Tumgik
1010mush · 4 years
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I have translated my fan art by myself. This comic was meant to be the answer of why Sugimoto was upset when the newspaper misspelled his nickname, Fujimi. As it was revealed that Asiripa is not familiar with Chinese characters (kanji), Sugimoto Must have teached her how to write his nickname. Q.E.D!
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1010mush · 5 years
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Angler Pot
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1010mush · 5 years
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カネ餅
Kanemochi
240g rice powder, 200cc hot water, 40g chestnut and 3 teaspoons MISO
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1010mush · 5 years
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カネ餅
Kanemochi
240g rice powder, 200cc hot water, 40g chestnut and 3 teaspoons MISO
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1010mush · 5 years
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Eat to kill / 殺すまで死ねない
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1010mush · 6 years
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茨戸編での尾形は何だったのか あるいは沈黙する破戒神父・鶴見中尉はなぜ死神を自称するのか
ガッツリ本誌176話まで。
1、序 鶴見と尾形の言説の不思議な酷似
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
こと江渡貝母への発砲については、私は鶴見の言い分をずっと好んできた。ここでの鶴見の江渡貝への殺害の示唆は正しく思える(母君は元々死んでいたから私にも倫理的禁忌感がない)。鶴見は時折とんでもない正しさで私を苦しめる。硬直した仲間の死体に向かって「許せ」と言う男。同じ4巻の回想には、マシュマロでゴールデンカムイには珍しい雲吹き出しで内面が記されていることも教えて貰った。
まるで死の行進曲のようなマキシム機関銃の発射音 この無駄な攻略を命令した連中に間近で聞かせてやりたい
私は鶴見中尉の内面描写が少ないという通説をとてもとても疑問視している。これはもはや読み手の願望に近く、検討するのであれば幅広い読解が必須であろう。ゴールデンカムイの人物は総じて内面描写が少ない。それところか、当初は梅ちゃんと寅次についてあれだけ饒舌だった杉元の内面は、「俺俺俺俺俺俺俺俺俺」という叫びとは裏腹に、「俺」も、その内面も、徐々に欠落を始めてしまったのだ。15巻にはアシㇼパの顔を思い出せていないのでは無いかと思わせるカットすらある。15巻で杉元の『妙案』が宙に浮いたままであるのは象徴的だ。私たちの心が取り残され、疑問は解決されず、1つの核心だけが深まるーー杉元佐一は自分を失っている、と。この話は杉元が梅ちゃんに認識されるような自分を取り戻す話出会った筈なのに(そしてそれを認知できない杉元は、梅ちゃんに自分を認識してもらえるように視力回復に躍起になる)、旅の過程で彼はますます自己を喪失していく。
これから延々と鶴見の話となる。
2、死神の自称
鶴見は意図的に自分を失わないために死神になることを選んだ男である、というのが私の基本的な考えである。それは「脳が欠けているから杉元佐一は自分を見失っている」という説を遠回しに否定する存在である。だいたいにして脳が欠けていなかったら杉元はスチェンカで相手を殴り続けなかったと言えるのだろうか。まぁ、杉元の話はさておくとして、それはおそらく尾形のこういった態度と対照づけることも出来る筈だ。
俺のような精密射撃を得意とする部隊を作っておけばあんなに死なずに済んだはずだ
今となってはどうでも良い話だが
鶴見は「今となってはどうでも良い」をやり過ごさなかった男である。一度は鶴見の腹心の部下であった筈の尾形は、戦後も心を戦場に置いてきたのではなく、戦場の側を自らに引き寄せようとする鶴見(や土方)にたいして冷笑的な視点を浴びせ続ける。
仲間だの戦友だの……くさい台詞で若者を乗せるのがお上手ですね、鶴見中尉殿
変人とジジイとチンピラ集めて 蝦夷共和国の夢をもう一度か?一発は不意打ちでブン殴れるかもしれんが政府相手に戦い続けられる見通しはあるのかい? 一矢報いるだけが目的じゃあアンタについていく人間が可哀想じゃないか?
ここでの尾形の「正しさ」は、鶴見の「正しさ」とは違い私の心の拠り所になっていた。尾形が「いい人になれるよう 神様みていてくださろう」に適合するような行動をすると私はいちいち救いを求めてしまい、彼の行動がいつも噛み合わず言説が否定されるのを見てこの男の救いのなさに頭を抱えていたのだ(まさに本誌の『176話 それぞれの神』で現れた関谷の神にすがる心情である)。そして鶴見は、月島をある意味救ったが、尾形を救うのには失敗した。むしろ鶴見は尾形を利用するだけ利用していたように思えた。
尾形と鶴見と親殺しは4度交錯する。江渡貝。花沢中将。月島。ウイルク。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
たらし めが…
尾形にとって鶴見の取り巻きであることが幸せなのかどうかは分からないが、他の造反組や、あるいは役目を見つけて下りた谷垣とは異なり、尾形は鶴見を『切』った、数少ない人物である。尾形は、月島同様戦前から鶴見の計画に加担していたのにもかかわらず、鶴見中尉から月島と同じ様に扱われなかった人間でもあった。
江渡貝の母殺しに関しては鶴見にも見るところがあると考える私も、この鶴見の花沢中将殺しにおける尾形の扱いが原因で、長らく鶴見のことをよく思えずにいた。さらに15巻149話、150話で鶴見が月島を父親殺しから救った(?)事実や、本誌にて戦前から尾形が鶴見の命で勇作を篭絡および殺害しにかかっていた事が判明した事を鑑みて、鶴見の風見鶏的態度に辟易していた。加えて言うのなら、ゴールデンカムイの中に時折現れる聖書に基づく表象や、それに対するキリスト教に軸足を置いた読み解き方というのは私が最も苦手とするところであったが、一方で鶴見が71話の表紙にて不完全に引用された聖書の一節を通じて『にせ預言者』(マタイ7:15)であると示されていることを筆頭に、いくつかのキリスト教的モチーフを(ところどころで反語的に)取り込んだキャラクターであることも否めずにいた。
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。(wikisorceの口語訳より)
そもそも鶴見もまた、その他大勢のキャラクターおよび我々と同様、多面的な人物として描かれている。偽預言者であり、彼の演説はヒトラーのパロディとして描かれるほど(作者によるとミスリードらしいが。Mislead? Misread?)だ。そして、外敵に対しては自らのことを死神と称しながらも、仲間に対してはむしろ告解をうける神父の役割に近いものを演じ、坂本慶一郎とお銀の息子の前では聖母マリアとなり、月島や杉元と共有する傷は、スティグマと見ることも出来るだろう。キャラクターデザインには、明らかに鶴の要素が取り入れられている。さらには編集者のつけた仮面を被る悪魔、という表象ですら許容される向きにあるのだから、鶴見も大変である(悪魔という呼称は江渡貝の母によっても齎されている)。私がこの鶴見という、出自も分からぬいろんな人形が載せられたクリスマスケーキを長らく食べる気になからなったのは、そこに土俗の信仰と西洋的信仰が混ざり合って、あまつさえ鶴や死神の細工菓子まで載っていたことを考えると不思議ではあるまい。
私はどこかで、にせ預言者としての鶴見、という表象の正当性についてすら、もしかして議論になるのではないかと辟易している。不信の徒である私の読み解ける事項など限られていることは重々承知だし、そもそも私はゴールデンカムイを読み解くときに、作中での記載を第一に考え、外的世界に存在するマキリで作品をチタタプしない様に細心の注意を払ってきた。最近ラジオが出現したことで、ようやく文言に尽くし難かったそのバックグラウンドをまとめる事ができたような気がするが、私は解釈を取り払った読み方が先にくることを好むし、そもそも『らしさ』への拘泥は私の目を曇らせるのではないのかと考えている。とりわけキリスト教を扱う時には、竹下通りで千円で買った十字架のアクセサリーを身につける女の子のようにならないためには、むしろ触れずにいるのが一番なのではないかと長く考えていたものだった。それが私の最低限の敬意の示し方であった。
とはいえ、キリスト教と日本の間での困難を感じていたのは何も私だけではなかった。多くの作家がそれに苦しみ、むしろその困難を以って、日本を描き出そうとする作家もいた。もちろん私の考えでは、作家の作るものに於ける宗教的解釈は、仮に異端であっても一つの芸術作品になり得る一方で、評論家の宗教的解釈の異端さは、単なる誤読として片付けられる可能性がより高く、慎重を期するものであるのだが…。しかし私はだんだんと、そういったキリスト教と日本の狭間で描かれた作品であれば、鶴見像を見出せるのではないかと思う様になっていった。もっと言えば、私がキリスト教的表象を前にして立ち竦む、その逡巡自体を語ることならできるのでは無いか、と思う様になったのだ。
「にせ預言者ー貪欲な狼」「ヒトラー(ミスリード)」「マリア」「告解を受けるもの」、そして「聖痕」…を持つ「悪魔」で「死神」…の「鶴」をモチーフとした「情報将校」。
「にせ預言者ー貪欲な狼」に対してのとても簡潔な読み解き方は、単に鶴見が偽の刺青人皮を作ろうとしている、というものである。もう少し解釈を広げれば、鶴見が北海道の資源を活用して住むものが飢えない軍事帝国を作ろうと嘯くことであろうか。
軍事政権を作り私が上だって導く者となる お前たちは無能な上層部ではなく私の親衛隊になってもらう
これはヒトラーとして描写されていること(繰り返しとなるが、作者によるとミスリード)でもあり、ヒトラーとはたとえばその土地の出身では無いという点などでも共通点が見られる。実際には北海道はロシアと違って天然資源には恵まれておらず、またその後の軍事政権というトレンドの推移、戦争特需にも限りがあることを考えれば、金塊を持ってしても独立国家としての存続がおよそ不可能であっただろうことは見て取れる。
3、マリア、そして告解を受ける破戒的神父としてのあべこべさ
面白い事に、聖母として描かれる鶴見はほとんどもって無力であり、子をアイヌ的世界に属するフチに預ける事しか出来ない。
一方で「告解を受けるもの」、すなわち神父としての鶴見は極めて破戒的である。鶴見への告解は子羊たちの救済を意味しない。鶴見は誰とも共有すべきではない告解を共有することで、結束を強める「見返り」を期待する者である。教会に於いては告解の先には主による赦しがあることが期待され、十字架に架けられたキリストの苦難がそれを象徴していた。一見してキリストの苦難は鶴見の告解室においては「戦友は今でも満州の荒れた冷たい石の下だ」で代替されている。しかし鶴見の厄介さはその様な単純な構造におさまらないところである。一方で満州を彼らのいる北海道と分けて見せるそぶりを見せながら、時として「満州が日本である限り お前たちの骨は日本人の土に眠っているのだ」と口にし、それどころか戦争の前から月島・尾形らと何かしらの謀略を図っていたことすらわかり、『我々の戦争はまだ終わっていない』という悲壮にも満ちた決意が段々と『戦争中毒』である鶴見のハッタリであったことに我々は気づかされる。
彼への告解は何もかもがあべこべであり、神父の皮を被りながら極めて破戒的である。洗礼後ではなく洗礼前――つまり第七師団入隊前――の罪を、谷垣に至ってはあまつさえ衆人の前で告白させ、傷を共有させる。告解が終わった後に司祭は「安心して行きなさい(ルカ7:50)」というものだが、鶴見は自分に付いてきてくれるように諭すのだった(「私にはお前が必要だ」)。
破戒というのはあまり神父に使う言葉ではない。それでも、島崎藤村の『破戒』は、聖書のモチーフを色濃く反映させながら、被差別階級とその告白を描いた作品だったのだから、やはり破戒、と言う言葉はここにふさわしい気がする。
『破戒』において島崎が真に目指したのは、「身分は卑しくてもあの人は立派だから別」という、個人の救済を批判することであった。そのような個人の救済は、いわば逆説的に被差別階級の差別を補強する、矛盾した論理であったのだ。
この論理は2018年にも広く流通した。杉田水脈氏がLGBTに生産性がないと発言したことに、一部の人が、アラン・チューリングやティム・クックといった生産性のあるLGBTの名前を挙げて反論を試みたのである。このような言説が流布した後、リベラル派は、自分たちの身内の一部に対して、「生産性のないLGBT」が仮にいたとしても、その人たちも等しく扱われなければならない、とお灸を据えなくてはならなかった。
これこそ私が鶴見の恣意的な月島の依怙贔屓を、そして尾形の利用を、いまだに批判すべきだと考える理由である。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
誰よりも優秀な兵士で 同郷の信頼できる部下で そして私の戦友だから
私はこの差異に於いて鶴見を許す気は毛頭ない。それは、私が谷垣を愛しながらも、アシㇼパを人質に取った事を未だに許していないのと同等である。谷垣を受容するに至った経緯が、私に鶴見というキャラクターを拒絶する理由は最早ないことを教えてくれた。そしてよくよく読み解いてみると、この、一見すると月島への依怙贔屓ですらあべこべなような気すらしてくるのであった。
4、主格の問題 ー 「死神」という主語について
ここにおける問題は『主格』に於いても明らかだ。鶴見が月島に話す時の態度は、軍帽を脱ぎ、主語は「私」、時折「おれ」と自らを自称する親しみのあるものだ。その一方でしかし尾形へは軍帽またはヘッドプロテクター(仮面)を装着して主語をあろうことに「第七師団」に置いている。尾形の父殺しについては未だに謎が多く、発端が誰なのか(花沢中将自身・尾形・鶴見)、なぜ花沢中将が死装束を身につけられたのかを筆頭に、また鯉登少将への手紙をいつ誰が書いたのかも問題となろう。よって、尾形が鶴見への忠誠心を失いつつも自らの父殺しの願望を成就させるために鶴見の案に乗っただけなのかどうかは、よくわからない。とはいえ、自らが時に「どんなもんだい」と誇示さえする狙撃手としての腕を買わなかった第七師団への離反は、狙撃手と対称をなすような旗手としての勇作を評価し、勇作の殺害作戦を撤回した鶴見への、勇作の狙撃をもっての”謀反”を契機として、花沢中将死亡時に、すでに尾形の胸の内にあったと考えるのが自然であろう。加えて尾形も、どこかの段階で破戒的神父・鶴見への告解というステージを踏んでいたことも想像に難くない。
このように読み解いていくと、単に鶴見は月島にだけ心を許しているようにも読めるのだが、そうは問屋が卸さない。まずはいご草への呼称問題である。月島は自らのことを『悪童』ではなく『基ちゃん』と呼ばれる事に意義を見出しているのに、彼女の事を『いご草』と表現する(本当は鶴見との会話の上でも名前で呼んでいたのだろうが)。さらにそれを受けて鶴見は『えご草ちゃん』と彼女の非人格化を進め、さらには自らの方言も決して崩さないことで会話の主導権を握る。加えて、私は長らく、江渡貝と炭鉱での爆発に巻き込まれ、煤だらけで雨の中を帰ってきた月島への労いの少なさにも違和感を抱いていた。これも一つの「あべこべ」なのかもしれないし、あるいは月島への圧倒的信頼が根底にあり、彼なら心配に及ばないと考えていただけなのかもしれず、もしくは鶴見がヘッドプロテクターという仮面をつけた時の「死神」としての決意の表れかもしれない。
「死神」を自称すること。
そもそもにおいて、我々が日々感じている他人への判断、偏見、予断の集合体、例えば、あの人は秋田出身で大柄で毛が濃く少々ドジなマタギである、と言われたことによって”我々が想起する予断と偏見”と、漫画を切って話すことはできない。小説よりもさらに視覚的な漫画という分野においては、ステレオタイプと”キャラ”立ちするための記号化というのはほとんど隣り合わせにあり、分離することがむずかしい(この論だけで何百ページも割かなければ説明できないであろう)。それでも、だ。この作品のキャラクターほど、「あの人はこう言う人だから」と型に嵌める行為が適切ではない作品もないのではないか。
作品内で繰り返される「あなた どなた」という問い、あるいはその類型でのマタギの谷垣か兵隊さんの谷垣かどっちなのか、山猫の子は山猫なのか、という問い、そしてその問いに対するわかりやすすぎる「俺は不死身の杉元だ」という回答を、繰り返しながらもゆるやかに否定し続ける世界線の中で、「私はお前の死神だ」という言葉は鶴見の決意と選択を象徴しながらも、結局のところ杉元の「不死身」の様にアンビバレントな価値を持つ言葉の様にすら思える。
鶴見と杉元はスティグマを残す男である点も共通している。鶴見は月島が反射的に自らを守った際に微笑み、二人はその後スティグマータを共有する人物になった。
杉元と傷の関係については未だに謎が多い。彼自身が顔につけた傷についても多くが語られる事はない。時間軸として1巻以降で彼が顔に受けた傷跡はかならず治っていくのに、彼が周りに残していく傷は確実に相手に痕を残していく。なぜ尾形が撃った谷垣の額の傷跡は消えたのに、杉元が貫いた頬の傷はいつまでたっても谷垣の頬から消えず、尾形の顎には縫合痕が残り、二階堂は半身を失い続けているのか、分からないままだ。ずっと分からないままなのかも知れない。
そしてウイルクもまた、顔に傷を残す男性である。傷を残しても役目を終えない男たち。聖痕と烙印ーー両極な語義を内包するスティグマータを共有し合う男たち。それはかつての自己からの変容であり、拭い去れない過去の残滓でもある。そしてそれは、作中の男性キャラクターたちが「視覚」を中心として動き回ることと決して無関係ではないが、ここではその論に割く時間はない。
「あなた どなた」に対してあれほど口にされる「俺は不死身の杉元だ」を“言えない”こと。この言えない言葉について、私はどれだけの時間をラジオに、文章に、割いて来ただろうか。そのことを考えると矢張り、「あのキャラクターはこうだから」と言う解釈がいかに軽率にならないかに気を使ってしまう。たとえば鶴見においては、まさに本人が、「俺は不死身の杉元」よろしく「私はお前の死神だ」と言っているのだから、もうそれで良いではないかと言う気がする。「不死身の杉元」は杉元が不死身ではないからこそ面白みの増す言葉であるように、今まで見てきた通り鶴見も何も「死神」だけに限定するには勿体無いほどの表象を持っているが、その中で杉元が、ある種の悲痛な決意を持って、半ば反射的に「不死身の杉元」と口走る一方で、「死神」にはもっと計画的な、そして底が知れぬ意志の重みを感じるのは私だけだろうか。「不死身の杉元」にも感じないわけではないが、「死神」はより一層”選択”であった、という感じがする。偽の人皮を、扇動を、月島を、傷を、周りに振り回されることなく自ら道を切り開いて”選ぶ”という高らかな宣言が、「死神」である、という感じがする。
5、「運命」と「見返りを求める弱い者」
『役目』を他人に認めてもらうことが作品内でどれくらい重要なのかは難しいところだ。谷垣源次郎が役目を見出し、果たす事を体現するキャラクターとして描かれ、見出す事、果たす事の重要性は単行本の折り返しから我々に刷り込まれているとは思うが、その結果としての他者承認は必須なのだろうか。杉元や尾形が他者承認を執拗に追い求めている様に見える一方で、白石が、シスター宮沢、熊岸長庵、アシㇼパ、杉元と、認めないー認められないことをずっと体現し続けているのもまた面白い。
長年の谷垣源次郎研究の成果として、谷垣の弾けるボタンは、インカラマッが占いきれない予測不可能性と、それを元にした因果応報やら占いに基づく予測的行動の否定の象徴であると気付いて、私はだいぶスッキリした。網走にいるのがウイルクである可能性は彼女の占いに基づくと50/50であるが、これがウイルクではないと100/0で出ていたとしても、彼女は網走にそれを確かめに行かなくてはならなかっただろう。それは北海道の東で死ぬと知っていながら網走に行く選択をするのと同根であり、いずれボタンが弾けとぶと知っているからと言ってボタンを付けない理由にはならないこと、またはボタンが弾け飛ぶからといって、彼女が谷垣に餌付けするのをやめはしないことと共通する。そもそもにおいて自分の死期を悟っている、ある種の諦念を持つインカラマッの行動は、途中から愛に近しいものを手にいれるにつれ、淡い未来への希望と言語化されない献身を併せ持つものになりつつあった。未来への希望と言語化されない献身……そういったものの為に嘘をつくことすら厭わない女たちを総括して、二瓶は『女は恐ろしい』と称し、自分たちの行動原理では理解不能なものとして警戒していたのだった。二瓶の持つ『男の論理』は、明白な見返りを望むものだったからだ。谷垣もその例に洩れず、インカラマッは怪しい女だからといって救わずにいようとすらしたし、彼女と打ち解ける様になった後も、その『女の論理』の如何わしさを感じ取って、彼女と寝る際には、やましさから『男の論理』の権化である二瓶の銃を隠し、彼女と寝た後には、その求愛は彼女を守らせるための行動ーーすなわち明白な見返りを求めた打算ーーだと考えすらしたのだ。もちろん、彼女自身のかつての行いによって、それを谷垣に見えづらくして、当たりすぎる占いが谷垣の心を遠ざけているのも皮肉であるし、その当たりすぎる占いが全て占いではなかったことは皮肉であった。妹を亡くしていること、アシㇼパの近くに裏切り者がいること、東の方角が吉と出ていることは、すべてインカラマッが既に知っていたことであり(探しているのはお父さんだという占いも同等)、キロランケの馬が勝つかもしれない可能性や、三船千鶴子の場所を言い当てるだけの能力を持ちながら、占い師としての力を使わず内通者として動いたことで、彼女自身が彼女を『誑かす狐』に貶めてしまっていた。彼女が溺れる話の表題が『インカラマッ 見る女』なのは、そんな彼女の人間性の回復を示唆しており、それは彼女自身が占いから逃れて、弾け飛ぶボタンの行き先ような、予測不可能性に身を委ねることであった。
「最悪の場合、こうなるかもしれないからやらないでおこう」だとか、「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という報酬と見返りの予測に基づく行動とその否定は、ゴールデンカムイを読む上で極めて重要な要素だと考える。
予測に基づく行動の抑制を行わない登場人物たちの決定は、残念ながら愛のみではなく、殺しと暴力も含まれる。即断性という言葉で言い表すこともできるかもしれない。私はこれをよく『反射的』という言葉を用いて説明している。私に言わせれば、極めて幼稚な、原始的な論理であり、月島が鶴見を助けたのもこれに分類される。それで鶴見が満足をしたのは、それはそれで鶴見の孤独を浮き上がらせる。反射とは、結局のところ「そうするしかなかったんだ」という男たちの言い訳に使われるものでもであり、杉元が初めて尾形に会った時に川に突き落とした時の口ぶりと100話の口ぶりなどは、まさにその代表例である。杉元という人物の中では、そのような反射的な即断性と、殺したものの顔をずっと覚えているという保持性の二つの時間軸が交差しており、その内的葛藤が我々を強く惹きつけている。そしてそこから、杉元が持つ時間軸は「地獄だと?それなら俺は特等席だ」「一度裏切った奴は何度でも裏切る」という回帰性、または因果応報性にまで波及するのだが、その思考の独特さは「俺は根に持つ性格じゃねぇが今のは傷ついたよ」という尾形の直線性と対をなす。尾形は直線的に生きていかなければ耐えきれない程の業を背負っている。それでも過去は尾形を引き止めに来る、杉元が梅ちゃんの一言を忘れられないのと同等に。
即断性/反射的の反語はなにも計画的/意図的なことだけではない。極めて重要な態度として、保留があり、現在この態度はインターネットが普及して、即時的な判断とその表出のわかりやすさが求められるようになったことで、価値が急速に失われつつあるが、明治期においても軍隊の中では持つことが叶わなかった態度であっただろう。保留を持つキャラクターの代表格こそ、白石由竹であることは言うに及ばないであろう。
保留を持ち得なかったものたちが代わりに抱くのが反発か服従であり、造反組は勿論のこと、気に入らない上官を半殺しにした杉元と、諦念に身を任せて問いすら捨てた月島を当てはめることができるであろう。
その即時性や保留や反発や服従を生み出すのが、自らを死神に例える鶴見であり、鶴見はまさに意志の人、意図の人、計画の人である。そして仲間に対して「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という見返りを期待して関係を構築する人である。これも、私が彼を苦手としていた理由の一つであった。しかし繰り返しになるが、鶴見の”選択”は、「即時性や保留や反発や服従」を生み出す。そして本編では、どちらかというと出だしから鶴見からの離反者ばかりが描かれ、人たらしの求心力を持つ魅力的な人物であるということを読み解くまでに、私はじっくりと長い期間をかけなければならなかった。「先を知りたくなる気持ち」「ページをめくる喜び」を強く求められる男性向けの週刊連載において、保留の態度を試されていたのは、読者の方であったのだ。
それでもなお私は、裏切られる鶴見、離反される鶴見というものを立ち返って見るにつれ、この男の立場の脆さというのを改めて重要な要素として捉えるようになったのだ。
それは「死神」とは遠く、自らの周りを賞賛者で固めた男の、ともすれば惨めとすら言える姿であった。そして私は遂に「死神を目指す弱い男」、鶴見を見出したのであった。
そこで大事なのは、鶴見が「死神」になろうとしている、というただ一点であった。それはおそらく尾形が銃に固執するのと同等の、自己決定権のあくなき希求であった。
11巻で尾形は言った。「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものですが」。その11巻で鶴見は愛を見出していた。「あの夫婦は凶悪だったが…愛があった」。そして同じ巻で、鶴見はふたたび高らかに宣言したのだ、「私は貴様ら夫婦の死神だ」ーーと。
以上の文章は既に3週間以上前に書いたものだったのだが、本誌ではさらに「神からの見返りを求める弱い男」として関谷が登場した。この「弱い」という言葉は私の元ではなく、イワン・カラマーゾフが『カラマーゾフの兄弟』の一節『大審問官』にて述べた、大部分の信者を指す言葉である。さらに本誌では、私が谷垣とインカラマッの関係に見ていた「予測不可能性」を、ある意味逆手に取った様に、自分への逆説的幸運をもたらす人物として門倉が描かれ始めた。私は一読して彼は谷垣の類型であると感じ取ったが、それは即ち尾形の「かえし」である事も意味することを忘れてはならない。尾形はキロランケが神のおかげだと言った直後に、「俺のおかげだ」「全ての出来事には理由がある」と神の采配を否定するような男だからだ。
すべてのあやふやな存在に輪郭を持たせ、弾け飛ぶボタンを先にむしり取っておこうという「覚悟」。その覚悟の名前が「死神」。私にとっては、それが最もしっくりくる「死神」の捉え方であるような気がした。
覚悟については鶴見の口から15巻でこのように語られる。
覚悟を持った人間が私には必要だ 身の毛もよだつ汚れ仕事をやり遂げる覚悟だ 我々は阿鼻叫喚の地獄へ身を投じることになるであろう 信頼できるのはお前だけだ月島 私を疑っていたにも拘らず お前は命がけで守ってくれた
そう思うと尾形と月島の扱いの差にも、月島へのあの苦しい弁明も納得がいくような気がした。
6、月島への『言えなかった言葉』
話は最後まで聞け 月島おまえ… ロシア語だけで死刑が免れたとでも思ってるのか?
初読時にはこの物言いは癪に障った。そこまで自明のことだと思うのなら。そうやって父の悪名を利用して月島を助けたのなら。月島にそう言えばいいじゃないか、と思っていた。しかしそれは、結局の所「ゴールデンカムイ」の根底を為す、『言えなかった言葉』の一種であったのだ。9年間、鶴見は自分の工作を月島に明かすことが出来なかった。それは杉元が、いずれ梅子に再び見出してもらう未来を目指している期間(つまり本編)よりもっともっと長い時間であるような気がする。その事実だけがまずは大事で、それに対して色々な意味づけをする前に、私は鶴見が”言い淀んだ”事実に向き合わなければならなかった。私は鯉登でも宇佐美でもないのだから、鶴見を信望する必要などなかったのだった。裏切りたくなるほど痛烈に、その存在を意識すればいいだけであった。
そして、理由はどうであれ『言えなかった言葉』を9年間抱えていた鶴見には、やはり弱さという単語が似合った。もし、もし本当に、月島の父親の家の地下から掘り出されたのが白骨であったのなら、10日前に行方不明になったいご草ちゃんが月島が逮捕されてすぐに掘り出されたのだから、白骨化するのには時間がかかりすぎるので、ジョン・ハンターよろしく骨格標本を作るような細工でもしない限り、髪やら服やらで誰だかすぐに分かってしまう。だから、きっと鶴見の工作は説得力のある良く出来たものであったのだが、それですら、月島に言えなかった、という事実の確認。
月島をどうしても手元に置いておきたかったのだろう。「告解を受けるもの」であった鶴見が月島の前では弁明をする男に成り下がる。それでもそこで「スティグマ」が2人を繋ぎ止める。鶴見は言った。「美と力は一体なのです」。そして彼の言葉にある”美”の定義は彼の顔の傷をも厭わないものであった(二階堂が本当にヒグマを美しいと言ったかどうかは大きな疑義が残るが)。この点に関しては、私はずっと鶴見の考え方に感心させられていたものだった。自らを美しいと定義してしまえば、もはや何も恐れるものはない。
ますます男前になったと思いませんか?
これは鶴見が自らの容姿に(杉元のように)無頓着であるとか、または本当にますます男前になったと考えている訳ではない、と考える。15巻で大幅に加筆された鶴見のヘッドプロテクター装着シーン。
どうだ 似合うか?
鶴。
杉元の言を借りよう。
和人の昔話にも「鶴女房」って話があってね 女に変身して人間に恩返しするんだけど 鶴の姿を見られたとたんに逃げていくんだ
鶴の頭部を模したヘッドプロテクターは、おそらく杉元が被り続ける軍帽と同種のものである。とはいえ杉元は軍帽をなぜか捨てられない男として描かれているのに対し、鶴見はむしろ「覚悟」の顕在化としてヘッドプロテクターを装着している。そしてその内部には、自ら御することすらできない暴力への衝動があり、その暴力を行使する時に、そのヘッドプロテクターからあたかも精液/涙のように変な汁が”漏れ出る”。編集の煽りによるとこれは「悪魔」の「仮面」である。たかだか煽りの一文を根拠に、悪魔かどうかを議論するのはかなり難しいが、それでもやっぱりヘッドプロテクターが「仮面」であるというのは、意を得た一文と言って良いのではないだろうか。それは不思議にも姿を隠す鶴の昔話に���合する。
正直に言おう!鶴見が悪魔だったらどれだけ解読が楽だった事か!原典が山ほどある。しかも悪魔は二面性を持つ。ファウスト 第一部「書斎」でメフィストフェレスはこのように話す。
Ein Teil von jener Kraft, 私はあの力の一部、すなわち
Die stets das Böse will und stets das Gute schafft. 常に悪を望み、常に善をなすもの。
Ich bin der Geist, der stets verneint! 私は常に否定し続ける精霊。
Und das mit Recht; denn alles was entsteht, それも一理ある、
Ist wert dass es zugrunde geht; すべてのものはいずれ滅びる。
Drum besser wär’s dass nichts entstünde. であれば最初から生まれでない方が良かったのに。
そしてイワンの夢の中で、スメルジャコフは「メフィストフェレスはファウストの前に現れたとき自分についてこう断じているんです。自分は悪を望んでいるのに、やっていることは善ばかりだって。」と、ファウストに言及するのであった(第四部第十一編九、悪魔。イワンの悪魔)。
このファウストの素敵な一節にはいずれ触れるとして、鶴見は悪魔を自称はしないことを念頭に先を急ごう。
この情報将校を語る上で、最も大事な事象は彼が自身を「死神」と定義することだと私は考えている。そんな中で、数々の日本的ーキリスト教的装飾に彩られ、たとえば「スティグマ」というキリスト教的文脈で鶴見に聖痕/烙印という聖別を与えることを全く厭わない私からも、「死神」がキリスト教的であるかどうかには首をひねってしまう。よしんばキリスト教のものを作者が意図していたとして、「死神」という訳語を当てるのは、デウスに大日という訳語を当てたザビエルの如き、弊害の多いものであるように思える。もしかしたら鶴見はpaleな馬に乗った男であり、隣に連れるハデスが月島か何かであり、第一~第三の騎士が鯉登、宇佐美、二階堂のいずれかの人物であるのかもしれないが…それにしても示唆する表現が少なすぎるのだった。このことは私を悩ませた。というのも鶴見をキリスト教的に読み解くという行為は、私にとって禁忌だからこそある程度の魅力を感じさせるものだったからである。ましてや鶴見を「弱い神」と位置付けるならなおのことであった。日本におけるキリスト教的神は、決して強者たりえない。強者だと感じていたらこの程度の信者数には収まっていない。そもそもゴールデンカムイには何となくキリスト教を思わせるような描写が散りばめられており、それでもいかにそれが合致していてもその文脈で語る必要はないのではないかと思われる事象も多々ありつつ(たとえばアシㇼパによる病者の塗油をサクラメントとして読み解く必要はないと感じるなど)、その禁じられた評論とやらを、試しにやってみるとこうなる。
そもそもにおいてまず、キリスト教に触れること自体に禁忌感がある、というのは既に記した通りだ。「スティグマ」「マリア」一つに取っても、私にとっては言及する前に、日本的キリスト教観について長大な考えを巡らせることがそもそも不可欠であった。キリスト教自体は現地の土俗宗教を取り込んで来たが、こと日本においてはそれすら叶わず、日本的キリスト教観というのは、おおざっぱに言えば日本の多神教感との習合ということが出来るかもしれないが、むしろ、日本の側がキリスト教の本質を捉えることなくキリスト教を取り込んでいく、という逆転現象の方が著しいほどだ。
評論家における教義の解釈のズレは、ともすれば不勉強や読み違えとたがわない為、私も慎重にならざるを得ない。しかし創作者における教義や解釈のズレは、等しく芸術となり得る力を持っているのであって、私はそれを読み解いて良いのかどうなのかずっと逡巡していたのだった。日本に於いてキリストを描くことの可能と不可能は、作家自身がキリスト者であった遠藤周作が身をもって体現していた。遠藤の描く神は一部で絶賛を受け、2016年にマーティン・スコセッシが映画化したことも記憶に新しいが、一方でカトリック協会の一部からは明白な拒絶を受けた。そして彼の描く神は、誰かを救う力を持つような強い神ではなく、弱い誰かに寄り添うような神であった。
鶴見は「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふや」であるものに、覚悟を持って形を付けていった。それは日本人に許された特権であるかもしれない。ゴールデンカムイの作品世界の中で「神」「運命」「役目」が目に見えぬ大きな力としてキャラクターを飲み込む中(そしてそれが本誌に置いてリアルタイムでますます力を持とうとし、ともすれば谷垣のボタンすらそれに組み込まれてしまうのではないかという恐怖に怯えながら)、鶴見はひたすらに自律できる人生を求めている。運命を意のままに操ることへの飽くなき渇望。その裏返しとして彼は大嘘つきとなった。
そんな大嘘つきの鶴見ですら、嘘すらつけなかった事実が月島をあの手この手で自らの手元に置いておこうとした事実であった。9年間も彼はその努力をひた隠しにしようとした。それは大嘘つきの死神に存在した「俺は不死身の杉元だ」と同義の『言えなかった言葉』であった。奇しくも遠藤周作は、まさにこの国での神との対話の困難さについての一片の物語を、まさしくこのように著したのである――『沈黙』と。
対話の不可能さには逆説的な神性がある。
それはアイヌのカムイにおいても同じである。だからこそ送られるカムイに現世の様子を伝えてもらおうとし、それでもバッタに襲われた時にキラウシは天に拳を振りかざして怒ったのだ。しかしカムイとキリスト教的神の間には決定的な違いがある。キリスト教的神は全てを統べているのだ。そして「知って」いる筈なのだった。長年このことは日本の作家を悩ませていた。遠藤の『沈黙』においても、主人公は繰り返し、聖書におけるユダの記載、そして「あの人」がなぜユダをそのように取り扱ったのかを問うている。
だが、この言葉(引用者注:「去れ、行きて汝のなすことをなせ」)こそ昔から聖書を読むたびに彼の心に納得できぬのものとしてひっかかっていた。この言葉だけではなくあのひとの人生におけるユダの役割というものが、彼には本当にところよくわからなかった。なぜあの人は自分をやがては裏切る男を弟子のうちに加えられていたのだろう。ユダの本意を知り尽くしていて、どうして長い間知らぬ顔をされていたのか。それではユダはあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。
それに……それに、もしあの人が愛そのものならば、何故、ユダを最後は突き放されたのだろう。ユダが血の畠で首をくくり、永遠に闇に沈んでいくままに棄てて置かれたのか。(新潮文庫 遠藤周作『沈黙』p.256)
当時若干25歳の萩尾望都が抱いたのも全く同じ疑問であった。編集から1話目にて打切りを宣告されるも、作者自ら継続を懇願した結果、その後少女漫画の祈念碑的作品として今尚語り継がれる『トーマの心臓』において、萩尾は以下のようなシーンをクライマックスに持ってくる。
ーーぼくはずいぶん長いあいだいつも不思議に思っていたーー
何故あのとき キリストはユダのうらぎりを知っていたのに彼をいかせたのかーー
“いっておまえのおまえのすべきことをせよ”
自らを十字架に近づけるようなことを
なぜユダを行かせたのか それでもキリストがユダを愛していたのか
その後も「知ってしまうこと」は萩尾望都の作品の中で通底するテーマとして描かれ続け、時にそれはキリスト教的なものとして発露した。『トーマの心臓』の続編『訪問者』はもちろんのこと、『百億の昼と千億の夜』ではまさに遠藤が指摘した通りの役回りをキリストとユダが演じ、そして敢えてキリスト教的な赦しを地上に堕とした作品として、『残酷な神が支配する』を執筆することとなる。
私は日本に生まれた非キリスト者であるからこそ、むしろ不遜に、無遠慮に、宗教的な何かについて切り込んでいけるのではないかと常々感じていた(例えば私にとっては聖典とされる教義の中でも聖書に記載がないのではないかと思う箇所がままある)。そしてその鏡写しのように、概して宗教が封じ込めるものは懐疑と疑念と疑義と疑問ではないか、と考えてきたのだった。
神とは何か、愛とは何か。
そういった問いを挟まないために自らが神になることを決めた男。
それはおそらく弱さを自認した上での自らへの鼓舞であった。
はたして私のような不信の徒が、どのような表象にまで「神」を見て良いのか、いつも憚られると同時、そしてその弱い神をまさに、ドストエフスキーは『白痴(Идиот-Idiot)』として現代化を試みたのではなかったか、という思いがある。『白痴』という和訳は今からするとやや大袈裟なきらいもあるが、それでもやはり、罪なく美しい人間というのは、当時のロシア社会において『Идиот』としてしか発露し得ないというドストエフスキーの悲痛でやや滑稽な指摘は、裏を返せば知恵の実を食べた狡猾な『人間』であるためには、罪を犯し汚れる覚悟をしなくてはならないということであり、それをナスターシャ・フィリッポブナとロゴージンというキャラクターに体現させていた。このような本作を、黒澤明は、日本的なキリスト映画の『白痴』として図像化したのである。このように日本において不思議と繰り返される弱い一神教の神としてのキリストという存在は、ますます持って私の鶴見観を固めていく。
罪を犯し汚れる覚悟は、鶴見によっては以下のとおり示されているものかもしれない。
殺し合うシャチ… その死骸を喰う気色の悪い生き物でいたほうが こちらの痛手は少なくて済むのだが… 今夜は我々がシャチとなって狩りにいく
一方でキリストを『Идиот』と呼ぶことすら厭わないその姿勢は、私にとっては極めてロシア的なものである。信仰において美しく整っていることは最重要課題ではない。そのような本質性がロシアでは”イコン”に結実している。家族が毎日集まって祈る家の片隅のイコンコーナーの壁に掛けられた、決して高い装飾性や芸術性を誇るわけではなく、木片に描かれたサインすらない御姿の偶像。しかしそれこそが最も原始的な「信仰」のあり方なのではないか。ゴテゴテとした教会の装飾でも着飾った司教の権威でもなく、余分なものが根こそぎ取り払われて、日々の礼拝と口づけの対象となる木のキャンバス。真に信仰するものへの媒体としてではあるが、特別な存在感と重みを持つ象徴的なイコンという存在は、英語では「アイコン」と読み下されるものであり、文脈を発展させながらポップカルチャーにおいてもその役割を大きくしていったことは周知の通りだ。
7、親殺しの示唆と代行 ー 尾形の場合
翻って尾形の新平の親殺しはどうか。
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
鶴見も尾形も親殺しの事を「巣立」ち、という同じ形容を使うという事実。きっと何度も語られてきたことだろうけど、改めて15巻にて新たな父殺しが描かれてたことで、その関連性に驚く。父親の妾を寝取りながら、自らが手を汚す事もなく、両親が絶命した事で自由を得る新平のような人物は、私が『因果応報のない世界』として称するゴールデンカムイの特徴である。あるいは『役目』重視の世界とでも言おうか。そこで『役目』を果たしたのは意外にも尾形と彼の「ムカつき」であった。ただし尾形は、他人を結果的に助けてもその事を認識されない人物であるので、この『役目』もまた誰にも認識されることなく消えていく。
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
江渡貝の母は既に死亡していたが、江渡貝には支配的な母の声が聞こえ続けており、その声は鶴見に与することに反対し続けていた。母は江渡貝を去勢していたことすらわかっている。そんな母を殺せと示唆する鶴見。何より面白いのは「決めるんだ 江渡貝君の意志で…」という鶴見らしくない言い回しである。しかし結果として齎される“対象の操作””偽刺青人皮の入手”という点では功を奏しているので、単に相手によって取る手法を変えていて、それが本人にとってプラスに働くこともあれば、そうでないこともあるだけかもしれない。
ここで関谷のような問いを死神たる鶴見に投げかけるとこうなるーー鶴見は江渡貝から得る『見返り』がなくても江渡貝を助けただろうか?
これは関谷への以下の問いはこのように繋がるーー弱く清い娘を殺し、殺人鬼たる関谷を生かす神だったとして、関谷は神を信じ続けただろうか?
善き行いをした者に幸運しか降りかからないのであれば、なぜこの世に不遇は、不条理は、戦争はあるのであろうか。
これに対して「すべての出来事には理由がある」とする尾形が、自分の置かれた環境と新平の環境をダブらせた上で、親を殺す事が出来ず(巣立つ事が出来ず)大口を叩くのみの新平に対する「ムカつき」であることは明らかでありながらも、そこで結局新平が「救われた」事の偶発性、蓋然性、見返りのなさは見逃してはならないであろう。
同時に、墓泥棒を捕まえるのは自分の仕事ではない、と語る鶴見が、なぜ遺品の回収をしていたか(出来たか)、そして「傷が付いていた」という詳細、のっぺらぼうがアイヌだということまで尾形に情報共有していたという二人の結びつきを考えるのも実に面白い。アイヌを殺したのは誰なのか? そこにいたと分かっているのはもはや鶴見だけなのである。
兎にも角にも、鶴見は、むしろその「不遇、不条理、戦争」の側に立つ事で、幸福を齎そうとする者なのである。
それは奇しくも、イワン・カラマーゾフが大審問官で言わせた「われわれはおまえ(キリスト)とではなく、あれ(傍点、悪魔)とともにいるのだ。これがわれわれの秘密だ!」のセリフと合致するのであった。
8、デウス・エクス・マキナの否定
と、ここまで書き上げた中で、本誌でキリスト教の神を試すキャラクター関谷が出てきた事で、私は論考を一旦止め、その後176話が『それぞれの神』というタイトルで柔らかく一信教を否定する日本的描写にひどく満足し、自らの「弱い神」「死神」の論考を少しだけ補強のために書き加え、大筋を変える事がなかったことに安堵した。
既に触れたファウストでの悪魔の発言、「すべてのものはいずれ滅びる であれば最初から生まれなければよかったのに」は、自らの死に対して諦念を、そしてウイルクとの再会に疑念を抱いていたインカラマッを連想させる。インカラマッ、そして関谷がこだわった『運命』は、やはり緩やかに谷垣によって、そして土方・門倉・チヨタロウによって否定される(このあたりはまさにドストエフスキー論的に言うポリフォニーというやつだ)。
関谷の持つ疑問は「ヨブ記」に置いて象徴されている。ヨブは悪魔によって子供を殺されるが、信仰を捨てず、最終的に富・子供をもう一度手にいれる。『ファウスト』では、やはり悪魔がファウストを試すが、最後に女性を通じて神がファウストを助ける。『カラマーゾフの兄弟』では、神を疑ったイワンは発狂・昏睡に陥る。つまりヨブ記を元にした作品群では、一神教の神は勝利している(『カラマーゾフの兄弟』のドミートリーのストーリーラインは除く)。これは演劇において「デウス・エクス・マキナ」と呼ばれる手法であり、最後に神が唐突に出てきて帳尻を合わせていく手法の事である。
関谷は自らの死にそれを見た。自らの悪行に等しい罰、裁きが下され、意志の強い土方が奇跡を起こしたと考えることで神の実在を感じたのであった。もっとも、我々読者にとっては、関谷への裁きは遅すぎるし、それが娘の死の何の説明にもならないため、関谷がどう捉えようと我々には神の存在が十分に確認できた「試練」ではなかった、と指摘しなければならないだろう。ただ、「デウス・エクス・マキナ」はむしろ因果応報を覆す超常的な描写であり、関谷が見た「意志の強い人間の運命」や「奇跡」、「裁き」という物差し���ら飛び越えるものであったので、皮肉なことに、かえって関谷を包む状況とは一致を見せるとすら言えるのであるが……。おおよそにおいて良作とは、物語も人物も「あべこべ」で「矛盾」と「パラドックス」を抱えるものであるため、関谷とヨブ記についてまとめた記載をするには、稿を改めた方が良いと思われる。
それでも関谷についての序章を、本稿の終章に持ってきたかったのは、まさに、新平への運命を急に出てきて変えていく尾形が、あくまで人として、それも銃の腕を除くととてつもなく弱く、惨めな人間として現れ、新平の親の殺人によって新平を救ったという、いわば「デウス・エクス・マキナ」の”変形という名の否定”ではないか、と指摘したかったからである。
時に死神でなくとも、人の子も人を救う。その一端が、尾形の「ムカつき」であったこと、そしてそれが本誌の白石や1牛山に引き継がれていくことを指摘して、この文の結論とする。
そこに「見返り」はない。尾形は新平を助けようとしたわけではないし、白石はアシㇼパを助けても依頼主の杉元が生きているかどうかすら知らないし、チヨタロウは牛山を失って自身に新たな力を得たわけではない。
だからこそ、「見返り」を問題にしてはならないーー外れてしまうとしても、ボタンを縫い付ける必要はあるのだから。
そしてインカラマッはきっと、情を持たず自分を守ってくれないとしても、谷垣に愛を伝えなくてはならなかったのではなかったのかと思うのだ。
読んでくださってありがとうございました。
過去の文をまとめたモーメント。
マシュマロ。なぜ書いているってマシュマロで読んでるよって次も書いてって言われるから書いているのであって、読まれてない文も望まれていない文も書かないですマシュマロくれ。と言って前回こなかったので人知れず本当に筆を絶ったのであった。そのことを誰にも指摘されなかったので、やっぱそんなもんなんだなって思ってる。
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1010mush · 6 years
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顔に傷がある男性に弱いんです
I tend to fall into a man with a scar on his face quite easily
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1010mush · 6 years
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Golden Kamuy #175 Sekiya’s possible models; 2 Japanese murderers and Ivan Karamazov
Hi, my name is “ladybird”, aka “tentou-mushi” in Japanese. I used to be a critic, especially about comics, and now work as a office worker and writing critiques/drawing as a hobby.
To be honest I’d been feeling that my love for Golden Kamuy began to fade for several weeks. Especially when Goden Kamuy started to use Bible phrase, such as “Blessing” and “God”. These phrase were used by Ogata when he killed his father. Tsurumi is also described  What I didn’t quite get is that the idea of “Kamuy” is a primitive animism believed among native Japanese ainu, and that’s actually a new idea to us. Only 3% of Japanese are Christian, but I bet that the people believe in Kamuy is even less. At the same time, I suppose that the many Japanese vaguely believe that everything has a life/spirit as a kind of animism. Therefore, referring to the Christianity and Kamuy at the same time seemed a quite tough job for the author to compile.
However, a hint of Christianity kept getting more obvious since an episode #172, when Sekiya, who is the one of the taboo-criminals, appeared. He had been giving “trials” to test the destiny and luck of victims to make sure that the victim was going to be “blessed” or “judged” so that he could question the existence of “God”. His trials were to offer victims choices in various ways to test their luck, and if they fail they got poisoned. By the choice of the “quoted words above”, it felt that Sekiya was also the one of the characters that was related to Christianity, but surprisingly in the episode #175, it was told that he was actually a Christian whose little daughter was struck by lightning and killed on the way back to home from the Sunday service. Since then he began to question God because he was the one survived instead of the innocent child. This is actually the same inquiry brought by Ivan Karamazov in the section "Rebellion" - from chapter “Pro and Contra”of the book “Brother of Karamazov”. 
What makes me confused is that apparently Sekiya’s character was made by modeling two criminals in Japan, Gen Sekine, a criminal of Saitama Dog-Lover murder case and Riki Kamiya of the aconiitum murder case. Apparently Seki-ne and Kami-ya became the character’s name Seki-ya. The poison that Sekiya used based on what Kamiya used, but the way that he “test the luck” was of Sekine’s. Sekine was arrested and accused of for 4 murder cases, but a man that oppose him testifies that Sekine once mentioned he killed 30 people. This number was used in Golden Kamuy #172 as what Sekiya said in the Abashiri Jail to Kadokura. Interestingly, Sekine’s story became widely acknowledged by the horror story told by a monk. When he was young, he visited his kennel club several times as a monk and offered several tinned green tea. The young monk wondered why there are always several tinned teas. Later the young monk left the town and Sekine was arrested. An elder monk, an acquaintance of the young monk, was a chaplain of the prison, and had a chance to meet Sekine. He told that he offered tinned green teas including the ones poisoned to the young monk 3 times, and the young monk always chose a safe one. “Maybe there is a God”, Sekine laughed. “I kill the people with bad luck.” 
So, this strange mixture of 2 Japanese murderers and Ivan Karamazov makes Sekiya’s character quite complicated. Opposite to Sekine, the criminal who concluded that there might be a God as a result of his luck-tests, Sekiya, on the other hand, seemed to test the luck in order to know if there’s a God. Here’s the thing; that’s not the best way to test Him. Luck/destiny is not the central idea of Christianity in my opinion. It is understandable that he always wanted to be “unlucky enough” to make him dead so that there would be a God, giving deaths equally to anyone. Sekiya tend to risk his own life, like a Russian Roulette, when he tests someone’s luck. But the idea of destiny, mostly referred from the fortune teller Inkarama and her fiancee Genjiro Tanigaki, seemed to have a very little relativity to the Christianity to me.
Anyway, I wrote this article to introduce 2 possible Japanese criminal models of Sekiya, which seemed very hard to find information in English. I didn’t know either case before as these were not major cases. Hope you enjoyed reading this. I’m seriously considering opening an English twitter account. 
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1010mush · 6 years
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ゴールデンカムイの詐欺師鈴川と尾形の共通点について
(本誌) 「誰か実在の人物になりすますってのはその人物と似ていない部分を減らす ってことだ」という鈴川聖弘の太ゴシックな台詞が意味深すぎて大好きなので、本誌の尾形百之助くんがチタタプしてヒンナヒンナしててまさに杉元と似ていない部分が減っているということは定期的に主張していきたい所存
— てんとうむし (@1010mush) 2018年9月8日
この話のタイトルが、『似ているもの』な所からして好きなんですよ。贋作師熊岸長庵の死を『芸術家』というタイトルにしたのと同じくらい好きですね。鈴川は「似ていないものを減らす」って言っているのにタイトルは『似ているもの』。ものが平仮名。物なのか者なのか。もう尾形と杉元じゃないですか。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年9月8日
その後の「たしかに……性格って顔に出るよな ヒグマもキツネっぽい顔つきしてて睨んでくるのは気性の荒いヒグマだって そうなんだよねアシㇼパさん だめだ…おねむの時間だ」で杉元と尾形の顔に出ているという性格の持つ意味を想像しまくるのも大好きですね(定期的なのでゆるゆる連ツイが続く)
— てんとうむし (@1010mush)
2018年9月8日
4 そんでこの鈴川の会話に尾形がバッチリ絡んでいた所も高ポイントですね。「しかし拍子抜けだぜ 網走の脱獄囚にもこんなザコがいたんだな」と自らつっかかるわけです。その時の鈴川の返し「この姿はほんとうのオレじゃない 本当の俺なんて無いけどね」も大好きなんですよ(後でTumblrに纏めますね)
— てんとうむし (@1010mush)
2018年9月8日
「本当の俺なんて無いけどね」って最早…ゴールデェンカァムイのキャラクターが探している答えの1つな気がしてならず、最終回でこれに近い答えを見出しても驚かないですね。対立項はもちろん「あなた…どなた?」「兵隊さんかマタギかどっちの谷垣なんだ?(一部略)」「山猫の子供は山猫…」ですよ。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年9月9日
そんでもって「思い込み」。これは杉元が思い込みが激しいキャラクターとしてずっと描かれていて、言われるとすぐに直る素直なキャラクターとしても描かれているのですが、まぁ彼の思い込みが何かというと、その最たるものは『俺は不死身の杉元だ』でしょうね。自己暗示とでもいいましょうか。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年9月9日
杉元思い込み羅列。梅ちゃんの目、あなたどなた、地獄行き特等席、和人の俺をよく思わない人がいるかと、アシㇼパさんが懐くなら悪い奴じゃない、辺見ちゃん(やさしい)、偽アイヌコタン(やさしい)、相撲(カワイイ)、一度裏切った奴は何度でも裏切る、役立たず、リュウ橇、悪人は苦しまない……
— てんとうむし (@1010mush)
2018年9月10日
杉元はこの思い込みから逃れた方が幸せになれるのだろうか。それともその中にいた方が幸せなのだろうか。アシㇼパさんはどちらの杉元を求めるのだろうか。尾形が変節していることが明らかな現在、「変わらないな梅ちゃんは」と笑った杉元は、一度裏切ったやつを許さない杉元は、「変わる」のだろうか。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年9月10日
「暴力で人から何かを奪う」のではないやり方の片鱗を、杉元も尾形も目の当たりにしていた。しかも、土方の犬童に関する短い説明で、性格を顔に表して犬童に似ていく鈴川の様を。性格は顔に表れる。尾形は今本誌でどんな顔をしているか、皆さんはご存じでしょう?そして杉元も。アニメが楽しみですね。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年9月10日
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1010mush · 6 years
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尾形百之助のユーモアと絶望についての連ツイまとめ
尾形の好きなところ番外編なんですが、本当にツダケンさんの「すっとぼけ」(これニコ生でも言ってましたよね〜)という一言がピッタリなのかもしれないですけど、彼ってゴールデンカァムゥイィ内で一番ユーモアがある人物な気がするんですが気のせいですかね。初登場時からオヤジギャグかましてるし。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
基本的に皆、わりと素で変な人物だったり乙女だったりするだけで、意図的に、言葉の力で何もないところにさざ波を(良くも悪くも)立てようとするのって尾形だけな気がする。アシㇼパさんの白石はヒグマの◯◯ポ発言はウケを狙って言ったのかもしれないけど。しかも尾形ってユーモアと一言に言っても
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
サルカズムとかシニシズムとかあると思うんですが、その辺全部感じるんですよね。「仲間だの戦友だの…くさい台詞で若者を乗せるのがお上手ですね」とか、この上ない真実である訳だし。「助けてください尾形上等兵殿 と」は割と素でしょうね。ロウソクボリボリしちゃおうかの系統というか。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
一方で「たらし めが…」とかも、鶴見の取り巻きの中では(谷垣すら持ち得なかった)ある種の真実の目線であって、そういう批評眼のようなものを持ったユーモア、ツンデレ加減、そういうところが全部絡み合って、直線的ではなく曲線的で絡みつくような台詞がとても魅力的なんですよね。(次は本誌ネタ
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
「なんだよお礼を言ってほしいのか?」とかも、単にツンデレなんじゃなくてユーモラスなんですよ。「別に俺も好きじゃねぇよ杉元…」も同様。本誌ネタですけど「男兄弟は悪さも一緒にするものでしょう?」とかも、絶対他のキャラクターは言わないだろうな、っていうウィットもあるし。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
それでまぁ、それは尾形が、他人が滑稽であることが好きでありモスけど、自分自身も滑稽になることを厭わない面もあるんじゃないかなって思うんですよね。谷垣みたいなもんですかね?だから二次創作では変なことばっかさせられているのかもしれないですけども。他人が滑稽であることが好きってのは、続
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
尾形の口癖がハハッだったり、アシㇼパさんが鶴の舞踊るときにふ…と笑うところから明らかだと思うんです。意外ですよね、クールなのに。加えて、やはり人間関係上においては、自分が道化を演じるとさらにユーモアさというのは増す訳であって、それが「どんなもんだい」に集約されてるじゃないですか。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
だから格好よさの後ろにある抜けている感じみたいな、ギャップに人間惹かれるもんだと思うんですけど、尾形の場合、自分が抜けているのに加えて、他人にもユーモアを見出す人間なんですよ。現代に居たら普通にお笑いが好きな感じというか、マイナーお笑いコンビに詳しそうな匂いすらするんですよね。続
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
そんで尾形のどこが抜けているのか、って話なんですけど……やっぱり一番は谷垣の前でホパラタするところ、他にも谷垣に先手を取られたり、茨戸で逃げ時を過ぎていたり(なんでいちいち台詞がちょっと面白い感じなんでしょうね?)というのもありますけど、他人の行いに笑いを見出すのに、続
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
自分がその笑いの輪に入っていかない、入っていけないところが抜けているというか、欠落しているんですよ。シライシはキロㇼパには北海道の時と同じようにイジられているのに、尾形はその輪の中にはいないですからね。だからこっちとしては、尾形って格好つけているのに滑稽なやっちゃなぁって思って続
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
自分がその笑いの輪に入っていかない、入っていけないところが抜けているというか、欠落しているんですよ。シライシはキロㇼパには北海道の時と同じようにイジられているのに、尾形はその輪の中にはいないですからね。だからこっちとしては、尾形って格好つけているのに滑稽なやっちゃなぁって思って続
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
いたと思ったらめっちゃ母性本能くすぐられるネンネしな⁉️的なところあるんでしょうねぇ。なんか漫画の煽りにGAGって書いてあって、いかに変態が多く出てくる漫画かをネタにするのが公式でもファンダムでも常態化してますけど、だからこそ私は尾形のユーモアが多分キャラで一番好きですねぇ。まだ続
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
で、とてもユーモラスな方でロビン・ウィリアムズという方がいたんですが。その方が亡くなった時、これはまさに私の一番好きなアメコミ?映画Watchmenで私の一番好きなロールシャッハたんが言ってたパリアッチだったと話題になったんです。それはどういうことかと言いますと続https://t.co/Vv3v3dmdli
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
一人の男が精神科医を尋ねて「落ち込んでるんです、人生は辛い」と言うと、精神科医は「それなら有名なピエロのパリアッチが来ているから見なさい。明るくなりますよ」と返す。すると男は叫んだ。「私がパリアッチなんです!」 …というジョークなんですけど。要はジョークと影というのは一体なんです
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
なぜかというとユーモアのある人の視点、目線というのは世の中を真摯に捉えて分析しているからなんですよ。で、Watchmenの該当シーンでは、コメディアンという、まぁ尾形以上の心がない悪人が被せられているんですけど。コメディアンは一応、暴力を(合法的に)振るうために政府についているみたいな続
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
とコメディアンを評しているんですけど。He saw the true face of the 20th century and chose to become a reflection, a parody of it. No one else saw the joke, that's why he was lonely. ということだそうです。なんか思い当たる節ありませんかね?杉元はすごく思い違いをするキャラクターで、
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
指摘されると素直に直す人物として描かれているけれど、尾形は自らが罪悪感を感じているか、殺人をどう捉えているかについては(私から見れば)内省が不足しているのに、外の世界を読み解こうとする気力はすごく高いと思うんですよね。それをユーモアに変換して当てこすらないとやっていけないくらい。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
でも悲しいことに、鳥を撃てばアンコウ鍋を作らなくなる、死ねば父に会える、弟を殺せば父を愛すという読み解きも過程も、不運なのか、彼の思考がおかしいのか、彼を祝福には導かなくて、その猛烈な過去と、私が見るユーモラスな尾形って、私の中では真逆でもギャップでもなくて、むしろ必然なんです。
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
私の中で、絶望している人間は時にユーモアに秀でているのかもしれない、と思っているので。というわけで、ウォッチメン見てくれよな!杉元が一位になるよう頑張った上で暫定二位の尾形くんにも投票してくれよな!あと今ワンドロの杉リパの対になる尾形の絵を描いてるので応援してくれよな!〜尾わり〜 pic.twitter.com/mRPrgdJUsV
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月24日
振り向いてはならない#尾形百之助 pic.twitter.com/fLDqxdEOB3
— てんとうむし (@1010mush)
2018年8月25日
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1010mush · 6 years
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1010mush · 6 years
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谷垣源次郎とアシㇼパから、動物と人間、狩りと殺人の境界を探す 『#8 杉元佐一はどうしたらウェンカムイにならずにすむのか』
いわゆる「逆張り」の論が多いので、何でも許せる人向けです。キャラを盲信する人には向かない。私は正しさなんぞ求めていない。文章に答えすらない。
いつも解決を急ぐから失敗するんだ杉元は
5、谷垣源次郎に見る『誤謬の自認』
谷垣源次郎を純朴で少し愚鈍で、でも信頼できる真面目な男と見る向きがある。
あ、自分それ解釈違いッス!!サーセーン!!
……とまでは言わないが、私は登場時「取って食ったりしないから」と言った角から「この子は入れ墨の皮を隠し持っていた まったくの無関係とは言わせない」「この娘を挟んで撃ち合っても構わんぞ俺はッ! !」と自分の言葉を裏切った最低な男、谷垣源次郎を忘れられない。というかアシㇼパさんを傷つけかけた罪状で一生恨むことにしている、谷垣好きだけど。
インカラマッを救わないのも最高に面白い(あまりにその事実が好きすぎて第6弾にその思いを詰め込んである。この文は私にしては真実味がある文だ)。
というか、彼はその前から意思を持った殺人者であった、という向きはないだろうか。
さらに遡って二◯三高地。多くの者が「不本意な行動者」として「反射的に」人を殺めていた激戦の地で、谷垣は私が知る限り唯一の、「殺人をしに来た男」だ。家族に止められても捨て言葉を吐いて、子供の頃から勝手に猟に付いていく程あこがれた職業であるマタギにすら砂をかけて阿仁を出ていく。
復讐のために阿仁を捨てんな おめえの人生まで棒に振るな
妹を殺されで泣き寝入りがでぎるが マタギなんぞ糞食らえだ 二度ともどらね
なぜ、そんな谷垣だけ帽子を捨てることに成功する一方で、脱走兵の尾形百之助はいつまでも階級にこだわり続け(杉元や谷垣の事を一等卒と呼んだり、自分のことを尾形上等兵殿と呼ぶ)、満期除隊した杉元はいつまでたっても軍帽を被り続けるのだろうか。
私はその答えを『誤謬の自認』に見る。
つまり「自分は間違った事がある」という記憶である。谷垣にはそれがある。だから谷垣は変化できるのだ。それは「みんな俺と同じはずだ」と返す自己認知のない尾形の対局で、「戦場では自分を壊して別の人間にならないと戦えない 俺たちはそうでもしなきゃ生き残れなかったんだ」となぜか主語を『俺たち』にする杉元はその中間地点にいる。少なくとも杉元は、彼自身が自らを守るために超えてはいけないと定めた境界が、詭弁である可能性に自覚的である。
この「自己認知」と「失敗体験」は自らの変革へのキーである。
ストーリーはさらに谷垣に追い打ちをかけ、攫っている途中のアシㇼパからアマッポの毒矢の処置を受け、彼女のコタンに連れて行かれて治療を受けることで、自らの誤謬を再び自認する。
人間は間違う。
谷垣は作中で2度泣く。どちらも自らが「受容」されたことに心を震わせる。寅次も杉元も勇作もインカラマッもアシㇼパも、「別れ」や「非受容」に対して涙をするのに、谷垣は別れや非受容に対しては怒り、ショックを受け、憔悴している。「人間らしい」と言えば良いか。もう一人の人間らしい人間アシㇼパも、レタラに家族がいたことを知り涙しているし、杉元もアシㇼパにオソマを受け入れられた時には涙したものだったが。
オチウの時に二瓶の銃を隠すのも面白い。二瓶の銃にそこまでの重きを置いていることも面白ければ、「隠す」という選択が彼の中にあることが面白い。
勇作殿と堅吉の対比すらできる。偶像で仲間を救っているようになっていた勇作と、自らにそんな価値がないが故にきちんと役目を果たして本当に人を救った堅吉。堅吉の妻殺しと決死の阻止は、作中の殺人と死の意味をひっくり返してしまうほどの重みを持つ。
谷垣は愚鈍かもしれないが、愚鈍であることを自覚している愚鈍なのである。そしてそれが彼を変化させる……。
6、軍帽と「視覚」
ふたたび、なぜ杉元が帽子を捨てられないかについて。
杉元の軍帽は尾形の銃である。
尾形の銃は「自己裁量権」の象徴である、ということが、ヴァシリを通して改めて明文化された(第4.5弾 補遺に詳細)。もちろんその前にも、銃の扱いについてこだわりを見せるシーンが何度も書かれている(銃から目を離すな一等卒ッ / 銃身に水が入った状態で撃つとはな 軍隊で何を教わってきたのか / 銃か離れるなとあれほど… / 犬より役に立っとらんぞ谷垣一等卒 秋田に帰れ)。
杉元の軍帽は杉元のかつての戦場における『許された暴力』の象徴だ。そして暴力は、彼が望まずして持つ(という事にしている)「自己裁量権」である。望まない力を愛してしまうのは、尾形があんこう鍋を作り続ける母を憎みながら、あんこう鍋を好物にしているのと似ている。杉元は暴力を好む訳ではない(という事にしている)が、自らが暴力に秀でているのを自覚している。そして自分はあくまで、外的刺激があった故に暴力という反射を起こしている、という、受け身の態度を崩さない。
俺が戦争で学んだ死なない方法は一つさ 殺されない事だ
このような『反射的な受容者』であることは、である事は、彼にいくつかの呪いを掛けている。
まずこの世に悪人がいるという線引き。これは自らが悪人に近づいていっている今(そして悪人に命を救われている今)、線引きを行うことによる弊害が出てくる可能性を孕む。
そして、殺した人の顔を覚えておくという贖罪。これが一方で、自らを覚えておいてもらえない事、そして自分の顔を見てもらえない事への潜在的な恐怖に繋がっている。
杉元は兎にも角にも「視覚」の男である。
そのため物語の節々で、「視覚を奪われる」描写が出てくる。それは杉元のための描写であり、谷垣のための描写であり、おそらく尾形のための描写でもあった。これも一つの男の論理の顕現と呼べるかも知れない。
視力を失った梅子。150話で寅次の目を覆う杉元。
視力を失った堅吉。
目を見せてくれない(目を撃ち抜かれた?)勇作。
見られる/見る事への圧倒的な信頼と陶酔と献身と依存。
そもそも漫画は視覚に頼る空間芸術である。しかしその空間のありようは、同じ紙とインクによって造られた書籍という芸術と比べて大違いであることは、説明するまでもないであろう。その漫画という名の芸術は、空間という次元を越えるべく、常に試行錯誤してきた。ある時はより深くに潜り、ある時は表に飛び出て。
視力を失った梅子、視力を失った堅吉が、そしてアシㇼパが、何に頼っているのか思い出して欲しい。匂いであり、声であり、そして何より味覚である。五感を解放した世界の豊潤さに、杉元・谷垣・尾形たちは気付いているのだろうか。私は未だに疑っている。
コレヨリノチノ ヨニウマレテ ヨイオトキケ
見られることへのイメージ。客体的なセルフイメージを捨てないと、軍帽は捨てられない。
我々読者も、視界に頼っていると、「ゴールデンカムイ」を見失うぞ?
7、幸運な不遇者と、忘れられないこと、死に損ねること、そして烙印
杉元はいわば幸運な不遇者である。全体としては悲惨な人生を生きているが、生き抜いてきただけでとてつもなく幸運である。
その幸運を持ってもなお、忘れないことに拘る必要があるのだろうか。忘れられないことには、それだけの価値があるのだろうか。それはアイヌの「送られないと天国に行けない」と同等に語られるべきものなのか、それとも単なる選択肢のひとつなのか。
「人は死すべき時に死ななければ 死に勝る恥があると言います 土方さん あなたは死に場所がほしいんじゃないのかね?」
「私はあと100年生きるつもりだ」
死すべき時に死ねぬ辛さか
やれやれ また生き残った
俺は死ぬつもりなんてない 絶対にまだ死ねない
俺は不死身の杉元だ
不死身という分断不可能な存在である杉元が、なぜ多くの人に烙印を残しながら生きながらえているのかを語る言葉を、私はまだ持たない。二階堂を分断させ、尾形と谷垣に消えない傷を作り、キロランケのマキリに傷を受ける男。まるで死神のようだ。
杉元からはアシㇼパさんのような生命力を感じないのは、私だけではない筈だ。杉元は生きたい人というよりは死にたくない人、死んじゃダメだと思っている人、という感じがする。
だから杉元は、アシㇼパさんにそのままでいてほしい、と願うことはすれ、自分がどうなりたいのかは、さっぱりどうしてわかっていないようだ。というよりは、男たちはみんな、心が戦場にいるまま、「死すべき時に死ねぬ辛さ」の中を生き続けているように見える。
男たちは変わらない。そうは思わないかね?
8、変わらない男
「あんだけ大暴れして部下も殺してるんだ 今さら協力しあう選択肢はねぇし かといってゆずる気もねえ」
「変わらないな梅ちゃんは」
変わらないことを肯定的に捉える杉元佐一。「フチは古い!」と入墨やトゥレンペへのお供えを拒否するアシㇼパ。
「変化」しない男。
私が語る言葉を持たない男、キロランケにとってもこの指摘は重要である。キロランケは「あいつが…変わってしまったんだ」と証言したのだから。変化を許せない男はキロランケだけではない。
「一度でも裏切ったやつは何度でも裏切る」。谷垣源次郎は中央を裏切る第七師団の鶴見に同調していたし、二瓶マカナックルフチとの出会いを経て第七師団を抜けた。杉元はそんな裏切り者の谷垣と行動しているのに疑問を感じないのだろうか?杉元のこの強固さ。変化を受け入れない男。変化に気付きすらしない男。にしても、何度読んでも谷垣の「アシㇼパが信用してるのは俺たち二人だけのはずです」という発言はアホで良い。そういう谷垣が好きだ。ナイスバルク……
男たちは過去に囚われている。女達は未来を志す。これがゴールデンカムイの中で描かれる「女は恐ろしい」の正体である(前回インカラマッと白石由竹についての文章は、おそらく私が初めて「意図的」に書いた文章なので、それはこの文の前段となっていて、反射的/意図的、女の論理/男の論理についての説明がなされている)。
そして男たちは短絡的である。直線的である。思惟の上に自らの行いがあると信じ、それが一致していると自らも信じている(本当はどうだか知らない、特に尾形くん)。「網走に行くしかない」。女は逡巡する。私は怖い。そこにいるのはウィルクなのか。金塊なんて関係ない。
心が戦場から帰ってこれない、変化しない男たちと、過去の別れと決別して未来を見る女たちは、つまり杉元佐一とアシㇼパは、これから一体何を乗り越えねばならないのだろうか。動物と人間、狩りと殺人を紐解きながら考えてみよう。
9、動物と人間の境界
杉元佐一はウェンカムイなのだろうか。
こいつは人を殺して食った アイヌは人を殺した熊の肉は食わない 毛皮も取らない 悪いことをした熊は悪い神となってテイネポクナモシㇼという地獄に送られる わたしも人を殺したくない
人間を殺せば地獄行きだと? それなら俺は特等席だ
たまに二次創作で杉元が動物扱いされているのを見る。ウェンカムイもその一つで、杉元とウェンカムイに重なりあう部分があるのは確かだ。むしろ杉元自身がそのように感じている。そして断罪されることに安らぎを見出している。それでも、私は杉ㇼパの民だからだろうか、私は杉元がウェンカムイだととっても困る。だって…
「人間は人間とウコチャヌプコロしなきゃいけないんだ」ぜ…?
どの話も動物と結婚するときは必ず人間に返信した姿で結婚する やっぱり動物と結婚するのはいけないことだとみんなわかっているからだ カムイはカムイ 人間は人間とウコチャヌプコロしなきゃいけないんだ 悪い狐が悪知恵で人間と結婚しようとして正体がばれて殺される話もある カムイと人間が良くない方法でウコチャヌプコロしようとすると罰を受けるということだな
かなり多くのキャラクターが動物になぞらえられる中、私の記憶が正しければ、まだアシㇼパも杉元も、動物に例えられていない。おそらく、アシㇼパはホロケイカムイ、杉元はウェンカムイ(でも母グマでもある)という属性のようなものはぼんやりあるだろうが、明らかに動物に例えられているキャラクターたちに比べて判然としない。ちなみに最も多くの動物に例えられているのは、言うまでもなく我らが尾形百之助君で、コウモリと猫と山猫だ。
杉元にウェンカムイになって欲しくない理由は他にもある。アシㇼパは「ウェンカムイにならなくて良かった」という趣旨のことを3度いう。1回目・2回目はレタラに対して二瓶とレタラに(杉元は近くにいない)。2回目は姉畑に犯されたヒグマに対して。
その中でも二瓶とのやり取りは格段に面白い。
「レタラがウェンカムイになって欲しくないだけだ」
「人間を殺せば悪い神になって地獄に落ちるというやつか…安心しろ 人間なんぞにそこまで価値はない これは獣と獣の殺し合いよ だが生き残るのは俺一匹 ! !」
二瓶もまた「境界」の人間である。そしてそれを融和させる。
金塊なんぞに目が眩んだ人と人との殺し合いだ 獣を殺す方がまだ多少の罪悪感がある 俺を撃って皮を剥ぎ やっぱり軍に戻るかね? マタギの谷垣か 兵隊さんの谷垣か 今のお前はどっちの谷垣なんだ?
狩りは「境界」を曖昧にする。
獣を殺す方がまだ多少の罪悪感はある、とはよく言ったものだ。アシㇼパが可愛い獣を仕留める時、不死身の杉元は隠れて見守っていたり、一発で仕留めるように懇願したり、アシㇼパの手伝いをする時ですら、介錯できなかったり、獲物を逃してしまったりするのだから。これではまるで杉元が、アシㇼパの「忘れるな」という免罪符をもってすらなお、人間よりも獣を殺す方に罪悪感を感じることがあるみたいじゃあないか。もちろん実際その通りなのだ、ぬははは…勃起 ! !
これは杉元が、人を殺す自分の感情をいかに強く抑圧してきたか、ということの証左である。
アシㇼパは「ウェンカムイだから食べられない」という発言もする。刺青の囚人を殺したヒグマに対して。辺見を投げ上げたシャチに対して。男を殺した赤毛のクマに対して。そのうち後ろの2つは、杉元に説得されて(もしくは食べたいからアイヌの教えを都合よく解釈して)動物を食べている。食欲は境界を曖昧にするのかも知れない。アシㇼパはアイヌの教えを受け継ぐ一方で、刺青やトゥレンペ(憑き神)へのお供えを古い考えだと言い、縫い物をしろという同調圧力にも屈しないほどの人間なのに、ウェンカムイに関する考え方には、2巻と12巻で変化が見られない。
あのヒグマが人を殺してウェンカムイ(悪い神)にならずに済んだのが唯一の救いだ
ここで問題にしたいのは、アシㇼパはヒグマに対しては「ウェンカムイにならずに済んだのが唯一の救い」とまで言うのに、杉元に対しては当初「殺すなら私は協力しない」と啖呵を切ったにもかかわらず、「殺さなくて済む人間は殺すな」というまでの妥協という変化を見せていることである。
これではまるで、動物は人間を殺してはいけないが、杉元は人間を殺しても仕方がない、動物の方が杉元よりも大事なように見えてしまうではないか。
アシㇼパ自身は辺見を撃つときにも矢尻くぼみ(毒窩)からわざわざ固定されていた毒をマキリで削り取るくらい、慎重に人を殺さないように気をつけてきていたというのに。
私も人を殺したくない
杉元の度重なる殺人は、「手を汚すのは俺がやる アシㇼパさんは知恵だけ貸してくれ」という最初の約束に基づいた行動なのだ。それに一度はアシㇼパの安全を顧みるがあまり、アシㇼパの元をを離れていった杉元と、「危険は覚悟の上だ」といって共に行動することを選んだアシㇼパ自身が責めを負うものであるのかも知れない。
今後アシㇼパが手を汚すことがあるのかはわからない。作者はそんなことをしない気もする。
救いがあるとしたら、賢いアシㇼパは、杉元と自身の変化に極めて自覚的であることだろう。
なぜならアシㇼパが口を噤むようになったからだ。
10、アシㇼパと『内省の誕生』
私の論はおそらく、第6弾からようやく、評論という何かになって、自立した論考として『意図的』に書かれた要素を持ち始めた。それまでは外にある刺激に対して『反射的』に書かれただけであった。
杉元の戦闘は『反射的』であることの象徴であり、一方でアシㇼパの狩りは『意図的』である(#7より)。
その2つの違いは、①自制があるか、②計画性があるか、そして③後悔があるか、といった点で読み解くことが可能だろう。狩りには自制があり、計画性もあるが、元から意図されていたことなので、殺すことへの後悔はない。むしろ「きちんと殺せなかったこと」に対しての後悔があるくらいだ。それはマタギの谷垣にも共通するし、スナイパーの尾形にそれを見ることもできるだろ。そして人間と動物は違うし、肉親はもっと違うと尾形は教えてくれている。
必ず仕留めてあげなくては…
その中でウェンカムイとは、狩人の意図にハマりきらず暴走した存在と捉えることも出来る。まるで、偽コタンでの杉元佐一のことのようだ。
一方で、アシㇼパが子供ならではの直情さで、むしろ「自制の効かない人間」として描かれていることに気付いただろうか?
「キロランケニシパが私の父を殺したのか?」
こんなところで会っていきなり問い詰めるとは……しょうがない子ですね
「尾形にはナイショだよ」
「おいアシㇼパ このカムイ目を撃たれてるじゃないかッ 知らねえぞコレ」
「あの男が撃っちゃった」
上記は一例である。ゴールデンカムイを読み返して自制のきかないアシㇼパさんを堪能するがよい。ストゥで殴らないと気が済まないアシㇼパさんを。
アシㇼパの話をする前に、ゴールデンカムイの「発話」について少し触れておかねばなるまい。
ゴールデンカムイの登場人物は独り言が多い、という人がいる。独り言が多いのは、翻って心の声が少ないのだ、という言い方もできる。
心の声が重層化するのが漫画の特徴だ、と大塚英志が指摘している。吹き出しで◯○。をつけても心の声。フラッシュの中に書いても心の声。地の文に書いても心の声。⬜︎で囲まれた心の声もある。加えて、フラッシュも地の文も⬜︎も、ストーリーや心情を説明することもあるし、モノローグであることすらありえる。大塚英志は、多重化したレイヤーで、漫画は内面を発見した、というのである。
ところが。
ゴールデンカムイは極端に心の声が少ない。饒舌な心の声を持っているのは、主人公の杉元だけだった。他のキャラクターの内面描写は、どうしようもない緊迫した状況での心情説明の際に少し入れられるだけで、基本的には登場人物の「発話」と、⬜︎で囲まれた「ナレーション」という表現形態に極端に寄っている。そのため我々はキャラの内面がわからず、多くのキャラクターの動機や心情を推し量るのに必死である。
なお、内面描写とナレーションが過多になると、漫画は読みづらくなる。蟻編以降のHUNTER×HUNTERは、秒レベルの戦いを描くため、発話がほとんどなくなり、内面描写とナレーションによるバトルが展開された。ドラゴンボールにしてもMATRIXにしても、肉弾戦を離れて超能力バトルになると、どこかで作品はリアリティを失っていく。ゴールデンカムイの肉弾戦の地への足のつけ方と、『発話』に重きをおき『ナレーション』が補足をする表現形態は、その実、見事に合致している。アイヌのうんちくぅ!
とはいえ、罪深い我々は、尾形百之助と月島軍曹と鶴見中尉が何を考えているのかを毎秒必死で妄想するが、その中でアシㇼパの(恋心を除く)心情を推し量ろうとしたものは少ないだろう。
彼女(と鯉登��尉)は、全てを「発話」してきた。
しかし樺太編。杉元と別れ、被保護の対象ではなくなったアシㇼパは、ついに杉元のように地の文で「内面」を語り始める。
それにこの旅でアチャの足跡をたどれば金塊の暗号を解くカギが見つかるかもしれない そのカギが本当に私以外に解けないものなのか確認する必要がある 殺し合いの末に金塊を見つけてその先は?その金塊を使って更に殺しあうのか?その呪われた金塊は本当に見つけるべきか それとも闇に葬り去るべきものなのか
この言葉を目の前にいるキロランケにもはや言わなくなっているアシㇼパ。「自制」の獲得は子供から大人へのステップの1つである。それは、言うまでもなく『反射』をやめて『意図』の世界に移行することを意味する。
なぜ彼女は「自制」を学んだのか。そこに『誤謬の自認』をつなぎ合わせてはどうか。鯉登にないものは失敗体験だ。人間は失敗する。狩りも失敗する(というか杉元が失敗していた)。潜入は失敗した。金塊探しは金塊を見つけたことで成功とならなくなった。結果は変化した。目的も変化した。
狩人は『誤謬を自認』する能力がある。そして自らを変化させる能力がある。大塚英志の名付けをもじるのなら、これは『内省の誕生』である。
谷垣に、アシㇼパに起こったなら、杉元にも起こって良い。樺太編は、『誤謬を自認』し『内省』する能力が杉元に備わるのを見守る章であることを、私はずっと祈ってきた。いずれは軍帽を脱いでほしい。自分が悪人であることに気づいてほしい、矛盾するけど自罰を求めないでほしい。それができれば干し柿なんて食べる必要はないのだ。悲しいけれど、もしかしたら、彼が、彼が規定する「悪人」であることに気づいても、彼はウェンカムイにならなくても済むかもしれない。
だって、ねえ。
人間を殺せば悪い神になって地獄に落ちるというやつか…安心しろ 人間なんぞにそこまで価値はない
勃起 ! !
〜杉元のとりあえずのまとめ 完〜
読んでくださってありがとうございました。
過去の文をまとめたモーメント。
マシュマロ。なぜ書いているってマシュマロで読んでるよって次も書いてって言われるから書いているのであって、読まれてない文も望まれていない文も書かないですマシュマロくれ。
なんか今花沢中将の手紙を誰が書いたのアンケもやっているらしいツイッター https://twitter.com/1010mush/status/1029510274582110210
あまり次の構想がないです。また、当初の公開予定から遅れてしまい、待っていた方がいたとしたら申し訳ありませんでした。
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1010mush · 6 years
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#7 痛みを感じないロシア人の痛みを感じた杉元が、自らが悪人であると感じる日は来るか
1、泣く男のモチーフ
167話は1話である。
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(ゴールデンカムイ 1巻P27。この段階から杉元は泣いていた。同じシーンが167話に収録されている)
私はまだ167話の感想を書き終わっていない。
「俺はもう日本に帰れない……」
第1話の寅次の台詞である。ずっと私は、おそらくありとあらゆる物語、そして関係性がそうであるように、ゴールデンカムイも『境界の物語』であると考えて来た。不思議なことに、その後旅順は日本となり、南樺太も日本となった(そう思って150話を購入したら、同じことを鶴見が言っていて、ははッ。前に冷たい土の下だって言ってたのにね)。寅次が帰りたいのは、厳密には「日本」ではなかったことが見て取れる。日本、に帰りたかったのではなく、梅子の待つ家に帰りたかったのだろう。この構造は、167話を読み解く鍵になる。
私はゴールデンカムイの中のキャラクターを使って別のキャラクターを読み解いている。犬童で尾形を、インカラマッで白石を。杉元は誰で読み解こう?おそらく、それは杉元自身なのだ。または、オールキャラ総出でチタタプとも言う。あなたも加わると良い。ちゃんとチタタプって言えるかな~?
回想の中で杉元は泣いて寅次を引き止めようとする。「おい待て行くな!」
ここで2人が逆転しているのに、描かれた順番が逆だったため、私は今週まで気づいていなかったのだった。
別れに涙するのは寅次ではなく杉元の方だったとは。
167話は35話である。
4巻 35話 求愛。先週の167話では、寅次の今際の際の「帰りたい」、という台詞に4巻167話と同じように泣いた幼い寅次を描く事で、この3つの話(第1話と第35話と第167話)に繋がりがあることを示している。野田サトル先生の筆致の恐ろしさを感じるのはここである。
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(ゴールデンカムイ4巻p144。結婚式の日に帰ってきた杉元の前で不安に泣いただけでなく、幼い頃から泣き虫であった寅次の描写。同じ描写が167話に挟まれる)
続くシーンはこうだ。
「そのときは私ひとりでこの家に戻って トラちゃんが泣き止んで帰ってくるまでにごはんを���って待ってます」
私を打ちのめしたのは、むしろ「帰りたい」に返答できない杉元の空虚さであった。
杉元には、彼が泣くことを知っている人がいない。
泣いても彼が帰ってくるのを待ってくれる人もいない。
理由はいろいろあるだろう。
杉元は泣かない男だったから。
両親を結核で失ったから。
2名も結核患者を出した実家を焼いてしまったから。
自らも結核であることを恐れて故郷を3年離れていたから。
それを理由に梅子と離れ離れになり夫婦になれなかったから。
梅子は目が見えなくなって佐一を視覚で認識できないから。
梅子にとって佐一は戦争に行く前と別人に思えたから。
故郷では佐一が認めてほしいと思う人が誰も佐一を認めてくれなくなったから。
だから、167話は100話でもある。
彼の涙は、彼が良くも悪くも「戦場では 自分を壊して別の人間にな」ることに完全に成功しなかったことを意味する。アシㇼパにとって、杉元の心はまだ戦場にいるままかもしれないが、彼は「自分たち」と「ロスケ」に線を引き、「自分たち」の側には心を残すことにしたのだ。
これは「仲間だの戦友だのクサい言葉」でむしろ戦争を好機と「自分たち」を囲い込みにかかる鶴見や(戦争中毒、彼の計画は戦争以前からあった)、「自分」に近いものから殺害していく尾形と対比して語る事もできるだろう。
2、帰る場所は在るのか
第1話で示されていた「親友の死を泣いて引き止める杉元佐一」と、第35話で示されていた「子供の頃から泣き虫の寅次」の対比が、167話で同じページにまとめられることで急に繋がっていたんだとわかって(遅い)、もっと言えばそれが「レタラを泣いて引き止めたアシㇼパ」と重なることに気づいて、一週間私はずっとずっと苦しかった。単行本を開いてはとても読み進められず閉じて家の中を徘徊していた。自分の読みの浅さを呪った。
「おい待て行くな!梅子を未亡人にする気か 寅次っ おいッ」
「行かないでレタラ…アチャ(お父さん)」
「あなたは来なかった」
「ウイルクにとっては私はまだ子供でしたから 忘れちゃったかもしれないですね」
繰り返し描かれる、別れと忘れられることの恐怖。そしれそれを挽回しようと必死なキャラクターたち(そこから抜け出した男、白石由竹については第6弾に書いた通り。この中に入れるには「見てろよ!役立たずなんて言わせねえぜ」というセリフは前を向きすぎている)。
意外にも帰るところがないのはアシㇼパも同じだ。
キロランケはアシㇼパが「狩りばかりで村にいない」と言っていたし、マカナックルはアシㇼパについて「杉元さんと山にいるのが楽しいんだろう」と語る。アシㇼパが父との思い出を回顧するときも、レタラとの別れに心を馳せる時も、その舞台は常に「仮小屋(クチャ)」である。
帰る場所は家とは限らない。人とも限らない。それは環境であり、関係であり、境界が溶け合った、自らを認められた境遇である。
一方で第七師団というのは地方出身者の寄せ集めで、第七師団の尾形、谷垣、それに第一師団だが両親の病によって杉元も、いわば「棄郷」の人、であった。
帰りたいのは「場所」でも、「誰かの元」ですらなかった。アシㇼパにとっては「戦争に行く前の杉元」であるのかもしれない。あの100話のシーンについては私は独特な思いを持っている。戦争に行く前の杉元に戻ってほしくないという矛盾した思いだ。
だから正しい問いは、帰る『場所』は要るのか、というものになるのかもしれない。谷垣はインカラマッと阿仁に帰るのか、それとも北海道に残るのか、と考えても「別にどちらでも2人が幸せに一緒にいればそれでいい」と思ってしまう。
そもそも「帰る」ことと「本懐を果たす」ことは並列である。どちらを取るかはキャラクターの「意志(選択)」に任されている。両方を取ることも不可能ではないだろうが……刺青の囚人たちの選択を思い浮かべれば、答えは自明であろう。
だからキロランケこそ、作中でリアルタイムに棄郷を行っていく。
「刺青を売ったカネで 故郷に帰り嫁さんでももらって静かに暮らせる道もあるが 若いもんにはつまらん道に聞こえるかね?」
永倉新八の語りに意味深なコマ割りでキロランケは投影される。2つの故郷を持つ男、キロランケは、国境を超えた2つの故郷を離れて、2つの故郷を救おうとしているようだ。その独特の論理と、彼の行く末について、私はまだ語る言葉を持たない。
3、境界の男 杉元佐一
ゴールデンカムイは「反射的」な漫画だろうか。
思い浮かべるキャラクターによって違うだろう。
大きく分けると、戦争は概して「反射的」なもので、個人の意図は大きな流れの中に飲み込まれてしまい、生き延びるための反応しかできないように見える。もちろん、策略を巡らせる鶴見や、スナイパーの尾形を別として、だが。
一方で狩りは往々にして「意図的」なものだが、時として自然という大きなものが登場人物たちに襲い掛かる事もある。それを代表するのがヒグマであろう。
私はこの言葉を、インカラマッと谷垣の信頼係数の上下を読み解く際に使った(第6弾)。谷垣は当初、怪しい女インカラマッが襲われていても意図的に助けないという選択をしていたのだが、物語が進むと、インカラマッが自分を利用していると思い込み、かつ裏切っていることすら知った上で、繰り返し反射的にお互いを助けあうことで愛情を表出していくようになる。これはあまり成熟していない関係性である。
150話を読んでいたら、鶴見が同じような解釈をしていて驚いた。月島に「私を疑っていたにも関わらず お前は命がけで守ってくれた」から信頼できる、というのだ。ここで評論家としては、「反射的」と「意図的」を分けたことに対しては安堵するものの、一方で問い続ける姿勢を忘れてはならない。すなわち、「反射的な行動というのは、意図的な行動よりも信頼するに値するのか?」という問いである。一度声に出してみないと実感するのが難しいと思うのだが、「意図すること」は難しいのだ。一度思考のクッションが入る。そのことに、意外とエネルギーが必要なのである。反射のほうがよっぽど簡単である。意図には選択が入る。選択したものの方が、反射的なものよりも信頼に値しないことがあってもよいのだろうか、という問いは忘れてはならない。
さて、杉元は「反射的」な男だろうか。
少なくとも杉元が「反射的」である事に極めて長けていることに異論はないだろう。そしてアシㇼパが「意図的」である事に極めて長けていることにも異論はないだろう(それはウイルクの教育の賜物である)。
「危険で捨て身の戦い方だ よく知っていたな」
「知らねえよ とっさに身体が動いた」
これである……ッ(はぁ〜杉ㇼパ尊い)。
杉元は、その特性を活かすために、つまり自らの存在意義を発揮するために、半ば意識的に自らの得意とする反射的なフィールドに飛び込むし、その事をアシㇼパは認めている。得意とする反射的なフィールドとは何か。
それは死線である。
「ヒグマの巣穴に飛び込むようなヤツは父以外に私は知らない アイツは自分から、死神にギリギリまで近づくことで生き延びる活路を見いだす」
「それですよ!その思いが強いほど、強く激しく煌めくんです ! ! 」
死線とは境界である。
この世の物語は、それが融和であろうが断絶であろうが、すべて境界にまつわる物語である。ATフィールドも境界であるし、京極堂が落とす憑き物も境界である。アッシュ・リンクスと奥村英二が超えるものも境界である。あなたが私の文章を読んで感じるかもしれない違和感や、紐解かれたように感じるカタルシスですら、境界にまつわる物語である。境界は環境であり、ヒトであり、時に、いや往々にして無ですらである。
ゴールデンカムイの中には、境界を「引く」ことに四苦八苦する男たちが描かれる。その最たるものは「国境」であり、そこに立ち向かったのがウイルクとキロランケであり、日露戦争に従事した軍人たちである。彼らは「仲間だの戦友」にも「家族」にも境界を引いて、囲い込んだり切り離したりしようとする。
一方で作者は、私たちが普段引いている境界をやすやすと壊しにかかる。その最たるものは「アイヌ」である。この作品は、アイヌをア��ヌとして捉えていなかった私を、むしろアイヌは私と同質である、と考える人間に変えてくれた。作品は「動物と人間」や「殺すことと送ること」の境界すら融かそうとする。
そして網走以前には、囚人とそれ以外という境界が最も顕著なものであったのが、樺太以降に物語のダイナミズムはさらに増し、我々に馴染み深い境界が、新たな形で提示されることになった。それが「ロシアと日本」である。
4、自分と似たものは殺せない杉元と、自分と似たものを殺す尾形
「あいつは俺だ」
驚くべきことに、杉元は自分と共通するものは動物であっても殺せなかった。
アシㇼパから彼らの「生きた証」について説かれて乗り越えたのは「自分と似た動物は殺せない」事だけである。
杉元佐一の本当の苦しみは、「相手を自分たちとは違う悪人だと思わなければ殺せない」ところにある。
杉元はそこに不思議な境界を引く。そして内側にいるうちは自らも辛うじて許されるかのような振る舞いをする。
「そのうちみさかいがなくなるさ」とは、まるで自らには“見境い”ーー美しい言葉だ、境界を見る力、とでも言おうかーーがあるかのような口ぶりである。彼は作中で多く見られる「不本意な行動者」(前にインカラマッと白石をその例として挙げたが)の一人であるような考えを何度も吐露する。「走れ走れ  止まると殺される 死んでたまるか 生きてやる ! ! 」「まあ……極悪人のほうが こちらとしても気兼ねなく刺青をひん剥ける」
「鈴川は……苦しんだか?どうやって死んだ?」 
「アシㇼパさん 鈴川は悪人だ 悪人は人の心が欠けているから普通の人間より痛みも感じないはずだ だからいちいち同情しなくていい」 
「子供だと思ってバカにしてるのか?そんな理屈でごまかすな」 
「俺はそう思うようにしてきた…戦争の時もロスケは俺たち日本人とは違って苦しまずに死ぬはずだって………戦場では自分を壊して別の人間にならないと戦えない 俺たちはそうでもしなきゃ生き残れなかったんだ」 
ここでの吐露が、尾形と勇作のやり取りと相似を描くことは以前指摘した通りだ。
「罪悪感?殺した相手に対する罪悪感ですか?そんなもの…みんなありませんよ」 
「そう振る舞っているだけでは?」 
「みんな俺と同じはずだ」 
しかし杉元の論理は、彼の言う「悪人」を殺せば殺すほど、どんどん杉元自身が悪人に近づいていくという矛盾を孕んでいる。
「無関係のアイヌの村も襲って回った分際でよ テメェらに大義なんてねえだろうが盗っ人が」
「(略)アイヌも和人も無関係の人間は殺しちゃいねえ」
「そのうちみさかいがなくなるさ」
「わかるのかい?確かにあんたからは人殺しのニオイがぷんぷんするもんな」
あなた…どなた?
杉元は「ほとんどひとりで偽アイヌ共を皆殺しにしやがった」ので、偽アイヌの仲間である鈴川も、悪人と断罪しなければ自分が保てなかった。自分の反射的な行動を後追いで意図的に正当化しなければ自分が保てなかったのだ。ここは戦場ではなく、死線でもない。アシㇼパ達との旅には日常があり、杉元はそこに惹かれ安らぎを見出している(ヒンナヒンナしていて欲しいんだよ俺はッ)。杉元は反射的と意図的の境界を彷徨っているのだ。アシㇼパはすでに鈴川を自分たちの協力者だと見なしていた。鈴川と白石・土方・牛山・家永らにどんな違いがあるというのだろうか?それでも杉元は不思議な境界を引く。
尾形の過去が明らかになるにつれ、杉元においても一つの重大な問いが立ち上がってきた。『杉元に罪悪感を感じる心はあるか?』というものである。杉元は辺見の問いにはっきりと回答しないのだ。
「何人殺したかおぼえていますか?」
「顔だって忘れてねえよ 顔が見えるほど近くで殺した奴はね…」
「(僕と同じだ)忘れられないのは罪悪感なのでしょうか?」
「せめて忘れないでいるのが俺の償いさ 俺には俺の殺さなきゃいけない道理があった 必要なら鬼になる覚悟だ そのかわり…俺がくたばる時は安らかに死なせて貰おうなんてつもりは毛頭ない」
この考え方、つまり極めて『反射的』な「殺されるくらいなら躊躇なく殺す」ことを、のちに半ば『意図的』に「人間を殺せば地獄行きだと? それなら俺は特等席だ」と微笑む男。
それをなんと呼ぶか。因果応報である。
自ら報いを受けることを望む男。自らへの処罰を、今際の際や死後に求める男。そのことで”現在”の自分の正当性をなんとか保とうとしている男(杉元の論理では善人しか死ぬことに痛みを感じない。彼は自らを善人と捉えているのだ)。いつまでも死線に身を置くことが、自らが”役に立つ”ありようであることを自覚している男。それでも”現在”の自分が、戦争に行く前の自分と同じように梅子に認められることを望んでいる男。自らへの罰と自らへの赦しを同時に希求する男。
「もし俺が死んだら アシㇼパさんだけは俺を忘れないでいてくれるかい?」
彼が引いた不思議な境界の向こう側にいる人間に対して罪悪感を感じているのであれば、あんなに優しくアシㇼパを心配できるだろうか?また、あんなに生き生きと都丹庵士にどう使うつもりかわからない恐ろしい形の棒by杉元佐一を「オラ咥えろよこの野郎」なんて言えるものなのだろうかごっつぁんです!!!!そしてこの杉元は若かりし土方と重ね合わせられる……
私は、ゴールデンカムイの中に、キャラクターが言語化しない一つの大きなテーマが存在しているのではないかと思い始めてる。それが代償と供物である。そして私は杉元に対してこう思い始めている……彼の求める見返りは、200円と彼自身を忘れられないことという些細なものであるかもしれないが、それに比べて彼が払おうとしている代償が、欠けた脳みそをもってしても少なすぎるのではないか、と……。
杉本が壊した二階堂を見てみるといい。
もしくはこの作品では本当に因果応報が存在しないのかもしれないが……(第1弾)。
翻って尾形は「殺した相手に対する罪悪感」がない、「みんな同じはずだ」と主張する人間だ。彼がそう考える(ことにしている)という証左となるような行動はいくつもある。その最たるものが『肉親殺し』であろう。尾形は周りからその血縁について言及されることを避けられなかった男だった(公然の事実ーそのあたりの悲しさは6.5弾に少し書いた)。しかし最も近い存在であるはずの父・母・弟は、尾形から最も遠い存在であった。なぜなら尾形を認めようとしなかったからである。尾形と肉親の間には境界があった。杉元は境界のこちら側にいる寅次の死には涙を流せる心の余地を残しておけたのに、尾形にはそれすら許されなかった。
もちろん、本当に罪悪感がないのなら、なぜ人殺しという境界を勇作に超えさせようとしたのか、というのは尾形にまつわるおそらく最も根源的で重要な問いだ(第3弾)。私はその答えを杉元に見る。杉元は何のために不思議な境界を引いてきたのか。自分の心を守るためではなかったか。自分を正当化するためではなかったのか。
だから私はいつも、彼が「殺した相手に対する罪悪感」がない(ことにしている)という注釈を入れずにはいられない。みんな同じであることに理由を求める彼に弱さを見出さずにはいられない。「貴様も頭のおかしくなった母親が哀れで疎ましかったのだろう 私と同じじゃっ」と父は言ったが、私はこの発言も花沢中将の自己正当化だと捉え、罪悪感のない人間は自己正当化をする必要すらないと考えている。
杉元は自らが覚えていてもらうことを希求するように、殺す相手の顔を覚えていることを償いとした。これもおそらく、自らのバランスをとるための彼の手段であった。
尾形は、自らが希求する愛情を与える相手の根拠に「血」を求め、また鶴見からもその「血」を利用されていたのに(6.5弾)、同時に「高貴な血」を否定する、という自己矛盾を持っていた(第4弾)。
そして尾形は遂行した家族殺しの全てを、自らが何か欠けた人間であった(ということにしている)ことすらも、愛情を持たなかった父親の責として自己を正当化していた。尾形には杉元のような生きる執念は見られないが、どうように杉元が持つ自罰的な面も見られない。肉弾戦を得意とする杉元は、死線において必ず自らにも傷を負うことが必定であり、絶対的な自己決定権の権化としての銃を好む尾形とそこでも対比をなす。一方で心の上では、杉元はアシㇼパという相棒を手に入れ、体の上では、現在アシㇼパは尾形と共にある(いやらしい意味じゃないぞ)。尾形が銃を寄る辺とするのであれば、杉元は加速する自分の暴力にアシㇼパという新たなバランサーを発見し、ひたすら無自覚に戦地と同じ行動を取り続け、他人(と、おそらく自分)を傷つけている。二階堂。偽アイヌ。谷垣を攫ったアイヌの顔面にお見舞いした一発(尾形くんのお墨付き)。岩息との殴り合い。
その中で167ー168話は随分と興味深い話だった。南樺太は当時日本であった。167話で杉元が殺したロシア人の顔を覚えているという描写が出てくる。杉元が寅次のように帰りたいと言えなかった描写も、泣くこともできなかった描写も出てくる。アシㇼパが杉元を呼ぶと杉元は泣いている(梅ちゃんが泣き止んだ寅次を待っていてくれるのだから、杉元も泣いていいはずだ)、そしてそれはロシア政府を信用していなかった元ロシア人夫婦とたまたま出会ったことによる命拾いだったのである。
国境はズレる。境界もズレる。自分がどちら側にいるのかもズレる。杉元はかつて言った。
ぶっ殺した露スケの白いケツをかじってでも生き延びてやる
ロスケは俺たち日本人とは違って苦しまずに死ぬはずだ
そのロスケには人の心があり、誰かを助ける心があり、家族の無事を願う心がある。杉元はそれに深く共鳴する。きっとこれは彼が戦争から帰ってくることを少し補完したのではないだろうか、谷垣が、マカナックルの言葉やフチの介護を経て「降りる」ことに成功したように。
168話は、鈴川は悪人だから苦しまずに死んだと言った100話の杉元への反駁であると信じたい。
それでも杉元佐一くん、平成より愛を込めて、きみはほとんどきみのいう悪人への境界を超えかかっていた、自覚がないのがなお悪い、そのままでは再会してもアシㇼパさんの側には居続けられないのではないか、そしてそのことが悲しい。
第1〜6.5弾の分をまとめたモーメント。敢えて言うなら6弾は読んだ方が話はつながる。マシュマロ。マシュマロが来ないと簡単に筆を折ります。マシュマロくれ。
そして信じられないことにこの文章は当初の予定の1/2程度のものであり、杉ㇼパと狩りと食事に関する部分がガッツリ抜けています。長すぎて誰が読むねんと思ったので前半のみアップロードしました。
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1010mush · 6 years
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インカラマッと白石由竹は嘘をつくのをやめて選択することにした 尾形と杉元はどこに行く
0、序 尾形百之助 the Batman
「お前がは嘘が苦手なようだな谷垣」と尾形が言った。
じゃあ尾形は嘘を吐いているのだろうか、上手に。
誰に向かって?どんな嘘を?
1、嘘が苦手な谷垣源次郎
「インカラマッはいまいち何を考えているか分からない女だ…」
真面目な谷垣は子供にも、自分にすら嘘を吐かない。それは素直さに見えて、したくないことはしない、という頑固さでもある。だから、誘拐されている彼女を見ても助けようとすらしなかったところも、その後「その女は俺の家族だ」と言ったのも、どちらも本心なのかもしれない。「礼ならチカパシに言うことだな」という言葉は、インカラマッだけではなく自分に向けられたものでもあるのかもしれないし、だからこそインカラマッと婚約したのかもしれない……作中トップを争う嘘吐きのインカラマッと……。
2人の出会いにも関係性の発展にも全然甘いところがない。漂うのは嘘と疑念の香りばかりだ。そしてその嘘の中で、おそらく愛情というものは、「反射的」として示される。脊髄反射と言ってもいいかもしれない。ゴールデンカムイの『助ける』描写はとかく面白くて、今日書ききるのは無理だろう。これだけでいろんな言説がある、とも聞く(読みたい。無論納得出来ないものもあるが)。
この因果応報がない世界(正しい行いと間違った行いにあまり差がなく、間違った行いをしたものが望んだものを手に入れたり、正しい行いをしたものが望んだものを手に入れなかったりすることがあるゴールデンカムイの世界を私が総括した言葉、第1弾より)では、『嘘を吐く』ことの罪はとてもとても軽いのかもしれない。『嘘を吐く』ことは『約束する』ことの反対であり、即ち『裏切り』の序章である。そしてそして誰かを無意識的に、『反射的に助ける』、ことは、意識的に『約束する』ことの対極である。
裏切る |尾形がよく超えている壁| ← 嘘を吐く ↔︎  約束する ↔︎ 反射的に助ける
それでは、愛すべき嘘吐き共を見ていこう。
2、哀しい嘘吐きインカラマッと運命の否定
彼女の占いはあてずっぽうだったのだろうか?アシㇼパが言うように、論理的な推察や誰にも当てはまることをそれらしく言っているだけなのだろうか?確かに彼女はウイルクの事を知りながら、アシㇼパを占っているようなそぶりを見せたこともあった。その疑念を晴らすエピソードが、インカラマッによる三船千鶴子の発見だったと考えている。この話を見るに、インカラマッには(そして三船千鶴子にも)それなりの超常的な力が備わっていると考えるのが自然だろう。それがゴールデンカムイの世界観なのだ。
インカラマッと重ねられたキャラクターとして、私はいつもレタラの妻を思い出す。もしくは、二瓶の妻。二瓶の妻がどんな人かは、多くを語られていないのでわからないが、14人もの娘と1人の息子をもうけながら音信不通になっているのも、二瓶が女が恐ろしいと感じる理由らしい。
インカラマッはその女の論理を生きる。
女の論理とは何か。「男同士の勝負など知ったことではない」という二瓶の言葉にある論理だ。実を取る、と言えばいいか。名を捨てるかどうかはさておき、実を取る。
強か、という言葉もそれを表しているのだろう。偽アイヌの村の女たち。アシㇼパが網走で父の居場所を突き止めたら杉元の元に戻って行った時。彼女たちは強か、と表現されていた。
未来、というのもキーワードだ。
男の論理とは何か。勝負である。短絡的である。「あの戦争で拾った命は金に変えられるものではないぞ」と言って即座に銃のない状態で不死身の杉元に白兵戦を挑む尾形の短気さ(やっぱ尾形は金塊が大事なのかな?)。それは強さの様に見せかけた弱さである。双方立ち行かず片方しか残らないのは損失である。もちろん私たち読者は往々にしてその男たちの弱さが大好きなのだけど!
そして男たちは過去に囚われた人物である。
女たちと未来の結びつきは明らかである。
アシㇼパは自分の名前を未来と解釈している。インカラマッは「見る女」である。コタンの女たちは、偽アイヌの死体を前にコタンの未来の生き返りを宣言する。その未来にはいつも死の影がちらつく。
その中でもインカラマッは未来の自分に死を見ていた。何と哀しい人生だろう。インカラマッは自分の占いを盲信しているわけではない。アシㇼパが補強したように、判断に迷った時に占うのだ。だからウイルクについての占いも何度もやり直す。「占いが当たる」ことは、「占いが当たってしまう」という物哀しさをいつも孕んでいる。
だからインカラマッは裏切りの告白に占いを口実にしない。「鶴見中尉を利用していただけです」「のっぺら坊とアシㇼパちゃんをここから無事に連れ出せるのは鶴見中尉だけです」。これは彼女の生存戦略なのだ。
そんなインカラマッも自分の気持ちにはなかなか素直でない。「谷垣ニシパはラッコの所為にしていいです」「あれは…ラッコの所為です」。厳密にはインカラマッはラッコの湯気を吸っても居なければラッコの肉を食べてもいないので、谷垣が「ラッコ!!」とショックを受ける謂れは全くない。これはインカラマッがついた優しい嘘である。彼女は14巻でとにかくアシㇼパのことを気にかけているが、初対面時にはアシㇼパにも「もう買っちゃいました 全額6番…」と優しい嘘を吐いたことがある。「でもハズレれた方があなたには好都合なんじゃないですか?あの方たちが大金を手にしたら アシㇼパちゃんに協力するでしょうかね?」というセリフだって、3番のシラッキカムイの落下点を白石の頭が邪魔をしたことを差し引いても、ウイルクのことを探したいインカラマッがアシㇼパに協力する人を残すように、わざと、つまり意識的に大金が当たらないように、ハズレの6番を全額買った、つまり優しい嘘をついた可能性すらある(シラッキカムイが6番を示していなかった説、後述。ここでキロランケが運命を変えた可能性も十分ある、キロランケはインカラマッと谷垣の生存にも大きく関与している)。女同志はやたらと反発しあうものである。スギモトオハウオロオソマオハレワエ↔︎幼かった頃の恋の相手ウイルクの娘。それでもやっぱり、インカラマッはウイルクを殺したキロランケに復讐するために種を蒔く。すぐに殴り合わない。次に繋ぐ。女は実を取る。
もちろんアシㇼパさんは、性的に未分化な少女であり、狩りを好む境界の存在として描かれているが、今日は割愛させてくれ。第3弾にちょっと書いてる。
3、望まない嘘吐き白石と自己の選択
さて、そのインカラマッに最も誑かされている男といえば白石由竹である。この2人は相似である。杉元と尾形以上に相似である。
「シラッキカムイも東の方角が『吉』と出ていました だって…私顔に傷のある男性に弱いんです / コタンにいる谷垣という男を利用しなさい そろそろ足の具合も良くなってるはずだ」
「最近あちこちの漁場でヤン衆が殺されているんだ 犯人は辺見という男に間違いない / 不死身の杉元…面白そうな異名だがそいつは白石の相棒か? 私たちのことはそいつに話す必要はない その用心棒はうまく利用するといい 白石たちに辺見和雄の皮をお使いさせようってか」
とても面白い事に、インカラマッは他人を利用する時にもはシラッキカムイの占いを口実にすることがわかる(シラッキカムイが東を示していた可能性もあるが。なおアシㇼパが父親を探していた事については、わかっていながら占いのフリをする嘘をついていたと見ている)。これが上述した、競馬の6番を予想したシラッキカムイの占いの結果が必ずしも正しかったと言い切れないと思う根拠でもある。
2人は自らの境遇を望まない点も似ている。インカラマッが決して占いの結果を盲信したかったわけではないことは上述したが、杉元たちの役立たず呼ばわりを返上し、彼らを助けるために、牛山を探そうとした白石が逆に杉元たちを裏切らざるを得なくなってしまった。その中でも白石は杉元たちに対して良心を持ち続ける。誰にも認められることのない良心を。土方に「ところで…白石と杉元は一枚でも誰かの刺青人皮を持っているのか?」「持ってない!」。ここ英語版ではNot a single one!なの格好いい。
同様にインカラマッも、谷垣を利用することがヒモの谷垣を助ける事にも、そしてアシㇼパを助けることにも繋がっており、谷垣のアシㇼパを無事に連れ帰るという役目を阻害する意図はなかった事が見て取れる(この辺キロランケのインカラマッ刺しと関連付けられるかも)。
2人は仕方なく裏切り者でいるのだ。
そして白石が表紙の9巻の衝撃たるや。白石のイメージが180度変わった9巻。
なぜって、白石は逃げたかったんじゃなくて追いかけたかった。
シスターを追いかけていたなんて。たしかに白石が役立たずじゃないって証明するために取った方法も、牛山を追いかけることだった。なんという二面性!
9巻はこう言ったダブルミーニングがずっと通底していて本当に好きだ。白石の表紙をここまで待っていた野田サトル先生の長期的視野には脱帽だぜ……。特に熊岸長庵の話が本当に好きなんだ(2度目)。オチウできないシスターを追い求めていた風俗好きで逃走の達人白石が探していたのが贋作家が願った人生に1枚の本当の絵(ウマ下手)で、贋作家が偽物のアイヌコタンで親切にもアシㇼパさんを匿っている間に、優しい人殺し杉元が偽アイヌを皆殺しにしてアシㇼパさんを救うのに贋作家は死ぬとか本当に…誰が正しくて誰が間違っているのか、ぜんぜんわからない��まったくわからない。闇鍋。
怒涛の対比の連続。話が良いッ。
馬券が当たらない方がアシㇼパどころか自分にも都合が良い事を看過している女の論理の実践者インカラマッ(また会いましょうねアシㇼパちゃん)。自分の占いが嘘ならいいのにと思っているインカラマッ。
危ない金塊探しよりも手っ取り早く金を稼ぐ事がむしろ杉元の為にもなると思っている白石(これはこれで��実)。偽物の絵が本当ならいいのにと思ってた白石(または本物の絵が偽物だったらよかったのにと思う白石)。
未来への諦念と希望が美しく交差している。
ただしインカラマッと谷垣の関係性は無意識的に、反射的に進行している。意識的主体性がないところで、逆説的に愛を確認し、未来を見る女の論理で婚約に至る。。インカラマッには内通者としてのやましさがある。谷垣は敏感にその匂いを感じ取って、自分を利用しているのだとずっと思っている。チカパシが助けると言ったから助ける。ラッコで発情したからオチウする。命を助けてくれた時にも、愛を信じず利用されていると感じている様をみて思わず接吻してしまう。内通者だと分かっても瓦礫が倒れたら体が助けてしまう。屋上に登れば心配になってしまう。杉元を助けに行くと言えば慌ててしまう。
シラッキカムイも~~を示しています、という言い方は、なんだか俺の相棒が~~と言うならそうするまでだ、とか、あなたは来なかった、みたいな他者への判断のアウトソースを連想させる。そこに主体性はない。
だから皆、自分で考え自分で決めるアシㇼパさんから目が離せないのだ。
白石は、脱獄する時には熊岸長庵をあっさり裏切ったくせに、杉元に対しては、望まぬ裏切りが、そしてそれを隠していた嘘がバレる事を必要以上に恐れていた。杉元と上手くやっているように見えて、辺見の皮を船上で剥いだ杉元に恐怖を感じていた。
白石は、望まぬ裏切りと嘘がバレたら、杉元には言い分が通じず怒り任せに惨殺されると思っていた。
辺見ちゃんの望みどおりだな。フフッ。杉元は「白石ッ 俺の足が止まったら お前がアシㇼパさんを網走監獄まで…」と言っても白石の顔は晴れない。そして白石の推察はあながち間違ってはいなかった。杉元は白石を助けたが、それは杉元がシラッキカムイより確かなものを持っていたからであった。デタラメの写しである(これはインカラマッが持っていたキロランケの指紋と対称にして語る事が出来るかもしれない)。確かなる根拠を得て、杉元は白石を意識的に救うこととした。
反射的な救いと意識的な救い、どちらが重いだろうか。
または、反射的な殺人と、意識的な殺人では?
杉元の殺人と、尾形の殺人では?どちらが罪が重い?
15巻の「頼むぞ白石ッ」にすら白石は呼応しない。なぜだろうか。
ということで白石の評価である第5弾の文(この文は本誌のネタバレです!)に続くわけです。この文末に白石に関するネタバレ追記もあるよ!でもその前に杉元尾形についても考えてみよう。
3、杉元は嘘吐きか
杉元は嘘を吐いているのだろうか。危険視しているキロランケに「頼もしい」と言う割に、白石には役立たずと投げかける。まあそんな事は些細なことだ。
アシㇼパさんに梅ちゃんの話をしない。
これに尽きるだろう。話をシロ。あまりに杉元佐一がヒドい野郎なので梅ちゃんはアニメでは死んだ事になっている。いやなってない。お前。一度ならず二度までもアシㇼパさんを泣かすなよ、あぁん?
冗談が過ぎたようだ。杉元は戸惑っている。自分の中の変化に戸惑っている。梅ちゃんは惚れた女。だった。のかもしれない。街で遊女を見て、今の杉元は梅ちゃんだと思って追いかけるだろうか?エノノカをアシㇼパさんだと思って追いかけたように。アシㇼパも同様に戸惑ってフン!トリ!フン!チカプ!スギモトオハウオロオソマオハレワエ!している。かわいすぎかよ〜〜お前らッ結婚しろ!
変化。変革。
生きていれば当たり前だ。この続きは本誌のネタバレになるので文末で。
4、尾形は嘘吐きか
「お前がは嘘が苦手なようだな谷垣」と尾形が言った。じゃあ尾形は嘘を吐いているのだろうか、上手に。誰に向かって?どんな嘘を?
造反者を「見捨てるのか」と二階堂に言った尾形の言葉が嘘だったのか本心だったのかずっと気になっていた。そしてなぜ尾形は杉元を反射的に助けてきたのかも。「不死身なんだろ?死ぬ気で走れッ」「自顕流を使うぞ 受けるなッ」「こっちだ 奥へ!!」と。というわけで二階堂へのセリフについてアンケートまでしてみて、アップロード時点であと1日くらい受け付けているのだが、結構な人が尾形は見捨ていることは気にしておらず、二階堂という戦力を失わないための単なる確認と言っているので尾形に心がある論者の私としては哀しい。心があった方が読みが楽しいのだ。唆るのだ。あの谷垣ですら未来のフィアンセを助けないという選択をしかけたのに、尾形は杉元を助け杉じゃないか?
ここから本誌の内容です。読んでいただきありがとうございました。
第1〜5弾の分をまとめたモーメント。マシュマロ。尾形の発言アンケです。
ここから本誌の内容です。
(しれっと続く)よって尾形は自らに嘘を吐いていると思っているし、それはとってもとっても上手なので、尾形自身も気づいていないと思っている。もちろん、尾形は世間に対して親殺しという大きな嘘を抱えているし、鶴見中尉にもずっと造反者であることを隠していた嘘吐きの名手である。
5、最大の嘘吐き 鶴見中尉
戦争という手段が目的化している。手段で有名になった人。杉元と同じ。死に損なっただけさ。目的で有名になった人はキロランケ。つまり意志があった。
本誌でとんでもない嘘吐きであること、企みが戦争前からであることがわかり、きっとこの文が彼を読み解くのに役に立つ日がくる。その日まで止まるなよ私のタイピングッ!
6、白石由竹の変革と選択
本題である。
白石は当初はアシㇼパさんをアイヌとバカにし、アシㇼパさんの目的である父殺しの仇および父親探しをないがしろにして金稼ぎを代替にしようとした。
必要な額のカネが手に入ったから「いち抜けた」なんて そんなこと……俺があの子にいうとでも思ってんのかッ
私は何で梅ちゃんのこといえないのかッ て思ってるよ杉元……
これが人間の変化であり変革である。アシㇼパを置いて距離をおいた杉元が何があってもついていると誓うようになるのだ。
白石はその変革を、時間差で成し遂げた。
彼の後押しをしてくれる杉元の言葉はあった。
今までの穿った視点を認めるのが恥ずかしくて、裏切った事がやましくて、今まで求められなかったことが刺さって、追いかけ続け、逃げ続けた人生で誰かに頼られることに慣れていなかったので、杉元の願いに即答できなかった。
白石はシラッキカムイへ頼ることを乗り越えた。迷いはいらねぇ。確かめにいくだけだ。
でもここで答えを溜め込んだことの代償として、白石はシラッキカムイよりも確かなもの、つまり、デタラメの写しやキロランケの指紋に変わる確かな証拠を無くしてしまった。
杉元の承認である。
それでも白石は自らの本来の願望を思い出した。追うこと。追うために逃げること。白石は杉元や尾形や谷垣のように、何かを成し遂げて誰かに認められることをもはや望まなくなった。
か〜え〜れ〜と言われても、もはや「役立たずでない証明」を求めなくなった。
この因果応報のないゴールデンカムイの世界では、自ら『助ける』ことを選択する意識だけが自由である。
その境地に作中初めて到達した男が白石由竹であったことは、驚愕をもって、賞賛に値するのではないだろうか。
そして彼はまた、優しい嘘を吐く。
ロシア側には…金髪のおネエちゃんと遊べるところが…きっとたくさんあるんだろ?「白石由竹世界を股にかける」なんつって
とかいってこの後、アシㇼパさんに杉元のお願いだって言っちゃったりして〜。いいんだ、意志決定時いってなかったもーん。
第1〜5弾の分をまとめたモーメント。マシュマロ。尾形の発言アンケです。
マシュマロが来ないと簡単に筆を折ります。マシュマロくれ。
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1010mush · 6 years
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尾形百之助はなぜ拒絶され続けるのか(本誌ネタバレなし版)
※この文章は以下のツイートのリンク先の文から、本誌掲載文の要素を抜いたネタバレなし版ですので、元々の文章に話をかけて意味が通じない部分もあるかと思います。
https://twitter.com/1010mush/status/1012346665859051520
※以上の注意書きを守ってお読みください
通勤列車の中で20分で書いた、3年ぶりくらいの批評「因果応報が存在しない世界ーゴールデンカムイ」 https://fusetter.com/tw/ynQgr#all にたくさんの、そしてほとんどが好意的な反応をいただけた。ありがたいことだ。私はその時、「特に尾形のファンと言うわけではない」などと書き出していたが、その後も誰かが彼のことを、私が見ているのと違うように見ていると、心がムズムズした。どうして?谷垣ニシパ… 前ほど読んでもらえる僥倖にはなかなかありつけないだろうけど、書いてみよう。 ゴールデンカムイの登場人物には役目がある。天から役目なしに降ろされたものはない、んだそうだ。 だから私は、前回因果応報はない、と書いたけど、因果があって応報がない、という説明をきっちりしなかったことを少し悔いていた。 わかりやすいのは二階堂で、彼は失い続けている。でも、彼の役目が何なのかを、私たちはまだ見届けていない。 「尾形百之助について」 二階堂が失う人物なら、尾形百之助は拒絶される人物だ。 なぜ彼は、作中でずっと拒絶を受け続けているのだろうか。私は尾形が否定されるコマが大好きで、本の中を何度も探してしまう。彼は母親にも父親にも否定されて育った。刺青人皮を諦めろと言った杉元に、川に落とされてしまうのを嚆矢に、銃を持っていないと推察した谷垣に撃たれ、アシㇼパさんにヤマシギの捕り方を否定され、杉本に礼を言うことを否定され、戦地で堅吉に谷垣に話しかけても無駄だと叫んでも無視され(ここが一番好きだ、こんなに小さいコマで、なぜ尾形がそれを言う必要があったのかをいつもいつも考えてしまう)、谷垣を助けようとしても拒否され、手紙でも送っておけよと言ったのを否定され、偽アイヌを主張しても杉元は意に介さず、鶴見中尉とインカラマッが通じていると言っても谷垣は身を挺してインカラマッを庇ってしまった。 尾形百之助の受けた否定について、私たちは何を読み取れるだろう。 私が感じるのは、尾形自身の強い因果への信仰と、一方で彼を否定した立場の人々が、結果として正しかったことが多いやるせなさだ。やはりここで、応報が伴っていないのだ。 尾形自身の因果への信仰は、本誌ではさらに補強されたが、本編を読んでいれば因果への信仰を読み取ることは出来た。例えば、自分を殺そうとした杉元に、一度助けられたことからか、「俺も別に好きじゃねえぜ杉元…」と言いながら、人知れず借りを返すシーン。また、食事をいつも与えられているアシㇼパにだけ聞こえるようにチタタプを呟くシーン。鯉登の剣を受けるなと言い、暗闇の家の中では誘導を行って杉元をとっさに救おうとしたことすらある。私にとっての尾形百之助は、意外と義理堅く、借りを返す男なのに、それに気づかれない男でしかない。 母に獲って来た鳥のように。 父のために殺した母と弟のように。 尾形が根に持つ性格ではないが、傷ついたというのは、あながち外れてはいない、というかこれ以上ない真実、だと思っている。 やはりこの作品では、行動とちぐはぐな結果がもたらされることが多い。尾形の祝福を得るためのやり方が間違っていたのでも(いや間違っているのだが)、遅すぎたのではなく、気付かれもしない男。それが尾形百之助の好意とその裏返しで、やり方が間違っていることだけが、悔恨を残していく。チタタプと最初に言わなかったら、その後何度言っても同じなのだ。何匹鳥を撃ち落としても、母がアンコウ鍋を作り続けたのと同じように。 彼の不幸は、それでも鶏の鍋よりアンコウ鍋を好み、父との断絶より、父との繋がりを求めた点にある。 誰か彼のことを山猫と呼んだものがいただろうか?彼には通り名すらない。 書いているうちに段々尾形のことを好きになってきてしまう。 別の人の話に移ろう。誰の話からしようか(と、決まっている答えを問いかけてみたり)。 「谷垣源次郎について」 谷垣の話をする時に、尾形の話は切って離せない。これはカップリングの話ではないつもりだし、私は谷垣とインカラマッが普通に好きな原作主義者だ。とはいえ本誌で尾形が谷垣によくわからない執着を見せているのは事実だ。谷垣に俺はここだぜとアピールしてみたり、谷垣がいると知って暗い表情を見せたと思いきや、「助けてください尾形上等兵殿」と言うことをを要求し、(いつも通り)断られる。そして、断った側が、実は正しかったりして、尾形の言ったことの正当性すら、少し否定される。谷垣源次郎は尾形を打って二瓶の銃と心意気を引き継ぎ勃起、尾形の制止を振り切って堅吉に話しかけることで、彼自身の生きる目的を失い、かわりに生きる意味の探し方を学び、アイヌの人々を無駄に殺すことを抑止した。その時の「俺はとっくに下りた」と言い、自らの役目をしっかりと語る谷垣を、湿度の高い目で見つめて、アイヌを皆殺しにして助けることを提案する尾形。ドジな行いで「下りた」谷垣はさらに戦闘に向かなくなり、インカラマッや杉元を守ることに力を発揮するようになる。「色仕掛けで丸め込まれたか?」と私たちですらそう思っていた。だた、谷垣とインカラマッは、��丹庵士の襲撃も網走潜入でもどんどん絆を強くしていった。インカラマッの裏切りは、筆者の大好物で、結果として金塊を求めずウイルクと谷垣(とその役目のアシㇼパさん)のことだけを考えていたインカラマッが裏切ったおかげで先遣隊は生まれた(今200ページくらいすっとばした)。純朴で真面目で、同じく暗い過去を抱えながら(火鉢のそばで尾形はそれをジッと聞いていた)、一抜けて幸せになり、未来を見る女の死の運命すら何度も変えてしまう陽の男、谷垣源次郎に対して、隠の男にすらなれない、影すら持たない尾形は苛立ちと羨望と嫉妬に入り乱れた感情をもっていたことは、想像に難くない。因果があっても、そこに応報を持ち込ませない男、役目を見つけた男、谷垣源次郎。キュッと上がったヒップ…… 「アシㇼパと尾形百之助について」 尾形が行うことができる最も強い否定は射撃と殺人である。それをもって杉元とマタギ野郎を否定しようと試み、またしても失敗した。割と杉ㇼパの民である。これはカップリングの話ではない、つもりだ。ただアシㇼパさんにも、やはり尾形は特別な感情を抱いているらしく、のっぺらぼうの娘だとわかった時の粘度の高い表情が契機なのかどうかは未だ分からないが、彼女とは、ヤマシギを銃で獲って見返すことができた、という尾形にとっては珍しい、報われるエピソードがある。狩りが擬似的な戦争と人殺しの代用品になって、杉本や谷垣の心を癒しているのは見てわかると思うが、尾形の場合、母に喜ばれなかった鳥を、象徴的に獲ることで、アシㇼパとのやりとりは謂わば彼にしがみついていた”運命を変え”ている。そして、いやだからこそ、アシㇼパにだけは尾形が呟いたチタタプが届いたのだ。アシㇼパさんは、その強い生命力で、梅ちゃんからの否定という呪いにかかっていた杉元をほとんど救ってしまい、その明るさに尾形が縋ろうとしていると考えるのも、また不思議なことではない。尾形は私の中では杉元とならんで、最も自己肯定力が低いキャラクターなのだ。 茨戸編では彼は新平と千代子の父親を殺すことで2人を救った。2人がどこか別の地で幸せになれるなんて、ページをめくる前まで思いもしなかった。因果はあるけど、応報がちぐはぐだ。だからアチャが殺され、杉元が撃たれたことに対して、尾形を絡めた評価なんて不可能なのだ。評価は相対的だ。 「尾形の目的と杉本佐一について」 尾形は、鶴見中尉曰く野心の強い男であり、月島軍曹は、第七師団が手に負えなくなってから本部に売ろうとしているのだと推察している。 ただし全くわからないことだらけで、尾形は鶴見中尉から離れていくし、父殺しの裏で手を引いていた鶴見中尉に対して向けたたらし、といった言葉は、むしろ憎悪を帯びていた。その点、谷垣やら杉本やら白石なんかは、同じ殺人者だったり犯罪者だったりしながらも人の懐に入り込んだり信頼を得たりするのが上手く、人付き合いを好まない私はここでガッツリ尾形の肩を持ってしまいたくなる。杉元と尾形について書くのは、もっともっと先になるだろう。ただ、鶴見中尉とその部下の関係より、反発しあう二人の方がよっぽど何かを生み出す関係性だ、とだけ。杉元は辺見ちゃんを始め、犯罪者側に感情移入を起こさせる何かを持っているようで、一方で尾形は私たち読者にも何を考えているのかわからなくなっている。 また、勇作の撃たれた時の血や倒れ方が三島や杉元と違うことにも注目したい。 これから文章と絵はタンブラーにまとめていく所存。 https://www.tumblr.com/blog/1010mush マシュマロもあるぜよ。 https://marshmallow-qa.com/1010mush?utm_medium=url_text&utm_source=promotion リンク上手く貼れない気がするからツイッターのプロフに貼っておく。あとで。
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