Tumgik
hosoudehanjouki · 4 months
Text
わたしの中には、わたしのして欲しいことを全部知っていて、全部してくれるもう1人のわたしがいる。
たとえば、お腹が空いているし喉も乾いているけど一歩も動きたくないとき。わたし1人なら、動かないまま時間が過ぎていく。
しかしここでもう1人のわたし(以下:わたしB)を召喚する。方法は簡単。寝そべっているわたしの脳内で、わたしの頭を覗き込むように立っているもうわたしBを思い浮かべる。
わたしBは言う。「さあさあ、いつまで寝そべってるの。お腹空いてるんでしょ、何か食べないと」
そしてそのまま冷蔵庫のまえまで行き、扉を開けて中身を確認。適当に食べるものを見繕って、「ほら、食べるものちゃんとあるよ。おいで」と言ってくれる。
わたしはそこまで想像して、「はあい」と返事をし、起き上がって冷蔵庫の前まで行くのだ。
わたしBは、わたし自身がどんな言い方をしたらやる気が出るかを知っている。どんな励まし方をしたらわたしが動き出せるかを知っている。そして、その通りにしてくれる。
わたしBに、わたしの一番心地よいやり方で励まされて初めて、行動できるときがある。
ただ注意点は、わたしBを必要とするとき、わたしの精神はかなりの段階まで追い詰められているということだ。
つまり、いま、とても危ない。
果たして、わたしBを召喚して、この危機を乗り越えられるのか。
神様、一つよろしくお願いしますね。
0 notes
hosoudehanjouki · 8 months
Text
本はともだち
本は友達だ。気楽に、他愛のないお喋りをして、またね、と手を振って別れるような、そんな友達。
クリスチャンとして神学校に通うくらいには信仰熱心な私にとって、聖書は神様のことばであり、指針である。
聖書は、親のように道から逸れていることを指摘してくれたり、長年の付き合いの友人のように助言をしてくれることもある。
しかし、正しくあり続けることのできない罪人である私にとって、時にその聖さを負担に感じることがある。
そんなとき、本を読む。なんてことない日常を描いた小説。何かに熱中している学者のエッセイ。ちょっと変わった志向のルポ。
そういう本たちに、何度も助けられて来た。
仕事をしていた時は、ストレスが溜まると本を読み漁っていた。しかし神学校に入ってからぱったりと読まなくなっていた。仕事をしていた頃と比べ物にならないほどストレスが減り、読む必要がなくなったのだと思う。
しかし夏休みに入り、予定していたアルバイトをキャンセルせざるを得なくなって、手持ち無沙汰になった途端、本が恋しくなった。
いい歳をして学生になり、無職になった私は、手持ち無沙汰な時間ができると無力感に襲われる。
もともと考えすぎる性質があるので、収入も家庭も若さもない自分と向き合い続けるとネガティブまっしぐらになってしまう。それは精神的によろしくない。
そんなとき、本はその沼から私を引き上げてくれる、友達の役割を果たしてくれるのだ。
久々に地域の図書室に入り、目に留まった短編小説を読んだ。活字を追い、物語を頭のなかで立体的な風景として味わう。ただそれだけで、自分のネガティブな気持ちは些細なことに思えた。
小説はいつも、そんなこと考えてもしょうがないよ、前向いて生きていこうよ。とわたしに語りかける。
それはまるで、頻繁には会わないけれど、数年に一度連絡を取り、近況報告をしあう友達に似ている。元気?元気だよ。良かった〜。仕事は?転職したけど、なんとかやってるよ。こっちも、なんとか。そんな、他愛もない会話をする友達。
聖書はいつも必要だ。生きる糧であり、これなしでは生きられない。
でも本は、私の日常が濁ってきた時に、「まあなんか、元気出しなよ」と、手軽な雰囲気で励ましてくれる友達なのだ。
わたしは本が大好きだ。本とのこの距離感が、わたしには必要だ。そのことを、思い出せて良かったと思う。
1 note · View note
hosoudehanjouki · 9 months
Text
何がしたいのか分からなくなったとき
全然やりたくないことを、延々とやってしまうことがある。
たとえば、youtubeの動画をだらだら見続ける。
インスタをだらだらスクロールし続ける。
もう起きたいのに、ごろごろ寝続ける。
本当は全然やりたくないのに、どうしてもやめられないのだ。
そしてそんなときは、やらなくてはいけないことからは目を背け続けてしまう。
課題。プレゼン準備。家事。はては身支度まで…。
そして、ギリギリになってお尻に火が付き、大慌てで片づける羽目になる。もちろん、クオリティはさんざん。それでも、出せたらよい方と自分を無理に納得させる。
やりたくないことをし続けて、やらなければいけないことから逃げ続ける。そういう悪い癖が、私にはある。
あるとき、さすがにまずいと思い、「やらなければいけないことから逃げてしまう」癖を治す方法を、Google先生に聞いてみた。
すると、とある記事が目に留まった。
そこには、「やらなければいけないことから逃げるのは、やりたいことがやれていないから」と書いてあった。
突然、ストン!と大きな音が鳴ったかのように、腑に落ちた。
そう、私は、やりたいことがやれていない、というより、何がしたいのかわからなくなったときに、延々とやりたくないことをやり、そしてやらなければいけないことから逃げてしまうのだ。
そして決まって、何がしたいのかわからなくなるときは、それまで一定の時間無意識に自分を抑圧し、やりたいことよりもやった方が良いことを優先していたときだった。
やりたいことを抑圧しているのに、それが無意識だから、気づかない。やりたいことを抑圧しているから、だんだんそれが何なのかわからなくなる。やりたいことをやれていないから、やりたくないことはやりたくなくなってくる。やらなくてはいけないことは、やれなくなる。
こういう悪循環が生まれていることが分かった。
そこで私が取ったのは、「まず10分、やりたいことをやってみる」という方法だ。
なんでもいい。「10分だけ部屋を真っ暗にして寝る」「寝る直前だけどアイスを食べる」「川に散歩に行く」…とにかくなんでもいいので、10分間で、自分の心に浮かぶやりたいことを実現していくのだ。
そうすると、だんだんと自分の心が生き返ってくるのが分かる。
そして、やりたいことをやれた心は、やらなくてはいけないことも受け付けるようになる。
クリスチャン生活をしていると、まるで自分の欲求を抑圧することイコール神様に喜ばれること、のように勘違いしてしまうことがある。
神様に喜ばれる姿には、自分の力で変わることはできない。変えていただくために、手放すのである。手放すためには、自分と向き合い、自分の心の声を聞く必要がある。抑圧したままでは、決して手放すことはできない。逆にだらだらと、やりたくないことをやってしまうのだ。
私はどうやら、この3週間の帰省で自分を随分と抑圧していたようだ。「クリスチャンとしてこうあるべき」という思いで自分を縛って、いつのまにか無気力になっていた。
わたしは弱いので、すぐに横道にそれていってしまうだろう。しかし、主は善いお方なので、わたしをいつも引き戻してくださる。そしてわたしが何をしたいのかも、教えてくださり回復させてくださるのだ。
2 notes · View notes
hosoudehanjouki · 9 months
Text
応えられた祈り
2019年12月のある朝、目覚めると、私は父が大好きになっていた。
それは、神様が私の長年の葛藤と祈りに応えてくださった結果だった。
父は子煩悩で、姉と私のことを色々なレジャーに連れて行ってくれ、引っ越しが必要なら車で飛んでいき、学費や一人暮らしの生活費などの経済的な負担も担ってくれた。
しかし、母のことは決して大事にしたとは言えなかった。
母は父の母である祖母と折り合いが悪く、祖母はいつも母に嫌味を言った。父はそれを黙殺してきた。
そのことを知ったのは私が16歳になった頃だった。
そのときから、父のことを全く愛せなくなり、許せなくなった。
18の時、離婚するように父に手紙を書いたこともある。母を解放してくれ、いつまで母を苦しめるのだ、と。父から返事が来たが、内容は的外れで、私の言いたいことは伝わらなかったのだとわかる内容だった。
それから、父だけでなく、男性全般に対する不信感が生まれるようになった。もともと男性にはいじめられがちだった私は、「男は信用ならない生き物だ」と掲げて生きる方が楽だと思ったのだろう。それ以上傷つかないための自分なりの術だったのだと思う。
しかし、この考え方は、行く先々で私を苦しめた。
男性であるというだけで不信感を持つので、女性としか一緒にいられない。女子大に通っていた間はそれでよかったが、就職先で壁にぶちあたった。
父より少し若いくらいの年齢の男性上司に、いじめられたのだ。
いじめる方が100%悪いが、男性というだけで不信感をあらわにする私の態度は挑発的に映ったのだと思う。気に入らないやつをいじめて回る上司だったと後から分かったが、相手に目を付けられるような種を蒔いた自覚もあった。
働き始めて半年、このままではやって行けないと思い、リフレッシュも兼ねて海外にとんだ。当時の月給より高い飛行機代を払い、ちょうど友人が留学していたフィンランドへ。
そこで私は、「解放の祈り」という、その後の私の人生を大きく変える祈りと出会う。
友人がホームステイしていた家の持ち主である日本人宣教師がこの祈りの勉強をしており、友人の恋人が実践したところ、見事に変えられたと聞いていたのだ。上司との関係の悪さの根底に父に対する不信感があると気づいていた私は、藁にもすがる思いで友人と、宣教師に会いに行った。
解放の祈りは、自分の傷や否定的な感情を認め、罪を認め、イエスに捧げる祈り。否定的感情の根底にある「嘘」を見抜き、聖書の真実によって塗り替えていく祈り。
父に対する感情を手放すのに、5時間かかった。
しかしそこで、私は初めて父のために祈ろうと思わされた。
それが2018年9月。そこから葛藤がありつつも、まずは自分の努力をもって、父にとげのある言葉遣いはしないようにした。家族が気づくほど、私の対応は柔和になっていた。
また、父の信仰が立て上げられるように、一家の大黒柱として保たれるように祈り続けた。
そして、冒頭に戻る。
ある朝、目覚めると、父に対する感情が180度変えられていたのである。父のことが、大好きになっていた。
こんな感情は、今まで感じたことのないものだった。自分でも信じられず、自分事ながら違和感しかなかった。
父は祈りを必要としており、主は私の祈りに応えてくださった。父のことを愛せない気持ちがありながら、それでも祈り続けた私を、主は憐れんでくださったのだ。
父が何か変わったわけではない。相変わらず子煩悩で、しかし祖母の母への嫌味を黙殺する父。
しかし、その父を赦し、彼のために、彼の信仰のために続けてさらに熱心に祈れるようになった。
私の心を変えてくださった神様に感謝。祈りは聞かれている。そのことを強く体験したできごとだった。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。 ヨハネの福音書 5:17
1 note · View note
hosoudehanjouki · 9 months
Text
きみはかわいい女の子
友人に、私と同じ名前のかわいい女の子がいる。
彼女は、小柄で高い声、ふわふわの茶色いロングヘア。ピアノが上手で、彼女のピアノを聴くとみんなふんわりした気持ちになる。「可憐」という言葉がよく似合う女の子だ。
私も彼女のピアノが大好きで、彼女のことをもっと知りたくて、よく教会で話しかけていた。
そんな彼女が、この3月に結婚した。
わたしは有給休暇を取って結婚式の準備を手伝い、彼女らしい色彩に仕上がった教会の会堂を見て、心から嬉しい気持ちになった。
純白のドレスに身を包んだ彼女は、ケーキの上のアイシング人形みたいに小さくてかわいかった。結婚式にはたくさんの友人が招かれ、教会の仲間たちと一緒になって彼らを祝福した。ワイワイガヤガヤと写真を撮り、片づけをして、無事に式を終えた。
それから数日後のある夜、突然夜中に目が覚め、全く眠れなくなってしまった。
祈りながらその時間をすごしていると、あることに気づかされた。
それは、彼女のことが羨ましくて仕方ないと感じている自分。
もっとはっきり言えば、そのうらやましさは、ほとんど妬みだった。なぜ彼女が持っているものを、私は持っていないのか。なぜ私にはあのかわいさも、音楽の才能も、素朴で忠実な信仰もないのか。彼女には結婚相手がいて、私にはいないのは、すべてそのせいではないのか…。
私が持ってているもので、彼女が持っていないものも、もちろんたくさんある。経済的にも決して裕福でなく、安定した職についているわけでもない。それでも内側から光り輝くまぶしい彼女を、心の底から妬んでいた。
自分の歪んだ思いを突き付けられたようで、私は動揺した。それは確かに私のうちにあるものだった…。
しかし、ここで救いがあるのがクリスチャンの特権だ。気づかされた罪や汚い思いは、そのままイエス様の十字架のもとにもっていけばよい。イエス様はそれらをすべて負って、死んでくださり、死に打ち勝ってくださった。
悔い改めは方向転換を意味する。悔い改めることで、罪に縛られた状態から解放され、次からはその思考にハマらないように導いていただくことができる。
祈りのなかで、彼女を妬んでいたことを認め、その罪をイエス様に捧げる。脳内のイメージのなかで、その’重荷’をおろし、イエス様に渡す。すると、身体が軽くなり、じわりとあたたかい気持ちが心に広がっていった。平安がやってきた。さらにしばらく祈るうちに、彼女を祝福する心が与えられ、安心して眠りにつくことができた。
誰も知らない深夜の葛藤と祈りによって、私は彼女を妬みの対象ではなく、友人の一人である「かわいい女の子」として見ることができるようになった。
結婚式から数か月後、彼女から一通のLINEが来た。私の神学校入学を祝福してくれ、また会おうね、という内容だった。しばらくして、実際に夫婦で教会に来て、少しの間話すことができた。
やはり彼女はかわいい女の子だった。小柄で白が良く似合う、ピアノが上手な女の子。
その事実に対して、自分と比較して落ち込むような気持ちはなかった。むしろ、「どうしてそんなに羨ましかったのだろう」と不思議に思うほど、フラットな気持ちで接することができた。私の中には、圧倒的な平安があった。自分でも、その気持ちの変化に驚いた。
誰かを羨ましく思うことは、昔の私にとって当たり前だった。でも、悔い改めて方向転換した今、それは自分に与えられたものを見過ごし、人のものを欲しがる罪だとわかる。
今はそのように感じることはめったになくなった。このように変えられたことに、心から感謝している。
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。  イザヤ書55:8-9
1 note · View note
hosoudehanjouki · 1 year
Text
『もうあかんわ日記』を読んで
爆裂に体調が悪い。
常にこめかみを圧迫されるような頭痛があり、首こりによって首締めにあっているような息苦しさがあり、睡眠が浅く寝入っても汗だくになって深夜に起きてしまう。加えて最近参戦してきたのが胃痛で、何か食べるたびに胃の中でポコポコと泡が破裂するような感覚と、みぞおちを小指で押し続けられているような痛みが続いている。
激ヤバである。病院に行ったら薬が合わなかったのか悪化した。
なんでこんなしんどいかというと、退職の日が近づいているのに人員不足で有休がなかなか使えず、モチベーションが0の状態で毎日体を引きずるようにして出勤しているからだ。(と思っている。思い当たる節はこれしかない)
身体と心が食い違った状態で居続けると、人は壊れる。私は過去に一度壊れているので、限界が近づくと身体中がアラームを発するように崩れていく。
ここまで体調が悪化してようやく「あ、まずいな」と気付き(遅い)、上司に「眠れていません、薬が効きません、お休みをいただきます」と言えた。
そうやって勝ち取った休日に読んだのが、岸田奈美著の『もうあかんわ日記』だった。
めちゃくちゃ面白かった。
そして、めちゃくちゃ泣いた。
著者の岸田さんが、母の心臓外科手術と認知症の祖母とダウン症の弟と向き合いながら、「もうあかんわ」と繰り返しながら走り抜け、note にしたためた37日を書籍化したものだそうだ。
信じられないほど、「もうあかんな、それは」が続く日々。遠目から見たらツッコミどころ満載で面白おかしい風景も、近すぎて頻繁過ぎれば楽しめなくなる。しかし、家族のなかで動けるのは自分しかいない。その極限の状況下で、あらゆる「あかん」にボケをまぶし、実際には役所、病院、デイケア、グループホームを駆けずり回り、笑えない状況にツッコミを入れて書き続けた。
ーもうあかん。…そんなことをこのところ毎日、思ってきた。毎日、小さく死んできた。でも、死のあとには生が始まる。命が永遠ではないのと同じで、もうあかん時間も永遠には続かない。(316ページ)
どうやっても笑えないときも、辛くて誰にも言えないときも、noteに書き出すことで顔の見えない読者に笑ってもらって、消化できたそうだ。
その姿に、シンプルに勇気づけられた。
5 notes · View notes
hosoudehanjouki · 1 year
Text
子どもが、かわいい
ある程度の年齢になるまで、小さな子どもがとても苦手だった。乳児はかわいい。でも歩き出して、自分の意思を持ち出して、誰が好きで誰が苦手で…ということが表出してくる年齢になると、もう苦手。
具体的に苦手になったきっかけは思い出せないが、わたしが親友と呼べるくらい親しくなる友人たちは一様に子ども好きだったことは、一因かなと思う。
つまりやきもちである。
友人たちは小さな子どもを見かけるとパアッと顔が明るくなり、知り合いの子どもなら抱き上げ、私との会話は中断される。そんなことが、小学生の頃から続いた。
妹として家族の関心を一手に受けて育った私は、年少者であったとしても自分への関心を奪う小さな子どもたちをよく思わなかった。彼らも当然それに気付き、私をやんわりと警戒する。
そのようにして長年、私と「小さな子ども」の間には見えない緊張が流れていた。
ところが。
わたしも良い大人になり、友人たちは母になった。彼らがおなかを痛めて生んでいるのだが、わたしの周りに突如として赤子が複数誕生したのである。
最初こそ、ふにゃふにゃ言ったりきゃあきゃあ泣いたりするだけでどう接したら良いか分からなかったのだが、抱かせてもらってまあ大変。
かわいすぎるのである。
この温かい生き物は、なんだ。
なぜ見知らぬ私の腕の中でそんなにすやすや眠れるのか。私に身を預けて大丈夫なのか。
もちろん、本人はそんなことは知る由もなく、ただ預けられる場で生きるために眠っている。それが、どうしようもなく愛おしかった。私の細すぎる細腕を頼りにしてくれて、ありがとう、と思った。
そこから、すっかりベビーラバーになりました、というわけではなく、今もたまに抱かせてもらう程度の関係性でしかないが、とにかく私の中で小さな子供に対する緊張感はほとんど消え去ってしまった。
今は、レゴを見つけてはしゃぐ子どもと一緒に遊ぶし、牛乳パックが開けられない子どもには開けてやるし、手が離せない友人のために赤子を抱く。ワイワイ泣かれても、抱いてあやして揺らす。それが、苦にならない。
ー子どもたちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。 マルコの福音書 10:14
子どもの頃から、この聖句の意味がいまいちピンと来なかった。私にとって、子どもはよく分からない存在だったからだ。
でも今はわかる。子どもはかわいい。そして純粋で、力がある。神の国は、このような者たちのものなのだ、と言われたら、良いところなんだろうな、と思う。そう思えるようになって、良かったなと思った。
1 note · View note
hosoudehanjouki · 1 year
Text
あなたを気にしている人がいる、ということ
少し前になるけれど、心がほんのりと温まることがあったので書いておく。
私はその日、特にやることもなく、かと言って気の合わないシェアメイトのいる家にも帰りたくなくて、時間を持て余していた。
例によって友人宅の夕飯にお邪魔することになったのだが、多忙を極める友人は、それまでの間にしなくてはいけない作業があった。暇な私は自然な流れで作業を手伝うことになった。
作業、それはクリスマスの準備だった。友人が一人でやるのではなく、集まった有志数名で工作をする。これがなかなか大変で、あーだこーだと言いながら糊や紙と格闘し、作業がひと段落した頃にはすっかり陽が落ちていた。
友人と私は、買い物を済ませて友人宅に帰る予定でいたが、そこで一緒に工作をしていたうちの一人から、車に乗せて行ってくれるというなんとも素敵な申し出があった。友人は0歳児を抱えているので、ぜひよろしくということで車に乗り込んだ。
ところで、私は作業中、ある人がはなうたで歌っていた賛美が頭に残り、途中から私も無意識に口ずさんでいた。それがなんの曲なのか、賛美歌であること以外には分からなかったが、無意識ながら「良い曲だな」と思っていたのだと思う。
そのはなうたの歌い主が、車の持ち主でもあったのだが、私たちが乗り込んだタイミングで、彼はおもむろにカーステレオのプレイリストをさわり、私の口ずさんでいた賛美に曲を合わせたのだ。
「うおっ」と思わず声が出そうになった。
これが、偶然なのか、無意識なのか、なんなのかはわからない。わかるのは、私のはなうたに気づいている人がいたことであり、それが車の持ち主だったということだ。
直感的に、「神様みたいだな」と思った。
神様は、祈りの直後に思わぬ方法で答えをくれることがある。「私があなたの祈りを聴いていないとでも思ったかい」と言っているかのように。
それはまるで、「私はあなたを気にしているよ」「あなたに気づいているよ」という、囁き声のような、でも確実なサインなのだ。
あの時、あの車内で、彼がカーステレオからあの曲を選んだとき、「ああ、ここに、私を気にしてくれている人がいる」と確かに感じた。
人のたくさん住んでいるシェアハウスで居場所を見つけられず、いい歳をして心細い思いをしている情けない自分を、気にしてくれている人がいる。
それは、他のどの感情にも言い換え難い、温かい気持ちだった。
もちろん、偶然である可能性もあるし、相手にとっては本当にたいしたことではないと思う。相手も無意識でその行動を取っている可能性も高い。
それでも。
彼になんの意識がなかったとしても、その背後には神様がいて、彼のその行動を通して私を十分に慰めてくださった。
神様が今の場所に私を連れ出してくださって、本当に良かった、と思った出来事だった。
0 notes
hosoudehanjouki · 1 year
Text
何が苦手なのか
朝から教会に出かけていて、17時過ぎに帰宅。なぜか言いようのない疲れに襲われて、すぐにお風呂に入るものの疲れが抜けず、食欲もない。食べないわけにはいかないので、廃人のようになりながら晩ごはんを作り食べた。
今朝は教会の大掃除だったので、張り切り過ぎて疲れたのかしら?と振り返るものの、作業としては簡単なものしかしておらず、体力的には問題なかったはず。
じゃあ大勢で作業するから、本当はやりたくないのに無理して頑張っちゃったのかな?と思ったが、作業自体に不満はなく、みんなであーだこーだ言いながら手を動かすのも嫌いじゃない。
それに、教会の方々は皆さんほのぼのとしていて居心地が良い。みんなで休憩をしているときは何はなくともニコニコしてしまうくらい、私は彼らのことが好きだ。
じゃあなんだろう?と悶々とすること数時間。食事が吸収されてようやく頭が回るようになった頃、一つのことが思い当たった。
そもそも、昨晩祈りの中で大きな葛藤を感じ、ほとんど泣き疲れて眠ってしまった。そのせいか朝も予定よりかなり早く目が覚めてしまい、「もう少し寝ていたかった…」という気持ちを引きずって出発した。
また、悩みを抱えていることがつらくなり、行動できることから始めてしまおうと焦るあまり、礼拝の前後は目の前に来てくれる人たちに集中できず、フラフラと視線を彷徨わせることになった。自分で解決しようとする悪い癖が出たのだ。
もちろん集中できないので疲れやすくなるし、その後も気まぐれについて行った友人とのランチでさらに友人の友人(私にとっては知らない人)たちに次々に挨拶され、愛想よくしなきゃとよく分からない話に一生懸命相槌を打つうちにかなりHPが減ってしまっていたようだ。
加えて、肌の状態が悪く、恥ずかしくてマスクが外せないのでどことなく抑圧された気分にもなっていた。
その状態で、人の指示を受けて作業をする、あるいは人のペースに合わせて作業するというのが重なったことで、気づかないうちにヘトヘトになってしまったらしい。
私は、友人といるときに、自分の知らない友人の友人がわあわあと話しかけて来られるのが苦手だ。とても、苦手である。
そして、人のペースに合わせて何か作業をするのも苦手だ。作業はそれぞれのペースでしながら、ダラダラおしゃべりするのは好きだ。私は私のペースで作業を進められるし、黙々とやるよりは意味のないおしゃべりをしている方が意外と捗ったりする。しかし、みんなで一つの作業をしながらダラダラおしゃべりをしてしまうと、作業は一向に終わらないことになる。それは私のモットーに反するので大変なストレスになるのだ。
今日の作業を終えてクタクタになった自分を感じたとき、「私は本当は教会の人たちが苦手で、ハウスに居場所がないから無理に残っていたのかな。だから気疲れしたのかしら」などと悶々としてしまっていたが、なんてことはない、色々なバッドラックと苦手なことが重なっただけだとわかった。
自分の苦手が分かっていれば、意識的に避けることや自分を守る方を選択することもできるし、苦手によって疲れたときも「仕方ないね、お疲れ自分!よく頑張ったね😊」と思えば乗り越えられる。
何より今回は、疲れた要因が理解できたことで、自分の「好き」の理解も深められたことが嬉しかった。
やっぱり私はあの教会の雰囲気が好きだし、あの場には「ああこの人大好きだなあ」と思える人がたくさんいる。
私は幸せ者である。
神様がくれたあの場所で養われながら、これからも主と共にいたい。
0 notes
hosoudehanjouki · 1 year
Text
私にあるものをあげよう
ーすると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」使徒の働き 3:6
*
祖母はバイタリティのかたまりだ。
80を超えてなお、自力で運転して畑に行き、野菜や果物を育てる。お菓子を焼いて、家を訪問する友人たちに振る舞う。ヴァイオリンを弾き、老人ホームに慰労の演奏をしに行く。株を売買し、その儲けで買い物をする。
いったいどこにそんな体力があるのか、その探究心はどこからくるのかというほど、次々に新しいことに挑戦する。
そして彼女の1番の特徴は、作った野菜や果物、焼いたお菓子やクッキーは人にあげてしまい、演奏は人前で行うという、「人のため」あるいは「人に見せるため」という出口が共通してあることだ。株で儲けたお金は、そうした行動の軍資金となる。
祖母の話を聞いていると、心から感心してしまう。そして話を聞きに行くたびに、キッチンや冷蔵庫からありとあらゆるお菓子や果物、料理が出てきて私に持たせる袋へと消えていく。
これも持っていきなさい、あれも持っていきなさい…
*
そんな祖母のことが昔は大の苦手だった。
私は彼女のようにはできないし、したいとも思わない。しかし彼女は自分のしていることが「良いことだ」という信念があり、それを真似しようとしない私が理解できないようだった。いつも「あなたも(私と同じように)○○しなさい」といわれるのが苦痛で仕方なかった。
たしかに、お腹の空いているゲストにお菓子を振る舞うこと、友人に料理を分けてあげること、必要としている人に野菜や果物を贈ることは素晴らしい。何の躊躇なくそうした行動に出られる彼女を心から尊敬する。
しかし…。
実を言うと、私は彼女のお菓子も、料理も、果物も野菜も欲しくなかった。
私は、彼女が私を私のまま認めてくれることだけを求めていた。
お菓子は美味しい。野菜や果物も美味しい。祖母のしていることは素晴らしい。それで救われる人も沢山いるだろう。
でも、彼女が私を私のまま認めてくれることは、決してなかった。
*
地元を離れて10年以上が過ぎ、私も祖母との距離感を上手に測れるようになった。
祖母が自分にしてくれないことばかりに注目するのではなく、してくれることを享受し、感謝することもできるようになった。
そのうえで、祖母が躊躇なく人に物を与えているとき、私は人になにができるのだろう?と考えるようになった。
そんな折に思い出されたのが前述のみことばだ。
キリストの福音を伝えるために旅をしていた12弟子の一人のペテロは、物乞いに出会って彼に目を注ぎ、こう言った。
「金銀はわたしにはない。しかし、私にあるものをあげよう。」
物乞いは、これまでもお金やその場凌ぎの食べ物などは人からもらっていただろう。でもそうしたものは、使ったり食べてしまえばなくなってしまう。
ペテロは、続けて「ナザレのイエス・キリストの御名によって立ち上がり、歩きなさい」と彼に言った。足を悪くして物乞いをしている男に、だ。
彼にはもちろん、お金やその日を凌ぐ食べ物も必要だったろう。でも本当に必要だったのは自分で働くことができる身体であり、また折れない精神だった。
ペテロはそれを見抜き、主の御名によって彼の必要を満たしたのだ。
*
金銀の管理があまり得意でない自覚があり、お菓子作りや野菜作りも関心がない。人に自分の作ったものを振る舞うのも、頻繁にはやりたいと思えない。
でもそんな私にも、福音を伝えることはできる。
そしてそれは、全ての人が「本当は」必要としていることだという確信がある。
お菓子や果物、心安らぐ音楽を奏でることも、金銀を与えることも私にはできない。でも、私にあるものを与えることはできる。
それが、福音を伝えて祈ることだとしたら。
それが自分でわかっているのであれば…。
自分自身の進む道は、もうはっきりと見えているのかもしれない。
0 notes
hosoudehanjouki · 2 years
Text
部署異動してから、一年半が経った。今になってようやく、何によって異動せざるを得なくなったのか、何がそんなに自分を苦しめたのかが見えて来たように思う。
以前の部署では、学生と直接接する仕事をしていたので、学生に顔も名前も覚えられていた。
新入社員で入った私は、まず「こうありたい」という自分の理想を掲げて、そこに少しでも近づこうとした。あるいは、そこから外れている自分を叱咤激励して軌道修正することに励んだ。
例えば、学生にはにこやかに接すること。
相談を受けたら、「相談してよかった」と思ってもらえるように誠実に対応すること。
「この学校に来てよかった」と思ってもらえるように、忠実な職員であること。
目まぐるしく変わるスケジュール、終わらない会議、理不尽な上司、少ない若手に押しつけられる仕事…それら全てを抱えながらこれらの目標を自分に課した私は、次第に疲弊していった。当たり前である。
何もかも欲張りすぎたのだ。
まずは仕事、そして職場環境に慣れて、そこからどうなりたいかを目指せば良かった。
しかし新卒としては3年遅れでフレッシュさのないことに焦っていた私は、そうしなかった。大学院に入ったもののほとんど何も得られず、そのくせ人の1.5倍かけて修了したことに異様な引け目を感じていた当時のわたしは、最早焦りが服を着て歩いているようなものだった。
*
学校の方針に同意できないながらも学生ににこやかに接するのは至難の業だった。すぐに顔面神経痛になり、笑顔が固まるようになった。
相談を親身に聞いてやり、晴れやかな表情で出て行った学生。その後には疲れ切った私が残されていた。
頼まれる仕事はなんでも引き受け、弱小学校でも楽しい学生生活を送ってくれれば、と、一人で躍起になっていた。
今思えば、私がそんなに背負わなくても、学生は事務的な用事を済ませれば私を離れたし、相談は相談室でしただろうし、学生生活は自分で楽しんだだろう。
でも当時はそれがわからなかった。渦中にいるときは分からないものだ。
結局わたしは身体を壊し、眩暈で仕事ができなくなって異動願いを出した。体調は約1年かけて回復し、今に至っている。
異動できて感謝だし、もう前部署には戻れない。しかし、今の部署でできることはなんだろう、自分は今後どうしていきたいのかと、ふと考える。
*
ソン・ウォンピョン著の『三十の反撃』を読んだ。奇しくも私と同い年の主人公ジヘは、韓国屈指の大企業の子会社でインターンをしながら、まさにうだつの上がらない日々を過ごしている。そこに同じくインターンとしてギュオクという男性が入って来たところから、少しずつ日常が変わり始める、というストーリーだ。
ギュオクはジヘにいつもハッパをかける。無責任なようで、しかしジヘ自身が「あんたはもっとできるよ、ここから抜け出せるよ」と言ってくれる人を無意識に探していたかのように、その声に呼応して行動を起こし始める。
物語は思わぬうねりを見せながら、最後にはジヘ自身が「まあ、そんなこともあったよね」と軽くいなして前進していく姿を描いて幕を閉じる。
主人公の姿が自分と重なったわけではなかったが、よくいる友達の姿を見ているような、そんな親近感が湧く本だった。
と同時に、何も変わらないと思えるようなことでも、やってみることに価値があると思わせてもらった。それが何かに繋がらなくても、出口の方からやってくることもあるんだよ、と。
自分で自分を苦しめて自滅したあの頃から、1年半。わたしはこれから、どう生きるのだろうか。ジヘのように、「まあ、そんなこともあったよね」と笑える数年後の未来を作りたいと、そう思った本だった。
0 notes
hosoudehanjouki · 2 years
Text
恵みの計画
昨日は友人の誕生日だった。
何とはなしに本人にそのことを伝えると、本人はそのことを忘れていたようで、夫婦でケーキでも食べに行けば?と促すと、じゃああなたもおいでよと誘われた。
あれやこれやとレストランを物色して、最終的にはイタリアンのファミリーレストランに落ち着いた。
そこからゆるゆると昼食を取り、友人は彼女の夫のおごりでデザートセットまで平らげた。
話は尽きず、なんとなく離れがたくて食後の買い物にもついて行ったところ、友人の夫から「晩御飯も食べて行けば?」とのお誘い。
新しく移ってきたシェアハウスの居心地が悪くて、特に混み合う土日は帰りたくない気持ちが強く、二つ返事で夕食まで参加させてもらうことに。
そこからは、まるで実家のような居心地のよい時間だった。
夫婦には5か月の赤ちゃんがおり、夫婦が夕食の仕込みをしている間に私が赤ちゃんをあやして寝かしつける。
ところがどうも彼女も居心地が良かったのかなかなか寝入らず、結局1時間抱っこして私が歌を歌っただけの時間となった。
間接照明だけが灯りの夫婦の寝室で、まったく関係のない私がその夫婦の赤ちゃんをあやしている。なかなかにシュールな光景だったが、確かにその時間、私の心に得難いぬくもりを感じた。
そのあとはお待ちかねの夕食。メニューは鳥ちゃんこ鍋。鶏もも肉からだしを取った本格的な味で、3人でぺろりと食べてしまう。
食事のあいだも次から次へと話題が変わり、やはり話は尽きない。
それは、私たちが3人とも互いのことを全くジャッジしていなかったからだろう。「こう言ったら怒るかな」とか、「こう言ったら空気が悪くなるかな」という心配をする必要がないので、最低限のマナーは守りつつ心に浮かんだことを好きなように話せる空間だった。
なにより、友人もその夫も、友達とはいえ赤の他人の私に、彼らの大事な大事な一人娘を腕に抱かせてまかせてしまうという、言葉には出さないまでも「あなたを信頼していますよ」という行為が、とてもありがたかった。
5月に失恋してから、自分のなかで結婚観が180度変わってしまい、もしかしたら結婚しないかもしれないし、それでも大丈夫だという気持ちが心の底から湧いてくるようになった。
しかし同時に、友人の赤ちゃんを私の胸にもたせて寝息を感じるとき、たしかに自分の子どもがいたらそれは素敵な世界線だなあとも思うようになった。
このどちらも、29歳までの私にはなかったものだ。
―まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。詩編 23:6
神様が私にどのような計画を用意しておられるか、今はわからない。
しかし、7年前大阪に来たての頃の自分では想像できなかった数々の経験のように、これから先も慈しみと恵みとが私の人生にもあふれ続けるだろう。今はたしかに、そう思える。
0 notes
hosoudehanjouki · 2 years
Text
かわす方法を身につける
ダニエル・タメット著『ぼくには数字が風景に見える』を読み終わった。
読み終わったの自体はかなり前だけど、この本から得られたものを忘れないように書いておきたい。
*
少し前の投稿でも書いたように、彼は自閉症かつアスペルガー症候群を持っている。それに加えて、サヴァン症候群(ごく特定の分野に突出した能力を発揮する症状)も持ち合わせており、彼の場合は数字と語学に対して発揮された。
彼には数字が色や形、イメージを伴って見える性質があるという。
この本の原題は’Born On a Blue Day’、直訳すると『青い日に生まれて』だけど、それは彼のなかで水曜日がー数字の9と同じようにー青色をしているからだそうだ。
また言語習得にも並はずれていて、彼の才能を見出したテレビ局の企画で、わずか数日で一言語を習得し、その言語でインタビューに答えることまでしてみせる。
とにかく数字と言語に関しては天才的。しかしながら日常生活やコミュニケーションにおいては、多くの自閉症の人がそうであるように、たくさんの壁にぶつかってきたという。本の前半、幼少期〜少年期の頃の記述はその繊細さや融通の効かなさのために苦悩したタメットの姿が描かれている。
しかし彼はただその「うまくいかなさ」をもてあまして生きていたのではなく、「どう付き合っていくか」という観点を持ち続け、実際にどう対処するかを自分自身で試し始める。大学に行かずにリトアニアにボランティアとして単身旅立ったところから、彼は自分とのうまい付き合い方をどんどんと見つけていく。
たとえば、ボランティアの養成センターでの時間の過ごし方では、ほかの養成者とは交わらずに本を読んだり勉強したりして過ごす。食事も一人で取り、人目のつかない芝生で自分の感覚に耳をすませる。ほかの養成者のようにわいわいと過ごすこともできたかもしれないが、彼にとってその方が「好き」だったからそうしたし、実際にきっちりと研修を終えてリトアニアに旅立っていった。
リトアニアでの仕事は順調で、たくさんの友人にも恵まれたそうだ。たまに予期せぬ出来事が起こりパニックになると、彼はその場を離れて数を数えることで平静に戻ろうとした。自分がどうすれば落ち着いた状態になれるか知っているのは、意外と当たり前ではないと思う。
彼はリトアニアでの経験を終えて、このように書いている。
ー海外での経験でぼくが変わったのは確かだった。まず、自分のことがよくわかった。ぼくの「人と違っているところ」が日々の生活に、特に人との関係にどんな影響を及ぼしているか、以前よりはっきりと理解できるようになった。ー(p.164)
帰国後、ネットを通じて恋人にも恵まれたタメットは、語学学習のwebサイトを立ち上げて仕事にしたり、気の遠くなるほどの円周率を覚えてギネス記録を打ち立てたり、そうこうするうちに彼自身を特集した番組が組まれ、前述の言語習得に挑戦するなど、確実に成功体験を積み上げていく。それが、この本を出版することにつながったのだと締めくくられている。
彼は決して経済的に恵まれていたわけでも、環境的に守られていたわけでもなかった。9人兄弟の長男としていつも貧困のなかにあったし、幼い頃は常にいじめの対象にあり、友達もかなりの年齢になるまでいなかったという。それでも彼はその状況に腐ることなく、自分の違いを認め、それとどう付き合って社会のなかでうまくやっていくのか、その答えを見つけることを決して諦めなかった。
そのシンプルなひたむきさに、とても心打たれた。
*
��たしも繊細で傷つきやすく、疲れやすいという性質を持っている。
そのためかそのくせか、人に嫌われたくなくて人の顔色を伺って、こうしたい、よりも、こうした方がいいだろうという方を常に選んできたように思う。その選択が自分をさらに疲れさせるということには、ここ数年でようやく気づくことができた。
さらにこの数ヶ月でようやく、一緒にいたくない人からは離れ、一人でいたい時は一人で過ごし、一緒にいたい人のそばにいる、という選択が自然にできるようになってきた。正確には、そうでない選択(今この場を離れたら空気を壊すかもしれないからまだ居ておこう、など)をフラフラとしてしまいそうになった時に、「おっといけない」と気づいて軌道修正できるようになったということだ。
また、そうすることで、無言の圧力をかけてくる人にも聡くなり、そういう人を見分けて「かわす」こともかなりできるようになった。この点において、自分はものすごく成長したように思う。
*
わたしが30年かかってようやくできるようになったことを、タメットは19年で気づいて実行した。そしてそれを淡々と文章に書き起こすことで、改めてわたしを勇気づけてくれた。
この本に出会えて感謝。彼の今後の動向も気になるところだ。
0 notes
hosoudehanjouki · 2 years
Text
愛を感じる
好きになってくれなかった人と久々に会った。
数ヶ月ぶりに会った彼は、変わらなかった。相変わらずの服のセンスと、笑顔と、ノリだった。一つ変わったことは、「なんでこの人のこと好きだったんだろう」と私が思うようになっていたことだった。
そう思えて安心したし、ようやく手放せると思った。
もう一つ、変わった点があった。
大勢での食事会だったので、私と彼の関係性を知っている友人も混じっていたのだが、彼らは徹底的に私を守ってくれた。
なんというか、そう感じたのだ。
例えば以前なら積極的に彼にも話しかけて、むしろ彼との談笑に夢中になっていた友人が、今回は少し距離を置いていたり。
例えば席順で私と彼が接近しすぎないように調整してくれたり。
私が手持ち無沙汰にならないよう、作業を色々と任せてくれたのも助かった。
おかげで私は彼と二人きりにさせられることなく、かつ食事を円滑に回すこともできた。
食後、みんなが店を後にした後、なかなか帰ろうとしない私を見兼ねて、一緒にお茶を飲んでくれた。
誰も何も言わないけど、愛を感じた。
*
私が彼との関係でどんなに苦しんだか、その友人たちは知っている。何度となく電話で話を聞いてもらい、祈ってもらい、最後は連絡手段を断つ手助けもしてもらった。
私は一人で彼との関係を終わらせることができなくて、自分のなかでも整理がつけられなくて、泣いてばかりいた。友人たちはそんな私とずっと一緒にいてくれた。
その夜も、同じようにそばにいてくれたのだ。
*
恋がうまくいかなかったのは、仕方ない。何が原因か探っても意味はないし、巡り合わせがなかったとしか言いようがない。
失恋は嬉しいものではないし、できれば避けたかったけど、過ぎたことだ。
でも今回その経験によって、辛いときに寄り添ってくれる友人の行動を感じることができた。
それは、ほれたはれたのレベルをはるかに超えた、そして静かで信頼に満ちた、愛だった。
このような友人をもてたことを誇りに思うし、神様に感謝する。
友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。
箴言17:17
0 notes
hosoudehanjouki · 2 years
Text
はやはや病
ダニエル・タメットの『僕には数字が風景に見える』を読み始めた。
サヴァン症候群とアスペルガー障害を持ち合わせている筆者は、数字が色や形と共に想起される共感覚の持ち主で、26歳のイギリス人青年(当時)だ。
まだ序盤の数十ページしか読んでいないが、幼い頃の自分の様子がつぶさに描かれており、かつ「非常に育てにくい子だったと思う」と冷静に分析しているところが面白い。
たしかに、保育園に行く道順がいつもと違っただけで大泣きして癇癪を起したり、保育園では自分の世界にこもりきりで誰とも友達になろうとしなかったり、アスペルガーや自閉症が知られていなかった当時の社会では(いや、知られていたとしても)、かなり変わった子どもとして見られていたのだろうと想像できる。
地下鉄で夢中になって読んでいるうちに、私自身の幼い頃の記憶がふと呼び覚まされた。
子どもの頃―小学中学年頃まで、私はとある症状に悩まされていた。
いつ始まったのかはわからないが、保育園の頃にはもう症状が出始めていたように思う。
例えば祖母の家で遊んでいるとき、それは突然やってくる。穏やかな空気が一瞬にしてざわめきに変わり、物音や祖母の話し声、ありとあらゆる「音」が倍速ほどの速さになり私に迫ってくるのだ。またすべての物事の動きも同様にシャカシャカと速くなり、世界は私を一人置いて高速回転をしだす。 ブレーキの壊れた車のように、次第に速さは増していく。もはやすべてが早送りの世界で、幼い私になす術はない。最初こそパニックで、悲鳴を上げて布団にもぐりこんだこともあるし、動揺する私を見て家族がもっと動揺し、そこで発生する音の重なりに金切り声を上げて逃げるように家中を走り回ったこともある。
慣れてくると、少しでもその症状が出たら視界と聴覚を遮断して息を殺して待っていれば、次第に世界のドリフトが収まり、また日常が戻ってくることが分かった。
普段はおとなしく部屋遊びが好きな私が、なんの予兆もなく悲鳴を上げたり布団に突っ伏したりする様子を、親は心配した。私はその症状を「はやはや病」と名付けて、親にある程度理解してもらい、「はやはや病が来た」と言えば、それはその症状が起こっているから静かにしてほしいという意味だった。
はやはや病は家や祖母の家で一人遊びやリラックスをしているときにおこることが多く、周りに知らない人がいたり、まして学校でその症状がやってくることはめったになかった。
はやはや病との付き合いも数年になった小学校中学年の頃には、ほとんどその症状はなくなってきていて、5年生になった頃にはそんな症状のこともすっかり忘れていた。
しかし一度、小学校の教室にいるときにはやはや病がやってきたことがあり、その記憶を鮮明に覚えいている。
それが小学5年生のとき、教室で国語のテストを受けていたときだった。カンニング防止のためそれぞれが壁など違う方向を向いてテストを受け、書き終わったら机の上でなら何をしてもよいという時間だったように思う。おそらく、少し教室内はざわついていたのではないか。
はやはや病は唐突にやってきた。
「あ、まずい」と私は思った。教室で悲鳴を上げるわけにもいかないし、ましてテスト中である。周りにはまだ問題を解いている子たちもまばらにおり、迷惑をかけられない、また目立ちたくもないと思った私は、とにかく一点を見つめて世界が高速化していく様に耐えた。
体感では1分ほどその姿勢でいただろうか。次第に高速回転が収まってきて、次第に世界の速さは元通りになった。
私はほっとして、そのまま国語のテストの残りを解く作業に戻っていった。
家に帰って、母親に「今日教室ではやはや病になって、焦ったよ」と話したことを覚えている。母親は洗濯物を畳みながら「あら大変だったね」と慣れた様子で答えた。
それ以来、はやはや病がやってくることはなかった。
あの症状が何だったのかはわからない。
ネットで調べてみると、質問サイトでいくつか同様の症状を訴える内容が見つかった。どれも子どもの頃で今はないという点も自身に同じく、「ストレスかなあ」と言ったあいまいな答えしか見つけられなかった。少なくとも、同じような症状に悩まされた子どもがこの世の中にはいたということだ。
当時は症状がやってくるたび格闘していたし、次第にどう対処したらよいかも自分では分かってきていたが、周囲の大人からしたらとても奇異に映っただろう。状況はなにも変わっていないのに、突然怯えたように身体を固くしたり、顔をしかめて耳を塞いだりと様子がおかしくなるのだから、心配したに違いない。
何より私自身が、なぜそのような症状に悩まされなければならないのか、思い悩んだ部分が大きかったのだ。
『僕には数字が風景に見える』を読むと、当時の「変わった子ども」だった自分を落ち着いて描写する文章に共感を覚える。 はやはや病にひとり悩まされていた当時の私の隣に座って、「しんどいよなあ、なんでこんな症状出るんやろうなあ」と声をかけたくなるのだ。
この先も淡々と描かれていくタメットの世界に、ちょっぴり繊細でややこしかった幼い自分を重ねながら読んでいくことになるだろう。
良い本に出会えたようで、なんだかうれしい。
1 note · View note
hosoudehanjouki · 2 years
Text
自分の人生を捧げる
2019年の12月31日、私はアメリカはロサンゼルスにいた。
その日、集会が開かれたホールで、私は自分の不甲斐なさに打ちのめされていた。どうしても、どうしても一歩が踏み出せなかったのだ。
2019年当時の私は、目まぐるしいほどの仕事の忙しさや恋愛の挫折によって、自分が今どこで何をしているのかもわからないほど混乱していた。
仕事は2年目にもかかわらず、大学院卒であることを買われて一人で行事の運営をまかされ、4つ下の新人後輩の世話をしながら先輩のペースも食らいつていかねばならず、とにかくがむしゃらに働いていた。
プライベートでは、ある人と交際関係になり、順風満帆に見えたが半年で破綻。自分の心が相手から離れていくのをどうしたらいいかわからず、周りの人間関係からも逃げるように顔を出さなくなっていた。
平日は仕事でへとへとになり、週末は人間関係で葛藤する毎日。このままでは自分が自分でなくなってしまう、早くどうにかしないとという焦りだけがあり、でもどうしたらよいのか途方に暮れていた。
そんなとき、教会の知り合いの方に「アメリカに行ったら?いいキャンプがあるよ」と言われて紹介してもらったのが、EC(Equipper's Conference)だった。
それは、JCFNというクリスチャン団体が開催している、アメリカで信仰告白をしてクリスチャンになった日本人が、帰国後も信仰生活を続けられるように備える(=Equipする)目的で始まったキャンプだ。アメリカのロサンゼルスで開催されるにも関わらず、参加者の8割が日本人という不思議なイベントである。
主目的は前述の通りだが、信仰に渇きを覚えている人、ノンクリスチャン、日本に伝道の思いがあるアメリカ人など、基本的には誰でもウェルカムなキャンプだということで、「絶対いい時間になるから、行ってみたらいいよ」という言葉に促されるまま、単身ロスに乗り込んだのであった。
キャンプのテーマは「信頼」。神様に信頼することについて、2名のメッセンジャーが代わる代わる説教をしてくださった。
なかでも衝撃だったのは、サンディエゴ日本人教会で仕える大倉信先生の、ご自身の半生を証した説教だ。波乱万丈な牧師生活のなかで、常に自分の思いは砕かれ、人生は悲しみと苦しみであふれていた。しかし同時に祝福と恵み、気づきと癒しにもあふれていて、自分は自分の力で生きているのではなく、神様によって生かされているということを痛感しているという内容だった。
日本国憲法には「国民主権」という権利がある。日本国の主権、日本国をどうしていくか決める権利は政府や宮内庁ではなく、国民にあるという意味だ。 大倉先生によればクリスチャンは「神主権」、つまりクリスチャンである私の主権は私ではなく神にあるというのだ。
神によって作られた私たちをどうするのも神の勝手、と言ってしまえば冷たく聞こえるが、私たちを救うために十字架にかかってくださったイエス・キリストが、まず「あなたの御心のとおりになりますように」と祈ったのだ。クリスチャンはイエスキリストに倣うものなので、「自分の人生が自分の思い通りになりますように」ではなく、「神様の御心のとおりになりますように」と祈ろうと促された。
一連のメッセージのあと、招きの時間になった。 具体的には、献身(伝道や宣教、教会で働くなど、聖書の福音を伝える活動をしていくこと)の思いが与えられたひとが会衆の前にでて、個人的に祝福の祈りをしてもらう時間のことだ。もちろん、職業として牧師や伝道師にならずとも、福音を人に伝えるために、自分の人生を神様に捧げたいと思うなら、だれでも前に出て祈ってもらえる。
大倉先生が「今思いがあるひとは、前に出てきてください」とマイクを通して語ったとき、私は、「前に出て祈ってもらいたい」という思いが胸の奥に灯るのを感じた。
ぽつりぽつりと、会衆をかきわけて前に出ていく人が現れる。
どうしよう、と思った。
行きたいけど…行きたいけど、怖い。
どうしても足が動かなかった。私の足は、会場のじゅうたんにくぎ付けになったようになり、胸がざわざわとするのを感じた。
と、私の隣で祈っていたSが、私とその先に座っている人たちをかきわけて、前に出ていこうとするのを感じた。
Sはこのキャンプで知り合った同年代の女性で、とても気が合い、短い期間のあいだにぐっと心の距離を縮めた友人だった。
そのSが、「ちょっとごめんね」と言って会衆から抜け出し、前に出て行った。いつのまにか集会場の前の方には祈ってもらいに出て行ったひとの人だかりができていて、それぞれが思い思いのスタイルで祈りを捧げていた。
「行きたい。」私はもう一度強くそう思った。
しかし、心は恐怖心と人に見られることへの恥ずかしさに支配され、足は頑として動かなかった。
結局その集会で自分の献身の思いを表明することはなかった。周りの目を気にして、また決断してしまうことへの恐れに囚われて一歩を踏み出せなかったことを、集会が終わっても引きずっていた。
その日の夜、ついにキャンプの最後の集会がやってきた。この集会は夜の9時頃に始まり、メッセージの後賛美があり、そのままカウントダウンへともつれこむ。賛美と言ってもカトリックの大聖堂で聴こえてきそうな厳かなものではなく、ポップスに近いワーシップソングである。賛美とは言えみんなで熱唱しながら年越しを迎えるという発想はアメリカらしいというか、なんともパリピっぽいイベントだ。
会場のボルテージが少しずつ上がっていくなか、私はいまだに招きの時間のことを引きずっていた。
そんななかで、集会の司会者がグループに分かれてキャンプの感想の分かち合いと祈りの時間を取るように促し、私たちはあらかじめ決められたグループに分かれた。
各々がキャンプでの収穫を話していくうちに、私は自分の献身の表明をここでするように促されているのを感じた。200名を超える集会で前に出ることはできなくても、4泊5日を共にした5名のメンバーになら話せる。そう思った。
「私は自分に自信がない。今回のキャンプでも、メンバーと自分を比べてばかりいて、最初はうまくやっていけるか不安だった。 でもこのキャンプに参加して、自分の人生は自分のものではなく、神様のものだということが分かった。だから、神様にお返しします、と表明したかった。でも、ここでも人の目が気になって、会衆の前で表明することはできなかった。Sが前に出て行ってしまったとき、ついていけたらどんなに良かったか、悔しくて自分が情けなくて恥ずかしいと思った…。 でもみんなになら言える。私は神様に自分の人生をお捧げしたい。神様の主権のもと自分の人生を歩みたい。だからそのために祈ってほしい…。」
もう最初から涙が出て止まらず、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、それでも精一杯話すことができた。5名のメンバーも、涙をながしながら聴いてくれ、心を注ぎだして祈ってくれた。
感じたことのない一体感が私を含めた6人のなかに現れて、そのあとのカウントダウンは人生で一番解放された時間になったと思う。本当に感謝だった。
あれから2年半が経つ。
正直に言うと、ここ半年はすっかりそのことなど忘れてしまっていた。献身の思いに燃えて色々なことをやってみて、上手くいったこともいかなかったこともあり、燃え尽きていた私は、恋愛に熱中することでその疲れを忘れようとしていたのだ。
結局それもうまくいかず、またもや自分が一体何をしているのか分からない状態に戻ってきてしまった。
そして今日、とあるクリスチャンの書いた本を読み終えたときに、この出来事をふと思い出したのだ。
ああ、私はあの時、人の目が気になって、どうしても一歩踏み出せなかった。でも6人で祈ったとき、確かに私の人生は神様に捧げますと宣言したんだったよな…と。
神様は確かにその宣言を祝福してくださった。 いま、改めてそこに戻ってくるように示された気がする。
この先どうなるかはわからないけど、また七転��倒しながら歩んでいくのだろう。まずは、原点ともいうべき経験に戻ってこれたことに感謝。
0 notes
hosoudehanjouki · 2 years
Text
抱えるのではなく抱えられて生きていく
少し前、「結婚したい女の子でありたかった」という文を書いた。
要約すると、私は周りの価値観に合わせて育っていくなかで「20代後半までに結婚するのが普通」という考えを内面化した結果、自分自身はそう感じていないのにこの固定観念に縛られていた、という話だ。
祖母からは今も、実家に帰るたびに「素敵な人を連れてこい」と催促される。私は「連れてくるまで待ってね」と返す。実際、素敵な人が現れたら、いつでも連れて帰りたいんだ、私だって、と思っていた。
でも実際に自分の気持ちに正直に向き合ってみると。 素敵な人に出会いたい気持ちはあっても、そのひとを実家に連れて行って親に紹介したいとか、結婚して子どもは二人もうけたいとか、そんな風に思ったことは、一度だってなかった。 そう思い込んで自分のお尻を叩いて行動すれば、結婚出来て周りに合わせることができるだろうと思っていたのだ。
これが、約4年間婚活らしき行動をして得た私の結論である。
私は、私のことを大大大好きになってくれる人には出会いたい。そういう人に出会って、その人と素敵な時間を共有したい。それはその通りだ。
でもその人と家族になって子どもをもうけたいとか、どんな家庭を築きたいとかいう希望は、まったくもってない。もしかしたら相手と時間を過ごすなかで出てくるものもあるかもしれないが、私のなかには最初からそんなものはなかったのだ。
それが分かった途端、この先どうして生きていったらいいのかわからなくなってしまった。
―女性にはリミットがある。 ―子どもが欲しいなら結婚は早いに越したことはない。 ―30代になるとわかりやすく市場価値が下がる。―
こういった価値観に追いつかれないように、必死になっていた。 でも今、私はもう30代になってしまい、肌や身体はどんどん変わっていき、結婚も別にしたくないということが分かってしまった。
じゃあこのあと、私は何をしていったらいいんだろう?
「価値の下がっていく私」を小脇に引きずるように抱えながら、それでも生きていくしかないのだろうか?
聖書の中で、イエスはこう言った。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」                   ヨハネの福音書 15:18-19
例えば「炎上」や「誹謗中傷」のように、具体的に「世に憎まれている」と感じたことがあるわけではない。でも、いわゆる「若いうちに結婚して…」という価値観は、それに合わない私を無言で追い詰める。その経験は、世に憎まれる、はみ出し者扱いされるという感覚に近いと言っていいだろう。
しかしイエスは「世は先に私をはみ出しもの扱いしたのだ」と言った。だから、【イエスを信じる私】がはみ出し者扱いされるのも、当たり前のことだ、と。わたしがあなたを選んだのだから、そういうものなんだ、それでいいんだよ、と。
わたしがこれから抱えて生きていくのは、価値の下がっていく私自身ではない。「価値の下がっていく私」は、この世が見せてくる幻影であり、嘘である。そんなものを抱える必要はないのだ。
イエスはこうも言った。 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」ヨハネの福音書 15:5
わたしは私を抱えて生きていくのではなく、イエスに抱えられて生きていく。おかしな話に聞こえるかもしれないが、私は私の足で立っているのではなく、ずっとイエスに抱えられて生きてきたのだ。 そして、イエスの腕にとどまり、抱えられて生きていくならば、多くの実を結ぶという約束がある。
多くの実というのが、具体的に何を示すのかはわからない。私が必死に得ようとしていたものとは全然違うかもしれない。 けれど、苦労して育てたブドウの木が、初夏にはたくさんの実を実らせて人々の心を躍らせるように、きっと私にも豊かな実りを経験するときがくるだろう。
今日のデボーションを通して、そういう風に思い直すことができた。
0 notes