Tumgik
mooran170 · 1 year
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私は私であって彼氏さんではない
私の身長は170cmだ。小学6年でこのサイズに達したときは恐竜のようだったかもしれないが、今は私より背の高い女性も珍しくないし、周囲の目を気にして背中を丸くすることもとんとない。いや、むしろ女性なのに170cmも身長がある、といった考え方がもはや時代錯誤だ。男性とか女性とかそんなことはもうこの令和の世ではどうだっていいのだ。
たしかに「いつかこんな人になりたいな!」と憧れてきた人は、ザ・ドリフターズのいかりや長介、三国志の張飛翼徳、前略おふくろ様の梅宮辰夫や室田日出男、とパッと思いつくだけでもおじさんが多い。おじさんになりたいなりたいと強く願いすぎたのか、これまで、道端、デパート、道場、病院、警察、役所、カフェ、ライブハウスなど、あらゆる場所で実によく男性と間違われてきた。こうも頻発すると誤解をそのままに笑って受け流す余裕も出てくる。第一、年を取るとおじさんはおばさんみたいになっていくし、おばあさんはおじいさんと見分けがつかなくなっていくので、そのうち私の時代がやってくると思うと気持ちも軽くなる。
しかし男子トイレにいざなわれたり、女子更衣室で悲鳴をあげられたり、男性専用のお店に引っ張り込まれそうになったりすると、そうもいかない。自分で「私、女性なんです」と言わなきゃならなくなったときの、あのなんとも言えない時間。「えっ」という顔。いやすいません、そんな驚かすつもりはないんですよ、それに実はこう見えてかわいらしい一面もあってですね。
なぜこんな私の歴史では何度もくり返されてきた古典のような話を今さらしているかというと、数日前に自分が自分の彼氏と間違われてむちゃくちゃ怒られる、というちょっとむちゃな事件が起こったからである。
***
私の住む家にはベランダがない。その代わりに玄関の外に洗濯機置き場がある。晴れた日の気持ちの良い午後に、洗濯機の上にドリンクを置いてヘッドホンで音楽を聴きながらちっちゃく踊っていると、お隣さんが玄関から出て来た。
「あ、こんにちは〜!」
返事はない。あれ、聞こえなかったかな? と見守っていると、
「こんなところで何やってるんですか」
怒っている。
「最近、ものすごくここに入り浸ってますよね。夜中に来たりして、うるさいんですよ。いったい何の仕事してるんですか!」
何を言ってるかよくわからないが、めちゃくちゃ怒っていることだけは伝わって来る。たしかに私はものすごくガサツなところがあるとよく人に言われるし、こないだも夜中にグラハムセントラルステーションを歌いまくった。まずい。
「す、すいません! うるさかったですかねえ」
「うるさいですよ!! 夜中の2時とか3時とかに出入りして! 彼氏さんですか? そんなことしたら、ここに住んでる中原さんにも迷惑がかかるとか考えないんですか?」
「え」
「こんなに頻繁に入り浸って、大家さんに言いますよ」
「いやあの、私ここに住んでまして」
「それ、大家さんに言ってます? 不動産屋さんとかにも言ってないんじゃないですか?」
「ええとそれは言ってまして、その、私が中原なんですけども」
「私、中原さんとはご挨拶したことあるんで知ってるんですよ。中原さんは女性の方でしょ。そんな嘘ついたってダメです!」
「えっと、私がその、女性の中原です」
「・・・!?」
またあの顔だ。絶望したかのような「えっ」という顔。そしてその後は逆に何度も謝られ、おかげで私のこれまでの蛮行も若干うやむやになり、お互いに笑顔で別れることができた。半世紀かけて培って来たこの見た目が私を窮地から救ってくれたと言っていい。
しかし、アメリカではユニセックスのトイレがあると聞くほど世の中はジェンダーレスになっていっているはずなのに、「いや、私は女性なんです」と自分で言わなければならない局面というのは、こうも突然に訪れる。
気を抜くと自宅の中でもバンバンものにぶつかり、そしてぶつかっても気にせず、恐竜のように振る舞ってしまう悪いクセを細心の注意で抑えつつ、そーっと暮らし始めたが、こんなに24時間気をつけ続ける暮らしはそう長くは続かない。そうだ。むしろ隠れるのはやめて出て行こう。今度お隣さんを洗濯機前のお茶会に招待しよう。そうしよう。
しかしその前に明日はライブだ。この悲しみをウキウキするリズムに変えて、みなさまにお届けする気でいっぱいだ。どうぞみなさん、ジェンダーレスな双六亭を見届けに来てください。
2023年4月8日(土) Lazy Saturday Afternoon Vol.12
島へ行くボート 双六亭
OPEN:18:30 / START:19:00 CHARGE:前売り¥3,500 / 当日¥4,000
Live Cafe BENTEN 新中野 http://benten55.com/top.htm
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mooran170 · 2 years
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花笠男まかり通る
幽霊のたぐいが見えるほうではないが、何かしらのサインを勝手に受け取って妄想を膨らませ、ビビりまくるほうではある。そしてお店で注文したうどんやお好み焼きや味噌汁にやたらとゴキブリが入っていたり、初めて会うコンビニ店員に口に出してないのに欲しいものを目の前に出されたり、さして力を入れてないのに玄関のドアノブがもげたり、フライパンの取っ手が折れたり、ファスナーの持ち手を握りつぶしたり、と何かのサインを受け取りがちなほうでもある。
いきなり話が逸れたが、私のバンド、双六亭の曲に「花笠男」というのがある。何度かリハーサルをして「やー面白い面白い」となり、すぐにでもライブでやろうと言う話になった。
しかしこの新曲、なぜかリハーサルで準備したにも関わらず、本番ではやらずに終わることが多かった。実際に客演でやったのは一回か二回。新曲をやると誰かしらからか良くも悪くも「新曲は◯◯だね」と何がしかの感想を言われることが多いが、花笠男については、誰にも何も言われなかった。たしか池袋のFree Flow Ranchでやった気がするが、派手に登場して大見得を切った花笠男が、拍手も浴びずに客席の間を去って行く寂しい背中を見た気がした。なんかごめん、花笠、という気持ちでいっぱいになった。
そして月日は流れ、「次のライブで何やるー?」というときに、花笠男は話題にも上らなくなり、リハーサルでもやらなくなった。しかし花笠男は、リハーサルのスタジオにいつも準備万端の格好で座っていた。なんなら寝坊しがちな私よりも先にスタジオに来ていた。しかし声がかかることはなく、バリっとキメた格好のまま、リハが終わるとなんとなく片付けには参加して、そして帰って行った。
ジェームス・ブラウンのライブでは、ドラムが数台組んであり、JBに指差されたドラマーがその場で叩き始める、というのは有名な話だ。何公演も指差されないままセッティングだけを続け、すっかり気を抜いていたときに突然指差されて、すぐに反応できずに罰金の上クビになったドラマーがいるとかいないとか。ソウルトレインにJBが出ている回で、ジャボと並んでドラムセットに座っていながら終始タンバリンのみのドラマーの目がものすごく死んでいるのを見たことがあるが、彼を見るといつも上記のエピソードを思い出して心配になる。
花笠男は、その彼と同じ目をしているが、それでいてまだ諦めてはいない様子だ。年単位でお呼びがかかっていないのに、いつ武道館に出ても恥ずかしくないような装いで、スタジオコヤーマFstの丸椅子にそっと腰掛けているのだ。まだ気持ちは切れていない。
そんな彼に、この9月、ついに声がかかった。3回続けてリハーサルで出番があり、本番の3日前の最終リハでは万全の準備をした。しかし全体の仕上がりが若干不安だということで、本番当日にもう一度リハーサルに入ることにして、我々はコヤーマをあとにした。その日のリハーサル終わりに、汗を拭いながら椅子を片付けている花笠の顔は清々しかった。
そして本番当日の昼、我々は最後のスタジオに入り、あれこれと準備をした。じゃあ今回はこのラインナップでいこう、と決まったセットリストに、花笠男の名前はなかった。
しかし花笠は本番の会場にもついて来た。万が一のことを考え、張り詰めた様子のまま、いつ呼ばれても大見得切って出ていけるように。来ているのはわかっていたが、やはり本番で花笠に声がかかることはなかった。
花笠男はちょっと変な曲かもしれないが、一度ドラムを叩いて以来、もうそこに花笠男がハクション大魔���のように出てきてしまって、ずっといる。最初に花笠男をやった日に出てきた花笠を急いで描き止めたのがコレだ(2019年)。
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いつか陽の目を見る日が来ると信じて、毎回リハにやって来るその姿がまたいじらしい。いつの日かあなたも花笠男を見かけるかもしれないが、そのときは挨拶のひとつもしてやってくれたらうれしい。
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mooran170 · 2 years
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2、3人のわたし
T大学に初めて足を踏み入れたときは、直前に見た柳宗悦の家に圧倒された気分もあいまって、「東京に出てきて◯十年、、、ついにこの地に」みたいな大仰な思いが押し寄せてきたが、自分が満を辞してくぐった門がどうやら待ち合わせの「正門」ではないらしいと気づいた辺りから、そんなしみじみした気持ちは泡と消え、せっかく約束の15分も前に着いたのに、間に合わなかったらどうしようという焦りに飲み込まれて、真っ暗のT大学内を走り回った。雪がまだ残っている校内を滑らないように注意しながら走るため、陸王を履いて走るときのような、しっかりした走りになった。
闇雲に走っていると、先ほどまで正門だと思っていた門の10倍くらいの門が見えてきた。見るからに正門らしい面構え。あれだ。あれに違いない。時計を見ると約束の1分前。助かったー!とウロウロするが、あまりにも人がいない。というか誰もいない。もしかしてどこかにこのさらに10倍くらいの門があるのかもしれない、と不安になり、門番らしき人に「あの、ここはT大学の正門ですか」と尋ねると、
「….………はい。」
と訝しげなYESが返ってきた。怪しんでいる。門番は怪しむのが仕事だ。こんな時間に大学の中から歩いてきたヤツが「ここはT大学の正門か」と尋ねるのだから、しかたあるまい。全身でできるだけ怪しいものじゃない感を出すべく、キリッと背筋を伸ばしつつ、鼻歌を歌いながら門のでかさと古さを愛でていると、約束の時間ピッタリに「中原さんですか」と約束の人が現れた。
「ミッション1:待ち合わせ」だけでもう今日の残りのスタミナを使い果たした実感をかみしめつつ、本日のメインのミッションが行われる部屋へと案内してもらった。本日のメインは、簡単に言うと、その部屋にあるドラムセットを好きに叩く、というものである。
しかしそのドラムセットというのが世にも珍しく、これからこの役目を果たす人材として白羽の矢が立つ人がこれを読まないとも限らないので、詳しくは何も言わないが、一人で演奏しているのにだんだん合奏しているような気持ちにさせる、大変珍しい代物であった。演奏時にとある莫大な制限がかかるため、自分の中から知らない新しいヤツが出てくる。その自分との「間が合う」ような瞬間があり、なんだか自分のような自分でないような人と合奏しているような感覚になる。うまくいかないと「がんばって!」なんて思ってしまう。
詳細を書かなすぎるので読んでくれている方はムカつくかもしれないが、打楽器奏者の人で、「何それ!私もやりたい!」という方がおられましたら、ご連絡ください。きっと何かが起こると思います。
妙な勧誘のような本日の日記であるが、この感じを覚えているうちに、のちの自分に伝えておこうという備忘録にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。リズムと人間の関係というのは、おもしろいもんですな。
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mooran170 · 2 years
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世界が急にやさしくなった
高尾行きの最終電車、超満員の中央線でリュックを前にかけてスマホを見ていると、どこからか視線を感じた気がしてふと目線を前に向けた。すると端の座席に座っているお兄さんAとバッチリ目が合った。
目が合ったその瞬間、お兄さんが「どうぞ!」と言ってズバッと立ち上がった。おお、席を譲るのか、えらいねえ。周りにお爺さんかお婆さんがいるのかな、と見渡していると、立ち上がったお兄さんはビカビカの笑顔で私を見ている。
「え。私ですか!!」 「はい」 「え、なんで? ありがとうございます、大丈夫ですよ!?」 「いや、どうぞ!!」 「え、なんで」 「いいから!」 「なんで、なんで??」 「早く座って!」 「い、いやそんな疲れてないし!」
と揉み合いながら押し問答をしている間に、別のお兄さんBが空いた座席に座った。
A「ちょっと! お前じゃないから!」 B「え? あ、ごめんなさい」
とお兄さんBが慌てて席を立った。「いや、どうぞ、座ってくださいよ!」と私がお兄さんBを席に戻そうとすると、お兄さんAは私を引っ張って座らせようとする。「いいから一回座ろ! 一回座っとこ!」全然よくわからないがお礼を言って座った。
しかしよく考えたら棚から牡丹餅的な幸運に恵まれているのに、なぜ私は固辞しようとするのだろうか。もしかして世間的にはもう私は席を譲られてしかるべき時代に来ていて、自分だけわかっていないのかもしれない。これまで何度か席を譲られて「いらん!」と怒るお爺さんを見かけ、座ったらいいのにねえ、などと思っていたが、あのお爺さんも今の私のようなキツネにつままれたような気持ちでいたのかもしれない。誰にとっても、席を譲られるというザ・デイは、ある日突然訪れるのだ。
しかしお兄さんAのやさしさはここでは止まらなかった。さらに彼はお兄さんBを私の前の空いたスペースに立っていいよ、と促し、自分はドアの前のもみくちゃスペースでもみくちゃになっている。年齢的にはお兄さんA・Bは同じくらい、もしくはBが若く見える。ちなみに、お兄さんAは若き日の辰兄みたいなキリッとした大きなつり目で、お兄さんBは濱田岳似のすっきりぼんやりした感じ。もしや知らないうちに「世界一日一善ウィーク」みたいなのが始まったのだろうか。はたまた何かの撮影か、寺山修司的に市民を巻き込んだ芝居が始まっているのか。
お兄さんAは、そのあと突然お兄さんBを飲みに誘っていたが「行きません」とキッパリ断られ、「二度と会えないかもしれないけど、じゃあね!」と颯爽と降りていった。お兄さんBが前に立ったままいわくつきの席に座っている私は、ありがたくもなんだか自分だけ宝くじに当たったみたいに若干バツが悪く、お兄さんBに「座ります?」ときいてみたりしたが、「いや、大丈夫です」と断られ、バツが悪いまま座り続けたのち、最寄り駅でお兄さんBに席を受け渡して降りた。
知らない人に話しかけられるだけで、何かウラがあるんじゃないか…!と思うようになってしまっているが、よく考えると、小倉に住んでいたときはこんな意味不明なやりとりも、知らない人と話すのもしょっちゅうだったな、とふと思い出した(そのうちの多くは人さらいだったり押し売りだったりするのだが)。今日みたいなことが起こるのは、もしかしてこの2年で人と接する機会が激減し、さすがの東京人たちもつらくなったからなのかもしれない。巻き込み巻き込まれ、押し売り押し売られ、みたいな世の中になるならば、東京も捨てたもんじゃない。
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mooran170 · 3 years
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無茶を言わないで
このご時世にこのタイトル、政権批判かオリンピックの所感か、はたまたコロナ禍の世情に対する想いの吐露か…とお思いかもしれませんが、これは私が個人的にそっと体験したバリウム一代記である。
バリウムを飲む前までの血圧やら問診やらの先生たちはみんなやさしかった。生まれて初めての体験が近づくにつれ、緊張と興奮が順調に盛り上がり、ジェットコースターの列に並んでいるときのような薄ら喜びとともに、一つ一つこなして行った。
現場となるバリウムカーに乗り込むと、前の人がゴクゴクとバリウムを飲み、発泡剤を水で流し込んでいた。コレをやるんだな、ふむふむ、と学びの喜びを讃えた目で見守った。
少し待って私の番になり、「重いのでしっかり持って全部飲み干してください」とバリウムを渡された。重い。人生史上最高に重いドリンクを半分くらい飲んだところで、「こんな重いもの飲んで大丈夫なのか」と一瞬躊躇した。「一滴も残さず飲んで!」と叱咤され、あわてて飲み干した。空になったカップを見たとき、達成感が全身を駆け抜けた。やった。私はやったのだ。
しかし残念ながら本当の敵はバリウムではなかった。次に渡された発泡剤を言われるがままに口に含み、カップに注がれた水を飲んだ。いや、飲んでいない。飲もうとした瞬間に発泡剤と合体した水が50倍くらいに膨れ上がり、「あわがががが」と変な音を出していると「どうしました!早く飲んで!」と言われるも、口の中よりも何倍もでかくなったものを飲み込めるわけがない。志村けんのように前を向いたままガバーと出してしまった。
「ああっ!!」
着ていたTシャツが発泡剤水で染まった。看護師さんは怒りながらもティッシュを渡してくれた。「ゲップしないで我慢して!そのまま早く台につかまって!」口から下がビシャビシャのまま台につかまった。
「はい、そのまま3回転してください」
部屋の中のスピーカーから、何やらイケメン風の艶やかな声が響いた。3回転? なるほど、でんぐり返りさせてさっきの液を行き渡らせるのだな。むっくり起き上がって体育座りすると、
「ああっ!ちょっと!起き上がらないで!」
慌てて横になった。スピーカーから「ちょっと、この人ちゃんと発泡剤飲んだ?」「いや少し出しちゃったみたいで…」「ダメダメ!もう一回あげて!」という小声のはっきりとしたやり取りが聞こえた。そうですよね。全然飲んでないんだもの。
「はい、こちらの発泡剤、もう一度飲んでください」 「これ、瞬間的に巨大化するので飲み込めないんですけども」 「水を口に入れた瞬間に、そのまま何も考えずにひと口で飲み込んで!」 「は、はい」
今度は水を口に含まず、一気に飲んだ。
「飲めましたね!」 「ガー」 「あっ!!ゲップ我慢してください!!」
返事をしようとすると、私の意思はそっちのけでゲップが出ることがわかった。
「じゃあもう一回飲んで」
えっ。もうこんなに苦しいのに? と思ったが、口を開くとゲップが出るので、黙ってもう一度飲んだ。「ゲップしないで!」「我慢して!!」「台に乗ったらすぐ3回転して!」
3回転問題が解決していないことを思い出した瞬間、つい口を開いてしまった。
「ガーガーガガーガー」 「あっ! ちょっと!! ゲップしないでって言ってるのに!」
ひとしきりゲップしたあと、もう一回発泡剤を飲まされる前に、「3回転ってどういうことですか。でんぐり返りじゃないんですか」と聞くと、「は!? 横にだよ! 右でも左でもいいから!」と言われた。横だった。
そのあとの私の勇姿はあえて書くまい。何か言われると返事をしてしまうクセがあり、これまでも授業や講座などで「返事しなくていいから!」と言われ続けた私が、自分一人に向けられた矢継ぎ早の語りかけに一切返事もせず、耐え忍びながら伸びたり回ったりした様子は、誰も見ていないが、歴史にはたしかに刻まれている。
しかしどうにも解せないのは、バリウム経験者たちは、どうしてこんな目にあっておきながら、その奮闘記を伝えずにいられたのだろうか。みんなバリウムの話をするときは「昔は不味かったんだよねー!」とか言うばかりで、発泡剤が50倍に膨らんだのを死ぬ気で飲んだとか、3回転は縦ではなく横であるとか、そんなことはひと言も言わなかった。
自らの戦績をベラベラしゃべらない侍しか知人にいなかったために、私のバリウム体験は、歴史に残る大勝負となった。もし次があれば、もう少しうまくやれるだろう。
心も体も傷ついた私は、今宵23:00からの「囲碁お見知りおきをラヂオ」で、Swamp PopとChicano Soulに身を任せ、自分を取り戻したいと思う。ラヂオって、音楽って、ありがたいもんですなあ。
双六亭の「囲碁お見知りおきをラヂオ」 第八夜  ゲスト:Los Royal Flames 2021年9月7日(火)23:00-23:30
むさしのFM 78.2MHz、または以下からどうぞ https://www.jcbasimul.com/radio/759/
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mooran170 · 4 years
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mooran170 · 4 years
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きみは海を見たか
私たちの暮らしは今、コロナと共にある。ちょっと咳をすると周囲から人がバババッといなくなり、「いや今のは鼻水が気管に入ってですね」と説明する隙もない。一時期は人と会って顔を見ながらご飯を食べることはなくなり、遠方に住む家族とは絶対的に会えなくなった。そして肩がぶつかってイラッとしたり、人に殴られたり、誰かと手をつないだりすることもなくなった。
この未体験の非日常により、2011年3月11日を思い出した人もいるんじゃないだろうか。あのとき私は、梅沢富美男が自分の車を走らせて物資をドバババと福島に届けたり、石原軍団が現地に赴いて炊き出しをしたりしたというニュースを見て、ショック死しそうになった。計画停電の情報を探しながら、明日バイトに行かなきゃいけないのかどうなのか、ライブを決行できるかどうかの連絡を夜遅くまで待っている自分と彼らとの隔たりに愕然とした。自分で考え、自分でやることを決め、自分で行動できる人になるんだちくしょうと漢泣きに泣きながら有事のときに真価を発揮する中原軍団の結成を心に誓った夜だった。そんなわけで今回、危機的状況に陥っていることを実感したときに最初に浮かんだ感想は「しまった、間に合わなかった」であった。
しかし今回、私は運のいいことに、最も世界が止まりかけていた三ヶ月の間、「おうちでバイユーゲイト」という配信番組のお手伝いをする幸運に恵まれた。双六亭がみなお店から徒歩圏内に住んでいて、緊急事態宣言直前の3月末にこちらで双六亭で配信ライブをやれたこと、配信ライブをやってみたいという相談を、あの名物店主である有さんに持ちかける勇気を振り絞ったことがサイワイしたとも言える。
今にして思えば、あんなに配信のことなど何もわからなかったのに、バイユーゲイトの配信番組をやりましょうやりましょうとよく言えたもんだと思うが、あの数ヶ月の試行錯誤と、コロナ禍で空気を吸うのも恐ろしいというムードのなか、ゲスト出演してくれたあの人、この人、毎回欠かさず観てくれた画面の向こうの人たち、そして毎回会場を作ったりバラしたりしながら、店主有さんと双六ニシイケ氏と、配信とは、ライブとは、番組とは、とあーだこーだ話した日々は、宝物のようにありがたかった。そして何よりあの異様なムードのなか、ひたひたと静かに過ぎた数ヶ月の間に生演奏を聴くことができた私は、本当に運がよかったと思う。
あとから考えるとそんなかけがえのない日々ではあったが、それでも次にいつ合奏できるのかわからないという毎日は恐ろしかった。スタジオにも入れず、ドラマーにとってこの状況はまずい、やばい、と段ボールにペダルをはめて簡易キックを作って一瞬狂喜乱舞したが、一発踏んでみたら4世帯を擁するアパート全体が割れるかと思うほどの爆音で即座に断念した。この頃、バイユーゲイトからの道すがら、嘘みたいに誰もいない通りを歩きながら、夢かうつつかが本当にわからなくなったことがあった。怖くなってEarth Wind & Fireの「September」を歌いつつ、踊りながら歩いていたら少しだけ気持ちが軽くなった。モーリス・ホワイトの顔と髪型に感謝した。
「昔、生ライブというものがあってね」といつか親が子に語っても誰も信じないような世の中になるんじゃないか、と誰かが言った。「配信なんてライブじゃない」「配信はやらない」という声もたくさん聞いた。こういう条件が揃うと演奏自体ができなくなるという事実がどうにもこうにも悔しかった。生まれて今まで、こんな絶望的とも言える状況があっただろうか、と事態におののきつつも、しかしその実、私は少しずつ武者震いを開始していた。機動戦士ガンダムのギレンである銀河万丈のような声で「時は満ちた!」と家で言ったりもした。そもそも私はちょっと興奮すると昔見た物語の壮大なセリフが口をついて出てくる傾向があるので、あまり心配しないでほしい。このとき私はこの数ヶ月で最も気が確かだった。
そう、もしかしてこれは、今まで誰に言っても相手にしてもらえず、何度やろうとしても全然届かなかった夢の番組に向かう絶好のチャンスかもしれない、と思ったのである。
さて、ここでやっと長い前置きが終わり、さあ本題に入ろうというところだが、読んでくれているみなさんもそろそろ疲れてきたことと思うので、今日はこれまで。本題の中身は、すなわち以下の番組を見てもらえればわかってもらえるに違いない。
2020年11月7日(土)20:00~ 双六亭×Berry presents 『おうちでバイユーゲイトSP with 囲碁お見知りおきをラヂオ』
出演:Berry、双六亭 スペシャルゲスト:山崎心(Sax)
番組配信URL https://youtu.be/jdkUP3QkJUA 投げ銭URL https://bayougateigoradio.peatix.com/
※本記事のタイトルは、「おうちでバイユーゲイト」からのある日の帰り道、突然脳内に浮かんできたので、何かのお告げと考え、記念にタイトルにしてみた。今の私の気持ちにぴったりである。
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mooran170 · 4 years
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渡次第です
舘ひろし
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mooran170 · 4 years
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「囲碁お見知りおきをラヂオ」と銘打って、YouTubeでラヂオ番組をやっている。2013年からやっているので、今年で7年目。毎週火曜日更新で、調子のいいときは、火曜の朝から聞いてもらえるように早朝にアップするという離れ技をやっていたときもあった。200回を前にして力尽き、ドバッと休んだときもあった。そして今、227回を前にして、また休んでいる。
小学校のときにコロコロコミックの発売日が近づくと夜も眠れず、当日になると学校帰りにお小遣いを握って全力疾走で本屋さんへ行き、帰って部屋にたどり着くとランドセルも下ろさずに読み始め、後半が近づくにつれ、できるだけ終わりが遠のくようにゆっくりとページをめくり、ついに読み終わってしまったら本をひざに置いて目をつぶって反芻、そしてまた最初からもう一回読む、という経験をしたことのある人は少なくないだろう。私もその一人である。
このオンデマンドの世に、そんな風に誰かの「待ってましたー!」の先に囲碁お見知りおきをラヂオがあるかもしれない、と想像するだけでにやにやしながら毎週やっていた。そして実のところ、おそらく火曜のアップを誰よりも楽しみにしていたのは私だった。
そんなかわいい囲碁ラヂオを更新していないと、何をしていても「私は囲碁ラヂオを更新していない」という事実がつきまとう。本を読んでいるときも、その向こうに「囲碁ラヂオ」が座ってこっちをじっと見ている。「囲碁ラヂオをアップしていないのに本を読むんですね」と言う。シャワーを浴びていると、「囲碁ラヂオはアップしないのに、風呂には入るんですね」と言う。朝ごはんを食べ終わったときには、「囲碁ラヂオをアップしていないのに食欲はあるんですね」と言う。するとそのうちに私は、初めての人に自己紹介をするとき、「どうも、囲碁ラヂオをアップしていない中原です」と言うようになる。
囲碁ラヂオは、これまでにいろんな変化を遂げてきたが、基本的には「トム・ジョーンズ・ショー」や「シナトラ・ショー」をやりたくてやっている。物語と生演奏と嘘とホントが入り乱れたい。一筋にその向こうを見つめて、ああでもないこうでもない、とやってきたが、7年やっても全然慣れてこない。いつも準備の時間が足りず、アップする直前は平野レミの料理番組の終わりのような慌ただしさ、そして火曜が水曜になり、木曜になり、というのもしばしばである。
そんな囲碁ラヂオの更新がついに止まったのは、コロナのせいではない。いや、こっそり生配信しようとして準備していたら緊急事態宣言とガッツリかぶってしまってやめた、というのは事実である。しかし、むしろステイホームとか言っている今こそ、みなさんに囲碁ラヂオをお届けしたい、今こそ、デラックス囲碁ラヂオをお届けする時がきた、今こそー!・・・と、気負い過ぎ、夢を詰め込み過ぎたのが、目下囲碁ラヂオをできていない最大の要因である。
そして今回のブログでは、その囲碁ラヂオの新たな形がやっと決まったので、その概要をお知らせしつつ、227回の導入までいく予定で書き始めた。しかし例によって、本題に入る前にこんな文字量になってしまったので、今日はこの辺でお開きである。近く始まる、壮大な歴史絵巻をどうぞお楽しみに。
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mooran170 · 4 years
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Happy Birthday To Me
スーパーマリオブラザーズというゲームがある。幅広い世代に渡って愛されている作品なので、そんなにゲーム好きじゃない人でも、マリオの顔くらいは知っているだろう。私は今思えば、スーパーマリオやマリオカートよりも、マリオシリーズ最古作の「マリオブラザーズ」がいちばん好きだった。下の階でジャンプして、ただひたすらに上の階の人を突き上げて倒すやつだ。
それはさておき、今日は私がいちばん好きだったマリオブラザーズではなく、スーパーマリオブラザーズに出てくる音楽の話がしたい。スーパーマリオブラザーズで、マリオが急に元気になって敵にぶち当たっても何の問題もなく、ものすごい爆速で進んでいける時間帯が訪れるのをご存知だろうか。あの状態が発生している間にのみ流れる、やたら明るくてせわしないながらも何かウキウキさせてくれるあの音楽。
自分の誕生日がやってくると、12:00になった途端にあの音楽が流れ始める、という人は少なくないに違いない。私もその一人である。その24時間はどんな嫌なことを言われてもスラスラと聞き流すことができ、失敗をして怒られても「ほんとは大目に見てるくせに」と思え、つまずいて転んだり足の小指をぶつけたりしても、それはまるで落としものをして拾ってくれたのが好みの異性だったというような、何かステキな物語の始まりの合図のように感じられる。
いつの頃か、せっかくお誕生日なのだから、この日は何かやらなきゃいけないことがあっても、全部先延ばしにして好きなことしかやらない、と決めて以降、それをなんとなく守っているうちに、いつの間にか「誕生日には無敵の24時間が自動的に訪れる」というルールに変わっていた。そして今年もそれはやってきた。さっき終わってしまったが。
この無敵24時間ルールが適用された最初の数年は、そのあまりの無敵さによる副作用が強かった。24時間が終わってしまうのが恐ろしく、あと2時間でいつもの自分に戻ってしまう、あと1時間、30分、5分、ぎゃああああ!というように、最後の数時間は心臓に悪く、さらに24時間が終わってしまったあとの喪失感が壮大だった。しかしここ数年はもう慣れたもので、終わるギリギリまで楽しむことができ、終わってしまっても、終わったか!またな!みたいな感じで軽快に通常に戻ることも可能になってきた。人間というのはすごいな、と思う。
久しぶりにブログを書くと、あまりにも自分のやり口の変わっていなさ具合に驚くが、上記の24時間無敵モードの話は、ほんの導入のつもりで、本題は、無断でまた休止モードに突入してしまっている囲碁ラヂオに関する壮大な計画をお伝えすることのはずだった。しかし例によって前置きが長くなってしまったので、今日の本題はまた明日…と書いて、いったい私のブログを読んだことのある方の何人がこの言葉を信じるというのだろうか、いやきっと誰も信じない。そしてその信じない人たちはきっと、誰も報いを受けないだろう。
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mooran170 · 4 years
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毎日のように書くって
これまでの人生で、数えてみれば11回引っ越している。今の家は生まれて11番目の我が家だ。翻ってブログの引っ越しはこの度3回目。そう考えるとまだまだかわいいもんだなあと思うけれども、やはり家の引っ越し同様、ブログも新しい場所で始めるにあたって前のブログの整理などを行ったりするわけで、どうしても昔の記事や写真を見てしまい、センチメンタルな気持ちになる。
住んでいた家を片付け、最後に玄関の鍵を閉めるときにガランとした室内を見渡すときのあの地獄のような切なさと比べると、ブログの引っ越しは記事をできるだけ読まないよう注意すれば、さほど傷つかずに乗り切ることもできる。しかし先ほど前のブログの写真をまとめていて、最初の投稿時にアップした高倉健の写真をガッツリ見てしまった。どういう文脈で高倉健だったのかまったく覚えていないが、突如としてぼーんと脳を持って行かれてしまった。あの写真をトリミングしてアップしたときの部屋の薄暗さと物の多さ、妙にわくわくした気持ち、健さんの写真のサイズを勝手にいじってバチが当たりそうだと思ってビビっていた感覚などがドバッと蘇った。
さて本題に戻ると、このブログのタイトルは前の住まいに引き続き「毎日のように書く」である。自分を叱咤する目論見でつけたタイトルであるが「のように」と入っているところに逃げの姿勢が見られる。そんな言い訳たっぷりのタイトルではありますが、今後はこちらで毎日のように書いて行こう。明日に向かってか、昨日に向かってかわからないが、自分に向かって書いて行こう。あしからず。
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