Tumgik
2nd-lighthouse-journal · 11 months
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瘡蓋の海
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白むまで耳を浸していた雨がまだ靄として残されている
薄布を重ねた奥の眼裏にいっそう暗い潜熱の洞
��探りで日付を確かめようとしてその前に思い出せてしまった
シーツから背中を剥がし吸いついた湿気を逃がす気休めでいい
大切に避けていた場所をいつしか忘れたことも 遠路 忘れて
方角で言えば南西だと思う瘡蓋の記憶を撫ぜる手は
示し合わせたように毎年梅雨が明け雲ひとつないのがこわかった
離れ島 潮が満ちれば立つ瀬なく生きているから繰り返す夏至
廃船の大きさを目で測られて時間の層が取りこぼされる
ひらいても血は出ない傷こんなにもわたしのものじゃないのに熱い
水捌けを良くするために傾けた同音異義語の誓いの白さ
でも熱が伝わるほどに傍に来た人に負わせる澱みではなく
蝉時雨ふいに鳴き止む一瞬を静止画として胸に収めた
逃げ水の行方をたぐりよせて帰夢わたしもすでに透明な窓
あっけない夕立だったおぼろげな蒸気の膜に街は喘いで
踊り場で水平になりすぐにまたかるくうつむく手すりの角度
ぬるまった飴を含んでまるくしてしばらく声を引き留めていた
おびただしいブーゲンビリア西棟の影はなるべく踏まないように
ずぶ濡れのフェンスを揺らす振動でほんとに逃げてきたってわかる
言い出せば痕が残ってしまうから海のふりして黙ったんでしょう
蟻が蟻に運ばれるのを見届けて樹下のにおいが濃くなっていく
輪郭がいつもより曖昧になる雨にふやけた手なら、あるいは
潮風に熾火の瞳だれのこと傷つけたいかちゃんとおしえて
折り畳まれたまぶたが降りてくるまでを見ていたまた折り畳まれるまで
花の落ちる速さでわらう 間に合わない あなたは病識のなさを言う
蜘蛛の巣が一度ふるえてそれからは鏡のようにそれだけだった
実弾をわたしは撃ったことがない撃たれたことも 何の涙だ
後ろ手にしろい小石を握り込む空弔いの声になるたび
添えた手の熱に耐えられないときは離れて わからない ごめんね
鳥に名を強いてはいけないのと同じひとりで守る約束にする
ゆっくり歩く、あらゆる人たちに追い越してほしくて、ゆっくり
石垣に阻まれている月桃が宵に緑を沈ませていた
がたがたにひらきっぱなしの背骨にも夏の重さの風が吹き込む
さざなみのひとつひとつは見つめない喫水線がより深くなる
口承のうたをいくつかつぶやいた出せない音をごまかしながら
手動では消せない常夜灯があることに気づいた あなたが先に
そうやってすぐ凪を装うところ大丈夫になりたいってなじってよ
反照 櫂を手放したわたしの舌も見抜かれていた
サイレンは叫び、サイレントは祈り聞いてもらえるおねがいの仕方
磨硝子越しのさざめきもしかして朝日にも泣きたいときがある?
生活を続けるための生活音となりの洗濯機が揺れている
ベランダの壁を隔てた向こうから水の流れがかすかに届く
覚め際のカーテンに手を 忘れても季節のように思い出されて
命から逃れられずに目をひらく海は今でも瘡蓋の海
布をたくさん使った服の重たさにたぶん安心させられていた
凍らせたペットボトルを目頭に当てて束の間でもかまわない
あとはもうずっと道なり白々とそうするしかなくても選んだ、と
引きつれた痛みを空に返せたら後悔してもいいと思った
立っている限りは土を踏むことを土になる身に引き受けさせる
傷つけたときの火傷に思いきりシャツ一枚で行く明けの街
第五回笹井宏之賞一次選考通過作
賞にかかわった皆様に、お礼申し上げます。この歌にわずかでも目を留めてもらえたことが、私の光でした。
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2nd-lighthouse-journal · 11 months
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あまりたいしたことではないのだけど、私の短歌たちのために一言残させてください。
第二灯台守のアカウントはもしかしたら今後動かなくなるかもしれません。
そうなった場合、私の残した短歌に対する、引用、評、感想は、どうぞ遠慮なくなさってください。本来こんな一言も不要なはずです。歌は読まれるもの。
ただ、返歌のような、コミュニケーションを期待するようなものはご遠慮いただけると嬉しいです。(する方はいないと思うけど、本歌取りのような、一作品として独立したものはOKです。)
第二灯台守の初期は、いまよりもう少し社交的で、人と関わろうとしていました。そのとき話してくれた方、スペースや企画でご一緒した方々、ありがとう。いまいちごつみが途中の方々、待てなくて申し訳ありません。
もっといろいろな作品の感想を書きたかったけれど、間に合いそうもない。直近で感想をここに投稿させてもらった方々、逆に気まずい思いをさせたらすみません。
これは私の問題なので、何も気にせず、すこしたったら忘れてください。
短歌を読んでもらえて、感想や評をもらえて、筆名まで褒めてもらえて、うれしかった。宝物です。
ありがとうございました。お元気で。
第二灯台守
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2nd-lighthouse-journal · 11 months
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鯉派
風景にわたしはいない夏の日のけやきからけやきへ移る鳥
「大きな池のめぐりの道で」門坂崚
連作全体に離人感がある。あの試論を書いた人が、「私」を手放そうとするんじゃないですよ、と少しだけ苛立ち、手放したくなくてこの歌たちが残ったのかなと思い直した。
歌の外で作者の言葉を目にした影響があるだろうから、これは誠実な評ではないと思う。すみません。
風景にあなたはいる。どうしたっ��その視野は消せない。その視野を私は歌として共有されたのだから。
あなたの言葉はうつくしいです。もっと自信を持ってください。
川を越えるときには川を見なければ 身体をひねりつつ傾けて
/同上
そうだよ。川を見てほしい。
精通が痛かったこともう一度知りたい銃の錆を削って
「歩哨たち」手取川由紀
自分を自分で削り取るような、そうでもしないとやっていけないような苦痛があった。たぶんその苦しみに共感や同情はできないのだけど、痛みを伴う刺激が正気を保つこともある。という一点は自分の知覚と接しているかもしれない。
約束を忘れていても交わした事実がある限り運河はもうすぐ海へと注ぐ
海岸を歩く速度がまちまちで 一瞬 友達のように見える
「現象」藤井柊太
私が海というものを贔屓しているのを差し置いてもいい歌だなと思った。
忘れていても。それなら怖くないと思った。
「一瞬」の一瞬、で本当に、歩く速度が一瞬、だけ重なったように見える。もうそれだけでいいと思う。藤井さんの評に私は何度も助けられてきたけど、やっぱり歌が読めて嬉しいです。
歌集評は、藤井さんの手堅い比較で、冷静に論についていくための心構えをつくることができて、次に手取川さんのドラマチックな〈加速〉に夢中になり、門坂さんの、慎重な積み上げの果てにある「美質」への到達に、熱を感じました。「風を受け入れる」の序文もよかった。
自分と同じ歌集を読んだ方々が、それぞれのやり方で、こうも言葉を尽くしていることに涙が出そうだった。
刊行、完売、おめでとうございます。これからを応援しています。
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2nd-lighthouse-journal · 11 months
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銃と桃売り場
信じよう生命線を 噴水の前に座ればときおり届く
書く文字がふと父親を孕むとき水位を上げる河、おだやかに
「金継ぎ」武田ひか
祈祷の序章のようだ。ときおり水が届くことは幸いみたいだ。
父親と、現れない母親のことを思った。ひかさんの連作を以前、幸運にも読ませてもらったことがあって、そのときからの長さを思った。字が親を孕むということ、いまなら、ありえるとわかる。おだやかに。「返し縫い」の歌も好きです。
夢みたく朴の花咲く公園の、それをことばにして遠ざかる
「ⅲ、あるいはⅰ」篠原治哉
ことばを尽くしても尽くせば尽くすほど遠のくときの気持ち。この歌自体がそうだ。ことばにしようとしてうまくできない、私のこの文字列自体も。この連作はずっと個人的な話をしていて、だからわかるはずもないのだけれど、その遠さのことは大事にしたい。
極楽鳥宣言 人類みんなでさ祀られても祀られても拒むから
「完全版」武田ひか
強い。記憶の保存と、身体の保存のことかなと思った。この一首前もすごく強い。戦争の、国家というものの大きさが怖い。祀られることから逃れれば、身体が廃れるのは早まるだろうか。なら記憶は。
ずっともはずっとともだち 命じゃない生き方で長生きしてほしい
「BF」篠原治哉
「保存」をテーマにした連作で、これが来るのに泣けてしまった。心からそう思います。でも私は身勝手だから、できれば命でも
長生きしてほしい。
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2nd-lighthouse-journal · 11 months
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「それは、とても広いテーブル」
榊原紘
海に向く部屋に系図はねむる 生き延びるかぎりは不埒に笑う
「Geschichte」
葉脈のような雨降る 生きてさえいればやり直せないと分かる
「君が払っている対価」
私はこの人の短歌に出会えて心から嬉しかった。ありがとうございます。たくさんの歌を詠んでほしい。
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2nd-lighthouse-journal · 11 months
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ザジ
点滅社 
「ありがと」大橋裕之
この漫画が巻頭にあるのがわかる気がした。
はじめて目にする絵柄で驚いたけど、話がとてもいい。いい。好きです。ありがと。
「向こう側へ突き抜ける」輝輔
調子が良くなくて全部はちゃんと読めていないのですみませんが、そんな中でもこの漫画は心に残りました。やわらかい線とときどきある目線の鋭さが、最後の台詞が格好いい。
たしかに30分、生き延ばしてくれる本を、点滅社はつくると思います。人生の短さに比べたら、途方もなく長い30分だ。
書き手がたくさんいると編集も大変だったんじゃないだろうか。年1回より頻度が低くても、不定期刊行でもこの漫画集らしくていいんじゃないかと思います。読めてよかったです。
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2nd-lighthouse-journal · 11 months
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第五回笹井宏之賞 感想
書肆侃侃房『ねむらない樹』vol.10より
「似た気持ち」 左沢森
未来のあなたが今のわたしの目を使い十年かけて泣いたんだろう
この歌が一番まっすぐに来た。何か大きな時間の流れをひねって、泣いているのはわたしのはずなのに、あなたの感情が挟まってくる。ようにわたしは言う。
暇だからバスターミナルまでついていくyyyymmdd
手だけだと生きているようにも見えた 今 街灯がつく瞬間を見た
どちらも写真の歌だと思うけど、この二首は連続した場面ではなくて現実的な時間のひらきがある。前者の方は任意の年月日が当てはめられる表記によって、時制は現在形なのに、過去のことである印象が強い。写真を見る自分は、被写体からすると必ず未来の時間にいる。
後者も過去に見た写真を思い返しているのは同じで、でも前後の歌から、たったさっき、近い過去のことだと判断できる。その人の手だけの写真を見て、あるいは写真の手だけに注目すると、生きて「いる」ようにも見え「た」。街灯がつくのは一瞬の今、だけで、つく、と思ったときにはもうつき終わって過去になっている。
徹底的に今が流れ去るなかで、「ずっと」という長さがより稀有なものに感じられる。
中にある出自不明のやさしさをずっとフォークに巻き付つけている
「パーチ」瀬口真司
ぼくじゃない息をきらして遠ざかりながら何度も振り返るのは
ぼくじゃない。なのにこの凄みはなんだろう。正直に言うとこの連作に言及するのが怖い。現在地と戦地、母と花の二重写し。目まぐるしいモチーフで畳み掛ける後半がインターネットっぽい。
咳をするひとを見ていたら目が合って 歴史では拾えない牡丹雪
歴史と目が合うことはない。見るのはこちら側だけで、見返されることはほぼない。とされているところに、ふいに目が合うばつの悪さ。牡丹雪は小さな結晶がより集まったものだという。目を凝らすと歴史にも無数の目があることを突きつけられる。
「風は吹く、無数の朝」
無意味でもどちらが先に死ぬのかを決めて暮らそう あなたにも影
こころには返す腕がないことを 踏みしめられて固まった雪
(腕に「かいな」のルビ)
生も性も無条件に肯定はしない、それでいて呪い尽くすわけでもない、生活の実感のある作品だった。直截的な表現も葛藤もあるのに透明感があって、不思議な読み心地のよさがある。
命を奪う「無情の風」という語と対照的に、命を運ぶ風の民話も各地にある。勝手なものだと思う。でも生も死もままならない中だからこそ、大切なものに寄せる感情はかけがえがない。
おくること、風になること、最初から自分の影を踏んでいること
「羽化のメソッド」手取川由紀
夕立のようにつくりかえられながらやがてこころは刃渡りを得る
夕立は防ぎようがなく繰り返される。こころに刃があれば一番に傷つくのは自分なんじゃないだろうか。ひりひりしっぱなしの五十首でずっと苦しいのに、腹の底の方から絞り出される矜持でぎりぎりを保っていて、それがあまりに格好良かった。
ありったけの覚悟で無人の信号を青になるまで待って渡った
揶揄されてしまうまじめさというのが社会の共通認識としてあり、ルールを守る/破る塩梅は他者に倣うしかなくて、うまくチューニングが合わないと苦しい。
羽化のメソッド 嘘にしないこと 負わされてそれでも負ってきた疵たちを
負ってきた、と改めて引き受ける覚悟。何回でも唱えたい。
「遡上、あるいは三人の女」野川りく
命にも死にも気圧されるなむすめ百戦錬磨の産婆のように
気がつけばわたしは三人目のおんなそして娘ははるかな小鳥
娘を「四人目の女」に数えない、意思の強さに迫力がある。選考座談会で娘への描写に批判的な意見があったけれど、その揺らぎが人間味じゃないかなと思った。
遡上とは流れにさかのぼること、逆らうことで、力がないとできない運動だ。でも力強さと、後に続くものへの慈しみは両立できるし、不自然ではないと感じた。
花火から火が落ちたって届かない夕暮れ何もかもを見ましょう
「晩年」八重樫拓也
喫煙所でしかできない実りなき会話に花を二本目に火を
ひたすら身も蓋もないけれど生活は続く様子が描かれている。
会話に花が咲かせられない人間としてはすこし羨ましい。たぶんそう思う時点でうまく読めていない気がする。
まぁこんなもんだろせいぜい長生きも自殺もしないようにやってく
そのバランスを取ることができる、取ろうと思えるのは結構すごいことだと思うのだけれど、主体は本当に気負わずに言っているだけなんだろうな。長くなりそうな晩年。
「Liminal」橙田千尋
見ていない映画のサウンドトラックのはじまりは雨だっただろうか
読めば読むほど好きになる一連だった。見ていないから確かめようもないのに、きっと雨だった、と頷きたくなる。見た映画より見ていない映画の方が多くて、出会う人、行く場所、他のあらゆる経験に対してもそうだ。
タイトルを手がかりに考えると、知り得ないことを認識しようとする意図を感じた。決めつけるのとは遠い繊細さで、感覚を積み上げている。
球体の光を包む球体の夜 雪抜きのスノードームで
雪抜きのスノードームは地球のようにも思える。地球にいながら地球のまるさはなかなか実感できないけれど、家や車の明かりを内包する地球の夜は確かにまるいかもしれない。
許そうとしていた心に作られた門だけがまだ残されている
許す相手がいなくなったり、許しを乞われなかったりしただけでなく、心そのものがなくなってしまった荒涼感。それでも門はある。完全になかったことにはならない、というのは、さみしい祈りだと思った。
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第65回短歌研究新人賞
本当にいまさらだし、あまり関わりたくもないのだけれど、短歌を続ける以上無関係ではいられないしこのままでは黙認しているようで気持ちが良くないので、書いておく。2022年度の、第65回短歌研究新人賞について。
もともと問題視された当初に書くだけ書いてはいて、でも誰に見せる意味もないかと公開せずメモ帳にしまっておいた。
いま表に出そうと考え直したのは、今日がちょうど2023年度の第66回短歌研究新人賞の締切で、郵便局が閉まった夜���らどう読まれても応募者に与える影響はないから、というのと、私ひとりが出した結論には未熟な点がありえるので、人の意見も多少は聞いた方がいいと考えられるようになったから。読んでくれる人がいるかもわからないけれど、ここに開いて置いておこうと思う。
●経緯
新人賞選考委員のひとり、斉藤斎藤が、新人賞候補作「しふくの時」の選考座談会の中で、今回の応募作に学校生活や女性の生きづらさをテーマにした作品が多かったと指摘。女性差別が根強い日本で生きづらさを表明できるようになったのはよいこと、と前置きしたうえで、短歌の世界は外の世界よりはリベラルで、フェミニズム的な作品は「むしろ安牌」と批評した。
「そういう作品を応募作として出すことに、ちょっとだけ考えてみてほしいんです。本当にこの視点に乗っかっていいのだろうか。ここにあるのは社会的な意義であって、文学的な意義ではないのではないか」
2022年短歌研究7月号P.51
また、同座談会で別の選者である加藤治郎も、「この作者は資質がライトバースなんですよ。あまり社会性にコミットしないで、もっと気の向くままに、軽やかにうたったらいいと思う」と話していた。
これらに対する大方の批判点は、濱松 哲朗のこのコラムに詳述されている。
本当にほとんどの記述に同意見だったので改めて自分が何か言うことはないのでは、と思うけど、2点付け加える。
●誤読した方が悪いのか
「安牌」を「安易」と誤読した批判に対して、斉藤斎藤は「丁寧に読んでほしい」と自身のTwitterスペースで話していた。私も最初は誤読していたが、こちらとしてはそれを言うならもう少し丁寧に書いてほしい。でもこれは相互に平行線かもしれない。
●選者はテーマに口を出せるのか
短歌そのものの巧拙を越えて、作者の選んだテーマに対しても選者は介入できる��か。
斉藤の発言の核は最後の一文、「ここにあるのは社会的な意義であって、文学的な意義ではないのではないか」だと受け取るとして、それならテーマの再考以外に、「文学的な」意義を獲得するためにその作品には何が必要かを論じた方が、選者・作者にとっていいと思う。
あとは他の受賞作を巻き込まないでほしいとか、執拗に負荷のかかる質問をいち応募者にし続けないでほしいとか、発言内容というよりその後の対応にどうかと思ったことは残しておく。
ここからは個人的に、これからどういうふうに短歌と関わっていきたいかの話になる。
●批評すること
短歌は自分の経験や感情をストレートに作品にする作者も多いし、読まれるときも、作者と、短歌の視点人物が同一視されることが多い。作者自身の個人的な葛藤や抗いが、作品により直接的に含まれていることもある。
一方で、短歌は評で人の作品に言及することが比較的しやすい。批評というかたちで、個人の傷を抉っていないかと自省した。
短歌の巧拙から、テーマ(となった経験や感情)の重さ・深さの度合いを、読者が感じ取ることは避けられないけれど、それをそのまま「作者にとってこのテーマ選びは軽い、浅い」と判断するのは危うすぎる。
●賞に応募すること
個人的すぎる言葉だと、誤読され、理解されない可能性がある。でも普遍的すぎる言葉だと、「文学的意義」がない、誰でも言える言葉になってしまう。それはわかるのだけれど、でも評価基準は選者や読者によって大きく左右される。
人間になって間もない生きものよ見ておくれ世界のいいところ
小松岬「しふくの時」 私家版
30首すべてが載った私家版「しふくの時」を読み、その中で私にとって最も切実だと思われた一首は、雑誌に掲載もされず座談会で触れられてすらいなかった。
それはまあ短歌に対する造詣の深さや好みの違いだとしても、斉藤斎藤が「しふくの時」と比較して評価していた昨年の短歌研究新人賞受賞作、塚田千束「窓も天命」の中の一首も、当時加藤治郎の方は「わからない歌」と話していた。
斉藤:去年の塚田千束さんの受賞作で「目を狙う ボールペンでも鍵でもよい夜道を歩きながら反芻」があったでしょう。「くらがりを避けずにひとり歩けたらそれがわたしの最初の至福」(小松の「しふくの時」内の一首)は、その一般論になってしまっていて、塚田さんのほうがいい歌なんじゃないかと思うんです。
2022年短歌研究7月号P.51
加藤:わからない歌がありました。「目を狙う ボールペンでも鍵でもよい夜道を歩きながら反芻」。これは誰かの目をボールペンで突きたいという衝動の歌ですかね
2021年短歌研究9月号P.90
加藤の発言のあとに、同じく選者の米川千嘉子から「暴漢や痴漢に襲われたときの反撃の作法」と補足が入ったので選考に影響はなかったと思うが、選者でも自分の経験していないこと、想像できないことを読み取るのは難しい。
個人的な言葉と、普遍的な言葉のバランスを取る必要があるのはわかる。ただ個人的な言葉をどれくらい理解してもらえるのか、という疑問は残る。
誤読のうえで的外れな批評をされたらたまらないが、私が気づくのが遅かっただけで、みんなそれを了承したうえで短歌をつくっているのかもしれない。
えっそこまで許容しないといけないならきついな、短歌やめた方がいいか? と一時期は思ったものの、落ち着いてから考えたら、私がいやなのはこちらの意見が届かない批評であって、双方向的な歌会や感想のやりとりは大丈夫だった。もし問題があれば都度話をすればいい。
なので、短歌をやめる必要はないかなと思い直したが、賞に応募するのはよく考えようと思った。とりあえずmoment joonがゲスト選者になっている笹井賞と、ふいに30首できた歌壇賞までは去年応募してみたので、今年どうするかはゆっくり決める。
短歌研究新人賞は、斉藤斎藤と加藤治郎が選をする限りもう出さないと思う。短歌を預けたいと思わないし、応募することで去年の発言や対応が問題ないという暗黙の承認になりそうだから。
でも気にならない人は出したらいいし、応募する人を責める意図はない。というか人のやることにまでどうこう言うほど私はこの件に関して熱心ではない。自分のやることについて中途半端に潔癖すぎるところがあるだけです。
最後に少し自分のことを。
評によって、救われたこともある。自分の短歌が届いたことを、「伝わりました」「こう受け取りました」と言葉にしてもらえることは、そこに傷跡があった場合、ある種の手当てに近いものがあると思う。たとえ誤読だったとしても、表情や、言葉選びや、うまく言えないもどかしそうな話し方から、わかろうとしてくれた読み手の真摯さは伝わることがある。それは実際の経験として知っている。
当然、思ったとおりの反応が得られなかった評もあるけれど、自作の短所がわかることもある。たとえば過去に、そんなつもりはなかったのに性愛の歌と捉えられたことがあって、でもそれは表現の仕方が悪かったというか、自分が性愛を想起させる表現に無頓着だったなと気づくことができた。指摘が丁寧だったおかげで、そう認識されたこと自体にダメージはなかった。
批評することが、傷に触れうることだったとして、触れること自体は悪ではない。無意識にでも抉るような触れ方をしたり、逆に過度な被害性を投影していないかに気をつけたい。
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2022年
世の中に追いつくためにはエネルギーが必要で、今年半ばから枯れ切ってしまうことが多かった。
運良く肉体も精神も丈夫な方だから、あとを引くようなダメージはない。でももう、ちゃんと知ること、判断すること、言葉にすることがほとんど何にも間に合わない。
2020年は職業によって生活が立ち行かず放置されることに、2021年はそれでも開催されたオリンピックに、2022年はロシアの侵攻や国葬や軍事費の急増に、どうして、と怒りをおぼえた。おぼえている。そして日常の中のぎりぎりの抵抗さえ無効化しようとする冷笑に、怒りとともにあきらめのような、どうしたらいいのかわからないような、もう勝手にしていてほしいような気持ちがあった。
自分がつねに正しいとは思わない。でも現状が善だとも思えない。
こういう話で面倒な人と認識されることは知っている。怒りが共感を呼ばないことも、そもそも素通りされるのがほとんどだろうことも知っている。みんな疲れている。答えがなくうつくしくもない現実の話に割く余力なんてある方が稀だ。
でも私がなんともない顔で生活をしている横で、ぎりぎりの足場を切り崩されて、耐えられなくなる人もいる。私はその人たちの顔を知っている。その人たちに会えてよかったし、友人でいたいと思っている。
その人がその人のままでいられる社会になってほしいと思っている。
沈黙は悪だ、と誰かを責めることはしたくないけど、自分が切り崩される方の立場になったとき、黙考と黙殺の違いは、外からだとわからない。
一方で、自分だって黙っていることの方が多いくせに、とも思う。でもすべてに抵抗するのはたぶん無理だ。自分の心臓の持ち時間を怒りに捧げ切ってしまいたくない。
半端なままで、迷ったままで、余力があるときだけでも、遅くても、本当にいいかはわからなく���も、でもゼロになるよりはたぶんいくらかはましだと思う。
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『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』
野村日魚子の第一歌集。死者の気配が色濃いけれど、最終的には生きている人が生きている人に宛てた本だと思った。
章立てや、生者の章の扉絵があしらわれた表紙の装丁から、勝手にそうだと受け取っている。
歌の内容も、だんだん実体をともなっていくように読める。
実在の夜はたくさんの長いお話 みく、死者たちを寝かしつける役
雪が四角ではないのとおなじように死んではいないのだあなたも
「死者の章」より。
日本語に似た別の言語で書かれたんじゃないか、と思えるのがこの歌集の魅力のひとつで、死者の章は特にそれが際立っている。
何度か読み返して、言葉が違うというより、この歌集にはいまの地球とは別の世界史があるんじゃないかという印象を持った。
作者の意思のもとそうなったのではなく、ただ別の歴史が層をなしていて、途方もない長さのなかをあるひとりが歩いて、断片的な年表として書き写したような。
やっと人間にしてもらった朝見る雨をお守りと思うみたく生きなよ
「おまえすぐ死ぬって言うから」散らかった靴がいますごくとおいひかり
「生きている人間たちの章」より。
このあたりからすこしこちらの世界に近づいてくる感覚がある。定型に近い歌も多い気がする。
定型からどう外れているか、その効果はどうか、という見方もできそうだけど、それより短歌の圧縮/解凍のはたらきのことを考えた。
短歌に限らず文字数の制約がある詩系は、すべてを描写することはできない。言い切れない空白部分、文字にされていない部分に読む人が手を伸ばすことが、短歌における圧縮/解凍だと思っている。
そこにいないけれど、気配があるものを見ようとする。
それは生者が死者の存在をつかもうとするときの手つきと重なる。
ぼくはまだ死にたくはない前髪の雪をはたいてゆく青信号
( )の章より。
明るい場所で読み直して気づいた。ここだけ紙質が違う。このあと「嵐になる」の章が来て、世界史は終わる。
この歌集の次に、韓江の『すべての、白いものたちの』を読んだ。
春の録音室で、私はこの話はしなかった。その代わり、幼いころに飼っていた犬について話した。(中略)生きていたときの記憶は不思議なほどに、ない。鮮やかなのはただ、死んだ日の朝の記憶だけだ。真っ白な毛と、真っ黒な目と、まだしっとりと濡れていた鼻。あの日から私は犬を愛せない人間になった。手をさしのべて犬ののどや背中を撫でてやることができない人間になった。
「すべての、白いものたちの」
私たちは遅かれ早かれ絶対に喪失するし、ほとんどの場合そのうえで生活を続けなければいけない。
だから弔いや、宛てた言葉が、どれほどこころから死者に向けたものであっても、最後には生きている自分たちにかえってくる。生きている人たち同士のものになる。そう思う。
遠くの人に届くのが手紙 つまりこれがそうなのとてもうれしいでしょう
「嵐になる」の章より。
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colony展
国分寺のカフェ slowで、展覧会『colony vol.3』を見てきた。
写真を撮り忘れたのでまったく何を言っているかわからないかもしれないけれど、うれしかったので見た順に感想を書きます。(敬称略)
Koshi Asahi
貨幣と人類への批評的な投げかけは、形を変え手法を変えそれはもう繰り返されてきたことと思う。だから新しさというよりは、複製され続ける紙幣への批判も複製され続けていること、この作品の紙幣も模造されていることの面白さと皮肉を感じた。
sasakure.
初めて会うのにどこかで身に覚えがあるような、長い時間をかけて忘れてしまった幼少期の夢のような作品だった。温度が低そうな静けさがとてもすきです。安心する。夜道で振り返ったとき、この風景にいつかもう一度出会いたい。
OX
"framework"を骨抜きにしつつ、額の外郭が動きのあるかたちに再構築されていて、作品のテーマと姿が一貫している強さを感じた。
初見では対面に展示された絵画と関連しているのかと思ってしまったので、絵画>額という無意識の認識ごと問われた気がする。定型は固定化されたものではなくて、たまたま今そこにあって作用しているだけ。と思うとうれしくなる。
藤田モネ
見ていると顔が色の向こうから浮かび上がってくる。森に分け入っていく感覚で眺めていられた。ごりごりと盛られたセメントの質感が楽しくてさわりたくなる。右手の椅子の上にある作品が、空の上から見た島々のようで、飛行機に乗ったときのことを思い出した。
咲子
今回の展示で一番なまっぽさ、肉体っぽさがあり、どきっとした。(私が肉体を苦手にしているせいです)
机上のゆびたちは直視し続けると動きそうで、夜になるとあと一、二本生えてきてもおかしくない。でもよく見たら愛着が湧くのかも。不思議なフォルムだった。
石田
タイトルも順番も外された短歌連作はたぶん初めて見た。一首ずつが飛び石くらいの距離感になっていて、物理的な余白が歌と歌との時間的な余白にもなっていた。
背伸びをして、しゃがみこんで、主体と重なっているのかもしれない視線で、辿るように読んだ。紙面で順序立てて読むときよりゆっくりできて、歌と束の間同じ時間を過ごせた気持ちがしてうれしい。
夜夜中さりとて
親切にも用意された双眼鏡で、開かれたノートを見る。すこし遠くから、どうぞ、と迎え入れられる感じ。タイトルのちょっと切実な印象が覆されたとき、それでもわざわざ見ること、読むことを考えた。
どうしても伝えたいことでなくても、こまごまとしたシーンを歌にして差し出されて、それを覗きこんでまで読む。どうしてもじゃないこと(と、言葉通りに受け取ってみる)を伝えてくれてありがとうと思った。
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月記 8月
弱音です。
現実の話をしているので見たくない人は見ないでください。
去年の夏よりはましになると思っていたのに今年の夏も大概酷かった。
トランスヘイトもコリアンヘイトも止まらないし、性加害は不起訴にされるし、本当にインボイスやるんですか?だし、本当に国葬するんですか?だし、べつに夏に限ったことではなく、夏は悪くないのだけど、体感として酷い夏だった、と思う。たぶん少し疲れていた。
自分は倫理観がちゃんとした方ではないから、他人や、自分の属するコミュニティへの誹謗中傷を見ても、そこまでダメージを受けず淡々と通報できるタイプだけど、それでもいろいろなことが重なって、言葉が出てこなくなるときがあった。いまはまあまあ大丈夫になってきた段階です。
難しいのは、差別や理不尽に反対します、と言うとき、べつの何かを矮小化したり、抑えつけたり、議論の方向性を間違ったりしていないか、ということ。一度やってしまってから怖くなった。ハッシュタグデモは便利だけど、誰が発信元で、どんな意図があって、意図せずともどんな影響を与えているか確かめないとなと反省した。じゃあ確認しろという話ですが、情報を継続的に処理する気力がなくなっていって、疲れているなとわかった。
そんな中でも、発信元の確かな情報や当事者の方の意見は読める範囲で単発的に読んでいたから、RTしてくれる人ありがとう、と思う。同時に、RTされないと気づかないことが多くて、自分は平和なタイムラインにいるだけだな…とも思う。
疲れていたと言うくせにわざわざこんなことを書いているのは、言葉にすることは確かに疲れることもあるけど、言葉にしないことは自分にとってそれ以上に居心地が悪いと気づいたから。じわじわと息が詰まっていく。140字には到底収まらないからTwitterで何か言えることは少なく、内容も頻度も圧縮するけど、本当はこれくらい文量を割かないとちゃんとしたことがうまく言えない。だからこれは自分のための、回復の一手になればと思う。
夏だけで終わることなんてきっとないから、素通りしそうになるものをこうしてときどき取り戻せたらと思います。
最初から暗い話になってしまったので、よかったことも書いておく。
友人とたくさん話した。
部屋が片付いた。
コロナで観劇の予定が2回飛んだけど2回とも別日に行けることになった。
TANKA SONICで好きな音楽が増えた。
1年抱えていたことから来月末には解放されることになった。
『マイスモールランド』をやっと観れた。
そのあとクルド人の方が日本で初めて難民認定された。
春雨が冷たくて夏に食べやすいと気づいた。
久しぶりの場所でいまも店を開け続けている人に会えた。
以上です。
来月はよかったことが増えるといい。
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can (not) reach
ものを見るときの身体が邪魔、ガラスに反射する自分の姿や、照明を受けて落ちる陰がなくなってほしいときがある
でもときどきそういう自分の感覚を溶かされるときがあって、今日がそうだった
外の人の声が少し大きくて、イヤフォンでノイズを流しながら絵を見ていた
入っていける感覚があった
レイヤーの境界に光る線、奥に陰、手前の白い靄の向こうに何かある
布を一枚めくってその先に行けるような
でもそうなったのは束の間で、あとは何度見ても同じ感覚は戻ってこなかった
 
大きな絵を描くときは離れなさいと言ったのは高校の美術教師だった
近くで手を動かすばかりでは全体のバランスを失うから、離れて見て、それから近づいて描き込む、そしてまた離れて見て、その繰り返し
もう随分絵を描いていないけど、見るだけのときもよくそうしている
入っていける、と思ったそのあとは、むしろ離れるときの方が身体の感覚と一致していた
溶かされたものがもとに戻っていく感覚
自分の身体を忘れることは、映画や演劇を観ているとたまにあって、動きがあるからそうなりやすいんだと思う
できればずっとそういうふうに観ていたいけど稀にしかない
文章だと残念ながらまだなったことがなくて、自動的に自分の認識を通してからでないと受け取れていない気がする
言葉だと自分から逃れられない
絵や写真はおそらくその中間で、動きは一瞬だけど意味を拒むことはできる、のかもしれないと思った
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アイヌと短歌
毎日文化センター主催、松村正直さんが講師の短歌講座を受講した。印象に残ったことを3つ書きます。(許可をいただいています)
まず自分のこれまでの環境に引きつけて考えることがたくさんあった。松村さんの手引きのおかげもあって、それぞれ固有の問題の中に、やっぱり共通の構造はあるんだよなと思えた。
まだうまく言えない部分は言わないままにしておきたいから、抽象的な言い方になるけど、世代間の言葉や文化の分断、差別や同化の内面化のあたりで特にそう感じた。
川村湊編『現代アイヌ文学作品選』を事前に少し読んでいて、使命感の強さというか、どの人も表現が本当に直球だな…と思っていた。「アイヌ語が禁じられて日本語を使わざるをえない状況だった」と聞くと、強さの根本にある切実さを少しは意識できそうな気がする。
二つめは、和人がアイヌについて書くとき、よく体臭の違いに言及していたという件。「個人としても、民族としても個々の体臭はあって」と松村さんがお話されていたのが印象に残っている。ポン・ジュノの『パラサイト』を思い出した。その人のいまの生活やこれまでの環境が、他者に感知されやすいかたちで一番外側に表れるのがにおいなのかなと思う。遠巻きに見ているだけの人には絶対にわからないことだ。引用されていた前田夕暮をちゃんと読んでみたい。
最後に見るものと見られるものの関係について。観光の一種としてアイヌの家族と記念写真を撮ったり、熊送りの儀式を擬似的に披露させたりした、それがアイヌの人たちの収入源にもなったから、善悪でどうこう判断できることではないという話。そもそも制度上の問題で経済的に苦しめられていた事情もあるとは思いつつ、金銭のやり取りに関わらず見ることって避けられないよなとも思う。
記念写真があるから当時の人たちを私は今日見ることができたし、擬似的にでも熊送りを直接見る機会があれば、書籍や映像で知った知識とは全然違う手触りがすると思う。でも特別視しないで放っておいてほしい、という人もいるかもしれないから難しい。消費にならない見方ってどういう態度だろうなとまた考えた。
まだわからないけどたぶん、なるべく忘れないようにすることはできると思う。だから今日のことも書いて残しておく。
受講できてよかったです。ありがとうございました。
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『ラストナイト・イン・ソーホー』
正月休みは1月1日に割引料金で映画を観るためにあるな、と気づいていちばん楽しみにしていた映画に行った。
新宿で観て大正解だった。
60年代のロンドンとはもちろん違うけれど、繁華街のネオンとか客引き、油断ならない街の雑踏につい情景を重ねてしまった。
怖がらせる演出が必然の物語だったなと思う。性暴力の加害者がのっぺらぼうとして現れる表現が作中に出てきて、その見目の怖さは当然なのだけど、それとは別に「誰が信用できるかわからない」という恐怖も掻き立てられた。顔がないということは、誰にでも当てはまるということだ。
だからずっと、エリーの男友達のジョンが大丈夫か疑ってしまった。というか、絶対に裏切ると思っていた。親切そうな人が一番信用ならない。そのお決まりに沿わないでくれたことが、本当に嬉しかった。エリーとアレクサンドラの結びつきだけでなくて、エリーとジョンの関係も描かれていたことが、救いだと思う。
シスターフッドは必要だし、これからもいろいろなかたちで描かれ続けてほしい。でもそれだけに留まらないで、間接的にとはいえ、引き起こされた暴力の決着に男性が手を貸すーーというと言い過ぎかもしれないけれど、少なくとも真剣に取り合おうとしてくれるのがよかった。彼もロンドンで(もしくは英国社会全体で)大変な経験をしたのかもしれない。でも彼の優しさをそれだけに根拠づけるのは誠実ではないと思うのでやめにする。
一方で、エリーとアレクサンドラは確かにつながった部分もありつつ、完全には痛みを共有できないのが現実的だった。アレクサンドラはずっと気丈で、エリーに救われようとしなかった。それこそが彼女の受けた傷の深さだと思う。
たとえばエリーが、デザイナーを目指すうえでアレクサンドラと同じ目に遭っていたら違ったかもしれない。実際そういう設定にしても不自然ではないと思う。しかしエリーは、危うい場面はあったもののそうはならず、ジョンの助けを得ることができた。穿ちすぎかもしれないけれど、60年代とは違う・違うようにしなければという意図であったなら嬉しい。
監督のインタビューが公式HPに掲載されていた。
…“活気あふれる60年代にタイムトラベルできたら最高だ”と考えても許されるかもしれない。だけど、そこには頭から離れない疑問がある。『でも本当に最高かな?』…特に女性の視点で見るとね。
…60年代を生きた人と話すと、大興奮しながらワイルドな時代の話をしてくれるんだ。でも、その人たちが語らない何かのかすかな気配をいつも感じる。
憧れの時代や地域を、ただの楽園としてではなくて、陰も光も見ようとしている。難しくて大事なことだと思う。
ただすでに指摘があるように、性暴力の描写があることは予告してほしかった。見つけられなかっただけかもしれないけれど、日本の公式サイトや、英語圏の公式YouTubeアカウントにはその旨はなかった。R指定になるほど過激ではないし、一般的なホラー/サスペンス表現と言えなくもないラインだった気はする。とはいえ万人にとって大丈夫とも言いにくい。私は平気だったけど、それはこれまで運よく、そういう体験をしたことがないからだ。
お節介を承知で、公式から事前の注意喚起をお願いできませんか、とダメ元で問い合わせしてみた。英語が伝わるかどうか自信はないが、とりあえず自己満足でも、作品を好きでいるために自分ができることをやれたらと思う。同時に、正義感の暴走みたいにならないようには気をつけたい。
でもとにかく観れてよかったのは本当。サントラを聴いて踊りながら帰った。
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Light house
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マームとジプシーを観るのは二度目で、一度目は『ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜』だった。ふしぎと海に縁があるなと思う。
海というと、上間陽子の『海をあげる』もごはんの話から始まって、水の話につながる。やっぱり縁があるなと思う。
短いリフレインと長いリフレイン、順番に翻ってもとの位置に戻ってくる身体、寄せては返して同じように見えて、まったく同じものは二度とない。そういえばこれは再演だったことを思い出す。
私がこのテーマの作品にそこそこ触れてきたからか、後半は意外なほど予感していたとおりの運びで、いままでも何度となく観てきたもので、それなのにずっと目が離せなかった。「生きているほうが不自然だった」、その場面で生身の身体が動いていることの説得力。何度も観た、と書いたものの、きっといまはこういうふうにしか語れないし、それで何も過不足はないのかもしれない。
終演後に、たくさんの人が最前列で無人の舞台を眺めていて、それはもちろん舞台のセットを見ているのだろうけれど、波打ち際に並んで海を見ているように思えた。私もその列に入った。うれしかった。
豆電球の揺らめき、帆の影、波の音、今日のことをずっと覚えている。
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いつかあり得るその日を
4/15 戦争の話をしています。自分の整理のための文章で読みやすくはないです。
ブックマークを埋め尽くしていたロシア侵攻を報じる記事がなくなって息をついている。目の届く範囲から消しただけでなかったことにはならないのに嫌気がさす、といまこれを書いている自分のこの立ち位置はなんなんだと思う。
第一報のすぐ後、ニュースの概要が理解できる程度の知識だけは入れて、UNHCRに寄附した。こういうとき善とか偽善とかは考えない。#StopRussianAggressionとツイートしたけれど、ロシアの人たちも同じ気持ちだったことを後日知って、Russianというより Putinだったなと少し申し訳なくなった。
以降はかろうじて時間のあるときに報道を追うのがやっとで、それもだんだん減っていった。
結局キーウ近郊の実害を記事で読めたのは、ウクライナの首都奪還後だった。見る前に注意喚起がされている写真に対して怖気付いていたわ��ではなくて、そういう繊細さはあまり持っていないから、単に情報が多すぎた。この一週間で一気に何十本かの記事を読んだ。
そして報道されない地域のことを思った。ウクライナの首都の名前を今回初めて知ったような自分がなにも言えたことはないのだけど。すでにある情報にさえ溺れそうなのに、さらに多くの、知らないことがあって、そのうちのひとつひとつに人が戦争で殺されたことが含まれている。
「無抵抗の市民が」という言葉が頭でしか理解できていないのは、たぶん激戦地だった土地柄、いま思えば結構ハードな反戦教育を受けてきたからだと思う。無抵抗の市民が、丸腰の人間が真っ先に犠牲になる実話を、映像を、何度も見聞きしてきた。それがまさしく戦争のイメージだった。実際「兵士だけが戦うスタンダードな戦争」なんてあるのかもわからないけれど、いや兵士だって殺し合ってほしくないのが正直な気持ちだけど、少なくとも「戦争犯罪」と聞くたび、戦争ってそもそもそういう犯罪の坩堝じゃなかったっけ、と違和感がある。このあたりはまだ感覚の調整がうまくいっていない。
短歌や小説で反戦表明しようなんてちっとも思えなかった。ぎりぎりできた表現は、戦争の光景をメディア越しに見ている自分、までだった。どうやってもそれ以外は他人事になってしまうと思った。
それでもいろいろな人がつくった、いまのこの状況に向き合った跡が残るような短歌がいくつかあった。読んだとき胸に来た強さを忘れたくないと思う。
同時に、一見戦争の重さに押し負けているような作品があったとしても、それはその人なりになんとか消化しようとした結果なのだろうなとも思い直した。いまはそう考えられる余裕がある。
しんどいから見ない、見れないと言っていた人も、何も言わないけどたぶんしんどいんだろうなと推測できた人も、少しずつタイムラインに戻ってきていて、そのことはすなおによかったと思う。
注意喚起されていた写真��、路上で殺された人が横たわっていて、その側を生きている人が歩いていた。ロシアの占領下では長く埋葬が禁止されていたと書いてあって、もう歩くしかないんだとわかった。軍が撤退して、やっと遺体を収容する人が動き出せたばかりのようだった。
無力とは絶対言いたくない、そんなわけない、いつかあり得るその日を最大限遠ざけるためにできることはあるはずで、どんな小さなことでも浅はかでも、間違っていないか怖くなっても。
夏頃にまた入管法の見直しを進めるとあった。難民に当たらないとされる人を避難民として保護する、それは一見寛容なようで本当に? と問うべきことだし、これまでの横暴といま続いている裁判に向き合ってからにしてほしい。
戦争がたまたまない国でできることのひとつは、戦争がたまたま起きてしまった国の人たちを、できるだけ迎え入れることだと思う。
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