Tumgik
guri-archi · 2 years
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220111_積みあがった時間についての雑記
未見のまま引き合いに出すことに後ろめたさはあるが、『ハロウィンKILLS』(2021)から考え始める。不死の殺人鬼ブギーマンが毎度のごとく殺戮を繰り広げ、人々を恐怖に陥れる。1978年の初作『ハロウィン』以来、ジャンル映画としてのスプラッターを形成した『ハロウィン』シリーズの最新作は、2018年のリブートの続編にあたり、初作のメインヒロインを始め、オリジナルキャストを複数名起用している。
彼とともに、彼女らも帰ってきた。作品の内外で生き延びてきた彼女らは、作中の時間を現実の時間の経過に重ねる形で、ジャンル映画特有の積みあがらない時間に生きる人物ではないことを明らかにされる。『ハロウィンKILLS』の予告編はその性格をより煽情的に用いる。かつての幼子が、ヒロインが、たしかに40年分の時間を持つことが二画面のレイアウトで数秒の内に示されるのだ。
監獄で40年を過ごしたブギーマンと、作品をまたいで悪夢に晒されてきた登場人物たち。作中の説明では初作とリブートの間に起きた続編での出来事は「作り話」として否定されるが、観客もまた40年の時間を過ごした事実は否定できない。
長寿化したシリーズ作品に、反復的なものと、積みあがるものの二種類があることはよく知られている。前者は、時には役者自体も変えながら、登場人物と世界観が継承され続け、前作で起きたことは次作では触れられることはない。後者は、前作での経験が次作に活かされ、登場人物は成長していく。お茶の間アニメのTV放映と、劇場版の違い、としてよく語られる形式の話だ。
いっぽう、単発で完結する映画は、その2時間で登場人物の人生のすべてを、また、生きる世界のすべてを説明はできない。役者の演技は、その描かれない前後の時間を想起させる。言外の説得力を、その振る舞いや表情に宿らせ、プロットはそうした描写をいやらしくなく観客に提示し続ける。このフィクションの力に信を起きたい自分がいる一方で、現実に積みあがってしまった時間を引き合いに出されたときに抗えず感動してしまう自分もいる。しかしなぜその技は用いられるのだろう。考えてみると、ジャンル映画やミーム化した名作が、自身にリアリティを取り戻すために、現実の時間を召喚する例が段々と目についてきた。(統計もしていないし、自分の映画選択の傾向も変化していることを前提として)
自分が感銘を受けるフィクションは、作品の外(=現実の世界)を揺さぶり、またフィクション自身も揺らがせる。その揺さぶり合いと、繰り返し大勢の観客が目にすることを通じて、作品の内なる世界は強度を増していく。一本で完結する作品の結末がたとえ変わらないとしても、再生のたび、結果の分かっている戦いに登場人物たちは身を投じていく。その繰り返しに対して、変わっていくのは観客の側だ。そして観客の鑑賞における変化が、作品の内を変容させていく。「ループもの」が時に胸や脳を打つのは、フィクションがそもそもして持つ性質をフィクション自身が自覚していることを、登場人物の挑戦あるいは徒労を通じて伝えてくるからだ。
なぜフィクションが生産されるのか。もう結構前に『ある日どこかで』(1980)に衝撃を受けて感想を書いたが、そのときと結論はいまもさして変わらない。自分の人生の替えの利かなさと同時に、種としての連続の中では反復する生に過ぎない、ということの間で意味を考えたいからだ。少なくとも、自分がフィクションを通じて根本的に突きつけられているのはそういうことだと思う。
しかしこれはあまりに命題的すぎる。作品を通じてなぜ人がそう思うのか、命題が技術の問題としていかに設計され行使されるかに、自分の関心のひとつがある。 今日は、今後の考えのためのメモとして、推敲なくとりあえず書いておく。積みあがらない時間と、積みあがる時間の重なりについて。
***
①『ジョーズ'87 復讐篇』(1987)と宿命を宿命たらしめる画
そもそもこうしたことを考えようと思わされたのは、『ジョーズ』(1975)の4作目である本作を知ってからだ。ライムスター・宇多丸氏のラジオ番組内の「続編」特集で、スクリプト・ドクターの三宅隆太氏が紹介していた一本だ。駄作の呼び声が高い本作を、三宅氏は中盤の描写は観る価値がある、と語る。
本作では1,2作目の主人公の妻エレンが本作で同役で復帰する。人食い鮫を倒した夫は病没し、これまで生き延びてきた次男は本作で人食い鮫の犠牲者となる。血の因縁を感じたエレンは、自分たちが休暇を過ごしている南の島までその鮫がやってくると語り、家族に笑われる。しかしカメラは鮫の目線に切り替わり、どうやら海を泳ぎブロディ家を追っていることが示唆される。予感は的中し、孫が襲撃に合う。襲撃の報せを聞いたエレンは人込みをかき分け、海へとひた走る。
三宅氏はこの疾走の描写を指して、1作目で夫マーティンが襲撃の報せに走るシーンとの画面の重なりがあり、脚本の演出指示も含め、このカットには1作目と重ねた描写にする意図が明確にあるのだと指摘する。そこに製作者たちの本気が感じられる、とも。以降の展開が、前半以上にめちゃくちゃになることから、ここで観るのを止めてもいいです、と作品の紹介は締めくくられる。
画面が言葉以上に雄弁に伝えてくるものがあることを知り、また信じられることを知ったこの回をその後何度も聞き直すことになったが、実際に本作を観ていまも思い返すものは、終盤にある。そして、その明快さゆえにどうにも語りきることができないそのシーンこそが、大切なのではないかといまは思っている。
終盤、洋上で鮫と対峙するエレンは、船ごと鮫に体当たりを行い、ついに鮫を仕留める。
この体当たり寸前の演出。鮫を見つめるエレン、1作目で鮫に向けて銃を構えるマーティンのモノクロ映像のインサート、鮫を見つめるエレン、再びマーティンが映り「Smile you son of a bitch!」のセリフと発砲、カラーに戻り、船の舳先が鮫に突き刺さり、爆発が起きる。言うまでもなく、1作目のオマージュであり、かつての主人公の妻が、血の物語に決着をつけるカットにその演出を持ち込むことなんの違和感もない。エレンの目線とマーティンの目線はともに鮫に向けられ、構えた銃と舳先は鮫へと向かっていく。二度繰り返されるインサートは、しつこいほどにこの重なりを伝えてくる。
他方で、ただ僕にとって恐ろしかったのは、そのカットのあるだけで、それまで終始続けてきた引き笑いを取り下げたくなるような熱い気持ちが自分にこみあげてきたことだった。なんとなく死んでいった登場人物たち、物語の展開のために襲撃される幼子(助かるが)。ジャンル映画と思えば気にも留めないフィクションのための犠牲が、1作目と4作目の間にある12年の時間を飛び越えるインサートで、重みあるものに思えてしまう。
過去作からのインサートで思い出すのは『クリード チャンプを継ぐ男』(2015)のクライマックスだ。10カウントから主人公を立ち上がらせるのは出会ったことのない父親の、30年前の戦う姿。プロットの時点で十分に納得のいった宿命は、ダメ押しのインサートで確かめられる。ここで泣くのはしょうがない。
しかし本作はどうだろう。エレンとマーティンは、結婚により家族となった(という設定の)登場人物(を演じる役者)同士だ。他人同士が家族になり、襲い来る鮫により、宿命を感じ、それがまた家族を強固にしていく。しかしその宿命は、映画のジャンル化とマンネリ化により形成されたものだ。なぜ自分たちだけ繰り返し襲われるのか。宿命は、作中のもっともらしい設定や、自己言及的なセリフのギャグに回収されていくのが常だ。しかし本作で、あまりに馬鹿げた展開に陥った本作から登場人物を救うのは、映像の技術だ。
舳先に突き刺さる鮫、串刺しになる二つのカットと二つの時間、間でペシャンコになる12年間。
だが感慨は、あっという間もない鮫の爆散とともに消えてしまう。爆散ののち、食われたと思った登場人物の一人が海面に顔を出す。笑い合う生還者たち。これはビデオ版のエンディングだ。劇場公開版で鮫は爆散しない。お約束のハッピーエンドは、その終わる寸前に立ち上げた感慨をむしろ強烈に印象づける。
お約束、ミーム、あるある、ジャンル。そうして物語を理解することは容易い。簡易な構造化とも言える。本作もまた、その大小様々な粗によってそれ以上作品へ深入りすることのない言説が無数にまとわりついている。しかし、この一連に感じた抗いがたい気持ちと、それを狙って行使される技術と、代えがたい積み上げられた時間という素材の関係は、構造化を拒み、いまも作中に潜んでいる。
②『ランボー ラスト・ブラッド』(2019)の孤独な退場
シルベスター・スタローンの代表作『ランボー』シリーズ5作目にして完結作とされる本作は、『ロッキー』(1976)とともに、スタローン自身の物語でもある。多く指摘されるとおり、ロッキーはスタローンの明るい希望を、ランボーは暗い絶望を示してもいる。分有された人間性は、ことランボーにおいてスタローン自身が抱える逃れられない何かを感じさせる。
本作は、2,3作目の娯楽としての暴力を総括する『ランボー 最後の戦場』(2008)の後、故郷に帰り平穏を手に入れたかに見えるランボーをまず描く。旧友とその孫娘ガブリエラとの暮らし、襲撃に備えて地下壕を掘り続け武器を手入れし続ける姿が、地上と地下で対比的に描かれている。山���救助にボランティアとして従事する姿からは、彼がその力を異なる形で行使してきたことも伝えられる。しかし作中で早々に平穏は終わり、ガブリエラの犠牲により、終盤の殺戮が動機付けられる。
これまで任務やお仕事ベースで殺戮に従事してきたランボーを動かすには、それなりの犠牲が伴う。物語が展開するための犠牲であり、その展開を指してご都合主義とも言う。しかし本作でもまた、作品の外に積み上げられた時間が、その粗を乗り越えていく。
30年近く苦しませ続けた登場人物が、『最後の戦場』から『ラスト・ブラッド』までの11年の間に平穏を享受したであろうことは、その間に作品が作られなかったことによっても説明されている。一本の作品として見てどうか、という議論は、スタローン自身とランボーの分かち難さによって退けられてしまう。その是非はさておき、作品の外にしかこの作品の強度は存在しない。彼を見かけない11年間が観客のそれぞれにもあったことの自覚が、ガブリエラの犠牲を軽くしないための唯一の方法といえる。重さを担うべきは、観客である僕たちも一緒にだろう。 勇壮さのない静かな終わりにクレジットとともに流れるのは、かつてのランボーたちの映像だ。ランボーは一貫してスタローン自身により演じられているが、「たち」と言いたくもなるのはどうしてだろう。役者の時間を借りて積み上がる時間の一方で、彼は毎回殺戮へと放り込まれる。逃れたくとも逃れられない、作品の中で生きる宿命が描かれ続けている。その宿命的な繰り返しが、ランボーをランボーたちにしているように思う。上映のたび、再生のたび、放り込み直される姿を、観客の誰しもが覚えているし、そこへ放り込むのは自分たちだと思い知らされる。エンドロールの寸前、重症を負い、ロッキングチェアーに体を預けたランボーの姿に、ようやく彼には本当の平穏が、作品の終幕によってやってくると安堵した。
しかしエンドロールの最後、モノクロの映像の中で、よろめきながら馬にまたがり、荒野を去っていくランボーの姿が描かれる。こうして、この一連の出来事ですらも、彼が放り込まれた繰り返しの一つに還元されてしまう。この最後の最後の翻意がなければ、ガブリエラの犠牲はスタローン一人のものではなくなったはずだ。観客がともにそれを負い、終わりにすることでランボーをより大きな連作の輪の中に閉じ込めることができたはずだが、それはランボーを自身から手放すことでもあり、スタローンはそれができなかった。
一度重い犠牲を払ってしまった今、積みあげた時間の力はもう使えない。一方、老齢のスタローン自身がこれまでと同じだけの時間を積みあげることはおそらく叶わないし、それを望んでいないのかもしれない。本作は積みあがった時間を手放した。それは大勢の中に登場人物として生きることではなく、自分の中だけで生きさせる選択ではないだろうか。次作があるという噂もあるが、どうなるにせよ、ランボーの一時退場は、積みあがる時間から、よりピュアな繰り返し―積みあがらない時間への移動のように思えてならない。ランボーはスタローンだけのものにこれからなっていく。その点で、近年の続編やリブートの傾向とは真逆の作品のあり方ではなかったろうか。
③『ワイルド・スピード/ジェットブレイク』(2021)と不在の耐えられなさ
一作目『ワイルド・スピード』(2001)の頃は一介のストリートレーサーだった主人公たちが、ボンドカーばりの特殊車両にまでカスタムを極め、アメコミヒーロー級のアクションをドライビングテクニックで実現する大作にまで膨れ上がったシリーズ本編9作目。突っ込む方がヤボな娯楽大作シリーズだが、本作で20年を迎える長寿シリーズでもあり、その時間の積みあがりが異様な質を生みつつある。
3作目までは一般的なストリートレースの範疇に留まっていたが、4作目以降は大作化が加速し続けている。20代だったキャストたちは、変わらず続投し続け40代を越えている。作中で結婚や子育ても描かれ、変化していくことと向き合う姿が世界崩壊の危機と並行して描かれる。その帰結はいつも、(血縁によってではない)ファミリーを持続することの挑戦と達成、その証としてのバーベキューシーンで締めくくられる。20年経ってなお繰り返されるこの展開は、作品内外それぞれがそれぞれを補強していくように作用している。育まれたファミリーの絆は循環している。
ファミリーの物語は、ファミリーに拠ってしか進まない。世界の危機はバーターで、彼らはファミリーが脅かされることで動く。5,6作目にまたがる形で、亡くなったと思われた主要人物が実は生きていた、という展開があり、この7作目で葬送される人物もまた、本作で復活を遂げることになる。それ以前も主人公たちが奮起する燃料は、ファミリーの死であった。いっぽう、ファミリーはファンダムからの人気も根強い。危機に晒しながらも生かさないといけない、しかし起きている自体は生き延びるには困難なものばかりだ。結果的にだが、一度死人を生き返らせた経験から、このシリーズでは様々なかたちでファミリーもヒールも復活を繰り返すことになる。
しかし、オリジナルキャストにこだわり、ときにヒールですらもファミリーに組み込みながら拡大的に持続するシリーズは、主演のポール・ウォーカーの事故死を経験している。シリーズ7作目『ワイルド・スピード/スカイミッション』(2015)の収録中のことであり、この作品はポール自身、そして彼が演じたブライアンとの別れを描くものになっている。『スカイミッション』の序盤、暗殺されたファミリーの葬式で、ブライアンに向かって一人が「もう葬式は嫌だ」と語るシーンがある。ポールの死去を受けて追加されたセリフとも思えるが、撮影と事故の前後関係は明らかにされていない。逆説的に彼の作品外での死を思わせるし、作中では死ぬことはないのだと安堵させられるセリフでもある。
しかし、彼はもういない。シリーズが続くとて、彼が撮影に参加することは二度とない。『スカイミッション』の収録後半は背格好の似た彼の弟たちを代役に立てて、過去作からの映像を合成することでシーンを成立させているそうだ。合成された顔は、(撮影当時)12年間の積みあがった時間を直接的に想起させる。その顔は、そのときの顔なのだから当然だろう。どこかピントの合っていないような奇妙な感覚を覚える合成は、彼の不在を言外にも理解させる要素となっている。
戦いが終わり、海辺でたたずむファミリーたち。いつもの向かい合うバーベキューではなく、妻子と戯れるブライアンを少し遠巻きに皆が眺めている。ファミリーではなくホームを得たブライアンにさよならは言わず、ヴィン・ディーゼル演じるドミニクは回想の言葉を語りながら一人車を走らせる。信号待ちをするドミニクの隣に追いつくブライアン。それぞれが乗る車は、一作目のラストでゼロヨンに挑んだものと同型車両だ。同じ構図で窓越しに見つめ合う二人だが、ブライアンの顔は12年前の一作目の、まさしくそのシーンから移植された表情なのだ。再びアクセルを踏む二人、次々とこれまでの作品からのインサートが現れる。「お前は永遠に俺のブラザーだ」というドミニクの言葉ののち、二台の道が分かれていく。遠くへ消えていくブライアンのスープラ、そしてFOR PAULの文字。
ストレートな別れの表現だ。しかし、もう一度初めから再生すれば、ここまで来ることができる、という希望もある。ブライアン/ポールの表情が、わずかに一作目から遠くまで来てしまったこの7作目までをつないでいる。積みあがっていく時間に伴走し続けることは、いつか作中の流れとは無関係に終わりがくる危機を抱えている。悲しいことではあるのだが、『スカイミッション』における作品を挙げての見送りは、今後多くの長寿作品が直面しうる状況への応えの一つになってしまった。
そしてその後もシリーズは続き、本作に至る。本作は、ポールが持っていた10作構想を控えた作品にあたる。20年を迎え、強固になりすぎたファミリーを揺さぶれるのは、血縁のある家族くらいしか残されていない。隠され続けてきたドミニクの弟の存在が明らかになり、彼との戦いでファミリーが再び危機にさらされる。
本作でもブライアンの存在は、セリフの端々で登場する。なぜ彼がいないかの作中における補足がなされるが、一方でファミリーの一人であるドウェイン・ジョンソン演じるホブスの本作からの突然の不在は作中で一切語られない。ドウェインとヴィンの確執はゴシップとして取り上げられており、彼が9作目以降の出演を拒否した結果だと明らかになっている。つい先日も確執の続報があったが、明確に10作目の復帰もないことがドウェインから明言された。現に亡くなった者は語り続けられ、去った者はいないことになる。この奇妙な事態を意識してしまうのは、本作の端々で、積みあがった時間と積みあがらない時間の軋轢があるように思えるからだ。
たとえばファミリーのお調子者ローマンは、序盤の戦闘シーンのオチとして、落ちて来た戦車に潰されたかと思いきやすぐ後ろに立っていたから死んでませんでした~というギャグを披露する。バスター・キートンばりの古典的なアクションギャクであるが、その後のシーンで、ローマンは神妙な面持ちでファミリーにこう語りかける。
「俺たちは何度も世界を救ってきた。空も飛んだし、潜水艦とも、戦車とも戦ってきた。普通ならとっくに死んでいてもおかしくない。だけど俺たちはみんな無傷だ。もしかして俺たちは…スーパーヒーローなのか…?」(うろ覚え。特にオチ)
ファミリーに一笑に付される言葉だが、死人が何度も生き返る演出の繰り返し、それを自己言及的に扱った先述のアクションギャグのあとでは、この言葉は使い古された自己言及のセリフとは言い切れない不安感がある。何より、この作品はその時間の積みあげの中で、ファミリーの一人を現に失っているのだから。
タイトルがアクションのクライマックスを説明しているのが本シリーズの特徴だが、本作では旧車にジェットパックを搭載して、ついに大気圏を超えてしまう。宇宙仕様には見えない手作り感あふれるディテールの集積したカスタムカーもとい宇宙船でローマンは言う。
「俺たち、宇宙にいる。嘘みたいだ」(全体的にうろ覚え)
いない人がいて、いる人がいない。作品内外のさまざまな不在が混濁した本シリーズの歪みが、端的に現れたのが本作と言えるだろう。現れてしまったのではなく、その歪みをフィクションの中に向けてではなく、現実の世界に向けて放とうとしている、のかもしれない。
『マトリックス』(1999)や、その前後の系譜をなす作品たちが世界とその認識に揺さぶりをかけてきたように、半ばなし崩し的に『ワイルド・スピード』は現実を揺さぶりつつある。ポールの死去で閉じえた作品世界を、ヴィンはあと少しだけ続けることにした。一旦閉じて、あとは時間を積みあげず、ただ繰り返していくということも可能だったのだ。しかし、ヴィン一人で抱え込むには、このファミリーはあまりに大きくなりすぎていた。持続するには広げ続けるしかない本シリーズだが、すでに歪みが明らかな今、登場人物には自身を疑うことなく最終作を乗り切ってほしい。多くの長寿シリーズやリブートものと異なり、一作ごとの間隔が空いていないことも本シリーズの特徴だ。役者と同じくらい、実際にあなたは時間を積みあげている、と言ってやりたい。
どう考えても考えすぎなのだが、映画館でとても不安な気持ちになったことを時たま思い出す。
***
結局のところ何を考えたいのかまだクリアにはなっていないが、時間をどうこうしたいという欲求の現れをフィクション、特に映画を通じていつも考えているのだとは思う。鑑賞に際して流れる時間と作中の時間がずれざるをえない映画という形式が、実際に積みあがる時間の力を借りてこれまでにない感慨を引き起こしている現在の状況がある。観客にとって、時間が積みあがることこそが現実味のないことになってきている、ということかもしれない。娯楽映画であればあるほど、そこには自分も含む同時代の人々の抱く時間観が現れるような気がしている。
ここまで書いてきた関心をより複雑化したとも、それにより解決する一つの方法がMCUに代表されるユニバース形式とも言えるだろう。『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』(2021)でユニバース形式は、マルチバースという作中世界の説明も伴うようになった。今ここではない時間や空間への飛躍と接続が時代に欲求されていることのよく現れた映画だった。
マルチバース(他の世界線)からヴィランやスパイダーマンが現れる度に興奮は高まるが、この構造に求めていたものが連続するのはやはり終盤だった。トム・ホランド演じる最新のスパイ���ーマンがついに経験する親(的なる人)の喪失の悲しみに、何年も早く経験してきたトビー・マグワイアとアンドリュー・ガーフィールドが自分たちも同じ悲しみを知ることを吐露するシーン。『アメイジング・スパイダーマン2』(2014)でガールフレンドを抱き止めきれなかったアンドリューが、本作ではトムのガールフレンドを間一髪で抱きとめる。余計なセリフもなく、尺をいたずらに延ばすわけでもないこのシーンはマルチバースでしか実現しえなかったことだった。何度再生しても、アンドリューは彼女を救えない。アンドリューにとって一度の経験であっても、その事実が繰り返され続ける映画というメディアにおいては、喪失は永久に繰り返される。役者の演技であっても、あれから何年もの時間が経ったこと、『アメイジング・スパイダーマン』シリーズが2作目を持って打ち切られたことは、シリーズとして積みあがっていくはずだった時間を空転させていた。それは役者にとっても、観客にとっても苦しい側面もあったろう。
本作の良かったと思えることの一つは、本作がシリーズをまたいでこのシリーズを愛してきたファンにとっての夢でもある一方で、そのマルチバースすべての救済を願ったのはスパイダーマン本人でもあるということだ。トム・ホランド演じるピーター・パーカーは、マルチバースからやってくるヴィランたちを治療して元の世界へ返そうとする。その結果、事態は一旦悪転していくが、最後にはその理想を完遂する。ピーターのいる世界に貢献するための召喚ではなかったから、ピーター2も、ピーター3も新しい時間へと進んでいくことができた。そしてこれは、積みあがらない時間を前にして、その繰り返しの中で、映っていないものを観ようとしてきた観客によって成立している。
鑑賞は、映るものと同時に映っていないものも観ようとしている。たとえば登場人物の不在は、映っていないということを最も強く意識させる要素の一つだろうし、起きなかったことや逆の結果というのも然りだ。現実に積みあがっていく時間を導入することで見えなくなる映っていないものはなんだろうか。現実の人の生き死にに重ねすぎるのでもなく、かといってフィクションへの奉仕としてその生死を軽んじるのでもなく、どうすればそれをよく見ることができるのだろうか。
補遺
・『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』(2021)のアンドリュー/ピーターによるMJの救出に、『スーパーマンII 冒険篇』(1980)でのスーパーマンによるヒロインの再救出を思い出す。当作では、(たしか)大勢の救助とヒロインの救助を選ばされたスーパーマンが大勢の救助をした上でヒロインの救助に向かうが間に合わずヒロインは死んでしまう。悲しみに暮れるスーパーマンは地球の外周をを光速で逆回転し始め、時間を逆行し、ヒロインを救助する。細かい説明のない描写だが、雄叫びと光速の逆回転、そして救出という一連の流れは、一本の映画の中の一部で起きる分、瞬間的な感動を引き起こすに留まるが、再度選べるということ、結末は変更可能であるということが喚起するものは強くある。しかしいま僕たちの時間感覚は、一本の映画よりもユニバース的なものを求めているのだろうか。
・スーパーマンを演じたクリストファー・リーヴの主演作『ある日どこかで』(1980)は、純粋なループではなく、マルチバースをまたいだループものと言える。言外の説得力を生む描写、作品内外に積みあがる時間、マルチバースをまたぐ救済、といままた見返したくなってきた。以前の雑記 ・『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021)は、エヴァンゲリオンシリーズ自体がそもそもしてマルチバース的であり、庵野監督自身と分かちがたい作品であることなど、同時代の様々な作品のそこここに共通した意識が見つかるものだった。いわゆる「考察」に乗れないのは、作品内世界にその関係性や根拠を閉じ込めようとする・あるいはその中でしか結ばないものが多いからだ。エヴァ考察はそうした閉塞が起きやすいものの一つで、作品内世界としての説明の整合性ではなく、作品内外をまたいだオブジェクトとして捉えられるべきものなんだろうと思う。だからこそ、アスカが14歳ではなくなり、地球に再び着陸した様子を見られて、作品内に終わりが設けられたことに本当にホッとした。帰るべき場所に帰るというのはそういうことか。
・まったく話に沿わないが、永野護先生の『ファイブスター物語』が完結するのか(どういう意味で完結と呼べるのかも分からない)が改めて不安になってきた。作者と世界が分かち難いという、恐ろしい制作。
・長寿シリーズでおすすめがあれば教えてください。オリジナルキャストがある程度続いているということが、事態を複雑にしていると思うので、『007』のように役者が入れ替わるタイプのシリーズではないもの。
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guri-archi · 4 years
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時間を聴く 耳骨から頬骨
耳骨の小さなでっぱりの右側、耳の穴の手前の窪みに銀の小さな球が引っかかる。球から伸びた直線は盆地のような耳の皿から逃げ出すように、円弧で、静的に曲がり、下方へ向かう。まっすぐと耳とは無関係な形で落ちていく直線は、耳の縁と接触し、もう少し下ったところでまた曲がり戻る。耳の裏へ線の先は消えている。 耳の縁、すぐ隣にはあまりに細やかな鳥の羽、丸まったその形が、耳たぶをくるりと囲む。その羽と線もまた、少し接する。羽の細やかさと、線と耳の抽象度の落差に、目が離せない。 羽の左に残るわずかの耳たぶは頬へつながり、するりと下っていく線は頬骨でわずかにカーブを切っていく。耳骨の小さな膨らみと頬骨のカーブは無関係なように並び、しかし繋がる。 もらったとき実は全然気に入ってなかった、と言われたその小さな丸まった鳥の羽。買ったとき、なにかに躍起になってガラスケースの中を覗いて回っていた。ぐらぐらとする頭で、気が遠くなるような暗闇でする会話を思い出しながら、歩き���っていた。金を使って何か物を得ることでしかなにも言えないのか、とも思う。尽くせない言葉や示せない態度、の替わりにもならない。いつも思い出していたのは、好きではないといっていた頬骨、から耳骨にかけてのゆるやかなカーブ。カーブというにはあまりに面であり、言葉をあてようのないその形へ。そこにあてがわれる言葉をいつも求めていて、見かけては買う。それらは、そのゆるぎない形に言葉を与える。取りついたそれらで、何度も言い直すようにその形を祝福する。その耳をいつも見ていた。 空間を見、時間を聞く。まだ読み終わらない本で、私たちを通り抜けるのではない時間が、語られている。役者をヒンジにしてずれながら繰り返され、立ち上がる時空間を二人で観た。よく二人で行った、チェーンのファミリーレストランで、目にとまるのはやはり耳の骨、と、頬の骨、の間。時間の形だ、と思った。くるりと丸まった羽、最初から丸まっている羽。今頃はもう、外されて寝かされているであろう羽。直線と並び、はじめてその羽のその丸まりが、ほどけるときが来るかもしれないと感じた。凝視する。し続けるには。
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guri-archi · 6 years
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思い出の複線化
祖母は孫である私や弟の交友関係をよく覚えている。従弟がアメフトを始めた話から、誰それくんというアメフトやってる同級生がいたやねえ、とか、街の話をしているとどこどこに住んでた友達がいたやねえ、など。 結婚して、妻が東北のとある街の出身であることを聞いた祖母は、半世紀は昔にその街へ幾度か訪れたことを引き合いに出してえらく喜んだ。これもご縁だねえ、とのこと。
この感慨はとても重要で、いま知ったことが過去を書き換える、というより書き加える。あの日訪れた街のどこかで、私の妻の両親(教員だった)は授業をしていただろう。当然妻は生まれていないし、私も無論。それでも、いま少しだけ身近になった誰かがあのときあそこにいただろう想像をすること、時間・空間が突如複線化することは愛おしい。素朴にその作用の素晴らしさを祖母と話すと感じる。
いつも私たちを交えた食事会をした後、祖母は「夢のような時間だったわあ」と言って帰っていく。思い出になる速度が早い、と思う。しかしそうして、ストックされていった時間は、いつかまた別の過去とひもづく種になるのだろう。思い出にせず、何かを愛することなどできないのかもしれない。
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guri-archi · 6 years
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祖父Gの見送り
暗い山道を走る車のハンドルを握るのは髪の短い若い女性で、それは18歳の祖母Bだ。免許を取った日、教官がこっそり教習車を貸してくれた。これが初めてのドライブで、どこか山へと向かっている。高揚する気持ちと緊張感がその面持ちから見て取れる。
客入れ前なのか、モーターショーの受付の中で、受付嬢と営業マンが談笑している。それが付き合っている頃のBとGで、何を話しているかまでは分からない。遠くにトヨタの新車が見える。
縁側に座るGが腕を回すのはワンピースを着たおかっぱの女性で、それはBではない。姉妹でもなく、恋人でもないはずの彼女は一体誰だろう。
そして水着の女性が三人、海水浴場で笑っている。三人とも笑っているが、真ん中の女性の笑顔には恥じらいも感じられる。真ん中のBとその手前のGの視線だけがファインダーを越しに繋がっている。
僕の生まれた時からBは少し伏し目がちだ。Gとのファインダーを通さないやり取りが、Bに下を向かせたのだろうか。Bはいつしかハンドルを握らなくなり、時間はゆっくり重く流れるようになった。それでもファインダーを通すときは、時間がすっと流れる。二人を通り抜けた時間が、アルバムに残っている。
先日、Gを火葬場へ運んだのは、クライスラーだ。長年乗り継ぎ続けた愛車と同じ、クラウンはなぜかやって来なかった。違う車の助手席で、Bは前を向いていた。
18歳のBはただ一人、誰の眼差しも受けることなくハンドルを握っている。gifのように、車は揺れ続けてどこにも辿り着かない。見たことがなくしかし他の写真のように鮮明に思い出されるその車中は、いつかのGへ、そして娘や孫に向かっている。その教習車がトヨタ車だったらどんなに良かったろうか。
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guri-archi · 8 years
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161113_返却する本のメモ
借りていた穂村弘/山田航の「世界中が夕焼け」を返却するので、引いた線の箇所を転記(ボールド)。参照を除いて、歌そのものは抜いておく。あとはメモ。01 MとRの音が多いな、なんて意識していないわけだけれど、意識下で、この響きを感じているらしい。 現代俳句を調べていた頃、気になる句はまさにこういうものばかりだった。音と、あとは漢数字が想起させるボリューム感。
03 飛べないものがカブトムシの真似をする、というふうじゃないと叙情が成立しない 良くも悪くも、実現しないというところに叙情は生まれる。反戦論者こそ潜在的には戦争を望んでいる、という指摘も同時に思い出す。
04 自分たちの世界を脅かしてくる仮想的として「間抜けな侵入者」である警官の存在をでっちあげ、二人で手をとって逃げ続けることで自分たちだけの世界を必死で維持しようとする。 ドーナッツの穴という自覚をするならば、ドーナッツを作らないといけない。
<<回転灯の赤いひかりを撒き散らし夢みるように転ぶ白バイ>> 後述のラヴ・ハイウェイの最後の歌と同じような感慨がある。希望がある。
05 この並びじゃないとダメ 正しさとかではなく、でも確かにそうだと思える説得力。ジョーズ3に説得力を生んだ画面構図の話。現れそのものがトートロジー的に自身を補強する。
06 全部カギ括弧に入っていて、発話者が宙に消えて声だけが残っているようなイメージ タブッキの自由間接話法ともリンク。正確には発話者が消えるというより、発された言葉の向こうに行ってしまう感じ。述語が語り、主語が語られる。
07 自然物である卵の形に合わせて工業製品が作られているっていうことになんか妙な面白さがある。 当たり前じゃん、と一瞬思ったけどそうじゃない。これは妙。
フィットしていれば、その世界を異化しようという衝動って起こらないと思うんです。 異化するためにフィットしない枠を用意する、というプロレスもある。
08 自分の中の生理的なメイン、歌のメインは、あの便器に黄緑の玉が転がっているとか、卵置き場に涙が落ちるっていう、その人生的な意味の介入を許さないほうになる。本当にその意味性の介入を憎むのであれば、そちらにしか活路はない。 いまだに文を理解しきってないけど、なんとなくそう思う感じする。
出産後に、友だちが初めてお見舞いに来てくれて、その時、友だちがエリカの花を持ってきてくれて、その赤ちゃんが初めて見た花がエリカだったからえりかという名前にしたみたいなエピソードを聞くと、非常に腑に落ちるというか、そういう偶然性ですよね。それは、まさに祝福じゃないですか。そうすると、その子はそのあとエリカの花を見るたびに、自分が祝福されてこの世に生まれてきたっていうことを追認するということになる。人間はやっぱりそういう偶然性に守られないとまずいと思うんです。 これは作ること全てに通じていると思うし、そもそも人間がそうだから、という納得。
もともと人間はいつ死ぬかわからないという、最大のマイナス条件を呑まされてるわけで。でも、それが人間のすべての意味性を支えていて、それが輝きや尊厳をやっぱり支えているという構造がある。 これも同上。
09 <<バットマン交通事故死同乗者ロビン永久記憶喪失>> このあとの解題もよく分かると同時に、この文字の並びが言いたいことをガッと伝えていることに凄まじさを感じる。
10 「オール5な上に弁当がサンドイッチなんだってよ」 “な上に”という接続が最高。
11 パラレルワールドのもう一つの世界ではいまだに辻君のまま、その銀盆に映され続けている自分というものがいたはず パラレルワールドを具に考えた上で、それでも今いる世界線を肯定できたらよいのだけど。
13 単に一行の文字として読むよりも、これが三十一音ピッタリで、意味と音の関係はメチャクチャで、そして最後の一音が「死」だということを意識してほしい 穂村さんの短歌、声に出して読むの難しい、と思うこと多いのだけど、この段読んで短歌なんぞや、というところが少し上書きされた。buildingではなくarchitectureなんだな、という感じ。
17 それとは別に自分の価値を生成しないと、社会は自分にお金をくれないし、女の子は自分に愛をくれないし、そのスキルや価値が証明されなくても無償の愛情をくれるのは親だけだから、それは邪魔なものに変わるでしょう、ある時から。自分を守っていた引力圏が今度は邪魔なものになる。 根本的に穂村さんの女性観に共感するので、母親考も読んで納得。
この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。 同上。
18 生きてなくても誕生日はあるだろう。僕が死んだあとも、五月二十一日は僕の誕生日だろうっていう。その永久欠番性 主観的にしか世界を捉えられないという限界と、でもそれが主観を形成する自分のいなくなった後も続くのかもしれない、という期待。期待するには他人を信頼する必要がある。
一回生まれたら、死んでもいなくなっても、その人が生まれなかったことにはならない。消えないってことですね。 人間というか生命がそもそも持つ否定しがたい前提。Five Star Storiesはこの前提が作中のあらゆる物事に染みていて、だからこそ生半可ではない感動がある、と思う。タブッキのユリイカでも最近こういう引用文あったのを思い出した。
21 女性の愛を推進力にした宇宙船 あったらいい。
24 外は見渡せるけれど、見える風景は退廃していて、外へと出ていく意義を感じない “汚れた血”のアジト。秘匿されるべきアジトはガラス張りで外から見えている、が、見えていないかのような振る舞いが行われる。アジトにいて計画している時間が最も甘美なのでは。
27 とても良い歌だった。一方、これが1990年の歌であるということについて、穂村さんと同世代の人に感想を聞いてみたい。僕がこういう情景を思い描けるようになったのは2000年代なので、どうしてもこれは2000年代の歌のように感じる。普遍性がどこにあるのか。
32 「皇居のコンセント」 すごいタイトル。
35 誰にも見られることのない行為。自意識が抜けきった場所を建物の中に組み込みたいと常々思う。
36 <<あたたかいマツモトキヨシの返り血を浴びておまえもヘルシーになれ>> こういうのに昔から弱い。
42 徒労って神様にはないゾーンなんですよ。 明後日の方向へフルスイング、みたいなことがクオリティを生む気がしてる。
物語の本筋とは別に関わりがないし、「嫌な歌だぜ」と言わせるためにわざわざ峰不二子に歌わせることは意味がないわけだけど、だからこそ、すごく意味を感じる。 映画でもなんでもぐっとくるときは、鶏卵の関係がある。ルパンの例とはもう全然違うのだけど、ある動作のために場所を立ち上げるのか、ある場所があったからその動作が生まれるのか、来歴がどちらとも取れる関係性。
49 「これでいいのだ」ってバカボンのパパの決め台詞がありました。あれも「これでいいのか」って不安が偏在しているからこそ成立するわけですよね。 Aと非Aの関係。
50 「褪せた写真のあなたのかたわらに飛んで行く」 誕生日の歌とはまた違う終わらなさへの希望。戻ることもまた、進むこと、なぜなら自身が前に向かっていることには変わりがないから。というMAD MAXシリーズからの学びでもある。
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そしてもう一冊借りていた同じく穂村弘の「ラインマーカーズ」は、線を引いていないけど最後の歌だけここに。オチを書くようだけど。
きらきらと海のひかりを夢見つつ高速道路に散らばった脳 (ラヴ・ハイウェイ/2003)
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guri-archi · 8 years
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藝大藤村研ゼミ旅行の感想文
かれこれ一月前に同行させてもらった藝大藤村研ゼミ旅行の感想文。
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15時広島駅集合のち、駅前のマツダスタジアムへ移動するところからゼミ旅行は始まった。試合内容は藤村さんの実況も盛り上がったカープvs巨人の3連戦初日。仙田満氏の設計は「座席が全方位を満遍なく等質にカバー」といった古来からの形式とは異なり20を越えるバリエーションの座席が様々に並び、非日常である試合・飲食など副要素を並べたコンコース、日常である外部(新幹線の駅前減速も数秒見える)がそれらの裂目から見え隠れする形式である。この要素の並びによりスタジアム内の球宴が周囲の山なりインフラなりと対照に見えてくる。
こういった変形は野球というプログラムによるところも大きい。球が打ち上がった高揚が落下とともに落胆の声に変わるシーンからも分かるように、野球は伸縮する時間が分かりやすく内包されている。共感する余地が硬球の滞空時間にもターン制にも仕込まれている。試合以外に気を取られても構わない時間的余地が、コンコース店舗の充実化を実現できる。また野球というスポーツは非日常でありながら試合数が圧倒的に多いことである意味日常的でもあり、一回生と反復性の共存が強く感じられる。裂目を介して見える周囲の日常は、内側の野球の日常性により非日常へ反転しうる。特異な施設は周囲をまた異化して見せる。周辺コンテクストにより形式を歪めるが、その形式が抱えている性質をむしろ強調する、という状況とも言える。まさにスタジアムのポストモダンといったところか。
試合開始までは建築議論もありつつ、そのときどきでとにかく楽しい建物と感じた。じっくり見学した仙田建築は野中保育園のみだが、ここまでスケールが異なっていても共通したクオリティが達成されていることに驚く。回遊する中ですでに経験したあるいはこれから経験する場所が垣間見え、建物が様々な形で身体に建築として経験されていく。一方細かい納まりの観察も面白く、ローコスト由来の配管処理や錆止めえんじ色(カープカラー!?)など、リノベブルータリズムを経験した建築界だから肯定的に扱える意匠も散見された。一方気になったのはこのスタジアムのショッピングモールとの近似である。普段はランニングコースとして開放されたり裂け目を持つ設計がもたらす外部との連続が認識として感じ取れるものの、経済効果を伴った影響が施設の外にどれほどあるかは読みきれない。すでにショッピングモールが抱えている地域的問題が存在している以上、この建物も乗り越えるべき課題を内包しているのだろう。なんでも広がればよいわけではないが、広島ローカルにおいてハ��たる建物だからこそより発展的な姿を見てみたい気持ちになってしまう。
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長時間の試合観戦後は深夜の平和記念公園を訪問した。僕自身は15年ぶりの訪問になる。夜の平和記念公園は慰霊の灯火とライトアップされたドームが輝くのみで、軸線をこれ以上ないほどに強く浮かび上がらせていた。翌朝の式典後は原爆ドームを改めて近くで見回したが、丹下の引いた軸線は象徴たる対称なプロポーションを示すのが建物本来の正面とはずれた角度であることを発見しており、ドームに埋め込まれた情報を来訪者に突き付ける役割を担っているのだとようやく感じた。情報とはつまり、かの施設がドームであり完全崩壊を免れたという物理的な要因、その直上付近で原爆が炸裂したという偶然、結果的にあらゆる物事がはまって象徴になってしまったという経緯であり、広島に降りかかった出来事の暴力性のこのモダニズム的象徴性を更新するのが、三分一博志のおりづるタワーである。事業主であるマツダの社長曰く、復興した広島を見ることで平和に改めて思いを馳せてほしい、とのこと。ここで対象とする象徴は単一の建物ではなく街並みそのものに拡張している。これが一定の時を超えた現代だからこそとりうる我々の態度だ。浅草の観光センターが、浅草寺の軸線を見下ろす視線を獲得したように、おりづるタワーもまた原爆ドーム側から平和記念公園を見通す。メタな視点をベタに感じさせるのがモダニズムならば、メタをメタなままに眺めおろすことがポストモダン以降の我々の振る舞い方のひとつと言えるだろう。しかしその態度をとる身体性はやはりベタであり、そこには見下ろし眺めるというベタな認識行動が存在する。その点、おりづるタワーはよく練られた設計であることは間違いない。緩やかに傾く展望台の手前には短い階段がありその眺望展開を印象付ける。またむくりのついた天井ルーバーは外観を軽やかにするのみならず、その開放感を強めるのに一役買っている。ハイサイドのミラーは広島市を取り巻く山々を映し出し、確かに存在する現在と変わらなかったであろう風景を印象付ける。爽やかな風の抜けるそこは平和を眺めるに相応しい空間であった。
ところでおりづるタワーの見学前に資料館も見学したのだが、15年前より強く恐怖を感じたのは火球の模型である。ボソボソと荒廃したジオラマと、つややかに赤い球体の対比。スケールが容易に想像できるようになってしまったいま、一番ぞっとするのはこの眺めだった。はるかに低い高度ではあるものの、おりづるタワーは炸裂点付近を見渡せる一室を設けている。そこはガラス張りの一室で、静かな小部屋であった。炸裂点の下にはその所在ゆえに有名になってしまったごく普通の病院があるが、その付近が雑居ビル街の裏通りでガラス越しでも賑やかな表通りではないことは伝わってくる。想像するほかない隔てられた時空間との対峙を支えるのは小さなキャプションだけである。しかしガラスがなければどんなに空虚なスペースだっただろうか。商業建築らしい楽しげなタワーに差し込まれた一室は、やはりまた現代らしい慰霊の提示だと感じた。
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その後青木淳の三次市民ホールも見学したのだが、いまだ文字に起こしづらい感触も多いため別の機会に感想を述べたい。 一点述べておくならば、青木建築は人の認識力を信じているだろうことであり、だから公共建築においてレトリックの集積が使いうるということか。
もたもたしていたら奇しくもカープ優勝の晩にアップロードすることになってしまったが、ゼミ旅行もまた熱い時間であったことを記しておく。ソフトがありハードがある一方ハードがあるからソフトがある、という鶏卵関係が当然あり、時代と建築は映し取り映し取られる関係であることが再確認された。建築は太古から同時代を映すメディアであり、また一方その場での経験を歴史的に更新する推進力でもある。熱狂に包まれるスタジアム、ささやき声だけが聞こえる平和記念公園とそこを見下ろすおりづるタワー、防音ガラス越しに吹奏楽を眺めた三次市民ホール、そのどれもがビルディングタイプを媒介に現在の市民と歴史を接続しておりそれは建物だからなせることだった。メタも含めた建物の有り様は、どのような形であれそこで過ごす人に作用できるのだと感じられる27時間の旅であった。
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guri-archi · 8 years
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「特定と匿名の個人に向けて」
一昨年の秋に中学母校の10周年式典で、一期生として10分のスピーチをする機会があった。 詳細は省くとしてそこでの骨になったのは、 「自分自身のかけがえのなさと代替可能性」 についての話であった。
どういうことかと言うと、局所的な目で見れば自身は自身でしかないものの、 歴史的な目で見れば、同じような履歴をたどる同じような立ち位置の人間は多数いる(た)、ということだ。 この話は僕の地元がマイルドヤンキー性にあふれる地域であること、、 外へ出たがゆえに自分の特質(だと思っていたもの)はありふれたものだと気づいてしまったことに由来する。 中学生相手のスピーチだが、その矛盾を自覚した上で自分が何者でありたいか、を投げかけたつもりだ。
ところでよくよく考えれば、オンリーワンでありたい気持ち(と自身の普遍性≒代替可能性?に目をつむること)は、 僕の地元に限った気分でもなくいまの時代が抱える共通したものなのだった。
そしてその気持ちが、いまの建築を取り巻く状況の根っこと思っている。
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新国立競技場が揉めに揉めて結構な時間がたつ。 一部の物言いとは言え、さまざまな言説を見ていると気が滅入る。
大きな物語が掲げられない時代、ガラパゴス化していく文化、、、多くの物言いはあるが、 ある様式に乗った上で多様さを示すのではなく、多様さが多様さそのままに示せるのが現代の良さと思う。 しかし、多様さが認められるのならばなぜ「建築家」の作る建物はここまで非難に晒されたのだろう。
こと競技場については多くの要素が絡んでいるが、建物についての話へ解像度を落としてみると、 大きな物語の不在、はそのままスケールの問題に置き換えられる気がする。 多様さ(かけがえのなさが乱立する状態)は、ヒューマンスケールに留まるようになった、 つまり、我々は我々以下の事物に対して多様さを認められても、 自身を超えるスケールのものには寛容でいられなくなってしまった、と言えないだろうか。
スケールとは、寸法であり、時間であり、権威である。(たぶん他にもある) 建物はその多くを備えた物質である。 そう、単に、建物が人に対して大きいから起こった問題かもしれない。
自身を超えるスケールは、自身を匿名の個人に還元する力を持つ。 例えば公共施設の前には、我々は「市民」という解像度に落とし込まれる。 かけがえのなさを享受するようになった結果、我々は自身の代替可能性と向き合えなくなったのではないか。
そんな空気を読んでかいざ知らず、 一建物の内部に多様さや複雑さを組み込もうとする動きが目立って久しい。 僕自身も学部の途中から「理解可能な複雑さ」を設計のベースに据えるようになった。 事務所で3年のうちに担当したどの物件や展示もそのつもりでやっているし、 ボスの言説に影響されたとも、自分から出てきたものとも、そのどちらでもあるように思う。
能動的な態度であると同時に、時代の気分を掬い取った結果のスタンスだが、 そうまでしても、設計主体としての主語が見えることを許容してもらえない息苦しさはやはり感じる。 都市スケールの多様さは、想像力の外に追いやられてしまったのだろうか。
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ザハ事務所が発表したプレゼン動画でハッとさせられたのは、 ザハ建築は強固なコンテクスチュアリズムの建築である、という気づきだった。 (解釈が誤っていれば恥ずかしいが)ザハの流体のような造形は、 その敷地を取り巻く人、交通、インフラ、歴史、等々のダイナミズムを引き受けたものである。 点としての建物を作る上で、周囲の流れを引き受けた結果があの流体なのだった。
動画を見ながら、アンビルト時代のザハ建築を考えていると、 僕は出身の藝大で同級生たちが掲示していたノーテーションを思い出した。 藝大生のノーテーションは、リサーチする自身の存在が非常に大きい。 私でなければ拾えないパラメーターを拾う定量化しづらいリサーチ、と言える。 同様に、流体の根拠たるダイナミズムの発見は、ザハ事務所という主語なくして生まれ得ない。
東京は多様さが許された都市であると思っていたが、どうやらそうでもないのが今らしい。 ザハ事務所という主語が提示しようとしたものは、都市スケールでの多様さに参画する前に、 匿名に戻ることへの多くの恐れに覆われてしまった。
(脇道に逸れますが) ザハ建築はXYZのユークリッド幾何学ではなく、別の座標系により設計されているそうだ。(聞いた話なので不正確かもしれない) 僕は、日本人は特にユークリッド幾何学の認識にはまっていると感じている。 壁が壁でなくなると…や柱が柱以外の意味を…など、崩しや外しの認識興味が色濃い界隈であり、 それは設計者のみならずユーザー層にも多かれ少なかれ共有された国民性ではないか。
そこから考えると、ザハの建築はユークリッド幾何学に根付いた認識では計れない部分がとても多い。 それがゆえに理解が進まない点も多々あるように思うし、そうだとしたら勿体無く残念でもある。
とはいえ、僕もユークリッド幾何学に根差した認識遊びをこよなく愛する人間なので、 数世紀後には化石と化す遊びだとしても、自分が生きている間はそのまま設計に勤しもうと思っている。 (脇道は以上)
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ヒューマンスケールを超えようとしない今現在、と仮定してみたが、そこまで悲観的でもない。 そんな今だからこそ、僕は建築にまつわる身体性を改めて考えるべきだと思っている。 ある場所に立ったとき気持ちいい、とかいった感覚を、その場のベタな体験に留めることなく、 より大きく長く広いメタの射程まで伸ばせる可能性がそこにはある。 頭が拒否するならばまず身体から訴えかければいい。
とはいえ建築が身体性に訴えかける一番の表現である建物は、その成立までに多くの手続きを要する。 それを踏まえて、今年プリズミックで・昨年AGCで展示した保育園の「仕上表模型」を製作した。 (詳細はボスの言説を読んでもらうのが早いが…身体性に訴えかける方法は建物以外にもある、という表明の一つでもある) 建物以外の表現に身体性を持ち込むことが今必要であり、それが結果として建物越しにメタへ接続する方法だと思う。
冒頭の小話のように、少なくとも僕は、自身を超えたスケールと接続することに価値を感じている。 身近な多様さが受け入れられるのならば、より大きなスケールにも寛容な世界であってほしい。 建築はその身を持ってそんな有り様を提示できるメディアであるし、 そうやって設計すること自体が多様さの一つとして受け入れられる世であってほしい、と最近は思っている。
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guri-archi · 9 years
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映画考-1 [ある日どこかで(1980)]
オールタイムベストを聞かれると答えに困ることが多い。 余程にひどい映画でなければ、様々な文脈で面白がってしまうからだ。
ところが新年早々、確信を持ってオールタイムベストの一つ、 と言える映画を観られたので考察を試みる。
ネタバレも何も、プロットを全て書かねば話が始まらないので、 前情報ナシで観たい人は鑑賞後に是非ご一読下さい。
A.懐中時計との出会い
まず手始めに、作品をおよそ三部に分けてあらすじを見直す。
(a) 1972年、脚本家志望の主人公リチャードは初公演の成功を祝したパーティーで、 見知らぬ老女から「come back to me」の言葉と共に懐中時計を渡される。 帰宅した老女はラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を流し、 リチャードの脚本を手に眠りにつく。
1980年、脚本家になったリチャードのオフィスにもまた「パガニーニ~」が流れている。 (劇伴は途切れなくこの二つのシーンを繋いでいる) スランプに悩む彼は静養のため車を走らせる道すがら、 グランドホテルなる古いホテルへ偶然たどりつく。
親切な老ボーイからホテルの案内を受けたリチャードは、 ホテルの資料室で美しい肖像写真を見つける。 エリーズという名の彼女は60年以上前に活躍していた女優であり、 その写真は1912年ホテル公演時に撮影されたものだった。
写真に惹かれたリチャードは彼女の半生を調べ、 1972年に懐中時計を手渡した老女こそがエリーズであると知る。 大学の恩師の著書「時の流れを超えて」が晩年のエリーズの愛読書と知り、 「come back to me」の意味がようやく明らかになる。
(b) 恩師のアドバイスに従い、リチャードはタイムトラベルを試みる。 タイムスリップ先の1912年の描写は割愛。 (淡い絵画のような画面は、現代パートとフィルムを変えて撮影されている)
障害を越えて結ばれた二人だが、ある些細なきっかけがリチャードを現在へ戻してしまう。
(c) あまりに唐突に終わった時間の思い出はリチャードを苦しめる。 何度試みても二度と1912年には戻れない。 様子を訝しんだ老ボーイによって衰弱しきったリチャードが発見され、 彼は薄れゆく意識の中で再びエリーズと出会う。
初めて同じ時間軸に二人は並び、歩き出す。 ラフマニノフに乗りエンドロールが流れ始める。
計っていないので分からないが、時間配分のイメージとしては、 (a):50分、(b):60分、(c):10分 といったところだろうか。 重要なのは、(b)で二人が困難を乗り越えるのが残り10分もない頃合ということだ。 この配分だけでも、作品の与えるインパクトは想像できるのではないか。 語られぬ物事の多さと唐突な幕切れに呆然とすることが、 作品内の三部構成さながらの鑑賞後体験に繋がってくる。
B.過去への旅
「未来で待ってる」なんて気の利いたセリフも言えずに現在に戻されたリチャードは、 冒頭の懐中時計以外に何をエリーズに残せたのか。
ただ一つ残せた手がかり、それが(b)中盤で現れる短い台詞だ。 湖上でボートを漕ぎながらリチャードは「パガニーニ~」を口ずさむ。 素敵な曲ね、誰の曲?と聞くエリーズに 、いずれ耳にするラフマニノフの新曲だとリチャードは答える。 コメディタッチの(b)の中盤でこれを聞くと、タイムトラベラーのささやかな悪戯にしか思えないし、 唐突な幕切れを知らない僕は、ああこれが二人の思い出の曲になるんだな、とだけ思う。
ところがラフマニノフの「パガニーニ~」は、1934年に発表された晩年の一曲だ。 グランドホテルでの逢瀬(出会いから別れまで実質24時間にも満たない)から、 実��20年かかってようやく世に現れる曲なのだ。
20年経ってようやく、エリーズはひと時愛した相手の鼻歌の正体を知る。 そしてそれからまた20年ほどたち、「時の流れをこえて」に出会う。 「パガニーニ~」をリチャードが口ずさめたことの合点がいくのはおそらくこのときだ。 そして何より、彼が懐中時計を持っていたということは、 手元に残された懐中時計を彼に手渡したのは未来の自分だ、ということに思い当たる。
いつかを待ち続けるエリーズにいつかがようやくやってきたのは、 60年が経過した1972年、冒頭のシーンだ。
この映画の伏線(というよりもはや伏点)は、映画を見終えて呆然とした僕らの中でようやく繋がる。 うっかり映画を観ている最中に涙しようものなら、それは残念ながら無知な浅い涙だ。 僕らが涙すべき物事は裏側に隠れていたのだし、リチャードはそれを決して知ることはなかった。
改めて、特権的な鑑賞者だからこそ流せる涙を流すために頭を使わなければいけない。
C.そして、ある日どこかで
タイムトラベル物が根本的に抱える矛盾を、この映画も解消できていない。
1980年にリチャードが映画の終盤で置いてきた懐中時計は、 1912年にリチャードが残した懐中時計を1972年にエリーズが手渡した(返した)ものだ。
つまりこの懐中時計がどこからやってきたのか、がタイムパラドックスだ。
一般に、タイムパラドックスを解消する概念には並行宇宙(パラレルワールド)が挙げられる。 劇中説明で並行宇宙が持ち出されるSFは少なくないが、この映画はあくまでメロドラマだ。 あっちにも僕がいてその僕がウンタラ、なんてくだりはもちろん出てこない。
しかし、この並行宇宙は確実に「ある日どこかで」にも存在している。 その仮説で持って書いたのが、このダイアグラムだ。 (LOOPがROOPになっている…)
Tumblr media
リチャードがいる宇宙を(n)として、戻った1912年は(n+1)という一つ隣の宇宙だとする。 (n+1)のエリーズは、(n)のリチャードが残した懐中時計を(n+1)のリチャードへ手渡す。 (n+1)のリチャードは、(n+2)の1912年でエリーズに出会う。
そう、冒頭に(n)のエリーズが手渡す懐中時計は(n-1)のリチャードが残したものだ。 (n)のエリーズは(n-1)のリチャードが残した時計を(n)のリチャードへ手渡す。 (n)のリチャードは(n+1)のエリーズの元へ時計を残す…
リチャードとエリーズはこれまでもこれからも、ひと時の逢瀬に引き裂かれ、 次の宇宙で待つ自分へ希望を託していく。
「パガニーニ~」が誕生以来、一瞬も止むことなく誰かに演奏され続けているように、 再生ボタンが押されるたびに、懐中時計は宇宙を伴いながら増え続ける。
ダイアグラムでは並行宇宙の環はいずれ最初に繋がることになっているが、 少なくともいまはまだ環が広がり続けているのだろう。 「ある日どこかで」を再生する人がい続ける限り、この環は広がり続けるのだ。 この構造を夢想したとき、「ある日どこかで」は生命史へと繋がっていった。
陳腐な言葉だけれど、感動した、としか言い表せないこの作品を通じて、 生死のサイクルが今はどうしようもなく愛おしく思える。
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guri-archi · 9 years
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ハラサオリ考-2 [d/a/d]
藝大の先輩ハラサオリの直近二作についての雑感。 そろそろベルリンに戻るらしい。
(1)
修了公演からおよそ1月後に発表された、小田朋美・山川冬樹両氏との共作。 公演場所は六本木の新世界。
約1時間の公演は目の前で起こる出来事もめまぐるしく、 概要も丁寧に追いなおせないのでkaiさんという方の記事URLを転載させて頂く。 http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=43818&pg=20150227
記事冒頭にあるように、「d/a/d」という分節された言葉が、様々な形で持って現れる。
で、ああ、でぇ… d=レ、a=ラ dad…父
文字がグラフィックに、その並びがコンポジションに、音がセリフに、 抽象が具象に、具象が抽象に、 目の前の情報が何度も往復する様はとてもスリリングだ。 (小田氏と共作の「Pとレ」も、言葉の往復が魅力的な作品だった)
彼女のプロフィールで語られている、 「日常的な運動に潜む美しさと違和感を自らの視点で切り取り…」 というのはその往復を切り出すことの一つで、 逆に美しさの中にある生生しさや俗っぽさを切り取ることも可能なわけだ。
動作だけでなく物や言葉を含めた状況に対して認識の往復を生み出せるところが、 パフォーマーとしてのハラサオリの面白さだと思う。
(2)
今回公演はdad=父の存在が重要だった。 2011年発表の「voice over」は山川冬樹氏の父・山川千秋氏キャスターの声、 電波に浮遊する父の声を題材にした作品だった。(残念がら当時見られなかった…)
リード文でも、血肉の基・情報源としての父、が匂わされていたものの、 この三人が取り組む以上ハートウォームなだけの話になるわけがない。 何より、自身をコンポジションの材料にするべく自身の余白を広げ続けるハラが、 この生っぽい題材に対してどう振舞うのかとても気になっていた。
彼女のdadへの言及は中盤行われる。
山川氏の鼓動が止まり灯りの消えた部屋に、 ハラが新たな灯りを持ち込んでくる。 背景ではハラとお父上の会話が流れている。
お父上はかなり高齢のため、知らない人は最初は親子の会話と気づかなかったかもしれない。
病床の会話だったのだろうか、またくるね、というハラの言葉で音源は終わる。
父と子は、母胎を経由する母と子の関係とは根本的に異なる。 父子の血の繋がりはどこまでも間接的であり、時に不確かさを感じる。 しかしハラがお父上同様舞台へ上がることを選んだのは、 その不確かさの中にも血の力があることを思わせる。
60年越しで人生が重なる感慨の一方で気づくのは、 舞台に上がることは原沙織をハラサオリの外側に置くことでもある、ということだ。 ハラサオリでいることのねじれを父子の会話に見たからこそ、 なお舞台上で余白を保つ彼女の姿に何かこみあげるものがあった。
(3)
ハラのお父上の訃報が、公演から少し経ってSNSで伝えられた。 公演を見られた数日後に亡くなられたそうだ。
またくるね、という言葉はお父上に向けられたものであり、 また原沙織自身に向けられたものだったように思える。
何より僕には、余白を抱えることの改めての決意のようにも聞こえたのだった。
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guri-archi · 9 years
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ハラサオリ考-1 [w1847mm×D10899mm×h2812mmのための振付]
藝大の先輩ハラサオリの直近二作についての雑感。 そろそろベルリンに戻るらしい。
(1)
リーフレットには 「東京藝術大学上野校地内総合工房棟3Fエレベーターを降りて直進、 プレゼンテーションルームを通過してぶつかるT字路を左折した廊下」 との案内があり、まさにそこが会場だった。
表題はその会場寸法を示しており、「学内で一番違和感のある空間」を選んだそう。 独特の気持ち悪さはあったが要素だけ取り出して見れば、 どんな観客にも既視感のある場所だったのではと思う。 この場所のような、特殊な一般解、というバランスは彼女の存在感そのものだと思う。
地面に並べられたむき出しの蛍光灯��束、吊るされた裸電球、転がったスピーカー、 奥には斜めに角度を振った脚立、窓と思しき箇所にはミラーフィルム。 床にリノリウムは貼られず、典型的な学校の廊下がそのまま露にされている。 それらオブジェクトに対峙するように、1.8m強の幅に四人席x5列ほどと、 最後尾には立見席として舞台上と同じ脚立が押し込まれている。
前説があり、裸電球のフェードアウト(確か)と合わせて、 開きっぱなしだった扉の奥からバーレスク?的な音楽が聴こえてくる。 しばらくすると音楽の流れるラジカセを手に白い衣装のハラサオリが登場。 ハラ立ちから今回も始まる。
音源を自ら持ち込んだのを皮切りに、懐中電灯で自身を照らす振付があったり、、 プロジェクターを持ち歩いたり、蛍光灯を天井に差したり、 等々のオペレーションを舞台上で見せる展開が何度も挟まれる。
ハラも客席も静止しきる良い瞬間を幾度か体験しながら、30分程で終了。
過去の作品も含め何度か試みられているこれらの開き直ったような演出は、 「魔法のように光や音が落ちる中に身を置くのではなく、現象や事物の一つとして身体を扱いたい」 という彼女の実践だ。 現象は起こるものではなく起こすもので、 身体は動くのではなく動かされるものということか。
※ この指向は、ジェームス・タレルとオラファー・エリアソンの比較で僕は納得した。
彼らは共に現象を扱う現代美術作家でありながら、 その純粋性をどう担保するかが決定的に違う。 前者は徹底的に仕組みを隠すことで現象の純粋性を前景に押し出し、 後者は即物的な仕組みでもって意味を貼りつかせず、結果として純粋性を担保する。 ※
後者に対する好ましさは、建築設計等あらゆるデザインにおいて共有された現代の好ましさだろう。 パフォーマンスの世界でも、この好ましさを纏った作品が出てきたのは面白い。
(2)
アフタートークでの 「踊っているときどんなことを考え/感じているか、また何によって身体を動かしているか」 といった質問に対して、 「自分から沸きあがってくるもので身体を動かそうという意識はくなく、 空間全体の状況を見て必要と思われる場所に自分の身体を配置し、必要な動きを取る」 とハラは回答していた。
コンポジションの材料として自身の身体を扱い、 取り巻く状況に応える身体であることを優先する。 この取り組みは彼女の自意識が後退していくことによって、 観客が何かを投影しうる余白を身体に生んでいるように感じた。
というのも、コンテンポラリーダンスやパフォーマンスを見る目的は、 ダンサーの身体ではなく鑑賞者自身の身体ではないかと思うことが度々あるからだ。 正確にはダンサーの身体から逆照射される自身の身体だ。 もっともあらゆる芸術が、またそもそも人と関わること自体が、 自分自身を知るための行為と思うのだけれど。
(「内側を殺してなお息が切れて上下する肩など、隠し切れない生っぽさがある」ともハラは言った。 ときおり気づく動作のディテールが彼女の輪郭を保っていて、我々と彼女を隔てている。)
憑依可能な余白の多さは、どこか巫女のような存在を感じさせる。 ハラの作品がスチール写真の印象に反して?クールな印象に留まらないのは、 憑依、巫女etcが元来持っている祝祭性も同時に存在しているからだろうか。
(3)
蛇足ながら、他に考えていることや気になる点等。
①オブジェクトの並列、その並列の一部としての身体(+それに伴う露なオペレーション)の可能性
「オブジェクトの並列」に対する好ましさは、 作り手に限らず今現在漠然と浸透しつつある感覚だと思う。 しかし本当に並列というのは可能なのだろうか。 正確には並列だとその場その時に感じることは可能なのだろうか。
例えば、今回はソロ公演だったため、並列されたオブジェクトを扱うにあたり、 どうしても順序が発生してしまう。 ラジカセを再生しながら電球をはめてプロジェクターを抱えて 懐中電灯を手に動き回ることはできない。
ではパフォーマーが複数人いて現象を同時多発的に行うとどうだろうか。 今度はそれらを捉える我々の側が、順序を作ってしまう。 字幕付映画で、字幕と映像を同時に見られてははいないように、 僕らは例えコンマ数秒の速さであっても順序を生み出している。
空間(建築)に関しての並列という概念は、 家に帰って一人になって脳内で反芻して初めて起こる状況、 と思っている。(ただし時間差が発生している)
どんな形であれ順序の生まれてしまうのが人の認識ならば、 並列を体験・体現するというのはどういったことなのだろう。
②タイトルから考えると
彼女には公演後に伝えたが、タイトルと制作プロセスに不一致を少し感じた。
彼女は制作にあたり「東京藝術大学上野校地内~」の状況を徹底的に観察し、 そこでおきる事象・情報を振付を動かす要因としていったそう。
しかしタイトルの意味する通りに作品が作られるとしたら、 まずは寸法だけに抽象化した空間、 「w1847mm×D10899mm×h2812mmのための振付」に対して振付を組み、 それを同じ寸法である具体空間の「東京藝術大学上野校地内~」で行ってみる、 という流れの方が自然だったように思えた。
具体的な空間に落とすことで、振付と齟齬を起こす状況が生まれるかもしれない一方、 意図せぬ美しい瞬間が作れるかもしれない。
これは再現芸術が持つ醍醐味であり、そこにもがく過程があるからこそ、 再現芸術は何世紀もなくならずに続いているのだ。
寸法のみを抽出して振付が作られたとしたら、 それはいかなる場所においても「再現」できるということである。 それはタイトル寸法より遥かに大きな劇場舞台でも良いし、より狭いどこかでも良い。
振付がある物理的な前提に由来しているだけで、 それは意味や内容以上に強いコンテクストたりえる。
彼女の作品タイトルはシチュアシオニスト的な 「東京藝術大学上野校地内総合工房棟3Fエレベーターを降りて直進、 プレゼンテーションルームを通過してぶつかるT字路を左折した廊下」 ではなく、 やはり「w1847mm×D10899mm×h2812mmのための振付」だった。 なぜならこの作品そのものは目的ではなく、「再現」するための前提だからだ。
この修了作品は、作品それ自体は再現を通じて実世界を見直す方法論であり、 観客にとってはハラサオリの余白を扱うためのレッスンだった、と思う。
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