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kafka1989 · 14 days
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I wanted to do something fun and simple for my first steam after being gone for almost a month, so I combined two of my favorite things: books and cats! I loved the resulting sketches so much that I turned them into full pieces. Thank you to my Twitch viewers for helping me come up with cat puns for the books!
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PIN-UP Magazine Issue 1, Fall 2006
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@michael_nygaard
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宋元の絵画 Mountains and Stream
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kafka1989 · 2 years
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[補遺/隣人論] ウクライナの隣人としてのポーランド
『現代思想』(2022年6月臨時増刊号 総特集=ウクライナから問う)に拙稿が掲載されました。
「ウクライナの隣人としてのポーランド――戦後ポーランド知識人の思想と行動から辿る二国間関係――」というタイトルの小論で、イェジ・ギェドロイチ、ヤツェク・クーロン、そしてヘンリク・ヴイェツの三人のポーランドの戦後を支えた知識人らによる「ウクライナ支援・協力」の歩みを辿ることで、今日のポーランド・ウクライナの協力にみる「友好関係」の来歴を捉え直すという主旨のもと執筆しました。
奇しくもロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始した時分、日本に滞在しており、日々日本での報道を追っていました。その際、報道各社がポーランドに中継拠点を設け、ポーランドでのウクライナ難民支援の様子が多く報じられ、「良き隣国」としてのポーランドについて、ウクライナの「支援者」としての面が強調されることもあったように思われます。しかし、ロシアとウクライナのような直接的な軍事衝突に結びつくものではなかったにせよ、ポーランドとウクライナの間にも歴史問題(ないしは歴史認識問題)は存在しています。そして、その問題の苛烈さは、時にウクライナがロシアとの間に抱えている/いた問題と同程度に両国関係に困難をもたらしてきました。特に「記憶の政治」の問題は、近年の両国関係を考える上で非常に重要な問題であり、そうであるにもかかわらず、「ではなぜ、今、こうした友好的な関係を保ち得ているのか」という点をこそ説明する必要があるように、ポーランドの歴史研究に携わる人間の一人として感じたことが、執筆の背景にあります。
とはいえ、構成の関係などで含められなかったこともあり、校了後、不十分と思われる点に多く気づきました。特に、「記憶の政治」に関する問題については、言及しなかったことで論点が十分に伝わらないのではないかと考えています。そうした点について、こちらで補足の追記を行っています。
以下、本論の構成に沿って、書き足りなかった点に言及しています。適宜、脚注ではなくテキスト内のハイパーリンクで関連の文献なども紹介しています。
(2022年5月10日執筆・13日加筆)
*****
1.「隣人論」
タイトルにあるように、この論考はひとつの「隣人論」として書き始めました。国家関係ではなく、二つの国のあいだにあった、個別具体的な人間の活動を紹介したいという思いもあり、「隣国」ではなく「隣人」という言葉を使用しています。(これはまた、ポーランドが、あるいはウクライナが独立した国家として成立していない時期であってもポーランド人とウクライナ人とのあいだに、当然のことながら関係があったということも念頭に置いての語の選択です。)
この側面は(深く掘り下げることができませんでしたが)、キリスト教(カトリック)がきわめて重大な役割を社会・政治的にもつ国であるポーランドにおいて、「隣人愛」の原則をどのように考えるのかというのは、今般の協力という文脈においても重要なのではないかと思います。それは、宗教分布においては、ポーランドよりも多様なウクライナという国のありかたと対比させると、さらにその同質性が強化される点でもあるでしょう。
また、「隣人(Sąsiedzi)」という言葉を用いると、歴史社会学者ヤン・グロスの、同名の歴史書が思い浮かびます。同書は、第二次大戦下のポーランドで起こった、ポーランド系住民によるユダヤ系住民の虐殺(ポグロム)についての研究です。2000年に出版されて以降、ポーランド国内外のユダヤ人コミュニティ、そしてポーランドに関係する歴史学者の間で大きな論争を巻き起こしました。この前後から、第二次世界大戦中の、あるいは戦前の、ポーランド人による、他民族・他集団への加害の歴史が、その否定論も巻き込みながら、検証へと晒されていくきっかけになりました。(グロスの著作とその反応について言及した論考もあります。)
同書における「隣人」やユダヤ系の住民ですが、同様の加害関係について、ウクライナもきわめて複雑な関係にある隣人であるのは、本誌の「はじめに」でも触れたとおりです。
(*本文中では鉤括弧をつけた表現とつけない表現を用いていますが、いわゆる「隣国」と近いニュアンスで表現している箇所は括弧をつけず、上記のような隣人観の検討とつながりそうな部分は括弧をつけて記しています。)
2. 「記憶の政治」の問題、両国関係の歩み
ウクライナとポーランド双方の「記憶の政治」の問題も二国間関係を考察する上で欠かせない点でありながら、考察が及びませんでした。両国の記憶と和解、歴史認識、そして記憶の法制化を巡る応酬は、特に近年、大きく研究が進展した分野と言えます。(昨年末には英語での専門書も出ています。)
誌面では、社会主義時代のポーランド・ウクライナ関係や、ポーランドの民主化、そしてウクライナの独立以降の両国の公的なレベルでの和解の歩み、その揺り戻しについて一言でも触れていなかった点は(あるいはそうしたことに言及しない旨明らかにしなかった点は)、論考の最大の瑕疵であったと認識しています。
同時に、これらの点はそれだけで十分な検討を要するテーマであり、実際に多くの論考が出版されていますので、いずれにせよ、また別の機会にじっくりと考えてみたいと思っています。(一例として、ウクライナの非共産化の法制化について論じた論考など。)
ここでは、補足として、拙論の関連する範囲での公的な両国の歴史とその問題について簡単にまとめます。
まず、社会主義時代の両者の関係については、ウクライナがソ連の一共和国であったということで、「ウクライナ」と「ポーランド」という枠組みでの取り組みは多くはなかったことが知られています。(他方、こちらで紹介している史料のように、ソ連側が「ウクライナ」とポーランドの友好を演出するような特殊な事例もありました。)戦後すぐにウクライナ系住民の移動がポーランド政府によって強いられたこと、そしてその過程でポーランドにウクライナ系住民の教育活動を行う文化機関が、ポーランド人民共和国内で活動を許可されていたことなどが公的なレベルでの重要な事実にあたるかと思います。
次に、共産圏の崩壊以降の関係については、公的には和解に向けた取り組みを開始する��のの、2010年以降は、それぞれの国の歴史に関する事象の法制化に伴い、いよいよ対立が深まっていたところです。
両国は、1997年、歴史問題に取り組むことを表明した共同声明を発布し、追悼式典などを共同で開催するため尽力してきました。2003年と2013年には、ヴォルィーニで追悼式典(それぞれヴォルィーニの虐殺事件より60周年、70周年の節目に開催)が、2007年には「ヴィスワ作戦(戦後初期ウクライナ系住民の強制移住)」に関する記念式典が開催されました。これらの式典全てがスムーズに行われたわけではありませんが、公的な「和解」を目指していたことが確認できます。
しかし、直近の十年の間に、状況は大きく悪化します。それぞれの国で「自国の歴史」に関する法制化の動きが見られ、時の政権のもとで「記憶」が政治の争点となっていったからです。
2015年、ウクライナ議会は、自国の独立とそれに貢献した「英雄」たちの地位の尊重を定める法律を制定しましたが、その中には(今回のロシアのウクライナへの軍事侵攻で日本でも名の知られることになった「バンデラ主義者」などの)民族主義的な思想のもとにポーランド系住民の虐殺を行なった集団もあり、ポーランド側はこれに激しく抗議しました。
ポーランド側も、同様の法制化を急速に進めていきます。2016年、ポーランド下院は、ウクライナ民族主義者によるジェノサイドを恒久的な犯罪とする法を成立させました。(ベラルーシに対しても同様の法律を2017年に制定しています。)さらに、2018年、ポーランドにおける第二次大戦時の記憶についての法案の、その改正案で、「ウクライナによるポーランドへのジェノサイドを否定すること」に対し刑事罰を課す点が盛り込まれました。(なお、ホロコーストに関しても、「ポーランドによる加害性」を事実に反して主張した場合、同様に刑事罰が課される法律が施行された結果、既に欧米の歴史学者の著作を対象とした裁判が起こっています。)
こうした記憶の「政治資源化」の問題は、旧東欧諸国で広く見られる現象ですが、ポーランドの事例も合わせた紹介として、『せめぎあう中東欧・ロシアの歴史認識問題――ナチズムと社会主義の過去をめぐる葛藤』(ミネルヴァ書房、2017年)が網羅的です。
ユーロマイダン(マイダン革命)以降は、こうした法制化が顕著になっていきましたが、論考のヴィエツの支援の意味は、こうした点からも考えなければいけないものでしょう。
こうした流れを踏まえつつ、ウクライナでも、ポーランドでも、歴史に関する法制化、歴史・歴史研究の政治資源化に対して、批判的な声はあり、左派系知識人を中心としつつもひろく専門家集団一般に及ぶ問題として認識されていた点も重要かと思います。
3. 本件に関する”現代の”ポーランド知識人の反応、国内世論など
この点については、「自由と平和のための京大有志の会」のこちらのリンクを参照していただければ、とても早い段階で彼女ら彼らがどういう反応をしていたのかが分かるかと思います。以下にリンクを紹介します。
●ポーランドの知識人・文化人による「ウクライナとの連帯とロシアの侵攻阻止を求めるアピール」に寄せて(2022/02/23) (訳者である小山哲氏の解説)
また、ポーランド国内にも、当然ながらウクライナ支援に関するさまざまな意見があります。ただし、それでも世論調査などを見ている限りでは、この戦争に関する個々人の関心は強く、そして、ポーランドが現在行なっている支援をおおむね支持している傾向にあるようです。
第三次世界大戦が起こるのではないかという不安も、第二次世界大戦の最初の舞台となったポーランドではさかんに議論されていた話題です。実際に、三月後半以降、ロシア政府関係者がポーランドを名指しで批判する(メドベージェフ国家安全保障会議副議長・前大統領のTelegram投稿。ここでも、ポーランドを含むスラブ世界の歴史ということが問題になっていました。)といった報道もあったため、こうした懸念も妥当なものでしょう。
他方、それでもウクライナへの支援を止めるべきである、支援を止めれば標的にならずに済む、といったような声は耳にしません。ポーランドの現政権に対して不満があるか否か、2.で述べたような問題に対してどういう意見を持つかを問わず、多くの人が支援を当然と考えているという点は特筆すべき状況かと思います。
*****
以上が主要な補足点ですが、以下、論中に名前が出てきた人物などについても、一部付け足す内容があります。
ギェドロイチの出身地:ギェドロイチの出身地はミンスクで、彼自身がUBLにあたるポーランド東方領土の出身であるということ、それゆえ、彼の議論はそうした自分の郷里を捨ててでもポーランド、そしてULBの三カ国が自主独立の道を歩むことを訴えたものとして読まれる必要があります。また、彼はモスクワで十代を過ごしており、ソ連の現実についての知見が深かったという点も重要な事項です。
現ポーランド首相(モラヴィエツキ首相)と「連帯」:現在の二国間関係において、戦禍のキーウ訪問を各国と調整するなど、重要な役割を担うモラヴィエツキ首相も、その父親とともに、かつての「連帯」の徒でした。彼もまた、クーロンやヴィエツ同様、「連帯」運動の理念の中に、ウクライナの自由を支えることが大きな使命になっていることを示す一例かもしれません。
ウクライナ「60年世代」:本論で触れた「ウクライナ60年世代」の詩人に、Vasyl Holoborodkoというルハンスク出身の詩人がいますが、ゼレンシキー・ウクライナ大統領がコメディアン時代に出演して話題になった『国民の僕』の主人公の名前はVasily Petrovych Goloborodko(ロシア語読みGはウクライナ語でHになる)で、おそらくこの作家の名から来たのだろうと思われます。
*****
また、まったくの余談ですが、入稿の前後、Twitterで国際政治学と歴史・文学研究とで、対象とする国や地域にどう向き合うかが異なり、そこに違和感を感じるか否かといった話題がタイムラインに漂着してきたことも後々気にかかりました(本当に締め切り前で時間がなく詳しくは追っていませんが、後からそういう話だったのだと理解しました)。というのも、「はじめに」で自分も、”安全保障上の関心じゃなくて歴史的に見れば”というような文言を挟んでいたため、安全保障の研究に取り組む人から「やっぱり歴史学方面の人間はそういう風に専門領域で括って語るのか」と思われもするのだろうかなと考えたからです。特にそういう意図があったわけではなく、「(文学などと比べても)歴史学の反応は腰が重い感じがするな、もっと皆んなこういうときに何かすべきじゃないかな」という想いがあったため、寧ろその点を意識して入れた文言であったということも追記しておきます。
現実には、この戦争の前には、ポーランドでもウクライナ人労働者を差別するようなことも頻繁に聞かれましたし、隣人としての真価が問われていくのは今後なのではなかろうかとも思うのでした。
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kafka1989 · 2 years
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芸術方面からの反応のひとつとして。
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kafka1989 · 2 years
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kafka1989 · 2 years
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kafka1989 · 2 years
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[史料紹介]「プラハの春」事件(1968年)に際するウクライナ・ポーランド関係
原稿の作業中に見つけたものが面白かったのでこちらに紹介します。
3月頃、「隣人」とは何かという視点から物事を考えたいなと考えていて、その際に行きあたったものです。
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二頁ほどの、『我々の声』Наше Слово(戦後ウクライナの文化誌)やRadians’ka Ukraina(ウクライナ社会主義共和国の新聞)からの報道をもとにまとめられた、ラジオ・フリー・ヨーロッパ(ヨーロッパ自由放送)のレポート。
●1968年5~6月、社会主義改革路線とその運動「プラハの春」がチェコ)スロバキアで盛り上がる中、その影響がウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に及ぶのを恐れたソ連が、「隣人性の模範」としてウクライナ=ポーランド関係に梃入れをしようとしているという話。
●ポーランドとソ連(ウクライナ)の間で交わされた加工食品(ウクライナから)や機会工業製品(ポーランドから)の直接貿易に関する報道の紹介。その中で「ソヴィエト・ウクライナの外国貿易大臣」とされる人物に言及が及んでいるが(G. Sakhnovskiy)、実際にはそんな役職は存在しないという指摘。これに加えて、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国とポーランドの高等教育機関や大学が直接的な交流をもっているという報道。
(←このあたり、いわゆるソ連を構成する共和国のひとつが、どれくらいの自律性を持って近隣諸国との政策を決めることができるのか分からないのですが、おそらくウクライナがある程度ポーランドと独自に「隣国関係」を築いているというのを、ソ連も含め、演出したかったということかと思います。)
●「キエフ市内のポーランドの日」なるイベントが開催され、前年から計画されていたよりもはるかに大きな規模で実施されたことに言及。ポーランド製の女性服や、ポーランド料理の紹介などに言及。「腕組みあう同胞」という書籍博覧会は、ウクライナとポーランド共通の闘争(「我々の、そして汝の自由のために(19世紀初頭、ロシア帝国に対する蜂起の際のスローガン)」)を示すものであると。
(←おそらくドイツのファシズムに対する共通の闘争ということだと思いますが、ここでシオニズムについての言及もある点が気になります。1968年ポーランドの「3月事件」の余波の続く中、この「ウクライナ=ポーランド友好」なる取り組みが、ポーランドの学生・知識人による暴動に対する牽制でもあったのではないかと考えたりします。)
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史料は以下のURLからダウンロード可能です。各写真はこちらの文書から。
"Distraction from Prague: Intensification of the Relations between the Soviet Ukraine and Poland", 27 May 1968. HU OSA 300-8-3-14809; Records of Radio Free Europe/Radio Liberty Research Institute: Publications Department: Background Reports; Open Society Archives at Central European University, Budapest.PERMANENT URI:http://hdl.handle.net/10891/osa:ad074ea5-7a81-4aa6-8207-483f34eded08
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kafka1989 · 2 years
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[訳出] “レフト・イーストはウクライナに対するプーチンの帝国主義的戦争を糾弾する”
ここで紹介するのは、現代の中東欧左翼グループによる、今般のウクライナへのロシアの侵略・攻撃に対するステートメントです。
“LeftEast Condemns Putin’s Imperial War Against Ukraine”
LeftEast、以下レフト・イーストは、ポスト社会主義の時代における左翼のあり方を巡って思想を研さんしていくことを目指す、中東欧のジャーナリストや学者、あるいは中東欧に関心を寄せる西ヨーロッパの同様のひとたちからなる有機的ネットワークです。比較的若い、現在20〜40代くらいの層が中心となっています。
ソ連時代・社会主義時代の誤った政策により歪められてしまった社会主義・共産主義の思想を、(おもに19世紀以降の社会思想を頼りに)中東欧地域の歴史的・文化的文脈の中で再構成し、現代のグローバル資本主義に対抗するためのプラットフォームを立ち上げています。
友人からこの記事について教えてもらいました。自分とはやや立場の異なる思想だというのは事実です。但し、内容については、一部NATOに関する指摘などを除き同意しています。全体として十分に論理的で、共感もできますが、今のウクライナの戦禍で苦しむ一般の人たちにこうした言葉はあまりに空虚に映る気もします。(これを書いている人たち自身がまさにグローバルな情報ネットワークに生かされてもいるわけで)知的エリート特有のバランス感覚に頼り過ぎている側面もあると思います。しかし、今回の問題を考える上で、このステートメントを読むことには有益な点もあると考えます。また、ウクライナのメディア関係も編集班にいるため、総合的なものではありませんが、一部のウクライナの声を反映するものともなっていますし、様々な不平等に対し網羅的な視点を提示している点も重要なのではないかと考えます。
(この訳出によって、反米を反ロシアに対置させて喧嘩両成敗とする意見を助長したり、支持する意図は全くありません。また、この十分に注意して選ばれたであろう語彙の表明しているイデオロギー的な態度について、無条件に称賛するような意図もありません。軍事侵攻とその決定を下したロシア、プーチン政権に重大な責任があるということについては、この論考も第一義的に認めています。)
ウクライナを含め、ポスト社会主義諸国が抱えてきたジレンマ(古い冷戦構造に影響を受けた政治構造の温存と90年代以降彼らが受け入れねばならなかったグローバル資本主義下の社会構造のラディカルな変化)がいかに今回の侵略を呼び込んだのか。独立を果した一方で、最初から全くの自由ではない、ある種押しつけられた選択に迫られ、振り回されてきた地域の現実。『脱共産化』によって、地域が育んできた社会的な思想の意義が削ぎ落とされ、根絶やしにされていくこと、それにより多様性が現じられることへの懸念。
中東欧の現実は、地域的な文脈においてまさに理解されるべきであり、そうしない限り、大国の関心を反映させた解釈を繰り返し、我々自身の偏見を強めていくことになるのではないでしょうか。そして、連帯した同地域の語彙を用いて、その語りを引き受けることで、我々自身がこの問題とより具体的な接点をもつことができるとも言えるかもしれません。こうしたより冷静かつ包括的な見方を組み立てる上でも、『脱共産化』をどう分析し解体していくかという問題は、しっかりと引き継ぐべき点です。これは、ステートメントで強調されているように、ウクライナだけでなく、東欧地域が総じて火種として内包している大きな問題です。
(北海道のスラブ・ユーラシア研究センターの出版物の中に、英語ですが、今回の対立のエスカレーションにもつながるウクライナの脱共産化とメモリー・ポリティクス(記憶の政治)に関する論考が公開されています。)
訳出は以下の通りです。下のリンクには画像もありますので、気になった方はぜひ確認してください(画像に添えられたキャプションは訳出していません)。
*****
レフト・イースト編集部員の共同体は、ウクライナでの戦争へとエスカレートしていった暴力的で軍事的な攻撃に衝撃を受けている。何十年にもわたって経験してこなかったスケールの流血事態へと我々の地域が投げ込まれる恐れがある。我々は明白に、クレムリンの犯罪的な侵略を糾弾し、国際的国境の外へのロシア軍撤退を要求する。アメリカ合衆国、北大西洋条約機構[NATO]、そしてその同盟国がこの戦争をもたらしたのだという責任を忘れないようにしつつも、目下の状況における侵略者は、ロシアの政治経済的エリートである。我々の努力は、ロシアの説明不可能なウクライナへの帝国主義的侵略を白日の元に晒すべく行われる。これは、NATOによる威嚇的な拡大とウクライナのマイダン革命後の体制がその道を敷いたところのものである。革命的精神、そしてウクライナ、ロシア、地域の人々との連帯において、我々は今モスクワに「否!」と言い、今後の、モスクワかNATOかという誤った選択にも「否!」と言う。我々は即座に停戦し協議の場に戻ることを要求する。グローバル資本および軍事機械の関心には、一滴の人民の血も注がれるべきでない。平和、土地、パン!
オリガルヒらによる資本主義、権威主義的ネオリベラリズム、そして地域のグローバルな反共産主義勢力により醸成された中東欧地域の反共産主義を、我々は拒絶する。プーチン自身がその[2022年]2月21日の「歴史スピーチ」で脅したように、「[ウクライナは自分たちの]脱共産化を望むのか?そうなら、それでも私たちは構わない。でもそれは、彼らの言うように、道半ばで止める必要はない。ウクライナには、真の脱共産化が何を意味するのか、我々が見せてやろうじゃないか。」クレムリンによる今日の攻撃は、脱共産化が徹底されつつあることを表している。右翼政治家たちの少数がこれに利益を得ることは確実だが、しかし、我々のほとんどにとって、上述のナショナリズムと極右イデオロギーがもたらしうるのは、苦しい経験と、憎しみの旋回する連鎖に他ならない。経済的には、この反共産主義はオリガルヒによる資本主義−−そして貧困−−を、我々にもたらしてきた。ロシア、ウクライナ、そして東欧全体に見られるものである。政治的には、反共産主義は、その構成員たちを表象しようともするそぶりさえ見せないような政治権力を、我々にもたらしてきた。
我々は以下のとおり述べる。
(1)我々は、戦争のこの直接的な原因となる行動の責任をクレムリンに置く。ロシアという国家は、反動的な帝国主義的郷愁に過ぎないものを名目とし、また、過去そして現在の東欧の革命運動により例示される国際的な連帯に対する明白な謀反において、ウクライナを侵犯した。プーチンの「偉大なるロシア」というナショナリズムは、東欧の豊かな文化的多様性を否定することで国際的な地位を打ち立てようとする、犯罪的かつ無駄な試みである。我々は、この地域のすべての民族的共同体と協働し、すべてのひとにとってのより良き世界のための闘争を通じた、平和的な連帯というビジョンを堅持する。
(2)この戦争の首謀者および今日の中心的な侵略者はクレムリンだと考えるが、我々は、米国、そしてその多くの同盟国、そして超国家的な資本を、このおぞましい状況に対して責任をもつものだいうことを考慮する。彼らが、NATO拡大の懸念についてロシアと協議することを拒んだことが、自体の鎮静を求める、ウクライナ政府をはじめとする多くの要請に反して、戦火を焚きつけた。パンデミックのさなか、米国とその他の先進的な資本主義国家の経済的・政治的エリートは、民主的な正統性に対する自分たちの失敗や、欧州・大西洋の「統合」という経済的ヘゲモニーから人々の目をそらすことを望んだ。彼らは、まさに東欧の人々のあらゆる犠牲のもとに、資本蓄積の加速を後押しした。戦争に飢えた敵対者たちや昨今の帝国主義者プーチンは、おぞましいポスト社会主義の、そしてパンデミック関連の、ロシアやウクライナで同様に起こっている社会的再生産の危機を用いて、ナショナリスト感情を先導し、古い民族ナショナリストの対立から利益を得て、(再)生産しようとした。搾取的かつ拡大主義的な欧州・大西洋「統合」は今や、権威主義の口実となり、それは実際にウクライナにおいて全土を吹き飛ばすような戦争となっている。
(3)我々は、地域における反共産主義を拒絶する。それは、皮肉にもプーチンと、彼の「脱共産化」の約束とによって体現されたもので、彼の政権がロシアの左派野党、反ファシズム主義者、アナーキスト、そして反戦運動を周縁に追いやり、暴力的に鎮圧してきた一方で、プーチンを「コミュニスト」と見なす左翼の一部やあらゆるリベラル派の投影からプーチンが得てきた、羊の皮をかぶった狼の連帯にもかかわらず、そうするのである。しかしまた、そして重要なのは、ロシア、ウクライナ、そして東欧の卑しい日和見主義的な体制において、ナショナリズムや極右イデオロギーが養生されてきたような、寡頭制的な資本主義を基盤とする反社会的な体制を、我々が拒絶することである。こうした体制���、軍事主義的右翼のレトリックを組み合わせ、他者の不運から利益を得てきたのである。
(4)我々は、ここ数年のロシアとウクライナ双方における、いわゆるところの「脱共産化法とその改革」を拒絶する。ロシアと米国/NATOという二つの「敵陣営」は、権威主義的、反共産主義ネオリベラリズムの道を辿ってきた、帝国主義・資本主義勢力である。ウクライナもまたその上を歩んできたこの共有された道は、まずもってして、ネオリベラルな労働法、土地へのアクセスを防ぐことを意図した土地「改革」、小作農の所有の無効化、そして近年の経済・社会政策改革によって証明されてきた。こうした要因は、人々を搾取や貧困のリスクに著しく曝し、結果としてロシアとウクライナ、そしてそれらの国だけでない場所に、予期しなかった社会経済的危機を引き起こした。なぜなら、それは地域的な経済的なインパクトをもつからである。
(5)ウクライナ政府をまったく民主的な自由の保持者とする昨今の称賛とは逆に、我々はウクライナのポスト・マイダン革命体制を疑問視する。体制による左派と野党への抑圧、主要野党政党の締め出し、大衆向け野党系メディアの遮断。差別的な言語政策やウクライナの政治、民族、文化的多様性の認識と容認への希望の全くの欠損、そして、過去七年間にわたるミンスク合意履行のサボタージュ。ウクライナの極端な「脱共産化」改革はまた、我々が単純に、昨日までの持続不可能な状況へと立ち戻るのを望めないことを明らかにしている。
(6)我々は、陣営主義的な解決策を拒絶する。こうした解決策は、ラディカルな社会変革、民主主義、労働者の力、インクルーシブネス、そして開放への真正なる闘争を支持するかわりに、レイシストかつ軍事主義の欧州・大西洋の統一に救いや、あるいは解放主義的なユーラシアニズムに救いを見出そうとするものだ。
(7)流血、貧困、そして分断しか想起させない反動的なイデオロギーを前にして、我々は、東欧における革命運動の遺産を堅持する。これらの運動の(多くの)伝統において、我々は決定的に、資本主義、帝国主義、軍事主義に反対する闘争と、宗教、民族、ジェンダーの平等とを追求する。労働者および我々の地域において抑圧されてきた人々の連帯におけるこの闘争は、民族的ウクライナ人とロシア人の、そしてまた歴史的に同地域において抑圧されてきた集団ーーロマ人、ユダヤ人、タタール人、そして移民コミュニティ、女性、セクシャル・マイノリティーーのより良き未来への唯一の希望である。この精神のもと、我々はウクライナとロシアにおける政治収容犯への連帯と、両国におけるラディカルな反資本主義民主主義およびその勢力への支援を宣言する。
我々は、即時の停戦、経済・政治的なエリートに影響は与えるも当該の国の労働者や人民には影響を与えない反戦努力、そして和平プロセスや地域を戦争に巻き込んだ社会・経済政策における過去の誤りを棚卸しする交渉を要求する。我々は、ウクライナとロシアの反資本主義・反戦運動との連帯のもとにある。我々は、リベラルデモクラシーの約束には幻想を抱かない。階級闘争以外の争いは不要である!
我々は、戦争によってまだ影響を被っていない国々の同志に対し、十全かつ人道的なウクライナおよび全ての紛争地帯からの難民の受け入れについて政府にプレッシャーをかけ、平和への支給の道筋を示すことを要求し、攻撃と武力行使によって影響を受けた人々の生活への連帯を表明するよう求めたい。我々のもとには、導きとなる左翼インターナショナリズムと平和主義の歴史とがある。
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kafka1989 · 2 years
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自分の身の回りにもいくつもの国と関わっている人もいるし、自分自身もそうだし、自分が普段考えたり見たりしている地域についてもそういう事例は多数あるので、コスモポリタニズムという言葉が決してニュートラルなものではないとつくづく思うのだけれど、最近の状況に照らし合わせて興味深い事例を目にした。
それは「弱いコスモポリタニズム」とも言うべきもので、土地や特定の文化に依存しないが故に(不都合も多々あるし、自己規定の揺らぎもあるが)強い自由をもつ(強度を持つ)コスモポリタン(近代的コスモポリタン)に対し、複数の土地や異なる文化の間を行き来できる・してはいるものの自らの意思だけでそれらを自由に超克できるわけではない、そういう現象と言える。近代的コスモポリタンは基本的には頭でっかちで(浮動)だからこそ自己規定のあり方にあわせて現実を認識する枠組みを変えていくことができるけど、弱いコスモポリタンはそうではない。生活と思考が現実に深く埋め込まれているが故に、い��となったときに自由に何かを捨てるという決断ができず、がんじがらめになる。
こんなに移動手段だろうが専門家の情報だろうが何だろうが瞬時に把握できる時代に、しかも既に複数の土地と文化とを選択肢にもちながら、その複数性を享受できない。他方、それが多くの人にとって現実なのだろうし、複数性を根拠に自由に渡り歩ける人は、牢獄に閉じ込められてもなお自由でいられるのだろうなあという(トーマス・マンみたいな話になってしまった)。
ここで言いたかったのは弱いコスモポリタニズムを形作っているのは、基本的にはひとつのありかたでしか存在することを許さないグローバリズムだと思うし、複数性の居心地の悪さを自ら排除して、わかりやすい存在になりたい願う(思考のうえでの極端な負荷を望まない)ごくごく普通の反応だとも思うし、そういう意味で現代に本当にコスモポリタンとして振る舞える環境はきわめて限定されているとも感じる。
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kafka1989 · 2 years
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Anton and his Whale (2014/2015)
One day I was walking on the bench in the park. There was nothing to prevent me from shining fabulously under the sky; I felt dizzy, wacky, and whatever it was supposed to be. Suddenly, I decided to pretend to have a long nose, a long-long nasal organ that even turned the world around. But it was in vain: In fact, all I had was my "cute little nose." Filly always called it as such (yes, always, literally) without exception. Whenever he touched my nose, he referred to it as "your cute little nose." I kind of like the phrase because that was precisely how I started liking the unattractive spot on my face. Splash, splash! The day turned out to be sunny enough. But I wished it was a bit more windy and gloomy. Rage the wind to blow me off hard. And I said, "I am looking forward to seeing you tomorrow, preferably, early morning."
***
Anton died. We knew it when we were lying on the bed. It was not our screwed apartment bed, though. We stayed in a hotel in our city, where we have lived for years. Yesterday, we took a long walk and then stopped for a long kiss. Perhaps not a romantic anymore, but a satisfactorily pleasant one. I guess that could be a good reason to stay over a tiny stingy hotel room to make sure we wanted each other. The hotel room was on the corner of the city park, facing towards a pond. The surface of the pond did not wave despite the chilly wind. Instead, it reflected everything dark, dark that arose from the bushed surrounding the pond and the deep down in the bottom of the water. 
The entrance was somewhat hidden, but it did not bother us. We came here even before our first (official) date. Then we were frequenters. Choose the room, and they deposit the key. 106. Room 106. That was the ritual we never explained to each other. Again, without any exception. While she was taking a bath (shower could not be enough), I went to the lobby and grabbed a newspaper. The time knocks on the floor like an annoyed bird in the hall. There went fast the time, so I made a clockwise return immediately. I might have tried a jump to overcome that noise, although I oversaw my step. The red door of 106 greeted me nicely. A warm taste of this silky, past red made me feel I should live a long life. I sat down on the bed and opened a paper to read from the cover.
"You were not here, were you?"
She said.
"No, no, no, I had my work to do."
I answered.
"I didn't bring anything today. I mean, snacks. I'll soon die of hunger."
"Well, the day is almost over. And you'll get something to eat like breakfast."
"I hope I can be an optimist like you."
Spider family scratched a large mirror in front of our eyes without making a different thread. They reached the level of our bed until we heard the noise outside. A cleaning lady started working this early. Early like 3. am. I was looking at one of the corners of the room as if I could multiply myself by staring at nothingness. My eyes suddenly captured her eyes as she leaned over me to my thigh.
"What are you looking at now, this time?"
"Your cute little nose, nosy girl."
She smiled. Actually, she only smiled with her lips. Her green eyes never let her dark pupils so deep. I felt a coolish air and a tiny waterdrop climbing down my calf. Her shampooed hair did not dry up yet. We cuddled for a while. Yellowish flowers on the table did not accurately represent our feelings. In any case, withered petals could only be falling asleep. It was like cotton cloth I always carried to the school but never used.
An hour later, she suddenly raised her voice and uttered a sentence.
"Anton died."
She was reading the newspaper, a page I intentionally left open.
"Who, whose Anton?"
"Anton, Anton Plumber."
"Was that YOUR Anton?"
"Yes, that was MY Anton. Extremely touchy guy."
By profession, Anton was a boxer. He was our friend. More precisely, the sportsman was her ex-boyfriend. He died because of the match he went in the day before. It was a rematch for the national championship. He was, unlike all other boxers of his time, a shy person, a sort of pacifist.
Nonetheless, he gained popularity among all generations. He earned his reputation despite his frequent injuries and somewhat nervous temperament. On one occasion, he began crying after being interviewed. He was ready to fight, but he was not prepared to express himself as if he kept his secrets from the public forever. Anton the Eccentric— people made fun of him, but he was still likable.
"Poor Anton."
I said, but I was unsure if I should have said so.
"Well, YOU must be sad."
"Must be? Why should I? Don't YOU feel any sad?"
I was surprised by her statement. I knew Anton as much as ancient Japanese calligraphy; I only had a few bottles of beer with him. That was the exact amount to make it possible for me to call him a friend.
"Well, who knows? I think I do feel sad, but I am not sure if I am sad for him."
As she stood up, a few packages of toothbrushes, amenity goods in this room, now fell on the floor. She picked up one of those packages and started brushing her teeth. It was symbolic. I thought she mourned over by cleaning her mouth intensely. Maybe some tribes on earth would do so to show that the spirit came out from their inner organs could be put back by letting their mouth full of artificial things. Her left hand, tightly holding the grip of plastic goods, looked like a pair of electronic scissors I once watched in the commercial program. 
After gargling, she looked into the news article again. A tiny picture of Anton. No beard, half-naked, shorthaired, with his awkward smile. I spotted the spider family by the window. The wind outside did not calm down yet.
"Anton died."
She said, this time to herself.
"Yes, he did."
I confirmed the information.
At the age of 24, he died with dignity. Maybe in our mind, he was not dead yet. But he would be destroyed, gradually and inevitably. Ascending. Descending. We were sure that the place he reached by now would not let him come back to us. I was sorry for him as he might be confused about his new environment. The cleaners appeared to move on to the next floor. I could not hear they were vacuuming the floor. The first part of the dawn arrived through a thick curtain. I closed my eyes and continued to imagine Anton's extraordinary body on the ringside.
***
The next day we walked through the park. We saw there was a crowd on the other side of the pond. An older man at the car parking entrance told us they found a whale in the pond. Young whale. Around a year, some experts by then observed. People got so excited when we saw his tail and fins on the shore that the cheers and claps made the whole park a stadium. We went to the boat riding spot, but the vendor said he could not provide us with a ticket. We must keep the whale alone for a while, and we did not know how to pick him up. The municipal officers, police guards, and the ambulance staff came to save a poor, relatively small whale who got stacked in the pond. We tried to come closer. The whale was struggling, but he did not seem severely injured. He was moving around, swimming, and surfacing with his caudal fin up. Suddenly, he circled and spouted. The fluids coming out from his body made a large rainbow over the park. It was a beautiful, unexpected spectacle that we would remember for good.
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