Tumgik
oonekonarisa · 3 years
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夏の終わりとカマハン少年
先日、いいものを見た。
ふだんは喫茶おおねこの師匠がいるカフェではたらいている。
いらっしゃいませー好きなお席へどうぞタバスコですねパンとサラダはおつけしますかここの席片付けてご案内しますので外でお待ちください50円のお返しですね領収書のお宛名いかがなさいますか?ーーー そんな、深く呼吸することを忘れるようなとんでもなく忙しない昼間の大混雑が、ふいっと途切れる瞬間がある。ランチタイムとティータイムのあいだのあいまいな時間帯。ランチしてからそのまんまティータイムに突入するお客さんはすでに店内でまったりとしており、新しいお客さんは来ない、ボーナスタイム。このあいまいなボーナスタイムに、それまで滞っていたものが一気に流れ込んでくる感覚があって身体がパツンパツンに満たされて好きだ。すべての音が突然に耳に届き、肺のすみずみまで酸素が行き渡り、視界がぐわーとひろがって、窓辺のカーテンが風で揺れていること、自分の首がしっとり汗ばんでいること、ふくらはぎのじわんとした疲れ、BGMがしっかりと聴こえてきて、アッなにこれ身体がすごく軽いや、どこへでもいけそうじゃん、踊りだしそうな気分になって、お店のでっかいタンクからグラスに水を注いでぐいーっと流し込む、喉が冷たくて気持ちいい。
それから、こういうタイミングで買い出しをよく頼まれる。鈴木さん、これ八百屋さんで買ってきて。待ってましたとわたしは小銭を握って店を飛び出す。店のなかにいては感じられない直射日光やそよ風が気持ちよくて、ここは商店街、ごちゃ混ぜな人たちの中を飛ぶように歩いていく。いつもの八百屋さんの前に立って目くばせをすると、いつものようにそこで待つ。待っている間、ああー今日はこんなに晴れてるんだなあーと知る。
すると、
何かが来る。何かたいへんなものがくる予感。瞬間、道のど真ん中を、爆音でAqua Timezの「虹」を流しながらカマハン自転車少年がびゅうと横切って行くではないか。(カマハンわからない人は調べてみて)久々に見るカマハン!片手にタバコをなびかせて疾走するカマハン!ごちゃ混ぜな人たちの視線がカマハン少年に一点集中していく。タバコはフルーティーな香りでした。ああ少年よ正気なのかい、周りのみんなは大丈夫かしらって、いやみんな迷惑そうな顔してるぅそうだよねなんだありゃ、なのに、ちょっとかなりいいものを見た!という高揚感。びゅーっと走り去りすぐ見えなくなるカマハンでした。夢でもみたのかという感じ。きっと夏が戻ってきたような今日に喜んでいたんだろうなあ、知らんけども、少年よ。ともかく、いいものを見た!という気持ちを握りしめて八百屋さんのお使いを終えて店にとんぼ帰りする。
その日はカマハン少年との遭遇が心を捉えて離さずどうしてもウキウキワクワクしてしまい、日が沈まぬうちにシャワーを浴びて髪のまだすこし濡れたまままた街に繰り出したりもして、たいへん上機嫌に過ごしたのでした。それからたまに、わたしの頭の中には「虹」が流れる。
写真は、突如思い立って乗りこんだスワンボートから見下ろせた澄んだ池のなか。
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oonekonarisa · 3 years
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おふくろの味と里芋丸焼き
( 2020年10月17日の記事です)
"おふくろの味"と聞いたとき、こんこんとわきあがるあったかい気持ちがある。そこには腰くらいまでの小ぶりな円卓があって、手触りのいい立派な木の椅子が4つ。効きすぎた暖房のせいでほっぺがカサカサする。犬が足元をせわしなく歩き回るから挨拶する。普段は見ないテレビがここでは四六時中つけられていて音量が大きすぎる。円卓から見渡せる距離にある台所ではたくさんの鍋が湯をあげていて、せわしなく動き回るのは、私の大好きなおばあちゃん。ゴトゴト、シャッシャッ、コンコンコン。小さなからだで包丁を力強くにぎって、軽やかに食材を切ってはごちそうにしていく。
"おふくろの味"はかならずしも肉親の母親にかぎらず、誰かの手作りともかぎらず、また食べたいといつも思うような懐かしい味を言うのだろう。私の場合それは母方のおばあちゃんのごはんの味だ。管理栄養士をしながら4人のこどもを育て上げ、10人の孫のおなかも充してきた肝っ玉で愛情たっぷりなおばあちゃん。
こっくりした味のかぼちゃの煮付け
大〜きな春巻き
炊きたての混ぜご飯
お豆たっぷりひじきの煮物
高野豆腐の煮物
鯖の味噌煮(好きすぎて食べすぎてアレルギー出たのはいい思い出)
アオサの味噌汁
お弁当にいれてくれた卵焼きにタコさんウインナー
壱岐から届いた魚のひらき
手作りのもずく
レバニラ
りんご入りのサラダ
いつ食べても懐かしいと感じるおばあちゃんのごはんにはまるで魔法がかけられているようで、ずるい。外で食べるごはんよりってのはもちろんだけど、自分でつくったごはんよりもずっとずっと心もからだも悦んでいるのがわかる。五臓六腑に沁み渡るごはんなのだ。どんな味付けなの?どうやって作るの?って何度か聞いて自分でためしてみたりしたけどやっぱりだめ。いつもなにかが足りない。おばあちゃんが作るからあんなにおいしいのだ。
おばあちゃんはまだまだ元気でいてくれているから、23歳にもなって!と笑われたって構わない。おばあちゃんにまだまだいろんなごはんを作ってもらいたいな。
みんなの"おふくろの味"は、なんですか?
ねっとりほくほく里芋のまる焼き
里芋ってなんとなく敬遠しがちでした。なぜってヌメヌメして調理がわずらわしいと思っていたから。
この方法を知ってそんなイメージが覆されました。
たったの2��テップであら簡単。ごちそうができちゃいます。
里芋のまる焼き、いくよ〜!
よういするもの
里芋(食べたい分だけ)、耐熱容器(里芋がはいる大きさ)、ラップ(耐熱容器を覆えれば蓋のようなものでもいい)
前準備:オーブンを200度に予熱する
①里芋の皮の泥を落とす
たわしでやるとやりやすかったよ。きになる分だけ落とそう
②耐熱容器に入れてラップをし、200度で60分。
これだけ!里芋は濡れたまま入れてね。
60分経てばごちそうの完成!
塩でシンプルにでもよし。たっぷりマヨネーズと七味でギルティにいただくもよし。オリーブオイルでさわやかに、というのもいいね。
お好みでめしあがれ〜!
おわりに
てなわけで今回はシンプルな手順すぎたのとおいしすぎて撮る間も無くごちそうさまだったので、写真少なにおわります。
最近は卒論に気持ち追われつつも、どうしても『おやき』と『胡椒餅』が気になっています。どちらも近いうちに手作りしたい。特に胡椒餅は台湾の屋台で食べた味が忘れられない。ああ、卒論をする時間はどこへやら。
実は気を抜けば一日中ぼお〜っとできる性分なので、小学生の頃からの相棒グッズ、タイマーを駆使してうまく時間をやりくりしようと思います。
あと昨日から体調が思わしくないので、とにかく水をたっぷり飲み、お風呂にゆっくり浸かり、ビタミンと睡眠をたっぷりとって早期回復しないと。マスクして喉を保湿しながら寝るよ。
それではみなさんもおやすみなさい!
おわり
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oonekonarisa · 3 years
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愛して包んで水餃子
( 2020年10月4日の記事です)
今日は愛についてと、 皮からつくる手作り水餃子の話。
来年の春に卒業するために、
宗教哲学専攻の私、卒論を書いています。
『現代日本において愛するということはいかにして可能か?〜エーリッヒフロムの「愛するということ」を参考にして〜』というのが今のところのテーマなんですが、いやあ、我がことながらとっ散らかっていると思う。
「なんで愛するということについて書くの?」ってなんども聞かれるけどうまく答えられない。純粋に気になる。だって愛ってなんだ。そしてすごく魅力的な問いだとも思う。愛するってなんだ。
「愛するということ」って、どうしちゃんとこんなにも縁遠く感じてしまうんでしょうね。"愛され女子になるには"とか"彼に振り向いてもらうには"とかいう謳い文句はウンザリするほど世にあふれているのに、"愛するということ"についてはおどろくほど耳にしない。愛され待ちな世の中です。
「愛してる」ってセリフだってドラマや漫画のセリフでしかなくて、実生活では耳慣れない人が多いのでは。「好き」は言えるのに「愛してる」って言いにくいのはなんでだろう。
「愛」をテーマにいろんな本を読んでいたら面白いことがだんだんわかってきた。神道や仏教においては「愛」は"欲望"や"煩悩"のひとつとして認識されていてネガティブなイメージがあるとか、神道や仏教においてagapē(アガペー:愛)に近い意味合いは"慈悲"であるだとか。そのあたりの認識の基盤が、今の私たちが「愛」という言葉から受け取るちょっとした違和感や遠さにも繋がっているのではないかしら。
とか言いながら。道草くいながら。
卒論は続くよどこまでも〜。そんな最近。
さて今日は水餃子の話。
だいすきだいすき水餃子。
餃子ってなんであんなにあったかい食べ物なのだろうね。つつみこむ感じとか、あの口の中いっぱいにひろがる安心する味わいとか。
自分好みの餃子をおなかいーーーっぱいたべたいときは、おうちで手作りするのがやっぱりいいなあと思うの。
よういするもの(24こ分)
【皮作り】強力粉125g、薄力粉125g、熱湯125cc(これだけ!)
【アン作り】挽肉200~ 300g、あとは好きな具材(キャベツ、ニラ、ネギ、青じそなど) (タネは多めに作っても翌日まで保存きくので安心。肉団子スープなんかにも使えます!)
いざ皮をこしらえよう
1|ボールに材料をまとめていれてざっくりこねて(熱湯は少量ずつ、菜箸で混ぜるのが吉)
2|丸めてラップにくるんで常温に30分〜一時間放置する(このあいだにタネ作りをしよう→下に続いているよ)
3|時間が来たらもう一度軽くこね、すべすべした状態になっていれば完成!(パサついていたら水分を少し練りこんでまた時間をおきます)
4|生地を棒状にしてからざくざく包丁できります。20~25等分くらい。
5|きりっぱなしの面を内側に練り込みようにして丸く成形していきます。楕円型にしていくと綿棒でのばしやすくなるよ。打ち粉として強力粉(分量外)を使うとひっつかなくて楽チンなので、ひっつくのが気になったら使ってみて。
6|いざ綿棒の出番!
回転させながら伸ばしていくのが本場のようだけど
おもいおもいにできればベリグ〜🎶
ふう。ここまでが一苦労!
皮作り、意外とたいへん!
ぶきっちょな皮たちが かわいいからやめられないのよねえ〜
そしてアンをこしらえよう
今回は三種類のアンをつくったのでそれぞれ書いてみるね。
①これはたまらん🦐エビ&パクチー🦐
エビ・パクチー・挽肉を塩胡椒と片栗粉を混ぜ込みながらぎゅぎゅぎゅと何度もよく混ぜたら準備ok。
②やさしい味わい🌿梅&大葉&胡麻&生姜&挽肉🌿
梅&大葉&胡麻&生姜&挽肉をぎゅぎゅぎゅと何度もよく混ぜたら準備ok。生姜はチューブでじゅうぶん。
③ピリリとスパイシーな🌹きゅうり&花椒&生姜&挽肉🌹
きゅうり&花椒&生姜&挽肉をぎゅぎゅぎゅと何度もよく混ぜたら準備ok。花椒は多いかな?くらいがおいしい。すり鉢ですってね。
この辺りで
大きな鍋に
♨️たっぷりと湯を沸かそう♨️
(水餃子は投入された時に溢れ出ない程度にね!)
いざ水餃子をこしらえよう
プラスでよういするもの
①打ち粉(強力粉/多めに) ②片栗粉水(水に片栗粉を溶かしたもの/カップ半分くらい)③こしらえた水餃子を並べられるバット(大きな皿でもok)
1|皮の中にアンを入れる。口が閉じればokなので多目がよければ多めでも。調整してね。
2|皮の周囲にぐるっと片栗粉水をつけて、
3|皮をしっかり閉じる!空気がもれださないように片側から押し込みながら閉じてみて。空気が入ると茹でた時に破れたりしてしまうので慎重に。
4|皮がある数ぶんの餃子をこしらえてしまおう。アンは余っても、翌日肉団子スープにもできるから安心してね。
水餃子を温泉へどぼんしてあげて
うまれたての水餃子をいよいよ茹でます♨️
沸騰したお湯にどぼんどぼんと入れてあげて、
表面に浮かんできてから(おどっているみたいになるよ🥟)
5分くらい待てば、完成!
お好きなタレでめしあがれ
王道の醤油ラー油でもよし。さっぱりお酢だけでもよし。シンプルにそのままでもよし。
おなかいっぱい、お好きにめしあがれ
おわりに
どう考えたってお店で食べた方が早いし場合によってはそちらの方が安く上がることだってある、水餃子。
それをあえて手作りしてみるのがたまらなくたのしいのは、
そこに手間暇の贅沢があるから。
ヘンテコな形も愛おしいし
どうやってもだらだらスマホをいじっていられない手料理は
こころとからだのリフレッシュにもなります。
なんだか手触りのない日々にこそ、
皮から水餃子をつくってみるのはいかがでしょう。
ちゃんちゃん
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oonekonarisa · 3 years
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プラムの赤ワインコンポート
( 2020年9月25日の記事)
ずっと作ろう作ろうと思っていて、どっさりの砂糖も赤ワインも準備しているというのにプラムの旬の季節がおわろうとしていることに気づいて焦って、授業と授業のあいだの空き時間の二時間くらいでささっと作ってしまおう!と思い立っていざ作ってみたら、みごとに失敗し、それをおいしくいただくまでの話。
最近、なんやかんやいそがしい。
まず、大学の授業が週に27時間ある。いろんな事情があって()、大学最終学年にして18コマをとっている。世界大戦をいろんな角度から見直す歴史の授業を英語でとっていたり、ジョン・ロールズの「正義論」を読み解くゼミ、東洋思想概論、人権とメディア、そして宗教哲学のゼミなどなど好きのもりあわせのような授業に最終学年になってやっと向き合えていて、課題の大男がつねに隣に立っているような日々でつらいけど、さらにすべての授業がオンラインでバーチャル感は否めないけれど、とにかく楽しい。楽しいって思えてよかった。
さらに、最近はだんだんと本腰を入れて「食」の活動をはじめている。そう、コンポタスタンドとかもそのうちのひとつで、日々がどんどん豊かになっていく実感がある。農家の娘にうまれそだったことがここにしっかり繋がっている気がしていてうれしい。(この話はまた今度ゆっくり書きたい)
さらにさらに、大学5年間の総仕上げのような出会いにも恵まれていて、欲張りなのでどんどんと手を出し足を伸ばしてしまっている。とくに先日、大学の5年間毎年おせわになった長野は軽井沢にある宿舎の寮母さん(私の一番あこがれの存在。肝っ玉母ちゃんであり、どこまでも愛の深い、職人肌のかっこいい仕事人。)に、最近ずっとお世話になっている大好きな愛さんといっしょに会いに行ったりもした。大好きな人と大好きな人が話しているその場にいられたことが嬉しくって嬉しくて、泣いてしまった。手や足だけでなく、鼻の下まで伸ばしてしまっている。幸せだ。
さて、プラムの赤ワインコンポートの話。
オンラインの授業と授業のあいだの空き時間の二時間くらいでささっと作ってしまおう!と思い立って、近所の八百屋にプラムを買いに行ってさっそくスタート。
ご立派なプラム。
皮をあらった6つのプラムを適当なおおきさに切り分けて 
赤ワイン・水・砂糖とあわせて鍋いれて弱火でぐつぐつ。
シナモンやレモンをいれても美味しそうだったけど今回はシンプルに。
そしてここで火にかけすぎました。なんでかぼおっとしてしまい。
10分経って鍋をあけてみたら・・・
そう、そこには立派な「プラムの赤ワインジャム」がありました。
ああやってしまった。
どろどろになっている。(5分くらいで十分らしいよ)
まあしかしうまくいかないことはよくあるもので、これはゼリーにしよう。よし。ジャムをゼリーにしておやつに食べよう!と言い聞かせて深呼吸。
ひとまず粗熱をとって冷蔵庫で丸一日冷やしました。
翌日。
ふたたび弱火にかけて、ちょっとあたたまったらゼラチンをサラサラ入れて、ぐるぐる混ぜて。もうここまできたらおいしくなってもらわないと!と思い、わざわざ新しいカップを買いに行きました笑。
冷やして冷やして、やっとこさ完成!
はあ〜〜〜〜、沁み渡る味。うまみ。
とても美味しかったです。
思いがけず手間暇かかっているからなあ。オンライン授業で家にこもる日々のちょっとしたおやつに大活躍、おなかも大満足のプラムの赤ワインコンポートゼリーになりました。
もうそろそろスーパーに並ばなくなりそうなプラム。
運良くゲットしたらぜひつくってくださいね、ぜひ弱火で、ぜひ5分くらいで鍋を確認して。
溶かしてしまってもゼリーにできますからお気軽に。
( 2020年9月25日の記事です)
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oonekonarisa · 3 years
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いちばんの猫の話
突然だけれど、私は猫のことが大好きだ。千葉にある実家から徒歩圏内にある祖母の家では長年犬を飼っているし、小学生の時は「生き物がかり」として毎朝にわとりの世話をしていたし、亀もカブトムシもカマキリもザリガニもカラスも名前をつけて飼ってきたけれど(カラスは多分違法)、それらを差し置いて、猫はとっておきだ。これはきっと私が生まれる前から実家に猫がいたことと、その猫が、もう言葉にならないくらいに尊い猫だったことに由来する。私は「ソトちゃん」よりも美しく、気高く、賢く、愛くるしい猫をきっとこれからも知らない。
その猫の名前は「ソトちゃん」といって、内と外の外を意味するその名は、彼女(ソトちゃん)が外にいた拾い猫だったことから付けた名だと、父が教えてくれた。
白と黒の短い毛並みの日本猫。透き通った瞳。うちに来た時は、コップにすっぽり入ってしまうくらいに小さくて、目が開かないくらいに汚れまみれだったそうだ。捨てられていた子猫たちの中の一匹がソトちゃんで、父の友達がそれを発見して、父がもらいにいった。ソトちゃんがうちに来て一年後くらいに私が産まれた。何枚も写真に残っている、ベビーベットに横たわる小さな私の横にいる私より少し大きめの子猫がソトちゃんだった。
ソトちゃんの尻尾は先っぽがぶきっちょに折れ曲がっていた。それは私が小さい時に追いかけ回して思い切り踏んづけた時に骨折した時のものだと、大きくなってから知らされた。
家にいる小さき存在のなかで一番でありたかった小学校低学年までの私は、ソトちゃんにしつこく嫌がらせをしてしまった。近くに寄って行って突然大声をあげて怯えさせたし、大げさに足音を立てて追いかけ回して家の隅に追いやって遊んだ。産まれた頃からそばにいたソトちゃんはこの時どう思っていたのだろう。本当は攻撃なんかしたくなくてただ仲良くなりたかっただけなんだと自分の気持ちに気づいて必死に歩み寄って心を開いてもらうまでにはその倍の月日がかかった。近づいてみてはなんども本気で噛まれて血が出た。血の流れる指をみながら逆上してしまい、また嫌がらせをした。一歩進んで二歩下がるようなやりとりが続いた。
高校生くらいになって、ようやく仲を取り戻せた。私があぐらをかくとそこにすっぽりはまるように身体をすべりこませてくる。ソトちゃんはいつも暖かくて、猫ブラシをかけると毛並みがつるつるになった。階段の手すりを器用に上り下りして、大きな音は相変わらず苦手で、綺麗にトイレをして、一階のキッチンで開けたツナ缶の気配に気づいて二階のベランダから降りてくるくらいに敏感で、白いおなかを太陽に向けて眠るのが大好きだった。
せっかく仲良くなったのに、高校最後の夏にソトちゃんはこっそり死んでしまった。猫は飼い主に気づかれないように死ぬものと聞いていたけれど、最後の最後まで食事もトイレも何一つ迷惑をかけることなく父のベッドの下の奥まったところに小さく隠れるように死んだソトちゃんをみた時は、最後まで、どこまでも美しい猫だったんだねと、悲しい気持ちよりも尊い気持ちの方がまさった。
8月にソトちゃんの命日があるから、毎年この時期にはソトちゃんのことを思い出す。思い出すたびに思うのは、気持ちを伝えたい時に伝える努力をすることの大切さだ。できるかぎりのことができたように思えるだけで、伝えられなくなったあとの気持ちは幾分救われる。綺麗事のようだし当たり前に聞こえるけれど、これが案外難しい。対動物ならまだ恥ずかしがらずほんとうに可愛いね世界一大好きだよと伝えやすい気がするけれど(当人に伝わっているかはまた別なのがもどかしいね)、対ヒトは常により深刻な気がする。どうしてか、まあまた会えるしと後回しにしてしまうし、行間を読んでねと相手に委ねてしまいがち。ソトちゃんにできたのと同じくらいには、相手がなんであれ気持ちを伝えたいなと思った時に伝える努力のできたと思える瞬間を積み重ねたい。
とまあ長く書いてきたけれど、こんなにも愛した存在が世界にいたという事実を持っていることで私はもうまるっと幸せ者だなあと思う。きっと来年もこの時期にはなにかしらの媒体にこのことを書いているだろうな。
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oonekonarisa · 3 years
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回復と解放
昨夜は二週間に一度の、聖書を読む会だった。通称、Bamboo Bible会。この会に出会ったのはほんのつい最近で、オンラインで知り合った大学の教授夫婦に紹介されておずおず参加してみたのが二週間前。今回が二度目の参加だった。
私はこの会のことをすごく気に入っている。まず、この世界状況になってからというもののどこに注意を向けても否応なしに入ってくる情報の渦に飲み込まれてしまいそうで、というかたぶん身体のほとんどを情報の湖にどっぷり浸したまま一日を過ごすような身重感であったので、このような日々に祈りの時間をつくるなど到底むりなことだった。私には特定の宗教はないけれど、キリスト教の礼拝が特に気に入っている。中高6年間は毎日学校で礼拝を受けていたし、昨年のクリスマスもICUの礼拝堂で賛美しながら時を過ごした。だから、祈る時間の豊かさは身をもってわかる。祈りたいとも思う。でも、自粛要請とかBLMとか国とか政治とか人種とか差別とか不平等とか不公平とかを考えざるを得ないなかで祈れない息苦しさを生きていた。
話がすこし逸れるかもしれないけれど、祈る時間はどうして豊かなのだろう。ひとつは自意識からの解放にあると思う。私たちは社会で生きるなか、家の一歩外に出たら自意識から逃れられない。どう思われているだろうか、今の発言だいじょうぶだろうか。トイレの個室でも他者からみた自分のことがきになって仕方ない。前髪の向きひとつを四六時中気にしていた高校生の時のじぶんは、今も心の中に棲み付いている。祈る時間は、そんな自分が解放される気がする。自分と神さまとか、自分と聖句とか、自分と祈りそのものとか(その対象は人それぞれでいい)の一対一の関係になって、ようやくストンと地に立てる気がする。ようやく自分を見ていない自分に出会える気がする。他者を支点にして生きるしかない私たちに、一日のうちの数分でも、自分自身にintoする時間、立ち返る時間があることはどこまでも救いだと思う。
今回のBamboo Bible会で取り上げた箇所はルカによる福音書15章11ー32節、放蕩息子とその父とその兄の話だ。聖句を朗読して、いくつかの設問について言葉を交わしていく。放蕩息子についての話はあまりに有名だからここでは端折るけれど、この話が99匹の羊と1匹の羊の話や、9枚の銀貨と1枚の銀貨の話や、もっと視野を広くすると律法学者と取税人の話、さらにはこの世のルールに生きる人と失われた人々の分断の話にまで繋がっていて、まさに今の世界情勢を捉えた箇所のように思えて震え上がってしまった。私はきっとこの世のルールに生きる人の側に生かされているけれど、例えば性差別の文脈では失われた人々の側に立つこともままある。両方の性質を時と場合によって併せ持つと認識している人はどれほどいるだろう。認識していないとどのようになるのだろう。今の世界情勢がその答えを教えてくれている気がしてならない。
Bamboo Bible会をおえて、最近の自分のテーマは回復と解放なのだなとふと気づいた。私の恋人は気づく人だ。いろいろなことをつぶさに見ていて、気づく。私は恋人に、呼吸が浅くなっていることや手のひらに汗をかいていることを教えてもらってはじめて自分の心模様に気づくことが多々ある。今の恋人といっしょになってから、呼吸に気を配ることがぐんと増え、だんだんとそれが習慣にまでなりはじめた。呼吸はいろいろなことを教えてくれる。焦っているときは浅くなり、急いでいるときは早くなり、怒っているときは小さくなり、落ち着いているときは深くなる。祈るときに呼吸を早める人は少ないんじゃないかな。だから、呼吸に意識を集中して落ち着くことには、祈りと近い効用があるように思う。最近はヨガに心を惹かれているのだけど、ヨガもまた呼吸で、呼吸を通じて自分と地面、自分と地球の一対一になれるものだと思う。ヨガがおわったとき、祈りがおわったような気持ちになって、���っかり自分のことを気に入るようになっているから不思議だ。
あ、解放についてはまた今度書いてみようかな。
昨夜はちょっとおもしろくて、 Bamboo Bible会のあとに食べた晩御飯がおなかいっぱいになりすぎて、 そのままベットに倒れこみ、昼寝ならぬ夜寝をしてしまった。 25時半ごろのっそり起きてシャワーをあび、ぜんぜん起きない恋人をああだこうだいいながら起こして歯磨きをして、気持ちのいい二度寝。たっぷり寝たからか朝は7時半くらいにパッと目がさめた。けどまた寝たりしたのであれは三度寝だったのか。いくらでも眠れるようなこの頃。
さて今日もたのしくいくぞ!
p.s. Bamboo Bible会の最初に紹介された言葉。 『あなたの若い日にあなたの創造主を覚えよ』 また二週間後も楽しみ。
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oonekonarisa · 3 years
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いつだって電話しよう
最近、二日に一回くらいおばあちゃんに電話をかけているのだけど「なんでもっと早くこうしなかったんだろう」と電話を切るたびに思う。後悔と嬉しさが綯い交ぜになったような気持ちでいる。
外出自粛要請がなされてから、朝の散歩にでかけがてらだったり、昼ごはんをテイクアウトする途中だったり、ふと意識した時におばあちゃんに電話をかけるようにしている。千葉に住むおばあちゃんには、電車に1時間も乗れば会いに行けた、これまでは。いつでも会いに行けたから、結局全然会いに行かなかった。長らく顔を見ていないとなんとなく電話もしづらくて、忙しさにかまけて遠ざけていた。たまにおばあちゃんが気にかけて電話をくれると、無理に元気な声を出して、そして最近の忙しさをさりげなくアピールして、電話をかけていなかったことの免罪符をつらつら並べて申し訳なさを紛らわせていた。初孫の私をずっと気にかけて育ててくれたのは充分すぎるくらいにわかっているのに、天邪鬼で親不孝だ。
すぐに繋がる電話。背後からは大きすぎるくらい大きいテレビの音、使い込まれたうすピンクの小さなガラケーを伝って私のiPhoneに流れ込む、大好きな声。「おはよ〜ばばちゃん、体調大丈夫?」からはじまる他愛ない会話の裏で、最近おばあちゃんの手料理を食べていないことと、かぼちゃの煮物を自分で作った時におばあちゃんの味を強烈に思い出したことを思い出す。おばあちゃんのかぼちゃの煮物が世界でいちばん好きだ。あ、春巻きもゆずれないかも。あとモツの煮込みも、うなぎの卵とじも、肉じゃがだって逸品だ。母親には申し訳ないけれど、私の中の『母の味』はおばあちゃんの手料理だ。おばあちゃんちで、おばあちゃんのご飯を前にして、母と一緒になんども「やば〜〜〜〜やっぱりばばのご飯はうまあああ〜〜〜〜」と叫び合って育ってきた。私は相当におばあちゃんっ子だと思う。おばあちゃんは癌を持っているから、このご時世、普段以上に体調が心配だ。抗がん剤治療がはじまってもう2年くらい経つ。食欲のないときはコカコーラでご飯を流し込むしかなかったり、急に倒れて救急車で運ばれたりしているけれど、健気にしなやかに戦っている。本人はあと数年、というけれど、私は何年でも生きて欲しいと毎度伝えている。本当に、あと100年だって生きてほしい人だ。こんな人なかなかいない。最近は別件で目の手術をしたようで、医療機関への行き来での感染予防には人一倍気をつけているという。おばあちゃんの孫、つまり私の従兄弟は全部で10人いて、おばあちゃんに食材を届けたり、飼っている犬の散歩を手伝ったり、LINEグループで繋がっておばあちゃんの様子を共有したりして、日々気に掛けている。
今朝電話したときは、『あ〜〜いま元気になったよ!電話をくれたから。朝はなんとなく体調が悪くてさあ、ほら、やっぱ考えちゃうじゃない。コロナにかかったらどうしようとかさ。そんで一人で考え込んだら気持ちがしずんでしまってさあ〜』という。それからなんどもなんども、『ちゃんとご飯を食べるんだよ』、『野菜と果物がだいじだよ』『あと陽の光もだいじだよ』と。あと、『ヨーグルトにえごま油をちょっと垂らして砂糖をかけたのをばばは二日にいっぺん食べてるけどいい調子だよ』というのも教えてくれた。
10分程度の電話だけれど、切る時にはいつも名残惜しくなる。あ、来週会いに行くね〜とかも、やろうと思えばできていたのに、やれる時にはやらなくて、やりたい今は本当にできなくなってしまった。いつ会えるんだろう。元気で会えるだろうか。会いたいなあ。途方もない気持ちになる。とはいえ、だいたい大切なことってこんなものだ、とも思う。会いたい時に会いに行って、伝えられる時に伝えて、抱きしめられる時に抱きしめておかないとなんだよねきっと。
時間はありあま��ほど十分にある今、いろんなことにかまけて『まあいっか』と思っていたことや、実はすごくやりたかったことに、意識して時間を注いでみるのがいいかもしれない。今できることに集中しよう。
私はふと意識した時に大事な人の声を聴きにいこうと思う。
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oonekonarisa · 3 years
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忘れたくないことの羅列
一瞬のうちに見聞きしたことなはずなのになぜか記憶の中にずっと不思議な力を持ち続けている事柄ってありませんか。定期的になんの脈絡もなくふと思い出して、でもその脈絡のなさゆえその場で誰かに言うことは憚られ、「うお〜また無事に思い出せたわ」とほっと嬉しくなるような記憶。でもまた忘れてしまい、こんどは本当に永遠に忘れてしまうのではないかと怖くなるような記憶。私にはいくつかある。ひょんな拍子に忘れ去ってしまう前に今思い出せるところにある覚えておきたいことを書き記しておく。
はじめて地球儀をみたときのこと
確か小学校低学年の頃だったと思う。我が家に地球儀がきた。開国間際の藩士さながら日本の小ささと地球の小ささに同時に驚いてしまった。何処へでも行けるじゃん!!せまっ!!世界せま!!!!と大騒ぎしておかしくって笑い転げたのを覚えてる。その頃の自分には「いやいや世界って意外と広くってかなり深いで」と教えてやりたいけど、その時の純朴な世界の見方は覚えておきたい。
どん底のキットカット五角マグカップ
マグカップをぶん投げた。何が「きっと勝つと」だ、何が「合格」だ。志望校全落ちしたことが判明したその日に家に届いたマグカップは所在無くテーブルのはじに置かれていて、なんでそんな顔してこっちみてんだよと思ってぶん投げた。悔しさを物にぶつけるのはよくないけれどその時に欠けたマグカップへの申し訳なさもあって受験校を追加してがむしゃらに勉強したっけ。
長野の別荘
別荘だったのかもよくわからないが毎夏親戚みんなで滞在する山の上の家があった。塗装されていない凸凹な坂道をずっと登るとみえてくる斜めって不恰好なログハウスで、毎年駆除していてもやっぱりずんぐりした蜂の巣が入り口に構えていた。目の前には小さな牧場があって牛のモオオオオという鳴き声で朝は目覚め、たぶん消毒されてない牛くさい生乳をコップに注いでもらってよく飲んだ(衛生的にどうだったのか謎)。田んぼが近くにあった気もするけど水っぽいところで遊ぶのは苦手だった。澄み切った空気は酸素が薄い気がして息苦しいと母の弟によく訴えていたことを覚えてる。別荘はおじいちゃんがボケて売り払ってしまったらしく10年前から行けてないけど確かに別荘たるもので過ごした夏があったことは忘れないでいたい。
小2の終業式に担任のルミ先生と握手した右手
大好きな先生だった。当たり前に3年生になっても4年生になってもいっしょにいられると思っていたのにルミ先生は転校していくという。クラスみんなでわんわん泣いた。私自身、人前で泣いたのは初めてだった。美しくて優しくていい先生だったから保護者も泣いていた。ルミ先生は困り笑いしてた。携帯もない当時、小学生の自分にとって「他の小学校に行ってしまうこと」は「遠い異国に移住することすなわち今生の別れ」くらいの一大事で、初めての大きな別れの経験だった。最後に先生の前に一列に並んで一人ずつ話す時間があって、その時に差し出した右手をぎゅっと握って「応援しているからね」と言ってくれた右手の感触と先生のまなざしのことをずっと覚えている。吉野ルミ先生。覚えていたい。
くす玉を狂ったように作った小学校の日々
パーティー係というのをやっていた。毎月誕生日会をクラスで開いて、くす玉を割るというパーティー。朝早く来て、昼休みを使って、放課後を使って、狂ったようにくす玉を作っていた。くす玉はホームセンターの園芸コーナーにある丸い鉄格子の鉢植えに、小さく切った和紙を何枚も何枚も糊で貼って重ねて乾かして作る。完全に乾いたら鉢植えを抜いて、くす玉に色を塗って、中身の垂れ幕を作って、キラキラする折り紙を切り刻んでたっぷり入れて、完成。これを毎月毎月飽きずに作っていた。たたらこうすけくんと仕事(といってもくす玉づくりだが)の相性が良すぎて、チームの楽しさを存分に知ったのもこのころだった。
わあ、文字にしたことによる、かたちに残すことによる安心感よ。また思い出したら文字にしておこうと思います。
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oonekonarisa · 3 years
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2月2日に思うこと
毎年、2月2日になると、中学受験と、私のかつての戦友について考える。
私は特別勉強ができる子ではなかった。幼稚園から英会話や絵画教室、小学校1年からは公文式に毎週通わせてくれたり、ランドセルは綺麗な赤、かわいいスカートも買い揃えてくれていた両親の期待とは裏腹に、私は隙あらば男の子に混じって木登りやドッチボールに明け暮れスボンを泥だらけにし、英会話では大号泣、公文(くもん)では答えを写してさもありなん顔で提出して逃げ帰るような子だった。おてんばと言えば聞こえはいいが、親の期待をなんども裏切り、随分と振り回してしまったように思う。
そんな私に転機が訪れる。近所(文字通り、向かいの家だった)に住む幼馴染の女の子(仮にKちゃんと呼ぶ)に、進学塾への体験にいっしょに行かないかと誘われたのだ。
毎日の遊びになんとなく飽きてきていた私は、ほんとうになんの気無しにその誘いに乗った。"オトコンナ"(男女)というあだ名がつくくらいに男勝りだった私。真面目なやつらを冷やかしてやるぜ、くらいに思っていたと思う。初めて「塾」という場所に足を踏み入れた。
体験授業ではべらぼうに褒められた記憶がある。一問解ければ「さすが、素晴らしいね!」「きみは天才かもしれない」。ふだん先生から叱られるか呆れられるかばかりだった私に、その小さな褒め言葉は染み渡った。(受験中までこの時の一言、とりわけ「天才かもしれない」の部分、を信じ続けることになる。模試でどれだけ悪い点を叩き出してもこれを盲信していたからへっちゃらでいられた。)そして帰宅後開口一番に「ママ!わたし中学受験するわ」と言った。
「よし、本気でやりなさいね。」
これが母からの言葉だった。拍子抜けした。今思い返せば、私の両親はどちらも高卒で、その親もその親族もまた高卒という家系だった。どれほどの動揺と覚悟を持ってその言葉を返してくれたのだろう。この愛のこもった一言なしに今の私はない。絶対にない。本当に本当に、頭が上がらない。
それからというものKちゃんとの塾通いの日々が始まった。一緒に小学校へ行き、授業が終われば共に速攻帰宅しお弁当を持ってKちゃんママに塾に送ってもらい、4-5時間の講義と自習。お弁当を片手間に食べつつ、知識の大洪水を浴びながらゴールの見えない大海原を渡っていくような感覚の日々。小学生の私にはインプットの限界などないように思えた。世界はあまりにも知らないことだらけだと知った。どんどん伸びていく偏差値がおもしろくて仕方なかった。私とKちゃんの手はいつもかたく握られていた。言葉にせずとも「お前には負けねえ」というひりひりするようなライバル意識と、「一緒に晴れ舞台に立とうな」という結託があった。
受験直前期に向かうにつれて、Kちゃんが授業に遅れたり、欠席する日が増えた。Kちゃんはあっという間に下のクラスに落とされ、その後は出欠状況もわからなくなってしまった。学校を休む日も増え、帰り道に家に寄ると「ごめん今日は塾いけないんだ」と窓から少し顔を出して言った。顔色はなんとなく暗い。次第にめっきり塾には来なくなり、学校にはいるけれどなぜかKちゃんはいわゆる不良系のグループとつるむようになっていった。なぜ?と思いながらも、私は自分自身のことに精一杯になっていて、気にすることも徐々になくなっていった。
私の中学受験は、蓋を開けてみると惨敗だった。
千葉の受験は早い。1月に行われた千葉の御三家にはことごとく落ちた。特に第一志望だった市川学園の受験はひどかった。幕張メッセ(!)が会場なのだが、何度も何度も想像したはずのだだっぴろい会場と数えきれない人間の頭が広がる景色に、圧倒されてしまった。血の気が引いて、椅子に座っているのもやっとだった。試験のことは一切覚えておらず、隣の子がカッカッカと鉛筆を走らせる音だけが耳に響き、報道陣が多い会場を見渡して「これ、テレビに映ってたらどうしよ!怒られるな...」なんて呑気なことを考えていた。
さて、全落ち。
背水の陣だった。2月の1日は本物の御三家の受験が集中するのだが、御三家の願書は数日前に締め切られていた。背水の陣の攻め所はその翌日、「2月2日」の学校に限られた。
調べて出て来たのは青山学院中等部だった。正直学校方針の「キリスト教の精神に基づいて〜」を読んでもなんのことやらさっぱりわからなかった。私も家族もみんな、キリスト教の"キ"の字も知らなかった。
ここから私の火事場のバカ力が発揮され始める。どうせならもっと早く発揮せよと思うが、「きみは天才かもしれない」という言葉への純粋な信頼をやっと捨てられたのがこのタイミングだった。私はたぶん、天才じゃない。運もよくない。藁を掴まねば。不合格をSた知るたびに隠れて泣く両親を見て、期待の大きさを知った。それからは小学校を全て欠席し、文字通り血眼で過去問演習をし続けた。
結果、青山学院中等部から合格をもらった。母が小学校の授業中にクラスに飛び込んで来て、クラスみんなに祝われた。生まれて初めて、安心して泣いた。
私の中学受験の概要はこんな感じだ。そこから中高は青山学院にお世話になり、はじめは"キ"の字も知らなかった私が大学進学の時にはキリスト教推薦をいただいて、国際基督教大学に通わせてもらった。
Kちゃんは、中学受験を終えることができなかった。
すべて後で聞いた話なのだが、Kちゃんの中学受験の時期にKちゃんの両親は離婚していた。送り迎えをしてくれていたKちゃんのお母さんの、浮気が原因だった。え、あの人が?小学生の私にはよく理解できない「離婚」「浮気」のワードを前に、呆然とすることしかできなかった。信じられなかった。
眠い目をこすって一点でも高い点をとろうと努力したあの時間は?Kちゃんの綺麗な字が並んだ分厚いノートは?腫れ上がったペンだこは?かたく繋いでいたはずの手は?
もはや涙も出なかった。Kちゃんが悪いのだろうか。そんなはずないことは幼心にもわかった。
小さいからだを削って、大人ですらできる人は多くはないだろうほどの、文字通り血のにじむ努力をしていたことを、彼女の母親は知っているのだろうか。一番近くで知っていたはずなのに。Kちゃんは、これからいろんな色をのせられる綺麗に広げられたはずの画用紙を、目の前でくしゃくしゃにされたような気持ちだったろうと思った。そんな身勝手な事情で、「なかったこと」にされていいのだろうか。大人は、最低で最悪だ。
でも。
誰か助けられたんじゃないか、とも思う。
その役目って、私だったんじゃないかとも、思う。
何もできなかった私は、ずっとずっとこの曇りを心に抱えて生きている。
数年経って私が中学生2年のとき、私の両親もまた、別居することになった。家の中も心の中も、毎日ごちゃごちゃにされることを身を持ってしった。こんなの勉強できる環境じゃない。実際、私の妹は、志していた中学受験を誰にも言わずひっそりとやめた。
大学に入って学習支援や居場所支援をするNPOの現場で活動したり、さまざまな事情を抱えた高校生とかかわる度に、小学校を卒業してから会えていないKちゃんのことを想う。
人づてに聞いた話だと、離婚後は母親の方について団地で暮らし、高校を卒業して、今は働いているという。
地元は一緒だ。住んでいるところも近いそうだ。
会った時に、なんて言おう。
私に何が言えるんだろうか。言えることなんて、あるのだろうか。
正解は出ない。
ただ私は、私自身もまた家庭がゆがんだことのある当事者として、現場で同じような環境に生きる子達を手の届く距離でみてきた者として、運良く大学��好きな学問を続けられている身として、Kちゃんにも胸を張れる人間でありたいと、こころの底から思う。
たぶん天才ではない私なりに、彼女のようなしんどいところにいる人に気づける人間でありたいと思う。手をさしだすことのできるつよさを持ちたいと思う。そう思える2月2日をこれからも大切にしたい。
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