Tumgik
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today is siblings day <3 …you know what that means!
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Prince - ‘When Doves Cry’ - 1984
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RIP
Prince - ‘Raspberry Beret’ - 1985
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Dancing With Myself/BILLY IDOL
BILLY IDOLの唇。これはみんな真似したんじゃなかろうか。STING のトンガリくちばし、 NICK BEGGS の歯茎ウッキーと並んで、特徴的な歌い方についつい鏡を見ながら模写をしたものだった。
中でもこの物まねは難しく、おそらく他の二者と違い、ふだん使わない筋肉を使って形を作らねばならないらしく、鏡を見て何度も練習してやっと唇の上端が持ち上がるようになるというハードルの高いものだった。
しかし鏡を見ていたばかりに、左右非対称のBILLY の真似は、反対側の唇が持ち上げられるようになったなんてオチもあった。実際にあったのだ。対面相手に指摘されてはじめて気づくという……。
さて、それはさておきこの曲 Rebel Yell や White Weddingで知った人には意外なほど明るく聴こえるだろうが、GENERATION X 時代からの曲なので、こっちのほうが原点なんだろう。まあよくよく考えれば最大のヒット曲もスローなEyes Without A Faceだし、ルックスのイメージでハードでキレッキレな印象をこちらが抱いていただけなのだ。
なんにしても体が勝手に動き出しそうな名曲で、PVではゾンビが動き出しちゃってるけどドンマ~イ!
後日、DAVID LEE ROTHのCalifornia GirlsのPVでパロディにされてたのは面白かったですね。
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Tumblrの引用動画に添えたテキストがなんか表示されなくなってるような。
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Relax/FRZNKIE GOES TO HOLLYWOOD
■リラックス(ボディ・ダブル)■
◆◇◆ B級ボーナスクリップ ◆◇◆ 2003.08.22
多分、日本で最もオンエア回数の少ないクリップがこのバージョンだろう。 ヒッチコックへのオマージュとも、単なる「裏窓」と「めまい」のパクリともコラボとも言えそうな、デ・パルマ監督の映画「ボディ・ダブル」にこの曲が使用されたときに、映画フィルムを多用して作られたクリップである。
曲とB級なポルノ感覚あふれる映像は、すでに「リラックス」の歌詞の内容が話題になった後だったため、スムーズにつながる。 ただ、曲の最初のヒットの峠ははるかに過ぎていたため、新鮮さには欠け、どちらかというとコアなファン向けのボーナストラックのような印象を受けるクリップだった。
この頃はひとつのサントラブームともいえる時代で、この映画と並んでなぜか思い出すのが、第二期ブロンスキ・ビートのファーストヒット「ヒット・ザット・パーフェクト・ビート」をフィーチャーした「レター・トゥ・ブレジネフ(邦題:リヴァプールから手紙)」という映画だ。 これは「1. ブロンスキのデビュー時にトレヴァー・ホーンが手を出したがっていたというエピソード」「2. 原題のブレジネフの名前とフランキーのセカンドシングル、『トゥー・トライブス』のクリップに出ていたチェルネンコのそっくりさんとの連想」という個人的なイメージの問題ではあるが、ここでこの2つのグループをつなげてしまったのは、私だけではないのではないだろうか。
2011>> 2004年に再結成。 ただし、ホリー・ジョンソンとブライアン・ナッシュは参加していないらしい。
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Relax/FRZNKIE GOES TO HOLLYWOOD
■リラックス(スタジオライヴ)■
◆◇◆ セックスよりも刺激的な欺瞞 ◆◇◆ 2003.07.16
「リラックスしてごらん、咥えてほしい時は」「リラックスしてごらん、イキたい時は」。 たしかに歌詞は刺激的だが、「come」にそんな意味があると知らなかった自分にとって、この曲の歌詞に刺激を受けた記憶はない。 むしろ、刺激的だったのはこのクリップである。
この曲のクリップの中では、もっとも地味なバージョンがこのスタジオライヴのものなのだが、その反面、このクリップが一番心に残っている人は多いだろう。 私もその一人である。 同時期に流れたのはゲイバーで撮影されたバージョンなのだが、そちらは演奏シーンは一切なく、この曲のテーマである「セックス」を表現したエンタテイメント作品であった。 しかし、その「セックス」よりも刺激的なスタジオライヴがここにある。
なにが刺激的だったのか。 それは多分、このクリップを知るすべての人が声をそろえるはずだ。 ベースである。 そのチョッパーとも一味違う謎のアクション。 それがこの退屈な演奏に、著しい刺激をプラスしているのだ。 全編にわたって、右から左から、行ったり来たりするその右手の激しい動き。 演奏していないのがまるわかりのオーバーアクション。 Aメロのベースラインはどう聴いても、開放弦を「ボン、ボン、ボン、ボン」と鳴らしているだけなのに、なぜか左手はフレットを動いている。 そう、ベースは楽器ではない。 ベースとは視覚を釘付けるアクセサリであり、ファッションのための武器なのだ。 このアクションを考えたのが、トレヴァー・ホーンではなく、もし、ベーシストのマーク・オトゥールだとしたら、その才能が開花することがなかったことを惜しまなくてはならない。
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FRANKIE GOES TO HOLLYWOOD
フランキーはハリウッドへ行く。 たった一曲のメロディを口ずさみながら。
80年代の音楽シーンを支えたアイテム、ビデオクリップと12インチシングル。 そのどちらにも、大きな戦果をあげたのがリバプール出身の5人組、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドだ。
中でも、デビュー曲「リラックス」のクリップは、私の知る限りで4つのシチュエーションがあり、そのうち2つは長さによるバージョン違いもあったように記憶している。
彼らの音は確かにカッコイイ。「格好」でも「かっこ」でもなく、「カッコ」イイ。 さらに、スキャンダラスな行動やエピソードのすべてが、カッコよかった。 次々と繰り出される同曲異アレンジのシングル群。「FRANKIE SAY──」のロゴTシャツ。 デビューから三曲に設定された「セックス」「戦争」「愛」という、重厚なテーマをチープに演奏してちゃかしてしまうそのセンス。 すべてカッコよかった。なんと、彼らはゲイという性癖をファッションのひとつにまでしてしまったのだ。 だが、そこに彼らの意志はなかった。
敏腕プロデューサー、トレヴァー・ホーンの玩具として、世界的に語り継がれるフランキーは、トレヴァーが世界をまたにかけて引き起こした悪戯の道具だったのかもしれない。 悪戯の道具が自らの意志をもち、「レイジ・ハード(猛威を振るう)」しようとした瞬間、世間はその悪戯のからくりに気付いてしまったのだ。
玩具は玩具。 道具は道具。 人形は人形。
どんなに美しい人形も自らの意志を持った瞬間、人からは異形のものとして気味悪がられる。 その行く末は、部屋の片隅にあるごみ箱の中にしかない。意志を持ったフランキーは、世間にとって異形であるゲイだった。
フランキーは二度と帰ってこなかった。
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RE-FLEX
地を這うような低音から入り、高音まで一気に突き抜けていくボーカル。 バクスターのその声にからむ、無機質に刻まれるビート。 テクニックの高さを感じさせる人の手による各パートの音と、そこにやっぱり無機質にからみつく不思議なビート。 リ・フレックスは、あの頃、近未来を感じさせる音を持ったグループだった。
たった一枚のアルバムを残しただけのグループが、こんなにも印象に残っているのは、そのアルバムのクオリティの高さによるところが大きい。 収録された曲のすべてがクオリティ高く、しかもその曲の並びが実にうまい。 シングルヒットした曲が収録されているにも関わらず、トータルで一枚の作品に仕上がっているのだ。 オープニングの「プレイング・トゥ・ザ・ビート」に始まり、本国ではシングルカットされていたという「ヒットライン」、数少ないクリップを確認できる「ハート」と、たたみかけるようなラインナップは、シングルヒットの「ザ・ポリティクス・オブ・ダンシング(邦題:危ないダンシング)」が始まるまでに、すでに聴く者をリ・フレックスの世界に引き込んでしまうだけの力と完成度を持っている。
時はダンスミュージック全盛時。昨今のヒップホップ系とは一味違う、「ミュージック」がダンスフロアを席巻していた。 あの頃のダンスミュージックにはメロディがあった。 その時代に、リ・フレックスの音楽と近未来感は鮮やかに乗っかった。 事実、「ザ・ポリティクス・オブ・ダンシング」は、本国だけでなくアメリカでも受け入れられた。 そして、当時の多くのヒット曲のご多分に漏れず、アメリカ経由で彼らは日本にもデビューを果たすのである。
だがリ・フレックスは、日本ではコアなファンこそ生まれたが、大衆に支持される事はなかった。 どうしてだろう。
ひとつは、ヒット曲「ザ・ポリティクス・オブ・ダンシング」という曲自体が、当時日本のチャートをにぎわしていたデュラン・デュランやカルチャー・クラブとは、毛色の違うものだったことがあげられる。 サビこそ覚えやすいキャッチーさを持っているが、全体を通すと日本人の好む「哀愁」というエッセンスは皆無に近い。もっと、無感情で無機質なメロディだ。 それこそが、リ・フレックスの魅力だったのであるが。
ふたつめに、その曲のクリップは日本の洋楽ブームを支えた大多数層に訴えなかった。 ニック・ローズだ、ボーイ・ジョージだ、リマールだと、アイドルくんに視線を釘付けにされていた、日本の「大衆洋楽ファン」を魅せるためには、バクスターがいつまでもツケヒゲして、素顔を隠していては無理だろう。 まあ、素顔を見せたところで、ギャルたちが騒いだかどうかは微妙なルックスだが、それでものちのハワード・ジョーンズの例もある。 あれでいいなら、こっちの方がイケてるはずだ。
だが、彼らのハイクオリティな音とたしかな演奏は、大物ミュージシャンも魅了していた。 セカンドアルバムに先行してリリースされたシングル「ハウ・マッチ・ロンガー」には、スティングが参加したのである。 「さあ、ここからリ・フレックスのさらなるインベイジョンが始まるのだ」とフアンは思ったことだろう。 しかし、リ・フレックスの第二章はここで閉ざされてしまう。
彼らの音は、魅了してはいけない大物まで魅了してしまった。トンプソン・ツインズである。 ソングライターであったポール・フィッシュマンが、トンプソン・ツインズの全米ツアーのメンバーとして、グループを脱退してしまったのだ。 バンドはもめ、一説にポール・フィッシュマンは、脱退金を払ってツアーに出て行ったとも聞く。 こうして、リ・フレックスの未来は閉ざされた。 彼らが作り出した近未来的な音は、永遠に近未来の世界に置き去りになってしまった。
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Hurt/RE-FLEX
◆◇◆ 痛覚のない疼痛 ◆◇◆ 2003.09.12
アルバムとクリップで異なるイントロになっているが、曲としては当時の「ピコパコ感」満載のアルバムのイントロの方が、この曲にはふさわしい。 しかし、グループの色が出ているのはどちらかといわれれば、シンセの和音から入って、いきなりボーカルにつなぐ、クリップ版イントロのほうが出ている気がする。
血の通わないロボットに「痛み」を表現させた映像は、「体温のなさ」「感情のなさ」「痛覚のなさ」を逆手にとって、見るものに疼痛を与える。 実に不思議な感覚のクリップだ。その「痛み」の感じさせ方が、やっぱり近未来的なのだ。 このクリップは演奏シーンも多く、バクスターのうねるように音階を上げていくボーカル、ポールのクールなシンセ、ナイジェルの無機質なベース、すべてが映像で確認できる貴重なクリップ。 バクスターの髪型、ぺったんこのカンフーっぽい靴、すべてが憧れだった。 ただのハゲだとわかっていても、「近未来的髪型?」と訊きたくなるナイジェルのルックスも妙に目を惹く。
2011>> 映画「ブレイクダンス」のサントラに入っていた、「カット・イット」という秀作もあり。
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BRONSKI BEAT
はじめてブロンスキを知ったとき、ジミのファルセットヴォイスに込められた、溢れ出すような、それでいて、けっして「動」ではない「静」の魅力に激しく吸い寄せられた自分を思い出す。 その一方で、ジョンがヴォーカルに据えられたジミ脱退後のブロンスキの、まるで別のグループであるかのような軽快さを素直に受け入れた自分も、である。
ファーストアルバム「エイジ・オブ・コンセント」のオープニング曲「ホワイ」の冒頭からいきなり絞りだされるジミの声には、背筋が凍りつくような衝撃を感じたものだ。 この「ホワイ」という曲は、その歌詞に「君と僕は僕たちの愛のために一緒に闘っている」とある。 なんの先入観もなく、この曲を聴くと、まるでよくあるメロドラマのような禁断の愛を頭に浮かべるが、ブロンスキの場合は、当時、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドを怪物に育て上げた、トレヴァー・ホーン率いるZTTレコードのスカウトを断ったというニュースとともに、その内面がすでに取り上げられていたため、その曲の歌詞は、もっと違う意味での深さを持って、我々の耳に届いていた。 そう、オリジナル・ブロンスキ・ビートと呼ぶべき、ジミを中心にした三人は、日本には音以前に、「全員がゲイ」という内面をセンセーショナルに音楽雑誌に取り上げられていたのだ。
そして当然、聴くものは念頭に「ゲイの書いた歌詞」「ゲイの書いた曲」「ゲイの歌う歌」として、「スモールタウンボーイ」「ホワイ」と、彼らのオリジナル曲を聞いていく。
「スモールタウンボーイ」で、母が出て行く理由を理解してくれないまま、一人淋しく駅に立つ少年は、思春期の反抗から町を後にするわけではなく、性癖を理解されず、小さな町を後にするのだと考える。
「ホワイ」の「君と僕」が闘う相手も、たとえば不倫相手の本来の旦那や、二人の交際を認めない父親が相手ではないと知る。 それはマスコミがもし、彼らの、特にこの時期のブロンスキの方向性を決定付けていたジミの性癖を取り上げていなければ、けっして伝わらない背景から導かれるものであった。 我々は「世間に理解されない人の書いた歌詞、その怒りを込めた曲」としてブロンスキを知り、歌詞を書いた人物、曲を作った彼らが歌に込めた本当の意味を知った気になったのである。
しかし、それははたして、正しいことだったのだろうか。 我々は純文学と呼ばれるひとつの小説に出会ったとき、その中に表現される人物の心を解読し、小説のレベルをはかるとき、著者の私生活を考慮するだろうか。 たとえば、作中の人物が恋する相手の描写を読んで、「ああ、この作者の恋人はこんな人だったのだ」と思うだろうか。 作中人物が20代半ばにしてその人生を閉じたとき、「ああ、作者は20代半ばで死と対面したことがあるのだ」と考えるだろうか。
一概に小説と呼んでも、その中には傑作もあれば駄作もある。 語り継がれる名作もあれば、読み捨てられる作品もある。 しかし、いずれの場合も前者に共通するのは、緻密に構成された小説内の世界���築なのである。たとえば、時刻をあらわす一日の描写。 すぐれた小説には、そのシーンが朝である理由があり、結末を迎えたとき、夜である理由がある。 なぜなら、その小説は主人公の堕落をテーマにしたものであるから、堕落前の主人公を書いたシーンは、朝日差し込むシーンであり、堕落した主人公が末期を迎えるエンディングは、光一つ差さぬ夜である必然性があるのだ。
ジミ率いたオリジナル・ブロンスキの歌詞、音、そしてその融合である歌。 すべてが、21世紀に入った現在でも、色褪せることなく聴くものにその「怒り」「反抗」「哀しみ」といった感情を的確に伝えてくる。 つまり、彼らの残した作品は名作だ。 けっして、一時の感情に支配された独り言ではない。 そう考えれば、この名作はもしかして、彼らがゲイであろうがなかろうが生み出される「傑作」であり、緻密に構成された世界の中に構築されたフィクションだったのではないだろうか。
ジミが脱退した後のブロンスキは、前述のとおりジョン・ジョンというヴォーカリストを迎え、「ヒット・ザット・パーフェクト・ビート」という曲をもって、日本含む各国のダンスチャートを席巻した。 オリジナル・ブロンスキの作り上げた「理解されない哀しい同性愛の少年の独白的世界」を愛したファンは、なんの苦悩もないその世界を激しく拒絶した。
しかし、元々、ジミの作った世界がフィクションであったとしたら、そして、それに気づいていたとしたら、それを否定する理由は全くなかったはずだ。 音としてのブロンスキを支えた、スティーヴとラリーの二人が、ジミを失ってからもブロンスキ・ビートの名前を名乗りつづけたことに、その答が見えてくる気がする。
もっとも、個人の名前まで「ブロンスキ」と名乗っていた、スティーヴが実は「独り言の主」だったのかもしれない。 しかし、それは脱退後のジミが演じたコミュナーズのファーストアルバムが、まるでオリジナル・ブロンスキのセカンドアルバムのような出来栄えだったことからもありえない。 いや、そうでなくあってほしい。
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80svideo · 8 years
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HOWARD JONES
ハワード・ジョーンズはアイドルだった。
音楽性、実力、そういう面で捉えると物議をかもしだすかもしれない。 しかし、当時の日本の洋楽シーンにおいては、少なくともそうだった。 ミーハー系の音楽雑誌には「ハワちゃん」「ハワードくん」といった文字が氾濫し、少女漫画には彼をモデルにした男の子が登場した。 その頃の洋楽ファンの女の子たちは、彼をカワイイと呼んだのだ。
でも、ホントにそうか? 
顔は長いし、目は引っ込んでるし、アゴだってしゃくれてる。 え? 髪の毛がふわふわしててトウモロコシの房みたいでカワイイって?  それは毛根が弱って髪の毛にハリがなくなってるんだってば。 どう見たって、禿げ上がってるジャン! ……と、そんなこと一人で言ってみてもどうしようもない。 世論がハワード・ジョーンズをアイドルにした以上、たった一人の意見で彼のポジションが覆るはずもなかった。
そういえば、その数年前、「ルビーの指輪」という曲が大ヒットしたことがある。 その時、ニヒルな雰囲気でそれを歌う寺尾あきらが「日本で一番二枚目」という空気が流れていた。 でも、それはムチャというものだ。 冷静に考えてありえない。 世の中には草刈正雄だっているし、真田広之だっているのだ。 しかし、時代の空気は、確実に寺尾あきらを推していた。「ハワードくんアイドル伝説」もちょうどそんな感じだった。
そもそも、デビュー当時の彼には「ニュー・ソング」のクリップからは推測すらできないアングラな部分があった。 あの頃話題になっていた、一人ですべてやってしまうライヴはその顕著な例ではないか。 あれは明らかに、自閉的かつ自己満足的なアンダーグラウンド・パフォーマンスだ。 それに、彼がメジャーシーンに登場する時に、一緒に引っ張り出したのはジェドおじさんだぞ。 あんなのどう見たって、暗黒舞踊系のパントマイマーだってば。 その先にある交友関係を想像したら、もっとすごいのがでてきそうだ。
しかし、ハワードは巧かった。
デビュー曲に「ニュー・ソング」を選んだのは賢明だったし、その一曲で手にした陽気なイメージに、どんどん自分を近づけていく努力をした。 セカンドアルバム「ドリーム・イントゥ・アクション」の頃からは、バックバンドを付け、ステージを一人ぼっちの暗黒芝居ではなく、聴衆を巻き込んだパーティーに変貌させた。 売れないミュージシャンだった弟を、そのバックバンドに迎えてアットホームなイメージまで作り出した。 当時、アイドル的人気を誇った同じマルチプレイヤーのニック・カーショウが、頑なにアイドル人気を拒み、ミュージシャンとしての自尊心を貫くあまり、奈落のそこに続く迷宮の入り口に立ってしまったのと対照的に、彼は日の当たるステージに立ち続ける道を進んだ。
彼はポップスターになったのだ。
だが、彼のポップスター志向に基づく、自身のアイドル化計画は、意外なところで破綻をきたす。 それは、セカンドアルバムからのシングルカット「シングス・キャン・オンリー・ゲット・ベター」のクリップで見せた、さらにポップで派手なビジュアルのために、フワフワ感をキープしたまま、思いっきり逆立てたモヒカン調のトウモロコシカット……。 ああ哀しいかな、彼の毛根はそれ以上酷使されることを許さなかった。
そして、サードアルバム「ワン・トゥ・ワン」がリリースされた時、そのジャケットにいたのは、なんの変哲もない髪の薄い普通のおっさんだった。 こうして彼は、アイドルからミュージシャンへと、物理的に変貌を遂げた。 まるで、大銀杏を結えなくなった関取が、ひっそりと土俵を姿を消すかのごとく……。
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80svideo · 8 years
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KAJA GOO GOO
カジャ・グー・グーからリマールの脱退が発表された時、「リマールがコケる!」そう思った。 あまりに突然の発表だったし、ベーシストのニック・ベッグスのテクニックとクリップでのアクションにほれ込んでこのグループを評価していたファンには、リマールは何の武器も持たない、ドラクエのスタート時の勇者のように丸腰に見えたはずだ。 しかし、結果は逆だった。
そもそも、この脱退劇は、いまだに原因がどちらにあったのかが、よくわからない。 一説では、シンセ多様の恋愛ソングを歌いたがるリマールを、テクニック重視のファンク志向が強い他のメンバーがクビにしたと言われたし、もう一説には、元々ソロでデビューして失敗したリマールが、バンドという形で再スタートして売れたところで、再度ソロでやりたくなって、メンバーを見切ったと言われていた。 真相は知らないが、いずれにしてもどちらかがどちらかを裏切ったのは事実らしい。]
ただひとつだけ言えることは、リマールを失ったカジャ・グー・グーは、そのテクニックと音楽的な志向で墓穴を掘った。 そもそも考えてみれば、カジャ・グー・グーのヒットの要素は、リマールのアイドル的ルックスと、それにマッチしたちょっと甘酸っぱい恋を歌った歌詞、そして、切なさと明るさの共存したシンセの音色にあった。 いわゆる、「胸キュン系」の音楽と小柄なリマールのお星様キラキラの瞳に、全国の女子高生がホントに胸キュンしたことにあったのだ。
それが、4人になったカジャ・グー・グーの音楽は、それまでとは一変、ハードなベースを前面に押し出した、ファンクロックになってしまった。 「トゥー・シャイ(邦題:君はトゥー・シャイ)」で、片膝立てたリマールに胸ときめかしたお嬢ちゃんたちに、いきなり大都会のジャングルの厳しさを説いてもついていけなかっただろう。 しかも、あのメロディアスなシンセは奥に引っ込み、バリバリのチョッパープレイ、ビヨンビヨンの世界。「トゥー・シャイ」のクリップを見て、「ニックもかわいいよねー」「ベースの弾き方チョーカワイー」とか言ってた、お嬢ちゃんたちに、ホンモノの音を聞かせてしまっては、さあ大変。 多分、オリジナルカジャ・グー・グーのファンの中心だった女の子たちは、あのカワイー弾き方があんな音出してたなんて、想像もしてなかったことだろう。
ソロになって一枚目のシングルは一見、カジャ・グー・グーに軍配が上がったかのように見えた。 彼らの「ビッグ・アップル」は本国のチャートでトップ10にランクインしたが、リマールの「オンリー・フォー・ラヴ」はトップ20がやっとだった。 しかし、しかしである。 「ビッグ・アップル」が手も足も出なかった、アメリカのチャートに、リマールは50位台とはいえ、顔を出したのである。 これは、フロントマンとなったニックにとっては屈辱の結果だっただろう。 「トゥー・シャイ」をトップ5まで押し上げたアメリカのファンが覚えていたのは、カジャ・グー・グーというグループでもニックの高度なベースプレイでもなく、リマールのスカンクみたいな色の逆立った髪型と、甘い声だったのである。
リマールはその後も、映画のテーマ曲「ネヴァー・エンディング・ストーリー」で、アメリカのチャートに実績を残す。 しかし、ニック率いるカジャ・グー・グーが、表立った国際舞台に立つことは二度となかった。 ベースをスティックなる見慣れぬ10本弦の楽器に持ち替えて歌う、「ライオンズ・マウス」は、リマールのアイドル性に惹かれた少女たちに訴えかけることはできなかった。そして、カジャの名のもと三人が残ったものの、最後は誰もいなくなってしまった。
どちらかがどちらかを裏切った。 残ったものは……何もない。
(2011>> なんかリマールが自分だけギャラあげろって言ってもめたらしいすね)
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80svideo · 8 years
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Forgive And Forget/BLUE ZOO ■フォーギヴ・アンド・フォーゲット■
◆◇◆ 飛び出せアイドルバンド! そして、消えろ! ◆◇◆ 2003.07.17
こういうバンドは当時苦手だった。
それなりに音楽性の高さは見られるのに、プロデューサーの「こうすれば売れるよ」みたいなアイデアに安易に乗っかって、アイドルバンドとして飛び出してくる、有象無象の集団。 当時の心に響かなかったばかりか、今も心に残っていない。
しかし、あまりにキャッチーに作られた曲のサビだけが、耳の奥に残ってしまっているのだ。 日本のアイドルタレントが「ロックをやりたい」と駄々をこねたら、こんな曲が準備されるのかもしれない。 青いバック、赤い服、ブロンドのヴォーカリストの胸をはだけたシャッの着こなし。 なにもかもが、当時の安易なアイドルロックを象徴している。
ニューロマンティックの下流の中にいたブルー・ズーだが、そのノリはデュラン・デュランやスパンダー・バレエとは程遠く、むしろ、日本だけで売り出そうとして日本で大コケして収集のつかなくなったナショナル・パスタイム寄り。 まだこのグループは「クライ・ボーイ・クライ」がヒットしただけいい方だが、ニック・カーショウのように、本来持っていたはずのひとひねりを表に出していればもっと違った結果が残されていたかもしれない。
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80svideo · 8 years
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BIG COUNTRY
「世界にロックバンドは4つしかない。U2とシンプルマインズ、エコー・アンド・ザ・バニーメン、そして俺たちさ」
スチュアート・アダムソンの言葉通り、ビッグ・カントリーは骨のあるロックを聴かせてくれた。
デビューアルバムのトップに収録された「インナ・ビッグ・カントリー」のイントロは、シングルバージョンの骨格の部分をさらにパワーアップしたアレンジで、イントロから激しいドラムとスチュアートの「シャッ!」という掛け声が炸裂し、プレーヤーに針を落とすたびにゾクゾクとさせられたものだった。
しかし、彼らの全世界に発信したはずのチャートアプローチのリアクションは、デビュー曲の「インナ・ビッグ・カントリー」を頂点に、本国のみに留まってしまう。 どの曲を聴いても、アメリカでウケる要素は満載に聴こえるのだが、何がいけなかったのだろう。 そこには、デビュー時の完成度の高さが影響していたのかもしれない。
当時も感じていたことだが、彼らのロックは、「インナ・ビッグ・カントリー」で完成されていた。 アルバムごとに変貌を遂げ、80年代後半になってついにメジャーチャートに向けて、完成度の高い楽曲をリリースしたU2と違い、ビッグ・カントリーは、デビューから間もない時点で、自分たちのスタイルもポリシーも技術も全てにおいて完成度が高すぎたのだ。 結果、彼らの曲はどれも「インナ・ビッグ・カントリー」の焼き直しのような印象を与えてしまった。
デビュー間もない時期において、他のバンドの誰にも真似できない個性である、バグパイプ風のギターに、スチュアートの叫び声という、インパクトの強い武器を持っていた彼らだったが、逆にその個性が首を締めてしまったのだ。
彼らの完成されたスタイルには、もはや肉付けを施す余地はなく、「インナ・ビッグ・カントリー」のパーツを目立たないように省略していくしか進むべき道がなかったのである。
それ以降、「チャンス」「イースト・オブ・エデン」と、新しいジャンルを切り拓こうと苦心はしてみたものの、思うようなリアクションは得られず、結局「ホエア・ザ・ローズ・イズ・ソーン(邦題:バラの墓標)」、「ルック・アウェイ」のようなデビュー曲の縮小再生産しか、道は残されていなかった。 それらの曲は彼らを支持する、世界には届かない閉鎖された世界では、熱狂的に受け入れられたのである。
たしかにシンセ全盛の当時、ロックバンドは世界に4つしかなかったかもしれない。 しかし、その中で世界を手中に入れたのは、変革を遂げたU2であり、シンプル・マインズであったし、どこまでも内向的に自我を追及したエコー・アンド・ザ・バニーメンは成長の過程でカルトな人気を得た。 しかし、ビッグ・カントリーは元々持っていた完成度の高さゆえ、変革や成長という過程を歩めないままに終わってしまったのだ。
あの頃のビデオテープを再生すると、MTVでは2通りの「インナ・ビッグ・カントリー」を見ることができる。 ドラマ仕立てのクリップともうひとつ、ライブのビデオである。
そして、そのライブビデオの中で繰り広げられる演奏とパフォーマンスの完成度は、あまりにも高い。 しかし、そのビデオを見ると、彼らが世界に受け入れられることがなかったもうひとつの理由も見えてくる。 アメリカンチャートを席巻したオシャレ系イギリスバンドたちとはあまりにもかけ離れた、「偉大な祖国」のトレードマークであるタータンチェックのシャツ。
祖国への思いにこだわった彼らは、ビジュアル面でも「ど田舎」出身の泥臭さを捨てられず、変革を遂げることは出来なかった。 今となっては、もう二度と生で聴くことの出来ない、バグパイプ風のギターのメロディ。 しかし、その音は脳の中ではなく、耳の奥に記憶として残り、いつでも心の中で再生できる。 そのメロディは、祖国にあるはずのスチュアート自身の墓標に、バラとともに供えるために書かれたメロディだったのかもしれない。
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80svideo · 8 years
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https://www.youtube.com/watch?v=ZN4rfRVtnrk
Die Todliche Doris ドイツのニューウェーヴ。ディー・テートリッヒェ・ドーリス。 『致死量ドーリス』なんて邦題も、一部のコミックファンには「へえー、ここから」という感動があるかも。
アルバムの二枚組み。本国では別々にリリースされたアルバム"Unser Debut" と “Sechs"が日本では二枚組みでリリースされました。たぶん、ノイバウテンの人気とかにあやかって、勢いで国内発売を決めたときに、本国で既発のアルバムを、えーい、まとめて出しちゃえ、だったんだと思いますが、
あえて二枚組なのはそれだけが理由ではない。
『プレイヤーが2台ありましたら』
という、購入者のハード環境に依存した企画という時点でかなりダメな感じだが、しかしなんと我が家には弟がいて、弟も部屋にプレイヤーを持っていた。
そして俺の部屋と弟の部屋は両方のドアを開け放てば、音なんて余裕で筒抜け。
イケル!
とばかりに実践してみた、あの若かりし日。
各曲の邦題からも想像つくかと思いますが、そういうジャンル��す。
つまるところ……
そもそも個別に聴いてもなんだかわからない前衛音楽のようなものを、同時に再生したらますます判らない。
というある意味で想定どおりの結果が。
ちなみに、マニュアル操作でまったく同時に二枚のレコードの音が始まるように再生って、相当ハードルが高い。 その時点でも企画倒れ感漂う。 誰か試してからリリースしたんでしょうか?
それにしてもドーリス聴くかたわらバルティモラ聴いてたんだと思うと、
俺の青春って迷走してたんだな
と今さら思い知らされるのでありました。
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