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若松孝二
若松 孝二(わかまつ こうじ、1936年4月1日 - 2012年10月17日)は、日本の映画監督、映画プロデューサー、脚本家。宮城県出身。本名は伊藤孝(いとう たかし)。
宮城県遠田郡涌谷町出身。農業高校二年時中退、家出し上京。職人見習いや新聞配達、ヤクザの下働きなどを経験。1957年、チンピラ同士のいざこざから逮捕され、半年間、拘置所に拘禁され執行猶予付の判決を受ける。その時の経験により後に監督デビュー作の『甘い罠』は“警官を殺すために映画監督になった”と豪語した通りに警官殺しの映画になっている。
その後、職を転々としテレビ映画の助監督になる[2]。ある現場でシナリオの改変に腹を立ててプロデューサーを殴り、その場でクビになる。その後ピンク映画の企画が巡って来た事が転機となり、1963年にピンク映画『甘い罠』で映画監督としてデビュー。低予算ながらもピンク映画としては異例の集客力をみせた。若松は「ピンク映画の黒澤明」などと形容されヒット作を量産する。若松孝二の映画作りの原点は“怒り”であり反体制の視点から描く手法は当時の若者たちから圧倒的に支持される。1965年『壁の中の秘事』が日本映画製作者連盟推薦の大映作品などを差し置いてベルリン国際映画祭正式上映作品となり、評論家による「国辱」発言などもあってセンセーショナルな騒動となったことから、若松の名前はピンク映画業界を超えて一般に広く知れ渡った。
1965年「若松プロダクション」を創設、足立正生や大和屋竺などの人材が集まる。作品は学生運動を行っていた若者たちなどから支持を受けたが、若松自身は「学生運動を支持するために映画を作ったことはなかった」と語っている[3]。自分自身が面白いと思った映画を撮っているとのこと。のちに『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮影した時は、前売り券の購入を昔の学生運動家に頼んだものの全く買ってくれなかったという[4]。
1986年には製作費6000万円を東映とで出資し[5]『松居一代の衝撃』を製作したが[5][6][7]、内容が風俗法に引っ掛かり[5]、岡田茂東映社長が警視庁から呼び出しを受け[5]、「日本の普通の劇場では上映しない」と約束した[5][6]。このため成人映画扱いを余儀なくされ、配給を変更しピンク映画の劇場で小規模上映したが[5]、大赤字を出して[5][6]、若松プロがあった原宿セントラルアパートのマンションを売って借金返済に充てた[5][6]。この後は自分が借金して映画を作ることは出来なくなった[5]。
若松作品は海外での評価も高い[8]。元ソニック・ユースのジム・オルークは若松の映画音楽を作りたいがために日本語を習得した[9]。
プロデュース作品としては、大和屋竺監督『荒野のダッチワイフ』(1967年)、足立正生監督『女学生ゲリラ』(1969年)、大島渚監督『愛のコリーダ』(1976年)、神代辰巳監督『赤い帽子の女』(1982年)等がある。
音楽ビデオクリップとしては唯一、ソウル・フラワー・ユニオンを手がけたことがあり、1998年、アイルランドにて「イーチ・リトル・シング」と「風の市」を撮影している。
時に役者として出演することもある。また、名古屋のミニシアター「シネマスコーレ」を自ら経営[10]。
連合赤軍をテーマにした作品『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007年)は、2007年8月の湯布院映画祭にて「特別試写作品」として上映。2007年10月には、第20回東京国際映画祭にて「日本映画・ある視点 作品賞」を受賞した。同年12月に、若松が設立した映画館シネマスコーレで公開され、2008年3月から全国で公開された。2008年2月に開催の第58回ベルリン国際映画祭において最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)と国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)を受賞。第63回毎日映画コンクールで監督賞、第18回日本映画批評家大賞で作品賞を受賞した。ロングラン上映後、DVDが発売された。
2010年は、寺島しのぶ主演『キャタピラー』(8月14日より全国各地の映画祭などで上映)を公開。撮影期間は12日間、スタッフ数は11人。日本での公開を前に、2010年2月20日、主演の寺島がベルリン国際映画祭の主演女優賞を受賞した[11]。観客は「戦争がただの殺し合いでしかない現実」と、「生の根源であるセックス」に引き込まれていたという。国内では11月に第2回TAMA映画賞特別賞を受賞。12月には新藤兼人賞・SARVH賞2010の最優秀プロデューサー賞である「SARVH賞」を受賞した。授賞式で「尊敬する新藤監督とこのような形でお会いする事が出来て、本当にうれしい。これからも自分の映画を撮れるように頑張ります」と述べた。
2012年には三島由紀夫(三島事件)をテーマとして、楯の会結成(1968年)から自決までを描く『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』、続けて船戸与一原作の『海燕ホテル・ブルー』を制作[12]。また同年には中上健次原作、寺島しのぶ主演で『千年の愉楽』を制作し、2013年春の公開を控えていた。
2012年10月12日午後10時15分ごろ、東京都新宿区内藤町の横断歩道のない都道を横断中、左から来たタクシーにはねられて腰などを強く打った。当初の報道では命に別状はないとされていたが、実際には病院搬送時から意識不明の状態が続いており[13][14]、17日午後11時5分、入院先の病院で死去した[15][16]。76歳没。
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石井輝男
石井 輝男(いしい てるお、1924年1月1日 - 2005年8月12日)は、日本の映画監督・脚本家である。本名は北川 輝男(きたがわ てるお)。
新東宝で作品を発表した後東映に移り、『網走��外地シリーズ』が連続NO.1ヒット。東映のヒットメーカーの一人でありながら、1968年(昭和43年)より東映ポルノ「異常性愛路線」と呼ばれる一連のエログロ作品を発表した。また、松竹や日活でも作品を発表している。1970年代までに東映のエログロ作品とアクション映画を量産し、1974年(昭和49年)には『直撃! 地獄拳』シリーズをヒットさせた。1990年代はつげ義春・江戸川乱歩の世界へ傾倒した。
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寺山修司
寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年(昭和10年)12月10日 - 1983年(昭和58年)5月4日)は日本の歌人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。
「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
代表作『われに五月を』『田園に死す』
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アーキタイプ
元型 (げんけい、ドイツ語: ArchetypまたはArchetypus、英語: archetype、アーキタイプ) は、カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学(ユング心理学)における概念で、夜見る夢のイメージや象徴を生み出す源となる存在とされている。集合的無意識のなかで仮定される、無意識における力動の作用点であり、意識と自我に対し心的エネルギーを介して作用する。元型としては、通常、その「作用像(イメージ等)」が説明のため使用される。
原型。ある民族ないし人種が同様の経験を反復するうちに,一定の精神的反応を示すようになり,特有の集団的無意識をもつにいたる。その具体化がアーキタイプで,神話や伝説に顕著である。文化人類学者やユングのような心理学者にとっては重要な概念だが,N.フライらの批評家によって文学研究にも利用され,作品の根源を解明する手段となる。文学用語としては,各時代の作品に共通する発想の基本となったものをさす。
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森本晃司
森本 晃司(もりもと こうじ、1959年[1] - 和歌山県出身[1])は、日本のアニメ監督、映像作家、ビジュアルクリエイター、アートディレクター。京都精華大学客員教授。2013年度第17回、第18回、19回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門審査委員。
元STUDIO 4℃所属。現在はSTUDIO 4℃を退社し、新たなクリエイティブチーム「p h y」【ファイ】を立ち上げ、主宰している。アニメーション監督・エグゼクティブアートディレクターとして活動しており、現在、アニメーション制作以外の分野で活動も積極的に行う。ビジュアルクリエイターとして世界各国のアートプロジェクトに参加、企業へのアートディレクションやCM、プロダクトデザイン、空間デザイン、など。
山の村で育ち、幼少時代から絵を描いて過ごす。当時から抜きでた絵の才能を発揮しながら、物を作る事を当然とし、常にアイデアを生活の中に取り入れながら『そのアイデアを実現させるには何が必要なのか』と自分で考えては工作したり物を作る日々を送っていたという。
『宇宙戦艦ヤマト』や出崎統の『ガンバの冒険』に衝撃を受け、大阪デザイナー学院(現・大阪デザイナー専門学校)でアニメーション制作を志し、卒業後、制作会社マッドハウスに入社。TVスペシャル『坊ちゃん』の動画を担当。『あしたのジョー2』で原画デビュー。優秀なアニメーターとして辣腕をふるい、1980年出崎統と杉野昭夫のスタジオスタジオあんなぷるに移る。なかむらたかしの作画に衝撃を受け、後に妻となるアニメーターの福島敦子と共にその後フリーになる。88年『ロボットカーニバル』の1エピソード『フランケンの歯車』で監督デビュー。大友克洋作品『AKIRA』の設定・作画監督補に28歳の時に抜擢される。『魔女の宅急便』に森本晃司が参加したことから、当時スタジオジブリのラインプロデューサーだった田中栄子の親交が深まり「自分たちのパブリックスペースを作りたい」という森本晃司と佐藤好春に田中栄子が賛同し、アニメーションを中心とする映像制作集団『STUDIO4℃』創設メンバーとして活動を開始。[2]
30歳の時に大友克洋に才能を高く認められ、大友原作の劇場作品『MEMORIES -彼女の想いで-MAGNETIC ROSE』(脚本/今敏)を監督し、早々にしてアニメーション監督としての地位を築く。この作品はリドリー・スコット監督が大好きな作品として述べられている。1996年にケンイシイのPVであるEXTRAを監督。この作品は近未来の発達した東京の中に、退廃した空間や路地裏を組み合わせたSF的作品で、ケンイシイのサウンドと絶妙なコラボレーションによって、類を見ない斬新な映像で世界的に話題になり、ヨーロッパを中心に日本のアニメーションブームが湧き起こり、ハリウッド映画界にも強い影響を及ぼすほどの熱狂的なファンを生み出す。この作品に影響を受けたアーティストは数多くおり、現在でも新しい森本ファンを生み出し続けているほど歴史に残る作品の1つになっている。
1997年に『音響生命体ノイズマン』で菅野よう子のテクノ音楽とコラボレーションした、スピード感溢れるスタイリッシュなアニメーションを独自の洗練されたスタイルで映像化し、新境地を開拓する。1998年に『永久家族(Eternal Family)』でショートムービー53本シリーズという、異例のアイデアを自ら打ち出し全シリーズを監督する。1998年、監督作品『ハッスル!!とき玉くん』で第2回文化庁メディア芸術祭・デジタルアート部門受賞。
1999年にGLAYのPVサバイバルのビデオシングルを監督。メンバーであるJIROの熱烈なアプローチで実現。この作品は、2013年度売上集計で、日本のビデオ・DVDシングルの歴代売上第1位を保持している異例の作品である。
マイケル・アリアスやプロデューサーの竹内宏彰などと一緒に、セガエンタープライゼスとシンクの共同出資による3DCGスタジオトリロジーの立ち上げにも参加。そのトリロジーにて、1999年、日本で遅れをとっていた3DCGなどを、森本晃司が筆頭に牽引していく為のプロジェクトチームが組まれ鉄コン筋クリート・パイロット版』のフル3DCG作品を監督する。「映像化は不可能」と言われていた漫画作品「鉄コン筋クリート」(原作:松本大洋)の「3DCGパイロット版」は、この独特の世界観を持つ作品をどう表現するのか期待が寄せられ、その表現方法を既存のアニメーションではなく、3DCGという形で表現することを森本が決定し、マイケル・アリアスがCGディレクターを担当した。当時莫大な予算をかけて制作された作品である。更には、見せ方の表現が最新鋭の研究をして表現されており、業界でもその手法や技法が話題になった。第3回文化庁メディア芸術祭デジタルアート部門優秀賞。第14回 マルチメディアグランプリ1999 CG部門最優秀賞。[3]
2003年ハリウッド映画「Matrix」(マトリックス)を監督したウォシャウスキー兄弟のオファーによって、アニメーション作品『アニマトリックス― ビヨンド』「The Animatrix-Beyound」を監督・脚本。兼ねてから森本晃司作品に強い影響を受けてきたという2人のアプローチを受けての制作だった。『アニマトリックス― ビヨンド』は“ハリウッド作品”というタイトルがつく中、派手なアクションを期待していた製作サイドから絵コンテを出した際『設定が地味ではないか?』といった、低いリアクションが返ったきたという。しかし、出来上がった作品を観た製作サイドは一変して歓喜し、ウォシャウスキー兄弟も『1番好きな作品は【Beyound】』と、ハリウッドのスタジオに森本晃司が会いに行った際、直接言われたというエピソードを数年後にインタビューで語っている。
2005年に発売された宇多田ヒカルの"Utada”名義で発売したアルバム『Fluximation』のプロモーション映像(PV)を総監修。兼ねてから森本ファンである事を公言していた宇多田ヒカルの強いアプローチによって「森本晃司×Utada」として実現し、DOCOMOの携帯配信でのみダウンロードが出来る作品として話題になる。
2008年『Genius Party Beyond』#5『次元爆弾』を監督。想像を超えた映像美を表現した前衛的アニメーション作品として世界中で話題になり、2011年パリ・カルティエ現代美術館「MOEBIUS-TRANS-FORME(メビウス-トランスフオーム展)」にて上映され、同年、アメリカ/ロサンゼルスで開催された「Little Tokyo Design week」に招待され、上映された。
2010年 STUDIO4℃で森本が最後に監督した作品、フランス政府の禁煙広告キャンペーンで制作された、インタラクティブ・アニメーションWEB広告『Attraction/(アトラクション)“魅力”』が、そのクオリティの高さと、ソーシャルメディアを取り入れた広告としても話題になり、2011年カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバル 「International Festival of Creativity」(旧名称/カンヌ国際広告祭)でサイバー部門銀賞を受賞。(Wins Cannes Cyber Lions Silver.)
2013年 LEXUS社とThe Weinstein Company (米国ワインスタイン・カンパニー社)」(※トム・フーパー監督作品「英国王のスピーチ」ミシェル・アザナヴィシウス監督の「アーティスト」など、2012年にアカデミー賞8作品を受賞した、ハリウッドのマルチメディア・プロダクション及びディストリビューション企業)によって製作された5本のショートフィルム作品「LEXUS SHORT FILMS」この中の作品「A Better Tomorrow」(実写監督・宮崎光代)のアニメーション パートの監督として参加。[4]
この作品は2013年の5月、第66回カンヌ国際映画祭 にてワールドプレミアで初リリースされた。[5]
2013年、7月に公開された劇場オムニバス アニメーション作品『SHORT PEACE』(ショート・ピース)で、森本晃司はオープニング アニメーションを監督。 この作品は大友克洋監督「火要鎮」、森田修平監督「九十九」安藤裕章監督「GAMBO」カトキハジメ監督「武器よさらば」これらの4作品によるオムニバス形式の劇場作品。
2013年、LEXUS社と、ハリウッドのマルチメディア プロダクション、ワインスタイン・カンパニー社よって製作されたショートフィルム作品「LEXUS SHORT FILMS」中の『A Better Tomorrow』アニメーション パート監督として参加。この作品は第66回カンヌ国際映画祭にてワールドプレミアでリリースされた。 同年7月に公開された劇場オムニバスアニメーション作品『SHORT PEACE』のオープニングアニメーションを監督。
2013年、舞台『羊人間012』の脚本・演出を務め、東京の小劇場でのミニマルさを逆手にとったオリジナルの演出手法が話題になる。
最新アニメーション作品は2014年9月、世界的に活躍するインストゥルメンタル・ポスト・ロックバンド『MONO』のアニメーションティーザーを監督。(楽曲はRecoil,Igniteを起用)渋谷のスクランブル交差点にて、2週間に渡って放映される
2016年 ルパン三世 イタリアン・ゲームのオープニングアニメーション絵コンテ・演出・原画・美術を監督。
2017年TVアニメーション・シリーズ 『18if』の総監修、#10『α夢次元』(アルファ夢次元)を監督。
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田中達之
田中 達之(たなか たつゆき、1965年[1] - )は、福岡県出身[1]の日本の男性アニメーター、アニメーション監督、演出家。CANNABIS名義でイラストレーター。名古屋造形大学講師(2011年〜)。京都精華大学講師(2017年〜)。 
高校を中退後、ファンだった宮崎駿が所属したことを理由に、18歳でアニメ制作会社テレコム・アニメーションフィルムに入社。テレコムでの仕事は合作の動画ばかりで嫌になり、出社拒否を続けてクビになる。その後、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』に参加するも一週間で辞め、アニメーターを諦めてバイトをしつつ、漫画を投稿するようになる。この時、同居していたアニメーター柳沼和良から『AKIRA』に参加しないかと説得され、初の原画として制作に関わることになる。
以後、アニメーターとしてはフリーランスで活動。OVA『御先祖様万々歳!』を通じて、アニメーターうつのみや理の影響を受けたという。
森本晃司とのつきあいで、1997年の『音響生命体ノイズマン』からはSTUDIO 4℃を仕事の中心としている。
ゲームデザイナー桝田省治の誘いでCANNABISのペンネームで参加した1995年のPCエンジン向けより始まるゲーム『リンダキューブ』シリーズ以後、イラストレーターとしても活動。
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太陽の王子 ホルスの大冒険
『太陽の王子 ホルスの大冒険』(たいようのおうじ ホルスのだいぼうけん)は、東映動画製作の日本の劇場用アニメ映画。公開は1968年7月21日、上映時間82分、シネスコ(東映スコープ)。『東映まんがパレード』(のちの『東映まんがまつり』)の一本として上映された。
文部省選定作品。
キャッチコピーは「ホルスはとても強いんだ!」「太陽のつるぎがきらッきらッとかがやくと 巨人モーグがあらわれた! かわいゝ動物やおそろしい怪物もいっぱい!」。
アイヌの伝承をモチーフにした深沢一夫の戯曲(人形劇)『チキサニの太陽』を基とし、舞台を「さむい北国のとおいむかし」として製作された。
制作トップに立った高畑勲にとっては初めての監督作品。興行的な成功には縁遠かったとはいえ、高畑が中編・長編アニメに進出する足がかりとなった。宮崎駿が本格的に制作に携わった初めてのアニメ作品でもある。
2002年7月21日にDVDが発売された。初公開時の上映作品すべてをまとめて収録したDVDは『復刻! 東映まんがまつり 1968年夏』として2012年7月21日に発売された。
動画枚数48255枚。
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白蛇伝
『白蛇伝』(はくじゃでん)は、中国の四大民間説話のひとつ『白蛇伝』を題材にした、日本最初のカラー長編漫画映画(アニメ映画)である。カラー、スタンダード(長編作では唯一)、79分。昭和三十三年度・芸術祭参加作品。文部省選定(少年向・家庭向)映画であった。アニメ映画ではあるが、森繁久彌が初めて東映の映画作品に出演したものである。
キャッチコピーは「蛇精の姫、幻術使い、珍獣の数々の乱舞跳梁」。
日本初の劇場用長編漫画映画として「桃太郎の海鷲」(1943年,37分)、それに続く「桃太郎 海の神兵」(1945年,74分)があったものの、長編アニメ映画制作のシステムが確立されておらず、スタッフ達は他国(特にアメリカ)のアニメの研究からアニメーターの養成、アニメ用撮影機材の開発などまで着手しつつ、2年がかりで作りあげていった。
この映画の制作に携わったスタッフは、その後の日本アニメ界を牽引する役割を担っていった。また宮崎駿のように、この映画を観た経験がアニメ界に入るきっかけの一つとなった人物もいる。
演出は、それまで東宝教育映画部で短編アニメを製作していた藪下泰司が手掛けた。製作は東映動画(現・東映アニメーション)、配給は東映。公開日は1958年(昭和33年)10月22日。声の出演者は森繁久彌と宮城まり子。彼らの台詞を劇作家の矢代静一が執筆している。他に、人物の動きをトレースしてアニメ化する手法「ライブアクション」のために水木襄、松島トモ子や当時東映に入社したばかりの佐久間良子らが起用された。
DVDは2002年(平成14年)7月21日に発売された。
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大塚康生
大塚 康生(おおつか やすお、1931年7月11日 - )は、島根県出身のアニメーター、キャラクターデザイナー。英語や中国語にも堪能であり、東映動画では、直属の上司として新入社員・宮崎駿の指導育成に当った。他にも杉井ギサブローや月岡貞夫、芝山努、小田部羊一、椛島義夫、近藤喜文、田中敦子、うつのみや理、貞本義行、田中達之、板垣伸など多くのアニメ業界人に影響を与えた。 
東映動画アニメーター第一期生。日本におけるアニメの創成期から第一線で活躍し、宮崎駿や高畑勲と組んで『太陽の王子 ホルスの大冒険』『ルパン三世』『パンダコパンダ』『未来少年コナン』『じゃりン子チエ』などを手がける。演出を担当する時には、鈴木一というペンネームを用いることがある。
元麻薬取締官事務所勤務という異色の経歴を持つ。英語や中国語にも堪能であるらしい。東映動画では、直属の上司として新入社員・宮崎駿の指導育成に当たった。他にも指導を受けた人材は多数にのぼる(著名な人物として、杉井ギサブロー、月岡貞夫、芝山努、小田部羊一、椛島義夫、近藤喜文、田中敦子、うつのみや理、貞本義行、田中達之、板垣伸など)。
軍用車両に造詣が深く、ジープマニアとしても有名である。田宮模型(現・タミヤ)初代社長である田宮義雄の息子の1人が東映動画に勤務しており、その縁から田宮模型のジープ型ラジコンカー『ワイルドウィリス』のデザインを手がけたり、ミリタリーミニチュアシリーズで兵士フィギュアのポーズ監修を担当したり、ミニ四駆のボディを実車をデフォルメしたものにするようにアドバイスを与えたりもしている。一時はアニメーター廃業を決意し、プラモデルメーカーのMAX模型に勤務したこともあった。
『MVJ』(Military Vehicle Journal)という軍用自動車研究誌を、1989年から2000年にかけて私費で13冊発行した。これは印刷された部数が極めて少なく、書店での販売はされなかった。編集は大塚がすべて行い、内容は資料性が高く各国のアーカイブからの写真とオリジナル・イラストも多く掲載されている。
現在は一線を離れ、スタジオジブリや東映アニメーション研究所などで後進の指導に当たっている。その一方、『無敵看板娘』では久々にテレビアニメの原画(エンディングアニメーション)を担当したりもしている。また、近年の『ルパン三世』作品については「絵や内容が保守的。いっその事一から作り直した方が良い」と苦言を呈している。「アニメーターは演技者である」とつねづね公言しており、最近の止め絵ばかりのアニメにも苦言を呈することが多い。
そのダイナミック&コミカルなアニメートは「大塚アクション」と呼ばれ、宮崎と組んだ『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』では、能力を遺憾なく発揮している。
日本アニメーター・演出協会(JAniCA)会員。テレコム・アニメーションフィルム顧問。
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近藤喜文
近藤 喜文(こんどう よしふみ、1950年3月31日 - 1998年1月21日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、映画監督。新潟県五泉市出身。 
1970年代半ば以降の宮崎駿や高畑勲の作品を作画面で支えた。
高畑が『火垂るの墓』、宮崎が『となりのトトロ』と、長編映画を同時に制作した時期は2人の間で近藤の争奪戦が起こった。高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている(結局、仲裁に入った鈴木敏夫の、宮崎は自分で絵が描けるからという助言で、近藤は『火垂るの墓』の制作に携わった)。米をよそう際、手首に付着した米粒を舐め食べる動作、など高畑アニメが追求する実にリアルな描写の実現は、近藤の強く鋭い感受性あって初めて可能なものだった。その後、再び高畑の元で『おもひでぽろぽろ』のキャラクターデザインと作画監督を担当する。
スタジオジブリでは『耳をすませば』の監督を任される(それ以前から近藤が演出をするという宮崎との約��があったため、宮崎が企画を持ってきた)など、宮崎駿・高畑勲の後継者として期待されていたが、1997年の暮れに解離性大動脈瘤で倒れ、1998年1月21日に47歳で死去した。作画監督を務めた『もののけ姫』が最後の作品となった。なお、『耳をすませば』の制作中に宮崎駿と近藤の間では何度も衝突があり、ときには宮崎が演出の変更を求めたり脅すようなこともあったという。このことについて宮崎は「自分が終わりを渡してしまったようなもの」と語っている。葬儀の出棺の際に『耳をすませば』の主題歌である「カントリー・ロード」が流された。
愛称は近ちゃん(こんちゃん)。こんどうきぶんとも。妻は『ルパン三世 1stシリーズ』、『ルパン三世 カリオストロの城』、『パンダコパンダ』、『名探偵ホームズ』などで色彩設計を担当したアニメーション色彩設計者の近藤浩子(旧名:山浦浩子)。息子が一人いる。
『金曜ロードショー』の2代目オープニング(通称:映写機おじさん)は近藤の作である。
好きな漫画家に高野文子、画家にはノーマン・ロックウェルなどを挙げている。
次回作では灰谷健次郎の小説『天の瞳』のようなアニメーション作品を構想していた。
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わんぱく王子の大蛇退治
『わんぱく王子の大蛇退治』(わんぱくおうじのおろちたいじ)は、1963年に公開された東映動画製作の劇場用アニメ映画(長編漫画映画)。86分。カラーワイド版。封切1963年3月24日(首都圏先行)→1963年7月15日(全国)。
キャッチコピーは「八頭の大蛇と空中戦! がんばれ! わんぱく坊やと動物隊!!」。
東映動画の長編アニメ第6作。日本神話の天岩戸説話や素盞嗚尊の八岐大蛇退治に題材を採り、子供向けの明快なファンタジー映画としてつくられた。仮題は「日本神話 虹のかけ橋」。
製作費7,000万円、スタッフ180人、作画枚数25万枚、絵具1トンを使用。これまで東映長編の監督を担当してきた藪下泰司に代わって、新東宝出身の新人の芹川有吾が監督に初登板。従来、東映動画内では演出家はコーディネーター的立場だったが、アニメーター出身でない芹川は東映動画に本格的な演出を持ち込み、監督という職制を確立。さらに本作では、作画の絵柄統一を図る日本独特の作画監督制度が初めて採用された。その他にも美術監督の小山礼司の提案による平面的なグラフィカルなデザインなど、様々な新機軸が採用された意欲作であり、東映動画と日本のアニメ映画史に残る作品という評価が下されている。
『白蛇伝』『安寿と厨子王丸』など、当時の東映動画でよく使われていたライブアクションも、天岩戸のエピソードのアメノウズメの岩戸神楽や、クシナダ姫のアクションシーンで、作画の参考に撮影されている。
大塚康生と月岡貞夫が半年かけて作画した、天早駒(アメノハヤコマ)にまたがるスサノオと八叉の大蛇の空中戦は300カット・動画1万枚を超えており、日本アニメーション史上に残る名場面として高く評価する評論家もいる。
日本国外の配給はコロムビア映画が担当した、アメリカでは1964年に『The Little Prince and The Eight-Headed Dragon』の題名で公開。
DVDは2002年11月21日発売。
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ゲゲゲの鬼太郎
『ゲゲゲの鬼太郎』(ゲゲゲのきたろう)は、水木しげるによる日本の漫画作品、及びそれを原作とした一連の作品群の総称。妖怪のイメージを世間に浸透させた水木の代表作であり、「妖怪漫画」を一つのジャンルとして確立させた作品である。
テレビアニメはいずれもフジテレビ系列で放送、東映アニメーション(旧・東映動画)が製作。これまでに4回のリメイク・6度のアニメ放映をしている。第4シリーズ以降の放送枠は日曜9:00枠に固定されている。
その後アニメ化の企画はフジテレビへ移ることになったものの、制作初期は「墓場の鬼太郎」(仮題)で進行していたため、NETと同じようにスポンサーから“墓場”に対する忌避反応が起こったが、原作のタイトルを無難なものに変えるという、当時としては大胆なアイデアが提案される。水木がこの提案を受けた際、どのような反応を見せたかは判然としていない。なお、水木の自伝的漫画「私はゲゲゲ」の中では、水木が自ら「『ゲゲゲの鬼太郎』はどうです。」と提案している。またNHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』では、困惑しながらもタイトルを考え、最終的にオープニングの「ゲ ゲ ゲゲゲのゲ」から着想を得た描写がなされている。結果的に原作はアニメ化の直前に「ゲゲゲの鬼太郎」と改題した。また“ゲゲゲ”というフレーズは、水木の子供の頃のあだ名「ゲゲ」から名付けられたものだという。「ゲゲ」の由来については、幼少時の水木が自分の名を上手く言えず「げげる」と発音していたことに起因する。
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