Tumgik
krkwngm · 5 days
Text
『クラユカバ』『クラメルカガリ』
Tumblr media Tumblr media
『クラメルカガリ』『クラユカバ』を公開初日に続けて観てきた。面白かった。以下ネタバレがある。上の写真は3月末に閉館してしまった地元の映画館で撮った。二度と足を運ぶことのできないクラガリになってしまったが、たくさんの名画に出逢わせてもらった。
 まずクラガリが「亜炭堀りの坑道」を広げる途上で発見された正体不明の地下世界である、という設定がめちゃめちゃ良い。亜炭は我々の世界でさかんに用いられていたのは昭和40年代ごろまでだったそうだが、『クラユカバ』『クラメルカガリ』の人々にとっては過去の話ではない。地下世界発見の経緯や箱庭の成り立ち、懐かしいようで見覚えのない奇妙な街並みを舞台に生き生きと描かれる人々の暮らしぶりを観て我々が抱くのは、亜炭が「現在」の彼らの生活を支える身近な資源であるという実感だ。しかしそもそも亜炭とは、かつて地上に生息していた木々や植物が腐敗する前に土の下に埋もれ、そのまま地中で何十何百何千万年という永い時間をかけて変質していった結果できあがる代物だ。あの人々の生活から匂い立つ(亜炭は燃焼すると甘酸っぱいような独特の匂いを発したらしい)亜炭の存在感は身近かもしれないが、亜炭のもとになった木々は人類がまだ生まれてもいない数千万年前から地上にいた、と考えると途端に途方もなさが際立つ。  亜炭とは人間の文明以前からそこに在り、亜炭が埋もれている深部の地層もまたそれだけ古い時代からそこに存在し続けてきた。つまり亜炭が眠り続けていた深さの地下世界とは、人知も神秘も及ばぬ遙か遠くの「過去」の世界、ということだ。  木々のように腐敗もせず水のように流転もせずただただ地中に横たわり続けた「過去」が、永い時のなかで亜炭のごとき変容を果たし「過去」ではない何か、暗がりではではない何かに変容してしまったのだとしたら。それが亜炭堀りたちの見つけてしまった世界のきざはし、見世物一座が「くらゆかば」と消え去った暗渠の向こう、あるいは虫喰いを辿った先にある未踏の暗がり────「クラガリ」の始まりとするならば。タンネやトメオミの装束が博物館を司る機関の制服に似ていること、クラガリに「曳かれた」人間が過去にまつわる譫言を吐くばかりになっていたこと、「クラガリの端にしてほとりのクラブチ」で荘太郎が過去の幻影に囚われかけたこと。これらの理由を想像するのが個人的に楽しくなってくる。
 クラガリに「惹かれるな」ではなく「曳かれるな」、なのはクラガリがすすんで誰かを呼んでいるわけではないという意味かもと思う。過去を求めた人間が地下へ、あるいは自分の内側へ深く深く潜っていった結果クラガリに接触してしまう。クラガリが「せり上がってきている」時ですらクラガリに何かを惹きつける意志はなく、何かを曳いたところでクラガリが変わることはない。暗がりで道を選ばされるのはつねに曳かれたほうだ。  加えて暗がりで人が観るものといえば夢、映画、幻灯の類いだろう。荘太郎も大幻灯を浴びて人形劇や紙芝居やメリエスの無声映画のごとき幻影を彷徨ううち、父と母と平穏に暮らしていた幼い頃の「過去」へと歩き去ってしまいそうになる。父の帰りを待ちながら老いて亡くなった荘太郎の母は人形劇の世界で身体の色が金から白に変わっていったし、過去の幼い姿でどこかへ歩いていこうとする荘太郎の世界は色がなく、その背後に並びはためく幟も白い。金とか灯りは生きてる人間の色、白はクラガリに行ってしまったひとの色なのかもな、と思う。そこに見世物一座の「千里眼」の少女によく似た、白い髪の幼いタンネがやってきて、「これ、忘れ物」と掌を差し出す。  色々あってサキを福面党から取り戻すことはできたものの、見世物一座は「くらゆかば」と去り、父は帰らないままだ。それでも荘太郎が思い出したように探偵事務所の引き出しを開けると、そこには幼いタンネが届けてくれたあの金色の巻き鍵がある。それは事務所の壁にかけられた時計の巻き鍵だ。荘太郎が子どもの頃クラガリに行ったことがある記憶をちょっとしゃべる冒頭のシーンで、荘太郎の後ろの暗がりが映り込む演出があったけど、あの事務所は荘太郎の過去が留まり続けたクラガリでもあったと思う。だから巻き鍵によって再び動き始めた時計が時を刻む音の響くラストは、過去は取り戻せないままなれど、止まっていた時間をようやく進めることのできた荘太郎にとって明るいものだった気がするのだ。
 クラガリに曳かれながらもクラガリから抜け出でて自分の道を進む人間たちの話が『クラユカバ』であるならば、クラガリの真上で変わり続ける街とともに変わりながら生きる人間たちの話が『クラメルカガリ』なのだろう。物語の序盤で「箱庭紡ぎ」は街の「点と点を繋いで紡いでいく」仕事だと飴屋が言うが、それは『クラメルカ��リ』という物語の構造そのものでもある。クラガリに曳かれる人間、曳かれた人間、街の変化を愛する人間、街を日々変えていく人間、変わっていく人間。それらひとりひとりの足取りが繋がり合いクラガリの上にひとつの物語が編まれていく。その変容を地図に、あるいは自分の内側に留めていく少女カガリの足取りは日々に翻弄されながらもまっすぐで迷いがない。作中でははっきりと描かれないが、虫食いの話になるたびカガリの顔が曇ったりなにか言いたげな顔をするのは彼女の両親の死んだ理由が虫食いに関係あるからではと思うのだが、それでも紡ぎの仕事は「嫌いではない」と彼女は言う。ユウヤの地図をすごいと評したカガリの、虫食いのことは書いてあったけど鉱泉の川に通じてるあの道のことは書いてなかった、との指摘も彼女なら至りうる。  というか『クラユカバ』でクラガリの端にふれると『クラメルカガリ』で地下の「虫食い」に潜ってまで地図を作りしかもその生き方を楽しんでいるカガリの生き様がちょっと異様であることが分かる。亜炭の鉱脈の上に成り立つ「泰平さん」と「箱庭」、そのさらに地中深くから時折湧いて出る虫食いを辿ればおそらくクラガリに行き着くのだし、特に映画の時系列は伊勢屋曰く「今は時期が悪すぎる クラガリがせりあがってきている」のだ。「箱庭」は日々様相が変わる街だから地図が必要なのだと飴屋は語るが、街がどれだけ変わろうとクラガリは変わらないのだろう。変わっていくのは地上にせり上がるクラガリに「曳かれ」る街のほうでしかない。  そういう街で箱庭紡ぎの仕事を担うふたりの街に対する思いが対比になっているのが面白い。ユウヤが日の当たる場所に行くまでの繋ぎに過ぎないと思っていた「紡」の仕事がカガリにとっては人生の楽しみであるというすれ違いは、カガリが記憶していた地下の脇道を「こんな細い道 俺だったらいちど地図にしたら忘れてる」と呟くユウヤの台詞にも表れている。ただしカガリがその道を覚えていたのは紡の仕事を気に入っているからだけではない。「もったいない、一緒に歩いたの大事な思い出だよ」と笑ったカガリにとって、ユウヤはこの街の記憶ごと大事にしたい存在なのだろう。この台詞にはカガリの街への思い入れと日々紡いでいるものへの意味が宿る。日の当たる場所に行きたかったユウヤが街を一時去るとき、「わたしユウヤくんの地図、好きだから!」と橋の上から笑顔で手を振るカガリには昇り始めた陽の光が当たっている。カガリとは地中のクラガリを行くための篝火であり、ユウヤにとっても日の当たらない場所=箱庭=クラガリを照らす篝火だったのではなかろうか。
 ところで『クラユカバ』で荘太郎を福面党の一員と勘違いしてしょっぴこうとしたおっさんと『クラメルカガリ』でシィナ総長に声をかけていたおっさんが同一人物なのでこの二作はそんなに時間が離れてないんだろうな。『クラユカバ』で福面党にまぎれていたムジナの男が『クラメルカガリ』では髪が伸びた風体で石猿一家をけしかけていたあたりほぼ同時期というわけではなさそう。にしても福面党のボスが「御多福」なのは洒落がきいてる。ムジナと福面党の関係も気になるところだ。  演出面では、『クラユカバ』で車両から逃げる荘太郎が「じょうぶ~!!」て叫んでたシーンを『クラメルカガリ』のカガリがアブラムシから逃亡するときセルフオマージュしてたのが楽しかった。それと『クラユカバ』では荘太郎のお父さんが荘太郎になぜ探偵をやっているのか聞かれて「ここがむかし川だったことは知っているか?」、そんなふうに世の中に隠れている謎が好きで父さんは探偵をしているんだと答えたり、クラガリの入口を探していた荘太郎が街のじいさんに「トンネルを掘るときは一旦土地を開けてから埋める だから地図を見ればトンネルがどこを通ってるか分かる」と教えてもらったりと、『クラメルカガリ』ほどではないけど地図や土の記憶が大事なモチーフとして取り上げられてたのが良かった。荘太郎の降り立った橋のあたりとカガリが坑道から抜け出て川に流れ出たあたりはぱっと見近いかなって思ったけど実際はまったく関係ない景色なのかな。観直したさがある。  にしても『クラユカバ』を観るとこの深い深い世界のどの要素から『クラメルカガリ』が構築されたのか分かって楽しいし、『クラメルカガリ』を観てこの世界をもっと深く知りたいとおもった人に『クラユカバ』は当然充分応えてくれる。『クラユカバ』の停留所には「成田亭良悟」の名前が書かれたポスターが貼られているのだけれど、栄和島と伊勢屋とおなじく「まったくの別人」ながらもこの世界に成田良悟先生の言葉もまた息づいているのだなと思えて嬉しかった。伊勢屋に自分の留守を任せていく栄和島と任された伊勢屋の反応、原作を知ってても知ってなくても激アツだったな……  そういえば自分が映画館でこれを観ていたとき、伊勢屋の店が画面に映った瞬間後方の席から「カストリ…!?笑」て困惑した男性のデカめの声が聞こえてきて面白かった。かくいう自分は自律機関が出てきた瞬間「蒸気王じゃん!?」て叫ぶところだった。閑話休題。
 ムジナの男がタンネ達と出くわす前に「ナマズとご対面だ」て言ってたのが気になってる。ナマズ=鬼(鬼灯色の瞳のタンネ)の由来がちょっと思いつかないし、地下を這う車両をシンプルに喩えた可能性はあるけれど、ナマズは地震を起こすと信じられてきた生き物だからムジナにとっては地下をわずらわすめんどくさい勢力としてナマズと呼んだのかな。だとしたらムジナたちって亜炭堀りに発見されるよりずっと昔からクラガリに潜んでる勢力なのかも。石猿一家が失敗したときも地下に帰る的なこと言ってとんずらこいてたし、新聞には浮世絵じみた絵で紹介されてるし。今後続編が制作されてムジナの行動理念が明らかになったら楽しそうだ。  ちなみに『クラメルカガリ』では蛙を鳥と云って出す屋台について「あれむしろナマズっぽいよね」とコメントしてた。箱庭はナマズ食が珍しくない文化なのか…?あとカガリとユウヤがごはん食べてた屋台の壁のお品書きに「目玉の甘」てあったけどあれなに?目玉の甘煮?  『クラユカバ』で荘太郎と稲荷坂が呑んでたお店もちょっと不思議で、荘太郎が生の中を追加したら新しいジョッキが来るんじゃなくて瓶から次いでくれるんだよね。「お兄さん!」て呼ばれた荘太郎が「ああもうそんくらいで」って止めたあと何かを継ぎ足して飲んでるあたり量でお代が決まるのか?と知りたくなった。というかあれ多分ビールじゃないよな(泡の載った金色だった覚えがない。自分が覚えてないだけかも)。テーブルにあった瓶のラベルにはホッペルと書かれてた。  『クラメルカガリ』のシィナが通信傍受機と同じ鞄に箱キャラメル入れてるのもめちゃいいし、シィナと飴屋の射的のシーンもなんてことないのに良さしかなかったな。ところでシィナさんと情報屋の伊勢屋はなんで知り合いなの?気になりすぎる。
 管使いのタンネが管(たぶん管狐)のことを今いる地下より「ちょっと深いところ」の生き物だって言ってたけど、カガリも「ちょっと深いところ」の話してたんだよね~どこだったかな。管の色が金色なのも荘太郎が陥りかけたクラガリの過去の幻影に関係ありそう。そもそも見世物一座の人間たちがみんな白狐の面を被ってたからな……探訪記者の名前は稲荷坂でクラガリに近い人間の名前ぽさがある。  どちらの作品もいろんな生き物の名前や意匠が取り入れられてるの面白いよね。荘太郎に情報提供した男は兎の面つけてたし、朽縄博士(くちなわは蛇と書いてもくちなわと読む)の子どもたちは牛蛙だったり虫の姿だったり公園にはザリガニがいたり。ササラちゃんはササラ電車からの命名だったりするんかな。あとアブラムシよける機械のデザインが電動の蚊遣りぽかったなと思ってそこだけパンフ見たら名前が「ムシヨケ」だったしよく見たらデザインも蚊遣り豚だったので笑った。朽縄おじいちゃんが朽縄博士だと明らかになるシーンの真打登場感も良い。  真打といえば荘太郎を演じた六代目 神田伯山さんは講談師の方なんだよね。『クラユカバ』『クラメルカガリ』はどちらも台詞回しがきもちよいけど荘太郎の語り口は抑揚の良さも相まってなおさら好きだった。あと活弁士と稲荷坂と石猿親分を演じてる坂本頼光さんは本職の活弁士の方だし、女性声優さんたちが演じるタンネやトメオミやカガリといったクラガリを探る少女たちのまっすぐに発せられる声と、クラガリとともに生きてきた男性キャラクターたちの物語ることを宿命付けられたような声が双璧を成す、両作品のキャスティングも外せない良さだと思う。寺田農さん演じる朽縄が、老兵は去らず此処にある的な台詞を最後にクラガリじみた研究所へ帰っていくのも印象的だった。  もし今後続編が制作されるのなら「僕にもわからないんだ 自分が何者でどこへ行くのか」と語っていたタンネの来た道や行く道のこと、トメオミが珍妙な慣用句を引用するたび添えていた「その道に曰く」の「その道」の意味(クラガリに繋がってる余所の道だと思う)、「轍」や見世物一座の正体が語られたらいいなと思うし、「泰平さん」の「テリヤス工業」時代の話やこのあとの箱庭の姿もまだまだ観たい。パンフに載っていたインタビューでは、監督は『クラユカバ』『クラメルカガリ』の両作品で「まだ語られていないこと、解かれていない謎」について「世界を閉じたくない」「モヤっとしたものを残すことで観た方の記憶に残したい」から謎を残していると述べているし、成田良悟先生との対談では「ちゃんと考えてはいるんですけど」「もっと面白い設定を思いつくかもしれない」から「前もってテキストに書き起こさない」とも話している。だからここまで自分が書いた感想はあくまでも現時点で得られる情報からの推察に過ぎないし、正解は監督の頭の中にしかない。いつか続編で明かされるクラガリとその周辺の世界の正体が、今回の自分の想像よりも遙かに深く面白く最高であることを楽しみにしている。『クラユカバ』『クラメルカガリ』を観たあの日の映画館の暗がりは、それでようやく自分にとっての美しき「クラガリ」になるのだから。
1 note · View note
krkwngm · 3 months
Text
ワンコインシアター『演劇:妻の女友達』
Tumblr media
 久しぶりにお芝居を生で観た。役者さん三人のみのお芝居だったのでひとりひとりの演技をじっくり観られてとても楽しかった。  にこにこと穏やかに無意識に妻をみくだして家に縛りつけていた男が中盤で殺人を犯してからの歓喜と狼狽と虚脱に振り回されて右往左往するさま。  控えめだった奥さんがボタンの真相を明かしたときに浮かべる(夫が気付いていない)微笑の冷たさと離婚を切り出してからの明るい話しぶり。  殺された成功者を演じた役者さんが殺人事件を探る刑事の役も兼ねることで強調される夫の望む平穏の脆さ身勝手さつまらなさ。  人間性の対比、人間の感情が作る世界の広さみたいなものがそれぞれの役者さんただひとりの身体から湧いてくることの面白さを感じたし、そういう三人の思惑と芝居がぶつかって交じり合う舞台だったから思っていたよりずっと見応えがあった。これがワンコインでいいんだろうかと思うなどした。  これまで平穏以外を望んだこともなかった夫が焦燥に駆られたとき大声でわめくんじゃなくて拳で口を覆ったり高い声で「あっ」「くそっ」「うーーっ!」て呻いたりするのめちゃめちゃウケた。殺した女に這い寄られる夢では野太い悲鳴あげてるのに現実ではデカい声さえ出せない性根の小ささというかなんというか。  奥さんと夫の「料理学校の先生と愛し合ってるの」「(え!?)」のやりとりで周りのお客さん結構笑ってたな…序盤の心の声と外面が違う夫の芝居でも笑ってたから、内心は本人が望んでる穏やかさとは程遠い夫のギャップがウケたんだろうな。あのへんは芝居ならではの笑いどころだと思う。「離婚してくださーい」の朗らかさとかもそう。  舞台の最後、妻がハケてひとり残された夫が自分の求めた「平穏な家の中」の象徴である妻の手縫いのくまを抱きしめて終わるところ良かった。終演後に退場していくお客さんが舞台に残されたくまを見て「ほんとに目が変わってる」と呟いてたのも含めて。
0 notes
krkwngm · 3 months
Text
ウォンカとチョコレート工場のはじまり
Tumblr media
観てきた。 シャラメがSNLでやらかしたこと全然許せないので観ないつもりでいたけども、主演の愚行は映画の制作陣にもロアルド・ダールにも関係ないもんな……と思い直して行った。正直序盤ずっと苦々しい気持ちでいたけど(パンフレットも本作と無関係なシャラメ出演作の記事で4ページ埋まってて不祥事前の制作だろうと要らん内容だった)、舞台美術と楽曲とシナリオと衣装が素晴らしかったからこれを手がけた人たちの興行に報いてよかったと思う。懐かしいシーンがいっぱい出てきたし、一癖も二癖もある登場人物のおかしさと魔法じみた色彩の美しさも素敵だった。  監督が撮影中に『夢のチョコレート工場』にチョコでできたティーカップを齧り取るシーンがあったことを思い出し「もっと早く思い出していれば撮れたのに…」と残念がっていたら本作専属のチョコレート職人さんが「作れますよ」って言って数時間後の撮影にまじで間に合わせてくれた、という話がパンフに載ってて職人さんすげえなと思った。出てくるチョコレートどれもこれも美味しそうだったけど実際すごい美味しかったらしい。あとコラムに書いてあった、板チョコに均等な溝が刻まれているのはチョコの工程上必要だからであってチョコを割る目安として在るわけではない、でもこの映画はその溝にも物語があると期待させてくれる(意訳)、という話が印象に残った。  つまんないコメディアンが復帰後もやっぱりつまんなくてお客さん誰も笑ってないなかたった一人爆笑してる女性が実は別れた奥さんでした、ていうオチも良かった。分かち合う幸福を描いた一方でただひとりを幸福にできるならそれでハッピーって気持ちも描いて両立させてるところが特に。  そして個人的な話をするけども、自分にとってウンパルンパはティム・バートンが撮った2005年の彼らではなくメル・ステュワートが撮った1971年の彼らなので、今回のウンパルンパが1971年のデザインだったのがものすごくうれしかった。そうなんだよおれのウンパルンパはこっちなんだよ!!  実は1971年の映画こと『夢のチョコレート工場』を観たときにウンパルンパがまじで良くて演じた俳優さんたちのことが知りたくてたまらなかったのに、DVDの特典コンテンツにあったウンパルンパの項を開いてみたら「ウンパルンパは実際に背の低い者たちによって演じられた。彼らの名前は誰も知らない」て紹介されててちがうだろ作った連中が消し去ったんだろこの差別主義者どもが!!!!!とブチギレた経験がある(差別のせいか知らないけど少なくとも彼らは名前のある役者として認められていなかったってことじゃん…こんな重要なキャラで歌とダンスのシーンもすばらしいのにクレジットで名前出てこないのおかしいだろ…)。本作でウンパルンパを演じたのは映像加工によって縮小されたヒュー・グラントだったけど、これを機に『夢のチョコレート工場』を観てそこに登場する彼らを見つけるひとが増えることを願っている。ウンパルンパの歌は本作オリジナルではないのでね!
0 notes
krkwngm · 4 months
Text
ファースト・カウ
Tumblr media
 映画初めに行ってきた。もし今年が丑年だったらお正月映画に位置付けた謎のPRがなされたのかなとぼんやり思った。それはそれで愉快な気もする。
 長編7作目にして日本初配給のケリー・ライカート作品、ということで気になってたけど実際沁みる映画だった。去年の最後が『PERFECT DAYS』だったので、光の美しい映画を年末年始に立て続けに観てしまった。こりゃいい年にならざるをえない。  以下良かったところのメモなのでネタバレがある。
 歩いてる足元を映すシーンが多かった気がする。劇中の音楽はきれいだったけど多用はされておらず、枯れ枝を踏みしめる足音やオールを漕ぐ水音、クッキーが菓子を焼いてるときの火の爆ぜる音なんかはほとんど飾られていなかったと思う。���からいっそう足元のカットが印象に残ったのもあるだろうけど、歩きかたってやっぱり感情出るよな(観てるこっちが読み取ってしまうだけかもしれないけど)と感じ入った。監督はそういう小さな変化を撮るのが好きなのかもしれない。農業をやりたかったキング・ルーと旅人のためのホテルかパン屋をやりたかったクッキーが少しずつ友情を深めていく、そのかすかな変化を大事に拾い上げていくような物語が、小さな音や光の移り変わりや自然の表情をこまやかにとらえる映像で作られているのは説得力があった。現代の川をずみゃーーー……と進んでくる長いタンカーの黒とオレンジの船体と当時の川をのんびり渡ってく小舟の対比がなんかよかった。  見て���くれって頼まれた赤子を置いていくのを躊躇ったり乳搾りのあいだ牛に話しかけたり、くつろいでくれと言われたのにルーの家の掃除始めたり枝を採ってきて飾ったりしちゃうクッキーが全体的にいいやつすぎて……ボストンのパン屋で働いてたことがあるって仲買商に打ち明けてたけどあれキング・ルーは知ってたんかな。頭打って体調悪いのに「baker(パン屋)とbeggar(物乞い)が似てるのはどちらもb-read(パン)が必要だから」てジョークかますところもよかった。父が死んで母が死んで家を出てあちこち彷徨ってきた経歴のわりに物の見方が荒んでないのは、両親の記憶とかパン屋の経験とか、放浪のなかにも良い出会いがあったからかもと想像した。  クッキーがそういう人間である一方で、「中国じゃ白人より嫌われる」北生まれのキング・ルーはたぶん自分の生まれた場所を思い返すと苦い記憶が入り混じるんだと思う。本当は農業をやりたかった、は自分の土地がほしかったって意味でもあるだろうから。「カードを一枚しか場に捨てない古いルールに則るペテン師ことジョン・ハート(ハートは心臓でなく牡鹿(dear)のほう)」の意味合いがうまく呑み込めずにいるんだけど、酒場でクッキーを見つけたときにカードをやってるテーブルじゃなく自分の家の卓で酒を飲まないかって誘ったあたり、ルーはクッキーに助けてもらったことが本当に嬉しかったんだろうな。自分を追ってたロシア人が戻ってきて家をめちゃめちゃに壊して去ったあとのルーが、残骸のなかからクッキーがお菓子作りに使ってた枝を拾い上げて石の上にそっと置き直したところに愛を感じた。  あと観に行ったフォロワーさんも言ってたけど、映画の冒頭で並んで横たわった状態で見つかる二人ぶんの骨がさあ……。ドーナツの列に割り込まれたり働けって怒られたりして結局買えてなかった男性が逃げる二人を尾行してたけど、最終的には彼がキング・ルーを撃ったんだろうか。というか観終わったあとにチラシを見たら牛を牽いてたのも同じ男性だったので(全然気付いてなかった)よくもおれの牛をってことだったのかもしれん(この人の牛ではない)。あと仲買商がすごい見覚えのある俳優さんでびっくりした。トビー・ジョーンズじゃん!  キング・ルー、ビーバーの脂は高く売れるとかサンフランシスコのホテルはどうとかクッキーの前でずっとぽつぽつ喋ってたけど、あれクッキーに聞かせるというより自分に言い聞かせてたんだと終盤で気付いた。頭を打ったクッキーがしんどそうに木の陰に横たわったとき「眠っていろ おれが見張ってる」て隣に座って膝抱えてたのに「すこし眠ろう」て隣に横たわって「おれがついてる」て目を閉じるじゃん。その言葉のとおりに最期までクッキーのそばについていたんだなと分かる冒頭の骨ですよ。ハートはペテン師でもキング・ルーは何も欺かなかった。ほんとに「鳥には巣、蜘蛛には網、人には友情」だったんだな……てしみじみしたし、このラストに至った二人の歩みに納得しかないくらい、最初から最後までささやかでも得がたい交友の重なりを見せられたところが良さだと思った。良い映画が観られてうれしい。今年もいい年にしよう。
5 notes · View notes
krkwngm · 4 months
Text
2023年が終わらない
12月に観た映画と舞台と展覧会がどれも良くて年内に感想を書いておきたかったのに年末年始のなんやかやで全然その暇がないうちに今年最初の映画鑑賞を終えてしまった。もう時系列とかわやになる前提で書けたものから投稿していくことにする。こういうところでエネルギー使うと年明け早々疲弊するので取り戻そうと焦ったり逸ったり頑張ったりしてはいけないので自分にそのへんめちゃめちゃ言い聞かせながら過ごしている。まじでちょっとずつやる。気の済むとこまで書き終えたらこの投稿は消えます。終わり。
0 notes
krkwngm · 5 months
Text
高野豆腐店の春
Tumblr media
映画館で観てきた。予告編が良くて楽しみにしてたけどやはり良かった。以下ネタバレがある。 ちなみにこうやどうふではなくたかのとうふです。
なんでタイトルが「春」なのかなって思っていたら劇中で春が巡ってくるごとに字幕が流れる。特定の春じゃなくて繰り返す春を撮った映画、人生の映画だった。舞台の尾道がどのあたりなのか分かってなくて、言葉を聞くに広島ぽいなと思っていたら主人公のおとうちゃんこと高野辰雄は原爆を知っている世代で、奥さんは原爆の影響で40過ぎに病を患い亡くなっていた。原爆は夏に落ちた。落ちる前の春、落ちた後の春がどんなだったか劇中では語られないけれど、傷ついて多くを失って苦しみに耐えてきた人たちが、それでも互いに助け合いながらどうにか生きて迎えてきたいくつもの春は、娘の春が父の豆腐を称して言うところの「甘くて やわくて なめらかで 口に入れるととろけて」「苦みもあ」る、温かな明るさを含んだ季節だったのではないかと思った。映画で描かれた春がそういう情景ばかりだったので。 苦みとはこの場合、春の元姑やふみえさんのパート先や姪夫婦の、ほとんど悪意に近い無理解を指す。豆腐のにがりは投入するタイミングを間違えるとだめになってしまうと春は言う。豆腐は作り手によって出来栄えが全然違っていて、スカスカな豆腐や「腹黒い豆腐」もあるとのこと。結婚して家を出ていく春に初めて作らせた豆腐を「いい豆腐だ」としげしげ眺める辰雄、店の豆腐を「おとうちゃんそのものみたいな おとうちゃんにしか作れない豆腐」としみじみ語る春。「いい人生じゃったと振り返れるように幸せにならんと」と笑う辰雄の言葉を、ありがとう、と噛みしめるふみえさん。苦い思いや悲しみ、穏やかな喜び、忘れようもない在りし日の幸福。そういうのを全部ひっくるめて織り成されるひとりひとりの人生の滋味深さが、作り手のありようが率直に表れる豆腐というものの白さ、奥深さとともに描き出される映画だった。すごくよかった。映画館でしみじみと味わえてだいぶ元気が出たし辰雄と春さんのやりとりで何度か泣かされた。 ところでここまで書いてタイトルの「春」が春さんも指してたことにようやく気付いた。春っていい名前だ。
辰雄とその「悪友」(公式サイトにそう書いてある)のやりとりが全部良い。キャスティングが秀逸で良い。悪友が理髪店で働いてる時間にみんなでダベってる場面でもう面白いし、春ちゃんの幸せのために婿さんを探してあげよう!てみんなでわちゃわちゃしてて楽しいし、大会出場経験のある高校の演劇部長に真面目に稽古つけられてるとことか、波止場のコンクリに座って足ぶらーんてして沖をのへーんと眺めながら辰雄の恋バナ聞いてる場面のなんともいえん良さとか全部よかった。この前段で理髪店の奥さんの早苗さんが辰雄さんにお見舞い品の相談を受けるシーン、相手が女性だと知って仰天する早苗さんの背後で流れる喫茶店のBGMが「運命」で笑った。絶対わざとじゃん。 音楽が演出として使われる映画は楽しい。ふみえさんが演奏したピアノの曲はメンデルスゾーンの「歌の翼に」だったけど、メンデルスゾーンはユダヤ人の家系ゆえに生前も死後もしんどい見方や扱われ方をされてきた作曲家らしく、ふみえさんの背景に少し重なる気がした。「わたしこれね、ずっと持ってるんですよ」と辰雄が懐から小さくたたんだ4月2日のピアノコンサートのチラシ取り出したときのはにかんだ顔、「ばかだねぇ」と嬉しそうに笑うふみえさんが良かった。手術の日もふみえさんは「ばかだねぇ」と笑ってて、それは電話で手術を知った辰雄がわざわざ病院に駆け付けてきたからだけど、「わたしここで待ってます。待ってますから」と一生懸命に言ってくれたことが本当に嬉しかっただろうし、辰雄のそういう優しさが春さんや奥さんを幸せにしてきたのだと思う。 理髪店の金ちゃんに「辰ちゃんはその人のこと好いとるなら伝えんと」と言われた辰雄は「わしゃあそういうんじゃなく、」と口ごもって「男が廃るど!」と叱られていたけど、辰雄のふみえさんに対する感情は恋愛というよりただただ幸せに生きてほしいって祈りだったんじゃないだろうか。春さんが再婚しないのは辰雄が家に置いておきたいからだと揶揄われて「ぶちたいぎぃ」と怒っていた辰雄は、大変な時代を支え合って生きるために結婚した奥さんのことも、そのとき自分の娘になった春さんのことも心底大事で、春さんは何も言わないけど自分との関係のせいで元姑に色々言われたらしいことも気にしてて、ほんと頑固だし不器用だし融通聞かないけど、他人が馬鹿にされていたら怒るし、豆腐を褒めてくれるお客さんには(たとえ原爆を落とした国のひとだろうと)大事に接するし、春さんに無視されると凹むし、娘でいてくれた春さんに「ありがとう」と感謝を口にするまっすぐなところが憎めないんだよな……言葉の端々や行動に心根の優しさが表れていて、春さんにとって本当にいい「おとうちゃん」だったんだろうなと想像できる。最後のシーンでおとうちゃんに縋りついて泣く春ちゃんの子どもみたいな泣きじゃくりかた、全部をゆるされたように嗚咽を上げて泣く麻生久美子さんの演技、受け止める藤竜也さんの優しい顔が涙腺にきた。良い映画だった。辰雄さんは早いとこ心臓の手術受けようね。
0 notes
krkwngm · 6 months
Text
マーベルズ
Tumblr media
初日に観てきた。以下ネタバレがある。
モニカの「キャロルおばさん」だったキャロル、キャロルの「おちび少尉」だったモニカ、キャプテン・マーベルの「ツインズ」になりたかったけど先にモニカがいたのだと知るカマラ。この三人のなんとも言えないチームワークと言葉にならない関係性が作品全体に響き渡ってる良い映画だなと思った。連携の練習のシーンがとても象徴的で、光のパワーを使うたびに入れ替わるのは一度に二人までだから都度ペアを組んで練習するだけでよさそうなのに(頭に物を積んで歩く練習とかまさにそう)、三人は縄跳びをやるんだよね。縄跳びは縄を回す二人だけじゃなく跳ぶ一人の息も合わないと長く続かない。年下、リーダー、新人のいずれか一人に合わせるでもなく三人が、三人で合わせるのがいちばんしっくりくる状態を作るために縄跳びをする。足で地面を蹴って飛び上がることは空を飛ぶアクションに繋がる行為だけど、カマラは空を飛べないし、モニカには冒頭で初めて飛んだばかりだし、キャロルはふつうに飛べるけどだからって全てを救えたわけじゃない。そもそも飛行機乗りだったキャロルにとってあれは本来の飛び方ではない。あの縄跳びのシーンは一人では上手く飛べない彼女たちが三人一緒ならよりよく飛び続けられるようになるための、「高く速く遠く」飛ぶための最初の跳躍が磨きあげられていく過程を描���たシーンだったと思う。 だからこそ最後の飛行機のシーンで「実は(飛ばすための)キーがないの」と言うキャロルの台詞が切ないし、「じゃあモニカが戻ってきてからだね」と返すカマラの優しさが沁みる。まじで再会してほしい…つらい…「こうなる気がしていた」がしんどい…
『キャプテン・マーベル』、なにが良かったって地球人の強さとは何かをここでまた描いてくれたことなんですよね。キャプテンアメリカが超人血清を打つ前からヒーローの精神を持っていたように、キャロルも力を持つ前から自分で立ち上がる強さがあった。それがなにより美しい映画だったと思います。 ここからエンドゲームの、残されたみんなが立ち上がり歩き出す予告編に繋がるんだと思ったら泣いてしまった エンドゲームほんとうに楽しみです 怖いし寂しいけど楽しみだ 
↑これは『キャプテン・マーベル』劇場公開時にツイートした2019年3月23日の感想なんですけど(4年前!)このとき感じたキャロル・ダンバースのかっこよさが今作でも健在で嬉しかった。「キャプテン・アメリカとかキャプテン・マーベルとか、超人になる前からただのひとりの人間として自分の困難へまっすぐにまなざす強さがあるヒーローたちが好きすぎる」(自分の過去ツイート)。わかりが深い。 今作を観ていて『キャプテン・マーベル』を強く思い出したのはカマラがモニカと入れ替わってヒューリーの前に現れるシーンと、モニカが次元の隙間を通って現実並行世界のマリア(バイナリー)に会うシーン。ここでカマラもモニカも「Who are you?」と聞かれてるんですよね。おまえはだれだ。自分は何者か?という問いは『キャプテン・マーベル』で記憶が欠けている自分にキャロルが繰り返していた問いでもあった。今作でも彼女はいまだ自分を探し続けていたし、取り戻せずにいたから地球へ戻らなかったことが分かる。 そしてそこに「あなたでいいの わたしのキャロルおばさんで」とひとつの答えがもたらされる。どんなことがあってもカマラとともにいて彼女を見守るカマラの家族と、間違えた自分を見せたくなくて全てを正そうと宇宙を飛び回っていたキャロルに「家族ってそういうものじゃないよ」と笑ったモニカは、対照的なようでいてどちらも「(ヒーローではない)そのままのあなた」を真っ先に愛している『家族』なんだな…と思った。「誰かと一緒にいたって孤高でいられる」ともモニカは言ったけど、キャロルが長くその身を置いていた孤高は孤独に変わりつつあったんじゃないだろうか。それがようやく癒されようとしていたところなので本当にモニカには帰ってきてほしい。いや別人のママと一緒に活躍する姿も見たいですが!ていうか今回「キャプテン・マーベルは帰ってくる」てクレジットが……出なかった……!!!!?なんで……!?!?!?!?!?
しかし自分程度の知識ではエンドクレジットの青い男とマリアの衣装の意味が分からず「ここで「ワーッ!!」てなれたら楽しいだろうに…!」てアメコミファンが羨ましくなった。今後の展開楽しみだな。にしても今作単体で充分楽しかったけど、モニカがパワーを得たきっかけを噛みしめるためにも『ワンダヴィジョン』を観ないといけん気がしてきた。『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』を観たときに公式パンフも買っているし、時代ごとのテレビドラマになぞらえた演出とか絶対好きなやつなんだけど、Dsiney+に加入せねばならんのが二の足を踏んでいる。こまいけどカマラがモニカのあだなにほにゃほにゃヴィジョンを提案したときの「ヴィジョン!いやだめか」てキャロルの反応にちょっと笑った。
そしてゾウイ・アシュトン演じるダー・ベンの、憂いと狂気と迷いを帯びたような在りさまがとてもとても良かった……本来は率先して他者を率いることはしなさそうな佇まいなのに何かに、怒りと憎しみと使命感と責任と未来への不安と死への恐れと故郷の憂いと「もうこうするしかない」という狂気じみた真っ当な信念に突き動かされて動いている感じがずっとしていた。ダー・ベンの行動理由をキャロルは自分の大切なものを奪うためだと分析していたけど、たぶんダー・ベンにとってそれは過程にすぎなくて、いちばんの理由は「奪われたものは奪い返すしかない」だったんだと思う。傍から見て復讐に見えたとしてもダー・ベンにとっては本来自分たちが失わずに済んだものを取り返しているだけ。奪ったお前の領域をその対象として何が悪い?という。クリー人の思想や歴史も相まって手段が殲滅を伴うあたりがめちゃめちゃヴィランだなという印象。殺戮者にはおなじ殺戮者として対峙し、最後はひとりで死んでいく。嫌いになれん敵だった。
「Memory」が流れるシーンは爆笑したしグースの子どもの口のなかに覚悟を決めてめっちゃ華麗な姿勢で飛び込んでいく男性職員のところで笑ったしアラドナの会話シーン最高だったし、キャロルの船に乗って初めての体験に圧倒されてるカマラと憧れの宇宙に旅立ててすごく嬉しそうな顔してるモニカの反応が素敵だった。大好きな眼帯さんてキャロルの物言い、サノスの指パッチンのあと髪ふり乱した悄然とした姿で地球に飛んできて「ヒューリーはどこ?」て呟いたシーンを思い出した。「光に触ったら」「なんで触る?」て叱られてるの親子みたいでかわいかった。 あと今更気付いたんだけど、キャロルのビジュアルってヴァルキリーの好みドンピシャすぎるのでは……?てか他のドラマシリーズでもしやこの二人の交流ありましたか……?思いがけないところでソワソワしてしまった。テッサ・トンプソンほんとにかっこいい。
0 notes
krkwngm · 6 months
Text
映画すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ
Tumblr media
 観てきた。よかった。以下ネタバレがある。
 今作のキャッチコピー「ここにいても、いいのかな?」は自分のいるべき場所にいられなかった、いきたい場所にいけなかったすみっコたちが辿り着いたすみっこでつぶやく願いであり、今作の「ふしぎなコ」が長い孤独を経てようやく抱くことを許された願いであったと思う。  古びて忘れられて生まれた意味を果たせなくなって、絶望の底で立ち上がれなくなって、あとは朽ちてゆくしかないのだと泣いていたあのコが、どんなに古びても元の姿を失っても愛され続けてきた自分の『意味』を差し出されて顔をあげて、「忘れてないよ」「きみが元のきみと違っていたって自分たちはいいと思うよ」と励まされてまた泣いたこと、ありがとうと零した自分の涙がみんなを笑顔にしたのを見て「あの頃には戻れなくても自分にはまだ『意味』が果たせるんだ」と気付いたこと、そして新しい姿で立ち上がって旅に出たこと。全ての喪失と救済が序盤から散りばめられて結末できれいに収束していく物語の構成が良かった。シリーズ初のアクションシーンや初めて明かされる過去話など、新しい試みがダイナミックに冴え渡る構成も今作の舞台設定を活かした面白さに繋がっていたと思う。  工場内の「いかないで」のテロップで泣いたし、全ての秘密が明らかになる終盤でずっと泣いてたし、なんなら序盤のすみっコたちの紹介シーンでぺんぎん?が『ひみつのコ』のあのコの絵を描いてたり階段の壁に『まほうのコ』のふぁいぶとみんなの写真が飾られてたりしてる時点でちょっと泣けた。こういうさりげないシーンがみんなが『ふしぎなコ』に告げた「忘れてないよ」が心からの言葉だと証明しているわけで。  そもそもすみっコはみんな自分の生まれた世界の真ん中を歩くことができなかったコたち、自分とおなじ誰かのように生きられなかったコたちだから、自分の居場所が分からないコや生まれた意味を見つけられないコを決して見捨てないので、ゲストキャラクターのコにどれだけしんどい背景があっても毎回安心して観られるし、観ているこっちも救われた気持ちになる。今回も「泣いているコを放ってなんておけない」すみっコたちが、ハラハラさせられた相手を心配したり泣いている誰かを探しにいったりするシーンで(熱いな……)と良��を噛みしめていた。誰も昔の自分みたいにひとりぼっちにさせたくないすみっコたちの勇気と優しさが眩しい。
 自分の最推しのとかげは前作『まほうのコ』で自分より小さなコのお世話をしてちょっとお兄ちゃんぽさを身につけたのか、重要アイテムの所在を大事な局面でちゃんと思い出すしっかりさを発揮していた。たぴおかをひとりでふたり受け止めていたとこも最高だった。しっぽの使い方が天才。その一方でしろくまのおもちゃ作りが終わるのをみんなで待っていたシーンではひとりだけ今にも寝落ちしそうにうとうとしているのが可愛くてな…………  えびふらいのしっぽが前二作に比べて感情豊かだった気がする。珍しく台詞があって泣きべそもかいていた。というか「やめてー(泣)」となってるえびふらいのしっぽを見て慌てて手を離すとんかつが愛おしい。「とんかつはえびふらいのしっぽが嫌がることなんかしないもの」のナレーションも沁みる。これが機械トラブルで大量に生産されたとんかつの群れから本物を見つけるきっかけになるから尚更良い。えびふらいのしっぽが出荷されちゃったとき猛然と追いかけようとするとんかつ(懸命に引き止めるすみっコたち)、車から出てきたとんかつとおててを繋ぐえびふらいのしっぽ、たぴおかたちとトーテムポールを形成し見事枝の上のボタンを回収したえびふらいのしっぽの頭を撫でるとんかつ、などなど今作もこのふたりの間には何者も入る余地がなかった。ズッ友である。車のおもちゃを塗装していくシーンでソースをかけようとするとんかつ&こそこそマヨネーズを用意するえびふらいのしっぽに爆笑した。  すみっコたちはもちろんみにっコやもぐら、本物のぺんぎんにも見せ場があって楽しかった。かたつむりが荷台から飛び降りるとき他のみんながぎゅっと塊になって受け止めたとことか、もぐらの縦穴を上るときえびふらいのしっぽがざっそうを頭の上に乗せて運んであげたりとか、からくり時計からほこりがほよ〜と出てくるところとか良かった。ところでアームを華麗によけるぺんぎん?のアクション、アーム違いとはいえ特につまみ出されがちだから一矢報いた感があって良かったねぇ…笑
 あとエンディング。おばけとまめマスターのところに緊張した面持ちで立っていたあのコが可愛かった。エプロンにくま工場長のポケットも縫い付けられてて。おばけがちょっと心配そうな顔をしていたのも良かった(牙が見えると怖がられてしまうので口を開けて笑わないよう気をつけているおばけの設定が切なくて好きだ。幸せでいてほしい)。マスターのお店で修行したスキルをどう活かすんだろうと気になっていたらすみっコのみんなが座席を並べて映画館を作るラストは全く予想外でワクワクしたし、「今日もどこかでみんなを元気にしているそうです もしかしたらすぐ近くにいるかもしれませんよ……?」のナレーションの後、スクリーンいっぱいにあのコの顔が映ったからそういうことか〜〜〜〜〜!!!!!て嬉しくなっちゃった。あのコが幸せそうにニコニコしていたのも良かったし、映画館がすみっコを観に来た人たちにとって「元気になれる」場所でありますように、という祈りもあるんだろうなってのも良かった。子どもの頃から映画館で映画を観るのが好きだった身としては、誰にとってもそういう場所であってほしいと思う。
0 notes
krkwngm · 6 months
Text
だから星を見ている(再掲)
 好きだった映画の続編が今月無事に公開されたので、記念に前作のレビューを再掲しておく。2022年に参加したアンソロ同人誌に寄稿したもので、「各自掌編2本とエッセイ1本を提出・エッセイは映画レビューも可」との条件を受けて書いた。登場人物の性別がはっきりと語られていないので、当時は原稿字数の都合上できるだけ文字数の少ない呼称として「少年」を採用したが、それが正解だったかどうかは分からない。ここに再掲したものは「少年」から「子ども」に修正している。
*****
 夢とは星のようなもの、とあの魔法使いは答えるのだろう。  星の飾りのついた帽子をたずさえ初めて地上に降りたとき、魔法使いには『夢』の概念が分からなかった。魔法使いの暮らす天上の国では魔法ですべてが叶うからだ。地上のものたちにとって夢に手が届かないのは悲しいことだと知ったときさえ、本当は何が悲しいのか分からなかったはずだ。それでも魔法使いは一晩かけて、地上のものたちが悲しまないための魔法を習得した。先達に憧れて繰り出す魔法は失敗ばかりの魔法使いが、自分ではない誰かのためにひとりで練習に励む場面は、時間こそ短いながらも魔法使いのひたむきで優しい性格が伝わってくる。  だからこそ一生懸命覚えた魔法を使った次の日の朝、自分の魔法のせいで変わり果てた皆を見た魔法使いはひどく後悔したに違いない。  魔法使いにとって地上は夢のような場所だ。自分で料理を作ることも、箒で飛ばずに歩くことも、ひとりぶんのベッドで隣の温もりをよすがに眠ることも魔法では叶わない。そんな夢が溢れる世界、天上の星より眩いもので満ちているこの世界なら、悲しみしか寄越さない星がひとつ消えても問題ないと思ったのだろう。手が届かないのが悲しいのなら消してしまえばいい、と考えたのだ。皆を想う優しさゆえに魔法使いが使った魔法は、皆の『夢』を消し去ってしまう『消滅の魔法』だった。  実際、星を消された皆からはたしかに悲しみも消え去っていた。だが残ったのは夢を見るのさえままならない自分と、それを変える術を知らない自分だ。夢が消えたことで現実を受け入れるしかなくなった彼らが、至らなさと無力さに耐えかねて逃避と自虐に耽る様子は滑稽ながらも哀愁を誘う。自分の星を持たないとはどこにも行けないということだ。自分のしでかした過ちの大きさに気付いた幼い魔法使いは混乱して泣きじゃくるも、無事だった仲間の力を借りてどうにか皆の夢を取り戻す。そうして魔法使いは『夢』が地上の皆にとって生きるために必要なもの、星のように日々を導いてくれるものであると知る。  だが星を思い出したところで、星に手が届かない悲しみはやはり拭えないままだ。魔法使いが地上でいちばん慕っていた子どももそれは同じだった。そのコの夢はとある事情で離れて暮らしている母と再び、ずっと一緒に暮らすこと。物語の終盤、魔法使いによってそのコは無事に母と再会するが、それはたった一夜のわずかな時間に過ぎなかった。  夢を叶えてあげられなかった魔法使いに、しかしそのコは笑って言うのだ。『またいつか』、が自分の夢なのだと。手の届かない現実がどうしようもなく悲しい夜はあるけれど、それでも何度でももう一度、星を見上げて歩き出すのだと。  その言葉を聞いた瞬間の魔法使いの表情を忘れることはできない。どうしてひとは悲しみを抱えながらも星を見上げ続けるのか。答えを得た魔法使いが帽子の星飾りをそのコに手渡したとき、ああとうとう見つけたのか、と自分は思った。天上の国では夢見ることも知らず、どこにも行けなかった魔法使いは、星ひとつないこの地上でたったひとつの自分の星を見つけた。  夢にはいまだ届かず、悲しみは夜ごとやってくる。だが魔法使いは、そのコは、星を見上げるたびに遠くの空で夢を見ている互いを想うのだろう。導きの星は自分ではない誰かの夜を救うのだ。
youtube
「映画すみっコぐらし 青い月夜の魔法のコ」、ならびに今年の新作「映画すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ」をよろしくお願いします。
0 notes
krkwngm · 6 months
Text
今年の春に岩手県立美術館で観てきた「みちのく いとしい仏たち」展が来月から東京で開催されるので、当時の自分の感想を引用しておく。とてもよかったのでたくさんの人に足を運んで癒されて元気になってもらえたら嬉しい。
みちのく いとしい仏たち
Tumblr media
 東北地方の山村や漁村に祀られていた、およびいまも祀られていたり寺院の隅っこに隠れていたり個人のお宅に住んでいたりする「民間仏」の展覧会。地方の(ほとんどは名前も分からない)仏師らの手で木から掘り出されて作られた大小さまざまな仏たちがアイボリー調の展示会場のあちこちに展示されていて、どれもこれも荘厳とはちょっと言い難いユーモラスな佇まいでこちらを見つめているのがおかしかった。仏とは見つめてくるものなので当たり前だが。
 簡略化された装飾や指先、どうしてそうなったと聞きたくなる独特のプロポーションはそういう美術様式ではなく仏師の技巧の問題らしい。拙いといえばそれまでだが味があるといえばどこまでも味がする。なるほど首がここで終わってこの腕がそこから繋がって輪郭は丸いけど背中は平面で顎先がすごい出てて足どこ…と展示ケースの四方からじっくり眺め回すのがとても楽しかった。だって全部デザインが違う。輪郭が違う。統一感がまるでない。作者が違うから以前に、たとえ同じ仏を表した像であってもその地方に住んでいた仏師が”仏様の顔ぁこんなふうだべか”と手探りで作った感がすごい。特に津軽の仏たちのどシンプルかつ何の捻りもない造形が良かった。良すぎて滅多に買わない図録など買ってしまった。めっちゃ観てほしい。この肩幅とか鼻筋とかどっしりとほんわかが同居した感じとかもうすごい。
 会場を周りながら道祖神を思い出した。ただ石が立ってるだけのあれ。美しさや技巧の高さはさておき、祈りを捧げる方角を表す目印としてまず形を持っていること、そこに「在る」ことがたぶんこれらの仏たちが村に置かれたいちばん大事な理由のひとつで、すっかり真っ黒に煤けていたり手足が欠けてたり顔がすり減ってたりしたものが多かったのだって、それだけ信仰してきた人たちのずっと近くに長いこと在ったことの証明と思うとしげしげ眺めずにいられなかった。  あとみんな表情が良い。笑ってる顔が多いし鬼や十王の形相さえ微笑ましい。その理由を東北に生きることの苦しさ、不漁や凶作や日々の辛さに耐えねばならない「涙とため息まじり」の人生にみる最終章の解説が胸に残った。
 なぜみちのくの民間仏はかわいいのか。祈り見つめる根底につらさ切なさくやしさがあるからです。それを「てえしたごだねのさ(大したことはないんだよ)」と笑ってみせるやさしさが、ニコニコする仏像たちを生んできたのです。老幼男女を問わず、命のはかなさや自然の厳しさを知る人々が手を合わせた仏像は、哀しさを秘めているからかわいいのです。(『みちのく いとしい仏たち』公式図録.P139)
 名前のないものにも生まれた理由はあり、価値を持たないものにも意味はあること。語られた言葉と捧げられた祈りが、誰かの人生が在ったこと。そう知らされる展覧会は名作を観るのと同じくらい楽しい。巡回予定の京都と東京でもいとおしんでもらえたら東北の民としては嬉しいかぎりだ。
みちのく いとしい仏たち 東京会場/東京ステーションギャラリー 2023年12月2日(土) - 2024年2月12日(月) 展示詳細 https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202312_michinoku.html
Tumblr media
2 notes · View notes
krkwngm · 6 months
Text
のん Ribbon展 怪しくて、可愛いもの。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
パンフレットに載っていた、制作中ののんさんの肘まである長手袋のスカイブルーとハイヒールのパープルがかわいかった。展示は言わずもがな良かったので観られて嬉しい。
0 notes
krkwngm · 7 months
Text
Lock, Stock and Two Smoking Barrels
Tumblr media
 気になりつつ観たことがなかったがこのたび『オペレーション・フォーチュン』の公開を記念しリバイバル上映されたので映画館で浴びることができた。Filmarksによる90年代映画リバイバル上映企画「Filmarks 90's」の第一弾らしい。ありがとうFilmarks。今後もいろいろ上映されるそうなので楽しみ。
 んで『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』、めーちゃめちゃ面白かった。50万ドルの借金をどうにかしようとする四人組の全く知らぬ存ぜぬところで借金がチャラになっていく後半の展開に笑ってしまった。買い取った大麻を盗品と知らずにまさかの盗まれた相手に売ろうとしてしまう商人がどう考えてもアホなんだけど、大麻を作ってる若者たちと自分を一切紐づけないようにしていたギャングの周到さもこの混沌の原因かもしれない(格下でも取引相手には慎重になろう)。その点、息子を罠に嵌めて本来の目的であるその父のバーを奪おうとするハリーのほうがずっと上手で、長い間この土地でだいぶ悪いことをやってきた感があるし、ハリーがわざわざ盗めと命じた骨董品として非常に価値のある長���を若い連中(四人組や強盗)が安値で売り買いしちゃう対比も犯罪の世界に身を置く人間の年季の違いが見えて楽しい。古銃二丁の価格がちょうどエディの負った借金全部チャラになる額なのが絶妙なんだよな……その額で買わず側近に盗ませようとする&代償にバーを得ようとするハリーの金周りの采配が際立つというか、どう考えてもエディには最初から勝ち目なんかなかったなってなる規模感というか。  なのにいろんなタイミングでああいうことになるんだもんな~~~面白い。自分の手の及ばないところで運命がどうにかなっちゃうことを悲劇でなく面白く描いてくれる映画好きだな。  出てくる人間みんなどっかおかしくて良かったけど、四人組のなかで唯一きれいな仕事してるから「ソープ(せっけん)」で呼ばれてる男が襲撃の相談してるときいちばん物騒な案を出すシーンは笑った。懐からバカでかい肉切り包丁引きずり出して真顔で語るし周りの三人にお前怖いよ!て引かれてるしで良さしかない。あとハリーとのゲームに負けた瞬間のエディの、ぐにゃぐにゃした車酔いみたいなカメラワークが50万のヤバさとデカさで吐きそうになってる心理状況そのまんまでウケるしその後仲間と相談するシーンで「(四人全員の指を切ると脅されて)内心ホッとしていた 一人ではとても返せない」て心情説明が入るのもウケた。ハリー以外の全員どこか思考に甘っちょろいところがあって映画全体に妙な味わいを出していて、だからこういう展開を引き寄せちゃったんだろうな~!て腑に落ちてしまう楽しさがある。観てよかった。  大学時代に他学部の映像学の講義を一緒に受けていた友達がこの映画を好きだとずっと言っていた。たしかにあの子が好きそうな顔立ちとスキンヘッドがいっぱい出てきた。元気だろうか。
 あと開場を待っている間にチラシ置き場を眺めていたら「トンチキな服を着たうさんくさくてキュートな人が出てくる景気の良さそうな映画」が好きなSNSの友人が気になりそうな映画を見つけたので連絡したところもうすでに観たという返信があり愉快だった。内容も面白かったそうです。マブリー制作・主演の『狎鴎亭(アックジョン)スターダム』て映画です。
1 note · View note
krkwngm · 7 months
Text
ミュータント・タートルズ/ミュータントパニック!
Tumblr media
twitterに上げた感想をそのまま貼る。
🐢観てきた! 自分の居場所を作るために戦うティーンエイジの全然格好つかないけど一生懸命なところ良い 拒まれて疎まれて諦めたはずの人間から手を差し伸べられるのが彼らじゃなくてパパなところも良かった 手描き風の絵がぬるぬる動くのも楽しい 🐢ハエもネズミも人間から嫌われる生き物で家族だけが救いだったところも同じなのに、家族が欲しかった父に生み出されその才能と憎悪を継いだハエは『同族以外を拒絶する』人間そのものになり、唯一敵意を向けてこなかった息子たちを愛し愛されてきたネズミはその道を選ばなかったところ 感慨深い 🐢「無事に生きていく方法はただ一つ 自分の言うことを(私の話を)聞くことだ」って台詞まで同じなのにな… 🐢終盤の人間とミュータントのリレー、サムライミ版スパイダーマンを思い出して胸が熱くなった。アメコミのネタ結構盛り盛りだったしジョジョのパーカ似合ってたな。続編が作られたら実写映画に出てきたあの敵も出てくるっぽい?ので楽しみにしてる 🐀パパのかっこよさとラファの言動は荒っぽいけど誰より兄弟を大事に思ってる性格の味わい深さを思い出せてよかった。あとトカゲが良い。
Tumblr media
0 notes
krkwngm · 7 months
Text
アステロイド・シティ
Tumblr media
 面白かった。以下台詞はうろ覚えのネタバレがある。
 1955年、「温かくも冷たくもない、しかし容赦のない」照明を当てるよう指示書きされた舞台で上演される架空のドラマ『アステロイド・シティ』とその制作裏を交互に描く構成。冒頭で読み上げられる舞台装置の指示書きと制作中の背景や効果音が、いざ本編が始まるとなるほどこうなるのか!と腑に落ちるコンパクトでカラフルで戯画的な街並みが印象的でそこからずっと楽しい映画だった。カーブの角度間違えたから途中で終わってる空中道路とかなに?って感じだし(わざわざ看板に小難しい言葉で説明書いてるのも笑う)隕石の落下跡の隣でぐるんぐるん回ってるアンテナは無駄にデカくてふざけてるし街の標識にちっさく書かれた「人口87名」の表記がエンドクレジットで制作チームの名前になってるのに気付いて笑った。ダイナーの看板が「朝食」「昼食」「温かい夕食」になってたけど温かい夕食がふるまわれるシーンはなかったので実際どうなのか気になる。あとレモンの皮をその場で削いでくれるお酒の自動販売機めっちゃよくない?あんな美味しそうなお酒から歯磨き用品と土地の権利証書まで売ってる自動販売機とか近所に欲しすぎる。
 ドラマ『アステロイド・シティ』のパートは全編がカラーで全3幕とエピローグと2回のインターバル(うち1回は任意の休憩)があり、制作裏のパートは基本モノクロで『シティ』の人物が滲み出るときだけカラーが入る演出になってた(気がする)。それぞれアスペクト比も違っていて、『シティ』本編はスクリーンの幅いっぱいに映し出された横長のスコープサイズだけど、モノクロの制作裏はテレビとおなじスタンダードサイズになってた。ちなみに場面ごとに挿入されるクレジットは色こそドラマと同じカラーだけどアスペクト比はスタンダードで、それが架空と現実をシームレスに繋いでる感じがした。  『グランド・ブタペスト・ホテル』も時代の違う3つの物語に合わせてアスペクト比を使い分けてたし、なんなら『ブタペスト』も『フレンチ・ディスパッチ』も書かれた物語と書いた人間の物語をひとつの映画で描く構成になってたから既視感を覚えて当然なのに、どれを観ても新鮮な刺激と面白さと寂しさでいっぱいになるから不思議だ。登場人物やたら多くて最後まで名前を覚えられない人もいるくらいなのに、劇中で幾重にも重なっていく小さなエピソードを観るうちに登場人物それぞれに二つとない『人生』が在ると分かるから誰ひとり忘れることができない。ウェス・アンダーソン作品を観るたび映画を観ることの喜びで満たされてしまうのはそのせいだと思う。もちろん映像も素晴らしかった。色彩だけじゃなくて画角もいちいち良いからずーっと楽しくて好きだ。
 冒頭に登場する司会者が、『アステロイド・シティ』は架空のドラマです、しかし現実を反映しているのですと語っているとおり、脚本を書き演出をつけ役柄を演じた人たちの現実が架空の町の七日間にたしかに反映されていると気付かされるのが楽しかった。  たとえば自分も子供たちもあなたを愛しているけど離婚するという演出家の妻ポリーが、「第三幕の最後。ミッジの台詞はドアを閉めてからにして」と言うシーン。「破滅だな」とつぶやく脚本家の前でドアを閉めたポリーはドアの向こうから夫に「さよなら」を告げる。でも実際の第三幕にはミッジがさよならを告げるシーンはない。第二幕で窓越しに「私たちは進展しないわ」と言うミッジにオーギーは「そうかな」と返す。「進展する?」「いや」、ミッジは頷きながら「破滅ね」と答える。でも窓は開いてるしドアは閉めないしやっぱり「さよなら」は言わない。演出家がそういう演出をしたんだと想像できて滋味深い。  エピローグでオーギーが目覚めるとすでにチェックアウトした11棟のなかにミッジたちもいて、だからミッジとはこれきり、と思いきやダイナーのおばあちゃんが「ミッジから住所を預かってるわ 家じゃなくて私書箱よ」とメモを渡してくるあたりは脚本家の脚本どおりな気がする。この作品の眠りは目覚めるためにあるので。ただそのメモを大事にポケットにしまいこむのは演出家の選択な気もする。  演出家は脚本家と役者の関係をどこまで知っていたんだろう。ドラマの終盤、オーギーを演じている役者が「芝居が分からない」と舞台を抜け出して演出家に会いに行ったのに「よくできている 君という人物がオーギーに映りつつある 分からなくていい そのままでいい (新鮮な空気を吸っても)分からないままだよ」と言われてしまうのは、役者と恋仲だった『アステロイド・シティ』の脚本家が交通事故で亡くなってしまっていることが原因なのではと思った。演出家が二人の関係を知っていたとしたら、妻を亡くしたオーギーと脚本家を失った役者は状況と心情が重なっているはずで、だから「そのままでいい」と言う。  でも役者にはオーギーがなぜこんな言動をするのか分からない。そして廊下を突っ切って外壁の階段の踊り場に出てパイプを吸おうとしたら、向かい側のビルの踊り場にいたオーギーの妻役の女優さんと鉢合わせる。  オーギーとその妻が隣り合ったビルから言葉を交わすこのシーンは、ドラマのオーギーとミッジがモーテルの窓越しに会話していたシーンと同じ構図、同じ距離感。でもここまでアステロイド・シティの色鮮やかな世界に浸り続けてきてから唐突に白黒で映し出される『現実』の光景は、違う時代の遠い出来事のように見えた。妻役だった役者(マーゴット・ロビー)が新しい作品の撮影中で中世の侍女のドレスをまとっているのも、過ぎ去った過去、終わった人生を彷彿とさせる。実は当初の『アステロイド・シティ』にはオーギーと妻の会話シーンがあったのにここでの会話でそれが全部カットされたと分かるからなおさらだ。しかも人が萎れそうなほど暑い設定のシティに対してここの『現実』では雪が降ってる。全部が対比だ。  うろ覚えなんだけど、ここで女優に「覚えてる?」て問われるままに再演したオーギーと妻の生前のやりとり、映画の冒頭で脚本家を訪ねた役者がその場で演じてみせた一人芝居とほとんど同じ内容だった気がする。この再演は役者にとってオーギーという役柄の背景を確かめるだけでなく、いまは亡き恋人と初めて出会った運命の日を振り返る行為でもあったのではなかろうか。宇宙人との交流について夫と話していた妻は、「(いまあなたが撮って泣いてくれた私の写真、)現像できるかしら?」と最後に問う。夫は「ぼくの写真だからね」と答える。きみを永遠に失うのはつらい。悲しい。耐えられない。それでもこれはぼくが愛したきみの写真だから、フィルムのまま眠らせておきはしない。
 オーギーの撮影した写真はすべてモノクロだ。亡くなる前の妻の写真も『現実』とおなじで色がない。だから彼の愛も喪失の痛みもたぶん、まぎれもない『現実』として色褪せることなく彼に留まり続ける。  娘たちがママの遺灰を埋めてお葬式してるところを見守る終盤のオーギー、息子のウッドロウと左手を繋いでるけど、火傷してるからたぶんカメラが持てないんだよね。火傷するまでは虚構の傷を負った自分を被写体にして『���傷した自画像』なんて写真を撮ってたのに、「ほんとうにやけどした」あとは自画像を撮らない、葬式の光景にカメラを向けない、レンズ越しではなく自分の目で見なければならない。火傷の痛みは心の痛みそのものでもある状況に置かれて、ようやくオーギー/役者は愛するひとの喪失を正面から受け止める機会を得た。  オーギ―は「時間が傷を癒すなんてのは嘘だ」と中盤に言っているし、痛みは残り続けるかもしれないけど、ミッジの残したメモを大事そうにたずさえて、妻の葬式を終えた家族みんなで旅立つことができたオーギーの(役者の)行く先には希望があると思った。
 以上感想。以下は印象的だったエピソードのメモ。とりとめがなく長いので注意。
🎡 オーギーのちっさい娘三人がかわいすぎる。壊れた車からみんなで荷物を運び出すとき一人だけドアの外でうろうろしてるとこ良かったね……父にドアの隙間を見てって言われたから他の二人が終わるまで待ってたのかな。ダイナーのおばあちゃんに「お姫様たち何が飲みたい?」て聞かれて「私たちお姫様じゃないわ、呪われたミイラよ」「私は妖精」て答えるのもおばあちゃんが「…………苺ミルクはどう?」て聞き直すのも良かったし、エピローグで同じこと聞かれたときは「ください(Yes,please.)」て口々に答えるところお利口さんでキュートだ。  ママが三週間前に亡くなったとオーギーに知らされたとき「いつ帰ってくる?」「私たち孤児なの?」て聞くあたりは切ないけど、モーテル街の道の真ん中にタッパーごと埋めたママの遺灰を掘り起こそうとしたおじいちゃんにくそまじめな声で「私たちを生贄にしたら呪う」て告げるとこで爆笑した。結局おじいちゃんが根負けしてママを回収できずに終わるのも笑ってしまう。でも娘たちは娘たちなりに、知らないうちにいなくなっちゃったママとちゃんとお別れしたかったんだろうな。「半分魔女 半分宇宙人」の自称はママの娘としての矜持でしょきっと。「お祈りしましょ ママは土の中で眠ってるの」て一生懸命祈る孫娘たちをおじいちゃんは泣きそうな顔で見てるし、隣に義理の息子も孫も参列してるしで良さしかなかったな…
🎡 にしてもおじいちゃんがさ、お前のことは嫌いだが娘と四人の孫たちを愛しているからお前も受け入れる、て言った次の瞬間オーギーの胸ぐら掴むふりでイーーーッ!!てやるから不意打ちで噴いてしまった。そこに来て父に「僕たちを捨てるの?」て聞いたウッドロウが、父の「(おじいちゃんの「私は家政婦か?」て台詞を受けて)ハウスキーパーを雇おうと思った ほんのちょっと考えたがすぐ止めた」て答えを聞いて「考えたのを許すよ」て返すとこ、超優秀な長男だから子どもになりきれない寂しさがあって好きだな。  ところで惑星に映像を投射する技術を発明したウッドロウが博士に「可能性を働かせて」て励まされてさ、最終的に投射した絵がダイナと自分のハートマークなの最高じゃなかった!? エピローグで奨学金の使い道を聞かれて「彼女のために使うと思う」と答えるのも可能性に満ちててかわいいよ~!  この直前におじいちゃんから「きっと″超優秀″ってやつだ」と言われてウッドロウがニコ…て嬉しそうに笑うとこすごいよかった…ほんのちょっとの微笑みなんだけどお母さんがシャツに刺繍してくれた「超優秀」と同じ言葉だったから嬉しくてついこぼれてしまった感じがしてしみじみとよかった…
🎡 超優秀の子どもたちもみんなクセ強くてよかったな。実在の人物の名前を一人ずつ増やしてたくさん覚えていくゲームでみんな学者の名前ばっかり出すし、「これ終わらないよ 僕ら超優秀だから」て言う子に他の子が「でも楽しい いつもだと出てくる名前が平凡だもの」て返すところ良かったし、第三幕では全部俳優女優の名前になってるところに時の流れを感じた。楽しいって言った女の子が後半ウッドロウとダイナの仲に言及して、友達だよって反応に「超優秀なのにバカね」て返すくらい仲良くなってる。  ところでなんでモーテルの7番棟は火事で焼けてしまったんだろ。焼けてテントになったおかげで博士から盗んできた機材を運び込んで隠れながら宇宙人と交信できたけども。このあたり、モーテルの管理人がテントになった代わりに電気周りは充実させたと説明するくだりが地味に効いてる。  登場時から唐辛子まるまる食べたり押しちゃいけないボタン押したり屋根から飛び降りたりする超優秀な子どもが「もう止めたりしない 好きに挑戦しろ なぜ挑戦する?」て父に聞かれて「わからない きっと怖いんだ 挑戦しないと誰も見ないから 僕みたいな存在を」て答えるシーンがしんどい。その後の第三幕で息子の発明品(すでに終わった挑戦)を使ってみたり没収しようとする兵士と喧嘩したりする父の姿が映ってて安心した。  表彰式の将軍の「平穏に生きたかったなら生まれる時代を間違えた」てスピーチが軍事利用する気満々で怖すぎたので子どもたちには幸せに生きていってほしい。
🎡 そしてかわいさと不気味さのあわいを攻める宇宙人の絶妙なデザインよ……!  オーギーの車の故障を点検するために謎の部品を挿入するシーンと、宇宙人が宇宙船から下ろしてきた柱から小さな脚が生えて接地するシーン、構図が似てた気がするけどわざとなのかな。二度目の宇宙人の訪問後に隔離解除の延期が告げられてみんなが大暴れしてるとき壊れた車から転がり出た未知の部品も地面でのたうち回ってたから、車が壊れたのは宇宙人のパワー的な作用でウッドロウが宇宙からの信号を解読できるのも妻が宇宙人と云々て話もその伏線だったのでは!?(たぶん考えすぎ)
🎡 第三幕の眠りの意味を考えるべくゼミのみんなに実際に演じてもらうシーン、教授を演じるウィレム・デフォーがまじで良い。みんな一斉に眠るところすごかったな(一人夢遊病がいて笑った)。眠りと死は違う。眠りから覚めれば脚本家は良い話を思いつくし俳優は新しい演技を生み出す。眠りにつく間どんな時間が流れているかをふまえて眠れって示唆に応える学生たちの眠りもそこからひらめきを得る脚本家もよかった。目覚めたいのなら眠るがいい。目覚めるために眠りがある。
🎡 映画全体の冒頭、真っ暗な画面の下あたりに均一に並んだ白い光の円が映る。なんか両端だけ変に欠けてるなと思ってるとその円は舞台の音を拾う音響室の機器の光で、欠けてるのは手前に座ってるスタッフ二人の頭で隠れてるからと分かる。この時点で映し方が変でもう好き。音響室の窓から見下ろす舞台上に立つひとりの男にカメラが寄り、男がアステロイド・シティは架空のドラマです、しかし現実を反映しているのですと説明を始める。上手下手背景大道具小道具照明の指示書きが読み上げられ、全三幕は7日間の出来事との解説がなされ、本編が始まる。貨物列車に山盛りに積まれたグレープフルーツとアボカドとピーカンに意味はあるのか?分からんけど青い空にオレンジの砂漠を突っ切っていく列車を軽快な音楽に合わせて映していくオープニング良すぎた。  エンディングも鳥がノリノリで踊ってて良かったけどあの鳥なんなんだろね?オーギーが街に着いたシーンであの鳥の標識が映るんだけどそれ以外特に説明ないのよね。アイス食べてる三人娘ちゃんの隣できょときょとしてる鳥の動きがなんか良かった。
 良かったところばかりでどこまでも書いてしまうので終わる。人生を感じさせるシーンがいっぱいで楽しい映画だった。
0 notes
krkwngm · 7 months
Text
ベネチアの亡霊
Tumblr media
 よくできた話で面白かった。以下ネタバレがある。
 『本当ならば認めよう、なぜなら霊がいるなら神がいる、神がいるなら正義がある。だがこれまで多くの犯罪と二度の戦争を経験した。だから分かる。神は人に干渉しない』。あなたに友人はいないだのうぬぼれ屋だの言われるし、解決のために他人の秘密を暴いてしまう強引さはあるものの、そういう理由で降霊会の霊媒師のトリックを指摘するつもりだったあたりポアロはただただ自分の使命を全うするために突き進みたい人間なんだと思った。  そんなにまで幽霊を信じていないポアロがなぜか幽霊を見聞きしてしまう怪奇現象の答えが、殺人事件の展開に呑まれて何気なく見るばかりになっていた出来事に隠されていたなんて全然気付かなかったのですごく面白かった。タイプライターで書かれた無機質な招待状から「apple」の文字が浮かび上がるシーンも、事件とは無��係に思えた序盤も序盤の出来事をポアロの潜在意識が拾い上げる瞬間の可視化だったと分かって唸ってしまった。ベネチアの美しい���色はもちろん、閉じられた屋敷の暗がりにオレンジがかった光が降りかかる不穏な光景、俯瞰で映し出される事件現場と駆けつけた人々の仕草、表情がドラマチックで見応えがあった。
 霊媒師の、多くの死と死者の気配に満ちた日々に身を置いてきた従軍看護婦としての過去を他人事のように、それでも涙を溢れさせながらポアロに語ったかと思えば、自分が詐欺師だと匂わせる発言を軽やかな微笑みとともに口にする掴みがたい雰囲気が印象的だった。ミシェル・ヨーの演技が素敵だな。「あなたは私を忘れない」と言い残して去る歩き姿が綺麗だった。  アリシアが病む原因になった元夫が本当は彼女を心から愛していたこと、今も悲しみにくれていることが分かる尋問のシーンは切なかった。アリシアの好きだった人形を手に「アリシアは僕の宝物だった 貴方のおかげで彼女の魂は苦痛から救われた」とポアロに告げた彼もまた救われたのだと信じたい。  そして最後に残された脅迫者の謎まできちんと答えを明かしたポアロが「屋敷でのことは君のせいではない」「贖いの方法はある」と語りかけたことで、残された者たちがほんの少しとはいえ前を向いて旅立てるようになったラストも良かった。愛するひとを助けたくて為した行いが結局そのひとを死なせてしまった。今回の犯人の動機は愛するひとのためと言いながら全部自分のためという醜さだったけど、彼の動機は同じようでいて全然違っていた。だからこの屋敷で起こった結果は君のせいではないよとポアロは言う。壊れてしまった父に寄り添い続けた彼の愛情を目の当たりにし、早熟になるしかなかった彼に共感を抱いたから。  父とお別れをした屋敷を見上げ「パパ また会おうね」と言った彼の前にはいつか父の霊が現れるのだろう。盗賊の姉弟はセント・ルイスで幸福に会えるだろうか。引退という死を迎えたために死者たちと近いところに居たポアロが無事に蘇り、次の事件に出会ったところを映して映画は幕を閉じる。
0 notes
krkwngm · 7 months
Text
ナイル殺人事件
Tumblr media
 「ベネチアの亡霊」が公開されたので2022年3月8日に観てきた前作「ナイル殺人事件」の感想をふせったーから再掲しておく。読み返したらコロナの影響で公開が延期の延期で気を揉んでいた記憶と、ポアロの髭の話はよく分からんかったけど事件の内容は面白かったな〜という感慨がよみがえった。
✒︎
無事に公開された『ナイル殺人事件』観てきました〜〜〜ナイルの景色や登場人物の衣装や場面ごとの明暗とかカメラワークとか、全部が鮮やかで観ていて楽しかったし役者さんがほんとみんな良くて…特にジャクリーン役のエマ・マッキーが良すぎた…名付け親と看護師には幸せになってほしい ✒︎ ナイル殺人事件、ジャクリーンがリネットとの最後の会話でリネットに友達でいたかった、貴女だけがお金に執着しなかったって言われたとき泣いていたのはそういうことなんだよな…と思いました 愛のためにお金を選び何を捨てたのかを悟った ✒︎ でもあそこで気付いてリネットを殺すのをやめたらサイモンはジャクリーンのところに帰ってこないし愛を捨てるなんてもうできなかったんだよな いま愛を諦めても友達さえ戻ってこないわけだから 「何もない男を愛しすぎた」ってポアロの言葉がそのとおりすぎる ✒︎ リネットを追いかけ回してる間にポアロと対話するジャクリーンが自分の信じる愛に必死に取り縋るように見えたのはポアロを騙すための演技じゃなくて、サイモンがほんとにリネットを愛してたらどうしようって不安も絶対あったじゃん サイモンと言い争うふりしたとき、君への感情は愛じゃなかったって言われたのだって嘘だと信じてても傷ついたんじゃないのか 原作未読だから分かんないんだけど、計画を練ったのはどちらだとポアロが問いただしたときサイモンは何も答えずにジャクリーンを情けない顔で見るじゃん、あれ僕は君の考えたように実行しただけってことでしょつらい ジャクリーンはお前への愛のために愛する男を友人に渡して友人を裏切って殺人もしたんだぞ(これはジャクリーンが可哀想という話ではなく愛のために罪を犯すなら覚悟を決めておけサイモンのバカタレという話です) 終盤の船から逃げ出そうとする時だって「心を強く」としか言わないじゃん。言えないんだけどさ何も持ってないから!その言葉を「心を強く」持ったジャクリーンが自分の愛に誓った終わりを全うするってのがやるせねえ……何もない男を愛して何もない女になってだから死んでいくジャクリーン……激しくておろかでかなしいよ…… リネットもあの時代にそういうふうに育てられたからああいう苦しみを抱えて苦しみのなか死んでいった女だから、時代…時代…!て辛くなるんですよね アガサ・クリスティ自身が自分の生まれた時代のなかで苦労した女流作家だったってこともあるしさ…… 前作のオリエント急行もだけど真実のほろ苦さがなんともいえない余韻を残す映画でありました。公開されてよかった。
✒︎
 『ベネチアの亡霊』も楽しみ。
2 notes · View notes
krkwngm · 7 months
Text
ホーンテッドマンション(2023)
youtube
 というわけで2003年版の映画「ホーンテッドマンション」を鑑賞した記憶の新しいうちに2023年版「ホーンテッドマンション」を観てきた。面白かった!以下ネタバレがある。先に2003年版の感想のリンクを貼っておきます。
 2003年版の映画は幽霊のクセが強かったけど、2023年版の本作は人間のクセが強すぎる!!!そして善人しかおらん!!!そこが良かった。  いや教授は善人ではないかもしれんけど見たかった幽霊屋敷見てから死にたいだけのヤバいおじいちゃんだし他人を陥れようとするところが微塵もなかったのでただただ面白かった。どいつもこいつも応援したくなるやつばかりで幽霊から逃げるシーン全部がんばれ〜!て気持ちで観ていた。ハリエットが「私これだけの出番で退場!?」て叫びながら椅子ごと泥パックされるとこ爆笑した。  ベタなんだけど、同じ台詞が言い手と意味合いを変えて繰り返し出てくる脚本めーーーちゃめちゃ好きなのでベンと神父の「ヒーローになりたくないか?」のシーンは良すぎて良い〜〜〜!!!てなっちゃった。「私の仕事は信じることだ 私は君を信じる」からの「あんたが詐欺師だろうとあんたは俺の恩人だ」「信じるぜ」はズルすぎる。ヒーローになりたいのはずっと自分のほうだったんだろうな。屋敷に連れてこられた人間たちにとっては、『至らない自分が持っているはずのない力を破れかぶれでも信じてみる』って話でもあったと思う。明るい大団円だった。
 2003年版を観ておいたのはもしオマージュがあったら気付けるかもしれないからだったんだけど、やっぱり2003年版リスペクトじゃん!?という場面が所々あった。
・デイヴィスの年齢が2003年版のマイケルと同じ9歳。 ・デイヴィスがハットを取り上げた瞬間おっきなクモが這い出てくる演出は、蜘蛛が大の苦手だったマイケルが扉を開けるシーンのリスペクトに見える。 ・冒頭でギャビーとデイヴィスの乗った車が海上の道路をまっすぐ抜けて屋敷へ向かうオープニングは、2003年版のエンディングの反転(朝焼けのなか同じ道路を走って家に帰る)。
 自分が気付いたのはこのあたり。  もちろん原作はアトラクションなので、伸びる壁とワニ、どこまでも続く廊下、変化する絵、霊界のダンスホールなど、実際のアトラクションを彷彿とさせる場面もたくさん出てきて楽しかった。ただ追い詰められた先に見上げた天井にあったのがアトラクションどおりに首吊り死体だったらデイヴィス泣いちゃっただろうし、観てた自分も悲鳴をあげた自信があるのでそこだけは違ってて正解。  シンギング・バイツの影が薄いのは意外だったけど、壁の絵や鎧の騎士といった『肉体」を持つ幽霊たちが要所要所で助けてくれるところは良かった。殻混じりのスクランブルエッグになっちゃったけどたぶん自分が料理したかっただけだったり、解決後は人間たちが主賓席に座ったホールでジャズとカンカンをぶちあげたり、ホーンテッドマンションの幽霊たちはみんな陽気で明るいから怖くなくて助かる。  ただし斧を持った絵の爺さんはダメです怖すぎ。『あのお方が喜ぶ』って言ってたからあの人は生前のクランプに仕えてたのかな?ベンや教授の身体を乗っ取ったのも同じ幽霊だと思うんだけど。それともクランプの分霊?あと花嫁の笑い声とともに肖像画の夫の首が消えていくのも怖すぎ。  マダム・レオタ以前の幽霊が936人でその後に増えたのが63人って数字にはきっと元ネタがあるんだろうな〜。
 なにげにグレイシーさんがめちゃ良いひとっていうか、ギャビーとベンが引き離されちゃったあと遭遇したベンを抜け道からデイヴィスのもとへ案内するし、すぐ「ここは任せた」って引き返したと思ったらベンが頑張ってる間にギャビーを導いて二人と合流できるようにしてたのがあまりにも屋敷を知り尽くした主人らしい手際の良さだった。さりげなくも大活躍なシーンだったと思う。  2003年版のグレイシーさんはラムズリーの策略で奥さんに先立たれてしまったけど、本作のグレイシーさんは奥さんを残して亡くなってて(その後奥さんも黄熱病で亡くなってる)どっちも悲しいなあ…と思った。そしてどちらのグレイシーさんもずっと屋敷で奥さんを待ち続けている……切ねえ……エンディングで一緒にダンスを見ている二人が映ってて嬉しかった。どちらのご夫妻も末長く幸せでいてほしい。
 あとハリエットに「彼方へ行ったひとはサインを送ってくるの ″幽霊のウインク″ね」と言われたベンが涙をひとつだけ零すところ、アリッサを一人で去らせてしまった後悔ともう一度会いたくてたまらない寂しさがひしひしと感じられて悲しかった。約束どおり海まで連れて行った船長がそのままボートに乗って旅立つのを見送るシーンは、「愛するものにもう一度会いたい」というベンの願いが叶ったシーンでもあるし、だからベンについていったのは船長だったんだなと納得もした。  ハリエットについていったのが走り回る馬の幽霊だったのは、彼女が霊媒師の才能がない(と姉たちに思い込まされてきた)自分を持て余していたからだと思う。実際マダム・レオタの導きで自分の力を発揮できるようになったハリエットは馬の幽霊を乗りこなしてたしね!メタファーがキレキレ!  そして終盤の猫ちゃんだよ!!!拾われる序盤の伏線だよ!!!自分の愛は伝わってただろうかと悲しんでいたベンに対するこれ以上ないアンサーでもうなんも言うことない、ありがとうという気持ちしかない。エンディングのあの曲のアレンジも格好良くて最高。笑って泣いて明るい気持ちで発てる映画だった。
0 notes