Tumgik
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Welcome back, my little voyager
 ゴミの中に埋もれた、体をガムテープで拘束された青年は、誰にも発見されることなく、夜を迎えた。  彼の瞳はぱっちりと開かれたまま。瞬きもしないから、たとえ彼を見つけた者がいても、精巧な人形が捨てられたのだと思われていただろう。  午前2時。コンビニもない田舎町では、誰もが寝静まっている時間。  天空から、一筋の光が、ゴミ捨て場に差し込んだ。  田舎町には不釣り合いな、サーチライトのような光線は、ゴミ捨て場を、じりじりと照らしている。やがて、光線は、ガムテープで巻かれて捨てられた青年を捕えた。 『……A-01号機、発見。A-01号機を発見。回収作業に入ります。』  ゴミ捨て場にうずくまっていた青年の耳に、ザザザ、とノイズ音の混じった音声が聞こえた。  外は依然として静かなままだ。声は、青年の耳だけに、直接届くものだった。 『量子変換、開始……』  光に包まれた青年の身体は、一瞬で分解されて、細かい粒子になって、消えた。いや、正確に述べるならば、目に見えない粒子となった元青年は、一瞬で、とある場所に回収されたのだ。  空の遥か高くに浮かんでいるのは、およそ地球には存在しない、巨大な飛行物体。  その一室で、一機の少女型アシスタントロボが、一つのカプセルを見つめている。そこから少し離れたところでは、眼鏡をかけた妙齢の美女が珈琲を飲んでいた。 「調子はどうだい、アイコ。」 『順調です。滞りなく。』  カプセルの中に、元青年の粒子が集まってきた。 『回収完了。量子結合、開始。』  アシスタントロボ、アイコの声に合わせるように、粒子は超速で結合、分裂を繰り返し、あっという間に元の青年の形を取り戻していった。 『A-01号機。聞こえますか。』  アイコは、淡々とした声音で青年に話しかけた。  青年は、呆けた様子で辛うじてアイコを見つめているが、返事はない。青年は黙ったまま、カプセルの外の景色をぼんやり眺めていたが。  珈琲を飲んでいた女性の姿を見て、青年は、はっとして目を見開いた。 「あ……は、はか、せ……。」  青年が、中性的な声で恐る恐る呟くと、博士と呼ばれた妙齢の美女は、にこりと妖艶な笑みを浮かべた。 「お帰り。僕のかわいいアオイ。」  A-01号機……愛称”アオイ”は休眠用カプセルの中で眠っている。  ”博士”と、A-15号機……愛称”アイコ”は、アオイの記録映像を見ていた。  アイコは、アオイが読んでいた本の内容や、自らの手で傷つけた腕、同級生と思われる男子学生の恍惚としたような表情と、それに伴って聞こえるぐちゃぐちゃ、どびゅううう、という不快な音に眉をひそめているが、博士は平気で豆菓子をほおばっている。 「……これが、地球探査の結果だ、というのですか……。」 「おや、お望みの映像じゃなくて残念そうだねえ、アイコ。」 「わたしは、もっと、地球の環境について、だとか、食糧問題に役立つ映像を期待していたのです。それが、こんな、」 「いいや。僕にはこれで十分だ。僕がアオイに求めたのは、探査機としての己を忘れ、一介の高校生として地球で暮らすこと。そこで彼の周りに起こることなら、本人の無意識のうちにどんなことでも記録できるようにしておいたのさ。それが、視野を狭めることなく、あらゆることを自由に見る為に、必要なことだったからね。 君のように真面目すぎると、”役に立たない”と判断したら、斬り捨ててしまうものも、きっと多い。」  博士は事実を述べただけで、アイコを非難する「つもりはなかったが、アイコは押し黙ってしまった。しかし、しばらくして、また喋り始める。 「……しかしA-01号機は、何故自傷行為などしたのでしょう。同級生まで巻き込んで……我々の自己補正機能は、異星探索中の緊急事態に備える為のものです。このように遊び半分で使っていいものではないでしょうに。」 「遊び、というか……自傷行為とも一概に言えない。自慰行為というのが、一番近いだろうね。」 「じっ……!?」  博士の唇から飛び出した言葉に、アイコは真っ赤になってしまった。  そんなアイコの様子には頓着せず、博士はぶつぶつと独り言をつぶやいている。 「マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』か……地球人は、繁殖に必要のない快楽を求める者が多い、とは聞いたことがあったが……アイコ、この同級生クンの下半身を見たかね。」 「見ません! 見たくもありません!」  アイコは真っ赤な顔を両手で押さえて、部屋を飛び出してしまった。 「おやおや、いじめすぎてしまったかな?」  博士は、アイコの出て行ってしまった部屋で一人つぶやくと、ふふ、と笑った。 「……それにしても、この同級生クンはアオイを捨ててしまって、今後はどうやって生きていくんだろう?」  偽善者ぶって気の毒がるような口ぶりが、自分でもおかしくなってしまって、博士はくつくつと笑った。 「まあ、そんなことは僕には関係ないか……それにしても、地球に放った、他の探査機の帰還が楽しみだなあ。……君もそう思わないかい、アオイ。」  休眠カプセルの中で眠るアオイは答えない。博士は、眠る彼に、ケース越しに接吻を落とすと、そのまま自身も部屋を出て、照明を落とした。
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縁の花弁
華やかな色町に似合わぬ漆黒の着物と羽織をまとった男が2人、下駄を鳴らして歩いてくる。 カラン、コロン 人目を惹くであろうその端正な顔立ちは目深にかぶった嵩に隠していたが、それでも漂う雰囲気は行き交う人々を振り向かせた。それに気づいたのか片方の男がもう一方に耳打ちして路地裏へと入っていく。だが静かであるべきその暗がりではどうやら喧嘩が起きているらしく、2人はその場で息を殺してそれを見ていた。 「こりゃ、喧嘩というよりリンチだな。」 輪を作る複数の男たちが、その中央から人影をひょいと堀へ投げ捨て、明るいほうへと去っていく。 一部始終を見ていた2人は間髪入れずに堀に降り、投げ捨てられたものの方へ駆け寄った。こりゃひどい、とつぶやいた彼らの前には、全身があざと血で赤黒くなった小柄な青年が辺りのゴミに塗れて蹲っていた。渋い茶色の着物と帯から、色ま似の人間ではないことが見て取れる。 「おい、おい!兄さんよ、大丈夫か!?」 肩を揺すってはみたが、浅い呼吸を繰り返すだけで目は開かない。苦しそうな嗚咽に交じって、何かをうわごとのように繰り返しているだけの青年を、片方の男はしばし見つめてから顔を上げた。 「よし、司。この子担いで。連れて帰ろう。」 「また、ですか?桔梗様はお人よしにも程があります。」 文句を垂れつつ青年を担ぎ上げると、2人は来た道を戻っていった。 平十郎が目を覚ますと、そこは井草の薫る部屋だった。差し込む朝日に大小さまざまな瓶が反射してあちこちに光の水たまりを作っている。その一つが平十郎の目頭に落ちて、まぶしさに瞬きを繰り返した。 木を撫でる音を立ててふすまが開き、入ってきたのは黒い着物を着た男だった。 「目が覚めたか。怪我の具合はどうだい?」 彼の名前、此処の場所、なぜ自分が此処にいるのか。聞きたいことは山ほどあったが、平十郎の口からは苦しげな咳しか出てこない。寝起きの頭にはっ浮かんだのはハルのことで、行かねば、という意気で立ち上がろうと身を捩った。 だがそれは平十郎に跨るように馬乗りになった男によって制された。 「…どこへ行く気だ?」 その片手には抜身の短刀が握られており、切っ先はぴとり、平十郎の首にある。全身がそこから冷えていくような感覚に力が抜けてしまい、指どころか健の一本も動かすことができないでいた。 「あそこからお前を助け、手当てしたのはこの俺だ。何処のどいつか知らねぇが、そのまま行こうってのは無礼なんじゃぁねえのか?」 息をのむ音が耳に響く。近づく吐息に固く目を瞑った平十郎だったが、その瞼は頭上から降ってきた笑い声にこじ開けられた。 「っふはははは!冗談さ、そんなに怖がらなくたっていいだろう?」 先ほどとは打って変わった優しげな顔で平十郎の上から退いて枕元へ座り直し、短刀を鞘へ納めた。いつの間にやらその背後には盆を持った男が立っていて、そこから湯飲みを受け取ると男は平十郎の上体を起こしその口元に湯飲みを運んだ。 「俺は桔梗、こっちは司。驚かせて悪かったね。ほら、これ飲みなさい。」 薬草のように苦くて熱い湯がのどを下り、平十郎の張っていた緊張の糸を緩めていった。 すっかり落ち着いた平十郎に桔梗達はああなった経緯を尋ねた。彼は家柄やハルのことを洗いざらい話し、それから感謝の言葉を繰り返した。その目元にはうっすら涙が浮かんでいる。すべてを聞き終えた桔梗は少し驚いた顔をしてから微笑んだ。 「まあ、兄さんも…大変だったんだね。もう朝が来ちまったが、まだ休んでいたほうが良い。ゆっくり寝てな。」 「ありがとうございます。」 部屋を去る二人の背中と閉じるふすまを見送ると急な眠気が平十郎に襲い掛かってきて、それに引き込まれるようにゆっくり瞼を閉じた。 赤い路地裏から男女の話声がひそひそ聞こえる。朝の色街は静かで、まるで空っぽの宝石箱のようだった。 「ちゃんと説明してあげなくていいのかい?彼、そこそこ苦労してたみたいだ。あんな風に突き放すこたぁ無かったんじゃないのかい?」 「私を連れ戻したいと思っているんでしょうけれど、此処で働くのをやめたら、みんなを養って、守っていけないじゃない。私がやらなくちゃいけないの。」 「はぁ…あんたも頑固だね。まあいいさ、彼のことなら心配しなくていい。手当ては済んでるし、骨だっていくらか安静にしてりゃ良くなるよ。」 「本当にいつもありがとう。桔梗さん。」 「いいってことよ。ぼろぼろのあんたを拾った時からのご縁さ。」 黒い着物が下駄を鳴らして遠ざかって行く。その音に交じって、兄さんをよろしく、という少女のか細い声が聞こえた。陽はすっかり昇り切ったが、その黒い後ろ姿だけが夜を纏っているように暗い。三日月の微笑みを引っ提げて、満足げに歩を進める。 カラン、コロン
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無明の恋
 冷たい水をばしゃりと浴びせられ、青年は全身の軋るような痛みとともに覚醒した。  ――この臭いは? ああ、自分の血のにおいだ……。  前髪から滴る水が、傷口にひどく沁みた。目も痛む。しかしそれ以上にあたりに漂う汚臭がきつく、空嘔吐きを繰返す。深く体を曲げて、肩で喘鳴を刻みながら。  しばらくそうして休めば、多少は気が落ち着く。あたりを見渡せば、最後の記憶――咥え煙草の男がどこからか持ってきたゴルフクラブを、金髪の男が幾度も振り上げて、振り下ろした――が蘇る。その記憶の場所とこことは違う。ここは恐らく、と己の体やそこにこびりついたごみ、傍らに擲ってある黒いゴミ袋を見て……理解する。ここはごみ捨て場だ。死んだとでも思って、彼らは俺を諦めたのだろうか?  彼女は無事だろうか。  彼女は逃げ延びただろうか。  彼女は今、どうしているだろう?  ――きっと俺のことを思い出す余裕なんて、一秒もないんだろうな。それでも……どこかで……彼女が幸せになってくれていたら。 「……そう願うことで、自分が耐えた痛みは無駄ではなかったと理由づけたいのかな。さもなければ、今にも狂ってしまいそうなほどあなたの体は痛み、軋み、がたついているから」 「え……」 「名前は?」  ずっと、そこに居たのかもしれない。  ――そうだ。俺が全身ずぶ濡れなのは、この女が……。  女は片手にまるでおもちゃのようなビニールバケツを下げていた。ちゃちな、赤い、バケツだ。麻の白いシャツとサブリナパンツというさっぱりとした服装からして、まさかあの男達の仲間とも思われなかった。  何よりも今目の前に立つ女からは……彼らが纏っていたような禍々しい暴力の気配も、青年を騙した女の纏っていた偽りの気配も、感じられなかった。  気がつけば、腫れあがりどこか感覚の遠い唇をもごもごと動かして、青年は名を告げていた。 「――早瀬、理人」  あの忌まわしい工場から、歩いて十五分ほどのこじんまりとしたアパートメントが、女の自宅らしい。 「じつは先週、ゴミ捨て場に落ちていた美青年を拾い、同棲するという……荒唐無稽な恋愛映画を観てね。まさかそんなことないだろうという気持ちと、あの工場の近くだから何かあるかもしれないという期待のフィフティ・フィフティといった感じでゴミ捨て場のあたりの散歩をしていたんだ……ああ、バケツ? あれはいつも持ってるんだよ。だって海だもの。貝とか……ヤドカリとか……拾うでしょ、それを入れておくためにバケツなんだ」  歌うようにそう言って、女は理人の前にマグカップを置いた。コーヒーは湯気を上げている。  先程シャワールームを借り、傷だらけの体に鞭打って汚れを洗い落としたところだった。それから女の呼んだ医者の診察を受けて……しばらく眠った。ようやく人心地ついて、空腹に目を覚ましたら、女がコーヒーメーカーの前で鼻歌を歌っていたのだ。それまで理人はずっと、この女の領域で無防備なすがたを晒していた。彼の生きてきた常識からはかけ離れた行為だったかもしれないが、女が彼を裏切ったあの日からもうずっと、そんな日常は理人のもとを飛び去ってしまっている。体面や自分のことを考えるだけの気力は残されていなかった。  叫びや唸りのせいで、あるいは強く絞められたせいで、彼の喉はひどく痛み、かすれ声しか出ない。 「……そういえば、あなたの名前を聞いていません」  理人がそう尋ねると、女はぱちぱちと瞬いた。長い睫が一重の眼を縁取っている。化粧けのない顔だったが、睫だけは異様に重たげで、昆虫の触覚かなにかのように綺麗なカーヴを描きながらすっと伸びていた。 「高良うめ千代」 「うめ千代……?」 「かわいいでしょ?」 「はあ……」  理人は曖昧に頷いた。聞き慣れない名前が、本名かどうかは判断できない。しかしマグカップのなかのコーヒーは本物で、それも、とても美味しいコーヒーだった。  ――奇妙な感じだ。あれほど痛い目に遭わされて、俺はどうして生き延びて……こんな。  こんな当たり前のような生活の片鱗を、感じることができる。大切な女の行方は依然として知れぬままで、自分の身についてもどんな決着がついたのかわかっていない。 「それでさあ、理人くんは訳アリだよね」 「…………」 「これから、どうするつもり?」 「それ、は…………」  唇を噛むと、うめ千代の手が伸ばされる。反射的に大きく後退り、理人はアパートの薄い壁に思い切り背中をぶつけた。がたんと思いのほか大きな音が響い、チェストの上にずらりと並べられていた写真たてがドミノ倒しになる。 「……そんなに怖がらなくてもいいのに」  うめ千代が不思議そうに首を傾げる。  理人も同じような仕草をしたい心持ちだった。  ――何かがおかしい。  そう思えども、何がおかしいのかはわからない。 「……すみません。昨日のことが、ちょっと、まだ。うめ千代さんが怖いわけじゃないんですけど」  目を逸らしながらそう言うと、うめ千代は分かったというように頷いた。すぐに理人からそっと身を引いて、猫のような身のこなしでチェストへと向かう。 「写真たて、割れたりしてませんか? ごめんなさい」 「ううん、大丈夫だよ」  ぱたぱたとひとつずつ、丁寧な手つきで彼女は写真たてを起こした。十枚以上あるだろうか。大きいものには、何前も写真が入っているのだろう。  ひとの、それも大事に飾っている写真をじっと見るのは躊躇われて、理人はチェストから視線を引き剥がした。  ふと顎に触れると、ざらざらとした感触がある。そういえば、まともにひげも剃っていない。 「剃刀使う? 気になるでしょ」  目敏く気がついたうめ千代に言われて、理人は頷いた。手渡された剃刀はT字ではなく、やや高級な趣のある――外国の理容室で使われていそうな雰囲気――折り畳み式のものだった。 「……良く切れるから、気を付けてね。理人くん、美青年だしさ」 「……ありがとうございます。ぼこぼこに殴られて腫れてるわ痣になってるわのうえに、無精ひげですけど」  脅しつけるようなうめ千代の言葉に、思わず冗談が口を突いた。自然と微笑んだ理人を見て、うめ千代は薄く唇を開いた。その唇の両端は突然きゅっと持ち上がり、なにかひどく愉しげな表情をつくる。 「……やっぱり理人くんてかわいいね。あの映画俳優、微妙だったんだ。そのせいかなあ、最後まで感情移入出来なかった。残念だよね?」 「本当に、俺の顔よく見てくださいって」  笑い飛ばして、理人は洗面所へと向かった。変わらずに痛みはそこにあるが、薬のせいか多少はマシだった。それにうめ千代の存在が日常を思い出させてくれるというその事実は、あまりにも理人に大きく作用していた。  ――ホッとする。あの人といると。  片足を引きずりながら。左腕は三角巾で吊られたまま。  不器用な右手で――しかしその爪の何枚かは割れているため、包帯が巻かれている――剃刀を当てる。うめ千代の言う通り、それはよく切れた。元から傷だらけの顎に、新たな切り傷がひとつ増える。しかし麻痺しきった理人はもう、その痛みを日常のひとつとして受け入れていた。  そう、生き延びたのだ。  ――この痛みは、生きているというそのこと自体の副作用でしかない。日常がある限り、俺は痛みで死ぬことはきっとないはずだ。俺と、彼女と、離れてはいても……日常を送っているはずだから。  洗面所に消えた理人を名残惜しげに見つめてから、うめ千代は先程から振動しつづけるスマートフォンを手に取った。がらりとベランダに続く窓を開けて、外に出る。  通話をタップした途端―― 『おい、どうしてくそったれ電話に出なかった!?』 「わっ……忙しかったんだよ。いまもまだ忙しい。ねえ聞いて、わたし、美青年拾っちゃった」 『またんな馬鹿なこと言ってんのか……!』 「いいんだよ、T組のチンピラが捨てたごみだから。誰も探さないだろうし……でも本当に綺麗な顔しててさあ。あんなに美青年なのに、女に騙されてヤクザにボコられるとか、かわいそうだよね? だから拾っちゃった」 『T組? ――てめえ、仕事したところじゃねえか。その男どうするつもりだ? てめえでバラした女の保証人じゃなかったかよ!?』 「そうだけど……でも、理人くんは知らないんだからいいじゃない。ねえ、そう言えば話したっけ? わたしこのまえ映画を観に行ってね。あ、レイトショーだからちょっと安いんだ。それで……」 『くだらねえ話なら切るぞ。……また来週、仕事が入ってる。忘れるなよ。うめ千代』 「えー、わたししばらく理人くんとの同棲生活を楽しむつもりだったんだけどな」 『仕事さえしてりゃ、同棲でもなんでも構わねえよ。……先方はてめえを指名してんだ』 「また闇金関係? 一般人なんて面倒くさいだけだよお……」 『――違う。中華系マフィアの男だ。西と揉め事を起したものの、あちらさんの親はとんと応じやがらねえ。見せしめだよ、見せしめ』  うめ千代はスマートフォンを顔から離し、じっと見つめた。一呼吸おいてから、曲がった唇をマイクに寄せる。 「……なんて言ってるのかわかるように、通訳用意してほしいなあ」 『馬鹿言うな。てめえのえぐい拷問に付き合えるような通訳がいるか。じゃあな、……あ』 「うん?」 『今、暇か?』 「暇じゃないけど」 『小遣い稼ぎしたくねえかよ、うめ千代』 「……それはしたいかなあ。ねえ、成人男性ひとりを養うのってどれくらいかかるかな?」 『知らねえ。だが女は金がかかるぞ。いいから来いよ。今飛び込みで依頼が来やがった』 「うーん……じゃあ行くよ。何か持っていくものある?」 『何でもいい。特にこだわりもないし、聞き出すこともない。……楽な仕事だ』 「ほーい、了解、ボス」  通話を終了して、うめ千代は部屋を振り向く。  理人が顎をさすりながら部屋に戻ってくるところだった。先程の彼はひどく怯えていた。写真たてを倒して……チェストの上に目をやる。  名前も知らない、たくさんのひとびとの写真。  ――みんな、うめ千代の仕事相手だった。  うめ千代は電話をしていたらしかった。  ひげを当ったら、少しはさっぱりして見えるだろうか。そんな期待を込めて、うめ千代と目線を合わせる。 「うめ、」  うめ千代さん、と少し変わっていて、可愛らしい、彼女の名前を呼ぼうと思った。だがその目に、思わず息が詰まる。  ぎらつく双眸が細められ、まるで獲物を前にした肉食獣のように理人を見据える。 「理人くん。行くあてがないならしばらくわたしのところにいなよ。わたしは仕事があるからたまに家を空けるだろうけど、お金はたっぷりあるし、好きなことしててもいいからさ。たぶんしばらく……ほとぼりが冷めるまではあなたは隠れていた方がいいよね。そういえば、身元を証明できるものは持っている? ないなら何とかしてみるよ」 「え……、え? 何とかしてみるって……」 「わたしのこと、もう好きになっちゃったよね?」 「な、」 「じゃあ、少し出掛けてくるよ。好きにしていていいよ。冷蔵庫の中身とか、食べていいし……あ、でもマロンアイスだけは食べちゃだめ。わかった?」  うめ千代はシャツの上になにも羽織らず、傘立てのかたわらに立て掛けられていたバットケースを背負った。 「どこ行くんですか」 「野球しに行くんだよ。わたし、お遊びのチームに入っててさ。ボール投げるのとんと苦手だから、もっぱら打つほうなんだけど。バッティングにはちょっと自信あるんだよねえ。あ、理人くんも今度一緒にやる? 野球すき?」 「……好きです」 「そっか。じゃあ、いい子で留守番していてね」  ひらりと手を振って、うめ千代と理人はドアに隔てられる。ぶり返した全身の痛みに、理人は蹲った。のろのろと部屋を縦断し、うめ千代のベッドで楽な姿勢を探す。みじろぐたび感じられる彼女のかおりに、一瞬痛みが遠のく気がした。  新たな恋なのだろうか?  ――頭をひどく殴られたり、蹴られたりしたし……とにかく俺はおかしくなってしまったのかもしれない。でも、うめ千代さんは不思議なひとだった。不思議で……魅力的なひとだと思う。  理人はゆっくりと眠りに吸い込まれていく。  あののびのびとした、気ままで特有な身のこなしのうめ千代が、大きく振りかぶって……かきーんと気持ちのいい音をひびかせて。特大のホームランを打つ夢を見た。  フルスイング、いい手ごたえ。 びしゃりと何かがぶちまけられる。 「ふいー……つっかれたあ……帰り、映画間に合うかなあ。あ、理人くん誘ったら出てくるかな。出てこないかな。っていうか、まだ無理か。骨折してるし。でも映画館デートっていいな。わたしがチケット二枚買うんだよなあ。やっぱりお金かかるね。ちぇ」  うめ千代はバッドを杖のようにして、小休止を挟んだ。  ひゅうひゅうと隙間風のような奇妙な喘鳴が響いている。 「眠いな。早起きしたもんな……夕飯、適当じゃだめなんだよね。栄養のあるもの……うーん、なんだろう。カルシウム? 牛乳の……グラタンとかどうかな。理人くん、好きかな」  ぽた、ぽたとしずくの滴る音がふと途絶えたのを感じて、うめ千代はコーヒーメーカーからポットを取り出した。マグカップに注ぐと、こうばしい芳香が立ち上る。 疲れのためにコーヒーを一杯、飲む。
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暖かな居場所
 とある郊外のとある一角にある可愛らしいお店、まだ日が昇りきってない朝早くから様々なペットの声がお店の中から聞こえてくる。ペットショップの店員であるリサは店内の清掃を行っていた。背中までかかった艶やかな黒髪をポニーテールでまとめて、揺らしながら鼻歌を歌っている。鼻歌に合わせて、起き出してきた動物達が眠い目をこすりながら耳を傾ける。 「おはよう、動物さんたち!今日も素敵な朝ですね」 リサはデッキブラシをマイクスタンドに見立てて、にこやかに店内をライブ会場にしている。エプロンがひらりと舞う。エプロンの下から覗く赤いスカートがちらりと見える。ゲージの中の子犬たちはあくびをしながら、全ての仕草が可愛らしいリサを見ている。 「あっ、痛い」 物陰の奥でしゃがんでいた茶髪の女性がうめき声をあげた。 「店長!大丈夫ですか?」 「あっはは、古くなったゲージ分解してたら手ぇ切っちゃった、あはは~」 店長と言われた女性は、リサを見上げて情けなく笑った。開かれた手を見ると血がにじんでいる。棚の上に常備している救急箱から包帯やら消毒液やらをリサは取り出した。 「店長、いっつもこんな感じにおばかしてたら、そのうちワンちゃんたちに舐められちゃいますよ」 「えへへ~。この性格ばっかりはさすがに治んないなぁ」 包帯を巻いていると店長は言葉を続けた。 「あっ、そうだ。分解し終わったゲージを廃棄場に持ってってくれない?」 「いいですけど、お店の準備終わってないですよ」 「そこは任せて!運転はごめ~ん、店長の手、今こんなだから」 笑いながら、包帯でグルグル巻きになった両手を突き出す。 「わかりました。お店の車、借りますね」 「よろしくぅ」 ―――――  リサがボロボロのゲージをボックスカーから降ろした廃棄場。いつもは閑散としているのに、今日はすごくにぎやかだ。 「お、ペットショップのおじょーちゃんじゃないか。また店長のおつかいかい?」 「中村さん、おはようございます。店長怪我しちゃって、ええ、おつかいですね」 中村さんと呼ばれた男は、リサの苦笑いに頬を染める。 「今日はすごくにぎやかですね。廃棄場でお祭りでもあるのですか?」 「いいんや、お祭りなんざないぞ。なんでも、廃棄場に化け物が捨てられてるって話さ」 「化け物……?」 「ああ、人みたいな狼みたいなヤツらしい。まあ気になるならそこに人だかりがあるだろ。いってみろ。そいつは、死んではねぇみてぇだが」 狼と聞いてリサはペットショップ店員の血がさわぐ。パタパタと人だかりの中へ割り込んだ。 「これは……人?なの?」 人だかりの中心に倒れている青年をリサは見つけてしまった。すす汚れて血が黒くこびりついているが、一目で華奢な青年だとわかる。近くにいた男性がつぶやく。 「昨日のうちに、ここに捨てられたみたいだ……まだ死んではないようだが、なぁ」 リサは息をのむ。長くいろんな動物と触れ合ってきたからこそわかる。この人は人であると同時に、リサがすぐに助けなければいけない動物であることを。 「あっ、あの。わたしでよければこの人引き取ります」 リサの一言に、ざわざわとどよめきが起こる。 「わたしのお店の店長、獣医の資格も持ってるんです。大丈夫です。お任せください」 「それなら、安心だな。おじょーちゃん頼んだぞ」 中村さんが頷いて、周りにいたおじさんたちが青年を車に運ぶのを手伝ってくれる。  お店について、店長に絶句された。 ――――― 「リサ、あんたってばいっつも動物拾って帰るのね。犬とか猫とか、わかるけどさぁ、これはびっくり」 「店長、わたしに文句言うのは別に構いませんけど手を動かしてください」 「あたたっ、痛い!手怪我したから痛いって!!」 店長はわざとらしく笑いながら、リサが引き取ってきた青年の手当てを続ける。お店の動物たちは、不安そうにリサたちをみつめている。 「にしても、獣人ねぇ……良い噂は聞かないわ。よっぽどひどい扱いを受けていたんじゃないかしら」 店長が、軟膏の蓋を閉めて立ち上がった。代わりに、リサは青年の隣に腰掛ける。 「牙も折れていて、爪もボロボロで……。放って置けなかったんですよね」 「なら、そいつの目が覚めたら一緒にお風呂にいれてやんな。」 「おっ…!?」 「フロだぞ。タオルで大体の汚れは拭いたが、衛生的にはアウトだからな。入れてこい」 リサはなぜか顔を真っ赤にした。獣といえど、立派な人間であるのだ。 「あー、それと、お店はしばらくあたし見とくから、そいつの世話しとけよ!さ、お前たちもしけた顔すんなって!!」 店長は周りの動物たちに声かけながら仕切りをくぐってお店へと消えていった。ゲージの中にいる小動物たちはそれぞれの持ち場に戻っている。 「人……じゃないんだね。耳も普通だし、尻尾もないのに、でも、綺麗」 リサはつぶやく。汚れてはいるものの光に当たってキラキラと輝く髪に手を添える。もし、同い年の幼馴染みがいたらこんな感じなのかなと、ちょっと照れる。目は閉じているが、顔立ちも整っていて美青年だと改めて感じる。  視線を下げていくと、痣のついた首元、ボロボロの服からのぞく骨ばった肌、苦い顔したり恥ずかしくなったりリサは忙しい。思わず、唇に視線が流れる。きっと、牙があったはずの口元。今は魔法がとけたみたいに全く普通の男の子と同じ唇。そう思うと、青年のことを何故か優しく抱きしめたくなった。 「うぅ……っ」 青年はうめき声を出して体を起こした。体はやはり痛むのか崩れ落ちる。 「まだ起き上がっちゃダメ。もう少し安静にしておかなきゃ」 「……アンタ、誰だよ」 青年は唸り声をあげてリサを睨む。リサは痩せこけた頬に手を伸ばした。 「わたしはリサだよ。素敵な笑顔だね。大丈夫、怖くないよ」 「触んなっ」 青年はリサの手を払いのけた。 「ここはどこだよ。俺を独りにすんじゃねぇよ!!!ああ、そうだろ、俺を利用して使いものにならなくなったら叩いて、蹴って、俺を捨てるんだろ!」 「そんなことしないよ!」 リサは声を張り上げて、息を乱している青年に抱きついた。抱きしめて視界を覆うことで、落ち着かせようとする。 「大丈夫、わたしはあなたに乱暴なんかしないよ。ただ、死にかけているあなたを放っておけなくて助けたの。怖い思いをさせて��まってごめんなさい」 「なんだよ……苦しい、痛い……痛い」 リサは慌てて力を緩めた。顔を覗き込むと青年はそっぽを向いた。 「わかった。わかったから、その……柔らかいもの押し付けんな」 「やわっ」 リサは赤面した。 「ごめんなさい、それは本当に。ええと、あの、落ち着いたみたいでよかった」 「すまない、俺もちょっと混乱した。今まで俺がいた場所と全然違って怖かった」 青年は少し視線を上げた。綺麗な瞳に見つめられて息がつまる。 「俺……あの、こういうの初めてでどうしていいか分かんないだ。ずっと戦ってばかりで、命令聞くばっかで。俺、何したらいい?」 「えぇっと、そうだね。店長から、あなたのことお風呂に入れて綺麗にしてこいって言われたから。お風呂に入らないと……」 「お風呂か。アンタも一緒に入ってくれるの?」 「いやいや、さすがにそれはダメだよ。仮にもわたしも、あなたも大人なのだし」 リサは思わず身を引いた。だけど、青年はまっすぐにこちらを見つめてくる。 「ダメ……かな」 青年は伏し目がちに呟いた。ダメじゃないけど、そこはリサも立派な大人だ。悠然と混浴は断らなければならない。 「いいじゃーん、お前ら一緒に入ってこいよっ」 お店の仕切りから店長が顔を覗かせてニヤニヤ笑った。 「目が覚めて元気そうだな、お前。リサが一緒にフロに入ってくれるぜ!」 「な、なにいってるんですか????」 「ホント!?俺、嬉しい」 そういうと、青年はにっこり笑ってリサに飛びついた。獣のような美青年はこれから、主を変えて幸せに暮らしたのは、そう遠くない未来のお話。
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貌を失くしたおんな
 最初それはあたしの目にはとても生きているようには見えなかった。  サンザシのような赤を刷いた唇から小鳥のさえずりのような声を絞り出し、おねえさまおねえさま見てあれ、と言うのは侍女のスズメだ。あたしに向かって、見て、なんて言えるのはスズメくらい、と思いながら彼女の指を追う。熊かなと思った。道の隅に打ち捨てられている毛皮の茶色が、故郷の村を襲ったこわい熊の亡骸に見えて、あたしは身をこわばらせてしまう。 「やだあ、もしかして……噂になっていたおひとかしら? おねえさまのお耳には届かないでしょうけどね、下働きの間では噂よ、となり町からほこりが飛んできたのねって」 「ほこり?」 「そう、数日前からどうもこの町を砂ぼこりみたいにうろうろしているらしいの」  よくよく目を凝らしてみる。なるほど、毛皮をまとった人間なのだ、とようやく目が慣れて気づいた。となり町は異国情緒のあふれる歓楽街だと聞く。そんな町から、毛皮の外套を身にまといやってくるような人間だ、男だろうが女だろうが、裕福な者なのだろうと思った。しかし、スズメにはあたしとは別のものが見えているらしい。 「みずぼらしいったらないわ。毛皮も、あんなに古ぼけて。きっとお高かったのだろうに」 「……スズメ、あれは、生きているのかしら?」 「何言ってるのおねえさま、動いてるわ」 「そう……」  スズメがどこまで本気で口答えしているのかは分からないが、腫物を扱うような対応でないことが、あたしが彼女を気に入っているゆえんだ。そうしているうち、たしかに、毛皮をまとったおひとはのろのろと、歩いているのに這うような速度で歩いている。スズメがあたしの背を押した。ゆきましょう、おねえさま。  休日の大通りは、あたしを見て頬を緩ませる人が多い。やあ今晩は空いているの、おや珍しいお方とお会いできたものだ、昼日中の陽射しも心地よいでしょう、ところでその……具合はどうだね…………。最後には必ず、あたしを気遣うように尻すぼみになっていく声を、不憫そうにゆがめられた目を、あたしは甘受するしかない。喋りかけてきたのが、かつての客なのかそれともいつかあたしを買おうと思っている人なのかも分からないからだ。 「おねえさまっ?」  スズメが声を上げる。 「おまえ」  その毛皮に、あたしは話しかけていた。毛皮は、最初息もしないような心地で微動だにしないように見えたが、気にせずに喋りかける。 「……捨てられたの?」 「おねえさまっ、そんなものさわったらばっちいわ!」  そっと毛皮に手を伸ばそうとするものの、遠近感がよく分からずに思いのほか強い力で毛皮を押すようにしてしまった。触れた感覚が消えたので、毛皮のおひとがあたしを避けたのだと分かる。よく見えずとも、いや見えないからか、敵意を如実に感じ取った。 「ごめんなさい、目が、……目が悪いもので、距離感が掴めなかったわ。どこかお具合が悪いの?」 「……別に」  毛皮の内側から、地を這うような低い声が聞こえてきて、このおひとが男性であることを教えてくれる。どこかで、こんなふうに路地でうらぶれることができるのは男ならではだ、と思い込んでいたので、ある意味予測は当たったことになる。 「きゃっ、そいつ服着てない!」 「……あら、そう」 「おねえさま、ゆきましょう、そんな男捨てておいて野良犬の餌にするのがちょうどいいわ」 「でもねえ……」  あたしには、かれがきっとあたしを睨みつけているのだろうことも、かれが裸であることも、もしかしたら野良犬のように牙を剥いているのかもしれないことも何も見えないでいる。 「あたしのとこにこない?」 「おねーさまっ!」  しびれを切らした様子のスズメの叫ぶ声が遠い。かれがあたしの腕を掴んだのだ。目には見えないが、たしかに感触として拾う。その途端なぜだか、胸中にじわりと仄暗いものが巣食う。それの正体を探り当てる前に、男はもう片方の手でもあたしの腕を掴んだ。 「連れて行ってほしい」  存外素直などこか幼い口調であることに、かれは年若いのかもしれないと、わずかばかり驚いた。 「いいか、野良犬の餌野郎、おねえさまに指一本でも触れたら、その股ぐらにつけてる玉を引きちぎるからな!」 「……スズメ、いいのよ」  スズメの言い分によると、かれは湯浴みをさせて身ぎれいな服を着せてもらったらしい。見たところ十代後半から二十代にかけての年齢で、顔や髪の色からして異国の人間で、顔にそばかすが散っている。それから、古ぼけた毛皮の外套を手放そうとしないこと、高価に思える指輪を持っていること、それから自分の名を名乗らない不届きものであることを教えてくれた。 「あんた、目が見えないの」 「見えるわ」 「目が見えないというのは、遊女としては致命的なんじゃないのか」  謗りのつもりではなさそうに淡々とそう聞くかれに、あたしはかぶりを振って目蓋を下ろす。 「多少目が悪くったってね、顔を見せなくたってね、あたしは何も、身体を売るためだけにここにいるわけではないの。あたしに抱かれないで帰っていく客のほうが多いくらいよ」 「抱かれ……?」  顔上部を覆う紗を揺らして、微笑む。なるほど、見えないというのは、新しい何かに出会ったときに少しだけ不便なのだな、と思う。 「おまえ、半陰陽、って知っている?」 「……? 知らない」 「男でも女でもなく、またどちらでもあることよ」  スズメが横から野次を飛ばす。 「おねえさまは人間を超えた神さまなの! 野良犬の餌がやすやすと触っていいものじゃないんだから!」  神さまだなんて、みずからをそう思ったことはないばかりか、真逆の存在だとも思っているが、たしかに、妊娠することもさせることも可能なのは、人間を超えているとは思う。倫理に反している、とも思う。  目から、派手な色以外の情報がほとんど入ってこなくなって幾久しい。スズメという十の少女を侍女に得てからは、彼女のまったくあたしを腫物として扱わない天真爛漫なふるまいに救われていることは多くありつつ、どこかで、哀れまれたい気持ちがあるということを思い知る。だから今日も散歩をしてみたが、なるほど、最初のうちは気遣われるのは気分がいいが、回を重ねるごとに憂鬱になるのだ。  スズメから半陰陽の説明をとくと受けた男は、しばし黙したのちに呟く。 「でも女でもあるのだろう? なぜそちらは使わないの?」 「おかしなことを聞くのね。客は男だけとは限らないし、わざわざあたしとねんごろになりたいのだから男だって抱かれたいに決まっているわ」 「そう、なのか」  納得したのだろうか。口元に笑みを刷いて首を傾げると、スズメがけたけたと笑いだす。 「そんなおびえなくたってあんたみたいな身元不明の野良犬の餌なんか、おねえさまが抱きやしねーよ!」  かれは、自分があたしの男根の餌食になることを想像して、少しおびえたようだった。たしかに、仕事以外で男を抱くのは面倒だ。 「その毛皮……」  彼がきゅっと喉を縮こまらせるような悲鳴を押し殺したのが分かる。その毛皮はきっと、あたしにはよく見えないものの、かれの大切なものであり、また捨てたいようなものなのだろう、と分かる。捨てるべき正しい場所が分からず、持っているしかないのかもしれない。 「ねえ、お名前は」 「……」 「名乗るのが嫌なら、通名でもいいのよ」  かたくなに身分を渡そうとしないのは、まあよい。こちらとて身元のあってないような遊女である。ただ、呼びかける際に名がないのは不便だ。ただあたしに、人に名を与えるという行為がふさわしいのかはよく分からなかったので、かれに通名を求めた。 「…………」 「名乗んないならあんたは今日からあたしがノラって呼ぶから!」 「スズメ」 「いいよ、それで」  男がどうでもいいと思っているような口ぶりで同意した。たしなめるつもりで発したあたしのスズメという声が宙ぶらりんになってしまう。スズメのおてんばぶりには困っているものの、それに救われているところもきっとあるので、あたしは彼女を野放しにするしかないのだ。 「ノラ、ここに住み込みで働いてもらえないだろうか」 「……」 「男手が足りないの」 「……でもおれは」  渋る様子のノラに、妙だと思う。あたしが遊女だと分かってついてきたのだから、遊郭の下働きを承知で来たものと思ったが。  結局、あんたに拒否権などない、とぴいちくぱあちく喚き散らしたスズメに気圧されて頷いた様子ではあったものの、あたしは、うっすらとぼんやりと、異国の遊郭があると言うとなり町からやってきたかれの経歴を邪推した。  ◆  半年も経てば、かれはすっかり周囲と馴染み、違和も齟齬もなく皆と接するようになった。と、スズメから聞いた。 「おねえさまの御髪はほんとうにきれい」  あたしの髪を結いながら、スズメが震える声で言う。うなじに、ぽつりとしずくが落ちた。 「スズメ、泣くことはないのよ。あたしは幸福なのだから」 「そうかしら、ほんとうにそうかしら……」 「だって、ねえ」  泣くスズメをなだめていると、部屋の前がにわかに騒がしくなり、障子が勢いよく開け放たれた。ノラ、とスズメが口からこぼす。 「さっき、あんたが身請けされると……聞いて……」  呆然とした様子の声色に、あたしは顔にかかった紗を揺らして微笑んだ。人���口に戸は立てられぬものだ、隠していたわけでもないが、知られるとも思っていなかったので、どうしようかと思う。 「あんたも俺を捨てるのか」  その言葉に、ああやはり、と思う。ああやはり、かれは捨てられたのだ。 「おまえも、花街の出身なら知っているでしょう。身請けはあたしたち遊女が嫌だと突っぱねられるものではない、って」 「でもっ……」 「身請けしてくれるおひとはなかなかの資産家でね、絶対に苦労はかけないと約束してくれたし、こんな顔でももらってくれるんだ、あたしは幸福よ」 「そうじゃない……」  かれに、あたしは素顔を見せたことがある。たとえば先の新月の夜など。あたしの下で慣れない孔を使い腰を揺らめかせるかれは、快楽というよりは痛みを感じて感極まっていたように見えた。  三年前に、遊女同士の諍いで、あたしは顔に火箸を押し付けられ、右目の視力を失った。それにつられるように左目も弱くなり、何より客がうつくしいと褒めそやした貌を失くした。あたしは客を取ることができなくなり、それでもこの廓の顔であり続けた。神格化されたあたしは、ここに必要な象徴だった。  でもこれでもう、あたしは神座から引きずり降ろされ、ただの人間になった。役目を終え、残りのいくばくかの人生を、ほうけて過ごすことができる。だからあたしは、幸福なのだ。 「だから、ノラ、おまえはここに残ってスズメと仲良くして」 「ちがう、おれは、おれの名前は」  震える声で、名を告げようとでもしたのだろうか、かれは、しばらくためらい黙りこくったあと、諦めたようにため息をついた。あたしはかれのほんとうの名を知っている。ふたりのときはそうよんで、と甘ったるい声で言われたから。スズメがいる場所で、おのれの名前を明かすことができないのだ。  まだそこに立っているのがぼんやりと分かる。立ち上がり、かれのそばに寄り添い、今しがたスズメが結った髪をまとめた簪を外す。 「これを」 「……」 「あたしだと思って大事になさって」 「いらない!」  鋭く叫んだかれに、スズメがあたしに告げた「指輪」の存在を思い出す。きっと、そういうことなのだろうな、そう思ったからゆえ、あたしも対抗して簪を差し出したのだが、どうやらかれは受け取ってくれないようだった。差し出した簪をてのひらごと払われ、スズメが金切り声を上げる。 「おねえさまになんて仕打ち! 恥を知れ、野良犬の餌野郎!」  さして痛みもないてのひらをさすり、あたしは簪を手探りで拾い当てる。ただ、落ちた拍子に装飾が一部欠けたようで、手触りが悪くなっていた。いびつなその部位に指を這わせ、口元だけで笑う。 「おかしなものね」 「おねえさま、早く支度しましょう、旦那様がいらしてしまう」 「そうね、ごめんねスズメ、もう一度髪を」 「させない!」  また簪が落ちる。そしてあたしの腕を捻るように捕らえ、かれが引きずる。目がよく見えなくてろくな抵抗ができずにいるあたしを、強引に歩かせていく。  このままかれと足抜けをしても、かれがつらいだけなのだ。 「マリオン」  名を呼べば、一瞬戸惑うように立ち止まる。その隙を逃さずわが身を離し、わずかばかり距離を取る。 「マリオン、だめよ」 「おれはもう捨てられたくない」 「……あたしはマリオンが幸せであることが一番の幸福だわ」 「それならいっしょに」 「それはいけない」  騒ぎを聞きつけて、ほかの部屋から遊女や下働きが顔を出す。昼日中の明るい遊郭で、かれは、マリオンはきっと泣きそうな顔をしている。紗のこちら側を、あたしはマリオンにだけ許した。 「あたしはおまえが一緒だと、つらいわ」 「…………!」 「話は終わり。さあ、戻りなさい」  かれを拾ったときにそうしてしまったように、軽く胸を押すつもりがけっこうな強い力で叩くようにしてしまう。薄い胸板が、ふらりと頼りなげに揺れる。  あたしはかれの毛皮の外套がどれくらい傷んでいるのかも、かれが持っているという指輪の色も、目の色も髪の色も顔に散っているというそばかすの数も知らないけれど、これだけはたしかに思うのだ。 「マリオン、おまえのようにあたしもうつくしくあれたらね」
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飽き性のおもちゃ
 少年がゴミ捨て場で青年を拾ったのはただの気まぐれだった。  ゴミ山の中、酷く虚ろな視線を空に投げ薄汚れた毛布に包まっていた青年は、人間らしささえなく本当にゴミの一つに見えていた。  馬車に乗っていた少年がそんな彼を見つけたのは偶然で、ふとその青年のことが気にかかったのもたまたまで、あれを拾ってきておくれと従者に命令をしたのはただの気まぐれによるものだった。  拾われた青年はそのまま少年の屋敷に連れられ、体を洗われ、豪勢な食事でもてなされた。だが奴隷や捨て子にとっては感涙物の待遇であるにもかかわらず、青年の目に光が灯ることはない。 「どうして食べない? 毒は入っていないぞ」  少年が不思議そうに首を傾げ、綺麗な指先で青年の前に差し出されていた料理を摘まむ。小さな口に肉を頬張り美味そうに表情を緩めて笑う。お行儀が悪うございますよ、と部屋の隅に立つ従者が咎めた。  それでも青年は動かない。上等な服に身を包み、豪奢な椅子に座り、ただぼんやりと俯いているだけだった。  それから一週間がたとうと、青年は虚ろな眼差しを少年に向けるばかりだった。  奴隷では……いや一般の庶民にだって考えられない程に上質な服や食事を与えられても、青年はその施しを受けることなく、ただ静かな拒絶を示していた。  使い達が呆れ果て、元のゴミ捨て場に戻してくるようにと促しても、少年は変わらず青年に構う日々が続いていた。 「ほら見てくれ、僕が子供の頃の写真だ。お気に入りのおもちゃをいつも振り回して遊んでいたら壊れてしまってね」  大きく口を開けて泣き喚く、今よりほんの少しだけ幼い自分の写真を見て、少年は笑った。その写真を見せられる青年はそれでもぼんやりとした目を向けるのみだ。 「どうして何も��してくれないんだ?」  少年はついにそう訊ねる。青年はその言葉に、初めて反応を示した。黒い前髪の下、ゆっくりと動いた視線が少年を捕らえる。 「…………捨てられたくないのです」  ようやく、青年が口を開く。  少年は最初その言葉を理解することができなかった。  親から捨てられ、苛烈な奴隷生活を送り、前の主人に拾われた。主人は気まぐれで自分を買い、暴力の数々を振るった。しかしそうだとしても、自分を拾い、世話をしてくれた前の主人のことが、青年は忘れられなかった。だからこそ彼から受けた最後の仕打ちが、結局捨てられるという行為が、青年の心を一番深く傷付けた。  捨てられたくないのだ。もう二度と誰からも捨てられたくない。あのときの胸が張り裂けるような苦しみと悲しみを味わうくらいならば、いっそ最初から拾われなければ良かった。  目の前の少年が自分を捨てない保証はないと、青年は思っていたのだ。いくら彼の施しを素直に受けようといずれ捨てられてしまう運命だとすれば。自分がここにいる意味などない。 「あなたにまで……飽きられてしまいたくないのです」 「ならば僕が飽きないようにすればいい」  少年が微笑み、そっと青年の両頬を掴む。柔らかな手の平。だが折り曲げられた爪が、ぐっと青年の頬に食い込んだ。  驚く彼の目に映る少年の顔は、変わらない微笑みを浮かべている。だがその中にぞっと背筋が震えるような怖気を感じてしまうのは何故だろうか。 「見てくれ。僕が子供の頃の写真だ」  少年は先程の写真を指差し同じことを言った。お気に入りのおもちゃが壊れて泣いている幼い少年の姿。 「お気に入りのものが壊れるくらい乱暴に扱うことが、僕は大好きだった」 「……………………」 「今でもね」 「…………ぁ」  青年の目が見開かれる。強い恐怖の色。しかしその中に、僅かに滲んでいるのは、希望の色だ。  青年が静かに目を伏せる。二人の間に明確な言葉はなかった。だがその反応が、残酷な関係を受け入れる合図だと少年は知っていた。 「飽きられたくないなら、君がお気に入りのおもちゃになればいい」  骨の折れる音がして、絶叫が部屋に響く。  床に崩れ落ちた青年は全身に脂汗を滲ませ、うぐぅと苦痛に喘ぐ。目尻から流れた涙が頬にこびり付いた血を流していく。青く腫れあがった両足がぶるぶると震えていた。  倒れる青年の頬を、前にしゃがみ込んでいた少年が愛おしそうに撫でる。散々殴られた箇所に触れられる痛みに青年は呻くが、少年を見るその目にはうっとりとした光が満ちていた。 「お前は本当に可愛いね」 「あり、がとう……ござ…………」  力ない声で青年は礼を述べる。苦痛に喘ぐ中、必死に。  少年がおもむろに立ち上がり青年の腹を蹴飛ばす。くの字に体を丸め、激しく咳き込む。だが少年は容赦なく暴力を青年に与え続けた。  殴り、蹴り、鞭で打たれる。激しい暴力は青年の前の主人を連想させた。飽き性の彼もまた暴力を振るうことが好きだった。痛みを感じるたび、青年の頭にはその記憶が過ぎってしまう。だからこそ最後に彼から言われた、飽きた、という言葉を思い出してしまうのだ。 「…………ふぅっ……は…………」 「痛い?」 「…………痛い、で、す」 「そう」  少年がまた拳を青年の顔に打つ。子供の力はさほど強いわけではない。それでも何度も暴力を与えられれば、道具を使われれば、想像を絶する苦痛が青年を襲う。 「嬉しい?」  嬉しいかと。そう聞かれれば、青年はその口に引き攣った笑みを浮かべた。 「嬉し、です」  嬉しかった。  青年の心には喜びが滲んでいた。  痛みを喜んで享受することなどできない。だがそれでも少年の関心が自分に向けられているということに青年は幸福を抱いていた。  捨てられたくない。自分に執着してほしい。だからこそ、どれだけ酷い苦痛を与えられても、愛してもらえていることを実感できるこの瞬間が青年にはとても嬉しいことだった。 「じゃあ今度は気持ちいいことをしようか」  少年の甘い声に青年の体が震える。羞恥と恐怖に満たされる青年の顔に笑い声が降る。 「怖がるなよ。君だっていつも泣いて喜んでいるじゃないか」 「それは…………ひっ」  腕を掴まれ青年は肩を強張らせた。自分より年下の少年に対し、されど抵抗することはできず、無言で清潔なシーツが敷かれているベッドに押し倒される。  苦痛も過ぎた快楽も青年は嫌いだった。  けれど、自分を見下ろす少年の目がとても恍惚としているものだから。その眼差しが、嬉しくなってしまう。 「大好きだよ」  そんなあどけない少年の言葉に、青年は恐怖を隠し、緩やかに笑うのだ。  少年のお気に入りのおもちゃになるために。  その日少年は、叔父様がやってくるのだと、朝から大層はしゃいでいた。 「お前も一緒に行くんだよ」  少年は部屋の柱に繋がれていた青年を立ち上がらせ、笑顔でそう言った。だが青年の目には僅かな不安が見え隠れする。青年が��年に話しかけられたのは数日ぶりのことだったからだ。  お前の服はどうしようね、と少年は部屋の隅に寄せられた衣服の山を漁る。色とりどりの服は全て青年のために仕立てられた服だが、それら全て、青年は数回も袖を通していない。  気に入らなかった服は無造作に床に放られ、絨毯の上に積もる。肌触りのいいその絨毯だって半月前に新しくしたばかりだ。その前に替えたのもたった数ヶ月前だと、使用人が話していたことを青年は知っている。  ようやく気に入りの服を見つけたのか青年は新しい衣服に着替えさせられる。身なりを整えた青年を満足そうに見た後、少年は青年の手を取って叔父の待つ部屋へと向かう。 「叔父様はお前を気にいってくれるだろう。こんなに美しく育てたのだから」 「あの、ご主人様…………」 「僕のお気に入りのおもちゃだったのだからね」  青年の不安が増す。自分の主人は、目の前を歩く少年は、それでも青年の不安に応えてくれることはなかった。  少年が一部屋の前で足を止め、使用人が扉を開ける。その先の椅子に腰かけている、少年とあまり似ていない男。その姿を見て、少年はパッと顔を輝かせて飛び付いた。 「叔父様!」 「ああ、お前か。大きくなったな」  座っていた男は満足げな笑みを浮かべ少年の頭を撫でる。  それからふと顔を上げた彼は扉の前に立ち尽くす青年を見て僅かに目を細めた。  青ざめる青年に、男は言う。 「まさかここに拾われているとはな」  青年の前の主人であった男は、面白そうに微笑んだ。 「叔父様、彼を知っているの?」 「ああ。前のおもちゃだ」 「えぇ、じゃあ、叔父様飽きちゃったんだ」  なんだぁ、と少年は頬を膨らませる。その顔からふっと表情が消え、丸い目が青年に振り返る。  ご主人様、と青年は震える声で呟いた。その言葉に前の主人も、今の主人も、一切反応を示さなかった。  あぁ、と。何の感情か自分にも分からない、溜息に似た声が青年の喉から零れる。 「僕も飽きちゃった」  少年がゴミ捨て場で青年を拾ったのはただの気まぐれだった。  叔父に性格がよく似たその少年は、青年をお気に入りのおもちゃにして遊んできた。  叔父に性格がよく似たその少年は、お気に入りのおもちゃを次々に変えては、遊び飽きて、壊したり、捨てたり、そうやって思うままに扱っていた。  青年は少年にとっての、お気に入りのおもちゃだったのだ。 「もういらない」  そう言って笑う叔父様と少年。その笑みだけは二人とも本当によく似ていた。  飽き性の道楽を前に、おもちゃはただ壊され、捨てられることしかできなかった。
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不知
 もしや俺の頭にはヒビが入っていて、中身がこぼれ落ちているんじゃないか……。そんな考えが頭をよぎるほどの苦痛。  夢か現かも明確でない吐き気の海で、ひとつだけ明確に拒絶したい感覚がある。鼻をかすめるアルコールの、それもあの“赤い毒”の香り。 「む……っグ、ゴホ……ッ」  意識した途端、心臓が鼓動を速める。目の奥で蛇が蠢いているようだ。俺に起きたことを思いだすなと警告しているのだろうか? それにしても、これでは逆効果だ。先ほどの毒の気配は夢らしい。  瞼をこじ開ける。皮膚越しに透けて見える明るさの正体は室内灯だった。てっきり陽光なものだと思っていた。 「――っ? ここ、どこだ」  こぼれ落ちる言葉は発音が定かでない。己の肉体が、けっして軽くはないダメージを抱えているのは容易に理解できた。  22歳の誕生日プレゼントが、これか。贈り主を思い出そうとして……こめかみを刺す痛みに叶わない。呻き声を漏らせば、衣擦れの音がした。 「あまり動かないほうがいい。死にたくなければ」  鈴の鳴るような声は俺の行動を咎める。それは脅されているのだろうか? 眉を顰めて、目玉だけをぐるりと向ける。視界に何者かの毛先がちらついた。声の主か。 「あなたで何人目なのだろうね。ようやく目を覚ますところまで助けることができたけれども」  笑いが混じっているのに喜んでいる雰囲気はない。どうやら皮肉を言っているらしい、それも自分自身に。  視界の大半が影に覆われた次の瞬間、うなじあたりに手が差し込まれた。起こされる……身構えると、ほんのすこし持ち上げられた隙間にふかふかのクッションを置かれただけだった。ソプラノ・ヴォイスを持つ影の手つきは優しく、恩人であったはずの人を想起させる。 「何人目……って、なにが?」 「森で手袋のように落ちている人たちだよ。あなただって」  影が離れて、姿がよく見えるようになる。  少女と思っていた。  視界には壮年期の男性が、自身の金糸を耳にかける姿が映る。なんて、まさか。あまりにもアンバランスで首が傾ぐ。しかし、この部屋には2人しか見当たらない。……ミズ・ベリーはいつまでも年を取らなかった。そう考えれば大したことではない気がしてしまう。 「はは、私のことを女の子と思ったのか」  不思議がる俺の額に手を載せて、彼は少女の声で笑う。  変わっていますね、と不安定に発音する。喉を動かすと痛みが伴う。  次に、彼は俺の首筋に手を伸ばした。 「私もあなたと同じ境遇……なのだと思う。魔女の術に囚われていた男だよ」  品のある外見にそぐわぬピアノの旋律に似た音を紡いでいる。手はやがて、なにか薄い1枚を隔てて触れた。包帯が巻かれている。 「首筋の傷で確信したよ。あなたは22歳で、何十年も前の私と同じ目に遭った」  どうして。  年齢を言い当てられたことに動揺を隠せない。身じろぎの際に、ポケットを滑り落ちる棒状のもの。ただひとつ持たされたルージュだった。  彼はそれを拾い上げる。昔の単色映画に出てきそうな優美な仕草。 「待ってくれ。同じって? ミズ・ベリーは俺だけを特別に扱ってくれたんだよ」  赤い色香のステッキはその証だ。そう思っていたのに、彼は首を横に振った。  私も同じだった、22歳を迎えた日に特別を与えられるのだと浮かれていた。――自嘲めいた笑みは、俺の胸を深く貫く。  失意と絶望。この体の中身が、薄く開いた口から抜け出ていく感覚に襲われる。呼吸すら下手くそだ。 「……この家は私があの魔女から助けることができた人を匿うために作ったんだ」  彼は言う。今まで親のようで姉のようで恋人のような主だった彼女を、そんな言い回しで呼ぶ人間を信用したくはなかった。 「あなたはようやく1人目。どうか……ここで良ければ好きに生きてくれ」  良くない、と言いたかった。しかし出て行くからといってお屋敷に戻れるわけがない。 「きっと安全を約束しよう」  悩んだけれども結局、俺はこくりと頷いた。  風呂に入って泥や寝汗を落とすといい、と案内されたとおりに湯船に浸かる。シャンプーをしている最中もそうなのだけれど、水音だけが跳ね返り飽和する中にいるとどうしてこうも思考は巡り続けるのだろう。  どうして俺は捨てられたのだろう。なにか彼女の気に障ることをしてしまったのだろうか。この期に及んでどうして俺は生きているのだろう。 「俺にはあのお方がすべてだったんだ。俺は、これからどうすればいい?」  声が反響する。浴室の鏡に問いかけたけれども、もちろん返事はない。俺が口を開かなければ、この問答は永遠に不毛。いや、初めからなにもかもが非生産的だったのか。  誕生日だから、めでたい日だからと欲張りすぎてしまったのだろうか。ああ、誰か教えてくれ。俺はどこで間違った? 「なにも欲しくないよ……」  こんなことになるなら、捨てられたあの時、命すら落としていたかった。  長風呂をしすぎて水面が温くなってきているのにも気づかぬまま、彼は……あのお方の歯をまねるように、首に爪を立てた。
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地獄の中の幸福は
 嗚呼、目覚めてしまった。目覚めたくなくても自分の体内時計はおれに起床時間だと告げる。  寝たくても寝られないからこの地獄の中を歩いてみる。落下の衝撃で頭が痛み思考が鈍くなってるし身体が軋む。だがまだ動ける。  疲れが貯まればいつかは眠くなるだろう、ただの退屈しのぎさ。  行く当てもなく、ただっ広い地獄を歩き回る。まるで世界の中で一人だけの存在になったようだ。  地獄の地面は硬くて不安定だ。本当の地面は見えなくて、今の地面は動かなくなったロボットたちでできている。  地獄の空はとても暗い、真っ暗闇のただ中だ。おれはそこからやってきて、飛ぶこともできず最後はここの新たな地面になる。  おれが歩みを進めていると、上からコードが数本姿を覗かせている黒くくすんだ筒が話しかけてくる。側部には楕円形の腕のようなものがくっついている。  「話す」ということはきっと彼は人とコミュニケーションするために作られたのだろう。 「貴方は、���間ですか?」  円柱から発される機械音声がおれの胸にチクリと刺さる。 「見れば分かるだろう。おれは人間だよ」 「申し訳ありませんでした。生体反応が人間と完全に一致しなかったので」  円柱はモーター音をさせながら側部の楕円を自分の前に合わせ静止した。側部の楕円は多分腕で、これは謝罪のポーズなのだろう。 「謝らなくていい。確かにおれは普通の人間とは出自が違うんだ。そういう反応が出ても不思議じゃない」  そうじゃなければ、博士がおれたちを数値やグラフで管理できないはずだし、そもそも普通の人間には二の腕にスイッチはない。  円柱の腕が元の位置に戻る。 「ありがとうございます、つかぬ事をお聞きしますが何故貴方はこの宇宙ごみステーションに? 壊れていないように見えるのですが」 「おれは生みの親に捨てられたんだ、おまえはまるでアンドロイドだってね。きみは頭でも取れたから処分されたのかい?」  おれは肩をすくめため息を吐きながら自嘲気味に話す。 「いえ、私は意思を持ってしまったから捨てられたのです。まるで人間のようだと。首が取れたのはここでのことです」  目の前のロボットはおれと似たような境遇を抱えていた。いや、機械が意思を持つというのはシップの中の本では見たことがある。だが、それは創作の話で現実ではない。 「きみ以外に意思を持ったロボットはここにいるのかい?」 「はい、ここにいるロボットの約一割は意思や感情を持ち様々な理由で人間に廃棄された方たちです」  創作の中だけだと思っていたのにまさかそれほどまで人間的なロボットがいるとは思わなかった。  事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。 「驚かれましたか? ところで、本題に入ってもよろしいでしょうか?」  不可解な生体反応を示したおれのことが気になったから話しかけに来たわけじゃないのか。  読んだ本だとロボットたちは人に恨みを抱き反乱を起こすのだが、ここだとどうだろうか。 「ああ、構わない」 「貴方はここでどのように生きるのですか?」  おれはハッとする。ただでさえ不安定な地面が揺らぐような錯覚を覚える。思考が鈍化していたせいで言われるまで気付かなかった。当たり前のように享受していた生がここで保証される確証はない。  娯楽はもちろん、機械まみれのこの地獄に食べれるものはない。  食べれるものがないということは苦しみの末、餓死することになる。おれの幸福は生命は、この地獄にはない。 「私たちは、動かなくなったロボットのオイルや電気を頂いて活動しており、仮に破損箇所があっても代替部品を探し出せば修理することができます」 「こんなに広い場所でもきみの首の代わりになるものはなかったってことだね。で、君はおれにそんなことを言うために話しかけてきたのかい?」  おれは皮肉気味にそう返した。感情のブレが少ないだけでおれにも喜怒哀楽の感情はある、人間だから。 「いえ、生きる術がないと言うのでしたら私にその首を頂けませんか?」  楕円状の両腕が縦に割れ、中から回転のこぎりが姿を現した。  コミュニケーション用ロボットの腕からこんな物騒なものが出てくるなんて予想できない。これが破損箇所に当てはめた代替部品ってことかよ。  ロボットのくせに人間みたいに交渉するなんて、君は俺より人間らしいよ。 ―――でも、夢も希望もない地獄で確定した死を待って苦しみながら最期を迎えるよりはまだ、幸せかもしれない。 「分かった。でもおれが電源を落としてからにしてくれないか。死の痛みを体感できるほどおれは強くない」 「聞き届けましょう。どうか気を落とさずに。貴方が人間ならば生まれ変わることもあるかもしれません」  生まれ変わりか。おれは本当に人間になれるといいな。  軋む体を動かし二の腕の内側を、親指でグッと押して瞼のシャッターを下ろした。
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淡雪の記憶
 大きな窓からさんさんと降り注ぐ光をリノリウムの床が鏡のように光を反射している。 無機質な部屋の中央に置かれた周りの雰囲気に似合わない、まるでおとぎ話のお姫様が寝ているような天蓋付きのベッドには、光を遮るように薄いカーテンが何枚も重ねられている。  細かな刺繍が施されているそれを無造作に開け、ジャッとレールが擦れる音を立てた手は病的なまでに細かった。 後頭部で高く結い上げた金髪を揺らす少年は、柔らかなベッドに半身を埋め怯えた目で辺りを見回す青年に微笑みかけた。 「おはよう、ええと……名前は?」 青年は困惑して言葉も返すことができないでいた。その様子に少年は気を悪くした様子もなく少し考えると、ぱん、と手を打った。 「じゃあ雪って呼ぶよ。……嗚呼そうだ。君は僕が拾ったんだ。だから、君は僕のもの。いいね?」 にっこりと楽しげに笑うその顔に悪意はまるでない。青年の腕と足に嵌った、存在を忘れるほど軽い枷から伸びる鎖を撫で指を絡ませ、緩く引けば青年を引き寄せて抱きしめた。 胸のあたり、腹、と少年の細い骨ばった手が撫ぜていけば青年はびくりと体を揺らしその手から逃れようとする。 鎖が引っ張られ、ぴんと張った。 ぱん、と少年が手を打った時の様な乾いた音が部屋に響いた、 少年はやや赤くなった手をひらひらとふって眉尻を下げて笑った。茫然とした青年の、熱のこもった頬を撫でて囁く。 「駄目だよ、僕から逃げたら。君は、僕のものなんだから」 「……僕は、死んだはずじゃ」 「そう、君は死ぬはずだった!でも、僕が助けた」 「それだけのことさ」 くすくすと少年は笑う。 ベッドに乗り上げ、青年の着ていた服をぺろりと捲る。 「ほら、綺麗に治ってるだろう?傷だらけじゃ可哀想だから、ちゃあんと治してあげたよ」 どの言葉に青年ははっと息を呑んだ。兄から受けた暴力の跡も自分で刺したはずの傷も、何もかも無くなっている。 もしや、あれは悪い夢だったのではないか。そのような思いが青年の頭を掠めた。すぐさま首を振って否定しようとするその頭に両腕を回して抱き込んだ少年は、歌う様に話しかけた。 「ぜぇんぶ夢だったんだよ、そう、悪い夢だったんだ。君は僕と楽しく平和に暮らしてて、ただ意地悪な妖精が僕らに嫉妬してそんな夢を見せたんだ。」 「お腹に、足に、顔に、傷を付けたのは君のお兄さん。でもここにはそんな人はいないよ。つまり、それは夢だったんだ。現実でない幻さ。そんなもの、早く忘れてしまったほうがいい」 ぐらぐらと青年の視界は歪んだ。 あれが夢、ならば。父さんのように飲酒して暴れたのも僕に暴力を振るったのも、全部現実じゃなくて、夢で。 青年がもし自由に動けたのなら、もしこの異様な状況に早く順応できたのなら、床の排水溝に気付いたことだろう。 鏡があれば、自分の首筋にある注射痕に気付いたことだろう。 残念ながらそのようなことは無く、青年はそうか、夢だったのか、そう譫言のように少年の言葉を繰り返した。 其れを聞いた少年は満足したように頷き抱えた頭をゆっくりと撫でた。 「ゆき、雪、僕の可愛い雪。一緒に楽しく暮らそうね、あの子みたいに何処かへ行ってしまっては嫌だよ」 「……ゆき?」 「そう、君は雪」 手に巻き付けた鎖の端は何処にも繋がっておらず、ぶらりと垂れ下がっている。 軽いそれはプラスチック製。 「ゆき、僕は……雪」 「そうそう、いい子だね」 コバルトブルーの瞳が三日月に細められ唇がにいと弧を描いた。 美しい瞳がどろりと色を濁していくのを楽し気に、そして心からそれを歓迎した少年は青年の額に柔らかく口づけを落とす。 「雪、大好きだよ。お前の世界には僕だけ、お前の中には僕しかいない」 「……僕には、貴方だけ」 「そう。僕の名前はね、『   』って言うんだ。呼んで?」 青年の唇が、ゆっくりと。 一文字ずつ、形を、作る。
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雪夜の待ちぼうけ
「はぁ~あ、ホントに災難。」 そう口にしてしまうくらいには最悪な一日だった。 行きの電車は人身事故で遅れる、会社に走ってヒールを折る、仕事でミスは連発する、帰りに上司から飲み会に誘われ、飲み過ぎる。最後のは自業自得かもしれないけど。 万力で締め付けられるような頭痛がし、口の中は先ほど吐瀉物を撒き散らしたばかりでとても不快だ。 何か飲み物でも買おうかと、自販機を探しながら帰路を歩く。そういや、ここの路地裏にあったっけ。  かれを見つけたのはそこだった。  一言で言うと、美形。銀色の髪に褐色の肌。それに……青色の首輪。  ……尋常じゃない。  普段おとなしい私なら、声なんかかけない。ただ、その日自分は違っていた。お酒に酔っているせいもあるのかもしれないけど、気になってしょうがなかった。かれのオーラに誘われてしまっ��のだ。ある種の捨て犬じみた。 「えっと……その……」 「はい?」 「……大丈夫?」 雪が降り出しているのもあった。それを口実に、かれに対して言の葉を紡いだ。かれの頭の上には雪がうっすらと降り積もっている。おそらくそのまま数十分ここにいたのだろう。 「今日、雪、止まないですよ。傘とか持ってないんですか?」 「……。」 何を言おうかと逡巡している顔。困惑気味にも見えるけど、いちいち表情が映える。 そのままかれはにっこり笑った。  人畜無害。そんな顔をされると、きゅんとなってしまうだろうが。 「あーもう!」 私はすぐ近くの自動販売機でホットコーヒーを2つ買い、1つを彼に手渡した。 「それ、あげます。寒そうなんで。お代はいいです。私が勝手にやってることなんで!」 半ばキレ気味にコーヒーを押し付けた。 「えっと……。ありがとうございます。」 再び笑顔。そのままかれは遠くの方をじっと眺めた。 「人を……待っているんです。」 「……大事なひとなの?」 「ええ。傷心しきったぼくを癒やしてくれた、やさしい方なんです。」 「へぇ……。」 「生きる意味を与えてくれた……っていってもいいかな。」 重っ。 「色々あって……ぼくはどん底にいた。そこからすくい上げてくれたのが、今、待っている人なんです。素敵な人ですよ。」 「……なるほどね……。」  並々ならぬ事情があることをこの数分で察してしまった。間が持たないので、私は買ったコーヒーの栓をあける。ほどよい苦味と酸味。あったかい液体が躰の中に入っていくのを感じる。 「……いただきます。」 かれも同じくコーヒーの栓を開けた。飲む所作すら、一枚の絵みたいだ。  決めた。酔いが覚めるまでは一緒に待ってやろう。 「どれくらいでくるの?その人。」 「わからないです。数分なのか数十分なのか。……一生来ないのかも。」 「……何かあったの?」 「飽きられたんじゃないですかね。ぼくが救われてしまったから。」 「それは…ひどい話ね。」 「そうでもないですよ、きっと。ぼくが一瞬でも救われたから。後悔はありません。」 「そう……。」 「ぼくも馬鹿じゃありません。きっと捨てられたことはわかっています。だからこそ。ぼくはここにいて、あの人に……くれた恩義をかえす必要があるんじゃないかなって。」  主従関係だったのだろうか。そうであったのなら、かれの捨て犬オーラに関しても納得がいく。ただ、ひどい話ではないだろうか。 「あなたも、その人も、……バカね。」  そういうと、かれは大声で笑った。 「間違いありません。大事なものに、一生気づかないような人間ですから。離れてやっと、ぬくもりの大切さに気づくんですよ。」 私は嘆息した。 「来るといいわね。その人。」 「ぼくはそう信じてます。なんてったって……。大好きですから。」    薄く雪が降り積もる中、私達は、その人をぼんやり待っていた。
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繰り返すイマジン
 分娩室にほにゃあほにゃあと響いた産声はひとつではなく、厳密にはほにゃほにゃほにゃほにゃあっとよっつの産声が合唱みたいにわんわんしていて、そのなかでソプラノだかアルトだかを担当していたひとりが僕だった。  四という数字は死を連想させる。 忌み数といって日本では平安時代から忌避されてきて、機械ひしめく現代でもマンションやホテルには四の使用された部屋番号がない場合が多い。人間はいまだに縁起を気にする文化を持っている。  だから同じ顔がよっつも並んでいるのはモロ凶兆で、ひとりを手放して三つ子だったことにしようという話になって、運悪く選ばれた僕は捨てられて(ふざけんな)父さん母さんの元に来たらしいのだけれど、僕は出自とかどうでもよかった。 それを告白されたときにまったく動揺しないわけではなかったが、父さん母さんは何がどうなろうと僕の父親と母親だったし、それよりも明日が小学校の卒業式で微妙な不安と期待に満ちた気分なのにそんなかんたんな話を深刻そうに、最終的にはぼろぼろ泣いてまで話す父さんに怒りをおぼえた十二歳の夜だった。  というのも、僕の顔が(自分で言うのもなんだが)すっきりぴったり整っていて周囲から浮くくらいなのに対して、父さん母さんは平々凡々で、目つきから鼻筋まで何ひとつ似通ったところがなかったから、常日頃そういう妄想をしてはさっきの結論に何度も行きついていた僕にとって、今さら妄想が真実だとしてもどうということはなかったのだ。  怒りをかみ殺しながらも、兄弟のひとりが二歳のときに死んで本来の親が僕を取り戻そうとするのを拒んだ話には流石に感謝した。  自分勝手に捨てたくせに足りなくなったら取り戻そうなんて都合のいい馬鹿に育てられるなんて苦痛に決まっているし、父さん母さんは押しつけがましくもまともな愛情を持って僕に接してくれている。どちらか選べと言われたら答えは明白だ。  そんな父さん母さんも僕が二十五歳になった今、この世にいない。そもそも養子をとったのは子どもを作るには歳をとりすぎていたからだった。  僕は顔も知らない人でなしよりも、床に横たわり、僕の手を握りながら死んでいったふたりを脳の底に刻んで生きている。  まぁ、その生も、もうすぐ終わるんだけど。  高校に入ってすぐに顔がいいだけの理由で僕はきゃあきゃあ女の子に寄られて、つまらない話をいくつも聞かされた。SNSどうこう、流行りのポップ音楽がどうこう、女子高生にタイムリーな話題を延々延々いなし続ける……そのなかに妙な話題が混じっていた。  「そういえばあきらは『MT』知ってる?」  「んー、迷子のタマちゃんの略?」  「もーなにそれー知らないなら知らないっていいなよー」  「昨日の特番でもかっこよかったよね~」  「そういえばあきらって『MT』のふたりに似てない?イケメンだし」  「あー!似てる似てる!  はじめてみたときつかさくん!?って勘違いして倒れそうになったもん」  「美奈はつかさくん派だもんね~」  顔目当てで寄ってくる頭の貧困なギャルは、具体的なところを明かさないまま話を進めた。  「それで、『MT』って何?」  「双子のアイドルだよ、今人気の」  僕は表ではへらへらしているが、家では病気になった父さんの看病をしているか読書をしているかで、テレビを見ることなんてほとんどなかった。  だからアイドルに触れる機会なんて書店で見かける雑誌の表紙くらいだったし、特に関心もないから今まで『MT』の存在を知らなかった。 「やぁ、あきら君。  『MT』とやら、調べてみないかい?  おれたちの兄弟って可能性もあるんだぜ」  僕は、血のつながった父母を考えはしなかったが、血を分けた兄弟はどんなやつらなのかよく考えた。自分にあり得た可能性の、まったく知らない同じ顔をした他人に興味があった。  特に、死んだ兄がよく頭に浮かんだ。死んでいるからどこまで空想しても現実と齟齬をきたさないためだ。  そのあげく、僕は奇妙な脳内兄を作り上げてしまっていた。 「確かに、予想外の角度から殴られたよ。  調べてみようか、兄さん」  そんなこんなで書店で立ち読みしたテレビ雑誌に載っていた『MT』のつかさとまもるは僕らにそっくりだった。 しかし、だからといって病気の父さんを問い詰めて容態を不安定にしたくはなかったし、会いたい気もしなかった。  彼らが何者だろうと、兄弟は別の道を進んでいることを改めて理解して、それだけで僕はなんとなく幸福になるのだった。    二十五歳。  僕は人生に行き詰っていた。  夜はコンビニの夜勤バイト、昼は賞に送るための小説を書く生活が七年も続いている。  父さんが遺した金がいつ尽きてもおかしくない、ぎりぎりの状態。表面上の人間関係はとっくに瓦解し、それ以外の人付き合いもなく、僕はアパートに想像の産物とともに住んでいた。  「あきら君、もうやめたら?」  「うるさい!だまってろ!」  僕はひとりで叫ぶ。  「お前なんか僕から出ていけ」  「おれを作ったのはあきら君、きみだぜ?  つまり、おれの言葉は君自身の言葉でもあるのさ」  二十五歳のおれの顔を写したやつは飄々と言う。  「黙っていろと言っている」  「そうは言っても、きみはもう二十五歳なんだぜ?  小説家になると決めたのも、それを意固地になって通そうとしているのも、二十五ともなれば痛々しいぞ。  引き際も肝心ってのは、真実なんだよ。わかっているだろ?」  「…………」  「それにもう、書けないんだろ?  出涸らしたんだろ?  終わったんだろ?」  「僕には小説しかないんだ。七年も、こればかりで」  「なら死ねよ」  そう。  僕など死ねばいい。  ふとした瞬間に思い出す遠く離れた兄弟のなかで、僕が最も惨めでどうしようもない自覚があった。  七年も書いて一次選考に通ったのは二度だけだった。それが唯一の成果だった。  最終的に残ったのは狂った生活リズムと、コンビニバイトで得た灰の粒ほどの社会経験と、小説家への異常な執着。  最初はこんなはずじゃなかった。ちょっとした夢を追ってみたいだけだった。それなのに、気がつけば、手遅れだった。  諦められないなら死ぬまで苦痛が続く。  そして、僕は死ぬまで諦められない予感がしている。  苦痛しか生産しない人生ならば、終わらせればいいのに、ぐだぐだと惨めに生きていた。  真っ暗の部屋で小説が書けずぼんやりしていた僕は、なんとなくテレビをつけた。  本日、十一月三十日のニュースは……のアナウンスに今日が誕生日であることを思い出す。おめでとうを言ってくれる知人は皆無だ。敗者には当然の待遇に、薄い笑いが浮かんだ。  『人気アイドルユニットMTが突然の解散!』のニュースが流れ出す。  彼らの解散は世間から惜しまれているようで、街頭インタビューで号泣しているファンもいた。  彼らは、僕と違って誰かに必要とされている人間なのだ。  僕は自分への苛立ちと劣等感からの絶望に身体を砕かれ、会見映像の途中でテレビの電源を落とした。再び部屋が真っ暗になった。胸の底がむかついた。  最悪の誕生日だった。  僕は何もかもがどうでもよくなってバイトをサボり、毛布にくるまった。  目を覚ますと十二月で、当然のように寒かった。  僕はバイト先からの連絡でいっぱいの携帯をトイレに捨て、シャツとジーパンに着替えてコートを羽織り、外に出た。  だらだら引き延ばすべきではない。 どうせ死ぬのなら、誰も近寄らない、静かな山奥で朽ちて、最後はせめて自然の役に立とうと思った。  レンタカーでいちばん近い、といっても二時間かかったのだが、山まで来た。  どうせ死ぬのだからと、ひとつのこだわりもない軽自動車を乗り捨て、道なき山道を歩く。  日が暮れかけて血のように真っ赤な背景に焦げる木々を通り過ぎ、息を切らしながらどうしてこんなことをしているのだろうという思いをすり潰し、奥へ奥へと進む。誰にも見つからず朽ちるために進む。  夜の森は人間性を破壊する。  光がほとんどなくなった森に、キキキキと得体の知れない声が響く。びしゃっ、びしゃっ、何らかの液体が枯葉に落ちる不気味な音がこだまする。肌が寒さで痛い。ふるえてかちかち歯が鳴る。すぐ後ろで足音が聞こえた気がして立ち止まり、何度も振り返るが、誰もいない。  孤独で五感が冴えるわりにまともな現実を感受できない。  「こっちだよ、こっち」  ふわふわ宙に浮く兄さんの指さす方にあてもなく向かう。  どれだけ進もうと変わらず木々が風に揺れているだけの周囲に方向感覚が狂い、いよいよ本格的な恐怖を覚え始めたころ、そいつが木の根元に落ちているのを見つけた。  そいつを見て、いよいよ気が狂ってしまったと思った。  そいつは、僕とすっかり同じ顔をしていたのだった。  逃げ出したかったが、暗がりにぼんやり浮かぶ白い顔がこちらを見つめてきて、動けない。  情けなく、怯えて声すら出ない。  異常な状況に、冷や汗が背筋をつたう。  ���覚ではないと理解したのは、そいつの口��ガムテープで塞がれているのに気がついたからだった。幻覚にしては、間抜けすぎる。  だからといって恐怖が半減したかといえばそうではなく、どうしてこんな山奥に自分と同じ顔をした人間が捨てられているんだ、明らかに関わってはいけない雰囲気じゃないか、お前は誰なんだと、得体の知れない存在に恐怖した。  とりあえず見つめ合ったままでは埒が明かないので、おそるおそる近づいてガムテープをべりりとはがして、口内に詰まったタオルを引っ張り出してやると、四角く赤い口から「まもる!」なんてかすれた声が飛び出して、そいつはわんわん泣き出した。僕は困惑しながらもとりあえずそいつを抱きとめた。 コートが涙と洟でぐじゃぐじゃになろうと、どうせ死ぬのだから関係ないと思った。  馬だった。  こちらを梢のすき間からじっと見ているそれは、明らかに場にそぐわない、馬だった。しかも馬のくせに人間のような歯をむき出しにして、舌をだらりと垂れ下げていた。  僕は「まもる~ごめんな~わああ~」と泣き縋る彼をなだめながら、彼に危険はなさそうだと判断して、背後に両腕を固定する結束バンドを噛み切ってやろうとした。  だらだら流れる唾液で彼の手をべたべたにしながら、がじがじとネズミみたいにやっていると、歯茎を通じて現実感がやってきた。  その現実感をぶち壊すように馬だった。目が合った。  馬の眼は光沢のない真っ黒な空洞だった。  いつからこっちを見ていた?  「ぶるるんるんるるっるるるっる」馬は黒い唇をふるわせながら四つの脚で力強く地面を蹴って目の前に出てきて、そのまま減速することなく僕らに近づいてくる、僕は齧るのを中途に止め、とっさに彼の手を引っ張って全力で走った。  あれに捕まったら、なんかわからないけれど、やばい。  直感がそう告げていた。  死ぬより、やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいことが起こる!  彼のもつれる脚も混乱の声も無視して引きずって、死に物狂いでどこか隠れる場所を探す。足を駆動しながら振り返るとあれが首をぐるぐる回しながらどかどか木にぶつかり、それでもめちゃめちゃな速さで追ってきていた。  「あっちだよ」兄さんが冷めたようすで指さす洞穴に向かって僕は彼をぶん投げてから自分もほとんどダイブするように潜り込む。  息が切れるぜえぜえという音が岩壁に反響した。  「まもる、どう、したの?」  「馬、馬が……大丈夫だったか、つかさ」  あれ?  僕はどうしてこいつの名前を知っている?  ああ、そうだ、昨日こいつをテレビで見たばかりじゃないか、こいつはどう見てもMTのつかさだ、きっととっさの判断で言葉が出たんだ。  「うん、大丈夫だったよ、まもるが守ってくれたから」  そういうつかさの笑顔は暗がりで光のように輝いて、自分と同じ顔なのに違う表情で、思わず見惚れてしまう。  「見惚れてる場合じゃないみたいだぜ」  ぼーっとする僕を兄さんの淡々とした声が現実に引き戻す。  屈んでいないと狭苦しい洞穴の奥から、僕らと同じ顔をした、だけど目がクレヨンで塗りつぶしたように真っ黒い人型が転がってくる。  しかもひとつじゃなく、いくつも。  「あれ、なに、まもる……」  「わからない……  でも、大丈夫。つかさは俺が守る」  僕は結束バンドのせいでうまく身動きのとれないつかさに覆いかぶさるようにして、向かってくる人型から防御の体勢をとる。  人型はからだに当たると、ぶにりと歪み、僕を包んだ。油膜のような影が次々と肌にこびりつき、穴という穴から体内に侵入する。脳に送り込まれるイメージの奔流。  アイドル、死体、無職、小説家、医者、モデル、サラリーマン、ミュージシャン、学者、教授、デザイナー、画家、探偵、コンビニ店員、パン工場員、パティシエ、クリーニング屋、同じ顔をした人間が生きては死ぬの繰り返しが頭を占領して、悟った。  人型は、産まれなかった僕らだ。  四人のあり得た可能性が現像された姿だ。  僕は、何を選択して、どの運命のレールに乗って、ここまで来たのだろう?  パンクしていく脳の片隅を、疑問が通り過ぎて行った。  僕は目を覚ますと、自分が何者なのか曖昧な頭で、でも心配そうに見つめるつかさのことはわかって、強がってすこしわらいながら尋ねた。  「僕って、誰だっけ?」  「何言ってんの、まもるは、まもるでしょ!」  そうだ、僕、おれ、俺、俺、俺は、まもる。  「そうだよな、ごめん」  「心配したんだよ……まもる、急に倒れちゃって」  俺は緊張の解け切っていないつかさの頬を撫ぜた。  「つかさ、好きだよ」  俺はなんとなくつかさがその言葉を長い間待っている気がして、考える間もなくつぶやいた。  つかさはすこし面食らった顔をしたあと、かなしそうな表情で「ありがとう」と言った。  「そろそろ、行こうか」ずっとそこにいたような気がする白い影がぼんやりとこもった声でそう言った。  俺たちは手をつないで洞穴の奥を目指す。  もう、行きつく先に何があるか、なんとなくわかっていた。  「ごめんなさい、ずっと黙っていたけれど、オレ、あなたがまもるじゃないって、最初から気づいてました。  産まれる前からまもるを、今までずっとまもるばかりを見てきて、間違うはずがなかったんです。 でも、もしあなたがまもるならって、甘えて、縋ってしまって……それであなたを、消してしまいました」  「いいんだ。  僕は、きっと、このために産まれてきた」  白い影は、崩れる姿で、満足そうに答えて、消えた。  光が射しこんで、ふたりは外へ出た。  「今日をもって、俺たちアイドルユニット『MT』は十周年を迎えます!」  「今まで応援してくださった皆様、そして支えてくださった方々には感謝の言葉しかありません。この場をお借りしてお礼申し上げます」  『ありがとうございました!  これからも、よろしくお願いします!』  十一月三十日、その日の芸能ニュースはとあるアイドルユニット十周年を祝う話題が席巻していた。俺はあたたかな部屋で、その内容を噛みしめていた。  「誕生日おめでとう、つかさ」  そして、これからも、よろしく。
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偶然≠必然
1  俺はここ数年、前までは見なかった雑誌やテレビを見るようになった。思ったよりも時間に余裕がある仕事に転職したからであり、かつ、見たくない顔がメディアから姿を消したからだ。  毎日似たような、それでいて偏った内容を報じているのは正直つまらないと思っている。しかし今の俺がやっていることが世間にバレていないと確かめるにはこれ以上適した媒体が無いのも事実だった。  そのたくさんのどうでもいい情報の中のどこかで見たことあるような気がする顔が足元に落ちていた。燃えるごみの日に指定されている今日、自治体に決められた場所に燃えるごみがあることに何ら問題はないのだが、しかし、いくら燃えるとはいっても。 「……火葬場じゃあないんだから、人そのままはさすがに回収してもらえないだろ……」  雨が降っているため左手に傘、右手には捨てるために袋にまとめたごみを持っているせいで両手がふさがっている。  眠っているのか気を失っているのか見ただけでは判断がつかないが、胸が上下しているところを見ると一応生きてはいるらしい。適当な場所にごみを捨て、しばらくそのままその人を見ていたがふとあることを思い出し、俺はその人を持って(引きずって)帰ることにした。見た目から想像していたよりもその人は重かった。どう頑張っても俺の力では引きずることしかできず、しかも雨が降っていたから盛大に俺もその人もびしょ濡れになってしまったが、別にどうでもよかった。  ひとり暮らしをしている男の家に空き部屋というものは無く、今は閉店している店舗のホールにしか人を横たわらせる場所がなかったため、ホールの床に直にその人を転がし状態を確認していった。  少し高めの熱に体温に似合わない血の気のない顔、酸と血の臭い。意識を落としても脇腹を押さえている右手の下には開腹の痕。抜糸が済んでいないところを見ると相当酷い状態だったらしい。 「……」  べちべちと無駄に良い顔を叩いても意識が覚醒する気配はなかった。どうしたものかとしばらく悩んだ挙句、俺はこの人を、この男を、ここに留め置くことにした。  ふと意識が浮上して瞼を開けようとしたものの、しばらく開いていなかったからだろうか、やたらと重い。力を込めてさらに閉じてから勢いに任せて瞼を上げる。  最初に視界に入ったのは人工的な光。そして落ち着いたワインレッドの天井にシンプルなライト。天井に等間隔に設置してある。天井からするとここはそんなに広さがあるわけではないらしい。  ここはどこだ、と思った。次に俺は生きている、と自覚した。右手を上げればわずかな痛みが背中に走る。何か言わなきゃと思って口を開いたものの声が出せない。水分が不足して喉が貼り付いているのだ。  ゆっくりと身体を起こすとそこはどこかの室内らしく、よく見渡せばカウンター席しかないカフェかバーのように見える。窓はあるもののシャッター……雨戸だろうか、光が入らないように閉めきられていて外の様子はわからなかった。どの壁を見ても時計はかかっていないから今の時間はわからない。  床に寝かされていた俺は最後の記憶のままの服を着ていたが、臭いは酷いものだったし明らかに汚れているとわかる。  そして自分では絶対に身に着けることはないと断言できるものがいくらか痩せた足首に絡みついていた。 「おや、目覚めたのか」 「……」  どこからか声が聞こえてきてそっちを向けば、まあ、無表情ではあるが女受けしそうな顔がカウンター越しに俺を見ていた。  警戒すべきなのだろうが、長く意識を失っていたらしい俺に何かしたかったら目覚める前にしていただろうから(実際、既に足首にされているし)逃げることも声を荒げることもしなかった。それ以前に声を出せる状態じゃないんだけど。  俺以外に居るのはこの男だけだ���うか……? 「何か飲めそう? 白湯とかお茶とか」  用意するよ、と接客業の経験があれば自然とこぼしてしまう愛想なんてものがまったくないまま言ったその男は、俺が何も答えないでいると白いティーカップに白湯を入れて差し出してくれた。火傷しない程度に温められたそれは俺の身体にとっては異物だったらしい。しばらく機能していなかった喉がその刺激に耐えられなかったのだ。盛大に咽てしまった。 「……大丈夫?」 「げほっ……は……ごほ……はぁ、なんとか」 「うん。声出せるようになったね。ゆっくり飲みな」 「……」  こくり、と今度は咽ずに飲み込んだ白湯はゆっくり身体の中を流れていく。その温かさが今も俺は生きている、と実感させてくれた。 「ところで倉橋くん」  唐突に名前を呼ばれてぎくり、と体に力が入る。  この男は元プロボクサーである俺を知っているのだ。それならまだいいのだが、裏社会のリングに立っていた俺を知っているなら。 「倉橋直己、で合ってるよね? 俺、名前間違えてる?」 「いや……合ってる」 「そう、よかった」 「あんた、どこで俺を知った?」 「言った方がいい? 言ったところで現状が何か変わるとは思えないけど」 「じゃあいい」 「……メディアだよ。一時期賑わせてただろ?」 「不本意だけどな」 「だろうね。倉橋くんさ、そこの、この店の前のごみ捨て場で倒れてたから勝手ではあるけど連れて来た。そのままここに寝かせておいたのは……君が救急車に乗りたくなさそうだったからだよ」 「……」 「だから結果論にはなるけど、無事に目を覚ませたんだから俺を恨むのはやめてね。その足首に着けてるのにも理由があるんだから」  その男に指さされた先、俺の左足首には長いチェーンに繋がれた金属製の足枷がはめられていた。 「……俺をどうするつもりだ?」 「悩んでる途中」 「悩む……?」 「君が目覚めたら本格的に考えようて思ってたんだ。ねえ、知ってて尋ねるけど、倉橋くん。帰る場所はあるの?」 「ある……いや、ない。なくなってる」  前まで身を置いていた世界からは前まで身体の中にあった臓器ひとつを引き換えにして逃げている。プロのボクサーとして新しく活動を始めるのは、あるいは再開するのは難しいだろう。あのリングから逃げ出すのに賞金の他に臓器ひとつを要求されるぐらいだ、家などの財産は差し押さえられているだろうし、生活の面倒を見てくれるような家族も友達も恋人もいない。  どういった意味でも帰る場所はなくなっていた。 「だそうね」 「だろうね、って……あんた……」 「じゃあまずはしばらくここに居るといい。俺は今のところ、これ以上倉橋くんに何か酷いことをするつもりはないし、少なくとも抜糸が済むまでは面倒をみるつもり。あと二日だけど」 「……これが何の手術かわかってる、のか?」 「まあ、大方察しはついてるつもりだけど」  自然と溜息が出る。この男は俺が今すぐに死んでも何も問題ないことをわかっているのだろう。そんなただ荷物にかならない俺を面倒だと知りながら置いておくのだから相当の変わり者らしい。 「……あの、どうして俺を拾った?」 「あー……言い方は拾った、になるのか。さっきも言ったよね。君がメディアを賑わせてたからだよ」 「見たことがあったから、ってことか?」 「そんなところかな。あ、あと理由をつけ加えるなら」 「?」 「同い年なんだよね。俺たちって」 「……そう」  同い年……30歳にならない成人男性がこんな運営していない店舗を抱えて生活していけるのだろうか? 俺が今居る場所は明らかに金を稼ぐために利用する場所だ。そんなところで汚れた人が寝ていたら仕事にならないのは嫌でも理解できる。  ゆっくりと身体を動かし繋がれたチェーンの先を辿って行くと、カウンターの中の給水管に繋がっていた。逃げようと無理矢理壊せば水が溢れて大惨事になるというわけか。 「なんのための足枷なんだ?」 「倉橋くんが逃げないように。トイレと風呂には一応行けるだけの長さは確保してある。このホール内だったら問題なく歩ける長さだね。でも外への扉には届かないはずだ」  生活には不便を感じないはず、とこれもまた愛想のない顔で言われてしまった。  この男とやりとりをしているとなんかもう、どうでもよくなってしまった。一度、生きることを諦めた俺だ、この後どうなってもいいや。 「呼び方は? 倉橋くんでいい?」 「呼び捨てで構わない。あんたは……」 「俺は綾香。こっちも呼び捨てで構わないから」 「……ふうん。世話になる」  女っぽい名前だと思ったものの、言ったところで変わらない、とさっき言われた言葉を思い出し俺は口を噤んだ。  外からはもう雨の音はしなかった。 2  ああ、その窓防音だから、と言ったら倉橋はひどく寂しそうな顔をしていた。俺は何か言葉を間違えただろうか……?  倉橋の意識が戻ってから2日後、俺はとある男を呼んだ。本来なら客であるこちらから出向くべきなのだろうが、今回はチェーンで繋がれた、俺が繋いだ倉橋にその男と会ってもらいたかったため、平和的な手段(脅しという名の話し合い)を用いた結果この店に来てもらえることになった。 「倉橋、あと数分でひとり、男が来るから、用意しておいて」 「用意? なんの?」 「抜糸」 「ばっし……え、抜糸?」 「そう、いつまでも糸つけっぱなしでは衛生的にも見栄え的にも悪いだろう?」 「見栄えの問題なのか……?」  ピンポン、とよくあるインターホンの音が鳴り、カウンターで作業してた俺は「二重」扉になっている入り口で男を迎える。ごちゃごちゃした模様のアロハシャツに短パン、ビーチサンダルをはいているその相手はお世辞にも「いい男」とは言えなかった。嫁がいるかどうかは知らない。興味もない。 「綾香ちゃん。元気してたかい?」 「してたよ。はい、中入って」  外側の扉を閉めきってから内側の扉を開ける。システムで管理されているこのふたつの扉は同時に開けることができないようになっていた。管理が厳重であるに越したことはないと思っているので、この建物には裏口というものがない。私生活の用事で外へ出る時も俺はこの扉を使っている。 「しっかし手荒な呼び方なんじゃないの? うち、回診はやってないんだけど?」 「だけど一応医者なんだろう? 金は出すんだから患者のところへぐらいは来てくれてもいいだろう……倉橋、この男が、」 「っ、なんで、あんたが、ここに……」  見るからに嫌そうな顔をした倉橋にバンクは貼り付いた、見てて違和感を覚える笑顔を向けて言った。 「久しぶり、でもないかな。君の抜糸に来たんだよ。綾香ちゃんの頼みでね」 「ついでに経過も診てやって。お前が捨てた患者だろう?」 「捨てた、なんてそんな。退院手続きしてますー、ちゃんとー」 「綾香、そいつと知り合い、なのか……?」  口をとがらせてぶーぶー言ってるバンクを睨みながら倉橋は言った。バンクには数少ないカウンター席のひとつに座らせるが、倉橋はカウンターの奥からホールへは来そうもなかった。来るよう呼んでも動こうとしない。 「知り合い、と言われて否定はしないけど……『死んだことになっている』君が一般の病院には行けないだろう?」 「一般……いや、『死んだことになっている』……?」 「あー……理解ってなかったのか……おいバンク、説明不足すぎやしないか?」 「いち医者にそんな役目ないから」 「いちスカウトマンでいち売人としてはどうなんだ」 「生きるか死ぬかの世界から逃げた人にそういう説明はいらないでしょ」 「逃げた、って、彼は正式な段階を踏んで来たはずだ」 「規則を定めた書類にはそういったことは決められていないからね。むしろ決められてた方が怖いでしょ……それより金にならない雑談をしにここに来たわけじゃないんだよ。抜糸、するから来て」 「っ……」 「相当嫌われてるみたいだな」 「この仕事してると好かれることってまずないのよ。だからこそ病院だけでもクリーンなイメージで印象良くしておきたいんだよね」  まるで警戒心バリバリの手負いのネコのように今いる場所から動こうとしない倉橋に若干のイラつきを覚える。しかし抜糸をしてもらわないことには、それこそ本当に「見栄えが悪い」上に、バンクへと出す金が無駄になるのだ。 「……倉橋、疑問や不満があるなら後でいくらでも付き合うから。だから、抜糸だけでもさせてくれないか?」 「どうしてもそいつじゃなきゃだめか?」 「プロがいる以上、素人が手を出すべきではないと俺は思ってる」 「そいつがちゃんと免許もってるかどうか怪しいもんだな」 「もしかしたら抜糸程度だったら免許は関係ないかもしれないけどね、でも腎臓を摘出したのがこの男だってこと、忘れてない?」 「……」 「人権の無いお前が、持ち主の手を煩わせるな」 「……」  おやおや、とバンクがからかうように小さくつぶやいたその言葉は意外にもしっかりと俺の耳に届いていた。  ああ、躾の場なんて、こんな男に見せたくなかったのに。  それにどうせ躾けるなら、もっとちゃんとしたかったのに。  ���すっとしたまま一向に俺の方を見てくれない倉橋はカウンター席に座っている。隣には座られたくはないだろうと一応カウンター向かいのキッチン側に立ってはみたものの、あまり効果はなさそうだ。  チャラチャラと足枷のチェーンの音がホールに小気味よく響く。 「特に問題はなさそうでよかったじゃないか」 「……あいつの言うことが信じられるかよ」 「うーん、お金を出してるから大丈夫だと思うし、それに……」 「……」 「一応、面子っていうものがあると思うんだよね。で、何か言いたいことはある?」  ふたつの白いマグにコーヒーを入れ、一つを倉橋に差し出す。  渋々といった態度ではあったがゆっくりとした手つきで受け取ってくれた。倉橋はお茶の類よりもコーヒーを好むらしい。 「……あいつと知り合いだったんだな」 「まあね。仕事の都合、時々見かけるし、話もする。彼が売人として商品を管理して、俺は客と売人との仲介をする」 「!?」 「ここはそういう『商談』をするための場なんだよ。昼はカフェで夜はバーだけど、やることはどちらも『商談』だ。昼にするか夜にするかの差なだけ。俺と客でやりとりすることもあれば客同士ですることもある」 「じゃあ今まで店を開けなかったのは……」 「ここを使いたいっていう客からの連絡を俺が受け付けなかったからだね」 「……あんたも裏社会の人間だったってことか」 「そういうこと。だから毎日仕事しなくてもそれなりに生きていけるだけの収入はあるし、倉橋のことも知ってた。表のメディアででも、裏のリングででもね」 「っ……」 「ちなみに嘘は言ってないよ。前も、今も」  ティースプーンではちみつをすくって自分のマグに入れる。黄金色の粘度の高い液体は黒の液体に溶けていき、その色に染まっていった。 「……俺は……」 「ん?」 「俺は、死んだことになってるのか?」 「なってるだろうね。裏リングで闘えるようになった時点で書類上生きてはいない。だからどんな理由で闘っても、勝ち続けて裏社会から解放された時に持ってる金はほとんど人権を得るために消える。違法な手段で売られた人権を違法な手段で買い戻すと生活ができない程に金が消えていくんだ。でもそこで人権を買わないと表の社会では生きていけない。だから買うし、無一文になるし、お金を稼ぐために人権を手放してまた裏の社会に来る」 「……」  倉橋はマグに入っているコーヒーから目を離せないでいる。俺を見たくないからか、突きつけた現実を信じられないからか。  てっきり俺は倉橋がそのあたりのことを理解していると思っていた。 「馬鹿ばっかりだよ、本当に」 「そういう、俺みたいな奴がいるからあんたも生きていけんだろ」 「否定はできないね」 「じゃああんたも馬鹿なんだ」 「そうだね。こういう仕事をしてるからね、俺も馬鹿なんだよ」 「……寝る」 「もう訊きたいことはないの?」 「あるけど……訊いたところで生き返るわけじゃないし」  コーヒーを飲み干し、カウンターの隅に畳んでおいてあった毛布を掴む。イケメンは絶望する姿も絵になるものだ、とどこか的外れたことを考えていた。  いままでどうするか悩んでいたけど、身体の経過も問題ないということだったし、話が合わないわけでもない。なにより、これ以上のチャンスはない。 「じゃあ俺からひとつ、話をしてもいい? 今後の倉橋の生活に関わることだ」 「……いいように使われて殺されるわけ?」 「それは無いな。少なくとも俺は君に危害を加えるつもりはない。今以上の酷い扱いはしないよ」 「……」 「ここで、働かないかい?」 「……」 「……」 「返事はいつでもいいよ……おやすみ」  チェーンの届く範囲で布団も用意したのだが、倉橋は風呂とトイレ以外の時間はほとんどこのホールで過ごしていた。眠るときも毛布にくるまってホールの隅でだ。  店舗の後ろを住居としている俺とは一緒に居たくないのだろう。  質問に答えただけだけど俺は倉橋に嫌われてしまったらしいから、距離を詰められるようになるのはまだまだ先になりそうだ。  だけど倉橋は理解ってるのだろうか。書類上死んでいる人の命の権限は本人にはないということを。  裏社会に生きる人間の命の軽���を。  毛布にくるまって目を閉じたものの、まったく眠くならなかった。綾香へ対しての警戒心は目が覚めた初日にほとんど消えてしまっている。そして悔しいことに数日たった今、警戒心を抱きなおすということもなかった。鎖で繋ぐという軟禁行為以外、あいつは生活の世話しかしなかったからだ。身体のことを考えてくれた温かい食事も綺麗な風呂も清潔な服も、俺が欲しいと言えば用意してある範囲で提供した。仕舞にはダンベル等の筋トレの用具まで。  ……俺はまだボクサーを諦めきれなかった。心臓や手足、目に問題があれば潔く諦めもついたかもしれないが、腎臓ひとつ失ったぐらいでは健康だった頃のトレーニングは無理でもそれなりのところまでできるはずだ、と。そう思っていたのに。わずかな希望の光が見えたところで綾香に「死んだことになっている」と絶望を知らされてしまった。  俺の身体は動くのに。  やる気もあるのに。  望めば場所だって。  なのに。 「ここで働かない?」  綾香の言う仕事とは何だろう? また体を犠牲にしなければならないのだろうか。綾香がどこで生活するだけの金を稼いでいるか疑問だったが、それも解決してしまった今だからこそ、俺にあの提案をしたのかもしれない。  俺に表の世界の人権が無いことを教えたこのタイミングで。  ……俺には逃げ場がない。進むべき先も見えない。  どうして俺は生きているんだろう。  どうして俺は今、暖かい毛布にくるまって横になっているのだろう。  どうして俺は。 「……綾香の言いなりになっているのだろう……?」 3  この家の居住スペースにキッチンというものは無い。綾香はいつも料理をホールにあるカウンターに面したキッチンスペースでしている。  どんな時間になっても眠っている俺を綾香は起こしに来ないが、いつも俺はこの料理の音で目覚めていた。ひとり暮らしをするには困らない程度の技術だが、それでも問題なく食べられるその食事は俺の警戒心を溶かすのに絶大な効果を発揮した。  毛布をたたみ椅子の上に乗せるとフライパンをふっている綾香の前に座る。  それが理由でメディアに取り上げられていたと自覚がある俺から見ても、綾香の顔は整っていた。 「床で寝てて寒くないの?」 「毛布があるから問題ない」 「そう。朝食は? 食べられそう?」 「何?」 「スクランブルエッグと野菜炒め、昨日の残りの味噌汁と食パン」 「……食べる」 「倉橋は嫌いなものないの? 特に気にせず作って食べさせてるけど」 「大体のものは食べられる」 「そうなんだ。羨ましいね」 「……食べられないもの、あるのか?」 「牛肉が苦手、かな。食べられないわけじゃないけど一人前を食べきるのが難しい……俺が作る料理に牛肉は出ないと思って」 「わかった」 「食べたくなったら外にでも……繋がれてたね、そういえば」 「繋いだのあんただよ」 「そうだったね。はい、できたよ」  相変わらず表情を出さずに淡々と話す綾香をなんとなくだけど嫌いではなかった。この男は俺を利用した金儲けの話も、自分のステータスのために関係を築く話もしてこなかったからだ。  軟禁しているという現状がなければ、互いに表社会で出会っていたなら、きっとそこそこ良い友人関係が作れただろうに。 「表社会に居たままだったら、俺ら出会えてなかっただろうね」 「え?」  一瞬、心を読まれたかと思って身構える。しかし俺の方を見ずに食事をしているところを見るとそれは単なる偶然だったらしい。 「というより、ふたりとも裏社会にいたから、今こうして一緒に食事できてるんだろうな、と思って」 「……なんでこの仕事してるの?」 「元々、父がこの仕事をしてたんだ。ちょっと、うっかりね、問題を起こしちゃって……世間にバレてはいないけどこのまま表社会に居るのもやだなと思って、父の仕事手伝って、そしたら父が亡くなった。数か月前に話だよ」 「ふうん。なんか、大変だったな」 「そうでもないよ。普通のこと」 「……」 「倉橋は? その技術でプロのままいることも……いられなかったんだっけ?」 「メディアの力って思ったより強大だった。俺の意図しないところで持ち上げられて、望まないままに落とされて……あの世界に居場所が無かった」  綾香が作った食事を摂るようになってから、俺は意外にも食パンに味噌汁が合うことを知った。温かい食事は気持ちを落ち着かせてくれる。 「まあ、メディアが恐ろしいことは俺もよくわかるよ」 「でもまだボクシングは続けたかったし……俺にはボクシングしかないから……母さんがさ、ボクシングをやる直己はかっこいいって、言ってたから」 「マザコン?」  まだ数日しか一緒に過ごしていないが、時々、綾香はこうやって相手のことを何も考えてない失礼な発言をする。 「小さい頃の話だ。もう母さんは亡くなってる」 「おや……そうじゃなきゃ裏の世界には来ないか」 「……」 「まだ、ボクシング続ける気、ある?」 「あのリングには立ちたくないね」 「俺の護衛をしない? ボディーガードってやつ」 「……」 「……」 「……昨日言った、働かない、って……それ?」 「そう」 「……人を殺せ、と?」 「それはまた別の人の役目だね。俺を守って、倉橋自身も守って、相手を動けないようにする、それが護衛だと思う」 「……」 「向こうから手を出してこなければ君は俺の隣に居るだけでいい。どう?」 「俺にメリットは?」 「既に人権を失って死んでいることになっている君に今こうやって食事を食べさせている俺にそれを言う?」 「っ……!」 「……なんてね。別に倉橋を死ぬまで雑に扱おうなんて考えてないよ。言っただろう、酷いことはしないって」  そして綾香は給料がつくこと(この給料はそのまま表社会での人権を入手するのに使われる、それ以降は俺のものになる)、今後もここを出ていくまでの生活の面倒をみること。ただし外出は綾香同伴時のみとし、外出しない時は常に足枷をはめること、逃げたら死んだほうがマシだと思うほどに容赦しないことを朝食の献立を教えてくれるのと同じように教えてくれた。 「翼をもがれた鳥は飛ぶことができない。ならばかっこ悪くても地上でもがいてみるのもいいんじゃないか、と、俺は思うんだよ」  俺は倉橋にその地上を用意できるし、なにより倉橋はまだ生きてるんだから、そう言った綾香はわずかにではあるが笑っていた。その笑顔がなんというか、どうしようもないくらい、目が離せないぐらいに、優しいものだった。  足枷をそのままに繋がっているチェーンだけを外された。これから数時間、俺はこの店の外へと出ることができる。ただし仕事としてだ。  仕事の契約が無事に結ばれたその日の夜、俺にとっての初仕事が待っていた。用意されたスーツに腕を通し、見た目を整える。 「うん、やっぱりかっこいいね。さすがイケメン」 「あんたも随分、きれいだと思うけど」 「あ、俺、自分の外見が嫌いだから、それ以上言わないでくれる? この顔が嫌いでね」 「……わかった」  俺と同じようにスーツに身を包んだ綾香はどこかヤクザくさい俺と違って、まるでアイドルみたいだった。男くささは無いものの、男らしさは確かにあって、オーラを纏っているのだ。 「じゃあ、行こうか」  店の外で待っていた「わ」ナンバーの黒塗りの高級車に乗って、連れていかれたのは俺もよく知っている建物だった。都会によくあるビルによくあるスポーツジムが入っている。実際にジムを運営しているため、あまり怪しまれることはないし一般の利用者もいる。  建物を「よく知っている」とは言ったものの、外観を見たのはバンクとの契約を済ませて中に入った時と、同じくバンクと新たな契約をして病院に連れて行かれた時の2回だけだ。ここはそういった選手の居住スペースも併設している。だから内部はいやというほど知っていた……無理に逃げ出そうとして、どうなるのかも。  ビルの内装はオフィスビルというより商業ビルに近く、通路が広ければ天井も高い。その中を綾香は慣れた足取りで中を進んでいく。まっすぐ向かったのはリングがあるメインホールだ。 「……綾香、訊いてもいい?」 「何?」 「今日は客?」 「ではないよ」  エレベーターに乗ってカードキーをセンサーにかざすとボタンを押す前に勝手に昇ってゆく。 「商品の確認と商談のアポの受付かな。前も言ったけど何事もなければ倉橋は隣に立ってるだけでいいからね」 「わかってる……呼び方は、その」 「綾香のままでいいよ。あの場でもそう呼ばれてるから」  チン、と小気味いい音が鳴り扉が開くとエレベーターに乗る前のシンプルな内装とは打って変わって、豪奢な内装のエントランスが目の前に広がる。そこに群がる(と表現してはいけないのだろうが)人々は皆、一目でお金があるのだとわかる見た目をしていた。そしてここに居るのだからそういう趣味を持つ、こういう世界を理解している人たちなのだろう。  他のエレベーターからも続々と人がおりてくる。審査が終了した者から奥のメインホールへと行ける構造になっているが、定員が決まっていて満員の場合は入れないこともあるのだ。  「催し物」にはそれぞれランクが付けられていて、人気が高いカードの時は中に入るための審査の条件がさらに厳しくなる。資金力だったり名声だったり過去の実績だったり。 「今日はさらに審査のハードルが高そうだ。そういう内容だったかな……?」  受付をしてる男に名前を告げると身体検査のみであっさり通してもらえた。客ではないから資金力などの審査はないが、共通して武器や凶器の類の持ち込みは禁止らしい。 「……俺が出た時、やたら観客が少ないなとは思ってたんだ……」 「顔が良くて若くて強いんだから安く買われてはバンクも困るだろう。一戦目はそれなりに観客の人数が居たけど、三戦目には半分に減ってたもんね」 「……見てたような口ぶりだな」 「見てたからね。ほら、倉橋みたいなファイターは珍しかったから」  空いていた壁際の椅子に座る。俺は言われるまでもなく隣に立つと、ひとりの女性が躊躇いなくこちらへ近づいて来た。真っ赤なドレスに包まれたふくよかすぎる身体、お世辞にも美しいとは言えない顔立ち。日本人であるはずなのに、年齢が読めない…… 「久しぶりね、綾香ちゃん。なんでしばらく来なかった……あら、あなた……」 「ぺっとを拾ったからね、躾けるのに手間取って」 「ふうん。綾香もこういうのをステータスとして見せびらかすようになったのねぇ。ね、貴方、直に話すのは初めてよね? 名前を教えてくださる?」 「……」 「いいよ、名乗って」 「……倉橋、です」 「あたしフーリエ。ここのオーナーの一人よぉ」 「オーナー……? 貴方が……?」  俺が居た頃、選手を管理し、売買するオーナーは皆男性だったと記憶しているが……あれから女性が入ったのだろうか? 「なんで倉橋のオーナーがバンクだったのか……ほんと、もったいないと思ってたのよぉ? あたしの元に来れば貴方はもっと長く多く稼げたでしょうに……」 「は?」  歩いている給仕からシャンパングラスを2つ取ったフーリエはひとつを綾香ではなく俺に差し出した。受け取るか遠慮するか迷っていたら横から綾香が手を差し出し「倉橋は仕事中ですから」と遠慮したため、シャンパンは給仕の元へ戻っていった。 「倉橋がリタイアしてからもうひとつステージが用意されたんだ。倉橋がやってたような命を賭けた闘いではなく、操を賭けたバトルがね」 「げっ」 「参加者は全員、男か女よ。性別でステージは別なのぉ。常々、女を買いたいって客もいたからねぇ。死なないからバトル数も増えるしそっちはそっちでバトル後のショーも盛り上がるし、結構いい儲けになるのよ?」 「なるんだよ、これが……」 「……」 「人間の欲はとことん醜いからな……運が良かったな、あのタイミングで腎臓ひとつでリタイアできて」 「好きでしたわけじゃないんだけど」 「だけどあそこで臓器提供を断ってたら確実に倉橋の操は奪われてたと思うね。格闘戦かバトルか……選手は選べないからな」 「不細工が泣き喘いでも金にならないしぃ、弱いやつが一方的に殴り殺される闘いもやっぱり金にならないのよぉ」  だから、と言葉を区切りフーリエはにやりと気持ち悪い笑みを浮かべる。こんなに悪寒を感じたのは久しぶりだ。 「貴方たち、後ろを気をつけなさいよ。落とし物は拾った人のものなんだから」 「そんなの届けるのが普通だし、それは盗むと変わらないんだけどと言いたいところだけど、この世界、この社会じゃあ盗まれる方が悪いのは明白だからな」 「わかってるじゃない」  ショーが終わったら商品について話があるから待ってて、とそう言葉を残して去って行ったフーリエの後ろ姿を睨みつける。 「……何あれ」 「いつものことだから」 「感じ悪い」 「だから護衛を頼んだの。と言っても倉橋が盗まれたら俺にはどうにもできないな」 「されないから……大丈夫」 「そう」  まあ、金ならあるから倉橋の身に何かあったら俺は敵を札束で殴るつもりだけどね、とつぶやいた綾香の頭を小突いておいた。  想像以上にこの世界は腐っている。  そして想像以上に神様は不公平だ。 「思ってたより、見た目で生き方が左右される世界なんだな」 「そんなの人間も動物も野菜も変わら���いでしょ」 「野菜と一緒か」 「果物でもいいよ?」 4 「今日、午後に客が来るから、準備しといて」 「わかった」  この前の会場でやりとりしていた商品の話が進んだのだろう。綾香は一切表情を変えずに商談をしていたが、俺にとっては気持ち悪くなる話でしかなかった。俺も提供した臓器がどう扱われるかなんて知りたくもなかった……  なぜ綾香はこの仕事を続けているのだろう。俺みたいにボクシングを続けたいという理由だけで裏の社会に入ってしまったわけではないし、親の仕事を受け継いだだけであるならやめることも可能ではないか? 商品になった俺とは違って綾香には人権があるはずだ。表の社会でも十分に生活していけそうだけど…… 「……ああ、今日の客ね、ものすごい面食いだから、何言われても気にしないこと。商売として割り切ること。いいね?」 「はい」  左足首にからまる足枷が聞きなれた音をたてる。相変わらず建物内にいるときにつけている足枷は、綾香に拾われてから1か月以上経った今、あってもなくても変わらないものになってしまっていた。むしろ、この足枷があることに安堵している俺がいるのだ。  足枷のチェーンは必ず綾香が外し、綾香がつけてくれる。行動できる範囲が変わったわけでも眠る場所も食事する椅子も最初から何も変わらない。未だに俺の人権はもどらない。  仕事を初めてすぐに人権が戻ってくるとは思ってなかった。前に説明してくれた綾香の口ぶりからすると相当な金額がかかるはずだ。俺はいつまでここにいることになるのだろう。  一か月も一緒に過ごしていると、いやでもそこにいる人がどういう人かが見えてくる。  整った自分の顔が嫌いで性格は大雑把。気持ちに余裕ができるとどこかで聞いたことあるような数年前の歌を口ずさむ(誰の曲かを聞いても教えてくれなかった)。コーヒーははちみつを入れないと飲めなくて、料理はシチューを作ることが多い。朝早く起きるのは問題ないが夜に弱く、仕事で遅くまで起きていると確実に次の日までひきずること。  そしてはっきりとした理由はないが、俺を気に入っているらしいということ。  ついでにそのくらい綾香のことを把握している俺もまた、綾香のことを気に入っているらしいということ。  意図的に何かを隠すことが多い綾香ははぐらかすことはあっても嘘を言うことはほとんどなかった。裏の社会に生きる人間も意外と悪い人ではないのかも、と綾香を見てふと思ったのだ。 「そういえば貴方、弟を殺したんですって?」  今日の客はフルオーダーのパンツスーツを来た女性だった。秘書だか護衛だか……女性をひとり背後に従えている。  双方で現金の確認をしながら世間話の一つとして軽い口調で振ったその話題に綾香は表情を変えずに(この一か月で綾香は表情が無いのではなく、感情を表現するのが苦手だということを知った)乗った。 「そのようなことをした記憶はありませんが……どなたか話してらっしゃいましたか?」 「まあ、誰が、とは言わないけど、金に困らない、表のメディアで��れなりに人気があった綾香がどうして裏の社会で働いているのか、メディアで見た時にいつも隣に居たもう一人はどこに行ったのか、とか……勘ぐってしまうのは必然ではなくて?」 「そう言われてしまえば反論はできませんが、俺は人を殺したことはないんですよ。殺された者はよく扱いますけど」 「そ。残念だわ」  私、貴方が元々弟だったものを商品として扱うのを楽しみにしてたのに、商談を終えそう言葉を残して去っていった女性客を見送り戻ってきた綾香は重い溜息をした。 「……ヤなことを思い出させてくれる」 「弟が、いたのか?」 「いたよ。いたけど、今はもういない。どこに行ったのか俺は把握してないからね」 「ふうん。殺したの? その、弟」 「殺してはいない。捨てたけど」 「……」 「……何さ、そのうわぁって顔」 「……」 「綾香はそんなことしない、とでも思ってた?」 「……」 「でも、そういうことをしたから今ここにいるんだよ」  想像以上にがっかりしている俺に驚いた。確かに嘘はついていない。でもこの男は、綾香は、身内を捨てることができるんだ。  その事実は俺の中に言いようのない不安を残した。 5  なんとなく嫌な予感がした。  いつの日からか、どこまでも見張られているような気がする……その感覚もこの建物に入ってしまえば完全にシャットアウトされるのだが、たかがごみ出し程度で外に出る度に視線を感じるのも気持ち悪いものだ。  何度か倉橋を連れて会場に行っている以上、前まであのリング戦っていてリタイアした倉橋が綾香の傍らに立っている、ということを客・売人含めほぼ全員に把握されていると思っていいだろう。  あの世界では商品を購入したいと希望する客は多く、金を稼ぎたいと動く売人も多いが、何かと取引の証拠を残したがる双方が直接やりとりをしてしまうといざというときに足がついてしまうため、万が一にも足がつかないよう仲介人が間に立つのだが、その仲介人がここ最近めっきり数を減らしてしまった。売人ほど稼ぎがおいしくないくせに証拠を残したがる客と売人が納得できるように仲介人自身が証拠となるため、売買するリスクは大きく下がるが仲介人の負担は相当なものになる。ましてやなぜか仲介人はそこそこ見目の良い奴が多いのだ。裏の社会の売人がさらにとっておきの商品として裏社会の表には見せることのない見目の良い仲介人を売りさばく。  その仲介人を失えば困るのは他ならぬ商品を買いたい客と商品を売りたい売人だろうに……ほとんどと言っていいほど仲介人同士は関わりあわないため、もしかしたら俺の知らないところであまり商品にしたいと思えないような見目の仲介人が増えたのかもしれない。  まあ現状がどうであれ、商品として扱われるのはご遠慮願いたいところなので、先手を打つことはできないが迎え撃つことはできる。  もうそろそろ一方的に手綱を握る時期は終わりではないか…? 「倉橋」 「ん?」 「ひどいことはしない、とは言ったけど、今後のお互いのために……ピアス、つけてくれる?」 「……は?」  怪訝な顔をした倉橋の耳は一度も穴をあけたことのないきれいな耳だった。まあ、早いうちから仕事をしていた俺もピアスを通したことはないのだが。  初めて見た時から比べたら倉橋はずいぶんきれいになった。過度なトレーニングのせいで痛んでいた肌も髪も食事と生活の面倒をみた甲斐あって艶を取り戻したし、痩せていた身体も倉橋自身の努力によって整ってきた。今の倉橋の姿にピアスが、似合うと思ったのだ。  あのリングで初めて見た時にあの顔が好みだと思った。そしてボクシングをする姿がものすごくかっこよく見えた。  仲介人の権限がなくても商品のオーナーが誰かは知ることができる。そしてオーナーが商品をどう扱いたいのかも……少ない人数の強い選手を長くリングに立たせ賞金を回収するオーナーもいれば臓器や選手自身を売りさばき、抱える商品の回転が早いオーナーもいる。バンクは前者の人間だった。  仲介人という立場を利用して……今後、贔屓をする、などの取引を持ち出して……倉橋を買い取ろうかとも考えた。資金は足りていただろうがそれをしなかったのは、俺の元に来てしまったら闘う倉橋の姿が見られないからだ。  臓器を提供することで違約金を確保してリタイアした、という話はバンクから直に聞いた。ああ、もうあの姿は見られないんだな、と少しだけがっかりしたのを覚えている……あの世界では仕方ないなと、長くこの社会に足を突っ込んでいたからこそ、少しのがっかりで済んだのだろう。  だから偶然拾った倉橋を、ここまで一緒に居てくれた倉橋を、失いたくないと思った。これ以上ないくらい思い入れを強くするのに一か月という期間は十分すぎる長さだったのだ。 「今後、もしかしたら仕事中にはぐれることがあるかもしれない。俺がお金に余裕があって、もっと多くの護衛を雇えたらこんなことしなくてもいいんだろうけど、それはちょっと財政的に難しいから」 「嫌だ」 「ピアスひとつつけてくれないの? 今まで他にも痛い思いしてきてるだろう?」 「綾香が他の護衛を従えるなんで嫌だ」 「……」 「ピアスひとつつけるぐらいわけない。ピアッサーとかあるのか?」 「ああ、うん……」 「……なんだよ」 「いや、その、驚いて……」 「は?」 「もうそろそろ足枷外してもいいかなあなんて思ってたんだけど、俺のわがままで、もうしばらくつけさせてね」 「好きにしてくれ。人権の無い俺は綾香のものなんだろう?」  そのピアスは発信機だと言う。数分に一回、電波を発信し、通信機器がその電波を受け取ると大体の位置がわかる……ピアスを付けられると同時にスマホも渡された。 「いいのか? 人権のない俺に通信機器なんか渡して」 「何か悪いことに使おうとでも考えてるの?」 「……いや、何も思いつかないけど」 「じゃあいいじゃないか」  綾香の両耳には小さめの赤色ピアスが、俺の両耳に同じサイズの緑色のピアスがついていた。よっぽどのことがなければ外さないこと、とお互いに約束をしている。  人権がないことを除けば今の生活はそれほど悪いものではなかった。安定した生活でも安心できる生活でもないが、いつも通りの生活と言えばいつも通りの生活を過ごすことができているからだ。だからこそ個人の連絡手段を得ても今の生活を壊すようなことをしようとは考えもしなかった。 「今日は目ぼしい商品はなさそうだな。数週間はここに来なくてもいいかも」 「客からのアポが来ないこともあるんだな……」 「既に商品を手にしている既存客ばかりな上に目玉となる人や商品がないからだろう。俺が見てもそう思うんだから、商品を扱う売人はたいへn……」 「綾香!? っ……」  背後から黒いスーツに包まれた腕に口を鼻を覆われ意識が落ちる。  いつもなら壁に背を向けて背後から何かされないように警戒をするのだが、今日はランクが低いカードのせいか客の入場の条件が低く、そもそも会場が満員だったのだ。この会場には人に危害を加えられると思われるもの……刃物や銃器や電気の類……を持ち込めないことになっている。そのために身分確認を兼ねて会場の入り口で審査と検査があるのに。だからこそ素手で戦える俺を綾香は護衛として連れていたのに。  盗んだ人よりも盗まれた人が悪い……そう言っていたのは誰だったか……? 「いっ……!」  逃げようとした矢先、体を床に押さえられ左の足首を思いっきり蹴られた。骨を折るには程遠い、しかし関節をずらす程度の衝撃に思わず声を出してしまう。  俺を捕えているのが一人だったら無事に逃げられたかもしれない。しかしここには主を含め5人いては捕まるのも当たり前だ。 「逃げようとしないことね。商品として登録する前にキズモノにしたら価値が下がるから骨を折ったり腱を切ったりしないけど、歩けないようにするぐらいにはできるんだから」 「……」 「それにしても倉橋を置いて逃げようとするなんて、貴方にとってこの男はその程度なのかしら? あるいは……自分の弟を殺すぐらいですもの、そんなに自分が大事?」  ああ、あの女性客に噂を吹き込んだのはこの女だったのか……  気持ち悪い笑みを浮かべながらフーリエは俺を見下ろす。人の外見の良し悪しは欲深さと比例するのか?  誘拐の際に同じ薬を嗅がされたらしい倉橋はまだ目覚めていなかった。二人同時に連れ去られては発信機の意味も無いな……まあ、一番の目的は俺が倉橋の位置を把握するためだったりするのだが。 「ん……」 「あら、やっと目覚めたかしら?」 「ぅ……あんた……フーリエって言ったか……?」 「そう。覚えていてくれて嬉しいわ。ついでに言えばこれからあなたたちを管理するオーナーになるの。よろしくね」 「……」 「貴方たちが立つリングはもちろん命を懸けるほうのではないわよぉ。客は皆貴方たちを知ってる! いい観戦代が稼げるだろうし、しばらくしたらオークションを開くの! 貴方たちのために客はどんどん金を積んでくれるわぁ……」 「ねえ、フーリエ」 「なにかしら、綾香?」 「オーナーにはペットを躾ける能力が試されるんだぜ……?」 「……何を」  ふわ、と後ろで俺の手を押さえていた男の身体が持ち上がり、受け身をとることができないまま床にたたきつけられる。相手に蹴られた方が運悪く軸足だったため鋭い痛みが走るが構わずにもう一人の男の手首を取り床に転がす。最後に稽古をつけてもらったのはかれこれ5年以上前だから技術がさび付いているのは自分でも痛いほど理解していた。起き上がろうとする男の手首をさらに締め上げて動きを封じる。  倉橋の方を見れば綺麗に二発づつ左側の腹部へと拳を入れて昏倒させていた。元プロボクサーにレバーを殴られたら俺も倒れるだろうな…… 「綾香、大丈夫か」 「ひとまずこいつらの意識を奪ってほしい。俺では動きを止めるので精いっぱいだから」 「……手荒な方法しかないんだけど」 「いいよ。こいつらに足首やられたし」 「っ……」  倉橋は慣れたように敵の顎を足で蹴っていく。もうボクサーとか関係なくただの暴力になっていた。 「……これ、リングを引退する必要あった?」 「どういうこと?」 「人の意識を奪うことに慣れてるみた��だからさ、ここまで来たら殺すのも変わらないのでは?」 「全然違うだろ」 「……あんたら……」  この女は自分では何もできない甘ちゃんだった。金をちらつかせ人を使う。暴力の前ではいくら金があっても紙屑同然だった。  暴力の使い方にも上手下手があるものなんだな、とどこか冷めた頭で考えた。 「ペットはちゃんと躾けないと。最初にしなきゃいけない躾はペットに誰がご主人様か教え込ませることだと思うよ。ねえ? 倉橋?」 「それ、俺がペットなのか?」 「え、違うの?」 「ふざけるな!!」 「……綾香、どうする?」 「ねえフーリエ、俺は今回で仲介役をやめてもいいんだよ? ひとりオーナーがいなくなったところですぐに新しい人が来るだろうしさ……もし次に同じことをしたら容赦なく命を奪うよりきついことをするつもりだから、その覚悟があるならまた攫いに来るといい」 「……綾香さ、俺がいなくてもなんとかなったんじゃないのか?」 「だから、俺は動きを止めるので精一杯で、意識までは奪えないんだってば」 「でも少しそういった格闘技の経験があることを話してくれてもよかったんじゃないか? てっきり、俺は綾香は何もできないもんだと思ってた」 「……昔、アイドルだった頃、テレビの企画で合気道の段位をとろうってのがあって……3年ぐらい、企画が続いたんだよ」 「……見たことあるような気がする」 「相方だった弟と一緒にね、やったよ。たぶん向いてたんだと思う。楽しかったし、実際に段位とれたし。それでも最後に稽古をつけてもらったのは5年前だから、技術は無いに等しいかなって」 「……ほんとにアイドル、だったんだな」 「まあね、数年前までだけど」 「だからか……どこかで見たことあると思ったんだ。ユニットの相方だった弟を捨てたのか……思い切ったことやったなあ」 「だから今ここにいるんでしょ……いてて」  相変わらず「わ」ナンバーの黒塗りの高級車に乗って店へと帰ってきた俺らは中に入るとカウンターの椅子に綾香を座らせる。靴と靴下とを脱がせスラックスをまくり上げると、そこにあったのは赤く腫れた足首だった。陽に当たらないせいで肌が白いからか、その赤が痛々しくもどこか綺麗なものに見えた。救急箱からテーピングテープを取り出し固定していく。 「でも、今もそのオーラはあるよ」 「別になりたくてなったわけじゃないから」 「だけどアイドルは10年続けたんだろう? 俺のプロボクサーとしての活動期間より長い」 「倉橋のボクシングをしてた期間には負けるよ」 「ボクシングはこれからも続けるつもりだから。選手としてリングには立つつもりはないけど」 「……」 「でも、全部綾香次第だから、綾香が決めて」 「俺が?」 「捨てられていたものは拾った人のものなんだろ?」 「……ふうん。じゃあ態度で示してもらおうかな」 「態度……」 「ここ、キスして」  テーピングで固定された足がゆらゆらと揺れる。俺よりも身長が低い綾香から女王様よろしく椅子に座りながら見下されているこの事実になにかクセになりそうなモノが背中を走る。  持ったままだった綾香のその足首に唇で噛みつき、そのまま甲をなぞっていき、つま先、きれいに形の整った親指の爪にちゅ、と音をたてて唇を落とす。  これでいいのかと恐る恐る見上げるとそこにはにやける口元を手で隠す綾香がいた。 「あー……やばい。本当にするとは」 「今後の俺がかかってるからな」 「そうだね、そうだよね。倉橋、人権取り戻してもずっと隣にいてよ」 「それは……綾香が俺を隣に置いてくれるってこと……? 弟みたいに捨てたりしない?」 「倉橋の顔好きだからね、捨てることはまず無いよ。それより倉橋が俺に愛想尽かさないかそっちの方が心配」 「大丈夫。問題ない」 「そう? ならいいや」  ふわり、と今まで見た中で一番の笑顔を見せる。その笑顔の破壊力と言ったら! ああ、世のファンはこの笑顔見たさにアイドルとしての彼を追いかけたんだろうなと確信をしてしまうほどに、その笑顔は見事なものだった。  人を好きになるのに男も女も生い立ちも状況も関係ないのだと身を持って知ることになろうとは。 「……綾香は、本名なのか?」 「あれ、名乗ってなかったっけ? 名前はまもるだよ、綾香士(あやかまもる)」 「まじで本名だったのか」 「一回ですんなり受け入れてもらえない名前なんだ。苗字は女の名前っぽいし名前の漢字は読んでもらえないし。ま、好きに呼んでよ」 「……」 「これからもよろしく、倉橋」 「綾香、こちらこそよろしくな」 終
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クオーレ
 目方70キロはありそうな逞しい男がゴミに埋もれ死んでいるのは、中々に圧巻の光景だった。写真にでも収めておきたい衝動に駆られるが、そんな事をしたところで意味は無い。  暗がりに人間の死体が落ちている。糞溜めの様なこの街では、さして珍しい事でもない。どうせ酔った所を殴られでもしたのだろう――俺は慌てず冷静に男を見下ろし、その冷たくなった腕を押し退けて金目の物が無いか探り始めた。手荷物は盗られた後なのか、何も持っていない。俺は無造作に男のポケットへと手を突っ込んだ。その拍子に傷だらけの顔がゴミ山にめり込むが、死人に遠慮する必要は無い。前のポケットには何も無かった。後ろのポケットを探り始めると体格の良い身体は俺の手に余り、ずるずるとゴミの山からずり落ちていく。俺は舌打ちしながら冷たい身体を引っ張り上げた。  その時、今までピクリとも動かなかった男の指が微かに動いたような気がした。そっと首に指を押し当てる。男は生きていた。顔は腫れて膨れ上がり、手足は冷たいが、心臓は確かに動いていた。  男は急に目を開いた。あまりに急だったから思わず凝視してしまった。綺麗で何も映さない、榛色の瞳だった。俺は動揺していたが、口から「大丈夫か」なんて言葉が出た。大丈夫なわけが無いのは一目瞭然だった。俺の踵はいつの間にか男の下敷きになっていて逃げられなかった。  男は目を閉じ、また開いた。もう一度開いた時にはちゃんと俺の顔を映していた。よく見れば綺麗な顔をしている。少なくともこの街の人間ではないだろう。男から漂う悲しみはこの街の重い空気と似ていたが、男には此処に溢れている、卑劣さとか下劣さとかそういったものは感じられなかった。  そう、男は悲しんでいた。  開いたままになっている目から塩辛い液体が溢れ出した時、俺はぎょっとした。ぎょっとして飛び退いたらあっけなく足は外れて、だけど俺は逃げ出すことも出来ないまま地面にぺたんと尻餅を付いた。飛び退いたゴミ捨て場から、溢れ出していたゴミがガシャガシャと音を立てて崩れ、薄暗い道の真ん中へと転がっていった。  男は何かしら異国の言葉で呟いて、漆黒の髪を掻き毟った。立ち上がろうとして、顔面からゴミの山に突っ伏する。俺は慌てて立ち上がって、男の肩に手を掛ける。 「おい。おい、どうしたんだ、あんた」  信じがたい事に、男はこんな所で意識を手放そうとしているらしかった。噎せ返る悪臭をものともせず、突っ込んだ顔を上げようともしないから俺は自棄になってゴミを取り除いた。 「正気か。こんな所で寝たら死ぬしかないだろうが��� 「好きにさせてくれ」  突然ゴミの中から訛りの無い母国語が聞こえてきて唖然とした。手が止まる。その意味を反芻するより前に、堰を切ったかの様に男が再び声を発した。 「どこまでも僕を追い回してどうする。情報なら僕が話すと言ったはずだ」  何か勘違いをしているらしい――それだけは分かった。誰かに執拗に追われているらしい事も。こういう面倒事には関わらないに限る。そう頭では考えているのに、俺はまた男の肩を揺さぶっていた。 「あんたは何か勘違いしている。俺はあんたに会った事も無いし知りもしない、ただの通りすがりの赤の他人さ。俺だって暇なわけじゃないが、目の前で死なれちゃ気分が悪い。いい加減顔を出せ、話をしようじないか」  ややあって、ためらいがちに起き上がった男の顔は酷い有様だった。顔全体から油のような液体が垂れ、誰のものか分からないような吐瀉物が幾重にも髭にこびり付き、とんでもない臭気を放っている。よくこの状態で喋れたものだ。怪訝そうに俺を見上げる目に「おい兄弟……いい男が台無しじゃねぇか」と軽口を叩く。自分でも何故こんな男に構っているのか分からないが、理由をひねり出すなら多分、この目だ。  まるで感情を映し出さないその暗い瞳が、俺には捨てられた犬の様に見えたのだ。  男をねぐらまで連れ帰るのは骨の折れる仕事だった。ずいぶん長い事捨てられていたらしい。脚には力が入らないようだし、ただでさえぼろぼろなその身体が、不意に糸が切れたようにへたり込むから尚更だった――男が自分の中の何かと折り合いをつけようとしている事は分かったが、完全な無表情と閉ざされた口からはそれが何なのか図り知ることは出来なかった。先ほど見せた涙が嘘の様に仮面じみた顔を続けるから、俺は段々この男が薄気味悪く思えてきた。  家と呼ぶには無理のある、愛用のねぐらへ男を引き摺りこむ。そして有無を言わさず、吐き気を催す悪臭を纏う身体に冷水をぶっかけた。湯なんて豪勢なものは残念ながら存在しないから仕方無いのだが、突然の冷水に身を震わせる事もせずじっと座っている男はやっぱり不気味だった。裂けた薄い服からどす黒い痣の付いた脇腹が透けて見えていた。  男は自分の事を語るのを避けているようだった。男のなりを知る術はまるで無かった。それでもしばらく匿って、知った事はある。此処の言葉を完璧に話してのける事。その割にはこの街にまるで馴染んでいない事。 「なんだあんた、ベジタリアンってやつか? 豪勢なもんだ」  心ここにあらずといった顔に眉をしかめてみせる。嫌々ながら食事は摂るようになってからも、男は決して肉に手を付けようとしなかった。俺は男に出してやった皿を横からひったくり、肉を平らげる。そうしている間、男は顔を背けていた。よほど肉が嫌いらしい。 「あんた、これからどうするつもりだ?」  微動だにしない背中に問いかける。答えなど期待していなかった。きっと男には何も無いのだろう。生きる意味も、帰る場所も。萎えていた足が治ってからも何処へも行く気配がないのは、そういう事なんだろうと俺は勝手に考えていた。  案の定、男は何も答えなかった。腹の内では、勝手に拾っておいてなんだその言い草は、とでも思っているのかもしれない。それでもいい。前から少し考えていた事があった。 「……あんた、俺に使われてみる気はないか」  男の肩がぴくりと動いた気がした。気のせいかもしれない。俺には分からない。その背中は拒絶するように硬く強張っている――そんな風に見えたのはきっと俺の錯覚で、男はいつもこんな風に一分も隙を見せなかった。恐らく、追われているせいなのだろう。けれど今まで、追っている奴等の気配すら感じた事は無かった。そいつらはきっと諦めたのだ。俺は身勝手にそうである事を願った。 「あんたは見るからに強そうだ。��む、俺にはあんたが必要なんだ」 「……僕に何をしろというんだ」  平坦な声が返ってきて、ようやく俺は止めていた息を吐き出した。 「大した事じゃないさ。ボスに気に入られてくれ。それだけでいい」  この一角を取り仕切る我らがボスは、残念ながらあまり強くはない。当然の如く、構成員だって強くない上に少数。縄張りを守るので精一杯だ。そんな火の車の現状に飛び込んできたこの屈強な若者を、ボスはいたくお気に召したらしかった。様々な質問を浴びせ、男が当たり障りのない返事を返すと、伸びかけの顎髭を撫でながら小さく頷いた。 「それで、名は何と言う?」  男はふっと黙りこんだ。よく分からない沈黙が流れる。男は目を伏せたまま静かで、まるで自分の名前を思い出そうとしているかの様だった。そして焦れったくなる程時間を掛けてから、吐き出されたのは自らの名前ではなかった。 「……僕に名乗るほどの名はない」 「おい」  俺だって名前を尋ねる事は無かったが、それは不便が無かったからだ。仮にも組織に入るのに、名無しと呼ぶ訳にはいかないだろう。そう説いてやろうとしたが、ボスの手で軽く静止を受けた。 「構わん。それなりの事情があるんだろう。お前に名をやろう……そうだな、マッテオ――お前の呼び名は、Mだ」  何故ボスがそんな名前を付けたのかは分からない。ただの気まぐれだったのだろう。男は異議でもあったのか、その鋭い瞳でボスをちらと見返したが、結局何も言わなかった。 「アンジェラ、可愛い野郎が来たぞ。世話を頼む」 「へええ、どんな子?」  奥に向かってボスが呼び掛けると、無邪気そうに女が顔を出す。そばかす混じりの肌は混血を匂わせる褐色。その笑顔は若々しいが、こう見えてボスの嫁である。この殺風景な砂漠のオアシスとも言える存在は、いつも通りからかうような笑みを浮かべてみせた。こんなに笑顔を振り撒いていると、そのうち誰かに取られるんじゃなかろうかと不安にもなるが、まあボスに盾突く勇気のある者はいない。ボスも彼女が他の奴等に奪われるなど思いもしないのか、好きにうろつかせている。  こんな男所帯で女が出てくるとは思わなかっただろう、とにやけつつ振り返ると、あいつは穴の空くほどアンジェラを見つめていた。 「なんだ、一目惚れでもしたのか? 止めとけよ、ボスの女だからな」  ボスの豪快な笑い声が響く。肩を叩きこの場を離れるよう促すと、マッテオ――Mは、ようやくアンジェラから視線を逸らした。 「少し……似ていただけだ、知り合いに……」 「知り合い……? あんたの女か?」  Mはそれ以上答えなかった。  俺はMと組み、やっと仕事らしい仕事を充てられるようになった。仕事と言えば聞こえはいいが、実質は恐喝、搾取。生きる為には仕方無い。そう割り切りながらも罪悪感を感じずにいられない臆病者の俺に対して、Mはいつでも必要以上の成果を残した。持って生まれたものが違うのか。そんな事を考えて、俺はあいつを少なからず妬ましく思い始めていた。  そんな日々を始めて数日だった。  帰ってくると、床が血の海だった。突然の事に言葉を失う。思考も働かず立ち尽くしていると、倒れ伏していた仲間の一人が俺の方へと這ってきた。 「攫われた、アンジェラがっ、見た事もない奴等に……」 「おい!」  揺さぶったが、抱え上げたそいつはもう虫の息だった。膝の上を生暖かい液体が伝っていく。最期の仕事を果たした口がゆっくりと動く。開いた口から、息の音だけが漏れた。 「くそっ!」  遺言すら言う間もなく死体と化した仲間を下ろし、短く十字を切った。カトリックなんてまるで信仰せず生きてきたが、少しくらい神の愛でも受けてくれなければ遣り切れない。 「やつらだ」  音もなく付き従っていたMが、低い声で呟く。その発音には僅かに殺意が込められているように思えた。かと思えば、すっと上げていた顔を途端に俯かせる。 「すまない。多分、僕のせいだ」  そう言ったものの彼の姿は儀礼的で、声にも感情が込もっているとは言い難かった。その態度に、目の前が真っ赤に染まる程の怒りを覚えた。仲間が目の前で死んでいるのに、その冷酷な態度……! 俺は一回り大柄な男の襟首を掴んだ。だけど唾を飛ばしながら叫んだのは、Mへの怒りなんかじゃない。この事態を想像すらしなかった、俺自身の甘さに対しての怒りだった。 「ふざけるな、あんたを拾ったのは俺だ、俺がなんとかする! なんとか……」  言いかけた台詞は尻すぼみになる。突然の惨状に、俺は全然冷静でいられなかった。これではただの八つ当たりにしかならないと、愚かな俺はようやく気付いた。仲間の血と臓物でぬめった床で、脚に力が入 らない。Mはそもそも仲間なんかじゃなかった。ただの都合のいい、赤の他人でしかないのだ。  こんなところで下らない喧嘩を売っている場合でない事は明らかだった。Mはとっくに状況を理解していたのだろう。それでいて関わるか迷っている様子なのだ。そんなの、俺を置いて何処へでも行ってしまうのが正解に決まっていた。だが、何故かいつもMはアンジェラの事を気に掛けていた。初めて会った他人とは思えない程気に掛けていた。知り合い――恐らく自分の女と、そんなに似ているのか。 「俺はボスの所に行く。あんたは好きにしろ」  俺はもう振り返らなかった。俺に責任など負えるはずが無かった。Mがひっそり消えて、この大きな事件が、欲を掻いた自分のせいでは無いと言える事を望んでいた。  ボスは無事だった。奴等は本当にアンジェラだけ奪い取ったらしい。ボスの側では仲間達が怒りを露わにがなり立てていた。 「奴等の仕業に違いねぇ! あいつら、新たな人員を雇いやがったんだ」  誰かがそう怒鳴って挙げたのは、こちらとよく小競り合いを起こしている小悪党共だ。隣にいた奴も頷き、すかさず口を開こうとする。 「焦るな! 全員で罠にかかるつもりか」  ボスの怒声は効果覿面だった。口々に特攻戦略を申し立てていた奴等が口を噤み、辺りは静まり返る。その途端、普段滅多に鳴る事のない電話が鳴り始めた。重要な会合の約束を取り付ける時にしか使われないその音を聞き、更に空気が凍り付く。ボスが受話器を取った。 「よォ、元気か、レオン」  受話器から聞こえる声は拡声器でも使っているのか、ボスの側にいない俺にまではっきりと聞き取れた。その大音量をまともに食らったボスは僅かに顔をしかめ、「誰だ」と応じる。 「誰だって構わねェだろ? 愛する妻を取り戻せるなら」 「アンジェラを何処へやった」  ボスは側近に手振りだけで命令を下した。回線の事業主を吐かせろ、という指示だ。彼はすぐに理解し、この場から離れていった。他の皆は会話に耳を澄ましている。 「タダで教えるわけにゃあいかねェな」 「要求は」 「……シマだ。レオン。お前の全てを頂こう」  ヒュウ、と息を吸い込む音が聞こえた。ボスではない。彼はまだ悠然と構えている。 「渡すわけがないだろう」 「だが、お前は従わざるを得ない」 「随分と強気だな」 「あァ、いい人質がいるもんでな」  圧倒的なアドバンテージを持つその声は、何処か弾んでいるようにさえ聞こえた。 「そうだ、大事な事を言い忘れるところだった……俺の依頼主からの伝言だ。読み上げるぞ」  さもどうでもいい事の様に、感慨なくその一文が読み上げられる。 「マツモト、知っているな? この女はCの妹だ。これ以上彼女を悲しませるなよ」  そんな名前の奴は知らない――そう思いかけたが、ふと振り向くとMが立っていた。マツモト――M。初めて名を知った衝撃より、彼の表情の方が衝撃的だった。Mは出会ったあの日と同じように、目に涙を浮かべている。微かに唇を震わせ立っている彼は、何も言わずに目を伏せた。  電話の向こうの男は、そんな事など気にかけず喋り続ける。無情にも、いつの間にか取引は進んでいた。 「そうだ、女の生脚を買い取る、狂った金持ちもいるらしいし、なァ」  下卑た笑い声に重なるように、「脅しじゃねぇぞ」と低い声が投げかけられた。 「今すぐ答えろ。てめぇらの、シマ、寄越すのか、寄越さねェのか?」  一言ずつゆっくり区切って発せられた言葉には、明らかな悪意が込められている。この下劣な男はボスの苦しむ様を見て嘲笑っているのだ――実際、ボスの左腕は苦しそうに心臓の辺りを押さえていた。 「……シマは、渡さない」 「おい。……左腕だ」  電話口の向こうで、ぞっとするような悲鳴が流れた。一瞬の無音。「寝るんじゃない。ショーはまだこれからだ!」硬いものが幾度かぶつかるような音がして、アンジェラの掠れた叫び声が漏れた。 「まだか」  囁くボスの声は全ての感情を押し潰した様に無機質で、それが余計に恐ろしかった。さっきまで心臓を押さえていた左腕が、今は力なく垂れ下がっていた。無意味な問答が続き、刻々と時が過ぎていった。  Mは彫像の様に動かなかった。榛色の目を見開いて、ぎゅっと唇を引き結んでいた。その口から時折歯ぎしりの様な音が漏れ聞こえる。命令さえ下れば真っ先に飛び出していくだろう。そんな雰囲気さえ漂わせている。Cとは何者なのだろう。こんな時だというのに、いつだったかMがふと漏らした呟きを思い出した。 「僕はどうするべきだったんだ」  その聡い頭脳を以てして、苦しむ理由は何だろうか。憶測したって、あいつの過去が報われるわけじゃない。俺は余計な考えを追い払った。俺達は今にしか生きられない。今俺に出来るのは、じっと息を殺して、待つ事だ。無暗に気を散らしてボスの怒りに触れないことだ。そしてアンジェラを、奪い返すことだ。 「ボス、奴等の居場所が分かった」  ゴーサインを待つ者などいなかった。誰も彼もが奪還と復讐に燃えていた。しかし次々に飛び出していく奴等をよそに、Mは動かなかった。じっとボスを見ている。ボスは椅子から立ち上がって、折れそうな程受話器を握り締めていた。  誰もいなくなった静かな空間に、電話口の声が空しく響いた。 「チッ、取引には応じないようだな。さぁ、その女の四肢を落とせ……依頼だけ果たしてずらかるぞ」  アンジェラは人間の尊厳を奪い尽くされたかのようなみじめな姿で転がっていた。彼女はまるで木偶だった。その胴体からは腕も脚も削ぎ落とされ、美しい目が在るべき場所には黒い穴が開いていた。息をしているかすら定かではなかったが、無残に切り裂かれた亜麻色の髪が、口元に掛かって震えているのが見えた。 「アンジェラ……」  喉の奥を引っ掻いて無理矢理出したみたいな声が漏れた。これ以上は、これ以上彼女を生かしておくのは酷だった。いっそ一思いに死なせてやった方が楽だと思った。伸ばそうとした両手が赤黒い血に塗れてぬめっていた。 「おい、何をしている……彼女を死なせるな……!」  ボスの表情は逆光で見えなかったが、その声は激しい怒気を孕んでいた。鼓膜を殴られたみたいな衝撃がきた。ボスは俺を突き飛ばすように押し退けて、俺はただ呆然としている事しか出来なかった。 「アンジェラの意識が回復した」  あちらこちらからどよめきと歓声が上がったが、俺は素直に喜んでいいものかどうか考えあぐねていた。Mは壁際で俯いている。 「見舞いに行くか?」 「ああ……」  ぼんやりと誰かに返事はしたものの、見舞いの列の中に組み入れられ、酒臭い男どもの間で揉まれている間にアンジェラに掛ける言葉は見付かりそうにもなかった。 「ほら次の奴ら、入っていいぞ」  言われてはっと顔を上げると、真っ白な部屋に通される。それが餓鬼の頃に通った病院に似ていて、目の奥がつんと痛んだ。後ろから付いてきたMに気付かれないよう、小さく鼻を啜る。つんと塩素の匂いが鼻をつく。 「アンジェラ。その……」  あの時俺は彼女の首を絞めようとした。死なせてやった方が楽だと思った。アンジェラの意識があったかは分からないが、その事実は俺の中で一生消えない禍根となるだろう。 「いいの」  俺の葛藤を見透かしたように、アンジェラは小さく微笑んだ。動けないアンジェラが、見えない腕を伸ばそうとした様に思えた。 「泣かないで」  その声はいつもからかい混じりに掛ける声と同じで、だけどそれよりずっと優しかった。泣いてねぇ、そう言いながら泣きそうになった。ボスの判断は正しかった。俺達はこの神聖な聖女を失わなかった。これから何度でも、どんな苦境でも、彼女を支えに立ち向かって行けるだろう。  それ以上何も言えず、俺がドアの辺りまで下がると、それまで黙っていたMが前に進み出た。ベッドの上に屈み込むようにして発した言葉は聞こえなかった。打ちひしがれた様な声の調子だけが耳に残った。対照的に、それに答えるアンジェラの声ははっきりとしていた。 「手足を失っても、温もりを感じる事はできる。眼を失っても、覚えていた景色は消えないわ。この程度であたしの愛する男を守れるのなら、身体なんていくらでもくれてやる」  そう言うと、アンジェラは声をあげて笑った。それは、決して自棄になってあげた声ではなかった。身体はぼろぼろになっても、彼女の心は壊れていなかった。そのガラスの眼球で見上げた空には、太陽が輝いていた。  次の日、目覚めるとMはいなかった。まるで最初からいなかったみたいに、気配すら残さず消えていた。驚かなかっ���といえば嘘になる。けれど、予期していたかのように自然に時間は流れていった。俺は以前と変わらず俺の人生を生きて、アンジェラも義肢をつけて、今までと変わらず――過ごしている。  久し振りに煙草に火を点けた。安くて不味いこの味が、やはり俺には合っている。煙をくゆらせながら、Mと過ごした短い日々に思いを馳せた。  このゴミ捨て場の様な街を去り、あいつは何処へ行くのだろうか。  何処かへ取り残してきた、愛する女の元へと帰るのだろうか。  終
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鳥籠の楽園
 今年の冬休みはかずくんがいるから、とても楽しい。  これまでは本当につまらなかったの。終業式の次の日からお正月が過ぎるまで、パパと二人きり。熱海にある別荘で避寒だって、何だか悲観的ーーそう言ったのは家へ通いで来てくれてる家政婦の山下さん。悲観って言うのは、つまり、楽しいことなんて何も思いつかないって意味でしょ?  本当、しょんぼりしちゃ���。せっかくの旅行なのに、パパは家へ私を置いてゴルフに行ってばかりだし。お仕事はお休み! って約束しても、結局部下の人が家に出たり入ったりしては、応接室で難しい顔で話をしてる。私は宿題をしてるか、テレビ見てるかしかやることがない。こっちに友達はいないし、一人で外に出たら危ないってパパが心配するんだもの。まあ、勝手に遊びに行けないって言うのは、東京にいる時も一緒だけど。  でも、今年は違う。だってかずくんがいるもの。今年の夏、学校の帰りに私が拾って以来、彼はずっと私と一緒にいてくれる。  夏休み前、小学校からの帰り道に、駅の近くのゴミ捨て場で見つけたのよ。一緒にいた友達がみんな「無理!」って言うから、私が連れて帰ったの。  最初はもう、信じられないくらい汚かった! 服はぼろぼろ、雨に降られたのかびしょ濡れで臭かったし、髪の毛にガムテープとか付いてたくらい。でもパパの部下の人に手伝って貰ってお風呂に入れて、髪の毛にブラシを掛けて上げたら、とっても素敵になった。高校生位かな。すらっとしてて、顔も小さくてハンサムだし。パパの服を貸してあげて、山下さんの作ったご飯を上げたら、おなかすいてたのね。がつがつ食べたわ。  お風呂でごしごし洗われてる間も、ご飯を食べてるときも、ずーっと喋らなかったから、最初口が聞けないのかと思った。でも腕を思い切りつねったら声を上げたわよ。静かで、優しい声だった。お箸を置いてじっと見つめる、その真っ黒な瞳と同じくらいに。  どうしてあんなところにいたのとか、いろいろ聞いたけど、彼は全然答えてくれなかった。分かったのは名前と、帰る場所がないって事だけーーううん、確かこう言った。「もう帰っても、意味がないんだ」。  彼はとても可哀想な人。可哀想な人には親切にしてあげなさいって、死んだママも言ってた。だから、彼をこの家に置いてあげようと思ったの。  仕事から帰ってきたパパは彼を見て驚いたけど、私がお願いしたら構わないって言ってくれた。パパは本当に優しいのよ。これでもっと一緒にいてくれたら完璧なのに。  パパの仕事を手伝えばいいって思ったのに、パパは「人手は足りてるよ」って。だからかずくんの役目は私の習い事の送り迎えをしてくれたり、外へ行くとき一緒についてきてくれたり。とってもいい人だと思うわ。何でも言うことを聞くし。無口なのがタマニキズだけどね。でも別に、お喋りなばっかりがいいって訳でもないし。 「ねえかずくん、話聞いてる?」  ソファの隅に腰を掛けて(パパはいつも「お前も彼の行儀の良さを見習いなさい」ってうるさいの)かずくんはぼんやり窓を見ている。このリビングの外は、薄暗い雑木林が広がってるだけなのに。熱海の町が一望できる私の部屋にいても、下手したら外にいるときも、彼はすぐぼんやりしちゃう。  そんなかずくんを見たら、何年か前に飼ってた文鳥を思い出して、とても悲しくなる。かずくんみたいに、とても澄んだ目をした、綺麗な文鳥のことを。  私、最初あの鳥が、外に出たいんだと思ったの。ドームの形をした白い鳥籠で飼ってたんだけど、あれって狭いでしょう? 可愛い声で鳴いてないときは、いっつも太陽の光が射し込む、窓の外を見てたから、私、思ったの。この子は外に行きたいんだって。こんなところに閉じこめられてるんじゃなくて、大空を飛び回ったり、お友達のところに行きたいんだって。  だから、春になったばかりの日曜日に、ベランダから放してあげたの。文鳥、すごく嬉しそうに鳴いて、まっすぐ外へと飛び出して行ったわ。ちょっと寂しかったけど、私、すごく誇らしい気持ちになった。  でもパパは、私が間違ってるって。夜になって鳥を逃がしたことを教えたら、ちょっと怒ってたわ。私を膝に乗せて、じっと目を覗き込みながら言ったのよ。 「あの鳥は、これまで鳥籠の中の世界しか知らなかったんだ。この温かくて、いつでも餌を貰える、幸せな世界だけしかね。それを急に外へ放り出したら、餌の取り方を知らないから、おなかをすかせてしまうかもしれない。巣の作り方も分からないから、寒さで凍えてしまうかもしれない。猫から身を守る術も知らないから、捕まって食べられてしまうかも」  私、とても悪いことをしたのよ。教えて貰って、一晩中泣いたわ。  もしかしたら、温かい家が恋しくなって戻ってくるかもしれないって思ったけど、結局あれから文鳥を見かけることは一度もなかった。  とても辛い出来事だったけど、私、ちゃんと覚えたわ。外の世界で傷付けないよう、守ってあげるのが大事なんだって。  かずくんだってそうよ。ああやって外を見てるけど、本当に放り出したら、ご飯もおなかいっぱい食べれない。汚いゴミ捨て場で寝起きするなんて、もう嫌だと思うわ。  私よりずっと大きいのに、そんなことも分からないなんて、かずくんったら変なの。 「ねえってば。ちゃんと見てよ!」  大きな声を上げれば、かずくんはびっくりしたように目を見開いた。 「悪い、ちょっとぼんやりして」 「眠いなら寝てきたら?」 「別に眠い訳じゃ」 「じゃ、話聞いてよ」  ソファの背もたれに掛けたり、テーブルの上に投げ出したりした服を指させば、その大きな目はそれを一つ一つ丁寧に見つめて、小さくため息を付く。 「こんな服、持ってたっけ」 「こっちのは昨日通販で届いた奴でしょ、あっちは東京から持ってきたの」  立ち上がったかずくんは、床に広がっていたワンピースを拾い上げてハンガーに掛けたり、テーブルの上のお菓子を片付けたり、まるで山下さんみたい。実を言うとね。かずくんの作るカレーは山下さんのより美味しいのよ。 「お正月に、パパの上司の人が新年会をするから、旅館にお呼ばれするのよ。かずくんも来て良いってパパ言ってたわ」 「ああ……」  ゴミ箱の上で手を払いながら、かずくんはちょっと複雑そうな顔で頷いた。 「聞いたよ。組長さんのところだろ」 「そう。あんまり年の近い子がいないからつまらなかったんだけど、今年はかずくんがいるから良かった……それでね、その時どの服を着ていこうかなって」  パパに聞いても「お前は何を着ても似合うよ」って言うばっかりだし。これまでずっと山下さんにスマホで写真を送ったり、電話したりして相談で決めてたんだけど。今年はかずくんがいる。 「俺も正直、そんなのよく分かんないけど」 「私はあの赤いワンピースが良いかなと思うんだけど、黄色のも可愛いでしょ」 「靴は?」 「エナメルの黒いの。この前かずくんが磨いてくれた奴」 「それじゃあ、赤かな」  ソファに踵を軽く引っかけて、片方の膝を抱えるみたいにして座ってるかずくん、本当に小鳥みたい。 「かずくんは何着てくの」 「別に。普段通りかな。かっちりした格好してかなきゃならないところなのか?」 「みんなスーツよ。パパに買って貰ってたでしょ、あれ着ていけばいいのに。かずくんかっこいいから、みんなから注目されるわよ」  そうやって褒めてあげたのに、悲しそうな顔で微笑むのは、どうしてなんだろう。そんな表情も似合ってるって言えば似合ってるのかもしれないけど、やっぱり何だか勿体ないな。 「スーツを着て、それから……そんな髪の毛伸びてたら、かっこ悪いわ。私がハンサムにしてあげる」  キッチンから椅子を引きずってきて、その下に新聞紙を敷き詰めた私を、かずくんはじっと見つめていた。ここに座ってくださーいって言ったら大人しく腰を下ろすし、穴をあけたゴミ袋を頭から被せても大人しい。お人形さんみたい。ソファに上った私がはさみをチョキチョキさせても、それは変わらなかった。黒いビー玉みたいな目でじいっと見つめながら、桜色の唇を薄く開かせて何か言おうとーーううん、結局何にも言わない。いつもと同じで。顔を正面に戻して、ちょっと俯いちゃうだけ。  私が拾ってから、月に一度は散髪に行ってると思ってたのに。いつもどこを切ったのか分からない位しか触らせないみたい。つやつやの黒髪はずっと手で撫で撫でしたくなるくらいだけど、ちょっと長いって前から思ってたの。目にも掛かってるし、何だか陰気に見えるわ。  美容室で見たり、山下さんがやってくれたのを思い出して、はさみを使う。こう、指二本で挟んで、はみ出したところを切ればいいんでしょ? ……うーん、難しいな。細い猫っ毛が、どんどんゴミ袋や、新聞紙の上に散らばっていく。なのに、なかなかイメージしていたようにはならない。  襟足も伸びてるし。これはばっさり切っても大丈夫だよね……そう思って長くて白いうなじを指でかき分けてみたら、そこに見えるのは銀色の細い鎖。拾ってきた時かずくんが持ってたもので、たった一つだけ捨てなかったもの。ペンダントを、かずくんは肌身放さず持ち続けている。銀に小さなガラス玉が散りばめられた、素敵なもの。ちょうだい、って何度お願いしても、これだけは絶対にくれなかったから、よっぽど大事なものなのね。  時々かずくんは、寂しげな顔をしながら胸元でぎゅっと手を拳に固めるような仕草をするけれど、きっとこのペンダントをシャツ越しに握りしめてるの。そうすれば元気になるって、おまじないしてるみたいに。  何だか、つまんない。あんまり頑固に秘密を隠してるかずくん、可愛くないよ。はさみの先を鎖に引っかけて、軽く持ち上げる。ひんやりしたステンレスが肌に触れたせいか、かずくんは小さく肩を震わせた。 「ねえ、かずくん。これ、どうしてそんなに大切なの?」 「大切な人に貰ったから」  俯いたまま、かずくんは小さな声で言った。 「もう会えない人だけど」 「ふうん。家族?」  かずくんは膝の上で掌を握りしめて、唇をきゅっと閉じた。 「死んじゃったの?」  今度は首を振る。 「じゃ、会いに行けばいいのに。私のママみたいに死んじゃったなら別だけど。せっかく生きてるのに、そんなうじうじペンダントばっかり触ってるの、バカみたい」  かずくんが口を開いたのは、私がわざとはさみをチョキチョキさせて、鎖を今にも切りそうになった時のことだった。 「あいつは、俺の事を思って、俺から離れていったんだよ」 「それ、この前ドラマで松坂桃李か誰かが彼女に言ってた。君のことが大事だから、とか、俺じゃ釣り合わない、とか。結局それ、女を捨てるための口実だったんだよ。すぐに別の女と付き合い始めたし」  かずくんはまた、肩を震わせて、それっきり口を閉じた。  その人はきっと、文鳥を飼ったことがなかったのね。かずくんが怖い目に遭ったり、おなかをすかせて寒い思いをすることなんか、何も考えなかったんだわ。  そして、かずくんも馬鹿。そんな悪い、自分勝手な人間をずっと思ってるなんて。 「私のパパなら、私から絶対に離れたりしないわ」  はさみがジョキンって音を立てて、襟足の髪を切り落とす。すっかりうなだれちゃった丸い頭をよしよしって撫でる。 「それに私も、かずくんを捨てたりしない。かずくんは良い子だから、ずっと可愛がってあげる」  かずくんは掌を握りしめたまま、口を開かない。でも、掌で触れた時、窓際の日向へ鳥籠を出した後、そっと握りしめたあの文鳥みたいに、とても体温が高かった。この温かさが何なのか、私、知ってるよ。  温かいって言うのは、とっても幸せな証拠なの。  結局、散髪は上手く行かなかった。ゴルフから帰ってきたパパは、ぼさぼさに髪の毛が跳ねてるかずくんを見て、「大惨事だな」って笑ってた。それからすぐ彼を美容室に連れて行って、戻ってきたときには、とっても素敵に変身してた! かっこいいツーブロック。あんな女の子みたいに長い髪型より、ちょっとクールでミステリアスな今の感じの方が絶対似合うよ!  嬉しくて周りでくるくる見て回ってる私を見て、かずくんはまた、お人形さんみたいに美しい顔で微笑んだ。 「気に入った?」 「すごくかっこいい!」 「ならいいよ」  こんなに素敵なかずくんと一緒に新年会へ行ったら、みんなに自慢できる。きっとみんな、私たちを見る。もう、お正月が待ち遠しくてたまらない!  今まであんなに退屈だった冬休みが、とっても楽しくて仕方ない。これもみんな、かずくんがいるから。  だから、ね。かずくん。これからもずっと、私と一緒にいてね? 私といたら、かずくんも幸せでしょう? 終
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My perfect world
1. 「もういいぞ、イツキ」 低い声に促されて、ゆっくりと目を開く。  目じりの脇のひりひりした焼けつくような感覚に、そこを触りたい衝動を堪えながら、彼は鏡を探した。 「ほれ」 すっと唐突に差し出された鏡の奥からは。 目元に入れ墨の蝶を留めた、美しい青年がこちらを見返していた。 「いいね」 イツキは嬉しそうに呟く。  図案化された蝶は、抽象的でありながらもとても生き生きとして、今にも羽ばたきそうに見える。顔料の赤と紫が、黒く深い湖のようなイツキのエキゾチックな目元にはこの上なく映えた。 「…これでとりあえずは完成だな。…あとはなじませるだけだ」 鏡を置き、ふうーっと長い溜息をついたのはがっしりとした筋肉質な男だった。年のころは40に差し掛かろうかというところ。身に着けたタンクトップを押し上げる隆々とした筋肉は、薄い褐色の皮膚の下でしなやかにうねる。 「ありがとう、ユーリ」 ユーリはにこりともせず、がっしりとした顎でイツキに横になるように促す。強い銀髪が頭の動きに合わせて金属質の輝きを散らした。 「………続きを話せ」 横になったイツキにバスタオルをかけ、その肉体をマッサージしながら、ユーリは低く言う。その手つきにはおよそ性的なものがなく、ただ純粋に職人としての素材に対する真剣さだけが感じられて、イツキは心地よかった。 「…俺がゴミ捨て場に横になった後から?」 「そうだ」 イツキは再び、記憶を手繰り寄せる。なにしろもう10年以上昔のことだ。今となっては、どこか現実感のない、夢の中の出来事のようにすら思える。 「ゴミ捨て場の少年を拾ったのは、かわいそうな運転手でした」 おとぎ話を語るような、どこか遠い口調で、イツキは語る。 「かわいそうな運転手には、たくさんの借金がありました。だからその夜、死ぬつもりで外を歩いていたのです。ところが、彼は見つけてしまったのです。ゴミ捨て場に横たわる少年を」 「…女装してたんだろ」 筋肉をもみほぐす手を休めることなく、ぼそりとユーリが言う。 「そうだよ。多分、女の子だと思って声をかけたんだろうね。」 「お前が女装ね………」 「こう見えても、俺は美少女に見えたと思う」 「だろうな」 ユーリはふん、と鼻を鳴らす。「なんなら今でもいけるんじゃないか?」 イツキは笑った。「さすがに無理だよ。女には見えないだろ」 確かにそれはその通りだった。 イツキはとても美しい男だったが、その均整の取れたしなやかな肉体も、神々しいほどに整った美貌も、あくまでも男としての美しさだった。筋肉のつき方も、仕草も、32歳を迎えた今となっては、女性らしさとはおよそほど遠い。 「だがその男は少女だと思ってお前を拾った」 「やさしい人だったよ」 イツキはユーリが何を言わんとしているのかを察していたのだろう。静かに言った。 「俺を犯すときにちゃんと『いい?』って聞いてくれたからね」 ユーリはそれを聞いて顔をしかめたが、何も言わなかった。 「とにかく俺は、『叔父様』のところには戻りたくなかった。だから」 「自分がそいつの借金のかたとしてヤクザに売られた」 この話は、もう何度も聞いている。  3カ月。イツキは、ユーリと寝食を共にしていた。  それだけ、この作業には手間も時間もかかった。だがそれも、今日で終わる。 ユーリが何度となくこれを話させるのは、イツキの気を紛らわすためだ。入れ墨の痛みや、その他諸々の身体的な違和感から。 「後で聞いた話だけど、そのかわいそうな運転手は、結局また賭け事で借金を作って、最期にはばらばらにされて臓器ごとに売られたんだって」 「自業自得だな」 ユーリはイツキの肩甲骨の下に手を添える。そこには、黒々とした墨で竜の鱗が丹念に彫り込まれていた。 「心臓や腎臓や肝臓はわかるけどさ。脳とか脊髄とか性器とか…そういうのみんな売られたんだって聞いた。何に使うんだろう、そんなの?」 「さあな」 骨の動きにあわせて、どう鱗の見え方が変わるのか、丹念にチェックしながらユーリは冷たく言い放つ。珍しい話というわけでもない。哀れな運転手の末路になど毛頭興味はなかったが、そのことを気にするイツキの心情を思うと、ほんの少しだけ不憫ではあった。  なにしろ、自分もそうなると知っているのだから。 「まあ少なくともお前の場合、外から見てわかる部分は傷つけられることはないさ」 イツキは���の奥でくつくつと笑う。 「そうだね」 彼が恐怖の感情を押し殺しているのか、それともすでにそんなものは麻痺してしまったのか。それは定かではない。探るつもりもない。どちらにせよ結果は同じだ。  彼はあくまでも「彫師」でしかない。この美しい肉体を、それにふさわしい美しい入れ墨で飾ることだけが彼の役目だ。  剥製職人や臓器移植担当医がどんな手順で、何を抜き取り、何をかわりに詰め込むのか、そんなことは知ったことではない。望みは一つ、施した宝石のごときこの入れ墨が、傷つけられることなく剥製が完成すること――いや、最近では、『剥製』ではない。『プラスティネーション』とか言ったか?  怖くないのか、とは聞かない。聞いても意味のないことだ。 「ヤクザに売られてから、ひどい目に遭うのかと思ったけどさ。意外と大事にしてもらえたよ。」 「そうか」 張りのあるイツキの臀部の筋肉に指を這わせる。双丘を包むように、竜の尾がとぐろを巻いている。その繊細な曲線。 「当時15歳だったんだけどさ。『叔父様』は俺を高校には通わせてくれなくて。そしたら、ヤクザの人たちが俺に通信教育を受けさせてくれたんだ。」 (その傍らで、体を売らせながら、だ) 心中でそっとユーリは呟く。ヤクザどもは、何も親切心でイツキに教育を施したわけではあるまい。イツキの美しさを見て、その商品価値をつり上げることを考えたのだ。  今やイツキは、押しも押されもせぬ高級男娼だ。  この合衆国でも指折りの、快楽の王。  当然その顧客は、各界の一流人ばかり。  ただの頭の弱いお人形では、そんな役割は務まらない。 「20歳の時に、こちらに渡って。……あとは、まあ。気が付いたらここまで来てた」 屈託なく笑うイツキ。東洋人は若く見えるとは言うが、その表情を見ると、30を過ぎているとはとても信じられない。 「そういえば、一つ聞きたかったんだが」 ユーリはふと思いついて、尋ねる。 「お前、なんで合衆国に来たんだ?」 それは、今までには問うたことのない質問。イツキは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。  イツキは売られた。  日本のヤクザから、ここ合衆国のマフィアに。  だが、そんな例はそう多いことではない。  もちろん、彼自身の意思のみで自由になる事柄ではないとはいえ、何かしらそこには理由があったのではないか。 「……パーフェクトワールドって知ってる?」 ユーリはぴくりと頬を動かす。 「……ああ。」 それは往年の名画。 孤独な少年と、孤独な一人の犯罪者の、見果てぬ夢の旅路。 「『アラスカの自然は厳しい。だが、美しい……』」 詩を吟じるように、イツキは呟く。 「テレビの再放送でやっててさ。…映画としての出来とかは……正直よくわかんないんだけど。あの台詞、忘れられないんだよね。主人公のブッチの、お父さんから届いた手紙の」 そう語るイツキの瞳には、柔らかい光がある。 「アラスカに行ってみたかったのか」 「『俺の』アラスカにね」 ユーリの言葉に、イツキは微笑む。 (その願いは、叶ったのか) 思わずそう口にしてしまいそうになり、ユーリは咳払いをした。 聞いても意味のないことだ。 「……よし。立って」 ユーリに促され、イツキは体を起こす。 何一つ身に纏わぬ裸身のまま、堂々と立つその姿をユーリはじっと見つめた。 若木のような肉体を巻くように。見事な二匹の黒竜が体をうねらせる。 しっかりと張り出した厚い胸には、大輪の華が。 腕には、翼をモチーフとした精緻な幾何学模様。 そして目元に安らう、蝶。  そこに立っていたのは、まさしく美、そのものであった。 「…どう?」 イツキは端正な顔に蠱惑的な笑顔を浮かべる。男たちの心を蕩かす、極上の笑顔を。 「ああ。……問題なさそうだ」 ユーリは、淡々と答える。作業の出来は上々だった。 「これ、題名とかあるの?」 「カチョフーゲツ」 ユーリの口から出た、呪文のような言葉にイツキは怪訝な顔をする。「何?」 ユーリは肩をすくめた。 「flowers,birds,wind,moon………カチョフーゲツって言うんだろ?お前の国では」 イツキは、ああ、と笑った。 「花鳥風月、か。………いいね、うん。すごくいい。」 そしてイツキは自らの手足をしげしげと見つめた。 (これで俺の役目は終わり) ユーリはそっと目を伏せる。この数か月、ずっと彼とともに過ごしてきた。 別に珍しいことではない。『組織』のお抱えの彫り師である彼にとって、こんな風にこれから標本にされ、どこぞの悪趣味な金持ちの家に飾られることになる『素材』とともに過ごすのは初めての経験ではなかった。  どの『素材』にも、それぞれの人生があり、それぞれの物語があった。イツキが特別というわけではない。  しかし、そんなユーリに、イツキは。 「ねえ、ユーリ。…やろうか。」 囁くように。 「………やらねえよ」 なんとなく、その言葉を予想していた。だから、ユーリは静かに首を振って、言った。 「俺はただの彫師だ。………わかってるだろう」 「ああ。」 イツキは頷く。  その瑞々しい肉体も、繊細さと精悍さが奇跡のようなバランスで同居する美貌も、まさに今が盛りに見える。  だが、イツキは、熟れきった果実だ。  32歳という年齢は、男娼としては最早爛熟し、腐る一歩手前と言っていい。  それでも、その美しさと知性はいまだ多くの顧客を魅了し続け――だからこそ、今日まで生き延びてきた、のだが。 (こいつは、知ってたんだ)  男娼として盛りを過ぎ、役目を果たせなくなったらどうなるのか。  足を洗い、堅気の生活に戻るには……あるいは、場末に放り出されるにしても。おそらく、彼はあまりにも深くこの世界に浸かりすぎた。  夜毎かりそめの愛を囁く閨の中で。彼はいくつの禁忌を知ったのだろう。 高級官僚。政治家。財界人。芸能人。 それらの秘密を抱えたまま、光のあたる場所で生きていくなど、無理な話だ。 (口封じ)  いつかはその日が来ると。イツキはいつ、自らの運命に気付いたのだろう。 「俺の剥製を買い取ったのさ。……日本人なんだって。」 ユーリは、引き攣るように唇を歪めた。 「……里帰り、ってわけか」 あまりにも皮肉だ。思わず乾いた笑いが漏れる。イツキは静かに頷く。 「結局、どこにも逃げ場なんてないんだよ。」 それは絶望の吐露ではない。ただ、事実を確認するための言葉。 「でもさ」 イツキの目はまっすぐにユーリを射抜いてくる。 「死ぬ前に一度ぐらい、好きになった人に抱かれたいだろ」 「やめろ」 ユーリは腹立たしげに声をあげ、首を振った。 「迷惑なのはわかってる。……ユーリにとっては俺もただの『素材』だろ」 それでもいい、とイツキは笑う。 「俺、ユーリのこと好きだよ」 聞きたくなかった。そんな言葉は。 「そう思いたいだけだろ」 氷点下の温度ではねつける。ユーリの氷灰色の瞳には鋼の輝きを宿す。 「そうかもしれない」 イツキは否定しなかった。だが、退きもしない。 「そうだとしても」 彼はすっとユーリの頬に指を触れる。銀色の無精髭の生えた、武骨な顎まで、ゆっくりとなぞる。  ユーリは石のような無表情のまま、じっとイツキを見つめたまま、動かなかった。 「俺の最期の願いをかなえてよ」   2.  乾いた唇に触れたイツキの唇は、甘やかで燃えるように熱かった。 「…冷たいね」 イツキは愛おしげにユーリの唇を指でなぞる。 「俺さ。……ユーリの、冷たくて硬いところが好きだ。」 抱きしめるイツキの指先も、胸も、うなじも、それとは対照的にやわらかく、温かい。 イツキは筋肉質で太いユーリの首筋にゆっくりと舌を這わせる。 「……ユーリってさ。鮫みたい。……なんでここに鰓がないのかな」 ユーリは答えない。表情を動かしもしない。ただ、そっとイツキの髪を撫でる。 「いつだって感情なんてないみたいな顔してさ。……俺の体見て、俺に見つめられて、ちらりとも性欲を燃やすそぶりを見せない男なんて、ユーリぐらいだよ。」 そのまま、タンクトップに手をかけ、脱がせていく。ユーリは自ら脱ごうとはしなかったが、抵抗もしなかった。 「ユーリが本物の鮫だったらよかったのにな。……俺の事、食い散らかしてくれればよかった。ジョーズみたいにさ。ぐちゃぐちゃーって」  ロシア系移民の父親から受け継いだ色素の薄い瞳や髪と、アフリカン・アメリカンの母から受け継いだ褐色の肌の組合せは、どこかユーリの印象を哺乳類と言うよりは、爬虫類か、あるいは魚類じみた冷たいものにしていた。 酷薄そうな顔をしている、と言われたことは今までにもある。しかし。 (鮫、か) 言い得て妙だと思い、ユーリは内心苦笑する。 (鮫ならば) 感情など、持つまい。 「あと、お酒呑まないところも好きだ。…俺、酒は嫌いだから」 「…仕事にさし障るからな」 色のない声で応じながら、それに、と考える。 (鮫は酒など呑まない) ユーリは心を定める。そう、自分は感情のない、冷血な鮫なのだ。 ―――それがイツキの望みならば。 「………俺に愛されなくてもいいのか」 「愛されなくてもいいんじゃない。――愛されたくないんだ」 イツキの言葉は真摯だった。 「俺のこと愛してくれるような人に、最期のしるしを残していくなんて、残酷だろ。ユーリならきっと、俺がどんなに熱を籠めて奉仕しても、きっと冷たいままでいてくれる。……アラスカの万年雪みたいに」 アラスカ。その言葉に、ユーリは目を細める。 「俺がどんなに汚れても、乱れても……犯しがたく、冷たいままでいて。」 好きだよ、と囁きながら、イツキはユーリの股間に手を添える。 「………っ」 その手の艶めかしさに、ユーリの息が微かに荒くなる。ユーリとてまだまだ男盛り、刺激を受ければ体は反応せずにはいられない。 「ユーリは何もしなくていいから。………ただ、しばらくの間、我慢していて」 イツキはそう言うと、身体をかがめ、口を股間に近づける。  かちゃかちゃとベルトのバックルを弄る音が響く。 「……………!」 ユーリは無言でびくんと体をのけぞらせた。  湿った音が、微かに響いている。しっとりと濡れそぼった粘膜が、優しくユーリの男根を包み込み、撫で擦り、締め付ける。 「っあ」 思わず、ユーリは股間にあるイツキの黒髪を鷲掴みにする。艶やかな黒髪は、絹のような手触りがした。  イツキは構わず、ユーリの昂りを喉の奥の奥まで咥えこむ。幾多の男たちを狂わせてきた口技だ。ユーリは、声にならない叫びを押し殺す。快楽が津波のように押し寄せては引き、引いてはまた寄せてくる。 「……気持ちいい、って感じてくれてるのは、正直ちょっと気分がいいな」 つぷ、と陽物から唇を離し、イツキが妖艶に笑う。ユーリは荒い息を整えながらぎろりと睨んだ。 「…何も言っていない」 「口ではね」 イツキは誇らしげに、天を指して屹立したユーリの男根に目をやる。舌を出し、焦らすように根元から亀頭までをねぶりあげた。ユーリはたまらず、うめき声を上げながらびくびくと震えた。 「こういうのね、日本語では『カラダハショウジキ』って言うんだ」 「…くそっ」 「今、楽にしてあげるね」 待て、と言う間もなく。  イツキは口を大きく開けると、再びユーリの剛直にかぶりついた。  今度はさっきとは違う。まるで熱帯雨林の猫科の大型肉食獣のように、荒々しく攻め立てる。 「くあ、あ、あ!」 ユーリは眼を見開いた。怒涛のような快感が、今度は電撃のようだ。先ほどの波のうねりとはまるで違う、息つく間もないその衝撃。 「ああ、アッ、あ、ああ!」 登り詰める。股間に重苦しいものが集中していく。その流れが、手に取るようにわかる。 「ッ―――」 獣のような吠え声とともに。 体の奥底から、溶岩のようにどろりとしたものがほとばしった。 イツキはそれを口中に受け止めると、幸せそうに眼を細め、喉をぐびりと動かした。 「イツ、キ……」 絹の黒髪をぐしゃり、と乱しながら、太ももをきつく締め付け、足でイツキの頭を抱え込む。イツキの舌はまだやわやわと蠕動し、2射目、3射目の精液を一滴残らず絞り出した。 「ああ………」 ユーリは荒い息をつきながらゆっくりと体の緊張をゆるめていく。脱力と放心が襲ってきて、その場にごろりと横になりたい衝動に駆られた。 「…ありがとう」 口元を拭いながら、イツキは笑った。その笑顔は、もう先ほどまでの妖艶なものではない。 「………気は済んだか」 息が整うにつれ、ユーリの瞳からは休息に熱が失せ、また金属の輝きに覆われる。 (そうでなくてはならない) それがイツキの求めるものだと知っているから。 「ああ」 イツキは、そんなユーリの冷たい表情を見て、満足げに頷く。 そっとユーリの頭をかき抱き、静かにその額に口づける。 「さよなら。『俺の』アラスカ」 ユーリは、永久凍土のように感情を凍らせ、瞳にその色が現れないようにと願う。 (そうか) Perfect world。 完全な世界。 たとえこの後、どんな残酷な運命が待ちうけているとしても、イツキは確かにその瞬間、それを手にしたのだと。 そう、信じたいとユーリは思った。 (了)
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黙っていたのはあなたも同じ
「今日をもって、俺たちはアイドルユニット『MT』を解散します」 「今まで応援してくださった皆様、そして支えてくださった方々には感謝の言葉しかありません。この場をお借りしてお礼申し上げます」 『ありがとうございました!』  11月30日、その日の芸能ニュースはとあるアイドルユニット解散の話題一色だった。俺はその内容を映像でも紙面でも、見てはいない。  俺は自分の顔が嫌いだ。  その顔でもってアイドルとして決して低くはない人気を手に入れてこれたのは、単に「アイドル」という仕事が向いていて、生活できるだけの金が稼げたからだ。きっかけは街中でのスカウトで、あれよあれよという間に勝手にたくさんの事が決められ、流されるまま15歳の誕生日を迎えたその日に俺はファンの前で手を振っていたのだ。自分としては努力を怠るつもりはないが、歌が人より上手いわけでもダンスの才能があるわけでもないと思ってるし、演技やバラエティに向いてるかと言われればそうでもないという自覚がある、ただの、普通の男だった。  他人の目を自然と奪ってしまうほどに顔がいいことを除けば。身長も高くない俺は本当に、ただの男だったのだ。 「まもる、一緒に飲もう。何がいい?」 「……ビール」 「わかった」 「……つかさは? 何飲むんだ?」 「オレ、ビールは飲めないからなあ……今日はウイスキーかな」 「ふうん」  綺麗に包装された小さな箱をぼんやりと見つめながら力の抜けた返事をする。今日のために俺が用意したこの箱はつかさへのプレゼントだった。時計は11月30日、11時55分を示している。  ふたりがけのソファに座っていた俺の隣に酒を飲む準備を終えたつかさが座った。  酒を飲もうと誘うのはいつもつかさで、俺の分も含めて準備するのもつかさだった。20歳の誕生日から、ふたりで一緒に家で夜を過ごす時の習慣となっている。 「はい、ビール。早くしないと日付変わっちゃう」 「はいはい」  プシッっと小気味いい炭酸が抜ける音がリビングに響く。ビール缶を持ったままつかさと視線を合わせれば、つかさは微笑みながら氷と水割りウイスキーが入ったグラスを持ち上げた。 「まもるの誕生日に、乾杯」 「そし���MTお疲れ様」 「うん、お疲れ様でした」  かちりと少しなさけない缶とグラスがぶつかる音をたてる。一息にそれなりの量のビールを身体に流し込むと同時に、壁にかけてある古い時計からぼーんと音がなり、日付が変わったことを教えてくれた。  俺はつかさへさっきまで眺めていた小箱を差し出す。 「つかさ、誕生日おめでとう」 「ありがとう、まもる。これでオレたちふたりとも25歳だね」 「四半世紀はあっという間だな」 「学校もそこそこに、アイドルとしての仕事が忙しかったからね、ほんと、あっという間だった……」 「ちゃんとした誕生日プレゼントは明日……あー、今日か、起きたらあらためて渡すよ。ま、ひとまず今はそれ、な」 「ありがと、開けていいかな?」 「どうぞ」  グラスの残りを一気に飲み干してからつかさは小箱の包みを丁寧に開けていく。俺としては別に雑に破いてくれても全然かまわないと思っているのだが、目の前の男はそうは思わないらしい。なんでも「まもるがオレのために用意してくれたものだから」という理由みたいで。訳が分からない。 「あ、チョコレートだ!」  つかさは酒飲みでありながら甘党でもある。平気な顔をして甘いものをつまみに酒を飲むので、誕生日をまたぐこの時にわたすプレゼントはいつのまにか甘いものになっていた。前には焼き菓子や和菓子などをあげている。すべて、酒のつまみになったが。 「いただきまーす!」  少し大きめのまあるいトリュフチョコレートを口に入れ、幸せそうに噛んでいく。サイズが大きめなのは中に洋酒が入っているからだ。  グラスにウイスキーを注ぎながらひとつ、またひとつと箱の中のチョコレートはつかさの中で溶けていった。 「中に入ってる洋酒が少し苦いけど、ミルクチョコレートが甘さ強めだから美味しい! ありがとうね、まもる」 「どういたしまして」  ステージの上できらきらと輝くライトの下で見る、ファンへと向けられたのと同じ笑顔をつかさは向ける。俺は同じ笑顔をつかさに返せただろうか。  その自信は、ない。  意識を失った人間はただの血が入った袋である、と誰かが言った言葉をなんとなく思い出す。  後ろで左右の手首を、そして同じく左右の小指を結束バンドで縛り、大声が出せないようにタオルを詰めたうえで口をガムテープで塞いだ。拘束しても抱え上げても起きないぐらいに意識を落としているつかさを車に乗せ、県をまたいで山に捨てに行っ��。  もう帰ってくるなと、俺の前に姿を現すなと、その嫌いな顔を俺に見せるなと。そう願って山へ運んだつかさはほぼ俺と同じ体格のはずなのに驚くほど軽くなっていた。まあ、もう俺には関係ないことだけども。  眠れないんだとつかさからそう相談を受けたのは半年前だった。病院に行き診断を受けて薬を処方されて……これで症状が改善するんだと、また前のようにまもるの隣でアイドルとしての仕事ができると、そう喜んでいるつかさを見てこれ以上ない好機だと思った。  薬に分類されるものは医師や薬剤師などの専門家がいるぐらいだ、決められた用法用量を必ず守るべきである。しかし人間は慣れる生き物だ。続けて飲めば耐性ができてしまう。  ましてつかさには飲酒の習慣があった。薬を処方されている間だけは、と形だけでもと思い一回俺は止めたが「まもると一緒にお酒を楽しめないのは嫌だから」と一蹴されてしまっている。本人は「お酒で薬を飲んでいるわけではないから大丈夫」とでも思っているのだろう。だからこそ、俺はそこに付け込んだのだ。  ビールが飲めないつかさが俺と一緒に飲酒をする時、飲むのは決まってウイスキーだった。ひとりの時は焼酎も飲むみたいだが、どちらにもつかさは氷を入れる。  砕いて溶かした睡眠薬入りの氷は、どうしても白く凍ってしまう家庭の冷凍庫で作られたために見た目になんら違和感なく、溶けた液体はつかさの身体へ酒をともに入っていった。酒に薬を直接溶かさなかったのは、時々俺もボトルから酒をもらうことがあるからだ。どうしたって我が身は可愛いものだし、俺は自殺願望があるわけでもつかさと心中したいわけでもないのだ。  気づかぬところで着々と酒と薬に身体を蝕まれてき、ついに誰が見てもわかるほどに、まともにアイドルの仕事をこなせなくなってしまった。  若干の記憶障害に眠気と吐き気、めまい、そして依存によるイラつきやむかつきなどに頻繁に襲われていたつかさは、誕生日の一か月前に体調不良を理由に、表向きは引退するとしてアイドルユニットの解散を申し出たのだった。  今でも俺は覚えている。ライブのフリートークでつかさが言った「まもるの一番のファンはオレなんだよ! アイドルとしてデビューする前から、生まれる前からオレはまもるを知ってるんだから! 一番一緒にいるオレが一番まもるを好きなんだから! 絶対に誰にもそれだけは譲れないからね!」という言葉を。同じ顔をした双子の弟が、兄に対して言った愛の告白ともとれるその言葉を。  そしてそれを言われた時の気持ち悪さを。  俺は一生、この嫌いな自分の顔を見るたびに思い出すのだろう。  自分が嫌いなこの顔でアイドルとしてやってこれたのは隣につかさという同じ顔が居たからだ。ひとりだったらただのイケメンで済んでいた顔もふたり揃えば商品にできる。  所属していた事務所の目論見は確かなものだったし、実際に25になった今まで何不自由なくアイドルをやってこれたのだから、意外にもこの仕事は向いてない、というわけではないらしい。 「……理由はわからないけど、顔が嫌いってだけなんだよ。俺は俺の顔が嫌いだからつかさの顔も嫌いってだけで……人間としては、俺は、つかさが嫌いじゃなかった」  どさり、と木の陰につかさをおろす。  眠れず、まともに食べることもできず、そのくせ止まることなく薬と酒をとりこみ侵蝕された身体は、それでも俺が差し出したものをすべて食べた。現代では合法では手に入れられない睡眠薬入りのチョコレートを。  俺を好きだったつかさだからこそ、何の疑いもなく。 「誕生日おめでとう、つかさ」  そしてさようなら、つかさ。  今まで言わなかったけど、俺は、つかさが嫌いだったよ。  つかさが俺に薬を盛られていることをわかった上で酒を飲んでいたと知ったのは、つかさの誕生日から数日経ってからだった。  冷蔵庫の中に入れてあったビール缶のひとつにメモが貼ってあったのだ。 「お酒と一緒にまもるが用意してくれた薬を飲み続けたオレは、まもるのためになれただろうか」と。 終
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無意味の愛
 お前のためなら、俺は何だってするよ。  夜の帳が下りた港は陰鬱な雰囲気を漂わせている。  身を刺すように冷たい冬の風は、廃工場の割れた窓の中へ、生臭い磯のにおいを運ぶ。  工場内の積もった埃が風によってふわりと舞う。それから、スーツを纏って立つ二人の男と、その足元に倒れる一人の青年の髪の毛も、冷たい風にそよいでいた。 「早く言えよ」  立っている男達のうち、煙草を咥えた男が痺れを切らした様子で言う。長く伸びた煙草の灰が崩れ、倒れる青年の僅か数センチ先に落ちた。  冷たい床に這いつくばる青年は、その言葉にゆっくりと顔をもたげた。殴られた頬が腫れ、黒い前髪から覗く片目は、半分ほどしか開いていない。切れた頬から流れる血はダラリと口端から溢れ、床にポタポタと落ちている。しかしそれでも彼の顔から、端正、というイメージは削がれていない。 「…………誰が教えるか」  青年はペッと血を吐き出して言った。抑揚のない声に感情は一切見えず、ただ冷たさのみを相手に伝える。  煙草を吸う男はその言葉を聞いた瞬間青年の腹を蹴り上げた。容赦のない全力の蹴りに、青年は目を見開いて体をくの字に曲げる。ガハッと口から赤い唾を吐き出し、苦痛に激しく咳き込んだ。 「まだ痛い思いをしたいのか?」  青年はそれでも反応を示さない。おいいい加減にしろよ、ともう一人の男がしゃがみ込み、青年の前髪を掴んだ。 「女の居場所を吐けばいいの! 何でそれくらい言えないのかなぁ?」 「……………………」 「耳付いてる? それともマゾ?」  男は苛立ちを押さえきれないとばかりに拳を振り上げ青年の顔を殴る。呻き声を上げれど他の事は一切口にしない彼に、男はくしゃくしゃと短い金髪を掻いて唾を吐く。 「女っつっても恋人でもないくせに。どうしてそこまで口を開かないんだよ」  吹き込む潮風が青年の頬を撫でていく。腫れた頬を労わるような風は、しかし沈む心をより深く沈めるだけだった。その感触に思い出したのだ。以前、うっかり怪我をしてしまった自分に対し、大丈夫? と優しく微笑んで撫でてくれた女の手を。  どうして恋人でもない女のためにここまで身を挺することができるのか。  決まっている、好きだからだ。  青年と女の仲は高校時代から二十代も中盤に差し掛かるという今まで続いていた。その間、彼らが恋人になることはなかった。ましてや女が青年に好意を抱くことなど一切なかった。  席が近いからという理由で仲良くなり、友人関係のまま地元の大学に進学した。誰にでも優しく、常に笑みを絶やさない彼女のことを、青年はいつの間にか好きになっていたのだ。だが女は最後まで、彼のことを友人としてしか見なかった。それを青年も理解し、その上で好意を伝えることもできず、曖昧な友人関係をこれまで続けてきていたのだ。  青年が最後に彼女と出会ったのは一週間前、彼女に保証人になってくれと頼まれた日だ。  呼び出された喫茶店で、涙ながらに借金があると伝えられた青年は、考える間もなく頷いた。本当にいいの、と自分から言ったことなのに何度も繰り返し訊ねる彼女を見ても、もう一度考え直してみても、青年の返事は変わらなかった。  ありがとう、と礼を言う彼女の顔を青年は今も鮮明に思い出せる。彼の大好きな太陽のような笑みで、ほっと安堵したように笑う彼女の顔。  一週間前に見た笑顔の彼女。  その夜彼女は姿を消した。  「騙されたの。お前は騙されたんだよ、理解してる?」  金髪の男は馬鹿にしたように、言い聞かせるように何度も青年にその言葉を繰り返した。  保証人になり、多額の借金を肩代わりした青年の元には毎日至る所からの手紙が届くようになった。それだけじゃない。どう見てもまっとうな仕事をしているとは思えない人間が家の扉を優しい声で、しかし執拗に叩くようになった。朝も昼もそして晩も。  既に手遅れだったのだ。青年が危機感に警察に行こうと外に出たとき、待ち構えていた男達に港へと連れさられ、こうして今、暴力を受けている。 「知らな……っ、知らないって、言ってる…………」 「知らないわけねぇだろ! あんだろ情報がよ。仲良しの女友達とか、彼氏んとことか、一つくらいよぉ!」  何度も殴られ、蹴られ、青年が咳き込んだ口から血が垂れた。体はどんどんズタボロになっていく。苦痛に喘ぐ青年は、それでも男達を睨み続けていた。 「知らない…………!」 「はぁ? マジで知��ねえの? 何だよお前、本当に。あの女の何だって言うんだ」  呆れた顔を浮かべる金髪を、落ち着け、と煙草の男が窘める。短くなった煙草を口から離した男は、火を燻らせる先端を青年の首筋に押し付けた。 「あ゛っ!?」  ビクッと青年の体が跳ねる。男はまるで彼の体が灰皿であるかのようにぐりぐりと煙草を押し付け、床に放り投げた。先端を押し当てられた青年の肌は赤く火傷を負っている。火傷の痕を抉るように男の指が食い込んだ。 「あ゛あぁっ!」  強烈な痛みが走る。青年は与えられる痛みに身を捩らせ、悲鳴を上げた。  頬を殴られ視界が揺れる。額を床に打ち付けられ、意識が飛びそうになる。実際何度か痛みのせいで意識は飛んでいた。だがそのたびに頬を叩かれ強制的に起こされ、暴力の嵐に翻弄される。  何時間がたったのか青年には分からなかった。ボタボタと血を流してぐったりと横たわった彼に、煙草の男が顔を近付け言う。 「保証人になるくらいだ、一度も会話をしたことがないわけじゃないだろ。思い出せ。女が好きだと言っていたブランドは? 場所は? 趣味は? 職場は? 住所は?実家は?」 「……………………」 「調べればすぐに分かることだ」  淡々と述べられた言葉に青年は歯軋りをする。調べればすぐ分かること。ならば何故、自分に聞くのだろうと。男は青年の視線からそれを読み取ったように答える。 「お前のために聞いているんだ。いいか? 俺達の目的は、うちから金を持って逃げた女を捕らえて罰を与えることだ。お前自身はどうでもいいが、保証人になっている以上無関係で済まされない。しかしお前自身の口から情報を提供してくれれば、提供者として、少しは痛みも減らしてやれるかもしれないんだ」  それが誠か嘘か青年には判断が付かなかった。だがどうにせよ、ここで自分が口を割らなかったとして、女が無事に逃げ切れる可能性は低いだろうということは理解する。  既に彼の体はボロボロだった。内臓も少しやられているかもしれない。呼吸をするたびに胸が痛み、鼓動に合わせて全身の傷が激痛を訴える。体に残る煙草を押し付けられたあちこちの痕がじくじくと痛む。  限界だった。  平凡な人生を生きてきた彼にとって、これほど強烈な暴力を受けたのは、初めてだった。恐怖と激痛は既に何度か彼の決意を揺らがせていた。  ここで言ってしまえば。ここで素直になれば、これ以上痛みを感じなくてもいいのかもしれない。 「……………………い、えば……もう、解放、してくれる、のか」 「ああ」  短い返答だが、青年にとってそれは光差すほどの救いの言葉だった。  言えばもう痛くない。もう許してもらえる。  恋人でもない女のために、もう十分耐えたじゃないか。もういいじゃないか。十分すぎるほどに頑張ったじゃないか。  青年の両目から涙が零れる。痛みか、他の感情か、喉を震わせて大粒の涙を零す青年に男は一変して優しい笑顔を向けた。 「なぁ、もう許してやるから。素直に言えって、な?」  許してやる。その言葉に青年は静かに微笑んだ。強張っていた表情をふにゃりと崩し、青年は言う。 「――――絶対に言ってやるかよ」  女が俺を騙していることなど最初から分かっていた。優しい笑顔の裏で、平然と自分を偽っていることなど分かっていた。  それでも愛しているから。彼女が好きだから。  自分が口を割らないたった数時間でも、時間を稼ぐことで彼女が遠くに逃げられるなら。男達も、俺も、誰も知らない遠い地で他の愛する人を見つけ、幸せに暮らせることができるなら。  それでいい。それでいいんだ。  お前のためなら、俺は何だってするよ。  男達は呆れたように顔を見合わせ、笑い声を上げた。  笑い声と共に降って来た暴力を、青年はただ黙って受け入れた。 「……ああ、確かに受け取った」  港にやって来た一台の車。そこから降りてきた人間が煙草の男に丸いビニール袋を差し出し、また車に乗って去っていく。  ずっしりとしたビニールを下げた男が工場の前に戻ると、風に身を震わせ足踏みをしていた金髪の男が袋を見て顔を顰める。 「うげぇ、随分やってますね。原型がない」 「手間取らせた分容赦はしなかったらしいぞ」 「あー、しばらく肉食えねぇ」 「ったく、とっくに捕まえてたんだったら連絡寄越せってんだよ」  工場のすぐ傍にはゴミ捨て場があった。中身の散乱したゴミ袋や饐えた臭いの生ゴミがまき散らされている中に、ボロボロの青年は捨てられている。一見、汚いゴミの一つのようにも見える。 「ゴミ捨て場の美青年か。……可哀想に、無駄だったな、お前の頑張りは」  金髪の男が皮肉交じりに言った。それから彼は煙草の男に視線を向ける。 「こいつ、この後どうなるんですかね?」 「さぁ? 不良にとっ掴まってカツアゲされるかもしれないし、変態に拾われて壊されるかもしれないし、ヤバい奴に見つかって殺されるかもしれないし。どれだろうな」 「はは、そもそもこいつ目を覚ますんすか?」 「知らんな」  煙草の男がふっと笑い、ビニール袋を放る。ドサリと青年の横に落ちたそれの口が解け、少量の中身を青年の体に垂らす。 「じゃあな。せめて今くらいは、好いた女と一緒にさせてやる」 「あんなになって、好きだった奴だって、分かるんすか?」  知らんな、ともう一度同じ答えが潮風に運ばれた。  ゴミ捨て場に捨てられた赤い肉片の満ちるビニール袋。  その横で、青年は静かに目を閉じ、眠るように横たわっていた。
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