Tumgik
#高齢社会において若者はおじさんに振り回されお金と仕事が奪われる
leon-write · 8 months
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ペルソナ5Rのモルガナ考察
久しぶりにペルソナ5をやって、ストーリーを4周ほどしてモルガナについてうにゃうにゃ考えたので、それをつらつら書いてみようと思う。
元気にネタバレするので、嫌な人はお気をつけください┏○ペコッ
 ストーリーやってて思ったのは、初めてやってた時もそうだけど、モルガナってやたら上から目線で物言う割に、めちゃくちゃ他者に頼ってる(自分ではやらない)よなぁ、というところ。
 もちろんこれには「異世界では不思議生物として自由に動けるけど、現実世界では猫の姿である」という所が理由だと思っている。人間が便利に生きられるようにデザインされた世界で、猫の姿で、かつ自分の言葉が通じるのは怪盗団のメンバーのみ(他の人には猫の鳴き声にしか聞こえない状態)なので、猫の姿では思うように行動できないし、やりたいことも出来ないというやむにやまれぬ事情があるよねって思う。そこの部分は致し方ない部分だなぁって。
 異世界ではともかく、現実世界では、モルガナは「誰かの手を借りなければ自分の望みを叶えられない」という状態だよなって思う。それはある意味でモルガナにとっては理不尽なことだろうし、それに鬱屈した思いがあるのもわかるな、と思う。
 ただ、それにしても現実世界でのモルガナの言動は「人にやって貰っている状況なのに、そこに感謝は示さずに常に上から目線でものを言う」という感じで、なんというか「なんでそんなに偉そうなの?」と思うことが多々あるな、って。
 別に「有り難き幸せ〜!」みたいに、やってもらうことに過剰に感謝したり、やってもらってることについて引け目を感じて欲しいって思ってるわけじゃないんだけど。「やってもらって当たり前」と思ってると感じてしまうほどに上から目線で偉そうだなって感じることが多かったなって。誰かの助けを借りてるにも関わらず、そこに感謝の念も持たずに当然のように振舞って、そのくせ偉そうに人が出来ないことを嘲笑うような発言するなぁ、みたいな(竜司に対しての発言とか、祐介への変人扱い、事情があって対人スキルが育ってない双葉への発言などなど)
 とはいえ、じゃあモルガナって嫌な奴かって言うとそうではなくて。たとえば竜司が鴨志田に足を壊されて居場所を台無しにされたことや、杏や志帆が鴨志田に強要されてた理不尽な扱いへの怒り、斑目の祐介への仕打ちへの怒りなどなど、誰かの受けた理不尽とそれに伴う苦しみに寄り添う発言を心からしていると思うし、主人公の境遇について心から憤れる情に厚いところがあって、優しく義理堅い奴だなって思う。困ってる人を見過ごせない、見過ごす自分になりたくないって思ってるタイプなんだなぁ、と。
 そういう、なんか嫌だなと思う側面と、本当に良い奴だなと思う側面のどちらも持ってるキャラクターだなって。
 その中で、9月のオクムラパレス関連の出来事というか、怪盗団で意見が割れてしまって仲違いみたいになって、モルガナが出ていってしまうくだりを見た時に、私は竜司にもムッとしたけどモルガナにも同じだけ、というか寧ろモルガナに一番ムッとしてしまったんだよね。
 竜司に関して言えば、マジでこの子デリカシーないなっていう発言をしてるし、そもそも奥村社長を狙う理由も「ランキング上位だから」というかなりふわっとした理由なのが気になってて。
 確かに奥村社長は社員どころか自分の娘すら道具扱いするような人だったから、悪人であるということは事実なんだけど。それがわかったのはあくまで娘である春ちゃんとの出会いと、なし崩し的に侵入したパレス内で知ったことで、事前に調査して知ったことでは無いわけで。つまり、なんとなく選んだら結果的に悪人でした、という状態だったな、と。
 鴨志田の場合は自分が受けた仕打ちもあるし、志帆ちゃんの飛び降りや杏ちゃんの苦悩、そして三島から聞いた話で「悪人である」と確定した状態での対応だった。斑目の場合も、疑いを持ってから色んな形で怪盗団なりにできる範囲で調べた結果、間違いなく悪人だとわかってから本格的にパレス攻略に入った。金城の場合も同じ。双葉ちゃんに関してはちょっとイレギュラーだったけど、オクムラパレスまでは、怪盗団なりにしっかり調べて確信持ってから行動してたと思う。
 そういう意味で、オクムラパレスに行く過程はかなり「結論ありき」で竜司は発言してたな、と(まあ、その傾向は結構最初からあったけど、周りが言えば足を止めて聞き入れてたなと思う)
 怪盗団フィーバーに浮かれちゃったんだなっていうのを理解しつつ、竜司のそういう浅慮な言動にウーンってなってた(ハラハラしてたが正しいかも)
 そんな気分の中、モルガナを役立たずと言ってからかったのを見て、デリカシーないなって思ったし、それだけ浮かれ気分で浅はかな言動してて、よくそんなこと言えたな、みたいな気持ちになった。
 とはいえ、自分が竜司と同じ立場だったらきっと浮かれ気分になって短慮なことしないとは言いきれないし、寧ろ似たような行動したり、デリカシーのない発言しそうだなと思ったりもするから、竜司に対する感覚は同族嫌悪的なものや、共感性羞恥的な部分が大きいと思う(まるで自分の至らないところを見ているようでイライラしたり恥ずかしくなったりする感じ)
 そういう意味で、9月の仲間割れ事件の竜司にはそこそこムッとしていた( ᐛ )
 それから、モルガナにもムッとしてて。それは、先に書いた通りモルガナは異世界ではともかく、現実世界では(致し方ないとはいえ)主人公や怪盗団メンバーに様々なことを代わりにやって貰ってる状態だったわけで。それなのに、そこを全然意識せずに偉そうに「お前らたるんでる」なんてどの面下げて言ってんだ、と思ったし、竜司に放った暴言も、竜司と同じくらいデリカシーないなって思った。
 もちろん、モルガナがああいう発言してしまうに至った過程は複雑で、自分がなんなのかわからない不安定感をずっと抱えていたことや、真ちゃんや双葉ちゃんのような有能な人が入ってきた(自分が担ってた異世界での役割を自分以上にできる人が入ってきてお株を奪われる形になった)ことで焦ったという事情もある。不安定な自分であってもこれが出来る、という部分に自分のアイデンティティみたいなものを感じてたのに、それが揺らいでしまったから不安が大きくなっちゃったんだろうな、というか。
 でも、そこで不安が大きくなったのは、たぶんだけどモルガナがもともと「他の連中より自分は知識がある、玄人だ」ということをやたらと誇示してたこと(要は偉そうにしてしまったこと)が一因だよなと思う。できるできると天狗になってたのに、自分を軽く上回る能力の人が来てしまって、鼻っ柱折られてしまって、通常よりもっと不安になってしまったんじゃないかな、と。
 これで、ここに至るまでのモルガナが「現実世界ではこの姿で迷惑かけることも多いかもだけど、異世界ではその分取り返すぜ。普段頼ってるぶん、異世界では頼られるように頑張る!」という態度だったらここまで強烈な反応にならなかったんじゃないかな、と思う。不安にはなっただろうけど、ほかのメンバーが寄り添ってくれたんじゃないかな、と。
 でも、モルガナは普段の言動が上から目線だったからこそ、不安を抱いた時に相談しにくい空気になる状況を自分で作ってしまった。偉そうに言ってて今更何を、と言われるんじゃないかという空気に自分がしてしまった。というか、そういう後ろめたさがあったから、主人公にも相談できなかったんじゃないかなと思うし、そういう態度だったから周りもモルガナが悩んでると気づきづらい状況を作ってしまった。
 それなのに、仲間割れイベントの時に自分の非は一切認めずに全部ほかのメンバーが悪いという態度をして、それで飛び出して行ったのはいくらなんでも人のせいにしすぎって感じて、私はそれにイラッとした。もちろん、あの態度だったらそうならざるを得ないなと思うけど、まあ、プレイヤーとして神の視点で見てるからこそそう思った。
 そういう意味で、モルガナも悪いよねって思う。もちろん、竜司も悪いけど。とはいえ、そういう状況だったから竜司の非よりもモルガナの非の方が大きいかな、と思う。竜司だけじゃなく怪盗団のほかのメンバーもモルガナの苦悩に気づけてないのを鑑みると、モルガナの態度が周りをそうさせた部分は大きいなと思うし。怪盗団メンバーにしてみれば、唐突にモルガナが怒ったようにしか見えないし(モルガナにとっては最初からずっと抱えてた苦悩だけど、モルガナ自身がそれを隠してしまっていた)
 ただ、ストーリー全部終わってみると、この流れって凄くよく出来てるな、と思う。
 モルガナは、ベルベットルームの本物のイゴールが、悪神に囚われる寸前にどうにか状況を打破するために生み出した、希望をより集めて作った存在だった。つまり、生まれて間もない「子ども」なんだな、と。
 怪盗団のメンバーも子どもではあるんだけど、年齢的には高校生なので「大人と子どもの狭間にいる子ども」という存在だなと思う。大人とは呼べないけど、何も知らない子どもだとも言えない。大人に足を踏み入れつつある子ども、という立ち位置だなと。
 でも、モルガナはそうじゃない。モルガナはまだ「生まれて間もない子ども」であり、ほかのメンバーに比べて経験の量が少ないわけで(特殊な経験はほかのメンバーよりも若干してるけど、一般的な経験は遥かに少ないという意味で)
 だから、こと人間関係に関しては怪盗団メンバーよりも遥かに素人だなと思う。怪盗団の皆がもっと前にたくさん経験してきたことを、今まさに経験している過程なわけで。ようは社会性を確立しつつある怪盗団メンバーとは違って、今まさに社会性を育んでる途中なんだよね、モルガナって。
 そう考えると、モルガナのやたらと上から目線の偉そうな態度も凄く腑に落ちるんだよね。小さい子と接してるとよくあるんだけど、小さい子は「自分が出来ること」を過剰にアピールするし、自分が一番できると思ってる。「ぼくが/わたしがいちばんできるんだよ!」って実際に言うし、心からそう思ってるし、大人が手加減して花を持たせてることにも気づかなくて、自分が一番できて、自分が一番偉いと思ってる。だから、言ってしまえば偉そうなこと、ようは「生意気なこと」を結構言う。
 モルガナってまさにそういう言動なのかも、と思ったらすごい納得感があったんだよね。誰かにやってもらうのを当然のように思ってて感謝しないのも、子どもは結構ある。冷蔵庫に手が届かないから親やほかの大人に頼まないと冷蔵庫の牛乳が取れないんだけど、大人が取るのが当然と思ってる。だから、取らないと怒るし、取ってくれたことに感謝もしない。そうして怒られて、本来は自分でやることで、出来ないから代わりにやってもらってるんだと学ぶ、みたいな。つまり、教わらなきゃわからない。教わらないままなら、他の誰かがやるのは当然だと思っちゃうわけで。
 それに、モルガナが自分が一番の玄人だと思ってたのに、そうじゃない人が出てきたことで癇癪起こしたのもそう。モルガナにとっては「自分が一番」だと思ってたのに、真ちゃんや双葉ちゃんが入ってきてそうでは無かったと知るのは、たぶん初めての経験なわけで。いや、初めてはたぶん主人公なんだけど、モルガナにとって主人公は親のような存在だから、ある種自分の一部的な感覚があって許容できたんだと思う。いわゆる「ぼくの親はすごい!だからぼくもすごい!」という感覚。でも、真ちゃんと双葉ちゃんはそういう立ち位置ではなく、本当に他人なわけで。その他人の立ち���置で自分より突出してるとモルガナが認識する人が初めてだった。
 だから、モルガナはあそこで初めて「勝てないと自分が感じる他人」に初めて出会ったわけで。自分が一番だと思ってたのは勘違いで、上には上がいるんだと思い知らされた。それまで持ってた無根拠な万能感、有能感をここで砕かれてしまったわけで。そりゃあんなにも不安定になるのは当然だな、と。
 今までの世界が壊れるくらいの衝撃だと思う。けれど、怪盗団メンバーはそれはもう結構前に済ませてきた経験でもあって。でも、モルガナは今まさに経験してる最中。そういう時期的な乖離もあって、怪盗団メンバーはモルガナに寄り添えないんだよね。最早挫折なんて当たり前になってる高校生(それをどう乗り越えるかを悪戦苦闘してる子たち)と、今初めて挫折したモルガナじゃ、視点が違い過ぎる。
 初めての挫折に対して抗おうとしたモルガナは、だからこそ拙い抗い方をしてしまう訳で。でもそれはほかのメンバーにとっては拙すぎて受け入れられないし、なんでそんな拙いことを?と戸惑ってしまう。だから寄り添えないし、え、急にどうしたの?みたいな反応しかできない。怪盗団の面々はモルガナは同じラインに立ってる相手(ようは同じ高校生に対する態度でいい)と思ってるから、そのように接するけど、初めての挫折のモルガナにはその対応じゃ足りない。物足りない。だってこんなに苦しいのは初めてなんだから。
 だから爆発してしまって、家出という形になったんだな、と。そして家出して、自分の力で出来る、なんでも出来るんだともう一度あの自信を取り戻そうとしたけど、当然それは出来なくて打ちひしがれて。そこに春ちゃんが来た。ペルソナ覚醒も不安定で、自分の自尊心(自分が1番と思いたいという気持ち)を満たせる相手だし、何より春ちゃんも同じように社会性が偏った育ち方をしてる子だった。
 春ちゃんは、子どもよりも大人と接する機会の方が多くて、しかもその大人も特殊な人ばかり(自分の父親に取り入ろうとする人ばかりで自分を見てない相手ばかり)という環境に置かれてて、それ故に対人関係に意味を見いだせずに当たり障りない距離感でいる子だった。ある意味で、悪い意味での「大人」のような対人関係しか経験がなくて、同世代での剥き身のぶつかり合いのような対人関係はほとんど経験してない。そういう意味で、怪盗団メンバーとの対人関係においてはモルガナとかなり近い状態だったと思う。
 だから怪盗団と邂逅した時に春ちゃんはすっとぼけたやり取りになってしまうし、どこかズレてしまう。それで怪盗団メンバーに「あれ?」ってされてしまう。上手にやれない。
 でも、春ちゃんは素直な子で、言われたことに素直に反応してびっくりしたり、謝ったりする。そこはモルガナとは少し違った気質の子だったんだなと思う。モルガナはちょっと背伸びする気質の子で、春ちゃんは素直な気質の子、みたいな、生まれ持ったものの違い的な。
 似たようなスタートライン(ほんの少しだけ春ちゃんが前かもだけど、大差ないスタートライン)の人で、でもモルガナとはアプローチの仕方が違う人。同じように経験不足で、今から経験していく人。そんな春ちゃんと出会って、そこで初めてモルガナには(一部かもしれないけど)同じ視点の仲間に出会えた。そして、そこで得た経験で社会性(対人関係)を学んだからこそ、時には頭を下げることも必要だと学べたし、それを実践できたのかなぁと。
 そして、モルガナの行動を見たからこそ、呼応するように春ちゃんも初めて自分の飾りなしの本音「あの人無理!キモイ!」を言えたのかなと思う。今まで流されるままに流される生き方をして、まともに対人関係育めなかったけど、モルガナが怪盗団のみんなに対して示した行動を見て、自分もと奮い立って行動できた。そしてそれを経験したことにより、モルガナに嘘つくのやめよう、正直に言おうって言えた。
 モルガナと春ちゃんは、互いに対人関係においては似たようなスタートラインにいて、それが故に相手が進むなら自分も進みたい、自分が進んだなら相手にも踏み出して欲しいしその手助けがしたいと思えて、二人で手を取りあって前に進んだのかな、と思う。そうすることで怪盗団のほかのメンバーも、二人はまだスタートライン付近にいたんだと気づけたし、かつて自分も似たようなスタートラインに立ってたことを思い出せて、モルガナが本音を言うのを見守ったり、応援したり、モルガナの偽りない本音を受け入れることが出来たかなと思う。
 だから、あそこでモルガナが離脱するのは必要な過程だったのかもなと思う。まだ生まれて間もないモルガナが社会性の意味でほかの子に追いつくこと(その経験をすること)、対等になるために必要な通過儀礼的な意味もあったのかなと思う。モルガナが親以外(主人公以外)との関係性を自分で構築する上で、竜司のような心の機微に疎くデリカシーはないけど心根が真っ直ぐな奴もいることや、今の時点ではどうしたって勝てない能力を持って��る真ちゃんや双葉ちゃんのような人がいること、応援してくれる杏ちゃんのような人、本音を受け入れて清々しいと言ってくれる祐介のような人間もいるし、自分と同じように対人関係の経験が薄い春ちゃんのような子もいることを知って、自分ができる人でなくても、万能じゃなくてもいいと思えたという意味で、あそこはモルガナの成長の為に必要だったんじゃないかなーと。生まれたての子どもから、成長した子どもへの道というか。
 そしてそれは春ちゃんにとってもそうで。あそこはモルガナと春ちゃんの二人が、手を取り合って前に進む為の過程だったのかもなーと思う。そう考えると凄くいいイベントだなーと。
 そうして全員が成長したからこそ、ニイジマパレスの策略が成功したんじゃないかなと思う。あの綱渡りで死と隣り合わせの策略の成功には、モルガナが以前のような「生まれたての子ども」のままだったらダメだし、怪盗団がモルガナを本当の意味で理解出来てないままでもダメ。それだけじゃなく、怪盗団メンバーがそれぞれ得手不得手が違っていて、互いに補い合わないと立ち向かえないことを自覚するっていう過程としてオクムラパレスのくだりがあったのかな、と思った。
 あの9月の仲違いイベントは、だから誰が悪い誰が悪くないという見方をするイベントではなくて、人間関係の上で起こりうる衝突の話で、かつモルガナというキャラクターが実は「ほかのメンバーよりもスタートラインが後ろにあった」ということ、そしてモルガナにも成長が必要なんだということを示すイベントなのかなと思う。そして、モルガナが「希望を集めた存在=可能性が沢山ある子ども」という立ち位置のキャラクターなんだなと知る機会だったのかもなーと。
 そう考えたらやっぱりモルガナ可愛いなって思うし、生意気で腹立つけど憎めない、良い奴だなって思う(*´ω`*) 戻ってきて早々にモルガナが放った「相変わらず辛気臭いとこだぜ」という言葉が、ひねくれてるけど暖かく感じたのも、モルガナがそういう子だってわかったからこそなのかもなーと思った(*´ω`*)
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enrichmyheart · 2 years
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揺りかごから墓場まで
僕はもう人生の折り返し地点にいる。思えばここまでの半生は、人生の目的や目標、生きる意味なんて漠然としたものに振り回されっぱなしだったことに気づいた。
そういった他人の価値観が、雪崩のように入り込んでくる社会に放り出されてから、どのくらい自分と向き合うことが出来ただろう。
アイデンティティは、帰属する社会から形成されるものだという。そもそもその根幹が崩れてしまっている場合——つまり僕のような場合には、根無し草のような軽やかさがある。それを僕はずっと、利点だと思って生きてきた。しかしこの折り返し地点にきて気がついたことがある。クレジット=人徳は、どれだけ大枚をはたいても買うことができない。積み上げられる大きさは等しく、人生の長さに比例する。このクレジットの有無は、否応なく社会生活においての立ち位置を左右する。
僕が今、喉の奥から手が出るほど欲しいものがあるとすれば、これ以外にない。かといって、特別悲観もしていない。少なくとも生活に不自由はしていない。それが無くても、今以上の水準を望まなければ、普通に生きてゆけることに気がついてしまった。
凡人の僕に真に必要なものは、僕自身と向き合うための余白なのだということに今更、気がついたのだ。この余白を作ることは、簡単ではない。余白を埋め尽くすような社会にあっては、このことに気づくには普通、何らかの特別な環境が必要になる。だけれど逃げ場はどんどん奪われている。生まれた瞬間から、次々とそれはあらゆる手練手管によって、自分の余白へと侵入のアプローチを繰り返してくる。
僕は一体何者で、何がしたいのか。
ある人は、一人一人の人生に意味があるという。ある人は、社会的立場がその人の人生を意味づける、という。人は自分の都合によって、価値観を幾重にも捻じ曲げることもできる。
人は他者の助けなしには生きていけないが、他人の人生を生きているわけではない、とも思う。
お金は生きていくためのツールでしかない。そのお金は今、欲望の道具となり果てている。欲にまみれて不幸になる人生のお話は尽きることがなく、またそんなエンターテインメントすらも欲望の道具になり果てている。
本当に、僕は一体何者で、何がしたいのか。
社会的に意義のある生き方、なんて綺麗ごとの世界に身を置く気もさらさらない。実行を無視した綺麗ごとへの陶酔ももう、うんざりだ。実行も行動もせずに綺麗ごとへ陶酔すること——それも立派なエンターテインメントだ。
愚者からの脱却と、気づきという重要な局面は、間違いなく同義だ。
餓鬼は、喰っても喰っても腹が満たされずに、泣きながら喰いものを探し見つけては、貪り続けている。餓鬼が哀れな理由は、自分が餓鬼であるという事実に永遠に気づけない不幸にある。
余白という恐怖の時間を作りたくない人は、必死で余白を埋めるための手段を探し続ける。ここに経済的な不利益を被ってでも、という但し書きが付けば、立派に医師の評価としての依存症になる。
クレジットの根幹は、これらの社会生活を通して積み重ねてきた自分自身そのものだ。デジタルタトゥーなんていう言葉が出てきたけれど、そもそも人生は、社会の目を通して成してきた良いことや悪いことの寄せ集めで出来ている。
ヴ��ーチャルな世界で実生活との切り離しが出来たと勘違いしている人も多いようだけれど、残念ながら根本の生き方が変わっていないのならば、片方の世界で成功し続けることができる、なんてことはない。目の肥えた多くの人の前に自分を晒している、ということは自分自身の素養がマスクなしに晒されていることだと、理解しておいた方がいい。
ネット社会での生き方とリアルの世界での生き方は、よほどの人格の使い分けでも出来ていない限りは、本人が気づいているかはわからないけれど、間違いなく連動している。
繰り返すと、クレジットと生活習慣という人生の積み重ねが、自分の人生を形づくっていく。この根本さえ理解できていれば理屈としては早い。後はこれからどういう身の振り方をしてゆくか、自分で考えればいい。時間という資源だけは、誰にでも等しく与えられている。ここには、社会的に自由が許されていれば、というカッコが付く。シンプルに考えれば、この自由を侵害する存在というものが、組織単位であれ、個人単位であれ、犯罪集団もしくは犯罪者と定義することができる。
快楽訴求型ビジネスが合法であるか非合法であるかは、時の権力者や大衆の合意や様々な思惑や歴史によって、時には強制的に、時には合議的に決められてきた。つまり合法か非合法か、という決定事項にも人々の様々なバイアスや欲望の寄せ集めが入って出来上がっていて、これは自分の健全な社会生活とは切り離して考えた方がよい、ということを意味する。もっと具体的に言ってみようか。
合法か非合法かは、声の大きさというバイアスが入っていることも少なくない。快楽訴求型ビジネスは、人が快楽を感じるシステムを利用している。同じシステムを利用しているだけであって、裏家業になれば非合法ビジネスになるし、表稼業であれば合法と判断される。言っている意味がわかるだろうか。
合議的と言えるかどうか、は年金制度を見てもとても参考になる。年金制度を含めた高齢者優遇(となり果てている)制度をぶっ壊すことが出来ないのは、老人大衆(既得権益層)の声が無視できないことを意味している。票田が既得権益層に集中してくると、政策者側もそちらの方向を向かざるを得ないので、現状維持がWin-Winの関係になることは、現代社会を見ればよくわかる。年金制度だけを見てみると、若年層との対立軸が鮮明になっているはずだけれど、弱い声がかき消されてしまうのは仕方のないロジックかもしれない。維持の難しい制度を若年層からの搾取によって延命させているように見えるけれど、確実にこの若年層搾取システムは国力を奪っていくので、結果的には破綻するのだろうと僕は思う。既得権益層の顔色をうかがう組織とシステムは、意欲を削いで飼いならされた家畜を量産する。飼いならされた家畜は、「自分の一票に価値はない」と選挙にすらいかなくなる。犬による実験によると、諦観は経験によって学習されるらしい。どうやら出る杭が打たれるのも、世の常らしい。
まとめると、自分自身が飼いならされた家畜になっていないかどうかを見極めるためには知恵をつけた方が良い、というのが僕の考えだ。
人によっては、健全な社会生活が幸福な人生とイコールであるとも限らない。我慢して短命になることと、贅の限りを尽くして短命であることを、簡単に天秤で量ることはできない。権力に抗って短命で終わることも、諦観の受け入れと快楽漬けの人生で終わることも、どちらが幸福であるか、は他人にはわからない。
僕としては、家畜の側に回る絶望を味わいたくはなかった。しかしそれを乗り越えるだけのバイタリティと能力が、僕にはなかった。
成功という亡霊に憑りつかれた人を傍観しながら、自分自身もそれに翻弄されていた時期もあった。だけれど世にいう成功者や天才のように、寝食を惜しんでまで一点集中できるような何か、は残念ながら今も手にしていない。だからといって、絶望しているわけでもない。
今まで通り、適度に息抜きを楽しみながら、適度に健康で健全な生活を送りつつ世の行く末を見届けていこうか。これもまた、飼いならされた家畜としての生き方かもしれない。僕は、僕の人生の折り合いのつけ方を学んでいて、これもまた道半ばといえる。これこそが人生なのか、と言えるほどに成熟することが出来れば、それも一つの成功と言えるのかもしれない、などとも思う。
少なくとも、自分の時間を生きるだけの自由は手に入れたのだ。今のところ、僕の人生における成功の果実はこの一点につきる。
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tecchaso1988 · 3 years
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#読書 #叩かれるから今まで黙っておいた世の中の真実 #ひろゆき   2020年の読書は誕生日鑑定の勉強本ばっかりだったから 2021年は社会に目を向けた知識のインプットの比重も戻していきたい。   #読書メモ #正しく考えるには正しい知識が不可欠だが実際には多くの人が間違った知識の上に立って考えているからフェイクニュースの拡散や怪しい陰謀論を語るインフルエンサーが増える #競争は激しいのに衰退していく日本の現状見えていますか? #日本だけが海外から取り残されたように物価が安いことを日本に住んでいる人は気づかない #世界競争力ランキングにおいて日本のビジネス効率性は62カ国中ほぼ最下位レベル #ほとんどの人は自分の仕事が誰でもできるようになったことに気付かず専門性の高い仕事に就いていると思い込んでいる #高齢社会において若者はおじさんに振り回されお金と仕事が奪われる #日本ではお金がない人をターゲットにしたビジネスがいくつも展開されているから格差が広がるのは当然 #日本に革命家は現れない #多くの組織で旧時代的なおっさん化した男女がまだ上の立場にいるために数々のばかげた不条理がまかり通っている #どんな境遇でも頑張れば報われるというのは美しい物語であり一生懸命努力をしているのになかなか成果が出ない人は活躍の場を間違えている #歴史に残るような偉業を成し遂げるケースにたまたまマーケットのあるところにいたからというだけの面白味のない理由が実は多い #最低賃金が上がるとアルバイトや派遣社員側が損をする #人件費が引き上げられれば企業は人件費に圧迫されて経営状況が悪くなり潰れるか人間に代わる機械の導入が進む #セルフレジの機械の導入費用は時給1000円の人件費を考えたときに50日以内に元が取れる #働き改革という全体主義は会社も個人も得をしないから働き方なんて会社と社員の間で決めればいい #労働人口の約15%にまで増えてきたフリーランスは未来の働き方の実践者 #これから会社に勤めている人たちがどんな働き方にシフトしていくべきかはフリーランスの人たちを参考にすれば答えが見えてくる #フリーランスの働き方は今後注目すべき存在となるのは間違いないが非常に不安定で頑張りすぎるフリーランスの人の傾向はひとりブラック企業化を生み出している #企業がブラック的な仕事をフリーランスに押して受けるようになってきた #現状の教育システムは100点に近い完璧主義で子どもたちを縛る #社会に出て求められることは100点ではなく7割でいいから早くたくさんアウトプットをしろということ #自分の子どもがいずれ大人になって自分自身で判断しなければいけなくなるということを理解していないから子どもにいろんな禁止を押し付ける #大学で学んだことを企業は無視をするが大卒には意味はないというのは嘘で軽視すべきではない #デジタルネイティブ世代はスマホは得意だがパソコンスキルに欠ける点が弱点であり盲点 #親からスマホやタブレットやゲームを与えられる子どもは消費者として成長しパソコンを与えられる子どもは生産者的な立ち位置に成長する #二人以上の子育ての成功を願う親でいたいのであれば現実的に考えて夫婦の世帯収入を何としてでも最低850万円以上にしろ https://www.instagram.com/p/CJiVQDXrei-/?igshid=1nsiof0mv3tca
#読書#叩かれるから今まで黙っておいた世の中の真実#ひろゆき#読書メモ#正しく考えるには正しい知識が不可欠だが実際には多くの人が間違った知識の上に立って考えているからフェイクニュースの拡散や怪しい陰謀論を語るインフルエンサーが増える#競争は激しいのに衰退していく日本の現状見えていますか#日本だけが海外から取り残されたように物価が安いことを日本に住んでいる人は気づかない#世界競争力ランキングにおいて日本のビジネス効率性は62カ国中ほぼ最下位レベル#ほとんどの人は自分の仕事が誰でもできるようになったことに気付かず専門性の高い仕事に就いていると思い込んでいる#高齢社会において若者はおじさんに振り回されお金と仕事が奪われる#日本ではお金がない人をターゲットにしたビジネスがいくつも展開されているから格差が広がるのは当然#日本に革命家は現れない#多くの組織で旧時代的なおっさん化した男女がまだ上の立場にいるために数々のばかげた不条理がまかり通っている#どんな境遇でも頑張れば報われるというのは美しい物語であり一生懸命努力をしているのになかなか成果が出ない人は活躍の場を間違えている#歴史に残るような偉業を成し遂げるケースにたまたまマーケットのあるところにいたからというだけの面白味のない理由が実は多い#最低賃金が上がるとアルバイトや派遣社員側が損をする#人件費が引き上げられれば企業は人件費に圧迫されて経営状況が悪くなり潰れるか人間に代わる機械の導入が進む#セルフレジの機械の導入費用は時給1000円の人件費を考えたときに50日以内に元が取れる#働き改革という全体主義は会社も個人も得をしないから働き方なんて会社と社員の間で決めればいい#労働人口の約15#これから会社に勤めている人たちがどんな働き方にシフトしていくべきかはフリーランスの人たちを参考にすれば答えが見えてくる#フリーランスの働き方は今後注目すべき存在となるのは間違いないが非常に不安定で頑張りすぎるフリーランスの人の傾向はひとりブラック企業化を生み出している#企業がブラック的な仕事をフリーランスに押して受けるようになってきた#現状の教育システムは100点に近い完璧主義で子どもたちを縛る#社会に出て求められることは100点ではなく7割でいいから早くたくさんアウトプットをしろということ#自分の子どもがいずれ大人になって自分自身で判断しなければいけなくなるということを理解していないから子どもにいろんな禁止を押し付ける#大学で学んだことを企業は無視をするが大卒には意味はないというのは嘘で軽視すべきではない#デジタルネイティブ世代はスマホは得意だがパソコンスキルに欠ける点が弱点であり盲点#親からスマホやタブレットやゲームを与えられる子どもは消費者として成長しパソコンを与えられる子どもは生産者的な立ち位置に成長する#二人以上の子育ての成功を願う親でいたいのであれば現実的に考えて夫婦の世帯収入を何としてでも最低850万円以上にしろ
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misen9710 · 3 years
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朝比奈潤(ドMおじさん)@doemojisan
今から15年ほど前、20代後半の頃に個別指導系の学習塾で数年間働いていた。担当は男子中学生ばかりだったがその中に明らかにオーラが違うイケメンがいた。今で言えば坂口健太郎によく似ていたので、ここでは彼を坂口君と呼ぶ。坂口君は身長180弱、不良っぽさと中性的な部分を併せ持ったルックスだった。
実際、彼はよくモテていた。恥ずかしい話だが、私は女性の生態についての知見をほとんど彼から得たと言っても過言ではない。30歳手前の大人が14~5歳の少年から女について教わるという屈辱は私を大いに苦しめたが、童貞だった私には坂口君が無邪気に話すモテ話が抗いがたい魅力を持っていた。
「さっき逆ナンされてカラオケでセックスしてきちゃった」私が担当してすぐの頃、彼が述べた遅刻の理由である。成績の良い子が行くような塾ではなかったから真面目に勉強しに来ている生徒は少ない。それでもこの発言は衝撃的であった。事の真偽はともかくとして、私は注意するよりも呆然としてしまった。
イケメンの中でもよりすぐりの「超イケメン中学生」には凡人には想像し得ない奇跡のような出来事が毎日起きている。逆ナンパはそれこそ日常茶飯事だ。家電量販店で暇をつぶしていたら、見知らぬ40代のマダム風女性に当時、流行っていたゲームボーイアドバンスを買ってもらったこともあるという
奇跡というのはたとえば、繁華街ですれ違った20代の女性に道を聞かれ、親身になって教えたところ連絡先を聞かれ後日、お礼がしたいと食事に誘われる…といったようなことだ。そんなことがあるのだろうかと思う。私は42年間生きて、宗教の勧誘以外で一人歩きの女性に声をかけられたことがない
こうしたエピソードの一つひとつに何とも言えない迫力を感じ、私は授業中の彼の雑談、自慢話を黙認した。そういった話に私自身が興味を持っていた。彼の携帯電話の画像フォルダには今まで関係した女性との画像が収められていた。その数の多さ、写真に収まった女性の美しさには圧倒される思いであった
そのフォルダを全部見たわけではないが、一際目を引いたのは坂口君と同世代であろう白人とのハーフの美少女だ。玉城ティナ、トリンドル玲奈に似た雰囲気の彫刻のように美しい顔だった。とても中学生には見えない。そしておっぱいも、服の上からでもそれなりの大きさになっているのがわかった
何枚かの画像には私と同世代、もしくは30代であろう女性も写っていた。私には視線すら合わせない同世代の美女が15歳の少年には心を開き体も許しているのかと思うと、やるせない思いであった。自分の私生活がとてつもなく惨めに感じ、オスとしての能力の違いを見せつけられる思いであった
当時の私生活は今よりも悲惨であった。休日ともなれば昼近くまで惰眠を貪り、起きれば近所のコンビニへ行く。道中、美少女とすれ違えばその顔や胸の膨らみを凝視して目に焼き付け、帰宅後はその美少女を想像しながら自慰をする。そしてコンビニ弁当を食べテレビを見ながら夕方になるとまた自慰にふける
坂口君が恋愛ゲームを楽しみ女性を楽しませ、そして愛されている一方で、私は道行く美人を盗み見ては服の上から伺えるおっぱいの大きさを確認して脳裏に焼き付け、その乳房を揉みしだく妄想にかられながら一人慰め、果てる。東京砂漠とはこのことだろう。私は自分の情けなさに消え入りたくなった
坂口君を教えていて気付いたことがある。それは女も男と同じように気になる異性をチラ見するという事実だ。教室で隣り合って座っていた私にはそれが手に取るようにわかった。そしてチラ見された側は視線に完全に気付く。チラ見されている事に気付かれまいとあえて見ないようにする行為すらもほぼわかる
授業時間が終わり坂口君が帰宅しようとすると、いつも奇妙な光景が繰り広げられた。女子生徒たちがみなソワソワしながら坂口君の様子を気にしているのである。女子生徒の中でもカースト上位と思われる、沢尻エリカ似のリーダー格はいつも偶然を装って坂口君の周囲をうろつき会話の機会を伺っていた
沢尻の積極性に私は驚いた。女の子は相手次第でこれほどまでに積極的になるのである。カースト下位の女の子には坂口君と話す機会は与えられない。女子リーダー格の沢尻は、その地位を生かして他の女の子を牽制していたのかもしれない。授業が終わると上位グループが坂口君を取り囲むこともあった
坂口君と沢尻はもしかしたら関係を持っていたのかもしれない。なぜなら沢尻が坂口君に夢中になっていたのは誰の目にも明らかだったからだ。坂口君に入れあげていたのは沢尻だけではない。女性社員にもまた坂口君は人気があった。中でもある20代後半の女性社員が取った行動は生々しかった
の女性社員は波瑠に少し似ていたのでここでは波瑠さんと呼ぶ。長身でスレンダー、キリッとした顔つきが近寄りがたい雰囲気を出していて仕事が速かった。その波瑠さんは、愛想が良いほうではなかったが、坂口君と話すときだけは満面の笑みになるのである
志望校などを調査する資料を坂口君が提出し忘れたことがあったが、その時の波瑠さんの動きは凄かった。坂口君の席の隣にひざまずいて「ここに名前を書いて」「学籍番号はここ」と、手取り足取り教えながら書かせているのだ。どこに名前を記入するかなどバカでもわかる。波瑠さんの魂胆は明らかだった
波瑠さんが坂口君に資料を書かせている間、二人の物理的な距離が徐々に近づいていくのがわかった。波瑠さんは時に坂口君に覆いかぶさるように資料の書き方を教えていた。私には波瑠さんのおっぱいが坂口君の背中に当たっているように見えて仕方がなかった。いや、間違いなく胸と背中が触れ合っていた
波瑠さんは長身だったが胸はそんなに大きくなかった。体の線がはっきりとわかるような服を着てくることもなかった。私はそんな波瑠さんが自らの女の部分を強調していることに衝撃を受けた。よく恋愛マニュアルに「OKサインを見逃すな」なんて書かれているが、こういうことなのかと思った
女のOKサインとはかくも露骨なものなのだ。本物のOKサインとはこのようなものなのだと思い知らされた。恋愛マニュアルに書かれた「酔っちゃった~」なんていうセリフや、普通の男が「もしや」と感じるセリフなど、このときの波瑠さんのOKサインに比べれば勘違いに近い
手取り足取り教えられながら資料を書き終えた坂口君の行動も私を驚かせた。「疲れた~」と言いながら席を立った坂口君は「波瑠さんの肩揉んであげます」といって肩のあたりを揉みはじめたのだ。波瑠さんは顔を真っ赤にしている。あのクールビューティの波瑠さんが真っ赤になって動揺している
波瑠さんにひそかに思いを寄せていた私は激しく嫉妬した。童貞ゆえの自信のなさで会話すらままならなかったが、いつも彼女を盗み見ていた。服の上から伺える乳房の形を想像しながら自慰したこともある。年上の彼氏がいるという噂にうちのめされたこともあった
そんな高嶺の花だった波瑠さんが「どうぞ私を抱いて」と言わんばかりにオンナの表情をしていたことがショックだった。一見、ツンとしているように見える女性でもイケメンに見つめられたらイチコロなのだ。しかも相手は15歳の少年である。この事実は私を苦悩させた
その日、自宅に帰った私は波瑠さんの表情を思い出していた。肩を揉まれた時の波瑠さんはなんと幸せそうな表情をしていたことか。坂口君が波瑠さんを抱いている姿を想像してみた。すると嫉妬と悔しさで不思議と興奮してくるのがわかる。寝取られ好きの気持ちがわかった。私はその夜、何度も自慰をした
この一連の出来事は童貞を捨てたいという思いを強めた。風俗でもいいから童貞を捨てれば嫉妬に苦しまなくてもすむかもしれないと思った。次の休日、ネットで入念な下調べをし風俗へ向かった。初めての記念だからと一番美人でゴージャスな容姿の女の子を指名した
指名し部屋で待つ間、胸は高まった。期待��緊張が入り交じり、武者震いが止まらなかった。女の子が部屋に入ると緊張は限界を越えた。手足が震えている。まずい。嬢に童貞であることを悟られたくない一心で、手足の震えを隠し手慣れた様子を演じようとすればするほど震えは強まり会話にも妙な間ができた
正常なコミュニケーションすら成立しない私を前に、風俗嬢は徐々に心を閉ざしていった。恐らく私は緊張と劣等感にまみれた恐ろしい表情をしていたのだろう。風俗嬢が私を不気味がり、怖がっているのがわかる。私はその雰囲気をどうすることもできず、無言で胸を揉み続けた
子泣き爺のように後ろから覆いかぶさり、ぎこちなく胸を揉みしだく私の表情をチラリと見た風俗嬢は、ほんの一瞬だが嫌悪の表情を見せ、その後は私をできるだけ見ないようにしていたと思う。私の性器に手を伸ばし、数回上下に動かしながら刺激を与え勃起を確認した彼女は無言でコンドームを装着させた
コンドームを装着されながら私は女体に感じ入っていた。初めて触る女性のおっぱい。その柔らかさ美しさに衝撃を受けた。女の乳房とはこんなにも男に幸せな感情を与えるのかと。ずっと揉み続けていたい衝動にかられた。しかしコンドームを装着させた嬢は女性器に何かを塗り込んだあと挿入を促した
正常位の体勢から、私はアダルトビデオの見よう見まねで挿入を試みた。しかし、これが意外に難しい。挿入しようとし、角度や位置の違いから押し戻される。それを数回繰り返すうちに動揺は強まった。童貞であることがバレたかもしれない。そして何より精神的動揺から勃起が弱まっていくのを感じた
萎えて柔らかくなった男性器を女性器の入り口に押し付け、どうにか挿入しようとして押し戻される滑稽きわまりないやりとりの後、私は挿入を諦めた。気まずさを誤魔化すため、私は風俗嬢のおっぱいにむしゃぶりついた。風俗嬢は事務的に私の性器を手でしごき、再び勃起を促した
胸を揉むとわずかだが、萎えた性器が復活する。ベッドの上にお互い向き合って座りながら無言のまま、私は胸を揉みしだき、風俗嬢は淡々と私の性器をこすり上げる重苦しい時間が20分くらい続いた。異様な光景だったと思う。やがてコンドームがシワシワになったところでタイマーの警告音が響いた
「時間…」とつぶやいた風俗嬢はコンドームを剥ぎ取り、激しいペースで性器をしごいた。私も胸を揉むペースを早める。すると数十秒後、精子が放出された。思わず「あっ」という声を上げてしまった。賢者モードに陥る私をよそに彼女はティッシュで精子を拭く。これが私のみじめな初体験だった
挿入に成功しなければ真の意味で童貞を脱したことにはならない。翌週も同じ店に行った。指名した娘は先週の子ほど美人ではなかったがとても愛想が良かった。武者震いしながら性行経験者を装う私のバレバレの演技にも笑顔だ。私を傷つけないよう、私が彼女をリードしている錯覚を与えながら挿入へと導く
メリメリという感覚の後、私の性器はするっと女性器の中に入った。挿入に成功した。私は激しく動くことで緊張を悟られないように努めた。しかし、このとき私は膣内での射精には成功しなかった。風俗業界ではこれを中折れと呼ぶらしい。結局、私は手と口で嬢に刺激されながらゴム内で発射させられた
恥ずかしながら私はセックスがこんなにも難しく、重圧がかかるものだとは知らなかった。機会さえあれば誰にでもできると思っていた。水を飲み、道を歩き、ベッドで寝る。そんな人間の当たり前の営みと同じく挿入と射精ができるのだと。しかし実際は違う。自転車の補助輪を外すような訓練が必要なのだ
風俗店から帰宅後、ネットで調べたところ、私のような症状は「膣内射精障害」と言うらしい。自慰ばかりしているモテない男が患う風土病のようなものだ。普通の男性が患うこともあるが、多くは加齢、飲酒、あるいは倦怠期で刺激を失ったことが原因であり、コンディション次第ですぐ回復する
自慰ばかりしている男性は、しばしば自分の性器を強く握りしめる。そして、それは膣が加える刺激を上回る。性交よりも自慰の回数が圧倒的に多い非モテ男はそれに慣れきってしまい、いざ性交するときに刺激が足りず射精に至らないのだ。オナニー病、モテない病と言える。こんなに哀しい病があるだろうか
結局、膣内での射精に成功するまで、童貞を捨てた日から3年以上の月日がかかった。風俗店へ通いつめた回数は40回を超える。30歳を超え、ようやくである。中折れし途中で萎えた性器を手でしごきあげられ、射精させられるという情けないセックスを40回以上も繰り返したのだ
童貞を捨てれば消え去るかと思われた劣等感はさらに巨大になった。3年の間、自らの性的能力の低さ、異常さを突きつけられた思いがした。15歳の少年がいとも簡単に、毎日のように行う「普通の性交」にお金を支払ってもなお達しないのである。波瑠さんら女性社員や生徒がこれを知ったら、蔑み笑うだろう
恥ずかしい話だが、今でも私は2回に1回は膣内射精に失敗する。これは異常なことだろう。しかし、異常者なりに気づきもあった。風俗嬢に「実は素人童貞で経験が少ないんです。リードしてください」と白旗を上げるのだ。すると精神的に少し楽になることがわかった。少なくとも手足の震えは軽減した
裸の女性を前にした緊張、武者震い、手足の震えは、恐らく素人童貞を恥に思い隠そうとする男のチンケなプライドと密接に関わっている。あえて白旗を上げることで、それはいくらか軽減する。しかし「途中で萎えたらどうしよう」という重圧は依然として残る。この重圧から逃れる方法を私はいまだ知らない
風俗嬢に「経験が少ないのでリードしてほしい」とカミングアウトすると、高確率で「そういうお客さんの方が好き」と言われる。これは好き嫌いというよりも、その方が業務上、楽なのだろう。世の女性が素人童貞を好きというわけではない。むしろ素人童貞で射精障害のおっさんなど視界にすら入っていない
しかし指名した子がドンピシャで好みだった場合は、経験が少ないことを明かせずにいた。もしかしたらこの娘と付き合えるかもしれないという下心からである。冷静に考えれば風俗嬢が客と付き合うことなどあるはずがない。にも関わらず、自分を偽りカッコつけてしまうのだ
なぜか。それは女性との接触が極度に少ない非モテには万に一つの可能性でさえ貴重な機会だからだ。自分でも狂っていると思う。しかし非モテの劣等感とは、これほどまでに人間の判断力を狂わせるのである。こうして性に習熟した大人の男を演じようとして射精に失敗し呆れられる。私はこれを繰り返した
風俗店通いで不快だったのは待合室の存在だ。見るからに女と縁がなさそうな醜い男たちが折り重なるように狭い部屋に押し込められ、煙草の煙にまみれながら携帯電話の画面を覗いている。そしておそらく彼らは軽く勃起している。この世の終わりみたいな場所だ。気持ちの悪さに身の毛がよだ��てしまう
フェミニストが憎み、罵り、滅ぼそうとしているのは風俗店の待合室にいるような男たちのことだろう。決して坂口君のような美少年ではない。この点に関して、私はフェミニストに深く同意する。彼らを消し去ることで、世界は少しだけ良くなると思わざるを得ない。私も消えてしまうけれども
おそらく坂口君は、平均的な非モテ中年の何十倍、何百倍もの女性を傷つけ、悲しませ、不安にさせてきたはずだ。しかし、世の女性はそれでも坂口君を愛する。そして彼に特別扱いされることを望む。フェミニストも坂口君を攻撃することはない。彼の存在そのものが女性を幸せにするからだ
私のような非モテ中年がフェミニストにお願いしたいのは、せめて我々が生きる権利だけは奪わないでほしいということだ。風俗店の待合室に来てしまうような種族は、自分ではどうにもできない性衝動と法律の折り合いをつけ、やむにやまれず安月給を工面して数万円を握りしめてやってきた善良な市民である
男がお金を払って快楽を得ようとすることに関して、女性の目は厳しい。それは本来なら淘汰され、消えてなくなるべき遺伝子が、お金の力で力を得ることへの本能的な嫌悪であると思う。この本能は現在の人権制度、博愛主義と完全に対立する。この点について現代社会はまだ答えを見いだせていないと思う
坂口君には女性を虜にする必殺技があった。それは笑顔で挨拶することだ。なんだ、それだけかと思うかもしれない。しかし彼は笑顔だけで女性を完全にコントロールしていた。私が見る限り、彼はいつも同じように笑顔の挨拶をしていたわけではない。人や状況に応じて、振りまく笑顔の量に濃淡をつけていた
坂口君が最大級の笑顔で挨拶をすると、女たちは皆、有頂天になった。成人女性とてそれは同じだった。みな狂ったように喜んだ。しかし、いつもそれをするわけではない。そうやって濃淡をつけることで、不安にさせたり、嫉妬させたりしながら女たちの行動をコントロールするサイコパス的な側面があった
それは幼少期から女性と濃密なコミュニケーションをすることで得られた天性の能力だろう。真似しようとしてできるものではない。「女性に優しく」と、よく恋愛マニュアルに書かれているが、大半の男が考える優しさは「弱さゆえの優しさ」であって、本質的には媚びや譲歩に近い
そしてこれは重要なことだが、女性はその「弱さゆえの優しさ」には興味がない。いや、嫌悪すらしていると思う。「弱さゆえの優しさ」でどんなに高額のプレゼントを貰おうとも、女たちはなびかない。むしろ坂口君から時に冷たくされ、時に嫉妬させられながら、ごくたまに優しくされる恋愛を選ぶ
坂口君に話しかけられた女性の反応は、若くてハンサムな白人男性に話しかけられた日本人女性のリアクションに近い。若い白人男性が日本人女性を次々といとも簡単にナンパする動画がネット上で賛否を呼んでいたことがあり、私もそれを興味深く観たが、あれはまさしく坂口君の周りで起こっていたことだ
六本木などを歩けばわかることだが、ハンサムな白人男性を連れて歩く日本人女性は不思議と欧米風の所作になる。彼女らは白人男性を連れて歩いているという状況そのものに酔っていて、「みんな見て、これが私の彼氏よ」とアッピールしたくてたまらないように私には見える
白人男性と交際すること、それを周囲に認識させることが自らの格をも上げるのだと確信していないと、ああはならないのではないか。少なくとも冴えない日本人男性を連れて歩く日本人女性は、六本木を彼女らほど我が物顔では歩かない。もっと申し訳なさそうにそそくさと歩いているように私には見える
思えば沢尻や波瑠さんは、坂口君と話しているとき、とても得意げだった。周囲に見せつけるように、「坂口君とこんなに仲が良い私」をアッピールしていた。そして我を忘れて会話を楽しんでいた。沢尻はともかく、波瑠さんまでが中学生相手にそんなになってしまったことは、私に強い衝撃を与えた
私が初めて風俗店へ行ってから数週間後、沢尻の母親からの電話が私の勤務する学習塾を大混乱に陥れた。最初に電話をとったのは私だ。母親が言うには沢尻が波瑠さんからしきりに服装について注意を受け精神的に参っていると。服装についての規則はないはずでは?何が悪いのかということだった
これは沢尻の母親に理がある。生徒の服装を職員が注意することは、基本的にはないはずだ。そんな場面を見聞きしたこともなかった。これは奇妙だ。そして母親は言いにくそうに、話を続けた。「あと…娘が波瑠さんにあなた処女じゃないでしょって言われたみたいなんですけど…」。私は耳を疑った
沢尻母が校舎へやってくると、室長室へ通し、私は退席した。約1時間後、沢尻母が帰ると、今度は波瑠さんが室長室へと呼ばれた。授業時間になっても波瑠さんは戻ってこない。私は嫌な予感がした
納得がいくようでいかない、なんとも要領を得ない説明である。「波瑠さん、沢尻に派手な下着を着るなとか、ピタっとした服を着て来るなとか言ってたらしいですよ…。で、別の教室へ行って、すぐ辞めたみたい…」。私はそのことを坂口君から聞いた。そして事の真相にある程度の察しがついた
一連の騒動はおそらく坂口君をめぐる沢尻と波瑠さんの潰し合いなのだ。そして沢尻が勝ったと。坂口君と沢尻がイチャついていたのを見た波瑠さんが嫉妬し、坂口君におっぱいを密着させて接近した。それを察知した沢尻は波瑠さんのクビを獲りにきた…。そういうことなのではないかと
坂口君はなぜ波瑠さんの「その後」を知っていたのか。私は彼に「そんなこと誰から聞いたの?」とは聞けなかった。仮に聞いたら、彼はおそらく「だって波瑠さん、俺のセフレだよ」と無邪気に答えたであろう。波瑠さんに想いを寄せていた私は、それだけはどうしても聞きたくなかった
坂口君は波瑠さんのOKサインを見逃してはいなかったのだ。そして彼は波瑠さんとセックスしていたのだと思う。室長の聞き取りで波瑠さんは、沢尻への仕打ちだけでなく余罪も白状した。そして警察沙汰を恐れた塾側は、噂になる前に波瑠さんをクビにした…。これが坂口君の口ぶりから察した私の仮説である
坂口君と波瑠さんは、いったいどんなセックスをしていたのだろう。15歳にして180cm近い長身、私より10cm以上も高い。きっと性器も立派なのだろう。少なくとも私のような仮性包茎のイカ臭い、粗末な性器ではないはずだ。場馴れした手つきで波瑠さんをリラックスさせ、「好き」と囁き合ったのではないか
坂口君は30人以上とやったと豪語していた。多少盛っていたかもしれないが、説得力はあった。セフレの女子大生からの「生理来たよ」というメールを見せてきたこともあった。当初、私はその意味がわからなかった。数日してようやく危ない日にコンドームなしでセックスしたことを意味するのだと悟った
童貞の男はそんなことも分からないくらい察しが悪い。そのくせ嫉妬深い。坂口君と波瑠さんがセックスしていたことに気付いた日、私は帰宅するなり自慰をした。波瑠さんを奪われた怒りに近い感情が、なぜか興奮を高めた。怒りと興奮で顔を紅潮させながら、あらん限りの力を込めて性器を握りしめていた
そのときの私はこの世のものではないくらい醜い顔をしていたはずだ。嫉妬に狂いながら坂口君が波瑠さんを愛撫する姿を想像し、「畜生、畜生…」と呟きながら性器を握りしめた。膣内射精障害が悪化するとも思ったが、どうにでもなれという自暴自棄の気持ちが勝っていた
そのときなぜか波瑠さんが小ぶりなおっぱいを精一杯寄せて、坂口君の性器を挟んでいる像が思い浮かんだ。パイズリだ。なぜそんなイメージが浮かんだのかはわからない。心の奥底に閉じ込めた性衝動が脳内で不可思議に暴発したのだと思う。そして、その瞬間、私の性器は精子を垂れ流した
その後、私は坂口君の立派な、私の倍くらいはあるだろう性器を波瑠さんが小さな乳房で一生懸命に包み込んで奉仕している場面を思い浮かべながらもう一度、射精した。その後、今度は波瑠さんが坂口君に攻められ、涙声で「ごめんなさい」と言いながら絶頂に至る妄想でさらにもう一度、射精した
それにしても波瑠さんはなぜ沢尻なんかに目くじらを立てたのだろう。たしかに職員にとって沢尻は苛立たしい存在ではあった。反抗的で知性に欠け、徒党を組むタイプの女だ。が、所詮中学生。美人だが波瑠さんの上品な美しさとはモノが違う。しかし沢尻にあって波瑠さんにないものが一つだけあった
大きな乳房だ。沢尻は中学生の割におっぱいが大きかった。それを見せつけるように胸の谷間も露わなキャミソールを着てくることもあった。波瑠さんは沢尻の胸の大きさに嫉妬していたのだろうか。普通ならば、そんな結論には至らない。何より女性は男が思うほど、恋敵の胸の大きさを気にしない
本当のところはわからないが、少なくとも気にしない素振りを見せる。しかし、こんな普通じゃない状況になった今、どんな可能性だってありうるように思われた。沢尻が大きな胸で坂口君を誘惑していると確信した波瑠さんが、嫉妬にかられ派手な下着や体のラインが出る服を着ないよう命じた…
そんなのはアダルトビデオの中だけの話。そうやってシンプルに考えられる人を私は羨む。いろいろな可能性を考えたとしても、それは何も生まない。真相は本人に聞いてみなければわからないのだから、考えたって仕方がないのだ。本人ですら、自分が何を考えているのかわからないのかもしれないが
波瑠さんは胸は小さく、おそらくAカップかBカップといったところだったが、170cm近い長身で顔が小さく手足が長い。他人の美貌に嫉妬するようなコンプレックスがあるようには見えなかった。沢尻は165cmくらい、Dカップくらいだろうか。大人びてはいるが品の無いヤンキーみたいだなと思うこともあった
私は波瑠さんに話しかける勇気はないくせに、チラチラと盗み見ていた。ブラウスの間からブラジャーが見えていて、凝視してしまったこともあった。もう少し角度をずらせば波瑠さんの胸の大きさが確認できるような気がした。思えばあれは気付かれていただろう。なんとも情けない話だ
真剣佑という俳優が14歳当時、37歳の子持ち既婚女性と肉体関係を持ち、その女性が真剣佑との間に生まれた子供を出産したというスキャンダルがあったはずだ。私はこの報道を聞いて真っ先に坂口君と波瑠さんのことを思い出した。この世には現実にこういうことがあるのだ。「事実は小説より奇なり」である
37歳人妻の理性はなぜぶっ壊れたのか。希少性の法則という言葉がある。人は希少なものや機会には価値があると思い込み、しばしば非合理的な行動をとる。旅先で割高な土産物を買ったり、閉店セールで安いからと絶対に使わないものを買ったりしたことはないだろうか
希少性の法則は性愛においてこそ当てはまると私は考える。目の前にいる美少年が完全に自分の好みのタイプで、彼にいま好意を伝えなければもう会えないかもしれないという状況があったとしたら、女の理性は少しづつ壊れていく。「こんな子にはもう出会えないかも」「今しかない」という感覚
それでも法に触れることを恐れて、性衝動を理性で強引に閉じ込めるのが普通の人間だ。しかし、心の奥底に折り畳まれた性衝動を侮ってはいけない。理性で閉じ込めるたびに性衝動は力を増す。性的な衝動を発散する機会が少ない、抑圧された女性の性衝動は男の数倍強い
希少性の法則を突き詰めれば、非モテ男の生存戦略は希少性を獲得することということになる。容姿に恵まれていないが幸せな性愛生活を送りたいと願うなら、希少な存在になるべきだ。この観点から、モテたくてバンドをやる、芸人を目���す、漫画家を目指すという行為はまったく正しい
希少な存在だけが女の心を揺さぶり、理性の扉を開くことができる。モテたいのに会社員になってそれなりの年収を貰おうと努力するのは完全に間違っている。そもそも非モテは会社で出世できない。会社とは非モテがせっせと努力して得たものをリア充がまるで自分の手柄のようにかっさらっていく場所だ
イケメン男子中学生に手を出した年上の女は、遊ばれた挙げ句、無残に捨てられるだけなのになぜ…?と理解ができない人もいるだろう。非常に浅はかな考えだ。性愛に賭ける女の深い情念を甘く見すぎている
女はイケメンに近づけば遊ばれ捨てられることなど百も承知なのだ。15歳の美少年に手を出せば、彼と同世代の美少女と比較され、子供と侮っていた女に男を奪われ、時に恋敵の��子中学生よりも胸が小さいというみじめな現実を突きつけられ嫉妬に狂うことだって覚悟の上なのだ
男子中学生と成人女性の間には、事実、性愛関係が成立する。たった今も地球のどこかで男子中学生と成人女性はセックスをしている。にも関わらず、それは世間的には許容されない。いや、法的、社会的、道徳的、教育的などあらゆる観点からそれは否定される
そして弱虫や嘘つき、偽善者たちは、男子中学生と成人女性の性愛関係など、この地球上にまるで存在していないかのように振る舞う。しかし、私は文学的、ないし芸術的な観点からは、それを肯定したい。少なくとも私には坂口君に肩を揉まれ至福の表情を浮かべる波瑠さんを咎める気にはなれなかった
私は数日前にTwitterでここに書いたトラウマを吐き出したことで、ようやく性愛と向き合うことができた。性愛以上に大事なものはこの世に存在しないことにようやく気付いた。そして素人童貞なりに、この世にどうにか自分の爪痕、生きた証を残したいという強い生の衝動に突き動かされてこれを書いている
私の書く文章を気持ちが悪いと思う人は多いだろう。作り話だ、決めつけだ、素人童貞に何がわかるという意見だってあるはずだ。批判したければ批判するがいい。笑いたければ笑えばいい。しかし、批判しても笑っても、すべての人間に気色の悪い性的衝動が存在する事実を消し去ることはできない
この一連のツイートを波瑠さんと、私を射精に導いたすべての女性に捧げる…って、捧げられても困るか…。まあいいや(完)
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cuttercourier · 4 years
Text
[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルス��ゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第���次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「���ンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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tomtanka · 4 years
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かつてなく老いた涙目の短歌のために
「目は口ほどに物を言うからな」の一言で自分の言葉を信じてもらえなかったら憤慨するだろうけれど、同時に、「じゃあしかたない」とも思ってしまうかもしれない。ことわざを本気で使ってくる人を相手取るとき、そのことわざの力強さに対して自分の正直な心の力は、頑張っても引き分けか根比べ競争に持ち込めるかくらいのものかもしれない。そんなことでいいのか。「口」を信用することなく、「目」に権威を求めてしまうのはなぜだろうか。
わたしの視野になにかが欠けていると思いそれは眼球めだまと金魚を買った
/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
「わたし」=「それ」=「作中主体」が「視野になにかが欠けていると思い」、「眼球と金魚を買った」。眼球の有無は「わたしの視野」の信頼にかかわるだろうか。
「わたしの視野」の信用問題。それは「わたしの視覚」の問題には回収されないだろう。「わたしの視野」を再現すること、報告すること。それは、語りの問題でもある。「わたしの語り」あるいは「わたしについての語り」。
「わたしの視野になにかが欠けていると思い」 「それは眼球めだまと金魚を買った」
と語る者がいる。一人称の「わたし」と三人称の「それ」を使い分けながら〈わたし=それ〉について語る者。あたかも三人称の「それ」に言及するように一人称の「わたし」について語ることのできる、「わたし」でも「それ」でもない語り手。
その語り手は眼球を使って〈わたし=それ〉を見たのだろうか。うーん。語り手として、わたしたちは見たことも聞いたこともないことを語ることができるけど。
それはメタ視点の〈わたし〉だろうか。メタ視点の〈わたし〉と思いたがる態度は、なんとしてでも〈わたしの視点〉を死守しようとする心に由来しないだろうか。もしも、〈わたしの視点〉が〈わたし〉の意識の圏内になかったら、どうするのか。〈わたしの盲点〉が無意識の視点として〈わたしの視点〉になりかわるとき、目が口ほどに物を言い始めるチャンスだ。目だけではない。様々な物たちが物を言い始める。指、髪、鼻、表情、性器、身長、体重、性別、世代、口癖、言い間違い、ファッション、スマホの機種、アクセサリー、食生活、インテリア、嗜好品、社会階層、家庭環境、トラウマ。〈わたしの視点〉を死守する心が〈わたしの盲点〉を前にして挫折するどころか〈無意識のわたしの視点〉をそこに見出すとき、〈わたし〉は言っていないことを言っていて、思っていないことを思っている。ヤバすぎる。無意識の解釈は信頼できる人や権威ある人にやってもらいたい。と、わたしは思うだろう。「と、わたしは思うだろう」と回収する〈わたしたち〉の法。
こんなにインクを使ってわたしに空いている穴がわたしの代わりに泣くの
深ければ深いほどいい雀卓がひそかに掘りさげていく穴は
/平岡直子「鏡の国の梅子」(同人誌『外出』2号)
〈わたし〉の個別性は〈わたしたち〉の法に抵抗できるはずだ。という主張は、きっと何度も繰り返されてきた。〈私性〉はしょせん共同体の一員としての制限された〈わたし〉のことだ、と言ってみたところで、かつての「共同体の一員」たちのなかにも、そのような意味での〈私性〉に回収されない〈この・わたし〉たちが次々と発見されるはずだ。それが本来の意味での〈私性〉だ。話は決まっている。その都度、うまく解釈を施せば、法文を変える必要はない。解釈できないものについては、例外事項として扱えばいい。例外的な〈わたし〉たち。動物、魔法使い、「ミューズ」、など。「穴」はどうしようか。
さいころにおじさんが住み着いている 転がすたびに大声がする
はるまきがみんなほどけてゆく夜にわたしは法律を守ります
/笹井宏之『てんとろり』
あるいは、〈わたし〉など言葉の遊戯の一効果にすぎない、と言ってみたとして。それが〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉ではない、と言い切れるだろうか。ヴァーチャル歌人・星野しずるの作者・佐々木あららは次のように語る。
Q.これ、そもそもなんのためにつくったんですか?
  僕はもともと、二物衝撃の技法に頼り、雰囲気や気分だけでつくられているかのような短歌に対して批判的です。そういう短歌を読むことは嫌いではないですが、詩的飛躍だけをいたずらに重視するのはおかしいと思っています。かつてなかった比喩が読みたければ、サイコロでも振って言葉を二つ決めてしまえばいい。意外性のある言葉の組み合わせが読みたければ、辞書をぱらぱらめくって、単語を適当に組み合わせてしまえばいい。読み手の解釈力が高ければ、わりとどんな詩的飛躍でも「あるかも」と受けとめられるはずだ……。そう考えていました。その考えが正しいのかどうか、検証したかったのが一番の動機です。
/佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」
読み手の解釈はそんなに万能ではないだろう。「わりとどんな詩的飛躍でも」、〈わたしたち〉に都合よく「あるかも」と解釈できるだろうか。現在、そのようなことは起きているだろうか。「わからない」「好みではない」「つまらない」「興味がない」「時間がない」といったことはないだろうか。それが駄目だという話ではない。〈理想の鑑賞者〉という仮想的な存在を想定した読者論はありうるが、短歌はそれを必要としているだろうか。AI純粋読者。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに泣くの」
「わたし」は泣いていないのだとして。「穴」があるかも。泣いているかも。
誰の声?
「なんでそんなことするんだよ」で笑いたいし、なんでそんなことするんだよ、を言いたい。〈なんでそんなことをするのかが分かる〉に安心するのは、それがもう「自分」だからだ。「自分」のように親しい安心感なんて、いくつあったっていい。 でも〈なんでそんなことをするのかが分かる〉でばかり生を満たしているとどうだろう、人はそのうち、AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか。
/伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』」
やさしくて、人を勇気づけてくれる言葉だ。そう思う。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに」「AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか」
「わたし」の代わりに泣いているのは何だろう。〈わたしたち〉の法はその涙を取り締まれるだろうか。「泣くことになるんじゃないか」は「泣くな」ではない。「じゃないか」の声の震えは何だろう。もしかして、泣いてるんじゃないのか?
ころんだという事実だけ広まって誰にも助けられないだるま
もう顔と名前が一致しないとかではなく僕が一致してない
あたらしいかおがほしいとトーマスが泣き叫びつつ通過しました
/木下龍也『つむじ風、ここにあります』
機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体
/東直子『青卵』
ナレーションのような声によって、かわいそうなものがユーモラスに立ち上がる。ナレーターの「僕」もなんだかかわいそう。「だるまさんが転んだ」という遊びはだるまを助ける遊びではない。そもそも、鬼に自分から近づいていくような酔狂な者たちは、自身がだるまである自覚があるのか。いや、このゲームにだるまは存在するのか? 助けるに値しないだろ。「顔と名前が一致しない」は、通常、自分以外の誰かに向けられる言葉だが、歌を読み進めていくとそれが「僕」に向けられた言葉であることが判明する。読者はそれに驚くだけではない。「顔と名前が一致しない」という言葉に含まれる攻撃性が「僕」自身に向けられることで、途端に空気がやわらぐのを感じて、ホッとする。笑う。あ、よかった、大丈夫だった。「僕が一致していない」と言う「僕」のユーモラスなかわいそうさは、このような言葉のドラマによって作られている。お前、かわいそうだな、でも大丈夫そうだ。〈立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ/木下龍也〉。アンパンマンとトーマスのキメラが泣き叫んでいるらしい。「ためいき」の向こう側で。「ためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」。こちらだって、くるおしい。
「ためいき」の向こう側に、言葉が無数の涙を作れてしまうとして。〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉を超えたところに涙を作れてしまうとして。〈わたし〉の涙は計算不可能な可能性の中で生じた一効果なのだとして。涙に理由はないのだとして。やっぱり、本当に泣いている〈わたし〉もいるでしょう? 泣いている〈わたし〉を助けてあげたい? 「なんで泣いているんだよ」。
止まらない君の嗚咽を受けとめるため玄関に靴は溢れた
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
アガンベンの直感はこうである。すなわち、法にとって「思考不可能」なはずの生〔=既存の法では取り扱えない種類の「生」〕、この「生」は法にとって法の空白をなしてしまうものであるが、しかも仮にそこで留まれば、「生」は単なる法外・無法として放置されるはずであるが、しかしそういうことは決して起こることはなく、法は、「生」が顕現するその状態を例外状態や緊急事態として法的に処理しようとする。ここまでは、よい。その通りである。しかし、アガンベンは続けて、そのように「生」が法に結びつけられると「同時」に、「生」は法によって見捨てられることになると批判したがっている。今度は、「生」は、法的に法外へと見捨てられ、あまつさえ無法な処置を施されると言いたがっている。しかし、その見方は一面的なのだ。主権論的・法学的に過ぎると言ってもよい。というのも、「生」の側から言うなら、今度は、「生」が法外な暴力を発揮して、「生」を結びつけたり見捨てたりする法そのものを無きものとし、ひいては統治者も統治権力も無力化するかもしれないからである。そして、疫病の生とは、そのような自然状態の暴力にあたるのではないのか。
/小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、161-162頁、〔〕内注記は平
実状に合わせて、法文書の中に例外事項をひたすら増やし、複雑にすること。その複雑な法文書を読み解ける専門家機関を作ること。それを適切に運用すること。そういった法の運用では〈わたしたち〉の生を守ることができないような事態に直面したとき、法よりも共通善が優先され、法が一時的に停止される。「例外状態���。法の制約から解放された��力が動き出すだろう。法が停止した世界において、それでも法外の犯罪(という語義矛盾)を統制するため。法の制約から解放されたのは権力だけではない。〈わたし〉たちだって法外に放り出されたのだ。「ホモ・サケル」。そこには、〈わたし〉ならざる者たちが、〈わたしたち〉の法を無力化しながら、跋扈することのできる世界があるだろうか。(穂村弘が「女性」という形象の彼方に夢見た世界はそういうものだったかもしれない。*注1)
法外に流されている暴力的な涙はあるだろうか。理由のない涙の理由のなさをテクストの効果に還元して安心しようとするテクスト法学者を、その涙が無力化するだろうか。涙する眼は、見ることと知ることを放棄する。両眼視差と焦点を失いながら、けれどもたんに盲目なのではない涙目の視点。
それは哀願する。まず第一に、この涙はどこから降りてきたのか、誰から目へと到来したのかを知るために。〔…〕。ひとは片目でも見ることができる。目を一つ持っていようと二つ持っていようと、目の一撃によって、一瞥で見ることができる。目を一つ喪失したり刳り抜いたりしても、見ることを止めるわけではない。瞬きにしても片目でできる。〔…〕。だが、泣くときは、「目のすべて」が、目の全体が泣く。二つの目を持つ場合、片目だけで泣くことはできない。あるいは、想像するに、アルゴスのように千の目を持つ場合でも、事情は同じだろう。〔…〕。失明は涙を禁止しない。失明は涙を奪わない。
/ジャック・デリダ『盲者の記憶』、155-156頁
涙目の視点。
振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち
色彩と涙の国で人は死ぬ 僕は震えるほどに間違う
価値観がひとつに固まりゆくときの揺らいだ猫を僕は見ている
ゆっくりと鳥籠に戻されていく鳥の魂ほどのためらい
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
「振り下ろすべき暴力」などないと話は決まっている。合法の力と非合法の暴力とグレーゾーンがあるだけだ。倫理的な響きをもつ「べき」をたずさえた「振り下ろすべき暴力」などない。語義矛盾、アポリア。けれども、「法外の犯罪」などという語義矛盾した罪の名を法的に与えられるその手前、あるいはその彼方での〈わたし〉たちの跋扈を、「振り下ろすべき暴力」という名の向こうに想像してみてもいい。
語義矛盾のような〈わたし〉は語義矛盾のような言葉を聞くことができる。「世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間」(塚本邦雄)。
 短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。文語定型詩は、二十一世紀の現実に極微の効用すらもちあわせていない。一首の作品は今日の現実を変える力をもたぬのと同様に、明日の社会を革める力ももたない。  私は今、その無力さを、逆手にもった武器として立上がろうなどと、ドン・キホーテまがいの勇気を鼓舞しようとは思わない。社会と没交渉に、言葉のユートピアを設営する夢想に耽ろうとももとより考えていない。  短歌は、現実に有効である文明のすべてのメカニズムの、その有効性の終わるところから生れる。おそらくは声すらもたぬ歌であり、それゆえに消すことも、それからのがれることもできぬ、人間の煉獄の歌なのだ。世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間に、影も音もなく密着し、彼を慰謝するもの、それ以上の機能、それ以上の有効性を考え得られようか。  マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
/塚本邦雄「反・反歌」『塚本邦雄全集』第八巻、28頁
「現実を変える力」を持たぬ「世界の変革者」は、通常の意味では変革者ではない。有罪と裁かれる日も無罪放免となる日も迎えることはない。ということは、その「変革者」は囚獄の中にも現実の中にも生きる場所を持たない。そんな人間いるのか。もしも批評家がその変革の失敗を裁くことでその人間に生きる場所を与え、歴史に刻むならば、その失敗がそもそも不可能な失敗であったことを見落としてしまうだろう。なんて無意味なこと。けれども、目指されていた変革も失敗の裁きもなしに、まったく別の道が開かれることがある。そういう想像力は必要だ。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。
マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
これらのメッセージを、塚本邦雄がそう言っているのだから、と素朴に真に受けてはならないだろう。マス・メディアに随順するのか、塚本邦雄に随順するのか、そういった態度。
筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育
/平岡直子「水に寝癖」
洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音
/平岡直子「紙吹雪」
「そうなのよ」「そうじゃないのよ」と口調を真似て遊んでいると「砂利を踏む音」にたどり着けない。どんな人にも「わたしが受けなかった教育」があるし、なにかしら「洗脳はされる」。だからなんだよ。今、口ほどに物を言っているのは何。「砂利を踏む音」。くやしい。
リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない
/山中千瀬「蔦と蜂蜜」
気付きから断定、発見から事実確認、心内語的つぶやきから客観的判断へと、フレーズの相が転移するリフレイン。「リリックと離陸の音で遊ぶとき」、その「とき」に拘束されて、ある一人の人が「着陸はない」と気づいた。気づいてそう言った。けれども、二度目の「着陸はない」からは、「とき」や〈気付きの主体〉の制約を受けないような、世界全体を視野におさめているかのような主体による断定の声が聴こえてくる。聴こえてきた。
「着陸はない」世界に気づいた主体が、一瞬にしてその世界を生ききった上で、振り返り、それが真実であったと確かめてしまった。一瞬で老いて、遺言のような言葉を繰り出す。事実と命題の一致としての真理は、その事実を確認できる主体にだけ確かめることができるのだ。〈わたしたち〉にとって肯定も否定もできない遺言。「だってそうだったから」で提示される身も蓋もない真理は「なんで」を受け付けない。
世界の真理がリフレインの効果によって、身も蓋もない仕方で知らされること。説明抜きに、真理を一撃で提示するという暴力からの被害。それは、爆笑する身体をもたらすことがある。自身の爆笑する身体に「なんで爆笑してるんだよ」とツッコミをしようと喉に力を込めながら、その声を捻り出すことはできずに、ひたすら身体を震わせて笑う。「アッ」「ハッ」「ハッ」「ハッ」と声を出しながら息を吸う。呼吸だけは手放してならないのは、息絶えるから。「着陸はない」と二度繰り返して息絶えてしまうのは、歌の主体だけなのだ。
もちろん、「着陸はない⤵︎ 着陸はない⤵︎」のような沈鬱な声、「着陸はない⤴︎ 着陸はない⤴︎」のような無邪気な声を聞き取ってもいい。「着陸はないヨ」「着陸はないネ」「着陸はないサ」のように終助詞を補って聞くこと。リフレインの滞空時間が終わるやいなや一瞬にして息絶えてしまうような声が〈わたしたち〉に求められていないのだとしたら。
 「終」助詞というのは、近代以後の命名だが、話し言葉の日本語の著しい特徴であって、話し相手に向かって呼びかけ、自分の文を投げかける働きの言葉である。だから見方によれば、文の終わりではないので、自分の発言に相手を引き込もうとしている。さらに省略形の切り方では、話し相手にその続きを求めている、と言えよう。このように受け答えされる文は、西洋語文が、主語で始まって、ピリオドで終わって文を完結し、一つ一つの文が独立した意味を担っているのとは大きな違いである。
/柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』、91頁
近代に、西洋の文章を模倣するように、「〜は」(主語)で始まって「た。」(文末)で終わる〈口語文〉が作られた。それ以前には、日本語文には西洋語文に対応するような明確な〈文〉の単位は存在しなかった。句読点にしても、活字の文章を読みやすくするための工夫(石川九楊、小松英雄の指摘を参照)と、ピリオド・カンマの模倣から、近代に作られた。
言文一致体=口語体が生み出されてから100年が経つ。けれども、句読点をそなえた〈口語文〉を離れるやいなや、「着陸はない」が「。」のつく文末なのか終助詞「ヨ・ネ・サ」を隠した言いさしの形なのか、いまだに判然としないのが日本語なのだ。
ところで、近代の句読点や〈文〉以前に、明確な切れ目を持つ日本語表現として定型詩があったと捉えられないだろうか。散文のなかに和歌が混じる効果。散文の切れ目としての歌、歌の切れ目としての散文。
句読点も主語述語も構文も口調や終助詞も関係なく、なんであれ31音で強制的に終わること。終助詞を伴いながらも、一首の終わりに隔てられて、返される言葉を待つことのない平岡直子の歌の声。「着陸はない 着陸はない」のリフレインの間に一気に生ききって、どこかに居なくなってしまう声。
老いについての第一の考え方は、世論においても科学者の世界においても広く共有されている目的論的な考え方で、それによれば、老いとは生命の自然な到達点で、成長のあとに必然的に訪れる衰えである。老いは「老いてゆく」という漸進的な動きから離れて考えることはできないように思える。〔…〕。飛行のメタファー〔上昇と下降〕はまさに、老いをゆっくりと少しずつ進んでゆく過程として性格づけることを可能にする。それは、人生の半ばに始まり、必ずや直線的に混乱なく進むとは限らないとしても、段階を順番に踏んでいくのである。〔…〕。第二の考え方は老いを、漸進的な過程としてだけでなく、同時に、また反対に、ひとつの出来事として定義する。突然の切断、こう言ってよければ、飛行中の事故アクシデント。どれほど穏やかなものであったとしても、すべての老化現象の内には常に、思いもよらなかった一面、破局的な次元が存在するだろう。この、思いもよらなかった出来事としての老化という考え方は、第一の図式を複雑なものにする。老化について、老いてゆくというだけではどこか不十分なのだと教えてくれる。それ以上の何か、老化という出来事が必要なのである。突然、予測のつかなかった出来事が、一挙にすべてを動揺させる。老いについてのこの考え方は、徐々に老いてゆくことではなく、物語のなかでしばしば出会う「一夜にして白髪となる」という表現のように、その言葉によって、思いがけぬ、突然の変貌を意味することができるとすれば、瞬時の老化と呼びうるだろう。〔…〕。かくして、その瞬時性において、自然なプロセスと思いもよらぬ出来事の境界が決定不能になるという点で、老いは死と同様の性格をもつだろう。人が老いて、死んでゆくのは、自然になのか、それとも暴力的になのか。死とは、そのどちらかにはっきりと振り分けることができるものだろうか。
/カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』、76-80頁、〔〕内注記は平
徐々に老いてゆくことと瞬時に老いること。それはたんに速度の問題なのではない。同一性を保ちながら徐々に老化することと、他なる者になるかのように突如として老化すること。衰えること、老成すること、年齢に見合うこと、若々しいこと、老けていること、大人びていること、子供っぽいこと。幼年期からの経験や思考の蓄積からスパッと切れて無関心になってしまうこと、来歴のわからない別の性格や習慣を持つこと。長期にわたって抑え込まれていたものの発現や変異、後から付け加えられたものの混入や乗っ取り。
自分の周りで生きている人々が老いてゆく過程に、私たちは本当に気づいているだろうか。私たちはたしかに、ちょっと皺が増えたなとか、少し弱ったなとか、体が不自由になったなと思う。しかし、そうだとしても、私たちは「あの人は今老いつつある」と言うのではなく、ある日、「あの人も老いたな」と気づくのである。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、80-81頁
内山昌太の連作「大観覧車」では、肺癌を診断された「父」の、余命一年未満の宣告をされてから死後までが描かれる。
父のからだのなかの上空あきらかに伸び縮みして余命がわたる
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
父も死に際は老いたる人となり寝室によき果物を置く
壊れたる喉をかろうじて流れゆくぶどうのひとつぶの水分が
/内山昌太「大観覧車」(同人誌『外出』三号)
「父も死に際は老いたる人となり」。あっという間の出来事だったのではないか。おそらく、「父」はもともと老人と言ってもいい年齢だった。けれど、「死に際」に「老いたる人」となったのだ。
定型と技巧を惜しみなく使って肉親の死を描くこと。「死」は定型と技巧かもしれない。「かもしれない」の軽薄さを許してほしい。定型の両義性。自然であり非−自然であるもの。なんであれ31音で強制的に終わることは人間が作り出した約束事に思われるかもしれないが、それは〈わたしたち〉が自由に交わせる約束よりは宿命に近いだろう。約束は破ることが可能でなければ約束ではない。あるいは、破られる可能性。偶然と出来事。宿命に対する技巧とは約束を作ることだろう。そこに他者がいる。あるいは〈わたし〉が他者になる。
〈作品化することは現実を歪めることである〉という考え方がある。事実と表象との対応に着目する立場。もしも〈父のふくらはぎが「一日花のごとくにしぼむ」かのように主体には見えた〉〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉とパラフレーズするならば、作品は現実を歪めていないと言える。「見えた」「書いた」のは本当だからだ。けれど、そんな説明でいいのだろうか。また口よりも目を信用している。「一日花のごとくにしぼむ」を現実として受け入れられないだろうか。作品をそれ自体一つの出来事として。
「しぼむ」という動詞の形。活用形としては終止形だが、テンス(時制)やアスペクト(相:継続、瞬時、反復、完了、未完了など)の観点から、「タ形」(過去・完了)や「テイル」(未完了進行状態・完了結果状態などさまざま)と区別して「ル形」と分類される形である。西洋文法に照らし合わせるなら、「不定形」あるいは「現在形」だ。(日本語では〈明日雨が降る〉のように「ル形」で未来を表現することもある)。
「しぼんだ」(過去・完了)や「しぼんでいる」(現在・進行)と書かれていれば、〈主体の知覚の報告〉として読めるかもしれない。時制についても、相についても、語り手の位置に定位した記述として読める。けれども「しぼむ」はどうだろう。西洋文法において「不定形」とは、時制・法(直接法、仮定法、条件法など)・主語の単複と人称といった条件によって決められた形(=定形)ではない、動詞の基本的な形のことである。
この不定形的な「ル形」を、助動詞や補助動詞を付けずに、剥き出しにして「文末」にすること。そのような「ル形」の文末は、語り手の位置に定位した時制や確認判断を抜きにした、一般的命題、あるいは出来事そのものの直接的なイメージを差し出すことがある。
柳父章によれば、近代以前にも「ル形」の使用はわりあい多いという。けれども、それは標準的な日本語の用法ではなかった。古くは和文脈の日記文でよく使われていた。漢文体や『平家物語』でも一部使われている。そして、「おそらく意識的な定型として使われたのは、戯曲におけるト書きの文体」(97頁)である(*注2)。日記文やト書きは、原則として読者への語りを想定しない書き物であるため、語法が標準的である必要がないのだ。
 文末が「ル形」で終わる文体は、脚本とともに生まれたのだろうと思う。脚本では、会話の部分と、ト書きの部分とは、語りかけている相手が違う。会話の部分は、演技者の発言を通じて、結局一般観客に宛てられている。しかし、ト書きの部分は、一般観客は眼中にない。これは演技者だけに宛てられた文である。〔…〕。  文法的に見ると、ト書きの文には、文末に助動詞がついてない。〔…〕。  すなわち、ト書きの文末には、近代以前の当時の通常の日本文に当然ついていたはずの、助動詞や終助詞が欠けている。「ル形」で終わっているということは、こういう意味だった。  逆に考えると、まともな伝統的な日本文は、ただ言いたいことだけを言って終わるのではない。読者や聞き手を想定して、文の終わりには、話し手、書き手の主体的な表現を付け加える。国文法で言う「陳述」が加わるのである。「ル形」には、それが欠けているので、まともな日本文としては扱われていなかった、ということである。
/柳父章、前掲書、99−100頁
このような来歴の「ル形」は、その後、西洋語文の「現在形」や「不定形」の翻訳で使われるようになり、より一般化した。それをふまえた上で、読者を想定した日本文の中で「ル形」を積極的に使ったのは夏目漱石だった。歌に戻ろう。
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
「しぼむ」のタイムスパンをどう捉えるか。ある時、ある場所で、「一日」で「しぼむ」のを〈見た〉のだろうか。おそらくそう見えたのだろう。けれども、他方で、この歌は「その時、その場」の拘束から逃れてもいる。「しぼむ」には「文の終わり」の「話し手、書き手の主体的な表現」が欠けているのだ。ト書きを読めば、ある時ある場所に拘束されずに、何度でもそれを上演し体験できる。それに似て、この「しぼむ」は読者に読まれるたびにそこで出来事を起こすだろう。
「しぼむ」について、今度は「話し手、書き手」の位置ではなく、「言葉のドラマ」を参照しよう。
「巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくに」
「ふくらはぎ」と「花」は決して似ていない。「花」と言われると、人は通常〈咲いている花〉を思い浮かべるだろう。「一日花」は一日の間に咲いてしぼむ花のことだが、だからこそ、咲いているタイミングが貴重に切り取られるのではないか。「ふくらはぎ」と〈咲いている花〉は形状がまったくちがう。にもかかわらず、〈ふくらはぎ・一日・花の〉のように、「が」や「は」といった助詞を抜きに、似ていないイメージ・語彙が直接に連鎖させられている。意味的にもイメージ的にも、この段階では心許ない。結句にいたっても、「ごとくに」に四音が割かれており、一首全体が無事に着陸する望みは薄いだろう。〈ふくらはぎ・一日花の・ごとくに〉と言われても、「ふくらはぎ」はまったく「花のごとく」ではないのだから。
最後の最後で、「しぼむ」の突如の出現が一首に着陸をもたらす。「突如」として「着陸」が訪れる。「花のごとく」なのは「ふくらはぎ」ではなくて、それが「しぼむ」ありさまであったことが、最後に分かる。
うまく着陸したからといって、〈ふくらはぎ・一日花の〉における語と語の衝突の記憶がすぐに消えてなくなることはない。でなければ、「しぼむ」がこのように訪れてくれることはない。衝突事故をしても着陸すること。「ふくらはぎ」にまったく似��ところのない、異質なものとしての「花」が、助詞抜きで直接的に連鎖させられることによって生じる読者の戸惑い。その戸惑いが、結句未満の最後の三音で解消されるという出来事。
「話し手、書き手」から遊離した「言葉のドラマ」の中の「しぼむ」は、もちろん書き手の感性の前に現れた「しぼむ」でもあっただろう。〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉は間違いではない。「父」と〈わたし〉のドラマを「言葉のドラマ」へと還元して、蒸発させてしまってはいけない。それは単純化だ。「社会と没交渉」になってたったの二歩で「言葉のユートピアを設営」してしまうような、一般論として振りかざされる「作者の死」は心が狭い。
靴を脱ぎたったの二歩で北限にいたる心の狭さときたら
/平岡直子「視聴率」(同人誌『率』9号)
内山の作品には、「老い」について「ル形」を使いながら〈語り手=書き手の声〉を聞かせる作品が他にもある。
読点の打ちかたがよくわからないまま四十代、中盤に入る
/内山晶太「蝿がつく」(同人誌『外出』二号)
「ル形」の効果だろうか。歌の語り手はあきらかに書き手だが、仮に書き手である内山昌太が嘘をついていたとしてもこの歌は成り立つだろう。歌のなかでの語り手=書き手=〈わたし〉は「内山昌太」から遊離している。だからといって架空のキャラクターを立てる必要もない。〈書き手の声〉が〈書くこと〉について語っているという出来事が確認されれば、ひとまずはいい。
結局のところ、「読点」は適切に打たれたのかわからない。「三十代」「四十代」という十年のサイクルは規則的に進むが、内山はそこに不規則性、あるいは規則の曖昧さを差し込もうとしている。不規則はどこから生まれるのか。規則が明文化されているかどうか、規則がカッチリしているかどうか、ではない。規則を使うとき、従うときに、不規則が生まれる。「使う」「従う」といった行為。そこには、うっかりミスや取り違え、愚かさや適当さがある。
内山自身による先行歌がある。
ペイズリー柄のネクタイひとつもなく三十代は中盤に入る
/内山晶太『窓、その他』
「四十代、中盤」や「三十代は中盤」というふうに、「◯十代」と「中盤」の間に何かを差し込もうとする手がある。
十年のサイクルについて、あらかじめ目標を立てるのであれ、後から反省するのであれ、「◯十代」という表記はその十年の全体を一挙に指示する。自動的で、明快で、有無を言わせない〈十年の単位〉に対して、「中盤」という曖昧な幅を当ててみること。
「三十代中盤」や「四十代中盤」という表記であったなら、「中盤」は〈十年〉の中の一部として回収されてしまうかもしれない。けれど、「三十代は中盤に入る」、「四十代、中盤に入る」という表記によって、徐々に進行しながら曖昧にその意味や価値を変質させていく、一様ならざる時間の幅へと〈十年〉が取り込まれていくかのようだ。「中盤」っていつからいつまでなんだ。きっと、サイクルごとに「中盤」の幅は伸び縮みするだろう。3年、5年? 8年くらい中盤で生きる人もいるのかな。
眠ること、忘れることを知らないで、昼的な覚醒を模範とする精��には、決して捕捉されることのない曖昧な時間。その時間のうちに〈十年の単位〉を巻き込んで、一身上の都合から伸び縮みするリズムの個人的な生を主張する視点。〈君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている/大森静佳〉と好対照だ。というのは、「リズムの個人的な生」の主張は、それを意識すればその都度タイムリミットのように減っている〈十年〉への不安とペアなのだから。
「中盤に入る」は淡々とした地の文の語りのようでもありながら、規則的に進行する〈十年〉のテンポに従うことのない「中盤」の速度を確保しようとする〈わたし〉の主体的な決意の言葉のようでもある。歌から聞こえてくる声が、三人称視点的な叙述なのか一人称的な心内語やセリフなのかの微妙な決定不可能性は、〈十年の単位〉について社会に語らされている主体と「中盤」を能動的に語っている主体のせめぎ合いに似る。
十年のサイクルは自然的な所与なのか、社会的な構築物なのか。絶対に無くなる時間の宿命を約束と取り違えること。それから、その約束を破ってしまうこと。二重のうっかりだ。だから、うっかりと変な歳のとり方をする。年齢相応じゃない。うっかりはポエジーだろう。
二つのタイプの老化、漸進的な老化と瞬時の老化は、常に強く絡み合っており、互いに錯綜し、巻き込み合っている。だから、常になにがしかの同一性が、毀損した形であっても存続し、人格構造の一部分が変化を超えて持続するのだと言う人もいるだろう。そうだとしても、どれだけ多くの人が、死んでいなくなってしまう以前に、私たちの前からいなくなり、自らを置き去りにしていくことだろう。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、93−94頁
〈わたし〉という語り手はうっかりと〈わたし〉から離脱してしまうことがある。深い意味もなく。身も蓋もないものの神秘を生み出しながら。その神秘を新たに〈わたし〉の神秘へと統合できるのか、そうではないのか。
君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている
/大森静佳『てのひらを燃やす』
「ねこじゃらし見ゆ」を受ける視点。それは「君」でも「われ」でもなく、「君の死後、われの死後」に、「まだ揺れている」と言うことのできる語り手の視点だ。語り手の案内を受けて導かれた読者の視点だ。読者の〈わたし〉はいったいどこに案内されたのだろうか。「まだ揺れている」と語る「われ」ならざる〈わたし〉はどの〈わたし〉で、「それ」はどこにいるのか。
この歌の視点について、ひとつ現実的に想像してみよう。
現実に、ある時ある場所で、「君」と「われ」が青々としたねこじゃらしを見ている。会話はなく、ねこじゃらしが揺れるのをぼうっと見ている。注意して観察しているのではなく、なんとなく、その青々とした緑色の揺れるのが目に入るがままだ。受動的で反復的な視覚体験によって、体験の主体は動くモノの側に移っていく。ねこじゃらしが揺れれば〈揺れ〉を感じ、こすれれば〈こすれ〉を感じるような体験のあり方。その時、ねこじゃらしの「青々」や「揺れ」は、「君」や「われ」が見ていようが見ていなかろうが、それとは独立に持続する運動のように現象するだろう。
持続するそれは「われ」の主観から独立してイデアルに永続するナニカというよりは、「われ」が〈意識的に見る主体=見ていることを意識する主体〉ではない限りにおいて成立するかりそめの現象だ。その現象に身を任せている間、「われ」は変性意識的な状態かもしれない。意識の持続は、見ていることの自覚ではなく、「ねこじゃらし」の「揺れ」の運動と一致する。「われ」の肉体も〈君とわれ〉の関係もそっちのけで、ねこじゃらしが揺れる。
魂がそのように「われ」から遊離していきながら、やっぱり振り返る。「われ」から遊離した、ほとんど死後的な魂の視点は振り返る。きっと、そうでなくちゃ困るのだ。振り返る視線によって、「君」と「われ」が「視野」に入る。「視野」に入れるという肯定の仕方だ。というのは、ねこじゃらしを見ている限り、「君」と「われ」は互いに「視野」に入らないはずなのだ。
〈君とわれ〉というペアの存在が、「君」も「われ」もいつか死ぬという身も蓋もない事実を絆帯として、常軌を逸した肯定をされてしまった。
「君とわれの死後にも」ではなく「君の死後、われの死後にも」と書き分けられている。「君」と「われ」のどちらが早く死ぬか、死ぬまでにどのような関係性の変化があるか、どのような経験の共有があるのか。そういったことに関心を持つ生者の視点はない。その視点があるならば、たとえば次の歌のように二者の断絶が描かれてもいい。
その海を死後見に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに
/大森静佳『カミーユ』
断絶の構図を作らずに、〈、〉で並列させられる形で肯定される関係は何だろう。生前から死後までを貫くような、〈君、われ〉の関係の直観。〈君とわれ〉の「君の死後、われの死後」への変形。その変形による肯定は、〈君とわれ〉の圏内においてはナンセンスだ。〈「君」が死んでも、「われ」が死んでも、ねこじゃらしは変わらず揺れているだろうね〉ならば、それは〈君とわれ〉の相対化だ。それで心身は軽くなるかもしれない。その軽さに促されるように〈生〉のドラマは展開するかもしれない。けれども、生前から死後までを貫く二者の並列関係の肯定にはなりえない。
〈生前から死後までを貫く二者の並列関係〉はナンセンスなフレーズだ。だからこそ、その肯定は常軌を逸している。ナンセンスな肯定が、常軌を逸した視点から、すなわち、「われ」の魂が遊離して別の生の形をとっている間にだけ持続するかりそめの語り手の視点からなされた。
語り手の視点を「死後の視点」と一息に言ってはならない。そう言ってしまうなら、語り手の位置の融通無碍な変化を見落とすことになる。「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」から「まだ揺れている」の間には、語り手の視点にジャンプがある。山中千瀬の「着陸はない 着陸はない」のリフレインと似た効果がこの歌の一字あけにおいても生じているのだ。
「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」という言い切りの裏には、〈見えるだろう〉という直観が働いている。〈直観の時〉があり、〈時〉に拘束された「言い切り」がある。
直観された真実がそのままで場を持つことは、しばしば難しい。けれどもこの歌において、その直観は、一字あけのジャンプを経て、「まだ揺れている」を言うことのできる死後的な主体によって確認されることで場を持つことになる。「まだ〜ている」においては、「ル形」とは異なり、明らかに主体による確認判断が働いているだろう。直観を事実として確かめることのできるような不可能な主体へのジャンプ。
歌が立ち上げる〈不可能な声〉がある。
直観した時点から、それを確認する時点へのジャンプ。そこには、他なる主体の声になるかのような突如の変化と、同じ一つの〈歌の声〉の持続の、二つの運動の絡み合いがあるだろう。一首は一つの声を聞かせる。言葉を強引に一つの声へと押し込めることによって、通常では不可能なことを言うことができる。通常では、ナンセンス、支離滅裂、分裂した声、破綻した言葉のように聞かれてしまうかもしれないものたちが、一つの歌となるときに、〈不可能な声〉を聞かせてくれる。どうして〈不可能な声〉を使ってまで〈君とわれ〉を視野に収めたのだろうか、という問いから先は読者に任せた。
わたしたちに不可能な声が聞こえてくるとき。
「それは眼球めだまと金魚を買った」 「穴がわたしの代わりに泣くの」 「はるまきがみんなほどけてゆく夜」 「僕が一致してない」 「機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」 「振り下ろすべき暴力」 「着陸はない 着陸はない」 「ふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ」 「まだ揺れている」
どんな声でも「あるかも」と思えるように解釈することができるのだとして、わたしたちはどんな声でも、なんであれ聞いてきたのではない。いくつかの不可能な声を聞いてきた。
「不可能な短歌の運命」を予告しつつ、あらかじめそれを過去のものにするために。不可能なものの失敗がそれを過去へと葬ったあとで、そのナンセンスな想起が不可能なものを橋やベランダとして利用できるようにするために。
/平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
2年前に僕はこんなことを書いていた。短歌を書くことも、文章を書くことも、僕にはほとんど不可能なことだった。なにが不可能だったのか。
分母にいれるわたしたちの発達、 くまがどれだけ昼寝しても許されるようなわたしたちの発達、 しかも寄道していてシャンデリア。 青空はわけあたえられたばかりの真新しくてあたたかな船。 卵にゆでたまご以外の運命が許されなくなって以来わたしたちは発達。 教科書ばかり読んでいたのでちっとも気のきいたことを言えなくてごめんなさい。 まったく世界中でわたしたちを愛してくれるのはあなただけね。 ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのにさ。 〔…〕
/瀬戸夏子「すべてが可能なわたしの家で」(連作5首目より、一部抜粋)
ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのに、ベランダから生きてもどろうとしていた。それが僕の抱えていた不可能なことだった。
*注1 穂村弘「〔…〕。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。僕は体質的には、本当は自分が八回転くらいできることを夢見る、跳べるってことに憧れが強いタイプでね、だから東直子を絶賛するし、大滝和子もそうだし、つばさを持った人たちへの憧れがとくに強い。だからある時期まで女性のその、現に跳べる、そしてなぜ跳べたのか本人はわからない、いまわたし何回跳びました? みたいな(笑)、「数えろよ、なんで僕が数えてそのすごさを説明しなきゃいけないんだよ」みたいな、そういうのがあった。」 座談会「境界線上の現代短歌──次世代からの反撃」(荻原裕幸、穂村弘、ひぐらしひなつ、佐藤りえ)、『短歌ヴァーサス』第11号、112頁
*注2 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』では、ト書きの比較的初期の用例として1753年に上演された並木正三『幼稚子敵討』の脚本から引用している。参考までに、以下に孫引きしておく。 大橋「そんなら皆様みなさん、行ゆくぞへ。」 伝兵「サア、おじゃいのふ。」 ト大橋、伝兵衛、廓の者皆々這入る。 …… …… 宮蔵「お身は傾城けいせいを、ヱヽ、詮議せんぎさっしゃれ。」 新左「ヱヽ、詮議せんぎ致して見せう。」 宮蔵「せいよ。」 新左「して見せう。」 ト詰合つめあふ。向ふ。ぱたぱた と太刀音たちおとして、お初抜刀ぬきがたなにて出る。 『日本古典文学体系53』岩波書店、1960年、112頁 本文で言及できなかったが、ト書き文体と口語短歌について考えるなら、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座、2019年)を参照されたい。
【主要参考文献】 ・短歌 内山昌太『窓、その他』(六花書林、2012年) 大森静佳『てのひらを燃やす』(角川書店、2013年) 大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年) 木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年) 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年) 斉藤斎藤『渡辺のわたし 新装版』(港の人、2016年/booknets、2004年) 笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年) 瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(私家版歌集、2012年) 塚本邦雄「反・反歌」(『塚本邦雄全集』第八巻、ゆまに書房、1999年)(初出は『短歌』昭和42年9月号、『定型幻視論』に所収) 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年) 東直子『青卵』(ちくま文庫、2019年/本阿弥書店、2001年) 平岡直子 連作「水に寝癖」(『歌壇』2018年11月号) 平岡直子 連作「紙吹雪」(『短歌研究』2020年1月号) 山中千瀬『蔦と蜂蜜』(2019年) 同人誌『率』9号(2015年11月23日) 同人誌『外出』二号(2019年11月23日) 同人誌『外出』三号(2020年5月5日) 『短歌ヴァーサス』第11号(風媒社、2007年)
・その他書籍 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫、2015年) 沖森卓也『日本語全史』(ちくま新書、2017年) カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020年) 小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」(『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、河出書房新社、2020年) 小松英雄『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』(笠間書院、2006年) ジャック・デリダ『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』(鵜飼哲訳、みすず書房、1998年) 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』(法政大学出版局、2004年)
・ネット記事 伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』 」 佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」 平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
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2020zaji · 4 years
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#リハビリ|接続されたヒト(15)
「五十にして天命を知る」。古代中国の思想家・孔子と弟子たちの問答集『論語』にある「五十知命(ごじゅうちめい)」の書き下し文だが、そもそも「天命」とは何だろうか。一般には「天の命令、使命」と捉えるようで、「50歳にして自分の使命を知る」と解釈されることが多い。日本語辞書には「天命」に「天の定めた寿命」や「天の与える罰」などという意味もある。わたしの場合は50歳を迎えたからと言って使命を悟ることもなく、ぼうっと過ごしていたわけだが、親友が突然死で自分の人生から奪われるという無力感を通じて、なるほどこれが「知命」、命について人の力は及ばないことを知る、ということだろうかと思ったりはした。
 親友の死から約一年後、今度は自身が死にかけて入院したわけだが、ようやく「接続」を解かれて、リハビリテーション専門病院に転院する日がやってきた。点滴ルート確保のために刺さっていた留置針が抜かれた時、チューブ類から解放される「接続解除」を実感した。
「接続されたヒト」の腕や脚には血管に刺した針をそのまま医療用テープで固定しておく「留置針」が刺さっている。その留置針の端に点滴チューブを接続することで、輸液を身体に送り込むことができる。こうしてルートを確保しておくことで、毎日の点滴の度ごとに針を刺す手間や、刺される痛みを回避することができるという仕組みだ。
 だが、この留置針はずっと刺された状態なので、血管に輸液が入っていく時に圧がかかることもあって、刺された箇所に鈍い痛みがずっと続く。針が刺さっているからむやみに触ってはいけないが、テープでずっと固定されていると、痒みも出てきたりする。数日ごとに留置針を指す箇所を変えてくれるが、あちこち針の位置を変えるうちに、だんだん新たに刺せる箇所が少なくなっていく。手首や肘下部分に刺していた箇所がかぶれてしまって、手の甲の血管に刺していた時期もあったが、ここは血管が細いせいか痛みが強くて、それこそ「もうヤダ!」と癇癪を起こしてチューブを引きちぎりたくなるような気分に襲われた時もある。1ヶ月程度でこの始末だから、長期にわたって点滴に頼る辛さは察するに余りある。
 さて、「接続解除」の解放感を味わうことは出来たが、まだ車椅子の上に姿勢を維持できるのはせいぜい20分という状態。どうやって転院先に移動すべきなのかと思ったら、医療ソーシャルワーカーから「医療用タクシーというのがありますよ」と教えてもらった。ニーズのあるところに専門業者が誕生しサービスが提供される。なるほど、資本主義の市場システムは「消費者」にとって便利にできている。
 ちなみに、医療ソーシャルワーカーとは「保健医療機関において、社会福祉の立場から患者さんやその家族の方々の抱える経済的・心理的・社会的問題の解決、調整を援助し、社会復帰の促進を図る業務」(注2)を行う人たちのこと。病院の医療スタッフの一員である。
 たとえば。長期に入院すると医療費も高額になる。そこで利用することになるのが「高額療養費制度」。これは「医療費の家計負担が重くならないよう、医療機関や薬局の窓口で支払う医療費が1か月で上限額を超えた場合、その超えた額を支給する」(注2)という制度である。自己負担の上限額は所得に応じて異なる。手術や入院などで医療費が高額になることが想定される場合、利用しないことは考えられない重要な制度だが、こうした医療に関わる各��の案内をしてくれるのが医療ソーシャル・ワーカーの方たちなのだ。「高額療養費制度」という社会保障制度があって本当に良かった。こうした制度に使われるなら、税金も払う甲斐があるというものだ。
 ここで思い出すのが、奇才マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『シッコ(sicko)』(2007)である。合衆国アメリカの信じがたい医療実態が、あざとい手法ではあるが、それだけに生々しく描かれている。公的な医療保険制度が十分でないため、民間の医療保険に入っていない人は手術代や入院費で一気に貯金を使い果たし、病気や障害を抱えたまま経済的にも困窮する。貧血や盲腸でちょっと入院しただけでも数百万円という高額な医療費がかかるからだ。映画には、病院に行けずに自分で傷口を縫う人や、医療費のために家を失った人、さらには民間保険業や製薬業と政治家との癒着など、ショッキングな現実が次々に登場する。とりわけ印象に残るのは、入院治療費が払えない患者がタクシーに押し込まれ、貧民街の路上に放り捨てられる様子を隠し撮りした場面である。
 アメリカの医療制度の残酷さは他人事ではない。一時期話題になったTPP(環太平洋パートナーシップ)協定では医療保険分野も射程に入っており、日本医師会が反対する「混合診療」(注3)の全面解禁も検討されていた。TPPはトランプのおかげで沙汰止みになったとはいえ、日本ではあらゆる事業が民営化され市場システムに投げ込まれ続けている。それも、十分な議論がないままに。水道に民間事業が参入可能になった「水道法の改正」については国民の6割が「知らない」のが現状という(注4)。
 さて、話を退院手続きに戻そう。先の「高額療養費制度」とも関わるが「限度額適用認定証」の発行依頼を郵便で出したり、民間保険会社に保険金の請求書を出したり、入院費用の支払いをしたり、退院時には自分自身でやらなければならない必須事項がいくつもある。家族に任せることもできたのだが、自分が回復基調にあると思っていたわたしは、病院の介護士さんに車椅子を押してもらって、退院日の午前中に自分で処理することにした。転院先への移動時には母に付き添いを頼んだが、高齢なので満員電車を利用させるのは忍びず、諸々の手続きが終わる昼頃に来てもらうことにしていた。荷物類は前日までに連れ合いと母に整理してもらってあった。
「これで退院の計画は万全!」と思っていた。わたしは自分が病人であることを甘く見ていたのだ。確かに、ひとつひとつのタスクは、そう大変なことではない。そう、以前の自分であれば。だが、手術後の自分にはウルトラマンのタイマーがついているかのようだった。車椅子の上で姿勢を維持しているだけで猛烈に体力を消耗してしまい、ピコンピコンとタイマーが鳴り出す。脂汗が滲んできて、集中力を保っているのが難しい。手続きはいずれも「神経を使う」というのに。しかも、途中で投げ出すわけにもいかない。
 その結果、母が到着して医療用タクシーに乗り込む頃には、青色吐息の状態だった。経験したことのない疲労感。そんな馬鹿な、この程度のことで?! 自分でも、その消耗ぶりが信じられなかった。
 今更ながら思い返せば、わたしは「病人」なのだった。ずっとベッドに寝たきりで体力や神経を使う場面がなかったから、病人はいかに体力がないか、(脳の一部が傷ついている状態で)神経を使うことがいかに消耗するか、まったくわかっていなかった。ただ、「いつもの自分」が車椅子に座っているだけ、のように思い違いをしていた。「いまの自分」は、もはや「いつもの自分」でも「以前の自分」でもないというのに。
「接続解除」で「病人じゃなくなった」気になっていた自分を猛反省した。同時に、やがて自分が後期高齢者になった時の、こうした入退院にかかるであろうさらなる困難を想像した。
 確かに、資本主義の市場システムは「消費者」にとって便利にできているが、「消費者」以外は想定の外側、察する必要のない「余り」に組み込まれているとも言える。「余り」として切り捨てられる恐怖を持たずに誰もが安心して生きていけるようにするためには、市場システム以外の仕組みが必要になってくる。とりわけ、医療や介護のサービスは、水道などのライフラインや教育などと同様に、公的な介入によって安定的に提供される必要がある。
 たとえば、新型コロナウィルスによって世界のあり方が大きく変化しつつある2020年の現在。医療や介護の現場で働くエッセンシャル・ワーカーの重要性が注目されている。これまで待遇改善が言われながら果たされてこなかった医療や介護の従事者が安心して力を発揮できるような公的仕組みを整える。コロナ禍をそうした機会にすることもできるのではないだろうか。
「医療ソーシャルーカー」という仕事も、「資本主義国で医療社会問題が深刻化した19世紀末から20世紀初頭にかけて、貧しい労働者階級への対応策として生まれ」たという(注5)。高齢者人口が増え続けるなか、社会保障制度を支える若年層への負担も懸念される。だが「医療費が支払えない」という理由で患者が「貧民街の路上に捨て���れる」未来になって欲しくはない。
 五十にして天命を知る。「知命」とは、命について人の力は及ばない、と知ること。同時に、だからこそ、命がこの世に存在する間は、人の力によって、相互に生かされていく、ということ。ひとまず、わたしにとっての「知命」とは、そういうことのようだ。
 次回からは、回復期リハビリテーション専門病院での入院生活を振り返ることにしたい。
注1)
「医療ソーシャルワーカーとは」『公益社団法人 日本医療社会福祉協会』ウェブサイト
https://www.jaswhs.or.jp/guide/socialwork.php
注2)
「高額療養費制度について」『厚生労働省』ウェブサイトhttps://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryouhoken/juuyou/kougakuiryou/index.html
注3)
「混合診療ってなに?」『日本医師会』ウェブサイト
http://www.med.or.jp/nichinews/n150705n.html
注4)
橋本淳司(ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表)「水道法改正「知らない」63.1%だが水道の疲弊は進む」2019/7/29『Yahoo! ニュース』
https://news.yahoo.co.jp/byline/hashimotojunji/20190729-00136108/
注5)
「医療ソーシャルワーカーの歴史」『山口県医療ソーシャルワーカー協会』ウェブサイト
http://www.yamaguchi-msw.net/cms/page112.html
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tomoya-jinguuji · 5 years
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一 はじめに  平成最後の施政方針演説を、ここに申し述べます。  本年四月三十日、天皇陛下が御退位され、皇太子殿下が翌五月一日に御即位されます。国民こぞって寿(ことほ)ぐことができるよう、万全の準備を進めてまいります。  「内平らかに外成る、地平らかに天成る」  大きな自然災害が相次いだ平成の時代。被災地の現場には必ず、天皇、皇后両陛下のお姿がありました。  阪神・淡路大震災で全焼した神戸市長田の商店街では、皇后陛下が焼け跡に献花された水仙が、復興のシンボルとして、今なお、地域の人々の記憶に刻まれています。  商店街の皆さんは、復興への強い決意と共に、震災後すぐに仮設店舗で営業を再開。全国から集まった延べ二百万人を超えるボランティアも復興の大きな力となりました。かつて水仙が置かれた場所は今、公園に生まれ変わり、子どもたちの笑顔であふれています。  東日本大震災の直後、仙台市の避難所を訪れた皇后陛下に、一人の女性が花束を手渡しました。津波によって大きな被害を受けた自宅の庭で、たくましく咲いていた水仙を手に、その女性はこう語ったそうです。  「この水仙のように、私たちも頑張ります。」  東北の被災地でも、地元の皆さんの情熱によって、復興は一歩一歩着実に進んでいます。平成は、日本人の底力と、人々の絆(きずな)がどれほどまでにパワーを持つか、そのことを示した時代でもありました。  「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」  明治、大正、昭和、平成。日本人は幾度となく大きな困難に直面した。しかし、そのたびに、大きな底力を発揮し、人々が助け合い、力を合わせることで乗り越えてきました。  急速に進む少子高齢化、激動する国際情勢。今を生きる私たちもまた、立ち向かわなければならない。私たちの子や孫の世代に、輝かしい日本を引き渡すため、共に力を合わせなければなりません。  平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。 二 全世代型社会保障への転換 (成長と分配の好循環)  この六年間、三本の矢を放ち、経済は十%以上成長しました。国・地方合わせた税収は二十八兆円増加し、来年度予算における国の税収は過去最高、六十二兆円を超えています。  そして、この成長の果実を、新三本の矢によって、子育て支援をはじめ現役世代へと大胆に振り向けてきました。  児童扶養手当の増額、給付型奨学金の創設を進める中で、ひとり親家庭の大学進学率は二十四%から四十二%に上昇し、悪化を続けてきた子どもの相対的貧困率も、初めて減少に転じ、大幅に改善しました。平成五年以来、一貫して増加していた現役世代の生活保護世帯も、政権交代後、八万世帯、減少いたしました。  五年間で五十三万人分の保育の受け皿を整備した結果、昨年、待機児童は六千人減少し、十年ぶりに二万人を下回りました。子育て世代の女性就業率は七ポイント上昇し、新たに二百万人の女性が就業しました。  成長の果実をしっかりと分配に回すことで、次なる成長につながっていく。「成長と分配の好循環」によって、アベノミクスは今なお、進化を続けています。 (教育無償化)  我が国の持続的な成長にとって最大の課題は、少子高齢化です。平成の三十年間で、出生率は一・五七から一・二六まで落ち込み、逆に、高齢化率は十%から三十%へと上昇しました。  世界で最も速いスピードで少子高齢化が進む我が国にあって、もはや、これまでの政策の延長線上では対応できない。次元の異なる政策が必要です。  子どもを産みたい、育てたい。そう願う皆さんの希望を叶(かな)えることができれば、出生率は一・八まで押し上がります。しかし、子どもたちの教育にかかる負担が、その大きな制約となってきました。  これを社会全体で分かち合うことで、子どもたちを産み、育てやすい日本へと、大きく転換していく。そのことによって、「希望出生率一・八」の実現を目指します。  十月から三歳から五歳まで全ての子どもたちの幼児教育を無償化いたします。小学校・中学校九年間の普通教育無償化以来、実に七十年ぶりの大改革であります。  待機児童ゼロの目標は、必ず実現いたします。今年度も十七万人分の保育の受け皿を整備します。保育士の皆さんの更なる処遇改善を行います。自治体の裁量を拡大するなどにより、学童保育の充実を進めます。  来年四月から、公立高校だけでなく、私立高校も実質無償化を実現します。真に必要な子どもたちの高等教育も無償化し、生活費をカバーするために十分な給付型奨学金を支給します。  家庭の経済事情にかかわらず、子どもたちの誰もが、自らの意欲と努力によって明るい未来をつかみ取ることができる。そうした社会を創り上げてこそ、アベノミクスは完成いたします。  子どもたちこそ、この国の未来そのものであります。  多くの幼い命が、今も、虐待によって奪われている現実があります。僅か五歳の女の子が、死の間際に綴(つづ)ったノートには、日本全体が大きなショックを受けました。  子どもたちの命を守るのは、私たち大人全員の責任です。  あのような悲劇を二度と繰り返してはなりません。何よりも子どもたちの命を守ることを最優先に、児童相談所の体制を抜本的に拡充し、自治体の取組を警察が全面的にバックアップすることで、児童虐待の根絶に向けて総力を挙げてまいります。 (一億総活躍)  女性比率僅か三%の建設業界に、女性たちと共に飛び込んだ中小企業があります。時短勤務の導入、託児所の設置などに積極的に取り組み、職人の三割は女性です。  彼女たちが企画した健康に優しい塗料は、家庭用の人気商品となりました。女性でも使いやすい軽量の工具は、高齢の職人たちにも好んで使われるようになりました。この企業の売上げは、三年で二倍、急成長を遂げています。  女性の視点が加わることにより、女性たちが活躍することにより、日本の景色は一変する。人口が減少する日本にあって、次なる成長の大きなエンジンです。  女性活躍推進法を改正し、このうねりを全国津々浦々の中小企業にも広げます。十分な準備期間を設け、経営者の皆さんの負担の軽減を図りながら、女性の働きやすい環境づくりに取り組む中小企業を支援してまいります。  パワハラ、セクハラの根絶に向け、社会が一丸となって取り組んでいかなければなりません。全ての事業者にパワハラ防止を義務付けます。セクハラの相談を理由とした不利益取扱いを禁止するほか、公益通報者保護に向けた取組を強化し、誰もが働きやすい職場づくりを進めてまいります。  働き方改革。いよいよ待ったなしであります。  この四月から、大企業では、三六協定でも超えてはならない、罰則付きの時間外労働規制が施行となります。企業経営者の皆さん。改革の時は来ました。準備はよろしいでしょうか。  長年続いてきた長時間労働の慣行を断ち切ることで、育児や介護など様々な事情を抱える皆さんが、その事情に応じて働くことができる。誰もがその能力を思う存分発揮できる社会に向かって、これからも、働き方改革を全力で推し進めてまいります。  障害者の皆さんにも、やりがいを感じながら、社会でその能力を発揮していただきたい。障害者雇用促進法を改正し、就労の拡大を更に進めます。  人生百年時代の到来は、大きなチャンスです。  元気で意欲ある高齢者の方々に、その経験や知恵を社会で発揮していただくことができれば、日本はまだまだ成長できる。生涯現役の社会に向かって、六十五歳まで継続雇用することとしている現行制度を見直し、七十歳まで就労機会を確保できるよう、この夏までに計画を策定し、実行に移します。  この五年間、生産年齢人口が四百五十万人減少する中にあっても、多くの女性や高齢者の皆さんが活躍することで、就業者は、逆に二百五十万人増加いたしました。女性も男性も、お年寄りも若者も、障害や難病のある方も、全ての人に活躍の機会を作ることができれば、少子高齢化も必ずや克服できる。  平成の、その先の時代に向かって、「一億総活躍社会」を、皆さん、共に、創り上げていこうではありませんか。 (全世代型社会保障)  少子高齢化、そして人生百年の時代にあって、我が国が誇る社会保障の在り方もまた大きく変わらなければならない。お年寄りだけではなく、子どもたち、子育て世代、更には、現役世代まで、広く安心を支えていく。全世代型社会保障への転換を成し遂げなければなりません。  高齢化が急速に進む中で、家族の介護に、現役世代は大きな不安を抱いています。介護のために仕事を辞めなければならない、やりがいを諦めなければならないような社会はあってはなりません。  現役世代の安心を確保するため、「介護離職ゼロ」を目指し、引き続き全力を尽くします。  二〇二〇年代初頭までに五十万人分の介護の受け皿を整備します。ロボットを活用するなど現場の負担軽減を進めるとともに、十月からリーダー級職員の方々に月額最大八万円の処遇改善を行います。  認知症対策の強化に向けて、夏までに新オレンジプランを改定します。認知症カフェを全市町村で展開するなど、認知症の御家族を持つ皆さんを、地域ぐるみで支え、その負担を軽減します。  勤労統計について、長年にわたり、不適切な調査が行われてきたことは、セーフティネットへの信頼を損なうものであり、国民の皆様にお詫び申し上げます。雇用保険、労災保険などの過少給付について、できる限り速やかに、簡便な手続で、不足分をお支払いいたします。基幹統計について緊急に点検を行いましたが、引き続き、再発防止に全力を尽くすとともに、統計の信頼回復に向け、徹底した検証を行ってまいります。  全世代型社会保障への転換とは、高齢者の皆さんへの福祉サービスを削減する、との意味では、全くありません。むしろ、高齢者の皆さんに引き続き安心してもらえることが大前提であります。  六十五歳以上の皆さんにも御負担いただいている介護保険料について、年金収入が少ない方々を対象に、十月から負担額を三分の二に軽減します。年金生活者の方々に、新たに福祉給付金を年間最大六万円支給し、所得をしっかりと確保してまいります。  こうした社会保障改革と同時に、その負担を次の世代へと先送りすることのないよう、二〇二五年度のプライマリーバランス黒字化目標の実現に向け、財政健全化を進めます。  少子高齢化を克服し、全世代型社会保障制度を築き上げるために、消費税率の引上げによる安定的な財源がどうしても必要です。十月からの十%への引上げについて、国民の皆様の御理解と御協力をお願い申し上げます。  八%への引上げ時の反省の上に、経済運営に万全を期してまいります。  増税分の五分の四を借金返しに充てていた、消費税の使い道を見直し、二兆円規模を教育無償化などに振り向け、子育て世代に還元いたします。軽減税率を導入するほか、プレミアム商品券の発行を通じて、所得の低い皆さんなどの負担を軽減します。  同時に、来たるべき外国人観光客四千万人時代を見据え、全国各地の中小・小規模事業者の皆さんにキャッシュレス決済を普及���せるため、思い切ったポイント還元を実施します。自動車や住宅への大幅減税を行い、しっかりと消費を下支えします。  来年度予算では、頂いた消費税を全て還元する規模の十二分な対策を講じ、景気の回復軌道を確かなものとすることで、「戦後最大のGDP六百兆円」に向けて着実に歩みを進めてまいります。 三 成長戦略 (デフレマインドの払拭)  平成の日本経済はバブル崩壊から始まりました。  出口の見えないデフレに苦しむ中で、企業は人材への投資に消極的になり、若者の就職難が社会問題となりました。設備投資もピーク時から三割落ち込み、未来に向けた投資は先細っていきました。  失われた二十年。その最大の敵は、日本中に蔓延したデフレマインドでありました。  この状況に、私たちは三本の矢で立ち向かいました。  早期にデフレではないという状況を作り、企業の設備投資は十四兆円増加しました。二十年間で最高となっています。人手不足が深刻となって、人材への投資も息を吹き返し、五年連続で今世紀最高水準の賃上げが行われました。経団連の調査では、この冬のボーナスは過去最高です。  日本企業に、再び、未来へ投資する機運が生まれてきた。デフレマインドが払拭されようとしている今、未来へのイノベーションを、大胆に後押ししていきます。 (第四次産業革命)  世界は、今、第四次産業革命の真っただ中にあります。人工知能、ビッグデータ、IoT、ロボットといったイノベーションが、経済社会の有り様を一変させようとしています。  自動運転は、高齢者の皆さんに安全・安心な移動手段をもたらします。体温や血圧といった日々の情報を医療ビッグデータで分析すれば、病気の早期発見も可能となります。  新しいイノベーションは、様々な社会課題を解決し、私たちの暮らしを、より安心で、より豊かなものとする、大きな可能性に満ちている。こうしたSociety 5.0を、世界に先駆けて実現することこそ、我が国の未来を拓く成長戦略であります。  時代遅れの規制や制度を大胆に改革いたします。  交通に関わる規制を全面的に見直し、安全性の向上に応じ、段階的に自動運転を解禁します。寝たきりの高齢者などが、自宅にいながら、オンラインで診療から服薬指導まで一貫して受けられるよう、関係制度を見直します。外国語やプログラミングの専門家による遠隔教育を、五年以内に全ての小中学校で受けられるようにします。  電波は国民共有の財産です。経済的価値を踏まえた割当制度への移行、周波数返上の仕組みの導入など、有効活用に向けた改革を行います。携帯電話の料金引下げに向け、公正な競争環境を整えます。  電子申請の際の紙の添付書類を全廃します。行政手続の縦割りを打破し、ワンストップ化を行うことで、引っ越しなどの際に同じ書類の提出を何度も求められる現状を改革します。  急速な技術進歩により、経済社会が加速度的に変化する時代にあって最も重要な政府の役割は、人々が信頼し、全員が安心して新しいシステムに移行できる環境を整えることだと考えます。  膨大な個人データが世界を駆け巡る中では、プライバシーやセキュリティを保護するため、透明性が高く、公正かつ互恵的なルールが必要です。その上で、国境を越えたデータの自由な流通を確保する。米国、欧州と連携しながら、信頼される、自由で開かれた国際データ流通網を構築してまいります。  人工知能も、あくまで人間のために利用され、その結果には人間が責任を負わなければならない。我が国がリードして、人間中心のAI倫理原則を打ち立ててまいります。  イノベーションがもたらす社会の変化から、誰一人取り残されてはならない。この夏策定するAI戦略の柱は、教育システムの改革です。  来年から全ての小学校でプログラミングを必修とします。中学校、高校でも、順次、情報処理の授業を充実し、必修化することで、子どもたちの誰もが、人工知能などのイノベーションを使いこなすリテラシーを身に付けられるようにします。  我が国から、新たなイノベーションを次々と生み出すためには、知の拠点である大学の力が必要です。若手研究者に大いに活躍の場を与え、民間企業との連携に積極的な大学を後押しするため、運営費交付金の在り方を大きく改革してまいります。  経済活動の国境がなくなる中、日本企業の競争力、信頼性を一層グレードアップさせるために、企業ガバナンスの更なる強化が求められています。社外取締役の選任、役員報酬の開示など、グローバルスタンダードに沿って、これからもコーポレートガバナンス改革を進めてまいります。 (中小・小規模事業者)  中小・小規模事業者の海外輸出は、バブル崩壊後、二倍に拡大しました。  下請から脱し、自ら販路を開拓する。オンリーワンのワザを磨く。全国三百六十万者の中小・小規模事業者の皆さんは、様々な困難にあっても、歯を食いしばって頑張ってきました。バブル崩壊後の日本経済を支え、我が国の雇用の七割を守ってきたのは、こうした中小・小規模事業者の皆さんです。  新しいチャレンジをものづくり補助金で応援します。全国的に人手不足が深刻となる中で、IT補助金、持続化補助金により、生産性向上への取組も後押しします。  四月から、即戦力となる外国人材を受け入れます。多くの優秀な方々に日本に来ていただき、経済を担う一員となっていただくことで、新たな成長につなげます。働き方改革のスタートを見据え、納期負担のしわ寄せを禁止するなど、取引慣行の更なる改善を進めます。  後継者の確保も大きな課題です。四十七都道府県の事業引継ぎ支援センターでマッチングを行うとともに、相続税を全額猶予する事業承継税制を個人事業主に拡大します。  TPPやEUとの経済連携協定は、高い技術力を持つ中小・小規模事業者の皆さんにとって、海外展開の大きなチャンスです。「総合的なTPP等関連政策大綱」に基づき、海外でのマーケティング、販路開拓を支援してまいります。 四 地方創生 (農林水産新時代)  安全でおいしい日本の農産物にも、海外展開の大きなチャンスが広がります。農林水産品の輸出目標一兆円も、もう手の届くところまで来ました。  同時に、農家の皆さんの不安にもしっかり向き合います。二次補正予算も活用し、体質改善、経営安定化に万全を尽くします。  素晴らしい田園風景、緑あふれる山並み、豊かな海、伝統ある故郷(ふるさと)。我が国の国柄を守ってきたのは、全国各地の農林水産業です。美しい棚田を次の世代に引き渡していくため、中山間地域への直接支払などを活用し、更に、総合的な支援策を講じます。  農こそ、国の基です。  守るためにこそ、新たな挑戦を進めなければならない。若者が夢や希望を持って飛び込んでいける「強い農業」を創ります。この六年間、新しい農林水産業を切り拓くために充実させてきた政策を更に力強く展開してまいります。  農地バンクの手続を簡素化します。政権交代前の三倍、六千億円を上回る土地改良予算で、意欲と能力ある担い手への農地集積を加速し、生産性を高めます。  国有林野法を改正します。長期間、担い手に国有林の伐採・植林を委ねることで、安定した事業を可能とします。美しい森を守るため、水源の涵養、災害防止を目的とした森林環境税を創設します。  水産業の収益性をしっかりと向上させながら、資源の持続的な利用を確保する。三千億円を超える予算で、新しい漁船や漁具の導入など、浜の皆さんの生産性向上への取組を力強く支援します。  平成の、その先の時代に向かって、若者が自らの未来を託すことができる「農林水産新時代」を、皆さん、共に、築いていこうではありませんか。 (観光立国)  田植え、稲刈り。石川県能登町にある五十軒ほどの農家民宿には、直近で一万三千人を超える観光客が訪れました。アジアの国々に加え、米国、フランス、イタリア、イスラエルなど、二十か国以上から外国人観光客も集まります。  昨年、日本を訪れる外国人観光客は、六年連続で過去最高を更新し、三千万人の大台に乗りました。北海道、東北、北陸、九州で三倍以上、四国で四倍以上、沖縄では五倍以上に増えています。消費額にして、四兆五千億円の巨大市場。  観光立国によって、全国津々浦々、地方創生の核となる、たくましい一大産業が生まれました。  来年の四千万人目標に向かって、海外と地方をつなぐ空の玄関口、羽田、成田空港の発着枠を八万回増やします。世界一安全・安心な国を実現するため、テロ対策などの一層の強化に取り組みます。国際観光旅客税を活用し、主要な鉄道や観光地で表示の多言語化を一気に加速します。  来年三月の供用開始に向け、那覇空港第二滑走路の建設を進めます。発着枠を大幅に拡大することで、アジアと日本とをつなぐハブ機能を強化してまいります。  北海道では、昨年、フィリピンからの新たな直行便など、新千歳空港の国際線が二十五便増加しました。雄大な自然を活かした体験型ツーリズムの拡大を後押しします。広くアイヌ文化を発信する拠点を白老町に整備し、アイヌの皆さんが先住民族として誇りを持って生活できるよう取り組みます。 (地方創生)  観光資源などそれぞれの特色を活かし、地方が、自らのアイデアで、自らの未来を切り拓く。これが安倍内閣の地方創生です。  地方の皆さんの熱意を、引き続き一千億円の地方創生交付金で支援します。地方の財政力を強化し、税源の偏在を是正するため、特別法人事業税を創設します。  十年前、東京から地方への移住相談は、その半分近くが六十歳代以上でした。しかし、足元では、相談自体十倍以上に増加するとともに、その九割が五十歳代以下の現役世代で占められています。特に、三十歳未満の若者の相談件数は、五十倍以上になりました。  若者たちの意識が変わってきた今こそ、大きなチャンスです。地方に魅力を感じ、地方に飛び込む若者たちの背中を力強く後押ししてまいります。  地域おこし協力隊を、順次八千人規模へと拡大します。東京から地方へ移住し、起業・就職する際には、最大三百万円を支給し、地方への人の流れを加速します。  若者たちの力で、地方の輝ける未来を切り拓いてまいります。 (国土強靱(じん)化)  集中豪雨、地震、激しい暴風、異常な猛暑。昨年、異次元の災害が相次ぎました。もはや、これまでの経験や備えだけでは通用しない。命に関わる事態を「想定外」と片付けるわけにはいきません。  七兆円を投じ、異次元の対策を講じます。  全国で二千を超える河川、一千か所のため池の改修、整備、一千キロメートルに及ぶブロック塀の安全対策を行い、命を守る防災・減災に取り組みます。  四千キロメートルを超える水道管の耐震化、八千か所のガソリンスタンドへの自家発電の設置を進め、災害時にも維持できる、強靱(じん)なライフラインを整備します。  風水害専門の広域応援部隊を全ての都道府県に立ち上げ、人命救助体制を強化します。  ハードからソフトまであらゆる手を尽くし、三年間集中で、災害に強い国創り、国土強靱(じん)化を進めてまいります。 (東日本大震災からの復興)  九月二十日からいよいよラグビーワールドカップが始まります。五日後には、強豪フィジーが岩手県釜石のスタジアムに登場します。  津波で大きな被害を受けた場所に、地元の皆さんの復興への熱意と共に建設されました。世界の一流プレーヤーたちの熱戦に目を輝かせる子どもたちは、必ずや、次の時代の東北を担う大きな力となるに違いありません。  東北の被災地では、この春までに、四万七千戸を超える住まいの復興が概ね完了し、津波で浸水した農地の九割以上が復旧する見込みです。  原発事故で大きな被害を受けた大熊町では、この春、町役場が八年ぶりに、町に戻ります。  家々の見回り、草刈り、ため池の管理。将来の避難指示解除を願う地元の皆さんの地道な活動が実を結びました。政府も、インフラ整備など住民の皆さんの帰還に向けた環境づくりを進めます。  福島の復興なくして東北の復興なし。東北の復興なくして日本の再生なし。復興が成し遂げられるその日まで、国が前面に立って、全力を尽くして取り組んでまいります。  来年、日本にやってくる復興五輪。その聖火リレーは福島からスタートします。最初の競技も福島で行われます。東日本大震災から見事に復興した東北の姿を、皆さん、共に、世界に発信しようではありませんか。 五 戦後日本外交の総決算 (公正な経済ルールづくり)  昨年末、TPPが発効しました。来月には、欧州との経済連携協定も発効します。  いずれも単に関税の引下げにとどまらない。知的財産、国有企業など幅広い分野で、透明性の高い、公正なルールを整備しています。次なる時代の、自由で、公正な経済圏のモデルです。  自由貿易が、今、大きな岐路に立っています。  WTOが誕生して四半世紀、世界経済は、ますます国境がなくなり、相互依存を高めています。新興国は目覚ましい経済発展を遂げ、経済のデジタル化が一気に進展しました。  そして、こうした急速な変化に対する不安や不満が、時に保護主義への誘惑を生み出し、国と国の間に鋭い対立をも生み出しています。  今こそ、私たちは、自由��易の旗を高く掲げなければならない。こうした時代だからこそ、自由で、公正な経済圏を世界へと広げていくことが、我が国の使命であります。  昨年九月の共同声明に則って、米国との交渉を進めます。広大な経済圏を生み出すRCEPが、野心的な協定となるよう、大詰めの交渉をリードしてまいります。  国際貿易システムの信頼を取り戻すためには、WTOの改革も必要です。米国や欧州と共に、補助金やデータ流通、電子商取引といった分野で、新しい時代の公正なルールづくりを我が国がリードする。その決意であります。 (安全保障政策の再構築)  平成の、その先の時代に向かって、日本外交の新たな地平を切り拓く。今こそ、戦後日本外交の総決算を行ってまいります。  我が国の外交・安全保障の基軸は、日米同盟です。  平和安全法制の成立によって、互いに助け合える同盟は、その絆(きずな)を強くした。日米同盟は今、かつてなく強固なものとなっています。  そうした深い信頼関係の下に、抑止力を維持しながら、沖縄の基地負担の軽減に取り組んでまいります。これまでの二十年以上に及ぶ沖縄県や市町村との対話の積み重ねの上に、辺野古移設を進め、世界で最も危険と言われる普天間飛行場の一日も早い全面返還を実現してまいります。  自らの手で自らを守る気概なき国を、誰も守ってくれるはずがない。安全保障政策の根幹は、我が国自身の努力に他なりません。  冷戦の終結と共に始まった平成の三十年間で、我が国を取り巻く安全保障環境は激変しました。そして今、この瞬間も、これまでとは桁違いのスピードで、厳しさと不確実性を増している現実があります。  テクノロジーの進化は、安全保障の在り方を根本的に変えようとしています。サイバー空間、宇宙空間における活動に、各国がしのぎを削る時代となりました。  もはや、これまでの延長線上の安全保障政策では対応できない。陸、海、空といった従来の枠組みだけでは、新たな脅威に立ち向かうことは不可能であります。  国民の命と平和な暮らしを、我が国自身の主体的・自主的な努力によって、守り抜いていく。新しい防衛大綱の下、そのための体制を抜本的に強化し、自らが果たし得る役割を拡大します。サイバーや宇宙といった領域で我が国が優位性を保つことができるよう、新たな防衛力の構築に向け、従来とは抜本的に異なる速度で変革を推し進めてまいります。 (地球儀俯瞰(ふかん)外交の総仕上げ)  我が国の平和と繁栄を確固たるものとしていく。そのためには、安全保障の基盤を強化すると同時に、平和外交を一層力強く展開することが必要です。  この六年間、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携えて、世界の平和と繁栄にこれまで以上の貢献を行ってきた。地球儀を俯瞰(ふかん)する視点で、積極的な外交を展開してまいりました。  平成の、その先の時代に向かって、いよいよ総仕上げの時です。  昨年秋の訪中によって、日中関係は完全に正常な軌道へと戻りました。「国際スタンダードの下で競争から協調へ」、「互いに脅威とはならない」、そして「自由で公正な貿易体制を共に発展させていく」。習近平主席と確認した、今後の両国の道しるべとなる三つの原則の上に、首脳間の往来を重ね、政治、経済、文化、スポーツ、青少年交流をはじめ、あらゆる分野、国民レベルでの交流を深めながら、日中関係を新たな段階へと押し上げてまいります。  ロシアとは、国民同士、互いの信頼と友情を深め、領土問題を解決して、平和条約を締結する。戦後七十年以上残されてきた、この課題について、次の世代に先送りすることなく、必ずや終止符を打つ、との強い意志を、プーチン大統領と共有しました。首脳間の深い信頼関係の上に、一九五六年宣言を基礎として、交渉を加速してまいります。  北朝鮮の核、ミサイル、そして最も重要な拉致問題の解決に向けて、相互不信の殻を破り、次は私自身が金正恩委員長と直接向き合い、あらゆるチャンスを逃すことなく、果断に行動いたします。北朝鮮との不幸な過去を清算し、国交正常化を目指します。そのために、米国や韓国をはじめ国際社会と緊密に連携してまいります。  北東アジアを真に安定した平和と繁栄の地にするため、これまでの発想にとらわれない、新しい時代の近隣外交を力強く展開いたします。  そして、インド洋から太平洋へと至る広大な海と空を、これからも、国の大小にかかわらず、全ての国に恩恵をもたらす平和と繁栄の基盤とする。このビジョンを共有する全ての国々と力を合わせ、日本は、「自由で開かれたインド太平洋」を築き上げてまいります。 (世界の中の日本外交)  中東地域の国々とは、長年、良好な関係を築いてきました。その歴史の上に、中東の平和と安定のため、日本独自の視点で積極的な外交を展開してまいります。  TICADがスタートして三十年近くが経ち、躍動するアフリカはもはや援助の対象ではありません。共に成長するパートナーです。八月にTICADを開催し、アフリカが描く夢を力強く支援していきます。  世界の平和と繁栄のために、日本外交が果たすべき役割は大きなものがある。地球規模課題の解決についても、日本のリーダーシップに強い期待が寄せられています。  我が国は四年連続で温室効果ガスの排出量を削減しました。他方で、長期目標である二〇五〇年八十%削減のためには非連続的な大幅削減が必要です。環境投資に積極的な企業の情報開示を進め、更なる民間投資を呼び込むという、環境と成長の好循環を回すことで、水素社会の実現など革新的なイノベーションを、我が国がリードしてまいります。  プラスチックによる海洋汚染が、生態系への大きな脅威となっています。美しい海を次の世代に引き渡していくため、新たな汚染を生み出さない世界の実現を目指し、ごみの適切な回収・処分、海で分解される新素材の開発など、世界の国々と共に、海洋プラスチックごみ対策に取り組んでまいります。  本年六月、主要国のリーダーたちが一堂に会するG20サミットを、我が国が議長国となり、大阪で開催します。  世界経済の持続的成長、自由で公正な貿易システムの発展、持続可能な開発目標、地球規模課題への新たな挑戦など、世界が直面する様々な課題について、率直な議論を行い、これから世界が向かうべき未来像をしっかりと見定めていく。そうしたサミットにしたいと考えています。  これまでの地球儀俯瞰(ふかん)外交の積み重ねの上に、各国首脳と築き上げた信頼関係の下、世界の中で日本が果たすべき責任を、しっかりと果たしていく決意です。  平成の、その先の時代に向かって、新しい日本外交の地平を拓き、世界から信頼される日本を、皆さん、勇気と誇りを持って、共に、創り上げていこうではありませんか。 六 おわりに  二〇二五年、日本で国際博覧会が開催されます。  一九七〇年の大阪万博。リニアモーターカー、電気自動車、携帯電話。夢のような未来社会に、子どもたちは胸を躍らせました。  「驚異の世界への扉を、いつか開いてくれる鍵。それは、科学に違いない。」  会場で心震わせた八歳の少年は、その後、科学の道に進み、努力を重ね、世界で初めてiPS細胞の作製に成功しました。ノーベル生理学・医学賞を受賞し、今、難病で苦しむ世界の人々に希望の光をもたらしています。  二〇二〇年、二〇二五年を大きなきっかけとしながら、次の世代の子どもたちが輝かしい未来に向かって大きな「力」を感じることができる、躍動感あふれる時代を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。  憲法は、国の理想を語るもの、次の時代への道しるべであります。私たちの子や孫の世代のために、日本をどのような国にしていくのか。大きな歴史の転換点にあって、この国の未来をしっかりと示していく。国会の憲法審査会の場において、各党の議論が深められることを期待いたします。  平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を切り拓く。皆さん、共に、その責任を果たしていこうではありませんか。  御清聴ありがとうございました。
第百九十八回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説
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一 はじめに
 平成最後の施政方針演説を、ここに申し述べます。  本年四月三十日、天皇陛下が御退位され、皇太子殿下が翌五月一日に御即位されます。国民こぞって寿(ことほ)ぐことができるよう、万全の準備を進めてまいります。  「内平らかに外成る、地平らかに天成る」  大きな自然災害が相次いだ平成の時代。被災地の現場には必ず、天皇、皇后両陛下のお姿がありました。  阪神・淡路大震災で全焼した神戸市長田の商店街では、皇后陛下が焼け跡に献花された水仙が、復興のシンボルとして、今なお、地域の人々の記憶に刻まれています。  商店街の皆さんは、復興への強い決意と共に、震災後すぐに仮設店舗で営業を再開。全国から集まった延べ二百万人を超えるボランティアも復興の大きな力となりました。かつて水仙が置かれた場所は今、公園に生まれ変わり、子どもたちの笑顔であふれています。  東日本大震災の直後、仙台市の避難所を訪れた皇后陛下に、一人の女性が花束を手渡しました。津波によって大きな被害を受けた自宅の庭で、たくましく咲いていた水仙を手に、その女性はこう語ったそうです。  「この水仙のように、私たちも頑張ります。」  東北の被災地でも、地元の皆さんの情熱によって、復興は一歩一歩着実に進んでいます。平成は、日本人の底力と、人々の絆(きずな)がどれほどまでにパワーを持つか、そのことを示した時代でもありました。  「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」  明治、大正、昭和、平成。日本人は幾度となく大きな困難に直面した。しかし、そのたびに、大きな底力を発揮し、人々が助け合い、力を合わせることで乗り越えてきました。  急速に進む少子高齢化、激動する国際情勢。今を生きる私たちもまた、立ち向かわ��ければならない。私たちの子や孫の世代に、輝かしい日本を引き渡すため、共に力を合わせなければなりません。  平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。
二 全世代型社会保障への転換
(成長と分配の好循環)  この六年間、三本の矢を放ち、経済は十%以上成長しました。国・地方合わせた税収は二十八兆円増加し、来年度予算における国の税収は過去最高、六十二兆円を超えています。  そして、この成長の果実を、新三本の矢によって、子育て支援をはじめ現役世代へと大胆に振り向けてきました。  児童扶養手当の増額、給付型奨学金の創設を進める中で、ひとり親家庭の大学進学率は二十四%から四十二%に上昇し、悪化を続けてきた子どもの相対的貧困率も、初めて減少に転じ、大幅に改善しました。平成五年以来、一貫して増加していた現役世代の生活保護世帯も、政権交代後、八万世帯、減少いたしました。  五年間で五十三万人分の保育の受け皿を整備した結果、昨年、待機児童は六千人減少し、十年ぶりに二万人を下回りました。子育て世代の女性就業率は七ポイント上昇し、新たに二百万人の女性が就業しました。  成長の果実をしっかりと分配に回すことで、次なる成長につながっていく。「成長と分配の好循環」によって、アベノミクスは今なお、進化を続けています。
(教育無償化)  我が国の持続的な成長にとって最大の課題は、少子高齢化です。平成の三十年間で、出生率は一・五七から一・二六まで落ち込み、逆に、高齢化率は十%から三十%へと上昇しました。  世界で最も速いスピードで少子高齢化が進む我が国にあって、もはや、これまでの政策の延長線上では対応できない。次元の異なる政策が必要です。  子どもを産みたい、育てたい。そう願う皆さんの希望を叶(かな)えることができれば、出生率は一・八まで押し上がります。しかし、子どもたちの教育にかかる負担が、その大きな制約となってきました。  これを社会全体で分かち合うことで、子どもたちを産み、育てやすい日本へと、大きく転換していく。そのことによって、「希望出生率一・八」の実現を目指します。  十月から三歳から五歳まで全ての子どもたちの幼児教育を無償化いたします。小学校・中学校九年間の普通教育無償化以来、実に七十年ぶりの大改革であります。  待機児童ゼロの目標は、必ず実現いたします。今年度も十七万人分の保育の受け皿を整備します。保育士の皆さんの更なる処遇改善を行います。自治体の裁量を拡大するなどにより、学童保育の充実を進めます。  来年四月から、公立高校だけでなく、私立高校も実質無償化を実現します。真に必要な子どもたちの高等教育も無償化し、生活費をカバーするために十分な給付型奨学金を支給します。  家庭の経済事情にかかわらず、子どもたちの誰もが、自らの意欲と努力によって明るい未来をつかみ取ることができる。そうした社会を創り上げてこそ、アベノミクスは完成いたします。  子どもたちこそ、この国の未来そのものであります。  多くの幼い命が、今も、虐待によって奪われている現実があります。僅か五歳の女の子が、死の間際に綴(つづ)ったノートには、日本全体が大きなショックを受けました。  子どもたちの命を守るのは、私たち大人全員の責任です。  あのような悲劇を二度と繰り返してはなりません。何よりも子どもたちの命を守ることを最優先に、児童相談所の体制を抜本的に拡充し、自治体の取組を警察が全面的にバックアップすることで、児童虐待の根絶に向けて総力を挙げてまいります。
(一億総活躍)  女性比率僅か三%の建設業界に、女性たちと共に飛び込んだ中小企業があります。時短勤務の導入、託児所の設置などに積極的に取り組み、職人の三割は女性です。  彼女たちが企画した健康に優しい塗料は、家庭用の人気商品となりました。女性でも使いやすい軽量の工具は、高齢の職人たちにも好んで使われるようになりました。この企業の売上げは、三年で二倍、急成長を遂げています。  女性の視点が加わることにより、女性たちが活躍することにより、日本の景色は一変する。人口が減少する日本にあって、次なる成長の大きなエンジンです。  女性活躍推進法を改正し、このうねりを全国津々浦々の中小企業にも広げます。十分な準備期間を設け、経営者の皆さんの負担の軽減を図りながら、女性の働きやすい環境づくりに取り組む中小企業を支援してまいります。  パワハラ、セクハラの根絶に向け、社会が一丸となって取り組んでいかなければなりません。全ての事業者にパワハラ防止を義務付けます。セクハラの相談を理由とした不利益取扱いを禁止するほか、公益通報者保護に向けた取組を強化し、誰もが働きやすい職場づくりを進めてまいります。  働き方改革。いよいよ待ったなしであります。  この四月から、大企業では、三六協定でも超えてはならない、罰則付きの時間外労働規制が施行となります。企業経営者の皆さん。改革の時は来ました。準備はよろしいでしょうか。  長年続いてきた長時間労働の慣行を断ち切ることで、育児や介護など様々な事情を抱える皆さんが、その事情に応じて働くことができる。誰もがその能力を思う存分発揮できる社会に向かって、これからも、働き方改革を全力で推し進めてまいります。  障害者の皆さんにも、やりがいを感じながら、社会でその能力を発揮していただきたい。障害者雇用促進法を改正し、就労の拡大を更に進めます。  人生百年時代の到来は、大きなチャンスです。  元気で意欲ある高齢者の方々に、その経験や知恵を社会で発揮していただくことができれば、日本はまだまだ成長できる。生涯現役の社会に向かって、六十五歳まで継続雇用することとしている現行制度を見直し、七十歳まで就労機会を確保できるよう、この夏までに計画を策定し、実行に移します。  この五年間、生産年齢人口が四百五十万人減少する中にあっても、多くの女性や高齢者の皆さんが活躍することで、就業者は、逆に二百五十万人増加いたしました。女性も男性も、お年寄りも若者も、障害や難病のある方も、全ての人に活躍の機会を作ることができれば、少子高齢化も必ずや克服できる。  平成の、その先の時代に向かって、「一億総活躍社会」を、皆さん、共に、創り上げていこうではありませんか。
(全世代型社会保障)  少子高齢化、そして人生百年の時代にあって、我が国が誇る社会保障の在り方もまた大きく変わらなければならない。お年寄りだけではなく、子どもたち、子育て世代、更には、現役世代まで、広く安心を支えていく。全世代型社会保障への転換を成し遂げなければなりません。  高齢化が急速に進む中で、家族の介護に、現役世代は大きな不安を抱いています。介護のために仕事を辞めなければならない、やりがいを諦めなければならないような社会はあってはなりません。  現役世代の安心を確保するため、「介護離職ゼロ」を目指し、引き続き全力を尽くします。  二〇二〇年代初頭までに五十万人分の介護の受け皿を整備します。ロボットを活用するなど現場の負担軽減を進めるとともに、十月からリーダー級職員の方々に月額最大八万円の処遇改善を行います。  認知症対策の強化に向けて、夏までに新オレンジプランを改定します。認知症カフェを全市町村で展開するなど、認知症の御家族を持つ皆さんを、地域ぐるみで支え、その負担を軽減します。  勤労統計について、長年にわたり、不適切な調査が行われてきたことは、セーフティネットへの信頼を損なうものであり、国民の皆様にお詫び申し上げます。雇用保険、労災保険などの過少給付について、できる限り速やかに、簡便な手続で、不足分をお支払いいたします。基幹統計について緊急に点検を行いましたが、引き続き、再発防止に全力を尽くすとともに、統計の信頼回復に向け、徹底した検証を行ってまいります。  全世代型社会保障への転換とは、高齢者の皆さんへの福祉サービスを削減する、との意味では、全くありません。むしろ、高齢者の皆さんに引き続き安心してもらえることが大前提であります。  六十五歳以上の皆さんにも御負担いただいている介護保険料について、年金収入が少ない方々を対象に、十月から負担額を三分の二に軽減します。年金生活者の方々に、新たに福祉給付金を年間最大六万円支給し、所得をしっかりと確保してまいります。  こうした社会保障改革と同時に、その負担を次の世代へと先送りすることのないよう、二〇二五年度のプライマリーバランス黒字化目標の実現に向け、財政健全化を進めます。  少子高齢化を克服し、全世代型社会保障制度を築き上げるために、消費税率の引上げによる安定的な財源がどうしても必要です。十月からの十%への引上げについて、国民の皆様の御理解と御協力をお願い申し上げます。  八%への引上げ時の反省の上に、経済運営に万全を期してまいります。  増税分の五分の四を借金返しに充てていた、消費税の使い道を見直し、二兆円規模を教育無償化などに振り向け、子育て世代に還元いたします。軽減税率を導入するほか、プレミアム商品券の発行を通じて、所得の低い皆さんなどの負担を軽減します。  同時に、来たるべき外国人観光客四千万人時代を見据え、全国各地の中小・小規模事業者の皆さんにキャッシュレス決済を普及させるため、思い切ったポイント還元を実施します。自動車や住宅への大幅減税を行い、しっかりと消費を下支えします。  来年度予算では、頂いた消費税を全て還元する規模の十二分な対策を講じ、景気の回復軌道を確かなものとすることで、「戦後最大のGDP六百兆円」に向けて着実に歩みを進めてまいります。
三 成長戦略
(デフレマインドの払拭)  平成の日本経済はバブル崩壊から始まりました。  出口の見えないデフレに苦しむ中で、企業は人材への投資に消極的になり、若者の就職難が社会問題となりました。設備投資もピーク時から三割落ち込み、未来に向けた投資は先細っていきました。  失われた二十年。その最大の敵は、日本中に蔓延したデフレマインドでありました。  この状況に、私たちは三本の矢で立ち向かいました。  早期にデフレではないという状況を作り、企業の設備投資は十四兆円増加しました。二十年間で最高となっています。人手不足が深刻となって、人材への投資も息を吹き返し、五年連続で今世紀最高水準の賃上げが行われました。経団連の調査では、この冬のボーナスは過去最高です。  日本企業に、再び、未来へ投資する機運が生まれてきた。デフレマインドが払拭されようとしている今、未来へのイノベーションを、大胆に後押ししていきます。
(第四次産業革命)  世界は、今、第四次産業革命の真っただ中にあります。人工知能、ビッグデータ、IoT、ロボットといったイノベーションが、経済社会の有り様を一変させようとしています。  自動運転は、高齢者の皆さんに安全・安心な移動手段をもたらします。体温や血圧といった日々の情報を医療ビッグデータで分析すれば、病気の早期発見も可能となります。  新しいイノベーションは、様々な社会課題を解決し、私たちの暮らしを、より安心で、より豊かなものとする、大きな可能性に満ちている。こうしたSociety 5.0を、世界に先駆けて実現することこそ、我が国の未来を拓く成長戦略であります。  時代遅れの規制や制度を大胆に改革いたします。  交通に関わる規制を全面的に見直し、安全性の向上に応じ、段階的に自動運転を解禁します。寝たきりの高齢者などが、自宅にいながら、オンラインで診療から服薬指導まで一貫して受けられるよう、関係制度を見直します。外国語やプログラミングの専門家による遠隔教育を、五年以内に全ての小中学校で受けられるようにします。  電波は国民共有の財産です。経済的価値を踏まえた割当制度への移行、周波数返上の仕組みの導入など、有効活用に向けた改革を行います。携帯電話の料金引下げに向け、公正な競争環境を整えます。  電子申���の際の紙の添付書類を全廃します。行政手続の縦割りを打破し、ワンストップ化を行うことで、引っ越しなどの際に同じ書類の提出を何度も求められる現状を改革します。  急速な技術進歩により、経済社会が加速度的に変化する時代にあって最も重要な政府の役割は、人々が信頼し、全員が安心して新しいシステムに移行できる環境を整えることだと考えます。  膨大な個人データが世界を駆け巡る中では、プライバシーやセキュリティを保護するため、透明性が高く、公正かつ互恵的なルールが必要です。その上で、国境を越えたデータの自由な流通を確保する。米国、欧州と連携しながら、信頼される、自由で開かれた国際データ流通網を構築してまいります。  人工知能も、あくまで人間のために利用され、その結果には人間が責任を負わなければならない。我が国がリードして、人間中心のAI倫理原則を打ち立ててまいります。  イノベーションがもたらす社会の変化から、誰一人取り残されてはならない。この夏策定するAI戦略の柱は、教育システムの改革です。  来年から全ての小学校でプログラミングを必修とします。中学校、高校でも、順次、情報処理の授業を充実し、必修化することで、子どもたちの誰もが、人工知能などのイノベーションを使いこなすリテラシーを身に付けられるようにします。  我が国から、新たなイノベーションを次々と生み出すためには、知の拠点である大学の力が必要です。若手研究者に大いに活躍の場を与え、民間企業との連携に積極的な大学を後押しするため、運営費交付金の在り方を大きく改革してまいります。  経済活動の国境がなくなる中、日本企業の競争力、信頼性を一層グレードアップさせるために、企業ガバナンスの更なる強化が求められています。社外取締役の選任、役員報酬の開示など、グローバルスタンダードに沿って、これからもコーポレートガバナンス改革を進めてまいります。
(中小・小規模事業者)  中小・小規模事業者の海外輸出は、バブル崩壊後、二倍に拡大しました。  下請から脱し、自ら販路を開拓する。オンリーワンのワザを磨く。全国三百六十万者の中小・小規模事業者の皆さんは、様々な困難にあっても、歯を食いしばって頑張ってきました。バブル崩壊後の日本経済を支え、我が国の雇用の七割を守ってきたのは、こうした中小・小規模事業者の皆さんです。  新しいチャレンジをものづくり補助金で応援します。全国的に人手不足が深刻となる中で、IT補助金、持続化補助金により、生産性向上への取組も後押しします。  四月から、即戦力となる外国人材を受け入れます。多くの優秀な方々に日本に来ていただき、経済を担う一員となっていただくことで、新たな成長につなげます。働き方改革のスタートを見据え、納期負担のしわ寄せを禁止するなど、取引慣行の更なる改善を進めます。  後継者の確保も大きな課題です。四十七都道府県の事業引継ぎ支援センターでマッチングを行うとともに、相続税を全額猶予する事業承継税制を個人事業主に拡大します。  TPPやEUとの経済連携協定は、高い技術力を持つ中小・小規模事業者の皆さんにとって、海外展開の大きなチャンスです。「総合的なTPP等関連政策大綱」に基づき、海外でのマーケティング、販路開拓を支援してまいります。
四 地方創生
(農林水産新時代)  安全でおいしい日本の農産物にも、海外展開の大きなチャンスが広がります。農林水産品の輸出目標一兆円も、もう手の届くところまで来ました。  同時に、農家の皆さんの不安にもしっかり向き合います。二次補正予算も活用し、体質改善、経営安定化に万全を尽くします。  素晴らしい田園風景、緑あふれる山並み、豊かな海、伝統ある故郷(ふるさと)。我が国の国柄を守ってきたのは、全国各地の農林水産業です。美しい棚田を次の世代に引き渡していくため、中山間地域への直接支払などを活用し、更に、総合的な支援策を講じます。  農こそ、国の基です。  守るためにこそ、新たな挑戦を進めなければならない。若者が夢や希望を持って飛び込んでいける「強い農業」を創ります。この六年間、新しい農林水産業を切り拓くために充実させてきた政策を更に力強く展開してまいります。  農地バンクの手続を簡素化します。政権交代前の三倍、六千億円を上回る土地改良予算で、意欲と能力ある担い手への農地集積を加速し、生産性を高めます。  国有林野法を改正します。長期間、担い手に国有林の伐採・植林を委ねることで、安定した事業を可能とします。美しい森を守るため、水源の涵養、災害防止を目的とした森林環境税を創設します。  水産業の収益性をしっかりと向上させながら、資源の持続的な利用を確保する。三千億円を超える予算で、新しい漁船や漁具の導入など、浜の皆さんの生産性向上への取組を力強く支援します。  平成の、その先の時代に向かって、若者が自らの未来を託すことができる「農林水産新時代」を、皆さん、共に、築いていこうではありませんか。
(観光立国)  田植え、稲刈り。石川県能登町にある五十軒ほどの農家民宿には、直近で一万三千人を超える観光客が訪れました。アジアの国々に加え、米国、フランス、イタリア、イスラエルなど、二十か国以上から外国人観光客も集まります。  昨年、日本を訪れる外国人観光客は、六年連続で過去最高を更新し、三千万人の大台に乗りました。北海道、東北、北陸、九州で三倍以上、四国で四倍以上、沖縄では五倍以上に増えています。消費額にして、四兆五千億円の巨大市場。  観光立国によって、全国津々浦々、地方創生の核となる、たくましい一大産業が生まれました。  来年の四千万人目標に向かって、海外と地方をつなぐ空の玄関口、羽田、成田空港の発着枠を八万回増やします。世界一安全・安心な国を実現するため、テロ対策などの一層の強化に取り組みます。国際観光旅客税を活用し、主要な鉄道や観光地で表示の多言語化を一気に加速します。  来年三月の供用開始に向け、那覇空港第二滑走路の建設を進めます。発着枠を大幅に拡大することで、アジアと日本とをつなぐハブ機能を強化してまいります。  北海道では、昨年、フィリピンからの新たな直行便など、新千歳空港の国際線が二十五便増加しました。雄大な自然を活かした体験型ツーリズムの拡大を後押しします。広くアイヌ文化を発信する拠点を白老町に整備し、アイヌの皆さんが先住民族として誇りを持って生活できるよう取り組みます。
(地方創生)  観光資源などそれぞれの特色を活かし、地方が、自らのアイデアで、自らの未来を切り拓く。これが安倍内閣の地方創生です。  地方の皆さんの熱意を、引き続き一千億円の地方創生交付金で支援します。地方の財政力を強化し、税源の偏在を是正するため、特別法人事業税を創設します。  十年前、東京から地方への移住相談は、その半分近くが六十歳代以上でした。しかし、足元では、相談自体十倍以上に増加するとともに、その九割が五十歳代以下の現役世代で占められています。特に、三十歳未満の若者の相談件数は、五十倍以上になりました。  若者たちの意識が変わってきた今こそ、大きなチャンスです。地方に魅力を感じ、地方に飛び込む若者たちの背中を力強く後押ししてまいります。  地域おこし協力隊を、順次八千人規模へと拡大します。東京から地方へ移住し、起業・就職する際には、最大三百万円を支給し、地方への人の流れを加速します。  若者たちの力で、地方の輝ける未来を切り拓いてまいります。
(国土強靱(じん)化)  集中豪雨、地震、激しい暴風、異常な猛暑。昨年、異次元の災害が相次ぎました。もはや、これまでの経験や備えだけでは通用しない。命に関わる事態を「想定外」と片付けるわけにはいきません。  七兆円を投じ、異次元の対策を講じます。  全国で二千を超える河川、一千か所のため池の改修、整備、一千キロメートルに及ぶブロック塀の安全対策を行い、命を守る防災・減災に取り組みます。  四千キロメートルを超える水道管の耐震化、八千か所のガソリンスタンドへの自家発電の設置を進め、災害時にも維持できる、強靱(じん)なライフラインを整備します。  風水害専門の広域応援部隊を全ての都道府県に立ち上げ、人命救助体制を強化します。  ハードからソフトまであらゆる手を尽くし、三年間集中で、災害に強い国創り、国土強靱(じん)化を進めてまいります。
(東日本大震災からの復興)  九月二十日からいよいよラグビーワールドカップが始まります。五日後には、強豪フィジーが岩手県釜石のスタジアムに登場します。  津波で大きな被害を受けた場所に、地元の皆さんの復興への熱意と共に建設されました。世界の一流プレーヤーたちの熱戦に目を輝かせる子どもたちは、必ずや、次の時代の東北を担う大きな力となるに違いありません。  東北の被災地では、この春までに、四万七千戸を超える住まいの復興が概ね完了し、津波で浸水した農地の九割以上が復旧する見込みです。  原発事故で大きな被害を受けた大熊町では、この春、町役場が八年ぶりに、町に戻ります。  家々の見回り、草刈り、ため池の管理。将来の避難指示解除を願う地元の皆さんの地道な活動が実を結びました。政府も、インフラ整備など住民の皆さんの帰還に向けた環境づくりを進めます。  福島の復興なくして東北の復興なし。東北の復興なくして日本の再生なし。復興が成し遂げられるその日まで、国が前面に立って、全力を尽くして取り組んでまいります。  来年、日本にやってくる復興五輪。その聖火リレーは福島からスタートします。最初の競技も福島で行われます。東日本大震災から見事に復興した東北の姿を、皆さん、共に、世界に発信しようではありませんか。
五 戦後日本外交の総決算
(公正な経済ルールづくり)  昨年末、TPPが発効しました。来月には、欧州との経済連携協定も発効します。  いずれも単に関税の引下げにとどまらない。知的財産、国有企業など幅広い分野で、透明性の高い、公正なルールを整備しています。次なる時代の、自由で、公正な経済圏のモデルです。  自由貿易が、今、大きな岐路に立っています。  WTOが誕生して四半世紀、世界経済は、ますます国境がなくなり、相互依存を高めています。新興国は目覚ましい経済発展を遂げ、経済のデジタル化が一気に進展しました。  そして、こうした急速な変化に対する不安や不満が、時に保護主義への誘惑を生み出し、国と国の間に鋭い対立をも生み出しています。  今こそ、私たちは、自由貿易の旗を高く掲げなければならない。こうした時代だからこそ、自由で、公正な経済圏を世界へと広げていくことが、我が国の使命であります。  昨年九月の共同声明に則って、米国との交渉を進めます。広大な経済圏を生み出すRCEPが、野心的な協定となるよう、大詰めの交渉をリードしてまいります。  国際貿易システムの信頼を取り戻すためには、WTOの改革も必要です。米国や欧州と共に、補助金やデータ流通、電子商取引といった分野で、新しい時代の公正なルールづくりを我が国がリードする。その決意であります。
(安全保障政策の再構築)  平成の、その先の時代に向かって、日本外交の新たな地平を切り拓く。今こそ、戦後日本外交の総決算を行ってまいります。  我が国の外交・安全保障の基軸は、日米同盟です。  平和安全法制の成立によって、互いに助け合える同盟は、その絆(きずな)を強くした。日米同盟は今、かつてなく強固なものとなっています。  そうした深い信頼関係の下に、抑止力を維持しながら、沖縄の基地負担の軽減に取り組んでまいります。これまでの二十年以上に及ぶ沖縄県や市町村との対話の積み重ねの上に、辺野古移設を進め、世界で最も危険と言われる普天間飛行場の一日も早い全面返還を実現してまいります。  自らの手で自らを守る気概なき国を、誰も守ってくれるはずがない。安全保障政策の根幹は、我が国自身の努力に他なりません。  冷戦の終結と共に始まった平成の三十年間で、我が国を取り巻く安全保障環境は激変しました。そして今、この瞬間も、これまでとは桁違いのスピードで、厳しさと不確実性を増している現実があります。  テクノロジーの進化は、安全保障の在り方を根本的に変えようとしています。サイバー空間、宇宙空間における活動に、各国がしのぎを削る時代となりました。  もはや、これまでの延長線上の安全保障政策では対応できない。陸、海、空といった従来の枠組みだけでは、新たな脅威に立ち向かうことは不可能であります。  国民の命と平和な暮らしを、我が国自身の主体的・自主的な努力によって、守り抜いていく。新しい防衛大綱の下、そのための体制を抜本的に強化し、自らが果たし得る役割を拡大します。サイバーや宇宙といった領域で我が国が優位性を保つことができるよう、新たな防衛力の構築に向け、従来とは抜本的に異なる速度で変革を推し進めてまいります。
(地球儀俯瞰(ふかん)外交の総仕上げ)  我が国の平和と繁栄を確固たるものとしていく。そのためには、安全保障の基盤を強化すると同時に、平和外交を一層力強く展開することが必要です。  この六年間、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携えて、世界の平和と繁栄にこれまで以上の貢献を行ってきた。地球儀を俯瞰(ふかん)する視点で���積極的な外交を展開してまいりました。  平成の、その先の時代に向かって、いよいよ総仕上げの時です。  昨年秋の訪中によって、日中関係は完全に正常な軌道へと戻りました。「国際スタンダードの下で競争から協調へ」、「互いに脅威とはならない」、そして「自由で公正な貿易体制を共に発展させていく」。習近平主席と確認した、今後の両国の道しるべとなる三つの原則の上に、首脳間の往来を重ね、政治、経済、文化、スポーツ、青少年交流をはじめ、あらゆる分野、国民レベルでの交流を深めながら、日中関係を新たな段階へと押し上げてまいります。  ロシアとは、国民同士、互いの信頼と友情を深め、領土問題を解決して、平和条約を締結する。戦後七十年以上残されてきた、この課題について、次の世代に先送りすることなく、必ずや終止符を打つ、との強い意志を、プーチン大統領と共有しました。首脳間の深い信頼関係の上に、一九五六年宣言を基礎として、交渉を加速してまいります。  北朝鮮の核、ミサイル、そして最も重要な拉致問題の解決に向けて、相互不信の殻を破り、次は私自身が金正恩委員長と直接向き合い、あらゆるチャンスを逃すことなく、果断に行動いたします。北朝鮮との不幸な過去を清算し、国交正常化を目指します。そのために、米国や韓国をはじめ国際社会と緊密に連携してまいります。  北東アジアを真に安定した平和と繁栄の地にするため、これまでの発想にとらわれない、新しい時代の近隣外交を力強く展開いたします。  そして、インド洋から太平洋へと至る広大な海と空を、これからも、国の大小にかかわらず、全ての国に恩恵をもたらす平和と繁栄の基盤とする。このビジョンを共有する全ての国々と力を合わせ、日本は、「自由で開かれたインド太平洋」を築き上げてまいります。
(世界の中の日本外交)  中東地域の国々とは、長年、良好な関係を築いてきました。その歴史の上に、中東の平和と安定のため、日本独自の視点で積極的な外交を展開してまいります。  TICADがスタートして三十年近くが経ち、躍動するアフリカはもはや援助の対象ではありません。共に成長するパートナーです。八月にTICADを開催し、アフリカが描く夢を力強く支援していきます。  世界の平和と繁栄のために、日本外交が果たすべき役割は大きなものがある。地球規模課題の解決についても、日本のリーダーシップに強い期待が寄せられています。  我が国は四年連続で温室効果ガスの排出量を削減しました。他方で、長期目標である二〇五〇年八十%削減のためには非連続的な大幅削減が必要です。環境投資に積極的な企業の情報開示を進め、更なる民間投資を呼び込むという、環境と成長の好循環を回すことで、水素社会の実現など革新的なイノベーションを、我が国がリードしてまいります。  プラスチックによる海洋汚染が、生態系への大きな脅威となっています。美しい海を次の世代に引き渡していくため、新たな汚染を生み出さない世界の実現を目指し、ごみの適切な回収・処分、海で分解される新素材の開発など、世界の国々と共に、海洋プラスチックごみ対策に取り組んでまいります。  本年六月、主要国のリーダーたちが一堂に会するG20サミットを、我が国が議長国となり、大阪で開催します。  世界経済の持続的成長、自由で公正な貿易システムの発展、持続可能な開発目標、地球規模課題への新たな挑戦など、世界が直面する様々な課題について、率直な議論を行い、これから世界が向かうべき未来像をしっかりと見定めていく。そうしたサミットにしたいと考えています。  これまでの地球儀俯瞰(ふかん)外交の積み重ねの上に、各国首脳と築き上げた信頼関係の下、世界の中で日本が果たすべき責任を、しっかりと果たしていく決意です。  平成の、その先の時代に向かって、新しい日本外交の地平を拓き、世界から信頼される日本を、皆さん、勇気と誇りを持って、共に、創り上げていこうではありませんか。
六 おわりに  二〇二五年、日本で国際博覧会が開催されます。  一九七〇年の大阪万博。リニアモーターカー、電気自動車、携帯電話。夢のような未来社会に、子どもたちは胸を躍らせました。  「驚異の世界への扉を、いつか開いてくれる鍵。それは、科学に違いない。」  会場で心震わせた八歳の少年は、その後、科学の道に進み、努力を重ね、世界で初めてiPS細胞の作製に成功しました。ノーベル生理学・医学賞を受賞し、今、難病で苦しむ世界の人々に希望の光をもたらしています。  二〇二〇年、二〇二五年を大きなきっかけとしながら、次の世代の子どもたちが輝かしい未来に向かって大きな「力」を感じることができる、躍動感あふれる時代を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。  憲法は、国の理想を語るもの、次の時代への道しるべであります。私たちの子や孫の世代のために、日本をどのような国にしていくのか。大きな歴史の転換点にあって、この国の未来をしっかりと示していく。国会の憲法審査会の場において、各党の議論が深められることを期待いたします。  平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を切り拓く。皆さん、共に、その責任を果たしていこうではありませんか。  御清聴ありがとうございました。
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negipo-ss · 6 years
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焼きそばハロウィンはいかにして無敵のアイドルになったのか(1)
 糸のように少しだけ開いたカーテンの隙間から朝陽が差していた。三角形に切り取られたやわらかな光の中を、田園を飛ぶ数匹の蛍のようにきれぎれの曲線を描いて埃が舞っていた。深い紫陽花色をしたチェック柄のミニスカートが、まっすぐにアイロンを当てられたシャツ、左右が完全に揃えられた赤いリボンとともに壁にかけられていて、部屋の主である女子高校生の内面を強いメッセージが込められた絵画のように表していた。  最も速い蒸気機関車が、そのペースをまったく乱されることなく東海道を走り続けていたように、その子どもがアスファルトを踏みしめるスニーカーのちいさな足音は正確に一分間当たり百六十回をキープしていた。それは彼女が小さなころから訓練に訓練を重ねてきた人間であることを示していた。太陽が地面に落とす影はすでに硬くなり、朝に鳴く鳥の歓びがその住宅地の道路には満ちていた。はっはっ、という歯切れ良い呼気が少女の胸から二酸化炭素と暖かさを奪っていった。  白いジャージに包まれたしなやかな身体は、湖面の近くを水平に飛ぶ巨大な鳥のそれに似ていた。ベースボールキャップからちらちらと見え隠れする桃色の髪がたった今自由になれば、相当に人目を引くほど美しくたなびいただろう。  ちら、とベビージーを見た視線が「ヤバイ」と言う言葉を引き出して、BPMが百七十に上がった。冷えた秋の空気が肺胞をちくちくと刺すようになったにもかかわらず、彼女の足取りは軽やかなままだった。そのままペースを落とさずに簡素な作りの階段をタンタンタンとリズム良く駆け上がりながら、背負っていた黄色のリュックサックからきらびやかなキーチェーンに取り付けられた部屋の鍵を取り出した。  かちゃり、と軽い音でドアが開いた。 「ヤバイってえ……」  靴が脱ぎ捨てられ、廊下を兼ねたキッチンの冷蔵庫が開かれると同時に、がっちゃんと重々しくドアは閉まった。その家の冷蔵庫は独身者向けの小さなサイズのそれで、天板に溜まった微かな埃が家主の忙しさを示していた。リュックから取り出された小さなタッパーを二つ、彼女は大事そうに冷蔵庫の中段に入れた。若干乱暴にそれが閉められた後、その場には一息に服が下着ごと脱ぎ捨てられた。浴室に荒々しく躍り込むと、曇りガラスの裏側でごろ、と音が響いて、洗い場の椅子が乱雑に蹴り退けられたようだった。  水が身体に跳ね返って飛び散り続ける音は短かった。男子高校生並のスピードでシャワーを終えて素早く黄色のトレーニングウェアに着替えると、彼女は強力なドライヤーで頭を乾かしながら鏡を睨みつけた。凄まじい早さで顔を直し、部屋の隅に立てかけてあったドラムバッグを一度だけひょいっと跳んで深くかけ直すと、小上がりに鎮座していたゴミ袋を掴んで「いってきます!」と誰もいない部屋に叫んだ。  キャップから出された、揺れるポニーテール。土曜日の早朝を走り抜けてゆく足音をゴミ収集車のビープ音だけが追っていた。  少女の部屋には静けさが戻る。
 地下鉄の駅を出ると、人混みをすいすいとくぐってきつい坂を下っていった。途中にある寺の横を小さく一礼して通り過ぎ、降りきった先の人通りの少ない路地を抜けていくと、やがてダンススタジオのちいさな立て看板が見えた。軽い足取りで一番下までたどり着き、ふう、と軽く息を吐く。耳から完全ワイヤレスのイヤホンを引き抜いてポケットに突っ込み、「ごめん!」と、笑顔を浮かべたまま身体全体で重い扉を勢いよく開いた。  小さな子どもたちが彼女の頭上を通り過ぎる笑い声と一緒に、白い光が斜めに入り込んで、暗い床を小さく照らしていた。彼女の瞳は、誰の姿も捉えない。 「……あれ?」 「あれ、じゃない」  ばこん、と、現れた女性に横からファイルで強く頭を叩かれ、彼女は悶絶して頭を抱え座り込んだ。 「城ヶ崎……集合時間は何時だ?」  く〜、と唸り声を上げた美嘉は、しばらくしてから「九時」と涙声で言った。 「今は何時?」 「八時五十八分、に、なったところです」 「正解だ。じゃあな、私はデートに行ってくる」 「ちょ、っと。トレーナー!」  美嘉はトレーナーの服を掴んで、「え」と言ったあと「……冗談、ですよね」と半笑いの顔を作って聞いた。上から下までトレーナーの服装を見て、それがいつもの緑色のウェアとは似ても似つかぬ、落ち着いた色合いの秋物であることに気づく。 「失礼だな、私にも急なデートの相手ぐらいいるよ。年収五百五十万、二十九歳、私にはよくわからないのだがシステム系の会社でマネージャーをしている――」  美嘉はうんざりとした顔を浮かべて、 「相手の年収なんて聞いてませんよ。ていうかそうじゃなくて、私たちのレッスンはどうなっちゃうんです?」 「まず第一に、私はいつも五分前行動を君たちに要請している」 「……それは、すみません。朝、用事で家を出るのが遅れてしまって」 「第二に、彼は笑うとえくぼがとてもかわいいんだ。好きな力士は豪栄道」 「彼氏情報はもういいですから……」  豪栄道とトレーナーの共通点を美嘉がまじま���と探していると、「第三に」と言って、トレーナーは指を振った。 「次は三人揃わないとレッスンはしないと、前回宣言したはずだ。案の定だったな」  美嘉は、うわっ、と呻いて「志希のやつ……」とつぶやきながらスマホを取り出して乱暴に操作した。 「先に鷺沢に連絡しろー」と、ヒールを履いたトレーナーは外に出ながら言った。 「あいつ、いつも三十分前に来て長々ストレッチしてるんだ。本番前最後の確認でいきなり無断欠席となると、少し心配したほうがいいかもしれないぞ」  ドアの隙間から微笑んで、「じゃあな」と、一言言うとトレーナーは去った。ぽかんと美嘉は小窓から彼女を見送る。かつ、かつという高い音は、軽やかに去っていった。  おかけになった電話番号は、電源が入っていないか――。  美嘉は携帯から小さく流れる音声を一回りそのままにしてから消し、スタジオの照明をつけないまま日の当たるところへと歩いていった。『い』から『さ』へ大きくスクロールして、窓際であぐらをかく。『鷺沢文香』を押し、耳に当てる。短いスパンで赤いボタンを押す。『鷺沢』赤ボタン。『鷺沢』赤ボタン。『た』にスクロール。 『高垣楓個人事務所』  耳元の小さな呼び出し音を聴きながら「なんで……」と美嘉は呟いた。短いやり取りで、事務員に文香への連絡を頼んだ。 「プロデューサーにも連絡お願いします……いえ、アタシは……はい、残って自主練やります。」  電話を切った後、ふうう、と美嘉は長いため息をついた。一息に立ち上がり、バッグから底の摩耗したダンスシューズを取り出して履くと、イヤホンを耳に押し込んで入念なストレッチを行った。同い年くらいの少女たちが数人、スタジオの横を笑い声を立てながら通り過ぎ、その影が床をすうっと舐めていったが、彼女はそれに目もくれなかった。  床に丁字に貼られたガムテープの、一番左の印に立った。トリオで踊るときのセンターとライト、残りふたつのポジションに一瞬の視線が走り、美嘉は目尻に浮かんだ悔し涙を一瞬親指の背で拭った。 「くそ」  いきなり殴りつけられた人がそうするように、美嘉はしばらく下を向いていた。闘争心を激しく煽る力強いギャングスタ・ラップが彼女の耳の中で終わりを告げ、長い無音のあと、簡素な、少し間抜けと言ってもいい打楽器が正確なリズムで四回音を立てた瞬間、美嘉は満面の笑みを浮かべてさっと顔を上げ、ミラーに映った自分を見つめながら大きく踏み出した。だんっ、と力強くフローリングを踏みしめた一歩の響きは、長い間その部屋に残っていた。
「おはようございます……」と挨拶をしながら、美嘉がその部屋に入っていくと、「あら、めずらしい」とパイプ椅子に座っていた和装の麗人が彼女を見て笑った。その人が白い煙草を咥えているのを見て、美嘉は「火、つけます」と近寄りながら言った。 「プロデューサー、煙草吸うんですね」 「いやですねえ、二人きりのときは楓と呼んでくださいと、このあいだ申し上げたじゃないですか」 「……楓さん、ライター貸してください。アタシ流石に持ってないんで……」  こりこりこり。  煙草が軽い音を立てながら楓の口の中に吸い込まれると、こてん、と緑のボブカットが揺れ、「はい?」と返事が返った。煙草と思っていたそれが菓子だったことが分かって、美嘉はがくりと頭を垂れた。 「ええと、ライターですか……あったかしら……」 「……からかってるんですか?」 「まさかまさか」  楓がココアシガレットの箱を差し出すと、美嘉は「いらないですって……」と顔をしかめて言った。 「今日は、打ち合わせ?」 「はい、次のクールで始まる教育バラエティの……楓さん、ちひろさんから連絡行きましたか」 「はいはい、来ましたよ。文香ちゃん、大丈夫かしら」 「……軽いですね」 「軽くなんか無いですよ」  ついつい、と手の中のスマホが操作され、「私の初プロデュース、かわいい後輩ユニットなんですから、応援ゴーゴー。各所からアイドルを引き抜きまくって、非難ゴーゴー!」と、画面を見せた。『高垣楓プロデュースユニット第一弾! コンビニコラボでデビューミニライブ』と大きく書かれたニュースサイトの画面には、『メンバーは一ノ瀬志希、城ヶ崎美嘉、鷺沢文香』と小見出しがついていた。びきっ、と美嘉の額に音を立てて青筋が現れ、「だったら」と美嘉は言った。 「ほんっと、真面目に仕事してくださいよ! なんなの、『焼きそばハロウィン』っていうユニット名!」 「ええ〜かわいくないですか、焼きハロ」 「ユニット名は頭に残ったら成功なの! ニュース見たら一発で分かるでしょ、記者さんも訳わかんなくなっちゃって、タイトルにも小見出しにも使われてないじゃん! ていうか百歩譲ってハロウィンは分かるとして、焼きそばってどっからきたの!!」 「以前、焼きそばが好きだっておっしゃっていたから……」 「え、そんなこと言ってましたっけ」 「沖縄の撮影に三人で行ったとき、一緒に食べておいしかったーって」 「……あれ、たしかに……はっ、いやいやいや、丸め込まれるところだった。好物をユニット名にしてどうすんの」 「美嘉ちゃんには対案があるんですか?」 「た、対案?」  いきなりプロデューサー業を完全に放棄して頬杖をしながらがさがさとお菓子かごを漁る楓に、美嘉は「対案……」と呟いて顎を触った。は、と思いついて「たとえば、志希がセンターだから、匂いをモチーフに『パフュー(ピー)』とか、あと……秋葉原でイベントやるし、そうだ、三人の年齢とかを合わせちゃって『エーケービー(ピイィー!)』とか、あーもうさっきからピィピィうるさい! なんなんですかそれ!」 「フエラムネですよ。あっ、今の若い子はご存じないですか」 「アッタッシッがっ、しゃべってるときにはちゃんと聞いてよ、アンタが考えろって言ったんでしょ! ていうか文香さんのこと、早く何とかしなさいよ!」 「ははあ」  ごり、と、ラムネを噛み砕くにしては大きい音が楓の口内から立てられた。美嘉は激昂から一瞬で冷めて、口元に小さな怯えを浮かばせた。月と太陽とを両眼に持ったひとはそれらをわずかに細め、もう一つラムネを口の中に放り込んだ。 「焼きハロ、私はリーダーを誰かに頼みましたよね。誰でしたっけ」 「……アタシ、です」  ごり。 「トレーナーさんからも話を聴きましたよ。なんでも志希ちゃんは、初回以来一度もレッスンに現れていないとか」 「あれは! その……志希は、前の事務所のときからずっとそうで……」  ごり。 「ふうん、美嘉ちゃんはそれでいいと思ってるんですね」  楓がゆらりと立ち上がり、美嘉に近寄った。彼女が反射的に一歩大きく下がると、壁が背後に現れて逃げ場が無くなった。フエラムネをひとつ掴み、楓は美嘉の少し薄い唇にそれを触れさせた。真っ赤に染まった耳元にほとんど触れるような位置から、楓の華やかな口元が「開けて」と動いて、美嘉がわずかに開けたそこにはラムネがおしこめられた。ひゅ、と一瞬鳴ったそれに、楓は満足そうに微笑むとテーブルに寄りかかった。「口に含んでもいいですよ」と楓が言った。美嘉は少し涙の浮かんだ目で楓を睨むと、指を使ってそれを口に入れた。 「私は高垣楓ですから」  テーブルを掴んでいる指で、楓はとんとんと天板を裏側から叩いていた。「傷つかないんですよね、残念なことに。何が起きても」とほんとうに少し残念そうに言った。 「だから、あなた方が失敗しても、私は特に何も思わない。たとえばコンビニのコラボレーションが潰れても、私は特に怖くない。少しだけ偉い人に、少しだけ頭を下げて、ああ、だめだったのかあ、と少しだけ感慨に浸るんです。でもあなた方はきっと、違いますよね」  美嘉の口の中で、こり、と音が鳴って、 「……何が言いたいんですか?」 「自信がないの? 美嘉ちゃん」  質問に質問を返されて、しかし美嘉はもうたじろがな��った。「最高のユニットにしてやる」と自分に言い聞かせるように呟くと、「なんです?」と楓は聞き返した。 「何も、問題は、ない。って言ったんですよ」  パン、と楓は手を叩いて、「ああ、よかったあ」と、言った。 「今日はもうてっぺん超えるまでぎっちり収録ですし、困ったなあ、と思ってたんですよね。明日の店頭イベント、よろしくお願いします」と、微塵も困っていない顔で言った。 「文香さんち、いってきます」と宣言し、美嘉はトートを抱え直した。行きかけた彼女は楓に呼び止められて、投げつけられたココアシガレットの箱を片手で受け取った。 「さっきはちょっといじめちゃいましたけれど……」と楓が言葉を区切ると、美嘉は心底嫌そうな顔をして「はあ」と言った。 「ほんとうにどうしようもなくなったら、もうアイドルを続けていられないかもしれないと思ったら、そのときはちゃんと私に声をかけてくださいね。す〜ぱ〜シンデレラぱわ〜でなんとかして差し上げます」 「もう行っていいですか。時間無いので」  恒星のように微笑んで、楓は「どうぞ」と言った。美嘉がドアを開けて出ていくと。入れ替わりにスタッフがやってきて「高垣さん、出番です」と声をかけた。  立ち上がりながら、ふふ、と笑うと、「楽しみだなあ、焼きハロ♫」と楓は呟いた。  だん、だん、と荒々しいワークブーツの足音が廊下に響いていた。「いらないっつってるのに……ていうか、一本しか残ってないじゃん。アタシはゴミ箱かっつうの」と独り言を言いながら、美嘉は箱から煙草を抜いて口に咥えた。空き箱はクシャリと潰されて、バッグへと押し込められた。 「あーっ、くそ!」  叫んで、ココアシガレットを一息に口の中へと含む。ばり、ばり、ばり、という甲高い音を立て、ひどく顔をしかめた美嘉の口の中で、それは粉々に砕けていった。
「すみませーん」  美嘉は三度目の声をかけ、ドアベルをもう一度押した。鷺沢古書店の裏庭にある勝手口は苔むした石畳の先にあり、彼女はそこに至るまでに二度ほど転びかけていた。右手に持っていたドラッグストアの袋を揺らしながら側頭部をぽりぽりとかいて「……やっぱり寝込んでるのかなー」と心配そうに小さな声で呟いたとき、奥から人の気配がして、美嘉の顔はぱっと輝いた。  簡素な鍵を開けたあと、老いた猫が弱々しく鳴くときのような蝶番の音を響かせて、顔をあらわしたのは果たして鷺沢文香だった。「文香さん」と美嘉は喜びを露わにして言った。 「無事でよかったー! なんだ、元気そうじゃん」  美嘉は鷺沢のようすを上から下まで確かめた。ふわりとしたロングスカートに、肌を見せない濃紺のトップス。事務所でも何度か見たことのあるチェックのストールは、青い石のあしらわれた銀色のピンで留められていた。普段と変わらぬ格好とは裏腹に、前髪の奥の表情がいつになく固い事に気づいて、美嘉は「……文香さん?」と聞いた。 「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」と、文香は頭を深々と下げた。  どこか寒々しい予感に襲われ、美嘉は「あ……」と、不安の滲む声を漏らした。はっとすべてを消し去り、いつもの調子に戻して、 「今日のレッスン? もういいっていいって。連絡が無かったのはだーいぶあれだったけど、ま、志希のせいで無断欠席には慣れちゃったっていうか、慣れさせられたっていうか――」 「そうでは、なくて……」  文香は言葉に詰まった。合わない視線はゆらりと揺れて、隣家で咲き誇るケイトウの花を差していた。燃え盛る炎のように艶やかなそれを見ながら「アイドルを、やめようと思います」と彼女はゆっくりと言った。がっと両腕を掴まれて、文香は目の前で自らの内側を激しく覗き込もうとする黄金の瞳に眼差しを向けた。 「なんで!!」  美嘉が叫ぶと、文香はふら、と揺れた。陽が陰り、そこからはあらゆる光が消えた。産まれた冷気を避けるかのように、ち、ち、と小鳥が悲鳴を上げながら庭から去っていった。 「向いて、いないと、思いました」と、苦しそうに彼女は言った。 「突然で、ほんとうに、申し訳ありません……楓さんには、後ほど、きちんとお詫びをしようと――」 「嘘」 「……嘘では、ありません。自分が、古めかしい本にでもしがみついているのがふさわしい、惨めな人間――けだもの、虫の一匹だと、あらためて思い知ったのです」 「何があったの、だって」  美嘉は文香から一歩離れると、心の底から悲しそうな表情を浮かべた。 「あんなに……嬉しい、嬉しいって、新しいことを発見したって、何度も何度も言ってたのに!」 「間違いでした」 「何があったんだってアタシは聞いてるの!」 「もともと何も無かったんです!」  文香がこれまで聞いたこともないような大声を出したので、美嘉は呆然と立ちすくんだ。「すべてがまぼろしだったのです! ステージの上の、押し寄せる波のように偉大なあの輝きも!」と文香は一息に言って、興奮を抑えるようにしばらく肩で息をしながら美嘉を見つめていた。やがて、「まぼろしだったのです、あの胸の、高鳴りも……」と、悄然として言った。 「……なぜ」と美嘉は言った。その反転がなぜ起きたのか理解できないようすで、美嘉はただ文香を睨みつけて質問を繰り返した。  長い沈黙のあとに、「家に、呼び戻されました」と文香は言った。美嘉は唖然として「どういうこと」と聞いた。 「親���同意がないままアイドルをやってたから、やめろって言われたって、そういうことなの?」  文香はうなずいた。 「未成年者は保護者の同意書提出があるはずじゃん」 「あれは、東京の叔父に書いてもらいました」 「……だって、大学だってあるし、文香さんトーダイでしょ。そういうの、全部捨てて、帰ってこいって言う……そういうことなの?」 「そうです」 「そんなの、家族じゃない」  美嘉が断固とした調子で言うと、文香は口を一文字に結んだ。そのようすを見ながら「家族じゃない、おかしいよ」と美嘉は言った。 「だって、アイドルも、学校も、全部夢じゃん。自分が将来こうなりたいっていうのを、文香さん自分の全部を賭けて頑張ってたじゃん。アタシずっと見てたよ。すごいな、ほんとうにすごいなって、思ってたよ。ねえ」  文香の瞳をまっすぐに見つめて、美嘉は手を差し伸べた。 「全部捨てる必要なんてない、大丈夫だから」  青い海のようなそれに吸い込まれそうになりながら、美嘉は一瞬の煌めきをそこに見つけて、笑いかけた。文香が恐る恐るといった様子で、ゆっくりとその手を取ったとき、微笑みを浮かべた彼女の口元は「そう……分からず屋の家族なんて、捨ててしまえば――」と囁いた。「う」と小さな悲鳴を上げて、文香は手を振りほどくと、どん、と彼女の���を両手で押し、庭土へと倒した。あっ、と倒れ込んだ美嘉は、文香を見上げ、「美嘉さんは、鷺沢の家を知らないんです!」と、文香が絶叫するのを聞いた。美嘉の眉はみるみるうちにへの字に曲がって、 「知らないよそんなの! アタシに分かるわけないじゃん!!」  ぐ、と文香の喉は、嗚咽するような音を立てて、やがて、ふううと長い息が吐かれた。 「……さようなら」と、短い別れの言葉で、ドアは閉められようとした。「待って!」と美嘉が呼びかけたときにその隙間から見えた、雨をたたえた空のようにまっしろな文香の顔色が、美嘉の目には消えゆく寸前のろうそくのようにしばらく残っていた。
 どさ、と重い音を立てて、その白い袋は金網で作られたゴミ箱へと捨てられた。美嘉はよろめく足取りですぐ横のベンチに向い、腰を下ろした。眼の前には公園に併設された区営のテニスコートがあり、中年の男女が笑いあいながら黄緑色のボールを叩いていた。  美嘉はイヤホンを耳に押し込むと、ボールの動きを目で追うのをやめてうつむいた。両手を祈りの形に組み、親指のつけ根を皺の寄った眉間に押し当てた。受難曲の調べが柔らかく彼女の鼓膜を触り終わったあと、シャッフルされた再生が奇跡のようにあの四回の簡素なリズムを呼び出して、今朝何度もひとりで練習したあの曲が鳴り始めた。美嘉は口をとがらせ、ふ、と微かに息を吐きながら顔を上げた。そしてテニスコートの男女が消え、自分の周りにひとりも人がいなくなったことを見つけた。  空はまっ青に晴れ、柔らかな光が木々の間から美嘉に差していた。そのやさしさをぼうっと受け止めながら、美嘉は立ち上がってゴミ箱から先ほど投げ捨てた袋を拾った。冷えピタやいくつかの薬、体温計を自分のバッグに移し、二つのフルーツゼリーをこと、こと、と静かにベンチの横に置いた。  曲はサビに差し掛かり、いつの間にか美嘉は鼻歌でそれを小さく歌っていた。てんてんと指で指してみかんとぶどうからぶどうを選びとると、蓋を開けてプラスチックのスプーンを突き立てた。  口に入るかどうかわからないくらいの大きさでそれをすくい上げて、飢えた肉食動物のような激しさでがぶりと食いついた。  歌い始めたときにはもうこぼれていた大粒の涙が、収め切れなかったゼリーの汁と一緒におとがいへと伝って、ぽとぽとと太ももに落ちた。  泣くときに必ず漏れるはずの音を、美嘉は少しも立てなかった。涙を拭いすらしなかった。たまに「あぐ」という、ゼリーを口に入れるときに限界まで開いた顎の出す音だけが、緑の葉が擦れるそれと共にそっとあたりに響いていた。食べ終わると同時に曲が終わり、美嘉はイヤホンを引き抜いた。ほうっと息を吐いて、ぐすっと鼻を啜った。涙のあとが消えるまで頬のあたりをハンカチでごしごし擦り、そのまま太ももを拭くと、鏡を出して顔を軽く確認した。  そして、は、と後ろを向く。  ベンチの背越しに伸ばされた腕がゼリーを取って、「これ食べていいやつー?」と聞きながら蓋を開け、返事を待たずにスプーンですくい取った。 「志希」と、呆然と美嘉は言った。 「ん?」と、ゼリーを口いっぱいに頬張りながら志希は言った。
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gunosy-news · 4 years
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少しの油断で窮地に。思わぬ理由でバレてしまった隠し事
集計期間:2020年5月10日~5月12日 回答数:15762
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知らぬ存ぜぬで隠し通していた秘密が、ひょんなことからバレてしまった…そんな経験、ありますか?
芸能人や政治家などは、週刊誌や新聞にスキャンダルをすっぱ抜かれてしまうことがよくありますが、一般の人々はどうでしょう。
そこで今回は「思わぬことで隠し事がバレてしまった経験」に関するアンケートを行いました!
思わぬことで隠し事がバレてしまったことはありますか?
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回答者15762名のうち、思わぬことで隠し事がバレてしまった人々の割合は約35.7%と、少数派でした。さすがに隠し事というだけあって、そうそうバレないようです。
ここからは、バレてしまった人々の具体的なエピソードを見ていきましょう。
思いがけずバレてしまった人々
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<お金関連>
・銀行からのお知らせで借金バレ
・銀行からの、定期預金の満期通知。へそくりがバレてしまいました。
・ずっと��別賞与を渡してなくて、会社の人を家に呼んだ時に、特別賞与の事を話されてバレてしまった!
・車の中に500円玉貯金ヘソクリをしていて妻に車を貸した時におろし忘れていてバレておごらされた。
・古本にへそくりを隠してたら それを廃品回収に出されそうになって 止めようとして理由を聞かれてバレちゃった
・ぬいぐるみの中にへそくりを隠していたが小銭のチャリンと鳴ってしまいバレた。
・分別ゴミの中にへそくり隠し忘れていたら後で使われていたことをしった、
・定期を落とし、貧乏なので会社の人に内緒で徒歩で行きも帰りで通勤したことがあります。誰かに見られたみたいでばれてしまいました。「なんで言わなかった。」と言われました。言いにくかったです。
・私は障害基礎年金を受給してます。で、ギャンブルが、特に競馬が好きで、姉に黙ってこっそりやってたんです。ある頃から負けが高じてきて、姉に借金を申し出るようになった。入用でと言い訳で通してたんですが、私の旧友が喋ってしまった。という訳ですわ。
・誰にも内緒でアパートを建てました。最低必要者にしか話していません。固定資産税が届き、市県民税が免除になりました。バレますよね。それでもしらを切っています。
↑へそくりを貯める人ほど、うっかり隠し場所を忘れたりするんですよね。それにしても固定資産税がらみでシラを切り通すのはすごい…
<家族がらみ>
・子供の身を守るために子供の嘘に加担したら、子供本人が余計なことを言って嘘がバレた。
・子供のお菓子を勝手に食べてしまったこと。バレないと思っていたけれど、ゴミ箱に捨てた袋で見つかってしまった。
・子供が小さいとき、私の年齢を 実際より若く教えていた。ある日、2人で図書館に行き、予約票に何も考えず、実年齢を書いたら 見られてバレた 笑そんなものに 正直に年齢を書いてしまう自分を笑った。
・幼い頃、母の日にカーネーション一輪を内緒でプレゼントしようと思い、母に見つからないようにと子供部屋の窓の外(団地の5階)に隠していたら、弟が窓を開けた拍子に下に落ちてしまい、「おかーさーん、お花が下に落ちたぁ!」って。夕飯の時にプレゼントするつもりだったのに。3人で拾いに行きました、涙。
・旦那に内緒で喫煙していたら当時5歳だった娘がパパ、ママここにタバコしまってるよって教えてた。
・携帯を機種変更して古いのを子供にあげたが、Googleフォトの同期を止めてなくて中身を全部見られてしまった。
・冷蔵庫の食材を使い切るのが苦手。奥へしまったものを忘れ、たまに主人が冷蔵庫を整理して賞味期限切れのものが見つかり怒られる。
・夫が嫌いとYahoo!で調べていたのを子供に携帯を貸した時に見られて、主人に告げた。
・旦那の悪口を本人にLINEしてしまった。
・旦那に内緒でプチ整形に高額な費用をかけ、念のために領収書を取っておいたら、見ないと思っていた引き出しを開けて見られていたことが結構たってから分かったこと。
・高校生の時親に内緒でファーストフードでバイトしていたら、テレビのニュースでバイト中の自分が映ったのを家族全員で見てバレた。 
・家族に「1週間、大阪支店へ出張」と言って、一人でロンドン旅行行った際、パスポートを紛失して再発行。後々、妻にパスポート期限の通知が来た。「あれ?何で一緒に取りに行ったのに、あなたのは期限が来てないの?」…うっかり「再発行したから」…「何で、再発行したの?」…修羅場へ突入。
・母とアメリカ旅行に行ったときに入国拒否されて過去に大学時代の友人と北朝鮮旅行に行ったことがバレた。北朝鮮に入国したことのある人はアメリカに入国できない法律があることを知らなかった…。
↑「絶対に秘密だからね」と念を押しても、同じことを言いながらあっさり言いふらすのが子供。そして北朝鮮への入国は、日本でも詳しく取り調べられるそうですね。
<色恋沙汰>
・彼女の名前を別の女の子の名前と呼び間違えました。
・元奥さんにばったり遭遇し既婚者である事がバレた。
・会社に内緒でお付き合いしていた彼と買い物に来ていたら、偶然会社の人と遭遇した。
・昔、既婚者の方と付き合って祭りに行ったら、彼の弟と会った。
・車で事故をおこした時に親に彼氏の存在を知られた
・友達の女の子とシェアハウスをしていたのを彼女にバレた。
・彼女と食事に行って『ここの卵料理美味しかったたよね!』って言った時、誰と来たの?って言われた。前の彼女と来た時と勘違いして返事に困った
・お風呂で浮気相手と携帯で喋ってると、その上の階の嫁が全部聞こえてたらしい。
・彼女との約束を嘘ついて断り、違う女の子と飲みに行ったらそこに彼女がいた。埼玉県に住んでいて渋谷で飲んでたのに。奇跡はおこる。
・映画の半券を季節替わり間近のコートのポケットに入れたまま忘れてしまい、衣替えでクリーニングに出す時に、当時の彼女に詰め寄られたため、咄嗟に半券を奪い取り食べ、証拠を隠滅した。
・プロポーズするために買った指輪の準備が出来たと彼女とドライブ中に電話が来て、バレてしまった
・小学校の時好きな子へのラブレターをひっそりランドセルに入れていた。友達がいたずらで私のランドセルを漁ってそのラブレターを見つけて好きな子に勝手に渡していた。。
・一人暮らしの時タンスの引き出しを開けられて中に入っていたトランクスを友人に見られ付き合ってる人がいるのがバレた。
・初期の出会い系で掲示板を見るだけで無料ポイントを越えてしまい、我が家にとって高額な請求が来てしまい、家内にバレてしまった。その後信用を失い、離婚してしまった。
・当時付き合っていた彼氏(現在の主人)を私の家になかなか招待しなかった。なぜならごみ屋敷だったから。休みの日にいきなり訪ねてきてバレた?一緒に片付けをしてくれた事がきっかけで結婚した。今は綺麗好きになってしまった(笑)
・高校生の頃の話。彼氏が出来たことを親に隠し続けて2年経った頃、帰りが遅い事や成績が下がってる理由が彼氏だと知ったら怒られると思って隠していたのに祖母とばったり遭遇。眼鏡をかけていたので眼鏡を外し違う子を装ったがバレた。今思うと物凄くバカ。
・20代のとき彼氏が浮気してうまくいってなかった頃、スナックのマスターに片思いして家計簿に日記代わりにちょっとしたコメントを記入してましたが、彼氏が仕事の関係で知り合った名の知れた占い師さんに「あなたの彼女には秘密がある数字の書いた何かに秘密が書かれてる」と言われ彼氏は数字=家計簿とピンときたらしく勝手に家計簿+日記が見られ俺以外に好きな奴が居るのか?と自分の浮気を棚にあげ激怒された事がありました
・元元カレは元彼の同僚で、寝ぼけて元彼氏の名前を呼んだつもりが元元カレの名前を呼んでしまい、元元カレが誰かがバレた。それから名前が含まれない愛称を考えて使用しています。
・彼と一緒に初詣行った時、おみくじに"浮つく心はやめよ"と出て、「あ~、やっぱり浮気してたんだね~。」って、言われて固まってしまい、浮気がバレた事があった。
↑色恋沙汰に関する隠しごとがバレると、致命傷になる確率が高いようです。
<友達がらみ>
・友達に電話して悪口と文句を言ってたら本人だった。リダイヤルで電話をかけたのが話しをするつもりの友達じゃなくて、焦った。
・友達との約束をキャンセルしたのですが、同じ町内でばったり出くわしてしまった。
・友達を招いて食事会をしました。ほとんど手作りしましたが、ある一品だけ、お惣菜の店で購入でも、全て手作り!と自慢しましたが子供がまだ小さかったので、お店で買ったのが一番おいしい!とバラしてくれました
・友達に内緒でコンサートに行ったら後日発売されたビデオにバッチリ映り込んでいた。抜けがけしたのかと言われ、他人のそら似だと言い張った。
↑その後、友達関係を続けられたのか気になる回答も。
<その他>
・喫煙していたこと。旅先の手荷物検査で見つかった
・パチンコしているのをバチンコ店の暑中見舞からバレてしまった。
・ピアスを親に内緒で開けシールだとずっと言い続けた
・サプライズ��レゼントを注文したが、指定日より早く届いてしまいプレゼントを贈る人にバレたことがある
・ジャニオタなのが宅配便でバレました
・オタクを隠してましたが、ハマっていたゲームの話題を振られた時に、思わずガチ喋りをしてしまい、バレましたw
・Twitterのアカウントがばれ、そこからYouTubeで動画投稿しているのがバレた
・習い事のズル休み。その日に限って親が見学しに来てバレた。
・夜勤で、働き始める前に、食事(寿司)を、取ったら、職場の上司に、見つかってしまった。隠れて、こそこそしていたんだけど、上司は、鼻が効くなー?
・会社のロッカーに退職届を入れておいたんですが、持ち物点検でバレました。
・ストーカーに会い、警察に被害届を出しに行った時に副業で水商売をしていた事がばれた。家族には上手く誤魔化したが、警察で色々聞かれ副業がばれると昼間の仕事に差し支えるので水商売を止めるきっかけになった。
↑持ち物点検で退職届がバレた時の空気、想像するだけで身震いがしますね。
以上が「思わぬ理由で隠しごとがバレた人々」でした。自分では完璧に隠しとおしているつもりでも、不幸というのはさらにその裏をかき、静かに背後に立ってくるものです。人生は常に予想外のことが起こるということを肝に銘じるべきかもしれませんね。
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honryu-report · 4 years
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『女性の視点から見た奔流の旅』
奔流の旅は7割が女性参加者です。競馬の時も、狂ったように疾走し先頭争いをするのは女性が多い。間違えなく男性よりも心が逞しくなっている日本の女性。女子にとって奔流の旅とはどういう存在なのか。彼女たちは旅に何を求めているのか。そう考えて、『女性の視点から見た奔流の旅』という文集を作ることにしました。現代日本女性の内面を社会に伝えると同時に、このような女性たちの夢をかなえ、安心かつエキサイティングな旅を実現してくれた奔流と張さんに深い感謝を伝えたいと思います。
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『奔流の旅は女子の解放の歴史に似ている』
奔流の旅は女性の解放の歴史に似ている。まるで某ファッションブランドがコルセット以外の女性の美しさの表現、新たな枠組みを見出すような旅であるように思う。
男女平等の意識が浸透してきたとはいえ、「性差」には埋められない壁があって、家から一歩外に出ると、世界的には安全だと言われる日本でも女性というだけで気を抜くことはできない。いざというときに力負けを防ぐのは至難の技だ。また別の視点でも、女性には独特の縛りがある。毎月やってくる女性のサイクルは、行動だけでなく思考回路にも影響を及ぼすこともあるし、はたまた出産、育児、仕事の両立ともなればどんなに男女平等と謳われていても均等な負担というわけにいかず、どうしても女性の負担が大きくなりがちだ。その環境からか知らず知らずのうちにその枠組みの中に捕われてしまう。だからこそ女性が解放されるにはまず壁が打ち破れるものであり、自分なりに枠組みを作り変えることができるということを知る必要がある。奔流中国の旅にはそんな解放の要素がある。
  私が奔流中国に関心を持ったきっかけは、幼少期からの夢を叶えたいという至極単純な動機であった。「スーホーの白い馬」を読んでからというもの、地平線まで馬で駆け抜けたいと思っていた。高校生のときは馬術部に所属し、馬で駆ける夢を叶えたがブリティッシュな乗馬であったので「地平線まで駆け抜ける」というイメージとは大きく違っていた。そんな折に馬術部の先輩から奔流中国の存在を教えてもらった。HPをみたときの迷いと胸の高鳴りがせめぎ合ったのを今も覚えている。申し込むには2つハードルがあった。1つ目は私自身の決意だ。参加してみて女性の参加者が少なかったら?1人参加で身の安全がもてるのか?中国語は全く理解できないが?などなど、高ぶる気持ちとは裏腹に不安は尽きなかった。その点については奔流中国の事務局に問い合わせをしたところ、女性スタッフの方が丁寧に教えてくれた。女性参加者が6〜7割以上で基本的にツアーなのである程度言語の問題も解決できるとのことだった。その他何点か質問をして丁寧に対応してくれたため、私は参加を決意した。2つ目のハードルは両親の説得である。20年間娘が安全に生きられるように育ててくれた両親からは、当時21時の門限を言い渡されており、誰とどこで何時から何時まで出かけるのか明確にして出かけることが必要だった。特に門限に関しては女性であるが故の制限だと両親からはっきりと言われていた。そんな両親が見知らぬ学生たちと旅行に行くことを許してくれるだろうか。私が旅に出たいと伝えた後、父はHPを熟読していた。私の予想よりスムーズに許可が降りたのだが、両親には多大な心配と葛藤があったと後から聞いた。私自身の受験や部活を理由にして挑戦することから足が遠ざかっていた時期だったが、奔流中国への参加の決断が私にとってその後人生のさまざまな局面において影響を与える「解放」の第一歩であった。
降り立った内モンゴルの大地は壮大であった。60頭もの馬が駆け抜ける足音は地を唸らせたがその足音すらも飲み込み、照りつける太陽と吹きすさぶ風が身体中から水分を奪っていくかと思えば、土砂降りの雨で馬と私たちごと大地を潤し、透き通るほど張り詰めた冷たい朝を運んできた。極限までカラカラになった細胞にハミウリの水分が行き渡る感覚は、まさに生命の実感であった。日に日に蓄積される疲労感に反比例して馬で駆け抜ける距離は長くなっていく。自分の体力がギリギリだと感じていたその時、主催者の張宇氏からかかる号令。「あの丘まで駆け足!!」馬たちが敏感に察知する。馬たちのエネルギーに屈しないようこちらもエネルギーを振り絞る。エネルギーとエネルギーがぶつかり合って、その日のトップスピードで駆け抜けたとき、ありとあらゆるしがらみから解放され頭の中を風が駆け抜けた。馬に乗り地平線まで駆けるという夢以上に魂の解放を体験することができたのだ。一度解放の体験をすると、その後の自分の選択が今までの自分からの解放、一歩進んだ選択ができているかを測る指針になった。この解放の感覚は今も私が何かを選択するとき、1つの判断材料になっている。今、自分を解放できているか!
  さて、私は非常に心地の良い解放を体験することができたのだが、私はその後一転してただ解放で止まってしまっては一種の逃避にすぎないこと気がついた。
どこまでも行き着くことない地平線、空と大地が繋がる夜の宇宙に取り残されたような深い闇。雄大なその空間を目の当たりにして枠組みがないことの恐ろしさを感じた。日本では自分の身体が見えなくなるほどの闇を感じることはほぼない。自分の身体が溶けるような飲み込まれるような不思議な感覚。改めて枠の存在意義を身体で感じる。干からびそうになっても走り続けることができたのは、笑顔で隣を走る仲間たちがいたからだ。キャラバン隊でなければ手に入らない暖かい食事、水、寝床。あぁ、ここで1人になったらどこに行き着くこともなく、死ぬな。
枠組みがなくなる恐怖を体感できたことは私にとって大切な経験であった。枠組みがない体験をしたからこそ、自分自身の枠を認識し、価値観に拡がりが生まれた。枠との付き合い方、つまり自分を縛るのも解放するのも自分だと客観視できた。この解放と枠組みを感じる体験は私のその後の人生にも大きく影響を与え、枠を超えて挑戦することに役立っている。
私は奔流中国以外のツアー旅行や海外旅行も経験があるが、奔流中国の旅のインパクトは他の旅にはなかなかないものを感じている。その鍵となるものはなにか。
 その鍵の1つが主催者である張宇氏の絶妙な手綱さばきではないだろうか。
張宇氏は極限まで馬と参加者に挑戦させる。「自分で選択したのだ」というその緊張感を与えることがキャラバン隊の統率力になっているのだ。自分で節度を持たないと事故を起こしてしまうかもしれないという危機管理能力を参加者に芽生えさせ、安全が守れるぎりぎりまで自由にさせる。縛りすぎないことでまとめ上げる。逆転の発想ではないだろうか。そして、その統率力は奔流中国に関わるスタッフに対しても生かされている。参加者たちは終始サポートを受け続けているのだが、中でも印象的なのは遊牧民からのサポートだ。私たちに例えると何に値するのか表現ができないくらい大切な馬たちに、素人の私たち参加者を乗馬させてくれる遊牧民の懐の深さには感謝しかない。何らかの事情で乗馬が継続できなくなった時は並走しているバスに乗ることもできるし、毎食草原のど真ん中に温かいスープとご飯を運び、ゴミまで回収してくれるのだ。体力的には過酷な体験ができつつ、精神的には厳しすぎない旅というのも女性にとっては魅力の1つではないだろうか。私がこの旅の魅力として前述した解放に浸るという体験は通常旅の最中において油断とも取れる状態だが、安心して浸れたのは一重にスタッフの皆様のサポートあってのことだ。
では今、奔流の旅で得た体験がどのように生きているのか。実は今回この文章の依頼を頂いた時、仕事こそなかれ生後数ヶ月の夜間授乳のある乳幼児を抱えながらの執筆であった。もともと文章を書くのは苦手で、今は大変なのですみませんとお断りしそうな性格であったが、引き受けるという意思表示をしてしまうことで引き受けたからにはやらなければならないと自分を追い込むようになった。
また仕事と育児の両立という面では、仕事も育児も1人の私として存在しているのに、仕事の枠組みと育児の枠組みは相反するものがあり、2つの枠組みを行ったり来たり。時には2つの枠組みがぶつかり合って問題を起こすのだが、大変な時は家族含めてさまざまな人にフォローをお願いしてもいいし、あえてその問題に飛び込んでしまう度胸が養われたのは、解放を肯定的に捉えられたあの旅が原点だと思う。「女性の社会進出によって子供にしわ寄せがあるのではないか」と見聞きすると、不安に駆られることもあるが枠組みを外していくことも含めて子供達に伝えていければいいなと思っている。奔流の旅は解放を与え、挑戦する力を育ててくれた。今後も旅で得たものをさまざまな場面で生かしていけたらと思う。
 2006年、2007年参加
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 『自由を追求する旅に出逢えました』
 私が今回参加した目的は、今回の旅で最高の癒しを得て、日々のSNS疲れや勉強疲れから解放さ��ることでした。しかし、張さんはこれを軽く超えるかけがえのないものを与えてくださいました。奔流中国に参加しなければ私の人生は成り立たなかったと確信しています。堅苦しい文章になると思いますが、最後まで読んでくださると嬉しいです。
 私の日本での普段の生活は、情報系の学科ということもあり現代のIT技術と向き合う日々です。それはこれからも変わらないと思います。就職と同時に、人類にとっての利便性、安全性をより高くしようとする現代社会にさらに飲み込まれるでしょう。そしてそれを目の前にして、「自分は周りを気にして流されやすいタイプだから、将来誰かの言いなりになってもなにも思わないどこにでもいるような量産型の人間になりそうだなあ」と、社会人になることに不安を募らせていました。
 でもその中に、「自分と他人との違いを見出せない、ありきたりな人間にはなりたくない」という気持ちがはっきりとありました。その強い感情があれば、何事もなんとかなるという固定概念がありました。
 今回の旅の一番の収穫は、そんな自分の甘さに気づき、今の生活のままでは���メだと気付けたことです。馬に乗って草原を駆けている時、馬のスピードに圧倒されて自分の体がうまく動かせない、その中で手綱を使って馬をコントロールしないといけない状況が、今の日本での生活と重なりました。草原を駆けることは、開放感に満ち溢れていましたが、それはつまり、決まった道がなく自分で進む方向を決める必要があるという責任を伴っています。目まぐるしく成長する技術により発達していく社会の中で、草原での乗馬のように、いかに自分から目をそらさずに自分の行動を決断できるか。それが鍵になると気づき、今までの思い込みをぶち破ることができました。
 乗馬している時も自分の甘さが原因で上手く乗りこなすことができませんでした。「走れ!」とか「止まれ!」という強い感情が伝わっていると過信して、体を使って確実に伝えることができていませんでした。本当に悔しかったです。「この悔しさをバネに」、これから生きていきます。
 草原を駆けることが現代の社会と重なったことで、今も昔も、大事なものは変わらないことを改めて感じることができました。最高の仲間と、最高のスタッフと、最高の指導者と、私は最高の旅を無事終えることができた果報者だと人生最大の感動に浸っています。自分が奔流中国に参加するという選択をしたことに誇りを持たざるをえません。
 次に奔流中国に参加する時には、さらに磨きがかかった自分を用意していきます。旅にいるモノリストの、パスポートよりも上に、必需品として。
 最後に、旅で出逢えた皆さん、次会えた時も最高の時間を共に過ごしましょう!大好きです。どうか早井つくしを忘れないで。
 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。謝謝♡
 2019年夏参加
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 『旅先で見たものー』
 私が参加した旅では、二人以外全員女性であり、圧倒的に女性が多かった。
一緒に旅に参加した仲間たちのように、私にも個性があって魅力的な一人であるかと聞かれると、「そうだ。」と言い切れるような特徴は特に思い当たらない。ただ、一年半経って振り返っても、奔流中国の旅が「最高であった。」と言える一人の女性として、旅のきっかけと旅で見た印象的な事三つに触れながら、旅の感想を述べたいと思う。
 ・旅に参加したきっかけ
旅に参加しようと思ったのは、奔流の旅を知ってその様子のビデオを見た時に衝撃を受けたからである。埃がたつ大地の中、表情を険しくし、自然の厳しさを全身に受けながらも、力強く、馬と共に前に進んでいく様子に私ははっとさせられた。
 この旅に挑戦するまで、私は、どこか閉塞感を感じ、自分に全く自信を持てずにいた。高校時代から、大した理由があるわけではないが、そんな暗い気持ちを抱えていて、大学に入ってからも、私の憂鬱な気持ちは続いた。
今ではそれらの原因となる複数の出来事にも向き合い終え、乗り越えられたと思っている。ただ当時の私は、「何にもうまくいかない」と悩み、自分が描いていた、理想の自分の姿からかけ離れた存在になったと思い、絶望していた。
 そんな中、どうやって調べてたどり着いたのかは覚えていないが、奔流中国を知った。初めて、旅の様子の動画を見た時は震えた。広い大地に、砂煙がたち、次の瞬間に馬に乗った連隊が現れてくる。それも、乗っているのは、私と変わらない年齢の人たち。「この集団は何なのだ。」と、とても驚いた。真剣な顔でひたすら前に進んでいく姿は、普通の青年たちとは違うと思った。「ここに行ったら、私は現状の自分の殻から突き抜けられるかもしれない」そんな期待をもって、些細なきっかけにも後押しされ、私は旅に出ることを決めた。
 ・旅をしてみて~旅先で見たもの~
 (1)景色
 乗馬をするフフホトまでは、船や列車を使って、4日くらいかけて向かった。船で海を渡り、列車で大陸を超えて、フフホトへ向かうという予定表を見た時は、暇を持て余すのではないかと心配であった。しかし、実際に行ってみるとそんなことなく、目の前の景色が常に変わり、そのかけがえのない美しい景色を見るのに必死であった。
海は、陸に挟まれている時と、陸から離れている時で波が違い、天気によって水の色も違う。だから、甲板に出ると毎回、全く違う景色が広がっていた。海のど真ん中で、星を見たのも初めてであった。
中国大陸を横断した時は、地域によって町の様子が全く違う事を知って、新鮮であった。寝台列車に二日乗って、いくつの街を見たのだろうか。経済都市、工業都市、農業都市・・・これは大きなくくりであるが、それぞれの町で様子が異なった。建物の形や立ち方、量が違い、人の様子や表情が違う。だから、それぞれの町で雰囲気が違い、外を見る旅驚いた。
 (2)仲間
 旅先で出会った仲間は個性的で魅力的に思えた。特技があって堂々としていたり、才能があったり、特に主張をするわけではないけれど、時々思慮深い表情を見せたりと「個」がしっかりある人たちが多かった。
「女性が集まるとグループができて面倒だ・・・」などと、たまに友人に言われることがあるが、自分をしっかり持っている人たちが集まるとあまりそんなことにならないと私は思う。奔流の旅でも良い意味でみんなマイペースに過ごしていて居心地が良かった。ほとんどの時間は、みんなでくだらないことを言って騒いだり、はしゃいだりしているのだがふとした時に何か考え始めたかのような顔をしてどこかに行ってしまったり、壮大な景色を見ながら、急に日頃の悩みを話し始めたり・・・。ただ他愛のない話で笑いあって楽しいというだけでなく、この旅の間は、なぜか初対面なのに、日ごろ自分の心の奥底で考えていることを口にしたくなってしまう気分になるのだ。
 「都心でみんなに出会っていても同じような印象を持てたのだろうか。」、人間は旅先では、大自然の前では、素直になるものだからかもしれない、とも思う。
 (3)乗馬                  
  もちろん、普段は見られない景色を見て、魅力的な仲間たちに囲まれて、「非日常の場でリフレッシュされた」なんていう感想を持つような単純な旅では決してない。この旅のメインで、自分自身も一番楽しみにしていた乗馬は、期待以上にやりがいがあって、意外であったのは、乗馬が自分と向き合う時間になったということである。馬と一緒に旅をすることは、単純に「馬に上手に乗る」こと以上の意味合いがあったのだ。
モンゴルの草原は空と草原の境界線が見れるほど本当に広い。そんな広いところを速歩で走り、風を受けるのはとても爽快であった。しかし、簡単に乗って縦横無尽に駆け回れたわけではない。実際に乗馬するとそんなに簡単ではないのだ。そもそも馬は人間に従順な動物では決してないし、それぞれで個性があるので、常に馬と馬に乗っている人がコミュニケーションを取りながら走っている。自分が進みたいように進むのにもコミュニケーションが必要であったように思う。
うまくコミュニケーションをとって進むには、自分が乗る馬から信頼を得る必要があったと私は考える。信頼というのは、自分の指示を聞いてもらえるくらい堂々とした姿勢をとって、真っすぐに自分の意志を伝えることである。乗馬の正しい姿勢というのが、堂々とした姿勢になるので、半分は慣れて技術を身につけることであると思うが、半分は自分の気持ちを常に落ち着かせられていることだと思う。
私は三日とも、同じ馬と一緒に旅したが、最初はうまく意志を伝えることができず、なめられていた。私の乗った馬は、何頭かの馬と一緒にて走るのを好んで、私は常に何頭かに囲まれ、窮屈であった。更に、私の指示ではなく、他の馬に合わせて動いたり止まったりするので悔しかった。何とかしようとして進行方向をずらして前へ出ようとして、手綱を右に、左に振って、はっきりしないでいたら、すごい形相でにらまれたりした。
うまくいかないと悪循環で、次々と自分の不得意な部分が思い当たるのである。例えば、私はすぐにうまくいかないとと落ち込み、姿勢を乱してしまう。すぐに立ち直って切り替えれば良いところを、「なんで駄目だったんだ。」、「自分の何が悪かったんだ。」と考えるうちに自分を責め始め、できない事をくよくよしてしまうのである。
今旅の中で馬に「あなたの言う通りには動かないよ」と何回も態度で示された。そのたびに自分の弱いところを考えさせられ、しかもその弱いところは日常生活の自分の問題につながる自分の短所なのである。
私は乗馬中、常に自分の弱さを突き付けられているような気がしたが、そう感じているのは私だけでないようであった。他愛ない話で盛り上がる仲間たちであるが、馬に乗った後はみんな複雑な表情をしている。それは単に疲れだけでなく、何かに納得できず考えているような顔であったり、案の定、休憩中に乗馬中の所感を述べあったり、ある者は、気が付いたことを毎回、張さんに話に行っていた。張さんに乗馬の話をする時も、単なる乗馬の技術的な話だけでえなく、いつの間にか自分が普段は隠している欠点やその欠点から派生する日常生活での悩みの話になるのである。張さんは、全体に対する支持も簡潔で、無駄な話をしないようであるが、こういう話をした時、とても鋭いことをいので、みんな一人の時間を見つけては、張さんのところへ行って話をしに行っていた。
私が行った旅は、乗馬が3日間だけであったので本当にあっという間で、馬に乗る爽快感を覚えると同時に、うまくいかない歯がゆさと不甲斐なさを感じて終わった。しかし、そんな風に「ただ楽しかった」で終わるのではなく、普段の生活では見過ごしてしまう自分の弱さと向き合えるのが、この旅をより自分の中で重要なものにさせたと思えるし、旅が終わってもまだ旅が続いているように思える理由なのだと思う。私はこの旅を通して、良い意味で自分自身に対して諦めがついき、また、だからこそ、自分の道を強く進んでいこうと思えるようになった。
最後になるが、こうして思いっきりぼーっと外の景色を見て、馬と対峙して、自分と対峙できたのも、旅のリーダーの張さん、乗馬中に旅を支えて下さった現地の皆さんを含めた同じ時間を共にした仲間たちのおかげであると思う。末筆ながら、心より感謝を申し上げたく思う。
 
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『人生を客観的に見ることができる馬旅,満天の星の下のキャラバン 』
「馬に乗る旅にでるお金があったら、私だったらどこかのリゾート地で五つ星のホテルに 泊まったりしたいけどね」
私が奔流の馬旅の話をすると必ずと言って良いほど耳に入ってくる言葉がこれだ。奔流の馬旅は「乗馬クラブ」の基準で考えると、あれほど乗せてもらえてありえないほど安い。しかし、旅行として、そして学生旅行としては、どこかのリゾート地の良いホテルに泊まってまったりする費用と変わらなくもない。若者なら、特に女子なら高級ホテルでマッサージ、エステ、美味しいものの食べ歩き、そんなことできるところに行きたい。それなの にどうして?どうして、聞いているだけでハードこの上ない馬旅にお金かける? 
私は一人、東京じゃ、普段いるようなところじゃ信じられないような��河流れる宇宙の 下、モンゴルゲルの中、Macで綴っていた。旅に出るときは絶対連れてくるこの Mac PC。旅先では自分が自分ではなくなるような経験をたくさんするし、それが普通になる。そんな時、普段の自分では決して発見できない観点がたくさん見えてくる。その観点こそが生活の中で困難にぶつかったときや迷いがあったとき、そして自分の視野を広げるときに必要なものだと思っている。だから書き留めるのだ。今日もその発見を書き留めようと、い ま、ひとりここに、この、中国語では蒙古包(meng gu bao)と呼ばれる、伝統的なモンゴ ルゲルの中に座っている。 
今日は女の子が一人落馬した。けっこう派手に落ちてしまったようだった。馬から落ちそうになって、でも馬にしがみついて、けっきょくすごい姿勢で何十メートル走ってから落ちたんだっけ。でも大丈夫だったみたいだけど。本流では常に遊牧民が馬に乗って私たちの後ろなり横なりについてくれて、何か異変があった時にはすぐに張さん(主催者)に知らせてくれる。「落馬」とはなんとも恐い響きだが、落馬したからって想像しているような恐ろしい事態にはならないのが奔流での馬旅の基本だ。張さんが必ず、落馬した原因を分析し、それを遊牧民、そしてみんなとシェアしてくれる。だから同じことが原因となる 落馬はそのツアーではほとんど発生しなくなるのだ。それにしても奔流は女子が多い。最初参加を申し込んだ時に男女比を聞いてちょっと驚いた。こんなワイルドな旅はきっと体育系男子の集まりなんだろう、と思っていたが、色白の可愛らしい女の子がたくさんいてびっくりした。こんな普通の子たちが乗れるの?といっても私も初心者から始めたので人 のこと言えないが…。 
バスで、内モンゴルで一番大きい都市の呼和浩特から二時間ほどかけてこの草原に移動し、たくさんいる馬の中から自分に合う馬を、張さん、そして遊牧民と見つけてから、この馬旅はスタートを切る。最初は並足(ゆっくり歩くスピード)からはじめて、二時間後には駆け足(中走りみたいなスピード)、進度によっては早足(一番早い走っているスピード)ができるようになっている。ほぼ全員できるようになっている。乗馬クラブに通ったことのある人はこれがどれほどすごいことなのかすぐにわかると思う。クラブではここまで到達するのに何ヶ月もかかると言ってしまって過言ではない。もちろんものごとには一 長一短があるのでどちらが良くてどちらが良くないということはない。ただ、草原で颯爽 と駆け抜けるのを体感したい人に、奔流以上に向くものはないだろう。 
奔流での楽しみはこれだけではない。中国の家庭料理にモンゴル族が食べている伝統料理が毎日の食事で味わえ、夜のイベント(キャンプファイヤーにトランプで大富豪などなど)で仲間と濃い交流ができる。そして、いま私の頭の上を流れているこの銀河を、その日の命がけの騎馬を終え、明日もその「戦場」に向かう、という体験したことのないような達成感に少し混ざった緊張感を抱いて、引き締まっていながらも大きく解放された心で見ることも、奔流ならではだ。そこには年齢も国籍も人種も性別も関係ない、馬旅の仲間 という関係が存在している。 
話を戻そう。奔流には多くの女子が参加する。比率でいうと、私の参加した2回のツアーでは2回とも8割が女子だった。なぜこんなにワイルドで汗臭くて過酷な旅に、女子、それも女子大生が好んで参加するのだろうか。私は、これは女性が持つ、一つのことだけでなく様々なこと同時に行いたいし行なえる、という性質が関係しているのではないかと思う。男性はどちらかというと一つのことにとことん集中しそれをやり遂げるのに向いている。一方、女性は、同時に行くつかのことをやりながら本業も行うことができるし、むしろそのようなやり方を好む女性も多い。馬旅だけでなく、旅というのは、一見、多く人 が自分の本業とする仕事とは相容れないものと捉えてしまうかもしれない。しかし、実は密接な関係にあると考える人も多くいる。例えば、仕事でややこしい人間関係にぶつかってしまったとする。「あの上司が嫌」「うちの先生は分からず屋」「後輩と仲良くやっていけていない、見下されている」こんなどこにでもあるような職場や学校でぶつかる壁。ものごとの渦中にいる人は、自分の主観的で先入観も入り混じり、その穴にはまってしまった狭窄な視点からしか、自分がぶつかっている問題を見ることができない。これでは解決の方法は見つからず、解決できないと、ますます窮地に追い込まれてますます問題は大きく なる、という悪循環に陥ってしまう。それではどうするか。 彼女らは旅に出るのだ。 
旅とは、他の人が見飽きてしまった景色、聞き飽きた音、嗅ぎ飽きたにおいを見に、聴きに、嗅ぎに行くことで、その人たちがし飽きたことをしに行くことである。例えば、オーロラを見に行く、氷河を登る、熱帯雨林をサバイバルする、砂漠で歩く、透き通る海で泳ぐ。これらは、どれもそこにいる人たちが毎日見飽き、そして、やり飽きてしまっていることだ。しかし、それは私たちにとって日常と大きくかけ離れている。だから新鮮で、 ここに旅をする意味がある。 
他の人が飽きたものを体験しに行くということと同様に、馬旅は、遊牧民が見飽きてしまった草原、聞き飽きてしまった馬の鳴き声、嗅ぎ飽きてしまった草原と馬のにおいを嗅ぎに行く旅であって、彼・彼女らがやり飽きてしまった騎馬をしに行くことである。これらの「飽きてしまった」ことはしかし、私たちにはとてつもなく新鮮なことなのだ。そこでは、いうまでもなく遊牧民の騎馬を体験でき、遊牧民のゲルを使った生活、そして料理 も味わうことができる。あの 360 度、まるで自分の周りを大きく、大〜きく、大〜〜きく円を描いたような地平線の向こう、それに向かって、人馬一体に呼吸を合わせて奔流しているとき、私は顔をあげて遠く地平線の彼方を見る。そうすると、自分の日常の風景が思い起こされるときがある。そのとき、なぜかその日常の中で出会ったことの中の悩みや問題は解決され、いや正確に言えば「馬に乗っている自分の器量によって、何が大事で何が大事ではないのかがわかる」のである。それがわかれば、問題の本質に迫って行くことができ、問題を解決できるようになる。これはすなわち、問題というのは、解いて行くと「何が大事で何が大事でないのか」という問題の本質に分離できる場合が多い。たとえば「論文指導の先生と合わない」という問題があるとしよう。「何が大事で何が大事でないのか」という問題の本質に分離できれば、この場合、「その先生と合う、ということは果たして大事なのか?」という問いにありつくことができる。単純に「論文指導の先生と合わない」といって漠然と頭を悩ませてきた学生にとっては、「では、その先生と合うようになることは大事か?」という問題の本質を見抜くことで、その問題をより解決しやすい形にできる。このように、「何が大事で何が大事でないのか」という問いを通して、問題の余分な部分を 削り落とし、問題の本質を露わにすることができるのが「旅」だと思っている。
旅は、私たちに、物事の本質を見極める力を身につけさせてくれる。特に、馬旅は、私たちの器量を大きくしてくれる。それによって人生で大事なことと大事でないことがわかり、問題が問題ではなくなる。そして、このような力を身につけ、体験をした私たちの人生は豊かになる。これを、女性は旅に求めているのではないだろうか。特に、馬旅は日常生活と大きく、大〜きくかけ離れている。ほとんどの人にとって、馬旅で見るものは普段決して見ることがないもの。馬旅で聞くこと、体験することは普段決して耳にしたり体験したりすることがなもの。馬旅で話すことは普段決して話さないこと。馬旅で得られる人 間関係は普段決して得ることができないもの。馬旅で食べるものは普段決して口にする機会がないもの。そして、馬旅で乗るものは普段決して乗ることがないものである。こんな体験をすれば、そりゃあ価値観変わって視点も変わってひょっとしたら性格まで変わってしまうのではないか。あのどこまでも続く、自分の右手から左手、それからぐるっと振り 返って、その左手からさらに右手を見渡してみた 360 度が一直線でつながる地平線に向かって奔流しているとき、我が身が馬と一体になって、すべてを忘れ、そしてすべてが解決 するのだ。 
「そう、私は、馬の背中に乗っている自分の器量が好きだから。そうしていると、人生で 出会うどんなことも良いみで小さく見えてきて、自分の人生を俯瞰できるんだよね。だか ら、どこかのリゾート地で五つ星のホテルに泊まるお金があっても、馬旅にでる…かな」
----------------------------------------------------------------------------------------------------------- 幼い頃から日本で育ち日本語の方が書く機会は多いのですが、旅行記はなぜかいつも中国 語で書いているので、日本語で書くのは実は初めてです。馬旅であったら声かけてね。
2018年夏、2019夏参加
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『二つの奔流旅を終えて』
今回の旅、参加して本当によかった。
ツウ好みのシルクロードコースよりも学生に人気のあるモンゴル乗馬コースの参加者はキャピキャピしていて世代ギャップを感じるのでは、という心配も杞憂だ った。男女比に偏りはあったが少ない男の子たちとはよく合い、みんな仲良くなれた。これからも長くつき合っていきたいと思う友達もできた。夏の旅で七グルー プの引率をした張さんも、あとで振り返って私たちの陣のメンバーは良かったと言ってくれ嬉しかった。
馬に乗って初心者なのにいきなり長距離を駆けたことも貴重な体験だった。乗っている時は体が痛く体力も集中力も使いしんどかったが、帰ってから思い出した り写真を見たりすると、また乗りたくなってしまう。
二〇一〇年と二〇一一年の二回、奔流中国の旅に参加して、自分の中で変わった部分が大きくあると思う。旅そのものの経験から直接的に得たものもあるが、閲 覧した張さんや過去参加者の文章や、また旅に参加したしたあとの自分が経験する日常の生活から得たものも多い。
まず、中国という国を知ったことだ。日本で報道されている限りでは中国にあまりいい印象を持つことができないが、訪れてみるとそれだけではなかった。良い 面もそうでない面もあるが、今ものすごい経済成長をしているだけの活気・パワーを実感できた。
今の中国だけではない。張さんに教わった、中国が辿ってきた歴史。モンゴル帝国がヨーロッパや大航海時代に影響を及ぼしたこと。文化が伝播したシルクロー ド。中国/ヨーロッパと分けて考えるのではなく、大きな視点で歴史を見ることが大切だということ。戦時中から文化大革命までの近代史。
日本が昔から関わってきた中国のことを知りたいと思ったと同時に、中国のことを知るならば、自分の国である日本のことももっと知らなければいけないと感じ た。自分が日本人だという自覚を持った。
  もう一つ大きなことは世の中やものごとに主体的な姿勢でいたいと思うようになったことだ。様々な面でその変化を感じる。
①やってもらうのを期待しすぎず、自分でやってみる
日本にいると、サービス業では色んなことを「やってくれる」。外国に行った時はもちろんだが、日本で活動している奔流中国自体もサービスがあっさりしてい て一年目は戸惑った。当時は「もう少し行き届けばいいのに」と思ったが、だんだん、やってもらえない場合は自分でやればいいのだという考えになってきた。奔 流中国の「あっさり&放任スタイル」はそれこそを目的としていた。
 ②トップに立つことの気持ちよさ、辛抱して頑張ることの大切さ
十代後半から体調のよくない時期が長かったこともあり、「何事もほどほど、平凡がいちばん」がいつのまにか自分の信条になっていた。日本全体にも「無理は しなくていい、頑張らなくていいんだよ」という風潮が広がっている。けれど乗馬を通して、体が痛くなったことやトップ集団で駆けた気持ちよさから、上を目指 して辛抱することや頑張ることの清々しさを思い出した。学生時代の部活で学んだ「少しぐらい辛くても簡単には諦めない」という単純なことを改めて実感できた のが新鮮だったし、嬉しかった。
  ③経済活動はやっぱり大切だ!
経済が苦手な私は、できるだけ関わらず済むように生きたいと思っていたし、経済が頭打ちになった日本は文化や心の豊かさを追求する方向に移行したほうがい いのでは、と考えていた。が、張さんの講座の中で「歴史は経済から」というフレーズがあった。シルクロード文明も交易から生まれたものだし、逆に戦争も経済 の覇権争い(領土争いも含めて)が原因の大���だ。昨年の引率者Rさんの「貯金も大切だが、運用しないと経済が回らない」という考えに頷かされたことに続き、
経済活動の重要性を思い直した。
  ④時代は変わってゆく。その変化に乗っかってみたい
日常のニュースや職場の勉強会などから時代は変わってゆくと確信させられる。変化が苦手で保守的な私は、これまでの社会のあり方の残り香にしがみつき、何 とかごましながら生きていけないかという受動的な態度でいた。変化すること=悪くなることだと思い込んでいたからだ。しかし、前述のような自分自身の変化と、 社会について真剣に考える人たちとの出会いもあり、日本は皆が悲観するほど悪くならないんじゃないかと思うようになってきた。そして、時代の変化に主体的に 乗っかってやろうという心持ちになってきた。
①②のことが③④に活かされると日本も良い方向に変わってゆける。社会のことを考えるようになったこと、受身だった のが「自分から」という姿勢になってきたことは自分でも嬉しい。今まで色々な理由のためにできなかったこと、言い訳を してやらなかったことにも挑戦してみたい。
二〇一〇年のシルクロードコース、二〇一一年の内モンゴル乗馬コースは全然違った。どちらがいいとは言えない。二つとも行ってよかったし、二つともに参加して、やっと何かが揃ったというか完成した感じがする。奔流のスピリット、張さんが日本の若者に伝えたいことが少しは理解できた気がする。
シルクロード(モンゴルや他地域も含む)に思いを馳せる時や、奔流の旅の空気感が好きだ。それに触れているときの自 分が好きだ。
好きな自分に出会うきっかけになったシルクロードはもはや私の核の一つになっている。これからもライフテーマとして 自分の中にあり続けるだろう。そして、それを逃げ場にするのではなく、日々の生活もしっかり歩んでいきたい。
 あとがき
年が明けて二〇一二年一月、成人式の連休に、東京へ行きました。旅の仲間と再会するためです。仲間の多くが東京在住であるため、せっかくの出会いをこれき りにしてしまってはもったいないと思って。
三泊四日で八人の仲間と張さんに再会することができ、東京でもう一度奔流中国の旅をしたようでした。トルコ式モスクを見学し、ブータン料理やブルガリア料 理を食べるという異国情緒たっぷりの体験や、張さんのオープンカーに乗せてもらって表参道を走るという滅多にない経験も。Nくん宅で鍋を囲みながらみんなと ワイワイ、久しぶりに味わう内モンゴル旅の空気感でした。毎日違うメンバーに会い、非日常な、まるで冒険のような旅でした。
そして、仲間との再会で内モンゴルのとき以上にぐぐっとお互いの結びつきが強くなった気がします。「仲良くなった」という一般的な言葉で表わすにはちょっと違う、少し特別な結びつきです。普段の生活で関わることはないけれど、その分一人ひとりの心の「特別な場所」に位置する繋がりだと少なくとも私は思ってい るし、ほかにもそう感じてくれている仲間はいると思います。
内モンゴルの旅そのものも楽しかったし良かったけれど、仲間との再会をこんなに嬉しく思えることが幸せです。
この旅行記、書く前に自分で予想していた通り、去年よりも長くなってしまいました。初めてよりも二回目のほうが深い部分に目がいってしまうし、張さんいわく乗馬コース自体が自分の内面と向き合うコースだそうです。でも自分のための記録だし、長くなろうが書き留めておきたかったことはすべて書きました。
張さんという人に出会えたことは大きかったです。一見物静かですが、実は熱い。本質を知る人という感じです。この人の歴史や文化、アート、社会に対するス タンスは結構好きです。時に厳しいと思うこともありますが、頷けることも多い。逆にこの人に認められると、ホンモノを掴めたようで嬉しくなります。だいぶ独 特で理解を超えるところもあるけれど(笑)、シルクロード文明に引き込まれて実際に旅ができたことも、素敵な旅の仲間に出会えたことも、それによって好きな 自分に出会えたことも、張さんが奔流中国をやっていたからこそなんですよね。そう思うとやはりキーパーソンですね。
二〇一〇年に神戸で開かれた説明会で、過去参加者の学生、陽香さんが「奔流がなかったら今の私はなかっただろうと思うぐらい」と言っていましたが、私もそ れに近いかもしれません。
二六歳から二八歳ぐらいまでは、自分の核をなす部分が弱まっていました。それまでは大学生活がすごく大切なもので自分の原点のような存在でしたが、それの 彩りもさすがに薄れてきます。過去にしがみつくことは褒められたことではありませんが、しがみつきたくてもそうすることに違和感を覚えるようになっていまし た。その空虚感をシルクロードの旅が見事に埋めてくれ、内モンゴルの旅はさらに「核」たる感じを強めてくれました。それは何も旅行の時だけではなく、仕事な ど普段の生活を送る上ですべてのベースになっています。奔流中国の回し者でも何でもありませんが、この旅行企画に出会えたことを本当に有り難く思い、心から 感謝しています。
さぁ、次は私、どんなステップに踏み出すんでしょう。ちょうど今の仕事がこの三月で終わり、また新たなステージです。そして、次の旅の目的地は
・・・
。旅も人生も、これからの自分が楽しみです。
長い旅行記におつき合いいただき、ありがとうございました。
二〇一二年 シルクロード/乗馬キャラバン/グレートキャラバン参加
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『発見の旅』
「女性は」と言われると一概には言えないと思うので難しいですが、「私は」旅をすることで「成長したい」、「新しい発見をしたい」と思っています。
私が奔流中国に参加した理由は単純に馬に乗って走り回りたかったからでした。実際に参加するまでは中国は日本人に対して嫌悪感を抱いているのではないか。危険なことは無いだろうか。と心配していましたが、実際に行ってみるとなんの心配もなく中国の観光地を楽しめました。初めてのアジア旅行でもあったので、日本と似ていて少し違う街の様子などを見るのが楽しく「百聞は一見に如かず」を身をもって経験しました。また寝台列車での就寝や街中の観光では自己責任で貴重品を管理します。平和ボケした日本での生活で油断していたので、危機管理能力のようなものが上がった気がしました。
奔流中国で学んだ「百聞は一見に如かず」と海外での危機管理能力のようなものは、参加
後の活動に大きく影響していきました。
奔流中国の旅では船に乗っている途中からスマホがネットに繋がらなくなります。ですから24時間仲間と交流して過ごすことになります。参加者は年齢も出身もバラバラで大学で学んでいることももちろん違います。ですから話のネタは尽きませんし、知らなかった知識などを参加者との会話で得たりもします。自分とは異なる価値観や経験がおもしろく、延々と話していられます。奔流中国の旅は「旅」と表現するのがふさわしく、旅行とは違います。船と寝台列車でゆっくり時間をかけて目的地へ向かいます。船旅も初めてだったので、揺れるお風呂や甲板からの朝日、中国人の乗船客や乗船していた旅人との交流など、全てが新鮮で刺激でした。参加者の半数以上が女子だったので一人参加でも安心できまたし、気の合う友達も直ぐにでき、中国に着くまでの旅路も楽しかったです。
日本とは違い、中国ではトイレットペーパーが流せなかったり、トイレが汚かったりと衝撃的で最初は嫌でしたが次第に慣れ、たくましくなった気がします。内モンゴル自治区での生活はトイレは開放的(青空の下、そのへんでしてました)で、お風呂には入れず、参加前は「まじか…」と衝撃的でしたが、実際に現地で生活すると気になりませんでした。参加後は「ひまわり畑トイレ」と「青空トイレ」はネタになっていますし、貴重な経験となりました。
念願の乗馬も最初は怖くてなかなか上手くのれませんでしたが、次第に慣れ楽しめるようになりました。もっと長い間乗っていたかったです。2日目でいきなり駆け足をして、落馬しそうになりましたが、人間いざと言う時は身体能力が上がるらしく、1度も落馬せず全身筋肉痛で苦しむだけでした。(しゃがむことも出来ないくらいの筋肉痛です)。衣食住と苦楽を共にしたこともあり、帰国前は参加者同士がとても仲良くなり、まるで小学校のクラスメイトのようになりました。
ついて行くだけの安全第一の団体ツアーとは全く異なり、奔流中国は自己責任ですし、油断をすると怪我をします。(その事は主催者の張さんから耳にタコができるくらい言われます)ですが日本では経験できないことばかりで、とっても楽しかったです。また参加したいと思っています。奔流中国の旅に参加してからは海外ボランティアや海外インターンシップ、ボランティア団体の立ち上げ、短期留学などに積極的に単身で参加するようになりました。奔流中国の旅に参加して、「百聞は一見に如かず」、「アジアの旅も楽しい」、「何事もやってみる 」、「一人で参加しても楽しい」といったことを学んだからです。大学4年間で「1番楽しかったことは?」と聞かれたら迷いますが、やはり奔流中国の旅が1番面白く。楽しかった気がします。私の固定概念や先入観を壊してたくさんの刺激を与えた、とても充実した旅でした。
2018年参加
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ただいま。乗馬の旅から帰ってきました。
船で2泊、列車で2泊してやっとたどり着いた新疆ウイグル自治区
どこまでも続く砂の大地。
   中国、
きもちいい程汚かった
びっくりする程きれいやった
中国人こわくなかった。
   中国は
わたしが思ってたんの100倍よりもっと広くて
色んなものが混在している国でした。
そんで多分、
わたしが思ってるのの更に100倍でかい。
地球はもっともっと広い。
   馬と走りました
まぎれもない生き物でした。
人間もほんとは自然の一部。よく忘れること。
  ともだちができました
一生あほできる仲間ができました
  言い訳はいつだっていらんのです。
いつも自分にまっすぐいよう
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 なんでも、生まれては消えるものなのに
私は生むことばかり考えている気がしました。
ちゃんと、消すこと。
本当はすごく大切かもしれない。
   日本に向う船の甲板でねころぶと
星空が大きくゆっくりと揺れていた。
からだも、波と一緒に。
 いつまでもこうしてられると思っていたら
今まで見たことないほど
大きくて長い流れ星を見ました。
   部屋に戻ってめぐに話したら、
彼女もちょうど反対側の甲板で1人で見ていたと。
嬉しくなって、大笑いした。
   共有して、伝えて、感じて、このくりかえし。
何よりの幸せ。
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 馬との関係を築いていく中で、
自分がこれまで築いてきた人間関係を何度も省みました。
 はじめて、自分が誰かを裏切るってどういうことか、感じた瞬間がありました。
馬がかけてくれた期待を、「落馬」というかたちで裏切ったのです。
二度と私を乗せて走ってくれなくなった馬に、ほんとうに申し訳なく思いました。
   人間同士ならごまかしが利くこと、言い訳ができることも、馬には通用しない。
声だけで走り出すこともあれば、
どれだけ鞭を振り下ろしても何の反応もないこともあります。
楽しそうに走る時と、いやいや走る時の違いが気持ちいいくらいによくわかります。
   朝から夕暮れまで移動し続けた5日半、
ひたすら馬との会話、闘い、感謝、悔しさ、ごめんね、安心、喜び、つっこみ、楽しい・・・
自分の内面をどんどんえぐられるようでした。
   私の中で、馬は今までなん���もない存在だったんです。
でも、今ちゃんと馬を馬として愛しく思ったり気になったりします。
  心が通じているような気がする瞬間があって、
一緒に走れた時はほんとうに楽しかったし、ドキドキしました。
   馬と走りながら、
日本に帰ったら、わがままに仕事をしようと思いました。
もっと貪欲に、お客さんに喜んでもらうこと、自分がいいと思うこと、
おもしろいこと、周りの人のためにできることを追求しようと。
  あっという間に過ぎていった、でも大きな9日間でした。
 ありがとう、張さん。
 2007年参加
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改めまして張さんお疲れ様です!
この度は本当に素敵な旅をありがとうございました!!!
人生初のモンゴルに人生初の乗馬でしたが日数が経つにつれて思い入れが深くなりました。
グループLINEでも送った通りですが、最後の最後に本当の人馬一体を感じれ、馬と駆けるのが本当に気持ちよく感じました!
先頭に並びモンクやジャロガ達とお喋りしたり、景色を楽しみながら馬と草原を渡れて、心の底から楽しいと思えた瞬間でした。
馬との相性が大切だということは日数を重ねる間に気づいてはいましたが、ここまで心を通わせることが出来るのか、ととても感動しました!!!
本当に他では絶対にできないこと、感じられないことを張さんを始め、たくさんの方の支えがあった��らこそ得られたと思っています。
 本当にありがとうございました!!!
 きっとまた私は草原と馬を求めてモンゴルへ、奔流にお世話になるかと思いますが、その際はよろしくお願いします。
 文面だけでは全ての感動や気持ちも伝わらないと思うのでまた改めてお会い出来たらと思います。
本当にお世話になりました!
素敵な思い出をありがとうございました。
 2019年夏参加
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 『そうだ モンゴル、行こう』
 ●<あこがれ>
 私はXXゼミの3回生の女子学生です。ひとり旅をしてみたい。馬に乗って駆けてみたい。あこがれを実現しようとする強い気持ちが、私の背中をおした。偶然、廊下で見かけた1枚のポスターに惹かれ参加したモンゴル乗馬キャラバンだったが、私が見た世界は、想像をはるかに超えた。
 ●<夜行列車を降りると、そこは>
 360°見渡す限りどこまでも広がる草原と、白い雲が浮かぶ全天の青空は、今まで立ったことがあるどこよりも広く、“壮大”という言葉では言い表せない景色だった。朝、ニワトリの鳴き声で目が覚め、地平線の向こうに陽が昇り、沈んでいくのを静かに眺め、ほんの少し前まで生きていた羊を食べる。まさに、「ありがたく、いただきます」である。出会ってまだ1週間の旅の仲間と隣り合って青空トイレを体験、背後からゆっくり迫りくる大きな黒い牛に焦る。夜になると、自分が飲み込まれてしまいそうな星々の空を見上げ、電球ひとつのゲルで眠る。ペットボトルの水で顔を洗い、これまでの生活とかけ離れた世界が広がる。
 ●<モンゴル3日間100キロを馬で移動>
 ファミリー牧場の乗馬体験で、お散歩程度のポニーにしか乗ったことがなかった私が、並足、速足、駆け足と、コツを掴み、2日目には、トップスピードを体感。馬とともに大草原を全速力で駆けたあの瞬間は、舞い上がる砂の事も、ずり剥けたおしりの痛みも忘れ、間違いなく、人生イチ気持ちよかった。叫ばずにはいられないほどの興奮と、馬の背から見た絶景、あの瞬間受けた疾風は、衝撃的で、目をつぶれば蘇り、私の記憶に深く刻まれた。
 ●<快い余韻>
 旅を終え、私は、私の暮らす場所に帰る。そこには「おかえり」と言ってくれる人がいて、部屋のベッドは寝心地がよく、トイレにもやわらかい紙があり、水も自由に使える。いつもの電車に乗ればぴったり時間通り目的地にたどり着ける。これが私の日常。なにか変わるんじゃないかと思って飛び出したけれど、今まで通りの毎日が待っていて、特に変わったことはなさそうで、変わっていないことにもほっとする。だんだん、旅のことが夢かと思えてきて、時間が経つほど私の中の「あの世界」が薄れていくようで寂しくなる。私の日常は、モンゴルの彼らにとったら非日常。少し乱暴だが、逞しくて心暖かいモンゴルで出会った人たちは、すごく自由で恰好良く見えた。何かに束縛されているようで、モンゴルでの非日常が懐かしい。
 ●<玉手箱を開けて日常モードへ、モード変換>
 しかし、そういえば私も自由だった!と、はっとした。自分が入れた予定に疲れると文句を言い、忙しいからとすぐに言い訳をする。帰国の船の中で、11日間使えなかったスマートフォンの電波が入り、溜まったSNSのメッセージやコメントを夢中で確認する。そして溜まっていた何百通にもなる通知を見て、とてつもない煩わしさに襲われる。改めてなにもなかったモンゴルに心を戻してみた。スマートフォンを持つことを選んだのも自分なのだと気付く。20歳の今、これから様々な場面に直面し、数多くのことを選択しなければならない。自分のことは自由に選べる、選ぶからには責任が伴うことをこの旅で学んだのだ。もっと自由でおおらかに生きよう。きっと選択ばかりの未来のことが、少しだけ愉しみに思えてきた。
 ●<この体験を、ゼミのテーマ『旅行心理学、心理的時間、人格発達心理学』等の観点から、分析してみたい>
 モンゴル大草原、壮大なシルクロードを馬で駆け抜けながら、国際交流や海外ボランティアを体験する奔流中国キャラバンの旅。その他、天空列車でゆくチベット秘境の旅や雲南少数民族の旅もあります。
 2014年参加
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 奔流中国  旅のメッセージ
心の扉を開け 
旅の流れに全てを訪ねる
やってくる風たちは
時に優しく 時に厳しい
あらゆる緊張を胸にし
全ての風を受け入れる時
異国の街で星空の下で馬の背中で
私たちは何を発見するのか
 たくさんの景色の中を
私の体は通り抜ける
たくさんの風景たちが
私の心を通り抜ける
そこで私がつかんだものは
私の心がとらえだものは
それは胸の深くに まれ
希望の鍵 明日への  力となる
  しやが世界へ たれ輝くだろう
勇気をもち信頼し愛し ねよ
そして受け取れ 命の輝きを
  の喜びを 美しいメッセージを
大地の強 なエネルギーを
 2017年参加
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『二つの時間』
 いつのまに、意識しなくても肩の力が抜けるようになっていたのだろう。誰かの視線に応えようと振る舞うのではなく、自分の身体のすみずみまでを、自分の意思を伝えるためだけに遣いこなす感覚。
 馬がどうしたいのかを察して応じることが、優しさだと思っていたこともある。しかし、今回初めて、自分がこうしたいのだとはっきり意思を示すことで、馬がそれに応じてくれるという感覚を得られたように思う。
言葉で通じ合うことができない以上、彼らが何を感じているかを察するなどというのは、ただの一人芝居だったのかもしれない。そうではなく、自分の働きかけに対してどんな反応をみせてくれるのか、ということが、どれほどたしかで愉しいことか。自分の矜持を同じように馬が持つようになると張さんが言ったけれど、私の乗った馬たちも、なにかを感じ取ってくれただろうか。
 この旅で感じたことがもうひとつある。零れ落ちてきそうな星を見るにつけ、地響きのようなモンゴル相撲の足音を聴くにつけ、自分をとりまく様々な事物が、誰かを呼び起こさせることが多くなったのだ。大人になるにつれて、目に映るものの名前を新しく知る、ということはめっきり減ってしまった。その代わり、あの子がすきだと言っていた食べもの、あのとき一緒にやったこと、あの人に見せたいもの…さまざまなものからふと記憶がたちのぼってきて、わたしだけに見せる表情になる瞬間。こういう瞬間を積み重ねていく、そんなひそやかな愉しみに気がついたからにはもう、追い求めずにはいられないだろう。
 香港の雑踏に溺れそうになりながら、いまでもわたしの中にはモンゴルの星空が溢れている。
 2017年参加
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『試練』
モンゴルの旅から帰ってきて、4日経ちました。あの旅はとても充実していて、日本に帰ってくるとついついぼ~っとしてしまい、頭の中ではあの草原が広がっています。2週間、共にすごした友達のことも忘れられません。あんなにずっと一緒にいて、楽しいこと辛いことを経験してきた人達が急にいなくなってしまい、寂しく思います。再会を誓った日がもう待ち遠しいのです。
中国を移動しての旅だったので、北京や上海を観光できたのもこの旅の良いところでした。雑技団や万里の長城、故宮など有名な観光地を回るなんて、ぜいたくなオプションみたいでした。
私達がモンゴルで過ごした日々はなかなか天候に恵まれず、一時は必死で寒さと戦わなければならない日もありました。そんな日に馬を走らせ、「走って良かったでしょう?」と声をかける張さんに、(なんてことを言うんだこの人は!!)と心の中で思いました。
しかし今になって、あの時必死になって生き抜こうとしたことは私自身をたくましくさせる一つの要因であったと思います。この旅を通して常に私が考えていたことは、自分が日本でどれだけ不必要なことをしてきたか、ということです。生きていくために必要なことは何か。モンゴルで学ぶことができました。
神戸港での別れの際、私のために涙を流してくれた友人がいました。彼女は旅の間、熱を出し、体調不良であるにもかかわらず、いつも私達を笑わせてくれました。そんな魅力的な人に出会えたことも私の財産です。
最後に、私は張さんにちゃんとしたお礼も言わずに、バスに乗ってしまったことを後悔しています。私達に試練を与えてくれたことに感謝しています。そして、それを一緒に乗り越えられたことが私にはとても嬉しく思います。どうも、ありがとうございました。謝謝
2012年参加
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『モンゴル3陣』
8月10日、神戸港の待合室、一歩入ってドキッとした。予想していたとは言え、参加者はほとんど20歳代半ば以下、中には10代かと思われる人もいるし、女性の多いのも特徴的。(社会人女性が1名おられたのでホッとする)
 私はといえば、この1月に仕事を定年退職し、第2の人生を全く違う生き方をしたくて、大学院に入り半年、奔流中国の企画に出会い、モンゴル乗馬キャラバン第3陣に参加した、おじさんの最たるものである。
 このメンバーで半月、行を共にするのだ、浮いたり、足を引っ張ることにならないか?チラッと不安がよぎる。 
 だがそんな懸念は、船中での最初の宴会で、すぐに皆とうちとけ、吹き飛んだ。
 ちなみに、船中や草原でメンバーの誕生会を企画するなど、男子学生の奮闘は特筆に値する。
 さて、乗馬や、草原でのゲル生活は思っている程楽ではない。乗馬は最初の内、脚や尻が痛くなり、ゲル生活はもとより文明の恩恵が受けられない。
 しかし、その苦労を乗り越え、鼓舞するのは、ゆるやかな起伏を伴い、果てしなく続く大草原、動くものはほぼ50騎余の我々の騎馬隊のみ。
 草原に影を落とし、時に歩き、時に疾走する、この快感は筆舌に尽くしがたい。
 私は、いつのまにか頭が空っぽになり、天と地、草原を吹きぬける風と全身で対話していたように思う。
 帰国後院の若い仲間に言われた、「中嶋さんどこか変わったね!」と、自分ほど開放的な人間はいないと思っていたが、それでもどこかに垣根があったらしく、それが取れ��ということらしい、、。
 奔流中国の企画は、別の世界があることを身をもって気付かせ、そして異文化に入るには、当然チャレンジ精神が要求され、それを持つことの大切さを教えてくれたと思う。
 そして副産物と言うにはあまりにも大きな、新たな人の輪を作ったようだ。
 それが証拠に、第三陣のメンバー内でいまだにメールが飛び交い、薄らぐどころかますます絆を強めつつある。
**23日、無事帰着しました。 奔流中国、すごい企画だと思います。 モンゴル乗馬キャラバンは過酷ではありましたが、それが又最高でした。 広大な草原と、そこを騎乗して疾走した体験は一生忘れられないでしょう! 若い人達ともすっかり仲良くなり、大きなエネルギーを貰いました。 ともあれお世話になりました。 張さんにもよろしくお伝えください。
 2010年参加
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 ただ、生きる ただ、そこに在る ただそれだけ、それがどんなにすばらしいことだろう… 私が旅で得たものは、今の私を支える全て。 体が震えるほどの感動と衝撃。 悠久の大地や風の吹きすさぶ荒野、降るような星空、澄んだ空気、地平線まで広がる草原を馬と共に駆け行く少年、やさしく暮らす人々… それまでの価値観や人生観は一瞬にして崩れ去り、「本当にたいせつなもの」に気付くことができた、そんな旅だった。 かけがえのない仲間と過ごした3週間を、私は決して忘れない。 今年もまた、誰かがあの地を踏みに行くんだな…なんて思うと、目に焼き付けてきた景色がファーっと広がってゆきます。 あまりに恋しくて、知らないその誰かさんをうらやましくさえ感じてしまいます。 でも、何か役に立てるのならよろこんで。 参加を考えている方、きっといろんな不安がありますよね。 女の子なら、特に。 私は「なるようになるさ」と旅立ったのですが、そうでない人でも何も心配することは実際無いと言ってしまえるほどに、旅の安全は保証されています。移動はもちろん、食事(ちなみに私は一切日本食を持って行かず、欲することもありませんでした)や宿泊施設(豪華です)etc…かえって、あまりの待遇の良さに「え?いいの?」なんて疑ってしまうくらい。体調は自己管理を。必要なのは少しの荷物と勇気、探究心、想像力、行動力…カタチにならないものばかりだなぁ。つまりはあなた次第、かな。 その体にめいっぱい受け止めてきてください。 では、すてきな旅を (^-^)
 2015年参加
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とても感動しました。 私は今、就職活動中で内定もなく本当に奔流の旅に行けるのかが 本当に不安です。(もちろん決まらなくてもいくつもりです) しかも9月は求人が増える時期で、行くなら8月の方がいいと 就職科の先生に言われました。 タクマラカンもとても魅力的で、そっちにしようかなとも思いずっと悩んでいました。 でも、永遠に広がる大地と地平線、大きな空、きれいな星が見たくて見たくてたまりません。 たぶんどっちに行っても満足して帰ってくると思います。 でもどっちが自分に感動を与えるか、自分がどっちを望んでいるのか この書き込みを見て実感することが出来ました。 やっぱり蒼々シルクロードに参加しようと思います。 就職できるか出来ないか・・・9月に行くということはとても危険な 賭けだと思いますが、行ったほうがもっと魅力的な自分になれる気がします。 もちろん将来も大事ですが、蒼々シルクロードに参加した後の自分が楽しみです。 人生なんとかなるさって思えるようになるかな? とにかくとっても楽しみです☆
  やっぱ鳴砂山、カラクリ湖、カシュガルのバザールかなぁ~☆ でもやっぱり一番は、夜行列車の車窓から深夜に見上げた満天の星空! 日本じゃあ絶対に見られない透き通った月と星・・!3分ぐらい言葉が 出なかったです!(笑)( ̄∇ ̄) このコースの特徴はとにかく移動が多いことです!でも、だからこそ いっぱい色んな景色や現地の民族のオッちゃん、オバちゃん、ちびっ子達に出会えます!!(>_
 最近、よくモンゴルの写真を眺めることがあります。 2年前のことなのに、想い出は色あせる気配すらなく、その写真は私をまた同じ大地へと誘います。 この思いを何か形にしたかったので、書き込みたいと思います。  2年前の夏、私はモンゴル乗馬キャラバンに参加しました。それ以前にも2回、外モンゴルに行ったことはあったのですが、船を使ってゆっくりゆっくり同世代の仲間と内モンゴルを旅したことは、格別の体験でした。みんなとは神戸港で初対面だったにも関わらず、乗船後すぐ、ぎゃーぎゃーと騒ぎながら「仲間」になってしまいました。 みんなノリがよく、「気のいいやつら」だったので、旅は始終笑顔に満ち満ちていて、思い出はすべて天然色のまま、私の脳裏に焼きついているのです。    奔流の魅力、それは自分流にカスタマイズできること。  時間はたくさんあります。写真を撮るもよし、知り合ったばかりの友達と人生を語るもよし、草原でひたすら昼寝するもよし、現地スタッフとふざけあうもよし。  日本のめまぐるしい生活をしていたことが夢だったと感じるほど、時間は優しく、のんびりと流れていきます。  しかし、ひとつだけ勝てないものがあります。大自然です。 これに捕まってしまったら、素直に諦めましょう。人間が自然には勝てないと痛感することは、ともすると便利な日本の社会では、忘れられがちなことです。  馬に乗ってみたいけど、経験がない。そんな心配はいりません。大半の仲間は初心者だし、日本で馬に乗ろうと思ったら、莫大な時間と費用を費やします。それに、乗馬の本当のプロは、穏やかな心を持った小さな馬たち。難しいことを考えず、背に揺られていれば、何も問題ありません。乗っているうちに、馬と気持ちが一体化する瞬間が分かってくるでしょう。馬から降りた後、「ありがとう」と自然に首に抱きついてしまいます。  今でもよく、鼻腔の奥に甦ります。 馬の首から漂う香ばしい匂い。 蹄が踏みしめた東洋ハーブの匂い。 容赦なくレインスーツを叩く雨の匂い。 すべて、モンゴルの大地の匂いです。 それらを思い出す時私は、なんとも言えない切ない気持ちになるのです。 最近、こんなことを考えました。 私は人生の一部を、もしかしたら少し、あの大地に置いてきてしまったのかもしれません。
2013年参加
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 人間っていいと思う。きたない部分を間のあたりにするときもあるけど、それを、きたないよと素直にいえる人間になりたいと思ってた。
でも、今それをゆるしている。ゆるせる。みんなかわいい。
素直に生きる。わからんけど、1日24時間、ただ呼吸しているだけではいやだ。生きたしかばねとなってはつまらん。
張宇さんのみりょくは、しっとりとした強さ、よくわからんけど。
厳かな強さあると思う。
なにが本当なのか。
この出会い必然なのか偶然なのか。わたしは必然だと信じたい
 多摩美にきたときは絶対いってや
 2015年参加
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モンゴル旅行記 2014.8.1 ~ 8.11
 窓を見れば、景色が都会から大草原へと変わっていく。
自然と心が踊る。
バスを降りたら、草のにおいがした。
遊牧民の人たちが歌を歌いながらお酒を差し出して私たちを歓迎する。
中国の辺境の地、内モンゴル。
そこは思ったよりも優しい場所だった。
風が優しい。光が暖かい。
そして、初めて見た馬の目も優しかった。
 私が参加した団体は観光としてではなく、現地のひとと同じ目線にたってその国を感じることを目的に旅を提供している。
だから、内容はそんなに甘っちょろいもんじゃない。
私は、日本人としての常識は全部捨てた。
草原にいる間は馬で移動し、全部ゲルで寝泊まりして、お風呂にも入らないし、移動中のトイレは青空トイレ。
目の前で殺された羊を食べたり、なんかもうなにもかも非日常で毎日が新鮮だったけど、
やっぱり一番忘れられないのは馬に乗ったこと。
今でも鮮明に覚えているのは初めて馬の背中に乗ったときの感覚。
目線が急に高くなって、自然と背中がぴんと伸びた。
ごぉーっと風が吹いて、なんだか自分が強くなったように思える。
馬の体温が直接私の足に伝わって、あったかい。
絶対最後までこの馬と走り抜くんだ。
私は心の中でそう言って、足を引き締めた。
  チョボは私がつけた馬の名前。背中にチョボっとはげてる所があったから。
モンゴルの馬は名前が無い。みんな、背中につけられた烙印と役割で他の馬との区別をつけられてる。だからチョボって名前は心の中でずっと言っていた名前。
 チョボがゆっくり歩きだす。
旅が始まる。
 周りを見渡せば、果てしない草原。青い空。空が近い。土と草のにおい。パカパカ歩く音。手綱を握りしめる感覚。東のアジアと西のヨーロッパをつなぐ広い広い大地。何千年もの歴史。
自分が生まれるずーっと前からこうやって人々が馬にのって東西を渡り歩いてきたんだと思うと、なんだか自分がちっぽけに思えてきた。
私が生きているのは世界のほんのほんの一部。普段、コンクリートの建物に囲まれて生きているから、モンゴルの大草原を見るまで、何も無い大地がこんなに果てしないものだと知らな                    
かった。
 初めての駆け足。
私の体重が軽かったから、チョボにとっては走りやすかったみたい。
猛スピードで丘を駆け上がる。
私の体は一瞬で宙に浮いて、バランスを崩す。
あまりにも早いもんだから、落ちたら後ろの馬に踏まれて死ぬと思った。
乗馬がどれだけ危険か、事前に十分承知の上だったはずなのに。
急に怖くなってパニック状態。
自分が唯一頼りにできるのは手綱と鐙だけ。
頭が真っ白のまま、必死で手綱を引っ張って足を踏ん張った。
このときはまだ自分のことで精一杯。
  ずっと同じ馬にのってるとその馬がどんな性格なのかよくわかる。
チョボは子供っぽい。並足のときはだるそうに後ろのほうで歩く。
でも早足になるとだんだん調子にのってきてフンフンいいながら走り出す。
走ってるとき前に障害物があると気に食わないみたいで、よく群れから離れて暴走する。
それで遊牧民にムチでたたかれると急にすねる。
 駆け足の合図がかかるともう私の手には負えない。 
一気に丘の頂上へ。
チョボは全速力で走るのが大好きみたい。
でもチョボは甘えん坊。
止まってるとき、必ず他の馬の背中に頭をのせる。寂しがりやさん。
 結局何が言いたいのかって、チョボは本当に可愛かったってこと。
馬にのると馬のことが大好きになる。
たった3日だけでこうなったんだから、一生馬と走り続ける遊牧民の馬への愛情は私の比べ物にならないだろう。
長い長いモンゴルの歴史の中で、馬がどれほど大切なものなのか。
ちょっとは理解できた気がする。
  でも、お調子者のチョボだからこそ苦労することもたくさんあった。
走ってるとき、まったく私の言うことを聞いてくれない。
手綱を思いっきり引っ張って大声で叫んでもお尻叩いても全然効果なし。
周りのひとたちはだんだん自分の馬をうまくコントロールしていくのに、悔しかった。
つよく手綱を引っ張れば引っ張るほどチョボは嫌がる。
私もいらいらしてた。2日目までそんな調子。
  3日目の朝、早起きして、馬の世話のお手伝いをした。
馬はまだ鞍も手綱もつけられていない状態で、草原を走り回る。とっても楽しそう。
でもすぐに重いものをつけられる。私が鞍を見せると馬はみんな嫌がって、逃げていた。
そんな様子をみて、自由のない馬の運命をかわいそうに思った。
草を食べようとしてもすぐ手綱でひっぱりあげられる。
いっぱい走らされてお腹減ってるかもしれないのに。
ずっとあっつい太陽に照らされながら、重いものを背負って走らされる。
走ってるだけで相当暑いかもしれないのに。 
人間が草原で生き抜くためには馬が必要だから、仕方の無いことは充分分かってたことだけど、
でも自分だったらこんな一生嫌だなと思った。
乗馬のとき怖くて自分のことしか考えてなかったけど、このとき初めて馬の気持ちを考えた。
 だから、せめて自由にチョボに走らせてあげようと思った。
駆け足のとき怖くて手綱をきつきつに引っ張ってたけど、思い切って緩くした。
私のお尻は高く浮く。
チョボは駆け出す。
怖くて怖くて仕方なかったけど、ほんの一瞬、馬と自分が一体となって、風になったときがあった。
自分の体とチョボが一緒にパッカパッカパッカ。風を切る。
チョボ、走りやすかったかな?
私はあの一瞬、とても気持ちよかったです。
 結局、馬も人間と同じだ。馬にも意思はある。右に行きたい、左に行きたい、気持ちよく走りたい。
だからチョボの意見も尊重することにした。
そしたら、チョボも私の言うことを少しずつきいてくれるようになった。
チョボの考えも聞いて、でもけじめをつけるところはけじめをつけて。
  これって人生もそうじゃないかなぁ。
なにごとも中途半端な気持ちでやったらうまくいかない。
道をはずしそうになったときは手綱を限界まで引っ張っていかなければならない。自分の意思
も必要だ。
でもたまには手綱を緩めて、相手の思っていることもよく考えて、
お互いの気持ちが通じ合ったときに初めて心を開ける気がする。
 そんなこと、当たり前すぎて日常の中では忘れてる。
でもチョボの上に乗って、あらためて気づいたよ。
 きっと今日も元気よく生きているだろう。
チョボ、私と一緒に走ってくれてありがとう。
 もう理念とか、僻みとかどうでもいい。
私はこの自然の中で、地球の中で意思を持って生きている。それだけで十分幸せ。
 青い空と広い大地と度数の高い蒙古酒とたばこ。
私、この場所大好きだ。
張さん!素敵な旅をありがとう。
~~~~~~~~~~ 
 私が、この旅に参加したのは、すごく偶然なことだった。私は、春休みに、語学研修に行こうと思い、お金をためていたのだが、その企画が、定員に満たなくて中止になった。どうしよう、と思っている私の耳にとびこんできたのが、このシルクロードの旅である。金額的にもちょうどよいし、めったに行けないような所には行けるし、おもしろそうだから行ってみようかな、と思って申し込んだ。そんな簡単なきっかけだったけれど、この旅をふり返ってみると、予想以上に、深く心に残る経験ができた。本当に、行けてよかったと思う。この旅に参加するきっかけになったことすべてに、感謝の気持ちでいっぱいである。
 旅の途中で、張さんから投げかけられた2つの問い。シルクロードとは何か、自分にとってこの旅はなんだったか。3週間の旅が終わろうとしている今、うまくまとめることができないのだが、自分なりに出た答えを書いてみようと思う。
 まず、自分にとってこの旅は何だったか。3週間、毎日、沢山の人たち、沢山の風景、沢山のできごと…今まで見たことのない、沢山のものに触れて、考えさせられること、感動することが沢山あった。それぞれの場所で、それぞれの生活をしている人たちを見てきた。私は、日本に帰ったらまた、学校に行ったり、バイトに行ったりする毎日がはじまる。それでも、この人たちはここで毎日このような生活をしていくのだと思うと、不思議な気持ちになった。同じ時間をすごしているのに、広い世界の中では、色々な生活をしている人がいるのだと思うと、それが不思議だった。そして、ならば私の生活って何なのだろう、と考えはじめた。来年、私は4年生になる。卒業後の生き方を、決めなくてはいけない時である。今までは、ふつうに就職して働く毎日って何だかつまらないかなぁと思っていた。でも、この旅で、色々な人を見てきて、平凡なことって、つまらないことじゃないと思うようになった。平凡に暮らしていても、それがこんな風に、人に感動を与えたり、深く考えるきっかけをつくることができるのだから。また、毎日が、新鮮で、楽しくて仕方なかったけれど、そんな中で、いつも頭にうかぶのは、自分の家族のことだった。ホームシックという気持ちではなくて、でも、考えていた。私が、こんな風に旅している間、私の家族は毎日仕事に行ったり、学校に行ったりしているんだなぁと思うと、とても不思議だった。そして、私が、こんな風に旅をしたりできるのは、帰れる場所があるからなんだ、と思った。安心して、帰れる場所があるから、心から楽しめるのではないかなぁ、と思った。今は、まだ帰りたくない、って思うけれど、いつかは帰りたい。帰れる場所があるって、幸せだ。そして、いつかは、私が、誰かの「帰る場所」になれたらいいなぁ、と思うようになった。それも、すごく幸せなことなのではないかなぁと思う。とりあえず、まずは、就職に向けてがんばろうと思う。
 広い、広いシルクロードを旅してきて、自分が出した答えは、意外と小さなものだったなぁと思う。でも、小さいけれど、私はこの答えに満足している。広い世界を見れたからこそ出せた答えだったと思う。すごく、うれしい。
 シルクロードとは何か。まだ、一言でうまく言い表す言葉が思いつかない。でも、私にとって、かけがえのない大切な思い出を作れた場所である。シルクロードとは何なのか、いつか、答えが出てくるといいなぁ、と思う。
 2013年シルクロード参加
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 張さんへ、
  この旅、行く前はほんとうに、どんな旅になるのか想像すらつきませんでした。船に乗り、中国へ行き、人と出会い、別れ。自然を感じ、自分の小ささを感じました。この旅は、僕の人生において、とても大きな意味をもつ「発見」の連続でした。誰が何を言おうと、人生最高の旅(まだ21年しか生きていませんが)であると実感しています。残りの学生生活や、これからの人生で、この旅に負けないくらいの、旅をしたいと考えています。
 旅の途中で、張さんが話をしてくれた、中国のこと、シルクロードのこと、人生のこと、(もっともっと聞いておけば)という気持ちでいっぱいです。でもこれからが始まりだと考え、この先ずっと、良い関係を保っていただきたいと願っています。
張さんには本当に感謝しています。またお会いするのを、心から楽しみにしています。それまで、お体に気をつけて!
 ありがとうございました。
  旅の感想、そう考えただけで、いろんな事、いろんなもの、いろんな人の顔が走馬灯のように浮かぶ。うまく書けるか自信はないが、とりあえず感じたものを書き留める。
 「人間として生きる。」 今まで、少しは自分の力で生き、何とか一人でやっていけるかもと考えた自分を、この旅で恥じた。僕たちは、決して一人では生きていけないし、生きていこうと考えるのも、今となっては馬鹿らしい。列車で、言葉の壁にぶつかりながらも、その壁を越えて手をさしのべてくれる人のやさしさに触れた。街中で、カメラを向けたり、目が合うだけで笑顔を返してくれる人々の陽気さに触れた。そして手をさしだしてもらい、握手したことにより、人の力強さ、温かさに触れた。一人では決して味わえず、知ることすらできないものに、「人間として生きる。」ことで出会うことができた。
 そして、どの国の子供達も、みな一様に元気で、何事にかけても一生懸命ぶつかっていこうとする。こっちも言葉というものが通用しないため、体でそれを受け止め、体でそれに応えた。まだ物理的な力は小さいかもしれないが、彼らには生命力が満ち溢れている。だから彼らの目に力があった。
 そして、初めて砂漠に立った。目で見、耳で聴き、体で感じた。雄大で、何もかもを飲み込んでしまうような深みがそこにはあった。悠久の大地。日本の都会では決して感じることのできない、自然の強さ、冷酷さ、空の、天のでかさ。それらを肌で感じられる場所に僕はいた。
 シルクロードを渡った。遠い昔の人々の「東西交易の道」という名があるが、それよりふさわしい名「生命の道」。人々は生きるために道を渡った。何があるのか、どこまで続くのか、何もわからないまま、ただただ生きるために、明日を向かえるために。そこには、真に強い意志と、生への執着心がなければならなかっただろう。僕達の忘れかけているものが、そこにはあった。確かにあった。
 この旅は、「人間として生きる。」ことの難しさを、そして素晴らしさを、出会いの大切さを教えてくれた。
 そんな旅であった。だから、この言葉に尽きる。すべてに向けて、
  「本当にありがとう」。
 2014年シルクロード参加
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azure358 · 4 years
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--深海人形特別篇-- Legions 04
ーーラオウよ。天に帰る時が来たのだ!
ーーケンシロウ
※…以下、Twitterの自アカウントより、今迄、文量不足やら記事上げ躊躇ったやらで出せずに居た相当に過去の物を引用(※…一部、修正、若しくは、改変)、或いは、遠く長い間、御蔵入りになって居た書き下ろしの文章を掲載(※…ずっと、誰にも知られる事無く、適当にひっそりと眠らせて置くのも……と思い。)。
[[MORE]]
※サカサマの風雲回顧城
SNKの描く退廃した 都市と機械文明社会の描写とイメージと印象とは たいてい『AKIRA』由来だから この上無くわかりやすい(※特にSVCKOFオロチ編とネスツ編背景の一部ラスト・リゾート風雲STBあたりが そして それを 各ゲームのBGMが 如実に よく表現している)
…でさ〜 風雲STBには建設途中高層ビルステージがあって その夜間版には 綺麗な満月が 見えるわけよ〜 ロサ「月が綺麗ねぇ」 スイル「……ふっ…(※思わず静かに笑う)」 ロサ「…いやいや、月が綺麗だから言っただけよ!?」 あゝ青春だなぁ(※何処が)
…でさぁ 風雲シリーズにも ウェイン兄弟みたいな 兄弟いるね(※そう言えば)
今の世の中、精神的にAKIRAの世界よりも退廃してっぞ?!(※金田並感)
えっ風雲シリーズの世界観AKIRAまんまじゃん(※知ってた)
各拙作における 原作・史実では 普通にかっこよくて クールビューテ��ー系の野郎にまで及んだ (※双葉ほたる他MOWあざとい勢並)萌え重視・可愛い路線で純粋な男気・格好良さより愛嬌勝負な所は やがて(多くの)硬派なすごい漢達の反感を買った所がありすぎる(※今更ながら恥じ入ります…。
※夢を見果てることなかれ
…今の世の中、芸術家より統率を司る役柄の方が必要とされている。…そして、その上、矢鱈短命の天才が。…それを、何かキャラクターで例えるならば……
…それは『銀河英雄伝説』のラインハルトであり、ヤン提督だろう。
※私の親について
※私の親について読んで頂きたい文章(※愚痴吐き注意)。
…私の親はどちらも、よく、頻繁に、平気で、真昼間に酒を飲んだ。…所謂、『酒カス』であり、『ビールクズ』。…『この手の人間のクズ』である底辺共は、此処に書くまでも無く、嫌われる。世間の、多くの人々に。
…拠って、私は、昼間から酒を飲むような人間を、信頼せず、その上、軽蔑する。
…そんな、酒類くらい、せめて、夕方に、嗜んでやればいいのに。…さて、何故、昼間から酒を飲むのか。…その上、まだ、朝から酒飲んでいる方が、人間としての凄みがある。……昼から酒を飲んでいる連中が『酒カス』だの『ビールクズ』だの……、…と、言われるのは、そう言う所もある気がする。
…みっともないまでに中途半端なのだ。
…私の親は、どちらも、独り善がりで、自己中心的な最低最悪の暴君だった。他人に対しての配慮なんて、全く無い程に余裕の無い、人間の、実に、つまらない小人物、はっきり言って、虐待親だった。
…私はほとんど迷い無く、自らの、その命の若い内に死ぬ事を決めたくらい、その親はひどい物だった。
…私の親はとにかく、私を事あるごとにいじめて来た。私は親にとって、格好の、自分たちの都合を足す為の道具だった。労働機械だった。言行両方で、暴力を振るって来た。明らかな人権侵害だった。だけど、周囲の誰もが、祖父母、親戚でさえ、それに対して見て見ぬ振りをした。
…結局、私は、見殺しにされた。この儚い人生を、『自分の手で終わらせる』事をよぎなくされた。
…私の親は、「風呂掃除しか御前に出来る事が無い、御前は風呂掃除だけを毎日出来ていればいい、それすら出来ないのは無能だ!」…と、実の娘に対して、平気で言える親だった。
…もし、私の親が、一般的で普通の神経をちゃんと確かに持っているなら、『そんな事』は言えないだろう。
…はっきり言って、奴等は、イカれている。
…奴等こそが、本当に閉鎖病棟に入れられるべき『それ』だ。
…もう、そうとしか言いようが無い。
…それに、…「テメェの言う事にテメェの発言に対して責任を持て!」等と毎日言う事をコロコロ猫の目のごとく変える人間の言う事では無い。
…実際、御前は、頻繁に「また昨日と言う事が違う、」「また、あんた、口から出任せ言って……、」と奥さんに言われてるじゃないか。断言すれば、クズだな。御前、頭大丈夫か。
…テメェは、親の癖して、子供に対して、御手本にすらなれないのか。…他人に対してそう言うばっかりで、自分(※テメェ)だけは野放しか?
…それって、単刀直入に言わなくても、卑怯じゃないか?
…『卑怯』、と言うよりかは、『卑劣』じゃないか?
…幾ら自分の遺伝子を継いだ、自らと同じ血を引いた子供が、自分の所有物、自分の扶養家族だからって、そこまで、酷い扱いで良いのか?
…御前達は、自分の子供を、自らの手で実質的に殺す、死に追いやる、…と、言う事で、自らの手を汚して良いのか?
…この実娘である私を、一刻も早くに、なるべく若くしての、その文字通りの死に追いやる事、……で、自らの手を汚すと言うのか。…まぁ、それでも良いじゃないのだろうかな。
…親にとっては、自分の子供は、親から見たら、実は、子供の重みは、それほど、重くない事が多いのだ。…むしろ、軽い事が多い。…そう、それが、どう言う方向性であれ。
…どうせ、御前達にとって、私の代わりなんて、幾らでもいるだろうし。…確かに、実際はちゃんといるのだけど……、…別の所から貰ってくれば、それで事足りて仕方無いだろうね。
…言うまでも無く、個人の所有物とは、そう言う物だね。
…そこで、私は、『永遠の家出』をしようと思う。『永遠の家出』……、『帰らざる放蕩息子』。
…私は必ず、ここを、家を出て行く。…そして、二度と帰って来ない。こんな酷い親の居る家には……、
※続・私の親について
子供の為に悲しめない親は不幸だ
私は、何て、こんなにも、常識も脳も無い親の元に生まれてきてしまったんだろうか。まさに野蛮人だ。
…いつも、親への復讐をどうやって成し遂げようかとかそんなのばっかり考えて居る(※お母さんもお父さんも皆外道でした)。
……父の日、母の日? …この世は、たださえ、地獄なのに、この私達個人個人に対してその原因を創り出した、…何故に、そんな出来損ないの、『デミウルゴス』をあがめ称えねばならないのか!まさにそれこそが地獄では無いか?!(※ニーチェ並)。
決して親愛で無いカス親へ これ以上私を馬鹿にし続けるようでしたら 私も 歳のうら若い内に 神への尊い贄になります。決して 愛するでは無い親へ 貴様等のそのような真似は 娘の寿命を徒に 削り取るだけです
どっからどう見ても、最低最悪の親。…だけど、私はやるべき事をやって死んだ。実に誇らしい。我が生涯に一片も悔い無し!
…私……私がいない方が、御互い、経済不安も将来の不安も無い。親にとっても、その娘にとっても、私が若くして死ぬ事には、むしろ、メリットしかない。私の若くしての死が、あなた方、特に、親の学びと将来の為に、なりますように。
…両親による執拗な家庭内いじめに耐えかねたこいつ様は、本気で『家出』を考え始めた。返らざる私。若死にした娘。
…両親自らによる家庭内いじめと虐待により、いじめ自殺する実の子供。親は一体何の為に自分の子供をもうけたのか。
…私の親にとって、私は、確かに、『はずれガチャ』の『大爆死単発ガチャ』やったな。…だけどさ、今度ので当たり引けば良いやん。…だからこそ、今度こそ大当たり引けよ。はずれはさっさと処分だぞ☆
…私の父と母は、私を通じて、国から色々な高待遇と甘い汁を搾取して来た。…この親共にとっては、私はただの金ヅルであり、楽に、美味しく、甘い汁を吸う為の道具だ。私は若くして死ぬべきだ。もう搾取はさせない。国の為に。
…私の親は、平気で、自らの保身の為に、子供を犠牲にする、何の葛藤も恥じらいも無く自らの盾にして憚らないタイプだった。
…これはこれは、こちとらも、とんでもないハズレガチャを引いてしまつたやうだなぁ(※文学)。
…私の親には、私の代わりとして、『罪滅ぼし』として、養子をとって貰おう。 …身寄りの無い子供を環境的かつ家族的に助けてやれば、あんな救われぬ二人の愚かな低能共も、多少は反省するだろうから、
※オメガバアンチ記事
※…以下は、オメガバへのアンチ文章です。全ての方面に於いて、御注意下さい。
…東欧諸国で、ナチのニュルンベルク法(※人種差別法)に便乗して、どれだけの被差別層が殺されたと思う?…そして、戦後全部、獨逸に擦り付けてどれだけの国が被害者面してトンズラして行ったと思う?(※…人種差別を撤廃する為に闘い、ナチと組んだり、ユダヤ人を救けた日本人の立場や如何)
…オメガバは『此の手の史実(※…世界と日本の、被差別層と歴史的大量虐殺の歴史 』に熟知した者だけが、其の執筆を許されるべきである(※本当に!!)
…良い加減にして欲しいよねオメガバ。
…戦中の連合諸国内で言えば、日系人だから、虐げられたり、強制収容所に収容されたり殺されたりする。ユダヤ人ロマスラブ系ならもっと。ただそんな人種であるだけで、不当にコキ使われたり、軽い気持ちで殺されたり、虐められたり、濡れ衣を適当に着せられたり、財産をカツアゲ感覚で奪われたりする。
…オメガバのΩが、βとか特殊なαに、そうされない保証とか、何処にあるんやと(皆死ねば良いし殺して良いと思う)
※我が家の食について
※…非常に不快な話しかしていません。
※人はただ神の御言葉によって生きる。
…生きること自体、及び、この世に遍く存在している物資は、多く汚らわしい、ただ、霊魂のみが清い。真に、神妙なる霊魂たる霊魂だけが、唯一尊ばれるべきであり、同時に、この世で一番清いのである。
…うちの親は、どっちも、気持ち悪い、反吐が出る程のクチャラーで、自宅での食事が非常に苦痛。更に補足すると、箸の持ち方も可笑しい。その事を指摘しても、奴等は『暴君』なので、一向に耳を貸さない。聴く耳を持っていない。…全ての親は、潜在的に暴君であり、虐待を行う親である。
…どんなに、私が、仕事や日常で疲弊し、疲れていても、奴等は、食事について、『自分の分は自分で作れ!』と平気で言う。…どんなに、料理を作るのが、キツくて、辛くても、否が応にも、作らざるを得ない時が沢山あった。どんなに、私が、疲れていても、奴等は、平気で鞭を振るってきた。事を、家事を、仕事を、やれ!やれ!やれ!…もう人生そのものに疲れました。…私、まだ、年齢的に若いらしいですけど、いい加減に死んで良いですか。
…何時の日か、私と天国で御会いしませんか?
食事を楽しむより、神の御言葉を喜ぶべきだ。
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hello-diversity · 5 years
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[テキストアーカイブ]“老い”から見える、ためらいと希望の哲学談義
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出演:西川勝(臨床哲学) 砂連尾理(振付家/ダンサー) 首藤義敬(はっぴーの家ろっけん) 進行:横堀ふみ(DANCE BOX)
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横堀 まずはじめに、それぞれの方がどういう活動をされてきたのか、事例紹介という形で進めたいきたいと思っています。その前に、今回のレクチャーに「哲学談義」というタイトルを勝手につけましたけど、はたして哲学ってどういうものなのか。この場で共有できるように、西川さん、簡単にご説明いただいてもいいでしょうか。
西川 哲学って何か。自分の経験からいえば、なかなか誰も説明してくれないから、よくわからないわけです。なんとなく立派そうとか、怪しそうとか、そういうイメージがあると思うんですけど、僕はそこに惹かれて哲学科に入ったんですね。哲学書を読むだけでインテリみたいな気がするし、大事なことを考えてるって自分でも思えるし、人からもそう思ってもらえるから、若い頃の優越感としてはちょうどよかったんです(笑)。 普通、学問というのはなにかの問いがあって、一生懸命にその答えを探すわけです。ところが、哲学ってどのように問うのかって、問いそのものを考え直す。答えはどうだっていいわけです。あるいは問いがあったとしても、これって本当に大切な問いなのか。なぜこれに僕は答えなければいかないのか。この問いから本当は何を知りたいんだろう…って、問いを吟味するところからはじまるんですね。つまり、哲学というのは、多くの人が懸命に追求している問題を「ちょっと待って、それ、本当に大事なの?」ってちゃぶ台返しをするようなところからはじまるので、まあ、あまり人に好かれるようなタイプじゃない気がしますけども(笑)。今日もテーマになっている老いや死といった切実な問題について、自分たちの立場からどんな風に問うことで身を賭けてでも答えたい問いになるのか、というのをやれたらと思っています。
横堀 ありがとうございます。西川さんは最初から哲学の道に進まれたのではなく、いろんな現場を経験されて今にいたるんでしょうか。西川さんのこれまでと今の活動について簡単にお願いします。
西川 僕はね、高校に入ってその新入生歓迎の場でいきなり生徒会長に憧れまして、その人が学生運動をやってたんです。それで完全にかぶれてしまって、真っ赤なヘルメットをかぶって三里塚に行ったりしてるうちに、半年で学校にいれなくなって中退しました。これでは駄目だと思ってきっちり軟派に転向しまして、それでも大学は、関西大学の2部の哲学科を受けたんです。2部の哲学科なんて行っても就職先ないですから、みんなと競争する学歴社会に入るのはやめたってことで、だけど、自分の自尊心は守りたいという中途半端な理由で進学したんですね。で、大学に入った途端にインド哲学の先生が言うんですよ。「君たち、まさか卒業しようなんて思ってないよな」「関西大学2部は大阪でいちばん授業料の安い大学なんだから、表裏きれいにひっくり返して、図書館で本を読んだら別に卒業しなくていい。そもそも哲学に卒業なんてないから」って言われたことを真に受けてね。卒業に必要な語学の授業には出ずに、単位だけ170単位くらいとって、7年半授業料払って中退しました(笑)。 その間に、もと陸軍看護婦の母親が「この子の将来が心配だ」って、母親は、敗戦後しばらくは結核患者の訪問看護みたいなことをやってたんですけど、精神病院で働くようになって、僕がまったく卒業する気配がないし、「とにかく健康保険証のある職場で働きなさい」とかって言うわけです。で、母親が精神病院の課長と話をして、面接の日が決まってました。もともと卒業する気もないし、専門的な哲学者になるつもりもないし、なれそうもないし、何でもいいやと思ったので、その精神病院の看護師になっちゃって。
横堀 私も4歳の息子がいますけど、西川さんのような息子がいたらほんまに心配で。お母さんが面接の日取りを決めたって気持ちがようわかります。
西川 面接に行ってもあかんって言われると思ってました。あの頃は、学生運動やってやめたなんて言うとまず仕事はなかったんですけど、さすが精神病院の百戦錬磨の課長ですから、「ゾウリ持ってるか」「はい」「じゃあ、それ持っておいでな」って言われて決定ですよ。それで閉鎖病棟に入れられて。これが僕の最初の看護との出会いです。
横堀 いまはどういう活動をされてるんでしょうか。
西川 いまは3年ぶりに勤めるようになりまして、大阪市認知症の人の社会活動センター「ゆっくりの部屋」に。センターといっても従業員1名ですけど、そこの責任者をやってます。7月31日に開所したばかりですから、まだ1か月も働いてない。
横堀 おいおいまた聞かせてください。では、砂連尾さんと首藤さんの活動紹介もお願いしたいと思います。はじめに砂連尾さん。ダンスボックスとのつきあいはもう長くて、20年以上ですかね。
砂連尾 ダンスボックスができたときから。設立メンバーの文さんとは、ダンスボックスができた96年より前からですから、四半世紀近いつきあいだと思います。
横堀 砂連尾さんとは「循環プロジェクト」という事業でご一緒させてもらったことが、ダンスボックスの活動にとっても大きな転機になりました。「循環プロジェクト」は、障がいのある人と一緒に舞台作品をつくるというプロジェクトですけど、今日は、砂連尾さんが高齢者の方といっしょに舞台をつくられて、現在も続いてるその活動についてご説明いただけたらと思います。
砂連尾 みなさんは、ダンスにどんなイメージを持ってますか。ダンス=舞台のダンスを連想して、舞台のダンスといえば、ある種、特権的な身体とまでいうと言いすぎかもしれませんけど、ちょっと特別な身体である人がやるものだというイメージを持たれる方が多いかもしれません。じゃあ、僕自身がそういう身体になりたかったかといえば、決してそうではなくて、踊るのが好きだからっていうのでもなく、むしろ、踊ることは苦手で、やりたくないことの上から二番目くらいにあったもの、それが僕にとってのダンスでした。 先ほどの西川さんが高校に入って学生運動に関わって、というのとは違って、僕の若い頃は高度経済成長期で、できるだけ高いレベルの学校に入って、企業に就職するという幸せの道筋みたいなのがありました。そういうことからいかに抵抗して生きていけるかって、スポーツに取り組んだりとかしてましたけど、なかなか新しい世界に出会えなくて、大学に入って、もう自分の頭で選択するのではなかなか希望が持てないなと思ったときに、自分がいちばん選択しなさそうなものを選ぼうと考えて、選んだのがダンスでした。なので、かっこよく踊ろうとか、かっこよく見られたいというのではなく、自分にとって未知なる何か、今までの日常とは違う世界が見えるのかなと思って、ダンスをはじめました。それが19くらいで、40歳くらいまで約20年は続けていたんですが、舞台芸術という世界では、単純な話、毎年、新作をつくらなければ劇場から声はかからないし、助成金ももらえないわけです。自分で否定して、競争社会には身を置かないで生きていたいと思っていたのに、そこから逃れた先で、たぶん試験でいい点をとるよりもちょっと過酷な生活が待っていたわけです。 そして41歳のとき、10何年前ですけど、ダンスボックスの人たちから障がい者とのプロジェクトを紹介してもらって、それが自分にとって大きな活動の転機になりました。それまでは毎日、バーレッスンをやったりしながら、身体を鍛えていくことばかり目指してたんですけど、そのプロジェクトでは車椅子や義足の人、コミュニケーションが少しむずかしい人たちといっしょに練習をして、ともに時間をすごすわけです。そうやって車椅子の人と一緒に歩いていると、車椅子の高さでの視線が発見できたというか、そんなの当たり前だって言われるかもしれないけど、僕にとっては世界がすごく変わったんですね。義足の人と駅で待ち合わせてダンスボックスまで向かうと、普段は5分程度の道のりが15分、20分くらいかかる。それだけの時間をかけて歩いてみると、木の枝の揺れ、雲の流れ、風というものがこんなに違うんだって感じました。僕はそれまで、西洋ダンスの基準に向かって一生懸命に訓練して、身体を精緻させていってたけど、そうじゃないところにダンスがあるんじゃないかと気づいたキッカケが、その「循環プロジェクト」でした。 その後、ベルリンで1年暮らす予定になってたので、そこでドイツのカンパニー、Thikwa(ティクバ)と一緒にやって、その後に帰国して、次はどういうダンスをやろうかなって考えたときに思い出したのが、僕の友人の野村誠という音楽家のことで。彼がその10年ほど前に、横浜の老人ホームへ音楽活動をしに行ってたことを知って、じゃあ、ダンサーが老人と踊るということに対して、ダンスでどんな応答があるか。まったく事例がないわけじゃなかったけど、あまり応答している事例がなかったので、僕自身が老人の方と、それもコミュニケーションのむずかしい認知症の方とのダンスが存在しえるのかって考えました。だから、最初はケアの視点というよりは、純粋に身体の可能性を探りたいということではじめたのが、老人とのダンスでした。 その活動は2009年11月に「グレイスヴィルまいづる」という特別養護老人ホームに私が招かれて、3月まではほぼ週1回、それ以降も月1回通いながら、ワークショップという形で続けています。その活動については、映像で見ていただけたらと思いますので、ちょっと見てください。 (「とつとつダンス」映像流れる) 砂連尾 この映像は、2014年につくった「とつとつダンス」という作品の続編なんですけど、ちょっと、なんというかな、あまりドラマチックな言い方をしたいとは思わないですけど、認知症の方と踊ったときに、僕はほんとに奇跡的な瞬間に何度も出会うんですね。単純に対話がむずかしいので、どうしたらいいだろうって、特に家族の方の思いはあると思うんですけど、僕はほんとに救われました。毎回、新鮮に僕に触れてもらえるというのかな。毎月、今日はどういう風に僕はこの人と出会い直せるかということを感じさせられるような存在の仕方をしていました。「とつとつダンスpart2.」でご一緒したミユキさんという方、彼女は身体が弱く生まれて、なんとかしようと思って飲んだ薬が薬害で、という人生で左手しか動かなくて。彼女は、自分の動かない右手を左手で懸命に支えて、その動かそうとしている右手に触れたときに、僕自身が触れるということを学ばせてもらっていると感じるような瞬間が何度もありました。最初は、どういう風にダンスが可能かというので出会った人たちから、どう人と関わるか、生きるか、そして触れ合うかということを、僕自身が学んでいったこの10年だったと思います。
横堀 ありがとうございます。西川さんもこの「とつとつダンス」にははじめの方から関わっておられるんでしたっけ。
西川 舞鶴であった「とつとつダンス」のアフタートークに呼ばれたんです。それまでは、まったく砂連尾さんのことを知らなくて。さっき話した精神病院で15年、その後、血液透析の現場で5年、それから臨床哲学ということばを知って、昔の哲学の火がつくんですね。で、大阪大学にモグリで行きはじめて、社会人で大学院に入って、大阪大学コミュニケーション・デザインセンターの教員にまでなります。世間からはいっぱしの認知症の専門家みたいに思われて、このアフタートークに呼ばれて行ったんですけど、まあ、びっくりしましたね。僕も看護の世界では変わった人間でしたけど、それもぶっ飛ばすような。だって、後ろから目隠ししたり、自分の着ているパーカーをかぶせたり、子どものように抱っこしている人形をとりあげたり。要するに、現場では絶対にしてはいけないとされることばかりが続くわけです。それを正しい、正しくないって見てる自分がいたんですけど、いつの間にか砂連尾さんとミユキさんのあり様、こんな美しいことが起こるんだって最後のシーンを見たときに、自分が20数年にわたって考えてきたことを根っこからひっくり返されてるなと思いました。もう一度、問いを考えなおそうと。それまでは、認知症とどう関わるべきかって、看護の視点からやったわけですけど、こんなに美しい出会い方があるじゃないかと。どうやって美しく出会うかなんて看護師は考えてないわけです。 それで、次に砂連尾さんが伊丹に来たときに訪ねて「お願いしますから僕を混ぜてください」って、それからほぼ10年。ずっと追いかけています。
横堀 追いかけてみていかがですか。
西川 やっぱりだいぶ変わりました。まずケアをいちばんに考えるってことがもうないですね。
横堀 じゃあ何をいちばんに考えますか。
西川 なんでしょうね。共生ということばはあれですけど、共にいるってこと。そのことの意味をすごく考えるようになりました。僕が臨床哲学で学んだのは、決して哲学はひとりではできない、必ず相手がいるということ。それをすごく感じるようになりましたね。哲学って、いかに生きるべきなのかという自分の問題にしちゃいがちですけど、そうじゃないよね。臨床哲学は必ず相手がいるものだっていうけど、じゃあ、どういうことなのか。それを最近、僕はことばや論文じゃなくて、自分のことを臨床哲学のプレイヤーですって言って活動してますけど、そうやって後からだんだんわかってくる。まだわかりきってないので、まだまだ続くと思いますけど。
横堀 舞鶴でのワークショップはおじいさんおばあさんだけじゃなくて、職員の方も一緒にされてるんですね。
砂連尾 常日頃から利用者の方に接するのは職員の人たちなので、僕のエッセンスが少しでも伝わればいいなくらいの気持ちでしたけど、すごく戸惑われて、嫌がった職員さんもたくさんいました。
横堀 10年という時間を経て、職員の方とおじいさんおばあさんの接し方に変化があったりとかって感じることはありますか。
砂連尾 ふたつの感情があって、ひとつは、たしかに僕のワークで変化して、思い切ってやるということに意識的になってる人たちがいるのかなと思います。ただ、日々のこなしていかなければいけないことが膨大にあって、たぶん僕のワークに関心���持つ余裕も、それを試そうという時間もないというのが現状じゃないかな。これほど理解のある施設であったとしても、なかなか難しい現実はあるんだろうと思います。
横堀 首藤さん、これまでのお話を聞かれてどうでしょう。
首藤 すごく安心しました。お二人のことを調べずに来たんですけど、自分から中退されてたり、みんながやってることの逆をやってしまえ、みたいな二人だなと思って。
横堀 では、はっぴーの家のことをご紹介ください。
首藤 はっぴーの家はこのすぐ近く、新長田の南側にある、形は一応、介護施設です。60歳以上のおじいちゃんおばあちゃんが20人ちょっと、僕と奥さん、子ども二人で同居しています。ほとんどが認知症の方です。昨日も夜中の3時くらいに認知症のおばあちゃんが部屋に入ってきて、「朝ごはん食べよう」って言うけど、外はまだ真っ暗でした。そういうカオスな生活をしています。 そもそも介護事業をやりたかったわけじゃなくて、僕ら家族や娘が安心して暮らせる場所をつくりたいと思っても、見つけられなかったんです。子育てと介護がかぶってしまって。今日、後ろで走り回ってるのはうちの娘ですけど、僕自身、彼女のような感じでした。学校行っても、先生に「もう学校来んな」って言われるくらい、落ち着きがなくて座ってられなかった。いわゆる多動です。そこに薬を強要されるのは何か違うなと思っていて。僕は今、34ですけど、なんとかやってこれた。その理由を考えたら、結局、まわりの人に助けられたんです。そういう環境はどこに、って考えだすと、今やってるはっぴーの家につながってくるんですけど…僕が説明するよりもまとまった映像がありますので、ご覧ください。 (NHKで取材されたときの映像流れる) 首藤 という生活をしております。何がしたかったのかって、結局、僕が10年ちょっと前に結婚して、子どもが生まれるとなったときに、世の中はまだ夫婦で子育てしなきゃいけない空気でした。そもそも僕はこういう人間で、中2くらいからろくに学校に行ってなくて、友達は多かったんですけど、うちの子もそうやろうなって不安がありました。そして、同時期におじいちゃんおばあちゃんが認知症になったんですね。これは同居せざるを得ないと。といっても、他に見てくれる親族はいなくて、家族関係が完全に破綻してましたから。じゃあ、これはもう家族だけで暮らすのはしんどいから、他人も入れて15人くらいのシェアハウスとして暮らせたらいいかって、きれいな意味の助け合いではなくて、依存しあう生活が生まれたんです。僕らには子どもがいて、認知症やけど子どもを見てくれるおじいちゃんおばあちゃんがいて。要は、自分らだけでがんばらなくても、依存しあってもいいんじゃないかと思いまして。うちの奥さんも普通の主婦とは違っていて、自分は1日1食でいいから、僕らにもそれでいいやろうって言ってくるようなタイプ。そういうズレた感じでも、みんなで暮せばなんとかなるんじゃないかって、間違った仮説を立ててやってきた感じです。 さっき西川さんの話に、哲学は問いを立てるものだって言われて、すごく勇気をいただいたんですけど、まさに僕がやってることは正解を出してるとは思ってなくて、こんな暮らしがあってもいいじゃないかという問いを立てることを事業内容にしています。そのためにも、世の中で当たり前とされてることをちょっと変えてみようって。 そもそも、僕は家族というものに違和感を感じていて、介護や子育てに悩んだら、大家族で助け合うのがいちばんいいって言われがちなんです。昔みたいにそういう社会があればすごくいいと思いますよ。でも、いまは核家族化して、ファミリーといっても4人くらい。「もう社会が違うのに、昔の価値観を押しつけんなよ」って思ってしまって、その大家族神話を変えたいなと思いました。だから、「遠くの親戚より近くの他人」って掲げて、誰ひとり血はつながってないけど、一緒にやっていけてるんですよ。結局やってるのは、自分たちの子育てであり介護、自分たちの暮らしを生きやすいように、他人に頼ってるだけなんですけどね(笑)。 僕は学校にあまり行ってないですけど、自分が成長した瞬間として覚えてるのは、本を読んだか、人と関わったかしかなかったです、いい人、悪い人含めて。だから、自分の子どもには年間200人の大人と会う環境をつくりたかった。それが、今は週に200人がうちに来るようになって。いろんな人と関わってたら、子どもは居心地いいだろうし、僕らにとっても、おじいちゃんおばあちゃんにとってもそうだよねって考えています。そんなに難しいことをやってるわけじゃなくて、高齢者になったら日常における登場人物は減っていくと思うんです。特に男の人は社会との関わりがなくなっていくので、その関わりを増やすというお手伝いだけをしています。それは、子どもも若い人もいろんな制約を抱えているなか、ひとりでできることってとても少ない。だから関わる人数を増やしていけば、いろんな実現可能性が上がるのかなって。
横堀 西川さんはどう見られましたでしょうか。
西川 面白いですね。僕は精神病院に15年いて、外来の血液透析、デイサービスでも実際に働いてましたけど、まあ、ケアする人間とケアされる人間しかいないところって、ロクなことが起きません。やっぱり強烈なのは精神病院。患者か医療者しかいない。そのなかで一生懸命に努力している医者も看護師もいるんですよ。けど、人の人生ってひとりの努力だとか、ある職種の努力でどないかできるものではまったくない。それに気づくのにすごく時間がかかりました。看護師というのは、アセスメントして、問題点を抽出して、それを解決するために介入するというのが今の基本なんです。要するに、相手は問題で、解決できるのはプロ、みたいになっているところで介護や医療の対象にされてしまうのが、どれくらい暴力的なことなのか。ケアの暴力性ってことを僕が発表すると、ボロクソに言われましたけどね。ケアって暴力じゃないという大前提があるわけです。 首藤さんの話で僕がいちばん気に入ったのは、「これが僕のいまの暮らしです、自分が暮らしやすいように生活してます」ってところ。自分の問題と地続きなんですね。自分も常に問題を抱えてるわけで、そういう出会い方ってお互いさまの関係ですから、相手は力を奪われることがないという気がします。 認知症の人といろんな子どもがいてるというのは、臨床ケアのひとつとして結構前から取り上げられてるんですけど、あれはケアという目的をもってやってるんです。でも、首藤さんのところは、自分の子育てのためですから。だいたい今の社会では、まだ子どもがちゃんとしゃべらんうちから均質な集団の中に入れられるでしょ。育て親か先生という、役割がはっきりした大人が少数と、あとは自分と同い年の子とずっと一緒に過ごして、これが学校に行ってる間はずっと続きます。義務教育が終わっても、学力で輪切りにされてさらに均質的になっていく。会社に入ってもそうですよね、会社の利益のためにって目的が一緒なんですから。だから、社会的な役割をもって社会で生活をしようと思ったら、自分の周りには均質な人間ばかりがいることになる。それが効率いいから、今の社会はそうなってるわけですけど、そういう意味ではいつでも交換可能な部品なんですよね。周りの人間と同じだから、周りの人間と同じくらいの能力があるから、そこにいられる。で、ほんの少しでもそこからはずれると排除される。定年なんでまさにそうですよね。これがエイジング差別だって言い方もあるけど、なかなか本気に思っている人はいない。つまり、すごく均質的なところでしか今の社会では生きる場所がない。僕も学校に行ってないときには、世間に居場所ないなって思いました。自分の生きづらさ、生活しづらさと介護、子育て、そこを一緒にやってるところが、首藤さんの面白いところだと思いました。
首藤 まさに僕はそこだと思っています。自分の暮らしと仕事を一緒にすると、「それはあなたのエゴだ」って圧力もあるんだけど、じゃあ、もうエゴでいいやって。いまではエゴを社会化すると言っていて、自分の暮らしたいやり方をつきつめていけば、誰か同じように膝抱えて悩んでる人がいるから勝手に社会化するだろうなって。介護や医療の現場にはプロがいますけど、僕らがはっぴーの家をやるときに出したのは「一人のプロより百人に素人」ってことばで。だって、これから人口は減っていくんだから、素人百人といっしょにやるほうがいいんじゃないのって。 あと、むちゃくちゃしんどいときに、腑に落ちることばがひとつあれば人は生きられると思っていて。それで今、宗教の勉強をするようになったんですね。仏教って哲学やなって思うようになって。
西川 そういうことばに出会えるといいけど、やっぱりことばってだますからな(笑)。
首藤 正解じゃなくていいと思います。いろいろなことばがあっていいと思うんですよね。
西川 いまの首藤さんの話でもそうですけど、エゴを全面に出すってことは普通、社会が許さない。自分はたいしたことないけど、師匠を見る眼だけはあるなと思っていて、40過ぎて、大阪大学でもぐりをはじめて、大学中退してるのに大学院に入れてもらって、そこで出会った師匠は鷲田清一という人なんですけど。大阪大学の美学棟の西日の入る教室で、その言葉を聞いたときにはほんとに震えました。パスカルのことばで、強い者に従うのは必然だと。だから、強い者に従うことを正義と読み替えて、みたいなことをパスカルが書いてるわけです。いまの社会、ほとんどがそうかなって気もしますけど。そこで鷲田さんが言ったのは、「じゃあこれをひっくり返したらどうなるだろう」って。つまり、「弱い者に従うのが自由だ」って、静かな声で言われたんです。僕、そのときに、これは生きてきてよかったと思いましたね。自分のいままでの人生でも何もできないわけです。精神病院にいても「ありがとう」なんて一度も言われたことなくて、「おまえ、いつか殺したる」ってことは何度も言われましたけど。夜勤はじめて間もない頃、「おれ、きちがいやから」って詰め所に飛び込んでくる患者さんを前にして、自分では何もできない。「もう透析やめたい」って患者さんの話を聞いても、ベッドの横で立ってるしかない。亡くなっていく人を何度見送っても、できることなんて何もないわけです。そもそも、何かできるものとして考えるとダメだと思いますけど、それでもそこにいたってことは、君は自由なんだって鷲田さんに言われた気がして。だって、必然じゃないですか。精神病院でもたくさんいました、「こんなとこはイヤだ」ってやめていく人たち。そうやって出ていくことで精神病院の悪から目を背けることはできるけど、精神病院は存在し続けるんです。さまざまな問題からはずれてしまうのではなくて、無力でありながらその場に居続けて、下手をすると自分がいることが罪でありながらも居続けること。それは必然でもなんでもなくて、自分が選び取ったこと。 砂連尾さんでもそうですけど、より高く飛べるとか、より美しく踊れるというのではなくて、何度会っても覚えてもらえない、振り付けがまったく入らない、その彼女と踊るわけです。その砂連尾さんとミユキさんの姿には、だから自分をひっくり返すくらいの力があったんだと思います。だから、首藤さんの活動を聞いてね、もう一度あれですね、心を決めてやらなあかんなって気持ちになりました。
横堀 ありがとうございます。砂連尾さん、どうですか。西川さんがおっしゃった、弱い者に従うのは自由だって話。認知症の方といっしょにダンスをするというとき、砂連尾さんはどういう居かたをしようとされてるんでしょう。
砂連尾 どうなんでしょうね、たぶん、こういう居かただって言ってしまうと、そこに縛られてしまう不自由さを抱えてしまうので。このようにいたいっていうのは、たぶん全員違うと思うんですね。たとえば、はっぴーの家の話、とてもいいなと思うんですけど、でも、僕はここにいれるかなって思ったんです。それは悪い意味ではなくてですけど。すごくひとりでいたいときもあれば、めちゃくちゃ人としゃべりたいときもあって…。僕はいろんな人が生まれていくなかで、どこにも属さずにいたい感じ、ですかね。そういうことが可能かどうかわからないですけども。都合がいいですよね。都合がいいなって自分でも思います。
横堀 そういうものかもしれないですね。
西川 というか、弱さに従うって目の前の人を弱者として見るだけじゃなくて、自分の内なる弱さなんです。普通は隠しておきたいと思うようなこと。自分の弱さにもきちっと従うというのか…しょせん、できないことはできないんですよ。そうやって自分の弱さまでさらけ出したときに、周りの人たちも自分のヨロイを脱ぐ。お互いさまのところで、もう一度出会い直せる。普通は、同じだね、対等だねのお互いさまですけど、そうじゃなくて、お互いできないねってことの共通性があるときに、どれだけ一緒にいられるか。それがほんとはいちばん大事なことで。自分が行けば助けられると思うなら、行くのは当たり前のこと。けど、そうでないときにもいられるかどうか。自分の弱さをどれだけ出せるかどうか。これはね、簡単には出せないですよ。自分が崩れ去ってしまうかもしれないし、相手の攻撃をもろに受けるかもしれない。他人を信じられなかったら、自分の弱さって出せません。けど、ケアを受ける人は否応なしに自分の弱さをさらけ出さざるを得ない状況にあって。ケアする立場では、弱さを出さないことのほうが正しいと思われてる。でも、それって違うんじゃないかな。言ってみたら、ひとりになりたいときがあるという砂連尾さんが、相手に嫌がられたりもしながら、それでもやりましょうかってやってるところが、僕は案外好きでね。
横堀 ありがとうございます。今日は老いを巡る話をした後に、死を巡る話ができたらと思ってたんですけど、ちょっと時間がなくなってきました。触りだけになるかもしれませんが…。 首藤さんといろいろ話をする機会があって、そのときに首藤さんが仕事の醍醐味はお看取りの時間であるとおっしゃったんですね。それはなぜなのか。その後に、西川さんがブログで書かれていたテキストで「死んでゆくとは席を譲ること」「自分の死を苦しみとしてではなく、後に遺す人たちのために、ご馳走が用意されている席を譲ることとして考える」と書かれているのを読みました。そのあたりのことを少しでも話せたらと思います。まず首藤さんに。
首藤 そうですね。いままで生きる話ばかりしてきましたけど、僕もはじめ死に直面するまでは、怖いものだと思ってました。けど、日々いろんな人と関わっていると、このおばあちゃん、ここで死んでほしいなって思うようになるんです。それが第1フェイズ。その次に、たとえばそのおばあちゃんが死ぬときに、急に死ぬわけではなくて、弱っていく姿を見るし、「最後にあれを食べたい」っていう物を買ってきたりとか、すごく貴重なやり取りの時間があります。医療者の人は感じてはることだと思うけど、僕もやっていくなかで、そのやり甲斐を感じはじめました。そしたら、今度はこのおばあちゃんをどうやって死なせたあげたいかという発想になってきました。最期をどう迎えたいのかって見えてくると日々の関わり方も変わってくるんですよ。 うちでも2年くらい前かな、ひとりのおじいちゃんの看取りをしました。まったく家族はいなくて、親族さんも死んだら勝手にやってくれって。生活保護の方やったんで、役場がやってる火葬場で焼かれて、式なども開かれない、すごい寂しい状態だったんです。そういえばこの方が創価学会の方やったんで、スマホで調べたら、お坊さんを呼ばなくてもいいとあったので、僕らでもできることあるんちゃうのって。地域の創価学会の人にも確認したら、「ぜひやったってほしい」と言われたので、僕の子どもらと4人、何もない畳だけの部屋でおじいちゃんの枕元にiPhoneを置いて、自分らで葬儀をやりました。YouTubeで「創価学会 葬儀」ってやれば、出てきたんですよ。めちゃクリエイティブなiPhoneの使い方をしたと思ってるんですけど(笑)。いろんな死に方、信仰があるけど、僕らの仕事はその最期にどう一緒におらせてもらうか。最期の1週間2週間って時間の感覚も違いますし、すごいやり甲斐がある。だから、この世の中、どう生きるかの話ばっかりになってしまってるけど、もっと死について、どう死ぬのかという問いの部分についてやっていきたいなと今、思っているところです。
横堀 砂連尾さんとも今日、ロビーでちょっと話してましたけど、この少子高齢化の時代に自分がどう死んでいくかの選択肢が限られている。死に方は変えられないんじゃないかって話もしましたよね。
砂連尾 つい最近、両親が亡くなって、母は、僕ら身内がいないなかでひとり死にたかったんだなと思う、そんな死に方をしました。僕は、母の最期を看取りたかったけど、それはたぶんエゴで。周りでそうやって関わりたいと思ってるだけで。その後、母と関係する人と会っていると、「お母さんは、たぶん理くんの前では死にたくなかったと思うわ」とかって言われて、そうだなって思ったりね。死というのはたぶん、自分が死ぬということだけではなくて、周りで関わっている人の思いも含めてあると思うんですけど…。自分は人に囲まれて死にたいのか、人じゃないものに囲まれて死にたいのか。それはまだわからないですけど、死というのもいろいろあるんだろうなとは思っていて。自分が死ぬときは選べないとも思うので。うちのおじいちゃんは、おばあちゃんの膝枕で死んで、こんないい死に方あるんだと思ったんですけど…。それを選べないことのダイナミズムもあるんだろうなと今は思ったりしています。
横堀 西川さん、どうなんでしょう。死に方というのは選択しているところもあるんでしょうか。
西川 どうなんでしょうね。僕が40代でいた血液透析の現場では、患者さんたちは週に3回は透析を受けて、それを続けないと亡くなります。そういう意味では、先にある死ではなくて、ほんとに背中に死を抱えている。僕たち、こうやって座っている間は、死を先のこととしてしゃべるんです。近いか遠いかは別にして、死は先にあることだと思っている。いや、死ってね、常に気づかないところから、背後からやってきますよ。死を前にした患者さんなり、お年寄りっていうのはそういうもんだと思います。自分もそうだろうなと思いますけど。 当時は、40代だったのでターミナルケアということも真面目に考えていました。どんなケアをすればいいんだろうって。20年以上前の話ですから、まだ延命治療とか癌の病名告知もされてなかった頃です。それに対してどうするのか。死���準備教育だとか、死を常に意識することで自分の生をきちんとしたものにするだとか。そんなことを言ってましたけど、だんだん考えが変わってきました。看取りということは、何かをしてあげる、よい死を迎えさせてあげる、そういうことじゃなくて、亡くなっていく人から何を受け取るかなんです。人生ってたった1回しかない。その1度しかないことをしている人に、まだ死んだこともないような人間がね、ちょっと勉強したくらいで何ができるかって。何もできないですよ。そんなことを考えるくらいなら、目の前で死んでいく人から何を受け取るのか。看取りの場面にいたり、あるいは自分の大切な人が亡くなったという事実を知ったときに、「あれをしてあげられなかった」って自分の後悔をするんじゃなくて、相手が何を残していってくれたのかってことを考えるべきだろうって。だからといって、ターミナルケアが無駄なことだとは思ってませんけど。 どんな人でもできることは、私がいま生きてるこの世のこの席を譲るということです。どんなに人のためを思っても、自分が生きてるかぎりは、この場所を譲ることはできません。どんな悪党であれ、この世を去るということは自分のいる場所を譲るということなんです。だから、譲られた場所を自分はどう生きるのか。いい死に方をしたいとか、そういう人意でなんとかなりそうだと思えるのは、生きている間の話で、死ぬってことは個人の能力を越えたもので。死ぬというのは、次の生まれてくるもの、今、生きてるものに対してこの世の席を譲ること。だから、生きてるということはすなわち、席を譲られたことなんだ。その譲られた先を次の者に譲るまでどう生きるか、そこがいちばん大事なんじゃないかな。人間の哲学や思想を越えたところに、誕生や死というものはあると思う。って、ここで思考停止すると哲学じゃないんでね(笑)、まだ考え続けてますけども。
横堀 今回のために事前にいただいた相談がいくつかあるので、ここから残り時間、ひとつふたつほどお答えいただいてもいいでしょうか。「両親のことです。老いれば老いるほどに頑固にどんどんなっていきます。上手なつきあい方はありますか」。首藤さん、どうでしょう。
首藤 さっきの話とつながるんですけど、僕らの世代で死ぬってなったら、たぶん死に方は選べないですよね。突然死だったりで。でも、おじいちゃんおばあちゃんは、ある程度、選べる場所にいるのかなと思っていて、自分の死について考えるチャンスはあるのに、なんとなく死んでいく人が多いなと思います。それが自分の両親だったとしても、どう死にたいのかって本人の意志を聞いてあげたくて。いまの質問に対しての答えとは違うかもですけど、どう死にたいのかってもっと社会的に聞けるようになったら、どう生きたいのかにつながるのかなって。もっと聞くとか、表に出していくことでちょっと変わってくるものがあるのかなと思います。
西川 年をとって頑固になる人もいれば、かわいくなる人もいる、ケチンボになる人もいるし、様々ですけど、相手が変わったんなら、自分も変わらなければねと思います。あんなにものわかりのいい親だった��にって、いつまでも相手が変わらないもののように思っているのは、こちらの勝手ですから。生きているとそうやって変わっていく。相手が自分の思うようなままではいてくれないし、自分だってきっと変わっていくんです。つきあうだけが共にいる居かたじゃないんで、とりあえずきれいに別れてみるとか。親であっても、自分の幼い頃に愛してきたときのままではいつまでもいられないって覚悟しないといけないんじゃないでしょうか。
横堀 ありがとうございます。また別の方からの質問、「死ぬことが怖くて怖くて寝つけないことがあります。どうしたらその怖さを和らげることができるでしょう」。
砂連尾 体験したことないんでね、怖いでしょうね。僕も怖いと思う。ですけど、舞台をやっていると必ずはじめと終わりをつくらないといけないことを、舞台人は多く体験していると思います。練習をやっていても、終わりとはじまりをつくらなけれいけない。その終わるまでの時間をどう過ごして、どう存在するのかってことを、舞台というフィクショナルな場所でやりながら、練習してるのかなあと思います。
西川 砂連尾さん、別れのダンスってやってたじゃないですか。あれでいいんじゃないの。
砂連尾 別れのダンスは、東日本大震災の被災地を訪ねるなかでインスピレーションを得たもので、急に関係のあった人がいなくなってしまう、その瞬間みたいなものが多く起きた場所と時間があったわけです。最後までどう掴んでいたいかみたいなことがあって、手を掴んで…。
西川 離れたときに一気にウワッてなるんです。別れるまでの時間を大切にしようとかってそんな考えが先にあって、計画的に味わえるものじゃない。ずっとつながっていて離れたくないとかって言っても、その手が離れたときに一気にやってくる。映画でもそうです。最後のジ・エンドが流れてくるまでは、場面を追いかけるのに必死で、追いかけることに意味があるかのように思うけど、ほんとに終わったときに。それまでのことがいきなりくる。それは自分の努力とかじゃなくて。大切な人を亡くしたときに、どれだけ大切な人だったかということは、いきなりくる。死を自分たちの様々なものをゼロにする不条理なものだと考えると、恐怖の対象になりますけど、死には、それまでいたことの意味が一挙にわかるという側面もあると思います。僕が言ってることが正しいかどうかわかりませんが、そんな風に考えなおすこともできる。いや、考えるんじゃなくて、やっぱり死ななきゃダメです。死ななきゃ生きてきた甲斐がない。という気がしますけど。
首藤 相談者の方は不安で寝れないですね(笑)。
横堀 私も1年半前にクモ膜下出血をやりましたけど、びっくりしました。死が隣りにあったんやと思って。ずっと先にあるんやと思ってました。
西川 哲学は死の練習だってプラトンが言ったらしいですけど、ほんとかなって思う。なかなか練習は練習でね。
首藤 僕、今の仕事をしていたら日常的に死を見すぎて、プライベートでも大切な人を亡くしたりとかがあって、死のときに気づくことがたくさんあるな、すごくいただいてるなって思うようになりました。そして僕自身は、常に明日死ぬって思うようになりました。そしたら、今までやってた余計なことを選択しなくなりました。ときどき、自分が死ぬってことを忘れるときがあって、それは自分がブレてるんですよ。だから、そうや俺、明日死ぬなって定期的に思うようにしてますね。
西川 若い人はね、明日死ぬかもしれないって言うんだけど、明日じゃない、今日死ぬんです。明日って人間にとってリアルじゃない。常に今しか生きてないんで、死ぬというのは今にしか訪れない。先にあるものとしての死というイメージが強烈なんでね…ってこんなことを言っていくと、だんだん時間とはどういうものなのかって哲学議論に入っていっちゃうので、それは趣味でやりましょうという感じですね(笑)。
横堀 ありがとうございます。時間をちょっと過ぎてしましましたが、この回はここで終了させていただきたいと思います。砂連尾さん、西川さん、首藤さん、どうもありがとうございました。
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donut-st · 5 years
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利口な女
 教会に隣接した駐車場は昨晩の雨の影響で水溜りが点在している。梅雨の時期で長雨が続き、天気は晴れたり曇ったりとはっきりしない。湿気にむせぶ雨の合間、出口に一番近い駐車ラインを跨いで赤いコンバーチブルが停車していた。 「今月に入って二度目。二度目ですよ!」  車のテールランプが割れている。修道服姿の老婦人が男に向かい、怒りを顕わに���ていた。 「シスター。私は気にしてませんから」  その隣に若い女が立ち、申し訳なさそうに男を窺っている。 「いけません! このままにしておいたら相手がつけ上がるだけです」  老婦人は女の言葉を中途で遮った。 「それにね、加奈子さん。この圭介は探偵なんです。犯罪のことならお手のもの。何でも知ってるの。そうよね?」 「探偵?」  加奈子と呼ばれた女は目を丸くしている。 「まあ、はい」  鈴木圭介は仕方なく頷いた。
 ジャンクフードの臭いとともに助手席へ乗り込んできた田原は、さっそく袋からハンバーガーを掴み出す。田原は圭介と同年代の中年男だが、ベルトの穴は五つか六つ緩かった。 「シートにケチャップを落とすなよ」  圭介の警告に田原は顔をしかめる。 「どうせ合皮だろ? それより、アレ」  圭介は懐から封筒を取り出した。封筒を受け取った田原は中を覗き込みながら、ペーパーフォルダーを圭介の膝へほうる。 「これって相場か?」  田原は封筒の紙幣を三回、数えていた。 「俺が知るわけがない。悪徳警官とお近づきになったのは初めてだ」 「誰が悪徳警官だ」  武装強盗の頭に風穴を開けて以来、田原は椅子を尻で温めるのが業務のすべてである。つまり、資料課の課長補佐代理へ異動の決定を下された。出世を望む警官に射撃は御法度である。銃は自ら撃つものではない。他人に撃たせるものだ。  書類の間から写真が一枚、滑り落ちてくる。高価なスーツを着た白髪頭の男が若い女の腰を抱いていた。女はシスターから紹介された加奈子である。ピントは男に向けられていたが、女の顔を判別するのに問題はなかった。 「この女」  田原が圭介のほうへ身を寄せてくる。巨漢の田原のせいでブルーバードの車内は、いつにも増して満杯だ。 「見かけた覚えがあるんだが」 「どこで?」  田原はこめかみの辺りを揉みながら唸っている。 「それが、どこだったか」  老眼鏡をかけた圭介は内偵の資料に目を通した。粉飾決算で、どうにか体面を保っているが、写真の男の資産状況はスーツの値段に見合わない。出資者からかき集めた金を返す当てはなさそうだ。 「なんだか雑だな」  空欄だらけの資料を一瞥し、田原に目を向ける。 「署員の半数が国際会議の警備に駆り出されてる。市民生活の安全は一時お預けだ」 「田原、おまえは? 行かなくていいのか?」 「公安が俺の経歴にケチをつけてきた。なんでも俺は『職務遂行能力に欠ける』らしい」  他人の話でもする顔で田原は答えた。 「あいつら全員、ヘルペスになればいい」  加奈子の詳細も未記載である。警察は、この件を通り一遍の書類仕事で済ませているようだ。 「雨の中、車を尾行することになったら、どうする?」  田原は質問を図りかね、圭介の顔を窺う。 「昼と夜。どっちだ?」 「夕方から夜」  メモを取り終え、圭介は老眼鏡を外した。資料を田原に返すついでに写真を素早く袖の内側へ納める。 「テールランプを割るかな」  圭介も同意見だ。
 若い美人であることと雨上がりの日差しを受けて輝いていたダイヤモンドの指輪が加奈子の第一印象である。年齢の割に大振りな石だったから圭介の目を惹いた。圭介の薬指に嵌っている安物のプラチナと比べて桁は三つほど上だろう。  加奈子と一緒にいた男がやっていると思われるのは、よくあるマルチ商法だ。ただ小金を持った一般投資家の他に消費者金融が会社の資金繰りに関わっている。彼らは一般投資家と違い、損失を税金対策に流用する気は更々なかった。なぜなら仲間内での面子に拘るからである。  圭介の依頼主である金融業者は借金を棚上げして姿をくらましている男の行方を金銭と自尊心、両方の問題で追っていた。圭介は暴力沙汰には関与しない条件で調査に携わっている。  駐車場近くで張っていた甲斐があり、加奈子の車が動き出した。圭介は信号待ちを利用して袖に隠した写真を背広の内ポケットに移す。またぞろ降り出した雨の中、手前を行く車のテールランプから光が漏れていた。カバーを適度に破壊されたテールランプの光は他の車と差別化できた。視認性も高まる。  巡回の警察車両に遭遇しないよう祈りつつ、圭介は赤のコンバーチブルを追った。
 圭介は路上駐車しているコンバーチブルに目をやりながら、双眼鏡を取り出す。四階の窓に加奈子の姿が見えた。車内で化粧を直したのだろう。加奈子の唇は昼間に会った時より鮮やかである。  目前の貸しビルは七階建てだが、建築法改正前の代物らしくエレベーターはなかった。加奈子のハイヒールは踵が七センチはある。階段の昇降は相当な重労働だ。  二時間弱で加奈子が一人で出てくる。所持品は降車時と同じ小さな手持ちのバックだけだった。圭介はスマートフォンを操作する。通話の相手は、すぐに電話を切った。  圭介は再び、加奈子の車を尾行する。車は道順を逆に辿り、今度は都心のマンションに到着した。さすがにエレベーターが設置されている。彼女の後を追って圭介も無人のロビーに入った。だが、圭介は衝撃を受け、マンションの床へ昏倒する。背後から後頭部を思い切り殴られたからだ。    冷たくて柔らかいものが顔に触れる。香水の匂いに惚けていた圭介は激痛に呻いた。突如、五感が戻ってくる。 「動かないほうがいいと思います」  加奈子が横から圭介を覗き込んでいた。どうやらマンションの室内に寝かされているらしい。下から眺めても彼女は変わらず美しかった。 「おじさん。気が付いた?」  痛みがぶり返さないよう圭介は目玉を動かす。圭介が横になっているソファの向かいで子供がスマートフォンに目を落としている。 「重くて大変だったんだよ」  漏れてくる音から察するにゲーム画面のようだ。 「正くん。圭介さんに謝るのが先でしょう?」  加奈子は子供を咎める。 「どうして?」 「圭介さんに怪我をさせたのは、あなたじゃない」  驚いた圭介は身を起しかけ、またもや痛みに襲われた。 「だけど、このおじさん。加奈子の後をつけてたんだよ。悪者だと思うじゃないか」 「圭介さん、本当?」  圭介は苦笑いしながらソファに座り直す。 「誤解です。偶然、加奈子さんの車をお見かけしたのでテールランプの件についてご相談しようかと」  冷やしたタオルを加奈子から受け取った。大きな瘤のふくらんだ後頭部にタオルを押しあてる。子供の足元にエナメル加工をしたショルダーバックがあった。半分開いたジッパーから金属バットが見える。  圭介は凶器を特定した。 「そうだったんですか。でも、もう解決ですね。犯人は彼だったんですから」  加奈子は正を示す。 「私の車を自転車で追いかけてきたらしいんです」  ゲーム画面を見つめ、正は盛んに指先を動かしていた。 「警察が教えてくれたんだよ。尾行しやすいって」 「警察? どこの警察かな?」  正は圭介のほうへ顔を向け、所轄の警察署の略称を口にする。 「そこにすごく太った刑事がいて聞いたら教えてくれた。エビのチリソースを食べてたよ」 「チャイニーズのテイクアウト? 紙の箱に入った?」 「うん、それ」  後頭部の殴打とは別に圭介は頭痛を感じ始めていた。 「誰か、ご存じなんですか?」 「いえ、まったく。見当もつきません」  圭介は加奈子の質問に愛想笑いを返す。困窮している圭介の耳に玄関の呼び出し音が響いた。 「来客の予定はあるんですか?」 「ええ。さっき連絡して来てもらったんです」  加奈子は笑顔だが、圭介は彼女の行動を読み兼ねている。正の存在を見て荒事はないだろうと踏んだ。
「正!」  入室してきたのは中年の女だった。 「お母さん?」  正は目を丸くしている。 「何をやってるの、あなたは! 来なさい!」  母親は無理やり正を立たせ、腕を引っ張った。 「ご連絡をいただいて本当にありがとうございました。申し訳ありません。二度とこんなことは」  加奈子に向かい頻りに頭を下げる。正にも詫びを入れるよう母親は彼の頭を押さえた。 「嫌いだ!」  母親の手を振り払い、正は叫ぶ。加奈子をにらみつけていた。 「大嫌いだ!」  加奈子は頷いて正を見つめている。 「そうね。私も、そう言うと思う」  金属バットの突っ込まれた鞄を正に差し出した。正は鞄を無言のまま乱暴に奪い取る。 「失礼じゃないの! すみません、本当に」  母親に腕を引かれて正は部屋を出て行った。
「正くんとは、教会のボランティアで知り合ったんです」  教会が行っている就学児童の一時預かりが二人を取り持ったらしい。 「私の髪が欲しいって言われて。最初は断ったんですけど、どうしてもって聞かないから、つい」  加奈子は自分の髪を指先で摘まんだ。ウェーブのかかった栗色の髪は艶々と輝いている。 「一本だけならいいかなと思った。でも、間違いでした」  正の母親は所轄の生活安全課に駆け込んだ。過剰だが、加奈子の行動もグロテスクではある。二人は他人には理解し難い感覚を共有した。少なくとも正は、そう感じた。成人した男であっても些細な女の行動を特別な好意と結びつける誤謬は頻繁である。一概に愚かと圭介には笑えなかった。  加奈子はボランティアを辞め、教会の礼拝に通うのみとなる。 「正くん。お金はあるから心配ないって言ってました」  運命の相手との邂逅を求めて正は加奈子の車を追った。 「まだ子供なのに大人と同じことを言うんだなって驚いた」  スマートフォンのマナーモードが唸る。加奈子に断りを入れ、圭介は電話に出た。 「わかった」  依頼者は債権の回収に成功したようである。圭介は通話を切断し、懐から写真を取り出した。 「一応の解決を得られましたので、ただちに危険はありません」  警察の資料に添付されていた写真である。 「正くんの話は本当だったんですね」  加奈子は圭介を初めて見たような顔だ。
 エレベーターの中では圭介も加奈子も無言だった。地下へ到着したアナウンスとともに機械音が響く。自動ドアが開いた先は屋内駐車場だ。 「私の髪を正くんは指輪みたいに丸く束ねていたらしいんです」  加奈子はスーツケースを押している圭介の手にダイヤモンドの輝く指を滑らせる。圭介の指には結婚指輪が光っていた。 「どうして奥様が亡くなったのに外さないんですか?」 「誰から、その話を?」 「シスターです」  圭介は額を押さえる。加奈子のコンバーチブルに向かって二人は歩いた。 「奥様を忘れないため?」  加奈子が開いたトランクに圭介はスーツケースを押し込む。 「そんなに格好のついた話じゃありません」  彼女の視線に辟易しながらトランクを閉じた。 「そう、私にしたのと同じ。奥様にも嘘を吐いていた。だから指輪を外さない。違いますか?」  図星を突かれて圭介は言葉に詰まる。 「自分の罪を数えている」  加奈子は運転席側のドアを開けて車に乗り込んだ。 「お元気で」  圭介の挨拶が終わらぬうちに加奈子はエンジンをかける。走り出す車を見送り、圭介は駐車場の外に出た。  頭痛に悩まされながら、朝日に目を細める。路上に停めたブルーバードは無事だったが、フロントガラスに駐車違反の切符が貼付されている。圭介はため息混じりに確認標章を剥ぎとった。
※お題「光」
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