Tumgik
32j · 5 days
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32j · 1 month
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32j · 4 months
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32j · 4 months
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32j · 4 months
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法曹を勧める親の意に反して、哲学の道に進んだが、自身の仕事を「広い意味で弁護士的」と意義づける。「『現代思想入門』も 毀誉褒貶ある現代思想に対する一大弁護ですから」
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32j · 4 months
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32j · 5 months
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制度論とは、現在では制度史と呼ばれる美術史研究の手法のひとつで、美術というジャンルや既存の美術史の成り立ちを、その周辺をとりまく言説の分析を通して解明することを目的とする。ここでいう言説には、新聞雑誌等の文献に書かれた言葉のみならず、宮廷や美術館、政策、行為までしばしば含められる。
 現在の美術館で名作として衆目を集める作品は、はじめから名作だったわけではない。時の為政者やパトロンの権力、同時代の批評や後年の研究、性、人種などの要因が絡み合い、複合的に決定されるのである。制度史研究はこの複雑な絡み合いを解きほぐし、なぜその作品が名作とされるに至ったのかを明らかにする[7]。
 ただし、宮川は1968年のフランス美術史研究界に制度論の高まりを見出していたものの、それが日本に本格的に取り入れられたのは1980年代後半のことである。しかもそれは宮川とは別の方向からの現象——欧米の歴史学における言語論的転回のインパクトを日本の人文学諸分野が受け止めたこと——に起因していた[8]。このため、現在の日本近代美術史学における主流のひとつである制度史と、宮川が1960年代にメイヤー・シャピロらの著作を通して把握した制度論とは論点が異なる。『眼の神殿』(美術出版社、1989年)で制度史研究の口火を切った北澤憲昭は、宮川の論が社会背景の考察に欠き、観念的な理念にとどまっていると批判する。抽象的な議論に終始するのではなく、作品と現実の政治との関係を具体的に論じるべきだとするのである[9]。
 確かに北澤の提唱した制度史の方法は、日本の美術史研究に文脈の検討を持ち込んだ点で画期的だった。しかし、あたかも作品と文脈とを画然と区別し得るかのように論じたことで、作品そのものに対する考察を幾分か等閑視したという事実は否めない。
【批評の座標 第15回】見ることのメカニズム――宮川淳の美術批評(安井海洋)
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32j · 5 months
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32j · 6 months
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32j · 6 months
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32j · 6 months
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32j · 6 months
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それで何か物を届けに僕は(野間宏の所に)行かされて。その時にカットをやっている、同じ部屋にいたやつがやっている雑誌を持って行ったわけよ。それで一緒にこういうのを友人がやってますから、文学のあれですからって(野間宏に見てもらった)。それでその同人誌を野間宏に渡したら、おーって見ていて。「あなたは何をやっているんですか?」って言うから「僕はカットを描いているんですよ」って言ったわけよ。そしたら「どうして廃墟ばっかり描くの?」っていうのを野間宏から言われたの。それで「いやあ、わかんないですけど、もうこれしか描くネタが無いですから」って。ようするに僕としては、シュルレアリスムで、ダリ(Salvador Dali,1904~1989)の時計じゃなくて、もう一人、ああいう妙な溶けた絵画を描く人がいますね。
中森:エルンスト(Max Ernst, 1891~1976)ですか。
磯崎:エルンストじゃなくて。
中森:デ・キリコ(Giorgio de Chirico 1888~1978)ですか。
磯崎:デ・キリコじゃなくって、もうちょっとマイナーなんだけど。アルプ(Jean Arp 1886~1966)風のオブジェを地上に描いたりとか。これは言い換えると、野間宏はもともとブリューゲルの『暗い絵』(真善美社、1947年)という小説があるんですけど、彼の処女作品で。これはブリューゲルの絵を書いているんですけど。これが地上にボッシュ(Hieronymus Bosch, 1450~1516)風の穴が空いていて、この中で妙な物体、人間が物体に変身していくような、こういう幻想をずーっと、彼はダンスか何かパフォーマンス見ながら、そういう幻想だけを延々と書いている、そういう小説なんですよ。これで彼は始めて出てきた人です。だから彼はそういうシュルレアリスムを持っているんだと思うんだけど、彼はどうもわかっていたらしくて。なんかまあそういうカットの皮肉を交えた批評か何かをしてくれた。僕はだからそういうことをやっていたというくらいのことですよ。
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32j · 6 months
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磯崎:そうですね。ここらへんのアメリカの文化の、ようするに国家的な政策みたいなものとしての一つの動きというのはあって。これはまたこれでいろいろ、今となったら面白い組み立てが見えるところがたくさんあると思うんですけども。いろんなそういうポリシーの中で、日本のモダニズムというものをどう取り出したのかということがあって。ようするに1930年でバウハウスの、世の中の写真が全部ノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)になったという。だからあの展覧会(「ザ・ファミリー・オブ・マン」展)はノイエ・ザッハリヒカイトみたいなものがあるわけですね。それでだけどその後、全部ストップしちゃうわけじゃないですか。解体されるわけじゃないですか。後は結局いわゆるデリダ(Jacques Derrida, 1930~2004)が言うようなディセミナシオン、散種ですね。ようするにそれがアメリカと日本にとんだんだ。それでヨーロッパはいったん切れているというように僕は思っていて。日本はその時、とんだ時にコルビュジエを輸入したと。アメリカはミース(Ludwig Mies van der Rohe, 1886~1969)を取った。それでこの違いが10年間別な動きをして。日本の場合はとんだものがですね、日本の伝統をどうモダニズムで解釈するか。つまり石元さん的なものがぱっとわかるような下地になるような見方が、伝統との組み合わせの中で日本は出てきて。アメリカはこれを全部、テクノロジーの問題に全部置き換えていた。日本は敗戦して被占領国家になった。アメリカは占領していると。占領して持ってきたのは当時の、つまりミース系のテクノロジーを介してのモダニズムだった。そして日本は敗戦してるけど、それまでに一応積み上げてきたモダニズムというのは、伝統的な日本の建築形式やデザインのパターンやらというものが、いわゆる日本的なもの、これはようするにヨーロッパのモダニズムを学んだ人たちが、(戦時中に)先を見るわけにいかないものだから歴史(過去)を見ていたと。(ブルーノ・)タウト(Bruno Julius Florian Taut, 1880~1938)以来そういう「伝統」になってきたと。積み上げられてきた。こういうところから出来上がって来たのが日本のモダニズムだよっていうのを、さっきの浜口隆一の、日本建築を10個くらいセレクションして出してあったんですけれど(注:浜口は掲載する建築物8作品の選定を担当)。これはモダニズムがどうやってプア(貧相)な木造や何やらの技術の中で(受容されていたか)、テクノロジーじゃないわけですよ。にもかかわらずモダンに見えるようなデザインがやれていたか、やっていくかと。これがその時の問題じゃなくて、やっぱり日本の場合は1930年代からの蓄積があって、それが戦後になってそういう状態になる。これをアメリカは戦利品にしたんじゃないかと(思う)。そうすると日本の場合は美学があったんだよ。美学としてモダニズムを解釈した。アメリカの場合はテクノロジーとしてモダニズムを解釈した。アメリカのテクノロジーしか無かったところに美学の欠落部分を弱肉強食で補填したというのが僕の印象です。
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32j · 6 months
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日本でこの話をするのはすごく興味深いというか、私たちブラックアメリカンが日々経験し感じていることをどのぐらい日本の皆さんに理解してもらえるのか、本当のところはわからない。それでもすごく大切なことですし、映画監督としての自分の経験についてできるだけ正直に伝えたいと思っているから、あえて話を続けますが、たとえばラリーが今回の映画制作に口を出してきたのは、要するに、ロイを語るナラティブを彼が管理したがったということなんですよ。
ラリーが語るロイ・ハーグローヴと、黒人の私が見たロイ・ハーグローヴは絶対に違っていて、だからラリーが主導権を握って作っていたらまったく別のホワイトウォッシュされた映画になっていたと思います。全てがそういう感じなんです。ジャズ映画は往々にして白人の視点から語られたストーリーになっている。そうした作品が今までは多かった。
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32j · 6 months
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このように漱石にとっては苦労と失敗の連続で、自転車ならではの爽快感や高揚感はない。それでも諧謔味のある小品として発表したのだから、心に強く訴える体験であったはずだ。それは憂鬱なロンドンでの最後の思い出であり、帰国後に作家として成功する曙光と考えても良さそうだ。それは後に余裕派と呼ばれ、「人生に対して余裕を持って望み、高踏的な見方で物事を捉える低徊趣味」(漱石の造語)だった。
つまりこうだ。神経衰弱に悩む漱石個人にとっても、近代的自我の発露の途上にあった日本社会にとっても、正しく必要であったのは「自転車」だったのだ。文明開化から富国強兵へと邁進する国家覇権主義に疲弊した人々にとって、世界をありのままに受け入れ、自己を解放する術が必要だったに違いない。それはもちろん鞭打つことでもなければ、拳を突き上げることでもない。たった一言で済んだ。
夏目漱石の自転車日記
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32j · 6 months
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32j · 6 months
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Rather it was the question how art can allow citizens to influence reality and foster critical attitudes in society. Both the activists from the movements as well as the participating artists tried to position themselves in relation to concrete political and social concerns in order to contribute to situating art within the field of contemporary politics. At several moments during the 7th Berlin Biennale it became apparent how uncomfortable both art’s debate with itself and its confrontation with political reality can be. For an attitude of artistic and political responsibility is always accompanied by skepticism, disagreement, risk, confrontation, and possible failure. The 7th Berlin Biennale prompted us to leave behind our feelings of discomfort and fear of confrontations and change in order to face the challenge of social transformation.
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