Tumgik
find-u-ku323 · 4 years
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『アルコールに身を任せた夜』
 若い体に鞭を打って勤労に励むことは素晴らしい、と直接的に言われていなくても、潰れるまで働き続けなくてはいけないのがこの人生のチキンレースというものだ。チキンレースだから、誰が崖に堕ちるまでブレーキを踏まないかということで僕らはマウントを取り合う。  しかし俺はそれを嗤えない。なぜなら、俺もそのレースにエントリーさせられているから。  人身事故で遅延した終電で帰り、力なく部屋の扉を開ける。手を洗う鏡の前で見ている自分の顔はひどく痩せこけていて、首に締めた柳の葉は見事にぐにゃりと曲がっている。  ……笑えるくらいに情けない。こんな容貌で、それも周りの目も気にしないで帰るくらいに余裕がなかったのだろう。声もかすれて、満足に言葉を発することもできなかった。  しかし充血した目だけは活発だった。それは何かを求めるように、そして自分の意思とは無関係にぎょろぎょろと辺りを見回している。 「お前、ほんとよく飲むよなあ」  学生時代、飲み会の場でよく言われていた言葉が脳裏にすっと通り過ぎる。羽目を外したり、吐いたり、持ち帰ったり、本当に最低で最高の飲み会マシーンらしい人生の一ページがこんな形で蘇ってきたことを、本当に忌まわしく思う。  狭いキッチンの隅に重ねられたストロング系の缶チューハイは今や崩れかかったピサの斜塔だった。これがバランスを崩したとき、俺は終わる。その恐怖はそのまま生に直結していたが、反転して、飲みたいし飲まなきゃいけないし飲まないとやっていられないという渇望は即ち人間廃業へと繋がっていた。  ──一本だけなら、そう、一本だけならいいよな? 本当に、今日は辛いことがあったから仕方ない。  平衡を保てない俺は、破滅の側へとハンドルを切る。また冷蔵庫の中に酒がないと知っていてわざわざ近くのコンビニまで寄ってそれを買おうとする自分には、もう何度も失望している。  飲ませる側が飲まれるなんて悪い冗談にもなりやしないって分かってるのに、あの世で罰を受けるほど恥ずかしい辱めを受けるかのように酒の海に溺れる。 「ただ飲みゃあいいってもんじゃない。相手を立てて、褒めて、持ち上げるんだ」  上司の言っていたことを思い出す。  学生時代から社会人になっても、基本的な処世術は変わらない。社会の規範も変わらない。なのになぜか生きにくいと思ったのだとすれば、変わったのは俺だということになる。その残酷で悪戯な時の経過にさも当然の如く付きあっていた自分自身が、今は少し怖いと思った。  真っ暗闇に手を伸ばす感覚が消えない。相手に合わせて言葉を交わし合うことは、今でも怖くて震えが止まらない。  別に恐れているわけではないんだと思うけれど、それがどしゃぶりの雨の日に傘もささないで街角に佇むような無防備さとイコールだったなら、その本質的な孤独を埋めるための酒が進むのもしょうがない。 「……お前がいなけりゃおかしくならなかったんだ」  俺はからっぽの部屋に、そしてからっぽの心に言葉を馴染ませるようにひとりごちた。人生でたった一度だけ、ナイフを向けたことのある女に向けて言ったいつかの言葉を、何度も、何度も繰り返した。  呪文のようにそれを復唱すれば、次第に震えは止まってくる。それは恐れじゃない……、アルコール依存症の一歩手前にあって、これは禁断症状なのだろう。  俺は痙攣を起こした右手を見た。あのときナイフを持っていた自分の左手がつけた傷の痕が、いまだに痛々しく残っている。  サークルクラッシャーの彼女は、その正体を知らない誰からも愛されていたけど、間違いなく酒浸りであったとも思う。気楽に過ごしているように周りから認識されていた俺ですらこうなのだから、彼女はさらに深いところ、そう、心の中の深いところに隠していた部分があったのだろう、と同情すら覚える。  誰かに期待されて生きることや自分の役割だと思っているものに縛られながら生きていくこと、それらすべてがとても息苦しくて解放されたい俺たちは、ネットで簡単に自己承認を得ようとしたり飲み会で誰かに認められたりするような手軽な手段に走ろうとして、でもいつだって足がもつれて膝をすりむいて血を流している。もちろん、そこに手を伸ばせるような余裕のある人間は、いない。  だけど、彼女だけは違った。 「断ち切れないんだよね。  結局、いい夢を見たくて、夜になったらお酒で記憶を飛ばしたくなっちゃうし、君のことを忘れたくて死にたくなるときもある。けど、絶対に忘れられないようになってるんだよね。神様を恨みたいよ、ほんとに」  確かに、今まで知り合った女の中で最も精神的に重い人間であることに間違いはないのだけど、彼女はそのすりむいた足の痛みを抱えたまま俺のほうへと愛を求めてくる。  俺はそこに、本能的な恐怖を覚えていたのだ。  しかし今、この小さな住処で彼女を赦す気が起きた。それはお酒の力を借りていたからそう思えたわけじゃない。俺は、きっと前から彼女のことについて怒ってなんかいなかったんだろうし、なんなら人とのうわべの付き合いに寂しさや虚しさすら覚える人間だったから、こうやって一人で酒を飲んでは気を紛らわせる生活にもし彼女がいたのなら、と考えてしまうのだ。  本当の孤独は、大事な存在だったと気づかないままに他人を遠ざけて本当にひとりでいることだ。  だけど、そうだとしたら、本当の幸せって何だろうか。彼女に対して、何か過剰な期待をしてしまってはいないか。俺はずっと、ループのように問い直す。今なら哲学者にだってなれる。  窓から外を見る。永い夜の薄い雲から、細くて綺麗な月が街から街へとほんの少しの光を与えていく。まるでそれは大河の流れのようだった。俺は踏み出してそこを渡りきるようなステップで彼女と暮らした世界線に辿りついたという妄想に耽る。  ──ああ、そういうことだ。そんな自慰に耽る暇もないように、彼女とはこれからも会わないし、酒も止める。  今度はどこまで続くのだろうか。  「男らしさ」とかいうものと戦いながら、強がる自分にも弱音を打ち明けられない夜に、少し泣く。
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find-u-ku323 · 4 years
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エッセイ:頭痛で過ぎた日曜日
 やってしまった。
 何かといえば、平日に溜め込んだ課題や趣味の小説執筆、所属団体の連絡、その他諸々をやろうとした日曜日を頭痛に持っていかれてしまったのが、とてもいけなかった。
 私は今、この文章をベッドに寝転がりながらスマホで打っている。今も(頭痛薬のおかげで酷いという程ではないが)温い頭痛が続いているし、なんならさっき吐いてきた。
 いつもはパソコンに向かってバリバリのタイピングで文章を作っており、昨日も夜遅くまで小説を書いていたのだが、それが祟ったのだろうと推測できる。しかもこれは一度や二度のことではなく、二週間に一度はこう���うことを引き起こしているから、もうアホである。自分のことなのでいくら罵倒しても罰は当たらないと信じて言うのならば、「俺は底抜けのバカがやることを繰り返している」のだ。
 憎き疫病でもって家にいる時間が長くなり、また大学のオンライン授業もあって、殆どの時間はパソコンかスマホに向き合っているのだが、これこそが良くない傾向だと思う。運動しなくなる上に、自らの疲労に無自覚な形でもって疲れを溜め込んでいく。なので、こうした時に疲れが噴出してしまうのだ。
 じゃあ、外に出ていれば頭痛やら吐き気がないのかといえばそういうわけではないのが厄介なのだが……。
 とりあえず、頭痛の原因が分からない今は、その犯人探しよりも対症療法で凌ぎ切りたいのだ。さもなくば、来週のバイトにも行くことが出来ないのだから──何も気にせず外に出られるときのために、とにかくお金は稼いでおきたいし、と思いながら、しかし眠る時間が無駄に感じるくらいだ。
 実は時間に縛られていないようでとても縛られている日々を垣間見た気がした。でも頭痛は怨むけど。
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find-u-ku323 · 4 years
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『ニートから俺へ』
『働かないで、生きていく。  こんなキャッチコピーがあったっていいんじゃないか?  ……この手紙を読んでいるってことは、お前はやっぱりニートになったんだな。おめでとう。十年前の俺です』  久々に帰省した実家の引き出しを開けると、こんな手紙が入っていた。書いた覚えのない、痛すぎるくらい痛い手紙だった。  俺、こんな思考してたのか?  鞄を置く間もなく麦茶を飲み干し、事あるごとに人気のゲームソフトを持ち寄っては友達と遊んでいたときの俺が書いていたとは、ちょっと思えそうにない。  あの頃と同じ夏、タンスの中で漂っているような独特の匂いが漂うその手紙を読み進めてみる。とりあえず読めば、それなりに思考が辿れるかもしれないと信じて。 『なんで俺がニートになったんだ、って、読んでるお前が一番思ってるに違いない。納得いかないかもしれない。だけど、間違いなく言えるのは、俺もそうなっちゃうのはまったく納得いかないからこの手紙を書いてるんだ、ってこと』  なんだ、そうじゃん。お前もこんな可愛げのないこと書いといて、ちょっとは常識に則ってるんだな、と昔の自分を可愛がってやる。  あの頃と同じように、いやあの頃よりもずっと暑いから、コップに注いだ麦茶は美味い。スーツ姿で汗かきべそかき、どうにかもがいて生きているのも、この麦茶の味を際立たせている。 「好きだったカレー、作ったから食べてよ」  母の声が台所から響く。えーっ、この暑いのにとびきり辛いカレーかよ、みたいな不平や不満のひとつやふたつはいいだろうと思ったけど、結局言い出せない。それは年老いた母への配慮でもあるし、自分の記憶を補強するためには避けられない作業だったからだとも言える。  俺はまた手紙に目を落とす。読み進めるのは面白くて、でもなんか昔の自分がとても恥ずかしくなるような気がして怖かった。
『俺がニートになる理由はだいたい百個くらいあるけど、本当に俺がニートじゃなくて忙しかったら(もしそうだったら、この手紙を読んでいる暇もないだろうけど)そんな話で時間を取るなって怒られそうだから、大事そうな三つに絞って話そうと思う。  まず一つ目は、俺、たぶん本当は人と話すのがめちゃくちゃ苦手なんだよね。ゲームして、遊んで、同じクラスの友達と話したりするけど、どれだって友達の目を見て話してるんじゃないもんな。あれは、ゲームをしているときならゲーム、遊んでるときはどこか遠くを、んでもって教室だったら違う誰かとか黒板を見つめて喋ってんだから、そりゃ誰かとサシで喋るのなんか平気な顔で出来るわけないんだよ。  それから二つ目だけど、これはちょっと一つ目と似てるかも。  俺のことだから、目を見て話せないってことはコミュニケーションの一つもろくに取れやしないに決まってる。だとしたら、言葉を濁して頷くフリだけしてさ、相手に分かってるって態度を示すだけの存在に成り果てるんだから、本当に仕事の出来るサラリーマンになんかなれやしない。  人のことを「かっこいい」とか「かわいい」と思っても、それを口にして伝えた試しもない人間が、本当に誰かに信頼されながら仕事が出来ると思う?』  昔の俺、ほんとオーバーキルが得意だな。なんでこんなに饒舌で論理的なんだろう、腐ったような目で分かったようなことを言いやがるな。  あるいは、大人が俺のフリをしてこの文章を書いたんじゃないかと一瞬疑ってみたりもしたけれど、自分が覚えている古い自分の文章を何度も何度も漁って掘り返してみたところで、これは間違いなく自分の筆跡だったことが分かるだけだった。  湿って貼り付いたシャツの冷たさが、自分の体温を奪っている。でもそれは物理的なことであって、精神面から熱を奪っているのは間違いなく昔の自分が書いた手紙によってだった。  でも、俺の目はそのまま流れるように先を読もうとする。  やめてくれ。  打ちのめされることは慣れているはずなのに、俺は何かを恐れていた。 『三つ目が、きっとこれから読むときにクるものがあるんだろうけど、敢えて言うから、見ろよ。  俺は、やりたいこと、夢、それが多すぎるんだ。小さな夢から大きな夢まで、色んなことを夢見ている。現実を見ないことについて言えば、もはやプロフェッショナルだよ。そのおかげで、今はとっても楽しい。  だけど、その夢のせいで俺は殺されると思ってる。事実、この手紙をここまで読んでいるのなら、なんとなくドキッとしたんじゃないかな。  そうだよ。やりたいことが一つに決まらなくて、やっとの思いで絞った就職活動の企業に振られまくるんだ。俺には、全部分かってる』  この文章を読んだ瞬間に、俺は手紙を跡形もなくビリビリと破いてしまった。端的に言えば、発狂した。  なぜなら、その通りの人生を歩んでいたからである。俺の言う通りだ。俺は夢だけ持っていて、人生の軸となる価値観なんか持っていなかったんだ。だから、いざ一人で歩いてみろって言われた時に、現実を見ない自分の無鉄砲さに絶望した。就職活動で、「あなたの強みは?」「弊社を選んだ理由は?」というちゃんとした質問に答えることが出来なかったときに、なんとなく、これはもう普通の仕事に就くことは出来ないなって思っていたんだ。  だからといって、僕に特別な才能があるわけでもなかったし、努力を積み重ねた時間もなかった。もう、そのときに飛ばなきゃいけないという段になって、手遅れになっていたことに気がついてしまったのだ。  俺は、俺に背中を蹴飛ばされてしまったんだ。さっさと目を覚ませ、って。  恐る恐る、破ったあとの手紙を重ね合わせて繋ぎ合わせて、読んでみる。そこに俺が求めている救いとか、分かりやすい答えは一切ない。むしろすっぱりと諦めろ、とすら思えるくらいにあっさりしている。 『まずは、やりたいことから考えるな。お前はただでさえ夢見がちなんだから、空を飛ぼうと思うなよ。ちゃんと、お前の足で歩け。  俺は、俺のことを一番応援してるから。頼むぞ』   「働いてるフリ、バレてんだからね。さっさと職を探してきな!」  母ちゃん、手厳しいのは昔も今も変わんないな! やっぱりスーツで帰省って、そりゃ不自然だよなあ。  あの手紙を受け取って、今すぐに気持ちが切り替わるほど俺も素直じゃないし、強くもない。だけど、俺の中で何かが動く音がしたなら、それが答えだった。  きっと、母のカレーの味は今日も辛いだろう。
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find-u-ku323 · 4 years
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『部分的にそう』
 あなたのことは前からそんなに好きじゃなかったし、と、呆気ないほど素っ気なく恋の幕は閉じられた。情けない姿を晒すまいと閉じ込めていた気持ちはいつのまにか溢れだしていて、ただ黙って、告白の舞台として僕が指定した中庭をとぼとぼと歩いて帰るしかなかった自分が、本当は一番情けなかった。  忘れなければいけないのだろう。本当は、忘れなければ大変なことになると、自分でもそう分かっているはずなのに、高嶺の花相手に挑んだ無謀な恋愛の後遺症は、僕が思ったよりも強く深く抉れた傷を僕に与えてきた。まるで誰も足を踏み入れることができない山岳地帯に咲いている白いサザンカを自らのものにするために、命懸けでそこに分け入っていったら、何か逆らえない神の逆鱗に触れたような重力で全身を強打したみたいな、そんな痛々しい気分だった。  じゃあ、なんで���んなに気のあるフリをしたんだよ! ああいうことをするから、僕みたいに勘違いして傷つく奴が出るんだろ、って。そうは思わないかい、──。  僕は路傍にあった石ころ、その全てを転がして、晴れない気持ちを全てそこに籠めるかのように、制服が汚れるかもしれないという懸念も頭に浮かぶことなく水溜りの方へシュートしてみせた。瞬間、汚い水しぶきが上がるのを見たが、もちろんそんなものでは何の気休めにもなりやしなかった。  家に帰って来てから、晩御飯を食べる気力もなかった。休んだ部活の同級生から来たメッセージを横目で消していくだけで、なんとなく精一杯だったから。きょうのことがなかったことに出来たなら、ちょっとは楽なのにな。告白した相手に僕の感情が漏れていたなら、正直、女々しいんじゃないの? って言われてしまいそうだった。  晩夏の夕空にかかった飛行機雲を見ながら、明日は雨なら学校に行かない、と憂鬱な気持ちを飛ばしていった。コップに注いだ強めの炭酸水の泡が抜けていく音が、魂の抜けていくような気持ちと重なって哀しい。名前のない感情が、声のない声に漏れ出ている。  力の抜けた片手で、さっき落としたスマホを拾い上げる。相変わらずメッセージを読む気力はない。  しかし、メッセージアプリの上のほうにいつも表示されている広告に、今日はなぜか目がいった。その広告は、どこか気味が悪くて自分の知らない異国の言葉で飾り立てられていたけれど、イメージを示す絵だけで、すぐにそれが意味するところが分かってしまった。  そのバナーを押したときに、自分は何をしているんだ、と内なる理性が僕を押しとどめようとした。なんの未練もないはずなのに、そんなに不確実なことをしてまで知りたいなんて、どうかしている、と。  内なる衝動もそれに答える。別に、自分にはどうでもいいことに成り果てたが、恋もつい先ほどまで生きていたんだから、供養をしてあげなければいけない。それに少し時間を割くことまで否定されるのは、なんとも耐え難い、と。  自分の中で延々とループし続ける善悪の秩序に、流れる無音の精神は鎮まらないままに、耳にはサイトから流れるエキゾチックな音楽、もう発狂しそうだった。情報が整理できない。こんなところで情報を受け取ってしまったら、もう二度と自分の消し去りたい過去から逃れることが出来ないんじゃないか、と散々悩んだ挙句、結局、そのサイトに描かれている珍妙で勝ち誇ったような顔をしたランプの魔神の導きに僕は従っていった。  サイトにある「人やキャラクターを思い浮かべて」というメッセージに従って、まさにきょう振られたばかりの女子を思い浮かべる。なんて甘えた妄想をしてしまうのだろう、と少し頭を振る。そして「スタート」の文字をタップすると、その魔神が、誰にでも簡単に答えられるような質問をしてくる。僕はそれに答えていれば、それでいいようだった。 『男性ですか?』  いいえ。 『30代ですか?』  いいえ。 『名前に漢字が入っている?』  はい。 『眼鏡をかけていますか?』  うーん、たぶん、いや絶対かけていたはず。 『セクシーなビデオに出たことがある?』  そんなの、いいえ、に決まってる。 『その人は個人的にあなたを知っている?』  これはどうだろう。僕は間違いなくあの子のことを知っていたけど、彼女が僕のことを知っていたかどうかは全く分からない。 『学生ですか?』  はい、間違いなく。 『その人は人気者ですか?』  ……たぶんそう、部分的にそう。 『その人の部活動は、体育会系?』  残念、ガチガチに文化系なんだよね。 『背は高いですか?』  はい。身長の低い僕がコンプレックスを抱くくらいには。 『さっぱりした性格?』  これも間違いなくそう。表向きに振る舞う顔は明るく利発そうな優等生だし、僕の告白を断った時だって、まるで僕の気持ちを慮ったからねと言いたげに、さらりと流れるように済ませたけれど、きっとひとりでいるときの彼女はもっとずっと暗くて深い。僕がそうなんだから、彼女もきっとそうなんだ。 『その子は、白いシュシュをしている?』  即座に自分の指は「はい」を押していた。核心をついた問いを突然ぶつけられて、処理能力を越えてしまったのだ。どぎまぎするのは、なんでこんな個人的なことを知っているんだろう、という疑念。狂気。僅かな恐怖。  誰も目にかけないほど小さなシュシュのことを思い浮かべるのは、彼女に執着しているから、どれほど細かなことでも見えてしまうくらいに見つめていたってこと。そんなことを、なんで初対面のはずの魔神が? 僕はスマホに映っている魔神の目を見ている間、ずっと密かに困惑した。だけど、偶然に当たってしまっただけのことかもしれない、と思いたい気持ちもどこか端々にはあったのも事実だった。  生唾を飲み込んだ。少し手汗をかいていた。緊張が顔以外の場所に出るのは、自覚している限りでは初めての経験だった。 『その子は、──ですか?』  やはり、か。僕は自分がしたことの重大さと軽率さに呆れかえるほど悲しんだ。しかし、同時に奇妙な達成感も味わってしまった。見つけてしまったと思うことで、失恋相手をコンピューターに学習させ、これからの彼女の人生をほんの少し変化させるくらいの、いや、バタフライエフェクトを起こすくらいのことが起こるのではないかという期待すら感じた。  だが、それだけなら僕は自己満足の自慰行為に勤しんだ虚しさで寝転んでしまってもおかしくなかったはずなのだ。��為なことだと斬り捨ててしまえば、それまでだったんだから。  僕がそれでもスマホの画面から目を離すことが出来なかったのは、彼女の顔写真を誤操作でタップしたときに表示された、彼女を象る個人情報の暴走のせいだった。  そこに出ていたデータは、名前や生年月日から、住所や電話番号、家族構成、自室の写真まで、有象無象森羅万象が全て記載されていた。  僕は、最初、それを全く信じなかった。名前や誕生日だったらまだ知れないこともないけれど、どう見ても本人しか知り得ない質問にも回答されてしまっている以上、こいつは嘘デタラメを書き記しているんじゃないかと思ったのだ。それでも何度か見返すうちに、その記述内容がどんどん彼女の本来持っている気性である根暗な性格にぴったりと当てはまるようにして見えてきてしまった。  ベンチウォーマーだった自分のことなんか見ているはずもないのに、彼女は彼女なりに「誰にでも分け隔てなく笑いかける華凛な少女」を演じようとしていたのだろう。しかし、運の悪いことに、それが僕を不機嫌にさせてしまったのだから、仕方ない。  窓の外は、スマホにくぎ付けになっている間にもう闇の中へと溶けていた。全てを凍り付かせる月の光は、ぴきり、ぴきりと心の壁まで冷気で覆う。もう、目の前のサイトがいかにして個人情報を手に入れているとか、人智を越えたものに対する畏怖とか、そういうものをすっとばして心は既に歪なほうへとねじれていた。
 人を騙すつもりはない純粋な少女の姿を目で追ってしまう、そんな歪んだ独占欲のせいで、あのサイトを使った次の日から、僕は世間一般でいうところのストーカーになってしまった。そうでもしなければ、一人で満足に承認欲求も満たせやしないのだ。  いつかの歌に『怖がらないでね、好きなだけ。近づきたいだけ、気づいて』なんて歌詞があって、初めて聴いたときはまったく共感できなかったけど、今なら分かる。全て知ってしまった今だからこそ、僕には彼女にいまさら何度もアタックする勇気も根気もない代わりに、彼女のことをずっと見ていたいという気持ちだけがふつふつと湧き上がっていた。怖いくらいに、そんなことがとても純粋だと自分の中で思いあがっていたのだ。  現実にリンクしない世界の話じゃないのに、ゲームを操作している感覚を持って浮遊している。いま、自分はあの魔神が操作するアバターで、彼女は間違いなく最終ターゲットのヒロインに違いなかった。そう、視野狭窄だから、この眼にはボクとキミの二つしか映っていないのだ。  角を曲がって商店街の花屋が見えるあたりに、彼女が足繁く通う古めかしい喫茶店が見える。きっと、午後五時きっかりに彼女はこの店を出て、家に帰っていくのだ、とあのサイトに書いてあった。であれば、いつものようにここからつけていけば、彼女の一人きりの姿を独占できるに違いない、今日だってそう思っていたのだ。  そう「思っていた」と過去形になったのは、彼女が店を出たときに感じたただひとつの違和感によってだった。彼女はいつもジャムトーストとミルクティーのセットを頼んでいると書いてあったが、今日はいつもと違って口の端にストロベリージャムをつけたまま、どこか落ち着かないような気持ちでもって辺りをきょろきょろと見渡す(そのしぐさは相変わらず可愛かった)。しかしその後に、思いもかけないような光景を目にしてしまって、僕は思わず眩暈を感じた。くらくらしたのだ。  彼女は、店の中の方へ誰かを手招きしたと思ったら、財布を鞄の中に仕舞いながらドアを開けた男の手を握った。とてもその姿が仄かに輝いていて、僕は暗闇の中の宝石を見つけた気分だった。しかし、その輝きも、横にいるよく知りもしないような男のせいで一気にくすんでしまう。こ、こ、こいつは誰だ。一体、誰なんだ。俺の知らない人間を招き入れるのだけでも何か純粋なものを汚された気分になるのに、そんなに近しい距離で彼女と男が歩いているということで、もう、世の中に不条理しか感じなくなる一歩手前まで自分の心が乱されてしまう。  彼女たちに与えられた風はそのまま僕の方まで平等に吹き抜けた。そのおかげか、雨の匂いを敏感な感覚器官で感じ取るが、生憎、僕には傘がない。知り得た情報だけでは何にもならないように、いまここで降りそうな雨を防ぐには鞄を屋根代わりにしただけじゃ不十分に違いないのだった。 「僕の知らないところで……何で告白を……受けたんだ……」  僕の私怨を飲み込むほど彼女も子供じゃないことは分かっていた、つまり僕の方があまりに幼い精神のもとで行動していたことは相手にもバレているんじゃないか、と恐れながら生きていた。しかし、ここまで来てしまった今、もう止まることはできない。  僕はすぐさまスマートフォンのシャッター音が鳴らない改造カメラアプリを起動し、彼女と一緒に歩いている男の写真を撮った。もちろん、名前も、素性も、いやもしかすると僕と同じ高校であるという確証すらないのかもしれない。それでももしかしたら、彼女を『解体』したときと同じように、名前すら分からなくとも何者かが分かるはずだ、と僕は察知したのだ──本当にできるかどうかはともかく。  興奮のあまり、通信料を気にしてしまうなんてこともなく、その場で例のサイトにアクセスした。僕は、そこで先に撮ったイメージを想起し、彼女を思い浮かべたときと同じような要領で、魔神が出してくる質問にただただ淡々と答えていった。 『男性ですか?』  はい。 『背は高いですか?』  はい。 『その人は百八〇センチ以上ありましたか?』  こればかりは、平均より背が低い僕がいくら相対的にといえども評価することはできないだろう。だから、分からないとだけ言っておいた。 『人気者ですか?』  これも全く分からない。この男のことを一度も見たこともないから、判断しようがないのだ。 『眼鏡をかけていますか?』  魔神は眼鏡フェチなんだろうか? (問いに対して、)いいえ。 『あなたの近くに住んでいる人ですか?』  正直、『近く』という言葉の定義次第だろうとは思うが、まあ、あの喫茶店から出て来たのだから、近所に住んでいるという解釈でだいたい間違いはないだろう。 『その人は目つきが悪いですか?』  その質問を見たとき、少し思い当たる節があって、さっき撮った写真を拡大してみた。男の目のあたりを比べてみると、たしかに鋭くて吊り上がった狐目が特徴的だった。 『どちらかというと暗い雰囲気ですか?』  彼女といたときの彼からは、──無表情気味ではあったけれど──どこか人格に欠損のあるような後ろ暗さを持っている感じはなかった。そして彼女もそんな奴を選ぶほど落ちぶれてはいないはずなんだろうって、そう信じたいだけだった。 『その人は、あなたの大切な人の横にいますか?』  魔神はなぜこんなにも意地悪で、絶望を促すようなことで僕を揺さぶるのだろう。好きになったのに、好きになれなかったという屈辱的な現実に死にたくなるけれど、しかしそれは厳然たる事実を示しているに過ぎなかった。彼女は好きになりたかった大切な人で、その傍にあの憎き男がいたのだ。それは僕の目が捉えた紛れもない、正しいことなんだと、再び絶望の淵に突き落とされた気分だった。  そして、それが最後の質問だったようだ。僕は、魔神の考える姿を見て、この魔神は電子空間上の存在だから感情の正負もないし誰かの悪意も感じないはずなのにどうしてこんなに「悪意」の姿が見え隠れするのだろう、と訝しんだ。  数分の後、やはり僕の知らない男の名が画面に表示される。彼女と同じように顔の画像はタップすることが可能となっていて、やはりこれも彼の個人情報を確認することが出来る。  男の名を知り、その��所や電話番号、学年やクラス(僕が知らないだけで、彼は同じ高校の同級生だった)、好きなものや嫌いなもの、所属する部活動、家族構成、果てには性的嗜好やバイタルデータ、その全てを知った時に覚える慄然とした気持ちを、僕は否定しようとした。  ──イマ、ボクハナニヲシヨウトシテル?  否定しようとした気持ちは間違いなく理性だった。しかし衝動はもはやあのサイトに出て来た魔神のコントロール下にあって、彼を罰せよ、彼を憎めよ、と原始的な生存本能でもって敵対する雄を蹴散らそうとする。なぜ魔神の制御を受けていると言えるのかというと、もはや今この場所に立っている自分は、あのサイトを見て行動を起こす前の失恋したときの自分とは、まるきり行動規範が違うからだ。いくら誰を否定しようとも、それを傷つけることを選ばなかった自分が、「復讐」の二文字さえ頭によぎるくらい、それくらい海より深く山より高い嫉妬に狂わされていた。  ──オイ、オマエノテキッテノハ、アイツラダロ?  内なる声のナビゲーションは、僕を路地裏への暗がりへと誘って、そのまま潜む。  ぐらぐらと実存が脅かされる音がする。魔神が把握していた位置情報によれば、彼女と男は、喫茶店から商店街を突き抜けるかと思いきや、そこから脇道に外れて、地元でも有名な治安の悪い通りへと進んでいった。  通りの悪評は、ネットで調べなくたって、この町では暗黙のうちに知れ渡っているところだ。路には吐き捨てられたガムと鳥の糞が交互に撒き散らされていて、使い捨てられたコンドームの箱であるとか、あるいは良く知らない外国産の薬のゴミ、タバコの吸い殻、そういったものがあちらこちらにあった。何度綺麗にしたってそうなるのだから、周囲の人々もほとんど諦めているに違いない、と僕は思っている。  ──大丈夫だ、僕にやましいことなど何一つない。  そんなステートメントとは裏腹に、やましいことだらけの僕が足を進めた。  辺りは灯も少なくて、闇の青さがすぅっと浮かび上がっているのだ。その青さが、心霊現象すら思わせるくらい非人間的な冷たさを含んでいて、僕はまだ秋にもなっていないのになぜか背筋が凍るように寒かった。  慎重に、痰とかガムとか糞を踏まないように気を付けながら、彼女らの後ろをつける。もはや気づかれることが怖い、なんて地平はいつのまにか超えていた。もう、死ねない僕は幽霊になって足跡を残さずにどこにでも付いていければいいんじゃないかって、そのくらいのことはずっと考えていたのだから。  暗い路地の隙間から、一軒、また一軒と光が漏れ出しているのを僕は見た。藍色の中から浮かび上がるそれを神々しいと表現するのは、とても浅はかなことだ。なぜなら、その光は林立するラブホテルからラブホテルへとつながっていたのだから。  光を追えば、必ず彼女たちへと繋がった。それは、到底避けられないような類の天災に似ていた。月並みな表現だが、雷が落ちたときって、こんなにビリビリするものなのか、と雲一つない空に思うのだった。  そして、こんなときに限って、あの告白を断られたときに言われた台詞が思い浮かぶのだ。 「──……君って、なんで私のことが好きなの? だって、私は……君のこと、まったく知らないし、興味もないのに」  知らないわけないだろう、と思っていた。彼女のことなら何でも知っていると勘違いして告白して、そして彼女のことを全て知ることが出来たと錯覚した今もまだ、勘違いしている。きっと僕がストーカーだと彼女が知ったなら、それはそれで彼女はゾッとするだろうが、何よりそのときに僕に向けられるであろう視線で僕は瞬間冷凍されるだろうと思った。一方通行の愛でもない、まがいものを見るような顔をするだろう……、ふたりとも。  しかし、歩き出した足は止まろうともしなかった。もう、これは魔神のせいなんかではない。自らの本能が、それでも自らの愛を受け入れなかった彼女らに罰を与えんとしているのだ。  汚れっちまった悲しみに、なすところもなく日は暮れるのだ。何も生まないことは知っている。  彼の背中を目がけて、一気に距離を詰め、家から持ち出した果物ナイフを何度も突き刺す、何度も突き刺すのだ。一度じゃ、人は死なないから、念入りに、何度も刺すのを忘れずに。ついでに、目撃者となる彼女にも、そうした鋭い苦痛を分け与えてやる。誰かに返り血でバレたって構わないのだ。もはや復讐は目的であって手段でもあった。 『あなたが復讐したい相手はいますか?』  魔神に問いかけられる声がして、ふとナイフを取り出す手が止まる。……そりゃあ、もちろん、殺してやりたいほどなんだ。それをなんだ、今更どうしたんだ、と僕は少し愚痴るような表情で心の中のランプに問いかけた。 『あなたは、相手があなたのことを知っていると思いますか?』  どうだろう。彼女が僕のことを知らないはずはない──覚えていないかもしれないが──、だから彼女から男へと「こんな情けない男がいたんだよ」くらいのことは伝わっているのかもしれない。答えは『部分的にそう』ってところだろうか。 『あなたは、相手があなたのしようとしていることを知っていると思いますか?』  そんなことはない! 僕は叫びたくなるのを抑えた。  死にたくなるほど惨めで飢えた獣が何をしたって構わないと思われているのかもしれないが、相手は僕のことを「覚えていない」とか言った奴なんだから、知らないに決まってるだろうよ! 『あなたは、相手のやろうとしていることを知っていますか?』  全く、ひとつとして知らない。それが答えで、特にそれ以上のこともない。大体、相手は間抜けにも復讐されて殺される側なんだから、これ以上彼女のことを考えるのは時間の無駄だ。  もう、さっさとめった刺しにしてやりたい。だが、魔神の声は質問が終わるまで僕を離してはくれないのだ。  魔神は、突然すっとぼけたような声でこんなことを問うた。 『あなたは、いま、幸せですか?』  幸せの定義にもよるだろうな、と僕は思った。そもそも、僕の周りにある大体のことは僕が不幸になるように出来ている。それを前提にして彼女や傍にいるクソ男を恨むという今の状況は、一面的に見れば幸せとは程遠い。しかし、反対から見てみれば、彼ら彼女らさえ消してしまったなら、恨まざるを得ない対象から解放されるのだから、それを幸福と呼ぶことだって僕は厭わない。  僕はそんなことでもって、結局『部分的にそう』としか答えられないのだった。  そして、それきり魔神の声は聞こえなくなった。  僕は、魔神が何をしたかったのかさっぱり分からなかったが、それを聞いたことによって、復讐をすることの意義であるとか正統な理由を獲得することに成功したのは確かだった。  まるで霧に包まれたかのように謎深き彼女のことも、あるいは隣で見せつけるように笑って彼女の手を繋いでいる男のことも、今では僕のスマホの中にある情報によって、地獄まで追いかけてやることすら可能だって、いったい誰が想像したんだろうね?  僕は人の悪い笑みを浮かべて、鞄から想像通りに果物ナイフを取り出す。そこから何十歩か歩めば、彼の背中に、満願叶って二度と消えない傷を刻めるのだ。その瞬間に僕はこの世で受けて来た耐え難い苦悩から逃れることができるし、くだらない集団から一抜けすることもできる。ああ、ようやくこの時が来たのだ! 晴れがましい気持ちで、すっかり夜になったこの町の空気を、一度だけ大きく肺に取り入れる。……少しだけ、煙草臭かった。  恐ろしい計画は、血飛沫で清々しく終わりたかった。だから、勢いをつけて、彼の背中へと突進する構えでもって飛び込んでいった。  ぐさり。  その擬音が生じたのは、彼の背中ではなく僕のお腹であった。瞬間、内臓の中を抉られるような深く鋭い痛みと、今にも沸騰しそうな血の熱さが僕の中を駆け巡る。  イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ──イタイ──イタイ…… 「お前がやろうとしてたことなんか、全部バレてんだよ。  知ってるだろ、このアプリ?」  男は、息絶えかけている僕にとても不快な微笑みを向け、スマホの画面を見せた。朦朧とする意識と、刺された衝撃でかけていたメガネが吹っ飛んだせいで弱まった視力でも、それは確かに分かった。『部分的にそう』なんて玉虫色の回答をするつもりもない。 「ああ、知っているよ」  魔神の顔は、俺を嗤うように口角が吊り上がっていた。思い返してみれば、さっきの声は警告だったのか? ……なんにせよ、全ては、あの魔神の掌の上で出来上がっていたことであって、きっと世界のシステムの中に仕組まれていたことだったのだ。  イタイイタイイタイ……イタイイタイ……タスケテ……イタイイタイイタイイタイイタイイタイ!  きっとこんな腐った路地じゃ、助けを呼んでも誰も来ない。おまけに僕は果物ナイフを持っていたから、仮に彼が罪に問われるとしても正当防衛として弁護されてしまうのだろう。  僕は意識を手放す前に、僕の中に現れた魔神に問いかけた。 『これは、僕が死ぬために仕組まれたことだったのか?』  答えは、なかった。答えるはずもなかった。これは憶測でしかないが、僕の中に魔神はいなかったのだ。あくまで、純粋な狂気が詰め合わされただけの自分を、あのサイトが後押ししただけだったのだ。  ああ、ああ、思考する能力がだんだんと弱まっていく……。  とある恋を葬るための赤い噴水が、僕の身体から吹きあがるときに──、白いサザンカが彼岸に揺れているのを見た。  その花言葉は、『あなたは私の愛を退ける』。
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find-u-ku323 · 4 years
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『ゴールデン・システム』
 国際線のアナウンスは流れるように甘美な響きで、次のフライトの搭乗口、搭乗時刻、その他に数えるほどの注意事項を伝えた。しかし、ターミナルを歩き回って土産物を探したり、あるいは思い思いに別のフライトを待つ人々にはさほど重要そうな情報でないらしく、彼らはまるで町の中で興味のない商品の広告を目にしたときみたいに意識から流して歩いた。
 さほど着飾ってはいない、傍目から見ればむしろ素朴なチュニックを纏ったとある妊婦もまた、アナウンスには耳を傾けてはいなかった。むしろそれよりも重要で大切なことがある、といったような顔で、いや、これしかないといったような我が物顔で、人の波をすいすいとかき分けていく。
 渡航目的などを問われパスポートを見せるという形式上の入国審査を終え、彼女は税関審査へと向かった。申告用紙にひととおりの記入を済ませ、検査官にパスポート・購入品を記載した申告用紙を見せる。
「失礼します、こちらですね……」
 検査官は手慣れた様子で用紙を一通り確認し、流れ作業の要領で荷物と照らし合わせていく。
 近年、こ���国でも密輸対策の徹底に伴って出入国時の税関における検査体制は強化されている。そのため、少しでも不審な���があれば、検査官の裁量によって手荷物の検査を行える体制が整っている。しかし、この検査官は一抹の違和感も覚えないままに彼女を通してしまった。
 もちろん、検査官にとっては彼女だって混雑した帰着便のなかの一乗客に過ぎないし、そもそも、その検査官は他人に容赦なく疑いの目を向けるほど成熟した人間でもなかった。
 一応、他の検査官も横についていて、本当にその記入内容と手荷物の大きさ・値段・種別が合致しているのか、違法なものを持ち込んではいないか、そういったチェックがなされてはいるのだが、前の検査官がチェックしたものに対して信頼を表さなければいけないという暗黙の了解が組織の中に蔓延していた場合、もしくは検査官のなかで職業意識が著しく低く、「前の人がチェックしているから大丈夫だろう」という検査態度で臨んでいる場合には、そういったチェックが正常に働くことは期待できない。しかも、いくつかの便から多数の乗客が乗り降りしたときには、検査官だけでは所持物の内容を正確にチェックすることが出来ないという諦念が検査官にもあるらしかった。
 いずれにせよ、適当なチェックを済ませた検査官は彼らの視線から半ば追いやるようにして次の帰国者を呼び寄せ、彼女は押し出されるように検査場を出た。そうやっても給料は出るわけだから楽だろうな、なんて同僚から思われているのを気にしないふりをするくらいには、彼らも小心者に変わりはないだろう。
 それから彼女は、わざわざ空港の中でひときわ異国風な飲食店に入り、そこでスパイスのよく効いている、とメニューに書かれていたカレーを食べた。店内では、妊婦であるからだろうか、事あるごとに店員や客から気を使われていたようだったが、それを彼女は少し嫌がる素振りを見せつつやんわりと断っていた。どうやら、ひとりになりたくてここを飛び立つようだ、と誰もが分かったらしく、それからは誰も声をかけようとはしなかった。
 黙々と辛そうな色をしたカレーを口に放り込むその姿は、見る者にどこか妖艶さすら感じさせる。見た目の問題ではないのだ。醸し出す雰囲気や目線の行く先、顔にうっすら浮かぶ汗などを見ていると、嫌でも誘惑されているような気分になるはずだ。しかし、それらは不思議と厭らしくない。
 フィクションの中に出てくるどんな人物よりも、何も語らないのに、そして周りも何を知り得ているわけでもないのに、神聖さの塊であるかのような視線を向けられている。
 また、次のフライトを知らせるアナウンスが鳴り響くのを皆が聞いて、そして聞かなかった。そのような形で、店内にいる数名の客のほかには、彼女に特別な視線を捧げている者はいなかった。まるで風のように立ち去ることがマナーであるとでも言いたげな様子で、濃く塗られた唇から「ごちそうさま」とつぶやかれた言葉が会計をした店員に放たれる。誰も彼女の行く末を知らないし、彼女が世界に対して犯した小さくて大きな罪のこともまた、知らなかった。
 舌なめずりして、ぴょんと店を飛び出る様子は、黒猫の如く、罪に対して軽やかなステップだった。
 
「彼女にとっちゃ、金儲けの道具になるにしてもそれが何であろうと重要じゃなかったでしょうね。だけど、これは取り締まる側からしたらマクガフィンなんかじゃない。規制しなきゃいけないもの、それも探せば見つかったことを、なぜ分からなかったなどと言い張るのか、私には理解できませんね」
 一息、早口でその台詞を言いきったのは、N空港税関長のKという男だった。彼は、別の空港で二十年以上にわたる実地経験を持つベテランの検査官でもある。それ故、今回の金塊密輸を見逃した失態を叱責する彼の声は苛烈さを増すのだった。
 しかしこれはKの負け惜しみでもあった。昇格のために積み重ねたキャリアに傷が付くことで、彼の自尊心も同じように傷つけられたということを、皮肉にも彼は部下に悟られてしまった。
 蛍光灯の青白く不健康そうな光、怒号が飛ばない間の静寂、腕につけたエンブレムの絵柄。勇ましい言葉で飾り立てられた職責の割に待遇の良くない職業を選んでしまったことを後悔する者もいた。一度のミスが国民の命を脅かす仕事だと分かっているからこそ、そのチェックを阻害するような仕組みがずっと受け継がれているのはおかしい、と憤慨する者もいた。
 そして、そのとき検査に当たっていた職員が皆の気もちを代弁するように、そしてKに反論する形で、吠えた。
「お言葉ですが、複数便から入国者が大量に流入しているという状況の中で、現在の体制で余裕のあるチェックが出来るでしょうか。以前、この税関でチェック漏れがあった際にKさんは『多重チェックの徹底、もう一重のチェックをかけるべきだ』と仰っていて、それで現在のようなトリプルチェックになったんです」
 Kは黙ってその主張を聞いている。決して首を縦にも横にも振ることはないが、それが誰に対しても平等な公平性を示す素振りだとは限らなかった。その間もKの言葉は続いている。
「しかし、『多重チェックの罠』、Kさんならご存知じゃありませんか。
 つまり、チェックを大人数でやればやるほど正確性は下がり、誰かが正確に見ていてくれるだろうという意識が無意識下にでも芽生えてしまう、そんな結果が心理学の実験で出ているそうですよ。私、こう見えても学生時代は心理学を専攻しておりましたから。……どう思われますか?」
 最後まで聞き終えたKの冷静沈着な態度と、最後まで語り終えた職員の息を切らした様は、驚くほどに対照的だった。
「そうだね、最後まで話を聞いたから、私にはその問いに答える義務がある」
 癖っ毛を弄んで、少々のことでは動じないような飄々とした態度でもって考え込んでいるフリをしたKの姿は、しかしあの金塊を腹に巻いて堂々と税関を抜けたあの女と同じくらいに不気味な不透明さに包まれているように職員の目には映った。
「しかし、君や君たちの不都合をシステムのせいにされてしまっては、困りましたね」
「何を言っているんですか。どう考えても、システムによってもたらされたエラーなのですから、改善を求めるのは不自然なことじゃないでしょう」職員はすぐさま自己弁護と反論を抱き合わせて主張した。そうしなければ、その場に居なかった人間に自分の立たされた状況を勘案されないままに自分自身を否定されてしまうことが分かりきっていたからだ。
「システムを使うのは人間なんです。人間が自覚的であれば、それだけシステムの素晴らしさが引き立つのであって、はっきり言ってしまいますが、無能が使ってもシステムは正常に動作しないことくらい、分かってるでしょう?」
 鋭く便利な言葉で、簡単に反論を跳ね除けたかのように見えて、Kが戸惑っているのが職員には分かった。
「ミスがあるたびにチェックリストやチェック体制を増やしていったのはそちらでしょう。それによって起こったミスの増加や業務の非効率化をこちらになすりつけるのは、お門違いですよね」
「チェック体制を増築しても正確度が上がらないのは、単なる甘えであって、そちらで創意工夫してもらわなければ困るという話をしているんです」
「そんなことで解決しているなら、今頃こんなことでくだらない討論をすることもないでしょうけどね」
 こうした応酬のあとも両者は一歩も引かず、互いに皮肉を述べ合っては罵った。その人間臭い言葉の交換は、聞くものの間では、空港に響くアナウンスの優雅さとは真反対のものとして理解されていた。
 システムと人間の関係性が複雑だということ、責任を押し付け合うこと、多重チェックが無意味なこと、国を守るという壮大そうで実際は個人的な部分に収斂されそうなこと、女が金塊を盗んだときの心情、そんな手にあまるほどの諸々の事象がマクロとミクロがごちゃまぜになった時代をどれくらい反映しているのかは、きっと誰にも分からない。
 ただ皆、これだけは分かっていた──今頃、外は夕闇に航空障害灯が点いている藍色の街が広がるN市の、こちらにももたらされるほど涼しげな空気が、金塊を盗んで高笑いするあの女のほうに緩やかに吹いているだけ。きっとそんなことは彼らにはどうしようもない話なのに、その周縁の議論だけが延々と続いて、結果的に、きっと今度の仕事はクアドラプルチェックにでもなるんだろうな、とその場にいた誰もが思った。そして、それに反論するほどの気力が残っていないことも。
 悪意には多段階チェックも責任の分散も効きやしないのに、と誰かが呟く声が闇の中に消えていくのを、誰かが聞いた。
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find-u-ku323 · 4 years
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『アマビエを飼うための、たったひとつの決心』
 アパートの一室に、私より少しだけ小さくて異様な同居人がいる。窓を開けると眩しがり、窓を閉めると寂しがる、そんな面倒臭い性格をしているが、とりあえず水につけておいて頭を撫でてやると機嫌を直す。  昨日は夜遅くまで酒を飲み寝落ちしてしまっていたから、髪もボサボサだし何の支度もしていない。食器は辛うじて洗った痕跡が見られる。頭が痛くて動けそうになかったが、今日も出勤しなくちゃいけないから、黙って気を張って朝食の支度をする。  私たちの社会にウイルスが撒き散らされてから、半年はなんとか自分だけのためにオーダーメイドされた孤独に耐えることが可能だった。梅雨どきの前くらいにテレワークも解かれてからは職場でだけだが人と話すようになったし、そうじゃなくても旧知の友人たちとオンラインで飲み会をしたり、家で出来る楽しみで満足するように心がけていた。もともと、家にいてもそれなりにやっていける人だったから、いつまでも自粛生活で大丈夫なんじゃないかとすら錯覚できた。  しかし、秋口に入り涼しくなったころから、急に人恋しくなった。随分規制も緩くなったりして、人と会って話もいくらかしているし、誰かと会えなくたって心に不満足な部分はないのに。SNSを使っても、誰と話していても、それだけでは感じ取れない微細なところを私はなぜか知っていた。  なるほど、このウイルスはそういう人間らしい本能的な寂しさを私たちに本当の意味で思い知らせるためのものだったんだ、と妙に納得してしまった。  それで久しぶりに街に出て、人ごみが戻ってきた高架下の商店街に立ち入ってみた。目新しいものは、自粛期間中に出ていた安くて大量に入っているマスクと、タピオカミルクティーの店に貼られていた閉店を知らせる紙くらいのもので、正直つまらなく感じながらブラブラと歩いていた。  そんなとき、横目にちらりと見えた店の窓に、控えめに書いてあった文字に、冗談だろうと思いながら、本当だったらとんでもないことだろうな、なんて空想をつくりあげてみた。  『アマビエ、売ってます』。せいぜい、マスコットかキーホルダーが関の山だろう。私は電車のごうごうと走る音を真上に聞きながら、見送ろうと思って足を進めようとした。  だけど、なんとなく自分の部屋を思い返して、このまま生きて死ぬのはちょっと情けない孤独だな、かといって誰と添い遂げるなんてのも重いし、と考えた挙句に、入るだけなら、と軽い気持ちで店に入っていった。 「ごめんください」 「いらっしゃいませ」  感じの良い、眼鏡をかけた店員が出て来た。声や訛り、顔つきを見るに、このあたりの人ではなさそうだ、と私は変な推測を立てた。  店の中を歩き回ってみたが、目的のそれが見つかる気配もない。もしや、アマビエを売っているというのは私の壮大な見間違いで、本当はアマエビを売っているんじゃないかとすら考え、焦った勢いで店員に声をかけた。 「あの、『アマビエ』を売っていると書いてあったので来てみたんですが、それってどこにあるんですか」 「お客様、失礼ですが、後ろに立ってるのがそれですよ」  店員が指さしたのは、木彫りの形をしていて、色付けはまだなされていないような、そういうオブジェだった。私はてっきりこれをただの置物だと認識していたから、なんとなく緩慢な視線でもって見逃していたのだった。  なるほど、鮭を食べる熊と同じ部類の、重いだけのアレね、と、セールスをやんわりと断ろうとした私を、店員は少し低い声で引き止めようとした。 「ただのオブジェだったら、ウチでも売ろうとは思わないですよ」 「でも、見た目は店の前とかに置かれてる人形と一緒に見えますが」 「ちゃんと呼びかけに反応するんですよ。ほら、アマビエ」  癖っ毛がぴこぴこ揺れている彼の声に反応するかのように、アマビエもまた自然な形でぴこぴこと揺れながらこちらに向かってくる。私には到底ありえない光景に見えたが、しかし実際にそれは起こっていた。  奇妙なフォルムをしている。噂には聞いていたが、魚のでっぷりとした胴体に──愛らしいと思えないこともないが──どことなく変な顔つきで、実体にしてみるとそんなにかわいらしいわけでもないようだった。 「どういうしかけで動いてるんですか」 「私も分からないんですよ、それが。こういうことになる以前に輸入したんですが、説明書も何もついてなくて、ただ、来たお客さんには割と懐いているし、耳をすませばモーター音らしいのも聞こえるんで、たぶん機械仕掛けだろうと思うんです」  そういうと、店員は私にその機械音を聞かせようとしたのか、しばらく黙りこくったが、私の耳が悪いのか、そういう音は聞こえなかった。  でも、それもどうでもいいことだ。どうせ買わないし、興味本位で見ただけのこと。さっさと離れていけば、次第に関心も薄れていくはず……。 「あっ、こら、アマビエ! 離れろ!」  平均から見ればほんの少しだけ小柄な男が必死で木彫りの大きな「生き物」を止める様は、正直、ちょっと滑稽だった。しかし彼が止めてくれなければ、私があのアマビエに押し倒されていただろうから、笑うのはちょっと酷だと思い直した。  アマビエは結局、私のほうにしがみつくのを辞めようとしなかった。それで呆れたように店員は笑い、「お買い上げになりますか?」なんて呑気に言うのだった。 「冗談じゃないですよ、私、アパートに住んでるんでそんな大きいの連れて帰れないし、だいいち私の力じゃ重くて運べやしないですよ。それに、高いでしょうし」私は思いつく限りの反対意見を述べて、この奇妙な神の遣いを押し付けられるのを拒んだ。 「鳴き声もしないし見た目にしては軽い部類ですから。運搬に関しては、うち配送もやってるんで問題ないと思います。お値段は、……仰る通り高いですが、分割もできますよ」 「おいくらでして」 「二十万円でございます。分割二十回払いでいかがでしょう」  大きな買い物をするのに、こんな軽いノリでいいのだろうか。いやしかし、ペット不可のつまらない部屋に「モノ」扱いで半ば生き物みたいなものがいとも容易く連れてこられることを考えれば、犬や猫よりもコストはかからないのか。  そう思ったとき、見つめ返してくるアマビエの目線がぐっと煌めいて見えた。いつも見るときは横顔ばかりで正面からまじまじと目線を向けることはなかったので、なんか印象が全然違うし、思ったよりもキュートじゃない。しかしその見た目の不気味さのせいで、逆に自分好みな神秘さを持っているようにも見えた。 「……買い、ま、す」 「ありがとうございます。それじゃ、お会計しましょうか」  ──言ってしまった。  なんで私はこうもやすやすと口車に乗ってしまうのだろう。そういう具合で、アマビエを買った日のこと、電車に乗って家に帰る過程については、本当に買うまでのことしか覚えていない。その要因は恐らく、人恋しさに負けて、いらないオブジェを買ってしまったという圧倒的な敗北感である。  それからちょうど一週間後のよく晴れた有給休暇の水曜日、宅配のお兄さんがとても重そうに「それ」を届けてくれた。ダンボール箱の中に何重にも梱包されていて、ご丁寧に「アマビエとの付き合い方」という冊子も同梱されていた。  手書きで製本されているらしい「アマビエとの付き合い方」によれば、アマビエとは人魚のようなもので、つねに水辺を好むが、風呂桶に水を貯めて一定時間浸からせておくなどすれば十分だという。鳴かないかわりに、感情表現は身体を震わせることで行うらしいが、書かれているコミュニケーションの種類が細かすぎて違いが私には分からなかった。なにより、一番不思議だったのは、餌が納豆であるということだった。一応、魚なのに。  何はともあれ、思ったよりも部屋への収まりが良かったことに私は安心した。私より頭ひとつ分背が低くて、普通にしていれば決して目線がかちあうことはない。私が目を合わせようとした時だけ、アマビエのほうも目を動かしてくれる。こういう一方通行に見えて互いに取り合うコミュニケーションができる存在を私は求めていたようだった。  アマビエと暮らす生活は、そういうわけで、いくつかのことをちゃんとこなしてさえいれば心地よいものだった。散歩もしなくていいし、仕事から帰ってきたら玄関の前で待っていてくれる。一日一度の水浴びをさせておけば、身体はすぐに清潔になる。  ただ、一日三食の納豆を用意するのは、私にとってはすごく骨の折れることだった。 「うぇえ……」  呻き声が一人(と一匹)の部屋から聞こえてくる。アマビエは鳴かないから、もちろん私のものだ���  私は納豆があまり好きではない。あの香りや粘り気、風味が全く受け入れられないのに加えて、食べた後にパックの後処理をしなくてはいけないのも良くない要素だ。子供の頃に、父に無理やり食わされてからはもはやトラウマの域ですらある。  そんな忌まわしい納豆を、三日おきにスーパーへ行って律儀に三パック入を三つを買っていくのが、日々のルーティンだった。  安っぽい有線、夕暮れ時に主婦たちが今日からの食卓に並べるべきものを見繕う様、ときどき子どもたちの声が混じるのを聞くと、なんだか元の世界に戻れた気がする。しかし、目を凝らして見てみれば、並んでいる列はしっかり距離をあけているし、以前のような試食コーナーなんて一切見かけなくなってしまった。些細な変化に見えるけど、小さなことでも大きな変化を巻き起こすバタフライ・エフェクトにだってなりかねないんだ、って思ったりした。  自分のご飯のために集めたかごの中に、目当ての納豆をきっちり三つ入れていく。これがせめてイカの塩辛とかチータラとか、もっと酒のつまみになりそうなものだったなら、と思わないでもない。  ソーシャルディスタンスを守った人びとの列に並びながら会計を待つ間、ふと、アマビエはひとりのときって何をして過ごしているんだろうか、と不思議に思った。  実家の犬は、私とふたりきりになったときはゲージの中で死んだように眠っていたし、あるいは昔付き合っていた男の子が飼っていた猫はじっとしないでひょこひょことあちらそちらを駆け回っていた。しかしアマビエはあくまで陸に上がれるだけの人魚(らしきもの)であり、一人のときはどんな風に時間を潰しているのか、主人の帰りを待ちわびるだけなのだろうか、と疑問に思ってしまって、もうレジが空いているのを、後ろの人が私の肩を叩いて知らせてくれるまで気がつかなかった。  そうか、なるほど。私は、私だけが孤独だと思っていた。もし私が本当にアマビエを「モノ」として見ていたのなら絶対に気が付かないことだったと思う。  いや、きっとアマビエは「モノ」に違いないのだ。あれは生き物らしくないし、意思もそこまで持っているような素振りを見せない。店員が言っていたような、ちょっとぜんまい仕掛けのような音も聞こえるようになってきた。  それでも、私は家にアマビエを飼い始めたときから、きっと違う愛情のような、私には似合わない心の機微が動き出したのだ。  とぼとぼと歩く帰り道、そして自分のご飯、苦手だったはずの納豆を用意するとき、その間じゅうずっと、私が抱えていた本当の孤独を考え込んでいた。それは、ウイルスが作り上げた外的な孤独なんかじゃない。自分の中に潜んでいた寂しがりの自分が、ウイルスで社会から切り離されて、目の前に転がり込んだアマビエによって露にされただけだったんだ、そう思ったときに堰を切ったように涙が溢れそうになった。  そのとき、私のほうに駆け寄ってくれた音がした。別に私を抱き寄せてくれるわけでも、温もりをくれるわけでもないし、言葉のひとつもくれやしない。ただ、視線を向けるだけ。だけど、私はそれでゆっくりと自分が作り上げた孤独の氷を溶かすことが出来た。  ごちゃごちゃと細かいゴミの散らばった、掃除もろくにしていないような部屋を見渡す。狭いし、暗いし、日々は辛いことばかりだ。それはアマビエがいたっていなくたって変わらないけど、ちょっとだけ、ほんの少しだけ、自分が抱えていたものを吐き出すことができそうだと思った。  元の世界に戻ることは出来ないくらい、私も随分と変わってしまった。そして、そのことに絶望している暇もなかった。今は違う。アマビエが私の立っている現実を残酷なまでに視認させたから、自分がどうしようもなく孤独だ、という絶望からはじめられる。
 元々の伝承におけるアマビエは、海からやってきて「病気が流行したら、自分の姿を描いて人々に見せよ」と人びとに伝えていたらしい。これは私の推測でしかないのだが、きっとあの店にあったアマビエの木彫りは、アマビエが自らの姿を見せた時に依頼したものなのではないか、と思っている。そして、その仮の姿にアマビエが入っているのだとしたら……。  ……うん、こんな童話のようなことを思いつくってことは、やっぱり疲れているのだ。  いつものように、納豆のパックを水で流した後、歯を磨いて眠ろう。そうやって、自分のやるべきことを丁寧にこなしていく他に、孤独をほどく方法はない。それに、目覚めたら横でただ木彫りのアマビエが笑っているのだから、何の心配もいらない。
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find-u-ku323 · 4 years
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『黒く焦げて』
 馴染みの魚屋に行って、旬の秋刀魚を買った。「よく脂がのっているのが、表面を見ただけで分かるだろ」と、人の気も知らないで大きな声で笑いながらその店の主人が言っていたのを、私は聞き流した。  好みの味ではなさそうだった、脂の過剰な魚。このままじゃあ食べられないから、上質な七輪と炭、それに安くていいから酒を買うべきだった。ああ、きっとそうなるだろう、と思っている自分の思考とは裏腹に、なぜか足は重かった。  ホームセンターへ行く道すがら、一羽の烏を見つけた。何も考えず、カー、カー、と呑気なように歩いている。翼があるのに歩いている。ひとつの悩みもなさそうで、私には羨望を抱かせるだけだったのだが、なぜか私は彼から目を離すことができなかった。  やがてその黒いのは横断歩道を渡るのがばからしくなったのか、そのままひょいと電線に止まってみせたと思うと、また威嚇するような声で鳴くのだった。たぶん、またすぐ飽きて地面に降りては人間と戯れて、それからもう一度電線の方へと戻っていくのだろうと、私は推測した。  たぶん、ああいう風に自然のうちに生き延びている烏たちは、間違いなく自分よりも世渡りというものが上手なのだろう。だから、彼らは神様の手で、全てのことがやり過ごせる能力の代償として真っ黒で醜い見た目にされてしまったのだろうと思った。だけど、私は思うのだ。全員が醜ければ、それでいいじゃないか──と。  人間となれば、醜いか美しいかという二極だけで正しさが決まるのだから、生きるのには大変な力が必要だ。それだけで、いわれのないことで罵られたり、また逆に称賛されるのが、この世界の常だった。自分でそれを受け入れたところで、それがどうなるという話でもなく、ただただ開き直っただけではどうにもならなさそうだった。  信号が青になっても、私の足はちっとも動かなかった。それで、進もうとした誰かに背中を押されて、聞こえるように舌打ちをされて、それで流されるように歩き出した。  ホームセンターでそこそこいい値段のする七輪と、燃料となる練炭を、さらにコンビニに行って梅や塩のおにぎりや缶チューハイも買った。どれもこれも別にいま思いついたことじゃないってのに、袋はいつにも増して重く感じた。  空は高く、また暮れて染まり、紅葉がかさりかさりと揺れるのを聞けば、自分にはもったいない景色だと感じられるのだ。その赤を重ね合わせてしまい、膝小僧から血を流して泣いていた清らかな少年時代のことを思い出して、少し辛くなる。  自分の身体は、記憶は、勝手に自分の住んでいる家に辿り着かせる。すぐには思い出せないくらいの額がローンとしてこれから何十年も待ち受けている我が家だ。そして、そんなことを気にせずにくつろげる、久しぶりの我が家でもあった。 「ただいま」 「おかえり」  いま、その落ち着いた声には似つかわしくない小さな身体を抱きしめてみる。制服はまだまだシワも少なく、使い込まれていない感じさえする。しかし、手触りを味わうのではなく、すぐに接吻に移ったのは、私か彼かどちらかの若さ故だったのだと思う。それで、スーツが似合わない私のことを、彼が「そういうところもいいですよね」と言ってくれた夜のことを思い出した。  身体すべてで知ろうとするとき、感覚は他のすべてのことを想定に入れないし、忘れるようにプログラミングされている。まして、今日のような数少ない逢瀬のときなどは、これはもう仕方のないことだった。 「あの、康介さん、さすがにっ、魚を冷蔵庫に入れとかないと、腐っちゃいますよ、あっ……」  耳元で甘い声を囁く彼の声で少しはっとさせられたのも、まあ、自分の感覚が集中しているからだった。そこから見えないものは全て捨象されていて、目の前から目的のものが見えなくなる時もしばしばある。  いつになく自分が焦るのを抑えようと、私は彼に少し待ってもらうように言って、それからベランダで一服した。  残業なんてのをこなした後に味わう快楽が全て愛おしい。インモラルということを度外視させるほど愛おしい。破滅的であればあるほど、それが私にとってはこの世界に二つとない幸せのシャワーとなった。  浴びれば浴びるほど、温まるのはなんだろうか。火を点けた七輪がふつふつと温度を上げるのを想像するだけで、少しぞくりとした。 「勇太君、終わったかい」 「なんとか、残りひとつだけ高すぎて貼れてないんですけど」 「ん、任せろ」  踏み台に乗って背伸びをしても届かない彼の姿が、いつもに増して素直な可愛さに溢れていた。それで私は彼を助けるために、彼の軽くて小さな身体を持ち上げてやって、目を合わせて最後のガムテープを貼ってやった。  ──息子がいたらきっとこういう感じで過ごしていたんだろうけど、勇太君を、いまは息子なんて呼べる関係だったと仮定したくはないな。  余裕のない男の顔は彼にどう思われているのか、そんなことばかり考えているので、彼はどうにも不思議そうな顔をしてこちらの目を覗こうとした。私はそれに耐えられず、顔を反らして赤らめているのがちょうど窓から射す鋭い光に突き刺さった。  今度の夜伽はずいぶん永くなりそうだったから少し惜しいような気さえして、言葉を交わさずにいたのを、彼が見透かしていると私は思った。 「……食べましょうか」  言葉のはじめの一音に息が少し漏れるような音が含まれていた。冷蔵庫の扉を開けると、やけに無機質で不健康そうな真っ白さが出迎える。実際、彼が来るまでのこの頃はカロリー過多で不健康な冷凍食品ばかり食べていたから、こんな贅沢な食事を取れるならなんだってよかった。  そこから取り出した秋刀魚は、いくらか不格好なものもあったが、大抵は先もいった通りに脂ぎったふくよかなものばかりだった。それを見た彼は、ふとこう呟くのだ。 「魚にも、美しいとかブサイクとか、そういう概念ってあるんだろうか、って」 「そりゃ、あるだろうね。もっとも、魚が見通してるそれと、人間が勝手に人間の都合でブサイクだと決めつけるのは違うから、なんともいえないけど」 「この世の中、絶対に美しいとか、そうじゃないとか、全然そんなのないですね。やっぱり、今日はこれでよかったなあ」 「どうしたんだよ、急に。何かしらが起こってまた食べることになるかもしれんのに」  私が軽い調子でそう言い返したが、瞬時に、ああ、まずいことを言ったと思った。魚は相変わらず白い目をしてこちらをじっと睨んだまま、私たちに食べられるときをただ待っている。 「……もう二度と食べたくないから、思い返してるだけです」  真っすぐな言葉で返すことは、私には簡単じゃなかった。思えば、今日ここに至るまで、ずっと彼と私の距離感は詰まることはなく、互いに自分の守る最低限のものが抱えられていた。  引き出しから出してきたチャッカマンを持ち出し、ほんの少し脳裏に沸いた破壊衝動の蛆虫を追い払って、買ってきた七輪に練炭をセッティングしたところに火を点けていく。 「別に、秋刀魚を食べる必要はないけどな。ただ、腹が減ってる状態ではなんとなく後悔しそうだったからさ──ほら、おにぎりも買ってきたし」 「塩、いいですか」 「じゃあ梅を貰おうか」  静かに、粛々と進む晩餐の支度。いつのまにか、空には月がのぼって冷たい光が降って来た。最後まで起きていられないから、こうやって目に刻まれるものが鮮烈さを増すのだ。私はそれを尊く思ったりするけれど、果たして制服を着崩して緩やかな格好をした彼はどうなのだろうか。 「思ったより、全然ですね」 「ちゃんと閉めたか」 「ええ、もちろん」  魚がいい具合に焼けるのを見て、私は一匹目を皿に乗せ、それにかぶりつく。うん、やはりもう少し身は締まっていた方がいい。自分が買ってきた魚に自分で文句をつけている滑稽さに軽く笑いすら出そうだ。  虚ろなこの家のその虚構性を増すために、電気を極力限点けないでいたが、七輪に燃ゆる火を見ていればそれも全然平気だった。 「おいしいですね」 「……ああ、そうだな」  彼の笑顔に、ありえたはずの正しかろう形を見出すことがやめられない。願わくば、彼がもう少し後に、そしてもう少し関係性の軸が離れていたとすれば少しはマシな形を遂げられたかもしれないのに。  それで、今の二人を妻が見たらどういう表情をするのだろうか、という憂鬱と悦楽の交じったようなテーゼを考えてみたりする。二人がそれなりに、世間一般で言う『普通』にしていたら、それで別に疑われるような目つきをされることは、きっと、決してないはずなんだ。だけど、もう『普通』のフリが出来そうにないから、ここにいる。  ゆらゆらと揺らめく仄かな橙を見つめているだけで心の波間が鎮まっていくのが分かる。よくキャンプ場で焚火を囲むのはたぶんそういう理屈からだろうな、と、私はくだらないことを考えていた。 「もっとうまくやれていたら、とか、もっといい顔だったら、ってずっと思ってる。……まあ、そうだとして、運が良かったと思っていたことも、結局最後にはひっくり返るから全部いらなかったな」 「大人の人も、そんなことを思うんですね」 「そりゃあ、子供の延長線上が大人なんだから、思わないわけないんだよ」  火を囲んで喋っていると、その色の暖かみが持つ性質のせいで普通に眠くなる。 「だとしたら、僕は『大人』になることが出来たんですかね」  言葉が過去形だったのが、きょう限りという一回性の会話の特性を思い出させていた。そして、その言葉を受け止めきれるほど、自分のこころが強いわけではなかったのも分かった。 「……少しだけ近くに来てはくれないか」 「いやです」 「なんでだ」 「だって、康介さんのほうから近くに来てくれたこと、一度もなかったじゃないですか」  言葉が万能じゃないって分かっていても、すぐにすべての表現から違和感を察すことが出来るくらいには、私も鈍感じゃなかった。  すれ違っていたのは、自分が、自分だけが『悩んでいる大人』のロールプレイをしていたからだったなんて、なんでこんなときに思い出すのか、分からない。  そりゃあ、高校生なんだから、背伸びしたい気持ちくらいひとつやふたつはあるって知っていて、それでもなんで私は自分から彼を抱きしめてやることもできなかったんだろう。それが死に至るとしても求められているのなら、きっとそれは本当のことだ。  もう、だいぶん混濁した意識の中に、彼のことを空気として含ませてみる。もちろん、私のほうから。半径1メートルだって見えないけれど、確実に彼だってことは分かる。物の散らばりまくったこの部屋で、妻が決して立ち入ろうとはしなかったこの家で、最後の瞬間まで一緒に溶けたい。  だけど、意識を手放した瞬間の一秒まで、不思議なことに、まったくもって心の踏ん切りは付かなかった。    それを原罪と呼ぶのなら、私が生きているのはその償い、だとしたら私は一生このまま息をするだけの存在と成り果てるのだろう、いま、白い天井を見るだけの空間でそう思う。  私に話しかけてくれる人はいないけれど、時たまやってくる看護師の『独り言』とか、あるいは医者連中のいうような話を聞いている限りでは、あの場所で真っ黒になった秋刀魚と、横たわったふたりが転がっているのを、たまたま帰って来ていた妻が見つけたらしい。  それからこの病室にとどまる日々だが、何一つ、そう何一つとして、考えることには不自由のない生活だ。もっとも、腕も足も動かすことなんて出来ないし、誰にもその思いのたけを吐き出すことすら不可能だが、そんなの今まで誰にも素直なことを答えてやろうなんて思ったこともないから、気になりもしなかった。  今となっては、私はただの消え損ないだった。恐らく彼はちゃんと死んだだろう。甘い関係であればあるほど、相手のことを深く思うがゆえに何も言いたくないときがあって、そういうときは大抵、うち捨てられた言葉の数々よりも行動のひとかけらの方が力をもっている。  本当に、言葉は無力だから、窓辺に揺れる冬枯れの樹々を見るだけで心が締め付けられるのに、それを彼に伝える言葉のひとつも出やしない。 「ローンも残ってたし、私ももうすぐ出産するのに、なんで」  わからずやの妻がいう。……いや、確かに自分勝手な愛のために捨てられないものを捨ててしまったから、責められるのは当たり前だ。それは、伝えられずとも素直に謝りたくて、��線でそう訴えかけてみるが、どうも行き違う。 「普通に生きてたら、楽しいこともあったのに、どうして」  咽び泣いたその女の横顔を覗く私の、内面に潜む孤独な本心はしかし、もはや黙ることはなかった。  ──生きていることを地獄だと思わない、『普通』に暮らしている人間には誰にも分からないだろうね。  植物人間の島宇宙を漂うスクラップのような思想を誰が分かろうか? 目の前にいるもはや他人のような存在が、それを受け入れるはずもない。ましてや、夢枕に彼が立ってくれるほど彼も未練深くはない。  一生をここで過ごすのならば、死ぬことすらできない。あの夜から、私の時計は止まったまま、後ろにも前にも針が動かせなくて、雁字搦めだ。  しかし、叶うのならば、あの少年と出会う前に戻って、真っ黒になる前に息をしたかった。きっと、本当はそれしかやりようがなかったと思うし、僕も彼もそのたったひとつの冴えたやり方でしか救われなかったんだ。  そう思ったとき、烏が嘲笑う声が聞こえた気がした。  ──ああ、生きているとはとても愚かなことさ!  私は、高い空に、かあ、かあ、と鳴らす音に、黙ったままそんなふうなことを叫び返した。
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find-u-ku323 · 4 years
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『寝落ちるな、ばーか』
 夢の中で、自分��彼女が語り合う声が聞こえている。部屋に漂うような甘い匂いは、意識を失う前に飲んだカルピスのせいか。 (あのさぁ、俺が隣で必死にレベル上げしてる最中に肩持たれて寝かかってんじゃねぇよ) (いいでしょ、別に。てか、トモヤこそ私と一緒にど◯森やってたときに寝てたじゃん) (あんときはお前も寝てたからおあいこだろ) (私寝てないし)  俺と彼女は忙しい合間を縫って、お互いの部屋を行き来する仲だ。忙しいから睡眠もろくに取れないのに、ついつい好きなゲームをしていたら夜中まで二人でいて、そのままどちらかが寝てしまうから、部屋に残されたもう片方が電気を消して眠るような、戦地の中の優しい週末、そんなひととき。  別に彼氏彼女の関係じゃない。かといって、男女の友情と簡単に片付けるのには凄く抵抗がある。  近づきたくても近づけないのは、彼女に好きな人がいると知ったときから。ゲームをしていても、たまに酒を飲んでつまみを作っていても、たまに彼女とその同級生とで小旅行をしてみても、脳裏にはいつでも彼女の仄暗い陰が目に染みている。 「……うぬ」  ふと物思いに耽ってしまったが、彼女の寝言がそんなネガティブ・シンキングを打ち消してくれる。だからといって、勝手に寝落ちて一人の世界に行っちゃうんじゃないよ、なんて何も気にせず声に出すほど俺は心が強いわけじゃない。  薄暗い部屋の外はひどく静かで、ただ雪が降っていた。この調子だったら、明日は一面に白銀の世界が広がっていて、電車だって止まるだろう。いっそのこと、後戻りできなくたっていいのに、と過ぎる夜を言い訳にした。
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find-u-ku323 · 4 years
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『留年』
「先週だったかに贈ってくれた珈琲豆、いい香りしてるな。僕好みの渋い奴を選んでもらって感謝してる。でも、そんなに時間があるなんて、上流階級もいいところだね?」  あからさまな嫌味を言われてしまって、俺は萎えている。 「お前、やれるのにサボっただけだね。親に学費払ってもらって留年とか、恥も知らないで何をしてるんだい」  君のいうことはとても正論だし、非情に聞こえるけど、とても真っ当な生き方をしている人の言葉だと思う。授業にも出ないし、家から出て大学に行くフリをしては適当な時間になったら帰る俺のことを世は『ナマケモノ』というだろう。なんなら、正直、ナマケモノのほうが(ずっと起きてるし)強い。  だけど、俺はそうまでして大学に籍を置く理由はいくつかある。学割は安いし、世間は学生ってだけで少しは同情して見てもらえる。院生になるには頭が足りないが、社会人になるには心が足りない俺には、この生活が似合っている。 「学費を払ってもらってるのは、もうとてもとても感謝だよ。そんなに事もなげに簡単に留年してるのは俺だって本意じゃないさ」 「そう思うなら早く卒業しなよ。何だよ、そんなにぬるま湯がいいのか」 「社会の冷たい海に飛び込むなんて冗談じゃない。俺はモラトリアムを享受したいし、どれくらいの批難を浴びようとも頑張りたいとは思わんな」 「そんなんだからクズって言われるんだろ? 早くこの前の三万円返せよ、まさかパチンコに溶かしたとか宣うわけないよな」  彼のことだから真面目に俺を心配してくれてるのはとても有り難いが、残念ながら彼の言う通りのことだ、ギャンブルと酒に金を溶かしてしまった。  だからといって俺は働きたくない。社会のお荷物生活がこんなに楽しく蜜を吸い続けられるのなら、今から社会の養分として吸い取られる暮らしは全く望んじゃいないのさ……。 「遺産があれば凌げるとか、良くないことを企んではいないな?」君は少し訝しんで言う、しかし、その目つきがとても俺に失礼だって何で分からないんだろうな。 「歳を取ったらそれに頼ったっていいだろうけどな。俺はそこまでリスクテイカーじゃない」 「自分が見えるところで誰かを打ちのめしてまで自分の幸せを追求したくはない、でも自分の見えないところだったら何をしたっていい、その魂胆が僕はとても嫌いだよ」  知った風なことをいう。だいたい、俺のことがそんなに軽蔑できる存在だったら、構わなくたっていいだろう、と思う。ただのゼミ仲間ってだけでこんなに執着されても俺は鬱陶しいだけだし。  ちらつく社会人の影を、君のスーツ姿から感じ取る。傍には小さなコップが置いてあって、珈琲か何かを淹れて飲んでいるようだった。 「それで、就活はどうよ。上手く行きそう?」 「なんで社会のことを妬んでるお前が、そんなに世俗に関心を持つのか僕には全く分からないけどな──ま、順調とも停滞とも程遠く、って感じだ」 「そんなことで勤め先は見つかるのかな、ゼミ長さんよお」  俺なりの皮肉を君は当たらないといった顔で受け流す。社会に対してこんなに嫉妬心を抱くようになった原因のお前と話していると、ちょっと腹が立ってくるくらいには面倒だ。 「ああ、そうだ。先生がお前に言いたいことがあるらしいから、お前から連絡しておけよ。面倒臭いだろうけど」 「は、マジかよ。あの人の話、めちゃくちゃ長い割に内容がないから聞きたくもないんだが。しかも俺に言いたいこととか、絶対に説教だろ」 「説教だろうな。留年を繰り返す教え子に言いたいことなんてまったくもってそれしかあり得ない」 「おま、俺、年上だぞ。ちょっとは敬えよ」俺は苛立って嫌味っぽく言った。 「はいはい、先輩。  ……正直、もう社会人になったら歳とか関係なくなるだろうし、むやみやたらに年上だからって尊敬するのもどうなのかなあと思って」 「少なくとも日本は年上だから尊敬するって図式が当てはまってきただろ? 俺はそれに従って生きているだけだ。文句は国民に言ってくれ」 「じゃあアンタも国民だから文句を言わせてもらうけど、さっさと卒業して就職して、ギャンブルからさっさと足を洗え。親が泣くぞ」  言いたいように言わせておけばすぐにこれだ、と思って俺から通話を切った。ビデオ通話というのは便利で、自分の言いたいことだけ言う人間の会話はすぐに切ることもできるし、いざとなれば着信拒否だって出来る。これがリアルの人間同士のコミュニケーションだったらそうは行かない。  俺は社会をミュートしてやりたい気分だ。  自分の姿が誰かにどう視られているかなんて正直どうでもいい。俺だけが世界で、俺だけが自分だ。そこに他人の判断が介入する余地もない。  三年前の叔父の通夜のときからずっと「働け」「大学を辞めろ」と親戚一同に詰められて生活しているこっちの身にもなってくれ、と先生に愚痴りたくもなった。誰が大学を卒業したら社会を支えなくてはならないなんて言ったんだ、支えるなんて俺はひとことも言ってないのにな。  ふとスマホを覗くと、先生からの不在着信が入っていて、隣の部屋に聞こえるくらいの音量で舌を鳴らした。窓からは隣のマンションの壁が見えるだけで、他は何も見えないから気晴らしにもならない。  どうせ応えてやらなきゃまたどやされるのは俺だって分かっているので、そのアドレスに電話をかけてやる。 「もしもし」 「お前、また留年する気か。裏表をコンプリートするやつなんか、うちのゼミでは初めて見たけどね。怒りとか呆れとか通り越して悟りの境地に入ってしまってしょうがないな」  いつもこんな調子で俺を心配するフリをして、その実、教授会で詰められるのが嫌だから早く卒業��てもらいたいらしい。そのためには追加のレポートも単位認定を甘くすることも厭わない人間だ。  俺は、この人に共感できる部分もある──人に怒られたくなかったり、言葉が上手くなかったりっていうところも見てるし、人間的に、やっぱりどうしても弱い。だけど、最終的には世間体を気にして、やっぱり俺を社会に放流しようとしてくる。 「あのな、川崎。別に大学で遊ぶなとか言ってるわけじゃないし、社会に出ろとあからさまに言っているわけでもない。だけどな、自由には義務と責任がセットなんだから、ちょっとは社会貢献というのをしたらどうなんだ」 「先生、ドロップアウトも自由ですけど、例えばこれって義務と責任は伴いますかね」  先生が少し悩んだふうな顔をするのは、まともな頭と小さな精神で考えているからだろうが、俺はそれを欺瞞と追及する前提で暮らしているから、どのような返答が来たって受け入れることは出来ないだろう。  俺は傍にあるコーヒーカップを持ち上げてみて、この重さは投げつけたら人が殺せそうだなと思ってしまうくらいには、根源的に人間不信が続いているのだと思う。  黒々とした液体がこの七年のことをずっと責めているように思うのは、腐った血みたいに見えるからだろうか。学生なら、少しは同情してもらいたいものだが──未達の殺意はそろそろ届くかな? 宅配の珈琲豆が待ち遠しい。 「ところで川崎、お前、五年の前の話になるらしいが、人を跳ねて逃げたらしいな。……それは、本当の話か? ──黙ってないで、なんとか言ったらどうなんだ、やったなら正直に言えばいいだけだ、怒らんから」  俺はまたその電話をぷつりと切って、ミュートにしてやった。  人の過去にやすやすと触れようとしているのなら、すぐに美味しい珈琲を飲ませてやるよ。すぐにその苦みに耐えられなくなってしまうだろうけどね……。
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find-u-ku323 · 4 years
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『痩せたいと言ったその口で』
 束の間の夕立を潜り抜けて帰るのは、水泳の授業の始めと終わりに集団で浴びるシャワーに似ている。 「おぉ、盛大に濡れて帰ってきたね」  扉を開けると、タオルを持ってきた大男がやってきて、俺の頭をワシワシと乾かしに来る。 「やめろよ、ヤマさんまで濡れちまうだろ」 「気にすんな。しっかり甘えとけ」  筋肉質な身体は、彼が先輩だったときから全く変わっていない。どうやって維持しているんだろう、という気持ちにさせられて、俺の純粋かつ青少年なメンタルを擽りながら焦らせる。 「俺もヤマさんみたいに細マッチョになりたいんだけどな」 「辞めとけ、だいたい体質が合わないから。水泳部の時だって、筋トレして泳いだらすぐに足つりやがったのを覚えてるんだけどな。……お前はヒョロいんだから、これくらいでいいんだよ」  腹や二の腕をつまみながらそう言うけれど、俺はそれこそがヤマさんの好みなんじゃないかと思っている。最後の一言が躊躇いがちだったから、すぐに分かった。 「素直に俺はこの体形が好みなんだって、言ってくれればいいのに」 「いいじゃないか、別に。それに、何だ、そういうのを言うのは、……単純に照れる」  そういう恥じらいを見せるのがヤマさんのいいところだと思っているからルームシェアを始めた、って部分は確かにある。  俺はそんな風に背中を丸ませる筋肉の岩をちらりと見ながら部屋を出て、汗と雨に濡れてしまったTシャツを脱いで洗濯機の中に放り込んでしまう。風呂の鏡に映るじっとりと蒸れた腹の膨らみは、部活に打ち込んでいた頃の引き締まった彫刻みたいな筋肉とは程遠い。自堕落の流れに流されたから、こんな感じになってしまった。  さすがに、ヤマさんの好みの体型だったとしても、限界はあるだろ、って俺も思う。  ……決めた。今日から食事も減らすし、筋トレもする。理想の体型になるためには、ジムに行くための手続きも厭わない。 「おーい、ケータロー、飯どうするよ?」 「米はいらない。おかずとサラダだけ作ってくれたら。ちょっと風邪引いたかもしれなくて、食欲がないんだ」 「……大丈夫か? お粥でもいいんだぞ」 「そういうのは別にいいって」  俺が炭水化物抜きで頑張ろうとしているところに間髪入れず誘惑を挟みこもうとしてくるとか、ヤマさん容赦なさすぎ。あの頃、体育会系の縦の関係だったときはあんなに厳しかったからかな、周りからも全然評判の良い先輩じゃなかったのに──それが今となっては毒牙を抜かれた感じの熊さん、って感じだもんなあ。  何がそうさせたかなんて全く分からないけど、そんな理由なんて気にならない。というか、気にならなくなるために自分が頑張らなくちゃいけないな、という気持ちが湧いてくる。 「当たり前のことだろうけどさ、酷い風邪でも働かなくちゃいかんのは、なんとなく辛いな」 「急にどうしたんです、ヤマさん」 「いや、なんとなく、だ……。ケータローが毎日残業続きで大変なことを俺はよく分かってるつもりだし、それにもかかわらず自分を追い込むことを俺は全く否定するつもりはないんだ。ただ、な」  ヤマさんが一呼吸置いたとき、轟々と音を立てる水の粒の響きがよく聞こえるような気がした。下手な飛び込みでもしたんだろうか、と思ってしまうくらい、バシャバシャと聞こえるその音が心地よい。 「自分を甘やかしたっていいじゃないか、生きるってそういうことだろ」  いつものように茶化して元気づける声とはどこか違っていて、とても優しくて虚ろに思えた。でもその割には全然、深刻な表情もしてないし答えを急かすような態度でもない。  ただ、その眼がとても俺に告白してきた日のそれと凄く似ていた。 「なんか、難しいっすね」 「まあ、身体を壊さないように、自分のやりたいようにやりゃいいだろ、って話だから。あんまり深く考えないでいいよ」  そうだった。ヤマさんは学生の頃から厳しいのは厳しかったけど、『無理して身体を壊されるなら部活に参加しない方が百倍マシだ』とか『タイムが伸びないのは自分のことを全く信用していないからだ』みたいなことを言う心配性のツンデレだった。それを思い出して、なんというか、確かに真剣に考えるのもちょっとバカバカしいような気がしてならなかった。  なのに、今までこんなにヤマさんのことを尊敬したことはないくらいに、惚れている。それは人間として一貫した信念を持っているから、という意識的な話を越えている。たぶん、ヤマさんと同じ感情を持っているから、こんなにモヤモヤした気持ちになるのだろう。 「やっぱ、白飯欲しいな。なんとなく風邪じゃないかもしれないと思うし」 「痩せたいと言ったその口で良く言うな。お前の分は炊いてない、とか言ったら?」 「めちゃくちゃ意地悪!」  ほかほかという擬音が似合いそうな白米がお椀に盛られると、俺は涎を垂らさんばかりに喜んだ。きっと目の前の彼には犬のような尻尾が見えてるだろうけど、俺はもう何も気にしない。  この関係が誰に言われても恥ずかしくない関係だから、今は堂々といちゃつきたいだけ。ありのままの俺を受け入れてくれるから、雨に降られたって大丈夫だ、と伝えたかっただけだった。その思いの前には、もう痩せる気とか失せちゃってるから。
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find-u-ku323 · 4 years
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エッセイ:好きなだけではやっていけない
 何だって「好き」の気持ちだけじゃやっていけないことに、ようやく気がついた。そうやって好きなものを好きだと思う気持ちだけで続けてきたことが破綻してきてる今は、特にそう思う。それは、好きなもののプラスの面だけを見ていたり、好きなことに付属する辛さが嫌だ、っていう逃避と何が違うのか、自分でも明確に言語化できないし、何なら逃避であってほしいと思う。でも、好きなものに直接的にコミットしようとした時に、どうしても感情が反対方向に振れてしまうようになっていた。好きだったはずのものに触れるのがとても憂鬱だった。
 私はテレビやラジオが好きだった。とりわけ、テレビっ子だった。昔の自分を親に言わせると、「CMが好きだった。アニメはあまり見なかったが」だそうだが。ニュース番組の真似をしたり、バラエティに出ている芸人の真似をしたり。最初の「好き」は真似から始まった。
 テレビについての演出論なんかを社会的なアプローチに結びつけながら戯れ始めたのは中学生の頃だった。それがどんなに未熟でつまらない論点であろうと、そこに真実のかけらが少しでもあればそれで良かった。愛はまだ遠くにあって、崇高なものだったから。
 少しずつ、少しずつ、その愛に直接触れるよう��なっていくと、愛の崇高さは日常の平穏に包まれ、消失する。しかし私たちには二種類の人間がいる。その愛を消化しまた昇華し、自らの原動力として稀代の困難にも立ち向かえる人間と、そんな愛をコントロール出来るほど器用ではなく、どうしてもその感情がオーバーフローした挙句愛のベクトルや量を間違えたり、愛の喪失を憂いてしまって幾つもの悩みを抱える人間である。私はどうしようもなく、昔から後者の人間だった。つまりは、崇拝向きの信者だった。
 私は趣味から仕事に向かう何歩か手前の段階でこの感情を自覚したが、恋愛と結婚の間にも同じことが言えるのかもしれない。というよりも、この話は恋愛と結婚の間にどうしても決定的な生活上・感情上の差異があることにヒントを得たのだが。
 何にせよ、私が下手なりに育んできた十数年の「好き」は重すぎて、また実用向きでなかったから、何も生産することが出来なかった。その自分にどうしても落胆してしまうからなのか、それとも本質的に心が崇拝できなくなるのか、私の「好き」はじわじわと、でもいつの間にか心の中から蒸発していったみたいだった。あんなに好きだったテレビをかき消すように、音楽を漁って聴くようになった。周りの好きだというテレビ番組やアニメの話題についていけなくなった。好きだったラジオ番組も今は聴いていない。私はそんなものの何が好きだと言えるのだろう。
 これは私の推測でしかないのだが、「好き」を無関心や嫌いなことに変��るのはかなり簡単なことで、要は義務を加えてやればいい。元々内発的な動機だったものを、報酬や懲罰の関わる出来事に巻き込んでやれば、その「好き」だった気持ちはすぐさま外発的な動機にすり変わっていく。私の場合はそれが部活であり、仕事だった。主体的に関わりたいと思いながらも、そうした評価を実は一切求めていなかったというのは残酷で滑稽だが、しかし事実そうなっているのだ。
 自分の好きな物に墓標を立てることほど気持ちの悪い行為はない。まるで心の葬式みたいだ。そして、その行動が私に何をもたらすのかは、正直読めないし分からない。ただ、惰性で何かを好きでい続けることは間違いなく出来なくて、本当にダメだったら逃げてしまいたい、自分の心に従いたい、と心に決めている。感情の沼に入り込んでしまって何も感じなくなる前に、僕はそこから逃げる。
 逃避はなるほど罪なのかもしれない。メンタルが弱いと叱責するかもしれない。私がやりたいと言ったことから逃げ出したんだから無責任と後ろ指をさされて然るべきだろう。だがしかし、そこにある本当にいくつもの過程やファクターを、彼らは知らないし知ろうともしない。そんな人の言うことは、どうせ他人の言うことなのだから聞き流せばいいような気がする。どう言われようが、直接的に自分の耳に入らなければ知ったことではない、とも思う。これをもし冷淡で馬鹿な奴と詰るような奴がいるなら、来やがれ。殴ってやる。
 話を戻そう。私は好きなものに縋って生きて、私の居場所は(彼らと共に)確かにここにあるんだ、と主張してきた。この言葉を叫ぶ生き方は確かに楽だが、エネルギーを使う。それでも「好き」という感情がくれる精神的なメリットの方が大きかったので、私は、好きなものがくれた初期衝動をガソリンにして、見えないけれども具体的な対象に向けて、その言葉を叫んできた。今は、その居場所を位置づけていた衛星を、受信できなくなった。墜ちたのかもしれない。そうなったら、次の位置づける衛星を探すことが、今までの私がやってきたことだった。しかし、今はそうすることが最善の策ではない、今の私の二の舞になると分かっている。
 私の居場所は私が決める、というと聞こえはいいが、これはつまり、何かに縋って生きてきた、そして縋らなければ生きてこれなかったことへの小っ恥ずかしい自戒に過ぎない言葉なのだった。それは私の好きなものが目指す「誰かがいるから私がいて、私がいるからあなたがいる」という他者との相対的な位相とは違った考えだった。
 こんな気持ちを文字にして、誰に伝える訳でもないのに体裁まで整えて、本当に馬鹿みたいなことだが、そもそも私は「好き」だと思っていたものに出会わなければ良かったとすら思う。そうすれば私はもっと自由で、誰にでも気兼ねせずいい意味で挑めていたし、誰にも届かない言葉に対してこんなに敏感でいなくて済んだ。大学だって、もっと実益のある、マシな所に行けたかもしれないし。そして、その「好き」を止める手段やポイントも幾らでもあった。
 それでも、乗りかかった船からは、沈むか次の港に着くか自分で降りて泳ぐ他に、出ていく術を知らない。それがとてつもなく悲しくて、どうしようもなく、この感情に気づかなければよかったと思った。この気持ちに毒された僕は、きっと船が沈んだと気づいても逃げ出せないのではないか、という不安が身を震わせている。あぁ、好きな人やものがそのまま自分の血肉となって、仕事にできる人とか結婚しても上手くいく人、凄く羨ましいし、煌めいて見える。
 しかし、今まで大きすぎる愛、そして力を与えてくれた、そして何より居場所を与えてくれた存在からもしも離れて旅立つ時には、やっぱり感謝しなければいけない。どんな形であれ、直接言わなくたっていい、伝わらなくていいので。そして私は、何の形にせよ、結局「好き」になるとはカルマであり、一生逃れられない要素なのだと悟っている。
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find-u-ku323 · 4 years
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『幻惑』
 世の中には奇妙なことも沢山あるんだろうが、現実に生きていれば科学で説明できることは沢山あるので、心霊の類は気にしなくても生きていける。むしろ問題になるのは、人生の中で起こる人間同士の狂気だ。今日は、貴方様のわずかな時間をお借りして、人間同士が織りなす少しばかりの喜��をお伝えしたく思う──。
 老いてくたびれた顔を隠しながら、彼はとあるマジック・バーでギムレットを飲んでいた。この店の安い酒の中では唯一まともに飲めるし、強くて刺さる味がたまらない、と気に入っていた一杯を空にすると、ようやく舞台の方に目を向けた。
 秋雨は酷く路面を濡らしているようで、足早にそのショーを見に来た人々の靴々を滴らせた。闇に染みている煙草のスモークが鬱陶しい。彼らが目を向けるステージには誰も立っていない。
 周りを見渡せば嗄声の老爺やら肥えた狸のような巨漢やらがスペクタクルを目撃するためだけに美味くもない酒を煽っているのが誰にでも分かるような怠い空気で、誰かも分からないようなピアニストが適当なジャズ・メロディーを奏でている。しかしその適当さ──雑さと同義──ですら、彼は良い意味で適当──こちらは、似合っていること──なのだと愛していた。
「今日は誰が出るんだ」突然、客のひとりが、餌を前に待てない犬のように吠えた。「誰が、出るんだ」
 その声を聞いた彼は異常な夢を見ている気分に襲われた。普段のジェントルマンが軽やかにテーブルマジックをこなしてみせるときに感じられる客の透明な無関心が、どこかに消えてしまったみたいだ。無用な熱狂に乗りたい気分じゃないんだけどな──彼は俯いて空になったグラスを傾けたが、勿論何の液体も喉に飲み干せやしない。
 ウェイターがどれか一つのグラスを割ってしまって、鋭い音が響いてしまったらしい。慌てふためく彼の表情もいつものようではない。手がつかないといった感じで少し血の滲んだ掌をガーゼで包んでいるその横顔はしかし、いつものようにきりりと端正だった。そのギャップが可笑しくて、彼は誰にも分からないようにして笑った。
 それらは全て浮足立った夜のことだった。そして、静かに扉が開く音がしたのは西の方からだった。
「待っていたんだよ、君を」
 観衆は彼女が現れたとき、色を朱に染めて──酒のせいだけでは決してない──沸き立った。ステレオ・タイプなイメージをもって現れた魔術師をなぜ歓迎するのかといえば、それを言葉にしてしまえば彼女の美しさは毀損されてしまうから、言わないことにする。何にせよ、誰もが彼女のことを待ち望んでいた。彼女のことを知らないはずの彼を除いては。
 ──アリス?
 何も知らないし何も喋らない彼女のことを、いくら似ているからといって娘の名で呼ぶなんて、自分もどうかしてしまったのか。彼は頭を振って、心に巣食う記憶を振りほどいた。
 マジックの始まりは無言のうちに始まるから見逃してしまいそうになる、と彼は思った。そんな彼女は、まず最初にトランプを取り出して、手を挙げていた観客にカードを選ばせた。そのうちに指名された爪楊枝のような細くて背の高い男が、彼女の言うようにしてカードの山からハートのエースを引く。
 次に、彼女には当然見えていないはずのそれを言い当てるために、本来は全く関係ないはずのもう一つのトランプを用意し、よくシャッフルする。彼女は、ちょんちょん、と先程混ぜた山を二度ほど人差し指で叩いてみせる。すると、その一番上のカードをめくったときに、爪楊枝男が持っていたのと同じハートのエースがぺらりと露出するではないか。
 桃色の肌をした彼女が、どうですか? と顔を傾げると、会場は熱気に包まれ、一気にボイラーのごとく湧いた。本当に若い女には目のない観衆だ、と彼は安直な批判精神を発揮しようとしたが、ちらりと目が合うとなぜだかそれを反らしたくなる気分に駆られた。天然のあざとさとは思えないその妖しげな笑みを心のうちに覚えている気がしてならない。
 さらにマジックは続く。自動販売機で買えるようなエナジードリンクの缶の上下を両手で持ち合わせ、それを九十度傾けると彼女の小さい手でも観客には既に視えなくなるのだが、彼女がさらにもう九十度傾けてひねった状態にすると、信じられないことに、その缶はいよいよ不可視になる。そして回転させた両手をひねりから戻すと、今度は違う色のエナジードリンクの缶になってしまう。さらに両手を離して落とすと、その缶はなぜか重力で貼り付いたように直立してしまう。
 確かにタネは分からないし見た目にも凄いマジックだということが、彼には十分に分かっていた。しかし、いつもの爺のトランプ・マジックではこんなに観客の視線が熱気を帯びない。美少女のマジシャンだから、というのもあるのかもしれないのだろうが、果たしてそれだけで彼らは楽しめてしまうのだろうか。
 ──所詮はショーだと思っていたが……。
 しかし、観客は湧き立つというよ��、少し怒気のこもった声で口々に何かを求めだした。よく聞いてみると、こんなことだった。
「お前、金払ってんだからアレをやれよ!」「怠い前置きはいいから早くしろよ」
 その声は野性の吐息含みで、猛々しい要求と呼べることだった。ショーごときになんでこんなに必死になって、と冷笑する気持ちと、そんなに渇望するようなことがこのつまらない世の中にあるというのか、という期待の気持ちが彼の中で衝突しあった。
 そのシュプレヒコールを止めたのは、艶やかな表情と、舞台脇から黒子が持ってきたあまり大きくはないカーテンだった。それを見た者たちから順番に、怒号があっという間にして歓声へと変わっていく。
 グロテスクな光景だ、と彼は思った。結局、こういうことでしか興奮できないように人類はプログラミングされているんだ、と。しかし、彼もまたここに立ってそのイベントを期待しているのだから、よくよく考えれば同罪だというのに、彼自身はそれ以上の罪すら気がついていない。
 丸い耳や高い鼻、程よく大きな目、すました唇、そんな全てのパーツが美しく成り立っている顔や、ちらりと見える生脚が妙に麗しく、男たちの舐め回すような視線の対象になっていた。その彼女が、まるで止められない欲望にコントロールされた目下の群衆を相手に、きょう初めての、しかしとても短い言葉を投げた。
「変態」
 マゾヒズムだと表すのはとても容易だ。だが、熱狂に投げ込まれるそれは、個人間のマゾヒスティックなプレイとは違う優越性と劣悪性を兼ね備えている、いわば魅惑の麻薬でしかない。燃えるような声で罵られるときの劣情をどう発散すべきかと、彼は彼女が次の所作に移るまで悩んでいた。
 それから、彼女は脇に控えた黒子たちの持つ蛇腹式のカーテンにつつまれ、少し溜息を混じらせて、こう言った。
「男って、みんなこうなの? ──上は黒尽くめ、下は、……想像に任せるわ」
 ジャズ・ピアニストだけは、この静かな狂乱に構うことなく、オールディーズ・バット・グッディーズな演奏を続けていた。その異質性と彼女の煽りが何か絶妙にマッチしてしまって、彼はとてつもない興奮に包まれてしまった。決して性的なものではないと信じていたが、残念なことに、性的なそれである。
 ぼそりと言った台詞を聞き逃したのは、きっと彼が物思いに耽っていた──いや、妄想の手中に嵌ってしまったからだろう。
 それから、奇妙なカウント・ダウンが始まった。世界の終わりを一秒、また一秒と願うようなパーティーに似ていたが、ひとつ違うとすれば、彼女が期待させるようなことを口走ったからか、うねりを増した声が高まりを見せていることだろうか。
 好むと好まざるにかかわらず、彼には(残念ながら、というのは可笑しいだろうか?)そのムードに乗る以外の選択肢を与えられていなかった。たとえ、彼がパンドラの箱を図らずも開けることになろうとも。
「ああ、黒のボンテージが入らないよ」
 ボンテージだって? 耳を疑った彼と、再び思い思いの態度で悦びを見せ酒をもう一杯と盛る猿たちの間に、断絶はしかし、もはやなかった。冷静でいるつもりだろうがその努力は無駄なもので、顔は弛緩しきっていて、身体は無意識のうちに前のめりになっていた。もしや見えないだろうか、と。
 それでは、お見せしますよ、という司会者の声が聞こえないくらいの熱量がみなぎっているのが、彼にでも分かる。
「それじゃ、好きなだけ見て頂戴」
 声とともに蛇腹のカーテンを引く黒子の手は少し震えていて、顔は紅潮している。それほどまでに際どいというのなら、それはそれで見てみたい気もする──先も言ったが、彼の思考回路と実際の感覚には地球からの天体観測ほどのズレがある、つまり本音は『見たい』だけなのだった。
 見て頂戴、という声とともに開かれたカーテンの向こう側を覗くときに、なぜか彼女は彼に向けて少し笑みを見せた。それが自分へのものだと確信するのに、彼もまったくタイムラグが生じなかった。周囲から感じる嫉妬の眼差しの理由だけが分からないのに、ずっと熱っぽく見つめる彼女のことはなぜか昔から知っている気がしていた。
 だって、そりゃあそうでしょう──あなた、実の娘さんに変態だって罵られて、騙されてるんですよ? 恥ずかしくないんですか?
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find-u-ku323 · 4 years
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『整形パパ活風俗』
 裏オプ一時間三万円。どろんと溶けた空気が甘ったるい、ここはまるで腐ったアイスクリームをそのままにしたみたいな場所──そこに『私』はいなくて、『ワタシ』はいる。  ここは底なし沼で、愛する人にお金をどれだけつぎ込めるかとか、まともでいるために小さな錠剤のために身を粉にして働いてるとかみたいに、町には見かけられないし普通の人は見て見ないフリをして通り過ぎて行ってしまうような人ばかりいる。『ワタシ』たちに渡される紙切れはとても無意味で有意義だ。自分を削ってまで働いた報酬としてもらえるのが自分の為に使えるお金だと思うと、ゾクゾクする。  だけど、だらりとした怠惰な体形が醜い曲線を描くのを見るのが『ワタシ』は好きだった。匂いは何日も洗ってない雑巾か過剰に身体を洗ったときの石鹸か、その両極端で間はなかった。どっちでも構わないけれど、男の人はこういう場所にいるときに何を思って女の人を見るんだろう……たとえばそれを拒絶されないと思っているのだろうか。訝しむ気持ちはいつも抜けない。  ホテルの一室は雰囲気を演出するための飾りに溢れていて、セックスのための空間にふたり寄せ合ったならやることは決まっていた。萎びた一物を加えると、むせるような臭気と大きくなるそれの惨さを喉の奥で拒否するような感じがした。 「いいよ、いい……慣れてそうだね」  『パパ活』の依頼主が『ワタシ』に向かってかける言葉にはパターンが決まっている。プレイに対しての反応か、『ワタシ』のことについて訊ねることか、あるいは「これやってくれたら、三枚出してもいいよ」といったお金の話か。どれも自分本位の欲求に変わりはないけど、要は後腐れなくどちらも得をするような関係で終われればいいので、お金の話だけしてくれるのが一番いい。 「ここに来てから何人シたの?」  だけど今日の人は自分のことを知りたがっている。相手のことを知りたいと思うのはときに誰かへの悪意にもなるということを、目の前の中年は(長い人生を過ごしてきたのに)知らないらしい。  何段腹かも分からないくらいの断層は、人の傲慢さを示すには簡単すぎるくらいだ。 「ワタシですか? えー、もう全然覚えてないですよ。呼吸をするみたいにサカってるから」 「そんなにヤってるならおじさんにも出させてよ、これくらいは出すからさ」  不快な顔つきで指を二本立てるが、私はそれを拒む。店の事情もあるし、『ワタシ』としても不服だ。 「表の看板は確認したんですか? 『裏オプ一時間三万円』、これが前提ですよ。もちろん追加オプションを付けるなら、その分のお代は頂かなくちゃいけないし」 「へぇ、意外と商売上手だね、君。でも、それだけのことはありそうじゃないか」  社会に、そして他の女性に拒まれた手が財布に伸びて、それから『ワタシ』の方に伸びる。胸を責める舌のざらつき、その膨らみを撫でるごつごつとした手、愛撫の熱、それらは別におじさんの本質ではない。どうせコンドームなんてしないだろう。  その場限りの感情に勘定はあれど名前はない。『パパ活』なんて、ただの形であって本物じゃない。 「男に媚びて来た痕が丸わかりで、なんだか嫉妬してきちゃうな」  むくむくと反り立ったソレを何度かしごいていくと、かかった白みではだけていた制服のコスチュームが汚れる。彼が嫉妬したのはピアスの痕か、誰かのつけた歯形が残った赤みか、それとも私の二重も鼻も口許も改造した顔だろうか。  嫉妬だというのなら、なぜ彼は誰かに受け入れられるように努力もしないでこんなところに来ているのだろうか。 「あの、どうしたんですか? 早くいれてくださいよ」 「……何とか言えよ」 「え?」 「もう頭に来たぞ──何とか言いやがれ、このブス。黙ってお前の芝居に騙されたフリをしてたが、お前、俺の行くところに現れては俺や娘を誑かしやがって」  何の話をしているのだろう。目の前で怒り狂って馬鹿みたいに鼻の孔が開きっぱなしのカバが暴れて、『ワタシ』の頬を往復ビンタする。大丈夫、『私』はそれにずっと慣れている。 「疼いたら渇きを満たすために男を漁る癖が治ってるわけないよな、こんないい場所を見つけちまってんだから」 「待ってください、私、何の話をされてるか分からないです」 「嘘を吐くなよ、分かってるんだぞ、お前が擬態して違う誰かを装っていることくらい」  擬態という言葉が嫌いで避けて来たのに、なんでこんなところでそれを聞かなくちゃいけないのかと腹立たしく思った。何なら殺してやって、『ワタシ』まで死んで心中を完成させようかと衝動で考えるくらいに。  社会から拒まれたときの感情を分かるつもりで今日まで生きてみたら、また結局理解のできない感情に触れて対処できなくなる。このせいでずっと息が出来ないから、世の中のすべてを許さないつもりで、反生殖活動的な行為をする。  突き上げられて感じる快感は以前よりも、そして日に日に少なくなっていくのが分かる。痛いわけじゃないけど、異物感がまた戻ってくる感覚。それを超えるような、すぐに手に取れるほどの気持ちよさがなくなると、私の虚無感は益々高まって、いつになったらこんな生活から抜け出せるのだろうと思う日がきっと来る。  インスタントな幸せは日本銀行券で達成されるから、何度も何度も腰を振る。もっと気持ち良ければ面白いのに、もっと分かりあえれば楽しいのに──無理な願いが時間の経過とともに溶けていくのは、まるで車の中で放置されたアイスクリームを見ているような気分だった。夏の夜のラブホテルは空調が管理されているのに、うっすらと汗をかくような熱が充満していた。 「ん、人違い、とか、じゃ、な、いんですか、ッ」 「本当に違っていたら『人違いじゃない』なんて言わないだろッ、な、A子ッ」  『ワタシ』も『私』も知らない名前を呼ばれながら、彼はそのピストンを激しく打ち付ける。それはとても虚しい自慰に似ている。そういうプレイだというのなら先に言ってほしい、そうだったのなら先に料金をきっちり貰ってから気持ちよく楽しめるのに。  自分の姿が鏡に映る度、ああ、つくづく無様な姿を晒すために金で顔を買うのは正解だったと思う。だけど誰かを癒し���り赦すために生きてるほど聖人じゃないから、これは自分のための演出なんだと思うようにしている。 「もうイくぞ、お前の未来をぶち壊してやるぞ、ッ、後悔しやがれェッ」 「あ、あ、あん、あ、そこいい、そこ、それがいいのッ、奥が」  演技が抜けなくなったらどうしてくれるんだろう。注入されている感覚は予防注射と同じ無感覚な痛みだが、ピルを飲んでるからまだ何とかなる。しかしそれも完全なノーリスクじゃない。お金とセックスと快感が全て成り立つ等号的数式を未だに知らない『ワタシ』は自分を作りあげるために全て捨てて裸の身一つで知らない人と向き合うのだ。  清貧さ、『ワタシ』の唯一のプロテスト。誰にも分かられず、誰も持っていない、誰も助けてくれなかった家族や社会に対してのささやかなささくれ。高校二年生のときに初めて見た風景がここまで変わらず生きていること、相手の事情に干渉しないことは、これからも変わることなどないし、変えてはならない。  純粋な悪意を以て彼の命の塊を受け入れるが、それはきっと生まれ行くまで辿り着かない。『ワタシ』と『私』とお客さんのような、社会に爪弾きにされた人が生まれるのは本意じゃない。気持ち良くないし、本当はお金も必要じゃない。  でも、セックスを続けないと、私にはそれしかないのだ。顔を再生したあの日から、ヒリつくのは誰の心だっただろうね。  疲れ果てた二人の身体が、ベッドの上で力尽きるように抱き合って離れない。気持ち悪い臭気を放っていて、接吻は甘いというよりむしろ毒だった。愛し合うとか、この口でよく言えたもんだな、と世紀末を呪う。いつかは「私」が消えて『ワタシ』に吸い込まれていくとして、それは誰と何度目の行為をした後のことだろうか。そんなことを思って、黙りこくってしまう。  ただただ、美しい顔が壊れるときを楽しみにして、今は記憶を手放していたかった。残された栗の花の匂いは、どこか彼岸の世界を連想させた。
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find-u-ku323 · 4 years
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『王道も邪道も』
 私は、モノマネというものの元ネタを知らない。  皆が笑っているのは真似の特徴の掴み方やその軽妙さなんだろうが、元が分からないが故に私が面白いと思うのはそこではなく、「純粋にオチの付け方が上手い」であるとか、「洒落の効いたことを言う」といったことだった。  この上野のショーパブは、ただ単にモノマネが上手いというだけでは生きていけなくて、仮にモノマネが禁止された世界でも話芸一本で食える実力のある者だけが寄せ合って日の目を見るときを待ち望んでいた場所だった。  ここに来たばかりの頃は、動物の鳴き真似、俳優の声帯模写、さらには巷で話題の政治家や歌手らの真似が流行っていた。無論、私にとってはそれらが何であろうと面白ければいいのだが、何より凄かったのは、耳で聴いて一発で実力が分かる時代だったから売れない者はとことん売れないままフェードアウトしていくのに対して、実力があっても中々世間の波に乗れない者はいつまでもここで時限爆弾が爆発するときを待っているようにして生きていたのだった。  昔、赤坂のほうへ遊びに連れて行ってもらったときに、ある役者がこんなことを言っていたのを聞いた。 「真似をするというのは役者の必須能力なんだろうけど、私には形態模写というものはやろうと思っても出来ないね。とくに猫八のウグイスや、上野の名もなき店の嬢がザ・ピーナッツをまるで目の前にいるって感じで歌うのを聞くと、もう私には敵わないものがあるなと思うなあ」  毎週土曜日になると彼はショーパブにやってきては一般客に紛れ込み、役者としての技・話術・観察眼を盗もうと必死に努力していたのだと親しい筋から聞いたが、私は今になるまで全く気が付かなかった。  しかし時代が変わるにつれて、彼の出ていた映画や、声だけを使うラジオの時代は終わりを告げて、一気に視覚を使うことになるテレビが世を席巻した。もっともその変化がすぐに大きなものになるわけではなく、このショーパブではその後もそれなりに声帯模写や歌真似の人間が人気を集めていた。  だが、ショーパブのレギュラーメンバーだったとある女性演者が楽屋裏の廊下でふいにこんなことを言い出したのは、今から振り返ると、とても時代の変化を思い出させることだった。 「私、いまテレビで流行りだしてる『顔真似』とか『オーバーリアクションな芸』って、下品だと思うのよ」  そこにいたもうひとりのメガネをかけたノッポの演者が言った。 「下品ってのは、邪道ってことかい?」 「ええ、そうよ。私たちのやっている歌真似っていうのは、ああいう顔だけで出来るような簡単なものじゃない。なのに、私の松田聖子よりもなんでテレビでやってるみたいな良くわからないのがウケてるわけ?」 「まあまあ、そんな熱くなんなくてもいいじゃん。それなりにここで経験を積めば、それをお天道様は必ず見てるから」  しかしその日を境に、軽い諍いは増えだした。ショーパブとしても時代の潮流に乗るべくしてテレビに出演しているような芸人(といっても私はテレビを見ないのだが)を呼び集め、とくに人の入る夜公演では彼らを丁重に扱った。そのことが、元いた演者たちを激怒し失望させるのは、私から見ても明白なことであった。 「なんであんなのを舞台に出すんです? 私めからすれば、言葉もない物真似というのはその道を外れているとしか思えません」 「マチさん、ちょっと落ち着いて。時代はテレビです、ラジオでも映画でもない。目で見てグッと引き込まれて、一発で笑えるものが世の中には求められているんだから、マチさんだって、ちょっと芸風を変えてみるだけで面白くなる」 「そんなのは欺瞞ですよ。世の中に受け入れられるとか受け入れられないとか、そういうのは所詮つまらないものです。時代を超えて愛されたい、笑ってもらいたいから私たちはここに立っているってのに」  声を荒げはしないが、静かな中で私にはその衝突が聴こえる。時代に抗おうとしてぐらつく足元を見ることが出来なくても、私にとっては、何度も言うようにそれ自体はどうでもいいのだ。ただ、面白ければそれでいい。  そう思い続けてここに立つ暮らしは、そんな人と人の変化の波間にあった。さっきの俳優だってこの舞台の上で倒れて亡くなったし、マチはショーパブの中での主導権争いに敗れてここを去った。今となっては、彼らの知らない、いや、あのとき主流派だった人々ですら知らないような、「あるあるネタ」「行動模写」という領域にいる者がこの場所で育っていっている。だけれども、今までもこれからも、実力のある者だけが残るという言葉に出来ない掟は残り続けていて、私はそれをとても気に入っている。  私は幸せな生涯を暮らしてきた。王道も邪道も、全部見つめることが出来た。モノマネというよりも、演芸の真髄を知ることが出来た。そして何よりも、コンサート・ホールや劇場よりもこんな小さなショーパブで命を終えることが出来ることを誇らしく思った。 「良く頑張ったな。もう随分、年代物だったろう?」  随分歳を重ねて皺の滲んだ顔に見つめられ、生まれてここに来たときと同じ箱に、私をしまった。  もう、演者と私で向かい合って何かをするということはない。  昔に比べれば随分耳も遠くなって不便をかけただろうが、それでもステージ・マイクとしてここに居させてくれた今日までの記憶を、私は忘れない。
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find-u-ku323 · 4 years
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『珈(かみかざり)』
 彼女が横顔をちらりとこちらに向けたなら、晴れた街には雨が降り、白猫が微笑んだと思ったらいつの間にか黒猫が通り過ぎていき、幸せそうに歩いていた誰かが急に気分を落ち込ませたりする。確証はないけれど、少なくとも隣人はそう思っていた。  その隣人というのは、僕のことである。
 川沿いの安いアパート、古いキッチンとたまに詰まるトイレ以外にこれといって特徴のない部屋に住み続けているのは、ここより安い部屋がないからという消去法的な理由だけではなかった。そいつは少し『トイレの花子さん』的な心霊現象を信じない人間にも信じやすいことで、要は、「赤い髪飾りを付けた女性の隣に住むと、そこから出た時にとてつもない不幸が襲う」といったようなことだった。  この部屋の元の住人というのが僕の同期入社組の男なのだが、この男に「ここはとんでもなく安いぞ。少し訳アリだけど、住んでみるのも悪くはないだろう。何より、美人がいるんだよ」と釣られてこんなところに来てしまったのが間違いだった、と後悔していた。押し付けられたのは全くもって本意じゃない、と。  ただ、黙って過ごしていれば大抵のことはやり過ごすことが出来る。実際、彼女が暮らすにあたって行う諸々における時間の周期というのは一定で、一日もそのパターンから外れた試しがないらしい。だから、ここに越してきたときを最後に、僕は彼女の姿を見ていなかった。そのときは髪に赤い髪飾りがあるかどうかも分からないくらいだったから、タンスに小指をぶつけるくらいで済んだのだが。  ところで、とある日曜日のことだったが、部屋の床に小さな染みが出来ているのに気がついた。それは少し黒ずんでいて、細かくぽつぽつと散らばっていた。何か飲み物をこぼしただろうか、と奇妙に思ったのも束の間、僕はドアベルが鳴ったことに気がついて玄関の方に駆け出した。  扉を開けると、長身の女がただ立っていた。でくのぼうみたいに立っていた。  傘もないのに雨が降り出したのでびっしょりと濡れた長髪に、赤い簪は間違いなく不幸を呼ぶあの女の特徴そのまま。  叫びたいのをぐっと堪える。もしかしたらもしかして、隣人じゃないって可能性さえあるじゃないか。それにこんなに美人なのに、悪い人だと思うのはちょっと心の中で許せないと僕は思ったのだった。  彼女は非常に丁寧な調子で言った。 「ごめんください。あの、ええ、少し、雨宿りをさせてほしいのですが」 「すみません、どなたでしたか。それに、なんでウチなんです?  このアパートにお住まいなんでしょうから、鍵さえあれば」 「その鍵を盗られたんです」  ならば貴方が行くべきはここじゃなく警察なんじゃないか、という言葉を喉元の方に押し返した。 「……わかりましたよ、わかりましたから、とりあえず濡れてるのをどうにかしてください。それから上がっていってくれれば、何のお礼もなくて結構ですから」  僕はぶっきらぼうな言い方で、乾かしたてのタオルを彼女の方へ投げた。不幸の象徴にはこれくらいの扱いでもバチは当たらない──あ、逆か、丁重に扱わないと最悪の場合は死に至るか。いずれにせよ、それは僕には関係のないことに思える。  それはそうと、彼女のいう雨宿りは当然のことながら僕の把握している彼女の生活パターンの中には有り得ない。それくらい、いつも彼女がこなしている暮らしはロボットみたいに単調で、空白の多い日常なのだ。何時になれば洗濯物を取り込み、晴れならそのあとは飼っている犬の散歩(休みの日になると、僕は当たり前のようにその時間の外出を避けている)、雨なら食事の支度を軽く済ませてやはり飼っている犬と遊んでいる、など、本当にこと細かく定められた生活のルールに合致するようにして行動していた。  僕はとりあえず考えを変えて、彼女をここに長いあいだ居させることによって行動を観察することにした。この時間が何か重要な変化をもたらして、彼女の体質的なことも幾分か変質することが期待されたからだ。僕は三種のチーズ牛丼を頼まないが、理系だったのだ。これくらいの自然に対する態度変容は、十分に得意である。 「あの、気を使われなくて構いませんから」 「いえ、これは僕の好きでやっていることなので」  僕はこだわりにこだわったブルー・マウンテンをテーブルの上に静かに置いた。香り立つその一杯には僕の血の滲むような選別と知見の積み重ねがあったのだが、それはまた別の話。彼女はそれをずずっと啜りながら飲むと、少し熱がった。 「猫舌ですか」 「お恥ずかしいことですが」 「気にしなくてもいいんですよ、別に恥ずかしいことじゃない」  照れる姿が大和撫子、着物を着れば少しは似合うか、と思ってしまった自分が勘違いに踊らされている。耳に輝いているのは青いピアスで、そこだけは浮いているくらいの異国情緒だった。  そういえば、と思って、カップを持ち上げてコーヒーを飲もうとした手を止める。  しっかりと彼女のことを観察したことがなかったから気が付かなかったが、これはいい趣味をしている。何のことかというと、朱に染まった髪留めの形が果実の連なる枝の先を象っていて、それが『珈(かみかざり)』だったのだ。ちょうどいいバランスで、美的なことが天秤の両方に連なって保っているように思えたが、いざこのことを平易な言葉にしようとすると、とても難しかった。  眼前にいる女が不幸を呼ぶなどということは、今は僕の頭の中から完全に消え去っていた。 「親切にしてくださって有り難いのですが」 「何か言いたいことでもありますか」 「ええ、なんというか、初めて会った人にここまで親切にしてもらえるのは初めてでして」 「誤解を招くといけないですが、ほとんどの人はこんなことをしないと思います。……自分で言うのもなんですが」 「そうですよね、少し安心しました。ちょっともてなされすぎて、警戒するまであったので」  女性として当然の感覚だと思った。少しでも隙を見せればうっかり狼に食べられてしまうような、生き血を啜ることが生きがいの者共から逃れようと思ったら、こういうことでも考えていないといけないのだろう。しかし強かであればあるほど、僕には彼女が魅力的に見える。  僕は少し昔の話をして、彼女をもっと引きつけようとした。 「ところで、珈琲という文字の成り立ちを知っているかい」 「いえ、寡聞にして知らなかったです」 「ならば、話しがいがありそうです。  幕末のある学者がコーヒーという外国から来た得体も知れないものに当て字をつけたときに、コーヒーの実が赤く連なるようにして一つの枝にびっしりと実っているのをどこで見たのか、彼はそれを女性の髪飾りに見立てたそうですよ。  そう、あなたの髪飾り、『珈(かみかざり)』のことですよ。それも真っ赤な。『珈琲』というのは、つまり髪飾りとその飾り玉を貫く糸のセットから連想されたわけです」 「昔の人の想像力は逞しいですよね。学生の頃はその時代の文化とか研究してたんですけど、気軽につけていたこの簪と珈琲がこんな関係にあったなんて、知らなかったです」  昔どこかで読んだだけの知識だが、こんなところで役に立つとは、人生も分からないものだなと思った。 「素敵な話をしてくださったので、私、もう少しだけ居てもよろしいですか。その代わりと言ってはなんですが、拙い私の自分語りでも聞いていてくれれば、それで幸いなんです」 「ええ、構いませんよ。別にそこにいてくれれば全然何の問題もないので」  彼女はその台詞で少し微笑み、リラックスするためだろうか、赤い髪飾りを緩めて外した。 「これは私の昔話ですから、決して今の話というわけではない、ということを頭の片隅にでも入れておいてください。  突然のことですが、ドッペルゲンガー、って知ってますか」 「もちろん。自分と同じ顔をした人間が世の中には三人いて、それを見てしまったら自分は死ぬ、みたいな話だっけ」 「そうです。私、実は一度や二度どころではなく、このアパートで何度もすれ違ってまして」  窓から見える景色がやけに空虚に見えるほど、彼女の声は現実味を増して聞こえてくるようになった。長い髪は完全に解放され、コートを脱いでゆるりとした格好で、少し恐ろしいことを言ってのけた。  世の中には心霊現象が起きているということを否定する僕にとっては、それ自体が、特に大変なことだった。 「ドッペルゲンガーとすれ違う、って、例えばどういうときのことなんでしょう」 「ゴミ出しの日とか、近くのコンビニでおつまみを買��て帰るときとか、コインランドリーでもすれ違ったことがありますね。あとは……」 「そんなに会うのなら、もうそれは自分のそっくりさんってだけなんじゃないのかと」 「そうならいいんですが……。でも、その出会い方がまったく同じ時刻で固定されているんですよね。まるでスケジュール管理されてるみたいな感じ。買う商品も取り込む服も全て同じで、しかも『彼女』は基本的に私と好みがほとんど同じなんです。こんな擬態をする人間がいるという無理な主張をするよりは、そういう心霊的なものを疑ったほうがより容易に理解できるかな、と」  その理屈であれば、貴方は死んでるんですよ、もう。なんなら結構な頻度で何回も何回も死んでます。  ドッペルゲンガーについて話す彼女の純粋な心に、僕は嫌味抜きでこんなことを言ってやりたくもなるくらいの話だった。しかし、先の返答こそが、僕が彼女のロボット性を完全に排除している何よりの証拠であることにはまだ気づかずじまいだった。  今目の前にいる『彼女』は本物なのか別の世界軸にいるのかは一切分からない。しかし、このことが言える。もしここにいる『彼女』が機械だったとしたら、こんなに滑らかな返答をするはずがない。自然に考えるならば、『彼女』は本物で、その『彼女』がいうドッペルゲンガーもどきこそが偽物だというのが妥当だろう。 「もう少し詳しく聞かせてくれませんか」 「あの、そもそも偽物の私に気がついたのは浪人生のときに予備校に通っていたときからで、今に始まったことじゃないですね。それに、今はもうこのことも落ち着いて、ドッペルゲンガーからも逃れられたし、ああ、こうして自分は生きる対象となったんだ、と安心したりしてます」  なんて人を疑わない純粋な娘! 旧来の価値観に照らせば美徳だったが、今の皮肉的かつ偽悪的な世界の中では一番最初にカモにされる存在に違いない。冷めたコーヒーを飲み干して、少し警告するために声を強めた。 「もっと人とかモノを疑うことを知っていかないといけないと思ってるんですが、どうですか? 現に今だってその恐怖に怯えているんでしょう  そんな甘くて優しいミルクチョコみたいな性格だからドッペルゲンガーだと決めつけてかかるんでしょ」  このような態度を示すのには、もうひとつ理由があった。  それは、首にキスマーク、手のひらに少しの痣、そして贈り物を示す紙切れ、これらを見ていればすぐに分かることだが、見たり聞いたりしたらそれがすぐ分かるように「仕上げて」あり、それが天真爛漫で純粋無垢な彼女の一つ裏の顔というのは、全くもってその通りだと彼もすぐに理解した。  ドッペルゲンガーとか赤い簪の女は死ぬとか盗まれるとかそういう直接的な不運をもたらすわけではない。しかし、その代わりに紅の髪留めを置いて部屋を出ていった彼女から、調理され出来上がった恋心をすぐに頂ける状態でかっさらわれたのがとても傷つくことだった。  それで思い出す。この部屋の前の住人である同僚は『安いからここを押し付けてやるよ』と言ったし、また恐らく彼がここを去るまでは彼女と同僚はそういう関係にあったのだろう。だがしかし、だ。  真っ赤な髪留めの女は純朴を装い同僚を騙し、ここに散々居着いたあと直ぐに金だけぶんどってサヨナラ。  それはどんな善男善女であっても恨むというものだ。そう思うと居ても立っても居られず、彼女の使っていたコップを思い切り地面に叩きつけて粉々になるのを見て、美しいと思ったりするのが正常な感覚ではないと分かっていても、心はふらふらと無軌道。  その破片で指に血が流れたが、その色はまるで彼女の簪と同じ紅だった。その色を見た時、部屋の染みは珈琲をこぼしたとかいう具合でなく、こういう血の色のせいだと気がついた。  しかし一番に怯えるべきは、自室に戻った時に佇んでいた、髪の長くて赤い簪をつけた女が血を吹き出して増殖することだったというのには、僕はまだ気がついていない。
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find-u-ku323 · 4 years
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『アロマキャンドル』
 お買い上げあらーとございやしたー、と適当な店員の声。外に打ち出でてみれば、晩秋の中之島、つるべ落としの夕暮れはビジネスマンの波とビルの騒めきにさらわれてあっという間に夜になる。そんな夕暮れと夜の間にあるマジックアワーからブルーアワーへのトランジションは、心のどこかで諦められないことを諦めたときの消失感に似ていた。  袋に入っているアロマキャンドルは、好きだった人の匂いを消すために梅田の百貨店で買った。彼と散々交わした言葉がすれ違っていたってことはきっと他のこともすれ違っていたのだろうけれど、彼の甘く爽やかに私を殺す匂いだけは、いつまでも私を捉えて離さなかった。  カップに入ったラベンダー色のそれは、火をつければ、香りもゆらめきも長く続くのがウリだった。しかし日常生活の中で使われるものにしては凄く丁寧に包装されていて、ご丁寧に箱に入っている。  ──カサリ。  おっとっと、と、私が小さな段差につまづきそうになったときに、その拍子で小さな紙の擦れる音が聞こえた。袋の中を覗くと、薄い桃色をした正方形のメッセージカードのようなものが見えた。  ……店員さん、こんなの入れてたっけ?  私は疑問を抱きつつも、袋に貼られているテープを剥がして、そのカードを見る。少し暗くてよく見えないけれど、美麗な字でもって簡単なことを書き連ねているようだった。商品の説明だろうか。とりあえず怪文書や連絡先の類ではないことに一安心していると、奥からもう一枚のカードがズレて見えた。  そこにあったのは色あせた写真で、それがここにあること自体、とても非現実的、奇怪だった。  私たちが行った十年前の京都旅行の写真なんて、何でさっき買ったアロマキャンドルの袋の中にあるわけ?  その不可解さが深い不快になった。誰が何のためにこういうことをするのか分からないけど、そういうのは辞めてほしい。何の悪戯だったとしても。  でも、くだらないことばかりだから、余計に過去のことが輝かしく見えている。昔を良く思ってしまうから、今はこんな写真、見たくなかったんだって思ってるのに。ふわりと店と商品の香りが詰められた袋を抱きしめるのも辛いのにやめられない。  私は行くあてもないままに、ふらふらと時代を感じる街を歩いてみた。誰も彼も足を早めて我が家へ帰るのだろうか、それを横目に私は昔日を捨てようとしてる。でも、捨てられようとしてる思い出と記憶がとても虚しく助けを求めるので、心はその残酷な残響で満たされていた。  何気なく過ぎる毎日の中で出会った彼なら、すぐに彼のことを過去に出来ただろう。逆にいえば、大切な思い出の中で出会った彼だから、一度も捨てようと思えないでいる。  いつでもいいから、このアロマキャンドルが捨てられるようになるまで、今はこの安心する香りを嗅いで眠っていたいと思った。そうすれば、追憶から出られなくなることなんてなくなると信じている。  長い追想を終えたあと、いつのまにかアパートの四階にある自室に戻っていた。  私は電源が切れたように眠り込もうとしたが、やらなければいけないことはたくさんある。人間として生き長らえるためにはご飯も作らなきゃいけないし、最低限掃除も洗濯もしなくてはいけないし、何より買ってきた香りを楽しまねばならないと思った。  そんなわけで、買ってきたキャベツを千切りにした横に、豚肉の野菜炒めと味噌汁、ごはんを盛った簡単な食事と、身の回りの諸事をこなしたあとに、袋からアロマキャンドルを取り出して、少しまだ彼の香りの染みついた部屋を綺麗さっぱり消すつもりで火を灯した。  ゆらゆら、ゆらゆら、火が揺れているのを見るのはとても気持ちがよくて、その揺らぎに合わせて、うとうと、うとうと、としてしまう。最近は夜更けまで誰かと飲んでいたから、目にクマが出来てしまっているのに手元の鏡で気が付いてしまったりなどしたが、もう気にしない。何もないのだ。  私はそんなわけで意識を霧中に蹴飛ばした。
◆◆◆
 頭が痛かった。  正直、二日酔いするまで飲ませる上司のことは嫌いだし、話が合わない同期と飯に行くのなんか金と時間の浪費に過ぎない。かといって、最近彼女と別れたから、浪費だと言っていたそのふたつは生憎持て余している。  今日は前々から有給を使って身体を休ませることにしていた。生憎の雨でどこにも行けないが、一人で長風呂したりテレビを見たり、あるいは寝たりするくらいでちょうどいい。  そんなことを思っていると、部屋のなかに奇妙なものがあるのを見つけた。 「俺、こんなの買ってたかな……」  それは小さな薄紫の容器に入っていて、固形の蝋のようなものが流し込まれていた。香りは思っていたよりも強く、点けた覚えのない火がゆらゆらと揺れていた。  傍には二枚の写真が袋の中に乱雑に入っていて、そのうちの一枚は、いつだったかの京都への卒業旅行だった。八坂神社でスイカ売りのおっさんに絡まれたり、とにかくひたすら歩かされて翌日俺まで筋肉痛……なんか、懐かしくなってしまっていけない。  彼女とは、その卒業旅行のときに告白されたのがきっかけで付きあった。元々、仲は特別良かったんだろうけど、『男女の友情』とやらを馬鹿正直に信じていたから一切手は出していなかったんだけど、そのときに一つ、二つとリミッターが外れていった。  それから十年も腐れ縁みたいな形で続いてたのに「急に別れる」なんて言い出したのは、たぶんアイツもそれなりに驚いたり悲しんだりするだろうけど、当然のことだと俺は思っている。  ところで、気味の悪いアロマキャンドルが放つ香りは、俺には正直合わなかった。袋の横に置かれていた説明書きには『返品不可』の四文字が書かれているので、店に突っ返すことは出来ない。だからといって、どこかに捨てるなんてのは気が引ける。  何気なく生きている中で使うには、ちょいとばかし格式高すぎるそれを、俺は火を消して元々入っていたであろう箱の中にしまった。そしてそれから窓を開けようとしたが、雨だから開けちゃダメだってことを思い出して、少しばかり憂鬱になるなどした。  そうだ、何か本でも借りて、気分を紛らわそう。ついでに、知り合いか誰かに会ったなら、少し忌々しいこれを押し付けてしまうのもいいな……。  思い立ってすぐに身支度をし、四○三号室を出て、近くの駅から京阪に乗って中之島駅で降りた。この駅は学生時代に良く通った町並みが広がっていて、とても好きだ。とくに夜景がいいんだけど、もちろん朝の清かなる通勤風景もまた素晴らしい。大阪の中で、こんなに人の流れが実感できる町は他にないんじゃないだろうか、と思う。  俺は駅から少し歩いて、レトロ感が全面に主張してくる大きくて古い図書館で素晴らしい本ばかり借りた。恐ろしく高尚だとか崇高だってわけじゃないけど、低俗ってほど大変な本じゃない。当たり前のことを当たり前にしてくれるような本だけを選んで、借りた。  問題はその帰り道、件のアロマキャンドルを売っている店のある百貨店の横を通り過ぎたときに起こった。俺の記憶の中で一番強烈なかたちで残っている香りを漂わせる女が、俺の横を通りかかったのだ。  忘れかけた記憶がそれをトリガーにふっと蘇る音がする。  振り返ってはいけない。もう、俺はすっぱり忘れていただろうに、そしてその香りを捨てようとしていたのに。  もうシルエットになっていた女は、俺があげたのと同じ柄のマフラー、俺と会うときによく着ていたベージュのコートを着ていたようだった。何より、彼女の金木犀の香りをどうやったら忘れられるだろうか、そう思ったときにはそのアロマキャンドルを手放すどころか、自分からその店のそれを買い求めていた。 「いらっしゃーせー」  適当な店員の声が俺を苛立たせるが、なんとなく聞き覚えがあるような気がした。どこで会ったかなんて覚えていやしない、いや、会ったことはたぶんないはずなのに……。  正方形のメッセージカードがズボンのポケットから落ちたとき、二度とこの奇妙な既視感を味わいたくないと思った。  あんないい女と別れてからちょうど一か月後の、晩秋のことだった。
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find-u-ku323 · 4 years
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『包括的で社会的で規範的で現実的で基本的な法則に則る、限定的で自然的で背徳的で幻想的で特異的な施行法』
 『包括的で社会的で規範的で現実的で基本的な法則に則る、限定的で自然的で背徳的で幻想的で特異的な施行法』とは、包括的で社会的で規範的で現実的で基本的な法則に則る、限定的で自然的で背徳的で幻想的で特異的な施行法のことである。
 説明になっていないって? いやいや、この法律を説明するほうが野暮ってことさ。  ……何だ、そんなに気になるなら、私の仕事を見学できるように手続きしておくよ。私の仕事はこうした法律が守られているのかどうかをちゃんと確認することだから、君の興味関心にも合致すると思うよ。あ、言っておくけれど、特別に君に見せているから、もしひとつでも怪しい動きをしたら本庁に報告することになってる──もちろん、君に手荒な真似はしないことを約束するよ、だけどこれも『規則』だからね、やらなきゃいけないことだからやるだけだよ。  この法律っていうのは、全ての法・慣習の上位にあって、全てに影響力を持つようになっているんだ。……だからといって、大きな難点があるわけではないのが最大の特徴かもしれないね。  みんな知らないかもしれないけど、包括的で社会的で規範的で現実的で基本的なことっていうのは、事実的で全体的で公共的で一般的で前提的なことなんだ、だからみんな知っている。だから、それさえ守っていれば何をしていても大丈夫なんだけど、誰もそのことに気が付いちゃいないから騒ぎ立てているのさ。  しかし都心の電車はいつも混んでいるから嫌だねえ。あれは善くないことだと皆分かっているけれどなぜか受け入れてるじゃないか、僕はそれがあんまり好きじ��ないんだ。ま、乗らなきゃ生きてけないから仕方なく乗ってやってるんだ、車掌も精々感謝するんだな。  あの法律が出来るまで──僕もさすがにあの法律を全部言うのはしんどいけど、略すと庁内でとても問題になるようだから──電車で煙草を吸うのも酒を飲むのも、音楽プレーヤーからジャカジャカ音を鳴らすのも、酔った帰りに失禁したり嘔吐したりするのも、全部は個人の責任と自由に任されていたよ。でも、それって、やっぱり社交的に周知された一般行為のガイドラインには絶対に載らない行為だと思わないかい?  だって、あんなに好き勝手やっているのに、その人たちが病気になるのを治療するためのお金は僕たちが払った税金から支出されているって、おかしいことだと思わないかい。彼らは皆「自分でリスクを分かってやっている」と宣うのがお決まりだけれど、リスクを背負うのは本当はそんなことを言う本人じゃなくて、社会全体なんだよ。  この法律が出来たのは、こういうわけなんだ。だからといって、僕らが見えないところで何をやっているかを監視できるほどにこの国もガバガバじゃないから、そこまでのことでもないんじゃないかって僕は個人的に思うんだけどね。  しかし、今日は空が広いね。  町を埋め尽くしていたビルが壊されてもう何年も経つけれど、こんなに清々しいものだったなんてね。やっぱり、僕らのやっていたことは間違いじゃなかったと思うよ。  車の通行量、鉄道の乗車率、都市計画の見直し、国民の運動量・飲酒量・喫煙率、全ては統計を取られて一日一度ニュースになるようにしているけれど、もう皆慣れちゃって気にもしなくなっただろうか。君はどう? ……やっぱりそうだよなあ、健康でいることには間違いなく飽きがくるから、一時的な気の迷いは誰にだってある。僕もそれを否定しないし、まあ、端的なことを言ってしまえば、見えるところにいれば僕の仕事の範疇だからね。……よく考えなよ? 一日にこれだけなら許容される、というラインを越えてしまったら──。  おっと、そろそろ時間だ、そろそろ東京の午前中の鉄道乗車率・運動量・安全尺度を算出しなくてはね。とくに安全尺度の計算は、たぶん君には高度すぎて全く理解できないだろうから、僕がさっさと終わらせてしまうよ。といっても、ほとんどはプログラムで放置していればすぐに終わるんだけどね。  なんで今更不安がってるのさ? 知らないことが多くたって、周りから学んでいけばいいだけのことなのに。安全尺度だって毎日変わるから、昨日良かったことが今日ダメになることさえあるけれど、それで全然構わないよ。だって、それは当たり前のことなんだから、仕方ないと受け入れていれば全然いいんだよ──大っぴらに逸脱するのがいけないだけさ。  そういえば、学校の七不思議って君の学校にはあったのかな。音楽室で笑うモーツァルトとか、トイレの花子さんとか、そういう定番のやつから、用具入れのロッカーから裸のおじさんが出てくるとか、四階の教室の窓から笑う女の長髪がグラウンドまで垂れていてそれに触れると死んでしまうとか、普通に怖くて体が痺れそうなものまであると思うんだけど……だよね、やっぱ君の母校にもあるんだね、ちょっと安心したよ。  いや、実はね、「怪談は心臓にも教育にも良くないから、社会的に規制しよう」「怪談は忌避すべきもの」という空気が出来てきてて、いや、それはあんまりに過保護すぎないかと思って常識を確認しに回っていたところなんだ。協力してくれてありがとう。  お前は突然何を言ってるんだ、って、そりゃあ、この法律の肝心要はこういうことだからね。すべての法・慣習の上に立って、国民のコンセンサスのもと、健康や教育を阻害することを排除��るのが目的だし、それは僕だって面白いからやっているんだけど。残業も、セックスワーカーも、深夜の放送も、大人数の集まるライブも、そりゃあそこで何かあっちゃ困るから、『国民の民意』のもと全ては消滅したけれど、それでいいんだよ……もっとも、満員電車だけは無くならなかったね。  ──え? 『怪談も、仕事も、統計も、全て社会に対して有害で、包括的で社会的で規範的で現実的で基本的な法則に則る限定的で自然的で背徳的で幻想的で特異的な施行法に反しているらしいよ』って、君も悪い冗談を言うようになったねえ。大体、それなら君は仕事に行こうとしているんだから、君も捕まらなくちゃいけないじゃないか。  さすがに、魑魅魍魎の島送りだけは勘弁だよなあ、ヤニだらけの天井でアル中どもがどんちゃん騒ぎ、朝から晩までパチンコ狂いの暴力男がのさばってるんだろう? しかも、人がところ狭しと敷き詰められちゃったあの島には、僕たちが置いていった古い時代の悪習が全て詰まっているじゃないか。残業もいじめも機械への奉仕もあの島にはある。人間的に終わりだよ、あんな島に行ってしまったら──。  ……君、本当に冗談はよしてくれ。『冗談は人に虚構を意識させることになるから、社会に対して有害で、包括的で社会的で規範的で現実的で基本的な法則に則る限定的で自然的で背徳的で幻想的で特異的な施行法に反している』って、ほとんどさっきと言ってることは同じじゃないかい? しかも、『反論は人に疑心を抱かせるので、社会に対して有害で、包括的で社会的で規範的で現実的で基本的な法則に則る限定的で自然的で背徳的で幻想的で特異的な施行法に反している』って、僕に何も言わせないつもりじゃないでしょうね。まさか、貴方様こそが本当の審議官とは知らずに無礼な言葉を使ってしまい、申し訳ありませんでした。  後生ですから、あの島に私を連れていくのは思いとどまっていただけませんか、私には家族もあります故まだ死ねないのです。『お前もあの島に行って、同じように堕落するんだ。しかしそれが人間的に許容されないことではない。この社会にはそぐわなかっただけのことだ』なんて、そんな手厳しいこと……。
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