Tumgik
chirinovel · 4 years
Text
NOxAyumu
Tumblr media
堀田歩
その日は、起きるのに少し苦労した。一度スマートフォンのアラームで起きて、エアコンを除湿でつけてぼんやりしていたらまた寝てしまった。前夜に寝付くまでラジオを聴こうと耳にしたイヤホンの紐が首にかかったまま意識が浮上してきて、寝ぼけながら一生懸命それを解こうとした。自分のんー、んーと唸る声で目が覚めてきた。古いアパートだから、上の階の忙しない足音が聞こえる。しばらく天井を見つめ耳を澄ましていると、豪快な施錠の音。
バタン、ガチャ。
もうそんな時間か。
エアコンですっかり冷えた腕をさすりながらベッドを出た。テレビを点けるとニュースが流れ、アナウンサーの真剣な顔を横目に耳だけそちらに向ける。
「えー、引き続き、昨日午後五時頃、○○県立第一高等学校で起きました、無差別殺傷事件の速報をお伝えしております」
ご飯はいいや、いや、食べられるかな。カップラーメンを食べよう。線まで水を入れて、電子レンジに入れて三分チンする。本当は、火花が散るため強く禁止されている横着だ。かつて友人に火事になるぞと言われて一時期やめたけれど、ついやってしまう。普通にお湯を沸かして三分待つことができなくなってしまった。
タバコも吸わない、彼女もいない、麻雀もやめたし、なるべく歩くし、お年寄りには席を譲り、未来ある青少年教育を担う。カップラーメンで電子レンジに火花を散らしたくらいじゃ、誰も怒らないでしょう。 
芯の残った麺は、割り箸には重たい。啜りながらノートパソコンを開くと、喚くようなファンの音が耳に付く。夜中電源を切らなかったから、熱がこもってしまったんだ。ああ、また熱がこもる季節になってきたんだな。それとも、パソコンの寿命かな。メールをチェックしようとすると、机の上のスマホが震えた。
「はい、堀田です」
「あ、堀田先生おはよー」
「おはよう、さやか。どうしたの」
「あのさあ、体育館開いてないんだけどさあ、今日男バスの顧問が当番でしょ」
「え、職員室行った?前田先生居ないの」
「居ねー」
「居ねー、じゃねえだろ。じゃあ前田先生に連絡して、今から行くから。女子バスケ部の皆さんもういるの?外練できる?」
「うん。私らはいいけどさ、なんか男バスの一年の子居るよ」
「二年来たら外周しといてって伝えて」
「了解。じゃーね、早く来てね、ほったちゃん!」
「こら」
通話を切って、前田先生に連絡を入れた。自分も行かなくては。一歩踏み出すと、胃の中でラーメンがゆらりと揺れた。いつもなら軽くかき込んで出ていけるところが、なんとなく立ちすくんだ。いやだな、変なことしなきゃよかったな。内臓冷えてるところに追い打ちを掛けてしまった。後悔しながら、手にした残りのラーメンを、全て流しの三角コーナーに捨てた。ヒゲ剃って歯磨きもして、夏は上着が無くてシャツのシワが目立つから、一番綺麗に見えるシャツを羽織る。パソコンに刺さっていたUSBを勢いよく抜いて、部屋を飛び出した。
なんだか嫌な天気だ。もうじんわりと汗ばむのに、思ったよりも、全然夏じゃない。途方も無く白い薄暗ささえある。SF映画に出てくる恐怖の惑星のセットみたいだな、と目を細めて見ていた。さあ、行かなくちゃ。頼りないエンジン音を聞きながら、サイドブレーキを降ろす。
学校に近づくと、ちらほら我が校の制服を見かけるようになる。顔を伏せ気味に車を運転し、中庭に停め運転席を降りると、体育館前であぐらをかいている山賊のような生徒たちが何人か見えた。先ほど電話をかけてきた、女子バスケ部員たちだ。俺が男子高校生ならば、その迫力に大いにおののいた事だろう。
「ちょっと、あんたたち女子高生でしょ」
「ほった、おはよー!」
「堀田先生」
「ほった、早く鍵開けてよ」
「お前らあんまそういうこと言ってると前田先生にご報告ですからね」
「え、やめてやめてやめて、ほんっとうにやめて」
「授業も同じだからな、今日は小テスト落ちないでよ。さ、じゃ、職員室に鍵取りに行くから、ちょっと待っててね」
「もうあと一時間しか練習できないんですけど!」
「ごめんって」
職員室は静かだった。普段あまり会話を交わさない年上の教諭や、コピーをせっせと取る非常勤職員がちらほら居るだけで、あとは二台の空調が部屋を冷やさんとごうごう音を立てていた。
今年の春に赴任してきて、三ヶ月。生徒の前では、当然他人行儀とか見知りとかなんて言っていられないし、慣れてなくても、教え子は愛情を持って下の名前で呼べば「そう言う感じ」の先生でスタートできるし、そうすれば先生の間でもあんまり目立たないし。上手にやれていた。無理はしてないし、仕方も知らない。抱えてきた荷物を自分の机に降ろせば、手の甲にひんやりと冷たい天板が触れた。
「おはようございます、あの、前田先生まだいらっしゃってないですかね」
校内の鍵は全て教頭先生の机の背面に管理されている。教頭先生に声を掛けると、眼鏡をずらしてこちらを見た。
「来てると思うよ。スクールカウンセラーのことで保健室の方に行かれてるんじゃないですかね」
「あ、なるほど。ありがとうございます」
「なにか御用でした?」
「あ、ちょっとご相談があって」
そう言いながら体育館の鍵に手を伸ばした。
 体育館への昇降口は、塗り立てのペンキの匂いがした。太陽は雲の向こうにさんさんと照っているのに、そこには最悪な企みがあるような。ドアスコープの向こうから、笑みを浮かべてこっちを覗き込む影の不気味さに似た、信じきれない温もりに、ワイシャツがじっとり肌に吸い付く。
体育館の鍵を開けに行くと、女子バスケ部員の生徒たちが、手を叩いて笑っていた。
「先生」「ほったちゃんに聞いてみようよ」「ねえ先生」
「おまたせ」
体育館を解錠していると、背中から代わる代わる問いかけられる。
「先生さ、犯人とか捕まえられる?」
「は?」
「昨日一高で殺人事件あったじゃん」
「殺人っていうかね、あれはね」
無差別殺傷事件って言うんだよ。いや、殺人事件でもまあ間違えてはないけど。
「あれでさあ、なんか結局警察来るまで犯人の生徒そのままだ��たんでしょ?先生とかって生徒取り押さえられないの?」
「 さあ」
どうしてたんだろうね。
昨日、近隣の高校で、生徒による無差別殺傷事件が起きた。同校男子生徒が授業中に所持していた刃物を振り回し、今朝の時点で生徒四名、教師一名が搬送先の病院で息を引き取った。いや、「さあ」じゃなくて。
「君らさあ、簡単に言うけど先生も亡くなってるの知ってる?」
「あ、そうなの?」
「そういうのをね、自重というのだよ、君。モテたいなら化粧じゃなくて思慮深い発言するようにね」
「はあ?今日してねえし」
「ばか、毎日しねえんだよ。今日なな香部長は?」
体育館の重い扉を開け、「部長休み」と答えた生徒に体育倉庫の鍵を差し出す。
「え、今日顧問無し?」
「前田先生御用だから」
「いやほった副顧問でしょ、見てくれないの?」
「見てた方がいい?」
「いた方がいいよ」
からかうように笑いながら、体育館に駆け上がる子供たち。
かわいいな、と思う。
でも、命をかけられるかな。まだ出会って間もないこの子たちの無邪気な未来を守るために、この先の全てを投げ打てるかなあ。
立派だったと思う。亡くなった先生は。どう亡くなったのかはわからないけど、きっと勇敢だったに違いない。もしかしたら、一人目に刺されて、痛がる生徒の姿を見たら、お前!なんて、刃物の前に立ち塞がれるかも。書いて字のごとく、胸が痛い、想像すると、首元もぞくぞくと悪寒がする。お葬式、どうするんだろう。かわいい生徒たちが、みんな来て、泣いてくれるんだろうか。いや、こんなに一度に亡くなってしまったら。
深く刺さった、刃物を握る、他人の子供。進路相談も、模試も、朝礼もしたのに。たくさん単語が、構文が詰まった頭を抱えて、やっと振り絞った気持ちが、初めて、深々と刺さったんだろうな。いや、案外、スッと、頸動脈に刃物が当たっただけかも。あっけない、怖い。
体育館に響くドリブルの音は、カップラーメンすら受け付けなかったばかに繊細な胃の底を、力強く揺さぶった。
今日はいつもに増して欠席者が多い。午前中の授業を終え、職員室前の学級ごとの欠席者数報告に足を止めた。
うちの学校は、いわゆる田舎の進学校で、ゆとり教育の後に吹く強い風にちょうど晒される場所だ。大学入試の意義も体制も揺らぐ中、何だかよくわからないものを信じながら、生徒は生まれ育った家から何百キロとある遠い地の公立大学へ進学していく。不安を抱える生徒は少なくない。
自身のクラスの名簿を職員室で開く。
風呂蔵まりあ。久しぶりに出席に丸のついた名前にため息をついた。
 「堀田先生」
 「はい」
前田先生の声だ。立ち上がって振り返ると、おじさんが申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「ちょっと」なんて、もの言いたそうに手招きするから、怖かった。
こう言う時のおじさんって怖いよな。俺はどう見られてるんだろう。促されるまま職員室のとなり、会議室の椅子へ腰を掛けた。昼休みに会議室を使う先生は結構多くて、別に聞かれても構わないけど「聞いて欲しくはない」ような背中をしている。生徒を叱っている先生もいるし、部費の計算をしている先生もいる。職員室でやればいいのに。
キョロキョロ癖、治らない。
視線を手元の長机に落とすと、前田先生は視界の隅へプリントを置いて俺の横に腰掛けた。
「今日ごめんね、朝練の面倒見てもらっちゃって」
「いえ、そんなそんな」
「あ、堀田先生お昼食べました?すみません、確認もせず。すぐ済むので」
「ああ、いえ、大丈夫です」
「これなんですけどね、言い訳がましくなっちゃうんですけど、市からスクールカウンセラーを増やすって連絡が来て。例の事件のことで、市の方でも対策を取ろうと言うところで」
「一高の、無差別殺傷事件ですか」
「そう。僕ね、ちょっとしばらくこっちの方担当しなくちゃならなくて、部活の方に行けなくなってしまうので、週末まで部活動を堀田先生にお願いしたくて」
「ああー!はい、是非是非。監督さんにも僕の方からお伝えしておきますね」
「いやあ、助かります。なんだかんだでここ最近女バスも男バスも僕の方で面倒見ちゃってたから」
「こちらこそ、むしろ前田先生お忙しいのに、ずっとお任せしっぱなしで」
「いやいや。それでね、これはまた別件なんだけど、堀田先生のクラスの…」
前田先生は、良くも悪くも癖の無い人だ。少し強面で、いつもジャージで、身体が大きくて、ちらほら白髪が混じっている。いわゆるよくいる体育の先生。同じ男子バスケ部の顧問として、それなりに活動を共にすることはあるけれど、特に大きな思い出はない。「はい」口半開きのまま、次の言葉を待つ。嫌な予感と言えば失礼だけれど、ちょっとどきどきした。
「あの、お話中すみません。堀田先生に保健室から内線入ってます」
背後から声をかけられて、振り返った。事務員の女性が腰を曲げて申し訳なさそうに職員室を指差していた。
前田先生の方をちらりと見ると、手でどうぞ、と促される。
「お待たせしました、堀田です」
「お忙しいところごめんなさい。保健室の仁科です。あの、風呂蔵さんがいらっしゃってます。午後は早退したいみたい」
「あー、だめそうですか」
額に手をやって、そのまま前髪を持ち上げた。クーラーの直風が生え際を撫でる。
「お昼休みに駆け込んで来た時はいつもと変わらない様子だったんだけど。逆にそれが気になったんですよ。昨日、結構ショッキングな事件があったでしょう」
「ああ、はい」
「私の方でちょっとお話を聞いてみてもいいんだけど、先生、午後どこかで保健室いらっしゃられますか」
「お昼休みの後になっちゃうんですが、五限にお伺いします」
「分かりました、あと、桝さんが風呂蔵さんとお昼一緒に食べようって来てくれてますよ」
「桝ですか、そっか。良かった。ありがたいです」
「はーい、じゃあ、失礼しますね。いらした時に私がいなくても、丸いテーブル使ってくださいね」
「はい。恐縮です」
受話器を戻し、自然と力のこもっていた首を左右に揺らした。
うちのクラスの風呂蔵まりあは、心が痛くなるほど普通の女子高生に見えた。
元々、学生時代の付き合いの中で、風呂蔵の姉と面識があった。確か名前は、風呂蔵いのりさん。姉の方は静かで人見知りのようだったから、この珍しい苗字でなければ気づかなかっただろう。風呂蔵まりあの担任になってすぐ、新年度のはじめは、クラスの中心になるグループの一員くらいに思っていた。昼休みはぎゃあぎゃあ騒いでる女子たちの一角に、お弁当を持ってそそくさと座り込んでいたし、教室を出る時も同じような女子たちと誘い合って出て行った。俺のことも、他と一緒になって「ほったちゃん」と茶化していた気がする。他人との境界をあまり感じない振る舞いもあり、そういう子、だと思ってた。
一方で、未提出の課題を催促したときや、遅刻を叱ったときは、心の底から後ろめたそうにして、ちょっと悲壮な表情にすら見えたのが強く印象に残った。この年頃の女子生徒が男の先生を茶化したりするのは、まあ仕方のないことだと思うし、高校まで来てそんなことを正そうとも思わない。ただ、自身が軽んじられやすいからか、風呂蔵の、普段の様子とは少し異質な「次は気をつけます」「明日出します」は、むしろこっちがたじろいだ。
根が真面目なんだな、と結論付けた。それでも、風呂蔵の未提出物や遅刻、居眠りは増えていって、クラスのグループ作りのざわつきは収まってきた時期、ちょっと心配になった。風呂蔵は昼ご飯を一人で食べるようになったから。
 
ぼんやりと立ち尽くしていると、前田先生が職員室へ入って来た。
「堀田先生、今の内線は風呂蔵さんのお話ですか?」
「あ、すみません、ぼんやりしてて。お話の途中だったのに」
「いや、仁科先生が朝、風呂蔵さんにカウンセリングを考えるよう堀田先生へ話してみて欲しいと言われて」
「はい」
「そんな感じなので、これ、カウンセラーの先生の出校表です。良い機会なのでと」
「ありがとうございます、助かります。すみません」
「こちらこそ、結局お呼び出しした意味がなくなっちゃって、すみませんね」
前田先生は、「風呂蔵さんは体育もあんまり出席が無くて」と切り出したが、会話を続けたいわけでは無さそうで、「ね」なんて言いながら自分の席へ戻って行った。
前田先生の後ろ姿は、やはりおじさんだった。昼休みが終わり、五限目の予鈴が鳴る。
授業は無いけど、片付けないとならない仕事が山ほどある。放課後がしばらく部活動にとられちゃうから、詰め詰めでやって行こう。でもその前に、風呂蔵…いや、六限に返す小テストの採点が先か。
俺も、学生時代は要領がいい方じゃなくて、特に優先順位を付けることが苦手だった。コンプレックスの変遷はいわゆる教科書通り、腰パン、チェーン、声変わり、ワックス、眉毛、女のこと。やりたいことと出来ないことの折り合いの中で、ふと気がつくと、周りの人には出来て当然のことが出来ない大人になっていた。時間ギリギリに来る、忘れ物をする、誤魔化し、嘘をつき、ほぞを噛み、夜更かしをした。
外に向けられていたコンプレックスが、内面に出現したことをくっきり感じ始めたのが教育学部に入りたての頃だったから、「みんなそんなもんだろ」では自分を誤魔化せなくなって、今度は自分こそ教育者になるべき人間だと、正当化した。弱者の気持ちが、分かるから。共感性を無くした閉塞的な学校王国の教師たちなんかより、出来ないことの辛さを知る俺は立派になれるはずだ。世の中に辟易してるのはみんな、俺みたいなやつで、自分が駄目であればあるほど、そういう子どもに救いの手を差し伸べることが出来るんじゃ無いかと、思った。
こうして根底に湧き出た自己肯定感は、めちゃくちゃな毒だったのだが、歳を取る以外にそれを知る術はない。恐らく。
 
採点が終わると、もう三十分も経っていた。一コマが五十五分だから、あと二十五分しかない。風呂蔵と十分くらいしか話せないかも知れないな。とりあえず、行ってみなきゃ。
職員室を出ると、外は蒸し暑かった。一階にある保健室へ階段を降りる足音も、どこかこもって響かない気がする。下駄箱を通り過ぎて、体育館へ向かう昇降口の手前に保健室がある。
「失礼します」
ドアを開けると仁科先生の姿は無く、窓から入る陽の光で白くぼんやりかすむ室内は、教会のようだった。クラスメイトたちが授業を受けているときにここで差し伸べられる救いの手、泣くほど嬉しいんじゃないか。でも、案外仁科先生怖いしな。
「まりあー?」
仁科先生が使っていいよと言ってくれた、パーテーションの中の丸テーブルに腰掛けながら、風呂蔵を呼んでみた。保健室という場所は、何故か妙に緊張するから、勝手に探し回るのもあれかな、なんて。しばらく耳を澄ましてみても、返事が無い。
「帰っちゃった?」
パーテーションから顔だけ出すと、準備室に続く扉から、「せんせー、カフェオレー」と、カップを片手にした風呂蔵が出てきた。黙って見ていると、顔を上げた風呂蔵と目があった。向こうは、誤魔化すような笑みを浮かべた。
「うわ」
「はい、まりあさん、こちらへどうぞ」
「えー!やです」
「やですじゃないです」
風呂蔵は渋々カップをすすぎ、流しに置いて、丸テーブルの向かい側へ腰掛けた。慣れたもんだな、おい。
「先生、暇そうだね」
茶化してくる。この、人とそつなくコミュニケーションを取ろうと言う切り出し方は、春の頃と変わらないのに。
「まりあこそ、暇そうじゃん。午後出ようよ」
「具合悪いの!」
「お前なあ」
「明日はちゃんと全部授業出る」
「勢いだけは良いんだよなあ。仮に家に帰るとして、親御さん居るの?」
「親は居ないけど、先生の初恋の人ならうちにいるから」
「あほ」
手にしていたファイルで頭を軽くはたく。痛いんですけど!と笑う。風呂蔵が「先生の初恋の人」と揶揄したのは、彼女自身の姉のこと。
「そういうの柏原くんから吹き込まれるわけ?」
柏原くんというのは、俺の大学時代の友人だ。俺が風呂蔵の姉と面識があったのも、その柏原が当時同じサークルの一つ後輩だった風呂蔵いのりさんと交際関係にあったからだ。面識があると言っても、柏原と遊ぶたびに惚気話ばかり聞かされていただけで、実際に会ったのは、大学祭の時の一度きりだ。
柏原とはいまもずっと連絡を取り合っているが、風呂蔵の姉とは今も続いているそうで、彼女の妹にあたるまりあに、俺の話をあることないこと吹き込んでいるらしい。
「でも柏原くん言ってたよ、堀田先生もうちのお姉ちゃんのこと好きだったって」
「あなたね、そう言うのを減らず口って言うんだよ。やっぱり元気じゃん。小テスト落ちてもいいから出なさいって」
 
言葉による返事はなかった。代わりに目は逸らされ、喉から絞り出すような笑い声が差し出された。
心が痛かった。大人と喋るのはちょっと怖いよね。でも、そんなに無理するもんじゃないよ。
仁科先生の声を頭に思い浮かべて、なるべく優しい声を出してみた。
「…まりあ」
自分の声が思いの外おじさんで、ちょっと気持ち悪かった。まりあの顔も心なしか引きつっているように見える。自分に違和感を感じながら続ける。いや、なんか気持ち悪い、本当にごめん。
「具合悪いのは、こう、学校に居ると心が辛い、みたいな感じかな。それとも、本当に体調悪い?」
「お腹痛い!私さ、生理痛重いんですよ」
間髪入れず返ってきた風呂蔵の言葉を、強がり、と言うのも憚られるほどに。
さあ、どうして、心が痛むんだろう。訳もなく晴れない、多感な時期の子どもの苦悩に直面しているから?
「最近の若い子って、そう言うのためらい無いわけ?」
違う。救いの手だと思って差し伸べているものが、見当違いかもしれないと言う不安。
自分は子供達にとって、救いの存在じゃ無いという確信。
先生なんて、生徒が一番、それなりにやり過ごす相手じゃないか。
前田先生の後ろ姿。あんな風に、俺も見られてるのかな。
慕われる先生って、こんな時どうするんだろう。
「てか、先生さ」 
「はい」
「クラスの生徒のことって大事?」
「当然じゃん」
当然じゃん
「命かけて守ろうと思う?」
迷っているところとか、困っているところとか、あんまり教師が見せるもんじゃないだろうと、勝手に思っていた。少なくとも俺が生徒の立場だった記憶の中で、「先生」は毎度迷わず教科書通りでいてくれた。でも、それも、俺には出来ないことの一つだった。いつもいつも正しくはいられない。
「どうかなあ。学校って色んな人がいるから、命がけで守って欲しい人も、そんなことして欲しくない人もいるんじゃないかな」
「堀田先生っぽい」
「申し出に合わせると思う」
だってもう、本当に分かんねえもん。守って欲しいなら、差し伸べた手を掴んでよ。どうしたいの
「風呂蔵は」
「え」
風呂蔵が、まん丸の目をこっちに向ける。前髪で隠れたニキビ。乾いてささくれの一助となった色付きのリップ。十四時五分前、時計の真下。
何て言ったら正解なんだろう。何を言えば、風呂蔵は幸せになれるかな。
「命がけで守られたら、午後の授業出る?」
「今日は、本当に!」
両手の平を顔の前でピタリと併せて、そう言いながら立ち上がる。
「まだお話済んでませんよ」
「本当に!」
ごめんなさい、立ち上がりこうべを垂れる風呂蔵に、授業の終わりを告げるチャイムが降り注ぐ。
ガラス棚に光が射して、跳ね返った光線は、空中に舞う埃を縁取った。まりあって名前の由来、もしかしてマリアさま?
成長って言うのは、ままならないね。そんな泣きそうな顔しないでよ、こっちだって簡単に命なんて張らないからさ、なんとか今は耐えて、自分のなりたいように大人になってごらん。それを邪魔する奴からなら、喜んで守ってあげるよ。
なんて言ったら、キモい!とか言うんだろうなお前ら。
すり足でパーテーションの外側へ出て行こうとする風呂蔵を見て、思わず笑ってしまった。風呂蔵の表情が安堵に満ちたのが分かった。
「気をつけて帰れよ。ちゃんと仁科先生にご報告して、早退届には明日まとめてサインするから」
「ありがとうございまーす」
俺をやり過ごすことが、そんなに嬉しい?学生時代の俺がまさしく見たかった生徒の笑顔だけど、それ。
そのまま風呂蔵は準備室へと戻って行った。静かになった教室に背を向けて、自身も保健室を後にすべく、引き戸に手をかけた。ただ気まぐれで、風呂蔵が消えていった準備室へと続く扉に向かって大きな声を出した。
「また明日!」
神様の声は、もう聞こえなかった。
六限まで終わると、生徒たちは掃除と軽いホームルームをして、各々放課後の活動へと散っていく。                
教室にポツポツと散る空席に、今日配布になった学園祭のお知らせを配って回る。風呂蔵の机にも同じようにお知らせを入れようとすると、「あの」と呼び止められる。
風呂蔵と親しい、桝莉花だ。
「あ、莉花、今日はありがとうね 」
「え?」
「お昼まりあのところへ行ってくれたでしょ」
「はい」
「まりあ、元気そうだった?」
「普通でした、割と」
でも、と髪の毛をいじる。上から見下げるのが申し訳なくなって、手近なまりあの椅子を引っ張って腰掛けた。
「お昼ご飯、買ってきてたのに、私が行ったら隠しちゃって」
「どういうこと?」
「ご飯食べてないのにご飯食べたって言ってました。あんまりそういうことないかも」 
「あ、ほんと」
桝莉花は風呂蔵と仲が良くて、何かというとよく二人の世界に浸っているように見える。それは俺と柏原の仲の良さとは確実に違う、いわゆる女同士っぽい付き合い方だなと思っていた。教師になってから、クラスの関係性を様々見てきたけれど、まあ珍しくはないだろうと思った。ただ、やはり風呂蔵の方が学校を休みがちということもあり、桝が進んで面倒を見ている、という印象は少なからずあった。状況だけで判断しているつもりは無く、日頃、桝の振る舞いが、少なからずそう言った雰囲気を漂わせていた。
それは全然悪いことじゃない。桝は独特だけど、優しい子なんだ。
「先生、私、まりあにプリント届けに行きます」
「ほんと?じゃあお願いしようかな、莉花今日は部活は?」
「行きます、帰りに寄るので」
桝にお知らせを手渡すと、それをリュックの中に押し込んだ。
「ねえ、莉花さんさ、まりあといつから仲良しなの」
「このクラスになってからですよ」
「そうなんだ、でも二人家近いよね」
「まりあは幼稚園から中学まで大学附属に行ってたと思います。エスカレーターだけど高校までは行かなかったっぽい。私はずっと公立」
「あ、そうかそうか」
割と最近なんだ、それにしてはと思ったけど、人間の数だけ価値観や感性があることを念頭に置かなきゃだめだ。
桝は頭を下げて教室を出て行った。
風呂蔵の机は綺麗だった。お知らせが溜まっているわけでも無く、置き勉がしてあるわけでもない。
うちの生徒は、教科書、ノート、資料集、問題集、解答集、模試ノートなど、一つの教科でいくつもの教材を持ち歩く。そこに部活の道具、塾の教材、その他諸々…土曜の補講も含め毎日学校へ来ることを考えれば、自分の席やロッカーは私物化せざるを得ない。教師に注意されても、それなりに上手くやりながら、かいくぐることをお勧めしたいね。
今日休んだ他の生徒の席も、そうは言っても、それなりに生活感というか、あああいつの席だな、とわかるくらいの面影がある。それが風呂蔵の席にはない。いつ居なくなっても、何も困らないくらいに。
桝が一生懸命、お知らせや返却物を溜まらないようにしているからだろう。しかしその行為は、いつ来ても自分の居なかったラグを実感することはなく、変わらず目の前には空っぽの席があるだけということなんじゃないか。
そう思うと、少しゾッとした。
俺なら、プリントそのままにしておいて、って言うかもしれないな。
遠くから何かの楽器の高らかな音が飛んでくる。空っぽの教室の輪郭を滑り落ちていく。そろそろ部活に行かなきゃ。立ち上がって振り返ると、出て行ったはずの桝と目が合った。
「うわびっくりした。どうしたの」
「あ、忘れ物…」
桝は自分の席に小走りで近寄って、ペンケースを持って逃げるように出て行った。
桝の目は時々すごく鋭い。二者面談をするときや、個人的に話すとき、彼女の人当たりとは裏腹な眼光の鋭さがある。もともとの顔立ちのせいなのかもしれないが、言いたいことをぐっと堪えたりしてるようにも見える。振り返った時にぶつかった視線もまた、言葉にならない訴えで射抜くような強さがあった。
十九時前、部活動を終え、職員室へ戻った。
朝とはまた少し違った終業の慌ただしさや、疲れ切った空気感は嫌いじゃない。蛍光灯のショボさはノスタルジーを誘い、高校時代に夜遅くまで校舎に残っているような、無限の王国、夏休みの直前、地球最後の日、そんな気持ちになる。無論、真面目だった俺はそんな経験はないけれど、学校の特定の場所、特定の時間帯に訪れるセンチメンタルは、それらをとても優しく捏造してくれる。
 「堀田先生、お疲れ様です」
隣の席の細倉先生がマスクをずらして会釈する。
「お疲れ様です」
「先生、どうすか。今日ご飯」
「あー…」
細倉先生は同い年で、気持ちのいい男の先生だ。俺もそれなりに、そこらの高校生には負けない背丈があるぞ、というのがなけなしの自慢だったけれど、細倉先生には��っかり負ける。高校時代は剣道でインターハイまで行ったとか。さぞかしモテたことだろう。その勢いは衰えを知らず、今年度から細倉先生がこの学年の世界史を担当するようになってから、日本史を選択履修した女子が軒並み己を呪ったらしい。
「行きますかね…」
細倉先生は、よくご飯に誘ってくれる。ほとんど断ることはないのだが、快諾するたびに人懐っこそうな顔をするため、いつもお約束で迷うふりをする。こういうところが、やっぱり女性にもモテるし、俺も嬉しくなっちゃうんだよな。
「あ、でも細倉先生、何時に上がりますか?ちょっと今日遅くなっちゃうかもしれなくて」
「僕もう帰ろうかと思ってました」
「そっか。どうしようかな。というか、奥さん大丈夫なんですか」
「最近、ヨガのレッスンが入ってるとかで、あんまり夜家に居なくて」
「毎日ヨガ?」
「教えてる方ですよ、インストラクターなんで」
「へー」
「堀田先生は何時までお仕事なさるんですか」
「いや、やっぱり今日は帰ります、行きましょう」
「え、大丈夫ですか」
「はい。校務自体は終わってい���んで」
「よっしゃ、じゃあ行きましょうか!で、あの、僕今日、自転車なんですけど」
「あ、載せて行きますか」
「えー!悪いなあ、でもありがとうございます!お言葉に甘えて!」
「初めからそのつもりだったくせに」
「あはは、じゃあ、すみません!お先に失礼します!」
「僕も失礼します」
細倉先生がまだちらほら残る上司たちに元気よく挨拶すると、遠くで難しい顔をした学年主任が片手をひらひらと振った。後に続くように自分も荷物を抱えて職員室を出る。
細倉先生はずるいね。すごくやりやすそう、色々と。
昼間、自分にこびりついたおじさんの残像にがっくりと肩を落とす。かといって、細倉先生のような先生が理想かというと少し違う。ドラマや漫画や実体験が就職のきっかけになっていない自分には、端から明確な理想像なんてなかったのかもしれない。でも、高校時代の、大学時代の、比較的鬱屈とした自分に問えば、めちゃくちゃ生意気な顔をしてこう言うだろう。
「ちょっと違うんだよな」
「え?」
「あ、いや」
俺の車の後部座席を倒して自身のロードバイクを一生懸命押し込む細倉先生は、バックミラー越しにこっちを見た。
「飯、どこ行きます?」
「駅前になんか有名なつけ麺のお店が出来たらしくて、そこ行きましょうよ!」
「駅前」
「駐車場無いんで、駅ビルの立体駐車場に止めましょ」
「はーい」
助手席に乗り込んで来る細倉先生に、「じゃあ出しますよ」とサイドブレーキを下ろす。スマートフォンの通知音が響いた。
ブルーライトに照らされた隣の細倉先生の横顔は、鳴ったのが自分のスマホの通知ではないと確認すると、わずかに左右に振れた。
「俺か」
サイドブレーキをもう一度引き、スマホの画面を確認すると、差出人が「柏原」のメッセージが数件来ていた。柏原か、まあ、後でいいかな。画面を暗くすると、今度こそ学校を出た。
「堀田、もう授業終わり?」
「今日まりあちゃんに会ったよ」
「飯行こうよ」
 車で二十分くらいかかり、ようやく駅の駐車場で確認した柏原のメッセージはその三件だった。柏原は風呂蔵の姉に会いに行ったのか。そこで早退したまりあに会ったらしい。また風呂蔵と二人で俺の悪口でも言っていたのだろうか。飯に行こうというのも、その延長で俺に話したいことでもできたに違いない。
「ごめん、飯は同僚と食べるから」
そう送った俺の返事にすぐ繋げられた返信は、誤字だらけだった
「今ら?あ、終わってらの?大丈夫かなる」
酔ってるのか?そう打ちかけた時、送信されたメッセージは取り消され、画面上から消えた。代わりにまた違う文面が送られてきた。
「分かった、また連絡するよ」
嘘だろ。どう考えてもおかしいだろ。細倉先生がしおらしく、「大丈夫すか?」と覗き込んできた。メッセージ画面を見ると、すぐ首を引っ込めた。
「彼女さん?」
「残念ながら」
とりあえず、「またね」とだけ返して、駐車場の外階段へ繋がる出口を目指した。帰る時に迷わないよう、頭上に掲げられた三階B区画の表示を確認する。
コンクリートに閉じ込められた埃っぽい熱気の中に、誘導灯の緑がぼやける。階段の錆びたドアを開け、細倉先生を先に通すと、会釈と溢れた「うわ、全然涼しくねえな」もまた、内側に逆流して誘導灯と輪郭を曖昧にした。振り返ると緑色がべったりと反射した愛車が、不安げに佇む。夏の夜に、人工の緑は良くないな。全然心穏やかじゃない。
「堀田さん?」
一歩が跨げずにいると、細倉先生がカンカンと音を立てて階段を上り直してきた。
「あ、行きまーす」
外に出ると、動かない外気と夜景が広がる。それらもまた、どこまで行っても息苦しく滲んでいるように見えた。
「そういえば俺、朝も麺だったな」
「朝から麺?堀田さん料理なんてするんですか」
「そう、高級なアルデンテなんですけど」
「絶対に嘘だ」
「でも食べきれなくて流しに捨てちゃった」
「流しに…?あっ、わかった。カップ麺でしょ。僕も最近食が細くてエネルギー足りないし、帰り自転車に乗る気力も湧かない。堀田さんも結構少食ですよね」
「まあ、何だかんだ暑いですものね。でも今日のつけ麺は美味しかったです、毎日食べれそう」
「ね!うまかったですよね」
つけ麺屋はそれなりに混んでいたが、待つこともなくスムーズに食事をして出て来られた。スマートフォンを確認すると、時刻は二十時半前。立体駐車場の外階段を上りながら、前を行く細倉先生の背中から声が降ってくる。
「どうすか、クラス」
「どうって」
「僕のクラス、今日すごい休み多かったんですよ。朝、出欠確認した時、びっくりしちゃって。十人くらい居なかった」
「そりゃ、結構居ないですね」
「でしょ。そこからまた一人頭痛で早退しちゃって、寂しかったですよ」
細倉先生は先に三階まで辿り着き、踊り場で夜景を一生懸命見ている。錆びた手すりの向こうは確実に夜を迎え、黒く低い空と、無数の騒がしい光が向かい合わせに続いている。
風呂蔵も、数多いる遅刻、欠席、早退のうちの一人だった。きっとどうしても学校には居られなくて、申し訳ないと心を痛めながらも、家に帰るんだろうな。みんな自分が一番情けない、恥ずかしいって思うのかな。それとも、ラッキー、くらいなのかな。ここから見れば、別に大きな差はないのに。
三階にたどり着き、今度は細倉先生が駐車場へのドアを開けてくれた。
「お嫁さん、もう帰ってきてます?」
「まだだと思う。遅いんですよ」
車の鍵を開けると、そそくさと運転席側に回って今度は車のドアまで丁寧に開けてくれる。
「ご自宅まででよろしいですか」
「よろしくお願いします!」
俺が乗り込むと、静かにドアを閉め、自分のシートベルトを締めながら、愛想のいい笑顔が助手席に収まる。本当に同い年かと、しげしげと顔を眺めながらエンジンをかける。この人の、クラスでの様子がいまいち想像つかない。
駐車場を出て駅前のごたついた道を抜けると、細倉先生がぽつりと話し始めた。
「昨日、一高で事件があったでしょ」
「はい」
「あれで亡くなった先生ね、僕知り合いだったんですよ」
「あっ」
赤信号で思わず強めにブレーキを踏んでしまった。そうだ、そういえば、細倉先生って。
「僕、一個前の赴任先が一高で、そこで、クラスを二年持ち上げした時に、新任で入ってきたのがその先生。優しい先生でしたよ。すごくいい人。でもちょっとおっちょこちょいで、間違いとか誤魔化そうとするし、僕はあんまり反りが合わないなって思ってたんですけど」
赤信号に照らされる細倉先生の横顔を、横目で見ていた。その鼻筋がパッと緑に縁取られて、慌ててアクセルを踏んだ。
「僕がこっちの学校に転任してしばらく経って、メールが来たんですよ。生徒と上手く行かなくて困ってるって。僕、言ったんです、他に相談できる先生を学年で作れよって、あんまり一人で抱え込むんじゃないよって」
細倉先生の声は落ち着いていた。俺が黙っていると、「こんな話あります?」とちょっと笑った。
「その、上手くいっていなかった生徒っていうのが、例の?」
励ますとか、諭すとか、さまざまな選択肢が脳裏に浮かんだけれど、もう胸が痛み正解を選び出すような力はなく、純粋な疑問が隙間を埋めるように口から溢れた。
「そうみたいです。学校に来れてなかった子だったらしいんですけど、説得して少しづつ来れるようになったら今度は、その先生と衝突しちゃうことがすごく増えたみたいで。なんだったんでしょうね、いじめられてたのかなあ、僕にも想像がつかない。でも、本当に彼、しつこくしちゃったのかも。最後にやりとりした時は、その生徒とはもう言葉が通じないって言ってて」
細倉先生の家が近い。俺は道沿いのコンビニに車を停めた。わずかに震えるような、大きいため息に押し出されるようにして続きが語られる。
「でも僕、その子も、一生懸命助けを求めてたんじゃないかって、思って。先生も救ってあげようとして、学校へ連れてきて、それなのに、言葉が通じなくて、お互いに、苦しかっただろうなって。それでも、あいつがしたこと、間違ってなかったって、だれか言ってあげて欲しい。事件で亡くなった生徒さんも居るから、お葬式では言えないし、今となっては、もう、遅いんですけど」
きっと、隣で感情を押し殺しながら、いつも通りの毅然とした顔でいるんだろう。それでも、細倉先生の顔は見れず俯いていた。
「ちょっと、堀田さん!」
細倉先生に肩を叩かれた。
「堀田さんが泣いてるじゃないですか!」
ちょっと涙目、くらいだと思う。鼻の奥がツンと痛かったから、それを噛んで堪えていた。涙もろいタイプですか、と散々茶化してから、細倉先生も少し鼻をすすった気がした。
「だから、僕、今日、あまりにもクラスに子供が居なくて、本当にビビっちゃって」
次の言葉を待っていると、ちょっと考えてから、
「ビビっちゃった、と言うことでした。僕が学校休みたいくらいだよって、ねえ」
強引に話を終わらせ、笑った。
生徒のことも、先生のことも、何もかもが、かき混ぜた水槽の様に、順序なく頭の中を漂っていた。
その中で、最後のメールに、細倉先生はなんて返したんだろう、という疑問というか、きっと、本当は聞かなくても分かるんだけど、後悔の本当の理由みたいなものに触れていいのかどうかだけが、深く静かに沈んでいくのが分かった。
「細倉先生、大丈夫ですか」
「いやいや、ははは!まさかそんなにダメージ食らう人でした?逆に大丈夫ですか」
「俺が泣いちゃったから泣けなかったですか」
「え、なんじゃそりゃ!すみません本当、全然そんなことじゃなくて」
細倉先生は顎に手を当ててしばらく唸った。
「いや、自分でもよくわからねえな。でも本当に、言いたかったんだと思う、誰かに。嫁にはこんな話できないですよ」
本当のところがどうかは分からないけれど、疑うなといわんばかりの強い語気を取り戻していた。俺も居直って、今度はきちんと細倉先生の顔を見た。
「話してくれて、ありがとうございます。俺なんかで良かったんですかね、少しは役に立てたらいいけど」
「あはは、なんかあれっすね。堀田さんって、卑屈というか、真面目というか…。なんて言うんだろう、ギブアンドテイクの精神がすごい人ですね」
いつもと違う会話の切り口で、少しどぎまぎする。何を言っても、話が空振りする。三振でも取らんとするその小刻みな頷きはやめてくれ。いつもなら爽やかだな、くらいにしか思わない細倉先生の笑顔が、コンビニのサインのくっきりとした光で陰影が与えられ、ちょっとだけ違って見えた。
「別に、堀田先生になんか役に立って欲しくて話したわけじゃないというか。俺も泣きたいとか、励まされたいとか、そんな感じの性格じゃないし。でも堀田先生は自然と話しやすいんですよ、教師向きで羨ましい」
真っ直ぐになだめられ、絶句してしまった。
訝しんだ手前、いつのまにか自分の方が励まされている情けなさが、反論や肯定や、細倉先生こそ教師向いてますよ、みたいな言葉も全部霞ませた。でも、細倉先生のは、ちょっと嘘っぽい言葉だな。本当に、ずっと調子のいい奴だ。隠した心はボロボロかもしれないけど、まんまとこのペースに乗せてくる。というか、お嫁さんは、よくこんな食えない男を捕まえたよな。
自分がどんな顔をしていたかは分からない。でも、細倉先���は多分、俺の顔で笑っていた。
細倉先生の胸ポケットのスマートフォンに明かりが灯り、画面を確認すると、そのまま呟いた。
「あ、嫁帰ってきた」
「車出します」
「大丈夫ですか?運転代わりましょうか」
そんなに情けない顔をしていたのか。
「大丈夫です!」
すぐそこが細倉先生の住むマンションだ。駐車場に入れるのが面倒で、いつもエントランスの向かいの道路に停める。
「じゃ、ありがとうございます」
助手席を降りて、後ろに積んでいた自身のロードバイクの固定を解きながら、細倉先生が語りだす。それをバックミラーで見ていた。
「僕、堀田先生が話しやすいのって、同い年ってこともあるけど、他人に興味がなさそうだからだって思ってたんですよ。割り切ってるっていうか。そういうところは僕とちょっと似てるなあって思ってたんです。僕もあいつからメールもらって、ああ、オレみたいな適当に流せるやつって話しやすいよねー、って。でも、ちょっと違ったみたいですね。全然物事深く考えられない僕の分まで、すごく色々考えてくれそう。あんまり抱え込んじゃだめですよ」
人懐っこそうに笑いながら、じゃあまた明日、なんていつまでも手を振っているから、そそくさと車を出した。
俺がもし、どうしようも無くなったら、この人を頼るだろうか。俺みたいに、変にダメージ受けるような奴より、普通はこういう強い人を選ぶだろうな。でも。ここでふと自分の嫌なところが顔を出す。でも俺だったら、もっと的確なアドバイスが出来たかもしれない。細倉先生の持つ強さって、深入りしないところなんじゃないのか。色んな人の心地よいところで踏みとどまれるというか。いい意味で浅い。だからこそ、亡くなった例の先生ごと見知らぬ生徒まで救うような導きの一撃ができなかったんだろうな。
もしも、俺だったら。
というか、いい距離感でいたからこそ俺は細倉先生に気に入られてたのかな、似てるって言ってたしな。でも、俺の反応は予想外だっただろうから、引かれたかもかな。最悪だな。最後の捨て台詞が、急に三行半のように思えてきて、チクチクと胸を刺す。いや、でもあれは感情が揺さぶられない方がどうかしてるだろ。そもそも、突然決めつけで打ち明けてきたのはあっちだし。
禁煙してなかったら、今絶対に吸ってた。どいつもこいつも、子どものためになら考え続けろよ。逃げるんじゃない。
感情の名前はいくつか知っているけれど、そのどれでもない。苛立ちなら六秒でピークは過ぎ去っていくらしいけど、この感情は一生このままのような気さえする。細倉先生のマンションから俺の家までは三十分かからないくらいの距離だが、それでもさらに遠回りを目指し左折した。
思いのほかずっと、「もはやこれまで」のまま長生きしている。生きていることに対しての恥ずかしさはもうない。夜眠れなくても、息を吸っても、吐いても、あの頃の不安はもう分からない。暗号の、解き方だけを忘れたような。周波数の違う電波は全部ノイズになってしまうような。
環状線へ乗ると、急に独りぼっちが寂しくなった。空になった助手席には、沿道の光が色とりどりに反射して、誰も居ないシートを浮き彫りにする。案外、もう、どうしようもないのかもしれないな。誰に助けを求めようか。
 家に着いたのは、二十二時前だった。車を駐車場に停め、不快な湿気と温度の中、しばらく放心した。身体がだるい。夏バテにしては早すぎる。重力に逆らえず、運転席に沈んだ。
スマートフォンの画面が光って、穏やかな着信音と共に学年主任の名前が表示される。
何かあったのだろうか。細倉先生とへらへら職員室を出た自分が思い出され、決まりが悪い。怒られたくないんだよ、今日はもう。なんなんだ、一体。ほうっておいてくれ。祈りを込めた一撃で、受話器のボタンをとんと叩く。
「はい、堀田です」
「もしもし、堀田先生、夜分遅くに失礼します。主任の篠原です」
ニュースキャスターのように優しい、穏やかな声だった。
「今、ご家族の方からご連絡がありまして、先生のクラスの風呂蔵まりあさんが、駅のホームから転落して病院に搬送され、先ほど、病院で息を引き取られたと」
あ、俺、風呂蔵にカウンセラーの出校表渡すの、忘れてた。
「ご家族に僕の方からご連絡入れるべきでしょうか」
「大丈夫ですよ。明日以降改めてご家族へのご挨拶と、クラスの生徒への対応を検討しましょう」
「はい」
「明日は早めに出勤できますか?」
「はい…あ」
「何かありますか?出来ればこちらを優先していただきたいのですが」
「いえ、あの、部活の朝練の監督を、前田先生がお忙しいので僕が代わるとお約束していて」
「ああ。でもそれは前田先生にお願いしましょう。堀田先生、七時に会議室にいらしてくださいね」
「は、はい」
駅のホームに流れる業務連絡のように、自分ではない誰かに向け左から右の遠い方へ、主任の声は逃げていく。
「眠れないかもしれませんが、しっかりと体を休めるようにしてください」
「はい」
「失礼します」
言葉にならない最後の返事を口の端からこぼして、通話を終える。焦点の定らないまま、車を降りて、駐車場を後にした。
部屋は温度が逃げ出したような奇妙な空気が静かに支配し、今朝捨てたカップラーメンの塩分の匂いだけが残っている。電気がまた、安っぽく部屋を照らす。俺の部屋はこんなにわざとらしい部屋だったか。B級映画のセットみたいだ。俺は、死ぬならここがいい。
ベッドに横になると、息を止めて、少しずつぼやける天井を眺めた。まぶたを閉じれば暗転する画面にかかる「カット」の声。息を吹き返して、笑って起き上がる。なんていうのは冗談で、閉じたままのまぶたに、まだまだ続く明日のことを思い浮かべた。
「あーあ」
どのタイミングで誰に何を言えばいいんだ。いつどんな仕事をすればいいんだ。持ち合わせない誠意を求められたら、どう示そう。個人的な後悔に襲われるのはいつだろう。報告書みたいなのがあるのか。警察へ行くこともあるだろう。クラスの子どもたちは、友達を一人失ってしまったことになる。学園祭、どうするんだ。クラス旗には風呂蔵の名前も入れてやろう。クラスTシャツは、風呂蔵の分も人数に入れて発注しよう。嫌がる子がいるかな。そうだ、風呂蔵と仲の良かった、桝。あいつには個人的に話した方がいいのか。大丈夫か。もう二度と友達に会えないことを、どう告げればいい。
次々と内に溢れる不安に身を任せて、朝まで漂うしかない。
投げやりに寝返りを打つ��、指の先でスマートフォンの通知音が響いた。
「堀田、まりあちゃんの話聞いた?」
「今病院の駐車場にいる」
「落ち込んでる?」
柏原からのメッセージだった。こいつ、いつも三言打つ。
メッセージ画面を開くと、そのまますぐに通話ボタンを押した。呼び出し音の中で、深く胸が痛む。
桝は、もう風呂蔵と電話もできない、声を聞くことも、学校でいくら姿を探せど会うことも出来ない。風呂蔵へと繋がるはずの呼び出し音は永遠に止まない、これから彼女に訪れるのはそんな体験ばかりだろう。かわいそうでならない。
「あ、堀田?」
柏原の声は小声で、いつもの浮ついた口調とは違っていた。
「柏原」
「堀田ぁ、大変なことになったな」
「そうだね」
柏原の疲れたようなため息が遠くに聞こえた。タバコでも吸っているんだろう。
「疲れてるだろ、電話はいいからゆっくり休めよ。今日は自宅に帰れるの?」
「さあ、わからない。今は警察の人が来てる。というか、いやいや。疲れた声してんのはどっちよ、堀田。大丈夫?なんかさあ、こんな話したくないかもしれねえけど」
「いいよ」
「記者会見みたいなのするの?謝罪会見っていうのか、あれ」
「え?」
「テレビでよくやってるじゃん。自殺した子どもがいじめられてなかったか、キョーイクイインカイってのが調査するんだろ」
「あ、ああ…」
柏原はやや頭が悪い。大学の頃からずっとそういう振る舞いで、話が噛み合わないこともしばしばあるが、一生懸命会話をしようとするし、優しくて明るい、だらしなくてちょっと悪ガキ。友達が多くて、不思議と安心感がある。教壇に立ってしばらくしてから、柏原みたいなタイプを教員が妙に可愛がる気持ちをなんとなく理解した。その頃からずっと変わってない。
「やるのかなあ、わからないや。いじめは無かったと思うんだけど…、遺書とかが出てきて、内容にそういう旨が書かれていたら別だろうな。なあ、柏原。もしクラスでいじめがあって、気づいてないバカ教師だったら、俺は懲戒処分になると思う?」
「は、え?俺に聞くなよそんなこと。そういう法律とかがあるのか」
「知らない」
「うーん、でも、俺も、まりあちゃんがいじめられてるとは思わなかった。あの子、普通に明るい子だったじゃん」
「はは、そうだね」
「普通、分からねえよ。だって他人のことなんていちいち理解出来ねえし、なあ?」
柏原の言葉尻が少し荒い。もちろん、状況が状況であるから、全てが普段通りではないだろうが、こういう時に真っ先にしょぼくれるタイプの柏原に怒りがにじむのは、少し違和感がある。
「お前は悪くねえし、第一、なんでもかんでも先生が責任とるのはおかしいだろ」
柏原の声がもごもごした。タバコを咥えたのだろう。それでも、電話越しの声がだんだんと怒っていくのがわかった。
「柏原、怒ってる?」
「は?怒ってねえよ、別に」
怒っている。柏原は軽薄そうな見た目に似合わず声が低いため、ドスが効いてちょっと怖いなと思った。初めてだ、こんなこと。夕飯の前に送られてきた、変な誤変換だらけのメッセージのことを聞こうかと思っていたのも、触れないでおくことにした。
「風呂蔵はさ、その…遺書とか遺してたのか?」
「…さあ。俺は知らねえよ」
「じゃあ他殺の可能性もあるってこと?」
「いや、駅のホームの防犯カメラの映像で、まりあちゃん自分で飛び込んでるって、警察が。また明日警察行ってその映像を確認すんのよ、ひでえよな。いのりが無理そうなら俺が付き添いで行って、俺の確認で大丈夫だって言われたら俺が見る」
「ふーん…。いのりさんは、大丈夫?」
柏原は黙った。ひやひやしながら返事を待つ。
「だめだよ。もうずーっと泣きっぱなし。気の強いやつだけど、まあ、妹の面倒一生懸命見てきて最期は自殺って、そりゃ泣いても泣いても足りねえよ、無理もないんじゃねえの」
「あー」
胸が痛かった。形容し難いものが瞬く間に胸をいっぱいになって、今度は俺が黙った。
これからは、こういう気持ちを正面から受け止めることが仕事なのか。生徒の分、保護者の分、いのりさんの分、あと俺の分。俺の分?
ことと場合によっては世間の分。何なんだ一体。何の責任を果たせばいいんだ、何の秤にかけられてるんだ、何の受け皿になったんだ、俺は。どうして死んだんだ、風呂蔵。
素晴らしい明日はしばらく来ない、過去も変えられない、出席表の丸は二度とつかない。
「なあ、堀田」
「なに」
「元気出せよ。無職になったら、仕事紹介してやるから」
「はは…縁起でもないな」
縁起でもないってなんだ、大切な教え子が死んだのに。言葉はいつも使ってるものが出てくるもんだな。何十年もかけて馬鹿みたいに毎日使えば、そりゃそうか。
「とりあえず、また連絡するわ」
「うん、じゃあまた」
「またな」
「はい、またね。切っていいよ」
耳からスマートフォンを離し手元で画面を���ると、十分六秒、七秒、八秒…。通話時間は刻々と続いて行く。
「切れよ」
集音部分に口を近づけ、笑いながらそういうと、向こう側からも笑い声が漏れ聞こえ、プツリと切れた。
1 note · View note
chirinovel · 4 years
Text
NOxMaria
Tumblr media
風呂蔵まりあ
明け方まで授業の予習ノート作りが終わらなかった。白む窓の外を見て、世界よ滅びろと強く願う。諦めてベッドに入ると、乾いた目に光線が透けるのが痛くて、もう一度心の底から世界を怨んだ。
そのまま、日付が越える頃までスマートフォンでだらだらと読んでいたホラー漫画の展開や、そのおどろおどろしい描写について考えていた。
部屋の前まで足音が、ギッ、ギッ、ギッ、と近づいてきて、「開けてくれ」と雨水混じりの泥をこねるようなまろやかな声がする。その声の呼ぶままに扉を開けてしまうと…。
身体にグッと力が入る。目を一度固く閉じると、外の世界が妄想の通りになっていても、それに気づけない。我慢の限界になると、恐怖と言うのか、なんというか、取り残されてしまうような不安で、ハッと目を開けてしまう。そんなことを繰り返していると、スマートフォンの穏やかなアラームが鳴った。
また眠そびれた。
今日は午後が英語文法と古文で、五限の英単語小テスト対策は午前中の授業中にこっそりやるとして、六限の古文は最初にノートを集める。どう誤魔化そうか。もう、なんでもいいや。忘れ物さえしなければ、どうにかなる。頭がぼんやりしてるうちに、学校へ行ってしまえ。今日はこれで押し切る。
制服に着替えて、リュックを持ってリビングに降りると、昨日買っておいたコンビニのお弁当が袋のまましなびていた。テレビを点けて、電子レンジにお弁当を差し入れて、六〇〇ワットで二分半。テレビからニュースが流れ始めた。
「えー、引き続き、昨日午後五時頃、県立第一高等学校で起きました、無差別殺傷事件の速報をお伝えしております」
聞き覚えのある高校の名前に手を止める。すぐにスマートフォンでSNSの友人用アカウントを開くと、昨日の夕方から夜にかけて大騒ぎだった。ネットの情報では、私が通う高校に一番近い高校の文化祭で、男子生徒が刃物を振り回して
「七名が意識不明の重体…?」
ニュースから流れる速報は聞き逃した。
電子レンジの温めが終わり、響くアラームのなかで、茫然と立ち尽くした。ついさっきまで世の中を恨んでいたとは自分でも信じられないほど、強く胸が痛む。
刃物を振り回した生徒の、のっぴきならない胸のうち。もう二度と彼とは友達に戻れない、顔も知らない被害者たち。悲しいニュースの向こうから、悲しみにまみれた命をひりひりと身に感じて、寝不足の鈍く痛む眼球の裏からぼたりと涙が溢れてきた。
泣きながらご飯を食べ、のろまな足取りのままで家を出た。
外の蒸し暑い空気は少しも動く気配が無い。日差しは白く霞んで何かを誤魔化していて、とても気持ちが悪い。自転車のサドルはほんのりとヒビ割れて、そこからジトリと見つめる梅雨を連れ去った後の湿気。詰め込んだお弁当ごと胃が縮み、小さくえずいた。
コンビニでお昼ご飯を買っても、だいぶ早い時間に学校に着いた。じんわり汗ばんだ制服ではたはたと風を送りながら、ようやく教室へ辿り着く。教室の扉は開け放たれて、エアコンの涼風がむき出しの腕を撫でる。中で勉強をしている人影が見える。
あ、莉花ちゃんだ。
ちょっと嬉しくなって、
「おはよー」
そう声をかけると、少しこちらを見つめてから、不機嫌そうにイヤホンを取った。
鋭い眼差しに、少したじろぐ。莉花ちゃんとは、学校でいつも一緒にいる関係だけれど、機嫌が悪い時の容赦なさには、未だに慣れない。私が悪いことがほとんどだけれど、時折こんな風に、私にはどうしようもないことで傷つけてくる時もある。
彼女の機嫌が悪い時は、なるべく黙るようにしているけれど、今日は睡眠不足でちょっと気分が昂ぶっていた。どうにか笑って欲しい、ご機嫌がいい時みたいに、楽しく笑いあいたいと、思ってしまった。
そのまま、本来は別の生徒のものである、彼女の前の空席に腰掛けてみた。彼女の視線は私ではなく、手元の分厚い英単語帳に注がれていた。
「早くない?」
 なるべく自然に、続きを求める眼差しを彼女に向ける。会話を続けたい意思に気づいて欲しくて、無邪気に振る舞う。
「小テストの勉強今からやろうと思って」
「え、やるだけ偉くない?私もう諦めてるよ」
大げさに笑えば、時々釣られて笑ってくれる。莉花ちゃんは、馬鹿みたいに振る舞う私が好きみたい。
「いや、普通にやっといた方がいいと思うけど」
叩きつけられた返事に、体の中心で氷の塊がドキッと強く跳ねた。あからさまな嫌悪と手応えのないコミュニケーションに、顔はニコニコしたまま、頭が真っ白になる。
「いやー、はは」
口の中が乾いて、吸い込んだ空気は少し苦かった。外では野球部が朝練をしている。埃立つグラウンドは、ゆらゆら揺れているようだった。
彼女とは、このクラスになってから、アイドルの話題で仲良くなった。クラス替えからしばらく騒ついていたクラスメイトたちが各々グループで落ち着いた頃、私は風邪を引いて一週間学校を休んだ。その翌日の学校で、担任の堀田先生に、学校での人間関係は上手くいっているかと聞かれた。
その時は、担任の勘違いを解かなきゃ、と思って慌てたけれど、それまでは平気だったことが、急に死にたくなるほど恥ずかしく感じて、いてもたってもいられなくなってしまった。例えば、授業中に集中力が切れ睡魔に抗えず、先生に「オイ」と指さされることや、課題が終わらないこと、小テストに落ちること。本当に、クラスメイトとはなにもなかったし、関係の浅かった子たちが段々と離れていくのは普通のことだと頭では理解していた。それでも、春先に満ちた自尊心があらかた去っていった後に、羞恥心とふたりきり残されたこの教室は、確かに居心地が悪かった。
もしかしたら、堀田先生の心配通り、私はクラスメイトと上手くやれてなかったのかもしれないと思うと、不安で月曜日の学校に行けなくなった。
その頃、英語の授業を習熟度で分けたクラスで莉花ちゃんと一緒になった。
私のスマートフォンの待受を見て、「ねえ、その俳優さ、今度ナントカって映画で声優やるよね?」と、声をかけてくれた。「私もそのグループ好きなの、友だちになろう」すごく優しい子だと、思った。
今も、そう思っている。
それは見れば分かる。
「あ、ねえ…ニュース見た?一高の」
  ボールに飛びつく野球部の姿をぼんやり目で追っていると、彼女の方が声をかけてくれた。彼女の方を向くと、今度はきちんと私を見てくれている。何が原因かも分からない機嫌の悪さは、申し訳なさそうな色で上書きされている。ほら、今度はきっと、優しくしてくれる。心がふっと浮く。
「知ってる!やばくない?文化祭で生徒が刃物振り回したってやつだよね?めっちゃかわいそう。びっくりしてすぐに一高の友達にラインしたもん」
「何人か亡くなってるらしいじゃん」
「え、そうなの、笑うんだけど」
「笑えないでしょ」
あ、しまった。でも今は、不謹慎だとかよりも、目の前の彼女の機嫌を損ねたくない一心だった。必死に、「あー、ごめん。つい」片手をこめかみに当て、オーバーなアクションをする。視線を彼女に移すと、また英単語にラインマーカーで一生懸命線を引いていた。
「ごめん」
彼女が、私といてちっとも楽しくなさそうな時、私にはその理由がわからない。彼女はひどい時も優しい時もあるけれど、私は、莉花ちゃんのことが大好きだった。彼女の気に入らないところは直したいと、彼女の不機嫌の理由を一生懸命考えた。
彼女は、私を視界の外に、黙々と単語帳に線を引き続ける。
彼女のイヤホンから漏れる低い音が、まるで心音のようだった。胸元の「桝」の名札が、小刻みに揺れる。莉花ちゃんの息づかいに耳を澄ませながら、ふと残酷なことを思いつく。
あの事件のように今、私が刃物を振り回し、こんなに機嫌の悪い彼女が、慌てて逃げ出す様が見たい。いや、もしかしたら、彼女なら、逃げ出すより先に、「やめなよ」と言ってくれるかもしれない。そんな子が���事件のあった高校にも、居たかもしれない。だって、仮にも、同い年の友達だったはずだから。それでも命を落としてしまっただれかのことを想像すると、また鼻の奥が涙でツンとした。
犯行の動機が何であれ、他人の命に干渉してまで抑圧から解放されたら、その時は繰り返してきた自身の葛藤なんて、くだらなかったと思うのかな。
しばらくすると、他の生徒たちがやってきて、グラウンドの土と制汗剤の香りが教室一杯に混ざり合った。
午前中は、事件のことばかり想像していた。
例えば、今私が突然立ち上がって、刃物を振り回したら、どうなるんだろうか。人を刺す感覚や、肌を裂く感覚は、その時初めて知るものなのだろうか。事件に遭遇したことがないから分からないけれど、想像に難くないのは、両手で刃物を持って、力を込めて腹部を刺す光景。どのくらい痛がるんだろう。すぐに気を失ったりするものなのだろうか。先生が止めに来るかな。担任の先生は、どんな顔をするだろうか。
私が警察官に取り押さえられた時、それを見て、クラスは安堵で一杯になるのか、それとも、まだ犯人とクラスメイトとの境界は曖昧で、先生に友だちが怒られてる時のような、茶化せずにはいられない気まずい空気になったりするのかな。
そんなことをしてまで得られるものってなんだろう。
授業には集中できなくて、手元ばかり見つめていると、頭がぼんやりとしてくる。クーラーの効いた教室で、眠気に火照る肌が、科学素材のように嫌な熱気を放っていた。
そのうちすぐに瞼が重くなって、気を抜くとすぐ船を漕いでしまう。瞬きを何度もしながら手の甲を抓ると、痛覚は不甲斐無さばかりを呼び覚まし、蛇口を開けたみたいに悲しさが溢れ出した。
午後の小テストも、きっともうダメだ。ノートの提出も出来ない。嫌だな、今日は乗り越えられないかもしれない。いや、ダメだ!頑張らないと。朝、何か、これで乗り切ろうと思ったことがあったけど、なんだったっけ。
ちらりと莉花ちゃんの方を見ると、彼女もまた、俯いて静かに固まっていた。寝ているのかな。
少し元気が出てきた。期待を持って教室を見渡すと、周りはみんな、しっかりと授業を受けているように見えた。眼球の筋肉が軋むのを自覚しながらもう一度視線を戻すと、彼女も今度はしっかりと黒板を見ていた。
四限が終わるチャイムで目が覚め、少し泣きそうになった。スマートフォンと、朝に買ったサンドイッチの入ったコンビニ袋を持って教室を飛び出した。
どうして、みんなに出来ることが、私には出来ないんだろう。悲しくて、悔しくて、申し訳なくて恥ずかしくて、落ちるように階段を駆け下りた。
思えばずっと、話が噛み合わなかったり、誤魔化さなくていいことを誤魔化して来た気がする。
私も学校の意味を哲学したいけど、みんなと同じゴールを据えたいけれど、ずっとピントが合わないな。景色はボヤけたまま、名を呼ぶ声を頼りに、ただ今日を生きなくちゃ。吐き気のするような一秒の積み重ねを耐え抜いて、誰にも言えない痛みを、私だって知らなくちゃ。
でも、私だけどうしてこんなに辛いんだろう。悪いのは、私なんだけれど、悪者だけが原因とは限らないんじゃない。もっと他に理由があるかもしれない。そんな希望にさえ縋る。若者は無限の可能性を持っているなんて、酷い脅し文句だ。
遣る瀬なく涙を堪えて伏せた視線は、すれ違う生徒たちの腹部に行き着いた。女子は特に、柔らかそうだと、思った。
一階体育館昇降口へ続く廊下の途中に保健室がある。窓から廊下へ差す陽の光がジリジリと暑いのに、その日差しの中に舞うホコリは、ゆったり流れる。それをぼんやりと眺めると、辛く苦しい気持ちは段々と薄らいできた。
その安心は、このまま一秒でも長く頑張らなきゃと切迫したしこりも一緒に溶かした。こうなると、泣きながらでも教室に居続けることは、もう出来ない。
「帰っちゃおう」
呟くと、自分の息でホコリは流れを変える。それは、救いのような光に見えた。
保健室のとなりにある保健体育の準備室の前で足を止めた。自分の教室には居られない時、いつもここでご飯を食べる。
その広さは普通の教室の三分の一程度しかなく、教科書の在庫から、応急処置の実習に使う器具までが押し込められている。基本的には無人で、軽くノックしても、思った通り、なんの返事もない。私のために保健の先生が立ててくれた会議用の長机と理科室の椅子に腰掛ける。
カリカリと机を爪で引っ掻いていると、廊下から入ってきた方とは別の、保健室に直接繋がる扉から、養護教諭の仁科先生が顔を覗かせた。仁科先生は子どもがまだ小さいらしく、たまに居なかったりする。
「ああびっくりした!」
「あ、せんせえ」
「来てるなら言ってよね。なに今日、頑張ったじゃん」
「ちょっと辛いからもう帰る!」
「えー、もうちょっと頑張ろうよ、保健室で休んでもいいんだよ」
「ご飯食べて決めてもいい?あ、せんせえ、カフェオレ作ってよ」
「あんたねえ」
「お願い!今日で最後にするから!」
「もー、最後だからね」
そう言いながら保健室に消えていった。間も無く、陶器のカチャカチャぶつかる音と、コンロに火がつく音がした。
片手にカップを持った先生が現れたのは、すぐだった。
「あっ、聞かずにホットにしてしまった!大丈夫?」
「笑う!夏だよいま!えー、でも大丈夫、ありがとうせんせえ」
「ちょっと、火傷しないでよ」
「いただきまーす」
すぐにごくごく飲んだ。甘くて熱くて、喉が少しずつしか胃に落としてくれなかった。持ち上げたカップ越しに一瞬だけ先生を見た。いつもの表情。先生は、私がこれを飲んでいる時、決まって安心したような顔をする。確信が満ちているように見える。カフェオレの、糖分とか鉄分とか、カルシウムとか、そういうものが私の胃に落ちて、分解されて、栄養素に変わって行くのを、しかと見たぞといわんばかりに。それが少し面白かった。
「あんまり見ないでくださあい」
「なによ、かわいい生徒を見たらいかんのか」
「いやちょっと気持ち悪いんですけど!」
おかしくて笑った。先生はなにかを言いかけた、ように見えたけれど、保健室から呼ぶ別の生徒の声にはあい、と返事して、そのまま去って行った。
静かになった準備室で、机の上に今朝買ったサンドイッチを出した。少し歪になったサンドイッチからはみ出すトマトを、袋の上から一生懸命押し戻す。ポケットに入れたスマートフォンが振動し、画面が明るくなった。そこには、教室にいる彼女から「そっち行ってもいい?」と、メッセージがきていた。アプリを開いて、いいよ、の返事を送った。
本当は、会いたくなかった。繰り返し繰り返しした妄想で殺してしまった人に、会い直す。どんな顔をしたらいいのか分からない。
人生は変えられないけど、人を殺したら、人生観は変わるかな。気を引きたいとか、謝って欲しいとか、構って欲しいとかぶち壊したいとか、そう言う気持ちを暴力で発散し切ったら、人の言葉のひとつに救われたり、傷ついたりしたなんて閉塞的な世界からは出られるだろうか。
子供が互いに干渉し合って、大人になっていくんだから、ろくなこと、あるわけないよなあ。
欠けた月の、欠けた方をじっと見るような心地。そわそわと落ち着かない手でサンドイッチをビニール袋に戻した。
準備室のドアが、廊下から叩かれる。いつもはそんなことしないのに。
今朝方ベッドの中でしていた想像が、ふとよぎった。足音が近づいてきて、「開けてくれ」と囁く。妄想を振り払うように思い切りドアを開けた。
何度も刺してしまった顔が、目の前に現れた。
「ありがとね」
「いいよいいよ、もうご飯食べ終わった?」
彼女の手を準備室の中へ引きながらぎこちなく踵を返すと、保健室と準備室を繋ぐ扉から、仁科先生が顔を出した。
「あれ、二人一緒に食べるの?」
「はい」
彼女がにっこりと答えた。
先生は何度か頷き、おしゃべりは小さい声でね、と言い残し保健室に戻っていった。彼女はにこにこしたままで、さっきまで私が座っていた椅子に座りながら、問いかけてくる。
「これ、先生が淹れてくれたの?」
カフェオレのカップを覗き込みながら、手は持ってきたお弁当や英単語帳を机に広げていく。
「そう、あ、飲みたい?貰ってあげよっか」
「…いいよ」
少し不機嫌な声。粗探しをするような視線が、机の上を泳ぐのが分かった。そんな彼女の、小刻みに動く素直なまつげを、私は立ち尽くしたまま眺めた。
今なら彼女の考えていること、全部分かってしまいそう。それでも私は、こうして来てくれてとても嬉しいよ。
彼女の向かい側に腰掛けて、机の上にあったコンビニの袋の口を膝の上でこっそり縛った。
「あれ、食べ終わっちゃってた?」
「うん。サンドイッチだけだったからさ」
そのまま、そっと袋を床に置いた。
「食べてていいよ」
手前に並べられた彼女の英単語をこちらに引き寄せる。ボロボロの表紙を、マスキングテープでがっちりと固定してある。形から入るところがちょっと可愛くて、掠れた印刷を撫でるようにそっとめくった。
「今日何ページから?」
「えーっとね、自動詞のチャプター2だから…」
「あ、じゃあ問題出してあげるね。意味答えてね」
莉花ちゃんは、勉強がそんなに得意じゃないらしい。教科ごとの習熟度別クラスは、私と同じ基礎クラスで、小テストも不合格で、よくペナルティ課題を出しているのを知っている。本人は隠したがっているし、私の前では決してペナルティ課題をしない。彼女は見栄っ張りで、分かりやすい歪さを持っている。それはきっと深さだね。私とは全然違うタイプだけど、いつかもっと仲良くなったら、きっとすごい友達になれるよ。でも今は今朝の仕返しで、ちょっと意地悪させてね。
「えー…自信ないわあ」
「はいじゃあ、あ、え、アンシェント」
今日の出題範囲とは違う単語を、適当に口にする。
「はあ?」
莉花ちゃんがお弁当のミートボールを一生懸命噛んでいるのをうっとりと眺めていると、視線がぶつかった。
嫌な顔をしていない!それが嬉しくて、上手に仲良くできているのが幸せで、自分の頬が緩むのがわかった。                                                                                                   
「え、待って、ちょっと、そんなのあった?」
「はい時間切れー。正解はねえ、『遺跡、古代の』」
「嘘ちょっと見せて。それ名詞形容詞じゃない?」
ちょっと焦った自身の声の流れへ沿うように、箸を置いて、手が伸びてくる。私の目前から取り上げられ、彼女の元に戻っていく英単語帳の描く放物線。固定されたカバーは、調和を崩さない。
莉花ちゃん、安心して。単語ひとつ答えられないくらいじゃ恥ずかしくないよ。    
「違うし!しかもアンシェントじゃないよ、エインシェント」
笑い声が少し混じるのもまた、どんどん私の心を躍らせた。
「私エインシェントって言わなかった?」
「アンシェントって言った」
「あー、分かった!もう覚えた!エインシェントね!遺跡遺跡」
「お前が覚えてどうすんの!問題出して!」
「えー、何ページって言った?」
目の前に突き返された単語帳に、雲流れて黄金の日差しが窓から降りて、キラキラと光って見えた。遺跡はどんな豪華な神殿にも負けない響きを私の中にくっきりと残し、一生忘れない、と思った。
張り切ってページをめくるたびに、細かい埃が空気中を舞う。彼女と上手く笑い合えるひと時に異常なほど心踊らせる私には、魔法の粉にすら思えた。
光の帯の向こう側で、顔をしゃんと挙げたまま、蝶々みたいに軽く鮮やかな箸でご飯をまとめて、その先に真珠くらいの一口を乗せ、上品に尖らせた唇の間に隠すようにしてご飯を食べる。彼女は、その動作の中で、こっちを見ることもなく呟いた。
「午後出ないの?」
彼女の声は緊張しているように聞こえた。 まるで、世を転覆させる作戦か何かを、本当にやるのかと念を押すように。
真面目な彼女は、私が当然のように学校をサボったり、誤魔化しきれないズルをする時に、こういう反応をする。その度に、彼女の世界に成り立った文化や法律から、私は逸しているのだと実感する。だとしたら、私を見下すような振る舞いをすることも、納得できる。
こういうの、世界史の授業でやったなあ。
何世紀たっても、理解しがたいものに対して、人の中に湧き上がる感情は変わらない。汚くて、時に愛しくすら思う。
「うん。ごめんね、あの、帰ろうと思って」
 彼女は、無理に優しい顔をした。
「プリント、届けに行こうか。机入れておけばいい?」
「うん。ありがとう。机入れといて。いつもごめんね」
手元だけはお弁当を片付けながら、黒いまつ毛に囲まれた双眸がこちらを見つめる。
莉花ちゃんは、なにか言いたいけれど切り出せない時にこの表情をする。どきっとするようなその姿を黄金に霞ませていた太陽は、雲に隠されまたゆっくり静かに翳った。
何を言いたいんだろう。「今朝はごめんね」?、午後も出ようよ」?「家までプリント持って行くよ」?
私の頭の中は莉花ちゃんの言えなかった言葉で、たちまちいっぱいになった。同調してるのか、はたまた妄想かは分からないけれど、こうなると彼女のことを目で追うことしかできない。カーディガンを羽織った女性らしいシルエット、汗疹のある首、伏せた瞳の中に写るお弁当の包みの千鳥柄、そこ影を落とす前髪、その先端、食後のリップを塗られる唇、艶やかになる古い細胞。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴ったのも遠い国の出来事のようで、立ち上がった姿をまた深く潜水するように眺める。動きを魚影のようなおぼろに捉える。行っちゃう。何か、何か言わなくちゃ。
「つぎ、えいご?」
自分の口から溢れ出た言葉は、驚くほど頼りない。
「うん、教室移動あるし、行くね」
「うん…あのさ、いつもさ、ありがとね」
彼女は、また優しい顔をした気がした。窓から黄金の大流がゆっくりと幕を下ろす。
「え、んふふ。なんで?また呼んで、な」
  そう翻る彼女のスカートの一瞬は、一撃で世界を平定した。裏も表もない、細胞の凹凸も、心の手触りも、自分の輪郭も、日向も日陰も、なにもかも。人なんて殺さなくても、生死の境をたやすく超える。彼女が人生最後の友だちだ。
幸せで、ちょっと泣いた。今日を生きられなかった人、これだけ今を謳歌すれば、大志なんて抱かなくていい?午後の授業に出れなくても、存在していいよね。
「風呂蔵さん」
仁科先生に揺り起こされる。
「大丈夫?熱中症になるよ、こんな所で寝て」
「今何時ですか?」
「まだ昼休み終わって五分くらいしか経ってないよ」
「全然寝てないじゃん」
胸中に「どこからが夢だったんだろう」なんて思いがふっと湧いて私を茶化して消えた。
両手を握ったり開いたりすると、皮膚が突っ張って、三千年の眠りから覚めたような心地がする。
「私帰ります」 
「あ、待って待って。五限中に堀田先生来るって」
「え!やだ」
「そういうこと言わないの」
「何時に来るんですか?具合悪いんですけど」
「多分、もうちょっとで来ると思う。堀田先生お忙しいらしいのよ今」
「じゃあ来なくていいのに」
「かわいそう。会いたがってたよ、堀田先生」
「私会いたくない!ねぇ、仁科先生はさ、堀田先生好き?」
「はぁ?」
「私の周り、堀田ちゃん好きな子多くてさ。でも付き合うならみんな細倉先生がいいんだって。私どっちも嫌い。でも堀田の方が嫌い、おじさんじゃんあんなの」
「ちょっとあんたね、言っときますけど、堀田先生と細倉先生同い年ですからね」
 「うそ!」
「あんたたちから見たら堀田先生らへんの歳はもうひとまとめにおじさんなんだね」
仁科先生は笑いながら私の向かいに腰掛けた。
「風呂蔵さんさ、学校、正直どう?」
仁科先生は腕組みをしながら、先生語を流暢に話す。それは時折、字幕が途切れたように、突然聞き取りにくくなる。今もまた私には先生がなにを言ってるか分からなくて、申し訳なくて、へらへら笑ってみた。
「夜眠れてる?」
穏やかな顔と穏やかな声だなあ。きっと、私のこと心配してくれて、何か伝えようとしてくれているんだ。
言葉の通じ合わない私たちは、カフェオレとか、遅刻の提出物につく三角サインとか、成績表の五段階とか、調理された感情を安心してやりとりしてきた。腹を割って話す、出したばかりの内臓みたいな感情の良さはまだわからない。大人になれば生ものも美味しくいただけるかもしれないけど、今はまだカフェオレ越しじゃないと照れちゃうな。
「そういえば、先生」
私も私の言葉で話したくて、もう一度スタート位置に戻した。
「昨日、大きな事件があったよね」
「そうねえ」
「捕まった生徒って死刑になんの?」
「えー、どうかなあ、多分ならないと思うよ。未成年だからなあ」
「かわいそうだよね」
「亡くなった生徒のこと?」
「刑務所の中で死にたくないなと思って」
「そうかあ」
どうしても、居心地が悪い。一生懸命会話をしようとするのに、どこか決まったゴールに導かれているような。
「私ね、あのね」
言葉を途切れさせないように必死に考える。
「莉花ちゃんのことを殺しちゃったらどうしようって思ったの」
「うん」
「それでね、でも、ちゃんと伝えたいことは」
身振り手振りで一生懸命伝える。
この世界は、胸が裂けるほど怖いことばかりだ。言葉も、ルールも分からない世界で、時間は待ってくれない、隠れることもできない。
私だって、みんなと同じように頑張れるはずなのに。たくさんの言葉を覚えて、言いたいことだって言えるように、みんなと、莉花ちゃんと同じだけの時間をかけて大きくなってきたのに。
私は、友だちの上手な作り方も、失敗した時の許してもらい方も、仲直りの仕方も、勉強の仕方も、ちっとも上達しなかった。同じだけ、人を傷つけたり、馬鹿にしたり、責めたりも、見よう見まねでしか手につかなくて、諦めた。
でも、それもこれも、みんなには出来て当たり前のこと。
私たちもそんな人たちと同じ言葉で、同じルールで頑張って生きていくんだよ。期待を裏切ったり、人を悲しませたり、怒らせたりしながら。出来ないことばっかりで、恥ずかしくなるけど、逃げ出したり、駄々をこねちゃだめ。私たちより頑張ってる人たちのことを邪魔するようなことは、絶対にしちゃだめ。
「ちゃんと聴いてくれるよ、莉花ちゃんなら」
自分の言葉に、涙が出そうになる。私を励ますのは、いつだって私の、そうあって欲しいと願った言葉だった。
「そっか」
「まあでも、莉花ちゃん、あんまり私のこと好きじゃないんじゃないかって思うんだよね」
「ええ、とてもそうは思えないけれど。どうしてそう思うの」
「どうしてっていうか…。先生はそういうこと、ないの?」
「人に嫌われてるなあって思う瞬間?」
「ううん。私のこと好きじゃなくても、優しくしてくれる子だなあって、嬉しくなる瞬間」
「風呂蔵さん、誰もあなたのこと嫌ってる人なんて居ないよ」
出来る限り集中していたつもりだったけれど、仁科先生の言葉は聞き取ることが難しい。
「みんなと比べてどうかなんて、どうでもよくなるほど嬉しい日がきっとくるよ」
 温かい言葉を掛けてもらって、嬉しかった。同時に、真剣な顔をさせてしまったのがどうしても申し訳なくて、大笑いしてしまった。
「仁科せんせえ、大好き!ありがと!私、トイレ行って来るね」
「あ、先生も会議あるから席外すけど、ちゃんと堀田先生に会ってから帰りなさいよね」
「はーい!じゃあね」
仁科先生は、私の背中に手を置いた。反対の手が視界に入る。午後の日差しは、薬指の結婚指輪に反射して、先生のセリフを盛り上げるように、今から来る、ハッピーエンドを祝福するように、キラキラと散った。
「ね、あのね。学校は子供のためにあるのよ、無理に来る場所じゃないの。先生もみんな味方なの、忘れないでね」
ドラマのセリフみたいだ、と思った。
ずっと欲しかった言葉だった気がするけど、早口で聞き取れなくて、それが悔しくて、トイレで子供みたいに泣いた。洋式便器の蓋の上に座って、いつまで経っても白い上履きで、足元のタイルをバタバタ叩くと、もっと涙が出た。
励ましてくれるのはいつも自分の自給自足の言葉だけだと思っていたけれど、本当は今みたいに、私がいくつも聞き逃してしまっていただけなんじゃないか。そう思うと、大げさだと笑っていた絶望という言葉が、トイレの扉のすぐ向こう側にぴったりと張り付いて、私を待っているような気がした。怖くなって飛び出た。
いつか誰かが与えてくれる感動的な救いの言葉を、楽しみにしていたのに。 
慌てて保健準備室に逃げ込んで、隅っこに丸くなって座った。
さっきまで射してたはずの、陽の光の会った場所に膝を抱えて、また雲が途切れることを祈った。薄暗い準備室は、狭いのに物で溢れて四隅が見えず、どこまでも続いている気さえする。ただ、埃や日焼けで、学校中で一番古びているようにも見える。寂れた空気を肺いっぱいに吸い込むと、砂とも紙とも埃ともつかぬ塵に、臓器が参る。こっちの方が、よほど生きている心地がした。まるで古代の遺跡にいるような気分。儀式の途中で、文明の途切れた遺跡。
捧げ物みたいに転がるサンドイッチと、山のように積まれた心と身体の教科書。先生の復活の呪文。
ちょっと笑った。
私、おかしくなっちゃったのかな。 どうしてみんなの言ってることややっていることが、私にはわからないんだろう。
まだ病気とか、人間不信とか、そういうものになりたくない。道を間違えていたとしても、滅んだ遺跡を歩いて戻って、最後にはみんなと同じ景色が見たい。
「莉花ちゃん」
初めての会話で、無理してかけてくれた、嘘のない優しい言葉を、もう一度聴きたい。
しばらく日陰を見つめていると、隣の保健室からドアが開く音がする。
そうだ、仁科先生にお願いして、カフェオレをもう一杯もらおうと思ってたんだ。
立ち上がり、乾いたカフェオレのカップを手にして、保健室に繋がるドアノブに手を掛けた。
 「せんせー、カフェオレー」
いつもの優しい声が返ってこない。不思議に思って顔を上げると、保健室の一角に設けられた簡易相談室の、目隠しとなるパーテーションに片肘をついた堀田先生が、呆れた目でこちらを見ていた。
「うわ」
「はい、まりあさん、こちらへどうぞ」
先生はゆらゆらと手招きする。
「えー!やです」
「やですじゃないです」
私は渋々カップをすすぎ、流しに置いて、パーテーションの中の丸テーブルに腰掛けた。
先生は手元のファイルに視線を落としたまま、なかなか口を開こうとしなかった。沈黙に耐えきれず、
「先生、暇そうだね」
怒らないでと願いながら、茶化した。
新年度に選んだ、身の丈に合わないこの態度も、改めるタイミングを失ったまま。
堀田先生はたまに建前で叱るけれど、基本的には何でもいい、と言ったような対応を返す。
「まりあこそ、暇そうじゃん。午後出ようよ」
「具合悪いの!」
「お前なあ」
「明日はちゃんと全部授業出る」
「勢いだけは良いんだよなあ。仮に家に帰るとして、親御さん居るの?」
具合悪いなら、誰もいない家に帰るより保健室で休んでた方がいいんだよ、と、ファイルを手で遊びながら続ける。
それを言われると、都合が悪かった。ママは夜遅くまで仕事だし、パパはもう何年も家に居ない。ただ、私には、堀田先生との会話をやり過ごす、とっておきの切り札がある。
「親は居ないけど、先生の初恋の人ならうちにいるから」
先生の初恋の人、風呂蔵いのり。十一歳も離れた私のお姉ちゃんだ。
「あほ」
すぐに手にしていたファイルで頭を軽くはたかれる。
「痛いんですけど!」
「そういうの柏原くんから吹き込まれるわけ?」
私のお姉ちゃんには、柏原くんという彼氏がいる。そして、この柏原くんというのが、堀田先生の大学時代の大親友なのである。柏原くんはうちに遊びにくると、いつも堀田先生の大学時代の話をする。酔っ払った時は、決まってにやにやしながら「本当は、堀田もいのりのことが好きだったんだぜ。しかも初めて女の子を下宿に誘ったって。でも俺が奪っちゃったんだよね、いのりのこと」とおどける。
「そう。柏原くん言ってたよ、堀田先生もうちのお姉ちゃんのこと好きだったって」
堀田先生は眉間を押さえながら、
「あなた、やっぱり元気じゃん。小テスト落ちてもいいから出なさいって」
深いため息と言葉を一度に吐き出した。
もともと、堀田先生の印象はそんなに良くなかった。保険をかけるような、建前で最低限の責任を果たすような先生の振る舞いは、子供から見上げた時の独特な大人らしさがあって、苦手だった。
私が風邪で一週間学校を休んだ次の日の「まりあ、友だちと上手くやれてる?」は、その象徴だ。思い出すと今も嫌な汗が出る。先生の言葉を聞き取りにくく感じたのも、その時が初めてだった。私は聞き取れない言葉を、先生語と名付けた。心配するような響きは建前で、本音は「うまくやれよ、不登校になるなよ」なんだと、本能的に感じ取った。
柏原くんはいつも堀田先生のことを嬉しそうに話してくるけど、柏原くんのことだって苦手。いい人だけど、私からお姉ちゃんを取ったことは、何年経っても許せない。そんな彼にも、彼の思い出の中に登場する、学校とは違う子供っぽい堀田先生にも、言葉は悪いけれど正直、うんざりしていた。
「…まりあ」
先生が、先生らしい声で私の名前を呼ぶ。 耳を澄ませて、身を固くする。
「具合悪いのは、こう、学校に居ると心が辛い、みたいな感じかな。それとも、本当に体調悪い?」
「お腹痛い!私さ、生理痛重いんですよ」
間髪入れずに笑い飛ばすと、先生の表情はわずかに歪む。
真剣な話は嫌だった。照れるし、息苦しいし、話が通じないのがバレてしまうから、暗闇で木の枝を振り回すようにおどけてしまう。まさしく振り回した木の枝が当たってしまったような、萎れた反応。
「最近の若い子って、そういうのためらい無いわけ?」
バカみたいに笑いながら、目を細めて先生の目を覗き込むと、ただ悲しくてやるせない、そんな本音を垣間見た。そのことに、少し戸惑った。まっすぐ、私の目を見て、恥ずかしいくらいに。先生の言っていることも、考えてることも分からない。でも、心が痛そう。
私、また失敗してしまったかな、加減間違えちゃったかな、傷つけちゃったかな。辛い顔しないで、ごめんね、先生。
あはは、なんて笑いながら、先生の、祈るように組んだ手を見る。窓から差した光線は、先生の手の血管に陰影を与えたり、腕時計に鋭く反射したりして、温かく周囲に散らばった。
仁科先生の手を思い出す。
欲しい言葉が聴き取れない辛さと申し訳なさ。不甲斐ない自分に強く打ちのめされる。
でも分からないんだもん。教えてよ、先生、世の中難しいことだらけだ。
先生からしたら、私の悩みなんて、きっとばかばかしいことなんだろう。莉花ちゃんだって、クラスのみんなだって当然のようにできていることなんだ。ばかばかしいことばっかり、でも難しいことばっかり。
教えて欲しい事まだあるよ、先生
「てか、先生さ」 
「はい」
先生はわざとらしく、すっと背筋を伸ばした。
「クラスの生徒のことって大事?」
「当然じゃん」
「命かけて守ろうと思う?」
ちょっと目を大きく開いた。普段、表情の変わらない人だから、珍しくて、またじっと覗き込んでしまった。
建前も本音もなく彷徨う視線が、面白かった。 
「どうかなあ。学校って色んな人がいるから、命がけで守って欲しい人も、そんなことして欲しくない人もいるんじゃないかな」
「堀田先生っぽい」
「申し出に合わせると思う」
わかりやすい答えだな、と思った。世の中の求める答えではないかもしれないけれど、私は満足した。
「風呂蔵は」
「え」
不意の仕返しに私が狼狽えるのを、キョトンと見つめながら、手を組んだり解いたり、次の言葉を選んでいる。
「命がけで守られたら、午後の授業出る?」
「今日は、本当に!」
堀田先生はあんまりにこにこしない。冗談かどうかは相手の出方で後から決める、そんな人だ。
会話に行き詰まったら、逃げるのがいい。
「まだお話済んでませんよ」
「本当に!」
ごめんなさい、下げた頭の上に、降り注ぐような終業のチャイム。時間よ早く過ぎてと垂れる頭と裏腹に、チャイムの音を心地よく聴いていた。午後の太陽は保健室いっぱいに白く広がり、不甲斐ない自分の輪郭を溶かして、先生の目眩しになって、チャイムの尖った音をまろやかにしてくれる。恥ずかしくて、申し訳なくて、でも心地よくて、このまま居なくなってしまいたい。
そのまま、誤魔化すようにすり足でパーテーションの外に出ようとすると、先生のこぼした笑いが聞こえる。それはおまけでもらったマルのようで、私は見逃してもらった不正解だけど、それで良かった。許してもらうことが、なによりも幸せだった。
ホッとして顔をあげる。私がまた「ごめんなさあい」と笑うと、わざと口をへの字にした先生のため息が、もう一度笑うように揺れる。飛び上がるほど嬉しかった。
「気をつけて帰れよ。ちゃんと仁科先生にご報告して、早退届には明日まとめてサインするから」
「ありがとうございまーす」
そのまま逃げるように準備室へと飛び込んだ。スマートフォンにイヤホンを繋いで、今月のベストヒットを上から聴く。次の授業が始まればクラスメイトはそれぞれの教室へ向かう。その隙に私は誰もいない教室へ入り、帰りの支度をして学校を出る。準備室で息をひそめ、耳のイヤホンからは今月一番買われていった愛の歌が流れる。もしも今日の日が、いつか「青春」と名乗るなら、ちょっとした悲劇だな。でもそんなことはどうでもよくて、今は頰が緩んでしまうのを感じながら、始業のチャイムと共に廊下に出た。
静まり返った校内で、白く揺らめく階段を駆け上がる。自分の足音が少しずつ軽くなって響いて、羽が生えたみたいだと感じた。
暗い教室に辿り着いた。消し忘れられたエアコンが、必死に部屋を冷やしている。今日は一日中うっすらと曇って、時折日が差す程度だったから、蛍光灯をつけてしまば朝からまるで時間が経っていないように感じる。ただ、窓際の席に莉花ちゃんだけが居ない。 
一度机の中へしまった教科書を一冊ずつリュックサックへ戻していく。倫理、現代文、数学、英語、辞書、開いたことの無い単語帳。どの教科も、「前回の続き」が何ページなのか分からない。寂しい。本当は、もっといい子になりたい。それはいつだって変わらないのに、どうしてそうなれないんだろう。もしかして、私、みんなの何歩も手前で、もう頑張れなくなってしまってるのかな。これから夢を叶えようとして、挫折とか達成感とか、そういう漫画でしか知らない感情を知って大人になっていくみんなの教室に、紛れ込んでしまったんだ、私。
急に不安になって、答えを探して瓦礫を搔きわけるように、教科書をまたリュックに詰める。
今日は、先生に怒られなくて、笑ってもらえて、その場をやり過ごせて、早退できて、嬉しい。でも、莉花ちゃんともっと話したい。
すぐに手が止まった。まだまだ机の中には、触りたくもないものが詰まってる。もやのように淀んで、何から手をつければいいか分からない。
恐る恐る触れる古文、英語文法、古典単語帳、英単語帳、英和辞典。受けなかった小テストの束、ペナルティのプリントの束。たくさんの言葉を覚えたら、この気持ちに名前がつくのかな。夢もできるし、もっとみんなの気持ちが分かるようになるのかな。私もみんなと同じになれるのかな。
0 notes
chirinovel · 4 years
Text
NoxRika
Tumblr media
桝莉花
朝、目を覚ますと、「もう朝か」とがっかりする。希望に満ちた新しい朝起なんてほとんどなく、その日の嫌な予定をいくつか乗り切る作戦を練ってから布団を出る。
マルクスの「自省録」を友人に借りて読んだ時、初めは偉そうな言いぐさに反感を持ったが、日々の中で些細な共感をするたびに、ちょっとかっこいいんじゃないかなどと思うようになった。嫌な予定を数えるだけだった悪い癖を治すため、そこに書いてあったような方法を自分なりに実践している。半ば寝ぼけているから、朝ごはんを食べている時には、どんな作戦だったかもう思い出せない。
ただ、担任の堀田先生に好意を寄せるようになってからは、今日も先生に会いに行こう、が作戦の大半を占めている気がする。
リビングへ出ると、食卓には朝食が並んでおり、お母さんが出勤姿で椅子に半分くらい腰掛けてテレビを見ていた。
「あ、莉花。見てニュース」
言われた通りにテレビに目を凝らすと、映っていたのはうちの���所だった。
「えー、引き続き、昨日午後五時頃、○○県立第一高等学校で起きました、無差別殺傷事件の速報をお伝えしております」
全国区のよく見知ったアナウンサーの真剣な顔の下に、速報の文字と四名が現在も重体、教師一名を含む三名が死亡とテロップが出た。
「えっ、これって、あの一高?生徒死んじゃったの」
お母さんは眉根を寄せ、大げさに口をへの字にして頷いた。
 「中学の時のお友達とか、一高に行った子もいるんじゃないの?」
しばらくテレビの画面を見詰めながら考えを巡らせた。お母さんは「大変大変」とぼやきながら立ち上がり、
「夕飯は冷蔵庫のカレーあっためて食べてね」
と家を出て行った。
中学の時に一緒にいた友だちはいるけれど、知りうる限り、一高に進学した子はいなかった。そうでなくても、今はもうほぼ誰とも連絡は取り合っていないから、連絡したところでどうせ野次馬だと思われる。
 地元の中学校に入学して、立派な自尊心となけなしの学力を持って卒業した。友だちは、いつも一緒にいる子が二人くらい居たけれど、それぞれまた高校で「いつも一緒にいる子」を獲得し、筆マメなタイプじゃなかったために、誕生日以外はほぼ連絡しなくなった。誕生日だって、律儀に覚えているわけじゃなくて、相手がSNSに登録してある日付が私の元へ通知としてやってくるから、おめでとう、また機会があれば遊びに行こうよと言ってあげる。
寂しくはない。幼いことに私は、自分自身のことが何よりも理解し難くて、外界から明確な説明を求められないことに、救われていた。友だちだとかは二の次で、ましてやテレビの向こう側で騒がれる実感のない事件になんて構ってられない。
高校で習うことも、私にはその本質が理解できない。私の表面的なものに、名前と回答を求め、点数を与えて去っていく。後にこの毎日が青春と名乗り出るかも、私には分からない。気の早い麦茶の水筒と、台所に置かれた私の分の弁当。白紙の解答用紙に刻まれた、我が名四文字の美しきかな。        
学校に着いたのは七時過ぎだった。大学進学率県内トップを常に目標に掲げている我が高校は、体育会系の部活動には熱心じゃない。緩く活動している部活動なら、そろそろ朝練を始めようという時間だ。駐輪場に自転車を停めると、体育館前を通って下駄箱へ向かうのだが、この時間だと、バスケ部の子たちが準備体操をしていることがあり、身を縮こまらせる。今日はカウントの声が聞こえて来ないから、やってないのかな。横目で見ると、女子バスケ部に囲まれて体育館を解錠する嬉しい後ろ姿が見えた。
担任の堀田先生だ。
そういえば、女子バスケ部の副顧問だったな。
背ばっかり高くて、少し頼りない猫背をもっと眺めたかったけれど、違う学年の、派手な練習着の女子たちに甲高い声で茶化されて、それに気だるげな返事をしている先生は、いつもより遠くに感じた。あ、笑ってる。
 いつも通りに身を縮こまらせて、足早に玄関へ駆け上がった。
出欠を取るまでまだ一時間半もあり、校内は静まり返っていた。
教室のエアコンを点け、自身の机に座り、今日の英単語テストの勉強道具を机に広げた。イヤホンをして、好きなアイドルのデビュー曲をかける。
校庭には夏季大会を前にした野球部員たちが集まり、朝練にざわつきだす。イヤホンから私にだけ向けられたポップなラブソングを濁すランニングのかけ声を窓の向こう側に、エアコンの稼働音だけが支配する教室。
「おはよー」
コンビニの袋を提げて入って来た風呂蔵まりあは、机の間を縫い縫い私に近寄って来た。
イヤホンを外しておはよう、と返すと、彼女はそのまま私の前の席に座った。片手でくるくるとした前髪をおでこから剥がし、もう片手に握ったファイルで自分を仰ぎながら、馴れ馴れしく私の手元を覗き込んだ。
「早くない?」
「小テストの勉強今からやろうと思って」
「え、やるだけ偉くない?私もう諦めてるよ」
目の前で手を叩いて下品に笑う。
「いや、普通にやっといた方がいいと思うけど」
叩きつけるような返事をした。
手応えのないコミュニケーション。読んでいた分厚い英単語帳を勢いよく窓から放り投げ、そのまま誤魔化すように浮遊する妄想と、バットとボールが描く金属音の放物線。オーライ、オーライの声。空虚な教室の輪郭をなぞり、小さくなって、そのまま消えた。
「いやー、はは」
向こうが答えたのは、聞こえないフリをした。
まりあとは、限りなく失敗に近い、不自然な交友を持ってしまった。中学を卒業し「いつも一緒にいる子」と離れ、高校に一年通っても馴染めず焦った私は、次なる友だちを求め私よりも馴染めずにいたまりあに声をかけた。短期間で無理やり友だちを作った私は、学校へ来ることが苦手な彼女に優しく接することを、施しであり、自分の価値としてしまっていた。その見返りは、彼女のことを無下に扱っても「いつも一緒にいる」ことだなんて勝手に思い込み、機嫌が悪い時には、正義を装った残酷な振る舞いをして、彼女を打ちのめすことで自分を肯定していた。
出会ってからすぐに距離が縮まって、充分な関係性を築き上げる前からその強度を試すための釘を打っているようなものだ。しかし、人を穿って見ることのできない彼女は私を買い被り、友人という関係を保とうと自らを騙し騙し接してくる。それもまた癪に触った。要はお互いコミュニケーションに異常があるのだ。でも、それを異常だとは言われたくない、自分の法律を受け入れて友だちぶっていてほしい。それは全くの押し付けで、そのことに薄々気付きながらも、目を背けていた。
ちょっとキツい物言いで刺されても、気づかないふりするのが、私たちだったよね。あれ、違ったかな。
しかし、もともと小心者な私は、根拠のない仕打ちを突き通す勇気はなく、すぐに襲い来る罪悪感に負け、口を開いた。
「あ、ねえ…ニュース見た?一高の」
「知ってる!やばくない?文化祭で生徒が刃物振り回したってやつだよね?めっちゃかわいそう。びっくりしてすぐに一高の友達にラインしたもん」
「何人か亡くなってるらしいじゃん」
「え、そうなの、笑うんだけど」
「笑えないでしょ」
それが、彼女の口癖なのも知っていた。勘に触る言葉選びと、軽薄な声。最早揚げ足に近かった。
「あー、ごめん。つい」
片手をこめかみに当て、もう片手の掌をみなまで言うなと私に突き出してくる。この一瞬に関しては、友情なんてかけらもない。人間として、見ていられない振る舞いだった。
「ごめん」
また無視した。小さな地獄がふっと湧いて、冷えて固まり心の地盤を作って行く。
ただ、勘違いしないで欲しい。ほとんどはうそのように友だちらしく笑いあうんだから。その時は私も心がきゅっと嬉しくなる。
黙り込んでいると、クラスメイトがばらばらと入って来て教室は一気に騒がしくなり、まりあは自分の席へ帰っていった。ああ全く、心の中にどんな感情があれば、人は冷静だろう。愛情か、友情か。怒りや不機嫌に支配された言動は、本来の自分を失っていると、本当にそうだろうか。この不器用さや葛藤はいつか、「若かったな」なんて、笑い話になるだろうか。
昼休みの教室に彼女の姿は無かった。席にはまだリュックがあって、別の女子グループが彼女の机とその隣の机をつけて使っている。私は自分の席でお弁当を広げかけ、一度動きを止め片手でスマホを取り出し「そっち行ってもいい?」とまりあにメッセージを送った。すぐに「いいよ!」が返ってくる。お弁当をまとめ直して、スマホと英単語帳を小脇に抱えて、教室を出た。
体育館へと続く昇降口の手前に保健室があり、その奥には保健体育科目の準備室がある。私は保健室の入り口の前に足を止めた。昇降口の外へ目をやると、日陰から日向へ、白く世界が分断されて、陽炎の向こう側には、永遠に続く世界があるような予感さえした。夏の湿気の中にもしっかりと運ばれて香る校庭の土埃は、上空の雲と一緒にのったりと動いて、翳っていた私の足元まで陽射しを連れてくる。目の前の保健だよりの、ちょうど色褪せた部分で止まった。毎日、昼間の日の長い時間はここで太陽が止まって、保健室でしか生きられない子たちを、永遠の向こう側から急かすのだ。
かわいそうに、そう思った。彼女も、教室に居られない時は保健体育の準備室に居る。保健室自体にはクラスメイトも来ることがあるから、顔を合わせたくないらしい。準備室のドアを叩くと、間髪入れずに彼女が飛び出てきた。
「ありがとねえ」
「いいよいいよ、もうご飯食べ終わった?」
二人で準備室の中に入ると、保健室と準備室を繋ぐドアから保健医の仁科先生が顔を出した。
「あれ、二人一緒にたべるの?」
「はい」
私はにこやかに応えた。その時に、彼女がどんな顔をしていたかわからない。ただ、息が漏れるように笑った。
先生の顔も優しげに微笑んで私を見た。ウィンクでもしそうな様子で「おしゃべりは小さい声でお願いね」と何度か頷き、ドアが閉ま��た。準備室の中は埃っぽくて、段ボールと予備の教材の谷に、会議机と理科室の椅子の食卓を設け、そこだけはさっぱりとしている。卓上に置かれたマグカップには、底の方にカフェオレ色の輪が出来ていた。
「これ、先生が淹れてくれたの?」
「そう、あ、飲みたい?貰ってあげよっか」
「…いいよ」
逃げ込んだ場所で彼女が自分の家のように振舞えるのは、彼女自身の長所であり短所だろう。遠慮の感覚が人と違うと言うか、変に気を遣わないというか、悪意だけで言えば、図々しかった。
ただ、その遠慮のなさは、学年のはじめのうちは人懐っこさとして周知され、彼女はそれなりに人気者だった。深くものを考えずに口に出す言葉は、彼女の印象をより独り歩きさせ、クラスメイトは彼女を竹を割ったような性格の持ち主だと勘違いした。
当然、それは長くは続くはずもなく、互いの理解と時間の流れと共に、彼女は遠慮しないのではなく、もともとの尺度が世間とずれている為に、遠慮ができないのだと気付く。根っからの明るさで人と近く接しているのではなく、距離感がただ分からず踏み込んでいるのだと察した。
私は、当時のクラスの雰囲気や彼女の立場の変遷を鮮明に覚えている。彼女のことが苦手だったから、だからよく見ていた。彼女の間違いや周囲との摩擦を教えることはしなかった。
彼女は今朝提げてきたコンビニの袋の口を縛った。明らかに中身のあるコンビニ袋を、ゴミのように足元に置く。違和感はあったけれど、ここは彼女のテリトリーだから、あからさまにデリケートな感情をわざわざ追求することはない。というか、学校にテリトリーなんてそうそう持てるものじゃないのに、心の弱いことを理由に、こんなに立派な砦を得て。下手に自分の癪に触るようなことはしたくなかった。
「あれ、食べ終わっちゃってた?」
「うん。サンドイッチだけだったからさ」
彼女の顔がにわかに青白く見えた。「食べてていいよ」とこちらに手を伸ばし、連続した動作で私の手元の英単語帳を自分の方へ引き寄せた。
「今日何ページから?」
「えーっとね、自動詞のチャプター2だから…」
「あ、じゃあ問題出してあげるね。意味答えてね」
「えー…自信ないわあ」
「はいじゃあ、あ、え、アンシェント」
「はあ?」
お弁当に入っていたミートボールを頬張りながら、彼女に不信の眼差しを注ぐ。彼女は片肘をついて私を見た。その視線はぶつかってすぐ彼女が逸らして、代わりに脚をばたばたさせた。欠けたものを象徴するような、子供っぽい動きに、心がきゅっと締め付けられた。
「え、待って、ちょっと、そんなのあった?」
「はい時間切れー。正解はねえ、『遺跡、古代の』」
「嘘ちょっと見せて。それ名詞形容詞じゃない?」
箸を置いて、彼女の手から単語帳をとると、彼女が出題してきたその単語が、今回の小テストの出題範囲ではないことを何度か確認した。
「違うし!しかもアンシェントじゃないよ、エインシェント」
「私エインシェントって言わなかった?」
「アンシェントって言った」
「あー、分かった!もう覚えた!エインシェントね!遺跡遺跡」
「お前が覚えてどうすんの!問題出して!」
「えー、何ページって言った?」
私が目の前に突き返した単語帳を手に取って、彼女が嬉しそうにページをめくる。その挙動を、うっとりと見た。視界に霞む準備室の埃と、彼女への優越感は、いつも視界の隅で自分の立派さを際立つ何かに変わって、私を満足させた。
「午後出ないの?」
私には到底できないことだけど、彼女にはできる。彼女にできることは、きっと難しいことじゃない。それが私をいたく安心させた。
「うん。ごめんね、あの、帰ろうと思って」
私は優しい顔をした。続いていく物語に、ただ次回予告をするような、明日会う時の彼女の顔を思い浮かべた。
「プリント、届けに行こうか。机入れておけばいい?」
私は、確信していた。学校で、このまま続いていく今日こそ、今日の午後の授業、放課後の部活へと続いていく私こそ本当の物語で、途中で離脱する彼女が人生の注釈であると。
「うん。ありがとう。机入れといて。出来ればでいいよ、いつもごめんね」
お弁当を食べ終えて、畳みながら、彼女の青白い顔が、心なしか、いつもより痛ましかった。どうしたのかと聞くことも出来たが、今朝の意地悪が後ろめたくて、なにも聞けなかった。
予鈴が鳴って、私が立ち上がると、彼女がそわそわし始めた。
「つぎ、えいご?」
彼女の言葉が、少しずつ私を捉えて、まどろんでいく。
「うん。教室移動あるし、行くね」
「うん…あのさ、いつもさ、ありがとね」
私は、また優しい顔をした。
「え、なんで。また呼んでなー」
そのまま、準備室を出た。教室に戻ろうと一歩を踏み出した時、背中でドアが開く音がした。彼女が出てきたのだと思って足を止め振り返ると、仁科先生が保健室から顔を出して、微笑んできた。
「時間、ちょっといいかなあ?」
私が頷くと、先生は足早に近寄ってきて、私を階段の方まで連れてきた。準備室や保健室から死角になる。
「あのさあ、彼女、今日どうだった?」
「へ」
余りにも間抜けな声が出た。
「いつもと変わらなさそう?」
なんだその質問。漫画やゲームの質問みたい。
「いつもと変わったところは、特に」
「そっかあ」
少し考えた。きっと、これがゲームなら、彼女が食べずに縛ったコンビニ袋の中身について先生に話すことが正解なんだろう。
まるでスパイみたいだ。中心に彼女がいて、その周りでぐるぐる巡る情勢の、その一部になってしまう。そんなバカな。それでも、そこに一矢報いようなんて思わない。 不正解の一端を担う方が嫌だ。
「あ、でも、ご飯食べる前にしまってたかも」
「ご飯?」
「コンビニの、ご飯…」
言葉にすれば増すドラマティックに、語尾がすぼんだ。
「ご飯食べれてなかった?」
「はい」
辛くもなかったけれど、心の奥底の認めたくない部分がチカチカ光っている。
「そうかあ」
仁科先生は全ての人に平等に振る舞う。その平等がが私まで行き届いたところで、始業の鐘が鳴る。平和で知的で嫌味な響き。
「あ、ごめんね、ありがとう!次の授業の先生にはこちらからも連絡しておくから」
仁科先生はかくりと頭を下げた。「あ、ごめんね、ありがとう!」そうプログラミングされたキャラクターのように。
「いえ」
私は私のストーリーの主人公然とするため、そつのない対応でその場を去った。
こうして過ぎてゆく日々は、良くも悪くもない。教育は私に、どこかの第三者に運命を委ねていいと、優しく語りかける。
彼女の居ない教室で、思いのほか時間は静かに過ぎていった。私はずっと一人だった。
放課後はあっという間にやってきて、人懐っこく私の顔を覗き込んだ。
ふと彼女の席を振り返ると、担任の堀田先生が腰を折り曲げ窮屈そうに空いた席にお知らせのプリントを入れて回っていた。
「学園祭開催についてのお知らせ」右上に保護者各位と記されしっとりとしたお知らせは、いつもカバンの隅に眠る羽目になる。夏が過ぎれば学園祭が来る。その前に野球部が地方大会で強豪校に負ける。そこからは夏期講習、そんなルーティンだ。
堀田先生の腰を折る姿は夏の馬に似ていた。立ち上がって「あの」と近寄ると、節ばった手で体重を支えてこっちを見た。「あ」と声を上げた姿には、どこか爵位すら感じる。
「莉花、今日はありがとうね 」
「え?」
「お昼まりあのところへ行ってくれたでしょ」
心がぎゅっと何かに掴まれて、先生の上下する喉仏を見た。
絞り出したのはまた、情けない声だった。
「はい」
「まりあ、元気そうだった?」
わたしは?
昼も脳裏に描いたシナリオを、口の中で反芻する。
「普通でした、割と」
先生は次の言葉を待ちながら、空になったまりあの椅子を引き寄せて腰掛ける。少し嫌だった。目線を合わせるなら、私のことだって、しっかり見てよ。 
「でもお昼ご飯、買ってきてたのに、私が行ったら隠しちゃって」
「どういうこと?」
「ご飯食べてないのにご飯食べたって言ってました。あんまりそういうことないかも」 
「あ、ほんと」
私を通じて彼女を見ている。
まりあが、先生のことを「堀田ちゃん」と呼んでる姿が目に浮かんだ。私は、そんなことしない。法律の違う世界で、世界一幸せな王国を築いてやる。
「先生」
「私、まりあにプリント届けに行きます」
「ほんと?じゃあお願いしようかな、莉花今日は吹部は?」
「行きます、帰りに寄るので」
「ねえ、莉花さんさ、まりあといつから仲良しなの」
「このクラスになってからですよ」
「そうなんだ、でも二人家近いよね」
「まりあは幼稚園から中学まで大学附属に行ってたと思います。エスカレーターだけど高校までは行かなかったっぽい。私はずっと公立」
「あ、そうかそうか」
耐えられなかった。
頭を軽く下げて教室を出た。
上履きのつま先が、冷たい廊下の床だけを後ろへ後ろへと送る。
私だって、誰かに「どうだった」なんて気にされたい。私も私の居ないところで私のこと心配して欲しい。そんなことばっかりだよ。でもそうでしょ神様、祈るにはおよばないようなくだらないものが、本当は一番欲しいものだったりする。
部活に行きたくない、私も帰りたい。
吹奏楽部のトランペット、「ひみつのアッコちゃん」の出だしが、高らかに飛んできて目の前に立ちふさがる。やっぱり行かなくちゃ、野球部の一回戦が近いから、行って応援曲を練習しなきゃ。ロッカー室でリュックを降ろし楽譜を出そうと中を覗くと、ペンケースが無かった。
 教室に戻ると、先生はまりあの椅子に座ったまま、ぼんやりと窓を見ていた。
私の存在しない世界がぽっかりと広がって、寂しいはずなのに、なにを考えてるのか知りたいのに、いまこのままじっとしていたい。自分がドラマの主人公でいられるような、先生以外ピントの合わない私の画面。心臓の音だけが、後から付け足した効果音のように鳴っている。
年齢に合った若さもありながら、当たり障りのない髪型。 短く刈り上げた襟足のせいで、長く見える首。そこに引っかかったUSBの赤いストラップ。薄いブルーのワイシャツ。自分でアイロンしてるのかな。椅子の背もたれと座面の隙間から覗くがっしりとしたベルトに、シャツが吸い込まれている。蛍光灯の消えた教室で、宇宙に漂うような時間。
私だって先生に心配されたい、叱られたい。莉花、スカート短い。
不意に立ち上がってこちらを振り向く先生を確認しても、無駄に抵抗しなかった。
「うわびっくりした。どうしたの」
「あ」
口の中で「忘れ物を…」とこぼしながら、目を合わせないように自分の席のペンケースを取って、教室から逃げた。
背中に刺さる先生の視線が痛い?そんなわけない。
十九時前、部活動の片付けを終えて最後のミーティングをしていると、ポケットに入れていたスマートフォンの通知音がその場に響いた。
先輩は「誰?」とこちらを見た。今日のミーティングは怒りたがらない先輩が担当で、こういう時には正直には言わない、名乗り出ない、が暗黙の���解だったから、私は冷や汗をかきながら黙っていた。
「部活中は携帯は禁止です」
野球部の地方大会の対戦日程の書かれたプリントが隣から回ってきた。配布日が昨年度のままだ。去年のデータを使い回して作ったんだろう。
そういえば、叱られたら連帯責任で、やり過ごせそうなら謝ったりしちゃだめだと知ったのも、一年生の時のちょうどこの時期だった気がする。ただ、この時期じゃ少し遅かったわけだが。みんなはとっくに気付いていて、同じホルンパートの人たちに迷惑をかけてから、人と関わることはこんなにも難しいのかと、痛いほど理解した。
昔、社交には虚偽が必要だと言った人が居たけれど、その人は羅生門ばっかりが教材に取り上げられて、私が本当に知りたい話の続きは教科書に載っていなかった。
「じゃあ、お疲れ様でした。明日も部活あります」
先輩の話は一つも頭に入らないまま、解散となった。
ぼんやりと手元のプリントを眺めながら廊下へ出た。
堀田先生は、プリントを作る時、明朝体だけで作ろうとする。大きさを変えたり、枠で囲ったり、多少の配慮以外はほとんど投げやりにも見える。テストは易しい。教科書の太字から出す。それが好きだった。
カクカクした名前も分からない書体でびっしりと日程の書き揃えられた先輩のプリントは、暮れかかった廊下で非常口誘導灯の緑に照らされ歪んだ。
駐輪場でもたもたしていると、「お疲れ」と声をかけられた。蛍光灯に照らされた顔は、隣の席の飯室さんだった。
ちょっと大人びた子で、すごく仲がいいわけではなくても、飯室さんに声をかけられて嬉しくない子はいないと思う。
「莉花ちゃん部活終わり?」
「うん、飯室さんは」
「学祭の実行委員になっちゃったんだ、あたし。だから会議だったの」
「そっかあ」
「莉花ちゃん、吹部だっけ?すごいね」
「そ、そんなことないよ。それしかやることなくて」
自転車ももまばらになった寂しい駐輪場に、蒸し暑い夕暮れが滞留する。気温や天気や時間なんて些細なことでも左右される私と違って、飯室さんはいつもしっかりしていて、明るい子だ。ほとんど誰に対しても、おおよそ思うけれど、こんな風になりたかったなと思う。私の話を一生懸命聞いて、にこにこしてくれるので、つい話を続けてしまう。
飯室さんとの距離感は、些細なことも素直にすごいと心から言えるし、自分の発言もスムーズに選べる。上質な外交のように、友達と上手に話せているその事実もまた、私を励ます。友だちとの距離感は、これくらいが一番いい。
ただ、そうはいかないのが、私の性格なのも分かっている。いい人ぶって踏み込んだり、自分の価値にしたくて関係を作ったり、なによりも、私にも無条件で踏み込んで欲しいと期待してしまう。近づけばまた、相手の悪いところばかり見えてしまうくせに。はじめにまりあに声をかけた時の顔も、無関心なふりをして残酷な振る舞いをした時の顔も、全部一緒になって煮詰まった鍋のようだ。
また集中力を欠いて、飯室さんの声へ話半分に相づちを打っていると、後ろから急に背中をポン、と叩かれた。私も飯室さんも、軽く叫び声をあげた。
 「はーい、お嬢さんたち、下校下校」
振り返ると、世界史の細倉先生が長身を折り曲げて顔を見合わせてきた。私が固まっていると、飯室さんの顔が、みるみる明るくなる。
「細倉センセ!びっくりさせないで」
「こんな暗くなった駐輪場で話し込んでるんだから、どう登場しても驚くだろ。危ないからね、早く帰って」
「ねえ聞いて、あたしさ、堀田ちゃんに無理やり学祭実行委員にされたの」
「いいじゃん、どうせ飯室さん帰宅部でしょ。喜んで堀田先生のお役に立ちなさい」
「なにそれー!てかあたし、帰宅部じゃないし!新体操やってるんですけど」
二人の輝かしいやりとりを、口を半分開けて見ていた。たしかに、細倉先生は人気がある。飯室さんが言うには、若いのに紳士的で振る舞いに下品さがなくて、身長も高くて、顔も悪くなくて、授業では下手にスベらないし、大学も有名私立を出ているし、世界史の中で繰り返される暴力を強く念を押すように否定するし、付き合ったら絶対に大切にしてくれるし幸せにしてくれる、らしい。特に飯室さんは、細倉先生のこととなると早口になる。仲良しグループでも、いつも細倉先生の話をしていると言っていた。
イベントごとでは女子に囲まれているのは事実だ。私も別に嫌いじゃない。それ以上のことはよく知らないけれど、毎年学園祭に奥さんと姪っ子を連れてくると、クラスの女子は阿鼻叫喚する。その光景が個人的にはすごく好きだったりする。あ、あと、剣道で全国大会にも出ているらしい。
私はほとんど言葉を交わしたことがない。世界史の点数もそんなに良くない。
「だから、早く帰れっての。見て、桝さんが呆れてるよ」
「莉花ちゃんはそんな子じゃないから」
何を知っていると言うんだ。別にいいけど。
「もう、桝さんこいつどうにかしてよ」
いつのまにか細倉先生の腕にぶら下がっている飯室さんを見て、なんだか可愛くて思わず笑ってしまった。
「桝さん、笑い事じゃないんだって」
私の名前、覚えてるんだな。
結局、細倉先生は私たちを門まで送ってくれた。
「はい、お気をつけて」
ぷらぷらと手を振りながら下校指導のため駐輪場へ戻っていく先生を、飯室さんは緩んだ顔で見送っていた。飯室さん、彼氏いるのに。でもきっと、それとこれとは違うんだろう。私も、堀田先生のことをこんな感じで誰かに話したいな。ふとまりあの顔が浮かぶけれど、すぐに放課後の堀田先生の声が、まりあ、と呼ぶ。何を考えても嫉妬がつきまとうな。また意味もなく嫌なことを言っちゃいそう。
「ね、やばくない?細倉センセかっこ良すぎじゃない?」
興奮冷めやらぬ飯室さんは、また早口になっている。
「かっこ良かったね、今日の細倉先生。ネクタイなかったから夏バージョンの細倉先生だなと思った」
「はー、もう、なんでもかっこいいよあの人は…。みんなに言おう」
自転車に跨ったまま、仲良しグループに報告をせんとスマートフォンを操作する飯室さんを見て、私もポケットからスマートフォンを出した。そういえば、ミーティング中に鳴った通知の内容を確認してなかった。
画面には、三十分前に届いたまりあからのメッセージが表示されていた。
「莉花ちゃんの名字のマスって、枡で合ってる?」
なんだそりゃ、と思った。
「違うよ。桝だよ」
自分でも収まりの悪い名前だと思った。メッセージはすぐに読まれ、私の送信した「桝だよ」の横に既読マークが付く。
「間違えてた!早く言ってよ」
「ごめんって。今日、プリント渡しに家に行ってもいい?」
これもすぐに既読マークが付いた。少し時間を置いて、
「うん、ありがとう」
と返ってきた。
「家についたら連絡するね」
そう送信して、一生懸命友達と連絡を取り合う飯室さんと軽く挨拶を交わし、自転車をこぎ始めた。
湿気で空気が重い。一漕ぎごとにスカートの裾に不快感がまとわりついてくる。アスファルトは化け物の肌みたいに青信号の点滅を反射し、黄色に変わり、赤くなる。そこへ足をついた。風を切っても爽やかさはないが、止まると今度は溺れそうな心地すらする。頭上を見上げると月はなく、低い雲は湯船に沈んで見るお風呂の蓋のようだった。
やっぱり私も、まりあと、堀田先生の話題で盛り上がりたい。今朝のこと、ちょっと謝りたい。あと、昨日の夜のまりあが好きなアイドルグループが出た音楽番組のことも話し忘れちゃったな。まりあは、堀田先生と細倉先生ならどっちがタイプかな。彼女も変わってるから、やっぱり堀田先生かな。だとしたらこの話題は触れたくないな。でもきっと喋っちゃうだろうな。
新しく整備されたての道を行く。道沿いにはカラオケや量販店が、これでもかというほど広い駐車場と共に建ち並ぶ。
この道は、まっすぐ行けばバイパス道路に繋がるが、脇に逸れるとすぐ新興住宅地に枝分かれする。そこに、まりあの家はある。私が住んでいるのは、まりあの住むさっぱりした住宅街から離れ、大通りに戻って企業の倉庫密集地へと十分くらい漕ぐ団地だ。
一度だけまりあの家に遊びに行ったことがある。イメージと違って、部屋には物が多く、あんなに好きだと言っていたアイドルグループのグッズは全然なかったのに、洋服やらプリントやら、捨てられないものが積み重なっていた。カラーボックスがいくつかあって、中身を見なくても、思い出の品だろうと予想がついた。
まりあには優しくて綺麗なお姉さんがいる。看護師をしているらしく、その日も夜勤明けの昼近くにコンビニのお菓子を買って帰って来てくれた。お母さんのことはよく知らないけれど、まりあにはお父さんが居ない。お姉さんとすごく仲がいいんだといつも自慢げにしている。いいなと思いながら聞いていた。
コンビニの角を曲がると、見覚えのある路地に入った。同じような戸建てが整然と並び、小さな自転車や虫かごが各戸の玄関先に添えられている。風呂蔵の表札を探して何周かうろうろし、ようやくまりあの家を見つけた。以前表札を照らしていた小さなランタンは灯っておらず、スマートフォンのライトで照らして確認した。前に来たときよりも少し古びた気がするけれど、前回から二ヶ月しか経っていないのだから、そんなはずはない。
スマートフォンで、まりあにメッセージを送る。
「家着いた」
既読マークは付かない。
始めのうちは、まあ気がつかないこともあるかと、しばらくサドルに腰掛けスマートフォンをいじっていた。次第に、周囲の住人の目が気になり出して、ひとしきりそわそわした後で、思い切ってインターホンを押した。身を固くして待てども、返事がない。
いよいよ我慢ならなくて、まりあに「家に居ないの?」「ちょっと」と立て続けにメッセージを送る。依然、「家着いた」から読まれる気配がない。一文句送ってやる、と思ったところで、家のドアが勢いよく開いた。
「あ、まりあちゃんの友だち?」
サドルから飛び降り駆け寄ろうとした足が、もつれた。まりあが顔を出すと思い込んでいた暗がりからは、見覚えのない、茶髪の男性が現れた。暗がりで分かりにくいけれど、私と同い年くらいに見える。張り付いたような笑みとサンダルを引きずるようにして一歩、一歩とこちらへ出てくる。緊張と不信感で自転車のハンドルを握る手に力がこもった。
ちょっと、まりあ、どこで何してるの?
男の子は目の前まで来ると肘を郵便受けに軽く引っ掛け、「にこにこ」を貼り付けたまま目を細めて私を見た。
「あ、俺ね、まりあちゃんのお姉さんとお付き合いをさせて頂いている者です。いま風呂蔵家誰も居なくてさ。何か用事かな」
見た目のイメージとは違った、やや低い声だった。街灯にうっすらと照らされた顔は、子供っぽい目の下に少したるみがあって、確かに、第一印象よりは老けて見える、かな。わからない。大学生くらいかな。でも、まりあのお姉さんって、もうすぐ三十歳だって聞いた気がする。
恐怖を消し去れないまま目をいくら凝らしても、判断材料は一向に得られず、声の優しさを信じきるか、とりあえずこの場を後にするか、戸惑う頭で必死に考えた。
「あの、私、まりあと約束してて…」
「えっ?」
男性の顔から笑顔がすとんと落ちた。私の背後に幽霊でも見たのか、不安に強張った表情が一瞬覗き、それを隠すように手が口元を覆った。
「今?会う約束してたの?」
「いや、あの」
彼の不安につられて、私の中の恐怖も思考を圧迫する。言葉につっかえていると、ポケットからメッセージの通知音が響いた。助かった、反射的にスマートフォンを手にとって、「すみません!」と自転車に乗りその場から逃げた。
コンビニの角を曲がり、片足を着くとどっと汗が噴き出してきた。ベタベタの手を一度太ももの布で拭ってから、スマートフォンの画面を点灯した。メッセージはまりあからではなく、
「家に帰っていますか?今から帰ります。母さんから、夕飯はどうするよう聞いていますか」
父さんだった。大きいため息が出た。安堵と苛立ちと落胆と、知っている言葉で言えばその三つが混ざったため息だった。
「今友だちの家にプリント届けに来てる。カレーが冷蔵庫にあるらしい」
乱暴に返事を入力する。
一方で、まりあとのメッセージ画面に未だ返事はない。宙に浮いた自分の言葉を見ていると、またしても不安がじわじわと胸を蝕んでいく。
もしも、さっきのあの男が、殺人鬼だったらどうしよう。まりあのお姉さんも、まりあももう殺されちゃってたら。まりあに、もう二度と会えなかったら。あいつの顔を見たし、顔を見られちゃった。口封じに私も殺されちゃうかも知れない。まりあのスマートフォンから名前を割り出されて、家を突き止められて、私が学校に行ってる間に、家族が先に殺されちゃったら。
冷静になればそんなわけがないと理解出来るのだけれど、じっとりとした空気は、いくら吸っても、吐いても、不安に餌をやるようなものだった。冷たい水を思いっきり飲みたい。
とりあえず家に帰ろう、その前に、今一一〇番しないとまずい?いや、まだなにも決まったわけじゃない。勘違いが一番恥ずかしい。でも、まりあがそれで助かるかも知れない。なにが正解だろう。間違えた方を選んだら、バッドエンドは私に回って来るのかな。なんでだ。
コンビニ店内のうるさいポップが、霞んで見える。心細さで鼻の奥がツンとする。スカートを握って俯いていると、背後から名前を呼ばれた。
「莉花ちゃん?」
聞きたかった声に、弾かれたように振り返った。
「まりあ!」
まりあは制服のまま、手にお財布だけを持って立ち尽くしていた。自分の妄想はくだらないと、頭でわかっていても、一度はまりあが死んだ世界を見てきたような心地でいた。ほとんど反射的に、柄にもなくまりあの手を握った。柔らかくて、すべすべで、ほんのり温かかった。まりあは、口角を大きく上げて、幸せそうに肩を震わせて笑った。
「莉花ちゃん、手汗すごいね」
「あのさあ、結構メッセージ送ったんですけど」
「うそ、ごめん!気づかなかった」
いつもみたいに、なにか一言二言刺してやろうと思ったけれど、何も出てこなかった。この声も、全然悪びれないこの態度も、機嫌の悪い時に見れば、きっと下品で軽薄だなんて私は思うんだろうな。でも今は、あまりにも純粋に幸せそうなまりあの姿に釘付けになるしかなかった。もしかして、私の感情を通さずに見るまりあは、いつもこんなに幸せそうに笑っているのかな。
「本当だ、家に行ってくれたんだね、ごめんね」
「そう言ったじゃん!て言うか、何、あの男の人」
「あ、柏原くんに会った?」
「柏原くんって言うの」
「そう、声が低い茶髪の人。もうずっと付き合ってるお姉ちゃんの彼氏」
「そ、そうなんだ」
やっぱり、言ってることは本当だったんだ。盛り上がっていた様々な妄想が、全部恥ずかしさに変換され込み上げてくる。それを誤魔化すように次の話題を切り出す。
「どこか行ってたの?」
「一回、家を出たの。ちょっとコンビニ行こうと思って。今お財布取りに戻ったんだけど、入れ違っちゃったかも、ごめん」
「普通、私が家行くって言ってるのにコンビニ行く?」
「行きません」
「ちょっとくらい待ってくれる?」
まりあは、
「はあい。先生かよ」
ちょっと口を尖らせて、すぐに手を叩いて笑った。
いくら語気を強めても、仲良しで包みこんで、不躾な返事が返ってくる。それがなによりも嬉しかった。怖がることなく、私と喋ってくれる。欲しかったんだ、見返りとか、自分の価値とかルールとか全部関係なく笑ってくれる友だち。あんなに癪に触ったその笑い方も、今はかわいいと思う。
「先生といえばさ、柏原くんって、堀田ちゃんの同級生なんだよ。すごい仲良しらしい」
「え!」
 柏原くんって、さっきの男の人のことだ。堀田先生が三十前後だとして、そんな年齢だったのか。というか、堀田先生の友だちってああいう感じなんだ。ちょっと意外だ。
「大学時代の麻雀仲間なんだって。堀田ちゃん、昔タバコ吸ってたらしいよ、笑えるよね」
「なにその話、めちゃめちゃ聴きたい」
飯室さんが仲良しグループと喋っている時の雰囲気を、自然と自分に重ねながら続きを促すと、まりあは嬉しそうに髪をいじりだした。
「今もよくご飯に行くみたいだよ、写メとかないのって聞いたけど、まだ先生たちが大学生の頃はガラケーだったからそういうのはもう無いって」
「ガラケー!」
私も手を叩いて笑った。
「莉花ちゃん、堀田先生好きだよね。いるよね、堀田派」
「少数派かなあ」
「どうなんだろう。堀田ちゃんが刺さる気持ちは分からなくはないけど、多分、細倉先生派の子のほうが真っ当に育つと思うね」
「わかる。細倉先生好きの子は、ちゃんと大学行って、茶髪で髪巻いてオフショル着てカラコンを入れることが出来る。化粧も出来る。なんならもうしてる」
コンビニのパッキリとした照明に照らされ輝くまりあ。手を口の前にやって、肩を揺らしている。自分の話で笑ってもらえることがこんなに嬉しいのか、と少し感動すらしてしまう。
「今日もムロはるちゃんの細倉愛がすごかったよ」
「ムロはる…?」
まりあが眉をしかめた。
「飯室はるなちゃん、ムロはるちゃん」
本人の前では呼べないけれど、みんながそう呼んでいる呼び方を馴れ馴れしく口にしてみた。ピンときたらしいまりあの「あー、飯室ちゃんとも仲良しなんだ」というぎこちない呟きをBGMに、優越感に浸った。私には友だちが沢山いるけれど、まりあには私しか居ないもんね。
コンビニの駐車場へ窮屈そうに入っていく商品配送のトラックですら、今なら笑える。
「最終的には細倉先生の腕にぶら下がってた」
「なんでそうなるの」
「愛しさあまって、ということなんじゃないかな」
「莉花ちゃんはさ、堀田ちゃんの腕にぶら下がっていいってなったら、する?」
「えー、���ずならないよ、そんなことには」
「もしも!もしもだよ」
「想像つかないって」
「んー、じゃあ、腕に抱きつくのは」
「え、ええ」
遠くでコンビニのドアが開閉するたび、店内の放送が漏れてくる。視線を落として想像してみると、自分の心音もよく聞こえた。からかうように拍動するのが、耳の奥にくすぐったい。
細倉先生はともかく、堀田先生はそんなにしっかりしてないから、私なんかが体重を掛けようものなら折れてしまうのではないか。「ちょっと、莉花さん」先生は心にも距離を取りたい時、呼び捨てをやめて「さん」を付けて呼ぶ。先生の性格を見ると、元から下の名前を呼び捨てにすること自体が性に合っていないのだろうとは思うけれど。
そもそも、「先生のことが好き」の好きはそういう好きじゃなくて、憧れだから。でも、そう言うとちょっと物足りない。
「莉花ちゃん」
半分笑いながら呼びかけられた。まりあの顔をみると、なんとも言えない微妙な表情をしていた。引かれたのかな。
「顔赤いよ」
「ちょ、ちょっと!やめてよ」  
まりあの肩を軽く叩くと、まりあはさっきよりも大きな声で笑った。よろめきながらひとしきり笑って、今度は私の肩に手を置いた。
「でも、堀田ちゃん、うちのお姉ちゃんのことが好きらしいよ」
「え?なにそれ」
「大学同じなんだって、お姉ちゃんと、柏原くんと、堀田先生。三角関係だって」
返事に迷った。自分の感情が邪魔をして、こういう時に飯室さんみたいな人がどう振る舞うかが想像できない。
本当は、堀田先生に好きな人がいるかどうかなんて、どうでもいいんだけど、そんなこと。それよりも、まりあから、明確に私を傷つけようという意思が伝わってきて、それに驚いた。相手がムキになっても、「そんなつもりなかったのに」でまた指をさして笑えるような、無意識を装った残酷さ。
これ、私がいつもやるやつだ。
そのことに気付いて、考えはますます散らばってしまった。
「そんなの、関係無いよ」
しまった。これだから、重いって思われちゃうんだよ、私は。もっと笑って「え、絶対嘘!許せないんですけど」と言うのが、飯室さん風の返し方なのに。軽やかで上手な会話がしたいのに、動作の鈍いパソコンのように、発言の後に考えが遅れてやってくる。まりあの次の言葉に身構えるので精一杯だった。
「あはは」
まりあは、ただ笑って、そのあとは何も言わなかった。
今までにない空気が支配した。
「私、帰るね」
なるべくまりあの顔を見ないようにして、自転車のストッパーを下ろした。悲鳴のような「ガチャン!」が耳に痛い。
「うん」
まりあは、多分笑っていた。
「また明日ね」
「うん」
漕ぎ出す足は、さっきよりももっと重たい。背中にまりあの視線が刺さる。堀田先生の前から去る時とは違って、今度は、本当に。
遠くで鳴るコンビニの店内放送に見送られ、もう二度と戻れない、夜の海に一人で旅立つような心細さだった。
やっとの思いで家に着くと、二十時半を回っていた。父さんが台所でカレーを温めている。
「おかえり、お前の分も温めてるよ」
自室に戻り、リュックを降ろして、ジャージに着替える。また食卓に戻ってくると、机の上にカレーが二つ並んでいた。
「手、洗った?」
返事の代わりにため息をついて、洗面所に向かう。水で手を洗って、食卓に着く。父さんの座っている席の斜向かいに座り、カレーを手前に引き寄せる。
「態度悪い」
「別に悪くない」
「あっそ」
箸立てからスプーンを選んで、カレーに手をつける。
「いただきますが無いじゃん」
「言った」
「言ってねえよ」
私は立ち上がって、「もういい」とだけ吐き捨て、自室に戻った。
父さんとはずっとこうだ。お母さんには遅い反抗期だな、と笑われているけれど、父さんはいつもつっかかってくる。私が反抗期だって、どうしてわかってくれないんだろう。
まりあの家は、お父さんが居なくて、正直羨ましいと思う。私は、私が家で一人にならないよう、朝はお母さんが居て、お母さんが遅くなる夜は父さんがなるべく早く帰ってくるようにしているらしい。大事にされていることがどうしても恥ずかしくて、次に母親と会える日を楽しみだと言うまりあを前にすると、引け目すら感じる。勝手に反抗期になって、それはを隠して、うちも父親と仲悪いんだよね、と笑って、その話題は終わりにする。
せめて、堀田先生みたいな人だったら良かった。
そう思うと心がチクッとした。あんなに好きな堀田先生のことを考えると、みぞおちに鈍い重みを感じる。先生に会いたくない。それがどうしてそうなのかも考えたくない。多分、まりあが悪いんだろうな。まりあのことを考えると、もっと痛いから。
明日の授業の予習課題と、小テストの勉強もあるけど、今日はどうしてもやりたくない。どうせ朝ちょっと勉強したくらいじゃ小テストも落ちるし、予習もやりながら授業受ければどうにかなる。でも、内職しながらの授業は何倍も疲れるんだよな。
見ないようにしてきた、ズル休みという選択肢が視界に入った。スマートフォンを握りしめたままベッドに寝転がって、SNSを見たり、アイドルのブログをチェックしていると、少しづつ瞼が重くなってくる。
瞼を閉じると、今度は手の中に振動を感じる。まどろみの中で、しばらくその振動を感じ、おもむろに目を開けた。
画面にはまりあの名前が表示されている。はっきりしない視界は、うっすらとブルーライトを透かす瞼で再び遮られた。そうだ、まりあ。
私、まりあに文化祭のプリント渡すの、忘れてた。
目が覚めた。歯を磨くのも、お風呂に入るのも忘れて寝てしまったらしい。リビングを覗くと、カーテンが静かに下がったままうっすらと発光していた。人類が全て滅んでしまったのか。今が何時なのか、まだ夢なのか現実なのか曖昧な世界。不安になって、急いで自分の部屋に戻りベッドの上に放りっぱなしのスマートフォンの画面を点けた。
「あ…」
画面に残る不在着信の「六時間前 まりあ」が、寂しげ浮かんでくる。今の時刻は午前四時、さすがに彼女も寝ている時間だ。すれ違ってしまったなあ、と半分寝ぼけた頭をもたげながらベッドに腰掛ける。髪の毛を触ると、汗でベタついて気持ち悪い。枕カバーも洗濯物に出して、シャワーを浴びて…。ああ、面倒だな。
再びベッドに横になると、この世界の出口が睡魔のネオンサインを掲げ、隙間から心地いい重低音をこぼす。
あそこから出て、今度こそ、きちんとした現実の世界に目を覚まそう。そしてベッドの中で、今日を一日頑張るための作戦を立てて、学校へ行くんだ。いいや、もうそんな力はないや。
嫌になっちゃうな、忙しい時間割と模試と課題と、部活と友達。自律と友愛と、強い正しさを学び立派な大人になっていく。私以外の人間にはなれないのに、こんなに時間をかけて、一体何をしているんだろう。何と戦ってるんだ。本当は怠けようとか、ズルしようとか思ってない。時間さえあれば、きちんと期待に応えたい。あの子は問題ないねと言われて、膝下丈のスカートをつまんで、一礼。
勉強なんて出来なくても、優しい人になりたい。友達に、家族に優しくできる人になりたいよ。わがまま言わない、酷いこともしたくない。でも、自尊心を育ててくれたのもみんなでしょ。私だって、画面の向こう側のなにかになれるって、そう思ってる、うるさいほどの承認欲求をぶちまけて、ブルーライトに照らされた、ほのかに明るい裾をつまんで、仰々しく礼。鳴り止まない拍手と、実体のない喜び。
自分を守らなくちゃ。どこが不正解かはわからないけれど、欲求や衝動に従うことは無謀だと、自分の薄っぺらい心の声に耳を傾けることは愚かだと、誰かに教わった気がする。誰だったかな、マルクスかな。
今の願いは学校を休むこと。同じその口から語られる将来の夢なんて、信用ならない?違うね。そもそも将来の夢なんてなかった。進路希望調査を、笑われない程度に書いて、それで私のお城を築く。悲しみから私を守ってね。
目を開けると目前のスマートフォンは朝の六時を示していた。
「うそだあ」
ベッドから転げるように起き上がると、枕カバーを剥がして、そのまま呆然と立ち尽くす。今からシャワー浴びたら、髪の毛乾かしてご飯食べて、学校に着くのは朝礼の二十分前くらい。予習の課題も小テストの勉強もできない。泣きそうだ。
力なく制服に着替えると、冴えない頭でリュックサックに教科書を詰め込み部屋を出た。肩に背負うと、リュックの中で二段に重ねた教科書が崩れる感触がした。
続く
4 notes · View notes