Tumgik
sraimm-blog · 7 years
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未完 世界の隅で息を吐いている 乃々
…… 春夏秋冬。四季折々の色合いや情緒があって、それに溶け込むことが女の子の仕事です。 たまには背伸びしたブーツを履いてみたり、おしゃまでもお化粧を覚えてみたり、慣れないピアスを怯えながら飾ってみたりして、自らを高めることも忘れてはいけません。 でも、一番大切なことは、おしゃれを楽しむこと。かわいいを楽しめるからかわいい、それが女の子の真髄です。 はい。 全部お母さんの台詞ですけど。 …… 可愛いのなら可愛い格好をしないと。 自分を着飾り可愛く見せる努力は女の子にとって特別なことだと、お母さんが言います。 でも、私は自分に自信が持てません。周りは自分よりずっと素敵な人ばかりで、誰かに自分を見せるためなんて、怖くなってしまう。 私はそう。小さな森の木陰の中ひっそりと暮らすリスがいい。大きな足音を怖がり、栗のジャムを舐めて、照れたように顔をもたげる花に恋をして、木々の隙間から漏れる光の暖かさを愛おしく思うような、そんなものでありたい。 「そうだな、乃々には暗がりも似合ってるよ」 森の中に轟く野暮ったい声が私の思考を遮る。振り向けば意地悪に笑った狼さんがこちらを向いています。 彼の咥えたランプが森の薄闇を煌々と照らしている。 「だから僕は乃々をアイドルにしたんだ」 それ、どうやって喋ってるんですか。 ☆ ダンスは苦手でした。 人前で歌うことも、そんなに。 そんな私がアイドルになって一番多くなったのが演技のお仕事でした。 あの人いわく、表情が『しぶい』らしいんです。そう褒められてもどんな表情をすればいいか分からなくて困っていると『しぶい』と繰り返されてしまいました。 ただ、詳しく説明をしてもらうと、私の仕草は酷く内向的で、そういう感情の表現は大胆な演技よりも他者に伝わりやすい時があるんだとか。 そのままでいい。おっかなびっくりが似合うから私なんだと、自然体のままでいるだけでいいと言ってくれました。 けれど、演技の仕事が増えていくうちに自分の中に生まれた変化もあります。 私と異なる世界で私と異なる人を演じる。嘘でも真似ることから始めればいつか本物になるように、私が演じる人達の気持ちに私が少しずつ侵食されていく。 例えば、どこかの国のお姫様になれば。 ……お姫様なんて私には似合いませんけど。 でも、華やかに飾られたドレスを着て、象徴のティアラを乗せて、白馬の王子様が手を差し伸べてくるならば、恋に臆病で怖がりなお姫様の姿がどうしても私の心をなぞる。 まるで、本当に物語の中に紛れ込んでしまったみたいに。 ☆ 「そうねぇ、演じようとするのはねぇ、女の子の魔法なのよぉ?」 ドラマの撮影の終わり、控え室でメイクを担当してくれているお姉さんがあるお話をしてくれたことがあります。 彼女は同じ性別の私から見ても扇情的というか……劣情を煽り立……とにかく、その人は大人な魅力を持った、素敵な女性です。 喋り方だけは少し、損をしているようにも思いますけど。 「一日の気分によってどんなオシャレをするかを決めるのは大事。でも、もっと大事なのはねぇ、今日自分がなりたい自分を想い描いて着飾ろうとすること、なろうとすることよぅ……乃々ちゃんはねぇ、なりたい自分があるかしらぁ?」 鏡にうつる妖しく色に浮いた唇。 彼女はなりたい自分を目指してそうなれたのでしょうか。 ……もしも、もしも私が何にでもなれるなら、何にでも変わることができるのなら。それなら私は自分以外の何者かになってみたい。 臆病で怖がりで、一歩だけ前に進むのにもありったけの勇気を振り絞らないといけない私から、違う誰かへ。 それはきっと今の自分を裏切るのとはまた違う、殻の中の願いです。 鏡越しにお姉さんと目が合いました。 思わず目を逸らしてしまうと、彼女に頬をむにむにと揉まれてしまう。 「少しだけ、魔法をかけてあげましょう」 閉じた口から漏れる『ん』の音を最後に色付けて、彼女はメイク道具の小さな筆を指揮棒のように揺らし、ウィンクをする。 ……やっぱり喋り方だけ、彼女は損をしている気がしました。 ☆ それは本当に魔法のようでした。 鏡に映る自分の姿は自分のようには思えず、髪に触れたり胸に手を当てて鼓動を感じたりすることで、やっと私がここにいるという自覚ができます。 くるくると回る後ろ髪は重力に吸い込まれるように伸びていて、前髪は広くわけピンで留めている。 目を伏せれば長い睫毛は影を落としても、柔らかい薄紅色の口紅は隠れはしない。 「乃々ちゃんはねぇ、背伸びしない可愛さが素敵なの。自然体で可愛いからお化粧もいつも気持ちだけ。……もともとオシャレなとこあるしねぇ。でも、女の子だからぁ、今日だけは大人になってみましょう?」 優しく手を振られ、部屋を出ます。 何度も何度もお礼を言いました。頭を下げると頬を撫でる髪が視界の端に流れていく。 魔法にかけられて、鏡に映る自分の姿さえ直視出来なくて、私が私ではないみたいで。 今日だけは。今日だけは。 ーーーー誰にも会わないようにしなければ。 いえ、いえ、だって。私は。やっぱり臆病な私です。 お化粧をして、いつもと違う自分を見て、幸せでした。それだけで十分なんです。 誰かに飾った自分を見せることなんて、恥ずかしくて、逃げてしまいたくなる。 そもそも見せたい人なんて……お父さんは喜んでくれるでしょうか。 お母さんもきっと可愛いと頭を撫でてくれるかもしれない。こないだ初めて友人と一緒に新しく服を買いに行ったら「好きな人が出来たのね」と言われました。違いますけど。 それなら、あの人はどうなのだろう。 ……きっと、怒られてしまいます。 魅せることがお仕事のはずなのに、それから逃げてしまう私の弱いところを。 スマートフォンを開いてメールアプリを開きました。誤った操作をしないように、両手でしっかりと握ります。 もりくぼは先に帰ります。仕事終わり、メイクを落とす間も彼は私を待っててくれてますけど、もりくぼは誰にも見られず、光の速さで帰ります。 「あの」 後ろからふいに声をかけられる。 それは低く少し掠れている、いつも聴き馴染んでいる声でした。 取り出した携帯を手に持ったまま体が停止する。私は振り向くことが出来ません。 振り向いたら見られてしまう。身の程を知らず着飾った私を見られてしまう。 どうか、どうか逃がしてください。 神様。神様。プロデューサー様。どうか。 「なんで、しょうか」 ソロリソロリとこっそりと逃げながら、返事をします。緊張のせいか声はいつもより震え、低く響きました。 後ろの空間が小さく息を吸っている。 「その、もしかして」 「森久保乃々さんのご親族でしょうか」 ☆ 森久保ねね。 高校二年生。部活には特に入っていません。病弱であまり学校に通えてはいませんし、成績もそんなによくはありません。 というかそもそも高校に通ってなんかいません。 身長は150cmに届かないほど小さく、胸の大きさを気にしちゃうくらいには悩みもある女の子です。 「そうか」 彼から聞こえる淡白な返事は四角い部屋の中によく響きました。その割にまだまだ聞きたいことがあるというようにチラチラとこちらに目配せします。 好きなものは何なのか。少女漫画をよく読んでいます。 趣味は何をしてるのか。ポエム作りですけど言いません、乙女の秘密です。乙女です。 「会えないかな、その子と」 「……聞いてみます」 胸の中がくすぐられる。 会えるわけないのに、私はそう答えていました。 思春期の劣情を思い出したかのように目の前の彼が鼻息を荒くしながら喜びます。性欲が踊っています。 というかこんなこと、あるわけがありません。もはや魔法というかコメディです。 そもそも芸能業界でお仕事をしているあの人が多少化粧したもりくぼごときを違う人だと錯覚するなんてありえないんですけど。 つまりそう、そうなんですか。 きっと彼は私をからかってる。私を私と気づいておきながら意地悪をしている。 「運命って言葉は陳腐だよなぁ」 窓のブラインドに指をかけてぼやく姿なんてドラマ以外で初めて見ました。 性欲とポエムが踊り狂っていて、私にはもうよくわかりません。 ちょっとだけ、ほんのちょっと胸がときめいちゃったんですけど……。 叶うことならば、このときめきがそういうものじゃなければいいと願いました。 ☆ 『連絡先を教えていただき、ありがとうございます』 『急な話で申し訳ありません どうしてもあなたと言葉を交わしてみたかった』 『退屈でなければどうか少しだけ時間をくれはしませんか』 『私なんかでよければ』 『ありがとう』 『私なんかでいいんですか』 『あなたがいいんです』 『本当に?』 『本当です』 『あなたの近くにはもっとその、興味を持てる人がいると思いますけど』 『申し訳ありません、突然こんなことを言われても困りますよね』 『怒ってるわけではないんです、ごめんなさい』 『眠る前の幾ばくかだけ、私はお話をしてもいいです』 ☆ スマートフォンの文字を打つのは、あまり人と連絡をとる方ではない私には難しいものでした。 どんな言葉を返すのか考えるのも難しく、送った文章がちぐはぐなことは自覚できたし、人差し指でそろそろとキーボードを打てば、数度言葉を交わすだけで長い時間が経ってしまう。 それでも人は繰り返せば慣れるもので、段々と彼との会話もスムーズに出来るようにはなってきました。 それは最初の頃の緊張感が解れてきたというのもあるのかもしれません。そう考えれば、少しだけ心の奥がじんわりと暖かくなる。 『森久保ねねは病弱で、あまり学校には行けない子です。』 『心配してくれる友人も確かにいますが、一緒に遊びに行くなど関係を築く時間も足りず、人との関係というのは希薄になっています。』 『白い部屋の中で本や漫画を読んだり、朝が来るまでただ目を瞑���ていたり、そんなことをして日々を過ごしています。』 ……ただ、最近は物思いにふけることも多くなりました。 病院の外から聞こえる子供達の声を聞きながら、今日の夜はどんなことを話そうとか、何か話題になることはないかと思案する。 いつも彼に質問してばかりで、たまには自分のお話だってした方がいいのかもしれません。きっと彼は私なんかのことを知ろうとしてくれている。知りたいと願ってくれている。これ、誰でしょう。フィクションのヒロインみたいなんですけど。 ポケットに入れていたスマートフォンが小さく震えました。 開いてみればそれはただの迷惑メールで、ほっとしたような、残念なような溜息が漏れてしまった。 いや。 溜息を吐いてる場合ではありません。 ライムというアプリはとても便利でした。友達からもインストールするよう勧められていたこのアプリは、友達との間ではなく、彼と森久保ねねを繋ぐ通路の役割をしてくれている。 初めはバレないか不安でしたが、というか初めからバレてないか不安でしかないんですけど、今のところ私は森久保ねねとして上手くやっていけています。 偽っているわけですから、罪悪感が空から降ってきて押し潰されてしまいそうですが、仕方がありません。仕方がなかったんです。 だって、雷に撃たれたようだと。 心臓を撃ち抜かれてしまったんだと。 だから彼女に会いたいのだと言ってくる相手に「それは目の前にいる私です」なんてこと、私には言えません。 かといって、知らぬ存ぜぬで誤魔化すことも出来ず、中途半端な場所を彷徨うことになりました。 泥沼です。自分がどろどろのぬまぬまにずぶずぶと引き込まれているのが分かっちゃいます。 それにしてもーーーー恋。 恋、なんでしょうか。その想いは。 お化粧は魔法でコメディで、意地悪です。 一目惚れというのは本当にあるんでしょうか。目が合った瞬間に沸騰してしまうような熱は確かに存在するんでしょうか。 少なくともあの時、私とあの人は目を合わせてはいません。背中越しに数度言葉を交わしただけです。 乃々は今まで意図せずに何度か目が合ってしまったことはありましたけど……森久保ねねは彼と視線を交わすことはありませんでした。 もしかして、万が一、億が一のお話です。 あの人は私に恋をしてくれたんでしょうか。それなら、何故あのときの私だったんでしょうか。 これから私はどうすればいいんでしょうか。 どちらにせよ彼はロリコンと呼ばれる人だと思います。ロリコンは犯罪だと聞いたことがあります。警察に通報すればいいんでしょうか。 気付けばまたスマートフォンを取り出している。早く夜にならないかと期待している自分がいる。 こんなことを続けてしまうのは悪いことだと分かっているのに、ねねとして彼とやりとりをすることに居心地の良さを感じてしまっています。 ーーーー例えば、どこかの国のお姫様になれば。 頭に手を乗せてみても、そこにティアラは当然、乗ってなんかいませんでした。 ☆ 『今日はお願いをしたいことがあるんです』 『無理です』 『あなたとまた、会ってみたい』 『むらてす』 『むらてす、ですか』 『むりです』 『あなたに見せたいものもあるんです』 『離婚しましょう』 『まだ結婚していません』 『まだってなんですか』 『来週の日曜日、14時に駅の時計台の広場で、待っています』 ☆ 服は、服がないんですけど。 魔法の化粧の仕方も、まだまだ分からない小娘です。メイクさんに連絡をとらないといけない。 もしかしたら下着だって考えないといけないかもしれません。大人の下着ってどんなですか。フリフリして、キラキラしてるやつですか。小娘が持ってるわけないんですけど。 いえ、冷静になるべきです。下着なんか考えなくていい気がします。 だって、彼に見られることなんて………………あるんですか。あったら大問題です。由々し��事態です。やっぱりお母さんに相談してフリフリの……いえ、そういうことじゃないんですけど。 森久保ねねはデートに誘われました。 ねねが先走ってるだけでデートじゃないかもしれません。でも、なんだかこれはデートな気がします。 いずれこんな時が来るかもしれないとは思っていたけれど、全力で断るつもりでした。一度は奇跡的に乃々じゃないと思われても、二度目はありません。 だからもう一度出会うなんてことがあってはならない。なのに、いくら断りのメッセージを送っても彼は既読スルーです。オラオラ系です。 強引なの、変わらない。ねねにも、ののにも、強引で侵略的です。 逃げてしまえば簡単だとののが言います。いつものように机の下に隠れてればやり過ごせる。やり過ごせたことはないですけど、今回ばかりはきっと大丈夫。 でも、そうすれば彼は一体どうなるんでしょう。 来ない人をずっと待ち続ける待ち合わせ。いたずらな私の中途半端さのせいで、こんなことになってしまった。 そばにある携帯がチカチカと光っています。 規則的なそのリズムに合わせて自分の心臓が鳴っている。 携帯が知らせていたのはライムからの連絡ではなく、メールでした。宛先は彼からで、お仕事のことについてスケジュールが事細かに書かれていました。 ☆ 広場にはたくさんの人が集まっています。その中の誰もかれもが明るい表情で、つかの間の休日を精一杯楽しんでやろうという気概に溢れてるように見えました。 その中で、私は一人俯いて視線をキョロキョロさせている。場違いにもほどがあります。 彼はいつ来るのでしょうか。 私は待ち時間の30分前から待っていますが、それで正しかったんでしょうか。 待つのは苦痛ではないですが、相手がこちらを待たせたと申し訳ない気持ちになってしまうのは困ります。 丁度の時間に来るべきだったでしょうか。でもそれはそれで相手を待たせてしまうかもしれなかった。 そもそも、待ち合わせの場所はここでいいんでしょうか。広場といってもそれなりに広く、それは時計台を中心とした円状になっています。 私は広場の入り口で待っているけど、もしかしたらあの言葉は時計台の前で待っていてほしいという意味だったかもしれない。 そうしたらすれ違ったまま時間が経っていってしまうことになる。 いや、このまま時間が経ってしまうのなら、それでいい気もしてしまう。 このままこの場所に立ち尽くして、日が傾いていき、私は暇を誤魔化すようにその場で踵を小さく踏み鳴らす。 それでも彼は来なかったから、何事もなかったように家に帰るんです。 彼に「ごめんなさい」とメッセージを送って。 「ごめんなさい、待ちましたか?」 空想に更けていると、不意に上から声が降ってきました。驚き顔を上げてみれば、透き通った真珠のような黒がこちらを貫いてくる。 ーーーー彼だ。……目が。合って。しまったんですけど。 「……今来た、ところです」 すぐさま目を逸らして、なんとか言葉を返します。いつもより声を低く、低く、私の理想の落ち着いた女性を演じるように。 返事に頷きもせず彼は無言で立ち尽くしたままで、私達の間には妙な時間が流れました。それはまるで雑踏から私達の空間だけが切り離されたようでした。 彼の黒色の瞳が未だ私の網膜の裏に映っている。 当然、気付かれたと思います。気付かれました。気付かれないわけがないんです。 髪の癖毛はできるだけ伸ばしてきました。メガネには度が入ってないとはいえ、慣れませんでした。 そして、お化粧だってしました。私の精一杯でした。 そうしたところで魔法なんてかかりません。服装を大人っぽいものに変えても私自身は変わりません。 言い訳を言葉の海の中から必死に探し出そうとします。潜れば潜るほど足が水の中に絡めとられてしまい、強い重力に私はずぶずぶと溺れていく。 こんなの耐えられない。やっぱり、来なければよかった。 でも、来る以外に選択肢が私にはなかった。 「じゃあ」 不安定に揺らめく静寂を切り裂いたのは彼の一声でした。 私は水面に上がってやっと呼吸することを思い出す。 「行きましょうか、ねねさん、今日は僕に任せてください」 ねねさん。 のの、ではない。 彼は既に歩き出していました。 まさか、気づいていない。それとも気づいていないフリをしている。 私は置いてかれないように慌ててついていきました。 彼はコツコツと革靴を鳴らして、ゆったりとしたリズムで歩いていきます。黒いタイトなジーンズにストライプのシャツ、柔らかい色のベストはいつものスーツ姿とは違った新鮮さがあったけれど、変わらずフォーマルで無難な感じは彼らしい。 彼の服装は皺もなく糊がきいていて、そのことがなんだか自分のためのもののように感じてしまった。 誤魔化すように、私は彼の靴音に合わせて小さく踵を鳴らしました。 ☆ 湿度を含んだ独特な脂の匂い。雄々しくいななく声が強く響き渡ったかと思えば、すぐに人の喧騒の中に溶けて消えていく。 10や20の眼が檻の中にいる彼等を射抜いても、みんな、我関せずと堂々とした佇まいで欠伸をしたり、首をかいたりしています。 数多の種類の生き物たちが、恥じらいなくありのままの姿を見せている。 「動物たちを直にみる機会って、案外ないだろうから」 みる、という言葉は視覚的な意味合いだけを含んでいるわけではなさそうでした。普段の現実とは半歩くらいずれた場所に、私と彼は立っています。 遠くで低く、恐ろしい唸り声が聞こえました。どこから響いたか分からないその鳴き声におびえ、思わず彼の服の裾を掴みます。 彼は優しく私の手をとってくれて、声の方向へと私を引っ張るようにして進みだしました。 大丈夫。怖くない。僕がついている。 呼びかけの代わりに手のひらから温度が伝わってくる。 「鳴き声といってもたくさんあって」 「威嚇、求愛、要求、空腹、誇張、もしかしてただ悲しかったりするのかもしれないし、なんとなく楽しかったりするのかもしれない」 「でも、君を食べようとしてるわけではないよ」 それは妙に遠まわしで、可笑しな言い回しに感じました。 もう私は握られた手のひらばかりに神経が集中してそれどころではなかったですけど。 緊張なのか恥ずかしさなのか口元がひきついてしまいます。それを空いている手で隠しながら彼をこっそりと見れば、彼の耳が赤くなっているのが見えました。 つられて私の体もどんどん熱くなってしまいます。手のひらにじんわりと汗をかいても、彼は私を離してくれなかった。 そうして私達は、しばらく手を繋いだまま早足で歩きました。 また、おどろおどろしい鳴き声が聞こえます。先ほどよりずっと近くで、地の底から震えてきてそうな音が形となって体の芯に響いてくる。でも、もう怖くはなかった。 声の聞こえてきた方向に目を向ければ、眠たそうな白と黒が置物のように座っていました。 動作は余りにゆっくりで、思い出したように揺すられる体で、確かにその子が生きているんだと安心する。 ……パンダって、あんな怖い鳴き方をするんだ。 傾げるように首をもたげた白と黒に目が合います。 彼の目の周りはどこまでも黒かったけれど、その奥には星のような白が隠れていました。 ☆ 動物園というのは思いの外楽しいものでした。 もとより、動物は好きなんです。 誰かと対峙するとき、私は強く緊張してしまう。迷惑をかけていないか、不愉快な気持ちにしていないか、そして、私自身余計な気を遣わせてしまってないか……結果としておどおどしてしまう私はきっと、気を遣わせてばかりだと思います。 それに比べると彼らはいつも在るが儘に忠実で、自由に満ちている。そんな彼らが私の手に届かない場所で、けれど同じ地球の中で生きている。 そう考えれば私は柔らかな雲の中で眠るような安心感に包まれます。 ただ、こんな機会がなければ、きっと私は動物園へ行くことはなかった。 お母さん達も私が動物番組を見ているだけで満足していて、決して実物を見に行きたがらないことは知っていました。 怖かったんです。 テレビや写真でしか見なかった彼らと私の間には明確な線引きがありました。 でも、いざ自身の目で彼らに向き合うとその線は曖昧になってしまうかもしれなかった。 それは私にとっての恐怖でした。 「ここでは、森で生きる小さな動物たちの生き生きとしたーーーー」 人が三人も並べば通ることが出来なくなってしまいそうな狭く細い通路に、ガイドのアナウンスが流れます。 左右には小さな窓が等間隔で並んでいて、部屋の上下には同じようにポツポツとライトが埋め込められている。疎らな光源はまるで木漏れ日のようでした。 耳をすませてみれば、何処からかさざ波のような風の音と鳥の声が聞こえてくる。 「ここ、好きなんです、落ち着くんですよ」 「……来たことがあるんですか?」 いつもより低めの声を出すのはなかなか難しく、か細くなった声は波の中に紛れて溶けていきます。 「そうですね、たまに、一人で来たりします」 一人で、という言葉は後付けのように聞こえました。 聞いてませんし、誰と行ってくれても私には関係ありませんけど……か、関係、ありません。 踵で床を優しく叩いてみました。感触は柔らかな絨毯に包まれる。森の中にある土もこんな風に柔らかなのかもしれません。 「こいつらが好きなんですよ、特に」 そう言って彼は一つの窓を指さしました。 その窓の中には枠ギリギリに伸びる太い木の枝や丸太が無造作に散らばっていて、その中で���も小さな丸太の上に乗っかってキョロキョロと周りを見渡しているもふもふがいました。 窓の隣にあるプレートを見れば、そこにはシマリスと書いてある。 途端に私は心臓を締め付けられた気分になりました。 体が硬直してしまう。 リス。シマリス。 哺乳鋼ネズミ目リス科シマリス。 いつの日か私はお仕事でリスをモチーフにした衣装を着せてもらったことがあります。 こずえちゃんにどんぐりをもらったことが強く印象に残っています。生だったのでもりくぼには食べれませんでした。 彼もまたそのお仕事で私のそばにいたはずでした。そこで、彼は私を可愛いと言ってくれた気がします。 夢だったんでしょうか。夢だったのかもしれません。 シマリス、好きなんですか。もしかしてそれはわざと言ってるんですか。 私が乃々だと、やっぱり気付いてからかっていたんですか。 不安になって彼の表情を伺うと、彼は真剣に窓の中を覗き込んでいる。 冬の雨に打たれているように冷たくなっていく私にはまるで無関心でした。……分かりません、本当のことが。 「ほら、見て、隠れている、隠れるの下手だなぁ」 「……下手でごめんなさい」 彼に聞こえないように、もごもごと口の中だけで言葉を転がしました。 「隠れるの、なんでなんでしょう。本能なのかな。でも、それが可愛いくて」 私の相槌は待たず、彼はしゃべり続けます。 それは窓の向こうのリス達に向かってお話してるようにも見えました。 ☆ 彼は隠れた動物たちを見つけるのがとても上手でした。彼らがどんなに小さくても、どんなに小さなとこに隠れていても、彼の視線の前では無力でした。 性質が悪いのは、自分を見ろと言わんばかりに目の前で自己主張をする動物はまるで視界にさえ入ってないかのように全く目を向けず、こそこそと隠れている者たちだけをじっと見るんです。 見つめられた彼らの気持ちが、私には痛いほど分かりました。 「かくれんぼが得意なんです、昔から」 お日様の光はまだ私達を離さなかったけれど、いつの間にか肌に感じる気温はお昼に比べずっとぬるいものに変わっていました。 園内の木々は揺れて、辺りは不安にも似た賑わいに支配されつつあります。 彼の瞳が私の眼を覗き込みました。 いとも容易く隠れされたものを見つける彼の瞳が今私に向けられている。 堪らないくらいくすぐったくて自分の身体を抱きしめて縮こまってしまいたいのに、吸い込まれた私は動くことを許されない。 木々のざわめきも周囲の喧騒も、今この瞬間に紛れて溶けていきました。 デート……デート、だと思います。 それはデートの終わりと、何かの終わりを象徴していました。 こういうの少女漫画でよく見たことがあります。これは、いけないやつです。いけません。 でも、乃々だけがここに存在しなかった。それだけがもどかしくて、背すじを秘密めいた背徳感がなぞっていました。 「かくれんぼ、苦手なんです」 怖くなって、顔を伏せました。 私の影と彼の影ぼうしが重なっています。 「夕飯はどうしましょうか」 「……いえ、もう私は帰ります」 もしかしたら、今彼は不安な表情をしているのかもしれない。 それでも拒否するしか私にはできなかったんです。 かくれんぼが苦手な私が、苦手であり続けるために。彼に見つけてもらうために。 遠くでおどろおどろしい鳴き声が響きました。 ぎゅっと抱き締められました。抱き締められましたんですけど。 肩を覆うようにして腰に手をあてて、まるで私の体温を覚えようとしてるかのようにきつく抱き締められる。 彼の心臓の音が強く鳴っている。 「また、今度」 その後のことはもう、あまり覚えていません。 ☆ それから、私はライムを見なくなりました。 それでもポツポツと送られてきた彼からのメッセージも、だんだんと少なくなっていきました。 そうするべきだと思ったんです。じゃないとおかしくなってしまうとそう感じたんです。 ただ、代わりにプロデューサーさんは段々とやつれていきました。タバコを吸うのをやめて、
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sraimm-blog · 7 years
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金色 双葉杏
柔らかく頬をくすぐられて目を開けると、透き通った金色が束になって俺の顔を撫でていた。目を凝らせば同じ色の粒子が空中に何個か漂っていて、消えたり生まれたりしている。小さなシャボン玉のようだった。 「あ、起きた?」 甘ったるい声に甘ったるい香り。 それはどちらもあまり好きじゃなかった。元より、甘いものは苦手なのだ。それなのに、もう自分の体には酷く馴染んでしまっているものだ。 「馬鹿だよねー、仕事のし過ぎで熱だなんてさ」 「お前は何しに来たんだ」 「見てわかるでしょ、サボりだよサボり」 仮にもプロデューサーである自分に堂々と言い放つ姿は酷くふてぶてしい。 ただ、あまり強く言えないのは自身がこの様だからだ。 サボりという彼女の言葉が殆ど真実でも、言葉の裏があるかもしれないと疑ってしまえば言及もしづらい。彼女はそこをよく分かっている。 そして、あまり言いたくはないが俺は彼女のことをそれなりに信頼もしている。 たまに、彼女は照れ隠しでそんな態度を取っているのか、それとも正直に答えているだけなのか疑問に思うことがある。 どっちにしろ彼女自身が意図的にそこを有耶無耶にしているあたり、それを知っても意味のないことだろうけど。 「ねぇ、リンゴむいてあげようか」 「危ないからやめとけ、というかリンゴはねーぞ」 「じゃ、お粥とかあーんしてあげてもいいよ、500円で」 照れ隠し、なんだろうか。 今の俺は弱っている。 それなら、からかってみるのも、ちょっとくらい許されるかもしれない。 「じゃあ5000円なら、口移しとかでもいいか?」 一瞬彼女は目を丸くし、わざとらしく考え込むような仕草をした後、ニヤリとこちらを向いて笑った。 彼女の金色の瞳と目があう。 金色が段々と近づいてくる。 シャボン玉のように小さな粒子が���かんでは消える。 甘い香りがする。 透き通った金色が頬を撫でてくる。 甘い香りがする。 甘い味がした。 500億万円ね。 そう、甘ったるい声が聞こえた。 ………… 息苦しさに目を開き、自身の顔におぶさっていたものに気付いて取り除けば、それはウサギのぬいぐるみだった。 「あ、もう起きた?」 ピコピコ音と共に聴き馴染んでいる声が聞こえる。なんだか悪い夢を見ていた気がする。 「お前、お見舞いに来てくれたのか」 「そーだよ、サボりついでに」 「……じゃあ、リンゴとかむいてくれるか?」 ものすごく嫌そうな顔をされた。 いや、期待なんかしてなかったが。 その可笑しさに何故かちょっとした後ろめたさを感じて笑って誤魔化してしまう。 「なぁ、杏」 彼女の名前を呼ぶと、口の中が甘ったるい感じがした。 「今度さ、一緒に甘いものでも食べに行こう」 「……いいけどさ、熱でもあるの?」 言われて気付いたが、どうやらもう熱は下がっていた。 ふと、部屋の机に目をやれば彼女の食べかけのプリンがあって、その隣にはコーヒーゼリーが置いてあった。
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sraimm-blog · 7 years
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未完 ヤンデレ輝子
初めてそれを見つけたのは撮影の時だ。 似合わないって何度も何度も言ってるのに、私は無理やりお腹が丸見えになってしまう水着を着せられ、大きなカメラをもったボサボサ髭の男の人に様々なポーズを要求されていた。 カメラはあんまり好きじゃない。 写真を撮られるのはライブの時のように皆とキラキラするのと違う。誰もいないのに私一人だけがじっくり切り取られてる、そんな気分になる。 だから私はいつもカメラから隠れるように体を縮こませてしまう。ボサボサの人はなかなかカメラへ視線を向けない私に何度も注意をしたけど、私の視線は撮影の間中ずっと、親友に助けを乞うので精一杯だった。 親友。 親友というのは私の親友のこと。 私の大切な人で、優しくて頼りがいのある友達のこと。 彼はいつだって私が困っていると助けてくれ、ひっそりとジメジメした私を必ず見つけてくれる。 でも、今回に限っては彼が私を苦しめる仕事をもってきたし、しかも私という大切な親友が苦しんでる最中に彼は一人ぼんやりと海水浴場の方を眺めていた。 私はそれに不満と怒りを感じていたが、そんな彼の表情はいつになく真剣な顔をしていてーーーー何故か鼻血も出ていてーーーーちょっと心配でもあった。 夏の海での撮影はあまりに暑く、水分補給のための休憩時間は幾度もとられ、その度に私は逃げるように親友の側へ駆け寄った。 絡みつく砂を足から剥がしていく。 私に気付いて彼がやっとこちらに視線を向けてくれたと思えば、彼はそのまま私の姿を天辺から足の先までじっくり見た後、ゆっくりと私の右足の付け根、太ももで視点を固定し、指を差した。 その指を追って見つけたものを知った時、私の血は頭のてっぺんまで駆け上り、彼の目を真っ直ぐ見つめることができなくなってしまった。 ☆ お風呂の狭い浴槽の中、自分の股を少し広げ眺めてみると、そこには黒い粒のような小さな小さな点がある。 形はまるで卵のようで、膨らみもせずぺったんこのまま、私の体に棲みついている。 可愛らしいなと、そう言われた。 セクハラというやつなんじゃないかあれ。 こんなものを可愛らしいなんて言われても、私は素直に喜ぶことはできない。 恥ずかしさばかりが頭を覆ったが、その恥ずかしさは同時に少しの嬉しさを私にくれていた。 私の体で私さえ知らなかった部分を親友に見つけてもらった。そのことは彼と私しか知らない。 そう考えると心臓はドキドキして、まるで二人だけで悪いことをしてしまっているようだと、妙な気分になる。 いつの日か、彼は私にとある質問をしてきた。 親友とは、何をすれば親友なんだ。親友のために俺は何をすればいいとか、そういうのってあったりするか。 それは単純な疑問だったのかもしれない。その質問こそが私のことを想ってくれていることを感じ、私は彼のことを誇らしく思ったが、その質問に答えを返すことは出来なかった。 張り付いた黒い点を指でなぞる。自分の手で触れた肌が少しだけこそばゆい。 その質問にはいくらでも答えることが出来たはずだった。 親友とは側にいてくれる人。 親友とはこの人なら騙されてもいい、そう思える人。勿論、親友が私を騙すわけは無いが。 ただ、それは沢山あり過ぎてどれを選べばいいかなんてわからなくて、一つの言葉にすることは難しかった。 だからあの時、私は答えることは出来なかったんだ。 それでも、今ならちゃんと答えることができる気がする。 親友は、秘密を共有出来る人。 きっと、そう答える。 ☆ 梅ちゃんと知り合って、暫くが経つ。 とってもいい子だ。たまにどこか分からない所をぼんやり見ていたり、何も無い所に話しかけたりしているのは不思議だけど、人のことを想えるとってもいい子。 彼女と私は友達だと思う。ぼっちな私だけど、彼女と一緒にいる時はぼっちじゃない。 梅ちゃんはとってもオシャレだ。いや、事務所の皆がみんなオシャレだけど、私は彼女の服装が特に好きだったりする。 黒くてフリフリの魔王って感じではなく、色鮮やかな服で華やかとも言えない、それでも沢山の彼女らしさが色んなとこに詰まっている。 以前、彼女にどんなとこで服を買ってるか聞いてみた、その多くはお母さんに買ってもらってるらしい。 アクセサリーとかは好きなお店があるみたいで、私も連れていってくれた。 そこは沢山の人が賑わう道から隠れるように、小さな通りをぐちゃぐちゃと迷路のように進んだ先にあった。 錆びれた外観に負けない位に中もおどろおどろしく、目玉やら髑髏やら沢山あって、鎖とかもジャラジャラしてて、イカしてるお店だった。 私はそこを一目で気に入った。 お休みが一緒の時に梅ちゃんと私の二人で何度も来たし、一人だけで来ることもあった。ここでお互いがお互いに似合うアクセサリーを探して、プレゼントの交換もした。 このお店は私と梅ちゃんとの思い出がたくさん詰まっている。 ここは、私と彼女の秘密だ。 「輝子ちゃん、私達、姉妹だったらよかった、かも」 「そしたら、と、友達じゃなくなるぞ……?」 「そう、そうだね」 ただ、そのお店には服が売ってない。私の部屋にはアクセサリーばかりが増えていく。 梅ちゃんは今度、私と一緒に似合う服を探しに色んなとこに行ってみたいと言った。 多分梅ちゃんは自分に似合う服を探したいんじゃなくて、私の服を探してくれるためにそんなことを言ったんだろう。 それは、私が昔はよく履いていたスカートを今はもう全く履かなくなっていたからかもしれない。 梅ちゃんは私の脚を綺麗だと言ってくれていたから。いや、私はそんな風には思えんが。 お気に入りの白色のスカートも今は押し入れの奥の方に眠っている。 秘密を隠すためにスカートはちょっとだけ、心許なかったんだ。 そして、秘密を隠すための服の下にはもう一つ、梅ちゃんから貰ったアクセサリーが隠してある。 「なぁ」 「梅ちゃんと私は、親友……親友だな……」 長い沈黙が続いた。 梅ちゃんは私がプレゼントした十字架のネックレスを遠慮がちに触っていた。 「違うよ」 「輝子ちゃんの、親友はね……」 声は諭すように優しく、まるで、小さな子に絵本を読んであげるようだった。 「と、特別、なんだよ?」 ☆ いつものように、二人で買い物に行った帰り道。 雨がしとしとと降っていて、梅ちゃんは傘をさしながら、私はレインコートを着て歩いていた。 パチパチと傘が水を跳ねる音と、ポツポツと体をうつ雨の感触。 梅ちゃんは私のことを親友じゃないと言った。とっても、とっても寂しかった。 親友だって、すぐに頷いてくれると信じてたんだ。それはきっと姉妹にだって負けない関係なのに。 私はもう同じ質問を彼女にすることができない。彼女もきっと、私に同じ質問を投げかけてくれることはない。 入り組んだ迷路のような道を進む。前を歩く黒色の傘が私の視界を隠す。 もし、私がレインコートを持ってくるのを忘れていたら、彼女の近くにもっと寄れていたのかもしれない。 ふと、目の前の傘が動きを止めた。その拍子に弾けた雫が顔にふりかかる。 頬にふりかかった水をぬぐい傘の向こうへ視線を伸ばしてみると、一つだけの桃色の傘に二人の影があった。 そこに、親友がいた。 親友ともう一人。 誰かが傘の中に隠れていた。 ☆ 雨で冷えた体を沸かしたお風呂であっためる。それでも酷く寒い気がした。 少しでも熱を体から逃がさないように体を縮こませる代わりに、寒さもまた体の内からは出ていってくれない。 雨の跳ねる音。長い髪。梅ちゃんのネックレス。桃色の傘。迷路のような道。 私は指で私の体に張り付いた「秘密」をなぞる。 その形は前と違っていて丸くはなく、尖っていた。蛹のように殻にこもっていた。 温かいお風呂に入っているはずなのに体は冷めていて、何でこんなに寒いのか分からない。 分からないけど、きっと全部雨のせい。 そうだ、親友にプレゼントをしよう。 桃色じゃない、彼に似合う紺の折りたたみ傘。 たとえ一人でも、彼が濡れてしまわないように。 ☆ ーーーーー ーーーーー 親友から日記帳を貰った。 はじめて親友から貰ったプレゼントだ。大切に使って行こうと思う。 でも私の一日なんて面白いものじゃない。書くことが分からない。 だからとりあえず親友のことを書こうと思う。 ーーーーー ーーーーー 「傘、ありがとう、大切に使うよ」 「うん……つ、使ってくれ……」 「本当に嬉しいな、こういうの、プロデューサー冥利に尽きるよ」 「私も親友から日記帳……貰ったしな……フフ……」 「それってもう、半年以上前の話じゃないか?」 「う、うん、そう……ごめん……」 「何を謝ってんだ、いいよ、ちゃんと使ってくれてるみたいで俺も嬉しいからさ」 あの日、私は家に帰った後彼に似合う傘がどんなものがあるか探していた。夜型なのはそうなんだが、その日はいつも以上に眠気はやって来ないまま、朝方までスマートフォンをいじっていた。 実際に傘を買う時には梅ちゃんにも手伝って貰った。親友にプレゼントをしたいんだと私が言った時、梅ちゃんの目は少し輝いていたように思う。 沢山のお店を回ってやっと親友の傘を選ぶと、梅ちゃんはその傘とお揃いのものを私に買ってくれた。 紺色の海の中に薄いグレーの水玉が浮かんでいる。 梅ちゃんが言うには、親友同士ならお揃いの傘くらいおかしくないらしい。 それでもやっぱり、雨が降ったとき、私はこの傘ではなく、いつものレインコートを使っている。 「早速、今日の帰りにでも使わせてもらうよ、今日の朝の天気予報によると午後から雨だったはずだからな」 「そ、そうなのか、こんなに晴れてるのに?」 「ああ、そうらしい……傘もってないのか?」 「うん……」 「あー……じゃあ、今日はこの傘で俺と一緒に帰ろう」 「フヒッ」 変な声がでた。あ、いや、いつも通りだ。 何か他の提案をして断ろうとするも、うちの事務所には置き傘はなく、今日の私はレインコートを持ってきていない。 お父さんもお仕事で迎えに来てもらうことができない。 混乱する私を見て親友は小さく笑った。 もう、私には頷くことしか許されなかった。 親友のために買った傘をプレゼントしてすぐ、私のために使ってもらう。口の中が甘酸っぱくてもにょもにょとする。 私と親友は結構背が違うが、相合傘なんて出来るのだろうか。 ……あれ。 でも、じゃあ何でだ。 何で、親友は今日傘を持ってこなかったんだろう。 ☆ ーーーーー ーーーーー ピンクの傘と、紺の水玉の傘が仲良く並んでいる。そんな夢を見た。 ーーーーー ーーーーー 「雨、止まないね」 「そうだな」 止まないかな。 呟くと梅ちゃんが私を見る。 三白眼と呼ばれる彼女の目はギョロリという擬音が一番似合っているけど、彼女の持つ柔らかな印象は怖さを愛らしさに変えていた。 「変、だよ」 変というのは、どういう意味だろう。 私が変なのは当たり前だ。 普通が良かったなんていじけてるわけじゃない、むしろ、変でよかったと思っている。 キノコに会えたのも、梅ちゃんに会えたのも、親友に会えたのも、普通じゃ出来なかったことだと思っている。 彼女は言葉を続けてくれない。 なぁ。と、そう声をかける。 とっても居心地が悪かった。 言葉の続きの催促じゃなくて、こっちから質問をするための呼びかけだった。 「親友って」 「親友って、何をすれば親友なんだ。親友のために私は何をすればいいとか、そういうのって……そういうの、あったりするのかな」 彼女の大きな瞳が波のように揺らぐ。 彼女が悲しんでいるのか、私が泣きそうになってるのかは分からない。 「私も、雨、好き、だよ」 「輝子ちゃんも、好きな雨が好き、だよ」 「ぽつぽつ、ひんやり、きらきら……あ、じめじめ、も……」 外の雨の音に声が紛れて溶けていく。 ノイズのように大切なことを隠していく。 「輝子ちゃんは……大好きって……」 「ーーーーいしてるって、伝えなきゃ、だめ」 雨の音が心臓と一緒にぽつぽつと鳴る。 体に流れる血がひんやりと凍る。 それでも、私はただ耳を澄ましていることしかできなかった。 ☆ ーーーー ーーーー 毒キノコの種類 カキシメジ 頭痛、げり、吐き気 ツキヨタケ 頭痛、下痢、吐き気、幻覚症状 げいげき、脱水 カエンタケ 運動機能障害、言語障害 脳が小さくなる ドクササコ 手足の先とか、男の人のキノコがとっても痛い 30日くらい痛い ドクツルタケ 肝臓、じん臓をスカスカにする 一本食べれば死ぬ ーーーー ーーーー 「しっ、しんっ、あいっ……あっ……」 「あ?」 「あ……なんでも、ないです、はい……」 事務所のお昼。ムシムシとした熱が体にまとわりついてくる。 太陽は雲に隠れていても、今までがずっと雨続きだったせいか空はずっと眩しいものに感じた。 彼は暫くこちらを見て様子を伺ってたけど、私が目をそらし黙り続けていると、私の頭を乱暴に撫でてきた。 今日の彼はたぶん、機嫌がいい。 触れ方で分かるくらいに私は彼のことを知っている。そのつもりだ。 彼は私の髪をぐしゃぐしゃにした後、大きく伸びをして、今度は自分の鞄を漁りだした。 そこから取り出されたのは目に痛いくらい甘く柔らかなピンク色の包みだった。 鮮やかなその色が、質量をもってパキリと私の体にヒビを入れてくる。 体にまとわりついていた熱が一瞬のうちに奪われたような気持ちだった。 「しんゆう、それ、あれか」 どれだ。 「ん、はは、いいだろう、手作りのお弁当だ」 誰の。とは、聞けなかった。 聞いてしまうと身体中の空気が抜けて皺々に凹んでしまうと思った。 親友はかっこいい。 親友は素敵だ。 親友は凄い。 私の体の奥底には何か分からないものが眠っている。 けど、私はその正体を理解したことはない。理解しなくても、感じて、叫んで、魂が震えるものだと思っている。 ただ、そんな衝動の中でも一つだけ私が分かっているものもあった。 私はリア充がとても苦手なんだ。 リア充という漠然とした何かがとても苦手なんだ。 奴らは得体が知れなくて、恐ろしい。 それは嫌悪感なのかどうか私にはわからない、でも、その感情が何かのエネルギーになって、私を突き動かしていることを知っていた。 私は気付いていたのだ。 気付いていたけど、気づいていないふりをしていた。 親友はリア充なのだ。 かっこよくて、素敵で、凄い彼がリア充じゃないわけないじゃないか。 私が恐れるリア充が今、目の前にいる。 幸せそうに笑っている。 なら、私は叫ばないと。 心の奥底から狂って、叫んでやらないと。 でも、私の心は震えず、しとしとと濡れていくだけだった。 声なんか出なくて、息すら出来なかった。 「輝子?」 心配そうに彼が私の名前を呼ぶ。 いつの間にか頬に雫が流れていて、ぽつぽつと床にこぼれていった。 声と息の代わりのように、喉からは嗚咽が漏れ、大きな手で握り潰されてるように体が痺れ身動きが取れなくなってくる。 彼は慌てて駆け寄ってきて、肩を抱きながら私に落ち着くように言った。 優しく髪や背中を撫でてくれた。まるで、彼に包まれているようだった。 あふれた涙のせいか、堪らないくらい喉が乾いている。 目の前には彼の腕があった。 私はそこに噛み付いた、そうして口を塞ぐと嗚咽は部屋の中に響かなくなった。 「あいひてふ」 「ひんゆー、あいひてふ」 舌先にじんわり汗と���の味が広がっていく。 彼はずっと、私を撫でていてくれた。 ☆ 張り付いた「秘密」。 私は蝶を連想した。
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sraimm-blog · 7 years
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杏と乃々
杏と乃々 何となくただダラダラと続いて、決して終わらないもの。それがとても素敵だと、私は思います。 物事は全て終わりと始まりの繰り返しだなんて人は言うけれど、終わらないものは無いなんて彼は言うけれど、私は永遠を信じています。 人との出逢いも、別れがあるから出逢いがあるなんて言葉。別れるために出逢った人なんていないのに、なんでそんなことを軽々しく言えてしまうんでしょうか。 私はいつだって、何かが終わってしまうことがとても怖い。だから何もかもが続いてくれればいいと願います。 「でもさ、そんなのめんどくさくない?」 夕方。太陽はすぐ姿を隠していってしまう季節。 目の前のソファーで寝転ぶ私よりずっと小さな、そして歳上の彼女は言いました。 二つ束ねた長い綺麗な金色の髪。暗闇の中で光る透き通った目がこちらを向きます。飾り気のないままに綺麗に整頓された部屋の中でそれらは強く存在感を示していました。 彼女とこんなお話をしたのは、好きな漫画の最終巻、それが未だに読めないというくだらないことからです。 いえ、私にとってはくだらなくなんてない、読んでしまうと物語が終わってしまいそうで今でも未開封の本が本棚に眠ったまま、埃を被りつつあります。 ああ、だから乃々はアイドル続けてるのか。そう、彼女は言葉を転がしました。 二本の金色がたゆたっている。その姿は闇に潜む動物のよう。 私は彼女に精一杯の反論をしないといけません。だって私は終わりなんて来なければいいって思ってはいても、変わっていった感情だってそこにはあります。 臆病で逃げ腰で消極的な私はアイドルを続けている。 それは、確かに私の中に理由があるからだと、その、思います。多分、そうなんです。 「それってさ、頑張れって言ってくれる人がいるから?」 声には呆れたような色。 彼女はまだ透き通る眼でこちらを見てました。その瞳の中には私と一緒に彼女の姿も見えたような気がします。 長い沈黙。きっと彼女は私がどう答えるかをずっと待っている。私は彼女にどう答えを返すべきなのか迷っている。 緊張を打ち消したのは彼女の飽きたような欠伸。彼女はもう私に興味なんか無い素振りでそっぽを向いて寝転んでしまいました。
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sraimm-blog · 7 years
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暇潰し 双葉杏
人生なんて、死ぬまでの暇つぶし。 誰が言ったか分からないけど、私はこの台詞がそんなに好きじゃない。どこか斜に構えてるところも、生きるってことを死に向かっているとする解釈も、なんだか私の中枢に潜り込んで針金で刺してくるような、そんなイライラを誘発させた。 認めるところもある。だって、生きる理由が何かと問われたら私は答えることが出来ないだろうし、答えを考えるだけ無意なことだとも感じるから、初めから暇つぶしと開き直って日々を暮らすという答えを導いたのは凄いことだと思う。その言葉のおかげで人生という途方もない時間を過ごせる人は何人もいるのだろう。 私の仕事上のパートナーもそんな人だった。はたから見れば私たち二人は仕事以上の関係を持っていたようにも見えていただろうが、あくまで私達はお互いを仕事上のパートナーだと認識していた。 他愛のない会話も、彼の買ってくるケーキも、休日に私の部屋を一緒に片付けるのも、全てが仕事の延長線上だった。 「人生なんて、死ぬまでの暇つぶし」 だから、俺はお前に共感してるんだよ。何かを恐れているみたいに、彼はよくそう口にした。私にその言葉を求めていた。そして、言葉の後には必ず、自前の水筒からお茶を汲み喉を潤していた。 彼に趣味はなく、強いて言えば、仕事が趣味のような人間だった。つまり、私のお世話が彼の趣味だ。 暇つぶしというのはどういうことを指すのだろうかと考える。私にとってそれは昼寝だし、ゲームだし、ぬいぐるみのうさぎを抱きしめることだ。まさか仕事が暇つぶしなんて言うわけもない。 なら、彼の場合は、彼の人生は私の世話をすることで費やされるものなんだろうか。それはなんだか重いなぁ。胃もたれがする。胃薬を飲もうかと思ったけれど、薬ってのがあまり好きではないし、どこに片付けてあるかも忘れたので、代わりにぬいぐるみを強く抱きしめた。 「体調、悪いのか?」 「悪い、だから明日は休ませてよ」 彼は無言のまま、水筒からお茶を汲もうとした。中はもう空っぽで、雫が一粒だけ落ちてきた。 私にとってそれは昼寝だし、ゲームだし、ぬいぐるみのうさぎを抱きしめること。 そして、彼に甘やかされることなんだろう。
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sraimm-blog · 7 years
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爆弾 乃々
ぼーっと薄暗がりを見つめていたら、いつの間にか手に爆弾が収まっていました。 片の手に収まるほどの楕円には規則正しいでこぼこが並んでいて、天辺の金属には可愛らしいピンク色のリボンが結んであります。その溝を指で滑らすと、恐ろしいくらいに心地よかった。 今、私が爆弾を持っているのは世界で私しか気づいていません。お母さんも、お父さんも、お友達も、プロデューサーさんだって、気づいてはいない。 私のことを私以上に知っていて、あるかどうかも分からない魅力とか可愛らしさとかを引き出してくれる(演出してくれる?)彼さえ、私の手のひらの中を知らないのです。 きっとこの爆弾は、何もかもを壊してしまう。爆風は私の住む狭い薄暗がりからプロデューサーさんの足元へ、それは部屋のガラスや壁を突き破って私の街まで簡単に呑み込んでいく。 私が勝手に引き金をひいたものが、私を超えて人を傷つけてしまう。途端に指が震えて、私は爆弾を零してしまいそうになる。こんなもの、今すぐにでも捨ててしまいたい。 「部屋、寒かったか?」 顔をあげれば、目の前に彼がいました。 違和感を感じて頬に手を触れると、しっとりとしている。彼がハンカチをとりだして、私の顔をぬぐう。浮き上がった筋を優しく指で滑らすように。なんだかそれはちょっとだけ、エッチな気がするんですけど。 「嫌な夢でも見てたのか」 ハンカチは洗って返しますと、私はそれを掴みました。別にいいと彼が言ったから、すぐ遠慮してしまう私は負けそうだったけど、私の涙を彼が持っていることが恥ずかしくて、がんばって離さなかった。 ハンカチを譲ってもらった拍子に、私の手のひらから爆弾が落ちました。 それは不発で、落ちた先をいくら探しても、もう見つけることができませんでした。
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sraimm-blog · 7 years
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約束 愛梨
私と彼の間にはおかしな約束があります。 約束、という言葉を使うほど厳かなものでもないんですが、かといって決して蔑ろにしてもいけない、それは確かに私達にとって約束という言葉で形作ることのできる行為でした。 その約束は月に一度、第三の金曜日に果たされます。 私は大学の講義が終わってから、いつも通りお世話になっているアイドル事務所に向かいます。 その日は基本的に休みであり、決して何かやらなければならないことがあって事務所に向かうわけではありません。不定期に仕事が入ってしまうのが当たり前の職業なのに、不思議とその日だけは何か用事が追加されることもありません。 ライブも、それに向けてのレッスンも、イベントも何もない。ただ、私は導かれるように事務所に、彼の元へ向かいます。小さな包みをお気に入りのバッグの中に抱えて。 私達の約束が始まった日の空は晴れていたような気もしたし、しとしとと雨が降っていたような気もしました。 私はサークルの友達に渡そうとしてた自作のシュークリームをソファの上で頬張っていて、向かいにあるテレビの中では下町のお菓子を綺麗なアナウンサーさんが紹介していました。 サクサクの生地は千切れる時にはしっとりと、破れた穴からはバニラの香りがいっぱいに広がる。シュークリームが美味しくできたという達成感と、その分だけ、友人が今日大学を休んだという寂しさが甘く私の喉を通ります。 心配して連絡を取った彼女の休みの理由はどうやら体調の悪さが理由ではなかったようで安心しましたが、逆に私が大学で一人で大丈夫だったかと彼女にしきりに心配されてしまったのを覚えています。どうも、私は危なっかしく見えるみたいなんです。 私自身はしっかりしてるつもりだけど、きっとそうではないのでしょう。彼女の口癖は「私がいないと愛梨はダメだから」で、その言葉を疑う暇もないくらい大学では私とずっと一緒にいてくれます。 「愛梨が作ったのか」 破れた皮から溢れてしまった、雲のようなクリームを丁寧に舐めとっていると、不意に後ろから声をかけられました。 私は驚きつつも、そうなんです。と、テレビの四角形とシュークリームの甘さの中に包まれながら返事をします。 彼の方を向かなかったのはクリームが頰についてるかもしれないと、恥ずかしかったからかもしれません。 ふうん。と、所在なさげに息を吐く彼を後ろに感じて、そうだ、今度、彼のために甘いものを作ってあげよう。そう漠然と思ったんです。 シナモンのアップルパイ。イチゴのタルト。カスタードのシュークリーム。 私は月の第三金曜日、事務所に必ず自作のお菓子を持っていくようになりました。何故その日だったのか、というのに明確な理由はありません。ただ、不思議とその日の前日の夜は暇ができて、やっぱり次の日にも用事が入ることが必ずと言っていいほどなかったからです。 私が包みを出すと、彼は給湯室から綺麗なお皿とフォークを一つずつ取り出してきて、自分の机の上に並べます。そのお皿は飾り気のない質素なものでしたが、私は彼の出したお皿の上に自慢のお菓子を載せて、どうやれば最も見栄えがよくなるのかを狭い器の中で試行錯誤します。そうして、やっと満足いったころには、いつの間にか彼が紅茶が入ったマグカップを二つ持って私のそばに立っています。 彼はいつも出されたものをモソモソと億劫そうに食べるだけで、賞賛も文句も言いませんでした。 ただ、お菓子を食べ終わった際、ありがとうという感謝の言葉を決して忘れません。 私は彼がお菓子を食べている間、彼の机と反対側にあるソファに座っていて、できるだけ彼の方を見ないようにしました。彼の気配を後ろに感じるこの瞬間が、たまらなく好きでした。 だからなのでしょうか。 本当は彼が甘いものが苦手だということを私が知ったのは、それが半年以上も続いてからのことです。 たまたま、事務員の方と所属していた研修生の方の会話を聞いたんです。バレンタインのチョコレートをどうするかという会話でした。まだずっと先の出来事なのに、彼女たちはまるで明日がその当日かのように楽しげに話していて、その内に彼が甘いものが苦手であるという事実が含まれていました。 でも、私はその話を聞いたとき、彼に苦手なものを食べさせ続けてしまったという罪悪感よりも、甘いものが苦手な彼が私のお菓子を食べ続けてくれていたのだということが嬉しかった。 食べ終わった後に必ずありがとうという彼の言葉を反芻すると、そこには確かに、私達の約束がありました。 彼が甘いものが嫌いだということを知ったその月、私は甘さ控えめのクッキーを作ることにしました。 甘さの代わりに食感が楽しめるよう、ナッツなんかを混ぜ合わせたりなんて工夫をして、喜んでくれるだろうかと期待でいっぱいでした。 包みを取り出すと彼はいつも通り給湯室に向かい、お皿を運んできます、そして、私は彼が持ってきたお皿の上に自作のクッキーを並べます。大きさも形も様々な彼らをどうやったら綺麗に見せることが出来るのかは複雑で、いつもより一生懸命になってしまいました。 私はその日だけ、お菓子の準備を終え、紅茶を受け取り、ソファに座っても、ずっとチラチラと後ろを伺い続けました。 彼はまず丁寧に手を合わせて、フォークを取ります。そして、綺麗に並んだクッキーの一つを三つの針で突き刺そうとしますが、それは小さな粉を撒き散らしながら二つに割れてしまいます。その欠片と衝撃はお皿の上で渦を巻いて、彼らが守っていた美しい隊列は一突きで簡単に崩れ、悲惨な様相です。彼は困ったようにしばらくぼうっとしていましたが、やがてフォークを置き、壊れた欠片を優しくつまみ上げ、億劫そうに口の中へ運びました。 彼の表情は変わりません。美味しいとも美味しくないとも言いません。 私はそのことに安心して、ようやく彼の様子を伺うのをやめようとします。 「甘くない」 最初は、誰が呟いたか分かりませんでした。今この部屋には私と彼しかいないのに、いつの間にか第三者が紛れ込んだのかと不安にさえなりました。 それは決して明るい声ではなく、低く濁った、私が初めて聞く誰かの不満の声。 振り向けば、やっぱりそこには彼以外誰もいません。そして、彼は何も無かったようにモソモソとクッキーを口に運んでいます。 ーーーー次は。次からは。 とびきりの甘いお菓子を彼に振舞おう。温かくて、暖かくて、暑くなってしまいそうなほど優しい甘さを彼に手渡そう。 ソワソワと紅茶を啜れば、マスカットの香りの中に思わず顔をしかめてしまいそうなほどの渋さが隠れていました。 彼との約束は、今も変わらず続いています。 月に一度、とびっきり甘いお菓子を私は作り続けています。 「いつか、隣でお菓子を食べているとこを見ててもいいですか?」 そう聞くと、甘いものが苦手な彼は照れたようにはにかんで「いつもありがとう」と、一言だけ呟きました。
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sraimm-blog · 7 years
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未来の話  まゆ
愛とは何でしょうか。 いとおしい。かわいい。護りたい。親しい。与えたい。そばにいたい。 想っている。惜しんでいる。つながっている。つないでいる。 所詮言葉は言葉。性愛はただの生存本能。 そもそも、愛なんて抽象的なものは存在しないまで。 誰もが聞き飽きたぐらいに愛という言葉は人々の空気に馴染んでいて、行間の中に隠れています。 でも、愛という言葉に惑わされてはいけません。 愛は誰かの気持ちが何処にあるかを示している。それだけで十分のはず。 こんなにも愛おしい。 こんなにも愛している。 「で、で、なんだが、親友がな」 目の前にあるパスタをフォークでくるくると巻き取る。 彼は今何処で何をしているのでしょうか。 いえ、本当のところは何をしているのかなんて把握しています。 きっと、今頃は私のお弁当を食べてくれている。今日のおかずも彼の好きなものを揃え、たとえ忙しくても簡単に食べることができるよう愛情を包んだおにぎりを並べました。 喜んでくれているでしょうか。 「あの人はそんなこと言ってくれませんし……言われても困りますけど……」 くるくる。ぐるぐる。 彼に会ったら言いたいことばかりです。 今日もお疲れ様でした。お風呂にしますか。お夕飯も準備は出来てますから、お好きなのを。もちろん私でも大丈夫です。心の準備は出来ていますから。 ねぇ、ところで、そろそろ。 「あ、愛って、なんだ」 私達も結婚とか、どうなんでしょうか。 「二人とも、お幸せそうですね」 そう言うと片方は小さく笑みを浮かべて、もう片方は目を背けて頬を染めます。 パスタを一口分フォークで巻いたけれど、もうお腹いっぱいで食べることは出来ません。ご馳走様です。 彼女達とは昔お仕事でユニットを組んだ仲でした。「ユニット」で間違えてはなく、私達はかつて、一時期にはなるんですが、三人グループのアイドルとしての活動をしていました。 そこそこ売れはしましたが有名というと程遠い。そんな位置を平行線のまま進み、プロダクションが倒産すると宣告された頃には自然と消滅しかけていたようなユニットです。 個人で連絡をとることも近頃はなくなっていて、こうして再び出会い、食事をするなんて数年ぶりのことでした。 「まゆさんも、笑ってる」 輝子ちゃん。腰まで伸びる長い髪は無造作な方向に流れていて、眠たげな瞳でこちらを真っ直ぐに射抜いてくる。 彼女と向き合えば、いつの間にか彼女にこちらの内側にまで踏み込まれてしまっている。 言いようのないむずがゆさに視線をそらしてしまうと、不安そうに謝られてしまいました。 まったく可愛くて無防備な人だと、そう思います。 乃々ちゃん。目を逸らした先には心配そうにこちらを見つめる彼女がいました。 目が合えばすぐに顔を逸らしてしまうのが小動物のようで、ついつい視線を外さず、意地悪をしてしまう。 癖のあった髪は今は柔らかくふんわりとまとまっています。くりくりと指を絡めてみると、あううと唸られてしまいました。 「まゆさん、変わりました」 「そうですか?」 「昔より、ちょっと意地悪なんですけど」 それはそうかもしれません。 だって、こんなに幸せそうな二人の惚気話をずっと聞いていれば、少しだけ捻くれちゃいます。 かつてのアイドルとプロデューサーが結ばれる。そんな関係が二人も身近にいる。そんなの私にとっては淡く光る灯のようなもので、血のように赤々しい毒でもある。 「輝子ちゃん、結婚は特別ですか?」 乃々ちゃんの髪をくるくると巻きながら、ついそんなことを質問してしまいました。 でもきっとこれくらい、彼女になら許してもらえるでしょう。 乃々ちゃんも興味があるのか、ちらちらと目線を輝子ちゃんに送っています。この際乃々ちゃんにもいつ結婚するのか聞いてみたいけど、彼女は机の下にもぐっちゃうかもしれません。 輝子ちゃんはしばらく考えたそぶりを見せた後、目の前にあるコップを指でつついて水面を波打たせながら、私の瞳を真っ直ぐに覗き込みます。 潤んだ唇が頼りなく緩んでいる。 「結婚じゃなくて、親友が、特別」 言葉は漠然と張った膜越しに私に響いてきました。 私はやっと、彼女が昔よりもずっと色っぽくなっていることに気づきました。 ………… 「おかえりなさい、お疲れ様でした」 「またいるのか」 「まゆはアナタのものですから」 軽口を叩くと(私は軽く言ったつもりはありませんが)彼は困ったように言葉を探し出してしまったので、話を切り上げることにしました。 重そうな鞄を両手で受け取って居間に戻ります。 鞄を受け取る際、手と手が触れ合うよう努力をしてみたけれど、彼は無反応でした。 昔はすごく照れてくれていたのに、私は今もこんなにも照れているのに、もう慣れてしまったんでしょうか。 部屋の中に彼の足音が響く。 タンタンタンと、存在感のある音が心地よい。 その音が鳴り止んで衣擦れの音に変わる頃、私は目を伏せて小さく咳払いをします。 コホン。それでは。 「お風呂にしますか? お夕飯も準備は出来てますから、どちらでも大丈夫ですよ」 それとも。 「ご飯がいいな、というかだな」 彼は呆れたようにかぶりを振りました。 それはわざと大げさに演じているようにも見えます。 「来るなと、何度も言ってるだろう」 いつもと同じ定型句が紡がれる。 彼の家にお邪魔することに決めてからもう一年は経ち、その間ずっと言われてきた言葉です。そっちには慣れてはくれないみたい。 いえ、言い訳をさせてもらえるなら、私もこんなに強引なことをするつもりはなかったんです。 彼の迷惑になるかもしれない。 たとえ私が迷惑にならないための最大の努力をしたとしても、人の関係は数値のように単純なものではありませんから。 でも同様に、道のりも決して単純ではなかった。 アイドルとプロデューサー、その関係は私達を強く結ぶ赤い糸になるとずっと思っていました。 いつかアイドルとして自分がどこかに辿り着ければ。 そんな漠然とした夢をもって進んできた道は崩れて消え去ってしまう。自分がどこにたどり着きたかったのがさえ分からないままに。 首元にかけたチェーンに触れると、そこには飾りの代わりにこの部屋の合鍵が結んであります。 ねぇ。ここに来るなというなら何故私にこの鍵をくれたんでしょうか。 「ねぇ、アナタ」 「結婚してねぇ」 ……怒られてしまう。 ニュアンスは変われど、さっきは否定されなかったのに。少し残念な気持ちです。 そう、私達は結婚してなんかいない。それどころか、付き合ってるというのも私達の関係を正しく表してはくれない。 プロデューサーに恋したアイドルと、自分のことが好きなアイドルを担当したプロデューサーの延長線上。 やっぱり彼は私にとっての特別です。 自惚れでなければ、彼にとっても私は特別だと、そう感じている。 そこに確かな形はありません。でも、きっとそれだけでいい。 あなたのそばにいることができるなら。 それなのに。 「ねぇ、旦那様」 「旦那じゃねぇ」 それなのに、こんなにも不安な私をどうか許してくれませんか
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sraimm-blog · 7 years
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潔癖症
私が潔癖症になったのは、初めて生理を体験した時がきっかけになったと思う。 昔から綺麗好きではあった。暇さえあれば除菌クリーナーでどこかを拭いてしまうし、なんであれ使った道具は湿った布で拭く。ハサミやペン、必要なものが必要なとこに無いのが落ち着かなくて、どんなときも彼らをどこかにおき忘れることなく、それぞれ名前付きの箱の中に丁寧に入れていたし、どこかに染みや汚れを見つけたときには親の仇のように擦りに擦った。 きっと、私は1日お風呂に入らなかっただけで死んでしまう、そんな弱い生き物だった。 だから、身体から流れ出る赤いものを初めて目の当たりにしたとき、私はどこかで自身が取り返しのつかないくらい汚れてしまったのではないかという錯覚があった。 こんな私だったから、彼女のことを『汚い』と思ってしまったのはどうか許して欲しい。それがどれだけ失礼なことか分かってるし、行き過ぎてるのは私なのだ。彼女は何も悪く無い。 ただ、スリッパ着用の事務所内を裸足でペタペタと歩いて、櫛を通さないままの長いボサボサ髪をそのままにしている彼女に私はやはり嫌な気持ちを抱いていた。 あまつさえ、机の下に潜り込み、そこへ素足のままべったりと座り、雑菌の塊……いや、菌そのものであるキノコ達を幸せそうに抱えている姿をみれば、彼女はきっと私とは別の生き物なのだろうと思ってしまうぐらいだ。 彼女はとても可愛くて綺麗だった。 私が担当するアイドルで、親友でもあった。 私の潔癖症はあまりに行き過ぎている。それを人に押し付けることはしてはいけないことも分かっている。 けれど、彼女が随分と年下で、素直だったからだろう。私は彼女にある程度の譲歩を求めた。 まず、部屋の中では必ずスリッパを着用すること。そして、外から事務所にやってきたのなら、部屋に入る前に個室(私達の事務所にはメイクをしたり、落としたりする目的などに使われる部屋がある)で手洗いうがいをし、髪をきちんと整えること。 これは基本的に私が担当した。色んなとこが跳ね狂っている彼女の髪は不思議なことに、櫛をすんなりと通すことができた。けれど通った後、元どおり重力に逆らっていき、なんとも手応えがなかった。 要は私の大まかな要求は彼女の身体がある程度清潔であることだった。時と場合によるものもあり、その都度彼女の顔を拭いたり、髪をまとめたりさせてももらったが、それに彼女は文句を言わず言う通りにしてくれた。そして、まるで、私に身を任せれば何も問題ないというように、嬉しそうに微笑むのだ。 ただ、そんな彼女も決して譲らないことが一つだけあった。譲らない、というのは少し異なるかもしれない。私が彼女に決して干渉してはいけないだろうと思ったもの、の方が的確だろうか。 それは、机の下で彼女がキノコを大事そうに抱えている時間だ。何故、私の机の下なのかという不満はあったが、彼女はそこでは私の頼みを聞いてくれない。 わざわざ履いていたスリッパを脱ぎ、地面と一体化するようにペタンと座り込む。その姿は彼女の身体の延長線上に机の下という空間があるようだった。 私はその行為をやはり芳しく思えなかったが、神聖めいたものも感じていた。その時の彼女は私と別の生き物どころか、遥か別の次元に存在していた。 私は彼女の不可侵な時間に干渉する代わりに、せめて机の下をどこよりも綺麗にしようと努力をした。 毎日、朝早くに来て机の下を覗き込み、小さなちりとりで軽く埃を掃き、その後、軽く洗剤を湿らしたスポンジで机の足を綺麗に磨く。百円で買った三枚の雑巾のうち一つを水で濡らして床全体を拭き、もう一つ乾いた雑巾で仕上げをする。最後の一つは予備として机の端に残しておく。 そうして、私専用のスリッパも机の下に用意してしばらく待っていれば、段々と他の人も事務所にやってくる。 そのとき、コンコンという遠慮がちなノックがドアに響くと私は鞄から櫛を取り出して部屋の外に向かった。そうすれば彼女が淡い笑顔で私を待ってくれているのだ。 たまに思うことがある。 もし、彼女とキノコたちのあの狭い空間の中に私が入り込ませてもらうとどうなるのだろうかと。 そこには汚いものなんて一つもなくて、ただ私達がいる。永遠の時間が流れていく。 私が入りたいと願えば、彼女はやっぱり受け入れてくれるのだろう。もしかしたら「なんだ、やっぱり入りたかったんじゃないか、ここは居心地がいいから」なんて言葉をかけるのかもしれない。 汚いところでは死んでしまう私は、綺麗なところでも生きることが出来そうになかった。 彼女の抱えるキノコ達の傘がつるんとしていて、それは思わず触ってしまいそうなほど魅力的だった。
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sraimm-blog · 7 years
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明日の飴  双葉杏
「愛とはな、人が人を慈しむ……ようなことなんだ!」 「ような、って」 だいたい、愛するも慈しむも意味が被ってしまってる。 薄汚れた壁、ボロボロのブラインド、狭っくるしい部屋の真ん中に一つだけ大きなソファー。ひび割れている。 壁にかかってる時計もそばに転がってるスマホも無視してゲーム機のホーム画面から時刻を確認した。もう夕飯には遅い、確かな夜の時間だ。 彼の仕事はまだ終わらない。お腹が減ったと抗議をして飴をもらったのがもう二時間も前、そばに転がった包み紙は二桁にのぼろうとしていた。 「例えばそう、杏は俺のために仕事をがんばろうと思うだろう?」 「うーん」 「愛だ!」 「じゃあそれでいいや」 きっと、仕事のし過ぎで頭がおかしくなったんだろう。こういうのは稀によくある。 夜に近づけば近づくほど、彼はいい加減な話を一人で始める。それもテーマが壮大なのを選ぶからタチが悪い。何のために生きるのかとか、心とは何かとか、さっきの愛の話なんて彼の十八番だ。聞くたびにそれは実体が変わる。 こないだの愛は確か性欲だった。じゃあプロデューサーは杏のこと愛してるんだねっておどけてみせたらなんか凄くテンパってて身の危険を感じた。 「今日は遅くなるぞ」 寝返りを打つと、擦れた音は思ったより部屋に響いた。一人で帰るのはめんどくさいし、家に早く帰ったとこでベットでゲームするだけだろう。 無言をどんな風に受け取ったかは分からないけど、彼は黙々と作業に戻る。気にしないよ、とぐらいは言ってあげるべきだったのかもしれない。もしくは気にしてると言って罪悪感を与え、優位に立つべきだったかも。勝手に待ってるのはこっちなのに、彼はきっと飴玉をもう一袋くらい出してくれるはずだ。 「杏がこうやって待ってくれてるのも、愛かもなぁ」 「似てない真似はやめろよ」 「そうだなぁ、俺も誠意をもって有給で応えてあげないとなぁ」 遠くでエンジンの声が唸っている。 彼がため息と共にパソコンを閉じて立ち上がる。 それを見て杏もゴロゴロとソファーから床に滑り落ちた。ついでに起き上がるつもりだったが失敗だ。彼が冷めた目でこちらを見ている。 「明日はさ、愛ってどんなのになるの?」 雑に引っ張り上げられた瞬間、持ち前の運動能力で背中をとった。 仕事はいいのかなんて野暮なことは聞くもんか。代わりに、彼に散らばったスマホやゲーム機の回収を命じることにした。
☆ 「愛とはな……実は、この世には無いんだ!」 力強く、魂に響くように言い放つ。これはとても衝撃的なことだ。なんたって、そもそも有ると思ってたものが無いのだ。こんなことを聞かされたらさぞ驚愕するだろう。さて、彼女はどんな表情をしてくれるだろうか。 ……。彼女はそっぽを向いて携帯機に夢中のままだ。暫く経っても返事は来ない。代わりに、ピコピコという間の抜けた音がボロボロの部屋に広がっていくだけだった。 意味もなくブラインドを手でこじ開けたり戻したりしてみる。もしかして聞こえなかったのだろうか。いや、いや、そんなはずはない、魂が震えるほどの気持ちを込めたつもりだ。 「じゃあさ、杏の、杏のこの感情は……一体、なんなの?」 段々とブラインドを指でひっかけるのが楽しくなりだしたころ、唐突にそんな言葉を返されてむせてしまった。肺はせり上がり心臓はドキリと、漫画みたいに本当にドキリと鳴った。鼓膜にそう響いた。 こいつは何を言っている。いや、いつもの通り俺をからかってきているのだろう。胸からゆっくり、溜息とも深呼吸とも言えない息を吐いた。 夕方が夜になるこの時間帯は俺にとって解放の時間だった。 いつも口うるさい女上司。人の机の上なんて関係ないだろう、誕生日プレゼントに除菌クリーナーなんて嫌味ったらしくて仕方がない。 隣では機械のようにおにぎりを頬張る同僚。話しかけても愛想はない、何を考えてるかさえ分からない、段々と給湯室に増えている食器類はこいつの仕業らしい。 まだまだいるぞ。この事務所にはそんな奴がまだまだいる。めんどくさい奴らばっかりがいる。俺はそんな奴らに囲まれて仕事をしている。 それでも、この時間には解放されるのだ。時間に厳しく有能な潔癖女やロボット男は当然、怠けたいだけの奴らも早く暖かいお家に帰りたくて、少し待っていれば事務所内は俺ともう一人だけだ。 二人だけのこの時間、俺は彼女に甘えているのだろう。 愛とか愛じゃないとか、適当なくだらないことを彼女はくだらないまま返してくれるから、それはとても居心地が良いんだ。 彼女の冗談を濁すように、飴をポーチから取り出して、ソファに向かって放り投げた。彼女からは少し遠くに落ちてしまったそれを、彼女はその場から動かないまま必死に手を伸ばして拾おうとしている。 「プロデューサーってたぶん、ナルシストで人嫌いが過ぎるんだよ」 「何を、俺ほどの愛信者はいないぞ」 「愛なんて無いって言ったばかりじゃんか」 「お前を見てると、そんなこともないかって思ったんだよ」 適当ばっかり。そう言った彼女は飴には届かなかったようで、ソファの上で再びぐったりとした。 飴を放り投げたのは照れくさかったからだ。ちょっと自分が情けない。 「少なくとも、お前は好きだし、事務所のみんなも好きだよ」 「じゃあ、杏をもっと甘やかしてね」 はいはいと返事をして、飴を拾おうとするついでに、彼女も拾って今日はもう帰ろうと思った。 無理矢理体を引き上げて肩に担ぎ上げてやろうとすればよじよじと不恰好に背中に背負われようとしてくるので、なすがままにされてやる。 「たまにはお姫様抱っことか、愛があると思うんだけど」 背中から聞こえる声はうるさく、抱える重みは少し心地いい。 それなら明日は不意打ちでお姫様抱っこしてやろう。 どうせ、今日の会話を彼女は忘れているだろうから。
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sraimm-blog · 7 years
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ノート  オリジナル
「何故、いつもヘッドホンをしているの?」
くだらない質問が音の波となって私に響いてくる。
自分に向けられた音は他のノイズよりずっと喧しくて、衝動的に耳を塞ぎたくなった。
ヘッドホンをしている理由、そんなのは簡単だ。
私はこの世界が大嫌いなのだ。
この世界にはあまりにも音に溢れている。
風がそよぐ音、雨の零れる音、衣の擦れる音、どこかで吠えた犬の声。
誰かが何かを落とした、誰かが大声で笑った、誰かが靴音を鳴らした、誰かが息を吐いた。
その全てが私にとっての雑音だ。音に包まれ過ぎた世界は酷く煩わしい。
私は彼の質問に答えるべく鉛筆をとる。
その動きで体の中から骨の軋む音が聞こえた。文字を書こうとしても音は私を離してくれなくて、多くの言葉は書く気になれなかった。
『うるさいから』
雑な一言、それを見て彼は自分の鞄からノートと鉛筆を取り出し、声ではなく文字で返してくれる。ちゃんと意図が伝わったことに心地良さを感じた。
鉛筆の走る音に比べたらまだ他のノイズの方がずっと不愉快だし。
『ごめんね』
『構わない』
紙がくしゃくしゃと歪む音がする。
『それでも、僕はきっと君にとって良くないことをしたんだろうから』
その言葉に、私は先程書いた文字をまた指差す。
小さく笑った彼がまた文字を走らせるのを、私は黙って見ていた。
『どんな曲が好きなの?』
二つ目の質問に対して、私は彼にポケットにあるウォークマンを押し付けた。
彼は目を丸め何かを言おうとしたが、それを飲み込んで私のウォークマンを受け取る。
ヘッドホンというのは私にとっての体裁だ。
この世界が大嫌いな私が唯一出来る抵抗は耳を塞ぐことだけだった。それでも世界は私を離してくれないから、フリをするしか無いじゃないか。
彼は私が貸したウォークマンを真剣な顔でずっと見つめている。
……電源が入ってないことには気付いたはずだが、少し嫌な予感がして、私はその不安に駆られるように彼へ手を伸ばそうとする。
それと同時に、私の視界は真っ白になった。
彼はウォークマンの電源をつけてしまったらしい。電気信号のノイズが頭の中に響く、私をおかしくする。堪らずヘッドホンを取ろうとしたけれど、おそらく外はもっともっと喧しい。
電源の入ってない音楽プレイヤー、それでも充電は一応しているのだ。それもきっと、私が取り繕わなければいけない体裁だと思っていたから。
彼が私の苦しんでる理由を理解したかは分からないが、頭を抱え苦しむ私に気付いてすぐに電源を切ってくれた。
一息ついて、彼を精一杯睨みつける。彼は申し訳なさそうに身振り手振りで謝罪の意を表していた。
それからも、私達は文字を通して話を続けた。
好きなものや、嫌いなもの。得意なことや、苦手なこと。どれもが他愛のないくだらないことで、殆ど彼が一方的に喋っていたけど、一言二言は私も返した。
軋む音はやっぱり煩わしかったが、手に残る文字の振動は少しだけ心地よかった気もする。
『また、お話できるかな』
彼は最後にそう文字を連ねた。
私は少し悩んで、最初に書いた言葉をまた彼に見せる。
彼はそれを見て笑い、音を立てないように私の側から離れていった。
この世界はあまりにも音に溢れ過ぎている。
ヘッドホンをつけたままでも、沢山の音が聴こえてくる。
風がそよぐ音、雨の零れる音、衣の擦れる音、どこかで吠えた犬の声。
誰かが何かを落とした、誰かが大声で笑った、誰かが靴音を鳴らした、誰かが息を吐いた。
けれど今はそれも、自分の心臓の音にかき消されている。
私は決してヘッドホンを取らなかった。
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sraimm-blog · 7 years
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煌めき 乃々
隠れることは昔から得意でした。
沈む影を見つけて、体を縮めて、ゆっくりと息を潜めます。
そうすれば私はどこにもいません。電車の中でも、学校の中でも、街中でも、見つかることはありません。
けれど、一ヶ所だけ。
小さな小さな事務所の中でだけ、私は見つかってしまいます。
いくら静かにしても、音を立てずとも、私はあの人に見つかってしまいます。
「おう、昼休みだ、コーヒー買ってきたぞ」
……お砂糖なしなんて、飲めませんけど
見つかってしまうのは、どれだけ静かにしようとしていても、心臓の音が止まってくれないからなのかもしれません。
私は目立つことが苦手です。
人前に立つことも、何かを主張することもしないまま、ただ流れる水のように日々を過ごしたかった。
変わらない穏やかな日々を大切に、言葉をノートに連ねたり、動物達の可愛い姿をテレビで見るだけで幸せで、たまに友人達とゆったりとした会話をする。
そんな毎日を過ごしたかった。
それなのに私は今、賑やかな事務所で、キラキラと眩しいステージで、似合うわけもない衣装を着ています。
誰かがつくった、神様のイタズラという言葉。ちっぽけな私には手も足も出せないまま、逃げ隠れすることしか出来ません。
でも、私は一体どこに逃げて、どこに隠ればいいんでしょうか。
小さな檻の中で私を守ってくれるのは、小さな机しかありません。
この机の下でさえも、あの人には見つかってしまう。
そうして、私を見つけたあの人は言うんです。とびっきりの笑顔で。私なんかが直視してしまえば消えてしまいそうな表情で。さぁ、もりくぼに仕事をとってきたぞ、って。
私はそんなこと頼んでないのに、あまりに嬉しそうに頑張ろうなんて言ってくるから、私は頑張ることしか出来ないんです。
「コーヒー、飲まないのか?」
「……い、いただきますけど」
事務所のお昼休み時間は時計の短針が天辺をさしてから一時間ほど。あの人はその時間を使って二つ缶コーヒーを買ってきます。
そのうちの一つは、私のために。それは私にはとても苦くて、ちょっとずつしか飲めません。たった250mlを飲み干す時間よりも、手で缶を暖める時間の方がずっと長い。
私だって女の子なんですし、どうせなら甘いものを買ってきてくれる方が嬉しいんですけど。
私は机の下でもそもそとコーヒーと格闘しながら、あの人は目の前の椅子でゆったりとコーヒーを味わいながら、静謐な時間が過ぎていきます。
たまにポツポツと言葉が雫のように降りかかってくることに怯えながらも、この小さな箱の中にいる時間はちょっとだけ、居心地のよさを感じます。
時が経つと、あの人は椅子から立ち上がり、私を置いて何処かへ向かいます。
しばらくして帰ってきたときにはいつも、服からタバコの匂い。その香る粒子が���の奥に溜まるのがいやで、私は唾を飲み込んでお腹の中に落とそうとします。
「……タバコって、美味しいんですか?」
何でタバコなんて吸うんですか、なんて質問は出来なかった。代わりに口から出たのはこんなことだけです。
あの人はその質問に少し考える仕草をした後、「乃々にとって、机の下みたいなものだよ」と、呟くように転がしました。
私にとっての机の下。
あの人にとってのタバコ。
いいえ、それはきっと一緒ではありません。
ここは、私の安らぎの空間ではあるけれど、私が逃げるためにあるところです。
きっと、あの人にそんなものは必要ない。陽の当たらない暖かさなんて、分かってくれるはずもない。
あの人はいつだって笑っています。どんなものも受け入れて、柔らかく包んでくれる、陽だまりのような人です。
それはでも、影に隠れている私でさえも照らし出してしまうんです。
不意に、寂しいような気持ちになりました。
気付くと視線は勝手にあの人の姿を探してしまっている。
顔をあげればあの人は当たり前のように傍にいました。私の苦手な煙の粒子を漂わせながら。
机の影と、彼の作る影が私に重なっている。
明日も明後日も、その先もきっと、変わらない日々を私は過ごします。
眩しくて消えてしまいそうな陽の傍で、影に隠れながら苦いコーヒーを飲んでいます。
あの人が椅子から立ち上がってタバコを吸いにいくちょっとの時間だけ、こっそりと机の下から出てしまおうかな、なんて、似合わないことを考えてしまう。
もう、寂しさはいつの間にか消えてしまっていました。
きっと、コーヒーが苦かったせいだろう。
そう思うことを、私は選びました。
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