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mothermonika15 · 5 years
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多十郎殉愛記
原民喜の上映イベントが秋田県雄勝郡羽後町で5月に行われることになった。 私は、原民喜の文学にそれほど感動した者ではないのだが、以前エッセイ的なドキュメンタリーをつくったことがあった。 原の文学は、土方巽いうところの<衰弱体の採集>に近いとしたら…という仮説を立ててみる。 衰弱を、パッと捕まえるのが上手い詩人…いや衰弱体から見た詩人とは、舞踏家と違って肉体を放棄するように、逆に、舞踏家は言語を破棄するというのが的確か。 『喜望峰の風に乗せて』を見たとき、船乗りは海を走るのではなく、跳んでいるのがよくわかった。 あの主人公は だから大地に着地できないし、歩くことが不器用なのだ。
     俺も頑張るから
とは『半世界』の元自衛官の瑛介で、彼もまた船乗りになった。 船乗りは、大地をふまない足をもっている?
私は基本的に衰弱は好きではないが、自分自身の好き嫌いに関係なく衰弱体になってきたからだろうか…気になりはじめた。 そこで衰弱体ばかりを採集していると、その逆に耐えられなくなるように、どちらかが状況に対して何らかの正当性をもっているとか、人間にとって健康は重要であるという論理の立て方自体がおかしいと思うときがある。 さしずめ森友問題の籠池氏、日産前社長ゴーン氏は同じ目にあった衰弱体だろうか。
  構うな もうくたばりぞこないの 俺のような男に    とうに 武士も棄てた男じゃ
『多十郎殉愛記』の中で、貧乏長屋に住む長州藩を脱藩した衰弱体こと多十郎は言う。 この多十郎も、どこか陽の目を見ない人物像として、つまり武士の端くれとして描かれている。 彼が絵筆で使う色は 黄 緑 紫 そして最後に赤。 夏みかんの黄色は夏柑糖(和菓子の老舗「老松」)と同じく長州(山口県)の徴だろう。 そう、男たち衰弱体に告げる女・おとよは青い格子柄の着物に薄い水色の八掛だ。 おとよがいいというより、五分と五分だと思えるのは、なだらかな均等さで登場人物を浮きあがらせる長屋のセットとその周囲の路地の表情(光線)とが、裏日れていて等しい輪郭のもとにその路地をフレームアップしてくれているからもある。
一方で、そういう衰弱に対する感受性があり、滅びゆくものから生ける女を抽き出し、死せる男たちから不滅のジャスミンを抽き出す84歳のギリシャ人こと中島貞夫監督は
  この世をもっと知りたいんじゃろうが   じゃけえ生きろ   これは命令じゃ   なにがあっても おとよの手を放しちゃだめじゃけえ
と言わせる。
これはポレミックなものとして持ち出される「純愛」ではない。 無視できない「命令」という意味で、ここでこの映画は私の中に一定の位置を占めることとなった。
これは原の文学同様に「救済」のドラマなのではない。 ましてや「約束」でもない。 この二人の主人公は(上記のセリフが言われている健康体として描かれる腹違いの弟はあえて無視する)、まさにギリシャ悲劇のように、現在完了形によって生に留まろうとする。 そして北野天満宮あたりから高雄に至る二里余り先の神さまの現在未完了形の只中にとどまることが、彼等二人の生きざまであるかのように「至ろうとは努めない」ことも知っている。 きわめつけの現代人なのだ。
人を愛することと、わかることとは違う。 大抵の人(プロ)は、ある程度の給与が出ていれば自分の仕事を愛してはいる。 映画では見廻り組(会津の抜刀隊)や町奉行が存分に描かれる。
給与が与えられた彼等は「来るべき市民」なのだ。 おとよの母親もまた、金のない浪人(多十郎)と付き合ってはならぬというように。 しかし、それをわかって付き合う女と男がいる。
愛することが見ることから始まる傷とするならば、わかるとは、見ることの削除をとおして開かれる破壊への希望だろうか。 実際弟は目が斬られるし、おとよがそのとき目(のアップ)で追うのは、多十郎の方で弟ではあるまい。
男の臙脂色の褌を洗うおとよの引き画には桜が散り、伏見の酒の看板が見える。 その引き画の呼吸がまさに「映画」なのだと思えるが、おとよと母親の男運のなさが町奉行たちに噂され、揶揄され(こうした来歴の語り方が無駄なく口にされてゆくことで今時90分台の映画の贅沢さが誕生した)、多十郎は呑み屋で小判を木の葉のようにばら蒔いて、伊藤さんと呼ばれる長州の先達から贈られた金すら嘲笑う。
  ここが天下国家じゃあ   のう!
と勤皇派や、後に天下をとる長州藩も、酒の肴にして女の肌に絵筆を走らせ、赤い狼の片鱗を見せる多十郎演じる高良健吾が『月と雷』ほど健闘している。
伊藤大輔の『幕末剣史 長恨』を翻案したドラマは至って単純で、盲目になった弟と、自分の好きな女、この2人を逃がしてやりたい、それだけの話だ。 同じ立ち回りでも、相手を倒す立ち回りではなく、時間稼ぎという枷があるからか、闘うとみせて逃げる。 あっかんべーにコミカルに込めたのは伊藤大輔への挨拶か、これさえ、ばちっと決まれば、画面がもつ迫力で映画は成り立っている。 この設定ならば<ちゃんばら>は、きちっとしたものじゃなくてもいけると殺陣師の清家三彦はふんだはずで、立ち居振まいから刀の置き方、着付けからきちっとやれる基礎訓練がある役者はもういないのだから、重心がブレようが足が滑ろうがお構い無し。 「捕方」の引き腰までリアルに描写している
現在完了形としての「純愛」(この映画はお国のためにという殉死を掛けている)まで至ろうと努めないことこそ 中島組の「健康法」であり、中島貞夫は84歳にして「未だ完成されざるもの」に至る軽みだ。
おとよを演じる多部未華子が『日日是好日』より遥かにいいのは、京女の気の強さを手の演技や振りを幾つも付けられることで、全身全霊で男を愛しているさまを体現しているからだし、中島貞夫が居る現場の緊張感だからに違いない。
原民喜(多十郎でも構わないが)を、土方巽(おとよでも構わないが)を、言葉によって食いつくし「純愛」するのではなく、その命名の数歩手前で、「未だ完成されざるもの」として、互いを認めあう…多十郎とおとよを、この二人を、戦前の<ちゃんばら>映画が好きだった原民喜が見ていたら、ことのほか気に入っただろう。
中島貞夫監督は寺岡裕治のインタビューで
敗戦後の占領下 GHQによって<ちゃんばら>が禁止されます。推測ですが当時 アメリカ人は例えば「特攻隊が飛行機で突っ込むのになんで軍刀を持っていくのか?」というような疑問も含め、日本刀に日本人の精神性をみて不気味さを感じていたんじゃないかと思うんですよ。それが解かれた頃、日本映画はアメリカ映画の影響を受けてしまっていて、復活した<ちゃんばら>は単なるショウになってしまった。
と述べている。
さしずめ近年だと、木村拓哉主演『無限の住人』あたりがショウになった<ちゃんばら>の典型だが、中島監督がそれを見たとき、そうじゃないんだと席を立ったと思うと、『多十郎殉愛記』での竹藪での「捕方」とのクライマックスには胸が熱くなる。 殺陣師の清家は、ここではワンカットでおよそ二十手の振りをつけたという。 高良が竹の幹に背をもたせ(アップ)で「捕方」から隠れたつもりの向こうを「捕方」がボケ足に写り(綺麗な同軸繋ぎのニーショット) 間髪入れずにフレーム外から打ち込みが高良に入るときの嘘のようなカットと、音楽の緩急、そして竹を斬り倒して追手を捲く一連の活劇の冴えは 戦前の<ちゃんばら>とは明らかに異なる 現代<ちゃんばら>の凄みだ。
「人を斬る」ための立ち廻りではなく、愛する女と弟を逃がすための「時間稼ぎ」の殺陣と清家は、伊藤彰彦のインタビューに応えている通り、なぜ斬るか、なぜ剣を捨て、また剣を手にしたかが、これほどわかる映画もそれほどあるまい。
そして映画はどんつきで、ある坊主を登場させる。 演じる栗塚旭を全身で捉え続けるショットと、彼の芝居はキャリア最高のものだろう。 映画はここで突然寓話にまで浄化される。 栗塚はまるで、この人生が生きるにあたいするというのではない、自殺はやりがいのないことだが、おまえは女のために死ねるか? と破壊的性格の矢を射る。
天下の刻印が消えた小判を木の葉として、つまり、斬られる肉の貨幣として、愛の反復と夢の交換を果たす本作は、時代劇が詩学にまで到達した前人未到の東映京都撮影所発ギリシャ映画だと言える所以だ。
2019年4月15日
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『多十郎殉愛記』 監督:中島貞夫 出演:高良健吾、多部未華子 2019年/日本/93分
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mothermonika15 · 5 years
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半世界
この映画の主人公、稲垣吾郎演じる炭焼職人は故郷へとはぐれる男。 故郷、それが異郷であるかのようなのは、自衛隊を辞めたもう一人の主人公を演じる長谷川博己。 故郷、それが肉体だとしたら、渋川清彦と池脇千鶴が演じる役柄が、2人の主人公の反映にも感じられ「故郷」を体現している。
半世界とは、陸と海の架け橋のようにも見える (彼岸と此岸とはあえて言わないが)
長谷川博己演じる元自衛官は、海の上に居れば落ち着くという。 陸の上の(反)世界を借定する彼は、海綿体となって浮かんでいる。
慰めじゃない ほっとするんだ
遠景のカモメや餌をやる漁師や煙も効果的だが、何より最後のカットで海上の長谷川に歩みよる稲垣の二歩の歩み寄りが、稀にみる映画俳優のアクションだ。
「おまえに俺の給料払えないだろう」と長谷川に言われた稲垣が空かさず、「ボランティアだよ。甘えんな!」と言い返し、次の日から山で働きだす長谷川と稲垣のツーショットか映る。 二人のやり取りは真剣だが観客は笑う。 実際この映画で貨幣を手にするのは長谷川や渋川で、炭焼きの仕事で給料を受け取った痕跡は何処にも映し出されない。 しかし、雨戸の補修にはじまり、炭の出入荷、売り込み、息子の高校受験、中古車販売や葬儀に至るまで、凡ゆるところに通貨の気配はある。 ゆえに、この話者たちのやり取りと、観客を笑わせる醒めた作者の視点の相違に、日常における現実の構造が露呈するのだ。
何もわざわざ自殺するには及ばない。 人間はいつも遅きに失してから自殺するのだからと思わせるもう一人の(アルターエゴ)主人公が、妻役の池脇千鶴と会話する。
お風呂入ってくるよ
お湯抜いた…仏壇消して…��、重いんだけど脱がせてよ…私をほっていきやがって…バカ…酒臭え
重力を感じさせる池脇の名演と、竈のまえで会話する場面のフォーカス移動には、昨年の邦画には見られない精確なキャメラアイがあった。 カットの中に奥と手前がある。
再び池脇は焔を見つめて
瑛介くん(長谷川)なりに折り返す場所みつけたんだな お父さんはお父さん あなたはあなた でないとこっちが迷惑だもん
現在と、現在から見た過去の奥行きがあるとき、本作は過去(イメージ)を妄りに共謀させたりはしない。 過去のトラウマを今に混入させないイメージの配列が、トラウマ・レッスンとしてのドラマ映画のカタルシスを否定している。
劇中、石橋蓮司がカラオケで歌う場面があった。 「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍…」これは万葉集の代表的な歌で…と酔っ払いながら熱唱、元自衛官の長谷川博己に向かって軍歌じゃないんだ、と説く。 家持の言う屍を、死者の魂の身動きに喩えたわずか五文字に喚起させる「海行かば」。 人の死を悲しむ悲悼の言葉に結晶する万葉以来の伝統を、一見、茶化すように描いた名場面だ。
なんでこの町は風俗も映画館もないんだよ
と、玄関で酔っぱらうもう一人の「故郷」が言う。
まるで映画みたいだな
と、バス停にて長谷川博己を見送る渋川“故郷”清彦に言わせるラストシーン、背後に拡がる伊勢湾は、『山椒大夫』(溝口健二)のラストシーンのごとく波光きらめく逆光として在る。 導入部につながるこの場面には、それでもなお映画でしかないことへの「笑い」(距離)もある。
スタンスっていうか…結局、目に見えている物の中には真実もあるから嘘はつけない。 良質な娯楽作品を作ることの難しさというのが一方にあるんじゃないですか。 娯楽で血反吐を吐くということを僕もしていかないといけないんです。 阪本色であれ、インディペンデントでやってきたものであれ。
阪本順治監督が『傷だらけの天使』を公開した97年に、個人と映画のスタンスを私が問うたときの監督の言葉だ(応答)
あきらくんとめし食ったよ 変なことしゃべってないだろうな 変なことだげしゃべった
その後に続くアクションは、ベタ阪本色と呼べるが、この車内での一見些細なフォーカシングの位置が、この映画の格の高さを示唆する。
阪本順治監督との対面から20年強。あらゆる迂回を経て阪本映画をほとんど欠かさず見てきたが、その迂回が死を賭した生成だったことは、その後の彼のフィルモグラフィが示している。
本作は『顔』と『団地』のマインドをまぶしながら、その実『亡国のイージス』や『KT』『闇の子供たち』につながる日本的自然を批判しもする(反)邦画だろう。 主人公は竈の焔を見ながら、その不定形のうねりと性交するようにして、私生児みたいに雑種的なるものへと生成する。 あの竈の暗い焔に照らして、夫婦は、親子は、互いの中の何に見合っていたのだろう。
空は海にささやき 海は空にささやく かつて海と空は夫婦であった そして子が生まれた 児は叫ぶ 私は願う 太陽に向かって種子を播きたいと
中西夏之
芦川羊子をはじめ白桃房の踊り子たちが、やわらかく鈍く光る真鍮板になって舞っているかのような 三人の、すべての幽霊が故郷=異郷へと召還される。 そして、そうした交流の外に置き去りにされたカモメや焔や煙や…すべてが舞い戻る。 主人公3人は伊勢の「海やまのあひだ」を背に、それを調教するように映画を撮ったのではない。 逆に調教しているのは、あのカモメたちであり、それらを構成する無数の「徴=サイン」素なのだから、それらがあたかも3人を画面の中で主人公であるかのように調教しているだけなのだ。
そして主人公は学ぶ。 自らを用立てないこと、を。 無用の用として、使い捨てること…それを稲垣吾郎が体現して、スクリーン上に稲穂が鮮やかに映えて見えた。
これは阪本映画のひとつの到達といえると思うが、既に映画はさりげにそれを否定し去り、キャメラは空を仰ぐ。
お前らに気をつかって俺が小さくでたわけよ
と、つぶやきながら。
この映画はロケーションから溝口の映画を、そして相米の遺作の気配を思い出させるが、個人的には『王将』(伊藤大輔)を重ねた。 貧乏な塗炭屋根家の貧しさの中で暮らしを立てているからだろうか… 坂田三吉の負け戦に挑む姿に、稲垣吾郎扮する役柄が、何処となく過る。 亡くなるのは稲垣なのだが、三吉が受話器に向かって延々と唱える題目(南妙法蓮華経)が、そのまま狐の嫁入りのような葬儀の場面、一瞬、キャメラ(レンズ)に虹色の光が射す場面に見える。
稲垣吾郎演じるどこにでもいる市井人の男の内部に宿った高貴な魂が、はっきりと映し出され、父親を喪ったばかりの息子の巣立ちが続く。 そして、人生がつづくように、骨壺とも、地面に映えた下弦の月の光ともつかない反映をラストカット、映画は次世代に志を繋ぐ意味の種を播く。
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監督・脚本:阪本順治 出演:稲垣吾郎、長谷川博己、池脇千鶴、渋川清彦 2019年/日本/120分
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mothermonika15 · 5 years
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The Mercy
馬の緯度、についての話題から始まる。
バミューダ海域にあって、むかしスペインとの貿易で凪に足止めをくった舟が、飲み水を取るか載せていた馬を取るかで、馬を海に棄て生き残った貿易商の話からこの映画ははじまる。
原題“The Mercy”、意味は“救い”または“慈悲”。 映画の舞台は1968年、イギリス。ヨットによる単独無寄港世界一周を競うゴールデン・グローブ・レース。それに参加する主人公・ドナルド・クロウハーストを救うものは、ゴールではなかったかもしれない。 彼はいかにしてそこに到るかは知らないし、自分とは小舟みたいなもので、己をいかにして実現するかを知らないという男の弱さが写されているような映画だった。
画家ならばキャンバスから、映画作家だと編集から外側に出ることでしか、そこには到達しえないように、彼は小舟から出ただろうか?
画家の問題はキャンバスの中に入ることではなく、既にそこにあるのだとしたら、画家の務めとはそこから出て、つまりは紋切り型から逃れ出て、蓋然性からも逃げ切ることだ。 彼の舟出は偶然で確かなわけではなく、確かさという最大の蓋然性が彼を決定的にダメにすることさえありうる…そんな印象から逃れる舟出…自分に失望する直前までいってしまうコリン・ファース演じる主人公、そこで彼が選んだ自死、遺された妻と家族、不思議なのはファースがまるで馬に同一化するように見せるところだ。
海の太陽への上昇が馬の緯度では起こっていた。
「夏の上方からの日射、下方からの瓦礫の地面からの熱の反射の中」 「(その中で)その男は、自身の躯から絵を剥ぎ落とそうと運動していた」 中西夏之
また新生児のように目を上げて、神々しい太陽を仰ぎ見る洋上の彼が居た。 太陽と合流するために?
妻を演じるレイチェル・ワイズは全編を通して青い衣装やアクセントで夫をその緯度まで導いたかのように見えた。 同監督のホーキング博士の映画“The Theory of Everything”もそうした夫婦の導きが描かれていたように記憶するが、この映画もまた、深みから愛へと向かう発散を描いてもいる。ラスト、時計が沈むショットと取材を受ける妻の視線の動きが同じく上から下なのを、また取材陣の向こうの柵の外に立つ男を一目見てから語る「夫は貴方たちマスコミの犠牲になった。準備不足で無謀だと出航を断念するところを強引に背中を押したのは、貴方たちです。皆成功を祈っていたはずなのに、失敗するやいなや海に落とし、笑いものにし、更に、その頭を押さえつけるのが、貴方たちマスコミです」とは、実際に言われた言葉(原作にもある)の写しを、目線を交えて俳優が立体化する。
導入部の見本市にある家族用のキッチンセットがラストの八ミリ映画にも映って、この監督は一度ならず画面に小道具をなんどか配置し直し、この事件の細部に分け入ろうとする。
今どき珍しい嘘(実際は喜望峰すら廻っていない偽装航海)と敗北の物語? 相変わらず勝利の歌を歌わないファースとワイズの慈愛の実話?
最初は嘘の罪悪感に始まるものの、最終的には人間としての存在の真理や究極の価値観を求めることに行き着く主人公。
「彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。それが(嘘が)真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです」 夢野久作
嘘に嘘を重ねて、またその作り話を正当化する為にまた嘘をつく…一見そんな物語だが、実は違うのではないだろうか。 ファースを殺したのはそんな自らの「弱さ」と、自ら築いた砂上の楼閣の外で「嘘」の集大成とも言える大量の作り話(マスコミ)だった…と一般的には言える。 詩に囲まれた大洋への無防備な舟出と、陸地での過剰報道。 映画は、ほぼ脚色なしで起きた事実のみを伝え、キャメラも、平板(クール)な動きで写しとるだけだ。
本作は、献身的フェイクとは罪なのか正義なのかを問いかける映画であり、もちろんそこに答えはなく、彼が到達した世界は命と引き換えに神への救済/Mercyだったと、一先ずは言える。俳優ファースはおそらくこの夫の「救済」と洋上の揺れとに共振したのだと思う。
そして、馬の緯度とは位置だけは言えるが場所をいうことがなかなか難しい一点で、海と空とはもともと一つのものだとしたら、その馬の緯度でファース演じる、航海計器の会社を経営する一介のビジネスマン、ドナルド・クロウハーストは、不自然な運動(静止)を試み、あるズレを生じさせる。 画家・中西夏之の言葉を借りれば、全空間として合体している自分というものの中から、自分を“1”として剥ぎとる。 世界から存在を剥がす。
「舟としての自己」を認める映画は少なく、相反してボヘミアンもロッキーも最後は自ら勝利し、それを描くなかで、久しぶりに揺れている、落胆という心的運動を映画で見た気がした。
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監督:ジェームズ・マーシュ(『博士と彼女のセオリー』) 脚本:スコット・Z・バーンズ(『ボーン・アルティメイタム』『不都合な真実』) 撮影:エリック・ゴーティエ(『モーターサイクル・ダイアリーズ』、『イントゥ・ザ・ワイルド』、『ポーラX』) 音楽:ヨハン・ヨハンソン(『メッセージ』『博士と彼女のセオリー』)
出演:コリン・ファース、レイチェル・ワイズ、デヴィッド・シューリス、マーク・ゲイティス 2017年/イギリス/英語・スペイン語/カラー/シネマスコープ/1時間41分 日本語字幕:稲田嵯裕里
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mothermonika15 · 5 years
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2018年の収穫
・オフ・シアター リオ フクシマ2/Rio Fukushima 2 2018年/ブラジル/102分
・商業映画 30年後の同窓会/Last Flag Flying 2017年/アメリカ/125分 モリーズ・ゲーム/Molly's Game 2017年/アメリカ/140分 甘き人生/Fai bei sogni 2016年/イタリア/130分 アランフエスの麗しき日々/Les beaux jours d'Aranjuez 2016年/フランス・ドイツ・ポルトガル/97分 黙ってピアノを弾いてくれ/Shut Up and Play the Piano 2018年/ドイツ・イギリス/85分 さよなら、僕のマンハッタン/The Only Living Boy in New York 2017年/アメリカ/88分 ラッキー/Lucky 2017年/アメリカ/88分 ネイビーシールズ ナチスの金塊を奪還せよ!/Renegades 2017年/フランス・ドイツ/105分 ロスト・シティZ 失われた黄金都市/The Lost City of Z 2016年/アメリカ/141分 止められるか、俺たちを/Dare to Stop Us 2018年/日本/119分
・旧作(リバイバル) 暗殺のオペラ/Strategia del ragno 1970年/イタリア/99分 修羅雪姫/Lady Snowblood 1973年/日本/97分
・ワースト  素敵なダイナマイトスキャンダル/Dynamite Graffiti 2018年/日本/138分 アンダー・ザ・シルバーレイク/Under the Silver Lake 2018年/アメリカ/140分
・男優 ジョシュ・ブローリン(アベンジャーズ インフィニティ・ウォー/デッドプール2/オンリー・ザ・ブレイブ/ボーダーライン ソルジャーズ・デイ) ・女優 ルーニー・マーラ(ローズの秘密の頁(ページ)/A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー)
・脚本 テイラー・シェリダン(ウィンド・リバー/ボーダーライン ソルジャーズ・デイ) ・編集 クリス・キング/ポール・モナハン(エリック・クラプトン 12小節の人生) ・撮影 浦田秀穂(幻土)
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今年は不定期に体の調子を損なっていたこともあって、映画館で見た長編映画は80本にも満たない。 その中で130分前後の中途半端な長さの映画が近年の傾向だとしたら、かえってそこに違いも見えてきた。
知り合いの作品は批評的には触れられないが、シンガポール在の浦田秀穂が撮影した『幻土』(A Land Imagined/2018年/シンガポール・フランス・オランダ/95分)のルックには、どこにいくかわからない始まりのような不安定さの予感が(マイケル・マンの映画を彷彿とさせる)感じられた。批評ではなく印象として、今年この映画のイメージは強いものだった。
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映画批評では、ニュージーランドの研究者らの、ジェームズ・ボンドが過度のアルコール依存症との批評が興味深かった。 1962年からはじまった007シリーズ全てを見た上で、ボンドの血中アルコール濃度がピーク時で血液100ミリリットル中360ミリグラムとし、「一部の人間を死に追いやるのに十分な量」と予測。 飲酒後に格闘や車の高速運転など危険な行為を行っていることなどもあり、アルコール使用障害を診断する11項目のうち6項目に該当するという。 かつてのボンド俳優、ピアース・ブロスナンは、マーク・ウェブ監督の佳作『さよなら、僕のマンハッタン』(The Only Living Boy in New York/2017年/アメリカ/88分)で、成瀬の『山の音』の山村聰を彷彿とさせ、ヒーローからの離脱に成功していた。 こうした研究は、ヒーロー(偶像崇拝)をつくりだす無意識をも批評しているという点で、本作と双璧をなす現代性があった。
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D・A・ペネベイカーが記録しクリス・ヘジダスが編集した実際のシンポジウムの映像や、ノーマン・メイラーが監督した映画を批判的に解体した演劇『タウンホール事件』(ウースターグループ)は、映画人には作り得ない劇的なるものに思えた。この演劇が見事なのは、『性の囚人』を著したノーマン・メイラーを批判しつつ、フェミニスト側も男性に対して、逆の幻想をもっていることを暴いた点にあった。メイラーの理屈(生物学的な意味での女性というカテゴリ)は確かに女性を束縛していた、しかし、その理屈自体も実体的にはもう滅びたのだとの距離感から舞台化された。
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ヌーヴェル・ヴァーグの紅一点アニエス・ヴァルダによる、ナタリー・サロートやジャン=リュック・ゴダールを、幾つもの田舎を過りながら訪ねる『顔たち、ところどころ』(Visages Villages/2017年/フランス/89分)のラスト・シーンが忘れ難い。旧友のゴダールに会うためにスイスのロールを尋ねるヴァルダに、ゴダールは会うことはない。
コートダジュールの方へ
と私も見覚えがある入口のガラスに書き記したゴダールのメッセージを受けて、いつになく緊張していたヴァルダは泣き崩れる。そしてレマン湖畔に赴く。そこにはヴァルダが初期から見事に切り取ってみせる樹木も写っている。共同監督のJRと見つめる湖。湖水のざわめき、太古から伝わる潮汐、ぼろぼろの空、蒼白の激しさが2人を受け入れるかのように、今年見た忘れ得ぬ辛いラスト・シーン。2頭の馬が水辺で戯れるシーンをラスト“EDEN”にて撮影した『コートダジュールの方へ』の監督は、今の彼女にしか撮れない大いなる湖面を移し/写し/結末を、辛辣という恩寵を、受け入れる。 同じように60年代、70年代からの距離感は、ジョーン・バエズが歌う抑制の効いた(メアリー・チェイピン・カーペンターの)名曲“The Things That We Are Made Of”もまた、ウースターグループの演劇や、ヴァルダの湖面や若松孝二の助監督・吉積めぐみを描いた映画と遠く木霊していた。
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若松孝二監督とは私が二十歳くらいのときに、偶然ホテルのフロントですれ違って以来、デカい人、その印象しか残っていなかった。後にミュージシャンのジム・オルークと知り合いになったときだ、ジムさんから若松プロの映画の魅力を吹き込まれたのは。
シカゴから若松孝二の映画に音楽を入れたいが為に東京へ引っ越してきたこのミュージシャンが、なにゆえ? こんなにも貧しいZ級映画を愛しているのかと思ったのがきっかけで、改めて映画を見ると、40代で初めて見えたものが、その器の「デカさ」だった。 更に、撮影監督の辻智彦さんと知り合ったりしながら、連合赤軍事件を生々しく描いた労作『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』をロードショーで見てやっと若松孝二の現在に間に合った。 映画はメリエスたちによって19世紀に始まったときから、自主映画であり、個人のアイデアを実現するために技術は進み、欲しい映画(それが商業的であれ芸術的であれ)を具体化できることが映画づくりであることをそのまま伝えてくるのが、この白石和彌監督の若松プロ映画『止められるか、俺たちを』(2018年/日本/119分)だ。
解剖なんてまっぴらごめん
私の内側なんてわかるもんか
そのセリフの後に響く車のくぐもった音響…こうした場面ひとつとっても、細やかな編集がなされた本作は「演出の映画」だが、ときに吉積めぐみを演じる門脇麦と高間賢治役の新人男優(伊島空)とが、周到に図式化された演出意図を、飛び越えていく。 ふたりの初夜の場面、
ひとり寝の母のない子のように…
どうして僕と…
と歌う女と戸惑う男の子が、いずれ(かなり後の場面で)オートバイの上で写真を撮る、そのオートバイの上での門脇麦の演技がまぶしい。
お父さんに似ていたの
実感を伴った像といえばいいか。記憶の中に沈澱して埋もれた父が、立ち現れてくるかのように、どうして僕と…という戸惑いが、現実的に、高間くんと成って父がそこにいる、門脇麦の目に映る、そのままの父が高間くん。そうした像の出現が、この女優の凄さ。記憶の再現、シナリオの再演とも違った、新たに立ち現れてくる生々しい情景が結実したこの場面は、稀にしか起きない初々しさが写っている(伊島空の静かな佇まいもいい)。 この場面を見た現実の高間賢治さんは、おそらく、腹の底から泣いたと思えた、この映画の肝になる場面だった。
世界にむかって鉛筆をけづれ
と叱られる荒井晴彦
現実を美化できるから生きていけるんじゃないの
と荒井に断言する足立正生を演じる山本浩司も頼もしい (監督自ら演じる)三島由紀夫の市ヶ谷の事件がテレビ番組として映る
問題意識のない人に見せて揺さぶりをかける
と持論を語る大島渚を演じるのは安藤尋監督の『blue』にも出ていた高岡蒼佑
客に刃
を、と返す刀の若松孝二(井浦新)
時代と共に疾走した彼等を、その時代を直接知らない活きのいい俳優が演じることで、現在のそれぞれの孤立した個が抱える孤独が、後ろめたさじゃなく描かれてゆく。『素敵なダイナマイトスキャンダル』にはない、これがこの映画の集団性だろう。 死者(若松や吉澤や…)が一種の固定された点となって、今も生き続けている無数の人々の孤独がそこに吸収されるような感傷がまるでない。逆にこの明るさこそ、一度だけ見かけた若松孝二の印象に近いとも感じた。
恋のニトログリセリン
われわれは「あしたのジョー」である
よど号の赤軍爆破では革命はならない
と、オバケこと秋山道男(タモト清嵐)と吉澤めぐみとが路地を歩く場面が二度出てくるが、そうした孤立を、ありうべき諦念として描かず、横並びの群像として描いた屋上の場面のワンカットは、『きみの鳥はうたえる』の石橋静河のカラオケのワンカットみたく、長く垂れ流されることはない。そこに実在するもの同士、対等に、その場を満たすその屋上のダンスは、ひとりではなく、なにかと共にある。土方巽と同時代を生きた若松プロと共に。 バイクの激しい音にかきけされることなく、しかしバイクは過ぎて行く、それが時代だといわんばかりに。
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1970年代の性の解放が80年代のAIDS危機につながってゆく中、同性愛をめぐる政治状況は扱いかねた大作『ボヘミアン・ラプソディ』(Bohemian Rhapsody/2018年/アメリカ/135分)は、しかしバンドマンたちの友愛に囲まれた作品だ。ラストは誰もが泣いてしまうほどの感動作だった(といって映画として優れているわけではない) 。 この映画は、フレディ/神の手のアップからはじまり、マレーネ・デートリッヒのポスターが貼ってある部屋につづいていたように記憶する。既にスターと化した非日常と日常とが混在している導入部。 善き思い、善き言葉、善き行動、とゾロアスター教徒の父に言われ、CBSと400万ドルのサインを交わし、愛を反故にしかけるフレディの誘(迷走)。 ルーシー・ボイトン演じる元妻は、
怖がる必要はない あなたは愛されている
という。
そしてその愛とは、業界のサインや業績とは無縁の、バンド仲間の不満顔や苛立ちや反対意見だと描かれていてそこは好感がもてた。
夢の中でのあなた(フレディ)は父のように話しにくかった
とボイトンが言うとき、父性(ゾロアスター教の父も間接的に揶揄される)とは違った愛をフレディに求めていたことがわかる。 父の祈りとは、ゾロアスター教の聖なる形式かも知れないが、フレディが掴んだ愛はそのための余白ではなかった。 ボヘミアン、というタイトル曲の裏側に、移民の子フレディ・マーキュリーが居て、様々な変遷ののち、Queenからソロ活動への流れは伝記映画の定石でわかってはいたが、バンドという小宇宙の結束力は核分裂を繰り返し、各パートの分離が明確でタイトであるだけに(それは演奏場面の音の編集にも言える)、フレディ独りだけに観点を絞らない。タイトルを、曲の長さを、変えようとする社長に対して媚びずに、「ボヘミアン・ラプソディ」の6分を譲らない彼等が、ある意味罪のない人間(家族)として聖化されていた。 音楽伝記映画『バード』(Bird/1988年/アメリカ/161分)は、フラッシュバックのなかにフラッシュバックがあるかのような構造で、チャーリー・パーカーという謎を更に謎めいた像として定着した傑作だった。そこでは逆行する時間のなかで、人物と俳優とがどう自分自身を露にしていくかが見えたが、個人のスタイルが希薄な『ボヘミアン・ラプソディ』は、そこは曖昧化されていた。グループサウンズならぬ、グループシネマ(監督としてクレジットされているブライアン・シンガーは途中で降板させられている)の限界だろうか。あるいは、他人のお金を使い危険を冒したプロデューサー(グレアム・キング)の勝利だろうか。
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実はそれぞれが後生大事に価値と思い込んでいるもの、それは一場のお笑いなのだと、廃墟の青空のような冗談を描いたのは、それより遥かに低予算の小品『ア・ゴースト・ストーリー』(A Ghost Story/2017年/アメリカ/92分)。 このゴースト映画が変なのは、ゴーストが出てきてあれこれ生きている側に考えさせるというよりも、ゴーストが思い出すかのように、生きている人々の世界を覗きこむ苦しみが、時間経過(一軒家の劣化)を通じて視覚化されているからだ。 この一軒家では、過去と現在とが入れ替わり、混合し、ときに騒ぎ、そして静まる。 舞踏する家ともいうべき時空の混淆は、棲む人々の思いを露にし、この剥がされた家は時の鼓動のオバケだ。とりわけ、壁と壁(この枠もまたスタンダード・サイズだ)の隙間に射し込まれた紙片は、ゴーストを慰安し、自分自身をも発見させるが、時間の混淆自体はうまく行っていないのが、この映画の欠点だ。 ラスト、ゴーストである責務から解放されたCは、この紙片によって自分自身で在り続けられる。その紙片はMによってCが書いた歌詞の一節の引用と、最後に一言おそらくは…
明日 夜明けに発つの
と書かれているだろうか。
CとMに共通のなにかがあった、と思わせてくれる別れ(出で立ち)の瞬間。ふたりがもっている悲しさとか苦しさとか辛さとかが似ていて、そこは死人と生きている側とに隔たりはなく、見えないことが見えることであり、その対等さが壁と壁の隙間によってよくわかる。これは、若いカップルの始まりと別れ、そして気づかぬ再会の物語であり、ゴーストとは敢えて言えば一回、一回の小さな死によって生まれる現象。その終わりから立ち上がっていく別な生の可能性、何度も何度も死んで、何度も立ち上がるイメージ、すなわち復活の時でもあるだろう。とりわけルーニー・マーラに注がれるイメージ、パイを地べたに座り独りで食べて、唐突に立ち上がりトイレに駆け込む長廻しと、彼女がヘッドフォンで音楽を聴く場面の編集と長さは、マーラの美しさ=高さを際立たせて、映画を上昇させている。
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また、チリー・ゴンザレスやエリック・クラプトンのドキュメンタリー映画も、度々家の外観が映し出される。ドローンによる、よく見かける映像ではあるが、今と、かつてとを結びつける蝶番としての「幽霊屋敷」を映し出す。
どちらの音楽ドキュメンタリーも、音を鳴らさない瞬間が何処かで訪れ、それが捉えられいる。 ゴンザレスの音楽は知らなかったが、この『黙ってピアノを弾いてくれ』(Shut Up and Play the Piano/2018年/ドイツ・イギリス/85分)を見て、若きゴンザレスが一見パンク的生活を送りながら、突如、古典的な西欧音楽に開眼する前の、ピアノの鍵盤の沈黙に居合わせるのは魅力的だ。 音楽家にとって、音を鳴らさないということは、自分のなかに存在する一般性の否定なのだから。 一方『エリック・クラプトン 12小節の人生』(Eric Clapton: Life in 12 Bars/2017年/イギリス/135分)は、正直過ぎる生き様を貫き、ギターを手にできない事件に度々見舞われる。『ボヘミアン・ラプソディ』のフレディには見られない、罪深い男がここにいる。
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つかみどころのない領域で創造する勇敢な人たちには、こんなにも目をみはる瞬間が訪れる。 ある時は政界に打って出る愚か者に成り切って、共同体から絶えずはみ出して行くゴンザレスや、親友の妻を愛し続けるクラプトンのその愚かな姿は、創造に対する私自身の関わり方について自らへ問いかけるようにもさせてくれる。結局、クラプトンを救ったのは何人もの女性たちで、本人が言うほど音楽だけが救いではないだろうと思わせるつくりが正直だ。 ゴンザレスはD・ボウイやプリンスが好きらしいが(スティングは嫌い)それでも、実験的な試みと、他方クラシックだけでなくポップやジャズに近いところで作られる音楽との、狭間の何処かに留まるのを好んでいるように見えるし、クラプトンはブラック・ミュージックを崇拝してやまない。 ゴンザレスの映画の後半、弦楽四重奏は、結局、少なくとも部分的には物理学と数学の用語で説明可能な、普遍的ハーモニー感に由来するものだと感じられた。それは、彼が作曲した弦楽四重奏曲“Advantage Points”に非常に驚くべき独自な在り方で、絶対���なハーモニー感をもたせていて、私が以前撮影したある曲を思い出させた。
さかのぼること9年前…2010年1月14日、7台のデジタル・キャメラと5人のプロフェッショナルなキャメラマン(浦田秀穂ら)やスタッフにより、私たちは「そして音はガリーグをめぐる」のライブ撮影を行った。この曲もまた、この日の演奏は4人の弦楽(ギター)にピアノで、ゴンザレスのその曲と同じ編成だった。 当時、私たちはおよそ1ヶ月間の譜読みと並行して、フランスでリリースされたそのCDを聴きながら、キャメラ・ポジションやカット割を準備し、綿密なキャメラ・リハーサルを経て撮影に挑んだ。
ゴンザレスの“Advantage Points”と同編成で演奏された「そして音はガリーグをめぐる」の、幾つものトラックに分かれたサウンドの編集は困難をきわめた。 困難さゆえに、着実な作業も難しく、負債や資金の空白やらの問題が行く手の地平線から手招きし、編集作業を中断しなければならないことも多々あった。 この期間、私のやっていることは、人目をひくことはなかったろう。自主製作、少なくとも編集期間を自費で継続することは、他人目には何のことかわからずクレイジーにしか思えない言葉や音や映像を、きりもなくいじっている時期の方が、実は長い、しばらくすると、自分が何をやっているのか他の人にはわからなくなる。それどころかおそらく、何をする人間なのかもわかってもらえなくなる。 ガリークの映像編集は、240箇所に及ぶ修正とサウンド・ミックスのために、やればやるほど終わらないこの作業は、タペストリーのような作品のなかへと私は織りこまれていった…おかげで映像をじっくり吟味することができ、そのために リュック・フェラーリの音楽の全体像を自然にイメージすることもできた。 又、音楽には、ハーモニーと調音の中に性愛(エローティカ)を掻き立てる導火線的な現象が起こりえるのだと、繰り返し編集��ることで気がついた。
以前読んだピエール・シェフェールのインタビューで、シェフェールは新しい音楽を作り損ねたと自ら主張するかのようにして、己を未熟者だと考えていた。 フェラーリはシェフェールの嘆きを越えて、音響の純粋な抽象性と、音楽上の意義それ自体との、狭間の何処かへと進んで行くことができたのだ。9年間かけて繋いだ映像を聴きつつ、私はそのように考え続けた。
一方、『黙ってピアノを弾いてくれ』のゴンザレスは…音楽家としてだけではなく、ゴンザレスというウザい人間の具体性と音の抽象性を、静かに洗練されたこの映画は捉えることができている。
フェラーリとゴンザレスは年齢も活躍した時代も似ても似つかないが、世界を制度として保証し、組織づけようとしている秩序への疑いと挑発とを共有する。そして「今」を祝福するその感性…現在という瞬間を受け容れられる感性についての巨匠、という点において他人の空似ではない。 映画作家では、とりわけ若松孝二がそうであったのと同じように。
2018年12月21日
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mothermonika15 · 6 years
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a long time ago,in a galaxy far,far away… アレン・ギンズバーグが絶賛した言葉のリズムで書かれたこのインタータイトルは ジョージ・ルーカスによって記された革命的な表明だった 神話を持ち得なかった国 アメリカで 神話作用可能なものがあるとしたら唯一「スター・ウォーズ・サーガ(S.W.S)」ではないか しかもそれは広大な宇宙を舞台にしているにも関わらず 古代エジプトがモデルとなって ローマ的な筈のプロダクション・デザインがエジプト化し ハリウッドが考え出した神話的なイメージの根源に力を与えたのは1970年代 帝国軍の艦船インペリアル・スター・デストロイヤーもまさにピラミッド型だし それが宇宙を飛んでいる トマス・ジェファーソンが あくまでヨーロッパ文化を植民地化したにすぎないのに対してS.W.Sは ヴェトナム戦争での失意を踏まえたアメリカの神話作用を創出することに成功したと一先ずは言える
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スピン・オフでありながら 『帝国の逆襲』に匹敵する仕上がりの『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』(Solo:A Star Wars Story/2018年/アメリカ/135分)は 制作途上で監督の降板があった 神話的な映画であるがゆえの交代劇は 全てがマフィア染みていたに違いない 降板したフィル・ロードとクリストファー・ミラー監督は 傷つき 怒りに震えていたことだろう 間髪いれずに代理監督に選ばれたロン・ハワードは どの段階であれ 何よりもまず答えの不在を受け入れなければならなかった筈だ 同様に答えの潜在的な可能性を排除するものでもない代理監督は 俳優をそのまま続投させ いい悪いは別にして 定かならぬ仮面を被りつつ 単に聡明で豊かな演出力を駆使するだけでは務まらない調整役をも司る怪物と化したことだろう そして 一切の「なぜ どうして」を口籠らせるに足る揺るぎない自負の焔がなければ出来ない仕業が フォースも ライトセーバーも出てこない この『ハン・ソロ』なのだ メリエスからはじまる見世物としての映画とは それを目の当たりにした者の視線を画面に魅きつけることで 優れて背後の固有名を隠蔽する装置でもあるならば 本作はまさに それに徹した快作と呼び得る この映画のテーマは インクルーシビティ(包容すること)だ デッドプールはヒーローの落ちこぼれで 障害もあって ドン底な失敗や大事なものを失う辛さを知っているからこそ アウトサイダーたちを鷹揚に包みこんでいくことができる 劇中のキャラクターだけじゃなく 観客に話しかけ続けることで 観客をも仲間にしていく デッドプールは 地球を救うみたいな大きな正義を振りかざさない 世間から見捨てられたひとりの子どもを助けようとするだけだ とライアン・レイノルズは自作自演の『デッドプール2』(Deadpool 2/2018年/アメリカ/120分)に就いて言うが この定義は (ハン)ソロ つまり 極めつけの孤児にもあてはまる 愛情を強く欲していると同時に とても利己的でもある孤児性こそハン・ソロだと ハリソン・フォードが指摘するように それはそのまま黒澤明の映画のある登場人物に似て(例えば『七人の侍』で三船敏郎が演じた出自の曖昧さに似て) 何もない状態から生きながら常に探し求めている若者の姿なのだ 
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D・D=ルイスが 自分の楽しみのためだけに 髭を剃る場面から始まる『ファントム・スレッド』(Phantom Thread/2017年/アメリカ/130分)は まるで一昔まえの映画のように大袈裟だ そして この映画の唯一の救いは ヒロインを演じた下手な女優(ヴィッキー・クリープス)だが このバランスを欠いたキャスティングゆえに本作は 誰一人足を踏み入れたことのない森の奥にひっそりと咲いている見事な花が 愛だけのために実を結びたいと思うような願望に充ちて行く この映画のヒロインと主人公レイノルズがめぐりあったとき ふたりは 相手のことをじっと見つめ 自分のことを美しいと感じるまなざしに気づく根比べをする そして 映画もまた名優ではなく 演技力においては劣る女優の美の勝利を追い求めて行く 見事なショットがある 毒キノコを煎じて飲まされたD・D=ルイス=レイノルズが 最も高貴な女性のためにつくったドレスを倒してしまい寝室に運ばれる 一方別室ではそれを繕い直して行く女性たちを指示する姉(レスリー・マンビルが好演)とヒロインの動きを360度捉え 別室に移動した姉の声が間近で聞こえ そこにヒロインが姉の声に導かれるようにして 私になにができるかと姉に問い そしてウェディング・ドレスに針を刺すまでを捉えたワン・ショットだ アルトマンの教えに導かれた音響の遠近の混在からポール・トーマス・アンダーソン(PTA)は 無名の まるで農民のような野卑さをもったヒロインの女性の姿にキャメラを引寄せて行く 奥には実際の御針子らしい老女が立ち 手前に女優を配したショットは 御針子の半身の動作と 女優の手元から顔への動きをパンニングしながら 「呪いがかからないように」と この女優に呪文をかけて行くようにもみえる もしこのショットが『万引き家族』の一連の室内のようにカットを割り視点を分割するのではもの足りず このように視線を誘導するのでなければ このヒロインへの生々しい執着は写らなかったように思う 自ら仕掛けた毒で倒れたレイノルズを寝室で看病したヒロインが 同じ表情で レイノルズが端正込めたドレスに自ら針を刺すまでを 古典的なまでのキャメラ・ワークを駆使して虜り込む 冬至や夏至を中心に生活し 薬草などにも通じたケルト人は 後に魔女のイメージに変色された この映画のレイノルズを見ていたら 土方巽の「命がけで突っ立っている死体」を思わずにはいられない レイノルズの母のファントムが出てくるまでドレスを縫ったようには見えないのがこの映画の最大の弱点だが(D・D=ルイスの演技も幾つかの場面で紋切り型に見える) 先祖から脈々と続く命に支えられた力がレイノルズに死装を施すとしたら 母親のお腹の中で生きている無限の力にあのヒロインが禽り憑かないわけがない レイノルズがドレスという形をつくるのは 地上の事物が何物もこの形で存在しないことを無意識に知っているからだろう ドレスの襞もまた常識的な表面だとしたら 襞に織り込まれた呪文を取り出す女は 一瞬ごとに新しい茸の体液の流れのなかにある
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 同じように主役の一人が病におかされる佳作『ビック・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』(The Big Sick/2017年/アメリカ/120分)で 主人公ふたりが ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・リビングデッド』を部屋で観賞する場面が短く挿入される パキスタン人でスタンダップ・コメディアンを目指す主人公が 病に臥せるヒロインの父���に 9.11をどう思うかと聞かれて 「悲報です 同朋19人が亡くなった」とギャグを真顔で言う場面に解釈され 誤解された真理と真理の間に省略され 隠蔽され 切り捨てられたものたちの「リビングデッド」は笑うに笑えない語りとなる コメディアンが 日常飼い慣らされた世界を転倒させるだけならば未だしも 本作は パキスタン人がつくったアメリカ映画として忘れ難い エリア・カザンの姪のゾーイ・カザンが「糞がしたい!」と叫ぶ場面が 病める舞姫と化してささやきに変わるあたりの流れは 脇役陣の好演と合わせて特筆に価する どの場面もフレームの端に 誰かやなにかの影を配し 構図より空間の印象が重視された主体とそれら影とは等価だと謂わんが如く 舞台上で演じる場面における 舞台袖斜め後方に添えられた固定ショットは 彼ら名もなきコメディアンたちを客体視する キャメラのベスト・ポジションだ 男女があらゆるレベルで対等でありながら 一方が他方のジェンダーを理解しようとする段になるとそこに広大な不可知の領域が広がる関係性を それぞれの親の世代の民族や習俗の違いを鏡(境)に反射する とくに母親の愛が強いあたりは 民族を越えた戦禍を母性愛は宿し とりわけ主人公クメイルの行く末を決めて行くのも この母性愛からの逸脱であるあたり この映画に民族や宗教の「ベルリンの壁」は最早ない
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 02年頃を舞台にしている『レディ・バード』(Lady Bird/2017年/アメリカ/94分)は 9.11とリーマンショックの間 つまり本格的な不況前の設定のようだが それでも景気が決して良くない状況下なのだろう トランプ政権誕生に一役買ったといわれるホワイト・トラッシュ(白人貧困層)を想起させるその地方都市でレディ・バードが母親に内緒で州外の大学入試を受け その合格通知をうけた弟が「何をたくらんでも失敗だぞ」という場面が予告にもあったが それは報復への警鐘にも聞こえたのは短絡だろうか
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『さらば冬のかもめ』を心理的に深めたら『30年後の同窓会』(Last Flag Flying/2017年/アメリカ/125分)になるのか この二作は必ずしも続編的ではない サダム・フセイン拘束の瞬間がテレビに映し出され それを見た主人公たちが「昨日は大統領だった人間が地下に隠れて恐怖に怯えるなんて」といい フセインの2人の息子の死体がテレビに映し出されると ブッシュの勝利宣言を見ながら「ブッシュにも双子の娘がいた筈だ 同じ目にあったらどう思うだろうか」と カウンターで呑みながら話す退役軍人たち そ���は 敗者の映像を見せることでもあ��つつ 自分の子どもが死んでしまったことに対する恐れにも聞こえる 子どもがもう帰ってこないことに対する恐怖と失望とがつねに存在することを見せつけてくる映画だ
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反骨の人ジム・シェリダンの『ローズの秘密の頁(ページ)』(The Secret Scripture/2016年/アイルランド/108分)は 逆に 子どもは帰ってくる 子どもは何処かに生きていると40年間信じて疑わない女性のドラマだった 老いたヒロインを演じるヴァネッサ・レッドグレイヴは まるで自分自身の時代を求めていないかのような 現在ではなく 遠過去と未来とを生きている 若き時代のヒロインを演じるルーニ・マーラが愛する男性を引き留める玄関での場面からの一連の演出が流石だが この一瞬に子どもを孕んだろうヒロインには同時に 終わりのない 一種の永遠が共存している わたしはやがてその村を出て 遠くを彷徨いながら生きた どこに行っても春先には不意に 喇叭水仙に会った けれど本当の喇叭水仙の咲く場所はわたしだけが知っていた 中本道代「喇叭水仙」 
一方では運動し(ルーニ・マーラ) 他方では不動で(ヴァネッサ・レッドグレイヴ) 時間のなかで展開しながら 永遠に引き延ばされている というふうに ローズの過去はラテン=キリスト教の「倫理」によって改良され ときには反対に実際よりも過酷なものになる彼女の記憶とは リアリティーの耐え難さをも克服させる 本作の見事さは ローズの侵犯行為について うまく切り抜け 折り合いをつけ 彼女の行為が気狂いではないと明かすところにある 『スリー・ビルボード』の手紙(遺言状)の目を覆いたくなる下手な処理にではなく 中本道代の傑作『接吻』に遥かに近いこの手紙の場所を 「わたしだけが知っていた」とローズならば言うだろう この映画の時間の厚みとは別にリンクレーターは 『さらば冬のかもめ』のときにはまだ子どもが居なかったヴェトナム戦争世代の3人の男たちの誰かに子どもが生まれることで「死ぬ」という その孤独の基準値が変わったことを描き得たところだろう 子どもが「死ぬ」こと 親より先に子どもが犬死にしたことの恐怖が 映画を現在進行形の生の行動基準に変えてゆく それは親ならばわかる変化だ 子どもの誕生とは 死ぬことに対する変化をもたらす そして 子どもの死と埋葬とは 国家という家族の形式をも露にして行く ブッシュやフセインという当時の大統領や子どもたちが映しだされるのは それゆえだ アイルランドのシェリダンよりも アメリカのリンクレーターが俄然ジョン・フォード的なのは 神父になったローレンス・フィッシュバーンとその奥さん そして旧友たちとの再会の場面で さんざん苔にされるフィッシュバーンの描き方だ 一見 なんでもない場面だが ここに内在する変化と豪快な笑いにはフォードの遺構が濃厚で堪らない PTAやウェス・アンダーソンといった監督たちは 何度も繰り返し「憧れの喪失」をモチーフにしてきた 単に家族内のというだけではなく 指針を見失った20世紀アメリカ像と重ねて家族を描いてきた どこか苦く切ないものだったPTAのアメリカ像は イギリス的な湿度の中で大時代的なフォームを身につけて大団円に至り ウェス・アンダーソンは『ファンタスティック Mr.FOX』を頂点に 「喪失」後の近未来までを生き活きと描き出した人形劇を日米合作としてものにした(実際はアメリカ映画なのだが) ではリンクレーターのアメリカ像はどうか それは 苦くもなければ再生もしていない 不完全で面倒くさい退役軍人の中佐たちをそのまま愛したように(現役の大佐に楯突く元中佐という設定がいい) リンクレーターは 不完全で面倒くさい20世紀という時代は「いやまだだよ」(ノット・イエット)と呆れつつも受け入れているように見える 『アートライフ』で娘とお絵描きをしていたデヴッド・リンチ監督が先頃 トランプ大統領に宛てた公開書簡をここに当ててもいい あなたがこれまでと同じことを続けるかぎり 偉大な大統領として歴史に名前を残す可能性はあいにくありません これはおそらくあなたにとってたいへん悲しいことでしょうし 国にとっても同様です あなたは苦しみと分裂を引き起こしています 我々の船の軌道修正をするのにまだ遅すぎることはありません 明るい未来に向けて あなたはこの国を団結させることができます そうすれば あなたの魂も満たされるでしょう 偉大で愛情のある指導者のもとでは 敗者は存在しません 誰もが勝者となるのです このことをあなたが考え 心に刻むことを望みます あなたがすべきことは 自分がそうされたいと思うように 他人に接することなのです この最後の一文 あなたがすべきことは 自分がそうされたいと思うように 他人に接することなのです とは 加害の中に被害が移動しうる場所を示しつつ加害の側には影がないことをも暗示して諦めてもいる 『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』が『バット・チューニング』の精神的続編であるようには行かないところに 『ビック・シック』や『30年後の同窓会』や『レディ・バード』の映し出す現代があり 国家の思惑とは違った選択を繰り広げるその細部は 合衆国中心主義をシロアリとなって内側から空洞化している 
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アメリカは東海岸も西海岸も 人口が密集している大都市ほど孤独感が強い印象があるが 『ラッキー』(Lucky/2017年/アメリカ/88分)は 砂漠に近いアメリカ南西部の何処か きわめて人口密度の低い州の田舎町が舞台なので 寂寥感はほとんどなく 孤独ではない「一人暮らしの老いぼれ」が不器用なタッチで描かれていた アメリカのホーム・ドラマには ときに探るような目付きで他人を見たかと思うと 次の瞬間 一個の物体と化しているような表情が映る ラッキー周辺の(俳優たちは)皆 TVドラマでお目にかかる表情ではなく この映画は表情よりも顔の優位と共にあることで潔癖だ どこまでも続くような山並み 果てしなく広がる空 ラッキーをじかに取り巻く現実のみが支配する(「現実主義」がモチーフとして散りばめられているから彼はアナーキストだろう)設定なのだが 人間から見たら鈍い陸亀のように二百年間いまと変わらずサボテンの周りにほとんど人がいない なのに この「亀の島」には孤独はない テクノロジーや権利という近代社会の分断線とは 都市の途方もない孤独のせいかもしれないと逆に思えてくる 例えば親権とか 禁煙 著作権 その考えはラッキーには馴染まない 空や土地の暖かさを売ったり買ったりできるのか 新鮮な空気 水の輝きを人間は所有してはいないのだから とラッキーは言う ラッキーは一個の物体ではなく 前よりもいっそう他人の関心を引き付ける存在となっていることに映画を見終えて気がつく 周囲の人をも変えてしまうラッキーを目のあたりにした人は 少なからず心を動かされ それがまたほかの人にも伝わって行く過程がこの映画の運動だ 映画監督のデヴッド・リンチが俳優として出てきて 亀に遺産相続をさせたとラッキーに話すリンチが北野武だとすると ラッキーは大杉漣だろうか 彼らは映画というキツい酒を飲み過ぎた 帰ってきたヨッパライに違いないが 社会変革とは本来これと同じやり方で成し遂げられてきた とラッキーの態度を見てわかる 大衆は国家計画とか組織の中に位置付けられ 大抵はその組織の中で暮らし ラッキーの行動をまともに受けとることすら忘れてしまう つながりを断ち切ろうとする経済という名のまやかしに紛れて 古き時代の覇気を取り戻すかのようなラッキーの体操や歌は 実際 沖縄戦を戦ったハリー・ディーン・スタントン自体の習慣だったかもしれない 彼はいつも彼自身を演じていたように思うが 90歳の彼は「自分であること以外のものを必要としない人間」であり 「社会から見捨てられた人間」でもあったが それは欲しがることをやめた 代償を払う人のことでもある 戦争…愚かなことをしたものだとラッキーは元海軍の退役軍人(トム・スケリット)とダイナーで語り合う 人間は誰もが砂漠だと 犬よりも愛情に於いて劣ると 映画の中でラッキーが言う一人暮らしと寂しさとは違うとの論理は 確かハリー・ディーンが座右の銘としていたインディアンの酋長の言葉通りだ 一人でいて 死について考えることがある 死に対する恐れを克服することができるだろうかと 恐れすぎると 現実に死ぬ以前に 死んでいるのと同じ状態になるだろう 死を恐れないようなところまで行きつくことができるかどうか このことが一番大きな問題じゃないかと思う 
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劇場未公開だが ダーレン・アロノフスキーの野心作『マザー!』(Mother!/2017年/アメリカ/121分)をマーティン・スコセッシは 果たしてこの映画を説明する必要があるのか? 観て体験するだけではだめなのか? この映画はとても触覚的で とても美しく演出され 演じられている 主観のカメラとその対角を映す2台のカメラが常に動きまわり……観客を悪夢へ突き落し続けるようなサウンド・デザイン……進むにつれ徐々に不気味さを増していくストーリー と評する その2台の視点に挟まれ続けるジェニファー・ローレンスは まるでロッセリーニの映画に出演したイングリッド・バーグマンの如く逃げ場のない空間に追い込まれ続ける 詩人の妻であり 文字通り幼児を宿すマザーたるローレンスの住む不思議な形の家は まるで墓や塚の上に設けたと言われても不思議ではない 『シャイニング』のホテルではないが そこは地霊や地に還った祖先の魂をよびだし 身につけると錯覚するための舞台装置なのだ 死者の声を呼び覚ますとは 自らが出生してきた大地の胎内の叫び声であり 燃え尽きて灰と化した塵がマザーの囁きだとしたら 本作は緩慢な自殺を描いた稀な映画だとも言える 暴徒化した民衆がアメリカナイズされたキリストを旗印に荒れ狂う後半 真実を言ったのは詩人ではなく その妻だった そして妻は自爆し 暴徒は演説に酔い 指示に従う 詩人の妻は舌が切られ 子どもを生け贄にされ 黙らせられるが 夫である詩人が暴徒を止揚するのではない 増殖するカルトの没理性に貢献さえしているように見えるハビエル・バルデム演じる詩人とは 何なのだろうか 実は詩人は それを沈黙と共に静観して すべてを記しているように 私には見えるのだった 彼が心臓からとり出し大事にしていた 赤い宝石 赤い花の中心から蕊が出て 花粉にまみれて 濡れてさえいて そんな一番やさしいものが 太古の野原に咲き出していた 中本道代「接吻」 その作家像を 更に徹底的に自虐的に砕いた映画が フォルカー・シュレンドルフの『男と女、モントーク岬で』(Return to Montauk/2017年/ドイツ・フランス・アイルランド合作/106分)だろう 
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映画の集中で主人公の小説家マックスはDJと記者とに二度同じ解答をする DJ:以前のあなたは体制に批判的で反体制的でしたが 最近の言動は肯定的に感じられます マックス:私は「木」ではない DJ:どういう意味でしょうか? マックス:私は動物のように柔軟に移動する と まるでアリストテレスの『政治学』の一節の如く応えるマックス 小説家のマックスは 近代的な社会の中では 敗北の傷を抱えた人間といえるだろう 一方 かつての恋人レベッカは 東ベルリンからイェール大学を卒業してマンハッタンに弁護士事務所を構える高学歴で 既に社会的な地位によって権威づけを得た人間として描かれている 登場する場面を見れば近代化一般の勝利を象徴する女性像としてレベッカが定着されているのがわかる 弁護士という 権力の愛 権力への愛の問いも既に書き込まれている脚本が先ず鋭い マックスの敗北が 自己責任の論理にしたがって徐々に思弁され それを小説の題材にもしてきたが レベッカは すでに一定の競争関係のなかで個人としての地位を得ている「アメリカン」だと言える 西欧は ピノキオやハムレットやドン・キホーテのように 権力を自虐的に嘲笑う文学的な伝統があるというマックス マックス・フリッシュの短編を原案として練られたこの映画的な脚色は S.W.S同様 一市民でもあるマックスの敗北が 同時にレベッカという「帝国の喪失」にも見えてくる枠物語にある 帝国を喪った動物性 つまり 76年のヴェトナムからの撤退以降の産物としてS.W.Sは誕生し それを掠めて育ったマックス(なぜなら彼がボブ・ディランの『武道館』を熱心に聴いていた痕跡が示される)は 過去を自己憐憫の肥やしにして物語を紡いできたのだから マックスが集合的な敗北と個人の敗北を接合するとき 恋愛と小説のアレゴリカルな対応を尽くすが この映画は映画的なコードに従って その男の空想を いとも無関心(簡単)にレベッカが暴く 多くの動物的な書き手(男性!)たちが 空想を介して つまり夢の物理を通じて 夢に準拠した共感の物語をかたちづくり 個人と集団との融合合一を語りたがるのに比して レベッカは 『ヒロシマ・モナムール』のエマニュエル・リヴァの如く それを拒否 または極に位置する この瞬間のレベッカは マックスのような「追体験」をも拒否する そして彼女はマックス以上にある意味敗残者でありながら 日常を生きる女として 性を求め 家庭(あるロック・バンドに模した名前の猫三匹)も大事にしている レベッカを演じるニーナ・ホスが完璧で 主役のステラン・スカルスガルドに一歩もひけをとらない マックスをめぐる女性たちの点描もどこまでも映画的で 全ての場面に理解を促すような演出や編集が施されている とりわけモントーク岬の砂浜でマーラーを流しながら轍に車輪が填まるあたりからの流れ(演出)には現場でのコード進行すべて写っている ここには『ファントム・スレッド』にあった不均衡なものの魅惑が微塵もない 幽霊はいる 幽霊はいない とブルーインクでノートに書くマックスに対して 今の恋人クララに「モントーク岬で幽霊と会っていた」と弁解し クララは「幽霊とヤッたの?」と囁き 「幽霊とはヤレないわ」とマックスを抱き取る眼差しまでいい これこそ幽霊たちによって歌われる歌であり その歌はあくまで生命の謳歌であって死のそれでは決してない マックスは「傷つけたくない男」なのだから レベッカもクララも そこが好きなのだから 高齢のシュレンドルフが 自画像を描いたとしか思えず 17年前の2人の思い出の岬で 不倫愛(いまの彼女クララとも別れると言ってレベッカに復縁を迫るあたり)と 過去の未練が粉々になる瞬間のスカルスガルドの顔 夢想が砕け散る瞬間の男の健気な弱さを撮り得ただけでも本作は報われているのに 「東ベルリンから来た女」ことニーナ・ホスに返すショットの尽くが 既に死んでしまった愛を証明して悼むしかない シュレンドルフが佳作『ボイジャー』を超えて 遂に 自分自身の夢と融け合った作家像に迫ったとしか思えない そこかしこを彷徨するマックスの足音の木霊を背後に残しながら 映画は次第に消えていく マックスに学費を与えていたという謎の富豪ウォルターは クレーもカンディンスキーも所有している それらの絵を 私のものだから太陽光で消えればいいとすらいう それに対してクララは 芸術は私たちのものだから消えてはいけないと反論すると富豪に きみはウォール街を占拠すればいい と言われて この平行線は終わるが この映画もまた平行線を揺れながら 実は消えて行けばいいとも言っているのではないかと感じてしまうあたりが あまりに自虐的なのだ 
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  上半期この脚色作品と並ぶ印象的な作品は 岡村淳監督の『リオ フクシマ2』(2018年/102分)だろう 2012年6月にリオ・デ・ジャネイロで開催された国連主��の環境サミット「Rio+20」と並行して開催された「ピープルズ・サミッ��」で 東日本大震災での原発事故を訴える市民団体の代表・坂田さんを主に追い掛け「従軍日記」の如く一部始終を記録する岡村淳のキャメラは マスコミが撮り逃す場面を尽く記録するのは当然として この映画が付かず離れずの接着力をもつのは 坂田に同行しながら逸脱する水平化した岡村の視点が 狂騒する祭りと 祭りのあとの静けさとを捉えて離さない点にあるだろう 震災すら すでに祭りのあとのように感じられる2018年に最終的にまとめられ発表された本作で 岡村の手持ちキャメラが同化するのは 民衆は横(水平)でつながれるという可能性であり その都度瞬時に巡りあう被写体に キャメラが無造作に介在するときに起こるちょっとした出来事が そこに岡村のキャメラがなければ起こり得なかったかもしれない出来事として在る点が奇跡的なのだ 土の中でつながればいい とはバンダナ・シバの発言だが この高名な環境活動家に突撃インタビューする日本側のキャメラマンに対して 岡村はフレーム・アウトした位置にしか入らないようにとの指示がくだり あまりいい位置には入れないまま撮影を続行する しかも結果 日本側の公式キャメラマンの映像素材がミスで使えないことがわかり 岡村の不本意なキャメラ位置の素材が使われたりと 古本業をしながら反原発運動を行い 大飯原発のフェンスに体を鎖で巻き付けるほどの活動家・坂田との微妙なポジションの違いが この映画をかえって生き活きとした「従軍日記」にしている そう 映画の現場とは 戦略拠点ともいうべきポジション争いでもあるのだから リオの高校生が映画の中で 電気も足りているのに なぜつくるの 原発 と素直に言う 日本のアニメの主題歌が好きな女子高生が突然 反原発的な正確な視点を示され驚かされるこの場面は 1992年にセバン鈴木が言ったことの口移しだと 上映後のトークで岡村は明かしていたが 大人が無感覚になるとはまさに 過剰な電気供給 必要以上の文化現象 そして震災がもたらした感傷による共同体とは違う リオの生き活きとした高校生の命の耀きから発するこの声であり 日本には希薄なこの声色は 近代国家の行き着く果てなのか われわれは 反省はあっても 総括のないまま 日々を過ごしている証左を突きつけてくる 日本の行政の反省はなく 途上国に原発は効率的でいいものと思い込ませ 庶民のなかにも原発をもちたいと思わせる深層心理を植えつける先進国の思惑とは ありとあらゆるものを自分たちの「倫理」で包装し 力ずくでわからせてやると 脅しつけるようなものだ この環境サミットに欠席した当時の総理大臣・野田佳彦が東日本大震災終息宣言をしたのは同じく2012年末だった それは縄張り宣言であり 先の岡村のキャメラ・ポジションを制限するような物言いにそれは近く そしてそれは行政におけるフクシマの封土宣言とも言えるだろう 環境サミット自体が既に資本主義化され 社会的な弱者はそこからは閉め出されているのだとしたら この「ピープルズ・サミット」に関わること自体 忠誠関係が入れ子になっていて さまざまな特権が上から下までびっしりと組み合わされているのだ 多国籍企業がそれを食い物にすらしているサミット周辺での坂田たちの声が 同語反復に陥り ときに相手を利するとしたら その為だろう 人類には体験した苦難を長く記憶する力がない 将来の苦難を予想する力はもっと少ない 我々はこの鈍感さを克服すべきである とブレヒトが言う通りなのだ 岡村のキャメラは 坂田たちに寄り添いつつ 吟遊詩人の如く逸脱し(実際 吟遊詩人の出てくる素晴らしい場面がある) 最後は高尾山の環境保護にも携わる坂田たちを 国立の自然公園に案内する ここに岡村の人となりがほとんど出ていると言ってもいい穏やかなエンディングだ ドキュメンタリー的な労働が放棄され無視された映画は いきなり祭礼になり祈りを忘れてしまうが 岡村は旅の終わりに坂田たちをミサに誘うかのようなのだ 山の呼吸を止めてはいけない 水の循環を止めてはいけない と 雨と大地の恋愛を語る坂田も 森の中のミサに誘う岡村も このときばかりは全てに報いられている 雨はジャングルと村を涼しく保っている 森と人間の双方にとっての本当の滋養は 雲から降り 空気中に留まり 滝から落ち 川へと流れ込み 澄んだ深みに注ぎ 渓流や小川を満たし 村や町を通り抜ける雨水なのだ そしてこの映画もまた 水と土の循環そのもののように 自然な映像の流れを刻刻と記録し 編集してきた岡村のマスター・ピースとして 語り継がれるだろう この日の上映は 高槻市民交流センターの一室で行われた たまい企画という人たちが おそらく手弁当で素敵なチラシをつくり 関係者を含めて15人程度の観客が この幸運に立ち会った 水戸喜世子さんが特別ゲストに招かれ 彼女の一言一句にも胸がつまった 
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     最後に 『ハン・ソロ』がたどり着けなかった地平に 俳優と役柄の一対一の関係における自由度が最も高い空間にイーサン・ハントというキャラクターは生まれ ジョン・フォードの傑作『捜索者』から取られ 西部劇史上 最も陰影のある男だが このイーサンを受け継ぐトム・クルーズのイーサンを 夏が来る度に見ているような気がする 今回は結婚式の場面から始まる『ミッション:インポッシブル フォール・アウト』(Mission: Impossible - Fallout/2018年/アメリカ/147分) は結婚式の宣誓 偽りの宣誓から それが彼の人生をどう染め ぶらし しかし同時に金太郎飴のように同じ顔しか出てこないイーサン・ハントは 意味(イデオロギー)には回収しえない意識=言葉=身体としてトム・クルーズその人がそこに存在しているからこそ あたかも話す人とそれについて話されるものとの関係しかない身体性を獲得している これはほとんど キルケゴールが「イエス」という他者を導入したことと同じではないか? 五次元空間の外部において反転し 他者の意識となって現れる 「隣人とは同等なものという意味である」というキルケゴールの言葉の数学的な「意味」とはまさにこうとしか言えないほど クルーズ演じるイーサンは いかなる他者とも同等だ この男が 「イエス」であることを自ら証明してみせるには 大気圏内ギリギリからダイブしてみたり スタントに失敗して骨折したまま全力疾走する姿をドキュメンタリーするキャメラが愛としてその走行を定義しない限り不可能なショットが出現するのだから 怖ろしい トム・クルーズは以前 ハーヴェイ・ワインスタインがプロデュースした『ギャング・オブ・ニューヨーク』の現場を見学に訪れ 製作費を出し渋るワインスタインに教会を造らせた映画人でもあるが(その教会はセント・トーマスと名付けられた) 彼が演じるイーサンほどキルケゴールにそっくりの徹底した内面否定主義者もいない 愛という無限が 人間の内面にではなく 空間として実在することをこれほど身をもって示した俳優は彼以前にはいないとすら言いたい 一歩間違えたら死んでしまうスタント・アクションが 数学的な厳密さで成立することを描像していることに気付く時 この俳優は六次元空間に居ることができる このイーサン・ハント=トム・クルーズへの共感を言葉でいひ 文字で書けば 嘘になって死んで了ふやうな生の感情に 私は胸がいっぱいになった 2018年8月29日   
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mothermonika15 · 6 years
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手術はしたものの入院時の3倍は自宅療養が理想と昨年末に医師に言われても無理のあるところ 体調が少しずつあがってきたので『花筐 HANAGATAMI』(2017年/日本/169分)と『甘き人生』(Fai bei sogni/2016年/イタリア/130分) そして少し間を置いて『アランフエスの麗しき日々』(Les beaux jours d'Aranjuez/2016年/フランス・ドイツ・ポルトガル/97分)『15時17分、パリ行き』(The 15:17 to Paris/2018年/アメリカ/94分)を劇場で見た 共に原作もので演出手腕の映画だった
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とりわけマルコ・ベロッキオの演出は あらゆるショット構成に隙がなく 傑作『母の微笑』(L'ora di religione/2002年/イタリア/102分)につながる「聖母批判」というか カトリックの国では必ずしもない日本で見ると 単なるマザコン映画に見えてしまうかもしれないけれども どことなくハムレット的な主人公マッシモは 少年期に過った仮���(母の死因)が与えられたとき引き起こされる逆説をよく体現していた
大人になり新聞記者となった彼の鬱な狂乱は 少年時に仮に与えられた母(愛)の喪失に触発されるままに自分自身を感じてしまう錯乱から生じてしまうのだろうか
偽の表象(母の死因)が 母の幽霊(≒ベルファゴール)と化し くりかえし回帰してくる
ベロッキオはこの関係性を極めて客観的に描いていて そこが先ず素晴らしいと感じる
最初の方で 父親が母の訃報記事を本に挟んで隠してしまうカットがでてきた
このカット(父親の隠蔽)を少年期の彼は見ていない
われわれ観客は記事を隠す動作は見ていても 大抵は見落とす少し距離が離れたカットだったろうか
そしてこの10秒にも満たないカットの訃報記事に 当時関わった新聞記者が 後半短く出てきて 記者としては駆け出しだった頃のこの事件を大人になった彼に少し語るのだが この事件の現場に居た少年の彼には 新聞なるメディアは存在しないにも等しく その訃報記事の立ち話も何のことかよくわからないまま場面は転換
更に 自分の体調不良と父親から教えられた母の偽の死因(心筋梗塞)を重ねて女医に話すと それは「お話ね」と笑われてしまう
そして後半 叔母が当時の新聞記事を本棚から取りだし 新聞記者となった主人公に見せる
このくだりは 新聞記事という 明らかに外界に存在する客観的な表象と 子供に大人が嘘をつくという偽の表象(主観と呼ぼうか)とを巧みに列べた見事な場面展開だと思う
しかも 母と2人で見たテレビ映画「ベルファゴール」(若きジュリエッタ・グレコではないか)のカットで 母が少年だった彼の目を塞ぐのは まさにベルファゴールが正体を明かし飛び降りる瞬間だったことが 編集で明かされる後半 トリスタン・ツァラの「ぼくを見つめないで」というダダ宣言を重ねて私は主人公を見ていた
マイナーで 儚く まともに扱われず すぐに捨てられてしまうようなもの どこに目があるのか 世界にあるのかわからないものの強度…それは小さな新聞記事かもしれない…ときに創価学会にまで入信する主人公マッシモが 「母への憎しみ」という読者投稿に応えて書く記事は マイナーな世界に佇んできたベロッキオならではの強度に充ちた場面になっていた
そして本作は 固有の時間をもつ様々な出来事の交差に 時間推移のない「母との時間」がふと立ち現れる
ベロッキオはまるで忘れるために探さなければならないと言っているかのように…91年の内戦下のサラエボまで出掛け…と思いきや 母に抱かれながら入ったかくれんぼの段ボール箱は 母の胎内のようにマッシモを食べて映画は終わる
レオナルド・ダヴィンチの絵画『聖アンナと聖母子』が暗示する抑圧された性と胎児幻想にも似て それは 母の胎内にあったときの無意識世界への願望が あたかも私生児として母より見棄てられたイエスの喩だろうか
マッシモが抱かれるのは少なくともフェリーニの母みたく色温度があがるやさしい母体とは違って 少し冷たい檻のようでもあり
母の飛び降り自殺自体は映画では描かれない
それ自体は不幸なことであり カトリックの国では「原罪」のひとつとして罪深いことだが 母が飛び降りるときの自己放下を 中西夏之の絵の弧線に重ねてみると この自殺はある意味異なる世界の出現ともとれる
聖母とは異なるものをマッシモの傍に引き寄せることにもなったこの母の落下は 聖なる母子を描くという考えで作られた映画というよりは 聖母という存在を成り立たせるものを問いかける放物線を描くかのようだ
アカデミー賞やカンヌやキネマ旬報ベストテンといった「世俗の力」を抑制するには ベロッキオが忍ばせた新聞記事のような客観的相関物が必要なのだろうか
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一方 アカデミー・アワードは フランシス・マクドーマンドが主演女優賞を獲り こんなスピーチを行った
彼女はイェール大学で美術学の修士号をとったシェーカー教徒でもあり 大変静かな演技コントロールのできる人だ 私が彼女の舞台を見て その打ち上げの席で立ち話をしたときも あの無表情は変わらなかった 厳格で抑制の効いた芝居『初期シェーカー』は レコード盤をそのまま上演するというもので ウースター・グループのアングラ劇だった
二度目のオスカーを獲得した『スリー・ビルボード』(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri/2017年/イギリス/116分)の演技にも期待するが スピーチはハリウッドに���ける女性の扱いに対するもので
そして オスカー像を下に置き
「ではここでしっかりとお伝えさせていただきます。すべての部門においてノミネートされた女性の方々、一緒に立ち上がっていただけますか? メリル(・ストリープ) あなたが立てば皆立つわ(笑) 映画監督、プロデューサー、脚本家、撮影監督、作曲家、衣装デザイナー、全員よ! みなさん、見渡してみてください。今立ち上がっている全員が語るべき物語やプロジェクトを持っていて、資金を必要としています。 その企画について聞くために、私たちをオフィスに招いてください。今夜のパーティーでじゃなくてね。もしくはあなたたちが来てもいいわ。今夜、最後にこの2つの言葉を残します “Inclusion Rider”」
と ハリウッドにおける多様性への寛容を発展させるための解決策として使われている“equity rider”をもじり 各方面で活躍する女性たちの力をアピールした
とある 最後に彼女が使った言葉“Inclusion Rider”を全世界の多くの人がググったらしくそれは…
俳優が作品のキャストとスタッフの人種・性別などの構成を少なくとも50パーセントは多様なものにするよう 要求できることを指します
とあった…メディア研究者のステイシー・スミス博士の言葉で 間接的にトランプ政権に抗しているのだろうが
私も『微塵光』という自品で男性と女性を50パーセントづつ配するように心掛けたばかりだったからか マクドーマンドのこのメッセージに反応した
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その翌日に見た 夏の日々 夏の光を通してみた対話劇『アランフエスの麗しき日々』は 近年復調してきたヴィム・ヴェンダースの実験のひとつの極として理解されねばならない
男と女はカードルの中にある絵のようで 彼らには前があって 後ろがある 後ろには話者が居て 前と後ろを共有している
前方の一本の樹木と紫色の花と緑の雑草と後方の館(パリ郊外のサラ・ベルナールの邸宅で撮影されている)の間にあって 女と男は 前と後の境界そのものでもあるだろうか
アランフエスというより夏の広大さからのここ 盛夏の無限点からのここ 現実の寸法としての彼らの平穏な対話
彼らの眼前と背後 それは時間のすれ違い
りんご・円盤状の机
カードルの真中 即ち静けさ つまり夏の核心は 借景ではなく
「幻想にとりまかれていたからわたしはあなたの問いを というよりあなたの声を 信頼する気になった このゲームを一緒にプレイし あなたに答えることができた」という女
「白い皮に さらに白い 純粋に白い果肉 けれどその中 真ん中には 種がある 僕の知る限り 他のどんな果物にもないような黒い色の種だ こんな最初に熟すリンゴが 僕にとっても かつて 夏そのものを意味していた 最初の夏休み 宿題もなし 自由そのものの日々」という男
早生のリンゴ一個だけを手にした麗しき日々
それはもしかして絶滅してしまった夏そのものなのだろうか?
ペーター・ハントケによるこの対話劇は イプセンの遺作に似て 最晩年の解決とはほど遠い
更なる不安を掻き立てる戯曲に思える ラストにみせる話者の哀しみや苦しみには完成や完結の可能性などこれっぽっちもなく いつまでも眼に見える夏のイメージが去来するのみだ
それは「その愛が残した証」(ヴィム・ヴェンダース)だろうか?
彼らはおそらく元恋人同士で 男は地獄落ちしていて仕事に逐われ合間にここに来ている
彼が夏のリンゴを喪ったとしたら社会的なせめぎあいの動物だから
女のセリフにはこんなのがあった
「夏の盛り盛夏 こんなに深い静けさなのに 深い静けさ 私にはこの言葉の方がふさわしい気がする 私たちが 私があなたと話し始める前 静けさの到来する感じ 静けさが降りてくる感じがした あるいは付け加え 補うような静かさ 静かさがこの地域へ降りてくる この辺りだけではなくて むしろ地上の全体に 地上は 静けさの降臨とともに ゆっくりと変身する むかしの人が考えていたような一枚の円盤に(ではなく) クレーターに 窪地に 深い静けさのおかげでこの土地が深さを獲得した」
ドイツ語から訳された戯曲は「円盤に」となっていたが フランス語で撮られた映画の字幕は「円盤にではなく」となっていたのはなぜだろう?
ジュークボックスから流れる円盤(レコード)よりも セザンヌの窪み(影)や ニック・ケイブが弾くピアノの蓋上の糞のように 言葉もクレーター状に起伏しているからだろうか…
サイレント映画の監督たちを模して(?) 画家がモチーフを展開させていくのと同じように その映画の展開と同時に女の衣装を塗り替える場面があった(話者がノートに色鉛筆で青色に塗りつぶすと次のカットで 女の衣装が青色に変化する) 
ハントケとヴェンダースが試みているのは まず第一に 見ているものを書き留めることであり そうすることによって可視なるもののなかにひとつの定位を確保することだが その定位は 可視世界を発明してゆく可能性でしかなく 決してそれを支配したり 整えたり 或いは適当に配置する可能性を言うのではない つまり 話者は 見ているものを発明してゆく必要があるということなのだ その都度 彼が観照する対象の何かが溶解してゆく
そこにひとつの誘惑の関係が生まれ 彼が創造した目前の世界のなかで話者は自分が変化しうることを知り 自分はいかようにも成形されうることを発見する
この実験的でありながら いつになく簡潔なイメージ展開はラスト ヴェンダース好みの女優の肩だしに結ばれる
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ヴェンダース同様 80s/90s高音質シネソニック・マスターであり 音作りの妙(特にガン・ファイト)は半端じゃないウォルター・ヒル『レディ・ガイ』(The Assignment/2016年/アメリカ/96分)の技術的な選択も的を得て アクションを見せる/展開させるより 感じさせるために鈍重な画面と音響を使って 目覚めたら女になっていた時の正しいリアクションを描いていた
ミシェル・ロドリゲスが演じる“異形の悲哀” それは女医のように性転換すれば本質も変わると信じる人間には理解しがたいものだろう
異形の者は 存在しているだけで唯一の存在となり 「信じれるのはコルト45口径と犬」だけだ
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喪われたファロスの代理を描きつつ アメリカ社会の銃器規制問題をアイロニカルに説く道徳の人ヒルの新作に近いのは 同じように90分台の『15時17分、パリ行き』だ
ヒルの映画はコミック映像効果など蛇足が多すぎてやや冗長だが それとは違った間延びが最年長監督クリント・イーストウッドの最短映画の特徴だろう
走行列車内での実際の事件を再現ドキュメンタリーのようにその半ばを表象し 本人たちが本人を演じることで 自らの行為に対して充足しつつ自らを現前せしめる再現前化の演出が求められるこの珍作は おそらく 実際の事件よりも純粋で単純な長さにおいてフィクション映画である テロ事件を扱うというより人命救助に焦点を絞ることで 事件の比重を変えて テロの有用性を喪わせるという点では『父親たちの星条旗』(Flags of Our Fathers/2006年/アメリカ/132分)に連なるモチーフだが 映画は『ジャージー・ボーイズ』(Jersey Boys/2014年/アメリカ/134分)に似た精彩を欠く仕上がりとなっている
ハリウッド映画の撮影がスターを使った「公認の」テロ防止行為の如く セキュリティがロケ地を囲い行うものだとしたら 本作は無名の人たちを使い 観光地で人混みに紛れるように車止めもしないまま撮影されたようにも一見するが 却って テロリストの存在は抹消され そのアメリカ優位の視点には辟易した
映画に出てくる自撮り棒ではないが 観光地での幾つかの場面は 助監督が撮ったのではないかと見紛うばかりのいい加減さだ
そんな通俗的なリアリズムから走行列車内へと至り彼らが政府に表彰されるまでのくだりには シナリオなるものはどのように介在したのか
彼ら3人はほとんどミュージシャンのようにいくつかのフレーズを記載したノートだけを所持し 自らを演じたのだろうか
事件が起こった走行列車内に偶然乗り合わせたことと瞬間的な判断とは「同じもの」だとしてみせるイーストウッドは プラットホームから電車への 電車からプラットホームへの乗り移りを丁寧に撮って 衝突することで顕現する瞬間に賭ける演出は流石なのだが テロリストを演じた俳優への配慮(シナリオと演出)があまりにも杜撰ではないか
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また 好き嫌いとは別に過剰な映画とは『花筐』だろう
こちらはそのロリコン・イメージとは裏腹に 過去の回復可能性について 自分に残されているであろう歳月の短さと格闘する映画だ
ある種の居心地の悪さの中に観客を置き去りにする驚きの尽きないそのタッチは 初期大林映画に近い完全なる不毛性をあらわに 実直な人間だと 許しがたいかもしれないイメージやサウンドの数々が 大林宣彦の『花筐』全編を包みこむ
とりわけ驚いたのは 皆で記念写真を撮る場面で 山中貞雄というより小津的なこの場面の編集は 発明されたとすら思った
晩年の黒澤明が陥った色彩映画の問題を デジタルで華麗に才色し 回避する大林の才気とコーディネート力は ほぼ同じ上映時間の『ブレードランナー 2049』(Blade Runner 2049/2017年/アメリカ/163分)よりも融通無碍を感じさせることに成功している
中西夏之にとっての『黒釉金彩瑞花文碗』の水平面の発見が 琳派の傑作と称される『紅白梅図屏風』の垂線に対してのそれだったように…ヴェンダースの麗しき日々を綴る話者の机には ベロッキオの新聞記事と同じく切り抜かれた客観的な相関物としての「りんご」が円盤状の台の上に置かれていて 劇の最後にそれは著名な画家の水彩画の隆起した影へと吸収されるかのようだ
主体を客体化するそうした映像の単位は『花筐』や『レディ・ガイ』や『15時17分、パリ行き』には見当たらないが 遠く 近くの 目前から あるいは遠くの背後から 老年期を迎えた彼らの映像に 驚きの始まりがやって来る
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今は治療に専念し 体力の回復に努めることが最重要とはわかっていても イーサン・ホークが出演しているから気になり チラシに海岸線が映っているという理由だけで劇場まで赴いた映画は 『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』(Maudie/2016年/カナダ・アイルランド/116分)だ
カナダの画家モード・ルイスを描いた本作は 愛の起伏を丁寧に追って 『キャロル』(Carol/2015年/アメリカ/118分)や『パターソン』(Paterson/2016年/アメリカ/118分)の審美性を超えた心に滲みる映画として忘れ難い
道を歩くときモードはどこまで歩いて引き返すか 窓越しに夫エベレットはいつ窓(フレーム)を覗きこむか 日常の動作が端正に振りつけられ 尚且つドキュメンタリーのように慎ましくこの夫婦に相対してゆくキャメラは 『パターソン』が撮り損ねた夫婦の微細なゆらぎと孤立した創作空間の大切さを尽く捉えている
その距離感は音楽同様抑制が効いて好ましく サリー・ホーキンスの演技はまるで『散り行く花』(Broken Blossoms/1919年/アメリカ/74分)のリリアン・ギッシュように細やかで イーサン・ホークの受けの演技はまるで『浮雲』(1955年/日本/123分)の森雅之くらい完璧だ
「イーサンのような共演者の前では実力を最大限に出そうと思う。エベレットを演じられるのは彼しかいないわ。人は周りの人と同レベルにしかなれない」とホーキンスがインタビューに応えて 実際 イーサン・ホークの演技は とりわけ前半 何度かモノ叩いて物音を醸し 映画にスタッカートのような刻み痕を残してハッとさせる この苛立たしい音の強度は エベレットとモードのわずか4メートル四方の隣接性を 一種の科学反応(ケミストリー)が起こる空間に積分する程の「音圧」効果だ
緑色のペンキをゆっくりゆっくり塗ることの一瞬一瞬が 宇宙を企画する最小単位であると心する病(若年性リウマチ)のモードの指や筆の動き そこから滲み出す色彩は この町の海岸線に隣接するかのよう
当時ロバート・フランクも住んでいたノバスコシアのスカイラインは低く 地表と青空の隙間には海岸線が住まう
この夫婦の関係の狭まりとはこうした性質のものであることを アシュリング・ウォルシュというアイルランド出身の女性監督は 開かれた海岸線のカットで幾度も暗示している
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同じく女性監督イギル・ボラのドキュメンタリー『きらめく拍手の音』(Glittering Hands/2014年/韓国/80分)は 聴覚障害の両親とそのもとで育った「CODA」(聴こえない親をもつ聴者の子ども)の監督と弟を捉えたセルフ・ドキュメンタリーだが 新鮮なのは 「障害者」と「健常者」のぶつかり合いや出会いの可能性をバリアフリーで消去してしまうのではなく 見つめることと聴こえてくる音との相剋として描いている点だ
導入部に父親の表情を捉えたアップが入る そこに秒針の音というテロップ��出て てっきり彼は時計を見つめていると思い込んでいたら 父親はテレビを見ていることが次のカットで示される 「健常者」である観客の私が 如何になにもかも音と同期して画を見ているかに気がつくハッとする場面だった
この2つのカットのモンタージュが 監督の「意図」かどうかはわからない しかし 『しあわせの絵の具』同様 2つの焦点の相剋から生まれる目線がここにはあった
視覚と聴覚の違いや 聴覚性の優位といった理論ではなく 映画における「聴覚障害」とは見えるものの描写であるならば 「沈黙」とは見えないぶつかり合いを見えるようにすることにつながる
この映画で観客は 何時になく「沈黙」に出会うとしたら それは静態的でありつつ この夫婦 或いは 娘から見た両親を含めた「私」のそれは事実問題だからこそ 語りながらも沈黙する身振りが豊かなのだ
この家族には傲慢なところがほとんどない
また気取った無邪気さもない はかないことを夢に見て とりとめのないことをあれこれ考える日々が垣間見える
畑の草むしりをしながらでも 白菜を切りながらでも 宇宙と等しい可能性があることを この新人監督は見逃さない
まだキャメラに慣れない監督のキャメラ位置(姿勢)が 再び家族を繋いで そして このドキュメンタリー映画自体が聾唖と成って行くかのようではないか
(2018.1.06-3.31)
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mothermonika15 · 6 years
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2017年 下半期の収穫
1. 月と雷
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2017/スールキートス/120分 監:安藤尋  演:初音映莉子 高良健吾 草刈民代
2. パーティで女の子に話しかけるには/How to Talk to Girls at Parties
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2017/イギリス・アメリカ/103分 監:ジョン・キャメロン・ミッチェル 演:エル・ファニング アレックス・シャープ ニコール・キッドマン
3. ル・アーブルの靴みがき(35mm上映)/Le Havre
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2011/フィンランド・フランス・ドイツ/93分 監:アキ・カウリスマキ 演:アンドレ・ウィルム カティ・オウティネン
 
4. ヘッダ・ガーブレル(ナショナル・シアター・ライヴ)
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154分/初演劇場:ナショナル・シアター/作: ヘンリック・イプセン/脚色:パトリック・マーバー/演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ/出演:ルース・ウィルソン レイフ・スポール
5. ダンケルク(IMAX 4Kレーザー上映)/DUNKIRK
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2017/イギリス・アメリカ・フランス/106分 監:クリストファー・ノーラン 演:フィオン・ホワイトヘッド ケネス・ブラナー マーク・ライランス
6. スクランブル/Overdrive
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2017/フランス/94分 監:アントニオ・ネグレ 演:スコット・イーストウッド フレディ・ソープ アナ・デ・アルマス
7. 不都合な真実2 放置された地球/An Inconvenient Sequel: Truth to Power
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2017/アメリカ/98分 監:ボニー・コーエン ジョン・シェンク 出:アル・ゴア
8. 希望のかなた(35mm上映)/Toivon tuolla puolen
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2017/フィンランド/98分 監:アキ・カウリスマキ 演:シェルワン・ハジ サカリ・クオスマネン
9. ローガン・ラッキー/Logan Lucky
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2017/アメリカ/119分 監:スティーブン・ソダーバーグ 演:チャニング・テイタム アダム・ドライバー ライリー・キーオ
10. ビジランテ
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2017/東京テアトル/125分 監:入江悠 演:大森南朋 鈴木浩介 桐谷健太
次点. ・gifted ギフテッド
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2017/アメリカ/101分 監:マーク・ウェブ 演:クリス・エバンス マッケンナ・グレイス リンゼイ・ダンカン
ワースト ・ブレードランナー2049/Blade Runner 2049 2017/アメリカ/163分 監:ドゥニ・ビルヌーブ 演:ライアン・ゴズリング ハリソン・フォード シルビア・フークス
オフ・シアター ・ロマノフ王朝の崩壊/ПадениединастииРомановых
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1927/ソ連/81分 監:エスフィリ・シューブ
選外 ・ヴィセント・ムーン作品上映 @京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA,2017.12.20
旧作 ・GAMA 月桃の花
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1996/映画GAMA―月桃の花を成功させる会/110分 監:大澤豊 製:海勢頭豊 演:朝霧舞 川平慈英 玉木初枝
展示 ・生誕100年ジャン=ピエール・メルヴィル 暗黒映画の美
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安藤尋監督の『月と雷』は月齢が新月の方へとゆるやかに傾いた映画とみた そこにはほぼ15年間という時の経過がある 傑作『blue』の中で市川実日子が見上げた空は フィルムに定着されたスカイ・ブルーだった それからその空の青は スクリーン上でデジタルとなって 空気に触れると青の成分が化学変化を起こす結果として雷雲となった 『blue』をさらに落ち着かせて深まりを与えたのが『月と雷』と言えばいいか だから『月と雷』は『blue』と対になっていて 必ずしも『海を感じる時』や『花芯』と同列には語りたくはないが その連作があってこそ生まれた本作は 安藤監督が映画でやってきたあらゆる殆どのことがもう一度繰り返される この主人公・泰子が住む家の幽霊屋敷のような室内の雰囲気は『pierce LOVE&HATE』と瓜二つに私の目には映るし 智がこの一軒家に戻ってきたとき 仏壇の写真を眺める智の背後に台所でなにかを洗う音がする 同じように 墓石をつくる男の家に居候する直子が泰子と智のまえに現れるとき庭の水音に誘われて縁側でホースを使い足を洗う直子が映る 水音に呼び出された死者の如く 水に誘われそこに居る直子は テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』のヒロイン(ブランチ)の生き様とどこか似ている…これらはおそらく本調有香の脚本の世界だろうが 安藤は映画『blue』でも夏休みにホースから溢れる水に親和性をもたせる演出を市川実日子にさせていた また 主人公たちが田舎道を自転車で漕ぐ路面も 雨上がりの後のような反映を帯び 赤い一点照明を灯しながら鈴木一博のキャメラは幽かに二人乗りを映し出してゆく こうした細部の描写もさることながら 少しずつ登場人物たちが寄り集まる一軒家の描写は この映画が幽霊屋敷に様変わりしていくかのような印象を与える 直子が思い出したようにこの一軒家での過去を語る場面で 泰子が暴れだし「みんな出てけ!」という台詞は 「ゲット・アウト」と今年話題になったホラー風のアメリカ南部映画にも訳せるが この場面の少し前に泰子の父親が声となり幽霊となり出てくるとき 泰子があの世の父親と話すことができても「行(逝)かないで」とは言わない 確か映画では父親の目線は直子を見て 語りは泰子になっていたように記憶する 幽霊のように断続的なリズムで 記憶と無意識的な欲望の亡霊を放出するこの場面で映画は ひとつの頂点に達する 更にここから後半の泰子の描写は 安藤演出の真骨頂であり 隙も無駄もない 雨戸越しに智と泰子が話す場面の切り返しは 『戦場のメリークリスマス』を越えて『塀の中の懲りない面々』の壁越しの会話に肉迫する静けさが降りてくる そこに大友良英のギターが被さり 深さと低さを獲得する名場面となった つづく直子と泰子の別れの場面での安藤演出は すでに落ちついた家族の輪郭よりも 周縁へ逃れゆき 他者や環境からも離れゆく ��昧な渡世をも慈しむ スカートの直子とズボン姿の泰子の対比から 二者の間に不在のもう一人がそこに居るかのようなこの対話は 一連の場面と同じく 過去と未来を往復する記憶の中に複合し そして今の直子にも泰子にも極めて誠実でありつづける 青い月(泰子)は新月(直子)に と喩えるならば まるで違う色なのに2人は同じ月の満ち欠けの関係にある ここでも泰子は直子に「行かないで」とは言わなかった筈だ 当のものを口にする感傷ではなく その当のものを眼差しているところだという暗示を見せてくれる安藤尋の到達点は 無為こそが日常の繰り返しであり そのなかで月は満ち そして欠ける 幽霊屋敷には男性であることに回帰した智はもういない 永遠には続かない無為の共同体を眼差すこの映画のラストショットこそが 安藤監督の窮極の熟達以外にはあり得ないものであり 現在としてよりも予感としての泰子の存在証明とも言えるショットだろう 彼女をとり囲む無数の不条理な思いを必死でもちこたえてきたのと同じだけキャメラは彼女に寄りそう 命を宿すという意味ではエル・ファニングの母性を見抜くジョン・キャメロン・ミッチェル監督にも同じ眼が感じられる 自分を「集団(コロニー)」のなかに組み入れ「集団」として何か(誰か)を「美化」或いは「醜化」するということを決してしないという点では ジョン・キャメロン・ミッチェルの『パーティで女の子に話しかけるには』はある点で『月と雷』と似ている キャメロンのまなざしの前でのエル・ファニングは母になる 安藤の映画の初音映莉子(泰子)は母になる直前で終わるが 男の子たちは無責任なパンクを貫くしかないだろうとの視点も偏差はない ブレイディみかこが言うように 「この世界の先にあるものが、バラ色の世界ではなくて、陰気なブルーの複数形、ブルースでもいいではないか。ブルースの先にはパンクがある」とは尽言だろう この世界観がこの二作にはそっくり当てはまる 異星人を恋することで(まさにD・ボウイの名曲「ラヴィング・ジ・エイリアン」が暴いた皮肉だ) すでに疎外されたセクシャシティや郊外のひどい場所のなかへと入り込むのがキャメロンだとしたら 同じく 月の住人と地上の人間に俳優を配し 特権化するのではなく 緩やかな配置で登場人物を浮き上がらせ あらゆる存在を等しい輪郭のもとにフレームアップしているという点では 安藤演出は遥かにおとなしいが 「親はみんなおかしい。人間は家庭を持つとあんなふうに道理が通らなくなるものなのだろうか。家というものは、まともではいられなくなるほどのものなのだろうか」津村記久子『まともな家の子供はいない』とは 日英大差はないのだろう ノーラン監督の描く『ダンケルク』の兵士たちはフランチェスコ会修道僧と同じように「まともな人」に所属することを見せてくれた 京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAでヴィンセント・ムーンがブラジルの奥地で撮影し続けている宗教儀礼に残存している闇夜の音と焔の気配をライヴで編集して見せた60分間は 創造は即得権益ではできない その外側で生きるものだと確認させてくれ 同じようにライヴ・ヴューイングのロイヤル・ナショナル・シアターの演劇『ヘッダ・ガーブレル』は 贔屓のルース・ウィルソンの生の演技を切らずに見れて またイヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出は 一字一句イプセンの戯曲を変えることなく 160分間飽きさせず張り詰めた一本の線が見える ジョニ・ミッチェルやニーナ・シモンがまるで光と影のようにヘッダとよく似た女だと知った 『ビジランテ』は中上健次 『スクランブル』は父・クリントの影響か 『サッド ヴァケイション』や『ベイビー・ドライバー』よりワンランク上を行っている カウリスマキとゴアは「傾向映画」だが 世界に働きかける力を持つ映画としての傾向ではなく 人間らしい彼らを見ることができるという点で 無視されてはなるまい 前作『ル・アーブルの靴みがき』をDCP上映で京都シネマで見てガッカリした記憶があるが 春に閉館する京都みなみ会館で 大晦日の映画納めに見た35ミリ上映でのそれは 映画の力に護られた傑作として見違えた 明るく解像度があがったデジタルだと見えなくなったものがあるのだと知った 同じ作品の筈が全く別物に感じられて ふとこんな詩を重ねてみたくなった
にんげんには 種別はござるが 差別はござらん 時計の振子がひとゆれゆれて きょねんが終って ことしが来ござるそのように 時計の振子がひとゆれゆれる そのせつなのように 世界人のことごとくが 心をひとつに 声をそろえて さけぶがようござる 中川信夫「一九四七年一月一日」『業』所収
ジャームッシュではなくカウリスマキの映画に出てくる犬は確かに「種別はござるが 差別はござらん」という愛を生きている ソダーバーグ久々の新作はアメリカ版「鼠小僧次郎吉」で マーク・ウェブは起死回生の一本にしてハリウッド・エンディングは『500(日)のサマー』よりもこなれた気がした 下半期もっとも興奮した上映会は京大人文研が行った「映像に刻まれたロシア革命」だった とりわけエスフィリ・シューブ監督の『ロマノフ王朝の崩壊』は 1920年代こそ「非アリストテレス的なドラマトゥルギーがようやく思考可能になった」といったブレヒトの格言が まさに「組織化された無秩序」(モホリ=ナジ)として実現していた歴史記録映画だった 編集自体に制作者の意図が入ることはドキュメンタリーの常だが 事実それ自体よりもロシア革命とはこのように起こり 事実の組み合わせ方にこそ「現実性」を作り出す過程があることも示す 1905年の二月革命から十月革命へという意味では エイゼンシュタインの『十月』と同じ視野である�� ものごとはすべて暗示に富み 逆に字幕は多くを語らず 一つのものの深みだけが他のものの深みを等価に指しえるシューブの唯物史観には震えた ちなみにこの上映会を立ち上げた小川佐和子の著書『映画の胎動』は 近年読んだ映画本でもっとも水準が高いものの一つだろう 映画創草期とアバンギャルドないし傾向映画の狭間の1910年代の映画を私はほとんど見逃していることにも気がついた 『GAMA 月桃の花』の岡崎宏三のキャメラの捉えた沖縄戦の終戦は たぶんこうやって局地戦は終わったんだと思わせる簡素なショットが焼きつく自主映画の高い精神世界に打たれた ジャン=ピエール・メルヴィル展は 彼が「兵法家」であることを見せてくれた ダンケルク作戦に兵士として参戦したメルヴィルは 自分が生きた時代を絶え間ない戦争として見ていたとしたら 彼の映画渡世は一つの戦略でもあっただろう 映画をこのように比べてはいけないが 自分と映画の関係という風に考えていくうちに 評価は少しずつであれ 所定の位置に収まってゆく 2017年下半期の「この一本」を確定しないことには 自分もまた不確かなままだという現実を相手にしなくてはならない押し迫った思いが ベストテンという師走を呼び込む 自由とは自分の好みだから仕方ないのだけれど 特に大事な一本は『月と雷』に違いない
(二〇一七年十二月三十一日)
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mothermonika15 · 6 years
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「映画芸術とは美女にきれいなことをさせること」と記したのは ジャン=ジョルジュ・オリオールだった。
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冷戦構造が崩れかけた時代の東西ドイツを暗躍する女スパイのアクション映画『アトミック・ブロンド』は、家庭生活やアルコールなどで問題を抱えたスパイの悲惨な生涯を追ったドキュメンタリーの秀作『エディットを探して』とは対照的な女スパイを大胆不敵に造形している。 現代の“原爆”女優・シャーリーズ・セロンがもう一人の女スパイ(ソフィア・ブテラ)に絡む場面では「あなたは詩人かロック・スターになった方がよかった」と言い返し、その女と寝たりもする… スパイという生業に、負け犬のはみだした臭いを嗅いだ者同士のそのセリフや “断髪したセルゲイ・ポルーニン”のような雰囲気で腐敗しきった謀報員を熱演するジェームズ・マカヴォイがキャメラ目線で話す「最後にひとつ聞きたい、だれが勝ったのか?きみはよく戦ったが、結局悪魔を助けただけで、世界は秘密の力で回っているのだ」とは  (これから)資本主義が蔓延る社会に絶望と呪詛の叫びを残した台詞として忘れ難い。
CIA主任のジョン・グッドマンとの場面で入る一連のアップも的確で、更に渋いのはティル・シュヴァイガーまでが時計屋の役で出演、スパイ映画ならではのアクセントが随所に配されている。 ブロンドといえばヒッチコックという仕掛けはデビッド・リーチ監督の遊戯で、東西ドイツを仕切る壁以上に、小さなアパートメントが活き活きと使われている。 殺された謀報員・ガスコインの住んでいた部屋でのアクションは、アナモルフィック・レンズを用いてシネスコの画面で流すように撮りながら、鏡や硝子のリフレクションを活用して見事に振り付けられたかと思うと、シュタージから離反したスパイグラスを西側に逃がす場面では 『海外特派員』(アルフレッド・ヒッチコック)から引用した傘傘傘・・・の群衆から階段の吹き抜けと室内へ、通りに出て車内へという体感で10分間近いワンカットは観たことのないようなアクションの持続。 更に水中突入へと至るヒッチコック的な空間の変容が本場面のオチを形成してゆくあたり舌を巻くしかない。とりわけ 「私がメス犬?」というセリフを決めるセロンの格闘技には途方もない緊張感が走る��� 監督というのはひとつの作品の何処かで勝負したくなるものだが この場面がまさにそうだろう。
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女スパイや詩人はイカれたロッカーであり、しかもそんなあなたは“正しい”とセロンは自分の“片割れ”のブテラに言っているようにも感じる。 傑作でも何でもなく普通程度によく出来た『パターソン』(ジム・ジャームッシュ)の詩人が、容易に詩を妻に読んで聞かせる場面とは裏腹に、ブテラにしてもセロンにしても易々とは自らの苦しみを相手に見せはしない。 逆に自らの苦しみに釣り合った秘密を相手に打ち明けるときの芝居には、パターソン夫妻の平穏な描写以上に日常に繋がった空気が映っていた。
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まだ共産主義の亡霊がギリギリ漂っているベルリンでのことだが、先頃来日公演を行ったジョン・キャメロン・ミッチェルの傑作『ヘドウィグ・アンド・アグリーインチ』もまた、1961年という東西ドイツの壁と共に生まれたハンセルが、壁の崩壊と共にトランスジェンダーとなり東ドイツからアメリカに渡ってヘドウィグとなる物語だった。 自分が育て上げビルボードNO.1スターへとのしあがったトミーとの対面が実は自画像の裏表という点が、舞台版ではJ・C・ミッチェルの一人二役でより強調されていた。
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※ステージナタリーより転載http://natalie.mu/stage/news/252732
それは言い換えると、ヘドウィグが書いた楽譜にも喩えられるトミーが、演奏において自由に振る舞うことで、ヘドウィグが楽譜に定めるものとは異なる移行が起こってしまい、互いが「真なるコピー」つまりレプリカではいられなくなる話ともとれる。
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タイトルにある「アグリーインチ」とは元々ヘドウィグとトミーが譜面において均等的な同値関係にあり、それが演奏で百万分の一インチのズレを来したときの「怒り」と言えばいいか 「誤差」と呼べばよいか。
どちらにせよ、僅かであれ 何分の一インチかの長さが違えば互いは異なる符号に属することになってしまう顛末が描かれているのだ。 どんなに愛し合っても結局は別々の人間なんだ、というこのドラマの根底には、サルトル的な対自存在としての他者を即自存在化して、それが差別のはじまりなのだというトランスジェンダーへの作者の鋭い眼差しがある。
橋と壁の2つの間には たいして違いはない ど真ん中に私がいなけりゃ
TEAR ME DOWN
無垢なスターなど何処にもいない。 ヘドウィグ自身、自身の“片割れ”であるトミーに執着しているだけではなく、耳や鼻や舌や指や心やらの新旧の当てこすりに取りつかれたかたちで存在する変性女子となる。 トミーという無垢な目は実は盲目であり、ヘドウィグの純潔の心は空虚でもあり、更にオリジナルと加工されたコピーとは、その結果出来上がったものを見てもほとんど区別はつかず、性別の層を剥がしていくと中身があらわになるといったことすらない、と舞台版ヘドウィグは強調する。 物事にはありのままなどなく ありのままのあり方であることもないのだと・・・
そして太陽と月と地球の子の体を ぐっさり引き裂いていった それからインドの神が 傷口を丸く縫い合わせ おなかのあたりで糸を結んだ 私たちが払った代償を忘れないように 幽界の王オシリスとナイルの神々が 巨大な雨雲を集め ハリケーンを吹き荒らせた 人々をバラバラに散らすために
ORIGIN OF LOVE
オシリスをシリスと歌ってしまうトミーは盲目で、一インチほど歌詞が欠けてしまってヘドウィグと決裂してしまう。
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パティ・ジェンキンス監督の佳作『モンスター』同様に製作・主演を兼ねたセロンの場違いな真剣さは、過剰な役づくりとなって表れる。 人は人を殺してはいけないのに、日々、人は殺し合ってるという状況下に実在の連続殺人犯を置くことにセロンの躊躇いはない。 ブルース・ダーン演じるベトナム戦争帰りの元兵士が、セロンが演じた殺人犯の“片割れ”となる。
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本来は美女のセロンがグロテスクな容姿の殺人犯・アイリーンを演じ、冷静に自分の行動を捉えているようにも見える。自分は善良で殺人犯とは違うという(ブルース・ダーン以外の)その他登場人物の奢りは、愚かとすら見えるほどに。 自分が置かれている環境が変われば 人はなんでもしてしまうのでは? 労作『ワンダーウーマン』(パティ・ジェンキンス)のスコット・ウィルソンの役に受け継がれるエピソードにも通じる「矛盾」がここには描かれている
『アトミック・ブロンド』もまた 東西の間が消えて資本主義という魔がグローバルに浸透しはじめる89年にねらいを定めたセロンの活動的な知性を感じて度肝を抜かれる。 「分離という考えはまさにアパルトヘイトそのものだから」というプロデューサーのセロン(南アフリカ出身)がベルリンの壁にこだわったのは納得が行く。 映画が存在するのは過去を記録するためでもあるというヴィム・ヴェンダースの理念を再度証明する本作は、『カサブランカ』(マイケル・カーティス)で有名な「As Time Goes by」をサラっとバーの場面で流したりして「反共映画」の亡霊を漂わせたかと思うと、『カサブランカ』的な抒情性には流されず(サウンドトラックのオン/オフの使い分けが丁寧)、錯綜したフラッシュバックが本作を『三つ数えろ』(ハワード・ホークス)の不可解さやノワールな色彩(ネオンサインのケバケバしさは実に現代的で、駄作『ブレードランナー2049』のマニキュアを塗ったノワール感が吹き飛ぶ)に連れていくあたり、全体のストーリーテリング以上に各場面の演出に冴えを感じる。 しかもこの映画はスパイ・リストの争奪戦をめぐりシステムに狂いが生じてくるというよりは、ヘドウィグの例に喩えると一つの譜面が多義的な意味を持ち得るとしたら、多義的な因子はすべ��排除されなければならないというスパイの非情が貫かれてゆく。 たとえ それに関わる全ての因子が多義的でなかったとしても、すべて排除されなければならないスパイ・ゲームが骨子にあるからだ。 でなければヘドウィグの如く、演奏からそれを書きとめた楽譜へ、楽譜からそれに基づいた演奏へという移行のあらゆる連鎖において、作品(スパイ活動)の同一性が維持できなくなるだろうから。
映画の終盤にセロンが録音した音源を切り貼りして事の真相を捏造する場面が出てくる。 これは劇中のニュース番組にもあった「サンプリングは芸術か? 窃盗か?」という話題にも繋がり、証拠隠滅をしてMI-6の諜報員としての任務を終える。 この映画でシャーリーズ・セロンが演じた役は文字通りアトミック(原子的)であり、その動きは心理を欠いた音符や音部記号や速度記号に近い。 彼女に欠けているのは意味や全体であって、あるのは部分的な反応だけに見える。 この映画の語りが複雑に感じられるのは観客が読みとる物語が多義的なのに、主人公が原子的な、まるで速度記号の実体化したブロンドだからである。 ヘドウィグが一インチの傷痕にとり憑かれたとしたら、イギリスの諜報部員MI-6でありソビエトのKGBにも内通したサッチェルでもありアメリカの中央情報局CIAの三重スパイ/ロレーン・ブロートンことシャーリーズ・セロンは、最後には痣だらけとなる。 スパイそのものが何に寝返っても、高々一つの符号にしか過ぎず、すべての行動は楽譜が果たすべき主目的から帰結する要件に過ぎないことを知ってしまっている。 一人の力で社会を作ることは出来ないことは当たり前だと・・・
旅立つラストシーンでのシャーリーズ・セロンの背後からのフルショットは トランスジェンダー、変性男子に見える。
ヘドウィグのラストの後ろ姿が、立ち上がったばかりの仔鹿のように痛々しくも神々しいように、セロンの後ろ姿もまた、ほころび始めた桜のように初々しく輝いている。 機内でのジョン・グッドマンとの掛け合いもお互い譲らず名演だが、ただただ前方を見つめ「カミング・���ーム」について語るこの姿に、壁の崩壊以前の旋律が流れる。
プレッシャーが僕にのしかかる プレッシャーが君を押しつぶす 誰も望んでもいないのに
プレッシャーが全てを駆り立てている 誰かの住まいを打ち壊し 誰かと家族を引き裂き 誰かから職を奪い路頭へ放り出す
Under Pressure
真実というものが見えなくなってしまった時代の生き方として「自分の手で新たな歴史を作る」というロレーンの姿勢を ジャーナリストの伊藤詩織が見たら共感するだろうか? 著書『ブラックボックス』に書かれているレイプ被害(強姦罪)に彼女の側の非は全くないと思う。 立場を利用した山口敬之の手口はあまりにもみえみえで、性的欲求不満が生んだ行為だが、伊藤詩織の記述は、どちらかというと社会的・法的なシステムへの異論が際立つ。 一夜の出来事であるレイプ以上に、二年間に及ぶ警察暴力と法を構成する暴力とが(この二つの暴力は持ちつ持たれつの関係にあるだろう) 彼女に与えたプレッシャーが、こうした記述の偏重を来したのは想像に難くない。 今回の「事件」は山口敬之の弁解の余地のないものである可能性が高く、最初の愛の欠落は司法やマスコミの壁を使って被害者の怒りの消耗にも繋がりかねない二年間が記されている。 われわれの多くが“東日本大震災”を受け入れてしまったように、伊藤詩織ももしかしたら自分を解放することは、もはやないのかもしれない。
不意打ちで横腹を打たれた時、どこかで彼に対する安心感から気を抜いていた自分に腹が立った。痛みでフラフラしながら、初めて闘争心にスイッチが入った。
伊藤詩織『ブラックボックス』
結局は「アメリカン・ファースト」を優先する国家と絡んだCIAのロレーン・ブロートンだが、演じるシャーリーズ・セロンは開拓者精神をもった大胆なプロフェッショナルと想像する。 「変態クソジジイ」(或いは 変態クソババア)たちで溢れるハリウッド映画産業やこの資本主義社会で生き残るには 「真実の中で生きて」いくだけでは足りないのではないかと警告を発するのはCIAではなく、皮肉にもハリウッド映画なのだと言いたげに・・・
金は精神的な力に対しても やはりとてつもない攻撃をしかけてくる。 今日、世界中の都市の土地をめぐって死にもの狂いの闘いが始まっており、金が征服者として土地に入りこんでいる。 金は思考の一形態で、最後まで行きつくと、経済社会が衰退し、アウシュヴィッツやヒロシマが生まれ、最後の闘いが始まる。 金と血にまみれた闘いが・・・
と言ったのは『新ドイツ零年』(ジャン=リュック・ゴダール)の「最後のスパイ」レミー・コーションだった
「ようこそ西側へ コーションさん」
とホテルのメイドに呼ばれたコーションは
「君も自由を求めて来たんだろ?」
と東ドイツから西に働きに来たメイドに問いかけて
「“労働は人を自由にする”」
とナチスの掲げた標語でメイドは応える
アルバイトという金銭取引と自由とを混同するベルリンの壁崩壊以後の民主主義社会に対して〈最後のスパイ〉は
「下劣な連中め!」
と 備え付けの聖書を放り投げ、つぶやく
「最後のスパイ」の彷徨する“孤独なる歴史”とは 憎悪と愛が 西と東が たえず反転しながら 民主主義とやらのサービスの受け入れだけは頑なに拒否する。
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2017年11月8日(水曜日)雨のち曇りときどき晴れ 鈴木昭男さんたちが約2年間かけて29年まえに造り上げた『日向ぼっこの空間』が土地持ちたちによって突然取り壊された。 高値で売られる牧畜牛と、立っているだけで役に立たない美術作品『日向ぼっこの空間』と、来年30周年記念を迎える予定だったこの空間の30年間とは、森の中の空地が高級牧畜牛を育てる牧場に変化した時間でもあったのだろう。 あまりに一方的な人為による破壊と収奪。
人間は創り出そうとせず 天から与えられたものを毀してばかりいるのだろうかと、ハンマーで壊す作業を見ながら考えた。 「森は少なくなる 鳥はいなくなる 気候は荒くなる 土地は醜くなる」というセリフが出てくる『ワーニャ伯父さん』ではないが、鈴木昭男さんもチェーホフの如く“エコゾフィー”(フェリックス・ガタリ)について考えていたのではないかと その場所に佇んで 29年間の空間を想像した。
“精神の高み”そこに開ける一つのプラトー(台地) その『日向ぼっこの空間』とは関係ない溝にはまって死んだ牛の臓物や植物の森に似た広がりの縁に、ただ体積と、高さと、濃度をもつだけのこの子午線上の場所の安らぎに、建築を、資本を拒否する、固い石の震動を、生涯感じ続けていたいと思った
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mothermonika15 · 7 years
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札幌国際芸術祭に参加する鈴木昭男さんと宮北裕美さんのパフォーマンスを撮影するため舞鶴港から小樽港に向けて航海している 東舞鶴港に駅から向かう道すがら ジャック・スパロウ船長のポスターを見つけたから港に気のきいた映画館もあるものだと毎度この千代田会館のまえを通りたくなる
札幌国際芸術祭に限らず先頃閉幕した中西夏之展にしてもオープニングに集う人々はどちらかというと「美」を求めてわざわざ遠くまでやってくる人というより 遠くまで行って自分のところでできる話をする人たちで賑わう まずはオープニングのために話し そのあとは快く参加してくれた人と話す…その種の偽の切断が苦手なので私は極力そんなことには関わらないようにもしている
札幌まで芸術祭を求めて行くわれわれは本当の間抜けだけど 旅行を楽しむほどじゃないとしたら百台近いハーレーを積んだこの千トン近い船で北海道にツーリングに向かう軍団の祝祭性に近いものが大友良英さんの言う「祭」の似姿なのかもしれない 『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』もまたそうした「異界を見せる」仕掛けをふんだんに盛り込んだてんこもり映画だが 本作でスパロウ船長は脇に廻り若者たちが活躍するドラマ作りになっていた スパロウ船長のあの呑気さをまわりが絶えず助けて本人ではなくまわりにしゃべらせてしまう船長の役作りは イーストウッド並みのジョニー・デップ…どこか東映の「一心太助」シリーズの如く 近代スポーツの爽快感がパイレーツ・シリーズの醍醐味で 私は幾つになってもこうした映画を封切り日に見るのは好きな方だ
航海の魅力は 大海原の中でネット環境から遮断され 仕事からも解放された緩やかな時間経過だろう 本来時間とはこうした一枚のカーペットのことを言うのかもしれない…と思うより先に身体の疲れや痛みがすべてとれて行く
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熱帯低気圧に変わった台風5号の余波にブライアン・イーノの傑作『ザ・シップ』を重ねてみた ル・クレジオの「物資的恍惚」に近づいた感のあるイーノの指先に曇った声は 3メートルの波に揺られる船体という機械音だ 時代はドビュッシーの『海』よりも更に海の航行に近づいたと言えるだろうか イーノの指先はちょっといじると身体を越えた物質的な恍惚に近づく 波が音楽的な要素に還元されるというより機械の「声質」に応じて変化を遂げる音楽機械?
一方 鈴木昭男さんの場合は限りなく機械からは遠く電気さえいらない身軽な作品がその特徴だ 戸外から室内へと空間を変化させながら鈴木さんの音を録ったときだった 高速道路が真上に走る東京都内の雑沓に囲まれた大音響の環境で鳴る指笛の小さな音に合わせて耳がチューニングされ いつの間にか小さな音にズーミングする耳が散歩しながら室内に移行するときの内耳の変化は 不思議と忘れ難い体験だった そのときは宮北裕美さんや香港在のサウンドアーティスト フィオナ・リーによる「瀧の白糸」に似た水芸の音楽家も同じ道程を移動してのパフォーマンスだったが 屋外から屋内へという運動の反復は後に中西夏之の「2ツの環」を撮影したときにも「反復」した動きとなった
美術も音楽もそこは同じなのだろう 映画では この外から内へという運動の区分はない 同じように聴覚も外と内の区分が基本ないだけに漠然としているが それへの応答として鈴木昭男さんの半野外空間「日向ぼっこの空間」があり そのコンパクトな容の点音(オトダテ)が生まれたように思う
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見て聞こえる音とは違って 音が反響として聴こえる場合は見ていないことが多い 後者は鈴木昭男さんが耳を澄まして決めた位置だとしたら 宮北裕美さんはそのエコー・ポイントに佇むことから逸れて踊りへと移行する では今回のように札幌芸術の森に点在する彫刻群はどうだろう? 雨が降ったら? ダンサーでなくとも動きのポジションは減る=佇み雨だれの音を聴くように身体はじっとして動きは制限される 点音が停滞=淵に立つことだとしたら そこにやってくる音に対して当て所なき待機が宮北裕美さんのダンスとなり かつそれを脱するための身振りは 鈴木昭男さんの手振りと同期しながら挨拶を交す その合図に誘われたかのような宮北裕美さんのダンスは 鈴木昭男さんの発する高い声音と一風変わった結婚(マリアージュ)を催す アナラポスの内的な声と外面的光との表面における邂逅にしたがって形態から精神を解放させ配分するオドリは その瞬間に吹いた風と一緒に動いている 起伏のある腰とふっくらした胸をもった宮北裕美さんの身体を現場で取り押さえたかのような鈴木昭男さんの若々しい響きは 芸術の森がそこで育んだ彫刻の重み この現実的な詩に浸されていた 結婚もダンスとなり得ることを今回のパフォーマンスはおしえてくれた
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今年の札幌芸術祭で見た展示では北海道大学総合博物館で見た吉増剛造さんの石狩シーツ展が印象的だった テンポラリー・スペースの中森敏夫さんたちと吉増さんとが育んできた石狩という「近代の問題」の延長を新たな容でキュレーター(藪前知子さん)が空間構成した一室だった スクリーンやスピーカーの配置 朗読の音声の僅かにディレイがかった音の微妙な遅さから 幽かな声のゆれが聴こえた それは映し出される朗読映像以上に素晴らしかった まるで美術における「レリーフ」のように 朗読の内部に入ることができる展示空間なのだ
大気に落ちる星(シ)―静かな死 望来の丘に登る(投手もいないのに、……)
「石狩シーツ」
吉増さんが原稿用紙に口づけるようにして読む姿は 八戸在 モレキュラー・シアターの豊島重之さんがかつて行っていた所作だ 確かベケット劇だったと思う そのくちづける映像を正面 対して二体のスクリーンが並んで空間を斜めに切り裂いている この映像の配置からも複数の個別の場所から声が聞こえてくるわけではなく ヘッドフォン越しにスピーカーからの朗読音声を漏らして聴くのが 私の楽しみ方だった GOZO-CINEに望来(モーライ)の丘が映し出され 近くの廃棄処分されたバスが草によって再生化されている姿が フロントガラス越しに捉えられ 小樽に近いストーンサークルが微笑んでいると ズームレンズを楽しそうにいじる吉増さんのアマチュア映像が左隣に並置される 一つの場所がGOZO-CINEの視覚と朗読映像とで分断され 二つの時間が併置されることで見えてくるものがあった そして飴屋法水による焼いた映像は 石狩の廃棄物の焼却を模したもので 中には原稿用紙が海に漂う長いカットまである 竹橋の展示では印象の薄かったこれらの映像が 今回の展覧会のために撮られたハイスペックな朗読映像の左斜めに振り分けられる感じは同一空間に異質な映像を同一視野に入れられるくらいの距離で配置し得たからだろうか ある詩作の「断面」を覗いた気がした
余白が意味を脱���させるからか 吉増さんのカリグラフィー的な書や映像に目が行く以上に 空間上の諸要素の配置の方に神経が集中する この空間の余白が詩への想像的な導入口になることを本展示のキュレーターは自覚しているとしか思えない そうした総体的な展示から見えてくる「石狩シーツ」誕生の裏側に 東日本大震災が起きてから吉本隆明の初期詩篇 とりわけ1950年の吉本(『日時計篇』)を注視する近年の吉増さんが1994年にまとめた「石狩シーツ」をその地で読む 「石狩」に特化した展示が近代の傷を謎として感じさせてくれた
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石狩川の河口付近こそ出てこないものの 露口啓二の写真集『自然史』の別名は「屠殺場」ではないかと思った その現代の大地に写真機を向けたのが露口啓二だ そこに写真家がたどり着きそれをカメラにおさめるのは台地のような盛土のゴミであり その中に埋もれた屠殺行為だ それこそが今の自然…絶滅危惧種となった人為の様態がカメラによって記録され 写真集は一種の屠殺場の静けさと化していた それらカラー写真は抽象絵画から遠くに位置し 大地の重みを忘れた抽象画の色彩とは違って 大地の重みがフレームのほとんどを占めている その重みとはつまり何よりも様々な矛盾であるとしたら 矛盾を抹消することなく露口は 人為が一度は引いた境界をも抹消せずに 抽象的な思考がしばしばその犠牲となる装飾過多の写真に陥る下品さを自らのシャッターに禁じる 露口のように写真を撮るには 様々な拘束があるのかもしれない ひとつに芸術的な「自我」に恵まれた光のもとで見せる機会はまったくないと言っていい 世界に写真家の個人的痕跡を刻みつけることも様々な様式を生み出すこともほとんどできない ただひとつ大切なことはカメラの前にあるものに対する謙虚さ…そしてこの点においてこそ 露口啓二の人となりが明らかになる おそらく露口はあらかじめ作られた主張なしに撮影に取り組む 現実が露口の意図のために操作��れることはないように―当然そうでなければならないのに不幸にもそうなっていない事柄をわれわれは震災以後の写真にも多々見てきたのだが…
空白がそびえたつ 一度も触れられたことがなく 姿態を変えたことさえ一度もない そびえ立ちびくともしない 二回震動すると 一回息をつく 二回驚嘆すると 一つ裂け目ができる
リュウ・シャオボ「ニ音節の言葉―霞へ」
震災写真は逆説的に自然を搾取することから遥かに遠く 自然の胎内に可能性としてまどろんでいる創造の子らを自然がこの世に産み落とす産婆役を果たすものであることを「自然〈死〉」から贈り返されていることも知らずに…撮られ続けている
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これまで見た中で最高の写真展となったIZU PHOTO MUSEUMの「テリ・ワイフェンバック/The May Sun」展  1957年生まれのアメリカの写真家のカットには 生に対するあらゆる感情が通過していた
マリオ・ジャコメッリの言うように「わたしにとって写真は開け放つことのできる閉めかけの扉の様なもの、傷痕のようなものだ。一度開いてそれから癒着するが、また開きかねない肉である」としたら ワイフェンバックの写真 とりわけパレスチナに咲く花をX線で照射したような“The Politics of Flowers”はまさにそうした傷痕をプリントしながら融通のきかない扉のような開閉(シャッター)をパレスチナの「自然史(フビト)」は堪えていた この展覧会を見るとワイフェンバックの写真は 円やドルの紙幣と同じではなく それは真の価値をもったものだとわかる
革命とは太古の忘れられた事物にその場所を返し与えることを意味する―このシャルル・ぺギーの言葉を思い出すとき ワイフェンバックの写真は同時代の人々に人の見残したものを見るようにせよとは言わずに見せている
自然と社会との関連性においてワイフェンバックの表現は自然主義と言えるとしたら それは雲をもつかむ困難な仕事だろう これらの写真に人間の姿はない しかし 人間は自分たちの理想を実現するとき自然と同じように振る舞う 無秩序から統一へ 統一から無秩序へと散乱したもろもろの要素が雲を形作り その空隙に青空を見つけようとするのだろう 混沌とした存在がまるごと継ぎ目を塗り込めた空すれすれに蜜蜂が翔んでいるという清らかなイメージ…それははっきりと天使の姿に見える 或いは 長期滞在して撮られた柿田川湧水は舞踏に見える
心地よい日 とても涼しく 穏やかで うららかな 大地と空が一体になるような
シモーヌ・ヴェイユも好きだったジョージ・ハーバートの詩がワイフェンバックの写真集に引用され 彼女の写真は魔法の石板と化していた
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mothermonika15 · 7 years
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2017年上半期の収穫
1. トッド・ソロンズの子犬物語/Wiener-Dog
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2015/アメリカ/88分 監:トッド・ソロンズ  演:ダニー・デビート エレン・バースティン ジュリー・デルピー
2. LOGAN ローガン
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2017/アメリカ/138分 監:ジェームズ・マンゴールド 演:ヒュー・ジャックマン パトリック・スチュワート ダフネ・キーン
3. パリ、恋人たちの影/ In the Shadow of Women(L'ombre des femmes)
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2015/フランス/73分 監:フィリップ・ガレル 演:クロチルド・クロ スタニスラス・メラール
4. 怪物はささやく/A Monster Calls
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2016/アメリカ・スペイン/109分 監:J・A・バヨナ 演:ルイス・マクドゥーガル フェリシティ・ジョーンズ シガニー・ウィーバー
5. ブラッド・ファーザー/Blood Father
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2016/フランス/88分 監:ジャン=フランソワ・リシェ 演:メル・ギブソン エリン・モリアーティ ディエゴ・ルナ
6. 誰のせいでもない/EveryThing Will Be Fine
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2015/ドイツ・カナダ・フランス・スウェーデン・ノルウェー/118分 監:ヴィム・ヴェンダース 演:ジェームズ・フランコ シャルロット・ゲンズブール
7. アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発/Experimenter
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2015/アメリカ/98分 監:マイケル・アルメレイダ 演:ピーター・サースガード ウィノナ・ライダー
8. 映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ
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2017/東京テアトル、リトルモア/108分 監:石井裕也 演:石橋静河 池松壮亮 松田龍平 市川実日子
9. ジャッキー ファーストレディ 最後の使命/Jackie
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2016/アメリカ・チリ・フランス/99分 監:パブロ・ラライン 演:ナタリー・ポートマン ピーター・サースガード
10. 美しい星
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2017/ギャガ/127分 監:吉田大八 演:リリー・フランキー 亀梨和也 橋本愛 中嶋朋子 佐々木蔵之介
次点
・キングコング 髑髏島の巨神/Kong: Skull Island
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2017/アメリカ/118分 監督:ジョーダン・ボート=ロバーツ 演:トム・ヒドルストン ブリー・ラーソン サミュエル・L・ジャクソン
オフ・シアター
・エディットをさがして/Tracking Edith(Auf Ediths Spure)
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2016/オーストリア/90分 監:ペーター・シュテファン・ユンク
旧作
・日本の青春
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1968/東宝/129分 監:小林正樹 演:藤田まこと 新珠三千代 黒沢年雄
・すべて売り物/Everything for Sale(Wszystko na sprzedaz)
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1968/ポーランド/105分 監:アンジェイ・ワイダ 演:ベアタ・ティシュキエビッチ エリジビエタ・チゼウスカ ダニエル・オルブリフスキ
ワースト.
・メッセージ/Arrival 2016/アメリカ/116分 監:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 演:エイミー・アダムス ジェレミー・レナー
展示. 酒豆忌30年「映画監督中川信夫展ー人間としてー」@おもちゃ映画ミュージアム
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映画は他のどの媒体よりも人間の暗くしばしば暴力的な衝動を描くことができる これら上半期の秀作映画は予算の上下(A級かB級か)や製作国とは関係なく 互いに応答し合うかのように 人間界の暗黒を浮き上がらせる不穏な共鳴を供えている
『LOGAN ローガン』で ローラがシリアルを食べながら侵入者を待ち受ける場面に続いて その子は口を大きく開け こぶしを後ろに振り上げ指ならぬ牙を剥き叫ぶ ローラは叫ぶ だからこそローラは話さない
人間は頭の中で考えるとき言葉に置き換える そのため 異なる言語を学び 考えることで 思考パターンや内容にまで影響を及ぼすとエリアス・カネッティが何処かに書いていた 物語がセリフで語られるのがトーキー映画の行動パターンだとすると そこはその通りなのかなとも思う 『メッセージ』は 未来を見通せるエイリアンの言葉がわかったら 自分まで未来を見通せるようになるという設定だが 肝心のエイリアンの視覚的造形がそこに追いつかない ミュータント・ローガンと違って 指の分化のない『メッセージ』のエイリアンには細胞の大量死滅すらなかったかの如く 手と指のための空間が皆無なのだ(『未知との遭遇』の創意を見よ) 主人公は未来のことが全部わかってしまう科学者なので 危機になっても 未来に教えられた情報を使ってそれを乗り越える そんな設定は そもそも乗り越えられることも含めて全部わかっているのだから 焦ることも悩むこともない筈なのに と ある種の観客は見抜いてしまう もっといえば 最初から危機に巻き込まれることもないだろうとも考えてしまうのだ エイリアンから貰う最強の武器が言葉だということで この映画は 昨今のきな臭い国際情勢への「一番大事なのは話し合うこと」というメッセージを込めてしまう(『コンタクト』のポエジーは何処に?) 科学者エイミー・アダムスが中国の大統領が耳打ちした言葉を一見聞こえないかのように見せる場面は ルネ・クレール的な音声演出で ゲリンのトーキー映画『ミューズ・アカデミー』と同じく そうした演出は見ていて辛いものがある
ベルイマンではないが「虚しさを埋めるには言葉が必要」なのが人だとしたら 異星人が発する音とは「エーテルからやってくる信号」なのではないか? 科学者たちは自分たちには閉じられた別の宇宙の無言の言語を伝えようとするのではなく 政治家たちの稚拙な駆け引きを翻訳するのみなのだ 異星の信号を湛えたかのようなローラの叫び…誕生から死へと向かうという意味で太古的なものを超えた物語を「話さない映画」として仕立てた場面がある映画を私は支持したい
無駄のない描写が冴える『ブラッド・ファーザー』の俳優メル・ギブソンのアクションは相変わらず凄いが これが遺作となった脇役のマイケル・パークスの抱える闇は忘れ難い A級的な大作では先ず見ることが出来ない芝居だ 『怪物はささやく』のラスト 母親が遺した無言のイメージを見つめる少年はそのメッセージによって罪悪感から解放される 一方 ヴェンダースの描く少年はフロイト的なトラウマを克服することに懸命だし パリ・オペラ座との違和感のあるちぐはぐな関係が舞台制作を通して見えてくるミルピエが 本番を黙って見つめる桟敷席からの無言の瞳は 当の本番以上に映画に多くをもたらす
同じく理性的なドキュメンタリー『エディットをさがして』は オーストリア出身のエディット・テューダー・ハートの生涯を甥の監督が追う マッハッタン計画をはじめ 原爆開発の国家機密情報をソビエトに流し続け 49年にソビエトが原爆開発に成功したのは エディットや二重スパイのキム・フィルビーの尽力あってのことで その抑止力効果が 朝鮮戦争でアメリカに原爆を使うことを諦めさせた裏を モスクワに出向き元KGBの高官や文書館員に取材して丁寧に描いていた 当時のスパイは極貧で無報酬 エディットも貧乏で写真だけが趣味 生涯に一冊だけ写真集を出版して 労働者階級や子どもたちへの思いが溢れた無言のカットは痛ましい 被写体と対話しながらエディットは撮影していたと写真史家がインタビューに応え 社会主義の理想をマルクスやレーニンに求め ジカ・ヴェルドフやエイゼンシュタインの映画にも憧れたスパイたちとは裏腹に 時代は独ソ不可侵条約に至り歴史に裏切られていくさまが手に取るようにわかる 時代の諸相がエディットの写真に現れているとはナイジェル・ウエストが締め括る言葉だが 数学者チューリングを描いた佳作『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』にも出てくる 同じソビエトのスパイ 通称ケンブリッジ・ファイブとエディットの関係にも興味が沸いた ドキュメントとフィクションのスレ違いが起こって驚愕し 甥っ子の撮ったこの地味なドキュメンタリーが存在することでエディットの尊厳は護られるだろうと思った
これらの映画を反省していた頃 中西夏之の砂絵の再現を撮影する機会に恵まれた 1975年くらいに発案されたその砂絵『カーボランダム・ホワイトランダム』は 砂の重さによってデッサンの場所を指し示しているようにも見えた すべての線は 現れ 変化し 消えるとしたら あるものは一瞬にして消え あるものは不変の如く痕跡を残す 画家の生命も変化の進行上にあって その一刻一刻に立ち会っているのだとすれば 砂絵に向かうとは その変化を留めるというよりは 砂の一粒一粒の落下を通じて絵を描く問いと その為のデータを執拗に探究して行くことなのだろうか
メキシコ国境に近い砂地でロケされた『ローガン』や『ブラッド・ファーザー』の砂面の色彩や砂塵の雰囲気は ドラマを重く 硬く 密なものにするという点でドラマの発生地として機能していた これも亜種の砂絵(画)と言えるだろうが 中西の場合 そうした意味に還元されるのではなく その都度砂の重さを量る=秤量することから始める よってこの砂絵制作は ひとつひとつの事物の重さ=重大さを秤量することの重要性を推し量ることでもあるのだろう それは 人生に於ける あらゆる日々の実践のなかにおいて起きることでもある
中西の弧がすべて同じ方向に同じような円を描いてさざ波を立たせる水のそれに似てくるのは 更に晩年だが 既に砂絵の段階でユニークな線を見いだしているように私には見える
敢えてその線に似た映画をあげるならば 黒澤明の『天国と地獄』だろうか 三船敏郎演じる金持ちの主人公は序盤 我が子と運転手の子どもの誘拐を取り違えて身代金を「出す・出さない」の問答を抱える 目に見えない天秤に苦しむ主人公を見つめる周囲も 妻以外は何も話さない 話さないことで状況を見つめる眼は まるで砂時計の落下のように静かだ 『どん底』同様 劇伴音楽などかかる余地がないくらいに静かなのだが終盤 誘拐犯を特定した刑事は 犯した罪の重さに見あった罰を犯人に与えるように天秤の平衡を徐々に傾ける 話さないことで状況を見つめていた眼が語り出し 貧乏な犯罪者を死刑へと誘うこの映画は ドゥルーズが言うように「社会の頂点の提示と同時に社会のどん底の探査が必要なのは大形式の大きな円環を描くためである」としたら 中西が砂絵にこめた「問いのデータ」もまた 白と黒の砂絵の狭間に橋のような天秤を架けてそこに水平線が生まれることで沈静化される 黒澤の『天国と地獄』のクライマックスの橋の場面のような天秤…と喩えたらよいか
この砂絵は 模倣可能などころか 中西の指示書に沿って砂絵を描くとは 絵は 中西の側にもそれを真似る者の間にもないかのような何かなのだとしたら…絵とは誰のものなのだろう?
そうした静かな眼が欠けている作況の映画を評価することとは A級的球体とB級的破片とを秤で量り それはすべてのもののなかの重みを天秤にかけることでもあると言えるのではなかろうか
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mothermonika15 · 7 years
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四季とはほとんど関係のない映像と音響とを手当たり次第繋げた、ベン・リバースの『つれづれ』は、16ミリフィルム・スタンダード・サイズに相応しい被写体を連続させながら、四季を縁取るかのようだ。 冬の日蝕にはじまるのは、「ゼウスがひとたび太陽を暗くされた日にはもはや不可能なことなどない。野獣が海豚と餌食を交換したとても驚くに値しない」と語った前7世紀の詩人・アルキロコスの語る「あべこべの世界」を思わせる。栗鼠の人形に栗鼠が本物だと思って触れあうまでの可笑しな場面はどうだろう。場面が秋になると無人の室内をワンショットで尽すCG風のキャメラワークに目眩を覚えてくらくらする。気がつくと、四季とは一見無縁な視覚的体験が酌み尽くされて、時の推移をめぐる諷刺の定石ができあがるまでの20分間こそ“thing”(原題で、もの、知らない国の人、災害、自然の現象、という意味)なのだと気がつく。
リュック・フェラーリの代表作『プレスク・リヤン』もまた四つの章からなる作品で、それぞれ日常生活で聞かれる音がごく自然に配置され、海辺の一日を数十分にまとめていた。音だけの経験であるはずのこの作品は、聞く人と共通する経験の記憶を喚起するという点では、レコーディングという映画との共通項をもつ。フェラーリの時代はほぼテープだが、それぞれの録画(音)に対する経験的な意味附与では、今現在、ベン・リバースがフィルム媒体で行っていることと「同じ」ではないか。 記録された媒体が作品化されるということは、演出という作為以上に収録状況や機材、または映写や再生状態の種類や質といった媒体に、その内容が大きく寄りかかるからだが…。
風よ お前は四頭四脚の獣 お前は狂暴だけに 人間達はお前の 中間のひとときを愛する それを四季という
とはフェラーリではなく、彫刻家・砂澤ビッキが「四つの風」について触れた文章だが、ビッキのこの野外彫刻も既に三本が倒れ土に還りつつある。
ベン・リバースの映画もまた、生きているものが衰退し、崩壊してゆき、それを更に再構成してゆく過程を文字通りフィルミングする。光の明滅は映像に保たれ、フィルムは緩やかな時を経てやがて酸化し、朽ちてゆくだろう…それは四季をくぐり抜ける“thing”のようにも思われ、フィルムの明滅と消滅、再生のドラマには、輪廻と非時(ときじく)の生命の意識とが息づいている。 いつの日かベン・リバースも、フェラーリやビッキのように自然との目眩く性交の瞬間をフィードバックするだろうという予感があるのは、彼のフィルムはそこまで連れ出されているからだ。
散文的な映画とは、フレームを基準に事物の相互関係を整理することだとしたら、フレーミングの恣意性や事物の多数性を気にならなくさせ、描写された世界の全体を直接的に経験させることはパゾリーニに倣って「散文的な映画のフレーム」と言えるだろうか。
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『エル・マール・ラ・マール』は16ミリフィルム撮影の力を伴って、まるで「物体X」と化したメキシコ国境地帯を透視する。 『つれづれ』にはルイス・ブニュエルが、『エル・マール・ラ・マール』には「ジャニー・ギター」が唐突に流れ、フィルムに陥没点をもたらしているのは、映画の恩寵でもあるだろうか。
可愛いあの娘と別れ ふるさとはるかに離れ 今日も旅を続ける おれの背にこのギター 古びたギターよ 真赤な夕日にさそわれ つまびく思い出のメロディー
命を賭してまで不法入国をして北米に行こうとするとは、その対立が決して対等のものではない証だ。 価値において北がつねに勝利をおさめるならば、南では洋服も買えないほど前近代的貧困の記号がソノラ砂漠のあちこちに点在する。 日本の本州ほどの広さのある砂漠には不法入国の中途で棄てられた衣服の数々が映し出され、砂塵によって見失われた足跡痕や暗闇の恐怖がフィルムの黒味に音声としてのみ重ねられるとき、ドキュメンタリーやフィクション以前のシネマトグラフとは、何かが起きる条件を作り、そこにキャメラを向け、いやむしろ、キャメラがなければ決して起こりえない現象を、シネマトグラフは「無意識」から盗みとることがよくわかる。しかもメディアが生まれた最良の状態としてのフィルム媒体で記録された「恩寵の瞬間」が…この二作品には横溢しているのだ。 更にモンタージュは、整理することで埋もれたアングルを浮き上がらせる…とりわけ、ベン・リバースの『つれづれ』は、彼一人の心身で抱えることのできない日々の生と時間のただなかで、四季を非全体的に見極めずに見ているところが見事だし、トランプ政権が国境に壁を作ると宣言し、世の中をかき乱し続ける以上、その事実を完全に切り離すことは、たとえ実験映画という枠であっても不可能なのだと『エル・マール・ラ・マール』は90分を3つの章に割って呟いているようだ。 メキシコの砂漠地帯が、まだ完全には組織化されていないように、シネマトグラフにおける四季もまた、制度としてのモンタージュが、映画の外部のイデオロギー(四季)と歩調を合わせてスキップを踏むことはない。再びパゾリーニの定義に戻ると、「ポエジーとしての映画」があるとしたら、ベン・リバースや難民の眼を通じて見られた、おそるべきこれらの光景のなかから陽炎のように浮かび上がる神秘的な一瞬なのかもしれない。 越境性を封じ込めるのが政治だとすると、ある種の映画(制作)とはそこから逸れて行くものなのだと、九日間に渡り繰り広げられた「イメージ・フォーラム・フェスティバル2017」(京都会場)で数人の「おかしな観客」と共に改めて確認できた次第だが、私が求めたその一瞬に、誰が気がついたのだろうか。
フェスティバルの合間に、札幌芸術の森へ撮影で出掛けた私は、更にその撮影の合間、芸術の森美術館で開催中の展覧会「旅は目的地につくまでがおもしろい。」を覗いた。間延びした地方色の作品が点在するなか、ダイハツの軽自動車が館内に置いてあり、フロントガラス越しに壁に投射された映像が見える仕掛けは、ニール・ハートマンというスノボー映像を専門とする作家による作品だった。車内に入り寛いで30分程度映像を眺めていると、車内も気になりはじめて、それぞれ大きめサイズの荷物を積載したラゲージにはザ・ノース・フェイスのグローブや、天井にはウムラウトのボードが吊るされていた。ロケのときには撮影機材やバックカントリーのギアが満載されるのだろうか、寝袋と共に一人旅をしながら、これらの映像を撮り続けてきた人なのだと思った。フレームというよりスノボーやスケボーの滑走と液状化したかのような映像は、山岳ドキュメンタリー『MERU』同様、登山やスキーへの愛とそれら用品に完璧な等号を引いてしまうシニスムと同時に、人間と大地との通常の関係が滑っている。大地が少しずつ撮り手(ハートマン自身)の言語を食い破って蠢いてくる気配すら映し出す(『MERU』の場合は雪崩も映るが)。
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人間が機材の運動を模倣し、物の運動と化して滑り降り/よじ登ること…まるで自殺に向かって純粋完璧な物化が許されているかのごときこれらの映像は、軽量なデジタルカメラでなければ撮れない尺と速度と角度だが、とりわけハートマンはそこで人間が絶対確実に死ぬとは限らない点もよく知っている。
メキシコのソノラ砂漠、マッチの炎すら見ることのあたわぬ完璧な暗黒の向こうに、二つの力で��かれた国境という線をフィルム映像に想像し、一方、白い雪で覆われた場所には、あらゆる線を覆い尽くしてしまう自然の威力をまえに歩行とは違う抜け道を知った人間の運動が生まれ、映し出される(しかも彼のデジタルカメラは国境を軽々と飛び越えて滑り出す)。
言い表しようのないものを現わす言葉ではない言語活動を想定するならば、『つれづれ』も『エル・マール・ラ・マール』も、或いはニール・ハートマンの映像も、シネマトグラフ(或いは「ポエジーとしての映画」)と呼んで差し支えないだろう。 それらはフィルムであろうがデジタルあろうが前方に投影される。作者とうりふたつの異邦人の心の内にある感情を、外部の対象の内にあるもののように感じとる傾向とは、まさに人々がロード・ムービーに求めてきた夢であり、巨大なスクリーンに投影された像の内に観客が同一化する感傷の仕掛けは、古今東西変わらない。
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製作に176億円かかったと言われる巨大な傑作『美女と野獣』と、個人制作されたそれらの映像との差異は、消費される速度のあまりの違いだろうか。ディズニーの金の詩人たちが作った『美女と野獣』と、戦後フランスで『天井桟敷の人々』をつくったプロデューサーと特異な詩人とが威信をかけた『美女と野獣』に同じ愛が通っていても、その違いを常にやわらげ、同化させるのも資本の力なのである。 自分は傑作であると表明しているようなディズニー版『美女と野獣』があり、一方、『エル・マール・ラ・マール』は、難民たちと同じ眼差しを想像しながら、自分は取るに足りないもの、使い捨てにすぎないものだと表明している。あまりに完璧すぎて抜かすわけにいかないディズニーの傑作が世界中でヒットしてすり減る一方、ベン・リバースの16ミリフィルムは映写機にかかる度に形を成していく。技巧の粋を集めた前者に対して、とりわけ『つれづれ』は、愉快にわが道を進んで行き、どろどろと流れていく季節が、ポンと切り取られては“thing”に戻る。
愛、すなわちポエジーにおいては、雪は一月の雌狼ではなく、春の山鳩なのだ。
神々は隠喩のなかにいる、不意の隔たりに取りおさえられたポエジーには、監視のない彼方が付け加わる。
ルネ・シャール「ポエジーについて」
追記:両国で小さな上映会を準備しているときに届いたジョナサン・デミ監督の訃報。デミ監督は人々に民主主義の意味を問い直す数少ないアメリカの映画人だ。私はデミの遺作から、昨年大きな歓びをもらったばかり。きっと向こうで甥のテッド・デミと映画の授業を始めていることだろう!
以下にデヴィッド・バーンが記した追悼の言葉を抜粋しておきたい。
彼はドキュメンタリーや音楽映画もたくさん作っていて、ドキュメンタリーは純粋な愛からの産物だった。それは無名のヒーローを讃えるものだったんだよ。ハイチの農学者や、いとこで活動家の牧師、ハリケーン・カトリーナ後にニュー・オリンズで前代未聞のことを成し遂げた一般の女性といったね。劇映画も音楽映画もドキュメンタリーも、多くの情熱と愛に溢れていた。彼は時折、特定のジャンルの映画も非常に個人的な表現へと変えてみせた。彼の世界への視座というのはオープンで、あたたかく、活気とエネルギーに満ちていたんだ。彼はガンが寛解したのを受けて、今年はテレビ番組を撮影していたんだよ。
ジョナサン、僕らはあなたを惜しむことになるでしょう。
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mothermonika15 · 7 years
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映画は日夜つくり続けられている。 アカデミー賞に選ばれる映画もあれば、それとは無縁の優れた映画も無数にある。 言葉は大抵がカテゴリ付けだから、ランクも生まれれば、カノン作りにも貢献する。スクリーン上で起きたことやリアリティーと、それは違うことを、映画という「実体」ほど感じさせてくれるメディアは少ない。 では、イメージを用いたところで何が表現できるかというと、それはイメージそのものというより、もはや実体と言えるものに近づかざるをえない。 それがダンスであれば肉体だが、多くの場合、イメージは肉体を写しとることができない。何かを皆踊っている…その程度の描写力しか映画にはない。同じように、音もまた映りにくい対象だろう。 しかし時に、それらが乗り移る(写る)ことがある。 その瞬間、それぞれのイメージは固有のものとなり、完全に独立する。ここ最近で見た映画だと、小田香のドキュメンタリー作品がそうだった。 キャメラをもった小田の行動はリアリティーの源となり、イメージは2つの異質な領域を跨がる。それはサラエボと関西だったり、地上と地下を往き来しながらリアリティーが調和してできたものとも言える。 労働する肉体は言葉の外にあり、言葉から離れて行くから興味深いとも言えるが、労働によって肉体を消耗させるかわりに肉体の実在それ自体(つまり実体)に密着する観点を小田のキャメラには感じる。
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リアリティー同士は異質であればあるほど結びつきは強くなる。自国と他国、過去と現在も編集を通じて坑道のように抜けることがある。坑道の中では、身動きひとつひとつの間合いがすべて自分のものとなるように。 逆に結びつきのないリアリティーは引き合う力が少なく、通常の劇映画は物語でそれをフォローする。映画館にかかる劇映画の多くはここで言うイメージを生まないとも言える。 イメージとはだから弱いもの、それが真実であるがゆえに弱く、でも、真実だけがすべてを決めるのではないがゆえに、映画産業も生き延びてこられた。 マーティン・スコセッシの『沈黙』のラスト20分間、ロドリゴの妻(黒沢あすかが好演)の沈黙は必ずしも沈黙ではない。ロザリオをロドリゴの手のひらに入れることで、伝えたかったそのイメージは告白の如く、スコセッシの愛の徴にも見える。 宗教というより信仰というものがあるとしたら…あのようなイメージを帯びるだろうか。 内側にある凝固して固まった死体のイメージと、外側から翳される手の貧しさとに…。
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小田やスコセッシは内と外があっても、時間としてそれが連続していて穿つ穴(手)を知っている。これらの映画が、何処かで黒澤明の『どん底』が持ちえる高い抽象性に接近しているのは、外に出て終わるという物語性よりも、世界の「どん底」にして吹き溜まりに空間を設定しているからかもしれない。 最近、原民喜のドキュメンタリー映像を制作した。その作品の終盤で、元・近代文学同人で作家の中田耕治さんの発言を収めることができた。中田さんは民喜が自殺する一ヶ月以内に宴席で会っていて、その席での民喜の手のひらのことを昨日のことのように話された。 それはまるで、人生における死の契機を、死を覚悟するときの優しさを、貧しく清らかな持たざる手が伝えたかのようなエピソードだった(そのことを私にそっと知らせてくれたのは詩人の野木京子さんだ)。 この中田さんの語り(言葉)は、言葉になり難い瞬間が言葉になったとしか思えない。 戦後、民喜が生きた世相は厳しくて冷たかった。世の中とは気まぐれで、理不尽なことも多く思いどおりには行かないのは今も昔も似たようなものだろう。先を見通すことも難しく、それでも詩人は見果てぬ夢を追い続ける、そして過去を振り返る。 一番深い感動をもたらすもの…それは過去(シネマ)だ。妻に先立たれた戦後の民喜にとっては妻・貞恵との生活がシネマ(過去)であったように…。 果てしない時の流れのなかで、作家には未来も過去もなく、今の自分がすべてなのだとしたら、何があろうと変わることはない自分を知り、世の中と妥協しない。遠藤周作が書いたロドリゴはそういう意味で作家自身ではない。人間の弱さと共にあり、スコセッシがこれまでの映画で追いかけてきた「どん底」の人々の生き写しのようだ。 自分たちが抱えている悩みや苦しみ、迷い、願い、��いこと、悲しいこと…それら実体のないわれわれの煩悩を認め、映画化すること。煩悩も含めて、ありとあらゆるものを肯定する精神が密教だとしたら『沈黙』のロドリゴは赤狩り時代のエリア・カザンのような転向者で弱者であり、一見、棄教した人のようにも見えるが、信念を喪うことはなかったことがラストシーンで暗示される。原作にはないこのイメージは「踏み絵」を踏んだ以後の人生…「あの日」からの原民喜がそうであったように混沌とした暴力的な世界からの実存的な離脱であり、それは必ずしも解脱ではないだろう。黒澤の『どん底』のラストが、藤原釜足の首吊りで終わり、三井弘次が「折角の踊りを、ぶちこわしやがった……」とつぶやき、柝の高い瞬発的な音で終わるのと、『沈黙』で葬儀の日に黒沢あすかが叩き割る茶碗の音とは対比的な「離脱音」だ。
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命懸けで音楽に入り込んだ間章ならば、この「離脱音」をどう聴いただろうか。 青山真治監督の映画『AA』の中で、ルドルフ・シュタイナーの研究者の高橋巖が間章との出会いから「自分の存在が廃墟なんだ」と語り、1978年に32歳で夭折した間章と、1951年に46歳で自殺した民喜とは「自分の中に廃墟を抱えたもの同士の共同体」という異質な生き方以外に共通項はないが、償うことができない罪(廃墟)を過剰に背負って生きたその姿は何処かで交錯する。7時間半のこのドキュメンタリーの「廃墟」を思い出すとき、私が作り上げた原民喜のドキュメンタリーに如何に影を落とし続けてきたかを今にして思うのだ。10年待って…その余波はたどり着く。
この映画でインタビューをしているのは間章と同じく新潟生まれの大里俊晴だが、彼もやはり自分を護らない批評を書き続けた数少ない音楽批評家だった。 制作から10年後に再見して初めて知ったのは『AA』の録音の一部を小沢靖が行っていたことだ。灰野敬二の盟友である小沢さんと私は、リュック・フェラーリが再来日した際に、一週間毎日のように会話し、仕事を協働した。たえずフェラーリの横に居てコンソールを触り続けた小沢さんの手が不失者の手だと知ったのは随分と後なのだが…そんな小沢さんや大里さんやフェラーリの手は既にこの世にはない。 人間が集団になったら本当の手を見せないように、自分の魂のそばに手を置くような生き方をソーシャル・ネットワーク上の人間は問う必要がほとんどない。そこで喋っている人たちがどれくらい人間的に成熟した人なのか…他者を受け入れられる人なのかがよく見えないままルール(カテゴリ)が先行する。 森友学園や辺野古の問題のように、知らない間に決められたルールに従うかのような手応えを無くした空間から構成される権力は至るところにある。権威はしばし道徳と補完しあい、『沈黙』のように宗教的な戒律と一体となって人間の行動を内面から縛る。近代西欧の主体の観念によって作り上げられた拡大する自己像としてのソーシャル・ネットワーク空間の世界性の中から離脱する『沈黙』や小田香の映画が何を目指し、原民喜や間章が言葉を通じて書き残した「どん底」を検証することが常に求められているとしたら、それも「映画の仕事」だと改めて思うのだった。 ロドリゴも民喜も間章も…映画では死の瞬間は描かれない。小津がそうであるように、映画は死ぬ瞬間を積極的に見せないこともある。『どん底』の首を吊った役者のくずれのように、死して息を吹きかける…鏡が曇るとしたら、混沌としたこの世界はまだ在り、死して離脱した彼らはイメージを実体としてこちらに投げ返す…『沈黙』の妻が一瞬エリザベス・テイラーの如く不穏に見えるのも、イメージ(ロザリオ)を与えたつもりが返ってきたからだろうか。 名演の左ト全が『どん底』の中で言っていたではないか…「死んだ者は、何もしないよ……怖いのは生きてる奴さ」と
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死体に与えたロザリオが、リビング・デッドとしての妻の「しるし」だとしたら…。
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mothermonika15 · 7 years
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秋の収穫
1. 今は正しくあの時は間違い/Right Now, Wrong Then(지금은맞고그때는틀리다)
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2015/韓国/121分 監・脚:ホン・サンス 演:チョン・ジェヨン キム・ミニ
ほとんど「気狂いピエロ」の域に達したホン・サンスの畏るべき傑作 とりわけ主演女優への陶酔が映画に夢の厚みを与えて これまでのパターンに亀裂が生じている
2. 手紙は憶えている/Remember
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2015/カナダ・ドイツ/95分 監:アトム・エゴヤン 演:クリストファー・プラマー マーティン・ランドー
モーリッツ・モシュコフスキとワグナーを弾くときとのプラマーの姿勢の違いや 老優対策か手持ち早撮りキャメラを使ったエゴヤンの選択眼が 老優と老いぬ歴史の現在形を捉えて離さない エゴヤンの演出は既に威風堂々の域にある
3. エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に/Everybody Wants Some
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2016/アメリカ/117分 監・脚:リチャード・リンクレイター 演:ブレイク・ジェナージェイク ゾーイ・ドゥイッチ
これはゲイ・フィルムに見えないゲイ・フィルムなのかもしれない 控え室で主人公の頭がお尻に打ち 帰省していた選手が廊下から入ってくるところのタイミングと芝居とは奇跡的なワン・カット デビュー作とほとんど変わらない作風は「6才のボクが、大人になるまで。」を地で行く持続的な映画作りの凄み��あり 絶妙な音楽のミックスレベルと朝帰りの欠伸とが映画に動と静の落差を与えて流石
4. ひと夏のファンタジア
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2014/日本・韓国/96分 監・脚/チャン・ゴンジェ プロデューサ:河瀬直美 チャン・ゴンジェ 演:キム・セビョク 岩瀬亮 
胸がキュンキュンする映画とはこういうもののことであろう 同じ俳優がドキュメンタリー部とフィクション部に出るということは どちらもでっち上げられた時空間ということだ 「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」の複雑さから映画に単純さをもぎ取って勝利する本作のヒロインたちが歩く五條市ロケが見事
5. 五日物語 3つの王国と3人の女/Tale of Tales(Il racconto dei racconti)
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2015/イタリア・フランス/133分 監:マッテオ・ガローネ 演:サルマ・ハエック バンサン・カッセル
張りぼての作り物(メリエス的)な世界にイタリアの民話を用いた家族の生臭い物語は 餌の撒き方が図太くて笑える 伏線の張りぼて感に無理がなく 役者も頑丈で頼もしいという意味で「デッド・プール」やセルジオ・レオーネの映画と並ぶ下品さに至る好ましい仕上がり
6. フランコフォニア ルーヴルの記憶/Francofonia
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2015/フランス・ドイツ・オランダ/88分 監:アレクサンドル・ソクーロフ 演:ルイ=ド・ドゥ・ランクザン ベンヤミン・ウッツェラート
失敗作かもしれない 「痛ましき無関心」のようなコラージュ作品であり 「ひと夏のファンタジア」や「五日物語」のようなミックス作品でもあり 大戦期に美を擁護した人々へのレクイエムとも捉えられるが 飾られている美術の多くは戦争が生み出したものという皮肉・・・現代における美の収蔵庫たる美術館の数々が「スター・トレック」のエンター・プライズ号の如く難破するあたりは いくら収集してもし尽くせない美をめぐる問題を炙り出すようでもあった
7. 湾生回家/Wansei Back Home
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2015/台湾/111分/ 監:ホアン・ミンチェン
「悲情城市」の前史を扱う台湾日本統治時代の日本人の個の歴史を通じ 歴史の傷を“台日人”たちが抱き合う 特に 笠智衆に似た冨永勝さんと香川京子似の家倉多恵子さんの まるで桃源郷を眺めやるような眼差しが 過去を今に甦らせる それらを丹念に追う監督の眼差しは 台湾からも日本からも同等の距離感を保ち 貧弱な実在性の中で現実を記録することの名誉を守っている点に好感を抱く
8. スター・トレック BEYOND/Star Trek Beyond
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2016/アメリカ/123分 監:ジャスティン・リン 演:クリス・パイン ザッカリー・クイント サイモン・ペッグ
「湾生回家」と同じく台湾出身の監督がハリウッド・メジャーで撮った力作 脚本も書いたサイモン・ペッグの言う通り アメリカの新大統領ドナルド・トランプを批判するかのようなEU対トランプ的な図式以上にヒカル・スルー役のジョン・チョーや美しいゾーイ・サルダナの活躍が嬉しい マイノリティへの眼差しが貫かれ カーク船長とスポックとの関係にホモセクシャルな含みを忍ばせるなど 船の傾きに人間の恋の傾斜を重ねて見事だった
9. 高江-森が泣いている
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2016/影山事務所/64分 監督:藤本幸久、影山あさ子
国が翁長沖縄県知事を訴えた辺野古埋立承認取消違法確認訴訟の判決が出て国が勝訴した 異常としか言いようのない事態までの局地戦をレポートしたシネ・トラクト 人間とはいかに間違った責任感を負わされ現場に立つかが500名近い警察官の顔から見えてしまう 高江を守る人々が弱い生き物だとしても 局地戦を闘う彼等の意気軒昂の不滅性に胸を掻きむしられずにはいられない
10. 湯を沸かすほどの熱い愛
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2016/クロックワークス/125分 監・脚:中野量太 演:宮沢りえ 杉咲花 オダギリジョー
杉咲花の描く林檎の色彩と影が印象的だ 今年の主演女優賞は「花芯」の村川絵梨だが 本作の杉咲花や子役たちは別な意味で素晴らしい 映画は後半になればなるほど失速するが 反復する赤と青のテーマ オリジナル脚本で勝負した本作には映画技術の向こうに一本貫かれた「熱い色」があった それに応えたかのような杉咲の演技は 「ブルーに生まれついて」のイーサン・ホークの如く「青さ」のドキュメンタリーとなっていた
選外(オフ シアター)
・グンナール・ヘデ物語/The Blizzard(Gunnar Hedes saga)
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1923/スウェーデン/74分(17fps) 監:マウリツ・スティルレル 演:エイナール・ハンソン、マリー・ヨーンソン
スウェーデンの畏るべきサイレント映画 この傑作に他言無用
・甦る文化財-表装の技術
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1985/京都府文化財保護基金/48分 制作・脚本・演出:山下賢治
最高水準の文化映画 修復技術とは絵画行為に近いということが見えてくる ノンモン(無音)を駆使した編集がとくに素晴らしい
・ホームズマン/THE HOMESMAN
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2014/アメリカ・フランス/122分 監:トミー・リー・ジョーンズ 演:トミー・リー・ジョーンズ ヒラリー・スワンク
トミー・リー・ジョーンズの未公開の新作 苦み走ったエンディングは近年の西部劇で最も反アメリカ的な雰囲気をまとっているだろう
ワースト
・この世界の片隅に 2016/東京テアトル/126分 監:片渕須直 声:のん
この過剰さは許しがたい 絵の好きなのんきな女の子という主人公の環境は 高射砲の絵具 タンポポ 白鷺 花火 コトリンゴの歌声 と過剰なまでのイメージで埋めつくされて 映画は必然的なショットが見出だせないまま終わりを迎える ほぼ同じテンポの編集と俯瞰ショットは気味が悪いとさえ思った このイメージの過剰さに怒り心頭しない人はすこし鈍感かもしれない
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mothermonika15 · 7 years
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12/09
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ルイス・ブニュエルと画家のサルバトール・ダリが共同監督した「アンダルシアの犬」という1927年につくられた短編は、今、東北で撮影している土方巽「犬の静脈に嫉妬することから」の短編小説(!?)に、最も近いのではないかと思う。
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ブニュエルや土方にとって、夢と現実は地続きで二分できなかったのではないか・・・と思っていたら、スウェーデンのサイレント映画を見ていた折、眠りのなかに夢が存在しないとしたら・・・と仮説を立ててしまった。 仮に、それが「アンダルシアの犬」の最初の場面に出てくるような眼の中にあるとしたら・・・夢のような異郷に立っている人に見える風景とは、絶えず切断された眼によって組み立てられた夢なのだろう。 「現にあるものを見る」ことが夢なのだとしたら・・・そうした舞台作品、とりわけダンスやバレエというよりも端的に“オドリ”と呼んでいい、ダンス・ビジネスとは交ることのない「舞踏(オドリ)」を見た。
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一つは日暮里d-倉庫での公演「翻案 犬の静脈に嫉妬することから」、もう一つは「余目」と呼んでみたいダンスカルチャー庄内町が行った森繁哉演出・振付の舞台(【第一場】阿部利勝ソロダンス「内藤秀因と私」、【第二場】佐藤あゆ子舞踊詩「折口信夫に寄り添って」と記されているが、実際はその二場は逆で更に立体的な舞台)だ。
小林嵯峨が自ら振付、演出を手がけた「翻案 犬の静脈に嫉妬することから」は、土方巽の短い文章からインスピレーションを得た二時間に及ぶ大作で、二部構成からなる印象を抱いた。奇しくも森繁哉らが作り上げた世界も、二つの円の隣接、右目と左目の同心円の重なりから、何が見え、何が消失していくのか、という光景が立ち上がるかのごとく紡がれたものだった。 余目という、折口信夫が詩にも書いた場所性、そして、内藤秀因という洋画家が生まれ育った庄内平野が“オドリ”という、言葉を介さない動作として鋭く造形化され、朗読が空隙を縫う。 不思議なのは、此処における“風景”とは、ダンサー自身の背景や舞台装置、実際の窓向こうの借景ではなく、まるで異郷の如く遠ざかっては近づき、掻き立てる三次元だったことだ。 例えば、阿部利勝が踊るボレロとは、絶えず四季は移ろい、生まれ変わりの途中なのだと言わんばかりに、循環そのものがテーマだった。 阿部の皮膚が感じたままの季節の移ろいを彷彿とさせるグルーブ感が、ラヴェルの楽曲と微妙なズレを生じさせ、庄内の小動物が外来の西洋の音階とは相容れずとも、足の縺れた愉しげなダンスを踊っているような、圧巻の15分間を見せてくれた。
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阿部利勝(写真提供:本間聡美)
森繁哉が演出した同心円からは出てはいけないという制限が、かえって、円から出ようとする人間の動きを見えるものにしていた。ボレロの踊り手・阿部にはその円と等価の空間(円筒形?)の真っ只中、とりもなおさず中心であろうとする意識から出来るだけ離れることを余儀なくされる・・・遠心力が働くことによって。
憂きも/ひととき/うれしくも/思い醒ませば/夢侯よ/酔い侯え/踊り侯え
閑吟集
それが右目の風景なのだとすると、より不器用な左目は佐藤あゆ子のオドリである。佐藤の幼年期については何も知らないが、言語化される以前、イマージュのようなものとしてそれらが存在し、感覚と通りすぎた過去が交錯しているかのような折口信夫のイマージュの奥に、剥がし得ない被膜のようなものがあるとしたら・・・そこに至ることの果てしない距離との格闘は、佐藤という「オドル子供」の中に押し黙る反重力の中の真実を、じっと不動のままに振動させているのだった。
踏み板から踏み板へと歩いた 心してそっと 頭上には星 そして 足の下にはたしか海 知らなかった もう一足が最後の一インチになることを・・・ この危なげな足取りこそ 人の経験と呼ぶもの
エミリー・ディキンソン
物語と呼べるような確固としたものが構成される以前の、何か知れない未発生の時間。かたちのない記憶を掴もうとして掴み切れない佐藤あゆ子。そんなもどかしさをもまとめて舞台にカミングアウトすることを後押ししたのは、宿神のように影となり光の基ともなった加藤由美の反射光があったからだろう。デュオというより宿神であることに徹した加藤の「月光」(ドビュッシー)は松村知紗の生演奏と共に、この公演の扉を叩いた。 ボレロのときもそうだが、ふたりのオドリのときの庄司大也の照明は特に素晴らしく、都市では先ず見かけることのない、暖かい色調のライティングと緩やかなフェードが効いていた。 しかも、佐藤の庄内という地方への異和感と、阿部の親和感を左右に立体メガネで見た風景は、振付にある突風によって立っていられなくなる庄内平野の追いつけない風の中で、自転車に乗った少女の傍らでシャンソンやフランス音楽の音色が交ざり合い、極端に民俗(民族)的なものが遠さゆえに一致する瞬間でもあった。一瞬が大地を穿って穴を空ける、その風穴を響ホールという円形空間に委ねて・・・円形空間の中に左右の同心円が重なるところ、それを“異郷”と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
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小林嵯峨(写真:谷川俊之) 自分の身体が犬になるような速さと遅さ��比率を類似や類推とは別の手法で作り出す独創的な振付で土方巽は、身体の諸パーツを弟子たちに感じさせていたのか、犬に比べたらこの地球上で人間がいかにしょうがない動物かを彼はよく知っていた。助け合わず、あらゆることで喧嘩ばかりしている生き物のなかで、もっとも処置なしの人間の性(サガ)を、否定するのではなく、「何かの生まれ変わりの途中」なのだと思える性(セイ)が未だ生々し残るのは嵯峨たちの舞台だろう。花嫁が誕生以前の肉体だとしたら、その衣を脱ぎ捨ててはじまる舞踏(会)が、今回の公演の入口で、田んぼの堰を長靴で歩いて行く花嫁という、何とも可笑しなイメージは、かつて小林嵯峨が土方から伝授されたものだと言う。 更に「私のからだの着換えが始まっていた」とは「さなぎ」の闇を通過する嵯峨の(土方さんに)毀されている時間なのだろうか? ・・・生殖器以外はドロドロに溶けているあの「さなぎ」は、まるで東北の赤ん坊が入る「いづめ」のような、どこか中有的な参籠体験に似て、乳を垂れ流して子供を養っているようにも見えた。 その直前、嵯峨を含めた「私の子供が育っていったのだ」とでも言いたげな重い眠りから覚めた3人の(原子)女と、犬になった花嫁のエネルギーの偏りは、この舞台に傾斜(クリナメン)を与える見せ場で、マンタムが手がけた循環する水の小道具も鮮烈な此処は、名付けようのない場面だった。 あえてその名を預かるとしたら友川カズキの
人とて詮ない肉片なり フランシス・ベーコンはるかなりけり いつかおぼろげなハグをした 軽きに空をちぎって見せる パウル・クレーの欲深き指は 甘美な鳥の爪跡か 名も無き民の暗号か
になるだろうか
心臓とは別に、爪は爪で単独で生きている・・・最後の指のオドリは、死体や眠りを踏み越えていく新たな舞踏体のようでもあり、見えない翼(マント)をもった鳥女が舞いながら、まんまと「ストリッパー」になりすましたかのような體の中への亡命をキタシテいた。 小林嵯峨の中には、黒い羊と小鳥とが同居しているとしか思えない。
また、ピーター・ガブリエルによる『バーディー』のサウンド・トラックのごとき平石博一による音楽は・・・舞台の印象を現代に置き換えて「さなぎ」からの変成体、飛翔への夢を加速度的に描写していた。マンタムが造り上げる空間の高さが奈落を喚起させたならば、『バーディー』で體を損傷した夢が飛翔の夢へと浄化されたように、平石の音楽と併走する嵯峨の踊りー  ダ・ヴィンチかクレーの(欲深き)指が爪の沈黙まで含めた「私も踊りたい」という欲求、高所から飛び降りることのなかったマシュー・モディンの聡明な眼差しの如く、夢の切断をクリアにするこの音楽は、アラン・パーカーの『バーディー』と共に、音楽で充たされた舞台を、まるで反転された夢(夢には決して音楽はない)、音楽なくして生まれ得ない夢の夢が実現された一篇のサイレント映画として奏でていた、と言っても過言ではないだろう。 そうしたサイレント映画に見える風景とは、全部夢だとも言えるだろうか。悶々と過去を引きずる現在進行形の絶望感(ニヒリズム)ではなく、「望みを断つ」ことによってのみ開けてくるカミングアウトに関わる別種の「絶望(救いのなさか?)」があるように、この二つの「舞踏」公演は、風景や夢とは本来的に切断を要請するものであることを再認識させてくれる。
折口信夫によれば、古代人は常世から来る神人を迎えてその加護の下に生活していたという。死者と生者とは子供の夢の内でのように生きた交りをする。小林嵯峨や森繁哉にとっての死人(しびと)もまた、どこか遠い所にいて、そこから自分たちを見守ってくれている人たちなのだとしたら、ここでは死は存在しないということができる。
いま、邦画や「暗黒舞踏」が疲弊しているとしたら、そうした夢をもてない寂しさが起因しているように思うのは、私だけだろうか。
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mothermonika15 · 8 years
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2016年 夏��収穫
1. 影たちの対話/Dialogue d'ombres 
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2014/フランス/28分 監:ジャン=マリー・ストローブ
なぜカットが割られるか? 仮に空間が譜面だとすると歌詞がときに大事なときがあるように 空間が分割されベルナノスの「歌詞」を ゆっくりと低い声で ときに歌うように喋る そして最後にプラージュが開ける
2. ジョギング渡り鳥
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2015/Migrant Birds Association/157分 監:鈴木卓爾
見ている人を見ることはできるが 聞いている人を聞くことはできない 一言でいえば そんな映画だ
3. 花芯
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2016/東映ビデオ、クロックワークス/95分 監:安藤尋 演:村川絵梨 安藤政信 林遣都  花は綺麗なのではなく 熱い このヒロインの花とは 熱い この映画は カットが切り替わるごとに 女心が変化し シーンが閉じるごとに 熱さを増す映画とみた
4. シング・ストリート 未来へのうた/SING STREET
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2016/アイルランド=イギリス=アメリカ/106分 監:ジョン・カーニー 演:フェルディア・ウォルシュ=ピーロ ルーシー・ボーイントン ジャック・レイナー
106分の快速球 海を超える養護施設で育ったルーシー・ボイントンが『はじまりのうた』のナイトレイよりも遥かに綺麗だ デュラン・デュランの「リオ」からオリジナルまでを歌う少年たちが自分自身を拝んでいるようなところが好ましい
5. ハドソン川の奇跡/Sully
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2016/アメリカ/96分 監:クリント・イーストウッド 演:トム・ハンクス アーロン・エッカート ローラ・リニー
超資本主義社会の真っ只中 いかにして相互扶助が成立するかを描き 空撮を撮らせたら右に出る者のいないイーストウッドは N.Y.が都市ではなく湾の一部であることを証明する 緊急着水の瞬間の姿勢やかけ声 シュミレーションは日本社会にはない厳密さだ
6. ゴーストバスターズ/Ghostbusters
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2016/アメリカ/116分 監:ポール・フェイグ 演:クリステン・ウィグ メリッサ・マッカーシー ケイト・マッキノン レスリー・ジョーンズ クリス・ヘムズワース
「檻に入れた幽霊」と言ったのは三島由紀夫だったが 映画が劇場でかけられている限り 観客は檻に入れられているというオリジナルの持ち味をリブートした佳作 「オデッセイ」といい原子力社会と共に生きるアメリカのメンタリティ全開
7. AMY エイミー/Amy
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2015/イギリス/128分 監:アシフ・カパディア
マスコミが人格に焦点を当てすぎることで 論点がずれていく エイミーは何を探し求めたんだろう? 彼女の虚弱さと短い生涯について言えること…彼女が生の力の中に見たものや彼女を打ちのめしたもの
旧作
・ 若い川の流れ
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1959/日活/127分 監:田坂具隆 演:石原裕次郎 芦川いづみ 北原三枝
田坂具隆のロマンチック・コメディ 代表作『陽のあたる坂道』よりもこちらが俄然いい 『Helpless』真っ青の奇妙な遊びに充ちた導入部から伴奏する佐藤勝の音楽や 三面鏡のまえの芦川いづみが余りにも神話的だ
・ 誇り高き挑戦
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1962/東映/89分 監:深作欣二 演:鶴田浩二 丹波哲郎
佐治乾の反米脚本が冴えている どこか日活多摩川的な深作の演出は 田坂具隆から阪本順治にまで連なるものだが そのリアリズムの視点が脚本を活性化させ 左翼的な雰囲気に収束させないアクション映画を生んだ アンジェ・ワイダは本作を見ただろうか
・ 1985年の土方巽
スタジオ200で行われた『東北歌舞伎計画』と小川伸介の『1000年刻みの日時計』での土方の6分ほどの映像を繰り返しみた 最晩年といっていい土方は 「姉さん」とキャメラに向かって誘惑し 動くまえから既に踊っている 芦川羊子が余りに凄い前者では 単一視点(観点)のキャメラがオドリを捕えて放し記録映像として見事で この傑出した舞台を伝説のまま遺し得た 暗黒舞踏とは北しかない
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mothermonika15 · 8 years
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2016年 春の収穫
別格. 久高オデッセイ 第三部 風章
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2015/日本/95分  監:大重潤一郎 製作:鎌田東二 音楽:新実徳英 助監督:比嘉真人 語り:鶴田真由 久高島の旧暦を見つめる間は 大重映画の時間との再会の愉しみを噛みしめていた 初めて見るかのような 一瞬写った車椅子上の大重潤一郎さんに いつまでも手を振るのは一年のほとんどを洋上ヨットで暮らす家族たちだが 大重さんのキャメラ・アイは「いってらっしゃい」と漠然と永遠を見つめるかのように遠くというよりはこちらを見つめている
彼はニライカナイを見ている 名前を呼ぶことなく こちらの此岸を指差し命の尽きた樹とその脇から芽を葺く新緑を 幸福そうにキャメラが名指す
ニライカナイとは此処(地球)にあったのだ
美よ前にあれ 背後にあれ 頭上にあれ 眼下にあれ 全ての美よ僕を囲め
マイケル・チミノの遺作『心の指紋』で主人公・ブルーが祈祷師に教えられた「美の詩」は 大重さんの遺作にも響き渡るだろう ニライカナイの美があるとしたら 癌に冒されたこの體の恐怖と共にあるという意味で
僕は映画監督・大重潤一郎を見たことはない 僕が知っているのは車椅子に乗っている見知らぬ老人 彼に比べて若造の僕は サングラスをかけて暗い様相 重そうな車椅子 隣の詩人が「よう名調子」と囃し立てた 通天閣で共に過ごしたわずかな時間だけが記憶の破片として残る
そのときは偉大な映画『久高オデッセイ 第三部 風章』を作り始める前で 彼が大阪から発つ直前だとは知らず 僕たちがそれ(来るべき映像)に守られていたということが今でこそわかるが  当時の僕に知る由もなく 今野和代さんだけが知っていた
大重さんは少しずつ静かに朽ちていったのだろうか 何も語らず築き上げ 伝え残した価値が ゆるぎないものであることを認識していたのだろうか その不在も常に謙虚さを保ってきた人生の過程だったと思えるだろうか
彼がたどった映画渡世は規則正しいものだったとは言えないかもしれないが 自分の遺言をよく理解していた この遺言には 平凡な中にも生きていることの証がある 彼の足跡が標されている
背広を着た男たちの唐突な踊り 久高島留学センターの子供たちの海水浴 戦前の島の生活を描いた絵 そして毎日の祈り 風の中には島の様々な空気が仕舞われて 場所と時節がバランス良く調和していることを僕は見つけた 久高島に嫁いだ女性とその家族 島民 そして訪れて去るもの すべてが織り込まれていることを 島に吹き付ける命の風が 波や軒や草や人を揺らし踊らせ「音楽」に成るのだと 大重さんのキャメラは目に見えるものを通して 何か空気が動く瞬間をつかまえる そこに開けっ広げの恐怖があるからこそ 彼ら島民の生活は正確なのだ 久高島に寄せる津浪や台風の恐怖は「自然との共生」というその猛威に心許せる人たちを育み 植物や昆虫 生きものの成長を永遠にとどめるキャメラは まるで島のファントムのような印象だ
大重潤一郎は島民ではないが 大勢の中の一人である
車椅子に腰掛け 常に彼を導いてくれた空気というか 気配に身を委ねているこのオデッセイを見たとき それが決して諦めではないということが僕には分かった
2015年7月22日 恍惚と彼の旅は終わった 久高島が彼の存在そのものなのだ 大重潤一郎という島に命の風が葺こうとしている
1. 緑はよみがえる/Greenery Will Bloom Again(TORNERANNO I PRATI)
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2014/イタリア/80分 監:エルマンノ・オルミ プロデューサー:エリザベッタ・オルミ 撮:ファビオ・オルミ 演:クラウディオ・サンタマリア アレッサンドロ・スペルドゥーティ このエルマンノ・オルミの途方もない傑作に言葉は不要だが あえて書くとするならば これは歌の映画なのではないか 冒頭のCanzone Napoletana“なんと美しいことか 山の上にある月は”が素晴らしい 月夜の稜角を見つめているうちに愛する人のことを想うその歌声を 見えない敵国であるオーストリア軍から称賛を受けながら 何故こんな平和が無残にも破壊されてしまうのか・・・国境や徴兵制を持たない日本では想像すらできない 国境線上における休戦時の「幸福」とは ナポリの歌だった ジャ・ジャンクーの秀作『山河ノスタルジア』では中盤 離婚して親権を奪われ幸福でなくなったチャオ・タオが 歌詞が出てこない と歌えなくなる場面があったが オルミもまた 歌が身体的な状態に深く関わることを知っている 爆撃を受ける前兆を感じながら「何かが起きる・・・」と緊張感の中を佇んでいるのは 人間ではなく 落葉松と動物たちである その落葉松が砲撃で黄金色に燃え上がり輝くシーンに 思わず涙した その落葉松が焔で燃え上がるのを見つめている兵士の何とも言えない表情に また涙 隊長がインフルエンザで発熱する身体で口にした言葉の真実性は 若い中尉の耳には どんなふうに響いたのだろうか 隊長の代理を言い渡されたその瞬間「わたしには荷が重すぎます」と断るにもかかわらず 押し付けられて・・・即刻退去の知らせを受けて 兵士たちを送り出した前任者の言葉「数ではなく 一人ひとりの名前を知らせよ そして死者を葬り・・・」という叫びにも似た命令に 深い沈黙が過る 母に送る手紙に書かれた一節を読む中尉 「一番難しいことは 人を赦すことですが 人が人を赦せなければ 人間とは何なのでしょうか?」 というオルミ的なとしか喩えようのないクロース・アップのキャメラ目線に息が詰まった 原題は「再び緑になるだろう」という意味だろうか それは同時に すべて緑に覆われてしまい この冬ここで起きたことは 忘却の彼方に消えて 何も残らない・・・忘却と隣り合わせの哀しさそのものと化した そんな偶景へとわれわれを誘ってやまない
2. ホース・マネー/Horse Money
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2014/ポルトガル/104分 監・撮:ペドロ・コスタ 演:ヴェントゥーラ・タリナ・ヴァレラ
どのように映像を加工しようとも 100%の割合を分割してそれ(一枚のスクリーン)に収まるように映像を重ねていくのだから 平面に映像がごちゃごちゃオーバーラップで重なっても 映画の中ではそれほどいい効果をうまない 絵画を模した絵画的な映像は 映画での場合 フレームとの関係で非常に制限される ペドロ・コスタは本作で 映像を重ねること サイ���を変えることを積極的に選ばない 同じ枠を持つセザンヌはふたつとはないが 小津安二郎のすべての作品は同じ枠(スタンダード・サイズ)を保っており 本作もまたスタンダード・サイズだ 何が言いたいか 映画の自由とは絵画とは別のところに見出される 逆に 優れた映画人・コスタは常にこの制限を意識し それを受け入れる オーソン・ウェルズのロー・アングルの仰角ショットは常に恣意的であるが しかし そうすることで物語の内側に別の自由が見つかるように 写真の場合はどうだろうか キャパやドアノーは 意味を持つ主題を写すことから出発したが コスタが冒頭に引用した19世紀初頭の写真は意味を必要とせず 作家性を排したものだ その 最初のカットが映し出される長さの厳密さこそが 後続のカットの長さを正当化する 或いは モネが光と呼んだものと ポルトガル人が光と呼んだものとは違うように とりわけ翳りをまだ一度も学んだことがないかのように 本作は光を遮る とりわけ南蛮美術と呼ばれるものは ポルトガル人から伝わったものであり アラブ 或いは 中国の美術に 私自身は翳りを見出だすことは出来ない 本作にも ほんのわずかだが 光を感じることはある…それはヴェントゥーラの赤いパンツ姿と夜の路上 エレベーターのメタリックな壁に反射した翳りとしての光沢だ しかし ムンクの「叫び」にあんな高値がつくように 映画には高値がつかないのはどうしてか ムンクには大衆が認める何か深遠なものがあるに違いないが ムンクの「叫び」では 不安におののく人物とその人物の見ている光景が おそらく同じ画面に描写されている 画中の人物の見ている不気味な光景を 自分の目で見ることを通じて 画中の人物の不安を 自分の不安のように感じる これは現実にはありえないし ジェームズ・ワンの快作『死霊館 エンフィールド事件』の水を口に含んだ少女の姿がアウトフォーカスのなかで悪魔の独白へと変わり それを録音するパトリック・ウィルソンのアップの同一画面のように あくまでホラー演出効果になってしまうだろう 昨今は映画ないし映像に対しての感情や情緒がすっかり薄っぺらく成ってしまったように感じるのだが・・・ ホラー映画のようにエクソシストを恐怖感と共に演出するわけではないコスタは ついに狂ってしまったヴェントゥーラのつくり話を 嚇しでもお涙頂戴でも決してない 奇妙で凄まじい傷痕の永劫回帰として描く そのゆるやかな 非現実ともいえる空間がわれわれのなかで現実と交錯しながら積み重ねられ また 「退く」ことによって 登場人物がますますはっきりして来るのが凄い 本作が平和や平成からもっとも遠い所以は ヴェントゥーラの手の震えから続いているとみられるからだ それは現実にはほとんど掴み得ない「かくれた政治的な意味」(ベンヤミン)の震えだろうか 結婚式の様子を撮影し その写真を整理しないように 目を凝らさねばならないような結婚式はなくなった すでに 最初からしてその男女には視点がなく むしろ 日用品としてのiPadやiPhoneは 人々の手中に収まってすべてを凌駕したが 少なくとも 偉大なヴェントゥーラの記憶は 安っぽい携帯には納まらない まるで一個のリンゴや静物のアスパラガスのように 音声と化したその個人的な記憶の中に テレビやiPhoneの映像よりも強力なイマージュが実現されているのを見出すとき それがたとえ敗者の記憶であっても 自由奔放に広がったり深まるものであるという点では 生々しい「現在形」であることには違いない そこが ナンニ・モレッティの『母よ、』との いちばんの大きな違いだろうし 短編『スウィート・エクソシスト』が全く異なった印象の編集によって 新たな鼓動を本作で獲得した所以だ
3. ハリウッドがひれ伏した銀行マン/Hollywood Banker
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2014/オランダ/82分 監:ローゼマイン・アフマン 演:フランズ・アフマン ケビン・コスナー ガイ・イースト
70年代半ばから90年代前半にかけてハリウッドの独立系映画(私が初めて親に連れられて見た洋画『キングコング』はアフマンが最初期に携わった映画!)に融資していたロッテルダムの銀行マン・フランズ・アフマンの映画渡世を 娘のローゼマインが撮った 生涯で二度は撮れないドキュメンタリーの逸品 この作品はゴダールの『映画というささやかな商売の栄華と衰退』に匹敵する(或いはそれ以上の)産業映画の表と裏を捉えて見応え充分だ マルタ・アルゲリッチやピーター・ブルックの子供たちが撮った特権的な親子ドキュメンタリーとは血筋が違い ある時期の映画製作がどのようなものであったかを 具体的な発言を丹念に積み上げて検証する一方 家族からは夫/父の虚栄心 有頂天で舞い上がる様子が訥々と語られる 映画産業の夢と現実を潜り抜けて地上から去りゆく銀行マンの映画への情熱が 娘に乗り移る過程は まるで自我に目覚めた3才の娘によって描かれた無垢な絵のようで胸を打つ 北米で映画がショー・ビジネスと言われる所以を損ねることなく「映画とは金だ」というハリウッド・バビロン像を見事に浮かび上がらせ 同時に砕く そんな見世物世界にあって 夢を追った映画人たちを見て浄化される逆説に震えた 映画を見て浄化されたのは何年ぶりだろうか
4. 団地
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2016/日本/106分 監・脚:阪本順治 演:藤山直美 岸部一徳 大楠道代 石橋蓮司 斎藤工 ひとつの物語が同時に無数の物語へと介入することを躊躇わない映画・・・ 四次元空間が団地の傍の森から通じているからか 宮沢賢治や『コクーン』が過る 確か淀川長治が阪本順治を“モダン・ミゾグチ”と呼んだことがあって 本作から死人と生人とを結ぶ宇宙線が見えるという点で 淀川さんの「予言」は当たっていた 『顔』のときは藤山直美も中村勘三郎も 舞台演技が強く 過剰な後味を残したが 大楠道代が圧倒的に良かった その印象は本作へも至り その大楠への演技面でのリベンジとも言うべきか 素晴らしい岸部一徳の引力圏内で見事に力みのない藤山直美が映画への「間」を開花させている このヒロインは 阪本映画の中では『カメレオン』の氷川(現・水川)あさみくらい素敵だ 空間を限定するセット撮影の魅力を駆使した川島雄三の『しとやかな獣』が晴海団地に見えないように 大阪の郊外の話に違いないのに そこは大阪ではないような時空間の曖昧さも魅惑的で 同じくSF仕立ての園子温『ひそひそ星』との一番の違いは 時空との聡明な距離感であるだろうか 阪本の映画/世界は遂にドラえもんの境地に到達したとも言えるだろう
5. 父を探して/The Boy and the World
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2013/ブラジル/80分 監:アレ・アブレウ アレ・アブレウのブラジルのアニメーション映画 空を冒涜しない と言わんばかりの手描きのスカイラインが見事だ ブラジルではルセフ大統領が最大180日間の職務停止に追い込まれて8月開幕のリオ・デジャネイロ五輪を前に政治の混乱は深まる・・・地元メディアによると過半数が事前に弾劾裁判への賛成を表明しているらしく実質クーデターが起こってしまったとみていいが友人に聞くと汚職が暴露されないための大統領降ろしらしい 大変な事態となっているブラジルの政争は ブラジル側で操作された報道を鵜呑みにしたニュースしか流さない日本と同様に メディア自体が数人の資本家によって掌握され「政権の腐敗」という口実の裏で一体何が起きているのか この映画のラストがアニメーション作品では珍しく告発的なトーンになっているのはブラジルの現実感から来るものだろうか ジブリとは違い 突然実写を挿入するあたりは テレビやアニメーション映画からほとんど見かけることのなくなった不気味な気配や「穴」が感じとれた 父(国の長)探しを軸とする本作は グラウベル・ローシャから続く反体制の狼煙とその矛盾をも描写して 不在の父の孤独を旅しているようだ
6. 教授のおかしな妄想殺人/Irrational Man
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2016/アメリカ/95分 監:ウッディ・アレン 撮:ダリウス・コンジ 演:ホアキン・フェニックス エマ・ストーン ウッディ・アレンの新作は まるで自らの罪滅ぼしを虚構に仕立てたような物語で 端正なキャメラで全編そつなくまとめられ老獪の極みだ メル・ギブソンが『パッション』を イーストウッドが『アメリカン・スナイパー』を撮ったときのような まるで赦しを乞うようなトーンと書けば大袈裟だが・・・フィクションはドキュメンタリーとは違って 自分を込めることができてしまう・・・セレブはこれだから困るとも言えるか アレンはホアキンが演じた大学教授みたく二股をかけて奈落に落ちたかったのだろうか アレンは確か還暦前に 連れ子 実際戸籍上では娘にあたる十代の娘のヌード写真を撮ったことを当時の妻 ミア・ファローに見つかったことが原因で離婚したと記憶する そののち 当時7歳だった養女への性的虐待問題疑惑も続けざまに取沙汰された エレベーターまえでのエマ・ストーンの衣装とキャメラ位置と役者の振り付けは ロリコン丸出しだと思ったのは気のせいか アカデミー賞を撮ったカトリック告発映画ではないが 典型的な幼児愛好家らしく 自らの問題までもヒッチコック調(『疑惑の影』)のコメディにしてしまうのが 今のアレンの強味なのだ 映画をつくるためには若くなければならない と言わんばかりのリズミカルな編集(テンポ)は ラムゼイ・ルイスの名曲で しかも スコセッシの『カジノ』同様 ワシントンD.C.の「ボヘミアン・キャヴァーンズ」での熱気溢れるライブ録音を使用している 観客の拍手や掛け声 手拍子などが盛大に収録されている臨場感が 常軌を逸した大学教授のテンポを決めてそこは流石だ
7. ディストラクション・ベ��ビーズ
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2016/東京テアトル/108分 監:真利子哲也 演:柳楽優弥 菅田将暉 小松菜奈 『団地』同様オリジナル脚本のこの快作は 真利子哲也が本領を発揮した「戦闘の光景」だ 日本でオルミの『緑はよみがえる』のような本当に恐ろしい戦争映画を撮り得ないとき 原作ものの消耗品映画の範疇におさまらず はなればなれになった孤児の兄弟の彷徨する日々を撮ることの意味は 決して小さくはない 愛媛県松山市にロケした映画なのに イラン映画『友だちのうちはどこ?』を思い出した ナイーブというか殴り殴られるという極小の「意味」だけが キアロスタミの“友だちのノートを返さなければならない”というひとつの「意味」と重なる 菅田将暉が延々と続ける話の停滞感が 暴力を不気味に弛緩させ 柳楽とのあいだに不気味な齟齬を生むのがスリリングだ あと小松菜奈が素晴らしい(単純に好みか) 導入部の兄弟を隔てる入海の完璧な距離感が 孤児的な漂流をことのほかきわだたせながら 物語ではなく画面へとわれわれを引きずり込むだろう
8.(旧作) デルス・ウザーラ/ Dersu Uzala
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1975/ソビエト連邦・日本/141分 監:黒澤明 撮:中井朝一 演:ユーリー・ソローミン マクシム・ムンズク 多くの劇映画では移動撮影で俳優を追いかける しかし 何本かの劇映画ではキャメラを固定して動かさないで撮るのはなぜか これは説明しがたい問いだが 黒澤明ならばその決定は無意識的なものと応えるだろうか おそらく虚構との結び付きからではなく 史実(実在したデルス・ウザーラ)を題材とした手仕事から生まれる被写体に対しては「動かし過ぎる必要はない」となるのではないだろうか その点 本作はネオリアリズモの流れを汲むと一先ず言える この作品が70ミリフィルム(公開は35ミリ)で撮影され ほぼ全編固定かパン撮影 後半がワンセット・ドラマなのは 重すぎるキャメラの移動を最小限にするためであって 70ミリフィルムは回転と同時に札束が廻るような音がする・・・70ミリからデジタルや4KやIMAXの登場を強調する技術的進歩の歴史観とは 産業としての価値付けのなかで育まれた商業的な虚構に過ぎないように思えるのは この札束の気配があるからだろうか しかし本作は 重量級の固定画面が連続する黒澤の老年期の傑作であることは間違いない
9. ルシア/LUCIA
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1968/キューバ/160分 監:ウンベルト・ソラス 音:レオ・ブローウェル 演:ラケル・レブエルタ エスリンダ・ヌニェス アデーラ・レグラ このキューバ映画には圧倒された 『ルシア』は蓮實重彦の小説ではないが スペインからキューバが独立する戦争を背景に 男を翻弄する侯爵夫人の恋がはじめに描かれ 1960年までの三世代のルシア(別の女優が演じる)を活写する 血生臭い戦闘場面は 『ワイルド・バンチ』以降の腕だけのペキンパーでは撮れない生々しさがあり キューバが血を流して国民国家(像)を獲得して行ったのがよくわかる 近代になればなるほど男女の恋の駆け引きはつまらなく家庭的なおさまりになってしまうのも 文明のひとつの側面かと思ってしまった
10. レボルシオン革命の物語/HISTORIAS DE LA REVOLUCION
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1960/キューバ/87分 監:トマス・グティエレス・アレア 撮:オテロ・マルテッリ セルヒオ・ベハル 演:エドゥアルド・モウレ リリアン・ジェレーナ 本作はロッセリーニのようにリアリズムに根ざした傑作 日本ならばさしずめ大島渚の『青春残酷物語』に匹敵する新しいキューバ映画の幕開けを感じさせる 1960年の記念碑的作品だろう 『戦火のかなた』のキャメラマンのオテロ・マルテッリを招いて撮影したのは とりわけ 市街戦の場面で画面の躍動感もたらしている 前半のイタリア映画風の室内劇 中盤の森というか断崖で サミュエル・フラーも真っ青な革命軍のゲリラ戦から サンタ・クララでの市街戦に至るまでのタイトな画面構成が まるでマグナムの記録写真から抜け出たかのような客観性を登場人物たちに与えている アレアは 学生時代に増村保造と映画談義をしたのだろうか
選外 サロメの娘 アナザサイド(in progress)
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2016/charm point/70分 監:七里圭 演:黒田育世 長宗我部陽子 飴屋法水 七里圭の映画は限りなく実験に近づく 実験を繰り返しながら 現実にはこちらの身体がどんどん弾かれていくが ゴダールのように視聴覚が拓かれていかないのは何故だろうか “コンセプト”とは極めて都市的なものだ OL(重ね合わせ)を繰り返され 学生たちが登場するワンダーフォーゲル部の場面の準備体操で彼らは一つのパッケージであるかのように 何を生きようとしているのか という点では ペドロ・コスタの短編に出てくる貧民たちの体操とは違って 学生たちには「動こう」という意志が薄弱だ デジタル技術ですべての環境音を加工されると 却って均一化した印象を抱くのは私だけだろうか 池田拓実の弦楽器とは別の檜垣智也による全体的な音響効果は 言葉の変換を招き入れ 言葉に審級をつけるとすれば その落差(エフェクト)は何のために必要なのだろうか? という疑問が残った 菊地成孔が音楽を担当した佳作『機動戦士ガンダム サンダーボルト』が劇伴ではなく劇中音楽であるように 登場人物の誰かが必ず聴いている音楽=言葉のヘイズコードなき『サロメの娘』は アニメーションの音声に限りなく近づきながら どちらかというと器楽曲の末裔のミュージック・コンクレートを映像付きで聴かされたような感触があり 2wayのスピーカーにはあまりにも音がトゥーマッチだ 映像も 園子温の『ひそひそ星』と同じくらい正面構図が多く 高さや拡がりに逸脱しようがない分 OLが増えてカット数が多いがショットは喪われ コッポラの『ドラキュラ』やストーンの『ナチュラル・ボーン・キラーズ』のような過剰でありながら説話に沿った編集というわけではないので単に映像過剰で 黒田育世のダンスも映りにくい 一瞬 馬に合わせて左にパンして留めたショットには「映画」を感じた・・・が 離婚して離れて暮らしている父親だろうか それとも 別の父親なのか 飴屋法水の佇まいは映画評論家の吉田広明さんそっくりな感じがしたが もしかして 七里圭が唯一愛着をもって撮った役柄かもしれない 子役の娘(口紅?)と大人になった彼女らしき女性が多層的な空間に投影され あくまで別々の俳優に見えて 役をこちらが想像力で補うことになったのは 演出家としては落第はしたけれど 実験としては成立するのが 今の七里の映画的な欲望なのだ 思考の始まりが 既に都市的のなものだとしたら 上映とトークの組み合わせは コンセプトに監督やゲストのドヤ顔に拍車がかかる気もしてしまい 作品全体が生気を失って悪循環する批評のように見えてしまう不幸は オピニオンを求めてしまう人間の病理だと改めて考え込んでしまった
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mothermonika15 · 8 years
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2016
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