Tumgik
asunaro-hiba · 3 years
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『大学教育について』①
巻末の解説より読み始める。学生が自分達の手によって選んだ学長(名誉職とはいえ)というのが羨ましくもあるような。仄暗い講堂で、おそらくそこまで大勢ではないであろう学生へ向けて、知性と教養ある老人ーーミルのことーーが語りかけているところを想像する。背景を知らずに読んでいたころよりも頭に入ってくる気がする。
道徳教育、良心、という単語は、大学時代によく聞き馴染んだ単語だ。新島襄もミルの著作に影響を受けていたのだろうか、それともキリスト教圏では比較的一般的な概念なのだろうか。世界のことはわからないが、少なくとも日本では、良心について語られる機会があまりにも少なすぎる気がする。その結果が今の社会だとまで言う気はないものの、今の日本社会は、徳みたいなものをあまりにも軽んじすぎではないだろうか……。
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asunaro-hiba · 3 years
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理系選択の女子学生であるということ
 スマホのアプリから書いているのでタイトルの付け方がわからない。それはさておき。
 学部時代、13人だかいる同期のうち女子学生は私を含めれば2人だけだった。この「私を含めれば」というのが私にとって若干やっかいなところだ。自分のことを女性だと強く認識していないから、こうやって改めて数えるたびに「私も女子カウントなんだよな…」という違和感がある。そのせいだろうか、女子学生を増やすために云々みたいな文脈で語られる「女子学生」に自分が含まれていることを失念してしまいがちだ。
 とはいえ、どれだけTwitterでクィアであると主張をしたところで、研究室内での私は「女子学生」だ。直接的にそれで何か不利益を被ったことは、皆無とは言わないがほとんどない。いや……実は、意識しないうちに感じていた諸々を、自分を女子学生の括りに置かないことで無視しようとしていただけなのかもしれないけれど。自分が差別していた可能性について思いを馳せるのは難しい。けれど、それとは異なった次元の話として、自分が差別されていたのではないかということに向き合うのは難しい。
 大学院の同期は9人中私含めて女子学生が5人である。破格の多さだ。今の研究室の居心地のよさが、同性が多いことによるものなのか、単に同期たちと馬が合うからなのか、それはわからない。そんな居心地のよさに浸りつつ、どこか無責任に「うちの界隈にも女子学生が増えるといいよなあ」と考えている。そのために何をどうすればよいのか考えたことは、今のところ、ない。
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asunaro-hiba · 3 years
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 安心毛布ならぬ安心バスタオルとでも呼ぶものがいる。私が生まれる少し前に実家にやってきた。物心ついた頃には抱いて寝ていた。今では襤褸とはこういうものを指すのだと思うほどのぼろ加減で、さすがに抱いて寝ることはできないものの、眠るとき手で触れているとそれだけで気持ちが落ち着く。
 さすがにもう旅行程度では持ち歩かないようになったが(下手に旅先で紛失するほうが怖いというのもある)、ここ2年弱の東京-京都の往復生活では常に共にいた。きっと次の新居にも連れてゆくのだろう。同居人が常に同じ寝床にいるであろう生活のなかで、触れて寝ることがあるかはわからないが。
 小さいころ、それこそまだ10歳にも満たないころ、いつか来るであろうこのバスタオルとの別れについて思いを馳せることがたびたびあった。いつかは私もこのバスタオルを抱いて寝なくなるだろうけれど、そのときこのバスタオルはどうなっているのだろう、どこか戸棚にでもしまわれているのだろうか、それとも今こんなに大事にしていることも忘れて、他のゴミと同じように燃やすゴミに出してしまうのだろうか…。
 そしてそれから年を重ねるごと、小さい頃の自分に呼びかけた。中学生になった私は/高校生になった私は/大学生になった私は/二十歳になった私は、まだそのバスタオルと一緒に寝ているよ、と…。そして今、25歳になった私も、同じバスタオルに手を触れさせて、今夜も眠りにつこうとしているよと。
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asunaro-hiba · 3 years
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 何かまとまった文章が書きたいなあと思い続けてしばらく経つ。しかし気がつけばTwitter程度の短文ですら単語をまとめるのが難しい。
 Tumblrの過去の文章を見直す。大学生であった頃の私は、少なくとも今よりは文章を書くことに馴染んでいた。講義の課題の中間レポートやら期末レポートやらで半ば強制的に数千文字書いていた頃と、場当たり的にシミュレーションを回しては考察にも満たない短文を書き散らしている今と。現状に不満があるわけではないけれど、かつては多少の濁りはあれど何かしらの水の流れがあったのに、今はただやわらかな泥濘ばかりがある。
 かつての私はどうやってあれらの文章を書いたのだろう。いや、かつての私とやらも、さらにそのかつての自分が書いた文章に対して、よくそう感じていたけれどーーもはや彼我の隔たりのようにすら感じられるこの空隙を、少しでも埋めることはできるだろうか?
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asunaro-hiba · 6 years
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編集後記
 方眼ノートに物語めいたものを書き出してはや10年、たぶん人よりは多く文章を書いてきましたし、何より文章を書くことそのものがとても好きです。韻律というほど大仰なものでなくとも、自分にとって心地よい文章に浸る感覚はなかなか他では味わえないなと思います。ちなみに私の文章はやや読点が抜け気味だと自覚しているのですが、たぶん喋りが早口なこともあるのでしょう、逆に読点を増やすと文章の流れが悪くなるように感じます。
 文の巧拙というのはなかなか自分ではわかりませんし、日本語の文法くらいは守っておきたいところですが、最終的に気持ちよければいいか、みたいな気持ちで書いている面は多々あります。100人になんとなく好かれる文章よりも、95人には合わないけど残りの5人はめちゃくちゃ好いてくれる、そんな文が書ければいいなあと思います。
 ちなみに以上の文章は「レポートやらなきゃだけど眠くて頭も回らないなあ」と互換可能です(このくらいの緩さの文章なら頭が回っていなくても延々と書けます)。文章を書くことの逃避に文章を書いていてどうするんだという気がしなくもないです。論理展開もよくわからない他人の研究を唯々諾々とまとめるだけのレポート(そういえば先週分は見事に忘れました)よりはよっぽど今回のレポートのほうが楽しいんですけどね。
【本題】
 ↓は本日ご退職なさったTさんへのメッセージブックの編集後記です。公開しちゃっていいのかよ、という気がしますが、書いた文章はやっぱり色んな人に読んでもらいたいなあという気持ちがあるのです。なんとなく眺めていってくださると嬉しいです。
 いつかこんな日が、とみんなどこかで思っていたはずなのに、それがこんなに早いだなんて、誰も思っていなかったのではないでしょうか。  どれだけ大事な思い出であっても、思い出すたびその思い出は少しずつ形を変えます。永遠に残るものは存在しない、いえ、永遠に残らないからこそ今が輝くのだと、人はもしかしたら言うかもしれません。  けれど、そんなに簡単に、Tさんと過ごした日々をあきらめたくはないので……往生際が悪くても、少しだけ、何かを残したいなと思うのです。  思い出がそのままのかたちで留まってくれないように、地上に咲くどんな花も、いつかは枯れてしまいます。  なので、このメッセージブックの中に、思い出と、少しの花束を詰め込みました。  Tさんの未来に、この本のかたちをした花束が、少しでも長く寄り添っていますように……
[註]メッセージブックのテーマは「学生からの花束」なのでページには花のシールが多く貼ってある
最近はほんとに本を読んでいませんが、『ペンギンの憂鬱』が新しく積まれました。憂鬱症のペンギンと売れない小説家が出てくる話だそうです。キャラ設定からずるい。
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asunaro-hiba · 6 years
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りんご
 MacOSのアップデートを済ませて設定を少しいじるとメニューバーやらが濃グレーになりました。なんとなくスマホのSafariでプライベートブラウズをしている気分です。UbuntuからMacに乗り換えてメニューバーやらの色を変更できなくなったのは少し物足りないなあと思いますが、素人のセンスをこのMacBook Airに載せてくれるなというAppleの意図であるとしたら何とも言えないですね。色はともかくいろいろな文字がBっぽくなっているのがぼけて見えて嫌なのでそのうち環境設定でどうにかしたいところです。
 小さいころはそこまで好きではなかったりんご(今度は植物)ですが、母がふと買ってきてくれた推定有機栽培(忘れた)のりんごはおいしいなあと思います。秋映という品種ですが、持つと皮に蜜のかんじが溢れていてそれだけで嬉しくなります。他の品種のものも食べてみたい。果物の品種を覚えるのは楽しい。
 りんごと言えば「居直りりんご」を連想します。「たたみのへりまで/ころげて行って」というのがかわいい。最近読んだ本(稲垣栄洋『世界史を大きく動かした植物』)によるとりんごは赤い色素を持たないそうで、黄色と紫だったかの色素で赤を作り出しているそうですが、だからでしょうか、赤々と色づいていてもりんごというのはどこか穏やかです。私の頭の中でごろりころりと転げていくりんごも、だからどこか穏やかな赤色をしています。穏やかでどこか寂しげです。まだ著作権切れしていないので全文載せていいのか不安、みたいな理由で詩本文を載せていないのですが(無茶のある文章構成……)、「居直りりんご」は講談社文芸文庫の『石原吉郎詩文集』に収録されています。
 石原吉郎はあまり本屋でも見かけることが少なく、私もまだ2冊しか手元にありません。見かけたら珍しいなあと思ってそのままレジに持参するのがよろしいかと思います。読んでみて合わなかったらあすなろに寄贈していただけると使用用・貸出用と使えて私が便利です。ドイツ留学時に文庫本を持っていくくらいには特別な詩人ですので、手元にあるとなんとなく落ち着くのです。
 机の上に積みっぱなしだった『サンチョ・パンサの帰郷』を久々に開きましたが、いつ読んでも似たような印象を受けます。evacuateの空っぽ感というのかな。語るための言葉が失われてもなお語るべきことがあるとしたらこういうものなのかもしれません。
 久々にたらたらと雑文を書いていましたが、なんというかいわゆるがっこうのさくぶんでない文章は書いていて楽しいです。読んでいて読みやすいかは微妙ですが。
最近読んだ本(はしがき)
『夏への扉』ハインライン
 めちゃめちゃ面白かったです。あと猫への愛がすごい。
『桜風堂ものがたり』村山早紀
『星をつなぐ手』村山早紀
 同じシリーズです。奇跡的すぎる気がしなくもないですが、物語だからこそ語れる強さというのはあると思います。
『百貨の魔法』村山早紀
 スピンオフになるのかな? こちらは魔法とついていますが最終的には人の力で進んでいくところがとても良かったです。
『アカネヒメ物語』村山早紀
 どちらかというと児童文学寄りな印象。もっと小さい頃に読んでいたかった。
『ソードアート・オンライン20 ムーン・クレイドル』川原礫
 アリシゼーション編が好きなので継続して読んでいるのですが、SAOはとりあえずキリトが無双してアスナさんがバーサクしてるところが好きなので、ちょっと戦うシーン的に物足りなかったですね。
『くらやみの速さはどれくらい』ムーン
 タイトルから想像ついてなかったんですけどSFでした。自閉症者である自分が自閉症を治したらそれは自分なのか、みたいなのが続くのですが、個人的にはすごく共感できるというか一緒になって考えてしまうような命題でした。
今読んでいる本
『中動態の世界』國分功一郎
 古典ギリシャ語はやっていたので中動態の存在くらい知ってる、みたいな嫌らしいスタンスで読んでいるせいか、あんまり進んでいません。ただ責任とかの話になってきたのでいけると思います。
『須賀敦子全集 第一巻』
 文章が、綺麗、というのとはちょっと違う気がしますが、高級な万年筆みたいに静かにそこに在るだけでも存在感がある、みたいな印象で、読んでいて飽きないです。何様やねん感ありますがたまに読み疲れる文体ってありますよね。
最近増えた積読本
『シャッフル航法』円城塔
『インヴィジブル』ポール・オースター
ほか
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asunaro-hiba · 6 years
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文学論にも満たないが
 最近観ているアニメ、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』『3月のライオン』、たまに『宝石の国』『魔法使いの嫁』。最近読んだ本、『星を墜とすボクに降る、ましろの雨』『レアリア』『掟上今日子の色見本』。最近読んだ漫画、『さめない街の喫茶店』『僕のヒーローアカデミア』。他にも読んでいる気がするがさっと思い出せない。
 最近ハマる物語、何かが足りない・不足しているところから始まる物語が多いな、と思う。その欠如は時に他人から奪われたものであったりする。「本人にとってはどうしようもない理由で奪われたものを取り戻してゆく物語」みたいなのを求めているのかなと思ったり、思わなかったり。そういうふうに思うと色々観たり読んだりするのがつまらなく感じるのだけど、それでも観させるだけの力のある物語はやっぱりすごい。
 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の人形遣いの台詞。「たとえ記憶が幻の同義語であったとしても、人は記憶によって生きるものだ。コンピュータの普及が記憶の外部化を可能にしたとき、あなた達はその意味をもっと真剣に考えるべきだった」……SNSに書き込まれる日々の出来事思い出の数々を見ていると、1995年制作のアニメとは思えないほどこの台詞が迫ってくる。  今や思い出というのはどこかに残り留まり続けるのが当たり前で、ちょっと自分の投稿や画像フォルダやらを遡れば昔の思い出を簡単に”思い出す”ことができる。きっと昔の身体感覚は違ったんだろう、だからこそ日記という文化が成立したし、そして日記に記しきれない日々の感情が零れてゆくのは当然のことだったのではないだろうか……  ちょっとした思いだったり言葉だったりを、今はいつでもその場で記録することができる。だから、"思い出す"ことと同じくらい、”忘れる”こともよく見えるようになった。昔は人の記憶力の範疇を越えた記憶のストレージなんてなかったけれど、コンピュータのメモリの増加がそれを可能にした。そのことと、記憶を失ってしまうヒロインが出てくる物語の登場とが、私にはどうも無関係であるようには思われない。
 失うこと、損なわれること、それに怯えるのは、ほんらいの人の在り方だろうか? 喪失以外から物語は始まり得ないのだろうか……
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asunaro-hiba · 6 years
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春休み読書その1『レアリア』
著者:雪乃紗衣 イラスト:雪広うたこ 新潮文庫
http://shinchobunko-nex.jp/special/180001.html
(なぜか最新3巻のリンクが貼られていない……)
・雪乃紗衣先生の前作『彩雲国物語』が大好きで、いや大好きという言葉では表しきれない、なぜってこのシリーズがあったからこそ創作沼にハマるようになったと言っても過言ではないくらいなので。
・『彩雲国物語』がどちらかというと陽の話とすれば(後半はだいぶ翳ってきていたし、『骸骨を乞う』あたりはどちらかというと『レアリア』寄りのテンションであるけれど)、こちらは陰の話という印象。とは言ってもすっかり暗い話かと言われるとそうでもなくて、ふっと笑える部分もあちこち。特製パイのくだりとかね……。
・もういいから読んで。
・誰かのことを愛している、ということが何の救いにもならない、むしろ愛すれば愛するほど戻れなくなってしまう。愛するものと譲れないものがあるとして、あなたはどちらを選びますか? みたいな話(個人の感想です)
・アリル少年があちこち可愛い。
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asunaro-hiba · 6 years
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かたちとはたらき
 一次構造が高次構造を決め、その高次構造ごとにタンパク質は異なる働きをする。核酸の並び順が遺伝情報を伝え、僅かに形の変わった細胞は癌細胞として身体を侵す。生体では構造が機能を決める。では、機能が構造を決めるものがあるとして、一体何が違うのだろう。
 他講義のノートに「形態は機能に従う」とメモがある。デザイナーの方の特別講義だった。確かにモノを作り終えた後にどう使うか考えることはあまりないだろう。では構造が機能を決めるものと機能が構造を決めるものとの境界線は、天然か人工かという話なのか。
 生命の誕生を考える。LUCA以前、アミノ酸やら何やらの寄り集まりを生命とは呼ばない。それは有機物の塊に過ぎないから。何らかの機能を手に入れて初めて生命と呼ばれえるのかもしれない。ただの天然物、例えば太陽や風や山や海は、それ自体機能を持つものではない。
 そもそも、その「機能」が存在するのは、生命、特に人間が機能を見いだすからだ。観測者なくして機能は存在し得ない。ゆえに、機能を持つ構造体を作ることができるのは生命だけだ。そしてその「機能を持つ構造体を作る」機能を生命が持っているのは、生命が機能を有する構造体であるからだ。
 機能が構造を決めるものは確かに存在する。しかしそれは生命の存在があってはじめて誕生したものであり、その生命もまた生命としての構造があるからこそ機能を発揮するのである。
 「生命の科学」の期末レポートとして、こんなレポートともエッセイともつかないような文章を提出した。それに対する先生のコメント(提出時に口頭試問がある)は、「ではその生命の構造は誰が決めたのか?」というもので、それに対しては「残った構造が今のものなのだ」みたいなことを答えた。
 構造を残すことができる機能を持った構造が今の生命なのだとすれば、遺伝子組み換えに嫌悪感を抱く人がいるのも納得できるような気がする。それは生命の輪郭をおびやかすものだから。
 どうしてその構造が残ることができたのか、それを話すには時間が足りないし、私が話すべきものでもない、と先生はおっしゃった。つくづく一般教養の科目として受けるには惜しいような良い先生と出会った。
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asunaro-hiba · 7 years
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ライトアップ・エヴリウェア
 最近はどこもかしこもライトアップをやっていて、夜になるとどこかの寺や神社や城や庭が光っている。個人的には「蛾じゃねえんだから」と思わないでもないけれど、あれが「1000本の蝋燭のライトアップ」とかだったらわたしもふらふら引き寄せられていたんだろうな。
 月曜4限のメディア文化論の授業は、今までなんとなく考えていたようなことがはっきり明文化される感覚があって、けっこう面白い。今回・前回・前々回は「観光とメディア」という話題についてだった。
 京都といえば観光。かく言うわたしも少し前に平等院に行ってきた。朱く塗り直された本殿は、写真等々で見るよりはぼんやりとした色をしていたが、紅葉した椛は見たこともないような深い深い赤色をしていた。同じ日、夜にはライトアップをやっていたらしいけれど、それには(前述のような理由もあるし、あまり帰りが遅くなるのも……というのがあったので)行かなかった。しかし、Twitterで見たその夜間ライトアップの写真を見て、そういえば……と思い出したのは確かだ。視覚が訴えてくる情報の多さを、ともすれば簡単に忘れそうになってしまうけれど、視覚によるイメージというのは大きい。ここでくどくど述べ立てることでもないから、このあたりで切り上げるけれど。
 メディア文化論の第9回のプリントによると、”撮影・録音という行為は、対象を脱文脈化する「破壊」行為であり、対象の「真正性」「伝統的重み」などを喪失させる(「アウラの崩壊」というらしい)行為であるらしい。(W.ベンヤミン「複製技術時代の芸術」1936年)” なるほどなあと思うところは多い。同じプリントにある、”「われわれは見るためにではなく、写真を撮るために旅行をする」(D.ブースティアン『幻影の時代』1964年)”という文言なんて、とても50年も前に放たれたとは思えないくらいだ。寺が、神社が、城が、庭が、光る。光る寺やら何やらを写真に収めに人が来る。写真に撮った人がSNS等に投稿する。その投稿から、寺の歴史の何がわかるだろう。神社の由来は。その城はいつ建てられた。その庭をどこの誰が眺めてきたんだ……
 とは、いえ。いわゆる名所っていうのは、やっぱりそれなりにわかりやすいシンボルがあって、だからこそ平等院の鳳凰堂だったり、嵐山の竹林の小径だったり、二条城の二の丸御殿だったりが、光り、光り、光る。いや、光っているのはみんなおんなじLEDだけど、照らされているものはちがう。しかもよく知らないけどそれぞれ歴史がある。よく知らなくてもそれぞれ歴史があって、だからたとえばイオンモールの大きなイルミネーションよりも「特別」なかんじがする。寺・神社・etc.とイルミネーションが合体するのは、ある種自然の成り行きだったのだろう。
 わたしは目の前で光るライトアップに魅力を感じられない。いや光ってんのLEDじゃんうちのリビングと何がちがうねんと思ってしまう。わたしがそこに見いだすのはあくまで人工の世界で、それが自然美と人工美とが調和しきった歴史的風景からはひどくずれたかんじがする。けれど、TwitterやらInstagramやらで写真を見るのは嫌いではなかったりする——ずれずれだ。ファインダー越しの、顔も知らない誰かの世界。それらがインターネットというメディア上に編み上げる、もうひとつの平等院、嵐山、二条城。京都という場所を離れて存在する、ネットの上にしかない光の理想郷。ちがうレイヤーの上に存在する、ふたつの京都が重なり合った空間で、わたしたちは息をして、地面を歩き、なんでもない戯言を電子の海に流している。
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asunaro-hiba · 7 years
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モノが関係性を強め、デザインが「もの」を「モノ」にする、という話
 たとえばひとつのコップを考える。とにかく器として用を為せばいいという人は100円均一ショップで安いプラスチックのコップを買うかもしれない。自分の子供のためにコップを買いたいという人はアンパンマンか何かのキャラクターが描かれたコップを買うかもしれない。休日にきんきんに冷えたビールを飲みたいという人は冷蔵庫に入るくらいの手頃な大きさのジョッキを買うかもしれない。朝からたっぷりのコーヒーで1日を始めたいという人は少し背が高くてたくさん注げるマグカップを買うかもしれない。コップとただ���言で言っても人が求めるものはそれぞれちがう。その差異を生み出すのが、デザインだ。
 人はどんなモノを求めているのだろう。人は他人のためにも自分のためにモノを求める。しかし父親にあげるモノと母親にあげるモノと友達にあげるモノと恋人にあげるモノが同じであることはあまりないだろう。贈る理由(誕生日・結婚記念日・クリスマス……)によっても変わってくる。自分のための買い物も、食生活に気を遣う人は有機栽培の野菜を買うかもしれない、本の虫であれば本棚に入るより大量の本を買ってしまって頭を抱えているかもしれない(ここで一人抱えている)。どんなモノを求めているかは時と場合とによって時々変わる。
 相手に喜んでもらいたい/生活に彩りがほしい/相手に取り入りたい、等々、モノを贈る理由はただ一つに定められるものではない。しかし突き詰めてい���と「相手との関係性を形にしたい」という動機が根底にはあるのではないだろうか。私はあなたのことをこう思っていますよ、という「気持ち」を、実体のある「モノ」にすることで相手に差しだすこと。これが、人がモノを贈る動機ではないだろうか。
 関係性とは、何も他人との関係に限ったものではない。自分-自分の関係だって関係性のひとつだ。モノをひとつ買うにしても、高いものを買うか、安いものを買うか、こだわって買うか、間に合わせで買うか、それらはすべて自分が自分との関係をどうしたいか、自分は自分をどう扱いたいのかを表すものに他ならない。その意味でモノは関係性を強めるものだと言えるのではないか。そしてデザインとはただの「もの」を多種多様な関係性に寄り添う「モノ」に変えるものではないか。逆に言えば、人々のあいだの多種多様な関係性に寄り添えないモノはデザインが失敗していると言えるのではないか。
 結論としては、以下の通りである。私達は関係性を目に見える形で確かめるためにモノを求める。そして、デザインとは、ありとあらゆるモノを介して、その関係性を豊かにしたり、貧しくしたりするものである。
(課題で書いたレポートです。記録用に。こういうありきたりなことしか書けないのつらいなあと思うんですが、奇を衒って珍奇なことを書くよりはマシかなあとか、ありきたりじゃないことを書くためにはありきたりなことをちゃんと書けないとだめだよなあとか。色々。)
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asunaro-hiba · 7 years
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人工知能?
「強いAI」←まだ実現していない、SF等に見られるタイプの人工知能。言ってみたら理念に近い。概念に具体的な能力を内包しておらず、ただ「人類の上位互換または同等の存在」としてしか考えられていない感がある。そもそも人類が人類とは何かを定義しない限り真の意味での「強いAI」は誕生し得ないのでは? ‬
‪(閑話休題)人間と同程度もしくはそれ以上の判断力を持ち、人間の感情を理解する。場合によっては自意識も有する。たぶん情報工学系に疎い人が想像する人工知能のいちばん一般的な姿。‬
‪「弱いAI」←現段階で実現している(もしくはしつつある)。機械学習的な技術を用いて学習し、与えられたデータから新しいデータの予測・分類ができる。気象予報、売上予測、機械翻訳、音声認識等々。上で書いたように、人類が自身の定義を見つけださない限り、今の弱いAIがそのまま強いAIに"進化"することはないと思われる。‬
‪機械学習←今の弱いAIの開発でよく使われている。データを扱うという面で統計学に通じるところがある。‬
‪・今の弱いAIを強くしても「強くなった弱いAI」しかできないのでは?‬
‪・統計的手法からモデルを作るやり方ではなくて、神経ネットワーク的なものを与えて作業をさせるやり方もあると思う。詳しくないからわからないけどその場合は「初期値をどうするか」みたいな問題は出てきそう(何をもって刺激に対する反応とみなすのか、みたいな)だし、そこからの経験の蓄積によるネットワークの性能向上の過程が統計的手法とどうちがうのかと言われるとちょっとわからない。結局我々も統計的判断に基づいて行動を決めているわけで。‬
‪・となるといちばんクリアしないといけないのは「今まで前例のないような事象にどう対応するか」みたいな話になってくるだろうけど、案外そのときに鍵になるのが感情になってくるのかもしれない(「楽しい」と思えばそのまま事象を受け入れるだろうし、「怖い」と思えばその事象を避けようとするだろう)。ただこの場合、特に恐怖とかに関しては「自己が失われるかもしれない」という自己保存の本能も働いているのだろうか、そうなると今度は人工知能の身体性の話になってくるのか。目の前の変化に対応しようとするのは「変化によって自分が失われるかもしれない」という感覚があるからだとすると、いくらでもバックアップ可能な人工知能が人間と同じような感情を手に入れる必然性なんてないのかもしれない。‬
‪・閑話休題。‬
‪ここでメモが途切れていて、いったい何を閑話休題したかったのかわからないという……‬
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asunaro-hiba · 7 years
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雑記 #2
・喜怒哀楽のうち楽ばっかり表に出しているような気がする。誰かに思いっきり泣きつきたいと思う気持ちがふと湧いてきて、けれどそんなことできる相手なんていないなあ、寂しいとも不幸だとも思わないけれど、三毛猫がいてよかったなあ、と思う。割とマジ泣きだった。
・人のことを好きになったりそうでなくなったり、嫌いになることはないにせよ、もうちょっと振幅抑えめに生きたい。自分が相手のことを好きになることが相手にとっての迷惑、みたいな人間関係があったりなかったりしたから、わたしは人を好きになってはいけないんだみたいな考えが未だに染みついていて取れない。他人として言うならいや別に誰が誰のこと好いてようが嫌ってようが構わないじゃんとしか言わないだろうけれど。
・そんなわけで好きになってごめんなさいと思いながら今日も眠りにつく。夢で逢ったとしてもわたしにとって都合のいいような夢でなかったらいいと思う。起きてからの自己嫌悪がつらいから。それでは皆々様お休みなさいませ。
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asunaro-hiba · 7 years
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雑記 #1
・最近どうも堪え性がないと言いますか、誰かの話を遮って発言してしまうことが増えてきたような気がします。昔あれほど気をつけていたのに。単に疲れているだけならまだ良いのですが、これが慢心のあらわれだったりする場合は早いところどうにか心を入れ替えるなり何なりしないとなと。
・忙しさを言い訳に本を読まないでいるとたちまち心が枯れる感じがしました。これはいけないと流行りに乗ってカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を1日かけて読むなど。あれは確かに前情報なしで読むのが良いなと思いました。読んで良かった。勉強は微塵も進みませんでしたが。
・他人に不快感を与えているかもしれないという感覚は一種の自意識過剰であるのでしょうが、かと言ってこの感覚をまるきりなくしてしまえばただの傍若無人になるような。この感覚を失わないようにしつつ加害妄想から逃れるにはどうすれば良いのか。人と関わらなければいいというのは短絡に過ぎるし何より根本的な解決になっちゃいないわけで。まあ詰まる所「人と関わらない限り人と接するのは上手くならない」という何の捻りもない着地点を見出すしかないんでしょうか。
・ありきたりな事でも自分のことばに置き換える作業というのは結構大事な事だと思っていて、そして本当に凄い文章と言うのは誰の心にもある事を鮮明に描き出して見せる類のものなのかなと前々から思っています。発想力の貧困を誤魔化していると言えばそれまで。では皆様方おやすみなさいませ。
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asunaro-hiba · 7 years
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MySQLエラー備忘録
ERROR 2002 (HY000): Can't connect to local MySQL server through socket '/tmp/mysql.sock' (2)
https://qiita.com/hondy12345/items/d32ed749fb49e9da7de6
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asunaro-hiba · 7 years
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Pagesと音声入力
 (前略)Pagesで音声入力のみでレポートを書けるようにしたい、ということで、諸々設定してみました。主な目的は備忘録ですので、書き方がけっこうあいまいです。  また、asunaro_hiba(これを書いてる人)はAppleScriptとAutomatorを今日はじめて触ったくらいのずぶの素人です。要するに、まちがっていても責任とかはとれません、ということです。
できるようになったこと まとめ ・Pagesの起動〜A4縦型テンプレートの書類の表示 ・ゴシック体/明朝体の選択 ・文字の配置の設定 ・.docx形式で書き出し
 まず最初に、Automatorを起動します。Launchpadの「その他」の中にあります。何を作るか聞かれるので、「音声入力コマンド」を選択してください。
・「書類をつくる」  Pagesを立ちあげると、まず新規書類作成か既存のファイルを開くかの選択画面、そしてテンプレートの選択画面が出てきます。が、それらを一気にスキップして、「書類をつくる」だけでA4縦型のテンプレートの書類を表示します。
1. 音声入力コマンド:の右に「書類をつくる」(任意)を入力。下の「コマンド有効」は正直必要なのかわからないけどチェックを入れておく。 2. Automatorの選択画面から、「アクション>ライブラリ>ユーティリティ>アプリケーションを起動」を右の画面にドラッグ。「Pages」を選択。 3. 「アクション>ライブラリ>ユーティリティ>AppleScriptを実行」を右の画面にドラッグ。inputがどうたらとかいうのが入力画面に表示されますが、それが残っているとうまく動かなかったのでぜんぶ消去で。 4. tell application "Pages" to make new document を入力画面に入力。 5. 保存して、「システム環境設定>アクセシビリティ>音声入力>音声入力コマンド」から確認。たぶん、下の「高度なコマンドを有効にする」にチェックを入れておかないと動かないです。たぶん。
・「ゴシックで入力」「明朝で入力」  「選択したものをゴシック体/明朝体にする」とかではなく、「ここからゴシック体/明朝体で入力する」というものです。選択したものを変更するスクリプトをどうやって書けばいいのかわからなかったので……。  応用すると、フォントサイズの変更などもできそうです。
1. 音声入力コマンド:の右に「ゴシックで入力/明朝で入力」(任意)を入力。ここで「ゴシック体」「明朝体」と「体」をつけるとうまく音声認識してくれませんでした。システムが「からだ」とか読んでいるのかもしれない。ですのでここは「ゴシック」「明朝」での入力をおすすめします。 下の「コマンド有効」はチェックを入れておく。 2. Automatorの選択画面から、「アクション>ライブラリ>ユーティリティ>AppleScriptを実行」を右の画面にドラッグ。inputがどうたらとかいうのが入力画面に表示されますが消去で。 3.  tell application "Pages" tell the front document tell body text set font to "YuMin-Medium" end tell end tell end tell を入力(見にくくてすみません……) 4. 保存後、「システム環境設定>アクセシビリティ>音声入力>音声入力コマンド」から確認。たぶん、下の「高度なコマンドを有効にする」にチェックを入れておかないと動かないです。ここで、「ゴシックで入力」を選択後、「対象:」を「Pages」にしておきました。必要な設定かはわからないですが。「明朝で入力」も同じく。
・「中央にそろえる」「右にそろえる」「左にそろえる」  こちらのサイト(https://iworkautomation.com/pages/text-item.html)によりますと、HTMLでいうtext-align的なものはまだAppleScriptでは実装されていないようです。ですが、Pagesで「中央揃え」などはショートカットコマンドが設定されていますので、それを使っていきます。  また、これはデフォルトの音声入力コマンド「文を選択」などと組み合わせて使うこともできますし、これから入力する文字の配置を指定する使い方でも使えます。
1. 「システム環境設定>アクセシビリティ>音声入力>音声入力コマンド」を開き、左下のほうにある「+」で新しいコマンドを登録。 2. 「音声コマンド」は「中央にそろえる」として登録。右、左も同様。「中央揃え」だとうまく認識されませんでした。またシステムが「ちゅうおうそろえ」とか読んでいるのかもしれない。単にasunaro_hibaの滑舌の問題かもしれませんが……。 3. 「対象」は「Pages」に。「実施動作」で「キーボードショートカットキーを押す…」を選択。「Shift+command+¥」で中央揃え、「Shift+command+[」で左、「Shift+command+]」で左揃えにできます。もしこれで動かなかったら、Pagesでショートカットキーを色々押してみて動作を確認してから正しいものを入力してください。(これを人は丸投げと言いますね、たぶん)
・「書類をワードで書き出し」  正確に言えば「書類をドキュメント形式で書き出し」ですが、長いのでこのコマンドに。
1. 音声入力コマンド:の右に「書類をワードで書き出し」(任意)を入力。下の「コマンド有効」はチェックを入れておく。 2. Automatorの選択画面から、「アクション>ライブラリ>ユーティリティ>AppleScriptを実行」を右の画面にドラッグ。inputがどうたらとかいうのが入力画面に表示されますが消去で。 3. こちらのサイト(https://iworkautomation.com/pages/document-export.html)を参照のうえ、「Export to Microsoft Word」からまるっとコピー&ペースト(法律的にどうなのとかいうのは、ごめんなさい、わかりません。私はまあ自己責任ということでやっています。使っちゃだめなら公開しないだろ、と思っている節はあります) 4. コピー&ペースト後、1行目の「doc」を「docx」に変えておきます。 5. 保存後、「システム環境設定>アクセシビリティ>音声入力>音声入力コマンド」から確認。たぶん、下の「高度なコマンドを有効にする」にチェックを入れておかないと動かないです。コマンドを選択後、「対象:」を「Pages」に。
 以上でしょうか。たびたび参照していますこちらのサイト「Pages&AppleScript」(https://iworkautomation.com/pages/index.html)がPagesとAppleScript関係のサイトではいちばんわかりやすかったです。非常に助かりました。  また何かやらなきゃいけないタスクが増えたら追記します。備忘録ですが、誰かのお役に立てれば幸いです。
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asunaro-hiba · 7 years
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Rコマンドメモ
主に自分用として。
Dataset <- read.table(pipe("pbpaste"), header = T, sep = "\t", row.names = 1) クリップボードから読みこむときのMac用のコマンド。headerは1行目が行名のときのみT。row.namesは1列目が列名のとき1。
par(family = "HiraKakuProN-W3") 描画時に日本語が表示されない場合はこれを置く。
row.names(Dataset) <- iconv(row.names(Dataset), “cp932", “UTF-8") colnames(Dataset) <- iconv(colnames(Dataset), “cp932", “UTF-8") Datasetの中身を確かめたうえで変換する。不要なところを変換しない。
必要があれば追記します。
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