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kkatada · 10 months
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献身の人
父さんが五常・アンド・カンパニーの仕事でとてもお世話になった木下万暁(まんぎょう)さんが、7月9日に亡くなった。享年46歳の夭折。お通夜は三連休の中日、信じられないくらい蒸し暑い日だった。
YもLも万暁さんに会ったことはないけれど、彼の死を悲しむ人々の声を聴き、彼を悼む人々の文章に接するほどに、二人にも万暁さんという人の存在を知ってほしいなと思うに至り、この文章をかいている。
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(五常・アンド・カンパニーの取締役・経営陣(の一部)で一緒に撮影した思い出の1枚(2022年10月))
有楽町でのランチ
父さんが万暁さんに初めて会ったのは、2010年くらいだったと思う。当時父さんは31歳、万暁さんは33歳くらいかな。ライフネット生命の株主(アメリカのヘッジファンド)側のカウンセルであった万暁さんから声をかけてもらい、有楽町で二人でランチをした(だいぶ後になって、万暁さんの大好物が吉野家 有楽町店の牛丼だと知るのだけれど、その時のランチは牛丼ではなかった)。
この時はじめて「プロボノ※1」という言葉を知り、一部の弁護士事務所はプロボノ活動をBillable Hours※2に含めることを認めているということを教えてもらって衝撃を受けたのをはっきり覚えている。父さんも一応法学部出身なので同級生にはたくさん弁護士がいるし、M&Aの仕事をしていたこともあるので渉外弁護士とのやり取りも多かったけれど、20代後半~30代前半の弁護士は尋常じゃなく忙しい。だからこそ、そんな激務と並行して情熱的にプロボノ活動に取り組む万暁さんの話はとても印象的だった。
※1 専門家が、職業上持っている知識やスキルを無償提供して社会貢献するボランティア活動のこと。ラテン語で「公共善のために」を意味する pro bono publico の略 ※2 クライアントに請求できる/報酬を受け取ることができる業務時間のこと。大手弁護士事務所の若手弁護士には一定のBillable Hoursを付けるノルマがある
その後、ライフネット生命が上場したころだったか、長い人生、弁護士資格があると仕事の幅や生きがいが広がるんじゃないかと思い立って、法科大学院の夜間コースの案内を取り寄せ、司法試験の塾のテキストを義妹(君たちのおばちゃま)から譲り受けたことがあった。
当時、個人的に弁護士のお世話になる機会があって(もちろん被害者側ね)、社会的弱者を守る武器としての法律の力を身近に感じる機会があったこととか、土井香苗さんの『"ようこそ"といえる日本へ』と、土井さんの人生に大きな影響を与えた『人間の大地』(犬養道子著)を読んで、難民支援に関心を持つようになったことがきっかけだったように思う(どちらも素晴らしい本なのでよかったら読んでみてね)。
案の定、ライフネット生命に入社する前に文字通り一瞬だけ検討して見送ったMBA(GMATのテキストは3ページだけやった)と同じく、司法試験の方もテキストを買っただけで満足してそのまま流れてしまったのだけれど、今振り返ってみると万暁さんとのランチで触発された部分も大きいのだと思う。
五常・アンド・カンパニーでの再会
もったいぶっておいてランチしかエピソードしかないのかよ!って思ったかもしれないけれど、正直な話、父さんは万暁さんのことをよく知らない。たぶん万暁さんも父さんのことを深くは知らなかったのではないかと思う。ちなみに、父さんが五常・アンド・カンパニーに入社した時の万暁さんのコメントはこちら(↓)
心から尊敬する凄い人が入ってきました。とても嬉しくていろんな人に言いたくなります。また、細かい話、会社のウェブサイトがファーストネームのアルファベット順なんですが、何故か監査役なのに(そしてアルファベット順でファーストネームがMであるにもかかわらず)Teamのページの最初に登場するという困った状態になっていたところ、堅田さんが先に載ってくれるのも嬉しい(スマホだと露骨にトップなのでどうしたものかと思ってた)。
こんな風に言ってくれて嬉しいけれど、なんで名前順の話なの!?と読み返して笑ってしまった(なお、その後ウェブサイトは刷新されてチーム順に表示されるようになった)。
YもLも知ってのとおり、父さんは友だちがとても少ない。万暁さんとも、友人と呼べる関係ではなかったと思う。でも、お互いに尊敬する同僚であり、プロフェッショナル同士だったんじゃないかと思う(たぶんね)。
父さんが五常に入社して間もないころ、幹部が立て続けに退社するたいへんな時期があった。その時、万暁さんが「これほどの件が起きても私として平常心を保てるのは、堅田さんがいるからだなあとしみじみ思いました」とそっとメッセージをくれた。入社早々でたいした成果も出していないし、資金調達の真っ最中の事案だったので、こんな風に言ってもらえてうれしい反面、この人しれっとハードル上げるなぁ…と思ったっけ。今考えると、彼なりの激励だったんだと思う。
その1年後、資金調達の過程で相手側の事情によりとても複雑な契約交渉とストラクチャリングが必要になったことがあった。当時、万暁さんは社外監査役という立場だったので表立って交渉に携わることはできなかったのだけれど、折に触れて悩み相談に乗ってもらい、おかげで双方がこれ以上の形はないと確信を持てる形でディールをまとめることができた。投資家からの払い込みが完了した直後、彼がDMで「堅田さんの力でとても美しくまとめられたなと感じています」と労ってくれたとき、ようやく少しは期待に応えられたかなと安心した。資金調達やM&Aにおいて「美しい」という感覚を共有できる人はそんなに多くない。
献身の人
父さんの目に映る万暁さんはどこまでも「献身」の人だった。目の前の大切な人、そして彼自身が信じる善なるもののために、私��なく躊躇なく、自らの時間や力を差し出せる人だった。
もっと一緒に働き、もっと色々と教えてほしかった。 もっと一緒に語り合い、もっと万暁さんのことを知りたかった。
彼はこの世を去ってしまったけれど、万暁さんが残してくれた指針は、これからも長く五常・アンド・カンパニーという組織の中に刻まれ、残っていくと思う。いや、残さなければいけないし、父さんにもその責任がある。
プロボノという仕組みやムーブメントを日本に根付かせることも、万暁さんの願いの一つだった。父さん個人としても、今は五常以外ではスタートアップの社外役員の仕事のみなので、これからはプロボノ活動(専門職ではないのでこの言葉が正しいか分からないけれど)に取り組んでみたいと思う。
万暁さんについて語られた言葉たち
さいごに、万暁さんと深くかかわった人たちが彼について語った追悼文のリンクを置いておくね。よかったら読んでいつか感想を聞かせてほしいな。
まずは万暁さんが共同創業したサウスゲイト法律事務所・外国法共同事業による追悼文。ウィットと愛にあふれた本当に素晴らしい文章だと思う。
続いて、五常・アンド・カンパニーの慎さんによる追悼文。万暁さんは五常・アンド・カンパニーの創業前からの強力なサポーターであり、亡くなる直前まで社外取締役を務めてくれた。そして、父さんともいつもと全く変わらぬトーンで亡くなる直前までメールのやり取りをしてくれた。
さいごは、日本の社会起業家を代表するクロスフィールズの小沼さんが、万暁さんがNPO(非営利組織)の世界にもたらした影響について語っている追悼文。
人は、誰もその人の話を口にしなくなったときに本当に亡くなるのだといいます。 その意味では、木下は私達の誰よりも長く生き続けるのだと思います。
サウスゲイト法律事務所の追悼文末尾の悲しく、そしてとても美しいこの一節を読んでから、父さんは万暁さんについて何を語れるだろうかとずっと考えてきた。こんな与太話でよいのかどうか分からないけれど、こうして万暁さんについてYとLに話すことが、父さんなりの答え(応え)なのかなと思う。
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kkatada · 1 year
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折り返し地点
Yは12歳、Lは10歳になった。Yはもうすぐ中学受験だね。
二人も大きくなって、伝えたいことは直接伝えるようにしているので、こうしてテキストで残す必要性が薄れてきたように思っていた(言い訳)のだけれども、昔読んだ本を読み返すと受け止め方が違うということはよくあるし、どうせ父さんの話も大して頭に残っていないと思うので、テキストにしておくことに一定の意味はあるのかもしれない。
父さんは一昨年から、パーソナルコーチを付けて1ヵ月に1回くらいのペースでコーチングを受けている。そのコーチと昨年の暮れに2022年を振り返るセッションを行った際に、とても面白い問いかけをもらった。
それは、「あなたの人生が漫画のシリーズものだとして、2022年は全何巻の何巻目ですか?」というもの。
これに対して父さんはちょっと考えて「全200巻の100巻目ですかね」と答えた。1年が1巻だとして、自分の人生が、自分が直接的に影響を受けた祖父母の代から、自分が直接的に影響を与えられるかもしれない君たちの子どもたち(=父さんの孫たち)の代までのひとつらなりの物語と考えた時、ざっくり2022年はその中間地点にあるような気がしたから。
祖父母が生まれたのは1920年代だったかな。そしてもし孫が出来たとして、彼らはきっと2120年代までは生きるだろう。ね、だいたい200年。
その後あらためて考えてみて、色々な意味で自分の人生が「折り返し地点」にあるよなぁ、と感じたので今日はそのことについてちょっと書いてみようと思う。
動物として: 40歳の日本人男性の平均余命は40.81歳らしい。白髪はどんどん増えるし、基礎代謝はどんどん落ちていくので、これまでと同じ強度の運動では体力は落ち続けるばかり。
職業人として: 父さんが大学を卒業して働き出したのが2002年なので、4月から社会人21年目。いつまで元気に働けるか分からないけれど、じいじが引退したのが65歳の時なのでその年齢まではあと22年。
親として: 子育てという観点では、Lは今10歳。君が成人するまであと10年(法律変わって18歳になったけどね)。
そんなことをつらつらと考えながら昨日twitterにこんな投稿をしたら、同世代と思われる人たちや人生の先輩方から、共感コメントを多くもらうことができたので、たぶんこれは父さんだけの感覚ではないのだろう。
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加えて、「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例する」(ジャネーの法則)という話もあるので、体感値としては残りの半分は本当にあっという間に過ぎてしまうのだと思う。なんだか焦るなぁ。
そういえば、君たちも時々一緒に聞いている「COTEN RADIO」では、最近「老いと死」というシリーズが放送され、それとセットで公開された「若新雄純リターンズ!迫り来る老いと死、ボクたちはどう向き合う?」という番外編も興味深かった。「老い」は自己認識の問題であるということ。
ラテン語には「メメント・モリ」という、「自分がいつか必ず死ぬ事を忘れるな」という警句があるらしい。父さんの場合、大好きだった叔父さんが30代で他界したこと、このブログを始めるきっかけになった先輩の死、そして弟(君たちの叔父だね)が九死に一生を得た交通事故など、明日は約束されていないということを強く意識させられる機会は多かったように思う。そしてここ数年、その感覚はより強くなっている。インド独立の父マハトマ・ガンジーも、「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」とも言っているね。
まだ10代の君たちに「人生の残り時間を意識しろ」なんていうつもりは毛頭ないけれど、人生のどこかで大切な意思決定に迷ったときは、この辺の話を思い出してもらえると何かの役に立つかもしれないと思って書いている。ちょっとまとまりなくてごめんね。
最後に、Amazon.com, Inc.創業者のJeff Bezosが人生の大きな意思決定をするときに使っているという「後悔最小化フレームワーク(Regret Minimization Framework)」というものを紹介しようかな。短いお話なので、英語を勉強したら是非聞いてみて。
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父さんも、高校1年生のときにある意思決定を見送ったことを今もめちゃくちゃ後悔していて、以来「やらずに後悔するよりは、失敗して反省する方がマシ」というのが判断基準の一つ。でも、何でもかんでも挑戦するには人生は短すぎるのもたしか。悩ましい。
勘違いしてほしくないのは「折り返し地点」を越えたら、あとは消化試合もしくは下り坂だと考えている訳ではないということ。まだまだ挑戦したいこと、君たちと一緒に楽しみたいことは沢山あるのだけれど、「残り時間」はどんどん少なくなっていくので、自分が心から大切だと思えることにもっと集中していくべきなんだろうね。
それでは今日はこの辺で。
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kkatada · 4 years
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清聴すれども静聴するなかれ
大人の世界には、YとLがあまり耳にしたことがないようなむつかしい言い回しがたくさんある。
「ご清聴ありがとうございました」
というのもその一つ。清聴というのは「自分の話を聞いてくれた人に対する敬意」を表わす言葉で、プレゼンテーションだったり講演会の締めに使われる決まり文句みたいなものだ。父さんはいわゆる大企業で働いたことがないので、ほとんど使った記憶がないのだけれど…。
似たような言葉で「静聴」というのもある。これは文字通り「静かに聴く」という意味で、エライ人が話をする前に会場がザワザワしていると「皆さまご静聴ください」と司会にやんわり怒られたりする。
二つとも読みは「せいちょう」なので、聞いただけだと区別がつかない。それどころか、「ご静聴いただき…」の方が適切だったのでは、と思う場面に遭遇することはよくある。スピーカーが前で話している間、誰もが静かに聞いていて(もしくは居眠りをしていて)、話のあとに一つの質問も出ずに終了する…みたいなケースだ。
父さんの会社では色々な国のひとが働いている。ミャンマー人、日本人、イタリア人、ウイグル族、インド人、スリランカ人、英国人、ポーランド人、台湾人、シンガポール人。そして無国籍の創業者。社員数24人の会社にしてはなかなかのバラエティだ。
なので、社内での会話は共通語(リンガフランカ)である英語が中心になるのだけれど、お互い母語ではないということもあってか、誰かが話すそばからどんどん質問やコメントが飛んでくる。グループ会社の経営陣との会話も同じかそれ以上に激しい。
これは相手を敬っていないことになるのだろうか。否。むしろ、相手の話に関心があるからこその応酬なんだと思う。
もちろん、礼儀として「静聴」が必要な場面もあるけれど、そういうのはむしろ例外だろう。そしてそういう堅苦しい話はだいたい面白くないので、今日の夕飯は何にしようとか別の考えごとをしていてもたいてい問題はない(寝るのはさすがに失礼だし怒られるのであまりおすすめはしない)。
恥ずかしがり屋のYは質問をするのが苦手だ。
でも、学校や塾で先生の話が面白かったらどんどん笑ったらいいし(その方が不思議と記憶にも残る)、分からないことや不思議に思ったことはどんどん質問したらいいし、なんか違うと思ったら手をあげて自分の考えを伝えたらいい。そして、大人になってもそれを続けてほしい。
それが本当の意味での「清聴」なんじゃないかと、父さんは思うんだ。
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(お気に入りのYouTuberのありがたいお話をなかよく清聴するYとL)
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kkatada · 4 years
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Yとの三陸ふたり旅(後編): 陸前高田
前編(気仙沼)はこちらからどうぞ。
気仙沼の東日本大震災遺構・伝承館をあとにしたYと父さんは、車で30分ほど北上した陸前高田に向かった。簡単に「30分ほど」と書いたけれど、三陸自動車道の唐桑小原木IC - 陸前高田長部IC間が開通したのはつい1年前の2019年3月。当然、大震災当時はこんな便利なルートは無かったわけだ。
ひいばあばの生家は陸前高田の布団屋さんだったらしい。ひいばあばの弟がそのお店を継ぎ、そのまた長男のIさん(ばあばちゃんの従兄妹だね)が震災当時の店主だった。Iさんの布団店を含め、陸前高田の市街地の大部分は大津波に押し流され、商店街の実に7割の方が尊い命を失ったという。
震災当日の夜、ばあばちゃんから父さんに「Iさんご夫妻と連絡が取れない。安否確認する方法はないか」と相談があった。真っ先に思いついたはのはGoogleが震災当日から提供していた安否確認サービス”Person Finder”への登録だった。
ばあばちゃんから教えてもらったIさんの情報を入力し、それを父さんが自分のTwitterでシェアするとすぐに多くの方がRTしてくださった。そしてそのうちの一人で、中高大で10年間も同級生だった経済学者 @yagena をフォローしていたのがIさんの息子さん(父さんの再従兄弟だね。当時はオーストラリアに留学中だった)だった。結果、震災の翌日にはIさんご夫妻が別の息子さんの引っ越しを手伝うため、震災当日はたまたま仙台にいて 無事だったという確認が取れた。
振り返ってみると、このわずか2日間のできごとは、もともとインターネット大好きっ子だった父さんが、インターネットの力についてより強く信じるようになった転換点だったように思う。その後、父さんはニュースアプリの運営会社に転職するのだけれど、その意思決定の裏には、正確で新しい「情報」を必要な人に送り届けることは、多くの人々の安全・安心につながる大切な仕事だという思いがあった。
前置きが長くなってしまったけれど、今回の旅の目的地に陸前高田を選んだ理由の一つはYと父さんと二人でIさんが再開した布団店を訪問することだった。連絡先が分からなくなっていたので、閉店間際のタイミングを狙ったアポ無し突撃だったけれど、果たしてIさんはお店にいて、突然の訪問にも関わらず美味しいジュースとお菓子でもてなしてくれ、この9年間の話を色々と教えてくれた。
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(お店の中には見事な七段飾りが飾られていた。津波でお店も家もぜんぶ流されてしまったけれど、雛飾りだけは奥さんの実家に置いてあって無事だったのだという)
一番びっくりしたのは、災害復興の一貫として近くの山を切り崩してベルコトンベアで膨大な量の土を運び込み、三角州全体を最大16メートルも「かさ上げ」しているという話だった。
Iさんは、震災後お子さんたちの強い勧めもあって東京近郊に家を建てたのだという。ただ、知り合いもいないしつまらないということで、ほとんどの時間を陸前高田の高台に借りた家で過ごしていると言っていた。コミュニティというと大げさだけれど、子育てや仕事が一段落したあと、残りの人生を豊かにしてくれるものは自分の住む土地に根ざした友人関係ということなんだと思う。YやLが巣立ったあと、父さんとママはどこでどんな風に時間を過ごすのが幸せなのかな、ということをちょっと考えた。
その日はかさあげされた土地の上に再建されたホテルに泊まった。明け方ふと目が覚めて外の景色を眺めた瞬間、安易に復興「後」の姿を想像していた父さんは言葉を失った。前の晩、Iさんはこの9年間の陸前高田の変化は「すさまじかった」と言っていた。それゆえに尚さら、震災の爪痕の深さと復興の時間軸の長さを感じた。2年後、今度はLが4年生になる前の3月に二人で戻ってこようと決めた。
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朝食後に向かったのは、思い出の高田松原があった場所。今は高さ12.5m、全長2kmの巨大な防潮堤が再建されている。
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祈念公園の中心にある広場。正面の防潮堤の上は「海を望む場」というテラスになっている。
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有名な「奇跡の一本松」を含む4つの震災遺構を中心とした高田松原津波復興祈念公園は去年9月にオープンしたばかり。9年目の3月11日前の週末ということもあって、花束をもった何組かの家族が海に向かって祈りを捧げていた。
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7万本の松林は1本を残してすべて津波で押し流されてしまった。防潮堤の上からは、植樹されて再生中の松原と広田湾を臨むことができた。松原の再生には50年かかるらしい。
公園内にある東日本大震災津波伝承館「いわてTSUNAMIメモリアル」を見学した後、碁石海岸に立ち寄った後は気仙沼ニッティングで教えてもらった箱根山へ。
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(碁石岬から太平洋を臨む)
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(気仙沼ニッティングで教えてもらった箱根山)
旅のしめくくりは箱根山テラスで食べた美味しいスコーン。Yはテラスに置かれていた漫画「岳」に夢中になってしまい、ほとんど親子の会話が成立しなかった(でも仕方ない。あれはいい漫画だ)。
たった二日だったけれど、Yと二人で初めて出かけた長旅は父さんにとって大切な時間になった。Yが何を感じてくれたかどうか分からないけれど、帰り道にぽつりと「また来たい」と言ってくれてよかった。君がもっと大きくなった時、この二日間の思い出について語り合うのを楽しみにしているよ。
さいごに、9年目の3月11日の朝に撮影されたドローン映像があったので貼っておこう。どうしても写真だとぼくたちが感じた陸前高田の姿をうまく記録できていないような気がするので。
東日本大震災から9年。陸前高田のいま
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kkatada · 4 years
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Yとの三陸ふたり旅(前編): 気仙沼
これは東日本大震災から9年目の3月11日を目前にした週末、新型コロナウィルスの影響で週末の習いごとがキャンセルになってしまったので、急きょ思い立って出かけたYと父さんの三陸ふたり旅の記録。
東日本大震災の起きたその時、父さんは会社で大切な会議の真っ最中、まだ0歳だった小さなYは家で大好物のイチゴをもぐもぐしている真っ最中だった。突然の激しい揺れに、ばあばが君を抱いてダイニングテーブルの下に隠れてくれたのだけれど、Yは不安がる様子もなくテーブルの下でイチゴをもぐもぐ食べつづけていたんだって。
父さんのばあば(君にとってのひいばあば)は、あの震災で甚大な被害を受けた陸前高田の生まれだ。父さんがたぶん今のYと同じくらいの年齢の頃、ひいばあばも一緒に一度だけ陸前高田を訪ねたことがあった。正直、ほとんど記憶はないのだけれど、高田松原と呼ばれた美しい松林(防潮林)を走り回って遊んだことだけははっきりと覚えている。松ぼっくりをたくさん拾ったっけ。そんな所縁もあったので、機会を見つけていつか…と思い続けていたのだけれど、ついぞ実現しないまま9年経ってしまった。
9歳になったYの大好物はマグロだ(イチゴも引き続き好物だけれども)。じいじとばあばと出かけると、決まってマグロのお寿司を美味しそうにほうばるYの写真が送られてくる。せっかく陸前高田に行くのなら、気仙沼に立ち寄っておいしいマグロを食べよう…ということで金曜日の深夜にルートが決まった。
ランチタイムに気仙沼に到着するため、朝6時に東京を出て気仙沼まで6時間のロング・ドライブ。何も考えずに古いカーナビに従って走り出したのは東北自動車道を使うルート。しかし、初っぱなから首都高で道を間違えてしまいスマホのナビに切り替えたところ、常磐道~三陸道を使うルートが推奨された。うちの車はまあまあ年季の入った中古車なので、ナビに登録されている地図には一部存在しない道を通るルートだった。
震災後、福島第一原発に関するニュースで幾度も目にした、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市を通って北上する道すがら、「環境省 除去土壌等 運搬車」という緑色の大きなゼッケンを前面に取り付けた無数の大型トラックとすれ違��。除染で取り除いた土を中間貯蔵施設運び込む車だろう。あとで調べてみたところ、2015年からの累積で搬出した土壌は約648万㎥(東京ドーム5.2杯分)、輸送対象総量1,400万㎥なのでまだ予定の半分にも届いていない。福島第一原発の廃炉には最長40年かかるとも言われているので、終わる頃にはYが今の父さんと同じ年齢になっている計算だ。長い。
常磐道の道路脇には、放射線量を表示するモニタリングポストが9箇所設置されている。「マイクロシーベルト/時」というあれだ。常磐道を1回通過する際の被ばく量は0.28μSv。胸部レントゲン撮影の210分の1とのこと。
南相馬鹿島のサービスエリアで少し長めに休憩を取ったので、気仙沼に到着したのは12時半すぎ。事前に目をつけていた「復興屋台村 気仙沼横丁」の海鮮丼のお店の住所をナビに登録して到着したのは…工事現場だった。仮設店舗を集めた気仙沼横丁は2017年に閉鎖されていた。
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とりあえず車を停めてあてもなく歩き出し、出会い頭で入店したのがあさひ鮨だった。津波で大きな被害を受けた気仙沼市南町に旧本店を構えていた老舗のお寿司屋さんだ(気仙沼守る「魂の寿司屋」(日経ビジネス))
Yの希望どおりマグロづくしのお寿司を堪能した後は、気仙沼ニッティングのお店「メモリーズ」までお散歩。東京のお店は父さんの会社から徒歩数分のところにあるし、創業者の御手洗さんが起業前に務めていたブータン首相フェロー(初代)の2代目が父さんが一緒に働いている仲間。そんな不思議な縁もあり、いつかお邪魔してみたいと思っていた…というのはちょっと嘘で、本当はお寿司屋さんに飾ってあった御手洗さんの色紙を見て気仙沼ニッティングのことを思い出したのだった。行きあたりばったりですまんね。
メモリーズは気仙沼の海を見晴らす高台にあった。気仙沼港からの道は結構な急勾配。息を切らせながら坂道を登り、細ーい道を抜けた先に現れる鮮やかなブルーの建物。その日お店では、編み手の先生がニットを編んでいるところを生中継していた。
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笑顔のすてきな店員さんに陸前高田の遊び場を教えてもらい、気に入ったレターセットを買って港に戻る下り坂で目に入ってきたのは中心部に大きくひろがる更地だった。そうだ。もう9年、でもまだ9年。
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陸前高田でどうしても行きたいお店の閉店時間まで余裕があったので、ちょうど1年前にオープンしたばかりの「気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館」を見学した。これも当日その場で決めた旅程だけれど、行ってみて本当によかった。
大震災当日も生徒が勉強していた気仙沼向洋高校の校舎の一部を、被災直後の姿を留めたまま保存整備した施設であり、Yがこの二人旅で一番記憶に残ったと言ってくれた場所。冒頭で上映される動画、そして4階まで到達した巨大津波による生々しい爪痕。おそらく当時の記憶は残っていないであろうYは何を感じただろうか。
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kkatada · 5 years
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スポーツ・楽器・外国語
「スポーツをひとつ、楽器をひとつ、そして外国の言葉をひとつ。いつでも自由に楽しめる位まで習熟しなさい。そうすれば、きっと人生を豊かに楽しめる。」
Yは4月から3年生、そしてLはついに小学校入学だ。Yが0歳で保育園に通い始めてからもうすぐ8年。どうせ自分しか乗らないし…と、聞いたことのないメーカーの電動アシスト「なし」の激安ママチャリを買ってすぐに気づいたのは、同じ自転車でもママチャリはロードレーサー2台分くらいの重さがあるし、家の周りは坂だらけだし(地名に「山」が入っている)、そこに乗せる君たちはどんどん重たくなっていくという当たり前の事実だった。
損切りできずに意地で乗り続けて早8年弱。毎朝の強制トレーニングから解放されるのは嬉しいけれど、やっぱりどこか寂しいかも。メルカリで売れるかな…ぼくたちの思い出のママチャリ。
さて、今日は父さんが中高時代の恩師のひとりO先生から教えてもらった話。
父さんはバスケットボール部、O先生はサッカー部の顧問だったので接点は保健体育の授業だけだったのだけれど、小柄ながらめちゃくちゃデカイ声で豪快なキャラクターと裏腹に理論に裏打ちされた緻密な指導のギャップが印象的な先生だった。(O先生は医学博士・体育学修士をもっていて、父さんが高校を卒業して少しして大学教授になる)。
そのO先生が、卒業を控えた高校3年生のぼくらに教えてくれた、「人生を楽しむ3つのコツ」がスポーツ・楽器・外国語にひとつずつ習熟しなさい…ということだった。
スポーツ
マラソン大会にでると、元気なおじいちゃん・おばあちゃんをたくさん見かける(そしてみんな速い)。ばあばも、毎日友だちとスポーツジムに通っているよね。
父さんも幼稚園の頃からサッカーやら(キャプテン翼ブーム)、バスケットボールやら(スラムダンクブーム)、ラクロスやらマラソンやらトライアスロンやら…断続的にスポーツは楽しんできたつもりだけれども、飽きっぽいので「ずっと楽しむ」ものはまだ見つかってない。まぁ、70点くらいか。
楽器
父さんがバックパックを背負って旅行をしていた頃、ユースホステルで誰からがギターを弾き始めると、自然と周りに人が集まっていたっけ。マルタのホテルで飲み&踊り疲れたあと、誰かのピアノ伴奏に合わせて”We  Are the World”を歌ったのは今でも時々思い出す愉快な記憶。
楽器は…うーん…まったく駄目だ。毎日二人がバイオリンの練習するのを見ていていつも「すごい…(語彙力)」という感想しかでてこない。あ、でもピアノを奏でるように優雅にExcelのショートカットを使いこなすことはできる。5点。
外国語
外国語ができると、文字通り世界とつながれる。父さんが結婚前にママとペルー旅行をしたとき、前日に軽い気持ちで連絡しただけなのに空港まで迎えに来てくれた(そしてジェットコースターのような荒い運転で着いて肝を冷やしてくれた)アルバロは元気にしているだろうか。
クラスの女性比率が一番高いらしいと聞いて、迷わず選んだ第二外国語=フランス語はまったくモノにならなかった。大学生になるまで日本から一歩も出たことなかったけれど、英語だけは仕事や勉強で使えるくらいにはなったかな。80点。
「習いごと」と聞くとちょっと身構えてしまうかもしれないけれど、YやLが人生を通じて楽しみたいと思うようなスポーツ・楽器・外国語を見つけられたら、それはとても幸せなことなんじゃないかな。なので、楽しかったら続ければいいし、そうでなければサクッと止めて新しいことに挑戦するのがよいと思う。父さんもどこかが楽器、挑戦してみたいな(と毎年言っている気がするけど…)。
こんなO先生のありがたい話を、この間、Yがいつの間にかテニスのサーブを上から打てるようになっていたということをお風呂で聞いて思い出したので書いておく。ではまたね。
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kkatada · 6 years
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試行回数とサンクコスト
今日は習いごとの話をしようと思う。
父さんは幼稚園から小学5年生まで、水泳とサッカーを習っていた。
水泳は厳しいコーチにあたるとちょっとした体罰っぽい指導を受けるところだったので、時々イヤになることもあったけれど、なぜか自由形よりも平泳ぎの方が速かった父さんは、どんどん上達するのが嬉しくて続けていた。
サッカーは、キャプテン翼(と言っても分からないと思うけれど)全盛期だったので、とにかく大好きだった 岬くんと同じ背番号のユニフォームを着たい一心から、受付開始と同時に申し込んで早いもの勝ちで11番をGET。と言っても、前に書いたみたいに万年補欠でベンチを温めていることの方が多かったのだけれど、チームは強かったし、何よりいい友だちがいて楽しかった。
小学校のサッカークラブに入り直してからは、ひょろひょろ体型で押し負けてばかりだったし、先輩は意地悪だったり…で、あまり楽しい思い出がない。けれど、途中でやめるのはちょっと格好悪いなぁと思って、惰性でダラダラと続けていたんだよね。
あの頃を振り返ってみた時、小学校でサッカーをサクっと止めて、例えば大好きだった絵を描くことに時間を使っていたらどうだったろう?と思うことがある。
当時、近くに住んでいたじいちゃん(YとLのひいおじいちゃん)は、絵を描くのが趣味だったから、時々押しかけていっては、じいちゃんお手製の画板を持って外でスケッチをしたり、生意気に木炭をつかってデッサンの真似事をしてみたり。そのおかげか、小学校では毎年、市の展覧会への出品作品に選ばれていた。
あの頃、サッカーを止めて、その時間でもっと真剣に絵を習っていたらもしかして…?
父さんの両親(君たちのじぃじとばぁば)は、自主性を大切にしてくれる人だったので、「水泳をやってみたら?」と促すことはあっても「ちゃんと続けなさい」と言われたことはほとんどなかったように思う。
小学5年生の終わりに学習塾に入りたいというお願いをしたのも父さんからだったし、最初に選んだ塾に入会金と教材費を一括で払ってもらったあとで、「あ、やっぱりここは自分には合わないかも…」となった時も、何もいわず別のところに入り直すのをOKしてくれたっけ。
そんな経験があるので、YとLにはとにかく色々試してやってみてもらいたいと思って、これまで向き合ってきた。自分が何に向いているか、何を好きになるかなんて、やってみる前に分かるものではないしね。
Yは体操、ダンス、ピアノをサクっと止めて、今はテニスとバイオリンをがんばっている。Lは体操教室を2ヶ所転々としたあと、音楽教室も合わず、今はお絵かき教室に夢中だ。
一度やると決めたことをあきらめずにちゃんと完遂することも、もちろん大事なのだけれど、それは「ハマって」からの話。まだ二人は可能性のかたまりなのだから、サンクコストなんか気にせずに、どんどん試行回数を増やせばいいと思う。好きこそものの上手なれ。
では、またね。
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(自転車とストライダーにハマっていた頃のYとL)
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kkatada · 6 years
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誕生日おめでとう(1年ぶり8回目)
今日はYの8回目の誕生日。もうケーキも食べちゃったし、プレゼントは開封済だけれど、あらためて誕生日おめでとう 🍰
ついこのあいだの投稿で、Yは慎重派だからなぁ…みたいなことを書いたけれど、思い起こせばそれは生まれてくる前からだったのかもしれない。
予定日を過ぎてもなかなか出てこようとしなかったY。そうこうしているうちに、ママは前期破水で入院。そこから出産まで驚きの72時間。陣痛促進剤を使っても、自然な陣痛が始まっても出てくる気配なく、結局、時間と体力切れで帝王切開になったんだよね。
ママの大変さとは比較にならないけれど、父さんもその間一睡も出来なかった(…はちと大げさで、ベッドの横でウトウトした時間はあったかもしれない…うん)ので、Yを抱っこして撮ってもらった最初の写真は、自分でもびっくりするくらいゲッソリしていたよ。
Yが生まれた日の夜。一人で病院を出て家に帰る途中で最寄り駅の一風堂のラーメンを食べてホッと一息ついた時、なぜか分からないけれど、急に「ああ、そうか。自分は父親になったんだ。」って思って、胸がじーんとしたっけ。
生後6ヶ���で東日本大震災に見舞われた時も、テーブルの下でもぐもぐとイチゴを食べ続けていた食いしん坊のY。ノロウイルスでお医者さんから食事を止められていたのに、お腹が空いてどうしようもなかったのか、ママが焼いたシナモンパンをキッチンでこっそりと食べていたのを発見したときはママと一緒に大笑いしたなぁ。
あれから8年。
骨折したり、知らない家族にひょこひょこ付いていくクセで何度も迷子になってヒヤヒヤしたけれど、本当に大きく、そして頼もしくなったね。
あいかわらずの宵っ張りの朝寝坊だけれど、さすがに毎朝Yを布団から抱きかかえて叩き起こすのを続けていると父さんの腰がどうかなってしまいそうなので、週明けの2学期からはちゃんと自分で起きておくれ。
では、Yとぼくら家族にとって幸せな1年になりますよう。
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(退院日のYの足の裏。ずんぐりした太い親指は父さんとそっくりだ)
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kkatada · 6 years
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浅はかな考え
父さんが通っていた中学・高校の創立七十周年記念誌なるものに、(同期で誰も手を挙げる人がいなかったためほぼ自動的に)同期会の永年幹事団である父さんにお鉢が回ってきた。
今どき、厚さ2cmでずっしりと重たい紙の記念誌を家に置いておきたい人がどれだけいるか分からないけれど、節目の年というのはきっとこういうもんなんだろう。
ただ、常に金欠な国公立らしいと言えばらしいけれど、一定額以上の特別寄付をしないと記念誌は送られてこないようなので、一体どれだけの人に読んでもらえるのやら…。
それはそれでちょっと悔しいし、もしかしたらYやLが父さんの 暗黒の男子校 青春時代を知る上で何かの役に立つかもしれないから、ここに原稿を一部伏せ字にした上で、転載しておこうと思う。
この記念誌が完成するころには長男が小学生になっている。公立だが教育熱心な地域のようで、入学前から中学受験についての情報交換が行われていたりする。そのような場で母校のスーパー進学校としての評判を耳にすると、OBとして少し誇らしく思うと同時に、「それは◯◯の一側面であって、本当の魅力はね・・・」と毎度訂正したくなる。
 ついでに言うと、「あのカワイイ女装で有名な男子校ですよね☆」と言われるたびに、ネオンピンクの超ハイレグなレオタードを履いて厚化粧をしたMくんの姿がフラッシュバックして、「それはごく最近の話であって、自分がいた頃はね・・・」と毎度訂正したい衝動にかられる。
 多様な個性が集まった四十六期を代表して思い出を語るのは難しいが、良くも悪くも八方美人であったので、バスケ部の傍ら、様々なプロジェクトに関わった六年間だった。
 中学三年の文化祭では、伝統の演劇ではなく映画にすれば当日は身軽になって他校の女子との交流を楽しめるかもしれない・・・!という浅はかな考えから、Sくんらと宮部みゆきの「レベル7」という大作に取り組むもあえなく撃沈。強引につなぎ合わせた無声映画に、当日、生でセリフを合わせるという、思い出すも恥ずかしい大失敗となった。その反省は、高校に入って「けらそ46」という映画製作同好会の立ち上げにつながる。
 高校ではIくんらが呼びかけ人となって、クイズ研究会を結成。他校の女子との交流が・・・!という浅はかな考えから、三年連続で高校生クイズに出場するもあえなく予選で敗退した。
 K先生・M先生・O先生の引率で、中三のテーマ学習で沖縄戦について学んだ仲間やKくんらと全国高校ユネスコ研究大会という(他校の女子も参加する)勉強会に参加したこともあったし、Hくん・Wくんらと共に、ドイツ人留学生Nくんを囲むグループにも加わった(もちろん、イケメン外国人と一緒にいたら他校の女子との交流が・・・!という浅はかな考えから)。
 不純な動機はともかく、映画製作の経験は、文化祭ステージ班における音響・映像編集に結びついたし、ユネスコの活動や留学生との交流は、大学入学後に打ち込んだ国際学生NPOでの活動やバングラデシュの識字問題に関するリサーチにつながっている。
 あらためて振り返ってみると、好奇心の赴くままに、日本とインドで三社のベンチャー企業の立ち上げに関わることになる自らの「首尾一貫して一貫性のない」生き方の原点が、◯◯の先生方による生徒一人ひとりの好奇心を存分に引き出し、無謀な挑戦にも辛抱強く付き合って下さった指導と、◯◯時代の仲間たちとの様々な取り組みにあることは間違いないように思う。
 そして、四十六期の同輩たちにも、きっとそれぞれの今につながるユニークな物語があるに違いない。自分も幹事団を務める四年に一度の同期会では、毎回そんな話を楽しみにしている。 
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kkatada · 6 years
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ポイントは3つあります
去年の夏休みはY、今年の夏休みはLの水泳の特訓の日々。二人の性格の違いも際立ってきて、教えていてとても面白いね。
わが家のクロールの教え方はシンプルで、とにかく3つのポイントに気をつけて泳がせるだけ。
あごを引いて、頭を水中に沈める
腕は大きく、ゆっくり回す
足は小さく、ひざを曲げずにキック
どうしたって水中で呼吸ができないのって怖いから、最初は身体が固くなって沈んでしまうのだけれど、ちゃんと肺に空気をためた状態で身体をぜんぶ水に入れたら自然に浮いちゃうよね…って感覚をつかんでもらうのが大事。なのでビート板もヘルパー(浮き具)もなるべく使わない。
これが正しい指導法なのかどうか自信はないけれど、スイミングスクールに通っていないY(当時小1)は去年5回の練習でさくっと25mクロールで泳げるようになったし、L(年長)も3回目で15mまで到達。一応、結果にはつながっているんじゃないかな。
ただ、同じ教え方ではあるのだけれど、二人の練習の取り組み方はぜんぜん違っていて面白いね。
慎重派のYは、理屈から入るタイプ。
なんであごを引かないといけないのか、腕をゆっくり回すと何がよいのか、なぜ身体は水に浮くのか…なんてことを、いちいち説明して納得しないと練習をはじめてくれない。
そして、少しずつ上手になった部分を捉えて細かくフィードバックしてあげると、やる気を維持してしっかりと練習に取り組んでくれる。
他方、Lは何はともあれ取りあえずやってみるタイプ。
当然まだ足はつかないのに、躊躇せずに泳ぎだす度胸に感心。けれど、3つのポイントの話を何度しても「うん。わかった!やってみるね!!」と返事ばかり威勢はよいものの、いざ泳ぎ始めると全然話を聞いていないだろお前…と即ストップの繰り返し。
やる気の波も大きくて、こちらが何も言わずとも黙々と練習していたかと思うと、今日はもうオシマイっ!っとばかりに温水ジャグジーに走り去ってしまったり。
たった2年違いで生まれた二人が、こうして少しずつ違った個性を身に着けていく様子を見るにつけ、子育てってやっぱり大変だけれど面白いなぁ…と思うよ。
さて、Yはこのあいだクロール50mまでクリアしたから、次の学校の検定で6段階飛び級を目指してファイト。Lは次の練習で25mいけるかな。3人で本気で競争する日を楽しみにしているよ。
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(これはちょうど4年前の水遊びの時の写真。あの頃はこんなに小さかったのになぁ…)
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kkatada · 7 years
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アラセブの祈り
先週末の第11回定時株主総会をもって、ライフネット生命の出口さん・中田さんが取締役を退任した。YもLも、父さんがあの会社で働いていたころ、ファミリーデイで何度もオフィスに遊びに行っているから2人のことを覚えているかな?
今、手元に2009年の東洋経済の特集記事がある。タイトルは「敗れざるアラカン セイホ”革命”への祈り」そして、こんな文章が続く。
「いつ倒れてもいい」。金融制度改革のときも、今も、そう思う。閉鎖的な日本のセイホを根底から変える。左遷されても志は持続した。不可能と言われたセイホのネット販売を実現した。日本の若い世代のために。
おかげさまで開業前から現在に至るまで、ライフネット生命はさまざまな形でメディアに取り上げられているのだけれど、父さんが一番好きなのがこの記事だ。そこには出口さんというリーダーの生き様と、「いつ倒れてもいい」とまで思わせる生命保険業界変革への強い思い(正の情熱)、普段はあまり表に出さない古巣への強烈な対抗心(負の情熱)がにじみ出ている。
アラカン(=アラウンド還暦)の出口さんに初めて会ったのは、2008年1月。当時、日本と香港を行き来しながら資産運用の仕事をしていた父さんに現社長の岩瀬さんが声をかけてくれ、まだ空席だらけの半蔵門のオフィスを訪問した時だった。
会食からオフィスに戻ってきたのか、少し赤ら顔の出口さんは「ネット生保は日本人の金融リテラシーの底上げを目指す、一種の金融教育事業なのではないか?」という父さんの問いかけに応えて、独特の口調と力強く太い声でこう言った。「そうや。生命保険業界の革命には時間が掛かる。だから、自分の役割は次の時代のリーダー達のために丈夫な橋をかけることなんや」と。創業社長ながら、事業が始まる前から次の世代へのバトンタッチを明確に意識していたその特異な思考は、彼なりの歴史観に裏打されたものだったのだろう。
そして、去り際に握手した、彼の大きく分厚い手と到底アラカンとは思えない力強さが、父さんの2度目の転職の決め手になった。
それからの6年間は、今振り返ってみても本当に贅沢な時間だったと思う。若気の至りで何度となく噛み付いたりもしたけれど、出口さんはいつでもどっしりと構えて、正面から父さんの乱暴な議論を受け止めてくれた。そして毎度、「なるほどぉ、堅田くんの言うことももっともやなぁ。でもなぁ、こういう見方もあるんやないか?」と指摘されて自分の思考の浅さを思い知らされたのだった。
歴史の時間軸と地理的な拡がりを掛け合わせた、出口さん得意の“タテヨコ思考”は、YとLのこれからも人生にとっても大切なヒントになるんじゃないかと思う。たくさん人に会い、たくさんの本を読み、たくさん旅をしよう。出口さんはよくこんなことも言っていたっけ。
「人間は皆いい加減な動物だという事実を直視して、同時に好奇心を絶やさないこと。人生はそれに尽きる。何かを知ることはそれだけでも本当に楽しいのだから」
前に、父さんのじいちゃんの学習欲について書いたことがあるけれど (「学びつづける」) 、出口さんもインプットをとても大事にする人だった。一緒に外出すると、電車に乗り込んだ瞬間に本を開き、電車を降りると猛然と歩き出し(父さんの早足でも付いていくのがやっと)、階��は1段飛ばしで一気に登りきる。そして早めに先方に到着すると、受付のソファでまた本を開く(か、twitterのタイムラインをチェックして一つ一つ自分で返信する)。
父さんが、わがままを許してもらってライフネット生命を退職して3年ちょっと。道半ばで仕事を放り出した申し訳なさと現職のドタバタを言い訳に不義理を続けてきたのだけれど、昨年とある機会に少人数で出口さんの話を聞く機会があった。
その時、彼はこんなことを言っていた。
「自分にとってライフネット生命は子どもみたいなもの。赤ん坊の頃は心配してあれこれ手をかけるけれど、ある程度大きくなったら、あとは立派に成長してくれと祈ることしかできないんや」
そう言えば、出口さんの部屋(「法顕」と呼ばれていた)には、最初から神棚があった。高僧法顕の間に神棚という組み合わせはちょっとシュールではあったけれど、 人事を尽くしたらあとは天命に聴(まか)すのだ、と。
創業から11年弱、開業から9年ちょっと。アラカンからアラセブ(アラコキ?)になった出口さんは、次世代のリーダーにバトンを渡した今、何を祈っているのだろうか? 
今年3月のブログ(これからの役割について)の中では、「陣頭指揮ではなく後陣に回る 」としつつも「これからもライフネット生命のために全力を尽くして働くつもりです 」と書いているので、きっと先々まで全国行脚(講演)の予定で一杯なのだと思うけれど、どこかで一献傾けながらじっくりと話を聞いてみたいなぁ。
出口さん、まずはおつかれさまでした。そして、ご指導いただき本当にありがとうございました。
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(2012年12月 欧州IRの際に立ち寄った大株主Swiss Reの本社受付での1枚)
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kkatada · 8 years
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手をつないで
先日、L(次男)が熱をだし、おまけにしとしと雨だったのでY(長男)と二人で歩いて保育園まで登園したっけ。
いつもは電動アシストなしママチャリに二人乗っけてひーひー言いながら坂道をのぼっていき、駅前の駐輪場から保育園まではLの手を引いて歩いて行く。
なので、久しぶりにYと手をつないで長い距離を歩いたのだけれど、気づくとずいぶん大きくなったし、なんだかゴツゴツしてきた(きてしまった)Yの手のひら。
先週末、会社で家族同伴のハロウィン・パーティがあり、0歳児の赤ちゃんたちもかわいい仮装で参加していた。そのもちもちプニプニ���た手のひらの感触をちょっとだけ堪能したあとだけに、よりコントラストが際立ったのかもしれないけれど…。
はて。自分がさいごに父と手をつないだのって、一体幾つの時だったろうか?
Yも来年春(あと5ヶ月!)には小学生。当然、手をつなぐ機会はぐっと減ってしまうのだろうなぁ。今のうちに、(まだ)小さな君の手をしっかり握りしめておかねば。
…と思って、その翌日(Lはまだ休み)も手をつないで登園しようとしたら、「パパの手、冷たいから手をつなぐのイヤっ!」とあっさり拒否られてしまったのでした。嗚呼…。
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(写真は、生後2時間のYによる人生初”Like!”)
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kkatada · 8 years
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あなたがいてくれて楽しかった
LとYが生まれる前、父さんが大学生1年生だった頃の話。
前にここ(「人に迷惑をかける」)でちょっと触れたように、父さんはバングラデシュという国の首都ダッカにあるNGOで約2ヶ月間インターンをしたことがあったんだ。高校を卒業してまだ1年、ベンガル語も話せず大した専門教育も受けていなかった父さんだけれど、やる気だけはあったので、「この2ヶ月の間に何か成果を残さなければ…」という勝手な責任感と切迫感とともに現地に乗り込んでいった。
到着早々、ホルタル(ハルタル)という暴力的なストライキで足止めを食ったり、思ったよりも英語でのコミュニケーションが難しかったり…と、出発前の勝手な思い込みとは異なる状況の数々に、一人で焦り、ストレスを抱えてつぶれそうになっていた父さん。そんな姿を見るに見かねたのか、一緒にインターンをしていた先輩のSさんが、ルームシェアをしていた家のリビングでタバコを吹かしながらこんな風に話してくれた。
「ベンガル語もろくに話せない僕たち学生が出来ることなんて大きくはないんだよ。だったらせめて、お世話になっている人たちに、『Sがいてくれて楽しかった』と言ってもらいたいよね。そう言えば日本人がいたなぁ…彼なんて名前だったっけ…ではなく、あとで「Sがいた時は楽しかったなぁ」と名前とともに思い出してもらえるくらいにね。」
実際Sさんは、バングラデシュの人たちにも負けない早口の英語とコミカルなジェスチャー、そして話が盛り上がると突如オフィスの中で日本の歌を大声で歌いだす…という特技(?)で、すでに人気者になっていた。
日本で一緒に学生団体を運営していた時も、Sさんはいつも笑顔だった。カールのおじさん(と言っても、YやLには分からないかな)のようなやさしい風貌。 目が合うとトコトコと近づいてきて「よぉ!最近どうよぉ?」とごきげんな様子で話しかけてくれた。「こんなことで悩んでて…」と相談すると、「うんうん。」と大きくうなずきながら、じっくりと話を聞いてくれた。こちらの考えが足りない時は「いや、それじゃダメでしょ。ちゃんと考えなよ。」と遠慮なくダメ出しをしてくれた。
そんなSさんが、昨年他界した。より正確には、1年前に病気で亡くなっていたことをつい最近になって知った。当時の仲間たちと連れ立って、お墓参りにいって墓石に刻まれたSさんの名前を見て、ようやく少しだけ気持ちの整理ができたところ。
例にもれず、卒業後は連絡も途切れがちになってしまい、最後に話したのは数年前。けれど、やっぱり日本から遠くはなれた場所でSさんと寝食をともにした日々は、父さんの人生のターニング・ポイントの一つだから、こうして文章に残してYとLにも伝えておきたいと思ったんだ。
Sさん、あなたがいてくれて楽しかった。ありがとうございます。さようなら。ゆっくり休んでくださいね。
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(© カズキヒロ / PAKUTASO)
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kkatada · 9 years
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do it yourself
YとLの制止を振りきって出張でやってきたSan Franciscoでこれを書いている。 (ウソ。本当は「パパ早くアメリカ行っちゃいなよ。アメリカで一番人気のおもちゃ買ってきて」と言われて軽くショックを受けた…。)
今回の出張の目的の一つに、父さんの会社がco-working spaceを卒業してオープンした新オフィスのお披露目パーティに参加するというものがあった。
移転に向けた準備の様子は父さんを含めて東京チームには「チラ見せ」しかされていなかったのでとても楽しみにしていたのだけれど、想像以上に心地よい空間ができあがっていて、心底ワクワクした。
そして、スタートアップゆえ限られた予算+カリフォルニア特有の厳しい規制の中、超短期間でオフィスを仕上げてくれたUSチームの姿に、手前味噌だけれど、本当に素晴らしい仲間を得られたなぁ…と喜びを噛み締めた瞬間だった。
特に印象的だったのが、引っ越しPJのメンバーたちが、ペンキを塗ったり、デコレーションを自作したり、トンカチを振り回したり…と、とにかく自分たちの手で楽しそうにオフィスを作り上げていたこと。
YとLもこれからどこかで“do it yourself(D.I.Y.と略したりする)”という言葉を耳にすることがあると思うけれど、これまで父さんは「それって趣味の日曜大工のことでしょ」くらいの感覚だった。
でも、今回の新オフィス(を作り上げる仕上げの部分だけだけれど)を見て、DIYというのは趣味とか方法論の範疇を超えた、精神とか文化のようなものなんだということが少し理解できたように思う。
“DIY ethic refers to the ethic of self-sufficiency through completing tasks without the aid of a paid expert. Literally meaning "do it yourself," the DIY ethic promotes the idea that anyone is capable of performing a variety of tasks rather than relying on paid specialists. The DIY ethic requires that the adherent seeks out the knowledge required to complete a given task. ”
“DIY ethic” - wikipedia 
ちなみに父さんの父さん(君たちのじいじだね)は、工学部の出身なのだけれど、机やらベッドやら靴箱やら犬小屋やら…色々なものを手作りするのが好きな人だった。いや、今でも現役か。
父さんの母さんの父さん(ひいおじいさん)は、太い木の枝から、削り出しでゴルフクラブやら木刀やらを作ってくれた。
残念ながら自分は彼らの器用さをさっぱり受け継いでいないようなのだけれど、今回の出張で刺激を受けて、ちょっとがんばってみようかな…と思ったのだった。 とか言いつつ、父さんは最後の仕上げの段階でちょろっと片付けしたくらいでほとんど役に立たなかったのだけれどね…。
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(最後の仕上げ中の新オフィス。右上に見えるのは業務用の脚立)
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kkatada · 9 years
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啐啄の機
先月Yは5歳になり、そして昨日はLの3歳の誕生日(おめでとう!)矢の如し…は大げさかもしれないけれど、本当に時が経つのは早いね。
昨日の午前中はいつものように、Yのダンス教室の付き添いだったのだけれど、いつもとは別人のように、先生に続いてきびきびと動いていてちょっとびっくりしたよ。
新しい課題が、格好いい「忍者ダンス」だったからか、運動会の集中日で人数が少なかった(そして男子はYひとりだけだった!)からか、理由はちょっと分からないけれど…。
思えば、最近の二人を見ているとこういう「あれ?いつの間に??」と思う瞬間が増えてきたように思う。
たとえば、去年の誕生日に買ってもらってから、(うちの周りは坂道だらけでちょっと走りづらいということをおいても)あまり熱心とは言えなかった自転車。
旅行先の公園で年下の子どもが補助輪なしで乗っているのを見て、早速「自転車の練習する。後ろの小さなタイヤ外して!」と言いだしたY。シルバーウィークの後半に練習を始めてみたら、その日のうちに立派に乗り回すようになったっけ。
すぐにさじを投げていたつづり方の練習も、最近は大好きな迷路ドリルのついで(?)に、自分から取り組むようになった(なぜか興味は漢字→カタカナ→ひらがなの順だけれど)。
Lも、レゴブロックでYに負けじと格好いいクルマを作れるようになった。まぁ、ライトの部分に使おうとした小さなボタン型ブロックを鼻に入れたら見事に詰まってしまい、耳鼻科の 休日診療に お���話になったことも一応書いておこう。いきなり「鼻が、鼻がぁぁぁ…」とムスカよろしく叫びだした時は、かなり焦ったよ。でも病院に電話したら、「あぁ、男の子ですよね。よくあります。」と(まだ性別を伝えてないのに)断定されるという…。
ここまで書いてきて、二人にはちょっとむずかしいかもしれないけれど、昔、先輩に教えてもらった「啐啄(そったく)の機」 ( 啐啄同時 )という言葉を思い出した。
鳥の雛が孵化するとき、雛が内からつつく頃合を見計らって、母鳥が外からつついて殻を破るのを助ける様をいうらしい。たしかにタイミングって大事。
とは言え、何もかも初めての子育ての場合、機が熟したことを見定めるのはとても難しそうだなぁ。
ということで、ちゃんとタマゴを温められるよう、YとLと一緒に色々と試していくことを続けていこう。あとは殻を割らない程度に、小まめに突っついて、何が君たちの心に響いているのか、何に惹かれているのか探っていこうと思う。
だから、二人も「これは面白ーい!もっとやりたーい!」と思うものが見つかったら、強めのサインで教えておくれ。全力でサポートするよ。
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kkatada · 9 years
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日常という言葉について
朝のランニングの途中、忽然と空き地ができていることに気付いた。
記憶を辿っても、そこにどんな建物があったのか思い出すことができない。けれど、空き地ではなかったということはちゃんと覚えている…といういつもの感覚。
YとLにとっては、日々が新たな発見の連続で、「常(=変わらないもの)」なんて感覚はないのかもしれないね(「パパは”いつも”怒ってばっかり」「パパは”いつも”スマホばっかり見てー」とは時々言われるけれど…)。
周囲の変化にも、自分の変化にももうちょっと敏感でありたいな…と思ったのでした。
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kkatada · 10 years
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婆ちゃんの胃袋
木曜日のランチ中に母から携帯に着信。
普段はメールでやり取りすることが多いので、なんだろうと思って出ると父方の祖母(YとLのひい婆ちゃんだね)が急逝したという。お盆に両親が祖母を訪ねた時には、いつもどおり、もりもり食事をしていたと聞いていたので、突然の訃報にしばし茫然。
さらにお寺の都合(?)で、翌日には通夜だというので、急遽予定を調整し父の故郷、新潟へと向かった。お斎を終えて、東京に向かう帰路でこれを書いている。
Yが1歳になる前の夏、Yを連れて婆ちゃんに会いに車で新潟に行ったことがあるんだけれど、覚えているかなぁ? 来年のお盆にはLも一緒に遊びにいきたいね、と話していたが、叶わぬままになってしまった。
享年95歳。大往生といっていいかもしれない。
大正生まれのばあちゃんは、とにかく世話を焼くのが好きで、人の世話になるのが苦手な人だった。父さんがYくらいの年の頃から、毎年夏休みになると婆ちゃんの家に泊まりに行って、家の前の畑でかくれんぼしたり、爺ちゃんに海釣りに連れて行ってもらったっけ。
何も言わなくても、いやそれどころか、「もういいよ」って何度言っても、「あんた、お腹すいたろ。スイカ切ってやろか」「あんた、おせんべ食べんかね」と、やたらに食べものをすすめてくる。思い出されるのは、そんな世話好きの婆ちゃんの姿。
腰が曲がってどうにもならなくなるまで、毎日三食自分でしっかり作っていたし、亡くなったその日の朝も、朝食はご飯一粒残さず、きれいに平らげていたという。
人も動物も、自分で食べることができなくなると急に弱ると言うが、婆ちゃんが長生きできた理由の一つは間違いなくこの胃袋の強さにありそうだ。
アイアンマンレース(トライアスロン)やウルトラマラソン(100km超の長距離マラソン)のリタイア理由の多くは、「食べものを消化できなくなってエネルギー切れ」。父さんが、これまでそういう状況に追い込まれたことがないのは、婆ちゃんから受け継いだ丈夫な胃袋のおかげなのかもしれない。
考えてみれば、バングラデシュの村に2ヶ月滞在したときも、インドで4ヶ月働いたときも、腹を壊した記憶がほとんどない。やっぱりそうだ。
婆ちゃん、おつかれさまでした。ゆっくり休んでね。 そして、強い胃袋を授けてくれてありがとう。
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