Tumgik
625-4 · 3 years
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とけて流れて逝けばいい
 ほんの少し前まで名残惜しそうに世界へ居残っていた筈の"肌寒い"という感覚は何処かへ消え失せ、ゴールデンウィークが明けた五月の頭は殆ど夏の様相を呈していた。街中を歩く人が半袖や夏物のシャツに袖を通す中、それに倣うように薄手の夏服に変わった制服の軽さに、ああ冬服って重かったのか、と気が付くのももう何回目だろうか。
「イチ、おつかれー」
「あーうん、お疲れ」
 自称進学校のなけなしの矜持か、学生に怠惰な連休を謳歌させてなるものかと予告されていた実力テストを終え、顔見知りのクラスメイトに曖昧な笑顔で挨拶をした。文武両道を謳う我が校ではスポーツもお盛んで、体育館の外周で走り込みをしているバスケ部を尻目にそそくさと校門を出る。色濃く茂る緑を焦がす陽射しに白目を焼かれ、逃げるように視線を足元へ投げると元より血の気の少ない身体が軽い目眩を起こした。少しよろめいて手をついた電柱の傍ら、街路に植わった名前の分からない花は初夏が来る度に見ているような気もしたし、初めて見たような気もした。
 別に珍しい事ではない。血圧の上がりにくい身体は生まれつき、暑くなってくるとこういう目眩を起こしやすいようだった。貧血とも立ち眩みともつかない目眩をやり過ごし、ポケットに入れたままにしていたAirPodsを耳に入れようとした矢先。ざ、ざ、ざ、と複数の足音が遠くに聞こえ、後ろを振り返ると体操着の集団が走ってきていた。体育の授業だろうか。今年最初の夏日がどうこうと天気予報が取り沙汰するこの暑い中マラソンをさせられている事に少なからず同情しつつ、歩道の端に避けておく。
 こういう時になるべく息を殺して気配を消してしまうのはもう、癖だろうな、と自嘲に似た思考を持て余しながら白いプラスチック製のイヤホンで耳を塞ぐ。耳に蓋をして音楽を流していると、愚かにも俺は何となく世界から隠れることができたような気になるのだった。
「っ、あ」
 集団の通り過ぎざま、肩に軽い衝撃を感じて反射的にすみません、と声を上げて顔を上げるとよく見知った顔がそこにあった。白い半袖の体操着にハーフパンツを履いているのは松野おそ松だ。俺が暑さに浮かされて幻覚を見ているのでなければ。そうか、あれは赤塚高校の体操着か。赤い校章が胸元に小さく刺繍された体操着の、漂白されたような白が眩しかった。
「イチくん何してんの?早退?体調悪い?」
 左耳にはAirPodsから流れる知らないロックバンドの曲が、右耳には驚いたような松野の声が入ってきて脳が処理落ちするような感覚に陥る。頬が引き攣って喉をうまく使えずに、え、とかあ、とか、お、という意味を成さない音をもごもごと発してから、ようやく質問に答えた。
「……い、や、試験、早退じゃない」
「試験!?連休明けに大変だねえ」
「おそ松は?」
「体力テスト!いま1.5km走!」
 こんな所で寄り道している場合ではないんじゃないか?という俺の心配を他所に屈託無く笑った松野の顳顬に浮いた汗が、頬を伝って顎から落ちる。焦げ茶色の前髪が汗で額に張りついていた。
「日陰すずしーねえ」
 松野はそう言って髪の毛とお揃いの焦げ茶色の瞳を気持ち良さそうに細める。俺たちのちょうど真上に生い茂る街路樹の葉が日陰を作っているお陰で、暑さが幾らか和らいでいた。体操着の裾でごしごしと雑に顔の汗を拭った拍子に覗く松野の平たい腹は、俺があまり見てはいけないもののような気がして、遣り場の無い視線をうろうろと彷徨わせてしまう。
「あっそうだ、前屈10点満点だった!すごくない?」
 左手の人差し指を立て、右手で丸を作って誇らしげに見せてくれる松野はたぶん数字の10を示しているのだと思う。俺から見れば01だが。松野の身体は柔らかいらしい。触れた事も無いその身体の柔軟性だけを知ってしまった俺が覚えたこの感慨はたぶん、ものすごく希薄された"絶望"と呼ばれる類のそれだと思う。
「おそ松、テストいいの」
「えっ?あーっ!測ってんだった!」
 指摘されてようやく思い出したという顔で声を上げた松野は、ごめん行くね!と太陽の照りつける道へ走り出してからこちらを振り返って大きく手を挙げて見せた。街路樹の作る日陰に取り残された俺が軽く手を挙げてそれに応えると松野は嬉しそうに笑って、前に向き直るとアスファルトを蹴ってスピードを上げ、あっという間に遠ざかっていく。
「……あー」
 今すぐ俺に向かって爆弾でも落ちてきてはくれないだろうか。そう願う俺の血行は先程よりも幾分良く、左耳では喧しくギターが歪んでいた。
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625-4 · 3 years
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やさしいよみちを渡って
 泳ぐ泡がぷつぷつ弾けてスパンコールに似ている。冷凍庫で冷やしておいたグラスに注いだビールの、透き通った黄金色を通して恋人を見ていた。どのつまみから食べようか思案しているのだろう、機嫌良さそうに袋の中を覗いていた瞳がこちらに向けられて、ねむそうな半目が丸くなる。
「あ、もう飲んでる」
「うん?喉渇いちゃって」
 ゆるやかに湾曲したグラスの輪郭の中へこまかい泡と一緒に収まった恋人は、気の早い俺を見ていそいそと四つ這いで移動する。同じように冷やしておいたもう一つのグラスを冷凍庫から取り出し、戻ってきたところを捕まえて頬を寄せた。
「新しいの開けなくていーの?」
「んーん兄さんの残りでいい、一本は要らない」
 輸入品と思しきラベルの貼られた瓶の中身は半分よりもやや少ないくらい。先刻俺が開けたばかりのビールの残りをグラスに注いだ恋人はやわらかにグラスの口をこちらに向かって傾けた。
「はい、乾杯」
「ん」
 こつん、と硬い音を立ててふれあったグラスが離れていく。白く泡立ったうすい飴色の液体を一口、二口と口にした恋人は何とも言えない顔をして見せた。美味しくないらしい。海外旅行の土産物だとかで貰ってきたどこぞのビールだった。眉間に寄った皺を見て思わず息が漏れてわらってしまう。
「ふ、美味いもんじゃないね」
「おれにはまだ分からんようです。残ってるやつ先生かドンちゃんにあげよ……」
 にがい、と文句を言いながらも注いでしまったからにはと一息にグラスの中身を飲み干した一松のやわらかい髪を撫でた。同様にグラスを傾ければ消えかけた泡がくちびるに向かって打ち寄せ白い波になる。
「兄さん何食べる?」
「んー、チョコ」
 口の周りを軽く舐めとって、ふたりで買ったチョコレートへ手を伸ばした。銀紙に包まれた四角い板状のチョコレートを口に含めば舌の上に名残る苦味がじわりと甘くほどけて、喉に染み込むように溶けていく。指先でもう一つ手繰り寄せたチョコレートの銀紙を剥いで恋人の口元へ運べば、ぎざぎざの歯でかぷ、とそれを咥えてから器用に口の中へ収める様が雛鳥じみていて、思わず小さく笑った。
「?」
 俺が笑うのを不思議そうに見ている一松の瞳はいつも通りねむそうだった。やわらかい頬に手を添えれば疑いも無くそこへ擦り寄って心地良さそうに目を細める様子はよく懐いた猫のようで、瞼に半分隠れた色の濃い黒目を覗き込みながらなめらかな目尻を親指でなぞる。
(……星、)
 寒々しい蛍光灯の灯りの方へそっと顔の向きを変えてやると、うすく膜を張ってひかる瞳の表面の奥に虹彩表面の微かな凹凸までよく見えた。そこには星が浮かんでいる。視線に滲む温度感、水草に似た揺らぎと微睡みのような意識の狭間で一心にこちらを見つめてやまない瞳は、俺の前ではよく喋る割に大事なことを上手く言葉にするのが苦手な口より余程雄弁だった。
「かしこいのにねえ、おまえ」
「……考え事の最後だけ言われても」
 怪訝そうに淡く刻まれる眉間の皺にくちびるを押し当てる。淡く伏せられた瞼を持ち上げながら俺を見上げる瞳にちらちらと揺れる星が、未だそこに在ること。今見えている星がとっくに暗い宇宙でさみしく燃え尽きていたとしても、俺たちにはそれが分からないんだよって、教えてくれたのはおまえだったっけな。俺の恋人は、星を見てそういうことを考えるらしい。
 皮膚の薄い手首を辿り、血の通いにくい指先をやわく握る。おまえがこんなに冷えた指先で生きていることを思うと兄ちゃんはちょっと泣きそうになったりするよ。傲慢かな。
「手首まではあったかいんだね」
「動脈通ってるからね」
 手首の窪みへ親指を軽く押し当てると、日焼けしない皮膚の下で血管が小さく脈打っていた。恋人が今日も生きているというのは尊い感慨だと思う。たぶん。
 しんと冷えた日当たりの悪いアパートの一室、唯一存在する熱源に寄り添って暖を取ろうとする身体を抱き上げて背中を撫でた。狭くて四角いワンルームは曇り硝子に似て景色を滲ませ、いつでも俺たちを外界から遠ざける。額同士を擦り寄せてくちびるを重ねると一松はうれしそうに笑って、擦り寄せた鼻を小さく啜ってから呟いた。
「あいしてるよ」
「えー俺も」
 お願いだからそのままずっと正気に戻らないでねって口に出したら一松はころころ笑った。二月の夜が更けていく。
(19.リーヴァ:手首/星/白波)
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625-4 · 3 years
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おつかいへ行くぐりちゃんとおにい
「絶対ペアでジャンケンすべきだったと思う」
「まアそおねえ」
 連れ立って歩く男ふたりはどちらもTシャツ姿だった。ひとりは夜に溶け込みそうな彩度の低い紫色のTシャツを、もうひとりはそれと対照的に、夜へ浮かび上がる鮮やかな赤色のTシャツを身に着けている。紫色がひどく不機嫌そうな表情と共に呟いた言葉に、だらっと間延びする独特の調子で同意して見せた赤色の唇にはまだ火の点かない煙草が咥えられていた。
 事の発端は五分前に���る。六畳一間に男四人集まったは良いものの酒も無ければつまみも無いときて、蒸し暑い中を歩いて買い出しに行く貧乏くじの行方を巡りジャンケンをすることになったのだ。恋人同士でペアを組んで代表者がジャンケンすれば良かったものを、何故だか四人いっぺんにジャンケンしてしまった結果がこれである。修理したばかりの冷房が快適な空気を吐き出す部屋で「おもしろいからそのまま行っておいで」と手を振った恋人の言葉に送り出された赤色が、もうひとりの紫色を携えてまとわりつくような熱帯夜をコンビニ目指して出発し、今に至るのだった。
「…、…」
「……」
 別に話したいこともないし、話すべきこともないし、と互いの間に何となく横たわる沈黙。まだまだ蒸し暑いとはいえ夏も終盤戦にさしかかり、いずこから聞こえる虫の音は既に秋の色を帯びていた。そんなことに意識を向けるぐらいしかやることがない。アパートからコンビニまでは歩いて十分そこらと言ったところか、恋人と歩けばほんの一瞬の筈のそう遠くない道程がどうにも長く気詰まりで、揃わない互いの足音がやけに耳についた。沈黙に耐えかねた紫色がおもむろに「アンタは、」と口火を切る。
「アンタは、……酒なに飲むの」
「……ふ、は」
 発言に窮して繰り出された質問は、明瞭に場当たり的な含みを持って夏の夜に上滑りした。赤色は僅かに色素のうすい瞳をきょとんと丸くしたあと、咥えていた煙草を指に挟み直しながら小さく笑う。「ビールとか、チューハイとか。普通だよ別に」と淡い含み笑いを混ぜて返された答えに紫色はわかりやすく苦い顔をして見せた。
「我ながら聞いた瞬間興味無いなと思った」
「ひっでえ」
 喉奥に引っかかるような笑い声を漏らした赤色は言葉の割に気を悪くした様子も無く、煙草を咥え直しながら紫色の方へちょいちょいと掌を差し出して見せる。
「火貸して」
「持ってない」
「うっそだあお前吸うじゃん」
「兄さんと居る時は吸わないし……」
 本当に持っていないことを示すためにジャージのポケットを裏返して見せられ、赤色はこれでもかと大袈裟に肩を落として見せた。ぶつくさ何か呟きながら潰れたソフトパッケージに煙草を戻す様子を横目に、火も点けずにずっと咥えていたのはライターが無かったからか、と一人納得していた紫色は、不意に視線を向けられて切れ長の目を瞬かせる。
「煙草さあ、うまい?」
「エエ……まあ一口目は……」
「ほおん」
 聞いておきながら大して興味無さそうな返事を零し、赤色は両手を頭の後ろに組んだ。踵の潰れたスニーカーを突っかけただけの足を投げ出すようにして歩きながらぼやく。
「兄ちゃんは煙草の美味さよくわかんねえからな〜〜〜」
「一番吸う癖に」
「えーお前んとこの先生じゃないの?ヘビスモ」
「未成年と過ごす時間増えて激減したっつってたよ」
「へー」
 お前らんとこ仲良いよねえ、とゆるやかに吐き出された言葉に紫色は再び目を瞬かせる。仲が良いとか悪いとか、基準を持たないのでよくわからなかった。返事をしないまま怪訝な顔を見せる紫色に赤色は目元の笑みの色を穏やかに深くする。
「まー俺のいちまつ根本的に人好きだしね」
「アンタは違うの」
「どっちがいい?」
 質問を質問で返されて一瞬口籠った紫色は、少し考えたのち「どっちでもいい」と低く淡々とした声を漏らした。軽く煙に巻かれてしまったのを感じて不愉快そうに眉間へ皺を寄せる顔つきを横目に見ながらんはは、と薄っぺらな笑い声を夜に溶かした赤色は、ジーンズのポケットに両手を入れた拍子に何かに気付いた様子で「あ」と足を止める。数歩先で紫色が訝しげに振り返ると、ポケットをぽふぽふと一通り叩いてから八重歯を出して笑って見せた。
「財布忘れちった」
・・・
「あの二人何話すんだろうねェ」
「ぐりちゃんの顔もう作画変わってたもんね」
「いちまつかわいそう」
「ね、ぐりちゃんかわいそう。うさちゃん携帯鳴ってない?」
「ん、あ、いちまつからだ」
「なんて?」
「バカ長男の財布持ってきてって」
「あら」
「買い出し行くのに財布持たずに出たの???」
「サザエさんだねえ、かわいい」
「かわいいんだ……いちまつ財布持ってないのかな」
「貸したら返ってこなさそうだしもう二人っきりが限界なのでは」
「なるほど……」
「返すと思うけどね、にいさんはまじめなので」
「まじめ……」
「……?うん」
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625-4 · 3 years
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僕が音楽を辞めるまで
「あーっ!」
 下校途中に出くわしたおそ松が俺の顔を見るなりそんな風に大声を上げるものだから、思わず道の真ん中で固まってしまう。頭になんかついてる?どっか変?エ、なに?どういうこと?もしかして俺じゃなかった?振り返っちゃったよ、どうしよう。破茶滅茶に思考を掻き乱されながら困惑し切って動けずに目を瞬かせるほか無い俺をよそに、声の主はずんずん大股でこちらに近づいてくる。すごい勢いで向かってこられると反射的に逃げ出したくなるのはどうしてだろう。どうしたの、とようやく振り絞った俺の言葉におそ松はぱか、と口を開けて、
「アイス食べたくない?」
「エ……いや別に」
「ミニストップいこ!」
 そろそろ制服の上に羽織るカーディガンをクローゼットから出すべきか、いやまだ尚早か、と考える程度には肌寒くなってきている十月の末。血行の悪い俺の指先は例年通りとうに冷え切って、とてもアイスを食べるような気持ちにはなれそうもない。俺の顔とアイスクリームを食べたい衝動の相関についてはさておき、言われるがままついて行くことになったコンビニの店内には既に暖房が入っていた。チョコレートのソフトクリームを買って店外に出たおそ松は綺麗に巻かれたその先端をくちびるでそっと食むように口へ含む。舌の上へ広がるつめたい甘さに綻ぶまるい頬を、ホットココアに口をつけながら横目に盗み見ることしかできない自分は意気地が無いと思う。
 ほんの少し前まで夏だったような気さえするが俺の知らない間に季節は進んでいて、日暮れがずいぶんと早くなった。赤々とした太陽が空の遠くに沈んだ直後の薄暮時は、少しだけ目の悪い俺の視力を更に奪う。視力云々というよりこれは鳥目なのだろうか、見えているはずなのに何も見えていないみたいな視界に思わず目を眇めて凝らしてしまう。道路沿いの歩道に点々と立つ街灯の数を数えながら踵を引き摺るように歩いていると、思い切ったような様子でおそ松が口を開いた。
「文化祭で模擬店するんだけど遊びに来てくれない?」
 へアえ、などと上擦った間抜けな声が開ききらない喉の隙間をくぐり抜けて漏れたのを誤魔化すみたいに、甘ったるく熱い液体を喉へと流し込んだ。じん、と痺れる舌先に火傷を負ってしまったことを知りつつも、まるい瞳がこちらに向けられてそれどころではなくなる。俺より背の低いおそ松は俺の目を見る時、自然と少しだけ上目遣いになるのだった。表情筋がぎこちなく引き攣って妙な笑顔を象るのが分かってごくりと生唾を呑む。
「モギテン」
「うん、まだ何のお店するか決まってないんだけどねえ」
 へへ、と何故か照れくさそうな様子ではにかみながら口の端についたソフトクリームを舐め取ったおそ松は、次の瞬間には頬を膨らませながら眉尻を下げ、拗ねたような表情へと変わっていた。感情の機微に伴って忙しなく、そして正しく動く表情の方へ意識が奪われそうになる。「そうなの」と簡素な相槌を打った直後、自分の声音が意図せず素っ気ない響きを含んでいなかったかどうかを気にしてしまう俺に、おそ松は気付く素振りも無さそうだった。
「クラス全員最低二人は他校から呼べって言うんだよお、俺よそのガッコに友だちとかイチくんぐらいしか居ないし……」
 不満そうな、いじけたようなおそ松の声の響きは歳の割に幼く子どもじみていて、人知れず口の端にちいさく苦笑を濁す。顔を見るなり声を上げたのはこの話をするために俺を探していたからだろう。アイス……に関しては、何だろう、気まぐれだろうか。
「意外だね」
「なにが?」
「友だち、たくさん居そうだから」
「そんなことないよお」
 少なくとも俺よりは明るく社交的な性格であろうし、学校の壁を越えて同じ中学だった友人なんかとも広く仲良くしていそうに見えるが、意外とそうでもないらしい。いや、でもまあ、そんなものか。我が身を省みても進学先が違ってしまえばかつてのクラスメイトなんてほぼ知らない人と同じだった。名前も思い出せない相手が何人居ることか。それにしても「友だちたくさん居そう」というのは些か押しつけがましい無神経な物言いだったかも知れない。気を悪くさせていないか探るようにおそ松の表情を見遣れば子犬じみた瞳でこちらを見つめていて、誘いの返事を待たれていることに気付き慌てて「行くよ」と返事をする。ああまた変な声だったな、今の。俺の返事を聞いて嬉しそうにぱっと表情を明るくしたおそ松はそのあとまたすぐに再び顔を曇らせる。本当にくるくると忙しない。
「ほんと?あのさ、それでね、イチくんの友だちの……」
「……あー、カラ松も呼べばノルマ達成?」
「そう!」
「部活かバイト被ってなきゃ来てくれると思うよ、呼んでみるね」
「わーっ、ありがとお」
 こちらとしても大して知り合いの居ない学校の文化祭に単身乗り込むのは気後れしてしまう。気の良い快活な幼馴染なら、予定さえ合えば快く付き合ってくれるだろう。向こうの文化祭の日取りを聞き、その場でスマートフォンの端末を操作してカラ松にメッセージを送信して見せると、おそ松はようやくほっとしたように笑った。ありがとう、という言葉の響きが底知れぬ甘いくすぐったさを生みながら胸の内へ落ちていくのを噛み締める。そんな小狡い俺にも屈託無く感謝の言葉を述べて笑ってくれる姿が眩しく、何故だか後ろ暗い気持ちになってきて、それとなく視線を逸らしてしまった。
「あっ溶けてる!」
 低い気温でゆっくり溶けるソフトクリームがそれを持つおそ松の手に垂れ落ちそうになっていた。慌てた様子でチョコレート色の雫を舐め取り、むしゃむしゃと一気にコーンの上の部分を食べてしまったおそ松はふと思い立ったように首を傾げて見せる。
「イチくんは文化祭なにするの?」
「エ、あ……えーっと、」
「……?」
 流れ的に今度は自分の方へ話題が及ぶことくらい予測できたはずなのだが、油断していた。不意を突かれ、思わず口籠って目を泳がせてしまった俺を見て、おそ松は不思議そうにどんぐり色の瞳を瞬かせる。あれだけ不自然に言い淀んでしまった手前、なにもしない、では誤魔化しきれないだろう。失態を後悔しつつも観念して小さくごにょごにょとはっきりしない発音で相手の質問に答える。
「バンド……」
「えーっ!バンドやるの?すごい!」
 身を乗り出すようにして大きな瞳を輝かせるおそ松から逃げるようにゆるく身体を仰け反らせ、引き攣った苦笑いを漏らす。息巻いたおそ松からふわ、とチョコレートの甘い匂いが漂ってきて心臓がこれでもかと暴れてしまう。ちかい、近い。ちかいよ。ココアが零れて相手の服を汚さないように片手を遠くへ逃しつつ、もう反対の手を胸の前に出してやんわり相手を制した。好奇心旺盛な表情で俺に詰め寄るおそ松の「もしかしてボーカル?」という質問に取れそうな勢いで首を振って否定を示す。
「キーボード……」
「ピアノ弾けるの?」
「ウン、まあ……習ってたから、中学まで」
 とは言ってもバンドのメンバーとは大して仲が良いわけではなかった。好きなバンドがどうこう、深夜のラジオがどうこう、という会話を何度か交わしたくらいの記憶はあったが、それで友人として認定されてしまったのか、帰宅部で暇そうな楽器が弾ける奴、として体良く招集されただけなのかはよく分からない。どちらかといえば後者であってほしいと思う。仲間意識とか、そういうのはたいてい親切の搾取と強迫観念に繋がって、息苦しく、心が軋んで仕方が無いから。誰かに嫌われるのは嫌だったが、かといって好かれるのも理解が難しかった。
「見に行ってもいい?」
「エッ」
「あっでもイチくんとこ私立だから他校の生徒入っちゃダメとかあるかな」
「いや……無いけど」
「じゃあ見に行く!」
 暑くもないのに変な汗が上半身にどっと吹き出すのを感じる。気まずいのか恥ずかしいのかうれしいのか焦っているのか、一体この感情が何なのか分からない。恐らくその全部だろう。羞恥や何やで首から上に血液が集まって耳の端がかっと熱くなる。興味を持たれていることが恐ろしく、それでいて少しうれしい自分は矮小だった。バンドで演奏するなんて家族にも話していないのに、どうして話してしまったのだろうか。
「すごいなあ、みんなの前で演奏するの」
 心の底から感心したようにそう呟くのを聞いてああ、と腑に落ちる。俺みたいのがステージに立つことを聞いても、笑ったり揶揄したりしないと分かっていたからか。そういう、そういうところが、まばゆくて、すきだった。
「友だちの文化祭遊びに行くのやってみたかったんだあ」
 面映ゆそうに笑って見せる顔に心臓が鋭く痛む。ともだち、と落とされる言葉をよろこぶべきか、かなしむべきか、俺にはずっとわからない。それだって十分だろうに、欲が深くて嫌になる。こんな痛みを知りたくはなかった。注がれる関心や話題の中心が自分であることがどうにも居心地悪くなり、ぬるくなってきたココアを啜りながら話題を逸らすように口を開く。
「アイス寒くないの」
「さむい!一口食べる?」
「エ」
「めちゃくちゃ食べかけ!もっと早くあげたらよかったねえ」
 んはは、と鼻にかかった笑い声と一緒に忌憚無く差し出されたワッフルコーンに、いくらか躊躇いながらも顔を近付けて歯を立てる。少し湿り気を帯びたワッフルコーンがさく、と割れて、やわらかく溶けかけた甘いチョコレート味と一緒に口の中へ入ってくる。
「ココアもひとくちちょーだい」
「ア、うん」
 当たり前みたいに手を伸ばされて紙カップを差し出す手がどうか、どうかきみの目にぎこちなく映らないようにと祈ってばかりの俺の気持ちなんて、ずっと知らないままでいてほしい。冷たいソフトクリームが火傷した舌先にじりじりと沁みた。
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625-4 · 4 years
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シナモンシュガーよりなお甘く
 恋人と身を寄せ合ってくるまった夏用の羽毛布団を這い出る。床へ下ろした素足にふれる空気の冷たさで、男はこの世に冬が実在したことを思い出していた。
「さむいねえ」
「暖房つける?」
「ううん、せんせは?手つめたい」
「先生のはいつも」
 デジタル表示の計量器で珈琲豆の重さを量る骨張った手の上へ体温の高い手が重ねられて、男は僅かに頬をゆるめた。分厚い遮光カーテンは起きてすぐに開けたはずなのだが、レースカーテン越しに射し込む光はほとんど無く部屋は薄暗い。籠もった空気を入れ替えようと僅かに開けた窓硝子の隙間から微かな雨音が聴こえていた。
 厳しい夏の盛りもとうに過ぎ、街路に植えられた金木犀が甘い匂いを漂わせはじめる季節だった。雨は一晩中強い風と共に窓硝子を叩き続け、今はいくらかその勢いを弱めてはいるもののまだしとしとと降り続けている。前日比十度以上の差をつけてぐっと下がった気温に耐え切れず、クローゼットから引っ張り出した厚手のカーディガンを羽織った男はいくらか申し訳無さそうにその薄い眉尻を下げた。
「ごめんね松野、先生雨男だから」
 松野、と呼びかけられた少年の、どんぐり型の目の中へ収まる澄んだ焦げ茶色の瞳が不思議そうに男へと向けられる。後ろめたさからか、ケトルに水を注ぐ自分の手元へと伏せられてしまった男の瞼に生え揃う睫毛と青白く通った鼻筋を見て、くちびるからほとんど無意識に溜息に似た声が滑り落ちた。
「顔が良い……」
「どうしたの突然……」
 身も蓋も無ければ脈絡も無い少年の呟きに男は僅かばかり面食らったようだった。視線を上げればぽかんと口を開けたまま呆けている少年の顔が視界に入り、居た堪れなかった男の心が底の方からじわりと温まっていく。
 随分前から取り交わしていた泊まりがけでの外出の約束は、列島を掠める台風によって中止にせざるを得なくなってしまった。予約していた宿のキャンセル代より、そこで過ごすはずだった恋人との時間の喪失が手痛い。気落ちしている男は心なしかいつもより猫背が酷くなっているようだった。少年はずる、と落ちてきたジャージの袖を捲り上げながら、細長い針金のような男の体躯に腕を回してまるい頭を左右に振って見せる。
「せんせのあさごはんうれしいから雨もすき」
「ほんと?」
「ほんと!」
 こぷこぷとケトルの中の水が泡立つように温度を上げていく音を聴きながら、男は腰に回った少年の腕を撫でる。だぶだぶに余ってしまっているジャージの生地にちいさく苦笑を漏らしながら、つい、とその布を摘んで脇腹に収まった相手の顔を覗き込んだ。
「やっぱり大きくない?自分のは?」
「持ってきたけどせんせのがいい」
 やわらかい栗色の毛を梳かれて気持ち良さそうに目を細めた少年は僅かに舌足らずな口調でそう答え、回した腕の力をぎゅ、と強める。かち、と音を立てて電気ケトルのランプが消えると、男は「お湯危ないよ」と少年の腕をそっと解かせた。やさしく諭すような口調に少年は大人しく腕の力を弱め、男の背中越しにその手元を見つめる。きっちり十グラム軽量された珈琲豆にケトルから湯が注がれると香ばしく苦い芳香が立ち昇ったが、まだ珈琲の何が美味しいのかがよく分からない少年にとってそれは「変な匂い」に過ぎなかった。それでも、細長い指を丁寧に動かして珈琲を淹れる恋人の仕草と、湯気と一緒に珈琲の匂いを吸い込んだ時いつもほんの少しだけゆるむ恋人の目尻が好きだった。
 湯を含んで膨らんだ豆からドリッパーを通してぽとりぽとりと液体が落ちていくのを横目に、男は戸棚からマグカップをもう一つ取り出す。少年が家に来るようになって買い足したものだった。
「ココアでいい?」
「ココアいれてくれるの?」
 男は頷いてココアの缶を開ける。チョコレートに似た匂いのする黒っぽい粉をスプーンでばさ、ばさ、とマグカップへと落とし、砂糖を加えてから少量の湯を注いで粉の塊を潰すように練り始めた。とろりとマグカップの底で光沢を持ったココアを牛乳で少しずつ伸ばしてから電子レンジで二分。その間に自分のマグカップの上からドリッパーを退けてフィルターを生ゴミ用のゴミ箱に捨てる。湯気を立てる黒い液体に冷たい牛乳を注いで微温いカフェラテが出来上がると、ちょうどトースターからチン、という音を立てて食パンが二枚吐き出された。
「いいにおい」
「松野、お皿取ってくれる?」
 香ばしく焼ける小麦の匂いを吸い込んでふにゃりとくちびるを和らげた少年は、男に指示されるまま戸棚を開けると手頃な紺色の丸皿を二枚出してキッチンに並べた。これでいい?と言外に問うように見上げられた男がやわらかな低い声を落とす。
「ありがとう」
 一枚ずつ皿の上へ乗せたトーストにナイフでざりざりとバターを塗っていく男の背後で、電子レンジから数回電子音が鳴り響いた。手にしていたトーストとバターナイフを一度置いた男は、電子レンジを開けて微かに湯気の立つココアを取り出して少年に持たせ、反対の手にカフェオレを預けてからその前髪にくちづけを贈る。
「あっちで待ってなさいね」
 まるで大役を仰せつかったような顔つきで素直にこくこくと首を上下に振った少年は、両手に持ったマグカップの中身を零すまいと慎重な足取りで居間へ向かっていった。その背中を愛おしそうに見送ってから、男は途中になっていたバターを手早く塗り終えると、調味料のストッカーから蜂蜜とシナモンパウダーの小瓶を取り出す。綺麗に焼き目がついた方のトーストへ蜂蜜を垂らし、シナモンパウダーをぱらぱらと散らしてから皿を両手に少年の後を追った。
「おまたせ」
 男は冷えたフローリングの上を素足で歩み、こと、と硬い音を立てて木製のテーブルに皿を置いた。ココアに口をつけないまま何故か椅子の上で姿勢を正して待っていたらしい少年は男の姿を見てうれしそうに笑顔を見せたあと、トーストにちりばめられた茶色い粉末に目を瞬かせる。身体をこごめるようにパンの近くに鼻先を近付けて匂いを嗅ぎ、ぱっと顔を上げた。
「シナモン!」
「あたり」
 元気の良い声に男は小さく微笑んだ。独特の甘い芳香を肺いっぱいに吸い込んだ少年の瞳がうっとりと細められるのを見ながら、じっと見つめているのを誤魔化すようにカフェオレへ口をつけてみる。ずる、と袖が落ちてくる度にいそいそと捲り上げ直している少年の様子がひどく愛おしかった。別に恋人をいくら見つめたって構わないはずなのだが、いつまで経っても昔の癖が抜けないでいる。
「食べていい?」
「どうぞ」
「いただきまあす」
 行儀良く両手を合わせてからトーストを持ち上げた少年がこんがりと焼けたその角にかぶりつく。きつね色に焼き目のついたトーストが耳心地の良い音を立てて口の中へ消え、もぐもぐと咀嚼したあと堪らず声を上げた。ほっぺが落ちる、と言わんばかりに両手で頬を覆って頭を傾ける。
「ん〜〜〜〜」
 舌の上でじゅわりと溶けるバターの僅かな塩気に蜂蜜の甘さが絡まり、鼻からはシナモンの香りが抜けていく。少年はその瞳をきらきらと輝かせながら頬をいっぱいに膨らませてトーストを咀嚼し、熱々のココアへふう、ふう、と息を吹きかけてからずず、と啜るように飲んだ。既製品よりも少し甘さが控えめで、ココアパウダーの量が多い。んぐ、んぐ、と口の中いっぱいに含んだものを全て飲み込んでから、少年はしあわせそうに声を上げた。
「おいし〜〜〜〜」
「ふ、ふ、よかった」
 頬や目尻を蕩けさせている少年を前に、男の口から思わず「かわいい」という言葉が漏れる。あまりかわいいかわいいと口にしすぎるものだから、男はしょっちゅう頬を膨らした少年にぽかぽかと胸や背中を叩かれながら怒られてしまうのだった。
「松野、」
 バターを塗っただけのトーストを齧りカフェオレを啜った男はそのままテーブルに片肘をついていたが、ふと気が付いたように少年の名を呼んだ。反対の腕をそちらに向かって伸ばし、口の端についていたシナモンパウダーを拭ってやってから、少年を見つめてぽつりと零す。
「俺も雨好きかも」
 少年がぽとんとトーストを皿に落としてしまったのは、男が自分の方に視線を注ぎながら眉尻を下げて淡くわらって見せたからだった。一体この世にいるどれだけの人間がこの顔を知っているのだろうか。普段ひどく生気の薄い涼しげな瞳に満ちる擽ったい感情だとか、困ったような、それでいて幸福そうな眉毛の形だとか、そういう顔を一体どれだけの人間が。こういうことを指摘すると恋人はいつも、自らの意識の外で動く表情筋を少し恥ずかしがるように「おまえだけだと思うよ」と答えるのだった。いたいけに高鳴り、顔に向かってどんどん血液を送り出しはじめる心臓をどうにもできずに少年は顔を覆う。
「う、うう……」
「エッ何、ご、ごめん」
 赤くなった顔を余った袖で隠しながら、少年は今日も不思議そうに困惑している雨男の脛を机の下で軽く蹴飛ばした。
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625-4 · 4 years
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夏の終わりに怪談でも
 アパートの前で足を止める。階段の半ばに女性が一人立っていた。このカンカン照りの猛暑日にコートを羽織って佇むその女性がこの世のものでないことは一目見て明らかだった。コンビニで買った二人分の昼食の袋を提げたままどうしたものかと立ち尽くす。
(めずらしいな、)
 賃料が安いからと霊園のすぐそばにあるアパートを借りたためか、自宅付近で "生きていない何か" に遭遇すること自体は珍しくなかった。しかしそのほとんどは生きた人間と見間違えるくらい "普通" か、あるいは猫や鳥の姿をしていたりと、総じて害は無いのが常だった。ああいう異様な空気を纏ったものに出くわすのははじめてだ。とは言ってもあの階段を上がらないと家には帰れないわけで、おれには可及的速やかに帰宅したい理由があった。コンビニでアイスを買ってしまったのである。狭い踊り場に佇む女性を避けるように端に寄りながら階段を上がっていくと、すれ違う瞬間女の口が動いた。
「きて」
 手首を掴まれる。さわれるのか、と驚きながら視線を向ければ、白目も黒目も無いただ真っ暗な洞穴のような眼窩がふたつ、こちらに向けられていた。首の後ろの産毛がざ、あ、と嫌な感じに逆立つ。手首に巻きつく指には体温が無かった。
「きて」
 ひどい耳鳴りの合間に「きて」と同じ調子で繰り返される声。あんなに蒸し暑かったのに身体の表面がすうっと冷えて体温が下がる気がした。真夏にロングワンピースとコートって、あまりにも、お誂え向きすぎないか。目眩をこらえながら手摺りを掴む。
「きて」
「暑くないの」
「きて」
「……痛いよ、手首」
「きて」
 ぎち、と骨が軋むほどの力が冷たい指に籠められる。女性は怒っていた。気分が悪くなってくるくらいの怒りに脂汗じみたものが背中を伝う。気を確かに持たないと混ざってしまいそうで、小さく息を吐いた。かなしいのはこの女性だろうか。きっとそうだろうな。耳鳴りがひどくなる。
「きて、きて、きてきてきてきてきてきてきてきてきてきてしんで」
「おれまだ死ねないの、ごめんね」
 そこの、二階の、一番奥の部屋に会いたい人がいるの、ごめんね。階段を上がった先に幸福が約束されてるおれがしんできみの気が済むならそうしてあげられたらよかったのかも知れない。何があったのか全然知らないけど報われたかったよね。おれなんかに声かけるってことはきみにもすきなひとがいたのかな。しあわせになりたかったね。なれなかったね。恨まれる謂れはないけど、妬んでくれていいよ。
「離してほしい」
「あ、……」
「おれはきみのために何もできないから、ごめんなさい」
 暑さと耳鳴りと目眩にぐらぐらする意識を繋ぎ留めながらできるだけ明瞭にそう口にする。食い込んだ指の力が僅かにゆるんだ。振り解くなら今しか無かったのに、かなしそうに揺らぐ女性の輪郭を見て一瞬躊躇ってしまった。ず、ずず、と黒く濡れた髪の毛が腕に巻きついてくる。
「いちまつ?」
 意識の遠く向こうで捉えた声にはっとして顔を上げる。階段の上に白いTシャツを着た恋人が立っていた。声が出せずにはく、とくちびるだけを動かしたおれの顔を見て恋人の顔色が変わる。
「一松」
 こちらに向かって恋人が階段を一歩踏み出した瞬間、重くのしかかっていた密度の高い空気がざ、あ、と引いていくのが分かった。耳鳴りがぴたりと止んで呼吸が楽になる。ほっとしてふらついた拍子にがしゃん、と階段の柵に預けた身体がそのままぐらあ、と後ろに傾いて目を瞠る。落ちる、
「あ」
「──ッ、!」
 腕を引っ掴まれ、投げ出されかけた身体がすごい勢いで引き戻される。折れて外れた手摺りと柵がそのまま落ちてがしゃあん、と地面でけたたましい音を立てるのを聞いてぞっとした。
「あああああぶねえ」
「……ネジ、錆びて折れてる、ここ」
 痛いほど抱き留められた腕の中からもぞもぞと抜け出して狭い踊り場の端にしゃがみ込む。階段と柵とを連結する部分のネジがぼっきりと見事に折れてしまっていた。地面に叩きつけられてぐしゃぐしゃの金属の塊になってしまっている柵と手摺りを覗き込むように身を乗り出すと慌てた様子で引き戻されて目を瞬かせる。
「ちょっ……も、あんま端っこ行かないで」
「んあ……ごめ、ありがとう」
「エ"ッ顔色悪」
 何気無くおれの顔を覗き込んだ恋人がぎょっとした様子でおれを担ぎ上げる。涼しい部屋におれを寝かせてから冷たい水を汲み、心配そうに前髪を撫でる指先がやさしかった。枕元に胡座をかいた恋人が深々と嘆息する。
「コンビニ行っただけなのに全然帰って来ねーなーと思ったら……」
「変なのに絡まれて……」
「変なの?」
「うん」
 手首へくっきり残った細い指の形の痣を見せると恋人はヒエ……と小さく後ずさって「兄ちゃんそういうの無理だからね!?まだ明るいのにやめて!!?」と大声を上げた。火傷したようにじりじりと不思議な痛み方をする痣をさすり、反対の腕の真ん中に淡く残った痣も見せる。
「こっちはにいさんの手形」
「うわっ……いやごめん……おまえ落ちると思って咄嗟に」
「ふふ」
「ふふじゃないよギャグアニメの住人なのになんでガチンコホラーに巻き込まれてんの……」
「すんません……」
「巫女さんとこでお守りもらおうね……」
 抱きしめてくれる身体にも撫でてくれる指先にもきちんと体温があることに安心しながら掌に頬を寄せる。大きな手の形に残った痣が愛おしかった。しななくてよかったな、とぼんやり意識を動かしたついでにコンビニの袋の中に入れたままのアイスのことを思い出して跳ね起きる。
「あっ、あっあっ」
「エッエッ今度は何!?」
「アイス……」
「あちゃあでろでろだ」
 すっかり溶けてしまったアイスの復活を願って冷凍庫に仕舞い、買ってきた昼食の弁当をふたりでつつく間も恋人はしきりに背後を気にしていた。
(ちなみにこの夜、恋人はおれの背中に貼りついた長い黒髪を見てすぐ神社に連絡する羽目になりました。)
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625-4 · 4 years
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平和も平和で
 冷房が壊れた。六畳半のボロアパートに備えつけの冷房は見るからに古かったし、前々から勝手に電源が切れたり妙な挙動を見せてはいたのだが、首都圏一帯に猛暑日の予報が出ているこんな日に敢えて壊れなくてもいいんじゃないの。己の運の無さを嘆きながらフィルターを掃除したりコンセントを一度抜いて再び入れてみたりしたものの動き出す素振りは無し。汗だくになりながらエアコンメーカーに電話したところ、これまた運悪く他の修理点検の予約が詰まっていて夕方近くにならないと業者が来られないという。悪いことは重なるものだ。
「ただいま、直ったあ?」
「アおかえり、だめだった……」
「んー」
「電話したけど夕方まで来られないって」
 アパート前の自販機までスポーツドリンクを買いに行ってくれていた恋人は「げえ、まじか」と顔を顰めて玄関を開け放つとくたびれた赤いスニーカーをドア下の隙間へ突っ込んでドアストッパーの代わりにしながら、首にかけたタオルで汗を拭った。冷房が止まってしまいあまりの寝苦しさに二人揃って目が覚めて、今は午前11時。これからまだ気温が上がると思うとげんなりしてしまいつつ、もはや足掻くことも出来ないので大人しく扇風機の前に腰を下ろした。窓という窓を開け放ってはいるが、今日に限って外は驚くほどの無風でただ蝉の声が煩くなるばかりだった。部屋の中に入ってこないといいな、と考えるでもなく思案する。じっと座っているだけで汗が噴き出してこめかみを伝い、顎を滴った。
「飲みな、脱水ンなっちゃうよおまえ」
「ありがと……」
 冷たいスポーツドリンクのキャップを外してから手渡してくれる恋人に礼を述べ、中身を呷る。ごっ、ごっ、ごっ、と半分以上が一気に身体の中へ吸い込まれていくのを他人事みたいに見つめてようやく喉が渇いていたことに気付いた。毎年何十人だ何百人だと熱中症で倒れる人のニュースを目にするが、みんなこうやって自覚が無いまま脱水になるんだろうな、と身に染みて理解する。恋人はおれの隣で同じようにスポーツドリンクを呷り、いつだったか商店街の祭りで貰った町会の名前入りのうちわを振っていた。
「おれ業者待っとくからにいさん実家居なよ」
「んえ、いーよ、兄ちゃん留守番しとくからおまえ実家で涼んでくる?」
「それは流石に……おれんちだしここ」
「俺とおまえのうちだよ」
 まあ俺家賃払ってないけどね!なはは!と笑う首筋は拭っても拭っても噴き出す汗でてらてらと光っていた。もうしわけないな、とは思いつつこんな時も傍に居てくれることがうれしくて、ひとりでに頬がゆるんでしまうのを隠そうと慌てて顔を俯ける。
 それにしても暑かった。密着した場所には漏れなく滴るほどの汗が滲むので両腋や膝、肘を少しだけ開いて風が通るようにしつつ、あとはじっと耐え忍ぶしかない。もうなんというか汗がえろいとか麦茶セックスとか言ってられない。日本の夏はもう熱帯のそれだからクーラー無しで事に及んだりしようものなら二人して比喩じゃなく死んでしまう。いのち、だいじに。同じ顔した男二人で腹上死なんてマジで笑えない。怪談である。
「う"う"……」
「ア"〜〜〜」
 知らぬ間に恋人はおれの隣で畳の上へ大の字になっていた。そっちの方が涼しいのかな。そういえば猫とかよく暑いとき畳にのびてるよね。同じように手足を投げ出して転んでみると畳が熱を適度に逃がしてくれるので、じっと座っているよりは幾分涼しいような気がした。行儀が悪いと思いつつも爪先を伸ばして扇風機の首の角度を下向きに調節し、スイッチを押し込んで左右首振りをオンにしておく。のんびりと首を振り始める扇風機は涼しげな顔をしていたが送られてくるのは湿度を多分に含むほとんど熱風と呼んでいいものだったし、三十五度を超える猛暑日には焼け石に水と言ったところだった。気怠く下ろした爪先が体温の高い恋人の足首に触れる。
「一松こんな暑いのに爪先ぬるいね」
 暑さで意識がぼんやりしていたおれの理解が遅れて返事し損ねたのは大して気にしていない様子で、畳とTシャツの擦れる音がしたあとものすごい熱源みたいなものに片手が包まれてぎょっとする。それは恋人の手だった。体幹部の血管が開いて体温を下げようとする分、汗だくになったこういう時の方がむしろ末端はぬるくなるおれの身体を面白がるみたいに恋人は互いの爪先と指先を擦り合わせる。指も掌も爪先も足裏も全部発熱してるみたいに熱い。
「ちょっと……あつ、熱い、」
「ぬるくて気持ちいい」
「エッ熱っ嘘でしょ」
 ごろんとこちらに寝返りを打ってきた瞬間、恋人の高すぎる体温が放つ熱気が揺らいでむうっと肌に迫るのを感じて目を瞠る。赤ん坊とか犬とか猫が近くに来た時に感じるやつじゃんどんだけ体温高いの。熱くて迷惑だとかそんなことを感じる前にあまりの体温が心配になって、熱をうまく逃がせていないらしい恋人の首筋、血管の通るところへまだ冷たいペットボトルを押しつける。
「うひゃ」
「ちゃんと身体冷やして……」
 本当に実家へ帰した方がいいんじゃないか、と考えながら反対側の首にもペットボトルを宛てがう。おれより汗をかきやすい恋人のTシャツは全体が仄かに湿って、髪は毛先が汗を吸って肌へはりついていた。傍らに放り出されていたうちわでぱたぱたと顔に風を送ってやりつつ、熱が篭って紅潮した顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「ん、だいじょーぶ」
 おれの瞳の奥に揺れる不安を見て取ったらしい恋人は小さくわらいながら手を伸ばしておれの頬を撫でる。温かい、というよりむしろ熱い掌へ条件反射みたいに汗ばむ頬を擦り寄せたら、長い親指が動いて目の下をやさしく辿った。おれを安心させようとしている時の仕草だった。そういう触れ方にいちいち泣きそうになってしまうおれは本当に仕様が無いと思う。恋人はしばらくじっとおれの顔を見たあと後ろに片手を着きながらゆっくり身体を起こした。
「あっ」
「うお……」
 ぱたぱたっ、と白いTシャツの上にできた赤い染みに恋人が自分の鼻を押さえる。鼻血だった。骨張った指の隙間からみるみる溢れてくるぬるりとした濃い赤色の血液を見ておれは慌てて箱ティッシュを取りに走る。二、三枚引き出して手渡しながらおろおろ慌てているおれとは対照的に、恋人は慣れた様子で丸めたティッシュで鼻を押さえていた。
「のぼせちゃったねえ」
 血塗れになってしまった恋人の手をウェットティッシュで綺麗に拭っていると呑気な声が降ってくる。Tシャツの血取れるかな、漂白したら何とかなるか、と忙しなく思考を動かしていると清めたばかりの手が頭の上にぽふ、と乗せられて髪をむちゃくちゃに掻き混ぜられた。視界で前髪がわさわさ動いて思わず目をぎゅっと瞑った拍子に、上がった心拍と動転している自分に気付いてはっとする。
「一松」
 名前を呼ばれていくらか平静を取り戻しつつ、恋人の顔を見上げれば鼻血はもう落ち着いたらしく、ティッシュで雑に鼻の周りを拭っているところだった。「止まった」と八重歯を覗かせてわらう恋人の熱い額へぺた、と掌を宛てがう。
「なんかアイス買ってくるよ」
 ついさっきまでのぼせて鼻血噴いてたくせに当たり前みたいな顔でついてこようとするから断固拒否した。ついてきたら脱水になるまで泣き喚く、とよくわからない条件を盾に安静を命じると、渋々上げかけた腰を落ち着けてくれた恋人の頬へ一つくちづけを落とす。
「アイスなにがいい?」
「んー、一番安いのでいいや」
 気をつけてね、と口付けを贈ってくれた恋人のくちびるは微かに鉄と塩の味がした。外の気温は三十六度、おれたちの纏う空気はそれでも体温より少しだけぬるかった。
BGM(1→4):Neighbourhood / 米津玄師
BGM(4→1):I & you / mekakushe
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625-4 · 4 years
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恋は地獄だ永遠に
 茹だるような夏だった。期末考査を終えて午過ぎに解放されたはいいものの、目眩がする程の暑さに堪らず駅前のファストフード店へ吸い込まれてバニラシェイクのストローを咥えている。冷房の効いた店内の空気に汗が引き、湿ったシャツが背中へ不快にまとわりついていた。店内の隅、日陰になっている窓側のカウンター席から道行く人を眺めても知らない顔ばかりで、その一人一人にそれぞれの人生があると思うとその膨大さに淡い吐き気を覚えた。バニラシェイクの作り物っぽい甘さが舌の上に広がる。
 そんな風に物思いへ揺蕩っていた意識は、不意に肩を叩かれたことで現実へと引き戻された。
「イチくん?わー久しぶり」
 振り返った先には見知った顔があった。細くて柔らかそうな前髪を汗で額にはりつけた人懐こい笑顔。ようやく冷めかけた体温が一気に上がるようだった。口の端の筋肉がひく、と不自然な引き攣り方をするのが自分でも分かった。
「ま……松野、くん」
「おそ松でいいってばあ、どっちも松野じゃん」
 プラスチックトレーの上にハンバーガーとポテトとジュースを乗せたきみは「隣空いてる?座るね」と返事も待たずに俺の隣へ腰を下ろした。パーソナルエリアがとても狭いきみと違って、俺は一度慣れた相手でもしばらく会わないと人見知りが戻ってきてしまうから、腰掛けた丸椅子の上でじり、と身じろいで僅かにきみから身体を遠ざける。かさかさと紙の包装を開いて「いただきまあす」とチーズバーガーにかぶりついたきみは頬を膨らませてそれを咀嚼し、炭酸飲料で喉の奥へ流し込んでから俺の方へ向き直った。
「イチくんも明日から夏休み?」
「ア、うん」
「そっかあ、テストお疲れさま」
「……おそ松も」
「ありがとお。へっへ、数学ぜったい補習だあ」
 鼻の下を人差し指で擦りながら笑って見せるきみの屈託無い表情と仕草が眩しかった。口の端に飛び出たピクルスがくちびるの間の隙間に吸い込まれて消えていく。ああ、やわらかそう、だとか。そんな方向にばかり動く思考が疎ましかった。どうせ触れられないのに。
「夏休み何するの?イチくん」
「エ、いや……なんにも予定無い」
「だよねえ、学校無いのやだな」
 ──保健室に行けないから?
 口をついて出掛けた言葉を飲み込んでバニラシェイクで腹の奥へと押しやった。生徒と先生が、なんて本当に実在するんだなと毎度ながら驚く。シルバーフレームの眼鏡の奥の温度を持たない涼しい視線を思い出していた。そこに居るのは大人、だった。学生を見る目。教師の視線。どうしたって追いつけない何かがそこに、厳然と横たわっているようだった。おもしろくない、ああ、おもしろくない、ねえ、じゃあ、せめてさ、
「どっか遊びに行こうよ」
 店内の喧騒がどこか遠く滲む。溺れながら息を吐くみたいに口にした言葉は、存外捨て鉢な響きを持って空気を震わせた。きみはポテトを頬張りながら少し驚いた顔をして、そのあと微笑む。「いいよお、どこ行く?」ってそんなことまで考えていなくて、というかそもそもこれだってすぐに冗談にするつもりで。くそ、視線が定まらない。黒目が泳ぐ。あ、はは、なんて乾いた笑い声がほとんど無意識に漏れた。
「映画、とか……」
「映画館?もうずっと行ってない」
 歯切れ悪い提案にもきみは目を輝かせた。最後に映画館で観たのは何の映画だったか。姉に同行してもらって観た子ども向けのアニメ映画だったような気がする。きらきら。きらきら。塩の粒をまぶしたように色めき立つ空気は揚げたてのポテトの匂いがした。きみは紙の容器の底に残った短いポテトをざらざらとトレーの上に出しながら、焦げ茶色のどんぐり眼をこちらへ向ける。
「なに観ようね、イチくんどんな映画が好きなの?」
「へ……アー、」
 こういう時、咄嗟に最適解を探してしまう癖が抜けない。引かれないように、かといって無難すぎないように。場合によっては相手が好きそうなものを答えられれば満点。普段はそれなりに "巧く" 答えるのに今日ばかりはまともに頭が回らない。答えあぐねた末に「おそ松は何観るの」なんて、質問を質問で返してしまった。きみは特にそれを意に介していないようだった。
「おれ?んー、映画あんまり観ないからイチくん観たいやつおれも観たい」
 心臓が逸る。きっとその言葉に深い意味なんてなくて、ただ額面通りに「詳しくないから任せる」という意味なのだろうけれど。もし俺の好きなものをきみも好きになってくれたなら、そうしたら、少しでも俺はきみに近付けるんだろうか。伸ばした指先がきみに届くんだろうか。飲み切ったバニラシェイクを探すみたいにストローで容器の底を吸う。意を決して俺が呟いた映画のタイトルにきみは目を瞬かせた。
「ア……25年前の映画なんだけど、リバイバル放映されてて」
 それはニューヨークに暮らす孤独な殺し屋が家族を喪った一人の少女と心を通わせる映画だった。「にじゅうごねん」とどこか現実味無く呟いたきみの反応が良いものなのか悪いものなのか判別しかねて、アア間違えたかな、と頭の隅に思案していたところ、突然はしりと両手を握られて呼吸が止まる。前のめりになるきみに思わず椅子の上で仰反った。
「その映画知ってる!おれは観たことないけど」
 きらきら。きら、きら。輝く鳶色の虹彩の煌めきに俺は見覚えがあった。体温の低い俺の指先を握る手は子どもみたいに熱くて、嬉しそうに面映そうに頬を僅かに上気させて息巻くきみの、頭の中に、浮かんでいる人のことも、俺は知っている。ねえ、いま、すきなひとのこと、考えてるんでしょう?
「イチくんも好きなんだ」
「……うん、」
 きら、きらきら、きら。きらきら。ああ、なあ、もう。やめてくれよ、どっか行けよ。きみに手を握られて早鐘を打ったままの心臓が憎くて堪らない。それでもきみと出掛ける約束が存在する世界はきらきら目眩いていた。どうして。どうしようもない。泣きそうだ。笑うし��なかった。
「すきなんだ」
 上滑りする言葉はポテトの揚がる音に掻き消されて霧散した。それでも俺はきっと、記憶がくたびれて擦り切れるまできみの掌の体温を反芻するんだと思う。
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625-4 · 4 years
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祝福を、どうか今だけ
 くいくいと服の裾を引っ張られて振り返ると恋人がアーモンド型の大きな目でこちらを見上げていた。毎度ながら嘘みたいにかわいくてびっくりしてしまう。キングオブかわいいの人なのかな。
「いちまつのココアのみたい」
「エッ……それは性的な隠喩?」
「最低なの???」
 すけべ……と非難するような目で呟かれた言葉に俺は興奮してしまうタイプの人間だからあんまり安易にそういうこと言わない方がいいと思うよ兄さん。嘘です、もっと言って。
 よじ、よじ、と俺の身体によじのぼって背中側に落ち着いた恋人を振り返り、鼻先にひとつ口付けを落としてから台所に立つ。電気ケトルに少量の水を注いで電源を入れた。赤いランプが点灯するのを目の端に捉えながら、湯が沸くのを待っている間に頭上の戸棚を開ける。常備してある粉末のココアと、耐熱のグラスを二つ出してきてスプーンでばさ、ばさ、と薄い茶色の粉末を落とした。袋の裏に書いてある説明書きよりも粉は少し多め。その方が美味しい。ちゃんと計量した方がいいのかも知れないが、何故かここだけは目分量の方が美味しい気がする。理由はわからない。
「いちまつのココアだいすき」
「ほんと?」
 おんぶのような姿勢で首に腕を、腰に脚を回している恋人が、肩越しに俺の手元を覗き込みながらうれしそうに呟いた。恋人の顔の方へ軽く頭を傾けると懐いた犬を撫でるように髪の毛へ指が通され、わさわさと撫でてくれる。あたたかい掌の体温に目尻をゆるめながら視線を向け、「俺は?」と問い掛ければ恋人は一瞬鳩豆顔をしたあと「だいすき!」と返事をしてくれて、ああ、幸福だな、と目を細める。空気に飽和している。幸福が。
「俺もすき」
「かっこいいかおしてる」
「ウン……?」
 丹精込めて淹れるココア一杯ではとても支払い切れない幸福の質量と濃度だった。かち、と軽い音を立てて沸き立った湯をほんの少量ずつグラスに注ぎ、スプーンでよく練り合わせていく。湯気と一緒にふわりと匂い立つカカオ豆の甘い匂いが鼻腔を擽った。すんすんとそれを吸い込む恋人の息遣いを背後に感じて思わず小さな笑い声が漏れる。
「わらわれた……」
「かわいいなって」
 愛くるしさに喉の奥で勝手に漏れた笑い声がおもしろくなかったのか、恋人は俺のうなじに額を擦りつけながら控えめに唸って見せた。そういう仕草もかわいいんだけどな。練り合わせたココアに光沢が出てきたら冷蔵庫から出した冷たい牛乳を少しずつ注いでココアの "たね" を伸ばしていく。ここで大雑把に注いでしまうと冷たい牛乳とココアの油分が分離してダマになってしまうので、慎重に牛乳を垂らすのがコツだった。
「手つきがすき」
「手つき?」
「うん、いちまつがココア作ってる時の」
 いざ指摘されると自分がどんな手つきでココアを淹れていたのか分からなくなってしまう。変に意識して妙にぎこちなくなってしまう俺の手つきを見てくすくす笑ったあと、恋人は肩越しに俺の手を指差した。
「ていねいで、やさしいの」
「ああ……すきなこにココア淹れるなんてちょっと緊張するから」
「そうなの?」
 取りこぼす手順や、手を抜いた部分がないように、きちんと順序を守って、舌触り良く美味しいココアになるように。誰かが淹れてくれるココアというのはそれ自体が愛の具現化みたいなものだから、愛おしい人の中でそれがちゃんと、殊更特別な意味を持ってくれるように。身体の中へ入って血肉の一部になるものだから。
「そんな壮大な……」
 正確に言葉を拾い上げるためにいつもより俺がゆっくり話すのを聞いて恋人は呆気に取られている様子だった。……そうかな、確かに少し大袈裟なのかもしれないけど、
「にいさんのことはいつだって俺にとっちゃ一大事だよ」
 出来上がった二杯の冷たいココアを一口ずつ味見する。上手く淹れられた方を恋人に手渡しながらそう呟けば相変わらずぽかんとした顔をしていた。開かれたままの小さい口がかわいいな、と思ったがあんまりかわいいかわいいと口にすると叱られてしまうので、心中に独りごちるだけにして口を噤んでおく。グラスに口をつけ、くちびるの上に泡をつけながら「おいしい」と目尻や頬をふにゃふにゃにする恋人は今日も銀河系で一番尊い。来世はどうなってもいいから、今世はどうかずっと、このままで。大して信じてないくせにこんな時だけ祈ってごめんね、神様。
「今度カカオ豆の栽培始めるね」
「なんで???」
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625-4 · 4 years
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ジョン・ケージを弾いてみせて
 シェードランプに灯りを点し、ピアノの前に腰を下ろす。よく手入れされて艶々とひかる白鍵と黒鍵に指を沿わせ、ふ、と呼吸をひとつ静かに置いてから指をそっと沈める。美しく響く和音が鼓膜を揺らし、瞼を落とした。
 ピアノはそれぞれの鍵盤に対応するハンマーが内部に張られた弦を叩くことで音を発している。つまり分類としては弦楽器にカテゴライズされる楽器だった。外見からはとてもこれが弦楽器だなんて想像できないのに、不思議なものだ、とぼんやり思考する。
「"Clair de lune".」
 ぎょっとして振り返る。物音や気配ひとつ悟らせずに���内へその肢体を滑り込ま���ていたらしい男は、今しがた演奏していた曲目のタイトルを口にしながら薄い唇で微笑んでみせた。黄金色のウイスキーが揺蕩うバカラグラスが譜面台の横へ音も無く置かれる。
「暗譜したの?えらいね」
 何も置かれていない譜面台をこつこつと叩く革手袋の指先。端正だとか、均整が取れているとか、そういう言葉がどれも追いつかない、奇跡のように整った顔立ちはほとんどいつでも希薄な笑みを浮かべている。それは慈愛にも、嘲笑にも、諦観にも見えた。しかしその実この微笑が意味するところはどれでもなく、同時にそのどれもが正しいのだった。
「もっと弾いてよ」
「嫌だ」
 ピアノの前から立ち去ろうとする腕を掴まれて小さく瞠目する。さして強い力ではないのに有無を言わさず椅子の上に引き戻され、仕方なく鍵盤の上へと再び指を乗せた。
「おまえのピアノ好きだよ」
「アンタの方が上手いだろ」
「こういうのは上手い下手じゃないでしょお」
 今さら感傷的な月の光の続きを弾く気にもなれず、少し考えてから "Fly me to the moon" を弾き始めると不意に手袋を嵌めたままの手が横から伸びてきた。連弾用の譜面も無いのに正確な指の運びでこちらに合わせてくるのが癪で、乱暴なアドリブを挟めばいくら振り回そうとしてもまるで初めから知っていたかのようにリードしてくる。腹立たしい。分かりやすく舌打ちを漏らせばふ、とその隣で息を零すだけの笑い声が形の良いくちびるから滑り落ちた。
「おっと」
 音の振動で少しずつ動いていたグラスが遂にピアノから落ちた。咄嗟にガラスの割れるけたたましい音を想像して身構えたが、予期した音は鳴り響かない。男の右手がぱし、とそれを宙で受け止めたからだ。止まってしまったジャムセッションにもう十分だろうと今度こそ立ち上がり、傍らに置いていたボルサリーノを雑に引っ掴んだ。
「イチマツ」
 その声で名前を呼ばれると振り返ってしまうのは忌まわしいこの肉体がよく躾けられているのか、男の声の響きがそうさせるのか。顰め面で身体の向きを反転させた目線の先で男がグラスを呷る。透き通った飴色の液体が滑るように男の口の中へと吸い込���れていく。
「ッ、……」
 呼吸と呼吸の間の一瞬の隙を突くように、緩めていたネクタイの先がするりと掴まれる。引き寄せられるままバランスを崩してよろける身体を支えるために右足を一歩踏み出した。床に向けた視線を奪うように下方から男の顔が眼前に迫り、がぷ、と塞がれた唇の間へ強引にウイスキーが流し込まれる。
 仄かな甘味と薬品に似た芳香を持つ液体がとろりと口腔内へと注がれる。呑み下すほかなくそれを喉の奥へと迎え入れてから口の端に垂れたそれを手の甲で拭えば、男は口の端に八重歯を覗かせながら嗤った。
「Merci pour la session.(セッションのお礼)」
「えらく安い酒を飲んでるんだな」
 空きっ腹に注がれた度数が高いだけの酒が食道と胃の粘膜を焼くのを感じながら吐き捨てる。普通の人間ならどうしたって気圧される視線と悪態にもどこ吹く風といった風体の男は、蓋を閉じたピアノに体重を預けながら空になったグラスを軽く掲げて見せる。
「おまえは良い夢を見られますように」
 窓から射す月光を受けて双眸を柔く眇める男の声音はまるで虫も殺せぬ崇高な慈悲深い聖母のようで、心拍ひとつ乱さずに人をいたぶり殺す人間のそれだとはとても思えなかった。
 ボルサリーノを被りなおして部屋を後にする。酷く胸糞が悪いのにまとわりつく夜がやさしくなったのはきっと。認めたくはなかった。
(アンタはいつだってそうだ、)
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625-4 · 4 years
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花に灯り、熱病のような
 珍しくあまり残業せずに仕事を終えた夜。太い指で扱うにはいささか小さなスマートフォンを操作して「今から帰ります」とメッセージを一つ送信してから職場を後にした。程無くして「おつかれさまです。どうかお気をつけて」と花の絵文字を添えて返ってくる返信に思わず頬がゆるむ。六畳半の狭いアパートの一室で正座して端末を操作している姿が目に浮かぶようだった。信号待ち、作業着のポケットの中でもう一度震えた端末の液晶を確認すれば、
『お夕飯は鯖の味噌煮ときんぴらごぼうです!』
『楽しみです。気をつけて帰ります』
 ぽつりぽつりと吹き出しが交わされるトークアプリの画面さえ愛おしかった。古い二口コンロがあるだけの狭い台所では料理も思うように出来ないだろうに、泊まりに来てくれる日にはいつも夕飯を用意して帰りが何時になろうと待ってくれていた。遅くなってしまう日は先に食べて休んでいてほしいと何度か伝えてみたものの、頑なに首を振って「一緒に食べたいんです」と言われてしまってはどうしようもない。食卓を共にできることは俺にとっても喜ばしいのであまり強く言えない、というのもあった。
 手の込んだ夕飯や日々の感謝を少しでも目に見える形で示したくなって、帰り道の途中にあるコンビニへ立ち寄る。蒸し暑い夜の空気から束の間開放されてほうと息を吐いた。食後に何か一緒に食べられるものを、とスイーツコーナーに足を運んでみたものの、普段コンビニでは缶珈琲と弁当を買うばかりでこんな場所に寄り付くことがないのでどうにも、困ってしまった。シュークリーム、プリン、たくさん並んでいるこのチーズケーキは恐らく流行っているのだろう。棚の二段目に目玉商品らしく並べられている夏らしい涼しげなゼリーを手に取ってみる。水色から淡い紫色へとグラデーションしているゼリーの中を赤い寒天の金魚が泳いでいた。最近のコンビニではこんな凝ったものが売っているのだなあ、などと感心しながらそれを二つ取ってレジに向かう。
 支払いを済ませて自動ドアをくぐればむっとした湿度の高い夏の夜の空気が顔に吹きつける。よく出来ているというか何というか、梅雨明け宣言が出された途端に東京の夜は蒸し暑くなった。今年の夏は涼しいとどこかで聞いたがどうやら嘘らしい。
 ふ、と目の端を掠める淡い桃色。視線を向ければ、学生が二人連れ立って浴衣姿で歩いていた。それぞれ朝顔と向日葵があしらわれた浴衣を着て、お団子頭にかんざしを刺している。祭りでもやっているのだろうか。
「あっ、やば、始まってるよ!」
「走れる?走ろ!」
 スマートフォンの液晶で時間を確認した片方の少女がもう一人に慌てた様子で声をかけたかと思えば、からころと下駄を鳴らして走っていってしまった。
(何が──、)
 目を瞬いた瞬間バラバラと遠くに破裂音のようなものが聞こえ、音に合わせて遠くの空が薄明るく光り始める。コンビニの自動ドアを振り返れば扉の横に大輪の花火の写真を添えて "赤塚花火大会" と書かれたポスターが貼り出されていた。
・ ・ ・
 ことことと味噌汁の具が煮える鍋の中身を見つめながら松野珠琴は恋人の帰りを待っていた。今から帰ると連絡があってから十五分程。そろそろかしら、おみおつけのお味噌はもう溶いてしまってもいいかしら、ああ鯖を温め直しておかなくては、と落ち着き無くうろうろと狭い部屋の中を歩き回ってしまう。恋人の帰りが嬉しくて頬がひとりでにゆるんでしまうのを、両手でそっと押さえた。いつでも溶けるように傍らに用意した味噌を見てはっとする。
(私ったら鯖を味噌煮にしたのにおみおつけを……味がお味噌ばっかりに)
 お吸い物に変更した方がいいかしら、うう、と頭を悩ませていたところに外から随分激しい足音がしてびく、と肩を竦める。恋人のアパートは壁が薄く、廊下を出歩く人の足音や隣人の立てる物音がよく聞こえた。一軒家にしか暮らしたことのない珠琴はそれを「賑やかでなんだか楽しい」と思っていたが、恋人の居ないたった一人の部屋ではそれが存外心細いことに気がつく。玄関の鍵は閉まっていた。階段を駆け上がった足音は廊下を走り、部屋の前で止まる。変な人だったらどうしよう、と心中へ過ぎる危惧にエプロンの裾をぎゅっと強く握る。
「巫女さん!」
「あっ……えっ、は、はんちょうさん」
 ドアスコープから外の様子を窺ってみようと玄関の方へ一歩踏み出した瞬間、勢いよく扉が開かれた。汗だくの恋人が両膝に手をついてぜえぜえと息を切らしている姿に目を丸くする。具合でも悪いのだろうか、一体何があったのかと一旦コンロの火を消して駆け寄る。
「ど、ど、どうしたんですか」
「はっ……は、……び、」
「カルビ?」
「はなび」
 切れた息が整わない様子で顔を上げた恋人が顎に垂れ落ちる汗を拭いながらくしゃりと笑う。
「花火、上がってるみたいです」
 走って帰ってきたせいで体温が上がり熱くなった大きな掌が、ぎゅ、と珠琴のちいさな手を包むように握った。
(……ああ、ああ、)
 心臓が、止まってしまう。どうしよう。手を引かれてアパートの屋上に続く階段をエプロン姿のまま上がりながら珠琴は小柄な身体のすみずみまで血液を届けんとして高鳴る心臓に息をつかえさせていた。物干し用のスペースとして開放されているアパートの屋上で辺りを見回した恋人があ、と声を上げて東の空の方を指さす。
「あそこ」
 指差した先、背の高いビルに半分ほど隠されてはいたものの、藍色をした夏の夜空に花火がぱっと開くのが見えた。少し遅れて、腹奥へ響いて沈むような低い花火の音がこちらまで届く。
「わあ、すごい、きれい、赤色」
「半分ぐらい隠れちゃってますね」
「でもとってもきれい、あっ!むらさき!紫色ですよ」
 ちらちらと光りながらすうっと溶けるように消えていく火花の残像がまだ目に残っているうちに次の花火が上がり、先程とは違う色の花を咲かせる。繋いだままの手を握れば応えるようにやさしく握り返してくれる恋人に胸があまく締めつけられるようだった。汗臭いので、と申し訳無さそうに離れようとする恋人の身体を珠琴は「だめです」と引き寄せる。
「……間に合ってよかったです」
「急いで帰ってきてくれたんですか?」
「一緒に見たかったので、花火」
 普段あまり動かない表情筋がつくる照れ臭そうなはにかみ笑顔を花火の光が照らす。後ろから抱きしめられるようにして恋人の腕の中へ収まりながら、珠琴は、自分の恋人よりもかわいい男の人はきっとこの世に居ないと思った。頭上にある顔を仰ぐようにしながら、両頬に手を添えて伸び上がり唇を重ねる。
「だいすき」
 ちょうどクライマックスにさしかかった花火が次々と空に上がり始め、数分間賑やかに空を飾り立てたあとふっと嘘のように静かになる。風に流されていく煙を残して跡形も無く消えてしまった花火は、まるで夢でも見ていたようにまぶたの裏に残像だけを残していた。
「夕飯の支度してくれてたのに連れ出してしまってすみません」
「そんな、きれいでした、ありがとうございました」
 ようやく汗の引いた様子の恋人を振り返った珠琴が大きな身体に腕を回して抱きついた。ふわ、と足が地面から離れて身体が浮き上がり、抱き上げられたことに気付く。太い首に腕を回せば短い髪の毛から仄かにシャンプーの匂いがした。仕事帰りの恋人からは少しだけ煙草のにおいがする。こんな夜がずっと、何度も、この先も、繰り返したらいいのに。
「俺もだいすきです」
 鼻筋へ一つ、それからくちびるへ一つ。落とされた口付けとやさしい低い声で告げられる言葉に首までかあっと血液が集まってくるのを感じて珠琴はぱたぱたと自分の顔を扇いだ。
「ご、ごはんにしましょう」
「そうですね」
 一度抱き上げるとなかなか降ろしてくれない恋人が階段を降りる間、珠琴は自分を抱える恋人の腕から何やらちいさな袋が提げられていることに気付いた。太い腕をついついと指でつつく。
「班長さん、その青紫色の袋は……」
「アッ」
「あら……うふふ、涼しそう」
 ビニール袋の底へ広がった青紫色の池には、二匹の金魚が気持ち良さそうに泳いでいた。
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625-4 · 4 years
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そのかなしみは濁らない
 雨音で目を覚ました。太陽が顔を出さないこんな雨の日、薄暗いこの部屋は時間の感覚をとことん鈍らせる。壁に掛けた時計の針を見て今が早朝であることを知った。硬めのマットレスに洗い晒した綿のシーツを敷いただけの簡素な寝床を抜け出し、毛布を畳んで端に寄せる。閉め切った窓に歩み寄り薄手のカーテンを開けば、雨粒がさめざめとガラスを叩いていた。三日連続の雨だった。梅雨、というものがこの国には存在していて、毎年夏の直前にはこんな風に雨ばかり降るのだ。難儀な気候だと思うが雨は嫌いではなかった。日めくりのカレンダーを一枚破り捨てる。今日は日曜日だった。
・・・
「昨日はよく眠れましたか」
 朝食の後片付けをした後、問いかけに頷いて見せる少年の頭をそっと撫でてやるとすぐに周りの子どもたちが駆け寄ってきて我先にと頭を差し出してくる。ここで暮らす子どもたちはほとんどが捨て子か、遺児か、売られたところを商人に有無を言わせない値で "買い取って" きた子どもたちだった。順に名前を呼びかけながらまだ幼い彼らの細い髪の毛をやさしく撫でて、寝癖を直してやる。
「シスター、三つ編みして!」
「いいですよ。二つ?一つ?」
「ふたつ!」
 去年のクリスマスに贈られてから大切に使っている髪留めを差し出し、屈託無く笑って見せる少女。やさしい声音で名前を呼ばれながら頭を撫でてもらうこと。大切に髪を梳かし、結ってもらうこと。食事がきちんと用意され、寝床が清潔に保たれること。ただ存在するという、それだけを理由に注がれる手放しの肯定と愛情を受け取る資格があることを、ここに来るまで知る由も無かった子どもたち。それはかつての自分もまた、例外ではなかった。
 上品に光を反射する質の良い糸が編み込まれた美しい髪留めを受け取り、少女の柔らかい髪の毛に指を通して編んでやっていると石の廊下を革靴が叩く硬質な足音が近付いてくる。
「今日も良い朝だな!」
「あ、神父さま!」
 足音までも堂々としている神父が太く芯のある声を朗々と響かせれば、子どもたちが口々に明るい声で朝の挨拶をする。それに続いて小さく頭を下げながらおはようございます、と平坦に呟くと強い光を放つ穏やかな瞳がこちらへ向けられた。あまりにも高潔な魂が覗く双眸。いつから慣れたんだったか、この目に。
「今日は安息日だからな、皆シスターを休ませてやってくれ」
「はあい」
 丁寧に編み上げた三つ編みを結んで整えてやると少女は嬉しそうにおさげを揺らしてありがとう、と頬を染めながらはにかんだ。
「ねえシスター、これをくださった方は今度いつ来てくれるの?」
「……さあ、気まぐれな人ですから」
「真っ赤な天使さまのこと?」
 隣にいたもう一人の少女が無邪気に口にした言葉に曖昧な笑みを浮かべる。どちらかといえばあれは悪魔に近いと思うが。子どもたちには天使のように見えるのか。
 クリスマスの早朝、突然やってきたかと思うと子どもたち一人一人に贈り物をして、午過ぎには「仕事があるから」とあっさりと帰っていった男の姿を朧げに思い返す。いっそ生気が霞んでしまう程うつくしいその男がシスターはどうにも苦手だった。生物としての本能的な畏怖を呼び起こされるから。
「さ、お喋りはおしまいにしてそろそろお戻り。雨が降っているから庭へは出ないようにね。食事の鐘が鳴ったら着替えて食堂まで来なさい」
 子どもたち一人一人にそう言い聞かせながらそれぞれの自室へと促すシスターの傍らに神父が歩み寄った。「俺は美しい」とナルシズムたっぷりに自称する神父は、悔しいことに事実端正な顔立ちをしているので否定することも難しく、それはシスターにとって実に腹立たしいのだった。
「シスター、このあとは?」
「珈琲でも淹れようかと」
「では俺が淹れてやろう」
「は?」
 普段「適材適所ってやつさァ」などとのたまって炊事関係の仕事にはほとんど手を出さないくせに。耳を疑う台詞に思わず聞き返す語気が乱れてしまった。こちらの戸惑いを他所にずかずかと炊事場へ足を踏み入れた神父が金属製のケトルに自ら水を注いで火にかけ始める。どういう風の吹き回しか。突っ立ったままのこちらに気付けば、神父は不思議そうに顔を傾けながら椅子を指して見せた。
「どうした?座るといい」
 はあ、と曖昧な返事をして椅子を引き腰を下ろす。こういう時の神父に何を言っても無駄であることは、ここで暮らすうちに重々分かっていた。意志が固いし話を聞かない。よくそれで聖職者が務まるものだな、と思うがそれでいてこの男は聖職者になるために生まれてきたような人間なのだった。ただぼんやりと成り行きを見守る他なくなってしまい、手持ち無沙汰に神父の手元を目で追っていればコーヒーフィルターの端は折らないわ、豆の量は目分量だわ、酷い手際にシスターは静かに眉間を押さえる。
「貰い物の良い豆を……」
「うん?何か言ったか?」
「いえ……」
 その珈琲豆は、子どもたちに赤い天使と呼ばれている男がクリスマスに持ってきたシスター宛のプレゼントだった。「あなたは珈琲を淹れるのが上手だと聞いて」と告げるほとんど女神じみた笑顔はやはりぞっとするほど美しかった。ざわ、と不穏に毛羽立った心臓は、こぽこぽと湯の湧き立つ心地良い音と、その傍らで上機嫌に珈琲の準備を進める公明正大な背中によってすぐに安穏を取り戻す。ざぶざぶと繊細さのかけらも無い仕草でドリッパーへ湯を注ぐのを見て人知れず嘆息してしまいつつも、机の上で組んだ指を小さく擦り合わせて珈琲が出来上がるのをじっと待った。
「できたぞ」
 ことりと机上へ置かれたコーヒーカップに満ちる水面は一目見て薄いな、と分かる色をしていて口の端に苦い笑みが漏れる。根拠の無い達成感と自信に満ち溢れた表情を一瞥してから「ありがとうございます」と形だけの感謝を口にした。……子どもたちでももう少し上手く淹れるのではないだろうか。向かい側に腰掛けた神父は自分用のカップの中身を啜ってから怪訝な顔をしたのち、平気な顔でのたまう。
「不味いな!」
「豆の量に対してお湯が多すぎますよ」
 安物のアメリカンコーヒーよりまだ薄いその珈琲は確かに不味かったが、希少価値という意味で悪くはなかった。シュガーポットから角砂糖をひとつ摘んでぽとりと落とし、くるくるとティースプーンで薄い珈琲をかき混ぜながら窓の外の雨音に耳を澄ます。「珈琲は君が淹れたものに限るなあ」と誰に言うでもない様子で呟いた神父が徐ろに強いまなじりをこちらへ向ける。
「シスター、いま君は幸せか?」
 唐突な質問に思わず思考が止まってしまって、数度目を瞬かせる。自分が幸福かどうか考えたのはいつが最後だっただろうか。ソーサーの上にコーヒーカップを置き、少し考えてからぽつりと零した。
「……飽きるのを待っています」
 自分の命が絶たれようとしていることに安堵して身を委ねようとしたところを、この神父に拾われた。飽きてから死ねばいいと言われて呆然としている間に連れ帰られ、いつの間にか二十年余が経っているというのに。どういうわけか一向にこの命に飽きないままだった。返答になっていない言葉を聞いて神父が快活に笑う。
「君は俺より先には死なないさ」
 どうしてそう思うのか、聞くことはできなかった。コーヒーカップの持ち手を握る指へ僅かに力が籠る。この神父もいずれ死ぬのか。紛争地で腹を撃たれても平気な顔で帰ってくるような常人離れした生命力も、いずれ来る死に少しずつ蝕まれているのだろうか。
「あんたもいつか死ぬんですか」
「そりゃあ人はいずれ死ぬさ。それだけが決まっている」
「想像できない」
「フゥン、俺という存在を失うのは銀河の損失だからなァ」
 手を顔にかざしながら何とも腹の立つ表情を見せる神父へ憎まれ口を叩くのも忘れてしまって、当たり前のことに存外ショックを受けている自分に気がつく。何だか急に喉が乾くような気がして、甘ったるくなった珈琲のような液体を口に含んで喉へと滑らせた。
「まずいな」
 本当にまずかった。だって俺はあんたの居ない宇宙がどうなってしまうのか想像すらできないんだから。灯りが消えたように真っ暗で何も見えなくなってしまうような気がして、かた、と微かに指が震えた。いつだって飽きたらさっさと死ねると思っていたのに。この神父はひかりそのものみたいな顔をして、そんな嘘を永劫にゆるさない。
「俺もそう思うぞシスター、後で淹れなおしてくれ」
 珈琲の話じゃない。しかし馬鹿舌の神父が飲み残した余程不味いはずの珈琲を、シスターはいつの間にか飲み干してしまっていた。大雑把に淹れられた薄い珈琲みたいな愛を知らぬ間に享受して、すっかりこんなぬるま湯に慣れてしまっていたらしい。死から伸べられる手を掴もうとしていた過去の自分は他人事のように記憶の底へ澱となって沈んでいた。最悪だ、と思った。薄い琥珀色の液体が僅かに溜まる磁器のカップの底を見つめる。
「昼食のあとに私が淹れますから、淹れ方を覚えてください」
 嘆息しながら落とした瞼を持ち上げると、神父の左耳に提がる青い瑠璃の耳飾りが揺れて不思議な光り方をした。超然とした瞳が細められて垂れた目尻へ皺が寄る。生も死も大した問題ではないのかもしれない。少なくとも神父にとってはそうだった。
「二度とこんな珈琲飲みたくない」
 自覚無しに意識の根底へ根付いたひかりをまざまざ実感させられるような、それがいつかうしなわれることを思い出させるような、こんな、こんな珈琲は、二度と飲みたくなかった。吐き捨てるような言葉はどこか弱く空気を揺らす。
「ふはは、手酷いな!」
 魂にほんの少しの傷さえついたことがなさそうな男の笑い声が食堂に響いた。気付けば雨音は止んでいた。
(BGM : 鏡 / 桑田佳祐)
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625-4 · 4 years
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吹きさらしの僕たちは
 わらった顔がすきだと言う。現に、わらうことに不慣れなおれの表情筋が些かぎこちなく動いて不器用な笑顔を象る度、おれを見つめる恋人の瞳はきまってひどく愛おしげに細められた。おれよりもいくらか色素の淡い焦げ茶色の虹彩は、生気がうすい割に不思議なつよいひかりを放っている。存外長くてまばらに並んだ細い睫毛がふちどる瞳の奥へやわらかく浮かぶものがくすぐったくて、まばゆくて、あまり長い間じっと見つめていられないおれの頭の中には、鎖骨の頭が覗く襟首や肌触りのよい布地に覆われた肩口の方が恋人の顔の記憶よりも多いような気がした。
 丸まってねむるせいでスペースの余る寝床にはいつも恋人の脱いだ服が数着溜め込まれていた。安堵が具現化されたような空間。愛する人のにおいと触感に安心する子どものようなおれを、かわいいとか、愛おしいと、彼は言う。
 枕に敷いた赤いパーカーに頬を預けながら膝を抱いて微睡んでいたおれの意識は、午前十一時に部屋へ鳴り響いたインターホンの音で現実へと引き戻された。はあい、と寝惚けた返事をしてのろのろと寝床から這い出て玄関を開けると、初夏だというのに長袖の修道衣を着込んだシスターが花を抱いて立っていた。
「ドウモ」
「わざわざ来てくれてありがとう、それくちなし?」
「院の庭で見目の良いものを見繕ってきました」
 葉を少し切り落とし、枝を束ねて白い紙で包んだだけの簡素なくちなしの花束を渡されるまま受け取った。胸に抱いて花弁に鼻先を寄せれば鼻腔にやさしくあまい匂いが満ちて頬がゆるむ。海に似たあまいにおいのする初夏の花。濡れたような手触りの薄い花びらが愛おしくなって、その表面を指で撫ぜてから顔を上げる。
「いいにおい」
「お祝いに」
「ありがとう」
 目尻をほんの僅かにゆるめて見せたシスターを家の中へ促し、花を片腕に抱いたまま狭いキッチンの戸棚を漁る。何の容器だったのか思い出せない空き瓶を戸棚の奥から見つけ出して浅めに水を張り、贈られた花を生けると二人分のグラスに注いだ冷たい麦茶と一緒に卓袱台の上へ置いた。六畳一間の色気も何も無い殺風景な部屋に似つかわしくない白く可憐な花は、ぽっかり空気に浮かび上がるように空間へ嵌め込まれたみたいで少し笑ってしまう。にいさんが見たらなんて言うのかな。きれいだね、って言うんだろうか。礼儀正しい客人はどうやら家主のおれが腰を下ろすまで座る気がないようだったので、慌てて座布団の上に乗って向かいの座布団へ彼を促した。
「お話というのは」
「ア、ええと、あの……明日、聖堂を少し貸してほしくて」
「結婚式ですか?」
 勘の良いシスターにそのものずばりを口にされ、その響きがどうにも照れ臭くてアとかイヤとか口籠もりながら「そんなかしこまった大層なことするつもりはないんだけど」などと早口で弁解にもならない言い訳を並べてしまう。そもそも血の繋がった兄弟で、結婚、いや、結婚しては、いるのだが。入籍も何も元々同じ籍に入っているし何か書類上の手続きがあったわけでもない。法的には口約束の域を出ないわけで。それでも左手の薬指に嵌めた槌目のうつくしい指輪を見るにつけ、愛おしく、とうとい気持ちになるそれを、ケッコン、とはっきり言語化するのがおれにはまだ面映ゆいのだった。一年も経つのにな。
「同性だし、そもそも兄弟だし……でもまあ駄目元でお願いしてみようと思って」
「確かに聖書には男女が結ばれるべきと記載されている部分があります。特に新約聖書には婚前性交渉、男色を行う者には神の国が相続されないとも」
「コンゼンセーコーショー……」
 静かに紡がれる言葉を思わず復唱してしまった。身に覚えがあるどころの騒ぎではない。思わず渇いた笑いを漏らしつつ目の前の聖職者から視線を逸らして麦茶に口をつける。夏の味がした。罪まみれでイエスも助走つけておれたちを殴るレベルなのでは?地獄行き確定コースですか?困る。
「まあ……そういうわけで、使っていただいて構いませんよ」
「前後の文脈が繋がらなくて混乱する……」
「生憎うちの生臭神父様は留守なんですが、特に問題視しないかと」
「鷹揚っていうか豪快っていうか」
「無神経なんですよ」
 兎角細かいことを全く気に留めなさそうな背の高い美丈夫の姿を思い出す。話したことはなかったような、あったような。会ったことあったっけ?どうにも恋人以外のことをよく覚えていられなくて困ってしまう。おれの言葉を忌々しげに訂正するシスターの口ぶりに苦く笑いつつも、忌憚の無いこと、衒いの無いことが何よりも信用に足るのをよく知っているおれは目を細めた。
「あの人の言葉を借りるのであれば、愛はどこに介在していても美しいものです」
 切れ長の瞳に浮かぶ穏やかな色。あまり笑わないのに聖職者らしく話す相手を安心させるのは、彼の瞳の奥がいつでも柔和に凪いでいるからだろう。おれたちの愛はうつくしいのだろうか。カラン、と涼しい音を立てて空のグラスの中で氷が溶け落ちる。くちなしの花へ視線を遣ったシスターが少しだけ口角を持ち上げて見せた。
「良い式になるといいですね」
「うん、ありがとう」
「朝からこちらに?」
「エエ……どうだろう、あの人マイペースだから」
「……では昼夜鍵を閉めないようにしておきましょう」
 ちょうど留守みたいだし神父役は要らないから二人だけでいい、聖堂の中も飾りつけたりしつらえたりしなくて大丈夫、いつも通りのままで、お構い無く、勝手にやって勝手に帰ります……と話すおれに、本当にそれでいいんですか?とシスターは怪訝そうだった。でもやっぱり、あんまり華美なのはおれたちに似合わないと思うし、こういうのは、たぶん、互いの間に意味が残ればそれで良いのだ。
「にいさんもたぶん堅苦しいのは緊張すると思うし」
「あなたはいつもそんな顔で配偶者のことを話すんですか?」
「ウン……?」
「見ているこっちが胸焼けしそうです」
 皮肉と嫌味を淡々と口にしている割には棘の無い声音だった。ベタ惚れの自覚はある。大いにある。しかし今しがた自分がどんな顔をしていたのか全く思い出せずにぽかんと目を瞬いているおれを余所に、シスターはそれ以上言及するのをやめてグラスの中の麦茶を飲み干し、水滴を纏ったそれをことりと卓袱台の上へ置いた。
「おかわりいる?」
「いえ、ありがとうございます」
 麦茶のおかわりを断り、せっかく町に出てきたからダーヴァの顔も見て帰りたい、子どもたちの夕飯の支度もありますから、と言って小一時間もしないうちに帰ろうとするシスターを慌てて引き留める。部屋の隅に置いていた紙袋を持ってきて、修道衣の裾へ残った皺を伸ばしている手へ半ば押し付けるように握らせた。袋の中身は細長い紙製の箱が二つ。古めかしい文字で "赤塚堂かすていら" と記されているのを覗き込んでシスターが目を細める。
「子どもたちが喜びます」
「荷物になってごめんね」
「とんでもない。旦那様にもよろしくお伝えください」
「だ、ダン……ハイ……」
「いつまで照れるんですか」
 もごもごと口籠るおれに向かって呆れたようにそう言ってから玄関で靴を履き、ふ、と思い立ったように振り返ったシスターが胸元で十字を切って手を組む。名前も顔もほとんど同じだというのに、異国の血だとか服装だとか表情だとかそういう表面的な部分以外の、もっと根源的なところで、シスターはおれたちの中でもすこし異質に見えるのはどうしてだろう。
「二人に主のご加護があらんことを」
「……ありがとう」
 そもそも宗教を持たないし、聖書によればどうやら罪だらけのおれたちはたぶん神に仕える者に祈ってもらえるような二人ではない。誰にゆるされなくともおれたちはおれたちがゆるす限りここに居るのだけれど、とはいえそれでも、こうして祝福されるのは嬉しかった。
 くちなしのあまいにおいで満ちた部屋。恋人であり夫であり兄の、やさしい笑顔ばかりが思い出されて胸の奥が甘ったるい。驚いてくれると、いいんだけどな。どうかな。
 客人も帰らぬうちにそんなことばかりを考えているおれにいつか天罰を下すなら、神さま、明日以降がいいです。
(くちなしの花言葉「喜びを運ぶ」)
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625-4 · 4 years
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冬の口笛
 午前六時十七分。目覚まし時計より早く目を覚まし、劈くような電子音を聞かずに済むようアラームを切る。予定調和のルーチンを辿る朝、唯一違うのは珈琲を啜りながら眺める星占いの順位くらい。あいつは何座だったかしら、と脳裏に過ぎるあどけない顔立ちが愛おしくて低血圧に絡みつかれた思考が色めく。ぬるくなった珈琲を飲み干して赤いチェックのマフラーを巻いた。
 予報によると今日は初雪が降るとか何とか。外はなるほど真っ白に分厚く曇った空。路面凍結が怖いのでバイクをやめて電車で通勤することにした途端に期待してしまう浅はかさと言ったらもう。通勤ラッシュでもみくちゃにされた末にホームへ吐き出され、既にくたびれながら改札をくぐればうちの制服がちらほら。ちらつき始めた雪に人々が空を見上げていてもそんなことお構いなしに見慣れた栗色の後頭部を探してしまう。
「せんせ!」
 ぬかるんだ頭に電気でも走るみたいで息が止まった。間抜けな顔で振り返れば切らした息が白く霞んでいる。走って追いかけてきたの?思わず抱きしめようとしたら向こうも条件反射なのか腕を広げてしまって、我に返り、そのまま見つめ合うこと数秒。口付けの一つ二つ三つ軽く五千は贈りたいのを堪え、中途半端に持ち上げた手の行方を相手の鼻先に変更する。赤くなった鼻先へ落ちる雪をやさしく拭ってやって、まだ腕を広げたまま立ち尽くしている恋人の冷えた髪を混ぜた。
「アリクイの威嚇?」
 ちがうもん、と膨れっ面になって見せる幼気な恋人が隣に並ぶ。なんだ知ってたの、と小さく目を瞬かせれば、テレビで見た、と嬉しそうに笑ってまるい瞳の奥に恋を揺らしながら見上げてくるもんだからどうにも理性が試されるようで困ってしまう。軽く辺りを見回して、歩調に合わせて所在無く揺らしていた手をほんの少し相手に近寄らせれば手の甲がこつりと当たる。そのまま掬うように指を絡めて握った瞬間、視界の隅で大袈裟なほど跳ね上がる肩が愛おしかった。
「みんな雪の方しか見てないよ」
 だからそこの角曲がるまで。と何食わぬ顔で告げた言葉は思いのほか懇願じみていて、我ながら余裕の無さに呆れてしまう。ややあって躊躇いがちにきゅ、と握り返してくる温かい指に心臓まで握られるみたいで、約束の曲がり角が少しでも遠退くように歩調を緩めながらだらしなく弛む口元をマフラーへ埋めた。ねえ、おまえ何座?先生今日は一位だったから、あの占い当たってるかもね。
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625-4 · 4 years
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信号待ち、歩くはやさで
 二月、真夜中。隣でちいさく春の歌を口ずさんでいた恋人のくちびるは冷えてつめたく、僅かにかさついていた。苦くて甘ったるい煙草の後味を分け合おうとするみたくそれに吸いついて食めば、重ね合わせたくちびるの隙間から淡く花びらみたいな吐息が零れ落ちる。ゆるやかに混ざりながら融けて微睡むようにその境界を滲ませていく体温と紫煙の残り香。微生物さえも凍てつく真冬の乾いた大気を遠慮がちなリップ音が湿らせていくのを、俺たちだけが知っている真夜中だった。調子に乗ってあたたかい咥内へ舌先を滑り込ませてみたら甘く歯を立てられて、肺の奥から含み笑いがこみ上げる。そんな風に俺をたしなめて見せるくせ、控えめに下唇へ吸いついてくる恋人の黒目は夜闇に艶々と浮かんで名残惜しそうだった。子どもみたいな体温を持て余す指へ、血の通いづらい冷えた指先が音も無く絡みついて暖を取る。
「青だよ」
 横断歩道の向こう岸で青に変わった信号を一瞥した恋人が、くちびるの隙間から尖った歯を覗かせてわらう。ねえ、おまえが春の夜みたいな笑い方するから、兄ちゃんこれからコンビニに何買いに行くのか忘れちゃいそう。横顔を照らす青が点滅をはじめる。ぬるくなった互いの指をどちらからともなく擦り合わせた。
「渡る?それとも、やめる?」
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625-4 · 5 years
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悪魔が死んだ日のはなし
Ciao. 今日もキミは可憐だネ、野に咲く花の方が恥じらって萎れちゃいそう。ところでボクに何か用?デートのお誘いなラ喜んで……ウン?あの人のハナシ?聞いてどうするノ?あの人のコトを知りたい?ボクの前で他のオトコの話をするなんて妬けちゃうなア、まあ確かに付き合いは長いけどネ。知ってても知らなくてもあの人のこと理解なんてできないヨ。エ?だってそういう人だかラ。あの人は本当も嘘も無くて、見せられたまんまの人なノ。少なくともキミの前ではネ。……ふ、ふ、難しい顔してるネ。眉間に皺寄ってたらカワイイ顔がもったいないヨ。Mi dispiace, でも本当にそれ以上でも以下でもないからボクにもそうとしか言えないノ。……ナアニ?写真?ゲ、そんな昔の写真ドコから引っ張り出してきたノ……ボクの黒歴史だヨあんまり見なイで。昔の写真は全部処分させたと思ってたんだけどナ、本当にこんな写真誰が持ってタの?……、……ふうん?ア、ボクにくれるノ?Grazie. これがこの世に残ってるのボク恥ずかしくテ眠れなくなっちゃいそうだかラ後で燃やして抹消しとくことにするヨ。ネガが残ってないとイイんだけど。まだどっかに隠してそうだよネ。花?アア手向けてないヨ、あの人に花なんて似合わないデショ?想像したら間抜けで笑っちゃう。そもそも最期に花を添えてもらえるような人生送ってるわけもないしネ、まあそれはボクもだけど。にしたって自分の葬儀の日がざあざあ降りの大雨なんてバチが当たったとしか思えないよネ。ヒヒ。あの人の墓には酒か煙草でも供えてやったら喜ぶんじゃないかナ。ボク?アア、うーん、しばらく立て込んでて行けそうに無いんだよネ、呆気無く死んで間抜けだネってボクの分も墓標に蹴りの一つでも入れといてくれる?……ン、ふ、冗談。呪われるのはボクだけでいいヨ。おっと、時間が来ちゃったみたイ。ゴメンネ、仕事に戻らなきゃ。お喋りできて嬉しかったよgattina. でも今度は出来たらキミの話が聞きたいナ、美味しいdolceでもご馳走させて。キミの週末をボクに頂戴。それじゃあネ、Arrivederci.
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625-4 · 5 years
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天使が死んだ日のはなし
Buon giorno, gattinaからお誘いが貰えるなんて今日のオレは世界一幸せな男だねえ。どこ行きたい?海でも山でも空でも、キミの仰せのままに。……エ?なアんだデートしに来てくれたんじゃないの?アイツの話が聞きたい?物好きだねェ、そんなつまんないこと後回しにしてまずはオレとお茶でもしない?美味しいカンノーリの店知ってるヨ?ティラミスは?パンナコッタ?ジェラート?どれもヤダ?ホントにこんなイイ男の前で他のオトコの話なんかしちゃうの?ン〜……話すも何も見たまんまだよお。ン、は、真面目だからねえ、嘘と本当を分け隔てなきゃ気い済まないの、馬鹿でカワイイでしょ。アそうそうほらこれなんて傑作だよお、随分昔の写真なんだけど。こっちがオレでこっちがアイツ。完コピにも程があるよねえ〜!髪型から服装から…ああこのサングラスはオレのお下がりだねえ。喋り方まで真似してたっけな確か。いやア若気の至りって怖いネ♡ そのうちこれダシにして何かさせようと思ってたんだけど惜しいことしたよお。葬式?ああそうそう、白い百合にして大正解だったと思わない?相変わらず花がよく似合ってたネ。キミも後で行くんだったら花でも手向けてやってよ。喜ぶよきっと。赤い花以外なら。エ、オレ?オレはこれから支度してバカンスなので♡ ウン?そう、アイツの尻拭いでオレの休暇丸々潰れちゃったからネ!ちょっとぐらい仕事放り出してエスケープしてもバチ当たんないでしょ?どこ行こっかな〜〜〜ついでに会いたい奴も居るんだよねえ、まアどこの国でも会えるんだけど……どこが良いと思う?ベタに南国?香港あたりでカジノなんてのも楽しそう、ああ!パリ!良いねえ、花の都、bellaがたくさん居て最高。ア、コレ他の奴に言わないでネ?オレとキミだけの秘密♡ 良かったらキミもどーお?オレと一緒に二人っきりで内緒のランデブーと洒落込んじゃう?毎晩天国見せたげるよお?……あらア、そうなの?残念。じゃあそれはまた今度の機会ってことで。連絡するからスケジュール空けといてネ♡ 楽しみにしてるよお。そんじゃまたネ、Addio!
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