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keijiro · 2 hours
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昭和天皇 佐賀県への御巡幸のお話。
ぜひ読んでみてください。僕は号泣しました。
佐賀県に因通寺というお寺があります。
この寺には、戦争罹災児救護教養の、洗心寮が設置されていました。
洗心寮には、44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児がいました。
この寺の住職:調寛雅(しらべかんが)氏と昭和天皇はあるご縁がありました。そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。
この地域は、共産主義者がたくさんいる地域で、特に敗戦後ですので暴動が起きる可能性がかなりありました。因通寺のある町では陛下の行幸を歓迎する人と反対する人で対立が起きました。
歓迎するのにも命がけの雰囲気です、反対派から何をされるか分からない。
お迎えするのは町長や知事などもである。
ある町長は知事にこう言います。
「知事さん、あなたも、おわかりだろうけど、このたび一天万乗の大君でいらっしゃる天皇陛下がここに来られるんですよ。私も息子を今度の戦争で亡くしましたけれど、おそらく息子は天皇陛下万歳といって死んだにちがいありません。その息子のことを思ってみても、天皇陛下がおいでになるとき、父親である私がどうしてじっとしていることが出来ましょう。
せめて陛下がお出で頂くとき、気持ちよくして下さるよう、みんなでこうして掃除をしているんですよ。
知事さん、心配しなさられでもいいですよ。至誠天に通ずですよ。」
5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。
いろんな想いの群集から、「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がります。
それは、地響きのようでした。陛下は、群集に帽子を振って応えられます。
そして陛下は門前から洗心寮に入られます。子ども達は、それぞれの部屋でお待ちしていました。陛下はそれぞれの部屋を丁寧に足を止められます。
「どこから」
「満州から帰りました」「北朝鮮から帰りました」
「ああ、そう」「おいくつ」
「七つです」「五つです」
「立派にね。元気にね」
一人一人にお声をかけられます。
ひと部屋、ひと部屋と。
そして一番最後の部屋の「禅定の間」に進まれます。
陛下は、その時突然、ある一点を見詰めて佇まれます。
侍従長以下は「何事があったのか」と足を留めます。
しばらくして、陛下は一人の女の子へお顔を近づけられます。
「お父さん。お母さん」と、お尋ねになる。
女の子は、二つの位牌を胸に抱きしめていたのである。
女の子が「はい。これは父と母の位牌です」と、返事します。
「どこで」「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は、引き揚げの途中で、病気で亡くなりました。」
「お淋しい」
「いいえ。淋しいことはありません。私は仏の子どもです。仏の子どもは亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土にまいったら、きっともう一度会うことが出来るのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そして、そっとお父さんの名前を呼びます。そっと、お母さんの名前を呼びます。するとお父さんも、お母さんも、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるのです。私は淋しいことはありません。私は仏の子どもです。」と答えました。
陛下と女の子は、じっと見つめ合います。
さらに陛下は部屋の中に入られ、右の手に持っていた、帽子を左に持ち替えられ、右手を女の子の頭において、撫でられたのです。 
 陛下は「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申され大粒の涙をハラハラと流されました。
すると、女の子は「お父さん」と呼ぶのです。
多くの人たちは、言葉無く佇みます。
新聞記者までが、言葉を無くし一緒に涙を流したのです。
孤児院から出られるとき、子ども達が陛下の袖を持ち、「またきてね、お父さん」と言います。
陛下は、流れる涙を隠そうともせず「うん、うん」とうなずかれお別れになられます。
そして後に、一首の歌が届けられました。「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」
調住職はこの昭和天皇陛下のお言葉をみなに響き聞かせようと、この御製を寺の梵鐘に鋳込ませました。
今でも因通寺に行くとこの梵鐘の響きが当たり一帯に響き渡るそうです。
洗心寮を出られたあと、長い坂の下でたくさんの人々が陛下を出迎えます。
陛下は遺族などと一人一人お話になり、進まれます。
その中に若い青年と思われる数十人が一団となり陛下をお待ちしていました。
シベリア抑留の時に徹底的に洗脳され、共産主義国家樹立の為に共産党に入党した者達でありました。
すごい形相でむしろ旗を立てて待ち構えていたのです。
恐れていた事が起こる気配です。
周りの者が陛下をお守りしなければと駆けつける前に陛下は、その者達とお話になられます。
陛下はその者達に深々と頭を下げられます。
「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して深く苦しんで大変であっただろうと思うとき私の胸は痛むだけではなくこのような戦争があったことに対し、深く苦しみを共にするものであります。」 
「皆さんは、外国においていろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、新しい方向に進むことを、希望しています。皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」
非常に長いお言葉を述べられます。
陛下の、表情は自愛に溢れるものでした。陛下は、彼らの企みをご存知ない。
陛下の前に、一人の引き揚げ者が、にじり寄ります。
「天皇陛下さま、ありがとうございました。今頂いたお言葉で、私の胸の中は、晴れました。引き揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で、相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。最低の生活に落ち込んだのです。ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったと、思ったことも何度かありました。そして、天皇陛下さまを、恨みました。しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかったのです。天皇陛下さまも、苦しんでいらっしゃることが、今、わかりました。今日から、決して、世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」と言ます。
その時、むしろ旗を持ってすごい形相の男が不意に地面に手をつき泣き伏しました。「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。 俺が間違っておった。俺が誤っておった。」と号泣するのです。
その男の懐には短剣が忍ばせていたのです。泣きじゃくる男に、他の者達も号泣します。
じっと、皆を見詰めて動こうとされない陛下。陛下の、まなざしは深い慈愛に溢れ、お優しい目で見つめられます。三谷侍従長が、ようやく陛下のおそばに来て促されようやく陛下は歩を進められたのです。
陛下が涙を流された時、人々は知りました。陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてお抱え込んでいらっしゃる事を。
陛下は、危険を顧みず全国を御巡幸され続けます。そのお姿に、国民は「一丸となって、共に頑張ろう」と思うのでした。
戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたのです。
晩年、昭和天皇は病床で「もう、駄目か」と言われます。医師たちは、ご自分の命の事かと思いました��、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。
最後の最後まで、国民を御思いになられる陛下でした。
その昭和天皇の御心は、平成5年に今上陛下(今の上皇陛下)によって果たされます。
今上陛下は、歴代天皇初の沖縄ご訪問をなさいました。その時、原稿なしで遺族を前に5分間にわたって、御心のこもったお言葉で語りかけられました。
そのお言葉に、険しい表情であった遺族も「長い間ご苦労様でした、というお言葉をもらったので満足しています。お言葉には戦没者へのいたわりが感じられました。陛下のお言葉でまた一生懸命やろうという気持ちが湧いてきました。」「なぜか泣けて言葉にならなかった。沖縄のことを愛しているのだろうという気持ちがこみ上げてきた」
こうして昭和天皇が昭和21年2月から始められた御巡幸は45年もの月日を経て一区切りがついたのです。
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keijiro · 2 days
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【昭和天皇陛下とマッカーサー元帥の会談】
「いろいろな責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は私の命令するところだから、彼らに責任はない。私の威信はどうなろうとかまわない。私はあなたにお委ねする。この上は国民が生活に困らぬよう連合国の援助をお願いしたい」
(藤田侍従長の備忘録から)
昭和20年9月27日、昭和天皇陛下が在日米国大使館を訪れ連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥と第1回目の会談を行いました。
米国では「この戦争に於いて、天皇陛下の責任を問い裁判で裁きを受けるべき」と世論が沸騰して居りました。
その様な中、会談がセットされましたが、マッカーサ―元帥は「どうせ、命乞いに来るのであろう」と乗り気ではありませんでしたので、迎えにも出ずパイプを咥え応接間で座って待って居りました。陛下に同伴したのが藤田侍従長(当時)ですが、備忘録によりますと、冒頭のお言葉を仰ったと言います。
「これが天皇陛下というものでございましたか!」
マッカーサー元帥はビックリしたと同時に、慌てて立ち上がり陛下に駆け寄り、手を取りまるで臣下の様な礼で接するようになったとの事です。
----私は初めて神の様な天皇の姿を見た---
「死を伴うほどの責任、それは私の知り尽くす諸事情に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引受けようとする、この勇気は私を骨の髄までも揺り動かした」(マッカーサー回顧録より)
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keijiro · 8 days
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keijiro · 14 days
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“スタンフォード大学教授による 眠気を"一瞬"で取る方法 ①:顎を上げ天井を見る ②:10~15秒キープ たったこれだけで眠気が取れる超画期的なライフハック”
— (21) Xユーザーのレノン | self-disciplineさん: 「スタンフォード大学教授による 眠気を"一瞬"で取る方法 ①:顎を上げ天井を見る ②:10~15秒キープ たったこれだけで眠気が取れる超画期的なライフハック https://t.co/TYyLp4AtCq」 / X
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keijiro · 16 days
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(Xユーザーのまるお2号🇯🇵(羊の皮を被った猫)さん: 「夜の帝王 https://t.co/vT8ue4N8kU」 / Xから)
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keijiro · 18 days
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keijiro · 19 days
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keijiro · 19 days
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“世界中のメディアがバイデン=ボケ老人の構図を狙ってて、変な言い間違いする所を虎視眈々と狙ってるんだよ。バイデンもそのことに忸怩たる思いだ。だから、岸田首相は、そんなメディアの前で先に派手に言い間違いやったわけ。一番アカンとこでわざと間違えてる。これがわからない人は営業できないよ。”
— XユーザーのKazuki Fujisawaさん
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keijiro · 24 days
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“冷凍エビそのまま調理するとどこにいるの?!って位チンマリ縮んじゃうけど、 水+うま味調味料(味の素とか)で解凍すると調理しても縮むことないし旨みが引き出されるわのぷりっぷりなるわで違いに驚くはず。”
— Xユーザーのかいいま🤗さん: 「冷凍エビそのまま調理するとどこにいるの?!って位チンマリ縮んじゃうけど、 水+うま味調味料(味の素とか)で解凍すると調理しても縮むことないし旨みが引き出されるわのぷりっぷりなるわで違いに驚くはず。 https://t.co/OP2GW2jV32」 / Twitter
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keijiro · 24 days
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“大昔の『世界まる見え』で、中国の山奥の村の害獣駆除シーンを見た事がある。 その村では、村を荒らした猿を捕まえた場合、まずはたっぷりと酒を飲ませて歓迎し、還暦祝いのような赤いちゃんちゃんこと帽子を被せて山に帰すそうな。 これは害獣ををもてなしてるように感じるが、実はそうではない。 人間に捕まり、嫌というほど酒を飲ませられ、赤い頭巾とちゃんちゃんこを着せられて解放された猿は、泥酔してフラフラな中、それでもなんとか群れに帰ろうとする。 だが仲間の猿から見たら 「捕まった猿が一瞬でなんか赤くなり、しかもヨロヨロした足取りで近づいてくる」 光景に他ならない。 これはTウイルスに感染した猿が近づいてくるような話で、当然猿の群れは恐れ、森の奥に逃げ去る。 だが、群れに戻りたい一心の泥酔猿は群れを追いかけ続けるため、猿の群れは森の奥に戻ってゆくのだそうな。 事実、これをした猿の群れは二度と人里に降りてこないという。 中国の人は賢いよなぁ。”
— 中国の山奥の村の害獣駆除で「村を荒らした猿を捕まえたらたっぷり酒を飲まして赤いちゃんちゃんこと帽子をかぶせて山に返す」が合理的な話 - Togetter
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keijiro · 29 days
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(Xユーザーのマリサ🌼さん: 「アスカデイリーのキャプテン大泉洋のプロフィールがふざけ倒してて面白い ここまでやってくれると清々しいね https://t.co/Tu0JYH53vo」 / Xから)
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keijiro · 1 month
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未来の女優と映像作家 (´▽`*) ウフフ   Transitions (no sound)
(DOcelotさんのImgur)
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keijiro · 1 month
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keijiro · 1 month
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“イオンシネマで介助を断られた経験をX上で投稿し、議論になっている車椅子インフルエンサーの人(以下N氏)が話題のようですね。全容をご存知でない方もおられるかと思いますので、ネット上で見かける疑問や質問、批判意見などを基に一問一答形式で当方の考えを述べていきますね。 (1)「車椅子ユーザーの介助を断るなんて、イオンシネマ酷くない!?」 ⇒「介助を断ったのではありません。当該イオンシネマには車椅子のまま利用できる席があったにも関わらず、N氏はあえて介助が必要なプレミアムリクライニングシート利用を希望し、1人で訪れては毎回劇場スタッフに介助してもらっていたのです。今般はその介助終了後に、支配人らしき人から『スタッフのリソースにも限りがあるので、今後はご遠慮頂きたい』との主旨の発言があり、N氏は『これまで何回もやってくれてたのに!』と悲しみと怒りの感情が高まり、X投稿に至ったという背景事情です」 (2)「スタッフの人手不足といっても、車椅子で不自由している人の介助くらいできるだろう!?」 ⇒「車椅子専用スペースまでの案内程度ならできるでしょうが、今般は段差のある席まで車椅子と人を運び、席に乗せるところまでおこなう必要がありました。N氏自身の投稿でも、今般のスタッフは過去同様の対応経験もなかったようでしたが、サービス介助士など専門の資格や講習を受けていないスタッフが対応することは大変な重労働であるうえ、車椅子ユーザーに怪我や骨折をさせるリスクがあるほか、緊急避難時にも差し支えるため危険です。施設としてもそこまで対応する必要はないでしょう」 (3)「イオンシネマは車椅子ユーザーに対して『合理的配慮』ができてない! これは障害者差別解消法違反だ!」 ⇒「法律のガイドラインをお読み頂ければ明白ですが、合理的配慮は『その実施に伴う負担が過重でないときに』講ずること、とされています。そして車椅子ユーザーに対する合理的配慮の具体例として『車椅子のまま着席できるスペースを確保』が挙げられていますので、今般のように『介護資格者でもないスタッフに車椅子と人を運ばせ、段差がある席まで移乗させる』というのは明らかに『過重負担』です。合理的配慮義務とは、決して『ワガママを全て受け容れる』と同義ではありません」 (4)「じゃあなんでイオンシネマは謝罪文を出してるんだ!? イオンシネマ側にも悪いところはあったんだろう!?」 ⇒「これも謝罪文をよく読めば分かりますが、イオンシネマが詫びているのはN氏に対する『不適切な発言』のみです。合理的配慮については一切言及していません。あえてイオンシネマ側の問題を挙げるとするならば、これまで良かれと思って、N氏に対して介助(移乗)サービスを複数回おこなってしまったことですね。そのため『前はやってくれたのに』という前例を作ってしまいました。『当劇場には身体介助できる有資格者がおりません。お客様にもしものことがあっても責任を負えませんので、サービス提供はできません』で通しておくべきでした」 (5)「なぜ日本人は障害者や弱者にこれほど厳しいのか!? 人権意識が低い!」 ⇒「障害者に厳しいのではなく、『理不尽な要求をするクレーマー』に厳しいだけです。あと、低賃金で理不尽クレーマーの相手をさせられる接客スタッフもまた弱者といえますので、人権をとやかく言うなら、店員さんの人権にも配慮すべきでしょう。またN氏は『車椅子インフルエンサー』を自称しているようですが、氏の今般の発言のせいで、他の車椅子ユーザーの方々がこれまで築いてこられた善意と信頼の関係をブチ壊し、彼ら・彼女らが肩身の狭い思いを強いられることになりかねません。せいぜい『迷惑系YouTuber』といったところでしょう」 今般の騒動で、イオンシネマで働く方々が今後理不尽な対応を強いられ、無理をされることがないよう、くれぐれもお願いしたいところです。会社側は顧客のみならず、従業員の皆さんの心身の安全も確保なさってください。 あと、社会運動家の皆さんもぜひご留意頂きたいですね。単に弱者属性に身を置いていれば正しい側に居られる時代はもう終わりました。日々の活動の中で、我々一般労働者やサービス従事者の善意をさも当然かのように扱い、理不尽な要求を強いて、断られたら会社相談窓口よりも先にSNSで晒して悪者扱いをしてしまうと、あなた方のお仲間の支持は得られても、大多数の労働者を敵に回すことになりますので。 (画像出典:内閣府リーフレット「令和6年4月1日から合理的配慮の提供が義務化されます!」 https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/pdf/gouriteki_hairyo2/daikatsuji_print.pdf…)”
— Xユーザーの新田 龍さん
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keijiro · 1 month
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keijiro · 1 month
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しかし、ここ10年くらいでインターネットは過去の情報をアーカイブ化したり文脈化したりするのではなく、目の前の刺激に急激に反応してはすぐに忘却されていくという、より消費速度の早いマスメディアみたいな場所に急速に変化してきているような気がする。
いまやっている調べもので困っているのは、ちょっと前まで過去5年分くらいは過去ログを残していたような施設や年次イベントの公式サイトが、次回開催のデータしか置かないようになってきていること。
サブスクリプションや電子決済の普及の影響もあるのだろうが、リアルをデータとして蓄積していくのではなく、現実からのフィードをひたすらフローとして使い捨てていく感じがいまのネットはすごく疲れる。
@longboxman • しかし、ここ10年くらいでインターネットは過去の情報をアーカイブ化?... • Threads
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keijiro · 1 month
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ファンタのCM約20年前とは思えないぐらい面白いwwwww みんなはどの先生が好き? https://twitter.com/hokkorisaseruyo/status/1769323088997753089
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