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onamekujiundpineapple ¡ 2 months
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20240228
たまには優雅なコーヒータイム
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帰り道、レストランの窓越しにドイツ語の先生と出会した。笑いが止まらん。バカ飲んでた。
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onamekujiundpineapple ¡ 2 months
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20240226
昨日の夜、ついに脚本のプロットが完本。共同監督の茂木くんとオンラインでも感無量。マジでここまで4ヶ月以上。よく頑張ったと思う。世界を変えられないことはわかってるけど、世界を変えるつもりでぼくは作品を作るし、そうでない作品に意味はないなと。
ここ半年で1番晴れやかな気持ちで深夜3時就寝(なお昨日の打ち合わせはのべ13時間にわたった。)今日は朝8時起床。11時から3月頭のクラス展示の打ち合わせがあったのでその前に作品を仕上げようと無理して起きる。26番でKagraner Platz、Billaで50%引きのサンドウィッチにパンを2つ買い、U1でKarlsplazへ。半分を地下鉄で食べる。
アカデミーに着き、絵を描き始める。とにかくあまりに良くない状態。
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とにかく壊していかないといけないと思うもなかなか糸口が見つからない。ので、ずっと放置していた自画像を仕上げる。
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まあまあ形にはなったので、もうこれを展示してもいいかなと。で、そのあと気づくと筆が進むようになり
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ここまで壊した。作品としては何もって感じだけど、とりあえずここからできることを考えたい。
で、3時間遅れて教授登場。展示する作品を選ぶ。結果、自画像とそれに追加でドローイング3点を展示されることになった。ドローイングっていうか、自分ではそうなのかもよくわからんし展示する気なかったんだけど、というか教授に中西夏之的のオマージュ的なのはどうしたん?的なことを聞かれ、なんか一旦そこに戻るべきだよなとは思った。テキスト読み直そう。
展示会場まで作品を持っていき、置いてアカデミーに戻り、片付けをしてアカデミーを出る。最近はとてもあたたかい。東京よりあたたかいらしい。最高14℃とか。天気も良いし、春感出てきた。とにかく、この脚本プロットと展示準備の2つが終わって本当に晴れ晴れ。
その足でマリヒルに行って、ベルリーナーケバブを買って食う。デブ活だけど今日はいいだろ。で、そのままバイトへ。
すると、いままでオーストリア人か日本人しかいなかったキッチンに謎の初日のベネズエラ人26歳男性が入ってて、しかも日本語もドイツ語もできないみたいでみんなでヘッタクソな英語で必死になる。
月曜のウィーンの飲食店はアホほど人が入らなくて暇なので、話す機会も多かったがアルゼンチン出身で育ったのはベネズエラ。出稼ぎでアメリカに出て、今は彼氏がウィーンにいて夏休み(季節感覚がバグる)だからウィーンに来ていて仕事をしている。ドイツ語はa1クラス。ドイツ語と日本語を英語で教えながら仕事する。頭すげえ使うので今日は暇な割に時が進むのが早かった。
なんかポケモンのクレイジーファンで、ライコウの映画を激推しされた。ようわからん。でも仕事の腕は良い。アメリカのボストン?のホテルでキッチンやってたらしい。通りで。よく喋るけど誠実だし、変なプライドもないから俺は好きだな。
ってか、ヨーロッパでもよう喋るうるさいのはいるんだけど、誠実さにかけること多いんだよな。ぼくの交友は飲食店バイトのコミュニティレベルと、アカデミアのコミュニティレベル、芸術界隈とそれなりに広くとってるとは思うけど、コミュニティに関わらずなんか多い気がする。みんな自分が天才だと思ってるというか。いや、俺って天才だからね!って言うやつはいいんだよ。問題はいやいや、私そんなんじゃないからとおもてでは言いつつ心の中では自分のことが天才的な存在だと思ってるタイプ?で、天才だから努力は不要。みたいな。実際ストイックなタイプの作家を見つけるのは日本よりも難しい。いるにはいるけどね。
ぼくの中での天才の定義は努力を続けられることだと思うので、その意味で飽きっぽいぼくは天才ではないと思う。でも、なんだかんだ作品の責任を取らないといけないとか自分を追い込む癖はあるので、そういう大綱的な観点でいえば天才かもしれない。でも上は沢山いるからわざわざそうは思わないけど。けど他者との比較を抜けばそうだと思う。
でもぼくの癖は他者を気にすることだからやっぱり本音でその言葉を発することはできねえな。どうしても自分より努力してる人を見て自分はやってないと思ってしまう。だからといって自信を失うこともないけど。
バイト終わりにベネズエラ人の彼(以下ルイス)にお疲れ様です。という日本語を教えた。店を出る時にわざわざ長々と感謝の意を伝えていたので(それはそれでいいけど)
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onamekujiundpineapple ¡ 2 months
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20240224
長澤太一のスベらない話ストックの1つに労働環境も��ったくれもない高校のときにバイトしていた歌舞伎町の居酒屋の話があるのだが、まあ、一言で言えば大変治安が悪くて何度も救急車を呼んだし、喧嘩で警察も来たし、何より人手不足で高校生なのに店長代行にはされるしみたいなただ酷いだけの話なのだが、それから5年ほどがたった今、ふと思い出したことがあった。
当時自分が働いていた店では新宿の他店舗の社員が人手不足で店長にさせられて1ヶ月以上無休&ほぼ無睡みたいな人がいて、これが後にも先にも見ないほどの負のオーラを出している人物であった。
体育大出で、学生生活は遊び呆け卒論は教授に土下座してレポート1枚で卒業し、給料の良い居酒屋に就職し、今、という感じだった。
妻子が確か居たのだが、クリスマスにシフトで行ったらすごい早く店長が居て、聞くと昨日朝方に家に帰ったらクリスマスツリーがピカピカ光ってて腹が立ったから2つに折ってやったら妻がキレて家から追い出されたんだよ。とのこと。これを高校生に言うこと自体もヤバイし、何よりそのトーンが笑い話として話し始めたものが途中で狂気じみてきていたというか。人殺しの目をしていた。
その後、少しでもクソ客に当たるとデシャップですぐに瓶を壁に思いっきりぶつけて粉々に割ってストレス発散したり、しまいにはバイトのいる前でまな板に包丁を突き刺して暴れたのをきっかけに彼はクビになったのだが(ここまでがスベらない話の定形)、そうなる前に、クリスマスにぼくはそういえばひとつ提案をしていたなと。
そこの���宝で映画でも見てきたらどうです?と。たしか、久しぶりの休みをもらえるって話だったんだよな。だから言った気がする。でも見たってしょうがねえんだよと言われたような言われなかったような。あんまし覚えてない。だからいまの今まで忘れていたのかもしれない。
この話にオチはないけど、もし彼が何かしらあの時いい映画にあたっていたら、もしかしたら何か変わっていたんじゃないかって思う。なんとなくそんな確信がある。ぼくは芸術の力とか基本信じてないけど、でもあの人にだけはそんな力が必要で、少し摂取すれば違ったんじゃないかって思う。
あの人はなんの携帯ゲームやってたかな。そういえばなんとか坂が好きだったような気もする。名前は名字しか覚えてないので検索できない。下の名前に之はついてて、2文字だった気がするけども。彼は今何をしているんだろうな。会いたいとは微塵も思わないし、会いたくないけど気になりはする。話したくないけど。意外と俺って人に興味あるんかもな。とりあえず妻子を殺めてないといいな。マジで。
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onamekujiundpineapple ¡ 2 months
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20240216
いい作品というのは親離れをしていると思う。悪い作品には反抗期がなかったが故に、親と同じことを揃って同調して行っている。だから、作品が自立して自分に向かって反抗してくる時期が必要。それがないまま完成を迎えてしまったのならそれは、あなたはモンスターペアレントに成り上がったことを意味し、作品は子供のままであったということだ。
大人になるというのはどういうことか。それは平たく言えば、世の中にいる自分とは相容れない思想の人間から、気の合う人まで、それぞれの付き合い方を知ることだろう。そのことから逃げて、自分の主張と同じだったりする人だけと付き合って大人になった気分のやつは見ていてなかなかキツイ。というか、ヨーロッパの美大の奴らは大抵そう。日本よりも。
戦争も同じ原理であって、思想の異なる人やマスとの付き合い方がわからないガキだから、1箇所に集めて虐殺しようとしたりするわけ。だから大人になれよっていう主張を高らかに人は国会の前で上げる。けどその主張をするということもまた、付き合い方が分かってないガキである。フランス革命の時点で、国民国家が戦争のために作られた概念であるということは自明であるわけで、戦争による被害者を少しでも減らそう、という主張ではなくて、戦争をなくそうという主張をするということは、国民国家を否定するということと同義なのはルソーを読んだら自明である。
国民国家や資本主義を体系的に否定し、反戦を掲げる中核派などはぼくは賛同できないものの思想的なリスペクトを持つことはできる。なぜなら自ら極左である事を自覚してるからだ。けど、左翼ではない、過激ではない、苦しんでいる人がそこにいる。だから助けるのが筋だと、一見真っ当な事を言って自分の意見を普遍化して下品なレトリックで周りにお気持ち表明をするガキに誠実さはないだろう。
左翼のやってることはホロコーストのナチスや今のイスラエルの虐殺となんら変わらない。自らの行為が正当であると信じてやまないところも含めて。イスラエルはやってることが本気で正しいと思っているから虐殺をしている。むろんぼくはこれに去年から反対の意をもっているが、これを表明できないのはクソ左翼どもの反戦活動の抑圧性によるものだ。そしてこの抑圧性はそのうち新たな戦争になる。
と、まあこのように、人間の歴史は円環のように繰り返されるのである。反戦派が過ちに気づく時は、戦争による死者が逆に増え、自らが苦しみの境地にたたされた時。人間の歴史とは現状そういうもんといえばそういうもんだからだ。悔しいけど。だから諦観の念もある。おかげさまで抑圧性で死人を減らすためのメッセージすら出せない。
だからやはり、作品を作るしかない。そうすることで、ぼくはなにがモンスターペアレントでなにがそうでないか気づくことができる。そしてそれこそ、今蔓延るクソ左翼どものような醜い姿にならず、そしてそう言いつつも良い関係性を築ける距離感を知ることになるのであろう。
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onamekujiundpineapple ¡ 4 months
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20240104
かつて新興宗教が流行った80年代後半ー90年代初頭はバブルで豪遊している人が、とりわけ東京では多かったわけだが、そんな体たらくな唯物論に呆れた真面目な東大生や京大生などのエリートが、唯心論に感化され、その中でオウム真理教の教えに感化されたことがあった。
だから、新興宗教に入る人は自分のことだけを考えるのではなく、社会を本気で心配したりするほど真面目で、そして本を読める人が多い。90年代の時点で本を読む人は60年代などに比べて激減していた。今は比較にならないほどさらに減っているが、それゆえに、本を読む能力があって真面目で、となると相当仲間の母数が減る。つまり話題を共有するサードプレイスがない。
それでも、東京ならまだ多少なりともある。それが実は東京のリベラル界隈なのだと思う。芸術ー思想ー哲学、もっと具体的にいえば、フェミニズムやアンチファシズム、ストップオイル、ガザの件などだ。当事者は洗脳されているからわからないと思うけど、これらに付随するムーブメントは新興宗教そのもである。ただ、別にぼくは新興宗教そのものがダメだと言っているわけじゃない。
オウムはあの事件があったから、これを初っ端から良しと思う人はなかなか世の中にいないと思うが、オウムだって最初は武力による国家転覆など目的になかったわけだ。けど、だんだん自分たちのやっていることに効果がないことを自覚してきて、なんなら死亡事故を起こしてしまって歯車が狂ってきたということ。自分たちのやっていることに効果がないことを自覚してきて過激になるケースは今でも多い。
では、どこからが過激で、どこまでなら過激でないのか?その明確な答えはない。なぜなら恣意的だからだ。仮にそれを法に担保したとしても、その法が間違っていると糾弾することも少なくない。そして、この法は私的にOk、この法はダメ、とか、一体何を基準に言っているのか意味がわからない。
そしてこの意味がわからない状況が正常であることを認めないといけないと思う。なぜなら人間だからだ、という一言で答えることも、長々と弁明することもどちらも可能だとは思うが本質は変わらない。
また、人間の生理的、根源的現象として、忘れるというものがある。そう、人は忘れるのだ。何かを主張していても、それは絶対にいつか忘れるないしは忘れている瞬間がある。忘れている瞬間があってはダメなのか?そんなはずはない。けれど、そこに苦しみは確かにある。無視できない。確かにそうだ。
なんだかんだ人はみな何かを信じて生きている。その何かは違う。それを認め合うのが多様性社会である。何かに声を上げる行為はみんなそのうち忘れてしまう。なぜならそこに達成感はないからだ。達成感がないふわふわしたものを扱えるほど人間は利口じゃない。だから結局「観光客」に収斂される。
これに反発する人は、本当の意味で社会をまだ知らないのだろう。けど、知ってしまえばみんな「観光客」に行き着いてしまう。これはこれで問題なのだが、「観光客」はあくまで結果論に過ぎず、個人のモダニズムというプロセスとは対をなす。だから、今モダニズムしている若者にどうせ「観光客」だって言うのは、野暮であると言うことだ。それはかえって理解できない。
世の中に絶対なんてありえないのに、限界まで自分の主張に絶対性を信じ主張することは、最終的な絶望の深さも大きくするし、それはすなわち人間としての成長の大きさを意味する。だから、そういう成長する前段階の希望を貯めている人たちを馬鹿にすることはあってはいけないし、「観光客」という言葉は、本人にその意図がない(むしろ肯定している)のはわかるが、このレトリックで突然その言葉を若者に突きつけるのは厳しいものがあるだろうと思う。
ただ、一番怖いのはいつまでも本当の意味で絶望しない結末だ。いや、誰にも何か主張しないでそのまま死ぬのは別に良いというか、むしろそれが世の中の大半だと思うんだけど、いつまでもガキでいつづけるってのはやばいよなと。その命運をわけるのはやはり周りの環境だと思う。自分と同じ思想の人間に囲まれ、ゲーテッドコミュ���ティのごとく議論をしているつもり、で歳をとっていく人間はどういうわけかとりわけ東京の西側に多い。いい年してそうなっている人たちをぼくは心底軽蔑している。
単なる仲間内ゴタゴタならまだいい。面白いこともある。けど、他の思想の話は体力的な問題とか色々言い訳して聞いたとしても理解しないくせに、社会の主語を大きくして主張をする。それは新興宗教そのものではないか。しかも悪質だ。ヨーロッパきてからこのように思うことばかりだ。
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onamekujiundpineapple ¡ 4 months
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20231221
いまぼくは朝3時半に起きて、電車に乗ってウィーン中央駅に向かっている。ミュンヘンに行くためだ。
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近頃は僕の身の回りでポリティカルな現状、すなわち決断による政治性が顕になる瞬間が多く、胸が締め付けられる事が多い。そうしたものを摂取するとき、自分自身に余裕がないと、これに単に反発するに留まってしまうわけなのだが、今はわりかしそうではない。どうやらここ数ヶ月の鬱状態からもだいぶ緩和されたようだ。
この数ヶ月というのは、結構昨日くらいまでの話だ。直近でいえば、彼女としばらく2.3週間は電話ができなくて、ひさしぶりに話した時にした、僕が早い列車で彼女が下車した駅のプラットフォームを列車の後ろから眺めるしかなくて寂しいということ、そしてそれで不安であるということ。
その不安は前を向いて走っていないから、前方不注意によるものだと思う。だから前を向いて走れば怖くない。けれどそれは、お互いの専門分野という部分だけを切り抜くから起こる現象なのであって、単なる日常生活の時の流れやペースはこれにあたらないどころか、彼女の方が速い列車に乗ってる可能性すら大いにある。
今思えば、専門分野のレールが同じだけなら付き合えていなかった。それを可能にしたのは、根本となる生活の距離感にリアリティがあったからだろう。だからこそ、ぼくらがウィーンと東京の遠距離恋愛の関係になった時、その歯車は狂った。去年は彼女がウィーンにくるというモチベーションがあったが、現段階ではそれがない。加えて彼女の進路の話もあり、ますますそれが距離を錯覚させる。
これは僕が鬱から立ち直れない要因そのものでもあるが、なんでもいいからひとまず手を動かすというのはすごく大事なことなのである。まず僕はこの数ヶ月でそれを少しずつ学んだ。だから、就職という決断をしてもいいし、極左になるという決断をしてもいい。しかしそれは、目的ではなくて手段である場合だと思う。
なんのための手段か?それは自分自身のモダニズムという言葉がいいだろう。結局のところ、口先でそれって意味ないんじゃないかって言って、手を動かさない人ほどその意味を知らないのは事実であり、そして、ぼくのまわりの人たちは、彼女を含めてこれをきちんとやっているのだろう。ぼくはそれらが目的ではなくて、手段でしかないことを本当はわかっているはずだ。ただ、そこに怖さを感じるのは、単に自分がこれを目的として捉えている部分があるからであって、これは彼女の問題では全くなく、完全に僕の問題であった。解決策はもう手を動かすしかない。
そしてぼくたちを繋ぎ止めていた日常のスローさもまた、やっぱり重要なように感じられる。これをいかに担保するかという問題はより、現実的に考えていかなければならないが今はそれで十分だろう。
関係が終わるにしても終わらないにしても、ぼくが怖いからっていうのは理由にならない。モダニズムは目的ではなく手段、過程だ。だからこれについてぼくは賛成することもなければ反対することもない。極端な主張を荒げていても、いつかは絶望に苛まれることになる。これを繰り返すこと自体がモダニズムで、人間の本質だと思う。これを捨てたとき、人は人でなくなる。
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onamekujiundpineapple ¡ 5 months
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20231204
ガザの件について、ドイツ・オーストリア政府としてはイスラエルの行為を正当化する動きで、うちのアカデミーの学生連合ではこれに反対するためにFree Palestinaを掲げている。アカデミーとしては国立であるため、とはいえアカデミーの学生としてはFree Palestinaの声が大きいためなんとも大きな声明を出すことができず、先月暴力反対宣言的なものを出すに留まっている。(というのはFree Palestina側の主張に概ね沿っているものであり、わたしはできる範囲でアカデミーが声明を出したと言うことで評価したいが。立場を考えれば。)
しかし、日本にしてもオーストリアにしても、これら政府に対してFree Palestinaを主張しろというまあ、気持ちはわかるけど、お門違い感あるムーブも小規模で(これもまたオーストリアでは似ている)あり。というのも、オーストリアはドイツの属国的なところがあり、日本もアメリカから独立していない。特に日本は核を含む安全保障をアメリカに委ねていることが大きく、アメリカがYesと言ったら日本もYesというしかない。したがって、本件について声明を日本政府が出すとき、そこには日本としての判断というよりも、自動的にアメリカの機嫌を損なわない態度を取ることが優先されるってのは別に今始まったことではない。そして、オーストリアもまたそうで、オーストリアは徴兵制があり、軍隊があるとはいえ、一応書面上では永世中立国であり、EUである。つまり追随しないと安全保障にかかわってしまう。
となると、仮に方針に異議を唱えるするならば、米国ホワイトハウスであると思う。ただ、この方針も4年に一度の大統領選で180度変わったりするような国なのだが。。。まあ、なので、パリのデモでバイデンとハマスとネタニヤフの写真を踏んづけるものがあったが、あれには賛成できる。
あと、日本政府の得意技として(褒めてる)建前というものがある。やる偽善とやらない善、という話があるが、今もなお殺されているガザの民間人のことを考えるならば、やる偽善でもなんでもいいから被害を減らせた方がいい。このあいだの官邸のポストはアメリカに追随しますというわかりきった建前ポストだったが、実際日本は休戦交渉をしている隣国のエジプトとヨルダンに巨額の支援(外国為替資金特別会計)を外貨仕向けで行うと昨日ニュースでなっていたので、表層ではガザを見捨てたような態度をとってるけど、行動としては援助をしている形にはなっているよう。ドイツやオーストリアよりよっぽど立派なことをしていると思うし、今回の日本政府の対応に関しては一定の評価をしてもいいと思う。
そして、口先でも行動でもガザを支援すると、表も裏もない姿勢での政権運営をしろというのは、相当なる理想論であり、それは例えば、日本が軍隊を持ってアメリカから独立する必要があるし、というか、日本だけでなく全ての国が一斉にそうならないといけない。そんな革命を本気で考えているのなら、主張を聞くのはいいけど、革命や社会主義に懐疑的な立場をとっている人がリベラルな人の中でもほとんどなはずで、そんな中途半端な立ち位置で表も裏もない政権の姿勢を主張するというのはあまりに非常識というか、なぜならこれは国だけではなくて、会社経営とか、なんなら個人間の人間関係にも当てはまるから。なんでもかんでも思ったことを他者にあてつけていいわけがない。そんなことしたらそれこそハラスメントである。だから表と裏は必要で、でも何が表で何が裏だよねって状態を把握する人口、つまりリテラシーの高い人間を増やしていくことそれ自体はとても大切だと思う。なぜなら、それによって逆説的には争いが茶番化していくから。争いの茶番化は18世紀にスポーツの発明で少し光を見せた。
国民国家という概念が戦争マシーンであることは、ルソーがフランス革命の前に言っている。そんな当たり前のことを反芻するのではなく、争いを「茶番」といえるような世界にしていくこと(ぼくが生きている間は不可能だろうが)が大事で、結論から言えばそれは宇宙人が攻めてくるからみんなで戦おうとかしかないのだけど、でも宇宙人が実存である必要があるだなんて誰も言ってないので、長期的には仮想宇宙人を作ることが大事なんじゃないかな。短期的には、今もなおガザでは民間人の子供が亡くなっている。ウクライナもそう。建前でもいいからできるレベルからまずは再び一時休戦。こういう時にトランプが大統領だったら、またTwitterとかで建前でとんでもないこと言って、大炎上して、でも水面下ではちゃっかり平和主義者やってるみたいなことが起こってたかも知んないんだけどなあ。バイデンというか民主党だと建前をあんまりやらないから。それが良くはたらく時もあるのだけど、思想の分断に起因する戦争とかで面裏なしで仲裁するのは単に頭が悪いなあというだけ。頼むからまずは死傷者を抑えてくれ。こんなことになってんのはアメリカの責任が大きいから。バイデンに怒ってる。まじで。
そう考えるとだな、安倍ートランプの組み合わせ、岸田ーバイデンの組み合わせに実際はなったわけなんだが、どちらもあんまり良くなくて、岸田ートランプだったらバランス取れたんじゃないかと少し思うんだわな。日本の政治はそのときのアメリカの政権にもよるから。実際、せっかく民主党が勝った菅直人のときも、民主党のオバマでしょう。で、日米関係は最悪になったわけで、野田さんの時にはすでに時遅し。野田ートランプでもいいと思う。今野田さんが新党作るとか、立憲民主党の代表とかになって党改革するんなら立憲に入れたいけどなあ。で、来年の大統領選にトランプは出馬するみたいだし、多分勝つでしょう。岸田か野田かで言われたらー、まあ自民党という体質は確かに終わってるから野田なんだよな。そしたら野田ートランプの完成。かなりいいのでは?と夢を抱いたり。
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20231201
リクルートの奨学金に落ちたことで、制作メモが書けるようになりました。
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なんか去年もそうだった。去年リクルート落ちて、この夏の二つの展示企画したんだわ。落ちる事によってなんかことが進むんなら来年も受けるか?落ちるために。
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20231129
朝起きて携帯を見るもリクルートからのメールはなく。結果は明日来る模様。この1ヶ月変わらないのは、今回落ちたら次応募するかはもうわからんなという。今回通ったとしても、なんかそれはそれで現代美術に還元しないといけない感じがしてプレッシャーだなと思いつつ、そのプレッシャーと闘うのもまた必要かなと思わないことはない。が、健康的ではないよね。
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きのこのホワイトソースパスタ。これは極めつつある。
現代美術に還元しようと今思ってはいけないんですよ。そのための現代アートからのリハビリテーションという展示で伏線を張ったんだから。回収はしないとけないけど焦っちゃダメ。なんか今すげえ思ったけど、あの展示良かったよねとか悪かったよねとか言ってるヤツもれなくみんな暇だろ。自分の仕事しろやっていう。
2023年の春〜秋にかけて全く展示を見なかったのは完全に忙しかったというのが理由だと今は思う。インプットとアウトプットが大事でってのは本当その通りで、今の僕はインプットする必要があるから、暇ってことになるんだけど、その上で人に意見をするってのは本当に本当に暇人だなと思う。
批評家ってその意味で本当に本当に暇人だと思うんだけど、批評家には批評家のマーケットがあるわけで、それは何かって、暇な人たちなんだよな。つまりくっそ暇な人たちが暇な人たちのエンゲージメントを獲得するために忙しい人の良いところ悪いところを論って書くわけだ。そして僕がいままで見た批評家は大抵何かしらのかさぶたを抱えている。それは自分が暇であることのコンプレックスというか。その暇を埋めるために他者や社会を意識的に摂取して文脈に昇華して、アウフヘーベンされた限られたマーケットの中で評価されることによって多少は満足できるっていう。なんでそんな人たちのために作品を作んなきゃいけないんですかね。別にマーケットの大小とかはどうでもいいんだけどさ。
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20231128
朝は7時半起き、最近コンフレークがビラで安売りされていることにに気づき、楽ということから食べている。ウインナーと茄子の炒め物を添えて。
食べて家出て、9時前にはアカデミーへ。アトリエでマニュエルと白亜地の膠引きについての相談。アトリエに冷蔵庫が無くて、作った膠液を保存できないから膠引きに他の用具使えないかなと。なんか裏技でアクリル性であるという理由からジェルメディウムを目止めとして使ってその上からジェッソぶっかけるやり方を見つけたが、あまりに不安すぎて断念。
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9時半からドイツ語の授業。やたら声が高くてうるさい中国人に絡まれて不快な気持ちになった。ドイツ語の授業参加者の大半がスラブ語圏&アジア圏なんだけど、みんな割と控えめなんすよね。そんな中あんな声でかく色々言われて、自分じゃ気づいてないんだろうな。って書くと、もしかして自分もそうなのかなと思ったり。あの声の奇妙な高さが不思議と生理的に無理で(人の声が無理なんてこと無いのに)、総芸時代の西脇の声でもぼくは全然気にしなかったけど、あれはなんか無理なんだよなぁ。って声質は僕は持ってないと思うが、、あれは誰が聞いてもなんか、、。何よりドイツ語の発音悪すぎて何言ってるかわからん。中国語やそれ。
12時半に授業終わって、アトリエに行ってお弁当のサンドイッチ食べながら、クリストフ先生に朝の話を相談しようと思い、上に行って聞く。クリストフによるとアクリルジェッソは半浸透系の塗料だから初手で塗りすぎなければ膠引きしなくても使えるとのこと。
話を聞いて安心してアトリエに戻り、残りのサンドイッチを食べ、外へ外出。ゲアシュテッカーまで。ゲアシュテッカーでキャンバスの木枠を買う。100センチと120センチで。張りキャンより安いのは日本と同じだった。ちなみにジェッソは高いが、まあ日本と同じか。
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バスで戻って、まずは一年以上ぶりのキャンバス張り。ちなみにキャンバスを使うのはウィーンに来てからはじめてである。これまでは金がなくて発泡スチロールに描いてたので。。。
キャンバス組んでたらミッテルシュトック(日本語だとなんだ?キャンバスの木枠の真ん中の棒)を二本のうち一本買い忘れてたが、まあシュパーレンしたということでいいか。
で、クリストフの言うように(民雄にも教えてもらったが)ジェッソ塗り。まだ塗りむらはあるけど、もう一周塗れば十分では?と思う。
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ここで18時半。疲れたので今日はこれで帰る。今は帰りのバスの中。
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20231125
ウィーンは初雪。今日は寒かったなー。
考えれば考えるほど今の自分は方法論をたくさん持っていて、やりたいことはあるけど方法がわからないという人を助ける能力を持っているとは思うけど、それ故の自分の作品の話となった時の空虚さとどう向き合うかという話になるわけなんだよな。
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20231123
今朝は9時に起床。少しずついい生活に戻していきたい。朝から久しぶりにフレンチトーストでも作るかと思い冷蔵庫見たら牛乳を切らしていたことに気づき、他にもついでに買おうということで腹ペコのままスーパーへ。諸々買い、家に戻って結局フレンチトーストは作らず、昼と朝を兼ねた少し多めのごは��をつくって食べて、家を出る。
アカデミーで授業。技法の授業で自画像を描いたが、先週よりはマシにかけた。ここ2、3日で少しだけ調子と自信を取り戻してきた気がする。焦らずこの波に乗りたい。色々考えた結果、やっぱりぼくは「観光客」になるべきだな。いや、これ半年くらい前にも言ってたんだけど。「観光客」は東浩紀の言葉で、NHKニュースの記事で中学生でもわかるように書いてあるので、一応リンクを貼っておく。
ぼくがやりたいのは明らか、この「観光客」を増やすことであると思う。それは端的に言えば「観光客」の受け入れ先やその斡旋、つまり旅館やホテル、旅行会社ということだ。けれど、ただ顧客が受動的になるプランをやっても仕方がない。そこでリンクするのは体験型というワードだ。5年くらい前に「体験型アート」という言葉遊び(笑)をしたことがあると思うが、そもそも思えばその頃から関心はあったのかもしれん、というのは、当時はやっていたのは台場のチーム・ラボやライゾマティクス(都現美でやりましたね)で、ぼくはそれらのアンチであったわけで。いまは否定はしない。いや、肯定もできないけども。どちらとも言えないというか。
まあそれはともかくとして、観光客というのは東の言う通り、普遍的な存在である。村人でもなければよそ者でもない、第3の立場としてこの前増補版が出たゲンロンの「観光客の哲学」(これから読み直す)でも提示しているわけだが、まずはぼくがその観光客になってみようということだ。
そうなると、金がいる。私に金はない。(6日後、リクルート奨学金の結果発表があるのでそれ次第だが)したがって、貧乏旅行になる。異国を貧乏旅行すると何が起こるかと言うと、実は異国情緒に触れられないというのがある。いや、触れることはできますよ。街並みとか言語違うので。でも、本質的な文化の違いを体感するには金が必要だなとここ1年住んでて思う。たとえば、ウィーンと東京とで食生活が大きく変化したかと言われると、そりゃパスタ食べる量増えたりとか色々あるけど、料理が変わったわけではない。スーパーに行って、激安ブランドの「Clever」とか『s』ばっかり買って自炊するとあら不思議、日本で食べてるものと大差ないものができる。途上国となると話は別だろうが、先進国における低所得者の食文化って国ごとであまり大差ないだろうなと思う。他にも、現代人が生活の中で一番見ているものはスマートフォンですよ。みんなInstagramを見てる。電車の中で他の人が何見てるかチラ見したりするけど大抵そう。日本と何が違うのか。
このつまらない層を考えることが意識高い系ハイ・ソサエティの人たちの話を聞くよりもよっぽど重要なのではないか、と。現実を考える上では。そう言うと、マイノリティが〜という話になってくるのだが、現状マイノリティの話は誰も聞いていない。それはそれで大問題である。だから、話を聞いていない人たちの体の向きを変えなきゃいけない。ではそれはどうやって?となると、マイノリティの話を拡散して〜とリベラルはいうが、いやいやだから話聞いてねえんだってって話でこれは永遠にサイクルのように回り続けるのだ。
では、話を聞いていない人たちの体の向きを変えるにはどうするのか?その鍵が「観光客」なのである。人の話が直接的に人の行動を変えることはない。人の話を受けて、行動が変わるその間には自分で考えると言う能動がある。これは今日でも全ての人がもっている。この能動をわかりやすくしたものが、「体験」であり、「観光」ではないか。
「絵を描くこと」も体験であり、実は「観光」と並列関係にあるのではないか。作品制作は観光であると。観光という言葉のいいところは、人間が避けられない「(見たくないという(意識のもと))見たいものだけを見て満足する」という性質をわかりやすく顕在化しているところにある。作品は作家が無意識的にも意識的にも描きたくないものを排除して作られた物体である。それを批判するのは簡単だが、観光として捉えるのであればまたそれはむつかしくなる。このむつかしくする構造そのものが、戦争を止めたり、あるいは最初のマイノリティーへのまなざしへとつながるのではないかということだ。
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onamekujiundpineapple ¡ 5 months
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20231122
朝はなんらかの夢を見た気がするけど、忘れた。なんとなくの手応えだけを覚えている。
最近気づいたライフハックとして、朝と昼を兼ねてしまって1日二食にすれば食費浮くじゃーんという。それでも今学期は月曜と火曜の朝が早いので、朝抜くとスイッチがオンにならないからここは3食食べるしお弁当も作って持っていく。水曜は月火の疲れで遅起きしがち。水曜の授業は17時からだから。
で、今日も水曜なので朝は遅く、昨夜の残りのキャベツとハムのスープに、きのこのクリームソースパスタを作って食べる。料理のデパートリーが著しく増えている。米炊くのめんどいからサボっていたのを、サボらないで定期的に炊くようにしたら(炊飯器は無いので鍋で)、色々と幅広がった。そりゃそうだろ。いや、コンロが二口しかないので鍋一つ塞がるとそれだけで色々めんどいんすよね。だからやらない。
で、電子レンジで米作れる容器を日本から持ってきたのだけどこの家には電子レンジがなければ、置く場所もないと。。、結局この容器は台所の下に眠っている。将来引っ越した時に電子レンジがあったら使う。。別に日本でも使えるし。
昼は電話で茂木と打ち合わせしながら。実はいま、茂木の卒制にあたるアニメーション作品のプロデューサーを引き受けかけている。(まだ引き受けてない)すでにだいぶ作品の話は進んでて、あとは彼が作る企画書に俺が乗れるか次第。もしこれに乗っかってしまったら1年はこれに拘束される。
監督は彼なので、脚本原作企画はもちろん彼が考えるんだが、ぼくはその穴をついたり、統括したりマネジメントスケジューリング、オファー、宣伝、スポンサー関係をやるわけ、か、、。そしてどうせ色指定とか原画とか動画くらいならやらせられると思われる。。が、いったん今は人の責任に乗っかりたいというか。だれかの手先になって制作を見るのも良いかなと思うんだわ。本件の最終決定権は僕にはないから当然思い通りにはいかない。けど、それが今の自分には必要だろうと。
だし、ぼくは映画にかかわったことはあるけど、アニメはない。そもそもぼくはアニオタじゃないしあんまり詳しくない。だからこそ勉強になっていいなと思う。茂木の話聞いてるだけでも十分勉強になる。なんというか、自分がなんとなく知ってるものと言葉が話が接着剤となってくっつく感じ?
とはいえ美術の経験はそれなりにあるわけで、応用効く場面も多いからある程度口出し可能ということだ。しかし、彼の作る話がぼくの好みかと言われたらそれは違う。これは単にぼくの問題で、でも好みのものを仕事にしようとしたら仕事にならない気がするし、そういう意味ではいいんじゃないかと思ったりもする。あと彼は単にアクションを描きたいので、彼にはその辺のこだわりに突っ込んでもらって、ぼくが奥行きを出すってのはアリっちゃアリなのかもと。奥行きっていってもたかが知れてるから大した仕事にはならないし、まあアクションメインの作品だからね。金曜には脚本会議もある。もはや参加してるだろこれ。
って話をしながらまりんちゃんがもってきてくれたおしるこをのみ、電話きってアカデミーへ。ヌードデッサン。構図と光を意識してひたすら最近は描いている。今日は調子良かったな。
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アカデミーでるとこの温度。さむ。嫌な季節だなぁ。クリスマスマーケットははじまってるが、今年もグリューワインを呑む相手はいない。
最近は夜の散歩がてら、アカデミーからプラーターシュターンまで歩くのにハマっている。大体40分くらいだと思うけど、ちょうどいい。
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プラーターシュターン駅
そういえば、うちの親父がエポスカードを不正利用されたらしい。LINE来て、明日エポスに電話しますと来たけど、いやいやいや普通カード会社の緊急窓口って24時間だろと思い、返事しそく電話して止めたらしい。そして母親に、この人誕生日に不正利用されてるのよ、ウケる。とメッセージ。この時ぼくは気づいてしまった。一昨日が父の誕生日であることをすっかり忘れていたということを。
今更すぎるたんおめの4文字を送るか3秒迷って、一言送っておいた。寝る前に返事が来た。エヴァのスタンプでありがとう、と。51歳か。老けたなぁ。いや、51歳にしては隠居しすぎではないか?と少し思うが。俺の周りの51歳がバリバリすぎるだけか。
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20231109
I (we) should be honest my (our) desire, and it must be opened to the people around me, if I (we) survive in this world comfortbly. And it ganna be my path to the future.
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20231106
先週は合計で(別々だけど)4人の来客が家にあり、ウィーンを観光するなどしていた。ついにベルヴェデーレにも2回行ったし、Musikvereinでコンサートも見たし、Kleines Cafeでザッハトルテも食った。外食でワインもいっぱい飲んだ。結論から言おう、ウィーンは金さえあればクソ楽しいわ。ただ、かなり豪遊したのでもう金が厳しい。
ベルヴェデーレ宮殿は本来3000円くらいかかるけど、僕は無料で入れるので三日間で2回行って同じものを見たけど、どこにこれがあるとか覚えるとそれはそれで勉強になる。本読むより同じ展示をなん度も見る方が勉強になる気がした。さすがにオーストリアの著名な作家も覚えてきた。この前までMaria LassnigとかOskar Kokoschkaすら知らんかったからな。あとキルヒナーってうちのアカデミー出身だったらしいってのもベルヴェデーレ宮殿の解説で初めて知った。
と、最近は作品を作っておりません。だいぶ鬱っぽさは和らいだが、いまはもう美術関係者とか日本の絵画科の美大生とかとあまり関わりたくない気持ちでいっぱいです。別に彼ら・彼女らがダメだと言いたいんじゃなく、陰湿すぎて単純に生理的に無理。訴えてる方も訴えられてる側も。空虚な絵空事にリアリティを感じてスケール感無視して世界とか他者とか変えようとしているのが見ていてキツい。世間知らずだから本当の意味で絶望したことがないんだろう。
同じことはウィーンのそれにだって言える。けど、ウィーンの人たちは絶望するまで側から見たらイタいことをやって自分で気づいて絶望する。そんなのは有効でないと。その体験のプロセスを大事にしているし、そこに恥じらいがないからストレスフリーなのだろう。ここはいいところだなと。やっぱりArtと日本って根本的に合わないっすわ。わかってたつもりだったけど、改めて思う。Artってのは現代アートとかじゃなくて、欧米的なArt的なものそれ自体をパクってる日本の話ね。すぐお前らはなんでもかんでもフランスをならうじゃん。俺も新印象派に憧れがあるからわかるんだけども、明治維新以降のコンプレックスはすごいし、別にこれをただせるわけでもない。それ以前を美化するつもりもない。
これはね、自分へのブーメランでもあるんですよ。とにかくね、哲学って(まあ大学の哲学科が哲学できるひとではなく哲学者に詳しい人を養成してるだけ問題にあたるが)結果論なんすよね。経験に基づいて人の数だけの哲学が生成される。でも、言葉の意味をリテイクしたり本質に翻したりしたら結局はどれもギリシャ哲学に回帰するってだけで、いやまあ現代思想はどれもこれらのラベリングを今風に変えただけじゃん。けど、変えて考えるという行為それ自体が大事つーか、それが哲学なのであって。哲学された文章を知ることは哲学ではない。脱構築という行為に哲学の本質があるともいえるわけなので、ぼくは、とりあえず脱構築していかないといけないわけだよね。で、それが結果的に哲学になるし、まあそれをヨーロッパではArt(ギリシャ語のArs)と呼称するのかもしれないが、日本でそう議論される日は来ないだろうしそれでいいのだろう。日本で哲学という言葉とは無縁に行われる活動が結果的には脱構築となっていて、オリエンタリズム的観点から欧州でArtとして翻訳されることはあると思うので、まあそれを狙っていきたいが脱構築それ自体が狙ってできるものじゃないので、まあとりあえず手を動かせと。
で、話を掘り下げると、脱構築、すなわち昔のものを現代風に読み替える目的は、当然現代の人たちに伝えるためにある。昔のままじゃよくわからんから、ポストコロナ、とか震災、とか9.11とか言ってみるわけ。そうなると、例えば去年うちの彼女が打ったふるさとという公演はチェーホフの三人姉妹を脱構築しているわけだ。話は全然違うけど大まかな、本当に大まかな枠組みは同じで。要は本質さえ同じであれば話は変わってもいいわけだから。そして、ここの新しい本質が追加されることってどんなに優れた戯曲家や脚本家がいたとしてもありえないだろうな。本質はもう出尽くしてる。けど、これを肉付けする身体性は人の数ほど違うから、むしろそこのパッケージ変更に醍醐味があるわけですね。
冷たい話、本当の意味で新しい作品なんて世の中にはひとつもない。本質の先駆者は必ずいる。けど、身体性に一致はない。だから、自分が単に誰に何を届けたいのかというプリミティブな手作業が問われているのだと思う。
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20231030
どんな形態の作品を作ってもいいと思う。けど、アートとは何なのかという問いから逃げる作品は作ってはいけない。そのために今の俺にはなにができるのか。白旗を挙げることは簡単だから、その前にできることを最大限やっておきたいものだ。
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20231021
こんにちは、Twitter上においてパープルーム(の安藤祐美)からモラルハラスメントを受け、悲しみと憎しみに満ち溢れている長澤です。これでもひとしきり文句を独り言で言い終わった後なので、特にここには書きませんが、ああいうみっともない30歳にだけはなりたくないですね。
僕がパープルーム(立川に移転したらしいが)に行くことは2度とないでしょう。梅津庸一という作家については、僕は評価をこれまでもこれからもするけれど、梅津作品とも言えるパープルームという共同体は失敗しているように少なくとも今は見える。これから体制を入れ直すということなので、それで復活するんだろうし、僕の批判はあたらなくなるのだろうけど、結局のところ梅津がテコ入れしないと回らない残念な共同体であることに変わりはない。
ぼくはパープルームと梅津の関係は、作品と作家の関係であるという風に捉えている。だから、彼も明言している通り、ここ数年は作品であるパープルームから多少なりとも距離を置き、ある種の乳離れを試みていたはずだ。その行動自体は極めて正しい。しかし、結局乳離れはできなかった。梅津がいなければパープルームは駆動しない。
さて、若者搾取のハラスメント共同体・パープルームの批判はここまでとして、自分の反省をしよう。ぼくはこれを受けて、自立しない「パープルーム」のような作品を作ることがないようにしていかなければならない。現実、この夏わたしがリハビリ展で展示した作品はまさに自立性が無く、私と彼ら・彼女ら双方にとって皮肉にも「パープルーム」のような作品であった。
今日は10月21日の土曜日で、これを書いているのはKarlsplatzのマクドナルドであるが、ここに向かう電車の中で、僕はやっぱり誰かの喜ぶ顔のために作品を作りたいなと思った。
来週は友高さんがビザ更新の手続きのためにデュッセルドルフからやってきて、三日ほど僕の家に泊まる。今は彼に如何に美味い飯を振る舞ってやろうかと思案しているところだ。それは、ギャフンと言わせたいとかではなく、どうやら純粋に美味しいご飯を作って喜んで欲しい。喜んでいる顔を見たい。それだけのようだ。
僕は先週、彼にWhat'sAppで餃子を作る宣言をした。そしたら彼は、「今から楽しみ」と返事をしてくれた。僕はこの返事がここ半年でもトップクラスに嬉しくて、5回はこの返信を見返した。彼は顔の反応がいいので(笑)、作りたくなってしまう。今の所、カルボナーラ、餃子、フレンチトースト、レモン香るズッキーニとトマトのエチュペ、きゅうりの浅漬け、など。この辺を三日間で出したいなと。それは、単純に喜んでくれるのが嬉しいから。それ以上でもそれ以下でもない。
再来週はドイツ語圏美大受験を来春に控えた子がドイツ語圏周遊の中でウィーンにやってくる。昨日の夜、ハノイでトランジットに失敗し、ハノイに取り残されたという連絡が来たが、結局なんとかなったようだ。特に何かを助けたというわけではないが、新しい航空券確保で多額のお金を失ったようで、なんとかしてあげたいな、なんて思った。自分も海外で困った時にいろんな人に助けてもらったから、自分もこれくらいやらないと気が済まないとその子には言ったのだが、いや、それは事実なのだけど、本当にそれが100%なのだろうか。
僕は単に、頑張っている人とか真面目な人とか、そういう人たちであれば助けたくなってしまって、助けた時のその人の笑顔とか、そういうのを見るためにやっているんだろうな、と。だからもしかしたらこれは偽善なのかもしれない。そんなに俺は綺麗な人間じゃないから、やっぱり、助けてあげて感謝してくれないとか、喜んでくれないとか(対価は本当に要らない、費用くらいは欲しいけど)、そういう人を正直助けたいとは思わない。聖人ではないので。でも、人ってそんなもんじゃね?とも思うし。
いずれにせよ、僕は今、この一連の営みに満足をしている。この一連の中に作品を組みことが不可能なわけないと思うのだ。
その時、はっと思い出したのはぼくのパートナーがパートナーとなる前の話、今からちょうど3年前の話だけど、僕が総芸で卒制を作っていて、ちょうど10月のこのくらいの時期に卒制が終わって、完成したことを当時まだ友達関係だったパートナーにそのことを伝えた時、なんか知らんけどすごい頑張ったね!って褒めてくれて。あの卒制が良かったのかはいまだによくわからないけど、少なくとも今の作品よりは圧倒的に良いと思うんだ。何とは今さら言わないけど、あの作品における僕の目的はしっかりとあったし、ある程度の達成感はあった。それを近くで支えてくれていたのは彼女の存在だったから。まあ、その制作過程を彼女は当時はいっさい見ていないのだけどもね。
今のぼくに必要なのはそういうことなんだと思う。ぼくは誰かの喜ぶ顔を見るために作品を作りたいし、そのためにあらゆる手を尽くしたい。その誰かというのは、喜んでいるとか喜んでいないとかっていう反応が素直で真面目な人。そういう人に向けて作品を作りたい。
僕はそういう人たちに向けて何を作ることができるだろうか。同時に、自分はどんな作品に心を救われてきただろうか。少なくともそれは、パープルームであるどころか、「現代アート」ですらなかったはずだ。ぼくはこれから本当の意味で「現代アートからのリハビリテーション」をしなければならない。
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