Tumgik
ブログ開設の動機
特に大したものではありません。①日記を始めようと何度か考えたものの、いつも数日分書き諦めていたこと、②小説をいつの日か書くために文章の勉強をしたいと考えていたこと、そして③米国に1年在住し、様々なことを感じる中でそれを書き残すことには何かしら意味があるのではないかと考えたこと、があります。
③について少々述べます。まず、今年は私が生きてきた中で最も重大な年であり、その渦中の考えをまとめることに何かしら意味があるはずだと考えています。2001年の同時多発テロ、2011年の東日本大震災と、凡そ10年毎に(自分の)世界を揺るがす出来事が起きていましたが、2020年のGlobal Health Crisis(コロナ危機とでも言いましょうか)、そしてそれによる雇用への打撃も影響したと思われる世界的なBlack Lives Matter Movementsは、それらを上回る変化を世界に与えているように感じます。このような非常事態に考えることは、きっと将来の平穏時に何か忘れたものを気づかせてくれるような気がしています。
加えて、米国でのMBAにて同級生と話す中で感じる考え方の違いや、日々見聞きするニュース・メディアの発信内容に表れる日本のそれとの違いを感じる中で、factを元に自分の考えをまとめ、それを発信する訓練がもっと必要と考えたことがあります。自分も米国に来て日本恋しさからかYahoo!ニュースを気づくと眺めることが多いですが、そこで最近日本の情報媒体の一種の「傾向」を感じます。
Yahoo!ニュースやその他の日本の情報媒体では、「誰々がどこで何をした(どこで何があった)」といった空間を切り取ったような報道が多くなされている一方、米国では往々にして「誰々がどこで何をした。これは将来の何々へとつながるだろう」といった「見解」が付されていることが多いのではないか、ということです。情報発信はものごとのどの部分をどのような角度から切り取るかで、見え方が大きく変わるものであり、その切り取り方で見え方を操作することも理論上可能です。その見え方をいわば解説することで、読者を操作せずに、自分の意見を主張することが、私の感覚では「優れた」情報発信だと思いますが、日本のYahoo!ニュースに見られるソースには意識的にか無意識的にか、そのガイドをせずポンっと情報が置かれているような気がします。(Yahoo!ニュースで何を語るのか、と言われるかもしれませんが。)
このような「傾向」には一つの懸念を感じざるを得ません。それは切り取られた情報に対して、その周辺を理解する努力をせず、切り取られたそのままに受け取り、それに対して「けしからん」「良かった」と評価するきらいが生じることです。その姿勢を怠慢だと断じるつもりはありません。誰もが日々忙しい中で、関心の薄い物事にそこまで時間をかける必要はないからです。しかし、その姿勢が他の重要な物事に対しても、「くせ」として適用されてしまう懸念が残ります。自分がそのようなくせに陥ることを防ぐために、情報を処理し、自分の見解を述べる批判的な姿勢を、ブログでの執筆を通して鍛えようと考えます。
このように書いてみると、自分の考えがいかに回りくどく、また、その表現も自分の保守的な性格を反映し、長文になることがよくわかります。多少なりとも有意義な考えを、簡潔な文章でお伝えできるよう、今後努力いたします。
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