人より、日本人に敬意を払う、それは歴史を同じ場所で重ねてきた者同士の、あるいは外交のたまものである、と彼は言う。
彼は最後に、領事館に問い合わせてみるべきだ、とアドバイスをくれた。また本当に困ったら、日曜日にこの店に訪ねるように、と言った。
  9/23
  海外送金会社を頼ることにした。両親にそのことを連絡し、ウェスタンユニオンの手続きをしてほしい旨をメールで伝え、お願いした。午前中、母から連絡が来なかったので、ホステルで待機することにした。12時すぎにホステルのスタッフにもう一度現状を説明し、月曜日まで支払いを待ってくれるように頼んだ。主に、Google翻訳を使って会話した。彼は、大柄の無愛想な30代中ごろで、無骨で頑強な印象をぼくに与えた。元軍人にもみえなくない。
結局のところ、銀行で換金した現金から今日までの宿泊代を払い、残金は、800ルーブル。空腹が耐え難かったので、街にでて、食事をとることにした。しかしガイドブックを忘れたため、いこうとしていたロシア料理屋にいくことができなかった。仕方がないので、駅まで歩き、昨日のファストフード店に入り、ハンバーガーのセットを注文した。支払いはクレジットカード。キャッシングはできないけれど、カード払いはまだ可能だった。
その後、チェーホフ記念文学館、サハリン州立美術館にむかった。入場料はとても安いので今の残金でも入ることができる。もちろん、のちの送金をあてにしていた。
チェーホフ記念文学館、表記がロシア語しかなく、文章を読むことができなかった。しかし、当時のチェーホフの様子、また流刑地時代の囚人の生活の一部は、蝋人形を用いた展示、写真などでうかがうことができた。実際使用された手枷や、生活用具などもおかれていた。
チェーホフ記念文学館とチェーホフ記念ドラマ劇場の周りは、美しい公園になっていて、チェーホフ作品に登場する人物たちの銅像がある。「犬を連れた奥さん」のアンナも。彼女の写真を撮った。
サハリン州立美術館は、日本統治時代の北海道拓殖銀行豊原支店を利用した、新古典主義的な建造物だった。一階で展示されていた現代作家の作品は、水彩の風景画と、花を用いたインスタレーション。二階にあがると、中世のイコン、1900年前後の移動派の絵画が展示されていた。
  移動派
ロシア初の独立芸術家団体。アレクサンドル2世治下の1870年に設立。63年にペテルブルグ美術アカデミーから追放されたI・クラムスコイら14人の学生が芸術家協同組合を結成。チェルヌイシェフスキーの社会主義思想の影響下で農奴制や資本主義を告発する作品を制作した。70年にモスクワとペテルブルグの進歩的芸術家が集まり移動派美術展協会を設立、ロシア美術の成果を国内各地で知らせる目的で71年11月にペテルブルグ美術アカデミーで展覧会を開催、1923年までにペテルブルグ、モスクワなどの諸都市で計48回の移動展を開催した。同時代の主要な画家の多くが参加した移動派は批判的リアリズムと呼ばれる写実主義の手法でロシアの民衆の歴史、風景、民俗学的題材を描き、批評家スターソフらの支持、庇護を受けた。1880年代に最大の評価を得て20世紀初めまでにロシアの主要美術学校の教職の大半を占めるに到り、1932年以降はソヴィエト社会主義リアリズムの先駆として権威化された。主要な作家としてクラムスコイの他にI・レーピン、V・スリコフ、V・ヴァスネツォフ、I・シーシキン、V・ペロフ、N・ゲー、V・マコフスキー、I・レヴィタン、V・セロフら。モスクワの実業家パーヴェル・トレチャコフは移動派の作品蒐集や移動派作家への著名文化人の肖像画発注を通じて支援を行ない、ロシアの歴史的絵画のコレクションと合わせてトレチャコフ美術館を創設した。日本では、近年、Bunkamuraザ・ミュージアムが国立トレチャコフ美術館の所蔵作品を集めた「忘れえぬロシア-リアリズムから印象主義へ」(2009)、「レーピン展」(2012)で移動派の活動の一端を紹介した。
(松本晴子 artscape)
  街を歩くと、いたるところで、工事をしている。サハリンの資源開発プロジェクトも進む中、経済的な発展も見越した整備なのだろう。特に目立つのが道路工事と、アパートメント、ビルディングなどの補修工事で、場所、地域にもよるかもしれないが、前者の現場で働くのは、アジア系、中国人、朝鮮人、パキスタン人など、あるいはその子孫たちが目立っているように思えた。ショッピングモール近くの露天商も同様。民族によって、職種がわかれてしまっている、ということも考えられるが、まだ判断するには情報量が少なすぎる。後者の現場では、ロシア人のいるところもあったし、前者においても必ずしもくっきりと人種によって分かれているわけではないかもしれない。
多くのロシア人は「汚いこと」はしたがらない、そんなことをMさんが言っていたことを思い出した。
王子製紙の工場跡地をみた。古びたマッチョな建物が広域にわたってそびえている。都市の碁盤目状の中心部は、古いアパートが立ち並び、各所に、日本統治時代の建造物が未だのこっている。場所によっては危ない雰囲気がある。大きな通りの周辺は綺麗に整備されている。おそらく早めに手をつけたのだろう。目立つところは、きれいに、というわけだ。一軒家や大きな住宅は、郊外や山沿いに並んでいるのをみた。そちらにいってみてもよいかもしれない。
  9/24
  昨夜、ホステルに泊まっているロシア人男性の一人に話しかけられた。コミュニケーションをとりたいようだった。英語は通じない。iPhoneのGoogle翻訳を使うことを提案するが、それには頼りたくない、というニュアンスのジェスチャーをした。なんとかコミュニケーションをとろうとする彼をみかねて、紙とペンを取り出し、漢字、平仮名、片仮名、ローマ字、キリル文字で、自己紹介をしあった。斜視気味の女の子も途中で会話に参加し、部屋の他の客ともあいさつをかわした。昨日からいる二人の日本人学生のうちの一人はモスクワ大学に留学経験があり、ロシア語が多少できたので、通訳をしてもらった。TシャツにはWの頭文字、早稲田大学の学生だろうか。ロシア人男性にタバコをもらい、一緒にのまないか、と誘われたが、お金がない事情を話し、断って、そのまま寝ることにした。
フェイスブックメッセン���ャーを使って、日本にいるプロジェクトメンバーとやりとりをした。友人の近況を知ることができる。それだけで少し安心する。また、現地のひとのちょっとした優しさが、言葉の通じない場所に一人でいるぼくのこころを温めてくれる。街の穏やかな雰囲気とぼくを助けてくれるひとのあたたかさが相まって、卑屈なぼくの性格の一部をやわらげてくれる。明日、両親から送金される予定だから、安心しているということもある。手続きがうまくいけばの話しだから、完全に安心しきってはいないのだけど、かすかな希望が気慰みにはなる。
今日は、街の南へむかう。
  これから、食事をとって、サハリン州立博物館にむかう。それから日本人墓地へむかう。再び、駅前のファストフード店で食事をとって、そのまま、日本人墓地へむかった。具体的な墓らしきものはなかった。そこには、戦争関連のモニュメントと公園があった。休日だからか、子供と家族が遊んでいる。幼い子供は銃の玩具を鳩に向けていた。そこは日本人墓地ではなかった。
公園近くの道路沿いに、1立方メートルくらいの石のキューブが二つあった。そこには日本語で文字が刻まれている。
  ―――かつてお住まいの方々に敬意を込めて
―――気ままに吹く風があなたに挨拶をしています
  結局、日本人墓地はみつからず、ユジノサハリンスク市街を外回りにサハリン州立郷土博物館にむかった。日本統治時代の樺太庁博物館の建物をそのまま利用している。まるで城のようないでたちをしている。展示物の一部も引き継がれているようだ。そこにはやはりロシア語のみだが、サハリンの歴史について、記録とともに展示されていた。
  ホステルに戻り、1日ぶりのシャワーを浴びて、iPhoneでサハリンについてのネット情報をみていた。
  いささか古い話に戻る。ロシアとの間に交わされた条約の一つに下田条約 (1855年)がある。この条約では、ロシアとの国境に関して、 択捉(以南は日本側)ウルップ(以北はロシア側)の間に国境線を制定し、樺太(サハリン) に関してはこれまでと同様、両国の間に分割しないで混住すると規定されている。つまりサハリンをロシア領でもなく日本領でもない両国の混在地域とした。当時のサハリンは政治犯や刑事犯などの流刑地だった。ロシアの文豪、チェーホフの「サハリン島」は、彼が30才の時、すなわち1890年にサハリンへ 赴いて書いた記録で、当時の様子がよく描かれたルポルタージュである。その後、日露戦争の結果、ポーツマス条約(1905年)が締結されて、樺太 は北緯50度線をもって国境として、以北をロシア、以南を日本が領有することになった。この頃、樺太には先住民が住んでいたことも言及しておかなければならない。ニヴフ、エヴェンク、アイヌ、そしてオロッコの諸民族である。樺太には膨大な石炭をはじめとする地下資源や森林が存在する。日本は この資源を求めて南樺太(北緯50度以南)への入植(移民)策を推し進めた。 『樺太沿革・行政史』(社団法人 全国樺太連盟編・昭和53年6月15日発行) によると、豊原(現ユジノサハリンスク)に樺太庁が置かれたのは1907年3月のことであり、それまでの軍政が解かれた。1907年の人口はわずか12,361 人だったのに対して、1941年末には406,557人と急激な人口増をみた。これは 日本政府の積極的な植民政策が、資源開発、開拓政策とともに押しすめられた結果であろう。また軍政が解かれたとは言え、樺太は日本にとって対米、 対露(対ソ)軍事作戦上、重要な位置を占めていたので、千島とともに、陸 海軍の基地が設けられた。
(写真展と語り合い サハリン残留朝鮮人の軌跡 片山通夫 フォトジャーナリスト)
  日本統治時代の旧豊原、現在のユジノサハリンスクは札幌をモデルにしているため、碁盤の目状の都市構造をしている。サハリンは、国際法的に所属未定の地、という解釈もあるようだ。ここで過去起こった出来事は複雑で、大まかにさえ把握するのが難しい。しっかりと勉強したい気持ちもあるが、今のぼくにとって重要なのは、この土地が誰のものでもないような、言わば「どこでもない場所」の気配をもっていることだ。それは、いわゆるグローバリゼーションによる均一的な場所性、などとはいささか異なると思う。ところどころに日本的な姿をとどめ、他民族が混在しているこの土地、行政はロシアだが、一部の住民の意識はもっとゆるやかなものだろう。逆に制度によって人々の意識を無自覚に政治的なかたいものにしている可能性もある。今ここには多くのアジア系の人たちいるが、そういったひとへの偏見差別もあるだろう。無意識的な人種の優劣意識がある感じがする。現地に住むひとで複雑な環境にいるひとも多いのではないだろうか。
このレポートがどんなものになるかはわからないが、きっとぼくの関心を掘り下げる意味で重要なものになるに違いない。今はふらふらしていればいい。
明日、送金手続きはうまくいくだろうか。少し不安だ。もし無理だったら、領事館にいくことにする。助けを求めることにする。
  ここでは、屋外で酒をのんではならない。信号は歩行者も車両もきちっと守る。横断歩道でひとが待っている、すると、必ずといっていいほど、車は止まる。そして、歩行者を優先的に渡らせる。歩行者は申し訳なさそうに、素早く横断する。どの店の外見も閉鎖性を感じさせる。外からではロシア語を読めないかぎり、何があるのかわからない。あるいは、窓からちらっとだけ、商品がみえるようになっていたりする。マジックミラーの店が多い。中から外は見えるが、外から中はみえないのだ。ガラス張りの開放的な建築が一軒もない。気候も関係しているのだろうか。以前あった建物を利用しているからだろうか。そしてあまりにも多い、巨大アパート、マンションとその廃墟、そして工事の量から、この場所の興廃、また展望が見え隠れする。ユーラシアの田舎街には違いない。サハリンには子供が多く、また政策で支援されているという。子供たちは、街のいたるところにある公園で、天使のように舞っている。大通り沿いのアパートメント群の一階には小型のスーパーが設置されている印象がある。日本で言うコンビニエンスストアの役割を果たしているのだろう。ショッピングモールも多い。買い物はそこでおこなわれるのだろう。場所の機能がきっちりわかれている印象がある。風俗街はないし、バー(café barはあるのだが)はあまり見当たらない。規制されているのだろうか。グラフィティはこじんまりしている。目を盗むのが大変なのだろうか。保守的な雰囲気は感じる。
  ホステルのドミトリー、若いロシア男性のパソコンから戦争映画の音、そして戦争ゲームの音が聞こえる。“Be our flag!!”
  近所に野良犬の家族がいる。雑種だがシェパードの血が入っているらしい。外見は似ているが妙に小柄で足が短い。
  9/26
  昨日は両親からウェスタンユニオンを利用して送金される予定だったので、朝からそわそわしていた。後に借りた分を両親に返金することを考えるとさらにそわそわした。ともかく日本時間1時すぎまで待たなければならない。けれども、時差は2時間あり、こちらでは3時すぎ、送金にかかる時間を考えると今日中に資金が得られるかわからない。午前中は部屋で時間をつぶし、午後再び駅前のファストフード店へいった。それからガイドブックを確認し、日本人墓地を目指して歩いた。大通りを40分ほど南に歩くと、墓地らしき場所があった。
空は徐々に暗くなり、南から濃い雲が流れてきていた。空気が湿気を含みはじめ、雨が降る気配が感じられた。森に囲まれているからか、墓の周りはほとんど整備されておらず、草や花が鬱蒼と茂っている。ところどころに、献花がされている。ぼやっと眺めただけでは、生えている草花と献花の区別がつかない。それくらい墓地と自然は混ざり合っている。
ウェスタンユニオンの手続きまでにはホステルに戻らなければならない。ほどほどに時間をみながら墓地を歩く。入口付近はロシア人の墓が並んでいた。戦争で亡くなった方も多くいるだろう。墓石には写真を利用し遺影が刻まれていた。遺影には軍服をまとった男性の姿が数多く見受けられる。
花を持った二人の中年女性がやってきて、すれ違った。彼女たちと交差する時間が、異様に長く感じられた。もちろん、それはぼくだけが感じたものだろう。かつての出来事のことを考えると、どうにも心が落ち着かなかった。彼女らの行く墓の下には、日本人に殺されたロシア人が眠っているかもしれない。
日本人墓地にたどりつく前に引き返すことにした。時間が迫っていたし、雨が降りそうだった。案の定、墓地をでて数分後、激しい雷雨が降りだした。ぼくはパーカのフードをかぶり、近くのバス停の屋根の下にかけ込んだ。
雨はすぐに弱まった。少しおさまったのを見計らってホステルにむかって歩いた。通り雨のようだった。
  ホステルに戻り、両親とやりとりし、送金の手続きが済んだ、という連絡を受けた。ぼくは謝罪とお礼のメールを送り、近くのウェスタンユニオン取り扱いのバンクへ急いだ。その日じゅうにホステルのスタッフに料金を支払う約束をしていたから、少し焦っていた。彼が次の日以降まで待ってくれるとはかぎらない。銀行は市内のいたるところにある。とても多い印象がある。
建物に入り、二階にあがると廊下に部屋が並び、奥に人が待っている。そちらが窓口らしい。受付番号を発券するマシーンの画面は、全てロシア語で表記され、英語には切り替わらない。操作方法をたずねようと、待合席に座っている男性に話しかけたが、うまく伝わらない。仕方がないから、適当な部屋をノックし、銀行の職員に英語で事情を説明し、助けを求めた。すらっとした若い綺麗な女性が他の従業員と目をあわせ、やれやれといった感じで席を立ち、発券を手伝ってくれた。順番が来て、受付に行き、管理番号を伝え、パスポートを渡す。しばらく確認をしてくれていたが、また明日来てくれ、とのこと。なるほど、まだ送金が完了してないらしい。ぼくは一度ホステルに戻り、ウェスタンユニオンに電話で送金状況を確認した。すると、どうやら送金は完了しているらしい。おそらくバンクの担当者が確認してから今の間に、送金が完了したのだろう。バンクの営業は18時までだった。時計をみると17時前、やや急いでバンクに戻った。再び受付を例の女性に頼むと、また明日来てくれ、と断られる。ぼくは、ウェスタンユニオンに電話で確認したところ、送金が完了しているらしい云々、を英語で伝えたが、伝わっていない。ぼくがなんの理由もなしに来たと思われたのかもしれないし、対応が面倒だったのかもしれない。言葉が扱えない、あるいは片言、というのは多くの場合、人を愚かに見せるには充分な条件なのかもしれない。交渉をするのは無駄だとわり切り、他の銀行にいった方が早いと判断した。Wi-Fiを携帯していなかったので、一度ホステルに引き返し、インターネットを使用する必要があった。次に近いウェスタンユニオンを取り扱うバンクを、マップで調べなければならない。ホステルの玄関でiPhoneをWi-Fiに接続、マップでバンクの所在地を確認し、足早に歩いた。
しかし、そこにバンクはなかった。
もうホステルに戻る時間はない。ぼくは目ぼしいバンクを片端から訪ね、ウェスタンユニオンを扱っているか聞くことにした。大きな店舗を二軒ほどまわったが、いずれも取り扱っていなかった。
最後の望みに通りを曲がると、ウェスタンユニオンの表示のあるバンクがあった。18時前だった。時間がなかった。中に入り、手続きを試みた。まだ窓口は開いているようだった。
ウェスタンユニオンを担当している女性とは、片言の英語とGoogle翻訳を利用して、やりとりをした。彼女は例によってロシア美人で、ぶっきらぼうなところもあったが、割り合い朗らかにコミュニケーションをとってくれた。けれども、作業は手間がかかるようだし、退勤時間も迫っていたからか、何度もため息をつく様子だった。途中、彼女は、何度かiPhoneで電話をかけた。迎えの車の運転手、だろうか。薬指に指輪をはめている。この街の接客はあらゆるところでぶっきらぼうでよい。好感を覚える。少なくとも客に媚びていない。あるいはもちろん客によって態度を変えているかもしれないのだけれど。彼女の作業が完了し、いくつかの用紙にサインをすると、お金を受け取る窓口を指示され、その方向へむかうが、窓口がわからない。けれども、待合席に座っている、グレーのスーツを着たダンディな中年男性が、ゆったりと足を組みながら、指を用いたジェスチャーで入るべき部屋を教えてくれた。この旅は、ひとに助けられることで、かろうじて成り立っている。感謝しなければならない。
部屋の中に入ると、大きなレンズと太い黒縁フレームのメガネをかけた浅黒い肌のアジア系女性がガラス窓越しに座っていた。口紅の明るいピンクが妙に目立っている。書類を渡すと、彼女は、お金を出すように、と言う。ぼくが換金しようとしていると誤解しているらしい。しかしぼくはお金を受け取りにきたのであって、換金をしにきたのではない。どうやらウェスタンユニオン他の旨が書類上で伝わってないらしい。英語で説明しようとしたが、伝わらない。彼女はしまいに、マニー!マニー!と怒鳴りはじめてしまった。先ほどの女性が部屋に入り、事情を説明した。書類は彼女に返され、再び手続きをしなおすことになった。そしてまたアジア系の女性と対面する。今度は無事に現金を手に入れることができた。ぼくは彼女にスパスィーバ!と言うと、意気揚々と部屋をでてホステルにむかった。
現金がないという、あのヒリヒリした不安感をもつことはもうない。そういった状況に満足し、安心している反面、心のどこかに残念な気持ちがあった。
ホステルに戻り、例の大柄のスタッフに宿泊代を支払った。これまでの彼の印象からは考えがたい柔らかな対応をしてくれた。多少ぼくを信用してくれたようだ。共通言語としての貨幣、言語を均一化する手段としての貨幣、そこに言葉はいらない。
しかし、あのバンクの東洋風の女性は、もしかしたら在留朝鮮人の子孫ではないだろうか。あるいは、二ヴフやアイヌの血が入っていることも考えられる。
日本統治時代、強制労働のために半島から連れてこられた人、その子孫が今なおサハリンで生活している。彼らの多くは先祖の言葉を失いロシア語を使っている。そして「ロシア人」だ。けれども、彼女らのアイデンティティの一部が、「日本人に強制労働させられていた朝鮮人の子孫」である可能性も否定できないだろう。この土地のロシア人を含め、日本、日本人によい印象を持っていないひとがいることも確かだ。銀行の帰りがけ、すれ違った若い男性に、遠くから唾を吐き捨てられるような場面もあった。もちろん、その理由はわからない。けれども、彼女、彼らの苛立ちや怒りを咎める気にはならない。個人的な怒りやストレスは社会的、政治的な問題と不可分だから、出来事を完全に個人に還元して安易に判断することは、ぼくには難しい。例えそれをぼくにぶつけたところで、どうにもならないことは確かだけれども、ぼくにはその行為に反論することができない。とはいえ、またその責任をぼくだけが負うべきだとも思えない。それはかえって傲慢だ。しかし、責任を完全に個人に還元することができないとしたら、罪とはどのようにありえるだろうか。あるいは罰とは。
  バーでウォッカをのんだ。
  今日は、南の港街、コルサコフにむかう。
  9/29
  27日夕方、ふと思い立ち、アレクサンドロスフク・サハリンスキーにむかうことにした。流刑移民が暮らしていたサハリンかつての中心地であり、チェーホフが調査のために3カ月滞在していた場所。今回の旅でいかなければ後悔すると思い、準備をし、ユジノサハリンスク駅に向かった。駅でチケットを買い、22:30発の寝台列車に乗る。一日に二つしかない、果ての街、ノグリスク行き。
寝台列車に乗るのは初めてだった。車両内はイメージ通りだった。列車の進行方向に対して左側に乗客室が並び、右側は通路になっていて、赤い絨毯が敷かれている。ぼくは客室に入り、窓がわに座った。六畳くらいの客室には二段ベッドが二つあり、真ん中にはテーブルが置かれていた。窓の外の暗闇を眺めながら、ぼーっと考えごとをしていると、体格のよい老婆が部屋に入ってきた。彼女は当然だがロシア語であいさつをする。ぼくは片言のロシア語であいさつを返し、お互いの行先を英語で話した。彼女もティモフスクで下車し、アレクサンドロスフク・サハリンスキーにバスでむかうらしい。その後、30代中盤くらいの大きなタトゥーの入った男が、気温とは不釣り合いの薄着で入室してくるなり、すぐに寝床の準備をはじめた。毛布やシーツを手際よく三人分に振りわける。手慣れている様子だった。彼はぼくに「お前は上で寝てくれ」というようなことを言っていたと思う。「俺は準備をしたんだから、下の方でいいよな?」という暗黙の了解要請も含まれていたように思う。ぼくは一度部屋をでて、彼の寝仕度が済むのを待ち、横になったのを確認して、ひっそり踏み台に足をかけ、上のベッドにのぼった。ベッドにごろんと寝転がると、天井が近く、こじんまりしているが、不快な感じではない。むしろこのくらい狭い方が落ち着く気がする。寝心地は悪くなさそうだった。けれども、昼寝をしてしまったので、あまり眠れそうにもなかった。ティモフスクまでは約9時間ある。ガイドブックをみたり、iPhoneのマップで現在地を確かめたりして、考えごとをした。
  朝がきて、支度をし、廊下にでる。窓の外を眺める。薄明かりのなか、森が遠く山のむこうまで広がっている。人が一切踏み込まない土地なのだろう。そこでは動物や植物が生態系をなし、営んでいる。先日博物館でみた剥製の動物たちが、人の目のとどかないところで、実際に生きている。そう考えるとなんだかわくわくした。昔、スキーにいったときに、リフトの下をながめ、雪に動物の足跡がついていないか、あるいはあわよくば足跡の主の姿が現れないか、こっそり探していたことを思い出した。あの静かな興奮にどことなく似ている。
しばらくすると、窓の外に小道が現れ、また道具がおかれ、トレッキングコースのようになっているところが見えはじめた。駅に近づくにつれ、徐々に人の手のはいった様相は高まり、廃墟、小屋、そして街のなかに入った。ぼくは森への夢想をやめ、次に行動すべきことを考えはじめていた。
寝台列車を降り、バスを探す。すぐにアレクサンドロスフク・サハリンスキーゆきの503番バスがみつかった。運転手に運賃をわたし、奥に座る。前の方の席は混んでいたが、後ろはすいていた。平日だったからよかったものの、土日だったら予約せずに座るのは難しかったかもしれない。一日一本のそのバスを逃したら、アレクサンドロスフク・サハリンスキーへは、タクシーでいくことになる。それは高くつきそうだし、避けたかった。最悪ヒッチハイクという手もあるが、ロシア語を話せない以上、なるべく安定した手段に頼りたかった。
  バスの運転は荒く、道の状態もひどかった。ほとんど常にがたがたはやまず、ときたま飛び跳ねるほどの振動をともなった。山道は、舗装されておらず、砂利を蛇行しながらすすんだ。そのあいだ初期微動でもおきているかのように揺れ続け、はね続けた。ちょっとした遊園地の絶叫系アトラクションのようだし、揺れに弱いひとは、嘔吐は必至だろう。足元をみると清掃用のモップとバケツがあった。ぼくはあまりの現実離れした揺れの激しさに何度か笑ってしまったものの、幸い気持ち悪くはならなかった。後ろの席のほうが揺れやすい、ということもあったのか、前の方に固まっているひとたちは、慣れた様子で乗りこなしていた。乗客が固まることで振動が抑えられ、安定した座席を獲得することができるのだろうか、そういったことも、あの住民たちの固まり様とは関係があるのだろうか、あるいは暖房のない車内の寒さをしのぐために。
後方の座席にいるのは、やさぐれた少年と、入れ墨が入り、この寒さなのにはだけた格好をしている男、そして僕だけだ。
  北原白秋のやや楽観的すぎる紀行文「フレップ・トリップ」にもサハリンの道路と車の描写があったが、あまり状況は変わっているとは思えない。
  バスは一時間と少し走ると、アレクサンドロスフク・サハリンスキーの街中にはいった。ユジノサハリンスクと同様、原色の塗装がほどこされたぼろアパートがならぶ。ところどころにシベリア式の木造住居がある。最後の乗客と一緒にバスを降りた。
雪は降っていないものの、いつ降ってもおかしくない寒さだと感じた。ぼくは自分の服装がこの土地に合っていないことをすぐにさとった。わからされた、と言った方が近いかもしれない。シャツとパーカの上にダウンジャケットといった服装は、この土地の海風にとってなんのことはなく、容易に体温を奪うことのできる布きれにすぎなかった。街を歩き、iPhoneのマップを頼りに海にむかうことにした。久しぶりに海がみたかった。歩いていれば寒さも気にならないだろうと考えた。そういえば、横浜でちらっと眺めたのをのぞけば、今年は一度も海をみていない。古いシベリア様式の小屋。そこにも人は住んでいるようだ。野良犬の多さ、シベリア式住宅の飼い犬からは吠えられたが、野良犬は人懐っこく、立ち止まるとこちらによって来る。サハリンの街の動物は人間への恐怖心が薄いのだろうか。残念ながら海外保険にも入っておらず、ワクチンも打っていなかったので、彼らと遊ぶことはあきらめていた。また餌をあたえるのもこの土地の方針が定かではなかったので控えた。海の方へ階段をのぼり、くだる。いくつかの海沿いの街と同じく、この場所には坂が多い。街の中心地は丘の上にある。そこから5分くらい歩くと、工事中の公園に痩せこけたチェーホフ像が立っていた。その公園の前には、チェーホフがたびたび訪れたという元囚人Lの家があった。今ではチェーホフや囚人に関する資料が展示されている博物館になっている。近くのスーパーで菓子パンとチーズを買って朝食をとった。例によって店員はぶっきらぼうだった。先ほどの元囚人L宅の博物館に入るつもりだったが、まだオープンするまでは時間があった。海まで歩くことにした。
浜辺沿いの小丘にのぼる。海がみえ、例の三兄弟の奇岩が遠くにある。あれが三兄弟の岩、チェーホフの「サハリン島」に記述されている奇岩。そして、この土地に流刑者とチェーホフはいた。浜辺には、おそらく囚人たちが労働していたであろう廃居となった施設や作業場が未だならんでいた。座礁し、赤茶色に錆びついた船が、河口の方に点々としている。まるで世界の終わりの光景をみているようだった。ここにはぼくしかおらず、他のひとはいない。この世から去ってしまったみたいだ。あるいはぼくは亡霊なのだろうか。海から冷たい秋の風が吹きすさんでくる。
博物館がそろそろ開いているころだった。博物館に戻ることにした。インターフォンを押すとなかから女性スタッフが顔をだした。中に入り、やりとりをする。ロシア語を話せないからか、東洋人だからか、こういった若者が一人で来るのが珍しいからか、彼女は終始くぐもった顔をする。しばらくなかを見学し、外のトイレを借り、戻ると、博物館の入口が閉まっていた。スタッフはどこかに行ってしまったようだ。トイレが目的だと思われたのかもしれない。
仕方がないので、また海の方を歩いてみることにした。海辺をずっと河口の方へ歩く、あるいは、三兄弟の奇岩、座礁船の方へ。正面、南から強い風、フードをかぶり、頭の防寒をする。砂がふきつける。ゴォーという風の音が、強弱をつけて鳴っている。呼吸、衣服の擦れる音、足が砂をはむ音、足元を流れる砂の音、そして風によって運ばれる波の音が重なっていく。砂浜は貝殻が散乱し、ウォッカの空き瓶がカラカラ揺れている。夏は海水浴におとずれる人もいるというその砂浜につづく廃墟をながめる。目視できないが、海の向こうにはユーラシア大陸があり、ロシア本国がある。流刑者は、海のむこうの本国への郷愁にうちひしがれていたことだろう。チェーホフは、そう記述していた。
また、世界の果てへ来てしまったという観念が頭をよぎる。ユーラシアの最果ての島へ来てしまったという観念。アジアでもユーラシアでもない、どこでもない場所。無、虚無、無常。こういった言葉しか頭にうかばないし、またそういった言葉に相応しい場所なのだった。流刑地として栄えた場所は、今はもう捨てられたも同然の廃墟と化している。ここはゼロにほどなく近い場所。微かに廃墟のみによって、過去を読み取ることができる場所。絶望の地。
しかしふと気がつくと、絶望とともに希望も感じている自分がいた。何もない、ということの希望。空白がある、可能性がある、ということの希望。未来があるということそれ自体の光。
  ここにも兵士が配置され、子供と戯れ、デートしている。
  帰りがけ、街中のショップでジャケットコートを買った。アレクサンドロスフク・サハリンスキーでは縫製業も営まれている。バスを待つまで寒さに耐えきれそうになかった。ジャケットはブランドを装いながらも有名ブランドではなかったし、糸の処理が甘かった。タグには、Ice leopardという表記がされている。薄手にもかかわらず暖かかった。
  ティモフスク行きのバス��までの道を、地元の子供たちに教えてもらった。スパスィーバ。
  9/30
  昨日はホルムストクへいった。日本統治時代、真岡と呼ばれたその場所は、第二次世界大戦後の8日間、日本軍とソ連軍のあいだで激しい戦闘のあった場所だ。そこもまた、サハリンの他のいくつかの街と同じように、今もまだ、あるいは今だからこそ、日本の面影がちらちらと垣間見える。
博物館へいき、戦争に関連した展示をみてから、街へでる。すると、世界が変わった。駅前に並ぶ花屋は、死者への献花。トンネルの戦闘グラフィティは歴史画。
けれども、その変容は一時的なものにすぎなかった。今ここに生きてるひとたちがいる。
  ここのバスも例によって運転が粗かった。道路脇の崖はコンクリートで固められていない。おそらく頻繁に崖崩れがあるはずだ。そして、高速道路がないかわりに、公道を100キロ以上の時速で、駆け抜けるバスは、いつ事故を起こしてもおかしくない。ガードレールはお粗末。先日のフライトでも感じたが、この場所の乗り物には危険がつきまとう。けれども、彼らはおかまいなしだ。死んだら死んだでそこまでさ、とでも言わんばかりだ。だから飛行機が着陸すると拍手をする、のだろうか、それは偶然着陸したに過ぎないことを知っている、からだろうか。おそろしいが、素敵なことでもある。ぼくは自分のことをそこそこテキトーな人間だと思っていたが、そのぼくでさえもこの場所のあり方にいささかおどおどしてしまう。ぼくはそこまで偶然性にゆだねることができない。
  空港へのバスを街のひとに何度も尋ね、なんとか乗ることができた。危うく、フライトを逃すところだった。逆方面のバスに乗ってしまったのだった。しかし出会ったひとたちのおかげでなんとか間に合った。結局、セルゲイとは会えなかった。
そして今ハバロスクにいる。土産も買った。帰って味噌汁と米が食べたいと思う。
  10/1
  ハバロフスク。久しぶりに空港で寝た。よく眠れたと思う。防寒をしっかりすることが重要らしい。
  枠組みの目的性が強いとやはりやる気がでない。適当に無目的性、無意味性を担保していないとどうにもやる気にならない。
  ホステルに泊まる人達はほぼ男性であり、ぼくの印象では、彼らの朝は遅い、9時過ぎまで寝ている。
  店員��女性の冷たく、あしらうような態度が最高だ。例えそれがロシア語ができない人へのうんざりしたもの、差別的なものだとしても、悪い気はしない。正直でいること、そのままでいること自体は悪いことではない。問題は別にある。店員が客にへこへこするのは間違っている。しょうがなくやってんだ、という感じがよい。
  ユジノサハリンスクのあるホテルの地下レストランで一緒に踊った中年の夫婦、エレーナとセルゲイは、結婚記念日のようだった。彼女たちはコースを注文し、コニャックのボトルを入れ、店に照明と音楽を要求する。音楽が鳴り、店内がカラフルな光で彩られると、彼女たちは踊り始める。ぼくは隣の席で、トラウトを食べビールをのみながら、その様子をながめていた。夫側に写真を頼まれたので、何枚かシャッターをきった。すると、彼はぼくの空いたグラスにコニャックをそそぎ、こっちの席に来いと言う。遠慮したのだが、せっかくなので同席した。名前を名乗り、握手をし、踊った。写真をとり、食事をともにし、コニャックを飲み干した。ぼくもかなり酔っていた。レストランにくるまでに、すでに何件かまわってウォッカをあおり、足がもたついていた。セルゲイは、お前に娘を紹介するよ、という感じで、電話をかけはじめた。しかし、電話はつながらなかった。せっかくロシア美人と知り合う機会だったというのに。
エレーナは泣きだした。なぜだかわからないが、急に泣きはじめた。それをセルゲイが慰める。彼が花を準備していなかったから、内心怒っていたのか、それとも嬉し泣きか。いや、そうは見えない。悲しいできごとを思い出したのだろうか、ぼくにはわからない。
エレーナにエスコートされ、踊った。彼女はぼくの腕を自身の腰にまわし、まっすぐ目を見て、という仕草をする。体が密着し、豊満な肉体が紫色のドレス越しに感ぜられる。アルコールと甘ったるい体臭、柑橘系の香水の混ざった匂いがした。ぼくも酔っていたから、普段なら恥ずかしい場面にもかかわらず、目を見つめ、体を寄せた。今となっては彼女の瞳の色さえ覚えていない。スカイブルーに近い色だった気もする。
また席につき、食事をともにし、夫婦と抱擁し、キスをする。そして彼女たちは嵐のように会計をすませ、部屋に去っていった。ぼくは、しばらく茫然と座っていたが、ふと我に返り、会計をすませ、ふらふらホステルに戻った。
帰りがけスーパーに寄り、塩味のポテトチップスとスモークされたハムとチーズ、レタスなどがはさまれたサンドウィッチを買った。踊ったからだろうか、小腹がすいていた。ホステルのベッドに座って、ぼろぼろと食べ屑を落とし、水をのみ、眠った。
  ポケットの中で、スペースがしわくちゃだ。ところどころねじれて、壁の外と内が入れかわり、箱と呼ぶには変形しすぎている。ま、いいか。
  「サハリン島」を再び読みはじめた。以前読んでいたときにはピンとこなかった情景も、現地にいったことで、煌々と見えてくる。三兄弟の奇岩、元囚人L氏の家、シベリア式の木造住宅、農地、強い風、うつり変わりやすい天気、錆びついた座礁船、壊れた桟橋、砂に埋もれたトロッコの線路、全てが残っていた。百年以上のものがあんなにもそのままになっているなんて、信じがたかった。チェーホフのみた風景とぼくのみた風景が、差異と距離をたもちながら、部分的に重なる。
  なお、よく言われたり書かれたりしていることではあるが、ギリヤーク人の間では、家長という存在も別段、尊敬を払われてはいない。父親の方も、自分が子供より年上だとは思っていないし、子供の方でも、格別、父親を敬おうとはせず、好き放題な暮らしをしている。年よりの母親も、家の中で特に未成年の娘より権力を持っているわけではない。息子が生みの母親を殴って、家から追い出しても、別に誰ひとり口を出す者もないのはよく見かけたところだ、とバシニャークは書いている。男性の家族はすべて同等なのである。だからもし読者が、ギリヤーク人にウォートカでも振舞おうとするなら、最年少者にまで飲ませなければいけない。
(チェーホフ「サハリン島」)
  コルサコフの名物になっている店、ペンギン・バー。入口前の敷地の左右に、可愛らしい表情のペンギンの像が立っている。それとは対照的に、むすっとした女性店員に注文し(まるで戦闘直前のサラ・コナーのよう)、ニシンの塩漬け、ボルシチなどを食べ、地ビールをいくつか飲んだ。天気雨が降りはじめた。
  コルサコフの博物館を探し、道行くひとに場所を訪ねて歩いていた。小さなスーパーに入ると、アジア系の男性が片言の日本語で話しかけてくる。日本統治時代の残留朝鮮人の二世の方だろうか。彼らは家族との別離をよぎなくされた。場所を教えてもらい、礼をいって、博物館へむかった。
  サハリンの多くの場所はロシア化されているけれども、そこには、まだ微かに、しかもなかば可視的な形で、これまでそこに暮らしてきたひとたちの要素が香っている。それがサハリンを曖昧な、「どこでもない場所」として、醸している。それは存在しているのではない。「存在」という言葉では「かたすぎる」。風のように流れ、匂いのように漂っている。それはグローバリゼーションにおける「どこでもない場所」とは明確に異なる。その場所「固有」の「どこでもない場所」性。
  あの道路のがたがたは、時間どおりにそこに到着しなければならない、という制約からの、自然との戯れや出来事の偶然性の波にのったちょっとした逃走。
  あの土地の雀はひとに近づきすぎている。足元まで近寄っても気にもしない。考えられない距離まで近づいてくる。関係が良好とさえ思えるくらいに。
  アレクサンドロスフク・サハリンスキーのレーニン広場のベンチに、少女が二人、鳩と戯れていた。その情景が、天使のイメージと結びついた。
  2.
  言語の問題。英語で話しかけると、何人かのロシア人は不機嫌な表情をする。なぜだろうか。特に傲慢な態度はとっていないつもりだった。
ぼくは、自分がロシア語を多少なりとも学んでおかなかったことを恥じたし、この土地でロシア語を話そうとしないことは失礼に値すると感じた。もしかしたら、彼女たちは、「敬意を払わない」ということに対しての苛立ちを感じていたのかもしれない。ここはあくまでロシアであって、他の国ではない。あるいは、英語はアメリカを想起させるのだろうか。そもそもおそらくこれは場所によって言語の文脈が変わる、ということだろう。この「場所」では英語は使われていない。それはあるひとにとっては、単に意味不明な言語としてあるのかもしれないし、あるひとにとってはアメリカを想起させるものかもしれない。何にしろ、ここでは英語は異物としての印象を禁じえない。そして言語は、領土化と関係していること。その土地で使われていない言語で話すということの「政治性」。つまり日本語でも同じ印象を与えたかもしれない。言語が通じないということの圧倒的な壁による諦め。「わたしとあなたは違うのだ」ということの証明でしかないただの雑音。けれども、違うからこそ、そこで生まれうる別種のやりとりがあると考えることができると思うのだが。しかし確かに、互いの言語が通じない、伝えたいのに伝えられない。受け取りたいのに、何も受け取ることができない宙づりの関係は、何か曖昧な不安をともなうものだ。だから多くの場合、あまり長い時間その空間に身を置くことができないし、特に何か目的をもったやりとり、例えば、買い物をする時や、事務的で一般的な速度を求められる手続きの時は、どこかお互いの精神に負担をもたらすことになる。目的を遂行するための効率性が、ディスコミュニケーションによって低下するからだ。
けれども、これがただコミュニケーションをとるため、という無目的性が強いものになるとどうだろうか。そのぎこちないやりとり、すれ違いを楽しむ可能性も生まれるかもしれない。互いの差異を差異のまま楽しむことができるかもしれない。
  安易に共通言語を形成することに違和感がある。それは相手を「わかったつもり」になってしまうことにつながるからだ。人がひとをわかることはありえない。それが前提されていないやり取りには疑問を覚える。例え、科学技術によって感覚と感覚が共有可能となったとしても、その感覚を判断するメタ認識は、異なるはずだし、そのメタ認識自体さえ共有できたとしても、その一連の「感覚-判断」の単位自体は、個々の文脈によって異なるはずだ。だから、もし感覚を「共有」できたとしても、その感覚は感覚の模造にすぎず、完全に「わかる」ことはない。そのことと、「わかりたい」という欲望は関係しているが、別のことだ。けして知ることができないからこそ、できるだけ知りたいと思うことは不思議なことではない。けれども、その欲望は傲慢な態度にも結びつく。「わかる」ということが「所有」と関係した事象、概念だからだろう。では、どのようにその欲望の対象、また欲望自身と付き合えばよいのか、ただそこには、対面する、という方法のみがあるように思う。けして分かり合えない二者は別々のままに、けして同化することなく、ただ対面している、というだけの状態。その対面の仕方こそが問題なのだろう。諸々の対面方法の間には無限のグラデーションがある。けれども「わかる」ことはない、各々が孤独のままであることに変わりはない。
共通言語は、時間と関係している。コミュニケーションの効率性に共通言語は関係している。共通言語を持ちたいという欲望は、時間の有限性に関係している。あるいは「わかること」の証明に共通言語は利用される。その共通言語は習慣になり、信仰になる。だから、そこから取りこぼすものが、見えなくなってしまう。もちろん、その構造にのった上で、交換できるものはあるのだけれど、それはあくまで活用するものだし、その効用に限界があるのは、あきらかだ。時間をかけて、継続的、断続的で、多様な方法のやりとりが、交わされること、試みられることが望ましいと思うのだが。例えば、意味から剥がれ落ちた言語の音を楽しむだけ、ということもできる。
もちろん、「わかること」がないとしても共通言語を用いたコミュニケーションを取る必要はある。���れは、生きていかなければならないからだ。例え、それが欺瞞的で、無駄口で、多弁的なものだとしても、同じテーブルにつく、ということ自体が重要なものになるだろう。それは気持ち悪さを抱えたものだ。異物を内に抱えたまま、なお異物と対面していなければならないから。けれども、そもそも完全に真っ白な人間などいないことを思えば、薄汚い欺瞞的なテーブルにつく、というのも少しは気楽になる。��ういったネガティヴな要素も人間の一面ということだろう。それを否定することはできない。むしろ時には愛おしくもある。
  そういった思弁とは別に、ただいるだけで楽しいね、とかはあるじゃん。
  その土地で多くの人が扱う一般言語があるとして、それとは異なる言語を発し、それを土地の人が聞くということ。それは、発声による空気の振動が、空疎な「意味」として、受け手に解釈され、その意味を吟味し終えるまで、空間を領土化する、ということになるのではないか。その意味は受け手の身体の中で反復し、領土化するのではないか。おそらくそれは往々にして不快なものだろう。そしてその不快感は、馴染みのない異物を身体になかば強制的に送り込まれる不快感、嫌悪なのではないだろうか。けれども、その「送り込まれている」という印象の要因は、「受け手側にも」ある。例えば、全く知らない言語を自分が所属している共同体内で、不意に現されるときに、その現れたモノにたいし、寛容に振る舞う、という可能性もあるのではないだろうか。そのやりとりの最中に、領土化/防衛という概念の当てはまる事象が、現れていない場合もあるのではないか。ただ「わからない」ということだけが「わかっている」宙づりの状態は、領土化/防衛という観念から逃れている状態、と言えないだろうか。
ぼくが無邪気にサハリンで現地住民に英語や日本語で話しかけるとき、おそらく大きく分けてその二パターンの出来事がおきている。
  全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
(旧約聖書 創世記)
  定住という観念について微細な視点をもっているべきではないだろうか。そこにとどまり続けているという思い込みについて考えるべきなのだろう。それは旅をすることでようやくわかることでもある。つまり移住と定住は「同じ」であるということ。意識的に無問題にすること、差異を前提に「在り方」として並列化させること。そう考えることで、領土化の作用を逃れることができるのではないだろうか。いつも仮の地点にしかいないということ。場所は揺れ動き続けているということ。
  この地域の人たちの、自然や偶然性に対する寛容さともいうべき、運命への譲渡についてどう考えるべきだろうか。こじんまりした家をたて、質素な暮らしをする。そして長年住んだ家が朽ちたら、補修などせずに、別の場所に移る。また新しい場所を家にする。壊れるなら壊れてもかまわない。いつか壊れるのだから、しっかり家を建てる必要もない。最低限の条件がそろっていればそれでいい。道路端の崖だって、やろうと思えば技術で制御できるのにやらない。田舎だからそんな技術がない?それとも、自然に対してのある種の諦めがある?
  準備をしないこと、失敗について。ぼくはこの旅で(も)多くの失敗をした。ぐだぐだである。そのほとんどはぼくの準備不足が原因だった。けれども、周囲の助けのおかげでなんとかなった。もちろんそれは迷惑をかけることでもある。そのことについて。例えば、ぼくがしっかり準備し、ミスをせず、スマートに事を運んでいたなら、数々の出会いはなかった。人の温かみも、自分のちっぽけさも再び、確認することができなかっただろう。けれども、そういった単純な旅の失敗弁護とは別に、ミスをせず、スマートに事を運ぶ、という観念が、それを実践できたことさえも、周囲の環境に要因があることを覆い隠してしまうものではないだろうか。あるいは「自己」という単一的な幻にのみ「成果」を還元してしまう誤った観念と結びつきやすくしてしまうのではないか。責任を引き受けるというのは、未来におこる出来事の要因を自己に一部、あるいは全面的に限定、収束する考え方だとも言える。
遠回りをして、眺める景色、また街の違った風景をみることができるということは、特に悪いことではない。むしろ良い機会にもなる。安全な道をいく、準備をしていく、というのはそういった偶然的な機会を自覚的にせよ無自覚的にせよ排除することだともいえる。もしあの時、空港行きのバスを教えてくれたあの人を信用せずにタクシーに乗っていたら、どうだっただろうか、それはそれでまた違った景色がみえただろうか。マニラのように高い金を要求されただろうか。それもそれでいいだろう。けれども、ぼくが街のひとが教えてくれた63番バスを信用し、助けてもらったということが決定的に重要だ。これでフライトに遅れるなら、それはそれでいいと思えたこと。もちろん、計画通り進める楽しさとやりがいもある。責任を一時的に引き受け、計画をし、準備をすることは、仕事や生活のなかでは必要なことだ。つまり、どちらでもいいということ。その時の周囲の流れのなかで、勘にしたがって判断していくしかない、という状態に身を置くこと。空間を滑る、ということ。旅や散歩、移動にかぎらず、時をすごすというのは、ぼくにとってそういった偶然性と戯れる遊びのようなところがある。小さいころのスキーのように。
  raccoon dogs teakettle ディレクター 森尻 尊
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weeklyliberty-blog · 7 years
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ミーゼス、ネオリベラルに反対する
Idem, “What’s the Difference Between Libearlism and ‘Neoliberalism’?”, idem, 10/21/2016, [https://mises.org/blog/whats-difference-between-liberalism-and-neoliberalism]
ジョージ・モンビオットは、行き渡った「新自由主義」の邪悪に関するエッセー[1]で、フィリップ・ミロウスキーの本『光より熱い―社会物理学としての経済学、自然の経済学としての物理学』More Heat than Light: Economics as Social Physics, Physics as Nature’s Economics[2]と似たように混乱していることを示した。
フィリップ・バグスがミロウスキーの本に関する長いレビュー[3]〔後の章「なぜミロウスキーはネオ自由主義とオーストリア学派のことを間違えているのか」を見よ〕で述べるには、ミロウスキーはいみじくも、シカゴ学派含む新古典派経済学の多くの側面に批判的である。しかし、ミロウスキーは経済思想学派についてもっと大なる理解を示さなければならないときに、困った立場に陥っている。ミロウスキーは怠惰のせいにせよ無知のせいにせよ、シカゴ学派とオーストリア学派を識別することができず、違いの例を一つも挙げない。そのうえバグスが述べるとおり、シカゴ学派とオーストリア学派の違いは、自生的秩序、企業家精神、政府計画化、「効率性」、景気循環、その他多くの問題において重大である。これらの違いは好ましい政策と世界観一般の観点でかなり巨大な不同意を生み出しているのである。
ミロウスキーを読んでもモンビオットを読んでも、このことは分からないだろう。彼らはただ、エドゥアルド・ベルンシュタイン式以外の民主社会主義をすべて「ネオ自由主義」(=「新自由主義」=「ネオリベラリズム」)と分類するにすぎない。[4]
このことは、モンビオットがルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとミルトン・フリードマンを多かれ少なかれイデオロギー的に識別不可能であるかのように話すとき即座に明らかになる。また、モンビオットはミーゼスがモンペルラン協会の創設者の一人であると指摘しながらこの協会の話を始めることで、モンペルラン協会が本質的にミーゼス派であると仄めかしてもいる。
モンペルラン協会の派閥
もちろん現実の世界では、ミーゼスはレッセフェール自由主義者(すなわち、ミーゼス)とルートヴィヒ・エアハルトらネオ自由主義者の間の重大なイデオロギッシュな相違のせいですぐにモンペルラン協会に不安を感じ始めた。ヨーク・ギド・フルスマンはエッセー『ネオ自由主義者に反対する』で次のとおり書き留める。
このように異なる志向性をもった集団がモンペルラン協会内部に共存していたことは会員にはよく知られていた。 これはまた新参者にとっても分かりきっていた。好例はルクセンブルクでの経営学と経済学の若い教授たるジャン=ピエール・アミリユであり、ミーゼスが文通で知り合った人物である。アミリユはその頃に古典的自由主義の文献を発見し、これを貪り読んでフランス語とドイツ語に翻訳していた。ミーゼスは彼をモンペルラン協会一九五三年ゼーリスベルク会合に招待した。アミリユは協会がイデオロギーの志向と言語の違いに沿って「異なる集団および氏族」に分裂していることにすぐに気づいた。彼自身はミーゼスとハズリット、モーリー、ファーティグ、ミラーのアメリカ人集団に親近感を抱いた。彼は、彼がミーゼスに招待されたことを知らない他の参加者からがときに「古い保守主義者」と称した「旧守派」(ミーゼスとハイエクら)に関し、彼らから疑念を聞かされていた。ルクセンブルクから来たこの若い教授は、この旧守派には属さない多様な会員の干渉主義計画のことを熱心に書き留めて論ったのだった。ジョン・ヴァン・シックルは高額相続者への課税を提案し、ヴィルヘルム・レプケは家の持ち主への助成金を好み、オットー・ファイトは企業家が重税で仕事を思いとどまることはないだろうと論じた。[5]
モンビオットはこのすべてを無視するし、――フルスマンによれば、ミーゼスが「一生涯かけて戦っていた相手である社会主義者より到底マシな人々ではなかった」とみなした――第三の道干渉主義者とレッセフェール・リバタリアンをちっとも区別しない。
モンビオットのようなジャーナリストには、これらの相違はもしかしたらパーソナリティーの衝突とみなされるのかもしれないが、経済学を実際に教育された人はみな、中央銀行を支持する人々と、中央銀行に反対する人々をたった一つの範疇に分類することが馬鹿馬鹿しいことを知っている。
ネオ自由主義者と実際の自由主義者の間の最も明白で主要な断層線の一つはおのずと、中央銀行に関する見解の不一致にある。これらの相違はまた景気循環と独占についてのかなり巨大な不一致の原因にもなっている。
モンビオットはこの上なく幸せそうにも、このすべてを知らないようだ。モンビオットはエッセーで(いみじくも)、ネオ自由主義が二〇〇八年金融メルトダウンの重大な役を担ったことを書き留めるが、それからルートヴィヒ・フォン・ミーゼスにネオ自由主義者のレッテルを張り、ミーゼスと彼の知的後継者がネオ自由主義の景気循環と景気後退、そのような危機での中央銀行の役割に関する見解に対して全面的に反対していたことを知らないと合図している。モンビオットは、たとえばネオ自由主義者がミーゼスとオーストリア学徒の大恐慌の原因の見解を拒絶したことさえ知らないのか? 大恐慌をどう見るかには現在の経済危機をどう見るかに甚大な含意があるから、取るに足らないパーソナリティーの不同意があったわけではないのである。
これらの見落としは、(ミーゼスとは反対の)エアハルトからフリードマンまでのネオ自由主義者が非常に膨大な量の市場干渉を是認するという事実にもかかわらず、モンビオットにとってネオ自由主義が「自由市場資本主義」の符丁にすぎないのはなぜかを説明するのに役立つ。
けれども、モンビオットが言っていることを聞くと、ミーゼスの見解がいまや勝利を得たて、どこの政権も干渉主義を控え、税率を下げ、自由市場急進派が世間一般で優勢になったかのように思うだろう。モンビオットは労働党と民主党が「かつて左翼の一部」だったのに今では右翼、自由市場、レッセフェールの熱狂者に吸収されてしまったと主張する。
おそらくモンビオットは、政府ヘルスケアと政府年金、あらゆる水準での広範な事業規制のような、かつて「左翼」とみなされたものが今では単なる主流派であり、もはや左翼ユートピアンたちの遥けき夢ではないことに端的に気づいていないのだろう。
あるいはおそらく、現実ではアメリカ合衆国が大規模福祉国家を有し[6]、三つ以外のすべての国以上に政府ヘルスケア貨幣を支出している[7]ときに、モンビオットはアメリカ合衆国をある種の社会ダーウィニズム、自由市場、フリー・フォー・オールとでも想像しているのだろう。
モンビオットのノスタルジックな悲観主義
モンビオットは想像上の筋金入りレッセフェール非干渉主義の勝利が原因で起こった社会悪をリストにする。
〔ネオ自由主義は〕異常な種類の危機で主役を演じた。二〇〇七~〇八年の金融メルトダウン[8]、パナマ文書[9]が垣間見せた富と権力のオフショア化、公共の健康と教育の緩やかな崩壊、再発した児童貧困、孤独の蔓延[10]、エコシステムの崩壊、ドナルド・トランプ[11]の台頭。しかし我々はこれらの危機があたかも別々に生じたかのように反応しており、どうやら、これらすべてを触媒し、悪化させた、同一の首尾一貫した哲学、その名前のある――あるいは、あった――哲学に、気づいていないようだ。名前もなく行使できる権力で、これ以上大きなものはあるだろうか?
どうやら税率が低すぎると批判していると思しき「孤独の蔓延」を除けば、モンビオットは児童貧困の「再発」や「エコシステムの崩壊」などリスト上の他の社会悪のリンクやドキュメントを提出しない。児童貧困は正確にはいつとの比較において再発したんだ? 十九世紀との比較か? これは笑える断言だ、貧困は想像上では自由市場派が世界中に死のブレーキを確立したはずの五十年前より、今のラテンアメリカでの方が厳しいとでも言っているかのようではないか。エコシステムは近頃の数十年でネオリベが勝利したから崩壊したと? 明らかに、モンビオットはカヤホガ川が五十年前にどうだったか気づいていない。[12]
実は、私はモンビオットのエッセーを読みながら、どこかで同じようなものに出くわしたような思いをしていた。そして気づいたのだが、モンビオットは教皇フランシスコと同じ世界観とイデオロギーの持ち主だったのだ。フランシスコの見解は容赦なく悲観的であり、[13]いつでもどこでも何もかもが悪くなっているという理念に捧げられている。どうやらモンビオットもまた世界経済が主として本質的に無規制な市場に牛耳られているというフランシスコの支持不可能な見解を分かち合っているようだ。私がフランシスコの二〇一五年の見解について記したとおり、
フランシスコによると、世界は我々のまわりでもうほとんど崩れ落ちている。貧者はますます貧しくなっている、と彼は主張する。貧富の不平等〔格差〕はかつてより酷くなっている、と彼は言う。汚染はかつてなく我々を病気にかからせている、と彼は仄めかす。そして人間の生命を維持するための基本的な要件が、かつてなく利用できなくなっている、と。これらの主張は或る目的に仕えている。産業化〔工業化〕と市場経済(近代的現象)がこれらの社会悪と環境悪の原因である、と例証する目的に。フランシスコは、彼が「大盛りの汚物の山」と言うところの世界の図を描く際、彼の断言が事実に関して端的に間違っていると示せる豊かな経験的与件を無視している。[14]
ネオ自由主義の下では、自由市場は部分的勝利を収める
マルクス主義者とは違って、レッセフェール自由主義者は、自分たちのイデオロギーは部分的にしか適用されなかったらむしろ物事をもっと悪くしてしまう、とは言わない。たとえばマルクス主義が適用されるとき、生活水準の低下が普通に観察される。これは――大量飢餓を避けるために――速やかに引き返してソビエト経済内部に幾らかの市場活動を許す新経済政策〔ネップ〕を実行したレーニンの下で生じた。マルクス主義純粋主義者にとって、「純粋」マルクス経済の失敗はマルクス主義が十分には適用されなかったという事実が非難されなければならない。すなわち、ちょっとでも古いブルジョワ社会が残されていたら、マルクス主義が機能しないのである。ただ全体純粋マルクス主義だけが実際に人民の暮らしをよくさせられる。
レッセフェール自由主義者は決してこれを主張しなかった。なぜならば、他が等しくば、もっと自由な市場への部分的な運動が生活水準を向上させたと示すことは、できるからである。これは毛沢東後の中国と、ソビエト連合後の東ヨーロッパでも確かに事実だった。どちらも程度の差はあれ政府干渉主義と政府後援独占に支配されているように、どちらでも自由主義は「完全に」は適用されなかった。チリとベネズエラの比較において、これがラテンアメリカで機能していることが分かるかもしれない。どれほど想像力を働かせようと、チリもベネズエラも「自由市場」体制ではない。しかしながら、二国間の相対的な経済的自由の違いは重大である。
ネオ自由主義の多くの罪
中央銀行、大企業救済措置、規制国家に対するネオ自由主義の支持は、実際に有害であり、かなりの貧困のもとになっている。これらネオ自由主義政策は通常の納税者の犠牲において政治的に贔屓された会社と産業に報酬を与えながら景気循環を引き起こしている。
だが、モンビオットのような評論家はこれを逆に見る。ネオ自由主義の問題はネオリベ運動が中央銀行とご贔屓の商業銀行を支持することではないらしい。この世界のモンビオットたちにとって、問題は、人が企業家的で、革新的であり、自由を行使するために、政府に保証される経済的な自由が多すぎることなのである。
あいにく、ネオ自由主義は第三の道イデオロギーであり、政府干渉と制限レッセフェールの混合である。健全な経済理論に基づかない人にとっては、ネオ自由主義が実際に多くの分野で影響力を振るっていることは分かるだろうが、そこから、彼の既存のバイアスを支持することなるようなどんな結論を引き出すのも楽勝である。
言い換えれば、同一領域での貧困の存在とネオ自由主義の存在の間に相関関係を見出したければ、それは難しいことではない。同じように、ネオ自由主義の存在と生活水準の上昇の間の相関関係も、見出したければ見出すことができるだろう。
問題は、この相関関係が因果関係を示さないことであり、因果関係を発見する唯一の方法は、眼目の経済原理を研究しに戻ることである。
もちろん、モンビオットはそうしない。彼はネオ自由主義の台頭が多くの社会悪を創造したという興味深い歴史的社会学的理論を――どんな経済的議論もなく――構成した。もしも我々がモンビオットの分析に依存するならば、ネオ自由主義のどの面が申し立て上の問題を引き起こしたのかはまったくの当てずっぽうになる。
[1] George Monbiot, Neoliberalism – the ideology at the root of all our problems, The Guardian, [https://www.theguardian.com/books/2016/apr/15/neoliberalism-ideology-problem-george-monbiot]
[2] Philip Mirowski, More Heat than Light: Economics as Social Physics, Physics as Nature’s Economics, (Cambridge University Press; Reprint edition, November 29, 1991)
[3] https://mises.org/library/why-austrians-are-not-neoliberals
[4] Ryan McMaken, Bernie Sanders Is Right: The US Is Already a Socialist Country, Mises Wire, 12/04/2015 [https://mises.org/blog/bernie-sanders-right-us-already-socialist-country]
[5] https://mises.org/library/against-neoliberals
[6] Ryan McMaken, “’Social Expenditures’ In the US Are Higher Than All Other OECD Countries, Except France,” Mises Institute, 10/30/2015, [https://mises.org/blog/social-expenditures-us-are-higher-all-other-oecd-countries-except-france]
[7] Ryan McMaken, “Bernie Sanders Says We Should be Spending Less on Health Care”, Mises Institute, 01/22/2016, [https://mises.org/blog/bernie-sanders-says-we-should-be-spending-less-health-care]
[8] http://www.theguardian.com/business/financial-crisis
[9] http://www.theguardian.com/news/series/panama-papers
[10] George Monbiot, “The Age of Loneliness Is Killing Us,” The Guardian, [http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/oct/14/age-of-loneliness-killing-us]
[11] http://www.theguardian.com/us-news/donaldtrump
[12] “Cuyahoga River Fire,” Ohio History Center, [http://www.ohiohistorycentral.org/w/Cuyahoga_River_Fire?rec=1642]
[13] Ryan McMaken, “Pope Francis’s Relentless Pessimism Fuels His Faith in Politics,” Mises Institute, 06/19/2015, [https://mises.org/library/pope-francis%E2%80%99s-relentless-pessimism-fuels-his-faith-politics]
[14] https://mises.org/library/pope-francis%E2%80%99s-relentless-pessimism-fuels-his-faith-politics
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bsiokbe · 7 years
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5歳 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1761年:クラシック音楽作曲家)  最初の作曲を行う。ピアノ曲「アンダンテ ハ長調 K.1a」 。他に5曲作っている。   9歳 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1765年=9歳0か月:クラシック音楽作曲家)  最初の交響曲を初演。作曲は8歳の時。   出雲阿国(1581年:女芸能者、歌舞伎創始者)  9月(新暦の10月)に御所で「ややこ踊り」を演じた記録がある。この時、数えで8~11歳と記録されているので、7~10歳の間と考えられる。   10歳 フランシス・ドレーク(1553年:海賊、イギリス海軍提督)  この頃に家出し、近所に住む老船長の船に乗る。  のちに下層農民の身分から海軍提督にまで上り詰める。封建時代・絶対王制の西欧社会での一番の出世物語の始まり。   11歳 森鴎外(森林太郎/1873年=11歳7か月:医者、小説家)  東京帝国大学医学部予科へ入学。日本における最年少の大学入学記録。 マララ・ユスフザイ(2009年:平和人権活動家)  武装勢力タリバン支配地域の惨状を英BBCに匿名で投稿していたが、パキスタン政府が表彰のために本名を公開してしまった。  表彰のある講演会の会場にあらわれ、以降、本名での平和人権活動に変わる。同時にタリバンから命を狙われるようになる。   12歳 ベンジャミン・フランクリン(1718年:科学者、政治家)  10歳で学校を終えて兄の経営する印刷所(現在の出版社)で働き始める。  兄が政府批判の書籍を印刷した罪で投獄されると、12歳で編集長兼発行人を任される。 13歳 ミケランジェロ・ブオナローティ(1488年:美術家)  幼いの頃から絵画や彫刻に興味を示し、この年にドメニコ・ギルランダイオに弟子入りする。   ジュリエット・キャブレット(1595年:シェイクスピア著)  演劇「ロミオとジュリエット」   14歳 ジャンヌ・ダルク(1428年=14歳4か月:聖人)  大天使ミカエルの啓示を受け、オルレアンを訪れる。 マリー・アントワネット(1755年=14歳5か月:オーストリア大公王女、フランス王妃)  フランス王子ルイ15世と政略結婚させられる。 アン・サリヴァン(1880年=14歳5か月:ヘレン・ケラーの家庭教師)  病気で9歳の時に視力を失い、マサチューセッツ州にあるパーキンス盲学校に訓練のために入学する。  その後の手術が成功し、わずかながら視力は回復する。 坂井三郎(1933年=14歳8か月:戦闘機乗り、太平洋戦争の撃墜王)  飛行機を近くで見たいという一心で、周囲の反対を無視して海軍へ入隊する。 八百屋お七(1683年=数えでは16歳:八百屋の娘)  大火で避難した寺で会った男と再開したいため、放火未遂の罪を犯して火刑に処せられる。 大石主税良金(1703年=数えでは16歳:赤穂浪士)  大石内蔵助の息子。赤穂浪士の最年少。吉良邸討ち入り。切腹。   15歳 近藤勇(1849年=15歳1か月:幕末志士)  農民の子供であるが、武士を目指して剣術道場へ入門する。 マララ・ユスフザイ(2012年=15歳3か月:平和人権活動家)  中学からスクールバスで帰宅するところを武装勢力タリバンに襲撃され、頭部と首に銃弾を受ける重傷を負う。治療のためにイギリスへ渡る。 ジョン万次郎(1841年:漁師、翻訳家)  鳥島へ漂着して143日間のサバイバル生活を送る。  その後アメリカの捕鯨船に救助されるが、船長に気に入られてアメリカへ連れていかれた。 乃木希典(1865年:武士、軍人)  長州軍の一兵卒として初陣。幕府軍と戦う。   16歳 山下清(1938年=16歳9か月:放浪画家)  銀座にある画廊で初の個展を開催。画家として高い評価を受ける。 ニール・アームストロング(1947年=16歳10か月:宇宙飛行士)  ホロウェイ・プランという海軍入隊を前提とした奨学金制度を利用して、大学へ進学する。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1787年:クラシック音楽作曲家)  ウィーンへ旅行し、モーツァルトに弟子入りを求めるが断られる。 ウォルト・ディズニー(1917年:漫画家、実業家)  第一次世界大戦のフランスから復員。帰国後、漫画家として活動を始める。   フローレンス・ナイチンゲール(1837年=16歳8か月:看護師、統計学者)  生涯4度あったという神の啓示のうち、最初の啓示を受ける。この時はまだ啓示によって行動が変わることはなかった。   蝶々夫人(マダム・バタフライ/1904年:ジャコモ・プッチーニ作)  オペラ「蝶々夫人」。アメリカ海軍士官ピンカートンの現地妻になった歳。   17歳 手塚治虫(1946年=17歳2か月:漫画家)  4コマ漫画「マアチャンの日記帳」で漫画家デビュー。 マララ・ユスフザイ(2014年=17歳4か月:平和人権活動家)  史上最年少でのノーベル平和賞受賞。 ウラジーミル・レーニン(1887年=17歳8か月:革命家)  学生運動に参加したことで逮捕・投獄され、大学からも退学処分を受ける。  この投獄、監視中にカール・マルクスの資本論などを読みあさり、マルクス主義へ急速に傾倒していく。 マルコ・ポーロ(1271年:商人)  ヴェネチアからアジアの旅へ出発する。 伊達政宗(1584年:戦国大名)  武将としての素質を見抜いた父輝宗から、伊達家17代の家督を継承する。この時の父輝宗は40歳。 天草四郎時貞(1638年:キリスト教徒総大将)  島原の乱の首謀者として処刑される。生年不詳。17歳ぐらいとさ���る。   18歳 ヴィクトリア女王(アレクサンドリナ・ヴィクトリア/1837年=18歳0か月:イギリス女王)  前任のウィリアム4世の崩御により、イギリス女王となる。イギリス黄金期の象徴的存在。 山下清(1940年=18歳0か月:放浪画家)  徴兵検査がイヤで逃亡。放浪生活が始まる。(1954年まで) ビル・ゲイツ(1975年=18歳5か月:実業家)  ポール・アレンと共にトラフォデータ社を創設。同年にはハーバード大学を休学し、マイクロソフト社を創業する。 マザー・テレサ(アグネス・ボヤジュ/1929年=18歳8か月:カトリック教修道女)  インドのロレート修道会へ入会。この頃にダージリンで見たインドの貧民の生活に衝撃を受ける。 カール・フリードリッヒ・ガウス(1796年=18歳11か月:数学者)  正17角形の作図法を発見。この発見を機に数学者の道を進むことに決める。  またこの発見の前に統計手法として重要な「最小二乗法」も発見している。   19歳 中大兄皇子(645年:のちの天智天皇)  中臣鎌足とともにクーデターを起こし、蘇我入鹿を殺害した。ここから大化の改新が始まる。 ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(1875年:地質学者)  明治政府に招かれて東京帝大の初代教授に就任する。  ナウマンに関する経歴には不明な点が多い。結果としての業績は大きいが、この時はまだミュンヘン大学の学部生だったという話もあるが……。 ハワード・ヒューズ(1925年:実業家)  前年の父の死により莫大な遺産を手にし、それを元に最初の事業として映画制作を始める。  のちに航空宇宙産業にも手を出し、「地球上の富の半分を持つ男」という二つ名を与えられる大実業家となる。   20歳 フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1829年=20歳1か月:クラシック音楽作曲家)  J.S.バッハの作品を再評価し、マタイ受難曲を死後初上演する。 ビル・ゲイツ(1975年=20歳2か月:実業家)  マイクロソフト社設立。 マザー・テレサ(アグネス・ボヤジュ/1931年=20歳9か月:カトリック教修道女)  誓願を立て、聖人になることを誓う。 アン・サリヴァン(1887年=20歳10か月:ヘレン・ケラーの家庭教師)  ヘレン・ケラーの家庭教師として、パーキンス盲学校から派遣される。  サリヴァンの派遣は、電話の発明者グラハム・ベルの仲介による。   ジョージ・H・W・ブッシュ(1944年:政治家、アメリカ第41代大統領)  太平洋戦争に攻撃機パイロットとして従軍したこの年、2回撃墜されるも生還している。 三島由紀夫(1955年:小説家、劇作家)  世界一周旅行中にギリシャで見た彫像に感化され、この頃からボディビルによる肉体改造を始める。   21歳 エルビス・プレスリー(1956年=21歳3か月:ロックミュージシャン)  前年サン・レコードからRCAへ移籍。その移籍1曲目で一気にブレイクする。 スティーブ・ジョブズ(1977年=21歳10か月:実業家)  アップル社設立。7か月前にApple Iを発表してパソコンを生み出す。それで得た資金を元手にした。 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1861年:クラシック音楽作曲家)  法務省に勤めながら、サンクトペテルブルグ音楽院に通い始める。 沖田総司(1863年:幕末志士)  新撰組1番隊隊長となる。この時、19歳という説もある。 ユージン・オーマンディ(1921年:ヴァイオリニスト、クラシック指揮者)  マネージャーに騙され、演奏旅行で来ていたニューヨークの街に無一文で放り出される。  糧を得るためにニューヨーク・キャピタル劇場管弦楽団のヴァイオリン奏者となり、腕を買われてその年の内にコンサートマスターになる。  アメリカンドリームを象徴する大出世譚の始まり。   22歳 フランツ・シューベルト(1819年=22歳0か月:クラシック音楽作曲家)  ピアノ五重奏曲「鱒」作曲。  この頃にシューベルトの音楽は一度完成の域に達し、以降、新しいスタイルを確立しようと苦悩する。  同じ頃に仲介者が起こしたトラブルに巻き込まれ、楽譜出版界から干されたに等しい扱いを受ける。  以降に作った歌曲以外の曲(オペラを含む)は、この時から20年以上(死後10年以上)一つも出版できなかった。  死の10年後、遺族を訪問したシューマンが楽譜を発見しなかったら、そのまま埋もれた作家になっていた可能性がある。 チャールズ・ダーウィン(1931年=22歳10か月:生物学者)  測量船ビーグル号に乗り、ここから5年間世界を旅する。 アレクサンダー3世(紀元前334年:マケドニア大王)  東方遠征を始める。2年後にはエジプト、3年後にはペルシャを征服する。   23歳 エイブラハム・リンカーン(1832年=23歳1か月:政治家)  義勇兵の身分のままイリノイ州議員選挙に立候補するが落選。2年後に初当選するとイリノイ州軍大尉になる。 毛沢東(1918年=23歳3か月:政治家、思想家)  師範学校卒業前に、学友たちと政治結社「新民学会」を創立。ここから1年間、共産主義について猛勉強する。 高杉晋作(1863年=23歳7か月:尊王の志士)  下関戦争で米仏から報復を受けた関門海峡の防衛を任される。 高杉晋作(1863年=23歳8か月:尊王の志士)  奇兵隊創設。 島崎藤村(1906年=23歳11か月:詩人、小説家)  長編小説「破戒」を自費出版。作家デビュー。 劉備(184年:三国志英雄)  黄巾の乱が起こり、関羽、張飛らと義勇軍を起こす。 福沢諭吉(1858年:蘭学者、啓蒙思想家)  蘭学塾「一小家塾」(のちの慶応義塾大学)を創立。 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1863年:クラシック音楽作曲家)  法務省を辞職し、音楽活動に専念する。   24歳 小澤征爾(1959年=24歳0か月:クラシック音楽指揮者)  第9回ブザンソン国際音楽祭の指揮者部門でコンクール第1位となる。 吉田松陰(1854年=24歳7か月:長州藩士)  ロシア船に密航を企てるが失敗する。のちに松下村塾を起こす。 鳥山明(1980年=24歳8か月:漫画家) 「Dr.スランプ」連載開始。同年発売の第���巻は短期間に100万部を突破して話題となる。 チャールズ・チャップリン(1914年=24歳9か月:喜劇俳優)  映画「ヴェニスの子供自動車競走」で扮したチョビ髭の紳士の格好が受け、以降のスタイルを確立する。 ユージン・オーマンディ(1924年=24歳10か月:ヴァイオリニスト、クラシック指揮者)  指揮者デビュー。急病で倒れた指揮者の代役で、ニューヨーク・キャピタル劇場管弦楽団を指揮する。  これを機にバイオリン奏者から指揮者へ転向する。 ビル・ゲイツ(1980年:実業家)  MS-DOSを開発。   25歳 織田信長(1560年=25歳11か月:戦国武将)  桶狭間の戦いで今川軍を破り、天下取りに名乗りを挙げる。 アルフレッド・ヒッチコック(1925年:映画監督)  この時はまだ映画会社の広告デザイナーだったが、サイレント映画を監督するチャンスが与えられる。 ビル・ゲイツ(1980年:実業家)   IBMが自社パソコンに使うOSの独自開発に断念し、デジタルリサーチ社のCP/Mを採用しようとするが交渉が折り合わず不採用。  代わりにMS-DOSを採用され、ここから実業家としての大躍進が始まる。   アイザック・ニュートン(1668年:物理学者)  この頃、ペストの流行により故郷へ戻る。そこで万有引力、光学、微分積分学などの着想を次々と得る。「創造的休暇」の年。 毛沢東(1919年:政治家、思想家)  この年、帰郷して故郷の初等中学校で歴史教師をしていた。   26歳 パブロ・ピカソ(1907年=26歳0か月:画家)  抽象画の実験作「アビニヨンの娘たち」をマティス、ブラックなど一部の友人たちに公開。反応が良くないため、激しく落胆する。  ほぼ1年後にブラックも挑戦した抽象画を画廊で公開したところから抽象画の制作が始まる。 ナポレオン・ボナパルト(1795年=26歳2か月:軍人)  フランス軍の将軍に昇進する。兵学校を卒業して砲兵士官として任官してから10年での偉業。 長谷川町子(1946年=26歳3か月:漫画家)  福岡県の地方紙『夕刊フクニチ』にて「サザエさん」の連載開始。 マザー・テレサ(アグネス・ボヤジュ/1937年=26歳8か月:カトリック教修道女)  最終誓願を立てる。これより世界の貧困救済のための聖人生活が始まる。 クリスティアン・ホイヘンス(1655年=26歳10か月、天文学者、物理学者、数学者)  土星の衛星タイタンを発見。土星の周りに見えるものが環であることを発見。オリオン大星雲を発見しスケッチを残す。 アルバート・アインシュタイン(1905年:物理学者) 「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」等、5つの論文を提出する。「奇跡の年」。  なお、この時に提出した「特殊相対性理論」は大学側が理解できず、論文は受理されなかった。 スティーブ・ジョブズ(1981年:実業家)  IBMがパソコン市場に参入してきたため急速にシェアを奪われていく。対抗策としてLisaプロジェクトを立ち上げる。  ただし仲間との不和により翌年にはLisaプロジェクトからはずされ、別に立ち上げたMacintoshプロジェクトに専念する。   ジョン・F・ケネディ(1943年=26歳2か月:政治家、第35代アメリカ大統領)  魚雷艇の艇長としてソロモン諸島へ配属されて4か月目。駆逐艦「天霧」と衝突して海に投げ出される。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1802年:クラシック音楽作曲家)  この頃から難聴が始まる。ただし高音が聞き取れなくなる西欧人に多い遺伝病であって、完全に聴力が奪われたわけではない。   27歳 チェ・ゲバラ(1955年=27歳1か月:キューバ革命家)  亡命先のメキシコでフィデル・カストロと出会い意気投合。軍医としてゲリラ戦に参加することを決意する。 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1823年=27歳4か月:医師、博物学者)  鎖国中の日本へ来て、オランダ商館の医師となる。 クリスティアン・ホイヘンス(1656年=27歳8か月、天文学者、物理学者、数学者)  天文観測のために振り子時計を製作。  振り子時計はガリレオの発明だが、振り子の不規則な振動を抑えて実用化に成功する。 土方歳三(1863年=27歳10か月:幕末志士)  新撰組の前身となる壬生浪士組を結成する。 諸葛亮(諸葛孔明/208年:軍師)  赤壁の戦いでいくつもの奇計を講じて、10倍もの兵力差のあった曹操軍を退ける。  この時、曹操(53歳)、劉備(47歳)、孫権(26歳)、周瑜(33歳)。 湯川秀樹(1934年:物理学者) 「中間子理論構想」の論文を発表。   28歳 アーサー・コナン・ドイル(1887年=28歳7か月:小説家)  シャーロック・ホームズ・シリーズの第1作、「緋色の研究」を発表。 ヨハン・ゼバスチャン・バッハ(1714年=28歳10か月:クラシック音楽作曲家)  ヴァイマールの楽師長に就任。しかしお家騒動に巻き込まれて投獄されるハメになる。 フランシス・ドレーク(1568年:海賊、イギリス海軍提督)  乗船していた交易船がスペイン海軍の奇襲を受けて壊滅。これにより生涯続くスペインへの復讐心に火がつく。 宮本武蔵(1612年:剣豪)  巌流島で佐々木小次郎と戦う。生年には諸説あり、25歳~30歳の幅がある。 松平定信(1787年:大名、政治家)  徳川家斉のもとで家老となり、寛政の改革に着手する。 アルバート・アインシュタイン(1907年:物理学者) 「等価原理」を着想。これがのちの「一般相対性理論」になる。   ジミー・カーター(1953年:政治家、第39代アメリカ大統領)  父の死により勤めていた海軍を退役し、南部のピーナッツ農場の経営を引き継ぐ。政治家として活動を始めるのは35歳から。   29歳 グラハム・ベル(1876年=29歳0か月:発明家)  電話の実験に成功。最初の言葉は「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」。 ミケランジェロ・ブオナローティ(1504年=29歳6か月:美術家)  製作期間4年を経て、ダビデ像完成。 坂本龍馬(1867年=29歳7か月:土佐藩士)  亀山社中(のちの海援隊)を創設。事業経営を始める。 ゴータマ・シッダールタ(釈迦/年齢は特定されるが年代は不詳:宗教家、仏教創始者)  王宮を抜け出して出家。仙人修業を始める。 木曽義仲(1183年:平安武将)  1180年に挙兵。1183年7月に京都に入り、ついに念願の天下人となる。  しかし、それまでの戦乱と飢饉が重なったために治安を回復できず、そこから反撃を受けて一気に転落人生となり、翌年に討ち取られる。 ジェームス・ワット(1765年:技術者、発明家)  蒸気機関の発明に成功する。ただし資金難で実用化まで10年以上かかる。 ハワード・ヒューズ(1935年:実業家)  航空産業に乗り出し、ヒューズ・エアクラフト社を創設。同年、偽名でアメリカン航空へもぐりこみ、パイロットをやっている。   30歳 スティーブ・ジョブズ(1985年=30歳0か月:実業家)  30歳の誕生日。アップル社の取締役会によって、創業者でありながらアップル社から追放されてしまう。  3か月後にNeXT社を立ち上げ、のちのMacOSXとなるOSの開発を始める。 ビル・ゲイツ(1985年=30歳0か月:実業家)  Windows発表。前年に発表されたMasOSが自社パソコン専用だったのに対して汎用であったため、5年でOSの市場占有率第1位となる。 徳川慶喜(1868年=30歳2か月:徳川第15代将軍)  大政奉還。 坂本龍馬(1866年=30歳2か月:土佐藩士)  西郷隆盛、桂小五郎(のちの木戸孝允)を説き伏せ、薩長同盟を成立させる。 スティーブ・ジョブズ(1986年=30歳11か月:実業家)  ルーカスフィルム社のコンピューター部門を買収し、CG映画会社ピクサーを立ち上げる。 フランシス・ドレーク(1570年:海賊、イギリス海軍提督)  2年前に受けた恨みから、スペイン船を狙った海賊活動を始める。 出雲阿国(1603年:女芸能者、歌舞伎創始者)  春に「かぶき踊り」を上演。世界初の歌劇上演記録で、のちの歌舞伎となる。歌舞伎は1600年には演じられていた可能性がある。  当初の歌舞伎は女優のみが歌って踊る「宝塚歌劇」に似た構成だった。  ただし歌舞伎を風俗業界がこぞって真似た影響で、半世紀後には女性が演じることを禁じられ、以降は野郎歌舞伎のみとなった。 トーマス・エジソン(1877年:発明家、実業家)  蓄音機を開発し、発明家としての名声を得る。 アンドリュー・カーネギー(1865年頃:実業家)  通信技師として就職したペンシルベニア鉄道を退職。実業家として歩み出す。  鉄道会社にいた時代に橋が木製から鋼鉄製へ変わると予想して鉄橋会社を設立。製鉄事業の拡大に乗り出す。 ジークムント・フロイト(1886年:精神科医、精神学者)  ウィーンで精神科医院を開業。ここで実践した治療法より精神分析を確立する。 アガサ・クリスティ(1920年:小説家)  作家デビュー。デビュー作は「スタイルズ荘の怪事件」   31歳 ジョン・レノン(1971年=31歳0か月:シンガーソングライター)  楽曲「イマジン」発表。 足利尊氏(1336年:室町幕府初代将軍)  南北朝の動乱を鎮め、室町幕府を確立する。名実ともに認められるのは1338年。 手塚治虫(1961年=31歳4か月:漫画家)   奈良県立医大で医学博士の学位を取る。 手塚治虫(1961年=31歳7か月:漫画家)  手塚動画プロダクション(のちの「虫プロダクション」)創設。 中臣鎌足(645年:政治家)  中大兄皇子とともにクーデターを起こし、蘇我入鹿を殺害した。のちに藤原姓を名乗る。 ユージン・オーマンディ(1931年:ヴァイオリニスト、クラシック指揮者)  病欠したトスカニーニの代役で、フィラデルフィア管弦楽団定期公演を指揮。  この指揮ぶりが評価されて、ミネアポリス交響楽団(現、ミネソタ管弦楽団)の常任指揮者に就任する。   ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1802年:クラシック音楽作曲家)  この頃に悪化した難聴に悩み、自殺を考えていたらしい。   32歳 アドルフ・ヒトラー(1921年=32歳3か月:政治家)  所属政党名を国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に改名し、党首となる。 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1788年=32歳6か月:クラシック音楽作曲家)  三大交響曲(39番~41番)を作曲。この完成度に満足したのか、これ以降は交響曲を作曲していない。 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1828年=32歳8か月:医師、博物学者)  季節はずれの台風により、シーボルト事件発生。 トーマス・エジソン(1877年=32歳8か月:発明家、実業家)  エジソン電球(白熱電球)を開発。 アーネスト・トンプソン・シートン(1892年:画家、動物学者)  動物専門の画家としてのかたわら、動物に関する専門書や手記を書き始める。この手記が日本で「シートン動物記」として編纂される。   33歳 ジョージ・ルーカス(1977年=33歳0か月:映画監督)  映画「スター・ウォーズ」公開。 ミケランジェロ・ブオナローティ(1508年:美術家)  バチカン宮殿システィーナ礼拝堂の天井画制作を命じられる。 ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1864年:理論物理学者)  古典電磁気学を確立する。この理論で電磁波を予想し、それまでオカルト扱いだった電波の実用化に道を作る。 アーネスト・トンプソン・シートン(1893年:画家、動物学者)  アメリカの実業家からの依頼でニューメキシコへ行く。そこで「狼王ロボ」の元となる狼と出会う。   34歳 フローレンス・ナイチンゲール(1854年=34歳6か月:看護師、統計学者)  クリミア戦争で看護師として従軍中、生涯3度目の神の啓示を受ける。  以降、戦場病院の補給状況と看護状態の改善に努め、最大42%あった死亡率を翌年には2%まで減らすことに成功する。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1804年=34歳11か月:クラシック音楽作曲家)  唯一のオペラ「フィデリオ」を上演。  ただしベートーヴェンの付けたタイトルは「レオノーレ」だったが、それを劇場支配人が勝手に「フィデリオ」へ変えてしまった。  そのことへの抵抗か、ベートーヴェンは序曲「レオノーレ」を5度にわたって作曲している。  現在、もっとも演奏されているのは序曲「レオノーレ」第3番。 ウィリアム・ハーシェル(1773年:クラシック音楽家、天文学者)  数学への興味が高じて始めた天文学を、この頃から本格的に研究するようになる。  この頃のハーシェルは人気のオルガン奏者(本職はヴァイオリン)で、交響曲も20曲以上(最終的に24曲)作っていた。   35歳 ナポレオン・ボナパルト(1804年=35歳3か月:軍人)  フランスの皇帝となる。 フィンセント・ヴァン・ゴッホ(1888年4か月:画家)  名作「ひまわり」の1作目に着手する。  この半年前に精神病から耳を切り落としている。 フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1844年=35歳7か月:クラシック音楽作曲家)  名曲、ヴァイオリン協奏曲ホ短調完成。曲の着想から6年をかけていた。 ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1942年=35歳5か月:クラシック音楽作曲家)  交響曲第7番「レニングラード」世界初演。戦時中のソ連のプロパガンダ曲という評価がある。  のちにマイクロフィルムに納めたこの楽譜をめぐって、連合軍とドイツ軍が奪い合う事件が起こる。   36歳 ウォルト・ディズニー(1937年=36歳0か月:漫画家、実業家)  長編アニメ「白雪姫」公開。 ウィルバー・ライト(1903年=36歳8か月:発明家/自転車屋)  世界初の動力飛行に成功。弟オーヴィルは32歳。 安藤広重(歌川広重/1833年:浮世絵師)  東海道五十三次作成。前年���京都まで往復の旅をする機会を得ていた。 川端康成(1935年:小説家)  小説「雪国」を発表。同作品は1968年にノーベル賞を受ける。   37歳 フランシス・ドレーク(1580年=37歳6か月:海賊、イギリス海軍提督)  エリザベス女王に謁見。海賊行為で集めた30万ポンド以上の金銀財宝を献上。その功績によりサーの称号を受け貴族となる。  農民の子から貴族へと出世した、絶対王政時代の最高の出世物語。 ニコラウス・コペルニクス(1510年:天文学者) 「太陽中心説」(地動説)を初めて公言する。   38歳 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1818年=38歳0か月:クラシック音楽作曲家)  田園交響曲(第6番)と運命交響曲(第5番)を同時初演する。  初演は田園交響曲の方が先であったため、当初はそちらが第5番と番号が振られていた。 夏目漱石(1905年=38歳11か月:小説家)  作家デビュー。デビュー作は「吾輩は猫である」 ジャン・アンリ・ファーブル(1861年:生物学者)  研究の資金稼ぎのために昆虫の研究を休み、アカネから染料を取り出す研究に没頭。染料を精製する技術開発に成功する。  しかし先にドイツの企業に染料の人工合成に成功され、事業化には失敗する。 ユージン・オーマンディ(1938年:ヴァイオリニスト、クラシック指揮者)  前任者ストコフスキーの辞任により、フィラデルフィア管弦楽団音楽監督に就任。以降人気指揮者として在任期間42年の最長記録を打ち立てる。 ビル・ゲイツ(1994年:実業家)  Windowsの大成功により、この年より14年間世界一の億万長者となる。   39歳 田中角栄(1957年=39歳2か月:政治家)  郵政大臣就任。戦後初の30代大臣。 グラハム・ベル(1887年=39歳11か月:発明家)  旧知のヘレン・ケラーの家庭教師として、アン・サリヴァンを推薦する。サリヴァンが家庭教師として赴任したのは、ベルの40歳の誕生日だった。 フェルディナンド・マゼラン(1519年:生年不詳、1480年頃とされる/冒険家)  世界一周航海へ出港。翌々年、フィリピンで戦死する。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1810年:クラシック音楽作曲家)  初演時の「フィデリオ」の名前でオペラの楽譜が出版される。ベートーヴェンはあくまで自分の付けた「レオノーレ」で出したかった。   40歳 ジェームス・ワット(1776年=40歳0か月:技術者、発明家)  蒸気機関の業務用第1号が完成する。 フローレンス・ナイチンゲール(1860年=40歳1か月:看護師、統計学者)  ロンドン聖トマス病院内にナイチンゲール看護学校開校。学生数は10名。  この頃、ナイチンゲールが唱えた公衆衛生の改善案がイギリス議会で採択され、翌年から都市部の死亡率が劇的に下がる。 ムハンマド・イブン=アブドラーフ(モハメット/610年頃:イスラム教創始者)  大天使ジブリール(ガブリエル)からの啓示を受け、預言者としての活動を始める。この時の年齢は不詳。40歳前後と思われる。 クラウディオ・モンテヴェルディ(1607年:歌手、作曲家)  世界最古のオペラ「オルフェオ」を上演。  オペラは1600年にメディチ家の結婚式で演じられたリヌッチーニの「エウリディーチェ」が最古とされるが、非公開である。   41歳 マルコ・ポーロ(1295年:商人)  アジアへの旅から24年ぶりにヴェネチアへ戻る。  行きはシルクロードを通ったが、戻りはインド経由の海路だった。 クリストファ・コロンブス(1492年:生年不詳、1451年頃とされる/冒険家)  西回りでアジアへ向かい、アメリカ新大陸に到達する。(1回目の航海) 大石内蔵助良男(1701年:赤穂藩筆頭家老)  藩主浅野内匠頭が江戸城松の廊下で刃傷沙汰を起こし、お家断絶。再興のために動き始める。 フローレンス・ナイチンゲール(1861年:看護師、統計学者)  生涯4度目の神の啓示を受け、飢餓救済のために植民地(インド等)の潅漑用水整備を政治家たちに呼びかけ始める。 宮崎駿(1982年:アニメ監督)  漫画「風の谷のナウシカ」連載開始。   バカボンのパパ(1967年:赤塚不二夫著)  漫画「天才バカボン」   42歳 ウィリアム・ハーシェル(1781年=42歳3か月:クラシック音楽家、天文学者)  天王星を発見する。これを機に音楽家の道を捨て、本格的に天文学者となる。のちに観測から天の川銀河の構造を予想する。 スティーブ・ジョブズ(1997年:42歳4か月:実業家)  経営悪化で株式の暴落したアップル社の買収に成功。最大株主の立場を利用して自分を追放した役員たちを全員追放する。  もっとも経営が破綻したアップル社はもう立て直せないと思ったのか、役員追放後、株式1株を残して、あとの150万株をすべて売ってしまう。  その後のアップル社は、ジョブズと関係のあるエリソンらが経営者に就任する。   43歳 宮崎駿(1984年=43歳2か月:アニメ監督)  アニメ映画「風の谷のナウシカ」公開。 ヨハネス・ブラームス(1976年=43歳5か月・クラシック音楽作曲家)  交響曲第1番を完成、初演。作曲開始から21年もの歳月をかけていた。  ブラームスは完成後も、何度も楽譜に手を加えている。 夏目漱石(1910年=43歳6か月:小説家)  伊豆修禅寺で大吐血。作家デビューからの出版ストレスによって急速に胃潰瘍を悪化。1916年、49歳で没。 大石内蔵助良男(1703年=数えでは45歳:赤穂藩筆頭家老)  吉良邸討ち入り。切腹。   44歳 大塩平八郎(1837年=44歳0か月:儒学者)  幕府の腐敗を嘆き、私財を投げ打って大塩平八郎の乱を起こす。 伊藤博文(1885年=44歳2か月:政治家)  初代内閣総理大臣となる。現在も就任時の最年少記録。 宮崎駿(1985年=44歳4か月:アニメ監督)  スタジオジブリ設立。 アイザック・ニュートン(1687年=44歳6か月:物理学者) 「プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)」出版。これが古典力学の基礎となる。 マルコ・ポーロ(1298年:商人)  ヴェネチアとジェノヴァの戦争に巻き込まれ、志願兵として従軍するもジェノヴァの捕虜となる。  この時に獄中で出会った著述家ルスティケロ・ダ・ピサにより、口述された内容が『東方見聞録』として出版される。  なお、『東方見聞録』にはピサによる創作や聞きかじった間違いの逸話が書き加えられている。 ジョキアノ・ロッシーニ(1836年:オペラ作曲家)  音楽家を引退。以降は養豚場、レストランを開き、美食家の道を進む。   45歳 アドルフ・ヒトラー(1934年=45歳4か月:政治家)  ドイツ総統となる。 フランシス・ドレーク(1588年=45歳5か月:海賊、イギリス海軍提督)  アルマダの海戦でイギリス艦隊の実質的な司令官を務め、スペイン無敵艦隊を壊滅させる。17年続いた復讐劇の完遂。 ニコラ=ジョゼフ・キュニョー(1770年=45歳9か月:軍事技術者)  世界初の自動車事故を起こす。  前年、蒸気機関で動く3輪自動車(小型の試作車)を開発。4kmを1時間で走破した。  事故を起こしたのは5tある大砲を牽引するために作られた大型で、ルイ15世の前で披露するまさにその時だった。 ガリレオ・ガリレイ(1610年=45歳10か月:科学者)  木星の4大衛星を発見。 三島由紀夫(1970年=45歳10か月:小説家、劇作家)  三島事件。自衛隊市ヶ谷駐屯地(現防衛省本庁)東部方面総監部に乱入。クーデターに失敗し割腹自殺。   ダルタニャン老人(1884年:アレクサンドル・デュマ著)  小説「三銃士」~主人公ダルタニャンの父   46歳 スティーブ・ジョブズ(2001年=46歳0か月:実業家)  ずっと拒んでいたアップル社の最高経営責任者(CEO)に就任。ここからアップル社は10年で、世界最大の株式会社へと急成長する。 ベンジャミン・フランクリン(1753年:科学者、政治家)  嵐の中で凧を揚げ、雷が電気現象であることを確認する。   47歳 滝川馬琴(1814年:小説家) 「南総里見八犬伝」を執筆開始。完了まで28年を費やす。   48歳 西郷隆盛(1877年=48歳11か月:政治家)  挙兵し、西南戦争を起こす。 アレクサンダー・フレミング(1929年:細菌学者)  ペニシリンを発見する。   50歳 チャールズ・ダーウィン(1959年=50歳9か月:生物学者) 「種の起源」出版。 ユリウス・カエサル(前49年:軍人)  ルビコン川を渡って元老院と対立。のちにローマ内戦を起こして既得権で私腹を肥やす元老院議員を次々と破る。 佐々木小次郎(1612年:剣豪)  生年不詳。宮本武蔵と巌流島で戦った時、最低でも50歳であったらしい。仮に師匠冨田勢源の直弟子であった場合は60歳以上になる。   51歳 エイブラハム・リンカーン(1860年:政治家、第16代アメリカ大統領)  大統領選の中、11歳のグレース・ベデルの手紙を見て、トレードマークになるヒゲを生やすようになる。   52歳 アントニン・ドヴォルザーク(1893年=52歳3か月:クラシック音楽作曲家)  交響曲第9番ホ短調「新世界より」初演。   磯野フネ(1946年:長谷川町子著)  漫画「サザエさん」   53歳 豊臣秀吉(1590年=52歳5か月:戦国大名)  天下統一の完成。   54歳 エイブラハム・リンカーン(1863年=54歳9か月:政治家、第16代アメリカ大統領) 「人民の、人民による……」のゲティスバーグ演説を行なう。 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1506年:美術家)  この頃に「モナ・リザ」を描き上げたとされる。   磯野波平(1946年:長谷川町子著)  漫画「サザエさん」   55歳 ジャン・アンリ・ファーブル(1879年:生物学者)  これまでの研究成果を紹介するために昆虫記の出版を始める。最初の話題はフンコロガシ。   56歳 乃木希典(1905年=56歳0か月:軍人)  日露戦争で旅順��塞を陥落させる。  この戦いで乃木将軍は無能扱いされているが、装備不足の上に期日を決められると、大勢の戦死者を出す戦い方しか選べなかったとも言われる。 伊能忠敬(1800年=56歳4か月:商人、測量家)  日本全国の測量開始。 ジョージ・ワシントン(1789年:軍人、政治家、アメリカ初代大統領)  アメリカの初代大統領になる。 パブロ・ピカソ(1937年:画家)  名画とされる『泣く女』制作。   57歳 東郷平八郎(1905年=57歳4か月:軍人)  日露戦争、日本海海戦で、ロシア・バルチック艦隊を東郷ターンで撃破する。   59歳 マシュー・ペリー(1853年=59歳3か月:軍人)  ペリー艦隊を率いて浦賀に来航する。 チャールズ・ウォルコット(1909年:古生物学者)  カンブリア紀の生物化石を良い状態で保存したバージェス頁岩を発見する。   60歳 セザール・フランク(1883年:クラシック音楽作曲家)  若い頃に作曲を学んで細々と作曲活動をしていたが、この年から本格的に作曲活動を始める。  最高傑作の交響曲ニ短調は65歳の作品。   63歳 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1795年=63歳1か月:クラシック音楽作曲家)  最後の交響曲となる第104番「ロンドン」を完成させる。 アルフレッド・ヒッチコック(1963年=63歳7か月:映画監督)  ヒッチコックの代名詞となるサイコサスペンス映画「鳥」公開。 葛飾北斎(1823年:浮世絵師)  富嶽三十六景の制作を始める。完成は1833年(73歳)。   68歳 ガリレオ・ガリレイ(1632~3年:科学者)  フィレンツェで著書「天文対話」を発表。異端審問を受け軟禁される。   70歳 ニコラウス・コペルニクス(1543年:天文学者)  死亡2か月後に著書「天体の回転について」を出版する。   71歳 ベンジャミン・フランクリン(1777年:科学者、政治家)  アメリカ独立宣言の起草委員の1人となり、ヨーロッパでの外交交渉役として活躍する。
あの人たちは何歳で何を
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shintani22 · 2 years
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2022年3月12日
2022 明治安田生命J1リーグ 第4節 FC東京サンフレッチェ広島@味の素スタジアム 1万4415人/ 60分 森重真人、61分 アダイウトン、84分 鮎川峻
20歳の若武者が“3日前”同様の股抜きゴール…広島FW鮎川峻「自分の勢いにつながる」(ゲキサカ)
今季リーグ戦初ゴールを奪取した。サンフレッチェ広島FW鮎川峻は「これからの自分の勢いにつながる」と力を込めた。
3日前の9日、U-21日本代表候補で結果を残したばかりだった。横浜FMとの練習試合。前半36分にピッチに送り込まれると躍動する。同41分にスルーパスから抜け出して相手GKの股を抜くシュートを決めると、後半22分には味方の落としたボールに走り込んで右足ボレーでネットを揺らした。
代表で2得点とアピールを成功。「代表の活動で結果を出せた。その勢いのままにと試合前から思っていた」。勢いそのままにクラブでも結果を残すこととなる。
ベンチスタートとなった鮎川に出番が巡ってきたのは、0-2と2点のビハインドを背負って迎えた後半24分。「チームが負けている状況だったので、何としても同点に追い付こうと思ってピッチに入った」と得点への意欲を見せると、5分後の同29分に輝きを放つ。
中盤でボールカットしたMF塩谷司が前を向いて運ぶと、鮎川が反応。最終ライン裏に抜け出してボールを呼び込み、一気の加速で相手選手に置き去りに。最後は距離を詰めたGKヤクブ・スウォビィクの股を抜くシュートを流し込む。3日前同様の股抜きゴールで今季リーグ戦初得点を記録した。
チームの勝利には結び付かなかった。当然、悔しさは残るだろう。しかし、「得意な形を出せたし、それが結果につながったのはこれからの自分の勢いにつながると思う」と語ったように、20歳の若武者が“自信”を手に入れたことも間違いないだろう。(取材・文 折戸岳彦)
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2021-22 Yogibo WEリーグ 第13節 サンフレッチェ広島レジーナ 0-2 日テレ・東京ヴェルディベレーザ@広島広域公園第一球技場 790人/12分 北村菜々美、33分 山本柚月
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制裁でISS落下の恐れ ロシア国営宇宙開発企業(AFPBB)
【3月12日 AFP】ロシア国営宇宙開発企業ロスコスモス(Roscosmos)のドミトリー・ロゴジン(Dmitry Rogozin)社長は12日、国際宇宙ステーション(ISS)に向かう同国の補給船の運用が西側諸国の制裁で阻害されれば、ISSが落下する恐れがあると警告し、制裁の解除を求めた。
制裁の一部はロシアのウクライナ侵攻以前からのものだが、ロゴジン氏は、そうした制裁措置によって、ロシアのISS補給船の運用に支障が出る恐れがあり、その結果、ISSの軌道修正を担うロシア区画が影響を受け、500トン近いISSが海か地上に落下しかねないと述べている。
さらに、「ロシア区画のおかげで、宇宙ごみの回避などを含め、ISSの軌道修正が(年平均11回)確実に実施されている」と主張。
ISSの予想落下地点を表す地図を公開し、ロシアに落下する可能性は低いとする一方で、「しかし、他国の国民、特に『戦争の犬』に率いられた国民は、ロスコスモスに対する制裁の代償について考えるべきだ」として、制裁参加国を「常軌を逸している」と非難した。
ロゴジン氏は先月もツイッター(Twitter)で、ISSが地上に落下すると主張し、西側諸国の制裁を非難していた。
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雪に書いた反戦メッセージで有罪、ロシア市民に広がる自主規制(ロイター)
[ロンドン 11日 ロイター] - ベラ・コトワさんは8時間に及ぶ警察による拘束と裁判所での手続きの末、罰金3万ルーブル(約2万6000円)を言い渡された。軍の信頼を傷つけるような行為を刑事罰の対象とするロシアの新法により、有罪判決を受けた第一号の1人となった。
コトワさんはシベリア地方の街クラスノヤルスクで、ソ連の初代指導者レーニンの銅像の足元に積もった雪に、「戦争反対」というメッセージをハートマークを添えて書き込んだ。それが罪状だった。
クラスノヤルスクの地方裁判所は罰金刑を言い渡し、コトワさんは控訴した。
この事件は地元メディアや対話アプリのテレグラムで取り上げられ、広く知られるようになった。地元の警察官が、コトワさんが書いたメッセージを足で消す様子を映した映像も広まった。
コトワさんの事件を担当したウラジミール・ワシン弁護士は、「いわゆる軍事非難法で最初の事件、最初の判決の1つだ。雪の上に、自分の意見をたったの単語2つ書いただけで有罪になった」と話す。
ロシア連邦議会は4日、ロシア軍の信頼を損なわせようとする行為を刑事罰の対象とし、軍に関する「偽情報」の拡散を禁じる新法を可決した。プーチン大統領は先月24日、ウクライナを「非ナチス化」するための「特別軍事作戦」だとして侵攻を開始。民主国家を侵略するための偽りの口実だとして、国際社会から非難が集まっている。
<失職と報復>
コトワさんは控訴し、まだ罰金の3万ルーブルは支払っていない。ロシアの平均給与は月約7万8000ルーブルだ。
コトワさんだけでなく、抗議活動に参加する人たちは、戦争への疑念を表明したことで、自分や家族の雇用までもが脅かされるのではないかと心配している。新法の導入により、戦争に反対する市民が自分の発言や表現を「自主規制」しなければならなくなるケースが増えている。
「妊婦を演じた役者だ」ロシア大使館の投稿、ツイッター社が削除(朝日新聞)
ウクライナの産科病院がロシア軍に爆撃された問題について、在英ロシア大使館が「病院は閉まっていた」などと根拠を示さずに主張したSNS投稿が10日、ツイッター社により削除された。
ウクライナのゼレンスキー大統領らによると、同国南部の港湾都市マリウポリの産科病院が9日、ロシア軍に爆撃され、女の子1人を含む3人が死亡し、17人が負傷した。破壊された建物から毛布を体に巻き付けて避難する妊婦の姿など���被害の深刻さを伝���る写真が世界中に広まった。
これについて在英ロシア大使館は10日、「産科は長らく閉鎖されており、ウクライナ軍や、ネオナチなどの過激派に使われていた」「女性は、妊婦を演じた役者だ」「写真も、著名なプロパガンダ写真家に撮影された」などと根拠を示さずに投稿。妊婦の写真に「フェイク」のスタンプを押した画像も併せて投稿した。
ツイッター社は同日中にこれらの投稿を削除。英BBCによると同社は削除理由を「暴力事件の否定に当たる」と説明したという。
ウクライナのキスリツァ国連大使も11日の安全保障理事会で、ロシアの主張を退けた。妊婦と赤ちゃんの写真をタブレットで議場に見せた上で、「女性は昨夜元気な女の子を出産した。名前はベロニカです」と述べ、実在する妊婦だったと示した。
爆撃された病院をめぐっては、ロシアのラブロフ外相も10日の会見で「病院はすでに過激派に占拠され、その拠点になっていた」などと主張した。(ロンドン=金成隆一)
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ウクライナ国民、「ロシア撃退可能」が9割 世論調査(AFPBB News)
【AFP=時事】ウクライナ国民の9割がロシアによる侵攻を撃退できると考えていることが、11日に発表された世論調査結果から明らかになった。
ウクライナの世論調査機関レーティング(Rating)は8~9日にかけて、親ロシア派武装勢力の支配下にある東部ドンバス(Donbas)地方とロシアに併合されたクリミア(Crimea)半島を除いたウクライナ全土を対象に、1200人に世論調査を実施。回答者の92%はロシアを撃退できるとし、6%は撃退できないと答えた。
80%が、何らかの形で国家防衛に貢献していると回答。39%が「ボランティア」として軍や市民を支援していると答え、37%は金銭的な貢献をしていると答えた。
バイデン米大統領、ウクライナのために第3次大戦は戦わない(ブルームバーグ)
バイデン米大統領は第3次世界大戦に発展するまでに至っても北大西洋条約機構(NATO)加盟国の領土は守るが、ウクライナでロシアと戦うことで紛争を拡大させるリスクはとらないと言明。飛行禁止区域は設定しないとの考えも示した。
バイデン氏は11日、フィラデルフィアで演説し、「ウクライナへの支援を提供する中で、引き続き欧州の同盟国と結束し、NATO加盟国の領土は徹底的に守るとの明白なメッセージを送る方針だ」と発言。「仮に彼らがいったん行動に出て、われわれが応じた場合、それは第3次世界大戦だが、われわれにはNATO加盟国の領土に関する神聖な義務がある」と論じた。
しかしバイデン氏は、飛行禁止区域の設定を含め、米国がウクライナでロシアと戦うことはないと改めて表明。「ウクライナの地で第3次世界大戦は戦わない」と語った。
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パキスタンにミサイル誤射 インドが発表(AFPBB)
【3月12日 AFP】インド国防省は11日、同国軍が誤って隣国パキスタンに向けミサイルを発射したと発表し、「深い遺憾の意」を示した。
同省は、10日の定期点検の際、「技術的な誤作動」によりミサイルが誤って発射されたと説明。ミサイルの種類は明かさなかったが、パキスタン領内に着弾したとした。誤射について「深い遺憾の意」を示し、「人命が奪われなかったことに安堵」していると述べたが、AFPの問い合わせに対しそれ以上の情報は明らかにしなかった。
パキスタン外務省はこれに先立ち、「インド発の『超音速飛翔(ひしょう)体』による一方的な領空侵犯」があったと非難。駐パキスタン・インド臨時代理大使を同省に呼び出し、「強く抗議」したと説明していた。
ヒンズー教徒が人口の多数を占めるインドとイスラム教国のパキスタンは、1947年に英国の植民地支配から独立して以来、3回の戦争を行い、うち2回は両国が領有を主張するカシミール(Kashmir)地方をめぐって争った。
インドがパキスタンにミサイル誤射、「技術的不具合」と説明(ロイター)
核保有国同士で、カシミール地方の帰属などを巡って対立関係にあるインドとパキスタンについては、以前から事故や誤算のリスクが指摘されている。今回の誤射により、両国間の安全メカニズムについて改めて疑問が生じる結果となった。
パキスタン当局者によると、ミサイルは弾頭を積んでおらず、東部ミアンチャヌ付近に着弾した。パキスタン外務省は駐イスラマバードのインド公使を呼び出し、旅客機や市民が危険にさらされる恐れがあったと抗議。インド国防省が誤射を公表すると、パキスタンのモイード・ユスフ国家安全保障担当首相補佐官は、誤射について直ちにインド政府から連絡がなかったことは「極めて無責任」だと非難した。
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【本日 (3/12)の広島県内の感染状況】(広島県)
【国内感染】新型コロナ 141人死亡 5万5328人感染 (12日18:30)(NHKニュース)
北海道 新型コロナ 9人死亡 新たに1701人感染確認(NHKニュース)
東京で新たに9164人感染、14人死亡(共同通信)前週土曜より1600人余り減
愛知県 新型コロナ 13人死亡 新たに3574人感染確認(NHKニュース)
大阪府 新型コロナ 13人死亡 新たに5579人感染確認(NHKニュース)
“国内の結婚 2年間で約11万件減の可能性“と推計 コロナ影響(NHKニュース)
新型コロナウイルスの影響で、おととしと去年の2年間で、国内の結婚の件数が合わせておよそ11万件少なくなった可能性があるとする推���結果を東京財団政策研究所などのグループがまとめました。
この推計結果は東京財団政策研究所の千葉安佐子博士研究員らのグループがまとめました。
グループでは2019年までの10年間の国内の結婚件数の推移を分析し、仮に新型コロナウイルスの影響がなかった場合に、おととしと去年の結婚が何件だったかを推計しました。
そして、実際に報告された件数と比較した結果、おととしは新型コロナがなければ推計でおよそ57万6000件だったのに対し、実際にはおよそ52万6000件、去年は新型コロナがなければ推計でおよそ56万4000件だったのに対し、実際にはおよそ50万2000件で、2年間で合わせておよそ11万3000件少なくなったとみられることが分かったということです。
また、この影響で将来的に生まれる子どもは15万人から20万人少なくなる可能性があるとしています。
千葉博士研究員は「感染拡大の影響で重要な意思決定をしなくなったことや出会いが減少したことなどが要因として考えられる。新型コロナ対策では医療への負担に目が行きがちだが、それと同時に中長期的な影響も考えるべきで、両方の視点を持った政策が求められる」と話しています。
2月にコロナ感染した児童生徒ら全国で20万人超え 過去最多(NHKニュース)
先月、新型コロナウイルスに感染した児童や生徒が初めて全国で20万人を超え、過去最多となったことが分かりました。
文部科学省の調査によりますと先月、感染が確認された児童や生徒などは20万5291人と、初めて1か月間で20万人を超えました。
内訳は、▽小学校で13万1837人、▽中学校で3万5480人、▽高校が2万7975人、それに▽幼稚園が7750人、▽特別支援学校が2249人となっています。
また、先月末までの2か月間でみると、小中学校、高校のいずれも半数以上の感染経路が「不明」でしたが、判明したケースでは「家庭内感染」が最も多く、小学校で30%、中学校で34%、高校で22%となっています。
文部科学省は、感染が拡大している地域では、卒業式や入学式での感染対策に加えて、春休みの間も健康観察を行うなど対策の徹底を呼びかけることにしています。
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コロナのパンデミック宣言から2年 出口は見えた?(AFPBB)
【3月12日 AFP】2020年3月に世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な流行)を宣言してから、11日で2年が経過した。一部の国ではコロナ関連のさまざまな規制を緩和・解除し、「コロナとの共生」を目指す動きもみられる。
世界保健機関(WHO)は世界人口の約70%がワクチンを接種すれば、今年半ばにはパンデミックの「急性期」を脱する可能性があると述べている。
■パンデミックからエンデミックへ?
スペインをはじめとする国々は、新型コロナを「エンデミック」の段階に移行したと見なすアプローチを提唱している。つまり、インフルエンザのように人類が共生可能な季節性の感染症ととらえる考え方だ。
だが、英オックスフォード大学(University of Oxford)のウイルス進化学者、アリス・カツラキス(Aris Katzourakis)氏は「『エンデミック』という言葉は、今回のパンデミックでも最も誤用されている言葉の一つだ」と言う。
同氏は最近、英科学誌ネイチャー(Nature)で「エンデミックであると同時に広範で流行する致死率が高い伝染病もある」と述べ、2020年にはマラリアで60万人以上、結核で約150万人が全世界で死亡していると指摘した。
英政府の非常時科学諮問委員会(Scientific Advisory Group for Emergencies)は、想定し得る今後数年間のシナリオをいくつか示している。そのうち「妥当な最良のシナリオ」は、地域や季節で流行する規模が縮小し、また新型コロナの感染者数が多いほどインフルエンザの感染者数が少なくなるというものだ。
一方、最悪のシナリオは、予測できない変異株の出現と流行の波が繰り返され、厳格な規制を復活せざるを得なくなるというものだ。
こうしたシナリオを左右するのは、変異株の出現とワクチンの長期的な効果という二つの不確定要素だ。
■変異種の脅威
ワクチンの観点においては感染力の強い変異株「オミクロン株」は戒めとなると同時に試金石ともなった。
疫学者の多くは、新型コロナを感染が広がるまま放置しておくと、新しい株に変異する可能性が高まると指摘している。しかも新しい変異株が弱毒化する保証はどこにもない。
「ウイルスは、時間とともにより穏やかなものに進化するという楽観的な誤解が広まっている」とカツオラキス氏は警告する。例えばデルタ株は、中国・武漢(Wuhan)で発生した最初の株より致死率は高いと指摘した。
またオミクロン株は、既存のワクチンによる免疫をすり抜けることもある。ただし重症化や死亡を防ぐためにはワクチン、特に現在世界中で実施されている3回目の追加接種(ブースター接種)は、非常に効果的だ。
■ワクチンの今後
イスラエルやスウェーデンなどでは4回目の接種が始まっているが、専門家はブースター接種を際限なく続けるのは近視眼的な戦略だと懸念している。
ワクチンがターゲットとする対象を新型コロナ以外に広げる考え方もある。
米政権のアンソニー・ファウチ(Anthony Fauci)首席医療顧問ら3人の研究者は、新型コロナだけではなく、動物由来で新たなパンデミックを引き起こす可能性のある別種のコロナウイルスにも効果がある「万能コロナウイルスワクチン」を開発する必要性を訴えている。
しかし、克服しなくてはならない問題/障害も多く、人を対象とした最初の試験は始まったばかりだ。
その一方でWHOは、富裕国がさらに接種を進めるよりもワクチンを他国に提供することが、パンデミックの急性期を終わらせる最善の方法だと訴えている。
WHOによると、アフリカ大陸での2回目のワクチン接種完了率は2月末時点で13%にとどまり、今年半ばまでの目標とされる70%をはるかに下回っている。(c)AFP/Julien DURY
新型コロナ新規感染1500人超 都市封鎖、市長更迭も―中国(時事通信)
【北京時事】中国政府は12日、新型コロナウイルスの市中感染者を11日に1524人確認したと発表した。1日1500人以上の新規感染は湖北省で感染爆発が続いていた2020年2月以来約2年ぶり。
中国は経済活動や市民生活を犠牲にしても感染拡大を抑え込む「ゼロコロナ」政策を継続しており、東北部の吉林省では人口約900万人の省都・長春市が11日、事実上のロックダウン(都市封鎖)を開始。吉林市では、大学で発生した集団感染への対応を怠ったとして市長が更迭された。
中国本土のコロナ新規感染者1807人、前日の3倍超(ロイター 3月13日)
[北京 13日 ロイター] - 中国国家衛生健康委員会によると、12日に確認された症状のある新型コロナウイルス新規感染者は1807人で、前日の476人から3倍超となった。過去約2年で最多となる。
1807人のうち114人は最初は無症状で後に症状が確認された。
感染が深刻な吉林省の新規感染者は1412人で、前日の134人から急増し国内全体の感染者の78%を占めた。
このほかに南部の深センも新規感染者が60人で2020年初め以降で最多となった。
新たに無症状者とされたのは1315人で、前日の1048人から増加した。増加は4日連続。
新たな死者は報告されていない。
新型コロナウイルス、現在の感染者・死者数(11日午後8時時点) 死者602.6万人に(AFPBB)
【3月12日 AFP】AFPが各国当局の発表に基づき日本時間11日午後8時にまとめた統計によると、世界の新型コロナウイルスによる死者数は602万6306人に増加した。
これまでに世界で4億5124万1582人の感染が確認された。大半はすでに回復したが、一部の人々にはその後も数週間、場合によっては数か月にわたり症状が残っている。
10日には世界全体で新たに6146人の死亡と182万3123人の新規感染が発表された。
過去1週間の新規感染者が最も多い地域は欧州で、501万4935人(世界全体の45%)の感染が確認された。2番目に多いのはアジアの462万5826人(同41%)。
過去1週間の死者が最も多い地域は欧州で、1万7247人(世界全体の37%)が死亡。次いでアジアの1万270人(同22%)となっている。
過去1週間の人口10万人当たりの死者数が多かった国・地域(人口50万人未満の国を除く)は、上位から香港(23.8人)、リトアニア(5.95人)、デンマーク(5.52人)、ジョージア(5.29人)、ラトビア(5.2人)。
過去1週間の人口10万人当たりの新規感染者数が多かった国・地域は、上位から韓国(3605人)、香港(3002人)、ニュージーランド(2934人)、オーストリア(2737人)、オランダ(2566人)。
ここ数日間で、1週間の新規感染者数が過去最多を記録した国・地域は、バヌアツ、トンガ、ベトナム、韓国、リヒテンシュタイン、オーストリア、ニュージーランド、マレーシア。
最も死者が多い米国では、これまでに96万5464人が死亡、7945万4920人が感染した。次いで死者が多い国はブラジルで、死者数は65万4086人、感染者数は2924万9903人。以降はインド(死者51万5714人、感染者4298万4261人)、ロシア(死者35万9585人、感染者1724万2043人)となっている。
人口10万人当たりの累計死者数が多い国は、上位からペルー(641人)、ブルガリア(518人)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(476人)、ハンガリー(462人)、北マケドニア(438人)となっている。
この統計は、各国の保健当局が発表した日計に基づいたもので、他の統計機関が行った集計見直しに伴う死者数の大幅な増加分は含まれていない。世界保健機関(WHO)の推計によると、新型コロナウイルス感染症により直接または間接的に生じた超過死亡を含めると、死者数の総計は公式統計の2~3倍に上る可能性がある。
多くの国では検査体制が強化されたが、軽症や無症状の人の多くは検査を受けず、感染者として集計されないままとなっている。
NHKまとめ(3月11日 23:59 時点)
日本 感染 567万5188人 死亡 2万5943人
広島 感染 8万1804人 死亡 423人
北海道 感染 19万1910人 死亡 1851人
宮城 感染 4万7500人 死亡 157人
東京 感染 110万5063人 死亡 3923人
愛知 感染 36万4168人 死亡 1823人
大阪 感染 71万9240人 死亡 4271人
福岡 感染 26万2305人 死亡 1040人
沖縄 感染 10万8054人 死亡 430人
新庄監督が敵地広島で大フィーバー 沿道で鯉党も出待ち「広島出身の気分になっちゃう」(デイリースポーツ 3月13日)
「オープン戦、広島1-4日本ハム」(12日、マツダスタジアム)
日本ハム・新庄剛志監督(ビッグボス)が、敵地広島で大フィーバーとなった。
試合前から広島ファンを含めて注目を集め、「俺のファン多いよね。嬉しいよね。ビッグボスって(ボード持って)。広島出身の気分になっちゃう」と笑顔。試合中は近藤に指揮を託して一塁コーチャーに立ったが、声援に応えた。
4-1で勝利した試合後、バスで引き上げる際には沿道が広島ファンも含めて人々でいっぱいとなった。これには新庄監督もすぐにインスタグラムを更新し、「広島市民の皆さんの暖かさは昔から感謝しかないです。本当に沢山球場に足を運んでもらい選手達もハツラツとプレーできます。近藤監督、ナイス采配!!」と感謝を記した。
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