Tumgik
sorano-mukou · 7 months
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最後にちゃんとtumblr投稿したのいつだっけうわあ1年半以上前。
その時からどんなことあったか。会社の組織再編でめちゃくちゃ忙しくなった。アプリを初めて最初に会った人が恋人になった。ジャズマスターを買った。どん底まで消耗してベットから動けない日があった。世の中はあの時からもっとめちゃくちゃになった。
他人の要望を読み取り、そのように振る舞うのが当たり前になってた。「休日に何をしているかよく分からない」と言われると「お前はどんな人間なのかよく分からない」に脳内変換されてじわじわと鈍い痛みが心を響く。
何すればいい、じゃなくて何をしたい、を自分に問いかける。「個人にどうしようもない強大な力や世間の流れ脅かされず、穏やかに暮らしたい」としか出てこない時もあった。もう一つ皮を捲れば本音が出てくるのだろうか。ただ今は急に「何か文章書きたい」と風呂場で思い立ったままこれを書いてる。「〇〇したい」という欲のまま自分本位に動く、そんなことを当たり前にしたいと思った。
最後にtumblr見てた時から随分と皆さんの状況も変わっているのでしょうか。変わった人もそうでない人も含めて、お久しぶりです。交わることのない人生でもあなたが元気だったら嬉しい。
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sorano-mukou · 2 years
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tumblrがハロウィンづいてましたね。
最近みんなの暮らしはどう?
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sorano-mukou · 2 years
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220220
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私の中で京都→大阪の帰路は京阪線と相場が決まっている。目的地によって往路は様々だけど、最後は鴨川沿いを軽く散歩しつつ三条のスタバに寄ってから京阪線へ。京阪線はボックスシートの車両が多く、ゆったりと長閑な景色を楽しみながら読書に浸れるのが推しポイント。スタバ限定で甘党になる私の相棒はホワイトモカ。夏は抹茶フラペチーノ。
最近、私が一番集中して作業出来る環境は新幹線だと気づいた。読書音楽LINEの返信諸々の全部。全く矛盾している話だけど、出来るだけ移動時間を長くかけて、その間普段やれないことを沢山したいから旅行したいと思ってる節がある。
何かを決断するのに他人を理由の一つに使いそうになったことに気づいて、話したかった人の所には向かわなかった。胸の内で何度も反芻して決断したことを後押しして欲しかったのか、あるいは引き止めて欲しかったのか。前者は都合が良すぎるし後者は卑怯じゃんね。どちらにせよ、己がどうしたいかを知っていれば結果が変わることは多分無いから。
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sorano-mukou · 2 years
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210213
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風呂場をざぁっと洗って最初に湯船に浸かる日が好き。いつもの浴室よりも湯気の向こうが透き通って見えて、他の掃除よりも報われっぷりが違う気がするから。
当初の見込みよりも長く住むことになった部屋は既に我が城を自称しても良いくらいに好きなモノで溢れている。入居から2年強、なくても困らないじゃろと痩せ我慢していたデスクも、先日たまたま見かけた革張りのチェアを使いたいがために導入した。お陰様で書き物と読書はちゃぶ台ひとつで過ごしていた頃よりも捗っている。卵と鶏がいつもひっくり返っているけどいいの。
生活はどんどん上手くなっていく。それはきっと悪いことではないしこれからも損にはならないけど、それだけじゃ足りない欲張りがずっと顔を見せているのにずっと気づいている。
特に理由もなくLost In Translationにしていたアイコンを変えた。
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sorano-mukou · 2 years
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潮の香らない海辺にて
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STUDIO COASTが閉館した。首都圏で、いやもしかしたら日本中の、ライブハウスへ通う人なら誰しもが一度は耳にしたことがあるであろうハコ。同じキャパ3000人程度のライブハウスの閉館でも、私にとってはZepp Tokyoとはまた違う意味合いを持つ。
あれはまだSNSを初めて間もない頃だったか。当時の今より貧困な音楽ボキャブラリーの中で、何とか自分に近しい嗜好の方々をフォローして日々出会う新たな音楽に目を輝かせていた頃。ライブの前後に時たま見かける写真の中に、ライブの日付、アーティスト名、ツアータイトル、開場開演時間をゴシック体のアルファベットで表示した電光掲示板はあった。
海の向こうのブロードウェイのような(見たことないけど)、60年代の劇場のプログラム紹介のような(見たことないけど)。ノスタルジックでいてどこか可愛らしいその看板に私は一目惚れして。まだライブハウスに行ったこともない頃から「STUDIO COASTはカッコいい」ということだけは知っていた。
コーストの存在を知ってから実際に足を運ぶまでは三年?ほど期間が空いたが、その後は最も頻繁に足を運ぶハコの一つになった。日本のアーティストにとってはツアーファイナルに選びやすく、多くの海外のアーティストにとっては集客が見込める最大値がここのキャパだったことからか、気がつけば四季それぞれ一度ずつ足を運ぶ年が続いたほど。
新木場という埋立地はまぁ、言葉を選ばずに言うと、決してフラッと無目的に遊びにくるような場所ではなくて。逆に言うならライブがある日にわざわざ新木場駅に降り立つのは���ねコーストに用がある人々だった。駅前のバスロータリーを抜けて信号待ちをするバンTを着込んだ人々に追いついて、隠しきれないワクワクを一緒に感じながらコーストへ向かう。入場して、クラブとしても運営されていたからかやたらだだっ広い円形のバーカウンターでドリンクを交換してフロアに入って。今日はPA卓前の良い音で楽しむか、バルコニーの柵にもたれて楽しむか、最前でかぶりつきで楽しむか悩んでその日の正解の場所で見て。
帰り道、COASTと名の通り海に面している割には潮の匂いがしない運河にかかった橋から向こう岸に輝く観覧車を横目にその日の感想を話しながら駅へ向かう時間が好きだった。隣を歩く見知らぬ人の感想に共感して心の中で「わかる!!」って大きく頷いたりなんかしちゃったりして。
エッセイやブログを読んでいると、かつてはそんな土地にライブハウスがあったんだと知って驚くことがままある。つまり、ライブハウスに限らずこうした「場所」はもともと一定のサイクルで現れては消えていくモノなのだろう。きっとSTUDIO COASTもそうした歴史の一部にこれからなるのだろうと思うと、寂しさはあれど、たまたまその循環の中に私の時間が一致していたことを嬉しく思う。あぁでも控室にあると言う伝説のハート型のベッドは一度寝そべってみたかったな。思い残しといえばそれくらい。
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初めてSTUDIO COASTに赴いたのも、結果的にここで観た最後のライブとなったのも、THE NOVEMBERSだった。出来すぎている。
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sorano-mukou · 3 years
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拾月
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隔月で届く水道代の請求書、前回と寸分狂わぬ請求額に我が生活の停滞を突きつけられた。 「最近どう?」と聞かれて「植物に近い毎日ですね」と返して「??」と目を丸くされたのも記憶の彼方だが、とにかくそのような日々をずっと過ごしていた。能動より受動、開拓より維持。とりあえずその場に根を張ってみたものの、本当はここではない所に行きたくて、でも心の針が示す方向が分からないまま時間だけが経った。どれくらい?きっともう半年以上は。 日記を書いている。ここではない、そのために買った無垢な白い表紙のノートに、毎日1ページ。植物モードになってから数ヶ月、あまりにも日々の出来事に無感動な自分に気づいて始めた習慣。最初はまるでToDoリストよろしくのその日あった事実しか書けていなかった日記も、近頃はようやくその日思ったことを、そして何を私は考えて、何を私はやりたいか、をようやく曝け出すことが出来るようになった。全く阿呆な話だが、私しか見えない所でも私は誰かの視線を気にしていたみたいだ。誰かって誰?私にしか見えないかみさま?かみさまだってそんな戯言気にするほど厳しくないわ多分。
大きな流れの中では停滞してて、でも目を凝らすと確かにある小さな変化。すぐに羽ばたけなくていいから、まずはその一つ一つを拾い上げて眺めて、また歩き出すところから始めたい。半年かけてやっとそう思えるようになった。 ところでこれを書きながら「冒険」の対義語ってなんじゃろと検索したら、ONE PIECEの作者の「『冒険』の対義語は『母』です」というコメントを見かけて唸ってしまった。
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sorano-mukou · 3 years
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i can take my eyes off you
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馴染みの写真屋さんのグループ展に出展した。すごく気に入っていて、でもその思い入れの深さ故に出しどころを失っていた写真を。
展示に出すにあたってキャプションやら作品集のコメントやらといくつかの文章を寄せることになって改めて感じたのは、写真に対して言葉を付けることが難しい、もっと言えば根本的に食い合わせの悪い行為だな、ということ。
書くまでもないが、写真それ自体から何かメッセージを発することはない。ある種の寡黙さ、そして想像と推察の余白がその内部でだけ保証されている点が他の娯楽にはなし得ない魅力だと思っている。映画は言わずもがな、私が好きな音楽の多くにも母国語それ以外問わず歌詞が付随するものばかり。あと何のメッセージも持たない娯楽って酒くらい?いや大好きだけどここで同列に語るのはなんか嫌だからやめとこ。
写真に言葉を添えることで物言わぬソレの含有する意味を強制的に決定出来るのは、発信側にあまりに都合が良すぎるように思える。
例えば冒頭に載せた写真。柵の隙間から手を伸ばし、スマホのカメラを虚空へ構える誰かの写真。『届かなくても手を伸ばそう』とか人生訓めいた言葉を、或いは「さよならもう会えないあなた」云々とエモいとでも言われそうな一言を添えて郷愁を誘うことも出来るだろう。「どう見て欲しいか」という下心だけが鼻息荒く迫ってくるようなキャプション/ステートメントを見ると気疲れする。あくまで写真に対するの言葉はサブテキストであって、そこの順序が逆転したものを見ては首を傾げてしまう。
極端なことを言うが、写真を見てもらう時、私が撮影した記名性すら消えた状態で、あらゆる言語が介さない状態で見て欲しいとも思う。ちなみに数年前の私はこの写真に「きっと綺麗な瞳で」と名付けた覚えがある。悪くはないな、と思いつつも、今の私はそんなタイトルを付けることはしない。
郵送されたお客さんからのメッセージ、最初に目に入った2つのカード。「レトロで温かみのある世界観が楽しかったです」「どこか物哀しくて、世の中を突き放しているようで、妙に現実味のない写真でした」にっこり花丸満点のコンビネーション。
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sorano-mukou · 3 years
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はて、怒るとは
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「おでんの卵レンチンで爆発するの知らなかった」という書き出しの小説を書きたくなった。映画「永い言い訳」を観てからのこと。
一体何が原因で私があなたに怒っていたのか。前もって精査した言葉を、可能な限り感情を抑えた声音で、腹の底からなにかを絞り出すように紡ぐ。泥を吐く声だな、と時世柄静かなレストランで一層密やかに響く音を聞いて思う。
いつからか剥き出しの感情を相手へぶつけることを控えていた(いや、逃げていた、か)反動からか、澱んだ言葉を全て吐き出した私は無意識のうちに体を丸めてしまった。相手の顔を直視できない。その後の対話。謝罪し合う私たち、埋まる誤解、明るくならない私たちの顔色。
明確な出来事に起因して相手への失望を抱く時、その失望は私があえて目を逸らそうとしていた相手の気質から生まれるということに気づいた。70は好きで、25は受け入れられて、5は無理。その3つの感情の重さはきっと一定ではなくて、たったの「5」が異常な質量を持ってあとの95を跡形も残さず壊していくイメージ。相手にも自分にも言動の一貫性をもつことを美徳だと信じ込みすぎていたのかもしれない。他人のすべてを受け入れるある種の傲慢さはとうに捨てている。持てるだけの誠実さで、100%分かり合わないままの他人とうまくやっていくこと。四半世紀生きて、まだ上手くやれないこと。
改札のむこうの別れ際、いたわるようにかけられた「お大事になさってくださいね」という言葉はあまりにも場違いで思わず笑ってしまった。それ、診察室を後にする病人へ医者が手向ける言葉だよ。そう茶化して言えれば良かったのに、不意を突かれた私は曖昧な声色で「大丈夫だよ」と薄っぺらい返事しか出来なかった。
最近は車での一人旅行を目論んでいる。青い車で見に行こうぜ、置いてきた何かじゃなくてまだ見ぬ何かをさぁ。
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sorano-mukou · 3 years
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Empty Lights.
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sorano-mukou · 3 years
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Missing Ling. 
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sorano-mukou · 3 years
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置き去りの青
Sky’s Gone Blue.
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sorano-mukou · 3 years
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いきている
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sorano-mukou · 3 years
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ゆるがぬかたち.
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sorano-mukou · 3 years
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ちかくてとおい.
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sorano-mukou · 3 years
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とびこむ
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sorano-mukou · 3 years
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色彩が宿る季節
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sorano-mukou · 3 years
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201212
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もういい加減振り切るためにもここに書く。早朝洗濯物を淡々と干している時、仕事で書類を作っている時、湯船に肩を沈めてホッと息を漏らした時、時を選ばず脳裏を過ぎるフラッシュバックのせいで、私の未来が真っ暗だと錯覚してしまうのは嫌なのだ。たかが過去、されどそれは事実。
昨��の終わり、ちょっとした機会を頂いてとあるライブを撮影した。こうなった以上、アーティストの名前は一生言わないけど。それはその人たちの音楽そのものは相変わらず好きで、その人たちの歩む未来に泥を塗りたくはないから。
「ライブの撮影」なんて字面は格好良いけど実態はそんなことなくて。撮影に参加させて頂くことが決まってから一度連絡が途絶えかけて、それでも何とか諸々の準備を整えて、当日はリハを含めてずっとつきっきりで、気を緩めた瞬間湧き上がる「本当に自分にこんな立派なことが出来るのだろうか」という弱音を何度も押し殺し、撮影して、現像に出して、クリスマスイブに受け取った写真は想像を絶するほど美しくて、その興奮のまま連絡して、返事は帰ってこなかった。私に残ったのは、ライブ中に気配を殺して会場を静かに駆け回った高揚感、冷たい鉄の棒を足に突っ込まれたような筋肉痛、そして宛先を失った美しい写真たち。
時計の針を更に戻す。ちょうど一年前にはとある舞台を撮影する予定があった。察しの良い方はもうお気づきだろうがちょうど件の感染症が猛威をふるい出した頃であり、当然の如く舞台そのものが中止になってしまった。そこから間を開けずして始まった自粛生活、そして新しい日常にも粛々と馴染んでいけた私だけど、矛先を失ったエネルギーは澱みとなって心の奥底に溜まっていた。いや、澱みなんて静的なものではなくて、そう例えば鉄格子の檻の中で毛を逆立てた真っ黒なけだものが叫び狂っているイメージ。仕事に打ち込もうが、ランニングしてみようが、楽器を弾き倒そうが、そして好きな写真を新たに撮れようが、そのけものの息吹は荒々しいままで大人しく眠りにつく気配は毛頭なかった。その遣る瀬無さは新たな撮影−それもこれまでに経験したこともないような−をもってしか解消出来ない、そういう厄介なやつだった。そいつの息の根を止めるんだ、この撮影で2020年に引導を渡すんだ、そんな気概で挑んで、結果は前述の通り。
私にとって、楽器も写真も「素敵ななにか」を作り出す/経験することが至上目的だとずっと思っていたけど、本当は違ったことにこの一年で気がついた。ただ私は、自分の力で自分の人生を面白い方へと切り開いていけるんだと実感したいだけだった。こんな最悪な一年でも、勇気を振り絞れば光り輝く物を手に入れられるんだと確かめたかっただけだった。季節柄か時勢柄か、じわじわと自分の人生を歩んでいるという実感が失われつつある。深い深い森の中、手にした磁石はいつの間にか狂っていてぶら下げた灯りはとうに火を消え、最深部からは「諦めてしまえ」と甘ったるい声が鳴り響いている。ような。ひょっとしてもう片方の手には空いた角瓶を持っているから。
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