Tumgik
derspericher · 14 days
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砂と骨 #Saipan-Commonwealth of the Northern Mariana Islands
今回は、計4回のうちの使節団の話の最後になる。なぜ4回目がないかというと、4回目はアジアのある国へ行き、現地のレストランで食あたりを起こし、ほぼ寝込んでいたため記憶がない。というか、私はアジアの国々に行く度に私は食中毒になり寝込んでいる。もうアジアに嫌われているんじゃないかとすら思う。出身地なのに。ということでこの記事の後は、使節団に関係のない、大学以降の旅行記に入るつもりだ。
3回目の使節団の渡航先はサイパン。多分中学生だったと思う。部活を休んでわざわざ行った。研修中、半年かけて数名の研修グループの子に馴染むこと自体が大変だった。
サイパン渡航にあたって行われた事前研修は、他の3回に比べると、内容が濃いものだった。今となっては南の島のリゾート地として名前が挙げられる場所の一つだが、太平洋戦争の激戦地でもある。前々回の記事に出てきたパラオは、サイパンでの日本軍とアメリカ軍の激戦とほぼ同時期に大空襲などに遭っている。サイパンでの激戦では日本軍は死闘の末に全滅、後にこの戦いは海上でのマリアナ沖海戦へと繋がった。研修の際はサイパン・パラオ・フィリピン・グアムでの激戦以外にも、ルワンダ虐殺のような一見少し遠くも見える他国の悲惨な歴史も織り交ぜて、戦争を起こす人間の共通点から、人間の残酷さを習った。戦時中の衝撃的な写真を何枚も見た。そのような写真も、史実も、中高の歴史の教科書には載っていなかった
半年の研修を終え、いよいよ現地へ。最初の2日は戦跡学習、その次の日は学校を訪問、そのまま現地の方の家へ2人1組でホームステイを1泊させてもらい、最終日はビーチで遊泳後、帰国、といった流れだった。
戦跡は、スーサイド・クリフ、バンザイクリフ、ラストコマンドポストを回った。
先のスーサイドクリフ、バンザイクリフとは戦時中にそこから多くの日本人がアメリカ軍への投降を拒否し、身を投げた崖を指す。日本兵と共に現地に暮らしていた日本人、現地民のチャモロ人がアメリカ軍の侵攻に対し、山、もしくは海の二手に別れて逃げていった。山へ逃げた者はスーサイド・クリフと呼ばれる崖へ、海へ逃げた者はバンザイクリフへそれぞれ追い詰められ、自決を選んで次々と身を投げた。スーサイド・クリフの崖の下にはタガンタガンと呼ばれる植物が生い茂っているが、彼らの遺体を隠すためにアメリカ軍が散布したものだ。この植物は他の島々の激戦地にも散布されている。バンザイ・クリフは名前から推察できるとは思うが、「天皇陛下バンザイ!」と言って飛び込む日本人たちの姿から付けられている。多くの犠牲者への慰霊碑がそれぞれの崖に建てられていた。スーサイド・クリフには、おそらく他の海外ではあまり見られないであろう、菩薩様の背中に十字架が立っている。この戦争で悲しい犠牲を払ったのは、日本人だけではない。アメリカ人、現地民もだ。
ラストコマンドポストは、名前の通り日本軍最後の司令部が置かれた場所だ。点々と置かれた戦車や大砲を見ながら、ガイドの人から「戦車にある小さく切り込みの入った監視用の穴を覗いてみて」と言われ、覗いてみた。なるほど、小さな切り込みだが、思ったよりもしっかりと見えるものなのだな.....と感心したのを覚えている。
戦地学習の次の日、現地の学校訪問をした。午前中に簡単なレクリエーションをした後、午後にはもうホームステイ先の家族が迎えにきて、私ともう1人の参加者をお家に連れていってもらった。カトリックのお家で、ご両親と姉妹2人の4人家族だった。お家に招き入れてもらってまず見えたのはたくさんカトリック関連の置物とそれを囲むキャンドルだった。その後ろには赤い土壁があり、子供ながらに「美しいな」と思った。宗教的な雰囲気は全く感じなかった。ホームステイ中は英語での会話が主だった。もちろん辿々しい英語だった。ちなみに子供部屋は、リビングのおしゃれさをぶっ飛ばすほどのグリーンバックの壁だった。あの部屋ならいくらでも映像撮影ができる。目がチカチカする部屋の中で、4人で寝っ転がってゴロゴロした。
ホームステイ1日目の夜は皆で映画館へ行き、当時まだ日本では公開されていなかった『トワイライト』を観た。映画館まで車で送ってもらい、館内へは子供達だけで入ったのだが、『トワイライト』のシアターに座るまでの間に、ホームステイ先のお姉ちゃんがいろんなシアターを覗きに行って「これじゃない」「これも微妙」と座ったり立ったりを繰り返した。日本ならあり得ない行動に少し困惑したが、『トワイライト』のシアターに入りやっと落ち着くことができた。上映途中、ジョークのシーンが続き、後ろの客席がゲラゲラワイワイしだし、「日本とは大違いだな〜」と悶々としながら観ていると、隣で観ていたあのお姉ちゃんがガッと後ろを振り向きクソデカい声で「シャラァァァァァァップ!!!!!!!!」と叫んだ。ヒュッと息が詰まった。それ以降の記憶はない。映画の内容も何も入ってこなかった。
ホームステイ2日目は、ビーチへ連れていってもらった。車で海まで向かい、道端から小さな草むらをかき分けて進むと、パッと海が広がった。あの時、草むらの向こう側で「海だ!」と言って振り返ったお姉ちゃんと妹の笑顔と、それまで見たことのなかった海を、たまに思い出す。海の沖で波が打ち合っている。打ち合っている波の手前側はエメラルドグリーンで、向こう側はブルーだった。不思議だな、と思いながら見惚れていた。こんなに覚えているのは、草むらを抜けたとき、よほど気持ちが良かったんだろうなと思う。
海から帰る途中、サイパンの地図が書いてあるグレーのTシャツとサイパンのお守りであるボージョーボ人形をお土産にくれた。もう1人の子はTシャツを「ダッサw」と言って嫌がっていたが、私はこの家族がプレゼントを用意してくれていたこととても嬉しかったし、帰国してからも度々着ていた。のに、思春期だったからその日は「ねwダッサw」と返した。ちゃんと中学生だったな。
最終日、一番楽しみにしていたホテル横にある人気のビーチへ行き、エメラルドグリーンの海へみんなで飛び込んだ。スイミングをすでに6年習っていた私は、クロールで沖へ沖へと、得意げに泳いでいった。気分が良かった、が、その途中で気づいてしまった。海底に黒い何かが大量にいる。深いところに行けば行くほど黒い何かがいる。すーっと潜って近づくと鳥肌が止まらなくなり、たまらず浜へ逃げ帰った。ナマコだ。見渡す限りのナマコ。綺麗な海だからこそいるナマコ。無理。キモすぎ。キモすぎる。結局私は浮き輪に身を委ねてぷかぷか浮いている研修生の友達に手を振りながら、浜辺の砂をいじっていた。あれ以来、サイパンと聞いて真っ先にナマコしか頭に浮かばなくなった。
こんな感じで、割とドタバタとサイパン研修を終えた。戦跡学習は事前知識もあったことからより深く記憶に刻み込まれ、なんやかんや今のところ、ホームステイはあの1回しか体験したことがないが、言葉が通じなくとも楽しかった。ナマコの海は正直もう行きたくない。中学生らしい、よき研修旅行だったなと思う。
帰国後、『怪談レストラン』を何かのタイミングで手に取り、イパンの砂を持ち帰ろうとした子供が、夜中に日本兵たちの霊を見た話を読んだ。そうか、あの島のビーチにある白い砂には骨が混ざっていたのか。なんとも言えない気持ちになり、あの海で眠る人々のことを少し考えたが、怖くなって辞めてしまった。
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derspericher · 15 days
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心に従う #Russian Federation
2回目の友好使節団として、ロシアのとある東地域に位置する都市を中心としたロシアのサマーキャンプに参加した。私は当時やっと6年生になろうとしていた頃だったように思う(定かではない)
そこでは一週間ほど現地の子供とサマーキャンプを楽しんだ。私は今でも、当時サマーキャンプに参加していたロシアの子供たちからもらった文通用のアドレスが書いてある紙切れや、男の子がくれた美しい木製の十字架の数珠を大事に持っている。文化交流の一環として覚えたロシア語の歌は、今でもそらで歌える。「カチューシャ」という歌で、古くから海外版として世界で親しまれているロシアの歌だ。日本語版もあり、私の祖母が歌っていた。カチューシャ、というのはヘアバンドのことではなく、ロシアの女性名だ。カチューシャが出征した恋人への想いを歌っているというもの。
出征。もう2年ほど続いている、悲惨なウクライナ・ロシア間での大規模な戦争が頭によぎる。今思うと、当時は政治的なルートを回りながら文化交流をしていたようにも思う。サマーキャンプでひとしきり交流した後日、キャンプとは別で日程が組まれており、その日はまずロシア正教の美しい教会へ行った。私が初めて仏教以外の宗教に触れたのは、この時だった。そのことに関しては今も昔も違和感はないが、その後、宇宙飛行士で有名なガガーリン像を横目に、私たちはなぜか軍用機に乗せられたことは謎だ。あの日の曇った空と、訳もわからず乗せられていった時の興奮が思い起こされる。「軍用機なんて滅多に乗れないんだから!」とワクワクしていた。子供は単純だ。いまだになぜ軍用機に乗せられたのかが疑問ではあるが、この世界情勢を見るに、あのツアーですら、政治的な活動だったのかもしれない。
それでも結局、ロシアと言われて目に浮かぶのは、交流した子供たちだ。サマーキャンプ中、何を話したか詳しくはもう覚えていないが、彼らは優しかった。たくさんのチョコレートをいろんな子供たちから毎日のようにもらった。最終的に、リュックの中はほぼチョコレートで埋まっていた。私の腕にみんなの名前をロシア語でマッキーでサインしてもらった。みんなの腕にも私の名前を書いた。嬉しそうにそれを見せている写真が残っている。サマーキャンプ中に私のガイド役でバディとなった綺麗な女の子から、確か好きな男の子の話を聞いた。真っ赤に頬を染めながら話してくれていた。うんうんと聞いていると、帰り際に緑色の四角い宝石が並んだブレスレットをくれた。どうやってその話がわかったのかは、今はわからない。多分英語は話していなかった。でも確かに、私はその子とコミュニケーションをとった。ブレスレットは、その証のような気がしている。
そういえば、後にも先にも、一番おいしかったマッシュポテトはこの時にみんなで食べたマッシュポテだ。私の好物の一つでもある。
最終日はみんなでキャンドルを囲みながら、それぞれ、今回のサマーキャンプの思い出を順番に話した。たった1週間ほどのサマーキャンプ。それでも子供たちは「友達」に確かになっていた。なぜか寂しい気持ちになり、互いに涙ぐみながら話した。どうやってそんなに仲良くなったんだろう、と今でも不思議に思う。思春期ほど「友達って何?」とか考える頃だっただろうに、紛れもなく「友達になれた」と思っていた。この時のことを思い出すと、「言葉の壁」とは本当にあるのだろうか?と考える。
私には、ロシア人とウクライナ人、両方の友達がいる。どちらも互いを批判しており、その意見を聞きながら、あのサマーキャンプを思い出す。政治家のマネーゲームに踊らされていくのが大人だとしても、彼らもまた、私と同じように子供だったんだよな。あの頃会っていたら、彼らも友達になれたんじゃないか。そんなことを考えるととても悲しくなる。
話はさらに少し変わるが、数年前にポーランドのアウシュビッツ収容所を訪れた際、現地に住む唯一の日本人ツアーガイド中谷さんから「縞模様のパジャマの少年」という映画をおすすめされた。収容所に入れられた子供と、収容所を仕切っている大佐の子供が、フェンス越しに仲良くなってしまう話だ。幼な子たちは、どんな戦火にいても、心は柔らかい。友達になってしまう。いつ、どの時点でその柔らかさを失っていってしまうんだろう。私ですら失っている気がする。なんとなく思うのは、私は「疑う」ということを覚えたからだろう。危機���理能力から成る疑心暗鬼は、大人になれば大抵の人間が持っている。ほんの少し遊んだくらいでは、私は「あの子、友達だよ」と言い切ることができなくなってしまった。
あの頃出会った「友達」は、今日、どんな目で世界を見ているのだろうか。信じることも疑うことも、思春期に差し掛かった私は忘れていたのか覚えていなかったのか、思うがままに振る舞い、彼らとひと夏の思い出を作った。
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derspericher · 15 days
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旅に出る理由 #Republic of Palau
初めてこの国を出たのは、まだ小学生の頃だった。
私は子供の頃、市の友好青年使節団の研修へ参加し、主に日本と戦時中に関わりがあった幾つかの国々を訪れた。友好青年使節団の渡航準備は、まず半年をかけた研修から始まる。定期的にフォーラムに参加し、渡航先と日本がどのように関わり合っていたのか、彼らの文化はどのようなものなのか、戦時中何が起きたのか。事前に相手の国へ行く目的をはっきりさせてから行った。文化交流の一環として、相手の国民的な歌を覚えて合唱曲を互いに送り合ったり、時にはホームステイもした。「言語の壁を越えていく適応力」と「互いの歴史的・文化的背景を知り、多角的な視点を持って相手に歩み寄ること」をここで着実に学んだように思う。
そして私が使節団として渡航した最初の国が、パラオ共和国だ。
パラオは西太平洋に位置する、500以上の島が集まってできた共和国だ。日本とは歴史的な関わりが非常に深く、第一次世界大戦後に日本の統治領土として一時的に統治されていたことが大きく影響している。(パラオ共和国の国旗は、日本の国旗のオマージュとも言われているが、製作者は否定しているとのこと)パラオ語の中には日本語が混ざっていることで有名だ。
私はパラオ無人島体験のプログラムに参加した。参加時はもちろん戦地学習としてぺリリュー島などの激戦地には行ったのだが、無人島で過ごした時間が衝撃的すぎて全く覚えていない。大人より子供の多い無人島サバイバルツアーが組まれ、今となっては考えられないようなプログラムが組まれていた。子供達のメンバーはうろ覚えだが、明るい子、教室の隅にいるような子、不登校の子、など、決して外交的な人間だけが揃えられたのではなかった。大人はマジシャン、理科講師、主催者、現地のツアーガイド数名だった。「理科」「エンタメ」「現地民」「計画者」、そしてさまざまな性格の子供たち。今思うとほぼ漂流教室だ。やばすぎる。
プログラムがスタートしてパラオのコロール市に数泊した後、小さな無人島へ皆でボートで向かった。日中、干潮の時間に水の中をじゃぶじゃぶと歩きながら島へ上陸したのを覚えている。足元を見ると、白い砂浜を米粒ほどの小さなヤドカリがウヨウヨと歩いていた。島に入ってすぐ見えるヤシの木には、前年度のプログラム参加者が作ったお手製の木のブランコがかかっていた。
無人島生活は、まずシュノーケリングから始まった。小判鮫がウヨウヨいる海を泳いだ。ずっと向こう側まで澄み切っている海を泳ぎ、横をスイスイと泳ぐ魚たち、とサメ。サメサメサメ。サメばかり。とはいえど、小判ザメだ。人間を襲いにくる様子もなく、ちいさな群れを成して悠然と泳いでいた。最初は怖くて仕方がなかったが、何もしてこないとわかると俄然楽しくなったのを覚えている。
午後はテグスと小さな針のみで魚釣り。釣った魚はその日の晩御飯になると聞き、みんな果敢に挑戦し、小判ザメを釣ったり、小さなミノカサゴを釣ったり。「食べなければ生き残れない」という無意識のもとで命を獲り、それを食べる。今思うと「人間という動物」らしい瞬間だ。海に生きとし生けるものと一つになって泳ぎ、その群像の一つを食べて生きる。そんなサイクルを体感した。
日が沈んだ頃、壁のない木の小屋に集まり、釣った獲物の鍋を突いた。マジシャンがマジックを披露していた最中、その向こう側からふらっと現れた巨大なヤシガニに一同騒然とした。ヤシガニはマジックのタネではなかった。ガイドが木の枝を使って捕まえて、理科講師が「ヤシガニのハサミは人の親指をパチンと切る」と言っていた。鍋で煮て食べた。捕食者でよかった。私の指は残った。ヤシガニのハサミは美味しかった。
ひとしきり食べ終わった後、みんなで浜辺で焚き火をした。ここで理科講師「おじい」が星の名前を教えてくれた。一つも覚えていないが、南十字星という、南の島でしか見れない星が稀にあることだけは覚えた。私たちは見ることができなかった。
あの時、まだ10代になったばかりの子供達だったが、焚き火を囲みながら、夜なべして将来の話をしていた。6年生の男の子がすごく悩んでいたような気がする。そのあとは硬い木の床にみんなで雑魚寝した。お風呂なんてもちろん入っていない。肌が砂でざらつき、湿気でベタついていた。風を感じた。月が大きかった。『時間』という概念を忘れていた。何もかもが自然の流れと共にあった。
夜明け、とんでもない光に照らされて起き上がり、理科講師おじいを起こした。「あれは何?」と聞いた時に「あれはね、朝と夜の間にしか見えない金星という星だよ」と教えてもらった。金星が朝陽の限りなく近くにいたからなのか、眩しくて仕方がなかったのを覚えている。その光を、いまだに、確かに、私の体は覚えている。
思い切り自然を楽しみきった私は、無人島から帰る時、「帰りたくない」と駄々をこねた。ガイドさんに「残るか?」と聞いてもらったのを覚えている。育てていたポケモンのたまごなんて、もうどうでも良くなっていた。「ここがいい」と思っていた。泣く泣くホテルに帰り、夕方にレストランで食べたコウモリのスープは、シャケの味���した。ホテルに帰ってベッドで寝ても、食事だけは相変わらずビーストモードだった。
パラオでの無人島体験は、地球と邂逅した時間だった。
当時、日本の児童館でPCで毎日フラッシュ倉庫やYouTubeを漁っていたザ・インターネットキッズの私にとって、すでに情報の海はみじかなものであった。タイピングも上手くなってきた頃、全ての電子機器を置いて無人島に行った私は、人間社会の皮を被っていない地球そのものに完全に魅せられてしまった。
インターネットは今でも大好きだ。今はさまざまな情報をもっともっとインターネットで簡単に得られる時代。なんだって知ったような気になれる。
でも如何せん、地球は大きく、広く、丸く、そして変化し続ける命だ。その未来には私たちと同様、死が待っている。四角いフレームや文字の羅列で切り取れるようなサイズの事柄は、最初から世界にはない。知り尽くせない文脈が、地球の血脈だ。毛細血管の如く地球上にぐるぐると広がっている。本物を知りたければ、自身の身体を持って、本物に触れなければいけない、と、私は思う。そのアクションはとてもパワーがいる。エネルギーがいる。ただその分、私の問いに世界は言葉なく応えてくれる。
旅という行為に興味はない。私は、この世界に興味がある。この世界で起きたこと、起きていること、起きるであろうこと、その全てに、魅せられ続けている。遺跡、美術、絶景、人物、動物、エンターテイメント、文学、音楽、どれにしたって、「概要」を知っていても、本質に触れることとは知の獲得において、天と地ほどの差がある。本物に触れることで、真実そのものが伝わってくる。そしてまたひとつ、新しい感覚が、この体に生まれる。「そういうことだったのか」と、言葉にならない体験的な知の財産を得る。
この「知る喜び」こそ、私が旅に出る理由なのだ。
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derspericher · 15 days
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記憶装置
インターネットの大海は、人類終末期まで残るのかもしれない。その可能性に賭けて、私の記憶をここに残したい。特に忘れたくないことを、今や非日常となっていった日常を、かけがえのない存在を、うまく文字に起こしていきたい。
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