Tumgik
niwanoki · 58 minutes
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2024/05/01
自分を良くしたいと思う、今朝も一応薬を飲んで出かけた。みんなができることがうまくできない、駅のホームを歩きながら、自分の身に起きたすべてのことがまぐれであること、誰かのことを褒めたり貶したりする時に使う「精神年齢」というものの遅延のことを思う。
ずっと傘の先を電車の床にガンガンやってリズムをとりながらアーアーと歌っている女の子がいる。結構耳に障るので、これはヤバいと思い、そそくさとイヤホンをつける。相変わらず残業後は山本精一の曲を聴く流れ。歌。疲れている自覚はあんまりないけどくらい気持ちになっている。どんな光にも見つからないよう隠れたい日がある。向かいの席の人と不意に目が合ってしまう、高畑勲に似た顔の人だ、絵に描きやすい顔だ。どんな逃げ場も、どんな暗がりも塞がれてしまったことはないけどいずれ、思いの外近いうちに、その時が訪れるんじゃないかという予感で眠れない。
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niwanoki · 1 day
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2024/04/30
4月も終わる、と歌うあなたの曲を聞かねばならないと、汗ばんで小さくイラつきながら気づいていた。上着を着てきたのに思いの外厚いだけで簡単にイラついてしまう。イヤホンをつけたらやらないといけない仕事があり、それをチャチャっと済ませて、Apple Music。そんなに感動できなかった。あれれ?って感じ。急に流れてきた黒い雲が雨を今にも降らせそうだ。と思ったら急に日がさしてきてうるうるとした青空が裂け目に現れたり。午前中はずっとずっと眠くてたまらず、ほぼ寝ていた。カカオの濃度?が高いチョコを慌てて食べてもダメ。冷たいお茶飲んでもダメ。なんなんだ?と思うけど天気の他に原因があるとすればもうそれは精神科でもらった薬くらいしかない。もう合わなくなったとでもいうのだろうか。つまり、「良くなった」とでもいうのだろうか。
そういえばおとといおばあちゃんちに行った。すっきりとよく晴れた初夏らしい日だった。幼い頃からここへ来るたび登った山の公園でゆっくりと呼吸をして、クヌギの木の花が降るのを眺めて、静かに幼い頃の記憶をなぞっていた、長い散歩をした、写真も撮った。風が本当にやわらかく、いい香りがして、それはこの季節の光の匂いだった、私はこの匂いが、手触りが泣きそうになるくらい好きだった、誰にも奪えない感覚の一つとして永遠にあり続けてほしい、誇りみたいなものだった、ずっと遠くの、それまでに私の周囲にいた誰も届かない遠くの、優しい土地。優しいさびしい土地。(今ではすぐに辿り着けるようになってしまったけれど、)長い長い時間と、その間に超えてきた道と。その長さの中で少しずつ関係性が変わっていくことと。携えてきた歌と。誰にも侵すことができない強い記憶。今の私は気づいたら息が止まっているような気がする。よく晴れた日に、家中の窓を網戸にする、廊下の冷たい闇の匂いを思う。そんなこともあったな、ともう少しゆっくり思い返して、泣きたいなと思う。
午前中は仕事にならなかった。お昼をしっかり食べて、コーヒーもいっぱい飲んで、そしたら軽くお腹を壊してしまったけど、寝ないで仕事をした。連休のはざまの平日はなんだかみんな少しだけポーッとしているようで少し安心する。みんながみんなどこか面倒くさそうなのがいい。
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niwanoki · 4 months
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2023/12/29
昨日仕事納めで、午前中は病院。お昼、病院までの道のり、待合室で呼ばれるまでの1時間ちょっと、先生と話す時間、会社に向かうため再度乗った中央線の車内、二日酔いなのか何かで本当に風邪をひいた時みたいな熱っぽさとえづきそうになる気持ち悪さがあり、心細い心地になり、昔帰省のたび緊張で体調を崩していたころを朧げに思い出すのだった。悪寒に震えながら上司に今から行きますとショートメールを送ると、ぐったりと眠り込んでいる(うたた寝)間に返信があり、「ゆっくりお昼を食べてから来てください」とあった。優しい。そのまままたぐっと眠り込む時間があり、最寄りに着いた。気持ち悪いのがほぼなくなっていてホッとした。反対側の道を歩いた、とてもよく晴れていて暖かい日で、仕事納めっぽい人ともう冬休みの人たちが入り乱れていた。入ったことのないコンビニに入り、おにぎりと飲むヨーグルトを買い、通り沿いの日向のベンチに座り、道ゆく人の足元を見ながらおにぎりを食べた。しんみりと、今年出会った人や本や言葉について思い返していた。思い返そうとしなくても自然と思い返された。今年の3月最後の日に、この職場のある街で、平出隆の本を意識して買ったこと、まだ数ヶ月前のことのようだった。きっと自分にとって大きな意味を持つだろうと思って、読んだ。そういう数ヶ月。そんな平出隆をはじめ、自分の中の何かを確実に歪ませた(戻らない)山本精一、東近美の学芸員、「意外といろんな人に支えられてきたんだなって」という自分の例を話してくれた上司、特殊な出張で出会ったトラックの運ちゃんなど、これまでに会ったことのないタイプの人間と、その人間が発するものに触れられた日々だった。彼らは私にとってのもうひとりの父のような人たちだと���手に信じている。密かにもうひとりの父だと自分の中でだけ呼ぶことにした人たち、そういう人に会えた年だった。仕事にどうも力が入り切らず、どこか心に余裕を確保していたいという気持ちが常にあって、結果的に怠けてばかりになっていた、無感動になっていた年だった。精神科で診断がつくほど参ってしまったと打ち明けた日に来年はもっともっと辛い一年になると決まってしまった。心の中では笑ってしまったのに涙が止まらなかった。職場に着くと苦手な上司は今日も休みで、職員は少なくて、空はのほほんと晴れていて、時間はゆっくり過ぎた。社長と面談して、上司に頼まれた仕事を二つやる。こんなことをしているとやっぱり自分の仕事は休みの日に帳尻を合わせるしかなく、結局何かを相談したとこで何も状況なんか変わらない、自分が変わるしかないんだった。父(実際の)もそう言っていた。忘年会に出かける他の部署の人たちを見送り、「帰ろっか」ということで上司と駅まで歩いた。この野郎、とはこの時は思っていない。私が勝手に父と呼んでいる人たち、頼りになる赤の他人たちをおもう。
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niwanoki · 5 months
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2023/12/14
会社が予約した病院に行く。穏やかな日差しが降り、肌寒い。西荻窪へ行くのにはバスと電車を乗り継ぐ必要がある。早く駅に着いたので周辺の雑貨屋を物色することにした。黒文字という木の精油の香りは、水に濡れた時の心地よい感覚を呼び起こした。病院が終わってから、すでに14時を回っていたがその店に再び訪れ、黒文字の蒸留水の入ったスプレーと、和紙にお香の材料が含まれているものを買った。お香は白檀の懐かしい香りに蜂蜜のような甘さが乗ったゆったりとした気持ちになる。内緒の日に買った水色のライターで火をつけると、安心する匂いに包まれた。これは比喩ではない。冬休み、夏休みにしか行けなかった場所にあるお馴染みの匂い。「冬休みはばあばんちに泊まりに行く」と誰かに話していた通りすがりの子供を思い出す。そんな冬休みが私にもあった。それはみんなにきっとある。今は失われてしまった?どうなんだろう。「また東京23度になるらしいよお」と店主が会計の時に話していた。「また半袖一枚で過ごせる日があるなんて、ほんとにクリスマスなんて来るのかね」。大きくなってからの世界はどんどん狂っていくけれど、それでもそれぞれに毎日が送られる。また再来週の金曜日に病院に行くことになった、楽しそうに話す先生だった。
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niwanoki · 5 months
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2023/12/09
何もしたくなかったので、ぼんやりとしていた。午後から多摩動物公園に行った。富士山と湖の映った写真を見て、「河口湖来てたの?」と自分も近くにいたことを伝えてくれる友達。来てたけどもう今はいない、いつかあなたの故郷のことを教えて欲しいと答えた。初詣もダム建設で沈んだ村を見に行ったのも、山奥の村の花火大会も、カラオケも、この人と。色々となんだかんだ今年もお世話になった。今多摩動物公園きてる、とは言わなかった。もう午後の3時を回っていて、この間葛西に行った時とこれは同じパターンだ。午後の早い時間に獣舎に帰ってしまうものが多く、チーター、サーバル、ライオン、フラミンゴ、アフリカゾウ、と見た。ゾウは広い固有のエリアの中の奥で、ずっと同じところを、歩き回っていた。つい目を離せなくなった。ものすごく、頭の中を掻き回されるような、妙に緩慢な動きなのだった、時間の進み方が違うように感じる、四本の柔らかなコンクリート色の脚がゆっくり曲げられて伸ばされて後ろと前が近づいては離れる。片方の牙が極めて短く、眼は小さくしょぼしょぼとして、こんなに長かったんだ、ゾウの鼻って。ずーっと同じところを、同じスピードで、鳴きもせず足音も立てずに、柔らかそうな鼻を、上の方に伸ばしたり、おろしたりしながら緩慢に歩く。すごい造形だと心から思った。正直このあと、私は全然感動することはなかった。悪魔の表象としてよく描かれる角がぐるりんとした「野生の羊」とか、木の枝の上で死んだように雑巾のように眠るたぬきとか、退屈そうな猛禽類、何かを見透かしたような目をした外国のフクロウとか、とにかく動物園は午前中に来ないと面白くないことがわかった。みんなもう疲れてしまっていた。そして、小学生の頃の夏休み、暑すぎて広すぎて疲れてみることのできなかった、狼とかのいる西側のエリアは今日も回ることはできなかった。何気なく、私は15年くらいぶりにここに訪れていた。昔、はとことその祖父に連れられて来た時は、広いというよりこの動物園が多摩丘陵の斜面をほぼそのまま利用して建設されているためにアップダウンの多さが原因でバテたのだろう。そのまま熱中症みたいになった。その後のことは覚えていない。いつも、なぜか、親以外には本当のことが言い出せなかった。痛いとか辛いとか暑い疲れたとか、限界まで言い出せなかった。最悪の時は親にさえ。ずっとそのままで、大人になった。で、ゾウが印象深かった私はゾウのぬいぐるみを買って多摩モノレールに乗った。あの、性的なニュアンスすら漂う動きは何だったのか。ぬいぐるみはふかふかでとてもかわいい。私は何かが限界に近くて、誰かにすがりたくて、その誰かに似ているから買ったのかもしれない。怖い。
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niwanoki · 5 months
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2023/12/08
朝、他の誰かを考えながら遅く起きる。今日は有給を取ってて、お父さんとお母さんと妹と、河口湖へほうとうを食べに行くことになっていた、土日は絶対高速が混むから、わざわざ平日に出かけることにしたんだった。一日中雲が一つもない青空で、朝は寒くとも風はやわらかく、昼間は比較的標高が高い場所でも暖かかった。富士山はくっきりはっきりと空の青に近づいて輝いていた。久々の中央道は、仕事で、トラックに乗って少し走ったときとはもちろん異なるかけがえのない経験で、藤野SAのモスバーガーもまだあって、遅い紅葉で山々がきらめいて、車の中ではスピッツがかかっていて、平日でもほどよく道はすいてなくて、にぎわっていて、よかった。八王子、談合坂、大月の分岐、久々に走る道だった。山の輪郭と影はずっとシャープで、数々の懐かしいかたちに心の中でしゃべりかけていた。朝ごはんをぬいてきたのでほうとうのお店に着くころにはお腹がグーと鳴った。みるみるうちに店は混んでいったけど、それも安心できるほどよいにぎわいだった。子供連れもちらほら、カップルもいた。ずっと太陽の光がふりそそい���いて、富士山がそばにあった。ほうとうは、野菜やきのこがたっぷり入っていて麺は思いのほかつるりとしていて、食べ進めるほどにぐっとおいしくなって、量がかなり多かったけどゆっくり完食した。お父さんは鶏肉いりを頼んでいて私もひときれもらったが、鶏肉いりのほうがおいしかったかもしれない。お店を出ようとすると食べるのを待っている人たちがたくさん見えた。車にのると、次はジェラート屋さんに行って、私は山梨で育てたとうもろこしと鳴沢村産のブルーベリーのジェラートをたべた。とてもしみる甘さでどちらもつぶつぶとした食感があって、おいしかった。お店の中に客はうちの家族だけだったけど、なぜか哀しくなることはなかった。みんなダブルをたのんで、車の中でたべた。観光地価格だとブーブー言いながらもおいしくたべた。河口湖周遊道路?的な湖を一周できる道を走った。商品や店舗デザインのディレクションが今っぽい(決して褒めてはいない)道の駅では何も買わなかった。道中、富士山がよく見える位置で車を停めてもらったりわざわざUターンなどしてもらったりしながら車を降りて妹と写真を撮った。私はやせたと自他共に認められているが、顔はどうもぷくぷくしていてなんだか情けない感じだ。富士山は雄大だがすんなりとひろがる裾野は安心感すらおぼえる姿形をしていると思う。いつも、おばあちゃんちにいくときにしか会えなかったのに今ではほぼ毎日会える。どうか私の大事な人にもあなたの力をわけてほしいと祈る。もうひとつの道の駅では道路を挟んだ向かいに湖に面した芝生の公園があった。湖の青と冬の芝生の淡い黄緑のコントラストがうつくしく写真を撮った。公園に足は踏み入れることなく、私たちは帰った。上り線の談合坂サービスエリアは昔の姿で、中身はすこしキレイになっていて、涙がでそうになった。お母さんも、「ここってそうだ、こんなだったね」と言った。「談合坂やさい村」という屋根のあるスペースの直売コーナーもずっとある。そこで、南天の木(枝)が売られていた。ああ、これが冬休みの景色のひとつだったなと思った。店舗に入るドア横に、ホンダのビートのミニカーのカプセルトイがあった。お父さんが「やろう」と千円札を両替してくれたのでまわしたら黄色いのがでてきた。
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niwanoki · 5 months
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2023/12/05
今朝上司に時間をくださいとメールした、いつでもいいのでとわざわざ書いたが、朝出勤してすぐに別室で話を聞いてくれた、身内に心を病んでいる方がいて日常的にその人と接しているので私の言葉も少しはわかるよと言ってくれる。助けて欲しかったわけではないので謝られる筋合いはなかった。話してくれてありがとね、何度もそう伝えてくれる、木管楽器の音に似たやわらかな声をしたこの人の仕事ぶりを尊敬していたとはとても言えないのだが、人柄はとても好きだった。あとその安心する声も。なので、何ヶ月後か、近く急に退職してしまうってことを聞いたら、本気で泣いてしまった。マジ泣きである。今までありがとうございましたとか、そういう言葉は全然でてこず、いなくなっちゃうのさみしいです、と子供じみたことしか言えなかった。何やねん「いなくなっちゃうの」って。精神的な疲労?が原因であれこれ綻びが目立つようになってきたこと、仕事上、文章や言葉が組み立てづらくなってきたことを話した。彼は何も否定しなかった。泣きグセが抜けず、喋るたびに涙がわいてきて、ボトボトおちる。私は何の貢献もできていない、何でもスッと素早く理解して要点をつかみ自分のものにできてしまう人で、フットワークも軽くて、話も上手で、すっきりと明快な文章をサッサカ書いてしまう、頭の良い人って、要領のいい人って、こういう人のことなんだなと思う。何でもできてしまうエリートがこんな職場に落ち着くはずがないのだった。自分が教えたことがちゃんと活きるところへ行きたいという。いい動機だなと素直に思い、普通に考えたら担当のでかい仕事があるのにもかかわらず自分の意思で退職ってすごく自己中なのに、素直に応援したいと思った。応援なんておこがましいけど。で、適応障害はうつ病と異なり明確なストレス因が存在するということみたいだが、これで私はまさにそのストレス因そのもの(もう一人の上司のこと)と二人っきりになるということだ。彼は先にした私の話に触れ、あなたを残していくのはしんぱい、と言った。私は具合を悪くしている場合ではもはやなかった。泣き言を言っている暇など最初からなかった。私はもう少し自分の端っこを粉にするようにして働かなくてはならない。で、そのことに対してではなく、彼がいなくなってしまうということにものすごく泣けた。相変わらず泣く時の論点がずれている自分が気持ち悪い。何でもできてしまう心優しいエリートは誰のことも全否定しない。いい人はいつもいなくなってしまう。チバユウスケが亡くなったことも帰宅後ずいぶん経ってから知った。何でだろう、何で素晴らしい人ばかりがいなくなってしまうのだろう。世の中悲しいことばかりだ。POWDERという曲をずっと聴いている。こんなにも世の中の光から隠されていたいのに、叶わない。
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niwanoki · 5 months
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2023/12/04
今日また三度目の通院。中学の時の美術の先生がそうであったように、目を閉じて、余計なものを入れないようにして喋ると蕩々と喋ることができるのでそうした。そうしたら、上司の話(さっきメモ帳にメモっていた、「言わなくていいことを露骨な態度をして言いやがる」こと他)を喋りだした途端に閉じたまぶたの隙間からみるみるうちに涙が溢れてしまい鼻水もでた。診察の時間がだいぶ押していたので手短にやんないとと思っていたし先生もそう思っていたっぽかったから申し訳なかった。「お大事にね」(「お大事にしてください」とは言わないのである)とは言われたけどね。それで会計の時の受付のおねーさんも何となく感じ悪い感じで、そういう一連の全てが連結してしまい、落ち込んだ。弱いなと思う。で、多分こんなことできる自分は診断書なんかをもらうほど重度ではないはずだ、明るく振る舞うこともできるし我が物顔で歩道をすり抜けようとするチャリに道を譲って差し上げることもできる、それくらい元気なのだから。でも3500円も落としたんだからアクションを起こさなければもったいないのであった。相談というのはこんなにも難しい。もし休職することができるなら、何をしよう、私は美術を嫌いになったわけではない(古本屋で『ART CRITIQUE』買っちゃったし)し職場のことと無関係の自分の関心ある内容の論文を書く準備でもしなきゃだろうか、文献も読まなきゃだろうか、音楽も、これまでとは変わっちゃったけど聴けるし、アー車の運転の練習もしないと、と思ったところで、これほとんど、純粋な自分の希望じゃないかもと感じた。いや、車の運転はできないとおかしいし、、その考え方も結構疲れるな。少しだけ、年末に色々落ち着いたら読むんだととっておいてた『indies issue』の山本精一特集をめくった。ちょっとだけ読んだ。「32まで会社勤めだったし」とあり、結構しっかり勤めてたんだなと思う。この狂気が…。今年、厳密には7月ごろからか?本当にこの人の音楽ばかりを聴いてたな。今はこの人の救いのない歌に救われている。マジでスピッツの新譜よりも遥かな回数聴いたよ。私の例の「前向きムーブ」は一瞬で終了、薬のパワーも今は正直逆転しているような気がする。抑うつ状態、なのかな、私はそんなに深刻な状況ではないはずなのに、何でこんなに何もしたくないのだろう。
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niwanoki · 5 months
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2023/11/27
職場で、他部署の人が意外と自分のことを気にかけてくれていたことを知る。休日は最低人数の三人ほどが出勤するが、その、人がわざわざ少ないタイミングを狙って声をかけてくれたのだ。最近はどうですか。やっぱり忙しい? この間、私が涙目になっていたのをちゃんと見ていたらしかった。だんだん方向性が決まりそうですと手を止めて笑っておいた。実際そうだから。最近、帰り道にやたら酒を買って飲み歩いていた時みたいな気持ちがあまりない。この野郎、殺してやる、みたいな気持ちがあまり来ない。その代わり、帰り道、よその家の夕ご飯やお風呂の匂い、冬の近づく空の色や風の冷たさにちゃんと感動できる、前向きな歌詞、前向きな音のする音楽を聴けて感動が持続する(相変わらずすぐ消えてしまいはするが)。出勤した昨日に関しては、なんと、「面白いことがしたいなあ」という気持ちで体が熱くなった。この職業だからこそできること、そういうわけでなくとも自分の良いと思えるものに対して、そのことを伝えて、何か面白いことを催したいような気持ちが起こった。今すぐ思いつく限りの、その手の知り合いたちに連絡したくなった。しなかったけど、近いうちに何かするかも知れない。前向きな曲、the pillowsの曲とか、高校の頃によく聴いてた曲。朝、それが聴けて、しみじみと高校の頃を思い返すことができた。そういえば私を気にかけてくれている担任だった人に返信してない。非常に失礼だから早くしないと。金曜日、仕事の終わりがけに大学の頃からの友達に夕ご飯を誘ったらふたつ返事で職場の近くまできてくれ、彼はビール、自分はチューハイとそれぞれ一杯だけお酒を飲んでご飯を普通に食べ、喋って、公園に行ってまた喋って、彼は前に辞めたと宣言していたたばこを三本くらい吸った。明日は仕事だというので早めに帰る。この人も、実はとても優しい人で、ちゃんと話が終わるまでちゃんとうなずいて聞いていてくれるタイプの人間だ。目をみて話すしえらいよね。なんだかんだずっと、途切れつつも細々と連絡をとったり、この日のように一緒にご飯食べたりしてくれている。ありがたい。やっぱり友達というか他者の声を私は求めているのだと思った。普段よりよく喋って、笑うこともできていい具合に疲れてよく眠れた気がした。そこから私の「前向きムーブ」は始まったような感触がある。土曜日は、もたもたしていて出遅れたものの東近美でコレクション展を見た。「大正のタッチ」というコーナーや河原温と野村仁が近くに展示されていた8室、女性の抽象という小テーマ展が良かった。作品はよく見られて満足したが何だか体がおかしいと思ったら急に生理がきた。これからどうしよう、帰ろうかと迷ったが、毎日新聞ビルのコンビニで生理用品を買い(無駄な出費である)ことなきを得ると、やっぱりと思い直し、皇居沿いを歩いた。日比谷線に乗りたいってことで日比谷まで歩いた。14時すぎ、もう傾いた日差しにさらされた有楽町のあたりの銀杏の木が美しい。人出が多い。みんな暖かそうな服装で、笑っている。自分が小さい頃に描いていた東京のイメージに近いとふと感じ、そういう時に頭の中で流れる曲をiPhoneで聴きながらずんずんと歩くと、やっぱりそうだ、これなんだと確信できた。昔のミスチルや、小沢健二などのあの感じ、この時、本当にそのほんの何年か後に東京の街中を、わりと慣れた足取りで歩いていることを知ったらきっと当時の自分は驚くはずだとか、本気で考えていた。着たい服をしっかり身につけて、きらきらお洒落な人たちの群れの中をちょっと遠慮がちに歩いている、今。この季節のこの時間、土曜日、冷たい日差し。学校からの帰り道にぎりぎりまで近づいては離れて、憧れたような時間。昔のドラマの再放送があった時間、母が電気カーペットの上に座布団を敷いて座りアイロン掛けしながらそれを観ている。まだあくまで明るいあの時間。それらの異なる時間は本当に繋がれていた。銀杏の木の眩しい黄色に浸された道の地下鉄への入り口を降りて、無事に地下鉄に乗り、恵比寿。今年惜しまれつつも一旦たたんでしまうという服飾ブランドの展示会に向かう。その界隈の人たちしかいなくて浮くかも知れないと思い緊張したが、意を決して行ってみた。急な坂を登ったとこにある、半地下みたいなコンクリート打ちっぱなしの、でも薄茶色の柔らかい灯りのついたスタジオに、最後の新作と、これまでの作品のサンプルなどが並んでいる。私は新作の緑色のコートと、まさにこないだの金曜日に職場の最寄り駅のデッキでまさにそれを着ている人を目撃した、そして残念ながら買いそびれたダウンコートを試着させてもらった。緑色のコートは「すとん」と一瞬で自分の体になじんで、驚いた。色も形も、重みも。ここにいていいんだなとすら思った(様々な意味で)。このまま着て帰ってしまいたかったがそれなりの値段もするし、名残惜しくも見送った。で、例のダウンコートは、前から自分が着ていたのではないかというくらい、いい意味で既視感のようなものがある着心地で、軽くてジーンと暖かく、もちろん形も感覚とぴったりで、クルクル回りながら鏡の中の自分を見た。やっぱりそうだよね、という気持ちが(錯覚か?)あって、これまた以前から知り合いだったかのようなスタッフの方とお喋りをし、自分と同じようにこのコートの色で悩んでいるお姉さん(お客さん)とも話し、結局私たちはそれぞれ別の色のそれを選び、それぞれ別れた。街中で、これを着たお互いを見つけられたら嬉しいし面白いですね、という話をした。そんなことはきっとないけど、もしあったらきっととても誇らしくなるだろう。お互いのことが。その後アトレの無印に入ったら、平出さんの本を見つけた。友人たちに送った絵葉書の写真集のようなもので、一度手にとったのに、私はなぜかそれを買うことなく、エスカレーターを降り、山手線に乗り、渋谷で乗り換えて吉祥寺に向かってしまった。それでいつもの古着屋さんを覗いて、無印で買い物して、帰った。そして昨日。日曜日、またその「すとん」がやってきた。こうなると、私が見つけたのか��君が私を見つけてくれたのかいよいよわからない。何か、服もそうだしファッションのことに限らず、物に対する思考などについて分かち合えそうな予感がしたその服屋さんは、何と今年いっぱいで都心の方に移転してしまうとのことで、ガーンである。見つけた時にはもう遅いのか、本当に自分に合っているものは(最後の最後で)必ずこちらに一瞥をくれるということなのか、仕事中、車中から、思いがけず恩師の姿を見かけたのと同じように、今の気持ちに呼応する音楽が、時間をさほど置くことなく、自分の体のすぐそばで実際に鳴らされたのと同じように。私の「前向きムーブ」はいつまで続くのかわからないが、今のうちにあれこれ進めておいたほうがいいよね。で、これはやっぱり例の薬のせいなのか?
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niwanoki · 5 months
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2023/11/23
今日は、朝6時くらいには起きたはずだけどずるずるしてて8時に起床。頭の中にはふたりの、歳の離れた実在する人物。それをぶった切って、平日と同じように朝を過ごす。休日の正しい過ごし方がわからない。勉強したくない。と思いながらも図書館で借りてきた薄い本『美術館を知るキーワード」といううさんくそうに見えて割としっかりした内容の書かれた本をめくる。夕飯はラーメンにするらしいので卵を茹で、タレに漬け込んでおく。お昼、親の車でジョナサンに行き、私は和風スパゲティ、両親はそれぞれ、メキシカンピラフ、鳥の竜田揚げのおろしかけ?を食べる。どれも思ってたよりすごくうまい。が、量が多かった。祝日のお昼時で店内はほぼ満席だった。デザートも頼んじゃった。ソフトクリームが美味しかった。外食は小さい頃恐怖だった。店を出るとやっぱ暑い。11月なのに異例の暖かさだったそうだ。気持ちわるいほど春のようだ。あやしいテクノって感じの、父の今ハマっているという曲が車内で流れていた、近くの薬局に寄った、帰宅して、お茶を飲んだ、夕方、散歩に出かけた、人通りが多く、クリスマスかなんかみたいだった。18時ごろ帰宅して、夏に行った佐野SAで入手した佐野ラーメン(生麺)を茹でて食べた。SAで食べたやつより美味しいかも知れなかった。父は岐阜の「高山ラーメン」や会津の「喜多方ラーメン」と比較していた。夕食後は紅茶を入れて無印のトリュフチョコを一つずつ食べた。全然暇じゃないのに、異常にネットサーフィンをしてしまった。明日、吉祥寺にまた山本精一が来るみたいだけど多分私は残業。京都に行きたい。
密かに続けていきたいと思えることがまたひとつ。自分が撮ってきたこれまでの、少ないながらも何枚かためてきた写真を見返してみると、やっぱり写真というものはどんなにしょうもないものを撮っていたって、撮っといたほうがいいじゃないかという気分になった。もう今はないうちの車とか、今はもう放送が終わったテレビ番組のスタジオの景色とか、どんなにしょうもないものだとしても。それがいつで、どこで、私はその光景に浸されて何をしていたか。この作業は何という作業にあたるのだろう、そしてそれを、インターネットの世界にとりあえず乗っけておくことは。意味の有無は関係ないと信じられるか。まだ戻れる景色がある、そのことを、最近散歩している最中や帰り道でふと思い出す。やっぱり、やっぱり薬のせいなんでしょうか。だとしたら悲し…くもないか。「今が楽しければそれで幸せと そんなふうに過ごし それほど楽しくもなく」
私はいずれ(近いうちに)この仕事を辞めるだろう、そしたらどうしようか。ゆっくり夜、早い時間に寝られるかな。それで普通に早起きして、勉強して、1日のうちにやりたいことを書き出して、ひとつひとつチェックボックスをつぶしていく、思いの外、1日はゆ���くりじっくり過ぎて、お昼は休憩含めて2時間くらいあって、また16時くらいまで机に向かって、そのあとは夕ごはんの時間まで近所を散歩する。ずっと何かに追われているんだけど、それといつか実際に対峙するために頑張ることが少しだけ楽しみですらなかったか。それは、”終わる”からっていうのが一番大きいとしても、他にも理由があった気がする。それぞれに、少しずつ異なっていても、その同じ時期に、誰かも頑張っているという状況が楽しかったんだよね。目には見えない、連帯と言い切るのも間違っているような、それぞれ異なるが、同じように”終わり”に向かうということへの深い感動のようなもの。報われるとか、結果ではなかった、そこへ向かっていくことの、抵抗と、ほんの少しだけ狂ったような感覚。この職業は本当に、最高か最低しかない気がする。向いてない奴にとっては最低でしかない。だとしたらこの今現在までの時間は無駄だったのだろうか、バカなのでそういう損得とかも深く考えられない。冬休みも年末年始も夏休みも全部、ちゃんと日常から一定の長い期間離脱できるいい時間で、かけがえがなくて、最高だったな。意地でも楽しく過ごそうとしていた、楽しく過ごせるに決まっているという自信にみちあふれていた。「すべての夢には 終わりがあるから 限りあることのしあわせ」
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niwanoki · 5 months
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2023/11/20
なんか妙に悲しい景色をよく思い出す。精神科でもらった低容量の精神をどうこうする(合法の)合成薬物、それのせいだろうか?朝食の後2錠。フトおとずれる、しーんとなる瞬間に、久々にゆっくり息をする。そういうことしてる最中に思い出す。いつか、もうすぐ来る冬休みの楽しみについて、こつこつと考え、ノートに文字や絵を書き散らしていたような日々はもはや薄れてしまった。私たちには後何が残されているのだろう。夜の、まだ入るのが緊張するような時間のことも、いつもは聴かない音楽のことも、もう今や忘れてしまった。楽しく考え続けられることばかりじゃないとわかっていたはずだったのに本当はずっと不服だった。地味に、でも途切れることなくずっと不服だった。冬、早い夕方、薄暮の色に染められる友達の、その後ろの街の、そのまた後ろの山々の、肌の色の悲しさ。私たちは一旦離れていくが、また会える、そういう小さな悲しさ。私たちそれぞれが共に、離れていながらも同じように育ってきた時代と土地と、観ていたテレビと、習い事と、学校を休んだ日の真昼と。その経験は何にも代えられない。ああ、休み明けの学校での倦んだような痛みも。あの真昼、遠くまで続いていきそうだった。いつまでも話し込んでいられた。坂の多い地区で、景色の変化が好きだった。好きな音楽を聴いてもなんだか、どうしてか、以前ほど感動できない。友人の連絡に返事ができない。でもみんなの近況がききたくないことは全くない。みんなに会いたいと思う。思うのになんだか、なんだか負担なのだった。すぐに景色が頭の中に流れ出す曲とかがあると、今でも生きているんだなとほっとすることもある、わずかだけど。思い出でも何でもなかった記憶が、恐ろしいほどに、少しずつ忍び寄るように、変質しているのを最近、よく感じる。
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niwanoki · 7 months
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2023/10/14
全てが終わったわけじゃ全くないのに、仕事の後、表の通りでどんちゃんやって夜に向けてボルテージをあげつつあるお祭りになど一切目もくれず私は裏の駐車場の出口から外に出た。裏の大通りに面しているでかい公園の大きな金木犀の木が発散させている冷たい夕方をまろやかにする香りを思い切り吸い込む、夕闇のつんと冴えた匂いと混ざって、やっと一旦自分の姿が世界(社会)から隠されたことに安心する。部活から帰る時の時間を思い出す。セブンイレブンでキレートレモンを買って飲みながら駅に歩く。吉祥寺まで20分強かかることに新鮮に驚き、間に合わないだろうけど仕事がらみの作家が展示しているギャラリーに向かったら、閉廊時間2分前だったがオーナーのご厚意で割とゆっくり見られた。駅前の美術館にも行きたかったが、名刺交換もして結構話し込んでしまったので時間ぎれになり、そのままよく行く古着屋さんに入る。土曜日の夜なので死ぬほど人がいる駅前と打って変わってシューゲイザーバンド?かなんかのいい感じの音楽が静かに流れるその店にはいつもの店番してるお姉さんのみで、かなりほっとした。数分物色して、不思議な配色の、自分の体にサイズも温度感もぴったりのニットを買った。お姉さんは私の顔を覚えてくれていることを伝えてくれ、髪型を褒めてくれたり店内のBGMについて教えてくれたりとても優しく接してくれて嬉しかった。おしゃべりをしてから別れた。ナイスな温度のbgmについては、「2000年前後のいろんな曲をリミックスしてる友達作のプレイリスト(CD)だけど、すごく今らしいというか。めちゃめちゃかけまくってる。」とのこと。悪い癖で、少しでも自分の中の片鱗に他人の言動が掠ると「わかる!」と言ってしまうので、「わかる」と言ってしまって後からこれは失礼だったかもと思い直すが、なんか今自分も、自分なりの今らしさの中を生きたいと願い始めたのかもしれん。まさに、「自ら選んだ人と友達になって」いく過程にいるというか、多分、単純に自分がこれまでで一番「自我」を持って生きようとし始めたからかも。後もう一つ、本でもいいし生身の人間でも、絵でもなんでもいいけど、圧倒的な他者の声がほしいのだ、という実感がマジですごい。不審にニヤつきながらココナッツディスクにも寄ってCDを2枚買う、探しているものはなかったけど知らないバンドの対照的な2枚を。細野晴臣の曲がずっと流れていた気がする。私は70年代を生きたことはないが、彼の声を聞くと頭に浮かべる色合いがあり、勝手にこれが70年代だと信じている。棚の間をいたずらに歩きながら「これはメルカリで買えばいい」などとわざわざ店中に聞こえる声で話す頭悪そうなカップルがいて、やだなーと思ったけど、そこまで気分を損なうことはなく店を後にし、東急の方、3年前に初めて入った居酒屋に初めて一人で入ってみた。すっごいうるさいけど嫌な感じはせず、変わらず優しい笑顔と元気の出る声色のおかみさんと、「ひふみん」に目元が似ているマスターがいて、ビールと野菜を昆布で煮たやつとお寿司と、トーフチャンプルー(ご厚意で半量にしてもらったやつ)を食べ、全てが素晴らしくおいしく、でもやっぱりこの感動をぶつけ合える人がいないのがちょっと苦しい。最後に熱いほうじ茶?(にしては甘い強めの味)まで出してもらった。カウンター席の真上にあるテレビではアド街ック天国がやっていた。「下高井戸」特集で、録画しておけばよかった。次は二人できて、いっぱい食べますと約束し、笑顔の声に見送られ退店、大声で笑い出したくなるのを堪えながらバス通りに出て、思いの外結構アルコールが回っていて、「まいばすけっと」でアイス買ってかじりながら雨が降り出すまでずっと機嫌よく歩いて帰った。ずっとそばに金木犀のしっとりまったりした香りがあった、やっぱり夜の匂いに混ざって感情を静かに揺さぶる、片耳イヤホンで「ゆうれい」を聴いていた。暗闇に隠されている時間の安堵。誰にも見つからないで済む時間の。部活帰りの蒼い闇。秋のまだ少しざらついた空気(特に夕暮れの)は毎年来てくれて、ありがたい。
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niwanoki · 7 months
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(ウイルスがまわって)先週10/4(天使の日?)のライブについて思い出すことと、その音楽についてここ2,3ヶ月思うこと
結局ずっと聴いてしまっている。今年の初夏に出たスピッツの新しいアルバムよりも回数としては聴いてる正直。急にガッと冷めたらどうしよう(自分のせいなのになぜか寂しくなる)という思いも片隅にあるにはあるが、気づいたら彼らのバンドのアルバムは7月の2週間のうちに半分以上を手元に集めていて、懲りずに呪われたように聴いてる。これがダメな要因であると思う、急にやりすぎること、それしか見えなくなってしまうこと、それについてしか考えられなくなってしまうこと、あらぬ妄想をしてしまうこと、で、(内容の程度によるが)ものすごい強運によって現実と連結させてしまうこと、本気になると何かを呼び出すことができてしまうらしい。「どうせ飽きる」と信じて疑っていなかったのに、まだまだずっと憧れてしまう。聞いてて笑いそうになるくらいぶっきらぼうな「1、2、3、4」の直後、びっくりするほど優しい声になる。喋るときのまさに「木訥」とした声は、必要最低限の温度しかなさそうで、何も考えてなさそうなところが好ましい。寒暖差ですぐに顔が赤くなる私は温度の急変が物理的にも精神的にも恐ろしい、暑すぎるのも寒すぎるのもダメだからそのふとい広葉樹の幹のような頼もしさが私にはありがたい。夢のほとりに膝を抱えて座っているところまで降りてきてくれる、暗い湖のすぐそばで、火を背中に座り込んでいる、火影と一緒に揺れる自分の青い影、暗がりに腰をおろしてじっとしているところに。冷たいべつの風が流れだすような心地。ぶっきらぼうな佇まいや振る舞いがかわらないでほしい、そのしんとした温度と遠さが、私にはありがたい。
初めて聴いたのはYouTubeにアップされていた音源だった。ひらがな3文字のアルバムの一曲目、アルバムと同じタイトルの曲、ジャケットはこちらを見つめるアライグマっぽい動物の写真、イントロのシンセサイザーの音が膨らんだ瞬間、ああ・・・と頭のスピードが急に2くらいまでおちた。というか、自分の中で何かが歪んだ(合点がいった)。この世のことなんか全然知らないくせに、ああこれがこの世の(自分好みの)奇跡を全てあつめた音楽か…と確信し、胸の中に光がジーンとみちていくのを感じて、すぐに閉じた。何度も聴いてはならない、これはダメ、スピッツの「ハチミツ」「インディゴ地平線」「フェイクファー」(どれもアルバム全体)同様、いくらいいからと言って何度も聴いたら、昔に聴いた経験が上書きされて感動が掻き消えてしまう、意識して遠ざけておかなければ、この懐かしさに似た光の感じはすぐに、簡単に思い出せなくなってしまう、絶対ダメ、、、と一瞬で悟った(けどなんだかんだで聴いてしまっている)。
昨日の夜、フラワーカンパニーズの対談記事をネットで読んだら、バンドを長く継続するにはいかにすべきかという話題で、「ひとつのライブが終わった後にお客が「また来よう」と思えるのが一番」という話が出ていた。誰かが、一人一人が、またここに戻ってきたいと思えれば、それが継続することの意味になると。まさにそれだった、今年8月の最初の日も台風が近づいていたか何かで天気がイマイチだったしそもそもこんなの行ってる場合か?と本気で迷ったんだけどギリギリの判断でチケットをとった。緊張でガタガタ震えながら開演ギリギリの中央線で向かった、思ったよりも狭い部屋で、思ったよりも自分の体のすぐ近くでものすごい音がして、自分の中で何かがやっぱり確かに歪んだ、思いがけず手が触れ(×故意)、それで、弾かれたように駅まで走って、ああ、また来よう、と思った。雨は上がっていておまけに月もくっきり出ていてやりすぎだと思った。今日得たこの胸の中の速度は誰にも奪われないのだと、満員電車でニヤつきながら帰る途中、名残惜しくて聴いていたまさにそのアルバムの中から3曲、こないだ演奏された。しかも本当にこの3曲のうちの1曲は特に入れ込んで聴いている曲で、戸惑いと嬉しさで震えた。鳥肌が止まらなかった。歌詞が一部、強気というか荒っぽいニュアンスに変えられていた。対バン相手(こっちもすごい個性派なのに)が少しかわいく見えてしまうくらいの凄まじさで、どんな暴力よりも強いんじゃないかという音の圧で、体が砕かれてバラバラになって漂いだすみたいな心地がした。ボヤーとしたのは単純にその日は貧血気味だったしずっと立ち見だったからってだけかもしれないけど、頭の中の軸がボケてまぶたが自然に閉じて、対バン相手も私は好きなのに(なので一石二鳥なイベントだと思ったのに)���もう完全にステージ上手側の音しか聞いてなかった。アドリブの引き出しの多さと圧倒的な音の厚みと形と振り幅に感心しながら、またジーンとして、これがあるから大丈夫だと思って、帰った。
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niwanoki · 7 months
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2023/10/09
「心がちゃんとしている」とはどういうことだろうか?自分のいいところは片手で数えられるくらいしかないけど、ポジティブな意味としてこの間そう言われた。
そもそも心とは何だろうか、というのは別にして、「ちゃんとしている」というのはよくわからない。大学の頃は特にサークル活動に参加してたわけでもなく、友達の母数が少ないのもあるが悪い友達はいないし、外部の悪意のあるコミュニティとかのことは知らないし、あんまり”遊んだり”したこともないので、小学生くらいの頃から心の中の景色も心境もそこまで変化がないつもりで来ている。子供っぽいまま年齢だけ重ねたタイプで、裏表とか奥行きがあまりない
自分の心の成り立ちなどは自分の想像の範囲で全て言い表せる程度のもので、何かに長い間揺さぶられて、何かに自分を捧げるような経験もないし、ドラマみたいなことはまずない。いちいち思い出すやけにくっきりした取り留めもない風景はあるが、それはだいたいがよそよそしい顔をしている。
私の地元出身のロックバンドの曲にある通り、生きていれば十代などすぐ終わるのだが、私はまた中学生の頃みたいな気持ちをタイムスリップともまた違うなぞり方をしている。その年、その歳にしかない気持ちが必ずある、なぞろうとしても完全にはなぞりきれない。隔たりを介して、水槽のガラスを通して向こう側を見るような風に、また再会する。「同じ心にも違う影がさし」っていうのはこういうことなんでしょうか?いつどこで何がという骨組みのしっかりした出来事ではなく現象について気になるようになったのはどういう方向性の変化なのだろう、私はこの音が好きだとか、この並びが好きだとか、この連結が好きだ、この重なりが好きだという感覚のカードがいつの間にかポケットに入っていた。個人的な意志がずっと強まってきたように思う。急に帰り道の音を録ったりしたくなるのはなんなのだろう。急にあの絵がみたい、描きたい、写真も撮りたい、とかいう欲望が戻るのはどういう向きの変化なのだろう。
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niwanoki · 7 months
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2023/09/28
死ぬほど嫌いな人がいる、泣きたいほど好きな人がいる、みんなそれぞれ誰かに似てる(最近マジ実感している)、取り留めない話、薄��共感の帯が見える、最寄りの図書館にはこの人の書いた話所収の本(『ことばと』とか、食べ物関連のエッセイ集、京都にまつわるエッセイ集など)が複数あるってことを知り、軽く笑ってしまう。また昨日、書店の棚を隅々まで見て回らないと気が済まないムーブが来てしまい、ルミネにあるオリオン書房を2時間近くうろうろしてしまった、やっぱり近所の天下「ジュンク堂」には勝てないみたいで、大衆向けの本が多いわけだけど、いちいち本の背の文字をなぞっては落ち着きを取り戻そうとしていた(?)。最近またうつ状態から抜け出た感じがあってちょっと精神が軽快に動いてくれるようになった、だが二日くらいするとぼんやり不安感が染み出してくるような感覚がきて、またちょっとこれは違うなと思う。昼休み、でかい交差点にあるディスクユニオンで2枚CDを買った、ディスクユニオンの袋を提げて戻り会社のゲートを通るのはちょっと緊張する。なんか違うという思いが抜けない。帰りが偶然早くなりラッキーだったのだが、バス停で並んでいたら姿が認識されずに置いてかれたり、結局その分浮いた時間で勉強したりいつもできないことをしたりということもできず0時が回る前までぼんやりしてしまった、上司からいろいろハッパをかけられ始めて大変鬱陶しい、これからもっと鬱陶しい日々が始まるのだと思うと吐きそうです
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niwanoki · 7 months
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2023/09/26
車内に、好きな人と同じ(と思われる)香水をつけている(らしい)人がすぐ後ろにいるみたいで、ん?と目ざとく気がついた時から、やけにありありとその人の姿を頭の中に描けてしまってとても気色が悪い。だいたいの人がマスクなんかしてない時代のことで、いつも背筋を伸ばして立っていて、青か緑で、少しずれた別の時間の上にいて、むせ返るような花の香り(まさにその時、まさに正対した時に花柄のシャツ着てたからってだけ)を発散させていた。不思議な微笑み、蒼い陰りのある眼、かすれた少しだけ高い声、呟くようなおもむろに動く手、あの大教室のでかい黒板を上下させる時の、でかい黒板に大きく、”黒板に何かを委ねるかのように”板書する時の、独特な緩慢な動き、私は一つ一つを丹念にみた。本当に丹念に。気持ち悪すぎる。ずっと見ていたかったので、後を追いかけたりしてた。喫煙所まで尾けたりしてた。授業開始のチャイムが鳴ってもなお慌てるそぶりも皆無でスパスパやってたのはとてもこの人らしくて好きだった。講義室の前列で気合入れてスタンバっててもなかなか現れないのでわりと心配してたりする時でも、ふらっとちゃんと来て、普通に喋り始めるのも好きだった(意外にもこの人は休講が少なかった)。気持ち悪すぎる。この人に似た人は多分どこにもいない。私は非喫煙者のまま卒業した。特に悪い文化を知ることもなく卒業した。私には話を広げられるほどの力なんかなかった。
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niwanoki · 7 months
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2023/09/25
朝イチで、やっと「ほとぼり」が覚めたんじゃないかという宮崎駿の新作映画を観に行った。平日の朝でガラガラで自分の真後ろの席にはカップルがいた、たまにポップコーンを食べるサクサク音がささやかに聞こえる程度でずっと静かだった。で、作品はというと、たまに見る悪夢にそっくりの映画だった。私が幼い頃に抱いていた、絵と展開のおぞましさと言葉にするのが難しい気持ち悪さが詰まっていた、トラウマのデパートみたいな内容だった、どうしても心当たりがある、タッチの異なる異様に長い奥行きの色数の無い光る廊下、石が怒る、これは僕の悪意です、どうしてここに来たの!あんたなんか大嫌い!、人形(ヒトガタ)の病的に折り重なったものが赤ちゃん用のメリーのように回る、星が割れる・・・とにかくショックが大きすぎ、神経がずっと震えていて、背中に汗をかいていた、怖かった、怖かった、私はこういうことが心の底から怖い、そういう流れだった。気味悪く光る液体、独特の粘度、誇張された膨張と収縮の動き、様々な時代、様々な国の童話や伝承が重なったり混ぜ合わせられたりつぎはぎされて、そこに宮崎駿の想像力がーー、というものなんだろうけど、駿にしてはやたら展開が早くシンプルでなく、主人公の他者との関わりの過程が省略されている感じがした、車(ダットサン)のカーブを走るところがおなじみの戯画風に描かれていても飛行機は飛ばず(戦闘機とか出てこない)、人だけではやっぱり空を飛べず、その代わりに海をヨットで渡る。序盤の火事のシーンの描き方からビビってしまい、ずっとそのムーブは途切れなかった、笑えるはずのシーンも素直に笑えず、今までのいろんなジブリ映画にあったカメラの動きや表情や風景やものの揺れ方などが散りばめられているのが少し寂しく、ずっと心が震えていた、他者と出会って、ある関係が構築されるまでの過程がとにかくぶった斬られており、こっちが理解する間もなくずっと怖い出来事が暴発するみたいに起こり、戸惑っている間にも新しいキャラクターがわんさか出てくる。最後、あばよ、友達、と呟いて「アオサギ」は飛び去っていくのだが、結局この「おっさん(?)」は何者だったのか、なぜ青鷺だったのか、最初お母さんのドロドロの偽物を作った理由はなんだったのか?、お前なんか友達でもなんでもない、からの、友達?相棒?みたいな関係になるのが早すぎないか?裏があるのではないか?(結局ないっぽかったのが釈然としない)、音楽が久石譲っぽくない箇所が頻繁にあって(米津の音楽に寄せた?)それもまた不安感を助長する、これまでのどの作品とも似ていない、しかし所々ピースで見るとこれまでのジブリ作品にある描き方が見える。夢も現実もあの世もこの世もめちゃくちゃに連結されている、主人公、「移動」しすぎだった。しかしもう要素がめちゃくちゃに詰め込まれていて狂気といってしまうのはあまりに野暮で簡単すぎますが、狂っていると思った・・・もう当分は観たくない。
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