Tumgik
highvoltg · 1 month
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What a wonderful world
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ルイ・アームストロングの言わずと知れた名曲。なんとなく曲だけ聞いていると「素朴でいい曲だな」という印象を受ける。特にI see friends shakin' hands sayin' "How do you do"のくだりなどは非常に牧歌的で自分の記憶には存在しない古き良きアメリカの情景が広がってくるような気もするほどだが、この曲が発表された1967年当時はベトナム戦争が始まって数年が経過し、アメリカから述べ何十万人という兵士がベトナムへ派遣されていた。1965年当時の数字で計算してみるとアメリカの人口の0.09%ほどが派遣されていたことになる。このうち対象がほとんど若者であろうと推測すると、誰しも知り合い(か、そのまた知り合い)が戦争に行っているという状況だったと思われる。
プロデューサーのボブ・シール(名義はジョージ・ダグラス)はそのような状況を嘆き、平和を願ってのこの曲を作詞作曲したとされる。サッチモは66歳のときの曲である。彼は18歳から音楽活動をしているので、キャリアが半世紀も経とうかというところでこの世界中誰でも知っている曲をレパートリーに加えたことになる。曲が発表されて3年後サッチモは亡くなってしまうので、ベトナム戦争の集結は見届けられなかったことになるが、一過性のヒットソングにはならず今も歌い継がれていることを考えると、この素朴な曲の世界観には時代を問わず人間の心の深く柔らかい部分に触れるものがあるのだろうと思う。
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What a wonderful world(なんて素晴らしい世界なんだろう)
I see trees of green, red roses, too, I see them bloom for me and you. And I think to myself what a wonderful world.
  緑の木々が見えるよ、赤いばらもだ   僕たちのために咲いているんだよ   僕は思うんだ   「なんて素晴らしい世界なんだろう」って
I see skies of blue and clouds of white The bright blessed day, the dark sacred night. And I think to myself what a wonderful world.
  青い空と、白い雲が見えるよ   輝かしく祝福された日、聖なる夜闇さ   僕は思うんだ   「なんて素晴らしい世界なんだろう」って
The colors of the rainbow, so pretty in the sky Are also on th faces of people goin' by. I see friends shakin' hands sayin' "How do you do" They're really sayin' "I love you"
  虹の色が 空に映えてきれいだ   通り過ぎていく人々の顔にも映っているよ   「ごきげんいかが?」って友達同士が握手しているけど   ほんとは「君のことが大好きさ」って言ってるんだよ
I hear babies cry, I watch them grow. They'll learn much more than I'll ever know. And I think to myself what a wonderful world. Yes, I think to myself what a wonderful world.
 赤ちゃんの泣き声が聞こえるね  彼らはこれから大きくなっていくんだなと僕は思うんだ  きっとたくさんのことを学ぶのだろう  僕なんかよりもずっとね  僕は思うんだ  「なんて素晴らしい世界なんだろう」って  僕は思うんだよ  「なんて素晴らしい世界なんだろう」ってね
―――
I see〜の文はなるべくseeの目に入るという感じをそのまま出すのが良いなと思った(素晴らしい世界は目に入ってくるものだろうという気がした)のでそのまま訳すようにしたが、「I hear babies cry, I watch them grow. They'll learn much more than I'll ever know.」は歌っているサッチモが晩節にあったことと、詞が未来を見据えた内容になっていることを踏まえて意訳した。「僕なんかよりも」も同じ意図。
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highvoltg · 1 month
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滅ぼしがたきもの(ふめつのこころ)
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以前も紹介した「ゲームさんぽ」から。登場人物が自分のことを「価値のない人間だと言われてきた」という呼び水で、名越先生が「僕の運命みたいじゃないですか」と反応する。幼少の頃からそう言われ続けてきていたという。
先生はそのトラウマについて明るく言うので、トラウマ自体の受容はすでに済んでいるのだなと分かるが、「僕、価値のない人間ですから」と63歳の先生が(過去の)自己認識をしているのを見ると、いかに幼少の時期に言われたことが人の中にとどまり続けるのかということが伝わってくる。傷は癒えても傷跡は残る。
―――
数日前、木蓮が咲いているのを見て、ああ春だなと感じ、少し歩いた線路沿いに菜の花がバーっと咲いているのを見て、きれいだな、また今年も見られてよかったな、と思った。
19歳の頃の春先を思い出した。家の近くにあった小川が好きでたまに��れを眺めながら歩いた。駅前の公園の桜と緑も好きだった。それから20年経っても、私はそこらへんにある素朴ものを愛でながら過ごしているなと思った。
でも思い返すとこういう素朴なものを愛する性質は、若い頃にこれ見よがしなものを好きになれなかった天邪鬼によって出来上がったものだった。はじめはそこまで好きではなかったはずだが、季節が巡るたびにゆっくりと強度を得ていったはずだと思う。きっとこれからも繰り返すことで強まっていくのだろう。
―――
先生のトラウマも、私の性質も、時間とともに形成されていった心の様態だと思う。先生は外部による定義の繰り返しであり、私は時間的連続による内的な変化なので過程は違うけれども、手触りがあるような、非常に距離の近い感覚なのはきっと共通している。そして、それゆえにきっとこれから消えることがない感覚であろうということも。
「不滅」ということを不意に思う。ニールセンという作曲家の交響曲に「不滅」という副題がついたものがあるが、英語表記では"The Inextinguishable" つまり「滅ぼし得ないもの」となる。
先生や私が得たものは自分の意思で滅ぼし得ないなにかであって、しかしそうであるがゆえに不滅なものを心の中に収めているのだという気がする。それは、その不滅という強度ゆえに、先生や私が生物としての時間を終えたとしてもずっと世界に残るのではないか、という気もする。できればそうであってほしい。いずれ世界から春という季節がなくなったとしても、春を愛でたこの気持ちは不滅であってほしいと思う。
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highvoltg · 2 months
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機動武闘伝Gガンダム第45話「さらば師匠!マスター・アジア、暁に死す」がいかに素晴らしいかを事細かに説明したい(後編)
続き。
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「よろしい・・・」
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「はっ・・・!」
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「今こそ、お前は本物のキング・オブ・ハート・・・!」
※キング・オブ・ハートは相伝されていく称号。東方不敗はまだ未熟だったドモンにキング・オブ・ハートを継承させた後姿を消しているが、このシーンで自分を超えたドモンを改めて(面と向かっては初めて?)キング・オブ・ハートだと認める。 このシーンも演技が細かい。口パクだけでなく、「今こそ」で一呼吸置いて「お前は本物のキング・オブ・ハート」の部分で東方不敗が目を細めながら言う。その眼差しにはもう敵意はない。間違いなく成長した弟子を慈しむ師としての視線を向けている。
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崩れ落ちるマスターガンダムの爆炎に、ドモンとマスターとの思い出がオーバーラップする。ドモンは泣きながら「師匠」と絶叫する。
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この話の中で最も素晴らしいのはこの東方不敗の表情だと思う。1秒も映らないシーンなのだが、もう作画が力入りすぎてて現実を超えている。この表情の真似をしてみろと言われても、現実の人間には誰もできないだろう。ベテランの俳優でもこの表情、眼差しの再現は無理だと思う。完全に2次元が3次元を超えてしまっている作画だと感じる。
そしてこの後、ガンダム史上屈指の名シーンに移る。
もうここからは、実際に観てほしい。そして泣いてほしい。
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highvoltg · 2 months
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機動武闘伝Gガンダム第45話「さらば師匠!マスター・アジア、暁に死す」がいかに素晴らしいかを事細かに説明したい(中編)
前編からの続き。
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ドモンと東方不敗の戦いを見届けている仲間たち。彼らにも二人がただのファイトをしているのではなく、対話しているのだということが伝わっている。
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「ドモン!まだ分からんのか、このわしの気持ちが!」 「ああ!あんたのやろうとしていることは人殺しにすぎん!」
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東方不敗は考えを否定され、ショックを受ける。合わせた拳を開いてドモンの拳を包もうとするが、ドモンの裏拳でその手を弾かれる。
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人間もまた���然から生まれたものであるので、それを滅ぼそうなど「愚の骨頂」であるというドモン。ド正論なので大きく描かれている。弟子が大きく見えて汗を拭う素振りをするマスター。ほんの一瞬の動きだが動揺の演技としてとてもわかりやすい。
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全く同じ構図で明鏡止水のハイパーモードを解放する二人。地面の瓦礫は同じ作画になっていて、年間アニメの省エネの知恵が見える。
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ユニゾンの動きを両者のカットで繰り返す手法。主義の違う二人であり師弟という最も近く対等な間柄でもある。そして、ここからはドモンが左側で描かれるようになり、物語の主体としての立ち位置が戻ってくる。
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「流派!」「東方不敗が!」「最終!」「奥義!」
交互にゆっくりとプリショットルーティン(放映当時はこんな言葉なかった)をなぞっていく二人。 ガンダムが腰溜めの姿勢になったのってこのシーンが初めてじゃないだろうか。ガンダムは機械であって筋肉はないので「溜め」の姿勢は意味がないのだが、ファイター二人の動作に合わせて、機械であるガンダムの丹田へと力が籠もっていくように見える。
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「石!」「破!」「「天驚拳!」」
0.1秒毎に対置された二人のカットが入れ��わるこのシーン。作画自体の良さ自体も相まってめちゃくちゃかっこいい。顔のアップからカメラが引いき、キャラクターの全体が見えたところでお互いに光弾を放つ、というカット割りもほかで見たことがない。30年近く経った2024年でも全く古びないシーンだと思う。 よくよく見ると、ハイパーモードの金色化の表現もドモンと東方不敗とで若干違う。ドモンは艶のあるスーツなのでテカリのコントラストが強いが、東方不敗はおそらくコットン生地の服なので塗りに差がつけられている。作画や色彩の人が丁寧に考えて描いているのが分かる。 そして描写もいいけど、声優の演技もいい。ドモン役の関智一は当時22歳、対して東方不敗役の秋元羊介は50歳。倍以上の年の差のある二人が真っ向ユニゾンで腹の底から叫ぶアフレコ現場はいかに熱かったことだろうかと思う。おそらく絵があっての録音じゃないだろうに、気持ちの入り方が半端ではない。こんな仕事は今の時代に果たして可能なのか・・・。 「アニメじゃない ほんとのことさ」とはZZのOPだが、正直このシーンのあたりからもうアニメを見ているという気分ではなくなってくる。この二人の行く末がどうなるのか、それしか考えられなくなっている。
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マスターの石破天驚拳に膝をつくドモン。石破天驚拳を押し込み、ドモンを無理に立たせようとするマスター。 「立て!立ってみせえい!」もうこのへんで勝つ気がないことは分かる。
立ち直ったドモンが止めをさそうとすると、マスターは一言、
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「よろしい・・・」 「はっ・・・!?」
後編に続く!(画像が30枚しか貼れないので)
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highvoltg · 2 months
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機動武闘伝Gガンダム第45話「さらば師匠!マスター・アジア、暁に死す」がいかに素晴らしいかを事細かに説明したい(前編)
あらすじ・・・兄の犠牲の末、デビルガンダム(この話のラスボス)を撃破したドモン。かつてはドモンと師弟関係であったが今は対立している東方不敗マスター・アジアは、デビルガンダムを利用してある目的を果たそうとしていた。デビルガンダムが破壊されてしまったことにより絶望し、ドモンに激怒する。マスターがなぜデビルガンダムを必要としたのか。その理由が二人の拳による対話で語られる。
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このシーンではドモンは向かって右側、東方不敗は左側を向いている。人間の視線は左から右に動くので、左側を向いている人物はこちら側に対して何かを語る役割であることが多い。今まで行動の真意が見えなかった東方不敗が語るのだということを意識させる構図。
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いきなりバトルシーンを描くのではなく、遠景から、そしてドモンの仲間の視線を通してカメラが寄っていく。このへんも単にバトルを描くのが目的ではなく、視聴者も含めて東方不敗という人物に近づいていく(フォーカスをあてる)という意図が感じられる。非常に立体的。
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ガンダムファイトの裏側で、地球の荒廃した姿を見なかったのかとドモンに問い掛ける東方不敗。ガンダムファイトはそもそも地球を離れた人類の覇権争いのために定期的に開催される代理戦争でその舞台はかつての居住地である地球。地球はガンダムファイトの舞台にされ、大会があるたびに自然も建造物も破壊され、ダメージが蓄積していく。これは1話から描写されていたことなので、長い伏線がいま回収されようとしていることが分かる。
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荒廃した地球の姿を目にした東方不敗は、どんな手を使っても地球を元の姿に戻すという決意をする。ここでの東方不敗はロールとしては悪役なのだが、わかりやすい悪役のような表情はしていない。真面目に考えた末に今のロールを演じているということを真摯に描いている。
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デビルガンダムはもともとアルティメットガンダムという名前で、地球再生のために作られたものだったが、バグを起こした末に自律思考した結果、人類を抹殺するべきだという判断を下した(人間がいなければ地球は荒廃しないという論理)。それに呼応した東方不敗はデビルガンダムを使って人類を抹殺しようとしていたことが明らかになる。
さっきと同じ構図だが、「人類の抹殺」と口にしているマスターは影が濃くなっている。その狂気を受け止めきれないドモンの表情(半開きの口)の演技は細かい。
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ガンダムそのものにマスターの身体がオーバーラップする演出。ガンダムシリーズではパイロットがガンダムを「操作している」という演出が普通だが、Gガンダムでは「ファイターの身体の延長」という思想で描写がずっとされている。ここでのマスターは乗機であるマスターガンダムのスタイルもあって本当に大きく見える。
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デビルガンダムがいれば、人間は地球にいれなくなって地球はいずれ蘇る。だから「人類など滅びてしまえ」と高笑いする東方不敗。ここまでフォーカスすることで内面を描いてきたのに��して、横顔から背景に移動することで、表情が読めなくなり、ここにきて再度真意がわからなくなってしまう(話が通じる相手ではなく、狂っているのかもしれない、という演出)。
また、東方不敗はガンダムシリーズの「人類を滅ぼそうとする悪役」の中で本当に自分の信念で人類を滅ぼそうとしている珍しいキャラクターだと思う。シャアをはじめとした他の悪役は、大体の場合自身と他者との関係性の問題を正面から認めることができず、「自分を理解しない他人など消えてしまえ」という本音を利用できる大義名分にすり替えて人類抹殺を企てる。東方不敗の人類抹殺の動機にはそういう他人との葛藤みたいなものはなく、純粋に地球を荒らしてしまった罪悪感から行動している。 根本的に悪い人ではないので、人類を滅ぼすにあたってドモンと対立すると心が揺らいだりはしているのだが、そもそもの決心の部分に迷いがなかった(迷った末の決断ではなかった)というのがガンダムシリーズの中では新しかったように思う。そういう意味では、普段から自然を慈しんだりかつての地球を懐かしむような描写が本編中にあってもよかった気がするが・・・。
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ここは演出が細かい。ガンダムファイトが代理戦争であり、地球を捨てた人類のゲームだと批判するマスターに対してドモンは「むやみに人が死ぬよりはいい」と立ち向かうが、ドモンはガンダムのまま描かれ、マスターはガンダムと一体化した形で描かれる。ドモンは正論を言っているがあくまでそれはガンダムファイターとしてであって、マスターは一個の人間としてそれに反論している。主人公であるはずのドモンの正しさがゆらぐ。
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拳を交わす二人。そこでドモンはあることに気づく。
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(こ、これは!拳から深い哀しみが伝わってくる!東方不敗の拳が……拳が泣いてる!?) 「な、何故だ!」 「うるさい!」 (俺の心に、悲しみが響く…そうだ、己の拳は、己の魂を表現するものと教えてくれたのはこの人だ!ならばこれが東方不敗の魂の響きなのか!)
東方不敗の拳から感情を読み取るドモン。ドモンの視点を通して東方不敗という人物を描写している。視聴者もまたそこに感情移入してふたたび東方不敗にフォーカスがあたっていく。
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東方不敗は病に冒され、デビルガンダムのパイロットにはなれないことが明かされる。そんなことを言いつつかつての弟子と回転しながらぶつかり合っているのは意味がわからないが、これまでの流れがあるのでギャグシーンにはなっていない。シリアスなノリが続けられる限界を攻めていると思う。
長くなってきたので、続く。
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highvoltg · 2 months
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美しい逆説、逆説の美しさ、美しいものの強さ
「神の子が死んだということは、  ありえないことであるがゆえに事実であり、  葬られた後に復活したというのは、  信じられないことであるがゆえに確実である」 https://www.1101.com/hosaka/2003-06-30.html
「逆説」というとこれを思い出す。テルトゥリアヌスの原文は「不条理ゆえに我信ず」とも訳されるが、短縮された形ではこのダイナミズムには届かない感じがする。「神の子が死んだということ」がいかに「ありえないか」ということ、そして「葬られたあとに復活したこと」が「いかに信じられないか」が語られていないとテルトゥリアヌスが感じたリアリティが伝わってこないし、ひいては人が共感するきっかけにもならない。逆説は前提となる条件が強固でなければ認識や表現として効果的なものにならない。
前提条件が強固なものになるために必要なのは、そのとき感じたリアリティがいかにはっきりしていたかということが大事になると思う。一瞬のものでも、ずっと感じていることでもいい。ライブの刹那の感動が火傷のようにリアリティを残すこともあるし、10代の頃から毎晩ともに過ごしている悩み事ごとも手触りすら感じるようなリアリティがある。
そういう強固さ、堅固さを持った感覚をひっくり返すような逆説に人生の中ではごくごく稀に出会うことがある。思い返せば、逆説の美しさや力強さに自分はいつも鼓舞され、導かれて今ここにいるのだという気さえする。
記憶に残っているものをいくつか書き出してみたい。
「私が何か言っても悩みや苦しさはあなたにしかわからないことなので、あえて何も言いません。人間って気持ちを寄り添わせることはできるけど、全く同じ苦しみを共有することはできない生き物ですしね。 でも、繰り返しになりますが、気持ちを寄り添わせることはできます。」
20代のとき治らない病気にかかった。そのときはまさか自分がこんなに若くして持病とつきあっていかなければならないようになるとは全く考えていなかったので大変に塞ぎ込んだ。人生、生きていればどこかでなにかの制限がかかるものだということは理解していても、今ここで自分にその制限がかけられるということにどうしても納得できなかった。自分の中で今まで体験したことのない孤独感に襲われて、普通に生活すること自体がとてもしんどかった。そういうときにかけてもらったのが上の言葉で、今だにときどきGmailを検索して原文を読むことがある。
人間は一人ではとうてい抱えきれないような大きい負の感情が生まれるときがある。本人と同様に、他人はその感情に対して無力である。でも、気持ちを寄り添わせることはできる。
ふつうは塞ぎ込んでいる人に対して、元気が出るような働きかけをしてしまう。でもそれは多くの場合逆効果で、塞ぎ込んでいる人の孤独感を助長するにすぎない。それに対して、ただ気持ちを寄り添わせるということはゼロをかけることに似ている。マイナスの領域にいる人にプラスの言葉をいくらかけたってより大きいマイナスにしかならないが、でも「それは辛いよね」とただそのマイナスを認める言葉をかけるだけでゼロになる。とても優しい逆説だと思う。
**さんは強いですよね。いつも辛い方苦しい方に自分から向かって行ってて、本当に強いなと思います。
これは離婚することを決めていろいろな手続きを進めているときに同僚からかけてもらった言葉で、これが逆説たりうるのは、私が自分のことをめちゃくちゃ弱っちい人間だと自認していたからだ。
昔から自分は感情の制御も聞かないし、意志も薄弱で、人間としてはできそこないだという気持ちを抱えながら生きてきていた。離婚することも自分で決めたのに、気持ちが疲弊してその認識が強まって、めちゃくちゃ自己肯定感が低いときに、ひょっとこの言葉をかけられた。
ふつう、自分の認識と逆のことを言われたら「この人はなにを言ってるんだろう」と白けてしまいそうなものだけど、一番長いこと苦楽をともにしてきた同僚が自分のことを「強い」と言っていると思うと、なんだか自分の認識のほうが間違っている気さえした。たった一言で自分の認識をひっくり返した逆説だった。それ以来辛いことがあっても「まあ自分って強いしなんとかなるだろ」と考えられるようになった。
人がお好きなんだろうなと思います
自分は人嫌いだという自己認識を持っていて、そういう人間だから他人と仲良くなれないのだというふうに思っていた。若い頃はなるべくそれを直そうと思っては挫折して、歳を取るにつれ「そういう風に積み重ねてきたのが自分であって、結果として人とうまくやれなかったとしても、やるだけのことはやってきたのだから良いのだ」という気持ちになりつつあった。そんなときにこの言葉をかけてもらって気がついた。
そもそも、本当に人が嫌いなら、人とうまくやれないことに悩んだりしないのだ。決して人が嫌いなわけではなくて、人付き合いが下手なだけなのだと急に理解した。根本的な欠陥ではなく、単に下手くそなことはいろいろ試して改善すればいいだけだ。なんだ、こんな勘違いで悩んでいたのかと少し恥ずかしくなったくらいだった。
逆説の美しさは、逆境に臨んでなお諦めない人間の強さに支えられている。その強さの美しさにかどわかされて、ついつい長生きしてしまっている。悪くないものだなと思う。
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highvoltg · 2 months
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これ、結婚する前に聞きたかったなぁ。次に結婚することがあったら、絶対こういうマインドでいきたい。
“本当は男も女も自立する必要なんてない。お互いに未熟な人間なんですから。未熟者同士が肩を寄せ合って何とか生きていく。これが結婚なんだと思います。仕事では成功できなくても、温かい家庭があれば救われたりしますよ。もっと肩の力を抜こうよ、と言いたいです。”
— 「失敗リスク」を恐れる男性ほど実は結婚に向いてる:NBonline(日経ビジネス オンライン) (via hanemimi) (via tsupo) 2008-10-25 (via gkojay) (via konishiroku) (via snamn) (via kennak)
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highvoltg · 3 months
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若い頃はものごとの成功率が基本的に低いので結果として怒られることが多い。歳を取ると判断力が身につくので失敗しづらくなり、自然と怒られることも減っていく。
しかし「判断力」は発揮するのに大きなエネルギーを使う。判断とは何かを基準に行われるものであり、多くの場合それは自身の過去の経験の参照を指す。経験のデータベースが広くて大きいほど参照箇所が多くなるので、歳を取るにつれ判断力を行使することに対して文中のようなストレスを感じるようになる。だから他人が決めてくれることに感謝の念が生まれる。なおかつそれが自分の判断と同程度のデータベースを参照した結果の判断だと、スタンディングで拍手したいまである。
若い人と一緒に仕事をする際は、データベースの広さ大きさが違うこと、そして若い人はデータベースが軽いからこそ速く決断できることを認識しておきたいものだなと思う。若い人の瞬発力は自分にはないし、経験の差は自分が補えばいいのだから。経験を振りかざして若い人の何かを正そうとするのではなく、よりよく活かすことに徹した方がいい。
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highvoltg · 3 months
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何年か前からときどきチョコレートが無性に食べたくなる時期があり、調べてみるとそれはマグネシウムが不足しているときにそうなることがある、ということだった。ただ、食生活はそんなに偏っている自覚はないので、マグネシウムが不足しやすい体質なのかな、くらいに考えていた。
ちなみにマグネシウム不足によるチョコレート充にはダイジェスティブビスケットが自分の中では最適だ。特にMcVitie’sのが1番チョコとビスケットの歯応えのバランスがいい。
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しかし、ビスケットを齧りながらもなぜマグネシウムが不足するのかは気に掛かっていた。マグネシウムが不足し続けているのにはやっぱり理由があるはずだ。
そう考えていたところ、コーヒーが鉄分の吸収を阻害するという記事を読んで、もしかしたらと思った。「コーヒー ま」まで打ったら「マグネシウム阻害」とサジェストに出てきた。これだと思った。確かに毎日仕事中にも食後にもコーヒーを飲んでいるので、不足しても全然おかしくない。長年の謎が解決して大変スッキリした。
調べ物をしたら小腹が空いた。
さ、マクビティ食べよう。
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highvoltg · 3 months
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そう感じていた人とも別れてしまったが、相補性のある愛は感じるだけではなく、やっぱり言葉にすべきなのだと思った。
言葉によって相補性の愛が堅固になることはあまりないが、「今ここにある」「だから私たちは幸せだ」と確認し合うことは、同じような違う愛を感じたときの慈しみにつながる。
言葉は記憶だ。記憶を大事にすることは、思い出の牢獄に囚われることではない。大切な過去を抱きしめながら、すばらしい未来を探すための糧とすることだ。
自分がこの人の支えになりたい、と思う相手ほど、その人の言葉や態度に自分が支えられていると思う。
昔読んだ本に「猫を抱いていると抱かれているのは自分の方だと気づくことがある」と書かれていて、そうだな、と思った。今もそう思う。
愛とはそういった相補性のあるものだと感じるし、そうであってほしいという望みを持って私は生きている。
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highvoltg · 3 months
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猫と過ごすことと神様について
学生のときからずっと読んでいた猫ブログの猫さんが亡くなったというエントリを読んだ。初めてブログを読んだときから、自分がインターネットをするデバイスは何台も変わったが、いつの時代も思い出しては検索して通っていた。ここ何年か、エントリの頻度が下がっていたので何となくそうなのだろうな、と感じてはいたが、驚くことに18歳まで生きたそうで、いかに大事にされていたか感じられた。猫さんが亡くなったことは本当に悲しいことだと思うが、きっとこの世界での時間を本当に全うしたのだろうなという気がする。
ひとの家の猫のアカウントをフォローするということは、ただ単に猫を可愛さを享受するというだけではなく、その猫が虹の橋を渡ったという報せを受け取るということでもある(あるいは、アップデートの頻度が下がることで、それを推し量ることもある)。その度、我が子たちもまたいつか同じような報告をするときが来るのだということを、噛み締めるように実感する。人でも老年にさしかかって知人の死から自分の死を意識するようになるというが、似たような心の動きなのだろう、と思う。
少し前に一番上の子を保険に入れた。今のところどこも調子は悪くないが、きっとそういううちにするものなのだろうと思ってそうした。そして自分もまた倒れるわけにいかないので、去年一年は運動や食生活により気をつけて過ごした。この間届いた健康診断の結果は良好だった。少しほっとした。
私は猫と過ごせる時間の長さについて、神様は関与していないと思っている。でも、猫たちと一日安息に過ごせたことを何かに感謝したくなる瞬間は、ときどきある。同時に、歳を取ると、安息に偶然はないということがなんとなく分かってくる。安息は幸運ではなく、積み重ねなのだ、幸運があるとすればその積み重ねの上にあるのだ、というようなことを。
猫と過ごす時間は私にそういう大事なことを教えてくれる。だから神様には、それを大事なことだとこれからも捉え続けられるような自分でありますようにと、ささやかに祈ったりする。
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highvoltg · 3 months
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「何を言わないのかが品性」という言葉もあるけど、共通するのは立ち止まって考えられることなのかなと思った。
「社会的地位や資産の多寡はその人の品性を保証しない」ということと、「教養がある人とは、知識をコレクションする人ではなく、得た知識を使って他者を理解しようとする人」というのが、ここ数年折に触れてよく思うことだ。
教養がある人は品性を持ち合わせているし、品性を感じる人には教養の裏打ちがあることが多い。その人の根本的な自律性が、立ち居振る舞いに表れるか、言動に表れるか、ということのように思う。
“立川談志さんが言っていた「品があるとは欲望に対する動きがスローな事だ」という言葉、やっぱり好ですね”
— ynemnさんのツイート
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highvoltg · 3 months
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描かないことで描かれている 虎杖悠仁という存在の作り方
最新号のジャンプで「やっと虎杖が主人公になった」と話題になっているらしい。
確かに、前進作品の主人公である乙骨や、ブームの火付け役になった五条のほうがいわゆるジャンプらしい補正のかかったキャラクターで、どっちを軸に主人公にしても話が書ける強度を持っている。対して虎杖はラスボスである宿儺をその身に宿しているということでその辛うじて特別性を保っていて、乙骨や五条、そして宿儺にフォーカスが当たると虎杖の存在感は空気になるということが多かった。
ただ、虎杖自体はそういうキャラクターとして置かれた設定以前に特異だと思う。呪術という、それ自体がマイナスの力を持つ本作のイメージと重なるが、虎杖はとにかく存在の基準がマイナスの位置にある。宿儺という特級の悪意を宿したところから、考えられうる限りの最悪のさらに斜め下の状況に追い込まれる。「特異だ」というのは、普通の主人公であれば、底を打ったところで、過去の体験の想起や仲間の支えを得てプラスのところまで這い上がってくるのだが、虎杖はマイナスの位置に留まったまま主人公でい続けている。
虎杖は、真人との戦いで自分の主体性ではなく「役割」を主軸に置くという考えに行きつき、その後の秤との戦いでは自分をして「部品」と称している。
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『鬼滅の刃』で鬼という理不尽に巻き込まれたがゆえに主人公になった炭治郎も、どちらかと言えば主体性よりも義務感や使命感で戦っていたが、無惨に対して「存在してはいけない」という道理を抜きにした自分の主観が出てくるシーンがある。
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ここでの炭治郎の闇は炭治郎本来の明るさによってより色濃くなる影のようなものであって、それを自分の本質にはしない(一時的なものだ)が、虎杖は話が進んでいくにつれて影自体が自分の軸になり、少なくとも戦いの中では本来の人間性が完全にどこかに行ってしまっている。思い詰めてしまったがゆえの頑なさでそうなっているのではなく、本当に消えてしまった感がある。
面白いのは、虎杖がそうなっていく過程は、虎杖以外のキャラクターが描かれている際に(つまり読者から虎杖が見えない時間の中で)、醸成されているように見えるところだ。
たとえば煉獄さんのように、行動の前にバックグラウンドを描いて「こういう部分があるからこのキャラはこういう行動をする」と説明する手法はよく見られるものだが、
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虎杖の「歯車のようなものなんだと思う」「俺の役割なんだ」という認識は時間を経て「俺は部品だ」という一言の表現に落ちている。「歯車」「役割」と「部品」という言葉は連続的ではあるので「まあそんな表現もするかな」と言えばそうなのだが、認識が単語として表出されるまでの間にはやはりプロセスがあり、そこに虎杖自身の思考の反復があったような感じがしてならない。前述したように虎杖以外が主体でストーリーが進んでいく展開が多い漫画だが、その間も虎杖が「ただ出番がないだけ」で何もしていないのではなく、自律思考して自己を再定義している、そんな感覚がある。
そう考えると虎杖悠仁という存在は「フィクションのキャラクターは作者に描かれなければ成長できない」という前提を超えているのではないかという気がしてくる。
作者の芥見下々は虎杖を「苦手」と評しているが、同時に「削り出している途中」というふうにも書いている。
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もしかすると、虎杖の「描かれていない間の変化」というのは、作者自身の虎杖というキャラクターの認識の変化がリアルタイムに反映されている結果なのかもしれない。他のキャラクターを描いている間にも虎杖のことを何度も何度も理解しようと努めていて、その結果が出番とともにフィードバックされているのかもしれない。
呪術廻戦で呪霊は、個人のマイナスの感情が積もり積もって自然発生するものとされているが、作者や読者の手を離れて自律的に成長していく虎杖は、主人公でありながら、その得体の知れなさが呪霊に似ている、と思う。
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highvoltg · 3 months
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愛という言葉、言葉の限界、限界の先の愛
HUNTER×HUNTERのメルエムとコムギの最期についての話が面白かった。
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キメラアント編で冨樫が「愛という言葉を知らない生き物同士の愛を描き切っている」という話から発展して、言葉そのものの限界にも言及している。その周辺の文字起こし↓
「俺ら自身人を好きになるじゃん。んで誰かと付き合ってるときって好きだって言うんだけども、そんな言葉が本当に必要なのかなと思うよな。なんかその人のことを大事だと思ったりこうしたいと思ったり自分の思いを伝えたいって言う衝動だけはあるんだけど、その衝動にとりあえず名前をつけて愛してるって言ったり好きだって言ったりして落ち着かせるわけじゃん。
セックスていうのもあるけどさ、セックスしてみたら男は『虚しい』とか言うじゃん。あの虚しさはやりたいことやったからどうでもいいっていうのもあるかもしれないけど、それ以上に『なんでここから先がないんだろう』って、なんかやるせない思いみたいなのがあるよな。なんか『俺がこの女を好きになったというのはここがデッドエンドなのか?終わりなのか?』『いやそうじゃない、そっから先には結婚がある』『あ、なんかそういうだけのもんなの?これで終わりなの?こっから先ないの?』っていう。好きって言葉もこの言葉以上は何も表現がないの?(中略)そこら辺の考えさせてくれたっていうのがあって、ちょっと感動しちゃったんだよなぁ。」
「言葉を尽くす」という表現がある。人は誰かに誤解なく自分の思いを伝えたいとき言葉を尽くして語ろうとするけど、言葉を尽くすほどに表したいものから遠ざかり、伝えたいと思う相手からも遠ざかるというふうに自分は考えている。
このことを考えるとき、自分はいつも「緑色」という言葉が指し示すものの多様さのことを思う。
たとえば、日本の信号機の「青信号」は実際は緑色だが、日本では緑色を青の色相の範疇に含む文化があるので、どう見ても緑だけど「青」と表現する。おそらくグローバルな「青」の概念の中で生きてきた外国人と話したなら、説明すればするほどきっと話が噛み合わなくなる。
日本の中でも都心部と山間部で育った人はきっと「緑」という色の範囲が全く違う。都会の緑は街路のツツジの葉のように明るい緑が多いが、山の緑は離れるとほとんど黒に近く見えたりする。でもそれは黒さの範疇ではなくて、どこまでも緑の深さの中で認識され表現されると思う(・・・さらに山間部といっても広葉樹林帯に住んでいたか針葉樹林帯に住んでいたかでも緑の記憶は違うはずだと思う。生気に満ちた鮮やかな木々もあれば、もはや灰色に近いくすんだ山もある・・・)。
そんな風にして緑を具体的に思うほど、誰かの緑から遠ざかっていくのだ、という感覚がある。
ただの色でさえそうなのだから、いわんや愛をや、という話で「緑」という具体的なものでさえ定まらないものを、抽象概念を先にした言葉なんかどれだけ言葉を積み上げても絶対に具体的にならないだろうし、色と同じように自分が持っている言葉の中身の風景や言葉を支えている体験がまずそれぞれ違うわけだから、言葉を尽くすほどに理解してほしい相手の言葉の世界からは遠ざかるし、相手にわかるように言葉を尽くすことで自分の中で起こっていた生の感覚からもきっと遠ざかっていく、と思うのだ。
岡田斗司夫に寄って考えると、本当は「緑」とか「愛」とか「好きだ」という言葉の源になっているものに対して自分専用の単語を作れて、それが他者にも理解できるようになればよいのだと思う。しかしながら私たちは「緑」の色合いを「緑」という言葉を抜きに認識することができないし、そうして自分自身の感覚を一度言葉という「感じているものに近い別の何か」に置き換えなければ、他者に何かを伝えるどころか、そもそも思考すらできない。
「緑」も「愛」も、自分の中での整理のためにとりあえず貼っておかなければならない付箋のようなもので、人間は感覚そのものを並べるのではなく、書き出した付箋��並べることで他者に何かを伝えている。そして付箋は受け取る側の言語の枠組みの中でデコードされるので、自分が感じたものとは確実に別個のものになって「伝わる」。果たしてそれを「伝わっている」と言ってよいのかどうか、正直わからない。
「緑」も「愛」もそのものは厳然として言葉の外側にあるし、おそらく人間の本当の居場所もまた言葉の中にはないのだと思う。ただ他者と関わろうとするとき私たちはどうしても言葉のカーテンの中に入って行かねばならない。片手でカーテンの外側にある現象を掴みながら、その感触を目の前にいる人に伝えようとするゲームのようなことを強いられるのが言語活動だ。どんな表現にも均一に、そういうもどかしさがあり、それが言葉の持つ限界だと思う。
しかし一方で「同じ緑を見て���る」とか、「同じ愛を分かち合っている」と思う瞬間は絶対にある。それを、メルエムとコムギの最期のシーンのように「ありがとう」「こちらこそ」という短いやりとりを描写するだけで、起こったことの100%を当事者だけでなく他者(読者)にも伝えてしまうような離れ業というか、奇跡もある。
だから人はまだ言葉を尽くして何かを伝えようとしている。そんな気もする。
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highvoltg · 4 months
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Facebookが10年前ということで掘り起こしてきた写真。道玄坂をチャリで下っていく少年。彼もたぶん就職したかくらいの年齢になっているだろう。早いものだなと思う。
道玄坂にも多少再開発の手が伸びてきた。ただ、この写真のアングルではテナントが入れ替わったくらいで、あんまり変わっていない。左手前のセブンとかまだあるし。人の服装もそんなに変化があるわけではないな。
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highvoltg · 4 months
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1/3(水)
明治神宮にお詣りに。
・猫たちと健やかに過ごせること
・自分が関わる人たちと、自分自身を大事にできるように見守ってほしいこと
をお祈りした。
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highvoltg · 4 months
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少し違うけど、「人は自分を愛する方法でしか、他人を愛せない。自分を愛せない人は、他人を愛せない。他人とうまくいかないと思ったら、まずは自分をきちんと大事にするべき」という話を思い出した。
優しさにしても、愛にしても、上のようにあえてかくあるものだ、と定義しなければいけなくなるのは、形だけのそれらがあるからだ。優しいふり、愛してるふり。なんとなく形だけ人に向けていると、相手はいずれ「これは真心のものではない」と気づくし、伝わっていないとわかると自分もだんだん疲弊していく。
「どうすれば、どうしたら伝わる?」とぐるぐる考え続けていると、そこまでして人に気持ちをかけたい理由がだんだんわからなくなる。そうしているうちに、自分が人に優しくしたり愛したりしたいわけではなくて、優しくすることで優しくされたり、愛することで愛されたりしたいのだ、ということが分かってくる。人の気持ちはわからない。まして何をすれば真にその人のためになるかななんてわかりようがない。だから、まずは自分とよく向き合って、自分を大事にする習慣と方法を身に着けてから、大事な人に向けるのだ。自分の中に優しさの形がないのなら、相手に届く優しさは形だけのものになるのだと思う。
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