Tumgik
dadoi-dai-blog · 5 years
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無題
「死」というのは今までの僕にとって観念的なものに過ぎず、「愛」や「希望」のようにただ漠然と広がるばかりでそれ自体は重さを持っていませんでした。
しかし昨日の知らせを聞いてから、みるみると「死」が強い肉感を持つようになりました。生命活動を一夜にして止めてしまう、その現実的な力を思い知らされました。
「悔いのない人生を生きなければ」などと思わなかったわけではないですが、そんなことよりも「死」がこれほど近くにいたということに、ただただ驚きと恐怖を隠せません。
この文章は誰に届けようというわけではありませんが、顔の見えない誰かに聞いてほしくて書き出した僕のエゴです。ですのでこの場においては先方への言葉がけは避けようと思います。
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dadoi-dai-blog · 5 years
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おもちゃじゃないですか〜
一昨日は珍しく7時に早起きした。というか単純に5時に寝て2時間しか眠れなかっただけだ。やけに体が熱くて駅まで歩くのさえしんどくてしょうがなかった。
早稲田に着いたら土砂降りだった。最近はちゃんと折りたたみ傘を常備してるから濡れずに済んだけど、いつでも雨に降られるのは気分が悪い。むかし高校の友達が窓から雨を眺めるのは好きだと言ってたけど、内心うそつけ〜と思っていた。今でも思っている。
15分くらいで用事が終わって外を見ると嘘みたいに晴れていた。今年の夏はこういうのばっかだなあ。どうせまた降るんでしょ。案の定その夜に台風がやってきた。天気予報を見る習慣がない僕は後々それを人に教えてもらったのだった。
稽古まで時間があったので馬場のルノアールに入る。ここに来たのは去年の夏ぶりで、その時は東学祭の音響打ちだった。そしてその日は夜に東学祭を観に行くことになっていた。みんな偶然だった。
アイスミルクティーを頼む。かなりのホットドリンク好きな僕がアイスミルクティーを頼むことは滅多にない。だからガムシロップを使うのも久々で、思わず2つも入れてしまった。甘ったるさのなかで企画書と脚本を訂正加筆する。
利休かってくらいルノアールはサービスの緑茶を出してくれた。しかも冷めてきたら温かいのと取り替えてくれるという抜け目のなさ。だが実は僕は飲みかけのものを持っていかれるのが凄く嫌いな人間なのだ。自分のペースで飲みたいのだ。ちなみに飲みかけのグラスに勝手に酒を注がれるのもすごく嫌なのだ。でもさすがに持ってかないでくださいとは言えなかったのだった…
例の台風報道は稽古が始まるときに聞かされ、東学祭を観に行くか行かないかの選択を迫られたわけだけど、結局観に行くことに決めた。稽古場を出る頃にはまたポツポツと雨が降り出していた。
王子小劇場には去年ポテトサラダを食べに来たぶりだった。そういえばあのとき色んな人に会ったなあ。そこで知り合って僕の公演を観に来てくれた人までいたから行っておいて良かった。
雨の日のあの劇場って負のオーラが凄い。地下だからというのもあるけど、ロビーの色合いといい、音の響き方といい、鬱っぽかった。運営の人たちも気力を削られてるようにみえた。
僕が観たのはAブロックで最初の2団体は、このブログ読んでる人あんまりいないと思うからいうけど、辛かった〜。僕は興味がなくなると何も追えなくなってしまうので両者の上演中はただただ座っていることしか許されなかった。
そしてその片方の上演中は終始客席から嘲笑が聞こえていた。しかもそれは役ではなく役者に対する嘲笑だった。でも『ノーマル』の時のマウンティングっぽい笑いと違って、観客に不満は一切感じなかった。なぜなら役者が嘲笑われても仕方がないような演出がされていたから。上演後はかなり気分が悪くなった。
やっぱり台風に負けて大人しく家に帰れば良かったなあなんて思っていたところではりねずみのパジャマに救われた。いやもうこれは救われたという表現が本当に正しくて、Aブロックの中で演劇の光と影をみたようだった。『ノーマル』同様この作品についてもそのうちゆっくり感想を書きたい。
そのあとは台風の真っ只中を帰った。はりパがなかったら途中で力尽きていたかもしれない。そういえば2時間睡眠だったのでこのあとめっちゃ寝て…
起きたのが14時だった。今度はホットのミルクティーを淹れて飲む。さすがにお腹が空いてカルボナーラを作る。近頃はめっぽう牛乳を使わないカルボナーラにこだわっていたけど飽きてきたので久々に牛乳を投乳。美味しい。一回人に食べさせて本当に美味しいのかどうか知りたい。
脚本を書く。勢いは続いていて夕方まで書き続けた。にしてもいい加減終盤まで書き進めたい…またあせりが…でてきたので東京03のネタを観て落ち着く。キングオブコント2009決勝凄いよね。そういえば今年のM-1どんな感じなんだろ。この前のENGEIグランドスラムの和牛めっっっっちゃ良かったなあ。
ボーッとする。父親と電話する。ボーッとする。寝ます。おやすみなさい。寝れるかな。
本日のおすすめ動画
https://m.youtube.com/watch?v=QviSyZHMUn4
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dadoi-dai-blog · 5 years
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テイクイットイージー
昼頃に起床。バイトの日は出発時間ギリギリに起きる癖がついてしまった。所詮早起きしたところでバイトを控えていると何も手につかなくなるのだけど。13-21時半シフトだからそれなりに覚悟がいるのである。はあ…バイト変えたい。
家を出る。のんびりしてたら遅刻しそうになったので早歩きのさらに一段階上のやつ※で駅へ向かう。停車してる車の間を通って信号のないところを渡る。結局徒歩12分の道を8分でクリアする。※andymoriを聴くことでのみこのテンポをキープすることができます。
出勤。高円寺在住の同僚にコウエンジTシャツをいじられる。9月初出勤だったので先輩に新商品のラインナップを教えてもらう。といってもほぼ去年と一緒。ここで働いてもうすぐ2年か。2ヶ月に1回くらい楽しいけど基本的にずっとやめたい2年でしたね。
先輩からとある兄弟がひとりの女性を奪い合った話を聞く。結局その戦いは兄が勝利したらしい。おまけにそのまま結婚したらしい。弟も告白してフラれてたらしいがその心中やいかに。
昼休憩。普通に夕方だけど新しくできたハンバーグ屋さんがランチタイムだったので食す。サラダバーがやたら充実しててスープやデザートまで食べられる。サラダってなんなのかわからなくなる。ハンバーグは中の下くらいの味だった。
休憩明け、だいたい19時以降は店番がひとりになる。バイトに全部任せきりにしちゃうんだから凄いよね。ひとり好きだし別にそこに関して不満はないけども。閉店間際に畳み掛けるようにお客さんが来る。すべて捌くのみである。
帰宅。脚本を書く。昨日のいい流れが続いている。ただあせりだけがなくならない。まだまだやらなきゃいけないことがたくさんある。メンタル弱くなくてよかったぜ。
本日のおすすめ動画
https://m.youtube.com/watch?v=XH-Y56cfPYg
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dadoi-dai-blog · 5 years
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画像で。ドーン、みたいな。
目が覚めてしばらく動けない。手元で起床のテーマソングを選曲する。例のDown Townに決まる。今日もパスタモチベはなく、とりあえず紅茶を淹れる。タイティーには手が出せなかった。冷蔵庫にあった個包装の丸いチーズを2、3個食べる。微妙。YouTubeを見ながら1時間かけて頭を冴えさせる。
脚本が進む気がしてパソコンに向き合う。書き出す前にノートを参照して新しいストーリーの流れをさらう。またちょっと新しくなる…ごめんみんな…。やっぱりスラスラ書けた。しかも今作初の手応えがあった!この稿なら臆せず最後まで書き切れる予感がした。
満足して家を出る。そのせいか歩く姿勢が良い。良すぎてむしろぎこちない。絵に描いたような歩き方。一体どんな歩き方がスマートなんだろう…だんだん自分の体だけおかしなつくりをしているように思えてくる。
久しぶりに高校通学に使っていた電車に乗る。秋津から新秋津への乗り換え経路は、通る度に店の並びが変わっているような気がする。串カツ田中なんて前からあったっけ、それとも今やっと認識できるようになったのか。
三鷹に到着。ここの駅前はなんか嘘っぽくて好きになれないけど、少し歩いて落ち着いたところに出ればだいぶ居心地が良くなる。ただやたら暗い。いや暗すぎる。
劇場で予約してたチケットを受け取る。受付のお姉さんが4人もいてびびった。開場までの時間、腹を満たすべくコンビニへ向かう。人生初ではないかというフルーツサンドイッチを買って店内で食べる。概ね美味しい。でもひとつだけずば抜けて不味い具材がある。なんだっけこれ。なんの味だっけ。そうだ、これは保育園の廊下の味だ。
町田に住んでいた頃、なぜか保育園と暗い廊下でみんなが見つめるなか食べさせられたメロン。なぜあんなシチュエーションに置かれたのかは思い出せないけど、当時人生最大のプレッシャーを背中に受けながらメロンをかじり続けた。一体どうしてこんな目に。暗い道とメロンがそのトラウマを思い出させた。
いよいよ開場。整理番号は2番。せっかちなのと最前列に座りたいのとで2番。この劇場は良い最前列だろうか…悪い最前列だろうか…ドキドキしながら会場に入ると、目の前に半円形キャパの外壁がそそり立っていた。そのクィディッチワールドカップ感にやたらテンションが上がった。結局良い最前列だった。ステージ全体が見渡せ、首も痛くならなそう。ただ僕の座席に謎の水滴がちょんとついていて昨日の学会のことを思い出した。
犬飼勝哉『ノーマル』面白かった。あらすじにも映えにも頼らずあれだけ面白いのは凄い。犬飼さんの作品は登場人物がみんな魅力的。トランクスとか最高だった。まだまだ感想あるけど今はいいや。ただちょっとゲラ多かったなあ…しかも感じ悪いタイプというか…俺、笑ってまっせ的な…肌で感じた。アフタートークは微妙だったけど最後質問のフリして意見を言えたから良かった。トーク聞いててあれだけは伝えたかった。
戯曲を2冊買って劇場を出る。駅までの15分間、毎度のことだけどこれほど誰かに感想を話したい時間はない。でも結局ひとりで観劇するのが一番気楽で楽しい。たまたま誰か知り合いが同じステージ観てたら感想言い合えるけど、まず話しかけないよね。最近他の人の感想がかなり気になるようになったから感想ツイート検索してたんだけど全然見つからなかった。タイトルがノーマルなのがまたみつけづらい。残念。
本日のおすすめ動画
https://m.youtube.com/watch?v=t3vsU-DFkUM
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dadoi-dai-blog · 5 years
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いい歳してるけど 免許もないぜ
昼頃に起床。最近やっとまともなパスタを作れるようになったから毎日食べてる。でも今日はやる気がなくて紅茶一杯で済ます。安いリプトン。去年友達からもらった茶葉は大事に飲んでて未だになくならない。旅行土産のタイティーはまだ開封していない。明日飲もうかな。
家を出る。音楽を聴く。サブスク解禁した星野源を聴く。逃げ恥よりもっと前から星野源好きでしたというイキリを挟ませてください。でも逃げ恥観てないしアルバムもStrangerで止まってるという…。ところでDown Townめっちゃいいね。星野源以外の人にも歌ってほしい。小出くんとか。これは小出くん。
電車。本読んでたっけ。ボーッとしてたっけ。お客さんのことも覚えてない。
大学到着。くるめるの新人公演をゲネ観した。マチソワで別幕だから両方観る。とりあえずマチネ。差し入れ忘れた。ああいうのコンビニで買うとカッコつかないよね。
マチネ後に学会へ赴く。案内されたテーブル席に前のお客さんの食器が残っててめちゃくちゃ嫌な気分になった。早く片付けてくれ。スマホ見てても食器が気になる。そういうの見ると自分で皿を舐め回す想像とかしちゃうからかなりキツかった。油そば持ってきたときに片付けてくれた。
実は学会のスープシステムをよく理解していなかった。無類のスープ好きだというのに一切スープに手を出せていなかったのだ。という話を学会厨にしたらシステムの説明をしてくれた。そういうわけで初めてスープを飲んだ。見たまんまの味だった。もっと玉子かと思ってたのに。さっきから文句ばっかだな。
ソワレまで時間あるから部室で時間潰そうと思って向かっていると新人の男子たちとすれ違った。あとで聞けば学会に行ったらしい。今日はきっとそういう日なんだな。
部室に着くと急激に眠くなり横になる。部室寝ランキングでは上位に食い込む自信がある。OBになってから卒公観に来た時とか部室にでも寄って懐かしさ感じたりしようと思いながらYouTubeを開いた。YouTubeいい加減やめようと思ってアプリ消してるのにわざわざブラウザで見てる。その回のプテはしさんは少し調子が悪かった。
アラームにしてる音楽嫌いになるのはよくあるけど、ラベルも��っこう嫌いにならない?「1時にあゆむくんの写真」とラベリングされたアラームが18:40に鳴る。このあゆむくんの話はかなり長くなるからまたそのうちしよう。あゆむくんのことはまだ嫌いじゃない。
ソワレを観る。その前にコンビニで差し入れを買う。カッコつかない。でも喜んでくれてたから良かった。ただのチョコとただのビスケット。でもそれが好きな人絶対いる。僕もそのひとり。そういえば昔たっかいチーズケーキ差し入れしてくれた先輩いたけど、見た瞬間チーズケーキ苦手な人わりといそうでは?と思った。これはここだけの話ね。まあチョコ苦手な人もいるけど。
電車。本を読む。作家たちがどうやって文章練習してきたかを綴ったもの。相撲をテレビで見ながら批評を書いてた人の話と、戦時中エロ本にカロリーを奪われた人の話が印象的だった。けっこう昔の本だけどわりと面白い。
帰って夕飯を食べる。ふと藤井隆のことが気になって動画を漁る。人は誰しも一度は藤井隆に憧れる。少なくとも僕はめちゃくちゃ憧れてる。Oh My Juliet!いい曲だから聴いてみて。
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dadoi-dai-blog · 5 years
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概観
去年の夏から今年の春にかけて、僕に暑くも寒くもない生温い風が吹きつけていた。当たり障りのない言葉ばかり書き綴っては、やさしい音色の曲ばかり聞き流し、いつのまにか角の取れた平仮名がマイブームになっていた。
このままじゃいけないと思ったのは、僕と安倍首相の周りがイエスマンばかりだと気づいてからだった。少し前から世間はイエスであふれていた。世界のどこかに、それこそ平仮名で、「やさしいせかい」が築きあげられていた。僕は未だにそれがどこにあるのか知らない。
人々の思念によって「やさしいせかい」が作られていくうちに彼らは体を捨てた。体と共にイエスの対義語も捨てられた。彼らは如何なる時も肯定し、肯定される、やけに透き通った思念体となった。それは自然界にないような「うつくしい」透明色をしていたが、確実に自然の流れのなかで生まれたものだった。
ぬるま湯に溺れて目を覚ましたとき、僕はまだ動物だった。そして爪や鼻やペニスとの再会を果たした。それらはしばらくなかったことにされていた。水中ではたくさんの人が眠っていて、水面にはたくさんの水死体が浮かんでいて、さらにその顔の上には笑みが浮かんでいた。どうやら人類の夢をみているらしい。
人類の進歩と調和。だけど両者は同じベクトル上にはなく、調和は後退をもたらした。人類は後ろ向きで破滅への道のりを歩きはじめた。それはいかにも平和だった。しかしあまりにも平和で人類はそれが進歩だか後退だか区別がつかなくなっていた。
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dadoi-dai-blog · 5 years
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詩、それはポエみ。
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青空 星空 チープな絵みたい
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やさしいせかいで あなたもあたしも
いないもどうぜん
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伝わらないこと 言いたいのなら
アラビア語でおk
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バズりたくない 人殺し
ぶんぶんぶん ハエがとぶ
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ゲロ吐く夜 ほんとはプレゼントがあるんだ
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近所のニート 花に水やってた
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2日前に部屋で見たアリ
今はどこにいるんだろう
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dadoi-dai-blog · 5 years
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みてるー?
こんばんは。もうすぐ朝4時です。定期的に昼夜逆転する僕です。良くないと思ったのでとりあえずTwitterは休むことにしました。今ついでにYouTubeのアプリも消しました。まずはできるだけスマホを見てる時間を減らそうという魂胆ですがこうしてTumblrしちゃってます。でも毎日やる気力はないのでそのうちこれもやめることができると思います。早ければ明日にでも。僕は意思が弱い人間なので自分が変わるためには自分を変えるよりも自分の環境を変える方が有効です。でも1日3回だけオンライン対戦ができる将棋アプリだけは残しておこうと思います。
読書と映画鑑賞の頻度が落ちました。演劇に至っては1ヶ月に1回観ればいい方です。でも演劇から離れたいとは思っていません。むしろ次の公演の準備を進めています。脚本も書いています。が、今までに比べて圧倒的に書き進むスピードが遅いです。理由は二つあって、ひとつは単純にアイデアが思い浮かばないからで、もうひとつは精神的余裕がないからです。前者はいつものことで時間が解決してくれる気がしているのですが、問題なのは後者です。やらなきゃいけないことが多過ぎる。目の前の具体的なタスクとしてはそんなに多くはないのですが、タスクの先にあるそれぞれの目的が大き過ぎてひとつひとつにだいぶエネルギーを持っていかれます。今までは演劇とたまに勉強をがんばっていれば良かったんですが、今は演劇と勉強と就活とそれに伴う将来と、そして世の中に対しての何かしらのアクションをがんばらなければいけない、ということに自分の中ではなっています。最後のが最も重たくて最も答えのみえない目的です。
世の中が悪い状態にあるのはもっと前から知っていたことでしたが、それを実感したのはつい最近のことです。そして今までのように心の中で得体の知れない何かに甘えているようでは状況は悪化する一方だと感じました。もっとストイックにならなきゃいけない。けれど意思の弱い僕がすぐにそうなれることはなく、自分の欲求にバレないようにこそこそと環境を作り変えていくか、あるいは欲求が太刀打ちできないほどに強力に環境を変化させなければなりません。ここでこれを宣言しておくこともささやかながら環境に変化をもたらすかもしれません。そしてこれを誰かに伝えておくことも。Twitterは休んでるのでこの文章を拡散することはできませんが、たまたま誰かがここを覗きに来ることに期待してこの文章を残します。
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dadoi-dai-blog · 5 years
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詩、それはポエム。
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1ミリも さみしかないし おならした
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田中さん ペットの名前も 田中さん
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誰だろう あれ、あの構え、 誰だろう
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美しい人 スネ毛が一本も ない人
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お〜れ〜はジャイアンっ!ウルトラソウっ!ハイ!!
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草生えて 草草生えて 草生えぬ
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アメニモマケテ カゼニモマケテテ マジワロタ
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dadoi-dai-blog · 5 years
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う、う、運命…うっ…
こないだ所属してる演劇サークルの新入生向けお試し稽古を担当した。「新入生にもっと台本読ませたげて〜」という友達の言葉の影響もあって、参加者のみんなにひたすら台本を読んでもらう回になった。演劇だけだととっつきづらいかなって思って映画、ドラマ、アニメの台本も用意してみた。ちなみにそれぞれ『時計じかけのオレンジ』、『古畑任三郎』、『君の名は』で、どれも演じやすそうなシーンを引用したから「作品らしさ」が全然でてなかった(笑)まあ、それが良いと思うんだけどね。モノマネはしてほしくなかったし。そして演劇の方は『出てこようとしてるトロンプルイユ』(上田誠)『ばいびー、23区の恋人』(池亀三太)『(次回公演の下書き)』(僕)にした。教えたいものは用意してなかったんだけど楽しくやっていくうちに色々発見があるだろうなって思ってたし実際そうなった。というかそうならざるを得なかった。まあ、お試し稽古で具体的にどんなことがあったかはここに書こうと思わないから書かないけどね。とりあえず楽しかったから良かった。みんなも楽しんでくれてたようにみえた。新歓向けのお試し稽古じゃなくても、めくる会っていう現役代向けのワークショップでも気軽にできるなって思った。映画とかドラマとかの文字起こしは大変だったけどねえ…。
こんな感じでお試し稽古はあるし、他劇団の新歓公演も観に行ったし、うちの新歓公演の稽古も進んでるみたいだし、新歓だなあって感じ…それはつまり入団意思決定日も近づいてきているということ…そう…そうなんです…それでね…僕ね…ずっと気になってたことがあるんです…新歓に関して…ということになるんですけど…高校の部活とか…演劇以外のサークルとかでは…あんまりみかけないんですけど…大学演劇になると…新入生って…新入生って…すごい運ばれないですか…「○○に入団する運びとなりました」…って…すんごい言わないですか…いや正しい表現なんですけどね…でもね…なんでみんなそれチョイスするんだろうって…なんでそんなに運ばれたがるんだろうって…それまでの人生で一度も運ばれてこなかったでしょって…普段の口調からはあなた運ばれそうにもないでしょって…というかさも自分が何者かに運ばれたかのようなそぶりだけど運んだのはあなた自身でしょって…真犯人はあなたでしょって…真実はいつもひとつでしょって…いや正しい表現なんですけどね…ただね…またみんなが一斉に運ばれだすあの日がくると思うとね…そう出荷日がくると思うとね…すごくタチの悪いワクワクがね…僕の中でね…
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dadoi-dai-blog · 5 years
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お久しブリーフ!
久しぶりにちゃんとやることやって安心して寝れると思ったらやっぱりこういう日に限ってなかなか寝れないもんで。最近は就活とか大学とか公演の準備とかでバタバタしててやっとこさ映画とか演劇とか観る余裕がでてきたんだけど気づけばしばらくこのTumblrをほったらかしにしていた。まあ、見た感じそういう人ぼくだけじゃないけどね。『レディ・バード』とか『アメリカン・スナイパー』とかTwitterでもチラッと言った『ブラック・クランズマン』とかめっちゃ良かった映画たくさんあったんだけど(中黒ばっかだな)、頭の中がいろんなことで混沌としていて書いてもしゃあないなってのがあったんで感想書いてないです。演劇もね、これしか観てないけどマチルダアパルトマン良かったです。作品も良かったし公演も良かった。あと演劇ってたまに行くくらいが自分には良いんだなって思った。まあそんな感じでまあまあ楽しい感じでやってるんだけど、一方でけっこうでっかい悩みを抱えてしまっていて、ただこれTwitterとかでいうと哲学マンみたいになっちゃう気がして、まあ別にそれでもいいんだけど、とにかくここでいいますけど、
「悪いことするのって悪いことなのか?」
っていう疑問がけっこう自分の中ですくすく成長しつつあるんですよね。前からうっすらと善と悪については考えたりしてたんだけど、ちょっと次の公演の脚本でそれについて書いてみようって思ってちらちらっと勉強したんですよ。『悪について』って本があるんですけどそれ読んで。2冊。2冊(笑)同じ題名のね、2冊あるんですよ。1冊はまあ有名な『自由からの逃走』とか書いてるエーリッヒ・フロムのやつで、もう1冊が中島義道っていうたしか人の本で(うろ覚え)、まあ題名の通り悪について考察が色々書いてあるんですけど、その中でね、もうどっちの『悪について』だったかあやふやになってきてるんですけどたしか中島版の方でね、『罪と罰』について言及してるところがあるんですよ、ドストエフスキーの。マジ引用するのはめんどくさいんでテキトー引用するんですけど、
ラスコリーニコフ(『罪と罰』の主人公)は人を殺したことは後悔してなくて、なんで自白しちゃった���やろってことだけ後悔してる。彼にとっての罪は殺人じゃなくて自白だったんや!
みたいなのがあるんですよ、標準語で。でなんか結局悪いことってのは法律を破ることじゃないよ、ってのがまずあるみたいなんですね。あるみたいっていうかあるとは思ってましたけどねそんくらい。推理モノでも殺人犯がむしろ被害者よりかわいそうにみえちゃうこととかあるじゃないですか、あれとか?さらに結局のところ中島さんが何をいいたかったかっていうと、っていうか中島さんはカントを代弁してるだけなんですけど、悪というのは法律を破ることじゃなくて「自分の」道徳に反することだっていってるんですね。これはもはやカントの言葉を使った方が早いんですけど、人間の行為には「義務に適した行為」と「義務からの行為」の2つの見方があると。(義務ってのは社会的義務じゃなくて理性的存在としての人間の義務。これはそんなわかんなくても大丈夫です)前者が適法行為、後者が道徳的行為なんじゃないかってカントはいってて、特に後者「義務からの行為」=道徳的行為であるのは間違いないんや!っていうのを言おうとしてるのが道徳法則ってやつなんですね。その法則の中には「XならばYせよ」っていう仮言命法と「YならばYせよ」っていう定言命法があると。前者は��機と行為が見ての通り別物なんですね。で、後者は動機と行為がどちらもYで同じだと。カントは後者の定言命法にあてはまる行為が道徳的行為だっていってて、要は「お返しがほしいから太郎ちゃんに優しくする」じゃなくて「太郎ちゃんに優しくしたいから優しくする」が道徳的行為やでっていってるんですね。まあ、つまり聖人であれよ!ってことになるんですけどね。(ちなみに超人の概念はこれとはまた別やで!)今までのが導入でここから本題なんですけど、じゃあ例えば殺人がその人の道徳に反してなかったらどうなのよ?ってことなんですよ。もちろん法律的には、論理的には、文明的には、誰しもが殺人の悪さを主張できると思うんです。
でもそれって絶対じゃないよね?
だってその主張もあくまで人間の、しかも近代の文脈に則ってるだけで、もしかしたらパラレルワールドでは殺人が正当化されてる��もしれないじゃんか。かもしれないじゃんか…かもしれないじゃんか!ここまでハッキリと言葉にはできてなかったんですけど、このあいだまで悩みが一番深かったときはここですごい僕立ち止まって考えちゃってたんですよね。だからもういつ人殺してもおかしくないような(笑)うそですけど。でもこの先の進み方わからなくない?どんだけ論理展開しても意味ないわけだからけっこうきついんよね。でもカント中道ペアはちゃんと答え書いててくれたんですよね。
もうやっちゃうしかないよね。
っていう。つまり殺人が悪いかどうか見極めるには殺ってみるしかないよね。っていう。っていう。実際ラスコリーニコフがそうだったんですよね。人殺してええんちゃう?って思いながら人殺して、でもやっぱりその後耐えられなくなって、あ、俺、無理やん、殺人向いてへんやん、ってなっちゃったんですよ。だから殺人は彼にとって悪だったんですね。頭じゃなくて身体が受け付けないっていう。気絶とかしてたし。してなかったかもだけど。理性より直感で善悪を確かめるって発想ですね。だからカント中島曰く殺人したことがない人間が殺人を悪だというのはおかしい、ってことなんですね。これ聞いてじゃあ殺してみるか、とはなんなかったんですけどわりと自分にとっては十分な解答で、悪い気がしたら悪い、っていうスタンスが大事なのかもって思ってます今は。何が善なのか、何が悪なのか、ってなっちゃったときはこうやって判断してみるのもひとつの手ですよね。でも事故とか事件とか、同情とか憐みとか、叩きとか報復とか、いろんなことがいろんな軸で展開してる世の中なんでね、まるごと善かまるごと悪かの二択に分けるのはたぶん間違いなんですけどね、もっとミニマムな範囲でよかったら活用してみてください。※次の公演の脚本にはこんなややこしい言葉とかはたぶん出てこないです。
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dadoi-dai-blog · 5 years
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『羅生門』(1950)
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今まで黒澤明の映画を1本も観てこなかったのは、単純にその時代の日本映画にとっつきづらさを勝手に感じていたのもあるかもしれないけど、それよりも僕個人がもってるほんとにほんとに些細な黒澤明との因縁ゆえに、無意識に避けていたということがあるのかもしれない。
が、
秋学期に受講していた映画批評家の藤井仁子先生の講義でその時代の日本映画をみせられて、ほとんど違和感なく鑑賞することができた。そして偶然にもDVDデッキの故障により講義で流されなかった『羅生門』を偶然にもアマゾンプライムでみつけてしまったことで、ついに長年の因縁から解き放たれたのだった。
衝撃を受けた。
でもそれは新しい衝撃ではなかった。今まで映画を観て味わってきた数々の衝撃が、今度はまとめて最大級の衝撃となってやってきた。そんな印象だった。その衝撃がまだ吸収しきれてないということもあって何から書けばいいかわからないが、とりあえずは1.脚本、2.演出の順序で書いていこうと思う。
1.脚本
脚本といっても原作は芥川龍之介の『藪の中』(『羅生門』ではない)であるから、ほぼ芥川評みたいになってしまうかもしれない。
物語は雨の羅生門の下、木こりと僧侶が佇んでいるところから始まる。木こりは終始「わからない」と呟き続けている。そこに下人が加わり、木こりが「わからない」というある殺人についての回想が始まる。そしてその回想は、検非違使に召喚された殺人の当事者たちの証言によって展開していく。
思い出されたのは11月にF/Tの一環として上演された、バングラデシュの劇団ショプノ・ドルによる『30世紀』である。その作品も、法廷に召喚された原爆の当事者の証言によって物語は進んでいった。
事件当時ではなく、それから時間的な距離を置いた当事者によって物語が語られるこうした形式は、ブレヒトにはじまる叙事的演劇をそのまま体現したようなもので、観客に同化(感動)よりも異化(思考)をもたらす。でも演劇と映画では根本的に違う部分があり、ある時間をその時間のままに映像として表象できる分、演劇よりも映画の方が同化と異化の往復がしやすい。そして『羅生門』はその往復が見事だった。
作品の一貫したテーマとして「嘘をつく人間の恐ろしさ」がある。盗人、女、男、そして木こりはそれぞれ自分に都合の良い嘘をつき、結果的に事件の真相を撹乱することになる。盗人と女はまだしも、死してなお嘘をついているかもしれない男に対して、善としての人間を象徴する僧侶は「恐ろしい」とショックを受け、木こりの赤子に対する優しささえ疑ってしまうようになる。だが真に恐ろしいのは、彼らによって語られる嘘かもしれないシーンをみて観客はそこに同化(感動)してしまうということである。そしてそれと重なるように映画という虚構に魅入られている観客の姿が浮かび上がってくる。真理を追い求める僧侶は、真実を欲してすらいない観客をみて大いにショックを受けるだろう。
雨上がりのラストシーンではそうした疑わしき世界の中においても、真実の愛をもって生きていこうとする人間の様が希望的に描かれてはいるものの、どうにも「恐ろしさ」が脳裏を離れることはない。
2.演出
所作のひとつひとつに人間が動物であるということを思い知らされるような「荒さ」がある。特に人物の感情が揺れ動くとき、そこに間違いなく人間がいるのが分かる。現代演劇では「ノイズ」と呼ばれるものが、最も動物的に役者の身体に現れている。
殺陣にしてもそれは一糸乱れぬ美しい立ち回りでは決してない。盗人の回想の中での殺陣は「殺す」という感情に徹した殺陣であり、木こりの回想の中での殺陣は「生きる」という感情に徹した殺陣である。今まで観てきたどんな殺陣よりも見事なものだった。
特に後者の殺陣で弱さを露呈しながら逃げ回る盗人と男には、どのシーンよりも生命力を感じた。死刑囚が死刑執行の直前に水たまりを避けるのをみて、生きている人間の命を奪うことの重大さに気づいたというジョージ・オーウェルの話を思い出した。
一方でそうした動物的な「荒さ」とは対照に、自然的な「繊細さ」がある。例えば女の垂衣を揺らした風の中に、見上げた木々から覗く日差しの中に、動物的な人間の及ばない次元にある自然の圧倒的な美がある。あれほどまでに人間を撮りながら、同時に世界を撮ることができるのはこれまた見事としかいいようがない。
上演時間が88分だというのが信じられないほどに濃密で細かい時間が流れていた。今年もすでに何本か映画を観て、これからもまだまだ観るつもりだが、『羅生門』は頑として僕の中心から動かないような気がしている。
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dadoi-dai-blog · 5 years
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常識の囚人(とらわれびと)
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この春は演劇公演をする予定なのですが、実はそれとは別にあるパフォーマンスイベントに関わります。今日は池袋でその打ち合わせがありました。演劇ではないということで不安はあるものの、同時にその不安こそに面白さが潜んでるんじゃないかと思っています。
打ち合わせ後、時間があったのでみんなで芸劇アトリエウエストで開催されている展覧会『常識の囚人(とらわれびと)』を観てきました。これは東京朝鮮中高級学校美術部による展示で、会場には作者である生徒さんたちがスタンばっていました。『常識の囚人』というテーマには、誰かが決めた「常識」に現代人が囚われているんじゃないか、という問いが込められています。その問い自体が新しいというわけではありませんが率直にいって衝撃を受けました。
作品ひとつひとつに圧倒的なエネルギーを感じました。それはただ単に表現が力強いということではなく、作者のもつ表現者としての「問う」エネルギーが強いということです。「常識」への疑い、時には怒りといったものが作品に滲み出ていました。一部には在日朝鮮人に対する日本社会の「常識」を問うているものもあり、その作品には彼らが受けてきた暴力以上の「力」が備わっている気もしました。
「韓国と北朝鮮の歩み寄りに喜んでいるだけではいけないと思います。もっと現実をよくみないといけない」という動機で創作を行ったという生徒に「クラスとかで普段から政治や社会の話をしたりするの?」と聞いとみると「そういうことはあんまりなくて、自分はむしろもっとそういう話をするべきだと思います」と答えてくれました。また「美術部は展覧会を開いたり、いろんな人たちに触れる機会が多く、そのことが社会性の強い作品創作に影響している気がします」とも言っていました。その生徒の作品は、かわいらしい雲のようなわたの中を走る電車なのですが、バーコードを読み取ると動画のなかで電車がわたではなく、本の中を走っているというものでした。ポップなヴィジュアルでありながらもエッジの効いてる作品です。
一方で内省的な作品も多く見受けられました。そのなかで特に気になった作品が、ネクタイを巻いてつり革につかまるサイケデリックでやわらかそうな固体の絵でした。どうしても気になったのでまたまた作者の生徒を呼んでもらって話を聞いてみました。「これ何にみえましたか?」と聞かれて「さ、さつまいも…」と答えると「一応サナギのつもりなんですよね(笑)」と言われ「ご、ごめん(笑)」となりましたが、それがサナギであるということだけじゃなく、この作品は自分が実際にみた景色を絵にしたものだということも教えてくれました。「労働基準法が改正されたニュースをみた朝、通勤してる会社員のことが気になってたら、中央線の窓越しにつり革につかまるサナギが見えたんです。だから色合いもサイケデリックな感じで」それを聞いてなるほどと思い、僕のなかで一つの解釈が生まれました。「このサナギたちは労働基準法が改正されたり、もっと働きやすい社会になったら羽化するのかもしれないね」それを面白そうに聞いてくれました。その聞き姿からやっぱりこの生徒もあくまで作品のなかで問いを立てて、お客さんのなかで別々の反応がでてくるのを楽しみにしてるんだろうなと思いました。
打ち合わせの直後にこの展示が観れたのは偶然ではないような気がしています。というのも打ち合わせで頻繁に「問いを立てる」というワードがでてきたからからです。そして「展覧会でのお客さんの主体性」の話もたまたましていたという(笑)でもそうした偶然を抜きにしたとしてもこの展示からは強烈な刺激を受けました。14日まで池袋の東京芸術劇場でやってます。フリーカンパ制です。駅からも近いのでぜひ。こんなに人にオススメしたくなったのは久しぶりです。
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dadoi-dai-blog · 5 years
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M-1グランプリ2010 スリムクラブ
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M-1グランプリ2018を観てわけもわからず感動してしまった僕は、2001年から2017年のあいだに開催された全てのM-1を視聴するというM-1チャンピオンロードに繰り出したのでした。(現時点で2010年まで視聴済み)やはりいま観ても笑える漫才ばかりですが、なかでもシュールな漫才はときに新しさすら感じさせます。アマチュアからの決勝進出を果たした変ホ長調、計4回決勝進出のPOISON GIRL BAND、決勝最多出場の笑い飯などなど抜群の不安定さがクセになります。そして2010年に決勝進出したスリムクラブは群を抜いたシュールさでした。いま観ても異質。というかむしろ2010年当時に観たときよりも今回の方がそれを強く感じました。その異質さはスリムクラブ特有の時間感覚に由来します。
『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』をまず読みましたが、セリフとセリフの間に頻繁に挟み込まれる「、、、、」の理解に苦しみ、スリムクラブの人が喋るように読めばいいのか、などと悩みましたが、途中から人間の記憶の構造を俳優の肉体を使って詩的に表現しようとしているのだと勝手に理解し、それからは面白く読めました。
これは2012年岸田賞における松尾スズキの選評からの抜粋です。読んだときは「『、、、、』なんてただの『間』じゃないの?松尾スズキやっぱへんな人だなあ」と思っていました。でもいざ真剣に考えてみると「、、、、」が「、、、、」であることに違和感を覚えはじめました。そしてそれが「・・・・」ではなく「、、、、」だということに気がついたのです。それは「一定時間の沈黙」ではなく「不安定な言いかけの連続」なのです。日本語特有の読点は終わりのみえない沈黙ではなく、あくまで文の途中の区切りであり、来たるべき未来への予感なのです。執拗なまでのリフレインによって、テキスト上には現れてこないものを現出させようとする『かえりの合図、〜』では言えないものを言いかけることが重要であり、「、、、、」は最適な記号だったのかもしれません。
松尾スズキが指摘したように、スリムクラブの漫才も無数の「、、、、」に満たされていると考えることができます。彼らの漫才のなかで生まれる「間」は、多様な解釈を許容する沈黙ではありません。彼らは常に何かを言い���けようとしており、僕たちにはその何かを知る術がないのです。彼らは沈黙することで僕たちにターンを回すようなことはしません。常に何かを言いかけることで「ずっと俺のターン」を実現しているのです。そしてそのとき、言葉と言葉のあいだの時間でしかなかった「間」それ自体が、強い意味を持った時間として立ち現れてくるのです。
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dadoi-dai-blog · 5 years
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好き好き大好き超愛してる。(2004)
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ロックンロールは大好きだけど、長いこと権威にすがって生きてきた。ゲームはメインキャラばかり使うし、一見のラーメン屋さんでは王道メニューを頼む。そろそろ真面目に小説でも読もうと思って高校生の僕が手に取ったのは夏目漱石だった。思えばあの頃から権威への執着が強くなった気がする。変に自惚れてもいたんだと思う。その病気は大学に入ってからも治る気配はなかった。というかむしろ悪化する一方で、権威と認められないものを排除しようとすることまであった。だけど最近になってやっとその態度が時代遅れなことに気がついて、その病気を頭だけじゃなくて感覚でも嫌うことができるようになった。権威の後ろ盾がある大きなものだけじゃなくて、もっと些細で小さなものもみえるようになってきた。そんな僕が先ほど舞城王太郎を読み終えました。
それぞれの短編で一貫して描かれているのは「愛」ではなく「好き」だと思いました。すべての短編で共通して人が人を「好き」になっています。そしてその「好き」は特に「恋愛的な好き」を指します。だけど同時にどこかで必ず別の「好き」が顔を覗かせています。この本の中にはそんなたくさんの「好き」が存在しています。
「『愛』とか『勇気』とか、そういう言葉が嫌い」とある人が言っていたのを思い出しました。大きな言葉は大きなものを抱えてしまう。大きなものを抱えてしまうとき、小さなものを「みる」ことができなくなってしまう。知らない遠くの地でつらい思いをしている人を憐れみ、同情することができるのは「愛」があるからだと思うけど、その人を「好き」になるわけではない。なぜならその人を「みた」ことがないから。ニュースや噂でその人を知ることはできてもその人自身を「みる」ことはできない。もっといえば隣の人だって「みる」ことができているかどうかあやしい。だから隣の人を愛せても隣の人を「好き」にはなれない。
途中読んでいて、人を「好き」になるまでにはいろいろな条件が満たされなければいけないということを感じました。もちろんその条件は一定じゃないけれど、どの「好き」も無償のものではありません。それは犠牲だったり、覚悟だったり、エゴだったり、常に「好き」には何かが付随しています。そして「好き」が感情だとするならば、その付随するものたちは理性であり、論理であり、批評なのです。
だけどそんな「好き」の果てに「好き」とも「愛」とも違う何かがあるようにも思えました。それは例えば『光』『柿緒III』の中で描写(指摘)される「光」で、それは文中にもあるように「好き」という批評の手の届かない無償の何かなのです。それが無償の「愛」でないのは、それが誰にでも手に入れられるものではないからで、あくまで「好き」の地続きにあるものだからです。それは「好き」の個別性を持ちながら、「愛」の無償を兼ね備えた「超愛してる」なのです。
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dadoi-dai-blog · 5 years
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CAPTAIN FANTASTIC (2016)
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アウトサイダーの視点で現代社会の問題点を突こうとする映画ってけっこうありがちですよね。そのうちジャンル名なんかできちゃいそう。カウンター(カルチャー)映画とか?もしかしてすでに名づけられてるかもしれませんね。誰か知ってる人がいたら教えてください。(ちなみにさいきん個人的に観た『帰ってきたヒトラー』はこのジャンルに入ると思います。)今作もそんな映画のひとつといえるかもしれません。っていういい方は作った人たちにとってめちゃめちゃ失礼な気もしますけど、あくまでパッとイメージをつかみやすくするために括らせてください。
主人公となる家族は人里離れた山奥にテントをかまえて狩猟や焚き火をしながら生活しています。その自然回帰的な生活、しばしば行われる瞑想やヨーガ、ロン毛な楽器演奏あたりがどことなくヒッピーを思わせます。ここまではわりとあるあるなんですが、それに加えて彼らは父親の方針により「トレーニング」と呼ばれる過酷な肉体・戦闘訓練をしたり、難解な哲学書や理論書なんかを読んだりもしています。いわゆる完全無欠ですね。
ストーリー序盤で母親が街の病院で精神病(躁鬱病?)の療養中であることが明かされ、その直後に自殺してしまいます。家族が母親の死を受けてちゃんと動揺するところに、完全無欠でありながらもしっかりと人間性が見受けられます。仏教徒だった母親は死体を火葬することを遺言として残していましたが、その両親は自ら信仰するキリスト教の形式に則って娘を土葬することに決めます。それに反発した家族が山奥を離れて街へ向かい、母親の死体を火葬しようとするというのが今作の大きな流れです。ほとんど初めて見る街の景観や人々に皮肉を放ちながら一行は進みます。この辺の皮肉は鋭くはあるものの、消費社会を批判するという無難なものでした。というかこのあたりで「あれ?もしかしてこれってあのジャンルの映画ではないのでは?」と思いはじめました。
途中、家族は母親の妹一家の家に宿泊します。その一家はまさに現代社会における家族という感じで(といっても過度に俗悪には描かれていない)案の定、父親と母親の妹のあいだでいざこざが起きてしまいます。普通の映画だとここで母親の妹側が愚劣でどうしようもないくらいにみえてくるんですが、今作では観客が父親と母親の妹の両方の視点に立てるようにうまく仕掛けが施されています。ここにきていよいよ「あ、やっぱりあのジャンルじゃないぞ」ということになってきます。この映画は現代社会にアウトサイダーの���点を持ち込むだけでなく、アウトサイダーに現代社会の視点を持ち込もうともしているのです。これ後半の文だけだと西部開拓みたいになっちゃうんですけど(笑)前半の文をあえて一回踏んでるというのがミソだと思います。「他にもそういう映画あるのでは?」と聞かれると自信をもって否定はできませんが…しかしこの映画の視点の揺さぶり方は見事としかいいようがありません。母親の妹一家後も何度か視点を揺さぶられるのですが、どの瞬間も説得力不足や過度な肩入れがありません。
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dadoi-dai-blog · 5 years
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オフィスマウンテン『能を捨てよ体で生きる』12/8(金)20:00
山縣さんをはじめて生でみたのは三鷹SCOOLで行われた講演会のようなもので、今年の5月のことだった。誰かのツイートにもあったけど、山縣さんは口まわりだけじゃくて体で喋ってるみたいだった。言葉と体のリズムがピタリとハマってて、つい「セリフ言うのうまいなあ」と思ってしまった(笑)山縣さんは普通にそこで生きてて、思ったことを喋ってるだけなのに(笑)でも。最近けっこう思うことがある。それは生きてるはずなのに生きてる感じのしない人がわりといるということ。もう少しわかりやすくいうと、思ってることと言ってること(やってること)が違ってみえるということ。あくまでそう「みえる」というだけなんだけど、どうしてそう「みえる」のかというと、言葉と体がマッチしてないからなんだと思う。表情がぎこちなかったり、声をやたら張ってたり。(体というと身振り手振りだけに目がいきがちだけど、もちろんそこには表情や声も含まれる。というか僕は含める。)だから山縣さんが話してるのをみたとき、僕は山縣さんが生きてるのを実感した。
その生きてるという実感をオフィスマウンテン『能を捨てよ体で生きる』を観ながら感じていた。俳優が戯曲を演じるうえで普通にそれはひとつの到達点だと思う。でも今作のさらにすごいところは、目の前にいる俳優の体が現実のそれとはかけ離れているところにある。というか現実の体を、想像もつかない方向と速度でパッチワークさせながらその体ができあがっているようにみえた。サブリミナル的にときおり「あ!キョドッてる!」とか「うわ〜つらそ〜」とか感じる瞬間があった。でもそれに押しつけがましさがあるわけではなくて、あくまで僕の中からイメージが湧き上がってくる感じがした。だからめっちゃ疲れた。
だけど正直なことをいうと、ときどき押しつけがましさを感じることがあった。それは台詞のなかに山縣さんの思想がのぞいたときだ。俳優はそれを自分の言葉にして語っていたのかもしれないけど、僕はそこにどうしても山縣さんの姿を重ねてしまった。というかその向こうに山縣さんが透けてみえてしまった。そして終演直後にはなんだかみちゃいけないもんみちゃったなって思ったりもした。
でも芸術っていうのは観たあとに少しずつ考えがアップデートされていくもので、今はこう考えるようになっている。「どうして今回だけそれが気になったんだろう?」例えば、(例にしては意味深になっちゃうけど)『三月の五日間』を観たときに岡田さんは透けてみえるのにどうして違和感を感じなかったんだろう?それが気になっただけならまだしも、どうしてみちゃいけないもんだと思ったんだろう?もしかして作り手の思想なんてものは僕にとって毒か何かなんだろうか?
芸術は答えを導くのではなく、問いを立てるものだとよくいわれる(僕もそう思う)。でも中には問いを立てるフリをして答えを導く作品があるような気もする。いうなれば「答えまで導く作品」が。作り手の思想が毒ではないにしても、答えまで導くその力をすすんで受け入れようとは思わない。今作で僕は一瞬その力を感じたのかもしれない。でも逆にそれ以外の部分は純度の高い問いで満たされていたように思う。現に受け手としてめっちゃ疲れたし。というかそれが普通にすごくすごいことだ。
今はそんなところまで考えている。
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