最果#7
おまたせしました
まだまだ落ちるよ
***
一体この世の中に、未練というものを持たない人間はどれくらいいるのだろうか。というか、果たしてそんな人間が存在するのだろうかと思う。捨てようと思っても捨てられない。頭ではわかっているのに、どうしようもない。そんな葛藤にも似た何かが、ずっと心臓のあたりにへばりついている。言うまでもない。幼馴染のことだ。
あの日以来、轟くんとのぎこちなさは嘘のように消えていった。小説家の氷叢焦凍と、画家の緑谷出久。僕らの名前にそんな符号が付いたとしても、そこにいるのは僕ら自身に変わりはなかった。何事もなかったようにとはいかないし、現に何も変わらなかったとは口が裂けても言えないのだけれども、それでも以前感じていた違和感のようなものはきれいさっぱりなくなっていた。
「あ、」
ばちり、とぶつかった視線に思わずそう呟く。見慣れた――といっても轟くんのそれとは異なる――風貌をした男。もっと端的に言ってしまえば、幼馴染のそれだった。この幼馴染に会うのはあのファミレス以来のことで、正直に言ってしまえば気まずいの一言に尽きる。どういうわけか僕自身理解していないのだけれども、轟くんのことをかっちゃんに話すのは、気が引けてたまらなかった。そんなこんなで、僕はタイミング悪いなあ、だなんて頭の片隅でどこか冷静に考えつつも、その他の部分で必死に言葉を探していたわけだった。
そもそも幼馴染なのだから、こうやって街中で出くわすことなんて別段おかし話でもないというのに、どうして今まで何も考えていなかったのだろうか。僕はえーっと、だなんて取り繕いながら、かっちゃんの瞳から逃げるように視線を逸らす。苦手なのだ。彼のこの瞳が。危なっかしいほどに純粋で、孤高で、意志の強いその瞳が。僕の内側を見透かされているようで。
「………………」
ついこの間ファミレスで水をぶっかけられたもんだから、会うなり罵声を吐かれることも覚悟はしていたのだけれども、そんな僕の予想とは裏腹にかっちゃんは何も言わずにじっと僕を見つめているようだった。かっちゃんの考えていることは、正直なんとなくわかる。幼馴染だからなんて言葉を使いたくないのだけれども、実際そうなのだろう。
夕暮れ。どこかで烏が鳴いている。傾きかけた太陽を背にしたかっちゃんの姿に、僕は見覚えがあった。僕たちは幼い頃、こうやってふたりして日が暮れるまで遊んでいたのだ。
乾いたアスファルト。白いチョーク。かりそめの「王国」に明け暮れたあの日々が、ぼくらの記憶から急速に色を失っていく。
違ってしまった。変わってしまった。成長してしまった。そんなごく当たり前のようで、悟りにも似た一種の失望が、唐突に目の前に突き付けられる。かつて交わっていたはずの線が、交わらなくなってく。まるで平行線の上で僕たちは向かい合っているような。
それがなんだか無性に寂しくて、僕は口を開こうとした。
――かっちゃん。
そう言ったはずだった。口にしたはずだった。けれどもその言葉は、音となることはない。ひくり、と引き攣った喉が捻りだしたのは、無意味な二酸化炭素だけ。思わず目を見開いた僕に、かっちゃんはひどくつまらなそうにそっぽを向く。
口からこぼれるはずだった言葉が、出てこない。ひくり、と引き攣った喉が捻り出したのは無意味な二酸化炭素だけ。思わず目を見開いた僕と対照的に、視界の先にいる幼馴染は、そんな僕を見てひどくつまらなそうな顔をしてくるりと踵を返す。
「まって、かっちゃん」
堰を切るように溢れ出した言葉は、確かにかっちゃんの耳に届いていただろう。けれどもその背中がこちらを向き直ることはない。それがなんだかとても恐ろしくて、僕は訳も分からずに手を伸ばした。それから、すとん、と腑に落ちたように悟る。
夕日に溶けていく幼馴染のことを追う資格は、もう僕にはない。ぎりぎりのところで交わっていた道を閉ざしたのは、僕の方だったのだと。
持っていたスーパーの袋が無性に重い。これでほんとうに良かったんだろうか。そんな今更考えてもどうにもならないことばかりが、頭の中を過ぎる。轟くんとの距離を縮めれば縮めるほどに、かっちゃんとの距離が遠くなっていくような気がして。
どくどくという心臓の音ばかりが頭の中に木霊して、その音に比例するかのように体から温度が失われていく。僕は眩暈を感じて近くの電柱にもたれかかった。
──何かを手に入れるたび、何かを失うような。人生はそういう風にできているのだろうか──?
きらりと、閉じた瞳の目蓋の裏側で、何かが光った気がした。それは紛れもない、波を背にしたあの人の姿。かつて愛した、あの青色。
『それは、愛じゃない』
じゃあ、愛とはなんなんですか、先生。
夕暮れの帰り道、そんな言葉を呑み込んだ。
***
「とどろきくん」
「ん?」
「あの、料理してるから、その」
「んー」
どうしよう。
それが僕の本音だった。あの海に行った日以来、轟くんは急に距離を詰めてくるというか、甘えてくるというか……、まあとにかくそんな感じのわけで。
兎にも角にも現在進行形で僕の腰に引っ付いている轟くん――もとい氷叢焦凍くんは、今や知らない人はいない売れっ子の作家だ。それをついこの間知った僕としては、正直結構な衝撃だったし、裏切られたような気持ちがないでもなかったけれども、なんだかんだこうして甘えてくるのは嬉しいのだ。今までのイメージとは裏腹に、意外と甘えたなことには結構驚いたけど。
「とどろきくん~、ほら危ないから」
とはいえ、料理中に甘えてくるのはいただけない。シンプルに危ない。とは思っても引き剥がせないのは、どうしてなんだろうか。その答えははっきりと断言できないけれども、こうじゃないかなと思っているものがある。ただ僕は、その答えに対し両手を広げて迎え入れることはできないのだ。
ぐるぐると意味もなく鍋をかき混ぜながら、離れていったかっちゃんの背中を思い出す。本当に、どうしようもないのだろうか。頭の中で何度も先生の言葉が蘇る。これで本当にいいのだろうか――。
いけない。そこまで考えて、僕は思考を振り払うように数回かぶりを振った。轟くんに危ないだなんだの言っておきながら、上の空なのは僕の方だった。
「あのさ」
「ん」
「轟くんはどうして作家になったの?」
僕にとって先生は���かけがえのない人だ。なぜ画家になったんですかと問われれば、言うまでもなく先生の存在が大きい。僕が画家を志すきっかけとなった人であり、皮肉にも僕が絵を描けなくなった理由。そんな僕にとっての先生のような存在が、轟くんにもいたのだろうか。
「…………それがいちばんの近道だったから」
あくまでぼそりと呟かれた声。その内容に、僕は思わず持っていたお玉を取り落としてしまいそうになった。――なんだって?
「……なりたかった、とかじゃなくて?」
「ちげえな」
轟くんは、口にする。どこまでも無感動に、そして当たり前であるかのように。
それは、僕にとって少なからず衝撃的だった。何かに縋るように僕の腰に抱き着くこの青年は、とても希薄だ。危うい、と思う。まるで自分の意思というものが感じられない。そしてどういうわけか、その意識の中心に僕がいるらしいのだ。
ぞくりと肌が粟立つ。さも当然のように口にする彼は、危うさで満ちている。あまりにも希薄なのに、それとは対照的に「緑谷出久」に対する執着心はすさまじい。こんなことを自分で言うのもあれだけれど、確かにそう思えるくらいには異常だった。轟くんは、手段を選ばない。そしてそれは、自分のためではない。
張りぼての空。窓の外側から、こちら側を眺めていた轟くんの姿を思い出す。こんなものは夢だと笑い飛ばしてしまえばいいのに、それができないのはどうしてだろうか。
自分の身に降りかかる全てのことを忘れるように、僕はその日早々にベッドへと横になった。だが生憎僕の思惑とは裏腹に、物思いを始めた体は休むことを知らない。
「緑谷」
目を閉じた僕に、背後から声が掛けられる。
「そっちで一緒に寝てもいいか」
「…………うん」
僕が返事をするや否や、ふわりと轟くんの香りが強くなる。そうしてすぐに、自分のものではない温度を肌に感じた。結局のところ、僕は轟くんに甘いのだ。背中越しに感じる、自分より少し低めのこの体温に紛れもなく安心する自分がいる。どこまでも危うい彼に抱く恐れにも似た感情を塗り替えていくほどには、僕の世界は轟くんでいっぱいだった。
壁に掛けられた時計の秒針の音と、隣から感じる心音。目を閉じてそれらが混ざり合う音を聞いていれば、僕の意識はゆるゆると落ちていった。
完全に意識が落ちるその間際、薄れゆく意識の中で轟くんの声を耳にする。
「誰も知らない場所に行こう」
その声は、願っているようだった。震えるくちびるに泡みたいな願いをのせて、途切れてしまいそうなほど細い糸に縋っているようだった。その問いに答えを返さなければ――、という意思に反して、僕の意識は暗転していく。――そうしてやがて、何も見えなくなった。
「この世のどこでもない、誰も知らない場所へ」
緑谷の意識が完全に落ちた後、轟はそう口にした。そうしてなにかを耐えるように唇を噛み締めると、隣にいる緑谷をぎゅうと抱き締める。
それは祈りだった。どこまでも混じり気のない、ただ緑谷出久という人間だけを想った祈り。決して届くことのない祈りを、現実のものにしたくなる。決して届くはずのなかった言葉が、彼に届いたように。
自分の首を絞めたのは、紛れもなく自分自身。どうしたってその事実が変わることはない。窓から差し込む月明かりに、緑谷のまあるい頬が光を帯びていく。轟は唇を噛み締めながら、まるで名残惜しむように緑谷の頬にそっと触れた。温かだった。轟焦凍という人間にとって、緑谷出久という男は、どこまでも温かかった。
その夜、轟が緑谷の眠るベッドに戻ることはなかった。温かなベッドから抜け出した轟は、ポケットから取り出したスマートフォンでどこかに電話を掛けはじめる。月明かりに照らされた轟の表情はひどく苦しげだった。唇に噛み締めた痕を携えながら、轟はぽつりぽつりと何かを話していた。
ただ、それを知る者はいない。――誰も、いないのだ。
***
夏の雨というものは存外面倒臭い。ただでさえ日本の夏は湿度が高くてじめじめするというのに、それに拍車をかけるような雨は勘弁してほしいものである。そんな憂鬱な雨が折角の休日である日曜日に降られたとあっては、どこかへ出かける気にもならない。精々窓の外から雨だなあ、だなんて眺める程度で終わるだろうに。
「タイミング悪いなあ……」
窓の外の景色を横目に、僕はスマホを握り締める。誰が好き好んでこんな日に外に出るんだろうかと思いはするものの、そういうわけにはいかなった。なぜなら、この日を指定し誘いをかけたのが僕自身なのだから。
「轟くん、ちょっと出てくるね。お昼は大丈夫だから」
これは一緒に住み始めて初めて知ったことだが、轟くんは朝が弱い。いつもはベッドで寝ているというのに、なぜか彼は昨夜はソファで寝落ちしたようだった。でも、轟くんは昨日僕のベッドで一緒に寝たんじゃなかったか? もしかしなくても、僕が何かしてしまったんだろうか。
すうすうと寝息を立てる轟くんにそんな一抹の不安を覚えながらも、僕は家を出た。轟くんのことも気にはなるけれど、生憎と今日は先約がある。トークアプリのトーク画面を開いて、ついこの間送ったばかりのメッセージに視線を落とす。
『一度、会えませんか』
そろそろ、はっきりさせなくてはならないのだ。僕の人生には、僕の責任が伴うのだから。この不可解な出来事の連続が、僕の預かり知らぬところで、誰かによって意図的に行われていること。それに目を瞑っていられるほど、僕は鈍感でも無責任でもないつもりだった。
そう考えてみれば、始まりなど一つしか思い当たらない。あの日、あの喫茶店。僕が、同業の彼に断りを入れたあの場所。そして彼が手渡したあのムービーチケットこそが、すべての始まり。
店内に足を踏み入れれば、からん、というベルの音が鳴る。そう広くもない店内だ。ぐるりと視線を回したその先に、彼はいた。
「やあ、緑谷くん」
彼は僕の視線に気付くと、人が好さそうな笑みを浮かべる。事実、彼は人が好いのだ。ただ今の僕にとっては、それがひどく訝しげなものに思われてならない。僕と、轟くんと、先生、それからかっちゃん。僕たちの間で何かが動いて、そうして何かが少しずつ壊れはじめている。――緩やかに、けれども確実に。
「あれは、わざとだったんです?」
「へ?」
「だから、あのムービーチケットです」
席に腰掛けるなり、僕は早々に切り出す。あくまでわからないと行った表情の彼に、僕は眉を顰めた。
「あなたが僕に渡したんじゃないですか」
僕がそう口にすると、彼は目をぱちくりとさせながら、しどろもどろに言葉を漏らす。一体、なにがどうなっているんだろうか。
「いや、あれは確かに僕が人からもらったものだが……その、なにかあったのかい?」
その言葉を聞くなり、がつん、と頭を殴られるような衝撃が奔はしる。まるで頭の中に嵐が吹き荒れて、かと思えば急になにも聞こえなくなったような。そんな感覚のなか、僕はやっとの思いで言葉を口にした。
「すみません、てっきりあなたかと思っていました」
「……というのは?」
「丸がついていたんです。チケットの裏に」
それから僕は、まるで懺悔でもしているかのようにこれまでのことを彼に話した。あのムービーチケットを使った先で轟焦凍という人間に出会ったこと。僕の絵にまるで興味のない主催者が僕の個展を開いたこと。オークションが中止になったこと。そして彼が「画家の緑谷出久」としての僕を知っていたこと。
こうして話してみれば、おかしいと思わない方がおかしなくらいには、あのムービーチケットを中心に全てが動いている。僕も、先生も、轟くんも、かっちゃんも、手のひらの上で転がされているかのように。
話し終えると、鈍い沈黙があたりには落ちた。ただでさえ然程広くはない店内に、この雨だ。客足が遠のくのも無理はない。僕らの間に沈黙が落ちれば、まるで示し合わせたかのように、店内は静まりかえった。
「実は、その件で今日あなたに聞きたかったんです。こんな雨の日にすみません」
「いやいや、久々に緑谷くんに会えて嬉しいよ」
彼は一度コーヒーカップに口をつけると、ふう、と息を吐き出す。恥ずかしさに苛さいなまれながらも、僕は自分の息を整えるので必死だった。彼を真似て目の前にあるカップに口をつけるも、その味が全くわからない。窓の外では、ぐるぐると回り続ける思考を嘲笑うかのように雨が降っている。土砂降りだ。
「でも、話を聞く限り偶然とは思い難いね。僕を疑うのも無理はない」
「……そのチケットは、誰から?」
「なに、緑谷くんの知り合いではないさ。少なくとも絵にはなんの興味も示さない男だからね」
「そうでしたか」
確かにそんな男だと言うのならば、僕の知り合いではない。自分で口にしていて悲しいことに、画家時代の交友関係は決して広くはないのだ。
これですべてが振り出しに戻ってしまった。思わず吐いてしまった溜息を、雨音が飲み込んでいく。
——そういえば、傘をあの会場に置き忘れていた。
「でも」
彼は急に言葉を区切った。そうして彼の瞳がきゅう、とと細められる。見たことのない顔だった。普段の人の良さそうな風貌はとたんに形なりを潜めた、ひどく真剣な表情。
「さっきも言った通り、僕にはどうも無関係だとは思えないな」
「それってどういう——」
「だから、いるんじゃないのかな。案外きみのすぐ近くに」
——元凶が。
音にはならなかった彼の言葉が聞こえた。そんな言葉と同時に、彼の力強い瞳が僕を真っ直ぐに射抜く。それにどきりと心臓が跳ねたのは、どうしてだろうか。
「………………」
僕の知らない、轟くんのこと。僕が口にしなかった、僕の秘密。そしてそれを知っていて口にしなかった、轟くん。
「オークションの中止も、このムービーチケットの原因も」
「ちがいます」
やめてくれ。もう、それ以上は聞きたくない。向かい合った彼の口から言わんとしていること、その内容を想像するだけで拒絶の言葉が口を突いた。
ちがう。ちがうのだ。いや、本当にそうなのか? 轟くんは僕を「緑谷出久」だと知っていただけの、「氷叢焦凍」だった――本当に?
「違うんです――」
違う。いいや、違わない。否定したい自分と、どこかそれを冷静に見つめる自分との間で、ぐらぐらと思考が揺れる。
そうだ。あの時も、僕は違うと言った。張りぼての空から見える景色も、窓の外からこちらを覗く人影に、「違う」と口にした。それはどうしてなのだろうか? 一体何をもって、僕は「違う」だなんて口にした?――いや、
一体何と、違っていたかった?
「――――――っ、」
玉座。張りぼての空。いつもと同じ窓の外。ぼくだ。紛れもない、ぼくの王国だ。青を願って、青に奪われて、それでも青を望む、僕自身にほかならない。それならどうして、あの空は途切れたのだろう?
ひどく子供じみた境界線。白いチョークの石灰の匂い。白線の内側と外側。王国とその外を隔てる境界線。……そうだ、あの時僕は見た。窓の外からこちらを覗く、色違いの瞳を。なにかを求めるように、それでいて羨むかのようにこちらを見る、轟くんの姿を。
その姿に、僕は見覚えがあった。温度のある眼差し。何かを探し求めて、その先に望んだものがあると信じてやまない瞳の色。
――ぼくだ。先生を失う前の、僕。
目の前の男は、なにかを察したかのように口を開いた。彼が何を考えていたのか、僕には知る由もなければそんな余裕もない。ただ、ゆっくりと口を開いた彼の表情がひどく寂しげで、そればかりが嫌に目に付いた。
「緑谷くん」
「…………はい」
「もう一度きみに聞きたい。――絵はもう描かないのかい?」
「…………それ、は」
描かないんじゃない。描けないのだ。あの時のことを思い出したら、手が震える。それは間違いじゃない。そうだ。正真正銘、僕は泳げなくなった。
それなのに、どうして断ることができないのだろう。以前なら、もっとはっきりと言えたはずだった。元同業の彼になんと言われようと、断ることができたというのに。どうして今こんなにも、僕は揺れているのだろう。どうしてあの頃を、あの青を、あの色違いの瞳を思い出すのだろう。
挨拶もそこそこに喫茶店を出て、相変わらず泣いてばかりの空を見上げた。
「あの時の傘……」
あのビルの会場に置き忘れたあの傘は、今もまだあの場所にあるだろうか。この店に入る前手にしていた傘は変わらず手元にあるのだから、後から取りに行けばいい。そう頭ではわかっているのに、僕の足は自然とあの会場となったビルへと向かっていた。
***
喉が焼け付くような感覚で目が覚める。ここ最近の殺人的な暑さのせいで働かざるを得なくなったエアコンだけが、慎ましく駆動音を響かせていた。体を起こしてあたりを見渡してみても、そこに緑谷の気配はない。
グラスになみなみと注いだ水を飲み干して、俺は深く息を吐き出した。
「………………」
昨夜、緑谷を抱き締めた感触。まだ手の中に残るそれに、手のひらを開いては閉じることを繰り返す。意識がない時にしか口にできないのは、ひとえに俺が弱くて、狡くて、甘いから。
最後に残るのは、何もない。何も、ないのだ。そのことを辛く思うのだとか、どうして今更だなんて思うには、どうやらもうこの体は疲れ果ててしまったようだ。緑谷出久という画家に会いたいと願ったことが崩壊のはじまりだというのならば、この人生はもとより壊れている。
「…………怒るよな、あいつ」
良く言えば執着心。悪く言えば――なんだろうか。少なくとも、本人が決めた催し物を中止にさせるなんてことは、到底許容されるべき行為なんかじゃない。
見慣れた手のひら。この皮膚の内側には、幾度となく呪った存在の血が流れている。変えようのないその事実は、言うなれば烙印だ。消えることはない。この世界に産み落とされてから、ずっと俺に付いて回るような。
湿度の高い空気が肌に纏わりつく。カーテンを開ければ、雨が降っていた。機嫌が悪いんですと言わんばかりの空が、土砂降りの雨を降らせている。
「…………約束」
例えば、緑谷と一緒に過ごす中で知ったクロワッサンのことだとか。雨に濡れながら交わしたくちびるの温度だとか。そういった緑谷との思い出を指先でなぞるごとに、身動きが取れなくなっていく。緑谷は何も知らない。何も、知らないから。
『約束は守ってくださいね』
「……………はは、」
この世のどこでもない、誰も知らない場所。そんなありふれた現実逃避に縋っている。今だってこんなにも、馬鹿みたいに願っている。
ぐしゃりと前髪を潰して俯く。湿った酸素が肺を満たして、溺れてしまいそうだ。雨の音がひどくなるごとに、俺がちいさくなっていく。
「ここから先には、なにもない」
なるほど確かに、何もない。あれほどまでに怒りを覚えた言葉すら、さみしいだけの真実だったわけだ。どこまでも孤独だ。どこまでも嘘だ。擦り減って、ちいさくなって、そうして消えていくのをただただ待っている。――終わりが来るのを、待っている。
外に出てみれば、当たり前だが人通りは少ない。こんな雨の日にわざわざ出歩く物好きなんているわけがないとも思うのだから、周りから見れば俺もそんな物好きに見られているのだろう。いいのだ。奇異な目で見られることに、慣れていないわけじゃない。
「遅かったな」
「……………………」
目的の人物は、すぐそこにいた。普段あれだけ忙しいとのたまう癖に、こういう時だけきっちり来やがる。今更隠すつもりなんて毛頭ないから、盛大に顔を歪めてやった。
「まったく、一体何が不満なんだお前は」
わざとらしくため息を吐き出した男――クソ親父は、よほど俺に嫌がらせをしたいらしい。なにもこんな場所を指定しなくてもいいというのに。こんな――こんな、緑谷の絵が飾られている場所を。
「ちゃんとここに来たんだ。それでいいだろ」
「…………ふん。まあ、良いとしよう」
目の前のクソ親父は、そう言って書類を差し出す。そこに何が書いてあるのか、俺は知っていた。だってそれは正真正銘、俺が結んだ約束にほかならないのだから。
「…………こんなもの、」
そうだ。これさえなければ、こんなことにはならなかった。こんなふうにクソ親父に良いように利用されることもなかったはずだ。けれども、これがなければ、緑谷と出会うこともなかった。
「どうした?すべてはお前の望み通りになったはずだろう」
「………………うるさい」
「おまえが望んだように、緑谷出久を目の前に連れてきた。その代わりにおまえは、親子関係の公表を約束したじゃないか」
「――黙れッッッ!!!」
赤い。赤くて目が眩む。真っ暗なようにも、眩しいようにも見える。どくどくと心臓が音を立てる。ふーっ、ふーっ、と吐き出される自分の荒い息の音が煩わしい。
「え?」
それに混じって、ぽつりと小さな声が聞こえた。男の声だ。いや、男にしては高めの、けれども落ち着いた声。思わずその声の出どころを振り向く。まさか、そんな、なんてことを思いながらも、視線はゆっくりとその人影を捉える。すべてがスローモーションのようだった。いやだ。先走る思考に、視線が追い付いてしまう。ゆっくりと、それでいてはっきりと、
それが瞳に映る。――緑色の、希った人物を、捉える。
「―――――――――――ッッッ!!!!!」
どくん! と心臓が爆発する。ぁ、ぁ、だなんて、意味のない音が口の端から漏れ出した。色を、音を、匂いを、世界がそのすべてを置き去りにした。意識の中で、ただひとつ緑色だけが明るい。土砂降りの雨の中。その鮮やかさに眩むように、思考が澱む。どこかでぴしゃり、と雷の音が鳴った。
――知られてしまった。
一拍ののちに、弾かれたように脚が地面を蹴る。ひとたび蹴り出してしまえば、あとはもうなすがままだった。こちらを見つめる緑谷の瞳が脳裏に焼きついてしまっている。ゆらゆらと瞳が揺れるさまと、隠しきれない動揺のあとが、何より恐ろしくてたまらなかった。
(見ないでくれ)
おまえのその瞳の中に、本当の俺を映さないでくれ。この世界じゃ、まだ足りない。思い描いたものは、現実に成り得ない。継ぎ接ぎだらけの現実をどうにか取り繕って、そうやって自分の心を、おまえを、騙してきたというのに。だというのに、緑谷のその瞳ひとつで、必死に創りあげてきたそれが壊れる音がした。
そうだ。行き止まりだ。ここから先には、なにもない。
ざあざあと降りしきる雨に体温を奪われ���ば、次第に思考は��を帯びていく。ひどく寒い。あの会場を飛び出したきり無我夢中で走って、気が付けば見たことのない景色に囲まれていた。ここはどこなんだろうか。ひどく寒い。
「…………寒い」
寒い。さむい。ああ、さむい。季節は夏だというのに、どうしてこんなにも寒いんだ。腹の奥から底冷えするような、悪寒にも似たなにかがせり上がってくる。視界がぐらぐらと揺れた。ああ、正真正銘の行き止まりだ。
「轟くん」
背後から掛けられた声に、びくりと体が揺れる。決して大きな声なんかじゃない。それでも、このひどい雨のなかでさえ、その声ははっきりと俺の耳に届いた。そして緑谷の声は、
俺を重い石を飲み込んだかのような感覚にさせた。
「どうして教えてくれなかったの?」
その声を聞いて、少なからず驚く。てっきり裏切られた、騙されたんだと落ち込んでいるか、あるいは怒っているかと思っていたのだ。けれども緑谷の声色には落胆も怒りも滲んでいない。そこにあるのは、強さだった。どこまでもまっすぐな、強さ。
「これは、俺の問題だから」
ああ、なんだか泣きそうだ。こんなの柄じゃない。最後に泣いたのなんていつぶりだろうか。冷静になろうと必死でそんな思考を回しながらも、最後の最後に甘えが出てしまう。雨だから泣いたってばれないだろうなんて、そんな甘えが。
「……なんで、そんなこというの」
やめてくれ。いま、おまえの声を聴きたくない。今まで必死で我慢してきた何かが、体の奥で荒れ狂っていたなにかが、不意に吐き出されてしまいそうになる。
そうだ。俺は緑谷出久という人間を敬愛していて、憧れていた。最初はただそれだけだったはずだ。緑谷に出会えればそれだけでよかった。半ば願望混じりの「もしも」を、親父との約束なんて形に押し込めた。
緑谷はなにも知らない。知らないから、傍にいられた。それももう、おしまいだった。
「――――なんでッ」
すう、と空気を切り裂く音がした。それが緑谷の吐息の音だということに、数秒遅れて気が付く。屋内でもなんでもないのに、閉鎖されているかのような圧迫感。それが、不意に膨らんで、張り詰めて、そうして弾けた。
「なんで、そんなこと言うんだよ!!!」
「――――――っ、」
そこでようやく察した。緑谷は、怒っている。でも、どうして怒っているのかがわからない。何にそんなに怒っているのかが、俺にはどうしてもわからない。それよりも、どうして今更になってそんなことを言うんだろうか。――いや、ちがう。これを緑谷に求めるのは間違っている。最初からこの決断をしたのは紛れもない、自分自身なんだから。
「ねえ」
「……なんだ」
「こっち向いてよ」
雨が降っている。緑谷と俺の距離が縮まることはない。最初から、俺と緑谷の間には埋まることのない溝があった。それくらい知っていた。知っていて、欲しがった。
約束は守る。罰なら受ける。だからこれ以上、近づかないでほしい。近づいて欲しいだなんて欲望が、頭をもたげてしまうから。
「きみがはじめた」
「………………」
「全部、きみがはじめたんだ」
「それなのにどうして逃げるんだよ」
「おまえには、関係のないことだから」
「関係なくないだろ!!!」
傷ついたような眼をしていた。意味がわからなかった。痛くてたまらないと言わんばかりの目が、俺を見つめる。どうしてそうまでして緑谷は俺に構う?わからない。緑谷のことが好きで、追いかけて、一目見たくて、そうしてやっとここまできたというのに。それなのに、肝心の緑谷のことが、なにひとつわからない。緑谷の痛みが、おれにはわからない。
「どうしてだ?」
どうしてそうまで、緑谷は怒っているんだろう。どうしてそうまで、傷ついた表情を見せるのだろう。どくりと心臓が音を立てる。ひゅうひゅうと喉から掠れた音が漏れるから、きっと呼吸が下手になったにちがいない。
「どうして関係なくないんだ?」
緑谷のまあるい瞳が、さらに大きくなる。緑色の光が不安定に揺れた。ゆらゆらと溶け出したそのさまは、何かに似ている。なんだったか――そう、そうだ。あのとき、あの映画館で初めて緑谷と出会った日。あの日の、緑谷のまなざしだ。
「それは」
そう言って、緑谷は言葉を区切る。戸惑っているようでありながら、なにかを恐れているようにも思えた。目の前に選択肢があるというのに、それに手を伸ばすのを躊躇うかのような素振りは、いかにも緑谷らしくない。なにが一体、そんなに怖いのだろう。
わからない。わからないままでよかった。わからないと言えるままでいたかった。けれどもう遅い。わからないままでいいなんて思える距離感には、もう戻れなかった。関係なくない、なんて言葉に浅ましい期待をしてしまっている時点で、もう。
「それはぼくが、きみのことを好きだから」
音が止んだ。鼓膜に伝わった空気の振動は、緑谷の声だけを捉える。その言葉の意味を考えるより先に、頭の中に音のかたちだけが伝わる。すき。すき。すき。頭の中でその音を数回繰り返したところで、やっと思考が追い付いてきたようだ。理解したその瞬間に、俺の足は動いていた。視線の先には、緑谷がいた。この雨でずぶ濡れになった、緑谷が。
(震えてる)
こんな豪雨のなか傘も差さず、大の大人ふたりが向き合っている。考えただけで馬鹿みたいだ。傍から見れば、きっと相当間抜けな人間に映っているにちがいない。いつもならきっと、そんなことを考えるだろう。そう、こんなはずじゃないのだ。こんな風に好きと言われて、頭の中が真っ白になって、緑谷の声ばかりが頭の中を埋め尽くしていくかのような。地に足をつけているはずなのに、重力を感じない。体が突然軽くなったようだった。苦しみだとか痛みを思い出さなければ、どこかに飛んでいってしまいそうなくらいには。
――緑谷が、いる。
願って、願ってやまなかったその事実を、当たり前だなんて無碍にした��もりなど一度としてない。それでも、知らず知らずのうちに麻痺していった心が、あの日まで巻き戻ったようだった。
「逃げるなよ」
どこまでもかっこいい緑谷は、どこまでもかっこいいことを言いながら、その実頬を真っ赤に染めている。さきほどまで感じていたはずの寒さは、いつの間にか消えている。それどころか、熱い。熱くてたまらない。体が思考を置き去りにする。どっどっ、と否応なしに駆け上がっていく心臓は、期待と恐れを帯びていた。どこまでも熱くて、それでいてどこまでも恐ろしい。自分自身の存在すら塗りつぶしていくような、圧倒的なまでの熱量。
「逃げるなよ、轟くん」
――ぎらり。
そこでようやく悟った。緑谷は、優しい。優しいがゆえに、優しくなどないのだ。胸の内を見透かして、そこに巣食う弱さだとか甘えを許さない。いや、許さなくなった。緑谷出久という人間が、確かにはっきりとかたちを変えていく。
変わっていくのだ、緑谷は。未来に向かって、どこまでも。そこに感じたのは、羨ましさのような、眩しさのようでもあるけれど、それはほかでもない寂しさにほかならない。おいて行かれる人間の、寂しさに。
目を閉じる。雨の音が戻ってくる。いまだに体を包み込む熱量は、たぶんきっと、ちっとも特別なんかじゃないのだ。
ああ、俺は一体なにがしたかったんだろう。
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