Tumgik
kuizeda · 3 years
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 夏に逝った父方の祖父が、明けがたの夢へ出てきた。いまわの際にある彼を見舞っていた。顔をのぞきこめば薄目を開き、太郎だか次郎だか、見知らぬ誰かの名前を口にした。それから、あんた来てくれたんかと言ってよこした。とにかく太郎か次郎か、そいつになりきろうかと思ったところで目の覚めた金曜日は、しばらく胸になにか残った感じがする。
 申し分ない天気であった。在宅勤務ではむしろ日差しが鬱陶しいので、うす暗いお勝手のほうへ退いてしまう。それでもひねもす籠りっきりは嫌だし、いくらか外の空気を吸いたい。昼休みには、そばの公園で自販機のお茶を飲んだ。着ぶくれみたいな鳩が寄ってくるのは餌をくれる人があるからだろうか。よく見れば地べたにポン菓子かなにかが落ちている。
 山積みの残務は打っちゃって定刻に終業報告をやった。このぶんでは週明けに自分の首を絞めるはずだが、どうでもいい。冷えはじめた夕方の町を行けば、商家の軒先にご自由にお持ちくださいのコーナーが設けられている。金縁のガラス小鉢と、朱塗りの函を頂戴した。
 暮れがたの雑司ヶ谷霊園をじぐざぐに進んだ。ここは夏も冬も、いつであれ湿っぽい感じがしないので好きだ。ずっと火葬場だと思い込んでいた区営斎場のわきに鰻を焼いている店がある。ちょっとした祝いごとの日が近く、ここで鰻重を食べた。
 10代の半ば、はじめて母方の祖父と旅をして、京都駅の鰻屋さんに入った。いま肝吸いの肝きらしてるんです、ふつうのお吸いもんになります、えらいすいませんね。そう言われた祖父は、あからさまにうなだれていた。連れだって七条通を歩きながら、人間というものは十人十色だなと唐突に呟いた。こういう取るに足らない断片ばかりが鮮やかに頭をよぎる。もうこの世にいない人、遠く離れて会えない人とばかり正面きって向かい合おうとする。
 ふらふら明治通りのほうへ向かうと、鬼子母神のまえに黒塗りのセドリックが横づけされてお芝居を撮っている最中。ドラマですか映画ですかなんてアシスタント風の人に尋ねたい野次馬根性と、いや働いている他人様を邪魔してはいけないとの思いが拮抗する。運転手に扮した俳優と目が合ったが、まるで知らない男だった。
(2021年2月)
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kuizeda · 3 years
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 あのサイドボードは、うす暗い洋間にあった。歯抜けがのぞく小さな姉を写した円い額縁のポートレート、こちらの胸のうちを見抜くまなざしで一対に並んだ北海道土産のニポポ、なぜか大人たちはカマスと呼ぶだけで手をつけさえしなかった未開栓のカミュ。飾り棚の部分の、それらを透かす硝子の向こうにはむかしがこもっているように、まだ過去の概念そのものを理解しえない幼い身にさえ感じられるのだった。奥まった部分から出てきた『1億人の昭和史』のひと揃いは、きっと刊行当時に働き盛りだった祖父が買ったものだろう。表紙は新品同様だったが、その見た目に反していやにざらついた頁の手触りとたじろぐほどの黴くささに、逆行する時間の抵抗みたいなものを覚えた。児童の感覚からすれば、流れるプールに逆らって歩くのとちょうど同じだった。モノクロームの図版をひたすら眺めるだけだったが、そうやって昔が確かになっていった。ひねもす陽の光が入らぬ部屋でムック本に背中を丸めている子どもを思えば、詩人のいう「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」というのはなるほど本当だ。
(2021年1月)
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kuizeda · 3 years
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 恰幅がいい体躯の背面にまさか極彩色の昇り龍を翻らせたりはしていないけれど、おおむね服装といえば柔らかそうな生地の黒い開襟シャツをまとうのがお決まりで、実のところドライアイの症状を和らげるものだと打ち明けてくれた眼鏡のレンズは茶色がかっている。そのメタルフレームがこめかみに食い込むさまの窮屈そうな禿頭は、果たして何ポンドあろうか磨き込んだボウリングの球さながら鈍い艶を放つ。失礼承知でなんて白々しい前置きをせずとも、まずなあ、飲みに行ってもお寺さんですかと探りを入れるようにしか聞かれんなと暗に張本人が認めるのだから問題ないだろうが、とにかく容貌だけではその筋の人としか解せなかった。長年にわたり生家の手工業に携わってきたという来歴、あるいは「おしゃべりは好きだが不必要なことは言わず、むしろ不器用で寡黙な印象さえ与える物腰や、ふいに高圧的になるところと臆病さが同居したような人柄」。堀江敏幸が『いつか王子駅で』において描く、かの正吉さんそのものではないかと思い至ったのは、実のところごく最近のことだ。
 学生の時分に籍を置いていた寄り合いでは、いったいどんな伝手からなのか年度の単位で部員に受け継がれているアルバイト先があり、花冷えする春の日、私は推薦してくれた一つ上の姉御つき添いのもと、当時まだ花街の片隅に置かれていた仕事場へと出向いて形だけの面接を済ませ、おずおずと週に何回かの勤めをしだしたのだった。肝心な仕事の中身がすでに忘却の彼方にあるとしても、雇い主の立派な体つきの血となり肉となっている食の傾向は忘れることができない。どんなものも卓上のカセットコンロで調理していた。冷蔵庫の残りを一掃するためのバターライス、飲み屋での与太話に触発されて研究していた卵焼き。お好み焼きになると、だしでうどん粉を溶くところから始めていた。普段は日東紅茶を淹れている耐熱ポットに大袋の徳用ソーセージをぎっちり詰め込んでボイルし、茹で上がったところを本業用のガスバーナーで皮がぱちぱちとはじけるまで炙る。手ずから御大がひねった小皿で供せられ、福利厚生の一環としてよくお相伴に与かったものだ。私が電話番をしているとレジ袋をさげて現れ、いつも皮しか買わへんにゃけどという小ぶりの串焼き、二つでもうお腹いっぱいになってしまう肉だんごの甘酢などは、屋号を刷ったえんじ色の紙で透明なパックに腹巻きしてあった。また、酒を注いだ陶製のひょうたんを携え、その総菜屋で肴を調達してから隣の児童公園へ。さすがに毛氈までは敷かないけれども藤棚の下にあるコンクリートのベンチを占拠し、絵描きの友人らと一緒に花見をするとのこと。くだんの店はやはり鶏を中心とした精肉が本業らしく、そばに下宿のあった私を思いがけずちんまりした車で送ってくれもしつつ結構な頻度で通っているようだった。そらまあ、肉のなかではかしわがいっとう好きやな。
 半年が経った秋、ようやく不可思議な勤めにも慣れたころ毎度のごとく顔を出したら、急な話で悪いが、今月末日をもってここでの活動を畳むことにしたとだしぬけに言い渡された。面喰っているこちらを試すように、なんや、反応が薄いやんけと笑ってみせつつ、そのときさえやけに小さく見えるフライパンを握って肉巻きおにぎりをこしらえるのに余念がなかった。一つの節目だということで、斡旋してくれた先輩ともども参集を命ぜられたのは、洛北の山すそにある古刹だった。仲良くしているらしい住職の計らいで、ゴルフ練習用の人工芝生が乱雑に敷かれて悪趣味な置き物なんかも並んでいる、お寺の庫裏というよりはリサイクルショップのバックヤードに近い野天へコンロを展開し、鶏もも、長ねぎ、椎茸をえんえんと焼いて食べた。美味しかった。当然ここで世襲も打ち止め、それきり免職になるはずのところを、結局は学校を出るまで勤務といえない勤務をだらだら続けさせてもらうのだった。
 私がその街を去る間際、ささやかながら祝いの席や、ちょっとだけ食べに行こかと、移転されていまや久しいがその時分はまだ熊野神社のそばの、月極ガレージの詰め所みたいな小屋で商いをしていた店へと一緒に向かい、焼き鳥をごちそうになった。狭いカウンターの右隣では、我がボスがとりどりの部位の肉を串から外して黙々とほおばってゆく。また左隣では、藤真利子さんに似た見知らぬご婦人がゆったりと瓶ビールを傾け、品よく籠のキャベツをちぎって口に運んでいたことを覚えている。炭焼き台からガラス越しに伝わってくる熱を感じ、とても顔がほてった。どこか��り詰めた空気が流れているようにも思われたが、これはほかでもない私自身の、もうじき新たな生活を迎えるということに対する心の動きによるものだったろう。食べ終わってもまだ明るい時間で、それでは長いことご苦労さんだった、どうか気張ってやってやと短いはなむけの言葉をもらい、東西に丸太町通を別れてから私がちょっと振り返れば、市バスの停留所へと遠ざかりつつある巌のような背中に春の粉ぼこりがまつわりついて夕日にきらめき、すると確かにその場かぎりの幻の龍がひと舞ふた舞して七色に光る鱗をありがたく散らしている。
(2019年12月)
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