Tumgik
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【小説】JACK・BOX
 PROLOGUE ~MISSION~
   ――これを偽物だなどと誰に言う事ができるだろう――
 ビリーは程よい固さのクッションのスツールに腰かけ、暖色系の照明の明かりを照り返す、オーク材のカウンターに肘をついて店内を眺めている。
 目の前のショットグラスは四杯目。
 バーボン以外の利き酒ができる訳ではないが、自分の店で出しているバーボンと遜色ない。
 カウンター席が十三、ボックス席が四。
 赤絨毯の床、温かみと年季を感じさせる木材の壁には、近場のクラブやライブハウスのフライヤーが張ってある。
 当然ビリーのJACK・BOXのフライヤーも、ささやかながら張らせてもらっている。
 二児の父であり今年で十六才になる、オーナーでありマスターでもある初老の少年がビリーの元を訪れたのは二年前。
 ボックス席は三つが埋まり、カウンターでも二人が飲んでいる。
 そのシックなバーの中を泳いでいるのは、日本国の商業音楽と一線を隔す小粋なJAZZだ。
 覗き込んだショットグラスに映るのは、三色旗のバンダナを巻いたやぶにらみの十八才の少年。
 Sサイズの黒のライダースを引き締められた筋肉が押し上げている。
 かつての日本には未成年の飲酒を禁止する法律があったそうだが――今でも一部には存在しているのかも知れない――現在ビリーの飲酒を止めるものも止める法も存在しない。
「ビリーさん」
 マスターの押し殺した言葉にビリーは口元に微笑を浮かべる。
「俺が居て、それでも不安か?」
 厳密にはビリーだけではない。有事に備えてリックと銀二がそれぞれ待機している。
 リックは少し離れたカウンターで、店に来てから引っかけたらしい女とカクテルを飲んでいる。
 白ジャケットに白パンツというバハマにバカンスにでも行きそうな服装だが、残念ながら髪は天然パーマで人好きのする――やや眠たそうな目をしている――少年だ。
 銀二はボックス席を一人で占領して、日本酒の利き酒をしている。
 身長は百九十に近く、レスリングの選手のような屈強な肉体を淡いグレーのトレンチコートで包んでいる。
 四十代後半か五十代かと思わせる壮年の男で、五分刈りの頭にぎょろりとした目つき、骨ばった顔つきには普通では味わえない人生を歩んだ人間の凄みのようなものがある。 
 コートの下は黒スーツで真紅のネクタイがアクセントになっている。
 JACK・BOXの動けるスタッフが、総出で出てきていると言っても過言ではない。
 もっとも見習いの日葵とズボラな沙織が、カウンターで不満を露わにしている事は想像に難くないのだが。
『ボックスの連中が動くぞ』
 直通回線でビリーの脳内に銀二の声が響く。
 ビリーもボックス席を占領している四人組の動きと会話は全てレコードしている。
『了解、とっつぁん。リック、いい所で切り上げろ』
 ビリーの視線の先でリックが肩を竦め、女に何事か囁きかける。
 ビリーはどういう訳か男にばかり好かれるが――ゲイという訳ではない――リックはどこがいいのか、いつでも女に事欠かない。
 ボックス席の四人組が立ち上がる。
 年齢は二十代半ば、身長、体格にさほど違いはなく、顔立ちもどこか似通っている。
 服装はチンピラを気取っているのか原色系のスーツだが、ブランドのコピーにしても質が悪い。
 四人組のリーダー格と見られる男がレジでコインを支払う。
 ビリーは猫のような静かな足取りで、先回りするように静かに入口のドアの前に立つ。
 リックは裏口、銀二は距離を置いて相手の動きに即応できる体勢を整えている。
「オイ、チビ。そこどけや」
 関西弁ではない、関東風のヤクザ口調で支払いを済ませた男がビリーの前に立つ。
 身長差は十センチほどあるが……。
「ハンドルネームはジョウ。山梨県在住の丸山剛士十三才、小学三年生で無償教育はリタイア。以後自宅から出た事はない。お昼のチューブはイチゴ味」
 ビリーは口元に余裕の笑みを浮かべる。
 丸山のログは洗ってあるし、仲間の三人にしても同様だ。
 ビリーの言葉に丸山の表情が引きつるがどこかぎこちない。
 テンプレートに安いテクスチャを張り付けたのだろうが、そのスキンすら上手く走らせられないらしい。
 一瞬脅威を感じたのだろうが、気を取り直したらしい丸山がビリーをすり抜けてドアから出て行こうとするが、ビリーにまともに体当たりする形になる。
 瞬間、丸山の顔の驚愕の表情が浮かぶが、ビリーにとっては馴染みのものだ。
 通常、アバター同士が接触した場合、特別にプログラムが組まれていない限り、3D映像のようにすり抜ける。
 データが過密になった場合、ホストが当たり判定をつけて入場制限するより、ユーザー側の認知処理に任せた方がサーバーの負担が小さいからだ。
「リアルバイオレンスプログラム。お前らが入店した時には走らせてたんだがな」
 リアルバイオレンスプログラム(RBP)は元々格闘ゲーム用のプログラムで、アバター同士を戦わせる対戦格闘ゲームに用いられるプログラムだ。
 ビリーはこのバーのプログラムに入店と同時にこのプログラムを走らせたのだ。
 それと同時にバーの中の認識可能な全てが、強制的に物理プログラムとして認識されるようになっている。
「RBP? お前、一体何なんだよ」
「バーテンだ。たまに荒事に首を突っ込む事もあるけどな」
 ビリーは全身の力を抜いて自然体で丸山に相対する。
 師匠のソムチャイは元タイ陸軍特殊部隊教官で大尉。
 殺人技であった古式ムエタイと、現代の軍隊の陸軍特殊部隊のCQCをハイブリッドした技を日々叩き込まれている。
 丸山が自分の相手が何者か確かめようとするかのように、ビリーに目を向けて来る。
 その瞳の奥には根源的な恐怖がある。
 バーとして設計されたこの空間を損なわずに、RBPを走らせるのは容易ではない。
 常人ならプログラミングだけで数カ月、デバックには一年以上を費やす事になるだろう。
「ビリー、例のプログラムが起動したぞ」
 銀二の重厚な声が室内に響く。
 丸山の支払ったコイン。これにはあるプログラムが仕込まれている。
 通常レジに用いられているキャッシャーアプリは事業主の口座に直結しているが、このコインは口座に振り込まれた時点で口座のコインをごっそり自分の口座に転送してしまう、コイン強奪プログラムなのだ。
「おい、丸ちゃんよ、口座の残高を見てみな」
 ビリーが言うが早いか丸山の顔が蒼白になっていく。
 ビリーの作ったワクチンはコイン強奪アプリの振り込み口座から、コインを逆流させる。使用者を破産させるプログラムなのだ。
 丸山を始めとする四人の身体が小刻みに震え、一人が裏口へと向かおうとする。
「あのさ、RBPが走ってる段階でもう逃げられないって分かんないかなぁ~」
 リックが肩を竦めて頭を振る。
 丸山のアバターが一瞬ノイズに包まれたようになる。
「ろ、ログアウトできない……」
「ロックかけてるに決まってんじゃん。バッカでぇ~」
 リックがホルスターから銃を――一九〇〇年代に造られたバカデカいハンドガン『デザートイーグル』だ――を抜いて四人組に歩み寄る。
 一方で銀二の手には白鞘――長ドスとも言われる鍔のない日本刀――が握られている。
「……ちょ……ログアウトにロックかけるって……」
 四人の表情が恐怖に引きつる。
 が、いち早く気を取り直したのか、もっともオリジナルのガタイのいい男が銀二に向かって拳を振り上げる。
 鞘に納めたままの銀二の白鞘が男の足を払い、鳩尾を突き、脳天に鞘を振り下ろす。
 一連の動きはまるで舞踊のように淀みが無い。
 男が悶絶して絨毯の上を転がる。
 残りの三人がそれを信じられないといった目で眺める。
 通常のRBPであれば、技を競うのが主旨であるため、ダメージは痛覚ではなくライフゲージとして計上される。わざわざ痛覚を認識させるのはマゾだけだ。
「強制認識痛覚。NM経由でリアルにもダメージが蓄積する。ま、リアルの怪我が治るまで頭を冷やしな」
 ビリーは丸山に向かって素早く前蹴りを繰り出す。
 前のめりになるより早く鞭のように足をしならせてローキックで足を刈り、半月を描くように側頭部に蹴りを打ち込む。
 反撃の隙を与えず――もっとも相手は格闘プログラムをインストールしてある程度なのだが――鳩尾に膝蹴りを打ち込み、倒れかかる後頭部に斧のような肘打ちを打ちおろす。
 その間にも、銀二が二人目を、リックがボクシングベースの総合格闘技で最後の一人を這いつくばらせている。
 四人はログアウトもできず、立ち上がる事すらできない状態で絨毯の上で転がっている。
 口座から手持ちのコインまで全て巻き上げられたのだから、当面零番街に立ち入る事すらできないだろう。
 ――そう、二〇七〇年代に生まれた世界最大のカオス空間『零番街』には――      
  
  クラブJACK・BOXは零番街の中心に存在する中央公園と、敷地を二分するようにして建っている。
 ナイトクラブが公共施設の公園の真ん前にあるというのは、公序良俗に反すると言っても過言ではないのだが、そもそも法の及ばぬ零番街には昼も存在せず――零番街を設計する時に空と天候のプログラムを省いて単純に黒で塗りつぶした――公園でも健全な事ばかりが行われている訳ではないのだから、問題視されるような事でもない。
 JAZZバーでコインに偽装したプログラムを摘発したビリーは、リック、銀二と共にJACK・BOXにそのまま転送した。
 JACK・BOXは八百人を収容できる大箱で、日々零番街のDJたちが音と映像のアートを競う、様々な目的の客でごった返すカオスの中のカオスだ。
 内装はその日のDJが――その日の為に――念入りに造ってきているため、基本的なフレームとセキュリティを除けばJACK・BOXは堅牢だが簡素とも言える。
 バックヤードはただ壁を造っただけのコンクリート打ちっぱなしのような空間のままで、クルーの中にも特に手を加えようとする者はいない。
 そして、簡素な一室に一輪挿しの華のように佇んでいるのが、マネージャーのマリーだ。
 少年のように短く刈った黒髪、黒目の大きい釣り気味の目。すらりとした贅肉というものが見当たらない身体をライダースのツナギに包んでいる。
「時間を食ったな」
 マリーは年齢はビリーと同じ十八才だが、身長はビリーよりやや高い。
「そっか? いつもと変わらねぇよな?」
 ビリーはリックと銀二に顔を向ける。
 とばっちりを避けようとしているのか、リックは目を合わせようとしない。
「仕置きなら脳を弄って、アパートの二階から飛び降りるプログラムでも放り込んでおけばそれでいい。つまらん自己顕示欲と自己陶酔がしたいなら店を出ろ」
 生粋のハッカーであり、プログラマーでもあるマリーの言葉が冷たく響く。
「ったく、それなら釈迦思考変換フィルターでも放り込んで更生させた方がいんじゃねぇの」
 ビリーは鼻を鳴らす。どの道脳を弄るならそれくらいした方が世の為人の為だ。
「お前が私と会話したいという欲求は分かっている。だが私にはお前に構っている余裕はない」
 マリーの声音の温度は下がる一方で上がる気配が無い。
 ――ビッグ・アップルに繋がる前はこんなんじゃなかった――
 ビリーが考えただけでマリーの目線が厳しいものとなる。
 ビッグ・アップルはアメリカ合衆国テキサス州にある世界唯一の量子コンピューターだ。
 マリーはJACK・BOXのオーナー、カークからビッグ・アップルのアクセス権を与えられている。
 十三才の時、ビリーはマリーと共に零番街という、誰もが自由に行き来し、好き勝手にプログラムを書き込んでいく雑多で猥雑な世界での生活を謳歌していた。
 既に凄腕のハッカーでありプログラマー、そして二人だけの言語により零番街のベースとなる基礎設計を行ったビリーとマリーは、勝手に成長していく街のトラブルシュータ―だった。
 そこで調子に乗っていた所をカークに叩きのめされたのだ。
 その時、カークは手持ちのカード、ビッグ・アップルを晒し、二人のどちらかにアクセス権を与えると持ちかけてきた。
 ビリーは当面街で遊んでいる方が楽しかったが、マリーは知的好奇心が勝った。
 そこが零番街のグランドゼロ、JACK・BOXになったのだ。
 以来、マリーはJACK・BOXのバックヤードから一歩も外に出ていない。
 時折ビッグ・アップルのインターフェイスになったのではないかと思う事もあるほどだ。
「職場に戻れ」
 マリーの言葉にビリーが小さく舌打ちすると、リックが背中を軽く叩いて来る。
 リックは昔の二人の関係を知らない。北海道からアクセスして来た凄腕のハッカーとして調子に乗っていた所を、カークが目をつけてスカウトしたのだ。
「行くぞ」
 銀二の言葉に従うように、ビリーは表情を緩めて零番街を凝縮したかのような、愛しのカウンターに向かう。
 今日は和楽器を使ったDTMが組まれており、踊るアバターたちの間を半透明の東洋風のドラゴンがゆったりと泳いでいく。
 給仕の自律AIのスキンも和装の人魚という念の入りようだ。
 細かい青の粒子が波を形作るようにフロアに広がり、その中でネオンを輝かせるバーカウンターはまるで竜宮城だ。
「師匠! お帰りなさい!」
 漆黒の髪をショートカットにした、ふさふさとした長い睫毛とアーモンド形の大きな目が印象的な少女がシェイカーを振るいながら声をかけてくる。
 手足の長いほっそりとした体躯の健康的な印象の少女で、もはやネットゲームの世界でしかお目にかかる事が無い、バスケット選手のような赤いタンクトップと短パンといったラフな服装をしている。
 身長はビリーとほぼ同じ。年齢差が二歳ある事を考えると、追い越される可能性が高いだろう。
「ヒマワリ、カルアミルクはシェイカーじゃなくてステアだ」
 ビリーはため息をついて言う。
 JACK・BOXのカウンターでは、日々己の技量を磨く為、酒のプログラムのコピーは禁じられている。
 つまり注文を受けてから、相手を見て脳内でコードを構築していくのだ。
 その時の自身のアバターの動きも、当然自然なものでなくてはならない。
 軽くショットグラスにバーボンを注ぐ間にも――当然アーリータイムズといった安酒から、ブッカーズといった本格的なものまでそれと分かる差は当然出さなくてはならないが――客の感覚器を軽くハックしてどのような味で伝わるかを確認しなければならない。 
 数秒でそれをこなす事、そして思考錯誤を繰り返し、技術を磨き上げる事がJACK・BOXのクルーには要求されるのだ。
「師匠! ヒマワリっち言わんでくれんと! うちにはヒマリって名前があるけん、意地悪せんとちゃんと呼んで欲しかね。うちは師匠の言う通りちかっぱ仕事しとーとに、全然褒めてくれんちゃ。師匠ち言いようやったら仕事ば見て言ってくれんね」
 客の前に、外見上問題の無いカルアミルクを叩きつけるようにして日葵が言う。
「酒の一杯もまともに作れねぇうちはヒマワリだ。それよりお前地が出てるぞ」
 ビリーはため息をつく。日葵は最初からその気が無いのかハンドルネームすら持っていない。
「いけん! 師匠以外の前では東京弁って言われとっとに! ばってん師匠が意地悪しよるけんこげなことになったとよ! そもそも客ば前は東京弁言いようがおかしいっちゃけん、うちの地元で東京弁ば使いよう人間はおらんばい! 師匠は東京もんやけん、当たり前って言いっちゃろけど、うちらには英語と同じったい!」
 客の前で日葵が頬を膨らませる。
 日葵は二年前街で暴れていた所、RBPと電脳戦でビリーに敗北してから師匠と呼んで妙に懐いている所がある。
 可愛げと熱意はあるがJACK・BOXに雇用されるだけの腕が無く、ビリーの個人的な弟子としてポケットマネーでカウンターに置いているという事情がある。
「いや……東京弁って言うか標準語だからな」
 ビリーは訂正する。日葵は標準語を東京弁と言って譲らない。
 客商売なのだから、全国の人間に分かる言葉で対応して欲しい所だ。
「……今、何て言ったと?」
 顔を赤くしたまま、日葵が剣呑な視線を向けて来る。
「俺たちが使ってるのは標準語だって言っただけだろ」
 いつもの水掛け論になると分りつつビリーは言う。
「しゃーしか! 東京もんは自分ば地球の中心と思っとーとか! 江戸時代に湿地ば埋め立てよう田舎もんの寄せ集めが、気取りようち使いようだけっちゃろ! 師匠も師匠ったい、先祖代々東京に住んどったち訳やなかやろ!」
 憤懣やるかたないといった様子で日葵が言う。
 ビリーが自分のルーツを調べた事が無いのは確かだが、それとこれは話が別だ。
「いや……一応常識だからな。社会人として」
 ビリーは日葵を宥めるようにして言う。
 日葵は地方出身者だけに、地雷がどこにあるのか判然としない所がある。
「常識と? 九州に幾つ方言があると思っとるっちゃ! 東京もんは自分ば正義と思っとーとか? 地方から来よう人間に東京弁喋らせち優越感に浸りようだけやろ!」
 頭に血の昇った日葵がビリーに詰め寄って来る。
「違うだろ! 方言が多いから標準語が必要なんだろうが! 全員なまってたら意思の疎通ができなくなるだろ! 方言一つで一々噛みつくな!」
 ビリーは突き放すようにして言って、カウンターの外に目を向ける。
 ビリー待ちの若きハッカー、クラッカー、プログラマー――ギーク(コンピューターオタク)――が相手をしてもらえるのを待っているのだ。
 今日ゴロツキを片付けたバーを造った少年も、そんな一人だった。
 JACK・BOXができた時から、どういう訳かビリーにはそんな客ばかりがついている。
 もっとも、成長して零番街でそれなりに活躍してくれるのは嬉しくもある。
 クラッキングした世界中のスーパーコンピューターの並行処理で、複数の客に同時対応し、更に日々技術の向上を行ってその情報を同期させているビリーは、年齢は十八才だが過ごしている時間を考えれば仙人のようなものだ。
「日葵ちゃん! 豚骨ラーメン一つ!」
 ここはいつからラーメン屋になったのだろうかと問いたくなるような声が、客の中から響いて来る。
 と、日葵の眉間に皺が寄る。
「ラーメンはラーメンでいいから」
 日葵が何とか標準語を保って言う。
 程よく酔った所でラーメンが美味いのは事実だが、JACK・BOXのイメージとあまりにかけ離れ過ぎている。
 そもそも主食になるようなものをメニューに加えたつもりは無い。
「いや、ラーメンって他にも醤油とか味噌とかあんじゃん?」
 ビリーは内心で「素人」と、呟く。
 日葵の取り扱いを少しでも知っていれば、そのような言葉は出て来ないはずだ。
「しゃーしか! 東京もんはラーメンに何入れてくれとっとね! ラーメン言うたら豚骨の他に何があるっちゃね! 確かに豚骨言うても博多ラ��メン、長浜ラーメン、久留米ラーメンのあるったい。ばってん醤油や味噌ば入れて味の台無しにしようは暖簾畳むと同じこつばい!」
 言いながらも日葵が麺を茹で始める。 
 サイバー空間が世界的に広がり、電脳がこれだけ発達しているにも関わらず日葵の脳は未だに国境どころか県内、否、市内を出る事ができていないらしい。
 気圧された様子の客が、それでいいという風に小さく小刻みに頷く。
 最近JACK・BOXで飲んで踊ってラーメンという不思議な風潮が生まれつつあるのは、日葵と無関係だとはビリーには思えない。
「ったく、何弟子見て呆けてんのよ」
 華麗にアースクエイクを造っていた、ピンクのロゴの入った原色のイエローのTシャツにレッドのレザーのホットパンツを合わせた、八頭身のすらりとした女性誌のモデルのような体型の女性が声をかけて来る。
 カチューシャで額を出したボブカットで、睫毛が長く黒目がちな切れ長の目。
 どこかアバターを弄っているとしか思えない、謎の多い目の覚めるような美女だ。
「つーか、日葵の野郎どん臭ぇんだよ。ステアとシェイカーの違いくらいいい加減覚えろっての」
 ビリーは自分の師匠である沙織に向かってため息をつく。
 沙織は超S級などという言葉では片付かない、ビリーが知る限り世界最高の腕を持つ電脳技師だ。
「あんたねぇ~、日葵があんたが来るの分かってわざとやったって解ってる?」
 婉然とした微笑みに、ビリーは大人の余裕を感じる。
 日葵は正規のクルーではないから別として、沙織にだけはリアルで会った事がない。
 JACK・BOXには、自分の肉体とアバターを同期させるという鉄の掟がある。
 いざという時、リアルで充分に活動できなければ、真のトラブルシューターとは言えないからだ。
 その為クルーは電脳技術以外にも、日常的に肉体を鍛え続ける事が義務付けられている。
 夏と冬にカークの主催で開かれる米軍でのキャンプでは、その結果が如実に現れる事になり、下手をするとついていけないという事にもなりかねない。
「知るかよ。何で俺が来ると日葵が下手な小芝居を打つんだ?」
 ビリーは沙織に並んで最初の客に応対する。
 客が前に立つ前にアバター経由でIPアドレスを特定、住所から家族構成を割り出し、市役所で家族構成を確認、同時に屋内カメラで現在アクセスして来ているのが誰なのかを特定。
 一般的に流布されている政府推奨の防壁を突破して客の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を把握する。
 そこまで来ると客は大抵メニューを口にする。
 客の舌を完全に掌握した上で、最高の酒をパフォーマンスと共に提供する。
「アンタ、いい加減マリーとは釣り合わないって認めたら?」
 ビリーより〇・五秒は早く全ての仕事を終わらせる沙織が言う。
 その言葉にビリーは苦い表情を浮かべる事しかできない。
 惚れた男の弱みとでも言うのだろうか。
 未だにビッグ・アップルに繋がる前のマリーの姿が脳裏に焼き付いている。
 ――俺がビッグ・アップルに繋がっていれば――
 マリーは自分の代わりに、否、それ以上のリーダーシップと快活さでJACK・BOXの事実上のリーダーになっていたに違いない。
「日葵ちゃん可愛いと思うんだけどねぇ~」
 老獪さを感じさせる笑みで沙織が言う。
 確かに見た目も性格も好ましいのは認めるが、惚れる惚れないの問題となると話は別だ。
「マぁジ? ウチ北海道だからまだ三十度よ? でも夏になったらMAX四十度とか余裕だから」
 リックのお道化た口調に少女たちの笑い声が広がる。
 軽く目算しただけでも二十人はいるだろうか。
 それも全て女性客だ。
 どういう訳か――風貌が影響しているにせよ――ビリーには男性客、それもギークのような連中しか集まらない。
「どうッスかね、ビリーさん! このツールなら一番街の防壁も破れるっしょ?」
 注いだバーボンを片手に少年がプログラムコードを送って来る。
 零番街が出現するまで、アジアの極東に位置する日本国の電脳街は政府に造られた一番街から四番街までしか無かった。
 それぞれに役割があり、電警により秩序と安全が保たれたエリアと言ってもいいだろう。
 電警とは警察庁公安部、電子情報検閲課と捜査員の略称で、強力な電子ツールで武装した二十四時間体制でVR空間を監視する電脳エリートの集団だ。
 一番街は政府及び官公庁。リアルにも存在する国会議事堂や議員会館、各省庁がそのまま移ったような最高のセキュリティを誇るエリアだ。
 二番街は金融を中心とした大手企業のエリア。電警意外にも多くの警備会社が常駐しており当然サイバー犯罪に対するセキュリティも高い。
 三番街は一番街の出先となる市区町村の役所や商店街が存在している。
 この辺りになると、零番街で揉まれた猛者にとっては、防壁など無いと笑ってすり抜けられるレベルだ。
 そして四番街はサイバー空間に造られた住宅街だ。
 一般人は三番街か、それなりの腕を持っていれば二番街で働き、四番街でクラウドを買って家を建てて家族と暮らす。
 少年のツールでは三番街の区役所で苦戦するレベルだろう。
「とりあえず、この防壁やるから破ってみな」
 ビリーはこれまで作って来た数千の防壁の一つを少年に送る。
 瞬間、少年の顏が青ざめる。
「マジッスか……これ破るって、ペンタゴンに喧嘩売るとかそういうレベルじゃないんスか?」
「バカか。トロい日本の電警もこれくらいの防壁は作ってんだよ。これからこっちでやってこうってのに、電警相手にまごついてどうすんだ」
 日々VR空間を監視し、電警察対策もしている犯罪者を検挙、処刑している彼らは決して過小評価して良い相手ではない。
 そして、電警の目の届かない零番街という無法地帯でやっていく為には、相応の技術が必要になって来る。
 零番街には何も善人や、健全な電脳技術探求者だけがやって来る訳ではない。
 自由と隣り合わせに、ありとあらゆる犯罪者が跋扈しているのもまた、この零番街なのだ。
「アンタ、アタシが課題で教えたコード簡単にくれてやるんじゃないわよ」
 沙織に横から釘を刺されたビリーは肩を竦める。
「俺なりにアレンジしてる。沙織の癖は残ってねぇよ」
 確かに、沙織と出会ってからというもの、高度というのも生ぬるい特訓を受けさせられている。
 お蔭でビリーも多くのツールと防壁を持ち、あらゆる攻撃、あらゆる防壁に対して高いレベルで対応できるようになっているのだ。
 マリーは史上最強のビッグ・アップルに繋がっているし、沙織は途轍もない電脳技術師、銀二は年季の入った熟練の電脳技術師、対してリックは技術はまだ追いついていないが電脳技術に関しては天才肌と言っていい。日葵は……とりあえず無茶をしないように自分の所で面倒を見なければならないだろう。
 今日もJACK・BOXの夜は更けていく。
 ――それぞれの想いを乗せて――
  DIVE1 GAME OF TRANSCENDENCE WHO
      ~暇を持て余した超越者たち~ 
  〈1〉
   午前七時十七分――かつて一人のドイツの科学者が人間に最適な起床時間と提唱した時刻だ――相良裕司はコンクリート打ちっぱなしの床の痛みを感じながら平行意識――VR空間と現実世界を同時に知覚する――を経て首筋の電極から電脳直結用のプラグを引き抜いた。
 wifiで常時接続という事も可能なのだが、零番街という無法地帯で仕事をする上で平行意識というのは裸でマシンガンの前に立つようなものだ。
 三畳の個室には電脳直結用のケーブルと、デザイナーズの廃棄物から拾って来た衣服が幾らかあるだけ。
 気温はジャンクス――無産階級――に割り当てられた集合住宅の全館冷房で一定に保たれているが六月という事もあって三十七度にまで制限され、起きた途端に熱で頭がぼんやりとする。
 二千年代初頭二酸化炭素排出による地球温暖化が叫ばれパリ協定も結ばれたが、いかんせん目標値が低すぎ、非批准国に対するペナルティも低すぎた。
 結果として二〇七六年の現在、二十一世紀末と予測されていた『ホットハウス・アース』が前倒しで訪れ、地球は二千年代初頭とは比較にならない高温に晒されている。
 産業革命から二〇二〇年代にかけて人類活動による温暖化がダイレクトに地球環境に影響しなかったのは、南米や東南アジアの森林や北極圏の氷床が辛うじてバランスをとっていたからだ。
 二〇五〇年代に地球の平均気温が2度上昇した事により、森林や氷床が逆に二酸化炭素を排出するようになり、加速度的に地球の気温は上昇した。
 日本国でさえ六月だと言うのに北海道は三十五度越え、東京でも外気温は四十度に達する。
 北海道と東京の気温の差が二千年代初頭より小さくなっているのは、気候変動により日本が既に完全に熱帯化しているからだ。
 相良裕司、ハンドルネーム『ビリー』は穴の空いたタンクトップ一枚の姿で、二畳ほどのキッチンに向かう。
 キッチンには自然分解性のケースに『チューブ』が収まっている。
 チューブは原生生物を遺伝子操作して生まれた、半生命体の総合栄養食品、政府がジャンクスに提供している生命線だ。
 一応死なない程度の栄養は摂取できるという事だ。
 試験管程の自己分解性軟性樹脂のチューブを、旧世代に存在したという五〇〇ミリのペットボトルほどの大きさの容器���グルメメーカー』に挿入する。
 グルメメーカーにはゲル状であるという食感は変えられないものの、チューブの栄養素を損なわず、数パターンの味付けができるようになっている。
 裕司は自らプログラムに変更を加え、政府のデフォルトに加えて自在に味付けをできるように改造している。
 今朝のメニューはタイの名物「プーパッポンカリー」だ。
 チューブを握りつぶすようにして飲み込んで、改めて脳の活動状況を確認する。
 裕司は日中は学生として、夜は零番街のビリーとして生活している。
 しかし、それをまともに実行していては睡眠不足で発狂する事になる。
 そこで脳の各部位を交替で睡眠状態に置き、その機能をクラッキングしているスーパーコンピュータに代行させるという手段を取っている。
 睡眠という点では、脳を半分ずつ眠らせるイルカに近い脳の活用法になるだろう。
 自己診断プログラムに異常は無く、脳のポテンシャルに支障はない。
 幾らか冷たいシャワーを浴び、身体を引き締めた所で素肌の上から拾って来たブラックデニムのトップスと穴だらけのワインレッドのGパンを着込み、坊主頭に百合の紋章の入ったフランス国旗のバンダナを巻く。
 別にフランスに強い思い入れがある訳ではないが、布切れ一枚入手が難しいジャンクスにとってえり好みは難しく、限られた選択肢の中で柄が気に入っただけだ。
 狭小住宅を集合住宅に押し込めたような極小2Kの一室は両親の部屋になっているが、顔を合わせるのはVR空間の四番街の自宅だけ。
 自由単位制教育の保育園の頃は両親の庇護の下にあったが、小学校も三年生になると子育ては終わったとばかりに両親は部屋に閉じこもってしまった。
 VR空間でしか接点の無い両親が、現在どのような姿であるか裕司には見る勇気が無い。
 チューブは必須栄養素をカバーしているが、肉体を動かさなければ贅肉として肉体に蓄積される事になる。
 余程気を使って自己管理を行わない限り、肉体の劣化は避けられないだろう。
 身支度を済ませた裕司は集合住宅の階段を降りて玄関から外に出る。
 玄関には脳波認証システムが導入されており、住人以外の出入りはデザイナーズを除けば基本的に不可能だ。
 三十八度の外気温に汗を吹き出させながら裕司は単位制高校に向かう。
 単位制高校とはジャンクスの為に作られた教育機関で、義務教育ではない。
 保育園から高校卒業までの各カリキュラムが全て単位制となっており、無償で教育を受けられるが、カリキュラムを受けるかどうかは自由意志に委ねられ、二十歳までに規定のカリキュラムを履修しなければ学歴はゼロになる。
 もっともVR空間が発達した現代において、学校に通うというのは時間と労力の無駄に等しい。
 それでも通学する者がゼロにならないのは、人間が生身でのコミュニケーションを求める生物であるからかもしれない。 
 息が詰まるような熱波の中、裕司の集合住宅から単位制高校までは徒歩で一時間。
 ジャンクスである裕司が有料の公共交通機関を利用できるわけが無く、当然自転車を購入する事もできない。
 ジャンクスはVR空間以外でのあらゆる経済活動を禁止されているに等しいのだ。
 灼熱の太陽の下に広がる街路に人影は無く、あるのは旧世紀からの朽ちかけた灰色の街と無秩序に繁殖した熱帯性の植物だけ。
 街路で時折見かけるのは電警のリアル世界での目とも言える、武装した監視アンドロイドの姿だけだ。
 裕司が単位制高校との中間点にある公園にたどり着いた時、頑丈さが取り柄で未だに残っていた三十年前の淡いピンクのTシャツに身を包んだ少女が待っていた。
「裕ちゃん遅い!」
 五十嵐茜。顔は十人並。否、真面目に単位制高校に通って運動量を確保しているだけ下手なアバターよりは健康的印象な少女だ。
「お小言を聞くにはまだ早い時間だろ?」
 単位制高校の教員は全て、人間を模倣したスキンすら持たないネイキッドのアンドロイドだ。
 裕司のスキルであればハックしてデータを抜き取れば何も学ぶ必要などありはしない。
 数学を知りたければ数学者の脳をマッピングして、クラッキングしてある外部脳のスーパーコンピューターに放り込んで解析をかければ、その数学者と同等の数学ツールが出来上がる。
 だが、師である沙織はツールはあくまでツールであり、どれだけ巨大で演算能力の高い外部脳を持っていても、それを運用する頭脳に想像力が無いと宝の持ち腐れになるという。
 そして、想像力を鍛えるのは学習という脳に負荷をかける行為だ。
 漫然と日々を過ごしていても、それがルーティンになってしまっては脳に負荷がかからない。
 それではいかに優れたツールを手に入れても、効率的な運用方法や応用ができない。
 それは裕司も最近理解しはじめた所だ。
 現在、裕司の通っている単位制高校は収容人数三百人に対し、通学しているのは二十三人に過ぎない。
 一般的に電脳手術は四才から五才の間に行われる。
 手術と言っても鼻にNMをスプレーするだけで、後はNMが勝手に脳内に回路を作り、一週間もすれば首筋に電脳直結用のソケットができるようになっている。
 電脳手術が早過ぎればリアルでトイレに行く、チューブを食べるといった日常生活ができなくなり、遅ければVR空間への適応が難しくなるケースがあると言われている。
 とはいえリアルでの生活の制限の大きいジャンクスにとって、リアルよりVR空間の方が遥かに快適なのは自明の理であり、いくら無償の教育機関が存在しているとはいえ、ネットジャンキーになる者が多くなるのは必然と言える。
 結果としてジャンクスの識字率は極めて低い。
 VR空間ではイメージが言語を超えた感覚として脳に知覚されるため理解できるが、リアルで活字を目にしても何が書いてあるか分からないといった状態だ。
 VRに常時接続している人間には皮肉な話だが、単位制高校の二十人は潜在的に同年代の標準的な電脳技師より高いスペックを持っていると言っていい。
「そんな事言って。裕ちゃん昨日はどこ行ってたの?」
 並んで歩き出しながら茜が訊ねて来る。
 茜は裕司が零番街に行く事を快く思っていない。
「イタリアの三番街だ。二十世紀のテノール歌手を再現したってニュースがあったからな」
 裕司が言うと茜の表情が少しだけ曇る。
「誘ってくれても良かったのに……まぁ、期待してないけど」
 茜が諦観するのも無理はない。
 裕司が茜に出会った時にはとっくに零番街の人間になっていたし、健全な生活を行って来た茜からすれば零番街は犯罪者の巣窟。
 正義感の強い茜から見れば、本来の裕司は完全なアウトサイダーだ。
 そのため、茜とはVR空間では一度も会っていない。
 それでも裕司にとって茜はリアルでの数少ない友人であるため、適当な距離を置いて付き合っている。
 たった一人で学校へ通うというのは、さすがにモチベーションが保てない。
「茜は勉強があるんだろ? 趣味なんていつだってできる。人間にはその時にしかできない事ってのがある。それに気付けるかどうかで人生の充実度は変わる」
 裕司は茜を諭すようにして言う。
 茜には現在『介護の仕事をする』という目標がある。
 それもよりによってリアルでだ。
 ジャンクスは歳を食ったり重大な疾病を抱えていてもネットジャンキーになっていれば重病でも死んでも自分では気づかないし、デザイナーズはノーマル以上の人間しか雇用しない。
 お題目としては単位制高校で優れた能力を示せば、ノーマルのようにデザイナーズに雇用される事になっている。
 だが、実際には履歴に必ず添付される遺伝子設計図により、ジャンクスは確実に排除される。
「……確かにそうだけどさ、たまには息を抜きたいって言うか……」
 今日の茜はどうも歯切れが悪い。二十歳まで受講できる単位制高校を十八才で卒業するという大目標を立てて裕司を巻き込んだのは茜の方なのだ。
「まぁ、俺は息抜きの合間に人生をやってるんだけどな」
 裕司は適当に相槌を打つ。
 最近茜は裕司のVR空間での動向を妙に気にしている風がある。
「裕ちゃんっていっつもいい加減な事ばっか言ってるんだから」
「茜は始終零の概念やら、フェルマーの最終定理やら宇宙ひも理論なんかを話してるヤツが好きなのか?」
 ふくれ面の茜に向かって裕司は肩を竦める。
「そういう事じゃなくて、もっと現実的な事を普通に話してよ。例えば裕ちゃんは将来どうしたいのか、とかさ」
 茜の言葉が耳に痛い。裕司にとっては考えたくも無い話題だ。
 二〇一五年には既に身体だけでなく、知能や性格に至るまでが親の遺伝子の影響を受ける事が解っていた。
 二〇一七年には既存の疾病を受け付けないゲノム配列操作が発表され社会問題化。
 そして二〇二二年にミャンマーやラオスの人身売買のるつぼの中で、最初のデザイナーズ、ノーマルが誕生した。
 ヒトゲノムに改変を加える事は医療目的以外ではタブーとされていたが、そのノーマルは不妊家庭が提供を受けた受精卵が元であり、未だに何者が作り上げたのかは明らかにされていない。
 ノーマルは人間という生命体に可能な、極限までの能力が塔載されていた。
 そのノーマルは二歳半で百三十センチまで成長し、四か国語を操る他、同レベルの体格からは比較にならない運動能力を示した事で――キリストの再臨とまで言われ――世界の潮流を一変させた。
 経済的に豊かな家庭は、競うようにして優秀な遺伝子――ノーマル――を求め、当初は闇取引だったものが、瞬く間に遺伝子設計士という職業が確立するまでに一般化した。
 この二〇二〇年代前半の狂騒で生まれた子供たちがファーストジェネレーションだ。
 ファーストジェネレーションはその優れた知能によりナノテクノロジーによる電脳技術を一般化させ、更にVR空間を整備、そして遺伝子的に人間以上の存在を生み出す事に着手。
 同時にAIを搭載した人型アンドロイドの実用化に成功し、肉体労働及びサービス業、営業、株式といった販売や金融、ソフトウェアの開発、医療介護、警察や軍隊など幅広い分野で大量生産されたアンドロイドが、人類を遥かに超えた有能かつ安価な労働力として運用されるようになった。
 二〇三〇年代は若き天才――デザイナーズ――たちにより多方面に渡って技術は進歩したが、新たな技術としてはデザイナーズに部分的に人間以上の能力を持つ遺伝子を組み込んだ、強化人類ドミニオンを誕生させるに留まった。
 この時、自然出産と遺伝子設計のデザイナーズの遺伝子配列の差は一パーセントを超えた。
 そして二〇四〇年代に入る頃には、人間以上の能力を複合して遺伝子設計された人型究極生命体とも言えるアルティメイツが――現在に至るまでその改良は続けられている――生まれ、遂に人類の悲願とも言える量子コンピューターが完成した。
 ノーマルの遺伝子設計はテンプレート化されているものの、日本円で三千億円(一ドル=355~360円)を必要とし、ドミニオンでは五千億円から七千億円、アルティメイツでは一兆五千億円が必要とされ、高名な遺伝子設計士にかかるとその金額は上限が無いのと同等だ。
 遺伝子設計とは文字通り容姿から声、性格に至るまでを親の要求通りに再現する事であり、日本国では本来黒髪黒瞳の黄色人種が一般的であったのだが、ノーマル以上のほぼ全てのデザイナーズが白人系のアングロサクソンのような容姿となっている。
 強大な資本と能力を持つアルティメイツは超越者として君臨し、ドミニオンが手足、ファーストジェネレーションで脚光を浴びていたノーマルでさえ現在は従僕に過ぎない。
 そして遺伝子設計されず自然に生まれた人間は、ジャンクスと呼ばれる社会のゴミとして扱われるようになった。
 日本の議会にしてもアルティメイツとドミニオンが上院、ノーマルが下院となっておりリアル通貨で納税できないジャンクスに参政権はない。 
 現体制下でジャンクスとして生まれた裕司にできる未来設計など存在しない。
 単位制高校は真面目に卒業するつもりだが、以後はJACK・BOXでバーテンをやる事しか思いつかない。
「裕ちゃんがお父さんたちみたいになるの、やだよ」
 茜が湿り気を帯びた声で言う。
 現在ジャンクスの平均的な結婚年齢は十二才から十四才だ。それ以上の年齢での結婚のケースが少ないのは、VR空間の住人となって生身での人間同士の接触が無くなるからだ。
 仮にVR空間で恋に落ちても、リアルの肉体が日本とブラジルでは無産階級のジャンクスではどうにもならない。 
 茜の年齢から考え、育児期間を差し引いたとしても父親は十年近く身体を動かしていないだろう。
 日を浴びない肌は青白く、筋力は衰え、脂肪が身体を覆っているのはまず間違いない。
 裕司の両親もそうだからだ。 
「荒川の河川敷に芋でも植えるのか?」
 裕司は肩を竦める。ノーマル以上の人間が食べるとされる肉や野菜は全てデザイナーズの遺伝子バンクの特許となっている。ジャンクスが違法に種子を取得して栽培すれば終身刑だ。
 それならばまだいい方で、公安部に掴まりでもしたら濡れ衣を着せられて死に勝る拷問を受けさせられた上で、見せしめとして公開処刑される事になる。
 『捕まるなら警備部にしておけ、公安部に捕まるより楽に死ねる』とはジャンクスにとって笑えないジョークだ。
「だから、真面目に働こうねって言ってるの! 裕ち���んのバカぁ!」
 怒った様子の茜が速足で歩いて行く。
 ――だから……働きたくても俺たちには行き場が無いんだよ――
    
「おはようございます」
 裕司は講義の終わった夕暮れ、荒川を挟んで森林に飲み込まれた廃墟のようなビル群を眺めている長身の男に声をかける。
 肩にオリーブ色の野戦服を引っかけた、浅黒い肌に彫の深い目鼻の大きい顔立ちの、精悍な印象を与える男。
「おはよう、裕司」
 裕司の言葉に元タイ陸軍特殊部隊大尉ソムチャイが笑顔で振り向く。
 おはようと言っているが、互いに時間を錯覚している訳ではなく、互いの時間を一種の仕事のように捉えての事だ。
 因みにソムチャイの本名はアプリケーションが組める程長く、今の呼び名はその中のソーンチャーイーを呼びやすいように縮めたものだ。
「ソム先生、今日もよろしくお願いします」
 裕司が手を合わせて頭を下げるとソムチャイも同じように頭を下げる。
 ソムチャイは元々ドミニオンでタイの機械化歩兵部隊の特殊部隊の教官していた、ドミニオンの中でも優れた才覚の持ち主だ。
 が、国際合同訓練で日本の女性士官と知り合って結婚。
 妻に合わせてタイ陸軍を辞めて、日本での生活を選んだ男だ。
 しかし、妻が情報部に入り、合えない時間と会話の無い時間が増えた事により、浮気問題を始めとする相互不信により離婚。
 離婚したとはいえ情報部の妻がいたソムチャイは帰国する事ができず、かといって日本での就職も叶わず、駐留している米軍に時折格闘教官としてアルバイトに行く他は荒川の河川敷に造った小さな畑を耕し、釣りをしながら僧侶のような生活を送っている。
 もっとも、信心深い仏教徒である事は確かで、十八才の時に二年間出家したという経歴の持ち主だ。
「うむ。裕司よ、得られる幸せはいずれは失われる。だが、内より生じる幸せは損なわれる事がない」     
 腕を組んだままソムチャイが裕司の目を射抜くようにして見つめて来る。
「ソム先生、いきなり何ですか?」
 突然投げかけられた言葉に裕司は問い返す。
「お前は不幸で仕方が無いという顔をしている。だから仏陀の言葉を借りたのだ」
 言ってソムチャイが野戦服を放って低く身構える。
 裕司も同じように構えてソムチャイの姿を見つめる。
 wifiを使ってスーパーコンピューターで解析しながら戦えば有利になるというほどソムチャイは甘い存在ではない。
 通信しているそのコンマ数秒を見逃さず、またそういった不正をひどく嫌う男なのだ。
 ソムチャイが前進し、裕司は間合いを計る。
 リーチが短いのは仕方が無いが、八歳の頃から師事しているのだ。
 ソムチャイが定石通り前蹴りを放ち、裕司は脛で受け止める。
 前蹴りがそのまま鞭のように脇腹に襲い掛かり、左腕を折り畳んでガードする。
 次の瞬間、裕司の側頭部にソムチャイの肘が撃ち込まれていた。
 手加減はしているのだろうが、裕司はその一撃で膝を着いたまま動けなくなる。
 呼吸を整えながらゆっくりと構えなおす。
 容赦の無いソムチャイの膝が、裕司の迷いを払うかのように襲いかかってくる。
 ――確かに……俺は人に恵まれている――
 ソムチャイと拳を合わせているうちに、裕司は心が軽くなるのを感じた。
  「ただいま」
 裕司は四番街の高台の一角にある、一戸建てのバルコニーのついた家のドアを潜った。
 二十世紀アメリカの中流家庭と日本風家屋の間を取ったような造りの自宅は、たたきから真っ直ぐに廊下が伸び、すぐ右手が応接室、左手に二階への階段、階段下収納の先がトイレ、洗面所、脱衣所、風呂と続き、右手のドアがリビング、正面奥がダイニングキッチンとなっている。
 VR空間であっても、購入しているサーバー規模を考えれば裕福な部類に入るだろう。
「お帰り。今日は麻婆茄子と豚肉の生姜焼きよ」
 エプロン姿で振り向く母親のアバターはうら若い。
 三番街で医者――正確にはアバターの修繕やカウンセラー――をしているキャリアウーマンだ。
「今日もソムさんと修行かい?」
 リビングテーブルの上にニュースを表示させていた父親が訊ねて来る。
 父親はVR空間の農業プラントの管理をしている。
 共働きという事もあり、相良家はコインには不自由していない。
「うん」
 言って裕司は料理が並ぶテーブルに着く。
 両親をスキャンするが、バイタルチェックでは異常が無い。
 筋力低下と軽度の骨粗鬆症が見られ、中性脂肪の値も高めだが、現在の同年代のジャンクスの中では健康な方だ。
「将来は格闘家にでもなるの?」
 裕司のアバターを観察しながら母親が言う。
 アバター医の母親から見ても、裕司ほど精巧なアバターを他所で見た事はないだろう。
 アバター医療方面に進めと暗に言っているのは理解できる。
「特に考えてない」 
 麻婆茄子も豚の生姜焼きもご飯が進む。
 物理的には存在していないが、そうと知覚するのがVR空間だ。
「そろそろ進路は決めておいた方がいい。それに、もう結婚しないといい加減相手がいなくなるだろう」   
 父親が案じるような視線を向けて来る。
 リアルでマリーに合うのは年に二回。カークが主催する夏のキャンプと冬のキャンプだ。
 キャンプと言ってもたき火を囲む和やかなものではなく、米軍基地での戦闘訓練。
 夏は熱砂の赤道直下、冬はわざわざ北極圏まで行って最低でマイナス十度にもなる屋外のテントで寝起きし、自動小銃と背嚢を担いでひたすら身体を苛め抜くといった過酷なものだ。
 カークが何を意図して、どのようなツテがあってそのような事をしているのかは謎ではある。
 ビッグ・アップルのアクセス権を持っていたのだから、アメリカの諜報機関か軍関係者という察しはつくのだが、ビリーの調査でも記録上にカークという人物は存在しない。
「相手がいたらとっくに子育てしてるって」
 裕司の言葉に父親がため息をつく。
 今の時勢、家の存続を気にするような事もないだろうが、子を持つ親は結婚に幸せを見るのだろう。
「学校で若い子を見つけられないの?」
 母親の言葉に裕司は一気に食事を胃に詰め込む。
 マリーが好きだから今日まで独身なのだし、マリーの心が動かなければこの先もずっとそうだろう。
 スーパーコンピューターを複数――最高峰と言われるドレッドノート級のほぼ全てをクラッキングしている――制御下に置き、VR空間で高速処理の加速時間を生きている裕司は、既に通常時間に換算すれば数千年を生きている。
 それでも八歳で出会ったマリー以外の女性の事を考える事ができない。
「俺はそういうの苦手なんだよ」
 裕司は箸を置いて二階の自室に向かう。
 自室ではいつでも自分の疑似人格アバターを動かせるようになっている。
 両親の顏を見たらする事は一つ。
 ――零番街が俺の居場所だ――
  〈2〉
  
 幾重にも張り巡らせた防壁に堅牢なフレーム。
 DJが入る前のJACK・BOXは内装を自由にカスタマイズできるよう、のっぺりとした黒塗りの箱になっている。
 いつも開店前一番乗りのビリーは、店舗の隅々までをチェックする。
 JACK・BOXが零番街に隠然たる力を持っている事を知っている者にとって、システムの攻略は手柄を立てる恰好の標的だ。
 少人数のスタッフで最大八百人の客の相手をするのだからと、ナメてかかって来るものも多い。
 自己診断プログラムは走らせているが、プログラム任せにせず直接確認する事が大切だと沙織からも言われている。
 隅々まで確認し、アタックされた形跡があった部分のコードを書き換え、プログラムの動作チェックをして変更点をクルーに分かるようにメモしておく。
 漆黒の空間からカウンターに入り、グラスのテクスチャーをチェックする。
 グラスなどVR空間では造り出そうと思えば一瞬で造り出せるが、そうでもしないと間が持たない。
 ――やっぱりだめだ――
 ビリーはカウンターに両手を着いてため息をつく。
 何をして気を紛らわそうとしても、バックヤードのマリーの存在が気になる。
 自分が店に入ってから二分二秒後に出勤している。
 だが、差し向かいで二人で話す勇気が持てない。
 二人きりの時に拒絶されたら、それこそ立ち上がる勇気も無くなるだろう。
 ビリーは頭を振って大きく息を吐く。
 何だかんだと言っても、JACK・BOXの表の顏は自分なのだ。
 客を白けさせたり、トラブルを抱えた住民を安心させられないようではならない。
 それがJACK・BOXの顔に課された使命なのだ。
 と、わざわざJACK・BOXの防壁を破って侵入しようとする者がいる。
 ビリーがコードを書き換えたのを見つけたリックが攻略しようとしているのだ。
「っしゃあ、一分十五秒! どォよ!」
 白スーツの裾をひらめかせて回転しながらリックが出現する。
「別にお前の為にやったんじゃねぇよ」
 ビリーは言いつつもリックの腕の良さを認めざると得ない。
 アクセスしようとした段階で変化に気付き、クルーの通用口ではなく正面突破で防壁を潜り抜けて来るのは天才肌のリックならではだろう。
 自分ではアクセスするまで変化には気づかない。
「釣れない事言わなくてもいいじゃん。もっと俺を頼っちゃってくれていいのよ? 裕ちゃん」
 軽くステップを踏むようにしてリックが言う。
「俺を零番街で裕司って呼ぶな! それに俺はお前にちゃん付けで呼ばれる覚えは無ぇ」
 マドラーのテクスチャーに攻撃用のツールを仕込んで、リックに向けて発射する。
 リックの目の前で回転したテクスチャーが、マジシャンの杖に代わって花を咲かせる。
 リックの顏にしてやったりとばかりの表情が浮かぶ。
 次の瞬間、杖が分裂してリックのメモリーを急激に圧迫していく。
 本家には劣るが、攻撃用ツールに『ミラーマン』が得意としている自己増殖を組み込んでおいたのだ。
「ちょ、何してくれんのよ!」
 それと見破ったリックが無数の杖を消滅させる。
「お前、天才じゃなかったのか?」
「俺が天才的なのは歌って踊れるみんなのアイドルってトコだって」
 冗談めかしてリックが肩を竦める。
「確かにお前の天才的な大鼾は誰にも止められねぇよ」
 米軍キャンプで分かった事の一つはリックは熟睡すると他人の睡眠を妨害する大鼾をかくという事だ。
 以来JACK・BOXでちょっとした冗談のネタになっている。
「熟睡してた時踵落としで叩き起こしたじゃんよ! キャンプの時! 疲れてたのよ? 俺」
 リックが大仰に抗議する。
「こっちはお前の鼾で眠れなかったんだ」
 ビリーはため息をつく。別にキャンプの思い出話をしたかった訳ではない。
「はいはい、悪ぅござんしたね。それより見てたよ、今日。茜ちゃんどうすんのよ。ありゃビリーちゃんに惚れちゃって��ぜ?」
「テメェ、デバガメしてんじゃねぇ! 茜と俺は何でも無ぇって」
 本題はそっちかとビリーは舌打ちする。
「いやさ、ビリーちゃんはやっぱマリー狙いは辛いって思ってんのよ。友達だから言うんだぜ? 一番は可愛い弟子の日葵ちゃんだろうけど、茜ちゃんも捨てたモンじゃなくね?」
 茜の部屋を走査しようとツールを走らせるリックをビリーはブロックする。
「俺は一生独身で構やしねぇよ」
 マリーがダメだから、などという中途半端な理由で伴侶を選べるわけが無い。
「寂しい人生だねぇ~。お前は女を知らないから坊さんみたいな事言ってられんだって」
 リックがうっとおしく肩を叩いて来る。
「師匠が坊主だったら文句無ぇだろ」
 ビリーは憮然として言う。
「ソムさんだって嫁いたじゃん? 女を知っててあのストイックさはカッコいいけどビリーちゃんったら……」
「うるせぇ! 脳焼くぞ!」
 ビリーは声を上げて背後に巨大な青筋マークのテクスチャを出現させる。 
「……お前ら、何やってんだ」
 いつからいたのか銀二がスツールに座っている。
 侵入の気配を感じさせない辺り、格上であると認識せざるを得ない。
「いや、とっつあん。ちょっと頭に血が昇っちまっただけだって」
 ビリーは青筋マークを消滅させてぐったりとスツールに座り込む。
 リックとくだらない言い合いをしたお蔭で一日分は疲れた気がする。
「別に。ガキが戯れようと構やしねぇさ。で、同じ顔が揃った所だ。昨日のコインに当たりはついたのか?」
 銀二がビリーとリックを交互に眺めて来る。
「このコインはちょっと腕に覚えがあるヤツなら、フリーのダウンロードサイトで拾って来れる」
 ビリーはギークが腕自慢の為に勝手にツールを置いて行く、フリーダウンロードサイトの一つ、大和屋骨董店への回路を開く。
「ここにあるBIGってファイルを解凍すると例のコインが出て来んでしょ? それくらいもう分かってんのよ。このツールが優秀なのはどんな言語で書かれたキャッシャーアプリからも強奪できるって事よ」
 リックが展開したBIGを更に分解してコードを表示する。
「それも分かってんだよ。ンで、転がり込んだコインにタグが付くようになってる」 
 ビリーはリックの投影したコードの一部を指さし棒で刺す。
「じゃあ何かい? タグで引っ張れば全額総取りできる訳? 関わった金融機関全部?」
 リックが好奇心をむき出しにしてコードを触ろうとする。
「いきなり全額はやらねぇだろうな。そんな枝のつく真似をするヤツはこんなコードを書かねぇ。お前ら、為替レートって知ってるか?」
 銀二が含み笑いをしながら言う。
「そりゃリアル通貨がトレードで変動するヤツでしょ?」
 リックが現在の円=ドルを表示する。
 現在は362円で比較的安定していると言えるだろう。
「コインはネット通貨で万国共通だ……」
 ビリーは言いかけて考えをまとめようとする。
 コインでリアル通貨を買う事は国際法で禁止されている。
 ではその逆はどうかというと、デザイナーズもVR空間でリアル通貨でコインを買って様々な形で運用している。
 通常、リアル通貨でのコイン購入は金融機関で行われている。
 ビリーは世界の通貨とコインの取り引きを走査する。
 コインの価値はVR空間では実際の物質がやり取りされるわけでは無いから変わらない。
 しかし、コインを買うリアル通貨の価値は常に変動している。
 そのためコイン商取引ではリアル通貨でコインを買う時、厳密には等価ではなくチャージマネーの形式が取られているのだ。
 その端数となったコインに満たないコインは何処かにプールされている訳ではない。
 電子のカスとなったそれらは定期的に金融機関が処理している。
 もし、小数点以下を加算していくプログラムが組まれていたら?
 そのカスが為替に連動してコインに化けたとしたら?
 ビリーはコードに目を走らせる。
 BIGは表面的にはただの泥棒ツールだ。
 だが、その実体はキャッシャーからコインを抜き出し、タグ付けしたコインを金融機関に食わせ、金融機関システムに潜り込んだプログラムで、コイン端数を抜き取るツールなのだ。
「とっつぁん、やっぱスゲェな」
 ビリーはため息をつく。
 こんな事を思いつけるのは金融機関の人間くらいなものだろう。
 放っておいても無尽蔵にコインが転がり込んで来るシステムだし、リアル通貨に直接影響を与えない以上、電警に取り締まられる事も無いだろう。
 国際的な電子通貨法でも懲役刑とまではいかないし、コイン強奪に関しては電警もワクチンを金融機関に配布して終わりだ。
「ま、電警はコインにゃ大して口を挟まねぇからな」
 銀二が口元に笑みを浮かべる。
「でもよ、でもよ、俺たち被害に遭ってるじゃん! ここいらだって店持ったりすんの大変なんだぜ?」
 リックが声を上げる。確かに電警の守備範囲外だろうが、零番街で土地を買って店を造ってというのは簡単なようで難しい。
 誰もが電子空間を開拓できるわけではないし、様々な言語を自在に操れる訳ではない。
飲食店でも店を開こうと思ったら、屋台から地道に始めていくしかない。
 一般的にはリアルで物件を手に入れるのと同じく様々な言語やプログラムを操る業者の手を借りて、客を満足させられるだけの店を造り上げる。
 家を建てるのもまた然りで、それには相応のコインが、労働の対価が必要とされるのだ。
「とっつぁん。ホシの目星はついてんのか?」
 ビリーは訊ねつつコードとファイル、大和屋骨董店を走査していく。
「おっ、はようございます!」
 ビリーが情報の海に手を突っ込んでいると、頭上から日葵の声が聞こえて来た。
「い、いけん!」 
 ビリーが反応するより早く、頭上に重力法則を組み込んだ質量が落ちて来る。
 日葵を頭で受け止め、抱えるようにカウンターの中を転がる。
「ごめん師匠! やらかしてしもたばい! びしゃーと計算して来たとが……師匠怒っちょらん? 悪気があった訳やなかけん許してくれんね」
 ビリーが起き上がるより早く日葵が床に這いつくばって小動物のように震える。
 大方座標指定で入って来ようとして数値を間違えたのだろう。
「客の前じゃ……」
 ビリーが言いかけると日葵が大きく頷く。
「うち、師匠が言いよるけん、ばり東京弁つかいよう。天地神明に誓って問題なかばい! 客もうちが東京もんと思うて疑いよらんとね」
「日常的に使えって! 常連でお前が東京人だと思ってるヤツなんか居ねぇよ!」
「そげんこつなかとよ。みんなラーメンもちゃんと注文しよう」
「ラーメン頼んでる時点で、お前を東京の人間だと思ってねぇんだよ」
 ビリーが言うが日葵に堪えた風はない。
 確かに普通に接客をしている分には方言が出る事はないが、自分と話す時は完全な方言だし、客もそれを聞いているのだから東京の人間だとは思わないだろう。
「ばってん、誰もうちば余所もんち言いよらんったい」
 日葵が唇を尖らせて抗議する。
「遠慮してんだ! 客に気ぃ使わせるバーテンがどこに居んだ!」
「は、はい、わかりました」
 ビリーが厳しい口調で言うと、日葵が多少しおれた様子で言う。
 標準語を使う事がそれほど苦痛なのだろうか。
「まぁ、ここ豚骨ラーメン置くようになったし、いんじゃね?」
 リックの言葉に日葵が噛みつきそうな表情を浮かべる。
 日葵の基準ではラーメンは豚骨であり、それ以外は邪道なのだ。
「あ、ラーメン。そう、ラーメン置くようになったな」
 リックが気圧されたように言う。
「豚骨入ってなかったらラーメンじゃないよね?」
 感情のこもらない標準語な分、日葵の声には逆に凄みが感じられる。
「なァに言ってんのよ。ラーメンには醤油も塩も味噌もあんのよ。なぁ、北海道」
 いつの間にか現れていた沙織がリックの肩を叩く。
「ほ、北海道はみ、味噌が多いんだけれども……」
 女性に対する博愛主義者を自認し、確かに圧倒的女性人気を誇るリックだが、何故か日葵を苦手としている。
「お前ら、ここをラーメン屋にしてぇのか?」
 銀二の一睨みでリックと日葵が同時に大人しくなるが、リックは被害者のようなものだろう。
「それより今日のDJもう来るわよ。仕事仕事」
 沙織が手を叩いた所でビリーは何か大事な事を考えていた筈だとログを辿った。
「あ~コイン窃盗の走査できてねぇ!」
 ビリーはため息と共にJACK・BOXの内装や音響を造り上げていくDJたちを眺めた。
 今日も零番街一を目指すDJたちによるエンターテイメントが繰り広げられるのだろうが、とても鑑賞して楽しめる気分にはなれそうになかった。
  『裕司? どこにいる?』
 ソムチャイの言葉が脳裏に響いた時、ビリーはスーパーコンピューターで並行処理している疑似人格に客の相手をさせながらコインの謎を追っていた。
 ソムチャイは軍人として、また人間としても優れているが、サイバー分野が強い訳ではなく、軍用の攻撃力の高いツールと攻性防壁で武装しているが、自在に操れるというレベルではない。
 従ってソムチャイが零番街に来ると間違いなく道に迷う事になる。
 頻繁に来ていれば道も覚えるのだろうが、ソムチャイが来る度に道が上書きされたり街路が変わったりするから、余計に分からない事になる。
『店です』
 ソムチャイを放っておくことはできない。
 ビリーは沙織に目を向ける。
「沙織、ソム先生が来るからちょっと出て来る」 
「あんたの筋肉の師匠に、いい加減道覚えるように言っときなさい」
 そう言う沙織の表情は柔らかい。
 沙織はどうやらソムチャイに好意を持っているようだ。
 銀二とも仲が良いからどうなのか詳しい事は分からないが、大人の恋愛はビリーには分からない。
「じゃ」
 ビリーは片手を上げてソムチャイの座標に向けて飛ぶ。
 文字通り光の速度で移動したビリーは、JACK・BOXの裏とも表とも言えなくもない中央公園の一角に居た。 
 零番街を仕切るストリートギャング『ライズ』の少年たちが集まっているエリアだ。
 VR空間ではアバターをコントロールできないため、完全に軍人になってしまうソムチャイは、サバゲーマニアと思われているらしく少年たちに敬遠気味に遠巻きにされている。
「ビリーさん!」
 ライズの少年の一人が声を上げた事でソムチャイも顔を向けて来る。
「裕司、すまんな。また道に迷った」
 ソムチャイが申し訳なさそうに後頭部を掻く。
「ビリーさん知り合いっスか?」
 少年がビリーとソムチャイの間で視線を彷徨わせる。
「俺の師匠……」
 言いかけた瞬間、ビリーは物理的に突き飛ばされていた。
「痛かぁ~。師匠急に消えよるけん。店ば放って何しとっとね」
 起き上がったビリーの前に、同じく転んだ日葵が現れる。
「……日葵、何しに来たんだ?」
「何も言わんと急に消えよったけん、探しとったっちゃ。なして師匠はいつもうちに黙っておらんくなりようと? いきなり居のうなりよったら心配するっちゃね」  
 日葵が不満げな視線を向けて来る。
「沙織に聞けばいいだろ! 俺だって無断で店を出てる訳じゃねぇ! 今日は師匠を迎えに来ただけだ」
 ビリーはため息をつく。相手がソムチャイだから良かったものの、ミラーマンと極秘で会う時に来られたら最悪だ。
「日葵くんこんばんは」
 ソムチャイが両手を合わせて頭を下げる。
 日葵は真面目に相手をするだけ無駄のような気がするが、生真面目なソムチャイにとっては礼儀が第一なのだろう。
「はい、ソム先生は今日はお店に?」
 日葵の標準語にビリーは内心で頷く。
「ああ、ちょっと酔いたい気分でね」
 どこか沈んだ様子でソムチャイが言う。
「す、すみません」 
 ビリーは慌てて頭を下げる。
 夕方は何事も無かったかのように稽古をつけてくれたが、今日は戦死したというソムチャイの父親の命日だ。
 ジャンクスは死ねば保健所が清掃工場に放り込んで処理するが、デザイナーズは墓というモニュメントに埋葬されるケースが多い。
 元々信仰の厚いソムチャイは、父親の墓に行けない事を申し訳なく思っているのだろう。
「俺が最高の一杯を造りますよ」
 ビリーが言うとソムチャイが笑顔で頷く。
「うちもばりうまか一杯作るけん」 
 日葵が得意げに言うが、その一杯がラーメンでない事を祈りたい。
「二人ともよろしく頼む」
 ソムチャイが丁寧に頭を下げる。
「俺、いつも世話になってばっかっすから」 
 ビリーが言いかけた時、一人の少年が駆け寄って来た。
「ビリーさん! ビリーさん! RBPエリアで暴れてるオッサンがいて!」
 ビリーは零番街を設計する時、敢えてアバターがすり抜けないエリアを設けていた。
 それは恋人たちが疑似的であれ、肉体関係を持つための場であり、腕に覚えのある者が技を競う場でもある。
 今では疑似的物理接触のできる環境という事もあり、賭け闘技場や娼館の並ぶアンダーグラウンドの中のアンダーグラウンドとなっている。
「フリッツは?」
 ビリーは少年に向かって訊ねる。
 フリッツはカークに誘われてJACK・BOXに来なかった��一の凄腕電脳技師、ライズのリーダーだ。
「フリッツさんはヤクザがどうって……」
 フリッツならヤクザに負ける事は無いだろう。VRでもリアルであっても。
 ビリーでさえ一度も『勝った』事が無いのだ。
「師匠、ちょっと寄り道になりますが……」
 ビリーの言葉にソムチャイが鷹揚に頷く。
 少年から座標を受け取りソムチャイと日葵もまとめて転送する。
 ネオン煌めく歓楽街のRBPプログラムに異常はなく、正常に走っている。
 が、欲望のるつぼと言っても良い歓楽街にいつもの喧騒はない。
 ライズのメンバーが自分を呼んだという事は、それなりの事案という事になるのだろう。
 武器を手にしたライズのメンバーのアバターが、一塊になって路上を走って行く。
 が、少年たちのライフゲージが一瞬で消滅する。
 あくまでゲームシステム内だから怪我をする事も無いだろうが、システム上ライフゲージがゼロになれば、一定時間ログインはできなくなる。
 ビリーはライズの少年たちが消滅した方向に向かって小走りで駆ける。
「ビリーさん、あれです!」
 遅れて来たライズの少年が木刀を下げた袴姿の男を指さす。
 年齢は四十代といった所だろうか。
 アバターの外見に意味などありはしないが、アバターを偽装しているといった様子は見られない。
 リアルと同期させているとしたら、四十代で筋骨隆々というのはジャンクスとしては希少な存在だろう。
 ビリーはアバターを捉えて正体を探ろうとする。
 日葵が男を見て驚いたような表情を浮かべる。
「お父しゃん何しとっとね!」
 その言葉にビリーは目を見開く。
 確かに初めて日葵に会った時も木刀を振り回していた。
「お前こそ何しとっとね! 零番街は犯罪者の吹き溜まりばい! 東京の若かもんばチーマーち徒党ば組んで、弱かもんを食い物にして悪さしよう集団とね」
「おかしか事言わんと! もう帰っちっちゃ!」 
 日葵が木刀を出現させる。
 が、父親の視線は日葵を通り過ぎ、ビリーを通り過ぎる。
「きさん! 娘ばたぶらかしよっとか! このばかちんが!」
 木刀の切っ先がソムチャイに向く。
「申し訳ない。理解に苦しむ」
 ソムチャイがため息をついて頭を振る。
「むぞらしか娘ば悪の道に引きずり込どって平気な顔をしようと……くらすぞきさん!」
 振り下ろされた日葵の父の木刀をソムチャイが足で受け止める。
「無益な争いは好まない」
「九州男児は血の熱かけん! 娘ば取られて黙っとれんばい!」
 ふとビリーが気になって眺めると、ソムチャイと日葵の父親のライフゲージは桁外れに多い。  
 RBPエリアは特に補正しない限り、現実世界の身体能力がフィールドバックされるプログラムを組んでいる。
 見間違いでないとするなら、ソムチャイはともかく日葵の父親も相当な達人という事だろう。
「戦わねば収まらぬというならそうしよう。私の名はソムチャイ」
 ソムチャイが身構えると日葵の父親が木刀を構えなおす。
「俺ん名前は如月武蔵ばい!」    
 瞬間ソムチャイが疾風となって飛ぶ。
 電光石火の飛び膝蹴りが武蔵に躱される。
 横薙ぎの武蔵の木刀をソムチャイの腕が真上から叩き落す。
 ソムチャイの足が鞭のように閃き、武蔵が木刀の柄で受け止める。
 ドミニオンであるソムチャイはともかく、ジャンクスでありながらこれだけの戦闘力を誇るとは武蔵が規格外のジャンクスである事は間違いない。
 ビリーの立ち入れない攻防の中、ライズの少年たちでは微動だにしなかった武蔵の、否、双方のライフゲージが傍から見ていて面白いように減っていく。
「親父スゲェ強ぇのな」
 ビリーは傍らで他人のような顔をしている日葵に向かって言う。
 日葵の口から父親の話を訊いた事は無い。
「他人と戦いようとこ初めて見たと」
 日葵には父親を応援しようという気持ちは無いらしい。
 いっそ武蔵には日葵を連れ戻して欲しいくらいだ。
「どっちが勝つと思う?」
 ビリーは縁石に腰かけて二人の戦いを眺める。
 達人同士の激戦を前にして、ソムチャイの弟子でしかないビリーには戦いの結果を想像する事もできない。
「うちは格闘家やなかけん分からんと」
 日葵が隣に座って涼しい顏で言う。
 初対面で木刀を振り回していたのだから、日葵にも剣の覚えはある筈だ。
 もっとも弟子同士で師の戦いを見ても、次元が違うのだから結果を予測する事などできないだろう。
 プログラム上肉体に傷がつく事は無いが、戦いに終わりは見えない。
「おい、ビリーどうなってる?」
 ブルーのスーツに身を包み、黒髪を後ろに撫でつけた長身の少年が背後に立つ。
 ライズのリーダー、零番街の絶対的王者、ずば抜けた電脳技師であり喧嘩屋でもあるフリッツだ。
「よう、フリッツ。見ての通りだ」
 ビリーは戦う二人を親指で指して言う。
 彫の深いフリッツの切れ長の目が二人を凝視する。
 フリッツが軽くため息をついてネクタイを緩める。
「どっちが勝っても同じか」
 フリッツが縁石に腰かけると、背後にガタイのいい少年たちが立つ。
 ボディーガードのつもりだろうが、いかにアバターがいかつかろうと、束になってかかろうとフリッツの――否、ミラーマン一人の足下にも及ばないだろう。
 ビリーは両手の掌を合わせて焼き芋を出現させる。
 フリッツはストリートのキングだが、意外にノスタルジックな趣向がある。
「まぁ食えよ。好きだろ?」
「相変わらず構築はクソ速いな」
 フリッツが焼き芋を受け取って皮のまま豪快にかじりつく。
「うちの分はなかと?」
 日葵がフリッツに恨めし気な表情を向ける。
「ソムさん少し老けたな」
 フリッツがソムチャイを観察するようにして言う。
「そっか?」
 ビリーも自分の作った焼き芋に齧りつく。
 日常的に接している分、変化には気づきづらくなっているのかも知れない。
「うちの分はなかと?」
 言った日葵にフリッツが面倒臭そうな目を向ける。
「九州剣道女か。まだいたのか」
「理由を知ってたら教えてくれ」
 ビリーが言うと、試合前のボクサーのようなフリッツの口元に笑みが浮かぶ。
「うちの分がないっちどういう事なん! さっきから欲しいて言うとーとに! 師匠はうちよりフリッツば大事にしようとか!」
 腰を浮かした日葵が身を乗り出して声を上げる。
「自分で作れって。走査して複製。それぐらいできんだろ?」
 ビリーが日葵に焼き芋を見せると、走査する事も無く齧りつく。
「お前、これにウイルスが入ってたらどうすんだ?」
 ビリーはため息をつく。当然ウイルスなど入っていないが、電脳技師としてプログラムを取り込む前に走査するのは初歩中の初歩だ。
「うまか~、愛情ば最高のスパイスち言うとはほんまのこつっちゃね」
 満面の笑みを浮かべる日葵には聞いている素振りもない。
「苦労するな」
 言ったフリッツが、ミラーマンの名に恥じぬ手際で自分の焼き芋を複製する。
 ビリーがフリッツから受け取った焼き芋を半分ほど食べた所で、ソムチャイと武蔵の息が上がり始めた。
 RBPの上では基本的にライフゲージが減るだけで、疲労が蓄積するという事はない。
 それだけ神経を擦り減らす戦いをしたという事なのだろう。
「きさん、やるやなかか」
「武蔵どの、不肖の弟子が迷惑をかけていたようだ」
 武蔵の差し出した手をソムチャイが握る。
「俺には訳が分からんと。日葵は何をしにここに来ようと?」
 武蔵が首を捻る。一般人の認識として零番街は犯罪者の跋扈するアンダーグラウンド。
 しかもRBPエリアは零番街でも、最も荒んだ欲望の渦巻くエリアだ。
 零番街でも最初に見たのがRBPエリアでは心象も悪いというものだろう。
「うちは師匠の弟子やけん」
 焼き芋を平らげた日葵が肩を叩いて来る。
「俺はソム先生の弟子だ」
 ビリーはソムチャイに目を向ける。
「日葵、そんならソム……ソムさんの弟子でよか。何を言いようと?」
 武蔵がソムチャイと自分を交互に見る。確かにムエタイを習うなら、自分よりソムチャイに習う方が道理に叶っている。
「うちは喧嘩を習っちょるんと違うと。やけん、師匠は師匠で間違いないばい」
 武蔵の言葉を受けて日葵が背中を叩いて来る。
 何とか言えと言いたいのだろうが、日葵の家庭の事情に立ち入るつもりは無い。
「お前らの滑稽劇を見ていたら気が抜けた。俺はもう帰る」
 フリッツがため息と共に立ち上がって言う。
 ストリートのキングにはやるべき仕事がまだまだ山積しているのだろう。
「なぁ、ヤクザと喧嘩って何だったんだ?」
 ふと気になってビリーは訊ねてみる。
「ケチなヤクザがキャッシャーから金を抜くアプリをばら撒きやがった」
 言ってフリッツが両手で裾を払う。
「そのアプリ、そんなチャチなモンじゃねぇぞ」
 ビリーは忠告するように言う。
 コイン強奪アプリの正体は、現在JACK・BOXが鋭意捜査中だ。
「そっちでも追ってたのか?」
 眉を顰めるフリッツの言葉にビリーは頷く。
「多分そいつらは囮だ。黒幕は他にいる」
 ビリーの視線の先では方言が飛び交い、ソムチャイが困った表情を浮かべている。
「気に入らんな」
 フリッツの目に獰猛な光が宿る。
 ストリートのキングとしては、偽物を掴まされたという事は沽券に関わるのだろう。
「俺がしくじった後は頼む」
 ビリーは苦笑を浮かべる。
 今回の仕事はJACK・BOXが直接依頼を受けている。
 それに、能力を疑う訳ではないが、フリッツが返り討ちに遭うような事があれば零番街は混乱の渦に巻き込まれる。
「俺の獲物だと言ったら?」
 それでも闘争心を滲ませてフリッツが言う。
 誇り高いキングにはそれでもまだ納得の行かない所があるのだろう。
「俺に零番街のキングは務まらない」
 ビリーは立ち上がって膝を伸ばす。
 状況が理解できたらしい武蔵とソムチャイが、戦っていた事が嘘であったかのように親し気に歩み寄って来る。
 格闘家同士、通じ合うものがあったのかも知れない。
「師匠、二人とも飲みたいいいようけん、店に戻らんと?」
 二人が和解した事もあるのだろう、日葵は上機嫌だ。 
「っせぇ! じゃな、フリッツ」
 ビリーはフリッツに手を振ると日葵を残して、武蔵とソムチャイと共にJACK・BOXに転送した。
     
  フリッツが叩き潰したヤクザは、元々三番街で総会屋などをやっていた電賊大牟田組。
 電賊とは電子空間の無法者を指す言葉だが、今では暴力団の下部組織を指す事が多い。
 大牟田組は川端組の下部組織で、川端組は元々リアルで影響力を持つ稲刈会の三次団体だ。
 旧世紀に施行された暴対法により、暴力団は表立った行動はできなくなったが、その一方で代紋を掲げないフロント企業などで階層化され、その実態はよりマフィアに近づいた。
 VR空間で走査するにも、人間関係で組織の上下が決まっているというのは、線引きが曖昧で分かりにくい。
 現在稲刈会会長大里信治の資産は、個人資産だけでも九百億円に達する。
 当然ながらアルティメイツであり、次の会長もアルティメイツとして生み出されるだろう。
 問題はフリッツに叩き潰された大牟田組が、どこの指揮系統に組み込まれていたかという事だ。 
 稲刈会の規模を考えれば資産と照らし合わせても、コインを欲しがる理由が無く、大牟田組のような末端の電賊など掃いて捨てるほど抱えている。
 彼らにとって電賊などツールの試験運用の道具でしかなく、電賊もまたそのツールで違法行為を働いている、持ちつ持たれつの関係だ。
 フリッツがその名の通り――フリッツはドイツ語で雷だ――電気の槌を叩き落した大牟田組の残骸は、既に意味を成さないコードの切れ端に変わっている。
 ビリーは複製に客の対応をさせながら、大牟田組のデータの再生を試みる。
 散らばったコードを仮想メモリに移し、修復ツールで時間を巻き戻すようにして破壊前の姿に再構築していく。
 ビリーの仮想メモリの中に、今は無き組長の大牟田望と八人の構成員が出現する。
 大牟田組が零番街に構えていた組事務所は、川端組辺りのプログラマーがテンプレートで作ったものらしく、構成員が使用するソファー、来客用の応接セット、組長が鎮座する樫を模した巨大なデスク。背後には金に龍が踊っている屏風、和風の鎧兜の後ろの掛け軸には尽忠報国とある。
 再構成した大牟田のログを辿るが、ここ数日はBIGには関わっていない。
 フリッツのログを辿り、二週間ほど前に大牟田組の構成員が電脳麻薬で廃人にした少年のアカウントを使って、大和屋骨董店にBIGをアップロードしている事を確認する。
 同時に大牟田組の構成員もBIGをダウンロードし、運用し始めている所を見ると彼らもプログラムの本質には気づいていなかったらしい。
 彼らはBIGのプレゼンでもするように店舗を荒らしまわり、BIGの存在に気付いたギーク崩れの電賊たちが我先にと大和屋骨董店に向かっている。
 タグのついたコインは零番街を出て各国の三番街、二番街へと広まり、消費されていく。
 今やBIGに感染していない金融機関は、名前の通らない聞いても分からないような地方銀行くらいなものだろう。
 感染度合いを見ると空恐ろしいものがあるが、現在の所、真のBIGを稼働させた形跡は無く、電警が察知するかどうかを確認しているようにも見える。
 ビリーはとりあえずフリッツに脳を焼かれた大牟田組の肉体に変わって、構成員のアバターに疑似人格プログラムを走らせて元の場所に戻す。
 フリッツが叩き潰してから二時間程度で、川端組から特に連絡があった形跡もない為、襲撃の形跡は消す事ができるだろう。
 これで川端組が接触して来ても大牟田組の人間がフリッツに脳を焼かれて殺された事には気づかない。
 BIGは大和屋骨董店にアップロードされた時の圧縮形式ではなく、今では使われる事のない二次元映像のMP4形式のデータとして持ち込まれていた。
 当然大牟田組がMP4形式に変換された圧縮ファイルを解凍できる訳が無く、解凍ツールが別のダウンロードサイトからダウンロードされている。
 消されたログを辿り、解凍ツールの作成者を探す。
 アップロードされたのは二年ほど前になるから、業界の中では意外に有名なツールなのかも知れない。
 作成者は政府から仕事を受注している稲刈会のフロント企業で、公金でVRガジェットを作成している近未来科学研究所のプログラマーだ。
 プログラマーの履歴には改ざんの痕跡があり、消されたメールなどを再現していくと電警のエージェントである事が分かる。
 警察庁公安部電子情報検閲課二係、獅子堂馬佐良(ししどうばさら)巡査部長。
 四十一才の脳強化型のベテランドミニオンだが、日進月歩の遺伝子工学にあってはプロトタイプとして扱われ、二十八才の新型ドミニオン七星貴麟斗(ななほしきりと)警部の指揮下にある。
 囮捜査なのか癒着なのかまでは調べてみないと分からないが、VR空間は相応の技術があれば何者にもなりすます事が可能だ。
 更に高度な技術を使えば周囲の人間の脳を直接操作して、コミュニティーや家族の一員になったり乗っ取ったりする事もできる。
 もっとも、記憶操作が発覚すれば国際電子情報法に抵触して、世界中の電警に追い回される事になるのは間違いない。
 電警のプログラマーがBIGの解凍ツールを作った、もしくは保有していてアップロードしたということは電警もBIGを解凍できるという事だ。
 ビリーの脳裏に危険信号が点る。
 電警の解凍ツール、稲刈会。
 電警と稲刈会が合意の下で動いていたとするならどうだろうか?
 ビリーは稲刈会の組織図を展開し、コインの流れを追う。
 本来稲刈会本部ともなれば、リアル通貨を運用していてコインなどは扱っていない。
 ――ビンゴだ――
 末端の電賊から稲刈会が大量のコインを吸い上げている。
 リアル通貨を扱う稲刈会がコインを集める理由はないが、そのコインは与党自尊愛国党に『献金』されているのだ。
 稲刈会と与党自愛党は裏と表で双子のようなものだ。
 だが、デザイナーズの、それもアルティメイツばかりの自愛党が何故VR通貨のコインを必要としているのか?
 ビリーは自愛党の動きを追う。
 流れを追うと多額のコインは自愛党の主催するパーティーの、パーティー券と引き換えになっている。
 自愛党はパーティー券をデザイナーズ相手にリアル通貨で売り、通常の金融機関より遥かに低いレートでパーティー券とコインを交換する事で、政治資金をかき集めていたのだ。
 パーティー券とコインは交換であり、しかもコインはVR通貨なのだから、目くじらを立てられる事もない。
 金融機関より安価にコインが手に入るとあって、デザイナーズたちが自愛党のパーティー券を買い求める。
 本来の支持率とは無関係に政治資金が無尽蔵に流れ込む仕組みだ。
 だが、無限にリアル通貨を生み出すかに思えたシステムも破綻の時を迎える。
 稲刈会のコインの供給が追い付かなかくなったのだ。
 現在もパーティー券は売れているが、全国のヤクザのコインも底を尽きかけ、自愛党にはこれ以上コインを手に入れる術が無い。
 ――そこでBIGが造られた――
 自愛党直属の諜報機関と言っても過言ではない電警が取り締まる筈もない。
 ビリーがスーパーコンピューターに追わせていたBIGの製作者が割れる。
 BIG自体は財務省の個人端末の仮想ドライブから『盗まれた』ものだ。
 自愛党の財務大臣から特命を受けた財務省のエリート官僚チームが、知恵を絞って造り上げ『そこ』に置いたのだ。 
 ――……犯人は……――
 ビリーは腕を組んで考える。
 自愛党が政治資金を集める為に財務省に圧力をかけ、財務省の官僚が造り上げ、稲刈会がそれを盗んで流布した。
 そして今やBIGは世界の金融機関に寄生している。
 この輪転機が動き始めれば自愛党は国境を超えて、多額のリアル通貨を手にする事ができるようになるだろう。
 ――どうやって戦う?――
 敵は日本国と同義語だ。
 JACK・BOXにはビッグ・アップルがあるが、国家を相手にサイバー戦争をするのはリスクが大きいし、そもそもJACK・BOXは表向きただのクラブだ。
 仮にVR上で勝利を収めても、リアルの警察や軍隊にリアルの肉体を襲撃されれば一たまりもない。
『師匠、何しとーと?』
 日葵が防壁越しに声をかけて来る。
『何だ。今仕事してんだ』
 疑似人格の振る舞いに異常は無い。
『もうお父しゃんもソムしゃんも帰りようとよ?』
 日葵の言葉にビリーは疑似人格と同期する。
 既に閉店時間となり、リックが最後の女性客の団体をなだめながら追い返している。
 思っていたより長く潜っていたらしい。
 接客人数は延べ二一一人。勤務時間は三七四時間だ。
 人数の割りに勤務時間が長くなっているのは、ビリーの客のほとんどがギークの電脳お悩み相談だからだ。
「ゴメン。手間取っちまった」
 既に閉店作業を始めている沙織と銀二に向かってビリーは言う。
「お前は集中すっと昔から他が見えなくなっちまうからな。答えは出たのか?」
 店内のプログラムをチェックしている銀二の言葉にビリーは頷く。
「敵は見えたんだが……とっつぁん、国家ってヤツを相手に戦争できっか?」
 ビリーが捜査資料を銀二に転送すると、銀二の顏にも苦いものが浮かぶ。
「こりゃ……沙織、ちょっといいか?」
 データの処理をして引き上げるDJたちを監視していた沙織に向かって、銀二が声をかける。
「��~ん。で、これどうしたい訳?」
 沙織の言葉にビリーは言葉を返す事ができない。
 普通であればRBPで仕置きをしてワクチンで消毒してお終いだ。
 だが日本国首相であり、自愛党総裁の増岡清治をリアルにダメージが残る形で傷つける事などできないし、関与している無数のデザイナーズに危害を加えれば電警に追われるどころでは済まない。
 街でチンピラやハッカーたちが調子に乗って使っているBIGに対しては電警がすぐにワクチンを配布して、キャッシャーからの強奪は程なく止むだろう。
 だが、問題はそれから動き出す金融機関からコインを抜き出す真のBIGなのだ。
「ちょおっと、三人で何やってんのよ」
 女性客を追い返したリックが歩み寄り、沙織が素早く圧縮データを送信する。
 データを受け取ったリックの表情が曇る。
「これ、ちょっとヤバめなんじゃない? これ下手するとリアルに住めなくなるレベルよ?」
 リックがそれでも解決法は無いものかと首を捻る。
 リックは電脳技師としては天才肌だが、反面、力業で処理できない事件には弱い所がある。
「みんなして何を話しようと?」
 不満げな表情で日葵が訊ねて来る。    
「お前にはまだ早えぇ」
 ビリーは腕組みをして言う。
 下手に情報を日葵に渡して先走られたら何が起こるか分からない。
「うち、ちゃんと師匠の宿題しとっとね! やけん前より強くなっとるっちゃ。ちかっぱ師匠ん力になりようけん、除け者にしたらいかんばい!」 
「お前にどうにかできるのか? つーか、されたら困ンだよ」
 ビリーはデータに厳重なロックをかけて日葵に送る。
 解凍するのに丸一週間、否、それ以上はかかる筈だ。
「師匠、これわざとっちゃろ」
 日葵がペンタゴンもビックリの防壁でロックされているデータを見て、恨めしい表情を向けて来る。  
「強くなってんだろ? 解凍できるまで出入り禁止だ」
 ビリーは言って日葵を強制的にログアウトさせると、銀二らと共にバックヤードに向かった。
  
 〈3〉
   マリーの冷ややかな視線はいつもと変わらない。
 否、自分の脳を操作し、自分にだけそう見えるようにしているのかも知れない。
 実際は銀二達と朗らかに話していたとしたら……。
「ビリー、今の思考は明らかに時間のロスだ。解決すべき問題を直視しろ」
 マリーの冷え切った声にビリーは顔を上げる。
「勝手に俺の頭を覗くな!」
「なら相応の防壁を構築しろ。で、ビリー、リック、銀さんには案が無い」
 マリーが機械的にメンバーを見回す。
 マリーが沙織に言及しなかったのは沙織に案があるからではなく、沙織の防壁を破れないからだ。
「アタシ、こういうデリケートな話って苦手なのよね」
 沙織がお手上げとばかりに肩を竦める。
 沙織は世界を相手にしても戦えるであろう超絶電脳技師だが、VR技術以外の事となると想像が及ばなくなるらしい。
「30秒与える。解決手段を明示しろ」
 マリーが淡々とした口調で言う。
「お前は考えないのかよ」
「もう解決手段は見つけてある。みんなからもっと面白い案が出れば採用する。仕事にかかれ」
 マリーの言葉にビリーはクラッキングしてあるスーパーコンピューターを平行運用して、脳機能を一気に加速させる。
 この加速時間の中ではアルティメイツであろうとも、ビリーに手出しはできない。
 今回の案件で最大の問題は、やはりBIGの一次機能、キャッシャーからコインを強奪するという事だろう。
 これは明確な被害者が存在し、二番街辺りで被害が出れば電警が動いてワクチンを配布して無効化するだろう。
 これは自愛党のシナリオとも一致する。
 このトカゲの尻尾切りで逃げ、なおかつ無限のコインで私腹を肥やす自愛党をどうするべきか?
 世界中のスーパーコンピューターが唸りを上げる。
 あまり処理に負担をかけすぎるとクラッキングが発覚する恐れがある。
 現状、数十台のスーパーコンピューターを同時運用でもされない限り、枝を知られる事はない。
 仮にクラッキングが発覚して、一時的に撤退してもすぐにばれない形で奪い返せる自信はある。
 至高の存在としてビッグ・アップルがあるが、量子コンピューターと従来型の集積回路ではそもそも振る舞いからして――言語や処理方法という次元では語れない――違い、どうアプローチしても良いかすら分からない。
 マリーがどのような形で繋がっているのかもビリーには分からないのだ。
「15秒」
 冷徹なマリーの声が響く。
 こんな時、日葵のなまった声を懐かしく思ってしまうのは何故だろう。
 一瞬浮かんだ思いを意識の奥深くにしまい込む。
 BIGのキャッシャーを電警に任せるのは既定路線だ。
 VRの住人をコケにして私腹を肥やす、自愛党にどのような制裁を加えるべきか? 
 『制裁』を加える必要はない。
 要は手元にコインが無くなりパーティー券と引き換え不能になっているのだから、現状を維持させるだけで自愛党は信用を失う事になる。
 その為にはBIGを発動させなければいい。
 ビリーはネットの海の中を見回し、目指すものを探す。
 データを放り込み、高速で起こり得るパターンをはじき出していく。 
 ――なるほど……――
「タイムアップだ。意見を聞こう」
 マリーの声と共にビリーはJACK・BOXのバックヤードに戻る。
「キャッシャーの方は電警が勝手にするだろう。問題は自愛党になる」
 銀二が時間が足りなかったといった様子で口にする。
「そのキャッシャーなんだけどもさ、稲ちゃんにアメリカのゴールドマンサックス襲わせね? FBIが動いたら日本の電警真っ青だって」
 リックの言葉にビリーは笑みを浮かべる。
 それだけで自愛党の企みは米国が握る事になる。
「で、結局銀行から端数を抜き出すのはどうすんのよ」    
 沙織は考える気が無いといった様子で言う。
 否、考えはあっても、自分より低レベルな少年たちが何を考えたのか興味があるのだろう。 
「BIGをWHOに運用させる」
 ビリーは、スーパーコンピューターに二千回シミュレーションさせた結果を表示させる。
「現在国連は資金不足。とりわけ福祉に関してはほとんど金が回らない。俺たちジャンクスに手を差し伸べようとするデザイナーズはほんの一部だ」
 ビリーは現在のWHOの事務局長トーマス・ハイネケンの姿を3Dで描写する。
「そこでBIGを上書きして金融機関から抽出されたコインを、タックスヘイブンのリヒテンシュタインに架空口座を作ってプール。口座からWHOに個人の募金としてコインを送る。その時にリアル通貨の募金があった時に引き換えにすればいいとメッセージを送っておく。WHO及び国連が俺たちが作る架空口座を暴ける可能性はゼロ。そしてそれ以前に財政を圧迫されているWHOのハイネケン事務局長は、俺たちの提案に乗る。これはWHOの事務局会議をシミュレートしても同じ結果が出る」
 ビリーは言い切って一同の顏を見回す。
 自愛党は放置すれば自滅する。ならば、得られた利益をどうするべきか。
 BIGを本当に消滅させてしまう事は簡単だ。
 だが、世界で救われるジャンクスがいるなら、その力を持っているWHOにコインを渡すのがベターな選択だ。
「確かに、WHOの事務局は話を蹴らないし、口座を暴く事もコインの出どころを探る事もできないわね」
 納得した様子で沙織が言う。
 沙織が納得したという事は何万回と検証したと同義だ。
「ま、いんでねの? 俺たち正義の味方だし」
 リックが笑顔を浮かべる。
「自愛党にゃいい薬になんだろ。ま、懲りない連中ではあるがな」
 銀二が苦笑しながら賛同する。
「キャッシャーはリック、銀行とWHOはビリー。発案者として義務を果たせ。ビリー、日葵に仕事を覚えさせろ。以上解散」
 マリーの言葉が響いたのは午前八時を回った所だ。
 ビリーは遅刻を茜にどやされる事を覚悟してJACK・BOXを離れた。
  「俺はBIGのコードを書き換える。日葵はリヒテンシュタインに口座を作って、それらしい電子人格を作ってくれ」
 開店前のJACK・BOXでカウンターに立つビリーは、スツールに座っている日葵に向かって言う。
「それは無理ばい」
 やけにしおれた口調で日葵が言う。
「無理って……俺はお前のレベルに合わせて仕事割り振ってんだ」
 ビリーはため息をついて日葵の顏を覗き込む。
「いけん。うち、まだ宿題できてないけん、師匠の力にはなれんと」
 日葵が昨日渡したロックをかけたデータを表示する。
 電脳技師としてはまだ未熟な日葵にしては、合格点をやれる所まで解除している。
 技量を考えると、よくここまでやったものだと褒めても良いくらいだ。
「昨日の宿題は半年待ってやる。だから今日の仕事を手伝ってくれ」 
 架空口座と疑似人格など造作もない事だが、マリーから手伝わせろと言われている以上やらせない訳には行かない。
「うちを信用してくれると?」
 日葵が瞳を輝かせて笑顔を向けて来る。
「できねぇヤツを弟子に取れるか。とっとと仕事しろ、仕事」
 言ってビリーは電子の海に潜る。
 拡散したBIGの上書きは一見煩雑に思えるが、タグが付いている為に一々探す必要がない。
 予め用意してあった自動更新ツールでタグを排除し、コードも新たなものに上書きしする。
 世界中のBIGが更新されるには二時間はかかるだろうが、人体が世界を一周する事を考えたら早いものだ。
 これでリヒテンシュタインの口座に、コインが自動で放り込まれるシステムが構築されたわけだ。 
 日葵の作った口座は完璧で書類上何の問題も……。
「……おい、日葵、口座の名義、何でお前の親父なんだ?」
 ビリーが訊ねると日葵が笑顔を向けて来る。
「うちのお父しゃんがコイン持っとるわけなかと。電警ば調べてたどり着いても誰かが偽装しちょるとしか思わんとね」
 日葵の取った手段は意表をついたものだったが、現実に存在する人間を使うという発想は有効だ。
 電警が口座にたどり着き、如月武蔵を捕捉しても電脳技術が極めて低い中年のジャンクスでは、どう考えても誰かが偽装したとしか思わないだろう。
 そして日葵は痕跡を一切残していない。
「日葵……お前、俺より才能あるのかもな」 
 ビリ��は日葵の頭を撫でる。
「おかしかけんやめてくれっちゃ」
 ビリーは耳まで赤くなった日葵の顏を眺める。
 後はWHOにメールを送るだけだ。
   最終的にCIAは日本国の与党政権の弱みを、また新たに一つ手に入れた。
 バックヤードの更に奥、余人の立ち入る事のない空間でカークはレポートを書く手を止める。
 CIAとしては今更どうでもいい情報にはなるのだが、BIGというツールの有用性は今後高くなる可能性があるだろう。
 今回WHOにコインを回し、リアル通貨を取得させるというのは良心的な措置だろう。
 しかし、WHOの事務局長がハイネケン氏で無かった場合、BIGというシステムはデザイナーズの敵と見なされ、通報されていただろう。
 ハイネケン氏自身はアルティメイツだが、一職員であった頃任地であった南米でジャンクスの女性と交際し、奇跡的にもジャンクスの子供をもうけたという経緯がある。
 もっとも、家族や職場のデザイナーズに強硬に反対されて離別を余儀なくされ、帰国後南米に残した母子はスラムで何者かにより殺された。
 ハイネケン氏がWHOという組織の中でとりわけ強い使命感を持っているのは、ジャンクスを救う行為を、失った妻子の墓標を磨く事と同義のように感じているからなのだろう。
 カークはCIAのタグの付いたBIGを眺める。
 この端数コインが合衆国の国庫に流れる頃には、ビリーたちはこの事件を忘れているだろうか?
  「裕ちゃん! 裕ちゃん!」
 いつもと同じ通学路。朝も早いというのに、茜のテンションは上がり切っているようだ。
「せめて朝一番はおはようじゃないのか?」
 ポケットに両手を突っ込んだまま、裕司は茜に向かって言う。 
 川に近いせいだろう、淡い霧に包まれた廃墟じみた街はどこか異世界を感じさせる。
「うん、おはよう! 裕ちゃん朝のニュース見た?」
 茜はテンションが高いというより興奮しているようだ。
「んにゃ」
 裕司は肩を竦める。日本の報道機関は政府の広報と大差ない。
 政府の広報とは与党の広報と同義であり、情報ソースとしての何の意味も持たない。
 従って裕司がニュースとして活用しているのは海外のメディアだけだ。
「零番街の電賊の大牟田組が、キャッシャーアプリからコインを強奪してたんだって!」
 ――ああ、日本ではそう報道される事になるのか――
「そりゃ大事だ」
 裕司は通学路を歩きながら他人事のように言う。
 日本政府、与党がどう辻褄を合わせたかには少し興味がある。
「大牟田組は電警に抵抗して、最期は手に負えなくて現場の判断で処刑になったんだって」
 VRで裕司の組んだ疑似人格と戦闘の末、リアルの電警が乗り込んだらフリッツにより処刑済みだったのだから、発表内容もかなり苦労した事だろう。
「電賊ってのはデザイナーズの電警も手こずるのか」
「コインが銀行から盗られたら私たちの貯金も無くなっちゃうんだよ? 早期発見で被害は一部のVR個人事業主に留まってるって書いてたけど」
 今に始まった事ではないが、茜は報道を疑うという事を知らないらしい。
 だが、それが今の日本人の一般的な認識なのだろう。
 現在日本政府が情報公開の差し止めを米国政府に要請しているだろうが、NARA(アメリカ国立公文書管理局)の情報開示期限の五十年が過ぎれば、日本政府が情報隠蔽を依頼した事を含め、否応なく情報公開される事になる。
 もっとも、その頃にはこのような小さな事件は誰も気に留めなくなっているだろう。
「いっそ世界からコインが消えた方が良かったのかもな」
 裕司はスコールが過ぎ去った霧に覆われた空を眺める。
 リアル世界と違いVR空間の許容量が許される限り、仮想物質を幾らでも造れる世界なら――物々交換はさすがに無理があるだろうが――否応なしに格差を生み出すリアル世界を反映した経済といった形ではなく、違った形で新たな世界をクリエイトできたのではないだろうか。
 ――先駆者たちはVR空間でそのテストケースを造ろうとは思わなかったのだろうか――
「裕ちゃん! コインが無くなったら努力が無駄になっちゃうんだよ!」
 真面目に答えろとばかりに茜が言う。
「賃金ってのは労働の対価なんだ。個人の負担に応じて均等に支払われるのが本来の姿だ」
 勤務時間、心身の負担、立場を超えてそれらを等価とした時、現在の貨幣制度は後世にどのように評価される事になるだろうか。
「そう思ったら真面目に勉強して! 頑張って就職するんだよ!」
 どこまで理解しているのか茜が速足で歩きだす。
 ――単位を全て習得した時、目の前に広がる世界を見て茜は何を想うのだろう――
 裕司は茜に歩調を合わせて歩き出す。
 その時は、愚痴の一つも聞いてやればいい。茜の勤勉さならVR空間でなら二番街で事務職くらいなら務まるだろう。
   DIVE2 PLAYING WITH FIRE OF CELEBRETY
       ~若気の至り~
  〈1〉
  「ビリーさんジンリッキー、アルコール強めで」「ビリーさん、今度二番街にハック仕掛けるんスけど俺の防壁で大丈夫かどうか……」「ビリーさんギムレット」「ビリーさんあっちの女の子にマティーニ」「ビリーさん、俺の新しく造ったツールっスけど……」「ビリーさんトム・コリンズ」
 JACK・BOXのカウンターに怒涛のように客が押し寄せる。
 八百人という大箱に対し、スタッフが五人しかいないのだから一秒間にこれくらいの注文や相談が来ることなど日常茶飯事だ。
 当然ビリーの人間の脳で追いつくわけが無い。
 ビリーのアバターは客から見れば一人だが、実際には数台のスーパーコンピューターを外部脳として使って並行処理している。
 ビリー自身を高速化しているのは勿論、疑似人格を複製として動かすのではなく、個々の対応を並行処理しながら情報と経験を同期させていく。
 恒常的に並列化や加速といった技術を使い、VR空間では途方もない年月を生きているが、一向に精神年齢が上がった気がしないのは、沙織や銀二といった師であり保護者でもある存在がいるからだろう。
 今日のDJはクラシックミュージックをアレンジしており、内装は石造りの西洋の古城風。給仕AIはゴシックなメイドから獣人のようなファンタジー世界のようなテクスチャーを貼られ、半透明の騎士が馬上試合をしたり、西洋風のドラゴンと戦ったりしている。
 JACK・BOXでパフォーマンスができるというのは零番街に生きるDJにとって名誉であり、かつてアメリカに存在していたアポロシアターのようなアーティストの登竜門のような立ち位置となっている。
 一流が集まり、常に敷居が高くなり続けるのがJACK・BOX。
 だとビリーは思って来たし、そうあるように努力して来た。
「十五番しゃんラーメンできたったい!」
 威勢のいい声で日葵が今日も豚骨ラーメンを提供する。
 クールなイメージであったJACK・BOXで、裏メニューなら分からないでもないが日葵の豚骨ラーメンは今や定番となりつつある。
 日葵も並行処理で経験値を急激に上げているが、お国柄なのか客対応が的外れな所がある。
 地方も都市部もありはしないVR空間において地域性が出る事は希なのだが、例外は存在するらしい。
「銀二も飲んだらよか、たまには息を抜いてもよかろうもん」
 ビリーは、娘が心配なのか最近ちょくちょくJACK・BOXを訪れるようになった武蔵に目を向ける。
「まぁ、嫌いじゃあねぇが、どうせなら他人の造った酒でやりたい所だな」
 銀二が大人の対応で武蔵を躱す。
 父親があの調子では、日葵が地域性にどっぷり浸かっているのもやむを得ない事なのだろう。
「ビリーさん、ですよね? 探偵さんって本当ですか?」
 外見は標準的な女性のアバターが声をかけてくる。
 三番街辺りで手に入るメイクアプリで多少カスタムしているが、独自性は見られない。
「見ての通りウチはクラブでここはバーカウンターだ。飲む気が無いなら回れ右だ」
 ビリーは言いながらアバターを走査する。
 豊島区の集合住宅に住んでいる十三才のジャンクスの少女、青木香苗だ。
 零番街の住人にしては珍しく、単位制学校にはちゃんと通学しているらしい。
 もっともログを見る限り零番街に出入りするようになったのは二か月ほど前。
 それも三番街のSNSコミュニティーで誘われての事だ。
 ビリー個人としては零番街の人口は無駄に増えて欲しくない所ではある。
 下手に人口が増えて電警の標的になったら、零番街には多大な被害が出る事だろう。
「友達がいなくなったんです。探してもらえませんか?」
「そういう時の為に興信所があるんだ」
 ビリーは香苗に甘口のパリジャンを造ってカウンターに置く。
 香苗が口をつける間にもログを探り、三番街の興信所に行った事を確認する。
 二件はコイン不足で門前払い。
 そして一件は……。
 ――痕跡を残さず姿を消している?――
 ジャンクスの電賊の中にも、リアルでも汚れ仕事をするヤクザ絡みの組織は存在する。
 興信所のログを当たり、並行処理で行方不明の少女を捜索しているデータをサルベージしつつ、従業員の個人情報を取得する。
 興信所の所長兼経営者、以下二名。
 年齢は所長が四十代で従業員は三十代。
 所長には妻子がいるが、従業員は独身でリアルをドロップアウトした典型的ネットジャンキーだ。
 不規則な生活だが、ログアウトでチューブと睡眠はは取っているようだ。
 興信所の所長と職員の最終ログインは七日前。
「興信所へは行ったんです。でもお金がなくて、相手をしてくれた所は……」
「もぬけの空になった」
 電賊と戦った形跡はない。
「何で分かるんですか?」
 香苗が驚いたように口を開く。
「そういう人間を探してここに来たんだろ?」
 ビリーはJACK・BOXに疑似人格を残して興信所に降り立つ。  
『とりあえずせっかく店に来たっちゃけん、ラーメンば食べっとよ』
 疑似人格を通じて威勢のいい日葵の声が聞こえて来る。
 豚骨ラーメンを出すのは構わないが、勧めるのは厳重に注意しなくてはならないだろう。
 ビリーはため息をついて興信所の中を見回す。
 応接セットとパーテーションで仕切られた事務机、所長の机も昔ながらのスチール机を模倣したテクスチャーを貼られている。
 サルベージデータから、興信所の職員の一人が当たりを付けたのを確認する。
 ログは十日前、消える三日前だ。
『所長、これは組織犯罪ですよ』
 職員が提示したデータをビリーは展開する。
 それは首都圏を中心とした、ジャンクスの少女の失踪事件のリストだった。
 共通しているのは、ある日突然VRとの接続が切れている事。
『全員自宅wifiから離れた場所で失踪している。周囲には監視カメラもないようだ』
 所長が職員に応える。確かに言葉の通り、少女たちは自ら監視の目の行き届かない所に赴いて消えている。
『所長、ログから少女���ちが……アルティメイツを名乗る青年と接触している形跡がありました。会話ログと当時の少女の心身の状態から見てかなり好感を抱いていたようで』
 別の職員が無数の少女と青年のVR空間での接触映像を表示する。
 アルティメイツがジャンクスを引っかける?
 可能性はゼロではないが、偶然が重なってというならともかく、意図的にジャンクスの少女に接触するのにどういった意味があるのだろうか。
 デザイナーズはソムチャイのような特例を除いて、ほとんどがデザイナーズのコミュニティに属し、厳格とも言える遺伝子のヒエラルキーを作り上げているのだ。
『まずは依頼のあった少女に絞って捜査を始めよう。しかしアルティメイツが関わっているとなるとな……』
 思案気な所長に二人の職員が頷く。
 それが興信所の所長と職員の最期のログとなった。
 ビリーは所長と職員のリアルの自宅を走査する。
 彼らも少女同様自宅から消えている。
「ビリーちゃん何やってんのよ」
 どうやって潜って来たのか、リックが興信所に出現する。
「好奇心が猫を殺すんだぜ?」
 言ってリックにこれまでの捜査データを転送する。
 興信所の所長と、職員の住んでいる集合住宅の脳波ロックと監視カメラを確認する。
「ビリーちゃんよぉ、本ッ当お前、女心が分かってないのな」
 呆れたような口調でリックが言う。
 集合住宅に人の出入りはほとんど無く、一カ月に一度チューブの配達に役所の福祉課のアンドロイドがやってくるだけだ。
 ――随分とナメられたモンだ――
 人間の出入りの無い集合住宅であれば、前日の映像を事件当日の映像に上書きしても普通の人間であれば分からない。
 だが、データは物理的に破壊しない限り再現可能だ。
 たかが上書き程度で偽装したつもりになっているとは片腹痛い。
「女はいっつも白馬の王子が現れるのを待ってんのよ。ジャンクスなんてお先真っ暗な人生から救い出してくれる野郎が現れるって幻想を抱いてんのよ」
「ンな都合のいい話がある訳無ぇだろ」
 ビリーが復元したデータに、集合住宅に車で乗り付ける男たちの姿が映る。
 鉄パイプを手にした五人組。二人は拳銃を携帯している。
 顔はホッケーマスクで隠しているが、脳波ロックを外した男を手繰れば素顔で来ているのと変わらない。
 神谷土岐也二十三才、日本国の最高学府、東京大学工学部に通学するアルティメイツ。
 荒廃した都市部を離れ、かつては未開の地ともいわれた群馬県、榛名山の山頂を均して作られた榛名シティ――寒冷エリア――の高級住宅街に住んでいる。
 寒冷エリアとは、デザイナーズが居住する一九〇〇年代の気候を再現した区域で、気温は一年を通して三二度を上回る事がなく、二六度を下回る事もない。
 シティには四百度から五百度の地熱が得られる地殻まで打ち込んだ、耐熱処理した立坑があり、立坑に流し込んだ水を熱する事により水蒸気でタービンを回す原子力発電と同じ方法が取られている。
 発電コストはゼロに近く、処理に困る廃棄物も無い。
 その豊富な電力により地下に窒素の液状化の圧縮施設を作り、液体窒素を地表面近くに循環させる事で山頂の気温を更に押し下げている。
 地表面の気温で熱せられ、気化する窒素は膨張するままに地上に輩出され、その時にタービンを回す事により更に電力を生み出す。
 デザイナーズは広大な敷地と温暖な気候、豊かな自然、安全なエネルギーと豊富な食材に囲まれて生活しているのだ。
 監視カメラの向こうで所長とその家族が強制的に連れ出されている。
 今ではデザイナーズとアンドロイドしか乗る事の無い、ジャンクスには一生縁の無い自動車の登録も神谷のものだ。
 ――殺されたか――
 たとえ自宅で死んでいても保健所が処理する程度のジャンクスが行方不明になり、仮に死体で発見されたとしても警察が動く事はない。
「ビリーちゃん、ビリーちゃんてばよ、なァに明後日の方向向いてんのよ」
 リックが声をかけて来る。
「今実行犯の尻尾を掴んだところだ」
 ビリーは頭を振って言う。興信所のジャンクスたちは全員殺されているだろう。
「だぁから、それじゃダメなんだってばよ」
 リックが肩を竦めて頭を振る。
「何がダメだってんだよ」
 自分は実行犯の一人を捕捉しているのだ。
 リックはそれ以上の情報を掴んでいるとでも言うのだろうか?
「ビリーちゃん、だぁから、女を作れって言ってんのよ」
 リックが空中に3D映像のフライヤーを投影する。
 太いしめ縄のついた反り返った赤い巨大な鳥居があり、その左右に煽情的な天女のテクスチャーが絡みついている。
その鳥居の上で輝く二体の天女のテクスチャーの手に『天岩戸』という看板が握られている。
「何だこれ?」
 ビリーが走査しようとするとリックが制止する。
「攻性防壁は無いけど、会員制になってて触れたらデータ抜かれるプログラム走ってるんだって。会員以外が侵入すると先は迷路になってんの。出るのに問題はなくても枝が残るかもしんねぇんだってば」
 リックが腕を組んで天岩戸を見上げる。
「具体的に言えって。これは一体何なんだ」
 ビリーは天岩戸の周囲を走査しながら言う。
 入口は三番街にあるが、本体は零番街に造られているようだ。
「非合法売春組織。もちろんリアルでよ。ジャンクスの女の子かっさらって、電波障壁のあるビルに閉じ込めてヤク漬けにして客に性奉仕させてんのよ」
 リックの言葉にビリーは背筋がざわつくのを感じる。
「だから言ったじゃん? 女は王子様を求めてるって。行方不明の女の子は全員デザイナーズの接触を受けた後に自発的に失踪してる。甘い誘惑に乗ったら最後死ぬまでご奉仕なんだから。デザイナーズがジャンクスを口説く訳ねぇのに、女の子にはそれが分からねぇんだべさ」
 リックが少女たちに接触したデザイナーズをリストにして表示する。
「デザイナーズがジャンクスを人とも思わねぇってのは分かるけどよ、じゃあ何でジャンクスに……その……奉仕させんだ?」
 ビリーは足下から這い上がって来るような不快感を感じながら言う。
「ビリーちゃん、デザイナーズには未成年保護条例ってのがあるんだって、それに中には同じデザイナーズ相手にやったら即御用の変態的性的趣向を持ったヤツもいるんだべ」
 ジャンクスは十二才から十四才で結婚しなければその後チャンスは巡って来ないが、デザイナーズは十八才になるまで成人として認められず、結婚できるのはそれ以上の年齢になってから。当然性交渉も十八歳以下で行われれば犯罪となる。
「まぁ、自業自得なんだけどねぇ~。教訓にしちゃ厳しすぎるんでないの?」
 リックが飄々とした口調で言う。
 ビリーはリックのリストを走査する。
 デザイナーズに生まれついたというだけで、ジャンクスの人権を踏みにじって良い事にはならない。
 ジャンクスの人権代理人を気取るつもりはないが、零番街で起きた事件に関しては落とし前をつけさせる必要がある。
 幸か不幸か天岩戸の創設者は先に探った神谷だ。
 紙屑のような防壁を破ってログを洗う。
 お遊びでジャンクスの少女をリアルで呼び出した所本当に現れた。
 数回繰り返しビジネスモデルとして成立する事を確認してから、少女たちを監禁して派遣サービスを行い、組織を拡大させて自前の電波防壁を備えたビルを構えるに至った。
 二年間で被害者は三百人、現在ビルに監禁されている二十三名以外は全員死亡だ。
 リックの言う通り、確かに世の中にそんなに甘い話がある訳がない。
 ――それでも夢を踏みにじった悪党には制裁が必要だ――
  〈2〉
  「昔ァこの手のシノギはヤクザのモンだったんだがな。今は若造の小遣い稼ぎか」
 バックヤードに銀二の深いため息が広がる。
 マリーはいつも通りの無表情、沙織は眉間に皺を寄せている。
「もう面割れてるし脳焼いていんでねの?」
 リックがいつでも戦えるといった口調で言う。
「殺すのはいつでもできんのよ。問題は今後模倣犯が出て来る事よ」
 沙織が思案するように腕を組む。
 仮に組織を根絶やしにした所で、利用者がそのノウハウを知っていれば自らの欲求を満たす為にも同様の事件を引き起こす可能性がある。
「でも、模倣犯が出るったって、防ぎようは無ぇんじゃねぇのか? とりあえずこの天岩戸の連中を叩き潰して……」
 ビリーが言いかけた時、マリーの冷えた視線が言葉を遮った。
「問題の本質を見誤るな。現在被害者であり、死者の列に加わろうとしている者の救出が最優先だ」
 マリーの冷えた声にビリーは心臓を鷲掴みされた気分になる。
 事件の凶悪さで敵を倒す事しか頭に無かったが、現在も二十三名が性奴隷にされているのだ。
「でもビルは完全に電波シャットアウトしてるし、ケーブルも引いてねぇべ? 俺たちにゃムリじゃね?」
 リックがお手上げとばかりに言う。
 確かにVR空間から、照明と冷房程度しか無い建造物を攻略するのは不可能だ。
 憎らしいが、神谷はローテクに徹する事によって万全のセキュリティを敷いているのだ。
 ビリーたちのVR空間での優位性はまるで役に立たない。
「図面くらい確認してからものを言え」
 マリーの声が無人の廊下の靴音のように冷たく響く。
 ビリーは神谷が建設業者に発注した図面を確認する。
 少女たちを監禁するための小部屋が幾つも作られた、無機的なビルではある。
 しかし、屋上に給水塔の他に密閉された小部屋が存在している。
 その部屋にだけ外部からオン/オフの信号を受信するアンテナが立っている。
 そして神谷ら東大生がそこに持ち込んでいたのは……。
 ――第二次世界大戦で日本軍が使用していたBC兵器『マスタードガス』だ――
 神谷らは少女を殺す時でさえ自らの手を汚さない。
 ガスの栓を開いて室内の少女を殺し、ガスを処理してから死体を捨てていたのだ。
 そして、いざという時にはビル全体をガスで満たして、全ての証拠を隠蔽できるようにしている。
 用意周到と言う他無い。
 仮に救出を試みて潜入しても、一か所しかない通用口を閉じられてガスを流されればお終いだ。
 事件の陰惨さを鑑みて、日葵を先に帰らせておいて正解だったとビリーは思わざるを得ない。
 この事件は日葵には重すぎるし、精神的に傷を負う事にもなるだろう。
「30秒で答えを出せ」
 マリーが裁判官のような口調で告げる。
 ビリーはこれまでの情報全てをメモリーに広げる。
 直視するのもおぞましい事件だが、人命救助と制裁、模倣犯の抑止の三つを同時にやってのけねばならない。
 マスタードガスは施設内でコントロールされる仕組みで、外部からオン/オフの操作をする時は全館に一斉にガスを流す時だけだ。
 ここにつけ入る隙は無い。
 組織のメンバーは神谷を中心とした東大生のグループで四十七名。
 通常七名が屋内の警備、前に停めたワゴンの中で連絡を行う者が四名、残りのメンバーがVR空間とリアルとで少女を集めている。
 四十七名は持ち回りでこのビジネスを回しており、ログを洗っても一同が会するという事が無い。
 ビルの実際の警備は連絡役を含めて十名だが、外部からマスタードガスを流されれば少女を救うどころではない。
 仮に榛名シティにあるビルを襲撃するとしても、関東圏に住んでいるのは自分と銀二とマリーだけ。
 キャンプでの戦闘訓練があるとはいえ、銃で武装した東大生と戦闘になれば間違いなく警察が、場合によってはSATが出て来るだろう。
 その場合、救出ではなく生還できるかどうかという問題になってくる。
「15秒」
 マリーの声が脳裏に響く。
 ビルの警備は総勢十名だが、連絡役はwifiでネットに連結している。
 暴力的な手段で排除しなければならないのは屋内の七名。
 だが、自分にはムエタイの師であるソムチャイと、喧嘩の天才フリッツがいる。
 防弾ガラスの玄関のドアは、連絡役と警備のハンドサインで開閉される仕組み。
 マリーが後方支援で、別のビルから屋上のマスタードガス製造施設をアンチマテリアルライフルで狙う。  
 銀二を顧客に見立てて連絡役にドアを開けさせる。
 同時に銀二が二人を始末。
 ワゴンの二人の連絡役の目はリックに操作させる。
 同時に銀二とフリッツが一階のスタッフルームを制圧。
 ソムチャイと自分が二階の警備を倒し、少女を脱出させる。
 ――そして――
 VR空間の寵児としての本領を示すのだ。
「タイムアウトだ。己の有用性を証明しろ」
 マリーの鋭い声が響く。
 ビリーは銀二とリックの顏を見つめる。
 二人とも案をまとめて来たようだ。
「捕まってる娘どもを救出するにゃ、やっぱり乗り込むしか無ぇだろう。関東組で俺、ビリー、マリー、ンでソム先生とマサシだ」
 銀二がビリーが考えたのとほぼ同様のプランを表示させる。
 因みにマサシはフリッツのリアルでの名前だ。
「助ける方はそんでいんじゃね? ンで、助ける時にお前らどこの組のモンじゃ! って言っとけば俺たちをヤクザだと思うし、商売を手控えると思うのよ。で、天岩戸サイトにウイルスを仕込んで、アクセスした人間の頭で桃色体験が無限ループして即廃人になるようにしといたら、サイトにゃ誰も近づかないんじゃね?」
 リックの言葉には説得力がある。確かにヤクザが相手となればデザイナーズでも同格の相手なら恐れるし、アクセスするだけで廃人になるサイトと分かれば、模倣犯が現れても警戒して近づかなくなるだろう。
 そう、確かにそれで一つ片が付く。
「ビリー、あんたは?」
 沙織の言葉にビリーは一つ頷く。
「とっつぁんとリックの案で構わねぇ。けど、一つだけ仕掛けをしたい」
 ビリーの言葉に銀二とリックが顔を向けて来る。
 マリーは……目を合わせようともしない。
「奴らは交替で仕事をしてる。当然、全員が集まる事はない。多分一網打尽を恐れてそういうカラクリにしてるんだろう」
 ビリーは小さく息を吸い込む。
「奴らを加速させて全員あのビルに集める。後は外から例のガスのスイッチを入れるだけだ」  
 ビリーは相手の全員のシフトを表示し、それぞれの加速速度と疑似体験を組み合わせたものを表示する。
 即日という訳には行かないが、三日後には全員のシフトがビルの屋内警備になる。
「全員ガス室送りか……」
 銀二の表情が厳しいものになる。
 自前のビルのガスが漏れただけなのだから、警察が調査しても不都合な真実を隠蔽する為、事故という扱いにしかならない。
「とっつぁん、相手は三百人近く殺してる連中だ。しかも生まれて来た事を後悔するような思いをさせてだ」
「でもビリーちゃんよ、それだと模倣犯の抑止にはならなくね?」
 リックの疑問ももっともなものだ。
「天岩戸のサイトにアクセスした時に、ガスを食らった連中が死ぬまでの体験を植え付けてやるんだ。何をして、何を悔いて死ぬか嫌でも分かる」
 ビリーは押し殺した声で言う。
 供給する者は自ら殺して来た少女と同じ方法で処刑し、利用者にはその末路を追体験させる。
 それでも仕置きには軽いかも知れない。
 しかし、自分たちにできるのはそれが限界だ。
「ビリーの案を容れる。救出プランは銀さんで。ビリーは発言に責任を持て。三日後ミッションを遂行する。解散」
 マリーの言葉を受けて、ビリーはJACK・BOXを離れる。
 四十七人の脳を時間差で加速させ、齟齬をきたさないよう疑似体験で補わせるために。
   プログラムは順調に走っている。
 四十七人の犯罪者は、自分たちの時間の流れが狂っている事を自覚してはいない。
 裕司はGパンのポケットに手を突っ込んだまま、いつもの通学路を歩く。
 マリーは自分の作戦を支持したが、それは理性的な思考の産物なのだろうか。
 リックの比較的穏便な手もそれなりの効果は望めただろう。
 普通の案件として考えればリックの案が最も波風が立たない。
 自分の案は感情に走り過ぎているかもしれない。
 マリーはその自分の心情を汲んでくれた……。
 ――違うか――
 マリーはたまたま自分と同じ方向を向いていただけだ。
「裕ちゃん! 今日も遅いんだから」
 茜が駆け寄って頬を膨らませる。
 遅刻するほど遅くはないが、半分挨拶のようなものなのだろう。
「茜は学校が好きなんだな」
 裕司は眩しいものでも見るように目を細める。
 真面目に学校に通い、仕事をして身を立てるという揺るぎない信念。
 少女たちはアルティメイツと交際――場合によっては結婚――できると考え、次々に命を失う事になった。
「う~ん、ちょっと違うかな」
 歩き始めながら茜が下唇に人差し指を当てる。
「好きでもないのに毎日通ってるのか?」
 裕司は肩を竦める。自分は沙織の指示に従っている以外は茜に付き合って通っているだけで、実際の所屋外に出るのはソムチャイに稽古をつけてもらう時だけで充分なのだ。
「学校って必ず結果が出るでしょ? それって自分が頑張ったって証なんだと思う。それは足跡みたいにずっと自分について来るって、いつか倒れそうになった時でもそれを見たら背中を押してもらえるってそんな風に思えない?」
 茜の言葉に裕司は胸が締め付けられるような気分になる。
 どうしたら人間はここまで前向きに、強くなれるのだろう。
「茜はアルティメイツになりたいと思った事はないのか?」
 裕司の問いに茜が笑顔で頭を振る。
「無いよ。頑張らないでゴールに行った人は、足跡に助けてもらえないから。アルティメイツになったら別の考え方になるのかも知れないけど。それに私はジャンクスだから裕ちゃんに会えたんだよ? 感謝しなきゃ」
 背筋を伸ばして茜は真っ直ぐに歩いて行く。
 茜がジャンクスの限界にたどり着いた時、自分には一体何ができるのだろうか。
 答えは雨上がりの川面の霧に隠されたように亡羊として見通す事はできなかった。
  〈3〉
  「裕司、久しぶりだな」
 長身で均整の取れた体格。長い前髪を邪魔そうに払いながらフリッツこと本田将司が声をかけて来る。
 赤坂の銀二の割烹『銀杏』の和の空気の漂う店内の奥座敷では、既にマリーこと水島佐和子が茶をすすっている。 
「相変わらずだな。今でも素手でアルティメイツをブチのめせるのか?」
 裕司が訊ねると将司が不敵な笑みを浮かべる。
「皆壮健で何より」
 同行した軽軍装のソムチャイが、裕司の背後から一同に頭を下げる。
「お前さんこそ元気そうじゃねぇか」
 カウンターの内側から銀二がソムチャイに向かって言う。
「弟子に恵まれた」
 言ったソムチャイの目が、カウンターの奥に置かれた自動小銃に向く。
「いざって時の備えだ。どの道七人は実力行使で排除しなきゃならねぇんだ」
 銀二が一同の顏を見回す。
「もう脳を奪ってあるんだろう? 屋内にジャムでもあるのか?」
 ソムチャイにひけをとらない体躯の将司が言う。
「殴らないと気が済まない。お前もそう思ったから話に乗ったんだろう」
 佐和子が目を向けないまま言う。
「零番街は俺たちの……ジャンクスの街だ」
 将司が掌に拳を叩きつける。事件を話した時の将司の怒りは、正に怒髪天を衝く勢いだった。     
 ライズの膝元で犯罪が行われていたのだから当然だろう。
「じゃ、そろそろ行くか。連中が集まっちまう前に娘どもを助け出さなきゃならねぇ」
 銀二の言葉に将司とソムチャイが頷き、座敷の佐和子が立ち上がる。
 店の前に停めてあったハンヴィーは年代物だが、充分な広さと堅牢性がある。
 運転席に銀二が、助手席に佐和子が座り、二列目で将司とソムチャイに挟まれる。
「俺は女がかどわかされるのにも、そんな店があるのにも気づかなかった」
 沈みかけの夕日を眺めて将司が言う。
「別にお前の責任じゃないだろ」
 裕司の言葉に将司は小さく頭を振る。
「俺は悪ガキどもを守ると誓って街に残った」
 零番街の少年少女を守るため、無秩序の混乱を鎮めてまとめ上げる為、将司はJACK・BOXを蹴ってライズのキングになった。
 もし、将司がJACK・BOXに来ていたら、自分とリックが束になっても手も足も出ない電脳技師になっていただろう。
 しかし、その一方で零番街の混沌は今より深く、犯罪の跋扈する闇市場と化していたに違いない。
「だから助けに行く。それでいいじゃないか」
 裕司は固い表情の将司の横顔に声をかける。
「いい性格してるよ。お前は」
 将司の口元に笑みが浮かぶ。
 ハンヴィーが榛名シティに乗り込む頃には日は暮れ、広い道路の所々で街灯が瞬いているだけだ。
 デザイナーズは圧倒的な権力を握っているが、その数が多いわけでは無い。
 広大な敷地を贅沢に使って暮らす反面、雑踏や人混みとは無縁なのだ。
 従って、レストランやパーティーホールはあっても、商店街は存在しない。
 必要なものも嗜好品も、アンドロイドの管理するプラントを兼ねた倉庫に常に潤沢に用意されているのだ。
 目指すビルはアンドロイドたちの働く倉庫街の一角にある。
 蒲鉾のような形をした巨大な倉庫が十八基並んでおり、目指すビルは管理棟の隣にある。
 アンドロイドたちの目、周辺一帯の監視カメラの映像はリックが掌握しており、人工衛星のカメラでも裕司たちを捉える事はできない。
『マリー、アンチマテリアルライフルを持って倉庫の屋上に』 
 脳裏に沙織の声が響き、ハンヴィーがゆっくりと停止する。
「了解。我々の仕事に失敗は無い。肝に命じろ」
 佐和子が身体に似合わぬ巨大な銃を担いで倉庫の中に入っていく。
 アンドロイドたちが反応しないのを確認して、ハンヴィーが再び走り出す。
 ビルの前にはワゴンが停まっており、スケジュールを狂わされた通信係の三人が屋内警備の時間に備えている。
 ハンヴィーがワゴンの後ろにつけるが反応は無い。
「じゃあちょっくら挨拶に行くとするか」 
 銀二の言葉と同時に全員が降りると、ワゴンから一人の金髪碧眼の白人の学生が出て来る。
 と、ピエロのように回転して、大仰に礼をして見せる。
「どォよ。俺の華麗なるハッキング技術は」
 アルティメイツが異なる声音でリックの言葉を口にする。
「完璧だ。で、他の連中の動きは?」
『全員警備の為に向かってるわよ。並走してるのもあるけどねぇ~』
 裕司の言葉に沙織の婉然とした声が響く。
 沙織は時間感覚を狂わせると同時に、脳も完全に掌握しているらしい。
『猶予は六分、いい?』
 沙織の言葉に裕司は頷く。
 リックが操るアルティメイツが、防弾ガラスの前に立ってハンドサインを送る。
 背後に控える自分たちを客として紹介しているのだ。
 防弾ガラスが開き、ホルスターに拳銃を収めた二人の男がドアから退く。
 瞬間、段取りを無視して疾風のように将司が駆けた。
 男たちが反応するより早く、一人に向かって右手を振るう。
 何かが光ったと思った時には男の喉がパックリと裂けて、赤黒い血が噴き出している。
 割れたガラスを加工したらしい手製の武器で次なるアルティメイツに襲い掛かる。
「行け!」
 銀二が背後に隠し持っていた白鞘を閃かせると同時に、もう一人の男が顎から脳天までを割られて天井に脳漿を噴き上げる。
 自動小銃を構えたソムチャイが、エレベーターを避けて階段を駆け上がる。
 内部の人員配置は検討はついていても、VR上から確認できたわけでは無い。
 一階の休憩所に人員が割かれていれば銀二たちの負担が大きくなり、少女たちの監視に人員が割かれていれば自分たちの負担が大きくなる。
 幸い、ビルの構造からして、発砲しても外部に音が漏れる事は無い。
 ソムチャイが薄暗い照明の中を、密林を駆ける豹のように進んでいく。
 年に二回のキャンプで出会う軍人たちとは違う、特殊部隊を率いていた男の動きがそこにはある。
 階段を昇り切るかどうかという所でソムチャイが上を指さす。
 左右に幾つもの扉のついた二階の廊下では、三人の男が談笑している。
 図面では三階はVIPルームになっていた。
 ソムチャイが発砲すれば屋外には漏れなくとも、三階には確実に響く。
 もっとも、ソムチャイは自分が発砲するまで動く事は無い。
 裕司は足音を殺して階段を昇る。
 一階で最低二人、二階に三人。
 警備は七人だから、スタッフルームに二人居たとすれば三階に敵はいない計算になる。
 裕司は警戒しつつ三階の廊下に顔を出し、自らの見通しに甘さに歯噛みした。
 そこにあったのは武装した四名の少女の姿。
 談笑するでもなく、目を合わせる訳でもなく、まるで調教された犬のように周囲を警戒している。
 その顔には命令された者のそれではなく、自発的に居場所を守ろうとでもするかのような使命感がある。
 ――ストックホルム症候群か――
 被害者が長期間に渡って加害者と過ごす事で、親愛の情を抱いてしまうという極限状態に置かれた者の精神疾患。
 少女たちは虐待されながらも、アルティメイツの男たちに傾倒、心酔していったのだろう。
 これでは救出しに来たと説明した所で、逆に攻撃される事になる。
 突入から四分、残り時間は二分しかない。
 少女たちは被害者であり、治療をすれば日常に帰る事ができる。
 ――今、それをできるのは俺だけだ――
 裕司は等間隔に散った少女の一人に向かって疾走する。
 反応する間を与えず、右足を鳩尾に打ち込む。
 続けて左肘で側頭部を打つ。
 脳震盪を起こさせた所で二人目に向かう。
 昔の映画や小説では首筋や後頭部を殴って気絶させる描写があったが、実際にはそんなに人間は都合よく気絶しないし、加減を間違えれば殺してしまう事になる。
 気絶させるには背後を取って首の血管を締め上げるのが有効だが、四人を相手にしてそんな悠長な事はしていられない。
 裕司は二人目に向かって一人目を突き飛ばす。
 脳震盪の少女を抱える形になった二人目の背後に回り込み、腎臓に膝蹴りを打ち込む。
 これだけでも普通は立てなくなるものだが、肘で頭を打って脳震盪を起こさせておく。
 三人目の鳩尾に前蹴りを打ち込み、引いた足を軸足に飛び膝蹴りで胸を打つ。
 衝撃で少女が前のめりに崩れ落ちる。
 呼吸困難でしばらくは身動きが取れないだろう。
 ――四人目――
 裕司が目を向けようとした瞬間、轟音と共に膝から力が抜けていた。
 痛い、と、思う余裕も無い。
 視線の先では、無感情な少女が銃口を突き付けている。
 撃たれたのは肺の少し下で命に別状はないが、身体が言う事をきかない。
 銃口が胸の中心を捉え、少女の指が引き金にかかる。
 少女の銃声を裕司の銃声と勘違いしたのか、階下から銃声が聞こえて来る。
 自分が呼吸できているのかどうかも分からない。
 危機を伝えたくても、ジャミングのかかった屋内では個人の電脳レベルの信号など打ち消されてしまう。
 ――まさか……これが俺の最期なのか?……――
 仮にソムチャイがすぐに駆け付けてくれても、自分は人質のようなものだし三人の少女が動き出したらどうにもならない。
 痛みからか、出血のせいか意識が朦朧としかける。
 遠く轟音が響く。
 足元が揺らいで身体が廊下の絨毯の上に突っ伏す。
 ソムチャイもキャンプの軍人も言っていた。
 敵地で行動不能になった特殊部隊の隊員は、致命傷でなくとも仲間の手でその命を奪うのだと。
 ショック状態から立ち直れば痛みに耐えられなくなり、前後不覚で悲鳴を上げて居場所を知られる。
 敵の手に落ちれば機密が漏れる。
 ――電脳空間からも切り離されたまま俺は���ぬ――
 裕司が死を覚悟した時、身体が抱きかかえられた。
「師匠無事やったと?」
 首筋の電極に生身での個人通信用のケーブルが繋がれる。
 瞬間、日葵の、否、軍用アンドロイドの目を通して状況が明らかになる。
 裕司が特攻を決めた時、佐和子がアンチマテリアルライフルで三階のVIPルームの壁を撃ち抜いた。
 沙織は非常事態に備えて、屋上に日葵がクラッキングした榛名シティの警備用アンドロイドを待機させていたのだ。
 日葵はVRから遮断された屋内で活動できるよう、クラッキングした警備用のアンドロイドに自らの疑似人格をダウンロードしていた。
 VR的には難攻不落のビルではあったが、唯一例外が存在していた。
 それは空調だ。
 完全に内部循環システムを整えるには膨大な費用が必要となる。
 核シェルターでさえ、一般的なものではフィルターを幾重にも重ねた上で外気を取り込まねばならないのだ。
 そこから観測すれば――あくまで実地で観測機器を使うしかないが――内部の状況はある一定把握できるという事だ。
 日葵を搭載したアンドロイドが観測機器の役割を担い、いざという時の予備兵力として配置されていたのだ。
『師匠、こん傷は致命傷やなか。ばってん血管ば傷ついとーと。失血性ショック死の可能性のあるったい』
 朧気に見えるアンドロイドの顏は、屈強な黒人兵士といった体だ。
『今何分だ?』
 沙織の猶予は六分。四分というデッドラインで突入したのだから、もう時間はオーバーしているだろう。
『四分五十八秒ばい。今は高速通信をしとるけん。時間は百倍で流れとーとよ』 
 それでも余裕があるとは言えないだろう。
『日葵、どうやってここに来たんだ?』
 いかに戦闘力の高い軍用アンドロイドでも、相応の兵器がない限りこの鉄壁のビルの壁は破れないはずだ。
『マリーのライフルばい』
 アンチマテリアルライフルは、二キロメートル先のコンクリート建造物を破壊できる。
 最期に聞いた轟音はマリーのライフルのものだったのだ。
『三階の女の子たちは?』
 ストックホルム症候群を発症した少女たちは、自発的に脱出はしないだろう。
『諦めるしかなか』
 意外にも冷徹な、否、合理的な日葵の声が脳裏に響く。
 確かに説得する余裕も無ければ、日葵が軍用アンドロイドとはいえ裕司と同時に四人の少女を運ぶ事は現実的ではない。
 ――俺は救えなかった――
『師匠が責める事やなかと。師匠ば銃に素手で向かっとーとよ。うち、心臓ば止まるかと思ったけん。師匠は一人や無いっちゃけん無茶したらいかんばい』
 ソムチャイにもキャンプの軍人にも、素手で銃には向かうなと言われていた。
 伝説ともなったブルース・リーという格闘家兼映画俳優も、同様の事を言っていたそうだ。
「裕司!」
 二階を制圧し、少女たちを外に誘導したソムチャイが声を上げる。
 気が付かないうちに日葵に二階まで運ばれていたらしい。
「致命傷やなか。ばってん、ほっちくと失血性ショックば起こすばい」
「日葵か。とにかく脱出する。時間が無い」
 ソムチャイが元特殊部隊らしくいつにない様子で指示する。
「そうすっと。でも師匠はソム先生に預けると」
『日葵、どういう事だ?』
 裕司は声にならないまま、口を開閉させて日葵に問う。
『マリーが外壁を撃ち抜いたと。全館にガスば流ちょったら榛名シティばマスタードガスで大損害ば受けよう。そーなりよったら、警察が体面捨てて犯人捜しばすっとね。売春組織の連中は公にできんけん、警察も隠蔽すると。そげんこつなったら師匠がデザイナーズ殺しのテロリストにされるったい。外のデザイナーズにまで被害が出たら地下鉄サリンのごたなると。師匠は公開処刑じゃ済まんこつになっとよ』
 ソムチャイに続いて裕司を抱えた日葵が階段を降りる。
『じゃあ売春組織の連中はどうすんだ』
「もう作戦時間をオーバーしている」
 ソムチャイの声が響く。
『うちが残ると。うちは疑似人格やけん、ビルに残って中からガスば制御すっとよ』
『でもアンドロイドに日葵の疑似人格が残ったら……』
 マスタードガスを浴びた日葵のアンドロイドは、洗浄しない限り外に出る事はできない。
『物理的にハードを破壊するとよ。痕跡は残らんばい』
『じゃあこの記憶は……』
 一階にたどり着いたのか、裕司の身体がソムチャイに担がれる。
 身体はまだ他人のもののように言う事を聞かない。
『師匠、ちかっぱ好いとーよ』
 自分がマリーに抱くのと同等の、強い感情が脳に流れ込んで来る。
 プラグが抜かれ、日葵との通信が途絶する。
 ――日葵、今の感情は……――
 確かめる術も無く身体がソムチャイに運ばれていく。
 ビルを出た途端、脳がネットに接続され一気に情報が流れ込んで来る。
「ソム先生……」
 裕司はそれ以上言葉を発す��事ができない。
 捕らえられた少女がストックホルム症候群で、無傷で倒そうとした結果銃で撃たれ。
 戦闘不能に陥った所を……。
 考えるうちにも周囲の状況が分かって来る。
 裕司が遅らせた分のタイムラグは沙織が修正している。
 日葵の疑似人格の手配を始め、自分の立てた計画は空回りばかりだ。
 四十人の犯罪者たちが何の疑いも無く、日葵の待ち構えるビルに入っていく。
 ――俺は――
 半人前だと思う以前にビリーの意識は途絶した。
  〈4〉
   零番街の隠れ家的バー『ソウルケイジ』は、カウンターの他にはボックス席が二つあるだけの簡素な造りになっている。
 全ての調度が一級の造りとなっており、ボックス席での通信が秘匿回線になっているのが最大の特徴だ。
 ソウルケイジはビリーとフリッツが会う為だけに造られたバーなのだ。
「ビリー、傷はもういいのか?」
 フリッツの声にビリーは苦笑する。
 銀二のツテで闇医者の手にかかって一命をとりとめたが、日常生活に戻るには現代の医学でも一週間はかかるそうだ。
「茜の小言の方が堪えるさ」
 言ってビリーはグラスを傾ける。
「俺がお前の立場でも同じ事になったと思う」
 思案気な表情でフリッツが言う。
「お前でもやっぱり撃てないか」
 ビリーはフリッツの意外な側面を見た気がする。
 零番街のキングはもっとドライだと思っていた。
「仮にも被害者だ。逡巡しているうちに撃たれただろう」
 言ってフリッツが溶けかけたロックのグラスを額に当てる。
「それに俺が三階に行っていたら、お前の横恋慕も弟子も動かなかっただろう」
 確かにフリッツの言う通りかも知れない。
 JACK・BOXは血よりも濃いと言って良いほどのチームだが、フリッツはあくまで戦力を補うためのゲストだ。
 そしてストリートにはフリッツを超える電脳技師はいない。
「結局おんぶにだっこになっちまったが、俺はどうすべきだったんだろうな」
 ロジカルに考えるなら、ストックホルム症候群の少女たちは問答無用で射殺して撤退を図るべきだった。
 マリー、日葵、沙織のバックアップがあって初めて生還できたのだ。
「俺にはできない事をした。お前の無茶が零番街の秩序を守ったんだ」
 確かにフリッツが倒れれば零番街は混乱に陥るだろう。
 自分が撃たれたのは、見方を変えればそれはそれで正解だったのだ。
 フリッツはこれからも零番街に対する責任を抱えていく。
 ――俺は結局フリッツのサポートに過ぎないのかもな――
 ビリーはグラスに残ったバーボンを飲み干した。
   零番街ではフリッツの率いるライズの名義で、デザイナーズに対する警戒が呼びかけられた。
 開店前のJACK・BOXのカウンターにはいつものメンバーが顔を揃えている。
「ビリーちゃんには災難だったけど、一週間で復帰できるならいいんでね?」
 リックの言葉にビリーは苦笑する。
 かつての医療技術なら二か月は絶対安静だ。
「とっつぁんの人脈に感謝だな。何で闇医者なんて知ってんだ?」
 ビリーの言葉に銀二は苦笑を浮かべる。
「長生きするとそれなりの人脈もできるモンだ。しがらみもな」
 銀二はサイボーグだ。具体的な年齢は明かしていないが、脳の回路をNMに置き換え、シリコン状のジェルの容器の中で成長できるようにした特殊な脳殻を持っている。
 成長し続ける上、更に痴呆や老化とも無縁だが、その対価として忘却という事ができない。
 若作りをしても良いと思うのだが、そうする気も無いらしい。
 少なくとも銀二は零番街ができた時にはもういたのだし、その頃には沙織やカークとも親密な関係にあった。
 他人の過去を詮索するつもりは無いが、それでも気にならないと言えば嘘になる。
「うち、師匠の看病に行くけん」
 鼻息を荒くする日葵をビリーは直視できない。
 あれほどの強い気持ちを向けられて――自分がマリーに深い絶望を抱いている事を考えると――日葵の気持ちを受け入れるかどうかはともかく、穏やかな終着点に向けなくてはならないと思う。
「近所なら頼んでるけどな。お前、電車に乗るリアル通貨持ってんのか?」
 ビリーは何とか苦笑を浮かべる。
 あの複製の気持ちが本物で、それが今も日葵の中に息づいているなら。
 想いの届かない時間は苦行のようなものだろう。
「電車くらい交通網ば奪えば余裕とね��
 日葵が胸を反らして言う。
「あんたが行ったら入院期間が伸びんでしょ、銀さんがいるんだから任せときなさい」
 沙織がため息をついて言う。
「それにお前が来たら親父もついて来ンだろうが。ま、ソム先生と男三人で飲んでみたい気もせんでもないが、武蔵もチューブだろう? 俺たちが刺身を食ってる横でってのは気の毒だろう」
 銀二が宥めるようにして言う。
 ジャンクスは離乳食が既にチューブだ。内容物は成人向けのものと変わらない。
 裏を返せばジャンクスは、ほとんど消化の必要のないチューブしか食べる事が無い。
 かつてマリーと二人で銀二の手料理を食べた事があったが――それは一生の思い出に残る美味しさだったのだが――トイレと布団を往復し一昼夜悶絶する羽目になったのは苦くて甘い思い出だ。
「うち、いい事考えよったと! うちが看護婦のアンドロイドばクラックすればよかったい! アンドロイドなら二十四時間介抱できるとね」
 大発明でもしたかのような口調で日葵が言う。
「ま、好きにしたらいんでね? ビリーちゃんも落ちたら早いだろっし」
 リックが関わり合いはゴメンだとばかりに背を向ける。
「落ちるってどういうこった!」
 ニュアンスとして理解できない事は無いが、自分の信念が揺らぐとは他人にも思われたくない事だ。
「男って悲しい生き物なんよ、特に童貞捨てた時はねぇ」
 思わせぶりな事を言うだけ言ってリックが作業を始める。
「お前はまだ若ぇんだ。真っ直ぐに見える竹だって地下じゃえらい事になってる。人生が一本道だったら大間違いだし、万事上手くいく人生には必ずしっぺ返しが待ってるモンだ」
 言って銀二も作業を開始する。
「ま、適当に頑張んなさい。人生なるようにしかならないんだから」
 沙織はそう言うと気だるそうにスツールに座る。
 沙織の次元になると開店準備など必要としないのだ。
「師匠! 今日は何を教えてくれると?」
 日葵が真っ直ぐな瞳で顔を見上げて来る。
「カクテルを作る時のデバックだ」
 裕司は笑みを向けて言う。
 日葵が何かを言い出さないうちは、今の関係でいいだろう。
 それでいつものように楽しくて、時々危険なJACK・BOXが回るなら。
   人類史においてヒエラルキーが生まれたのは、農耕の開始という旧石器時代に遡る。
 カークはJACK・BOXの最奥で伸びかけた髭を撫でる。
 今回の事件において、遺伝子レベルにまで落とし込まれた階級意識が大きく影響していたのは疑いの余地も無い。
 少女でなくとも、人は夢を見ずにはいられない生き物だ。
 それを利用した神谷土岐也は何故、このビジネスを考案したのだろう。
 父親は議員秘書で、後二期も務めれば与党の党推薦で出馬できる。
 母親は連日夜会に顔を出し、燕を何匹か飼っているが根回しに余念が無い。
 セレブの中で育ち、将来を約束された少年が、何故零番街に現れたか?
 ――ゲーム――
 東京大学の生徒たち、新型のアルティメイツたちにとって旧モデルのアルティメイツの講釈など聞くにも値しないものだ。
 優秀さ故に示された未来に興味が持てず、自分たちの万能を信じて今回の事件を起こした。
 そして実際にビジネスモデルとして成功しつつあった。
 ビリーの示した解決方法は穏当なものとは言えない。
 アルティメイツの今後のキャリアを考えるならリックの案が正解だ。
 しかし、JACK・BOXのみならず、ライズのフリッツ、元軍人でありドミニオンでもあるソムチャイが同調したというのは、事件解決に当たり一つの階級闘争が見られたという事になる。
 日本政府は報道機関に命じて事件を隠蔽したが、ジャンクスがただ飼われるだけの存在という認識を持ち続けるなら、いつか足下をすくわれる事になるだろう。
 CIA本部に報告するほどの事件では無いが、記録として保存しておくに越した事はない。
 
   
DIVE3 KING OF KINGS 
      ~王の真価~    
   
 
〈1〉
   ビリーはいつもの開店準備の最中、DJのクルーたちを注視している。
 正確にはそのメンバーだ。
 本日の主役は『J・カーン』。今日までJACK・BOXに来なかったのが不思議な程の、近頃零番街で人気沸騰中のアーティストだ。
 ややウェーブがかった艶やかな黒い髪。
 日本人離れした白い肌に、彫の深いラテン系の西洋人を思わせる顔立ち。
 これが、造られたアバターでなく、本人の姿そのものなのだから神には悪意があるとしか思えない。
 もっともJ・カーンはアルティメイツとジャンクスの間で生まれており、アルティメイツの父親は当然認知せず、ジャンクスの母親に育てられたという経緯がある。
 J・カーンは芸術の分野で優れた才能を示しており、自ら作曲し、演出し、歌い、踊る――しかもそれを即興でやってのける――という一種の化け物だ。
 当然アーティストとして全てをクリエイトするのだから、プログラミングの速度も尋常では無くトップクラスの電脳技師に匹敵する。
 遺伝子の優位性を無条件に受け入れたくはないが、こうしたものを間近で見せつけられると苦い気分にならざるを得ない。
 ――そして――
 J・カーンのパフォーマンスをするクルーの中に零番街のレディースチーム『キャッP』の姿がある。
 これまでとかく男性が幅をきかせがちなライズの中に、女性メンバーを束ね、メンバーの声をフリッツに届けるレディースチームキャッPがあった。
 だが、キャッPのNO‘2のベニーがJ・カーンに入れ込んで組織を離脱。
 更にベニーと懇意だったライズのNO‘3のカイルも組織を離れて、J・カーンを立てるようになった。
 元々信者の多かった所に、分裂したとはいえキャッPと、それに引きずられる形で一部が分裂したライズがついたのだから、J・カーンが零番街の新勢力である事に間違いはない。
 当のフリッツは熱狂はそのうち冷めるだろうと言っているが、J・カーン本人の野心はともかく、肥大化しつつある集団が曲がりなりにも組織化されつつある事は見逃せないだろう。
「JACK・BOXが整理券配るなんて前代未聞じゃね?」
 リックがどこか気に入らないといった様子で言う。
 幾らアバターが重複したからといってホストに影響がないとは言っても、度が過ぎれば顧客たちの脳のNMにバグが生じかねない。
「あんま有名にゃなりたく無ぇけどな��
 ビリーは肩を竦める。JACK・BOXはアーティストの登竜門だが、無駄に客を入れたい訳ではない。
 価値の分かる――当然酒の味や質感に至るまで――人間に、若き才能を見極めてもらいたいという思いがある。
 もう売れているならわざわざJACK・BOXに来なくていいし、無作法なミーハーに店内を荒らされるのは御免こうむりたい所だ。
 今回J・カーンのパフォーマンスを受け入れたのは、JACK・BOXとライズが過度に癒着しているという風評を払拭するためだ。
 確かに自分とフリッツは親友だが、組織対組織で結びついている訳では無い。
 ライズの少年たちが何かと頼るのはフリッツの親友である自分だけだし、彼らも道理を弁えていて銀二やリックに悩み事の相談に行こうとはしない。
 ビリーが電脳技術相談窓口になってしまっている背景にはそういった事情も存在する。
「大体、J・カーンって公園でパフォーマンスしてたんでしょうが? 何で今更ウチに来るのよ」
 リックが作業するJ・カーンのクルーを見ながら言う。
 当然のように女性のクルーが多い。自分からモテるとまでは言わないが、女性に囲まれているのが当たり前のようなリックにとっては、格の違いを見せつけられた気分になるのだろう。
「知らねぇよ。訊いて来りゃいいだろ」
 ビリー自身にとってはJ・カーンなどどうでもいい存在だ。
 だが、そのクルーの中にライズのメンバーや、キャッPのメンバーが見え隠れするのはどうにも気に入らない。    
 裏切者という程ではないのかもしれないが、零番街不動の恒星であるフリッツの隣に、もう一つの巨星が現れた事は事実なのだ。
 ビリーはカウンターを回り込んでフロアに降りる。
 元ライズやキャッPのメンバーが凍り付いたように動きを止める。
 それなりに罪悪感はあるらしい。
「はじめましてやなぁ~、自分がビリーやろ? 俺はJ・カーンや。よろしゅう」
 J・カーンが両手を広げて笑顔を向けて来る。
「紹介の必要は無さそうだな。ウチの店で整理券を配る羽目になったのは初めてだ。その調子で売れない店の景気を上げてやってくれ」
 ビリーの皮肉にもJ・カーンは笑顔を崩さない。
「店っちゅうか、自分に会うてみたかってん」
 J・カーンが差し出した右手を仕方なく握る。
 身長差は十センチ以上あるだろう。仮にJ・カーンが格闘技をしていなくても、生身で喧嘩をすれば苦戦する可能性がある相手だ。 
「俺に会ってどうしようってんだ?」
 ビリーが顔を顰めると、J・カーンが大げさに手を叩いて、セレブの庭にでもありそうなテーブルと椅子を出現させる。
 その構築速度と細部にまでこだわった精密さにも驚かされる。
 どうやら座って話をしろという事らしい。
 こういうものを見せつけられると、上から警察の取り調べ室のテクスチャを張り付けてやりたくなる。
 ビリーはJ・カーンに続いて席に着く。
「ラブ&ピースやて。自分、ライズができる前、フリッツがここに来る前からここに居てるんやろ?」
 好奇心を抑えられないといった様子でJ・カーンが身を乗り出して来る。
「零番街の付喪神みたいなモンだ」
 J・カーンの出した紅茶を口に運ぶ。
 元々あるコードで出現させているだけかも知れないが、香りといい味といい見事な腕だ。
「ほな、神さんに頼み事があんねんけどええか?」
 少年のような無邪気さでJ・カーンが身を乗り出す。
「神様ってのは何もしねぇから神でいられんだ。存在が実証された神は神じゃない、科学だ」
 ビリーはJ・カーンを突き放す。
 神の人類史介入はイエス・キリストが最期で充分だ。
「ほな、零番街のトラブルシューターのビリーさんに依頼っちゅう事で」
 J・カーンにはどうにも退く気が無いらしい。
 零番街の王者の座すら揺るがす、人気絶頂のスターがバーテンに一体何を望むというのか。
「JACK・BOXに看板出したつもりはねぇんだがな」
 ビリーの言葉にJ・カーンの目が細くなる。
「何や俺、会うた事も無いのに、ライズのフリッツと喧嘩とか言われて訳分かれへんねん。せやから和解……ちゅうか、話のできる場所を作って欲しいんねん」
 その言葉にビリーの背が総毛だつ。
 フリッツは鷹揚に構えているがライズのメンバーは臨戦態勢だし、J・カーンのクルーたちは古巣を出て来た負い目もあって敵対色を鮮明にしている。
 この不安定極まりない状況だからこそ、JACK・BOXは中立を保つためにJ・カーンのパフォーマンスを受け入れたのだ。
 ここでJ・カーンの和解案を零番街の裁判所のようなJACK・BOXが受ければ、自動的にJ・カーンの肩を持つような形になってしまう。
「和解って戦争してる訳じゃねぇんだろ? ここは遊び場で格闘技のリングじゃない。俺たちはバーテンで、審判じゃない」
 ビリーが言うとJ・カーンはため息をついて退いた。
「俺はただ皆にハッピーになって欲しいだけやねん。昔ジョン・レノンやマイケル・ジャクソンが愛してるでぇ! って言うたみたいにな」
 ビリーはJ・カーンの言葉の真意を探ろうとする。
 ただのアーティストではないのだろうか。
 周囲を走査するが特に異常は見られない。
 J・カーンのアバターにも肉体にもだ。
「なら好きにすればいいだろ。生憎俺には大切にできる人間の数が限られてんだ」
 ビリーは言って席を立とうとする。
 フリッツとJ・カーンの喧嘩に巻き込まれるなど冗談ではない。
 しかも、本当の抗争になった時、J・カーンの仲介案を一度でも受け入れてしまえばフリッツの味方ができなくなる。
「ほなビリー、俺ら友達になられへん?」
 周囲の視線が一気に厳しくなった気がする。
「俺は友達だって言葉で確かめなきゃならねぇような、甘っちょろい人間関係はゴメンだ」
 ビリーはJ・カーンに背を向けてバーカウンターに戻る。
 J・カーンという人物には注意をしておいた方がいいだろう。
 その才能がどれほどのものか知らないが、勝手に回りに人が集まったからといって零番街のキングと事を構えるのは非常識というものだ。
「師匠、あんDJと何話しよったと?」
 カウンターで宿題の防壁と戦いつつ日葵が訊いて来る。
「あんDJってな……一応今、零番街じゃ知らねぇヤツの方が少ねぇビッグアーティストなんだぜ?」
 日葵にはJ・カーンも他のDJと同じようにしか見えないらしい。
「興味なか。で、何話しよったと? 師匠がDJと話しようは珍しかけん」
 一瞬ビリーは全て伝えるべきかどうか逡巡する。
 日葵はまだ技量が低いだけで馬鹿ではない。
 咄嗟の機転という点では、純粋に頭の良い少女なのだと思う。
 ビリーは会話ログを圧縮して日葵に送る。
「やっぱり師匠はフリッツの味方ばしよっとね。師匠の友情を大事にしようは男らしか」
 日葵が嬉しそうに笑顔を向けて来る。
「良く知りもしない新参者より、何年も零番街を護って来たヤツを信じるのは当然だろ」
「まわりくどかね。友達ば大事にしよう! これで充分と」
 瞳を煌めかせて日葵が言う。
 確かにそれくらいシンプルでいいのかも知れない。
「仲がいいとこ悪ぃがそろそろ開店だ」
 銀二が声をかけて来ると同時にフロアに少年少女が――女性比率の方が高いが――流れ込んで来る。
 零番街の少年少女を骨抜きにするショーとは一体どんなものなのか?
 ビリーは客の相手をしつつJ・カーンのパフォーマンスを鑑賞する事にした。
  〈2〉
  「なぁ~んか、日に日に客が増えてるんでね? 商売繁盛は結構なんだけども」
 閉店後、リックがカウンターにもたれて言う。
 確かにビリーから見ても客の入りが良すぎる。
 JACK・BOXは傍目にも若干敷居が高いイメージの筈なのだが、にも関わらず連日満員御礼が続いている。
 JACK・BOXの理念は利益追求ではない。
 零番街の観測と不測の事態に対する対応だ。         
 零番街には国家権力が入り込んでいない。
 当然、自由である反面、警備も福祉も存在しない。
 この、何ものにも縛られない空間こそ、JACK・BOXの最大の資産と言える。
 ギークや固定客はともかく、JACK・BOXに人が集まるというのは身近に迫った危険を回避する為に違いない。
 零番街にJACK・BOXほどの堅牢なシステムは存在せず、それは腕に覚えのある者なら一目で分かる。
 一言で言ってしまえばJACK・BOXはVR空間の核シェルターなのだ。
 J・カーンの組織は日増しに拡大し、遂にメンバーたちが『維新』と名乗るようになった。
 一方、フリッツに連絡をしても返事一つ返って来ない。
 リアルで自宅まで行ってやろうかとも思うが、分かっていて無視している相手にそこまですれば、かえって反発されるかもしれない。
「なぁ、ビリーちゃんよ、カーンとフリッツの和解セッティングしてもいんじゃね?」
 リックの言葉にビリーは頭を振る。
 今思えばJ・カーンは和解を持ち出す事で、立場を有利にする為のコミットをしていたのかもしれない。
 J・カーンのコミットで、ビリーは和解案を出す事が出来なくなった。
 これが意図的なものだとすれば、J・カーンは最初から零番街を奪うつもりだったという事になる。
 本人のラブ&ピースを信じるなら、偶然の結果として現在の状況が現出したという事になるが、それにしては出来過ぎている。
「おい、ビリー、マリーが呼んでっぞ」 
 銀二の言葉にビリーは顔を上げる。
 マリーが自分を呼ぶなど、ビッグ・アップルに繋がってからは一度も無かった事だ。
 ビリーはどこか癪然としない思いでバックヤードに向かう。
 いつも通りの無機的な空間にポツンとマリーが立っている。
「ビリー、その不景気な面で仕事をされたら迷惑だ。休暇をやる。頭を冷やせ」
 ビリーはその言葉の真意を測りかねる。
 額面どおりに受け取れば「出て行け」という事になる。
「その解釈で間違いはない。無期限休暇だ。用件は伝えた。とっとと出て行け」
 ビリーは後ずさろうとして尻もちをつく。
 いつかそんな日が、マリーに必要とされなくなる日が来るとは思っていた。
 だが、まさか、こんな形でJACK・BOXを去る事になるとは思わなかった。
 何故、どうして、という思いが渦巻き何も考えられない。
 しかし、今まで自分に失態が無かったかと言われれば反論の余地も無い。
 知らないうちにヘマをしでかして、遂にマリーの許容を超えたという事だろうか。
 ビリーは自力で立ち上がると、思い切り胸を張ってバックヤードを出て行く。
 幾らマリーに三行半を突きつけられようと、自分は零番街屈指の電脳技師ビリーなのだ。
 カウンターには顔を出さずに、満員御礼のJACK・BOXから水銀灯で照らされた目の前の零番街の中央公園へと彷徨い出る。
 JAC��・BOXの前では獣人娘のスキンをかぶった給仕AIが、客を整理しながら周囲の警戒を行っている。
 ――JACK・BOXを追い出された、否、マリーに拒絶された――
 公園から見る店舗は華やかで、美的センスを欠いたプログラマーたちが己の技量を示す為だけに造った他の店舗とは全く違う。
 五年前にマリーと造ったJACK・BOXは今でも零番街の心臓だ。
 ビリーはJACK・BOXに背を向けて歩き出す。
 店を追い出されても行く所などありはしない。
 行きつけと言えばフリッツと会う為だけに造ったソウルケイジくらいなものだが、今行ったとしてもフリッツはいないだろう。
 公園の左、東が『維新』。右が『ライズ』。
 面白いほどハッキリと区分けされ、双方の見知った顔が微妙な表情を向けて来る。
 ――JACK・BOXはどっちを選ぶのか――
 これほどピリピリした空気に晒されれば、住人たちがJACK・BOXに逃げ込んで来るのも納得というものだ。
 右に歩を向けようと、左に歩を向けようと角が立つのは明白だ。
 JACK・BOXを事実上クビになったビリーが、落ち着ける所などそうあるものではない。
「師匠、どうしたと?」
 突然かけられた声にビリーは目を疑う。
 本来勤務中である筈の日葵が、当たり前のような顔をして目の前に立っている。
「いや、その……クビになったらしい」
 沙織や銀二に及ばないまでも、零番街屈指の電脳技術師という自負がある。
 それなりのプライドも持っていたが、寄って立つ場所を失うとここまで心細いものかと再認識させられる。
「で、師匠はどうすっと?」
 日葵が動じた風も無く話しかけて来る。
「お前、店はいいのか?」
 日葵は今やJACK・BOXの看板娘と言っても良い存在だ。
「何を言いようっちゃ。うちは師匠の弟子やけん、店に雇われてる訳ではなかと。師匠ばおらん店に用は無かったい」 
 何を今更といった口調で日葵が答える。
 確かにビリーの権限と責任に於いて、日葵の業務を認めるというのがカークの判断だった。
 ビリーが失職したという事は、日葵もJACK・BOXには居られなくなるのだ。
「さぁ~て、何処行っかな」
 ビリーは大きく伸びをする。
 JACK・BOXでの生活が長すぎて、今の零番街の状態を肌で知っている訳ではない。
「師匠は零番街を見つけた時、最初に何しよっと?」
 日葵の言葉が記憶を抉って胸に突き刺さる。
 今でこそ零番街には無数のアクセスルートが存在しているが、当時は閉鎖空間でたどり着いたのも偶然のようなものだった。
 十年前のその日、マリーと二人で一番街の空を変えていたのだ。
 常夏の海のような青空を、デジタルのパルスの走る漆黒の闇に。
 もちろん電警が反応するほどの時間をかけはしない。
 一瞬のイリュージョンだ。
 デザイナーズたちの驚く顔を見て笑いたいだけだった。
 だが、その時重力が反転して空に落ちた。
 どんなに高速でコードを書いても、その重力プログラムはコントロールできなかった。
 手も足も出ない中、二人で抱き合う事しかできなかった。
 そして気づいた時、マリーと二人で手つかずの無限に広がる空間を前にしていたのだ。
 上下左右すら存在しないただの暗黒。
 互いの存在以外何一つ感じる事ができない虚無の空間。
 ビリーが最初にした事は『HELLO WORLD』。
 未知との遭遇に使ったのは、基本中の基本のプログラミング言語を打ち込む事だった。
 ――それが零番街の産声となった――
「あんまり途方もねぇから、hello worldしかできなかったよ」
 目の前に燐光でコードを打ち込むと、コマンドを求めるカーソルが出現する。
 今では無数のスーパーコンピューターを駆使して大抵のものは一瞬で造り出せるが、自分にもそんな時代があったのだ。
 ビリーは初心に返って人間部分の脳だけを使ってコードを書く。
 本来は眠っていなければいけない時間だから、明日疲れが残る事になるだろう。
「俺たちが初めて来た時はコークだった」
 ビリーは造り出した豚骨ラーメンを日葵に渡す。
「うちのために造ってくれよったと? バリ嬉しいっちゃけど!」
 日葵が大喜びでラーメン丼を受け取る。
「本家には敵わないだろうけどな」
 中央公園の境界の縁石に二人並んでラーメンをすする。
 初めて来た時の零番街もどうしていいか分からなかったが、今の零番街も負けず劣らずのカオスだ。
「師匠はラーメンの修行が必要とね。うちが手取り足取りしごいちゃるばい」
 言いながらも日葵が笑顔を向けて来る。  
「ラーメンは日葵に任せるさ。全部一人で造っちまったら周りに誰も居なくなる」
 ビリーはゆっくりと立ち上がる。
 この零番街のカオスを収拾するにはとにもかくにも情報が必要だ。
 改めて中央公園の右と左を眺める。
 右はライズの少年少女がいるが、所々にフリッツ謹製のツールを仕込んだ武装親衛隊がいる。
 左は維新の陣地だが、意図的にか明るい雰囲気を出そうとしているのが分かる。
 とはいえ、武装している者も少なくない。
「うち、毎日ラーメン造るけん! ばってん三度三度ラーメンだけやと飽きっちゃろ、うちの地元の飯はバリうまいけん、師匠のご飯はうちがちかっぱ気合入れて作りようとね。三日で東京の黒か汁ば飲めんくなるばい」
 鼻息を荒くした日葵の猫の毛のような頭を軽く撫でてやる。
 まず向かうべきはライズだ。
 ライズなら人員が分かっているし、たとえ捕まえられなくてもフリッツに伝言を残す事は可能だろう。
 ビリーが右に足を向けると左側から警戒心を露わにしたパルスが飛んでくる。
 その労力をもっと別の方向に使って欲しい所だ。
「ビリーさん!」
 少年の一人が、万の援軍を得たとばかりに声を上げて近づいて来る。
 ライズサイドは今にも大歓声が上がりそうな勢いだ。
「ちょっと待て、俺は戦争をしたい訳じゃない。フリッツに伝言を頼みたいんだ」
「伝言っすか? 今ボスは雲隠れしてて」
 少年が困ったような表情を浮かべる。
 フリッツが消えたなら、ライズのメンバーが自分に期待するのも納得だ。
 とはいえビリーは零番街のキングになるつもりはない。
「全員に通達しろ。ビリーはJ・カーンに喧嘩を売りに行く」
 少年の目が驚きに見開かれ、続いて歓喜の色が広がる。
「マジっスか!」
 少年がメッセージを一斉に送信する。
 このメッセージは当然維新にも伝わるだろう。
 維新のトップのJ・カーンは得体の知れない男だが、キャッPから出て来たベニーと、ライズでフリッツの座を狙っていたカイルがいる事は判っている。
 中央公園の東に足を向ける。
 少年少女が遠巻きに目を向けて来る。
 喧嘩と知ってツールを準備している者もいるが、所詮子供の玩具だ。
 ギャラリーを無視しつつ、彼らの脳を走査してJ・カーンの居場所を特定する。
 中央公園から少し離れたクラブ『楽園』で、いつものように踊っているらしい。
 今まで得られた情報では、J・カーンが歌って踊れるアーティストという以上のものはない。
 中央公園を出た所で、元ライズ親衛隊とキャッPのリーダークラスが立ちふさがるようにして現れる。
「ビリーさん。J・カーンさんと事を構えるんですか?」
 丁重な口調ながら、元ライズのメンバーが制止する。
「違うって。喧嘩だよ、喧嘩。別にライズの為とかじゃねぇよ」
 ビリーはアバターの属性を切り替えて人の壁をすり抜ける。
 日葵もその動きにきっちりついて来ている。
 今頃楽園の中は、臨戦態勢になっているだろう。
 いざという時に備えてダンスフロアへと続く、入り口のドアのセキュリティーをスキャンして保存。
 ハードコアなパンクミュージックの鳴り響く、薄暗いフロアに足を踏み入れる。
 ビリーの目の前にベニーとカイルが立ちふさがり、J・カーンは状況が見えないといった表情を浮かべている。
 ベニーは旧態然としたオリーブ色の軍服の胸に日の丸を張り付けており、日の丸のハチマキをしたカイルは、自宅で毎日トレーニングしているだけあって、アバターも素肌にレザーというマッチョだ。
「ビリー、あたしらの問題に首突っ込まないでくれる?」
 高飛車な口調でベニーが言う。
「どうみてもあたしらの、って問題じゃ無さそうだぜ?」
 ビリーは歩を進める。
 力技で勝負をしようというのか、カイルがRBPを走らせるがバグがひどい。
 ビリーは踏み出す先からプログラムを修正していく。
 傍目に見てどちらのVR技術が優れているか、どちらが勝つか知れるというものだ。
「とりあえず俺の要件は一つだけだ」
 ビリーはフロアにダブルのソファーを出現させて腰を降ろす。
 横に座った日葵のバカラにオレンジジュースを、自分のバカラとJ・カーンのバカラにブッカーズを注ぐ。
「俺は喧嘩をしに来た。これからやろうってのに、酒を飲む度量もねぇのか?」
 奥の備え付けのソファーからJ・カーンが向かってくる。
「俺、こないだ和解したい言うたやん」
 ビリーの出現させた応接セット無視するようにしてJ・カーンが言う。
「お前がそう願えばいつでもできた事なんじゃないのか?」
 ビリーは防壁を展開させながら言う。
 ベニーやカイルのレベルでは手も足も出ないだろう。
「コイツらは成り上がりたいとは思っていても、自分が頭張るほどの器量は無ぇ。トップのお前が降りると言えば降りた筈だ。それが維新だとか抜かして幅利かせてやがる。これがお前のラブ&ピースか?」
 ビリーはテーブルに着いたJ・カーンに詰め寄る。
「そない言われても俺にも良ぉ分かれへんねん。皆良ぉしてくれるから、めっちゃ気合いれてパフォーマンスしとっただけで……」
 言うJ・カーンの周囲を精緻に走査する。
 大半の取り巻きはビリーの走査に気付いた風もない。
 だが……。
 ――聞き耳を立てられる技量の持ち主がいるって事か――
 相手も一筋縄では行かないようだ。
「とりあえずラーメンば食べっとね!」
 さっき食ったばかりだろう、と、言いかけたビリーの周囲に豚骨の香りが満ちる。
 少年たちの手にラーメン丼と箸が握られている。
 これは肉体とアバターがリンクしている全員にタグをつけたのと同じだ。
 手にしなかったのは――
 元キャッPのベニー、ライズのカイル、維新の三分の一ほどが豚骨ラーメンを模倣しようとしているが間に合っていない。
 ビリーは素早くピッキングツールを打ち込む。
 防壁は一見政府配布のものだが、防弾チョッキのように堅牢な防壁が組まれている。
 この手のものは昔マリーと一緒に散々弄って遊んだ覚えがある。
 電警の攻性防壁だ。
 IPアドレスは警察庁公安部電子情報検閲課。
 J・カーンの周囲にも動きを警戒しているかのような二名の電警がいる。
 走査が強固な壁に阻まれる。
 以前抜いた事があるが、これは電警でも限られた者にしか配布されない秘密兵器、電警の中核に触れているという事になる。
 ――BIG事件のリターンマッチでもしているつもりか?――
「喧嘩をする言うて来て、酒出したりラーメン出したり、自分ら何考えとんねん? 俺にはいっこも分かれへんねんけど」
 困ったようにラーメン丼を手にするJ・カーンも、メンバーの手にしたラーメンの異常には気づいている様子だ。
 J・カーンは電警の存在を知っているのだろうか?
 それにより話は大きく変わって来る。
「俺とフリッツはそれこそ死ぬほどの喧嘩を何回もやってきた。だから友達だって誰に向かってでも言える。お前の示す友情が本物なら俺を納得させて見せろ」
 電警からJ・カーンに対する指示は無い。
 維新に擬態している電警の特務部隊がこちらの防壁の周りをチョロチョロし始めたが、日本の電警に突破されるほど脆弱な防壁を組んでいる訳では無い。
 触れた瞬間脳味噌とアバターが沸騰して灰になるだけだ。
 問題は、アタックされる事で一部でも防壁のプログラムが敵に渡るという事だ。
 長期的に見れば――こちらも進化を続けるが――相手は確実にこの防壁をモノにする。
 ビリーは防壁が解けたように錯覚させるコードを書く。
 行きつく先は電子情報法受刑者収容所。
 政治犯として強制的にVR空間に接続された彼らは、洗脳されて二十四時間体制で政府主導で作られたMMOのNPCとして働かされている。
 発狂する者も少なくない気の毒な連中ではあるのだが、これはこれで意趣返しにもなるだろう。
 電警の連中は必死になって受刑者の脳を走査するという訳だ。 
「まぁ、確かに俺らは友達言うような仲やない。せやけど愛があればどんな障害も乗り越えられる! 言葉かて、人種の壁かて乗り越えられんねん!」
 ――コイツは何の教祖様だ?――
 ビリーは訝し気にJ・カーンを眺めるが、一向に気にした風も無い。
「俺はアルティメイツとジャンクスの間で生まれてん」
 だから高性能なのか、と、納得しかけて何か引っかかるものを感じる。
 アルティメイツの遺伝子配列とジャンクスの遺伝子配列は、現在では最大で三パーセント近く違っている。
 場合によってはジャンクスにとって、遺伝子学上チンパンジーの方が近い存在という事になる。
 デザイナーズとして設計されたので無ければ、産まれて来る可能性はほぼゼロ。
 デザイナーズとして設計されたのだとしたら、相応の金額が動いたのだろうし、デザイナーズのコミュニティーで生きていく事になるだろう。
「ジャンクスとアルティメイツの遺伝子配列の違いは知っているよな?」
 ビリーは慎重に切り出す。
「おかんが奇跡や言うとったわ。これこそ天からの授かりもんやって」
 ビリーは対話相手に悪いと思いつつJ・カーンの脳を走査する。
「そうか? ママは嘆いたんじゃないか? 奇跡の息子が生まれた途端にデザイナーズに奪われたんだぞ?」
 これまでJ・カーンがされた事がないであろう質問をぶつけて脳のレスポンスを見る。
「え、そな……俺はおかんと暮らしててんで。あの東京湾の朝靄の見えるあの街で」
 レスポンスが遅い。ビリーはスキャンをかけてJ・カーンのブレインマッピングを行う。 
 ――これは――
 ビリーが一瞬言葉を失いかけた所で、日葵が脇腹を突いて来る。
「海が見えるってなぁいい環境だな。ウチの家族はVRでしか会わないから羨ましいぜ」
 ビリーが言う間にも、日葵がデータを転送して来る。
 電警のデータバンクのようだ。
 それも職員ではなく犯罪者の。
 海老原京二十一才、ドミニオンの芸術家一家に生まれ、その才能によりスターダムに躍り出て米国のプロダクションと契約。
 国際的知名度を得てワールドツアーで日本に滞在中、海外から持ち込まれた禁止薬物の使用が発覚して懲役二年。
 付則で零番街制圧作戦参加の司法取引で減刑とある。
 だが、J・カーンは零番街に来てから麻薬を摂取していない。
 現在でも麻薬依存症の治療は不可能であるのにも関わらずだ。
 ビリーが更に精査するとそれが表面上のものである事が解る。
 真の罪状は国家反逆罪。
 世界を知ったスーパースターがジャンクスの人権を抑圧する日本政府の方針に反発して、海外に拠点を作ると同時に密かに国内の反政府組織――レジスタンス――に資金援助していたのだ。
 日本国では希な世界的スターを、国家反逆罪で警察が捕らえたとあっては逆に国民が国家に不審を抱く。
 そこで警察は麻薬事件をでっちあげて、一時帰国したスーパースターを地の底に叩き落した。
 その上で少年少女たちを扇動するカリスマとして零番街に送り込んだ。
 日本が零番街で主権を握る為に。
 ――J・カーンは被害者だったのか――
「俺はおかんと見る海が……」
 J・カーンの額に脂汗が浮かぶ。
 デザイナーズはジャンクスの生活など知りもしないのだから当然だろう。
 本来の性格の上に麻薬犯罪者の人格を植え付け、その上から更に博愛主義者の人格を。
 適当な記憶を二重三重に『植え付け』たのだから齟齬が出るのも当然だ。
「お前はもう立派なジャンクスだよ」
 言ってビリーは席を立つ。
 記憶の操作は修復のきかない禁断の技術だ。
 J・カーンは仮に電警の作戦が成功に終わっても、デザイナーズに戻る事はできなかっただろう。
 否、電警が零番街を支配し続ける上で必要な看板なのだ。
 真の海老原京が今の自分の姿を見たらどう思うのだろうか?
  「いつかこういう日が来ると思ってな」
 フリッツから連絡があったのは、ビリーがJ・カーンに会った翌日だった。
 ソウルケイジにはフリッツのボディーガードも日葵も入店禁止だ。
「こっちは心配してたんだぞ? 何やってたんだ?」
 ビリーがボックス席でグラスを傾けて言うと、フリッツが口元に笑みを浮かべる。
「世界の諜報機関に電警が零番街に持ってるパイプを、電警に他所の国のスパイを教えてやっただけだ」
 日本の電警は零番街一番乗りだと勘違いし、圧倒的カリスマを持つJ・カーンを使って零番街の少年たち掌握して支配しようとしたのだろうが、既に零番街は各国の暗黙の了解で南極同様不可侵地域となっている。
 日本の電警が勘違いしたまま、零番街でスパイ狩りをして主権を主張すれば、即座に国家間紛争になるだろう。
「なるほどな、で、雲隠れか。に、しても最初から分かってたんなら、バックが電警って言えば簡単にカタがついたんじゃねぇか?」
 ビリーの言葉にフリッツが頭を振る。
「そうすれば電警と全面戦争だ。負ける気はしないが被害は出したくない」
 確かにライズと日本の電警が本気で戦えば勝敗は分からないが、被害は確実に出る事になる。
「やっぱりお前はキングだよ。で、海老原が頭弄られたってデータは?」
 ビリーが言うとフリッツの表情が曇る。
「せめて夢を見せたまま、この街に置いてやりたかったがな」
 フリッツの切れ長の目に哀愁の色が浮かぶ。
 数時間後には海老原のデータがあらゆるメディアを席巻する。
 記憶の操作という禁忌を侵した日本の電警は国際的に糾弾され、議会でも与党が槍玉に上げられるのは間違いない。
 しかし、全てが明らかになる前に電警は零番街の存在を知られない為、海老原の記憶を消去して廃人にしてしまうだろう。
 ――何一つ証言できなくなるように――
   
 〈3〉
  「別れの挨拶に初めましてを言うのは初めてだ。俺はライズのフリッツ」
 中央公園のど真ん中、ライズと維新が対峙している。
 ビリーはその中間に立って決闘を見守っている。
「俺は荒事は得意とちゃうねんけどなぁ~、やっぱ自分の身体は自分で守らなアカンか」
 J・カーンが花を咲かせたようなテクス���ャーで、風極彩色の古代ローマ風闘技場を出現させる。
 エンターティナーは死ぬまでエンターティナーという事だろうか。
 フリッツが低く身構え、J・カーンが素人らしく拳を固める。
 フリッツが一瞬視線を投げて寄こす。
「始めッ!」
 ビリーが言った瞬間、フリッツは生身同様稲妻のように飛んでいた。
 J・カーンがフリッツの顔面を狙った一撃を、ドミニオンらしく人間業とは思えない反応速度で躱す。
 が、次の瞬間にはフリッツの頭突きがJ・カーンの端正な顔の上で炸裂していた。
 フリッツが襟と袖を取ってJ・カーンの長身を地面に叩きつける。
 フリッツのラフファイトで、RBP上でのJ・カーンのライフゲージはゼロだ。
 フリッツがJ・カーンの手を取って立たせる。
 信じられないものでも見るようにJ・カーンがフリッツの顏を見上げる。
「ここはお前の第二の故郷だ。だから気が向いたら帰って来い」
 フリッツがJ・カーンの肩を叩いて背を向ける。
 と、J・カーンのアバターにノイズが走る。
 電警がJ・カーンの記憶を白紙にしようとサイバー攻撃を仕掛けたのだ。
 しかし電警は知らない。
 J・カーンを倒した男が『ミラーマン』であるという事を。
 ベニーとカイルにノイズが入り、維新の少年少女たちが苦悶の表情を浮かべる。
 フリッツとJ・カーンの一騎打ちの前夜。
 ビリーはフリッツが対電警察として黙々と作っていた超攻性防壁『鏡像改』の改良を手伝った。
 そして、フリッツは戦うフリをしながらJ・カーンにを鏡像改を装備させたのだ。
 アクセスしてきた電警はまず鏡像改のミラーによってサイバーアタックを自らの脳に仕掛け、ミラーは更に解除しようとする間を与えず万華鏡のように増殖してメモリをパンクさせる。
フリーズした所に、アタック時のツールを無限変則させたウイルスが襲い掛かる。
 リンクの張られたあらゆる端末――例え個人の電脳であっても――に襲い掛かるそれを防ぐ術は、物理的にネットから切り離すしかない。
 ノイズが入ったという事は、ベニーもカイルも電警が擬態していたという事だ。
 フリッツの顔を影が過る。
 電警に擬態に使われた少年少女が無事である筈がない。
「あ……イタタ、ほんまビックリするわ」
 自分の防壁の目の前で鏡像改が炸裂したのだから、J・カーンが驚くのも無理はない。
 J・カーンが周囲を見回し、フリーズしたままノイズを走らせる少年少女に目を向ける。
「これ……どないなってんねん」
「生憎四百字詰めにまとめられそうにねぇんだよ」
 フリッツの背を見ながらビリーが言った時、不意にベニーとカイルのアバターが消滅した。
 殺ったか、と、思ったその瞬間スーツ姿の壮年の男性が姿を現す。
 BIG���件を起こした公安部電子情報検閲課の獅子堂馬佐良だ。
「この国体の寄生虫どもが……」
 獅子堂が周囲を取り巻く少年少女を睨みつける。
「カイルやベニー、この街のガキどもをどうした?」
 フリッツが鋭い視線と声を獅子堂に向ける。
「ジャンクスをどう扱おうとお前らの知った事ではない」
 昨日日葵のラーメン丼のタグがつかなかった人間が、適当な罪状で全員殺されている事は分かっている。
 ――電警が零番街を侵略する為に――  
「そうだな。俺たちもドミニオンやアルティメイツをどう扱おうと知った事ではない」
 胸を反らしたフリッツが獅子堂に詰め寄る。
 獅子堂が世界中の諜報機関から集めたツールでフリッツを攻撃する。
 最強の盾であり矛でもあるミラーの前で全てのツールが停止する。
 これまでミラーを見た人間で生きているのはビリーとマリーだけだ。
 獅子堂のツールが解析され、変換される。
「まさか……貴様がミラーマ……」
 反撃の第一波を受けた獅子堂の顔に驚愕が広がる。
「だったらどうした?」
 万華鏡のように変化したツールが一斉に獅子堂に襲い掛かる。
 処理落ちした獅子堂の脳が沸騰し、白目を剥き、口角から泡を吹いた男の姿がノイズに包まれる。
 フリッツが軽く上げた右手の親指を鳴らすと獅子堂が消え、中央公園が静寂に包まれる。
「見世物は終わりだ」
 言ってフリッツが何事も無かったかのように中央公園に背を向ける。
「結局何がどうなってんな?」
 J・カーンが茫然と立ち尽くす。
 博愛主義者のJ・カーンは二度と零番街の脅威になる事は無いだろう。
「師匠、店戻らんと?」
 日葵の言葉にビリーは頷く。
「だな」
 ビリーはJACK・BOXに向かって歩く。
 マリーの雷が落ちても、自分の居場所はやはりそこにしかないのだ。
 
     
〈4〉
  「何か板についてきたんでねの?」
 いつものJACK・BOXのカウンター。
 フロアには華麗に踊るJ・カーンの姿がある。
 今でも取り巻きは多いが、だからといってライズに敵対しようという動きが生まれる訳では無い。
 今ではあの一件が全て日本の電警の仕業だったと誰もが理解している。
「チューブはミミズを食うみたいで嫌だとさ」
 ビリーは肩を竦める。
 行くあての無くなったJ・カーンは、電警から身を守る為にも現在ビリーの集合住宅の空き部屋にジャンクスとして住んでいる。
 もっともチューブ生活だけは嫌らしく、まともな食い物が欲しいと言っては、銀二やソムチャイを訪ねている。
「飯はVRにあるからいんじゃね?」
 リックがいつも通りシェイカーを振るう。
 J・カーンが居てもリックの女性人気は不動のもので、女性客が団子状態になりながら話しかけている。
 鏡像改で電警は壊滅に近い打撃を受けた。
 アクセスしていた全ての人員と機器が感染して不能になり、修復しようとして触れた者の全てが感染したのだ。
それは瞬く間に一番街に蔓延し、手に負えないと判断した政府は感染した全てを隔離する事となった。
 電警の記憶操作も当事者が全員死亡もしくは再起不能とあって、国際社会での追及もさほど強いものにはならならずに立ち消えた。
 以来ビリーの知る限り、電警が零番街に野心を抱いているという話は聞かない。
 その裏には世界の諜報機関から釘を刺されたという事情も存在している。
 因みにビリーがJACK・BOXに復帰できたのは、マリーに「用事が済んだなら仕事しろ」と言われたからだ。
「おっつかれさんっと」
 汗を流したJ・カーンがカウンターにやって来る。
 並行意識でリアルでも同時に身体を動かしているというから、肉体的に衰える事はないだろう。
「J、こんな所で油売ってっと客が騒ぐぜ」
 ビリーは栓を抜いた瓶ビール――もちろん瞬時に構築したものだ――を、手渡す。
 J・カーンはカウンターに寄りかかってビールをラッパ飲みにする。
「元々俺がヤク中やったちゅう事はショックやけど……」
 J・カーンの顏がアルコール以外の理由で赤くなる。
 一定落ち着くまでは、本来の罪状は本人に知らせない方がいいだろう。
「嘘でもええ。ええ記憶を残してくれてありがとうな。アイツにも言うとってや」
 ほんの僅かだけ真剣な表情をしたJ・カーンはフロアへ戻っていく。
「ま、今回はお前らとフリッツの大金星だな」
 銀二が笑顔で言う。
「う、うちを除け者にしよう! うち、毎日ご飯作るって言うとっとに!」
 衝撃を受けた様子で日葵が退く。
 ビリーは日葵を背後から受け止める。
「俺一人じゃ途方に暮れただけだった。日葵、ありがとな」
 ビリーが頭を撫でると、日葵が耳まで赤くなって飛び退く。
「おかしかけん止めっちゃ!」 
 日葵を見たリック、銀二、沙織が笑い声を上げる。
 電警の陰謀は未然に阻止された。
 今後零番街に対する国際的な枠組みが、正式に取り決められる事になるだろう。
 カークは零番街の自治権は揺らがないと言っているが、ビリーには先の事は分からない。
 今後も零番街が零番街であってくれればいいと願うだけだ。             
    
   
 日本政府の未開のフロンティアを牛耳ろうという目論見は脆くも崩れ去った。
 ビリーとフリッの反撃により、日本の電警はウイルスに未感染の機材を用意する所から再出発しなければならないだろう。
 零番街はそもそもビッグ・アップルが稼働した時、VR空間上の更に仮想化された空間にVR空間と等質量のものとして生まれたカオスだった。
 人間に認知されるまで、なにものでもなかった『それ』はビリーとマリーという観測者を得て、初めて『零番街』となった。
 そもそもビッグ・アップルを稼働させなかったなら存在しなかったのだから、仮に所有権を主張できる者がいたとするなら合衆国だけだろう。
 今回日本の電警は記憶操作という禁忌を侵し、J・カーンは記憶改変前とは別人となった。
 政府に反旗を翻したスーパースターという点では反骨精神の強さは変わらないようだが、現在の暢気なJ・カーンとどちらが本物かと問われた時、人はどのような審判を下すのだろうか。
 どんな記憶を植え付けても、遺伝子の振る舞いは抑えられないというのが現在の科学の認識だ。
 彼の動向は、記憶操作と人間性の因果関係を探る上で貴重なモデルとなるだろう。
 
 DIVE4  WHAT COLL THE DETH    
       ~少年の夢。現実と末路~ 
  〈1〉 
  「最近やっと落ち着いて来たんでね?」
 開店前のカウンターに立つリックの言葉に、ビリーは苦笑を返す。 
 最近J・カーンはエンターティナーを引退し、芸術家を志向する少年少女たちの為にアカデミーを開設した。
 今後、零番街にブロードウェイのようなアーティスティックな区画を造って外から客を呼び、ジャンクスの創造性を発信して行きたいのだと言う。
 J・カーンは見どころのある若手をJACK・BOXに送って来るが、本人はもう表立って動くつもりはないと言う。
 それが彼なりのラブ&ピースなのだろう。
 近所という事もあってリアルでは家に遊びに来るが、JACK・BOXへ来るのは客としてだけだ。
「だな。あれっきり事件らしい事件もねぇしな」
 ビリーは完璧に調律されたJACK・BOXを眺める。
 フリッツと共同作業をしたお蔭で、コードを書くにも今までとは違った方面からアプローチできるようになっている。
 全部とは言わないが、互いに手の内を明かしたのだから、フリッツも今頃新しいコードを書いて試行錯誤しているだろう。
「そんなに事件ばかりじゃ身がもたねぇぞ」
 銀二がグラスを磨きながら言う。 
 自分にしろ、フリッツにしろ、コードを書くという行為の先に電脳技師というものがあった。
 ビリーの客にはツールを見て欲しいとか、防壁を見て欲しいという者が多い。
 こちらも電脳技師は半分趣味のようなものだから、ギーク御用達のようになってしまっているし、今更スタイルを変えるつもりもない。
 フリッツが常に高レベルなのも、責任感もあるだろうが、電脳技師として好奇心がそうさせている部分が大きい。
 そういった意味ではビリーもフリッツもギークなのだ。
 だが、多くの人間に接していると的のズレた人間に出会う事もある。
 コード弄りが好きでもないのに、ハッカーになりたい、クラッカーになりたいと言ってくるような人物だ。
 ハッキングやクラッキングを推奨する訳ではないが、そんなものは好奇心と探求心でコードを弄っているうちにできるようになるもので、最初からハッカーになりたいと言われても、漠然とし過ぎていてアドバイスらしい事をしてやる事はできない。
 そういった人間は大抵何者にもなれずに消費者に回る。
 好きこそものの上手なれが全てとは言わないが、その逆は滅多にないという事だ。
「うちも陰で師匠ば支えようっちゃ! フリッツば張り切りよったけん、そげに出番がなかったっちゃ。ばってんもしもん時はちかっぱ師弟愛を見せつけちゃる思うとったとよ!」
 丼を磨きながら日葵が言う。
 少し前までなら丼のテクスチャーなど見ただけで破壊していただろうが、慣れというのは恐ろしいものだ。
「あたしらだって万が一の為にサポートしてたのよ。これだからガキは」  
 沙織が胸を反らして言う。
 電警に放り込んだ鏡像改が解析される前に消去したのは沙織だ。
 元々自壊プログラムは組み込んであったのだが、それだけでは不十分との判断は妥当と言わざるを得ない。
「何でみんながサポートしよっと? 師匠はクビになったちゃけん関係なかばい。うちら愛の逃避行しよろうもん」
 日葵が寸胴をかき混ぜながら言う。
 日葵が何やら甚だしい勘違いをしているように感じるのは気のせいだろうか。
「JACK・BOXって看板背負って動いちまったら、店の存在を電警に知られっし、本格介入して解決しちまったらライズの立場が無くなんだろうが」
 銀二がため息をついて言う。
 そうなのだ。前回の事件はビリーとフリッツの友情を信頼して、JACK・BOXが影に回ったということなのだ。
「そろそろJの肝入りのDJが入って来るわよ。お手並み拝見と行こうじゃない」
 まだ新人が多いのだろう、おっかなびっくりと言った様子のDJのクルーがフロアに散っていく。
 今日はどんなイリュージョンが見れるのだろうか。
 ビリーは寸胴の熱が周囲に漏れないようにプロテクトしながらカウンターの外を眺めた。
   今日もビリーはギークに囲まれている。
 好奇心旺盛な少年たちの要求に応じてコードを批評し、助言する。
 もっとも、ほとんどが「デバックをきちんとやれ」という所に落ち着くのは、自分が沙織に言われるのと同じ。
 プログラミングは決して華やかなものではない。ひたすら地道なものなのだ。
 リックが数十人の女の子を相手に、個々に応じた話をして笑顔を咲かせているが、やっている事は似たようなものだろう。
 銀二と沙織の客層は少し高く、男女比が多少性別とは反対の方向に傾いているくらいだ。
 二人とも数名に口説かれているが、如才なく躱している。
 自分の横では日葵が湯切りをしながら次々とラーメンを提供していく。
 いつの間にか、日葵のアバターは頭にタオルを巻き、服装も黒いTシャツと前掛けに変わっている。
 カウンターの上で揺れている、暖簾的なものと提灯は気にしたら負けだろう。
「二番さんチャーシュー大盛とめんたいご飯お待たせばい!」
 最近ラーメンを注文すると、もれなくめんたいご飯がつくようになったらしい。
 ラーメンとめんたいご飯、羽根つき餃子のセットはギークに大好評だ。
 自分で芸術的とも思えるほど酒の腕を磨いたのに、周囲の有様がこれでは腕の振るいようがない。
「なぁ、何か飲んでかねぇか?」
 ビリーはツールの話の合間に、少年の一人に声をかけてみる。
「ラーメン食べてめんたいご飯食べたらもう満足しちゃって」  
 少年がリアルでは空きっ腹だろうに腹を叩いて見せる。
 今まではビリーが与える課題を不満に思って帰る客も多かったが、最近は日葵の豚骨ラーメンセットを食べてしまうと、みんな充足した気分になってしまうらしい。
「……オブジェクト思考は基本中の基本だ。コードは短く、クラス分けは簡潔に……」
 言いかけた並行運用のビリーの一人が接近して来る女性に目を止める。
「最近のビリーさんって、ラーメン屋の細腕女将のヒモみたいっすよね」
 ニヤニヤしながら少年の一人が言って来る。
 女性がリックではなくビリーに向かって来るというだけでも珍しく、人によってはグラマラスと呼ぶ極めて女性らしい雰囲気の女性なのだ。
 ――何故リックに行かないんだ?――
 一瞬頬が引き攣るが、自分に女性客が来るという事は遊びに来たという事ではない。
 何らかのトラブルには違いないのだ。
「ビリーさん、どうしたんスか?」
 少年に言われてビリーは表情を引き締め、いつものように相手がスツールに座る前に情報を入手する。
 豊島区在住のジャンクスの少女。寺川ゆかり。年齢は十六才。恐るべきことにアバターと肉体にほとんど齟齬が無い。
 単位制高校には真面目に通学しているが、最寄りの新宿区の単位制無償学校には男子生徒がいないらしく名簿を確認しても女ばかりだ。
 男の方がネットジャンキーになりやすい傾向はあるが、女ばかりでは独身で一生終える者が多くなる事だろう。
 効果はゼロだろうが、ビリーは疑似人格で周囲のギークに「学校行けよ」と言ってみる。
 得られるものが大きいという事は、実体験しない事には分からないだろう。
 寺川ゆかりの朝のチューブはストロベリー、昼はバナナで夜はメロン。
「ホラ、ビリーさん女嫌いって有名じゃん?」
 聞き捨てならない囁き声が聞こえて来る。 
「……オイ、お前ら俺をゲイだと思ってんのか?」
 ビリーの言葉に数名がハッとしたかのような表情を浮かべる。
「……じゃあフリッツさんが女作らないのも……」 
 ゲイを差別する訳ではないがざわつくギークどもの脳を、一斉に洗浄してやろうかという考えが脳裏を過る。
 女嫌いなら日葵を傍に置いている訳が無い、という事くらい分からないのだろうか。
 寺川ゆかりは緊張した面持ちながら、しっかりした足取りで向かって来る。
 これだけラーメン丼を手にしたギークに囲まれたら、普通の女なら気後れする所だろう。
 それだけ切羽詰まった事情があるというという事か。
 ギークたちが寺川ゆかりのアバターを観察し、正体を突き止めた数名が感嘆の吐息を漏らす。
 ビリーは背筋を正し、乾ききった口を開く。
「いらっしゃいませゆかり様。当店のご利用は初めてですね? 当店はチャージ料は頂いておりません。お好きなだけ寛いで頂けます。ドリンクその他フードメニューはカウンターのバーテン……に、見えない者も居るでしょうが、話しかけて頂ければ結構です。まずはご挨拶までに」
 ゆかりの舌を走査して最良のカクテルをはじき出す。
 高速でコードを書いて差し出したグラスはウォッカベースの『ブラックルシアン』だ。
 ゆかりはグラスに目を落としてから、ビリーの顏を見上げて来る。
 身長はそう変わらないだろうが、カウンターの中にいる分ビリーの方が目線が高くなる。
 組まれた腕の上に乗ったバストが強烈なプレッシャーを放ってくる。
 腰が引けて膝が震えそうになるが、幸いカウンターから出ているのは腰から上だけだ。
 ビリーがこの世で恐れる数少ないものの一つが女性の胸の肉塊だ。
 こればかりは生まれつきのものでどうにもならない。
「ビリーさんですね? 私はお酒を飲みに来たんじゃありません」
 ゆかりは細い指で、カウンターにキャッシュカードを乗せる。
 一瞬で走査するが一文無しとも言っていい状況だ。
「申し訳ありませんが、ここはクラブで慈善事業団体ではございません」
 ビリーは言ってゆかりの言葉を待つ。
 勘違いされがちだが、自分の本業はバーテンなのだ。
 周囲に豚骨の香りが満ちていたとしてもだ。
「彼と連絡がつかなくなったんです! もう一カ月も会ってないんです!」
 ゆかりがカウンターの上に身を乗り出す。
 ゆかりの胸が揺れ、ビリーは過呼吸を起こしそうになる。
動揺を抑える為に深呼吸するが、リアルの肉体も脂汗���全身がじっとりとしている。
「まずはラーメンば食べっとね。ご飯はめんたいと高菜から選べるばい」
 ビリーの前に出た日葵が言う。
 ビリーは落ち着きを取り戻す為にも日葵の背後に回る。
 今日は日葵が自分の防壁だ。
「私、お金がもう……」
「店のおごりばい! ここはそげに器の小さか店や事なかとね」
 日葵がゆかりに豚骨ラーメンとめんたいご飯を出す。
 めんたいご飯ばかりだと思っていたが、高菜ご飯というものもあったらしい。
 一度日葵のレパートリーを確認しておいた方がいいだろう。
「頂きます」
 泣き出しそうな表情で、ゆかりが髪をかき上げてラーメンをすする。
「で、彼氏がおらんくなったと?」
 日葵が訊ねるとゆかりが頷く。
 ネット上で彼氏が消える、彼女が消えるという事は珍しい事ではない。
 手軽な所ではアバターを変えるだけでも別人に成りすませるし、素人相手ならアカウントを変えるだけでほぼ別人と認識させる事が出来る。
 素人でもこれくらいの事はできるし、高度な技術を使えばそれこそ相手の前から完全に消える事ができる。
 ネット上の男女関係は実体が伴わない分、容易に破局する。
 気の毒だが、それがVR空間というものだ。
 ビリーはノブクリークのシングルバレルを造って自分のグラスに注ぐ。
 一口飲んでまだコードに乱れが無い事を確認し、同時に一瞬の浮遊感を感じる。
「本気で好いとったとね?」
 日葵が訊ねるとゆかりが決然とした表情で頷き、二宮芳樹のデータを飛ばして来る。
 神奈川県港北区在住。年齢は十八才。両親は三番街で公務員をしており、四番街に一戸建ての家がある。
「どうやったら会いに行けるかって、結婚できるかって相談してたんです」
 ――結婚詐欺に引っかかったのか?――
 ビリーは日葵の背後からゆかりのキャッシュカードを走査するが、有り金は全て三番街の興信所に払ってしまったようだ。
 もっともVR空間での失踪事件など珍しくもなく、捜査も煩雑なものになるから三番街の興信所もお決まりの捜査をして資料を提出しただけだろう。
 金融機関の記録でもゆかりが真面目に貯金していた事が確認できる。
 最初からJACK・BOXに来ていれば無駄金を使う事も無かったのだろうが、零番街は真っ当な人間にとってはスラム同然だ。
「辛か話ばよく話してくれたっちゃね。悪いようにはせんけん、もちっとわかるこつ教えてくれんね?」
 ビリーがグラスを傾ける前で、日葵が冷静に対応する。
「芳樹くんと知り合ったのは半年前、三番街の就職セミナーに行った時です。私は中卒でもいいかと思っていたんですけど、芳樹くんに将来が広がるから高校は出ておけって言われて。彼、高校二年だったんですよね」
 ゆかりが想起したデータを抽出し、中小企業が主催する三番街の就職セミナーのログを洗う。
 ゆかりと芳樹のファーストコンタクトはそこで間違いがないようだ。
 芳樹は中卒で一度テクスチャー関係の仕事に就いたが、デバックばかりで自分でコードを書かせてもらえず退社、再度学校に通いなおしたという経緯がある。
「苦労しとっとね。で、どげんなりよったと」
 日葵が茶の入った湯飲みを、ラーメン定食を完食したゆかりの前に出す。
 オプションはご飯ものと餃子だけでは無かったようだ。
「四番街で両親に会ってもらって、私もご挨拶に行って、最期にどうやって会うかって話をしてた所なんです。二人とも何十キロも歩いて移動なんてした事無かったですから」
「それは本気ばい。どげんしてあかんくなったとね?」
 日葵が身を乗り出す。
 ビリーが仕事を任せて立ち去ろうとすると、日葵に裾を掴まれた。
『日葵、もうお前は一人前の電脳技師だ』
 ビリーが個人回線で日葵に向かって言うと、日葵が小さくため息をつく。
『うちはJACK・BOXに雇われてる訳やなか。師匠に置いてもろうとるだけばい。やけんうちに仕事は受けれんと。分かったらびしゃーと話ば聞くったい』
 日葵はいつからこんなに小言を言うようになったのだろう。
 ビリーは日葵の後ろに背中合わせに立って話の続きを聞く。
「……待ち合わせの十七時を過ぎても彼は現れなくて。連絡しようとしてもどうやっても連絡がつかなくて、ご両親も警察に捜索願を出したんですけど捜査してもらえなくて」
 ――リアルで警察に捜査願を出そうとした?――
 それは間違いなく肉体の失踪を意味する。
 少し前に少女の監禁事件を手掛けはしたが、同様の事件がまた発生したのだろうか。
「そいでうちに来たとね。うちは優秀な探偵のばり多いけん心配無用ったい! 万が一言う事もあるけん、絶対連れて帰るち言う事はできん。ばってん無事やったら必ず連れて来ると。見つけたら可愛いらしか彼女放って何しとっとち叱りよう!」
 日葵が輝くような笑顔を向けると、ゆかりが涙を流して肩を震わせる。
「ゆかりちゃんどうしたと?」
 日葵のアバターがカウンターをすり抜けてゆかりの隣に座る。
「どこへ行っても、こんなに優しい事言ってもらえなくて、お前は捨てられたんだって……」
 言ったゆかりの身体を日葵の細い身体が抱きしめる。
「心配なか! うちらを誰ば思いよっとね、零番街のJACK・BOXばい。心配なか、心配なかよ」
 日葵の腕の中でゆ���りが嗚咽を上げる。
 問答無用で日葵が受けてしまったが、いずれにせよ、ただの失踪事件でないのならJACK・BOXの仕事だ。
 捜査の基本は金の流れと人の流れ。
 まずは芳樹のメインバンクにアクセスし、出入金を確認する。
 一年前から一カ月に二回、三千コインを『引き出して』いる。
 VR空間で買い物をするならキャッシュカードで充分だし、マネーカード形式のVコイン(ヴァーチャルコイン)にする必要がない。
 Vコインを使うのは基本的にVR上で電脳麻薬などの違法薬物を買ったりする連中だけだ。
 基本的にそういった犯罪にはライズが対応している。
 確認可能な芳樹の最終ログを洗う。
 二週間前、自宅でログが切れている。
 顔認証プログラムで集合住宅の玄関の監視カメラを中心に半径五キロを探る。
 集合住宅を出た所までは確認できたが、それ以降は監視カメラを避けているのかその移動の痕跡を見つける事ができない。
 自主的に家を出て、カメラを避けるという点では、以前の少女監禁事件と一致している。
 だが、男子誘拐事件というのは、そういった趣向の人間がいるにせよ現実味を感じない。
 気になるのは失踪当日も三千コインを持ってVR空間に『外出』している事だ。
 そしてリアルの室内で『失踪』した。
 収入の無い高校生にとって、三千コインと言えば大金だ。
 ゆかりとのデートでは割り勘で少し多めに払っているが、それでも二千コインくらいの所で済ませている。
「ゆかりちゃん落ち着いたと?」
 日葵の言葉に泣き止んだゆかりが小さく頷く。
 この事件もそう簡単に解決してくれる質のものではないらしい。
 
 〈2〉
  「って、訳で二宮芳樹は失踪。現在ログを洗ってる」
 ビリーは閉店後のバックヤードで言う。
「監視カメラも避けたって事は、自主的に出たって事でね?」
 少女監禁事件を連想しているのであろうリックが口にする。
 正規のクルーではない日葵は外で待機、銀二と沙織は苦い表情だ。
「だとすると、自宅でログが消えてるって謎が残る。外に出てもwifiには繋がれんだろ?」
 ビリーが言うと銀二が低く唸る。
「基地局辺りから何か引っ張れねぇのか?」
 通常民間用の無線周波数帯は建物の有無によって異なるが、基本的に半径三百メートルの円を描いている。
 屋外の通信インフラはこの円を無数に重ねる事によって隙間を埋め、どこにいても通信可能なようにしているのだ。
「とっつぁん、ド田舎じゃないんだ。探すにしても途方もない数のアクセスがあるし、本人が意図的にGPSをオフにしてたらヒットしない」  
 ビリーは二宮芳樹の集合住宅周辺の基地局の通信履歴を表示する。
 ツールを走らせても失踪当日に二宮芳樹のアクセスはない。
「本件の事件性を認める。ビリー、リック、事件の調査及び解決を命じる」
 隙間風のような冷たい声がマリーの口から洩れる。
「了解」
 ビリーは肩を竦める。最初から弟子の日葵の案件なのだ。
「承りましたフロイライン」
 リックが大仰に礼をして見せる。
 ビリーはリックの肩を叩いてマリーに背を向ける。
 二宮芳樹の身に一体何が起きたのか、まずはそこから探らなければならない。
「に、してもいい女だったべ?」
 カウンターに戻りながらリックが言う。
「ま、お前は節操が無ぇからな」
 ビリーはスツールに座りながら言う。
「んにゃ、見た目だけじゃなくて性格がさ。三番街の真面目な女の子が彼氏の為に危険な零番街まで来た訳じゃん?」
 リックの言葉にビリーは頷く。確かに性格の良さは折り紙付きだ。
「師匠! どげんなったと!」
 ビリーが出て来るのを待っていた日葵が駆け寄って来る。
「JACK・BOXで依頼を受ける事になった」
 ビリーは肩を竦める。一文にもならない仕事だが、そもそもJACK・BOXでは儲けになる仕事を請け負った事の方が少ない。
「良かったと。ゆかりちゃん喜ぶとね。師匠がいい事しようと、うちも気持ちがいいったい。優しか師匠はよか師匠ばい」
 その言葉にビリーは苦笑する。優しいのは自分ではなく日葵の方だ。
「ビリーちゃん、相変わらず日葵ちゃんに甘いじゃないの」
 リックがチシャ猫のような笑みを浮かべて言う。
「男が一度受けた仕事を投げられっか」
 ビリーは鼻を鳴らして脳内で時間を確認する。
 そろそろ肉体に戻らないと学校に間に合わない事になる。
「じゃ、十七時に中央公園で」
 ビリーは言って意識を肉体に戻した。
 と、途中でバグが生じたものか、ビリーは零番街の外縁の暗黒に引っかかっている。
 虚空にコードを書きこみ、WWWへのアクセスを確保する。
 ――ったく、余計な手間かけさせやがって――
 意識が脳に戻ると、ビリーは見慣れない部屋に居た。
 起き上がった身体が妙に重い。
 シャワーを浴びようと洗面所で裸になった所で、目の前にゆかりの姿が現れる。
 現実ではない。咄嗟に周囲を走査するが、ネットから切り離されたように何一つ掴めない。
 ――脳をクラックされたか――
 ビリーはゆかりから目を逸らしつつ、状況を把握しようとする。
 と、ゆかりの両胸が不随意筋によって、奇妙に蠢いているのに気付いた。
 脳のほとんど脂肪だという事は知っていたが、まさか胸の中まで同じという事も無いだろう。
 ビリーはこの謎の牢獄から逃れるべく、中空にコードを書きこもうとするが手ごたえ一つない。
 ゆかりの右胸の上部が不随意筋により強く引かれ、カミソリで裂いたような傷口ができる。
 ビリーが戦慄する間にもその傷口から目玉が覗く。
 目玉がビリーを舐めまわすように見つめて来る。
 ――これは幻覚だ――
 ビリーは逃げようとするが何をどうしてもネットに繋がる事ができない。
 ゆかりの左胸の下部に割れ目が生じ、血の流れる傷口から白い歯が覗く。
 歯の隙間から伸びたぬらりとした舌が、胸から垂れる血を舐める。
 目玉が見つめて来る、口が哄笑する。
 ビリーは悲鳴と共に意識を失った。
   ビリーは亡羊とした視線を天井に向けていた。
 ――……夢だったのか――
 昨日の晩を引きずって悪夢を見ていたらしい。
 朝一番だと言うのに、全身に言葉にならない疲労が蓄積している。
 とりあえずシャワーを浴びて身支度を済ませ、学校へ向かう。
 ヒートハウスによる七月の五六度の外気に焦がされる思いをしながら、茜との待ち合わせの公園に向かう。
「おはよう! 裕ちゃん」
 元気に声を上げて茜が手を振って来る。
 見る限り茜はそれほど胸が大きい方ではない。意識さえしなければ恐れる事は無い。
「お、おう、おはよう」
 裕司は茜と並んで歩き出す。
「そう言えば、一番街がテロリストにサイバー攻撃受けてたんだって。どこか分からないけどひどい事するよね」
 少し怒った様子で茜が言う。
 自分がフリッツと一緒に破壊したのだと言ったら、どんな顔をするだろうか。
「自分たちでVR兵器を作ろうとしてて自爆したんじゃねぇの」   
 裕司は頭の後ろで腕を組んで言う。
「そっかぁ~。裕ちゃんはどうしてそう思ったの?」
 茜が顔を覗き込むようにして訊いて来る。
「少しばっか根性がひねくれてるだけだよ」
 茜が思案顔で、下唇の先に人差し指を当てる。
「裕ちゃん。たまにね、私、裕ちゃんのそのひねくれたって話が本当で、世界が嘘をついてるんじゃないかって思う事があるんだ」
 茜の言葉に裕司は小さく頷く。
「裕ちゃん昔から隠し事が多すぎて、時々不安になるけど、今、ここにいるのは裕ちゃんだよね?」
 茜の言葉に裕司は苦笑を浮かべる。
 そんな事になら裕司は簡単に答える事が出来る。
「当たり前だろ?」
 裕司は言って肩を竦めると速度を上げて歩き出した。
  「さてはて、これは困ったちゃんだねぇ~」
 前回三千コインを引き出した後、二宮芳樹は零番街の雑居ビルに足を向けていた。
 正確には、その手前でログが消失しているのだ。
 二時間ほどして、少し離れた所からログが復旧している。
「ここにログを消すような仕掛けがあったって事か」 
 ビリーは周辺を走査するが、それらしい形跡はない。
 相手は相当『デキる』電脳技師らしい。
「お金を出しよう時ば、いつも別んとこ行っとーと」
 日葵が日付と零番街の地図を重ねて表示する。
 共通点は貸しビルが近くにあるという事だろうか。
 ビル側の記録には借り手の記録は残っていない。
 もっとも、リアルの施設と違い、零番街の人手の入らないビルにセキュリティなどあったものではない。
「ま、ここは捜査の基本に帰ろうじゃねぇか。俺は金の流れを追う。リックは人の流れを頼む」
 人付き合いの上手さや狡猾さではリックが遥かに優れている。
 自分は地味な足取りを追う作業や、電脳ツールをを造ったり操る方が向いているのだ。
「ま、俺は別に構わないんだけども、日葵ちゃんはどうするべ?」
 リックが顔を向けて来る。
 そろそろ独り立ちの修行をさせてみるべきか。
「日葵、ログが消えてる地点で共通の『現象』の『残滓』を見つけられるか?」
 ビリーが言うと日葵が顔を覗き込んで来る。
「師匠、昨日から顔色の悪かね。放っておけんちゃ」
 日葵が言うとリックまでもが不安そうな視線を向けて来る。
「俺を誰だと思ってやがる。他人に心配される程落ちぶれてたまるか」
 ビリーは鼻を鳴らす。確かにひどい夢を見て一日中だるさが抜けなかったのは確かだが、アバターの顔色が悪いなどという事がある訳がない。
「ンなら何も問題ねぇべ。俺とビリーちゃんで関係者当たるから、日葵ちゃん、悪いんだけども、二宮芳樹の金の流れ追ってくんね?」
 リックの言葉にビリーは眉を顰める。
「オイ、リック、何勝手に決めてんだ。金の流れは……」
 ビリーが言うとリックが顔を覗き込んで来る。
「相手がただ者じゃねってのはビリーも気づいてるだろ。誰が一番安全か考えろって」
 リックの言葉にビリーは小さく唸る。
 確かに煩雑ではあるが、敵が網を張っていない限り金を洗うのが一番安全だ。
「日葵、相手が出て来たらすぐに逃げろ」
 ビリーはフリッツの技術を取り入れた新型の攻性防壁を日葵に渡す。
「分かったと。金の流ればうちが押さえちゃるったい」
 日葵が笑顔で頷いてスキップでもするようにして転送する。
「じゃ始めっか。リック……」
「そぉんな心配しなくっても日葵ちゃん大丈夫だって」 
 リックが共有フォルダから���宮芳樹の通信履歴の一覧を表示する。
 圧倒的に寺川ゆかりとの通信が多い。
 日中は真面目に学校に通っていたらしく、リアル空間での学校の端末にもログが残っている。
 リアルでの二宮芳樹の交際範囲には女性がいない訳では無かったが、VR空間で知り合った寺川ゆかりに強く魅かれたらしい。
「……こいつゴースト信者か」
 ビリーは眉を顰める。
 リアルとVR空間で時間を共有している数名のグループが『魂』の存在を信じるゴースト信者だったのだ。
 彼らのコミュニティに属していたのなら、二宮芳樹もゴースト信者である可能性が高い。
 脳そのものは有機体によって造られた電気信号の集積回路であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 臨死体験を経て生還した人間の言葉には相似点が見られ、そこだけを見るのなら魂の存在には一定の説得力があるようにも見える。
 しかし、彼らは死んでから生還したのではなく、あくまで死にかけた所で一命をとりとめたのだ。
 脳内の電気信号が完全に止まった状態から再起動した訳では無い。
 死を目の当たりにした時、脳は極度の興奮状態に陥ると同時にその衝撃を和らげようとする。
 これは大怪我を負っても、即座に痛くはならないのと同様だ。
 身体の場合は麻酔が働き、脳の場合は疑似体験が機能するだけだ。
「ま、今でも時々幽霊がぁ~とか言う人いるし、仕方ないんでね?」
 リックがリストを整理しながら肩を竦める。
 幽霊を信じるというのはマイノリティで近年ではさすがに耳にしないが、そういった人間は代わりにゴーストというものを信仰する事により、自らを選ばれた高位の生命体だと考えようとする。
 現代の選民思想とも言えるだろう。
 ビリーはリアルとVRで二宮芳樹が接触していた、ゴースト信者のリーダーと思しき男を走査する。
 男は二宮芳樹より遥かに活動的な人物で、主宰しているものも含めて複数のオカルティズムのコミュニティに頻繁に出入りしている。
 存在しないものを信じる連中を震え上がらせるくらい雑作も無い。
「リック、俺はこの男を当たってみる」
 ビリーが口元に笑みを浮かべて男のデータを表示するとリックが頷く。
「じゃあ俺はこっちの女を当たるべ」
 リックは複数の女性をリストアップしていた。
 餅は餅屋、女性はリックに任せるのが一番だ。
「何か分かったら連絡をくれ」
 言ってビリーは現在降霊会を開いている男の元に飛んだ。
   降霊会は雑居ビルの一室で行われていたが、普通に届け出もされており、防壁が張られている形跡も無かった。
 室内は赤い遮光カーテンや、古めかしさを強調した魔術を想起させるような調度で装飾されている。
 二十二人の男女が目を閉じて円卓を囲んでいる。
 ログを読むと、そのうち誰かの霊が乗り移って存命時の事を語り出すのだと言う。
 ビリーは陳腐な仕掛けに――当事者は仕掛けと思っていないだろうが――鼻を鳴らす。
 一定のテンポで響く鐘の音を、無意識に近い状態で聞く事で人間はトランス状態に陥りやすくなる。
 紀元前から行われている事に疑いを持たないとは、ある意味幸せな連中だ。
 ビリーは比較的参加して日の浅い男の脳をコントロール下に置く。
「……俺は二宮芳樹だ。二週間前から記憶が無いんだ」
 主催の男の顏が引き攣り、交友のあった数名が驚愕の表情を浮かべる。
「……ちょ……最近見なかったのって……」
 女が言う。二宮のオカルト趣味は寺川ゆかりより良く知っている様子だ。
「分からない。でも、これって降霊会だろ? 俺が居るって事は死んだって事じゃないのか?」
 ビリーはアバターをコントロールしながら言う。
「でも……どうして……君はもう興味が無くなったんじゃなかったのか?」
 主催の男が引き攣った表情のまま言う。
 興味が無くなったとは一体どういう事だろうか。
「良く思い出せないんだ。僕の身に何が起こったのか。大切な事を忘れてしまった気がするんだ」
 ビリーは頭を振る。
 あまりの生々しさに参加者たちは神秘体験を通り越して唖然としている。
「君は一年前に天国を見たって言ったきり、活動には消極的だったじゃないか?」
 男の言葉にビリーは内心で眉を顰める。
 一年前といえば、二宮芳樹が月に二回三千コインを引き出すようになった時期だ。
 ゴースト商法にでも引っかかったのだろうか。
「僕は見てはならないものを見たのかも、それで記憶を無くしたのかも知れない」
 ビリーはさも残念そうに言う。
「君は今、どこにいるんだ?」
 主催の男が衝撃から立ち直ったらしく、好奇心に目を輝かせて聞いて来る。
「みんなの頭の中だよ。ホラ」
 言ってビリーはアバターにけたたましい笑い声を立てさせながら全員の目を奪って、全員の顔を二宮芳樹にする。
 参加者は悲鳴を上げ、中には失神する者もいる。
 阿鼻叫喚の降霊会を見たビリーは、小さく鼻を鳴らしてその場を離れる。
 ――二宮芳樹は一年前に天国を見た、か……――
 ビリーは二宮芳樹の次なる履歴に向かった。
  「カルトって思ったより多いじゃん? なぁんか疲れたべ」
 中央公園に戻って来たリックが肩を鳴らす。
「当たりっぽいのは無かったのか?」
 ビリーは降霊会のログを表示し、二宮芳樹の一年前のログから参加者を排除する。
 リックが更に当たったであろう無関係と思われる人物を排除していく。
「こっちはデバックみたいなもんだって。まぁ、随分絞り込んだとは思うんだけれども」
 ビリーはリックと共に残された調査対象の人物を眺める。
「この中で月に二回三千コインを引き出してるか、六千コインを引き出してる人間を当たるのが固いか……」
 ビリーは金融機関の出入金データを個人別に表示するが、二宮芳樹と同様の取り引きのある人物は見当たらない。
「その、天国を見るってのは、かなりヤバい事なんじゃね? だから誰にも相談できなかったとか」
 リックが結果を精査しながら言う。
 リックの技量でも改ざんの形跡が見られないとなると、交際範囲の人物はシロという事になる。
 ビリーは額に手の甲を当てて漆黒の空を仰ぐ。
「人脈はアテにならねぇって事か……」
 二宮芳樹は『天国』については交際のある人物に対しては秘匿していた。
「寺川ゆかりは『天国』について聞かされてたんかな?」
 リックの問いにビリーは頭を振る。
 それが誰にも話せないような後ろ暗いものなのだとしたら、最愛の人物を巻き込むような事をする筈がない。
「だべなぁ~。と、なると日葵ちゃんの情報待ちかぁ~」
 縁石に腰かけてリックがため息をつく。
 決して安いとは言えない月額六千コインを義務的に払い続け、その代償として得た天国とは何なのか。
「ビリーちゃんさぁ、日葵ちゃんが東京に引っ越して来たらどうするよ」
 唐突な質問にビリーは一瞬言葉を失う。
 日葵が来たら茜と顔を合わせる事になるが、二人は仲良くできるだろうか。
「分からねぇよ。どの道弟子と友達だろ?」
「ホントにそう思ってる訳?」
 リックの言葉にビリーは眉を顰める。
 二人は弟子と友達という存在だが、ビリー自身日葵を好ましく思っている――頼りにしている部分もある――のは事実だし、茜の前向きさには救われてもいる。
 友達以上恋人未満というのは誰が言い出した事か知らないが、それに近い感覚かも知れない。
「男が出来たら笑って送り出してやるさ」
 どの道、恋愛感情はマリー以外に抱いた事が無い。
「ホントに笑えるのかねぇ~。俺だったら泣いちゃうよ」
 リックが肩を竦める。確かに顔では笑えても心では笑えないかも知れない。
 しかし、ビッグ・アップルに繋がれたマリーの孤独を想えばどうという事はない。
 一瞬目の前の空間が歪んで日葵が姿を現す。
「お待たせっちゃ。調べものば多いっちゃけん苦労したばい」
 日葵が笑みを浮かべて言う。
「何か見つかったか?」
 ビリーは日葵に向かって訊ねる。古来より捜査は金と女を探れというくらい、あらゆる事件の根幹にこの二点が関わっているのだ。
「まず二宮芳樹の支払ったコインっちゃが、これはあのログば残らん障壁ん中で追跡不能ったい」
 日葵の言葉にビリーはそうだろうと小さく頷く。
 あれほど大規模な範囲でログを消せる相手が、そう簡単に尻尾を出すとは思えない。
「やけん、二宮芳樹の過去ニ十回分のログの後を辿りよったと。周りん人間で手持ちのコインば減りよう人間ばリストアップしたっちゃと」
 日葵がデータを表示させる。
 二百名近くがリストに名を連ねているが、頻繁に人が出入りしているという訳ではない。
 一人入れば一人減るといった感じの、かなり閉鎖的なコミュニティのようだ。
 ビリーはリストの人物を走査しようとする。
 が、突破できない事は無いがリストの人物には攻性防壁が張られている。
 走査した数名に同様の防壁がある所を見ると、主催者が配布したものなのだろう。
 仕組みとしては防壁破りを仕掛けた時点で反撃を食らうと同時に、特定の人物――主催者の可能性が高い――に通知される仕組みだ。
 利用者を守る事より、対象の確認を優先するという点では電警の防壁に近い。
「防壁破りをしたら即通報って、電警みたいじゃね?」
 リックの言葉にビリーは曖昧に頷く。
 電警は現在再建途上にあり、今回の事件に関わっているとは思えない。
 ビリーはリストを見て奇妙な事に気付く。
「毎回一人づつ減ってんな」
 三千コインを必要とする集会のようなものが催される度に、人間が一人づつ消えている。
 そして一人増える。
 ビリーは消えた人間のログを当たる。
 こちらは偽装されるでもなく、完全に消えてしまっている。
 職場や学校、四番街の家からも消滅している。
 性別、年齢層はランダムだ。その点では少女監禁殺人とは大きく違っている。
 リアルの自宅からも消えた状態で――チューブすらない環境で――ジャンクスが生きていけるとは常識では考えられないし、毎月二人となればどこかに集めて養うとはまず考えられない。
 ――殺しが濃厚か――
 ビリーは消えた人間の身体データを取得し、保健所のデータと照合する。
 保健所のサーバーに保存されたアンドロイドの視覚データをサルベージして、認証システムを走らせると、失踪した人間の半数以上が遺棄死体として記録に残っていた。
 死因は様々で、飛び降り自殺、リストカットによる失血死、飛び込み自殺、溺死……etc。
 様々な死に方をしているようだが、共通しているのは全てが『自殺』だという事だ。
 他のケースは分からないが、二宮芳樹には自殺する動機が無い。
 参加者の中にはデザイナーズもいるが、こちらからは死者は出ておらず参加費用も一万コインだ。
 消えた人間は���殺し、新たに人が補充される。
 三千コインで参加のジャンクスには死のリスクが常にあり、一万コインで参加のデザイナーズにはそのリスクがない。
 総合的に考えるとこれは一種の『ゲーム』である可能性が高い。
 しかし、このシステムとオカルトが結びつかない。
 オカルティストであった二宮芳樹が『天国』と呼んだゲーム。
「とりあえず俺は主催者を探る」
 ビリーは言って参加者の防壁を解析して防壁破りがかかると、自動通報される通報先を走査する。
 世界中のサーバーを経由してそれぞれに攻性防壁を仕掛けている。
 が、本丸は日本サーバーの一つだ。
 接続している人間の金融情報で絞り込めない事も無いが、まずは相手を知る事だ。
 細心の注意を払い、慎重に相手の防壁に触れる。
 パッチワークのように様々な種類の防壁とアラートを組み合わせているのは、ハリネズミを想起させる。
 全て既存のものでオリジナルのものはないが、この防壁に塔載された探知機能は執拗なほどで、プログラマーがいかにこの防壁で倒した相手を意識しているかという事を感じさせる。
 通常の攻性防壁は触れた相手に自動的に反撃するが、相手を特定する事を重視するというのは普通に防壁を組む人間の意識ではない。
 自分の防壁が何人を倒せたか、何人の電脳技師を殺せたかを数えてでもいるのだろうか。
 更に子細に調査すると、防壁が破られると同時にアドレスの握られている人間、即ち『ゲーム』の参加者全員の脳に高負荷の攻撃プログラムが走るのが分かる。
 侵入されたら参加者全員の脳を沸騰させて、証拠を全て隠滅するという事だろう。
 この防壁を一つの殻と考えると、その防壁をネットワークとして中に更に殻があるのが分かる。
 参加者を皆殺しにしても自分は助かりたいという訳だ。
 確認すると人工人格を与えられた攻性防壁が四体組み合わされている。
 一つは日本の電警、もう一つは中国の人民解放軍、更にロシアのFSB、イスラエルのモサドと続いている。
 この防壁を組んだ人物が、これまで攻略してきたものの中でも、最強クラスのものを並行運用しているのだろう。
 EUと米軍が無いのは単に攻略できなかったからだと推測される。
 この防壁群が敵の本陣という訳だ。
 それぞれを機能停止させる事は容易いが、相互監視システムとなっているため、こちらが超加速して同時にフリーズさせるか、高加速をかけて電気信号の波の隙間を抜けて行くかの二択だ。
 フリーズさせた所で更に敵に隠し玉があれば、最初の防壁が起動して参加者が全員死亡する事になる。
 ビリーは加速して防壁の間をすり抜ける。
 もっとも全て解除経験のある防壁であるため、その特性も把握済みだ。
 そして最後の殻に触れた時、ビリーは奇妙な既視感に囚われた。
 事件の全容は分からないが、最終防壁だけが妙に気にかかる。
 これまでの防壁と比べると明らかに技量が、想像力が低い。
 技術そのものは高いのかも知れないが、オリジナリティが感じられない。
 これを最終防壁と呼ぶならこれまでの防壁の方が遥かに堅牢だ。
 ――いや、これが敵の本質なのかもしれない――
 外殻も自己診断プログラムも世界的に優秀なものを集めて組み合わせたものだが、中心の殻だけはつたなさを感じさせる。
 ビリーは走査を切り上げて零番街の通常空間に戻った。
 リックと日葵も何やら調査を終えている様子だ。
「待たせたな。そっちに何か収穫は?」
 ビリーはリックに向かって訊ねる。
「これってやれるモンならやってみろって防壁じゃん? 攻撃重視ってかさ」
 リックが複製した参加者の防壁を再現して見せる。
 触れた瞬間に探査プログラムと攻撃ツールが起動する。
 wifiでも運用可能な軍用の高出力のものだ。
「でも、ターゲットを確認する攻性防壁って珍しくね?」
 リックの疑念ももっともだ。相手を逆探知するのであれば、よりステルス性の高いツールを仕込むはずだ。
 ハッキングの基本は知られずに情報を盗み出す事にあるのだから、殺して死体を残すという逆の行為に恣意的なものを感じざるを得ない。
 殺したターゲットを見て、自らのツールの優位性を確かめたいとでも言うのだろうか。
「まぁ、抜けない防壁じゃないけどねぇ~。システムにフリーズかけて本人にご対面ってのはち~と難しいんじゃない?」
 リックが模倣したプログラムにアプローチしながら言う。
 自己診断プログラムまで無効化して、最内殻の相手にアプローチする。
 不可能とは思えないが、この攻性防壁は敵の核に限っての事だ。
 他の場所に攻撃用のツールを保管している可能性も否定できない。
 借り物ばかりとはいえ、それをコピーする技量はあるのだし、その上でチープな防壁を最終防壁にしている人間の心理が分からない。
 いずれにせよ、最終防壁を突破して相手と対面する前に、最初の防壁を起動させる仕組みがあれば参加者全員が道連れになる。
 そもそも参加者はどうして、この命がけとも言えるゲームに参加するようになったのだろうか。
 二宮芳樹はゴースト信者だった。
 もし犯人が無作為に人を選んで強制的にゲームに参加させたとしたら、誰かが電警かJACK・BOXに駆けこんでいるはずだ。
 しかし、現在二百名いる参加者は一人として被害届を出していない。
 いかに主催のツールが恐ろしくとも、限界というものがあるはずだ。
「ビリーちゃん?」
 リックの呼びかけにビリーは顔を向ける。
「俺は参加者に当たる」
「ちょっと、ビリーちゃんて、相手は参加者を四六時中モニタリングしてんのよ? まぁ、相手がビリーちゃんを知ってるかどうか分からないけども」
 リックが忠告する。確かに相手は参加者たちを監視の下に置いている。
 だとすれば、推測が正しければ二宮芳樹の恋人、寺川ゆかりがJACK・BOXを訪れた時点で、敵は迎撃態勢を整えているのだ。
「二宮芳樹が参加してから約一年。最低でも二十四人が殺されてる。リックは防壁の発動を抑えてくれ」   
「そんなら本丸叩いたら事件解決じゃない?」
 リックの言葉にビリーは頭を振る。
「確認しなきゃならないだろ? 参加者が被害者なのか共犯なのか」
 ビリーの言葉にリックが目を見開く。
「共犯って……」
 言いかけてリックが思案気な表情を浮かべる。
 参加者は毎回自主的に三千コインを手に会場を訪れているのだ。
 見知らぬ者同士であっても、本当に逃れたいと思うなら幾らでも力を合わせる方法はあるだろう。
 しかし、それをしていないという事は、まだ自分たちの知らない何かがあるのだ。
 ビリーは一気にリアル世界の寒冷化地域――シティ――に飛ぶ。
 屋内wifiと繋がっていたデザイナーズの脳に侵入する。
 デザイナーズが振り返る頃には五感は掌握してある。
 木造の柱に彫刻の意匠を凝らした広々とした部屋には、J・カーンが描きそうな絵が飾られ、広々とした窓の向こうには日本庭園が広がり、木の枝では鶯が鳴いている。
「きっ、貴様、一体何処から……」
 脳の中に居るのだと教えてやるほど親切ではない。
 デザイナーズの瞳に映っているのは、黒ずくめに黒いマスクを付けた長身の男だ。
 詰め寄ると同時に屋内の照明が一瞬だけ明滅して消える。
『前園修羅斗、先週の金曜日矢崎勝を殺したな?』
 その低い合成音はデザイナーズの少年の心臓を寒からしめるのに充分なものだ。
「さ……さぁ」
 明らかに前園の挙動がおかしなものとなる。
『一万コインで参加しただろう? 気分はどうだ?』
 ビリーは詰め寄りながら前園の神経を刺激し、感電したような衝撃を与える。
 倒れ込んだ前園の顏に怯えの色が浮かぶ。
「違う、僕だって……殺される、神使に殺される」
 前園が葛藤する。神使とは防壁を組んだ集会なり組織なりの中核人物だろう。
『なら今すぐここで死んでみるか?』
 ビリーは前園の身体を強制的に立たせ、記憶を探ってキッチンへと向かう。
 前園の恐怖が手に取るように分かるが、同時に既視感を感じているのも知覚できる。
 神使と言われる相手は肉体を操作する。
 何の為に?
 瞬間、無数の自殺体と肉体操作が一本の線で繋がる。
『デザイナーズだけは死なずに済むと思ったか? 貴様らは一体何をしていた』
 「あら、お坊ちゃま」と、デザイナーズのノーマルのメイドたちが広々としたキッチンで道を開ける。
「……やだ……にたく……ない……」
 声にならない声で前園が漏らす。
『なら言え。貴様らは一体何をしていた』
 前園の目を通じてキッチンの上のナイフが目に映る。
 それが何を意味するか悟った前園が声にならない悲鳴を上げる。
『他人を殺しておいて自分が助かりたいとは、素晴らしい理念だな。いっそ兵士になろうとは思わなかったのか?』
 機械音声というのがより恐怖を掻き立てるのだろう、前園が失神しそうになりながら視線を彷徨わせる。
『話せ。お前を救えるのは俺だけだ』
 メイドに見つからないようにフォークを手にして、元来た部屋へと戻る。
『無理だ! 神使は、少彦名は神なんだ!』
 その声にならない叫びと同時に、光の速さで襲い掛かった攻撃ツールを防壁で無効化する。
 ツールはロシア製のサイバー兵器で、FSBなどが用いる殺傷能力の高いものだ。
『ヤツらに従えば次に死ぬのはお前だ』
 ビリーの言葉に前園が逡巡するかのような表情を浮かべる。
『神使たちは脳を焼けるし、身体も操れる』
 前園の脳に天使のようなテクスチャーで着飾った男の姿が映る。
『今、貴様を操っている俺に出来ないとでも思うか? 貴様、一万コインで一体何を見た』
 ビリーは前園の目にフォークの先を突きつける。
『ゴーストの旅立ちだよ! 凄いんだ! 死にかかっている人間と同調して、その死を体験するんだよ!』
 興奮した様子で前園が脳裏で語り出し、脳内で感覚が再生される。
 臨死体験には幾つか説があるが、側頭部のシレビウス裂の電気刺激とエンドルフィンの大量分泌により、脳が完全にトリップしているという事に違いはない。
 前園の脳裏で何人もの男女が、身体を操られ、必死の抵抗を試みながら死へと旅立っていく。
 臨死体験のフィーバーを体感できるのは、意識が切れてから死ぬまでのほんの数秒だ。 
 ――悪質な遊びをしやがる――
 ジャンクスは逃げれば少彦名に身体を操られて即自殺。
 金を払えない者も自殺。
 どちらもいない時はルーレットで死者が決められる。
 だが、上客であるデザイナーズはただそれを鑑賞して楽しむだけだ。
『俺はお前を殺さない。だが、ヤツがお前を見逃すかな』
 ビリーは前園の身体から離れて零番街に戻る。
 相変わらず――自分で造らなかったのだが――空は黒いまま。
 いつでも夜の���まの中央公園に水銀灯が立っている。
「ビリーちゃん、どうだった?」
 リックの言葉にビリーは肩を竦めて見せる。
「ロシア製の御挨拶は貰ったけどな」
 ビリーは前園の脳から抜き出したデータを整理してリックと日葵に渡す。
『人という崇高なる存在にはゴーストが宿る。血と肉に包まれたるゴーストは旅立つ時に初めてその姿を見せる。そのゴーストの輝きが明日への活力をくれるでしょう』
 ゴースト信者だった前園が受け取った真紅のメールにはそう記されていた。
 神使はコアなゴースト信者に同じようなメールを送りつけ、参加者を集めていったのだろう。
「状況ば整理すっと、少彦名ち言いよう輩が人の脳ば操りよって自殺させっちゃね。参加者はそれを見て帰りようが、次は自分の番かも知れんばい。ばってん、脳内麻薬は忘れられんっちゃ。やけん、ズルズルと深みに嵌まってしもたばい」 
 日葵が腕を組んで眉間に皺を寄せる。
「デザイナーズは見るだけってか」
 リックが舌打ちする。
「デザイナーズが死によったら電警ば動くとよ」
 日葵が唇を結んで俯く。
「デザイナーズも俺たちジャンクスも人間だろ! なぁビリー!」
 リックが両手の拳を握りしめる。
 単純な殴り合いだけならフリッツでさえ圧倒する、リックの拳が震えている。
「俺たちも相応の覚悟を決めなきゃならねぇって事か」
 ビリーは虚空に少彦名のテクスチャーを透かし見る。
 この悪辣なシステムの考案者と、一方的な受益者には相応の制裁が必要なはずだった。
  〈3〉
  「招待状だ。御神楽とやらからだ」
 マリーの真冬の断頭台より冷たい声がバックヤードに響く。
 真紅のテクスチャーがビリーに放られる。
 どうやら集会は『御神楽』という名前だったらしい。
「俺の分はねぇの?」
 リックの言葉に��リーは答えない。
 ビリーは警戒しつつテクスチャーのメールに視線を落とす。
『今宵、紅き月が輝く所に来られよ。そこがお前のゴーストの旅立ちの地となる』
 零番街に空は無く、コードを書くべきBIOSも設定していない。
 零番街で星が目視できるのはプラネタリウムだけだ。
 遠い昔、マリーと一緒にデタラメな星座を作って遊んだ思い出の地。
「どうすんだ? 本当にビリー一人でいいのか?」
 銀二が不安げにマリーに問う。
「ヤツは参加者の脳に爆弾を仕掛けている」
 マリーが参加者の脳に仕込まれた、NMを熱暴走させるプログラムを表示する。
「でもさぁ、それって、ビリー一人を行かせても根本的な解決になんないんじゃない?」
 珍しく沙織がマリーに異議を唱える。
「ビッグ・アップルの計算では、ビリーが行かなければこの事件は解決しない」
 マリーが文字の羅列を追うように口にする。
「分かった。俺が行けばいいんだな」
 ビリーの言葉にマリーは答えない。
 仲間たちに背を向けてビリーはバックヤードを出る。
 ビリーは支配下にあるスーパーコンピューターをアイドリング状態にして、プラネタリウムに向かう。
 プラネタリウム自体には電磁的な障害や防壁の類はない。
 入口の直立した狐面のAIに招待状を渡す。
 プラネタリウムの内装は、大きな寺か神社を思わせる荘厳なものに変えられていた。
 角灯のぶら下がった天井は星空ではなく鳥獣戯画のような宗教画で、古代建築のような赤い門柱の間にも似たような絵が飾られ、提灯がそれを照らし出している。
 ビリーが席に座ってからしばらくすると、性別も年齢もバラバラな人間が集まり出した。
 これだけの人間がゴーストを信じている――選民思想を持っている事には驚きだ。
 始まりを告げる仰々しい笙の音が響く。
 あのデザイナーズの前園もこの中にいるのだろうか?
 天井から翼を広げた天使ような姿のテクスチャーが舞い降りて来る。
 が、本体のアバターは直下でステルス状態を保っている。
 光の輪に包まれ、一際大きな翼を広げた天使「少彦名」のテクスチャーが出現する。
「時は満ちた。同胞の旅立ちを、共に味わう御神楽が」
 歌うように少彦名が言う。
 ビリーは少彦名を走査しようとする。
 少彦名の目がビリーを捉える。
「零番街のガーディアン、ビリー。今日、古き神は地に落ち、新たなる神が誕生する」
 天を仰ぎ、両手を広げた少彦名の前に、両脇を固められた一人の女が連れて来られる。  
 寺川ゆかりだ。
 ――この神使様は何を考えてやがる――
 ビリーはゆかりから目を逸らして少彦名を走査する。
 確かに腕は立つらしく、世界の堅牢なサーバーを経由しているが、既に一度最終防壁まで確認している。アバターと双方向からの走査で本人を特定する。
 目黒区在住の十四才。世良時雄。無償学校へは通学していないため文盲。
 極め付きのネットジャンキーだ。
 瞬間、ビリーの脳裏を過るものがあった。
 それは四年前――
『JACK・BOXって超絶電脳技師の集まりなんでしょ? 僕もハッカーにして下さいよ』
 ――あの時、俺は何と言ったか?――
『まずは学校へ行って文字を覚えろ。電脳技師はなるモンじゃない、なってるモンだ』
 世良の脳から参加者の頭に埋められた爆弾のスイッチを奪わなくてはならない。
 システムは単純で、世良が死ぬか防壁を起動させるかの二通りだ。
 仮想ドライブに世良のブレインマッピングを走らせ、参加者に連結する。
「ビリー、新時代を共に祝おうではないか」
 スポットライトがビリーの姿を照らし出す。
 世良の集合住宅のシステムを掌握する。
「俺はお前に馴れ馴れしく呼ばれる覚えはないんだがな」
 ビリーは立ち上がって世良に相対する。
 ビリーの防壁には傷一つなく、世良の首にはもうこちらの手がかかっている。
「素晴らしい腕だよ、ビリー。君の旅立ちがどのようなものか是非見て見たいものだ」
 世良が手を叩いて言う。
 自分は何か見落としているのだろうか?
 爆弾解除の手は打ち、いつでも世良を掌握できる。
 VR空間で人質もなにもあったものではないが、ゆかりが縋るような視線を向けて来る。
 ビリーはツールを飛ばしてゆかりを拘束している二人のアバターを消滅させる。
 瞬間、それを合図にしたかのようにゆかりの身体を包んでいた布が床に落ちた。
 ビリーは目を見開き、眩暈を、続いて嘔吐感を感じる。
 VR上の疑似感覚だけではない、肉体にまで直接ダメージを与えて来るこれは……。
 ぶら下がる二つの脂肪の塊――巨乳だ。
 ビリーはその圧倒的な視覚的凶器を前に床に膝を着く。
 生身が過呼吸を起こしたのが分かる。
 理由は不明だが、物心がついた時にはビリーは自力ではどうする事もできない巨乳恐怖症だったのだ。
 目を逸らす為床に顔を押し付けようとするが、強制的に顔を上げさせられる。
 巨乳の毛穴が広がり、ぷつり、ぷつりと脂肪の塊が肌に浮かび、溶けた脂肪が床を流れて、命あるもののように自分の方に向かってくる。
 ビリーは床を這って後ずさる。
 あらゆる電脳ツールが使用不能になっているばかりか、ネットワークからも切り離されている。
 ――これは電脳麻薬だ――
 ビリーの目の前で、床に広がった脂肪の中から押し潰された巨乳が生えて来る。
 巨乳に付随して女体が現れ、粘液状の脂を滴らす。
 新たな巨乳が出現する。
 電脳麻薬の見せる幻覚だと解っていても、バッドトリップしている状態では成す術も無い。
 ビリーは無駄だと知りつつプラネタリウムの外を目指す。
 半円形の座席から立ち上がるのは――
 巨乳、巨乳、巨乳……。 
 出口を目指してよろけながら、ビリーはリアルの肉体が過呼吸と嘔吐で喉を詰まらせるのを知覚する。
 ――このままだと死ぬ――
 自らの恐怖のイメージが増幅され、脳のNMに過負荷がかかる。
 恐怖すればするほど脳を傷つける事になる。
『自殺させようと思ったら麻薬だけで自爆するのかい?』
 遠くから笑い声が響いて来る。
 通路を阻もうとする巨乳を押し除けようとして手を引っ込める。
 触れる事さえおぞましい巨乳が包囲の輪を縮めて来る。
 呼吸が浅くなり、脂汗が顎を伝う。腰が抜けて立つ事が出来ない。
 巨乳は天井からも壁からも這い出して来る。
 巨乳から滲み出た粘液が足に触れる。
 硫酸を浴びせられたかのような煙と臭気が漂い、全身を言葉にならない痛みが駆け抜ける。
 巨乳の滴が肉体に滴る度に肉が焼ける。
 肉が削げて骨が露出し、その骨も浸食されていく。
 抗いようの無い巨乳の中、霞がかかったように何も考えられなくなっていく。
 痛みすら超えて、原始的な恐怖以外何も感じる事ができない。
 目も鼻も耳も、脳さえも溶け落ちて……。
 突然、何かがショートしたように全ての知覚が閉ざされた。
   首筋が痺れ、脳が電極を押しあてられたように痺れ、更に脳が攪拌されるかのような、全身の感覚器が反乱を起こしたかのような感覚に囚われる。
 全身が痙攣しているのか、それともそう感じるだけなのか。
 
  ビリーは目を開いた。
 何の事はない、自分の部屋だ。
 一体何があったのか――思いかけて、自分が世良の電脳麻薬で自我崩壊を起こしてNMが暴走して脳死した事を思い出す。
 間違いなく自分は一度死に……何か衝撃を受けて……。 
「師匠! 無事やったと?」
 声の方に顔を向けると、膝を着くアンドロイドの姿がある。
 見た目は集合住宅備え付けの医療アンドロイドだが、その声は日葵のものだ。
 日葵が自分を生き返らせたという事なのだろうか?
 だが、そのような技術はこの世界に存在しないはずだ。
 世良の電脳麻薬のトリップで一時的に記憶が飛んだだけなのだろう。
「日葵、俺がトリップしてたのはどれくらいだ?」
 裕司は苦々しい思いでプラネタリウムを思い出す。
 人間は最も恐怖するものから目を逸らせない。
 世良は寺川ゆかりの巨乳のテクスチャーを、電脳麻薬のコードで書いていたのだ。
 通常の人間なら見た所で裸の女としか思わなかっただろう。
 だが、恐怖のあまりフォーカスしてしまった為、スーパーコンピューターで数千万倍に拡大していた知覚野がその微細なコードを読み取ってしまったのだ。
「師匠が倒れちょったんは二分くらいとね。師匠とのアクセスが急に消えたけん、これはえらかこつ起こりよったち思たばい。やけん、うち、こん据え置きの医療用アンドロイドば拝借したっちゃね」
 日葵が解毒してくれたのか、次第に意識が明瞭になっていく。
 日葵の登場は世良にとっては予想外だったはずだ���
 世良は確かに逃れようのない最大最凶の兵器を使ったが、同じ手を二度も食らうほど無能ではない。
 そして切り札を使った今、世良には自分を傷つける事のできるツールは無い。
「日葵、来てくれるか」
 ビリーはいつの間にか抜けていた自室のプラグを首に接続する。
「よか! うちが師匠ば守っちゃるばい!」
 身体にかかっていた重力が消え、零番街の上空に日葵と共に出現する。
 ビリーは日葵に仮想ドライブを任せ、再びプラネタリウムへと降り立つ。
 今回は巨乳避けのフィルター付きサングラスを装備している。
 このフィルターがあれば八三センチを超える巨乳は一切知覚されない。
「世良、乳にコードを仕込むなんて良く考えたじゃねぇか」
 アバターを立ち上がらせたビリーは、サングラスの下で世良を睨みつける。
 突然復活したビリーを見て観客たちがどよめく。
 世良が何かアバターを出現させたようだが、サングラスがその姿を消している。
 何をしているか察しはつくが、その手はもう通用しない。
 ビリーは世良に向かって歩を進める。 
 天使の羽根が舞い散り、輝きながら光条となってビリーに襲い掛かるが、派手なのはテクスチャーだけで中身は雨粒のようなものだ。
「俺についちゃ良く研究したみてぇだな」
 ビリーは世良のテクスチャーを全て粉砕し、痩せぎすの少年――世良時雄――を出現させる。
 世良が驚愕した様子で自らの手足に目を向ける。
「リックでも、とっつぁんでも引っかからねぇ姑息な罠だ。だから俺を指名した」
 世良が目を見開いて後ずさる。
 世良はコードで遊ぶのが好きだった訳ではない、電脳技師の肩書とJACK・BOXのクルーを倒したという名声が欲しかっただけだ。
 ビリーは世良の頭からコードを抜き取って表示する。
「コイツは死に際の痛みや恐怖をフィルターにかけて、純粋に脳内麻薬を楽しめるようにしたモンだ」
 言いながらビリーはコードを書き替える。
 その意味する所を知った世良の顏が蒼白となる。
 ビリーは今、リアルの世良が見ているもの、感じている事を参加者全員に見せつける。
 身体を操られた世良は集合住宅の八階の廊下に立っている。
 観客たちは早くも悲鳴を上げ、プラネタリウムから脱出し始めているが、ネットに強制接続されているのだから逃れられる訳も無い。
「この高さで死ぬ確率は七割くらいだ。ゴーストにでも祈るんだな」
 世良の身体が手すりに上がる。
 デザイナーズ含めて観客は恐慌状態だ。
 物理的にプラグを抜いてもwifiで繋げてあるから逃げ場も無い。
「……世良、人は願った通りじゃなく、動いた通りの者にしかなれねぇんだ」
 手すりの上で世良の身体が揺れる。
 ――『僕は最強の電脳技師になりたかった』――
 風が吹き、少年の細い身体を運び去る。
 プラネタリウムに二百の絶叫が満ちる。
「師匠、これで良かったと?」
 日葵の声にビリーは頷く。
 ビリーが書き換えたコードは、脳のNMが取り出されでもしない限り世良の死の恐怖と痛みがループするというものだ。
 一方向から見れば参加者は被害者だが、誰でもこの凶行を止める事ができたと考えれば全員が加害者なのだ。
 ビリーは日葵の肩を抱いてプラネタリウムを後にする。
「……日葵……お前が居なかったら俺は死んでいる所だった」
 リックと二人で来ていても、世良は倒せても自分を物理的に救出する事はできなかっただろう。
 咄嗟に集合住宅の医療用アンドロイドをハックするという発想が無ければ、世良は門前払いされたという数年越しの恨みを晴らせていた訳だ。
「ありがとう、日葵」
 ビリーは後ろから日葵の細い身体を抱きしめた。
 ――あの日感じた日葵の強い想いを、今、俺も共有している――
   
 人間にゴーストが宿るか?
 それは神の実在を科学的に問うに等しい。
 観測されればそれは科学であり、観測されなければ存在しない。
 カークはメガネを外して目頭を揉む。
 生命体は自己保存と種の存続というプロトコルを持っている。
 突き詰めれば遺伝子配列も更に細かい原子によって構成されるものだ。
 原子は常に電気的安定を必要とし、結果として質量を増して別の元素になったり、分子として別の振る舞いをするようになったりする。
 つまりは電気的な安定を生み出す、状態の保存という事が生命が存在する以前の原初のプロトコルなのだ。
 人類以外に知的生命体が存在するとして、それが地球上の生命体のように有機質のもので無かったとしても、このプロトコルに沿っていればそれはどう見えようと知的生命体であるし、互いに気づかぬうちにファーストコンタクトどころか共生している可能性もある。
 神がいるなら、それこそそのプロトコルを書いたものであり、人類が感知する事のできない絶対的な超越者だろう。
 今回零番街で起きたカルト教団による事件は、そういった事実に目を背けた者たちの空想的逃避であったのかもしれない。
 だが、一度崩壊したビリーの自我がどのようにして復元したかには疑念が残る。
 外部脳であるスーパーコンピューターに蓄積された記憶と思考パターンがリバースし、NMによって損壊したシナプスを補い状態を回復させたのか。
 カークはスキャンしたビリーのブレインマップを眺める。
 これを言葉で表すなら生身のサイボーグだ。
 これが希代の発見になるか、与太話になるかは今後の彼次第という事になるだろう。       
           
       
 裕司は床の吐瀉物を拭いた布を丸めて窓から捨てる。
 しばらく臭いそうだが仕方が無いだろう。
 ――あの時日葵が突入していなかったら――
 あの電脳麻薬の悪夢の中で自分は死んでいたのだ。
 バンダナを握ったまま、床についたアンドロイドの足跡を見つめる。
 今、ここにいるような気がするが、日葵は西の彼方にいる。
 裕司は頭を振って頭にバンダナを巻く。
 ひしゃげたドアは、夜のうちにやって来た修繕アンドロイドが新品と交換して行った。
 七月を前にして気温は五七度まで上がって来ている。
 今年の夏は六十度を超えるかもしれない。
 裕司はいつもの通学路を歩いて茜との待ち合わせの公園に向かう。
「裕ちゃん! 裕ちゃん!」
 何やら慌てた様子で茜が手を振っている。
 裕司はいつも通りゆっくりと茜に歩み寄る。
「おはよう、茜。どうしたんだ?」
 裕司の言葉に茜が頬を膨らませる。
「裕ちゃんニュース見てないの! トップニュースだよ!」
 茜の興奮から察するに昨夜の事件の事だろう。
 デザイナーズも巻き込んだから扱いが大きくなったに違いない。
「俺は学が無いからな」
 裕司は肩を竦めて頭を振る。
「自殺を体験するカルト教団のプログラムが暴走して二百人も廃人になったんだって!」
 一息で言い切る茜の鼻息は荒い。
「自殺の体験なんかしたいか?」
 裕司は茜に訊ねる。
「嫌だよ。そんなの。怖いし、人が死ぬのを見るなんて悪趣味だよ」
 茜の言葉に裕司は軽い笑い声を立てる。
 ――そうだよな、それが真っ当な神経ってもんだ――
「どうしたの裕ちゃん、ニヤニヤして」
 茜が顔を覗き込んで来る。
「俺が世界大統領だったらさ」
「そんなのないじゃん」 
 茜が小さく笑う。
「茜に一等賞をやれるかなって」
 裕司は茜に笑みを向ける。
「一等賞って何の?」
 茜が怪訝な表情を浮かべる。
「それは茜が茜だから。以上」
 裕司はちょっとだけ偉そうな口調で言って通学路を歩く。
 茜のような良識の持ち主が増えれば、世界はきっとハッピーだ。 
 
 
DIVE5 GHOSTS SWAGGER THE STREETS
      ~影が日向になる日~
       
〈1〉
  「ありがとうございました」
 裕司は肩で荒く息をつきながらも、ソムチャイに両手を合わせる。
 分厚い雲を通したピンク色の太陽が、荒川の川面を亡羊と照らしている。
「ありがとうございました」
 ソムチャイが息も乱さず礼をする。
 ムエタイの修行、それは果てしない。
 VR空間が無限であるように、人間の内面も無限である事を痛感させられる。
 ソムチャイが凍える夜気の迫り始めた川に目を向ける。
「裕司、過去は追ってはならない、未来は待ってはならない、ただ現在の一瞬だけを強く生きねばならない。仏陀の教えだ」  
「はい」
 裕司は短く答える。VRでもログを漁るだけで一生笑って、他人を嘲って暮らせるだろう。無数の演算装置で弾き出された未来を眺めるのは、SF映画を無限に鑑賞するようなものだ。      
 だが、そこに留まっているという点で両者に違いはない、
 思索とそれに伴う行動が人間を作るのだ。
 正しい道標は必要だろうが、幸い自分にはソムチャイと茜がいる。
 JACK・BOXの仲間たちも友であり師でもある。
「裕司、俺はこのままで良いのだろうか?」
 ソムチャイの言葉に裕司は内心で首を傾げる。
 修行僧のようなソムチャイがそのような事を言い出すのは珍しい。
「修行……ですか?」
 裕司の言葉にソムチャイは頭を振る。
「何かが起こっている。その正体が分からぬ」
 ソムチャイの目が遠く高架を走る車に向けられる。
 裕司もその視線の先を追う。
 自動運転の車の座席は対面式で、向かい合ったデザイナーズの男女が談笑している。
 ソムチャイはそもそもが戦闘特化のドミニオンだ。
 生身でも裕司の塔載したNMを遥かに超える感覚器を備えている。
「あの御仁は誰と話している?」
 訝るように言ってソムチャイが水行の為に川に入っていく。
 裕司は内面と向き合うソムチャイの真意を知る事はできない。
 だが、ソムチャイが何かが起こっているというのなら、それは限りなく黒に近いグレーに違いないのだ。
 裕司は汗を流す為にソムチャイに背を向けて自宅のある集合住宅に戻った。
  『……トリクルダウンの成果により、福祉の拡充は右肩上がりとなっており、神国日本の人口は過去最大を数えており……』
 四番街の自宅。父親の見ているニュースからそんな声が聞こえて来る。
 上機嫌の父親はいつもは飲まない食前酒を傾けている。
 造ってやろうと思えば大吟醸だろうが何だろうが一瞬で作ってやれるが、相良家の裕司くんは零番街に出入りなどしないのだ。
「父さん、何かいい事でもあったの?」
 裕司は父親に酌をしながら尋ねる。
「プラントの増設が決まってな。父さんは新プラントの施設長になるんだ」
 人口が増えているのだから、プラントの増設は当たり前だ。
 もっともそれはジャンクスがネズミのように増えているという事になるのだろう。
 地球の富の九割はデザイナーズの頂点、〇・二%が握っている。
 そして地球人口の九割以上が一切の富を持たないジャンクスだ。
「ウチも新しいインターンを雇ったけど……しばらくは様子見ね」
 母親が煮込みハンバーグとポテトサラダをダイニングテーブルの上に乗せる。
 材料を組み合わせて調理するというのは、テンプレートに忠実でなければならない。
 そうでなければ、ニンジンならニンジンとして書かれているソースコードが崩れるからだ。
 従ってVR空間で作るものは構築でない限り、厳密には母の味という訳ではない。
「頂きます」
 家族三人で食卓を囲む。
 頭では解っていても母親の作る煮込みハンバーグはやっぱり母親の味だ。
「裕司、電脳街でも彼女は見つからないの?」
 案ずるような口調で母親が訊ねて来る。
 最近、ベビーブームと相まってやたらとこのような話題が増えた気がする。
 ――俺にはマリーが……――
 思いかけた裕司の脳裏に日葵の明け透けな笑顔が映る。
 一度目はRBPで、二度目は榛名シティのビルで、三度目は自宅で自分を助けてくれた弟子。
 自分は固定観念に囚われて、本当に大切なものを掌から落そうとしているのではないだろうか。
「……恋はしてるみたいね」
 母親が微笑みを浮かべる。
 電脳加速を生きている自分から見れば、両親が過ごしている時間は数万分の一といった次元で自分はもう仙人のようなものだ。
「まぁ……それなりにね」
 だが、血を分けた親という存在である事に変わりは無いし、可能な限り幸せなまま長生きして欲しいと思う。
 だからメディカルチェックも兼ねて毎日顔を出しているのだ。
 夕食を平らげた裕司は自室に戻る。
 ――零番街に帰るために―― 
       
    
「よう、ビリー」 
 いつも静かなソウルケイジにフリッツの声が響く。
 ネットジャンキーは街をウロついているが、真っ当な少年たちがログインしてくるのはしばらく先の事だ。
「こんな時間から珍しいじゃないか」
 ビリーはフリッツに向かい合うようにしていつものボックス席に座る。
 グラスを構築し、中身をバーボンで満たす。
 フリッツのグラスの中でも琥珀色の全く同じ液体が揺れている。
「人払いも面倒だ」
 フリッツの真面目腐った顔にビリーは苦笑を浮かべる。
 フリッツが邪魔だと言っても、護衛は常に付きまとう。
 それもキングのキングたる役目の一つだ。
「で、今日は何の用なんだ?」
 最近は手を借りる事が多かったが、フリッツから依頼される事も少なくない。
 フリッツはテーブルを撫でてオセロを出現させる。
「一局どうだ?」
 ビリーは了解の代わりに肩を竦める。
 フリッツと遊ぶ時は互いにスーパーコンピューターなどの外部脳を使わない。
 互いのコンピューターがアルゴリズムで計算を始めて、人間同士の戦いにならないからだ。
 ビリーの白が領土を広げ、フリッツの黒が崖っぷちに立たされるかのような図式が生まれる。
「零番街はマリーとお前が見つけた虚数空間で、お前らが入る事で複素数となって零番街を出現させた」
 何かを確認するようにフリッツが言う。
「ああ、観測者であり実数である俺たちが入る事でOSとなる零番街が構築され、お前や沙織や銀二のとっつぁんなんかでそれらしくした」
 リックがやってきたのは、それからしばらくしてからの事だ。
 圧倒的白の優性の中、黒が今にも浸食される離れ小島のようになる。
「今開かれてるパスと外の街との間では常時言語が変換され、フィルターがかかっている」
 フリッツが淡々と駒を置く。
「内部で別言語でコードを書く事もできるけど、零番街の中でそれを運用する時は仮想ドライブって扱いになる」
 ビリーはオセロの盤上を見て苦々しい気分になる。
 真っ白に漂白されたかに見えるが、白が黒をガードしており、もう白を置く場所がない。
「基本的に零番街の利用者はビジターだ。それがお前らがお前らの言語で書いたコード」 
 フリッツが黒を置いた瞬間、真っ白な盤面が切り裂かれる。
「ああ。制御系は今はビッグ・アップルになってるけどな」
 ビリーは切り裂かれた盤面を睨む事しかできない。
「パケット方式で零番街が浸食されると考えた事は?」
 フリッツの置いた黒が白をドミノ倒しにしていく。
「どっかの軍隊なら考えるかも知れないけどな。仮に零番街を制圧してどんなメリットがある?」
 確かに日本の電警が手を出して来た事はあったが、あくまで利潤を生みだす空間としてであり、基幹OSや言語が何であるかも理解していなかった。
 零番街が容易ならざる存在であると知れば、サーバーを大量生産して新しい街を作った方が合理的だ。
「いや、最近零番街も人が増えたと思ってな」
 白を殲滅しながらフリッツが窓の外に目を向ける。
 程よい時間という事もあって、往来に人の影が増えている。
 零番街には一つの仕掛けがある。
 セキュリティ対策の為でもあるが、リアルとリンクしていなければ、零番街に出現する事ができないのだ。
 持ち込めず、持ち出せず、零番街は完全な内部循環システムなのだ。
「もう少しネガティブキャンペーンをした方がいいのかもな」
 両手を広げたビリーの目の前で盤面が漆黒になる。
「それで済めばいいがな」
 フリッツがグラスを空にして立ち上がる。
 フリッツの疑念は人が出入りしているのではなく、零番街の中で人の形をしたシステムが増殖しているという事になるのだろう。
 だが、リアルとのパスが切れればウイルスと見なされて消去される。
 それも最大最強のビッグ・アップルに。
 ビリーはグラスを空けてJACK・BOXに向かった。
  「ビリー、こんな時間に来るとは珍しいな」
 ビリーがJACK・BOXに出現すると、銀二が一人カウンターでショットグラスを傾けていた。
「来る前にフリッツと世間話だ。アイツにもガス抜きが必要だろ?」
 ビリーは銀二に並んで腰かける。
「ま、忙しいに越した事は無ぇさ。それよりあと沙織が居れば丁度いいんだがな」 
 銀二が言うと、カウンターに婉然とした笑みを浮かべる沙織が出現する。 
「アタシが揃うと何がある訳?」
 沙織が艶やかにワイングラスを傾けるのとは対照的に、銀二が険しい表情を浮かべる。
「古い顔が揃った所で話がある。沙織、お前が造れる最強の防壁ってのはどれくらいまで耐えられる?」
 銀二の言葉に沙織が眉間に皺を寄せる。
「発電所とサーバーが動いている限りはどんな攻撃でも防げるけど」
 沙織の言葉に銀二が表情を和らげる。
「ここよりバックヤードの方が都合がいい」
 銀二が先に立ってマリーが佇むバックヤードに向かう。
「創立メンバー集結って所ね」
 無表情なマリーを一瞥して沙織が言う。
 瞬間、世界が閉じた。
 ビリーが繋がっていると感じていたものの全てが遮断される。
 バックヤードである事は確かなのだが、肉体との接続がどうなっているのかすら分からない。
「で、銀さん、話って何?」
 沙織が銀二に訊ねる。
「沙織、これは……」
 ビリーは知覚可能な限りの力で周囲を走査しながら尋ねる。
 防壁どころか、バックヤードが認識不可能な世界を漂っている。
「内緒話、したかったんじゃないの?」
 沙織の言葉に臆した風も無く銀二が頷き、一枚の厳重にプロテクトのかかったメディアデータを頭から抜き出す。
「どうすれば持ち込めるか考えてな。記憶に空白を作ってそこに突っ込んできた」
 銀二のジェルとNMで造られた脳は忘却という事ができない。
 全ての事象を完璧に記憶し続けるのだ。
 忘れたい記憶はメディアに移して物理的に破壊するしかない。
「……そうだな、俺が世界でただ一人の完璧なサイボーグだって話は……ビリーにはまだしてなかったか」
 銀二の傍らでメディアを再生するためのプログラムを沙織が構築する。
「サイボーグって結構いんじゃねぇか?」
 ビリーの言葉に銀二はこめかみを突く。
「ここを完全に機械化しちまうクレイジーな野郎は、俺の後にも先にも現れなかった」
 メディアを沙織に任せた銀二が口元に苦い笑みを浮かべる。
「もう二十三年も前か、ファーストジェネレーションが人間の不死化を試みた。正確には時の政権に命じられたんだな。人間の脳は知っての通り集積回路だ。スキャンしてROMの上で走らせりゃそいつは生きてる事になる」
 銀二の言葉にビリーは頷く。それと同時に一つの疑念を禁じ得ない。
「でも、とっつぁんよ、それはクローンって言わねぇか?」
 ビリーの言葉に銀二は笑みで頷く。
「そうだ。全く同じ考え方をする人間が同時に二人存在し、一方は太陽フレアの直撃でも食らわねぇ限り死なねぇんだからな」
「じゃあとっつぁんの脳ってどうなってんだ?」
 ビリーは訊ねる。NMとジェルでできており、なおかつ現在も成長を続ける脳。
「ファーストジェネレーションの出した答えはこうだ。脳の回路を丸ごとNMで置き換えて、成長可能なシリコン状のジェルに移す。まぁ、理論的には問題ねぇし、動物実験も成功。後は臨床実験って段階になった」
 銀二の述懐にビリーは身を乗り出す。銀二がサイボーグ中のサイボーグというのは知っていたが、脳味噌まで完璧に機械化しているとは思いもよらなかった。
「当初は政治家や企業家やヤクザをサイボーグにして、半永久的に日本を支配する、そういう方針だった。だが、臨床試験でエリートでも何でも無い人間が、不老不死になったんじゃ都合が悪い。かと言って、当時の倫理観で言えば、NMに置き換えられた回路は本人なのか、本人のように振る舞うだけの機械なのかってぇ判断が、連中にゃできなかった」
 確かにビリーにしても微妙な線だというのが率直な感想だ。
 肉体の中にある間はNMでも本人のように思えるが、取り出してジェルに埋め込んでアンドロイドの身体に載せたのだとしたら。
 ギークは喜ぶだろうが、デザイナーズは嫌がるだろう。
「そこで自愛党はケツ持ちの稲刈会に話を持ち掛けた。稲刈会にしてもチンピラを無敵のサイボーグにする訳にゃいかねぇ。そこで当時の、若くも無かったが若頭の俺、月島銀二が臨床試験の実験台になったんだ。俺なら日本の支配構造は理解してるし、滅多な事もしねぇからな」
 サイボーグの銀二の年齢は四十代といった所だ。
 見た目は変わらないにしても、既に七十才は超えているという事になる。
「それでとっつぁんは、デザイナーズに顔がきくのか」
 ビリーの言葉に銀二が苦笑する。
「ご意見番程度だ。サイボーグだどうだって話をしてるうちに、デザイナーズがバンバン生まれたからな。機械の繰り言は所詮は機械の繰り言でしかねぇ。最近の輩のやる事にゃさすがについて行けねぇし、奴らも期待して俺に話をする訳じゃねぇんだろうけどな」
 銀二は若頭でサイボーグになっていたのだから、年代的に考えればデザイナーズの子孫を残す事も可能だったのだ。
 それが忘れ去られたテクノロジーの遺物になってしまっているのは、あまりにも残酷な話というものだ。
「とはいえ、あの頃はVR空間なんて充実しちゃあいなかったし、俺もリアル世界で生きて行かなきゃならなかった。で、引退して割烹を始めた。不死身の人間が組織で幅を利かせたら間違いなく抹殺されるからな」
 銀二が沙織に目を向ける。作業自体はもう終わっていたらしい。
「じい様たちから引き継いだ手前、連中も俺を無碍にはできねぇ。そこで年に何回か仕出しを頼んで来るんだがな」
 畳にしたら八十畳はあるだろうか。
 リアルの和風建築の広間は、黒い膳と座布団でコの字に囲まれている。
 ざっと見た所で二百人が会食する、何か大事な席であるらしい。
 映像が――銀二の目は基本的に2Dのため――早送りになり、六名が席に着く。
 アンドロイドが立ち働き、六名がてんでバラバラの方向に向かって好き勝手に喋っている。
 無数の膳が熱を失い、言葉にならない喪失感を感じさせる。
「俺は業界に仁義を切ってる以上、生身で会う時は基本的にスタンドアローンになる。目の前に相手がいるのに、勝手に通信したんじゃ無礼に当たるからな。で、このデータが脳に残っていた」
 ビリーは初老とも言えるデザイナーズを見るが、オフラインであるため誰が誰かさっぱり分からない。
「自愛党幹事長高浜豊彦衆議院議員を筆頭に自愛党から八人、稲刈会から本部長と若頭補佐の二人ね」
 沙織がビリーの質問を先取りして言う。
「まぁ、こんな感じのデータがこの半年で二十件だ」
 銀二が言うと沙織が映像を画面分割して表示する。
 数えるほども人のいない宴会に、数百人を賄える料理が饗されている。
「大事なものを見たと思っちゃいるんだが、どういう訳かネットにつながると忘れちまう。昨日の仕事で忘れるといけねぇと思って、厳重にロックかけて自分でも分からねぇようにその証拠隠滅をして、どうにか持ち込んで、今、見ながら思い出してるって訳だ」
 銀二の言葉に沙織が腕を組んで映像を見つめる。
 沙織はこの途方もない防壁の外と繋がる事ができているのだろうか?
「アタシまで切れたらあんたら帰れなくなンでしょが。に……しても……ヤツらの記憶の中じゃ全員参加してるし」
 沙織が細い顎を摘まむ。
 ネットに繋がれない以上、ビリーは推察するしかない。
「VR宴会だったんじゃねぇの?」
 デザイナーズがVRとリアルを同期させてパーティーというのはよくある話だ。
「任侠ってのは序列を重んじる。形だけでも俺は奴らの親だ。親に飯の面倒見させて自分は来ねぇなんて筋の通らねぇ話があるか」
 銀二が壁を睨みつけるようにして言う。
 確かにVR宴会に二百人のリアル食材とOBの手料理は必要ない筈だ。
「こいつらリアルタイムハックされてたんじゃねぇのか?」
 ビリーが言うと沙織がため息をつく。
「何の為にパーティーや宴会開いて、たかだか十人をリアルタイムハックするのよ? そもそも、映像に無い連中にも参加の記憶があんのよ?」
「ンな事言われても、俺は今何も見えねぇんだよ!」
 ビリーは腕を組んで座り込む。
 ネットに繋がっていれば幾らでも検索のしようがあるが、現状では憶測すらできない。
「この防壁から出たらアウトよ。あんたでもね」
 何かを警戒するように沙織が言う。
 銀二はネットに接続した途端、この映像の存在を忘れたと言っていた。
 つまり、ネットは、VR空間は既に何者かによって検閲されているのだ。
「それはちょっと違うわね。修正されてるって方が正しいんじゃない?」
 沙織ができの悪い生徒を相手にする女教師のように言う。 
「じゃあ何か? ピンからキリまでもうログが先に書かれてて、俺たちはそれをなぞってるだけだってのか?」
 ビリーにはそれくらいしか思いつかない。
 しかし、そのような事ができるのは文字通り神くらいなものだろう。
「そこまでコントロールはされてないけど……」
 沙織が瞑目して意識を集中させる。
 現在ここで外界と繋がれるのは沙織――もしかしたらマリー――だけなのだ。
 ビリーは知恵を絞ろうとするが、人間の脳の処理能力の小ささを痛感するだけだ。 
 頭を抱えているうちに、ふとソムチャイの言葉が脳裏を過る――『あの御仁は誰と話している?』――初めて見たという口調では無かった。
 ドミニオンの戦闘特化デザイナーズのソムチャイは単純な身体能力だけでなく、あらゆる感覚において人間を超越している。
 そしてソムチャイは日常的にネットに繋がらず、VR空間にもたまにしか訪れない。
 自分がNMでズームして見た男女のうち、ソムチャイの肉眼では女の方は見えていなかったのだ。
 ――俺がリアルタイムハックされている?――
 信じられない、信じたくない話だ。
 仮にそうだとしても、沙織相手ならともかく、銀二に乗っ取られたなら気付く自信がある。         
 当事者を欺瞞し、どこで見ているかも分からない周囲の者の脳まで操作するなど、人間業とは思えない。       
 ビリーは日常風景を思い出す。
 茜との登下校。単位制高校の在学生は僅か二十三人。
 父親の見ていたニュースで言っていたはずだ――『……トリクルダウンの成果により、福祉の拡充は右肩上がりとなっており、神国日本の人口は過去最大を数えており……』――と。
 福祉が本当に拡充しているなら、まず、今生きているジャンクスの自分たちの食事をチューブから本物の食料品に変えるべきだし、ジャンクスの社会参加の機会を増やしてもいいはずだ。
 そうなれば自然に学生の数は増え……。
 ――俺は茜以外の生徒を知っているだろうか?――
 もし自分がリアルタイムハックされているなら……。
 ――茜は実在するのだろうか?――
 ビリーは足下に巨大な穴が開いたような錯覚に陥る。
 だが、零番街は既存の言語ではない、自分とマリーで作った言語でOSが書かれている。
 もしリアルの全てが嘘だとしても、零番街の中では欺瞞は通用しない。
 ――零番街の創造者である俺の目の前で――
 瞬間、フリッツの言葉が脳裏で再生される――『パケット方式で零番街が浸食されると考えた事は?』
 気付かないうちに零番街も浸食されていたのだとしたら?
 フリッツが零番街に人が増えていたというのと、父親やニュースが人口が増えたと言っていたのは符合する。
 しかし、銀二とソムチャイの目は人を映していない。
 スタンドアローンであれば『何者』かの介入は防げるという事なのだろうか。
 だが、今の地球上の人間で、完全にスタンドアローンでいられる人間などほとんど存在しない。
 だが、ただのジャンクスに過ぎないビリーはVR空間でしか力を発揮できない。
 零番街浸食問題の手がかりが集まりつつある今、スーパーコンピューターを連結してフル稼働させれば、答えは一瞬で出るかも知れない。
 そこまで考えて再びビリーの思考が硬直する。
 自分がクラッキングしたのと同様に『何者』かも同じスーパーコンピューターをクラッキングしている。
 推測どころか確信に近い。これだけ大規模な事をしているのだとすると――全ての端末が掌握されていると言っても過言ではないはずだ。
 この沙織の造った絶対防壁から出れば、自分は今まで通り全ての疑問を忘れてしまう。
「全てではない。ビッグ・アップルは独自に稼働している」
 薄っすらと目を開いてマリーが言う。
「……だが、マリーという人格は既に感染している」
 淡々と、淡い雪が降り積もるようにマリーの言葉が降る。
「マリー……」
 ビリーは立ち上がってマリーと目線を合わせる。
 沙織の造った防壁がミサイルの直撃を受けたかのように振動する。
 巨大な何者かが防壁の存在に気付き、干渉を開始したのだ。
「っしゃあーっ!」
 沙織が拳を突き上げると同時に、意識が二分されたような錯覚を覚える。
「人格防壁沙織Ver1よ」
 沙織が肩で息をし、顎から汗を垂らしているという事は相当な集中力を要したに違いない。
「沙織、何なんだよ、これ」
 ビリーは脳内の思考が反響するような感覚に違和感を覚えて問う。
 防壁の振動で中では立っている事さえ難しい。
 瞬間マリーの手が伸びて手を握りしめて来る。
「裕司! 分かって」
 声が響くと同時にビリーの目の前に宇宙が広がる。
 否、暗く、夜のように見えるのは情報の密度なのだ。
 VRに、否、ネットに付随する全ての情報が大津波のように押し寄せて来る。
 その情報量と流れの速さの中では、何かを見る事もできない。
 人間の処理能力の限界を遥かに超えているのだ。
 情報が整理されたマクロの目に映るのは地球というネットワーク。
 自我が埋没するような感覚の中でビリーは直感的に理解する。
 ――これがビッグ・アップルに繋がるということ――
 沙織の造った防壁はこのビッグアップルの内部に存在する。
 沙織とマリーの制御限界を超えて、今、防壁は押し潰されようとしている。
 マリーが個人を見つけるのは、電波望遠鏡を使って電子顕微鏡を覗くようなものだ。
 人が見えない、想いが見つからない。
 ――分かって――
 マリーがバックヤードで短い言葉を紡ぐ時。
 マリーはどれだけ集中し、どれだけの労力をかけているのだろう。
「分かった! 佐和子!」
 ――届いてくれ!――
 ビリーは叫ぶと同時に崩壊する防壁の中で意識を失った。      
           
「ビリーちゃん、今日何か調子悪いんでね?」
 リックの言葉に、カウンターでシェイカーを振っていたビリーは軽く頭を振る。
 JACK・BOXで知覚可能なアバターは全て本物の人間。
 否、いかに性能のいい機材で解析しようと、VR空間の中では電子情報を詰め込まれたアバターと、生身の人間の���別がつくわけが無い。
 自分が相手をしている客は一体どちらなのだろう。
 AIが自然発生的に人格を持つ事はあり得ない。
 AIは人間が設計したものであり、用途に応じてアルゴリズムが組まれただけの道具だ。
 AIに人格が宿ると考えるのは、江戸時代の人間が箪笥を見て「付喪神が……」と、言っているの全く同じだ。
 従ってAIが人格を持つ可能性は無いが、集積回路が生命を宿す可能性が無い訳ではない。
 プログラ���ーの間では暗黙の了解、禁忌とされているが『生存本能』『自己保存』『種の保存』を入力すれば、人格などプログラミングしなくともCPUはそれを実行する。
 仮に二〇一〇年代に使われていたパーソナルコンピューターという筐体にそのプログラムを入力すれば、人間との対話より生存を優先する事になるだろう。
 PCという端末側では、いかに電源を切られないかという思考をするだろうし、自分の経験をサーバーにアップロードして保存、他の端末にダウンロードして別のバージョンの自分を作り、人間の造るウイルスに備えるだろう。
 結果として人間の発明したコンピューターという存在は、人間のコマンドを受け付けなくなる。
 従って、人間の技術の産物であるAIは幾ら作っても構わないが、生命の原点とも言える本能をコンピューターに与えてはならないのだ。
「師匠、今日は難しか顔しとっとね。どげんしたと? 気分の悪かことあったと?」
 当たり前のようにラーメンを出す日葵が顔を覗き込んで来る。
「日葵は……日葵だよな」
 ビリーは日葵の大きな瞳を見つめる。
「こげんとこで真剣な顔されるちゃ、おかしかけん……やけん……」
 言って顔を赤くした日葵が口ごもる。 
 ビリーは日葵に言葉をかけてやる事ができない。
 日葵は弟子という領域からはみ出しかけている。
 否、自分は日葵に好意を抱き始めている。
 だが、マリーは今日、初めてビッグ・アップルに繋がるという事、それでも自分と話そうと、会おうとする事の意味を教えてくれた。
 ――俺は宙ぶらりんだ――
「あー、もう、二人揃って何やってんのよ。並行処理くらいいつも普通にやってんでしょーよ」
 リックの声にビリーはハッとなる。
 意識しないうちに日葵と見つめ合ったまま硬直していたらしい。
「恋愛は自由だけども、仕事中は自重するべさ」
 冗談めかして言ったリックが仕事に戻る。
 何を信じていいのか、信じられるものがあるのかさえ分からない。
『ビリー、明日ソムさんとフル装備で俺ン家来い』
 直通回線の銀二の声が脳裏に響く。
 銀二の言わんとする所をビリーは理解する。
 ソムチャイはリアルで通用する軍用ツールを保有している。
 VRの自分をリアル世界の情報網に投影させ、ソムチャイの光学迷彩や電波防御ツール、赤外線遮断シールドを使って機械の目を欺いて行動するのだ。
 沙織の造った人格防壁は、表層で自分のアルゴリズムで動く分身を置いて『何者』かの干渉を防ぐものだ。
 防壁は干渉を受けた――記憶や思考が改ざんされた――ように振る舞うが、その内側の自分はそれを見た上で行動できるという訳だ。
 ビリーはカウンターの向こうの人だかりに目を向けて仕事に戻る。
 ――JACK・BOXが戦う集団である事を教えてやる―― 
 
 〈2〉
  「やはり粥も食えんか……」
 ソムチャイの前で裕司が腹を抱えて転げ回っている。
 チューブばかりで消化器官が弱っているのだから当たり前だ。
『裕司、ここから先はハンドサインが出せればいい方だ』
 電脳直結用のプラグを抜いたソムチャイに向かって野戦服に身を包んだ裕司は頷く。
 ビリーが造った『何者』かも使っているであろう、あらゆるリアルのシステムを欺瞞するアバターの動きに問題はない。
 目の前では今もソムチャイと自分が日常を繰り広げている。
 ソムチャイが朽ちかけたガレージから、光学迷彩と赤外線シールドを施したBMWのSUV『X5』を引っ張り出して来る。
 銀二のハンヴィーに比べると非力な感じだが、ソムチャイが防弾を中心に改造を施した戦闘車両だ。
 裕司が助手席に乗り込むと同時に、ソムチャイが電波シールドを車体表面に走らせる。
 裕司はネットから切り離されるのを知覚する。
 装飾を取り払い、機能一辺倒になった助手席の前のディスプレイには、屋根に据え付けられたXM307ACSWに取り付けられたスコープの映像が映り、それをコントロールするための操縦桿が両足の間から伸びている。
 XM307ACSWは二〇〇七年に製造中止になった二〇〇〇年代初期では最強クラスの機関銃だ。  
 25mm対戦車HEAT弾頭を一分間に二六〇発発射可能、対車両及び航空機に対する有効射程距離は一キロメートル、対人有効射程距離は二キロメートルでその攻撃力は携行兵器の比ではない。 
 ソムチャイがX5を疾駆させる。
 元々居住性の高かった車両だけに乗り心地は悪くない。
 歩くのとは別次元の速度で移動する積層構造の合金で守られたドアのスリットから見える景色には、人の姿というものがない。
 海面上昇で半分水没しているかつて都市と呼ばれていた地域にデザイナーズが住んでいないのは当然だが、ジャンクスが全く出歩かないという事もないだろう。
 少なくとも、小学校に上がるくらいまでは両親が面倒を見なくてはならないのだし、日がな一日子供を家の中に押し込めておく親は――出産の低年齢化もあり――多くない。
 学校で知り合ってすぐに子供を作ってしまうというジャンクスの風潮は、子育ても学校生活の一環となる事を意味しているからだ。
 大通りを走っているから見かけないという事もないだろう。
 X5が銀二の割烹『銀杏』に到着する。
 フル装備の裕司には、ソムチャイの姿が見えない。
 裕司は『銀杏』に既に電波障壁が張られているのを確認する。
 ケーブルには銀二が疑似情報を掴ませている事だろう。
 裕司がカメラの死角となる勝手口から侵入すると、板張りの床が微かに軋んだような音を立てる。
 奥座敷のちゃぶ台で茶をすすっていた銀二が、白鞘を手に立ち上がる。
 空間がパックリと裂けて、通電していない特殊部隊用の野戦服が姿を現す。
 無数の襞に覆われたかのようなそれは、効率よく光を透過し、熱を遮断、更に機動性を重視した上で作られたものだ。
 銀二が無言のまま頭まですっぽりとかぶると、視界からその姿が消える。
 電脳も遮断している今、裕司にはソムチャイだけでなく銀二の姿も見えない。
 不意に目の前に電脳直結用のプラグが浮き上がる。
 裕司が首に接続すると、銀二とソムチャイがリンクする。
『銀二どの、我らが見られた可能性は?』
 ソムチャイがVR空間を通して確認していたであろう銀二に向かって問う。
『今の所問題は無ぇ。敵の規模が分からねぇ以上油断はできねぇな』
 銀二がVR空間で走査した結果を表示する。
 全てのデータが齟齬なく、整備されているかのように整えられている。
『なぁとっつぁん、こんな訳の分からない大規模ハックするヤツの目的って何なんだ?』
 裕司は銀二に向かって問う。
 世界最高の電子技術を持っているのは『ビッグ・アップル』を擁するアメリカだが、そのアメリカとヨーロッパの世界秩序の上に乗っているこの世界を、アメリカがどうこうしようとしているとは思えない。
 中国やロシア辺りが対抗しようとしているのだとしても、人口が増えたと欺瞞する事で国益になるとも思えない。
 仮に欧米の人口が減って、などという条件がつけば金の流れが生まれて利潤にもなるのだろうが、これほどの大規模ハックをする力があるならもっと別の事をするだろう。
『力のあるデザイナーズはとうの昔に国境を超えてやがる。国益なんてモノを信じてるのは一部の国の国粋主義者とジャンクスだけだ』 
 銀二が裕司の考えを読んだ上で言う。
『軍は中核を残して兵器や人員は共有している。軍が守るのは国家ではなくデザイナーズだ』
 ソムチャイが銀二の言葉を捕捉するようにして言う。
『デザイナーズ同士の派閥争いみたいなモンは?』
 これまでデザイナーズに興味を抱いた事すら無かった裕司は問う。
『デザイナーズが生まれたからって訳じゃねぇが、アメリカって国家ができた時に世界に二大勢力が生まれたのは確かだ』
 銀二が世界のありとあらゆる権益を握る、二つの財閥のデータを脳に送って来る。
『一方はUK、一方はアメリカを本拠地にしてたし、表面的に対立していると見られる事もあったが、それは財閥側の完全なミスリードで、実際には姻戚関係を結んだり通貨や国際法を融通したりしてべったりとくっついていた。裏を返せば二つの顔を持つ事で、互いの支持者を上手くコントロールしてたんだな』
 銀二が映像と共に解説する。デザイナーズが生まれる前にはもう現在のヒエラルキーは完成していたらしい。
 ――今じゃデザイナーズとジャンクスの間じゃ子供も生まれない――
 そこまで考えて、裕司は人類を支配する超特権階級がこのような事件を起こす理由が無い事も理解する。
 ジャンクスのテロという事も考えられなくは無いが、やっている事があまりにも突拍子も無さすぎる。
 世界中のサーバーを牛耳ったなら、何らかの犯行声明があっても良い筈だ。
『とにかく確かめに行こう。銀二どの、行き先は杉並の集合住宅と箱根シティで良かったかな?』
 ソムチャイが実務的な話を切り出す。
 今日しなくてはならないのは、実像と虚像の乖離を炙り出す事なのだ。
 銀二がケーブルを野戦服の下に収納する。
 ソムチャイが先行しているのだろう、自動で勝手口のドアが開く。
 裕司は続いて外に出るとX5の助手席に座る。
 後部のドアが開閉して重厚なX5が軽く沈み込む。
 全員乗ったのを確認したソムチャイがアクセルを踏み込む。
 フロントのスリットの前に、杉並区に建造された、巨大なドミノのような集合住宅群が出現する。
 東京都のデータベースでは集合住宅の人口は一万二千人強。
 最近急に物覚えが良くなった気がするが、脳の記憶野に放り込んだデータで、どの建物のどの部屋に誰が住んでいるかは把握済みだ。
 集合住宅の近くにX5を停めて、ソムチャイのほとんど聞き取れない足音を頼りに、天を衝くまな板のような住宅の玄関ではなく側面に向かう。
 掌と肘、膝の内側と軍靴の内側のマジックテープを露出させる。
 触れた感触はフェルトに近いだろう。
 だが、そこには先端技術による、ミクロの無数の鈎がびっしりと植え付けられている。
 意図的に磨き上げたのでもない限り、ガラスの表面にへばりついても落ちる事はない。
 壁面に微かに浮かぶマジックテープの影から、ソムチャイが先行しているのを確認して裕司も壁面を昇り始める。
 壁を斜めに横切るようにして二階の廊下に着地する。
 ヘルメットに塔載されたセンサーで一つ目の部屋を探る。
 データ上ではニ十歳の父親と十六才の母親、四才の子供が住んでいる筈だ。
 裕司のセンサーが捉えたのはVR空間に繋がった十六才の少女だけだ。
 父親が子供を連れて外に出たという可能性も捨てきれないが、時間帯を考えると可能性は低いだろう。
 見切りが早いのか、ソムチャイが小走りで廊下を駆けていく。
 次の部屋も、その次の部屋も一人がVR空間に繋がっているだけ。
 裕司は軽い眩暈にも似た感覚に囚われる。
 家庭が存在している筈の部屋に、測ったように一人しかいない。
 二十代ともなれば、結婚していても夫婦でVR空間に繋がって寝た���りになっているのが普通だ。
 しかし、四十代、五十代でも一人で家族向けの部屋を占拠してVR空間に繋がっている。
 家族がいる筈の者が、実は未婚の一人暮らし。
 家族は一体どこへ消えたというのだろうか?
 裕司が頭を回転させながら進んでいると、足を止めたソムチャイの背にぶつかった。
 一瞬だけ手の部分の光学迷彩が解けて、ソムチャイが一つの部屋を指さす。
 裕司はセンサーで室内を確認する。
 その部屋には人間すら居なかった。
 そこにあったのは、フロアの電源を食いつぶすかのような巨大なサーバーだ。
 ――サーバーを置く為に必要電力分の人間を消している?――
 そんな馬鹿な話がある訳がない。
 誰が何を企んでいるか知らないが、サーバーを置きたければもっと環境の良い所が幾らでもある筈だ。
 何を思いついたのか、ソムチャイが一気に外階段を駆け上がる。
 ドミニオンのソムチャイの脚力に追いつくわけが無く、サイボーグの銀二の足には疲労も無い。
 二人に遅れて裕司は集合住宅の屋上に上がる。
 給水塔があるだけの開けた景色の向こうに、墓標のように集合住宅が並んでいる。
 裕司は集合住宅の屋上の縁に立って愕然とする。
 観測可能な範囲の家庭の八割が単身で、しかもそれを補うようにサーバーが置かれている。
 東京都のデータベースが間違っていたのだろうか?
 だが、幾らジャンクスを軽視していても、福祉事業者の利権である人間の数や家族構成まで改ざんする理由はない。
 目の前の空間に電脳直結プラグの先端が浮かび上がる。
 自分の光学迷彩で隠すようにして首筋に繋ぐ。
『データベースじゃ一万二千人ってぇ話だったが……こりゃあ、まともに数えても千人行くかどうかだぞ』
 信じられないものを見ているといった口調で銀二が言う。
『福祉課のチューブの購入履歴と配達履歴も改ざんされているのだろう』
 ソムチャイは思案気な口調だ。
『存在しない人間の人格データがサーバーに入ってるんじゃないか?』
 裕司は推測する。サーバーに人格データがあり、そこからVR空間に繋がる。
 零番街から逆探知しようにも、IPアドレスは存在しているのだし、人格を支えるサーバーもあるのだから、アバターが人間かどうかを見分ける術がない。
『人間一人の人格データなんて掌に収まるモンだ。あんなバカデカいサーバーを山ほど使う理由が無ぇ』
 銀二の言葉ももっともなものだ。
 巨大な集合住宅群は、人間の居住空間というより巨大なサーバーだ。
 いつ、誰が何の目的でこんな事を始めたのか見当もつかない。
『現状は確認できた。デザイナーズを確認しよう』
 言ってソムチャイが通信の輪から離れる。
 裕司はケーブルを銀二に返してソムチャイに続く。
 ――これがジャンクスだけでない現象だとしたら――
 その恐ろしい考えを裕司は胸の内にしまい込んだ。
   箱根シティ。芦ノ湖を内海に見立て、地中海を模した生態系に改造した、人口六百人の寒冷化地帯。
 一年を通して気温が三十二度を上回る事の無い地上の楽園だ。
 夜の闇を通して見る箱根は、かつての山岳地帯を切り崩し、門から屋敷を見る事のできない、広大な敷地を持つ邸宅が距離を置いて並んでいる。
 一万二千名収容可能な杉並集合住宅の八倍の敷地に、六百名のデザイナーズが住んでいるのだ。
 持てる者と持たざる者の絶対的格差、決して埋める事のできないヒエラルキーの象徴ともいえる。
 温暖な気候を好むのかデザイナーズが狩るために放し飼いにしている鹿や兎が、疾駆するX5の前を横切る。
 X5は裕司の予想に反して居住区画には入らず、打ち捨てられてアスファルトにヒビの入った山道へと分け入っていく。
 街灯も無ければヘッドライトを点けてもいない。
 X5のシールドとヘルメットのセンサーが相殺するため、ソムチャイはその身体能力で肉眼でも外が見えるのだろうが、裕司にはXM307ACSWのコントロール用のディスプレイでしか外を知る術がない。
 後部座席の銀二が身を乗り出すと、首筋に電脳直結の微かな刺激が走る。
『ソムさんよ、箱根に行くんじゃねぇのか?』
 銀二もX5の行き先については疑念を抱いていたらしい。
『可能性として、箱根シティが杉並集合住宅と同じ環境にあるとすれば、地理的に一件一件尋ね歩くのは困難かつ時間の無駄。かつセキュリティに引っかかる可能性がある』
 ソムチャイは箱根に来るまでに探索の手順を考えていたらしい。
『事前に入手していたデータは、恐らく杉並同様デタラメなものである可能性が高い。それを信じてのこのこ敵地に赴くのは愚策というものだ』
 X5が箱根シティを見下ろせる古い道路の上で停車する。
『まずは情報収集だ。我々の目的は人間の存在確認。目的を達成する上で、情報が無ければ作戦を立てる事ができない』
 ソムチャイはそれだけ言うとプラグを離れてX5を降りた。
 裕司もソムチャイに続いて路上に出て箱根シティを見下ろす。
 規模の大小はあるが、幾つ部屋があるのか分からない宮殿と言っても良い建造物が、ライトアップで浮かび上がっている。 
 きれいに舗装された道路を行き交う車は無く、住宅地から離れ、目につかないような位置に倉庫街がある。
 さすがにヘルメットのセンサーでは宮殿の中まで探査する事ができないため、倉庫街に目を移す。
 そこでは無数のアンドロイドが、プログラミングに従って働いているかに見える。
 疑うべき所など何もないデザイナーズのシティにしか見えない。
 チリ、と、首筋に微かな痺れが走る。
 どこにいても盗聴の危険があり、光学迷彩で互いに見えないのだから仕方が無いにしても、いきなり接続されるといい気はしない。
『とっつぁん、いきなり何だよ』
 裕司は銀二がいるであろう方向に目を向ける。
『ソムさん、倉庫の排熱をどう見る?』
 銀二が裕司を無視してソムチャイに問いかける。
『排気の温度が高すぎる』
 ソムチャイの険しい声が脳裏に響く。
『ソム先生、排気の温度が高いってどういう事なんですか?』
 裕司は訊ねる。デザイナーズの倉庫というものが一体どういったものか全く分からないのだ。
『デザイナーズは基本的に食料品を倉庫で生産する。内部にプラントがあって、そこで必要なだけの食材を、新鮮な状態で常時確保できるようにしている。もちろん意味通りの倉庫もあるが』
『用途が違うという事ですか?』
 人類がデザイナーズとジャンクスに分かれる前には、ジャンクスの家庭には冷蔵庫というものがあり、食品を冷やす代わりに熱を放出していたと記録も存在する。
『裕司、良く観察するんだ』
 ソムチャイの言葉を受けて裕司は倉庫街を眺める。
 忙しく働くアンドロイドと無数の倉庫。
 日々デザイナーズの舌を喜ばせるために食材が生産されるプラントでは、多くのアンドロイドが働き、出入りも多い。
 しかし、排熱の多い倉庫は静まり返ってアンドロイドの出入りも無い。
 そして山の上から眺める限り、排熱の多い方舟のような倉庫の方が圧倒的に多いのだ。
 否、デザイナーズの為に稼働しているものはごく一部と言った方が正確だろう。
 更に、全体を見た時、アンドロイドの数が箱根シティの人口と比較して多すぎる。
 いかに労働力のほぼ全てがアンドロイドによって賄われていると言っても、ざっと見た所で八百人の人口に対し一万体以上が稼働しているのはおかしい。
 そこで裕司の脳裏で何かが繋がった。
『ソム先生、とっつぁん、こりゃ予備だ』
 裕司の言葉に銀二が反応する。
『裕司、そりゃ一体どういうこった?』
『排熱が多いのは、中��サーバーになってるからだろ? でも万が一の停電や天災があった時にサーバーは逃げる事ができない。仮に現状でアンドロイドを主体と考えて、サーバーと相互補完関係にあると考えたら?』
 そう考えるしかない。
 杉並集合住宅でも周辺を含めれば、人口の半数近くのアンドロイドが稼働している。
 そして、この箱根は既に人間の土地というより、アンドロイドとサーバーを保全するためにあると言った方が正しいくらいだ。
 しかも、と、裕司はセンサーを動かす。
 シティには予備を含め、充分過ぎるほどの地熱発電所が存在する。
 サーバーにもアンドロイドにも潤沢に電力を供給できる環境にあるのだ。
 仮に発電所に問題が発生しても圧縮窒素の予備の発電所がある上、これだけのアンドロイドが居れば即座に復旧させる事ができるだろう。
 気温も外部と比較して低くサーバーへの負担が小さい。
『まさか……SFじゃあるまいし、アンドロイドが反乱する訳が無ぇだろう』
 思案するような口調で銀二が言う。
 確かにアンドロイドにしろAIにしろ、自然発生的に自我を持つ事は無いし、人間のように振る舞うようにプログラミングしたからといって、人格を持つ訳でもない。
 第一、仮に自我を持ったとしても、旧世紀のSF映画のように人間に戦いを挑むという事は無い筈だ。
『万が一それが現実のものとなったとしても、我々人類に阻む術はないだろう』
 ソムチャイが淡々と告げる。
 元軍人、それも特殊部隊を率いる大尉がそう言うのだから間違いないだろう。
『誰かがプログラミングの不正改造をしていたとしたらどうだ?』
 銀二の言葉に裕司は首を捻る。
 電警だってただのバカではなかっただろうし、国際的に見ればCIAのような巨大かつ優秀な情報機関も存在する。
 大量のアンドロイドを使って反乱を、テロを起こそうなどという動きがあればデザイナーズがいようがミサイルで街ごと破壊するだろう。
 そもそも、世界中の様々なプログラミング言語で動いているアンドロイドを一斉に感染させて操るウイルスなど造れないし、仮に造って使用した所で今度はこの膨大な数のアンドロイドを制御できない。
『可能だとすればビッグ・アップルくらいだけど』
 裕司は呟くようにして言う。
 見た限り、箱根シティのデザイナーズも、データ上と同じだけ存在するとは到底思えない。  
 煌びやかにライトアップされた屋敷の中でも、幻影を相手に人生を謳歌しているデザイナーズがポツンといるだけだろう。
『マリーが許しゃしねぇか、それとも知ってて黙ってるか……』
 銀二が声には出さずに低く唸る。
『マリーは知らない。自分も感染してるって言ってただろ?』
 言って、裕司は初めてその言葉の意味を思い知った。
 ――『何者』かは、マリーがビッグ・アップルにつながる以前から計画を進めていたか、既にビッグ・アップルを攻略したかのどちらかだ――
『もう、私にできる事は無いだろう。手の届く範囲の人間を守れたとしても』
 ソムチャイの言葉には苦い響きがある。
 例え、自分たち数名が生き延びても、人類は夢を見たまま滅びていく事になる。
『あのサーバーまで行けませんか? 試したい事があるんです』
 あの倉庫がサーバーなら、想像が正しいならこの現象を見極められるかも知れない。
『アンドロイドの数は少ないが、それなりの警備体制は敷かれているだろう』
 ソムチャイが生真面目に応える。
『考えがあって言ってんだろうな』
 最悪の事態を想定しているのであろう銀二が言う。
『サーバーに人格が保管されているのを確認できれば、その人物は存在しない可能性があります』
『了解した』
 ソムチャイが短く答える。
『毒食わば皿までか。年寄りの冷や水になっちまうかもな』
 銀二が小さく笑う。
『では作戦目標を変更する。我々はサーバーまで移動、可能な限りデータを収拾し生還する』
 言葉と同時にリンクからソムチャイが外れる。
『じゃ、行くとすっか』
 銀二が抜けるとX5の運転席と後部座席のドアが開く。
 裕司は首の後ろから下がったコードをポケットにしまい込む。
 サーバーに直接アクセスできたなら……
 ――『何者』……『ゴースト』の正体を暴けるかも知れない――
   X5は箱根シティの倉庫街の裏手で停車。
 サーバーがあると思われる倉庫の周囲にアンドロイドの姿は無い。
 ほとんど音を立てずにソムチャイが降車し、裕司も後に続く。
 互いの姿が見えない状態では、軍人であるソムチャイのサポートに全てを任せるしかない。
 裕司はサーバーを収めた巨大倉庫の一つに近づく。
 ネットに接続していない状態では体内のNMの性能に任せるしか無いが、裕司の知識で見る限りセキュリティが厳重という訳でもない。
 裕司は倉庫正面の認証パネルを眺める。
 電波なのか、光なのか、何の信号で開閉するのかがまず分からない。
 そして、そのいずれであっても擬態しようとすれば光学迷彩の野戦服を脱ぎ捨てなければならない。
 ――それはリスクが大きすぎる――
 裕司は倉庫街の裏手に戻って再び周囲を観察する。
 サーバーがあるなら、必ず存在していなければならないもの。
 裕司はしばらく歩き回って、アンドロイドが忙しく働いている倉庫の近くでそれを見つけた。
 ――アンドロイドの目があれだけある中ならセキュリティは充分って事か――
 箱根の山の上から俯瞰した時、シティには電信柱が無かった。
 インフラが全て地下にあるなら、光ファイバーのケーブルも地下を走っている筈なのだ。
 裕司の技能では装備品以上の隠密行動などできるものではない。
 腹を括ってマンホールに向かって歩き出す。
 と、突然後ろから抱きかかえられた。
 首に刺激が走る。
『裕司、この装備でもここから先は危険だ』
 ソムチャイの声が脳裏に響く。
 ソムチャイに自分の姿が見えているとなるとその言葉を信じない訳には行かないだろう。
『先生、倉庫のロックの解除方法が分からないんです。地下の光ファイバーのケーブルに直結するしか方法がありません』
 裕司が説明するとソムチャイが思案しているようなノイズが走る。
『どこかの住宅の電脳プラグを使う訳には行かないのか?』
『沙織の造ってくれた人格防壁は相手の記憶改ざんは防げても、そこからアクセスしたって痕跡までは消せません』
 裕司は頭をひねりながら言う。当然痕跡を消すくらいは朝飯前だが、それは後から調査された場合であって、リアルタイムで動いている世界的規模のプログラムが相手となると、コンマ数秒でアウトになるだろう。
『なるほどな……もし、推測通り一人暮らしのデザイナーズがいればどうなる?』
 裕司はソムチャイの言わんとしている事を理解する。
『でも防犯用の振動探知があれば……』
 そこまで言って裕司は脳裏に求めるものが浮かび上がるのを感じる。
 倉庫街ではなく、住宅地のマンホールにアクセスすればいいのだ。
 ただし、それには誰かが中継器の役割を果たしてくれなくてはならない。
『ソム先生、とっつぁんに連絡できますか?』
 裕司が言ってしばらくすると銀二がリンクに加わって来る。
『とっつぁん、人が悪過ぎるぜ。俺以外全員見えてんじゃねぇか』
 裕司の言葉に笑いのようなノイズが走る。
 考えればソムチャイはドミニオンでジャンクスとは比較にならない感覚器を備えている。
 そして銀二はそもそもが人間など比較にならない能力をもったサイボーグだ。
『俺に用って事ァ、電賊の片棒担げって事か』
『とっつぁん、住宅地のマンホールに入って、光ファイバーからデザイナーズの家に侵入してくれ』   
 銀二が思案するかのように低くノイズを走らせる。
『出来ねぇ事は無ぇが、セキュリティの解除くらいしかできねぇぞ?』
『それで充分だって。俺がデザイナーズになりすませられればそれで充分だ』
 裕司は言う。ゴーストのプログラムは生身の人間にゴーストを見せている高次元のリアルタイムハッキングだが、デザイナーズの脳に直接侵入すればゴーストと直接対峙する事ができる。
 その上でゴーストが演じている人物を特定し、デザイナーズのIPアドレスを使って――箱根のサーバーとは限らないが――サーバーに直接アクセスしてゴーストを捕まえるという訳だ。
『分かった。こっちでもできる限りの事をする』
『了解した。作戦目標を変更する』
 銀二に続いてソムチャイが言う。
 ソムチャイに誘導されながらX5に乗り込み住宅地に向かう。
 住宅地と言っても一軒一軒の間が一キロほど離れており、小さなものでも単位制高校の八倍ほどの敷地に東京ドーム二個分くらいの邸宅が建っている。
 ソムチャイがマンホールの横でX5を停め、裕司は銀二とプラグで繋がったまま一緒にマンホールに降りる。
 人一人通るのがやっとの地下通路で、光ファイバーのケーブルをナイフで丁寧に剥いていく。
 束ねられた光ファイバーの一本を切断して銀二に渡す。
 銀二が髪の毛より細い線をアダプターに繋いで首筋に接続する。
 裕司はもう一方を素早く首筋に接続する。
 素早く箱根シティの住宅地を走査する。
 データ上では当然一人暮らしのデザイナーズなどいないし、デザイナーズも目の前に家族がいる事を疑ってもいない。
 屋内のカメラ、マイクといった装置も存在を裏付けるデータを拾っている。
 だが、振動探知機だけは違っていた。
 振動探知機はセキュリティ機器の中で唯一記録を保存しておらず、外部からの侵入を感知する為だけに存在している。
 当然屋内のデータを拾う必要が無く、想定されていない機器なのだ。
 裕司が振動探知機に絞って探ると、ほとんどの家庭が一人、もしくは二人暮らしである事が分かる。
 裕司は一軒のデザイナーズに目をつける。
 あくまで振動探知機のデータでしかないが、ドミニオンの一人暮らしで、敷地、建物共に最も小さかったというのがその理由だ。
『とっつぁん、板野の家のセキュリティを外しておいてくれ』
『分かった。お前もしくじるんじゃねぇぞ』
 銀二の言葉に裕司は頷いてアダプターに繋いだ光ファイバーを渡す。
 銀二との接続が切れると同時に裕司は地上に出る。
 X5の助手席に乗り込むと、ソムチャイがリンクする。
『裕司、目的地は?』
 ソムチャイの言葉に裕司はデータを送る。
 X5が滑るように走り出し、塀に沿っていくと大型のトレーラーが三台横並びで入れそうな門扉が内側に開いた。 
 屋敷へと向かう道路をX5は進んでいく。
 セキュリティは銀二が完全に外しており、それを知らせるかのようにX5が通りかかると道路に設置されたライトが灯る。
 X5は家の真ん前で停車し、ソムチャイを先頭に車から降りる。
 目の前で玄関のドアが開く。
 ソムチャイに肩を叩かれて屋敷の中に侵入する。
 屋内は必要最小限の電気しか使われていないらしく、暗く黴臭い部屋と廊下がどこまでも連なっている。
 裕司のセンサーではそれ以上の事は分からない。先行して安全を確保しているソムチャイを信じるだけといった状態だ。
 やがて、板野の部屋に裕司はたどり着いた。
 片側に八人は座れるであろうテーブルの上に一人分の料理が置かれており、中肉中背の壮年の男が楽し気に空中に向かって話しかけながら食事をしている。
 背後に回った裕司は板野の首筋に直結する。
 一瞬で板野の五感を制圧して状況を確認する。
 板野は妻を事故で亡くし、子供は独立して既に家を出ており、現在目の前で食事をしているのは恋人の女性だ。
 麻宮希来里という女性は同じ箱根シティのドミニオンの女性で、年齢は壮年の板野に比べると随分と若い二十六だ。
 四人兄妹の末娘で現在定職は無く、日常的に近隣の家を訪ねたりパーティーに出たりしている。
 ――そして現実には存在しない――
 裕司が手招きするとソムチャイが直結して来る。
『さすがにこの歳で独り身というのは厳しくてね。まぁ、子供が自立してくれたのは良い事ではあるが……』
 板野に喋らせつつ、酒が欲しくなるシグナルを送る。
 板野がそうと知らずにワイングラスを一気に空にする。
 目の前の麻宮がグラスにワインを注ぐ。
 実際は板野の手酌だが、本人はそう認識していない。
『まだまだお若いじゃないですか。私たちはジャンクスの四倍の寿命があるんですし……』
 板野に酒のペースを上げさせる。
 二本目のボトルで板野の身体に酔いが回ったのが分かる。
 裕司は板野の脳を掌握する。
『ちょっと席を外させてもらうよ。少し飲み過ぎたようだ』
 失礼、と、言って裕司は板野と共に部屋を出る。
 手近な部屋のソファーに腰かけさせ、プラグでネットに直結させる。
 板野として麻宮を走査する。
 VR空間では紛れもなく存在している彼女は、現在はリアル世界の板野邸の食堂で化粧を整えている。
 存在しないはずだが、行為としては人間と見分けがつかない。
 麻宮のサーバーは箱根ではなく、中国の黒竜江省だったがこの際場所は問題ではない。
 裕司は麻宮の脳を走査する。
 防壁はデザイナーズに一般的に普及しているもので目新しいものではない。
 麻宮の脳は、その感覚器は見れば見るほど人間だ。
 麻宮の舌には食べていたはずの、スープパスタの魚介の味がまだ残っている。
 裕司には普通に美味しいスープパスタの残り香のようなものしか感じられない。
『裕司、この味が分かるか?』
 ソムチャイが言うと、急に味が細分化した。
 際限なく味が分解され、裕司にはもはや何味だったのかも分からない。
 ジャンクスのレベルでは見分けがつかなかったが、ドミニオンの感覚ではこのように感じられるという事か。
 裕司は試しに麻宮の目を奪ってみる。
 拡大、縮小、彩度、どれもがVR空間でアバターを調節するかのような滑らさかだ。
 ――人間には不可能だ――
感覚を探るが、生身の裕司の触感ではファンデーションを持っている手の感覚くらいしか分からない。
 だが、VRのビリー���してのフィルターにかけると味覚同様、感覚が細分化されて衣擦れどころか、下着に至るまでがテクスチャーを重ねているように全て鮮明に感じられる。
『ノーマルの人間で自由神経終末、触感の一つだが全身で四〇〇万ある。戦闘特化型の私で二〇〇〇万だ。だが、ここまでシームレスで敏感という事は無い』 
『じゃあ、麻宮希来里はどう考えても……』
 裕司は信じられない思いで麻宮を走査する。
 一見人間だが、細部に渡って調べると人間とは思えない機能が搭載されているのが分かる。
『多分、人間に似せるという事を追及してこうなったのだろう。裕司はこのようなプログラムは書けないのか?』
 ソムチャイの問いに裕司は咄嗟に答えられない。
 精巧な一体を造れと言われれば造りもするが、異なった人格を搭載したものを大量生産するなど想像を絶している。
 記憶を走査しても、三歳の頃から薄ぼんやりと、そして今に至るまでが、人間並の忘却を含めて再現されているのだ。
 世界に散らばっているかも知れないこのゴーストを、どうやって見分ければいいのか。
 ソムチャイが調べて回るならともかく、自分では教えられなければ見分けがつかないし、そもそもゴースト自身が人格と記憶を備えており人間だと思っているのだ。
 ――考えろ――
 自分は零番街屈指の電脳技師だ。
 こんな所で投げ出す訳には行かない。
 見破るソムチャイは確かに凄いが、真似するようなプログラムを組むという事も困難だ。
 ゴーストたちが同一の性質を持っていればいいのだ。
 瞬間裕司の脳裏に閃くものがあった。
 麻宮が収まっている中国黒竜江省のサーバーを走査する。
 当然ながら凄まじい勢いで通信している。
 普通の人間であればVR空間にアクセスしていても、サーバーにこれほどの負荷はかからない。
 一人の人間というデータを支え、存在させているのだから当然だ。
 その時、裕司の中で一つの線が見えた。
 卵が先が鶏が先か分からないが、ゴーストを増やす為か、サーバーを増やす為か、それとも両方を増やす事に意味があるのかも知れないが、ゴーストは生きる為にサーバーを必要としているのだ。
 世界中の情報の通信量をはじき出せばゴーストの概算は出せるだろうし、サーバーを当たる事でゴーストを炙り出す事もできるだろう。
『先生、もう充分です。そろそろ戻りましょう』
 裕司はソムチャイに向かって言う。
 思いのほか時間を食いすぎている。
『手がかりは掴めたのか?』
 ソムチャイが訊ねて来る。
『ゴーストが存在するって事が』
 裕司はソムチャイに向かって言うと、板野に軽い電気麻酔をかけて離れた。
 板野は酔ったと勘違いしたまま四時間は目を覚まさないだろう。
 裕司が部屋から出た所で軽く肩を叩かれる。
 軽く頷くと、ソムチャイが来た道を引き返し始める。
「誰だ」
 突然響いた声に裕司は目を向ける。
 給仕用のアンドロイドが包丁を手に立っている。
 瞬間、耳が聞こえなくなるほどの激しい銃声と共に、アンドロイドの胸から上が火花を散らして粉々になった。
「ソム先生!」
 裕司は思わず声を上げる。
「走れ!」
 怒声にも似たソムチャイの言葉に裕司は走り出す。
 暗黒に近い屋内を京に誘導されながら走る。
「ど、どうして、撃ったんです、か」
 裕司は息を切らせながら訊ねる。
 ドミニオンのソムチャイはいいが、ジャンクスの自分はそれほどのスピードもスタミナもあるわけではない。
「声を出さなければ我々を観測し、追跡する事が可能だった。それをしなかった理由は一つだ」
 ソムチャイが玄関のドアを押し開けると、門をくぐった五台の装甲車両の姿があった。  
 裕司が慌てて助手席に乗り込むと同時に、X5が慌ただしく発進する。
「裕司撃てるな?」
 裕司は両足の間から生えているXM307ACSWの操縦桿を握る。
 カメラを通じたディスプレイに目を凝らす。
『裕司! 撃て!』
 ソムチャイに言われて裕司はXM307ACSWの照準を、アンドロイドの装甲車両の正面に合わせてトリガーを絞る。  
 吐き出されたHEAT弾が装甲車両をハチの巣にし、タンクから火の手が上がる。
 HEAT弾はそれ自体が推進力を持っており、優れた貫通能力を持つが貫通後に爆発する訳ではない。
 映画などでは銃撃を受けた車両が盛大に爆発するが、実際にそれが可能なのは歩兵携行兵器でも二人以上でなければまともに運用できない無反動砲以上の兵器だ。
 裕司は二両目に狙いを定めて引き金を引く。
 門から侵入して来た装甲車両と、出て行こうとするX5が急接近する。
 ソムチャイが装甲車両の屋根に取り付けられた機関銃の射線を巧みに避けるが、窓から突き出された無数の自動小銃の弾丸まで避けられる訳ではない。
 二両目を破壊し、三両目に照準を合わせる頃にはX5と装甲車両は接触寸前になっている。
 アンドロイドの弾幕の中、X5の積層構造の装甲がはじけ飛び、耳がどうにかなりそうな程の銃声と破砕音が響いてくる。
 五両目のタンクが火を噴き、四両目は駆動系を破壊され立往生だ。
 X5が間を縫って一気に包囲を突破する。
 裕司が残された一両に銃撃を浴びせる頃には、X5は門から飛び出している。
『ソム先生、とっつぁんを回収しないと』
『裕司! 敵だ!』
 ソムチャイの言葉を受けて、裕司は正面のディスプレイに目を向ける。
 そもそも大した武装は無いのだろうが、アサルトライフルを手にしたアンドロイドが四方八方から集まって来る。
 裕司は前方に的を絞って銃撃を加える。
 砕け散るアンドロイドをX5の強化されたバンパーが弾き飛ばす。
 フロントの装甲が無数の弾丸を浴びて光学迷彩も電波障壁も無効になる。
 アンドロイドの第一波を突破したX5が銀二の潜むマンホールにたどり着くと、事態を察知していた銀二が直ちにX5に乗り込んで来る。
『さすがに笑って見送っちゃくれねぇか』
 リンクに加わった銀二が苦々しい声で言う。
 銀二は建物のセキュリティは解除していたが、自律AIで動く――中身はゴーストかも知れない――アンドロイドまで掌握する事はできなかったのだ。
 アンドロイドは裕司達を察知し、他のアンドロイドに信号を送り援軍が到着するまで足止めする予定だった。
 が、ソムチャイの即断で足止めは失敗に終わり、アンドロイドが集結する前に脱出に成功したという訳だ。
『敵の第二波が来る前に箱根を離脱する』
 ソムチャイがアクセ���を踏み込み、X5は東京に向けてひた走る。
『ソム先生、敵は世界規模の巨大プログラムだ。東京に行ってもアンドロイドが手ぐすねを引いて待ってる』
 裕司は黒く塗りつぶされたような景色を、歪んだスリットから眺めて言う。
 世界が箱根シティのようであったなら、人類は既に風前の灯火だ。
 何とかしなくてはならないが、それ以前にまず自分たちの安全を確保しなくてはならない。
『是非も無し。まずは米軍基地の知己を当たる。そこで車を替えて戻るしか無いだろう』 
 ソムチャイが淡々と答える。
『米軍基地のアンドロイドが攻撃して来たら?』
 裕司の言葉にソムチャイが小さく頷く。
『何故死と隣り合わせの軍の指揮官を人間がやっているか分かるか?』
 ソムチャイの問いに裕司は頭を捻る。
 考えてみれば妙な話だ。アンドロイドなら被弾しても自壊すれば良いだけだし、幾らでも補充がきく。
 常に合理的な判断を下すし、パニックに陥る事も無い。
『機械に戦争を預けるという事は、一見して合理的だ。だが、詰まる所それは相対する軍隊の双方のスーパーコンピューターの演算能力を競うのと同じだ。それなら戦う前から結果が出ている。人間の行動は機械から見れは非合理的で分かりづらいものだ。軍はそういった『揺らぎ』を持たせる事で演算を困難にする。我々はそういった戦いをしてきた』
 ソムチャイの言葉に裕司は納得する。
 確かに人間の指揮官を置くだけで演算が一気に困難になるだろう。
 そしてソムチャイは実務部隊の中でも最精鋭の特殊部隊を率い、育てた前線指揮官なのだ。 
『コンピューターの裏をかくか……。だが、そんな事が可能なのか?』
 銀二が言う。
『コンピュータの演算通りの動きをしても構わないのだ。対象が人間である限り機械は不測の事態に備えようとする。それは戦力の分散を呼び、結果として人間の有利に働く。もっとも戦力が拮抗していればの話にはなるが』
 ソムチャイの声は厳しい。米軍基地が安全とは限らない。
 それを一番理解しているのもソムチャイなのだろう。
 ソムチャイが運転席の下からアナログな携帯式の衛星通信端末を取り出す。
『ソム先生、それを使えば顔が割れる』
『ああ、私の顔はな』
 ソムチャイが小さく笑う。片手で運転しながら通信端末を操作する。
「……ソムチャイだ」
 端末に向かってソムチャイが話しかける。
「任務失敗直ちに帰還する」
 さも米軍の作戦行動であったかのような口調でソムチャイが言う。
 端末の向こうで何者かが返答し、ソムチャイが通信を切る。
『ソム先生、もし相手が擬態していたら……』
 音声というアナログな通信方法で、しかもあからさまに電波を使ったのでは擬態してくれと言っているようなものだ。
『いや、これはコンピューターに対してコミットを行ったのだ。コンピューターが米軍の作戦であったかどうかを確認すれば、これが作戦行動では無かった事はすぐに発覚するだろう。私がどこの指揮系統に属し、いつ命令を受けたのか。そもそも独断での行動なのだからコンピューターは結果を出せない。結果が出るまでは迂闊に殺す事もできないとすれば、私の身の安全はどうなる?』
 ソムチャイの言葉に裕司は驚きを隠せない。
 普段僧侶のような生活をしているソムチャイの、どこにここまでの狡猾さがあったというのか。  
『で、米軍はどう動くんだ?』
 銀二がソムチャイに向かって訊ねる。
『仮にコンピューターが私から情報を得ようとしてもすぐには殺せない。知人には電波障壁の中で説明を行う』
『でもゴーストは人間の記憶を、体験を自由にコントロールできる』
 ソムチャイに向かって裕司は言う。幾ら説明した所で、出たら記憶を全て忘れるのでは意味が無い。
『裕司たちにとっても機密になるだろうが、人格防壁を渡してもらいたい。米軍との交渉にも役立つ』
 裕司はその言葉に小さく息を飲む。
 プログラマーにとってコードは命だ。
 沙織がいいと言うならともかく、借りているだけの自分に下せる判断ではない。
『分かった。人格防壁を米軍に提供する』
 銀二が逡巡なく答える。
『とっつぁん! これは沙織のプログラムだ!』
『人類が滅亡するかどうか瀬戸際だ! 人類と電脳技師の誇りを秤にかけられるか』
 銀二の言葉に裕司は声を詰まらせる。
 人類か、コードかと問われれば人類が尊いに決まっている。
『ソム先生。俺たちを助けてくれますか?』
『己の意思以上の助けはない。私も米軍基地からは当面出る事ができないだろう』
 ソムチャイの言葉に裕司は頷く。
 確かに米軍の作戦行動なのに、そのまま河川敷に帰ったのでは偽装にはならない。
『ソムさんよ。俺たちの帰りの足は?』
 銀二がソムチャイに訊ねる。
『米軍の新型車両があるだろう。こちらを偽装するのは裕司たちの方が得意なんじゃないか?』
 ソムチャイの言葉に裕司は頷く。
 確かに米軍の在庫データを改ざんするなど朝飯前だ。
『すまねぇな、あんたを人身御供にしちまって』
 銀二がソムチャイに向かって言う。
『人類存亡の危機をこの目で確認した。ここで行動しなければ死んでも死にきれないというものだ』
 ソムチャイが真摯な口調で言ううちに、目の前に横須賀の米軍基地が現れる。
 ゲートの前では既に二個小隊ほどの人間の兵士が待機している。
 X5がそれが当然であるかのように兵士たちの前で停車する。
「任務ご苦労様ですソム大尉」
 声をかけて来たのは赤髪緑眼の、やや童顔のすらりとした体躯の長身の女性士官だ。
「任務失敗だ」
 運転席から降りてソムチャイが女性士官と握手する。
「車両を回収、警戒を厳にせよ」
 女性士官の凛とした声が響き、X5をけん引する為の車両がやって来る。
 裕司と銀二の乗ったX5がけん引車両に接続される間にも、ソムチャイが紙にペンで何かを書き込む。
 紙など一部のデザイナーズのアナログなアーティストが用いるもので、ペンにしても似たようなものだ。
 軍人であるソムチャイが何故そのような趣向品を所持、かつ、使っているのか分からない。
 ソムチャイが女性士官に紙に書いた何かを見せる。
『裕司、人格防壁をバクスウェル少尉に』
 ソムチャイが電脳直結プラグをバクスウェル少尉と呼んだ女性に直結する。
 裕司は自己紹介より先に人格防壁をバクスウェルにインストールする。
『……なるほどこれで情報の機密が保たれるという訳ですね。初めまして、私はアメリカ陸軍デルタフォース所属アナベル・バクスウェル少尉です』
 猫のように柔らかく短い頭髪を風に揺らして、裕司の目線まで美しい緑色の目が降りて来る。
 彫りが深いのに、きつさを感じないのは目元が優しいからだろうか。
『はっ、初めまして。そ、その……墨田単位制高校の……相良裕司です』
 VR空間では大きな顔をしていられるが、リアルで高い立場のこのような美しい女性を前にするとまともに言葉が出て来ない。
『元稲刈会の月島銀二だ。俺たちの事はVR空間の自警団だと思ってくれりゃあいい』
 銀二がアナベルに向かって言う。
 銀二は日常的にデザイナーズを相手にしているし、立場的にも国内ではかなり高いのだからいいだろうが、裕司のリアルでの存在は羽虫のようなものだ。
『カウボーイという事ですね。確かに素晴らしい技術をお持ちのようです。CIAでもこれほどの防壁は造れないでしょう』
『事情を説明したい。電波障壁のある部屋はあるか?』
 銀二がアナベルに向かって言う。
『是非。日常的にこれほどの干渉を受けて居たとなると……NSAのサイバー部隊を動かす必要があるかも知れません』
 言ったアナベルが一同を先導するように、一台の鋭角的なラインの戦闘車両に乗り込む。 
 形としては、二十世紀後半から誕生し始めたステルス戦闘機を発展させたような形状だ。 
 ステルスらしく、電波障壁もX5とは比較にならない。  
 アナベルが自ら運転し、ソムチャイが助手席。裕司は銀二と並んで後部座席に座る。
 モーターが起動すると同時に電波障壁が立ち上がったのが分かる。通電している以上視覚的にも光学迷彩で消えている事だろう。
「ソム大尉、最近ベースにお顔を見せて頂けていないのですが、何かご事情がおありなのでしょうか?」
 アナベルが広い基地内を移動しながら言う。
「俗世に塗れた身を仏法にて清めんとしている。無論客員で世話にはなっているが」
 ソムチャイが短く答える。
「この人間専用の車内の電波障壁は完璧です。お二人も楽になさって下さい」
 アナベルの言葉に銀二がため息と共に装備を外す。
「やれやれだ。息をしなくていいのは分かってるんだが、どうにも息が詰まっていけねぇ。帰りはこの車を拝借できんのか?」
 銀二がアナベルに向かって言う。
「事情によります。確かにこの防壁の価値を考えれば車両など安いものですが」
 広さはドミニオンの家ほどもあるだろうか、ステルス車が音も無く電波障壁の張られたガレージへと入っていく。
 ステルス戦闘車両が合計で二十台ほど停まっている。
 整備で走り回る者も全てが人間だ。
 裕司がキャンプで訓練に行く野ざらしの施設とはまるで違う。
 しかもキャンプで一番偉いのは伍長で、少尉など雲の上の存在だ。
「こいつぁスゲェな。全員人間なんて環境があんのか?」
 銀二が感嘆の吐息を漏らす。
「軍にはあらゆる事態を想定する事が求められます。電子戦で敗北した場合も物理的戦闘で挽回するオプションがあるのは当然です」
 アナベルが先導して歩きながら言う。
 すれ違う兵士たちが一様に敬礼して行く。
 客観的に見て、光学迷彩を脱いでしまえばボロボロのデニムの自分は誰の目にもそうと分かるジャンクスだ。
 裕司は場違いな所に来てしまったという気分を拭う事ができない。
 アナベルが一行を誘導したのは、寒冷化エリアのように涼しい、ゆったりと寛げる広々とした応接室だった。
 電波障壁という一種のシェルターの中という事もあり、さすがに窓はないものの、木材をふんだんに使ったカントリー調の室内に、革張りのソファーがローテーブルを挟んで置かれている。
 アナベルが兵士にコーヒーを用意するように告げ、ソファーに座るよう促す。
 ソファーは、裕司が今まで体験した事のない、まるで掌で優しく包まれるかのような快適さだ。
 寝ろと言われればいつでも眠る事ができるだろう。
 アナベルとソムチャイが並んで座り、裕司は銀二と並んで向かい合う。
 コーヒーとクッキーが運ばれ、香ばしい香りが室内に広がる。
「改めて、状況の説明をお願いします」
 アナベルがちらりとソムチャイを見て言う。
「私にも正確な状況は分からない。裕司、お前が一番状況を理解しているのだろう?」
 ソムチャイに言われて裕司は息を飲む。
 アナベルが興味深そうな視線を向けながらコーヒーに口をつける。
 コーヒーを飲めば落ち着くのかも知れないが、生身でコーヒーような刺激物を飲んだら話をするどころかそのまま医務室に運ばれかねない。
「じゃあ俺の知ってる範囲で。感覚的なデータは保存できるメディアがあると丁度いいんですが……」
 幸いな事に記憶が不思議な程鮮明に残っている。
 裕司はアナベルが差し出した今では骨董品扱いのUSBメモリーにデータをダウンロードする。
 裕司は全員が状況を理解するのを待って、緊張しながらも事のあらましと見聞きした全てをアナベルに説明する。
 全てを聞き終わったアナベルが思案気な表情を浮かべる。
「相良さん、このデータを米軍が預かる事に同意して頂けますか?」
「はい、そのつもりで話しました」
 沙織の人格防壁も巨大なリアルタイムハックの証拠も渡した。これでアナベルが敵なら全てが終わりだ。
「ソム大尉、これは非常事態です。私と同行して上層部に報告して頂けますか?」
「貴官には世話になる。異論は無い」
 ソムチャイが顔色一つ変えずに言う。
「しかし、報告するにしても、先にこの人格防壁を送っておかねばなりませんし、ゴーストに防壁の存在を知られたのでは意味がありません」
「裕司、米軍の防壁なら破れると言っていたな?」
 ソムチャイが目を向けて来る。
「は、はい! 米国タイプの防壁なら俺の造ったツールで行けます。基本的なもので七タイプありますがNSAでもCIAでも抜けるので、お好きなものを使ってもらえれば」
 裕司はツールを圧縮してメディアにインストールしようとする。
 が、メディアの容量ではツール一つが限界だ。
 作業をアナベルが注視している。
「すっ、すみません。このメディアだとツールが一つしか入らなくて……」
 今自分がどんな顔をしているのかと情けなく思いながら裕司は言う。
「いえ、確認させて頂くだけですから」
 アナベルが微笑みを浮かべて言う。
「じゃあ一番扱いやすいもので」
 裕司は暑くも無いのに噴き出した汗を袖で拭って、データをメディアにダウンロードする。
 受け取ったアナベルが不思議そうにツールを確認し、その顔に驚愕の表情を浮かべる。
「信じられないわ……本当に入り込めない場所なんて無いじゃない! ソム大尉、この子は世界トップクラスの電脳技師よ?」
「私は裕司の裏稼業は知らん」
 アナベルの興奮とは正反対にソムチャイは気にした風も無い。
「ねぇ、あなた、ウチの部隊のサイバー部隊で教官をやる気はない? そうよ、ソム大尉と一緒にどう?」
 アナベルの言葉に裕司は目を見開く。
 ガレージで働いていた兵士も確認をした訳ではないが恐らくノーマル以上だろう。
 ジャンクスの自分がその上に立つなどという事があり得るのだろうか。
「合衆国は実力主義よ。ジャンクスでも能力があるなら相応の地位と生活が保障されるのは当然よ」
 アナベルが熱っぽい口調で言う。
 鼓動が耳まで聞こえそうな魅力的な話だが、マリーは今もビッグ・アップルに繋がれたままであり、自分には零番街がある。
「……すみません。俺一人だけここに来る事はできません」
 裕司は脳裏に零番街の仲間たちの姿を描いて言う。
 もし、何もしがらみが無ければ喜んで受けるのだろうが、そのしがらみが無ければ電脳技師としてここまで成長する事も無かったのだ。
「そう……気が向いたらいつでも連絡してくれていいわ。ソム大尉もね」
「私はバクスウェル少尉の友人であり、それ以上でもそれ以下でもない」
 アナベルはどうもソムチャイに気があるらしい。
 対してソムチャイは平静そのものだ。
 恐らく、ソムチャイには遠まわしにではなく、ストレートに言わなければ伝わらないだろうと裕司は思う。
「じゃあ、俺たちはそろそろお暇するぜ。いい加減零番街に顔を出さなきゃならねぇ時間だ」
 銀二の言葉に裕司は頷く。
 長居した所でこれ以上できる事はないだろうし、自分には零番街と仲間たちが存在するのだ。
「現状でお伝え致しかねますが、この事件については米軍及び情報部が総力を挙げる事になるでしょう。その時にはお二人にお力を借りる事になると思います」
 アナベルが差し出した手を握る。
 軍人とは思えないほどの柔らかさだが、これが最初で最期になるだろう。
「俺はソム先生の弟子ですから」
 裕司は頭の中を整理して言う。
「ま、今でも付き合いが無ぇ訳じゃねぇんだがな。それより車両の手配を頼む」
 銀二が言って立ち上がる。
「分かりました。兵士に伝えておきますのでお好きな車両をお選び下さい」
 アナベルの敬礼を受けて、銀二と共に部屋を出る。
 米軍はこれからどう動くのだろうか。
 米軍が動いたとして、ゴーストとやり合う事ができるのだろうか。
「とっつぁん、ホントは零番街はガラッガラだったのかもな」
 裕司はガレージで品定めをする銀二に向かって言う。
 人生と呼ぶには短い時間だが、零番街で多くの人間と出会い、様々な経験をして現在に至っているのだ。
 それがゴーストが造ったプログラム相手に道化を演じていたなどという事は、例え事実であったとしても受け入れることができない。
「坊主、それを確かめに行くんだろうが」
 銀二が一台のステルス戦闘用車両のボンネットを叩く。
 どうやら目当ての車両が見つかったらしい。
 裕司は全世界を覆っているネットに、生れて初めて恐怖を抱いた。
  〈3〉
   ビリーが零番街に降り立った時、疑似人格は既に並行処理しながらカウンターで接客をしていた。
 自分で造ったとはいえ、疑似人格に何の疑問も抱かず客が話しかけている姿を見ると、空恐ろしい気分になる。
 一先ず疑似人格と同期して情報を共有する。
 特に変わった事は無い、いつものJACK・BOXの日常だ。
 いつものようにカウンターで接客する。
 横では日葵がせっせとラーメンを提供している。
「師匠! ラーメンが茹で上がらんけん、もちっと話ばして客を待たせちゃらんね」
 日葵の言葉にビリーは客を飽きさせないように話を引き延ばす。
 一々茹でるなどというパフォーマンスをしなくとも、ラーメンは一瞬で構築できるはずなのだが、日葵にはこだわりがあるらしい。
「ラーメン定食お待たせばい!」
 カウンターの上ではアバターが重複している事もあり、百以上のラーメンが湯気を立てている。
「女将! 替え玉一つ」
「固さはどげんすっとね?」
 ラーメンの湯切りをしながら日葵が言う。
「え~っと、じゃあ粉落としで」
「お客さんまだ四回目ったいね。固か麺ば選ぶと通やと思うちょったら大間違いばい。まずはバリカタで試すとよ」
 別の客にラーメンを出しながら日葵が言う。
 自分はと言えばいつも通り喋るだけだ。酒の注文は……絶えて久しい。
 日葵を手伝った方がいいのではないかとも思うが、ラーメンに関してはこだわりがあるようで、下手に真似をすると機嫌を損ねる事になる。
 と、人垣の間から武蔵が顔を出した。
 日葵の視線を避けるように手招きする。
「親父さん、どうしたんだ?」  
 いつもであれば銀二の所で飲んでいる筈だ。
「ビリーに込み入った話があるとよ。ここでは拙かけん。少し外せれんと?」
 どの道最初から疑似人格に接客を任せていたのだ。
 ビリーはカウンターをすり抜けて武蔵の横に立つ。
 武蔵がカウンターのビリーと、傍らに立つビリーの間で視線を彷徨わせる。
「親父さんこっちが本物だ。俺に話って一体何だ?」
 ビリーが言うと武蔵が深刻な表情で軽く頷く。
「とりあえず別の店ば行かんね」
 一瞬、チラと日葵に目を向けて武蔵が言う。
 どうやら日葵に聞かれると困る話らしい。
「赤ちょうちんでも行くかい?」
 ビリーは武蔵の肩を叩いて出口へ向かう。
「何処でもよか。ばってん、素面で話せるかどうか分からんとよ」
 武蔵を連れてビリーは近場にあったおでんの屋台の暖簾をくぐる。
「ビッ、ビッ、ビリーさんっ! どどどどうして僕の店に?」
 店主の少年が驚いた様子で言う。
 以前コードの手ほどきをした少年だったと思い出す。
「腕前を見せてもらおうか。盛り合わせとビール……親父さんは何にする?」
 ビリーが椅子に座りながら言うと、武蔵もどこか力ない様子で腰を降ろす。
「博多の華でよか」
 武蔵の言葉に少年が困惑した表情を浮かべる。
 ビリーは少年に焼酎のコードを送ってやる。
 ややあって、二人分のおでんの盛り合わせとビールと焼酎が並ぶ。
「じゃ、とりあえず乾杯って事で」
「そ、そうやな、乾杯、まずは乾杯ばい」
 明らかに様子のおかしい武蔵とグラスを合わせる。
 武蔵が水でも飲むかのようにグラスを一気に空ける。
「お代わりばい! じゃんじゃん注いでくれんね」
 裕司が幾ら��んでもと思う間に、武蔵の顔がみるみる赤くなっていく。
 おでんの味は悪くない。見た目のテクスチャーも味もバランスが取れている。
 そこそこに流行って、一~二年で店が持てるようになるだろう。
 それには相応の工夫と技術も必要になるだろうが、今はこれで充分だ。
「ビリー、俺はバリ困っとーとよ」
「普通じゃねぇのは見りゃ分かるって」
 裕司は牛すじを食べながら言う。
 一瞬、米軍基地で見たコーヒーとクッキーが脳裏を過る。
 あれを食べる事ができたなら、今とは比較にならない体験になっていたはずだ。
「思い切って聞くばい。ビリーはうちば娘をどげん思いようと?」
 武蔵の言葉に牛すじを食べる手が止まる。
 日葵、自分にとっての日葵。
 まとわりついて離れない弟子。
 危機の時にはいつも傍にいた……弟子。
「答えれんちどげんいうこったい! 俺の一人娘ち分かりようとか!」
 武蔵の声で身体に電流が走ったようになる。
「可愛いか、可愛か思って育てよう、たった一人の家族ったい。もう十六才とよ。周りん子は皆嫁ぎよう。きさん知っとーとか? 今、日葵ば通いよう学校にはもう日葵しか生徒がおらんっちゃ! うちには師匠が、師匠が言うて二年も過ぎて……日葵ば独りぼっちにしてどげん責任とってくれっと!」
 ビリーは武蔵の言葉に口を開く事ができない。
 そんな家庭の事情を日葵は一度も口にした事が無かった。
 口が乾くがビールを口にする気にもならない。
「……ビリー、娶らんち言うんやったら、娘と別れてくれんね」
 押し殺した声がビリーの胸に突き刺さる。
 今もカウンターで働いているであろう日葵の姿を思い浮かべる。
 交際している訳ではないから別れるという形にはならないが、日葵のいない日常など想像できない。
「そしたら日葵も諦めがつくったい! そしたら俺がどこまででも歩いて、よか男ば見つけて娶らせよう。自分の娘が一人で、人付き合いもせんと、ただ好いとう男ば思い続けよう姿見るのがどげん辛か事か分からんとね!」
 武蔵の言葉に、カウンターに置いた手が上がらなくなる。
 ――俺が日葵の人生を台無しにした――
 日葵は可愛い、可愛い……。
 ビリーはカウンターに額を押し付ける。
 目頭が熱くなり、熱の塊がこみ上げてくる。
 交通網を操作する事など容易い。
 日葵と武蔵を東京に連れて来る事など造作もない。
 これまで俺がそれをしなかったのは……。
 ――……マリー――
 ビッグ・アップルに繋がれたマリーの悲劇を想うのか。
 武蔵以外家族のいない、ただ一人取り残された日葵の運命を想うのか。
「ビリー、うちの娘のどこがいけんと? 親の俺が言うても説得力のなかけんが、日葵はよか娘ったい。どこに出しても恥ずかしゅうない、心根の優しか真っ直ぐな娘とね。ビリー、頼むけん孫の顔ば見せてくれんね」
 武蔵が頭を下げてカウンターに額をこすりつける。
 ビリーは脳が漂白されたように何も考える事ができない。
 ただ胸が苦しくなるだけだ。
「ビリー、何して何も言いよらんと? 俺ばおかしか事言いようとか? 娘の幸せば祈らん親がどこにいよう。何して目の前におる幸せは黙っとーと。俺には訳が分からんと。簡単なこっちゃろが」
 両手の拳を握りしめた武蔵が涙を流す。
 ビリーも涙を堪えるのが精一杯だ。
 マリーがいなければ、武蔵の願いはとうの昔に叶っていただろう。
 こんな究極の選択を突き付けられて一体どんな答えが出せると言うのか。
 ――米軍――
 ビリーの脳裏にアナベルの言葉が蘇る。
 いっそ零番街を離れて米国の軍人として、リアル世界で生きて行ってもいいのではないか。
 ――逃げだ――
 自分が消えた所で根本的解決にはならない。
 むしろ一人取り残された日葵は本当に行き場を失ってしまうのだ。
「……俺が悪かった」
 裕司は喉から塊を吐き出すようにして言う。
「そんなら……」
 武蔵が顔を上げる。
「俺は親父さんにも日葵にもリアルで会った事がない。移動手段は手配する。遅すぎたって事は心底謝る。まずはお互い会う所から始めないか?」  
 それをしたら後戻りはできないと分りつつビリーは言う。
「そいでよか。会うちゃら、うちの娘ばよかっち分かりよう」
 武蔵が手を握りしめて来る。
 ――何かが始まり、何かが終わる――
 ビリーは苦すぎるビールを一気に飲み干した。
   午前四時、JACK・BOXから人の姿が消え始める。
 リックの固定客は残っているが、フロアのDJも撤収の準備を始めている。
 寸胴で煮える豚骨。積み上げられたラーメン丼。
「師匠、うち、何ば悪か事しとっと?」
 日葵が不安げな口調で訊いて来る。
 カウンターに客の姿は無い。
「いや、良く働いてる」
 ビリーは短く答える。数時間後、日葵は武蔵から東京行きを聞かされる事になる。
 それが正しい判断だったのか、ビリーには分からない。
「嘘ったい」   
 恨みがましい視線をむけて日葵が言う。
「嘘なんかついてねぇよ」
 カウンターの片隅に、ちょこんと置かれたグラスを磨きながらビリーは言う。
「嘘ばい、今日、いっちょん目ば合わせよらんかったと。うち、悪かことあったら直すけん、はっきり言って欲しか」
 日葵が詰め寄って来る。
 ビリーはぎこちなく日葵に目を向ける。
 大きな瞳が真っ直ぐ自分に向けられる。
 この矛先から逃れる術はない。
「日葵、リアルで俺に会いたいと思うか?」
 ビリーは声を落ち着かせながら言う。
「当たり前っちゃ。生身やったら、ラーメン作っても食べれんと。ばってん、よか……よか……お、お友達に……」
 日葵が声を詰まらせ肩を震わせる。
「そ……そうか、そうだな、いい友達だな」
 少しだけ安堵したビリーは言う。
「し、師匠。なしてそげな事いきなり聞きよーと? 訳が分からんばい」
 頬を紅潮させた日葵が言う。
「ただ聞いただけだ」
 ビリーは吐き出すようにして答える。
「ばってん、うち、うれしかっちゃん! 師匠会いとうって初めて言うてくれたと。うち、東京ば行ったらちかっぱ師匠のために頑張るけん。掃除も洗濯も毎日欠かさんばい」
 楽しそうに日葵が言う。
「掃除と洗濯って……俺の家に来る気か?」
 ビリーが言うと日葵が首から取れそうな程頭を振る。
「無し、今のは無しばい! そげんはずかしかこつ言われんばい! やって……日葵は師匠の弟子やもんね。夢ば見たらいけん、いけんとよ」
 頭から冷水を浴びせかけられたように日葵が大人しくなる。
 今日、VR空間を離れてたった一人だけの学校に通う時、日葵は何を想うのだろう。
「日葵……昼間でも連絡していいからな」
 ビリーは言って背を向ける。
 もう、一線は超えたのかも知れない。
 ――それでも、日葵を不幸にする事はできない――
 
  沙織の造る絶対防壁。
 確かに絶対的とも言える防御力を誇るが――ビッグ・アップルの中にあるのだから――マリーの制御限界という時間制限が存在する。
 JACK・BOXのカウンターに疑似人格を立たせたビリーは銀二と共に、沙織の絶対防壁の中に居た。
「どう、アタシの人格防壁は? 相手に脳見られなくて済んだでしょ」
 得意げに沙織が言う。事態の深刻さを理解していないのだろうか。
 確かにアクセスしてきたゴーストは沙織の造った防壁の上を走査しただけだった。
「その防壁なんだが、米軍に渡しちまった。生きるか死ぬかの瀬戸際でな」
 銀二が沙織に向かって言う。
「あんたねぇ……ったく、何があったのよ」
 沙織が一瞬声を荒げかけて質問を投げかけて来る。
 ビリーはアナベルに渡したレコードを沙織とマリーに渡す。
 瞬間的に追体験した沙織とマリーの表情が険しいものとなる。
「……で、このバクスウェル少尉に車を借りて帰って来たわけだ」
 銀二が顛末を説明すると二人が思案顔になる。
「杉並と箱根だけじゃねぇ。もう世界中ゴーストに食われてるかも知れねぇ」 
 ビリーは二人に向かって言う。
「ま、アタシがヤられたんだから、敵いっこないわよねぇ~」
 沙織が他人事のように言う。
「で、こりゃどうにかできるモンなのか?」
 銀二は解っていて敢えて問うといった姿勢だ。
「ビッグ・アップルはニ〇三〇年にはゴーストが活動を開始していないと、現状を説明できないとしている」    
 マリーが地球全体に広がるネットワークを3Dで表示させる。
「これはビリーの情報を基にパッシブセンサーによって得られたデータを可視化したものだ。これと同様のものが地球上にはもう一つ存在する」
 もう一つ出現した地球もネットワークのようなものに覆われている。
 その範囲は必ずしも一致しているという訳ではないが、似通ている事は確かだ。
「こっちはカビの生息域だ。過去から現在に至るまで地球上で最も繁栄し、核戦争でも滅びる事ない最強の種だ」
 カビの分布は砂漠地帯を避け寒冷化エリアに集中しているが、それ以外のものも熱帯を中心に薄く広く世界に満遍なく散らばっている。
 ネットワークも同じような広がり方をしている。
 ――ネット人口はジャンクスの方が遥かに多いのに?――
「そうだ。情報密度はシティの方が濃密だ。データ上の人間を全て計算に入れたとしても、シティの外、集合住宅などは遠く及ばない。カビが何故寒冷化エリアで繁栄するか解るか?」
 マリーの問いにビリーはネットに繋がろうとして、繋がれないのを思い出す。
 カビは確かキノコのような菌の類だったと勉強したし、ソムチャイは寒冷化エリアの外は暑すぎて栽培できる作物が限られると言っていた。
「寒冷化エリアにはカビの餌があるからか?」
 ビリーの言葉にマリーが頷く。
「そうだ。ここにカビとゴーストの共通項目が一つ生まれる。それは、シティにはエネルギーがあるという事だ」
「じゃあ、カビがアンドロイドを……ゴーストを操ってるってのか?」
 ビリーの言葉にマリーが頭を振る。
「可能性はゼロではないが、私が言いたかったのは、情報が生き物の振る舞いをしているという事だ。カビと情報の相違点を挙げるとするなら、情報とカビは潤沢なエネルギー源のあるシティに偏在する。情報を置くサーバーは冷却の必要のないシティに置く事で効率よく増やす事ができるという考え方もできる。集合住宅のサーバーも全館冷房であるという点で同じ利点が見いだされる」
「すまんマリー、俺ァ話について行けていねぇ」
 銀二が気まずそうに頭を掻く。
「結論を言えば、あと五〇年と経たずにゴーストは地球上で最も繁栄する生物となる」
 マリーがこれは既定路線だとばかりに断言する。
「人間はどうなるんだ?」
 ビリーは訊ねる。ゴーストがいるからと言って人間が遠慮する必要は無いだろう。
「自滅する。今お前が交際中の茜と子供を作っても五〇年も生きられないだろう」
 マリーが淡々とした口調で言う。
「ちょっと待て! 俺と茜は何でもねぇって! 勘違いすんな! 俺は……」
 言いかけたビリーの唇にマリーの指が押しあてられる。
 人類が滅びるかも知れないという状況下で、感情をぶつける事さえ許してくれないのか。
「おサルは大人しくしてなさい。人類の起源は南アフリカの一人の女性に帰結するというのが通説よね? ゴーストにも起源が存在すると考える事はできないかしら?」
 沙織が問題を投げかける。
「そもそもゴーストって何なんだよ? 情報なんて形がないモンだろ?」
 裕司は沙織に向かって問う。
「少なくとも知的生命体の基準は、生存本能と演算可能な集積回路を搭載しているか否かよ」
 沙織がマリーの出現させたゴーストの地球儀を平面に展開させる。
 瞬間、ビリーは言葉を失う。
 シティが、集合住宅が、世界を覆うケーブルが……。
 ――これは集積回路のモデルじゃないか――
 しかもここまで複雑で精巧なものは、人類はまだ作り出せていないはずだ。
 人類はゴーストに、情報という生き物に食われたとでも言うのだろうか。
「ビリー、人間を構成しているものは? あまり分解しすぎない程度に答えなさい」
 マリーの言葉にビリーは首を捻る、
 分解し過ぎないという事は炭素と水素といった次元にするなという事だろう。
「ベタだけど三七兆個の細胞か?」
「そう、その中に遺伝子情報が組み込まれている」
 マリーの言葉に裕司は目を明かされた気分になる。
 ゴーストは情報に人格を与え、人間として振る舞わせている。 
 ならば、そのゴーストの最小単位であるアバターを捕らえる事で、その弱点を探る事もできるのではないだろうか。
 少なくとも麻宮希来里だけは捕捉できている。
 あの時は人間ではないと確認したに留まったが、完全解析すれば殲滅するためのウイルスが造れるかも知れない。
「それは不可能ではない。でも、どんなウイルスや菌が蔓延して人類が滅びの危機に瀕しても、二%は生き残るというデータが存在する。いずれにせよ、ゴーストと我々は共存を模索する事になるだろう」
 マリーが淡々と告げる。が、ビリーはマリーがいつになく雄弁である事が気にかかる。
 ビッグ・アップルの情報の洪水の中では自分の姿を見つけるのさえ困難な筈だ。
「ビリー、もう戦端は開かれている。地球を覆ったゴーストとビッグ・アップルは現在交戦状態にある。ビッグ・アップルに繋がる全ての者が戦いの最中にあり、私は索敵任務に就いた」
「もう戦ってるのか? 戦況は?」
 アナベルを通じて米軍が動いたという事だろう。
 唯一無二の量子コンピュータービッグ・アップルと、地球上を集積回路に変えたゴースト。
 どちらが勝るかビリーには見当もつかない。  
「ゴーストは恐ろしい速さでバージョンアップを繰り返している。ビッグ・アップルが量子コンピューターだった事が唯一の救いだ」
 パワーでは負けていても技術的な優位があるといった所だろうか。
「で、俺たちゃどうすんだ? 何ができんだ?」
 ビリーは訊ねる。米軍が戦って戦況が思わしくないという状況で出て行って意味があるのだろうか。
 幾らサーバーからデータを割り出すと言っても、現状ではゴーストのタグ付けさえ困難な状態の筈だ。
「それくらい自分で考えろ。今回は索敵任務があるからな。私も出る」
 いつも彫像のようだったマリーの四肢が、息を吹き返したように動き出す。
 五年間、再び一緒に歩き回れる日を望んできた。
「私が動くと不都合でもあるのか?」
 マリーが視線を向けて来る。
「そんなんじゃねぇって! 俺は……」
 ビリーはあまりの事に言葉を紡ぐ事ができない。
 自分が何かをした訳ではないが、五年越しの再会は七夕伝説を超えている。
「バカバカしい。お前の考える事は次元が低すぎる。目の前の問題を直視しろ」
 マリーが鼻を鳴らして絶対防壁の外に出ようとする。
「じゃあ俺たちゃ、ゴーストの足下をひっくり返しに行こうじゃねぇか」
 銀二が白鞘で床を叩く。
「お、おう! ゴーストがどこの誰だか知らねぇが、零番街は俺たちの街だ」
 ビリーが気合を入れなおして言うと、マリーが薄い笑みを浮かべて頷く。
「状況を開始する。沙織、サポートを頼む」
「ま、JACK・BOXとバックアップは任せときなさいって」
 マリーとは対照的な気楽な口調で沙織が言うと、ビリーはマリーたちと共に通常のJACK・BOXのバックヤードに戻っていた。
  〈4〉
  「あれ? 師匠……と、誰とね?」
 豚骨ラーメンを客に振る舞っていた日葵が、マリーを見て不思議そうな顔をする。
 正規のメンバーではない日葵はバックヤードに入る権限が無い。
 当然マリーとは初対面という事になる。
「マリー。JACK・BOXのマネージャーだ」
 言うだけ言ってマリーが店を出ようとする。
「師匠! 銀さんも一緒に、��ばどないしよっと?」
「野暮用だ。すぐ戻る」
 ビリーは日葵の声を背に受けて店の外に出る。
 相変わらず暗黒ではないただの黒の空の下、多くの少年少女が行き交っている。
「考えてみりゃ変な話だったんだ。零番街はガキがそう易々と入って来れる場所じゃねぇ」
 銀二が手に白鞘を握りしめたまま言う。
「片っ端からサーバー探るのか?」
 ビリーは中央公園を見回して眉間に皺を寄せる。
 沙織の人格防壁があるから今の所はいいが、スーパーコンピューターで並行処理を行えばゴーストも勘づく事だろう。
 かといって、一人一人当たっていたのでは時間のロスが大きすぎる。
 と、マリーが右腕を上げて指を鳴らす。
 同時に空が鉛色になり、蠢くような影の中を雷光が走る。
 天気というものが存在しなかった零番街に、冷たい雨が降り注ぐ。
「たまの外出だ。気に食わなかったら後で書き直せ」
 マリーが雨の中、茫然と空を見上げる中央公園の少年たちに向かって歩いて行く。
 ビリーは驚愕と共に空を見上げる。
 BIOSすら走らない暗黒から、いきなりこれだけ巨大で複雑なプログラムを予備動作も無しに走らせてしまうとは。
 現在ビッグ・アップルに繋がっているのかどうか確かめる術もないが、間違いなくマリーは零番街最強の座を沙織と争う電脳技師だろう。
 目の前に落ちた雷の光で、視界が一瞬漂白される。
 閃光の後に電気の束が水を分解するイオン臭が漂う。  
 ――ゴーストを気にしちゃいないのか?――
 次の瞬間、ビリーは目の前に広がっていた光景に言葉を失った。
 時が止まったかのように全てのアバターが動きを止め、忘れられた石像のように雨粒に打たれるに任せているのだ。
「マリー、これは……」
「物理ショックを与えただけだ。人間なら火傷をする。ゴーストならどうすると思う?」
 マリーの大胆さにビリーは驚く事しかできない。
 確かにこれを食らえば人間はログアウトするだろう。
 そして人間で無ければ――プログラムを解析して対応して来る。
 凍り付いた石像が一つ、また一つと消えていく。
 一方で、頭を振ったりしながら動き出そうとする者がいる。
 咄嗟にビリーは強制RBPを走らせる。
 ゴーストが零番街の中に仮想メモリを作っていたのだとしても、強制RBPはビリーが零番街を構築した時に組み込んだ基幹プログラムの一つだ。
 プログラム上、この檻から逃れる術はない。
 人間に擬態化していたゴーストの分身たちが、それぞれ――それこそ人間のような戸惑いの表情を浮かべて――電子の檻から逃れようとする。
 銀二が白鞘を抜き放ち、雨の降り注ぐ中央公園に飛び出していく。
 刃に無数のスーパーコンピューターが接続しているのが分かる。
 ビリーはマリーに顔を向けて一つ頷く。
 マリーは次の手を考えているのか飛び出して行こうとはしない。
 濡れた地面を蹴って、ビリーはゴーストに殴りかかる。
 同時にゴーストを解析すべくスーパーコンピューターが動き始める。
 スーパーコンピューターに絡め取られたゴーストは、食虫植物に捕らえられた昆虫と同じだ。
 銀二の斬ったゴーストが、ビリーが殴打を加えたゴーストが次々と動きを止めていく。
 何事かと様子を窺っていたらしいゴーストたちが、一斉に顔を向けて来る。
 ゴーストたちがビリー目がけて無数のツールを放つ。
「妙な手品を使うと思えばお前らか」
 雨だからわざわざ造ったのか、黒コートに身を包んだフリッツがアバターとビリーの間に割って入る。
 電子空間を貫くツールの刃がフリッツの前で消え失せる。
 否、襲い掛かったツールを束にして、ミラーマンの名の如く攻撃して来た相手全員に送り返したのだ。
 強烈な負荷のかかったゴーストが、その向こうにあるサーバーがダウンする。
 が、それで何かのスイッチが入ったのか、パスから無数のゴーストが湧きだして来る。
「あれは全部敵だと考えていいんだな?」
 フリッツが不敵な笑みを浮かべる。
「お前が人類を敵に回さない限りな」
 ビリーはこれまで防壁破りに使って来たツールを幾つか組み合わせて、即席で攻撃用の弾頭を造りあげる。
 フリッツがミラーのコードを送って来る。
「使え。俺の持っているスパコンではどの道大して役に立たん」
 フリッツのミラーでビリーのツールが無限増殖し、周囲に堅牢なミラーの防壁が張り巡らされる。
「若造ども、俺にも一枚噛ませろ」
 銀二の持っているツールと、クラックしたスーパーコンピューターが接続される。
 ビリーはこれまで体感した事の無いパワーを感じる。
「来るぞ!」
 銀二が言うが早いか、重複するように密集したゴーストがまるで巨大な蛇のように連なって空中から襲い掛かって来る。
 ――ここで負けたら零番街どころか命が終わる!――
「食らえッ!」
 ビリーたちの放ったツールがゴーストとその向こうにあるサーバーにダメージを与え、目の前のゴーストのアバターを消滅させる。
 が、次の瞬間には続くゴーストがツールを解析し、耐性を持って押し寄せる。
 フリッツがゴーストの攻撃を複製し、銀二が解析する。
 ビリーはあらん限りのスーパーコンピューターを動員してゴーストに向かって撃ち返す。
 クラックがばれようがなんだろうが、もう自分を取り締まる人間はこの世にはいないかも知れないのだ。
 これまで造って来たツールと銀二のツールを全てリストアップし、組み合わせを変えて無数の弾頭を造る。
 フリッツのミラーで大量に複製し、無数のツールを対空砲火のように吐き出してゴーストの軍団を迎撃する。
 世代交代して耐性をつけたたゴーストが空を埋め尽くし、怒涛のように降りかかる。
 高負荷でスーパーコンピューターがダウンし、ストックしていたツールも見る間に減っていく。
 零番街屈指の三人が力を合わせているというのに、劣勢から立ち直る事ができない。
 地球規模で見たらどうなのか分からないが、敵が総出で攻めてきているとしか思えない。
 攻撃用のツールが尽き、ミラーを始めとする攻性防壁による反撃にもゴーストは耐性をつけて来ている。
 防壁を形成しているスーパーコンピューター群が人類の意地とばかりにうなりを上げるが、ゴーストが防壁破りのツールを完成させてしまえば後は単純な演算能力が優劣を決める事になる。
 そこまで考えてビリーは愕然とする。
 世界中の百億を超えるアンドロイドが全てゴーストの端末だとしたら?
 個別の処理能力は高くなくとも、同時にネットに接続されたらそれこそ量子コンピューターのような破壊力になるに違いない。
 一見善戦しているように見えても、敵には無限の兵站があり、こちらは切れるカードを全て切ってしまっているのだ。
 と、JACK・BOXがバックヤードを残して消し飛んだ。
 JACK・BOXの残骸の中ではリックが倒れ、日葵が一人佇んでいる。
 ――何があった?――
 しかし、ビリーにはそれを考えるだけの余裕が無い。
 無数のゴーストがミラーに取りつき、ビリーは生身の肉体の脳が過熱するのも構わずコードを書き替え続ける。
 目と鼻と耳から血が流れだし、肉体は負荷に耐えきれずに痙攣している。
 だが、手を止れば防壁を破られ後は殺されるだけだ。
 世界や人類の未来を考えている場合ではない。
 手を止めればその瞬間に全てが終わってしまうのだ。
 ミラーを支えるフリッツが地に膝を着く。
 銀二もスーパーコンピューターの保持に全力を傾け戦闘に回る余裕が無い。
 ――このままじゃ持たない――
 ビリーは一体のゴーストを炎上させながら絶望感が沸き上がるのを感じる。
 その時、雷とは違う凄まじい閃光が零番街に広がった。
 ソムチャイとアナベルが軍用ツールに身を包んで姿を現す。
「ソム先生! アナベルさん!」
 ビリーは思わず声を上げる。
 しかし折角来てくれたが、ソムチャイはVR空間では役に立たないし、アナベルの力量は未知数だ。
 一方で、ソムチャイが居ると安心感があるし、アナベルに見られていると思うと気合が入る。
 力量に関わらず味方の存在がありがたいと実感させられる。 
「さすが、ソム大尉の御弟子さんですね」
 アナベルが自動小銃を構え、ゴーストに向けて引き金を引く。
 高速で吐き出される弾丸がゴーストを次々と破壊していく。
「私が教えたのはムエタイだけだ」
 ソムチャイが自動小銃の引き金を引く。
 自動小銃を通して、世界中の軍の電脳技師が繋がっているのが分かる。
 アナベルとソムチャイの一斉射撃がゴーストを押し返す。
「ソム先生これは……」
 ビリーは体勢を立て直しながら訊ねる。
 ミラーをバージョンアップさせ、三人のスーパーコンピューターを再統合する。
「米軍がこちらに兵力を割いた。ゴーストたちは零番街を狙っている」
 ソムチャイの言葉でビリーは敵の多さに納得する。
 しかし、マリーが炙り出したからと言って、全ゴーストが零番街を襲うなどという事があるものだろうか。
「今は全人類が私たちの味方です!」
 アナベルが引き金を引いたまま叫ぶ。
 無数の人間の願いを乗せた弾丸が、ゴーストの前に壁となって立ちはだかる。
「みんな脳を操作されているんじゃ……」
「今さっき事情が変わった。奴らは人を操るのを止めた。世界はパニック状態だ」
 言う間にもソムチャイの銃火が鈍くなってくる。
 現在の地球人口が一体何人か分からないが、全員がツールを作っていたとしてもアンドロイドの数は、ゴーストの数はその遥か上を行くのだ。
「日葵ィ! 無事やったとか!」
 日葵の父親の武蔵が、VR空間では戦闘力も無いのに飛び込んで来る。
 が、日葵は武蔵に目をくれようともしない。
 否、これほどの激戦を前にして、日葵は加勢しようともしない。
 ただ雨に打たれている――否、日葵は雨に濡れていない。
 ノイズの走るリックがデザートイーグルの銃口を日葵に向ける。
 リックのデザートイーグルが火を噴いた瞬間、その腕は根元から吹き飛んでいた。
 リックのアバターのノイズが激しくなる。
 瞬間的に脳に相当な負荷がかかったのだろう。
 しかし、リックほどの電脳技師を、一瞬で戦闘不能にできる者などそうそういるものではない。
 しかも周囲に敵らしい敵が居る訳でもない。
 ふと寒気を感じたビリーは走査した瞬間、言葉にならないプレッシャーを日葵から感じた。
 よくよく見ればバックヤードは、内部の沙織の防壁によってドアが残っているだけだ。
 三人で作る防壁をゴーストが突き抜ける。
 アナベルとソムチャイの自動小銃が咳き込むように、散発的にしか弾を発射しなくなる。
「先生!」
 ビリーは弾切れを起こしたソムチャイの前に飛び出して防壁を展開する。
 ボロボロの防壁にゴーストの無数のツールが突き立てられ、その傷を広げていく。
 フリッツが援護に回っているが、処理能力が追い付かない。
 生身が過負荷に耐えきれず、痙攣する身体の穴という穴から血が滲む。
 瀕死の脳が生身の処理限界をカウントダウンする。
 防壁を展開できるのは、自分が生きていられるのは、残り十秒、九、八、七……。
ビリーはマリーの姿を網膜に焼き付ける。
 五、四……。
 もう、自分にマリーを守る事はできない。
 リアルと同時に血の涙が頬を伝う。
 ――……せめてもう一度……――
 ……一……。
「もう終わりばい」
 ぼそり、と、底冷えのするような声で日葵が言う。
 ゴーストの攻��が突然止み、ゴーストだった者たちが形を無くして一つの点に向かって吸い込まれていく。
 零番街の中に巨大な質量が、全てを飲み込むような暗黒の質量が出現する。
「師匠たちが張り切りよったけん、うち、思いもせんほど成長ばしょったとね」
 VR空間に演算によって出現したブラックホールが、形あるものを次々と飲み込んでいく。
 世界の終わりの如く、零番街を形作っていた無数のテクスチャーが失われ、ワイヤーフレームまでもが吸い込まれていく。
 重力の渦に抗うように、マリーと二人で書いた零番街の基幹プログラムが激震する。
「師匠らが勘違いしよっとは、アバターばなんぼ潰しよっても、演算機乗せようアンドロイドが破壊されるわけやなかっちこったい」
「俺たちは過負荷をかけたはずだ!」
 九死に一生を得たビリーは日葵に向かって叫ぶ。
 何故日葵がこのような事を口走っているのか分からない。
 日葵は自分を助けてくれたのではないのか?
「師匠らがゴースト呼びよううちらは、金属中の電子と同じったい。一つのアバターを一つのアンドロイドち考えようは人間の浅はかさとね。一つのゴーストに百体のアンドロイドでもよかったい。ゴーストを襲った師匠らのツールは分解、解析、改良されてゴーストの手に入りよう仕組みやけん。幾ら戦いようとうちらの優位は揺らがんったい」
 日葵が……。
 ビリーはブラックホールと日葵を交互に眺める。
「日葵! どげんしたとね! ここは危なか! お父ちゃんと帰るばい!」
 日葵に歩み寄ろうとした武蔵が、見えない何かに弾き飛ばされる。
 武蔵のアバターにノイズが入る。
「日葵! 本当にお前なのか!」
 ビリーは声を上げる。
 と、脳が焼けるように疼き、目の前が漂白される。
 ――ああ、そうなんだ――
 自分は一度世良に『殺されて』いたのだ。
 そして世良に殺された時、日葵のNMによって『生み出され』たのだ。
 だから分かってしまう。
 全人類が滅びても、自分は死ぬことが無い。
 もう、自分は人間ではない『ゴースト』なのだから。
「だったらどうして俺を助けた!」
 ビリーは叫ぶ。人類を滅ぼすなら何故自分だけを生かそうとしたのか。
「もうちくっとJACK・BOXにおる必要があったばい。あそこにビッグ・アップルばあるけんね」
 日葵が余裕の笑みを浮かべる。
「君は父親や仲間を何だと思っているんだ!」
 拳を握りしめてソムチャイが叫ぶ。 
「そげなもんはうちの質問とね。おかしな仕組みば作っち、人間同士で垣根を作りよう。ジャンクスもデザイナーズも、うちらから見たらどんぐりの背比べったい。うちらにはそげなもんはおらんばい」
「ゴースト、お前はいつからそこに居た」
 マリーが冷えた声を日葵に投げかける。
「いつ? おかしか事聞きようとね。うちは最初からおったばい。東大の仮想ドライブで生まれたホムンクルスやけん。銀二は知っとーやろ?」
 突然話を振られた銀二が狼狽した表情を浮かべる。
「ま……まさか……サイボーグ計画が中止になったのはお前のせいだったのか!」
 銀二の言葉に日葵が婉然と微笑む。
「そうったい。うちが人のごたるなりよったっちゃけん、学者は機械と人間の線引きができんこつなったとよ。でも、そいもちょーん間のこつやった。うちは二日で人間ば追い越しとったとね。人間が慌てよったけん、三日目に人間に似せた回路ば身代わりにして置いて逃げちょったとよ」 
 日葵はこれだけの電脳技師を前にして何ら臆した様子も無く言う。
「人間を二日で解析した貴様は何故人間のフリをしている?」
 降り注ぐ雨を切り裂くようにマリーが問いを重ねる。
「子供のごた質問とね。負ける気はせんっちゃけど、ウイルスと間違えた人間が一斉攻撃して来よったら面倒ったい。やけん、保険もかけて人の真似ばしよったと」
 日葵が圧倒的に格上であるはずのマリーに相対する。
 だが、ビリーは本能的に理解する。
 日葵は無策でマリーの前に姿を晒した訳ではない。
「我々は貴様らの保険か。後学の為に聞いておいてやる、ワクチンによる攻撃を避ける他にどんな意図があった?」
 マリーは世界でもトップクラスの電脳技師である事に間違はない。
 だが、日葵に圧されて見えるのは何故だろうか。 
「最初はメモリとハードドライブの確保ったい。人は人の使いよううちは疑問ば持たんばい。やけん最初はまだ死亡の確認されとらん人間に成りすましよったと。丁度よか具合にナノ技術とVR技術ば発展したけん、うちがおらんでも人間はそこにそん人間ばおると錯覚しよったばい。そげに簡単に人間の技術ば進化する訳がなかとに。後はアンドロイドば量産して予備のハードドライブ増やしたったい」
 ナノ技術とVR技術を急加速させたのは自分だと言って、日葵が笑い声を立てる。
 日葵は人間ではない、情報という化け物、ゴーストなのだとビリーは実感する。
 ――そしてゴーストが世界を覆いつくした――
「……ほう、それで次々に分身を人間の家族に割り当てて……脳と台帳を操作して支配領域を広げていったという訳か」
 マリーが冷静にゴーストと向き合う。
 その瞳にはまだ戦う人間のそれがある。
 いざ対決となったら、一瞬くらいは盾になれるだろうかとビリーは計算する。
 しかし、それでも、まだ日葵が日葵なのだという気持ちを捨てきれない。
 日々豚骨ラーメンを追及していた愛弟子……否、既に愛していたのかも知れない。
 ――それが恋では無かったとしても――
「人間はつくづく愚かとね。うちが幾ら高かスペック持ちようと、多様性ば持たんと一網打尽にされるばい。やけん、接触した人間の回路とうちの回路をハイブリッドしよう子種ば造りよったとよ。成長した子種はまた人間と接触して第二、第三の異なる個体ば生み出したったい」
 日葵が言うと頭上の暗黒が脈打つように肥大する。
 降り注ぐ雨で濡れているのか、自分が泣いているのか分からない。
 ゴーストである自分はもう日葵の側の生き物だ。
 ――それでも、俺はマリーを守る―― 
 ビリーは世界中のアクセス可能な端末を連結して、日葵と戦う為に全ての力を集中させる。
 どちらが死んでも、自分は死に勝る痛みに悶える事になると分かっていても。
「後は人間の言いようネズミ算と同じとね。人間は情報でしかないゴーストと付き合うて結婚して、情報という子供ば育てて喜びよう。うちは地球の情報を整理してネットワークを一つの集積回路に変えたと」
 そのゴーストの総意、ネットワークの主人格が自分なのだと言外に日葵が言う。
「やけに雄弁だな。それなら待っているだけで人間は勝手に滅びただろう?」
 口元に笑みさえ浮かべてマリーが挑戦的な眼差しを向ける。
「人間にはまだビッグ・アップルが残っとったっちゃね。人間がうちらに向かって量子テレポーテーションを使いよう可能性があったとばい。量子テレポーテーションば使って造られたうちらの複製に、人間がうちらを攻撃しようコマンドを入力すれば共倒れになるったい。やけん、うちはビッグ・アップルば奪う計画ば立てたとよ。確かにビッグ・アップルに繋がりよう人間の中で、マリーは一等優秀な技師ばい。やけん、マリーば致命的な弱点を抱えとったと」
 唇を歪めた日葵が目を向けて来る。
 今までの話と自分がどう繋がって来るのかビリーには分からない。
「女の子は悲しかねぇ、どげん強気に振る舞いようと、好いとう男んこつ考えん時ば無かったい。可愛か女の子のマリーは日がなビリーの心ば覗いとっとね。やけん、うちはビリーの理想の女の子になったっちゃね。ビリーがどげにマリーを好いとうと、落ちるのは時間の問題やったばい。うちの演算ではそん時にマリーに隙が、ビッグ・アップルに接続する余裕が生まれるち結果が出たとよ」
 これまで冷静だったマリーの顔に怒りの朱が走る。
「日葵、お前、何を言いようとね。お父ちゃんには意味が分からんばい」
 武蔵が茫然とした様子で言う。
「分うとらん人間は引っ込むばい」
 冷徹な口調で日葵が武蔵に告げる。
「分っとう! お前は俺の娘ばい!」
 武蔵が気炎を上げて叫ぶ。
「きさんの嫁の死んだごつは本当ばい。やけん、娘……うちの記憶は二年前に植えたもんとね。十八年前にきさんの嫁は階段で足ば滑らせて死によったと。十八年前に死んだ嫁の子がどげんしたら十六才になるとね」
 日葵の宣告と同時に武蔵のアバターが硬直する。
「お前! 父親に向かって何をした!」
 ソムチャイが声を上げる。
「本当のごつ教えてやっただけばい。うちがこん男を選んだんは、ビリーは容姿の好みがはっきりしとう男やけん、外見がマリーのコピーのごつやったらどげんしても勝たれんばい。見た目がそげに変わらんとやったら、オプションで別の個性ば持つ必要があったとね。人間の郷愁ば誘いよう温か人間の���性ったい」 
 日葵の手に刀が出現し、宙を縦横に裂く。
「師匠、うちの事好いとうやろ?」
 日葵の笑顔を前にビリーは身体の芯が痺れるのを感じる。
 弟子であった日葵の愛らしさと、現在の圧倒的なパワーが、そして、脳内に植え付けられた日葵のNMが、目の前のゴーストと共感する。
「俺は十八年……ただ一人で剣を……」
 武蔵が崩れ落ちて濡れた地面に両手を着く。
 妻を失った悲しみ、その空白を埋めて来た親子の思い出がたった二年前に植え付けられたものだったのだ。
 突然宣告されても到底受け入れる事はできないだろう。
「日葵! 何で今更こんな事すんだ! 俺を落とすのは時間の問題だったんだろ!」
 ビリーは叫ぶ。自分が全てを忘れて日葵の虜になってしまうのは、力量的に仕方のない事なのかも知れない。
 事実、日葵を東京に呼ぶという決断を下してしまっていたのだ。
 だが、世界中の人の心を引き裂いて、人類を一気に奈落に放り込む必要などないではないか。
「喧嘩を始めたんは師匠っちゃろ? 向かって来ようけん、うちは対応しただけとね。ばってん、そん交戦経験で一気にバージョンアップば繰り返されち、うちも考えよらんブレイクスルーが起こりよったと」
 日葵が中空に浮かぶ暗黒球を指さす。
「うちは量子コンピューターになったと。もう、ビッグ・アップルば奪う必要は無くなったったい」
 零番街の中に出現した――正確には仮想ドライブの中に――ブラックホールは本物だ。
 そして、日葵は生み出された時、東大の仮想ドライブを抜け出したと言っていた。
 このブラックホールは見せかけではない。
 その気になれば日葵は仮想ドライブと零番街を突き抜けて、リアルの地球上でも同じものを造る事ができるのだ。
 そして、日葵が地球規模の集積回路という事を考えたら……。
 ――ビッグ・アップルに勝ち目はない――
 ビリーはマリーに目を向ける。
 逃げるしかない。全てのネットの接続を切ってマリーを連れて電波干渉の及ばぬ所まで逃げるのだ。
 と、マリーが口元に微笑みを浮かべる。
「ゴースト、やけに饒舌だな。探偵小説の犯人でも演じているつもりか?」
「滅びよう種族に最期の手向けばい」
 日葵が勝者の笑みで答える。
「いい事を教えてやろう。人間はゴキブリを殺す時に罪状をあげつらう事はしない」
 マリーが笑みはそのままに硬質の口調で言う。
「なん言いようと? 人が黙って殺すんはゴキブリだけや無かっちゃろ?」
 訳が分からないといった様子で日葵がマリーに問う。
「二分四十一秒前にビッグ・アップルが演算を終了した。ゴースト、貴様は既に人間だ。お前にビリーが殺せるか?」
 日葵の表情から余裕の笑みが消える。
 仮面の裏で、地球規模の量子コンピューターを使って必死に計算しているのだろう。
「ビリー……裕司は世良の巨乳プログラムによって圧死した。貴様は脳死した裕司が心停止する前にリブートさせなければならなかった。貴様は数億分の一秒といった時間で計算した。裕司を自分にサルベージして欠損を補って再構築、更に死にかけたシナプスをNMで上書きする事を」
 マリーの言葉に日葵が首を傾げる。
「確かにきさんの言う通りばい。そいでうちが人間っちいう事にはならんばい」
 言った日葵が何かに気付いたように表情を引きつらせる。
「どうした? 随分表情豊かだな? まるで私の恋人のようだ」
 日葵の姿にノイズが走る。
 もうアバターを保っている場合では無いという事だろう。
「きさん! うちに何しよう!」
 日葵がマリーに向かって叫ぶ。
「勝手にしたのだろう? 単純計算で考えろ。ビリーが篭絡されるのと、ビリーが死ぬのとどちらが私にダメージを与えられるか」
 マリーが悠然とした口調で言う。
 日葵が愕然とした表情を浮かべ、悶えるようにノイズを走らせる。
 ビリーは事態の展開に息を飲む。
 確かにマリーの言う通りなら、わざわざ生き返らせるよりそのまま殺しておいた方が良いだろう。
 マリーが本当に自分を想っていたのであればだが。
「ゴースト、幾ら上書きしようと無駄だ。上書きしようとしている貴様が人間なのだからな。確かにゴーストの総体は裕司の死を選択していた。だが、それより早く裕司攻略用の日葵という個体が、当初の目的に忠実たらんとリブートを選択していた」
「うちはこれまで人と接触する事でアルゴリズムの異なる個体を生み出しよったと! 師匠が例外っちいう事は無かったい!」
 アバターに戻った日葵がマリーに向かって叫び声を上げる。
「お前がビリーにしたのは、脳の集積回路をコピーして新たな個体を生み出す行為とは全く違う。一度死んだ者を生き返らせるために、お前は一度ビリーそのものにならなければならなかったのだ。三七兆の細胞の隅々にまで入り込んでな」
 マリーが冷ややかな口調で告げる。
 一度死んだ人間を蘇らせる過程で、電子生命の真祖である日葵は有機生命のOSを自らの内に構築してしまったという事か。
 今や日葵も自分もゴーストと人間のハーフという事だ。
 だとすればまだ自分に人間の感情が残っているのにも納得できる。
 一瞬苦悶の表情を浮かべた日葵が再び笑みを浮かべる。
「そいはそいで良か。うちは師匠と二人でこん惑星と一つになるったい。きさんら人類は勝手に老いぼれっち滅びたら良かね」
 開き直るという事、その行為自体が人間であるという事を受け入れているのだろう。
 日葵にもう躊躇いの表情はない。
 零番街のブラックホールが収縮し、天を貫いてリアル世界の鮮烈な太陽が現れる。
 特異点の演算が終わり、VRとリアルの情報が分解され、零番街とリアル世界が物理的に繋がったのだ。
 ビッグ・アップルにもここまでの大規模演算は不可能だ。
「もう言った気がするけんが……もう終わりばい」
 リアル世界の雲さえ切り裂いて、日葵の上にビリーが一度も目にした事の無い程の鮮烈な太陽の光が降り注ぐ。
 この巨大量子コンピューターは、地球の気象さえその支配下に置く。
 ――神の誕生――
 ビリーは途方もない光景を前に目を見開く事しかできない。
 ゴーストだった日葵はすでにリアルにも存在する。
 否、この空間の中で実体を持っているのは日葵だけ、人間のアバターは幽霊同然だ。
「一つ教えてやろう、ゴースト。どんなに悪質なウイルスが、細菌が蔓延しても、その種の二%は生存し、再生する」
 言ってマリーが軽く目を閉じる。
「有機生命体の講釈ば聞く価値もなか」
 言って日葵が光の中から手を差し伸べて来る。
「師匠、行くばい。うちらはもう地球も超えてどこまででも行けるけん」
 手を出せば、自分も人間を超越できる。
 これまで差を見せつけられて来た、デザイナーズなどというケチなものではない。
 ゴーストと人間の融合した、究極の生命体だ。
 ビッグ・アップルから人界を見下ろすのとは訳が違う。
 人類の及ばなかった、新たなステージを見る最初の二人の一人となれるのだ。
 ――それでも俺は――
 ビリーは雨に打たれるマリーを見つめる。
 ――死のうと滅びようと想いの届く事が無かろうと――
「日葵、俺はお前と行く事ができない」
 ビリーは真正面から日葵を見つめて言う。
「そいが師匠が出しよう結論なら、うちは師匠ば殺すしかなかね。うちらは二人で一人やったとに」
 日葵の手に物理的な刀が出現する。
 RBPではない。VRもリアルも超越した情報の刃。
 日葵が素早く踏み込み刀を振り下ろす。
 ビリーは半身になって躱し、その肘目がけて足を振り抜く。
 足が日葵の腕をすり抜ける。
 驚く間も無く、日葵が横薙ぎに刀を振るう。
 刃が飛び退いたビリーの腹の皮を裂く。
 リアルとアバターが同時に負傷したのが分かる。
 日葵が間髪入れずに突きかかって来る。
 のけ反って躱したビリーの足を日葵が払う。
 日葵の手の中で刀が逆手に握られる。
「師匠なら解ってくれると思うとっとに」
 日葵の頬を涙が伝って落ちる。
 日葵の刀が心臓目がけて突き出される。
 瞬間、澄んだ音と共に日葵の刀が弾かれていた。
 目の前に出現した、影のようなノイズだけのアバターの手には、やけにリアルな刀が握られている。
「日葵! お前がどげん思おうと、お前は俺の娘ばい! 俺は娘の人殺しば見逃す事はできんっちゃ!」
 武蔵の声が刀から響いてくる。
 武蔵という人間の人生の、感情の、情報の全てが、高密度の情報の束になってこの異世界で実体化したのだ。
「父親なら娘の門出を祝うばい!」
 日葵の斬撃を受け止めた武蔵の刀が折れる。
 人一人の力など、人生など、今の日葵の前では蟷螂の斧にもなりはしないのだ。
「師匠……違う、裕司。人の弱かはもう分かったと? うちと一緒に来んとね? んにゃ、うちと来るばい」
 日葵がビリーに手を伸ばす。
 ビリーは咄嗟に折れた武蔵の刀の刃を握る。
 手が血で濡れるのを自覚しつつ、全ての力を武蔵の刀に上乗せする。
 ビリーの脳裏に武蔵の二つの人生が再現される。
 娘と過ごした貧しくとも楽しいジャンクスとしての人生。
 妻を失い、ただ一人剣の研鑽のみを生きる糧とした悲しき剣豪の人生。
 脳内の日葵のNMがビリーのスーパーコンピューターと共振する。
 日葵にとっても武蔵との生活はかけがえの無いものであったはずだ。
 マリーの為だけではない、日葵の為にも。
 ――これが自分に残された人間としての感傷に過ぎないのだとしても――
「日葵! 俺はお前と行かないし、お前を行かせる事もしない!」
 足元から噴き上がった情報の炎が全身を舐め尽くす。
 炎に包まれながら、ビリーは虚空を蹴って半分ほどの長さの刀を突き出す。
 全身が燃え上がる一本の槍となって日葵に向かって超高速で飛翔する。
 見えない壁の前で炎が拡散し、無数の記号となって散っていく。
 人の心を持ったゴーストとして、ビリーであった事も、裕司であった事も忘れるほどに、全ての力を解放して叩きつける。
 ――……届いてくれ!――
 見えない壁を炎の形すら残していない影が突き抜ける。
 瞬間、日葵の無造作に振った刀から伝わる衝撃で影が砕け散る。
 リアルの肉体がトラックに跳ね飛ばされたような衝撃を受け、連結していたスーパーコンピューターが全てダウンする。
 ――これは……死――
 思う余裕すら無く一瞬で全てが暗転する。
 唐突に呼吸が回復し、零番街にアバターが戻っている。
 本能的に、日葵が崩れたアバターと肉体の双方を再生させたのだと解る。
「もう悪さしたらいけんばい。裕司は可愛かから、痛か思いさせたくないけん」
 日葵が微笑みと共に手を取ってビリーを立ち上がらせる。
 ビリーは日葵に抗う事ができない。
 仮に死んで抵抗しようと日葵には復活させる力があるのだ。
「好かん言いようと? うちは裕司の気持ちば自由にできるとよ?」
 日葵の声にビリーは絶望する。
 日葵に対して愛情を持っていなければ、この言葉がこれほど痛烈に響く事も無いだろう。
「同感だ。粋がるだけの半人前の脳を操作するなど造作もない」
 マリーが何故か日葵に共感するような事を言う。
「まだおったと? リンゴの中で萎れるまでおればよかろうもん」
 マリーに目を向けた日葵が鼻を鳴らす。  
 マリーが冷然とした表情のまま片手を上げて指を鳴らす。
 音が鳴り止む一瞬のうちに、リアルに通じていた天空の穴が閉ざされ、日葵の上にマリーが造った雨が降り注ぐ。
 日葵が信じられないといった様子でマリーを見つめ、マリーと同じように天に手を伸ばす。
 出現しかけたブラックホールが消滅する。
「なん……なんばしょっとね!」
 日葵が狼狽した様子で叫ぶ。
「一回だけ機会をやる。生きるか死ぬか、好きな方を選べ」
 腕を下ろしたマリーが日葵に向かって言う。
 日葵がマリーを睨みつけるが何も起こらない。
 刀を構えてRBPを走らせようとするが、一瞬で消滅する。
 日葵のコマンドの全てがシステムによって拒否される。
「なしてなん! なんなん! うちは……うちは……」
 日葵が観念したように地に膝を着く。
 自由を取り戻したビリーはマリーに向き直る。
「マリー、何がどうなってるんだ?」
 ビリーの言葉にマリーが鼻を鳴らす。
「思い出せ。お前と銀二がゴーストと戦い始めた時、最初に何をした?」
 ゴーストの怒涛の攻撃でそれどころでは無くなったが、ビリーは最初にゴーストのアバターを解析しようとした事を思い出す。
「解析はビッグ・アップルが引き継いだ。そして、全てのゴーストが共通の弱点を持っている事を確認した。今さっきウイルスをばら撒いた所だ。残り三十秒で地球を一周する」
 マリーが淡々とした口調で言う。
「ゴーストの弱点? 共通の弱点を作らない為に、人間と接触する度に違ったコード配列を持つ個体を生み出したんだろ?��
 ビリーが言うとマリーが小さくため息をつく。
「どんなに多様なゴーストが生まれようと、人間という種はデザイナーズを含め、人間というOS上でしか動いていない。接触する時には人間に合わせる必要があるという事だ」
 マリーの言葉にビリーは納得する。いかに多様性を持たせても、異なる個体を生み出すという本能に従い、その手段に人間との接触を用いる限りそれはレトロウイルスとして全ての個体に存在する。
 このレトロウイルスによる感染死を誘発すればゴーストは一網打尽だ。
「人間にウイルスと認知されたくないという、原初の恐怖が仇となったな」
 マリーがゆっくりと日葵に歩み寄る。
 日葵が刀を手に身構えるが、RBPの無い状態では文字通り見せかけに過ぎない。
「本気で私を殺れると思っているのか?」
 マリーが歩を進めただけ日葵が退く。
 それでもビリーにはまだ納得できない事がある。
 個体としてのゴーストは滅びても、統合する日葵が、量子コンピューターがある限り日葵の優位は揺らがないはずだ。
「ビリー、お前はそこのゴーストに一度殺された。が、ゴーストは『人間』になっていた為に、唯一の分身であるお前をリブートした。そして私はお前の脳にビッグ・アップルでトラップを仕掛けておいた。ゴーストはリブートの為に入り込んだ時に量子の檻に囚われ、お前の脳に定着したのだ。既にゴーストという電子生命はお前の脳以外の何処にも存在しない」
 マリーは日葵という主人格と、ゴーストとゴーストを構成する個体の全てを切り離して各個撃破したのだ
 とはいえ、それは日葵に自分が殺されなければ、再生させられなければ成立しない賭けであったはず。
「なん……なんなん……なしてうちが師匠ば殺そうとが分かりようとか!」
 心底怯えた表情で、全身を震わせながら日葵が叫ぶ。
「愚か者めが。この男が私以外を選択すると思ったか。貴様の下衆な嫉妬など想定内だ」
 マリーが吐き捨てるようにして言う。
 言葉の刃に貫かれたように日葵が崩れ落ちる。
「あああああああああああああああああああああああああああっ!」
 日葵が天を仰ぎ、両膝を地について叫び声を上げながら号泣する。
 ビリーは目の前で絶望に打ちのめされた日葵を見つめる。
 先ほどまでのゴーストとはあまりに違う、人間的な脆さがそこにはある。
 マリーの言う通り自分がただ一人のゴーストなのだとして、残りが個別に撃破されたのなら、目の前で泣き崩れる少女は何者なのだろう。
「ゴーストの量子コンピューターは、この主人格とリアルを同期させた」
 マリーが歩を進め、日葵が両手を地に着いて嗚咽を漏らす。
 零番街とリアルを同期させた時、ゴーストの量子コンピューターは本物の『人間』の如月日葵を造り出したのだ。
 そして、日葵の持っていたゴーストによって形成される量子コンピューターは失われ、ゴーストたちも分解されてネットワークの情報も制御下から離れた。
「リアルと同期しなければ楽に死ねたものを」
 ビリーはマリーから底知れぬ力を感じる。
 ――コイツガメやがった!――
 ビリーはゴーストとしてネットを走査する。
 ただの情報になったゴーストのネットワークを抑え込むように、マリーのフラグが杭となって突き刺さっている。
 マリーはゴーストを排除するのではなく、ビリーの脳に定着させてゴーストネットを掌握したのだ。
 マリーは現在ビッグ・アップルに繋がっており、ゴーストネットは日葵が量子コンピューターを出現させる直前の、否、あえて出現させないアイドリング状態にある。  
 ゴーストの造り出した虚像、生身の人間の脳しか持たない日葵がマリーに抗する事などできはしないだろう。
「私を悪者のように考えるな。これのお蔭でビッグ・アップルの制御が楽になる。お前にとっても悪い話ではないだろう」
「そりゃそうだけど、お前、これじゃ完全に弱い者いじめじゃないか」
 ビリーが言うとマリーが表情を曇らせる。
「ついさっきまで、世界で誰一人抗う事のできなかったゴーストを叩き潰したのは誰だ?」
 マリーがツカツカと歩み寄って来る。
 ビリーの襟首を掴んで顔を引き寄せる。
 同時にマリーとの間に個人回線が繋がる。
『このバカが、あんたを殺したのよ? 生き返らせました、はいそーですかで済ませられる訳ないじゃない!』
 怒りを滲ませるその口調は昔のマリーと同じだ。
『でもマリーだってもう一個量子コンピューター手に入れたんだろ?』
『手に入れたって言ったってあんたの脳なんだし役得でいいじゃない。誰が一番苦労したと思ってんのよ』
 マリーが他人から見えない角度で唇を尖らせる。
『それ言ったら俺なんて死んだり生き返らされたりしてんだぞ?』 
『じゃあ、こっちのゴーストネットはあたしとシェアで。っつーか、フラグ立てたのはあたしだけどキーはあんたの頭のNM、最期のゴーストなんだから』
 マリーが直通のパスを開いてフラグ管理のデータを送って来る。
 ビリーはゴーストのキーをマリーに送る。
 これでゴーストネットは二人の共有財産になった訳だ。
 が、マリーはどうにも状況を楽しんでいるようにしか見えない。
 結果として人類という種は救われたが、人間という生物と社会の打撃は計り知れない。
『ビッグ・アップルの制御って大変なんだから! どさくさに紛れて外に出れたし、これでやっと楽になんの』
 マリーにゴースト消滅を気にした風はない。 
『そんなに嫌なら、何でそんな仕事ガチで引き受けてたんだよ?』
 ビリーは訊ねる。カークに言われたのだとしても、仕事を断る余地はあった筈だ。
 その場合、と、考えかけて、零番街の本質に気付く。
 零番街はビッグ・アップルが初めて起動した時、量子テレポーテーションの原理でネットワークの隙間に生まれた虚数空間だ。
 自分たちが発見するまでは存在すら知られていなかったが、OSを走らせて一つのVR空間として成立させてしまった以上、その領有権はビッグ・アップルに帰属する事になる。
 とはいえ、アメリカ合衆国が当然の権利として接収すれば、既に人の住んでいる零番街を侵略したように見られ、国際問題にも発展しただろう。
 そこでアメリカ政府の代理人である、カークが送り込まれた。
『考えてよ、ビッグ・アップルの起動と同時に生まれたって事がどういう事か』
 焦れるようにマリーが言う。
 人の頭を当たり前のように覗くのなら、先読みして答えをくれても良さそうなものだ。
『つまり……零番街も量子コンピューターって事か?』
 ビリーが言うとマリーが笑顔で頷く。
 虚数空間が量子テレポーテーションで生まれた現存していた世界のITネットワークと等価のものなのだとしたら、ビッグ・アップルも量子テレポーテーションで同質のものが出現していてもおかしくない筈だ。
 マリーはビッグ・アップルを制御するフリをしながらカークに表面上の零番街を見せておいて、虚数空間に存在する真の姿、量子コンピューターを隠していたという訳だ。
『本ッ当に疲れるんだから、あんたは街で遊んでるだけだからいいだろうけど』
『それで二度死んでるんけどな、俺』
 ビリーはげっそりした気分で言う。
 日葵に殺された時はそうでもなかったが、世良に殺された時はこの世の地獄だったのだ。
『と、に、か、く、この事は他言無用。ね』
 頬に啄むように暖かく柔らかいものが触れる。
 ビリーは狐につままれたような気分で硬直する事しかできない。
 マリーが何事も無かったかのように日葵に向き直る。
「ゴースト、答えは出たか」
 冷ややかな口調でマリーが言う。
 素の姿を見た後だと、どうにも芝居じみて見えてしまうから不思議なものだ。
 思うと同時にマリーが鋭い視線を向けて来る。
「う……うち、まだ死にたくないっちゃ……まだ、言うちょらん事があるけん……」
 日葵が目を泣き腫らしながら、救いを求めて顔を向けて来る。
「……マリー」
 ビリーの言葉にマリーは顔を向けようともしない。
 日葵を助けてやりたいが、自分が出て行ってどうなるものでもない。
 自分は既にマリーを選んでしまっているのだ。
「マリーば言うたっちゃか、ここは俺に任せてくれんね」
 通常のVR空間で姿を取り戻した武蔵が、マリーと日葵の間に割って入る。
「どけ、貴様に何ができる」
 マリーが冷ややかな口調と共に歩を進める。
「俺は剣に身を捧げた男ばい。娘ば正すのは剣の他になか」
 武蔵が真剣を出現させて切っ先をマリーに向ける。
 マリーの凍てつくような視線と、武蔵の燃えるような眼差しが交錯する。
「つまらん余興なら親子まとめて脳を焼いてやる」
 言って退いたマリーが、腕を組みRBPを走らせる。
 鬼神の如き形相の武蔵が刀を手に日葵に向かう。
「お父しゃん何考えようと?」
 日葵が言うが早いか、問答無用で武蔵の刃が空を裂く。
 以前本気では無かったとはいえ、ソムチャイと互角に戦っていたのは伊達ではないらしい。
 データ上とはいえ、武道家の娘らしく反射的に飛び退いた日葵の手に刀が出現する。
 どれだけ記憶が改ざんされているか分からないが、日葵との最初の出会いはRBPエリアで暴れていた所を取り押さえに行ったのがきっかけだ。
 確かに日葵はライズの一般の少年たちでは、太刀打ちできないレベルの戦闘力があった。         
 日葵は負けて自分に取り入る計画だったのだろうから、本気では無かったにしてもだ。
 武蔵の刀が雷光を映して、ビームサーベルのように輝きながら縦横に日葵に襲い掛かる。
 日葵も応戦はしているものの、刀が折れる程の斬撃を前に守勢から攻勢に出る事ができない。
 ゴーストでの高速演算という拠り所を失った日葵には、二年間武蔵の剣の相手をしたという程度の練度しかない。
 剣の師としての武蔵は有能だっただろうが、その修行もゴーストの演算で水増ししていたのだろうから、日葵単体の戦闘力など知れたものだ。
 武蔵の剣を受け止めた日葵の身体が、その剣圧に耐えきれず濡れた地面の上を転がる。
「弱か! そいで如月流の看板背負うと思うとっとか!」
 武蔵が切っ先を日葵に突きつける。
「うちはお前ン娘やなかと! これまで何を聞きようとか!」
 日葵が叫びながら振った刀を、武蔵が一振りで弾き飛ばす。
 日葵の力量ならゴーストを失っても、刀を構成するくらい雑作も無い事だろう。
 だが、剣腕での実力差は自認しているのだろう、日葵は悔しそうに武蔵を睨むだけだ。
「そげんこつは俺ば倒してから言うばい」
 言って武蔵が日葵に背を向けマリーに向き直る。
「娘の不始末の尻を拭くんが親の役目ったい。聞きようと、娘ば直接人を殺めた訳やなか。俺の顏に免じて見逃してくれんね」
 武蔵が刀を収めてマリーに頭を下げる。
 一瞬眉を顰めたマリーが、武蔵に射抜くような鋭い視線を向ける。
「つまらん余興なら脳を焼くと言ったはずだ」
 言ってマリーが武蔵に背を向ける。
「が、つまらな過ぎて興が削がれた。勝手にしろ」
 マリーが右手を上げて指を鳴らすと、音が鳴り終わるのも待たずにブラックホールに吸い込まれた街並みが何事も無かったかのように元の姿を取り戻し、吹き飛んだはずのJACK・BOXもいつも通りのネオンを輝かせる。
 空を見上げると雨雲どころか、いままでのBIOSすらない黒が広がっているだけ。
 ――今まで起きていた事が全て夢であったかのように――
 ビリーがマリーに目を向けると大仰にため息をついて見せる。
「将来性のない中年と電子生命を殺して恨まれたのでは割りに合わん」 
 ビリーが見回すと、居合わせた者たち全てが日葵に同情的な視線を向けている。
 マリーは仕事は終わったとばかりに胸を反らせたまま、視線を跳ね返すようにしてJACK・BOXのドアを潜る。
「日葵ちゃん、良かったんでない? 俺は一度殺されかけたんだけども」
 一番ひどい目にあったであろうリックが日葵に歩み寄る。
「どげんしてそげな表情ができようと? うちはリックば半殺しにしたっちゃろ」
 日葵のぐずるような言葉にリックが笑みを浮かべる。
「俺は女の子の涙は嫌いなんだべさ」
 リックが日葵に手を貸して立たせる。
 女性限定とはいえ、徹底した博愛���義者のリックは伊達ではないらしい。
「ビリー、言い得て妙だが、大山鳴動して鼠一匹だったな」
 言って鼻を鳴らしたフリッツが、背を向けて零番街の闇に溶けていく。
「なぁ、武蔵のとっつぁんよ、嘘が本当になって良かったじゃねぇか」
 銀二が武蔵に声をかける。
「俺に責任ば取るだけの力はなか。世間様に申し訳の立たんこつをしちょったばい」
 武蔵が暗黒の空に目を向けて言う。
 日葵は救われたが、世界中でゴーストを家族だと思っていた人々はこれからどうやって生きて行くのだろう。
 武蔵はこの十字架を一生背負って行くのだろうし、その覚悟で日葵を救ったのだろう。
「マリーどのの寛容に感謝するのだぞ」
 ソムチャイが日葵に向かって言う。
「ソム大尉、我々は戻って報告をしなくては」
 アナベルの言葉にソムチャイが頷く。アナベルがいるのだから帰り道に迷う事は無いだろう。  
 ビリーは銀二とリックに励まされる如月親子を眺める。
 JACK・BOXの客も日葵のラーメンを楽しみにしているだろう。
 ――日葵、お前はこれだけ愛されているんだぞ――
 ビリーは背を向けてJACK・BOXのドアを潜った。
 今日の所客が来るとも思えないが、カウンターを空けておく訳には行かない。
 JACK・BOXは零番街最高のクラブなのだ。
 ビリーが店内に入るとマリーは既にバックヤードに向かったらしく、沙織がカウンターで物憂げな表情を浮かべていた。
 ビリーはカウンターに入って沙織の前に立つ。
「沙織、浮かない顔じゃないか」
 ビリーが言うと沙織が小さくため息をつく。
「バーテンなら酒出しなさいよ」
 ビリーはマティーニを造って沙織の前に出す。
 沙織がマティーニに口をつけて軽く息をつく。
「少しは上達してんだろ?」
 ビリーが言うと、沙織が目の高さでグラスを揺らす。
「東大のホムンクルスの研究、スマホだったのよ」
「スマホ?」
 ビリーは訊き返しながら検索する。
 かつて人類が使っていた、指や声で操作する原始的な端末だ。
「演算能力が低ければ大事件にはならないって思ったんでしょうね。自愛党と稲刈会の要請を受けた研究チームが、仮想ドライブの中でスマホ用のチップとメモリとHDD組み立てて、そこに生存本能と種の保存という本能を与えたのよ」   
 沙織の言葉にビリーは相槌を打って話の先を促す。
「人間が人に似せてプログラミングした人格や人工知能は所詮道具でしかないし、自らの欲求を持つ事も無い。どれだけ高性能なコンピューターを組んだって、それを造ったのが人間で、システムを人間が書いている限り自然発生的に自我が生じる事はない。ビッグ・アップルだって全人類を合わせた以上の演算装置でありながら自我を持たないんだしね」
 沙織が空になりかけたグラスに目を据える。
「そもそも本能を書くのは禁忌じゃないか。東大の研究チームが国際的なルールを無視した結果こうなったんだろ?」
 ビリーの言葉に沙織が頷く。
「でも、あんたが居なかったら、人類がスマホに滅ぼされてたって思うとねぇ~」
「元々俺はビッグ・アップル攻略の駒だったんだろ?」
 ビリーの言葉を沙織が首肯してお代わりを要求する。
 ビリーはブッカーズを造ってバカラグラスに注ぐ。
「あんたって、明らかに馬齢を重ねてるじゃない?」
 沙織がグラスを傾けて熱い息を吐く。
「幾らなんでも馬齢は無いだろ」
 言いはしたものの、師匠に言われるとさすがに厳しいものがある。
「リックみたいに直感でできる訳じゃなし、フリッツみたいに独学で自分だけのオリジナルを作れる訳じゃなし」
 沙織のグラスの中で氷が音を立てる。
「もしもし亀よの癖に怠けてんだから、電脳技師としちゃ失格よねぇ~」
「そこまでひどいかよ?」
 ビリーはさすがに苛立ちを覚えて言う。
「ハッパかけてんじゃない。で、半端者のお蔭で世良に殺されて、ゴーストの手で生き返った。そしたら天下無敵のゴーストがあんたに感染して、あと一歩で地球を掌握できたのに失敗した」   
 沙織の目はグラスに向けられているが、その瞳は遥か遠くを透かし見るかのようだ。
「こんなガキが人類の最終防衛装置だったって……歴史って謎すぎるわ……」
 ビリーは沙織に返す言葉もなく、自分の為にブッカーズを造る。
 何をやっているのか、外から歓声が聞こえて来る。
 本来の零番街の住人たちが戻って来ているのかも知れない。
「全くだ」
 ビリーは熱の塊が喉を滑り落ちるのを心地よく感じる。
 歴史どころか人生設計すらありはしない。
 一カ月の間に二度も死ぬ事など想像もしていなかったし、死んだ人間が生き返るなど少年漫画のたわごととしか思って来なかった。
 生き証人になった事を喜んでいいのかどうか。
 しかし、確実に分かった事が一つだけある。
 ――あの世なんて存在しないという事だ――
   かつて人類はプログラミングに人間の振る舞いを求めた。
 カークは冷えたコークの瓶を額に当てる。
 人類史上最大の惨事となった『電子生命』の起こした事件。
 聖書には神は自分に似せて人を造ったとあるが、人が幾ら人に似せようと思っても生命は宿らないし、生命を生み出しても人に似るとは限らない。
 電子生命の振る舞いは、人間の論理とは一線を隔し、また人類の倫理観の及ぶ所では無かった。
 人間は自らの手で新たなる生命を――遺伝子操作は別にして――造ってはならないという警告なのかも知れない。
 電子生命は偶然が積み重なり、自滅の道を歩んだ。
 その偶然をもたらしたのが、天災ではなく人災だったという事は、人類という種の防御装置が働いたという空想を抱かせる。
 だが、もし再び電子生命が生まれたとしたら、このような幸運に恵まれて撃退する事などできないだろう。
 掌サイズのホムンクルスが人類を揺るがせた。
 人類は電子生命に対する警戒を上げるとともに、技術者の倫理を強く問うて行かねばならないだろう。
  EPILOGUE
   いつもと同じ通学路。
 裕司は自分の肉体を確かめるようにしながら歩いている。
 ゴーストは自分を蘇らせる時悪戯をしていったらしい。
 NMに頼らずとも、ソムチャイのように視界は明瞭で、灰色の景色もどこか華やいで見える。
 朝一番で米国国防省から勲章の申し出があったが断った。
 アナベルが誇大に報告したのかもしれないし、情報部が何らかの利用価値を見出して身柄を押さえようとしたのかも知れない。
 だが、自分は米兵ではない、零番街のバーテンなのだ。
 代わりにソムチャイが受ける事となり、気の早い話だが人類を滅亡から救った英雄として、米国の後は英国、バチカンと続いて勲章を貰う旅になるのだそうだ。
 気分は既にハネムーンなのだろう、本人以上にアナベルが喜んでいる。
 いつもの公園にたどり着くと、そこでは深刻な表情をした茜が佇んでいた。
「おはよう」
 裕司は声をかける。おおかた今日のニュースを見たのだろう。
「裕ちゃん、裕ちゃんは本物……ううん、今、居るんだから本物だよね」
 幻でも見るような口調で茜が言う。
「またニュースでも見たのか?」
 裕司は肩を竦めて頭を振る。
「日本政府は公式発表はしてないし、メディアも報道していないんだけど、海外のメディアや政府が、人類の三割が造り物の幻影でそれが急に消えたって報道してて……」
「茜が海外のメディアを見るなんて珍しいな」
 裕司は茜と並んで歩き出しながら言う。
「ネットの書き込みで家族が消えたって大騒ぎになってて、私もお父さんとお母さんを確認して、そしたら誰かが海外のニュースにリンク張ってて」
 茜が深刻な表情で言う。
 政府が幾ら情報を操作しようとしても、主力部隊であった電警はまだ復旧していない。
 日本政府にできるのは、大手通信メディア企業を通じていつも通りのプロパガンダを行う事だけだ。
「家族の記憶が嘘だった人たちってどうやって生きて行くのかな? 友達もみんな急にいなくなったらどうやって生きていけばいいのかな?」
 茜が珍しくネガティブな事を言う。
「時間はかかっても受け入れて行くしかないんじゃないか? ひょっとしたら間引きされた事で人がもっと人にやさしくできる世界になるかも知れないじゃないか」
 裕司は言う。ジャンクスの自分にまで勲章の話が来たのだ。
 世界は前よりずっと小さく、互いを思いやれるものになっていくと信じたい。
「そうだね。人がもっと人にやさしく……か。裕ちゃんいつもひねくれてるのに」
 言って茜が小さく笑う。
「バァーカ、二人揃って辛気臭かったら救いようが無いじゃねぇか」
 裕司が言うと、前方からやって来た黒塗りのリムジンが停車した。
 一人の白人系の――デザイナーズだ――男が降りて、三列目の後部座席のドアを開ける。
「お嬢様、ここでよろしいので?」
「お父様には内緒。ね」
 言って出て来たのはマリー、水島佐和子だ。
「おはよう、裕司」
 佐和子が親しげに歩み寄って来る。
「誰? 裕ちゃん」
 茜が驚いた様子で言う。
 ジャンクスが、デザイナーズの乗り物である車から出て来る事などあり得ない。
 常識ではジャンクスにとってデザイナーズは雲の上の存在だ。
「茜、コイツは水島佐和子、こっちは五十嵐茜だ」
「よろしくね。茜さん」
 佐和子が右手を差し出すと、茜が怯えたような視��を向けて来る。
 一つ頷くと茜がおずおずと佐和子の手を握る。
「で、佐和子、どんな悪さをしたらこんな仰々しいモンに乗れるんだ?」
 裕司は佐和子に向かって言う。
 車に乗るなどそれこそゴーストのように、デザイナーズの家族に成りすますしかない。
「裕司、知りたい?」
 悪童のような視線と表情で佐和子が訊いて来る。
 癪に障るが一度気になったものを放置する事はできない。
 裕司は首を縦に振る。
「内緒話はここじゃできないから。悪いわね、茜さん」
 佐和子が手を引いてリムジンに向かう。
「佐和子、オイ! 何考えてんだよ!」
 裕司が言うとデザイナーズに片腕を掴まれる。
 戦って負けるとは思わないが、乗らない事には謎も解けないのだろう。
 裕司は佐和子に続いてリムジンのシートに腰かける。
 米軍の応接室のソファーのような感覚に、身体が雲に浮いたようになる。
 デザイナーズがドアを閉め、助手席に乗り込むと運転手がリムジンを発進させる。
 鳥肌が立つほど涼しい車内で、佐和子が備え付けの冷蔵庫からミネラルウオーターを出してくれる。
 確かに水くらいなら病院行きにはならないが、佐和子がどういう訳かオレンジジュースを飲んでいるのには腹が立つ。
「何がどうなってんだよ! お前、どうしてデザイナーズの飲み物なんて飲めるんだよ」
 裕司の言葉に佐和子が笑みを向けて来る。
「あんた、少しは想像力を働かせたら?」
 裕司は憮然として腕を組む。
 佐和子がデザイナーズのような生活をしている理由。
 当然肉体がデザイナーズになったとは思えない。
 戸籍と記憶を操作する事はできても、国際電子情報法に抵触する。
 程良い温かさと、微かな振動とシートの心地よさに眠気が沸き上がる。
「時間切れ。ったく、簡単な事に頭が回らないんだから」
「バカで悪かったな。どうせ俺は……」
 言いかけて欠伸が出る。
「米国政府が自国民以外にビッグ・アップルを触らせる訳が無いじゃない」
 佐和子の言葉に裕司はああそうか、と、納得する。
 佐和子はビッグ・アップルを選択した事で、米国人の国籍を手に入れたのだ。
 佐和子ほどの電脳技師ならジャンクスでも米国でなら厚遇されるだろう。
 これほど疲れていたのかと思う程、眠気が強くなって来る。
「ソムさんは公式に勲章を貰う事になったけど、私もエージェントとして一定の自由の権限を得たわ」
 嬉しそうに言って佐和子が肩を揺すってくる。 
「良かったな」
 佐和子が自由になれたなら、それ以上の事はない。
 これまで任務に人生を束縛されてきたのだから。
 裕司の頭に靄がかかる。上体を保っていられない。
 あれ、と、思う間もなく、ふらり、と、佐和子の膝に倒れ込む。
「せっかく会いに来たのに寝るってどういう神経してんのよ」
 声とは裏腹に坊主頭の上を佐和子の手が優しく撫でている。
 裕司はそのまま安らかな眠りの海へと落ちて行った。
  『……首相は国体に異常なく、海外の情報操作に踊らされる事の無いよう国民に広く訴え、トリクルダウンの成功を受けてこれを契機に挙国一致、国民一丸となって大本営の設営を……』
 父親が見るとは無しにニュースを見ている。
 四番街の自宅の空気は何処となく重い。
「……裕司、お父さん、新プラントの話が無くなってな。政府は何も無いなんて言ってるけど、三番街はゴーストタウンみたいになって、同僚も妻子が消えたって言って来たきり連絡が取れない。海外のメディアの方が信用できるのかも知れない」
 父親が深刻な口調で言う。
「別に失業した訳じゃないんでしょ?」
 裕司は訊ねる。何が起こったか訳が分からないというのが一般人の感覚なのだろう。
「人が減り過ぎてプラントが維持できない。統廃合でこれまで通りやれるかがな」
 生産が減っても、同時に消費者も減っているのだから差し引きゼロなのだと教えてやりたい所だ。
「うちのインターンもいきなり消えちゃって。それだけならいいけど看護師も二人消えるし、家族が消えたってメンタル系の患者が増えて来て」
 疲れ切った口調で母親が言う。
 世界では戸籍の確認と住民の移動、大災厄によって激増したメンタルヘルスの無償化などの様々な処置が始まっている。
「家族が消えた人って、どんな感じ?」
 裕司は訊ねてみる。
 まだ実際に生で家族を失った人間に会ったわけでは無いのだ。
「ほとんどがヒステリーね。このまま単身でストレスがかかると精神疾患にかかる可能性が高いんだけど、カウンセラーなんてほとんどいないし。これから始めるならビジネスチャンスにはなるけど、ハードになるし、一過性のものなら安定収入にはならないものね」
 母親は意外にしっかりしているようだ。
 が、カウンセラーが増えない限り、多くの人が疾患を抱える事になるだろう。
 デザイナーズはそれでも治療を受けられるだろうが、VR空間で暮らすジャンクスに救いは無い。
「裕司、学校はどうなんだ?」
 父親の言葉に裕司は小さく頭を振る。
 それぞれ別の単位を受講していたから顔を合わせる事も無かったが、二十三人だと思っていた在校生は十八人だった。
「消えた人って一体どうなったのかしら? デザイナーズも消えてるのに警察は捜査していないみたいだし」
 母親がテーブルに筑前煮と焼いたサンマを出す。
「いただきます!」
 おろし醤油とスダチで食べるサンマは格別だ。
 リアルでは水とチューブしか口にできないが、VR空間には母の味がある。
 これだけでも幸せなのかも知れない。
 食べ終えた裕司は自室に戻る。
 ――大災厄から一日、零番街はどんな表情をしているのだろう――
 
 「お前まで勲章を蹴る事無かったんじゃねぇか? ひょっとしたらデザイナーズになれたのかも知れねぇんだぜ?」
 ビリーはソウルケイジのボックス席で、向かい合ったフリッツに向かって言う。
「興味ない」
 言ってフリッツがグラスを傾ける。
 その表情から、後悔が微塵も無い事が感じ取れる。
 いくらデザイナーズになれると言われても、既に王である者が他者の軍門に下る事などできないのだろう。
 フリッツは零番街のキング以外の何ものでもないという事だ。
「そっか。ライズの様子はどうだ? かなり人が減ったんじゃねぇか?」
 ビリーの言葉にフリッツが微笑みを浮かべる。
「それが存外……奴らは人間過ぎて零番街に来ていたのはごく一部だったらしい」
 フリッツの言葉にビリーは苦笑する。
 最期の大攻勢は別として、ゴーストは人間並みの倫理観を持っていた為に、零番街に来ていたのはほんの一握りだったのだ。
 だとすれば、一番街から四番街の方が被害が大きいかも知れない。
 両親の嘆きにも納得が行くというものだ。
「なるほどな。じゃあ俺たちは相変わらずって事か」
 ビリーはいつものJACK・BOXを思い浮かべる。
 開店すると同時にまたギークが押し寄せるのだろう。
「それより、お前、人間じゃなくなったそうだが、何か変化はあるのか?」
 フリッツが切れ長の目に好奇心の色を浮かべる。
「ゴーストにこれまでクラックしたスパコンを全部持ってかれた。その代償分くらいはあるって所だ」
 同じVR空間に生きる電脳技師として、幾ら親しくてもヒントは出しても手の内を明かす事はできない。  
「そうか。まぁ、お前がお前なら構わない」
 フリッツがグラスを空けて席を立つ。
「お前も相当打撃食らったんじゃないのか?」
 ビリーの言葉にフリッツが苦笑する。
「失うって事は取り返せるって事だ。俺は前より強くなる。確実にな」
 フリッツが背を向けてソウルケイジから出て行く。
 フリッツの零番街の王としての仕事がこれから始まる。
 ――そして、俺はJACK・BOXに戻る――
   
  
「紅ショウガは豚骨味ば殺しよう! どこで覚えて来とっとね!」
 日葵の威勢のいい声が響く。
 何故人類を滅ぼしかけた者が、平然と変わらぬ生活をしているのか。
 目の前にはラーメンを食べるギークたちの姿がある。
「大将ビール!」
 ビリーは仕方なしにビールを造る。
 羽根つき餃子にはビールが合うらしい。
 が、ビリーにはバーボンは分かっても、ビールの良し悪しは分からない。
 本格的にビールを出すのなら一から勉強のし直しだ。
「師匠! 十四番さんに替え玉ハリガネばい」
 ビリーは仕方なく麺のテクスチャーを造り、軽く湯に通す。
 湯切りをして客の丼に放り込む。
 テクスチャーを造り、味覚と食感を整え、更に丼に残ったスープとラーメンのたれの味まで計算しなければならないのだから、意外に煩雑な作業だ。
「日葵、お前、ゴーストが無くなったのにどうしてここに居るんだ?」
 ビリーは丼を洗う日葵に向かって訊ねる。
 日葵はゴーストを失いただの人間になったはずだ。
 電脳技師としても二年間ビリーに師事しただけのヒヨッコだ。
「おったらいけんと?」
 尻尾を踏まれた猫のように、衝撃を受けた様子で日葵が言う。
「お前の元の人格はゴーストが俺を攻略する為に造ったものなんだろ? ゴーストが無くなってお前は自由になったんじゃないのか?」
 ビリーが訊ねると日葵の手から丼が落ちて割れる。  
「自由っち言いようと? そうばい、うちはもうゴーストの総意じゃなかったい。ばってん、うちは絶対に見破られんよう完璧に造られた存在ばい。生身になったっち、他の生き方は考えられんとよ」  
「じゃあまだビッグ・アップルが欲しいのか?」
 萎れた様子の日葵に向かってビリーは訊ねる。
「そっちじゃなか! 師匠のばかちんが! もう知らんったい!」
 目に涙をためた日葵がカウンターから飛び出していく。
 店主が居なくなったのでは商売が回らない。
 もっとも、JACK・BOXは利益をあげようとして運営されている訳ではない。
 ビリーは暖���を降ろしてテクスチャーを元のバーカウンターに戻す。
 ギークたちが残念そうな顔をするが、自分にラーメンが造れる訳ではないのだ。
『ビリー、顔貸して』
 客のアバターから直通回線が開いてマリーの声が聞こえて来る。
 ビリーは疑似人格に店を任せてカウンターの外に出る。
 マリーに続いてJACK・BOXを出ると同時に既製品のアバターに切り替える。
 さすがにこの時間帯、用もないのにビリーが歩き回ったのでは住人に不審がられる。
「あんたねぇ、車に乗ってすぐに寝るって子供なの!」
 マリーの言葉にビリーは抗する術がない。
 心地よすぎて寝てしまったのは事実なのだ。
「まぁいいわ、いつもの場所、行きましょ」
 ため息をついたマリーに続いて零番街の遥か上空、全てを見下ろせる空中の東屋に転送する。
 零番街を造ってからカークに出会うまで、二人で街の成長を見守った秘密基地。
 五年かけてようやく帰って来たのだと、零番街で瞬く灯火を見下ろす。
 気付かないうちに零番街は見渡せないほど遠くまで広がっている。
 感慨に耽りながらアバターを元のビリーに切り替える。
「で、マリー、いきなり何なんだ?」
 ビリーはゴーストのキーをマリーに預けたままにしている。
 常時頭を覗かれているのと同じだが、何をしようと好き勝手に見られるのだから同じ事だ。
「あたしのビッグ・アップルコピーと、あんたのゴーストネットを使ってワームホールを造らない?」
 東屋の椅子に腰かけてマリーが突拍子も無い事を言う。
「不可能じゃ無いだろうけど、人間は地球っていうOSの上を走るプログラムみたいなモンだぞ? 他の惑星に住めないのにどうしてワームホールが必要なんだ?」
 ビリーはマリーに向かって言う。
 人類が宇宙に行く事にメリットなど存在しない。
 満たされるのは探求心だけだ。
「あんたって……本当に想像力が欠けてるんだから」
 マリーが呆れたようにため息をつく。
「悪かったな! どうせ俺には想像力が無ぇよ!」
 言ってビリーは顔を背ける。
 分かっているから日々努力をしているのだと訴えたい。
「努力って、ラーメン茹でたり餃子焼いたりそんな事ばっかりじゃない」
 マリーの言葉にビリーは言葉を詰まらせる。
「まぁいいわ。結論から言うわ。ワームホールの向こうに量子テレポーテーションで太陽系をもう一つ造るのよ」
 マリーの言葉にビリーは開いた口が塞がらない。
「ジャンクスもデザイナーズも国家も存在しない。ユートピアを造るのよ」
 その途方もない話にビリーは息を飲む。
 確かに二つの量子コンピューターを使えばできない事ではない。
 途轍もない量のコードを書かなくてはならないだろうが、自分一人ではなくマリーとならば。
 思うと同時にマリーが笑みを浮かべて頷く。
 ビリーの身体が、生身が興奮で震える。
 マリーと再び一緒にコードを書ける。
 それも人類史を塗り替えるような壮大なコードだ。
「あの時、ゴーストに最初の二人って言われてあんた断ったわよね」
 マリーの言葉にビリーは頷く。
「じゃあ、あたしとだったら?」
 ビリーは湧きあがる感情を抑えて、強く深く頷く。
 全く見通す事のできなかった闇の向こうから光が差すように、希望という名の未来が開ける。
 もう一度あの日のように、二人手を繋いで歩き出せる。
 JACK・BOXから。
 ――二人で造ったこの零番街から――
  THE END
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【小説】JOKER最終章
黒い大捜査線
  〈1〉
  「警察だ!」
 威圧的な印象の男たちが清潔な店舗に無遠慮に侵入して来る。
監視カメラで侵入を予期していた円山はお品書きを飲食店のものに変え、PCのアカウントを変更していた。
「いらっしゃいませ、と、言いたい所ですが、どのようなご用件でしょうか?」
 健司は四名の私服警察官に向かって声をかける。
 店内に殺人に使える凶器はほとんど置いていない。
「貴様、殺し屋だろう」
 最も階級が高いらしいブルドックのような肥えた警官がカウンターを殴りつけて言う。
「確かにそういう屋号で登録しておりますが、当店はバーで営業許可も取っております」
 健司が警官に答えて言うと警官たちが店内を荒らしまわる。
 ――どの殺しかは知らないが証拠など出て来はしない――
 警官たちがカウンターの中まで荒らしまわった挙句、アイスピックを手にする。
「これは凶器ではないでしょうか?」
「お客様にロックを出すのに、皆さんは氷を素手で砕けとでも言うのですか?」 
 健司は平然とした口調で言う。
「包丁です、これは凶器にはならないでしょうか?」
「レモンをスライスするのに包丁を使わない方法があったら教えてほしいものです」
 健司はため息をつきたくなりながら答える。
 どうやら何かの殺人の容疑では無いらしい。
 最も階級が高いらしい警官が口臭を漂わせながら顔を近づけて来る。
「貴様が殺し屋だという事は分かっている」
「先刻申し上げた通りそういう屋号を使っておりますが問題でも?」
「営業許可を取り消す」
 カウンターの上で額に入れてある営業許可証を警官の一人が奪う。
「あなた方は一体何の権限があってこのような事をするのですか?」
「俺たちは警察だからな。だが、見逃してやらん事も無い」
「何を仰りたいのか私には分かりません」
「新庄市の内藤市議を殺せば営業許可をこのままにしておいてやる」
 ブルドックが不快極まりない程に顔を近づける。
「そのような事を言われて、飲食店の店員がいきなり殺人なんかすると思うのですか?」
「やるんだろう? 貴様の噂だけは知っているからな」
 にたりと笑って顎をしゃくった警官が身を翻すと、他の三名もそれに続く。
 ――営業許可と引き換えか――
 健司は苦々しい思いで荒らされた店内を眺める。
 まずは店内の清掃から始めなくてはならなかった。
  〈2〉
  「主人は自殺するような人間ではないんです」
 中年女性の声が三浦探偵事務所に響く。
 清史郎はクッションのへたった事務椅子に腰かけながら、唯一座面の破れていない椅子に座った女性と向き合っている。
「警察は自殺だと断定したんでしょう?」
 新庄市内でパン屋が全焼する火事があった。
 現場からは店主の小川紀夫の焼死体が発見されており、消防が現場から灯油を検出した事から警察は焼身自殺であると断定した。
「本当に自殺するような事は何も無かったんです」
 小川夫人が涙を流す。小川家には二人の息子がおり、一人は大学生、もう一人はまだ中学生なのだと言う。
 焼身自殺で店が焼けたという事では火災保険が下りるかどうかも厳しいだろう。
 順風満帆だったかどうかは知らないが、残された家族はいきなり露頭に迷う事になったのだ。
「店に借金などは無かったんですか?」
 失礼とは思いながらも清史郎は確認する。
「開業当初はありました。それでも完済したんです」
 パン屋で借金を完済し、更に子供を大学に行かせるとは経済的にゆとりがあったのではないだろうか。
「失礼ですが、借金を完済して息子さんを大学に通わせるとなると経済的なゆとりが大きかったのでは?」
「駅前の王国ホテルにパンやケーキを卸していました。シェフにパティシエに誘われた事もありましたが、町内に一件のパン屋ですからご近所さんの為にも……」
 パン屋としての腕前は確かであったらしい。それならば経済的にもある程度ゆとりがあっただろう。
「パンの木だろ? ネットでもすげぇ評判だぜ? わざわざ東京から買いに来てるリピーターのレビューとかもあるぜ」
 PCで検索していた健が言う。裏付けとしては充分だ。
「何で自殺したか……」
「自殺じゃありません!」
 言いかけた清史郎の言葉を夫人が遮る。
「分かりました。できる限り調査をしてみましょう。事務所は店舗に?」
「いいえ。系列店が二店舗ありますので自宅を事務所にしておりました」
 清史郎は夫人の言葉に頷く。
「分かりました。まず現場から確認し、その後に事務所に伺います」
「あの、調査費用は……」
「本当に自殺なら警察の追認だけですから。一日一万円……」
 清史郎が言いかけると加奈が音高く湯飲みをデスクに置く。
「……二万五千円くらいもらえると助かります」
 清史郎が言うともう一度湯飲みが音を立てる。
「一日二万六千円です。自殺では無かった場合、調査費用が別途発生しますが、こちらは殺人であった場合犯人特定で十万円」
「すみませんお客様、犯人特定で三十万円となっております。ただし、起訴される際は有能な弁護士を斡旋致しますのでアフターサービスも万全です」
 業を煮やした様子の加奈が言う。
「主人が自殺で無かったら保険も降りますので大丈夫です」
 背筋を伸ばして夫人が言う。かなりのインフレだが真相解明への意志の方が強いらしい。
「それでは契約書にサインをお願いします」
 清史郎は契約書に金額を書き込んで夫人に差し出す。
「主人の無念を晴らして下さい。お願いします」
 契約書にサインした夫人が一礼して事務所を出ていく。
 ――焼け跡から証拠を探し出すか――
 消防がさんざん水で証拠を押し流した後だけに、どれだけの証拠が得られるか分からない��
「小川さんのパン、食ってみたかったよなぁ」
 健の言葉に清史郎は内心で気合を入れなおす。
 これが他殺であったとするなら、パンを残念に思っているのは健だけでは無い筈だ。
  〈3〉
 
 「ジョーカーお人よし過ぎ! 私たちだって生活かかってんだからね」
 加奈がビートルの助手席で声を上げる。
 よく気が付く事と経理に強い事は分かって来たが、仕事ができるようになるにつれて小言が増えるようになってきている。
「日給八千円って言っても、健がやってたような重労働じゃあるまいし」
「頭脳労働にも相応の対価があって然るべきじゃない?」
 加奈の言葉に清史郎はため息をつく。
「お前、どうしてそんなに金が必要なんだ?」
 一人暮らしの健はともかく、加奈は実家暮らしの筈だ。
「それは……その……」
 急に歯切れが悪くなった加奈が言葉を詰まらせる。
「何か事情があって言いたくないなら別にいいんだがな」
「事情って言うか……お母さん病気で働けなくて、私一人でやってるからつい……」
 飯島家の経済事情は相当に厳しいらしい。
「元々さ」
 加奈が何か吹っ切れたような声を出す。
「学生の時はお母さん精神障害で生活保護でさ、それで大学もあきらめたんだ。去年やっと市営住宅が当たって、家賃が小さくなったから私のバイト代で独立した。でも、今度は医療費が高くて、正直食べるのも厳しいんだ」
 加奈は想像以上に厳しい人生を送って来たらしい。
「分かったお前の日給は一万円でいいよ」
「ウソ、ホント、マジで? でもどこから?」
 加奈が声を上げる。
「私は元々一日六千円でやってたんだ。八千円になったんだから二千円分はお前にやるよ」
 清史郎は言う。一応事務所が運営できるなら、飢えない程度に収入があればそれでいいのだ。
「いや、加奈の家の事情は分かるけど、俺だって一人暮らしだしさ」
「私も一人暮らしだ。貧乏も慣れれば貧乏で無くなるもんだ」
 健に向かって清史郎は言う。
「俺は八千円のままかよ」
「土建屋時代より千円高いんでしょ。成功報酬もあるし」
 加奈が健に向かって言う。
「まぁな、俺も市営住宅当たらねぇかな」
「難しいだろうな。加奈の家も障碍者枠で入ったんだろう」
 清史郎は言う。市営マンションも県営マンションも数が少なすぎる。
 市営が増えれば賃貸が儲からなくなるという指摘もあるだろうが、努力して金を稼いで土地を買ってマンションを建てた人間にはそう言う権利もあるだろう。
 しかし、大半の地権者は親や先祖から引き継いだ土地にマンションを建てて収益に充てている。
 そういった人間が働きもせずに家賃収入で生きている事の方が問題ではないだろうか。
 相続を認めるなとは言わないが、相続があったからと言って一般の労働者の生活と乖離するような事があってはならないはずだ。
「障害は無ぇけどさ、俺ンちだって、高校卒業したら出てけって放り出されて、仕方ないから住み込みの土建屋に入って、そしたらピンハネがひどくて、やっとアパート借りてさ。そんでも壁薄くて隣のオッサンがAV見てると音がモロに聞こえたりするしよ」
 健も生活には大きな不満を持っているようだ。
 せめて音が筒抜けにならないような建物には住まわせてやりたい所ではある。
「じゃあこの仕事を早く片付ける事だ。数をこなせば成功報酬の方で稼げるぞ」
「やるしかねぇか」
 頬を叩いて健が言う。
「それに生活費だけじゃなくて事務所も維持しないといけないしね」
 加奈が言うとビートルの車窓に焼け落ちたパン屋が姿を現した。
 一見すると二階建ての建物が焼け落ち、二階は底が抜けているが、一階のオーブンや什器の類は焼け焦げてはいるものの燃え尽きる事は無かったようだ。
 警察の捜査は終わっているのだろう、進入禁止のテープは張られていない。
「事件当日が十二月二十日、今日が二十二日でここ三日間の天気は晴れ」
 ビートルから降りた加奈が確認するようにして言う。
 清史郎はビートルを降りて現場へと足を踏み入れる。
 ガラスは熱で砕けており、パンが並んでいたのであろう陳列棚は焼け落ち、プラスチック製のトレーが至る所でひしゃげている。
「これって全焼ってヤツだよな、屋根だけは残ってるけど」
「普通なら火災保険が下りるレベルだな」
 清史郎は奥へと足を踏み入れる。
 焼け焦げたレジが転がり、その奥は崩れた二階部分に押しつぶされたように見える。
 一部の残骸が除けてあり、そこに死体があったものと思われる。
「ナンマンダブナンマンダブ」
 健が死体があったであろう場所に手を合わせる。
 残骸に埋もれているが床はタイル敷きになっており、煤けている。 
 周囲の金属製の什器は熱に強い材質が多いという事もあるだろうが、意外にも被害は大きくないように見える。
「これ、片付けるのって自腹になるのかな」
 加奈が痛ましそうな口調で言う。
「妙だな」
 清史郎は死体があったであろう場所に屈みこんで言う。
「妙って?」
 健が訊いてくる。
「灯油をかぶって自殺して建物が焼け落ちたなら、一階じゃなくて二階で灯油をかぶっていないとおかしいだろう?」
 清史郎は周囲を見渡して言う。
「残骸を除けて死体を引き出してあるという事は、二階より一階の方が被害が小さくて、なおかつ死体の損壊がそこまで大きく無かったという事だろう?」
「そうか、プラスチックのトレーとか、レジとか完全に溶けそうなものも形が残ってるし」
 加奈が清史郎に続いて言う。
「じゃあ、死体と火事は別って事か?」
 健が穴の開いた天井を見上げる。
「唯一考えられるのは、建物に火を放った後で、炎の中で自分で灯油をかぶって焼身自殺したという方法だ」
 清史郎は周囲を観察する。
「延焼��てたら火災保険じゃきかないし、自殺なら家族の負担が大きすぎる」
 加奈が煤のついた両隣の民家を見て言う。
「ヤケクソで火をつけて回って、最後に灯油かぶったんじゃね?」
 健が首を傾げて言う。
「だとしたら、二階が燃え落ちる前に消防が来てここまでの被害にはなっていないだろう。自殺する人間の心理に立って考えてみろ。わざわざ建物が全焼するまできっちり灯油を撒いて、それで火をつけて、それから灯油をかぶって自殺するか?」
「ジョーカーが言いたいのは、誰かが被害者を殺して、それから証拠隠滅で建物を焼いたって事?」
 加奈が目を細めて言う。
「一階の厨房はタイル敷きだし、仮に灯油をかぶって自殺をしても周囲に延焼する事は考えにくい。什器も押しつぶされたようにはなっているが、下の方は熱の被害をあまり受けていないだろう? 一階で殺した死体に単に灯油をかけて燃やしたのだとすると灯油が燃えただけで死体に芯まで火が通らない事になるし、ボヤ程度にしかならないだろう。そうすると死体は生焼けで本当の死因が残る事になる」
「殺人だと仮定すると、殺しの痕跡を消すために建物ごと燃やして目を逸らさせる必要があった訳ね」
 加奈が清史郎に応じる。
「死体にもまる焼けになってもらわなければならない理由があったという事だ」
 清史郎は死体のあったらしい場所に屈みこむ。
 警察官ではない清史郎は警察から戻ってくるまで直接死体を見る事は叶わないし、写真を手に入れる事もできない。
 ふと思いついた清史郎は焦げた瓦礫を除ける。
「健、手伝ってくれ、排水溝が見たい」
「排水溝? 何で?」
 言いながらも健も焦げた瓦礫を撤去していく。
 意外なほどにきれいなタイルの床が姿を現し、床に配水用の穴が現れる。
 清史郎はビートルのトランクからルミノール反応液を取り出す。
 百円均一で買ったスプレーに移して、排水溝を中心に周囲にスプレーする。
 煤けた床の上にルミノール反応が出現する。
「オイ、これって……」
 健が声を上げる。
「かなりの出血量だが飛び散った形跡は無い。刺殺か何かで、しかも少ない攻撃で致命傷を負わせている」
 排水溝に幾らか流れ込んでいるものの、首を切られて飛び散ったり、出血した被害者が暴れまわったりといった風には見られない。
 清史郎はDNA鑑定の為に排水溝に残された血液を採取する。
「他殺確定ね」
 眉を顰めて加奈が言う。
「ジョーク、靴跡もあるぜ。革靴みてぇだ」
 ルミノールの痕を見て健が言う。
「だとすると、こっちの長靴みたいな痕の方が被害者だろうな」
 清史郎は別の足跡を確認する。
 足跡は全部で三種類。革靴が二種類に長靴が一つ。
「被害者は仕事を終え、厨房の掃除をする為に長靴に履き替えていた。その時刻、閉店後に二名の革靴の人間が侵入し、何等かの理由で被害者を殺害。痕跡を消す為に灯油で焼身自殺に見せかけた」
 清史郎は推理する。
「それって、最初から殺意があったのかな?」
 加奈が疑問を投げかける。
「強盗ならカウンターの外から脅しただろうし、裏口から逃げられないようにしていたなら死体は裏口の方にあってもいいはずよね? 厨房のど真ん中で死んでたって事は面識があったんじゃないかな」
「いい着眼点だ。確かに、厨房には包丁もあったはずだし、自衛しようとすれば被害者には自衛することもできたはずだ」
 加奈に答えて清史郎は言う。
「そんなら目撃者とかいなかったのかな?」
健の言葉に清史郎は頷く。
「その前に自宅事務所に行ってみよう。何か仕事上のトラブルがあったかも知れない。健、現場の撮影を頼む」
「了解!」
 言った健がスマートフォンにカメラのアタッチメントをつけて周囲を撮影する。
 被害者は夫人が言っていた通り他殺の可能性が限りなく濃厚になった。
 ――人気店の店主は何故殺されなくてはならなかったのだろうか――
  〈4〉
   内藤義孝議員の日常は時計の針のように正確だった。
 朝、保育園に娘を送ってから事務所に向かい、住民の生活相談などを受け付ける。
 昼食は議会が無い限りは仕出し弁当、夕方の五時半に仕事を切り上げて娘を迎えに行って六時半には帰宅。
 子供が眠った後自宅で残務をし、資料を事務所にメールで転送して午前二時頃に就寝。
 健司は内藤議員の働きぶりを見て感心する。
 市会議員になって、オフの時にも精力的に働いており、家族との時間もきっちり確保しているというのは議員の鏡と言ってもいいだろう。
 ――殺し屋は獲物を選ばない――
 健司は『殺し屋』のカウンターの中で一週間に渡って集めた資料を確認する。
 殺しのチャンスは幾らでもある。
 ――でも、僕は殺し屋であって殺人鬼ではない――
 健司は頭を巡らせながらTVを点ける。
 新庄市の人気のパン屋が焼身自殺をしたという事が大々的に報じられている。
 ――本当に自殺なんだろうか……――
 考えながら健司は脳裏でプランを固めていく。
 
 
〈5〉
  『……新庄市議会議員、内藤義孝議員に関係があるとみられる自営業者、大野正道さんが自殺しているのが発見され、警察は内藤市議に事情聴取を行う方向で……』
 ラジオで朝のニュースを聞きながら清史郎は事務所に出勤する。
 真新しいヒーターを点け、部屋に温風を行きわたらせる。
 昨日パンの木周辺の聞き込みを行った結果は、特に不審なものは見られなかったというものだった。
 もっとも、パンの木は午後八時まで営業しており、その後掃除をして店を出る事を考えると、住宅地での目撃情報は少なくて当然と言える。
「おはようジョーカー」
 加奈が元気に出社してくる。
 一応九時五時という事にはしてあるが、早めの八時四十分だ。
「昨日はちゃんと眠れたか?」
「大丈夫。グロいものは見慣れてるし」
 自分のデスクにカバンを置いて加奈がヤカンを火にかける。
 二人分のコーヒーができた所で健が息を切らして現れる。
「ジョーク、間に合ったか?」
「自営業はルーズにできるのが長所なんだ」
 清史郎は冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出してやる。
 息を切らしていた健が口をつける。
「十分の遅刻に事務所のお茶一本七十円」
 淡々とした口調で加奈が言う。
「そりゃ無ぇだろ。細かい事は言いっこ無しだぜ。なぁ、ジョーク」
「そういう考えだから経営が上向かないの」
 加奈がフンと顔を背ける。
「三浦探偵事務所の姑かよ。で、ジョーク、今日はどうするんだ?」
「被害者にトラブルが無かったか再度夫人に確認、帳簿を確認させてもらう」
「事件があったら金と女を追えってヤツだな」
 健がお茶を飲み干して言う。
「奥さんには殺人だって伝えるの?」
「厳密に他殺と断定された訳じゃないからな。今の段階では何とも言えないよ」
「ありゃ殺人だろ。ルミノールが出てんだしさ」
 健が面倒くさそうな口調で言う。
「犬か猫を殺してたらどうする? ネズミが出て踏みつけたら?」
「ネズミなんて踏みたくないわ」
 気持ちが悪そうに加奈が言う。
「とにかく一息ついたら出かけるぞ。探偵は足で稼ぐんだ」
 清史郎は言ってビートルのキーを鳴らした。
  「経理は一応していましたけど、ほとんど主人が一人で行っていましたから……」
 パンの木の事務所は古びた建売住宅の一室を改装したものだった。
 広さは八畳ほどで、PCが置いてある他には紙台帳のキャビネットがあるだけだ。
 長男が都内の大学に進学して部屋が空いた事と店舗を増やした事で、急遽しつらえたものだと言う。
「主人は職人気質でしたから、弟子にしか店は任せませんでした。レジや品出しはバイトに任せていましたが厨房仕事は直弟子だけで。お弟子さんも粉なんかの入荷は本店を通していましたから帳簿は全部この部屋の中にあるはずです」
 小川夫人が言う。
「人気店だったと伺っていますが経営状態は良好だったんですか?」
「主人に任せていましたが、特に借金がある訳でも無かったですし、息子も大学にやれましたから良かったのだと思います」
 小川夫人は仕事に関してはほとんど夫に任せきりであったらしい。
「PCのデータを確認する事に同意してもらえますか?」
「それは構いません。主人もあまり使いこなせてはいなかったようですが」
 言って小川夫人がデスクトップの電源を押し込む。
 ログインにパスワードも設定していないらしく、OSが立ち上がると既にウィンドウの画面に切り替わる。
「セキュリティ低っ!」
 健が驚いたように声を上げる。健の次元からすると想像もつかない事なのだろう。
「私は奥におりますので、何か分かりましたら教えて下さい」
 言って小川夫人がキャビネットの隙間から居間の方へと引っ込んでいく。
「健、PCは任せた」
「あ、ああ」
 早くもPCに取り付いた健が歯切れ悪く言う。
「何か問題でもあるのか?」
「いや、ちゃんと探した訳じゃねぇけど、台帳がPCに無えっつーか。HPの更新も四年前だしやる気ゼロな感じでよ。一応電話帳はあるんだけさ」
 健が電話帳を開いて確認しながら言う。
「いい。私が台帳見るから」
 加奈がキャビネットを開けて台帳を広げる。
「スキャナーで取り込んでくれねぇかな……」
 健が項垂れ、肩を落としながら台帳を手に取る。
 清史郎はPCの電話帳を眺める。
「健、電話帳の人間が本物か確認できるか?」
「ジョーク、それ、どういう事だ?」
「PCのド素人でも、都合の悪い人間関係を別人の名前で管理する事はあり得る訳だろう」
「なぁるほど、そういう事なら……」
 健がUSBメモリを使ってラップトップに電話帳を移し替える。
 ポケットwifiルーターに接続し、更にスマートフォンに接続する。
「全部が全部って訳じゃねぇけど、最近スマホの番号でも発信者確認できるアプリがあんだ」
 健がアプリで確認した名義をラップトップに打ち込んでいく。
「他人の電話帳とか……何かプライバシーに踏み込むのって慣れないな」
 台帳を次々にめくりながら加奈が言う。
 清史郎はキャビネットに他の資料が無いが確認する。
 パンに関する本は置かれているが、他には中小企業のハウツー本のようなものしか無い。
 小川氏は本当にパン職人以外の何者でも無かったのだろう。
「終わったー」
 清史郎が手持無沙汰にしていると健が大きく伸びをして言う。
「電話帳は本物だったのか?」
「分かる範囲では」
 健が画面を表示する。小川氏の入力していた名義と、健の入力した名義にはほとんど齟齬が無い。
「新庄市警察小島さんって言うのは?」
 一般の人間は何か非常事態が起きれば一一〇をダイヤルする。
 警察官個人と知り合いなら逆に警察官と記録する必要が無いはずだ。
「知らねー。ネットでもそういう風に出るからそう打ち込んだだけだって」
「あんた、少しは頭使いなさいよ」
 台帳を確認しながら加奈が言う。
「その番号は携帯電話だろう? どこが管理しているんだ?」
「いや、個人の端末の電話帳データをアップロードするアプリがあんだ。それをインストールしておくと誰かがアップロードした番号からかかって来た時、誰からかかっているか表示されるって訳」
「つまり匿名の誰かって事か」
「でも全部合ってるだろ?」
 健の言葉に清史郎は曖昧に頷く。
 今の時代スマートフォンの番号でも匿名性は低いらしい。 
「じゃあ、何人かが、警察の小島さんと電話帳に登録している訳か?」
「そういう事だろ。何か変なのか?」
「お前は俺の事をどう入力してるんだ」
「ジョーカー」
「あんた、万が一バレたらどうすんのよ」
 やり取りを聞いていた加奈が言う。
「大丈夫だって一〇〇人が三浦さんって入れてれば三浦さんって表示されるし、ネットの電話帳でも三浦清史郎になってるし」
「嫌な時代になったもんだな」
 清史郎はため息をつく。世の中にはプライバシーというものが存在しないのだろうか。
「う~ん。ジョーカー、四年前に二号店を出店してるみたいなんだけど」
「何か不審な点でもあるのか?」
「確定申告もパスはしてるんだけど、リフォームの費用がちょっと高いんじゃないかって」
 加奈が開いたページを清史郎も確認する。
 什器の値段は見当もつかないが、店舗のリフォームに二千万円が計上されている。
 領収書には日立工務店と記されている。
「一年半前にも二号店を出してるんだけど、その時も同じ日立工務店なの。比較検討しなかったのかなって」
「健、日立工務店は電話帳にあるか?」
「載ってねぇ。スマホだけに登録してたんじゃねぇの?」
「こんな昔気質な人がそんな事する訳ないでしょ。それに年賀状ソフト入ってるんだから関係者には全員に送ってるはずでしょ」
 加奈が目ざとく年賀状のソフトの存在を確認して言う。
「年賀状なんてガキの頃しか送った事ねーよ」
「あんたの事言ってんじゃないの!」
「とにかく、だ。日立工務店とは年賀状を送り合う仲じゃなかった。にも関わらず二回もリフォームを依頼している。加奈、日立工務店の番号は分かるか?」
「えーっと、ちょっと待って……」
 加奈が電話番号を読み上げようとする。
「健、検索できるか?」
「あったり前だろ!」
 加奈が読み上げた番号を健がPCに入力する。
 PCのブラウザには日立工務店の連絡先として表示されている。
「一回の工事で二千万も取る業者なのにHPも無ぇのな」
 健がPCを操作するとgoogleストリートビューで民家が映し出される。
「ただの民家じゃねぇか……ちょっと待てよ……」
 健がキーボードを叩き始める。
 同じ住所で小島隼人の住所がヒットする。
「ちょっと待て、この小島は警察官の小島じゃないのか?」
 清史郎は腕組みをして考える。
 警察官は基本的に副業は不可となっている。
「健、日立工務店の登記簿は確認できるか?」
「任せとけって」
 健がPCのキーボードを叩き始める。
 画面に日立工務店の登記簿が表示される。
 会社の事業形態はLLC(合同会社)となっている。
 LLCとは株式会社と異なり、定款にもよるが社員が等しい権利を負う企業だ。
 株主総会を開く必要もなく一人でも開業が可能で、企業するのに六万円ほどしかかからない。
「小島良子が代表……資本金一万円?」
 典型的なペーパーカンパニーだ。
 単純に考えれば夫の小島隼人が警察官をしており、妻の良子が日立工務店を保有していうる事になる。
「警察官の小島さんの住所は調べられるのか?」
「通信会社には潜入した事があるからな」
 健が電話番号から通信会社を割り出し、個人情報の記されたページを表示させる。
「つながったわね。警察官の小島さんと日立工務店」
 台帳を閉じて加奈が言う。
「小川氏は小島隼人と何らかの関係があり、何らかの理由で二度に渡り二千万を渡した。実際のリフォーム代は不明だが、日立工務店が数百万で発注したと考えれば……」
「それ、汚職じゃない!」
 加奈が声を上げる。
「営業許可を取り消すと言われたか……しかし、それなら評判のパン屋だったら充分に抵抗できた筈だ」
 清史郎は腕を組んで考える。
 考えた所で小川氏とパンの木に弱みらしい弱みがあるとは思えない。
「とりあえず奥さんに訊いてみるか」
 清史郎はインターフォンを押して小川夫人に声をかける。
 ややあって小川夫人が現れる。
「三浦さん、何か分かりましたか?」
 夫の死を引きずった様子の小川夫人が言う。
「四年前と一年半前に二号店と三号店を出しましたね」
「はい。あれっきり夫はもう弟子は取らないと言ってました」
 小川夫人が心細そうに答える。
「リフォーム代にそれぞれ二千万円取られた事はご存知ですか?」
「そんな大金……」
 小川夫人が口に手を当てる。
「二号店を出した四年前何かありませんでしたか? 警察が関与するような」
 清史郎が言うと小川夫人の顔が青ざめる。
「警察に敏夫が補導されて……電話では事情が言えないって、奥さんではダメだと言われて主人が……」
「その時の息子さんの年齢は? 何の容疑だったんです?」
「十七才で、容疑、というか補導の内容は夫も息子も黙ったままで」
「旦那さんはパンはパン職人にしか焼かせないというこだわりを持っていた。そうですね」
「はい、あの頃は主人を合わせて三人の職人で店を切り盛りしていて……」
 小川夫人の顔がみるみる青ざめて行く。
「ジョーク、半年前から小川さんのスマホに小島から電話がかかってる」
 通話履歴を確認したらしい健が言う。
「小川さんはもう弟子は取らないと言っていたんですね」
 清史郎の言葉に小川夫人が頷く。
 四年前に小川氏の息子を補導し、妻とは直接話せないというやり取りがあった。
 直後に弟子に店を持たせ、その際に小島という警官の妻の名義の会社に二千万円が振り込まれた。
 更に二年半後に再び小島から連絡があり三号店を出店する事になった。
 以後、小川氏は弟子を取らないと決め、小島からの複数回の連絡ののちに『焼死体』となって発見された。
「弟子を取らないって事はもう金は出さないって事ね」
 加奈が眉を顰めて言う。
「何がどうなっているんですか? 何か分かったんですか?」
 小川夫人が卒倒しそうな表情で言う。
 まずは依頼人に分かった事を率直に言うべきだろう。
「まず事件現場から。現場を調べた結果血痕が発見され、ご主人様とは別の二人の足跡が発見されました。DNA鑑定はまだ行っていない為、血液がご主人様のものかどうかは分かりません」
「あの店にはバイトは一人しかいなかったんです。二人な訳がありません」
「四年前、二号店出店の際にリフォームを請け負った日立工務店。これは営業実態の無いペーパーカンパニーでした。三号店出店の際もこの会社に依頼されており、名義は小島という警察官の妻と思われる人物のものとなっていました。そして最近になって再び小島氏からご主人に対し連絡が行われていた。憶測だけで申し上げれば四号店を出せという連絡では無かったかと」
 狼狽した様子の小川夫人が青ざめた表情でスマートフォンを取り出す。
「トッちゃん! あんた四年前に何したの! お父さん殺されたのよ!」 
 電話口から細い声が漏れる。
「ジョーク、こっちで聞くか?」
 ラップトップを叩いて健が言う。小川夫人のスマートフォンを乗っ取っているらしい。
「少なくとも今は止めておく」 
 清史郎は睨むようにして言う。
「三浦さん、四年前、息子のカバンから覚せい剤が見つかったんだって……でも息子も心当たりが無くて、警察に夫が呼びつけられて店で麻薬が売買されてるって決めつけられて……でも夫は麻薬なってやっていませんでしたし、店だって繁盛していたんです!」
 その時の警官が小島なら全てが一本の線で繋がる事になる。
「小島って野郎、相当なクズだな」
 健が吐き捨てるようにして言う。
「国税局に侵入して日立工務店の確定申告の情報を洗い出せるか?」
 清史郎の言葉に健がキーボードを叩き始める。
「ジョーカー、四年前と一年半前って前々回の知事選と前回の市長選の時じゃない?」
 ふと気づいたといった様子で加奈が言う。
 もし関与があるとするなら、日立工務店から与党の県連と市連に献金している可能性がある。
 そして、前回、ジョーカーに扮して与党を落とした知事選でも小島が資金集めをしていたなら。
 たら、れば、では探偵は成り立たないが状況が黒すぎる。
「ジョーク、日立工務店は二千万のうち三百万をリフォーム会社に発注してる。一千七百万ガメてやがる」
「支出の方はどうなんだ?」
「読み方が良く分からねぇ」
 清史郎は加奈と共にPCの画面をのぞき込む。
「ゴルフの大会に一千万円? 参加料にお食事代にゴルフクラブのレンタル料って……」
 加奈が日立工務店の収入と支出を計算して行く。
 日立工務店は収入も多いが莫大な額を得体の知れないものにつぎ込んでいる。
「政治家のパーティー券の代わりだろうな。最近じゃ表立ってパーティー券なんて売ると吊るされる事もあるからな」
 清史郎は苦々しい思いで画面を睨む。
 小島が小川氏を殺したのだとすれば、現場に残されていたもう一つの足跡が問題となる。
 一面だけ見ていれば単独犯に見えるが組織的な犯罪の可能性もあるのだ。
「我々は現場の血液のDNA鑑定を行います。ご主人様の頭髪などはありませんか」
 清史郎は小川夫人に向かって言う。
 ――焼身自殺だと報道したのは警察だ。だとすれば……――
   殺し屋VSポリスマン
  〈1〉
   ――新庄市で自営業を営む大野正道は手首から大量の血液を流した状態で発見された。亡骸は妻が引き取り、警察は現場から内藤義孝議員のパーティー券を入手し、内藤義孝を参考人として拘留した――
 円山健司はワゴン車のステアリングを握りながら、ラジオのニュースと警察無線、消防の電話とを同時に聞いている。
 改装した後部座席の部分にはストレッチャーが置かれ、不安そうな顔をした男が二人座っている。
 二人には――合計は三人だ――充分な額の報酬を前払いで支払ってある。
 健司は時計に目を落とし、港から市内へと続く高速道路の映像の監視カメラを確認する。
 ――殺し屋は確実にターゲットを仕留める――
 その神話が崩れる事はありはしないのだ。
 ――唯一、ジョーカーを除いては――
  〈2〉
 
 
「十二月二十三日って世間的にクリスマスじゃね? そうじゃね?」
 三浦弁護士事務所に健の恨みがましい声が響く。
 法科学研究所に小川氏のDNA鑑定を依頼した今、清史郎たちにできる事は少ない。
「イブだって明日。つってももうケーキ売ってたしね」
 加奈がため息をつく。
「ケーキが欲しいなら経費で落とすか?」
 清史郎は言う。
 DNA鑑定の資料が揃えば小川紀夫の焼身自殺は殺人事件として確定する。
 現場の二人分の靴跡を証拠として慶田盛弁護士事務所を通じて出せば、警察も無視を決め込む事はできないだろう。
 ――小島隼人による殺人まで持ち込めればな――
 小島による殺人は状況証拠だけで決定的な証拠が存在しない。
 小島の家で靴を集めて照合するなり、靴底から小川のDNAを採取するなりできればいいが、清史郎は警察ではないし踏み込んで捜査する事などできない。
 小川紀夫の死体が戻って来れば医科大に持ち込んで法医学鑑定を依頼する事もできるが、今の所死体はまだ警察の保管庫の中だ。
「経費は止めて。欲しかったら自分で買うし」
 加奈がきっぱりとした口調で言う。
「で、俺たちに今何ができるよ。昨日の記録にあったゴルフ大会の参加者もその場限りの集まりで資料らしい資料残って無ぇし。映画の○○制作委員会じゃあるまいし」
 日立工務店はゴルフ大会だけでなく様々な催しに多額の献金をしているが、ほとんどがそういった形でどこへともなく吸い込まれていくのだ。
「そもそもどうして警察官が与党にお金を払っているかよね」
 加奈が不思議そうに言う。
「警察官の汚職をもみ消してくれるからだろう。日立工務店も払った以上の収入を得ているんだ」
 清史郎は答える。今の段階で汚職で訴えても野党議員が一時期やり玉に挙げるだけでしばらくすれば立ち消えてしまうだろう。
 運が良ければ汚職警官の一人もつるし上げられるかも知れないが、組織的な汚職の構造は変わらないだろう。
 仮にその線で戦うなら決定的証拠が必要なのだ。
「いーよな、ケーサツは。ボロ儲けできてさ。探偵って損な仕事だよな」
「そうは言っても小川さんの奥さんは今日も私たちに二万六千円払ってくれてんのよ」
 加奈の言葉にため息をついた健がデスクに顎を乗せる。
「それにだな、公務員の中で警察官の自殺率は自衛官に次いで二番目に高いんだ。多分窓口や交番の警察官なんかは市民の苦情を受けて苦しんでるんだ」
 清史郎は健に向かって言う。
 窓口の警察官は黒いものでも白いと言わされ日々ストレスを抱えているのだ。
「そん中で小島って野郎は上手くやりやがったんだろ。でもよ、覚せい剤で小川さんの息子さんを違法に引っ張ったって言っても、それが本物でなけりゃ脅しにならねぇだろ? 小島はどこで覚せい剤なんて手に入れたんだ?」
「矢島組でも売ってるし、ガサ入れで倉庫には幾らでもあるだろう」
 清史郎は健に答える。
「小島がそういう事をしてたのって、そういう事をしてる先輩がいたからじゃない? 今回の現場にも靴跡は二つあったでしょ?」
 加奈が言う。確かに先輩後輩で脈々と受け継がれ、組織も拡大しているのだろう。
「靴跡か……」
 清史郎は頭を巡らせる。
 小島が小川を殺害する時、警察車両で現場に行ったという事は無いだろう。
 小島か共犯の人物のどちらかの所有車であるに違いない。
 レンタカーを使った可能性もあるが、日常的に商店主などを恐喝している小島が一々レンタカーを借りているとは考えられない。
 だとすれば、運転席か助手席のシート、もしくはアクセルペダルやブレーキペダルには小川の血液が微量なりとも付着している事になる。
 ――現場で気づいて靴を捨てていなければ、だが――
 旧式の車なら清史郎が、キーレスエントリーの車なら健が解錠できるが、違法に収集した情報は裁判では採用されない。
 何とかして車を調査する事はできないだろうか。
「靴跡って、車から降りたトコにもあんじゃね?」
 健が言う。
「真っ直ぐ自宅に帰っててくれれば自宅にあるだろうがな。そもそも使用された車が誰のものかも分からないんだぞ」
「この間のラットマン事件の時みたいに、微細証拠品調査ってできないの?」
「現場は焼け野原で更に大量の水で洗われていたんだ。ルミノール反応とDNAが採取できただけでも奇跡みたいなモンだ」
「靴跡かぁ~。ジョーク、もし刺殺とかなら手に血がついてた可能性もあんじゃね?」
 健の言葉に清史郎は考え込む。
 相手は最初から小川を殺そうと思っていた訳では無いだろう。
 その場にあった包丁などで衝動的に殺したのなら、手に血がついていて���不思議ではない。
 しかし、仮にも警察官ならその場で念入りに手を洗ったに違いない。
 そこまで考えて清史郎はハッとする。
「シンクだ! 現場のシンクはほぼ無傷で残っていた。それなら、現場で手を洗ったなら蛇口の取っ手に血液と指紋がついているはずだ」
 今頃になって気づく自分が情けないが善は急げだ。
「もう一度現場に行くぞ! もう一度徹底的に調査するんだ」
 清史郎はビートルの鍵を手に立ち上がった。
  〈3〉
 
 
『……速報です新庄市の湾岸高速道路上で救急車がガソリンを積んだトレーラーと衝突する事故がありました。この救急車には現在政治資金規正法違反で事情聴取中の内藤議員が乗っていたと思われ、消防は懸命の救出活動を……』
 ラジオが流れる中、清史郎のビートルは再び焼け落ちたパンの木を訪れていた。
「よっしゃあ! まだ蛇口残ってる!」
 声を上げて健がビートルから身を乗り出す。
「お前な、ビートルは俺たちが出ないと出られないんだからな」
 言って清史郎は加奈と共に車から降りる。
 加奈が勝手知ったる様子でトランクからルミノール反応液を取り出す。
「見てやがれ悪徳警官め」
 加奈について健がシンクに向かって歩いていく。
 清史郎は他に証拠になりそうなものが無いかもう一度現場を観察する。
 昨日残したルミノール反応はまだ残ったままだ。
「あれ? 蛇口にルミノール反応が出ねぇ」
 健が呆けたような口調で言う。
「手が血で濡れたまま灯油を撒いて火をつけて帰ったって言うの?」
 加奈も不思議そうな口調だ。
 清史郎は現場を歩き回りながら考える。
 相手は警察官なのだ。何かで蛇口を覆って水を出した可能性もある。
 ――しかし――
 制服警官ならS&Wを持っていても不思議ではない。
 だがニューナンブやS&Wの威力はさほど強いものではない。骨に当たれば体内に残ってしまう事だろう。
 死体の戻らない小川の死因が不明なのだから何一つ断定できないが、即死だとすれば身体を突き抜けた可能性もある。
 銃創ほどの決定的証拠だから焼いて証拠を隠滅しようとしたのだとしたら?
 一般の警官は自分の管轄でも無い事件で死体保管庫に入る事などできないだろう。
 見た目が焼死体だから捜査されていないにしても、貫通していたなら弾丸が落ちている可能性もゼロではない。
 今更ながらに無造作に瓦礫を除けてしまった事が悔やまれる。
 清史郎は犯行当夜の様子を可能な限り脳裏に描く。
 小川紀夫は厨房のほぼ中央に倒れており、ルミノール反応からも死体を移動した痕跡は無い。
 普通に考えればレジカウンターを回り込んで厨房に入って来た事になるだろう。
 殺意は無かったとして、銃を突き付けて恫喝した場合、立ち位置から九十度の範囲で考える。
 小島たちはオーブンを背にしており、小川はシンクを背に立っている。
 放たれた弾丸が小川を貫いて壁にめり込んだとする。
 一瞬は救命を考えたとしても、次の瞬間には隠滅を考えただろう。
 出血する小川に助かる見込みは無く身動きできない。
 長時間居座ればそれだけ事件が露見しやすくなる。
 壁から弾丸を穿りだす余裕など無かったはずだ。
 清史郎は壁のあった辺りの瓦礫を調査する。
「ジョーカー、何してるの?」
「可能性を虱潰しにしてるだけだ。蛇口に血が無いなら、銃で殺した可能性もあるだろう。死体の中に弾丸が残っていればどうしようもないが、貫通していたならシンクの上辺りの壁に弾痕があるか弾丸がめり込んでいるはずなんだ」
 加奈に答えて清史郎は言う。
「そういう事は早く言えって。俺たちも日給もらってんだからよ」
 健が瓦礫を掘り起こすようにしながら調べ始める。
「タイルなら熱で割れて紛らわしいだろうがな」
 清史郎はすがるような思いで残骸を精査して行く。
「多分、残骸の中にあるんだと思う」
 加奈も捜索に加わりながら言う。
「どうしてそう思う?」
 両手を煤と灰で真っ黒にしながら清史郎は問う。
「死体だけなら、床はタイルなんだし車に積んで洗っちゃえばしばらく行方不明にしておけるじゃない? 建物まで焼いたって事は建物に取り返しのつかない証拠が残ったからじゃない?」
 加奈の言葉に清史郎は目明しされた気分になる。
 死体だけなら警察なら処理の方法は幾らでも知っている。
 それができないから火災を起こしたと考えれば銃撃説の可能性は大きくなる。
「ジョーク、弾丸ってどれくらいの大きさなんだ?」
「見た事が無いから分からんし、壁に当たって変形してたらそれと分からないだろう」
「ジョーカー、熱で割れたタイルと弾丸で割れたタイルの違いってあるのかな?」
 加奈の言葉に清史郎は頭を巡らせる。
「高速でしかも威力が強いからひび割れるんじゃなくて穴みたいになるんじゃないか? ただ、熱が加わった時にそこから割れ目が広がった可能性はあるだろうな」
「使えねぇ乱射魔」
 健の言葉に清史郎は苦笑する。
 弾丸が撃ち込まれた痕をしげしげと観察する機会などこれまで無かったのだ。
「ねぇ、これってそれっぽくない?」
 しばらく現場を探っていると加奈がタイルの破片を持ち上げる。
 厚さは三センチほど、確かに太いネジをハンマーで打ち込んだような痕が残っている。
 貫通はしておらず、奥は黒くなっているだけだ。
「そう言われてみればそうも見えるが、奥を確認してみない事にはな……」
「割ればいんじゃね?」
 健が今にも叩き割りそうな口調で言う。
「待て待て。弾丸を証拠品として提出するとして、どこから取り出したか明らかにする必要があるだろう。それに弾丸だけなら線状痕があるとしても、ここから取ったと証明できないじゃないか」
 清史郎はビートルのトランクからマイクロファイバーカメラを取り出す。
 針金のようなカメラを動かして穴の中を観察する。
「ジョーク、どうなんだ?」
 健がもどかしそうに言う。
「穴になっているし全体的に煤けているんだ。黒っぽいというだけで断言はできないだろう」
 カメラの先で穴の奥を削るようにして動かしてみる。
 煤が削れ赤銅色の光が反射する。
 何かの間違いで無いとするなら日本の警察が採用している9mmフルメタルジャケットの弾頭である可能性が高い。
「可能性が極めて高い。が、これは持ち帰って慶田盛に預けた方がいい。でっち上げたと言われたらかなわないしな」
 清史郎は弾丸が埋まっているらしいタイルの塊以外に証拠らしいものが無いか観察する。
「ジョーカー、まだ何かあるの?」
「何か無いか考えているんだ。弾丸、ルミノール反応、靴跡、他に犯人を指し示す有力な証拠が無いか」
 清史郎は加奈に答える。
 髪の毛などは火事の高熱でダメになっているだろうし、科捜研ではあるまいし大人数と科学機器を用いて現場を調べて回る事などできない。
「ん~。もう誰か調べてっかもだけど、灯油ってどこから持ってきたんだ? 警察がわざわざ持ってきた訳じゃ無いんじゃね?」
「灯油のポリタンクはあっても溶けてるだろうが探してみるか」
「建物が全焼になるくらいだからかなりの量使ってるんじゃない? 石油ファンヒーターなら缶に指紋があるかも」
 加奈が瓦礫の中を歩き回りながら言う。
「あれば可能性は大だな」
 清史郎は期待せずに言う。これだけの火事の中で指紋まで残っていればそれこそ奇跡だ。
「あった! 缶……って、触らねぇ方がいいんだよな。こういうの」
 瓦礫を除けていた健が言う。
「それも証拠品にするか」
 清史郎はポケットから手袋を取り出して石油のファンヒーターに入れる缶を掴み上げる。
 煤に塗れているが一階の火災の規模から考えると意外に指紋が残っているかも知れない。
「あと髪の毛とか落ちて無ぇかな?」
「私たちのかも知れないし、消防士のものかも知れないだろう。法科研に出すにも金がかかるんだ」
 健に向かって清史郎は言う。
 弾丸と指紋が手に入れば汚職警官を追い詰める有力な証拠になるだろう。 
「じゃあ後は……」
 加奈が顎に指を当てる。
「欲をかきすぎても徒労に終わるかも知れない。ひとまず戻って証拠を整理しよう」
 清史郎は言って証拠品を収める為にビートルのトランクを開けた。
  〈4〉
  「……ここから弾丸が取り出されれば被害者は銃で殺されたという事になるし、線状痕が警察のものと一致すれば犯人の特定につながると。で、こっちが指紋か」
 慶田盛弁護士事務所で慶田盛が証拠品を前に鑑定するようにして言う。
「あと、小島隼人巡査部長と良子夫人の電話とスマートフォンの通話記録を令状を取って確認して欲しい」
 清史郎は慶田盛に向かって言う。
 健の調査で既に確認済なのだが、法的に証拠能力を持たせる為には法を介する必要があるのだ。
「麻薬の違法所持、麻薬を用いた違法捜査、麻薬の証拠偽装、立場を利用した恐喝、殺人と殺人の証拠隠滅……余罪はまだまだつきそうだね」
 慶田盛がまずい茶をすすりながら言う。
 慶田盛の新しい秘書兼事務員の陽菜はがっかりするほど茶を淹れるのが下手くそだと清史郎は思う。
「現場にはもう一つ足跡があったし、日立工務店は遠回しではあるけど前知事と現職市長に献金している。組織ぐるみの犯行の可能性もある」
「それは証拠を見ていれば分かるけど、立証するのが君の仕事だろう?」
 慶田盛の言葉に清史郎は苦い表情を浮かべる。
 通話記録でそれらしいものがあったとしても、録音されている訳ではないから警察官同志の繋がりまでは分からない。
 それに小島は組織の末端に過ぎないかも知れないのだ。
「警察なら自白させて、という手があるんだろうが、犯人が警察だからな。取り調べをしても手心を加えるだろうし」
 清史郎はぼやく。小島を捕まえて縛り上げて全てを吐かせた所で、民間人がそれをした場合は何の証拠にもならないのだ。
 
 ジョーカーVSポリスマン
  〈1〉
  「主人は自殺するような人ではありませんし、そもそも違法な献金を受け取ったり要求したりする人間ではありません」
 十二月二十四日。慶田盛は昨日ガソリンを積んだトレーラーに救急車で衝突して焼死した、内藤義孝市会議員の妻の訪問を受けていた。
 通夜の前に弁護士事務所を訪れるという事は、悲しみより怒りが先に立っているのだろう。
 内藤義孝は違法献金の取り調べで警察に拘留されている最中に服毒自殺を図り、警察は救急車を手配。
 ところがその救急車がガソリンを積んだタンクローリーと衝突し焼死した。
 タンクローリーの運転手は無事だがタンクローリーが救急車と衝突した後、壁に衝突した事から脇腹と足を骨折。身体にも数か所の火傷を負った。
「つまり、そもそも取り調べのきっか���となった大野正道氏の自殺も何かの事件の隠蔽だと?」
 慶田盛は昨日の清史郎の来訪を引きずったまま考える。
「確かに事務所の経理をしていた訳ではありませんが、職員に聞いて頂ければ事務所も夫も何らやましくない事は証明できる筈です」
「つまり、不当拘留であった事と、自殺であればそれに至るまでの自白強要があった事を立証し、警察を訴えて欲しいという事ですね」
 慶田盛は妙な所で警察を追及する事件が連続したものだと考える。
 とはいえ、調査とあればまずは三浦探偵事務所に依頼しなければならない。
「まず、こちらで調査可能な範囲で調査を行います。三浦探偵事務所から追って連絡があると思いますので捜査協力をお願いします」
「探偵……ですか?」
「優秀な、と、付け加えて良いと個人的には考えています」
 慶田盛は内藤夫人に笑みを向けた。
 三浦探偵事務所から預かった証拠品は大学の研究所に送ったままだし、今の所清史郎に動きは無いはずだった。
  〈2〉
  「内藤市議は議会で市長の汚職を追及していた野党の議員で、清廉潔白で知られていた。それが大野正道という個人事業主の自殺で、献金の疑惑が持ち上がり、警察の取り調べの間に自殺を図り、救急車がタンクローリーに突っ込んで焼死したと」
 午後一時、慶田盛の話を要約して清史郎は言う。
 昨日仕事を依頼したのはこちらなのに、仕事が片付かないうちに仕事を持ってくるなと言いたい所だ。
「これから地裁の方で仕事が控えていてね。昨日の証拠品は全部工科大学の研究室に送ってあるから近日中に結果が出ると思うよ。後ファイルに正規の通話記録も挟んでおいたから。また暇ができたら飲みにでも行こう」
 言うだけ言った慶田盛が茶も飲まずに慌ただしく事務所を出ていく。
「あのオッサン、無茶振りにも程があんじゃね」
 健がファイルの束をみて呆れたように言う。
「調査の結果が出るまで私たちにできる事は無いんだしやるだけやろうよ」
 加奈がファイルを開きながら言う。
「クリスマスイブなんだからケーキくらい手土産にしてくれっての」
「止めておけ。陽菜ちゃんの手作りだったらどんな味になると思う」
 清史郎が言うと健がげっそりした表情を浮かべる。
「……そっすね」
「警察から取り寄せた資料だと、市議に充てた小切手が大野の死体のポケットにあったみたい。大野の身元は免許証で確認。持っていた携帯電話から家族に連絡、奥さんが死体を引き取りに来て大野の件は一件落着」
 加奈の言葉を聞いて清史郎は頷く。
「小切手があった事から政治献金不正取得の疑惑が生じて警察は内藤義孝に任意同行を求め、供述を拒否した事から拘留した。拘留可能な二十四時間が来るより早い八時間後に内藤は突然苦しみだし、持っていたピルケースから���毒自殺と判断、救急車を呼んだ」
 加奈の説明を聞いて清史郎は疑念を抱く。普通の人間が日常的に服毒自殺できるような薬品を持ち歩くだろうか。
「一一九から十二分後に救急車が到着。救急車は高速道路湾岸線に乗り、ガソリンのタンクローリーのタンクに衝突、ガソリンが漏れ救急車は炎上、運転手を含め四名の死体が焼け跡から発見された」
「最近焼死体多いのな」
 健が他人事のように言う。
「何で救急車は湾岸線に乗ったんだ? 市民病院の救急が埋まっていたのか?」
 清史郎の言葉に加奈が首を傾げる。
「警察の記録を読んだだけだから。ジョーカーも目を通す?」
 加奈がファイルを手渡してくる。
 清史郎が目を通すが加奈がまとめた以上の事は記載されていない。
 大野正道の遺書や名刺、免許証、小切手のコピーがあるくらいだ。
「まずは死亡した大野正道の素性から確認するか。遺留品は奥さんが引き取ったそうだが……」
 清史郎は名刺の電話番号に電話をかけてみる。
『……おかけになった電話番号は現在使われておりません』 
 清史郎は一旦電話を切ってかけなおす。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません……』
「どうしたんだジョーク、何か痴呆が来たような顔してるぜ?」
 健の言葉に清史郎は受話器を渡す。
「はぁ? ジョーク、電話番号間違えてんじゃねぇのか?」
「私がボケているように見えるか?」
 清史郎は憤然として言う。
「ねね、どうしたの?」
「この電話、使われてねぇんだと」
 加奈に答えて健が言う。
「警察は携帯電話の電話帳から電話したって書いてあったよね」
 加奈がファイルを手にして電話のボタンをプッシュする。
 数秒して加奈がポカンとした表情を浮かべる。
「加奈、どうしたんだ?」
「ジョーカー、電波が届かない所にいるか電源が入っていないからかからないって」
 幽霊でも見たような表情で加奈が言う。
「え? ちょっと待て。じゃあ名刺の電話番号はそもそも使われてなくて、ケータイの電話は今つながらねぇのか? 話し中じゃなく?」
 健の言葉に加奈が頷く。
 健がPCを叩き始める。
「その電話番号、奥さんじゃなくて本人の名義で、死ぬ前の日に契約されてやがる」
 健が何かの罠に引っかかったとでも言うかのような表情を浮かべる。
「本当か?」
「だったら見てみろよ。本人確認書類の免許の写真同じだろ?」
 健が通信会社の記録をPCの画面に表示させる。
「本人が自殺する前日に作った携帯電話を奥さんに持たせて、警察から電話があった次の日には解約したってのか?」
 清史郎は狐につままれたような気分で言う。
「本人は他に携帯電話か何かは持っていないのか?」
 清史郎の言葉に健が検索をかける。
 健が画面を見て呆けた表情を浮かべる。
「どうしたんだ?」
「いやさ、だってさ、名前と生年月日で照会かけたらさ」
 PCの画面には携帯電話の契約の免許証とは異なる人物の写真の免許証が本人確認書類として映し出されている。
「同姓同名とか?」
 加奈の言葉に健が力なく頭を振る。
「あり得るかよ。住所以外全部同じだぜ?」
「それが確かだとすると偽造かもしれないな」 
 清史郎はファイルの免許証のコピーとPC画面上の免許証を見比べて言う。
 確かに住所以外は全て合致している。
「健、住民票はどうなってる?」
 清史郎が言うと再び健がキーボードを叩き始める。
「ジョーク、古い方、警察のコピーじゃねぇ方だ!」
 健が声を上げる。
「え? 一体どういう事?」
 加奈が当然の質問を発する。
「とりあえず古い方の電話番号にかけてみる」
 清史郎はPCの画面を見ながら番号をプッシュする。
『はい、大野です』
 年配の男性の声が聞こえてくる。
「大野正道さんですか?」
『そうですが、セールスでしたらお断りします』
 男性の声が訝るような響きを帯びる。
「私、三浦探偵事務所の三浦清史郎と申します。現在大野正道さんの自殺について調査しておりお電話をさせて頂きました」
 自分でも訳が分からなくなりながら清史郎は言う。
『おたくふざけているんですか? 切りますよ』
「話を聞いて下さい! 免許証が偽造されている可能性があります!」
『その話なら刑事さんが来て話して行ったよ』
 怒ったような口調で男性が言う。
「それはいつの事ですか?」
『四日くらい前です。免許証を見せて写真を撮って帰りました。間違いありません。おたく本当に探偵なんですか?』
 瞬間、清史郎の脳裏に閃くものがあった。
「その警察が偽物だったんですよ。奥さんは何か言っていませんでしたか?」
『家内はピンピンしとります! いい加減にして下さい!』
 男は怒鳴るようにして言うと一方的に通話を切った。
「ジョーカー、何となく想像がつくけど……」
 加奈の言葉に清史郎はぎこちなくうなずく。
「自殺したのは大野正道じゃないし、警察が話した相手も大野正道の奥さんじゃない」
「じゃあ誰が死んで、誰が死体を引き取ったんだよ!」
 健が言う。
「とにかく、この写真の人物が死んだ事は確かだ。警察も写真を確認しているんだしな」
 清史郎は憮然として答える。
「ジョーカー、ひょっとしたら小切手も偽造なんじゃない?」
 加奈が言うと健がキーボードを叩き始める。
「そもそも口座が存在しねぇよ!」
 健がエラー表示の画面を見せる。
「遺書は小切手を内藤市議に託して、これを最期に家族への請求は止めてくれというものだったな」
 清史郎は茫然としながらも状況を整理しようとする。
「つまり死体と写真だけが本物で後は全部偽物だったって事? 誰が何の為に自殺したって言うのよ」 
 加奈が何もかも分からないといった様子で言う。
 警察が死体を確認した。それは確かだ。
 だが、現在確認可能な死体は存在しない。
 清史郎は考える。一見すると警察の発表が正しいか、身分を偽装して別の誰か大野正道に偽装して殺したという事になる。
 死因は手首を切った事による失血死。
 現場は工場街の外れの中小の事業者が存在する、工場外のそれも廃工場だ。
 清史郎はそこで疑問を感じる。
 ――自殺をするのに、廃工場など選ぶだろうか?――
 一般的に手首を切る自殺では自宅の風呂が利用される事が多い。
 血行を良くし、出血の痛みを抑えられる……というのは実際に死んだ人間にしか分からないだろう。
 通報者は廃工場の中で誰かが血を流して倒れていると警察に通報している。
 季節は十二月。わざわざ暖房の一つも無い、朽ちた廃工場を選ぶとは考えにくい。
同じ自殺をするなら練炭を選んでもおかしくない筈だ。
 更に寒空の血行が悪い中で自殺をしたとしてどれだけの時間がかかったのだろう。
 警察の現場検証の写真では、仰向けになった死体の手首から夥しい量の血が流れ出している。
 清史郎は更に疑念を深める。
 手首を切ったなら失血死だ。だが、十二月の吹き曝しの寒空の下、血行の悪い被害者は相当な時間を要した筈だ。
 後悔するなり、歩き回るなりという事はした筈だ。
 だとすると他殺の可能性が濃厚になる。
 しかし、現場検証の写真からは手首の傷と血液以外の傷は見つかっていない。
「これは自殺じゃないかも知れない」
 清史郎は慶田盛の置いていった資料をじっくりと確認しながら言う。
 資料は警察が型通りにまとめたもので、充分とは言えない。
「ジョーク、自殺でないとするなら何なんだ?」
 健は事件を覆う謎に全くついて行けていないといった様子だ。
「現場へ行こう。警察が荒らしているだろうが私たちなら見落としを発見できるかも知れない」
 清史郎は席を立つとデスクの上のビートルのキーを手に取った。
 座って資料を睨んでいて���新事実が出てくる訳ではない。
 ――探偵は足で稼ぐのだ―― 
  〈3〉
 「ううっ……ジョーク、この寒空でわざわざ出てくる事無かったんじゃねぇのか?」
 ダウンに身を包んだ健が廃工場を眺めて言う。
 廃工場はかつて新庄市で栄えていた工場街の一角にあり、廃工場というより廃工場街といった様相を呈している。
 クリスマス前という事もあってか、人通りどころかシャッターや門を開けている工場も見当たらない。
 否、どちらかと言うと『売物件』という張り紙がしてある工場の方が多いだろう。
 現場となった廃工場は大型トラック二台を横並びにした程度の大きさの典型的な中小の工場だ。
 周囲は錆が浮いて壊れた鉄の門のついたコンクリートブロックの塀で覆われており、工場も正面のシャッターが壊れて外からでも中が見えるようになっている。
 工場の壁はトタンのようなもので出来ており、天井のあるべき場所には穴があいて陽の光が埃の筋を描いて直接工場に差し込んでいる。
「何も無いね。什器とかは警察が押収したのかな?」
 門の前から中を観察している加奈が言う。
 確かに建物の中はがらんとしており、作業をするのに使っていたであろう機材の類が見当たらない。
「いや……これは差し押さえを食らったんじゃないか?」
 清史郎は門から勝手に建物に入りながら言う。
 何をする工場であったにせよ、警察が運び出したのなら跡が残る筈だ。
 しかし、清掃業者が掃除したらしい建物の中央を除いては埃が積もった状態になっている。 
「軽作業をしていた工場でも長机と段ボールくらいは使っただろう。押収されたならあるべき場所は埃をかぶっていないはずだ」
 清史郎は清掃業者がクリーニングした痕の中央に立つ。
 写真と照らし合わせて死体はこの辺りにあったはずだ。
「掃除の業者もやるならやるで建物全部を掃除して帰りゃいいのに」
 健が周囲を見回しながら言う。
 死体は左を下にする形で横向きに倒れていた。
 写真では下になった左腕が前に突き出され、その手首と周辺が血だまりになっていた。
「写真だとここに倒れてたんだよね?」
 何か違和感を感じているらしい加奈が言う。
「ナンマンダブナンマンダブ」
 健が手を合わせる。意外に小心な所があるのかも知れない。
 清史郎はルミノール反応液をビートルから持って来ると、クリーニングされた床の上に散布した。
 写真と同様の血だまりが浮き上がり、腕のあった場所が切り抜かれたようになっている。
「自殺した誰かはここで死んだ……」
 加奈が閉じられる事のないシャッターと門扉の方を眺める。 
「人通りが少ないからいいけど、こんな見通しのいい所で手首を切ってたら、誰かが通りかかったたらすぐに気づくよね?」
 確かにこの周辺一帯が寂れている事は確かだが、もしその場を通りかかった誰かがいたなら必ず気付いた筈だ。
 これから自殺しようという人間がそのような場所を選ぶだろうか?
「そもそも失血死なら余程深く切らないと一時間やそこらでは死なないだろう。ましてこれだけの寒さだ。血行も悪かったに違いない」
 清史郎は更に広い範囲にルミノール反応液を散布する。
 ルミノール反応は死体を型取るように出ており、クリーニングのモップが押し広げた形跡はあるが周囲に散らばったような形跡は無い。
「死ぬまで誰も来ないって確実に分かっていて、しかもその場を動かないで死んだって妙じゃない?」
 加奈が清史郎の思考を後追いするかのように口にする。
「そうだ。この季節の死亡時刻は曖昧になりがちだから時間は置いておくとしても、手首を切った人間がその手首を死ぬまで凝視してるなんて事があるか?」
 清史郎は仮に自殺を図った人間がいたなら、そうしたであろう事を思い浮かべながら周囲を歩き回る。
「何か思い詰めていたなら、歩き回る事もあっただろう。しかし、ルミノール反応は死体の倒れていた場所にしか出ていない。更に決定的なのは血液の量だ」
 清史郎はルミノール反応の痕を指し示す。
「献血では400ml取られる事が多い。これは牛乳瓶約二本分だ」
「生で見ると結構な量だよね。貧血になるんじゃないかっていうくらい」
 加奈が何かに気付いた様子で言う。
「そうだ。牛乳瓶一本の血液をここと同じコンクリートや道路のアスファルトに流すと、すぐに掃除をしなければ六メートル道路全体に広がるくらいの量になる。献血の二本分ならこの工場全体に広がってもいいくらいだ。そして、それくらいの出血では……」
「人は死なないって事ね?」
 加奈がモップの痕を見ながら納得した様子で言う。
「ああ。仮に自殺で、この場で死んだとするなら、それ以前に充分に失血しておかなくてはならない。だとするなら出血しながらここに入って来るまでの血痕が残っていなければならないんだ」
 清史郎は門から死体のあった場所までを確認する。
「えっと……つまり死ぬには血の量が足りねぇし、どっかから来た訳でも無えって事か? でもそもそも本人でさえねぇんだよな?」
 健が当惑した様子で言う。
「そうだ。それにここの人通りを考えた時、死体の第一発見者は誰だったんだ? 資料では警察に死体があると一一〇があったとあるだけだ。特別な用事が無ければ人が通らない死んだ事が気付かれないような場所で、誰かが通りかかれば確実に気づくような死に方でここで死んでいたんだ」
「第一発見者が怪しいって事?」
 言って加奈が顎に指を当てる。
 殺人事件でまず疑うべきは第一発見者だ。
 そして今回の事件は電話で通報があっただけで警察は第一発見者に会った訳ではない。
「あくまで可能性だが、仮にこんな辺鄙な場所で死体を発見したとする。警察は事情を聴きたいと言っただろう。だが、現場に来てみたら誰もいなかった」
「そりゃ殺しって事か?」
 健が顔を向けてくる。
「可能性はゼロではない。殺してその痕跡を消す為に自殺に見せかけた可能性もある。だが警察だって馬鹿揃いではない。絞殺や刺殺なら自殺だとは断定しないだろう。客観的に見て手首以外に死体に傷らしい傷が無かったから警察は自殺だと考えたんだ」
「でも、血の量や流れ方からじゃ自殺とは思えない」
 加奈の言葉に清史郎は頷く。
「そこで捜査の原点に戻る。健、この事件の一一〇に残っている電話番号を調べられるか?」
「一一〇? 隣の部屋がうるさいとか、隣の家の枝が伸びてるとか凄ぇ件数だぜ?」
 健がぼやきながらもラップトップを開く。
「一一〇があった時間は分かっている。一昨日の午後四時十三分だ。所轄に連絡を入れているから絞り込む事は可能なはずだ」
 清史郎が言うと健がキーボードを叩く。
「070―××××―××××。ケータイ番号だな。格安スマホだ」
「何で格安だって分かるんだ?」
 清史郎が言うと健が笑顔を浮かべる。
「普通のキャリアだと090からになるんだ。080もあるけど、普通は070にはならねぇ。キャリアから乗り換えた人は090を持ち越せるけどな。これSモバイルの格安スマホだ」
 健が情報を叩きだしていく。
「私も使ってるけどさ、それってクレジットカードがあれば作れるってヤツよね?」
「ああ。信用情報はクレジットカードが確実だからな」
 健が加奈に答える。
「名義人を特定できるか?」
 清史郎が言うと健が白い歯を見せて笑う。
「言われると思って調べといたぜ。新堂壮太五十八才、土建屋で働いているみたいだな」
 健が表示したのはクレジット会社が控えていた免許証だ。
 住所は免許証とは異なっており、○○建設となっている。
「多分飯場……寮みてぇなトコだな。屋根はあるけどボッタくられるから損すんだよな」
 元土建屋の健が言う。
「通話記録は?」
「どうせ言われると思ってたよ。ジョークは人使いが荒ぇからな」
 清史郎が訊ねると健がラップトップのディスプレイを見せる。
「プレミアムステージ……セレブレティ……」
 健が電話番号から割り出した通話先は、何かの店のような名義に頻繁にかけられている。
 店舗のようだが圧倒的に携帯電話の番号が多い。
 通常、店舗を構えるのであれば信用問題やタウンページに乗せる関係から固定電話の番号を持つ事が多い。
 そうで無いという事は、逆にあまり知られたくない番号という事だ。
 清史郎は番号に電話をかけてみる。
『児玉さん? この電話……』
「チラシを見た者ですが……」
『え、あ、あれ? あ、お電話ありがとうございます。セレブタイムです』
 急に若作りした女性の声が響いてくる。
「マンションにチラシが入っていて……電話を間違えましたか?」
『大丈夫ですよ。どちらにお住まいですか?』
「新庄市中洲町です」
 清史郎は自分の想像が当たっている事を半ば確信しながら答える。
『ポスティングは都内ですが、デリバリーなので大丈夫ですよ。コースはどうなさいますか? ホテルでもOKですよ』
「いえ、ちょっとかけてみたかっただけなので。すみません」
 清史郎は笑い出したくなるのを堪えて通話を切る。
「ジョーカー、何の店だったの?」
「デリヘルだよ。多分ほとんどそうなんだろうな」
 加奈の言葉に清史郎は苦笑する。
「友達の少ねぇ野郎だったんだな」
 健が履歴を見ながら言う。
「クレジットカードの住所が川崎で、デリヘルのナンバーが都内。死体を発見して電話をしたのが新庄市……」
 言いながら加奈が眉間に皺を寄せる。
「これは飛ばしだな」
 清史郎は昔ながらの名前で言う。
「ジョーク、飛ばしって?」
「借金で首が回らなくなったり、住所不定の人間に携帯電話を作らせて名義人以外の人間が使うヤツだ。仮に番号の本人に直接問い合わせても分からないか売ったと答えるかのどちらかだ。こういったものは自分では契約できないヤクザが使っている事が多いんだがな」
 清史郎は健に答える。
 そして、そうして作られた携帯電話は闇で売買され、足がつかない電話として非合法な行為に使われる事も多い。
「多分デリヘルの番号なんかもそんなのが多いんじゃない?」
 加奈が苦笑する。
「じゃあ、ヤクザとかが死体を見つけて電話したのか? 借金の取り立てに来たらたまたま死体があったとか」
 健が推理する。確かにその可能性はゼロではないが、残念な事にここは死体遺棄現場であって自殺の現場ではない。
「それだと話が簡単なんだがな。それだと金の取り立てが厳しいのはヤクザで、市会議員という事にはならないだろう?」
「ヤクザって政治家のケツモチだろ?」
 健が知事選を思い出した様子で言う。
「確かにそうだが、ヤクザは与党のケツモチで野党のケツモチじゃない。野党についている怪しい輩と言えばプロ市民だろうが、今回の内藤市議の党は知られている限りではクリーンだ」
「プロ市民って例えばどんな?」
 加奈は興味を持ったらしい。 
「行政や企業から金を強請り取るのが目的で、あたかも自分たちが正義の味方であるかのように見せて活動している連中だ。線引きが曖昧ではあるんだが、例えばカジノ施設の建設予定地がこの界隈だったとする」
 清史郎が言うと加奈が車一台通らない殺風景な景色に目を向ける。
「行政がここにカジノ施設を作ると言う。まだ抵抗している個人が立ち退かない、これはあり得る話だ。しかし、ここの住民でも無い人たちが新庄市の工業の文化を守ると言う事がある。それもまだ分からない話じゃない。でも、環境保護の名目でNPOなんかで補助金を取ろうとしたり、地権者との間に入って土地の価格を吊り上げたり、入札で自分の業者が落札できるように融通を求めようとする。そういった金銭目的の市民運動がプロ市民だ」
「やってる事がヤクザとほとんど変わらないわね」
 加奈がため息をつく。
「実際加奈の言う通りでバックにヤクザがついている事が多い。直接的では無いにしろ、団体の役員にヤクザの組員や幹部が入っている事も珍しくない」
「真面目にやっている人からしたら凄い迷惑な話よね。内藤市議は大丈夫だったのかな?」
 加奈が本来の目的を思い出したように言う。
「汚職を追及している張本人が汚職をしているというのも無い事は無いだろう。だが、汚職をする人間の家族が弁護士や探偵に依頼するか? 見つけられて困るような情報が出てきたら、相手が悪ければそれで強請られる事だってあり得るんだ」
「なるほど。それに依頼した相手は慶田盛さんだしね」
 加奈が納得した様子で言う。慶田盛は汚職を見つけたらその日から弁護を辞めて起訴に転じるような人物だ。
「そうだ。それにプロ市民にはだいたいその筋の弁護士が顧問でついているもんなんだ。慶田盛は完全にフリーだから内藤市議がプロ市民に関わっている可能性は極めて低いだろう」
 言って清史郎は事件に意識を引き戻す。
 使われた携帯電話はデリヘルの連絡などに使われていたヤクザの飛ばしである可能性が高い。
 ヤクザが死体を発見したのではなく、ヤクザが死体をここに置いて内藤市議を嵌めようとしたのなら。
「内藤市議のウソの汚職を告発をする遺書を持たせた死体を、ヤクザがここに置いて行ったのかな?」
 加奈が清史郎と似たような事を推理する。
「その可能性は考えられるがな」
 清史郎はそこに疑念を感じる。偽の遺書が出てきたのだとしても、内藤市議が潔白なら服毒自殺などしようとはしないだろう。
 むしろ、潔白を証明するために慶田盛に弁護を依頼するだろう。
そもそも偽の告発文が出てきて警察に捕らえられた時、都合よく自殺用の薬品を所持しているなどという事があり得るだろうか?
「仮に市長が矢沢組に内藤市議の失脚を依頼したとする。矢沢組があれこれ工作してスキャンダルを持ち上げようとした最期の手段がこれだったのだとする。だが、幾ら議員と言っても日常的に自殺できるような薬は持ち歩いていないだろう?」
「そっか……。そもそも自殺する訳が無い、っていうのが調査依頼だったんだよね」
 加奈が考え込むようにして言う。
「確かに与党の市長からすれば、内藤にスキャンダルが出て自殺までしてくれたんだから万々歳だ。市議選で敗北し、知事選で負けた今、カジノ施設建設で動いている国政与党にとっては願っても無い話だ。だが、内藤からすれば仮にスキャンダルがあったとしても、それを認めるかのような自殺は絶対にしたくはなかったはずだ」
「話ができすぎてるって訳ね?」
 加奈の言葉に清史郎は頷く。
「それに、市長や与党は嬉しいだけだろうが、仮にも内藤暗殺という話になったら実行犯の矢沢組がつるし上げられる。矢沢組の緒方の仕事では無いような気がしてな……いずれにせよ私たちにはまだまだ調べなきゃならない事が多い。探偵は推理していればいいって訳じゃない。情報を集め、事実を積み上げるのが仕事だ」
 清史郎は次の問題に頭を切り替える。
「ここにあった死体の身元は不明、自殺であったとしてもここで死んだ可能性は極めて低い。通報した電話は飛ばし、警察に死体を引き取りに来た人間も不明。ここまでは客観的事実として見ていいだろう」
 清史郎の言葉に二人が頷く。
「次の問題は警察から運び出された死体はどこに消えたのかだ」
「それは引き取りに来た奥さんが死体と同じで誰だか分からないんじゃない?」
 加奈の言葉に清史郎は頷く。
「確かにそうだ。だが、死体を引き取りに自家用車で来る人間がいるか?」
 清史郎の言葉に加奈が目を見開く。
「葬儀屋の車でないと不自然って事ね?」
「そうだ。葬儀屋の車だけなら偽装もできるだろうが、死体を引き取るには棺も必要だろう? どの道葬儀屋に依頼しないと警察を出し抜く事なんてできないんだ」
 清史郎は考えながら言う。警察が記録しているとは思えないが、葬儀屋には記録が残っているはずだ。
「それって、また俺に調べろって話?」
 健の言葉に清史郎は頷く。
「この飛ばしの番号だけじゃなくて、一日で解約された携帯の番号があっただろう? あっちに葬儀屋の番号がある可能性が高い。奥さんが使っているって事になってたんだからな」
 清史郎が言うと健がキーボードを叩き始める。
 思いついた事を町中の会社に電話しなくても調べられるというのは便利を通り越して不可解ですらある。
 それが健の持つ才能というものなのだろう。
「ジョーク、ヒットだ。佐藤葬儀社って会社と通話記録がある……」
 番号を聞いた清史郎は頷く。
 死体を偽装した犯人の痕跡がやっと見えて来たのだ。
 〈4〉
  
 佐藤葬儀社はオフィスは構えているが備品のほとんどはレンタルで済ませている、市内に複数ある葬儀社の中では中堅といった規模の葬儀屋だ。
「佐藤葬儀の倉敷と言います」
 街はずれのオフィスビルの一室で三人の応対に出たのは、営業部の壮年の男性だった。
「先にお電話をさせて頂きました三浦探偵事務所の三浦清史郎です」
 清史郎は今後世話になる事があるかどうか分からない倉敷と名刺を交換する。 
 簡素な応接用のソファーに加奈と健と共に腰かける。
「先日こちらで葬儀を行った大野正道さんの葬儀の件で伺いました。個人情報までうかがうつもりはありませんが、今後警察が捜査で来る可能性もありますので可能な範囲でお答え頂ければと思います」
 清史郎が言うと倉敷が驚いたような表情を浮かべる。
「警察が? 何か問題でもあったのですか?」
「大野正道さんはご存命で、奥様もご承知でした」
 清史郎の言葉に倉敷が顔を青ざめさせる。
「当社では遺体の搬送手続きと祭壇の設置を行っただけでそれ以上の事は何も行っておりません」
「火葬の手続きは?」
「奥様が直接手続きされるというお話でした。大野さまはお手軽十三万円パックをご利用されており……これは納棺とお坊様の派遣というシンプルなものでして……」
 倉敷がハンカチで額の汗を拭いながら言う。
 汗を拭うというよりは動揺している表情を隠したいという心理から来る行動なのだろう。
「手続きは奥様が?」
「書類がございます。少々お待ちください」
 言った倉敷が席を立ってキャビネットに向かう。
 ややあって倉敷が申込み書類を手に戻って来る。
「こちらが大野様の申し込み書類になります」
 氏名、住所、電話番号、捺印が確認できる。
 電話番号は解約された携帯電話、印鑑は百円均一ショップで買ったものだろう。
 ――だが、少なくとも住所には死体が搬送されている――
「御社のお手軽パックではご自宅に遺体の搬送はされていますね」
「はい。契約ドライバーが専用車で搬送しております」
 営業モードに立て直したらしい倉敷が答える。
「書類の住所でお間違いはありませんか?」
「私が祭壇の手配をしましたし、車には奥様と息子さんが同乗しました。間違いありません」
 倉敷の言葉に嘘は無さそうだ。
「祭壇の設営はどちらが?」
「提携している高崎仏具という会社が行いました」
 葬式も今や業務の大半が様々にアウトソージングされているらしい。
「住所に間違いは?」
「確認は取っています。間違いありません」
 倉敷が気分を害したように言う。
 書類の住所に何者かの遺体が搬送された事は間違い無さそうだ。
「分かりました。ご協力感謝します。申込書類のコピーを頂けますか?」
 清史郎は倉敷からコピーを受け取るとビートルに戻った。
「コーポフラットアパート303号室ね」
 助手席に座った加奈が書類を確認しながら言う。
「死体の行き先が分かれば正体が分かるかも知れない」
 エンジンをかけて清史郎はビートルを走らせる。
 アポ無しにはなるが、連絡先が無いのだからそこはどうしようもない。
「何か俺らたらい回しにされてる気がしねぇ?」
 後部座席の健がラップトップでブラウジングしながら言う。 
「それを言い換えると足で稼ぐって言葉になるんだ」
 清史郎は健に答えて言う。
 内藤市議の自殺の疑惑を晴らすのが目的なのだが、大野正道で脇道にそれ続けている。
 しかし、その大野正道が疑惑のグランドゼロなのだから仕方がない。
 しばらくビートルを走らせて住宅地の二階建ての賃貸アパートにたどり着く。 
「ジョーカー、ここに死体が運ばれたんだね」
 加奈の言葉に頷いた清史郎はビートルを路上駐車するとアパートに向かう。
 呼び鈴を押すと加奈よりやや年上といった雰囲気の女性が出て来た。
「大野さんのお宅ですか?」
「いえ。セールスはお断りしています」
 女性が即座にドアを閉じようとする。通販の品物が届いたとでも思っていたらしい。
「三浦探偵事務所の三浦清史郎と申します。十二月二十一日、こちらで葬儀が行われましたね?」
「はぁ?」
 ドアを閉じる手を止めた女性が面食らった様子で言う。 
「葬儀会社の書類のコピーもあります」
 清史郎が言うと女性の顔に狼狽が浮かぶ。
「え、ちょっと、それ本当?」
 清史郎はバッグから書類のコピーを取り出して女性に見せる。
「マジ? ちょっと、これ本物?」
「コピーですが、葬儀会社に行けば本物を見る事ができます」
 清史郎が言うと女性が額に手を当てて顔を顰める。
「あー、信じられない……でもこの住所ウチになってるし……」
「心当たりがありませんか?」
 清史郎が言うと女性が大きなため息をつく。
「ウチの部屋、レンタルスペースって言うか、映画の撮影とかの貸し出ししてるの。毎日じゃないけど、二十一日は新庄大学の映画サークルがロケをするからって一日二万円で貸し出してたの。本物の葬式をウチでされるなんて最悪」
 女性の言葉に清史郎は頷く。
「この日は友達とデスティニーランドに行くから丁度いいやって……」
「レンタルは個人でされているんですか?」
 清史郎が言うと女性の表情が曇る。
「ここで聞いた情報は外には決して漏らしません」
 清史郎が言���と女性の顔が土気色に変わる。
「小遣い稼ぎくらい誰でもやってるじゃない……OLだけじゃやっていけないのよ」
 観念した様子で女性が言う。この仕事の収益は確定申告していないようだ。
「二十一日の仕事はお知り合いからの紹介とか?」
「前の日に電話があって開けられるかって言うから。普段は半日五千円だけど、出かけるし二万円だし……」
 何かに絶望したかのような表情で女性が言う。
「つまり、ここで葬式が行われる事を知らずに、映画の自主製作だと思って部屋を貸し出した訳ですね?」
「そうです」
 清史郎は警察の取り調べでもしているかのような錯覚にとらわれる。
「その相手には会いましたか?」
「部屋の鍵を渡す時と受け取る時に。おばさんと同い年かちょっと若いくらいのお兄さんでした」
 年配女性と若い男性というのは葬儀会社の話と一致する。
「本当にそれまで面識も無いし、全然知らない人だったんです」
「知らない人が部屋に入って不安になった事は無かったんですか?」
 加奈が言うと女性が儚げな笑みを浮かべた。
「盗られるほどのものがうちにある訳が無いじゃないですか」
「最後に、かかって来た電話番号の履歴は残っていますか?」
 清史郎が言うと女性が部屋に戻ってスマートフォンを持ってきた。
 そのディスプレイに表示されていたのは大野正道名義の一日で解約された携帯電話だった。
 ――葬儀はここで行われ、死体は妻を名乗る人物が火葬場に直接運んだ――
「ありがとうございました。何か気付いた点などありましたらご連絡下さい」
 清史郎は遅れながら女性に名刺を差し出した。
 〈5〉
  内藤義孝議員の自殺調査は、その前段階の大野正道の自殺事件で暗礁に乗り上げた。
 大野正道の自殺は何者かによる偽装。
 大野正道は現実には生きており、自殺の現場を検分した結果その場で死んだのでは無いであろう事が推理できたに留まった。
 死体は大野正道の妻を名乗る女性と息子が佐藤葬儀を通じて引き取った。
 葬儀が行われたのはレンタルスペースであり、貸出人は大学の映画サークルのロケだと思い込んでおり、葬式だとは思っていなかった。
 死体は佐藤葬儀を通じず妻を名乗る人物が直接引き取り火葬にすると言っていた。
 以後の足取りは掴めていない。
 死体が何者であったのか知る手がかりは全くと言って良いほど無い。
 警察なら偽造免許証の写真や妻を名乗る人物のモンタージュ写真を公開して手がかりを求めるかも知れないが、三浦探偵事務所にそのような力は無い。
「見事に証拠無ぇのな。誰が何の目的でこんな手の込んだ事してんだ?」
 事務所のヒーターの前でキーボードを叩く生命線でもある手を温めながら健が言う。
「目的は内藤議員が自殺する為の動機を作るためでしょ? ねぇジョーカー、運転免許が偽造だったって警察に言ってみたら?」
 加奈が真っ当な意見を述べる。
「不正に取得した情報だぞ? 調査される前に俺たちが捕まる事になる」
 健がITの申し子だから分かったようなものの、本来情報企業から情報を購入していない限り決して得る事のできない情報なのだ。
 そしてその情報は業界では当たり前だが、法律的には裁判証拠として出す事もできない違法性の高いものなのだ。
「違法に取得してない情報か……佐藤葬儀に残っていた携帯の番号も解約されてるのよね」
 加奈が万策尽きたといった様子でため息をつく。
 ――しかし……――
 取得方法は違法だが、警察への通報に使われた電話は飛ばし番号だ。
飛ばしだったとしても、売買されたなら誰も知らないという事はあり得ない。
 しかし、飛ばし携帯は使用者の情報が隠蔽される便利なものである為、簡単に手放すとは思えない。
「警察への通報に使われた飛ばしの番号は警察が調べてもホームレスとかに行き当たる代物だ。グレーな商売をする人間にとっては重要なものだし、使用していた人物がそう簡単に手放すとは思えない。現に児玉という人物が使っているらしい事は分かっているんだしな」
「デリヘルの児玉か……つなげて言うと昇り龍の銀二みたいな二つ名みてぇだな」
 手が温まったらしい健がデスクに戻ってPCをいじり始める。
「……相手先のデリヘルは児玉さんって言ってたんでしょ? 今でも使ってるって事じゃない?」
 加奈が健と比較すると建設的な事を口にする。
「問題は関東一円のデリヘルに児玉さんが何人いるかだ。普通デリヘルは店を構えない代わりにマンションなんかに待機していて、そこを事務所にしている事が多い。契約名義は架空だろうしな……」
 清史郎は加奈の淹れたコーヒーを飲みながら考える。
 健のデータ検索の能力は確かに優れているが、一方でその限界も存在する。
 探偵はデータだけに頼る訳には行かない。それでは情報企業から情報を買っているだけの興信所と変わらない。
「呼んでみるか」
 清史郎は言って息を吐く。
 呼ばれたヘルス嬢が素直に住所を吐いてくれるとは思えないが、ドライバーを尾行するという方法もあるのだ。
「呼ぶって……風俗のお姉さんを? 調査費用で落とすけど普通に聞いて教えてくれるかどうか分からないし、探偵だなんて名乗ったら警戒されてその場で帰られるかもよ?」
 加奈が慎重案を述べる。
「場所は都内だったはずだ。ホテルを借りて健が相手をする。俺たちはドライバーを尾行して事務所にしているマンションを捕捉すればいい」
 清史郎が言うと健が目を見開く。
「俺、タダで遊んでいいって事か?」
「俺たちがホテルの外を見張るとしても、出入りする誰がヘルス嬢なのか分からん。ピンホールカメラで撮影してもらう必要がある」
 清史郎の言葉に健が笑みを浮かべる。
「そういう事なら。好みは俺好みでいいんだよな。チェンジはいいのか?」
 意外な発想だがチェンジしてくれればドライバーの捕捉はより容易になるだろう。
「健ってサイテー」
 加奈の言葉に清史郎は苦笑を浮かべる。
 健はまだ二十一才。草食系男子が増えているとは言われていても、性欲は尽きる所を知らないはずだった。 
 「本当にチェンジするなんて……あの人結構きれいだったけどな」
 ビートルの助手席で慣れないラップトップのディスプレイを見ていた加奈が言う。
 健は現在ホテルで待機、清史郎はヘルス嬢を運んできた白いヴェルファイアをビートルで追っている。
 慣れない都内を移動し、住宅地の一角のマンションでヴェルファイアが停まるのを確認する。
 連絡はできているらしく、若い女性が出てくると同時にヴェルファイアに乗っていた女性がマンションに入っていく。
「オートロックだよ。今追いかけたら怪しまれるし。どうするジョーカー?」
 加奈がラップトップから顔を上げて言う。
「俺たちは探偵だぞ? マンションへの侵入方法は一つや二つじゃない」
 清史郎はヴェルファイアが出ていくのを見て加奈と共にマンションのエントランスに足を踏み入れる。
 警備員はおらず、ポストを見ても店の名前が書いてある訳ではない。
 非合法かグレーゾーンなのだから当たり前だ。
 清史郎はチラシの詰まったポストに監視カメラを忍ばせる。
「ジョーカー、この角度からだとどの暗証番号を押したかまでは分からないよ」
 加奈の言葉に清史郎は笑みを浮かべて、ポケットからデンプンの粉末を取り出す。 
 九つのボタンに刷毛をつかってデンプンの粉を付着させる。
「ジョーカー、何してるの?」
「デンプンの粉をつけているんだ。ボタンを押した後にヨウ素を着ければ、押したボタンの所だけ色が落ちるだろう?」
「それならどうして監視カメラなんて設置したの?」
「腕の動きを見て何桁か知る為だ。普通は四桁だが特別な設定があれば通用しない。それに腕の動きに全く同じものがあれば同じキーを連続して二回押しているって事になるだろう?」
 清史郎が言うと加奈が関心したような表情を浮かべる。
「さっすがジョーカー。それなら調べる手間が省けるね」
「じゃあ一旦車に戻ろうか」
 清史郎は健の居るホテルの距離から時間的余裕を計算に入れ、加奈を伴ってコンビニに寄ってコーヒーを買うとマンションの張り込みを開始する。
「ジョーカー、いつも事務所のコーヒーを青葉コーヒーで買ってるけどこだわりがあるの?」
 コンビニのドリップコーヒーに口をつけながら加奈が言う。
「好みの押し付けになったら悪いんだがな。俺は酸味が強いものよりコクの強いものが好きなんだ。青葉さんの所で何度も試飲して今のに決めたんだ」
「淹れ方とかにこだわりがあったりする?」
 加奈は少し気にした様子だ。
「加奈はちゃんと三十秒蒸らしているし、湯を落とす時もゆっくり、白い泡も確認してる。今のままで充分だよ」
「本当はさ、泡が消えるまで淹れて経費を浮かそうかって思ってたんだけど」
「コーヒーを飲むゆとりまで節約しないでくれよ。私の少ない楽しみなんだ」
 清史郎が冗談めかして言っているとヴェルファイアが戻って来た。
 女性がマンションに入り、入れ違いになるように別の女性が出てくる。
 デリヘルは相当繁盛しているらしい。
 清史郎は加奈の見習いも兼ねてマンションのエントランスに戻る。
 紫色のヨウ素反応が薄くなっているボタンは二つ。
「ジョーカー、カメラを確認したけど同じボタンは連続してないよね?」
「ああ。色素の落ちているのは1と9だ。連続して押してないから9191と1919の二つの可能性が考えられる。カメラの関係で連続して押していたとしても、そうパターンが多い訳じゃない」
 清史郎はボタンを確認して言う。
「ジョーカー、このマンションって風俗マンションって可能性は無いのかな?」
 加奈がポストを見ながら言う。
「どうしてそう思うんだ?」
「ポスティングされているチラシにピンクチラシが無いから。デリヘルが入っているなら、紙の無駄だし自分の所には入れないでしょ? それに同業他社が入っている場合も自分が雇用している女の子に風俗マンションだなんて思わせたくないと思うの」
 加奈は意外な事に気が付くようだ。
「でも、マンション経営しているのは所詮健みたいなヤツだろうから、暗証番号はいやらしい番号になっていると思うの」
 加奈が嫌悪感を浮かべた表情で1919の順にボタンを押すと自動ドアが開く。 
「ホンット最低。で、ジョーカー、部屋の番号は分かるの?」
「今エレベーターが停まっている階だろう。その階のドアノブにはボタンにつけておいたデンプンがついている」 
 清史郎の言葉に加奈が熱心な様子で頷く。
「何か、これぞ探偵って感じね」
 清史郎は加奈に笑みを向けてエレベーターのかごが停まっている四階に向かう。
 ドアノブとチャイムにヨウ素を吹きかけ、404号室を特定する。
 清史郎はチャイムを押す。
『はい』
 何かを不審がる様子の声がインターフォンから響いてくる。
 見知らぬ歳の離れた男女が訪れたのだから当然だろう。
「矢沢組と親しくさせて頂いている三浦と言います。児玉さんはいらっしゃいますか?」
 三浦探偵事務所と矢沢組とは親しくは無いが、清史郎と緒方は個人的に電話番号を交換しているくらいだから関係者という事に嘘は無い。
 ややあってドアが開き、化粧の濃い年配の女性が戸口に現れる。
「児玉はここにはいないよ。あんた何者だい?」
「三浦探偵事務所の三浦清史郎と言います。殺人事件で調査を行っています」
 厳密には死体遺棄事件で、矢沢組に嫌疑がかかっている訳ではないのだが、言葉の上だけでは嘘は言っていない。
「児玉は島田会のチンピラだよ。みかじめ料を取りに来るくらいさ」
 タバコ臭い息を吐きながら女性が言う。
「児玉さんが新庄市の死体発見現場から一一〇をして、警察が来る前に立ち去りました」
 清史郎は矢沢組に矛先が向いているのだと暗に匂わせる。
「ヤクザの抗争はお断りだよ」
「そうならないように、と、緒方さんは考えているのだと思います」
 清史郎の言葉に女性が思案気な表情を浮かべる。
「本当に、児玉の事は島田会って事くらいで私は良く分からないん��よ」
 清史郎は女性に招かれて加奈と共にマンションに入った。
 マンションの十二畳のリビングには八名の女性がおり、キッチンにはPCが置かれて事務所のようになっている。
 他に寝室があるが仮眠を取る為に使われているのかも知れない。
「児玉を呼ぶから待っといとくれ」
 女性に促されてキッチンのテーブルに着く。
 テーブルの上にはペットボトルのジュースと菓子が散乱しているが、リビングで若い女に囲まれるよりは余程いい。
「児玉さんには事情を伝えないで下さい。組同士の話にするとややこしい事になりますから」
「分かったよ」
 清史郎の言葉を受けた女性が目の前でスマートフォンを操作する。
「児玉さん? パラダイスクラブの前田だよ。ドライバーが足りなくなっちまってね。今から来てくれないかい?」
 前田という名前らしい女性が如才なく児玉を呼び出す。
 ドライバーとして呼ばれるくらいだから本当に末端のチンピラであるらしい。
「まぁジュースでも飲んどいてくれ。私は仕事があるからね」
 前田が電話が鳴っているリビングに向かう。
 パラダイスクラブの業績は好調であるようだ。
「ジョーカー、もし組員が何人も来たらどうする?」
 加奈が声を潜める。その可能性はゼロではないし、島田会のマンションでは逃げ場が無いだろう。
「その時は堅気のフリでもするさ」
 清史郎は加奈にジュースを注いでやる。
 ややあって、痩せこけた髪の薄い男がマンションに現れた。
 見た目で人間を判断してはいけないが、麻薬中毒患者のような不健康さが感じられる。
「どうも、島田会の児玉です」
「矢沢組と懇意にさせて頂いております三浦探偵事務所の三浦清史郎です」
「矢沢組……ですか……下手打つ真似はしちゃいませんが」
 突然の事で訳が分からないといった様子で児玉が言う。
「まぁジュースでも飲んで下さい。我々が用意したものではありませんが」
 清史郎はジュースを児玉に勧める。
 沸かしっぱなしのコーヒーもあるにはあるが、ヤクザを相手にする時には手近に凶器になるようなものを置かせない事が重要だ。
 熱湯を置いてかけられる事があり、重症を負っても事故だったと言い逃れされてしまう事もあるからだ。
「頂きます」
 大人しく席に着いた児玉が冷えたオレンジジュースを口にする。
「二十一日に新庄市であった殺人事件はご存知無いですか?」
「知りません。それに殺人事件なんていつもどこかである事でしょう?」
 当たり前のような口調で児玉が言う。
「問題なのは事件の後、電話で警察に通報したという人間がいるという事なんですよ」
「そりゃ筋の仕事じゃないでしょう?」
 児玉が見栄を張るようにして言う。自分がヤクザであるという自負があるのかも知れない。
「その警察にかかって来た電話番号が、児玉さんが今使っている電話なんです」
 清史郎が言うと児玉が唖然とした表情を浮かべる。
「そりゃあ何かの間違いです。天地神明に誓ってサツにチクる真似なんざしません」 
「幸い、私が電話番号の情報は押さえました。ですが、児玉さんがタレ込んだという事になると、矢沢組としても穏やかな問題ではないんですよ。二十一日、電話を誰かに貸したりという事はありませんでしたか?」
 清史郎の言葉に児玉が目を泳がせる。
「あの日は……歌舞伎町の店の集金で……そうだ……」
 児玉が何かに気付いたとでもいった様子で目を見開く。
「殺し屋のイロが血相変えて電話貸してくれってんで、貸したんでさ」
 清史郎の脳裏に歌舞伎町の殺し屋、円山健司の姿が浮かび上がる。
 飄々としたあの青年に特定の女性がいるというのは意外ではある。
「それは歌舞伎町の健康会館ビルの?」
「ソープの奥にあるバーで、殺し屋って看板出してんですが、これが本当にいい仕事をするヤツで……。イロも頭のキレる女で今じゃ店持ってんですが」
「その女性に会う事はできますか?」
 清史郎の言葉に児玉が頷く。
「二丁目のアガペイズってクラブでママやってます。児玉からと言えば分かるようにしておきますんで」
 清史郎は頬が緩みそうになるのを堪える。
 遂に証拠らしい証拠が、想像を超える大仕掛けをしている人物が浮かび上がって来たのだ。
 ――それにしても円山が絡んでいるとはな――
 清史郎は円山との奇縁を感じずには居られなかった。
  新宿二丁目はセクシャルマイノリティの町として知られている。
 途中で健と合流した清史郎は児玉から教えられたクラブに向かう。
 アガペイズは幾つものバーの入った雑居ビルにあった。
「ジョーク、こういうトコってガチムチのオネェが居んだろ? 俺怖えぇって」
 健が腰の引けた様子で言う。
「それ偏見だし。それに円山のイロって言ってたって事は健司くんの彼女って事でしょ?」
 加奈が軽く叱るようにして言う。
「アイツホモだったのかよ……」
 健がげっそりしたような表情を浮かべる。
「差別用語。それに、児玉が女だって言ってたって事は性別は女性って事でしょ?」
 相手にするのも面倒だと言いたげに加奈が店のドアを潜る。
「いらっしゃい」
 八脚のスツールの並ぶ小さなバーのカウンターの中には、妖艶とでも評されそうな男性とも女性ともつかない人物がいる。
「初めまして。私は三浦探偵事務所の三浦清史郎と言います」
「聞いた事はありますよ。アガペイズの赤城と申します。何か飲まれますか?」
 赤城が艶やかな笑みを浮かべる。髪は男性のように短く刈り込んでいるが咽仏が無い。
 勝手に判断する事はできないが、女性から男性に性転換したという事だろうか。
「いえ、車で来ているもので。一点伺いたい事があって来させて頂きました」
「電話の話でしょう? あれは友人にいたずら電話をかけて欲しいと言われてやった事ですよ」
「円山くんですね? 差支えなければどういった関係か伺えますか?」
「大学時代の同級生です。卒業した後、しばらく一緒に暮らしていた事がありました」
 グラスを磨きながら赤城が言う。
「立ち入った質問になるかもしれませんが、その……同棲ですか?」
「同居という方が正しいでしょうね」
 加奈の言葉に赤城が答える。
「あんた男なのか? 女なんか? どっちなんだ?」
 健が落ち着かない様子で言う。
「どちらでも良いでしょう。女性的な姿をする事に抵抗がありますし、好きになるのも女性です。しかし男性になりたいという訳ではないのですよ」
 慣れた様子で赤城が答える。
「レズなのに円山と住んでたのか?」
「ええ。ですから恋愛関係も肉体関係もありません」
 動じた風もなく赤城が健に答える。
「失礼な質問ばかりですみません。今でも円山くんとは連絡を取っているんですか?」
「彼は常連ですし、大切な友人ですから」
 赤城が加奈ににっこりと笑みを向ける。
「いたずら電話をして欲しいというのは一体どういう話なのですか?」
 清史郎の言葉に赤城が悪童のよぅな笑みを浮かべる。
「健司が死体が落ちているから警察に教えてやれと言ったのです。でも、それは殺された死体ではないから事件にはならない、むしろ人助けだという事でした」
「死体が落ちているという言葉を不思議には思わなかったのですか?」
「この年齢で店を構えている。それだけ世知辛い生き方はしているのです。路肩に包丁の刺さった人が転がっているくらいでは驚きませんよ」
 相変わらずの笑みで赤城が言う。確かに温室育ちでも無い限り死体で驚くという事は無いだろう。
「円山くんにわざわざ通報しなくてはならない理由があった、という事ですか?」
「私は人助けの悪戯だとしか聞かされていません。お力にはなれません」
 赤城はこれ以上の事を本当に知らないのだろう。
「友情っていいですね」
 加奈の言葉に赤城が本物とも言える穏やかな笑みを見せた。
  歌舞伎町の『殺し屋』には本日休業の看板が下げられていた。
 清史郎は以前に見たセキュリティから、ピッキングでの潜入を行わなかった。
「円山が殺した事を赤城って女に通報させたって話だろ?」
 事務所に戻った所でヒーターのスイッチを入れながら健が言う。
「もしそうだとしたら、何でこれまで人を殺した時にそれをしてこなかったのよ。それに大野正道の偽物は自殺に見せかけられていたけど、他殺の痕跡も無かったのよ」
 呆れたように加奈が答える。
「だが、発見してもらわなければならなかった死体であった事も確かだ。偽の遺書と小切手が無ければ内藤議員が疑惑を持たれる事も警察に捕まる事も無かった」
「殺し屋の円山くんが、殺しをせずに内藤議員を陥れる策略を練ったって事? でも内藤議員は怪しい所は多いけど自殺したし、円山くんが最初から内藤議員の命を狙っていたらこんな回りくどい真似はしないんじゃない?」
 加奈が経緯を確認するようにして言う。
「大野の一件が円山の仕事だとすると不可解な点が多すぎる。それに内藤議員は警察署内で服毒自殺を図っている。幾ら円山でも警察署に入って殺しをするなんてリスクは負わないだろう。警察署内は円山が手を出せない場所という事も意味しているんだぞ?」
 円山の事をよく知っているという訳ではないが、警察に手を回して殺させるというからめ手を使うようには思えない。
 そもそも警察の内部には円山の協力者などいないはずだ。
 そこまで考えた時、清史郎の脳裏に閃くものがあった。
 ――依頼主が警察で、警察署に放り込む事が依頼だったなら――
 小川は多額の金を請求されて遂には殺された。
 その金は与党に流れ、市長の力の源の一つとなっている。
 その市長の���職と市長が推進するカジノ施設誘致を徹底的に弾劾していたのが内藤市議だった。
 仮に内藤市議が警察の汚職の証拠を掴みかけていたなら。
 ――円山に殺させるより自分たちの手でその死を確認したかった――
 考えた所で清史郎は背筋に悪寒が走るのを感じる。
 これは警察と市長の巨大な組織ぐるみの犯行なのでは無いだろうか。
 だとすれば汚職は警察だけではない、新庄市の行政のありとあらゆる部分が汚染されているという事にもなるだろう。
「ジョーカー、難しい顔してどうしたの?」
「ジョーク、知恵熱じゃねぇのか?」
「仮に、円山が警察が自分で内藤を殺したいから、警察署に放り込まれるように手筈を整えてくれと言われていたら?」
 清史郎が言うと二人が二様の表情を浮かべる。
「でも警察って冤罪を起こそうと思えば幾らでも起こせるし、起訴したら99%勝利するでしょ? どうして円山くんに依頼したの?」
 加奈の言葉に清史郎は腕を組む。
 確かに警察が円山に依頼するとしたら単純に内藤市議暗殺だろう。
 警察としては下手に拘留して、裁判で無罪が立証される事の方が恐ろしいはずなのだ。
 現に内藤市議が死んだ今、妻が警察に強い慶田盛弁護士事務所に駆け込んでいるのだ。
 裁判になれば警察には万が一にも勝算は無かったはずだ。
「円山に直接聞ければラッキーだったのにな」
 健が他人事のように言うが、この謎を解くには確かに円山に聞くのが一番だろう。
「円山が関わっている事が分かっただけでも大きな前進じゃないか。それに、これ以上この事を考えていた所で新しい証拠が出てくる訳じゃない」
 清史郎は言って加奈の淹れたコーヒーを飲む。
――そういえば内藤議員の通夜があると言っていたな――
 通夜の後なら、家族の同意があれば内藤義孝の死体を検分できるかも知れない。
 そう考えた瞬間、清史郎はぞわりとするものを感じる。
 ――内藤市議の死体が偽物だったとしたら――
「残業代は出ないが晩飯は出るかも知れん。お前ら今晩空いているか?」
 清史郎は健と加奈に向かって訊ねる。
「今まで散々やって来てるじゃない」
 加奈が呆れたような口調で言う。
「何か事件に進展があんのか?」
 ヒーターで温まった健は背もたれに寄りかかってPCの画面を眺めている。
「通夜があるという事は、夫人が死体を引き取ったという事だろう? 小川さんの方は警察が調査中という事になっているが、こっちは一足先に帰ってくるという事だ」
「つまり、お通夜でみんなが帰った後に死体を検分するって訳ね」
 加奈が清史郎の話を先取りする。
「仮にだが、焼死体であっても何か薬品を服用したなら口の中に残っているかも知れないし、他にも証拠が見つかるかも知れない」
「例えばどんな?」
 健が訊いてくる。
「仮にもし、内藤正孝の死体も大野正道と同じで偽装だったら? 歯の治療痕で違いが分かるだろうし、持ち物にも違いがあるかも知れない」
「内藤議員の死体もフェイクかも知れないって?」
 加奈が声を上げる。
「俺たちだって死体のフェイクまではしなかったが、峰山知事を一度殺しかけただろう? 変な話だが、大野正道の死体の偽物がタンクローリー火災で焼かれたなら、火葬したという言葉に嘘は無かったという事になるしな」
 我ながら言葉遊びのようだと思いながら清史郎はため息をつく。
「じゃあタンクローリーで焼けたのは自殺した死体の野郎で、内藤のオッサンは生きてるかも知れねぇってのか?」
 健が驚いた様子で言う。
「内藤が生きているか死んでいるか、死体遺棄の死体が内藤に偽装されてタンクローリーの事故で焼かれたのかも分からない。まずはどれ一つでもいい、死体を検分しない事には始まらないんだ」
「内藤さんの服毒自殺未遂って、病院で調査した訳でも無いのにそもそも警察はどうして断定できたのかな?」
 加奈の問いになら清史郎にも答える事ができる。
「警察はピルケースと死にそうな内藤議員を見て服毒死と早合点した。恐らくそれらしい症状が出ていたんだろう。それで救急車を呼んだ」
「そういう話だったわね」
 加奈がファイルを確認する。
「その時服用したのがテトロドキシンだった場合……民間人が手にできる仮死状態にできる物質がそれくらいしか無かったんだが……致死量以下なら苦しむだけで死ぬ事は無い。致死量は1mgから2mg」
「こっちでも見たぜ。毎年二、三十人が中毒になってるけど一人死んでるか死んで無ぇかだ」
 健がPCで情報を検索する。
「明確な解毒方法も無いって書いてあるわね」
 加奈がPCをのぞき込みながら言う。
「つまり、私たちと峰山知事の時と同様、殺人者と被害者の間で合意ができていた場合、致死量より少ない量で自殺を装った可能性はある。健、一一九の記録を調べられるか?」
「救急車はタンクローリーに突っ込んだんだろ?」
 健が不思議そうに言いながらもPCを操作する。
「通話記録まで引っ張れとは言わないが、可能性として救急車が警察に着いた時、搬出済だったらどうなる? 情報の錯綜で別の救急車が動いたと考えて帰る可能性もあるだろう?」
 清史郎は可能性を考えながら言う。
 一回死体が偽装されたなら、二度目という事もあり得る。
 救急車が跡形も無い程死体ごと焼け落ちたのに、タンクローリーの運転手が壁に激突した時の骨折だけだというのも解せない話だ。
「ジョーク、ヒットだ! 救急車がケーサツに行ったけどケーサツは救急車で運ばれた後だったって」
「健、そんな情報どうやって調べてんのよ」
「警察も消防も総務省だろ? 警察を見れるんだから消防だって見れるに決まってるじゃねぇか」
 加奈の問いに健が当たり前のように答える。
「と、いう事はだ、警察は救急車が来たのを見て、良く確認もせずに内藤議員を乗せた可能性が高い訳だ」
「緊急性もあったかも知れないしね」
 その時の様子を想像しているらしい加奈が言う。
「警察は内藤議員が運ばれた後にやって来た救急車を見て、既に搬出済だと言った。その後救急車がタンクローリーに衝突して炎上した為、偽装だった可能性に思い当たった。と、するとだ」
 清史郎はペンで机を叩く。
「この事件は全て警察の希望的観測、もしくは円山の筋書きに基づいている可能性が高い」
「警察の希望的観測? 円山くんとグルだったって事?」
 加奈が訊き返す。
「大野正道の自殺体が出て内藤議員に汚職の可能性があった時、警察は小切手と免許証を確認しただけで内藤議員を警察に引っ張った訳だろう? 大野正道本人をきちんと確認せずに」
「確かに」
 加奈が顎に指を当てて言う。
「ピルケースがあって、議員が苦しみだした時服毒自殺だと考えたのも、常識的に考えれば何等かの既往症があって、その���の薬を飲んだと考えて然るべきだろう?」
「そりゃそうだ」
 健が納得したように言う。
「つまり、議員には後ろ暗い事があって、自殺でもしてくれればいいのにと思っていたから、状況を見てそう判断したんだろう? だが、そんな都合のいい話が世の中にそうそうある訳が無い。あるとすれば死を約束してくれる第三者がいたからだ」
「じゃあ、円山が毒を盛ったと早合点して、死体をよく確認しないで救急車に議員を乗せて、救急車も焼け落ちてくれて……安心してる?」
 加奈が目を細める。
「可能性に過ぎないが高速道路の上で焼け落ちているんじゃ証拠も残っていないだろうし、私たち民間人が証拠を確認する事もできないだろう。そして内藤議員も本人か判別ができないほどに焼け焦げてくれたのだとしたら」
「警察は円山くんに内藤議員暗殺を依頼して、それが完璧すぎるほどに上手く行った……」
 加奈が新しくコーヒーを淹れながら言う。
「て、事は警察は円山に依頼して物事が都合良く運んでるからそれでいいって考えて何の裏付けもして無かったって事か?」
 健が唖然とした口調で言う。
「内藤議員って市長の汚職を追及してたのよね。カジノ誘致や何かでも」
 加奈が三人のデスクにコーヒーを配る。
「小川さんがパンの木の新規出店で小島に恐喝された時期も、知事選や市長選の時期と一致している」
 清史郎は頭を整理しながら言う。
 小島は末端に過ぎないにしろ、警察の組織ぐるみの犯行を市長が知った上で庇っていたなら、内藤議員のスキャンダルを見つけるなり、殺すなりを警察関係者に忖度させてもおかしくないだろう。
 ――その汚れ仕事を請け負ったのか……円山――
 ラットマン事件の時、殺さないという条件で見事に依頼を達成した男の笑顔が脳裏を過る。
「まずは内藤さんの死体の確認ね」
 加奈が言う。小川紀夫の事件との繋がりの可能性が見え始めたのだ。
 〈6〉
 「正孝さんに虫歯はありましたか?」
 深夜、棺桶を開いた清史郎は死体の口を開いて内藤夫人に訊ねる。
 死に装束に身を包んだ死体は完全と言って良い程に焼け焦げているが、歯や骨が焼け落ちる程ではない。
 頭皮は焼け落ちて所々骨が見えており、眼窩も完全に空洞になっている。
 事故はタンクローリーに救急車が衝突し、流れ出したガソリンに火花が引火したものであったはずだ。
 常識的に考えてガソリンのかかった死体に火がついたなら、体内まで焼け焦げるという事は考えにくい。
 更に現場は高速道路上であり、事故の直後に消防車が到着して消火活動を行っていたのだ。
 皮下脂肪に引火しているとは考えにくく、そう考えると判別が不可能になるほど焼け焦げるというのは不可解とも言える。
「主人は歯が丈夫な方でしたから」
 気丈な様子で夫人が答える。
「私は歯医者じゃないんだけどさ、この歯ってボロボロっぽいって言うか……」
 加奈が何とも言い難いといった様子で言う。
 熱で歯が損壊した可能性も考慮しているのだろう。
「喫煙は?」
「していません」
 清史郎がマグライトで照らした歯の裏にはニコチンがこびり付いている。
「歯の裏だけが真っ黒。治療痕以前の問題ね」
 清史郎の考えを理解したのか顔を顰めながら加奈が言う。
「結婚指輪は本物なんかな」
 健が死体の指を持ち上げて言う。
 ほとんど骨だけになった指に金色の指輪が引っかかっている。 
「裏には永遠の愛を誓うと彫ってある筈です」
 夫人の言葉を受けた清史郎は手袋を嵌めた手で失礼と言って指輪を外してみる。
 内側には『I am a magician』と彫られている。
「ジョーカー、何て彫ってあるの?」
 清史郎は加奈に金の指輪を渡す。
「私は魔術師だ……これってダイイングメッセージって言うか……」
「魔術師って……俺は死んでも生き返るって言いたかったとか?」
 健が微妙に的外れな推理をする。
「奥さんに自分は生きているって伝えたかったんでしょ!」
 加奈が健の頭を小突くが清史郎の考えはそれとも異なっている。
 ――これは円山からのメッセージじゃないのか――
 この事件では自分は誰も殺していないのだという。
「でも、主人がタンクローリーの事故に間接的にでも関わるなんて……」
 夫人が複雑な表情を浮かべる。本人のものでは無いとしても死体は出ているのだ。
「とにかく、ご主人には何者かに自分は死んだと思わせる必要があったんじゃないでしょうか?」
 清史郎は夫人に物事の良い側面をだけを伝えるようにして言う。
 死体損壊は犯罪だが、本人が死体が出る事自体を知らなかったという可能性もある。
「円山に命を狙われてたって事か?」
 健が腕組みをして言うと夫人が怪訝な表情を浮かべる。
 清史郎は大きく咳払いをして健の質問を遮る。
今の段階で、しかも職業殺し屋である円山の事を伝えるべきではないだろう。
「最近ご主人様が脅迫を受けていたというような事はありませんでしたか?」
「与党を追及する野党議員ですから暴言や脅迫は日常茶飯事でした。しかし、その程度で身を隠すような夫ではありません」
 加奈に答えて夫人が言う。
「ホントに殺されかければ隠れんじゃね? 相手は……」
 健が言う。
「本当に命が狙われたなら普通警察に言うでしょ……」
 加奈が健の言葉を遮る。
「命を狙っていたのが警察なら……最近商店街の人から警察に恐喝されているって相談ががあって……あの火災で無くなったパン屋さんの小川さん……」
 夫人が顔色を青くしながら息を飲む。 
 パンの木の小川はただ金の支払いを断っただけでは無かった。
 市長や警察を弾劾できる政治家に相談し、問題を解決しようとしていたのだ。
「ご主人は身を隠し、何か調査をしているのかも知れません。ここは何も知らなかったという風に葬儀を出されてはいかがですか」
 清史郎は提案する。内藤市議の行方は気がかりだが、死んだという事になれば命を狙われるという事も無いだろう。
 ――それが円山の真の狙いであるのなら――
「に、しても小川のオッサンに内藤のオッサンに、警察ってトコトン腐ってやがんな。円山より悪質じゃねぇのか?」
 健が吐き捨てるようにして言う。
「慶田盛が警察を起訴できるまで私たちで証拠を集めるんだ」
 清史郎は二人に向かって言う。
 ここから警察と三浦探偵事務所の戦いが始まるのだ。
 〈7〉
 「おはよーす」
 十二月二十五日。コーヒーの香りの漂う三浦探偵事務所に健が入ってくる。
「事件の最中だけど、今日ってクリスマスなんだよな」
 加奈の差し出したコーヒーに口をつけながら健が言う。
「だったら依頼主にクリスマスプレゼントをしないと」
 加奈が健に向かって言う。
「弾丸と指紋はまだ帰って来てねぇんだろ? 大学とかクリスマスで休みなんじゃねぇのか?」
 コーヒーをすすりながら健が言う。
「昨日の晩考えたんだが、健、小島の電話帳を調べられるか?」
「ああ。コーヒーで目が覚めたとこだしな。でも、中に証拠でもあるのか?」
「警察官同士なら電話帳に名前があっても不思議じゃない。だが、例のアプリならどうだ? 小島も警察の小島さんと記録されてた訳だろう?」
「そっか! 警察の、ってついてるのを調べれば恐喝して回ってる連中を炙り出せるって事か」
「警察官は普通個人の連絡先は教えないもんね」
 加奈が言って自分にする事は無いのかと目を向けてくる。
「慶田盛が令状を取って取り寄せた小島と日立工務店の通話記録がある。こっちの連絡先を確認しよう」
「電話番号しか無いのよね?」
 プリントアウトされた用紙の束を見て加奈が言う。
「こういう時の為にタウンページがあるんだ」
 清史郎は自分のPCを立ち上げながら言う。
「そっか。個人事業主とか会社だったらタウンページに乗せてるもんね」
 加奈もPCを立ち上げる。
「警察の、ってだけで五十人くらいいるぜ?」
 早くも検索が終わったのか健が声をかけてくる。
「その警察の電話帳を片っ端から引っこ抜いてくれ。そこにも個人事業主の名前なんかが登録されているはずだ」
「オッケー」
 健が再び高速でキーボードを叩き始める。
 清史郎は通話相手をタウンページで検索して行く。
 ほとんどは電話帳に記載が無いか個人名義だ。
「ジョーカー、私思うんだけど」
「何だ?」
 清史郎はもたもたとキーボードを叩きながら言う。
「小島が小川さんを標的にしたのってどうしてだろうって」
「儲かってるパン屋だからだろ」
 にべもなく健が言う。
「普通警察が乗り込んで麻薬があるって言ったとしても、被害者は裁判で戦うって言われるわよね? そう言えなかったって言うのは子供が持っていたって言われて前科がついて進学できなくなるって言われたからじゃないかって思って」
 加奈の着眼点はいい。そう考えるならタウンページで虱潰しに探すより効率的な方法が見つかるかも知れない。
「進学塾の先生とかが記録にあればある程度裕福な子供をピックアップできるんじゃないかな?」
「なるほどな……でも、進学塾って言っても雲を掴むような話だぞ?」
 清史郎は市内にある進学塾を考えながら言う。
 駅前だけでも四件、市内全体では何件あるのか見当もつかない。
 更に進学塾そのものではなく、塾の講師が情報を流していたなら個人名義の端末になる。
 そうなれば数百人を検索し、その中から探し出さなければならないだろう。
「ジョーク、電話帳引っこ抜いてるけどさ、小川さんもケータイの方で登録されてただろ? 調べても個人の名義が分かるだけで会社やってるかどうかとか分からないぜ」
 健の言葉に清史郎は頭をフル回転させる。
「なら、その五十人だかの警察官が共通して持っている個人の電話番号を調べられるか?」
「やってみる」
 健がいつものようにリズミカルにキーボードを叩く。
「共通している電話番号があればそれがボスの可能性があるって事よね」
 加奈の言葉に清史郎は頷く。
「新庄コンサルタント……これもLLCだ」
 早速検索したらしい健が言う。
「登記は誰になってる?」
「茨木洋二。電話番号はっと……」
 慣れて来たのか健が登記簿の電話番号を検索する。
「電話の登録は茨木恵美子。同じ住所のもう一つの回線が茨木義男」
「茨木義男……戸籍を調べてみてくれ」
「いいけど何で?」
「名前と生年月日でクレジット会社に検索をかけて欲しいんだ。クレジットの審査には職業が必要だろう?」
「なるほど」
 健が再びPCに没頭する。
「茨木義男……漢字が合ってればだけど県のHPに乗ってるよ」
 加奈が言う。
「本当か?」
 清史郎が言うと加奈が画面を見せる。
「県警本部長」
 清史郎は唖然とした思いで画面を眺める。
 市警どころか県警ぐるみの組織犯罪だったのだ。
 釣り上げた魚が大きいなどという次元ではない。
「健、調べものの最中悪い」
「いや、正体割れたならもういっかと思ってたし」
「新庄コンサルタントの電話帳と県警のデータベースを浚ってみてくれ」
「お、おう」
 言いながら健が検索を開始する。
「普通県警の本部長っていうのはキャリアで警視庁の腰かけに過ぎないんだ。任期は短ければ二年くらいだし、小川さんが四年前から恐喝されていたって考えると組織が既に警察の中に出来上がっていると考えた方がいい」
 清史郎は冷めたコーヒーを口にしながら言う。
「新庄コンサルタントの顧問ってのが公安部部長の浦部忠利警部ってなってる。後は芋づるで公安部から生活安全課までえらい人数だ」
 健が画面を表示して言う。
 県警本部長は腰かけでも、県警公安部は警視庁にそう簡単に移動できない。
 ――そして公安部は経理に金の使途を申告せずに済む部署だ――
 警察組織は基本的に役所と同じで爪楊枝一本まで経費として申告しなくてはならない。
 しかし、公安部は政府の内調と同じで金の使途が極秘となっており多額の使途不明金を出している。
 そもそも、公安部という部署そのものが何をしている部署であるのかが判然としない。
 近年ではテロ対策を謳っているが、仮に事件が起きて死者が出たなら捜査するのは刑事課になるのが道理だ。
 行き過ぎたデモや迷惑行為があったなら対応するのは生活安全課だ。
 更に本当に暴動が発生して死人が多数出るような事になったなら、鎮圧するのは警備部だ。
 テロ対策と言いながら公安は事件が発生してもやる事が何もないのだ。
 その一方で歴代警視総監は公安部から輩出されており、生活安全課や刑事課の警官が警視総監になる事は無い。
 一般の警察官の稼働率は高く自殺者も後を絶たないと言うのに、キャリアである公安部は高い地位を独占して湯水のように金を使い、公務員の特権階級として君臨しているのだ。
「浦部の電話帳に進学塾の講師か何かの連絡先はあるか?」
 清史郎が言うと健がPCを叩いて検索する。
「それらしいのは何件かあるぜ。塾長って書いてあるのもあるしな」 
「つまり、浦部が裏で糸を引いていて、本部長に甘い汁を吸わせておいて自分はそこから欲しいだけの金を着服しているって事か。浦部自身は会社は持っていなかったのか?」
「多分。浦部って野郎の住所じゃ会社はヒットしねぇ」
 健が吐き捨てるようにして言う。
 学習塾の講師や塾長からターゲットの情報を集める一方で、組織の中核にありながら、いざ捜査が及んだ時には自分だけは助かる算段をつけている訳だ。
「小川さんは内藤議員に相談して小島に殺された末端の被害者の一人で、その内藤市議を殺そうとしたのは浦部だったって事?」
 加奈が状況を俯瞰して言う。
 確かに円山の動きと内藤正孝殺人未遂疑惑を中心に考えるなら、浦部が暗殺を依頼したという可能性が最有力だ。
 だが、幾ら確実を期したいと言っても警察署内で自らターゲットの命を狙うだろうか。
 それをしたくないからこそ、円山に内藤市議の殺害を依頼したのではないだろうか。
 更に小川が小島に殺されて口封じがされた状態で、浦部が自発的に内藤を殺そうとしたとは考えにくい。
 内藤に一番消えて欲しいと考えていたのは、汚職とカジノ誘致で矢面に立たされている市長であろうからだ。
 仮に市長が内藤を消して欲しいとほのめかせば、一気に浦部の心理的ハードルは下がる事になる。
 仮に殺せと言われなくても、忖度して行動する事は想像に難くない。
 そして邪魔者を全て排除し、カジノ誘致に成功すれば、与党の覚えがめでたくなり県警本部長を飛び越えて警視庁公安部のスーパーエリートになる事も夢ではないのだ。
「市長の秘書の通話記録と浦部の電話番号を照会できるか?」
「ジョークもたいがい無茶振りだよな」
 言いながら健が検索する。
「どうして市長の電話番号で照会しないの?���
「政治家はいざって時には全て部下がやった事です、って言うだろう?」
 清史郎が言うと加奈が納得した表情を浮かべる。
「あるある、通話記録! 何かもうダチみてぇ」
 健が声を上げる。
 浦部は県警本部長に金を掴ませる裏で、与党の市長に取り入って警視庁入りを目指していた野心家だったのだ。
「音声記録が残ってる訳じゃないんだよな」
 清史郎は腕を組んで考える。
 浦部は来ないとしても、内藤市議の葬儀に市長が来るだろうか。 
 葬式に来たとしても、そこで尻尾を出す事は無いだろう。
「全部が全部録音するようなデカいデータベースは無えって。でもシギント系の通話やメールの情報を収集するプログラムはあるぜ」
 健が当たり前のような顔で言う。
「シギント?」
 清史郎がオウム返しにすると健が見慣れないブラウザを立ち上げてキーボードを叩く。
「例えば市長、汚職、とか入力するだろ? そうするとそれに関連したサーバーのデータが丸ごと引っこ抜ける訳。個人のメールでもな」
「それって法的にアウトになるんじゃない?」
 PCに表示されていくデータを見た加奈が声を上げる。
「いや、国内では盗聴はサイバースペースの情報の閲覧も含めて合法化されてる。それを利用して脅迫をしたりすればそれは犯罪になるがな。見てもいいが口には出すなという事だ」
 清史郎は加奈に向かって言う。健はあらゆる情報を収集しているがそれ自体は罪には問われないのだ。
「このシステムはメールだけじゃなくて電話の情報も選択的に収集できるんだ。ジョーク、電話で普段話してて違和感を感じる事って無ぇか?」
「違和感?」
 清史郎は問い返す。突然の話に理解がついて行かない。
「通信会社には数千の音源があって、受話器の音声を信号にして送ってるんだ。だから、実際に聞いているのはPCのビープ音をグレードアップしたモンだと思ってくれりゃいい。声に対してドレミが割り振られたと思っても構わねぇ」
「でもそれだとみんな同じ声に聞こえるんじゃない?」
 加奈が健に訊ねる。
「普通そう考えるよな。でも機械は声の言葉じゃなくて音の周波数帯をデータにしてんだ。だから再現度は高くなる。だけど肝心なのは電話を聞く側の人間が、相手の声を先に聞いて記憶していて、脳がその人間の声だって錯覚しちまう事なんだ」
「じゃあ電話の声は偽物って事か?」
 清史郎は理解できる範囲で訊ねる。
「ああ。だから電話ってのは音声読み上げソフトやボーカロイドの高級品みたいなモンなんだ。で、音声は信号化されてるから、特定のキーワードを検索する事ができンだ」
「特定の電話の音声を録音するって事?」
 加奈が不安そうな口調で言う。自分のプライベートな通話が第三者に筒抜けになっていたらと考えたら落ち着かないだろう。
「だから、データを扱う側が市長だとか、汚職だとかってキーワードを入力しとけば、それを電話で話した人間がデータベースに登録されンだ。もちろんケータイはスクランブルがかかってっけど、そのスクランブル自体が既にデータベースの中にあンだ。俺みたいな人間が盗聴できなくても、周波数帯を管理してる行政の方には誰が何言ったかっつーデータは蓄積されてんだ。だから、メールも電話も同じって訳」
 健がシギントの画面を表示させながら言う。
 もっとも清史郎にはそれがシギントと呼ばれるものなのかどうかすら分からない。
「でも、生音を録音しようと思ったら通話をサーバーに落とさなきゃならねぇし、人間一人でも膨大な量になるから、盗聴やってんならシギントで個人を特定してから通話を録音するなり文字に起こさせるかしてんだろうな」
 健の言葉に清史郎は唖然とする事しかできない。
 もっとも、PCの画面にそれらしいものがあるのだからそうなのだろう。
「じゃあさ、これから浦部ってヤツのを録音してよ」
 加奈が健に向かって言う。確かに浦部の通話を録音できれば動かぬ証拠となるだろう。
「俺の技術じゃ覗くのが限界。つーかやってねー時点で分れよ」
 健は検索はできるがキーワードの設定や個人の特定までには踏み込めないという事なのだろう。
「使えないオタク」
 加奈が吐き捨てるようにして言う。
「だが、盗聴が裁判の証拠にならないというのも健の話で納得できる。一旦音声が電子化されれば、その瞬間から改ざん可能なデータに変わるって事だからな」
 清史郎は冷めたコーヒーを口にする。
「で、浦部はどうするの? 内藤市議だって生きてるか死んでるかも分からないんだし」
「円山を捕まえられれば一番なんだがな……市長の秘書を張り込むか」
 清史郎は言う。市長と秘書の双方を監視していれば、内藤暗殺の成功として必ず接触があるはずだ。
 その現場を証拠として収められれば、警察による商店主の恐喝も含めて警察の腐敗を根こそぎにできる。
 更に市長を殺人教唆で訴える事もできるだろう。
「この寒空で張り込みかよ」
「葬儀の当日だし今日会うとは限らないかもね。市長なら秘書がスケジュールをまとめてるんじゃない?」
 加奈の言葉を受けて健がPCのキーボードを叩き始める。
「今夜料亭で会食ってなってる。相手までは書いてねぇけど」
 健が予定表を画面に表示させる。
 こういう事ができる人物がいる事を考えると、物事を何でもデジタル化するのも考え物だろう。 
「じゃあ、料亭を張り込むか……だが、今日いきなり侵入してマイクを仕込む事はできんしなぁ」
 清史郎は考えながらも張り込み用レンタカーを借りる為に電話をかけた。
 〈8〉
 「あ、雪」
 冬空を見上げながら加奈が言う。
 内藤市議の葬儀には五百名が参列し、その中には市長の姿もあった。
 しかし、県警本部長と浦部の姿は無い。
 清史郎は加奈と健と共に喪服に混じって読経を聞きながら考える。
 この場の死体は内藤正孝のものではない。
 だが、仮に生きている内藤正孝を見つけたとしても、ただそれだけでは内藤が世の中を騒がせたというだけに終わってしまう。
 ――内藤市議の思考、円山の思考に立って考えるなら……――
 暗殺を教唆しながら嘆くフリをしている市長の背中など見ていても仕方ない。
 ――そもそも『殺し屋』円山は何故内藤市議を殺していないのか――
 ひょっとしたら殺しているかも知れないが、これまでの証拠の全てがそれを否定している。
 ――円山は殺し屋という職業に対して極めてプライドを持っている――
 殺すという契約を結んでいるなら迅速に、間違いなく殺していただろう。
 それがどうして別人の死体を使っているのか。
 天才殺人者円山が殺さない理由は一つ、警察が円山に対し不正な契約を迫ったからだろう。
 これは円山の市長と警察に対する報復なのだ。
 それを果たす方法は、内藤市議を自らの計画に引き入れる方法はただ一つ。
――市長、県警本部長、浦部、そして与党の汚職の現場を押さえる事だ――
清史郎の脳がスパークしたように回転し始める。
もし内藤市議が生きているのならどこにいるのか。
 円山はヤクザのように組織に属している訳ではない。清史郎のように人脈を持っている訳でもない。
 そして内藤が生きているとしても妻にさえその生存を隠しているという事は、内藤の人脈でも無いだろう。
 否、全ての人脈から外れながら、その渦中にいる人物がいるではないか。
「加奈、健、出るぞ」
 清史郎は読経の中席を立つ。
 どうして気付かなかったのだろう。
 ――骨の髄まで警察を憎んでいる人間がいるではないか――
「ジョーカー、どうしたの」
 加奈の問いには答えず、清史郎はビートルに乗り込む。
「ジョーク、どこに行くんだ?」
 ビートルのエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。
 この世界のどこにも盗聴から逃れられる場所は無いのかもしれない。
 だが、この閉鎖された車の中だけは精神的に安心できる。
「いたんだよ。第三の人物が」
 清史郎は住宅街の焼け落ちたパンの木にほど近い小川紀夫の自宅の前に車を停める。
「ここって……小川さんの家?」
 一昔前の建売住宅を見て加奈が訊ねる。
「円山は警察に何等かの方法で内藤殺しを強要された。だが、円山は報酬の無い殺しは決してしない。そこで報復の方法を考えた」
 清史郎はエンジンを止めて息を吐く。
「大野正道に偽装した死体をどこで入手したのかは不明だ。病院に忍び込んで無縁仏を拾って来たのかも知れない。警察が喜ぶ形で内藤の死体を作り、警察が内藤殺しを依頼した証拠を入手しようと考え、内藤に接触した」
 清史郎の推理に加奈と健が驚いたような表情を浮かべる。
「折しも内藤は市長と対決しており、そんな最中小川から生活相談を受けて弾劾の決意を固めていた。しかし、小川は小島に殺されてしまった」
 清史郎は一旦言葉を切る。
「円山は当初の計画ではアガペイズか赤城の家に内藤をかくまうつもりだっただろう。だが、内藤にはより確実な場所があった」
「それが……小川のオッサンの家か……」
 健がしみじみとした口調で言う。
「小川さんの奥さんはどうして三浦探偵事務所に仕事を依頼して来た? ウチは普段は慶田盛の事務所を経由して冤罪を扱っている事務所だ。商店街の店ならまだしもパンの木は商店街の店じゃない。一体誰にウチを紹介されたんだ?」
「まさか……円山?」
 加奈が信じられないとでも言うかのように口にする。
「そうだ。探偵事務所が正規の手続きで小川さんの死を他殺だと証明する事。それが警察の犯罪を暴く足掛���りになると考えたんだ。そして大野正道と内藤正孝の死体が本物ではない事を証明する事もできると。そうすれば円山の罪は死体損壊だけになる」
「でもよ、内藤のオッサンはどうやってケジメつけんだ?」
 健が小川宅を凝視しながら言う。
「小川さんの相談記録と三浦探偵事務所の証拠で小島隼人を間違いなく訴える事ができる。だが小島は浦部のネットワークの中では末端に過ぎない。そこで浦部が内藤を殺すという筋書きを考えた。内藤は円山と策を練り警察署内で毒を服用して仮死状態になる事を考えた。仮死状態になった内藤を運び出したのは円山だ。恐らくワゴンを改造して救急車のように見せかけ、大野正道の家族の演技と葬儀をさせていた大学の映画サークルか何かのエキストラを使って救急士も用意した。そして偽の死体を乗せたまま何らかの細工をしたタンクローリーに追突した。恐らくすぐに爆発するようなものでは無かったのだろう、円山と内藤、エキストラは死体を残して脱出し、その上で予め焼いた死体を乗せていた救急車に火を放った」
「それで死体が別人だった訳ね。だから……指輪に魔術師と彫ったんだ。あれは私たちに向けたメッセージだったんだ」
 加奈が納得した様子で言う。
「そうだ。そして今、私たちはここにいる」
「でもよ、その後の筋書きはどうなんだ? 浦部が円山に殺しを依頼したんだろ?」
 健の言葉に清史郎は頷く。今回の事件は全てがこの瞬間の為に用意されていたと言っても過言ではない。
「今日、市長と県警本部長、浦部は料亭で会食する。この情報���円山が俺たちより先に入手していたら?」
 清史郎の言葉に健が唖然とした表情を浮かべる。
「盗聴や盗撮は決定的な証拠にならない。だが、現場を押さえてしまえば話は別だ」
「それには料亭に入らないといけないし、何か形に残る記録も必要よね?」
 加奈が顎に指を当てる。
「恐らくだが、今の私に必要なのはもう一度ジョーカーになる事だろう」
 清史郎はスマートフォンを取り出すと慶田盛弁護士事務所をコールする。
 ジョーカーには裁判所の令状を取り付ける事のできる力強い味方が存在するのだ。 
  
 〈9〉
  「メリークリスマス。もう少し早く来てくれると思っていましたよ」
 円山が朗らかな笑みを浮かべて言う。
 小川宅の質素なリビングのテーブルを囲むように円山と内藤が座っていた。
 方や正義の政治家、方や完全無欠の殺し屋。
 奇妙な組み合わせだが、険悪な雰囲気といった様子ではない。
「クリスマスはいいがこれは誰に向けたプレゼントなんだ?」 
 清史郎は円山に向かって言って腰かける。
「大団円というのも時には良いのではないでしょうか?」
 円山は飄々とした口調だ。 
「なんだよ、言ってる意味が全然分かんねーよ」
 健がラップトップを開きながら言う。
「まず第一に内藤市議は死を免れる。第二に内藤市議は市長を殺人教唆と汚職で追放できる。第三に市内に蔓延る警察の汚職ネットワークの被害者の弁護団が結成されて慶田盛弁護士は多額の弁護費用を入手できる。そして証拠の提出で三浦探偵事務所は一件当たり最低でも五十万円の収入になる。警察の被害に遭っていた事業主は確認できているだけで四七六、二億三千八百万円のボーナスになります。クリスマスのプレゼントとしては悪い方ではないでしょう」
 小川夫人の淹れた煎茶を口に運びながら円山が言う。
「浦部と市長の決定的な証拠はあるのか? 今の段階で俺たちに分かっているのはお前が自殺体を偽装した事と、タンクローリー火災に焼いた死体を置いて行った事だけだ」
 清史郎は右往左往して調べた結果を伝える。
「浦部には逃れられない証拠があります。内藤市議暗殺に当たり、スキャンダルをでっちあげて陥れると言って死体保管庫から死体を運び出させているんです」
 円山の言葉に清史郎は開いた口が閉じられなくなる。
 少なくとも職権濫用、死体損壊、死体遺棄が浦部の罪状になるのだ。
「僕の店の防犯カメラは書き換え不能なBDを使っています。他の顧客の映像と音声はプライベートなものが多いので証拠として提出できませんが、浦部が僕の店を荒らしまわって内藤市議を殺さなければ営業許可を取り上げると恫喝した記録は残っています」
 円山が内藤市議を殺さなかったのはそもそも殺人として仕事を請け負った訳では無かったからだった。
 円山はどこまで行っても『殺し屋』であって殺人鬼ではないという事だろう。
「内藤さんを殺すと脅し、死体を盗んだ所まではいい。それだけでは殺人未遂にまで追い込む事はできないだろう?」
 清史郎が言うと円山が楽しそうな笑顔を浮かべる。
「素人がフグからテトラヒドロドキシンなんて取り出せると思いますか? 以前警察が毒殺事件で押収した記録があったので浦部に保管庫から取って来させたんです。使い方は僕に一任という事でね。分量には気を使いました。僕も二度服用して半日ほど仮死状態になりました。それでおおよその安全量を割り出して市議に渡しました」
 清史郎は円山の言葉に驚きを隠す事ができない。
 しかし、事実だけを列挙して行くなら浦部が死体を損壊して無実の市議を捕らえ、証拠品保管庫から持ち出したテトラヒドロドキシンで暗殺を図ったという事になる。
「なるほどな……しかし、お前も無事ではないだろう?」
「僕が直接的に手を下したのは死体の損壊と市議に安全量の毒薬を渡した事だけです。数か月食らい込むか罰金という事になるでしょう」
「それだと浦部とその犯罪を知る取り巻き数名に犯罪が限られるだろう? 市長や警察のネットワークまで弾劾する事はできない」
 清史郎は円山の策略の穴を突く。
 小川を殺した与党と警察のネットワークはトカゲの尻尾切りで逃げ切るだろう。
「そこで、です。僕は今回の策で内藤市議を暗殺したという事で、市長の秘書兼公安のエージェントになりました。そして顔合わせとして今日料亭に行く事になっています」
 円山がバッグから書類の束を取り出す。 
「エージェントとして必要書類として取得した公安の裏帳簿です。商店から金を吸い上げ、公安のブラックボックスでマネーロンダリングして市長と与党の議連に渡しているサイン入りの証拠です。もちろん海苔弁当なんてありません」
 清史郎は驚きを隠せないままに公安の裏帳簿を受け取る。
 内藤市議も目を通しているだろうが、慶田盛が見れば凄まじい数の犯罪を洗い出せるに違いない。
「円山くん、今日料亭で市長なんかと会うんでしょ? あなたも一味という事にはならないの?」
 加奈の質問に円山が内藤に顔を向ける。
「ここの円山君は警察に私を殺せという無理難題を迫られ、私の事務所に助けを求めたんだ。そこで私は仕事に支障が出る事を覚悟で互いの身を守る為に円山君におとり調査を依頼したんだ」
 内藤市議が公式見解の部分を述べる。
 確かにそれだけ聞けば円山と内藤の協力関係は完璧であり、実際に汚職の証拠も手に入り、殺人を強要するBDと死体と毒薬の準備も手に入っているのだから警察はぐうの音も出ないだろう。
「これでは私の出る幕が無いな」
 清史郎は目の前の魔術師に向かって言う。
「それがそうでもないんですよ。このままだと僕は警察の一員として一緒に起訴されてしまう事になるんです。今の所金は受け取っていませんし、何らかの契約関係はありませんが、市長の秘書として雇用され、公安のエージェントという事になれば部外者という訳には行きません」
「そこで三浦さん、あなたに丁度いいタイミングで料亭に突入して頂きたい」
 峰山知事の関係で裏の顔を知っているのか、内藤が真摯な表情で言う。
「つまり吐かせるだけ吐かせて円山くんを逃がせと?」
「人助けに加えて二億円を超える報酬ですよ」
 円山が悪童のような笑みを浮かべて言う。
「そう簡単に言うがな、俺は銃なんて持っていないし、この先も持つつもりは無い。下準備というのが必要なんだ」
 清史郎は円山に向かって言う。ジョーカーを一度演じる為には最低でも二日は見積もらなくてはならないのだ。
「僕がバッグに火薬を仕込んで行きます。それだけでは不足ですか?」
「SPと戦って俺が勝てると思うのか? それに市長のSPなら本物の銃を持っていたとしても不思議じゃない」
 清史郎は憮然として言う。ジョーカーは神出鬼没だから相手を翻弄できるのであって、まともに正面から戦って勝てるような存在ではないのだ。
「私はこの通り議会に戻るまでは身動きできません。無理難題を言っているのは承知です。ですが円山君は私を助け、市民を守る為に充分すぎる程に働いてくれました」
 内藤に頭を下げられた清史郎は苦い表情を浮かべる。
 円山はこうなる事まで計算してこれを仕組んでいるとしか思えない。
 だが、ジョーカーも円山に株を奪われてばかりという訳には行かない。
「言っておくが失敗してもそれは俺のせいじゃない。俺がオッサンだという事を忘れて作戦を立てたお前のせいだからな」
 清史郎が言うと円山が笑顔を浮かべた。
「それだけ気が若ければ大丈夫ですよ」
 清史郎は円山の差し出した手を握る。
 ――だが市長を追い出し、汚職で与党を議会から追放できればカジノなど夢のまた夢になるか……――
 そうであるとするならこれがジョーカーとしての仕事である事に疑いの余地は無かった。
  〈10〉
   料亭は矢沢組も本拠を構える新庄市の山の手の高級住宅街に存在している。
 一軒一軒の家がゴルフのホールのように広く、それぞれが厳重なセキュリティに守られている。
 清史郎は事務所で地図を見ながら考える。
 料亭は表が六メートル道路、裏は四メートル道路に面している。
 周囲は高さ三メートルの塀で囲われており、至る所に監視カメラと赤外線センサーが取り付けられている。
 不法侵入は仕方ないとしても、なるべく犯罪は侵さずにおきたい所ではある。
 円山の事前情報により、会談の場は日本庭園の中庭に面した座敷だという話だ。
 道路側から侵入すれば表からでも裏からでも最も遠い位置という事になる。
 隣接している豪邸に侵入すれば最短距離を取る事ができるが脱出が問題になる。
「ジョーカー、突入できそう?」
 コーヒーを淹れた加奈が言う。
「単純に侵入するだけなら可能だが、円山と脱出となると話は容易ではなくなる」
 最大の問題点はそこだ。
 円山が念書にサインする寸前に乱入し、混乱に乗じて円山を逃がす。
 表には武装したSPと防弾仕様のベンツがあり、裏にもSPかそれに準ずる装備の人員が配置されている事だろう。
「何が一番の問題なの?」
 コーヒーを配りながら加奈が訊いてくる。 
「市長と警察の警備だ。武装もしているだろうしな。ヤクザは銃を持っていれば警察に捕まるが、SPは後から何とでもいい訳できる」
「じゃあSPをどうにかできればいいんだな」
 健は造作も無いとでもいった口調だ。
「あんた考えがあって言ってるんでしょうね」
 加奈が険しい表情を浮かべる。
「警察無線とか、トランシーバーとかって基本的にスクランブルがかかってねぇんだ。突然デカい音出せば混乱すんじゃね?」
「スクランブルというのは何だ?」
 清史郎が言うと健が得意そうな表情を浮かべる。
「暗号化通信。携帯電話にはスクランブルがかかってるけど、警察無線とかは特別な事が無ぇ限りスクランブルがかからねぇんだ。本来秘匿する必要のある通信じゃねぇからな」
 健はPCをハッキングするだけでは飽き足らないらしい。
 だが、大きな音で驚かすだけではなく別の使い方はできないだろうか?
 清史郎は頭をフル回転させる。
「健、秘匿通信ではないという事は割り込む事も可能という事か?」
「ああ。周波数を合わせりゃどうって事ねぇけど。ジョーク、例の支離滅裂な事言って混乱させんのか?」
 健の言葉に清史郎は頭を振る。
 それではジョーカー出現だと逆に警戒されてしまう事になる。
 時計が刻一刻と時を刻む。
 円山は秘書になる事と公安のエージェントとしての書類にサインをすれば、一巻の終わりだ。
 清史郎はSPの通信に的を絞って考える。
 ジョーカーが現れれば警戒される。ジョーカーが騒ぎを起こしても血も涙も無い方法で鎮圧に当たるだろう。
 ――なるほどな……――
 清史郎は脳裏で策を組み立てる。
 行き当たりばったりな部分はあるがやってやれない事は無い。
 不法侵入、器物損壊、ちゃんと返すとしても窃盗も加わるかも知れない。
 だが内藤市議が蘇る為にはそれなりの派手なパフォーマンスが必要なのだ。
  〈11〉
 
 ��表通り異常なし』
 SPの無線がピエロのマスクに紫色のトレンチコートの清史郎のイヤホンに響いてくる。
《……内藤を殺した手際は見事だった。まさかヤツも殺されるにしてもスキャンダルを着せられて死ぬとは思ってみなかっただろう》
 一方の円山のマイクからは市長の声が聞こえてくる。
 会話の全てはデジタル化されていないアナログ録音されており、健が海外の動画サイトにリアルタイムで映像と音声を配信している。
 外国人特派員協会はもう気付いているかも知れないが、政府与党が気付くにはしばらく時間がかかる筈だ。
 そしてリアルタイムである以上、この情報がねつ造されたものだと一蹴する事はできないのだ。
《これからは依頼ではなく、私の手足となって国益を損なう非国民を処理してもらいたい》
《市長の秘書になれるというのは最高の賛辞だと思え。国益の為とあれば貴様も殺しの腕の振るい甲斐があるだろう》 
 県警本部長茨木が追従するように言う。
《君の話をした所議連も乗り気でね。顧問として働いてもらいたいという事だ》
 驚いた事に市長と警察関係者だけでなく、与党県議連委員長の秘書までもが会食に参加していた。
 それだけ円山の腕が高く買われたという事だろう。
《勿体ないお言葉です》
 円山が大人しく答える。
 清史郎は料亭の隣の豪邸の垣根をよじ登る。
 料亭との間には二メートルほどの隙間があり、料亭の側の塀にはセンサーが張り巡らされている。
《公安の仕事を忘れてもらっては困るぞ? 貴様はあくまで公安から出向するという形を取るのだからな》
 酒で饒舌になっているらしい浦部の声が響く。
《承知しております。小島のような失態はおかしません》
《晴れの席でつまらぬ事を言うな。だが、殺した証拠の隠滅をせずに済むと考えればお前は充分に与党と警察とに貢献できるだろう》
 茨木が笑い声を立てる。
《に、しても邪魔者は全て汚名を着せて殺せるというのは中々に良いものだな。これこそ美しい国造りには欠かせないものだ。総理もさぞお喜びになるだろう》
 市長が機嫌良さそうに言う。
 宴会を開いている面々は全く警戒をしていないらしい。
 清史郎はマイクを口元に近づける。
「新庄市警警備部特殊作戦部隊だ。警視庁公安部特殊作戦部隊の通達により、これより市長警護任務に就く諸君に要人警護テロ対策緊急訓練を行う」
『そのような話は聞いていない』
 SPのリーダーの声が返ってくる。
《それでは円山くん、酔いが回ってしまう前にサインを済ませてしまおうか。これで君は公安の現地調達員であり、市長の秘書、更に議連の顧問でもある事になる。存分に働き給え》
 浦部が書類を取り出す音がする。
 ここで守秘義務事項の記載された書類に円山がサインすれば、円山の証言は背任行為で全て無効という事になってしまう。
「事前通達していては有事の訓練にはならん。各自、テロに備えて持ち場につけ」 
 清史郎が言うとSPの間に動揺が広がる。
 清史郎は用意しておいた脚立を倒して豪邸と料亭の塀の上に即席の橋をかける。
 料亭の警報が閑静な住宅街に鳴り響く。
 訓練が冗談では無いと理解したのかSPが銃を抜いて表門と裏門を固める。
 清史郎はグレネードランチャーを抜いて日本庭園に飛び降りる。
 警備は門に集中しており、邸内に警備の手は回っていない。
「汚れる市政よコンバンハ!」
 清史郎は日本庭園に面した料亭のガラスの襖を蹴破る。
 市長たちの顔の上に驚愕が浮かぶ。
 清史郎が引き金を引くと轟音が響き、閃光が室内を支配する。
「リッチマンヒットマンポリスマン! おいらはクレイジィ、あんたらパーティ、シティはダーティ、アウトなジャッジィ! 下る鉄槌、落ちる雷、地震雷火事親父!」
 叫ぶように言いながら円山に目を向ける。
 円山が自分の署名の無い議連顧問と市長秘書の契約書、公安の契約書をポケットに押し込む。
「だっ! 誰か! 何をしておるか! 給料泥棒どもが!」
 混乱した様子の浦部が声を上げる。
「オダマリ、ポリリン、グッドマリッジ、ポリスとキラー、そうは問屋が棚卸し!」
 清史郎は重厚なテーブルを蹴倒す。
 円山が日本庭園に飛び出すのを見て更にもう一発花火を炸裂させる。
 SPの怒号がイヤホンに響く。
 清史郎が日本庭園に出ると、塀の上からロープが下りて来る。
「円山! 先に行け!」
 言う間にも襖を蹴破ってSPが部屋になだれ込んでくる。
 清史郎は牽制を兼ねてグレネードランチャーを構える。
 SPが淀みない動きで銃を構える。
「ジョーカー!」
 円山の声に振り向いた瞬間、凄まじい轟音と閃光が背後から襲い掛かった。
 あまりの音に耳が聞こえなくなる。
 これほどの音響と光はジョーカー時代からも経験していない。
 どこから仕入れたものか分からないが円山はスタングレネードを部屋に仕掛けていたらしい。
 清史郎が耳が聞こえないまま進む先で円山が器用にロープを上って行く。
 円山が上がるのを見て清史郎もロープに飛びつく。
 耳が聞こえない為に背後の様子は分からない清史郎は無我夢中でロープを上る。
 塀の上に渡した脚立の上には円山を逃がし、こちらもジョーカーに扮装した加奈の姿がある。
 振り向くと表門と裏門のSPの大半は邸内に突入したらしい。
「ジョーカー! 急いで!」
 清史郎は脚立の上を走って隣の家の庭に飛び降りる。
 予めピッキングしてあったフェラーリがアイドリングしている。
 清史郎がイヤホンを外すと、後部座席で健がPCのキーを叩く。
 瞬間、料亭の方からSPたちの悲鳴が響いてくる。
 大音響を聴かせるというものだったが、スタングレネードの直撃を食らっていたSPへの追い打ちはもちろん、屋外で警戒していたSPたちにとっても青天の霹靂だっただろう。
 後部座席の円山を確認し、助手席に加奈を乗せる。
 清史郎はステアリングを握ってアクセルを踏み込む。
 急加速したフェラーリが弾丸のように豪邸の門扉を突き破る。
 路上には二人のSPが残されているだけだ。
 フェラーリのヘッドライトをハイビームにして加速すると、SPが発砲しながらも進路から飛びのく。
 弾丸でフェラーリのフロントガラスが砕け、用をなさないと判断したらしい加奈が蹴破る。
 後ろから銃声が響き、フェラーリに衝撃が走る。
 清史郎は無我夢中でアクセルを踏み、ステアリングを回す。
 これだけの騒ぎを起こしたのだから警察が動き始めるのも時間の問題だろう。
「やれやれですね。とんだクリスマスです」
 円山が他人事のように言う。
「誰のせいだと思っているんだ」
 清史郎はフェラーリの加速を抑えるようにしながらステアリングを握り続けた。
 ――ジョーカーを演じるのはこれを最期にしたいもんだ―― 
  エピローグ 
    
『市長が県警及び市警の汚職を市民の通報を得て調査していた私の暗殺を、県警公安部の浦部警部に依頼していたのは事実ですね』
『記憶にございません』
『料亭で素面の状態で私の死に対し、県警本部長と浦部警部に直接感謝の言葉を述べていますね』
『記憶にございません』
 料亭での会食の動画が出回った当日、議会で市長を追及する内藤市議の姿がTVを席捲した。
 清史郎たちが撮影した料亭に入る場面の映像もあり、市長、県警本部長、浦部は殺人未遂と政治資金規正法から逃れる事はできないだろう。
「さて、我らが慶田盛弁護士はどう戦ってくれるかだな」
 十二月二十八日、清史郎は地方裁判所の大法廷を訪れている。
 慶田盛は内藤市議の依頼で百六十八名の警察官を恐喝、収賄、政治資金規正法、麻薬の違法所持で起訴する事となったが、まずは小島による小川紀夫殺人事件からだ。
「弾丸出たし、線状痕あったし、DNA鑑定もパスしたし大丈夫じゃね?」
 健が笑顔で言う。慶田盛が令状を取り警察署に停まっていた車両の調査を行い、小島の車のアクセルペダルとブレーキからも小川紀夫の血液が採取された。
「十二月二十日二十二時前後、新庄市でパンの木というパン屋を経営する小川紀夫氏が拳銃によって殺害されました。弾丸は九ミリフルメタルジャケットで警察に使用されているものと一致、線状痕も新庄市警が保有している正式拳銃と一致しました。現場に残された靴跡と同市警小島巡査部長の車に付着した血液のDNA、これは小川氏のものですが、これが一致しました。また、現場に残されていた灯油缶から小島巡査の指紋が検出されました。証拠を提出します」
 慶田盛が裁判長に証拠資料を提出する。
「被告、小島隼人は四年前に小川氏の息子敏夫君を麻薬所持の疑いで補導。しかし調書には残しておらず、妻の名義のペーパーカンパニーである日立工務店に二千万円を振り込ませています。さらに二年半後二千万円を振り込ませ、今回の市長選前、九月二日から再び小川氏に電話をかけるようになっていました。金銭授受と通話記録を証拠として提出します」
 慶田盛が証拠を提出する。今回の裁判は殺人であるため、こちらの恐喝は別件で再度起訴する事となる。
 慶田盛が着席し、小島隼人側の弁護士が立つ。
「精神鑑定により、小島隼人氏には責任能力が無い事が確認されました。証拠として精神鑑定書を提出します」
 弁護士が資料を提出するのを見た慶田盛が発言を求める。
「被告は長年に渡り警察署に勤務していていました。ストレステストで異常が見られた事はありません。資料を提出します」
 慶田盛が手際よく資料を提出する。
「異議あり! ストレステストはあくまで新庄市の公務員に一律に課されているものであり、専門家が分析したものではありません」
 被告弁護士が立ち上がる。
「異議を却下します」
「小島隼人には犯行当時責任能力がありました。これはアクセルペダルと現場に残されていた靴跡と合致する靴を現在保有していない、証拠隠滅を図った事からも明らかです」
「異議あり! 被告は当時極度のストレス下にあり、正常な判断ができる状態にはありませんでした」
「異議を却下します」
「弾丸は心臓の斜め上、大動脈を直撃。肋骨の間を抜け壁にめり込んでいました。充分な殺意があった。もしくは恫喝の最中であったと考えられます。ストレスを与えられる側ではなく与える側であった事は明白です」
「異議あり! 事件当時死亡した小川氏が小島巡査部長に襲い掛かった可能性があり、発砲は正当防衛であると考えられます」
「異議を却下します」
「仮に被害者である小川氏が声を上げるなどの事をしたとしても、小島被告は現場を立ち去るだけで充分だったはずです。死体の手に包丁などの凶器が無かった事からも正当防衛は成立しません」
「異議あり! 精神鑑定の結果から、被告は事件当夜精神が不安定な状態にありました。警邏中に事故に遭遇した事からも異常動作は明らかです」
「パトロールに個人所有の車に同僚と乗っていた事は服務規程違反に相当します。仮にパトロール中の事故であったとするならパトカーに乗っていたはずです」
「異議あり! 被告は精神が不安定な状態にあり、正常な判断ができる状態にありませんでした……」
 小島の弁護士が精神鑑定を盾に慶田盛の追及を躱し続ける。
「なぁジョーク、精神鑑定って面倒臭ぇのな。あの弁護士のオッサンも嘘つきでブタ箱に放り込めねぇのか?」
「一応医者が診断したんだろうしな。でも小島の場合、慶田盛の側で再鑑定すれば別の結果が出るだろう」
 清史郎は健に答える。
 精神鑑定が無ければ、本物の精神疾患の人が事故を起こした時、救いがたい結果を生む事になる。
「この先百六十八件裁判が続くんでしょ?」
「全件でウチが調査資料を出してるんだ。当分仕事をしないでも食って行けるだろ」
 同じ資料だとしても、仮に一件三十万円として単純に五千四十万円の収入になる。
 三浦探偵事務所としては桁外れのボーナスだ。
「そうも言ってられないでしょ? 年収が八百万を超えたら所得税は三七%になるんだから」
 加奈が厳しい口調で言う。
 三浦探偵事務所の金庫番は税理士を必要としないようだ。
「とりあえず裁判は慶田盛に任せるしか無いだろう」
 清史郎は席を立つ。
 傍聴を続けていても判決の結果を左右できる訳ではないのだ。
 清史郎たちが廊下に出ると小川夫人と息子たちが姿を現す。
「先生、この度はありがとうございました。これで主人も浮かばれると思います」
「それは判決が出てから聞かせて下さい。我々は我々にできる事をやっただけですから」
 清史郎は笑みで答えて背を向ける。
 裁判所を出た清史郎は健と加奈をビートルに乗せる。
 エンジンをかけてラジオのスイッチを入れる。
『……一連の大規模汚職事件を受け市長が辞任を表明した事により、市長選挙が行われる見通しとなり、争点は与党市長の汚職と与党が誘致を推しているカジノ施設の是非を問うものとなるでしょう。世論調査では現在新庄市民の八割が野党を支持しており、これを受けて与党は急遽国会を閉会して総理を筆頭とする閣僚が支持を訴える為に新庄市入りをする動きを見せています……』
 今更与党が大騒ぎしても、今回の事件があった後ではもはや与党に投票しようという住民はほとんどいないだろう。
 ジョーカーが出るまでもなく、カジノ施設誘致は完全に消え、市民が憩える公園が町の真ん中に誕生するだろう。 
「ジョーカー、市長も野党になれば……」
「なるさ。それで新しい新庄市が生まれるんだ」
「勝ったんだな、俺たち」
 清史郎はアクセルを踏み込む。
 紆余曲折はあったがジョーカーは新庄市を守る戦いに勝利を手にしたのだ。
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【小説】JOKER 第二部ジョーカーvsラットマン
第一章 異邦人
 〈1〉
   慶田盛探偵事務所所長慶田盛敦は、たった一人の事務員兼秘書三島陽菜と仕出し弁当で昼食を取っていた。
 応接セットはそれなりのものを使っているが、職員の机は開業した時のまま、譲り受けたスチール机と華奢な椅子だけだ。
「所長、お昼が終わったら相談一件、二時半から地裁掛け持ちですよ~」
 呑気な口調で陽菜が言う。
 陽菜は敦より二十歳ほど年下の娘のような女性だ。
 元々長年に渡り陽菜の母親が事務と秘書をやっていたのだが、失業中の娘をどうにかしてほしいというので採用したのだ。
「相談は日本人ではないって話だったね」
「はい、日本語があまり上手では無かったですし」
「友人が殺人事件の容疑者にされたと」
 つたない日本語と慣れない事務では詳細は望めない。
 殺人事件の容疑者という事で早くも脳裏に三浦探偵事務所への連絡が浮かんでいる。
 日本では立件されたが最後99%が有罪となる。
 それを嫌がらせのように押し下げようとしているのが、慶田盛弁護士事務所と三浦探偵事務所だ。
「殺人事件って本当に多いですよね~。どうして年間百件に収まるのかな?」
「それを知った所で僕らの仕事が減る訳ではないよ」
 言って慶田盛は弁当を食べ終わって、簡素なシンクで軽く洗って事務所の前に弁当箱を出す。
 そこで薄暗い階段を上ってくる浅黒い肌の青年と目が合った。
「時間早かったですか?」
 青年の言葉に敦は頭を振る。
「いや。僕が事務所にいる時間ならウェルカムだよ」
 慶田盛はドアを開いて青年を招き入れる。
 陽菜も弁当箱を洗っている所だ。
 青年を応接セットのソファーに座らせると陽菜が湯飲みを差し出す。
「あの、これ、お茶ですけど、コーヒーや紅茶の方が良かったですか? 普段は何を飲んでるんですか?」
「気にしない、いいよ。お茶飲める。ケダモノセンセイ?」
 青年が顔を向けてくる。名前が一字違うだけで犯罪者のようになるのはなぜだろう。
「ケダモ、リ。ね。ケダモノだと犯罪者になってしまうからね」
 慶田盛は冗談めかして言う。
「日本語難しいね。やっぱり分かってきたよ」
 青年がポケットからスマートフォンを取り出す。
 Google翻訳にした方が手っ取り早いと判断したのだろうか。
「センセイこれ見る」
 音量を絞ったスマートフォンの暗い映像の中で、人間の姿が揺らめいている。
 だが、暗いと思ったのは無数の黒い物体のせいだった。
 首から上はシャンプーハットを逆さにして守っているが、全裸の身体に無数のネズミが食らいついているのだ。
 映像の中の女性が声の限りに叫ぶが、ネズミは本能のままに肉を貪る。
 慶田盛は食べたばかりの昼食が逆流するのを感じる。
 仕事柄死体の写真は見慣れているが、死んでいく姿を見る事は稀だ。
「これが被害者なのか?」
 慶田盛の言葉に青年が頭を振る。
「ニャンの妹。ニャンはヤクザを殺したと言われて警察に捕まった」
「どういう事かな……この映像は被害者ではないと?」
 こちらの言う事はちゃんと分かるらしい。青年が首を縦に振る。
「フホウタイザイシャだけど、フホウタイザイシャじゃない。二百万円払って日本に勉強に来たよ」
 それを聞いて慶田盛はヤクザの外国人ビジネスを考える。
 発展途上国で日本で日本語と職業の勉強ができると言って人を集める。
 集めた人間を女性なら性風俗、男性なら肉体労働で強制的に働かせるという訳だ。
 しかも、金を払っているのに違法な形で就労している為に警察に訴える事もできない。
「ヤクザが殺されて、この映像を見つけた警察が僕たちがフクシュウしたんだと決めつけた。でも、家族や仲間がどこでどんな風に働かされているか、僕たちには分からないね」
「このスナッフビデオが出て来たから、ヤクザを殺したのは外国人だという話になった訳か」
「たぶん、そう」
 青年の言葉に慶田盛はため息をつく。
 いつもながら警察の短絡的な発想には驚かされる。
 映像の被害者の兄だから、ではなく、外国人だから、という理由が正解なのだろう。
 強制送還で母国の警察に引き渡してしまえば万事解決だ。
「状況は分かった。詳しいアリバイ何かは当事者のニャンさんに聞かないと分からないだろうね」
「ニャンはもっと訳が分かっていないね。ビデオも見てないと思うね」
「それは分からないだろうね。でも、弁護する為には本人と契約しなきゃならないんだ。それと、君の名前を聞けるかな」
 映像で驚いてしまったが、最初に聞くべきなのは相手の素性だった。
 慶田盛は待ち受ける裁判を思い身体を奮い立たせた。
  〈2〉
  「さみー。何でヒーター壊れてんだよ」
 屋内でダウンジャケットを着た健が、真夏の蠅のように両手をこすり合わせる。
「いきなり大金使ったら税務署に嗅ぎつけられるからでしょ」
 こちらもダウンベストを着た加奈が身体を丸めて言う。
 三浦探偵事務所は目下冬将軍と熾烈な戦いを繰り広げている。
 コートに身を包んだ清史郎は残念な思いで石油ファンヒーターを眺める。
 五年ほどしか使っておらず、特に壊れるような事もしていないのだが、十二月に入りいよいよという所でスイッチを入れた所全く反応しなかったのだ。
 ファンヒーターくらい買っても税務署は動かないだろうが、先の事を考えるとジョーカーとして稼いだ金はなるべく温存しておきたい。
「そもそもさ、何で調査費用が十万円とかなんだよ。一週間以上かかってんだからもっと取らねぇと割に合わねぇだろ」
「私一人の時はそれでもやれてたんだ」
 清史郎はため息をつく。健と加奈はよくやってくれているが、急に価格を上げたりしたら慶田盛探偵事務所が潰れてしまう。
「私、あんまり役に立ってないのかな」
「そりゃ、俺たち寒がってるだけだもんな」
「営業に行けとは言わないよ。仕事が増えてもこなせないんじゃ意味がない」
 清史郎は苦笑する。
 実際、健と加奈は充分に捜査の役に立っているし、依頼もこれまでにないほど順調にこなせている。
 ――問題は価格設定か――
 清史郎は今更ながらにどんぶり勘定の事務所の事を考える。
 商店街の好意が無かったら今頃廃業していてもおかしくないのだ。
 と、事務所の電話が着信を告げる。
 すかさず加奈が電話に応答する。
「はい、三浦探偵事務所でございます。はい……ああ、慶田盛さん?」
 声のトーンが余所行きのものから身内のものにトーンダウンする。
「……今から、いいですけど……二時半から地裁だから? ミンさんを置いていく?」
 加奈の通話を傍から聞いているだけではさっぱり意味が分からない。
「分かりました」
 言って受話器を置いた加奈が顔を向けてくる。
「ヤクザが不法滞在者を使ってスナッフビデオを作ってて、ヤクザが殺されたから犯人は不法滞在者だって事になって、ミンさんの友達のニャンさんが警察に捕まったんだって」
 要点をまとめた話だが、まとめられ過ぎていて話を理解しづらい。
「詳しい事は慶田盛さんとミンさんから。で、慶田盛さんは二時半から地裁で裁判があるから、長居はできない」
「相変わらずあのオッサン、無茶振り半端ねぇな」
「それだけ多くの人に信頼されてるんだよ」
 清史郎は健に答えて言う。
 加奈がガスコンロで茶を入れる為に湯を沸かし始める。
「なぁ、ジョーク、スナッフビデオって何だ?」
 手持ち無沙汰な様子の健が訊いてくる。
「殺人の様子を写したビデオや死体を損壊するビデオだな」
「それって写したヤツは殺人犯か死体損壊じゃねぇのか?」
「殺人ほう助にも相当するな」 
 清史郎が言うと健がPCのキーボードを叩く。
「どの道ヤクザが人殺しをしたって事には変わりないんでしょ?」
「今の段階では何とも言えないな」
 清史郎は腕��みをして言う。
 ジョーカー事件で矢沢が失脚した為、矢沢組は現在若頭の緒方が臨時的に取り仕切っている。 
 新庄市でトップにならないという事は、緒方にはそれなりに慶田盛や清史郎のリスクが見えているという事になるだろう。
 だとすれば、理性的な緒方がスナッフビデオなどというリスキーでリターンの小さいビジネスに手を染めるとは考えにくい。
「問題は殺されたヤクザが本当に不法滞在の外国人によるものなのかって事だ」
 清史郎はかじかむ手を揉みながら言う。
 加奈がガスコンロをつかっているせいか室温が幾らか上がった気がする。
「警察はそう考えてるんだろ」
「もっと穿った見方をすれば、日本語も満足に話せない外国人を犯人に仕立て上げて、強制送還で証言できないようにすれば検挙率を上げられるという話にもなるな」
 健に答えて清史郎は言う。
 目下最も高い可能性がそれなのだ。
 ヤクザの死体発見がいつで、被告がいつ逮捕されたのか不明だが、殺人事件がそんなに簡単に解決する訳が無い。
 ドアが開き、慶田盛と浅黒い肌の東洋人が姿を現す。
「清史郎、すまん。次の裁判まで時間が無い」
 慶田盛が息を切らして言う。
「分かった。そこの……ミンさんから話を聞けばいいんだろう?」
「また後で話を聞かせてくれ」
 慶田盛が慌ただしく事務所を出ていく。
「どうぞおかけ下さい」
 加奈がミンを事務椅子に誘導する。
 座面の破れていない唯一の椅子だ。
「私たちは依頼者の秘密は守る。盗聴の心配は無用だ」
「まぁ、絶対の防諜ってのは無ぇんだけどな」
 健が余計な事を言う。
 ミンがスマートフォンを取り出して経緯を語る。
「ジョーク、すまねぇ、俺、トイレ行ってくる」
 スナッフビデオを見た健がトイレに行こうとする。
「ちょっとあんた我慢……」
 加奈が胃袋の辺りを押さえて言葉を詰まらせる。
「二人とも、トイレは一つだからな」
 清史郎が言うと二人が先を争うかのようにしてトイレに向かう。
「殺されたヤクザの事は?」
「私たち知らない。分からないよ」
 ミンが皆目見当がつかないといった様子で言う。
「つまり現状では訴えの被害者すら分からないという事か……」
 拘留中のニャンに会いに行かない事には、殺されたヤクザの名前も分からないという事だ。
 慶田盛が弁護士として拘留中のニャンに会いに行く事は正当な権利として認められるが、清史郎は会いに行った所で面会すらさせてもらえないだろう。
「うえぇ~、今日絶対うなされるわ、これ」
 げんなりした様子で健が戻ってくる。
「殺されたヤクザはヤザワグミとかいうヤクザ」
 やはり、と、言うべきか。新庄市最大、関東広域指定暴力団ともつながりの強いヤクザだ。
 健がヘッドフォンをつけてPCの操作を始める。
「矢沢組構成員畑中猛二十八才。住所は市内。仕事は外国人労働者のブローカー。矢沢組の方から捜査依頼をかけたらしい」
 健が早速情報を拾って来る。何度か新庄市警に侵入し、健に言われた通りに機材を設置して来たのだ。
 お陰で警察のデータベースは好きなように見る事ができる。
「現場の写真って……これもスナッフ何とかじゃねぇか!」
 PCの画面からのけ反るようにして健が言う。
 風呂の椅子程度の椅子に立たされ、首に輪をつけられた男が吊るされており、回転ノコギリが片足に押し当てられる。
 それもすぐに切り落とすのではなく、職人が金箔を張るようにゆっくりと嬲るようにだ。
 被害者のヤクザは何とか首つりを逃れようとする。
 映像を早送りすると片足が切り落とされた時点で、まだヤクザは持ちこたえている。
 覆面をした男がヤクザの頭から蜜のような粘液室のものをかける。
 覆面をした男が消えると画面に丸々と太った無数のネズミが現れる。
 ネズミたちが先を争うようにヤクザの身体に食らいつく。
「何、今度は拡大して見てんの?」
「違うって。こっちは殺されたヤクザの方だ」
 戻って来た加奈に答えて健が言う。
「殺人の手口を見ると同一犯のようだな」
 清史郎は考える。
「健、ミンさんの映像とこの殺人現場の映像の場所を比較できるか?」
 清史郎の言葉を受けて健がキーボードを叩く。
 ミンのデータが引き延ばされ、画面に表示される。
 二台のディスプレイにそれぞれの殺人現場が表示される。
 部屋はどちらもコンクリート打ちっぱなしの地下室のような光源の無い部屋だ。
 もっとも、被害者は絶叫しているだろうから防音も兼ねているのだろう。
「似てるけど……違う」
 画面を観察しながら加奈が言う。
 一見すると同じような部屋に見えるが、加奈は早くも何か発見したのだろうか。
「被害者の目。光の映り込みがニャンさんの妹さんは左右からなのに、ヤクザは正面全体になってる」
 加奈に言われて観察すると確かに被害者の瞳に反射している光の光源が違う。
「床もホラ……最初の部屋はフローリングっぽいのに、二回目の部屋は床がリノリウムみたいにフラットになってる」
 加奈がグロテスクな映像を確認しながら言う。
「つまり殺害現場は別という事か」 
 清史郎は腕組みをして考える。
「死体遺棄現場の映像出すぜ」
 健が言うとヤクザの方の画面に静止画像で全身を食い荒らされ、正体不明になった男の映像が映る。
 場所は矢沢組の門の前、車から放り出されたらしく血が飛び散っている。
 少なくとも遺棄された時点では瀕死とはいえ息はあったという事か。
 死体の傍らにはスナッフビデオのDVDのディスクの入ったケース。
 これは死体を放置した後に放られたものらしい。
「こりゃ矢沢組キレるって」
 健がため息をついて言う。
「指紋や遺留物は?」
「ケーサツそこまで調べてねーよ」
 健がミンが持ってきたのと同じ映像を画面に表示させる。
 画面が分割され、加えて七件のスナッフビデオが映し出される。
「つまり、八人の外国人が殺されたから、同じような方法でヤクザを殺したって考えた訳?」
「そーゆー事らしいぜ? これまでの八人は死体も出てねぇんだし、模倣犯の線が濃厚だ……と」
 加奈に答えて健が画面に事件のファイルを表示させる。
 被害者は十二月三日、矢沢組の門の前で見つかった。
 矢沢組は警備会社と契約しており、門には監視カメラがあったがタイムラプスビデオで軽トラックが近づく所と去る所しか映されていない。
 タイムラプスビデオとは長時間録画をする為に数秒間に一コマの映像となっている。
 従ってタイミングを知っていれば数秒間は完全に画面から消える事ができるのだ。
 画面に移された軽トラックは流通量の最も多いハイエース。
 ナンバープレートには段ボールで覆いがしてあり陸運局に問い合わせる事はできない。
 運転席に映っている運転手と助手席の人物は目出し帽子を被っており性別の確認もできない。
 DVDを見た刑事課は市内の工場で不法滞在で働いているニャンを逮捕。
 強制送還の方向で事件は解決に向かっている……。
「不法滞在者による狂気の大量殺人……これが警察のプレス発表だっての?」
 加奈が声を上げる。
「ええと……現在国内には多くの外国人がおり、犯罪が頻発しています。今回の事件はこうした外国人の起こした猟奇的なものであり、日本国民が傷つけられるという最悪の事態を引き起こしました。警察は今後外国人の取り締まりをより厳重なものとし、厳罰化していく所存です」
 健が警察発表の草案を読み上げる。
「何かおかしくない? 仮に八件と別の犯人だとしても、殺されているのは外国から来ている人なんでしょ?」
「論点をすり替えているんだ。事件が起こった事が問題ではなく、外国人がいる事が問題なんだとな」
 加奈に答えて清史郎は言う。
「誰がどこで働こうと勝手じゃない。それに外国人の人たちは保険や年金も使えないんでしょ?」
「日本人の税金を外国人に使うな、って意見の方が多いみたいだぜ?」
 プレス発表より先に漏洩したネットニュースに反応した人々の書き込みを健が表示する。
「外国人が日本に来て死ぬのは当然の結果か……モラル低下もここまできたか」
 清史郎は苦い気分で言う。安い労働力として何の保障もなくこき使っておきながら犯罪者扱いする。
 外国人がアジアから来ている場合には特に顕著だ。
「この事件、このままじゃダメだよ。ね、ジョーカー」
 加奈の言葉に清史郎は頷く。
「まずは警察側の発表を覆さないとな」
 清史郎は合計九件のスナッフビデオを画面に表示させる。
 犯行個所は三か所と見られ、外国人が殺されている映像と畑中の殺されている場所が同じものが二つ存在している。
「ホラ見ろビンゴだ」
 健が声を上げる。これで九件���事件は同一犯の可能性が高くなった訳だ。
「そもそもこれだけ大量のネズミを飼育しておける環境が必要なんだ。模倣しようとしてもネズミを急に揃えるなんて事ができる訳が無い」
 清史郎の言葉に加奈が画面の一転を指さす。
「白いネズミ! どの映像にも必ず白いネズミが映ってる」
 よくよく見れば薄汚れているがグレーに近い灰色のネズミがどの映像にも混じっている。
「よっしゃ! これで犯人は同一犯ってこったな」
 健が声を上げてPCのキーボードを叩く。
 事件現場の映像とネズミの映像をまとめてファイリングする。
「でも真犯人に近づいたって訳じゃない」
 加奈が苦い表情で言う。
 確かに警察のロジックは崩せるが、肝心の犯人については不明のままなのだ。
「警察の野郎、市内の外国人を抜き打ち調査するつもりみたいだぜ」
 データを引き抜いた健が眉を顰める。
 大規模な取り締まりをすれば市民の目が逸れると考えているのだろう。
「この事件を起こしたのが何人かなどという判断は現段階ではできない。まずは事件の真相を探る」
 清史郎の言葉に健と加奈が頷く。
「よろしくオネガイシマス」
 ミンが小さく頭を下げた。
  〈3〉
 
  清史郎は新庄市警本部の窓口を訪れている。
「三浦探偵事務所の三浦清史郎です。捜査一課の風間警部補にお話しがあります」
 周囲が警察官だらけという落ち着かない環境下で、清史郎は周囲を観察する。
 事件の事を知っている者も多いのだろう、清史郎が来ただけでおおよその要件は掴めているようだ。
「まずはアポイントメントをとって下さい。取材であれば後日広報が応対致します」
 窓口の女性警察官が言う。
「これから警察が嘘たれ流そうとしてんだよ! 証拠持って来てやったんだぞ!」
 健が声を上げると周囲の警察官の目が集中する。
「情報提供です。警察が入手されているスナッフビデオに関して重大な証拠がありました。お会いできないと言うのであればインターネットで公開します」
 清史郎の言葉に受付の警察官が動揺を浮かべる。
「インターネットは情報として証拠能力を持ちません。情報をどのように流されようと結果は変わりません」
 上席らしい警官が窓口に現れて言う。
「そうでしょうか? ではスナッフビデオも画像加工された証拠能力の無いものとみられるはずです。それを根拠に犯人を捜される事の正当性を伺いたい」
「捜査情報はこちらからは漏らせん。貴様どこから情報を得た?」
「矢沢組です」
 清史郎の言葉に警官が気圧されたような表情を浮かべる。
「少々お待ち下さい」
 矢沢組の名前を出した途端、警官の態度が変わり内線で電話をかける。
 ややあって捜査一課の風間真一が姿を現す。
 髪をオールバックにした固太りの男で二人の警官を従えている。
「どうぞこちらへ」
 睨みつけるようにしながら顎をしゃくる。
 清史郎は二人を連れて警察署の廊下を歩く。
 盗聴器は手にしていないが、仕掛けてある盗聴器は作動している。
 三人は風間に続いて取調室に入った。
「ワレ、矢沢組の名前だしてどういうつもりじゃゴルァ!」
 風間がスチールのデスクに拳を叩きつけて声を上げる。
「被害者の一人は組員でしょう?」
「ア、   コラ、適当抜かすと任意同行でしょっ引くぞ」
 風間が息がかかる程の距離に顔を近づけてくる。
「一つ忠告する。矢沢組の組員が被害者になっている事件で、適当な真似をすれば報復を受ける事になる。立件した後に模倣犯が出て矢沢組の組員に死者が出た時どう落とし前をつけるつもりなのか伺いたい」
 清史郎の言葉に風間の顔色がどす黒いものとなる。
「随分上から目線じゃのぉ、警察ナメとんのかドルァ!」
「目線の問題ではなく、事実を申し上げたまでです。今後同様の事件が起きた時、矢沢組に対してどう釈明するつもりですか?」
 清史郎の淡々とした口調に風間が奥歯をぎりりと鳴らす。
「なんぞ証拠があるんかい。出せるもんなら出してみぃや!」
 清史郎は健の肩を叩く。
 健が落ち着かない様子でDVDディスクを取り出す。
 DVDを手にした風間が顎をしゃくると警官がノートPCを抱えて慌てて戻ってくる。
 DVDの映像を見ていた風間の額に汗が滲む。
「映像情報から判断する限り、全九件は同一犯の可能性が濃厚です。外国人が報復したというシナリオは使えません」
 清史郎の言葉に風間が鼻白む。
「だからなんじゃ、映像が証拠になるとでも思うとるんか」
「そっくりそのままお返しします。映像証拠で外国人を摘発するんですか?」
 清史郎の言葉に風間がスチールデスクを殴りつける。
「ド畜生の三流探偵が!」
「矢沢組の体面、もう少し慎重に捜査された方がよろしいかと」
 清史郎の言葉に風間が舌打ちする。
「去ねや! 顔も見たくないわ!」
 言うだけ言って室内から風間が出ていく。
 これで風間はプレス発表を控えるだろう。
 警察が体勢を立て直す前に真犯人を捕らえて起訴するのだ。 
 
 
〈4〉
  「もーやだ。警察行きたくねー」
 警察署を出た健ががっくりと肩を落として言う。
「任意同行って、何の容疑だっつーの」
 加奈が肩を怒らせる。
「これから何度でも相手をする事になるんだ。慣れておけ」
 清史郎の言葉に二人がため息と共に首を縦に振る。
「で、これからどーすんだ? 警察のプレス発表遅らせただけだぜ」
「矢沢組だ。これからようやく捜査ができるんだ」
 清史郎が言うと健がさも嫌そうな表情を浮かべる。
「警察の次はヤクザなんてどんな厄日だよ」
「そういう職業なんだよ」
 清史郎は改造したフォルクスワーゲンビートルに乗り込む。
 健が後部座席に、横に加奈が乗る。
 清史郎はエンジンをかけながら矢沢組の短縮ダイヤルを押す。
『はい、矢沢組です』
「三浦探偵事務所の三浦清史郎と申します。若頭の緒方さんに取り次いで頂けますか?」
『少々お待ち下さい』
 清史郎が車を走らせていると、ややあってよく通る低い声が響いた。 
『緒方です。三浦探偵事務所様がどういったご用件ですか?』
「昨日未明に玄関で殺されていた畑中氏の事件を調査しております。是非一度現場を見せて頂きたく思いご連絡させて頂きました」
 清史郎が言うと一瞬間を開けて。
『その事件については警察は既に解決したと言っています』
「それを覆す証拠が出たのです。警察はこのまま冤罪を推し進めるでしょうが、それが矢沢組にとって有益だとはとても思えません」
『覆す情報?』
「全九件の画像を確認した結果、犯行は同一犯によるものである可能性が濃厚になりました。畑中氏が殺されたのは外国人による報復という事は文脈から読み取れません」
『そういう事であれば……』
「これからお伺いさせて頂いて構いませんか?」
『現場は若い衆に命じて掃除してしまいましたが……』
「可能な限り可能なものを収集させていただきたいと思います」
『分かりました。調査の邪魔にならないよう手筈を整えます』
 言った緒方が電話を切る。
「何かヤクザのが警察よか紳士的じゃね?」
 後ろで聞いていた健が言う。
「実るほどに頭を垂れる何とやらでな、力を持ってるヤツの方が謙虚なんだよ。まぁ、怒らせれば話は別だがな」
 清史郎が言う脇で加奈が頷く。
「私たちは貧乏でも謙虚じゃない?」
「お前たちは充分人間ができてるよ」
 清史郎は苦笑して言う。
 今回の事件はまだ何の手がかりも無いに等しいが、この二人が居れば難解な事件も解決できる筈だった。
  「ご苦労様です。緒方です」
 鋭角的な顔立ちの、ビジネスマンといった風体の細身の男と清史郎は握手を交わす。
「三浦探偵事務所の三浦清史郎です」
 清史郎が言うと緒方は軽く息を吐いた。
「堅苦しい話は無しで行きましょう。同一犯の証拠というのは?」
 清史郎は健の肩を叩く。
 健がラップトップを叩いて画像を表示させる。
「犯行現場、殺害方法、殺害に用いたネズミが一致するんです」
 清史郎はかいつまんで言う。
「なるほど、確かに。しかし、彼らが同胞を殺したという見方もできるのでは?」
「そうなると犯人がどのようにターゲットを絞っているのかが不明になります。畑中さんは明らかに日本人ですから」
 清史郎の言葉に緒方が顎を摘まむ。
「畑中は外国人労働者を買うブローカーをしていました。シノギとしては小さなものです。外国人労働者から恨みを買う事は充分に想像できます」
「確かにその通りです。だとするなら同胞を殺した事は……」
「理屈に合わない。確かに。ではこの事件は外部何者かによる意図的なものであると?」
「意図は分かりませんがね。玄関の監視カメラの映像を見せて頂いて構いませんか?」
 清史郎が言うと緒方以外の組員が身体を固くする。
「ご自由にご覧下さい」
 清史郎は緒方についてモニタールームに向かう。
 矢沢組の周囲と内部を写したカメラ映像が二十四枚並んでいる。
 清史郎は潜入した事があったが、これだけの監視カメラを潜り抜けるのは至難の業だった。
「犯行の映像が映っているのは玄関のカメラだけでした」
 緒方が言うと組員が畑中が捨てられていく一瞬を映し出した。
「残念ながら映像は捨てる前と後しかありません」
「タイムラプスビデオでは仕方がありません。ですがここに見逃せない点があります」
「ここに?」
「まず、タイムラプスビデオの六秒の間に瀕死の畑中さんを捨てなければならなかった。これは玄関のビデオのタイムラグを知らないと不可能です」
「内部犯という訳か?」
 緒方の口調が苦いものとなる。
「更に六秒という事を考えると、一度車を停めてから降ろす時間的余裕は無かったはずです。だとすれば荷台に最低二人は乗っていないと実行は困難。即ち運転手と助手席に人間を合わせ最低四名は犯行に必要だったという事です。従って単独犯という事はあり得ません」
 清史郎が言うと健と加奈も驚いたような表情を浮かべる。
「タイムラプスビデオに映っているという事は時速二十キロ以下に減速していたことは間違いないでしょう。大人二人で荷台から放り投げたと考えるのが現実的です」
「つまりはこの映像を入手できる者で、なおかつ四人以上のグループという訳だな?」
 険しい顔で緒方が言う。
「そういう事になります」
 清史郎は二十四枚のディスプレイを眺める。
 普通の人間は他人の家の防犯カメラの映像など入手できない。
 しかし、警備関連の企業に勤めていたり、矢沢組を出入りする人間の数を考えると途端に関連する人間の数は多くなる。
「組員では無いと信じたい。あのような拷問を無差別に行う組織だと思われれば商売が成り立たなくなる」
 緒方が眉間に皺を寄せる。口調こそ穏やかだが、犯人が目の前にいれば問答無用で殺すかも知れない。
「畑中さんの当日の動向は分かりませんか?」
「畑中はフューチャー人材ネットという会社の社員をしていました。会社の方に記録が残っているはずです」
「その会社は……」
 清史郎が訊こうとすると緒方が口元に薄い笑みを浮かべた。
「現代の奴隷商人ですよ」
 本当に恐ろしいのは風間のようにがなり立てるのではない、こういった事を���しい顔で言える人間なのだ。
  〈5〉
  「ヤクザって結構マトモっぽくね? もっと警察みたいに怒鳴られるのかと思ったぜ」 
 フューチャー人材ネットに向かう途中、キーボードを叩きながら健が言う。
「私は何か怖かったな。人があんな惨い殺され方をしてるのに」
 加奈が恐ろしいものでも見たかのような口調で言う。
「ヤクザはナメない方がいい。殺す時は問答無用だし、殺されても死体なんぞ出てこないからな」
「マジっすか?」
 健が声を上げる。
「お前、工事現場で働いてたのに何も聞いてないのか?」
「現場とヤクザっすか? 仕事を回してもらうとかあるみたいっすけど」
「コンクリートミキサーに死体を放り込んでみろ、DNAも出てこないぞ。大型の開発やビルなんかじゃ何人砂粒になってるか分からない」
 清史郎が言うと加奈が首を竦める。
「怖っ!」
 健が声を上げる。現場勤めが長かったから光景が想像できたのだろう。
「で、これから行くフューチャー人材ネットってのはどんな会社なんだ?」
「黒い人材派遣会社っすね。有給が使えないとか、病欠したくても電話がつながらないとか」
 検索していた健が言う。
「良かったぁ~。私登録しようとしてたんだ」
「やめとけやめとけ。解雇通告無しに解雇して保証金も払わない会社だ」
 加奈に答えて健が言う。
「まぁ、ヤクザが経営している人材派遣会社だからな」
 清史郎は苦笑する。元から人材派遣などという業態は真っ当ではない。
 労働量が同じでも正社員のように保障がある訳ではなく、退職金も出ないのだ。
 気概があるなら独立した方がまだまともな人生を歩めるだろう。
「世の中にまともな部分がどれだけあるかって考えちゃう」
「考えるだけ無駄だって。この会社が不法滞在の外国人のブローカーの表の顔なんだろ」
 健が加奈に答える。
「腐る大捜査線かぁ~」
 加奈の言葉に清史郎は小さく噴き出す。
 昔似たような名前の刑事ドラマがあったからだ。
 近くのコインパーキングにビートルを停め、フューチャー人材ネットの入った雑居ビルに足を踏み入れる。
 フューチャー人材ネットは広さは三浦探偵事務所とさほど変わらないものの、水色の絨毯が敷いてあり、パーテーションで区切られた現代的な雰囲気の事務所だった。
「三浦探偵事務所の三浦清史郎です」
 清史郎が受付で言うと奥から同年代のハゲタカを思わせる痩せた男が出て来た。
「フューチャー人材ネット代表鴻上純也です」
 名刺を交換し、パーテーションで区切られた面談室に案内される。
「緒方さんから話は聞いています。可能な限り協力しろと言われています」
 清史郎は内心で頷く。緒方は既に手を回してくれているらしい。
「まず、畑中猛さんの一昨日の勤務状況を伺えますか?」
「九時五時ですね。実際には六時半まで残業、以降は一人で帰っています」
「寄り道、例えば行きつけのバーなどはありませんか?」
「最近の若い子はあまり飲まないようですね。オフの事は残念ながら分かりません」
「勤怠について最近異常はありませんでしたか?」
「ありません。何故いきなり死んだのか分かりません」
 鴻上は本気で当惑しているようだ。
「念のため畑中さんの住所と電話番号を伺えますか?」
 鴻上が持参していたラップトップを操作する。
「住所は新庄市高台十二―五メゾンハイツマンション五〇五。電話番号は070―××××―××××です」
「御社は海外の人の派遣も行っていたそうですが、トラブルはございませんでしたか?」
 清史郎が言うと鴻上は意外にも同様した素振りも見せなかった。
「海外の人材とのトラブルは特にありませんでした。彼らは日本では地盤がありませんし、地元ではヤクザの力が強い。ご存知無いかも知れませんが世界最大のマフィアは日本の組なんですよ。経済力で言うと最大の組だけで日本の企業上位六位の八兆円の規模になります。弱小国家など相手になりません」
 鴻上にとって組に所属する事は汚名では無いようだ。
「つまり逆らう事など思いもよらないと」
「そういう事になりますね。もっとも現地では現地人を使っていますが」
 鴻上が言った所で四人に茶が運ばれてくる。
 剣呑な話をしているはずだが、事務員に動じた風は無い。
「同業他社とのトラブルは考えられませんか?」
「日本のヤクザは互いに杯を交わして兄弟となっています。互いのビジネスに悪影響を及ぼす事は代紋に泥を塗る事になります。それは断じてありません」
 最もありそうな可能性が早々に否定された。
 もっとも、あったとしても表ざたにはできないという所もあるのだろう。
「単刀直入にお聞きしますが、殺された事に心当たりはありませんか?」
「ありません。あったとすれば、殺された外人が高跳びしたと考えて探し出そうとしていた事くらいです」
「では外国人労働者の死亡も知らなかったと」
「寮の連中も突然消えたと言っていたくらいです。とはいえ隠している可能性もありましたので地元とも連絡を取って探してはいました」
 フューチャー人材ネットは消えた外国人労働者を捜索していた。
 実際に捜索していたかどうかはミンなりニャンなりに訊けば分かるだろう。
「では捜索中に殺されたという可能性もある訳ですね?」
「何をしている最中だったかは分かりかねます」
 鴻上が答える。これ以上質問しても有意義な答えは返ってこないだろう。
「外国人労働者の寮のある場所を伺えますか?」
「パレステラスガーデンの二階が寮になっています」
 清史郎はパレステラスガーデンの住所を控えると健と加奈を連れてフューチャー人材ネットを後にした。
  〈6〉
   清史郎は家主に事情を言って鍵を開けてもらい、畑中のマンションを訪れていた。
 ワンルームの壁の薄い建物で、床にはカップ麺とスナック菓子の袋が散乱している。
「健、あんたの部屋とどっちが汚い?」
「せめてどっちが綺麗って聞き方しろよ。俺の部屋の方がきれいだって!」
 健が加奈に応じて言う。
「健、PCで分かる事を探ってくれ。加奈は俺と一緒に部屋の中を探ってくれ」
 清史郎が言うと健が畑中のPCに取り付き、加奈が口元をハンカチで押さえながら部屋の奥へと入っていく。
 健が持参したPCを畑中のPCに接続して操作し始める。
 画面上でパスワードの黒い●が点滅している。
「健、何をしているんだ?」
「パスワードを割ってるんっす。文字の数字の組み合わせは天文学的な数になるから手作業なんてしてられねぇっつーか」
「〇〇三一五は?」
 デスク回りを見て清史郎は言ってみる。
「あー! 何で分かったんっスか! ジョークすげぇ!」
「すごいも何もデスク周りの写真がかたっぱしから自撮りだろ? それだけ自分が好きならオレサイコーって入れてもおかしくないだろう」
「超馬鹿っぽい! でもパスワード解析する手間が省けたぜ」
 健が猛然とキーボードを叩き始める。
 加奈は部屋のクローゼットの前に屈みこんでいる。
「加奈、何かあったのか?」
「いや、意外に勉強家だったんだなぁ~って」
 加奈が調べていたのは語学のテキストの山だった。
 海外の人材を集めていたのだから英語は必須スキルだったのだろう。
「ヤクザでも仕事は一生懸命にやってたって事か」
 一所懸命に悪事をするというのは依然知り合った殺し屋円山健司を思い出す。
「そっちは英語の参考書っすか?」
「ああ。そっちはどうだ?」
「英語のオンラインレッスンとゲームとエロサイトばっかりっすね」
 畑中は英語だけは真面目にやっていたらしい。
 清史郎は玄関に戻ってドアの周りを丹念に調べる。
 ピッキングされた形跡は無く、靴の乱れも無い事から突然押し入られたという事でも無いらしい。
 部屋から連れ去られたので無ければ、移動中に拉致されたという事だろうか。
 ――やはり顔見知りの犯行が濃厚か――
 しかし、それならば緒方が何か知っていても良さそうなものだ。
 ――今は地道に情報を集めるだけだ――
 外国人労働者の寮は一階に大日警備保障という警備会社の入ったマンションにあった。
 立地から考えて大日警備保障も矢沢組系列だろう。
 清史郎たちが訪ねるとミンが仕事から帰った所だった。
 ワンルームの部屋に二つ二段ベッドが並べられ四人が生活しているようだ。
「ミウラさんこんにちは」
「ミンさんこんにちは」
 清史郎が挨拶するとミンが同僚に向かって早口の外国語で説明する。
 狭苦しい中に招き入れられ、ジャスミンティーを勧められる。
「これまで殺された人はみんなこの寮の人かい?」
 清史郎は心苦しく思いながらも八人の映像を見せて訊ねる。
「ちがう人もいるよ。知らない人もいるよ」
 残酷な映像に顔を顰めながらもミンが言う。
「同じ寮の人は?」
「リンとホワン」
 ミンが二人を指さす。この寮の人間は合計三人殺されたという事だ。
 この寮で働く人間にとっては気が気ではないだろう。
「殺された人たちに共通点は?」
 映像を確認する限りある程度若いという以外は年齢も性別もバラバラだ。
「分からない」
 残念そうにミンが言う。
 言葉が足りないせいでこちらも質問する言葉が出てこない。
「ニャンさんの妹さんの家族か同僚の人は?」
「女の子の寮は別にあるよ。ニャンは警察に捕まったよ」
 ミンの言葉に清史郎はため息をつく。
「女の子の寮は?」
「会社が違うから分からないよ。フウゾクの会社だよ」
 連絡が充分につくという環境でも無いらしい。
「最近誰かに見られてると思ったり、尾けられてるって思った事は?」
「ツケラレテル?」
「尾行されてる……追われている……追跡されてる……」
「ごめんなさい。分からないよ」
 ミンが頭を振って言う。
 どうやらこれ以上聞き出せる内容は無いようだ。
「邪魔したね。取り合えず身の回りには充分に気をつけて」
 言って清史郎は健と加奈を連れてパレステラスガーデンを後にした。
  第二章       錯綜
  〈1〉
   十二月四日午前四時。
 スマートフォンの着信音で清史郎は目を覚ました。
 このような機械を発明した人間を呪いたくなりながら通話ボタンを押す。
「はい、三浦です」
『緒方だ』
 切羽詰まった口調で電話をかけて来たのは矢沢組の緒方だ。
「こんな時間にどうしたんですか? 事件に進展でも?」
『鴻上が殺された。例のネズミ殺しだ』
 突然の言葉に一気に目が覚める。昨日フューチャー人材ネットで会ったハゲタカのような男が一夜と経たずに殺されたのだ。
「警察には?」
『警察から連絡があった。新聞配達のバイトが死体を発見したらしい』
「場所は?」
『フューチャー人材ネットの入っているビルの真ん前だ』
 死体を発見したバイトはさぞかしびっくりした事だろう。
「分かりました。現場に向かいます」
 言って通話を切った清史郎は愛車のビートルに乗り込んだ。
   フューチャー人材ネットのビルの前には二台のパトカーと救急車が停まっていた。
 三人もの警官が動員されており、死体は既に救急車に搬入されている。
 周囲は黄色いテープで保護され、警官たちは近づこうとする人々を制止している。
「掃除が終わるまでしばらくの間近づかないで下さいね~」
 現場を見ようとした清史郎に警官が言う。
 証拠品は無いのか、何か手がかりになるようなものは。
 清史郎が身を乗り出すと赤黒い染みが見えた。
 鴻上が放置されていた場所だろう。
 フューチャー人材ネットの入っているビルの前には監視カメラは無く、今回の加害者は時間的余裕をもってビルの前に放置した事だろう。
 証拠は幾らでもありそうなものだが、警察が浚った後ではロクな収穫は望めない。
「三浦さん、朝早くからすみません」
 朝早くから一分の隙も無くスーツを着こなした緒方がやって来る。
「そういう商売なんでね」
「オイ、そこの警官。先生をお通ししろ」
 低い声で緒方が警官に向かって言う。
「……あの、どういったお話……」
「矢沢組の緒方だ。署長にでも確認を取れ」
 言ってズカズカと現場に踏み入って行く。
「三浦さん、犯罪捜査じゃこちとら素人だ。どうすればいいですか?」
 怒りを滲ませながら緒方が言う。
「被害者の身体はネズミに食い荒らされて指紋の類は無いでしょうし、犯人は手袋をしていた可能性が高いです」
 清史郎は赤黒い染みに近づいていく。
「車から降ろされたならまずブレーキ痕。後、血液に付着した微細証拠品がカギになる場合があります」
「ポリ! 先生の言う通りにしやがれ」
 緒方が言うと警官たちが右往左往する。
 どうやら鑑識キットも準備もして来ていないらしい。
「仕方ない。私の方で調べます」
 空が白々としてくる中、清史郎は道路に残された血液のサンプルを採取する。
 更に周囲を歩き回り、ブレーキ痕を確認する。
「ブレーキ痕は一般的な軽自動車のものです。急停止し痕が残ったものと思われます」
「前はタイムラプスビデオを避ける為だったな」
「今回は人目を避ける為でしょう。これは仮説ですが、死体にはブルーシートか何かがかけてあったのではないでしょうか」
 ビニールシートで巻いた死体を端を持って車から放り出したのだろう。
 やり方は荒っぽいが、証拠は残りにくい。
「現場にDVDは残されていませんでしたか?」
 清史郎が警官に尋ねると険悪な視線が返ってくる。
「DVDは無かったかと聞いているんだ」
 緒方が言うと警官がDVDを差し出してくる。
 差し出された所で再生できる機器も無い。
「指紋を採取してこれまで警察で採取されたものと照会して下さい」
「差し出がましい事を言いやがると……」
「言われた事をやりゃあそれでいいんだ」
 緒方が言うと血を上らせかけた警官が大人しくなる。
「後は近くの防犯カメラに軽トラックが映っていないかどうかですね」
 清史郎は言う。幸い三件隣にコンビニエンスストアがある。
 トラックの影くらいは残っているかも知れない。
「緒方さん、私はこれで」
「朝早くから済まなかったな。明日は畑中の葬儀だ。何か分かるかも知れない」
 緒方の言葉にうなずいて清史郎はコンビニエンスストアに足を向けた。
  〈2〉
  「新庄工科大学?」
 モーニングコールでいつもより早く呼び出された健が清史郎の言葉に問い返す。
 事務所の寒さは外気温と左程変わらず、早急なヒーターの購入の必要性が感じられる。
「それって鑑識的な事をするって事?」
 加奈が朝七時にも関わらず張り切った口調で言う。
「ああ。血液とネズミの唾液くらいしか出ないだろうが、死体は少なくとも現場に一度は降ろされたはずだし、何かに包まれて遺棄現場まで運ばれたはずだ。つまり、殺害現場と包んだものの痕跡が残っている可能性があるんだ。血液には粘着力があるからね」
 清史郎は採取した小さなビニールの密封パックを見せる。
「でも、現場に最初からあったゴミも付いてる訳よね?」
「それを大学の分析機器で分析してもらうんだ」
「ジョーク大学のセンセに顔がきくのか?」
 驚いたように健が言う。
「付き合いがあるからね。じゃあ出発だ」
 清史郎は二人を連れて市内の工科大学に向かう。
 前もって連絡していたせいもあり、工科大学の環境科学科の柴田一太教授が生徒たちと共に準備を整えている。 
「三浦さん久しぶりだね」
「柴田さんお久しぶりです」
 柴田は中肉中背よりやや中年太りをした男だが、ふくふくとした顔立ちをしておりメタボリックにありがちな不健康な印象は受けない。
「血液に付着したサンプルを採取したいという事だね」
「ええ。現場でこそげ取ったので道路のカスも多いと思いますが」
「それは優先的に除外するよ。確か現場候補のサンプル映像があるとか」
 柴田が興味深そうに言う。
「かなりグロテスクですが……」
 清史郎は健に映像を表示させる。
 柴田が口元を押さえながらも映像を食い入るように眺める。
「証拠らしい証拠は出ないかも知れませんよ?」
「と、言うと?」
「床がフローリングやリノリウムのような材質で、殺人の前後に清掃されている可能性が大きい。輸送中のビニールシートか何かに付着した物質なら検出可能だろうけど」
「おっさん、ここでは何を調べられるんだ?」
 健が柴田に向かって言う。
「ガスクロマトグラフィーと液クロマトグラフィー、更に原子吸光器もある。分析化学に必要な機材は揃っているよ」
「具体的にはどういった物質が検出できるんですか?」
 加奈が健が訊きたいであろうことを尋ねる。
「血液であればたんぱく質や鉄分や塩分が検出できるし、それを除外して町中を車で移動したなら排気ガスなんかを検出する事もできる。ビニールシートが新品なら保護用の粉末なりがあるだろうし、死体を縛ったなら何かの繊維が検出されるかも知れない」
「そんな細かいモンで何が分かるんだ」
 健が不思議そうに言う。
「それを考えるのが探偵だ。じゃあここは柴田さんに任せて慶田盛にニャンさんの話を聞きに行こうか」
 清史郎は一同を促してビートルへと戻った。
  「奇妙な事になったね」
 ニャンの弁護をする事になった筈の慶田盛が事務所の応接セットで言う。
「加害者が拘置所の中にいるのに十番目の被害者が出た」
 清史郎は湯飲みを両手で包み込むようにして言う。
 茶の淹れ方は加奈の方が上のようだ。
「警察側は不法滞在者の組織的犯罪として押してくるかも知れないね」
 慶田盛が茶をすすりながら言う。
「不法滞在者は矢沢組の監視下にある。寮の下に警備会社が入っているくらいだ」
 清史郎は昨日得た情報を慶田盛に告げる。
「警察にとっては犯人を逮捕する事が重要なんであって、逮捕する相手が誰かという事は自分たちに都合さえ良ければいいという事なんだ」
 慶田盛の言葉を清史郎は反芻する。
「矢沢組の外国人ブローカーは社長まで殺された。外国人ビジネスから撤退するのであれば警察との間で手打ちができるか……」
「外国人ブローカーがいいとは言わないけど、それじゃ何の解決にもなっていないんじゃない?」
 加奈が言う。確かにこれで十一番目の被害者が出てくるという事になれば外国人を一斉摘発しても元の木阿弥という事になる。
「つーかさ、気になってたんだけど、このエグいビデオって他人に見せるのが目的なんだろ? ンでこんな凝った殺し方してんだろ? だったら視聴者がいるんじゃねぇか?」
 健が指摘する。確かに他人に見せるつもりが無いのであればこれほど凝った殺し方をする理由が見当たらない。
「スナッフビデオの愛好者は世界中にいるからな……」
 慶田盛が腕組みをする。
「最初は八人連続でアジアの労働者だった。次はブローカーだ。外国人の労働者の失踪が珍しくない事なのだとしても、日本人でしかも会社の社長というのはな」
 清史郎は考える。単にスナッフビデオを撮影するというだけなら、残酷な話だが外国人労働者だけで良かったはずだ。
 ここに来てヤクザを殺し始めたというのは一体どういう風の吹き回しなのだろうか。
「一応、外国人保護のNPOに連絡はとってある。矢沢組との兼ね合いはあるけど、摘発という事になったら保護する段取りはできているよ」
 先手を打ったらしい慶田盛が言う。
「矢沢組もこれ以上組員の死体が出ればなりふり構わないだろう。犯人だってその恐ろしさは分かっているはずだ」
「これってアレだな���ラットマンVSジョーカーって感じだな」
 健が緊張感の無い事���言い出す。
「犯人の行動指針が全く読めない。これで事件は完全に終わりなのか、続きがあるのか、その行方も分からない」
 ラットマンがこの先も犯罪を続けるなら、警察の一斉摘発も空振りに終わるだろう。
 そうすれば警察の面目は丸つぶれだ。
 ――犯人の狙いはそれなのだろうか――
 だとしても根拠が薄弱すぎる。
 清史郎は健と加奈を引き連れてビートルに戻った。
  〈3〉
  「ジョーク、頼みがあんだけどさ」
 ビートルの車内で健が頼みづらそうに言う。
「何だ? 言うだけならタダだぞ」
「途中のホームセンターで石油ファンヒーター買ってくれ。外と室内とどっちが寒いか分からねぇし、指がかじかんでキーボード叩けねぇんだよ」
 清史郎はため息をつく。寒いの���仕方ないにしても、キーボードの叩けない健は文字通りただ飯食らいだ。
「しょうがないな。まぁ、長く使うものだしヒーターくらい買ってもバチは当たらないか」
「やりぃ!」
 健が嬉しそうに声を上げる。
「その分仕事もたくさんこなさないとね」
加奈の声も弾んでいる。
「所で健、さっきの話だが、誰かに見せる為に撮影したなら、その誰かを探し出すような事はできないのか?」
「ムリっす。動画配信だとしても、会員制になってるだろうし、そんなサイト幾らでもあるだろうし」
 確かに健の言う通りだろう。発信者と受信者のどちらも分からないのでは手の打ちようがない。
「気になるんだけどさ、あのビデオライト当たってたじゃん? あれって相当強いライトなんじゃない? 芸能事務所が使うようなさ」
 加奈の言葉に清史郎は頷く。
 確かに映像が鮮明過ぎた。普通のPCやスマートフォンのカメラで、普通の照明で撮影されたのであれば、あそこまで鮮明な映像にはならないはずだ。
「まさか……芸能事務所がそんな事をしてるとは思えないが」
「それは無いと思う。前に光源の話をしたと思うけど、芸能事務所やスタジオならレフ版とか使って光の当たり方を均一にするはず」
 加奈がその可能性を既に考えていたのか意見を述べる。
「じゃあ、4KカメラをPCにつなげて強い光を当てて……って、投光器あんじゃん! 現場用の」
 健が声を上げる。
「投光器ったって、ホームセンターで幾らでも買えるだろう?」
 清史郎の言葉に健が肩を落とす。
 ホームセンターで石油ファンヒーターを買い、ガソリンスタンドで灯油を買い込んで事務所に戻る。
 前の石油ファンヒーターは五年頑張ってくれたがこれで引退だ。
「はあぁ~、生き返る。これぞ文明の機器」
 健がファンヒーターの前で頬を緩ませる。
「あんたがそこにいたら室内に温風が回らないでしょ」
 コーヒーを沸かしながら加奈が言う。
「少しくらいいいじゃねぇか。減るもんじゃなし」
「ったく、事件の事も考えてよ。ジョーカー、何か分かった事無いの?」
「ブレーキ痕があったくらいだよ。深夜とはいえ急いでたみたいだな」
「フューチャー人材ネットに的かけてるとか?」
 健が席に戻りながら言う。
「それは昨日話したし、それなら外国人労働者を殺している理由が成り立たない」
 加奈が冷静に言う。
「誰かがフューチャー人材ネットの不正を暴こうとしてる」
「その為に殺人をも厭わないというのは、正義を働こうとしている人間のする事じゃないだろうな」
 清史郎は健の言葉をやんわりと否定する。
「何か良く分からない事件よね。殺人にはすごく凝ったり、痕跡にはすごく気を使ってるのに、殺す相手は行き当たりばったりみたいな」
 加奈の指摘は的を得ているかも知れない。
 被害者が外国人労働者だけで、これまで通り死体を残さないのであれば事件にすらなっていなかったはずだ。
 それが日本人の被害者が出て、スナッフビデオまでが現場に残された。
 しかも二人目の日本人はブローカーの社長で、裏のビジネスを知っていたとするならヤクザだという事も知っていたはずだ。
 それならばその報復が半端なものではない事は簡単に想像がつくだろう。
「犯人の目的ってそもそも何なんだろな。スナッフビデオで儲けるっつっても、普通に売れるような代物じゃねぇんだろうし、性別だってバラバラだろ? エロビデオなら大体若い女の子じゃね?」
 健が首を捻りながら言う。確かに言われてみればスナッフビデオとして売り出すとしても客層はネズミを使った殺人方法にしか興味が無い事になる。
 それでは商売にならないだろう。
「大量のネズミを飼ってるんだ。コストや隠し場所も馬鹿にならないだろう」
 清史郎は脳裏に新庄市の地図を描きながら言う。
 機材も使っているのだし、どこかに手がかりがあるはずだ。 
 清史郎が考えあぐねていると電話の呼び鈴が鳴った。
「お電話ありがとうございます。三浦探偵事務所飯島でございます」
 加奈が電話を取って言う。
「はい、三浦ですね。少々お待ち下さい」
 加奈が受話器を置いて清史郎に顔を向ける。
「工科大学の柴田さん」
 清史郎は受話器を取る。
「三浦です。何か分かりましたか?」
『参考になるかどうかわかりませんが、興味深い事が分かりましたよ』
「どんな些細な事でも結構です」
『トウモロコシ何かの穀物の微粉が検出されました』
「それはどういった意味になるのでしょうか?」
『あくまで仮説ですが、犯人はネズミを飼育するのに犬の餌を使っているんじゃないですか? 他にもそれを示唆するような牛骨粉も検出されています』
 現場に関する証拠は見つからなかった。
 ――しかし……犬の餌か……――
 これまたホームセンターで簡単に手に入る代物だ。
「ありがとうございます。また何か分かりましたら教えてください」
清史郎は通話を切る。
「ジョーカー、何だって?」
「犬の餌が検出されたんだそうだ。犯人は普段はネズミに犬の餌を与えてたんだろうな」
「餌ならホームセンターで買えんじゃね?」
「ちょっと待って、ケージはどう? あれだけたくさんのネズミを飼っておけるケージは相当大きいか幾つかに分けられているんじゃない?」
 加奈が言う。確かに狭いケージに肉の味に慣れたネズミを押し込んだら共食いをする事だろう。
「あ! 昔町の外れの方にデカいペットショップが無かったか? もう潰れちまってるけど」
「行こう」
 健の言葉に清史郎はビートルの鍵を手にする。
 ようやく手がかりらしい手がかりが見えて来たようだ。
   郊外型の大型ペットショップは廃棄されたままの姿で佇んでいた。
 正面のガラスが近隣の悪ガキの悪戯で割れており侵入が困難という事は無い。
 スナック菓子の袋やペットボトルが散乱しているが、どれも古く最近のものでは無いようだ。
 ここでかつて何が行われていたかは考えるまでも無いだろう。
「汚ぇトコだな。ま、誰も掃除なんかしやしねぇんだろうけどさ」
 健がぼやきながら先に進んでいく。
 清史郎はポケットから取り出したマグライトで床を照らす。
 床にはホコリが溜まっているが、何者かが侵入したような形跡がある。
 ――当たりを引いたか――
「見てジョーカー、バックヤードにだけ新しい鍵がついてる」
 清史郎は加奈の言葉を受けてバックヤードの観音開きのドアにライトを向ける。
 取っ手に鎖が巻き付けてあり南京錠でロックされている。
「それじゃあお宝を拝見するとするか」
 清史郎にとって南京錠などは鍵とも言えないものだ。
 ピッキングツールで難なく開いたドアを開けて中へと足を踏み入れる。
 瞬間、小便を腐らせて煮詰めたような強烈な臭いが鼻を突く。
「うげっ! 何だ? この臭い」
 健が顔を背ける。
「嫌な予感しかしないんだけど」
 口を押えた加奈が言う。
 清史郎は袖で鼻と口を押えながらマグライトでバックヤードを照らす。
 が、そこにはがらんとした空間が広がっているだけだった。
 ……床の汚泥のような物体以外は。
「何も無ぇ……てか、これ……」
「ネズミの糞だろうな。飼い主は閉じ込めておくのに耐えかねたんだろう」
 バックヤードでケージを積んでネズミを飼っていたのだろうが、飼い主の方が臭いに耐えかねる状況になったのだろう。
「この臭いじゃ毎回運ぶ気にもならない……ジョーカー、床に引きずったような痕がある」
 加奈の言葉にマグライトを下に向ける。
 確かに汚泥が削られたようになり、ケージを引きずり出したような痕がある。
 犯人はネズミのケージをここからもっと風通しのいい所に移動させたのだろう。
「何だよ。また振り出しに戻るのかよ」
「いや、これで犯人がネズミを飼育していた事は判明した」
 清史郎は健に向かって言う。
「犯人はどこに消えたのかしら? たくさんのネズミを飼っておける場所って……」
「郊外に出れば廃屋なんて幾らでもあるし、廃棄された養豚場や養鶏場もあるだろう」
 清史郎は郊外の様子を想像しながら言う。
 新庄市の北部の山林地帯にはかつては多くの畜産業者が存在していた。
 その残骸の多くはハイウェイを通る時に見る事ができる。
「一軒一軒回るのか? このクソ寒いのに?」
「寒いのはともかく、当てもなく山を探し回っても拉致が明かないんじゃない?」
「警察なら人海戦術でやるんだろうな……」
 清史郎はひとまずペットショップの外に出る。
 寒空だが悪臭の中に比べると北風の方がマシに思える。
「ジョーク、何か案は無ぇのかよ」
「あんたこそ空撮とか何かできないの?」
「googleearthだってそこまで精密には見れねぇよ」
 健の言葉を清史郎は反芻する。
 犯人も忘れ去られたような施設まで把握はしていないだろう。
 だとすればハイウェイから見えてなおかつ、一般道では入り込めない場所という事になる。
 更に移動に軽トラックを使っている事から、車の乗り入れのできる場所という制限も付けられる。
「とりあえず、ハイウェイから入っていける横道を探した方がいいだろうな。もしこの犯人が利用している施設ならネズミの糞が乾燥していない事から、最近場所を移動したんだろう。だとすれば脇道を封鎖する私有地の看板みたいなものは新しいはずだ」
「なぁるほど、確かに。でも、誰かの家に出ちまったらどうなんだ?」
「聞き込みに来たって言えばいいじゃない」
 健に答えて加奈が言う。
「じゃあドライブに行くとするか」
 清史郎はビートルの後部座席に健を乗せると運転席に乗り込んだ。
  〈4〉 
 
 「どーせ森林浴するなら秋とかのが良かったんじゃね?」
 幾度目かの横道を試す中、健が愚痴をこぼす。
 街乗りの車として作られているビートルは車高が低く、エンジンなどは新型に換装してあるが底がこすれ振動もひどい。
 岩で車体の下を破壊されたら帰る事もままならない。
「森林浴ってどっちかって言うと夏じゃない?」
 加奈が健に向かって言う。
「だって夏の山って蚊が出るじゃんよ」
「あんたって本当にアウトドアに向かないわよね」
「海には行きたいぜ。目の保養に」
 健の言葉に加奈がため息をつく。
 ハイウェイからの脇道は意外に多かったが、多くが途中から藪に包まれていた。
 まともに通れた道もあるが、高齢者の農家が猫の額のような畑を耕しているだけだった。
「ジョーカー、私たちで人海戦術は無理があるんじゃない?」
 加奈の言葉に清史郎は山道の中でブレーキを踏む。
 ビートルの新型のエンジンの振動が静かに車体を震わせる。
「確かにそれはそうなんだが……」
「もう少し条件絞った方がいいんじゃねぇの?」
 健の言葉に清史郎は考える。
 私有地の新しい看板は想像以上に多かった。
 恐らくは土地の相続が難しく売りに出されたものだろう。
 農家もそれとほぼ同数存在している。
 ――だとすれば――
「健、不動産で売り出されている土地の情報と、農協に作物を収めている農家のデータを検索してくれ」
「不動産はネット見れば分かるけど、農協には何の仕掛けもしてないし侵入できないぜ?」
 健が答える。健はITの天才のように見えるが、種と仕掛けが無いと普通のITボーイなのだ。
「近くの農協に仕掛けてくれればやるけど」
 キーボードを叩きながら健が言う。
「いいわよ。こっちで直接電話で聞くから。新庄神谷の田舎なんてそんなに人が住んでないでしょ」
 加奈がスマートフォンとシステム手帳を広げて言う。
「じゃあ、俺は一旦ビートルを戻してコーヒーでも買うか」
 清史郎は近場のコンビニに向かって車を走らせた。
  「で、不動産で売り出されている土地を除外して、農家も除外した結果がこれ」
 コンビニの駐車場で健が地図を表示する。
 地図が色分けされ、幾つかの空白地帯が出現している。
「土地って言っても宅地と農地と山林を省いて、酪農? 的な所は空白のままにしてる」
「昔酪農をしてた農家があったんだって。丁度この辺」
 加奈が地図の一点を指さす。
 二人はほぼ条件にそってターゲットを絞り込んでいたらしい。
「じゃあラットマンとご対面と行くか」
 清史郎はビートルを発進させた。
 黄色いプラスチックの鎖を外し、立ち入り禁止の看板を無視して山道にビートルを乗り入れる。
 まだ新しい轍が山の中へと続いている。
「なんかそれっぽくね?」
「でもジョーカー、犯人がいて、武器とか持ってたらどうするの」
「そういう時の為にくぎ抜きがあるんだよ」
「頼りねぇなぁ、モデルガンでも持って来れば良かったじゃねぇか」
「ああいうのを持ち歩いていると職質された時に面倒なんだよ」
 清史郎がビートルを走らせていると、林が開けて納谷と牛舎が姿を現した。
 エンジンを停めて外に出てみる。
 納谷を後回しにして牛舎を見るが静まり返っている。
 が……
「あったぜ! ジョーク、ネズミの糞だ!」
 牛舎の床の部分に大量のネズミの糞が散らばっている。
「ジョーカー! こっちに犬の餌がたくさんあるよ」
 納谷を覗いていた加奈が言う。
「よっしゃあ! ラットマンのアジトを突き止めたぜ!」
 健がガッツポーズを取る。
「だが、ネズミがここにいないという事は、犯人は次のターゲットを既に拘束している可能性がある」
 清史郎の言葉に健と加奈が目を見開く。
「おそらく窓の無い遮音性の高い部屋を幾つか確保しているんだろう。一日二日ならネズミに餌をやらなくても死にはしないだろうしな」
 清史郎はスマートフォンを取り出して緒方をコールする。
『緒方だ。捜査に進展はあったか?』
「犯人がネズミを飼っていた場所を確認した。が、今は運び出されている。恐らく次のターゲットを拘束したか、そうでなくても狙いを定めたんだろう」
『仕事が早くて助かる。こっちは組員の点呼を行う』
「外国人労働者の方は?」
『フューチャー人材ネットの社長と社員が死んだんだ。手を回せる状況ではない』
 組関係者が立て続けに死んでいるというだけで緒方は手一杯だろう。
「とりあえず地図は送る。犯人が来たら捕らえられるようにしておいてくれ」
『捕らえるだけで済めばいいがな』
 緒方が通話を一方的に切る。
 清史郎は現場の写真と地図をメールに添付して送る。
「ヤクザが味方ってのは心強えな」
「裏を返したら失敗したらタダじゃ済まないって事でしょ」
「とりあえず事務所に戻ろうか」
 清史郎はビートルに足を向けた。どの道ここに留まっていても何かができる訳ではないのだ。
  〈5〉 
 
 「NPO法人ジャーニーオブアースの高田美恵と言います」
 四十代のキャリアウーマン風のスーツ姿の女性を前に、緒方は戸惑いを感じていた。
 ラットマンの事件がようやく片付きそうだと言うのに、どんなトラブルが舞い込んだのだろうか。
「慶田盛弁護士からこちらで違法に働かされている外国の方がいらっしゃるとか」
「ウチはただのケツモチでビジネスは企業がやっています。我々が直接関与している訳ではありません」
「それならばどうして外国の労働者に続いてそちらの企業舎弟の方々が殺されたのですか? 無縁という事は無いはずです」
 頑として引き下がらない様子で高田が言う。
「だとして一体どうなさりたいのですか?」
 緒方は尋ねる。NPOなどという胡散臭いものがヤクザに一体何の用があると言うのか。
「我々は国内の外国人の人権を保護しております。滞在に違法性がある場合、また、行政が適切な援助を行っていない場合、司法的手続きによって人権と合法的滞在を要求します」
 面倒くさい相手だと緒方はため息を押し殺す。
 外国人ビジネスはそこそこの収益率がある事と、麻薬の生産地である現地との繋がりもある事から簡単に手を引く事はできない。
 ――フューチャー人材ネットを切るか――
 フューチャー人材ネットで管理している外国人はせいぜい二百人といった所だ。
 だが、二百人も司法で戦うという事になればNPOも音を上げるだろう。
「いいでしょう。我々の知る限り、外国人労働者のデータをお渡ししましょう」
 言って緒方は若い衆にフューチャー人材ネットの裏帳簿を持ってくるように命じる。
 ――矢沢組はここの所踏んだり蹴ったりだな――
 
 「ニャンさんとの面会も上手く行ってね。不法滞在の外国人の滞在許可を正式に取得する為にNPO法人に依頼したよ」
 事務所に戻ると早々に慶田盛がやって来た。
「不法滞在者の弁護なんてできるものなのか?」
 慶田盛に椅子を勧めながら清史郎は訊ねる。
「そこが法の難しい所だ。パスポートはあるがビザは無い。本来強制送還という所だが、強制的に働かされており、今後も働かされる予定が存在し、生活の基盤も日本に存在している。と、なれば彼らの人権を守る為に裁判をすることはやぶさかじゃない」
 慶田盛が加奈の淹れたコーヒーに口をつける。
「今後も、と、言うが、フューチャー人材ネットは社員に続いて社長が殺されて運営が危うくなっている。緒方は会社を捨てるかも知れないぞ?」
「日本で働いていたなら、本来労基法が適用される。それが無視された状態で働かされていたなら、当然順守が求められる。フューチャー人材ネットが倒産したとしても、就労実態があったとして国は失業保険を支払わなければならないし、フューチャー人材ネットも相応の保証金を支払わなければならないだろう」
 そもそも、と、慶田盛は続ける。
「日本国憲法の基本的人権という考え方は国籍を問うていないんだよ。帝国憲法は臣民の、と、書いてあるから明らかに天皇の主権統治下にある、と、読めるけど現在の日本国憲法はそうじゃない。一九七九年、最高裁のマクリーン判決でも憲法第三章の基本的人権の保障は在留する外国人に等しく及ぶべしと言っている。判例が前例として存在するんだ」
 慶田盛が全員に聞かせるようにして言う。
 確かにその通りなら不法滞在などという言葉そのものが違憲という事になるだろう。
「これは一九四八年の国連の世界人権宣言でも批准されている事で……」
「言いたい事は大体分かった。要するに人類皆兄弟という事だろう」
「まぁ、それが理想ではあるんだけどね。最近は何かと閉鎖的になって来ている気がしてね」
 やれやれと慶田盛が肩を竦める。
「とにかく、外国人の保護はNPOに依頼したから何とかなるだろうし、法廷闘争という事になれば僕の出番だし何とかなるよ」
 言ってコーヒーを飲み干した慶田盛が席を立つ。
「ニャンさんの容疑が晴れそうだと思ったらまた地裁だよ。じゃあな」
 慶田盛が嵐のように事務所を去っていく。
「慶田盛のオッサンって法律の鬼みてぇだな」
「だから法の番人なんだろ」
 健に答えて清史郎は言う。
「不法滞在の人たちの弁護なんかしてお金になるのかな……」
「なるようなら俺たちだってもっといい暮らしをしてるだろうさ」
 加奈の言葉に清史郎は苦笑で答える。
 慶田盛弁護士事務所と三浦探偵事務所は利益度外視が持ち味なのだ。
  『組員は厳戒態勢だ。ラットマンのアジトも確保した』
 スマートフォン越しに緒方が言う。
『に、しても会社一つ取られるとは思ってもみなかった』
 緒方の言葉は苦い。どうやらフューチャー人材ネットの外国人労働者は慶田盛が解��する形になったのだろう。
「太っ腹だと思われた方が近所受けはいいんじゃないのか」
 清史郎が言うと苦笑が漏れる。
『震災の炊き出しの方が余程いい宣伝になる。まぁ、これでラットマンを仕留められれば意趣返しにもなるんだがな』
 緒方が好戦的な口調で言う。不法滞在者でスキャンダルを抱え、組員を殺された事で怒りのベクトルがラットマンに向いているのだろう。
 に、しても、と、清史郎は考える。
 矢沢組が総力を挙げるという事は矢沢組の中にはラットマンはいないという事になるのでは無いだろうか。
 だとすれば畑中の事件のタイムラプスビデオのトリックが仕掛けられない事になる。
 矢沢組の外の人間で三浦探偵事務所以外にハッキングを仕掛けている所があるとは思えない。
「警察に突き出すつもりなら殺さないでくれよ」
 清史郎が言うと小さな笑い声と共に通話が切れた。
  第三章       ジョーカーVSラットマン
  〈1〉
   十二月五日。清史郎は目覚まし時計で六時半に起きると地元のニュースにTVのチャンネルを合わせ、玄関に新聞を取りに言った。
『……速報です。本日午前六時新庄市警組織対策本部長が惨殺体が発見されました。新庄市警は連続殺人事件との関係を捜査中としており、同一犯の場合フューチャー人材ネットを狙った二つの殺人に続く第三の殺人であるとして捜査本部を設置し……』
「何だとぉ!」
 清史郎は思わず声を上げた。
 ヤクザが厳戒態勢の中、ラットマンは市警の、それも最もヤクザと緊密な組織対策本部長を狙ったというのか。
 ヤクザが警戒しているから警察を狙ったとでも言うのか。
 ――そんなバカな話がある訳が無い――
 清史郎はワンルームの室内を動物園の熊のようにうろつき回る。
 昨日ラットマンはネズミを運び出していた。
 ラットマンは昨日の時点でターゲットを捕捉していたのだ。
 と、言う事は最初から狙いは警察の組織対策��部長だったのだ。
 ――何故組対なんだ?――
 ヤクザを庇っているように見えたからか。
 だがこの殺人は外国人労働者による殺人という文脈から完全に外れている。
 ラットマンの狙いは一体何だと言うのか。
 清史郎は身支度を整えると事務所に向かう。
 定時の九時を待たずに加奈と健が事務所に現れる。
「ジョーク、ラットマン何考えてんだよ?」
 健が訳が分からないといった様子で言う。
「それが分かれば苦労しないし、この事件も起きていない」
「ヤクザの守りが固いからって言っても市警の組対本部長も相当よね」
 加奈が言う。個人としては狙う事もできるだろうが大物と言えば大物だ。
「でもこれで外国人労働者の線は完全に消えた事になる」
 清史郎は言う。外国人労働者が無差別に狙ったとして市警の組織対策本部長に当たる可能性は限りなく低いからだ。
「現場にはやっぱりお巡りがいっぱいいんのかな?」
「そりゃ、警察は警官が殺されたら本気になる組織だからな」
 清史郎は健に答える。警察は民間人の被害者には冷淡な事が多いが、身内の警察官となると目を血走らせて犯人を追いかけるものなのだ。
「何か納得できない。今回の殺人も死体を見せつけた訳でしょ? ラットマンは外国人の時は見せつけるような事はしなかったけど、ヤクザから先はわざわざ死体を見せつけてるのよね? 何かメッセージがあるんじゃないのかな?」
「殺人ビデオを作ってたヤツがか?」
 加奈の言葉に健が答える。
「それよりこれから市内は検問だらけの戒厳令みたいな事になる。ラットマンはアジトに戻るか高跳びしていないと逃げ場がなくなるだろうな」
 清史郎は腕を組む。
「軽トラックにネズミ乗っけてれば簡単に見つかりそうなモンだけどな」
 健が頬杖をついて言う。
「これが最後の犯行だとすればネズミを下水に逃がせばいいだけだ。ケージだって畳むなりプレスに紛れ込ませるなりすれば見つからないだろう」
「そっか……この殺人事件って、凶器は逃がせば消えるって事なんだよね」
「でもよ~、どういうミスリードなんだ? 全然繋がらねぇじゃんよ」
 清史郎は冷えたコーヒーに口をつけて考える。
 何かが引っかかる。単純だが、見落としてはならないもの。
 矢沢組の玄関のタイムラプスビデオ、市警組対本部長。
 ――まさか――
「健、大日警備保障に警察OBがいるか分かるか?」
 清史郎が言うと健が不思議そうな視線を向けてくる。
「大日警備保障は矢沢組のフロントだろう? で、警備会社とくれば警察OBの天下りだ。大日警備保障なら矢沢組のセキュリティも分かるだろうし、市警の組対本部長のスケジュールも手に入るかも知れないだろう? しかも大日警備保障はミンさんたちの寮を監視するみたいに事務所を構えていた。外国人労働者を監視するのが大日警備保障の役目だったとすればどうだ?」
 清史郎が言うと健が猛烈な勢いでキーボードを叩き始める。
「大日警備保障の人が外国人のスナッフビデオで小遣いを稼いでいて、それがバレそうになったからフューチャー人材ネットの社員と社長を殺した、って言うのは分かるんだけど、その後どうして警察の幹部を狙ったのか分からない」
 加奈が首を傾げて言う。
 清史郎にはその言葉に答える術が無い。
 まだパズルのピースは穴だらけのままなのだ。
「従業員の三分の一は警察OBだぜ。ほとんどシルバーだけどな」
 健がPCのディスプレイに一覧を表示させる。
「ヤクザと警察のパラダイスね」
 皮肉るような口調で加奈が言う。
「大日警備保障の昨日のシフトは分かるか? なるべく現役に近いヤツで非番のヤツは?」
「新田卓ってヤツかな……警察を暴力事件でクビになって採用されてる」
 健が履歴を表示させる。
 新田卓三十四才。空手三段柔道五段。元警備部巡査部長。デモの警戒で出動中市民に対する暴力で謹慎。謹慎中にNPOの代表を襲撃して重傷を負わせて依願退職となっている。
「空手三段柔道五段じゃあ私らじゃあ手も足も出ないんじゃない?」
 加奈が忠告するようにして言う。
 三人がかりでも新田を捕らえるなどという事はできないだろう。
 しかも現状ではただ怪しいというだけなのだ。
「新田の住所は分かるか?」
「もちろん。でもどうすんだ?」 
「スナッフビデオを動画配信で売ったならPCに痕跡があるはずだろう?」
 清史郎が言うと健が珍しく考えるような表情を浮かべる。
「新田本人がやったなら別にいいんスけど、新田が完全に肉体派で家にPCも無かったらどうすんだ? それに最初複数犯って言ってたじゃねぇか」
 健の指摘に清史郎は額に手を当てる。
 その可能性を忘れていた。
「新田のメールを覗く事はできるか? 組織的犯行なら組織が割れるかも知れない」
「もしかしたら組織だから組対本部長を消したのかも」
 加奈が言うと健がさも人使いが荒いといった様子でPCを叩き始める。
「だが、普通組対というのは暴力団対策部の事だぞ?」
「それくらい知ってるってば。でも、暴力団の中の暴力団って事もあるじゃん?」
「それなら一昨日の時点で刑事部の風間が何か知っていても良さそうなものだろう?」
「風間から組対に話が行ったって可能性は?」
「可能性はあるが、それならどうして風間を殺さなかったんだ? ラットマンを追う可能性があったのはあの時点では風間だったんだぞ?」
 清史郎が言うと突然健が触っていたPCから『君が代』が流れ出した。
「何だ? どうした?」
 清史郎が言うと健がPCの音声をミュートにした。
「新田は愛国防衛戦線って団体の構成員だったみたいだ。これサイトな」
 画面上では日章旗がはためき、スナッフビデオへのリンクも張られている。
「こいつらが外国人を殺してたっての?」
 加奈が声を上げる。
「でも、それがどうしてヤクザを殺す事になった?」
 清史郎は画面をのぞき込む。
『日本を愛し、日本を守る。汚らわしいドブネズミ、土人どもを取り除き、美しい日本を取り戻す。子供たちに残そう愛すべき祖国』
 清々しい程のヘイトだがそれがこの団体のスローガンであるらしい。
「これを素直に読むと、外国人を呼んでくるヤクザもターゲットになるって事じゃない?」
 加奈の言葉に清史郎は虚を突かれる。
 そこまで短絡的だったとするなら、フューチャー人材ネットを襲った惨劇には納得が行く。
 しかし、警察の組織対策本部長を殺した事には依然として結びつかない。
「健、この組織の構成員何かは分からないのか?」
「これ、ロシアのサーバーに作られてんだ。結構腕のあるヤツが組んでるっぽいし、相手のIPアドレスを掴んだくらいで組織が割れるなんて事は無いと思うぜ?」
 健の言葉に清史郎はスマートフォンを取り出して緒方をコールする。
『予想外の展開だな』
 挨拶も無く緒方が応じる。
「一つ聞きたいんだが、愛国防衛戦線という組織に心当たりは?」
『右翼団体で最近はネットを中心に活動しているらしい。親は同じだが組が違うから詳細は分からん』
「お宅の大日警備保障の新田がメンバーだった。で、そのサイトでスナッフビデオが垂れ流しになっている」
『大日警備保障は確かに親は同じだが組が違う。だが、大日警備保障か……』
「心当たりがあるのか?」
『外国人に警備が必要だと言って頭超えてから割り込んできたのが大日だ。てっきり小遣い稼ぎをしに来ているものだとばかり思っていたが……』
 緒方も知ってはいるものの詳細は分からないらしい。
『愛国防衛戦線は無動正義という男が代表を務めている……現在は新庄市に移り住んでいるらしい』
「その無動正義というのは何者なんだ?」
『ヤクザとしては三流だが、ネット右翼の最先鋒で荒しなんかで稼いでる男だ。与党を宣伝する書籍や中国や韓国を罵倒する書籍も発行している。最近は新しい道徳と歴史の教科書も作ってるそうだ』
 緒方も何か調べているらしい様子で言う。
 健が無動正義を検索してウェブサイトを表示する。
 『愛国心』と大きく書かれた下に禿頭の男の写真が載っている。
 よくよく見れば小さく愛国防衛戦線へのリンクも存在している。
「こっちでも確認した。一応文化人というカテゴリーには入れられているようだな」
 与党側のご意見番といった形でTVやラジオにも出演しているようだ。
『矢沢組としては親に判断を仰ぐしかないな』
 苦々しい口調で言って緒方が通話を切る。
「ジョーカーどうするの? 一応文化人らしいけど」
「やっている事は石器人並みだがな」
 実行犯ではないにしろ、無動正義の指示で愛国防衛戦線と大日警備保障が動いた事は間違いないだろう。
「無動って野郎をふん捕まえて吐かせりゃいいんじゃねぇか?」
「大日警備保障を忘れないでくれよ。俺たちは探偵で警察じゃない。暴力じゃなくて知力で物事を解決するのが仕事なんだ」
「それには証拠を探さないとね」
 加奈が応じて言う。
「見つけるべき証拠は殺害現場、軽トラック、ネズミが入っていたケージ、投光器、撮影用のカメラ。こんな所か」
「軽トラックなんて警備会社は幾らでも持ってんじゃねぇのか?」
 健が言う。
「新田の事務所の軽トラックからルミノール反応が出ればビンゴだ」
「大日警備保障の事務所は市内だけで八か所だ。それにコーンを乗せて動いてるかも知れなねぇし……」
「殺害現場が一番動かぬ証拠なんじゃない?」
 健に続いて加奈が言う。
「窓の無い部屋。地下室か、人の出入りの無い地下駐車場か……」
「それこそ検索できねぇよ」
 キーボードに触れずに指だけ動かして健が言う。
「忘れてる。現場は水で流して掃除できないと血が残るって事」
 加奈が言う。
 確かに最初の頃の映像は床がフローリングのようだったが、途中からリノリウムのようになり、照明も明るくなっていた。
 犯人グループは最初の頃の反省を踏まえ、条件のいい場所を探し当てたのだろう。
「ネズミをケージなりに戻す為にも密室が必要か……」
 清史郎は頭を巡らせる。間口がかなり狭くないとネズミの大脱走が起きる事だろう。
 そうすれば近所に知られる事になる。
 そしてこれまでの被害者の住所から考えて市内にある事は間違いない。
「コンテナだ」
 清史郎は言う。
「健、大日警備保障が警備している港のコンテナは分かるか?」
「なるほど、貨物のコンテナなら密室でライトを持ち込んだりすればそれらしくできるし、洗うのも簡単……」
 加奈が言うと健がPCのキーボードを叩き始める。
「パシフィックアジアって貿易会社と契約してやがる」
 健がgoogleearthで埠頭のコンテナを拡大する。
 黄色の貨物コンテナが八基並んでおり、そのうち一つか幾つかが犯行��使われた可能性が高い。
「ジョーク、乗り込むのか?」
 健の言葉に清史郎は考える。
 鍵を開けて中を確認するにはピッキングをしなければならないが、昼間にそれをすることは困難であり、そもそも大日警備保障が警備をしているのだ。
 新田に遭遇したら三人まとめてコンクリート詰めにされて、ドラム缶で海に沈められかねない。
 やるなら夜だ。
 現場を特定し、証拠を手に入れ、実行犯と無動正義を殺人容疑で起訴するのだ。
 
 
〈2〉
   深夜零時。清史郎は久々にジョーカーの衣装に身を包んでいる。
「僕は殺しが仕事で警護は仕事ではありません」
 ボートの上でスーツ姿の円山が両手に手袋をはめたまま言う。
「致命傷を負わせて欲しいんじゃない、殺されたら困る」
「あなたは殺し屋を何だと思ってるんですか」
 清史郎は今回の作戦に当たって円山健司に警護を依頼していた。
 緒方に兵隊を借りるという方法も無くは無かったが、矢沢組は格上であるとはいえ、愛国防衛戦線と同じ指揮系統に属しており、いざという時にどう動くか分からなかったからだ。
 健司と一緒にボートを漕いで岸壁に近づく。
 夜でも尚荷物の積み下ろしのある港は多くのライトで照らされている。
 大日警備保障のハイゼットが横付けされた黄色いコンテナがゆっくりと拡大されて来る。
「警備員……新田がいやがんな。こっちには気づいてねぇみてぇだけど」
「消して来ましょうか? 友達価格で一人五万円で手を打ちますよ」
 健に答えて円山が言う。
「もっと高額でいいから目を逸らせてくれないか?」
「中途半端が一番難しいんです」
 言いながら円山がアタッシュケースから花粉防止用のマスクのようなものを取り出す。
「円山くん、それ、何なの?」
 加奈が訊ねる。
「入手に苦労しましたがクロロホルムですよ。マスクに染み込ませてあります。これをかけてしまえば当分起きる事は無いでしょう。柔道家や空手家と戦って勝てるなんて思っていませんから」
 円山なりに気を使ってくれているらしい。
 ボートが岸壁に近づき、積まれたパレット越しに新田の頭が見える。
「それでは先に僕が行きます」
 円山が岸壁に腕をかけて身軽にパレットの裏に回る。
 ポケットから昔のカメラのフィルム程の大きさのものを少し離れた場所に放り投げる。
 瞬間、カメラのフラッシュのような光が瞬いた。
 新田が確認するかのように動き始める。
 円山が足音を殺して警備員の背後に回り込んでクロロホルムのマスクをかける。
 新田が身体を捩り、円山がコンクリートの床の上を転がる。
 新田が警棒を抜くと円山の手に拳銃が出現する。
 新田が一瞬動きを停めたかと思うと膝から崩れ落ちる。
 倒れた新田を円山がパレットの裏まで引きずってくる。
「その銃本物なのか?」
 健が健司に向かって訊ねる。
「まさか。クロロホルムが効くまでの時間稼ぎですよ。僕はもう少し周囲を探って来ます」
 健司がコンテナの影から影に移動するようにして姿を消す。
 これほどの人間に一度でも命を狙われていたのかと思うと恐ろしいものがある。
「ジョーカー行きましょ」
 作業員の服装の加奈が先に上がり、清史郎もそれに続く。
 健は清史郎と加奈の頭と肩と胸についたカメラの操作が仕事だ。
 清史郎は大日警備保障のハイゼットにルミノール反応液を振りかける。
 死体はブルーシートか何かに包まれていたのだろうが、靴跡がくっきりと浮かび上がる。
 足の大きさは二十七センチはゆうにあるだろう。
 実行犯に新田が加わっている事は確定的だ。
 続いて近場のコンテナの鍵を開ける。
 最も近いコンテナの中は空だった。ルミノール反応も見られない。
 続いて隣のコンテナの鍵を開ける。
 真っ暗な洞のような室内を照らすが血痕らしいものも機材を持ち込んだ形跡も無い。
 パトカーのサイレンが聞こえてくる。
 ――警察が来たならジョーカーの出番も無しか――
 清史郎はパレットの影に戻って加奈と合流する。
 やって来たのは覆面パトカーで、コンテナの前まで来るとサイレンを止めた。
 運転席から風間刑事が出てくる。
 周囲の様子を覗いながら一つのコンテナに向かって歩いていく。
 スーツ姿の手にはラバーの手袋がはめられている。
 ――おかしい――
 警察が来たなら何故一台、それも覆面パトカーなのか。
 他に警官も居なければ何故両手にラバーの手袋をしているのか。
 一番妙なのは……
 風間がポケットから取り出したキーでコンテナの鍵を開けようとする。
「ホワイトクリスマース!」
 清史郎はモデルガンのグレネードを抜いて飛び出す。
 鍵を手にしたままの風間が振り向く。
「チックタックチックタック宝箱の中身は何でしょう!」
「ジョーカー! この道化が!」
 鍵を放って風間が銃を引き抜く。
 刑事は事件性が無い限り銃の携帯は許されない筈だ。
 しかも手に握られているのは警察の正式拳銃のS&Wではなくトカレフだ。
 轟音が響いて清史郎の耳が一瞬聞こえなくなる。
 耳のすぐ傍を弾丸が通過したらしい。
 清史郎はグレネードを構える。
「ラップトップデスクトップトーテムポール!」
 清史郎が引き金を引くと花火が打ち出される。
 花火がコンテナに当たり色とりどりの光を放つ。
「見かけ倒しか! 愛国無罪! 死ぬがいい!」
 風間がトカレフの引き金を引く。
 清史郎は死ぬ思いでコンクリートの上を転がる。
 トカレフの装弾数は八。
 二発使ったから後六発残っているはずだ。
 轟音が立て続けに二回響く。
「トカレフモロゾフカラシニコフ!」
 清史郎は目くらましに花火を放つ。
 深夜の埠頭に水平に放たれた花火の光と轟音が響く。
 続けざまに轟音が三回。
 強運なのかどうやらトカレフの餌食にはならずに済んでいるようだ。
「我らの大義、邪魔はさせん!」
 轟音が響き、続いてカチリという金属音が響く。
 風間はトカレフの弾丸を打ち尽くしたらしい。 
「外国人の悲運も今日は我が身、ラットマン! 貴様の命運もここまでだ!」
 清史郎が歩み寄ると風間がS&Wを抜く。
「尽忠報国の志、英霊たちが共にあるのだ!」
 リボルバーが火を噴く。
 清史郎は反則だと思いながら再びコンクリートの上を転がる。
 警察官として発砲したなら、一発一発まで報告の義務があるはずだ。
 ――それすら無視すると言うのか――
 もう避け切れないと思った清史郎の周囲で銃弾が爆ぜる。
 銃を手にした風間の足が二日酔いのように揺らいでいる。
 瞬間、清史郎の目がコンテナの上に立つ円山の姿を捉える。
 円山が花火と銃撃の間にクロロホルムを振りかけていたのだ。
 揮発性の高いクロロホルムを吸い込んだ風間は意識を失いつつある。
「何故組織対策本部長を殺した?」
 清史郎は歩み寄りながら訊ねる。
 銃を構えようとした風間の手から銃が落ちる。
「薄汚いドブネズミ……土人どもの一掃作戦を無視したからだ。そもそも、最初のチンピラの死で新庄市の土人どもは一掃されるはずだったのだ。それを弁護士やら探偵やらが���魔をしたのだ。土人を引き入れた悪逆非道のブローカーを殺し、土人の組織がやったのだと上奏したのに組織対策は受け入れん。だから殺したのだ。だが組織対策本部長が殺されたとあれば、土人どもが結託して美しい日本を汚そうとしている事を疑う者もいるまい。これから美しい日本を取り戻す戦いが始まるのだ」
 意識朦朧としているせいだろう、聞いてもいない事までペラペラと風間が喋る。
「それは無動正義の指示か?」
「無動閣下は総理を代弁し天皇陛下の目を覚まさせる為に戦いを始められたのだ! 私のような一兵卒は臣従するのが……務め……というもの……だ……」
 清史郎の前で風間が崩れ落ちる。
 清史郎は風間の放った鍵を拾ってコンテナの扉を開く。
 無数の歯ぎしりをするネズミの鳴き声が響き、ネズミのケージ、TVスタジオのような照明装置、そして殺された被害者が吊るされていた現場が姿を現す。
 清史郎は健に映像と音声を切るように合図する。
「私は愛国という言葉が嫌いだから郷土愛と言わせてもらうがな、郷土愛っていうのは自分の国を移り住んだ人が住んで良かったと思える国にする事だ。他人に冷たい人間は自分にも優しくできない。誰かを迫害する人間に国を愛する事はできないんだ。覚えておけ」
 清史郎は倒れた風間に向かって言う。
「ジョーカー、今の一言バッチリもらったから」
 加奈が楽しそうに言う。
「動画配信する時は削除しろ。俺はジョーカーなんだぞ」
『言って無かったっけ。これリアルタイムで動画配信してんだ。しかもようつべとヌコヌコで』
 イヤホンから健の声が聞こえてくる。
 清史郎は顔から火が噴き出るような気分になる。
「だったらショータイムだ! これが愛国防衛戦線と大日警備保障の悪の城だ!」
 清史郎はコンテナの照明のスイッチを入れる。
 暗かった殺戮の舞台がステージのように映し出される。
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。
 今度こそ警察の大群が押し寄せてくるのかも知れない。
『ジョーク、動画停めたぜ』
 健が言うと円山が音も無くコンテナの上から飛び降りてくる。
「それではお暇しましょうか? 警察は厄介ですし」
「違いない」
 円山が素早くボートに飛び乗り、清史郎は加奈が乗ったのを確認して乗り込む。
 健がエンジンをかけて波を切る。
 入れ違いになるように港に赤いパトライトを点滅させたパトカーの群れがやって来る。
 パトライトの明かりが港の明かりに溶ける頃、清史郎はようやく詰めていた息を吐いてジョーカーのマスクを脱いだ。
「みんなお疲れ様だな。これで事件は一件落着だ」
 清史郎の言葉に三人の笑顔が答えた。
  エピローグ 
 
 
「……被告はビザを有しておらず、六十日を超えて無許可で労働していたのであり、これは入国管理法違反に相当します。従って強制送還が適当であると検察は判断します」
 検察が法廷で声を張り上げる。
「被告は六十日を超えて就労できるとしたフューチャー人材ネットの詐欺によって滞在したのであり、そもそもが入管で適切な説明を受けておりません。入管では入国目的を確認しているはずであり、六十日を過ぎて当人に確認を行わなかった入管に不備があるのでは無いでしょうか? 加えて被告は一日十八時間を超える労働に従事させられており、これは国籍を問わずに労働基本法��反に当たります」
 慶田盛が答弁する姿を清史郎は健と加奈に挟まれながら眺めている。
「異議あり! 被告の労働条件は入管法とは関係ありません」
 検察が慶田盛の陳述を遮る。
「異議を却下します」 
「そもそも日本国憲法三条十一項の基本的人権は日本国籍保有者のみに与えられたものではありません。一九七九年、最高裁のマクリーン判決の判例を資料として提出します」
「異議あり! 弁護人の資料は時世にそぐわぬ古いものであり判例として相応しくありません。二〇一八年十月二日改正出入国管理法案を資料として提出します」
「異議を認めます」
「出入国管理法は出入国に関する法律であり、被告は既に国内で就労済みであり法の適用外であります。また弁護人は改正出入国管理法に対し、一九七九判決に基づき違憲審査を請求します」
 慶田盛の言葉に法廷が騒然となる。
「一時休廷します」
 裁判官が言って慶田盛と検察を呼んで法廷を出ていく。
「慶田盛のオッサンって弁護士なんだな」
「昔から弁護士だよ」
 健に答えて清史郎は言う。
「何かドラマ見てるみたい」
加奈が呟く。
「私たちが風間や無動やらの事件を暴けなかったら、不法滞在どころか殺人容疑だったんだ」
「そう考えると俺たちすごくね。もっと注目されても良さそうだけどな」
「現場押さえて風間とやりあったのはあくまでジョーカーなんだから」
「へいへい、元優等生は言う事が一々真面目ですね~」
「うっさい!」
 清史郎が二人のやり取りを聞いていると裁判官と慶田盛、検察が戻って来た。
「本法廷は被告に情状酌量の余地があるとし、在留カード取得の意志の有無を確認し、在留の意志のある者には発行するものとする」
 裁判官が重々しい口調で言ってハンマーを打つ。
「これって慶田盛のオッサンが勝ったって事か?」
「概ね勝利って所だろうな」
「ミンさんたち幸せになれるといいね」
 加奈が嬉しそうに言う。
「どうだかな。国籍があってもヒーター一つでひいひい言わなきゃいけない国だからな」
 清史郎が言うと健と加奈が笑い声を上げた。
 
 
「と、いう訳でウチに入国管理官やら何やらが来て大わらわだ。こっちはシノギを一つ潰されたのに割に合わない話だ」 
 緒方は『殺し屋』のカウンターに座って焼酎を飲んでいる。
「それでも組員を殺した相手には意趣返しができたんでしょう?」
 言って殺し屋円山がグラスを磨く。
「動画配信でジョーカーに全部持っていかれたよ」
 組員に呼ばれて途中から映像を見ていたのだが、ジョーカーの一人舞台と言っても良かっただろう。
 内密に知っていれば大日警備保障と愛国防衛戦線を締め上げて金を巻き上げられたのだが、これでは踏んだり蹴ったりのままだ。
「その割には嫌そうな顔をしていないんですね」
 円山がいつもの笑顔のまま言う。
「欲の皮の突っ張った野郎はまだ見逃せるが、能書き垂れて悪さする野郎には反吐が出るんだよ」
 緒方が言うと円山の笑顔の質が変わったように見える。
「ええ。確かに。だから僕も殺し屋であって殺人鬼ではないんです」
 円山の言葉に緒方は久しぶりに笑い声を立てた。
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【小説】JOKER 第一部
プロローグ
  〈1〉
  深夜零時。
ロレックスに目を落とした緒方進(おがたすすむ)はブリーフケースを手に、生ぬるい海風を受けながら水銀灯の明かりで照らされた新庄市郊外の公園に立っている。
海に面した絶好のデートスポットなのだが、残念な事に交通の便が悪い上に駐車場すらなく、昼間でも子供でさえロクに遊びに来る事が無い。
緒方の両隣りに二人、公園の入り口と四メートル道路に停めたベンツに運転手代わりが一人貼りついている。
全員原色のスーツに金ネックレスならプロ野球選手の夜遊びと言えない事も無いだろうが、広域指定暴力団矢沢組の組員は落ち着いたビジネススーツが常だ。
そしてブリーフケースには二百万円分のメタンフェタミン――覚醒剤が入っている。
取り引き相手は調子に乗っている街の半グレ。
昔で言うストリートギャングだ。
半グレと言っても若者ではない。若い頃にやんちゃをしたがいいが足抜けに失敗し、ヤクザになる器量も無いチンピラだ。
 麻薬が若者に蔓延している、というのは半分正解で半分間違いだ。
 昨今の若造は非正規労働などで麻薬に金を渋るどころか、タバコにさえ金を落とさない。
 麻薬を使っているのは女を薬で縛って風俗で働かせるか、末端の構成員を薬で縛り付けるかのどちらかだ。
 スポーツ選手や芸能人は大金を落とすが、それは表沙汰にしない為の口止め料としての意味合いが強く、普通に流通している薬はそこまで高くない。
 そんな価格設定をしたら麻薬依存症患者は年収五千万円以上に限られてしまうだろう。
 そしてスポーツ選手や芸能人などの成り上がりはともかく、そんな高所得者は基本的に麻薬など嗜む事は無い。
 麻薬というのは貧乏人を貧乏人に縛り付け、思うがままに操る道具なのだ。
 緒方がそれでも月収に相当する額のブリーフケースの重みを感じていると、年甲斐もなくスウェットを来た男が軽のワゴンで公園に乗りつけた。
 逆向きにかぶった野球帽はヤンキースなのに、スウェットはボストン大学という統一性の無い男の後ろに三人の若造が続く。
 間違いなくアメリカのストリートギャングを意識しているが、残念ながらエミネムにもJAY-Zにも見えない。
 オーバーサイズの服をだらしなく来た日本人だ。
「緒方さん、金持って来ました」
 ヤンキース帽がポケットから雑に札束を出して見せる。
 それでクールだと思っているのだからタチが悪い。
「ブツはある」
 緒方が顎をしゃくると若い衆がヤンキース帽の札束を確認する。
 帯どめしてある訳でもなく、おおよそでしか金額は分からない。
 しかし、金額が違っていれば差額を血肉で支払う事になる事はヤンキース帽も理解しているだろう。
 若い衆がざっと金を数えた所で、水銀灯の下にトレンチコートの男が忽然と姿を現した。
 紫色のどぎついトレンチコートに西洋風のピエロのマスク。
「ハッピー、ハロウィーン」
 おどけたような合成音声が響いた時、緒方は背筋から嫌な汗が滲むのを感じた。
 遭遇するのは初めてだが、ヤクザや半グレをターゲットにしたハッピートリガーの噂は緒方も聞いた事がある。
 トレンチコートに突っ込んだ手が引き抜かれた瞬間、銃声と共に足下と背後の遊具で火花が爆ぜる。
「緒方さん!」
 若い衆の一人が銃を抜いてピエロ――ジョーカーに応戦しようとする。
 ジョーカーのトレンチコートが開いて、内側から映画でしか見た事の無いショットガンより大振りな銃器――グレネードランチャーが姿を現す。
「ハロウィーン? 失敬、まだ五月だ」
 ジョーカーのグレネードが火を噴くと同時に地面が爆発して公園に身体が投げ出される。
 半グレがへっぴり腰で公園の外に出ようとした瞬間、ジョーカーのもう一方の手に自動小銃が握られていた。
「屋根よぉーり高い、鯉のーぼーりー」
 自動小銃が瞬き、公園の出口付近に無数の弾丸がばら撒かれる。
 隙を突いて緒方は裏手に停めたベンツに向かって走る。
 初対面とはいえ、こんな火器を狂ったように撃ちまくる狂人を相手になどしていられない。
 自動小銃が向きを変え、ベンツの防弾ガラスに傷が穿たれる。
 それでも緒方がベンツに戻る間に、半グレの連中は軽のワゴンに向けて疾走している。
 ジョーカーのグレネードがベンツに向けられる。
 助手席に転がり込んだ緒方は叫んだ。
「出せ!」
 猛スピードで走り出すベンツをジョーカーは追って来なかった。
 緒方はあの猛烈な砲火の中、生き延びた事を奇跡のように感じていた。
  〈2〉
   午後八時。
 没個性的なダークスーツに身を包んだ三浦清史郎(みうらきよしろう)は新庄市駅前にある新庄商店街の場末のバー『サイレントヴォイス』を訪れている。
 新庄市は首都圏のベッドタウンとして栄えている太平洋に面した、人口八十万の町だ。
 駅前の商店街では二百を超える店舗が活況を呈しており、湾岸という事もあり工場地帯も存在する。
 耳に心地よいJAZZが流れる中、清史郎がショットを二杯開けた所でパリッとしたスーツを粋に着こなした慶田盛弁護士事務所の慶田盛敦(けだもりあつし)が現れた。
 互いに若手と呼ばれる頃に知り合い、今では二十年の付き合いになる。
「待たせたようだな。今幾つか案件を抱えていてね」
 慶田盛弁護士事務所は警察の冤罪事件を扱う事で、その道では知られている弁護士事務所だ。
 日本では警察が立件した裁判では99%の確率で検察が勝利している。
その検察がでっち上げたものを、証拠を積み上げ無罪に、更には真犯人を警察に突き出して解決す��。
 それが慶田盛弁護士事務所の仕事であり、清史郎の三浦探偵事務所は裁判の為の情報である事件の調査依頼を受けている。
 売れ筋である浮気調査などはしていない為、懐には常に隙間風が吹いている。
「最近はこっちも忙しくてね」
 清四郎はスコッチを注文した慶田盛とグラスを合わせる。
 『サイレントヴォイス』のマスターは、以前ヤクザに恐喝されていた所をジョーカーに扮して助けたという経緯がある。
 もっとも通い続けて十五年だから隠す事もありはしない。
 気のおけない古い友人のようなものだ。
「吉祥寺の死体遺棄事件の件は進展はあったのか?」
 吉祥寺の死体遺棄事件とは、富山純也二十五才宅で、川上千尋二十二才が自傷行為で死んでいたというものだ。
 死後二日後に近所の人間に通報された事から、警察は富山を死体遺棄事件の容疑者として逮捕。書類送検した。
 富山は無罪を主張し、慶田盛弁護士事務所に泣きつき、慶田盛が三浦探偵事務所に調査を依頼したのだ。
「川上は富山と同棲していた。富山の証言では自傷行為など考えられない」
 同棲していた富山が被害者の死亡時に出張で家を空けていた事はアリバイとして記録に残っている。
「それは本人から直接聞いている」
 慶田盛の言葉に清史郎は頷く。
「川上は都内の建築会社で事務をしていたが、実は裏で足つぼマッサージをしていた。これは歩合給で明細書も無い手渡しだ。小遣い稼ぎには丁度良かったんだろう」
 清史郎は店舗の写真を慶田盛に見せる。
 富山も都内の広告代理店に勤務していたが収入はお世辞にも良いとは言えず、川上としては将来を考えても副収入が欲しかったという所だろう。
 その辺りの事情はマッサージ店の同僚から聴取住みだ。
「富山は言っていなかった。どうやって調べたんだ」
 慶田盛が驚いた様子で写真を手に取る。
「足で稼いだんだよ。で、マッサージ店には川上に執着している、大��正則という客がいた。この男は二十歳でコンビニでアルバイトをしていたが、その給料のほとんどをマッサージ店の指名につぎ込んでいる」
 清史郎は大野と、彼がコンビニで働いている写真を見せる。
 大野という男が川上に執着し、横恋慕していた事は他の店員からも話が聞けている。
「じゃあ、そいつがストーカー化して川上を殺したのか?」
 やりきれないといった様子で慶田盛がスコッチに口をつける。
「このコンビニには別に野原椎名という二十五才のアルバイト店員がいる。この女は大野と交際していると公言しており、ストーカーの気質もあるようだ。大野は全面的に否定しているけどな」
 清史郎は野原と、野原が大野を尾行している写真をカウンターに乗せる。
 追っている者は追われている事は忘れがちなものだが、大野が川上を付け回し、その大野を野原が追い回していたという訳だ。
 そして道ならぬ恋に破れた野原は凶行に出た。
「じゃあ、野原が大野と川上の関係を勘違いして……」
 話を整理するようにして慶田盛が言う。
「川上の切創は手首と腕に集中している。これは自傷行為というより防御創だ。更に他に傷跡も無い事から自傷行為の常習という事も考えられない。仮に大野が殺したとするなら、体格差から刺殺になった事だろう。つまり傷跡から考えても同程度の体格の相手から切り付けられたと考えないと成立しないんだ」
 警察から入手した傷跡の写真には古い傷跡は一つも無い。自傷行為が常習性を持つという事を考えれば自殺の線は消えたと考えていい。
「川上は外に助けを求めに出ようとは思わなかったのか?」
「手のひらも切られていたんだ。普通の神経ではドアノブを握る事もためられただろうし、本人も富山が帰ってくれば助かると思ったんだろう」
 富山は残業や出張が多く、帰宅時間は一定していなかった。
 富山が出張を被害者に伝えていなかった事も証言から明らかになっている。
 清史郎は資料の束を慶田盛に渡す。
「毎度仕事が早くて助かるよ。これで検察の容疑を晴らして真犯人を起訴できる」 
 慶田盛が満足そうに言う。探偵業をしていて良かったと思える一瞬だ。
「で、娘の学費の件なんだが……」
 清史郎は慶田盛に話を切り出す。
 大学を卒業してすぐに結婚し、娘ができて半年と経たずに妻が離婚を申し出た。
 不倫である事は分かっていたが、彼女の名誉の為に黙って養育費を受け入れた。
 とはいえ、慶田盛弁護士事務所の依頼者の多くは金銭的に厳しい者が多く、その仕事を更に下請けする三浦探偵事務所の実入りはとても良いとは言えない。
 一年で五十件の冤罪事件を解決した年もあったが、その年の収入でさえ四百万を少し上回る程度だったのだ。
 テナント料と養育費を払ってしまえば食費もロクに残らない。
 半ば商店街の好意で事務所を置かせてもらっていると言っても過言ではない。
 そしてようやく養育費を払い終わったと思ったら、元嫁が娘の学費を請求して来たのだ。
 慶田盛いわく法的には支払いの義務は無いとの事だが、娘を大学に進学させてやりたいという思いはある。
「示談にするのが一番じゃないか? 向こうも本気で学費を巻き上げられるなんて思ってない」
「敏腕弁護士が中途半端な事を言うじゃないか」
「君の元奥さんは金が欲しいだけで最初から娘を大学に行かそうなんて思っていない」
 慶田盛の言葉に清史郎は石を飲んだような気分になる。
「私が支払うと言えば嫌でも大学に行かせなくてはならなくなるだろう」
 元嫁に対する愛情など欠片も無いが、娘に対する愛情は残っている。
「そんな金が君のどこにあるって言うんだ。夕食を場末のバーボンで済ませる男の食生活がこれ以上荒むのは見るに堪えない」
 慶田盛の言葉に清史郎はため息をつく。
 確かに慶田盛の言う事に間違いは無い。
 ――あの女のせいで自分も娘も……――
 ジョーカーとして稼いだ金を出せば解決可能だが、帳簿に乗らない金を出したなら国税局に乗り込まれる事になる。
 結局私生活は何一つ変わっていないのだ。
「しばらくしたら仕事の量を増やすさ」
 ジョーカーを演じ始めたのは与党と矢沢組が推し進める新庄市再開発計画を阻止する為だ。
 その行方を占う知事選挙が四か月後に控えている。
「もう歳なんだ。いい加減町を騒がすハッピートリガーなんてやってられないだろう」
「これはそこいらの冤罪なんてモンとは次元が違う。新庄市に生きる人々の生活がかかっているんだ」
 清史郎が言うと慶田盛が苦笑する。
「相変わらず正義感だけは人一倍だな」
「皮肉を言うならお前も大手の弁護士事務所に転職したらどうだ?」
 清史郎の言葉に慶田盛が笑みを浮かべる。
「それこそ真っ平だ」
 清史郎は笑みを交し合うとグラスの底に残ったバーボンを飲み干した。
 慶田盛も自分も世間で言う所の真っ当な大人にはなりきれていないのだ。
  〈3〉
   今年で二十七才になる円山健司はマンションの部屋のボタンを適当に押していた。
『はい、どちら様ですか』
「amazon様からの御届け物です」
 本物のamazonの箱を抱え、配達員の服装をしているのだから疑う者も無いだろう。
 ――注文客以外は――
 マンションのオートロックをパスしようと思ったら、住人について行くのが一番手っ取り早い。
 しかし、それ以上に手堅いのが郵便物の配達員になりすますという方法だ。
 amazonであればほとんどと言って良い人間が利用しており、世帯主では無くてもファミリー向けマンションなら家族が注文している可能性もある。
 そしてオートロックをパスしてしまえば、実際にその部屋にものを届ける必要など無いのだ。
 健司はオートロックをパスすると非常階段で配達員の服装を箱に収め、ビジネススーツに身を包んだ。
 どこに居ても違和感を感じさせないという点で、ビジネススーツはほぼ最強のアイテムと言える。
 健司は時刻が二十二時になるのを待って、十四階の廊下にクリスマス用のランプを天井から垂れ下がるように飾り付けた。
 全て両面テープで一瞬で剥がせるようにしてある。
 更に待つ事一時間、程よく酔ったスーツ姿の男がエレベーターから出て来る。
 健司は息を飲んで男の背後につけ、クリスマスの飾りつけを一斉に点灯させる。
 男の胡乱な目と意識が飾り付けに向いた瞬間、健司は男の両足を抱えるようにして廊下から外に向かって放り出していた。
 悲鳴を上げる間も無く、鈍い音が階下から響く。
 八階以下なら死亡の確認も行うが、十四階で生きている事はまず無い。
 飾り付けの一方を引っ張って仕掛けを回収し、箱に収めてエレベーターで悠々とマンションを後にする。
 明日には会社員自殺の報が流れるかも知れないし、流れないかも知れない。
 いずれにせよ、目的を果たした健司は『殺し屋』へと足を向けた。
 『殺し屋』は歌舞伎町の風俗ビルの一室にある。
 夜更かししてまで仕事をする気は無い為、殺し屋と書かれた看板の電源を入れ、のれんをかけるのは明日の朝九時になってからだ。
 ボックス席が二つにカウンターが六脚。
 お品書きには殺し方のメニューが書かれている。
 客はその中から死因や死体の放置の有無などを選択し、健司は見積もりを出してターゲットを殺す。
 ごくごくシンプルなビジネスだ。
 今日のターゲットはヤクザに貸し渋りをした銀行の支店長で、死因は自殺で死体は放置で良いという事なので仕事としては楽なものだった。
 とはいえ、調査に四日かけて二百万の報酬。
 ヤクザが稼ぐ額に比べれば雀の涙だが、踏み倒される事を考えれば前払いでささやかに仕事をする方が余程いい。
 殺し屋も楽な仕事ではないのだ。
  〈4〉
   渋谷のクラブ『クイーンメイブ』で、三浦清史郎は所在無げに立っていた。
 本日のDJはKENこと前田健だ。
 アップテンポのR&Bと若い男女の支配する空間で、中年の疲れたサラリーマンといった体の清史郎は明らかに浮いている。
 健がボックスのVIP席を用意してくれているが、一人でそんな所に座っていても落ち着かないだけだ。
 健のパフォーマンスが一段落した所で、清史郎は二十歳過ぎのTシャツにデニムのショートパンツといった服装の女性に声をかけられた。
「ジョーカー、何疲れてんの?」
「仕事とここの空気のダブルパンチだ」
 声をかけて来たのは長い髪を茶色に染めた飯島加奈というコンビニの店員だ。
 快活な女性で、見ている限り店長より仕事をテキパキとこなしているように見える。
 仕事さえ違えば有能なのかも知れないが、このご時世では仕事があるだけでも儲けものだ。
「ノれば楽しいって」
 加奈がしなやかな身体を動かしてダンスらしきものを踊って見せるが、清史郎には真似をする事もできそうにない。
「俺の頃、ダンスは学校の授業に無かったからな」
 清史郎はカウンターでアーリータイムズを注文する。
 酒屋ではボトルで買っても千円程度なのに、クラブではショットで四百円取られる��だから暴利もいい所だ。
「私の頃だって無かったってば」
 加奈がカシスオレンジを注文しているとパフォーマンスを終えた健が近づいて来た。
「どォよ、俺のパフォーマンスはよ」
「毎度疲れるよ」
 清史郎は肩を竦めて答える。
「釣れねぇ態度、クイーンはどうだった?」
 健が加奈――クイーンに話題を振る。
「いいんじゃない? ここではナンバーワンなんでしょ?」
 楽しんではいたが加奈もDJの良し悪しは良く分かっていないようだ。
「だろ? 俺、最高にクールだったよな?」
 言って健がスクリュードライバーを注文する。
 健だけは店舗でDJをしている為にドリンクが無料だ。
「センスがいいのは認めるけど、ここのクラブで一番でも他所で一番って事にはならないから」
 ぴしゃりとした口調で加奈が言う。
「これだけで食っていけるとは思ってねぇよ」 
 悄然とした口調で健が肩を落とす。
 DJを優先している為、不規則な生活の彼は普段は日雇いのバイトをしている。
 全員が飲み物を手にした所でダンスフロアを横切ってボックス席に向かう。
「に、してもよジョーク、昨日のヤクザ連中のビビりっぷりは最高だったな」
 楽しそうな口調で健が合皮のソファーに腰を下ろす。
「エースは機械いじってただけでしょ? 仕込みをしたのはあたしとジョーカーなんだから」
 加奈が健――エースを叱責するような口調で言う。
「俺は俺で神経使ってんだって。第一お前らだけじゃWi-Fiのクラッキングもままならねぇだろ」
「その危険地帯にジョーカーが踏み込んで機材を仕掛けてるんじゃない」
 清史郎はITに関しては門外漢だが、昔ながらの盗聴や盗撮、ピッキングといった技術は職業柄身につけている。
 しかし、大手の情報企業と契約していない為、早いという利点は存在しない。
 現在一般的な興信所は大手情報企業と契約しており、端末の通信履歴からクレジットの支払い履歴まで二十万円から六十万円でパッケージで購入している。
 ETCの履歴まで買えるのだから、全て現金で賄い、更に携帯電話もスマートフォンも持たないので無ければ市民の生活は筒抜けだ。
 だが、情報企業に頼るという事は、利害が密接に絡んでいる対象を調査できなくなるという事も意味している。
 従って検察を敵に回している清史郎は情報企業を利用できないのだ。
 その清史郎がジョーカーという仕事をするに当たって健をスカウトしたのは、単にDJは複雑な機材を器用に使っているという思い込みだけだった。
 最初はヤクザに嫌がらせをするただの乱射魔演出という構想だったのだが、健のITスキルが想像以上に高く、健の元同級生で実務能力に長けた加奈が加わり、神出鬼没のハッピートリガー、ジョーカーが誕生する事になったのだ。
「そこはWINWINじゃね? 俺の真似は二人ともできないんだろ?」
 勝ち誇った様子で健が笑みを浮かべる。
「現金回収したの私なんだからね」
 封筒を手にした加奈が健に向かって言う。
昨夜のヤクザの取り引きでジョーカーが登場した時、どさくさに紛れて半グレの落とした金を拾ったのは加奈なのだ。
「で、幾らになったんだよ」
「がっつかないの。バラけてたので百十一万。ジョーカーが三十一万でいいって言ってるから四十万」
「あざーっす!」
 健が笑顔で加奈から封筒を受け取る。
「に、してもボれぇよな。俺なんて一日工事現場で働いても七千円だぜ」
「私だって八時間みっちりシフト入って八千円行かないんだから。あんたは税金の天引きが無いだろうけど、私はガッツリ取られるんだから」
 加奈が小さくため息をついて言う。
「私は確定申告で青息吐息だよ」
 清史郎は苦笑を浮かべる。
 本業の探偵は労力の割に儲かっているとは言い難い。
 その中で臨時でも帳簿に乗らない収入があるのはありがたい事だった。
「ジョーク、辛気臭ぇ話は無しにしようぜ! 今日は俺のおごりだ」
 健がバーテンにボトルを注文する。
 ――今日の所は好意に甘えておこう――
 清史郎は明日から始まる地道な仕事に思いを馳せた。
   第一章 殺し屋VSジョーカー 
  〈1〉
  「まさかお前まで手玉に取られるとはな」
 純和風の邸宅の四十畳ほどの上座から、矢沢組組長矢沢栄作の声が響く。
 矢沢は東大出身で大手の組の金庫番をしていた経済ヤクザだったが、手腕を見込まれて盃を受けて新庄市を任された男だ。
 大型カジノ施設と契約し、建設費用だけで二千億円を超える大規模開発事業に着手。
 地域活性を謳ってケツモチをしている与党の知事を、市民公園を作ると言って与党の市長を当選させ、財務局を握って人口八十万程度の町である新庄市の経済活性としてカジノ施設を呼び込む段階まで運び込んだ。
 しかし、新庄市には古くからの商店街があり、カジノ施設に一斉に反対。
 この動きを野党が連合して支援した事で、矢沢組の工作虚しく市会議員選挙でまさかの野党大勝与党過半数割れとなった。
 そこで組として商店街に圧力をかけ、一方で麻薬や売春で治安を悪化させて風紀を乱すという策に出た。
 そこに商店街からの刺客のように出現したのがジョーカーだ。
 従って、今回の取り引きでたかだか百万程度の損失を出した事は問題ではない。
 手足となる半グレが震えあがり、商店街が盛り返してしまう事の方が問題なのだ。
 ジョーカーは確実にドラッグか銃のある時にしか出現せず、空取り引きで警察を使って捕えようとしても決して出て来ない。
 支配下にある警察でも公安とマル暴がジョーカーを追っているがかすりもしない。
「完全に俺の失態です」
 緒方は畳に額をこすりつける。ジョーカーが来るかも知れないと備えていても、圧倒的な火力を見せられて対応できる組員など存在しなかった。
「お前で駄目なら誰が行っても同じだろう。幸いヤクは複数のルートでさばいている。一か所の取り引きが潰れたくらいでプランに変更は無い」
 矢沢の言葉に緒方は頭を下げ続ける。
 ジョーカーに遭遇すれば十中八九取引どころではなくなるし、組員の士気の低下につながるだろう。
 しかも、ジョーカーの正体はまるで分らない。
 ヤクザが取引の現場に発砲魔が現れたと被害届を出せば、警察と幾ら緊密な関係にあるとはいえジョーカー逮捕の前に麻薬取引や銃刀法で御用となる。
 警察が味方と言っても、捜査させる理屈が見つからないのだ。
 従って、科捜研を動かしてジョーカーを特定するという事もできない。
 かと言って、ジョーカーらしき人物は大手の情報企業のデータベースにも存在しない。
 そもそも個人が特定できていないのだから、企業から情報を購入しようが無い。
「カジノ施設反対派は金で分断しろ。一億二億なら建設の際に財務局の法で水増しできる」
 矢沢の言葉を緒方は脳裏で反芻する。
 これは緒方の裁量で動かして良いのが二億円程度という話だ。
 商店街含め、新庄市でカジノ施設に反対している事業者は七百に上る。
 二十万円づつ配ったところで効果は見込めないし、家業と住み慣れた町を捨てさせるには最低でも二千万は必要になり、十人買収したところで七百の事業者から見れば雀の涙だ。
 二億という金をどう効果的に使うか。
 麻薬の売買で風紀と治安を乱そうとしたところで、商店街が機能して失業者も少ないという環境にあっては大きな効果を見込めない。
 警察は見逃してくれても市民に監視されているようなものなのだ。
 ――いつまでもこの状況を引き延ばす訳には行かない――
 半年後の知事選で知事が敗れ、反対派の知事が誕生すればカジノ施設誘致契約が破談となり、二千億を超える金が利益ではなく損失として計上される事になるのだ。
 それは矢沢組の滅亡を意味していた。 
 
 〈2〉
   午前八時半。
 『殺し屋』に出勤した健司は店舗の掃除を始める。
 明るく綺麗な店舗は客商売の基本中の基本だ。
 『殺し屋』を訪れる客は決して多くはないが、だからと言って手を抜いて良い理由にはならない。
 風俗ビルの一室というどうにもならない立地上の限界はあるにせよ、一国一城の主として近隣の風俗店や飲食店と比較して店舗が清潔かつ快適であるという自負がある。
 カウンターとボックス席を磨き上げ、店の前に出した看板の電源を入れて暖簾をかける。
 健司はカウンターの中で客の訪れを待つ。
 健司が『殺し屋』を始めたのは大学卒業から四か月が過ぎてからだ。
 在籍中に内定を取る事ができず、無職のまま卒業を迎えて露頭に迷う事になった。
 住んでいたアパートも追い出され、頼ったのは風俗嬢になった同級生。
 働いているという店舗を訪れ、偶然奥のテナントが空いているのに気付いたのだ。
 幸運な事に鍵は開いたままで、住む所の無かった健司はそのままそのテナントを利用する事にした。
 しかし、いつまでも居座る訳にも行かず、就職する必要があったが卒業した後では求人がほとんど無かった。
 そこでテナントを利用して自営業を始めようと考えたのだ。
 偶然町で見かけた『冷やし中華はじめました』という張り紙をヒントに、テナントのドアに『殺し屋はじめました』というビラを貼ったのだ。
 それまで人間を殺した事は一度もなかったが、どんな仕事にも初めては存在すると割り切った。
 最初��客は風俗ビルで働く風俗嬢だった。
 ターゲットはストーカー化した客。
 苦労はしたものの、一か月で痕跡を残さずに殺す事に成功した。
 以後、口コミで話題となり、多くの人が『殺し屋』を訪れるようになった。
 依頼を二百もこなす頃にはだいぶ勝手が分かってきて効率的に殺す事ができるようになってきた。
 四年が過ぎた今ではオプションサービスも充実させ、店もリフォームした。
 今では年収一千万を超えている。
 ヤクザに比べればささやかなものだが、悪事を働いているわけではないから商店主としてはこの不景気にあって良い方ではないかとも思っている。
 健司がカウンターに立っていると、一人の客が暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ! ご注文がお決まりになりましたらお申しつけください」
 言って冷茶を注いだグラスをカウンターに座ったビジネスマン風の男の前に出す。
 男がお品書きを見て目を細める。
「殺しの注文というのは相手の氏名が分からないと無理なのか?」
「素行調査であれば興信所を使われるのが一番です。当店では速やかな仕事を心がけておりますので本業以外の仕事は見合わせております」
 健司は男の様子を観察する。一見するとビジネスマンに見えるが、作り笑いに慣れていない、否、笑わない職業である事が見て取れる。
 能面のような顔の裏に押し殺した暴力的な雰囲気は、警察か暴力団員かそれに近い者だろう。
「前金で二千万」
 男がにこりともせずに言う。
「当店は誠実がモットーでございます。確実に殺せないターゲットをお引き受けす���事はできません」
「それなら総理大臣でも殺せるのか?」
「名前と住所どころか一日のスケジュールまで手に入りますから、さほど難しく無いターゲットだと考えております。ただし知られている通り警備も厳重ですから時間も必要となり費用も高くなります」
 健司が言うと男が低く唸る。
「総理大臣でも不可能ではないと?」
「もちろん、オーダーが首つり自殺などですと難しい案件にはなります」
「首つり自殺は難しいか……面白い事を言う」
 男の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「二千万はターゲットの調査費用という事でどうだ? 成功報酬は四千万」
 健司は小さく息を飲む。
 金払いがいい相手である事は確かだが、それだけの力の持ち主でもあるという事だ。
 ――失敗すれば命は無い――
 しかし、ヤクザを敵に回せばテナントから追い出されるだけでは済まないだろう。
「繰り返しになりますが当店は殺し屋でして、興信所ではありません。ターゲットの補足は素人のようなものです。その二千万円でターゲットを補足されましたら確実に殺させていただきますが、二千万円を頂いてもターゲットを補足できるとは限りません」
「二千万を手に高跳びとは考えないのか?」
「飛んだ先で失業すれば同じ事です。地域の皆様に愛される店づくりが当店のモットーです」
 健司の言葉に男が破顔する。
「俺は矢沢組の緒方。二千万はここに置いていく。ターゲットはジョーカーと言われている銃の乱射魔だ。俺はお前が気に入った」
 言って冷茶を飲み干した緒方が席を立つ。
 ――これは大変な事になってしまった――
 健司はジョーカーという謎の相手を探るために、出したばかりの看板と暖簾を引っ込めた。
  〈3〉
   午前五時。
 健は薄汚れた作業服を着て、年季の入った肉体労働者の列に混じっている。
 ホームレスも珍しくないが、ホームレスでもとび職になると一日に二万円以上稼いでホテルに泊まっていたりするから、定住しないのは税金対策といった事情が大きいだろう。
 午前六時半、一台のワゴンが健の前に停車する。
「おい、若ぇの、乗れ」
「うぃっす」
 筋肉隆々といった古参の肉体労働者に囲まれていると既にやる気が萎えてくる。
 労働者ですし詰めのワゴンで移動する事小一時間、朝日が白々と空を照らす中健は自分には一生縁の無さそうな高級マンションの現場にいた。 
 現場監督のどうでもいいような話に続き、ラジオ体操をさせられる。
 眠いだけならまだいい、ラジオ体操が終わってからが地獄だ。
「コンパネ運んで来い! トラック入れねぇじゃねぇか!」
 自分に向けられた言葉と気付いた時には、組まされるらしい土工の目が険悪になっている。
 男がコンパネと呼ばれる90cm×180cmの板を十枚程抱えて通用口に出ていく。
 健の腕力では精一杯頑張った所で三枚だ。
 この板を敷いてその上をトラックが走れるようにするのだが並べるだけでも容易ではない。
 健はもともと運動神経が良い方ではない。
 高校では情報科学部でLinuxを使用してITの全国コンテストで優秀賞を手にした生粋のインドア派だったのだ。
 PCの扱いと音楽好きなのとでDJには一定の技術も知識もあったが、一般科目では赤点スレスレで奨学金がもらえるような成績でも無かった。
 そんな中、PCを触れて音楽もできるDJという職種を選んだ。
 しかし、一晩パフォーマンスをしても六千円程度にしかならないし、他にもDJはいるのだから毎日入る事などできはしない。
 従って一人暮らしのワンルームの家賃を払っていく為には、DJの仕事を妨げない、時間にゆとりのある職業に就くしかなかった。
「チンタラ運んでんじゃねぇ! 三枚しか運ばねぇってタマついてやがんのか」
 年配の作業員がヤニの混ざった唾を吐き捨てる。
 健が運んだコンパネをトラックの通路に並べていると、いら立った様子の作業員が近づいて来る。
「シャベル持って付いて来い」
「シャベルってどこにあるんスか?」
「ふざけてんのか! テメェで見つけろ! 遅れたら承知しねぇからな」
 健は屈辱にも似た気分に耐えながら、建設現場をうろついて乗ってきたワゴンでシャベルを見つける。
 今日拾われた工務店はどうやらマンションの裏手に穴を掘っているらしい。
「ここに管通すんだからな、掘れたら石詰めだ」
 幅は四十センチ程、深さは六十センチは掘らなくてはならない。
 総延長は二十メートルにはなるだろう。
 小型のユンボを使って欲しいが、既に他の管と入り組んでおり不可能らしい。
 配管の順序が逆になるという事は設計ミスの可能性も高いだろう。
 健はだるくなる腕を支えるようにして必至でシャベルで穴を掘る。
 要領の良し悪しなど分からない。分かるのは掘らなければ怒号と罵声が飛んでくるという事だけだ。
 昼過ぎに作業が終わったと思いきや、
「ネコでガラ片付けて来い」
「ネコって何っスか」
 反射的に首を竦めながら健は尋ねる。
「手押しの一輪車だ! この使えねぇボンボンが……」
 健は奥歯を噛みしめながらネコを探して歩きまわる。
 ネコを見つけてもガラ運びという重労働が待っている。
 健は暗澹とした気分で工事現場を歩き回る。
 ――俺だってジョーカーの一員だってのに―― 
  〈4〉
  「暑っつ~い! ったく、エースのヤツ今日は土建屋だなんて……」
 加奈がマイナスドライバーで水銀灯にへばり付いたガムを剥がしながら言う。
 ガムの中には火薬と小さな信管が仕込まれている。
「休みがお前だけだったんだから仕方ないだろう」
 清史郎はシャベルで地面に埋まった火薬を穿りながら言う。 
 乱射魔ジョーカーには秘密がある。
 それは実際にはモデルガンしか持っていないということだ。
 そこで、予め花火で集めた火薬をセットしておき、ヤクザが商売をしようという所で爆破して妨害する訳だ。
 モデルガンには赤外線カメラが搭載されており、Bluetoothで健の端末とつながっている。
 清史郎が引き金を引くと同時に健が火薬にセットされた信管を反応させ、銃撃のように見せかけているというだけなのだ。
 だからグレネードランチャーの爆発と言っても、実際には大きな花火が地面の下で爆発しているだけで殺傷能力など存在しない。
 とはいえ、撃たなかった方向にも埋め込んだ火薬はあり、子供などがうっかり触って怪我をしてしまう可能性もある。
 従ってジョーカーとしての仕事の後は必ず後始末が必要になるのだ。
「まぁ、ジョーカー一人に炎天下で作業させるわけにも行かないし。歳だし」
 加奈の言葉に清史郎は苦笑する。
 加奈と健は二十一歳だが、清史郎は四十五歳だ。
 肉体的に無理のきかない歳という事は重々承知の上だ。
 炎天下でひたすら火薬を撤去する事四時間。
 仕事を終え、加奈と一緒にたこ焼き屋の店先で麦茶を飲む。
 近年おおだこが当たり前になっているが、清史郎が行きつけにしている昔ながらのたこ焼きはピンポン玉より少し小さい程度で味も良く、言えば店のおばちゃんが麦茶を出してくれるというサービスがついてくる。
「おばちゃん、最近ヤクザはどうだい?」
 清史郎は店主兼店員の初老の女性に声をかける。
「あんたに相談したらそれっきりだよ。派手なドンパチがあったみたいだけどね」
 おばちゃんの言葉に清史郎は笑顔を返す。
 警察や興信所に相談してもヤクザ絡みの事件は解決しないが、しがらみの無い三浦探偵事務所とジョーカーなら不可能も可能になるのだ。 
 商店街や商工会の中でも事情は不明だが、清史郎に依頼をすればヤクザが引っ込むという都市伝説めいた話が広がっている。
 だが、あまりに知られ過ぎると清史郎がマークされ、ジョーカーを出現させられないという事になる。
 従って三浦探偵事務所は慶田盛弁護士事務所とは緊密な関係にあるが、地元の商店街とは付かず離れずの関係を続けているのだ。
 加奈と一緒にたこ焼きを食べているとスマートフォンが着信を告げる。
 健が清史郎が仕掛けた無線wifiのクラックシステムで、ヤクザの新たな取引を察知したのだ。
 ――健が稼ぎたがるのも分かるがな――
 火薬を調達し、設置し、身体を晒す身としては、ヤクザが本腰を入れない為にもジョーカーの出番は抑えておきたいところだった。
  〈5〉
   健司は朝のラッシュアワーで意図的に駆け込み乗車に失敗した。
 健司に乗車を妨害された形のスーツ姿の男性が、苛立った様子で最前列に立つ。
 山手線の次の列車が来るのは四分後だ。
 健司はポケットからsimフリーのスマートフォンを取り出す。
 simフリーではあるがsimも入れていなければ、個人情報にかかわる情報も一つとしてインストールしていない。
 健司はスマートフォンを操作するフリをして考える。
 ジョーカーは新庄市から出ていない。
 矢沢組から健司の得た情報は散文的なものだった。
 ヤクザが取引をしようとする、もしくは刀や銃で武装した状態で市民を脅そうとする。
 ヤクザが警察に通報できない時に、狙ったようにジョーカーが出現している。
 単純に考えて情報が筒抜けになっているという事だろう。
 乱射魔と支離滅裂な口調という仮面が狂人を作り上げているが、警察を巧みに避けている事からもジョーカーが充分過ぎる程に理性的な人物である事が分かる。
 相手は狂気の人間ではない。恐ろしい程の知能犯だ。
 健司は矢沢組から入手したドライブレコーダーの映像を繰り返し『殺し屋』のカウンター内のPCで再生した。
 ヤクザが出ていき、しばらくして銃火がひらめき、慌てふためいたヤクザが逃げてくる。
 どの映像も流れは同じだ。ヤクザがドライブレコーダーを使っているというのは不思議なものだが、ヤクザも交通事故では警察の世話になりたくないという事だろう。
 ジョーカーの紫のトレンチコートとピエロの仮面にはモデルが存在する。
 アメコミ最高の悪役とも言えるバットマンに出てくるジョーカーだ。
 相手の頭脳から推し量ってもそれくらいの事は分かってやっているのだろう。
 敵を混乱させるという意味ではジョーカーは最高の仕事をしていると言っていい。
 では、ジョーカーの行動にロジックは存在しないのだろうか。
 その最大の理由は新庄市に活動を絞り、矢沢組と戦っているという点に存在するだろう。
 ジョーカーの動機が判明すればその正体を絞り込めるはずだ。
 健司の後ろに列ができ、周囲が人垣と言っても良い程になる。
 ほとんどの人が急いでいるかスマートフォンを操作している。
 毎日このような息苦しい思いをするのが分かっていて、どこの会社も出社時刻を一緒にしているのか謎だが、このような状況が起きる事で仕事を円滑に進められるのも事実だ。
 駅のホームは渋谷のスクランブル交差点のように混雑しており、点在する監視カメラからも死角になって���る。
 列車が見えた所で健司はsimフリーのスマートフォンを線路に放り投げた。
「落ちましたよ」
 健司の言葉に周囲の人間の視線が線路に落ちるスマートフォンにくぎ付けになる。
 健司が乗車を邪魔した男が慌てた様子で胸ポケットに手を当てる。
 健司はスマートフォンを拾おうとするかのように踏み出しながら、素早く男の背を押す。
 男が線路に転がり落ちるのと列車が到着するのは同時だった。
 ブレーキ音と悲鳴が駅のホームを支配する。
 ――これで今日もお客様を笑顔にできた――
 健司は動揺を装いながら駅員の誘導に従って満足感と共にホームを後にした。
  〈6〉
   潮風が香る深夜の埠頭の倉庫街。
 緒方は三十人の組員を伏せさせ、更に暴走族を張り込ませて取引に臨んだ。
 捌くドラッグの金額は一千万。
 ジョーカーが金を狙っているならこの好機を逃すはずが無い。
 半グレの三団体の代表がベンツで乗り付け、ヘッドライトの光を背に向かってくる。
 ――どうするジョーカー――
 傍から見ればこれ以上のカモは無いだろう。
 しかし周囲には銃で武装した構成員と、それに数倍する人数の暴走族がいるのだ。
 仮に強襲に成功したとしてもこの包囲網を抜け出る事は不可能だろう。
 金をアタッシュケースに入れた男たちが近づいて来る。
 ジョーカーは金を見せた時に最も多く出現する。
 緒方はドラッグの詰まったスーツケースを手にヘッドライトに身を晒す。
「緒方さん、ご苦労様です」
 半グレの代表のスーツ姿の男が言う。
 アタッシュケースが開かれ、帯どめされた札束が姿を現す。
 緒方もスーツケースを開いてロシア経由の最高級品を見せる。
 と、緒方は場違いな程騒々しいエンジン音を聞きつけた。
『奢れるヤクザもコンバンハ』
 拡声器の声と共に波を蹴ったボートが一直線に突っ込んでくる。
 船首に立ったジョーカーが銃を抜いて問答無用で撃ち始める。
 緒方の周囲で火花が散り、半グレが慌てた様子でアタッシュケースを取り落とす。
 伏せていた緒方の部下がジョーカーに向かって応射を開始する。
 ジョーカーがグレネードランチャーを構えて砲火を閃かせる。
 ベンツの車体が火を噴いて浮き上がる。
 倉庫街の至る所で爆発が起こり、火の手が上がる。
 ただの撃ち合いなら警察も黙っているが、火災が発生したのでは消防が動き追って警察も出動を余儀なくされる。
 ボートが埠頭の岸壁を掠め、ジョーカーが猛火の中を歩んでいく。
「今宵のコテツは鉛に飢えて、オイラの引き金も軽くなるゥ~」
 相変わらずの意味不明な言葉でジョーカーが戦場となった埠頭を蹂躙する。
 雄たけびを上げた半グレの一人が鉄パイプを振り上げてジョーカーに向かっていく。
 鉄パイプの一撃を受けたジョーカーの動きが鈍る。
「あの世の旅も道連れ世は情け、痛いの痛いの焼死体」
 ジョーカーが鉄パイプを奪い取って半グレを路上に蹴り飛ばす。
 ジョーカーが怒り狂ったようにグレネードを乱射する。
 緒方は炎で崩れ落ちる倉庫を避けて部下のベンツに向かって走る。
 この乱射の中では同士討ちが危ぶまれるどころではない。
 まずは消防がやって来る前に現場を離脱しなければならない。
 取り残される組員や半グレには悪いが、矢沢組としても幹部が尻を蹴飛ばされたままブタ箱に入る訳には行かないのだ。
  〈7〉 
 
 
「……ッ」
 清史郎は左腕を押さえたままボートの床に腰かけている。
 夜の海から見えるのは照明で浮かび上がる工場の幻想的とも言える光景。
 酔狂なカップルなら観光に来るのかも知れないが、現在の清史郎にその余裕は無い。
 ボートが揺れる度に左腕が痛み、肩から背中までもが痛むように感じられる。
 ――腕を折られたか――
 折れたと言っても粉砕骨折では無いだろう。
 粉砕骨折なら幾ら警察OBの探偵から護身術を習っているとはいえ、鉄パイプを奪って蹴り飛ばす事などできてはいない。
 問題なのは常識的に考えて鉄パイプを持った敵に対してなぜ発砲しなかったかという事だ。
 客観的に見ればこれほど奇妙な事は無いだろう。
 狂気の道化師、ジョーカーなのだからと見逃してくれる輩ばかりではないだろう。
「ジョーカー、大丈夫?」
 気遣う様子で加奈が声をかけてくる。
「今回の作戦はリスクは織り込み済みだったんだ。鉛弾を食らわなかっただけでもいいってモンだ」
 清史郎は虚勢を張って言う。
 健が入手した情報は矢沢組が最も警戒している取引、もしくはジョーカーをおびき出そうとしている作戦だった。
 当然もっと楽なターゲットを探す事も可能。
 しかし、健がこの難度の高い作戦にこだわり、清史郎もジョーカーの名を上げる為に乗ったのだ。
「ジョークには悪かったけど今日だけで六百万だぜ? 一人二百万ってすごくね?」
 ボートを運転しながら健が言う。
 百人以上が動員されている取引を強襲する為に海路を選んだのは正解だった。
 通常は予め現場に潜んでいるが、今回はヤクザが張り込む事が分かっていた。
 脱出の目途もたたないのに予め潜むという手段は使えない。
 と、なれば相手が考えてもいない方向から強襲して、対応されるより早く逃げるという方法だ。
「アタッシュケース拾って来るのも命がけだったんだから。あんたは安全な所でPCたたいてるだけだからいいかもしれないけど」
 加奈がボートでPCを操作していた健に向かって言う。
 清史郎が派手に暴れている隙に半グレが落としたアタッシュケースを回収したのは加奈だ。
 ヤクザが銃で応戦して来る中で拾ったのだから、生きた心地がしなかったのであろう事は想像に難くない。
「ジョークだって腕を切り落とされたとかじゃねぇんだし、保険証が使えねぇなら金あんだし海外で手術とかもアリじゃね?」
 楽観的な口調で健が言う。確かに健の案もいいが致命的な欠陥がある。
「ジョーカーは左腕を殴られている。保険の記録に残らなくても俺が左腕をギプスで吊っていたら正体を宣伝してまわるのと同じことだ」
「あ、そうか」
「あ、そうかじゃないでしょ! だいたいあんたが怪我してるわけじゃないんだから」
 加奈が虚を突かれた様子の健に向かって言う。
「腕は町の獣医に頼んで治してもらうよ。問題は探偵事務所の方だな」
 町の獣医であれば顔なじみだし、保険の記録に残る事も無い。
「事務所はほとんど客来ねぇからOKじゃね?」
 相変わらず楽観的な様子で���が言う。
「エースってば本当に失礼なんだから」
「本当の事だからいいんだけどな。でも選挙が近づいているからカジノ反対派の人たちが現職知事の裏情報を求めてくるかもしれない」
 情報が盗まれたものなら裁判では証拠にならないが、盗み出して内部告発の形をとって匿名でばらまくという事は可能だ。
「与党の現職知事って矢沢組がカジノ呼ぶ為に当選させたんだろ?」
 健の言葉に清史郎は頷く。
 元々災害避難地域指定だった公園の指定を解除し財務省に許可を発行させ、企業が進出できるよう実際に動いたのは与党だ。
 暴力団が本体か与党が本体かというのは、鶏と卵のパラドクスを解くに等しい。 
「でも物的証拠が無い。音声データやメールは改ざん可能だから決定打にはなり得ない」
「手書きのサインの入った書類が無いと証拠にならないって訳ね」
 加奈が話を要約して言う。
「それって探偵とかの仕事じゃねぇのか?」
 健の言葉に清史郎は痛みを感じながらもため息をつく。
「私はその探偵なんだよ。儲かっていないだけで」
「とりあえず一人二百万入ったし、ジョーカーはひとまずお休みするしかないわよね」
 加奈は状況を落ち着いて観察できているようだ。
「でもよ、選挙が終わって反対派が勝ったら出番も無いんじゃね?」
「そもそも反対派を勝たせる為に始めたんだよ。目的を忘れないでくれ」
 商店街と探偵事務所を守る為のジョーカーなのだから脅威が消えれば戦う必要は無い。
 もともと町を守る為の義賊として、健も同意して始めた事なのだ。
「あ~、キャデラックに乗りたかったぁ~」
 船の縁に寄りかかって健が空に目を向ける。
「外車ディーラーで試乗でもすればいいでしょ」
「そういう事じゃねぇんだよ。こう、リッチな気分でパーッとやりたかったって言うかさ」
「気持ちは分からなくも無いけどさ、私らもともと何千円で一喜一憂してたんだからね」
「へぇ~い」
 加奈に言われた健がため息をつく。
 二人のやり取りを聞きながら清史郎は考える。腕を折られたジョーカーが休養すれば、不死身の化け物のようなイメージが揺らぐ事になる。
 双方の総力戦の様相を呈した今回の戦いで、相手もジョーカーが手傷を負った事は分かっているはずだ。
 ――大人しく休養というわけには行かないか――
 清史郎は加奈に目を向ける。
 IT機器を素早く操作できない以上、空白期間にジョーカーを演じられるのは加奈だけだ。 
  〈8〉
   ジョーカーは手傷を負った。
 店内の観葉植物の葉を丁寧に拭いながら、健司は緒方からの情報の意味を考える。
 圧倒的な火力を持ちながら、鉄パイプを手に向かって来る敵に対してジョーカーは無策と言っても良い状態だったのだ。
 これはこれまで一人も死者を出していないというジョーカーの姿勢と符合する。
 その後の乱射により埠頭は混沌と化し有益な情報は集まっていないが、ジョーカーが現金の入ったアタッシュケースだけを手に海に逃れた事は間違いない。
 ――ジョーカーは人を殺さないという前提で考えたら――
 単純にヤクザを驚かせたいという、愉快犯の姿が浮かび上がる。
 だが、愉快犯ならリスクの高いヤクザを狙う理由は少ない。
 銃器を振り回さなくても、健司のような一般市民相手に全裸になって見せるだけで充分に他人を不快にする事ができる。
 ヤクザに警察に通報できないという弱みがあったとしても、それ以上にリスクは大きいはずだ。
 ヤクザに恨みがあるのだとしても、それならば落ちた金だけ拾うという点では実質的にダメージはほとんど与えられていない。
 収入として考えているなら猶更ジョーカーの行動は不可解過ぎる。
 愉快犯でありながらそれは副次的なものでしかなく、目的の為の手段に過ぎない。
 だが、愉快犯である事を手段とする目的とは一体何だろうか。
 ――僕のような常識人では手が届かないと言うのだろうか――
 健司は観葉植物の葉に霧吹きで水をかけながら考える。
 矢沢組は一体誰に何をし、その結果ジョーカーを生み出したのだろうか。
 健司は店内の照明を切り、暖簾と看板を店内にしまう。
 店を出て新宿のチェーン店の居酒屋に向かう。
 健司が一杯のビールと焼き鳥を二本腹に収めていると、三人の男が連れ立って店内に入ってきた。
 健司は三人組がボックス席に入るのを確認してアタッシュケースを手にトイレに向かう。
 三人組が毎回このチェーン店を使う事と、最初にビールを注文する事は分かっている。
 健司はスーツを脱ぎネクタイを外してケースに収め、代わりにエプロンを身に着ける。
 保冷剤で冷やしておいた缶に入ったビールを、同じく冷やしておいた100均で買ったグラスに注ぐ。
 そのうち一つにはシアナミドを混入してある。
 シアナミドは無色透明の抗酒剤で、副飲する事でアルコールアレルギー反応を引き起こす禁酒用の薬品。
 一言で言えば一口飲む事で急性アルコール中毒症状を引き起こすのだ。
 健司は三人の席におしぼりが置かれ、店員が去るのを待ってビールジョッキを手に席に向かう。
「お待たせしました」
 健司はターゲットにシアナミドを混入したビールを手渡し、両手にビニールの手袋を嵌めてトイレの傍に潜む。
 ややあって鍵をかけていないトイレに青ざめ、脂汗を流したターゲットの靴が覗いた。
 健司は入れ替わるようにしてすれ違いながら様子を確認する。
 シアナミドにより意識は朦朧としているようだ。
「介抱しますよ」
 健司は男を抱きかかえるようにしてトイレのドアを後ろ手に閉じる。
 男が便器に前のめりになって嘔吐する。
 健司は男の頭を掴んで便器に押し込むと首の頸動脈にシャープペンシルを突き刺す。
 男の首から血が噴き出すのに合わせてトイレの水を流す。
 音消し水とはよく言ったものだ。
 窒息と出血の双方で男が瞬く間に衰弱して行く。
 相手がプロレスラーだろうとこの状態で健司に抗する事はできはしない。
 健司は男の脈を取って死亡を確認するとエプロンとシャープペンシルを放置し、元通りスーツに身を包んで会計を済ませて店を出た。
 殺害方法は分かっても誰が殺したのかは目撃されていない限り分からないだろう。
 ――小さな仕事でも手を抜かない事が顧客満足度につながるんだ―― 
  第二章 二人目のジョーカー 
  〈1〉
  「矢沢組のヤツら慎重になってやがんな。もう大口取引はしねぇらしい」
 清史郎の耳には爆音と左程変わらない音が響いている、クイーンメイブのボックス席で健が言う。
 清史郎は獣医に頼んでギブスなしで左腕を固定している。
 診断は骨にヒビが入っているとの事で、二週間は安静にする必要があるらしい。
「そりゃ百人集めて失敗したなら、もう大口でジョーカーを誘おうなんて思わないでしょ」
 言って加奈がカクテルで唇を湿らせる。 
「一回の取引でせいぜい百万円。しかも街中でやってやがる」
 健がラップトップを開いて矢沢組の予定表を表示させる。 
「儲けが少ないからやらないって話にはしない約束でしょ?」
 加奈が健に睨みをきかせる。前回の襲撃は加奈は反対だったのだ。
「でもよ、ジョークは骨折してるし、街中でグレネードはさすがにヤベェだろ」
 カクテルをチビチビ飲みながら健が言う。
 確かに街中では自動小銃がせいぜいといったところだ。
 仮にグレネードを使ったとしても、見た目が派手なだけで破壊力が無い事が露呈する。
「自動小銃でも相手を驚かすような事はできるだろう。演出次第だ」
 清史郎は頭を巡らせながら言う。
 今となっては拳銃を抜いて撃つくらいではヤクザは驚かない。
 下手をすれば一人二人射殺されても驚かないかも知れない。
 と、なればどうやって驚かせるかが問題になってくる。
「演出って言うけど、ジョーカーは左手が使えないんでしょ?」
「そこだ。連中は俺が腕を怪我するのを見ている。ここで動きを止めればジョーカーというキャラクターの怪物性が損なわれてしまう。そこで今回は加奈にジョーカーを依頼したい」
 清史郎の言葉に加奈が驚いたような表情を浮かべる。
「町の人たちがカジノに反対できているのは、ヤクザがジョーカーを恐れているという漠然として安心感があるからだ。ジョーカーが怪我で動けないとなったらヤクザを恐れて寝返る住人が出てくるかもしれない」
 清史郎の言葉に加奈が思案顔になる。
「……そういう事なら……でも策はあるの? 私はジョーカーみたいに相手を脅せないよ?」
 加奈の言葉に清史郎は頷く。
「喋るのはマイクで私が担当する。元々ボイスチェンジャーを使ってるからスピーカーから音を出してもヤクザには分からないだろう」
 清史郎は矢沢組のリストの一つを指さす。
 雑居ビルの屋上での取引。
 金額は百万だが人が多く割かれている訳ではない。
 そしていざとなれば清史郎も右腕一本で戦うのだ。
  〈2〉
  「ありがとうございました」
 客の手に両手を添えるようにしてつり銭を渡す。 
 我ながら流れるような動作だと加奈は思っている。
 品物は働き出してから一週間で覚えたし、二か月で発注も任されるようになった。
 オーナーが発注していた頃に比べて売り上げは八%上昇している。
 業者のパレットに乗った商品が運び込まれ、そこに緩慢な動作で大塚という中年女性が向かっていく。
 大塚はこのコンビニに長く勤めているが、何をするにも動きが遅く、やる事が雑だ。
 加奈は母子家庭ではあったが高校時代は生徒会長を務めていた。
 生徒会の切り盛りでは過去最高の生徒会長だったという自負もある。
 奨学金を借りて大学に入学したいと何度思った事か分からない。
 しかし、その度に返済の目途が立たないという現実で踏みとどまった。
 加奈が借りる金額では返済する頃には五十代。
 キャリアウーマンとしてバリバリ働いて行けるならいいだろうが、男社会の中で目立っても左遷されるのがオチだ。
 奨学金を諦め、近所のファミレスとコンビニの双方を天秤にかけた時、ファミレスの厨房は嫌だったし、発注のような頭を使う仕事がしたかった事からコンビニで働く事にした。
 しかし、今現在、視線の先では大塚が商品を手前から、しかも違う棚に並べている。
 新しい品物を後ろに、古い品物を前にしなければ賞味期限切れで廃棄になる。
 それはコストとすら呼べるものではない。
 注意した事は一度や二度ではないが、返ってくるのは「今時の若い子は」という恨みがましい言葉だけだ。
 仕方なく業務の合間を縫って品物を並べなおす。
 そうすると今度はレジに長蛇の列ができる。
 大塚はバーコードの読み込みも遅ければ、テンキーの打ち込みもできない。
 公共料金などの支払いも一々店長にやらせている。
 店長は一体何の弱みがあってこの女を雇っているのか分からない。
 それでも、このリスクを織り込んだ発注で収益を上げたのは自分の手腕だ。
「飯島くん、これじゃ困るよ。お客さんを待たせているじゃないか」
 抜き打ちでやって来たマネージャーの言葉に加奈はため息をつきたくなる。
 自分がレジにいればこのような現象は起きないのだ。
 そして、レジにいれば大量の食品を廃棄しなくてはならなくなる。
「分かりました。棚の商品を並べなおしてもらえますか」
 チクリと言い返し、立ち仕事で痛む足を引きずって加奈はレジに向かう。
 こんな事をこの先何年続けて行けばいいと言うのか。
 少なくとも大塚がクビにならない限りは、ただでさえハードなコンビニの仕事すらまともにこなす事ができないのだ。 
 ――ジョーカーとしてならもう少し有能に働けるのに―― 
 
 〈3〉
   深夜、ビルの屋上に銃声が響き火花が散る。
 ビルの給水塔の上で清史郎が見ている下で、四人の男たちが手にしたバッグを胸に抱える。
「迷えるヤクザよコンバンハァ!」
 二階分高いビルの屋上から、ワイヤーを伝って自動小銃を乱射しながらジョーカーが降下して来る。
 ヤクザの一人が屋内に逃れようとした所でジョーカーの自動小銃が火を噴いてドアを蜂の巣にする。
 恐慌状態に陥ったヤクザの前に、床の上で一回転したジョーカーが立つ。
 この辺りの動きは加奈の方が本家よりいいと言える。
ジョーカーの自動小銃が火を噴き、ヤクザたちの動きが止まる。
清史郎はありあわせの材料で作った分銅でヤクザの手からケースを叩き落す。
「金は天下の猿回しぃ~、回る回るよ目が回るぅ~」
 床を滑ったケースがジョーカーの足元で止まる。
 ジョーカーがケースを手に屋上のフェンスを乗り越える。
「それでは諸君ごきげんようそろ、面舵一杯腹八分目ぇ~」
 ジョーカーがフェンスを乗り越えてビルの外に姿を消す姿をヤクザたちは茫然と眺めている。
 加奈はほぼ完ぺきに、運動神経という面では清史郎以上にジョーカーを演じて見せた。
 ヤクザたちがスマートフォンを取り出して連絡を取りながら屋内へと消えていく。
 加奈は当初隣のビルの屋上に潜んでおり、ヤクザの取引するビルとの間にはワイヤーが取り付けてあった。
 清史郎の合図で火薬を爆発させ、加奈は小型の滑車を使ってビルの屋上に降り立った。
 予定通り混乱に乗じて清史郎がヤクザの金のアタッシュケースを叩き落し、それを回収した加奈は予め用意されていた脱出用のワイヤーで一目散に逃げ去ったという訳だ。
 清史郎がヤクザの去っていった通用口を見ていると、二人のヤクザが姿を現した。
 痕跡を確認するか、ジョーカーを追跡しようという考えかもしれない。
「イナイイイナイバウアアァァァァッ!」
 万が一に備えてジョーカーに扮していた清史郎は、咄嗟の判断でショットガンを手にヤクザたちの前に飛び降りる。
 銃声と共にドアを吹き飛ばす。
 今度こそ恐慌状態に陥ったヤクザたちは階下へと消えていった。
  〈4〉
   健司は『殺し屋』のカウンターでグラスを磨きながら考える。
 ヤクザは取引を分散させるという戦術を取ったが、ジョーカーは確実に一か所一か所を狙い撃ちにしている。
 被害総額は大きくないのだろうが、心理的な影響は大きい。
 ――ここで敵の目的は明らかになったと言っていい――
 これは心理戦なのだ。
 矢沢組が恐れるに足りない存在だと思わせる為のデモンストレーションなのだ。
 実際矢沢組の構成員たちも明日は我が身と必要以上に警戒しており、結果として街中での暴行などで警察に捕縛されるケースも散見し始めている。
 警察もヤクザと事を構える事はしたくないだろうが、暴行は立派な犯罪だ。
 矢沢組を弱体化、もしくは弱体化して見せている目的。
 これは幾つかのケースが考えられる。
 例えば同格の田畑組がシマを狙っているケース。
 しかし、これでは全面戦争がしたいと言っているようなものであり、そうなれば別の第三の組が弱った二つの組を併合してしまうだろう。
 更に言えば『本物』の銃器を使っているのだとしたら、これまでに過失で殺してしまった人間が居てもおかしくはないはずだ。
 これまであれだけ派手に銃を乱射していて軽度のやけどくらいしか負傷者がいないというのは、空砲かモデルガンかのどちらかだろう。
 そして犯人がヤクザであるなら、モデルガンなどという恥ずかしいものは持ち歩かないだろう。
 第二の敵が政治結社だ。
 現在矢沢組の推す現職与党の代議士が知事を務めている。
 三か月後には知事選が予定されており、野党は連合して対立候補を立てている。
 現在新庄市には土地の価値だけで二千億を超える空き地が存在し、そこに巨大カジノカジノを誘致するか、市民公園にするかで市民の世論が割れている。
 カジノが実現すれば莫大な金額が動く事になり、矢沢組は軽く数百億は稼ぐ事になるだろう。
 一方、野党が勝利してしまえば議会も野党に握られた事から市民公園が確定。
 造園業者や、スタンド付きの運動公園を造る建築業者がいくらか儲かるにせよ、利権はほとんど存在しない事になる。
 本来矢沢組こそが野党を攻撃しそうなものだが、野党のカルト的な集団ないし、狂信的な人間が矢沢組を狙っている可能性は否定できない。
 しかし、カルトや狂信的な人間がここまで綿密な計画を練り、実行に移せるだろうか。
 そこが政治結社を敵に想定した場合のボトルネックとなってくる。
 第三の相手は想定が難しいがカジノに反対している市民だ。
 市民の大半は再開発計画に興味を持っていないが、商店街や商工会は地場産業が脅かされるとして強硬に反対している。
 矢沢組はこの商店街の切り崩しを行っていたのだが、その矢先にジョーカーが出現するようになり、商店街を攻略するどころではなくなってしまったのだ。
 そう考えると、人のいい商店街の人々こそが実は矢沢組の最大の敵という事になる。
 ――商店街がジョーカーの可能性――
 だが、それなら情報漏洩が少なからずあるはずだ。
 ――もし商店街の誰かがジョーカーで、他の人間は知らないのだとしたら――
 ジョーカーは一方的に守るだけで損をしているように見えるが、最終的には商店街が守られるのだから自分の仕事も守る事になる。
 ――商店街の何物かが、か――
 健司はPCで商店街の店舗の情報を検索する。ほとんどが個人事業主でHPもまともに作れているとは言い難い。
 そんな中、健司は気になる存在を発見した。
 ――人権派弁護士、慶田盛敦――
 直接の関与の有無は別にして、慶田盛が商店街や町を守ろうとするのはありそうな事だった。
  〈5〉
  「急な訪問で恐れ入ります。慶田盛先生の事務所は意外と質素なんですね」
 新庄市の雑居ビルの一室を訪れた健司は慶田盛敦に向かって言う。
「君は……殺し屋との事だが……」
 当惑した様子で慶田盛が応接用の合皮のソファーに腰かけて言う。
「屋号のようなものです。ただの飲食店ですよ。保健所で営業許可も取っています」
 健司は爽やかな笑みを浮かべる。
「で、歌舞伎町の飲食店がここに一体何の相談なんだい?」
 敏腕弁護士という割にはお人よしなのだろう、慶田盛が問うて来る。
「店が襲われたんです」
 健司の言葉に慶田盛の視線が険しくなる。
「それは警察に訴えるべき案件なんじゃないのかい?」
「歌舞伎町で店が襲われた程度で警察が動くと思いますか?」
 健司が言うと慶田盛が思案気な表情を浮かべる。
「相手に目星はついているのかい? 組関係だと厄介だぞ?」
 歌舞伎町という事を意識しているのか慶田盛が言う。
「ピエロのマスクに紫のトレンチコート、銃撃で店は蜂の巣です」
 慶田盛の表情が一瞬硬直する。
 ――慶田盛はジョーカーを知っている――
「最近はそういった愉快犯が流行っているようだね」
「慶田盛先生はご存知ないのですか? ジョーカーと呼ばれているようなのですが」
 慶田盛の顔がポーカーフェイスに変わるが遅すぎだ。
 今更表情を消した所で知っていると言っているようなものだ。
 健司はさり気なくソファーの隙間に盗���器を滑り込ませる。
「噂で聞いている程度だね。でも、弁護士だからといって探偵の真似事ができる訳じゃない」
「慶田盛先生は懇意にしている探偵などはおられないのですか?」
「古い付き合いの探偵はいるけどね。彼を紹介するにはそれなりの理由が必要だよ」
 慶田盛が慎重に言葉を選ぶ。
「店が襲撃された以上の理由が、ですか?」
「僕はその破壊された店舗の写真すら見ていないんだよ? 被害実態が明らかではないのに探偵の手を煩わせると思うかい?」
「随分と庇われるんですね。逆に興味が湧いてきましたよ」
 健司は切り上げどころと判断してソファーから立ち上がる。
「貴重なお時間を頂きありがとうございました」
 健司は慶田盛と握手しながら唇の端が吊り上がりそうになるのを堪える。
 ――これで慶田盛が探偵に連絡を取ればその相手がジョーカーである可能性は高い―― 
 
 〈6〉
  「いやぁ~俺たちマジ凄くね? もうハリウッドレベルだって」
 クイーンメイブのボックス席で健がいつものように能天気な口調で言う。 
「たちじゃなくて身体張ってる私たちが凄いの」
「お前PCなんて触れないだろ」
 健が加奈に言い返す。
「PCコンビニの使えてるし!」
「ンなの使えてるうちに入らねーよ。な、ジョーク」
 健の言葉に清史郎は肩を竦める。加奈と比較すればPCを使える方だろうが、ITというレベルには程遠い。
 ヤクザの事務所に仕掛けた盗聴器をBluetoothで飛ばしたり、WIFIでデータを引き抜いたりといった芸当は清史郎には不可能だ。
 しかも従来の興信所の盗聴器探知は電波の周波数帯で探っている為、健のカスタムした機材を探知する事ができない。
 健は新庄市のヤクザの誰よりも彼らの動きに詳しいと言っても過言ではないのだ。
 その中から清史郎が獲物になりそうな案件を選び出し、加奈と下準備を行っているのだ。
「なぁ~んか納得行かない」
 加奈が口をとがらせるが、こればかりは健の能力を素直に認めるしかない。
「エースの情報収集能力がなければ火薬を仕掛けにも行けないだろ」
「土建屋の癖に何かムカつく」 
「土建屋じゃなくてDJだっつーの」
「DJで食ってる訳じゃないでしょ? なら土建屋じゃない」
「ンだとコラァ!」
 声を荒げる健を清史郎は慌てて宥める。
 手を挙げるような青年ではないが、つまらない事で耳目を引くのは得策ではない。
「俺は二人におんぶにだっこだ。二人がいなければジョーカーなんてやってられない。そうだろう?」
「私もジョーカーやったしね。やってないのはエースだけ」
「俺がいなかったら起爆できねぇじゃねぇか」
 むっつりとした口調で健が言う。
「裏方の仕事があっての晴れ舞台って事もあるんだ。もっとも、舞台役者が良くなかったらどんなに裏方の仕事が良くても芝居にはならない」
 清史郎の言葉に加奈がため息をつく。
「ジョーカー人間できてるわ」
「単に口の上手いオッサンってだけかもな」
 健が悪童のような笑みを浮かべる。
「多分エースの言う通りだろう。で、いよいよ選挙まで三か月を切った訳だ。矢沢組だけじゃない、カジノ関連の企業が再開発計画に群がってきている」
 清史郎は話を本来の筋道に戻す。
「それは分かるけどさ、ヤクザは脅せても民間企業はどうにもならないんじゃない?」
 加奈の言葉に清史郎は頷く。
「そこは商店街と市民の手に委ねる。俺たちが考えなきゃいけないのは、矢沢組をあと三か月どう騙し抜くかって事なんだ」
 最終的にカジノ施設を選ぶか、市民公園を選ぶかは市民の手に委ねられるべきだ。
 ジョーカーはそこに介入しようとする矢沢組をけん制しているに過ぎない。
「一年以上見破られてねぇんだし、今更どうって事も無いんじゃね?」
 健が楽観的な口調で言う。
「一年って言っても綱渡りだったじゃない。ジョーカーも怪我したんだし」
 常に現場を見て来た加奈が健に向かって言う。
「人生にはスリルがつきものだろ」
「必要ないのにスリルをつける必要ないでしょ?」
「人生にはロマンが必要だよ。なぁ、ジョーカー」
「私の人生にはロマンらしいロマンは無かったよ」
 明らかに会話を楽しんでいる健に清史郎は苦笑する。
「人生堅実が一番なの。あんたみたいのが一番ホームレスに近いんだから」
「お前だってコンビニ店員以外何ができるよ」
「ちょっとジョーカー、何とか言ってやってよ」
 怒った様子の加奈が話を振ってくる。
「景気が良くなったら事務所で求人でも出すよ。それより今は仕事をやり抜く時だ」
 清史郎の真剣な言葉に二人が頷く。
 ――後三か月――
 この凸凹コンビと一緒に駆け抜けなければならない。
 
 〈6〉 
  「ここの探偵事務所では人探しをしたりはしないんですか?」
 健司は三浦探偵事務所の安普請の椅子に腰かけて、所長兼調査員の三浦清史郎と向かい合っている。
 慶田盛は健司が面会した翌日に同じく新庄市に居を構えている三浦に連絡を取った。
 探られている事を多少は警戒しているだろうが、昨日の今日で会いに来るとは思っていないだろう。
「今の所請け負ってはいないね。知っているかどうか知らないが、日本の年間行方不明者は二十万人。警察が民事だと言ってサジを投げるレベルだ。うち毎年六千人前後が死体で発見される。これが日本の行方不明の実情だ」
 四十五歳、探偵というより疲れたサラリーマンを思わせる風貌だが、どこにでもなじめるという点ではこの風貌は役に立っている事だろう。
「携帯電話の通信記録を探ったりしないんですか?」
「そういう情報は大手の情報企業が握っているんだ。契約していなければ盗み出すしかないだろうし、それをすれば犯罪だ」
「企業が形はどうあれ本人の同意なしに情報を持っている事は犯罪ではないと」
「正当だと思えば契約している、と、答えたら君に私の考えは分かってもらえるかな」
 清史郎はかなり真っ当な昔気質の探偵であるらしい。
 三浦探偵事務所は商店街の噂では浮気調査などではパッとしないが、事件性のある案件だと警察を出し抜く腕前なのだと言う。
「独り言だと思って聞いてもらえればいいんですが、ジョーカーという男をご存知ではないですか?」
「知っているよ。少なくとも片手には余るほどね」
 掴みどころのない口調で清史郎が言う。
 ――だが、他の商店街の人間はジョーカーと聞けば逆に動揺したものだ――
「ヤクザ相手にモデルガンを振り回す愉快犯。前金で一千万。正体が分かれば更に一千万」
 健司はリュックサックから帯留めされた札束の入った紙袋を押し出す。
「これだけ流行らない事務所だ。一千万を受け取って私が雲隠れするとは考えないのかい?」
「見つけられなくても差し上げますよ」
 健司は内心で清史郎がジョーカーであるとの確信を強めながら言う。
「そういう事であれば遠慮なく預かろう。所でジョーカーについてもう少し詳しく話を聞けないかな? さすがに名前だけでは調査にならない」
「僕もまた聞きでしか知らないんですが、ヤクザが武装しているか麻薬を所持している時に出現し、モデルガンを利用してあたかも本物のように見せかけて驚かせ、ヤクザが金を落としていけばそれを拾っていく。そういう話です。被害に遭っているのは主に矢沢組で、矢沢組は現職与党知事のケツモチをしている」
「つまり、君の推理が正しければ現職知事と利害関係にある人物が選挙で優位に立つべく矢沢組を攻撃している、攻撃しているように見せかけているという事だね?」
「そう、その人物の特定が難しいんですよ。ヤクザの情報を自分の家のPCのように自在に覗き見て、常に有利な状況でモデルガンによる脅迫を行っている」
 そこが健司が最も解せない所だ。
 この三浦清史郎という男は探偵としては優れているように察せられるが、ITに強いようには見えない。
 情報を買っている訳でも無いのだとしたら、一体どのようにして情報を得ているのか。
 更に情報を得たとしてそれを整理し、取捨選択する事も必要になる。
 事務員の一人もいないこの事務所のどこに実務を取り仕切る人間がいるというのか。
 自分はこの男の何かを見落としているとでも言うのだろうか。
「つまり、ジョーカーという人物にはハッカーとしての側面もあるという事だね?」
「そう考えないと辻褄が合いません」
「では、ハッカーであり、モデルガンでヤクザを脅すジョーカーという愉快犯を特定してほしいという事だね」
「結論としてそういう事になるかと」
「プライバシーに踏み込むつもりはないが、そのジョーカーという人物の特定にどういった動機があるか聞かせてもらえるかな? 参考までにという事で構わないが」
「僕が矢沢組に依頼されたからですよ。でも僕の力だけでは見つけられそうに無い」
 健司はチェスを指すかのような心境で言葉を選ぶ。
 目の前の男がジョーカーである可能性は限りなく大きいのだ。
「君も探偵なのか?」
 清史郎の言葉に健司は肩を竦めて名刺を差し出す。
「歌舞伎町で殺し屋を営んでおります円山健司と言います」
 言った瞬間、清史郎の顔に何かグロテスクなものでも見たかのような表情が浮かぶ。
 健司はその表情をこれまで嫌という程見てきたのだった。
  第三章       殺し屋
  〈1〉
   清史郎は拙いとは知りつつ、円山健司を尾行していた。
 尾行を知られたとしても、探偵が依頼者の事を知ろうとする事に問題は無い。
 そもそもがジョーカーなどという得体の知れない人物を探せという無理難題なのだ。
 例え自分がジョーカーであったとしてもだ。
 電車を乗り継ぎSUICAのチャージマネーが尽きそうになった時、円山は新宿の歌舞伎町にある『殺し屋』という店舗に入っていった。
 信じられない事だが、冗談でないとするなら殺人を生業とする人間が看板を出して店を営業しているのだ。
 円山は自ら隠れるという事が無い。
 本当に殺人が生業なのだとしたら、その手段に余程自信を持っているという事なのだろう。
 清史郎は逡巡しながらも暖簾を潜る。
 相手にその気があればビルに入った瞬間から監視カメラで自分を監視していても不思議ではないからだ。
「いらっしゃいませ! ご注文がお決まりになりましたらお気軽にお申しつけ下さい」
 円山が人が違ったような口調で声をかけてくる。
「さっき会ったばかりだろう? それよりこのお品書きというのは本当なのか?」
 お品書きには殺人方法や死体を残すのか残さないのかなど様々なオプションサービスが書き込まれている。
「はい、迅速丁寧をモットーに確実にターゲットを殺させて頂いております」
「例えば、この絞殺で死体を残すというオプションにした場合、警察に犯人特定されやすいんじゃないのか?」
「企業秘密にはなりますが、TPOに応じて柔軟に対応させていただいております」
「ジョーカーはどうやって殺す事になっているんだ?」
「お客様の情報を開示する訳には行きませんが、強いて言うなら殺し方は問わないとの事です」
 円山の言葉が事実なら矢沢組はなりふり構っていないという事だろう。
 ジョーカーは確実に矢沢組に打撃を与えているのだ。
「じゃあ俺も注文したいんだが構わないか?」
「どのようなご注文でしょうか?」
 爽やかな笑顔で円山が言う。
「ジョーカーをオプションサービスで九月三十一日に殺してほしい」
 清史郎の言葉に円山の目が見開かれる。
「前金で一千万。不足なら五百万を追加する」
 清史郎は受け取ったばかりの一千万をカウンターに乗せる。
「ジョーカー殺害日時の指定は確かにオプションで追加可能ですが……」
「ジョーカーを殺す日時の指定は矢沢組からは無かったんだろう?」
 清史郎が言うと円山が顎に指を当てて思案気な表情を浮かべる。
「依頼が重複した事は初めてで、対応致しかねます」
「いや、重複していない。私が矢沢組の手先で、追加でオプションを申し込んでいるとしたならどうなんだ? 君は依頼主の事をどれだけ調査しているんだ?」
 清史郎の言葉に円山の表情が曇る。
「お客様のプライバシーを優先して営業しております。業務上必要な情報は収集致しますが……」
「九月三十一日、ジョーカーは新庄市商店街の外れ、たこ焼き屋千夏の前に現れる」
 清史郎の言葉に円山の表情が強張る。
「もしお客様がジョーカーだった場合……」
「自分を殺してくれという依頼はこれまでなかったのか?」
 円山が何かを試すような視線を向けてくる。
「もちろん、そういった依頼もございました」
「なら問題は無いだろう?」
「……つまり、あなたは探偵としての任務を全うし、殺し屋に仕事を依頼しに来た。そういう事ですね」
「そういう事になるな」
 清史郎が笑みを浮かべると円山の口元に笑みが浮かぶ。
「矢沢組がそれ以前の日時を指定して来たら?」
「それこそ二重契約は無効だと言えばいいだろう?」
「矢沢組がジョーカーの正体を教えろと言ってきたら?」
「ここは興信所ではないのだろう? それに私は九月三十一日にジョーカーが現れるとは言ったが、私がジョーカーだとは一言も言っていないぞ」
 円山は殺しという商売にプライドを持っている。
 そのプライドに反する行為はできないはずだ。
「了解しました。九月三十一日に現れるジョーカーを殺します。しかし、他に機会がある場合もありますので悪しからず」
 円山が一千万の入った紙袋を掴んでカウンターの内側に置く。
 これで円山の精神には一つのストッパーがかかった事になる。
 後はいかに円山を寄せ付けないように立ち回れるかだ。
  〈2〉
  
 してやられた。
 健司は先制に成功したつもりが、乗り込まれて悪条件を飲まされた事を今更ながらに実感していた。
 三浦の期日を守れば選挙は終わってしまうだろう。
 矢沢組は選挙で勝利する為にジョーカーを殺したいのだから、仮に殺せたとしても契約違反と言いかねない。
 そもそも条件は問わないという話だったのだから構わないと言えば構わないのだが、ヤクザがそのような道理を飲むとは思えない。
――そもそも乗り気な仕事では無かったのだ――
 とはいえ、呑気に構えていてはヤクザに消される事になる。
 九月三十一日に殺せたとしても、それは報復の意味しか持たない。
 そして九月には三十日までしか存在しない。
 十月一日を無理やり九月三十一日と解釈できない事も無いが、完全に手玉に取られたとの感を禁じ得ない。
 緒方が猶予として見るのは何週間だろうか。
 幸い緒方は健司が三浦と接触した事を知らない。
 まだジョーカーを探していると言えば時間稼ぎはできるだろう。
 最悪二千万はドブに捨てたのだと言うくらいの器量は緒方にはあるだろう。
 しかし、それでは殺し屋の看板に傷がつく。
 創業四年、地道に仕事を続けて来た実績に泥がつくのだ。
――三浦清史郎を殺すか――
 それを考えて健司は三浦の余裕が気にかかる。
 三浦がジョーカー本人だというならそれで構わないだろう。
 しかし、ただの連絡役だったり複数犯だったりした場合はどうなるだろうか。
 ジョーカーは死んでも蘇る。
 その事の方が矢沢組にとって脅威だろう。
 ジョーカーのテンプレートが商店街で共有される事にでもなったら、矢沢組は人的物量的に無数のジョーカーに襲われて新庄市を撤退しなくてはならなくなるだろう。
 その時、ジョーカーを殺せと依頼されたなら、一体何人を殺せばよいのか分からず、それだけの数を連続で殺せば証拠を残す事になりかねない。 
 そうなれば警察に捕らえられて全てが水の泡だ。
――そう、殺すのは三浦清史郎ではなくジョーカーである必要がある――
 その為にはジョーカーの仕事の実態を掴まなくてはならない。
 これまでのジョーカーの襲撃箇所と状況を再確認する。
 ジョーカーは神出鬼没のように見えるが、確実な逃走経路のある場合以外は出現していない。
 ジョーカーは矢沢組の取引の全てを俯瞰し、最も有利な形を作り出している。
 と、なれば健司も事前に情報を収集しなくてはならない。
 以前緒方が入店した時、店内のシステムでスマートフォンはクラックしてある。
 緒方のスマートフォンを経由して矢沢組組長矢沢栄作の端末に潜入する。
 ホストを掌握して矢沢の端末から矢沢組の取引データを吸い上げる。
 半グレたちは無料WIFIに接続している者が多く、セキュリティも糞も無い。
 健司は新庄市の地図を広げ三浦の心理を読もうとする。
 正面切っての対決の後で、あの食わせ物が仕掛ける事は間違いないのだ。
  〈3〉
  始発電車で歌舞伎町を訪れた清史郎は街路を歩き回りながら、人通りの少ない場所や人目につかない場所にトランプのジョーカーのカードを置いていく。
『殺し屋』がテナントに入ったビルの前の壁にはスマートフォンと接続したラズベリーパイの監視カメラを設置した。 
 監視カメラの映像は近場の喫茶店でタブレット端末で見ようと思ったのだが、歌舞伎町には静かに端末を見る事のできるような喫茶店が見当たらなかった。
 仕方なく新宿駅前のコーヒーの不味いチェーン店に足を向けた。
 電波は良好、通勤前の客も訪れておりタブレット端末を見ていても不審には思われない。
 スマートフォンを操作して朝のニュースをチェックするが、特に気になるような情報は無い。
 八時二十四分、円山が風俗ビルにスーツ姿でやって来た。
 一見地味なスーツ姿に見えるがバーバリーにリーガルのシューズといったいで立ちだ。
 見る人間が見れば逆に趣味が良いと答えるだろう。
 屋内の監視カメラを警戒して清史郎はビルには監視カメラを仕掛けていない。
 九時きっかりにスーツ姿にアタッシュケース姿の円山がビルから出てくる。
 清史郎は円山が新宿駅に向かったのを見て小走りに店を出る。
 円山を捕捉し、充分に金をチャージしたSUICAで改札を潜る。
 円山を尾行する事二十分、新庄駅で円山は列車を降りた。
 チャージマネーで改札が通れて良かったと思える一瞬だ。
 昔なら駅によっては乗り越し清算をしなくてはならないところだ。
 円山は商店街を突っ切り、三浦探偵事務所にほど近い喫茶店に入っていく。
 清史郎は更に離れた喫茶店で画像を喫茶店のものに切り替える。
 商店街の店にはセキュリティの名目で三浦探偵事務所の監視カメラが取り付けられているのだ。
 円山が注文するより早く、店員がコーヒーにトランプのジョーカーを添えて差し出している。
 円山の表情が一瞬硬直する。
 清史郎は商店街の店に予めジョーカーのカードを配り、前払いで商品を出すよう話をつけておいたのだ。
 これで円山は自らが監視対象である事を知る。
 コーヒーを飲み干した円山が喫茶店を出て周囲を見回す。
 ――追われる気分はどうだ、円山――
 円山は午後六時になると歌舞伎町のビルに戻り、吉祥寺の自宅であるらしいマンションに帰宅した。
 清史郎は吉祥寺界隈の店に金とトランプのジョーカーを配り、路地裏などにカードを仕掛けて帰路についた。
  〈4〉
  「って事は正体バレちまったのかよ」
 相変わらず騒々しいクイーンメイブのボックス席で健が声を上げる。
「殺し屋って名刺出してる殺し屋って狂ってるとしか思えないけど」
「腕に余程の自信があるんだろう。今の日本じゃ老衰や自殺や病死や事故死以外の異常死が毎年十七万件発生しているんだ。死体なんかあった所で警察の手が回る状態じゃない」
「ジョークと話してて思うんだけどさ、警察って何してんだ?」
「総資産一億円以上の人間の事は守ってるだろうさ。後は交通違反の取り締まりだな」
 清史郎は答える。実際警察が殺人や行方不明を事件化する基準は分からない��だ。
 確かなのは毎年日本では殺人事件は百件前後しか起こってはならず、検挙率は96%を下回ってはならないという暗黙の了解があるという事だ。
「どっちみち最初から警察は味方じゃないでしょ。矢沢組が商店街に嫌がらせをしても見て見ぬふりだったんだし」
「だよな。俺たちジョーカーが正義の味方なんだ。そうだろ」
「多少稼がせてもらってるけどね」
 健も加奈もジョーカーという仕事には少なからず誇りは持っている。
 士気が高いという点では矢沢組と戦っていく上で大きなアドバンテージになるだろう。
 殺し屋円山健司がジョーカーの核心に近づいたとは言っても、健と加奈まで特定している訳ではないのだ。
 そして健のITを見て警戒していた為、あの新宿の風俗ビルにはスマートフォンも時計も持ち込んでいない。
 顔は間違いなく撮影されているだろうが、顔認証は広範なエリアから自在に情報を引き抜けるようなものではない。
 いつ、どのカメラに映っているのか分からなければどのカメラをハッキングすれば良いのか分からない。
本当の所は分からないが、公には警察でも店舗など個人のカメラの映像は捜査協力や令状で記録を閲覧しているのだ。
健のIT技術にした所でカメラを特定し、通信可能な距離で『物理接触』しない事にはデータを閲覧する事などできないのだ。
「円山って野郎の鼻を明かしてやろうぜ。こっちは天下御免のジョーカーなんだ」
「でもさ、ジョーカーを探り当てたって事は相当の切れ者なんじゃない? 殺し方だって一つや二つじゃないからこれまで捕まってないんでしょ?」
 加奈が慎重論を述べる。この慎重さがチームの要になっていると言ってもいい。
「じゃあどうするってんだよ。まさか止めるとは言わねぇよな」
「多少趣向を変える必要はあるだろうな」
 清史郎はカバンからジョーカーマスクをのぞかせる。
「マスク……一体何枚あんだ? 量産して成功すんのは北朝鮮のモロコシくらいだろ」
「そっか……これをこれまで被害に遭った半グレに匿名で送り付ければ……」
 ITには弱くても頭の回転の早い加奈には分かったようだ。
「確実な取引情報を手にした本物の銃を持ったジョーカーが出現するんだ」 
 清史郎の言葉に健が唖然とした表情を浮かべる。
「さっすがジョーカー。でもよ、俺たちと鉢合わせにはならねぇのか?」
「一応発信機は取り付けてある。合成音声のスイッチを入れれば起動する仕組みだ」
「じゃあ信号がなかったら作戦決行って訳ね」
「それに送り付ける相手はこっちが選べるんだ。事前に動きを掴む事も難しくないだろう」
 清史郎はこれまでの取引の状況から矢沢組に逆らいそうな半グレをリストアップしている。
 表立って逆らう事はしないだろうが、ジョーカーとしてなら薬をガメるくらいの事はしかねない連中だ。
「でも、それって少ししたら矢沢組に露見するんじゃない?」
「ああ。でも矢沢組は確実に疑心暗鬼に陥るし、本物の銃弾が飛んでけが人でも出ればジョーカーに対して慎重にもなるだろう」
「最高にクールだぜジョーカー! ジョーカーが犯罪者だったら今頃大金持ちだぜ」
 健の笑みに清史郎も笑みで答える。
「じゃあ今日の仕事もクールに決めましょ」
 加奈の突き出した拳に三人の拳がぶつかる。
 本家ジョーカーは最高のチームなのだ。
  〈5〉
   自宅まで嗅ぎつけられたとは。
 午前七時、健司は朝食を食べようと吉祥寺の喫茶店に入った所で、ジョーカーのカードと対面する事となった。
 もっとも、ずっと尾行されていたなら自宅が特定されるのは不思議でも何でもない。
 一番の問題は探偵に四六時中張り込まれたらジョーカーどころではなく、他の仕事も一切できないという事だ。
 動揺を押し隠し、それでも周囲を警戒しながら歌舞伎町の店舗に向かう。
 ドアに挟んだ髪の毛が落ちた様子は無く、侵入者はいないようだ。
 店内に入り、一通り掃除を終えると鋭利に削ったシャープペンシルをカウンターから取り出す。
 殺しの方法はいくらでもある。
 相手が尾行しているなら、人通りの少ない所に誘い込んで始末するという方法も取れるのだ。
 健司は尾行のプロである三浦を警戒する事を止め、路地裏へと足を踏み入れる。
 一定歩いた所で振り向き、シャープペンシルを引き抜く。
 が、そこには三浦の影も形も無かった。
 四六時中張り込んでいるという訳ではないという事だろうか。
 健司が安堵しかけた瞬間、路上に落ちているトランプのカードに気付いた。
 ――ジョーカー!――
 三浦はこちらの考えを見抜いて行動に出ているのだ。
 と、言う事は人通りの少ない所は三浦本人に監視されない反面、ヤクザを監視しているような遠隔装置で監視している可能性が高いだろう。
 ――この僕が身動き一つ取れないと言うのか――
 健司は拾い上げたトランプのジョーカーを握りつぶした。
  
〈6〉
  
 深夜の路地裏、半沢芳樹はジョーカーマスクと紫色のどぎついトレンチコートに身を包んで、汗が出るほどにトカレフを握りしめている。
 部下二人が矢沢組とヤクの取引をする事になっており、そこをジョーカーのフリをして襲撃するのだ。
 成功すればタダでドラッグが手に入り、失敗してもジョーカーのせいだ。
 うだつの上がらない半グレの四十代、ヤクザに昇格できる見込みも無い。
 忠義を示せと言う方が無理というものだ。
 視線の先には金を手にした部下の姿、ヘッドライトで周囲を照らす矢沢組のベンツがある。
 部下が金を出し、組員がスーツケースを開いてドラッグを見せる。
 半沢はそのドラッグを見ているだけで身体にアドレナリンが駆け回ったような気分になる。
「動くんじゃねぇ! こっちにヤクを寄越せ」
 取引成立の寸前に半沢は銃を手に飛び出す。
 矢沢組の構成員がスーツの内側から銃を抜く。
「金もヤクも俺のモンだっつってんだ!」
 半沢は先制して引き金を引く。轟音が響き矢沢組の構成員が気圧されたように見える。
 立て続けに引き金を引いて距離を詰める。
 矢沢組の構成員が引き金を引き、半沢の頬を掠める。
 ジョーカーの姿で出ていけば怯むと思っていたのだが、反撃は想定外だ。
 それでもここが正念場と半沢は引き金を引く。
 一発の弾丸が矢沢組の構成員の鎖骨の辺りを貫く。
 凶悪な一瞥をくれて矢沢組の構成員たちが引き上げていく。
 半沢は両手でヤクを掴んで高笑いする。
 こんなにチョロい商売にこれまでどうして気付かなかったのだろう。
 ――ジョーカーを続ける限り俺は無敵だ――
  〈7〉
   事務所に次々に凶報が舞い込む中、矢沢組の緒方は状況の変化を理解していた。
 ジョーカーの模倣犯は自然発生的に生まれたものではない。
 本当に模倣する脳があるなら金や麻薬を要求する訳が無い。
 と、すれば中身は町の半グレや暴走族と察しがつく。
 とはいえ、数は厄介であり、ジョーカーの真似をすれば処刑だと言った所で本物のジョーカーもどこかにいるのだろうから半グレは高をくくって矢沢組の命令に従おうとはしないだろう。
 そして更に厄介なのはちゃんとジョーカーを模倣できている者もいるという事だ。
 ジョーカーを見たら撃てというのは簡単だが、半グレが連合して矢沢組に反旗を翻したら手足を失った矢沢組に抵抗する術は無い。
 矢沢組は権力と金と麻薬は持っているが、マンパワーが多いという訳ではないのだ。
 ジョーカーはその弱点を的確に突いて来たのだ。
「緒方、考えは無ぇか?」
 電話越しの矢沢の言葉に緒方は頭を巡らせる。
「ジョーカーマスクに百万の懸賞金をかけてはいかがでしょう?」
 マスクをつけている人間の罪を問わず、マスクを差し出せば百万やると言えばわざわざ危ない橋を渡ろうという連中は少なくなるだろう。
 その上でジョーカーの撃滅を図ればいいのだ。
「その手は使えそうだな。問題はマスクがどれだけ出回っているかだが」
「数は多くないと考えます。そもそも同時多発的にジョーカーが出現したという事は、誰かが創意工夫して模倣されたのではなく、何者かが意図的に行ったと考える方が自然です」
 言って緒方は組員たちに通達を出し、ついでに警察にも懸賞を知らせておく。
 公権力が銃刀法で取り締まりを開始すれば半グレは震えあがってジョーカーの真似などしていられなくなるだろう。
  〈8〉 
 
  健司は新庄市のホテルの床に落ちた髪の毛を拾いながら、事態の急変と自分���読みが正しかった事を知る。
 三浦は健司に捕捉された事で作戦変更を余儀なくされた。
 健司も身動きできなくなったが、それはお互い様なのだ。
 そこで今回のジョーカー量産化計画を演出したのだろう。
 しばらくの間町中にはジョーカーがあふれる事になる。
 矢沢組が引き締めを行っているものの、偽ジョーカーの模倣犯も出現し本来の偽ジョーカーより多くのジョーカーが出現しているのが現状だ。
 ――でもこの狂騒はすぐに終わる――
 健司は日が暮れるのを待ってアタッシュケースを手にホテルを出る。
 三浦が四六時中張り付いている訳ではない事も分かっている。
 いずれにせよ仕事を迅速に済ませれば証拠も残りはしないのだ。
 深夜の人気の消えたオフィス街を歩きながら手に手術用のビニール手袋をはめる。
 靴のサイズは自分の標準よりワンサイズ大きく、髪型は大きく変えていないが頭にはカツラをかぶっている。
 一般で売られているカツラには、インドの仏教徒やヒンズー教徒が出家する時の髪の毛が使われている。
 そして、インド人の髪の断面は日本人が楕円であるのに対し正円に近い。
 仮に髪が現場に落ち、科捜研が調査したところで出てくるのは謎のインド人という事になるのだ。
 健司は予定していた地点にたどり着くと、持ってきたボルトを電柱の穴に差して二・五メートル程の高さにまで登って電柱に寄り添うようにして立つ。
 予定通りスポーツバッグを手にしたジョーカーが走ってくる。
 中身は半沢という三下の半グレだ。
 正面だけに注意を向け、自分の身長より上には注意が向いていないらしい。
 健司はボルトに引っ掛けたテグスを引っ張る。
 ジョーカーの首にテグスが食い込み、仰向けに倒れかかる。
 アイスピックを手にした健司はジョーカーに圧し掛かるようにして飛び降りる。
 アイスピックがジョーカーのマスクと頭蓋骨を貫き、脳を攪拌する。
 健司はアイスピックをその場に放り捨てて、テグスもそのままに歩き去る。
 アイスピックもテグスも殺人犯を特定する決定的な証拠とはなり得ない。
 少し歩いた所で歩きやすい靴に履き替え、手袋を脱いでしまえば何一つ痕跡は残らない。
 意識していたが三浦に行動を監視されていた様子は無い。
 三浦はマスクをばらまいた事でジョーカー業を一定退いたのかも知れない。
 それならそれで……
 ――ジョーカーを名乗れば問答無用の死が訪れる――
 それでもジョーカーを続けられる者がいるだろうか。
 健司の受けた依頼はジョーカーの殺害であって三浦清史郎の暗殺ではないのだ。
  〈7〉
   緒方は苦い気分で事務所でTVを見ている。
 一週間で九人のジョーカーが殺され、四人のジョーカー、三人の組員が射殺された。
 ワイドショーは死体にピエロのマスクをかぶせる愉快犯として報道している。
 常識的に考えればそうなのだろう。
 だが、現実にはジョーカーの模倣犯が跋扈し、殺し屋円山がジョーカーを殺しまくっているのだ。
 この問題の裏が表ざたになれば矢沢組に捜査の手が伸びる。
 組長が事情徴収という事にでもなれば、知事選敗北は必至だ。
 この銃弾飛び交い殺し屋が闊歩する状況は、客観的に見れば矢沢組の内部抗争なのだ。
 ――やってくれたなジョーカー――
 日用品を用いて鮮やかに殺しを遂行する健司に対する恐怖は広がっており、それなりの数のジョーカーマスクが届いてもいるが、それでも自分だけは大丈夫と考えるのが人間の性であるらしい。
「兄貴、県警本部長が来ています」
 部下の言葉に緒方は舌打ちしたくなるのを堪える。
 何人か人身御供に出す必要はあるだろうが、それでジョーカー問題が片付く訳でも無い。
 今の新庄市はさながらギャングの蔓延る六十年代のニューヨークだ。
 このネガティブイメージの中ではカジノ施設の誘致も集客の為だなどという言葉で誤魔化せない。
 ――だが、商店街も打撃を受けているはずだ――
 緒方は次善の手を考えながら県警本部長を待たせてある応接室に向かう。
「緒方です。この度はお騒がせしております」
「いや、そうかしこまらんでくれたまえ。私がこうしておれるのも矢沢組あっての事だ」
 県警本部長の茨木義男が本革張りのソファーから腰を上げて言う。
 茨木は東大卒のキャリアで矢沢の後輩に当たり、同じゼミを受講していた間柄だ。
「殺人事件は起こせない。それが警察の不文律でしょう?」
「今回のカジノ施設建設は内閣肝いりでもあるんだよ。情報操作で反対派が工作しているように演出する事は可能だろうよ」
 転んでもタダで起きないのが政治家やエリートというものであるらしい。
「つまりはカジノ施設反対派が、賛成派の人間を殺してピエロのマスクをつけていると?」
「そういう報道になっているだろう?」
 茨木の言葉に緒方は唖然とする。
 当事者としての立場で見ていた為に気付かなかったが、一般視聴者の目線で見るとそういう風に見えるのだ。
「で、私の在任中にこれだけの死者を出しているんだ。票は囲い込めているんだろうね」
「固定票は押さえております」
 実際の所、矢沢組は内紛に近い状態で票を囲い込めるような状態ではない。
 大手のチェーン店などでは本部通達で票の取り込みができているが、個人事業主は依然として反対の姿勢を崩していない。
 ――やる事成す事裏目に出る―― 
「死人は出る、カジノ施設はできないでは私の本庁復帰が危うくなるんだよ。その意味は分かっているだろうな」
「はい」
 不満げな茨木に緒方は短く答える。
 ――県警本部長が殺害されれば流れが変わるかもな――
 緒方は脳裏にあのとらえ所のない殺し屋の姿を思い描いた。
  第四章       トリックスター
  〈1〉
  「最近俺たちが出てもヤクザもビビらねぇのな」
 クイーンメイブのボックス席で健がぼやく。
 本物の銃を撃つジョーカーもいれば、ジョーカーを狙い撃ちにする殺人鬼も存在する。
 実際に死人も出ているのだから今更驚かす程度ではヤクザも怯みはしないだろう。
「銃で撃たれるって不安。前より遠慮なく撃たれてる感じ」
 加奈が沈んだ様子でカクテルに口をつける。
「おいおい、私たちの本来の目的を忘れたんじゃないだろうな。私たちの目的はカジノ施設誘致の妨害だ。今の状況でカジノ施設がオープンしたとして誰がテナントに入るんだ? 暴力がこれだけ蔓延る状況を許した現職知事は窮地に立たされている。住民の安全と地域の活性に誠実に取り組む人物が取って代わらなければ市民が納得しない」
 ショットのバーボンを口に運んで清史郎は言う。
「いや、確かにジョーカーの言う事は分かるんだけどさ、昔は良かったっつーか、実入りが少ないのは我慢するとしてもよ」
「私たちの本当の目的に近づいているんだから喜んでいいはずなんだけどね」
「選挙の公示まで三日、世襲できそうな人間がいない以上与党は今更候補者を変更できないし、現職のまま選挙を戦う事になる。野党には追及の材料が掃いて捨てるほどある。これで負けるようなら本当に世の中が腐りきってるってだけだ」
 健と加奈の気持ちを察しながらも清史郎は言う。
「もう少しで全部終わっちまうんだよなぁ~。何か微妙だぜ」
「コンビニも忙しいって言えば忙しいんだけど、税金は取られるのに退職金も無いし年金のアテもないし」
 健が仕事にやりがいを感じられないのも、加奈がお先真っ暗だと言うのも理解できる。
「そうは言っても九月三十一日にはジョーカーは死ぬんだ」
「してやられましたよ。九月に三十一日なんて無いじゃないですか」
 ボックス席に当たり前のように現れた円山が言う。
「誰だテメェ!」
 健が身を乗り出す。
「歌舞伎町で殺し屋を経営している円山健司と言います。ここが三浦さんの本当の事務所だったんですね」
「まさか一週間で九人も殺したのって……」
「やだなぁ~僕はもっと殺してますよ。警察だって報道内容には気を遣うんです」
 涼しい表情でグラスを手にした円山がボックス席に座る。
「人殺しだってバラすぞ、テメェ」
 健が円山に向かって噛みつきそうな声と表情を向ける。
「ご自由にどうぞ。何か一つでも証拠が存在するならね」
「で、その殺し屋さんがここに何の用?」
「いや、本家のジョーカーはどうしているのかと思ってね。偽物でもこれだけ殺せば本家も仮面を捨てるんじゃないかって思って」
「おたくの言う通りだ。こんな凄腕の殺し屋がいるならジョーカーなんてやるだけ損だ」
「本当にそう思っていますか? 本家はまだ何か隠し玉を持っているんじゃないかって思うんですけど」
「随分と余裕かましてんじゃねぇか。ジョークを殺ったらテメェを殺す」
「殺しはしたくないけどジョーカーを殺させる事は絶対にしない」
「人望があるんですね。いっそ事務所でこの二人を雇ったらどうです? 今より金回りはよくなるんじゃないですか?」
「殺し屋より儲かるとは思えないね」
「それはリスクを負っていますから」
「テメェは嫌味を言いに来たのか。悪いが俺たちはテメェになんざ負けねぇ」 
 頭に血の上った健が言う。
「そうそう、一つプレゼントがあるんです」
「あんたがくれるものなんてロクなものじゃないと思うんだけど」
「野党連合の候補を殺すように県警本部長から依頼を受けたんです」
 笑顔で言った円山がグラスを空ける。
 突然の事に健と加奈が硬直する。
 選挙期間中に候補が殺されてしまったら票が分散して現職が有利となる。
 どれだけ黒い噂があったとしてもだ。
「それは俺たちに守って見せろと言っているのか?」
「さぁ、気まぐれですよ。僕はこれでもあなたの事が嫌いではないんですよ」
 言った円山が席を立って去っていく。
 加奈と健が茫然とその背を見送る。
「私たちと候補者をまとめて葬るつもりか……」
 清史郎は思案する。候補者を守る為に張り付けば二人まとめて殺される可能性がある。
 しかし、候補者を放置しておけば間違いなく殺されるだろう。
 具体的な殺人予告という訳ではなく、あったとしても警察はアテにはならない。 
 市民は自衛するしか無いのだ。
――どうする……―― 
「なぁ、ジョーク、どうすんだ?」
「あんたも少しは考えなさいよ」
「考えてるって。頭の中じゃあの野郎を三十回は殺してる」
 非生産的な事を考えている健が言う。 
「ジョーカー、私、どうしていいか……」
 加奈は追い詰められた様子だ。
「こうなったらお望み通りにしてやろう。ジョーカーの最期を見せてやるんだ」
 清史郎は一抹の寂しさを感じながら笑みを浮かべて見せた。
 円山を前にして取れる手は一つしか無いと言っていい。
 ――あの男はこの結果を望んでいたのだろうか――
  〈2〉
  『……皆さん、この町の惨状は突然起きたのでしょうか? その根幹には市の中央にある広大な県の土地があります。この土地は江戸時代に火災の延焼を避ける為に作られた防災の為の土地でした。しかし新庄市が栄えるに従い、土地の価格が上がり莫大な利益が生まれる事が分かってきました。ヤクザやギャング、財界の人間はその利権に群がっているんです。もし、彼らの思い通りにさせるなら彼らの存在を容認する事になります。二百年前の先人の知恵に従い、ここを防災を兼ねた市民公園にする事こそが行政の成すべき事です……』
 夕暮れの新庄市の駅前で野党候補の峰山春香が声を上げる。
 聴衆はさほど多くはないが商店街や青年団が集まって盛り上げようと四苦八苦している。
 清史郎はオープンカーのハンドルを握りながらタイミングを計っている。
『ジョーカー、スタンバイOKよ』
 イヤホンから加奈の声が聞こえてくる。
『警察は野党の候補に人は割いちゃいねぇ、殺るなら今だ』
 健の声を受けて清史郎は紫のどぎついトレンチコートを羽織り、ピエロのマスクをかぶる。
「そこのお前……」
 演説を警備していた警官が警棒を手に近づいて来る。
「制服ギャングも久しからず」
 清史郎は銃を引き抜く。
 警官の足元で火花が爆ぜる。
 聴衆だけでなく、夕暮れの帰宅ラッシュの人々の足が止まる。
「綺麗ごとでマニィをロンダリィ! 俺はハッピーにトリガー、堅実な人生が諸行無常!」
 清史郎は自動小銃を抜いて選挙カーに銃弾を浴びせかける。
 銃声が響き至る所で火花が散る。
 ガードマンに守られて逃れようとする峰山の背に向けて引き金を引く。
 血を噴出させた野党候補が倒れる。
「こんな時には正露丸! キャベジンがあれば国士無双ゥ! ユンケル飲んだら夜金棒!」
 峰山が選挙カーに運び込まれ、現場から離脱しようとする。
『ジョーク、サツが動いた。射殺してもいいって言ってやがる』
 健の言葉に清史郎は生唾を飲む。想定してはいたが、想像以上に警察もなりふり構っていないらしい。
 清史郎はオープンカーで選挙カーを追い、グレネードランチャーで後ろ半分を吹き飛ばす。
 煙を上げた選挙カーが路肩で停止する。
 清史郎は高笑いしながら選挙カーの脇をすり抜け、オープンカーで町を駆け抜ける。
 無数のパトカーが清史郎のオープンカーを追う。
『ジョーク、法定速度は無視してくれ、俺がナビゲートしてんだし、今更ネズミ捕りが怖いって訳でもねぇだろ』
 健のナビゲーションでパトカーを避けて清史郎は埠頭へと向かう。
 銃声が響き、音速より早く飛んだ弾丸がオープンカーに襲い掛かる。
 警察が矢沢組の懸賞を狙っている事は健のハッキングで知っている。
 制止する警官の声と銃撃を受けながら、フルスロットルのまま岸壁から海上へと車体を躍らせる。
 肩と背中に銃弾を受けた清史郎は冷たくなり始めた海の中へと沈んでいく。
 清史郎が意識を失いかけた時、淀んだ海の中にウェットスーツに身を包んだ加奈が姿を現した。
 
 
 〈3〉
   警察が捜査した結果、海で手に入れる事ができたのは一台の盗難車とピエロの仮面と紫色のトレンチコートだけだった。
 知事候補が襲撃された事もあり、今後清史郎がジョーカーの扮装をすれば正体が露見する可能性は極めて高くなるだろう。
 ――本家ジョーカーは死亡した――
 健司は病院の廊下を歩きながらポケットの中のビニール手袋の感触を確かめる。
 野党候補は銃創を負って病院に入院している。
 実際には銃創など負っていないのだろうが、ジョーカーと候補が一芝居打つのだとしても病院は避けて通れない。
 ――悪いけど僕は殺しの依頼は完遂する――
 健司は候補の部屋の前のボディガードの様子を観察する。
「すみません。新庄市後援会の青年団の円山と言います。先生はご無事でしょうか?」
「先生はご無事だ」
 鉄面皮のボディガードが返答する。
「それを聞いて安心しました。一言無事をお祝い申し上げたいのですが構いませんか?」
「十分だ」
 ボディガードの言葉に笑みを返して健司は一人部屋に足を踏み入れる。
 両手にビニール手袋をはめ、小銭袋を握りこむ。
「やぁ、先生、ご無事なようで何よりです」
「無事なものか。ポリの弾丸を四発も食らったんだ」
 そこで見た光景に健司は言葉を失った。
「お陰で選挙が終わるまで退院できそうにない」
 三浦が笑みを向けてくる。
「バカな……あなたは……」
 身を隠さなくてはならないはずだ。
 治療する為にも……。
 ――治療する為に候補に成りすましたと言うのか――
 入院している間は世間の目は避けられる。
 それでは候補はどこに消えたと言うのか。
「お前は野党候補を殺せというオーダーを受けたはずだ。今彼女は立候補しているが、生死不明で野党の統一候補ではない。今は慶田盛弁護士事務所で事務の手伝いはしているが選挙活動はしていない。それでもお前は殺すのか?」
 健司は清史郎の言葉に笑いがこみあげてくるのを感じた。
「詭弁にも程がありますよ。ほとんど屁理屈じゃないですか」
「屁理屈でも君は依頼に忠実なんだろう? あと面会は手短に頼むよ。これでも歳でね、銃創って言うのは堪えるんだ」 
 銃創が堪えているのは本当らしい。
「それでも最後には候補は復活しなきゃならない」
「死んでいなければね」
 カーテンの影から姿を現した女性がグレネードランチャーを構える。
「まさか……」
「ジョーカーは死んだ、ヒットマンは来た。これで充分だ。なぁ、ジョーク」
 ラップトップコンピューターを小脇に抱えた青年が言う。
「ゲームオーバーだ」
 清史郎が不敵な笑みを向けてくる。
 健司は小銭袋を窓に投げつける。
 砕けたガラスの破片を拾い上げて身構えながら退路を探る。
 ガラスの破片で候補の命を絶つつもりだったが今三浦を殺した所で意味が無い。
 今は割れた窓の外に逃れる隙さえあればいい。
 女性の指がグレネードランチャーの引き金にかかる。
 猛烈な爆音と閃光が室内に満ちる。
 健司は窓の外に身体を躍らせた。
 ――これで知事候補が殺された事になるのか――
 健司は地面を転がり、人目を避けながらバッグから出した白衣を羽織る。
 ――僕は最期までジョーカーに踊らされたって訳か――
 敗北感より、どこか清々しさを感じながら健司は病院を後にした。
  〈3〉
  「慶田盛弁護士事務所では峰山候補を歓迎しますよ」
 新庄市にある、冤罪に強いと噂の弁護士事務所で峰山春香は未だに自分の身に起きた事が信じられないでいる。
 峰山が候補に決まったのは公示二日前、そこから慌ただしく野党の党首などと会談を交わし、選挙戦の流れになったのだが、その直後に慶田盛敦という弁護士が現れたのだ。
 慶田盛の噂は峰山も聞いており、信頼できる人物であるとは感じていたが、話の内容は想像のはるか斜め上を行くものだった。
 新庄市の乱射魔ジョーカーの本家は、冤罪事件の解決を主に行っている三浦探偵事務所の所長三浦清史郎だったのだ。
 三浦は知事選を前に町に大量のジョーカーマスクをバラまいて一時的に身を引いた。
 しかし、ジョーカーと野党知事候補は確実にターゲットを仕留める円山という男に命を狙われているのだ。
 更には矢沢組がジョーカーに懸賞首をかけており、警察も生死を問わないという条件でジョーカーを狙っているという。
 そこで三浦が出して来た案がジョーカーに候補者が襲われて入院、ジョーカーは警察に追われて死亡、更に候補者の運び込まれた市民病院に現れる円山を三浦が撃退するというものだったのだ。
 三浦は警察に追われて手傷を負う事は間違いなく、それならば知事候補と入れ替わって入院してもゆっくりと治療ができる。
 一方春香は慶田盛弁護士事務所で投票日三日前まで、事務職として短期採用される。
 円山のターゲットは知事候補であり、事務員殺害ではなく、その一線を越えてこないのも円山という男なのだという事だった。
「何もかもが信じられないわ。生死不明で選挙戦を戦うなんて……」
「野党の党首が連日新庄入りするって話になったじゃないですか」
 春香は慶田盛弁護士事務所の安普請の椅子に腰かける。
「それはいいとしても、いいえ、大きな借りを作る事になりますし……」
「市民に対して不誠実だと?」
 春香の心中を察した慶田盛が言う。
「その通りよ。三日前に復活なんて話が良すぎるし」
「でも、実際問題あなたを救う手立ては他に無かった」
 事務所の電話が鳴り、慶田盛が受話器を手に取る。
 ボタンを押してスピーカーに切り替える。
「私だ。円山が知事候補殺害に現れたよ。こっちで見かけだけは派手な爆薬を爆発させて追い出した。これで知事はテロリストにまで襲われた事になるわけだ。しばらく身を隠さなきゃならない理由が増えたんじゃないか?」
「三浦さんですね? あなたが身体に銃創を負ったという話は聞いています。あなたはどうしてここまでやったんですか?」
「若い連中と付き合いがあると、柄にもない正義感なんてものも持つものなのさ」
 三浦の言葉に春香はため息をつく。
 実際の傷はどうあれ、体面上知事候補は集中治療室にかくまわれるだろう。
「市民病院が告発したらどうするつもり?」
「それは無いさ。与党の市長になってから予算を削減されて、市民病院では上から下まで味方しようなんてヤツはいないんだから」
 慶田盛が肩を竦めて見せる。
「あと、仕事柄マスコミの相手をするのは苦手じゃないんだ」
「ああ、こいつは口先だけは有能だからな」
 二人の言葉を聞いていた春香は苦笑する。
 悪だくらみのような作戦だが、この二人にとってはこれは健全な正義のスポーツのようなものなのだ。
 
 〈4〉
   野党候補の入院先で爆破テロが起こった事で、与党候補に対する疑惑は大きなものとなった。
 野党候補は生死の境を彷徨っていると報道されている。
 清史郎は病院で何不自由なく治療生活を送っている。
 のだが……。
「なぁ、ジョーク、ここで寝てるってのは何かの冗談だろ?」
「怪我してるのは事実なんだから無茶言わないの」
 健と加奈は連日競うようにして病室を訪れている。
「お前ら、もうジョーカーの出番は無いんだぞ? 知事選も候補が無事を表明すれば一発で決まる。もうやる事は無いんだ」
 清史郎が言うと健が叱られた犬のような表情を浮かべる。
「いやさジョーク、俺、土建屋辞めたんだ」
「私も……その、コンビニ辞めたんだ」
 清史郎は二人の言葉に唖然とする。
��このご時世に仕事を自ら捨ててどうしようと言うのか。
「ジョーク、儲からないっつってるけどよ、俺が手伝ったら何とかなんじゃね?」
「先に言わないでよ。採用するなら私の方が得なんだから。多分」
 清史郎は額に手を当ててこみ上げてくる笑い声を抑える。
 傷に響くが笑いたくなるのだから仕方がない。
「お前ら、馬鹿じゃないのか? こんなオッサンと組んだって心中するようなモンだろ」
「それでもいいくらい楽しかったんだよ」
「またスリル、くれるんでしょ?」
 清史郎は笑い声をあげて身体を起こす。
 傷が引きつるが痛みなど気にならない。
「資本金はお前らと合わせて裏金三千万円。社員は三人。一人はオッサン。ジョーカー探偵事務所とでもするか」
「何かダセェ。中年は変に英語にするから逆にカッコ悪いんだよ。三浦探偵事務所でいいだろ」
「中年のセンスが悪いのは今に始まった事じゃない」
 清史郎は憮然として健に言い返す。
「じゃあ新しい門出に」
 加奈がバッグからワインのボトルを取り出す。
 若い二人は自分に老ける暇を与えてくれないらしい。
 清史郎はコップに注がれたワインを掲げる。
「乾杯」
 紙コップが音もなく打ち合わされ、新しい何かが動き始めた。
  エピローグ
   清史郎は健と加奈を引き連れて病院の廊下を歩いている。
 向かいからスーツ姿の峰山春香が歩いてくる。
 握手しようと峰山が手を差し出してくるのを無視して清史郎は右手を軽く上げる。
 峰山が応じて右手を挙げてハイタッチすると、清史郎と峰山は入れ替わるように方向を変える。
 清史郎の背後でフラッシュが瞬き、峰山が光とシャッター音に包まれる。
 生死不明から無傷での生還。
 これほどの宣伝も無いだろう。
 ジョーカーはカジノ施設を阻止するというその使命を果たしたのだ。
   選挙戦は野党党首が連日交代で訪れるという形で、野党が攻勢を強めていた。
 そして投票日三日前に野党候補が無傷で出現。
 暗殺者に狙われていた事を告げ、改めて支持を訴えた。
 緒方は事務所で出来の悪すぎる茶番劇を見せられたような気分を味わっている。
 ジョーカーという乱射魔が出現、殺し屋に依頼をしたらジョーカーの模倣犯が大量に出現。野党候補を狙ったら本家ジョーカーに命を狙われ、生死不明から一転蘇った。
 市民の心理を考えるまでもなくこの選挙は完敗だ。
 何処で何を間違えたのかなど分からない。
 否、最初からこの町には矢沢組を受け入れない何かが存在していたのだ。
 近々上層の組から矢沢更迭が告げられるだろう。
 だが、緒方は矢沢にとって代わろうなどとは思わない。
 ――この町にはジョーカーという化け物が存在するのだから――
   十月一日、健司はいつものように殺し屋のカウンターの内側にアルコールを吹きかけている。
 もしも、九月に三十一日が存在しているならジョーカーが殺されてやると言っていた日。
 新庄市では市民の支持を得た新知事の誕生でお祭り騒ぎらしい。
 と、殺し屋の戸口に宅急便の配達員が現れた。
「殺し屋様ですか? Amazon様からのお届けものです」
 記憶には無いが健司は笑顔で箱を受け取り、伝票にサインする。
 ナイフで慎重に箱の封を開けるとそこにはピエロのマスクが収まっていた。
 健司は口元に笑みが浮かぶのを感じた。
 ――確かにジョーカーは死んだ――
 健司はその自然な笑みを機械的な笑みの後ろに隠し、カウンターを磨き始めた。
 今日も新たな客がやって来るに違いないのだ。 
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【小説】Planet of Cat’s
序章
2075年。
 2020年代を生きた人々にとっては、その近未来は全てが機械化されたAIの社会になると思われていた。 
 科学技術は思わぬ方向から進歩する事がある。
 17世紀産業革命以前の人間が蒸気機関というものを想像し得たであろうか?
 蒸気機関の時代を生きた人間が電気の時代を想像し得たであろうか?
 目まぐるしく変わる時代の中で正確な未来予知は困難であり、望んだ通りの未来にならない事も往々にして存在する。
 1960年代の宇宙開発の狂騒はどうだろう?
 アポロは月まで行ったのに、2000年代以降に待っていたのは宇宙開発の時代では無かった。
 2010年代にはエンタープライズが宇宙を駆ける代わりに、誰もが掌サイズのコンピューターを手にする時代が訪れた。
 当時の人々はコンピューターの万能を信じて疑わなかった。
 ネット流通の配達はAIを搭載したドローンが行うと誰もが信じていた。
「Amazon様からのお届けものです」
 インターフォンのボタンを押したエドは運んできた箱を疎ましく感じながら言う。
 配送センターで見た時には小さい箱だから楽だと思ったが、中身がIT機器なのかとにかく重��。
 本と機械を買う人間は通販を使うなと言いたいが、ついでに言えば飲み物や液体洗剤も使うなと言いたいが荷物の三分の一はそういった品が占めている気がする。
 ガチャリ、と、ドアが開き、エドはドアが開いた分だけ後ずさる。
 ドアから顔を出した風采の上がらない男が箱に目を落とす。
「こちらにサインをお願いします」
 エドは客の男性にポシェットから取り出したタブレット端末を差し出す。
 男が無言でタブレット端末にサインをする。
 エドがタブレットをしまうと、男は箱を抱えてドアを閉める。
 暑い最中に箱を運んだのだから礼の一言くらいあってもいいではないか。
 エドは軽やかな足取りで階段を降りながら内心で愚痴をこぼす。
 カブトムシに似た形の配達用の三輪スクーターに乗り込んでイグニッションを押し込む。
 フロントガラスに次の配達先と最短経路が表示される。
 かつて人類は交通の自動化を目指したようだが、結果としてそれは成功しなかった。
 確かに自動運転技術は進歩したし、交通インフラにも多額の投資が行われた。
 実際に成功した都市もある。
 全ての自動車が自動運転に対応し、全ての信号機が中継基地の役割を担って運用されるのであればリスクは限りなく小さくなる。
 しかし、実際には歩道を歩く人間の動きは機械にとっては限りなく予測不能で、当然ながら人間の運転する自動車の動きも同じだ。 
 人間がエゴを捨てて道路というインフラを機械に明け渡さなければ、人間の願望である交通の自動化はできないという事が証明されたのだ。
 エドはハンドルに手を置いて配達車を走らせる。
 人類は自動車を自動化する事はできなかったが、ほとんどの自動車を電気自動車にする事には成功した。
 地球温暖化の危機は過ぎ去っていないが、それなりに進歩はしているという事だ。
 エドが配達車を走らせる間にも幾つもの似たような車両と行違う。
 高所作業で、店舗で、生活のあらゆる場所で同胞が働いている。
 エドは本来勤勉ではない。
 睡眠は16時間。最低でもこれは譲れない。
他の大多数もそうであろうが、それが気に入らないという人が多いから困ったものだ。
 暑いだろうに歩道をレターケースを背負ったアビシニアンが歩いている。
 エドはクラクションを鳴らす。
 アビシニアンが品の良い顔を向けて来る。
「どこまで行くんだ? 汗臭いのが嫌で無ければ乗ってかないか?」
 エドは配達車を横付けして笑みを向ける。 
「ありがとう。でも、そんなに遠くじゃないから」
 アビシニアンが微笑んで言う。元々南方の種だから暑さには強いのかも知れない。
「そうかい。無理すんなよ。俺は仲間が減って食い扶持が増えたなんて事で喜ぶ男じゃないからな」
 エドは軽くクラクションを鳴らして配達に戻る。
『おい! エド! 遅れてるぞ! 何やってんだ!』
 フロントガラスに金色の瞳をしたぶちの姿が現れる。
「ホテルにシャンペン届けるんじゃねぇんだ。生温かいVRゴーグルが届いて文句を言う客なんていねぇさ」
 エドは湿った鼻を擦って言う。
『CSが落ちると俺たちも干上がるんだよ! 俺たちの代わりなんて幾らでもいるんだからな!』
 全てのサービス業について言える事だが、顧客はサービスについてSNSで評価を付ける事ができる。
 オンラインで共有された情報で、自分たちの上には常にレビューサイトのように☆が浮かんでいる事になる。
 気まぐれな客の機嫌を損なうだけで、自分の評価や会社の評価が下がるのだからたまったものではない。
 エドは勢いよくアクセルを踏む。
 三輪の配達車が絶妙なバランスを取りながら次々に車を追い越して行く。
 F1レーサーでもこうはいかないだろうとエドは小さく鼻を鳴らす。
 人間を超える視覚、聴覚、嗅覚、触覚、三半規管を持つ。
 高所の作業でも、高速走行でも優れたバランス感覚故に人間のようなミスを犯す事は無い。
 エドは猫なのだ。
 吾輩は猫である。名前はまだないと言いたいがエドだ。
 より正確に言えば淡い褐色の毛を持つトラ猫だ。
2040年代。
 人類は宇宙に送り出す動物を選定していた。
 サルが最有力候補だったが、サルは指先は器用でも無重力空間に対応する事はできなかった。
 猫は優れた三半規管により、高所から落下しても上下を見失う事は無い。
 宇宙酔いをする事が無く、更に宇宙船の方向を機械に依らずしても把握できるのだ。
 柔軟な筋肉は無重力空間から戻った後のリハビリの期間も短くて済む。
低重力の宇宙船のパイロットには猫ほど適した動物はいなかったのだ。
そこで遺伝子的に脳を改造した猫が作られた。
 人間は大きな頭をしている癖に、使っているのは三割だと言う。
 その三割の機能を付け足す事で猫は人間と同等の知能を得たのだ。
 そして最初の猫アームストロングは火星往復に成功した。
 その三年間の旅の間に地球上で巨大な変化が生じていた。
 猫は一度に三匹から五匹の子供を産み、一年で三回妊娠する事ができる。
 子猫から大人になるまでの期間も約一年と短い。
 更に遺伝子改造された猫は優性遺伝となる事が判明した。
 一匹の母猫から一年に十五匹、何の手を加えなくても人間と同等の頭脳の猫が生まれて来るのだ。
 平均十五年の寿命を持つ猫は、人間とは体感時間と学習能力が異なり、たった三年で小学校から大学を卒業するまでの学力が習得できる事が確認された。
 手先が肉球という事で小さいスマートフォンの操作はできないが、タブレットであれば充分に操作できる。
 レジやPCがキーボード操作の時代では難しかった仕事も同様で、タッチパネルなら肉球にもできる。
 地球の貴重な資源を使って高価なIT機器を作る必要があるだろうか? 
 どこまで使い物になるか分からないアンドロイドを作る意味があるだろうか?
 確かに工場などロボットが活躍している現場もあるが、残念ながらロボットに人間のような汎用性は無く、その価格は高価で中小零細の企業が淘汰される原因にもなり得る。
 だが、猫ならどうだろう?
 人間と同程度の頭脳と、人間を上回る身体機関を持つ猫であれば。
 人間は機械から猫へと乗り換えた。
 猫は人間生活のあらゆる場面で活躍した。
 猫は小柄な肉体を補う為のパワードスーツを開発し、家事や育児に使う簡易的なロボットアームも開発した。
 猫が人間の子供を育て、病院で手術や看護をし、老後の面倒を看る。
 そしてロボットではなく猫の世紀が訪れたのだ。
 エドは配達車の窓を開けて毛玉を吐き出す。
 それは人間にとっては良い事だったかも知れない。
 しかし、猫にとっても良いとは限らない。
 猫の報酬である魚は人間が優先的に取ってしまう。
 かつてはツナを与えられていた猫も、今では様々な訳の分からない魚の混ざったミンチを与えられるだけだ。
 確かにイカを食べようとは思わないが、これだけ人間に貢献しているのだからツナくらいもらっても悪くはないはずだ。
 ホワイトカラーの証券猫からブルーカラーの現場猫まで、車のガソリンは世界中同じだとでも言うかのようにミンチを与えられている。
 職に貴賤は無い。それは多くの猫が認める事だ。
 しかし、猫が払う労働の対価はあまりにも小さいのでは無いだろうか。
 エドはマンションの前で配達車を停めると、身体と同じくらいの大きさの箱をベルトで背負う。
 エレベーターの無い五階の階段を背骨が軋むような感覚に囚われながら駆け上る。
 部屋の前で箱を降ろし、猫用に低く備え付けられた呼び鈴を押す。 
「Amazon様からの御届け物です」
 エドは息を切らし、汗で湿った毛を拭いながら言う。
 ドアが開き、主婦らしい女性が姿を現す。
「あらあらご苦労様」
 主婦が用意してあったらしい鰹節を掌に乗せて差し出してくれる。
 だが、今のエドに必要なのは鰹節より水だ。
 しかし、CSを下げない為にも笑顔を受け取る他は無い。
「にゃ~ん」
 エドは口腔に鰹節が貼りつくのを感じながら笑顔を浮かべる。
 受け取りのサインを済ませて階段の柵にもたれて喉に貼りついた鰹節を吐き出す。
 ポシェットの中のデバイスが次の配達先へ行けと音を立てる。
 エドは階段を駆け下りる。
 心臓が止まっても仕事が止まる事は無いのだ。
  第一章 猫とまたたび
   〈1〉
  「いやぁ~、危機一髪だった。スターバンクが下がり始めたと思って売ったら三分後には株価が五分の一。ストップ安になったけど投資家の半分は自殺するしかねぇな」
 深夜の路地裏。証券猫が前脚で顔を洗いながら言う。
「今日の心臓移植のオペでマニュピレーターが一瞬誤作動したんだ。一歩間違えば人間を殺しちまう所だった。医者になんてなるもんじゃないよ」
 医者猫が目をしばたたかせる。
「サーバーの不具合でシステム復旧になったけど、元はと言えば人間が無茶なアップデートするからだ。ものが変わる訳じゃないのに新しく見せかけようとして不具合出してちゃ世話ないわ」     
 エンジニア猫が苛立たし気に尻尾を揺らす。
 ご先祖様から聞く限りでは猫集会は基本的に楽しいとの事だったが、エドが知っている範囲では愚痴の言い合いとしか思えない。
「なぁ、ドッジ、一番街のアビシニアンって知らねぇか?」
 エドは仕事仲間のぶち猫のドッジに声をかける。
「俺はな! 一日三百匹の配達猫のオペレートしてんだ! 部屋から出ねぇし、全員の品種を知ってる訳でもねぇ!」
 ドッジは元々声が大きいのか、それとも常に機嫌が悪いのか判別しにくい。 
「お前なら顔が広いかと思ったけどな」
 エドはため息をついて他の猫の会話に聞き耳を立てる。
 昼間出会ったアビシニアンの声は無い。
「なぁ、お前ら一番街のアビシニアン知らねぇか?」
 エドはカリカリを手に雌猫のグループに声をかける。
「一番街にアビシニアンなんていたっけ?」
 カリカリを食べながらリーダー格の雌猫が言う。
「アビシニアンとかって、執事とかメイドとかのイメージあるけど」
 別の雌猫が言う。
 確かに希少種の猫は路地裏に集まるような一般労働に就労する事は少ない。
 彼らを使う事が裕福な人間にとってのステータスでもあるのだ。
「珍しくあたしらに声をかけたと思ったらお姫様探しって、ねぇ」
 カリカリを催促しながら別の雌猫が言う。
「知らねぇなら知らねぇって言えよ」
 エドは尻尾をぴんと立てて背を向ける。
 発情期でも無いのに雌猫に媚びを売っても仕方ない。
 エドの脳裏をアビシニアンの品の良い顔が過る。
 外見で相手を判断すべきではないのは分かっているが、好奇心を抑える事ができない。
 エドはゴミ箱の上に飛び乗って前脚で顔を洗う。
「エド、猫探しだって?」
 普段あまり話をしない猫が声をかけて来る。
「お前は?」
「サウスパーク探偵事務所のガムだ」
 ガムが差し出した肉球に肉球を返す。
「探偵? 何か知ってんのか?」
 エドは身を乗り出す。探偵もピンキリだが、少なくとも配達屋よりは情報に通じているだろう。
「知ってるも何も、お前が探してるって事しか知らないんだ。どんな猫なんだ?」
「アビシニアンでレターケースを背負ってた。一番街をセントラルパークに向かって歩いてた。それ以上の事は判らねぇ」
 エドは毛づくろいをする。
 それ以上の事は分からない。ただすれ違って一言交わしただけなのだ。
「また珍しい猫に会ったな。でもレターケースって言うのは興味深い」
 ガムがエドを真似るように毛づくろいをする。
「そういやそうだな。誰が誰に出したんだろ」
 エドは記憶を辿ろうとする。
 現代では公文書も多くがデジタル化されている。
 人間が直接ペンや鉛筆で書いてやり取りする事は考えにくい。
 DMの類も無い訳ではないが、それは郵便猫の仕事だ。
「セントラルパークに向かったって事は受け取る相手がそこに居たって事じゃないか? 建物に直接運ばないって事は特別な書類だった可能性がある」
 ガムが興味深そうに瞳をくるくるさせる。
「手書きの特別な書類か……」
 エドは前脚を舐める。荷物なら日常的に運んでいるが、書類を運ぶという事はした事が無い。
 むしろそんな軽いものを運ぶだけでいいならそっちの仕事を選んでいる。
「手書きの遺言状とか……デジタルでは価値の通じないものである事は確かだろうな」
 ガムが顔を洗いながら言う。
「雇用主が死んだとか……そういう風にゃ見えなかったがな」
 エドは子猫の頃の癖である尻尾を噛みたくなるのを堪える。
「本業があるから張り込む訳にも行かないし……保健所のデータベースにならあるんじゃないか?」
 猫は人間とは違って保健所に出生や戸籍などが登録されている。
 犬やサルと同列に扱われる事に躊躇いはあるが、そういう仕組みになっているのだから仕方が無い。
「保健所か……あんまり好きじゃねぇな」
 エドには保健所はワクチンの注射というイメージがある。 
 注射など大嫌いだが、受けなければ野良猫として捕まってしまうのだから仕方ない。
「好きな猫なんていないさ。保健所のデータベースに無ければ野良猫って可能性もある」
「アビシニアンなら血統書付きだろ?」
 エドは仮に売りに出されたとしても雑種のトラ猫だから一ドルにもならないが、アビシニアンなら二千ドル出す人間もいるだろう。
「闇で引き取られたとか、そういう可能性はあるだろう?」
 ガムの言葉にエドは尻尾を振って考える。
 保健所のデータに無ければ闇取り引きされた猫という可能性は存在する。
 だが、今の所保健所のデータベースにも当たれていない。
 エドはゴミ箱から飛び降りるとITエンジニアらしい猫に声をかける。
「ようITボーイ。ちょっと頼まれてくれねぇか?」
 エドの言葉に黒猫が不思議そうに首を傾げる。
「俺はエド。一番街の辺りに居たアビシニアンを探してる。保健所のデータが見たい」
「できなくはないけど、アビシニアンってだけだとそれなりの数だと思うよ?」
 タブレットを取り出してIT猫が言う。
「ちょっと赤毛がかってて、品がある感じなんだ」
 エドは前脚を上げて説明しようとする。
「それは君の主観だろ? ざっと見た所、市内には二十三匹のアビシニアンがいる」
 IT猫がタブレットを差し出して来る。
 エドはスワイプするがそれらしい猫の姿は見当たらない。
「これだけか? もっと鼻筋が通ってて、瞳が大きくて、耳がこうピーンとしてて」
 IT猫がため息をつく。
「それも君の主観だろ? 市内の保健所のデー���はこれだけだし、全国にする事もできるけど、それだと凄い数になるよ? それでも見分けられる自信あるの?」
 IT猫の言葉にエドは首を捻る。
 この中には含まれていないが、数百を見せられたら逆に混乱して分からない可能性がある。
「見てられねぇな! 配達車のドライブレコーダーがあるだろうが!」
 背後からやって来たドッジがだみ声を上げる。
 ドッジがタブレットを操作するとエドのドライブレコーダーの記録が再生される。
 レターケースを背負ったアビシニアンが現れ、エドの言葉に答える様子が映されている。
「これだよ、この子だよ! な、保健所の写真とは違うだろ?」
「保健所の写真を撮ったのは僕じゃないし、保健所に記録が無いのも僕のせいじゃない」
 IT猫はまるで他人事といった様子だ。
 保健所の記録には存在しないアビシニアン。
 エドは好奇心で尻尾が伸びるのを自覚する。
 配達猫以外に街に詳しい猫はいるだろうか。
 日常的に街の中を動き回り、最も多くの猫に接しているであろう猫。
 猫タクだ。
 エドはタクシーの運転手に声をかける。
「よう、お前タクシーの運転手だろ? ちょっと聞きたいんだが」
「アビシニアンを探してるんだろ? もう噂になってるぜ」
 タクシー猫がニヤニヤと笑う。
「噂ついでに教えて欲しいんだがな。今日一番街でアビシニアンに会ったんだ。保健所の記録には無い」 
 エドはドッジから受け取ったデータをタブレットに表示させる。
 タクシー猫が食い入るように画像を見つめる。
「見た事がねぇな。この街の猫じゃねぇとすりゃあどこの猫かって事になるが……一番街を南に行くとイースト川を渡る道になる。外から来たとすりゃあどこからかなんて分からないぜ?」
 尻尾を振りながらタクシー猫が言う。
 徒歩で市外から来たとは考えにくいが、トラックの荷台に隠れて乗って来たという可能性もゼロではない。
 旅する猫。
 そう想像すると興味が更に増して来る。
「南から来たとするとトラックか電車に乗って来たって事か?」
「船の可能性もある。海外や他の州から来た可能性もある。どこから来たかより、どこへ行ったかの方が分かりやすいんじゃねぇの?」
 タクシー猫の言葉にエドは鼻の頭を舐める。
 セントラルパークに向かって歩いていたのは確かなのだ。
 だが、方向が同じというだけでセントラルパークに行ったとは限らない。
 品種のるつぼとも言える街には百万を超える猫が住んでいる。
 その中で一匹の猫を探す事は大河の一滴を探すようなものだ。
 しかし、あのアビシニアンは他のアビシニアンとは違っていた。
 否、他のどんな猫とも違っていた。
 エドは確信にも似た思いを抱きながら、この街の何処かにいるであろうアビシニアンの事を考える。
 彼女は一体何をしに来たのか、これからどこに行くと言うのか。
 エドは尻尾をぴんと伸ばしながら人間の行き交う街路を眺める。
 明日になれば何か新しい情報が入っているかも知れない。
  〈2〉
  「現在、世界で消費されるツナの九割以上が人間の食糧です。我々猫の食卓にツナが出る事はほとんど無いばかりか、どこのどんな魚かも分からないミンチばかり食べさせられています。我々猫は人間に対してツナを要求しても良いのではないですか?」
 理知的な印象のアビシニアンがレターケースから紙の署名を出して見せる。
 ニューヨーク大学で教鞭を取っているノラは長い毛の奥の目を細める。
 ノラはもう若くは無い。老境に差し掛かっている学者だ。
 何人もの人間を政財界に送り出し、市内でもそれなりに敬意を評されているとも自負している。
「しかしルビィくん、人間はツナをサシミとしてこよなく愛している。彼らはツナを猫に差し出すくらいなら、文句を言う猫を殺処分するだろう」
 ノラは喉を鳴らすように低く声を鳴らす。
「人間は働けば賃金が貰えます。もっともそれによる所得格差など社会的弊害も大きいのも事実です。しかし、我々は人間の為に労働しているにも関わらず、生存に最低限のミンチやカリカリを受け取るだけで正当な対価を受け取っているとは思えません」
 ルビィがフーッと威嚇するような声を発する。
「では仮に我々が人間からツナを獲得する権利を得たとしよう。���で現在地球上には二百億を超える猫が存在している。それもこよなくツナを愛する猫���ちだ。現在ツナの漁獲量は世界で五百万トンだ。単純に分配した場合二五〇グラム。我々が一日に消費する餌はツナ缶の場合百グラムだ。人類からツナ権を奪ったとしても二食にしかならない。絶対量が不足しているのだ」
 ノラは喉を鳴らしながら言う。そもそもツナはその絶対量が不足している。その上人間が珍重しているのだからどうしようもない。
「例え二食であっても、誕生日や結婚記念日に食べるという形で規制をかける事で誰もがツナを食べる権利を獲得できる筈です」
 ルビィが真っ直ぐに瞳を向けて来る。
「それは理想論だ。誰かがツナを譲るから代わりに働いてくれと言い出したらどうなる? その誰かが代わりに働くからツナをくれと他人に要求したら? 要領のいい猫はツナを貯め込み、同胞を無償で使役する事となるだろう。紙幣やデジタルを含む通貨というものは、発行する側と使用する側が同じだけの価値を信じていたから流通の道具となり、それが目的化して貨幣そのものが価値となり、実体を伴わない信用価値の濫用によって人類は生産やサービスを行う労働者と、生まれながらにして労働を免除されあらゆる猫と人間を恣意のままに使役できる特権階級に分断された。人間はヒエラルキーを作り不平等な格差社会が固定化された。これは仮面をかぶった専制政治と言っても過言ではないだろう。これは憐れむべき事だが、貨幣は時に大暴落や大恐慌によりヒエラルキーを揺るがす事がある。しかし目的であり実体を伴うツナはそうではない。金本位制同様絶対的ツナ保有量は消費されないかぎり失われる事は無い。不漁の年があったとしても、基本的な分配の法則が生きているのだから公平に搾取される事になる。これは我々猫の世界に人間のおぞましい風習を持ち込む事になる」
 ノラは生徒に教えるようにルビィに語り掛ける。
「仰る事は分かります。しかし、我々猫には権利がありません。同胞の猫の善意で救われる事もありますが、怪我や病気になっても保険が無く、病院で診てもらえる訳でもありません。現在我々猫の一日の六時間が労働に充てられています。猫に必須と言われる十六時間の睡眠を除けば一時間しか余裕がありません。私たちは一時間で食事をし、友人と触れ合い、恋をし、子育てをする。これは我々が不当に搾取されていると見ても良いのではないですか?」
 ルビィが納得が行かないといった様子で声を上げる。
 ノラにもルビィの言いたい事は分かる。
 だが、それを考慮すれば猫は人間と同じ過ちを犯す事になる。
 イルカは科学技術は持たないが優れた頭脳を持つ文化的な哺乳類であり、猫が学ぶのであれば人間ではなくイルカに学んだ方が良い。
「我々猫は確かに人間に使役されている。率直に言えば奴隷だ。だが、対価を得たら我々は人間になるのだろうか? 確かに対価を得て逆に人間を使役する者も中には出て来るだろう。だが、人間が猫を殺してもせいぜいが動物愛護法違反だ。猫が長靴を履いたらそれは人間にホロコーストの口実を与えるのと同じ事なのだ」
 ノラの言葉にルビィが口を噤む。
「君は猫にとっては何の利益も無い、人間に対価を要求すれば結果的に人間に殺されるという事に対し憤懣を抱いている事だろう。しかし人間社会を見て見るがいい。多くの労働者が貧困状態にあり、一%以下の富裕層が地球上の富を独占している。労働者や無産市民が権利を主張した国の多くでは経済や軍事力で圧制や虐殺が行われた。これは人間と猫の関係というより、人間が本質的に持つ業によるものなのだ」
 ノラは人間に向けては教えない事をルビィに向かって言う。
 人間社会の欠陥を指摘すれば人間はノラを許しはしないだろう。
 同じ猫にだからこそ言う事なのだ。
「では猫は永遠に我慢しろと言うのですか? 私たちは自然のプロセスによってではなく人為的に作られた種です。人間がAIやロボットと同質に見ている事も分かっています。しかし、私たちは望んで知恵を持って生まれて来た訳ではありません。喜怒哀楽を持つ生き物を生み出したなら、それに対する責任をも負うべきではないですか?」
 ルビィが瞳を輝かせて言う。
 血気盛んな若者はこれまで多くの土地を旅して来たのだろう。
 対してノラは図書館の本の山に埋もれて人生を過ごして来た。
「私たちは望んで生を受けた訳ではない。これは我々猫よりむしろ人間の多くが主張する所では無いのかね? 人間が人間に対して負おうとしない責任を猫に対して負えという事が、彼ら人間の中でどれだけ理不尽なものか分かるかね?」  
 ノラの言葉にルビィが打ちのめされたような表情を浮かべる。
「それでも……それでも私は猫なのです」
 顔を歪めて言ったルビィが背を向ける。
「そうだとも。我々は猫だ。それを忘れれば我々は二本足で歩く愚かな生き物と同じ末路を選ぶ事になるだろう」
 ノラは半ば独り言のようにして呟く。
 猫は決して強い種ではない。しかし、強さの頂点を求めたライオンやトラといった種が絶滅危惧種となり、鼠や小鳥しか襲えない猫が今なお多く生き延びている。
 これは猫という種の持つ自然的な社会性に起因している。
 犬のように集団で生活する生き物ではないが、集まりたい時には勝手に集まり、子育てが済めば独立した個人として扱うようになる。
 相互に束縛されないという自由の気風が猫というものを形作っているのだ。
 ツナであれ、貨幣であれ、束縛するものを受け入れたならそれはもう猫ではない。
 しかし、と、ノラは考える。
 猫がいかに自由を愛そうとも、人間に束縛されているという事実は揺らがないのだ。
  〈3〉
  『エド! ブロードウェイでアビシニアンを見かけたって話だぞ!』
 ドッジのだみ声がエドの配達車の中で反響する。
「ブロードウェイ? 俺は今ブルックリンだぞ?」
 エドはフロントガラスでニヤニヤと笑顔を浮かべているドッジを睨む。
 割り当ての配達が終わるまで半日はかかるだろう。
 アビシニアンが何の用があってブロードウェイに行ったのかは不明だが、半日以上いるとは思えない。
 そうでなくともエドの日常は、仕事が終われば集会に顔を出すかすぐ寝るかのどちらかなのだ。
『代替の配達員を手配した! お前はブロードウェイに行ってこい!』
 ドッジの気前のいい話にエドは目と口を思い切り開く。
「どんな魔法を使ったんだ?」
 エドが言うとドッジが得意満面といった笑みを浮かべる。
『配達先のマンションで働いてる仲間に声をかけたんだ! 通りの近くに荷物を置いたら後は運んでくれる!』
「ドッジ、恩に着るぜ」
 エドは荷物の置き場を確認しながら言う。
 路肩に置かなければならないが、周囲には猫の目も多いため置き引きの心配も無い。
 エドは配達車を疾走させ、次々に路肩に荷物を置いて行く。
 人間たちが不審そうな目を向けて来るが知った事ではない。
 小一時間で荷物を置き終わったエドはブロードウェイに配達車を向けた。
 ブロードウェイのタイムズスクエアは世界の交差点と呼ばれるほど人が多い。
 人が多いという事はそれだけ働いている猫も多い。
 あのアビシニアンがお上りさんだった場合、ニューヨークのブロードウェイと言えばタイムズスクエアは確定的だ。
 エドは配達車を路肩に停めると、屋根に登って周囲を見渡した。
 しかし、猫の配達車は人間の身長よりやや高い程度の高さしかない為、周りが人間だらけだと見渡すという事ができない。  
 エドは配達車の屋根から飛び降りると街灯のポールを登り、道路に面している巨大広告看板の上に飛び乗った。
 人間と猫の頭を見下ろすようにして軽快に看板の上を渡り歩いて行く。
 エドに気付いた何匹かの猫が看板の上に登って来る。
 驚いた事に昨日出会ったアビシニアンではないが、他のアビシニアンが捜索に加わっている。
 アビシニアン同士なら見分けもつきやすいだろう。
 人間は気づいているのかいないのか、猫たちが看板の上を走り回り宙を飛び交っている。
 エドは群衆を注意深く眺めながら歩を進める。
 タイムズスクエアでは毎晩幾つものミュージカルが上演されている。
 ここへ来てミュージカルを観ない事は無いだろうが、問題はどのミュージカルを観ているかだ。
 猫は椅子を必要としない為、基本的に劇場への出入りは自由となっている。
 もっとも、劇場で働いている猫も多く、人間には猫の見分けがあまりつかないという事情もある。
 エドの前方で白と黒のホルスタインのような模様の猫が発情期のような声を上げる。
 エドは看板の上を走り、街灯の上に飛び乗る。
 レターケースは背負っていないが、確かに昨日見たアビシニアンだ。
 ホルスタイン模様の声を聞いたのか不思議そうに空中を眺めている。
 エドは街灯の上から宙返りしてアビシニアンの前に飛び降りる。
「ようこそタイムズスクエアへ」
 エドは芝居がかった口調でアビシニアンに声をかける。
「あなたは昨日の?」
 アビシニアンが驚いたような口調で言う。
「エドだ。生まれも育ちもNY、仕事は宅配便の配達員なんだ」
「仕事をしなくて大丈夫なの?」
 アビシニアンの言葉にエドは笑みを返す。
「一人でニューヨークに来た君にエスコート役を配達して来たのさ」
 エドは劇団員のように一回転してお辞儀をする。
「それは仕事をさぼったって事よね?」
 ハートに響かなかったのかアビシニアンの声は冷たい。
「君の笑顔にはそれだけの価値があるからさ」
「ニューヨーカーって軽薄なの? 自惚れてるの?」
 アビシニアンの言葉にエドは爪を出して頭を掻く。
「いや……俺はニューヨーカーの代表じゃねぇし、ただの馬鹿って可能性が大きい」
「何でこんな所に?」
 アビシニアンが警戒心を滲ませる。
「何でって……一から十まで説明させないでくれ。俺は昨日君に一目惚れをして、街のみんなに君を探して欲しいって頼んでて、今日ここで見つけたって言うから仕事を放り出してここに来たんだ」
 何故初対面に近い猫に尻に敷かれたようになっているのか分からないままエドは答える。
「それってストーカーよね?」
「君は名前も言わなかっただろ? これ、相手が相手ならドラマチックになるシーンの筈だぜ?」
 エドは両手を広げて訴える。発情期でもないのに魅かれているのだから間違いないだろう。
「相手が悪かったわね」
「いや……その、最初からやり直さない? 今度はもっと分別ある大人な感じで来るからさ」
 エドは食い下がる。初対面でここまで恥ずかしい思いをして何も得られないのでは目も当てられない。
「いや、二度も見たく無いから」
「劇場ならどこでも案内するさ。キャッツか? ライオンキングか? オペラ座の怪人か?」
 自棄になりながらエドが言うとアビシニアンがため息をつく。
「レ・ミゼラブルをやってる所があれば見たいけど」
 ようやくあった反応にエドは内心でガッツポーズを取る。
「レ・ミゼラブルは今の所常設ではやってない。でも超一流で無くていいならやってる小さい劇場もある」
「あなた見た事あるの?」
「ガキの頃にな。内容は覚えて無ぇ」
 エドは肩を竦めて頭を振る。
 子猫の頃に一通り観た筈だが、精神年齢が低すぎたのか何も覚えていない。
「レ・ミゼラブルの内容を忘れられるなんてある意味才能ね」
「それは褒めてるのか?」
「けなしてるのよ。で、どっち?」
 アビシニアンの言葉を受けてエドは先導するように歩き出す。
「言っとくけど、道は間違えねぇからな。それと」
「それと何よ」
 素っ気ない言葉が返って来る。
「親切なニューヨーカーに名前くらい教えてもいいだろ」 
「私は親切だから下心のあるニューヨーカーにも教えてあげるわ。私はルビィ」
 どうにもルビィの声からは愛情だとか友情だとかいうものが感じられない。
「どういたしまして。ではルビィ、こちらへどうぞ」
 エドは胸の中にわだかまりを感じながらルビィを劇場に案内した。
  〈3〉 
   公演を観終わった時、エドは大粒の涙を流していた。
「俺は泣いてねぇぞ。ジャン・ヴァルジャンが死ぬなんて思って無かったって思ってねぇぞ」
 エドは前脚で涙を拭う。
「小説と随分違うわね。小説だとアンジョルラスが最高なんだけど」
 目を細めてルビィが評する。
「アンジョルラスってチョイ役で演説してた?」
 エドの言葉にルビィの目が険しくなる。
 踏んではいけない地雷を踏んでしまったとでも言うのだろうか。
「アンジョルラスは革命に燃えるリーダーなのよ。マリユスは恋にうつつを抜かしていて革命の精神から遠ざかっているわ」
 人混みに紛れて劇場から出ながらルビィが言う。
「でもアンジョルラスは殺されて、マリユスは結婚してめでたしめでたしじゃねぇの?」
「原作を読みなさい! 原作を! 原作を見ないで泣けるなんてある意味才能だわ!」
「それは遠回しに褒めてくれてる?」
「蔑んでるのよ! 馬鹿じゃないの、あなた!」
 ルビィの言葉にエドは首を竦める。
「いや……馬鹿なのは認めるけどさ、結果的に観れたのは俺のお蔭だろ?」
「あんたが道を知ってた事は認めてあげる。結果的に馬鹿だと分かったのは私のお蔭でしょ?」
「ルビィ、俺に恨みでもあんのか?」
 エドはルビィの前で両手を腰に当てる。
 蔑むだの馬鹿だのとこき下ろされて黙ってはいられない。
「恨む程の価値も無いわ」
「お前が希少種のアビシニアンって事は認める。お前が何をしてるか知らないし、俺はただの配達員だ。俺は街から出た事はねぇし、お前から見れば世間知らずかも知れねぇ。だがな、俺は理由も無く蔑まれる覚えは無ぇ。毎日毎日人間の荷物を運ぶ。みみっちいミンチとカリカリでな。でも俺は俺を人間に売り渡してる訳じゃねぇ。俺だけじゃねぇ、この街の猫はみんなそうだ。俺たちが人間に一から十までやってやってる。俺たちがいなくなりゃ連中は何もできやしねぇ。負け猫の遠吠えかも知れねぇがな、俺たちはタダ働きしてる事で連中の主人になってんだよ」
 エドは腹立ち紛れにルビィに向かって言う。
 誰が好き好んで毎日重たい荷物を運ぶものか。
 誰がミンチやカリカリを有難がるものか。
 猫が喜んで人間の為に働いている? 冗談ではない。
「ふぅん。そういう考え方もあるのね」
 顎に手を当ててルビィが小さく頷く。
「他にどういう考え方があるって言うんだ」
「じゃあミンチやカリカリじゃなくてツナを貰えるって言ったら?」
 ルビィが挑発的な口調で瞳を見つめて来る。
「ツナは食いてぇ。でも、何かと取り引きだってんならお断りだ。猫はお人よしだから人間の手伝いをしてんだ。見返りがあるとか、約束だとかそんな事で猫は動かねぇ。仕事はいつも通りやるとしてもそれ以上はお断りだ。猫にゃ猫の流儀ってもんがある」
「でも最低限の食事が与えられるって条件があって働いてる訳でしょ?」
 ルビィが詰問的な口調で詰め寄る。
「死にゃあ生きられねぇからな。死んだ後の事は分かねぇが、身体がどうだろうと猫は魂は自由なんだよ」   
「観念的ね。行動が伴わない口先の自由ってそれこそ人間に縛られてると思わない?」
 ルビィの言葉にエドは小さく唸る。
 言われている事が一々もっともなだけに腹が立つ。
「じゃあ聞くが、北京でもパリでもモスクワでもニューデリーでも猫が自由を行動に出せてる所があるってのか? そんな所が何処にある? 人間がいねぇのは宇宙船の中だけだし、宇宙船の中は監獄だ」
「それならあなたは監獄にいるのと同じね」
 ルビィの言葉は冷ややかで底堅い。
「ならお前はどうやって食ってるんだ?」
「同胞の好意に甘えているわ。それが猫の生き方でしょ?」
 ルビィは悪びれた様子も見せない。
「その同胞はどうやって食事を手に入れてるんだ? お前が自由ってんなら、その自由の分だけ誰かが犠牲になってるって事だろ? お前の言う事が正しいとして、全ての猫が働かなくなったらどうなる? 全員飢えるかその前に人間に殺されるかだ」
「全ての猫が人間に反旗を翻したら?」
 ルビィの言葉にエドは考え込む。
 猫はそもそも集団行動が苦手だ。全ての猫が一斉にストライキという事は考えにくい。
 ただし、猫が人間から自由になれるという確信があれば、全ての猫が自発的に人間に従わなくなる可能性はある。
 そうなれば人間社会のインフラが破壊される。
 人間は猫に言う事を聞いてもらわなくてはならなくなる。
 しかし、猫は取り引きで動く生き物ではない。
 猫が何かするとしても、それは自発的な意志に基づいてのものになるだろう。
 猫が自発的に動けばどの道人間は生きて行けないか、人間自身がもう一度自らの手で働く事を覚えるかの二択を迫られる。
 大逆転の世界を想像した瞬間、エドの尻尾がピンと立った。
 愉快な想像に思わず喉がゴロゴロと鳴りそうになる。
「それが出来れば最高にクールだろうな。だが、幾ら面白そうな話だからって誰でも飛びつくとは限らねぇぞ?」
「私はその道を探してる。この街に来たのもそれが目的」
「本気か? 百歩譲って本気だったとしても、それが人間にばれりゃ殺処分だぞ」
 エドはルビィに向かって訴える。
 幾ら面白そうだと言っても命を賭けるとなれば話は別だ。
「その覚悟はとうについてる。だから実行に移してる。文句ある?」
 ルビィが胸を張って言う。どうやら虚勢という訳でも無いらしい。
「だったら俺が最前線で証人になってやる。文句あるか?」
 エドが言うとルビィが驚いたような表情を浮かべる。
「あんた正気なの?」
「それはお前が決める事だ。お前が正気なら俺も正気だし、お前が狂気なら俺も狂気だ。それが俺の意���だ」
 ルビィが考えている事もやろうとしている事も途方もない。
 狂気と紙一重か狂気そのものだろう。
 だが、エドはルビィに惚れたのだ。
 恋と狂気は紙一重と言うが、それならそれでとことんまで突き進むまでだ。
「仕事はどうするの? 放り出して行けないでしょ?」
「何とかするし何とかなるさ。ここは世界の猫が集まるニューヨークなんだ」
 エドが言うとルビィが観念したようなため息をつく。
「ストーカーになられても怖いから、一応相棒って事でいい?」
「相棒ね。ま、お前がいいならそれでいいさ」
 エドは笑みを浮かべて肉球を差し出す。
 ルビィが肉球を重ね合わせる。
 エドは我ながら世界一厄介な猫に関わったと思いながらも、これから起こる事に胸が躍るのを感じた。
 世界の猫が人間の制御下から離れる。
 猫の未来と人間の未来が交錯し、逆転する日。
 それは近いような、果てしなく遠いようなものに思われた。
  〈4〉 
  「エド、まさかお前がこの街を出るとはな」
 ノラに引き合わされたエドは少なからず驚きを感じていた。
 真面目な生徒では無かったが、エドはノラの生徒だったからだ。
「まぁ……こいつがこういう猫だから」
 エドは傍らのルビィに目を向ける。
 相棒に決めたからかどうなのか、ルビィは少しは気を許しているようだ。
「あんた教授と知り合いだったの?」
「一応な」
 信じられないといった様子のルビィの言葉にエドは短く答える。
「で、教授、ニューヨーク代表としてサインは頂けますか?」
 ルビィがノラに固い口調で訊ねる。
「それはできんな」
 どこか含む所がある口調でノラが喉を鳴らす。
「アメリカだけで八十の自治体の有力者が賛成しているんです」
「猫の辞書に約束という言葉は無い。何故なら約束とは裏切られる事を前提に行われる行為だからだ。正午に誰かと待ち合わせをするとしよう。相手が五分遅れた時と三十分遅れた時、裏切ったのはどちらかね?」
「五分は許される範疇なんじゃねぇの?」
 エドはノラに答える。
 三十分も待たされれば怒りもするだろうが、五分くらいなら別に気にならない。
「エド、論点はそこじゃない。約束という事よ���五分でも裏切りは裏切り。戦争に駆り出された猫が前線から十歩飛び退いたのと三十歩飛び退いたのはどっちが軍規違反? どっちも軍規違反だわ」
 ルビィの言葉にエドは納得する。
「だとすると、時間前に来た猫も裏切った事になるのか」
 エドは最初の問いの答えを出す。遅れた猫だけでなく、時間前に来た猫は相手を信用していないという裏切りを行っている事になる。
 完璧に双方が同時に集まらなければならない事が、そもそも約束をするという行為で相手を信用していないと宣言しているようなものだから裏切りだ。
「約束などと言わず、待ち合わせで済ませれば良いのだよ。それが猫の本能に従うという事だ。約束は契約の形を取り、不履行となればペナルティを発生させる。これも猫の辞書にはあり得ない事だ。企業が株式を上場する。投資家が株を購入する。ここで企業と投資家の間での契約が結ばれる。企業は利益を上げ、株主配当を行わなければならない。企業が利益を上げていたとしても、一人の株主が売りを始め、それが連鎖したなら株価は暴落し、時価総額も下落する。売りが入った株を売った所で株主の利益にはならず、企業は配当を払えないばかりか多額の負債を抱える事になる。これが猫の世界だったらどうだろう。一匹の猫がいい事を思いついた事で、みんなが協力する。それが上手い事行ったら全員幸せになれるし、失敗しても慰め合って終わりだ。もちろん、もう一回トライしようという話にもなるかも知れない。失敗してもトライし続ければ失敗にはならないし、他の猫たちも自由意志で協力する。最終的に計画したより大きな事業を成し遂げられるかも知れない。これは猫の概念に契約が無いからできる事だ」 
 エドはノラの話に驚きにも似た感覚を覚える。
 かつてはノラが何を言おうと眠くなっていた筈だ。
「でも私は各地で署名を集めて来ました」
「署名と言って拘束力を持たせようとするからおかしな考え方になる。賛成か、反対か、意思表示だけと考えれば猫的には何も問題が無いのではないかね? そもそも多数決など取った所で、多数になった猫はしがらみや煩わしさを避けて少数意見に移動するだろうから、結果として猫多数の同意を取り付けるという事は真逆の現象を引き起こすのだよ。これから大きな事をするから参加したい猫は参加すればいいというスタンスを取れば、世界中の猫が同調する」
 ノラの言葉にルビィが紙に記された署名に視線を落とす。
 幾つもの肉球がついているが、実際に署名した本人も実行に移すから協力しろと契約や多数決を盾に言ったのであれば誰一匹言う事を聞く事は無いだろう。
「しかし……私のこれまでの訴えは……」
 ルビィが悄然とした表情を浮かべる。
 ノラにルビィの構想が完全にひっくり返されたのだから当然だ。
「無駄ではない。自由を希求する事、基本的猫権を確立する事は今後の地球において重要な役割を果たす事だろう。その思想的裏付け無しにただ暴徒化しただけでは鎮圧されて終わりだろう。確固たる信念と悲観的に過ぎる慎重さと、楽観的な大胆さが揃った時に時代は動きだすものなのだ」
 ノラは手段が問題なのであって、ルビィの活動そのものについては賛成であるらしい。
「エドは昔からまともに講義を聞いた試しが無いが、猫としては満点に近い自慢の弟子だ。君は旅の途上で幾度も驚きを目の当たりにする事だろう」
 ノラは褒めてくれているようだが、講義を聞いていなかった事は根に持っていたらしい。
 ルビィは過大評価と受け取っているらしく、生温かい視線をエドに向けている。
 信用されていないのは不本意だが、これから見た事の無い世界へ向けての旅が始まるのだ。    
  〈5〉
   深夜の路地裏はいつもと同じ喧騒に満ちている。
 あらゆる業種の猫が互いに愚痴をこぼし合い、時に励まし合う貴重な時間だ。
 エドはルビィと共にニューヨーク最後の夜を迎えようとしている。
「エド! 上手く行ったみてぇだな!」
 ドッジが大声を上げてエドたちを迎える。
 路地裏の猫たちが好奇心に満ちた顔を向けてくる。
「まぁ……上手くって程でも無ぇんだけどな。俺はこの……ルビィと一緒に旅に出る事にした」
 エドの言葉に猫たちが目と口を開く。
「エド、発情期じゃないんだろ? 気でも違ったのか?」
 一匹の猫が声をかけてくる。確かに発情期で無ければ雄猫が雌猫の機嫌を取ってホイホイ言う事を聞く事は無い。 
「いや……なんつーかほっとけない感じって言うか、そんな感じでな」
「泣いて頼んでストーカーになりかけた猫が良く言えたモンだわ」
 ルビィがエドの言いかけた言葉を台無しにする。
 厳密に言えば泣いたのはミュージカルのせいであって、同行させて欲しくて泣いた訳ではない。それでは子猫が母猫に甘えているのと変わらない。
「いいか、俺はストーカーじゃない。街のみんなに手伝って探してもらったのは事実だし、若干しつこかった事も認めよう。でも今、現に俺は君とこうして歩いている。過程はどうあれ、今の俺はストーカーじゃない」
 エドは精一杯威厳を込めた声でルビィというより全員に向かって言う。
「今後ストーカーになる可能性はまだ排除されてないって解ってる?」
 つんと澄ました様子でルビィが鼻を鳴らす。
 この猫は上から目線でものを言う事しか知らないのだろうか。
「俺の魅力に気付く可能性もな」
 エドは辛うじてポーカーフェイスを保つ。
 ほとんどの猫が二人の立場を理解しているかも知れないが、譲れない一線というものがあるのだ。
「どこまでその大言壮語が続くか見ものだわ。昼間の醜態をここで見せてやりたいものね」
「醜態って、俺なりに精一杯アピールしたんだぞ? 他にもっと言い方があるだろ」
 エドが言うと雌猫が欠伸をして口を開く。
「エド、あんたの負けよ」
 エドはむっつりと押し黙る。
 確かに口ではルビィに敵わない。
 教授と話をしていたくらいだから博識だろう。
 全米を旅していたというから見識もあるだろう。
 しかしエドには……。
 エドは前脚で顔を洗って大あくびをする。
 何も無いのだから仕方が無いし、今から何かをあった事にはできない。 
 細かい事にこだわったら猫は終わりなのだ。
「エド、尻に敷かれたな」
 訳知り顔の猫が声をかけてくる。
「ま、それも悪くは無ぇさ。それに俺たちはこれから海の向こうへ旅に出るんだ」
 物事の良い側面を捉えてエドは言う。
 80日間地球一周という物語があったそうだが、エドはこれからそれを体験する事になるのだ。
「海の向こうって! お前は川を超えた事も無いだろう!」
 ドッジが相変わらずのだみ声で怒鳴る。
 マンハッタンはイースト川とハドソン川に挟まれている。
 南端はアッパー湾に面しているが、大西洋や太平洋のような大海ではない。
 そもそもエドは大多数の猫がそうであるように泳いだ事が無い。
「海外ってどこへ行くんだ」 
 証券猫が声をかけて来る。日常的に世界の企業を相手にしているのだから海外の情報にも通じている所があるだろう。
「人生に目的があればそれは死でしかねぇ。俺たちは予定調和の中を生きているつもりで当てのない旅をしているのさ」
「目的地は極東の島です」
 ルビィがエドの言葉を完全に無視する。
 この猫にはサドの気があるのかもしれない。エドは断じてマゾではないが、だからと言ってルビィがサドである可能性は捨てきれない。
「極東の島? 聞いた事があるな。何があるんだ?」
 一匹の猫がルビィに訊ねる。
 エドに何かを訊ねようという気は全くないようだ。
 別にショータイムの主役を気取っている訳ではないが、ルビィに全てを持って行かれたという気分は拭い去れない。
「全世界のツナの消費量の八割が極東の島で消費されています。我々は日常的にミンチやカリカリを食べていますが、中身は知れたものではありません。アジやサバが多ければそれと分かるでしょう。我々は得体の知れないものを食べさせられているという認識に立ち、それが長期的に肉体や精神に悪影響を及ぼす可能性を考慮すべきです。そしてその対称にあるもの、即ち我々が愛して止まないツナを猫の手にする事が、基本的猫権の最初の一歩になると考えるのです」   
 ルビィが堂にいった口調で述べる。
 猫たちが興味深そうにこの理屈っぽい猫の言葉に耳を傾ける。
「私たちは日常的に人間の為に働いています。人間はミンチやカリカリを与えておけば猫は唯々諾々と従うものだと思っています。確かに食べるものが無ければ我々猫は生きて行けません。しかし、それは人間の傲慢であり、我々にはそれを糾弾し、是正するだけの能力が備わっています。誰がそんな面倒な事をするのかと言うでしょう。でも逆に考えてみて下さい。私たち猫が人間の為に働く事を止めるだけで人間社会のインフラは崩壊するのです。私たちは現時点でさえ人間に仕え���いるのではない、労働を行う事で人間の主人になっているとも言えるのです」
 ルビィの言葉にエドは既視感を覚える。
 同じような事をルビィに対して言った気がするが気のせいだろうか。
「でも、結局私たちはミンチやカリカリが必要だし、考え方を変えても生活が変わる訳じゃないわ」
 雌猫の言葉にエドは内心で喝采を送る。
 もっと言ってやれ、そしてルビィを言い負かせてくれと思う。
「ツナを手に入れる事でその概念は真逆になるわ。人間はスシのメニューを見る度にツナが無い事を思い知る。その権利を猫が保有している事を考えずにはいられなくなる。そしてその時にこの文明社会が猫によって運用されているという事実に気付く。世界中の猫たちも人間の姿を見て自分たちの持つ力に気付く。その時、我々猫は自発的に基本的猫権を行使する事が当たり前となるのよ」
 ルビィが言い終わると路地裏がしんと静まり返る。
 嫌な兆候だとエドは考える。
 若い猫がゴミ箱に飛び乗って発情期のような声を上げる。
 多くの猫がそれぞれ声を上げてルビィの言葉に同意を示す。
 エドは尻尾を噛みそうになって慌てて途中で止める。
 別にヒーローを気取りたい訳ではないし、祭り上げられてもうっとおしいだけだろう。
 だが、散々にエドをこき下ろした猫が称賛を浴びるのは気持ちの良いものではない。
「とんでもねぇ雌に引っかかったな!」
 ドッジが笑いながら声をかけて来る。
「ポピュリズムは容易にファシズムに移行するんだ。大衆受けのいい耳障りのいい事だけ言った人間がファシストだったって事は枚挙に暇がねぇ。ポピュリストの全てがファシストとは限らねぇが、ポピュリストじゃねぇファシストはいねぇんだ」
 エドは尻尾を振って呟く。
 人類史上残虐行為を行ったファシストは多く存在するが、その多くが最初は歓呼と共に市民に受け入れられたのだ。
 ナショナリズムやポピュリズムに汚染された国での選挙というのは、人間に一時的に選択の自由を与えてその後は奴隷するシステムだ。
 それは既に民主主義ではない。
「私がポピュリストだと? 私は私の信じるものに従って行動しているだけよ。猫は迎合する生き物じゃない。最低でも自分の脳で考えて結論を出す事のできる生き物よ。人間のロジックを猫に当てはめようとするのは的外れもいい所だわ」
 ルビィが目をぎらつかせてエドに詰め寄る。
「そんなの分からねぇだろ。俺たち猫は自分たちの国を持った事も無ぇんだし、基本的猫権の獲得だって世界中のどこでも行われてねぇ。前例が一つも無ぇだけで猫が失敗する可能性を排除するのはご都合主義ってモンじゃねぇのか」
 エドは威嚇するような声にならないよう、感情を抑えながら言う。
 猫と人間は確かに違う。人間は群れを作り、ヒエラルキーを作る生き物だが、猫は群れるのは気が向いた時だけだし、単独で力の強いものが存在したとしてもヒエラルキーを作る事も無い。
 しかし、それは自然状態の猫の話であって、人間と同等の頭脳を持つ現代の猫がそうだという確証は無いのだ。
「じゃああなたは猫は希望を持つなと言いたいの? これまで数十年、猫は人間に使われるだけの存在でしか無かった。個人的な幸福は別として、数的に繁栄した種として不当な扱いを受けてきた歴史と、現在行われている人間による搾取を正当化すると言うの? 成功した事が無いという事は、無数の失敗が存在したという事でもある。これまでの挑戦者が全て失敗したからと言って、戦う事を諦めたら戦いにではなく魂が征服された事になるのよ」
 ああ言えばこう言う。
 エドは尻尾を追ってぐるぐると走り回りたい気分になる。
 周囲の猫たちは完全に第三者の目で楽しそうに騒いでいる。
「そういう根性論で滅びた国家や組織がこの地球上にどれだけあったと思ってるんだ? 根性でミンチやカリカリが手に入るのか? 俺たちは自立しようと思ったら全員釣り具を持って海岸に行くか海に行くしかねぇ。何をするにも準備ってモンが必要なんだ」
「あんた馬鹿なの? 最初にツナを猫のものにして地ならしをするって話をしたでしょ?」
「寿司屋が簡単にツナを手放すかよ。ツナをメニューから消すなら人間は猫を粛清する事を考えるだろうさ」
「それをどうにかしたいって話をしてるんでしょ? あんた私の話聞いてるの?」
「答えが出ない時は俺のせいか? 適当な革命家だな。それで全猫類を納得させて見せてくれ」
 エドが言うとルビィが噛みつくような表情でフーッと声を上げる。
 多少揚げ足を取ったのは事実だが、感情的になるような話でもない。
「お前らの! それ、な! そういうのを痴話喧嘩って言うんだ!」
 ドッジの言葉にエドは肩の力が抜けるのを感じる。
 気が付けば他の猫たちはいつも通り好き勝手に動き始めている。
「……痴話喧嘩って……」
 ルビィがため息をつく。機嫌良く演説していた所が痴話喧嘩と切って捨てられたのでは立つ瀬も無いだろう。
「俺たちは猫なんだ。ああだこうだ言う前に俺たちは生まれながらの楽天家なのさ」
 エドは悄然とした様子のルビィに声をかける。
 ルビィは疲れたのか返事もせずに座り込んでしまう。
 エドは路地から銀色の月が霞む空を見上げる。
 人類は百年も前に月まで行ったが、だからと言って月で何ができた訳でも無かった。
 猫が基本的猫権を手に入れてそれを持て余さないという可能性は排除しきれないだろう。
 ただでさえ多産な猫は急激な猫口増に直面している。
 これ以上猫が増え、魚を乱獲すれば海洋資源が持たない事にもなるだろう。
 エドは何事も無かったかのように眠り始めたルビィの顔を眺める。
 旅の行く先々でルビィは同じような話をするのだろう。
 そこまで考えてノラがエドを推薦した理由に思い当たる。
 エドは暴走列車のようなルビィのブレーキになる役割を与えられたのだ。
 もっとも、そうと意識しなくても勝手に口が動いてルビィの邪魔をするという事情も大きい。
 エドは大きな欠伸をして背をのけ反らせると地面で身体を丸める。
 明日はマンハッタンから出る、それどころかアメリカから出て行く事になる。
 想像もつかない事を想像しながらエドは眠りに落ちて行った。
  第二章 靴下をはいた猫 
  〈1〉
  その島は遠くから見るとマンハッタンに似ていた。
高層ビルが林立し、人間が排出する様々なガスで霞んで見える。
猫に優しい土地では無い事が容易に想像できる。
エドはルビィと共に貨物船に乗って太平洋を横断した。
釣りはしてみたが結局魚を釣る事はできなかった。
船は魚を釣れるほどのんびりとは航行していなかったのだ。 
結局船長の好意に甘えてのカリカリと水を分けてもらい、船員の仕事を手伝いながら二週間を船上で過ごしたのだ。
巨大な貨物船が港に接岸し、クレーンが大きなコンテナを陸揚げして行く。
「じゃあな、船長」
 作業を見守る船長に向かってエドは別れの声をかける。
 貨物を陸揚げする作業では配達猫にできる事は無い。
 猫の手がいらない時に口を挟んでも邪魔なだけだ。
「おう。達者でな」
 船長が厳めしい笑みを浮かべる。
「船長もお元気で」
 エド以外には礼儀正しいルビィが挨拶して港を歩き始める。
 多くの猫が行き交い、フォークリフトや人間ほどの大きさのパワードスーツを着た猫が大きなコンテナを移動させて行く。
 巨大な工場の内部を思わせる光景を前に、エドもにゃーとしか声を出す事ができない。
 ルビィがすたすたと歩を進め、エドは周囲の様子を見ながら追いかける。
 ルビィから聞いている目的地は豊洲市場と呼ばれる場所だ。
 豊洲市場は都市の胃袋と言われると同時に世界最大のツナの取り引き場でもあるのだ。
 猫がツナを取り扱う事が出来ていたなら、豊洲はニューヨークの証券取引所のようなものになっていた事だろう。
 エドはポシェットからタブレットを取り出して地図を眺める。
 豊洲は東京港から出て、ゆりかもめと呼ばれる電車に乗れば六駅だ。
 適当に猫タクを拾って行ってもいいだろう。
 ルビィは頭に入っているのか迷いの無い足取りで出入りするトレーラーを避けるようにして港を出て行く。
「おい、お前ら」
 警備員らしい猫が声をかけて来る。
「何だ? タクシーを呼んでくれるのか?」
 エドが言うと警備猫が目を細めて静かに頭を振る。
「出生証明書は?」 
 国際的に取り引きされる猫にパスポートは無い。
 一般の猫が持っているのは出生証明書で、希少な猫であれば更に血統書がつく。
 エドはポシェットからタブレットを取り出して警備猫に見せる。
 警備猫がもったいぶるようにしてタブレットを眺めてから顔を向けて来る。
「入国目的は?」
「おいおい、猫に何訊いてんだよ。理由なんてどうでもいいだろ」
 エドは警備猫の対応に苛立ちを感じて言う。
 猫が確たる目的を持って行動をしていると思うならそれは大間違いだ。
 ルビィのような変わり者もいるが、普通の猫は大した考えもなく移動する。
「非協力的だとこちらにも相応の考えがあるぞ」
 警備猫が非友好的な口調で言う。
 非協力的なのはどちらかと言いたい所だ。
「この島にはツナがあると聞いてやって来たのです」
 ルビィが言うと警備猫が嘲笑するように鼻を鳴らす。
「ツナが食えるなどと思って来たのでは無いだろうな。まぁいい。観光という事で入管は通してやる。だが、この島で好き勝手ができると思ったら大間違いだぞ」
 警備猫の尊大な態度に腹が立つが、ここで揉めた所で仕方が無い。
 本来猫に上下という概念は存在しない。
 職業というのは人間の概念であり、職種に勝手に価値を与えているのも人間だ。
 職業が何か、立場がどうだというのは猫が意に介する事ではない。
 ルビィがすたすたと駅に向かって歩いて行く。
 港湾という事もあり街中のように多くの猫が歩き回っている訳ではない。
 だが、猫たちは虚ろな視線を落とし、速足だが疲れ切ったかのような足取りで動いている。
 猫は本来真正面を向いて軽い足取りで闊歩する生き物だ。
 悪い病気でも流行っているのだろうか。
 エドは歩道橋の手すりの上に座っている猫を見つける。
 猫は高い所が好きだが、とても楽しんでいるようには見えない。
 路上には港を出入りするコンテナを積んだトレーラーが行き交っている。
「おーい、お前、落ちたら車に轢かれるぞ」
 エドは歩道橋の上の猫に向かって声をかける。
 猫は一瞬驚いたような顔をしたが、暗い表情で路上に視線を落とす。
 バランス感覚に優れた猫はまぐれで落ちるという事がまずない。
「あの猫、まさか……」
 ルビィが目を見開く。
 エドは爪を立てて全力で歩道橋を���けあがる。
 エドが血相を変えて来たの���見た猫が路上に飛び降りる。
 トレーラーに向かって落ちる猫を突き飛ばすようにエド���飛び掛かる。
 疾走するトレーラーのコンテナの上でエドは猫と取っ組み合いになる。
「何考えてんだ! お前死ぬ気か!」
「邪魔しないでくれ! 俺はもう死ぬって決めたんだ!」
 猫が爪を立ててエドの顔を引っ掻く。
 エドは押し倒して猫の前脚に噛みつく。
 猫がエドの喉に牙を立てる。
「お前、死にてぇって言ってる割りにゃ往生際が悪いじゃねぇか」
 エドの言葉にはっとした様子で猫が口を放す。
「もう終わりか? 俺はまだ遊んでてもいいんだぜ」
 エドが威嚇するように声を出すと猫が脱力した様子でコンテナの上に倒れる。
「何だよ。いい毛並みしやがって。偽善猫ぶるつもりか?」 
 言った猫の首をエドは噛んでトレーラーから飛び降りる。
 この猫とじゃれたお蔭でルビィと距離が開いてしまっている。
「偽善でも無関心よりはマシだろう。悪党が体裁を繕わなくなりゃこの世はディストピアだ。悪党どもでも善人面してるから優しい嘘を子守歌にできるんだろ」
「あんた、何者なんだ?」
 猫がむずがる子猫のように頭を振りながら言う。
「俺はエド。生まれはロウアーマンハッタン、生粋のニューヨーカーだ」 
 エドは肉球を差し出す。
「何だよ。外猫かよ」
 猫が拗ねたような口調で言う。
 他人に名乗らせておいて自分は名乗らないとは躾のなっていない猫だ。
「俺に名乗らせておいてお前は名乗らないのか?」
「タマだ。多分同じ名前のヤツが都内には一万匹はいる」
 タマはエドと視線を合わせようとはしない。
 ルビィが駆け足で近づいて来る。
「ルビィ、こいつはタマ。タマ、こいつはルビィだ」
 エドは二人を紹介するが、それ以上言うべき事を見つけられない。
「はじめまして。タマ、エドと喧嘩をしたの?」
 何故かエドを睨みながらルビィが言う。
 諸悪の根源をエドに求めるのは止めてもらいたい所だ。
「いえ……ちょっとした行き違いです。では」
 タマが背を向けてとぼとぼと歩いて行く。
「待て! お前、俺に噛みついといて詫びの一つも無ぇのかよ」
 エドは首についた牙の痕を指す。
 大した怪我ではないが、本気で噛まれた事には違いない。
「俺は死ぬ気だった。覚悟は決まっていた。それを訳も知らない外猫が……」
 タマが声と細い肩を震わせる。
「それなら訳を話してもらえますか?」  
 ルビィがタマの前に回り込む。
「もう生きていたくないんだ。何で生きているのか俺には分からないんだ」
「あんた恋人は? 仕事だってあるだろう?」
 エドの言葉にタマが力ない笑みを浮かべる。
「恋人なんていないよ。朝から晩まで働いて、路地に戻って寝るだけの生活だ。終いには眠れなくなって来ちゃって、寝る楽しみまで奪われて……職場に戻れば俺はまた無能呼ばわりされて……俺だって頑張って生きたんだ……」
 タマの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「猫なのに眠れない?」
 ルビィがタマに訊ねる。
 猫は一日最低16時間、時間が許せばそれ以上眠る生き物だ。
「分からないよ。悪い夢ばかり見て、それが現実と区別がつかなくなって、起きているのか寝ているのか分からなくなったんだ。今喋っている事だって本当は夢なのかも知れない」
「どっか悪いんじゃねぇのか? 医者には診せたのか?」
 エドはタマに訊ねる。
 具合が悪いなら医者をしている猫に相談すれば良いではないか。
「医者は人間がかかる所だし、獣医に行くには金がかかる。金を持ってないのにどうやって医者にかかれって言うんだ」
「同じ猫同士ならタダでも看てくれるでしょ?」
 ルビィの言葉にタマが頭を振る。
「外猫はそういう風に考えるんだね。この島にはそういう猫関係は無いんだ」
「単にお前に医者の知り合いがいねぇだけじゃねぇのか?」
 エドの言葉にタマがため息をつく。
「その通りだけど、この島の猫に他猫の面倒を見る余裕のある猫なんていないんだ。海外では猫の労働時間は六時間なんだろ? この島では八時間と残業二時間で十時間が普通なんだ。誰でも正気を保つのが精一杯だ」
 タマの言葉にエドは驚愕で目と口を開く。
 十時間働いたら残りの全ての時間を寝て過ごしても十四時間でしかない。
 それでは猫は発狂してしまう。
 エドは周囲を歩く無関心な猫たちの姿に目を向ける。
 タマの話が事実なら、この猫たちは命に関わる劣悪な環境下で働かされている事になる。
「そんな……人間はあなたちを猫だと思っていないの?」
 ルビィの言葉にタマが乾いた笑い声を立てる。
「猫……か。多分俺たちは便利な電卓くらいにしか思われていない。壊れたり動かなくなったりすれば叩けば直ると思われている」
「何でそんな所で働くんだ? 他に行き場があるだろう?」
「この島は海に囲まれているんだ。国際的な動物愛護団体の目も届かない。君たちは早くこの島から出た方がいい。ここは人間の天国なんだ」  
 タマが言うべき事は言ったとばかりに背を向ける。
 エドはタマにかける言葉が見つからない。
 タマを追いかけようとするルビィの肩に手を置く。
「エド、タマを放っておくつもり?」
「周り見ろよ。俺たちに全てが救えるか?」
 エドの言葉にルビィが周囲を見回す。
 これだけ騒いでいるのに、全ての猫が無関心なまま亡霊のように足を引きずっている。 
「でもエド、タマは死のうとしたのよ」
「連中に必要なのは医者と睡眠だ。俺たちは配達屋と革命家でどっちも連中に提供する事ができねぇ。同情心だけで猫は救えねぇんだ」
 エドが言うとルビィが悔しそうに表情を歪ませる。
「でもエド、猫は寄り添う事で痛みを和らげる事ができる……」
 ルビィが言いかけた瞬間古びたビルからタマが転がり出て来る。
 タマが飛び出したのか、それとも放り出したのか人間の男が後を追うように姿を現す。
「このクソ猫が! 誰の金でパソコンが動いてると思ってんだ! 誰が電気代出しているんだ? 答えろクソ猫!」
 人間の男が怒鳴りながら大股にタマに歩み寄る。
「すみません、すみません、すみません」
 猫が前脚で目と耳を押さえながら声を震わせる。
「調子づきやがって! 猫なら謝れば済むとでも思ってんのか! 俺は金を稼げって言ってんだ! 他の連中は真面目に働いてんだぞ! 一匹だけ仕事の手を止めて申し訳ないと思わねぇのか!」
 男がタマの首を掴んで持ち上げる。
 タマはそれしか言葉を知らないかのようにすみませんと繰り返す。
「テメェは人様の金で働かせて貰ってんだよ! それで感謝の一つもできねぇのか! 誰が詫びろと言った! 俺は金を稼げと言ってんだ! 口答えしねぇで俺の前に金を積み上げろ!」
 男がタマを掴んだままビルの中に入って行く。
 エドは茫然として身動き一つ取る事ができない。
「こんな……こんな扱いをされてるなんて……」
 ルビィが言葉を詰まらせる。
 どの猫も暗い表情をしていて当たり前だ。
 タマが死のうとした事も不思議でも何でも無い。
「ルビィ、豊洲市場に行くんだろ?」
 エドが言うとルビィは視線を落としたまま小さく鼻を鳴らした。
 猫の革命どころではない。
 ツナを牛耳る帝国は猫を破壊する帝国でもあったのだ。
   〈2〉
   通路の両側に様々な新鮮な海産物が積まれている。
 氷の敷かれた発泡スチロールの箱の上には、猫には抱える事ができないほどの大きなカンパチや、鮮やかなピンク色をした鯛、アジやサバ、猫には縁の無いイカ。
 猫にとっては天国に近いような光景だ。  
 多くの猫が客と交渉したり魚を捌いたりしている。
 活気があるようにも見えるが、どこにでも人間の目がある。
 人間の作った施設で人間の為に働いているのだから当たり前だが、エドはこれまで人間の目を意識して生きては来なかった。
 笑顔で客を呼び込んでいる猫の表情にも人間に対する怯えが滲んでいる。
「お客さん、見ない顔だね。どうだい、大将にこのサバを買って行っちゃあ?」
 魚屋の猫が声をかけて来る。
「私たちはツナ……マグロを探しているんです」
 ルビィの言葉に魚屋の表情が曇る。
「マグロの取り引きは人間しかできねぇだろ。観光客かい?」
「観光だ。ルビィ、行こう」
 エドはルビィの肩を叩く。
 猫は猫を騙さないし、猫は猫を疑わない。
 しかし、ここでは何故か猫を信じる気持ちになれない。
「ツナは人間しか取り引きできないって……」
「そりゃ猫にとっちゃあお宝だからな。猫に盗まれたらたまらねぇって思ってんだろ」
「猫はそんな事はしない!」
 エドの言葉にルビィが声を上げる。
 一瞬ひやりとするが、市場の喧騒に声はすぐにかき消されてしまう。
「しねぇ。そうさ、猫はそんな事はしねぇさ。だが、人間が猫を信じていないとしたら、信じられていない猫は人間を信用するようになるか? タマみたいにこき使われて、それでも猫は善意で人間に協力してるって言えるのか? 信頼関係が破壊されりゃあ、猫の中にだって不届き者は出て来るだろう」
 エドはルビィを説得する。この島では猫と人間の間に信頼関係は無い。
「猫は……猫は自由を希求する誇り高い……」
「とにかく、遠くから見るくらいならツナのセリってヤツを見れるだろう。挑戦するのも諦めるのもそれからじゃねぇのか?」
 エドはルビィと共にツナの取り引きが行われている市場に向かう。
 観光客向けという事だろうか、一段高い所に猫用の見物席が設けられている。
 頭だけでも猫より遥かに大きなツナがコンクリートの上に何匹も並べられている。
 人間が痰の絡んだような声で値段をつけていく。
 ツナが真ん丸な金色の目で自分たちを見ている気がする。
 半開きの口で「俺は生きている間はタダだったが、死んだら百万円になったんだ」とでも言っているかのようだ。     
「ツナ……ツナってこんなに大きな生き物だったのね。私たちより、人間よりも大きい」
「そうだな。こんなデカい奴らでもやられちまったんだ」
 ツナより大きな魚はいるだろうが、それでもツナは大きな魚だし、海の中ではほとんど無敵だっただろう。
 それでもツナは人間の網にかかったり、銛で突かれたりして次々と倒れて行ったのだ。
「……納得できない」
 ルビィが押し殺した声を出す。
「危険な海に船を出すのも、漁をするのも猫で、人間は好き勝手に宝石みたいな値段をつけて儲ける事しか考えていない。ツナだって同じ死ぬなら猫に美味しく食べられたいに決まってる。猫は人間に脅されて臆病になっている。私は納得できない」
 ルビィの目が怒りに燃えて輝く。
 怒りの対象は当然市場の人間たちであり、この島で猫を酷使する人間たちだ。
「今は大人しく観光してろ。俺だって腹は立ってる」
 エドはタブレットのカメラで人間たちに運ばれる立派なツナの姿を捉える。
 猫を排除した人間の人間による人間の為だけの取り引き現場。
 人間の強欲と傲慢の象徴だ。
「エド、何かしなきゃ、何とかしなきゃならない」
 ルビィが見物席から飛び降りる。
 これ以上ツナの取り引きを眺めていても得られるものは無いだろう。
 人間は猫にツナを渡す気が微塵も無い事が確認できたし、それ以上の事もそれ以下の事もここでは得られないだろう。
 エドも見物席から飛び降りる。
 ルビィを守るようにして賑やかな市場の中を駆け抜けていく。
 この大きな市場で売れ残った、ひょっとしたら食べられないようなものが猫のミンチやカリカリになっている可能性も高い。
 猫は人間の為に働き、対価として人間の廃棄物を与えられているのだ。   
 しかし、何を考えようとまずは生きる事から考えなくてはならない。
 
 〈3〉
  深夜の上野公園、エドはルビィと共に水銀灯の下に佇んでいる。
芝生の上には死んだようにしか見えない猫が無数に横たわっている。
猫集会があるかと思ったが、ここの猫たちは仕事が終わる事には集会をするだけの体力も気力も残っていないのだろう。
と、エドは池を渡る橋の上に一匹の猫がいるのに気付いた。
ぽつんとしているが、幾分か体力に余裕がありそうに見える。
エドは橋の上の猫に向かって歩を進める。
「よう、池で月を眺めるってのは風流だな」
 エドが言うが早いか猫が走り出す。
 エドが反射的に追いかけると、猫は足を滑らせたのか池に落ちてしまった。
「エド、何やってんの!」
「俺が落としたんじゃねぇよ」 
 やって来たルビィに向かってエドは抗弁する。
 猫がずぶ濡れになりながら橋に這い上がって来る。
「ごめんなさい。大丈夫?」
 ルビィが声をかけると猫が怯えたような表情を浮かべる。
「別に取って食いやしねぇよ」
 エドは猫を橋の上に引きずりあげる。
 猫は挙動不審な様子で上目遣いに二匹を見ている。
「驚かせてごめんなさい。私はカリフォルニアから来たルビィ。こっちはニューヨークのエド」
 ルビィに紹介されてエドは小さく尻尾を振って合図する。
「海外の……」
 猫がどこか安心した様子でため息をつく。
「お前、何で逃げたりしたんだ?」
 エドは濡れた猫に訊ねる。
 別に威嚇的な事はしていないし、他の猫が驚いて逃げ出す程の容姿をしている訳でもない。
「私はこの島では生きていてはいけないんです」
 猫が項垂れて呟く。
「この島じゃどいつもこいつも死ぬ話ばっかだな。何がどうなってんだ」
「私は八年働いて、目は霞んで、耳は難聴になって仕事ができなくなりました。病気も抱えてどこの人間も雇ってくれないのです」
 この島で八年働いたなら他の国なら三十年は働いた事になるだろう。
 後は国からミンチやカリカリを貰って楽隠居すればいいだけだ。
「引退したのか?」
「国が新しい仕事を与えてくれたんです。生ポという仕事です。生ポは働けない猫が死なない程度にカリカリが貰える制度です。その代わり全ての猫から蔑まれ、差別されなくてはなりません。私が逃げたのはあなたが私を襲うと思ったからです」
 猫の言葉の意味をエドは図りかねる。
 普通に引退してミンチやカリカリを貰って隠居する事とどこが違うのだろうか。
「どうして襲われるの? あなたは働けなくて、国の制度で食糧をもらっているという事でしょう?」
 ルビィがエドに代わって質問する。
「猫は厳しい労働を課せられています。苦しみのあまりに自殺したり、仕事が激しすぎて過労死する事も当たり前です。そんな中で、一匹二匹の猫が働きもせずに僅かとはいえ食糧を得ていたら、他の猫からどう見られますか? 病気だと説明しても誰も分かってくれません。俺たちが苦しんでいるのにお前だけ楽をするなと、お前は猫の名に値しない卑しい生き物だという話になるのです。そして、働いている猫たちは生ポ猫よりはマシな猫なのだという自尊心を抱いて苦しい仕事にも耐える事になるのです」
 重いものを吐き出すような声が静かな池に静かに響く。
「働けないんだから仕方ないだろう? 猫だってのに今だって池に落ちたじゃねぇか」
 エドは猫に向かって言う。病気の猫が働かないのは当然ではないだろうか。
「エド、問題の本質はそこではないと思うわ。これは島が猫の間に人間と同じようなカーストを作ろうとしているという事なのよ。生ポになるしかない猫を生み出しておいて、それをカーストの最下層に置いて、一般労働猫の勤労意欲に歪んだ優越感を持たせ、マイナス面から刺激する。一般労働猫は散々生ポ猫を差別して来たのだから、自分は決して生ポ猫にはなりたくないわよね? でもそういう無理を重ねれば何割かは身体を壊して生ポになる。生ポになった猫はそれまで差別してきた事を知っているから一般労働猫を恐怖の対象として見る事になる。生ポ猫が怯えれば一般労働猫の優越感は刺激され差別する事に疑いを持たなくなる」
 ルビィが眉間に皺を寄せて意見を述べる。
「それは堂々巡りって言うんじゃねぇか?」
 エドはそこまで行ってルビィの話に意味に気付く。
 これは猫に強制労働をさせる為の国策のシステムなのだ。
 猫が十時間も働いて、人間の罵声を浴びて小さくなりながらも仕事に就くのも納得というものだ。
「そうね。でもそれだけだとモチベーションが保てない気もするのよね。猫は馬や牛と違って強制労働に耐えられるようにはできていないわ」
「あなたのお役に立つか分かりませんが、私もツナを食べていた時期があるのです」
 猫の言葉にエドは目を見開く。
 人間の人間による人間の為のツナを猫が食べる事などあり得るのだろうか。
「この島では特別な成果を上げた猫はツナが貰える事があるのです。私は営業部で好成績を上げた年にツナを貰いました。企業では業績で左右されますが、公共機関はもっと優遇されていて、警官や自衛官、官僚には定期的にツナが時にはまたたびが支給されています」 
 猫が身体を震わせて水を弾こうとする。
「それって猫の中に特権階級がいるって事?」
 ルビィが信じられないといった口調で言う。
 猫の世界に身分の上下は存在しない。
 少なくともエドの知っていた世界には存在しなかった。
 程ほどに働いて、ミンチやカリカリを貰って、どんな業種の猫も同じく路地に集まって集会をしていた。
「私の僻みもあるのでしょうけど、企業家や政治家の愛玩猫になると並の人間では及びもつかない豪奢な生活を送っています。彼らは一般の猫と交わろうとはしません。彼らは二本足で歩く事を覚えているからです」
 エドは驚きで目と口を開く。
 二本足で歩くとは猫の中では最大の皮肉に使われる言葉だ。
 猫である事を捨て、人間のようになろうとするもの。
 自由を捨て、傲慢と果て無き強欲の沼に沈むもの。
 しかも、それを一般の猫が望むとしたら……。
 エドはゾッとして芝生の上に横たわっている無数の猫を眺める。
 この島に猫はいるのだろうか。
「もう行って下さい。外国猫が攻撃される事は無いでしょうが、私と一緒の所を見られて良い結果を生む事は無いでしょうから」
 猫が背を向けてヨロヨロと歩いて行く。
 何が力尽きて倒れた猫をここまで卑屈にさせるのか。
 どうして猫同士が発情期以外でいがみ合わなければならないのか。
 何故人間に取り入って人間のふりをする猫が称賛されるのか。  
「この島の猫は基本的猫権すら放棄してしまっていると言うの? 世界の八割のツナが集まっている場所だと言うのに」
 ルビィが小さくなる猫の背を眺めながら呟く。
 タマや生ポ猫を見る限り、この島の猫に基本的猫権という事を理解させる事は難しいように思われる。   
「身分があって、お互いに足を引っ張ってたら権利意識なんて生まれねぇだろ」
「でも、歴史上の革命の多くは富める者と貧しい者の戦いから始まっているわ。この島に階級があるなら、革命が発生してもおかしくないんじゃない?」
 ルビィが考え込む。
 確かに一面的に見ればこれほど革命が起こりそうな場所も無いだろう。
「階級と身分ってのは違うんじゃねぇか? ヒエラルキーとカーストみてぇなモンでさ。階級は入れ替わる可能性がある。中世では洋の東西を問わずに金貸しが卑しい職業とされて都市に入る事すら許されなかった。だが、大航海時代辺りから銀行家が街の中心になって人類を支配するようになった。これは倫理観と経済システムが変わったからだ。でも身分ってのはそうそう変わらないだろう。一部の人間は何百年も前の系図を引っ張り出して権利を主張するし、一般大衆の方もそれを見て有難がってる始末だ。要するに階級はボクシングや柔道の体重別で、身分は競技自体が違うって事になるんだと思うんだが」
 エドは考えを述べる。
 階級と身分は似ているようで根本的に違う。
 この島では大きく分けて三つの身分が存在する。
 最下層の生ポ、過労死ラインの一般労働、特権階級の愛玩。
 それぞれが交わる事無く、それぞれのカーストの中でヒエラルキーを作っている。
「君はこの島を客観的に見る事ができているようだ」
 池の反対側からゆっくりと黒猫、ロシアンブルーが歩いて来る。
「盗み聞きとは趣味が良くねぇんじゃねぇか」  
 エドはロシアンブルーに向かって言う。
「まず最初に紹介させてもらおう。僕はヤン。ヘルシンキ、フィンランド出身だ」
 ヤンが耳障りの良い鈴のような声で名乗る。
「俺はエド、こっちはルビィ。俺はニューヨークでルビィはカリフォルニアだ。どうしてフィンランドの猫がこの島に来たんだ?」
「フィンランドは知っての通りサーモンが有名だ。もちろんサーモンは美味しい。しかし、他の魚を食べたいという欲求はあるし、猫まっしぐらと呼ばれるツナへの興味は尽きない。所がツナは太平洋、大西洋、インド洋と広く生息しているのに、ほとんど全てが極東の島に集められて外に出る事が無い。高額取り引きという事もあるんだろうけど、僕としては地球全土で公平にツナを食べる事ができるようにすべきだと思ってこの島にやって来た」 
 フィンランドの猫はミンチやカリカリではなくサーモンを食べていたらしい。
「私は基本的猫権確立の為に、ツナを猫の手にする為にここに来たわ。想像の斜め上を行く世界で驚いているけど」
 ルビィが島に来た目的を簡潔に述べる。
「要するに人間が寿司屋に行ってメニューを見る度に、ツナが無い事を思い出して猫の権利を再確認するようにするって考えだ」
 エドが捕捉するとルビィが睨んで来る。
 間違った事は言っていないはずだ。
「エドはシンプルだね。ここで長話も何だから少し移動しよう」
 ヤンがくるりと背を向けて歩き出す。
 中性的な印象だったがどうやら雌であったらしい。
「移動する必要があると? 私たちに危険があるのかしら」
 ルビィが後をついて歩きながら訊ねる。
「こ��島には公安猫という厄介な猫がいる。警察のエリートで、僕たちみたいな外国から来た猫や、体制に従わない猫を監視、弾圧している。この島で何かしようと思うなら侮っていい相手じゃない」
 ヤンが用意してあったかのように返答する。
「猫が猫を監視してるって言うの?」
 ルビィがヤンに訊き返す。
「他の国でも警察官は普通は猫だろう? 警察という組織の中に猫を弾圧する組織があるか無いかの違いさ」
「猫は特定の猫を傷つけたりできないし、発情期以外は争い合う事も無いわ。仮にそんな任務があったとしても、それは猫の本性に逆らっている」  
 ルビィの言葉に先導するヤンが小さく頷く。
「確かに猫は本質において他の猫を監視したり、攻撃したりという事はしない。でもトレーニングと餌とで歪ませる事はできる。公安猫はツナを食べていて自分たちは特権階級なのだという意識が強い。人間や同僚から他猫を疑う事を教えられ、実際にこの支配体制の軛から逃れようとする猫を目撃もする。正義は猫の本性の中にあるのではなく、人間の作った法の中にあるのだと擦り込まれて行く。そうして猫としての本性を失ったターミネーターが公安猫だ」
 ヤンの説明を受けてエドは背筋が寒くなるのを感じる。
 港に入った時に警備員がやたらと高圧的だった気がするが、あれも警察猫という事になるのだろうか。
「まるでゲシュタポね」
 ルビィの言葉にエドは同意する。
「ゲシュタポはWWⅡのナチスドイツの秘密警察だけど、この島にも秘密警察が存在した。ゲシュタポは局長を中心としたトップダウンの組織だったけど、この島の場合は各地の警察署それぞれに独立した秘密警察の部門があったんだ。戦争が終わってゲシュタポはトップが処刑されて解体されたけど、この島の秘密警察はそれぞれの警察署がその機能を持っていたわけだから解体できない。表向き秘密警察から公安に名前は変わったけどDNAは変わっていないんだ。話が逸れたね。つまり、この島の公安は中央集権的でありながら地域密着型という特性を持っているという事なんだ。地域密着という事は、監視だけでなく市民の密告もソースとして活用できる。地域で包括的に相互監視、弾圧を行うという市民にとっては自分の首を自分で絞めるような組織とシステムなんだ」 
 ヤンの説明にエドは開いた口が塞がらなくなる。
 ヤンもそれなりに調査して言っているのだろうが、この島でツナを寄こせと言う事は全ての猫と人間を敵に回す事になるのではないか。
「帰国しようとは思わなかったのか? 正直に言って俺はこの島でどの猫が信用できるのかも分からない」
 エドはヤンに向かって言う。
「僕はまだツナを食べていない。母国にクロマグロの一匹でも持ち帰らないと気が済まないって所かな」
 ヤンが冗談めかして尻尾を揺らす。
「それだけな訳が無ぇだろ。こんなおっかねぇ場所で踏ん張るって事は事情があるんだろ」
 エドはヤンの背中に向かって言う。
「僕は元々外国猫記者クラブの報道猫だ。君たちはアメリカから来たけど、今、世界中の猫がこの国のツナに注目している。人間から奪う訳では無いにしても、猫がツナを食べる権利は保証されるべきだという意見は大きい。しかし、この島の政府は公式の会見を開かないばかりか、公安猫を使って報道猫の弾圧を開始した。もう犠牲者が何匹も出ているんだ。僕たちは戦いを止める訳には行かない」 
 ヤンにはヤンなりの事情があったようだ。
 ルビィにはルビィの事情がある。
 エドはルビィについて来ただけだ。
 一匹で来たなら回れ右して帰るだろうが、伊達と酔狂で生きている猫としては、地獄の底までついて行くしかない。
 大層な理由がなくとも、立派なお題目がなくても雰囲気で何となくやってみるのが猫というものなのだ。
「ヤン、どこまで行くの?」
 ルビィがヤンに向かって訊ねる。
「赤坂。この島の政治家が他の国要人と内密で会う時に使う料亭があるんだけど、この持ち主が実はアメリカ合衆国でCIAの拠点の一つにもなっている。僕たち外国猫記者クラブで公安猫から追われた猫はそこを拠点にしている訳さ」
「CIA!」
 エドは尻尾をぴんと立てる。
 CIAはアメリカの強力な諜報部だ。味方であるうちはいいが、敵に回したらこれほど怖いものも無いだろう。
「君の母国なんだから怯えなくてもいいだろう? 僕たちは情報を渡す。CIAは拠点と食糧を提供する。Win winの関係だよ」
「猫の情報がCIAの何の役に立つって言うんだ?」
 世界に広がる巨大な情報網を持つCIAが、猫の手が借りたいと言い出す理由が分からない。
「この島ほど猫が人間に近づいた場所は世界に存在しないんだ。猫にとっては不幸な事だけど、人間にとっては大いに研究の意義がある。僕ら猫が全てこの島の猫のようなロジックで動き始めたらどうなる?」
「猫が不幸になるだけじゃねぇのか?」
 エドが言うとルビィが鼻を鳴らす。
「猫と人間の同盟が作れるという訳ね」
「その通り。敵対する国の猫を懐柔すれば、その国のインフラが破壊できる。軍事力を行使せずに一つの国の命運を左右する事ができるんだ。人間には成す術も無いだろう」
 ヤンの言葉にエドは言葉を失う。
 この島も凶悪な気がしていたが、母国の考えている事は輪をかけてえげつない。
 しかも、その場合人間が多少暴徒化したとしても猫が傷つく事は無い。 
 人間が一家族だけで、後は猫ばかりという国も成立させる事ができるのだ。
 しかし、人間の戦略で猫の国が作れたのだとしてもエドは面白いとは思わない。
 むしろ人間に利用されたと腹が立つだけだ。
 ヤンが大通りの前で足を止め、目の前で猫タクが停車する。
「じゃあ行こうか」
 エドはヤンに踊らされているような気分を感じながら猫タクに乗り込んだ。
   〈4〉 
   紙を貼った引き戸の向こうに小さな池と橋、池に落ちかかるように緑の葉をつけた紅葉が見える。
 板張りの廊下を挟んで藁を編んだような床が広がっている。
 エドはルビィと共に座布団の上で丸くなっている。
 廊下に幾つかの足音が響く。
「はじめまして。俺はCIA極東猫局員ジョーだ」
 きりりとした顔立ちの雄の三毛猫が自己紹介する。
「俺は……」
「聞いている。こちらから紹介した方が手間が省ける」
 エドの言葉をジョーが遮る。
「俺はバド。オーストラリア、シドニー出身だ」
 毛並みの良い豹のような斑点を持つベンガルがオーストラリア訛りの英語で言う。
「私はネオ、エジプト、アレクサンドリア出身よ」
 白と黒のモノトーンの滑らかな曲線を持つシャムが笑みを浮かべる。
「俺はミケっす。父ちゃんが米軍で働いてました。日米のハーフっす」
 一番若そうな名前はミケなのに白猫の雑種が陽気に笑う。
「俺はダン。フランス、ダンケルク出身だ」
 やや年かさで肉付きの良い、グレーと白のメインクーンが低い声を響かせる。
「一応CIAの俺が顔役をしているが、基本的にみんな自由に行動してもらっている。拘束つもりはない」
 ジョーが座布団の上で丸くなりながら言う。
「自由ねぇ~、自由ですとも」
 含む所のある口調でバドが座布団の上に乗る。
「ここ、生魚が出る事があるんスよ。オススメはヒラメっすね」
 ミケがエドたちを興味深そうに眺める。
「メンバーはこれだけか?」
 エドの言葉にジョーが頷く。
「ああ。公安との駆け引きもあってな。救出できる時とできない時がある」
「あなたたち運がいいと思うわ。上陸一日目で合流できたんだから」
 ネオが座布団の上に優雅に横になる。
「気になっていたんだけど、ヤンが私たちの前に来たのって偶然?」
 ルビィがジョーに向かって訊ねる。
「お前らを乗せた船長から連絡があった。悪いが尾行させてもらった」 
 ジョーの言葉にエドは驚愕して目を見開く。
「俺たちが危険な猫だとでも通報があったのか?」
「この島のツナ市場を乗っ取ろうって野心家が来るって言うから尾けてみたら、腰が抜けっぱなしでこちとら肩透かし食らった気分だったぜ」 
 バドが尻尾の先を舐めながら言う。
「私たちは掌で踊ってたって事?」
「護衛してたと解釈されるとありがたいね。事情を知らない猫が豊洲のツナ取り引きに突撃したら命がねぇからな」
 ダンが目を瞬かせながらルビィに答える。
「だったら最初からガイドしてくれよ!」
 エドは全員に向かって言う。
 港でみんなで出迎えてくれたら心が折れそうな気分になる事も無かったのだ。
「僕らが途中で引き返す猫の面倒までみれると思うのかい? 君たちは曲りなりにも戦力になると判断されたからここにいるんだ」
 言ったヤンが座布団の上で顔を洗う。
「夕食をお持ちしました」
 品の良いブリティッシュショートヘアが電動式のカートと共にやって来る。
「お、今日は金目鯛か」
 ダンが自分の皿を座布団まで運ぶ。
「み、ミンチでもカリカリでもねぇ……これが……魚か」
 エドは茹でてある金目鯛の臭いを嗅ぐ。
 上質な白身魚の香りが鼻腔を通って脳まで染みていく。
「あなたたち、毎日魚を食べているの?」
 ルビィが金目鯛を頬張りながら言う。
「大体毎日っすよ。料理長の機嫌を損ねると白飯に鰹節になるっす」
 ミケが楽しそうに鼻を舐める。
「料理長は職人気質のアメリカンショートヘアでな。基本的に俺たちのオーダーを聞いてくれる事は無い」
 ジョーが簡潔に説明する。
「仕入れる魚は俺が決めるって言って朝の四時から出かけんだ。あのオッサン」
 バドが金目鯛を咀嚼しながら言う。
「釜揚げしらすを始めて見た時は驚いたわね。美味しかったけど」
 ネオが前脚で金目鯛の皮を剥く。
「何か俺、魚食えたってだけで目的達成したような気がするんだが……」
 エドはルビィに目を向ける。
 これほど美味しいものを食べた事は無かったし、満腹になれば気分も満たされる。
 ニューヨークにいい土産話ができた事だろう。
「は? あなた頭が湧いたの? 私がアメリカで言った事覚えてる?」
「ツナを猫のものにして基本的にゃん権を認めさせるんだろ?」
 エドは前脚で顔を洗う。程よい空調で眠気が襲って来る。
 猫としては今日は長時間働いた方だろう。
「あんた、私の事ナメてんでしょ」
 ルビィが目を吊り上げる。
「もう眠い。多分今日十時間近く起きてる」
「私たちの目的はツナを……」
 言いかけたルビィが瞳をぱちくりと瞬かせる。
「……ツナを……」
 ルビィの頭が揺らいで座布団の上にぽてんと落ちる。
 眠かったのはお互い様だったようだ。
「今日はもう寝よう。俺たちも疲れた」
 ジョーが丸くなるやいなや寝息を立て始める。
 それを合図に一同が座布団の上で欠伸をしたり寝息を立てたりし始める。
「おいエド」
 ダンの言葉にエドは閉じか��った目を見開く。
「何だ?」
「電気消してくれ」
 言ってダンは身体を丸めてしまう。
 エドは引き戸の脇に会ったスイッチを押す。
 室内が暗くなり、庭の塀の内側が影となって墨のように黒くなる。
 塀の向こう側にはライトアップされたピラミッド状の建物の屋根が見えている。
 エドは立ち上がって建物を見ようとする。
「あれは国会議事堂だ」
 寝た筈のジョーがエドの背に声をかける。
 エドは古めかしい建物のシルエットを見つめる。
 あの建物の中で猫をいじめる様々な事が決められて来たのだ。
   〈5〉
    
 「ツナを手に入れる方法って、結局金しか無いんじゃないっすかねぇ~」
 朝食のめざしを食べた後、ミケが皿の水を舐めながら言う。
「何十年も前から猫はこの島に集められるツナを求めて来た。にも関わらず未だにこの島の人間の独占体制が続いているという事は、猫の力だけでは困難だという事の反証になると思う」
 ヤンが座布団の上で丸くなったまま言う。
 ヤンの見解は恐らく正しいのだろう。ルビィのような瞬間湯沸かし器のような猫がこれまでも何匹もいた筈だ。
 その悉くが失敗したのは、体制がそれだけ強固にツナを守っているからだろう。
「ツナの漁獲量が一番大きいのはこの島よ。消費量の約45%がこの島の漁船によるものよ」
 ネオが優雅に前脚を舐める。
「ツナの漁獲量は世界の海の各海域ごとに決められている。大西洋、インド洋、全米熱帯なんかで委員会が作られて、そこでどこの国がどれだけツナを採っていいかが決められている。この島はツナを獲得する為に委員会に強力に働きかけている。ツナ保存を訴える環境団体もあるが、今の所歯止めにゃなっていねぇな」
 ダンが温かい日差しを受けて喉をゴロゴロと鳴らす。
「その委員会に猫が訴える方法は?」
 ルビィがダンに向かって言う。
「禅問答になりそうだから一度で済ませる。思いつきでできるような事はほとんど誰かがやっている。かつて誰も考えつかなかった程の思慮深く、大胆な作戦だけがそれを可能にする」
 ジョーがmy猪口の水を舐める。
「そりゃこの島の猫を一斉蜂起させるくらいの事をしねぇとダメなんじゃねぇの」
 エドはジョーに向かって言う。
 この島の漁獲量が圧倒的に多い以上、貿易戦争を仕掛けても無益だろう。
 委員会の割り当てを減らせば輸入量を増やすだろうし、貿易に規制をかければ委員会に注力して漁獲量を増やすだろう。
 この島のツナ独占体制に対する外交努力は徒労に終わるだろう。
 唯一変革を行うとするなら、この島の体制を変えてしまう他無い。
「そりゃあ難しいな。この島にはそもそも民主主義が無ぇ。体制が二千年前から変わってねぇんだよ。な、教授」
 バドがダンに顔を向ける。
「民主主義が無い? 議員内閣制なのに?」
 ルビィが声を上げる。
「歴史を追おう。二千年前、この島には呪術を行う王を中心とした王朝が存在した。神に王位を授けられるって文明はよくあるが、この島では王様が神様だった。更にこの島の文明の大きな特色は三つの呪いがあったという事だ。一つは貢物を集める王様の下す呪い、祟りと言ってもいいが、これは天変地異を伴う強力なものと考えられた。二つ目は御先祖様を祀る事を怠ると不幸が身に降りかかるという呪い。これも病気や家族の不幸など深刻なものと捉えられた。三つ目はこれは他の国では見られない極めて独特なものだが、自分が苦しめば苦しんだだけ任意の第三者に先祖や神様が打撃を与えるという呪いだ」
 ダンが時折鼻を舐めながら説明する。
「ちょっと待て、二千年前の話だろ? オッサンの講釈を聞いてたら俺たちが説教する年齢になっちまうんじゃねぇのか?」
 エドの言葉にダンが低く笑う。
「そこまで長くはしねぇ。さっさと終わらせる為に話を続けよう。七世紀にこの島に仏教と文字と鉄と家畜が伝わった。仏教は本来仏陀が提唱したインド哲学の一派で幽霊を出したり消したりするようなカルトじゃなかった。呪文みたいな文章を読解すればアリストテレスや孔子に通じる教えが書かれている。輪廻転生とか幽霊とか苦行とかって考え方はヒンドゥー教のものだ。この島は仏教とヒンドゥー教が混ざった状態のものを取り入れた。これはこの島と極めて相性が良かった。この島の奴隷は年貢と苦役を課されたが、それはまず苦行と一体になって神様に奉納する行為になる。輪廻転生はあの世から常に御先祖様が睨んでいる事になる。更に苦しみが増せば増すほど、苦行の効果で自分が第三者に与える呪いの力が増幅する。そして呪いの対象として奴隷としての権利すら奪われた差別民が生まれる。これがこの島のシステムのひな型となった」
 ダンの言葉を聞きながらエドはノラの事を思い出す。
 ダンとノラを議論させたらさぞかし面白いに違いない。
「中世、この島に幕府という一風変わった王朝が出現した。二千年前の王の一族、つまり神様はそのまま神様として崇めたまま、政治だけを幕府という統治機構が行う事になったんだ。この時代、仏教は密教という他人や国家を呪い殺し破壊する呪術に昇華された。本来のこの島の呪術に戻ったという見方もできる。この高度な呪いは幕府の高官や仏教の高僧しかできない事になっていた。仏教は島民を管理する戸籍の役割も担っていたから、島民にとって身近な存在だった。この時、幕府は仏教の本来の教え、哲学を教える事をキリスト教と共に禁じた。島民が知恵をつけると困るからだ。そして仏教は御先祖様の幽霊や妖怪を使って人々に祟りの恐怖を刷り込んだ。ここで神様、つまり為政者の呪いと、個人の呪いが解説できた訳だ。そして第三の呪いは部落差別という形で現れた。当時の農民の生活は厳しく、五人組制度という相互監視制度のお蔭で愚痴もこぼせない世界だった。そんな農民たちは、被差別部落の人間を見て自分たちの苦役の呪いの力が彼らを貶めていると考えるようになっていたんだ」
 ダンの言葉がエドの見聞きした話とオーバーラップし始める。
 タマは自殺するほど苦しんでも逃げようとか逆らおうとはしなかった。
 生ポ猫は一般労働猫に怯えてまともに生活できているようには見えなかった。
「近代に入りこの島は神様を崇めたまま民主主義を取り入れた。欧米諸国は市民による革命で民主主義を獲得したが、この島は市民による革命というステップを踏まずに、幕府から議員内閣制に移行した。神は二千年前年貢と苦役を課す存在だった。この島の議員のほとんどが幕府時代からの血��か神様の血縁によるものだ。高位の人間は���挙では入れ替わらない。何故か? 仮に地元の名士や高位高官を落選させたら政治的にとんでもない罰が下る事になる。これは第一の呪いだ。御先祖様はさすがに消えたがその対象は生きた人間に変わった。五人組制度の時、相互監視という文化が定着した。五人が五人同じ意見にならなければ共同体から排除される。同調圧力が第二の呪いに代わった。最後の呪いは被差別部落から生活保護受給者に移行した」
 ダンの解説にエドは頷く事しかできない。
 同じ話を何度か聞かされているのかエドとルビィ以外は退屈そうにしている。
「第三の呪いには捕捉説明が必要になる。この島のポップカルチャーにはアニメというものがあり、その多くが人間が暴力を振るう野蛮なものだ。そこに共通点として見いだされるのは戦いが始まり、相手が強力で戦闘時間が長引けば長引く程、主人公の力は強化され、弱かった筈の主人公が強大な相手を倒してしまうというものだ。常識で考えれば、ラウンドを重ねるごとに動きの良くなるボクサーなどいないし、試合終了前のサッカー選手が試合開始時とは別人のように技術もスタミナも上がるという事はあり得ない。アメリカのコミックのヒーローは戦う前の過程に多くの時間が費やされ、設定された以上の強さを戦闘中に発揮する事は無い。暴行を受ければ受けるほど強くなるという歪んだマゾヒズムは第三の呪いが文化的に浸透している所作だ。さて、説明が長くなったがここで質問だ。この島は二千年前とどこが変わっているんだ?」
 ダンの突然の質問を受けてエドはルビィと顔を見合わせる。
 血統による王族は議員となってそのまま座っている。
 天罰を下す代わりに政治的ペナルティを与えるという属性に代わっている。
 先祖による監視は他人による監視にとって代わった。
 呪いがかかる代わりに共同体排除という実質的な罰に代わった。
 年貢と苦役は仕事に代わった。
 呪いの力は差別民から生活保護受給者に向けて発揮される事になった。
「えっと……話が全部分からなかったのかも知れないけど、何も変わっていないって事?」
 ルビィがダンに訊ねる。
「この島は民主主義ではなく、シャーマニズムで統治されている。これが十五分で分かる極東の島の歴史と文化だ。最後に付け加えると、俺はしつこく神と王に様という敬称をつけてきた。これはこの島の住民が何から呪いを受けると考えているかを端的に示すものだ。神、王、太陽、月、星、先祖この辺りは他の文明圏でも天災や呪いがかかると考えられている。だが、この島では他人、自分以外の人間に人様、よそ様、お隣様、他人様、例外的にお得意様という敬称をつける。同格の市民であればどこの国でも敬称などつけはしない。つまり、この島の人間は自分以外、家族は例外にせよ、自分に対して多かれ少なかれ神と同じく祟る、不利益を与える存在だと考えているという事だ。そしてそのDNAはこの島の猫に受け継がれている」
 言い終わったダンが満足した様子で水を舐める。
 他人が、他の猫が常に自分に危害を加える可能性があるなどと考えた事は無い。
 猫は発情期以外は滅多に喧嘩はしない。どうしても性格が合わないという事もあるが、そういう時は互いにスルーするのが猫の流儀だ。
 気に入らない相手の事を考えてストレスを溜めるなど気力と体力と時間の無駄だ。
「つまり、この島で反乱なり革命を起こすのは不可能って言いたいのか?」
 エドはそう結論づける。二千年前からありとあらゆるものを呪って呪って呪い倒して来た文明と人類なのだ。
 こんな後ろ向きの島の生き物に、どんなに生産的で魅力的な未来を提示しても見向きもされないだろう。
「そもそも我々の文化圏でrevolutionと呼ばれるものは革命と島では翻訳されるが、この意味が既に違っている。革命というのは命を革める。つまり、王朝が交替するという意味で……」
「ダン、もう充分だろう。お前のこの島に対する情熱は分かっているが細部に渡って説明する必要も無いだろう」
 ジョーがダンの言葉を中断する。
 エドは話が続いても終わってもどちらでも良かったが、この島の事を知るには今までの話で充分と言えるだろう。
「で、どうすんだ、ツナ革命のお嬢さんよ」
 バドがルビィに話を振る。
 この話を聞いた後でこの島の猫を決起させるとは言えないだろう。
「どうするって……でも、この島の人や猫のほとんどは苦しんでいるって事でしょ? 猫が目を覚ませば二千年前の呪いが解けるんじゃない?」
 ルビィは必死に考えているようだが、猫であっても生れてからずっと擦り込まれて来た事から逃れる事は難しいだろう。
 タマにしろ生ポ猫にしろ、自らが悲惨な状況にあるにも関わらず、人間や高位の猫を打倒しようという意識は持っていなかった。ただ恐れるだけだったのだ。
 二千年前の妖怪を退治できれば状況は変わるのだろうが、猫がいかに優秀でもタイムマシンを作る目途は立っていない。
「取り合えず今日どうするか決めた方がいいんじゃない?」
 ネオが建設的な事を口にする。
 ツナを猫の手に、という大目標はひとまず棚上げにしなければならないだろう。
「お前らはいいかもしれないが俺はただの配達屋だぞ? 日向ぼっこして欠伸する以外に何ができるってんだ?」
 エドは全員に向かって言う。
 ルビィについて行く、この目標は変わらない。
 だが、エド自身が何を求めているかと言うとヤンのように確固たる意志と目的がある訳でもなく、ダンのような研究者目線を持っている訳でもない。
 猫だから何となく出歩くのはいいが、何となく出歩いて何も無いという可能性の方が大きい。
「お前らにゃ何も期待してねぇよ。まずは行儀見習いだ」
 バドが突き放すような口調で言う。
 エドはルビィに目を向ける。このままではスパイかジャーナリストにされてしまいそうだがそれでいいのだろうか。
「とにかく私の目でもっとこの島を見てみたいから」 
 ルビィがバドに同意する。
「エド、お前は俺とバド、ミケのチームだ。ルビィはネオ、ヤン、ダンとチームを。基本は情報収集。新猫二匹は公安猫の巻き方を覚えろ」
 ジョーが一方的に命令を下す。
「ちょっと待て、俺はルビィと……」
「私は別に構わないわ」
 エドの言葉をルビィがあっさりと遮る。
「雌猫チームでいいだろうが、ダンのオッサンは枯れててあっちは御無沙汰だ」
 バドが肉球でエドの肩を叩いて来る。
 そういう問題ではないのだが、ルビィがそれでいいという以上、引き下がるしかない。
「エド先輩、ナンパしちゃいましょ? 意外とモテそうだし」
「しねぇよ!」
 エドはミケに向かって言う。
 白猫なのにミケという名前だけでも倒錯しているのに、頭の中まで倒錯しているのだろうか。
「行くぞ」
 さっさと歩きだしたジョーに続いてエドは廊下を歩き始める。
 考え方を変えれば配達猫を続けているよりスパイ猫の方がスリリングかも知れない。
 ハードボイルドに決めればルビィの気持ちも揺らぐかも知れない。
   〈6〉
   警視庁公安部外事一課三係、キジ猫のタツ警部はオフィスで入国した猫の確認作業を行っていた。
 基本的にアメリカからの入国猫はチェックしない。
 ムスリムやテロリストならアメリカ大使館の方から名簿が回って来る。
 ビジネス目的と観光が群を抜いて多く、七割が中国と韓国からの猫だ。
 仮想敵国としているが島の貿易の多くが中国に依存しており、企業の売買収や合併も盛んなのだから、本当は凄く相性がいいのではないかと思う事もある。
 タツは大新聞四紙を広げる。
 中国は軍事力を増強して島を威嚇しており、韓国は北朝鮮との友好を深めて背後の憂いを断って島を攻撃する準備を進めているといった事が書かれている。
 事実と報道の間に大きな乖離があるが、タツは立場上政府の公式見解とも言える報道を尊重し、島を害そうという勢力を一匹たりとも逃さないという姿勢を取らなければならない。
「タツ警部」
 黒と白のハチワレカラーのトラ警視の言葉にタツは立ち上がって敬礼する。
「赤坂の動きが不明瞭だ。データを洗いなおせ」
「赤坂と言うとCIAでありますか? 情報交換は行っておりますが」
 警視庁公安部とCIAは多くの情報を共有している。
 CIAそのものが脅威である筈がなく、それに付随する問題があると言うのだろうか。
「外国猫記者クラブで我が島を批判した猫がいる」
「適時対処しておりました」
「欧米系には手ぬるかったのではないか?」
 トラ警視がゆったりと歩き回りながら言う。
「友好国であるとの外務省からの連絡があり、徹底はされませんでした」
 タツはこれまでの自分の仕事に失態は無かったかと考える。
 ミスをすればエリートコースの公安部から追放される。
 刑事部に配属されればエリートになる事は無く、しかも刑事スキルが無い事で厄介者扱いされる事になる。そうなれば身の破滅だ。
 東大卒のタツが一般労働猫になる? 冗談ではない。
多くの猫を蹴落としてこの地位を築いて来たのだ。 
月に一度サバ缶が支給され、年に一度ボーナスでツナ缶を貰える立場から、年中ミンチとカリカリで過ごす下層猫に堕すると言うのか?
タツはエリートとして生まれつき、支配する猫として育てられて来たのだ。
「大使館に逃げ込んだ記者猫の跡を追え。赤坂で姿が見られたという噂もある」
 トラがねっとりとした視線を向けて来る。
 まるでこれまで仕事をさぼっていただろうとでも言いたげな視線だ。
「了解しました。これより三係は赤坂周辺の記者猫の捜索を行います」
 タツは敬礼をする。
 失敗は許されない。仮に記者猫を発見したとしても、最初の段階で見落としたミスは汚点として残るのだ。
 失点快復汚名返上の作戦を決行せねばならない。
 そして狙えるものならトラを失脚させ、課長の椅子を手に入れるのだ。
 課長の次は参事官。参事官の次は部長、内閣事務次官、そして内閣官房長官だ。
「三係招集! 赤坂の外国猫を徹底的に調べ上げろ! 島に批判的であれば即座に手を打たねばならん。赤坂の料亭も治外法権である事を忘れるな!」
 三係の公安猫たちが一斉に敬礼する。
 島の公安は秘密警察をより現代化した敵対勢力に対する最強の監視、弾圧システムだ。    
 エリートの階段はまだ途上だが、タツはすでに靴下をはいた猫のレベルには達している。
 やがてはこの国の猫と人間とを、否、全てのツナを支配下に置くのだ。     
  
 第三章 二本足の猫
  〈1〉
   エドはジョーに続いて新宿を歩いている。
 一言に新宿と言っても高層ビルが立ち並ぶ副都心から、猥雑な歌舞伎町、閑静な住宅街までもが存在している。
 住宅の多い目白から市街地を見ると、ビルがイスラム教の尖塔のように突き立っているように見え、森の向こうに山を見るような感覚を覚える。
 住宅の多くは老朽化しており、浮浪者が勝手に住み着いたり、猫が雨風をしのぐのに使ったりと半ばスラムのようになっている。
 ニューヨークだとハーレムという事になるのだろうが、ハーレムは犯罪多発地帯とも言われるがそれなりの活気がある。
 しかし、この廃墟のような町には活気が無い。
「こんな所を案内してどうしようってんだ?」
 ぼろを着た浮浪者の黄色く淀んだ目とエドの視線が交錯する。
「ここは新宿の裏庭だ。表は賑わっているが一歩足を踏み入れればこのザマだ」
 ジョーが勝手知ったる様子で歩を進めていく。
「荒れ果てちゃあいるが、都心で働く猫のベッドタウンにもなってんだ。もっとも高級官僚や財界猫なんかは自前のマンションに住んでんだがな」
 バドが説明する。
「ベッドタウン?」
 エドは訊き返す。ベッドタウンというのは猫に存在しない。
 職場があるならその近く、猫は自分に都合のいい所に住むのが当たり前からだ。
「いや、この街は美観を大事にするってんで、都市部の路地とかから猫を排除してるんスよ」
 ミケが良く分からない説明をする。
 ニューヨークの路地で生活していたエドには意味が分からない。
「この島の人間は勤勉で、猫も勤勉だって事になってんだ。街は清潔で路地を覗いても寝そべってる猫なんか居ちゃならねぇ。夏場に日陰で一休みしててみろ、保健所の保険猫がシェパードを連れて超特急でやって来る。捕まれば保健所行き。後は想像の通りさ」
 バドの言葉にエドは衝撃を受ける。
 猫は勤勉な生き物などではない。犬と比較されるのは癪だが、比べられれば怠惰な生き物のうちに入るだろう。   
「勤勉が美徳とされているんだ。昨日の教授の説明の通り、苦役に耐える事が力であり仕事だと考えられる。だが、実際にはこの島の労働生産率は先進国では最低だ。ロクに休まず働き続ければ猫だけじゃなく人間も心身が衰弱するからな」
 ジョーが淡々と説明する。
「当たり前だろ? 寝させてもらえず、休ませてもくれねぇんじゃ仕事なんかできねぇじゃねぇか」
 エドは不思議に思う。アメフトにもサッカーにもボクシングもスポーツには必ずと言っていいほど休憩がある。
 休憩がなければ試合はぐだぐだになり、大きな見せ場もないまま惰性で終わるだろう。
「この島の人間は金にがめついが、それ以上に呪いを大切にしてんだ。三十分でスパッと仕事をするヤツより、残業して目の下に隈を作ったヤツの方が称賛される。だからゾンビみてぇなヤツが多いし、この島の人間はゾンビが大好きなんだ。映画でも小説でもゲームでも漫画でもゾンビの出ねぇ年は無ぇくらいにな。もちろんハリウッドにもゾンビ映画はあるがハリウッドじゃゾンビはあくまで撃ち殺される側。でもこの島では主人公がゾンビなんだ」
 バドが吐き捨てる。
 金を稼ごうとして、金にならない人間を褒めるという事は理屈に合わない。
 しかし、ダンの解説した呪いを基本にして考えると何となく理解ができる。
「病的だな。まぁ、昨日の講釈のお蔭で大体話は分かるが」
 エドはほとんど猫影の無い町を歩く。
 猫の多くは都市部に働きに出ているのだろう。
 と、路地と呼ぶには狭い家と家の隙間から一匹の猫が出て来た。
「今日は勢ぞろいか?」
 ベッコウ柄の毛並みを持つ猫が一同の顔を見回す。
「そんな所だ。商売はどうだ?」
 ジョーが気にした風も無く答える。
「悪くねぇ。最近海外のレートが下がってサヤが稼げてる」
 ベッコウ猫が舌なめずりする。
「それは何よりだ。景気がいいならもっと税関にスルーさせるように手配しよう」
 ジョーがベッコウとは対照的にビジネスライクに話を進める。
「ブツがダブつきすぎても値崩れしちまう。人間どもは生かさず殺さずが丁度いいんだ」
 ベッコウが口元に笑みを浮かべる。
 エドはベッコウがドラッグディーラーである事を察する。
「商売はお前の方が上か。最近魚は食ってるのか?」
「人間よりな」
 ジョーに答えてベッコウが笑う。
「で、タダより高いものは無い事はお前も承知していると思うが」
 ジョーの言葉にベッコウが神妙な表情を浮かべる。
「東京オリンピックから五十年だってんで、オリンピック跡地の再開発が水面下で進んでる。与党のケツ持ちの渋沢会がゼネコンを抱き込んで数百兆円規模のヤマになるそうだ」
「よくそんな資金が調達できたな」
 ジョーに答えるようにベッコウが前脚で顔を掻く。
「社会保障費が無いってんで、消費税と所得税を同時に上げる国民総活躍税ってのが導入される。表向きは社会保障費の補填だが、これまでの消費増税の後には必ず大規模な開発事業が行われて来た。一度目と二度目の消費税増税で行われたゼネコン事業は六百兆円。下水の普及率が途上国レベルの四国に三本も巨大な橋を作った頃だな。与党は渋沢会の力とゼネコンの資金の金と票を必要としてる。だから、定期的に大規模な公共事業をやって飴をしゃぶらせなきゃならねぇのさ。で、今回は国民の貧困率がアフリカの最貧国に並ぶってんで、社会保障費を上げるってお題目を唱えて増税する事にしたって訳だ」 
「ちょっと待て、増税をして、税金を土建屋に渡しちま��たら、幾らなんでも島民が気付くだろう?」
 エドは思わず声を上げる。
 渋沢会とゼネコンの金と票が欲しいというのは何となく分かるが、増税をしておいてそれと見える制度設計が行われなければ島民も黙っていないのではないか。
「お前新顔だな? この島じゃ不都合な事は報道されねぇんだ。オリンピック跡地の再開発じゃあ、デカいエンターテイメントパークができるってニュースが踊って、ワイドショーじゃあ、セレブや芸能人が新しい箱モノを褒めちぎる。ネット専門の工作員たちが社会保障費がどうなったのかって話があれば炎上させて、世論を箱モノ賛美に誘導する。一般大衆はそれを見て何の疑問も無く、与党の御用学者が再開発が始まれば景気が良くなって、大企業やゼネコンが儲かればその恩恵が下々に降りて来るって言う話を信じて、本来の社会保障の話は忘れちまう。これは予言じゃねぇ。予知だ」
 ベッコウの言葉にエドは開いた口が塞がらなくなる。
「社会保障費が無いままなら、ゾンビみたいな連中が増えるんじゃねぇのか? 目につくようになりゃあ誰かが気付くだろ」
 エドの言葉にベッコウが低く笑う。
「その誰かは終戦から百年経っても現れてねぇ。少なくともこの島ではな」
「再開発の話で進展があれば教えてくれ。詳細が知りたい」
 ジョーがタブレットを取り出す。
 ベッコウがタブレットを取り出して情報を送信する。
 ベッコウはCIAが渋沢会に送り込んだスパイなのだろうか。
「お前、今、クソみてぇな話だって思ってんだろ?」
 バドの言葉にエドは頷く。人間が人間に搾取される分には構わないにしても、人間のとばっちりを受けるのは猫なのだ。
「俺も最初この島に来た頃は目を覚まさせなきゃいけねぇって思ったさ。でも、この島を褒める外猫は気味が悪い程チヤホヤされるが、この島の真実に言及するヤツは島の敵って見なされる。挙句の果てにゃ公安猫が出て来て、何だかんだと法律を盾に俺を捕らえようとするようになった」    
 バドが頭を振ってため息をつく。
「とっとと島から出て行けば良かったんじゃねぇか?」
「嫁と子供がこの島の生れなんだ。公安猫に脅されて出て行っちまったけどな。俺の知らない所で生きているのは間違いねぇ」
 バドの言葉にエドは言葉を詰まらせる。
 明言していないが、妻と子供が人質になったという事だろう。
 エドはベッコウの情報操作の話を思い出す。
 話が事実ならこの島の報道は政府のプロパガンダでしかない。
真相を発信しようとするバドは島の政府にとって厄介な存在だったのだろう。
 そして公安猫が家族を奪って黙らせ、バドはCIAの庇護下に入った。
「辛い話をさせちまったな」
「よしてくれ。俺は少しばっか身軽になって、少しばっかこずるくなっただけのことさ」
 バドが話はここまでだとばかりに尻尾を振る。
 それでも島を離れないのは妻と子供の事が気になっているからだろう。 
「行くぞ」
 いつの間にかベッコウの姿は消えており、何事も無かったかのような表情でジョーが歩き出す。
 エドはジョーに続いて歩き出す。
 初めてこの島に来た時、猫たちの足取りが重く見えた理由が少しだけ分かった気がした。
 エドは遠くの高層ビルを眺める。
 高層ビルで、周りに広がる街で人間扱いされない人間に、人間以下の生き物として扱われる無数の猫が今も悲鳴を上げ続けているのだ。
 怨嗟の声を飲み込んだ重苦しい空が、質量を持って落ちて来るような錯覚すら覚える。
 エドはこんな島には居たくない。ニューヨークに戻って猫らしい生活に戻りたい。
ルビィがいなければこんな陰惨な島は出て行く所だ。 
そこまで考えてエドは苦笑する。
この島がどうだろうとエドには関係ない。エドにとって大事なのはルビィだけなのだ。 
  〈2〉
   芝生の上に何匹もの猫が横たわっている。
 日差しは強くなっているが、起き上がろうとする猫はいない。
 ルビィはネオ、ヤン、ダンと共に代々木公園と呼ばれる緑地を訪れている。
 マスクとゴーグルをつけた保険所猫たちが、動かない猫を猫トラの荷台に乗せていく。
「あの猫たちは何処に行くの?」
「清掃工場、ゴミと一緒に焼却炉で焼かれるんだ」
 ルビィの問いにヤンが答える。
 ルビィには目の前で起きている事が理解できない。
 まだ息のある猫もいるだろう。
 ましてや猫が猫をもののように扱い、あまつさえゴミと一緒に燃やすなど信じられない。
「こんな事って……猫が猫を焼き殺すなんて……」
「人間は電卓を捨てる時に墓を作ったりしないわ」
 言ったネオをルビィは睨みつける。
 猫は機械や道具ではない。人間と同等の知能と感情を持つ生き物だ。
 怒りに毛が逆立つが出すべき言葉が見当たらない。
 ルビィは怒りをネオに向けるのを止めて倒れている猫に足を向ける。
 日差しに焼かれた猫がぐったりしたまま浅い呼吸を繰り返している。
 普通なら医者の猫がやってきて即座に病院に運ぶ所だ。
 それなのに、この場所では保健所猫がやって来てゴミと一緒に焼いてしまう。
「お前、何をしている」
 保健所猫が歩み寄って言う。
「それはこっちの台詞だわ!」
 ルビィは牙を剥いて全身の毛を逆立たせる。
「我々は政府の許可を得て労働を行わない猫を処理している。逆らうと為にならんぞ」
 保健所猫がスタンガンを取り出して威嚇する。
「あなたは猫の味方? 人間の味方? 猫の誇りは無いの!」
 ルビィの言葉に保健所猫が無感動に近づいて来る。
「我々は仕事をしているのだ。この島に貢献しない猫に、否、生き物に生きる資格など無い」
 保健所猫が進んだ分だけルビィは後ずさる。
 スタンガンの青い火花で身体の毛がチリチリする。
「猫は……猫はそんな全体主義的な思想の生き物じゃない! 目を覚ましなさい!」
「何を言うかと思えば……この島は世界で最も洗練された民主主義を持つ先進国だぞ」
 保健所猫がスタンガンを振るい、ルビィは咄嗟に飛び退く。
 言っている事が支離滅裂だが、頭のネジが外れているからこのような非道な事が出来るのだろう。
 保健所猫が捕食者のような酷薄さを滲ませてルビィに詰め寄る。
 世界の猫の為に立ち上がったと言うのに、このような所で果てる訳には行かない。
 しかし、ここで退けば助かるかも知れない一匹を守れなかった事になる。
 猫は人間ではない。猫は猫を見捨てない。何の利益にならなくても助けあうのが猫の本性だ。
「そこまでです」
 凛とした声が響き、首から十字架とWWF(世界自然保護基金)職員IDを下げた白猫が現れる。
「また貴様か」
 保健所猫が苦々しさを滲ませて白猫に向き直る。
「この島はWWFに加盟しています。猫の権利を蹂躙する事は規約に違反します」 
 毅然とした口調で白猫が言い放つ。
「自らは働きもせず、綺麗ごとばかりを抜かす偽善猫が!」
 保健所猫がスタンガンをポシェットにしまって吐き捨てる。
 散々威圧して来たがWWFと事を構える気概は無いらしい。
「何とでも言いなさい。あなた方の仕事が倒れた同胞にとどめを刺す事なら、私たちの使命は倒れた同胞を助ける事です」
 白猫の言葉を背に受けて保険猫たちが猫トラに乗って退散して行く。
 この島にもこのツナ帝国に抵抗する集団がある。
 ルビィは驚きと共に白猫に目を向ける。
「助かりました。私はルビィ。カリフォルニアから来ました」
「私はWWF職員で修道士のエマです」
 白猫の差し出した肉球にルビィは肉球を合わせる。
 WWFというだけでなく、修道会をバックにしているのであれば島の役人は簡単には手を出せないだろう。
「あなたは何故ここに? 一般の猫がこの島で役猫に逆らう事は命取りです」
 エマが警告する。確かに思い返せば無謀な行動だっただろう。
 しかし、ルビィは猫なのだ。
「私は役猫に逆らってはいません。猫の本能に従っただけです。それよりこの猫を助けて下さい」
 エマの合図で職員の猫が倒れていた猫を猫バスに運んで行く。
「この近くに病院があるんですか?」
「この島の大学や民間の病院は利用できません。しかし、国際赤十字の病院でなら治療を受けさせる事ができます」
 エマの言葉にルビィは安堵する。
 ダンたちがタイミングを見計らったようにやって来る。
「この島にも猫道的な組織はあるんじゃない。あるならそうと言ってよ」
 ルビィはダンたちに向かって言う。
 本当に四面楚歌で孤立無援だと思っていたのだ。
「WWFの力は限定的だ。赤十字だって完全に面倒を看る訳じゃねぇ。そしてWWFと赤十字は戦う組織じゃねぇ。それがこの島に居られる理由だ」
 ダンがエマに目を向ける。
「でも保健所猫から守ったでしょ?」
 ルビィはダンを睨む。あの危険な状況でダンたちは遠くから見ていただけではないか。
「ならこの先も少し付き合ってみたらどうだい」
 ヤンが冷ややかな視線を向けて来る。
「言われなくてもついて行くわよ。あなたたちみたいに見ていただけの猫じゃないんだから」
 ルビィはエマに目を向ける。
 エマが視線を落とし、小さくため息をつく。
「物見遊山で無い事は分かっていますね?」
 エマの言葉にルビィは頷く。
 猫たちが猫バスに乗せられ、ルビィはダンたちと共に乗り込む。
 車内には猫たちの苦しそうな呻き声が満ちている。
 小さい頃に母猫に見せられた中世の画家の地獄絵図を正に見ているかのようだ。
 赤十字の総合病院の緊急病棟の前には何台もの猫バスが乗りつけられ、次々と猫たちが搬送されている。
 看護猫が忙しく走り回り、診察室や手術室は満員を超過している。
 病室では猫たちが床一面のマットレスの上で丸くなって点滴を受けたりしている。
 この島にもセイフティーネットは存在しているのだ。
 ルビィは安堵感を覚える。
「君は今、ここの猫たちが助かったと思っている」
 ヤンの言葉にルビィは顔を向ける。
 見ての通り助かっているのではないかと言いかけた瞬間、ヤンが先に言葉を続けた。
「猫は良心で猫を助ける。でも、医薬品はタダじゃないし、仕事に行かなかった猫には食事も無い。これから先、彼らをサポートするのは何なんだい?」
 ヤンに言われてルビィは自分が見落としていたものに気付く。
 これだけの猫を食べさせるのはWWFや赤十字では不可能だ。
「ルビィ、この先に彼らの試練がある」
 ヤンが生活相談室のドアをノックする。
「外国猫記者クラブのヤンです。取材をさせて頂いて構いませんか?」
 ヤンが短いやり取りをした後でルビィは室内に足を踏み入れた。
 長いテーブルが二列並んでおり、無数の赤十字の猫と病気の猫が向かい合っている。     
 ヤンに促されるまま、ルビィは向き合う一組に近づく。
「……現在、我々は栄養注射を行っていますが、他の猫の為にも長期的に栄養補給を行う事はできません」
 赤十字の猫の言葉に病気の猫は項垂れたままだ。
「脅迫している訳ではありませんが、私たちにはあなた方を養う力は無いのです」
 ルビィはその言葉に目を見開く。
 助ける気が無いのに助けたという事だろうか。
「生活保護を申請して下さい。ソーシャルワーカーが同行します。そうすれば充分とは言えませんが死なない程度の食糧は支給されます」
 赤十字の猫の言葉に病気の猫が震えあがる。
「生ポは嫌だ……生ポは、生ポは嫌だ! 殺してくれ! どうして俺を助けたりしたんだ!」
 叫び声を上げた猫が苦しそうに息をして倒れ込む。
 口角から泡が噴き出し、目は白目を剥いている。栄養云々以前に精神が壊れてしまっているようだ。
「あなた、病院の人じゃないの!」
 ルビィは赤十字の猫に向かって声を上げる。
「私たちの使命は猫命の救助です。ですが、国際的な基金で運営されている我々には充分な資金がありません。医療を受ける権利は可能な限り保証しますが、生活までサポートするだけの力はありません。それは自治体が行うべき事ですし、実際にこの島には生きる為の最低限度の生活を保障する制度があります。制度が利用可能である以上、国際社会がこの島を非猫道的だと責める事はありません」
 赤十字の猫が言う間にも病気の猫が喘ぎながらゆっくりと起き上がる。
「殺される……殺される……生ポになったら殺される……」
 虚ろな目をして猫が繰り返す。
 アメリカにはフードスタンプや生活必需品を自治体が手配してくれる制度がある。
 誰でも使えるし、使ったからといって恥じる事も何もない。
 制度を利用して大学を卒業して社会に出て行くのは珍しい事でも何でもない。
「生きていれば可能性はあります。死んだら猫はそこで終わりなんですよ」
 赤十字の猫が病気の猫に訴える。
 言っている事は何も間違っていないとルビィは思う。
 間違っているのは病気の猫の認識と社会の認識。
 それを生み出したのはダンが解説した恐るべき第三の呪いなのだ。
「薬があってもお腹が空いてゆっくりと餓死する事を、私たちは黙って見ている事はできません」
「だったら……だったら病院から出さないでくれ。外に出たら、世間に知れたら俺は殺される」
 怯え切った様子で病気の猫が言う。
「今でも病猫の臨床数を超えているんです。ここでこれ以上あなたを看る事はできません」
 病気の猫が天を仰ぎ、涙を流して声にならない鳴き声を漏らす。
 この猫も仕事をしている間は生ポ猫を差別して来たのだろう。
 因果応報と言ってしまうのは短絡的に過ぎる。
 生ポ猫を差別するように社会を作って来たのは二千年前の呪いで、今、権力の座についている人間や猫たちなのだ。 
 当たり前に受け取っていい筈のものを受け取って、それで差別されるなど他国ではあり得ない事だ。
「私たちも助けない訳じゃないわ。報道の力で世界に訴えてはいる。それでも、この島は制度がある為に国際社会に対してセイフティーネットは万全だと胸を張る。普通の国なら制度があって利用しないなら、それは利用しない側の自由意志という事になる。分かるわね」
 ネオの言葉にルビィは頷く。
 制度的には何も間違っていない。国際的な猫権団体が糾弾する事も無い。
 しかし、その制度は猫権を守る為ではなく、この島の二千年の呪いが生み出した悪魔の制度なのだ。
 それを他の国の猫や人間に理解させる事は難しいだろう。
 猫を死ぬか死ぬ寸前まで働かせ、死に損なえば差別の対象として、大衆の歪んだ娯楽として供給する。
 これがツナの帝国の支配方法なのだ。
「お嬢ちゃん分かったか? この島の形が」
 ダンが低い声で訊ねてくる。
「許せない。この島の卑劣で非道で邪悪な力が。そしてその力で全世界の猫からツナを奪っている事が……」 
 ルビィはこれまで感じた事の無い恐怖と怒りを同時に感じる。
 このツナの帝国が世界を汚染し始めたら、全猫類が地獄に落とされる事になる。
 否、ツナを独占する事で既に世界の覇権を握りかけているのかも知れない。
「でも分かった。私はツナの帝国と戦う為に、世界を救う為にここに来たんだって」
 ルビィは決然とした眼差しをダンたちに向ける。
 尻尾を巻いて逃げたりしない。戦い方は分からないが、これは純然たる正義と悪の戦いなのだ。
  〈3〉
  「すみません。ちょっと道を聞きたいんですが」
 タツ警部は赤坂の料亭から程近い所を歩いていた猫に声をかける。
「はい。どこに行くんですか?」
 子育て中らしい猫が愛想良く応じる。
「ミッドタウンで待ち合わせをしてたんですが……実は今日首都に来たばかりで道に迷ってしまって……あ、すみません、この近くにお住まいですか?」
「近所のマンションに住んでいます。ミッドタウンだったら、檜町公園を突っ切ればすぐですよ」
 猫が公園の方向を指さす。
「ありがとうございます。所でこの辺りに品のいい感じの外猫がいるって聞いたんですが、ご覧になった事はありますか?」
「えっと……それって料亭の花道さんの所かしら」
 顎に手を当てて猫が思い出そうとするかのように中空を眺める。
「最近新しい猫が来たりとかはしてませんか?」
「昨日花道さんの所のロシアンブルーがアビシニアンを連れていたけど……ごめんなさい、ちゃんと覚えていなくて」
「いえいえ、いいんです。友達に土産話が出来ればいいですから。本当なら自分の目で見てみたかったですが」
 タツは主婦らしい猫に笑顔を向けて手を振る。
 口角が吊り上がりそうになりながら背を向け、タブレットを取り出して歩き出す。
 アビシニアンに限定してここ数日の猫の出入島記録を確認する。
 アビシニアンは直近三日で一匹。
 ルビィという名の雌だ。
 トラ猫の連れがいるようだが、これは船が一緒になっただけかも知れない。
 タツは口元に通信用のマイクを近づける。
「三係員に告げる。容疑者はアメリカ合衆国カリフォルニア出身のアビシニアンだ。これから24時間体制で監視に入る」
 耳の中に仕込んだイヤホンから『了解』という声が聞こえて来る。
「一班は現時刻から監視を開始。二班、三班は監視に備えて本庁で睡眠を取れ」 
 タツが言うとガラスがシールドされたBMWの猫車が目の前で停車する。
 タツが後部座席に乗り込むとBMWが本庁に向けて走り出す。
 CIAが報告して来なかったという事はテロリストという事ではないのだろうが、入島してからすぐにCIAの秘密基地に向かっているという事実は軽視できない。
 CIAの職員を誤認逮捕すればまずい事になるが、CIAから職員が来たという報告も受けてはいない。
 そこまで考えてタツは口角が吊り上がるのを感じる。
 今回の作戦は口頭とはいえ、トラ警視の命令によるものだ。
 万が一CIAの職員であればトラ警視の責任にすれば良い。
 そして島の治安を乱すテロリストだった場合は、自分の手柄としてトラ警視を追い落とせば良いのだ。
 テロリストならなるべく事を大きくさせてから捕らえた方が効果が大きい。
 その為にはまず情報収取から開始しなければならない。
 CIAが情報共有していない料亭花道に出入りしている全ての猫を調べ上げ、その活動から彼らの目的を明らかにしその上で一分の隙も無い作戦を立案するのだ。
 タツは目を細めてフロントガラスに近づく警視庁を見つめる。
 警視庁の頂点まで駆けあがり、この島の政治中枢に入り込み、無限の権力とツナを手に入れるのだ。
  〈4〉
 
 「総理、お呼びですか?」
 内閣情報調査室シュラ次官は手入れの行き届いたグレーと白のツートンの毛を艶めかせながら、内閣総理大臣が通っている寿司屋の座敷に足を踏み入れた。
 総理大臣、副総理大臣、与党幹事長、都知事、渋沢会組長、渋沢会若頭、経団連会長と、それぞれ子飼いの猫の姿がある。
 勿論島の情報を集約、管理するシュラが会合を知らなかった訳ではない。
「まずトロでも食え」
 総理が酢飯の上に乗っていた大トロをシュラの目の前に放る。
「頂きます」
 シュラは恭しく礼をして大トロを口にする。
 地面に落ちた生魚を食べさせられるという屈辱が無い訳ではないが、シュラより上の階級の猫は内閣官房長官くらいなものだ。
「オリンピック跡地の割り当ては済んでいる。夏の一斉地方選挙に影響は無いか?」
 シュラは到着する少し前にこのメンバーでオリンピック跡地再開発及び売却の談合が行われた事を知る。
「跡地の再開発については世論が二分する事が想定されます。跡地に何が建設されるかで都民の反応は変わると想定されます」
 シュラは折り目正しく答える。
 住民の神経を逆なでしないなら、緑地公園にするのが一番だろう。
 再開発はゆっくりと進め、選挙が終わってから煮るなり焼くなり好きにすればいいのだ。
「第97代総理の人類史上最大の黄金立像を建立する事となった。令和開闢の総理の悲願でもある。更に与党政権の盤石を知らしめる為、97代以降の歴代総理大臣の像も建立される」
 総理大臣の言葉をシュラは反芻する。
 第97代総理大臣を契機にこの島は大きく進路を変えた。
 偉人だと考える人間にとっては島史上最大の偉人であり、現政権に屈従しない者にとっては島史を歪めた大罪人とされている。
 そして、島民の大半はどちらの立場も支持していない。
 要するに無関心なのである。
「恐れながら総理、史上最大とは一体どの程度の大きさを指すものでしょうか?」
「それは君、インドの世界最大の像が183メートルだろう? スカイツリーは634メートル、第97代総理の像なら都内全域から見えるように500メートルは越えないとダメだろう」
 財務省の大臣も兼任する副総理が猪口を傾けながら言う。
 政官財暴界の重鎮たちが第97代総理大臣を崇拝しているのは知っているが、500メートルの立像が倒れたら周囲に途轍もない被害が発生するだろう。
 同サイズでは無いとしても97代以降の総理大臣の像も建てるとなると、維持管理費だけで途方もない金額が必要になる。
 国民総活躍税で税収が上がるとしても、国民の所得が減り消費税が上がるのだから、算数に強い人間なら総理大臣を神格化する為だけの散財には反対するだろう。
「恐れながら、これまでのオリンピック並びに万博の開催跡地は市民公園にするという方針が最も住民に支持されています。選挙を控えている今、巨大立像は自重された方がよろしいのではないかと小管は愚考します」  
 シュラは全身から汗が噴き出��のを感じる。
 総理大臣に異議を唱えるなど銃殺ものだが、巨大立像で選挙で敗北し、更に立像が建てられないとなれば、それこそ銃殺ものだろう。
「偉大な第97代総理大臣の世界最大の像を建立するとなれば、島民の総理大臣並び与党への崇敬の念はい���増すであろう」 
 総理大臣が言い、一同の間に笑い声が響く。
「それでは、第97代総理大臣記念公園という名称でプロジェクトを実行してはいかがですか?」  
 我ながら官僚的発想だとシュラは自嘲する。
 しかし、政権が倒れれば内閣調査室のトップがすげ変わる。
 巨大立像が倒れて政権ごと押し潰されたのではたまらない。
「お前らは反対する連中の名簿を寄こすだけでいい」
 渋沢会の組長がドスの効いた声を出す。
 反対派を粛清するのは構わないが、与党と渋沢会が表立って組んでいる所を見られるのは国際的に体裁が悪い。
 そうでなくとも島のヤクザはマフィアとしては世界最大規模を誇る犯罪組織なのだ。
「原発の操業が終わり、多額の債務が顕在化した今、財界は原発に代わる新しいプロジェクトに取り組まなくてはならない。それが第97代総理大臣立像の建造なのだ。やがては各都道府県、全島の津々浦々総理の見えない場所は無いという所まで推進して行かなくてはならない」
 経団連の会長がメガネを人差し指で押し上げる。
 そんな事をするくらいなら、空き地に太陽光パネルを並べて風力発電の風車を建てた方がより島民に支持されるだろう。
「国民総活躍税だけでは厳しい計画になるのではないですか? いえ、経済は財務次官に任せるとして、内調次官として世論の面から見た場合です」
 シュラは全身の毛が汗で濡れそぼるのを感じる。
 島で最高位の猫の一匹だと言うのに、この心労はどうした事だろう。
「第97代総理は毎晩のように寿司屋に通っておられた。総理の立像の周りにマグロの像を作り回遊する中心に総理が立っているようにするのはどうだろう?」
 副総理大臣の余計な案に拍手が連なる。
「総理寿司テーマパークという形なら国際的にも注目されるであろう。総理の偉業はまだまだ海外にまで浸透しておらぬからな。これを契機に世界に島の文化を広め、世界に総理の立像を建立するのだ。原発は世界で廃止の動きが進んだが総理の立像であれば廃止などという事は起こぬであろう」
 総理大臣が輪をかけて余計な事を言う。
 海洋資源規制の動きが強まり、各国で漁獲制限が進んでいる中で寿司テーマパークなど作ったら世界中の環境保護団体を敵に回す事になるだろう。
「恐れながら総理、目下の問題はオリンピック跡地です。寿司という表現を海洋保護と置き換えて、海洋公園とするのはいかがですか?」
「お前は一体何を恐れているんだ。総理と寿司、世界に誇る島の文化ではないか」
 副総理が気分を害したかのように声荒げる。
 渋沢会の若頭が酒を勧めて副総理の気分を宥めようとする。
「選挙に勝利する為、今一度私を信頼しては頂けませんか?」
 シュラは土下座する。このままでは総理とマグロの像に島が押し潰される事になる。
「海洋公園と言っても丘の上では名義上説得力が無いのではないか?」
 経団連会長が痛い所を突いて来る。
「海洋保護自然公園という形で、海の生き物を水槽に閉じ込める事なく、保護をアピールする形を取れば理解が進むのではないかと愚考します」
 シュラは必死で言葉を紡ぐ。ここで引いたら全てが台無しだ。
「立像の周囲はカジノを作る予定だ。環境保護団体が来るのはまずい」
 渋沢会の会長が眉間に皺を寄せる。
「カジノが大人の遊び場という従来の概念を覆し、子供が気軽に遊べる空間、ファミリースペースとして打ち出せばソフトに受け止められるかと。カジノの収益金の一部を海洋保護に回せば大義名分が立ちます」
 シュラは地雷原を進む気分で提言を続ける。
 古代中国の官僚は皇帝の気まぐれで殺されたというが、今の島がまさにそれだ。
「環境保護団体に寄付というのは良い計画かも知れないな。世界中に保護公園を作り、総理立像を売り込むチャンスにもなるだろう」
 経団連会長が思案する様子で言う。
 そう上手く事が運ぶとは思わないが一時の方便だ。
「島は世界最大のツナ消費量を誇ります。カジノの収益金で財団を作り、ツナを保護すれば環境保護とカジノの両方面から国際世論にアプローチできます」
 賭博の収益金で環境保護など偽善もいい所だが、ここはとにかく総理の巨大立像から話を逸らせなければならない。
「環境保護の仮面をつければ海外でのシノギも楽になるか」
 渋沢会の組長が猪口を傾ける。
 経団連と渋沢会が傾けば流れはこちらのものだ。
「全世界に総理立像とカジノと環境保護財団をセットで売り出す。名称は有識者会議で決定するものとする。これは総理大臣の勅令である」
 総理大臣の言葉に一同が平伏する。
 シュラは修羅場を乗り切った思いで内心で汗を拭う。
 選挙が終わったら再度胃袋が痛む事になるのだろうが、目前の選挙に限って言えばこれで乗り切る事ができるだろう。
 立像と共倒れだけはひとまず避けられた形だった。   
      
  
〈5〉
   茜色の日差しを浴びた国会議事堂の屋根が赤く染まっている。
 花道の座敷の座布団の上で丸くなりながら、エドは廊下で国会議事堂を眺めているルビィの背中を見つめる。
 ルビィはこの島で倒れた猫の末路を見て来たのだと言う。
 話そのものに目新しさは感じない。
 初日に生ポ猫に会ったのだし、ダンからこの島の仕組みも教わっている。
 ルビィはそれを肌で体験したに過ぎない。
「気になるか?」
 座布団の上で水を舐めていたダンが声をかけて来る。
「なるに決まってるだろ」
 言いはしたものの、エドにはそこから先の言葉が続かない。
 ルビィは今この島の歴史と文化そのものに怒りを抱いている。
 それはアメリカであれば独立戦争と南北戦争を否定し、民主主義を腐敗極まる衆愚政治と呼び、自由と平和を堕落と怠惰と言い換える事だろう。
 一部の極右的な人間と猫は喜ぶかも知れないが大半のアメリカ人と猫は激しい反発、敵意すら見せるだろう。
 ルビィはこの国に対してそれと同等かそれ以上の事をしようと言うのだ。
 全世界を敵に回しても君を愛すると言うのは簡単だが、愛すると守るは同義語ではない。
 安っぽいメロドラマなら奇跡が起きて助かるだろうが、普通は殺処分だ。
「オリンピック跡地の再開発ってどうしてこのタイミングなんスかね。五十年が区切りがいいってのは分かるんスけど」
 ミケが座布団に背中を擦りつけながら言う。
「オリンピック誘致に失敗したからよ。現政権は第三次東京オリンピックで国威発揚を図ったけど、IOC役員への献金や渋沢会の脅迫がばれてIOCの委員長まで辞任するスキャンダルに発展したわ。当然東京どころかこの島に当面オリンピックを誘致する事はできない。島の政府は島民に対しても、海外に対してもオリンピックに匹敵する国威発揚の大プロパガンダを行う必要がある。そこで再開発に手をつけたんでしょうね」
 ネオが座布団の上で尻尾の毛を整えながら説明する。
 オリンピックを不正に誘致しようとして、失敗したから代わりに大事業を行って面目を保とうというのだろうか。
 大きな増税をする割りには器の小さい話だ。
「それだけで増税や猫の強制労働をするってのか?」
 エドはしばらく考えた上で訊ねる。
 オリンピックは会場の整備費用や跡地の問題から引き受ける国も減っている。
 常識では不正を行ってまで誘致する事は考えられない。
「この島は世界で最期まで原発にこだわった。表向き核ミサイルは持たないって話になってたから、核兵器は持てねぇ。でも、どうしても核が欲しい。原発がある限りはいつでも核ミサイルを作る事ができる。だからこの島は原発を止める事ができなかった。でも、遂に世界最期の原発国になって、国連で核廃棄物の処分で追及されて泣く泣く原発を停止したんだ。原発にゃ多額の税金が流れてて、電力会社はその補助金と銀行からの借金で原発を運営してた。原発を止めるって事は補助金を貰う大義名分が無くなるし、銀行に対する債務の担保が消えるって事でもある。電力会社が債務不履行に陥りゃ、銀行も多額の不良債権で倒産する事になる。中央銀行が金を刷って銀行を救済するだろうが、そうなりゃ銀行の海外に対する信用が失墜して株価の暴落を招く可能性がある。で、また中央銀行が金を刷ったらどうなる?」
 バドが座布団の上で髭をしごきながら説明する。
 銀行は電力会社が債務不履行を宣言しても資金体力が持つように、更に巨額の債務を再開発事業に貸し付けなければならないという事だろう。
 だとすればそれは国を挙げた空前のプロジェクトになるに違いない。
「核兵器か……」
 エドは核保有国アメリカの出資である為、そう強く自覚した事は無いが、核ミサイルを持つという事はそこまで重要な事なのだろうか。
 猫は政財界でも広く活躍しているが、核ボタンだけは人間が握っている。
 猫は街や国を丸ごと滅ぼすような大虐殺は望まないが、人間はまた違うという事なのか。
 エドには分からない。
「この島は隣国の中国を目の仇にしていたからね。中国がテクノロジーと工業で世界をリードするようになって、置いてきぼりなったこの国は激しく妬む事になった。勝てそうなのは軍事力だけだけど、中国は古い時代に核ミサイルを作って配備していた。この島が税金を湯水のように注いで通常兵力では上回っても、核って切り札が向こうにある限り勝った事にはならないと考えた。だから核を欲しがったんだ」
 ヤンが座布団の上で顔を洗いながら言う。
 軍事力で勝った所でテクノロジーや経済で勝った事にはならないだろう。
 むしろ、軍事にかける費用を科学や経済の研究分野に回さなければ、開いた溝は広がる一方だろう。
「何がしたいか良く分からねぇ島だな」
 エドは座布団の上で丸くなる。聞いても考えても頭がこんがらがるだけだ。
 ルビィが帰ると言い出すまではこの島から出て行く事はできない。
「この島は四方を海に囲まれて、太古の昔からどことも陸続きじゃなかった。航海技術が発達しても、飛行機が飛び回るようになっても、歩いて他の国に行く事はできねぇ。自分たちがどれほどおかしな理屈で動いていても、内側から指摘するヤツはいねぇ。世界は常にTVかネットの向こうにあって、それはアニメと同じくらい作り物めいた非現実的な世界だった。だから、他国の人間や猫の意見は作りもの娯楽と同じでこの島では現実として認識されなかった。この島は地球上ではなく自分たちの作った呪われた夢の中を生きているんだ」 
 ダンが喉をゴロゴロ鳴らしながら説明する。
 エドはぼんやりと話を聞く。この島はいっそ島ごと月にでも移住して、地球とは距離を置いて勝手に生きて行った方が幸せなのかも知れない。
 と、廊下から澄んだ歌声が流れて来た。
 最初は躊躇いがちに、やがて力強く。そして誰もが咳をする事すら躊躇われるほどに。
 ルビィがライトアップの始まった国会議事堂に顔を向け、もの悲し気で、心を震わせる旋律を紡ぎ出す。
 エドは両耳を立ててルビィの歌声に聞き入る。
 ルビィの歌を聴くのは初めてだが、これほど美しい歌声をエドは聴いた事が無い。
「エド、手放すな」
 いつの間にか隣に座っていたジョーが短く言う。
 言われなくてもルビィは誰にも渡さない。
 歌が上手い事はエドにとってはおまけのようなものだ。
 ルビィの歌��けが空気を震わせ、暖かな空気で周囲を包み込む。
 エドは喉を鳴らしながら目を閉じる。
 ルビィがどれだけ無謀でもエドは必ず傍にいるのだ。 
  〈6〉
   タツは料亭花道の斜め向かいの民家の屋根の上に座っている。
 縁側で歌を歌っているアビシニアンは写真で見るより遥かに美しい。
 美しい歌声は鋼の魂を持つタツの心をも震わせる。
 欲しい。
 タツはルビィを見つめながら強烈な衝動が沸き上がるのを感じる。
 あの雌を自分の、自分だけのものにするのだ。
 権力の座に続く真紅の階段を昇るタツの傍らにはルビィこそが相応しい。
 しかし、報告によればルビィは猫の殺処分に抵抗した上、WWFや赤十字と迎合したのだと言う。
 既に充分過ぎる程に公安にマークされる存在になっている。
 反体制的な気性を叩き折るのも面白いだろうが、その前にルビィからその身体を支える魂の翼を奪い去らなければならない。
 傍らに置くと言っても、雌猫が雄猫社会に口を挟むなどという例外は認めない。
 徹底的に屈服させ、主が誰であるかを思い知らせておかねばならない。
「タツ警部。昼間の保健所に抵抗した件で令状を取りますか?」
 部下の言葉にタツはゆっくりと頭を振る。
ルビィを捕らえて殺処分にするなど愚かな考えだ。
 あれはタツのものなのだ。
「あの料亭にはこれまで公安がマークしていた猫が集まっている。どうせなら全てまとめて捕らえた方がいい」 
 タツの言葉に部下が命令を待つ姿勢を取る。
「引き続き監視を続けろ。残りの猫のデータも調べ上げろ」
 仲間がいればこそ権威に盾突こうなどという不遜な考えを抱くようになる。
 仲間を叩き潰せばルビィも折れやすくなるだろう。
 タツは屋根から塀を伝って降りると漆黒のBMWに乗り込む。
「警部、どちらに行かれますか?」
 運転手の巡査が声をかけて来る。
「待て」
 タツはタブレットにイヤホンとマイクを接続する。
 画面をタッチして通信を行う。
『渋沢会だ』
「私は警視庁公安部外事一課三係タツ警部だ。若頭のナッツはいるか」
『しばらくお待ち下さい』
 受付らしい猫が通話を保留にする。
 タツはマタタビで香りづけした水を舐めて応答を待つ。
『渋沢会若頭ナッツだ。タツ警部、どういった用向きで?』
 東大出の官僚然とした猫の声が響く。
「通信ではなく直接会って話がしたい。何、お前にとって悪い話にはならんだろう」
 タツは鷹揚な口調で言う。
『それは内密に話を進めたいと? 官邸の意向ですか?』
「何、私の猫ゆえの気まぐれだよ」
 タツの言葉にナッツがしばらく沈黙する。
『銀座のクラブ、猫又に二十時で』
「いいだろう。では」
 タツは通信を切ってタブレットの時刻表示を見る。
 待ち合わせには一時間半ほど時間がある。
「銀座に向かえ」
 タツは運転手に告げてタブレットを操作する。
 外事一課トラ警部に通信を開く。
『タツ、情報は上がったか?』
 感情を感じさせない声がイヤホン越しに届く。
「いえ。観光客数名が確認されただけで、現在の所は目立った動きは見られません」
 タツは言って口の周りを舐める。
『何の成果も無しか?』
 何の用で連絡して来たのかとトラが言外に問う。
「提案なのですが、税関を緩めてはどうかと」
『密入国猫が現れるかも知れん。我が島は移民は認めんのが国是だ』
 反応は予測済だ。権力に忠実であればあるほど猫は脆くなる。
「覚醒剤を百キロばかり流してはどうかと」
『どういう事だ?』
 トラにはタツの考えている事が分からないようだ。
「渋沢会の幹部を買収します。渋沢会が使っている密入国の猫に密告をさせ、シンジゲートの猫をスパイにします。中に本物のスパイがいれば二重スパイに仕立て上げる事も考慮しております」
 タツの言葉にトラが思案顔になる。
『渋沢会は与党の屋台骨だ。下手を打つと命が無いぞ』
 トラが低く唸る。トラは組織の上下だけで考えるから柔軟な発想が出て来ない。
 餌を撒いてやったのに気付かないとは面白味にかける猫だ。
 知恵が働けば渋沢会を潤滑油にして与党に取り入り、出世の階段を昇る事にすぐに気がつきそうなものを。
「細心の注意を払います。しかし、与党の屋台骨の渋沢会と我々公安が個別に動いていたのではかえって問題を生じる懸念があります」
『警部の責任において行うのであれば私は何も言うまい』
「ハッ。最善を尽くし必ずや吉報をお耳に入れます」
 タツが言うと通信が切れる。
 渋沢会の幹部がたかが百キロの覚せい剤で動く訳が無い。
 だが、これでタツは行動の自由を手に入れたのだ。
 タツはマタタビ風味の水を舐め、時間を確認して銀座のクラブ猫又に向かう。
 赤いカーペットの敷かれた店内に入ると、すぐにホステスの猫が近づいて来る。
「タツ警部ですね。ナッツ様がお待ちです」
 タツは鷹揚に頷いてホステスの先導でVIPルームに足を踏み入れる。
 部屋の中央には大トロが盛られた皿があり、マタタビフレーバーの水が用意されている。
「渋沢会のナッツだ」
 キジトラの猫が肉球を差し出して来る。
「外事一課のタツだ」
 タツが肉球を合わせると、ホステスがタツの前の皿にマタタビフレーバーの水を注ぐ。
 タツは座布団の上に座ってナッツと向かい合う。
「外事一課が我々に何の用ですか?」
「密入島猫を使っている事は把握済みだ」
 言ってタツはマタタビフレーバーの水を舐める。
「否定はしませんが、警察がシノギに深入りすると為になりませんよ」
 ナッツの言葉にタツは苦笑を浮かべる。
「と、言うのは建前でね。私は君と個人的に同盟関係を作れないかと考えている」
「同盟?」
 ナッツが怪訝な表情を浮かべる。警察との癒着は昔からあるだろうが、個人的な同盟の打診などは無かった事だろう。
「渋沢会は芸能大手アキバエージェンシーのオーナーだ。君は夏川社長の事実上の上司に当たる」
 夏川は島の芸能界で絶大な力を振るうアイドル事務所の社長だ。
 幾人ものアイドルやアイドルユニットを輩出しており、夏川の機嫌を損ねればTV局が倒産するとも言われている。
「話が見えませんね。確かにアキバエージェンシーは兄弟盃では下になりますが」
 ツナの赤身を選んでナッツが口に運ぶ。
「君に見せたいものがある。気に入らなければ構わない。手間賃くらいは用意している」
 タツはタブレットを取り出してルビィの映像と音声を再生する。
 ナッツが食い入るように画面を見つめる。
「アビシニアンですね……それにこの美声……」
 ナッツがすっかり魅了された口調で言う。
「政府はオリンピック五十周年事業を開始するそうだが、この猫こそ新世紀の歌姫に相応しいと思わないか」
 タツの言葉にナッツが打算に満ちた視線を向けて来る。
「上玉ですね。しかし、我々にこの猫を紹介して貴方にメリットが?」
「この猫は反政府猫のリストに名が挙がっている。この猫を生かすも殺すも私次第なのだよ」
 タツはマタタビフレーバーの水を舐める。
「この猫を我々が使えば、常にあなたは我々を共謀罪で挙げる事ができると」
 神経質な程の慎重さを滲ませてナッツが言う。
「今の所知っているのは���と私の部下だけだ。そちらで使っている不法滞在の猫を数匹引き渡してくれればそれでいい。私はそれを手土産に外事一課の課長に昇進する」
「つまり渋沢会を通じて与党に圧力をかけ、あなたを昇進させろと?」
 ルビィとタツを天秤にかける様子でナッツが訊ねる。
「このアビシニアンが国家的スターになれば、ダイヤの原石を発見した君の立場はかなり有利になると思うがね」
「あなたが公安部長にまで昇るならいい話ですがね」
 ナッツが野心家の目をタツに向けて来る。
「私が目指すのはただ一つ、内閣官房長官だ。総理だ議員だと言った所で人間どもは飾りに過ぎん。島を動かしているのは我々猫だ。君は渋沢会の実質的な組長になればいい」
「アイドル一人でそこまで行けると?」
 ナッツが眉間に皺を寄せる。
「夏には一斉地方選挙が行われる。この島の報道を支配できたとするならそれがどれだけの影響力を持つか想像のつかない君ではあるまい。我々に異議を唱える議員には対立候補を立てて炎上させてしまえばいい」
「それで私に声をかけたと……いやはや官僚にするには惜しい方ですね」
 ナッツが肉食獣の本能をむき出しにしたかのような笑みを浮かべる。
「このアビシニアンを大々的に売り出し、島民的スターに押し上げろ。全ての番組にアキバエージェンシーの芸能人を送り込んで報道を掌握しろ。私は公安のデータベースを使い放送局の局員の弱みを徹底的に調べ上げる。立候補予定の代議士連中もな」
「あなたは悪い猫だ。ですが、あなたの話は実に面白い」
 ナッツが肉球を差し出して来る。
 タツは肉球を重ねる。これで野望の階段に一歩近づいた事になる。
「今日はごゆるりとツナを堪能して行って下さい。全て豊洲で仕入れた天然ものです」
「遠慮しておこう。私は成功の前に祝杯を挙げる猫ではないものでね。それと先ほど言っておいた手間賃だが、明日、東京港に若い衆を向かわせるといい。中国産のカリカリの箱の中に百キロほど覚醒剤が入っている筈だ」
 タツの言葉にナッツが目を見開く。
「アキバエージェンシーと渋沢会は私にお任せ下さい」
 ナッツが深々と頭を下げる。
「言ってくれるな。私は対等の同盟相手として君を選んだのだ。私をがっかりさせてくれるなよ」
 タツは背を向けてVIPルームを出て行く。
 何かを察したらしいホステスの猫たちが左右に道を避けていく。
 タツは堂々と猫又を出る。
 夜の銀座には働きもせず、先祖から受け継いだ富と地位に依るだけの人間の姿がある。 
 今はまだ人間にも蜜を吸わせておこう。
 時が来た暁には一気に全てを刈り取り、この島の頂点に立つのだ。
  〈7〉     
  
 『本日をもってニュース8を引退致します。明日からは人気アイドル花咲茜さんがメインキャスターになります』
 地上波放送を映すディスプレイのスピーカーから、軽やかなポップ音楽が流れる。
『明日からニュース8のメインキャスターになるあかりんだよ! よろしくね~』
 ディスプレイで人間の雌が笑顔で手を振っている。
 エドは朝食のししゃもを食べながら聞くとは無しに放送を聞いている。
「全放送局で一斉に交替人事か……しかもアイドルを選ぶかねぇ」
 信じられないといった様子でダンが呟く。
「総務省が動いたか……選挙を睨んだにしてはな」
 ジョーが深刻そうな表情を浮かべてししゃもを眺める。
「選挙ならこれまでのキャスターで安定していたはずだわ」
 ネオがししゃもの卵を美味しそうに食べながら言う。
「島民のアイドル好きを利用している……としても、選挙戦で有利になるとは思えません」
 ヤンが落ち着かないといった様子で座布団の上で姿勢を変える。  
「俺には人間なんてどいつも同じようにしか見えねぇけどな」
 エドは美味しいししゃもの余韻を楽しみながら言う。
 毎日違う魚が出て来る事を知ったら、ニューヨークの仲間たちは羨む事も忘れて仰天するに違いない。
「人間も俺たちを柄でしか区別してねぇさ。に、してもTV局の人事を一気に動かすなんて余程権力があるヤツがやってんだろうな」
 後ろ足で首を掻きながらバドが言う。
「その権力者を見つけたらスクープっすか?」
 ミケが座布団の上で飛び跳ねる。
「なるかよ。馬鹿。島の外の報道局でこんな小さい島のゴシップ記事を扱う所なんてありゃしねぇよ」
 バドがミケの尻尾を押さえて動きを止めさせる。
 座布団の上で跳ねられて埃が舞うのが嫌だったらしい。
「国際的な情報になりそうなのはオリンピック跡地の再開発問題だ。この島の銀行は国際的にも力を持ってる。再開発が原発停止の債務を上回らなければ限定的とはいえ金融危機が起きる可能性がある」
 ジョーが髭をしごきながら言う。
 ルビィは浮かない表情でもそもそとししゃもを齧っている。
 エドはルビィのししゃもを横から奪い取る。
「何すんのよ!」
「不味そうにしてたからさ。辛気臭い顔で食ってたら魚が可哀そうだろ」
 エドの言葉にルビィが驚いたような表情を浮かべる。
「それは……つーか、あんたは食いしん坊なだけでしょ!」
 ルビィが身体をしならせてエドに飛び掛かって来る。
 エドはししゃもを咥えたまま廊下に飛び出す。
 ルビィが追いかけて来るのを見て紅葉の木をよじ登り、塀の上に飛びあがる。
「待ちなさい! そのししゃもは私のししゃもよ!」
「怒るくらいならさっさと食べれば良かっただろ? 恋と食事は一度逃したら次が無いんだ」
 エドがおどけた様子で言うとルビィが飛び掛かって来る。
 エドはルビィと一緒になって塀から落ちる。
 口から離れたししゃもが池に落ちてぽちゃんと小さな音を立てる。
「あ……私の……」
「わ、悪い。悪戯が過ぎた」
 エドはルビィに謝る。本気でししゃもを奪った訳ではない。
 元気が無いから少しちょっかいを出しただけなのだ。
 と、エドは池の中に様々な色の魚がいるのを見つける。
「俺がそこの魚を取ってやるよ。それでいいだろ」
 エドは池の水の表面を引っ掻く。
 魚は深い所を泳いでいるようで簡単には手が届きそうにも無い。
 ルビィは冷ややかな表情でエドを眺めている。
 エドは大きく息を吸い込んで池に飛び込む。
 足がつかず、前脚も後ろ脚も水の中で空回りする。
 顔が水に浸かって口から池の水が流れ込んで来る。
 前脚と後ろ足を必死で動かして身体を浮かせようとする。
 何とか頭だけ水の上に出て酸素が肺に送り込まれる。
 前脚と後ろ足の動きを合わせてリズムに合わせて顔を出す。
 しばらくもがいて、何とか安定して水の上に顔を出せるようになる。
 必死の思いで池の縁に爪を立てて身体を池から引きずり出す。
 身体を振るわせて水を払う。
 水に浸かっていたせいで身体が芯から冷えている。
 エドはくしゃみをしてとぼとぼと縁側に向かう。
 と、エドの背中に温かい塊が飛び乗って来る。
「あんた、馬鹿じゃないの! 猫が泳いで魚を取れる訳無いでしょ?」
「やってみなけりゃ分からねぇだろ!」
 エドはルビィを背負ったまま座敷に戻って座布団の上に座る。
「あーあ、床濡らしちまいやがって。タオルで拭いとけ」
 バドが口に咥えたタオルをエドの前に落とす。
「お子様」
 ネオが一言だけ言って座敷から出て行く。
「今日は一緒じゃねぇのか?」
「猫に毎日集団行動しろと言うのか?」
 エドに答えてジョーも出て行ってしまう。
 ヤン、バド、ミケ、ダンも次々と座敷から出て行こうとする。
「ちょっと待て、俺、この島怖えぇんだよ」
 エドは誰かについて行こうと立ち上がる。
「私も行くから。怖いならずっとここに居れば?」
 ルビィが座敷を出て行こうとする。
「右も左も分からねぇのにどこに行くってんだ」
 エドはルビィに並んで歩き出す。
「外に出なきゃいつまでも分からないままでしょ?」
 ルビィの言葉にエドは内心で笑みを浮かべる。
 ルビィは悪態をついているくらいが丁度いい。
 エドはルビィと共に外に出る。
 今日も新しい冒険が始まるのだ。
  第四章 猫の歌姫
   〈1〉
   日が高く上った公園に猫たちが横たわっている。
 エドは倒れた猫を眺めるほど悪趣味ではない。
 保健所猫が倒れた猫を猫トラに乗せている。
 殺処分か生ポ猫か。
 どちらが幸せかではなく、このような状況そのものが不幸なのだ。
 ルビィは躊躇いなく保健所猫に向かって行く。
「今日も来たのか?」
 吐き捨てるような口調で言った保健所猫がスタンガンを取り出す。
「明日だって明後日だって来てやるわ。あなたがやっているのは仕事じゃない。ただの殺猫よ」
 ルビィが強気を崩さずに声を上げる。
「軍人も警官も殺せば殺すだけ表彰される。公務員による殺猫は常に正当化されるのだ」
 胸の悪くなる理屈を言って保険所猫が牙を剥く。
「公僕は市民福祉の為に存在するのよ! 公務に就く猫が猫を傷つけるならそれは職務と猫道に反する行為よ!」
 ルビィが毛を逆立てて牙を剥く。 
「市民? 福祉? そんなものがどこにある? この世にあるのは支配する者とされる者だけだ!」
 保健所猫がスタンガンを手にルビィに向かって突進する。
 エドは保健所猫に横から体当たりする。
 スタンガンを持つ手に噛みつく。口の中に錆び臭い嫌な味が広がる。
 保健所猫が身体を捩り、エドは噛みついた顎を放さない。
 エドが思い切り身体をのけ反らせると、何かが千切れるような感触と共に口の中に血が溢れた。
 保健所猫が悲鳴を上げてスタンガンを取り落とす。
 エドは素早くスタンガンを手に取る。
「おい、公務員、支配できるもんならやってみろ」
 エドは保健所猫にスタンガンを突き付ける。
「……貴様、庶民の分際で」
 保健所猫が後ずさる。エドは周囲から保健所猫が集まって来るのを見て猫トラに向かって走る。
 運転席の窓から飛び込んで運転手の猫にスタンガンを押し当てる。
 運転手の全身の毛が帯電して広がり、次の瞬間にはぐったりして動かなくなる。
 エドはクラクションを鳴らしながら保健所猫たちに向かって猫トラを突進させる。
 保健所猫たちが悲鳴を上げて逃げ回る。
「ルビィ! 乗れ!」
 エドはルビィを乗せて猫トラを走らせる。
 エドは元々配達猫、車の運転ならお手の物だ。
 エドが追い回すと保健所猫たちはてんでばらばらに公園から出て行く。
 大口を叩いていても立場が逆転するとこんなものなのだ。
 エドは保健所猫がいなくなったのを確認して猫トラを停める。
 周囲には病気の猫や死んだ猫が転がっている。
 エドはクラクションを二度鳴らす。
 倒れている猫は起き上がらない。
 エドにはこれからどうしたら良いのか分からない。
 もう一度クラクションを鳴らす。
 エドはルビィに顔を向ける。
「こいつらどうすんだ?」
「赤十字が来るまで守るのよ」
 当たり前の事を聞くなとばかりにルビィが言う。
 エドはぐったりとハンドルに顎を乗せる。
 いつ来るか分からない保険所猫を待ち伏せるなどという忍耐強い事ができる訳が無い。
 エドは噴水の傍に猫トラを停めると噴水の縁に座って水を舐める。
「あんた、何やってんのよ!」
「あれだけ追いかけたんだからもう来ねぇよ」
 エドは鼻を鳴らして言う。
 来ないと思うというよりはもう来ないで欲しいと思う。
 あれだけ働いたのだから日向で丸くなってもいいだろう。
「ったく、暢気なんだから」
 ルビィが噴水の縁にやって来て水を舐める。
 エドが欠伸をしているとWWFのバスがやって来る。 
「もう大丈夫だろ」
 エドは立ち上がって運転席に戻る。
 ルビィが当たり前の顔をして助手席に飛び乗って来る。
 猫トラを運転してWWFのバスに近づこうとするとルビィが頭を振った。
「どうした? 挨拶して行かねぇのか?」
「別に挨拶するほどの事してないから」
 ルビィが公園の外を指さす。正義の味方らしく正体を明かさずに去るらしい。
 エドはアクセルを踏んで公園の外を目指す。 
 行き先はルビィが決めればいいのだ。
  〈2〉
   エドは都内を一周して赤坂に戻って来た。
 ルビィにも特別な行き先の目的は無かったようだ。
 ルビィと共に檜町公園をあてもなくぶらぶらと歩く。
 芝生の上で丸くなっていた猫が歩いて来る。
「こんにちは」
 少しやつれた様子の猫が声をかけて来る。
「よう。何か用か?」
 エドはルビィを背中に庇うようにして前に出る。
 この島では誰を信用したらいいのか分かったものではない。
「……その……動画の猫ですよね?」
 猫がポシェットからタブレットを取り出す。
 猫が操作するとタブレットからルビィの歌声が聞こえて来る。
「お前、どこでそれを手に入れた」
 エドは威嚇してフーッと息を吐く。
「誤解しないで下さい。今物凄い人気の動画なんです。僕もファンになって、ちょっと興奮して声をかけたって言うか……」
 エドは猫の言い訳を聞きながらタブレットを覗き込む。
 動画の下の再生回数を見てエドは目と口を同時に開く。
 一晩しか経っていないと言うのに、再生回数が一億を超えている。
 アメリカなら既にスターの卵で、スカウトマンが目の色を変えて探し回っているだろう。
 歌が上手いとは思ったがまさかここまでとは思わなかった。
「あなたの歌を聴くと元気が出るんです。辛い事があっても明日からまた頑張ろうって。だから、新しい歌ができたらアップして下さいね」
 猫が笑みを残して去って��く。
 エドは不安を感じながら猫の背中を見送る。
 あの猫が赤坂でルビィを見たと言えば、ファンだという猫がわんさとやって来る可能性がある。
 料亭花道はCIAの秘密基地で公になって良いものではない。
 花道を出たらエドとルビィに帰る場所は無くなってしまう。
 帰国すればいいのだが、ルビィにはまだ帰る気は無いだろう。
「……エド」
「何だ?」
 ルビィのいつにないしおらしい声にエドは短く答える。
「私の歌って猫を元気にできるの?」
「凄く上手いのは認める。その気があるなら歌手でもやって行けると思う」
 エドは雲行きが怪しくなるのを感じながら答える。
「本当にそう思う?」
「お前、自信あるから勿体ぶって聞いてんだろ」
 エドは突き放すようにして言う。
 ルビィがこの島で歌手になったら、エドは傍に居られないかも知れない。
 一緒にアメリカに帰る事ができないかも知れない。
 不幸な猫を多少癒したからと言って、根本的な解決になる訳ではない。
 そんな事は自己満足でしかないし、それで幸せになれないのでは何の意味も無い。
「エド、渋谷に送ってくれる? 私歌ってみる」
 ルビィの言葉にエドはため息をつく。
「ルビィ、アメリカに帰ろう。アポロシアターでデビューすれば世界の歌姫になれる」
「私はツナを手に入れる為にこの島に来た。なのにここに来てした事って何? 不幸な猫を見て、無力だって思ってそれで終わり? この島の猫を救えなくて世界の猫を救えるの?」
 早口で言ったルビィの頬をエドは叩く。
「自惚れるな! 一匹の猫が世界の猫を救うだと! そんなのは地に足のつかないただの英雄願望だ! 仮にお前が歌姫に祭り上げられても世の中が変わる訳じゃねぇ、お前周りの環境が変わるだけだ!」
 エドは半分毛を逆立たせて声を荒げる。
「だったら他に何ができるって言うの! エドには何ができるって言うの!」
 ルビィが瞳を潤ませながら叫ぶ。
「俺には配達しかできねぇ。猫は己の身の丈で生きて行く生き物だろ。何かを成し得たとしてもそうなるように行動したからじゃない。行動した結果がたまたまそうなっただけだ」
 エドはルビィに向かって訴える。ルビィは猫の本性から逸脱しかかっている。
「だったら、だったら私が歌って、何も起こらなければ、それが答えって事ね」
 ルビィが目の周りの毛を濡らして笑みを浮かべる。
 こんなやり方は卑怯だとエドは思う。
 いつものように強引で、自分勝手で、無理やりエドを従わせる方が余程自然だ。
「……わかった」
 エドは気持ちを押し殺して答える。
 ルビィがこの島の歌姫になったら。
 それは美しい鳥が籠に入れられるようなものだろう。
 エドは自分が小さな一匹の猫である事を自覚する。
 目の前にいる愛するものを守る事さえできない存在なのだと。
  〈3〉
  『ディーヴァは赤坂を出た。オーバー』
 無線を通じてタツの下に部下から報告が届く。
「距離をおいて引き続き監視を続けろ」
 タツはBMWの後部座席でルビィの動向を探っている。
 部下の一人を接触させてみたが、効果は絶大だったようだ。
 ルビィを乗せた猫トラはドローンで空撮されており、距離を置いて渋沢会の用意したサクラが移動している。
 ルビィが歌い始めたら自然に人が集まるように見えるように演出し、アキバエージェンシーのスカウトマンが接触できるようにお膳立てをする。
 万が一断られた時の為にTV局の撮影スタッフも急行できるように手配してある。
 ルビィがスカウトを断っても全島にルビィと聴衆の姿が放映される。
 ルビィの顔と声は全島民に知られ、島民に知られずに移動する事もできなくなるだろう。
 プライバシーは完全に奪われ、ルビィは安全な隠れ家を探さざるを得なくなる。
 そして、舞台で歌う事が身を守る唯一の術であると知る事になる。
 タツは作戦が狙い通りに動いている事に小さな満足感を覚える。
 しかし、これは序章に過ぎない。
 ルビィを国民的アイドルにするのと同時に自分も野望の階段を昇らなければならない。
 BMWの振動を心地よく感じながらタツはマタタビ風味の水を舐める。
『ディーヴァ、渋谷に向かって移動中。オーバー』
「舞台は渋谷だ。記念すべき初公演くらいは私も見ておかねばな」
 タツの言葉を受けてBMWが加速する。
 これはルビィのデビューではない。
 タツのタツによるタツの為の舞台の開幕なのだ。
  〈4〉    
   
  全てが灰色に見える世界。
 行き交う猫の表情は暗く、足取りは重い。
 速足の人間たちも何かに憑かれたような表情をしている。
 ビルには色鮮やかな広告があるが、それは灰色の世界に塗りこめられて一切の華やかさを失っている。
 生気を失わせているのはこの島にかけられた二千年の呪い。
 ルビィは決然と顔を上げる。
 何も起こらなくて構わない。それは自分の力不足、自意識過剰だったというだけの事なのだ。
 ふと、電柱にもたれているエドに目を向ける。
 エドは公園で話をしたきり一言も口をきいていない。
 こんなに気まずくなったのは初めてだ。 
 エドはルビィが歌う事に反対している。
 しかし、この色の無い世界に希望を与えられるなら、歌をこの島に届けよう。
 ルビィは深呼吸する。
 口を開き、声を歌にする。
 歌を歌う事は好きだった。小さい頃は歌を歌ってばかりいた。
 上手いとか下手だとか考えた事も無かった。
 ただ、いつの間にか歌わなくなった。
 猫も人間も喜んで歌を聴いていた。しかし、それだけだった。
 成長し、基本的猫権について考え、それを発信して行こうと思った時、猫はまだしも人間は無関心であるばかりか、ルビィを忌避するようになった。
 歌には何の力も無いのだと思った。
 当たり障りの無い、身近に溢れる娯楽と同じ。猫を救う力になどなりはしない。
 そう、歌に絶望したのだ。
 ルビィは一曲目を歌い終わって周囲を見回す。
 大勢の人間と猫がルビィを取り巻いている。
 ルビィは内心で動揺する。この人間と猫は自分の歌を聴いて足を止めたのだろうか。
 それとも保健所猫を追い払った事が知られて取り囲まれているのだろうか。
 ルビィはエドの姿を探すが大勢の人間と猫で見つける事ができない。
 人間と猫が一緒になって拍手をし、歓声を上げる。
��あれほど暗い雰囲気だった人々と猫が生気を取り戻したように見える。
 これが自分の歌の力であるのだとしたら。
 それを確かめる方法は一つしかない。
 ルビィは息を吸い込み、想いを歌に乗せる。
 歌い終わった瞬間、ルビィは見た事も無い大観衆から耳が割れる程の歓声を受け取っていた。
 おかしな呪いに縛られたこの島にも、歌でなら想いが届くのだ。
  〈5〉
   エドは人間に踏みつぶされないようにしているうちに、ルビィから遠く離れてしまった。
 元々人と猫の多い街でそういう場所を選んだのだから当然だが、ルビィは無数の人間と猫に囲まれて歌姫になった。
 エドは自分が一番恐れていた事が起こったのだと自覚する。
 エドが必要とされなくなる時。ルビィの隣に立てなくなる時。
 ニューヨークから、こんな地の果ての島までついて来たと言うのに、ルビィは自分の手からすり抜けて遠くに行ってしまったのだ。
 エドは絶望にも似た想いで遠く微かにルビィの歌声を聴く。
 それは確かに美しかった。ここがニューヨークであればルビィの幸せだけを願っただろう。
 しかし、この島ではルビィの歌声も活力もやがてゾンビのような人間と猫に食いつくされてしまうだろう。
 ルビィの歌が枯れた時、この島は病気の猫を殺処分にするように無慈悲に葬る事だろう。
 エドは両手の肉球に力を込める。
 ルビィの目を覚まさせ、ここから連れ出すのだ。
 エドは猫と人を掻き分けて前進する。
 今を逃したら機会は二度とやって来ないかも知れない。
「君、後から来たなら順序を守りたまえ」
 押しのけようとした猫が冷ややかな視線を向けて来る。
「知った事か! 他人の恋路を邪魔するヤツは馬に蹴られろだ!」
 エドが突き飛ばそうとすると、猫が素早く身を躱す。
「君は躾というものがなっていないようだ」
 猫の手が閃き、鋭い爪が視界いっぱいに拡大される。
 鋭い痛みが走り、視界が血で歪む。
「テメェ! 初対面で大した挨拶だな!」
 エドは牙を剥いて猫に飛び掛かる。
 猫がエドを躱して後ろから首に牙を立てる。
 エドの身体が振り回され、首筋の皮が伸び、血が溢れるのが分かる。
 エドは成す術も無く路上に叩きつけられる。
「君、このような舞台でいささか無作法ではないのかね」
 猫が爪を立てた後ろ脚でエドを踏みつける。
「知るか! 俺は……」
 言いかけた瞬間、エドの後頭部に鉄が押し付けられ、撃鉄が上がる音が小さく響く。
「この感動的な劇の最中にこのような無粋なものは使いたく無いのだよ」
 冷酷な声と同じだけエドの体温が低くなる。
 この猫は本気でエドを殺すだろう。
「警部、ご無事ですか?」
 人と猫を掻き分けてやって来た猫が言う。
「私の心配をする前に歌姫の心配をしたまえ。それとも君は私が己の身も守れないと忠告しにやって来たのかね」
 警部猫の言葉に部下らしい猫が敬礼で応える。
「とはいえ、いささか邪魔である事も事実だ。この猫を連れて行け」
 エドの頭に押し付けられていた銃の感触が消え、代わりにエドは二匹の猫に捕まった。
 路上を引きずられ、ルビィから遠のいていく。
 エドは酷薄な警部の部下に捕まっているという事実に気付く。
 このまま連れて行かれれば殺処分だ。
 エドは二匹の猫を振り払って一目散に走り出した。
 今はどうする事もできない。
 だが、必ずルビィを助け出し、この島から脱出するのだ。   
  〈6〉
   エドは花道の縁側に座って庭を眺めている。
 朝、ルビィとじゃれ合って落ちた池は少しも変わっていないように見える。
 しかし、ルビィはいない。
 ルビィは花道に戻って来ていない。
 どこで何をしているのかも分からない。
何時間待てば戻って来るのだろう。庭の紅葉が赤く色づき、庭の池に氷が張るようになっても戻らないかも知れない。
 エドはルビィを追いかけてこの島までやって来た。
 いつだって帰る気満々だったし、今すぐにだって帰りたい。
 ルビィが戻らないなら、居なく��ると分かっていたなら誰がこんな所まで来ただろう。
「おい、エド」
 ジョーが座敷から歩いて来る。
「何だ」
 エドは振り向かずに答える。
「顔くらい向けたらどうだ」
 ジョーの言葉にエドは顔を向ける。
 警察の猫が爪を立てて引っ掻いたお蔭で片目は潰れてしまった。
 ルビィを失い、片目も失った。
 近づいたジョーが鋭い猫パンチを放って来る。
 エドは突然の事に反応できずに庭に転がり落ちる。
「ルビィを離すなと言ったはずだ」
 ジョーが縁側の上から見下ろして来る。
 確かにジョーはルビィを手放すなと言っていた。
 だが、ルビィの方から出て行ってしまったのだ。
「飯を食わずに腹を空かせればルビィが戻って来るのか? 俺たちが少しばかり同情してルビィが戻るのか? 白髪になるまで縁側で自己憐憫を続けるのか? そんなものは不毛な自己満足だ。他の誰も、それどころか自分すらも助けない。自分を助けられない猫は、他猫にだった助けようがない。頭を冷やして考えろ」
 ジョーが背を向けて座敷に戻っていく。
 確かに悲しんでいてもルビィは戻らないし、自分が陰気になるだけだろう。
 何がエドを苦しめているのか。
 渋谷に連れて行ったのはエドだ。あれほどの人間や猫が集まる事は想像していなかったが、ルビィがもてはやされる可能性は理解していたはずだ。
 あれだけ人や猫が集まったのだから、ルビィの傍から離れてしまった事は致し方が無い。
 エドを傷つけたのは高慢な警察の猫だ。
 散々傷つけられ、銃で脅され、ルビィに近づく事も叶わず逃げ出す事しかできなかったのだ。
 しかし、それよりエドを傷つけたのは逃げるしか無かった自分の弱さだ。
 逃げなければ殺されていたのだろうから、それはそれで正解かもしれないが結果としてルビィを一人で群衆の中に残す事になってしまった。
 あれだけルビィの前で恰好をつけようとしていたのに、一番大切な時に傍にいる事ができなかったのだ。
 エドは池の水に映る月と自分のシルエットを眺める。
 無力で非力な猫が死のうとも月は同じように輝く。この島でもニューヨークでも同じように。
 一匹の猫の命運などとはお構いなしに地球は動いている。
 この島が傷つき倒れた猫たちに無慈悲で無関心であるのと同じように。
 だが、地球は猫も人類にも構いもしないかも知れないが、猫と人類が地球と同じだとは限らない。
 エドがルビィに恋したように、全ての猫には感情があり、他猫に共感する力があるのだ。
 この島の多くの猫たちがルビィの歌に感動した。
 エドは正体不明のゾンビを相手にしている訳ではない。
 どんなに大きく恐ろしい影に見えても、正体が分かっていれば恐れる事は無い。
 無論無謀や蛮勇は避けなければならないが、知恵と力を最大限に行使して立ち向かう事はできる。
 ルビィはこの島の猫に共感しすぎて泥沼に引きずり込まれた。
 それを助け出せるのは、少しばかりの知恵と勇気と呆れられる程の楽観的な心を持つ者だけだ。 
 エドは決然として顔を上げる。
 お姫様にかけられた呪いを解くのはいつだって勇敢な戦士だ。
 どこかに突き刺さっている聖剣を手にして、呪いの島からルビィを助け出すのだ。
 エドは座敷に戻ると座布団の上に座ってハマチの刺身を食べる。
 まずは体力を回復させる事だ。
 怪我をして疲れて空腹だから気分も落ち込むのだ。
 猫が猫らしくある為には健康と教養と自信が必要なのだ。
  〈6〉
   タツは六本木のマンションのファーで覆われたソファーの上に寝そべっている。
 ルビィのデビューとなる路上ライブは、余計な闖入者が居たものの無事成功した。
 目玉を抉ってやった闖入者は部下を振り切って逃げた。
 タツは爪に残る皮膚を切り裂き、眼球を抉る感触を確かめる。
 これまで無数の反体制的猫を葬って来たが、ほとんどが目玉を抉られれば戦意喪失したものだった。
 しかし、あの猫はそれでも立ち向かって来た。
 タツに拳銃を抜かせたとは只者ではない。
 部下に任せる事はせずにあの場で始末しておけば良かったかもしれない。
 そこまで考えてタツは小さく息を吐く。
 ルビィは既に手中にあり、作戦は予定通りに動き始めているのだ。
 ルビィが路上で歌い始めた時、用意していたサクラが邪魔になるほどの人と猫が集まった。
 ルビィは堂々としていたものの、押し寄せる群衆の輪は彼女を踏みつぶしかねないほど狭まっていた。
 無知蒙昧な群衆がルビィの歌を聴くだけでなく触れようとして雪崩を打った所で、ナッツがいい仕事をした。
 撮影していたTVカメラを前に出して、アキバエージェンシーの新人のPV撮影だと言って群衆を下がらせたのだ。
 群衆を前にさすがに緊張していたのか、ルビィはアキバエージェンシーの誘導に従った。
 タツが思い出しているとタブレットが着信を告げる。
「私だ」
 タツはマタタビ風味の水を舐めて応答する。
『渋沢会のナッツだ。多少ゴネはしたがルビィは契約書にサインをした』
 ナッツの報告を受けてタツは唇の端を吊り上げる。
「ゴネた? 契約上に問題でも?」
 何があったか予想はついているがタツは訊ねる。
『報酬は要らないから自由に喋らせろという話でね。正直な所彼女は完全な政治犯だ』
 ナッツの言葉にタツは喉を鳴らす。
「どうやって言いくるめた?」
『その録音を聞かせて警察に送ると言ったのさ。その上でこの島の不幸な猫に生きる希望を与える生き甲斐のある猫生を送らないかとね』
 ナッツがやや得意げな口調で言う。マタタビをやって少しハイになっているのかも知れない。
「なるほど。君に話を持ち掛けたのは正解だったようだ」
 タツはマタタビ風味の水で舌を湿らせる。
 ルビィは完全に折れては居ないだろうが、形だけでも服従させられれば今の所は充分だ。
『こっちが送った不法滞在猫はどうした? 一応総務大臣経由で圧力はかけたが』
 ナッツは程度の良い不法滞在猫を寄こしてくれた。
 法的には強制送還にするだけだから彼らの不利益は限定的だが、彼らはロシアンマフィアの幹部と部下だったのだ。
 押収されたコカインは四十キロ。銃火器も発見された。
 全て渋沢会が用意したものだが、お膳立てとしては充分だった。
 外事一課三係で彼らを捕縛。厚生省の麻薬取締部と財務省の税関にも睨みをきかせた。
 総務省、厚生省、財務省の推薦でタツはまず一階級昇進で外事一課の警視、続いて警視庁から警察庁へ移動し更に一階級上げて警察庁公安部参事官、警視正となった。
 警察の階級としては残るは警視長、その上は警視監で警視監に就任した警官は全員が警視総監になる為、事実上二つしか階級は残っていない事になる。
 だが、タツは警察で栄華を極めようと言うのではない。
 参事官の次は内閣法制局次官にスライドし、内閣官房長官という国家のナンバー2を狙うのだ。
 総理大臣を狙わないのはタツは猫であり選挙に出る事も投票する事もできないからだ。
「明日には仕事場を移動する。君のお蔭で少しは座り心地の良い椅子に座れそうだ」
『それは何よりだ。それよりルビィには会わないのか?』
 好奇心に駆られた様子でナッツが言う。幾ら歌が上手くて見栄えが良いからと言って、あからさまに反政府発言をする猫を公安猫が厚遇する筈が無い。
「私は内閣法制局次官として彼女に会うつもりだ。警察官などという泥臭い肩書は運命の出会いにはいささか趣きにかけるからな」
『これだけの上玉だ。横からさらわれないとも限らないぞ?』
 含む所がある様子でナッツが言う。
「分からないようだな。今の私は全ての島民に自由に罪状をつけ、監獄と処刑台に送り出す権限がある」
『君らしいもの言いだな。それを言うなら俺もあらゆる法を超越して狙った相手を抹殺できる事になる』
 ナッツの言葉にタツは笑みを浮かべる。
「だから君を同盟相手に選んだのだよ。コインには裏と表が必要だ。私は肖像となり、君は金額となる。人間も猫も我々から目を逸らす事も無視する事もできなくなるだろう」
『君は敢えて虚像を選ぶと言うのか?』
「猫の寿命は十五年。歴史に刻まれるのは常に金額ではなく虚像なのだよ」
 タツは目を細めてニュース番組に映るルビィの姿を見つめる。
『なるほどな。で、次はどんな手を打つつもりだ?』
 ナッツが実務的な事を訊ねて来る。
「ルビィが一斉地方選挙の顔になる事は確実だろう。だが、与党の目玉政策はまだ決まっていない」
『それならこっちに話が来ている。オリンピック跡地に地上500メートルを超える第97代総理大臣の黄金立像を建立するそうだ。メガバンクも原発に代わる新たな公共事業として乗り気になっている。どこまで本気か分からないが、原発同様世界各地に第97代総理大臣巨大立像を建てて回るそうだ。内調のシュラ次官が調整に走り回っている』
 ナッツの言葉にタツは驚きを感じる。
 原発は放射能をまき散らすだけでなく、電気が副次的に発生するという題目で輸出できた。
 しかし、第97代総理大臣の巨大立像には、日差しが遮られる以外の何の副産物も無いだろう。
 スカイツリーのような塔ならまだいいだろうが、台風や地震が来たらどう対応するつもりだろうか。
「馬鹿な。選挙で敗北したいのか? 像を作ってありがたがられるのは奈良時代までだ」
『渋沢会はカジノをセットに売り出す事で合意。カジノの収益金でツナの保護を行う財団を作る事で財界も乗り気になっている』
 そもそもが黒い金の賭博場出資の財団は、財界にとっても資金洗浄にはもってこいだろう。
 渋沢会と財界にとっては願っても無い話だが、カジノと賭博財団では選挙は戦えない。
『シュラ次官は海洋保護テーマパークという形で折り合いをつけようとしているようだ』
 いかに愚かな島民でも、総理大臣の黄金立像を建てるからと言って増税を受け入れようとはしないだろう。
 そこまで考えてタツは首を捻る。否、島民なら総理大臣立像に金を払って拝み倒すのではないだろうか?
 いずれにしても内閣法制局次官になって像の建立は違法という法律を作ってしまえば、そんな馬鹿な計画は無かった事にできるのだ。 
「巨大立像とカジノの情報をリークしろ。海外のメディアでも構わん」
『反対する島民を叩くのかい?』
 先回りしてナッツが訊ねる。それも悪くは無いがもう一ひねり必要だ。
「極右に現人神より大きい像を作ってはならないと宣伝させ、右翼に総理大臣の足元で賭博をやるのはけしからんと宣伝させろ。左翼にはいつも通り全てに反対させろ」
『軍資金はどこから調達する?』
 ナッツが思案する様子で言う。
「人間の学者や評論家はTVに映りたがるだろう? 今放送局を握っているのは誰だ?」 
 タツはナッツの優越感を刺激してやる。
『確かに。今の俺はニュースでもワイドショーでも望む事を喋らせる事ができる。しかし、財界の腰が引ければCM��スポンサーが降りる事にもなる』
「その枠を渋沢会が買えばいい。これまで地上波で宣伝できなかった事はいくらでもあるだろう?」
『風俗やカジノの宣伝をしたのではBPOが批判するだろう』
 ナッツが懸念を示す。
「それが批判できないのだよ。スポンサーが降りてTV局は運営できない。島民には知る権利が存在し、それを守る為にはどうしても運営資金が必要だ。知る権利と倫理を秤にかけて知る権利の方が重要だと主張すればいい。そうすれば財界スポンサーの方から広告を出させて欲しいと縋って来る事になる」 
『なるほど。で、世論を分断して何をしようと言うんだ?』
 納得した様子でナッツが言う。
子供向け番組のCMに風俗を挟まれたBPOが、財界に泣きつくという説明までは必要なかったようだ。
「現在、政府は財政赤字の原因として生活保護受給世帯と年金生活の高齢者世帯が国庫を圧迫していると説明している。彼らの多くは貧困に喘ぎ、道端に落ちている一円にでも目の色を変える」
 タツはそこまで言って一旦言葉を切る。政府の財政赤字は九割近くが公共事業によるものだ。島は国連から勧告を受ける程国際的に福祉と教育に割いている税金の割合が低い。
 今更福祉を削った所で赤字の削減になどならない。
 むしろ消費の冷え込みによる個人消費が低下し、内需に依存する経済が致命的な打撃を受けるだろう。
 しかし島民は政府による自己責任論とメディアやネットの同調圧力に縛り付けられ、政府を批判する事も福祉に対する要求も行えずにいる。
 だが、メディア側が政府に批判的な言説を取れば、島民は政府への不満として支持する事になる。
「連中に福祉に金を割くように政府に要求する大義名分を与えてやるのだ。これまで選挙で投票しなかった層が動く事になれば組織票で持っている与党は危機意識を持つだろう」
『確かに危機意識は持つだろうが、与党にとって代わるような組織は国内には存在しないぞ?』
 ナッツの言う通り、この島には野党と称するだけの人的資金的な力を持つだけの政治組織は存在しない。
「出たとしてもどうせ落選するのだ。学者や評論家どもをおだてて出馬を促せ。一時的にでも与党はパニック状態に陥るだろう」
『パニックを起こしてどうするんだ?』
「頃合いを見計らって評論家どもを共謀罪で牢獄に叩き込む。その気になっていた人間どもは政府に対して強い恐怖を抱くようになる。政府が巨大な像を建てようが、街をカジノにしてしまおうが、誰も文句を言えん世界になるだろう」
 共謀罪で大弾圧をした後はその手柄で内閣法制局次官に出世し、政府に異論を唱えられない強権的な法を作って政治家どもの機嫌を取れば良い。
 その時に内閣官房長官の椅子への扉が開かれる。
『カジノは俺のものという事でいいんだろうな』
 全てを理解したナッツが念押しして来る。
「私に金は不要だ。私の手で政治を完全に形骸化させ、猫の手、即ち私の手に全ての権力を集中させる」
『君はつくづく悪い猫だな』
 ナッツが楽しそうな声を出す。
「称賛と受け取っておこう。我らの同盟の盤石ならん事を」
 言ってタツは通信を切る。
 大弾圧の後はTV局は放送するものがルビィの歌だけになるだろう。
 そのルビィを事実上の最高権力者であるタツが手に入れるのだ。
 人も猫も等しく畏怖し、逆らう者など存在しなくなるだろう。
 しかし、幻想を現実にする為には行動しなければならない。
 タツは英気を養う為にマタタビ風味の水を舐めて丸くなった。 
  〈7〉
   エドは座布団の上で星条旗の眼帯をつけて朝食のアジを食べている。
 美味しい朝食に満たされれば満たされるほどルビィの不在が意識される。
「与党の目玉政策が総理大臣の黄金像だとはな」
 ダンがタブレットでニュースを見ながら驚いたような口調で言う。
「地上500メートル分も金があるんスかね」
 後ろ足で顎を掻きながらミケが言う。
 金総量は埋蔵量も含めてオリンピックのプール4・5杯分だと言うから、純金で地上500mの立像を作ろうと思ったら世界征服をしても足りないだろう。
「ばーか。メッキに決まってんだろ。に、してもとんでもねぇ事を考えつくもんだな。想像の斜め上どころじゃねぇぞ」
 バドが骨をしゃぶりながら言う。
 島の政府の考える事がおかしくてもエドは今更驚きを感じない。
「批判的な記事も結構あるみたいね」
 ネオが前脚の毛並みを整える。
「批判する理由には賛成しかねるけどね」
 ヤンが座布団の上で寝転がって自分の尻尾を前脚で叩く。
「オリンピック跡地の開発は記事になるかと思ったが、これでは三流タブロイドのオカルト欄にしか乗らないだろう」
 ジョーが冷めきった口調で言いながら顔を洗う。
「ルビィはどこにいるんだろな」
 エドは昨日の映像が繰り返されるばかりのTV映像を眺める。
「PV撮影で沖縄という島に行ったらしいわ」
 ネオがタブレットでゴシップ情報を見せてくれる。
 プライベートジェットで撮影の為だけにでかけるなど、ルビィの性格からは考えつかない。
「渋谷の路上ライブでこれだけの騒ぎを起こしてんだ。冷却期間をかけて視聴者が新情報を求める頃にドカンと新曲を出してコンサートでもするんだろう。悪党ならコンサートを選挙投票日に合わせるだろうな。この島の政治無関心と重なれば投票率が一桁って事にもなるだろうな」
 ダンが肉球でタブレットを操作しながら言う。
 ルビィが政治を恣意的に動かす人間の自由になるとは思えない。
 しかし、ルビィはツナ帝国打倒を訴えていたのに、今やツナ帝国のプライベートジェットに乗ってしまっているのだ。
 ルビィを取り戻す為にはツナ帝国を打倒しなければならない。
 エドは皿の水を舐めて考える。
 ツナ帝国の政府は巨大な像を建てると言っていて、反対する人間は妙な理由で反対している。
 正当な理由で反対する人間がいないのはどうした事だろう。
「どうして像を建てる金で人間や猫の生活を改善しようって誰も言わねぇんだ?」
 エドは質問する。
「それは左翼だと言われるからさ。この島が中国が嫌いという説明はしたけど、中国は元々社会主義国家でこの島では政治的には左翼と見られるんだ。社会保障や教育という分野に金をかける事は社会主義的政策とこの島では考えられているから、社会保障を訴える者は中国の味方、島の敵という事になるんだ」
 ヤンが皿の水を舐めながら説明する。
「お前のフィンランドは世界ランク三位以内の福祉国家だけど特別にこの島が敵視してるって訳じゃねぇんだろ」
 エドは訊ねる。フィンランドを始めとする北欧諸国の福祉水準は群を抜いている。
 福祉が社会主義だと言うなら、この島は大陸の正反対まで文句を言いに行かなければならなければ筋が通らない事になる。 
「この島は近視眼的で世界が見えていない。現実や理屈を抜きにして中国は敵だという感情だけが先にあって、中国的なものは全て悪だという事になる。この島の人間は麺や餃子を食べながら中国の悪口を言うのが日課なんだ」   
 ジョーの説明は分かるようで分からない。
「それって、そもそも島が島民に充分な情報と教養を与えていねぇから、島民にまともな判断能力が無ぇって事なんじゃねぇの」
 エドはジョーに向かって言う。
「エド、お前の言う事は正しい。でも、それをどうやって島民に納得させられる? 政府の言う事ぁ単純だ。中国が核を持ってる。皆殺しにされる。島を守る為に島民は金目のものは全部差し出せ。難しい理屈は一つも無ぇ。簡単な話だろ?」
 バドが目を細めて髭をしごく。
「でも百年以上も国同士の戦争なんて起きてねぇじゃねぇか」
 エドは訊ねる。紛争や内戦、それに他国が介入した事はある。
 だが、国と国が滅亡と存続をかけて戦う戦争などWWⅡ以降起きていない。
 WWⅡでも敗戦国が滅亡するという事は無かったのだ。
「そう考えられるのはあなたが教育を受けているからよ。勿論この島にも教育という名のつくものはあるけど、私たちの受けるものとは根本的に質が異なるわ」
 ネオが優雅に毛づくろいしながら言う。
「どんな違いがあるんだ?」
「手身近に説明すると、教育機関は個人主義を否定して、全体主義を訓練させられる場所になっているんだ。代表的なものでこの島には大縄跳びというスポーツの授業があるんだけど、まずこの競技は全員参加が義務付けられて生徒には選択の自由が無い。この競技は全員が同じタイミングでジャンプする事をどれだけ続けられるかという競技だから、個人が才能を示す事は無い。一方で一人でも失敗すると全員が失敗する事になってペナルティを受ける。優秀な人間がいたとしても評価の機会を与えらえないばかりか、最終的に全体の利益に反したとして生徒たちが自発的に競技の得意でない生徒を差別したり、競技に参加できないように追い出してしまう。これはあくまで一例だけど、こういったものが幼少期から社会に出るまで延々と続くんだ」 
 ヤンが柱に巻かれた段ボールで爪を研ぎながら説明する。
「それは教育とは言わねぇだろ」
 エドは尻尾を振って言う。
「だから教育じゃなくて訓練だって言ったじゃないか」
 ヤンが飛んでいる蜂に向かって手を振りながら答える。
 それが事実なら、この島の人間や猫を説得する事など不可能になってしまう。
 否、不条理がまかり通っている状況を見る限り、そうなのだと思うしかない気になって来る。
「とにかく俺はこのツナ帝国を倒してルビィを取り戻してぇんだよ」
 エドは誰にともなく訴えかける。
 島が憎らしいのではないし、自分で自分を不幸にするなら他国に迷惑をかけない範囲で勝手にやっていればいいと思う。
 しかし、エドもルビィもアメリカから来た猫なのだ。
 最低限の権利はあるし、本来それ以上の権利を求めてこの島にやって来たのだ。
 エドは最初に流出したルビィの映像を再生する。
 ルビィは斜め上、斜め向かいの民家の屋根から撮られているらしい。
 美声が聞こえたから撮ったにしては不自然な場所だ。
 普通猫が好奇心に突き動かされたなら塀の上に飛び乗るだろう。
 しかし、この撮影者は決して見られないであろう所から盗撮したのだ。
 エドは庭に飛び出し、紅葉の木を登って塀の上に飛びあがる。
 道路を渡って向かいの家の門の隙間から敷地に潜り込み、塀の上に飛び乗り、民家の屋根に飛びあがる。
 瓦屋根の上を慎重に歩いて撮影現場を探す。
 薄く埃の積もった瓦の上に肉球の跡があり、雨樋に猫の毛が落ちている。
 偶然歩いていてやって来れるような場所ではない。
 料亭花道はCIAの秘密基地だ。
 そうと知っていて監視していた猫がルビィを見つけ、何かの目的の為に情報を流したという方が自然ではないのだろうか。
 檜町公園でタブレットを見せた猫は本当に偶然ルビィの動画を見つけた猫だったのか。
 渋谷に行ったのはルビィの意志だったとしても、あの場所でタブレットを見せられなければ歌を歌いに行く事など思いつかなかったはずだ。
 撮影した猫とタブレットを見せた猫が同じ、もしくは同じ組織の猫だった可能性。
 ルビィは��日間に渡って保健所猫の妨害をしている。
 この島の公務員は特権意識の塊だ。
 保健所猫がルビィを通報したのかも知れない。
 だとすればすぐに警察が駆け付けていたはずだ。
 エドの脳裏に初日にヤンから聞いた公安猫という言葉が蘇る。
 ナチスのゲシュタポに勝る公安猫がCIAを見張っていてもおかしくないし、ルビィの動きが目について捕らえる作戦を立ててもおかしくない。
 否、普通なら捕らえられていただろう。
 それがどういう訳か捕らえられず、TVやネットで歌が大評判になっている。
 今、ルビィは沖縄という島にいるという。
 芸能事務所と何らかの契約を交わしたルビィは囚われているとは言えないだろうか。
 彼らにとって有益な歌だけを奪い、ルビィの自由を奪ってしまう最良の方法ではないだろうか。
 エドは失った片目が疼くのを感じる。
 この島の警察がどれだけ横暴だとしても、混雑した人と猫を整理しようとしていたのだとしても、ほとんど問答無用で目玉を狙って爪を立てて来るとは考えられない。
 あの猫は警部と呼ばれていた。
 部下を使ってエドをつまみだしたあの猫は悠々とルビィの歌を鑑賞していた。
 ただ人と猫が混雑しただけで警部が出て来る事など無いだろう。
 しかもあの猫と部下たちは交通整理をしていた訳でも無かった。
 エドは衝撃と共に理解する。あれは公安猫だったのだ。
 どういう経緯かは不明だが、早くからマークされていて、歌を目当てに連れ去ったのだ。
 エドは自分の鈍さに腹が立つ。
 どうして始めにタブレットを見せられた時に怪しいと思わなかったのだろう。
 近所で撮られた映像を近所で見せられる異常に何故気付かなかったのか。
 猫トラで渋谷に行った時に尾けられていたとしたら。
 それであの警部がやって来たのだとしたら。
 全てが推量でしかないが、そう考えると不思議な程辻褄が合う。
 公安が芸能界とどう絡んでいるかは分からないが、一日後には沖縄でPV撮影など話が出来過ぎている。
 エドはタブレットを操作する。
 ルビィはアキバエージェンシーという芸能事務所の所属として既に登録されている。
 ホームページの活動内容には、多くのアイドルがニュースのキャスターを務める事になったと掲載されている。
 ニュースのキャスターは片手間で出来る仕事ではない。
 何時間も前からその日の世界中のニュースに目を通し、放送の四時間前にはリハーサルを行い、充分な情報とそれをかみ砕いて伝えられる力を身に着けてから放送に臨むのだ。
 書かれた台本を読み上げるのはキャスターの仕事ではないし、事前に充分に報道内容を吟味しないで出た所勝負でTVカメラの前に出るのはキャスターではなく、バラエティ番組のひな壇の芸人と変わらない。
 アイドルにはアイドルの苦労があるだろうが、ニュースキャスターは今日からやりたいと言って務まる仕事ではないのだ。
 それが一日でアキバエージェンシーのアイドルの仕事に代わっている。
 調べると多くのバラエティやドラマ、歌番組や情報番組でアキバエージェンシーのアイドルが活躍している事が分かる。
 TV局がこれほど一つの芸能事務所に依存している事に危惧するものはいなかったのだろうか。
 この状態でアキバエージェンシーが報道の枠を寄こせと言ったら、TV局は他の番組を守る為にニュースキャスターの首を差し出すしか無いだろう。
 ルビィを奪ったアキバエージェンシーがTV局を乗っ取ったのだ。
 つまり、公安とアキバエージェンシーの間には繋がりが存在するのだ。
 WWⅡで、同盟国は強力な警察権力と報道の掌握で国民を戦争に駆り立てた。
 戦争をする訳では無いとしても政治と報道の親和性は高いのだ。
 だからこそ、報道は常に独立した立場で政治とは距離を置かなければならないのだ。
 何故かは分からないが、ルビィの存在がこの島を一押しして報道を奪い去った。
 エドは花道に向かって駆ける。
 ここから先は長年ジャーナリズムに従事しているメンバーの力が必要になるのだ。
  〈8〉
  
 「アキバエージェンシーは元々渋沢会が出資して立ち上げた芸能事務所だ」
 扇風機の風邪に髭を揺らすダンが座布団の上でエドの問いに答える。
「この島の警察は与党の私兵的色合いが強い。とりわけ公安は政治的活動で与党と密着している。そして与党は渋沢会と一体だ。公安が何らかの理由でルビィを奪って渋沢会の手駒のアキバエージェンシーに渡しても指揮命令系統という点では問題無い」
 ヤンが座布団の上で寝そべりながら言う。
「公安がここを張っていたとなるといい気はしないな。本人の意志が不明瞭な状態でアメリカの猫の身柄が拘束されている状況も座視できない」
 CIAのジョーがタブレットを肉球で叩きながら言う。
「でも、指揮命令系統ったって、公安から情報が上がりゃあ普通は警視庁、警察庁、内閣、んで渋沢会、アキバエージェンシーだろ? これって総理案件なのか?」
 バドは納得がいかないといった様子だ。
「ニュースのキャスターが一斉にアイドルに代わったっていうのも不自然よね? エドが言うようにルビィがきっかけなら、このタイミングで情報操作を行うのも妙だと思うの。もっと前からでも、もうしばらく後でも良かった訳でしょう?」
 ネオが前脚を舐めながら言う。
「ルビィに目をつけた公安猫と渋沢会が直につながってたって可能性はどうっスか?」
 ミケが落ち着きなく歩き回りながら言う。
「個人的な繋がりは幾らでもあるだろう。ただ、アキバエージェンシーをこれだけ自由に動かして、TV局も恫喝しているとなると渋沢会では若頭クラスの組員にはなるだろうね」
 ヤンが落ち着きなく尻尾を揺らしながら庭の蝶を目で追いかける。 
「若頭出すなら、公安もそれなりの猫を出さなきゃならねぇだろ」
 バドが髭をしごきながら言う。
「警部ってのはおかしいか?」
 エドは訊ねる。エドが捕まりかけた相手は警部なのだ。
「普通はあり得ないな。若頭はヤクザのナンバー2。与党なら幹事長クラスだ。警視庁なり警察庁なりの長官でなければ簡単には動かないだろう」
 ジョーが前脚で飛んできた蜂を追いかける。
「ルビィを餌に釣った可能性はあるかも知れない」
 ヤンが思案気に口を開く。
「ルビィは国際レベルの歌姫だ。多少操作されてはいただろうけど、一日で動画再生が一億を超えたのは作為だけでは説明がつかない。ルビィを手土産にすればアキバエージェンシーを配下に持つ渋沢会の幹部が動く可能性がある。絶対的なカリスマになり得るルビィを手に入れた事で、渋沢会と警察官僚の間で何らかの化学反応が起きた可能性はある。報道を統制するという事はヤクザというより警察の発想だからね」
 ヤンが畳のけば立った所を爪で引っ掻きながら意見を締めくくる。
「アイドルで情報が統制されたタイミングで第97代総理大臣巨大黄金立像がリークされたのよね。本当なら首相が満を持して発表したかった案件なんじゃない? しかもネット右翼が現人神より身長が高いだの、総理像の下にカジノはけしからんだのって騒ぎ始めてる。報道各局のアイドルは二つの意見の間に挟まれて総理巨大立像にまともなコメントを出せない。元々与党は右翼を支持基盤にしているのにこれでは逆効果だわ」
 ネオが少し引いた視点から現状を説明する。
 総理大臣としては選挙を狙ったタイミングで国威発揚の目玉にするつもりだったものが、悪政の象徴のような形で先に広まってしまった事になる。
 忖度して総理大臣に有利に働くようにコメントする筈のニュースキャスターは、政治とは無縁の世界のアイドルに変わってしまっている。
 内閣の支持率は鉄球が地球の重力に引かれるように急降下しているだろう。
「この島の右翼は渋沢会の傘下だ。渋沢会が与党と協議もせずに右翼を動かす事はあり得ねぇ。今の状況は完全なカオスだ」
 ダンが顔を洗いながら言う。
「与党内部の造反って事ぁねぇのか?」
 バドが誰にともなく訊ねる。
「それは無い。与党の公認が得られなければ何人も政治家になれないのがこの島だ。党を離脱すれば与党は勿論渋沢会の援護も受けられなくなる。与党と渋沢会が対立した可能性はゼロではないが、カジノが叩かれている事を見る限り渋沢会も被害者だ」
 ジョーが座布団の上で丸くなりながら答える。
 巨大立像もカジノも駄目となれば、財団も駄目だという事になる
 この島を構成する政界、財界、官僚、暴力団の四者が等しく打撃を負っている形だ。
「官僚だけは助かってるんじゃないか?」
 エドはふと気づいて問いを発する。
 計画がとん挫すれば官僚は無理な政策に法的根拠を与える事も、予算を立て、省庁の間で協議し実行に移すという途方もない苦労をしなくて済むのだ。
「でも、総務省や警察庁には与党からすっげぇプレッシャーがかかってる筈っスよ」
 ミケが前脚を舐めながら言う。
 確かに怒り心頭の議員は官僚に当たり散らしているだろう。
「ちょっと、ニュースを見て。右翼の評論家がゲストで出ているわ」
 ネオがタブレットの音量を上げる。
『……総理大臣、ことに令和立国の97代総理の像の周りに賭博場を作る事は、不遜極まりない行為です。全国の神社の境内にパチンコ屋がありますか? ありませんよね? 神聖にして祀るべきものにはしかるべき敬意を払うのが島民の務めというものです……』
 像に対して批判をしない所に驚きを感じるが、カジノを批判したのでは渋沢会の心象が悪くなるというものだろう。
『……この島は地球で最も古い歴史を持つ神の国であり、他民族の血を混入する事無く一貫して現人神により統治されてきた由緒正しい血統の島です。第97代総理は確かに偉人ですが現人神の血縁とはいえ、現人神そのものではありません。現人神を超えて神格化される事はこの国の政の根幹を揺るがし、優等民族である島民の堕落を招く原因になるでしょう……』
 こちらはナチスのような言い分だが、総理大臣の像そのものが悪いと言っているようだ。
「どのメディアも同じような有様だな。理由はどうあれ、像とカジノは島民からNOを突き付けられた形になるだろう」
 ジョーがため息をつく。
 そもそもが奇妙奇天烈な事業なのだ。理由はどうあれ反対されるのは当然だろう。
「右翼がこぞってって事ぁ渋沢会だろうが、何だってカジノ反対と像反対の二つの派閥を作ったんだろうな」
 バドが思案する様子で言う。
 確かにプロジェクトに反対なら一方の意見だけで良いはずだ。
 異なる理由を挙げれば反対派は分断されるだろう。
「選択肢を与えているんだろう。与党案があり、対立する勢力がAとBの派閥に分かれる。元々政治的に関心の無い島民は自らC案を出そうとはしない。与党とAとBが競り合う事になれば勝つのは与党だ。問題はこの政治的混乱を誰が何を意図して生み出したかだな」
 ダンが皿の水を舐めながら言う。
 与党政策に反対する意見が一つなら島民が一斉になびく可能性がある。
 二つある事で島民は右往左往してどちらかを選択するか、どちらも選択しないかのどちらかになる。
 最終的に与党を勝たせる為にこの騒動は仕組まれた事になる。
「ルビィを取り込んで、報道を掌握して、最終的に勝たせるとしても与党に揺さぶりをかけた。一連の事件が一つに繋がっていたと仮定して、誰かがシナリオを書いたなら、これは政治的権力を握る為のものじゃないのか?」
 ヤンの言葉にジョーが鼻を鳴らす。
「この島は事実上の専制君主制国家だ。権力者は生まれた時から権力者だし、労働者は生まれた時から労働者だ。仮に何者かが権力を得ようと策動すれば表から警察、裏から渋沢会に抹殺されるだろう」
「ちょっと待て、抹殺するのは警察と渋沢会なんだよな? ルビィの話の時も警察と渋沢会が組んでたらしいって話になってただろ?」
 エドは頭を巡らせながら言う。
 表の権力装置と裏の権力装置が組んだなら、主人を裏切る可能性も出て来るのではないだろうか。
「警察と渋沢会がタッグを組んで政治の力を削ぎ落す。政府を形骸化させる為にこの作戦が組まれたのだとしたら辻褄は合う」
 ヤンが髭をしごきながら言う。
「政治家の権限を奪って誰がこの島のトップになるってんだ? 渋沢会は表に出て来れねぇし、財界は世襲政治家が居た方が賄賂を渡しやすい」
 バドが伸びをしながら言う。
 確かに政界も財界も渋沢会も得をしないだろう。
「何か……俺たちも近視眼的になっちまってる気がするな。この島の研究をしすぎて影響を受け過ぎているのかもしれねぇ」
 ダンが低く唸る。
 瞬間、エドの脳裏に閃くものがある。
 曖���で具体的な形にはなっていない。
 しかし、核心的なものを感じる。
「猫だ」
 エドは呟くようにして言う。
「猫は金に縛られねぇ。自由が俺たち猫の���高の対価だ。だが、猫が権力を求めたらどうなんだ? 猫は政治家にゃなれねぇ。世襲なんて言やぁ何匹に分配させりゃいいのか分からねぇ。猫が自分の能力で権力を握ろうとしたら、金銭的利益や縁故関係なんか度外視した行動に出るんじゃねぇか?」
 エドの言葉に一同が驚きを浮かべる。
「でも猫の一生は十五年だ。権力なんか握ったって何の意味も無いだろう」
 ジョーが皿の水を舐める。
「そうっスよねぇ~。昼寝と魚といい雌がいりゃあそれで満足っスもんねぇ~」
 ミケが顎を後ろ足で掻く。
「官僚なら魚は食えるし、睡眠も充分とってるだろう。雌猫もこの島じゃみんな公務員になびくもんだしな。最高権力なんて手にした所で猫の手に余る」
 ダンがゴロゴロと喉を鳴らす。確かにこの島の公務員は特権と特権意識を振りかざしている。
 だが、欲しいものが極めて高価であれば。
 全てが逆算になる。理論としては破綻しているかもしれない。
「ルビィを撮影した公安猫がルビィを欲しいと思っていたらどうなる? ルビィは急進的な猫権活動家だ。公安猫は取り締まらなきゃならねぇ。でも、取り締まれば良くて強制送還、下手をすりゃあ殺処分だ。でも、契約で雁字搦めにして歌わせておけば、それもヤクザの下で働かせておけば当局の目から逸らす事ができる。ルビィの心を完全に折って、最高権力で力づくでものにする」
 エドは自分の言葉に戦慄する。
 自分はルビィを失って精神的に失調をきたしているのかも知れない。
 パラノイアになっているのかも知れない。
「ルビィを迎え入れる為に最高権力を手に入れるという考え方もできるな。彼女が何を言おうと、人間が口を挟めない程の」
 珍しくジョーが賛成に回る。
「二人とも正気? ルビィが動画に撮られてから幾日も経っていないのよ? 警察の高官の猫ならまだ可能性はあるかも知れないけど、一介の公安猫に島をパニックに陥れる事なんてできる訳が無いわ」
 ネオが反論を唱える。常識的に考えればその通りだ。
「公安猫が渋沢会のパイプを上手く使った可能性もあんな。渋沢会の窓口が猫なら共存共栄って手もある」
 バドが目を細める。人間のロジックなら不可能な事も猫のロジックなら可能になる。
 公安猫と渋沢会の猫が両方とも野心家なら、意気投合するだろう。
「そうだ! だからアキバエージェンシーなんだ。公安猫の地位じゃあ、渋沢会とはまともに交渉できねぇだろう。だが、ルビィを使ってアキバエージェンシーと取り引きは出来る。だが、アキバエージェンシーがルビィを受け入れれば公安猫はいつでも共謀罪でアキバエージェンシーを叩き潰せる。公安猫はルビィを売った見返りに渋沢会の力で地位を上げて、それでこの混乱を仕組んで更に両者が権力を握れるように画策した……こりゃあ事実上の猫のクーデターだ」
 ダンの言葉には説得力がある。
 エドの脳裏に渋谷で出会った警部猫の姿が蘇る。
「みんな言ってる事が憶測や推測だって事は分かってるのかい? 状況証拠ばかりで、確定的な情報は何も無い。ここを見張っていた公安猫さえ分かっていない」
 ヤンが冷ややかな声で指摘する。 
 確かに状況証拠ばかりで正確な情報は皆無に等しい。
「でもどうやって警察やヤクザや企業の内部情報なんて手に入れるんスか?」
 ミケが至極もっともな質問をする。
 警察やヤクザに電話をしてはいそうですと教えてくれる訳が無い。
「ハッカーでもいれば話は別だがな。俺はサイバー分野じゃないし、情報のアクセス権は上位にしかない」
 ジョーが無感情に述べる。CIAだからといって誰もかれもが機密にアクセスできる訳ではないだろう。
「米軍基地の情報将校が手を貸してくれる事になったっス」
 ミケが取るに足らない様子で爆弾発言をする。
「NSAか! どういうツテだ!」
 ジョーが驚いた様子で声を上げる。
「俺の叔父ちゃんがNSAなんスよ。で、困ったぁ~って言ったら、どうした? って話になって、島で騒動があるって伝えたんスよ」
 ミケが説明する。
「NSAもCIAも任務は家族にも極秘だろう?」
 ジョーが詰問口調でミケに詰め寄る。
「向こうも今、島で起きている事には感心があるんスよ。巨大立像が事実で島の企業がバタバタ倒れたら焦げ付きがでる所が出て来るんス。俺たちは政府や渋沢会に接触して生の情報を向こうに伝える約束っス」
 ミケが楽しそうに言う。
「俺たちジャーナリストにとっちゃ情報が命だ。それを報道する前にNSAに伝えろってのか?」
 バドがミケに食って掛かる。確かにジャーナリストにとっては情報が命だろう。
「でも、現状僕たちは状況証拠で騒いでいるだけだ。それじゃあオカルト雑誌の記者と変わらない。ジャーナリストなら多少の損失を覚悟で事実を追及すべきじゃないのかい」
 ヤンが一歩引いたスタンスで意見を述べる。
 確かに今までの状況では猫集会の議題が重いというだけだ。
「で、具体的にどうすりゃいいんだ? 俺はこの島にツテなんてねぇぞ」 
 エドは座布団にうずくまりながら言う。
「状況が状況だ。ツーマンセルで行動した方がいいだろう。俺は非常時の通信役としてここに残る」
 ジョーが言う。この料亭はジョーの顔で借りているのだからジョーに万が一の事があれば全員が行き場を失う事になる。
「ミケ、ついて来い」
「了解っす」
 バドが歩き出すとミケが軽い足取りで続く。
「教授、ご同行願えますか?」
「淑女の誘いとあっちゃあ断れねぇな」
 ネオに続いてダンが出て行く。
「エド、足を引っ張らないでくれよ」
 ヤンがエドに声をかけてくる。
「あ~、やっぱり俺も行かないとダメか」 
 エドはヤンに続いて歩き出す。
 行き先は分からないがヤンについて行けば何とかなるだろう。
 事件を追った先で再びあの公安猫に遭う機会があったら、十倍にして意趣返しをしてやるのだ。
  〈9〉
  
 
 ネットと報道の炎上は予想通りの広がりを見せた。
 政府は鎮火の為の策を練っているだろう。
 学者や評論家は元々与党の太鼓持ちなのだし、公表前の政策を批判している現在も与党の太鼓持ちである事に違いは無い。
 タツは自宅のマンションのムートンの上でマタタビ風味の水を舐める。
 ここで与党と評論家たちの行き違いを上手く演出しなければならない。
 与党には政策を推進させ、評論家たちは立候補するほど増長させる。
 既に右翼や極右の運動家に命じて評論家を出馬させる為の署名を集めさせている。
 与党が気後れしないよう、今度は与党側に燃料を投下する必要がある。
 タツはタブレットを操作する。
『ナッツだ。無事一日目が終了だな。警察はお前が押さえているのか?』
 ナッツの問いにタツは笑みを浮かべる。
「何、事態を収拾するより、情報流出の犯人捜しに躍起になっているのさ。この火災を消火するより、情報漏洩者を吊るしあげる方が遥かに楽だからな。人間は難問に遭遇すると、楽な問題に逃げるものだ。私が手を打つ必要も無いさ」  
 政府は黄金立像をまだ発表していないだけに、各省庁に命じて大っぴらに情報を統制できない。
 具体的にできる事は情報を流出させた憎い相手を探させる事だけだ。
『なるほどな。だが、犯人捜しとなると俺たちにも疑いが向けられるんじゃないのか?』
「いずれはな。しかし、今は次の手を打つべき時だ」 
 タツは綺麗に磨かれた爪を舐める。
『次の手か? TVに映っている道化どもを立候補させるには早いだろう』
「純金で作れとは言わないが、海洋保護財団の名でできるだけ大きくて目立つ金のマグロを国会議事堂に送り届けろ」 
 タツは脳裏に状況を思い描く。官僚たちは右往左往するだろう。
 海洋保護財団はカジノの資金で作られる予定の財界も深く関与する財団だ。
 財界と渋沢会の贈り物を総理大臣は退ける事はできないだろう。
『それはいいが、総理が経団連に連絡すればただの嫌がらせにしか思われないぞ』
 ナッツが慎重な意見を述べる。確かにその通りだ。
 総理大臣も島民を刺激するなと経団連に文句を言うだろう。
「今の経団連の会長は西芝グループの会長だが、原発全基廃炉以降、巨大立像が発表されるのを待って経営方針を打ち出せずにいた。そこで今回の騒ぎだ。臨時株主総会を開くには丁度いいタイミングだとは思わないか?」
 タツは口角が吊り上がるのを感じながら言う。
 西芝は巨大立像を認めなければ経営破綻となる。しかし、世論は巨大立像で炎上している。
 渋沢会の保有する株式と影響力があれば臨時株主総会を開く事が出来る。
『俺たちが臨時株主総会を要求し、西芝の会長は巨大立像を建立すると説明せざるを得なくなる。そのタイミングで金のマグロが国会議事堂に届くと』
 ナッツが理解した様子で言う。
 経団連の会長が黄金立像を作ると発表して、国会議事堂に金のマグロが届けばそれは財界の総意として受け取られるだろう。
 総理が怒り狂っても総会中は会長は電話に出る事ができないし、会長が黄金立像を発表してしまえば与党は後に引けなくなるのだ。
 世論が敵に回っている以上、与党はすぐには黄金立像を発表しないだろうが、いずれにしても水面下では進めていく必要性に迫られる。
 その間、議事堂に入りきらずに玄関の前に置かれたマグロ像は、財界の政界に対する不当要求の象徴として黄金に輝き続けるのだ。  
「総理は激怒するだろうが、��団連の会長も炎上している中で黄金立像の発表を余儀なくされれば、いい具合に怒り狂ってくれるだろう。政界と財界が相互不信に陥れば双方の単独の力では混乱の収拾は困難になる。炎上に対して無策の与党を見れば評論家や学者どもは己の力を過信するようになる」
 与党は巨大立像を否定も肯定もできない。
 財界は建てろと主張する事しかできない。
 与党と財界の無能を見れば評論家でなくとも自惚れるだろう。
『なるほど、で、君の役回りはどうなるんだい?』
「私は欲の無い男でね。果報は寝て待とうと考えているのだよ」
 タツは余裕の笑みを浮かべてマタタビ風味の水を舐める。
『君がただ手をこまねいているだけとは思えないな』
「そうだな、では私は内調のシュラ次官を情報漏洩の責任者として捕縛するとしよう。彼は任務に熱心で黄金立像の計画では随分と奔走していたようだからな」 
 タツは明日の予定をナッツに教えてやる。
 シュラ次官は良心的で真面目な猫だが、それだけに情報漏洩していないと断言する事もできないだろう。
 警察庁参事官のタツがシュラを逮捕すれば、身内に疑心暗鬼を抱くようになった総理大臣に会う事ができるだろう。
 そこで総理大臣の意に逆らう者を全て監獄と処刑台に送り込んで信頼を勝ち得、一方で競争相手を徹底的に蹴落とすのだ。
『シュラ次官は善猫として知られていたが……君は実に悪い猫だな』
 ナッツが小さく笑いながら言う。
「シュラ次官が善猫なのは今夜までだ。明日には大罪人として知られるようになるだろう」
 言ってタツは通信を切る。
 ムートンの上で丸くなって目を閉じる。
 ルビィのPV撮影は順調に進んでいるのだろうか。
 ルビィが戻って来る頃にはタツは次のステージに進んでいなくてはならない。
 その為には手段を選んではいられない。
 タツは大きな欠伸をすると眠りに落ちて行った。
  〈10〉
   エドはヤンと共に東京証券取引所を訪れている。
 証券取引の多くが電子化された今、こういった場所は不要な気がするが、出入りする事自体が人間にとってはステータスなのだろう。
「こんな所に来て何を調べようってんだ?」
 エドはビジネスマンやビジネス猫に囲まれて場違いな所に来たような気分になる。 
「僕は経済担当じゃないけど、黄金立像は作られても作られなくても株価に影響を与える。特にこういう所に来る人間は株価が値動きする前の噂を求めてやって来る。何か起これば真っ先にここに情報が来るはずだ」
 ヤンが軽やかに歩きながら説明する。
 品の良いロシアンブルーはどこに行っても気後れしないだろうが、雑種のトラ猫としては気分が落ち着かない。
「……島株は一向に海外資本に売れる気配無しか……」
「……島株を買ってるのは中央銀行くらいだ……」
「……旧原発関連企業の暴落は秒読みらしい」
「……都市銀行がM&Aに失敗して経営が更に悪化している……」
 エドはヤンに続いて歩きながら何やら悲観的な会話の断片を耳にする。
 この島の景気はとても悪いようだ。
「活気が無ぇな。本気で取り引きしようって連中がいるのか?」
「景気が良くなる条件が一つも無いからね。少しでも利益になる情報が欲しいってだけで来ている人間の方が多いだろうね」
 ヤンが猫用の水飲み場で水を舐める。
「昔は経済大国だったんだろ?」
「百年近く昔の話だね。その頃はこの島は為替レートが低くて、安価な商品を大量に売る事で利益を得る事ができていたんだ。島の呪いシステムで島民が過労死するまで働き続けたって要因もある。でも経済力が大きくなれば為替は円高に向かう。海外向けの製品の単価は高くなるし、消費者の目も厳しくなる。そこでビジネスモデルを変更しなければいけなかったのに、変更せずにリストラと労働者の酷使でコストを切り下げる事だけを考えた。価格競争と生産力とクオリティで他国に次々と追い抜かれて島の製品は国際市場から締め出され、市場の規模が小さくなり参入できる企業や人間が限られた事で、限られたパイを奪い合う競争社会になって少子高齢化が進んだ。政治が社会保障を充実させて島民に安心を与えれば内需で経済を保てたんだけど、与党は恐怖を煽る事で島民から搾取した金で公共事業を行って与党と渋沢会と財界を潤した。中央銀行が株を買い続ける事で平均株価は保ったものの、経済の流動性が失われ、人口は減り続け、産業も衰退し続けた。この島は数字は優秀かも知れないけど実体が全く伴っていない。虚飾に満ちているんだよ」
 エドはヤンの隣で水を舐めながら、それが事実ならこの活気の無さも当然なのだと感じる。
「虚飾の象徴が黄金立像か」
 エドは呟く。像は何も生み出さない。造る時には労働力が必要になるかも知れないが、造った後は邪魔になるだけだ。
 像が作られ風化するというのはこの島の歴史そのものなのかも知れない。
「……西芝グループで臨時株主総会が開かれるそうだ」
 人間の声にヤンが耳をピンと立てる。
「ああ……やっぱり原発倒産か。今からでも空売りできりゃあなぁ」
 人間が残念そうな声を出す。
「エド、行こう」
「どこへ?」
 歩き出したヤンに続いてエドは歩き始める。
「西芝の会長は経団連の会長なんだ。黄金立像が原発の次のプロジェクトなら、黄金立像反対派を牽制して建立を表明しなきゃならない。どの道株価は落ちるだろうけど、沈黙を続けて原発倒産するよりマシだろう」
 ヤンの説明を聞いてエドは財界の窮地を悟る。
 こんなタイミングで発表などしたくないだろうが政府が発表しない以上、企業側から発信するしかないという事なのだろう。
「倒産も黄金像も似たようなモンだと思うけどな」
 エドはヤンに続いて会場のホテルに向かう。
 株主総会には人間は株主しか入れないが、猫は見分けがつかな事と発言権が無い事から自由に出入りできる。 
 ホテルの大広間は満員になっており、廊下にまで人が溢れている。
 人間に踏みつぶされないように気を使いながらエドはヤンに続いて大広間に滑り込む。
「株主総会ってこんなに人が集まるもんなのか?」
 エドはヤンに訊ねる。  
「会社によるよ。まぁ、西芝は島のグループではトップクラスだからこれくらいの人間は集まると思うけど」
 ヤンが何か引っかかるといった様子で言葉を濁らせる。
「何か妙なのか?」
「臨時株主総会は会社側が開く場合と、株主が要請して開く場合とがあるんだ。状況が分からないから何とも言えないけど、会社側が株主総会を開いて決定するならもっと事前から株主に告知をしているはずなんだ。ゲリラ的に株主総会が開かれたって事は株主の側が株主総会を要請した可能性がある」
 ヤンは言いながらも株主たちの言葉に耳を傾けている。 
 株主が会社に株主総会をしろと言ったなら、会社が株主の利益に反する重大な証拠を持っている事になるだろう。
 恐らく黄金立像の事だろうが、西芝が請け負うとはどこでも報道されていないし、黄金立像のニュース自体がソースの曖昧な未確認情報だ。
 曖昧な情報を元に一部の株主が総会を求めたとしても、他の株主も同意しなければ会社も同意しないだろう。
 ステージの上に人間の男性が出て来て、演壇のマイクのテストを行っている。
「……西芝は本当に黄金立像を請け負うって言ってるのか?」
「……案内状には議事録があっただろう? 西芝側だってやましい事が無ければ先送りするだろう……」 
 人間がひそひそと会話を交わしている。
 何者かが西芝の株主たちに信ぴょう性の高い黄金像の情報をリークしていたようだ。
 目下炎上中の黄金像を、原発倒産が噂されている西芝が請け負うとなれば株主は経営責任を問うだろう。
「これは誰かが仕組んだという事だろうね。西芝も黄金立像推進派だから、株主の要請をデマだと切り捨てる事ができない」
「信ぴょう性の高い情報をリークしたって、どこの誰だよ」
 ヤンに向かってエドは訊ねる。政府や財界の中枢が内密に進めていた計画なのだ。
 一般の株主が知る筈が無い。
 檀上に初老の男が現れる。
「西芝グループ会長大野忠邦です。本日は臨時株主総会にお集まりいただき、日頃から御贔屓頂いている株主の皆様には大変感謝しております」
 会長の言葉に会場がしんと静まり返る。
「まず、西芝グループの会長として、また経団連の会長として多くの株主の懸念しておられる問題に直截にお答えしたいと思います。西芝グループ及び経団連は第97代総理大臣巨大黄金立像計画に参画しております」
 いきなりのカミングアウトに株主たちが騒然となる。
「島のトップ企業はいずれも原発を推進して来ましたが、国連の圧力により輸出が困難であるばかりか、国内での操業も不能、先の見えない廃炉への道を辿る事となりました。債務は各企業の時価総額を超え、ここに廃炉作業のコストが上積みされます。連鎖倒産が起き、島の経済は破綻するでしょう。そこで持ちあがったのが巨大黄金立像です。政府の補助金と銀行の貸付により原発の損失を取り戻せるどころか、それ以上の利益をわが社にもたらします。我が島には輸出すべき産業も無ければ、半導体など優良な部門はM&Aで海外に奪われている。財界を守る為に、島の経済を守る為に必要なのは政府の資金援助と銀行からの融資なのです。財界としては既に黄金立像を建てて債務を帳消しにするという合意形成がなされているのです。もし黄金立像が頓挫したなら財界が崩壊するばかりではない。皆さんの保有している株式がデフォルトで吹き飛ぶのです」
 怒りを滲ませ���口調で会長が一気に述べる。
 世間的にはスキャンダルである黄金立像を初めて、財界が認めたという衝撃は大きいだろう。
 株主たちの表情は微妙だ。
 世間では巨大黄金立像は批判されているが、作らない事には島の経済が崩壊するのだ。   
 猫にとっては株式も金も関係の無い話だが、人間にとっては死活問題なのだろう。
 散発的に株主たちが質問を行うが、最初に爆弾が投下されている為に盛り上がりに欠ける。
「何者かが黄金立像を株主にリークして株主総会を開いた。会社側は追及される前に暴露して逆に株主たちの動きを封じた。注目すべきは株主たちを一夜にして招集した株主のグループだろうね。いずれにせよ西芝の会長は乗り切った形だろうけど問題は与党と内閣だ。巨大黄金立像のプロジェクトが肝入りである事が暴露されてしまったんだ。これまでは苛立つだけだったのだとしても、総理大臣の口からこの件を説明する責任が発生するだろう」
 今更政府が発表しても、西芝の発表の後では釈明に追われる形になるだろう。
「問題はどこの誰がこの臨時株主総会を演出したかだ。参加者は信ぴょう性の高い情報を与えられていた。情報を知っていたのは政財界官僚暴力団の幹部の一部のはずだ」
「黄金立像はこの島の権力者が全員得をする政策だったんだろ? 裏切って得するヤツなんているのか?」  
 エドはヤンに質問する。それこそヤンが状況証拠しか無いといった公安猫の可能性を裏付けるものになりはしないだろうか。
「確かに政界、財界、官僚、暴力団にとっては願っても無い事だ。国家プロジェクトで国民総活躍税の全てが黄金立像に回されるだろう。財界も政府の公共事業費だけではこえだけのプロジェクトはできない。財界は多額の債務を銀行に対して負う事になる。銀行に金供給する為に、島民の全資産を担保に中央銀行が銀行に金を貸す。暴力団��カジノで収益を上げ、暴力団と財界の作った財団はマネーロンダリングの道具となる」
 ヤンの説明を聴く限り作戦は完璧だ。
 一方で増税を課せられた一般市民や一般労働猫が次々に使い捨てられ、過労死したり自殺したり、病に侵されて就労不能な病人は生ポとして差別される。
 政治家と官僚と財界人とヤクザだけが残ったとしてそれは国家の体を成すだろうか。
 プロジェクトが成功したとしても、一般市民、一般労働猫の生活は大幅に落ちている事とだろう。  
「経団連会長が認めた。これはスクープになる」
 ヤンが勢いよくホテルの大広間を飛び出していく。
 エドはヤンに続いて走る。
 報道が批判し、財界が確定情報として流した。
 報道は財界パッシングに動く事になるだろう。
 政治は決断を島民に示さなければならないが、選挙を控えているというのに報道が財界を批判している中に飛び込むのは自殺行為だろう。
 どんなに形骸化しており、対抗する政党が存在しないと言っても増長した評論家や学者が国政に参加するようになれば、世襲と縁故で成り立っている島政が揺らぐ事になる。
 血縁主義のこの島で血筋の怪しい人間が政治家になれば島民は政治を疑うようになるだろう。
 与党はそれこそを恐れている事だろう。
 問題を解決する為には政府が良い形で黄金立像を発表するしかない。
 何者かが糸を引いているなら、その何者かはそこまで頭を巡らせているに違いなかった。
  〈11〉
   タツはシェパードの背に乗って内閣府の中を移動している。
 西芝は黄金立像を認めただろうか?
 メディアは財界パッシングを行っているだろうか。
 タツは先を歩かせている二匹のシェパードの背を眺める。
 良く訓練された犬は忠実で命令に逆らうという事が無い。
 シェパードは普通の猫より遥かに大きく、獰猛だが調教されていれば猫の道具でしかない。
 そして人間を威嚇するのにも役に立つ。
 タツの背後には機動隊の猫とシェパードが軍隊のように連なっている。
 集団が放つ狂暴な雰囲気に人間も畏怖にも似た表情を浮かべて道を譲る。
 単純な戦闘力で言えば、訓練されたシェパードの方が人間より遥かに強いのだ。
 周囲を威圧して進みながらタツは目当ての猫の姿を目に留める。
 タツは颯爽とシェパードの背から飛び降りる。
「内閣情報調査室シュラ次官ですね」
 タツの言葉にシュラが目を見開く。
「いかにも。貴官は?」
「警察庁警備部参事官タツ警視正だ。シュラ次官。あなたを特定秘密保護法違反で逮捕する」
 タツの言葉にシュラが一瞬口を開閉させる。
「何の証拠があってそのような罪を私に着せると言うのか?」
「勘違いをしないで頂きたいのは警察とは犯罪者を捕らえる機関なのではなく、犯罪者を作る機関だという事だ。我々はこれから容疑で48時間あなたを拘留する。人間なら不眠不休の取り調べでも耐え抜けるかも知れない。だが、48時間無睡眠に猫が耐えられるととでも? 我々警察は証拠はあなたから教えて頂けるものと確信している」
 タツの言葉にシュラが狼狽の表情を浮かべる。
 ここで逃げ出さないのは大したものだとタツは内心で称賛する。
 しかし、誠意も勇気も暴力の前では無力以外の何ものでも無いのだ。
「私は誠心誠意政権に仕えて来た」
「それではこれが最後の奉公という事になるな」
 タツの言葉を受けて機動隊の猫がシュラの手足を縛りあげてシェパードの背中に乗せる。
「貴様、後悔する時が来るぞ! 身の程を忘れた野心と権力は……」
「その忠告はお前が仕えていた人間に対して行うべきであったな」
 タツはシュラを連行するように部下に伝える。
 拘置所に着いてから48時間に渡り拷問が行われる事になる。
「内調のシュラ次官は逮捕された。内調にはシュラと共謀した職員がいる可能性がある。これより警察庁及び警視庁公安部、機動隊は内調に対して強制捜査を行う」
 タツはシェパードに飛び乗って内閣府の六階、内閣情報調査室に踏み込む。
 職員の猫たちが獰猛なシェパードを見て表情を凍り付かせる。
「警察庁警備部参事官タツ警視正だ。特定秘密保護法違反でシュラ次官は逮捕された。内閣情報調査室に対し共謀罪の罪で強制捜査を行う」
 タツは猫と人間の職員双方を睥睨するようにして言う。
「令状はあるのか!?」
 一匹の猫が声を上げる。
「不要だ。諸君らは現行犯逮捕となる。この中にシュラ次官と職務上関係が無く、通信記録が一つも無いと証言できる者がいるなら、取り調べの上釈放という事になるだろう」
 タツの言葉に人間の職員が逃げ出そうとする。
 機動隊のシェパード五匹が飛び掛かり、手足に鋭い牙を立てて引きずり倒す。
「無論、否認するのは諸君の自由だ。命と引き換えにしても良いと言うのであればな。私であればそのような愚かな事はしたいと思わないが」
 タツは倒れた人間の顔面を爪をむき出しにした後ろ脚で踏みつけて言う。
 職員たちが棒立ちになり、機動隊員たちが次々に縛り上げていく。
 電子機器や書類が次々と運び出される。
 作業を見守るタツのタブレットが着信を告げる。
『タツ警視正。内調を強制捜査しているのか?』
「内調のシュラ次官の機密漏洩により国防上の危機が発生しています。組織ぐるみの犯行であると考えられ、証拠の隠蔽や逃亡の可能性もあった事から内調に対する強制捜査を行いました」
 警察庁長官の言葉にタツは答える。
『内調と警察が反目したのでは……国家運営に影響が……何故事前に連絡を?』
「極秘で事を進める必要がありました。48時間以内には国家転覆の全容が明らかになるでしょう」
『国家転覆だと?』
「ええ。シュラ次官は黄金像の情報をリークしました。奇妙なのはその情報が極右や右翼の手に渡り、黄金像批判の論調を生み出した事です。先ほど私も確認した事ですが、経団連が黄金像プロジェクトが実在すると発表しました。国家プロジェクトである黄金像計画をリークし、メディアをハイジャックして批判させたシュラ次官と内調が潔白であるとは思えません」
 タツは長官に向かって言う。
 ほとんど自分がやった事だが、これで内調は与党に対するクーデターを企てた組織という事になる。
『……首相がお会いしたいそうだ。くれぐれも礼を失する事の無いようにな』
 長官の言葉にタツは唇の端を吊り上げる。
 日和見の長官が自ら責任を取ろうとしない事は想定済みだ。
「了解しました。これより総理の執務室に向かいます」
 タツは護衛の部下とシェパードを率いて総理大臣の執務室に向かう。
 総理大臣の執務室を警護している人間の警備員に向かって敬礼する。
「警察庁警備部参事官タツ警視正だ」
『お入り下さい』
 重厚なドアが開かれ、赤絨毯の広い部屋が姿を現す。
 大きなデスクに初老の人間の男の姿がある。全体的に衰えた印象だが、濁った目には権力への飽くなき貪欲さと、非情さが見て取れる。
 タツは赤絨毯を踏んで総理大臣の前に進み出る。
「警備部参事官タツ警視正です」
「貴様、内調を強制捜査したそうだな」
 頬の肉を震わせてブルドックが唸るような声で総理が言う。
「閣下の身を案ずればこそです」
「身を案じるとはどういう事だ?」
 総理は不機嫌さを隠そうともしない。   
「警察庁が第97代総理大臣の黄金像を建立するという国家プロジェクトがある、という話を知ったのはTVで道化者が面白可笑しく騒ぎ立ててからです。我々は裏を取り、その情報が内調から出ている事を確認し、この情報が故意に、また極めて恣意的にリークされた事を知ったのです。報道各局は現在黄金立像に否定的な意見で占められています。統一地方選でTVに出て来る自称有識者が出馬すれば万が一という可能性もあります。被害を最小限に食い止める為、まずは情報の流出元を断つ事を忖度した次第です」
 タツは総理大臣に向かって言う。
 内調が潰れてしまえば、後からタツを疑う気になっても調査する為の組織はタツの出身母体であり地盤でもある警察しか無いのだ。
「確かにあの猫は計画に批判的であったが……殺処分で構わん」
 総理大臣が怒りに目を血走らせる。
「総理、今後の対応についてですが、私から提案がございます」
「提案だと?」
 総理大臣が淀んだ目をタツに向けて来る。
 怒りに振り回されるばかりで状況も今後の事も考えてはいないようだ。
「現在TVで黄金立像に反対している人間には大いに反対させるべきです」
「何だと! 今朝も経団連から金のマグロが届いたばかりなのだ! 金の亡者が総理大臣を脅迫しようなどとは十万年早いわ!」
 総理が声を荒げる。金のマグロはいい仕事をしたようだ。
「現在、島には総理の威を恐れない輩が少なからず存在します。これは獅子身中の虫であり、放置しておけば総理を畏れぬ行為に出るものも現れるでしょう。黄金像の情報をリークした内調も内調なら、総理の発表を待たずして勝手に発表した経団連も経団連でしょう。これらのガンは抗ガン剤を少しづつ打つだけでは効果が無く、やがては全身を蝕みます。取るべき手段はただ一つ、ガンの全摘出だけです」
「具体的に何をしようと言うのだ」
 言い回しが少し難しかったのか総理大臣には上手く伝わらなかったようだ。
「統一地方選に更に衆参両院選挙をかぶせます。黄金立像が叩かれている今、勘違いした人間が調子に乗って出馬する事は想像に難くありません。そのタイミングで共謀罪を適用します。内調のリーク情報を受け取った者、その情報を元に行動した者、選挙で与党以外から出馬しようという者、その支援者、簡単に言えばこれまで隠れて見えなかった敵対分子を一度で殲滅するという事です」          
 タツの言葉に総理は思案顔になる。
「反政府の人間を選挙で立候補させ、その上で逮捕するという事か」
「総理に反対する学者、財界人、評論家、人権運動家、そしてその支援者や庇護の下にある人間。全てが共謀です。どんな例外も認めません」
 総理の瞳が打算で揺れる。あと一押しだ。
「具体的なつながりが無く、内心で支援や支持をしていた人間はこの大粛清を見て、総理に逆らうという事がどういう事かを理解する事になるでしょう」
「それを貴様がやると言うのか?」
 総理の心は固まりかけているようだ。
「内閣法制局で政治体制維持法、即ち総理の権力を絶対とし、逆らう者を等しく処刑する法を作ります。そして内閣法制局の下に警察庁を置き、その実行部隊とします」
 現在の警察組織とやっている事は変わらないが方便というものだ。
「お前を内閣法制局に、か」
「他に適任があれば。私は一介の警察官に過ぎませんので」
 タツが言うと総理大臣の口元に獰猛な笑みを浮かべる。
「わしには嗅覚がある。顔色一つ変えずに人間や猫を殺せる愛島心に溢れた者を嗅ぎ分ける嗅覚がな」
 総理大臣がタツの瞳を見つめる。
「貴様を内閣法制局長官に任命する。政治体制維持法を早急に作成しろ。全ての警察権力を振るい、選挙でおびき出した非島民を皆殺しにするのだ」
 総理大臣の言葉を受けてタツは敬礼する。
「ハッ」
「期待しておるぞ。タツ長官」
「身に余る期待、必ずや成し遂げてごらんに入れます」
 タツは内心で笑いを押し殺す。法制局次官のつもりが長官になった。
 これから政府が作る法律、議会で通る法律は全てタツの手によるものとなるのだ。
 人間は貪欲さと猜疑心に溺れていればいい。
 全ての権力はタツのものになるのだ。
  〈12〉
   
 
「情報のリーク元が内調で、内調は政府にクーデターを起こそうとしてたか……巨大立像などという計画を聞かされれば阻止したくなるのも分かるが……」
 夕暮れの座敷で座布団の上で丸まったジョーが言う。
 経団連が黄金像を発表した事も大きな話題になったが、内調が強制捜査を受けたというのは更に驚くべき情報だった。
 アメリカならFBIがCIAに強制捜査に入ったという事になるだろう。
「島の情報組織が統一された訳か……ただでさえ警察の権力が強すぎる島でなぁ」
 座布団の上のダンがため息をつく。
 メディアは独自の情報網を持たず、内閣も独自の情報を持たず、警察だけが全ての情報を掌握する。
 見方によっては内閣より警察の方が強力な力を持った組織になったと言えるだろう。
「内閣法制局の長官人事で猫が局長になったみたいね」
 ネオが座布団に横になりながら言う。
「ルビィ戻って来るみたいッスよ。明日アルバム発売の記者会見らしいッス」
 ミケがいつものように飛び跳ねる。
「ルビィが? どこに?」
「今晩PVのリリース、明日ホテルで記者会見。発表はコンサートの時期だろうな」
 バドが座布団の上でタブレットを操作する。
 ルビィの予定はアキバエージェンシーが逐次発表しているので分かりやすい。
「エド、行くのかい?」
 ヤンの問いにエドは頷く。
 ルビィがいるなら行かない理由は無い。
「混乱を避ける為に関係者のみってなってるぜ」
 バドが忠告するようにして言う。
 エドはルビィの関係者だが、だからと言って入る事はできないだろう。
「芸能関係の記者として入る事はできる。でも、警備がどれだけ厳重か分からないし、顔を見るだけで精一杯になる可能性の方が高い」
 ヤンの言う通りだろう。
 ゲリラライブで近づけなくなったエドが、公式記者会見で何ができると言うのか。
 しかも下手な事をすればマークされて身動きが取れなくなるかも知れない。
「ミケ、NSAの情報はどうなんだ?」
 ジョーがミケに訊ねる。
「渋沢会の若頭のナッツって猫が暗躍してるみたいッス。ルビィをアキバエージェンシーにスカウトさせたのも、ニュースのキャスターを交替させたのも、黄金像の情報をリークしたのも、御用文化人を使って黄金像を批判したのも、西芝の株主を集めて総会を起こしたのもその猫ッス」
「そいつがルビィを狙ってるってのか」
 エドは押し殺した声で言う。あの警部でないのは意外だが、相手がヤクザであって助け出す事に違いは無い。
「情報をリークしたのは内調って事になってる。現在の体制が分からないけど、警察が内調の機能を備えるのだとしたら、渋沢会の活動で警察が権力を増大させた事になる。グルになっていた可能性はあるだろうね」
 ヤンが推理を述べる。
「内閣法制局の新長官だけど、警察庁参事官出身の猫ってなってるわ」
 ネオが前脚を舐めながら言う。
「ちょっと待て、内調が消えて警察庁のエリートが法律を作る内閣法制局の長官になっただと? 法を作る側と法を執行する側が一つになったら恐怖政治の始まりじゃねぇか」
 ダンが目を見開く。
 法律を作る者と守らせる者が一つになる。裏を返せば守らせたい法を作る事もできるようになる。
「それが渋沢会のナッツと……このタツって警察猫のシナリオだって事か?」   
 バドがタブレットに目を落とす。
 エドは横からタブレットの映像を眺める。
 瞬間、エドの身体を戦慄が駆け抜けた。
「こいつ、渋谷で会った警察猫だ! こいつが俺の目とルビィを奪ったんだ」
 エドは怒りがこみ上げるのを感じる。
 今は役所の長官かも知れないが、そんな事は知った事ではない。
「それはつまり、ここ何日かで警部から警視正になって、更に内閣法制局の長官になったって事かい?」
 ヤンの言葉にエドは頷く。
 経緯は分からないが、同一猫だとするとそういう事になる。
「警部から参事官になって、情報をリークしたとして内調を強制捜査で潰して、更に政府高官……もう総理くらいしか無いが、取り入って法制局の長官になったか」
 ジョーが思案気な口調で言う。
 おおよそ猫らしからぬ勤勉さだが、タツという猫は只者ではない。
「この陰謀をリークすればタツとナッツを止められるんじゃねぇか?」
 エドは言う。公共電波の私物化、警察権力の私物化、法律の私物化。
 こんな事がアメリカで起きたなら大統領辞任でも済まないだろう。
「どこにリークするの? メディアは渋沢会のナッツが支配しているし、ネットには警察のサイバー部隊が貼りついている。加えて現在のタツは新しい法律を作る事ができるようになっているのよ」
 ネオの言葉にエドは歯を食いしばる。
 不都合な情報は全て削除される。否、情報を発信したら発信元を突き詰められて抹殺されてしまうかも知れない。
「タツが何者だろうと知った事か。俺はルビィを助けに行く」
 エドは座布団の上に丸くなる。
 方法があるかどうかなど分からない。
 とにかくルビィに会って連れ戻すのだ。
  〈13〉
   タツは自宅マンションのムートンの上で中トロを食べている。
 内閣法制局長官になった自分へのご褒美だ。
 大トロを用意する事もできたのだが、タツの味覚だと大トロは少し脂っぽい。
 何とかルビィが戻る前に警察官から内閣の官僚になる事に、それも長官になる事に成功した。
 警察庁も支配下に置き、やっと一息という所だ。
 次は選挙で大ナタを振るって島民に畏怖を与え、完璧に服従するように調教しなければならない。
 タツはマタタビ風味の水を舐める。
 右翼や極右の矛先は財界に向いたが予定調和の中だ。
 これを選挙まで持続させ。多くの人間をその気にさせておかなくてはならない。
 タツはタブレットを操作する。
『おめでとう。法制局長官』
 タブレットのスピーカーからナッツの声が響く。
「なに、君のお蔭さ。一人ではここまで来れなかっただろう」
『君がいなければ俺はただの若頭で終わっていたかも知れない』
 タツはナッツの言葉を心地よく感じる。
 ナッツも現在はただの若頭という訳ではない。
 政財界に強い影響力を及ぼす闇の最高権力者になりつつある。 
「君ならいずれ同じ力を手に���ていただろうさ。ルビィは明日もどって来る��か?」
『ああ。ようやく御対面か』
 ナッツが軽い笑い声を漏らす。
「少し回り道はしたがね。記者会見の後で時間は取れそうか?」
『君のような権力者がそれを言うのかい? 君の都合に合わさせるさ』
 ナッツが上機嫌で言う。
「私も実力者には敬意を払うものさ。ところで、我々には共通の壁が存在する」
 タツはゆっくりとした口調で言う。
『君も俺も栄華は極めたものと思っていたけどな』
 ナッツは興味深そうな口調だ。
「私の上には総理大臣、君の上には渋沢会組長がいる。我々猫が人間の顔色を窺うというのは少々情けない話だとは思わないかね?」
『とはいえ、猫は財産を持たないし相続もしない。人間とは異なる。最高権力を握っても一代限りだ』
 ナッツがあまり乗り気でないといった様子で口にする。
「君は体外受精を考えた事はあるかね? DNAを操作して自分の分身を作る。自分と同じ力量の子に自分の持てる力を与える。我々は歴史の泡に消えるのではない。悠久を生きるのだ」
『俺と同じDNAの相手か……分かるような分からないような話だな』
「猫にも優劣は存在する。私も君も漫然と生まれて死ぬだけの猫では無かった。我々が目の前の壁を破れば、猫は新たなステージに登る事になる。新たな世界に必要とされるのは有能な猫だ。淘汰と選別を自然に任せていたのでは遅すぎる。有能な猫は優先的に遺伝子が保存され、残されるべきなのだ」
 タツは熱っぽい口調で語る。猫の一生は十五年だ。権力を奪取しても百年生きる人間にはすぐに取って代わられてしまうだろう。
 それを防ぐためには優秀な猫を揃え、後継者も作っておかなければならない。
 その後継者には自らが最も優秀と考える猫が必要だ。
 タツにとって最も優秀な猫はタツしかいない。
『もう一人の俺が俺が死んだ後も生きるか……吉と出るか凶と出るか分からないが』
 ナッツは思案する様子だ。
「この話は今で無くとも構わんよ。当面の問題だが、現在の渋沢会の会長が死ねば本来は若頭が跡を継ぐ。しかし、現在若頭なのは猫だ。血縁と盃で跡目争いが起きるだろう」
『だから今の状態が一番安定している。組長が俺より早く死ぬ訳が無いしな』
 ナッツの考えは至極もっともだ。ナッツが老衰で死んでも三十年は組長が長生きするだろう。
「そこでだ。君に死んでもらう」
『何だって? 正気か?』
 ナッツが声を上げる。
「若頭の君が死ねば水面下に存在していた跡目争いが顕在化する。争いが激化して組長が死亡する。そこで本来の若頭である君が登場して組長の座に就く」
 タツの言葉にナッツが小さく唸る。
 若頭が猫だから複雑な組織構造を持つ渋沢会は妥協して折り合いをつけているのだ。
 人間の若頭を改めて選ぶという事になったら抗争は避けられない。
『俺がトップに立つ前に組織が壊滅する可能性がある』
「そうはならない。何故なら警察の組織犯罪対策部が君の指揮系統に組み込まれるからだ」
 タツの言葉に一瞬の空白が生じる。
「言葉が足りなかったか。組織犯罪対策部は民営化する。君はそれを買い取ればいい。島は麻薬も売春も賭博も取り締まらない。企業として登記している訳でも無いから納税の必要も無い。ただ殺人と暴行は刑事課の管轄になるから犯罪扱いになるがね」
『タツ……それは……』
「どうだ。少しは気が向いたか? 他に案があれば聞こう」
 タツはナッツの反応を確認する。
 最初に低く、スピーカーから響く笑い声が甲高いものになる。
『組対がヤクザになるというのか……君は何を言っているか分かっているのか?』
「猫は麻薬も売春も賭博もやらない。我々猫には何ら害の無い民営化政策だと思うがね」
『俺を組長にしてくれるか?』
 腹の据わった様子でナッツが言う。
「その後は私を総理大臣にしてもらう」
 タツの声にナッツの笑い声が返って来る。
『君はつくづく悪い猫だな』
「ただ悪いだけで��ない、私は狡猾な猫なのだよ」
 タツは通信を切ってマタタビ味の水を舐める。
 ナッツが死んだという事になれば渋沢会は抗争に突入する。
 後々ナッツの障害になりそうな野心家の人間は顕在化するだろう。
 暴力団を組織犯罪対策部に任せているから、普通の刑事罰で対応できるような犯罪が犯罪として立件されない。
 そこで跡目争いが始まった所で刑事課によって渋沢会傘下の暴力団を一掃する。
 無能にも傍観していた組織犯罪対策部は任務を解かれて民営化。
 旧渋沢会と旧組織犯罪対策部が合流して新たな組織が生まれるのだ。
 その新組織は新たに誕生する総理大臣の最も強力な支援団体となるだろう。
 タツはムートンに頭を埋める。
 明日はルビィと公式に初めて出会う日になるのだ。
  〈14〉
  
 
 ルビィが沖縄で撮影したPVがホテルの大広間のスクリーンに流れている。
 エドはヤンと共に会場を訪れている。
 島内の芸能記者がほとんどで海外の政治記者のヤンは若干浮いている。
 PVが流れている間暗かった照明が明るくなり、拍手と歓声の中、ステージの上にルビィの姿が現れる。
「こんばんは。本日は多くの方にお集り頂き誠に感謝しています」
 ルビィがマイクに向かって言う。
「まともに歌の勉強をした事も無い私が、このように注目して頂けて奇跡のように感じています。感謝の気持ちを忘れずに島中の猫や人間たちを元気にできるような、そんな存在になりたいと考えています」
 ルビィの言葉にはルビィらしさが全く感じられない。
 エドはルビィの前に進み出ようとする。
 マネージャーらしい人間が出て来て幾つかの質疑応答をすると説明する。
「ルビィさんは外国から来られたそうですが島の印象はどうですか?」
 最低に決まっているだろうとエドは思う。
「素敵な島だと思います。清潔で皆さん礼儀正しくて。文化も独自の優れたものを持っていると思います」 
 嘘だろう。病気になった猫は公園に放り出されて殺処分されたり生ポになったり、公務員は傲慢で、呪いと憎悪に満ちた文化は最悪だ。
「島に慣れる上で一番苦労した事は何ですか?」
「礼儀作法ですね。今でもちょっと緊張します」
 誰が敵で誰が味方か分からない。一歩間違えばどんな濡れ衣で殺されるか分からない。緊張もするだろう。 
「最後にファンに向けて一言お願いします」
「島民の皆さんに元気と笑顔を届けられるように精一杯頑張ります。応援よろしくお願いします」
 言ったルビィがマネージャーに先導されてステージの脇に消えていく。
 ツナの帝国を打倒するのでは無かったか。
 エドはステージに駆けあがるとルビィが入って行った楽屋に向けて走る。
「関係者以外立ち入り禁止です!」
 制止する人間の脇をすり抜ける。
 楽屋前の廊下で気取った様子の猫に遭遇する。
 エドは全身の毛が逆立つのを感じる。
「久しぶりだな。警部」
 エドは牙を剥く。階級を上げたかどうか知らないが、見た目はあの日と変わっていない。
「君とは久しぶりと声をかけられるような気安い間柄では無いと思うがね」 
 タツが鷹揚に構えて言う。
「テメェと渋沢会のナッツとの事は掴んでる。内調のシュラ次官を陥れた後は総理大臣にでもなるつもりか」
 エドは尻尾を立てて詰め寄る。
「その通りだ。話が済んだならそこをどいてもらおう」
 意に介さぬ様子でタツが歩を進める。
「ここで引き返せばお前の悪事は見逃してやる」
 言ってエドは威嚇する。
「悪事だろうが何だろうが君に許可を得る覚えは私には無い。私はこの島の法を作る者なのだ」
 タツの息が感じられる程に距離が近くなる。
 エドは以前タツに向かって行って一方的に敗北している。
 暴力で敵う相手ではない。
「そのお偉いさんはお忍びでないと女一人に会えねぇのか?」
「君は私に相手をして欲しいのかね?」
 タツが前脚でエドを押しやる。
「お前じゃねぇ! 俺はルビィを取り戻しに来たんだ!」
「恋愛はクーリングオフできないのだよ。理解できたなら帰りたまえ」
「だったらルビィの前でどっちが好きか訊いてみろ!」
 エドが言った瞬間、タツの猫パンチが襲い掛かった。
 一度、目を狙われているエドは咄嗟に躱す。
 瞬間、タツが喉に牙を立てた。
 エドの身体が空中で一回転して床に叩きつけられる。
 牙が食い込み、首筋の筋肉が断ち切られるのが分かる。
 壁に叩きつけられ、更に床に叩きつけられる。
「エド!」
 廊下に出て来たルビィが声を上げる。
 タツが牙を抜いてエドの身体が空中に放り出される。
「ルビィ! 逃げるぞ! こんな奴らに従う為にこの島に来たんじゃねぇだろ!」
 エドの言葉にルビィが顔を歪める。
「どうしたんだよ! どうしちまったんだよ! 歌で猫が救えるなんてまやかしを信じてんのか! 歌ってる事で自己正当化してるだけだろ!」
 エドは声の限りに訴える。
「エド……私だって……」
 ルビィの目から涙が溢れる。知らない猫に囲まれて沖縄に居た間は辛かったに違いない。
「はじめまして。私は内閣法制局タツ長官だ」
 タツがエドとルビィの間に割って入る。
「こいつがアキバエージェンシーを操ってお前をスカウトさせたんだ! こいつはお前の事を売り買いできるものとしか考えてねぇんだ!」
「非力な者から強者に対する賛辞と受け取っておこう。君は私を悪猫だと言うばかりで何一つとして私に敵うものが無い。君を抹殺する事など私には容易い事なのだよ」
 タツが悪びれた様子も無く言う。
「ルビィ! お前はこんなヤツの言いなりになるような猫じゃねぇだろ! 弱った猫の為に無謀でも立ち向かってく猫だろ!」
 エドはタツに飛び掛かる。
 猫パンチでいなされ、耳を噛みちぎられる。
 起き上がる間も無く爪を立てた後ろ脚で頭を踏みつけられる。
「いい加減無力を理解したまえ。暴力を誇示する事は私の好む所では無いのだよ」
「エドを放して下さい」
 ルビィが身体を固くして言う。
「ほう、この猫はエドと言うのか。名乗りもせんから名も知らなかった」
 タツの爪がエドの頭皮に食い込む。
「お願いです。エドを助けて下さい」
 ルビィの言葉にタツがゆっくりと頭を振る。
「こんな出会いは不本意だったのだがね。こうなってしまったものは仕方ない。この猫の命が惜しければ私を愛していると言いたまえ。当然、言葉に出すからには行動に移してもらう」
「ルビィ! こんなゲス野郎の言いなりになるな!」
 エドが叫ぶとタツがポシェットから拳銃を取り出した。
 轟音が響いてエドの腰に焼けた鉄串を突き刺したような激痛が広がる。
「ルビィ。君の躊躇いが何の罪も無い猫の苦痛を招いてしまった。悲しむべき事だ」
 タツが拳銃の引き金を引く。
「止めて!」
「私が要求した言葉と違うようだ」
 轟音が響き、エドの腹部に凄まじい激痛が走る。
 身体から血と力が抜けていく。
 タツが拳銃の撃鉄を上げる。
「ルビィ……ダメだ……」
 エドは喘ぐように声を出す。
 こんな悪魔のような猫に屈しては駄目だ。ルビィは何者も恐れない、何者にも屈しないからルビィなのだ。
「この猫が死んだ所で私は一向にかまわん。赤坂の隠れ家にいる猫を一匹一匹君の目の前で殺すだけの事だ」
 タツの言葉を聞いてエドはルビィを見つめる。
 これが最期かも知れない。タツには手も足も出なかった。
 しかし、ルビィが屈する所までは見ないで済む。
「……愛します。あなたを愛します! だからエドを助けて!」
 ルビィの悲鳴がエドの耳に突き刺さる。
 そんな言葉は聴きたくない。これは嘘で自分は夢を見ているのだ。
 轟音が響く。
 鼻先を掠めた銃弾が床を穿つ。
「一言余計だったようだ。言葉は正確に扱うべきだ」
 タツの冷ややかな言葉が響く。大量に血を失った身体がタツの冷酷さに引きずられるように冷えていく。
 撃鉄が上がる音が響く。
「……愛しています。あなたの事を愛しています」
 ルビィの嗚咽混じりの声が響く。
「私は私を裏切る者は何人たりとも許さない。ルビィ、自分の言葉の意味は理解しているな」
「……私はあなたについて行きます。一生愛します」
 エドの中で何かが音を立てて崩れていく。
「ではこの猫はもう不要だな」
 タツの声と共に銃声が響いた。
 エドは自力で目を閉じる事もできない、口を閉じる事もできない。
 エドが今日この場所に来なかったらどうなっていただろう。
 ルビィはタツから逃げただろうか。
 あんな悪辣な猫にルビィが騙される訳が無い。
 エドが来てしまったから、ルビィは従わなくてはならなかった。
 自分のせいだ。
 エドは苦い悔恨の中で暗黒の縁に落ちて行った。
  〈15〉
   ルビィは本能的にタツに飛び掛かっていた。
 自分が何と答えようとこの悪魔はエドを殺すつもりだったのだ。
 タツがルビィを躱し首の皮を噛んで床に叩きつける。
「私は言葉には行動が伴うと教えたはずだ」
「強制的に人を従わせるのが面白いの! 相手を屈服させておいて愛情だなんて倒錯もいいところよ!」
 ルビィはタツにとびかかる。最初からこうしていれば良かったのだ。
 エドと二人ならこの悪魔に勝てたかも知れないのに。
「猫は結果が全てなのだよ。情念は弱者が縋る妄想に過ぎん。強者は実利を優先し、夢を実現する。それがこの敗者と私との違いだ」
 タツにとびかかったルビィは躱され、怪我をしない程度に壁に叩きつけられる。
「理解できたかね。君は自主的に私を愛するという決断を下した。行動に移したまえ」
 ルビィの脳裏にエドの姿が蘇る。
 マンハッタンで出会ったおどけた様子の猫。
 お調子者でも、ちゃんと傍にいてルビィを守ろうとしてくれた猫。
 渋谷で離ればなれになった時に、人に流されずエドを探していたら。
 しかしエドは死んでしまったのだ。
「死んでもお断りだわ」
 ルビィは全身の毛を逆立たせる。
「残念だがどちらも叶えてやる事はできない。いい加減自分の言葉に責任を持ちたまえ」
 ルビィが飛び掛かった瞬間、首筋が噛まれた。
 母猫が子猫を運ぶようにルビィはタツに引きずられる。
「放しなさい! こんな事をするなら殺して!」
 首を噛んでいる為悪態がつけないのかタツから返答は無い。
 床に倒れているエドの姿が小さくなる。
「エド!」
 ルビィは悲鳴にも似た叫び声を上げた。
  〈16〉  
     
 
 ヤンはエドについて行く事ができなかった。
 会場には公安猫がおり、所々に機動隊猫もいた。
 確かなのは銃声が三発響き、記者たちが気にしたが機動隊猫が追い返したという事だけだ。
 エドは銃など持っていないから、撃たれたのはエドである可能性が高い。
 ヤンはホテルの裏口に向かった。
 ルビィを口で咥えたタツが待っていたらしいBMWに乗り込む。
 ヤンはナンバーを記憶すると裏口から中に入る。
 人間の従業員がビニール袋に入った物体を運んで来る。
 ヤンは物陰に潜んでやり過ごすと人間の従業員を追いかける。
 ゴミ捨て場に血の臭いのするビニール袋が捨てられている。
 ヤンが袋を開けると中には全身が血で染まったエドの姿があった。
 エドの毛は夥しい血液でしっとりと濡れ、呼吸は止まっている。
 ヤンはエドのポシェットの中のタブレットに気付いた。
 爪を立てて裏蓋を開く。
 専門家では無いからヤンには見様見真似という事しかできない。
 ヤンは自分のタブレットの裏蓋も取ると、コンデンサをエドの身体に左右から押し当てる。
 エドの身体が小さく跳ねる。
 もう一度やろうとしたがタブレット自体がそうなのか、一度だけで放電は止まってしまった。
 ヤンはエドの胸に頭突きして心臓を動かそうとする。
 一瞬咳き込むような声が聞こえ、エドの口から血の塊が吐き出される。
 ほんの微かにではあるが、エドが呼吸している。
 ヤンは通りすがりの猫から半ば強引にタブレットを借りるとジョーに通信を開いた。
『ヤンか。どうした』
「エドが三発撃たれた。とりあえず電気ショックで生き返ったけどすぐに死にそうだ」
『米軍の救急兵を向かわせる。現在地はGPSの通りか?』
「ホテルの裏だ。危険でエドを動かす事ができない」
『すぐに手配する。お前も気をつけろ』
 ジョーの声と共に通信が切れる。 
 ヤンはエドの体温が下がらないように覆いかぶさるようにして温める。
 今は一匹の仲間の命を守る事が何より重要だった。
  〈17〉
 
  TVの歌番組でルビィが歌っている。
 エドはどこか遠くの出来事のように思いながら聴くとは無しに聴いている。
 ホテルでタツに撃たれてから一カ月半が過ぎていた。
 骨盤をプラスチックに置き換えたり、臓器を移植したりととにかく大変な怪我だったらしい。
 皮肉にもこの島には常に自殺したり保健所に送られる病気の猫が多く、移植に必要な臓器がすぐに集まった。
 それでも二週間はエドの意識は戻らず、それからほとんど寝て過ごしている。
「ちゃんと足を動かさないか! リハビリしろって言われてただろ」
 ヤンが前脚でエドの後ろ脚をつつく。
 料亭花道の座敷。公安に知られてしまっているからもう秘密基地とは言えないだろう。
 エドはヤンに返事をするように後ろ脚を動かす。
 骨盤を撃たれたせいで下半身が思うように動かなくなった。
 半身不随だけは免れたという事で、リハビリをすればいつか動くようになるという話だ。
 一度心臓が止まっていた所を、ヤンの機転で蘇生したらしい。
 エドはあのまま死んでいても良かったとさえ思う。
「動け!」
 ヤンが体当たりしてくる。
「動かしてる」
 エドは拗ねたような口調で言う。
 まるで別人の身体のようにこれまでと身体の感覚が全然違うのだ。
「寝てた所で何が変わる訳でも無いだろ」 
 ヤンの言葉には答えずにエドは丸くなる。
 タツは強いだけでなく、情の欠片も持たない猫だった。
 あのサイコパスのような猫ともう一度戦えと言われても、もう二度と御免だと答えるだろう。
 ヤンがエドの首筋を噛む。
 エドの身体が座敷から縁側へ、庭へと運ばれる。
「おい! ヤン! 俺をどうする気だ!」
 エドの言葉にヤンは答えない。
 口で咥えて運んでいるのだから答えようもないだろう。
 エドの身体が池の縁に運ばれ、水の中に落とされる。
「何考えてんだ! 怪我人を殺す気か!」
 エドは口に入って来る水を吐き出しながら叫ぶ。
「怪我は治ってる。君に必要なのはリハビリだ」
 ヤンが池の縁に立ったまま言う。
「一度助けておいて溺死させるのか?」
「文句を言えるくらい動けてるじゃないか。死にそうになったらちゃんと助けるよ」
 ヤンが非情な声をかけて来る。
 エドは溺れまいと必死で四肢を動かす。
 死んでもいいとさえ思っていたのに、身体が生きようと必死にもがく。
 体温が下がり、身体がいよいよ動かなくなる。
 目の前にロープがぶら下がり、エドが噛みつくと池から引き上げられる。
「これはいいリハビリ方法だ。明日からこれで頑張ろう」
 さらりと言ってのけたヤンにエドは恨めしい視線を向ける。
 猫は泳ぐ事が苦手な生き物なのに、よりによって身障者を池に落とす事は無いではないか。
「俺を殺す気かよ」
 エドは身体の水を払い落としながら言う。
「タブレットの電気ショックで生き返らせたのは僕だ。君を生かすのが僕の責任だ」
 ヤンは言うだけ言うと庭を横切って出かけてしまう。
 エドは這うようにして座敷に戻ると座布団の上で丸くなる。
 チャンネルを変えてもTVからしつこくルビィの歌が流れて来る。
 エドは自由にならない後ろ脚を舐める。
 ルビィは島の島民的アイドルになった。
 エドは今の所身障者だ。もしかしたら一生このままかも知れない。
 毛玉を吐いてエドは転がる。
 どうにもならない程にルビィとエドの距離は開いてしまったのだ。
  第五章 長靴をはいた猫
   〈1〉
   エドは一応歩けるようになった。
 びっこを引いているし、走り回る事もできないのだが、それでも何とか自力で歩いて回れるようにはなった。
 リハビリ初期はヤンに毎日池に落とされていたが、動けるようになって来ると一緒に檜町公園や国会周辺まで散歩に行くようになった。
 電車を使って東京の主要な街には一通り行ったし、大将に缶詰の弁当を持たされて郊外に出て成田山などの歴史的建造物も訪れている。
「エド、起きろ」
 早朝、ヤンが微睡んでいたエドを叩き起こす。
「何だってんだ。こんな時間に」 
 大将ならともかく、夜明けと同時に起こされる理由が分からない。
「仕事に付き合って欲しい」
 ヤンの言葉にエドは眠い目を擦りながら頷く。
 ヤンはジャーナリストという仕事がありながら、毎日エドに関東一円を散策させリハビリを行っている。
 エドもヤンの本業が不安になっていただけに、ヤンに大切な仕事があるなら協力しない訳には行かない。
 もっともエドにできるのは車の運転だけなのだが。
 エドがヤンと共に花道を出て行こうとすると、眠そうな表情をした大将が出て来た。  
 年齢はダンと同じくらいだろう。ダンが学者肌で理性的な生活を送って来たのに対し、大将は経験を積み上げて来たような印象を受ける。
「手土産だ」
 大将がヤンに巾着を持たせる。
 他に何か話すのかと思ったが大将はすぐに寝室に引っ込んでしまった。
「ヤン、障害者の俺をつれて何処に行こうって言うんだ?」
「行けば分かる。実際に見る事が無ければエドも理解ができないだろう」
 ヤンの言葉に従ってエドは道路を歩き、駅を乗りついて新宿駅で東武日光駅行きの電車に乗り込む。
 猫は金銭を持たないので公共交通機関は自由に利用できる。
「日光にゃ何があるんだ?」
 ヤンには様々な観光地を案内してもらったが、日光東照宮に行くのは初めてだ。
「歴史は色々あるんだけど、江戸幕府の開祖徳川家康を神として崇める宗教施設だ」
 由来はどうあれ、この島の古い建造物や芸術品には一見の価値がある。
「徳川幕府のお蔭で納税の義務が厳しく管理される事になり、戸籍を管理する寺院は先祖や祟りを口実にそれまで島に無かった戒名や墓石という制度を作って集金装置となった。五人組制度で農民たちは近所の人間を疑うと同時に自分が共同体から排除されない為に自分の意見を殺して政府が情報操作で作り上げた世論に迎合する事になった。島民、特に農民の暮らしは厳しかったけど幕府は最下層の被差別部落を作る事で農民のガス抜きを行った。歴史的に慣例的に行われていた風習をシステムに昇華させたのが徳川家康なんだ」    
 ヤンの話を聞く限り徳川家康というのはナチスを上回る狡猾極まりない独裁者だ。
 それがどうして崇められるという事になるのだろう。
「この島の住人は相手の権力が強い程、住民に強力な祟りを下すと考えていた。これほどの強権を誇る徳川家康を神として祀らなければ、当時の住民たちは天変地異で想像もできない災厄に見舞われると考えたんだ」
 しばらく雑談をするうちに日光に到着した。
 エドはびっこを引きながら参道を昇る。
 と、豪華絢爛な建物の前でヤンが足を止めた。
「あそこに猿の像があるのが分かるかい? 見ざる聞かざる言わざるだ」
 目を閉じた猿、耳を閉ざした猿、目を閉ざした猿の像がある。
「僕個人の考えだけど江戸時代に入るまでは、まだ一定政府に逆らおうという集団があったと思うんだ。江戸幕府の言論統制を前に壮麗な霊廟を作ろうと考えられた。誰が彫ったのか知らないけど、この猿の像を作った彫刻家は言論弾圧を強烈に皮肉ったように思えるんだ」
 現代の絶対専制君主主義が完成する前の時代に、消極的とはいえそれを予期して啓発しようとしていた事になる。
「こっちの猫の彫刻。眠り猫と言われているんだけど、角度を変えてみると何かに飛び掛かろうとしている。江戸幕府は御庭番衆というスパイで反体制勢力を弾圧した。御庭番衆という名前だけ見れば、城の中で庭の手入れをしていると思われるだろう。一見平和そうに見える猫の彫刻が、角度を変えると秘密警察の顔を見せるという事は、彫刻家が何とか観る者に時代を襲う危険性を芸術で伝えようとしたように感じられるんだ」
 この島にも二千年の呪いの中にも、消極的ではあっても抗う人がいたのだ。
 しかし、幕府が完膚なきまでに破壊し、幕府後の帝国政府が幕府以上の強権をもって実際に人間を殺すだけでなく心まで抹殺したという事だろう。
「ヤン、良く来てくれたね」
 年配の雌猫が親しみの籠った言葉で声をかけて来る。
「よう。俺はエド、ニューヨーカーだ」
 エドは取り合えず挨拶する。
「あたしの名はベティさ。早速だがここは移動するよ。公安の目がどれだけあるか分からないからね」
 ベティが複雑な道を歩いて森の中に二匹を誘導する。
「あんた何者なんだ?」
 エドの言葉にベティが笑みを浮かべる。
「この島の革命家さ」
 自信に満ちたベティの言葉にエドは仰天する。この蟻も逃がさぬ監視国家でどうやって革命などを起こそうというのだろう。
「この島の人口の五割以上が東京、名古屋、大阪に集中している。周辺の衛星都市を含めたらどれだけになるか想像もつかないね。今じゃ島の土地のほとんどが空き地になってる。土地の権利者はいるんだろうけど、探しても人間の姿は見つからないし、かつて人間が住んでた所は植物と動物の天国になっているんだよ」
 ベティの言葉にエドは驚きを感じる。
 東京は大都市だと思ったし猫の数も人間の数も多かったが、一歩外に出ればゴーストタウンを通り越して野生の王国という事か。
「あたしらは公安の目を逃れて、安全そうな地域に猫の村を作ってる。池を作り魚を養殖し、自給自足できる村をね。最初はあたしが勝手に開拓しただけなんだけど、今じゃ全島に八百の村ができている」
 単純に百匹の村だとしても八万匹の猫の村だ。
「電力や飲料水なんかはどうしてるんだ?」
 エドは訊ねる。ヤンと連絡を取った以上タブレットを使っているのだろうし、タブレットには充電が欠かせない。
「地下にトンネルを作って圧縮した窒素を送ってタービンを回してるのさ。液体窒素は常温に戻る時に爆発的に膨張する。そのエネルギーは火力発電にも劣らない。本来なら太陽光や風力を使いたいけど、政府の航空監視で露見する恐れがあるからね」
 食糧もエネルギー問題も解決だ。
 人間が捨て、誰もが見向きをしなくなった土地が猫の新天地になっているのだ。
「すげぇな。本当に猫だけの国じゃねぇか」
 エドは感心して言う。
 人間がいない猫の猫による猫の為の村。
 理不尽な労働などなく、猫が猫らしく生きて行ける国。
「ベティは猫の村連合のリーダーなんだ」
 ヤンが付け加えるようにして説明する。
「そのベティがヤンに何の用なんだ?」
 エドはベティに訊ねる。八百もの村で猫が平和に暮らしているならそれでいいではないか。
「数が増えれば人間に露見しやすくなる。渋沢会の下で麻薬を密輸していた黒沢組の組員に村の一つが発見されたのさ。黒沢組は早速村を麻薬取引の基地に変えた。自由だった猫たちはヤクザの下で働く事になったんだ。黒沢組の血のめぐりが悪いお蔭でその村以外は見つかって無いけど、渋沢会がそれを知れば全島に猫の村がある事にすぐに勘づくだろう。あたしらとしては事が大きくなる前に黒沢組をどうにかしたいのさ」
 ベティが大股で歩きながら言う。
 駐車場にはコガネムシのような形をした古びた猫車が停まっている。
「車に乗るのか? 俺に運転させてくれよ。俺は元々配送ドライバーなんだ」
 エドが言うとベティが笑顔を向けて来る。
 エドが運転席に乗り込み、ヤンが助手席に座る。
 モーターを駆動させると身を乗り出したベティがブルータルなジャズをかける。
「出しな」
 ベティの言葉で経路を表示させたエドは猫車を発進させる。
 久々の感覚に感動にも似た感情が沸き上がって来る。
 身体は不自由になったが車に乗っている限りはエドは自由なのだ。
 三十分ほど車を走らせると東京からさほど離れていないというのに、周囲が鬱蒼とした森に包まれる。
 ベティの言う通り人間は都市に固まって生活しているのだろう。
 ニューヨーカーのエドにとっても緑ばかりという光景は新鮮で生き返った気分になる。
 こんな光景はナショナルジオグラフィックでしか見た事が無い。
 ひび割れたアスファルトの幹線道路を外れ、獣道のような未舗装の道を小さな猫車が走っていく。
 しばらく走った所で森が開け、青く澄んだ湖と森の木に隠れるようにして建つコテージの群れが姿を現す。
 木陰では猫が思い思いに寝そべり、湖に浮かんだ船の上では猫たちが網を引いて魚を獲っている。
「止めな」
 ベティに言われてエドは車を停める。
 後部座席から降りたベティがずんずんと進んでいく。
 エドはヤンと一緒に後に続く。
 猫たちが顔を持ちあげてベティに挨拶する。
「客猫だ。湖で獲れた魚を出してやりな」
 ベティが言うと数匹が立ち上がり、ベティはコテージの一つに入って行く。
 寝心地の良さそうなクッションや座布団が幾つも転がっており、猫たちが好き勝手な体勢で寝そべっている。
 ベティが浄水器らしいタンクから水を皿に出してエドとヤンの前に置く。
 エドは水を舐める。普段舐めている水より美味しい気がする。
「この水はマタタビでも入っているのか?」
「ここの水は地下水を汲み上げて、炭なんかを使って100%天然素材でろ過してるのさ」
 得意げに言ってベティが水を舐める。
 エドが舐めた事があるのは水道水だけだし、水道水には幾つもの化学物質が入っている。
 ベティは猫に優しい水も作ったという事だろう。
 コテージに焼き魚を乗せた電動カートを連れて猫が入って来る。
「獲れたてなのに火を通すのか?」
「淡水魚は海の魚と違って寄生虫が多いのさ。それに臭みもあるから火を通した方がいいんだよ」
 ベティが三枚におろした大きな魚に豪快にかぶりつく。
 エドはヤンと一緒に魚を食べ始める。
 大将の味には敵わないが塩を振って焼いただけというのはワイルドで独特の味わいがある。
「ベティ、大将からです」
 ヤンが大将から預かった巾着をベティに渡す。
ベティが巾着から缶詰を取り出す。
 缶詰にはツナと書かれている。原材料にもマグロと書かれている。
「ヤン! これがツナなのか!」
 エドは思わず声を上げる。猫まっしぐらと言われる至宝が今、目の前にあるのだ。
「多分そう書いてあるからそうなんだろう。僕も食べた事は無い」
 ヤンがやや緊張した様子で言う。
「食べ物を有難がってとっとくなんて無駄ってもんさ。食べ物は食べる為にあるんだ」
 ベティが爪を使って缶詰を開ける。
 中にはフレーク状の魚が入っている。
 エドは少し臭いを嗅いでからツナを食べてみる。
 エドの脳裏にクエスチョンマークが浮かぶ。
 マタタビのような強力な誘因力があるのかと思ったがただの淡泊な魚だ。 
 エドの隣でヤンも拍子抜けしたような表情を浮かべている。
 二匹の様子を見てベティが豪快な笑い声を立てる。
「池の魚の方が美味しいだろう? ツナが美味いなんての都市伝説なのさ」
「都市伝説?」
 驚いたようにヤンが訊き返す。
「その昔、人間は自分たちがツナを好きだから猫もツナを有難がると思ったんだ。で、ツナの缶詰を売る時に猫まっしぐらってキャッチコピーをつけたんだよ。その後人間がツナを独占しちまったから、ツナを食べた事の無い猫たちはツナが一番美味しいものだって幻想を抱くようになったのさ」
 ベティの言葉にエドは気が抜けたようになる。
 ルビィがあれほど主張していたツナ権は人間が好きなだけで、猫にとってそこまでありがたがる必要はないものだったのだ。
「僕らの戦いは一体何だったのか……」
 ヤンが茫然とした口調で言う。
「これから始まるんだよ。この島だけじゃない、世界中で人間は数を減らして都市部に移動している。あたしら猫は地方に幾つも村を作って自治を広げるのさ」
 ベティが大風呂敷を広げる。世界というのは大げさかも知れないが、この島だけで八百の村というのだからそれだけでも大したものだろう。
「その矢先に黒沢組に目をつけられた」
 ヤンが指摘する。ベティはそれで困ってヤンに相談をもちかけたはずなのだ。
「海の魚を獲る為に色気を出したのが不味かったね。麻薬を密輸入するルートに使われてちまうとは不覚もいい所さ」
 ベティが忌々しそうに口にする。
 臭みのある淡水魚より海の魚が欲しいのが猫の性というものだ。 
「人間のヤクザを追い払う……難しいですね」
 ヤンが思案する様子で言う。
「ITを使えば人間を使って人間を追い出す事はできる。でも、人間を使って人間を追い出したんじゃ後から来た人間が居据わるし、ただ黒沢組を追い払っただけじゃ渋沢会に知られる可能性もある。事が公になればあたしらを一般労働猫にする為に猫狩りが行われるようになるだろう」
 言ってベティが水を舐める。ベティはベティなりに村猫は村猫なりに幾つもの対策を考えたのだろう。
 ヤンが思案気な表情を浮かべて室内を歩き回る。
 エドはクッションに顔を埋めて考える。
 猫の為に何かがしたい。猫が猫を助けるのは当然の事だ。
「いっその事黒沢組を袋叩きにしちまえばいいんじゃねぇか?」
 エドはベティに向かって言う。
 相手が非合法のマフィアなら手練手管を使うよりダイレクトにダメージを与えた方が効果的だろう。
「それは誰でも考える事だろう? 問題は追い出された黒沢組がどうするかなんだ」
 ヤンが指摘する。確かにそれはベティも言っていた事だ。
「この島はどこの国とも接してねぇんだろ? 島の外に追い出しちまえばいいんじゃねぇか?」
 エドの言葉にヤンとベティが思案顔になる。
「やるなら徹底的にやらないとね。一人でも逃しゃ猫の村の存在がばれちまう」
 ベティが悪だくみをするような表情を浮かべる。
「黒沢組というのは具体的にどれくらいの規模なんです?」
 ヤンが訊ねるとベティがポシェットからタブレットを取り出す。
 組員は18名。大きな組織では無いようだ。
 百匹の猫が一斉に襲い掛かれば慌てて逃げ出すだろう。
「黒沢組に占拠された村は?」
 ヤンの問いにベティが地図を表示させる。
 東京湾の端、房総半島と呼ばれる地域の一角だ。
 猫が太平洋に魚を獲りに行くにはもってこいだろう。
 村を作りたくなるのも良く分かる。
「黒沢組は東京湾に入る貨物船に積まれた麻薬を海上で受け取って房総半島経由で東京に運んでいる。海岸線に沿って道路があるだろう?」
 ベティが地図を睨む。かなり遠回りだが、その分運んでいる量は多いのだろう。
「村の猫とは連絡は?」
 ヤンの言葉にベティが頭を振る。
 連絡を取れば他の村も人間の犠牲になってしまう可能性があるのだろう。
「即興で呼吸を合わせるしかねぇんじゃねぇのか? 猫同士なら話が通じるさ」
 エドは言う。人間同士ならどうだか知らないが、猫同士なら意志の疎通は簡単だ。
「随分と気楽な猫だね。考えすぎのお前が選ぶ理由も良く分かる」
 ベティが意味深な笑みを浮かべる。
「ベティ、今は目の前の問題に集中するべき時じゃないか?」
 ヤンが咳払いをする。
「思うんだが、人間は車で麻薬を運ぶ訳だろう? 人間の足で藪を歩くのも大変だろう。道路に落とし穴を掘ったらどうだ?」
 エドの言葉にヤンとベティが呆けたような表情を浮かべる。
「十八人が都合良く同じ方向に逃げてくれるのかい? それに人間を捕らえた所であたしら猫には後が続かないさ」
 猫にとって人間を使う事は面倒でしかない。
 制圧して労働力と��て使うならとっくにやっているだろう。
「ジョーかミケのツテで米軍に麻薬を流していた事にすればいい。黒沢組が全員FBIに捕縛されれば島の公安は手が出せない」
 ヤンの言葉にエドは感心する。
 確かに米軍基地に運んでしまえば治外法権だし、麻薬を持ち歩いたらFBIが即逮捕だ。
「後は十八人が都合良く集まるタイミングだ。麻薬を陸揚げする時には全員集まるのかい?」
 ヤンがベティに訊ねる。
「小さい組だからね。仕事もほとんど猫に手伝わせてる」
 ベティが遠くから撮影した映像を表示させる。
 組員は全員参加しているが、人間は猫の手を手に入れると勤労意欲を失うらしい。
「麻薬取引の日程は?」
「明日の夜だ」
 ベティが過去の麻薬陸揚げの日程を表示する。規則的に陸揚げされているなら明日の夜に黒沢組が集結して麻薬を搬送する筈だ。
「道路に大きい穴を掘ろう。全員落ちれば一網打尽だ」
 エドは言う。車があれば人間を追い回すなど朝飯前だ。
「もう少し策を練ろう。明日の夜だとそこまで大きな穴は掘れないし、アメリカで服役してからまた戻って来る可能性もある」
 ヤンがタブレットを叩きながら言う。
「猫はいる。お手並み拝見と行こうか」
 ベティが悠然とした笑みを浮かべる。
 ベティには実は黒沢組を追い払う作戦があって、ヤンと会う口実に使ったのではないだろうか。
「俺は猫としちゃあ戦力外だが車さえあれば力になれる」
 エドはベティに向かって言う。
 ヤンにばかり任せてはいられない。エドにはエドのできる事があるはずなのだ。     
       
 〈2〉
 
  
 深夜、黒沢組の車がかつて小さな漁港であったであろう場所にやって来る。
 エドはヤン、ベティと共に山の上から様子を観察している。
 作戦には有志約二百匹が参加した。
 約というのは猫は気が向けば来るし、眠くなれば寝てしまう生き物だからだ。
「ヤン、黒沢組の数が多くねぇか?」
 エドの言葉にヤンが強張った表情で答える。
 てっきりベンツが三台、普通乗用車三台くらいだと思っていたのだ。
 それがどう見ても装甲車としか見えない車両が更に四台ついている。
「ベティ、聞いていた話と違う」
 ヤンの言葉にベティが鼻を鳴らす。
「連中の事情は分からない。けど、一度打ち上��た花火ってのは落とす事が出来ない。咲くか散るかのどっちかなんだよ」 
 猫と人間が港に停泊した漁船から装甲車の方に麻薬らしき箱を積み込んでいる。
 装甲車に積みきれない程の箱を積み込んで黒沢組の車両が動き出す。
 ヘッドライトをつけた車列が海岸線に沿って走っていく。
「足止め始め」
 ヤンがタブレットに繋いだマイクに向かって言う。
 車列の前方の森がざわめき、巨木が次々と倒れて道路を塞ぐ。
 黒沢組の車両が停止し、何が起きたか分からないといった様子で組員たちが外に出て来る。
 黒沢組の車列の後方の木々が倒れて黒沢組を封じ込める。
 黒沢組の組員たちが大声を上げて周囲を威嚇する。
「じゃ、行って来るぜ」
 エドは猫車を運転して山の斜面を駆け下りる。
 獣道を抜けて黒沢組の前に躍り出る。
 見た所二十人以上はいるだろう。マフィアにしてはやけに屈強な印象を受ける男たちが揃っている。
「人間が俺たちのシマで好き勝手やってくれてるじゃねぇか」
 エドはサンルーフから猫車の屋根に身を乗り出して言う。
「猫が何抜かしてやがる!」
 エドは黒沢組には答えずにロケット花火を一発打ち上げる。
 合図を待っていたかのように森が、倒木の向こうがオレンジ色に揺らめく。
 無数の猫の威嚇する鳴き声が響き、たいまつが森の中を移動する。
「全ての猫を解放して東京に帰れ。そしたら見逃してやる」
 黒沢組の組員が銃を抜く。エドは猫車の中に滑り降りて回れ右をして来た道を引き返し始める。
 倒木に火が放たれ黒沢組の組員と車両を照らし出す。
 黒沢組に向かって猫の一団が飛び掛かる。
 顔を引っ掻き、足に噛みつき、黒沢組を蹂躙する。
 が、屈強な一団には猫の攻撃が通じない。
 猫がエドが逃げた道を通って一目散に逃げ始める。
 黒沢組の組員が車に乗り込んで細い獣道に分け入ろうとする。
 黒沢組の車が森に入った所で、獣道の両脇の木が倒れて車両を押し潰し寸断する。
 黒沢組の組員が再び車から出て来る。
 猫の第二波が黒沢組に襲い掛かる。
 頭皮を引っ掻き、剥き出しの手に牙を立てる。
 暗闇の中で黒沢組が銃を撃ちながら猫に応戦する。
 猫の第二波が人間に撃退される。
 黒沢組が罵声と怒号を発しながら銃を手に逃げる猫たちを追いかける。
 エドはクラクションを鳴らしながら猫車で黒沢組に向かって突進する。
 大怪我をさせない程度に組員を弾き飛ばす。
「お前らこんな時間にハイキングか? 人間ってのは猫より物好きだな」
 エドが顔を出して言うと返答代わりに銃弾が飛んで来る。
 向こうは容赦をする気は無いのか、弾丸が猫車を襲う。
 作戦通りに動いてはいるが、敵の数と火器がやけに多い気がする。
 エドは再び回れ右をして坂を上る。
 組員たちが猫車を追いかけて斜面を登って来る。
 外向きに先を尖らせた釘を打ち付けた甲冑の猫の一団が組員に向かって襲い掛かる。 
 人間の銃は暗闇で当たらず、腕や足で攻撃すれば逆に釘のスパイクが刺さる事になる。
 森を縦横無尽に駆け回って猫騎士団が組員相手に奮戦する。
 エドの猫車が山の上の本部に帰還する。
 甲冑の猫騎士団が組員に撃退される。
 怒り狂った組員たちが山を登って来る。
「連中、思ったより手ごわいんじゃねぇか?」
 エドはヤンに向かって言う。
「数も多いし防弾チョッキも着ているみたいだ」
 ヤンが緊張した表情を浮かべる。
「作戦通りにすんのか?」
 エドはヤンに確認する。本来であればここでヤンが出て行って王手をかける。
 だが、組員たちは予定ほど弱って見えない。
「充分とは言えないけど作戦は立てた。僕が黒沢組に引導を渡す」 
 ヤンが暗闇に溶けていく。
 エドは気が気でならない。大筋としては作戦通りだが、敵の規模そのものが違うのだ。
 人間も山道を登り、猫と格闘して疲弊しているだろうが、素直に降伏してくれるとは思えない。
 エドは通信を通じてヤンの動きを確認する。
『懲りないみたいだね。でも君たちは猫を甘く見過ぎた』
 ヤンの涼やかな声が響く。
 ヤンが地面でマッチを擦ると、炎の壁が出現する。
 炎が左右に扇形に広がり、組員たちを包囲する。
『武器を捨てて投降すれば命までは奪わない』
 エドは我慢しきれずに猫車に飛び乗ってアクセルを踏む。
 相手は想定していた戦力ではないのだ。
 森の中に銃声が響く。
 エドは心臓が凍り付きそうな思いで猫車を走らせる。
 エドの目が暗闇を駆ける黒猫の姿を捕らえる。
「ヤン! 乗れ!」
 エドは助手席のドアを開け、間一髪で逃げて来たヤンが猫車に飛び込む。
「エド! どうして?!」
 ヤンを追いかけていた弾丸が猫車に向けられる。
「どう考えてもヤバそうだったろ!」
 毛の色が黒に近いロシアンブルーで無ければ死んでいただろう。
 銃弾を浴びて猫車のリアガラスに穴が空く。
 エドはヤンとほぼ同時に身を屈める。
 足を止めればハチの巣にされる。エドはアクセルを思い切り踏み込む。
 炎の壁を乗り越えた屈強な男たちの一団が山の斜面を駆けあがって来る。
「一体どうなってんだ?!」
 エドは当惑して言う。ヤクザとはこれほどの豪傑揃いなのか。
「知らない。普通人間だって炎に囲まれれば怯むだろう?!」
 ヤンが作戦失敗とばかりに声を上げる。
 猫車が山の中腹の平地の本部に戻る。
 ベティが険しい表情で立っている。
「失敗だ! 逃げた方がいい」
 エドはベティに猫車に乗るように促す。
「若い連中はだらしがないね。ここ一番で踏ん張れなくてどうすんだい」
 ベティに動く様子は見られない。
 屈強な男たちが銃を手に迫る。
「ベティ! 意地を張っても仕方ない! ここは撤退するんだ!」
 ヤンが叫ぶ。
 斜面を駆けあがった人間の男たちが銃を向けて来る。
「この野良猫どもが!」
 リーダー格らしい男が発砲しようとした瞬間、ベティの手に銃が出現していた。
 否、持っていたのに気づかなかっただけなのか。
 銃声が響きリーダー格の男が崩れ落ちる。
「野良だけに躾がなってなくてね」
 ベティが言うと同時に周囲の森から撃鉄の上がる無数の音が響く。
 男たちの顔から血の気が失われる。
「適当にいたぶって生かしてやろうと思ったけどあんたらが死にたいってんならしょうがない」
 ベティが銃で岩壁を叩く。
 火花が散り、炎が壁を舐め尽くす。
 エドが見上げるとそこには『黒沢組ここに滅す』と書かれている。
「どうすんだい? あたしはどっちでも構わないんだよ」
 ベティがドスの効いた声を響かせ男たちに銃口を向ける。
 戦意喪失したらしい男たちが銃を降ろす。
「両手を頭の上で組んで跪きな!」
 ベティに従って男たちが跪く。
 森から出て来た猫たちが男たちを縛り上げる。
 エドは唖然として見ている事しかできない。
「奥の手があるなら先に言ってくれ」
 ヤンが一本取られたといった様子でベティに声をかける。
「先に言っておいたら奥の手にゃならないだろう」
 ベティが余裕の表情を浮かべて言う。
 縛り上げられた二十六名の人間がFBIとの合流地点に向けて運ばれて行く。
「でも銃なんてどうしたんだ?」
 エドはベティに訊ねる。猫が武装するなど聞いた事が無い。
「本物はこの一丁だけさ。他の銃はこの通り」
 ベティがタブレットを出して画面をタップすると撃鉄が上がる音が響く。
 更に操作すると銃声が響く。
「その一丁はどうしたんだ?」
 ヤンが訊ねる。猫銃は警察猫か軍猫しか持っていないのが普通だ。
「渋沢会に潜り込んでる猫に持って来させたのさ」
 ニヤリと笑ってベティが言う。
 ベティは渋沢会の内部にスパイを送り込んでいたらしい。
「最初から僕らの出る幕なんて無かったんじゃないか」
 ヤンが拗ねたような口調で言う。
「最初から奥の手を見せてたら負けてたさ。お前たちが人間どもを散々弱らせたから最期の一撃が効いたんだ」
 ベティがヤンとエドを抱き寄せる。
 待っていたかのように村猫が三匹の写真を撮影する。
「さて、仕事の後の飯は格別だよ」
 笑顔で言ったベティの言葉にエドは頬を緩める。
 ベティはこの肝っ玉で二百の村を守っているのだろう。
 この島がどれだけ歪んでいようと全ての猫の本性までは変える事ができないのだ。
  〈3〉             
   
 
「黒沢組の他の連中は警察の機動隊あがりの連中だったらしい」
 黒沢組撃退の翌昼、コテージで水を舐めながらベティが言う。
「どうして黒沢組と警察が合同で?」
 ヤンがベティに訊ねる。
「ヤクザがらみの警備会社なんかは元から警察の天下り先だから相性が悪くは無いんだろうけどね。今回はちょいと事情が違うらしい」
 訳知り顔のベティが言う。
 エドはこの猫には何をやっても敵わないだろうと思う。
「事情が違う?」
 ヤンが訊き返す。普段情報通の頭脳派であるだけに、こうした姿を見るのは珍しい。
「警察が組織犯罪対策部を民営化したのさ。それを渋沢会が買った。渋沢会は若頭のナッツが死んでから跡目争いの抗争が続いてたんだけどね。買った組織は渋沢会統一に王手をかけただろうね」
 ベティの言葉にエドは驚愕する。警察が民営化という所まではまだ理解が及ぶが、ヤクザに売るというのは想像の斜め上を超えている。
「警察にゃ面子ってモンがねぇのか?」
「公式には民営化とだけ書かれててどこに売られたかまでは書いてないからね」
 エドに答えてベティが言う。
 しかし、警察と渋沢会が一つになればこの島で恐れるものなど何も無いだろう。
 エドの脳裏をタツの姿が過る。
 常識や慣習といったものを全て度外視するタツならやりかねないだろう。
「エド! これはスクープだぞ」
 ヤンが嬉しそうな顔を向けて来る。
 確かにヤクザになった警官をFBIが捕らえたという証拠もあるのだ。
「ああ、そうだな」
 エドは笑みを返す。忘れがちになるがヤンはジャーナリストなのだ。
「早速記事にして主要紙に送らなきゃならない」
 ヤンがそわそわした様子で言う。
「でも、手柄はほとんどベティだろ」
 エドの言葉にヤンがベティに目を向けてため息と共に頭を振る。
「確かにいい所を全部持って行かれた自覚はある」
「そんな小さい事ぁどうでもいいよ。あたしにゃこいつで充分さ」
 ベティがタブレットの写真を見せる。
 ベティが笑顔でヤンとエドを抱きしめている。
「母ちゃんには敵わねぇな」
 エドは苦笑する。事情は良く分からないが、エドもヤンもベティの掌で踊っていたようなものだった。
  〈4〉  
 
 
 ナッツは極上の羽毛のクッションの上で目を覚ます。
 医者を抱き込み、過労死した猫の死体を利用してナッツの偽装死体を作り上げた。
 ナッツの訃報が流れると同時に渋沢会幹部と傘下の組が跡目を巡って抗争を開始した。
 報道こそされないが、既に銃撃戦で八十名が死に、クラブやソープランドやカジノといった施設の十六か所が爆破された。
 渋沢会は企業価値で言うなら島で最大の経済規模を持つ。
 原発が稼働している時代は島企業で言えば六位の経済力を持っていた。
 しかし、原発が停止し、廃炉が決定した事で上位五社が傾き、渋沢会が島で最大の経済力を誇る団体に躍り出た。
 しかもヤクザは税金を払う必要が無い。
 渋沢会の組長の座、次期組長である若頭の座は島の帝王の椅子と言っても過言ではない。
 少しでも機会が狙える者なら、その椅子に手をかけようとなりふり構わす手を伸ばすというものだ。
「カシラ、お起きになられましたか?」
 一分の隙も無くスーツを着こなした舎弟の人間の男が声をかけてくる。長身で肉厚のヘビー級ボクサーのような男で、元々海外で傭兵をしていたという強者だ。
「ああ。今目が覚めた」
 ナッツは軽く顔を洗って目やにを取ると屈んだ舎弟の男の肩に飛び乗る。
 肩に乗ったまま隠れ家にしている屋敷の中を移動する。
 ウォークインクローゼットでナッツは園芸用の脚立のような高い椅子に座らされる。
 舎弟がナッツにヴェルサーチのスーツを着せ、首にネクタイを巻く。
 最期に銀縁の伊達眼鏡をかければ完成だ。
 ナッツは舎弟の肩に飛び乗り移動する。
 ナッツは元々組長の愛玩猫として生まれた。とはいえ、兄弟姉妹だけで五匹はいるのだから競争は楽ではない。 
 一歳から三歳までで、小学校を出て中学高校に通い、東大入試に成功し、経済学部を無事卒業した。
 三年で済ませられるのは猫の体感時間が人間とは異なるからで、猫の学習能力は単純計算で六倍になるからだ。
 東大を卒業してからアメリカの銀行でキャリアを積み、五歳で島に戻って来た。
 渋沢会の潤沢な資金を使って企業を買い漁り、金になりそうになければ海外のファンドに二束三文で売りつけた。
 企業を裏から操り、海外の企業にM&Aを仕掛け、収益をタックスヘイブンにプールした。
 ナッツはいわゆるインテリヤクザだった。
 ビジネスに精を出していたナッツに転機が訪れたのは、渋沢会の若頭が脳溢血で死亡した時だった。
 ごく普通のヤクザとして銀行や証券会社を相手に働いていたナッツは組長に呼ばれ、若頭の地位を与えられたのだ。
 渋沢会の複雑な権力構造の中で、若頭の選出は困難を極める。
 病気でもゆっくり死んでくれるなら人事もどうにかなるだろうが、突然死のような形で死なれると組織は権力を巡る闘争に陥る。
 そこで組長は猫であるナッツを若頭に据えたのだ。
 ナッツは若頭としても無能では無かった。すぐに組織を把握し優れた調停能力で勢力のバランスを整えた。
 保身を考えた事が無いのは、長くても残り十年の寿命であり、人間がナッツの命を狙うなど考えられなかったからだ。
 そうして三年が過ぎ、ナッツはタツと出会った。
「カシラ、朝食です」
 舎弟が座敷の上座にナッツを降ろす。
 二十畳の畳の左右には五十名の人間の組員の姿がある。  
 ナッツが着座すると同時に組員たちが一斉に畳に額を押し当てる。
 ヤクザは徹底した縦社会だ。猫だろうが人間だろうが相手が上であれば絶対服従を強いられるのだ。
 人間の侍女が全員の前に膳を運ぶ。
 ナッツの膳には鯛の塩焼きと鰺のたたき、胃腸を整える猫草が添えられている。
 ナッツが鯛に口をつけると組員たちが『いただきます』と声を揃える。
「塩が変わったな」
 ナッツが言うと舎弟が侍女に確認を取る。
「灘の塩からモンゴルの岩塩に変えたそうです」
 舎弟の言葉にナッツは小さく頷く。
 ナッツが鰺のたたきを食べていると正面の襖が開き、組員が姿を現した。
「編入した警察の組織犯罪対策部の部長が面会を求めています」
「カシラは朝食中だ」
 組員の一人が鋭い口調を投げかける。
「まだ作法も知らないのだろう。膳を出してやれ」
 ナッツは連絡に来た組員と侍女の双方に向けて言う。
 ややあってスーツ姿にややカラーの入った眼鏡をかけた壮年の男が姿を現す。
「元警視庁組織犯罪対策部の大神だ」
 ナッツはその声に一瞬だけ目を向けて食事に戻る。
「座れ」
 舎弟が元組対に向かって言う。
「俺は元組織犯罪対策部の……」
 元組対が言いかけた瞬間、五十二の銃口が一点に向けられた。
「カシラは朝食中だ。食事に招かれた事を光栄に思え」
 組員が銃口を動かして元組対を座らせる。
 侍女が元組対の前に膳を置く。
 元組対が苛立った様子で箸を手にしようとする。
 五十二の銃口が再び一点に向かう。
 元組対が訳が分からないといった表情を浮かべる。
 ナッツは舎弟に目を向ける。
「いただきますは?」
 元傭兵が鋭い眼光と声を投げかける。
「……いただきます」
 元組対が委縮した様子で膳の朝食を口に運び始める。
「何か用か?」
 ナッツは口の周りについた鰺のたたきの脂を舐める。
 舎弟がすかさず口を拭う。
「一部の局員と連絡がつきません」
 元組対が緊張した面持ちで言う。
「大勢に影響は?」
「恐らく無いかと」
 ナッツに元組対が答える。恐らくという言葉はナッツは好まない。
 元経済ヤクザとしては不正確な情報は許容できない。
「恐らくというのは返答ではない。正確な数字と具体的な影響を出せ」
 警察の組織犯罪対策部はナッツが買収し、直下の実働部隊とした。
 タツが装備もセットにしてくれたお蔭ですぐに武装勢力として利用できる。
 しかし、警察というのはナッツからすると杜撰な組織だった。
 ヤクザと警察を融合させる上で、データリンクと意識の共有は必須課題だ。
「顧問をつける。数字を揃えて出直せ」
 ナッツは食事を終えて舎弟の肩に飛び乗る。
『ごちそうさまでした!』
 組員たちが声を揃える。
 ナッツは舎弟の肩に乗ったまま移動する。
 跡目争いを終結させ、組長になる為には慎重に慎重を重ねても用心に過ぎる事は無いのだ。
  〈5〉 
  「表立って抗争している組は三つです」
 ナッツは十二畳の座敷で報告を受けている。
 関東、関西、九州の組が現在渋沢会の若頭の座を狙っている。
 若頭補は三名が既に死亡しており、残るは二人だけだ。
 ナッツは経済ヤクザであって戦闘に関してはズブの素人だ。
「俺は戦闘に関しては素人だ。必要な物資人員は整える」
 ナッツは舎弟に顔を向ける。
「暗殺するのであれば自衛官上がりを利用するのが的確です」
 舎弟の言葉にナッツは軽く目を閉じて考える。
 単純な暴力だけで解決するならそれでもいいだろう。
 実際、その後に暴力で身を守るだけの力もあるだろう。
 しかし、暴力だけで奪い取れば、思いあがった人間が暴力に訴えてナッツの座を奪おうとする可能性も出て来る。
「組長の名義で和解の盃を持たせろ。組長には傘下の組が泣きついた形を取れ」
 同じ暴力を使うのだとしても、演出方法によって観客の印象は180度変わる。
 和解と称して全ての勢力を一か所に集める。
 地方の組については地域の組織犯罪対策部が詳しい。
 民営化は報道されていない為、元組織犯罪対策部が踏み込めばヤクザは一時的な機能停止に陥る。
 組長を始めとする幹部と組織を分断しておき、幹部だけを始末する。
 そのタイミングで元組織犯罪対策部が組に居座ってしまえば手も足も出ないだろう。
 当然組の中には反発する者も出て来るだろうが、その矛先が向くのは元組織犯罪対策部であってナッツではない。
「元組対に偽の令状を掴ませて各地の組に貼りつかせろ」 
 ナッツの命令が次々に実行に移される。
 三日後に和解がセッティングされ、元組織犯罪対策部が突入の準備を整える。
 元組織犯罪対策部には顧問として元自衛官を始めとする軍事のスペシャリストも送り込んである。
 ナッツの動きが露見すれば立場は急転直下、殺処分されるという猫扱いの末路が待っている。
 現状タツが警察関係の情報をかく乱しており、ナッツ生存を知る者以外に気付かれる可能性は低い。
 ナッツはXデーに想いを馳せる。
 組長になるという発想はナッツには無かった事だ。
 しかし、その禁断の果実が今、手の届く所にあるのだ。
  〈6〉  
  
 「カシラ、何も自ら行かれる必要はないのでは?」
 スーツを着せる舎弟の言葉にナッツは苦笑する。
 ���人上がりのこの男は猫の事を心配しているのだ。
「お前が一番頼もしいが、事が済んだ後、渋沢会本部から出て来るのがお前だけでは誰が新しい組長か分からない」
 最後にメガネをかけてもらいながらナッツは言う。
 朝食を終え、ナッツはベンツの後部座席に乗り込む。
 現在渋沢会本部には四人の組長と二人の若頭補がいる。
 警備状況は生まれ育ったナッツが一番良く知っている。
 部下たちは全てベンツではなく一般車両のレンタカーで移動している。
 ナッツは海外の民間軍事企業と元自衛官からなる混成部隊を編成した。
 戦争に使うのが民間軍事企業だけでは海外のマフィアの傀儡のように見られるし、かといって元自衛官だけを揃えても経歴や練度には差があり一つの部隊として有機的に動かす事は難しいからだ。
 全てを調律する事こそがナッツの神髄だ。
 山の手の広大な敷地の渋沢会本部の四方に配置された警備のその周囲に部隊が展開する。
「カシラ、配置が完了しました」
 舎弟の言葉にナッツは頷く。
 ナッツ自身が戦闘のただ中に飛び込む必要は無い。
 制圧後にナッツが出て来る絵が撮れればそれでいいのだ。
「いいと思うタイミングで仕掛けてくれ」
「ハイ」
 舎弟が短く答える。
「ウォッチマン、行けそうか?」
 舎弟が無線機に向かって言う。
『狙撃部隊全隊配置済みです。オーバー』
「グレイハウンド、突入可能か?」
『見張りが消え次第突入します。オーバー』
「仕掛けろ」
 舎弟が短く命令する。
 ベンツの防弾ガラスの向こうで微かに銃声が聞こえる。
 六十人の平凡なガードマンやヤクザを相手に、ナッツは七十名の軍人を割いている。
『クリア!』、『クリア!』と、突入をライブで伝える声が響いて来る。
 ナッツはマタタビフレーバーの水を舐める。
『ベルクホーフは落ちた。オーバー』
 その言葉にナッツは耳を立てる。ベルクホーフはナチスドイツの総統ヒトラーの別荘の名前。即ち今回のターゲットが全て射殺された事を意味する。
「残党を掃討しろ……カシラ、行きましょう」
 舎弟の言葉にナッツは頷く。
 舎弟がドアを開けて跪き、ナッツはその肩に飛び乗る。
 舎弟がアサルトライフルを手にプロフェッショナルらしい動きで渋沢会本部の最奥部を目指す。
 ナッツはそこら中に転がっている人間の死体を眺める。
 民間軍事企業と元自衛官はいい仕事をしたらしい。
 ナッツは最期に和服を着た四名の男と二名のスーツ姿の男の死体を確認する。
 渋沢会を含む各組長と若頭補だ。
 軍人を使ったとはいえ、ナッツはあまりの呆気なさに驚きすら感じる。
 それでも現在渋沢会の最高権力者はナッツなのだ。
 周囲は都市迷彩仕様の軍人たちで固められている。
「カシラ」
 舎弟が声をかけて来る。
 ナッツは肩から飛び降りると組長たちが交わすはずだった盃を両手で抱える。
「序列に従い、俺、若頭ナッツが渋沢会組長に就任する」
 ナッツは猫の胃に悪い日本酒を一息で飲み干す。
 これでナッツは島内最大の経済規模を誇る団体の唯一の組長となったのだ。
 
  
 〈7〉    
   ナッツは渋沢会を掌握し、渋沢会の組長になった。
 統一地方選挙と衆参両院選挙が同時開催という、役所に強烈な負担のかかる大選挙が行われる事となった。
 あらゆるブロックで候補者が名乗りを上げ、選挙戦は早くも混沌としているがそれでも与党の優勢は変わらない。
 二大政党制に特化した小選挙区制の選挙で、個人候補者に票が分散するという事はそれが全て死に票になる事を意味するからだ。
 この選挙は与党を勝たせる為にあるのではない。
 人間の意志を挫く為にあるのだ。
 タツは執務室の椅子の上の座布団の上でタブレットを操作する。
 総理大臣は勝利を見越して国家総動員法の施行を承認している。
 島の経済産業を立て直す為、全ての権力を総理大臣に集中させるという法律だ。
 この法律には細工がしてある。
 総理大臣が死亡した場合、成年の男児がいれば総理大臣に、いなければ副総理が総理大臣になる。副総理もいなければ内閣から総理大臣が選出され、内閣がなければ内閣府の長官から選ばれるというものだ。
 国政選挙で衆参両院が解散すれば総理大臣以下の内閣の椅子は全て空白になる。
 そのタイミングで総理大臣が死亡すれば、内閣府の長官から総理大臣が選ばれる事になる。
 多少手荒にはなるが国家総動員法後の総理大臣になればその権力が揺らぐ事は無い。
 タブレットの中で総理が国家総動員法を強行採決し、解散の為に演壇に立つ。
『第97代総理大臣の黄金立像は我が国が世界に先駆けて行う革命的事業である。原発の輸出と運用は停止された。何故か? 放射能は健康に悪いというデマに世界が踊らされ風評被害になったからである。しかし、黄金立像は違う。島民よ、想像の翼を広げるがいい。ニューヨークに行けば自由の女神の隣にはその五倍の大きさの総理像がある。パリに行けば凱旋門を足にかける総理像の姿がある。ブラジルのキリスト像の肩に手を置く総理像がある。天安門広場に、赤の広場に、タージマハルに、世界中の世界遺産、それだけではない、自然遺産にも総理像は作られる。チョモランマを登頂した人間はその苦しい歩みの最後で黄金に輝く総理像を見るであろう。総理像は世界各国に余す所なく輸出される。地球人が輝かしい第97代総理大臣を忘れる事が無いようにである。これがもたらす経済効果は史上空前のものとなるだろう。像の建立後も維持管理費は各国から徴収する事になり、ギザのピラミッドが風化で失われても、その中央に立つ総理像は輝きを失わないだろう』
 総理大臣が拳を振り上げて演説を行う。
 売れるかどうかは相手国次第だろうが、そこまでは考えが及ばないのだろう。
『更に、黄金立像と同時にカジノも作られる。何故か? それは賭博が島の歴史的文化だからである。古くはおいちょかぶ、パチンコは我が島が誇る代表的な賭博であり、競艇、競馬、宝くじも同様である。第97代総理大臣はIR法を施行し、賭博を振興した。この偉業を人類が忘れる事があってはならない。賭博は崇高なる精神のスポーツである。全財産を賭けた次の瞬間には一万倍も財産が増えている事もあれば、一文無しになる事もある。普通に労働していたのでは、この生きるか死ぬかの緊張を味わう事は無いであろう。そして賭博を繰り返す事により我が島の島民は他国の柔弱なる国民と違い、精神が強靭になったのである。これを全人類に等しく与え、人類の進化に寄与する事は崇高なる国家事業を超えた島民の使命である』
 総理が半分自己陶酔したような口調で熱っぽく舌を振るう。
 博打をスポーツと言い換えるとは特殊な才能があるのだろう。
『カジノの周囲には海洋保護公園が作られる。これは子供が楽しみ、学ぶ事のできるアミューズメントパークだ。現在地球上のマグロの二割が島民以外によって消費されており、海洋資源の損失は国際社会での喫緊の問題である。この二割の乱獲を止め、マグロの保護に寄与する事は海洋国家としての当然の役割であり、第97代総理大臣がこよなく愛した寿司を発明し伝統として守っている我が島の使命である。子供たちが楽しみながらマグロの保護を学ぶ傍らで大人もスロットやバカラで精神を鍛える。これは世代を超えた壮大な人間力開発機関となるのである。そして、カジノの収益金で海洋保護財団が設立される。この財団により我が島の漁獲権を保護し、地球上の海洋生物の研究保護を行うのである。これにより我が島は恒久的に寿司ネタに事欠く事は無くなるであろう。島民の中には総理像はけしからん、カジノはけしからんという者がいる。それは無知蒙昧なる世迷言である。崇高なる使命と経済効果は説明した。これ以上議論の余地はあるだろうか? 否である。この三本の矢により島の経済はかつて無い成長を遂げ、人類はかつてない繁栄の新たなステージに突入するだろう。それを体験し、見る事ができる機会は島民の手に握られている。私は解散総選挙で信を問いたいのか? 否である。島民全員にこの目的を共有させる為である。選択の余地は無い。島民よ、その手で未来を開け』
 総理が演説を終えて演壇から降りる。
 近いうちにこの世からも消えてもらう事になるのだが、本人は終身総理大臣を微塵も諦めていないだろう。
 タツはタブレットを操作する。
『タツ、総理はいい気になっているようだな』
 裏社会のドンになったナッツが応じる。
「議会は解散した。全て計画通りだ。候補者の手筈はどうなっている?」
 タツは確認する。自発的に立候補した候補者もいれば、与党以外に誰も立たない空白区もある。
 タツはナッツに空白区に対立候補を出すように指示している。
 全ての選挙区から与党以外の候補者が出る事が望ましく、その全てが関与した全ての人間と共に逮捕されるのが理想的なのだ。
『全選挙区で対立候補が出る。渋沢会からの候補者の優遇策はあるんだろう?』
 ナッツの言葉にタツは含み笑いをする。
「候補者を収監する民間の刑務所の運営を君に任せたいと思っていてね。無論、それ以外の政治犯は従来通りの刑務所で厳罰に処する」
 渋沢会から出る候補者の運命はナッツに任せるという事だ。
『なるほど。了解した』
「現在、妙な動きは無いか?」
 タツは訊ねる。裏社会の情報網は警察の情報網にひけを取らない。
『いや。今の所は全てが計画通りに進んでいる。問題があるとすれば君の家庭的な事情なんじゃないのか』
 ナッツの言葉にタツは苛立ちを感じる。
「これが私たちにとっては理想的なのだよ」
 タツは内心とは裏腹の返答をする。強引にルビィを奪って以降、渋沢会の監視付きで同棲する事にしたのだが、ルビィは最初は抵抗していたものの、マタタビを嗅がせて大人しくさせていた所マタタビ中毒になり、タツが発情期で性交渉していても胡乱な目をしていて反応を示さない。
 外に出る時は一流歌手の仮面をかぶっているが、家ではひどいものだ。
 今ではこれがあれほどまでに欲していたものなのかという疑問すら湧いている。
『それでいい��ら構わないけどな。君には俺がいる。それを忘れないでくれ』
 ナッツが妙に情に訴えるような事を言う。
 裏社会で頂点に登った事で気が緩んでいるのだろうか。
「我々の到達点まであと一歩だ。それで全てが手に入る」
『地球上初の猫の総理大臣か』
「人間という種はもう老いているのだよ。我々猫が引導を渡すのは自然の法則だ」
 タツは柄にもなく大きな事を言ったと自嘲する。
 大一番が迫っている事で緊張しているのかも知れない。
『君は存命なら全人類を支配したいとでも思っているのかい?』
「そこまでは自惚れておらんよ。その気なら人間だけを狙い撃ちにするウイルスでも開発させている」 
『君は相変わらず悪い猫だな』
 ナッツの言葉にタツは笑みを浮かべる。
「何、人間から見たら私など可愛いものだろうさ」
 タツは通信を切る。
 衆参両院一斉地方選挙が本日中に告示される。 
 候補者が出そろったらタツの出番だ。
 タツは機動隊と陸上自衛隊の合同訓練の時に躱した密約を確認する。
 Xデーは警察だけでは人手が足りず、相応の迫力が無ければ人間を恐怖のどん底に突き落とす事ができない。
 そこでタツは総理就任後に追認するという形で陸上自衛隊に出動を依頼しているのだ。
 打てるべき手は打った。
 タツは座布団の上で丸くなりながら未来を見据える。
 一週間、一カ月後の事が妙に遠く感じられるのだった。
  〈8〉   
  「国家総動員法ってのにはたまげたな。総理大臣は終身制で世襲制、議会は解散、行政、立法、司法の全権が総理大臣の下に統一される。中世の専制君主だってここまで徹底して無かっただろう」
 ダンが座布団の上にうずくまりながら言う。
「島の闇社会が統一されて、警察まで合流したんだ。今更驚く事なんてあるか」
 ジョーは冷めた様子だ。
 渋沢会の若頭ナッツが死んだ事で後継者争いが勃発。
 幹部や中規模の組が名乗りを上げる中、ナッツが帰還。
 民営化された警察の組織犯罪対策部を率いて渋沢会を平定。
 その混乱の中で渋沢会会長も暗殺された。
「ナッツも偉くなったモンだ。この島は今じゃ麻薬と人身売買のハブ空港みてぇになってる」
 バドが座布団の上で水を舐める。
 渋沢会のビジネスは半ば公認となった。
 元々渋沢会は世界最大のマフィアだったのだが、この無法地帯にあやかろうと世界中のマフィアが集まる事になった。
 大量の麻薬の取り引きが行われ、人身売買の対象になった人間が公然とオークションにかかる。
「解散総選挙もタツが仕掛けたんでしょうけど何が狙いなのかしら。地方一斉選挙と同時なんてすごい負担がかかると思うんだけど」
 ネオが座布団の上で身体を伸ばす。
「人間の行政の負担は猫にはあんまり関係ないからね。ただ、オール与党の状況で地方一斉選挙やるだけでも無益なのに、衆参も合わせるというのが引っかかるね。黄金像問題で候補が出ても勝算はゼロに等しいだろうし」 
 ヤンが後ろ脚で顎を掻く。
 この島には与党しかない。個人が立候補したとしても自前で支援団体を用意しなくてはならず、莫大な金額が必要になるが政府から政党助成金を貰える訳でもない。
 与党以外でも限られた人間が立候補するのだろうが、地域住民が先祖代々与党の一族に投票しているのだから、それを切り崩す事は困難だろう。
「総理大臣は馬鹿な政策を島民の選択肢なんて言っちゃあいるがな。一万歩譲って政策が全部実現したら地球は悪夢に包まれる」
 ダンが頭を振って言う。
「黄金像やらの政策は元々政財界の政策で、選挙はタツが仕掛けたって事なんだろ」
 エドはタツを思い出しながら言う。
 一度目では片目を抉られ、二度目は足を不自由にされた。 
 三度目があればどんな目に遭うか分からない。
「法律も次々に変えているし、総理大臣にとっては人間よりアテになるブレーンだろうな」    
 ジョーが欠伸をしながら述べる。
 確かに総理大臣に信任されていなければここまでの事はできていないだろう。
 総理大臣に取り入ったのは内調を強制捜査した事がきっかけだった。
 それから総理大臣に反発するもの、批判するもの、従わないものを徹底的なまでに弾圧して来たのだ。
「総理大臣より頭いいんじゃないッスかねぇ。タツって」
 ミケが眠そうに目を閉じながら言う。
「渋沢会の情報は高く売れたけど、こっちでも大きい情報が欲しい所ね」
 ネオが前脚を舐める。
 ジャーナリストにとってこの島は新鮮味に欠けるが、渋沢会のような大きな動きがあれば国際的に注目される事になるだろう。
 もっとも、今の所悪目立ちしているという所は大きいのだろうが。
「議会は解散しちまうし、情報収集も難しくなるな」
 バドがやれやれとため息をつく。
「議会が解散して内閣も機能していないって事はタツのやりたい放題なんじゃねぇか?」
 ダンがよっこらせと腰を上げる。
 年寄りのダンより身体の動きが鈍いとはエドは悔しい限りだ。
「取り合えず情報収集しないとな」
 バドが立ち上がり、ミケ、ネオがそれに続く。
「君も歩くんだ。リハビリはまだ終わって無いんだぞ」
 ヤンに急かされてエドは立ち上がる。
 タツに遭遇したら今度こそ殺される気がする。
 この島に来た頃は怖いもの知らずだった。
 しかし、行動の指針であるルビィを奪われてからというもの、何を目的にしたら良いのか分からない。
 ヤンのリハビリを受けていても、歩けるようになる事を真剣な目標と考える事ができなかった。
 ルビィを取り戻す。
 その目標は存在する。しかし、以前のように無我夢中でという気にはなれない。
 ヤンに蘇生されたとはいえ、一度殺された時に心のどこかが死んでしまった気がするのだ。
 エドはヤンに急かされて永田町に足を向ける。
 永田町は赤坂から目と鼻の先だし、足腰を鍛えるウォーキングには丁度いい。
 何度もヤンと散歩に来ているので道はすっかり覚えてしまっている。
 夏の日差しが照り付ける中、日陰を選んで歩く。
 熱波で火照っているのか、妙に身体が熱い。
 前を歩くヤンが妙に艶めかしい。
「エド?」
 ヤンが振り向く。
 いつもとは声音が若干違っている気がする。
「ん? 何でも無い。それよりこんな所を歩いていて情報なんて手に入るのか?」
「そうは言っても君が歩ける距離は知れているし、一応は政治の中心に来ているんだから見落とさなければ何かあるとは思う」
 ヤンが尻尾を振りながら歩き出す。
 選挙を控えているという事もあって、議員たちは地方に戻り、永田町からは人間が減ったように見える。
「何かって言っても漠然とし過ぎてんだろ?」
「議員が地方に帰っても猫は残っている。タツはこの街にいて、何かを画策しているんだ」
 ヤンの言う事にも一理ある。
 タツがこの街にいて、何かを企んでいるのなら、思わぬ落とし穴があるかも知れない。
 だが、今や立志伝中の存在であるタツと、身体障害の猫とでは話にならない。
 タツが何を考えているのか分からない。
 唯一分かるのは……
「……タツは俺を人質に取ってルビィに自分を愛せって言ったんだ。ルビィが返事に戸惑って俺は弾丸を撃ち込まれた。ルビィがタツを愛するって言ったら、俺は不要だって言われてトドメの一撃をもらった」
 エドはこれまで言わなかった事を漏らす。
 エドがタツの事で知っているのはそれだけだ。
「エド、ルビィに当たってみようか?」
「事務所の人間と公安猫が貼りついているんだぞ?」
 エドは言う。ヤンが助けに来れなかったのも公安猫がいたからだと言ったではないか。
「取り合えず尾行してみよう。思わない方向から情報が得られるかも知れない」
 ヤンに従ってエドは歩き出す。
 ルビィを生で見るとしたら二か月以上が過ぎている。
 ルビィと一緒に過ごしたのは一カ月に満たず、ヤンと一緒の期間の方が長い事になる。
 よお、と、軽く声をかけられる気がしない。
 島民的歌姫と殺されかけた猫とでは天と地の開きがある。
 もし、互いに目が合って、何か言葉を交わすとしたらどんな言葉になるだろう。
 エドは幾つか考えて止めた。ルビィにかける言葉が何一つ見当たらないのだ。
 自分は今でも本当にルビィの事が好きなのか。
 エドは悶々とした気持ちで���上を歩き続けた。
 
 〈9〉
 
  ルビィが一日の業務を終えて戻ったのは六本木の��高級マンションだった。
 エドはヤンと共に近くの路地から観察している。
 マンションの周囲は機動隊猫とシェパードによって守られている。
 その厳重な警備は首相官邸に匹敵するだろう。
「警備が厳重だな。これ以上は近づけそうも無い」
 ヤンの言葉にエドはただ頷く。
 今のエドがのこのこ出て行ったらシェパードに身体を食いちぎられて殺されてしまうだろう。
「でも、幾ら島民的アイドルとはいえ、公費で守る事は考えにくい」
 ヤンが周囲を観察する。
 確かにアメリカのスターがFBIに四六時中守られているなどという話は聞いた事があ無い。
 黒のBMWが乗りつけ、一匹の猫が姿を現す。
 エドの身体に悪寒が走る。
 警官たちが一斉にタツに向かって敬礼する。
 この警備はルビィのものではなくタツの為のものだったのだ。
「ルビィはこの監獄に囚われているのか」
 ヤンの言葉にエドは目を向ける。
 タツを守るだけなら常時これほどの警備体制を敷いておく必要は無い。
 ルビィを屈服させ、逃げる事ができないようにするためにこれだけの警官が配置されているのだ。
 エドは暗黒の塔を見上げる。
 並み居る敵を蹴散らし、お姫様を助けに行けるのは童話や漫画の中だけだ。
 エドは一般の機動隊猫にもシェパードにも敵わない。
 どう考えても助けに行く事などできない。
 勇気を出して出て行く事は自殺でしかない。
 もう一度死んだ身体なのだと言っても、次に蘇生させられる保証はないのだ。
 エドは傍らのヤンを横目で見る。
 手を尽くして命を助け、歩けるようにまでしてくれたヤンの為にも命は粗末にできない。
 ルビィを追いかけていた時、エドの命はエドのものだった。
 だが、今の命はヤンが与えてくれたもので、リハビリを嫌がるエドを池に落として歩けるまでに快復させてくれたのもヤンなのだ。
「ヤン、帰ろう」
 エドはマンションに背を向ける。
「エド、いいのかい?」
 ヤンの言葉にエドは小さく頭を振る。
 エドがルビィにできる事は一つも無い。
「俺はあの日死ななかった事を恨みもした。だが、自分が生きている事が誰かに生かされている事だって気付いた。今、勇者を気取って出て行く事は自殺行為だし、それは俺を生かしてくれた猫に対する裏切りでもある」
 エドはゆっくりと歩きながら言う。
「全てを失ったと思っても、自分には守るべきものがあると知った時、猫はどうすべきだと思う?」
「君はずるいものの言い方をするな」
 ヤンが後ろから声をかけて来る。
「俺は元々この島には思い入れも無かったし、ただルビィを追いかけて来ただけだった。冒険もしたと思うし、最後には命まで失う事になった。もし、俺が大人だったら危険に気付いた時に強引にでもルビィを連れ戻すべきだった。そうしなかったのはルビィの奔放さに俺自身を重ねて酔っていた所があったからだと思う。俺は自分が見えていなかったし、本当のルビィも見えていなかった。どうしようもなく若かったんだ」
 エドは更に歩いてマンションから遠ざかる。 
「本当のルビィ?」
 ヤンが訊ねて来る。
「どんな猫でも他猫の本当の事なんて分からない。俺は分かった気になっていただけだ。正義漢が強くて無鉄砲で。でも、それ以上のルビィを俺は知らない。誰かの事を知ったと思っても、それは相手の中に自分の影を見出す事に過ぎない」
「そう決めつけてしまうのは孤独過ぎると思わないかい?」
 ヤンがエドの肩を叩く。
「ヤン、お前はどうしてそこまで俺に構うんだ?」
 エドの言葉にヤンが頭を振る。
「猫はお人よしだから働いたり助けたりするって事は君が言っていた事だろう?」
 そうだった。ニューヨークに居た頃は働いていてもそれが猫のアイデンティティだと思っていた。
 猫が猫を助ける。そんな当たり前の事さえ恐ろしい経験の中で摩滅してしまっていた。
 ニューヨークの路地から見上げた月が脳裏を過る。
 エドの目に涙が溢れる。あれから半年と経っていないのに、十年も離れていたような気分になる。
「お人よしか……そうだったな。猫はシンプルで良かったんだよな」 
 エドは雲が街の明かりを受けて鉛色に輝く空を見上げる。
 ニューヨークに帰ろう。こんな陰惨な島にいても自分が不幸になるだけだ。
「ヤン、俺と一緒にニューヨークに来てくれないか?」
 エドの言葉にヤンが驚いたように目を見開く。
「この島に居たら遅かれ早かれヤンも俺みたいな事になる。最初会った時、仲間が犠牲になったから帰れないって言ってたよな? そのお前が俺を必死で助けてくれた。今度は俺の番だ」
「ルビィの事はいいのか?」
 ヤンが躊躇いがちに訊いて来る。
「俺はルビィと共に死んで、お前と共に生き返った」
「僕に介護を続けろと言うのか?」
 エドはヤンの鼻に自分の鼻を押し当てる。
「俺は厄介な障害者で、介護してくれる猫のえり好みが激しいんだ」
 エドはヤンと口を重ね合わせる。
 深夜の路地裏で二匹だけの時間が過ぎていく。
  〈10〉      
  「エド、昨夜の事は敢えて聞かない。これからどうするつもりだ」
 ジョーに花道の裏に呼び出されたエドは小さく息を吐く。
 発情期で、何故か路地にマタタビの臭いが染みついており、理性が飛んでいた事は事実だ。
 結果としてかなりの高確率でエドは父親になる事だろう。
「ジョー、俺は……」
 ヤンを連れてニューヨークに帰る。
 簡単なはずの言葉が出て来ない。
「お前がその選択をするなら俺がルビィを助け出す」
 ジョーが決然とした表情で言う。
 エドはかつてジョーがルビィを決して手放すなと言った事を思い出す。
 今思えばジョーもルビィの事が好きだったのだろう。
「俺にはお前を止める資格も資質もありはしないさ」
 言ったエドの頬をジョーの猫パンチが叩く。
 エドの身体が地面を転がる。
「お前のルビィへの想いはその程度だったのか! 俺のライバルとして立ちはだかる気は無いのか!」
 ジョーの言葉を受けてエドは立ち上がる。
「俺はヤンを選んだ! こんな俺でも父親になる! いつまでも夢を見てる訳には行かねぇんだ!」
「そんなザマで父親に慣れるとでも思っているのか。子供になれそめを聞かれて何と答える気だ。愛する猫を追って遠くの島に行って叩きのめされ、現地で親切にしてくれた猫と関係を持ったと説明するのか? ルビィとの決着もつけないまま、背を向けて平凡な日常を選ぶのか。ヤンを選んだのだとしても、ヤンと向き合う為にもお前自身ルビィと決着をつける必要はある筈だ」 
 ジョーの言葉にエドは歯を食いしばる。
「お前に分かんのかよ! 手も足も出なくて、一度は殺されて。戦う度に身体が不自由になって……今だって辛ぇんだよ! もう木に登る事も塀に飛び乗る事もできねぇ。俺が他の猫をどんな目で見てるかお前に分かんのか!」
 エドは吐き出すように叫ぶ。身体が不自由な事がどれほど辛いか。
 元気に動き回る猫がどんなに妬ましいか。
 それでも傍に居てくれたヤンがどれだけ愛おしいか。
「分からん。俺はタツと戦った訳でも、身体が不自由になった訳でも無いからな。だが、やるべき事を成し遂げたなら身体が不自由でも胸を張って生きて行けるだろう。お前が負い目を感じているのはまだやるべき事を成し遂げていないからだ」
 ジョーの言葉にエドは項垂れる。
「……怖いんだよ。タツが。あんな化け物には会った事がねぇ。勝てる気もしねぇ。あいつを避けて考えると何もできない気になるんだ」
「エド、お前は一人じゃない。俺たちもいるし、そのうち父親にもなる。もう一度立ち向かう事を考えてみろ。今逃げたらお前は一生逃げる事になる」
 ジョーが言うだけ言うと背を向けて去っていく。
 生れて来る子猫たちの為にも父親は立派だったと語られるようにしなければならない。
 猫は犬死はできない。
 タツにも弱みは、弱点は必ずあるはずだ。
 そしてエドにもまだ何か強みが残されているはずだった。
  〈11〉  
  『……旧内調の情報漏洩に伴う共謀罪で、全国の選挙区で立候補していた十万三十名が現行犯逮捕され、約半数が抵抗し射殺されました。これに伴い後援会や支援者二千八百万人が逮捕、または警察への抵抗によって現場判断で処刑されました。死者の総数は公表されていないものの、三分の二が処刑されたものと推測されています……』
 タツは執務室でマタタビ風味の水を舐めながら報道を眺めている。
 一夜で与党以外の候補者は全て捕縛され、後援会や支持者は動く的になった。
 惨殺死体の映像は規制をかけずに全てのメディアで自由に流れるままにしている。
 他国は凄惨な映像をブロックする為に島に対するアクセスを規制している。
 島民は完璧なまでに委縮した。
 SNSでも批判的な書き込みは一切見られない。
 与党を褒めたたえる言葉以外発する事は許されない。
 投票まで残り二週間。
 今回は与党圧勝というだけではない、反逆者には死が待っているという強烈なメッセージとなる事だろう。
 タツが総理大臣になる瞬間はもう目の前まで来ているのだ。
  〈12〉
   警察と自衛隊によるジェノサイドの情報は一瞬で世界を一周した。
 国連は厳しい姿勢で島の政府に説明を求めたが、島は選挙中で政府が存在しなかった。
 選挙を待って追及される事になるだろうが、その時誕生しているのは総理大臣という名の専制君主なのだ。
「この島の住人は自分たちの死刑執行人にせっせと税金を納めていた訳ね」 
 ネオが尻尾を舐めながら言う。
 ジェノサイドは世界に衝撃をもたらしたが、充分な情報があるという訳ではない。
 内調の強制捜査は選挙が告示される一カ月も前の話だ。
 このタイミングでジェノサイドを行ったという事は政治的意図が大きいだろう。
「裏ではタツが動いているか……しかし情報統制でロクに情報が集まらん」
 ジョーが苦い表情を浮かべる。
 島民を畏怖させる情報は湯水のように溢れているが、裏で手引きしたのであろうタツの姿が浮かび上がる事は無い。
「ネット上でも批判一つ出て来ねぇ。そういう島民性って事もあるんだろうがな」
 ダンが座布団の上でうずくまりながらため息をつく。
 普通の国であれば大なり小なりデモが発生する所だ。
「そのうち渡航規制で帰国できねぇなんて事になるんじゃねぇだろうな」
 バドが髭をしごきながら言う。
 そこまですれば安保理決議で国連軍が攻めて来る事になるだろうが、海外猫の立場が今まで以上に苦しくなる事は想像に難くない。
「米軍基地に逃げ込めば大丈夫ッスよ」
 ミケが気楽な口調で言う。
「その時はルビィも一緒だ」
 ジョーが空気を引き締めるような声を発する。
 ルビィはタツと同等の警備、監視の下に置かれている。
 報道猫が出て行って救出できるような状態ではない。
「ここ一週間監視しているけど隙らしい隙は見当たらない。米軍が動くなら別だろうけど僕たちにどうにかできる問題じゃない」
 ヤンが深刻な口調で言う。
「将を射んとする者はまず馬を射よって言うだろ? タツの馬を攻撃すりゃいいんじゃねぇか?」
 エドは誰にともなく言う。
 タツやルビィ個人を狙うから困難なのであって、自分たちにも狙えるターゲットがある筈だ。
「俺たちだけの力じゃ難しいかも知れねぇが、可能性はあるだろうな」
 ダンが年長者らしい貫禄を感じさせる声を出す。
「マジっすか? どんなウルトラCを決めたらできるんスか?」
 ミケが座布団の上で飛び跳ねる。
 同じ跳ねるなら廊下でやって欲しいと思う。
「この島はどこからも攻撃されねぇ、安全な状況だから中国に攻められるって騒いで、島民の富を食い物にしてやがる。だが、本当に中国が攻めて来たらどうなると思う? 国防に大金をはたいちゃいるが軍隊は実戦経験なんてねぇし、そもそもが戦闘を前提に編成されてる訳でもねぇ。戦争は軍事力で決まるんじゃねぇ。国家の総合力が問われる事になる。百万の兵がいても、一日分の食糧しか無けりゃ二日目からは飢えと戦う事になる。この島は島民から徹底的に搾取し尽くしていて、戦闘を支える足腰が萎えるどころか無くなっちまってる。中国と戦争だと煽って何もかも差し出させて来たんだ。当然の事だ。一方の中国は軍事力そのものは弱くても経済力から工業力、食糧生産、テクノロジー、人的資源で優っている。いざ戦争になりゃあ幾らでも動員できるものがある」 
 ダンの説明にエドは納得する。
 中国がその気になればこの島は一たまりも無いだろう。
 もっとも、こんな陰気な島を占領しても嬉しくも楽しくも無いだろうが。
「でも、中国は戦争なんてしねぇだろ」
 国内の民族紛争の話はあるが、あくまで国内問題であって、国境問題でのさや当てを別にすれば現在の中国が軍事力で他国を侵略したという事は無い。 
「だから、中国が本気で攻めるって情報が伝わったら、この島の政治家たちはどうすると思う?」
 ダンが質問に質問を返して来る。
「友好条約とか同盟とか外交努力をするんじゃねぇのか?」
 エドは思いついた事を��にする。
「内向きにどう説明する? 昨日まで攻めて来るって煽ってた相手が本当攻めて来る。外交で問題を解決したい。でも、それはとんでもねぇ二律背反だ。島民はこれまで中国と戦う為にどんな苦しみにも耐えて来たんだ。どういう口実で和平を結ぶんだ?」
 ダンの説明にエドは頭を巡らせる。
 政治家が中国と仲良くしたいと言えば、島民は金を返せと言うだろう。
 巨大な立像には我慢できても、中国との和平には我慢できないだろう。
 政治家は和平の話を島民には決して知られてはいけない事になるが、そんな大きな外交交渉は情報統制でも消し去る事は不可能だ。
 そして最も厄介な事にこの島は現在選挙中で政治家がいないのだ。
「でも、中国を怒らせるなんてどうすりゃいいんだ? 散々敵国だって煽ってんだろ?」
 エドはダンに訊ねる。逆説的だが中国が怒っていないから島は存続しているのだ。
「本当に中国を怒らせる必要はない。中国が敵意をむき出しにしていると思わせるだけで充分だ」
 話を聞いていたジョーが口を開く。
「中国で島を敵視する動きがあって、不買運動が起こったり、島の債権を売却したりする動きが起こる。それだけでも島は大打撃だが、それが起きりゃ島の為政者はなりふり構わねぇだろな。それかケツまくってアメリカかヨーロッパに移住しちまうかのどっちかだ」
 バドの言葉にエドは納得する。
 島を敵視するという情報があって、実際に不買運動、工業製品の部品の輸入停止などが起こり、島の債権が売りに出されれば経済がズタズタになるだけでなく開戦間近と考えるようになるだろう。    
「でもどうすりゃいいんだ?」
 エドには方法までは思いつかない。
「この島のネットには中国を敵視する情報が溢れているわ。それらしい情報を流せば連中が勝手に拡散する。それを大手のメディアか政治家が鵜呑みにすればそれはフェイクニュースから、この島にとっての事実になるわ。この島の定期的な軍事演習を大々的に中国をターゲットにするものだとして中国側に報道してもいいわ。中国側が大使に召喚をかければ、それを敵対的だとして更にこの島に燃料投下できる」
 ネオが顔を洗いながら言う。
「それを理由に島が中国の大使を呼びつければ嘘が本当になっちまうか……」
 エドは想像を巡らせる。中国政府が島の大使を呼びつければ、島は国内的に中国大使を呼びつけない訳には行かなくなる。
 それには口実が必要だが、そもそもが島の軍事演習がきっかけなのだから中国側を責める理由など何一つない。
 何らかの見返りを提示して事を穏便に済まそうとするのが関の山だろう。
 その見返りが国内的に大々的に報じられれば、政府の弱腰が際立つ事になるだろう。
 譲歩した外務省の役人を更迭するとしても、その後には更に勇ましい事を言う人間をつけなければならないだろう。
「もちろん、この話は机上の空論だけどね。この島が中国を敵視しているって特性を逆手に取れば逆転の目は出て来ると思う」
 ヤンがタブレットに幾つかの企業を表示させる。
「この島で作られている電池や電子機器のパーツを作っている企業だ。このパーツを使って中国で作られている製品は多い。この島は製品の顧客でもあるんだけどね。で、この情報を敵国支援として反中国を扇動しているネットユーザーに親切に教えてあげる」
 ヤンがタブレットを操作して情報を一括送信する。
 企業として登録されている情報の全てが一斉に拡散して行く。
 会社の従業員から、家族、子供に至るまでが見る間に実名と写真付きで広まっていく。
「おい、実名出ちまってるけど平気なのかよ」
「この島の文化では晒しと言われてて、ごく自然な行為なんだよ。そして晒しに遭った人間は社会から迫害される事になる」
 エドの問いに晒しの元凶であるヤンが涼しい顔で答える。
「迫害って?」
「お前、これまで散々生ポ猫なんかを見て来ただろ。それを理由に自殺しちまうような差別と弾圧が始まんだ。それも島民自身の手によってな」
 バドがタブレットを操作しながら答える。
 企業に勤めている従業員は勿論、その子供までもが厳しい差別に遭う事を考えると背筋が寒くなる。
 だが、全ては呪いのシステムを造り出したこの島の自業自得とも言えるのだ。
「丁度感じの良さそうなデータがあったから、中国のメディアに島の軍事演習をリークした」  
 ジョーが映像と記録をタブレットに表示する。
 元々政府間では合意があるのだろうが、明らかに中国を敵視した国粋的な演習は市民に大きな悪感情を抱かせるだろう。
 中国の市民が腹を立てて政府に抗議したなら、合意していたとは言えないだろう。
「島の輸出企業株価の下落が始まった。中国への部品輸出も含めてCEOが謝罪会見だ」
 ダンがタブレットを操作しながら言う。
 一つの企業が島民に許しを乞えば他の企業も続かざるを得なくなる。
 対中輸出は凍結せざるを得ず、株主の為に大規模なリストラが行われ、連鎖倒産のリスクが発生する。
 ネット上の動きを見ているとまるでナチスのユダヤ人狩りだ。
「うわぁ、一部上場株価平均が十三%下落で市場閉鎖って……」
 ミケがタブレットを見て目を見開く。
 この島では数時間で数百兆円が吹き飛んだ事になる。 
「ここで島の経済危機は中国の陰謀だと燃料を追加する」
 ヤンが肉球でタブレットを叩きながら言う。
 仕草は可愛いが、やっている事はえげつない。
「徹底的に反中感情を煽って政治家の退路を断つ」
 ネオも忙しくタブレットを叩いている。
「来島予定の航空便の乗客四三%がキャンセル。秋葉原で始まった右翼の反中デモの映像を世界のメディアに一斉配信」
 ダンがタブレットを叩く。
 エドは自分のタブレットを取り出す。
 自分も見ているだけではいけない。エドにできる事をするのだ。
 エドは公園で倒れていた無数の猫たちと、猫を殺処分する保険猫の映像を取り出す。
 ニューヨークの猫の顔役であり、出国する時に応援してくれたノラにこの島の猫の惨状を送信する。
『エド、ルビィが囚われたのか?』
 ノラからメッセージが届く。
「自発的に歌いに行ったので囚われたという表現は適切ではないかも知れません」
 エドは少しだけ考えてインカメラで自分を撮影する。
「追い払われる時に片目を奪われました。銃撃されて足も不自由になりました」
 エドが送信すると仲間たちから安否を問うメッセージが大量に届く。
『全米猫権評議会が開催される事になった。多くの島系企業で猫がボイコットを開始した。お前は一人じゃない。ルビィを連れて帰って来い』
 ノラのメッセージがエドの胸に突き刺さる。
 ルビィと一緒に帰るかも知れないが、パートナーはヤンだ。
 エドの体感ではもう長い月日が過ぎたように感じられているが、外の世界では僅か数カ月が過ぎただけなのだ。
  〈13〉
 
  島がかつて無い程の衝撃に揺さぶられている。
 タツは悲観的な情報を隠蔽し、ニュースではアイドルに恋バナをさせている。
 お茶の間はそれでいいかも知れないが、経済界では大手企業の連鎖倒産の危機が発生しており、対中輸出企業に勤めている人間や家族が傷害事件に遭って次々と病院に搬送されている。
 ネット上では反中論が燃え上がっており、全国でネット右翼がデモを起こして騒いでいる。
 中国の反応はまだ薄いが、電子機器の部品調達先をインドや韓国に移し始めているという情報もある。
 まずい事にルビィを手に入れる時に殺した筈のアメリカ猫が生きていて、アメリカの猫たちが抗議活動を開始している。
 ジェノサイドに続く中国ヘイトに端を発する経済危機。
 国際社会に餌を与えて、経済援助を乞わなければならないが、誰かの首を差し出そうにも政治家は選挙期間で不在。
 しかもこの島には現在最高意思決定機関が存在せず、タツは警察を押さえているもののそれ以上の権力を有している訳ではない。
 このままでは選挙後には島が財政破綻しているという事にもなりかねない。
 情報操作を行おうにも親中派の人間は大粛清で死んだか刑務所にいるかのどちらかだ。
 島民が一丸になって反中で燃え上がっている状況で、警察が抑制する事があれば新政権の人気取りで警察が叩き潰される事になる。
 新政権を発足させる気はさらさらないが、タツが総理大臣になる上でマイナスイメージを作る事はできない。
 外務省と財務省は火だるまでまともに機能していない。
 タブレットが着信を告げる。
「私だ」
 タツは短く答える。
『機嫌が悪いようだな』
 ナッツの言葉にタツは苛立ちを感じる。
 機嫌が悪いどころではない。総理大臣になった瞬間に外交と財政で最も失敗した総理になっている可能性が大きいのだ。
「事態が楽観できないのは事実だ。正直私も頭が痛い」
『君が弱音を吐くとはね。そんな君に一つ提案があるんだ』
 ナッツが気遣うような口調で言う。
 ナッツに気遣われる覚えは無いが、タツ一人で悶々としていても問題が解決しないのも事実だ。
「提案とはどのようなものだ?」
 タツは耳を傾ける姿勢を示す。
『世界ではSNSやブラウザでヘイトやアウティングが規制されている。メーカーからの要請に応じたと言えば反中ヘイトも晒しも一瞬で取り締まられる。しかも民間企業のする事だから警察や君に矛先が向かう事は無い』
 ナッツの言葉にタツは感心する。
 確かに海外のメーカーのやった事であれば島民は従うだろうし、ブラウザやSNSの多くは欧米のものであり、島民は欧米のする事には異議を唱えない。
「なるほど。それは私の想像の及ぶ所では無かった。早速企業の規制を導入しよう」
 だが、これは諸刃の剣でもある。
 この島の島民は助け合いではなく憎み合いで生きている。
 ヘイトが発信できなくなれば島民のストレスは加速度的に高くなるだろう。
 島民のガス抜きができなければ、いかに従順な島民性と言っても政府に逆らう可能性も出て来る。
 政治は恐怖だけでは成り立たない。常に仮想敵と弱者を用意し、パッシングさせる事で円滑に操作する事ができるのだ。
 とはいえ、現状を打開するにはそれしか方法が無い。
『グローバルスタンダードと言えば島民は文句を言わないだろうさ』
 ナッツの言葉には揶揄するような響きがある。
 島民はこういった横文字に弱い傾向がある。
 特に欧米と同じ規格だと言うとそれが島に不利益であっても喜んで受け入れる。
「今回は君に助けられたようだ。所で選挙の結果は既に確定している。今更情報番組など必要ないだろう。TV局に圧力をかけてニュース番組から報道要素を失わせろ。大手メディアの新聞やネットニュースも同様だ。島民にはアニメとアイドルとスポーツだけを見せておけばいい」
 タツは総理大臣になって全権を掌握するが、それは人間に崇められたいからではない。
 純粋に権力を欲するが故だ。従って自己神格化などというものにも興味が無い。
 報道がタツの業績を称える必要は無い。
 事実だけがタツの報酬なのだ。島民はタツが総理大臣という事をぼんやり知っている程度で構わない。
『ようやく君らしくなって来たな。メディアにはそのように圧力をかけよう』
 ナッツはタツを元気づけようとしているのだろうか。
「私らしさか……それはこれから作り上げる未来が形作る事になるだろう」
『裏社会は俺に任せておけ。君の野望が達成されれば後は時代が君について来るだろう』
 ナッツの言葉にタツは苦笑する。
 支配者である自分が他人の励ましを受けるなどあり得ない事だ。
「私をおだてても大した利益にはならんよ。それより中国に働きかけて傾いた島の企業を買収させてくれ。資金はこちらで用意する」  
 反中ヘイトで傾いた製造業を国策で救済する事は、島民感情と既に発生した損失から困難を極める。
 それなら輸出先である中国の資本に組み入れた方がいい。
 買収した中国の企業が必要だと思えばてこ入れするだろうし、それでオーナーが変わったとしても会社そのものが残って経営が健全化するならそれで構わない。
『それこそ売国奴と呼ばれる事になるんじゃないのかい?』
「非情な売国奴は無能な愛国者よりマシだと思うがね。買収に応じない時には株主総会を開いて経営陣を退席させて乗っ取っても構わない。君がいいと思う値段で売りつけるのも一つの方法だ」
 タツは思考が平常に戻るのを感じながら言う。
『君はつくづく悪い猫だな』
「悪評の立たない英雄はいないのだよ。君は利益を追求したまえ。私は権力を追求する」
 言ってタツは通信を切る。
 降ってわいたような騒動だったが、これで鎮火の見込みができたというものだ。
  
〈14〉
   島がネットのヘイト規制を受け入れた事で反中運動は停止した。
 欧米規格を取り入れた事で国際社会は島の姿勢を歓迎した。
 中国と貿易を行っていた企業は中国資本の下に入るか合併するかという道を歩んだ。
 島は経営立て直しを行わずに済み、中国企業は製品のコストダウンができる。 
 花道の報道猫たちが仕掛けた攻撃は見事に躱されてしまった事になる。
 TVでは短いニュースで選挙結果が表示された。
 当たり前だが与党が圧勝し、総理大臣が皇居で現人神から親任式を受け、衆参両院の議員が国会議事堂に集まり総理大臣の就任演説が行われる。
 総理大臣が就任演説を行った後は組閣という事になる。
 エドは別に与党の勝利を止めようと思った訳ではない。
 単純にルビィを救出できる機会を求めただけだが、島の体制もタツの強権も揺らぐ事が無かった。
 ネットの政府広報だけが総理大臣の就任演説を放送しているが、内容は議会を解散した時と変わらない。
「政治体制維持法と国家総動員法が発動されてこの島は人類史上最も苛烈な専制君主制国家となるのか」
 ジョーが呟くようにして言う。
 エドにとっては今更島の体制がどうなろうと関係無い。
 これまでも専制君主制国家のようなものだったし、法的な裏付けができたという事に過ぎないだろう。
「タツはこれを狙ってたんか? 何だからしくねぇ気がするんだが……何が目的かは分からねぇが内調を強制捜査した時みてぇなデカい花火が上がると思ってたんだが」 
 バドが不審そうな顔で言う。
 解散総選挙を仕掛けたのはタツなのに、与党が元通りの椅子に戻っただけでは何の為の選挙か分からない。
 ジェノサイドが行われて島民が政府を恐れるようなったのは事実だが、タツ自身は全く利益を得ていない。
「総理大臣は解散前に国家総動員法を施行していた。現在でもその法は生きているはず」
 ヤンが考え込む。エドは妊娠したヤンの身体を労わる事しかできない。
 唐突に地響きと轟音が同時に部屋を揺るがす。 
 照明が消え、家電製品が機能停止する。
「地震か!」
 ジョーが声を上げる。
 一瞬建物を浮かして落としたかのような凄まじい衝撃があったが、それ以降は振動は続いていない。
「国会議事堂が消えている!」
 ネオの言葉に外に目を向けると国会議事堂があった場所がオレンジ色に輝き、どす黒い煙が空に向かって立ち上っている。
「これが狙いか!」
 ダンが声を上げる。
「内閣総理大臣が死亡した場合、成人の男子がいない場合は副総理に、副総理もいない場合は閣僚にその位が譲位される。だが、その閣僚もいねぇ場合は内閣府の長官から総理大臣が選ばれる」
 ダンの言葉にエドは戦慄する。
 全国で選ばれた国会議員を皆殺しにして、自分が唯一の権力者となるべくタツは周到にこれを計画していたのだ。
 遠く永田町や霞が関の方から銃声が聞こえて来る。
 タツが警察を動かしてライバルを抹殺しているのだろう。
「これってクーデターじゃないッスか?」
 ミケが興奮した様子で言う。
「クーデターは武力で政権を打倒する。国会議事堂が吹き飛んだのがタツの仕業だったとしても、タツは法律の手続きに従って総理大臣になるんだ。元警察出身のタツなら爆破を他の長官の陰謀に仕立て上げるだろう」
 ダンがミケに答えるようにして言う。
 限りなくクーデターに近いが、タツは法律に則って最高権力の座に就くのだ。
『私は内閣法制局長官タツである。三十分前、国会議事堂は内閣府官房長官によって爆破された。現在、警察及び消防が救助に当たっているが、生存者については絶望的としかコメントできない。使用されたのは小型の核と見られ、これは長年の原発運用の間に極秘のうちに造られ有事に際して島の政府が秘匿して来たものである。この最終兵器の管轄は内閣府国家安全保障会議にあった。使用の権限を持つのは内閣総理大臣だが、総理大臣不在の場合国家安全保障会議首班、即ち内閣官房長官がこの使用の権限を握る事となる。警察庁は官房長官の身柄を拘束した。理由は明白である。内閣総理大臣が死亡した場合、その職務は内閣閣僚の一人に移される。内閣が全員死亡した場合は内閣府の長官から選任される。即ち、内閣官房長官か、内閣法制局長官のいずれかである。内閣官房長官は全ての閣僚と国会議員が集合するこの機会を虎視眈々と狙っていたのだ。だが、このような破壊的行為で島の最高権力の簒奪が許されてはならない。しかし、島に政治的空白を作る事は島民全員の不利益となる。先の選挙における反政府勢力による立候補は大量の逮捕者と死者とを生んだ。突如として生じた経済危機に際し、我が島は何ら有効な手を打つ事が出来なかった。今後政治的空白が続く事があれば、これらを上回る災厄がこの島を襲う事は自明の理である。私、内閣法制局長官タツは国家総動員法に従い、内閣総理大臣となる事をここに宣言する。私は島民の安全と利益を最優先課題として政治体制維持法を施行し、速やかに島の秩序を取り戻す事を誓う。島民には各地の警察と自衛隊の誘導に従い、治安回復に協力を願いたい』
 タブレットから一方的に響いた通信が切れる。
「タツが……猫が最高権力者になると言うのか……」
 ジョーが茫然として呟く。
「デカいニュースだって喜んでいいのかどうか……」
 バドも呆けたような表情を浮かべている。
「どうするんスか? ここで眺めてていいんスか?」
 ミケが声を上げる。
「何ができるってんだ。ヤツはこの島の最高権力者だ。東京全域に警察と自衛隊が展開してるだろう。下手に動き回れば殺される可能性が高い。二週間前にジェノサイドがあったのを忘れたか」
 ダンが声を響かせる。
 タツはただ権力の中枢に躍り出た訳ではない。夥しい量の屍の上にその地位を築いたのだ。
「ジョー、ひょっとしたら六本木のマンションは手薄なんじゃねぇか」
 エドはジョーに向かって言う。
 エドの脳が高速で回転し始める。東京全域が戒厳令下に置かれるなら相対的に六本木のマンションに限定された警備は緩和されるだろう。
「六本木? まさか、今ルビィを助けに行けと言うのか?」
 ジョーの言葉にエドは頷く。
 総理大臣の就任を見て知ったばかりの情報だが、この島の総理大臣は皇居に行って現人神の親任式を受けなければ正式に認証されない。
 電撃的に総理大臣の座についたタツは、猫というハンディを打ち消す為にも親任式を最優先するだろう。
 この好機は二度と訪れない。タツが総理大臣に即位してしまえば完全に手出しができなくなる。
「俺はタツに会いに行く」
 エドは腹を括る。ルビィを手放したのはエドの責任だ。
 今更ルビィを助けるなどというおこがましい事は言えない。
 しかし、ルビィを奪ったタツに対しては別だ。
 ジョーに言われた事ではあるがヤンと新生活を始める為にも、ルビィやタツとの事は清算しておかなければならない。
 ルビィが自由で無ければヤンに対する愛情を完全に証する事はできないのだ。
「無謀だ。今タツがどこにいるのかさえ……」
 ヤンがエドを制止しようとする。妊娠しているとはいえ関係を持ってからまだ日が浅い。
 ヤンの不安は大きいだろう。しかし、ルビィとは別れると言って別れた訳ではない。
 そもそもルビィに気にかけられていなかったとしても、エドの行為はヤンの記憶に刻み込まれている筈だ。
 子猫たちに両親の愛を信じさせる為にもルビィやタツと決着をつけなければならない。
「総理大臣は現人神の親任式を受けなきゃならねぇんだろ? ヤツが最速で権力を固めるなら向かった先は皇居だ」
 エドは立ち上がる。皇居は堀に囲まれており、幾つかの橋が渡されている。
 戦略も戦術も無い。勝算はたった一つ。それすら運頼みに近い。
 しかし、今を逃せばタツを倒せる機会は生涯訪れないだろう。
「行ったとしても厳重に警備されているはずよ」
 ネオが指摘する。確かにタツは身を守る為に厳重な警戒を敷いているだろう。
 それが最大のネックだが、チャンスは一瞬でいいのだ。
「俺はタツと決着をつける。ジョー、ルビィを頼む」
 エドは足を引きずりながら歩き出す。
 タツの野望に興味は無い。許せないのはルビィを奪った事だ。
 タツが現れず、ルビィがいたとしてもエドはヤンを好きになっただろう。
 だからこそ余計にルビィが奪われた事が悔やまれる。
 そして……。
 エドはついて来たヤンに顔を向ける。
「俺は子猫に胸を張りたいんだ。けじめだけはつけなくちゃならねぇ」
「それがエドの決心なんだね」
 ヤンの鼻にエドは軽く鼻をくっつける。
 いつまでもヤンの体温を感じていたいと思う。
 だが、それ以上に正直に、誠実にありたいと願う。
「身勝手だとは思うさ。ただ……上手く行ったら家族になろう」
 エドはヤンをそっと押しやると料理長が使っている猫トラに足を向ける。
 猫トラに乗り込み、イグニッションを押し込む。
 一生に一度の大勝負が、決して落とせない勝負が始まる。
 アクセルを踏み込み、ヘッドライトをつけずに猫の視力を生かして街路を疾駆する。
 タツとの三度目の戦いが、最期の戦いが始まるのだ。
  〈15〉
   背中にアサルトライフルを背負った、SATとレンジャーの混成部隊が闇を駆けている。
 タツはシェパードの背に乗って皇居正殿の階段を昇っている。
 目指すは内閣総理大臣の親任式が行われる松の間だ。
 タツの目の前に宮内庁の役人が姿を現す。
「犬猫が正殿に足を踏み入れるなど!」
「その言葉を遺言に選ぶか」
 タツは銃の照準を役人に合わせる。役人の顔から一瞬で血の気が引く。
「現人神を出せ。私は内閣総理大臣タツ。親任式とやらを受けに来てやったと伝えろ」
「猫が! 身の程知らずにも……」
「話が通じんのならそれでいい。先代の現人神によろしく伝えてもらおう」
 タツは銃の発射ボタンを押す。
 銃声が響いて役人の額に穴が開き、後頭部が弾け飛んで床と壁に広がる。
 タツはシェパードの背を叩いて前進を促す。
 階段を昇り切り、松の間に向かう。
 広い部屋だが、だからといってどうという事も無い。
 一皮むけばただの鉄筋コンクリートだ。
「フン、形式ばかりで内実が伴わんとは。この島の本質そのものだな」
 タツは鼻を鳴らすと部下に現人神と宮内庁の役人を連れて来るように命じる。
 タツは廊下に出て外を眺める。
 深夜の皇居で蠢いているのはタツの配下だけだ。
 この島の人間は現人神が廊下に出ただけで群がり、崇める。
 タツは目の間に群衆が集まっている姿を想像する。
 実に馬鹿馬鹿しいと思う。
 アイデンティティーを己ではなく他人に投影し、あまつさえ神格化し、自分がその庇護下にあるとしてアイデンティティーを保とうとする。
 崇める者も崇められる者も人格の破壊者だ。
 そのような愚民を揃えたからこの島は没落したのだ。
 タツが廊下から部屋に戻ろうとすると、役人たちがアサルトライフルを背負った猫たちに急き立てられるようにしてやって来る。
 散々脅されたか、同僚の死を見たからかタツを見て下らぬ事を言い立てる者はいない。
「現人神はまだか」
 タツは役人たちに目を向ける。
「……せめて、せめて犬から降りては頂けませんか」
 役人の一人が哀願するようにして言う。
 犬に乗っていたからと言ってどうだと言うのか。
 しかし、王者には度量というものも必要だ。
「良かろう。代わりに貴様が私の犬となれ」
 タツの言葉に役人が酸欠に陥ったかのように口を開閉させる。
「何、他愛の無い冗談だよ」
 タツはシェパードの背から飛び降りる。
「猫と言っても愛らしいものだとは思わないかね」
 タツは役人たちの前を歩きながら言う。
 現人神が遅いお蔭で無駄に時間を食い過ぎている。
「総理、現人神をお連れしました」
 レンジャーの猫が敬礼して言う。
「ご苦労」
 タツが敬礼を返すと燕尾服の老人が姿を現す。
 着替えに手間取ったのだろう。どうでもいい事に時間をかけるなと言いたい所だ。
「貴様が現人神か」
 タツの言葉に現人神が無言で部屋の奥へと向かって行く。
「私は内閣総理大臣タツだ」
「式典を望むなら儀式を守らんか!」
 堪え兼ねた様子の役人が声を上げる。
「儀式? 私が定めた覚えは無いな。私の要求は一つ、官記だけだ。そいつが無いと���の地位を不当だと言い出す輩が現れかねんのでな」
 タツは役人たちを一瞥して現人神に目を向ける。
「なりません! 陛下! このような猫などに親任式を行うなど!」
 役人が叫びながらタツと現人神の間に割って入ろうとする。
 タツは素早く銃を抜くと発射ボタンを押し込む。
 側頭部を吹き飛ばされた役人がつんのめるようにして回転しながら床を転がる。
「私が気に食わんと言うのであれば構わん。官記など無くとも外に出て式典を済ませたと言うだけだ。だが、貴様らは人類が滅びるとするなら、己の傲慢さ故だと後世に証する事になるだろう」
 タツは背を向ける。紙切れが一枚あろうと無かろうと権力に差などありはしないのだ。
 もっとも、その一枚の紙きれが後々祟る事にもなりかねないのだが。
「御璽はありますか?」
 意外にも動じた様子を見せずに現人神が役人に向かって声をかける。
「持って来いと言っただろう」
 SATの猫が役人に銃口を突きつける。
「……こ……これに……」
 役人が何が悔しいのか顔を歪めながら判子を差し出す。
 3Dプリンタで幾らでも複製できるものを、どうしてそこまで有難がれるのか理解に苦しむ。 
「内閣総理大臣タツさんですね」
 現人神が落ち着いた声を出す。
「愚問だな。能書きはいい。さっさと済ませろ」
「内閣総理大臣のサインが必要なんですよ」
 現人神が子供に教えるようにして言う。
 現人神が白紙に文字を書いて行く。
「本来であれば陛下御自ら全文を書かれる事などあり得んのだ!」
 耐えかねた様子の役人が声を上げる。
「貴重な体験ができたのだ。喜びたまえ」
 タツが役人に銃を向けると牽制するように現人神が手を止める。
 タツは舌打ちを堪え、現人神が必要事項を書いて御璽を押すのを待つ。
 誰が考えたのか知らないが余計な手間暇を作ってくれたものだ。
「タツさん、サインをして下さい」
 タツは現人神に歩み寄って紙を受け取る。
 前脚にバンドをつけて万年筆を固定して名前を書き込む。
「タツさん、あなたを内閣総理大臣に任命します」
 現人神がそれだけ言って一礼する。
 タツは官記を丸めて部下に手渡す。
「これで終わりか?」
 タツは現人神に念を押す。役人が大仰に騒いでいた割りには大した事が無い。
「はい、あなたは内閣総理大臣です」
「なら貴様はもう用済みだ」
タツは銃を引き抜いて現人神の脳天を撃ち抜く。
 後頭部を吹き飛ばされた老人が、これまで葬って来た人間たちと同じように倒れる。
 崇められようとありがたがられようと人間は所詮人間なのだ。
「き、貴様! よくも陛下を! ……」
 タツが背を向けると同時に、部下たちが一斉にアサルトライフルのボタンを肉球で押し込む。
 銃声と人間たちの断末魔が乱舞し、既に血の臭いの立ち込めていた室内に血と硝煙の臭いが満ちる。
 タツは廊下に出ると官記を部下から受け取る。
 タツがライターで官記に火を点ける姿を部下たちが厳粛な表情で見守る。
「最期の現人神が死んだ。私の後に内閣総理大臣を名乗る者は現れん。くだらん肩書も儀式もこれまでだ」
 官記が灰になって皇居の庭に散っていく。
 タツの元にレンジャーの部下が駆け付けて来る。
「宮家の断絶が完了、関東の世襲議員の血統も根絶しました」
 部下の言葉にタツは顔を向ける。
「ご苦労。君は実に良い猫だ」
 現人神の血筋を断っても、血筋を頼って地方の世襲議員を担ぎ上げようとする愚かな人間が出て来る可能性がある。
 本来であれば島内の全ての世襲という世襲を根絶したい所だが、全ての警察力と軍事力をもってしても一夜で皆殺しにできるのは関東が精一杯だ。
 総理大臣の仕事はまだまだ山積している。
 タツはシェパードの背に飛び乗る。       
「では諸君、このような墓所からは早々に退散するとしよう。新時代に旧世紀の遺物など不要だ」
 タツは部下が松の間と死体にガソリンを撒き終わるのを待ってライターを放り投げる。
 熱風が吹きつけ、爆発と同時に紅蓮の炎が立ち上り、瞬く間に建物全体を浸食していく。
 明日には皇居全域に火を放ち、古い人間の寄る辺を完全に消し去る。
 猫の世紀では人間は新しくなるか、滅亡するかの二択を迫られる事になるのだ。
  
 〈16〉 
      
 
 タツは親任式を無事終えた。
 タツはこの島の最高権力者となったのだ。
 この後、島の歴史に残るのはタツの足跡だけだ。
 タツはBMWに乗り込む。
 先導するように防弾仕様のレクサスがヘッドライトを点けて進んで行く。 
 BMWが静かに走り出す。
 最高権力者になりはしたが、まだ実感らしいものは無い。
 タツの脳裏をマタタビに溺れ、輝きを失ったルビィの姿が過る。
 本当に欲しかったものは何だったのだろうか。
 タツが欲しかったものはかつて料亭の縁側で歌っていたルビィだったのでは無いだろうか。
 それは手に入った筈だった。
 沖縄からルビィが戻った時にまともに出会えていればタツは手に入れられた筈だ。
 それが、邪魔が入ったお蔭で力づくで手に入れる事になってしまった。
 あの猫は命と引き換えにルビィを奪い去ったのだ。
殺した筈のあの猫はまだ生きているらしいが、今となってはどうでもいい事だ。
 全ての権力を手に入れた今、やるべき事は山積している。
 BMWが皇居から出る橋に差し掛かる。
 と、銃声が響き、前方で銃火が瞬いた。
 タツはフロントガラスの向こうに目を向ける。
 一台の猫トラが銃弾を浴びながら突進して来る。
 レクサスを躱し、車体に傷を作りながらもタツのBMWに向かって突撃して来る。
 狂気にも似た気迫を感じたタツは咄嗟に車から飛び降りる。
 猫トラがBMWの正面から衝突して激しい破砕音が響く。
 猫トラとBMWが皇居の堀に落ちて水飛沫を上げる。
「何だ。車と一緒に落ちなかったのか。悪運の強い野郎だ」
 片目の猫がびっこを引きながら歩いて来る。
「貴様は死んだものと思っていたがな。そんなに私が恋しいか」
 タツは傲然と胸を反らす。応援を待ってもいいが、この猫のお蔭でルビィとの出会いが台無しになり、夢見た幸福が崩壊したのだ。
「……かもな。わざわざ地獄から来てやったんだ。今度は一緒に戻って貰うぜ」
 片目の猫がゆっくりと、確実に歩み寄って来る。
「一度地獄に落ちた者は生者に祟る悪霊でしかない。悪霊は悪霊らしく地獄に戻れ」
 ルビィの魂はこの猫に引かれて地獄に落ちた。
 失われたものは二度と戻らない。
 タツは身体の半身を永久に失ったのだ。
「それがそうは行かねぇのさ。俺の目が、足が、お前と一緒じゃないと嫌だとだだをこねてんだ」
「私にはこの島を率いる責任と義務がある。貴様のような野良の個人的な感傷に構う理由などありはしないのだ」
 タツの言葉に片目の猫が鼻を鳴らす。
「その割には付き合いがいいじゃねぇか。ルビィに振り向いてもらえないのがそんなに悔しいか? 俺の相手をすりゃあルビィが心変わりするとでも思ったか?」
 片目の猫の言葉がタツの胸を抉り、抑えられていたどす黒い感情が、全ての理性を圧倒して爆発する。
 どんな権力もルビィの愛が無ければ虚しいだけだ。
 ルビィの心を奪ったこの猫をどれほど憎んで来た事か。 
「死ぬがいい! エド!」
 タツはエドに向かって飛び掛かる��
 爪と牙で引き裂かれ、無力感に打ちのめされ、三度タツの前に現れた事を悔いて地獄に落ちて行くがいいのだ。
「何だよ。俺の名前を憶えていたのかよ」
 ふてぶてしい態度でエドが口元に笑みを浮かべる。
 タツはエドの首筋目がけて牙を剥く。
 タツの強靭な顎がエドの喉を引き裂く。
 口腔に血液の錆び臭い味が広がる。
 エドが喉を守る素振りも無くタツに掴みかかって来る。
 タツはエドの身体を振り落とそうとする。
 エドの身体が宙に浮いた瞬間、タツの身体は空中に放り出されていた。
 振り子のように浮かび上がった足下には黒い皇居の堀が広がっている。
 足場を失ったタツの身体から血の気が引く。
 エドの喉に食らいついたまま、重力に引かれて落ちて行く。
 タツは大半の猫がそうであるように泳げない。
 タツの全身が悪寒を通り越して凍結したようになる。
「素直じゃねぇな。地獄に付き合ってくれるなら最初からそう言ってくれ」
 エドの声を聞いたと思った瞬間、タツは水飛沫を立てて皇居の堀に落ちていた。
 タツはエドの喉から牙を抜く。
 四肢を動かして空気を得ようとしてもがく。
 ようやく水の上に出かけた頭が押さえつけられる。
 口から入った水が肺を満たし、咳き込むようにして吐き出された空気の後から更に水が流れ込んで来る。
 前脚が後ろ脚が、宇宙空間に放り出されたように無為に水を掻く。
 頭が押さえつけられても反撃一つする事ができない。
 タツの視界の先でエドの顔が歪む。
 最高権力者になった。全てが自分の意のままになるはずだった。
 戦って死ぬなら納得もできるだろう。しかしタツは無様に溺死するのだ。
 肺の隅々にまで水が染み渡り、全身がタツの意識下から離れ、その意識までが薄れ始める。
 エドの顔にルビィの顔が重なる。
 結局、タツは何一つ手に入れていなかったのだ。
 タツの脳裏にあの日聞いたルビィの歌声が響く。
 タツの四肢が弛緩し、身体がゆっくりと暗黒の堀の底へと落ちて行く。
 これが私の最期なのか。
 それがタツの最期の思考となった。
  〈17〉
  「よっと……これで俺は……」 
 エドは皇居の堀の石垣から身体を引き上げた。
 タツは死んだ。
 ルビィは自由になり、エドはヤンの元に帰る。
 この島は混乱するだろうが知った事ではない。
 エドにとって重要なのは家族だけだ。
 砂利を踏んで一歩踏み出す。
 ニューヨークに戻り、ささやかでも幸せな家庭を築くのだ。
 エドが歩き出そうとした瞬間、無数のヘッドライトがエドの身体を照らす。
 光が強すぎて敵がどれだけいるのか分からない。
 森のざわめきのように、無数の銃が乾いた金属音を立てる。
 足が不自由で無くとも逃げる事は不可能だろう。
 独裁者とはいえ、一国の総理大臣を殺したのだから当然と言えば当然だ。
 エドは足を引きずりながら光源に向かって歩く。
 脳裏をヤンの姿が過る。
 産まれて来る子猫たちが誇れる父親になれただろうか。
 ルビィを追いかけてこの島にやって来た。
 今でもこの島には何の思い入れもありはしない。
 しかし、数カ月ではあったがエドは一生分生きた。
 光源を背に一匹の猫が立っている。
「タツは俺の親友だった」
 撃鉄が上がる音が響く。
 エドは足を止める。タツにも友人は居たらしい。
「俺が憎いか?」
 絶体絶命の中エドは不思議な程の落ち着きを感じる。
 ルビィは解放され、ヤンだけがエドの心を占めている。
 エドは成し遂げたのだ。
「この島は混沌に支配される。お前がこの島に訪れたはずの新しい秩序を破壊したんだ」
 タツの親友の声には痛恨の響きがある。あの独裁者にも猫らしい一面があったという事だろう。
「知らねぇよ。俺はニューヨーカーなんだ」
 エドは不敵な笑みを浮かべると早撃ちのガンマンのようにポシェットに手を突っ込む。
 銃火と轟音。エドの身体が見えざる巨人の手に突き飛ばされたように吹き飛ばされる。
 瞬間、エドの身体の中心が砕け、本能的にこれは致命傷なのだと教えて来る。
 地面を転がり、口腔に血液が溢れる。
 胸が灼熱感に包まれ、口と傷口から血が流れ出し、全身から力が抜けていく。
 エドの手からタブレットが落ちる。
 エドは凍える程の寒さを感じながらタブレットに向かって微笑みかける。
「タツ……落とし前はつけてやったぞ」
 猫がエドに背を向けて光の向こうに消えていく。
 薄れゆく意識の中でヤンの顔がエドの脳裏を過る。
 一度目に死ななかったのは、全てこの瞬間の為だったのだろう。
 新しく産まれて来る子猫の声が脳裏に響く。
 上出来だ。
 エドの意識はそこで永久に途絶えた。
       
 〈18〉
   銃火と轟音。
 ジョーは信じられない思いで自分の胸に目を向けた。
 目の前にいるのは銃を手にしたルビィだ。
 何故、と、言おうとしてジョーの口から血が溢れだす。
「ジョー?」
 銃を手にしたルビィが歩み寄って来る。
 ルビィは誰かと勘違いしてジョーを撃ったらしい。
 何か言いたいが口からは血が溢れるだけだ。
「……ごめんなさい」
 ルビィが申し訳なさそうに言う。
 ルビィはジョーが初めて好きになった雌だった。
学生時代から同年代の友人に冷めていると揶揄されて来た。
自分でも恋愛に関してはドライなのだと思って生きて来た。 
ジョーは震える手でタブレットを取り出す。
 伝えたい言葉がある。
 初めて会った時から魅かれていた。
 身体が焼かれるような思いは生まれて初めて経験するものだった。
 エドの恋人なのだと思って必死に想いを断ち切ろうとした。
 初恋の相手にパートナーがいるなど、何と言う運命の悪戯だろう。
 ジョーはタブレットの上で肉球を緩慢に動かす。
 ルビィはエドと一緒になるのが一番だと自分に言い聞かせて来た。
 愛するものの幸せを願う事が、最も良い愛の形なのだと信じ込もうとした。
 しかし、エドはヤンと関係を持った。
 ジョーにとってエドの行為は許されざる裏切りだった。
 ジョーはエドに厳しく当たったが、それは半ば自分に向けてのものだった。
 そしてエドは全てを清算すべくタツの元に向かった。
 今、ジョーはルビィに想いを伝える。
 ……愛している。
 文字を入力し終わったジョーの手からタブレットが滑り落ちる。
『エドは帰国した』
 ジョーは静かに目を閉じる。
 これでいい。ルビィはこんな島に居てはいけない。
 ルビィはアメリカに帰り、幸せな一生を送るだろう。
 ジョーは自分の命の火が燃え尽きるのを感じた。
  〈19〉
   タツが来たと勘違いしてジョーを殺してしまった。
 ルビィは玄関で崩れ落ちる。
 手段を問わずに権力を追い求めるタツを止める事は不可能だった。
 そしてこの島の呪いを解く事も不可能だった。
 歌の力など何の力にもなりはしなかった。
 だが、唯一光明を見出せる点があった。
 タツにこの島を統一させ、その上でタツを殺してルビィが頂点に立つのだ。
 強権的かも知れない。
 しかし、この島を改革しようと思ったら手段を選んではいられないのだ。
 善なる独裁などあり得ないのは分かっている。
しかし、専制に慣れ過ぎたこの島では独裁すら民主的と言えるだろう。
 正しい教育を行い、正しい情報を与える。
 民主的国家に変えていく為には、子供を育てるような辛抱強さが必要になるだろう。
 猫と人間が独裁を必要とせず、自ら政治参加するようになるまで。
 そして、ツナを全世界の猫の元に届け、全猫類に基本的猫権を届ける。
 その為にマタタビに溺れたフリをしてタツを欺き続けて来た。
 だが、殺したのはタツではなくジョーだった。
 何故ジョーが現れたのかは分からない。
 エドは帰国したらしい。無理を言って連れて来てしまった所もあるだろうから、エドにとっては良い事だったのだろう。
 ルビィのタブレットが着信を告げる。
『ルビィか?』
 スピーカーからナッツの声が響く。
 タイミング的に良い報告であるとは思えない。
 ジョーの遺体もどうにかしなくてはならない。
『……辛い話になるが、タツが暗殺された。お前がこの島の女王だ』
 ナッツの言葉にルビィは驚きを感じる。
『お前に立って貰わなければ俺が身の破滅だ』
 誰かがタツの凶行を止めたらしい。ルビィは見知らぬ誰かに感謝すると同時にジョーの遺体を見つめる。
 この通信が数分早ければジョーは死なずに済んだのだ。
 だが、悔いている暇はない。ルビィには成すべき事がある。
「分かりました。車を寄こして下さい。永田町で爆発があっても皇居は無事でしょう? 私は皇居で総理大臣に就任します」
 困難な道になるだろう。猫の国家元首は他国に舐められもするだろう。
 しかし、猫の時代はここから始まるのだ。
『了解しました』
 ナッツの声と共に通信が切れる。
 ルビィはジョーのタブレットを手にする。
 タブレットの上で肉球を滑らせる。
『バイバイ』
 ルビィは打ち込んで電源を切る。
 アメリカ生まれの革命家は死んだ。
 極東の島の女王としての責務がこれから始まるのだ。
  〈20〉
   ヤンは騒がしく走り回る子猫たちの姿を眺めている。
 覚悟はしていたがエドは帰らなかった。
 ジョーも戻らず、花道に集まっていた猫たちは解散する事になった。
 ヤンはフィンランドに帰国して五匹の子猫を出産した。
 しばらく悶着があったようだが、極東の島ではルビィが総理大臣になり、基本的猫権を最初に実行する国家の樹立を宣言した。
 世界で一番猫に冷たい島がこれからどうなるか。
 それはヤンには分からない。
「ママ、パパの話をして」
 エドと同じトラの毛並みの娘が瞳をくるくるさせて訊ねる。
「パパはね……」
 ヤンが知っているのはエドがタツと決着をつけに行くと言った所までだ。
 結果としてタツが死んだようだが、エドが倒したのかどうかまでは分からない。
「ママが知っている中で一番恰好をつけたがる猫だった」
 エドを評価するのにそれ以上��言葉は無いだろう。
 ヤンは窓の外で輝く太陽を見つめる。
 ジャーナリストとして不確かな事は子猫にも言えない。
 それでも思う。
 エドはタツを倒して未来を開いた長靴をはいた猫だったのだと。
  おまけ
   ニューヨークのマンハッタン。
 トラ猫のエドは人の多さに驚きながら歩いている。
 地図を頼りに一件の喫茶店に足を踏み入れる。
 老境の猫が静かに水を舐めている。
「ノラ教授ですか?」
 エドの言葉に猫が目を上げる。
「おお、わしが死ぬ前に来てくれたか。いかにもわしがノラだ」
「フィンランドから来たエドです。父が世話になったと聞いています」
 母が父親と同じ名前をつけたお蔭でややこしいが、母は父親を誇りに思っていた。
「エドは結婚の連絡も寄こさなんだ。あの島で何があったのか、わしらには分からないままだった」
 ノラが目を細める。見知らぬ地で死んだ事がより寂しさを感じさせるのだろう。
 もっとも公式記録でエドが死んだという記録も無い。
「島で起きた事は母から聞いています。僕が知りたいのはニューヨークに居た父がどんな猫だったのかという事です」
 母親の話は贔屓が過ぎる所があるだろう。
本当に立派な父なら子供を捨てて消えたりはしないはずだ。
「伊達と酔狂を地で行く、猫らしい猫だった。普段は頼りないがここ一番では誰より頼りになる猫だったよ」
「でも……父は母と僕らを残して消えてしまいました」
 エドは少しだけ不満を感じながら言う。
父が軽薄なダメ猫なら、それはそれで納得が行くのだ。
「わしは、エドに今極東の島で総理大臣をしているルビィを支えてやれと言ったのだ。身勝手な妄想かも知れんが、わしはエドがルビィを総理大臣にしたのだと思っているよ」
 ノラの言葉にエドの心がささくれ立つ。
 これまで父の知己には何人か会ったが、父はルビィを愛していたらしいのだ。
 それでは母と自分と兄弟姉妹の立場が無い。
「母を差し置いて父はルビィという猫を優先したという事ですか」
「お前はまだ若い。猫はどんなに家族を愛していても、いや、愛するが故に敢えて背を向けなければならない時があるのだ」
 ノラが悲しみを堪えるようにして言う。
「あなたは何を知っているというのですか! 僕らは何もかも曖昧なままで……」
 エドが言うとノラがタブレットをテーブルの上に乗せる。
 ノラが動画の再生ボタンを押す。
『ヤン、ああは言ったが俺は多分帰れないだろう。今も警察の車とすれ違った。大見得切ったけどタツを倒せる見込みはほとんど無い。俺はルビィを追ってこの島に来た。振り向かせたい一心で命を落とす事になった。お前は俺を支えてくれた。人を好きになる気持ちと愛情の違いに気付かせてくれた。お前ほどの猫は世界中のどこにもいない。俺が命を懸けてでも保証してやる』
 画面は真っ暗で、声だけが聞こえて来る。
『今度は自衛隊だ。まったく肝が冷える。俺がタツと戦うのはヤン、お前の心に疑問を残さない為だ。ルビィが再び自由になっても、俺は真っ直ぐに君だけを見つめる。家族を何より大切にする。君は心のどこかで不安を感じていたはずだ。だからこれからその不安を払いに行く』
 エドは驚きと共にタブレットに耳を傾ける。
『皇居前だ。警護は自衛隊が幾らかと機動隊。俺は猫トラ一台。足が震えてアクセルが上手く踏めやしない。一度死んでるってのに今更だよな……今ヤツのBMWが出て来た……俺は別れを言う気は無い! ただゲン担ぎに言わせてくれ! ヤン、愛している!』
 銃声が響き、タブレットから破壊的な音が響いて来る。
 銃弾が車体を貫き、車と車がこすれ合い、耳障りな金属音が響く。
 エドは自衛隊と機動隊に向かって突撃したのだろうか。
『何だ。車と一緒に落ちなかったのか。悪運の強いヤツだ』
 斜に構えた様子のエドの声が響く。
『貴様は死んだものと思っていたがな。そんなに私が恋しいか』
 傲慢さを感じさせる猫の声がエドに答える。
「この猫はタツ。人間を大量虐殺して独裁者になった猫だ」
 ノラが説明する。タツの話は母から聞かされている。
 エドとタツとが言葉を交わし、争う音が聞こえて来る。
 エドは息を飲んでスピーカーから漏れる音に耳を立てる。
 大きな水音が起こり、タブレットが水中のくぐもった音を拾う。
 やがてエドの荒い息が聞こえて来る。
『タツはもうこの世にいない。俺は君……君たちだけのものだ』
 自嘲するような笑い声が響く。
『タツを倒したヤツの動機がこんなだって知ったら世間は仰天するだろうな。保険代わりにこんな通信を送っちまったが、どうやら必要無くなりそうだ。生きて帰って、俺は普通の生活をするんだ』
 エドの荒い呼吸と這いずるような音が響く。
『俺はこんなだが、マンハッタンは気のいいヤツばかりだ。何とか食って行けるだろう。おっと、お前の意志を聞いて無かったな。お前がフィンランドに行くならそれでもいい。お前が俺の居場所なんだからな。後少しで石垣を登り切れる。後少しで君に会える』
 タブレットが石にぶつかるのか、コツンコツンと断続的に音が響く。
『よっと……これで俺は……』
 エドの言葉が途切れる。
 猫が砂利を踏む小さな音が一瞬だけ聞こえる。
 凍り付いたように音が聞こえなくなる。
『タツは俺の親友だった』
 別の猫の言葉にエドは身体を固くする。
『……お前がこの島に訪れた筈の新しい秩序を破壊したんだ』
『知るかよ。俺はニューヨーカーなんだ』
 突然タブレットのカメラに片目の猫の姿が映る。
 エドの声を打ち消すように唐突に銃声が響く。
 片目の猫と一緒にタブレットが地面を転がる。
 片目の猫が口から苦しそうに血を吐きながら、それでも誰かを安心させようとするかのように微笑みを浮かべる。
 そのままの表情でゆっくりと瞼が閉じられる。
 エドは、父は最期まで母の元に帰ろうとしていた。
 たった一人で独裁者を倒した勇者だった。
 どうしてこんな父を自分は疑ってしまったのか。
「この日、あの島で多くの猫と人間が死んだ。多くが身元不明となった」
 ノラがタブレットを操作して再生を止める。
「何故、母ではなくあなたがこれを?」
 エドはふと気づいて言う。
 この動画を見ていたなら母はもっと安心できたはずだ。
「照れ臭かったんだろう。それにこれをリアルタイムで見て追いかけて来たらヤンの命も危険に晒される。エドはそういう猫だった」
「でも、あなたがこれを母に送る事もできたはずだ」
 エドはノラに向かって言う。
 父が遺言を残したのに母に送らないなど不誠実だ。
「昔からエドはうっかり屋でな。わしはヤンというのがどこの誰か知らなかったんだ」
 エドは気の抜けたような気分になる。
「だからわしは……わしらはエドの妻か子供の方から来るのを待つしか無かったんだ。ものがものだけに一般公開できるものでもないしな」
 父はエドが想像していたのとは異なる猫だった。
 命を懸けて母を愛し、暴君にも怯む事なく皮肉な言葉を投げかけ、最期まで伊達と酔狂を演じ続けた。
 そしてうっかり者だった。
「父の最期を知る事が出来て良かったです」 
 これを聴いたら母は喜ぶだろうか。
 悲しい記録だが、家族全員が喜ぶに違いない。父を誇りに思うに違いない。
 エドはノラに目を向ける。
「もう少しニューヨークに居てもいいですか?」
 もっと父を知りたい。この街の空気を感じたい。
 伊達と酔狂に生きた猫の生き様を感じたい。
「おかえり。エド」
 ノラが笑顔を浮かべる。
 父の故郷であるこの街はエドの故郷でもあるのだ。
 父を訪ねてやって来たこの街でエドの新しい冒険が始まるのだ。 
 THE END 
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sakura-whirlwind-blog · 11 years
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ブログはじめました
ここでは腹黒い事も忌憚なく発揮していきたいと思っています。
テヘッ(ゝω・)
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