Tumgik
9437056 · 3 years
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「いびつな果実」 
                         
朝が来ても開けられることのないカーテン、
冷房が効きすぎて肌寒い室内
二人で寝るには狭すぎるシングルサイズの薄い布団
僕らは、段々と色の濃さを増してゆく窓の外の夏に取り残されたみたいに、性懲りもなくその身を寄せ合っていた。足を絡め、互いの隙間に腕をねじ込み、少しの隙間も作らないように、僕と彼女の境界があやふやになるほどに。
持て余された時間が許す限り互いにずるずると絡み合い、ねばつき、腐っていく。
 
「『睡蓮』を描いた彼と同じ名前だということが私の一番の誇りなのよ。あんなに美しい絵画はほかにはひとつだってない。特に『紫と白の睡蓮』が好き。力強く何層にも重ねられた睡蓮の色に彼の深さを感じるし、左上の空色の絵の具が、こう、絵を際立たせているような気がするんだよね。ねえ、君もそう思わない? 」
モネはそういってよく僕に『睡蓮』の話をしてきた。僕は彼女の名前の話なのか、その絵画の話なのかよく分からなくて、だけどどちらもそれなりに好きだったから
「うん、そうだね」
と何回も同じように返事をするのだ。
だから、僕らの住んでいた殺風景で狭いワンルームの壁にはモネお気に入りの『紫と白の睡蓮』が飾られていた。実際のところ、それはモネが実家の壊れかけのプリンターでA2サイズに引き伸ばしてモザイクアートみたいになってしまった『睡蓮』だった。色彩は本来の淡い色合いを侮辱するかのような目がチカチカとするビビットカラー。極めつけには、木目を装ったプラスチック製の安っぽい額縁に入れられてしまい、もはやそれは侮辱といってもいいほどの代物だった。
それでもモネはその絵が美しいといい、続けてまたもや自分の名前が素敵だという話をするのだ。
「惨めだね」
僕は幾度となく彼女にこの言葉をささやいた。
心の底から、深く愛しているからその言葉をささやいた。
本来の美しさを失った『睡蓮』を恍惚とした表情で眺める滑稽な姿。同じ名前を持つ者が持っていたはずの美しさとは相反するものになっていても、暗示のように頑なにその美しさに執着する姿は惨めで、可哀想で、いつだって僕を不憫な気持ちにさせた。それだけではない、挙げ出したらきりがないくらいにいたるところが惨めだった。モネは、この世のなかで誰に気づかれることもない些細な不憫さを持っていたけど、それは誰もその些細な不憫さを抜きにしては愛してくれることもないような決定的な不憫さだった。
ひどくアンバランスで不安定な彼女がたまらなく愛おしくて。
モネの不憫さが、モネをかけがえのない唯一の僕だけの宝物にした。
 
だからといって僕らは何かに対して一緒に時間を分かち合う、そういった部分がどうしようもなくだらけきっていて、僕たちがともに過ごした時間はほんの数か月のことだったけど、そんなたった数か月の間に、楽しいとか嬉しいとか、悲しいとか、そういう言葉で言い表せるような出来事は何もなかった。
あの狭く暗いワンルームで、ただ二人でひっそりと身を寄せ合って呼吸をしていた。
ただ生きていただけだった。
 
どんどんダメになっていく感覚を覚えている。
 身体を動かすことが億劫になった。時間を確認することをやめた。食事も、作ることは勿論、咀嚼が、飲み込むことが面倒になって、生きるための最低限のものを何も考えず飲み込む。それ以外にはなにもせずひたすら眠りこけるような日々が続いた。だけど、それでいいと思っていた。むしろ、余計な物が徐々に削がれていくことによって、より濃度が高まった愛に変わっているような気すらした。僕たちごと埃かぶった、窓の外の喧騒からずっと離れた遠い場所。惨めで静謐な、二人だけの居場所。
死んでしまうのなら、このままで。
死んでしまうのなら、この場所で。
僕は、僕の人生の中で感じたことがないほどの幸せに満ちていて、不思議なことにそれは地に足をつけて、僕が生きようとしてきたどの時間とも比べようがないくらい、ずっと生き生きとしているように思えた。
 
久しぶりに浴びた光は、瞼越しに僕の眼球に染みわたり、目の奥をズキズキと痛める。
うざったい光に目を覚ますと、引っ越して以来一度も開けられることのなかったカーテンが堂々と開け放たれていた。差し込む西日の力強さは、冷房で冷え切っているはずの室内をいとも簡単に熱くした。その暴力的な日差しに夏がまだ続いていたことを知らされ、うんざりとした気持ちになる。
 焦点の合わない目で、ぐるりと部屋を見渡すと窓際の方でこちらに背を向けるようにしてモネが座っていた。
「モネ、お願いだからそのカーテンを閉めてくれないかな。どうしたの?こっちにおいで。一緒に眠ろう」
 モネの行動の意図が読めなくて、できるだけ優しくそう呼びかける。
「ねえ、私、あなたのことを愛しているわ。あなたが想像する百倍くらい」
そう言ったモネの背中は心なしか、いつもよりもすっと背筋が伸びていて、なぜかいつもの惨めで不憫なモネとは別人のような気がした。
「僕も、愛しているよ。モネが想像する千倍くらいに」
嘘偽りなく、僕はモネを愛している。
「ふふっ、愛してるなんてきみらしくないなあ。いつもみたいに惨めだと言ってよ。君の愛してるは空っぽでなんだか悲しい」
息をのんだ。
肩を震わせながら少し悲しそうな声色でそんなことを言うモネは―――
目が眩む光に照らされたモネは、とても惨めだといえるような姿ではなかった。表情を見なくても今まで過ごした時間全てを差し置いていちばん美しいといえるモネを見た。
あのとき僕は、モネに今まで感じたことのない愛おしさを感じた。その骨が折れるくらいに抱きしめたい。形を失くしてドロドロになるまで犯してしまいたい。いっそのこと、ぐちゃぐちゃにして殺してしまいたい。僕の中心を突き上げた破壊的な衝動は、愛おしさの意味を履き違えたみたいに醜くどす黒い、しかし紛れもなく純粋な愛だった。
 僕が何を言うこともできず、混乱したまま固まっていると、モネが「よいしょ」と言いながら僕のほうに向かってハイハイをするようにこちらに向かってきた。モネの向こうに広がる夕焼けが吠えるように赤く染まり、彼女の顔に妖艶な影を落としていた。
 僕は彼女を力強く布団に押し倒した。薄くなってしまった布団はほとんどクッションとしての役割を果たさず、彼女はゴッと音をたてそこに倒れた。僕らはこんなにもぴったりとずっと一緒にいたのに、こうしてセックスをするのは初めてだった。モネを抱きながらこみ上げる愛おしさは苦しくて、苦しくて、涙が出そうだった。僕の中で渦巻く何かがそのままモネに流れ出てしまいそうで怖かった。
モネは苦しいのか悲しいのか気持ちいいのか、なんともいえない表情で涙を流していた。そして小さく口を開け、僕らの荒い呼吸で消えいってしまいそうなほどか細い声で
「愛しているよ」
とつぶやいたのだ。
 
 隣には、疲れ果てて眠ってしまったモネがすうすうと規則正しい寝息を立てている。開けっ放しのカーテンから見える空はいつの間にか真っ暗になっていて、外の闇がどろりと流れ込んでいるみたいに僕らの部屋にも深い暗闇が広がっていた。壁にかけられた『睡蓮』だけが部屋の中にぼんやりと浮かびあがっていた。いつまでたっても不格好な『睡蓮』だったが、暗闇と混ざり合ったその時だけは、なぜかものすごく、ぞっとするほど美しくて、次の瞬間、僕はもう何もかもを置きっぱなしに、ただその部屋から飛び出していた。つっかけたサンダルの片方は僕のもので、もう片方はモネのサンダルで、そのアンバランスな足元は僕らみたいだった。
モネだけじゃない。僕らは等しくアンバランスで不憫で惨めだった。壁に掛けられた『睡蓮』も、至る所が欠けていた可哀想なモネも、自分より惨めなモネをと居ることで幸せに浸っていた僕も、丸ごと深くて暗いあのワンルームに沈めようとした。息継ぎすることも、光に向かってもがくことも、抵抗を一切やめて、沈んでしまいたかった。
 でも、モネは最後の最後に泳ぎ出した。モネは泳ぎ方を知ってなお僕と沈んでいただけだったんだ。きっと、モネは僕のことを深く愛していたから沈んで、深く愛していたからまた泳ぎ始めた。僕の手を取って、もう一度光の下へ。
 のどにきれるような痛みが走る。身体中の汗が噴き出して、べったりとはりついたTシャツが気持ち悪い。それでも、走り続けた。横目に流れていく街、僕はこの街のことを何も知らない。そして、これからもこの街のことを知ることはないのだと思った。
 不意に目��粘膜が刺激される。反射的に涙が出てきた。理科室で行った実験みたいに、意図的に起こした化学反応みたいに流れ出てきたのだ。まばたきをすると、さらにとめどなく涙は溢れ出す。頬を伝った涙は熱くて、だけどその涙の跡は流れ出す前よりもずっとひんやりとしていて残酷だった。あまりにも残酷で、僕はその涙を拭うことができず、ずっと遠い所へ逃げ出した。
 
「僕とモネはいわゆる恋人ってやつなのかな?」
ぼんやりと天井を眺めながら、不意にそんなことを尋ねたことがある。
それは、いびつな形をした果実を前に「ねえ、これはりんごなのかな?」と尋ねるみたいに、目の前のものに対して浮かんだ疑問を不意に口にしてみただけだった。たとえ、その答えが「そうね、これはリンゴだと思うわ」でも、「何を言ってるの、これはどう見てもみかんじゃない」でも、実際のところどうでもよかったし、僕は自分で尋ねておきながら、興味なさげに「そうなんだ」って答えたと思う。
少しの沈黙のあと、何も答えない彼女に無視されたのかと苛立ち、ぶっきらぼうに
「ねえ、聞いてる?」
と言いながらモネのほうに顔を向けると、彼女は大粒の涙をあふれさせ思いっきり僕の頬をぶったのだった。
僕は痛みで、顔を歪ませたけど、モネも僕と同じくらいに何かに痛めつけられたように、顔をぐしゃぐしゃに歪ませていた。
「私とあなたは、恋人なんかじゃない……。そんな、陳腐な言葉、一言で済ませてしまえる関係なんて、……っ。私は、私でありたい。そして、あなたは……あなたであってほしい。あなたと私で一つになることが、完全である形なんて私は嫌なの。いびつなままでいいのよ。二人が一つになることが正解だなんておかしいわ。―――恋人ってそういうものよ」
そう言ったその姿は、またもや僕を不憫な気持ちにさせ、僕はそんな不憫で惨めな彼女のことを強く抱き寄せるのだ。彼女が流すしょっぱい涙をひとつ残らず、零れ落ちぬよう丁寧に舐めとり、優しく彼女の瞼に唇を落とすのだ。
 
僕たちは最初から最後まで、恋人ではなかった。いつまでたっても、いびつな果実のままだった。名前をつけることができないまま終わってしまった。
そしてまた訪れた気怠い夏に、効きすぎた冷房に、記憶の奥底でぼんやりとふやけてしまったその愛を思い出す。繰り返し何度も、輪郭を持たないあの時間を夢だと思いたくなくて。いびつな果実に名前をつけてほしくて。
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