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#脱炭素の嘘
ari0921 · 2 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和四年(2022)5月31日(火曜日)
    通巻第7353号  
 リチウム最大埋蔵地は物騒なコンゴの山奥だった
   南東部マノノ鉱山で4億トンのリチウム=世界最大の埋蔵量
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 EVブーム。さらに補助金がつくので軽EVは180万円台。東京都からの補助金を加えると、130万円台で、軽EVを買える。おりからガソリン高騰、EV懐疑論をよそに売れ行きが伸びているそうな。
 しかしEVの死命を制するのはリチウム・イオン電池とコバルトである。電池の質そのものは大きなイノベーションが相次いで、位置も車底におかれてスペース問題は解決した。
またEVスタンドも増えている。乾電池業界ではかなり以前からリチウム・イオン電池は、マンガン電池の十倍のパワーがあるとして重宝されてきた。
 これまでは南米とジンバブエなど南半球で鉱山開発がすすみ、カナダの企業が南米産の採掘、運送、精製、販売を手がけてきた。豪は原石のまま、中国へ輸出し、精製をまかせてきた。
鉱石から精製されるのは6%でしかなく、残りは産業廃棄物だ。なぜ、こういう非効率的なプロセスなのかと言えば、西側がとりつかれた「脱炭素」である。
地球温暖化は嘘とわかっているのにカーボンゼロ実現などと、異様な構造を生み出した。ちなみに佐渡金山は廃れたが、日本でも鹿児島に菱刈金山があって、住友金属鉱業は金を含有する鉱石をトラックで港に鹿子木まで運び、そこで精製している。
 四億トンのリチウム埋蔵が確認されたのはコンゴ南東部マノノ。タンガニーカ県に属し、最近は近くに空港も出来た。地理的には内陸部だが、ルクシ川を利用する船の水運が開けている。
問題は部族が乱闘、戦闘をくりかえすので、治安の悪さが鉱山開発を妨げていることである。
 近くのコバルト鉱山では中国人の鉱山技師や現場監督の誘拐、殺害事件が後を絶たず、治安部隊は信用がなく、まして現地は部族同士の争いが絶えない。採掘利権をめぐって部族同士が戦闘を繰り返してきた。
コンゴ民主共和国が嘗て「ザイール」を国名としていたときの独裁者はモブツ・セセ・セコ(大統領在任は1965~1997)、世界最大のコバルト産出を誇り、利権獲得の腐敗がはびこった。コバルトはハイテク材料に欠かせない戦略的鉱物資源とはわかっていたが、今日ほどの需要はなかった。
1990年代にITブームが来て、レアアースに焦点が移行した時期もあった。
 ちなみにレアアースは80%を中国が生産するが、埋蔵世界一はアメリカだ。脱炭素、クリーンエネルギーとかで、石炭まで制限されている西側ゆえに、アメリカにおけるレアアース鉱山の開発は手がつけられないままである。
だから脱炭素は中国とロシアが裨益する。とくに石炭火力発言を増やし公害をまきちらして、平然と環境破壊、重労働を気にもしないで生産できる中国は、西側のアキレス腱を握っていることになる。
 
 コバルト埋蔵はコンゴのほかにはカナダで生産されている。日本ではエンジンの触媒や高速切断に使われた。EVブームがきて、リチウム・イオン電池のスペックが替わり、むしろリチウム需要が天文学的となった。
 コンゴの奥地、マノノはダイヤモンド鉱床に付帯して露天掘りというが、はたして内陸部からゲリラを戦いながら長距離を運ぶわけだから、西側において末端価格は暴騰するに決まっている。
 さて国際政治における問題は何かと言えば、レアアースとレアメタルの供給が中国に握られていること。アルミとニッケルはロシア企業が強いことである。
 そして皮肉なことにリチウム・イオン電池メーカーは日本勢が圧倒的につよくパナソニック、TDK、村田製作所、昭和電工、エクセルなどが競う。近年は中国のCATL、韓国のLG化学などの猛追が顕著になってきた。
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honyakusho · 8 months
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2023年7月26日に発売予定の翻訳書
7月26日(水)には22冊の翻訳書が発売予定です。 そのうちハーパーコリンズ・ジャパンのロマンスが14冊を占めます。
幽霊綺譚 : ドイツ・ロマン派幻想短篇集
ヨハン・アウグスト・アーペル/著 フリードリヒ・ラウン/著 ハインリヒ・クラウレン/著 ほか
国書刊行会
すべてを電化せよ! : 科学と実現可能な技術に基づく脱炭素化のアクションプラン
Saul Griffith/著 鴨澤眞夫/翻訳
オライリー・ジャパン
無目的 : 行き当たりばったりの思想
トム・ルッツ/著 田畑暁生/翻訳
青土社
毒殺の化学 : 世界を震撼させた11の毒
ニール・ブラッドベリー/著 五十嵐加奈子/翻訳
青土社
SELを成功に導くための5つの要素
ローラ・ウィーヴァ―/著 マーク・ワイディング/著 高見佐知/翻訳 内藤翠/翻訳 吉田新一郎/翻訳
新評論
政策立案の技法(第2版)
ユージン・バーダック/著 エリック・M・パタシュンック/著 白石賢司/翻訳 鍋島学/翻訳 ほか
東洋経済新報社
大きく考えることの魔術【新装版】
ダビッド・J・シュワルツ/著 桑名一央/翻訳
実務教育出版
王子を宿したシンデレラ
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リン・グレアム/著 岬一花/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
つれない花婿
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ナタリー・リバース/著 青海まこ/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
過ちの代償
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キャロル・モーティマー/著 澤木香奈/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
孤独な王と家をなくしたナニー
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キム・ローレンス/著 大田朋子/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
ガラスの靴のゆくえ
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レベッカ・ウインターズ/著 後藤美香/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
大富豪の十五年愛の奇跡
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ソフィー・ペンブローク/著 川合りりこ/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
ふさわしき妻は
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ジュリア・ジャスティス/著 遠坂恵子/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
彼の名は言えない
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サンドラ・マートン/著 漆原麗/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
トスカーナの花嫁
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ダイアナ・ハミルトン/著 愛甲玲/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
無邪気なシンデレラ
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ダイアナ・パーマー/著 片桐ゆか/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
十八歳の臆病な花嫁
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サラ・モーガン/著 森香夏子/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
危険な嘘
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ペニー・ジョーダン/著 永幡みちこ/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
ボスに贈る宝物
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キャシー・ディノスキー/著 井上円/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
隠れ公爵がくれた愛の果実
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サラ・マロリー/著 藤倉詩音/翻訳
ハーパーコリンズ・ジャパン
イット・スターツ・ウィズ・アス
コリーン・フーヴァー/著 相山夏奏/翻訳
二見書房
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f-1uff · 2 years
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「最近家から近い行きつけのバーがあって」
「じゃあ俺の家からも近いね」
「ちなみに今週はこの日私、おやすみなのですが」
「その日仕事帰りで良ければ空いてる」
「一緒に行っちゃいます?」
「ん、連れてって」
──太陽が身を隠す頃。窓は無く、入口は一つのランプで上から照らされている。扉に並べられたアルファベットの羅列が、店名。
「ねえ、マスター。明日男の人と一緒に来るかもしれないです」
「へえ、良いじゃない。連れておいで」
お通しはゴーヤの和物。ツナと生姜がアクセントになっていて、程良い苦味がアルコールを薄めたトニックに添う。
人を連れてくると話した返事が「いつも一人なのに」という苦い言葉で始まっていたら、足繁く通ってはいないだろう。フランクで、距離感の掴み方が上手いのに、私の名前は呼び捨て。心地が良い。
言葉節も、料理も、私を甘やかしてくれるようでないと二回目はない。
珍しくジントニック二杯で帰路に着いた夜。
着る服に迷う時間を長めに取らないと、明日の私が困ってしまうから。
「明日の時間、遅くなりそうなら俺から連絡する」
「よろしくお願いします」
「じゃあ、おやすみ」
「今日さ、申し訳ないんだけど本屋寄っていい?」
「いつものところなら私向かいますよ」
「助かる、ありがとう」
ちょっとした業務連絡のようなメッセージ。
何だか義務的で、新鮮だった。
抑もの話、普段四十代の男性に囲まれてお酒を飲む人種なのだ。二人きりで話したことなどほぼなかった。なかったけれど、同じ感覚を共有していた。
とは言えども家が近ければ行動範囲もほぼ同じ。ポイントカードやクレジットカードの話で盛り上がった時、同じ本屋のポイントカードを持っていることで共通意識が生まれた話は記憶に新しい。
「ごめん、レジ並んでて。待った?」
「今来たところです」
「何この定型文みたいな、」
言葉尻に混ざる微笑。バケットハットの陰に弧を描く瞳の線がやけに眩しく見える。漸く陽が沈みかけた頃だと言うのにサングラスが必要だと言う話は聞いていない。
そのまま足を運んだ先は蛇腹の重そうな金属が未だ入口を閉ざしている。一軒先に挟むのはどうかという私の提案に間髪入れず承諾する様は、私の言葉を一度も否定したことがない人間らしいスピードだった。
席を別のお店で確保できた、はいいものの。元々同じ居酒屋の常連として繋がった男女二人。勿論通っていたのは私と彼だけではない、訳で、つまり。
「…あれ?君達だけ?後からおじさん達来るんでしょ?」
「いや、今日は僕と彼女二人です」
「あたし達から見たら意外な組み合わせというか」
「なるほど…なるほどねえ」
案の定、捕まった。顔見知りの夫婦。
歳上に囲われる二十代男女。年齢だけなら寧ろここ二人で酌み交わしていなかったことの方が驚くべきではとも思ったが、お互い大勢の飲みの場では自己を八割も主張しないできた若者なのだ。「おじさん」の接待に慣れすぎている。
返事もなあなあに、距離のある席に腰掛けて。ドリンクメニューを眺めては彼の耳元に柑橘がいいなと音を押し込む。騒めく店内は、口と耳の距離を近付けないと疎通ができない。
「じゃあレモンサワーと緑茶ハイ、メガで」
ああ、ああ。サイズについては何も言ってさえいないのに。普通のじゃ足りないし一杯だけだからね、と言わんばかりの悪戯な視線。口数は少なくとも、彼の黒目は如何にも物を語りたがるようだった。
そこから、何となく、なんとなく。地元の話だったり、普段の生活の話だったり、仕事の話だったり、ご飯の話だったり、家族の話だったり。知っているようで知らなかったことを、投げては掴み、掴んでは投げる。初対面ではないのに、小さなお見合いのようで。
「そういえば私、何とお呼びしたら」
「皆から呼ばれている渾名でいいよ?」
それなら。下の名前に「さ」と「ん」の2文字を付け足して、声に出してみる。同じでは意味がないのだ。
「…それ、はじめて言われたかも」
苗字が珍しいから。下の名前で呼ぶのは家族ぐらいだと話す彼は擽ったそうに瞬きを繰り返す。視線は氷と炭酸が混ざる手元のジョッキ。飲酒という名目の元、顔の下半分を覆う白を取り払う口実。コミュニケーションにおいて、呼吸数や視線、口元の動きまでを加味する私にとっては飲食の場が一番円滑。
頃合いを見計らい、さて一つの問題。義務教育内では教わらない、社会人ならではの。そう、勘定問題というカテゴリー。ここで挙げられる条件は以下の通り。
・女性二十代半ば、社会人
・男性二十代後半、社会人
・初対面ではないが二人きりでの食事は経験なし
・勿論交際している訳でもなし
ここで全額奢られるのも、かと言って男性の顔を立てないのも。一杯ずつではあったし、小銭分三桁を財布から取り出して。
「マスター、来ちゃった!」
「待ってたよ。お連れさんは初めましてだよね」
「はい、お手柔らかに」
関係性を深く追求されないカウンター越しの会話が心地良い。ビールを嗜む彼のお勧めを飲んだり、食べたいものを同時に言って重なる心地良さに笑ったり。下の名前で呼ぶと、柔和な笑みを携えて声を返してくれる。
「なあに?」
「茄子、食べられます?」
「俺ね、茄子は」
凄い好き。
勿体ぶるような、思わせぶるような。私への言及ではないはずなのに、照れてしまう。
注文を六回程繰り返した辺りで、彼が携帯電話に目を向ける。私もよく知る名前。近場でよく飲む知り合いの常連。所謂「おじさん達」のカテゴライズ。着信音と共にスライドバーがふる、ふるりと揺れている。
「…出ていい?」
「どうぞ」
親指のスライド。
「僕、今飲んでるんですけど」
一声目は不服が入り混じっている。私よりも定期的に飲んでいる相手な筈なのに、と少しだけ腹部の筋が動くように笑ってしまった。
言葉少なに返したかと思うと、彼は携帯電話を私に預ける。困惑したまま受け取り、もしもし、と一言。
「誰?」
「私です」
「どういうこと…?二人で飲んでんの?」
「まあ」
「今ガルバ居るんだけど行っていいなら行くわ」
「おじさんムーブしてますねえ、じゃあ後で」
カウンターからテーブルへ席を移動。
合流したのはおじさんだけ、かと思いきや、立ち寄っただけの先の夫婦の奥さんまで。またいつもの飲み会になってしまった。
だらだらと取り留めのない会話が繰り広げられる中、空いたグラスに気を配る二十代。飲みに慣れすぎてしまった。隣に座る彼のグラスが空く頃。
「何飲みます?」
「そろそろ焼酎飲みた���かな」
「私もお酒頼みたいんですけど、じゃあ」
──さんの、飲みたいお酒。二杯頼んじゃってください。
──ちゃんが好きそうなのね…了解。
「…ねえ、君らはどういう関係なの?いつの間にそんな名前で呼び合うように、」
目敏いというか耳敏いというか。
のらりくらりと交わす術を覚えた二人に死角はない。グラスを握る手がマイクを握る手に変わっても、歳上に飲ませて曲を入れて回して質問は交わす。肝臓だって若いのだ。
「じゃあ、お疲れ」
解散は午前三時を過ぎた頃。至って正気の沙汰ではないが、まあ致し方なし。帰り道は同じ。空気と同じくらいに生温い会話を続けては、近付く家までの距離。どうしても消化が不良な気がして。
「ね、…もし、まだ飲めそうならもう少しだけ飲みたいです」
「良いね、俺も。コンビニ寄っちゃおうか」
「大好きなベンチがあるので良かったらそこで」
足取り緩やかに緑とオレンジと赤のカラーリングで数字を模した店舗へ。冷えた缶を二人片手に、私はアイスも片手に。
「ここねえ、よく飲んで帰る最中に座って、友人とお喋りしたりするんです」
「緑多くて好き。こんなところあったんだ」
小気味良く響く缶の開封音。こぷこぷと喉を潤して、バニラアイスを包む最中の谷に沿って割る。
「あれ、こんなつもりじゃあ」
「サイズ感があまり宜しくなさげだね?」
思ったより少ない列で割れたアイスクリームを指先で摘む。口元へ差し出せば、素直に開かれはくりと齧られ。溢れる糖分を指で拭う横顔は彫刻のようで、瞳を奪われる。言葉少なに幾度か、私と彼に運ぶ作業。アルコールに浸かった身体に甘味はよく染み込む。
「おいし」
張った糸は緩めば緩む程、真っ直ぐな回路が声帯を揺らす。頬さえ緩んだ自覚がそこにはあった。
するりと、冷えた指先が鎖骨と首筋を這う感覚。融けた思考が現実に引き戻される間もなく、下顎に彼の人差し指。親指を添えられたかと思うと、速度を有することなく顔を上げられ、隣を向くように動かされ、曲がらない視線をレンズ越しに注がれる。
知らない。…知らない、そんな扇情的な目なんて。
泳ぎそうになる瞳は、近付く顔に反応を示した目蓋で閉ざされる。
口の端に残るアイスを舌で拭われ、柔らかく寄せられる唇。口内で交錯する粘膜は私の体温を蝕むようで、小さな水音が耳に響く。喉元を通した唾液に少しだけ残るチョコレートの香りは、眩むくらいに甘かった。
「…ねえ。恋人の俺、試してみてよ。後悔させないから」
街灯に潤む彼の薄い唇は濡れている。
嘘を吐く目とは正反対の、揺らがない視線。
否を告げる理由は、見つからなかった。
熱ばんだ身体がその先に記憶しているのは、覆い被さった儘に彼が脱ぎ捨てたバスローブから顕になる上半身の美しさと、外した眼鏡の奥の瞳の色。歳下だ、同性だと詐称されても気付けぬような顔立ちとは相反し、滲む支配欲は、正しく雄だった。押し込まれる劣情に身体を委ねれば、柔く胸元を食まれる。
「二度目のデートは、これが消える前にね」
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xf-2 · 3 years
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小泉進次郎環境相は太陽光発電にご執心で、「脱炭素」のために大量に導入するという。だが、太陽光発電はろくなことがない。
 まず高い。割高な太陽光発電を買い取るために、いま家庭の電気料金には「再生可能エネルギー賦課金」が上乗せされて徴収されている。世帯あたりだと年間1万円に達している。
 しかも、これは氷山の一角だ。というのは、この賦課金は企業も負担しており、それによって諸君の給料が減ったり、物価が上がったりして、結局は家計が負担している。これは世帯あたりで、実に年5万円に上る。
 普通の世帯の電気料金は月約1万円、つまり年間だと約12万円だから、1万円プラス5万円で合計6万円が太陽光発電のための追加の負担となっている。つまり太陽光発電によって、すでに諸君の電気代は事実上5割増しになっているのだ。
 これだけ経済的な負担をして、どれだけCO2が減っているかというと、わずか日本は2・5%しか減っていない。菅義偉政権が掲げた2030年のCO2(二酸化炭素)削減目標46%は、従来の26%から20%もの深堀りだ。これに向けて、太陽光発電の大量導入などをすれば、ますます家計への経済負担が膨らむ。
 それに太陽光発電は環境に優しくない。
 石炭は昔の植物の死骸で、つまりは長時間にわたり太陽光を詰めこんだ、エネルギーの塊だ。だが、太陽光発電はその瞬間の太陽光を捉えるに過ぎない。だからパネルをたくさん敷き詰めないと、経済に必要な電力は得られない。多くのパネルをつくるには材料が要るし、廃棄物もたくさん出る。
太陽光発電は「脱物質」などではなく、その逆である。広い面積を必要とするので森林が犠牲になる。山間部につくれば土砂崩れの心配もある。
 さらに忘れてはならないのは、太陽光発電の世界市場を席巻している中国製品は、ウイグルの強制労働との関係の疑いが濃厚なことだ。
 米国は6月に中国製太陽光パネルの輸入を禁止した。太陽光パネルの心臓部にあたる結晶シリコンは、世界の45%がウイグル地区で生産されている。残りは30%がウイグル以外の中国であり、中国は合計で75%となっている。他の国々は全て合わせても25%だ。
 日本の太陽光発電パネルはいまや8割が海外製品になっており、中国製品も多い。米国並みの措置を日本も採れば、太陽光発電の導入には急ブレーキがかかり、価格高騰も避けられない。
 だがそれでも、日本も断固とした措置を速やかに取るべきだ。
 環境のために良かれと思った太陽光発電が強制労働を助長するのは本末転倒だ。このままでは、家の上の太陽光パネルを見るたびに、おぞましいジェノサイド(民族大量虐殺)を思い出すことになる。かかる事態を、日本政府は許すべきではない。 =おわり
 ■杉山大志(すぎやま・たいし) キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。1969年、北海道生まれ。東京大学理学部物理学科卒、同大学院物理工学修士。電力中央研究所、国際応用システム解析研究所などを経て現職。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)、産業構造審議会、省エネルギー基準部会、NEDO技術委員等のメンバーを務める。産経新聞「正論」欄執筆メンバー。著書に産経新聞「正論」欄執筆メンバー。著書に『「脱炭素」は嘘だらけ』(産経新聞出版)=表紙、『地球温暖化のファクトフルネス』(アマゾン)など。
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toubi-zekkai · 3 years
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厚着紳士
 夜明けと共に吹き始めた強い風が乱暴に街の中を掻き回していた。猛烈な嵐到来の予感に包まれた私の心は落ち着く場所を失い、未だ薄暗い部屋の中を一人右往左往していた。  昼どきになると空の面は不気味な黒雲に覆われ、強面の風が不気味な金切り声を上げながら羊雲の群れを四方八方に追い散らしていた。今にも荒れた空が真っ二つに裂けて豪雨が降り注ぎ蒼白い雷の閃光とともに耳をつんざく雷鳴が辺りに���きそうな気配だったが、一向に空は割れずに雨も雷も落ちて来はしなかった。半ば待ち草臥れて半ば裏切られたような心持ちとなって家を飛び出した私はあり合わせの目的地を決めると道端を歩き始めた。
 家の中に居た時分、壁の隙間から止め処なく吹き込んで来る冷たい風にやや肌寒さを身に感じていた私は念には念を押して冬の格好をして居た。私は不意に遭遇する寒さと雷鳴と人間というものが大嫌いな人間だった。しかし家の玄関を出てしばらく歩いてみると暑さを感じた。季節は四月の半ばだから当然である。だが暑さよりもなおのこと強く肌身に染みているのは季節外れの格好をして外を歩いている事への羞恥心だった。家に戻って着替えて来ようかとも考えたが、引き返すには惜しいくらいに遠くまで歩いて来てしまったし、つまらない羞恥心に左右される事も馬鹿馬鹿しく思えた。しかしやはり恥ずかしさはしつこく消えなかった。ダウンジャケットの前ボタンを外して身体の表面を涼風に晒す事も考えたが、そんな事をするのは自らの過ちを強調する様なものでなおのこと恥ずかしさが増すばかりだと考え直した。  みるみると赤い悪魔の虜にされていった私の視線は自然と自分の同族を探し始めていた。この羞恥心を少しでも和らげようと躍起になっていたのだった。併せて薄着の蛮族達に心中で盛大な罵詈雑言を浴びせ掛けることも忘れなかった。風に短いスカートの裾を靡かせている女を見れば「けしからん破廉恥だ」と心中で眉をしかめ、ポロシャツの胸襟を開いてがに股で歩いている男を見れば「軟派な山羊男め」と心中で毒づき、ランニングシャツと短パンで道をひた向きに走る男を見れば「全く君は野蛮人なのか」と心中で断罪した。蛮族達は吐いて捨てる程居るようであり、片時も絶える事無く非情の裁きを司る私の目の前に現れた。しかし一方肝心の同志眷属とは中々出逢う事が叶わなかった。私は軽薄な薄着蛮族達と擦れ違うばかりの状況に段々と言い知れぬ寂寥の感を覚え始めた。今日の空が浮かべている雲の表情と同じように目まぐるしく移り変わって行く街色の片隅にぽつ念と取り残されている季節外れの男の顔に吹き付けられる風は全く容赦がなかった。  すると暫くして遠く前方に黒っぽい影が現れた。最初はそれが何であるか判然としなかったが、姿が近付いて来るにつれて紺のロングコートを着た中年の紳士だという事が判明した。厚着紳士の顔にはその服装とは対照的に冷ややかで侮蔑的な瞳と余情を許さない厳粛な皺が幾重も刻まれていて、風に靡く薄く毛の細い頭髪がなおのこと厳しく薄ら寒い印象に氷の華を添えていた。瞬く間に私の身内を冷ややかな緊張が走り抜けていった。強張った背筋は一直線に伸びていた。私の立場は裁く側から裁かれる側へと速やかに移行していた。しかし同時にそんな私の顔にも彼と同じ冷たい眼差しと威厳ある皺がおそらくは刻まれて居たのに違いない。私の面持ちと服装に疾風の如く視線を走らせた厚着紳士の瞳に刹那ではあるが同類を見つけた時に浮かぶあの親愛の情が浮かんでいた。  かくして二人の孤独な紳士はようやく相まみえたのだった。しかし紳士たる者その感情を面に出すことをしてはいけない。笑顔を見せたり握手をする等は全くの論外だった。寂しく風音が響くだけの沈黙の内に二人は互いのぶれない矜持を盛大に讃え合い、今後ともその厚着ダンディズムが街中に蔓延る悪しき蛮習に負けずに成就する事を祈りつつ、何事も無かったかの様に颯然と擦れ違うと、そのまま振り返りもせずに各々の目指すべき場所へと歩いて行った。  名乗りもせずに風と共に去って行った厚着紳士を私は密かな心中でプルースト君と呼ぶ事にした。プルースト君と出逢い、列風に掻き消されそうだった私の矜持は不思議なくらい息を吹き返した。羞恥心の赤い炎は青く清浄な冷や水によって打ち消されたのだった。先程まで脱ぎたくて仕方のなかった恥ずかしいダウンジャケットは紳士の礼服の風格を帯び、私は風荒れる街の道を威風堂々と闊歩し始めた。  しかし道を一歩一歩進む毎に紳士の誇りやプルースト君の面影は嘘のように薄らいでいった。再び羞恥心が生い茂る雑草の如く私の清らかな魂の庭園を脅かし始めるのに大して時間は必要無かった。気が付かないうちに恥ずかしい事��が私はこの不自然な恰好が何とか自然に見える方法を思案し始めていた。  例えば私が熱帯や南国から日本に遣って来て間もない異国人だという設定はどうだろうか?温かい国から訪れた彼らにとっては日本の春の気候ですら寒く感じるはずだろう。当然彼らは冬の格好をして外を出歩き、彼らを見る人々も「ああ彼らは暑い国の人々だからまだ寒く感じるのだな」と自然に思うに違いない。しかし私の風貌はどう見ても平たい顔の日本人であり、彼らの顔に深々と刻まれて居る野蛮な太陽の燃える面影は何処にも見出す事が出来無かった。それよりも風邪を引いて高熱を出して震えている病人を装った方が良いだろう。悪寒に襲われながらも近くはない病院へと歩いて行かねばならぬ、重苦を肩に背負った病の人を演じれば、見る人は冬の格好を嘲笑うどころか同情と憐憫の眼差しで私を見つめる事に違いない。こんな事ならばマスクを持ってくれば良かったが、マスク一つを取りに帰るには果てしなく遠い場所まで歩いて来てしまった。マスクに意識が囚われると、マスクをしている街の人間の多さに気付かされた。しかし彼らは半袖のシャツにマスクをしていたりスカートを履きながらマスクをしている。一体彼らは何の為にマスクをしているのか理解に苦しんだ。  暫くすると、私は重篤な病の暗い影が差した紳士見習いの面持ちをして難渋そうに道を歩いていた。それは紳士である事と羞恥心を軽減する事の折衷策、悪く言うならば私は自分を誤魔化し始めたのだった。しかしその効果は大きいらしく、擦れ違う人々は皆同情と憐憫の眼差しで私の顔を伺っているのが何となく察せられた。しかしかの人々は安易な慰めを拒絶する紳士の矜持をも察したらしく私に声を掛けて来る野暮な人間は誰一人として居なかった。ただ、紐に繋がれて散歩をしている小さな犬がやたらと私に向かって吠えて来たが、所詮は犬や猫、獣の類にこの病の暗い影が差した厚着紳士の美学が理解出来るはずも無かった。私は子犬に吠えられ背中や腋に大量の汗を掻きながらも未だ誇りを失わずに道を歩いていた。  しかし度々通行人達の服装を目にするにつれて、段々と私は自分自身が自分で予想していたよりは少数部族では無いという事に気が付き始めていた。歴然とした厚着紳士は皆無だったが、私のようにダウンを着た厚着紳士見習い程度であったら見つける事もそう難しくはなかった。恥ずかしさが少しずつ消えて無くなると抑え込んでいた暑さが急激に肌を熱し始めた。視線が四方に落ち着かなくなった私は頻りと人の視線を遮る物陰を探し始めた。  泳ぐ視線がようやく道の傍らに置かれた自動販売機を捉えると、駆けるように近付いて行ってその狭い陰に身を隠した。恐る恐る背後を振り返り誰か人が歩いて来ないかを確認すると運悪く背後から腰の曲がった老婆が強風の中難渋そうに手押し車を押して歩いて来るのが見えた。私は老婆の間の悪さに苛立ちを隠せなかったが、幸いな事に老婆の背後には人影が見られなかった。あの老婆さえ遣り過ごしてしまえばここは人々の視線から完全な死角となる事が予測出来たのだった。しかしこのまま微動だにせず自動販売機の陰に長い間身を隠しているのは怪し過ぎるという思いに駆られて、渋々と歩み出て自動販売機の目の前に仁王立ちになると私は腕を組んで眉間に深い皺を作った。買うべきジュースを真剣に吟味選抜している紳士の厳粛な態度を装ったのだった。  しかし風はなお強く老婆の手押し車は遅々として進まなかった。自動販売機と私の間の空間はそこだけ時間が止まっているかのようだった。私は緊張に強いられる沈黙の重さに耐えきれず、渋々ポケットから財布を取り出し、小銭を掴んで自動販売機の硬貨投入口に滑り込ませた。買いたくもない飲み物を選ばさられている不条理や屈辱感に最初は腹立たしかった私もケース内に陳列された色取り取りのジュース缶を目の前にしているうちに段々と本当にジュースを飲みたくなって来てその行き場の無い怒りは早くボタンを押してジュースを手に入れたいというもどかしさへと移り変わっていった。しかし強風に負けじとか細い腕二つで精一杯手押し車を押して何とか歩いている老婆を責める事は器量甚大懐深き紳士が為す所業では無い。そもそも恨むべきはこの強烈な風を吹かせている天だと考えた私は空を見上げると恨めしい視線を天に投げ掛けた。  ようやく老婆の足音とともに手押し車が地面を擦る音が背中に迫った時、私は満を持して自動販売機のボタンを押した。ジュースの落下する音と共に私はペットボトルに入ったメロンソーダを手に入れた。ダウンの中で汗を掻き火照った身体にメロンソーダの冷たさが手の平を通して心地よく伝わった。暫くの間余韻に浸っていると老婆の手押し車が私の横に現れ、みるみると通り過ぎて行った。遂に機は熟したのだった。私は再び自動販売機の物陰に身を隠すと念のため背後を振り返り人の姿が見えない事を確認した。誰も居ないことが解ると急ぐ指先でダウンジャケットのボタンを一つまた一つと外していった。最後に上から下へとファスナーが降ろされると、うっとりとする様な涼しい風が開けた中のシャツを通して素肌へと心地良く伝わって来た。涼しさと開放感に浸りながら手にしたメロンソーダを飲んで喉の渇きを潤した私は何事も無かったかのように再び道を歩き始めた。  坂口安吾はかの著名な堕落論の中で昨日の英雄も今日では闇屋になり貞淑な未亡人も娼婦になるというような意味の事を言っていたが、先程まで厚着紳士見習いだった私は破廉恥な軟派山羊男に成り下がってしまった。こんな格好をプルースト君が見たらさぞかし軽蔑の眼差しで私を見詰める事に違いない。たどり着いた駅のホームの長椅子に腰をかけて、何だか自身がどうしようもなく汚れてしまったような心持ちになった私は暗く深く沈み込んでいた。膝の上に置かれた飲みかけのメロンソーダも言い知れぬ哀愁を帯びているようだった。胸を内を駆け巡り始めた耐えられぬ想いの脱出口を求めるように視線を駅の窓硝子越しに垣間見える空に送ると遠方に高く聳え立つ白い煙突塔が見えた。煙突の先端から濛々と吐き出される排煙が恐ろしい程の速さで荒れた空の彼岸へと流されている。  耐えられぬ思いが胸の内を駆け駅の窓硝子越しに見える空に視線を遣ると遠方に聳える白い煙突塔から濛々と吐き出されている排煙が恐ろしい速度で空の彼岸へと流されている様子が見えた。目には見えない風に流されて行く灰色に汚れた煙に対して、黒い雲に覆われた空の中に浮かぶ白い煙突塔は普段青い空の中で見ている雄姿よりもなおのこと白く純潔に光り輝いて見えた。何とも言えぬ気持の昂ぶりを覚えた私は思わずメロンソーダを傍らに除けた。ダウンジャケットの前ボタンに右手を掛けた。しかしすぐにまた思い直すと右手の位置を元の場所に戻した。そうして幾度となく決意と逡巡の間を行き来している間に段々と駅のホーム内には人間が溢れ始めた。強風の影響なのか電車は暫く駅に来ないようだった。  すると駅の階段を昇って来る黒い影があった。その物々しく重厚な風貌は軽薄に薄着を纏った人間の群れの中でひと際異彩を放っている。プルースト君だった。依然として彼は分厚いロングコートに厳しく身を包み込み、冷ややかな面持ちで堂々と駅のホームを歩いていたが、薄い頭髪と額には薄っすらと汗が浮かび、幅広い額を包むその辛苦の結晶は天井の蛍光灯に照らされて燦燦と四方八方に輝きを放っていた。私にはそれが不撓不屈の王者だけが戴く栄光の冠に見えた。未だ変わらずプルースト君は厚着紳士で在り続けていた。  私は彼の胸中に宿る鋼鉄の信念に感激を覚えると共に、それとは対照的に驚く程簡単に退転してしまった自分自身の脆弱な信念を恥じた。俯いて視線をホームの床に敷き詰められた正方形タイルの繋ぎ目の暗い溝へと落とした。この惨めな敗残の姿が彼の冷たい視線に晒される事を恐れ心臓から足の指の先までが慄き震えていた。しかしそんな事は露とも知らぬプルースト君はゆっくりとこちらへ歩いて来る。迫り来る脅威に戦慄した私は慌ててダウンのファスナーを下から上へと引き上げた。紳士の体裁を整えようと手先を闇雲に動かした。途中ダウンの布地が間に挟まって中々ファスナーが上がらない問題が浮上したものの、結局は何とかファスナーを上まで閉め切った。続けてボタンを嵌め終えると辛うじて私は張りぼてだがあの厚着紳士見習いの姿へと復活する事に成功した。  膝の上に置いてあった哀愁のメロンソーダも何となく恥ずかしく邪魔に思えて、隠してしまおうとダウンのポケットの中へとペットボトルを仕舞い込んでいた時、華麗颯爽とロングコートの紺色の裾端が視界の真横に映り込んだ。思わず私は顔を見上げた。顔を上方に上げ過ぎた私は天井の蛍光灯の光を直接見てしまった。眩んだ目を閉じて直ぐにまた開くとプルースト君が真横に厳然と仁王立ちしていた。汗ばんだ蒼白い顔は白い光に包まれてなおのこと白く、紺のコートに包まれ���首から上は先程窓から垣間見えた純潔の白い塔そのものだった。神々しくさえあるその立ち姿に畏敬の念を覚え始めた私の横で微塵も表情を崩さないプルースト君は優雅な動作で座席に腰を降ろすとロダンの考える人の様に拳を作った左手に顎を乗せて対岸のホームに、いやおそらくはその先の彼方にある白い塔にじっと厳しい視線を注ぎ始めた。私は期待を裏切らない彼の態度及び所作に感服感激していたが、一方でいつ自分の棄教退転が彼に見破られるかと気が気ではなくダウンジャケットの中は冷や汗で夥しく濡れ湿っていた。  プルースト君が真実の威厳に輝けば輝く程に、その冷たい眼差しの一撃が私を跡形もなく打ち砕くであろう事は否応無しに予想出来る事だった。一刻も早く電車が来て欲しかったが、依然として電車は暫くこの駅にはやって来そうになかった。緊張と沈黙を強いられる時間が二人の座る長椅子周辺を包み込み、その異様な空気を察してか今ではホーム中に人が溢れ返っているのにも関わらず私とプルースト君の周りには誰一人近寄っては来なかった。群衆の騒めきでホーム内は煩いはずなのに不思議と彼らの出す雑音は聞こえなかった。蟻のように蠢く彼らの姿も全く目に入らず、沈黙の静寂の中で私はただプルースト君の一挙手に全神経を注いでいた。  すると不意にプルースト君が私の座る右斜め前に視線を落とした。突然の動きに驚いて気が動転しつつも私も追ってその視線の先に目を遣った。プルースト君は私のダウンジャケットのポケットからはみ出しているメロンソーダの頭部を見ていた。私は愕然たる思いに駆られた。しかし今やどうする事も出来ない。怜悧な思考力と電光石火の直観力を併せ持つ彼ならばすぐにそれが棄教退転の証拠だという事に気が付くだろう。私は半ば観念して恐る恐るプルースト君の横顔を伺った。悪い予感は良く当たると云う。案の定プルースト君の蒼白い顔の口元には哀れみにも似た冷笑が至極鮮明に浮かんでいた。  私はというとそれからもう身を固く縮めて頑なに瞼を閉じる事しか出来なかった。遂に私が厚着紳士道から転がり落ちて軟派な薄着蛮族の一員と成り下がった事を見破られてしまった。卑怯千万な棄教退転者という消す事の出来ない烙印を隣に座る厳然たる厚着紳士に押されてしまった。  白い煙突塔から吐き出された排煙は永久に恥辱の空を漂い続けるのだ。あの笑みはかつて一心同体であった純白の塔から汚れてしまった灰色の煙へと送られた悲しみを押し隠した訣別の笑みだったのだろう。私は彼の隣でこのまま電車が来るのを待ち続ける事が耐えられなくなって来た。私にはプルースト君と同じ電車に乗る資格はもう既に失われているのだった。今すぐにでも立ち上がってそのまま逃げるように駅を出て、家に帰ってポップコーンでも焼け食いしよう、そうして全てを忘却の風に流してしまおう。そう思っていた矢先、隣のプルースト君が何やら慌ただしく動いている気配が伝わってきた。私は薄目を開いた。プルースト君はロングコートのポケットの中から何かを取り出そうとしていた。メロンソーダだった。驚きを隠せない私を尻目にプルースト君は渇き飢えた飼い豚のようにその薄緑色の炭酸ジュースを勢い良く飲み始めた。みるみるとペットボトルの中のメロンソーダが半分以上が無くなった。するとプルースト君は下品極まりないげっぷを数回したかと思うと「暑い、いや暑いなあ」と一人小さく呟いてコートのボタンをそそくさと外し始めた。瞬く間にコートの前門は解放された。中から汚い染みの沢山付着した白いシャツとその白布に包まれただらしのない太鼓腹が堂々と姿を現した。  私は暫くの間呆気に取られていた。しかしすぐに憤然と立ち上がった。長椅子に座ってメロンソーダを飲むかつてプルースト君と言われた汚物を背にしてホームの反対方向へ歩き始めた。出来る限りあの醜悪な棄教退転者から遠く離れたかった。暫く歩いていると、擦れ違う人々の怪訝そうな視線を感じた。自分の顔に哀れな裏切り者に対する軽侮の冷笑が浮かんでいる事に私は気が付いた。  ホームの端に辿り着くと私は視線をホームの対岸にその先の彼方にある白い塔へと注いた。黒雲に覆われた白い塔の陰には在りし日のプルースト君の面影がぼんやりとちらついた。しかしすぐにまた消えて無くなった。暫くすると白い塔さえも風に流れて来た黒雲に掻き消されてしまった。四角い窓枠からは何も見え無くなり、軽薄な人間達の姿と騒めきが壁に包まれたホーム中に充満していった。  言い知れぬ虚無と寂寥が肌身に沁みて私は静かに両の瞳を閉じた。周囲の雑音と共に色々な想念が目まぐるしく心中を通り過ぎて行った。プルースト君の事、厚着紳士で在り続けるという事、メロンソーダ、白い塔…、プルースト君の事。凡そ全てが雲や煙となって無辺の彼方へと押し流されて行った。真夜中と見紛う暗黒に私の全視界は覆われた。  間もなくすると闇の天頂に薄っすらと白い点が浮かんだ。最初は小さく朧げに白く映るだけだった点は徐々に膨張し始めた。同時に目も眩む程に光り輝き始めた。終いには白銀の光を溢れんばかりに湛えた満月並みの大円となった。実際に光は丸い稜線から溢れ始めて、激しい滝のように闇の下へと流れ落ち始めた。天頂から底辺へと一直線に落下する直瀑の白銀滝は段々と野太くなった。反対に大円は徐々に縮小していって再び小さな点へと戻っていった。更にはその点すらも闇に消えて、視界から見え無くなった直後、不意に全ての動きが止まった。  流れ落ちていた白銀滝の軌跡はそのままの光と形に凝固して、寂滅の真空に荘厳な光の巨塔が顕現した。その美々しく神々しい立ち姿に私は息をする事さえも忘れて見入った。最初は塔全体が一つの光源体の様に見えたが、よく目を凝らすと恐ろしく小さい光の結晶が高速で点滅していて、そうした極小微細の光片が寄り集まって一本の巨塔を形成しているのだという事が解った。その光の源が何なのかは判別出来なかったが、それよりも光に隙間無く埋められている塔の外壁の内で唯一不自然に切り取られている黒い正方形の個所がある事が気になった。塔の頂付近にその不可解な切り取り口はあった。怪しみながら私はその内側にじっと視線を集中させた。  徐々に瞳が慣れて来ると暗闇の中に茫漠とした人影の様なものが見え始めた。どうやら黒い正方形は窓枠である事が解った。しかしそれ以上は如何程目を凝らしても人影の相貌は明確にならなかった。ただ私の方を見ているらしい彼が恐ろしい程までに厚着している事だけは解った。あれは幻の厚着紳士なのか。思わず私は手を振ろうとした。しかし紳士という言葉の響きが振りかけた手を虚しく元の位置へと返した。  すると間も無く塔の根本周辺が波を打って揺らぎ始めた。下方からから少しずつ光の塔は崩れて霧散しだした。朦朧と四方へ流れ出した光群は丸く可愛い尻を光らせて夜の河を渡っていく銀蛍のように闇の彼方此方へと思い思いに飛んで行った。瞬く間に百千幾万の光片が暗闇一面を覆い尽くした。  冬の夜空に散りばめられた銀星のように暗闇の満天に煌く光の屑は各々少しずつその輝きと大きさを拡大させていった。間もなく見つめて居られ無い程に白く眩しくなった。耐えられ無くなった私は思わず目を見開いた。するとまた今度は天井の白い蛍光灯の眩しさが瞳を焼いた。いつの間にか自分の顔が斜め上を向いていた事に気が付いた。顔を元の位置に戻すと、焼き付いた白光が徐々に色褪せていった。依然として変わらぬホームの光景と。周囲の雑多なざわめきが目と耳に戻ると、依然として黒雲に覆い隠されている窓枠が目に付いた。すぐにまた私は目を閉じた。暗闇の中をを凝視してつい先程まで輝いていた光の面影を探してみたが、瞼の裏にはただ沈黙が広がるばかりだった。  しかし光り輝く巨塔の幻影は孤高の紳士たる決意を新たに芽生えさせた。私の心中は言い知れない高揚に包まれ始めた。是が非でも守らなければならない厚着矜持信念の実像をこの両の瞳で見た気がした。すると周囲の雑音も不思議と耳に心地よく聞こえ始めた。  『この者達があの神聖な光を見る事は決して無い事だろう。あの光は選ばれた孤高の厚着紳士だけが垣間見る事の出来る祝福の光なのだ。光の巨塔の窓に微かに垣間見えたあの人影はおそらく未来の自分だったのだろう。完全に厚着紳士と化した私が現在の中途半端な私に道を反れることの無いように暗示訓戒していたに違いない。しかしもはや誰に言われなくても私が道を踏み外す事は無い。私の上着のボタンが開かれる事はもう決して無い。あの白い光は私の脳裏に深く焼き付いた』  高揚感は体中の血を上気させて段々と私は喉の渇きを感じ始めた。するとポケットから頭を出したメロンソーダが目に付いた。再び私の心は激しく揺れ動き始めた。  一度は目を逸らし二度目も逸らした。三度目になると私はメロンソーダを凝視していた。しかし迷いを振り払うかの様に視線を逸らすとまたすぐに前を向いた。四度目、私はメロンソーダを手に持っていた。三分の二以上減っていて非常に軽い。しかしまだ三分の一弱は残っている。ペットボトルの底の方で妖しく光る液体の薄緑色は喉の渇き切った私の瞳に避け難く魅惑的に映った。  まあ、喉を潤すぐらいは良いだろう、ダウンの前を開かない限りは。私はそう自分に言い聞かせるとペットボトルの口を開けた。間を置かないで一息にメロンソーダを飲み干した。  飲みかけのメロンソーダは炭酸が抜けきってしつこい程に甘く、更には生ぬるかった。それは紛れも無く堕落の味だった。腐った果実の味だった。私は何とも言えない苦い気持ちと後悔、更には自己嫌悪の念を覚えて早くこの嫌な味を忘れようと盛んに努めた。しかし舌の粘膜に絡み付いた甘さはなかなか消える事が無かった。私はどうしようも無く苛立った。すると突然隣に黒く長い影が映った。プルースト君だった。不意の再再会に思考が停止した私は手に持った空のメロンソーダを隠す事も出来ず、ただ茫然と突っ立っていたが、すぐに自分が手に握るそれがとても恥ずかしい物のように思えて来てメロンソーダを慌ててポケットの中に隠した。しかしプルースト君は私の隠蔽工作を見逃しては居ないようだった。すぐに自分のポケットから飲みかけのメロンソーダを取り出すとプルースト君は旨そうに大きな音を立ててソーダを飲み干した。乾いたゲップの音の響きが消える間もなく、透明になったペットボトルの蓋を華麗優雅な手捌きで閉めるとプルースト君はゆっくりとこちらに視線を向けた。その瞳に浮かんでいたのは紛れもなく同類を見つけた時に浮かぶあの親愛の情だった。  間もなくしてようやく電車が駅にやって来た。プルースト君と私は仲良く同じ車両に乗った。駅に溢れていた乗客達が逃げ場無く鮨詰めにされて居る狭い車内は冷房もまだ付いておらず蒸し暑かった。夥しい汗で額や脇を濡らしたプルースト君の隣で私はゆっくりとダウンのボタンに手を掛けた。視界の端に白い塔の残映が素早く流れ去っていった。
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ponpompom · 3 years
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2020年ベスト映画
長い文章を人目にさらすのが
だいぶ久々だなぁと思いながらいざ書くぞ!
2020年。終わってもう10日以上!?はやぁ…。
コロナですっかり現場がなくなり、ライブは配信、イベントも配信。
友達に気軽に会いに行くのも難しくて
zoom飲みなんてしてみたりして。
というような情勢で、今までより楽しんだのが映画だった。それも映画館で観るやつ。
ということで配信で見たのは今回のランキングから外しています。
振り返ってみれば2020年のはじめとおわりに好きなやつが固まっててなんか面白い。
ではいきます!
10、mid90s
スティーヴィー(主人公の男の子)がちっちゃすぎて本当にあんた、ワルになれるのか!?と見守る形になってしまった・・・
二番弟子の子に嫉妬されちゃってウワー!みたいなのはとてもわかるというか思春期の感情って感じ。グループのリーダー、レイはかっこいいよね・・・。
ラストシーンがめっちゃエモくてよかった。全体的な雰囲気が好き!という映画。
9、魔女見習いをさがして
おジャ魔女世代なので観ないと〜!と思って観たら思った以上におジャ魔女世代向けというか
昔夢中になったものに支えられて生きてる人たちの話で新しい切り口〜!となった。
百田夏菜子さんめっちゃ声優上手い。
あと男はみんなおんぷちゃんがすき。
わたしは推しとかいう概念あんまりなかったなぁ〜と思いながら観てたらそういえばはづきちゃん好きだったなと思い出した。
8、アルプススタンドのはしの方
地元の高校が舞台演劇でやって話題になった作品…をまた映画にしたもの。
高校生の演劇!わたしの星…!とか思い出しつつ鑑賞。
高校球児たちや、華やかな人達とはまた違う
はしの方、にいる人たちのお話。
なのでグラウンドは一切映らず(それが舞台装置だから演劇っぽくて良いのだが)
自分は完全にこっち側だなぁと思いつつみたけど
わたしよりガンガンに青春してた、いいわね…
7、劇場版鬼滅の刃 無限列車編
鬼滅の刃、アニメ化して配信中くらいから観てました…そんでハマって原作電子書籍で集めてって、本誌追いついて最終回までハラハラしながら読んだタイプの人ですので映画楽しみにしてた!
煉獄さんの話はほんと漫画でも泣いたけどアニメになると余計泣けたよね…。
炭治郎の芯を作った人だよ。尊敬だよ。
正直話題になりすぎて今さら特にいうことない。でも好きな作品だった。こんなに忠実にアニメ化してくれたらワニ先生も嬉しいよね。
アホみたいに上映してた時期の、朝7時30分〜の回で観たのが良い思い出。
こんな朝から映画ってやってくれるんだね…
6、ブックスマート
結構ゲラゲラ笑える。なんのかんの全員いいやつで幸せになった〜。
 ハリポタの組み分けの話、アメリカでもするんだ!イケてるひとたちでもするんだ!わー!ってめっちゃテンションが上がった…。
ネタが多すぎて話が絞れねぇな…。
主人公の女の子たちがいわゆる陰キャ(死語?)ではあるが、頭が良くて自分に自信があるのでめっちゃ褒め合いをするところがとても良い。仲の良さ伝わる。
あと、ジェンダー的なことも、当たり前に描いていてそこに大して主題を置いてなくてたまたま「そうなの」というだけ、という雰囲気が最近の映画だなあとなった。
5、羅小黒戦記
シャオヘイかわいいよ…無限さまかっこいいよ…。
画面がずっと美しいしかわいいしアクションもすごいし、ありがてぇ〜って感じで笑顔になった。
話が好き!というよりは画面が好きだ!!!という映画。
アニメでもなかなか珍しいかもしれない…。絵柄が大好き!動きが大好き!
早く配信とか始まって欲しい。何か作業しながら流していたい。
 以下、観た当時の気持ちのまま書いた感想をそのまま貼り付けちゃうので、
ネタバレが多く含まれますのでご注意ください…あといちいち長いのが多いと思うけど…。
(ていうほどこれ読んでくれる人いるのかは不明)
 4、殺さない彼と死なない彼女
※これは2019年の映画だけど私の初見が2020年だったので
話題になる前はいつものしょうもないデートムービーかよと思っていました(ほんとごめん)
でも、そうではなかった。びっくりするほど真っ直ぐ心に届く映画でした。
 こんな口調で東京の高校生たちはしゃべるのか!?うそやん?というちょっと芝居かかった口調も最初は違和感があったがだんだん癖になる。
3つのお話が平行してるようでいてちょっとずれてる構成もよかった。ラスト付近でつながっていくところがオムニバスの楽しいところ。
 ・きゃぴ子と地味子のお話
きゃぴ子が一番好きなのは地味子なんだから二人が付き合えば全部解決しないか?と思わされるいい百合だった…。
でも女同士で好きあってても、そういう好きじゃない場合の方が多いからな。男の人にしか埋められない心の穴があるんだろうか。
かわいい子のことをやっかむ人たち、まあそらいるんだろうけど、かわいいことは素晴らしい才能だし、勝てないなあと思うし。
きゃぴ子に素直にかわいいって言い続ける地味子もかわいいよ。
 ・八千代と撫子のお話
一途に好きって言い続ける撫子(原作では君が代ちゃんなんだな)がめちゃくちゃかわいい。
通話録音しようとするシーンがめちゃ好き。
好き好き言われる側としては、なんでそんなに好きなんかわからなくなるよね、わかる。
そして、八千代が撫子を好きになったって伝えたら、その関係が壊れるんじゃないかって心配する気持ちもめちゃわかる。
しかし撫子はそこで八千代君に飽きちゃう女じゃなかった、よかった・・。ハッピーエンドで。トラウマを癒してくれる女神だったよね…。
 ・小坂と鹿野のお話
口が悪すぎるけど、お互い絶対好きじゃん素直になれよ!!!と思い続けてたらまあ、そう来たか…。
原作を全く知らずに臨んだので、まあどっちか死んじゃうんだろうなとは思った、思ってたけど、ほんとにどっちも死なないでほしくなる。
なな、生きて。ってそれちゃんと対面で言いなさいよ…。で泣く。
夢の世界がだいぶ救いがあったけど、なんで彼は殺されないといけないんかまったく不条理すぎて殺人鬼はほんとにお前が死ねって思ったな…。
鹿野が小坂のクローゼットで服を抱きしめるところとかほんと無理だった泣いた…。幸せになってほしかった。
 最後に、あなたについていきたいって言ってた鹿野が、小坂を追い抜く演出がマジでよかったです…。(映画オリジナルなんだね)
時系列のずれにも伏線があったんだね。撫子を慰めれるほど元気になってえらい。
 観終わったときメイクがほぼ落ちてました。観れてよかった。悲しいけど暖かいものが残る作品。
※後日原作も読んだけど同じところで泣いちゃってびっくりしたよね。涙腺にダイレクトよ。
 3、ジョジョ・ラビット
ラストシーンでちょっとずつ我慢していた涙が我慢できなくなってボロボロ泣いてしまった、。
結構デリケートな話なのに、思ったより軽やか、序盤はこれ大丈夫なのとか思いつつ。
「ハイルヒットラー!」の応酬とか茶化してやってるもんね・・・
でも戦争と国の思想の刷り込み、差別の恐ろしさはしっかり伝わってくる。
男女差別もバリバリにあるし、弱い者には価値がないっていうのを空気から伝えてきて、しんどい・・。
エルサが隠れている部屋が見つかった時はこれはアレじゃん(ネタバレ防止)
とかとても思ってしまった。隠れ家のモチーフかぶり・・・。
ユダヤ人ってゲシュタポにバレそうになったところが本当に冷や冷やした、絶対に気づかれないでほしい…と祈るように見ていた。
そして見逃してくれるキャプテン.Kが。
フィンケルと同性愛をはぐくんでる(全然明言されてないけどおそらく・空気で、と他感想でも拝見)し、
おそらく表では隠していたけど同性愛もナチスは迫害対象だったらしいしナチズムには反対してたんだろうな、
というのがラスト近辺でもわかる。かっこよくていい男だった。
で、お母さん、ロージーもめちゃくちゃいい女。あんな美女かつ賢い、なのにお母さんって、設定がよすぎ。
そしてお母さんが亡くなってしまったことをあんな形で知るのしんどすぎるし、そこで靴ひもを結ぼうとするけど結べないジョジョ・・・
がラストでエルサの靴ひもを結んであげる。で成長を演出する。ってそんなんグッとくるに決まってるじゃないですか。
極めつけのダンスもね。人は自由になると踊りたくなるのか。音楽が髄所に効いてる映画だったしなぁ。
以下、思ったこと箇条書き
・ヨーキーもいい役。冷静でほんとに10歳なの!?柔軟。と思う。ジョジョにいい友達がいてよかった
・お腹の中で蝶が舞うような。をちゃんとイメージから表しているシーンよかった、かわいい。
・アドルフ・ヒトラー役は監督!?て後で知ってびっくりした。何でもできるんだね・・・。あの感じがでています。
・飢えてるときウサギ食べるのか!?と思ったけど食べませんでしたね・・・
・戦争中のわりにラスト以外は暮らし向きとしてはそれをほんのりとしか感じない、ドイツって結構戦時中も普通の暮らしができてる方だったのかな・・・(史実良く知らないけど)
※めちゃ余談だけど、最近読んだ「戦争は女の顔をしていない」(漫画版)という作品において敵国の女性兵がドイツ人女性がベランダでコーヒーを飲んでいるところを行軍中に見かけて、そんな優雅なことが戦時中もあるなんて!とびっくりしてしまう。みたいなエピソードがあって、それを思い出した。
2、朝が来る
辻村美月さんの作品が元々好きってのもあるけど。
知り合いの映画好きの人たちか絶賛するのわかった。
こんなリアリティある演技合戦が観られるとは…。
例えば施設のギャルや新聞販売所のギャル。
本物連れてきたのかってくらいいそうだったしマジで同一人物かと思った。
 あとやっぱ蒔田彩珠さんの吸引力がすごい。
人を惹きつける魅力。ボサボサの金髪になっても魅力が失われない。
死んじゃわなくて本当よかった。警察来た時死んだわ…って思ってしまったし。
ちびたん、いい子に育ててもらえてよかったね…幸せになってくれ。
 1、パラサイト
…めちゃくちゃ面白かった、面白いって一言で言っちゃうだけじゃダメな気がするけど
ネタバレ禁止ならもうとにかく観てよ~!(PG-12…ひっかかる…じゃなければ)というしかないな
序盤1時間くらいは本当にエンタメで、キンプリの映画みてるんかなくらい声に出して笑うの我慢した、キム家は演技がうますぎるし、
パク家は騙されやす過ぎる。(ダソンには気付かれてたかもしれないが)
ヨンギョ(奥さん)のびっくりし方とか、大げさなんだけどほんとにこういう人いそうなんだよな…。て思っちゃう。
とはいえ、ちゃんと仕事はしてるんだよな、キム一家。
雇用されるかされないかは、技能とか技術じゃなくて「��のつながり」「コネ」ていうのが、
今の社会なんだね始まりがアレだったので…。ギジョン(ジェシカ)がどんな授業してたかは謎だけど。
普通に家政婦の仕事とかハードだと思う、おいしいものが食べれそうなのはいいけどさ…。
ギウ(ケビン)は紹介してくれたお友達のこと一瞬で裏切っていて笑った、��もその友達が紹介しなければあんなラストにはならなかったんやなあ…。
パク家がキャンプに行った時に好き放題していたときまではまあ悪いんだけどほんとに爽快だった、たんのしかっただろうなって。
そっからの急激な展開!もう面白いのにさらにそれが深まる…というか別のベクトルに行くっていう。
富裕層(高台)と貧困層(半地下)だけじゃなく、そしてまた更に下(地下)があるっていうね、
二人分食べるんだよねってドンイクが言ってたのはそういうことでしたか!伏線回収がいっぱい…。
そして本当の意味でパラサイトしていたのはムングァンの夫でした…。面白い…
そこでのいざこざからはだいぶとドロドロした展開に。北朝鮮ジョークがいっぱい…韓国映画なんだな…普段観ないから新鮮。
ちょいちょい日本語に近い単語が聞こえてきておもしろいよね。お隣なのに何にも知らんよね…。
・・脱線した、それでパク家も帰ってくるって言うね!大雨なんだから予測しときなさい!
ここでもでてくる「切り干し大根のようなにおい(貧困層のにおい?)」の話があとであんな形で引き金になるなんて。
そっから脱出までもかなり息が詰まった…。家政婦、死ななくてよかった…て思ってたのに亡くなりそう…助けられなかった夫の声がもう。
そしてキム家がやっと出られたと思ったら、(ここで高台から階段で降りていくカメラワークがめちゃくちゃ象徴的)まさかの洪水で家が水没。
何かを掬い上げないといけない中でギテクがチュンスク(元砲丸投げの選手だったみたい)のメダルをひっつかむのに、
妻への愛情と過去の栄光にすがる、みたいな切なさを感じでグッと来てしまった、
そして暴発する半地下のトイレのふたを無理矢理閉めて一服するギジョンのかーっこいいこと。名シーン。
次の日に、あの惨劇が起きる。
結局純粋な悪者がいないんだよね、一番かわいそうなのはドンイクさんよ、なーんも悪いことしてないのにね…。
金持ちをヤなやつとして描くのはもうほんとに古いんだろうよ、下層の洪水被害のことなんて息子の誕生日をめいっぱい祝うことに比べたら全然大事じゃない、そらそうよね。
私にもお金持ちの友達いるけど、彼らマジでいい奴だから、「金は性格のしわを伸ばすアイロン」は本当のことだと思う。
苦労せずその地位を得てるってこともないんだろうけど、心の余裕ってやつは段違いなんだろうな、いいな…。
それはめちゃくちゃ思った。
ラストシーン(モールス信号ってあんな長い手紙かけるんか、すごいや…。)
父の手紙を解読してお金持ちになって父親を助けるって言ったギウの決意に嘘はないんだろうけど、韓国の社会構造ではそれは本当に夢であり、ノープランなのと同じなのかもしれない…。というラストが何とも言えなかった。
 以上!!長いな!!!いつも自分のためだけに書いているから大変独りよがりな文章かと思いますが・もし読んでもらえた人がいるならありがとうございます。
今年もコロナはおさまる気配ないのでなんのかんの映画に行ってしまう気がする。
習慣てすごいよね。良い映画に出会えると良いなあ。
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【ブンアン2への融資決定】ベトナムに石炭火力発電を建て、気候変動を加速させる日本。問題点の整理
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2020年12月29日付の日本経済新聞の記事で国際協力銀行(JBIC)が、三菱商事などがベトナムで計画する石炭火力発電所建設「ブンアン2」に対し、約17億6700万㌦(約1800億円)の協調融資を決めたと発表したと報じられました。この融資には三井住友銀行、三菱UFJ銀行、みずほ銀行の日本の3メガバンクや韓国輸出入銀行などが参加しています。日本の3大メガバンクは、石炭火力発電開発プロジェクトに融資する銀行として融資額ランクの世界第1位から3位までを占めており、すでに世界中から批判されていました。それにも拘らず、またしても日本のメガバンクは気候変動に加担するような融資を行うことを決めてしまいました。
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 さらに今回は日本政府がすべての株を保有していて日本の政策金融機関である国際協力銀行(JBIC)も融資を決定しました。JBICは日本の対外経済政策の遂行を担う銀行です。つまり、日本政府をあげて、ベトナムに石炭火力発電所を建てるという決定をしたのです。今回の決定は気候変動・気候正義の観点から看過できるものではありません。  気候変動対策が求められている現状や、ブンアン2の問題点、メガバンクのグリーンウォッシュなどについて見ていきます。
目次
気候変動対策は予断を許さない状況
ブンアン2の問題点~気候変動、大気汚染、ベトナムの人々への影響~
パリ協定との整合性、メガバンクらのグリーンウォッシュ
利益追求 VS 気候変動
1.気候変動対策は予断を許さない状況
 IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)によると、2030年までに世界全体のCO2排出量を45%以上削減できなければ、地球の平均気温は産業革命前と比べて1.5℃以上上昇してしまい、海面上昇、干ばつ、水不足、生物多様性の喪失、食料不足などが壊滅的な規模で引き起こされます(IPCCの特別報告書「Global Warming of 1.5 ºC」を参照)。1.5℃目標を達成するためには日本をはじめとした先進国は2020年から毎年10%以上のCO2排出の削減が求められます。そのためには今すぐにでも世界中の石炭火力発電所は次々と廃止していかなければなりません。
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(参考:https://www.climateinteractive.org/ci-topics/climate-energy/scoreboard/early-ambition/)
2.ブンアン2の問題点~気候変動、大気汚染、ベトナムの人々への影響~
 今回JBICらが融資を決めたブンアン 2とは、ベトナムのハティン省に計画されている1,200MW(600MW×2 基)規模の石炭火力発電所です。ブンアン2は建設されてから25年間にわたって発電を行うとJBICは発表しています(参考:https://www.jbic.go.jp/ja/information/press/press-2020/1229-014147.html)。  上で見たように、気候変動という観点から石炭火力発電所を新設する自体あり得ないことですが、そのうえ、ブンアン2は日本で建設されている発電所に比べ大気汚染物質の排出量が数倍も高いことが指摘されています(以下のグラフを参照)。エネルギー・クリーンエア・リサーチセンター(Centre for Research on Energy and Clean Air)の分析によれば、ブンアン2プロジェクトによる大気汚染物質の排出量が日本の同規模の石炭火力発電所に比べ5~10倍高いことが判明しています 。日本を含む先進国では、発電事業として認可されないような大気汚染を引きおこす発電所なのです。
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(参考:https://www.nocoaljapan.org/ja/the-5-reasons-the-vung-ang-2-coal-power-plant-is-a-financial-and-environmental-disaster/)  そして、議論の俎上にのぼってもいないのは、現地に住む人々への影響です。昨年2020年10月、ベトナム中部に上陸した台風18号(モラヴェ)は、20年に一度の規模で、ベトナムを襲った台風で最も強い台風の一つでした。この台風で250万人をはるかに超えるような数の子どもたちが、家屋が損壊し、食料備蓄は失われ、飲み水、洗濯、調理のための清潔な水を手に入れることができず、水や衛生設備の被害を受けていると言われています。また、激しい暴風雨と増水に対するトラウマがあり、多くの人が泳げないために恐怖を感じ、心の健康にも影響が及んでいるともされています。(参考:https://www.unicef.or.jp/news/2020/0228.html)  少なからず温暖化の影響で台風の被害が深刻になり、現在進行形で被害を受けている国に対し、温暖化を加速させ、かつ深刻な大気汚染を発生させる可能性が高い発電所を立てようとしているのです。
3. パリ協定との整合性、メガバンクらのグリーンウォッシュ
 今回の決定は日本政府が順守すると約束したパリ協定に反すると言えます。言うまでもなく、気候変動対策は日本国内だけのカーボンニュートラルを達成すればよいわけではなく(昨年2020年10月に菅首相は2050年までに二酸化炭素ネット排出量ゼロにするという政策目標を発表しました)、世界各国が協力して進めなければなりません。とりわけ先進国は二酸化炭素を多く排出しており(日本は世界で5番目に二酸化炭素を排出している)、進んで気候変動対策を行っていくべき立場です。そのような立場にある日本が、他の国に石炭火力発電所を建てるというのは、気候変動対策を本気を進める気がないと見られてもしようがありません(*)。     また、三井住友銀行、三菱UFJ銀行、みずほ銀行は石炭火力発電の新規建設への投資を行わないという方針を示していました(参考:https://pps-net.org/column/82111)。さらに、みずほフィナンシャルグループは2030 年度までに2019 年度比 50%に削減し、2050 年度までに石炭火力発電への投資の残高ゼロとするという目標を持っています。ブンアン 2への融資は明らかにこれらの方針の精神に反しています。三大メガバンクは環境NGOや海外からの批判にさらされ、石炭火力発電の新規建設への投資を行わないという方針をたてましたが、今回の融資の決定でこれらの方針は建前でしかなく、より率直にいうと嘘に過ぎないことが分かりました。 
 また、今回協調融資を行う三菱商事もその経営資料の中で「エネルギー需要の充足という使命を果たしながら、SDGsやパリ協定(2℃目標含む)で ⽰された国際的な目標達成への貢献を目���す」と宣言していながら、融資を決定しました。三菱商事のサステナビリティ・CSR部長は気候関連財務情報開示タスクフォース(Task Force on Climate-related Financial Disclosures( TCFD))のメンバーであり、ESG投資の旗振り役として各種セミナーや講演会に登壇し、その啓発を行っているとのことです。しかし当の三菱商事はESG投資に反するような融資を行っており、それらの活動は気候変動対策への貢献をしているという外向きのポーズを示すだけの「グリーンウォッシュ」でしかありません。
4.利益追求 VS 気候変動
 気候変動対策が急がれる中でなぜ、それに逆行するような動きが出てきてしまうのか。それは、石炭火力発電を立てることで利益をあげることができるからです。銀行もただの金を貸しているわけではありません。利益が追求できる事業に投資し、その「利ざや」を収入としているのです。そのような一部の企業、金持ちの利益追求によって、私たちの未来が奪われ、グローバルサウスの人々の人権が侵害されているのです。  海外の投資家たちは、若者や環境NGOからの圧力に屈し、環境に悪い投資を行うことは好ましくないものとみなしてきています。最初に見たように、日本の銀行は世界で最も気候変動を推し進めているといっても過言ではありません。日本でも気候変動を加速させてしまうような投資は許さないという声を上げていき、投資撤退を達成させましょう。  FFF仙台、FFFJAPANとしてもこの動きについては反対の声を上げていく予定です。 *JBICは、「ベトナムにおける脱炭素化に向けたエネルギー政策転換への取り組みを行ってきており、かかるエンゲージメント強化も踏まえ、本プロジェクトを支援してまいります」とも言っており、脱炭素化を取り組む一方で石炭火力を建てるという、支離滅裂なことを言っています(参考:https://www.jbic.go.jp/ja/information/press/press-2020/1229-014147.html)。 ____________________________________________ Fridays For Future Sendai mail : [email protected] twitter : https://twitter.com/home Instagram : https://www.instagram.com/
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guragura000 · 3 years
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自殺未遂
何度も死のうとしている。
これからその話をする。
自殺未遂は私の人生の一部である。一本の線の上にボツボツと真っ黒な丸を描くように、その記憶は存在している。
だけど誰にも話せない。タブーだからだ。重たくて悲しくて忌み嫌われる話題だからだ。皆それぞれ苦労しているから、人の悲しみを背負う余裕なんてないのだ。
だから私は嘘をつく。その時代を語る時、何もなかったふりをする。引かれたり、陰口を言われたり、そういう人だとレッテルを貼られたりするのが怖いから。誰かの重荷になるのが怖いから。
一人で抱える秘密は、重たい。自分のしたことが、当時の感情が、ずっしりと肩にのしかかる。
私は楽になるために、自白しようと思う。黙って平気な顔をしているのに、もう疲れてしまった。これからは場を選んで、私は私の人生を正直に語ってゆきたい。
十六歳の時、初めての自殺未遂をした。
五年間の不登校生活を脱し高校に進学したものの、面白いくらい馴染めなかった。天真爛漫に女子高生を満喫する宇宙人のようなクラスメイトと、同じ空気を吸い続けることは不可能だと悟ったのだ。その結果、私は三ヶ月で中退した。
自信を失い家に引きこもる。どんよりと暗い台所でパソコンをいじ��続ける。将来が怖くて、自分が情けなくて、見えない何かにぺしゃんこに潰されてしまいそうだった。家庭は荒れ、母は一日中家にいる私に「普通の暮らしがしたい」と呟いた。自分が親を苦しめている。かといって、この先どこに行っても上手くやっていける気がしない。悶々としているうちに十キロ痩せ、生理が止まった。肋が浮いた胸で死のうと決めた。冬だった。
夜。親が寝静まるのを待ちそっと家を出る。雨が降っているのにも関わらず月が照っている。青い光が濁った視界を切り裂き、この世の終わりみたいに美しい。近所の河原まで歩き、濡れた土手を下り、キンキンに冷えた真冬の水に全身を浸す。凍傷になれば数分で死に至ることができると聞いた。このままもう少しだけ耐えればいい。
寒い!私の体は震える。寒い!あっという間に歯の根が合わなくなる。頭のてっぺんから爪先までギリギリと痛みが駆け抜け、三秒と持たずに陸へ這い上がった。寒い、寒いと呟きながら、体を擦り擦り帰路を辿る。ずっしりと水を含んだジャージが未来のように重たい。
風呂場で音を立てぬよう泥を洗い流す。白いタイルが砂利に汚されてゆく。私は死ぬことすらできない。妙な落胆が頭を埋めつくした。入水自殺は無事、失敗。
二度目の自殺未遂は十七歳の時だ。
その頃私は再入学した高校での人間関係と、精神不安定な母との軋轢に悩まされていた。学校に行けば複雑な家庭で育った友人達の、無視合戦や泥沼恋愛に巻き込まれる。あの子が嫌いだから無視をするだのしないだの、彼氏を奪っただの浮気をしているだの、親が殴ってくるだの実はスカトロ好きのゲイだだの、裏のコンビニで喫煙しているだの先生への舌打ちだの⋯⋯。距離感に不器用な子達が多く、いつもどこかしらで誰かが傷つけ合っていた。教室には無気力と混乱が煙幕のように立ち込め、普通に勉強し真面目でいることが難しく感じられた。
家に帰れば母が宗教のマインドコントロールを引きずり「地獄に落ちるかもしれない」などと泣きついてくる。以前意地悪な信者の婆さんに、子どもが不登校になったのは前世の因縁が影響していて、きちんと祈らないと地獄に落ちる、と吹き込まれたのをまだ信じているのだ。そうでない時は「きちんと家事をしなくちゃ」と呪いさながらに繰り返し、髪を振り乱して床を磨いている。毎日手の込んだフランス料理が出てくるし、近所の人が買い物先までつけてくるとうわ言を言っている。どう考えても母は頭がおかしい。なのに父は「お母さんは大丈夫だ」の一点張りで、そのくせ彼女の相手を私に丸投げするのだ。
胸糞の悪い映画さながらの日々であった。現実の歯車がミシミシと音を立てて狂ってゆく。いつの間にやら天井のシミが人の顔をして私を見つめてくる。暗がりにうずくまる家具が腐り果てた死体に見えてくる。階段を昇っていると後ろから得体の知れない化け物が追いかけてくるような気がする。親が私の部屋にカメラを仕掛け、居間で監視しているのではないかと心配になる。ホラー映画を見ている最中のような不気味な感覚が付きまとい、それから逃れたくて酒を買い吐くまで酔い潰れ手首を切り刻む。ついには幻聴が聞こえ始め、もう一人の自分から「お前なんか死んだ方がいい」と四六時中罵られるようになった。
登下校のために電車を待つ。自分が電車に飛び込む幻が見える。車体にすり潰されズタズタになる自分の四肢。飛び込む。粉々になる。飛び込む。足元が真っ赤に染まる。そんな映像が何度も何度も巻き戻される。駅のホームは、どこまでも続く線路は、私にとって黄泉への入口であった。ここから線路に倒れ込むだけで天国に行ける。気の狂った現実から楽になれる。しかし実行しようとすると私の足は震え、手には冷や汗が滲んだ。私は高校を卒業するまでの四年間、映像に重なれぬまま一人電車を待ち続けた。飛び込み自殺も無事、失敗。
三度目の自殺未遂は二十四歳、私は大学四年生だった。
大学に入学してすぐ、執拗な幻聴に耐えかね精神科を受診した。セロクエルを服用し始めた瞬間、意地悪な声は掻き消えた。久しぶりの静寂に手足がふにゃふにゃと溶け出しそうになるくらい、ほっとする。しかし。副作用で猛烈に眠い。人が傍にいると一睡もできないたちの私が、満員の講義室でよだれを垂らして眠りこけてしまう。合う薬を模索する中サインバルタで躁転し、一ヶ月ほど過活動に勤しんだりしつつも、どうにか普通の顔を装いキャンパスにへばりついていた。
三年経っても服薬や通院への嫌悪感は拭えなかった。生き生きと大人に近づいていく友人と、薬なしでは生活できない自分とを見比べ、常に劣等感を感じていた。特に冬に体調が悪くなり、課題が重なると疲れ果てて寝込んでしまう。人混みに出ると頭がザワザワとして不安になるため、酒盛りもアルバイトもサークル活動もできない。鬱屈とした毎日が続き闘病に嫌気がさした私は、四年の秋に通院を中断してしまう。精神薬が抜けた影響で揺り返しが起こったこと、卒業制作に追われていたこと、就職活動に行き詰まっていたこと、それらを誰にも相談できなかったことが積み重なり、私は鬱へと転がり落ちてゆく。
卒業制作の絵本を拵える一方で遺品を整理した。洋服を売り、物を捨て、遺書を書き、ネット通販でヘリウムガスを手に入れた。どうして卒制に遅れそうな友達の面倒を見ながら遺品整理をしているのか分からない。自分が真っ二つに割れてしまっている。混乱しながらもよたよたと気力で突き進む。なけなしの努力も虚しく、卒業制作の提出を逃してしまった。両親に高額な学費を負担させていた負い目もあり、留年するぐらいなら死のうとこりずに決意した。
クローゼットに眠っていたヘリウムガス缶が起爆した。私は人の頭ほどの大きさのそれを担いで、ありったけの精神薬と一緒に車に積み込んだ。それから山へ向かった。死ぬのなら山がいい。夜なら誰であれ深くまで足を踏み入れないし、展望台であれば車が一台停まっていたところで不審に思われない。車内で死ねば腐っていたとしても車ごと処分できる。
展望台の駐車場に車を突っ込み、無我夢中でガス缶にチューブを繋ぎポリ袋の空気を抜く。本気で死にたいのなら袋の酸素濃度を極限まで減らさなければならない。真空状態に近い状態のポリ袋を被り、そこにガスを流し込めば、酸素不足で苦しまずに死に至ることができるのだ。大量の薬を水なしで飲み下し、袋を被り、うつらうつらしながら缶のコックをひねる。シューッと気体が満ちる音、ツンとした臭い。視界が白く透き通ってゆく。死ぬ時、人の意識は暗転ではなくホワイトアウトするのだ。寒い。手足がキンと冷たい。心臓が耳の奥にある。ハツカネズミと同じ速度でトクトクと脈動している。ふとシャンプーを切らしていたことを思い出し、買わなくちゃと考える。遠のいてゆく意識の中、日用品の心配をしている自分が滑稽で、でも、もういいや。と呟く。肺が詰まる感覚と共に、私は意識を失う。
気がつくと後部座席に転がっている。目覚めてしまった。昏倒した私は暴れ、自分でポリ袋をはぎ取ったらしい。無意識の私は生きたがっている。本当に死ぬつもりなら、こうならぬように手首を後ろできつく縛るべきだったのだ。私は自分が目覚めると、知っていた。嫌な臭いがする。股間が冷たい。どうやら漏らしたようだ。フロントガラスに薄らと雪が積もっている。空っぽの薬のシートがバラバラと散乱している。指先が傷だらけだ。チューブをセットする際、夢中になるあまり切ったことに気がつかなかったようだ。手の感覚がない。鈍く頭痛がする。目の前がぼやけてよく見えない。麻痺が残ったらどうしよう。恐ろしさにぶるぶると震える。さっきまで何もかもどうでも良いと思っていたはずなのに、急に体のことが心配になる。
後始末をする。白い視界で運転をする。缶は大学のゴミ捨て場に捨てる。帰宅し、後部座席を雑巾で拭き、薬のシートをかき集めて処分する。ふらふらのままベッドに倒れ込み、失神する。
その後私は、卒業制作の締切を逃したことで教授と両親から怒られる。翌日、何事もなかったふりをして大学へ行き、卒制の再提出の交渉する。病院に保護してもらえばよかったのだがその発想もなく、ぼろ切れのようなメンタルで卒業制作展の受付に立つ。ガス自殺も無事、失敗。
四度目は二十六歳の時だ。
何とか大学卒業にこぎつけた私は、入社試験がないという安易な理由でホテルに就職し一人暮らしを始めた。手始めに新入社員研修で三日間自衛隊に入隊させられた。それが終わると八時間ほぼぶっ続けで宴会場を走り回る日々が待っていた。典型的な古き良き体育会系の職場であった。
朝十時に出社し夜の十一時に退社する。夜露に湿ったコンクリートの匂いをかぎながら浮腫んだ足をズルズルと引きずり、アパートの玄関にぐしゃりと倒れ込む。ほとんど意識のないままシャワーを浴びレトルト食品を貪り寝床に倒れ泥のように眠る。翌日、朝六時に起床し筋肉痛に膝を軋ませよれよれと出社する。不安定なシフトと不慣れな肉体労働で病状は悪化し、働いて二年目の夏、まずいことに躁転してしまった。私は臨機応変を求められる場面でパニックを起こすようになり、三十分トイレにこもって泣く、エレベーターで支離滅裂な言葉を叫ぶなどの奇行を繰り返す、モンスター社員と化してしまった。人事に持て余され部署をたらい回しにされる。私の世話をしていた先輩が一人、ストレスのあまり退社していった。
躁とは恐ろしいもので人を巻き込む。プライベートもめちゃくちゃになった。男友達が性的逸脱症状の餌食となった。五年続いた彼氏と別れた。よき理解者だった友と言い争うようになり、立ち直れぬほどこっぴどく傷つけ合った。携帯電話をハイヒールで踏みつけバキバキに破壊し、コンビニのゴミ箱に投げ捨てる。出鱈目なエネルギーが毛穴という毛穴からテポドンの如く噴出していた。手足や口がばね仕掛けになり、己の意思を無視して動いているようで気味が悪かった。
寝る前はそれらの所業を思い返し罪悪感で窒息しそうになる。人に迷惑をかけていることは自覚していたが、自分ではどうにもできなかった。どこに頼ればいいのか分からない、生きているだけで迷惑をかけてしまう。思い詰め寝床から出られなくなり、勤務先に泣きながら休養の電話をかけるようになった。
会社を休んだ日は正常な思考が働かなくなる。近所のマンションに侵入し飛び降りようか悩む。落ちたら死ねる高さの建物を、砂漠でオアシスを探すジプシーさながらに彷徨い歩いた。自分がアパートの窓から落下してゆく幻を見るようになった。だが、無理だった。できなかった。あんなに人に迷惑をかけておきながら、私の足は恥ずかしくも地べたに根を張り微動だにしないのだった。
アパートの部屋はムッと蒸し暑い。家賃を払えなければ追い出される、ここにいるだけで税金をむしり取られる、息をするのにも金がかかる。明日の食い扶持を稼ぐことができない、それなのに腹は減るし喉も乾く、こんなに汗が滴り落ちる、憎らしいほど生きている。何も考えたくなくて、感じたくなくて、精神薬をウイスキーで流し込み昏倒した。
翌日の朝六時、朦朧と覚醒する。会社に体調不良で休む旨を伝え、再び精神薬とウイスキーで失神する。目覚めて電話して失神、目覚めて電話して失神。夢と現を行き来しながら、手元に転がっていたカッターで身体中を切り刻み、吐瀉し、意識を失う。そんな生活が七日間続いた。
一週間目の早朝に意識を取り戻した私は、このままでは死ぬと悟った。にわかに生存本能のスイッチがオンになる。軽くなった内臓を引っさげ這うように病院へと駆け込み、看護師に声をかける。
「あのう。一週間ほど薬と酒以外何も食べていません」
「そう。それじゃあ辛いでしょう。ベッドに寝ておいで」
優しく誘導され、白いシーツに倒れ込む。消毒液の香る毛布を抱きしめていると、ぞろぞろと数名の看護師と医師がやってきて取り囲まれた。若い男性医師に質問される。
「切ったの?」
「切りました」
「どこを?」
「身体中⋯⋯」
「ごめんね。少し見させて」
服をめくられる。私の腹を確認した彼は、
「ああ。これは入院だな」
と呟いた。私は妙に冷めた頭で聞く。
「今すぐですか」
「うん、すぐ。準備できるかな」
「はい。日用品を持ってきます」
私はびっくりするほどまともに帰宅し、もろもろを鞄に詰め込んで病院にトンボ帰りした。閉鎖病棟に入る。病室のベッドの周りに荷物を並べながら、��よりももっと辛い人間がいるはずなのにこれくらいで入院だなんておかしな話だ、とくるくる考えた。一度狂うと現実を測る尺度までもが狂うようだ。
二週間入院する。名も知らぬ睡眠薬と精神安定剤を処方され、飲む。夜、病室の窓から街を眺め、この先どうなるのかと不安になる。私の主治医は「君はいつかこうなると思ってたよ」と笑った。以前から通院をサポートする人間がいないのを心配していたのだろう。
退院後、人事からパート降格を言い渡され会社を辞めた。後に勤めた職場でも上手くいかず、一人暮らしを断念し実家に戻った。飛び降り自殺、餓死自殺、無事、失敗。
五度目は二十九歳の時だ。
四つめの転職先が幸いにも人と関わらぬ仕事であったため、二年ほど通い続けることができた。落ち込むことはあるものの病状も安定していた。しかしそのタイミングで主治医が代わった。新たな主治医は物腰柔らかな男性だったが、私は病状を相談することができなかった。前の医師は言葉を引き出すのが上手く、その環境に甘えきっていたのだ。
時給千円で四時間働き、月収は六万から八万。いい歳をして脛をかじっているのが忍びなく、実家に家賃を一、二万入れていたので、自由になる金は五万から七万。地元に友人がいないため交際費はかからない、年金は全額免除の申請をした、それでもカツカツだ。大きな買い物は当然できない。小さくとも出費があると貯金残高がチラつき、小一時間は今月のやりくりで頭がいっぱいになる。こんな額しか稼げずに、この先どうなってしまうのだろう。親が死んだらどうすればいいのだろう。同じ年代の人達は順調にキャリアを積んでいるだろう。資格も学歴もないのにズルズルとパート勤務を続けて、まともな企業に転職できるのだろうか。先行きが見えず、暇な時間は一人で悶々と考え込んでしまう。
何度目かの落ち込みがやってきた時、私は愚かにも再び通院を自己中断してしまう。病気を隠し続けること、精神疾患をオープンにすれば低所得をやむなくされることがプレッシャーだった。私も「普通の生活」を手に入れてみたかったのだ。案の定病状は悪化し、練炭を購入するも思い留まり返品。ふらりと立ち寄ったホームセンターで首吊りの紐を買い、クローゼットにしまう。私は鬱になると時限爆弾を買い込む習性があるらしい。覚えておかなければならない。
その職場を退職した後、さらに三度の転職をする。ある職場は椅子に座っているだけで涙が出るようになり退社した。別の職場は人手不足の影響で仕事内容が変わり、人事と揉めた挙句退社した。最後の転職先にも馴染めず八方塞がりになった私は、家族と会社に何も告げずに家を飛び出し、三日間帰らなかった。雪の降る中、車中泊をして、寒すぎると眠れないことを知った。家族は私を探し回り、ラインの通知は「帰っておいで」のメッセージで埋め尽くされた。漫画喫茶のジャンクな食事で口が荒れ、睡眠不足で小間切れにうたた寝をするようになった頃、音を上げてふらふらと帰宅した。勤務先に電話をかけると人事に静かな声で叱られた。情けなかった。私は退社を申し出た。気がつけば一年で四度も職を代わっていた。
無職になった。気分の浮き沈みが激しくコントロールできない。父の「この先どうするんだ」の言葉に「私にも分からないよ!」と怒鳴り返し、部屋のものをめちゃくちゃに壊して暴れた。仕事を辞める度に無力感に襲われ、ハローワークに行くことが恐ろしくてたまらなくなる。履歴書を書けばぐちゃぐちゃの職歴欄に現実を突きつけられる。自分はどこにも適応できないのではないか、この先まともに生きてゆくことはできないのではないか、誰かに迷惑をかけ続けるのではないか。思い詰め、寝室の柱に時限爆弾をぶら下げた。クローゼットの紐で首を吊ったのだ。
紐がめり込み喉仏がゴキゴキと軋む。舌が押しつぶされグエッと声が出る。三秒ぶら下がっただけなのに目の前に火花が散り、苦しくてたまらなくなる。何度か試したが思い切れず、紐を握り締め泣きじゃくる。学校に行く、仕事をする、たったそれだけのことができない、人間としての義務を果たせない、税金も払えない、親の負担になっている、役立たずなのにここまで生き延びている。生きられない。死ねない。どこにも行けない。私はどうすればいいのだろう。釘がくい込んだ柱が私の重みでひび割れている。
泣きながら襖を開けると、ペットの兎が小さな足を踏ん張り私を見上げていた。黒くて可愛らしい目だった。私は自分勝手な絶望でこの子を捨てようとした。撫でようとすると、彼はきゅっと身を縮めた。可愛い、愛する子。どんな私でいても拒否せず撫でさせてくれる、大切な子。私の身勝手さで彼が粗末にされることだけはあってはならない、絶対に。ごめんね、ごめんね。柔らかな毛並みを撫でながら、何度も謝った。
この出来事をきっかけに通院を再開し、障害者手帳を取得する。医療費控除も障害者年金も申請した。精神疾患を持つ人々が社会復帰を目指すための施設、デイケアにも通い始めた。どん底まで落ちて、自分一人ではどうにもならないと悟ったのだ。今まさに社会復帰支援を通し、誰かに頼り、悩みを相談する方法を勉強している最中だ。
病院通いが本格化してからというもの、私は「まとも」を諦めた。私の指す「まとも」とは、周りが満足する状態まで自分を持ってゆくことであった。人生のイベントが喜びと結びつくものだと実感できぬまま、漠然としたゴールを目指して走り続けた。ただそれをこなすことが人間の義務なのだと思い込んでいた。
自殺未遂を繰り返しながら、それを誰にも打ち明けず、悟らせず、発見されずに生きてきた。約二十年もの間、母の精神不安定、学校生活や社会生活の不自由さ、病気との付き合いに苦しみ、それら全てから解放されたいと願っていた。
今、なぜ私が生きているか。苦痛を克服したからではない。死ねなかったから生きている。死ぬほど苦しく、何度もこの世からいなくなろうとしたが、失敗し続けた。だから私は生きている。何をやっても死ねないのなら、どうにか生き延びる方法を探らなければならない。だから薬を飲み、障害者となり、誰かの世話になり、こうしてしぶとくも息をしている。
高校の同級生は精神障害の果てに自ら命を絶った。彼は先に行ってしまった。自殺を推奨するわけではないが、彼は死ぬことができたから、今ここにいない。一歩タイミングが違えば私もそうなっていたかもしれない。彼は今、天国で穏やかに暮らしていることだろう。望むものを全て手に入れて。そうであってほしい。彼はたくさん苦しんだのだから。
私は強くなんてない。辛くなる度、たくさんの自分を殺した。命を絶つことのできる場所全てに、私の死体が引っかかっていた。ガードレールに。家の軒に。柱に。駅のホームの崖っぷちに。近所の河原に。陸橋に。あのアパートに。一人暮らしの二階の部屋から見下ろした地面に。電線に。道路を走る車の前に⋯⋯。怖かった。震えるほど寂しかった。誰かに苦しんでいる私を見つけてもらいたかった。心配され、慰められ、抱きしめられてみたかった。一度目の自殺未遂の時、誰かに生きていてほしいと声をかけてもらえたら、もしくは誰かに死にたくないと泣きつくことができたら、私はこんなにも自分を痛めつけなくて済んだのかもしれない。けれど時間は戻ってこない。この先はこれらの記憶を受け止め、癒す作業が待っているのだろう。
きっとまた何かの拍子に、生き延びたことを後悔するだろう。あの暗闇がやってきて、私を容赦なく覆い隠すだろう。あの時死んでいればよかったと、脳裏でうずくまり呟くだろう。それが私の病で、これからももう一人の自分と戦い続けるだろう。
思い出話にしてはあまりに重い。医療機関に寄りかかりながら、この世に適応する人間達には打ち明けられぬ人生を、ともすれば誰とも心を分かち合えぬ孤独を、蛇の尾のように引きずる。刹那の光と闇に揉まれ、暗い水底をゆったりと泳ぐ。静かに、誰にも知られず、時には仲間と共に、穏やかに。
海は広く、私は小さい。けれど生きている。まだ生きている。
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1010mush · 5 years
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茨戸編での尾形は何だったのか あるいは沈黙する破戒神父・鶴見中尉はなぜ死神を自称するのか
ガッツリ本誌176話まで。
1、序 鶴見と尾形の言説の不思議な酷似
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
こと江渡貝母への発砲については、私は鶴見の言い分をずっと好んできた。ここでの鶴見の江渡貝への殺害の示唆は正しく思える(母君は元々死んでいたから私にも倫理的禁忌感がない)。鶴見は時折とんでもない正しさで私を苦しめる。硬直した仲間の死体に向かって「許せ」と言う男。同じ4巻の回想には、マシュマロでゴールデンカムイには珍しい雲吹き出しで内面が記されていることも教えて貰った。
まるで死の行進曲のようなマキシム機関銃の発射音 この無駄な攻略を命令した連中に間近で聞かせてやりたい
私は鶴見中尉の内面描写が少ないという通説をとてもとても疑問視している。これはもはや読み手の願望に近く、検討するのであれば幅広い読解が必須であろう。ゴールデンカムイの人物は総じて内面描写が少ない。それところか、当初は梅ちゃんと寅次についてあれだけ饒舌だった杉元の内面は、「俺俺俺俺俺俺俺俺俺」という叫びとは裏腹に、「俺」も、その内面も、徐々に欠落を始めてしまったのだ。15巻にはアシㇼパの顔を思い出せていないのでは無いかと思わせるカットすらある。15巻で杉元の『妙案』が宙に浮いたままであるのは象徴的だ。私たちの心が取り残され、疑問は解決されず、1つの核心だけが深まるーー杉元佐一は自分を失っている、と。この話は杉元が梅ちゃんに認識されるような��分を取り戻す話出会った筈なのに(そしてそれを認知できない杉元は、梅ちゃんに自分を認識してもらえるように視力回復に躍起になる)、旅の過程で彼はますます自己を喪失していく。
これから延々と鶴見の話となる。
2、死神の自称
鶴見は意図的に自分を失わないために死神になることを選んだ男である、というのが私の基本的な考えである。それは「脳が欠けているから杉元佐一は自分を見失っている」という説を遠回しに否定する存在である。だいたいにして脳が欠けていなかったら杉元はスチェンカで相手を殴り続けなかったと言えるのだろうか。まぁ、杉元の話はさておくとして、それはおそらく尾形のこういった態度と対照づけることも出来る筈だ。
俺のような精密射撃を得意とする部隊を作っておけばあんなに死なずに済んだはずだ
今となってはどうでも良い話だが
鶴見は「今となってはどうでも良い」をやり過ごさなかった男である。一度は鶴見の腹心の部下であった筈の尾形は、戦後も心を戦場に置いてきたのではなく、戦場の側を自らに引き寄せようとする鶴見(や土方)にたいして冷笑的な視点を浴びせ続ける。
仲間だの戦友だの……くさい台詞で若者を乗せるのがお上手ですね、鶴見中尉殿
変人とジジイとチンピラ集めて 蝦夷共和国の夢をもう一度か?一発は不意打ちでブン殴れるかもしれんが政府相手に戦い続けられる見通しはあるのかい? 一矢報いるだけが目的じゃあアンタについていく人間が可哀想じゃないか?
ここでの尾形の「正しさ」は、鶴見の「正しさ」とは違い私の心の拠り所になっていた。尾形が「いい人になれるよう 神様みていてくださろう」に適合するような行動をすると私はいちいち救いを求めてしまい、彼の行動がいつも噛み合わず言説が否定されるのを見てこの男の救いのなさに頭を抱えていたのだ(まさに本誌の『176話 それぞれの神』で現れた関谷の神にすがる心情である)。そして鶴見は、月島をある意味救ったが、尾形を救うのには失敗した。むしろ鶴見は尾形を利用するだけ利用していたように思えた。
尾形と鶴見と親殺しは4度交錯する。江渡貝。花沢中将。月島。ウイルク。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
たらし めが…
尾形にとって鶴見の取り巻きであることが幸せなのかどうかは分からないが、他の造反組や、あるいは役目を見つけて下りた谷垣とは異なり、尾形は鶴見を『切』った、数少ない人物である。尾形は、月島同様戦前から鶴見の計画に加担していたのにもかかわらず、鶴見中尉から月島と同じ様に扱われなかった人間でもあった。
江渡貝の母殺しに関しては鶴見にも見るところがあると考える私も、この鶴見の花沢中将殺しにおける尾形の扱いが原因で、長らく鶴見のことをよく思えずにいた。さらに15巻149話、150話で鶴見が月島を父親殺しから救った(?)事実や、本誌にて戦前から尾形が鶴見の命で勇作を篭絡および殺害しにかかっていた事が判明した事を鑑みて、鶴見の風見鶏的態度に辟易していた。加えて言うのなら、ゴールデンカムイの中に時折現れる聖書に基づく表象や、それに対するキリスト教に軸足を置いた読み解き方というのは私が最も苦手とするところであったが、一方で鶴見が71話の表紙にて不完全に引用された聖書の一節を通じて『にせ預言者』(マタイ7:15)であると示されていることを筆頭に、いくつかのキリスト教的モチーフを(ところどころで反語的に)取り込んだキャラクターであることも否めずにいた。
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。(wikisorceの口語訳より)
そもそも鶴見もまた、その他大勢のキャラクターおよび我々と同様、多面的な人物として描かれている。偽預言者であり、彼の演説はヒトラーのパロディとして描かれるほど(作者によるとミスリードらしいが。Mislead? Misread?)だ。そして、外敵に対しては自らのことを死神と称しながらも、仲間に対してはむしろ告解をうける神父の役割に近いものを演じ、坂本慶一郎とお銀の息子の前では聖母マリアとなり、月島や杉元と共有する傷は、スティグマと見ることも出来るだろう。キャラクターデザインには、明らかに鶴の要素が取り入れられている。さらには編集者のつけた仮面を被る悪魔、という表象ですら許容される向きにあるのだから、鶴見も大変である(悪魔という呼称は江渡貝の母によっても齎されている)。私がこの鶴見という、出自も分からぬいろんな人形が載せられたクリスマスケーキを長らく食べる気になからなったのは、そこに土俗の信仰と西洋的信仰が混ざり合って、あまつさえ鶴や死神の細工菓子まで載っていたことを考えると不思議ではあるまい。
私はどこかで、にせ預言者としての鶴見、という表象の正当性についてすら、もしかして議論になるのではないかと辟易している。不信の徒である私の読み解ける事項など限られていることは重々承知だし、そもそも私はゴールデンカムイを読み解くときに、作中での記載を第一に考え、外的世界に存在するマキリで作品をチタタプしない様に細心の注意を払ってきた。最近ラジオが出現したことで、ようやく文言に尽くし難かったそのバックグラウンドをまとめる事ができたような気がするが、私は解釈を取り払った読み方が先にくることを好むし、そもそも『らしさ』への拘泥は私の目を曇らせるのではないのかと考えている。とりわけキリスト教を扱う時には、竹下通りで千円で買った十字架のアクセサリーを身につける女の子のようにならないためには、むしろ触れずにいるのが一番なのではないかと長く考えていたものだった。それが私の最低限の敬意の示し方であった。
とはいえ、キリスト教と日本の間での困難を感じていたのは何も私だけではなかった。多くの作家がそれに苦しみ、むしろその困難を以って、日本を描き出そうとする作家もいた。もちろん私の考えでは、作家の作るものに於ける宗教的解釈は、仮に異端であっても一つの芸術作品になり得る一方で、評論家の宗教的解釈の異端さは、単なる誤読として片付けられる可能性がより高く、慎重を期するものであるのだが…。しかし私はだんだんと、そういったキリスト教と日本の狭間で描かれた作品であれば、鶴見像を見出せるのではないかと思う様になっていった。もっと言えば、私がキリスト教的表象を前にして立ち竦む、その逡巡自体を語ることならできるのでは無いか、と思う様になったのだ。
「にせ預言者ー貪欲な狼」「ヒトラー(ミスリード)」「マリア」「告解を受けるもの」、そして「聖痕」…を持つ「悪魔」で「死神」…の「鶴」をモチーフとした「情報将校」。
「にせ預言者ー貪欲な狼」に対してのとても簡潔な読み解き方は、単に鶴見が偽の刺青人皮を作ろうとしている、というものである。もう少し解釈を広げれば、鶴見が北海道の資源を活用して住むものが飢えない軍事帝国を作ろうと嘯くことであろうか。
軍事政権を作り私が上だって導く者となる お前たちは無能な上層部ではなく私の親衛隊になってもらう
これはヒトラーとして描写されていること(繰り返しとなるが、作者によるとミスリード)でもあり、ヒトラーとはたとえばその土地の出身では無いという点などでも共通点が見られる。実際には北海道はロシアと違って天然資源には恵まれておらず、またその後の軍事政権というトレンドの推移、戦争特需にも限りがあることを考えれば、金塊を持ってしても独立国家としての存続がおよそ不可能であっただろうことは見て取れる。
3、マリア、そして告解を受ける破戒的神父としてのあべこべさ
面白い事に、聖母として描かれる鶴見はほとんどもって無力であり、子をアイヌ的世界に属するフチに預ける事しか出来ない。
一方で「告解を受けるもの」、すなわち神父としての鶴見は極めて破戒的である。鶴見への告解は子羊たちの救済を意味しない。鶴見は誰とも共有すべきではない告解を共有することで、結束を強める「見返り」を期待する者である。教会に於いては告解の先には主による赦しがあることが期待され、十字架に架けられたキリストの苦難がそれを象徴していた。一見してキリストの苦難は鶴見の告解室においては「戦友は今でも満州の荒れた冷たい石の下だ」で代替されている。しかし鶴見の厄介さはその様な単純な構造におさまらないところである。一方で満州を彼らのいる北海道と分けて見せるそぶりを見せながら、時として「満州が日本である限り お前たちの骨は日本人の土に眠っているのだ」と口にし、それどころか戦争の前から月島・尾形らと何かしらの謀略を図っていたことすらわかり、『我々の戦争はまだ終わっていない』という悲壮にも満ちた決意が段々と『戦争中毒』である鶴見のハッタリであったことに我々は気づかされる。
彼への告解は何もかもがあべこべであり、神父の皮を被りながら極めて破戒的である。洗礼後ではなく洗礼前――つまり第七師団入隊前――の罪を、谷垣に至ってはあまつさえ衆人の前で告白させ、傷を共有させる。告解が終わった後に司祭は「安心して行きなさい(ルカ7:50)」というものだが、鶴見は自分に付いてきてくれるように諭すのだった(「私にはお前が必要だ」)。
破戒というのはあまり神父に使う言葉ではない。それでも、島崎藤村の『破戒』は、聖書のモチーフを色濃く反映させながら、被差別階級とその告白を描いた作品だったのだから、やはり破戒、と言う言葉はここにふさわしい気がする。
『破戒』において島崎が真に目指したのは、「身分は卑しくてもあの人は立派だから別」という、個人の救済を批判することであった。そのような個人の救済は、いわば逆説的に被差別階級の差別を補強する、矛盾した論理であったのだ。
この論理は2018年にも広く流通した。杉田水脈氏がLGBTに生産性がないと発言したことに、一部の人が、アラン・チューリングやティム・クックといった生産性のあるLGBTの名前を挙げて反論を試みたのである。このような言説が流布した後、リベラル派は、自分たちの身内の一部に対して、「生産性のないLGBT」が仮にいたとしても、その人たちも等しく扱われなければならない、とお灸を据えなくてはならなかった。
これこそ私が鶴見の恣意的な月島の依怙贔屓を、そして尾形の利用を、いまだに批判すべきだと考える理由である。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
誰よりも優秀な兵士で 同郷の信頼できる部下で そして私の戦友だから
私はこの差異に於いて鶴見を許す気は毛頭ない。それは、私が谷垣を愛しながらも、アシㇼパを人質に取った事を未だに許していないのと同等である。谷垣を受容するに至った経緯が、私に鶴見というキャラクターを拒絶する理由は最早ないことを教えてくれた。そしてよくよく読み解いてみると、この、一見すると月島への依怙贔屓ですらあべこべなような気すらしてくるのであった。
4、主格の問題 ー 「死神」という主語について
ここにおける問題は『主格』に於いても明らかだ。鶴見が月島に話す時の態度は、軍帽を脱ぎ、主語は「私」、時折「おれ」と自らを自称する親しみのあるものだ。その一方でしかし尾形へは軍帽またはヘッドプロテクター(仮面)を装着して主語をあろうことに「第七師団」に置いている。尾形の父殺しについては未だに謎が多く、発端が誰なのか(花沢中将自身・尾形・鶴見)、なぜ花沢中将が死装束を身につけられたのかを筆頭に、また鯉登少将への手紙をいつ誰が書いたのかも問題となろう。よって、尾形が鶴見への忠誠心を失いつつも自らの父殺しの願望を成就させるために鶴見の案に乗っただけなのかどうかは、よくわからない。とはいえ、自らが時に「どんなもんだい」と誇示さえする狙撃手としての腕を買わなかった第七師団への離反は、狙撃手と対称をなすような旗手としての勇作を評価し、勇作の殺害作戦を撤回した鶴見への、勇作の狙撃をもっての”謀反”を契機として、花沢中将死亡時に、すでに尾形の胸の内にあったと考えるのが自然であろう。加えて尾形も、どこかの段階で破戒的神父・鶴見への告解というステージを踏んでいたことも想像に難くない。
このように読み解いていくと、単に鶴見は月島にだけ心を許しているようにも読めるのだが、そうは問屋が卸さない。まずはいご草への呼称問題である。月島は自らのことを『悪童』ではなく『基ちゃん』と呼ばれる事に意義を見出しているのに、彼女の事を『いご草』と表現する(本当は鶴見との会話の上でも名前で呼んでいたのだろうが)。さらにそれを受けて鶴見は『えご草ちゃん』と彼女の非人格化を進め、さらには自らの方言も決して崩さないことで会話の主導権を握る。加えて、私は長らく、江渡貝と炭鉱での爆発に巻き込まれ、煤だらけで雨の中を帰ってきた月島への労いの少なさにも違和感を抱いていた。これも一つの「あべこべ」なのかもしれないし、あるいは月島への圧倒的信頼が根底にあり、彼なら心配に及ばないと考えていただけなのかもしれず、もしくは鶴見がヘッドプロテクターという仮面をつけた時の「死神」としての決意の表れかもしれない。
「死神」を自称すること。
そもそもにおいて、我々が日々感じている他人への判断、偏見、予断の集合体、例えば、あの人は秋田出身で大柄で毛が濃く少々ドジなマタギである、と言われたことによって”我々が想起する予断と偏見”と、漫画を切って話すことはできない。小説よりもさらに視覚的な漫画という分野においては、ステレオタイプと”キャラ”立ちするための記号化というのはほとんど隣り合わせにあり、分離することがむずかしい(この論だけで何百ページも割かなければ説明できないであろう)。それでも、だ。この作品のキャラクターほど、「あの人はこう言う人だから」と型に嵌める行為が適切ではない作品もないのではないか。
作品内で繰り返される「あなた どなた」という問い、あるいはその類型でのマタギの谷垣か兵隊さんの谷垣かどっちなのか、山猫の子は山猫なのか、という問い、そしてその問いに対するわかりやすすぎる「俺は不死身の杉元だ」という回答を、繰り返しながらもゆるやかに否定し続ける世界線の中で、「私はお前の死神だ」という言葉は鶴見の決意と選択を象徴しながらも、結局のところ杉元の「不死身」の様にアンビバレントな価値を持つ言葉の様にすら思える。
鶴見と杉元はスティグマを残す男である点も共通している。鶴見は月島が反射的に自らを守った際に微笑み、二人はその後スティグマータを共有する人物になった。
杉元と傷の関係については未だに謎が多い。彼自身が顔につけた傷についても多くが語られる事はない。時間軸として1巻以降で彼が顔に受けた傷跡はかならず治っていくのに、彼が周りに残していく傷は確実に相手に痕を残していく。なぜ尾形が撃った谷垣の額の傷跡は消えたのに、杉元が貫いた頬の傷はいつまでたっても谷垣の頬から消えず、尾形の顎には縫合痕が残り、二階堂は半身を失い続けているのか、分からないままだ。ずっと分からないままなのかも知れない。
そしてウイルクもまた、顔に傷を残す男性である。傷を残しても役目を終えない男たち。聖痕と烙印ーー両極な語義を内包するスティグマータを共有し合う男たち。それはかつての自己からの変容であり、拭い去れない過去の残滓でもある。そしてそれは、作中の男性キャラクターたちが「視覚」を中心として動き回ることと決して無関係ではないが、ここではその論に割く時間はない。
「あなた どなた」に対してあれほど口にされる「俺は不死身の杉元だ」を“言えない”こと。この言えない言葉について、私はどれだけの時間をラジオに、文章に、割いて来ただろうか。そのことを考えると矢張り、「あのキャラクターはこうだから」と言う解釈がいかに軽率にならないかに気を使ってしまう。たとえば鶴見においては、まさに本人が、「俺は不死身の杉元」よろしく「私はお前の死神だ」と言っているのだから、もうそれで良いではないかと言う気がする。「不死身の杉元」は杉元が不死身ではないからこそ面白みの増す言葉であるように、今まで見てきた通り鶴見も何も「死神」だけに限定するには勿体無いほどの表象を持っているが、その中で杉元が、ある種の悲痛な決意を持って、半ば反射的に「不死身の杉元」と口走る一方で、「死神」にはもっと計画的な、そして底が知れぬ意志の重みを感じるのは私だけだろうか。「不死身の杉元」にも感じないわけではないが、「死神」はより一層”選択”であった、という感じがする。偽の人皮を、扇動を、月島を、傷を、周りに振り回されることなく自ら道を切り開いて”選ぶ”という高らかな宣言が、「死神」である、という感じがする。
5、「運命」と「見返りを求める弱い者」
『役目』を他人に認めてもらうことが作品内でどれくらい重要なのかは難しいところだ。谷垣源次郎が役目を見出し、果たす事を体現するキャラクターとして描かれ、見出す事、果たす事の重要性は単行本の折り返しから我々に刷り込まれているとは思うが、その結果としての他者承認は必須なのだろうか。杉元や尾形が他者承認を執拗に追い求めている様に見える一方で、白石が、シスター宮沢、熊岸長庵、アシㇼパ、杉元と、認めないー認められないことをずっと体現し続けているのもまた面白い。
長年の谷垣源次郎研究の成果として、谷垣の弾けるボタンは、インカラマッが占いきれない予測不可能性と、それを元にした因果応報やら占いに基づく予測的行動の否定の象徴であると気付いて、私はだいぶスッキリした。網走にいるのがウイルクである可能性は彼女の占いに基づくと50/50であるが、これがウイルクではないと100/0で出ていたとしても、彼女は網走にそれを確かめに行かなくてはならなかっただろう。それは北海道の東で死ぬと知っていながら網走に行く選択をするのと同根であり、いずれボタンが弾けとぶと知っているからと言ってボタンを付けない理由にはならないこと、またはボタンが弾け飛ぶからといって、彼女が谷垣に餌付けするのをやめはしないことと共通する。そもそもにおいて自分の死期を悟っている、ある種の諦念を持つインカラマッの行動は、途中から愛に近しいものを手にいれるにつれ、淡い未来への希望と言語化されない献身を併せ持つものになりつつあった。未来への希望と言語化されない献身……そういったものの為に嘘をつくことすら厭わない女たちを総括して、二瓶は『女は恐ろしい』と称し、自分たちの行動原理では理解不能なものとして警戒していたのだった。二瓶の持つ『男の論理』は、明白な見返りを望むものだったからだ。谷垣もその例に洩れず、インカラマッは怪しい女だからといって救わずにいようとすらしたし、彼女と打ち解ける様になった後も、その『女の論理』の如何わしさを感じ取って、彼女と寝る際には、やましさから『男の論理』の権化である二瓶の銃を隠し、彼女と寝た後には、その求愛は彼女を守らせるための行動ーーすなわち明白な見返りを求めた打算ーーだと考えすらしたのだ。もちろん、彼女自身のかつての行いによって、それを谷垣に見えづらくして、当たりすぎる占いが谷垣の心を遠ざけているのも皮肉であるし、その当たりすぎる占いが全て占いではなかったことは皮肉であった。妹を亡くしていること、アシㇼパの近くに裏切り者がいること、東の方角が吉と出ていることは、すべてインカラマッが既に知っていたことであり(探しているのはお父さんだという占いも同等)、キロランケの馬が勝つかもしれない可能性や、三船千鶴子の場所を言い当てるだけの能力を持ちながら、占い師としての力を使わず内通者として動いたことで、彼女自身が彼女を『誑かす狐』に貶めてしまっていた。彼女が溺れる話の表題が『インカラマッ 見る女』なのは、そんな彼女の人間性の回復を示唆しており、それは彼女自身が占いから逃れて、弾け飛ぶボタンの行き先ような、予測不可能性に身を委ねることであった。
「最悪の場合、こうなるかもしれないからやらないでおこう」だとか、「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という報酬と見返りの予測に基づく行動とその否定は、ゴールデンカムイを読む上で極めて重要な要素だと考える。
予測に基づく行動の抑制を行わない登場人物たちの決定は、残念ながら愛のみではなく、殺しと暴力も含まれる。即断性という言葉で言い表すこともできるかもしれない。私はこれをよく『反射的』という言葉を用いて説明している。私に言わせれば、極めて幼稚な、原始的な論理であり、月島が鶴見を助けたのもこれに分類される。それで鶴見が満足をしたのは、それはそれで鶴見の孤独を浮き上がらせる。反射とは、結局のところ「そうするしかなかったんだ」という男たちの言い訳に使われるものでもであり、杉元が初めて尾形に会った時に川に突き落とした時の口ぶりと100話の口ぶりなどは、まさにその代表例である。杉元という人物の中では、そのような反射的な即断性と、殺したものの顔をずっと覚えているという保持性の二つの時間軸が交差しており、その内的葛藤が我々を強く惹きつけている。そしてそこから、杉元が持つ時間軸は「地獄だと?それなら俺は特等席だ」「一度裏切った奴は何度でも裏切る」という回帰性、または因果応報性にまで波及するのだが、その思考の独特さは「俺は根に持つ性格じゃねぇが今のは傷ついたよ」という尾形の直線性と対をなす。尾形は直線的に生きていかなければ耐えきれない程の業を背負っている。それでも過去は尾形を引き止めに来る、杉元が梅ちゃんの一言を忘れられないのと同等に。
即断性/反射的の反語はなにも計画的/意図的なことだけではない。極めて重要な態度として、保留があり、現在この態度はインターネットが普及して、即時的な判断とその表出のわかりやすさが求められるようになったことで、価値が急速に失われつつあるが、明治期においても軍隊の中では持つことが叶わなかった態度であっただろう。保留を持つキャラクターの代表格こそ、白石由竹であることは言うに及ばないであろう。
保留を持ち得なかったものたちが代わりに抱くのが反発か服従であり、造反組は勿論のこと、気に入らない上官を半殺しにした杉元と、諦念に身を任せて問いすら捨てた月島を当てはめることができるであろう。
その即時性や保留や反発や服従を生み出すのが、自らを死神に例える鶴見であり、鶴見はまさに意志の人、意図の人、計画の人である。そして仲間に対して「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という見返りを期待して関係を構築する人である。これも、私が彼を苦手としていた理由の一つであった。しかし繰り返しになるが、鶴見の”選択”は、「即時性や保留や反発や服従」を生み出す。そして本編では、どちらかというと出だしから鶴見からの離反者ばかりが描かれ、人たらしの求心力を持つ魅力的な人物であるということを読み解くまでに、私はじっくりと長い期間をかけなければならなかった。「先を知りたくなる気持ち」「ページをめくる喜び」を強く求められる男性向けの週刊連載において、保留の態度を試されていたのは、読者の方であったのだ。
それでもなお私は、裏切られる鶴見、離反される鶴見というものを立ち返って見るにつれ、この男の立場の脆さというのを改めて重要な要素として捉えるようになったのだ。
それは「死神」とは遠く、自らの周りを賞賛者で固めた男の、ともすれば惨めとすら言える姿であった。そして私は遂に「死神を目指す弱い男」、鶴見を見出したのであった。
そこで大事なのは、鶴見が「死神」になろうとしている、というただ一点であった。それはおそらく尾形が銃に固執するのと同等の、自己決定権のあくなき希求であった。
11巻で尾形は言った。「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものですが」。その11巻で鶴見は愛を見出していた。「あの夫婦は凶悪だったが…愛があった」。そして同じ巻で、鶴見はふたたび高らかに宣言したのだ、「私は貴様ら夫婦の死神だ」ーーと。
以上の文章は既に3週間以上前に書いたものだったのだが、本誌ではさらに「神からの見返りを求める弱い男」として関谷が登場した。この「弱い」という言葉は私の元ではなく、イワン・カラマーゾフが『カラマーゾフの兄弟』の一節『大審問官』にて述べた、大部分の信者を指す言葉である。さらに本誌では、私が谷垣とインカラマッの関係に見ていた「予測不可能性」を、ある意味逆手に取った様に、自分への逆説的幸運をもたらす人物として門倉が描かれ始めた。私は一読して彼は谷垣の類型であると感じ取ったが、それは即ち尾形の「かえし」である事も意味することを忘れてはならない。尾形はキロランケが神のおかげだと言った直後に、「俺のおかげだ」「全ての出来事には理由がある」と神の采配を否定するような男だからだ。
すべてのあやふやな存在に輪郭を持たせ、弾け飛ぶボタンを先にむしり取っておこうという「覚悟」。その覚悟の名前が「死神」。私にとっては、それが最もしっくりくる「死神」の捉え方であるような気がした。
覚悟については鶴見の口から15巻でこのように語られる。
覚悟を持った人間が私には必要だ 身の毛もよだつ汚れ仕事をやり遂げる覚悟だ 我々は阿鼻叫喚の地獄へ身を投じることになるであろう 信頼できるのはお前だけだ月島 私を疑っていたにも拘らず お前は命がけで守ってくれた
そう思うと尾形と月島の扱いの差にも、月島へのあの苦しい弁明も納得がいくような気がした。
6、月島への『言えなかった言葉』
話は最後まで聞け 月島おまえ… ロシア語だけで死刑が免れたとでも思ってるのか?
初読時にはこの物言いは癪に障った。そこまで自明のことだと思うのなら。そうやって父の悪名を利用して月島を助けたのなら。月島にそう言えばいいじゃないか、と思っていた。しかしそれは、結局の所「ゴールデンカムイ」の根底を為す、『言えなかった言葉』の一種であったのだ。9年間、鶴見は自分の工作を月島に明かすことが出来なかった。それは杉元が、いずれ梅子に再び見出してもらう未来を目指している期間(つまり本編)よりもっともっと長い時間であるような気がする。その事実だけがまずは大事で、それに対して色々な意味づけをする前に、私は鶴見が”言い淀んだ”事実に向き合わなければならなかった。私は鯉登でも宇佐美でもないのだから、鶴見を信望する必要などなかったのだった。裏切りたくなるほど痛烈に、その存在を意識すればいいだけであった。
そして、理由はどうであれ『言えなかった言葉』を9年間抱えていた鶴見には、やはり弱さという単語が似合った。もし、もし本当に、月島の父親の家の地下から掘り出されたのが白骨であったのなら、10日前に行方不明になったいご草ちゃんが月島が逮捕されてすぐに掘り出されたのだから、白骨化するのには時間がかかりすぎるので、ジョン・ハンターよろしく骨格標本を作るような細工でもしない限り、髪やら服やらで誰だかすぐに分かってしまう。だから、きっと鶴見の工作は説得力のある良く出来たものであったのだが、それですら、月島に言えなかった、という事実の確認。
月島をどうしても手元に置いておきたかったのだろう。「告解を受けるもの」であった鶴見が月島の前では弁明をする男に成り下がる。それでもそこで「スティグマ」が2人を繋ぎ止める。鶴見は言った。「美と力は一体なのです」。そして彼の言葉にある”美”の定義は彼の顔の傷をも厭わないものであった(二階堂が本当にヒグマを美しいと言ったかどうかは大きな疑義が残るが)。この点に関しては、私はずっと鶴見の考え方に感心させられていたものだった。自らを美しいと定義してしまえば、もはや何も恐れるものはない。
ますます男前になったと思いませんか?
これは鶴見が自らの容姿に(杉元のように)無頓着であるとか、または本当にますます男前になったと考えている訳ではない、と考える。15巻で大幅に加筆された鶴見のヘッドプロテクター装着シーン。
どうだ 似合うか?
鶴。
杉元の言を借りよう。
和人の昔話にも「鶴女房」って話があってね 女に変身して人間に恩返しするんだけど 鶴の姿を見られたとたんに逃げていくんだ
鶴の頭部を模したヘッドプロテクターは、おそらく杉元が被り続ける軍帽と同種のものである。とはいえ杉元は軍帽をなぜか捨てられない男として描かれているのに対し、鶴見はむしろ「覚悟」の顕在化としてヘッドプロテクターを装着している。そしてその内部には、自ら御することすらできない暴力への衝動があり、その暴力を行使する時に、そのヘッドプロテクターからあたかも精液/涙のように変な汁が”漏れ出る”。編集の煽りによるとこれは「悪魔」の「仮面」である。たかだか煽りの一文を根拠に、悪魔かどうかを議論するのはかなり難しいが、それでもやっぱりヘッドプロテクターが「仮面」であるというのは、意を得た一文と言って良いのではないだろうか。それは不思議にも姿を隠す鶴の昔話に符合する。
正直に言おう!鶴見が悪魔だったらどれだけ解読が楽だった事か!原典が山ほどある。しかも悪魔は二面性を持つ。ファウスト 第一部「書斎」でメフィストフェレスはこのように話す。
Ein Teil von jener Kraft, 私はあの力の一部、すなわち
Die stets das Böse will und stets das Gute schafft. 常に悪を望み、常に善をなすもの。
Ich bin der Geist, der stets verneint! 私は常に否定し続ける精霊。
Und das mit Recht; denn alles was entsteht, それも一理ある、
Ist wert dass es zugrunde geht; すべてのものはいずれ滅びる。
Drum besser wär’s dass nichts entstünde. であれば最初から生まれでない方が良かったのに。
そしてイワンの夢の中で、スメルジャコフは「メフィストフェレスはファウストの前に現れたとき自分についてこう断じているんです。自分は悪を望んでいるのに、やっていることは善ばかりだって。」と、ファウストに言及するのであった(第四部第十一編九、悪魔。イワンの悪魔)。
このファウストの素敵な一節にはいずれ触れるとして、鶴見は悪魔を自称はしないことを念頭に先を急ごう。
この情報将校を語る上で、最も大事な事象は彼が自身を「死神」と定義することだと私は考えている。そんな中で、数々の日本的ーキリスト教的装飾に彩られ、たとえば「スティグマ」というキリスト教的文脈で鶴見に聖痕/烙印という聖別を与えることを全く厭わない私からも、「死神」がキリスト教的であるかどうかには首をひねってしまう。よしんばキリスト教のものを作者が意図していたとして、「死神」という訳語を当てるのは、デウスに大日という訳語を当てたザビエルの如き、弊害の多いものであるように思える。もしかしたら鶴見はpaleな馬に乗った男であり、隣に連れるハデスが月島か何かであり、第一~第三の騎士が鯉登、宇佐美、二階堂のいずれかの人物であるのかもしれないが…それにしても示唆する表現が少なすぎるのだった。このことは私を悩ませた。というのも鶴見をキリスト教的に読み解くという行為は、私にとって禁忌だからこそある程度の魅力を感じさせるものだったからである。ましてや鶴見を「弱い神」と位置付けるならなおのことであった。日本におけるキリスト教的神は、決して強者たりえない。強者だと感じていたらこの程度の信者数には収まっていない。そもそもゴールデンカムイには何となくキリスト教を思わせるような描写が散りばめられており、それでもいかにそれが合致していてもその文脈で語る必要はないのではないかと思われる事象も多々ありつつ(たとえばアシㇼパによる病者の塗油をサクラメントとして読み解く必要はないと感じるなど)、その禁じられた評論とやらを、試しにやってみるとこうなる。
そもそもにおいてまず、キリスト教に触れること自体に禁忌感がある、というのは既に記した通りだ。「スティグマ」「マリア」一つに取っても、私にとっては言及する前に、日本的キリスト教観について長大な考えを巡らせることがそもそも不可欠であった。キリスト教自体は現地の土俗宗教を取り込んで来たが、こと日本においてはそれすら叶わず、日本的キリスト教観というのは、おおざっぱに言えば日本の多神教感との習合ということが出来るかもしれないが、むしろ、日本の側がキリスト教の本質を捉えることなくキリスト教を取り込んでいく、という逆転現象の方が著しいほどだ。
評論家における教義の解釈のズレは、ともすれば不勉強や読み違えとたがわない為、私も慎重にならざるを得ない。しかし創作者における教義や解釈のズレは、等しく芸術となり得る力を持っているのであって、私はそれを読み解いて良いのかどうなのかずっと逡巡していたのだった。日本に於いてキリストを描くことの可能と不可能は、作家自身がキリスト者であった遠藤周作が身をもって体現していた。遠藤の描く神は一部で絶賛を受け、2016年にマーティン・スコセッシが映画化したことも記憶に新しいが、一方でカトリック協会の一部からは明白な拒絶を受けた。そして彼の描く神は、誰かを救う力を持つような強い神ではなく、弱い誰かに寄り添うような神であった。
鶴見は「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふや」であるものに、覚悟を持って形を付けていった。それは日本人に許された特権であるかもしれない。ゴールデンカムイの作品世界の中で「神」「運命」「役目」が目に見えぬ大きな力としてキャラクターを飲み込む中(そしてそれが本誌に置いてリアルタイムでますます力を持とうとし、ともすれば谷垣のボタンすらそれに組み込まれてしまうのではないかという恐怖に怯えながら)、鶴見はひたすらに自律できる人生を求めている。運命を意のままに操ることへの飽くなき渇望。その裏返しとして彼は大嘘つきとなった。
そんな大嘘つきの鶴見ですら、嘘すらつけなかった事実が月島をあの手この手で自らの手元に置いておこうとした事実であった。9年間も彼はその努力をひた隠しにしようとした。それは大嘘つきの死神に存在した「俺は不死身の杉元だ」と同義の『言えなかった言葉』であった。奇しくも遠藤周作は、まさにこの国での神との対話の困難さについての一片の物語を、まさしくこのように著したのである――『沈黙』と。
対話の不可能さには逆説的な神性がある。
それはアイヌのカムイにおいても同じである。だからこそ送られるカムイに現世の様子を伝えてもらおうとし、それでもバッタに襲われた時にキラウシは天に拳を振りかざして怒ったのだ。しかしカムイとキリスト教的神の間には決定的な違いがある。キリスト教的神は全てを統べているのだ。そして「知って」いる筈なのだった。長年このことは日本の作家を悩ませていた。遠藤の『沈黙』においても、主人公は繰り返し、聖書におけるユダの記載、そして「あの人」がなぜユダをそのように取り扱ったのかを問うている。
だが、この言葉(引用者注:「去れ、行きて汝のなすことをなせ」)こそ昔から聖書を読むたびに彼の心に納得できぬのものとしてひっかかっていた。この言葉だけではなくあのひとの人生におけるユダの役割というものが、彼には本当にところよくわからなかった。なぜあの人は自分をやがては裏切る男を弟子のうちに加えられていたのだろう。ユダの本意を知り尽くしていて、どうして長い間知らぬ顔をされていたのか。それではユダはあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。
それに……それに、もしあの人が愛そのものならば、何故、ユダを最後は突き放されたのだろう。ユダが血の畠で首をくくり、永遠に闇に沈んでいくままに棄てて置かれたのか。(新潮文庫 遠藤周作『沈黙』p.256)
当時若干25歳の萩尾望都が抱いたのも全く同じ疑問であった。編集から1話目にて打切りを宣告されるも、作者自ら継続を懇願した結果、その後少女漫画の祈念碑的作品として今尚語り継がれる『トーマの心臓』において、萩尾は以下のようなシーンをクライマックスに持ってくる。
ーーぼくはずいぶん長いあいだいつも不思議に思っていたーー
何故あのとき キリストはユダのうらぎりを知っていたのに彼をいかせたのかーー
“いっておまえのおまえのすべきことをせよ”
自らを十字架に近づけるようなことを
なぜユダを行かせたのか それでもキリストがユダを愛していたのか
その後も「知ってしまうこと」は萩尾望都の作品の中で通底するテーマとして描かれ続け、時にそれはキリスト教的なものとして発露した。『トーマの心臓』の続編『訪問者』はもちろんのこと���『百億の昼と千億の夜』ではまさに遠藤が指摘した通りの役回りをキリストとユダが演じ、そして敢えてキリスト教的な赦しを地上に堕とした作品として、『残酷な神が支配する』を執筆することとなる。
私は日本に生まれた非キリスト者であるからこそ、むしろ不遜に、無遠慮に、宗教的な何かについて切り込んでいけるのではないかと常々感じていた(例えば私にとっては聖典とされる教義の中でも聖書に記載がないのではないかと思う箇所がままある)。そしてその鏡写しのように、概して宗教が封じ込めるものは懐疑と疑念と疑義と疑問ではないか、と考えてきたのだった。
神とは何か、愛とは何か。
そういった問いを挟まないために自らが神になることを決めた男。
それはおそらく弱さを自認した上での自らへの鼓舞であった。
はたして私のような不信の徒が、どのような表象にまで「神」を見て良いのか、いつも憚られると同時、そしてその弱い神をまさに、ドストエフスキーは『白痴(Идиот-Idiot)』として現代化を試みたのではなかったか、という思いがある。『白痴』という和訳は今からするとやや大袈裟なきらいもあるが、それでもやはり、罪なく美しい人間というのは、当時のロシア社会において『Идиот』としてしか発露し得ないというドストエフスキーの悲痛でやや滑稽な指摘は、裏を返せば知恵の実を食べた狡猾な『人間』であるためには、罪を犯し汚れる覚悟をしなくてはならないということであり、それをナスターシャ・フィリッポブナとロゴージンというキャラクターに体現させていた。このような本作を、黒澤明は、日本的なキリスト映画の『白痴』として図像化したのである。このように日本において不思議と繰り返される弱い一神教の神としてのキリストという存在は、ますます持って私の鶴見観を固めていく。
罪を犯し汚れる覚悟は、鶴見によっては以下のとおり示されているものかもしれない。
殺し合うシャチ… その死骸を喰う気色の悪い生き物でいたほうが こちらの痛手は少なくて済むのだが… 今夜は我々がシャチとなって狩りにいく
一方でキリストを『Идиот』と呼ぶことすら厭わないその姿勢は、私にとっては極めてロシア的なものである。信仰において美しく整っていることは最重要課題ではない。そのような本質性がロシアでは”イコン”に結実している。家族が毎日集まって祈る家の片隅のイコンコーナーの壁に掛けられた、決して高い装飾性や芸術性を誇るわけではなく、木片に描かれたサインすらない御姿の偶像。しかしそれこそが最も原始的な「信仰」のあり方なのではないか。ゴテゴテとした教会の装飾でも着飾った司教の権威でもなく、余分なものが根こそぎ取り払われて、日々の礼拝と口づけの対象となる木のキャンバス。真に信仰するものへの媒体としてではあるが、特別な存在感と重みを持つ象徴的なイコンという存在は、英語では「アイコン」と読み下されるものであり、文脈を発展させながらポップカルチャーにおいてもその役割を大きくしていったことは周知の通りだ。
7、親殺しの示唆と代行 ー 尾形の場合
翻って尾形の新平の親殺しはどうか。
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
鶴見も尾形も親殺しの事を「巣立」ち、という同じ形容を使うという事実。きっと何度も語られてきたことだろうけど、改めて15巻にて新たな父殺しが描かれてたことで、その関連性に驚く。父親の妾を寝取りながら、自らが手を汚す事もなく、両親が絶命した事で自由を得る新平のような人物は、私が『因果応報のない世界』として称するゴールデンカムイの特徴である。あるいは『役目』重視の世界とでも言おうか。そこで『役目』を果たしたのは意外にも尾形と彼の「ムカつき」であった。ただし尾形は、他人を結果的に助けてもその事を認識されない人物であるので、この『役目』もまた誰にも認識されることなく消えていく。
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
江渡貝の母は既に死亡していたが、江渡貝には支配的な母の声が聞こえ続けており、その声は鶴見に与することに反対し続けていた。母は江渡貝を去勢していたことすらわかっている。そんな母を殺せと示唆する鶴見。何より面白いのは「決めるんだ 江渡貝君の意志で…」という鶴見らしくない言い回しである。しかし結果として齎される“対象の操作””偽刺青人皮の入手”という点では功を奏しているので、単に相手によって取る手法を変えていて、それが本人にとってプラスに働くこともあれば、そうでないこともあるだけかもしれない。
ここで関谷のような問いを死神たる鶴見に投げかけるとこうなるーー鶴見は江渡貝から得る『見返り』がなくても江渡貝を助けただろうか?
これは関谷への以下の問いはこのように繋がるーー弱く清い娘を殺し、殺人鬼たる関谷を生かす神だったとして、関谷は神を信じ続けただろうか?
善き行いをした者に幸運しか降りかからないのであれば、なぜこの世に不遇は、不条理は、戦争はあるのであろうか。
これに対して「すべての出来事には理由がある」とする尾形が、自分の置かれた環境と新平の環境をダブらせた上で、親を殺す事が出来ず(巣立つ事が出来ず)大口を叩くのみの新平に対する「ムカつき」であることは明らかでありながらも、そこで結局新平が「救われた」事の偶発性、蓋然性、見返りのなさは見逃してはならないであろう。
同時に、墓泥棒を捕まえるのは自分の仕事ではない、と語る鶴見が、なぜ遺品の回収をしていたか(出来たか)、そして「傷が付いていた」という詳細、のっぺらぼうがアイヌだということまで尾形に情報共有していたという二人の結びつきを考えるのも実に面白い。アイヌを殺したのは誰なのか? そこにいたと分かっているのはもはや鶴見だけなのである。
兎にも角にも、鶴見は、むしろその「不遇、不条理、戦争」の側に立つ事で、幸福を齎そうとする者なのである。
それは奇しくも、イワン・カラマーゾフが大審問官で言わせた「われわれはおまえ(キリスト)とではなく、あれ(傍点、悪魔)とともにいるのだ。これがわれわれの秘密だ!」のセリフと合致するのであった。
8、デウス・エクス・マキナの否定
と、ここまで書き上げた中で、本誌でキリスト教の神を試すキャラクター関谷が出てきた事で、私は論考を一旦止め、その後176話が『それぞれの神』というタイトルで柔らかく一信教を否定する日本的描写にひどく満足し、自らの「弱い神」「死神」の論考を少しだけ補強のために書き加え、大筋を変える事がなかったことに安堵した。
既に触れたファウストでの悪魔の発言、「すべてのものはいずれ滅びる であれば最初から生まれなければよかったのに」は、自らの死に対して諦念を、そしてウイルクとの再会に疑念を抱いていたインカラマッを連想させる。インカラマッ、そして関谷がこだわった『運命』は、やはり緩やかに谷垣によって、そして土方・門倉・チヨタロウによって否定される(このあたりはまさにドストエフスキー論的に言うポリフォニーというやつだ)。
関谷の持つ疑問は「ヨブ記」に置いて象徴されている。ヨブは悪魔によって子供を殺されるが、信仰を捨てず、最終的に富・子供をもう一度手にいれる。『ファウスト』では、やはり悪魔がファウストを試すが、最後に女性を通じて神がファウストを助ける。『カラマーゾフの兄弟』では、神を疑ったイワンは発狂・昏睡に陥る。つまりヨブ記を元にした作品群では、一神教の神は勝利している(『カラマーゾフの兄弟』のドミートリーのストーリーラインは除く)。これは演劇において「デウス・エクス・マキナ」と呼ばれる手法であり、最後に神が唐突に出てきて帳尻を合わせていく手法の事である。
関谷は自らの死にそれを見た。自らの悪行に等しい罰、裁きが下され、意志の強い土方が奇跡を起こしたと考えることで神の実在を感じたのであった。もっとも、我々読者にとっては、関谷への裁きは遅すぎるし、それが娘の死の何の説明にもならないため、関谷がどう捉えようと我々には神の存在が十分に確認できた「試練」ではなかった、と指摘しなければならないだろう。ただ、「デウス・エクス・マキナ」はむしろ因果応報を覆す超常的な描写であり、関谷が見た「意志の強い人間の運命」や「奇跡」、「裁き」という物差しすら飛び越えるものであったので、皮肉なことに、かえって関谷を包む状況とは一致を見せるとすら言えるのであるが……。おおよそにおいて良作とは、物語も人物も「あべこべ」で「矛盾」と「パラドックス」を抱えるものであるため、関谷とヨブ記についてまとめた記載をするには、稿を改めた方が良いと思われる。
それでも関谷についての序章を、本稿の終章に持ってきたかったのは、まさに、新平への運命を急に出てきて変えていく尾形が、あくまで人として、それも銃の腕を除くととてつもなく弱く、惨めな人間として現れ、新平の親の殺人によって新平を救ったという、いわば「デウス・エクス・マキナ」の”変形という名の否定”ではないか、と指摘したかったからである。
時に死神でなくとも、人の子も人を救う。その一端が、尾形の「ムカつき」であったこと、そしてそれが本誌の白石や1牛山に引き継がれていくことを指摘して、この文の結論とする。
そこに「見返り」はない。尾形は新平を助けようとしたわけではないし、白石はアシㇼパを助けても依頼主の杉元が生きているかどうかすら知らないし、チヨタロウは牛山を失って自身に新たな力を得たわけではない。
だからこそ、「見返り」を問題にしてはならないーー外れてしまうとしても、ボタンを縫い付ける必要はあるのだから。
そしてインカラマッはきっと、情を持たず自分を守ってくれないとしても、谷垣に愛を伝えなくてはならなかったのではなかったのかと思うのだ。
読んでくださってありがとうございました。
過去の文をまとめたモーメント。
マシュマロ。なぜ書いているってマシュマロで読んでるよって次も書いてって言われるから書いているのであって、読まれてない文も望まれていない文も書かないですマシュマロくれ。と言って前回こなかったので人知れず本当に筆を絶ったのであった。そのことを誰にも指摘されなかったので、やっぱそんなもんなんだなって思ってる。
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negipo-ss · 5 years
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焼きそばハロウィンはいかにして無敵のアイドルになったのか(1)
 糸のように少しだけ開いたカーテンの隙間から朝陽が差していた。三角形に切り取られたやわらかな光の中を、田園を飛ぶ数匹の蛍のようにきれぎれの曲線を描いて埃が舞っていた。深い紫陽花色をしたチェック柄のミニスカートが、まっすぐにアイロンを当てられたシャツ、左右が完全に揃えられた赤いリボンとともに壁にかけられていて、部屋の主である女子高校生の内面を強いメッセージが込められた絵画のように表していた。  最も速い蒸気機関車が、そのペースをまったく乱されることなく東海道を走り続けていたように、その子どもがアスファルトを踏みしめるスニーカーのちいさな足音は正確に一分間当たり百六十回をキープしていた。それは彼女が小さなころから訓練に訓練を重ねてきた人間であることを示していた。太陽が地面に落とす影はすでに硬くなり、朝に鳴く鳥の歓びがその住宅地の道路には満ちていた。はっはっ、という歯切れ良い呼気が少女の胸から二酸化炭素と暖かさを奪っていった。  白いジャージに包まれたしなやかな身体は、湖面の近くを水平に飛ぶ巨大な鳥のそれに似ていた。ベースボールキャップからちらちらと見え隠れする桃色の髪がたった今自由になれば、相当に人目を引くほど美しくたなびいただろう。  ちら、とベビージーを見た視線が「ヤバイ」と言う言葉を引き出して、BPMが百七十に上がった。冷えた秋の空気が肺胞をちくちくと刺すようになったにもかかわらず、彼女の足取りは軽やかなままだった。そのままペースを落とさずに簡素な作りの階段をタンタンタンとリズム良く駆け上がりながら、背負っていた黄色のリュックサックからきらびやかなキーチェーンに取り付けられた部屋の鍵を取り出した。  かちゃり、と軽い音でドアが開いた。 「ヤバイってえ……」  靴が脱ぎ捨てられ、廊下を兼ねたキッチンの冷蔵庫が開かれると同時に、がっちゃんと重々しくドアは閉まった。その家の冷蔵庫は独身者向けの小さなサイズのそれで、天板に溜まった微かな埃が家主の忙しさを示していた。リュックから取り出された小さなタッパーを二つ、彼女は大事そうに冷蔵庫の中段に入れた。若干乱暴にそれが閉められた後、その場には一息に服が下着ごと脱ぎ捨てられた。浴室に荒々しく躍り込むと、曇りガラスの裏側でごろ、と音が響いて、洗い場の椅子が乱雑に蹴り退けられたようだった。  水が身体に跳ね返って飛び散り続ける音は短かった。男子高校生並のスピードでシャワーを終えて素早く黄色のトレーニングウェアに着替えると、彼女は強力なドライヤーで頭を乾かしながら鏡を睨みつけた。凄まじい早さで顔を直し、部屋の隅に立てかけてあったドラムバッグを一度だけひょいっと跳んで深くかけ直すと、小上がりに鎮座していたゴミ袋を掴んで「いってきます!」と誰もいない部屋に叫んだ。  キャップから出された、揺れるポニーテール。土曜日の早朝を走り抜けてゆく足音をゴミ収集車のビープ音だけが追っていた。  少女の部屋には静けさが戻る。
 地下鉄の駅を出ると、人混みをすいすいとくぐってきつい坂を下っていった。途中にある寺の横を小さく一礼して通り過ぎ、降りきった先の人通りの少ない路地を抜けていくと、やがてダンススタジオのちいさな立て看板が見えた。軽い足取りで一番下までたどり着き、ふう、と軽く息を吐く。耳から完全ワイヤレスのイヤホンを引き抜いてポケットに突っ込み、「ごめん!」と、笑顔を浮かべたまま身体全体で重い扉を勢いよく開いた。  小さな子どもたちが彼女の頭上を通り過ぎる笑い声と一緒に、白い光が斜めに入り込んで、暗い床を小さく照らしていた。彼女の瞳は、誰の姿も捉えない。 「……あれ?」 「あれ、じゃない」  ばこん、と、現れた女性に横からファイルで強く頭を叩かれ、彼女は悶絶して頭を抱え座り込んだ。 「城ヶ崎……集合時間は何時だ?」  く〜、と唸り声を上げた美嘉は、しばらくしてから「九時」と涙声で言った。 「今は何時?」 「八時五十八分、に、なったところです」 「正解だ。じゃあな、私はデートに行ってくる」 「ちょ、っと。トレーナー!」  美嘉はトレーナーの服を掴んで、「え」と言ったあと「……冗談、ですよね」と半笑いの顔を作って聞いた。上から下までトレーナーの服装を見て、それがいつもの緑色のウェアとは似ても似つかぬ、落ち着いた色合いの秋物であることに気づく。 「失礼だな、私にも急なデートの相手ぐらいいるよ。年収五百五十万、二十九歳、私にはよくわからないのだがシステム系の会社でマネージャーをしている――」  美嘉はうんざりとした顔を浮かべて、 「相手の年収なんて聞いてませんよ。ていうかそうじゃなくて、私たちのレッスンはどうなっちゃうんです?」 「まず第一に、私はいつも五分前行動を君たちに要請している」 「……それは、すみません。朝、用事で家を出るのが遅れてしまって」 「第二に、彼は笑うとえくぼがとてもかわいいんだ。好きな力士は豪栄道」 「彼氏情報はもういいですから……」  豪栄道とトレーナーの共通点を美嘉がまじまじと探していると、「第三に」と言って、トレーナーは指を振った。 「次は三人揃わないとレッスンはしないと、前回宣言したはずだ。案の定だったな」  美嘉は、うわっ、と呻いて「志希のやつ……」とつぶやきながらスマホを取り出して乱暴に操作した。 「先に鷺沢に連絡しろー」と、ヒールを履いたトレーナーは外に出ながら言った。 「あいつ、いつも三十分前に来て長々ストレッチしてるんだ。本番前最後の確認でいきなり無断欠席となると、少し心配したほうがいいかもしれないぞ」  ドアの隙間から微笑んで、「じゃあな」と、一言言うとトレーナーは去った。ぽかんと美嘉は小窓から彼女を見送る。かつ、かつという高い音は、軽やかに去っていった。  おかけになった電話番号は、電源が入っていないか――。  美嘉は携帯から小さく流れる音声を一回りそのままにしてから消し、スタジオの照明をつけないまま日の当たるところへと歩いていった。『い』から『さ』へ大きくスクロールして、窓際であぐらをかく。『鷺沢文香』を押し、耳に当てる。短いスパンで赤いボタンを押す。『鷺沢』赤ボタン。『鷺沢』赤ボタン。『た』にスクロール。 『高垣楓個人事務所』  耳元の小さな呼び出し音を聴きながら「なんで……」と美嘉は呟いた。短いやり取りで、事務員に文香への連絡を頼んだ。 「プロデューサーにも連絡お願いします……いえ、アタシは……はい、残って自主練やります。」  電話を切った後、ふうう、と美嘉は長いため息をついた。一息に立ち上がり、バッグから底の摩耗したダンスシューズを取り出して履くと、イヤホンを耳に押し込んで入念なストレッチを行った。同い年くらいの少女たちが数人、スタジオの横を笑い声を立てながら通り過ぎ、その影が床をすうっと舐めていったが、彼女はそれに目もくれなかった。  床に丁字に貼られたガムテープの、一番左の印に立った。トリオで踊るときのセンターとライト、残りふたつのポジションに一瞬の視線が走り、美嘉は目尻に浮かんだ悔し涙を一瞬親指の背で拭った。 「くそ」  いきなり殴りつけられた人がそうするように、美嘉はしばらく下を向いていた。闘争心を激しく煽る力強いギャングスタ・ラップが彼女の耳の中で終わりを告げ、長い無音のあと、簡素な、少し間抜けと言ってもいい打楽器が正確なリズムで四回音を立てた瞬間、美嘉は満面の笑みを浮かべてさっと顔を上げ、ミラーに映った自分を見つめながら大きく踏み出した。だんっ、と力強くフローリングを踏みしめた一歩の響きは、長い間その部屋に残っていた。
「おはようございます……」と挨拶をしながら、美嘉がその部屋に入っていくと、「あら、めずらしい」とパイプ椅子に座っていた和装の麗人が彼女を見て笑った。その人が白い煙草を咥えているのを見て、美嘉は「火、つけます」と近寄りながら言った。 「プロデューサー、煙草吸うんですね」 「いやですねえ、二人きりのときは楓と呼んでくださいと、このあいだ申し上げたじゃないですか」 「……楓さん、ライター貸してください。アタシ流石に持ってないんで……」  こりこりこり。  煙草が軽い音を立てながら楓の口の中に��い込まれると、こてん、と緑のボブカットが揺れ、「はい?」と返事が返った。煙草と思っていたそれが菓子だったことが分かって、美嘉はがくりと頭を垂れた。 「ええと、ライターですか……あったかしら……」 「……からかってるんですか?」 「まさかまさか」  楓がココアシガレットの箱を差し出すと、美嘉は「いらないですって……」と顔をしかめて言った。 「今日は、打ち合わせ?」 「はい、次のクールで始まる教育バラエティの……楓さん、ちひろさんから連絡行きましたか」 「はいはい、来ましたよ。文香ちゃん、大丈夫かしら」 「……軽いですね」 「軽くなんか無いですよ」  ついつい、と手の中のスマホが操作され、「私の初プロデュース、かわいい後輩ユニットなんですから、応援ゴーゴー。各所からアイドルを引き抜きまくって、非難ゴーゴー!」と、画面を見せた。『高垣楓プロデュースユニット第一弾! コンビニコラボでデビューミニライブ』と大きく書かれたニュースサイトの画面には、『メンバーは一ノ瀬志希、城ヶ崎美嘉、鷺沢文香』と小見出しがついていた。びきっ、と美嘉の額に音を立てて青筋が現れ、「だったら」と美嘉は言った。 「ほんっと、真面目に仕事してくださいよ! なんなの、『焼きそばハロウィン』っていうユニット名!」 「ええ〜かわいくないですか、焼きハロ」 「ユニット名は頭に残ったら成功なの! ニュース見たら一発で分かるでしょ、記者さんも訳わかんなくなっちゃって、タイトルにも小見出しにも使われてないじゃん! ていうか百歩譲ってハロウィンは分かるとして、焼きそばってどっからきたの!!」 「以前、焼きそばが好きだっておっしゃっていたから……」 「え、そんなこと言ってましたっけ」 「沖縄の撮影に三人で行ったとき、一緒に食べておいしかったーって」 「……あれ、たしかに……はっ、いやいやいや、丸め込まれるところだった。好物をユニット名にしてどうすんの」 「美嘉ちゃんには対案があるんですか?」 「た、対案?」  いきなりプロデューサー業を完全に放棄して頬杖をしながらがさがさとお菓子かごを漁る楓に、美嘉は「対案……」と呟いて顎を触った。は、と思いついて「たとえば、志希がセンターだから、匂いをモチーフに『パフュー(ピー)』とか、あと……秋葉原でイベントやるし、そうだ、三人の年齢とかを合わせちゃって『エーケービー(ピイィー!)』とか、あーもうさっきからピィピィうるさい! なんなんですかそれ!」 「フエラムネですよ。あっ、今の若い子はご存じないですか」 「アッタッシッがっ、しゃべってるときにはちゃんと聞いてよ、アンタが考えろって言ったんでしょ! ていうか文香さんのこと、早く何とかしなさいよ!」 「ははあ」  ごり、と、ラムネを噛み砕くにしては大きい音が楓の口内から立てられた。美嘉は激昂から一瞬で冷めて、口元に小さな怯えを浮かばせた。月と太陽とを両眼に持ったひとはそれらをわずかに細め、もう一つラムネを口の中に放り込んだ。 「焼きハロ、私はリーダーを誰かに頼みましたよね。誰でしたっけ」 「……アタシ、です」  ごり。 「トレーナーさんからも話を聴きましたよ。なんでも志希ちゃんは、初回以来一度もレッスンに現れていないとか」 「あれは! その……志希は、前の事務所のときからずっとそうで……」  ごり。 「ふうん、美嘉ちゃんはそれでいいと思ってるんですね」  楓がゆらりと立ち上がり、美嘉に近寄った。彼女が反射的に一歩大きく下がると、壁が背後に現れて逃げ場が無くなった。フエラムネをひとつ掴み、楓は美嘉の少し薄い唇にそれを触れさせた。真っ赤に染まった耳元にほとんど触れるような位置から、楓の華やかな口元が「開けて」と動いて、美嘉がわずかに開けたそこにはラムネがおしこめられた。ひゅ、と一瞬鳴ったそれに、楓は満足そうに微笑むとテーブルに寄りかかった。「口に含んでもいいですよ」と楓が言った。美嘉は少し涙の浮かんだ目で楓を睨むと、指を使ってそれを口に入れた。 「私は高垣楓ですから」  テーブルを掴んでいる指で、楓はとんとんと天板を裏側から叩いていた。「傷つかないんですよね、残念なことに。何が起きても」とほんとうに少し残念そうに言った。 「だから、あなた方が失敗しても、私は特に何も思わない。たとえばコンビニのコラボレーションが潰れても、私は特に怖くない。少しだけ偉い人に、少しだけ頭を下げて、ああ、だめだったのかあ、と少しだけ感慨に浸るんです。でもあなた方はきっと、違いますよね」  美嘉の口の中で、こり、と音が鳴って、 「……何が言いたいんですか?」 「自信がないの? 美嘉ちゃん」  質問に質問を返されて、しかし美嘉はもうたじろがなかった。「最高のユニットにしてやる」と自分に言い聞かせるように呟くと、「なんです?」と楓は聞き返した。 「何も、問題は、ない。って言ったんですよ」  パン、と楓は手を叩いて、「ああ、よかったあ」と、言った。 「今日はもうてっぺん超えるまでぎっちり収録ですし、困ったなあ、と思ってたんですよね。明日の店頭イベント、よろしくお願いします」と、微塵も困っていない顔で言った。 「文香さんち、いってきます」と宣言し、美嘉はトートを抱え直した。行きかけた彼女は楓に呼び止められて、投げつけられたココアシガレットの箱を片手で受け取った。 「さっきはちょっといじめちゃいましたけれど……」と楓が言葉を区切ると、美嘉は心底嫌そうな顔をして「はあ」と言った。 「ほんとうにどうしようもなくなったら、もうアイドルを続けていられないかもしれないと思ったら、そのときはちゃんと私に声をかけてくださいね。す〜ぱ〜シンデレラぱわ〜でなんとかして差し上げます」 「もう行っていいですか。時間無いので」  恒星のように微笑んで、楓は「どうぞ」と言った。美嘉がドアを開けて出ていくと。入れ替わりにスタッフがやってきて「高垣さん、出番です」と声をかけた。  立ち上がりながら、ふふ、と笑うと、「楽しみだなあ、焼きハロ♫」と楓は呟いた。  だん、だん、と荒々しいワークブーツの足音が廊下に響いていた。「いらないっつってるのに……ていうか、一本しか残ってないじゃん。アタシはゴミ箱かっつうの」と独り言を言いながら、美嘉は箱から煙草を抜いて口に咥えた。空き箱はクシャリと潰されて、バッグへと押し込められた。 「あーっ、くそ!」  叫んで、ココアシガレットを一息に口の中へと含む。ばり、ばり、ばり、という甲高い音を立て、ひどく顔をしかめた美嘉の口の中で、それは粉々に砕けていった。
「すみませーん」  美嘉は三度目の声をかけ、ドアベルをもう一度押した。鷺沢古書店の裏庭にある勝手口は苔むした石畳の先にあり、彼女はそこに至るまでに二度ほど転びかけていた。右手に持っていたドラッグストアの袋を揺らしながら側頭部をぽりぽりとかいて「……やっぱり寝込んでるのかなー」と心配そうに小さな声で呟いたとき、奥から人の気配がして、美嘉の顔はぱっと輝いた。  簡素な鍵を開けたあと、老いた猫が弱々しく鳴くときのような蝶番の音を響かせて、顔をあらわしたのは果たして鷺沢文香だった。「文香さん」と美嘉は喜びを露わにして言った。 「無事でよかったー! なんだ、元気そうじゃん」  美嘉は鷺沢のようすを上から下まで確かめた。ふわりとしたロングスカートに、肌を見せない濃紺のトップス。事務所でも何度か見たことのあるチェックのストールは、青い石のあしらわれた銀色のピンで留められていた。普段と変わらぬ格好とは裏腹に、前髪の奥の表情がいつになく固い事に気づいて、美嘉は「……文香さん?」と聞いた。 「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」と、文香は頭を深々と下げた。  どこか寒々しい予感に襲われ、美嘉は「あ……」と、不安の滲む声を漏らした。はっとすべてを消し去り、いつもの調子に戻して、 「今日のレッスン? もういいっていいって。連絡が無かったのはだーいぶあれだったけど、ま、志希のせいで無断欠席には慣れちゃったっていうか、慣れさせられたっていうか――」 「そうでは、なくて……」  文香は言葉に詰まった。合わない視線はゆらりと揺れて、隣家で咲き誇るケイトウの花を差していた。燃え盛る炎のように艶やかなそれを見ながら「アイドルを、やめようと思います」と彼女はゆっくりと言った。がっと両腕を掴まれて、文香は目の前で自らの内側を激しく覗き込もうとする黄金の瞳に眼差しを向けた。 「なんで!!」  美嘉が叫ぶと、文香はふら、と揺れた。陽が陰り、そこからはあらゆる光が消えた。産まれた冷気を避けるかのように、ち、ち、と小鳥が悲鳴を上げながら庭から去っていった。 「向いて、いないと、思いました」と、苦しそうに彼女は言った。 「突然で、ほんとうに、申し訳ありません……楓さんには、後ほど、きちんとお詫びをしようと――」 「嘘」 「……嘘では、ありません。自分が、古めかしい本にでもしがみついているのがふさわしい、惨めな人間――けだもの、虫の一匹だと、あらためて思い知ったのです」 「何があったの、だって」  美嘉は文香から一歩離れると、心の底から悲しそうな表情を浮かべた。 「あんなに……嬉しい、嬉しいって、新しいことを発見したって、何度も何度も言ってたのに!」 「間違いでした」 「何があったんだってアタシは聞いてるの!」 「もともと何も無かったんです!」  文香がこれまで聞いたこともないような大声を出したので、美嘉は呆然と立ちすくんだ。「すべてがまぼろしだったのです! ステージの上の、押し寄せる波のように偉大なあの輝きも!」と文香は一息に言って、興奮を抑えるようにしばらく肩で息をしながら美嘉を見つめていた。やがて、「まぼろしだったのです、あの胸の、高鳴りも……」と、悄然として言った。 「……なぜ」と美嘉は言った。その反転がなぜ起きたのか理解できないようすで、美嘉はただ文香を睨みつけて質問を繰り返した。  長い沈黙のあとに、「家に、呼び戻されました」と文香は言った。美嘉は唖然として「どういうこと」と聞いた。 「親の同意がないままアイドルをやってたから、やめろって言われたって、そういうことなの?」  文香はうなずいた。 「未成年者は保護者の同意書提出があるはずじゃん」 「あれは、東京の叔父に書いてもらいました」 「……だって、大学だってあるし、文香さんトーダイでしょ。そういうの、全部捨てて、帰ってこいって言う……そういうことなの?」 「そうです」 「そんなの、家族じゃない」  美嘉が断固とした調子で言うと、文香は口を一文字に���んだ。そのようすを見ながら「家族じゃない、おかしいよ」と美嘉は言った。 「だって、アイドルも、学校も、全部夢じゃん。自分が将来こうなりたいっていうのを、文香さん自分の全部を賭けて頑張ってたじゃん。アタシずっと見てたよ。すごいな、ほんとうにすごいなって、思ってたよ。ねえ」  文香の瞳をまっすぐに見つめて、美嘉は手を差し伸べた。 「全部捨てる必要なんてない、大丈夫だから」  青い海のようなそれに吸い込まれそうになりながら、美嘉は一瞬の煌めきをそこに見つけて、笑いかけた。文香が恐る恐るといった様子で、ゆっくりとその手を取ったとき、微笑みを浮かべた彼女の口元は「そう……分からず屋の家族なんて、捨ててしまえば――」と囁いた。「う」と小さな悲鳴を上げて、文香は手を振りほどくと、どん、と彼女の肩を両手で押し、庭土へと倒した。あっ、と倒れ込んだ美嘉は、文香を見上げ、「美嘉さんは、鷺沢の家を知らないんです!」と、文香が絶叫するのを聞いた。美嘉の眉はみるみるうちにへの字に曲がって、 「知らないよそんなの! アタシに分かるわけないじゃん!!」  ぐ、と文香の喉は、嗚咽するような音を立てて、やがて、ふううと長い息が吐かれた。 「……さようなら」と、短い別れの言葉で、ドアは閉められようとした。「待って!」と美嘉が呼びかけたときにその隙間から見えた、雨をたたえた空のようにまっしろな文香の顔色が、美嘉の目には消えゆく寸前のろうそくのようにしばらく残っていた。
 どさ、と重い音を立てて、その白い袋は金網で作られたゴミ箱へと捨てられた。美嘉はよろめく足取りですぐ横のベンチに向い、腰を下ろした。眼の前には公園に併設された区営のテニスコートがあり、中年の男女が笑いあいながら黄緑色のボールを叩いていた。  美嘉はイヤホンを耳に押し込むと、ボールの動きを目で追うのをやめてうつむいた。両手を祈りの形に組み、親指のつけ根を皺の寄った眉間に押し当てた。受難曲の調べが柔らかく彼女の鼓膜を触り終わったあと、シャッフルされた再生が奇跡のようにあの四回の簡素なリズムを呼び出して、今朝何度もひとりで練習したあの曲が鳴り始めた。美嘉は口をとがらせ、ふ、と微かに息を吐きながら顔を上げた。そしてテニスコートの男女が消え、自分の周りにひとりも人がいなくなったことを見つけた。  空はまっ青に晴れ、柔らかな光が木々の間から美嘉に差していた。そのやさしさをぼうっと受け止めながら、美嘉は立ち上がってゴミ箱から先ほど投げ捨てた袋を拾った。冷えピタやいくつかの薬、体温計を自分のバッグに移し、二つのフルーツゼリーをこと、こと、と静かにベ���チの横に置いた。  曲はサビに差し掛かり、いつの間にか美嘉は鼻歌でそれを小さく歌っていた。てんてんと指で指してみかんとぶどうからぶどうを選びとると、蓋を開けてプラスチックのスプーンを突き立てた。  口に入るかどうかわからないくらいの大きさでそれをすくい上げて、飢えた肉食動物のような激しさでがぶりと食いついた。  歌い始めたときにはもうこぼれていた大粒の涙が、収め切れなかったゼリーの汁と一緒におとがいへと伝って、ぽとぽとと太ももに落ちた。  泣くときに必ず漏れるはずの音を、美嘉は少しも立てなかった。涙を拭いすらしなかった。たまに「あぐ」という、ゼリーを口に入れるときに限界まで開いた顎の出す音だけが、緑の葉が擦れるそれと共にそっとあたりに響いていた。食べ終わると同時に曲が終わり、美嘉はイヤホンを引き抜いた。ほうっと息を吐いて、ぐすっと鼻を啜った。涙のあとが消えるまで頬のあたりをハンカチでごしごし擦り、そのまま太ももを拭くと、鏡を出して顔を軽く確認した。  そして、は、と後ろを向く。  ベンチの背越しに伸ばされた腕がゼリーを取って、「これ食べていいやつー?」と聞きながら蓋を開け、返事を待たずにスプーンですくい取った。 「志希」と、呆然と美嘉は言った。 「ん?」と、ゼリーを口いっぱいに頬張りながら志希は言った。
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ari0921 · 2 years
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SDGsの不都合な真実…投資目的の「脱炭素政策」は人類を幸せにするか
少なくとも日本は確実に落ちぶれていく
川口 マーン 惠美作家
地球危機説の暴走
「欧米は、ESG(環境・社会・統治)もSDGs(持続可能な開発目標)も常に投資目的だ。環境問題を項目に並べると投資家が評価してくれ株が上がる。だからすごく積極的にやるし、PRもうまい」
「だから僕は、SDGs(持続可能な開発目標)のバッジを着けるのが恥ずかしい。金融資本主義のマネーゲームに環境問題を組み入れ、ワイワイ騒ぐのはけしからんと思う」
2020年10月、日経ビジネス「賢人の警鐘」に載っていた東レの日覺昭廣社長の言葉だ。これがひどく心に残った。
ESGとは「Environment=環境」、「Social=社会」、「Governance=企業統治」の略で、いわば良い企業が満たすべき条件とされる。一方、SDGsというのは、持続可能なより良い世界を目指すための目標で、2015年に国連の音頭で始まった。
「貧困を無くそう」から始まって、「すべての人々に健康と福祉を」、「平和と公正をすべての人に」、「パートナーシップで目的を達成しよう」など合計17項あり、国連加盟国がそれらを2030年までに達成することが目標とされる。
要するに、ESGを重視する良い企業が増えればSDGsを達成することができるはずという「正論」が、現在、産業界を支配している。
今年の夏、行きすぎたSDGs思想や、地球危機説の暴走などに迫るオムニバス形式の本を作るので、何かドイツのことを書かないかという話をいただいた。完成したのが、12人の共著の『SDGsの不都合な真実 「脱炭素」が世界を救うの大嘘』(宝島社)。9月より書店に出ている。
私自身も著者の一人なので言いにくいが、読者としての率直な感想を述べるなら、これは素晴らしい本だった。テーマを平たくすれば、「脱炭素に向かう世界の政策がはたして人類を幸せにするのか」といったところか。
現在、世界で猛威を奮っている「脱炭素政策」。その構造を、各著者がそれぞれの専門知識を駆使しつつ、科学のみならず、国家主権、民主主義、犯罪、そしてイデオロギーの視点にまでくい込んで多角的に分析しているのだが、特に、SDGsと地球温暖化が切っても切れないものとして扱われていることに注目していただきたい。
同書を読み進むと、脱炭素政策は実は非論理的で、温暖化防止には役立っていないばかりか、産業の自然なイノベーションを阻害し、私たちから富を奪い、さらには途上国の発展の足を引っ張っているとわかってくる。
しかし、その一方で、ある一定の人たちには莫大な利益をもたらしているらしい。同書のサブタイトルにあるように、誰が儲けているのかを考えると、その背後にどのような意図が潜み、何が動いているのかが透けて見えてくる。
さらに衝撃的なのは、ESGやSDGsの大きな波の中で、日本が間違いなく落ちぶれていく運命であること。日本にとっての「脱炭素政策」は、かつて中国共産党が行った大躍進を彷彿とさせるほど自滅的だ。なのに私たちはよりによって、この不吉な目標に向かって突進し始めている。そして、メディアが無責任にも喝采。
おそらくそのせいだろう、同書ではどの稿からも、「このままではダメだ」、「日本をどうにかして救わねば」という著者たちの必死の気持ちが伝わってくる。そこで、是非とも多くの人に私たちの陥っている状況を知ってもらうために、本コラムでその内容を2回に分けて紹介させていただきたいと思う。
EUでは「神聖なる目標」だが…
2019年12月、EUの欧州委員会の新委員長に就任したフォン・デア・ライエン氏(ドイツ人)が、欧州グリーンディール計画を発表。今や脱炭素政策は、少なくともEUでは神聖なる目標だ。EUは21年から10年間で、官民合わせて最低1兆ユーロのESG投資を導くと謳っている。
一方、日本でも、菅前首相がすでに就任当初、50年までに脱炭素の実現を目指すと宣言しており、この施策がこれからの日本経済に与える負担は計り知れない。
もちろんそれが本当にCO2を減らし、地球の温度を下げ、滅亡するはずだった人類が助かるのなら文句はない。しかし同書の編著者である物理学者、杉山大志氏(キャノングローバル戦略研究所研究主幹)によれば、気候危機説は「御用学者」が唱えるもので、「台風やハリケーンなどの統計を見ると、災害の激甚化などは全く起きておらず、気候危機説はフェイクに過ぎない。にもかかわらず、CNNなどの御用メディアが不都合な事実を無視し、『科学は決着した』として反論を封殺してきた」という。
ちなみに、先月末、杉山氏がこの説を唱えたビデオ2本はYouTubeから削除されてしまった。言論の自由や学問の自由が、民間企業によって侵害される恐ろしい世の中になっていることを、ここで強調しておきたい。
また、たとえ温暖化が起こっているとしても、その原因が、人間がここ100年の経済活動で排出したCO2のせいでないとすれば、膨大なお金をかけてやっていることの前提が崩れ、辻褄が合わなくなるわけだ。なのに日本の場合、その不確かな政策を、経済だけでなく、安全保障まで危険に晒してやろうとしている。
杉山氏によれば、現在の世界的な「脱炭素」の流れは、自らを途上国のリーダーと規定する中国が、「先進国が過去のCO2排出の責任を負って途上国を経済援助すべき」という理屈を駆使して、自分たちはCO2削減に身を切ることなしに膨大な利益を得ることに大いに役立っているという。
たとえば現在の中国は、日本のすべての火力発電所と同じ容量の火力発電所を、毎年増設しており、また、原子力発電所も向こう15年で150機増やす予定だという。また、太陽光パネルや風力タービンでは、国内だけでなく、世界市場を制圧しつつあり、さらにEVのバッテリーを握っているのも彼らだ。
一方、太陽光発電用の結晶シリコンの大生産地であるウイグル新疆でウイグル人などの強制労働が問題になっても、サプライチェーンで依存してしまっている先進国の対応は遅々として進まない。このままでは中国だけが躍進し、いずれ世界の太陽光パネルは、「屋根の上のジェノサイド」になってしまうと杉山氏。
外資が絡んだ「仁義なき戦い」の果てに
その太陽光発電の被害について書いているのが三枝玄太郎氏(元産經新聞記者、フリーライター)だ。「法律がない」などという理由で、日本各地でいかに危ない太陽光発電事業が進んでいるかが淡々と描かれる。
氏曰く、「(今年8月に熱海で起こった)土石流は人災どころか“殺人”と言われても仕方がないような実態」。しかも、「太陽光発電所は近所の家を押し流そうが、道路を寸断させようが、補償をしないケースが多発している」のだそうだ。
太陽光発電の乱立には物理的な危険だけでなく、さまざまな不法行為、それも、外資が絡んだ「仁義なき戦い」によって日本の土地や資源が失われていく危険もある。
現在、「日本最大級のソーラーシェアリング」を運営しているのは、中国の国営大企業である「上海電力」だという話を聞いて、背筋が寒くならない日本人はいるだろうか。
しかし、小泉純一郎元首相、菅直人元首相などは、『原発は危険だ』として今でも太陽光発電を推奨して回っており、小泉進次郎前環境相は、国立公園内にまでパネルを並べようとしていた。言うまでもないが、河野太郎氏や小泉進次郎氏もまた然り。
日本がここまで貧しくなった理由
山本隆三氏(国際環境経済研究所所長、常葉大学名誉教授)の稿は、「日本人は貧しくなっている。一人当たりの所得では韓国にも抜かれた」という言葉で始まり、なぜ、日本はデフレから抜け出せなかったのかの考察から論を進める。
氏によれば、デフレの一番の原因は少子化でも需要低迷でもなく、賃金が高い製造業、建設業などにおける雇用の減少。そして、それに代わって、医療、福祉、介護など、賃金が相対的に低い産業で働く人が増えたことだという。
では、なぜ製造業や建設業が衰退したか。
「東日本大震災後は原子力発電所の停止が相次ぎ、電気料金が上昇した」
「産業用電気料金は最も上昇した時には震災前の約4割高となった」
これが徐々に企業を海外に追いやったことは疑うまでもない。
さらに、菅直人元首相の置き土産であった再エネの固定価格買取制度が、自由経済を歪ませた。買取価格の設定が高かった太陽光電気が爆発的に増え、現在の設備導入量は「中国、米国に次ぐ世界第3位だ」そうだ。
中国や米国には、使っていない平地がいくらでもあるが、日本は森林を切り崩してパネルを並べている。しかも、どんどん増えるその買取り費用を電気代として負担しているのが産業界と家庭。この構造はすでに計画経済に等しい。
こうして電力使用量の多い産業界の負担額は膨大になり、当然、それが給与や景気にマイナスに働く。
日本政府は2050年に実質排出ゼロにするという過激な気候政策のメリットとして、エネルギー自���率向上、産業振��など、様々なプラス面を謳っている。しかし、山本氏は問う。「過去の再エネ導入は産業振興に結びついていないが、これからの再エネ設備導入は日本の産業と経済に寄与するのだろうか」と。
環境投資を呼び込むための口プロレス
また、興味深いのはEVの話。先のCOP26では、ガソリン車など内燃機関を用いる自動車の新車販売を主要市場で2035年、世界全体では40年までに停止するという宣言に24ヵ国が参加したという。停止すべき車種には、日本が強いハイブリッド車も含まれる。
岡崎五朗氏(モータージャーナリスト)は、この動きを見越していたかのように、「急進的『脱エンジン』宣言は投資家のため? 欧州メーカーの『EV戦略』にトヨタが怒る理由」というタイトルで、その矛盾と欺瞞を暴いている。
そもそも現状は、「すべてのクルマをEV化するだけのバッテリー生産量を確保できる見込みは薄く、仮に確保できたとしてもエンジン車はもちろんハイブリッド車と比べてかなり高価格になってしまう可能性が高い」。
氏はEVを全否定しているわけではないが、「エンジン車やハイブリッド車を完全に排斥し、全てをEVにするという極端な案となると話は別だ」。それどころか、これは、国家、あるいは地域ぐるみのゲームチェンジによって覇権を握ろうとしている「ドイツを中心とする欧州自動車メーカーの戦略だ」と言い切る。
つまり、「日本が得意なエンジン車やハイブリッド車を締め出す」ためである。
とはいえ、これはあまりにも「急進的」すぎて、このままでは日本を潰す前に自滅する可能性が高いと、ドイツの自動車工業会がブレーキを引き始めたという。ドイツのメーカーにとっても、完全なEVシフトなどどう考えても無理な話なのだ。
ドイツはそもそも、CO2削減はディーゼルでやるつもりだった。それが2015年のフォルクスワーゲンの不正プログラムの露見で瓦解したが、スムーズにEVにシフトする技術は今も不足している。
岡崎氏によれば、そこでフォルクスワーゲンのCEOは驚くべき行動に出た。つまり、ことあるごとにEVの輝かしい未来を語り、「エンジン車はもはや終わったとツイートしながら、涼しい顔でエンジン車を売っている」のだそうだ。
岡崎氏はそれを、「環境投資を呼び込むためのあからさまな口プロレス」と見る。ESG投資はいつの間にかEVバブルにすり替わってしまった。
日本経済の屋台骨を脅かす愚策
もう一人、「日本経済の屋台骨『自動車産業』を脅かす“自壊的”脱炭素政策の愚」というタイトルで、脱炭素を「今までのどの政策よりも日本の経済と産業構造に決定的な打撃を与える政策」と厳しく批判するのが加藤康子氏だ(元内閣官房参与、評論家)。
これまでも氏は、明治以来の産業遺産の研究に尽力、あるいは軍艦島に対する韓国の不当な言いがかりに断固として反論してきた。そして現在、総合産業としての自動車産業が日本経済に占める重要性を啓蒙し、それを守ることに全身全霊で取り組んでいる。これは日本を守ることでもある。
それだけに、氏の稿からは、小泉前環境相の国連気候サミットでの「気候変動のような大きな問題は楽しく、クールで、セクシーに取り組むべきだ」といった発言に対する憤りがひしひしと感じられ、深い共感を覚える。
「自動車工場の現場で額に汗して働く人たちにとっては、これはもちろんクールでセクシーな話ではなく、『脱炭素』という経済戦争のなかで雇用と未来の生活がかかった死活問題である」と加藤氏。
「世界で一番厳しい環境規制のなかで自動車を製造してきた日本の工場が、彼らの努力を適正に評価されず、行き場を失い、国を出て行ったら、日本の地方経済は成り立たない」
無責任な政治家に対する慟哭のような批判は鋭く、読みながら、爽快な気分と、絶望しそうになる気分が入り混じったーー。
(次回に続く)
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tar0log · 2 years
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「噴火のCO2は人類の放出量を軽く超えるから脱炭素など無意味」説
竹田恒泰がそんなtweetをしているが、間違いである。
もしや、トンガの噴火で、グレタ終了した可能性ある。脱炭素も終わったか。
— 竹田恒泰 (@takenoma) January 16, 2022
火山ガスとして放出されるCO2の量はよく推定されていて、地球上のすべての火山が1年間に出す量を合計しても、人類が1年間に化石燃料を燃やして出す量の1/50〜1/100にしかならないことが分かっている。
ただし、1980年のセントへレンズ山や1991年のピナトゥボ山のような大きな噴火だと、噴火が起こっている最中の「放出レート」で比べれば、人類の放出レートと同程度になることはあった、と、上記サイトで引用されている Gerlach (2011) では計算している。しかしそれはあくまでもレート(単位時間当たりの放出量)を比較した話で、それほど多いCO2放出はせいぜい数時間しか続かない。だから放出量のトータルで比べれば、火山は人類の足元にも及ばない。竹田はそのへん分かっていないのか、分かってて嘘を書いているのか、よく知らんが、「大噴火があるんだから脱炭素など無意味だ」という話は明確に間違っている。
火山噴火が気候に影響を与えるのはむしろ、二酸化硫黄 (SO2) の方が大きい。SO2 が成層圏に運ばれると硫酸ができ、これが太陽光を反射して寒冷化する。ピナトゥボの2年後の1993年に記録的冷夏となってみんなでタイ米を食べた「平成の米騒動」はこれが原因だと考えられている。
なので、今回のトンガの噴火で食糧不足がまた来る、という不安を煽るtweetも散見されるわけだが、衛星からのリモートセンシングによって、今回放出されたSO2の量はおよそ0.4Tg(テラグラム)と推計されていて、これはピナトゥボ噴火のとき(約20Tg)の1/50である。そう考えると、今回は寒冷化するほどの影響はないと考えるのが妥当だろうという感じ。あと50回噴火すれば分からんが。
We finally have post-eruption SO2 measurements in, and it looks like it is probably not enough to meaningfully affect global temperatures. That being said, more measurements will be taken, and more eruptions are possible. https://t.co/E1939wVOAt
— Dr. Zeke Hausfather (@hausfath) January 16, 2022
煽ったり叩いたり、濃い味付けの言説をばらまいて儲ける職種の人が世の中にはたくさんいるので、ちゃんと自分で調べて判断しなければならないし、調べて判断する方法を身に付けるために、人は勉強しなければならない。
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masahisajin · 2 years
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昨日の雨が嘘のようで 天気が良かったので ロケハンへ まだまだ知らない東京 奥が深い(^^) #ロケハン #vmp #脱炭素 #脱炭素社会 #新宿御苑 #新宿グルメ #新宿カフェ https://www.instagram.com/p/CVYFqXBPoUM/?utm_medium=tumblr
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benediktine · 4 years
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【なぜ日本人は気候変動問題に無関心なのか?】 - Yahoo!ニュース : https://news.yahoo.co.jp/byline/emoriseita/20200817-00193635/ : https://archive.is/pdY6k 江守正多 | 国立環境研究所 地球環境研究センター 副センター長 { 2020年 } 8/17(月) 6:35
 {{ 図版 : (写真:アフロ) }}
日本で気候変動問題への関心が低いことについて、科学の立場から論じてほしいというお題を {{ 『環境情報科学』 : http://www.ceis.or.jp/search/entries/book/1 : https://archive.vn/hZz3n }} というところからいただいた。筆者は科学の立場から論じるべきことをあまり持ち合わせていなかったが、せっかくなので最近考えていたことを書いた。
少しでも多くの方に読んでいただくために、ここに転載させていただく。(長文ご注意)
■《はじめに》
本稿に期待された役割は,気候変動に関する自然科学の立場から,科学的知見とそのコミュニケーションが,日本における人々の気候変動への関心と行動に及ぼす影響を論じることであった。
しかし,筆者の考えでは,この問題において科学的知見の面からアプローチする意義は限定的である。気候変動に関する科学的知見のコミュニケーションは,主として既に関心のある層に対して行われ,彼らの知識を強化することはあっても,それが無関心層に拡散することは経験上難しい。もちろん,無関心層の目に触れるさまざまな機会を狙ってコミュニケーションを行い,無関心層の中の潜在的関心層にアプローチすることに一定の効果はあるだろう。だが,それがこの問題に対する本質的なアプローチであるようには筆者には思えないのである。
本稿では,筆者が気候変動の科学の専門家として社会の各層と過去15 年間ほどコミュニケーションを行ってきた経験に基づき,気候変動への「無関心」問題について筆者なりに考えていることを述べたい。ここで述べることの大部分は,実証的な根拠にも過去の研究のサーベイにも基づいていないが,将来の研究に対する仮説の提示にはなりうるかもしれない。そのようなものとして自説を展開させていただくことをお許し願いたい。
■《1.関心の動機につながりうる自然科学的知見》
まず,本稿に期待されていた役割を最低限果たすために,「無関心」問題に関連しうる自然科学的知見についてまとめておきたい。
第一に,近年地球が実際に温暖化している(世界平均気温が上昇傾向にある)ことについて,科学的にはデータにより確認されているが( {{ IPCC, 2013 : https://www.ipcc.ch/report/ar5/wg1/ : https://archive.vn/qkR8V : Climate Change 2013: The Physical Science Basis - IPCC }} ),これは多くの人の素朴な実感と整合しているだろう。これを疑う言説は最近ほとんど聞かれなくなった。特に,2000年ごろからの世界平均気温上昇の停滞期(ハイエイタスと呼ばれる)には,「温暖化は止まった」「予測は外れた」といった言説がよく聞かれたが,2015年ごろから再び顕著な気温上昇が起きて以来,それも聞かれなくなった。
第二に,近年の地球温暖化の主な原因が人間活動であることについて, {{ IPCC(2013): https://www.ipcc.ch/report/ar5/wg1/ : https://archive.vn/qkR8V : Climate Change 2013: The Physical Science Basis - IPCC }} では,「可能性が極めて高い」(95%以上の可能性)としている。これが一般によく理解されているかというと,筆者の実感では疑わしい。関心層にはよく理解している人が多いが,無関心層の多くはおそらく「どっちでもいい」と思っており,科学的な説明を聞く機会があったとしても,関心の顕著な増加にはつながりにくいと想像される。
第三に,いわゆる「異常気象」(30年に一度よりも稀な極端現象)が地球温暖化に伴い増えていることについて,科学的には,「イベント・アトリビューション」とよばれる分析手法が近年発展し,例えば2018年夏の日本の猛暑は地球温暖化がなければほとんど生じ得なかったなどの知見が得られている( {{ Imada et al., 2019 : https://www.jstage.jst.go.jp/article/sola/15A/0/15A_15A-002/_article : https://archive.vn/5UQM2 : The July 2018 High Temperature Event in Japan Could Not Have Happened without Human-Induced Global Warming }} )。世間一般においても,2018年の西日本豪雨,2019年の台風19号のような近年の異常気象被害をきっかけに,異常気象と温暖化の関係が話題になることは増えてきているだろう。ただし,無関心層においては,その受け止めはせいぜい防災の文脈であり,「脱炭素」の必要性のような緩和策の文脈でとらえられる機会は未だ少ないようにみえる。
最後に,将来の地球温暖化のリスクについて,科学的には気温上昇量の予測等に幅があるものの,異常気象のさらなる増加,海面上昇,農業,健康,生態系等への悪影響がかなりの確度で理解されてきている。多くの人はこれらについて断片的に聞く機会はあるだろうが,無関心層においては,比較的遠い将来のことであるし,心配してどうにかなるものでもなさそうだというような理由で,聞き流すことになりがちだろうと想像する。
■《2.地球温暖化懐疑論・否定論の影響》
気候変動の科学的知見に関するコミュニケーションについて語る際,いわゆる地球温暖化懐疑論・否定論の存在は避けて通れない。
特に英語圏においては,化石燃料資本,保守系シンクタンク,保守系メディアのネットワークにより組織的に展開される懐疑論・否定論の言論活動の存在がよく知られており( {{ オレスケス・コンウェイ,2011 : https://www.amazon.co.jp/dp/4903063526 : https://archive.vn/zIPfa : 『世界を騙しつづける科学者たち 上』ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ著 }} ),イデオロギーや宗教などの文化的な背景と相まって,米国においては保守とリベラルを分断する主要テーマの一つとなっている。
インターネット上の観察から,懐疑論・否定論には多くのバラエティがあることがみてとれる。「気候モデルは信用できない」「気温データの補正は疑わしい」といった科学らしさを装う手の込んだものから,「CO2は植物の栄養だから増えたほうがいい」「CO2は空気の0.04%しかないのだから気温上昇に効くわけがない」といった科学的には論外だがシンプルで拡散力がありそうなものまでよく見かける。結果としてインテリ層から非インテリ層まで幅広く影響を及ぼしうるが,これは戦略的にそのような設計で発信されているのかもしれない。
日本においては,筆者の印象では英語圏の資本による組織的な懐疑論・否定論の直接的な影響はほとんど見られないが,英語圏発の懐疑論・否定論はインターネット等を通じてそれなりに拡散している。
日本において懐疑論・否定論に同調的な層は,筆者の観察では3つに分類できる。
1つ目は気候変動対策で規制が導入されることを嫌う産業寄りの保守層である。意図的に懐疑論を広めるのではないにしても,懐疑論が本当であったら有難いくらいに思っている人はこの層に多いだろう。
2つ目は反原発を掲げるリベラル層の一部で,地球温暖化説は原発推進の口実であるという認識に基づき気候変動の科学を敵視する。この層は2011年の福島第一原発事故後に増加したが,現在はそれほど目立たなくなった。1つ目と2つ目は対極的な文化的グループに属することが興味深い。
そして3つ目が無関心層である。この層は比較的とらえどころがないが,例えば「Yahoo!ニュース」の気候変動関連の記事にシニカルなコメントを書き込む人たちを観察して,筆者なりに想像する彼らの心情は以下のようなものだ。彼らは地球温暖化が本当でも嘘でもどっちでもいいのだが,自分は面倒な対策行動をする気はないので(あるいは対策行動を強いてくる説教臭い言説に反発を感じるので),それを無意識に正当化するため,懐疑論にとりあえず同調しているのではないか。
これらの人たちに気候変動の科学の説明が届いたとしても,彼らが懐疑論・否定論を見限ることを期待するのは一般に難しいだろう。2つ目に挙げた反原発層は,筆者の経験ではかたくなな場合が多い。気候変動の科学を敵視することが,自身の正義感やアイデンティティに支えられているためと想像される。3つ目の無関心層は科学を理解する動機も,考えを変える動機も持ち合わせていない。唯一,1つ目に挙げた保守層は,彼らのビジネスにおけるメリットもしくは危機感と絡めれば,考えが変わる人が案外いるかもしれない。
なお,ここには分類しなかったが,気候変動問題に関心がある層の中で,懐疑論・否定論に触れ,説得力のある反論に出会えていないために疑問を持ち続けている人にもたまに出会う。このような人に科学的な説明が届くことには大いに意義がある。
■《3.無関心の根底にある「負担意識」》 ここまで見てきたように,日本における気候変動問題への無関心の根底にあるのが科学的知見の欠如であるようには筆者には思えない。それ以前の問題として,多くの人には科学的知見に目を向けず,科学的知見に触れたとしても受け止めずにやり過ごすことを,無意識にせよ選択させている動機が存在するのではないか。
筆者の仮説は,その動機の根底にあるのは,対策行動の「負担意識」ではないかということだ。つまり,気候変動を対策するためには,個々人が,時間,手間,注意力,快適さ,金銭等の自身の持つリソースを幾ばくか負担する必要があるという観念である。
平たくいえば,地球温暖化を止めるためには,個々人が我慢や経済的負担や面倒な行為や生活レベルの引き下げなどを受け入れる必要があるという認識を多くの人が前提としているのではないかと思うのである。
そして,この負担意識に対する反応は人によって異なる。環境問題への「意識が高い」人の多くは,進んでこの負担を受け入れようとし,負担を受け入れる自分に肯定感を感じ,社会の全構成員が同じように負担を受け入れることを望むだろう。
一方,それ以外の多くの人々は,無意識に負担を忌避する心情が働き,その結果として無関心になるのではないだろうか。もしくは,気候変動についての言説が,負担を受け入れない自分への批判に感じられるためにそれに反発し,人によっては懐疑論・否定論に同調するようになる。これらが「無関心」の根底にあるのではないかというのが筆者の経験に基づく仮説である。
日本において特に負担意識が高いことを示唆するデータは,2015 年に行われた世界市民会議(World Wide Views on Climate and Energy)の結果の中に見てとれる( {{ World Wide Views, 2015 : http://climateandenergy.wwviews.org/results/ : https://archive.vn/DTthW : Climate and Energy 2015 }})。「あなたにとって,気候変動対策はどのようなものですか」という問いに対して,「多くの場合,生活の質を高めるものである」と回答したのは,世界平均の66%に対して日本では17%,「多くの場合,生活の質を脅かすものである」と回答したのは,世界平均27%に対して日本では60%であった。
また,傍証としては,「Yahoo!ニュース」で気候変動対策の必要性を訴える若者などの主張が紹介されると,必ずと言っていいほど「生活レベルを落とすことになるのをわかっているんでしょうか」といったコメントが匿名ユーザーから投稿され,多くの「いいね」が付くことが観察される。
■《4.必要な「行動」とは何か》
負担意識を前提とするとき,気候変動問題に関心を持った人が取るべきと想定されている「行動」は,主として自身の生活からのCO2排出(食生活に関していえばメタン排出も含む)を削減するための環境配慮行動やライフスタイルの変化である。
しかし,必要な「行動」をこのような枠組みでとらえることには,2つの面で問題がある。1つ目に,現在必要とされている気候変動対策(パリ協定の「1.5℃」を目指すのであれば,2050年前後に世界のCO2排出量を実質ゼロまで削減)の規模に対して,このような行動のみではまったく足りないことである。2つ目に,個々人がこのような行動で自分の役割を果たしたと思って満足してしまうと,結果的に現状の社会経済システムの許容につながることである。
では,本当に必要な「行動」とは何だろうか。その手がかりとして,スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさんがなぜ飛行機に乗らず,大西洋をヨットで横断したのかを考えてみるとよい。負担意識を前提とするならば,「私が飛行機に乗るのを我慢することで,一人分のCO2排出を減らしたい」,あるいは「私も不便を受け入れているのだから誰もがそうすべきだ」と解釈することになるだろう。
しかし,グレタさんは次のように発言している。
============≫ We need a system change rather than individual change. But you can not have one without the other.
出典: {{ Thunberg, G., 2019 : https://www.youtube.com/watch?v=DQWMDWWYVz4 : Speech at Brilliant Minds conference in Stockholm 13/6 19 }} ≪============
つまり,個人の変化も必要だが,本当に必要なのはシステム,つまり社会経済等の仕組みの変化だという。
また,彼女は次のようにも述べている。
============≫ I’m not traveling like this because I want everyone to do so, I’m doing this to send a message that it is impossible to live sustainably today & that needs to change.
出典: {{ AP News, 2019 : https://apnews.com/0a176ca3c91742358719cb045aca892a : https://archive.is/EkF9V : Greta Thunberg says voyage ‘energized’ her climate fight - December 3, 2019 }} ≪============
彼女が飛行機に乗らないのは,システムの変化が必要であることを訴えるメッセージなのであり,誰もが飛行機に乗るべきでないとは言っていない。グレタさんに反発する無関心層はもちろんのこと,実は関心層の中の多くの人も,負担意識を前提としているため,このことをほとんど理解できていないのではないか。
筆者もグレタさんと同様に以下のように考えている。個人に必要な行動としてより本質的なのは,自身の生活で発生するCO2をこまめに減らすことよりも,システムの変化を後押しするための意見表明,投票行動,消費行動における選択,地域社会での取り組みへの参加などである。
個人の環境配慮行動については,自身の意見と生活を整合させるためといった意味もあろうから否定するつもりはないし,社会に対するメッセージであるという意識を持って環境配慮行動をとるならば,なお良いだろう。しかしいずれにせよ,気候変動問題に関心を持った人々が,個人の環境配慮行動をとることで「自分に応分の負担をした」と思って満足して終わりにしてしまう状況は望ましくない。
■《5.システムの変化を起こすために》
筆者の考えでは,システムの変化を起こすことを最優先で考えた場合に,社会の構成員の大部分が問題に関心を持つ必要は必ずしもない。このことはトランジション・マネジメントといった分野で理論化されていると想像するが,筆者はあまり詳しくないので,筆者自身が実感している例を用いて説明したい。
筆者が持ち出す例は「分煙」である。30年ほど前は,路上,飲食店,交通機関,職場等で喫煙できることが当然だったが,現在では考えられない。2002年に健康増進法で受動喫煙防止が努力義務となり(改正により2020年よりさらに強い義務化),飲食店等も分煙や禁煙で経営するのが当然となり,大多数の喫煙者が分煙ルールに従うというシステムの変化が生じた。
社会の構成員の大部分がこの問題に関心をもったわけではないにもかかわらず生じたこの変化は,受動喫煙の健康被害を立証した医師,嫌煙権訴訟を闘った原告や弁護士などの「声を上げた人たち」に加え,それらを支持した一部の人たちの存在に因ったのではないか。そして,社会の構成員の大部分は,無関心でいるうちにいつの間にか生じたシステムの変化に受動的に従っただけである。
人々の価値観は多様であるため,社会の大部分の人たち��気候変動問題に本質的な関心を持つことを期待するのは難しい。このとき,気候変動に無関心な人を非難する筋合いもない。彼らは他の社会問題には強い関心を持っているかもしれないし,気候変動に関心がある人が他の社会問題に関心を持っているとは限らないからである。
このように考えると,気候変動対策のためのシステムの変化を起こすための筋道は,問題に本質的な関心を持った一部の人たち(多いほうがいいが,大多数である必要はない)がシステムに本質的な働きかけを行うことであり,大多数の人たちがわずかな関心を持って自分にできる環境配慮行動を人知れず行うことではない。
例えば,日本のすべての電源が再生可能エネルギーになれば無関心な人がいくら電気を使ってもCO2は出ないのであるし,新築住宅にネットゼロエネルギーハウス(ZEH)が義務化されれば無関心な人でもZEHを建てるようになるのだから,早くそのような状態を作ることが重要なのである。
■《6.本質的な「関心」の持ち方》
では,気候変動問題に本質的な関心を持つとはどんな状態だろうか。筆者が本質的と呼びうるのは,気候変動問題が自身の「人生のテーマ」になるほどの関心の持ちようである。
気候変動のリスクを自身や大切な人たちの生死にかかわるような「実存的な」リスクだととらえた人,あるいは先進国がこれまで排出した温室効果ガスによって発展途上国の脆弱な人々や将来世代が深刻な被害を受けることを倫理的に許容できないと強く感じた人,社会の脱炭素の必要性・緊急性・重大性を理解し,それに全力で取り組むことに人生の意義を見出した人,などがそれにあたるだろう。
欧米にはそういう政治家がいるし,セレブリティ(例えば,俳優のレオナルド・ディカプリオ)もいる。グレタさんをはじめとする気候ストライキを行う若者たちも,おそらく大部分はこのような関心を持っている。
日本でも,環境NGOで活動する人たちや気候マーチを行う若者たちがいるが,おそらく他国に比べて規模が非常に小さく,裾野の広がりが狭い。欧米では,環境NGOに共感するが自分で活動するほどの時間は割けないという人たちがNGOに寄付をすることが多いと聞くが,日本では環境NGOは社会から十分な認知を得ておらず,「自分とは関係ない極端な主張の人たち」だと思われている印象がある。
このような日本の特殊性は,日本の文化的な特徴に因る部分もあるだろうから,簡単には変わらないかもしれない。しかし,前述した「負担意識」のナラティブを変え,気候変動対策とは本質的には社会をアップデートする前向きなシステム変化であるという認識を広めていくことができれば,状況は改善するのではないか。
つまり,人々の気候変動問題への無意識な拒否感を弱め,潜在的な関心層が本質的な関心を獲得する機会を増し,その裾野に本質的な関心層ではないにしても彼らに共感し,彼らを支持する層を厚くすることができるのではないか。
■《7.結論および新型コロナ危機対応との対比》
以上をまとめると,筆者の考えでは,日本において気候変動に無関心な人が多いという問題に対しては,わずかな関心を持って個人の環境配慮行動をとる人々を大勢増やすのではなく,本質的な関心を持つ人々とその支持者を増やし,システム変化を起こすことを目指すアプローチをとるという認識を明確に持つべきだと思う。
この認識に基づけば,無関心な人はある程度多く存在し続けていても,システムが変われば結果的にそれに従うので問題はない。
この際に,日本社会に蔓延すると思われる気候変動対策の「負担意識」を変えることが有効だと筆者は考える。負担意識は無関心層だけでなく,関心層の中にも根強く存在していると想像されるため,これを変えていく必要がある。つまり,関心層がシステム変化のアプローチを理解することを通じて,「自分は負担したので満足だ。他の人も負担すべきだ」と考える状態を脱してほしい。
これによって,無関心層が気候変動対策への無意識な反発により懐疑論・否定論に同調して邪魔をしてくる状況が緩和されると同時に,潜在的な関心層の気候変動問題への接近が容易になり,本質的な関心層とその支持者層が増えることを期待する。
最後に,本稿執筆中に世界は新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大危機に突入しているため,その中において考えたことを少し述べたい。
コロナ危機においては,手洗い・消毒・社会的距離の確保といった個人の行動変容が感染拡大防止に本質的な重要性を持つ。また,外出や集会などの活動の自粛が要請され,多くの人々がそれに従っている。その副次的効果として,世界のエネルギー需要もCO2排出量も一時的に減少している。
しかし,この状況を,気候危機対応のモデルであると思わないほうがよい。気候危機対応においては,個人の生活レベルでの行動変容はそこまで本質的な重要性を持たないし,数十年続く気候危機対応で現在のコロナ対応のような活動制限を行うことは不可能だからである。
むしろ,気候危機対応の本質は,コロナ危機において治療薬やワクチンの開発が急がれていることに近いのではないか。活動自粛に反発したり疲れてしまう人はいても,治療薬・ワクチンの早期の開発と普及によるコロナ危機の「出口」を望まない人はいないだろう。
気候危機においてそのような「出口」に相当するのが,エネルギー,交通,都市,食料などのシステムの脱炭素化である。その必要性を理解し,それを心から望み,それに協力できることがあるならば惜しまないことが,人々に本当に必要とされる気候変動問題への「関心と行動」であると筆者は考える。
(初出:江守正多(2020)気候変動問題への「関心と行動」を問いなおす―専門家としてのコミュニケーションの経験から, 環境情報科学, 49 (2), 2-6.)
●江守正多  国立環境研究所 地球環境研究センター 副センター長  1970年神奈川県生まれ。1997年に東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程にて博士号(学術)を取得後、国立環境研究所に入所。2018年より地球環境研究センター 副センター長。社会対話・協働推進オフィス(Twitter @taiwa_kankyo)代表。専門は地球温暖化の将来予測とリスク論。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第5次および第6次評価報告書 主執筆者。著書に「異常気象と人類の選択」「地球温暖化の予測は『正しい』か?」、共著書に「地球温暖化はどれくらい『怖い』か?」「温暖化論のホンネ」等。記事やコメントは個人の見解であり、所属組織を代表するものではありません。
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 照明を落とした会議室は水を打ったようで、ただ肉を打つ鈍い音が響いていた。ビデオカメラに濾され、若干迫力と現実味を欠いた殴打の音が。  とは言え、それは20人ほどの若者を釘付けへするには十分な効果を持つ。四角く配置された古い長机はおろか、彼らが埋まるフェイクレザーの椅子すら、軋みの一つも上げない。もちろん、研修旅行の2日目ということで、集中講義に疲れ果て居眠りをしているわけでもない。白いスクリーンの中の光景に、身じろぎはおろか息すらこらしているのだろう。  映像の中の人物は息も絶え絶え、薄暗い独房の天井からぶら下げられた鎖のおかげで、辛うじて直立の状態を保っている。一時間近く、二人の男から代わる代わる殴られていたのだから当然の話だ――講義用にと青年が手を加えたので、今流れているのは10分ほどの総集編という趣。おかげで先ほどまでは端正だった顔が、次の瞬間には血まみれになっている始末。画面の左端には、ご丁寧にも時間と殴打した回数を示すカウンターまで付いていた。  まるで安っぽいスナッフ・フィルムじゃないか――教授は部屋の隅を見遣った。パイプ椅子に腰掛ける編集者の青年が、視線へ気付くのは早い。あくびをこぼしそうだった表情が引き締まり、すぐさま微笑みに変わる。まるで自らの仕事を誇り、称賛をねだる様に――彼が自らに心酔している事は知っていた。少なくとも、そういう態度を取れるくらいの処世術を心得ている事は。   男達が濡れたコンクリートの床を歩き回るピチャピチャという水音が、場面転換の合図となる。とは言っても、それまで集中的に顔を攻撃していた男が引き下がり、拳を氷の入ったバケツに突っ込んだだけの変化なのだが。傍らで煙草を吸っていたもう一人が、グローブのような手に砂を擦り付ける。  厄災が近付いてきても、捕虜は頭上でひとまとめにされた手首を軽く揺するだけで、逃げようとはしなかった。ひたすら殴られた顔は赤黒く腫れ上がり、虫の蛹を思わせる。血と汗に汚された顔へ、漆黒の髪がべっとり張り付いていた。もう目も禄に見えていないのだろう。  いや、果たしてそうだろうか。何度繰り返し鑑賞しても、この場面は専門家たる教授へ疑問を呈した。  重たげで叩くような足音が正面で止まった瞬間、俯いていた顔がゆっくり持ち上がった。閉じた瞼の針のような隙間から、榛色の瞳が僅かに覗いている。そう、その瞳は、間違いなく目の前の男を映していた。自らを拷問する男の顔を。相手がまるで、取るに足らない存在であるかの如く毅然とした無表情で。  カウンターが121回目の殴打を数えたとき、教授は手にしていたリモコンを弄った。一時停止ボタンは融通が利かず、122回目のフックは無防備な鳩尾を捉え、くの字に折り曲がった体が後ろへ吹っ飛ばされる残像を画面に残す。 「さて、ここまでの映像で気付いたことは、ミズ・ブロディ?」  目を皿のようにして画面へ見入っていた女子生徒が、はっと顔を跳ね上げる。逆光であることを差し引いても、その瞳は溶けた飴玉のように光が滲み、焦点を失っていた。 「ええ、はい……その、爪先立った体勢は、心身への負荷を掛ける意味で効果的だったと思います」 「その通り。それにあの格好は、椅子へ腰掛けた人間を相手にするより殴りやすいからね。ミスター・ロバーツ、執行者については?」 「二人の男性が、一言も対象者に話しかけなかったのが気になりました」  途中から手元へ視線を落としたきり、決して顔を上げようとしなかった男子生徒が、ぼそぼそと答えた。 「笑い者にしたり、罵ったりばかりで……もっと積極的に自白を強要するべきなのでは」 「これまでにも、この……M……」  机上のレジュメをひっくり返したが、該当資料は見あたらない。パイプ椅子から身を乗り出した青年が、さして潜めてもいない声でそっと助け船を出した。 「そう、ヒカル・K・マツモト……私達がMと呼んでいる男性には、ありとあらゆる方法で自白を促した。これまでにも見てきたとおり、ガスバーナーで背中を炙り、脚に冷水を掛け続け――今の映像の中で、彼の足元がおぼづかなかったと言う指摘は誰もしなかったね? とにかく、全ての手段に効果が得られなかった訳だ」  スマートフォンのバイブレーションが、空調の利きが悪い室内の空気を震わせる。小声で云々しながら部屋を出ていく青年を片目で見送り、教授は一際声の調子を高めた。 「つまり今回の目的は、自白ではない。暴力そのものだ。この行為の中で、彼の精神は価値を持たない。肉体は、ただ男達のフラストレーションの捌け口にされるばかり」  フラストレーションの代わりに「マスターベーション」と口走りそうになって、危うく言葉を飲み込んだのは、女性の受講生も多いからだ。5年前なら考えられなかったことだ――黴の生えた理事会の連中も、ようやく象牙の塔の外から出るとまでは言わなくとも、窓から首を突き出す位のことをし始めたのだろう。 「これまで彼は、一流の諜報員、捜査官として、自らのアイデンティティを固めてきた。ここでの扱いも、どれだけ肉体に苦痛を与えられたところで、それは彼にとって自らが価値ある存在であることの証明に他ならなかった。敢えて見せなかったが、この行為が始まる前に、我らはMと同時に捕縛された女性Cの事を彼に通告してある――彼女が全ての情報を吐いたので、君はもう用済みだ、とね」 「それは餌としての偽情報でしょうか、それとも本当にCは自白していたのですか」 「いや、Cもまだこの時点では黙秘している。Mに披露した情報は、ケース・オフィサーから仕入れた最新のものだ」  ようやく対峙する勇気を振り絞れたのだろう。ミスター・ロバーツは、そろそろと顔を持ち上げて、しんねりとした上目を作った。 「それにしても、彼への暴力は行き過ぎだと思いますが」 「身長180センチ、体重82キロもある屈強な25歳の男性に対してかね? 彼は深窓の令嬢ではない、我々の情報を��き取ろうとした手練れの諜報員だぞ」  浮かんだ苦笑いを噛み殺し、教授は首を振った。 「まあ、衛生状態が悪いから、目方はもう少し減っているかもしれんがね。さあ、後半を流すから、Mと執行者、両方に注目するように」  ぶれた状態で制止していた体が思い切り後ろへふれ、鎖がめいいっぱいまで伸びきる。黄色く濁った胃液を床へ吐き散らす捕虜の姿を見て、男の一人が呆れ半分、はしゃぎ半分の声を上げる。「汚ぇなあ、しょんべんが上がってきてるんじゃないのかよ」  今年は受講者を20人程に絞った。抽選だったとは言え、単位取得が簡単でないことは周知の事実なので、応募してきた時点で彼らは自分を精鋭と見なしているのだろう。  それが、どうだ。ある者は暴力に魅せられて頬を火照らせ、ある者は今になって怖じ気付き、正義感ぶることで心の平穏を保とうとする。  経験していないとはこう言うことか。教授は今更ながら心中で嘆息を漏らした。ここのところ、現場慣れした小生意気な下士官向けの講義を受け持つことが多かったので、すっかり自らの感覚が鈍っていた。  つまり、生徒が悪いのでは一切ない。彼らが血の臭いを知らないのは、当然のことなのだ。人を殴ったとき、どれだけ拳が疼くのかを教えるのは、自らの仕事に他ならない。  手垢にまみれていないだけ、吸収も早いことだろう。余計なことを考えず、素直に。ドアを開けて入ってきたあの青年の如く。  足音もなく、すっと影のように近付いてきた青年は、僅かに高い位置へある教授の耳に小さな声で囁いた。 「例のマウンテンバイク、確保できたようです」  針を刺されたように、倦んでいた心が普段通りの大きさへ萎む。ほうっと息をつき、教授は頷いた。 「助かったよ。すまないな」 「いいや、この程度の事なら���んで」  息子が12歳を迎えるまで、あと半月を切っている。祝いに欲しがるモデルは何でも非常に人気があるそうで、どれだけ自転車屋に掛け合っても首を振られるばかり。  日頃はあまり構ってやれないからこそ、約束を違えるような真似はしたくない。妻と二人ほとほと弱り果てていたとき、手を挙げたのが他ならぬ目の前の青年だった。何でも知人の趣味がロードバイクだとかで、さんざん拝み倒して新古品を探させたらしい。  誕生パーティーまでの猶予が一ヶ月を切った頃から、教授は青年へ厳しく言い渡していた。見つかり次第、どんな状況でもすぐに知らせてくれと。夜中でも、仕事の最中でも。 「奥様に連絡しておきましょうか。また頭痛でお悩みじゃなきゃいいんですけど」 「この季節はいつでも低気圧だ何だとごねているさ。悪いが頼むよ」  ちらつく画像を前にし、青年はまるで自らのプレゼントを手に入れたかの如くにっこりしてみせる。再びパイプ椅子に腰を下ろし、スマートフォンを弄くっている顔は真剣そのものだ。  ふと頭に浮かんだのは、彼が妻と寝ているか否かという、これまでも何度か考えたことのある想像だった。確かに毎週の如く彼を家へ連れ帰り、彼女もこの才気あふれる若者を気に入っている風ではあるが。  まさか、あり得ない。ファンタジーとしてならば面白いかもしれないが。  そう考えているうちは、大丈夫だろう。事実がどうであれ。 「こんな拷問を、そうだな、2ヶ月程続けた。自白を強要する真似は一切せず、ただ肉の人形の用に弄び、心身を疲弊させる事に集中した。詳細はレジュメの3ページに譲るとして……背中に水を皮下注射か。これは以前にも言ったが、対象が仰向けで寝る場合、主に有効だ。事前に確認するように」  紙を捲る音が一通り収まったのを確認してから、教授は手の中のリモコンを軽く振った。 「前回も話したが、囚人が陥りやすいクワシオルコルなど低タンパク血症の判断基準は脚の浮腫だ。だが今回は捕獲時に右靱帯を損傷し中足骨を剥離骨折したこと、何度も逃亡を試みた事から脚への拘束及び重点的に攻撃を加えたため、目視では少し判断が難しいな。そういうときは、圧痕の確認を……太ももを掴んで指の型が数秒間戻らなければ栄養失調だ」  似たような仕置きの続く数分が早送りされ、席のそこかしこから詰まったような息が吐き出される。一度飛ばした写真まで巻き戻せば、その呼吸は再びくびられたかのように止まった。 「さて、意識が混濁しかけた頃を見計らい、我々は彼を移送した。本国の収容所から、国境を越えてこの街に。そして抵抗のできない肉体を、一見無造作に投棄したんだ。汚い、掃き溜めに……えー、この国の言葉では何と?」 「『ゴミ捨て場』」 「そう、『ゴミ捨て場』に」  青年の囁きを、生徒達は耳にしていたはずだ。それ以外で満ちた沈黙を阻害するのは、プロジェクターの立てる微かなモーター音だけだった。  彼らの本国にもありふれた集合住宅へ――もっとも、今画面に映っている場所の方がもう少し設備は整っていたが。距離で言えば100キロも離れていないのに、こんな所からも、旧東側と西側の違いは如実に現れるのだ――よくある、ゴミ捨て場だった。三方を囲うのはコンクリート製の壁。腰程の高さへ積んだゴミ袋の山へ、野生動物避けの緑色をしたネットを掛けてあるような。  その身体は、野菜の切りくずやタンポンが詰められているのだろうゴミ袋達の上に打ち捨てられていた。横向きの姿勢でぐんにゃり弛緩しきっていたが、最後の意志で内臓を守ろうとした努力が窺える。腕を腹の前で交差し、身を縮める姿は胎児を思わせた。ユーラシアンらしい照り卵を塗ったパイ生地を思わせる肌の色味は、焚かれたフラッシュのせいで消し飛ばされる。 絡みもつれた髪の向こうで、血管が透けて見えるほど薄い瞼はぴたりと閉じられていた。一見すると死んでいるかのように見える。 「この国が我が祖国と国交を正常化したのは?」 「2002年です」 「よろしい、ミズ・グッドバー。だがミハイル・ゴルバチョフが衛星国の解放を宣言する以前から、両国間で非公式な交流は続けられていた。主に経済面でだが。ところで、Mがいた地点からほど近くにあるタイユロール記念病院は、あの鋼鉄商フォミン一族、リンゼイ・フォミン氏の働きかけで設立された、一種の『前哨基地』であることは、ごく一部のものだけが知る事実だ。彼は我が校にも多額の寄付を行っているのだから、ゆめゆめ備品を粗末に扱わぬよう」  小さな笑いが遠慮がちに湧いた矢先、突如画面が明るくなる。生徒達同様、教授も満ちる眩しさに目を細めた。 「Mは近所の通報を受け、この病院に担ぎ込まれた……カルテにはそう記載されている。もちろん、事実は違う。全ては我々の手配だ。彼は現在に至るまでの3ヶ月、個室で手厚く看護を受けている。最新の医療、滋養のある食事、尽くしてくれる看護士……もちろん彼は、自らの正体を明かしてはいないし、完全に心を開いてはいない。だが、病院の上にいる人間の存在には気付いていないようだ」 「気付いていながら、我々を欺いている可能性は?」 「限りなく低いだろう。外部との接触は行われていない……行える状態ではないし、とある看護士にはかなり心を許し、私的な話も幾らか打ち明けたようだ」  後は病室へ取り付けた監視用のカメラが、全てを語ってくれる。ベッドへ渡したテーブルへ屈み込むようにしてステーキをがっつく姿――健康状態はすっかり回復し、かつて教授がミラーガラス越しに眺めた時と殆ど変わらぬ軒昂さを取り戻していた。  両脚にはめられたギプスをものともせず、点滴の管を抜くというおいたをしてリハビリに励む姿――パジャマを脱いだ広い背中は、拷問の痕の他に、訓練や実践的な格闘で培われたしなやかな筋肉で覆われている。  車椅子を押す看護士を振り返り、微笑み掛ける姿――彼女は決して美人ではないが、がっしりした体つきやきいきびした物言いは母性を感じさせるものだった。だからこそ一流諜報員をして、生き別れの恋人やアルコール中毒であった父親の話まで、自らの思いの丈を洗いざらい彼女に白状せしめたのだろう。「彼女を本国へスカウトしましょうよ」報告書を読んだ青年が軽口を叩いていたのを思い出す。「看護士の給料って安いんでしょう? 今なら簡単に引き抜けますよ」 「今から10分ほど、この三ヶ月の記録からの抜粋を流す。その後はここを出て、西棟502号室前に移動を――Mが現在入院する病室の前だ。持ち物は筆記具だけでいい」  暗がりの中に戸惑いが広がる様子は、まるで目に見えるかのようだった。敢えて無視し、部屋を出る。  追いかけてきた青年は、ドアが完全に閉まりきる前から既にくすくす笑いで肩を震わせていた。 「ヘンリー・ロバーツの顔を見ましたか。今にも顎が落ちそうでしたよ」 「当然の話だろう」  煤けたような色のLEDライトは、細長く人気のない廊下を最低限カバーし、それ以上贅沢を望むのは許さないと言わんばかり。それでも闇に慣れた眼球の奥をじんじんと痺れさせる。大きく息をつき、教授は何度も目を瞬かせた。 「彼らは現場に出たこともなければ、百戦錬磨の諜報員を尋問したこともない。何不自由なく育った二十歳だ」 「そんなもんですかね」  ひんやりした白塗りの壁へ背中を押しつけ、青年はきらりと目を輝かせた。 「俺は彼ら位の頃、チェチェン人と一緒にウラル山脈へこもって、ロシアのくそったれ共を片っ端から廃鉱山の立坑に放り込んでましたよ」 「『育ちゆけよ、地に満ちて』だ。平和は有り難いことさ」  スマートフォンの振動は無視するつもりだったが、結局ポケットへ手を突っ込み、液晶をタップする。現れたテキストをまじまじと見つめた後、教授は紳士的に視線を逸らしていた青年へ向き直った。 「君のところにもメッセージが行っていると思うが、妻が改めて礼を言ってくれと」 「お安い御用ですよ」 「それと、ああ、その自転車は包装されているのか?」 「ほうそうですか」  最初繰り返したとき、彼は自らが口にした言葉の意味を飲み込めていなかったに違いない。日に焼けた精悍な顔が、途端にぽかんとした間抜け面に変わる。奨学金を得てどれだけ懸命に勉強しても、この表情を取り繕う方法は、ついぞ学べなかったらしい。普段の明朗な口振りが嘘のように、言葉付きは歯切れが悪い。 「……ええっと、多分フェデックスか何かで来ると思うので、ダンボールか緩衝材にくるんであるんじゃないでしょうか……あいつは慣れてるから、配送中に壊れるような送り方は絶対しませんよ」 「いや、そうじゃないんだ。誕生日の贈り物だから、可愛らしい包み紙をこちらのほうで用意すべきかということで」 「ああ、なるほど……」  何とか混乱から立ち直った口元に、決まり悪げなはにかみが浮かぶ。 「しかし……先生の息子さんが羨ましい。俺の親父もマツモトの父親とそうそう変わらないろくでなしでしたから」  僅かに赤らんだ顔を俯かせて頭を掻き、ぽつりと呟いた言葉に普段の芝居掛かった気負いは見られない。鈍い輝きを帯びた瞳が、おもねるような上目遣いを見せた。 「先生のような父親がいれば、きっと世界がとてつもなく安全で、素晴らしい物のように見えるでしょうね」  皮肉を言われているのか、と一瞬思ったが、どうやら違うらしい。  息子とはここ数週間顔を合わせていなかった。打ち込んでいるサッカーの試合や学校の発表会に来て欲しいと何度もせがまれているが、積み重なる仕事は叶えてやる機会を許してはくれない。  いや、本当に自らは、努力を重ねたか? 確たる意志を以て、向き合う努力を続けただろうか。  自らが妻子を愛していると、教授は知っている。彼は己のことを分析し、律していた。自らが家庭向きの人間ではないことを理解しなから、家族を崩壊させないだけのツボを的確に押さえている事実へ、怒りの叫びを上げない程度には。  目の前の男は、まだ期待の籠もった眼差しを向け続けている。一体何を寄越せば良いと言うのだ。今度こそ苦い笑いを隠しもせず、教授は再びドアノブに手を伸ばした。  着慣れない白衣姿に忍び笑いが漏れるのへ、わざとらしいしかめっ面を作って見せる。 「これから先、��は傍観者だ。今回の実習を主導するのは彼だから」  「皆の良い兄貴分」を気取っている青年が、芝居掛かった仕草のお辞儀をしてみせる。生徒達と同じように拍手を与え、教授は頷いた。 「私はいないものとして考えるように……皆、彼の指示に従うこと」 「指示なんて仰々しい物は特にない、みんな気楽にしてくれ」  他の患者も含め人払いを済ませた廊下へ響かぬよう、普段よりは少し落とした声が、それでも軽やかに耳を打った。 「俺が定める禁止事項は一つだけ――禁止事項だ。これからここで君たちがやった事は、全てが許される。例え法に反することでも」  わざとらしく強い物言いに、顔を見合わせる若者達の姿は、これから飛ぶ練習を始める雛鳥そのものだった。彼らをぐるりと見回す青年の胸は、愉悦でぱんぱんに膨れ上がっているに違いない。大袈裟な身振りで手にしたファイルを振りながら、むずつかせる唇はどうだろう。心地よく浸る鷹揚さが今にも溢れ出し、顔を満面の笑みに変えてしまいそうだった。 「何故ならこれから君達が会う人間は、その法律の上では存在しない人間なんだから……寧ろ俺は、君達に積極的にこのショーへ参加して欲しいと思ってる。それじゃあ、始めようか」  最後にちらりと青年が寄越した眼差しへ、教授はもう一度頷いて見せた。ここまでは及第点。生徒達は不安を抱えつつも、好奇心を隠せないでいる。  ぞろぞろと向かった先、502号室の扉は閉じられ、物音一つしない。ちょうど昼食が終わったばかりだから、看護士から借りた本でも読みながら憩っているのだろう――日報はルーティンと化していたが、それでも教授は欠かさず目を通し続けていた。  生徒達は皆息を詰め、これから始まる出し物を待ちかまえている。青年は最後にもう一度彼らを振り向き、シッ、と人差し指を口元に当てた。ぴいん、と緊張が音を立てそうなほど張り詰められたのは、世事に疎い学生達も気がついたからに違いない。目の前の男の目尻から、普段刻まれている笑い皺がすっかり失せていると。  分厚い引き戸が勢いよく開かれる。自らの姿を、病室の中の人間が2秒以上見つめたと確認してから、青年はあくまで穏やかな、だがよく聞こえる声で問いかけた。 「あんた、ここで何をしているんだ」  何度も尋問を起こった青年と違い、教授がヒカル・K・マツモトを何の遮蔽物もなくこの目で見たのは、今日が初めての事だった。  教授が抱いた印象は、初見時と同じ――よく飼い慣らされた犬だ。はしっこく動いて辺りを確認したかと思えば、射るように獲物を見据える切れ長で黒目がちの瞳。すっと通った細長い鼻筋。桜色の形良い唇はいつでも引き結ばれ、自らが慎重に選んだ言葉のみ、舌先に乗せる機会を待っているかのよう。  見れば見るほど、犬に思えてくる。教授がまだ作戦本部にいた頃、基地の中を警邏していたシェパード。栄養状態が回復したせいか、艶を取り戻した石炭色の髪までそっくりだった。もっともあの軍用犬達はベッドと車椅子を往復していなかったので、髪に寝癖を付けたりなんかしていなかったが。  犬は自らへしっぽを振り、手綱を握っている時にのみ役に立つ。牙を剥いたら射殺せねばならない――どれだけ気に入っていたとしても。教授は心底、その摂理を嘆いた。  自らを散々痛めつけた男の顔を、一瞬にして思い出したのだろう。Mは驚愕に目を見開いたものの、次の瞬間車椅子の中で身構えた。 「おまえは…!」 「何をしているかと聞いているんだ、マツモト。ひなたぼっこか?」  もしもある程度予測できていた事態ならば、この敏腕諜報員のことだ。ベッド脇にあるナイトスタンドから取り上げた花瓶を、敵の頭に叩きつける位の事をしたかもしれない。だが不幸にも、青年の身のこなしは機敏だった。パジャマの襟首を掴みざま、まだ衰弱から完全に抜けきっていない体を床に引き倒す。 「どうやら、少しは健康も回復したようだな」  自らの足元にくずおれる姿を莞爾と見下ろし、青年は手にしていたファイルを広げた。 「脚はどうだ」 「おかげさまで」  ギプスをはめた脚をかばいながら、Mは小さく、はっきりとした声で答えた。 「どうやってここを見つけた」 「見つけたんじゃない。最初から知っていたんだ。ここへお前を入院させたのは俺たちなんだから」  一瞬見開かれた目は、すぐさま平静を取り戻す。膝の上から滑り落ちたガルシア・マルケスの短編集を押し退けるようにして床へ手を滑らせ、首を振る。 「逐一監視していた訳か」 「ああ、その様子だと、この病院そのものが俺たちの手中にあったとは、気付いていなかったらしいな」  背後を振り返り、青年は中を覗き込む生徒達に向かって繰り返した。 「重要な点だ。この囚人は、自分が未だ捕らわれの身だという事を知らなかったそうだ」  清潔な縞模様のパジャマの中で、背中が緩やかな湾曲を描く。顔を持ち上げ、Mは生徒達をまっすぐ見つめた。  またこの目だ。出来る限り人だかりへ紛れながらも、教授はその眼差しから意識を逸らすことだけは出来なかった。有利な手札など何一つ持っていないにも関わらず、決して失われない榛色の光。確かにその瞳は森の奥の泉のように静まり返り、暗い憂いを帯びている。あらかじめ悲しみで心を満たし、もうそれ以上の感情を注げなくしているかのように。  ねめ回している青年も、Mのこの堅固さならよく理解しているだろう――何せ数ヶ月前、その頑強な鎧を叩き壊そうと、手ずから車のバッテリーに繋いだコードを彼の足に接触させていたのだから。  もはや今、鸚鵡のように「口を割れ」と繰り返す段階は過ぎ去っていた。ファイルの中から写真の束を取り出して二、三枚繰り、眉根を寄せる。 「本当はもう少し早く面会するつもりだったんだが、待たせて悪かった。あんたがここに来て、確か3ヶ月だったな。救助は来なかったようだ」 「ここの電話が交換式になってる理由がようやく分かったよ。看護士に渡した手紙も握りつぶされていた訳だな」 「気付いていたのに、何もしなかったのか」 「うちの組織は、簡単にとかげの尻尾を切る」  さも沈痛なそぶりで、Mは目を伏せた。 「大義を為すためなら、末端の諜報員など簡単に見捨てるし、皆それを承知で働いている」  投げ出されていた手が、そろそろと左足のギプスの方へ這っていく。そこへ削って尖らせたスプーンを隠してある事は、監視カメラで確認していた。知っていたからこそ、昨晩のうちに点滴へ鎮静剤を混ぜ、眠っているうちに取り上げてしまう事はたやすかった。  ほつれかけたガーゼに先細りの指先が触れるより早く、青年は動いた。 「確かに、お前の所属する���織は、仲間がどんな目に遭おうと全く気に掛けないらしいな」  手にしていた写真を、傷が目立つビニール張りの床へ、一枚、二枚と散らす。Mが身を凍り付かせたのは、まだ僅かに充血を残したままの目でも、その被写体が誰かすぐ知ることが出来たからだろう。 「例え女であったとしても、我が国の情報局が手加減など一切しないことは熟知しているだろうに」  最初の数枚においては、CもまだMが知る頃の容姿を保っていた。枚数が増えるにつれ、コマの荒いアニメーションの如く、美しい女は徐々に人間の尊厳を奪われていく――撮影日時は、写真の右端に焼き付けられていた。  Mがされていたのと同じくらい容赦なく殴られ、糞尿や血溜まりの中で倒れ伏す姿。覚醒剤で朦朧としながら複数の男達に辱められる。時には薬を打たれることもなく、苦痛と恥辱の叫びを上げている歪んだ顔を大写しにしたものもある。分かるのは、施されるいたぶりに終わりがなく、彼女は時を経るごとにやせ細っていくということだ。 「あんたがここで骨休めをしている間、キャシー・ファイクは毎日尋問に引き出されていた。健気に耐えたよ、全く驚嘆すべき話だ。そういう意味では、君たちの組織は実に優秀だと言わざるを得ない」  次々と舞い落ちてくる写真の一枚を拾い上げ、Mは食い入るように見つめていた。養生生活でただでも青白くなった横顔が、俯いて影になることで死人のような灰色に変わる。 「彼女は最終的に情報を白状したが……恐らく苦痛から解放して欲しかったのだろう。この三ヶ月で随分衰弱してしまったから」  Mは自らの持てる技術の全てを駆使し、動揺を押さえ込もうとしていた。その努力は殆ど成功している。ここだけは仄かな血色を上らせた、薄く柔い唇を震わせる以外は。  その様をつくづくと見下ろしながら、青年はどこまでも静かな口調で言った。 「もう一度聞くが、あんた、ここで何をしていた?」  再び太ももへ伸ばされた左手を、踏みつけにする足の動きは機敏だった。固い靴底で手の甲を踏みにじられ、Mはぐっと奥歯を噛みしめ、相手を睨み上げた。教授が初めて目にする、燃えたぎるような憎悪の色を視線に織り込みながら。その頬は病的なほど紅潮し、まるで年端も行かない子供を思わせる。  そして相手がたかぶるほど、青年は感情を鎮静化させていくのだ。全ての写真を手放した後、彼は左腕の時計を確認し、それから壁に掛かっていた丸い時計にも目を走らせた。 「数日前、Cはこの病院に運び込まれた。お偉方は頑なでね。まだ彼女が情報を隠していると思っているようだ」 「これ以上、彼女に危害を加えるな」  遂にMは口を開き、喉の奥から絞り出すようにして声を放った。 「情報ならば、僕が話す」 「あんたにそんな役割は求めていない」  眉一つ動かすことなく、青年は言葉を遮った。 「あんたは3ヶ月前に、その言葉を口にすべきだった。もう遅い」  唇を噛むMから目を離さないまま、部屋の前の生徒達に手だけの合図が送られる。今やすっかりその場の空気に飲まれ、彼らはおたおたと足を動かすのが精一杯。一番賢い生徒ですら、質問を寄越そうとはしなかった。 「彼女に会わせてやろう。もしも君が自分の足でそこにたどり着けるのならば。俺の上官が出した指示はこうだ。この廊下の突き当たりにある手術室にCを運び込み、麻酔を掛ける。5分毎に、彼女の体の一部は切り取られなければならない。まずは右腕、次に右脚、四肢が終わったら目を抉り、鼻を削いで口を縫い合わせ、喉を潰す。耳を切りとったら次は内臓だ……まあ、この順番は多少前後するかもしれない。医者の気まぐと彼女の体調次第で」  Mはそれ以上、抗弁や懇願を口にしようとはしなかった。ただ歯を食いしばり、黙ってゲームのルールに耳を澄ましている。敵の陣地で戦うしか、今は方法がないのだと、聡い彼は理解しているのだろう。 「もしも君が部屋までたどり着けば、その時点で手術を終了させても良いと許可を貰ってる。彼女の美しい肉体をどれだけ守れるかは、君の努力に掛かっているというわけだ」  足を離して解放しざま、青年はすっと身を傍らに引いた。 「予定じゃ、もうカウントダウンは始まっている。そろそろ医者も、彼女の右腕に局部麻酔を打っているんじゃないか?」  青年が言い終わらないうちに、Mは床に投げ出されていた腕へ力を込めた。  殆ど完治しているはずの脚はしかし、過剰なギプスと長い車椅子生活のせいですっかり萎えていた。壁に手をつき、立ち上がろうとする奮闘が繰り返される。それだけの動作で、全身に脂汗が滲み、細かい震えが走っていた。  壁紙に爪を立てて縋り付き、何とか前かがみの姿勢になれたとき、青年はその肩に手を掛けた。力任せに押され、受け身を取ることも叶わなかったらしい。無様に尻餅をつき、Mは顔を歪めた。 「さあ」  人を突き飛ばした手で部屋の外に並ぶ顔を招き、青年はもぞつくMを顎でしゃくる。 「君達の出番だ」  部屋の中へ足を踏み入れようとするものは、誰もいなかった。  その後3度か4度、起き上がっては突き飛ばされるが繰り返される。結局Mは、それ以上立ち上がろうとする事を諦めた。歯を食いしばって頭を垂れ、四つん這いになる。出来る限り避けようとはしているのだろう。だが一歩手を前へ進めるたび、床へ広がったままの写真が掌にくっついては剥がれるを繰り返す。汗を掻いた手の下で、印画紙は皺を作り、折れ曲がった。 「このままだと、あっさり部屋にたどり着くぞ」  薄いネルの布越しに尻を蹴飛ばされ、何度かその場へ蛙のように潰れながらも、Mは部屋の外に出た。生徒達は彼の行く手を阻まない。かといって、手を貸したり「こんな事はよくない」と口にするものもいなかったが。  細く長い廊下は一直線で、突き当たりにある手術室までの距離は50メートル程。その気になれば10分も掛からない距離だ。  何とも奇妙な光景が繰り広げられた。一人の男が、黙々と床を這い続ける。その後ろを、20人近い若者が一定の距離を開けてぞろぞろと付いていく。誰も質問をするものはいなかった。ノートに記録を取るものもいなかった。 少し距離を開けたところから、教授は様子を眺めていた。次に起こる事を待ちながら――どういう形にせよ、何かが起こる。これまでの経験から、教授は理解していた。 道のりの半分程まで進んだ頃、青年はそれまでMを見張っていた視線を後ろへ振り向けた。肩が上下するほど大きな息を付き、ねだる様な表情で微笑んで見せる。 「セルゲイ、ラマー、手を貸してくれ。奴を��タートまで引き戻すんだ」  学生達の中でも一際体格の良い二人の男子生徒は、お互いの顔を見合わせた。その口元は緊張で引きつり、目ははっきりと怯えの色に染まっている。 「心配しなくてもいい。さっきも話したが、ここでは何もかもが許される……ぐずぐずするな、単位をやらないぞ」  最後の一言が利いたのかは分からないが、二人はのそのそと中から歩み出てきた。他の学生が顔に浮かべるのは非難であり、同情であり、それでも決して手を出すことはおろか、口を開こうとすらしないのだ。  話を聞いていたMは、必死で手足の動きを早めていた。どんどんと開き始める距離に、青年が再び促せば、結局男子生徒は小走りで後を追う。一人が腕を掴んだとき、Mはまるで弾かれたかのように顔を上げた。その表情は、自らを捕まえた男と同じくらい、固く強張っている。 「頼む」  掠れた声に混ざるのは、間違いなく懇願だった。小さな声は、静寂に満ちた廊下をはっきりと貫き通る。 「頼むから」 「ラマー」  それはしかし、力強い指導者の声にあっけなくかき消されるものだった。意を決した顔で、二人はMの腕を掴み直し、背後へと引きずり始めた。  Mの抵抗は激しかった。出来る限り身を捩り、ギプスのはまった脚を蠢かす。たまたま、固められたグラスファイバーが臑に当たったか、爪が腕を引っ掻いたのだろう。かっと眦をつり上げたセルゲイが、平手でMの頭を叩いた。あっ、と後悔の顔が浮かんだのもつかの間、拘束をふりほどいたMは再び手術室を目指そうと膝を突く。追いかけたラマーに、明確な抑止の気持ちがあったのか、それともただ単に魔が差したのかは分からない。だがギプスを蹴り付ける彼の足は、決して生ぬるい力加減のものではなかった。  その場へ横倒しになり、呻きを上げる敵対性人種を、二人の男子生徒はしばらくの間見つめていた。汗みずくで、時折せわしなく目配せを交わしあっている。やがてどちらともなく、再び仕事へ取りかかろうとしたとき、その足取りは最初と比べて随分とスムーズなものになっていた。  病室の入り口まで連れ戻され、身を丸めるMに、青年がしずしずと歩み寄る。腕時計をこれ見よがしに掲げながら放つ言葉は、あくまでも淡々としたものだった。 「今、キャシーは右腕を失った」  Mは全身を硬直させ、そして弛緩させた。何も語らず、目を伏せたまま、また一からやり直そうと努力を続ける。 不屈の精神。だがそれは青年を面白がらせる役にしか立たなかった。  同じような事が何度も繰り返されるうち、ただの背景でしかなかった生徒達に動きが見え始めた。  最初のうちは、一番に手助けを求められた男子生徒達がちょっかいをかける程度だった。足を掴んだり、行く手を塞いだり。ある程度進めばまた病室まで引きずっていく。そのうち連れ戻す役割に、数人が関わるようになった。そうなると、全員が共犯者になるまで時間が掛からない。  やがて、誰かが声を上げた。 「このスパイ」  つられて、一人の女子生徒がMを指さした。 「この男は、私たちの国を滅ぼそうとしているのよ」 「悪魔、けだもの!」  糾弾は、ほとんど悲鳴に近い音程で迸った。 「私の叔母は、戦争中こいつの国の人間に犯されて殺された! まだたった12歳だったのに!」  生徒達の目の焦点が絞られる。  病室へ駆け込んだ一人が戻ってきたとき手にしていたのは、ピンク色のコスモスを差した重たげな花瓶だった。花を引き抜くと、その白く分厚い瀬戸物を、Mの頭上で逆さまにする。見る見るうちに汚れた冷水が髪を濡らし、パジャマをぐっしょり背中へと張り付かせる様へ、さすがに一同が息を飲む。  さて、どうなることやら。教授は一歩離れた場所から、その光景を見守っていた。  幸い、杞憂は杞憂のままで終わる。すぐさま、どっと歓声が弾けたからだ。笑いは伝染する。誰か一人が声を発すれば、皆が真似をする。免罪符を手に入れたと思い込む。  そうなれば、後は野蛮で未熟な度胸試しの世界になった。 殴る、蹴るは当たり前に行われた。直接手を出さない者も、もう目を逸らしたり、及び腰になる必要はない。鋏がパジャマを切り裂き、無造作に掴まれた髪を黒い束へと変えていく様子を、炯々と目を光らせて眺めていられるのだ。 「まあ、素敵な格好ですこと」  また嘲笑がさざ波のように広がる。その発作が収まる隙を縫って、時折腕時計を見つめたままの青年が冷静に告げる。「今、左脚が失われた」  Mは殆ど抵抗しなかった。噛みしめ過ぎて破れた唇から血を流し、目尻に玉の涙を浮かべながら。彼は利口だから、既に気付いていたのだろう。まさぐったギプスに頼みの暗器がない事にも、Cの命が彼らの機嫌一つで簡単に失われるという事も――その経験と知識と理性により、がんじがらめにされた思考が辿り着く結論は、一つしかない――手術室を目指せ。  まだ、この男は意志を折ってはいない。作戦本部へ忍び込もうとして捕らえられた時と、何一つ変わっていない。教授は顎を撫で、青年を見遣った。彼はこのまま、稚拙な狂乱に全てを任せるつもりなのだろうか。  罵りはやし立てる声はますます激しくなった。上擦った声の多重奏は狭い廊下を跳ね回っては、甲高く不気味な音程へと姿を変え戻ってくる。 短くなった髪を手綱のように掴まれ、顎を逸らされるうち、呼吸が続かなくなったのだろう。強い拒絶の仕草で、Mの首が振られる。彼の背中へ馬乗りになり、尻を叩いていた女子学生達が、体勢を崩して小さく悲鳴を上げた。 「このクズに思い知らせてやれ」  仕置きとばかりに脇腹へ爪先を蹴込んだ男子生徒が、罵声をとどろかせた。 「自分の身分を思い知らせろ、大声を上げて泣かせてやれ」  津波のような足音が、身を硬直させる囚人に殺到する。その体躯を高々と掲げ上げた一人が、青年に向かって声を張り上げた。 「便所はどこですか」  指で示しながら、青年は口を開いた。 「今、鼻が削ぎ落とされた」  天井すれすれの位置まで持ち上げられた瞬間、全身に張り巡らされた筋肉の緊張と抵抗が、ふっと抜ける。力を無くした四肢は生徒達の興奮の波に合わせてぶらぶらと揺れるが、その事実に気付いたのは教授と、恐らく青年しかいないようだった。  びしょ濡れで、破れた服を痣だらけで、見るも惨めな存在。仰向けのまま、蛍光灯の白々とした光に全身を晒し、その輪郭は柔らかくぼやけて見えた。逸らされた喉元が震え、虚ろな目はもう、ここではないどこかをさまよってる――あるいは閉じこもったのだろうか?  一つの固い意志で身を満たす人間は、荘厳で、純化される。まるで死のように――教授が想像したのは、『ハムレット』の終幕で、栄光を授けられ、兵達に運び出されるデンマーク王子の亡骸だった。  実際のところ、彼は気高い王子ではなく、物語がここで終わる訳でもないのだが。  男子トイレから上がるはしゃいだ声が熱を帯び始めた頃、スラックスのポケットでスマートフォンが振動する。発信者を確認した教授は、一度深呼吸をし、それから妻の名前を呼んだ。 「どうしたんだい、お義父さんの容態が変わった?」 「それは大丈夫」  妻の声は相変わらず、よく着こなされた毛糸のセーターのように柔らかで、温かかった。特に差し向かいで話をしていない時、その傾向は顕著になる。 「あのね、自転車の事なんだけれど、いつぐらいに着くのかしら」  スピーカーを手で押さえながら、教授は壁に寄りかかってスマートフォンを弄っていた青年に向かって叫んだ。 「君の友達は、マウンテンバイクの到着日時を指定したって言っていたか」 「いえ」 「もしもし、多分来週の頭くらいには配送されると思うよ」 「困ったわ、来週は婦人会とか読書会とか、家を空けるのよ」 「私がいるから受け取っておく、心配しないでいい。何なら再配達して貰えば良いし」 「そうね、サプライズがばれなければ」 「子供達は元気にしてるかい」 「変わらずよ。来週の休暇で、貴方とサッカーの試合を観に行くのを楽しみにしてる」 「そうだった。君はゆっくり骨休めをするといいよ……そういえば、さっきの包装の事だけれど、わざわざ紙で包まなくても、ハンドルにリボンでも付けておけばいいんじゃないかな」 「でも、もうさっき玩具屋で包装紙を買っちゃったのよ!」 「なら、それで箱を包んで……誕生日まで隠しておけるところは? クローゼットには入らないか」 「今物置を片づけてるんだけど、貴方の荷物には手を付けられないから、帰ったら見てくれる?」 「分かった」 「そっちで無理をしないでね……ねえ、今どこにいるの? 人の悲鳴が聞こえたわ」 「生徒達が騒いでるんだよ。皆研修旅行ではしゃいでるから……明日は一日、勉強を休んで遊園地だし」 「貴方も一緒になって羽目を外さないで、彼がお目付け役で付いていってくれて一安心だわ……」 「みんないい子にしてるさ。もう行かないと。愛してるよ、土産を買って帰るからね」 「私も愛してるわ、貴方」  通話を終えたとき、また廊下の向こうで青年がニヤニヤ笑いを浮かべているものかと思っていたが――既に彼は、職務に戻っていた。  頭から便器へ突っ込まれたか、小便でも掛けられたか、連れ戻されたMは床へぐったり横たわり、激しく噎せ続けていた。昼に食べた病院食は既に吐き出したのか、今彼が口から絶え間なく溢れさせているのは黄色っぽい胃液だけだった。床の上をじわじわと広がるすえた臭いの液体に、横顔や髪がべったりと汚される。 「うわ、汚い」 「こいつ、下からも漏らしてるぞ」  自らがしでかした行為の結果であるにも関わらず、心底嫌悪に満ちた声がそこかしこから上がる。 「早く動けよ」  どれだけ蔑みの言葉を投げつけられ、汚れた靴で蹴られようとも、もうMはその場に横たわったきり決して動こうとしなかった。頑なに閉じる事で薄い瞼と長い睫を震わせ、力の抜けきった肉体を冷たい床へと投げ出している。  糸の切れた操り人形のようなMの元へ、青年が近付いたのはそのときのことだった。枕元にしゃがみ込み、指先でこつこつと腕時計の文字盤を叩いてみせる。 「あんたはもう、神に身を委ねるつもりなんだな」  噤まれた口などお構いなしに、話は続けられる。まるで眠りに落ちようとしている息子へ、優しく語り掛ける母のように。 「彼女はもう、手足もなく、目も見えず耳も聞こえない、今頃舌も切り取られただろう……生きる屍だ。これ以上、彼女を生かすのはあまりにも残酷過ぎる……だからこのまま、手術が進み、彼女の肉体が耐えられなくなり、天に召されるのを待とうとしているんだな」  Mは是とも否とも答えなかい。ただ微かに顔を背け、眉間にきつく皺を寄せたのが肯定の証だった。 「俺は手術室に連絡を入れた。手術を中断するようにと。これでもう、終わりだ。彼女は念入りに手当されて、生かされるだろう。彼女は強い。生き続ければ、いつかはあんたに会えると、自分の存在があんたを生かし続けると信じているからだ。例え病もうとも、健やかであろうとも……彼女はあんたを待っていると、俺は思う」  Mの唇がゆっくりと開き、それから固まる。何かを、言おうと思ったのだろう。まるで痙攣を起こしたように顎ががくがくと震え、小粒なエナメル質がカチカチと音を立てる。今にも舌を噛みそうだった。青年は顔を近付け、吐息に混じる潰れた声へ耳を傾けた。 「彼女を……彼女を、助けてやってくれ。早く殺してやってくれ」 「だめだ。それは俺の仕事じゃない」  ぴしゃりと哀願をはねのけると、青年は腰を上げた。 「それはあんたの仕事だ。手術室にはメスも、薬もある。あんたがそうしたいのなら、彼女を楽にしてやれ。俺は止めはしない」  Mはそれ以上の話を聞こうとしなかった。失われていた力が漲る。傷ついた体は再び床を這い始めた。  それまで黙って様子を見守っていた生徒達が、顎をしゃくって見せた青年の合図に再び殺到する。無力な腕に、脚に、襟首に、胴に、絡み付くかのごとく手が伸ばされる。  今度こそMは、全身の力を使って体を突っ張らせ、もがき、声を限りに叫んだ。生徒達が望んでいたように。獣のような咆哮が、耳を聾する。 「やめてくれ……行かせてくれ!! 頼む、お願いだ、お願いだから!!」 「俺達の国の人間は、もっと酷い目に遭ったぞ」  それはだが、やがて生徒達の狂躁的な笑い声に飲み込まれる。引きずられる体は、病室を通り過ぎ、廊下を曲がり、そして、とうとう見えなくなった。Mの血を吐くような叫びだけが、いつまでも、いつまでも聞こえ続けていた。  再びMの姿が教授の前へと現れるまで、30分程掛かっただろうか。もう彼を邪魔するものは居なかった。時々小馬鹿にしたような罵声が投げかけられるだけで。  力の入らない手足を叱咤し、がくがくと震わせながら、それでもMは這い続けた。彼はもう、前を見ようとしなかった。ただ自分の手元を凝視し、一歩一歩、渾身の力を振り絞って歩みを進めていく。割れた花瓶の破片が掌に刺さっても、顔をしかめる事すらしない。全ての表情はすっぽりと抜け落ち、顔は仮面のように、限りなく端正な無表情を保っていた。まるで精巧なからくり人形の、動作訓練を行っているかのようだった。彼が人間であることを示す、手から溢れた薄い血の痕が、ビニールの床へ長い線を描いている。  その後ろを、生徒達は呆けたような顔でのろのろと追った。髪がめちゃくちゃに逆立っているものもいれば、ネクタイを失ったものもいる。一様に疲れ果て、後はただ緩慢に、事の成り行きを見守っていた。  やがて、汚れ果てた身体は、手術室にたどり着いた。  伸ばされた手が、白い扉とドアノブに赤黒い模様を刻む。全身でぶつかるようにしてドアを押し開け、そのままその場へ倒れ込んだ。  身を起こした時、彼はすぐに気が付いたはずだ。  その部屋が無人だと。  手術など、最初から行われていなかったと。  自らが犯した、取り返しの付かない過ちと、どれだけ足掻いても決して変えることの出来なかった運命を。 「彼女は手術を施された」  入り口に寄りかかり、口を開いた青年の声が、空っぽの室内に涼々と広がる。 「彼女はあんたに会いたがっていた。あんたを待っていた。それは過去の話だ」  血と汗と唾液と、数え切れない程の汚物にまみれた頭を掴んでぐっと持ち上げ、叱責は畳みかけられる。 「彼女は最後まで、あんたを助けてくれと懇願し続けた。半年前、この病院へ放り込まれても、あんたに会おうと這いずり回って何度も逃げ出そうとした。もちろん、ここがどんな場所かすぐに気付いたよ。だがどれだけ宥めても、あんたと同じところに返してくれの一点張りだ。愛情深く、誇り高い、立派な女性だな。涙なしには見られなかった」  丸く開かれたMの口から、ぜいぜいと息とも声とも付かない音が漏れるのは、固まって鼻孔を塞ぐ血のせいだけではないのだろう。それでも青年は、髪を握る手を離さなかった。 「だから俺達は、彼女の望みを叶えてやった。あんたと共にありたいという望みをな……ステーキは美味かったか? スープは最後の一匙まで飲み干したか? 彼女は今頃、どこかの病院のベッドの上で喜んでいるはずだ。あんたと二度と離れなくなっただけじゃない。自分の肉体が、これだけの責め苦に耐えられる程の健康さをあんたに取り戻させたんだからな」  全身を震わせ、Mは嘔吐した。もう胃の中には何も残っていないにも関わらず。髪がぶちぶちと引きちぎられることなどお構いなしで俯き、背中を丸めながら。 「吐くんじゃない。彼女を拒絶するつもりか」  最後に一際大きく喉が震えたのを確認してから、ぱっと手が離される。 「どれだけ彼女を悲しませたら、気が済むんだ」  Mがもう、それ以上の責め苦を与えられる事はなかった。白目を剥いた顔は吐瀉物――に埋まり、ぴくりとも動かない。もうしばらく、彼が意識を取り戻すことはないだろう――なんなら、永遠に取り戻したくはないと思っているかもしれない。 「彼はこの後すぐ麻酔を打たれ、死体袋に詰め込まれて移送される……所属する組織の故国へか、彼の父の生まれ故郷か、どこ行きの飛行機が手頃かによるが……またどこかの街角へ置き去りにされるだろう」  ドアに鍵を掛け、青年は立ち尽くす生徒達に語り掛けた。 「君達は、俺が随分ひどい仕打ちをしでかしたと思っているだろう。だが、あの男はスパイだ。彼が基地への潜入の際撃ち殺した守衛には、二人の幼い子供達と、身重の妻がいる……これは君達への気休めに言ってるんじゃない。彼を生かし続け、このまま他の諜報員達に甘い顔をさせていたら、それだけ未亡人と父無し子が増え続けるってことだ」  今になって泣いている女子生徒も、壁に肩を押しつけることで辛うじてその場へ立っている男子生徒も、同じ静謐な目が捉え、慰撫していく。 「君達は、12歳の少女が犯されて殺される可能性を根絶するため、ありとあらゆる手段を用いることが許される。それだけ頭に入れておけばいい」  生徒達はぼんやりと、青年の顔を見つめていた。何の感情も表さず、ただ見つめ続けていた。  この辺りが潮時だ。ぽんぽんと手を叩き、教授は沈黙に割って入った。 「さあ、今日はここまでにしよう。バスに戻って。レポートの提出日は休み明け最初の講義だ」  普段と代わり映えのしない教授の声は、生徒達を一気に現実へ引き戻した。目をぱちぱちとさせたり、ぐったりと頭を振ったり。まだ片足は興奮の坩堝へ突っ込んでいると言え、彼らはとろとろとした歩みで動き出した。 「明日に備えてよく食べ、よく眠りなさい。遊園地で居眠りするのはもったいないぞ」  従順な家畜のように去っていく中から、まだひそひそ話をする余力を残していた一人が呟く。 「すごかったな」   白衣を受付に返し、馴染みの医師と立ち話をしている間も、青年は辛抱強く教授の後ろで控えていた。その視線が余りにも雄弁なので、あまりじらすのも忍びなくなってくる――結局のところ、彼は自らの手中にある人間へ大いに甘いのだ。 「若干芝居掛かっていたとは言え、大したものだ」  まだ敵と対決する時に浮かべるのと同じ、緊張の片鱗を残していた頬が、その一言で緩む。 「ありがとうございます」 「立案から実行までも迅速でスムーズに進めたし、囚人の扱いも文句のつけようがない。そして、学生達への接し方と御し方は実に見事なものだ。普段からこまめに交流を深めていた賜だな」 「そう言って頂けたら、報われました」  事実、彼の努力は報われるだろう。教授の書く作戦本部への推薦状という形で。  青年は教授の隣に並んで歩き出した。期待で星のように目を輝かせ、胸を張りながら。意欲も、才能も、未来もある若者。自らが手塩にかけて全てを教え込み、誇りを持って送り出す事の出来る弟子。  彼が近いうちに自らの元を去るのだと、今になってまざまざ実感する。 「Mはどこに棄てられるんでしょうね。きっとここからずっと離れた、遙か遠い場所へ……」  今ほど愛する者の元へ帰りたいと思ったことは、これまで一度もなかった。  終
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groyanderson · 4 years
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ひとみに映る影 第四話「忘れられた観音寺」
☆プロトタイプ版☆ こちらは無料公開のプロトタイプ版となります。 段落とか誤字とか色々とグッチャグチャなのでご了承下さい。 書籍版では戦闘シーンとかゴアシーンとかマシマシで挿絵も書いたから買ってえええぇぇ!!! →→→☆ここから買おう☆←←← (あらすじ) 私は紅一美。影を操る不思議な力を持った、ちょっと霊感の強いファッションモデルだ。 ある事件で殺された人の霊を探していたら……犯人と私の過去が繋がっていた!? 暗躍する謎の怪異、明らかになっていく真実、失われた記憶。 このままでは地獄の怨霊達が世界に放たれてしまう! 命を弄ぶ邪道を倒すため、いま憤怒の炎が覚醒する!
(※全部内容は一緒です。) pixiv版
 ◆◆◆
 石筵霊山きっての心霊スポット、通称『怪人屋敷』。 表から見えるそれは、小さなはめ殺し窓が幾つかあるだけの灰色の廃屋で、さながら要塞のように霊山来訪者を威圧する。 でもエントランスに入ると、意外と明るくて開放感がある。 北側がガラス張りになっていて、外の車道から街灯のオレンジ光が射し込んでいるからだ。 そのコントラストはまるで、世間の物々しい噂と私の楽しかった思い出のギャップを象徴しているようだった。
 C字型の合皮張りソファで囲まれたローテーブルに、譲司さんはスマホを立てかけた。 煌々と輝く画面内には、翼の生えた赤いヤギが浮遊している。  「やあ、アンリウェッサ。何度もすまないね」 スピーカーから、男性的な口調のヤギの声が流れた。でもその声は人間の女の子みたいだった。 アンリウェッサとは、NIC内で使われる譲司さんのコードネームだ。 このヤギさんはNIC関係者なんだろう。  「姿を変えられたとはさっき伺いましたが…性別どころか、人間ですらなかったんですか」 譲司さんは分厚い眼鏡をつまんで画面を凝視した。
 「この方、お知り合いですか?」 私は画面を見たまま尋ねた。  「はい。彼はNIC元幹部のハイセポスさんです。 あの時中東支部でサミュエルに殺害された一人で…ほら、オリベ。キッズルームのガブリエルお兄さんや」  <ああ!もちろん覚えてるわ! 人を騙す脳力を持った、イタズラ好きの嘘つき先生ね!> 情報をまとめるとつまり、ハイセポス元幹部は本名ガブリエルさん、 中東支部でサミュエルに殺害された被害者で、キッズルームの養護教諭の一人だったらしい。 ハイセポス元幹部はにっこり微笑むと一瞬発光して、恐らく生前の姿であろう、人間の男性に変身した。  「やあ、オリベにジャックも久しぶりだね」 本当の彼は、きりっと賢そうな三白眼を持つ、小柄な黒人さんだった。
 「ハイセポス元幹部は、さっき俺とポメが新幹線に乗っとった時に電話をくれたんや。 ファティマンドラのアンダーソン氏がジャックを目覚めさせた事とか、さっくり教えてくれはってな」  「それでさっき、皆して一美がアンダーソンと会ったって話に飛びついてきたのね」 私の影でくつろいでいたリナが、胸から上だけ出てきて話題に参加した。  「それで、ご用件は何でしょうか」 譲司さんが改めて伺う。
 「ああ。すまないが、僕はアンリウェッサの補佐として、ずっとこの端末から君達を監視させて貰っていた。 そこでどうしても確認したい事を聞いてしまって。質問してもいいかな…ミス・クレナイ」 え、私?  「な…何ですか?」
 「君はさっきから、この石筵に観音寺があると話しているね」  「はい。私が小さい頃、和尚様と住んでいたお寺さんです」  「その和尚の名を教えてくれるかい?」  「いいですよ。和尚様のお名前は…」 あれ?
 「その観音寺はどこにあるのかい?」  「あ、はい。ここからすぐ近くですよ。 外に出て、丁字路を右…いや、左…」 あれ?え!?
 「ヒトミちゃん?」 イナちゃんが訝しげに私の顔を覗きこむ。 おかしい、有り得ない。そんなはずはない。 観音寺と、和尚様に関する記憶が…ほとんど思い出せないなんて!  「ちょっと待ってください。忘れるはずないんです。 だって、最後に会ったのは上京する直前…」 いや、違う。
 『ひーちゃん、和尚様は今いないから、私がお土産を渡しておくね』 私の脳裏に、ファティマンドラの安徳森さんと出会った日の、萩姫様の言葉がよぎる。 そうだ。あの日は会えなかったんだっけ。 だから最後に会ったのは、玲蘭ちゃんとハゼコちゃんの事件の時…中学一年生。 中学時代に会っているんだから、せめて和尚様の顔ぐらいは…顔ぐらいは…顔は…
 ハイセポスさんはばつが悪そうに顎を引いた。  「ミス・クレナイ。とても言い難いんだが、石筵に観音寺はないんだよ」 観音寺が、ない?  「ああ…なくなっちゃったんですか?跡継ぎ不足とかで…」  「違うんだ。ないんだよ。 …そんな寺は、この地に歴史上一度も存在していなかったんだ」 そんな…  「そんな、バカ���!」
 画面から顔を上げると、みんな私を怪訝そうに見ている。 リナはまた私の影に引きこもった。  「ち…違うんです、観音寺は本当にあったんです! だって現に、私は怪人屋敷の中に入った事があるし…あ!」 そ、そうか!オリベちゃんはさっき、ハイセポスさんを『人を騙す脳力を持つイタズラ好き』って言ってたじゃないか。  「な…なーんだ!ハイセポスさん、ドッキリはやめて下さいよ! そりゃあ私は『したたび』でいつも騙されてますけど、あれはテレビの演出でして…」  「嘘だと思うなら、探してみるといい。 すぐ近くなんだろう」
 ◆◆◆
 私は咄嗟にイナちゃんの手を引いて、怪人屋敷を飛び出した。辺りは既に暗くなっている。 灯りが必要だ。私は二人分の足元の影を右手の中に集めた。 影が圧縮されて行き場を失った光源を親指と人差し指で作った輪に閉じ込めると、『影灯籠(かげどうろう)』という簡易懐中電灯になるんだ。 なにかと便利なこのテクニックを教えて下さったのだって、和尚様だったはずなのに…。
 「イナちゃんは、信じてくれるよね?」 山道のぼうぼうの草を蹴りながら私は独りごちた。  「色んな事を教えてもらったんだよ。 知ってる?チベット仏教の本尊は観音菩薩様なんだよ。 だから観音菩薩様は、タルパとか人工霊魂も、ちゃんと救済して下さるんだ」 足元でバッタが一匹逃げた。
 「ヒトミちゃん…帰ろうヨ…」 振り返ると、イナちゃんは寒そうに肩を狭めていた。 早くお寺を見つけなきゃ。お蕎麦屋さんの予約時間も近づいている。  「ねえちょっと、一美…」 影灯籠からリナが滑り落ちる。  「あんまり気が進まないけど、この際だから言うわ。あんたの和尚は…」「真言だって!」 私は苛立って声を荒らげてしまった。  「…ちゃんと言えるもん。オム・マニ・パドメ・フム…」
 「ヒトミちゃん」  「念彼観音力、火坑変成池(観音様に念じれば、火の海は池に変わり)… 念彼観音力、波浪不能没(観音様に念じれば、溺れて沈むことはない)…」
 リナは私から離れ、イナちゃんの影に宿った。 私は足を泥だらけにして彷徨った。 何だか泣けてくる。でも両目から滲み出た涙は、すかさず乱暴な北風に掠め取られる。 もうリナとイナちゃんはついてきていない。
 「オム・マニ・パドメ・フム…オム・マニ・パドメ・フム…」 夜の山の寒さと焦りも、私をあざ笑っている。
 「オム・マニ・パドメ・フム…」 真言を繰り返す度に、思い出とか、影とか、自分の色々な物が剥がれていく。
 「オム・マニ・パドメ…あ」
 我に返って見ると、手から滴り落ちた影は一筋の線になって、私達の行くべき道を示していた。  「ほら…私、ちゃんと覚えてたでしょ?」 私は再びイナちゃんの手をとって、影が示す方向へ進んだ。
 ◆◆◆
 影の糸を回収しながら進むと、私達は怪人屋敷に戻っていた。 いや、糸の先端は…怪人屋敷に隣接する、ガレージの入口で途絶えているみたいだ。
 ガレージのシャッターはやすやすと持ち上がった。鍵がかかっていなかったんだ。 背後の街灯に中が照らされると、カビ臭い砂塵が舞い上がり、コウモリや蛾がパニックを起こして飛び出してきた。 街灯の光が行き渡るようにガレージ内の影を調節すると、そこには…
 「なに、これ…」 そこにあったのは、床に敷かれたままの小さな花柄の布団。錆びついたグルカナイフ。薪と木炭。鍋。 山積みの『安達太良日報』1994年刷。どこかの斎場のタオル。塩。干し柿。干しキノコ。干しイナゴ。 誰かがここで生活していた跡のようだ。何故かすごく懐かしい感じがする。
 壁に光を当てると、おびただしい枚数の半紙が貼られている。 写経、手描きのマンダラ、チベット守護梵字、真言、女の子と観音菩薩様が仲良く焚き火を囲う絵。 そして、それらに囲まれたガレージの中央最奥には、私の背より少しだけ大きな何かが、白い布で覆われていた。
 「ヒトミちゃん、ここ怖いヨ」 イナちゃんがガレージの入口から囁いた。  「怖い?なんでかな。あ、コウモリならもういないみたいだよ」 私は天井を照らしてみせた。でも、イナちゃんはまだ萎縮している。  「出てきて、ヒトミちゃん。ここやだヨ」 どうしてそんなに怯えてるんだろう。  「平気だよ!だってここは…ここは私が住んでた観音寺だもん!」
 私は壁の半紙を幾つか剥がして、イナちゃんに差し出した。  「ほら、これ。和尚様に書道を教わってたの。 凄いでしょ、幼稚園生でこんな難しい漢字書いてたんだよ! だから私、今でも字の綺麗さには自信があるんだ」 半紙を一枚ずつ丁寧にめくって見せる。『念彼観音力』『煩悩即菩提』、どれも仏教的な文章だ。  「なーんて、本当はね、影絵で和尚様の本を写しながら書くから、こんなに上手く書けてたんだけどね」 『而二不二』『(梵字の真言)』『(マンダラ)』『金剛愛輪珠』…  「オモナアァッ!!」 突然イナちゃんが後ずさった。 手元の半紙を見ると、書かれていた文字は… いや、これは…アルファベットの『E』と『十』の字に似た、記号… どうしてイナちゃんの手相がここに…?
 「イナ?紅さん?」 怪人屋敷から皆が集まってきた。 イナちゃんはリナと抱き合い、震えている。 皆もそんなイナちゃんの怯えた様子を見て、不穏な表情になった。  「だ…大丈夫だってば!そ、そうだ! 観音菩薩様の御本尊を見てもらえば、きっと怖くなくなるよね! すごく優しいお顔なんだよ。ほら!」 私はガレージ最奥の観音像にかかった白い布を、思いっきり引き剥がした。
 「あぃぎいぃぃやああああああああ!!!!!」 隣の安達太良山にまで響くほどの声で、イナちゃんが絶叫した。
 「え…?」 イナちゃんは白目を剥き、口の両端から泡を吹き出して倒れた。  「ガウ!ギャンッギャン!!」 歯茎を見せて吠えるポメラー子ちゃんの横で、オリベちゃんと譲司さんは腰を抜かしている。 するうちジャックさんが気絶したイナちゃんに取り憑き、殺人鬼や暴力団も泣いて逃げ出すような形相で私の胸ぐらを掴んだ。
 「テメェ馬鹿野郎!!この子になんて物見せてやがる!!!」 え…なに言ってるの、ジャックさん?  「ううっ…うっ…」<ヒトミちゃん、そ…それ、隠して…!> 嗚咽しながらオリベちゃんがテレパシーを送る。 私は真横にある観音像を見た。 金色の装飾品に彩られた、木彫りの…
 「は?」 私は真横にある観音像を見た。 それは全身の皮膚を剥がされ、金色の装飾品に彩られた、即身仏のミイラだった。
 ◆◆◆
 「なに…これ…」 私は一瞬、目の前にある物が何だかよくわからなかった。 変な話、スルメイカやショルダーハムでできた精巧な人体模型がお袈裟を着てネックレスをしているような、 それぐらい意味不明でアンバランスな物体に見えた。
 <と、ともかく…公安局に連絡を! さっきのファティマンドラの件もあるし…> 腰を抜かしたままのオリベちゃんが、譲司さんを揺さぶって電話を促す。  「あ…ああ!せやな!C案件対策班に…」  「やめてください!」  「<え?>」
 私は気がつくと叫んでいた。  「つ…通報はやめてください!だ、だって…」 だって、何なのか?自分でもわからない。 ただ、ここが警察に暴かれてしまったら、何かとてつもない物を失ってしまうような気がして。
 「何言ってやがる…。ここに変死体があるんだぞ! 花生やして腐ったミンチどころじゃねえ、マジの死体がだ!!」 ジャックさんがイナちゃんの身体で私を責める。  「ち…ち…違います!観音様を変死体だなんて、罰当たりな事言わないで下さい!! これは…この人は…このしどわあぁぁ…!」 嗚咽で言葉が出てこない。もう、本当はわかってるんだ。 この即身仏は…私の…和尚様なんだ。
 混乱と涙とガレージ内のハウスダストと鼻水で、私は身も心もぐしゃぐしゃになっていた。 皆はまだ何か怒鳴ったり喚いたりしているみたいだけど、もう何もわからない。 私はただ、冷たい和尚様の足元にすがりついてひたすら泣いた。
 「ジャック、もうええやん。やめよう」 すると譲司さんがガレージに入ってきて、私の髪を掴んで逆上していたジャックさんを宥めた。  「紅さん、わかりました。通報は後でにします。 その前に…紅さんの和尚様に、ご挨拶させて下さい」 彼は私の頬を優しく指で拭い、小さい子に向けるような微笑みで言った。 そして和尚様の前に立つと、うやうやしく一礼し、  「失礼します」と呟いて、合掌されている和尚様の両手にそっと触れた。
 譲司さんはそのまましばらく静止する。和尚様の記憶を、読んでいるみたいだ。  <ジョージ…> オリベちゃんがまたテレパシーによる視界共有を提案しようとする。 でも譲司さんは視線でそれを断って、  「紅さん」 私に握手を求める仕草をした。
 「行きなさい」 リナが私を促す。  「私も知らない真実。ちゃんとぜんぶ見届けるのよ」 私は頷いて、譲司さんの手を握る。 そのまま影移しで譲司さんの影に意識を溶け込ませ、彼と同じ視界へ飛んだ。
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 ザリザリザリ…ザザザ…。視覚と聴覚を覆う青黒い縞模様とノイズ音が晴れていくと、目の前が病院の病棟内のような風景になった。 VHSじみた安徳森さんの時と違って、前後左右を自由に見ることができる。
 「ずいぶん鮮明な記憶ですね」 気がつくと隣で、ノイズがかった譲司さんが私と手を繋いで立っていた。 今、私は彼の影だ。  「和尚様は、どこでしょうか…?」 辺りを見渡すと、昼間なのに全ての病室のドアが閉まっている。 案内板を見るに、ここは精神科の閉鎖病棟らしい。 ふと、私ば病室の一つから強い霊的な電磁波を察知した。  「譲司さん」  「そこですよね」 彼も同じ部屋にダウジングが反応したみたいだ。 ただ、空気で物を感知する彼が気付いた事は霊ではなかったらしい。 彼は『水家曽良 様』と書かれたドアプレートを指さしていた。
 意識体の私達は幽霊のように病室のドアをすり抜ける。 中にいたのはベッドに横たわるサミュエルこと水家曽良と、彼を見下ろす二人の霊魂だ。 私から見て左側の霊は、すらっとした赤い僧衣の男性。 顔は指でこすった水彩画のようにぼやけていて、よく見えない。 一方右の霊は、顔と股間の部分だけくり抜いた人間の皮膚を肉襦袢のように着ている、不気味な煤煙だ。 水家曽良はまだ子供の姿。日本国籍を得て間もない頃なんだろう。
 「この子の才能は実に惜しい物だった」 肉襦袢の霊が言う。喋り方は若々しいけど、声はおじいさんみたいだ。  「タルパはそう誰でも創造できる物ではない。 まして彼は、我々が与えた『なぶろく』のエーテル法具をも使いこなした。 それを享楽殺人の怪物を生み出すために使った挙句、浅ましい精神外科医共に脳力を摘出されるとは。 この子に金剛の朝日は未来永劫訪れないだろう」 なぶろく?と聞こえた箇所だけ意味はわからなかったけど、 どうやら彼は水家に何らかの力を与えた霊魂らしい。  「エーテル法具…NICで聞いた事があります。 エクトプラズム粒子を含んだ何らかのタンパク質塊、 人間の脳を覚醒させて特殊脳力を呼び覚ます、オーバーテクノロジー…」 譲司さんはそれに何か心当たりがあるようだ。
 「ともかく、これ以上損失を出す前に、彼の魂を楽園へ送るのは諦めましょう。 彼はまだ子供ですが、余りにも残虐すぎました」 赤僧衣の霊が、隣の肉襦袢の霊の顔色を窺うように言う。まだいまいち話が見えない。  「その通りだ。しかし、私達もただで金剛の地に帰るわけにはいくまい」
 すると肉襦袢は、眠っている水家の鼻に指を突っ込んだ。  「フコッ」 水家が苦しそうな声を発する。彼の耳から水っぽい液体が垂れ、頭の中で何かがクチャクチャと動き回る音がする。 でも水家は意識がないのか、はたまた金縛りに遭っているのか、微動だにしない。 やがて肉襦袢が鼻から指を引き抜くと、その指先には、薄茶色い粘液でつやつやと輝くタコ糸のような紐が五十センチほど垂れていた。  「どうなさるおつもりですか」 心配そうに赤僧衣が問う。 肉襦袢は紐を丁寧に折りたたむと、水家の病室から去っていった。 私達と赤僧衣は彼を追いかける。
 肉襦袢は渡り廊下���通って、違う病棟に移動した。 彼が立ち止まったのは、新生児のベッドが並ぶ、ガラス張りのベビールームだった。 彼は室内に入り、生まれたばかりの赤ちゃん達の顔を一人ずつ覗いていく。 そして、壁際から五番目の赤ちゃんの前でぴたりと静止した。
 「見なさい。この子だ」 肉襦袢は赤僧衣に手招きする。 赤僧衣は赤ちゃんを見ると、感嘆のため息をついた。  「この子の顔の周りだけ、不自然に影で覆われているだろう。 天井の光が金剛のように眩しくて、無意識に影を作っているんだ。これは影法師という珍しい霊能力だ。 この子は金剛級に強い素質を持っている」 安らかな顔で眠る赤ちゃんの頭上で、肉襦袢が興奮気味に語る。 あれ、そういえば…
 「譲司さん。水家曽良が日本に来たのって、具体的にいつなんですか?」  「日付までは覚えとりませんが…たぶん、1990年の十一月上旬です。 俺日本の家に引き取られて最初の行事が弟の七五三やったんで」 1990年十一月、影法師使いの赤ちゃん…偶然か? 私の生年月日は1990年十一月六日だ。 まさかここ、石川町の東北総合病院じゃないよね?違うよね!? そんな不穏な想像が脳内で回っている一方、肉襦袢は目を疑うような行動に出た。
「金剛の力は金剛の如く清き者が授かるべきだ」 肉襦袢はさっき水家から引き出した糸を広げると、その先端を…赤ちゃんの口に含ませた! チュプ、チュプ、チュパ…ファーストキスどころか、まだお母さんのおっぱいすら咥えた事もない新生児は、本能的に糸を飲み込んでいく!  「ほら、こんなに喜んでいるだろう」  「そ…そう…ですね…」 表情の見えない赤僧衣も露骨にドン引きしている。 譲司さんが真っ青を通り越して白塗りみたいな顔色で私を見た。  「あ、あの…紅さん、一旦止めま」「譲司さんうるさい!!」「アハイすいませェェン!!!」 背中から火が出そうだ。
 永劫にも思える時間をかけて、赤ちゃんは糸を全て飲み込んでしまった。  「これでこの子はタルパの法力を得た!」 肉襦袢が人皮の手で拍手する。  「失礼ですが如来、一度穢れた者の法具を赤子に与えるのは、この子の人生に悪いのでは…?」 如来?如来って言った今!?この赤僧衣、如来って言ったの!? こんなエド・ゲインみたいな格好したモヤモヤの外道が如来!?有り得ない有り得ない有り得ない!!
 如来と呼ばれた肉襦袢はキッと赤僧衣の方を向いた。  「ではどうしろと?サミュエル・ミラーの死後霊魂を収穫する価値がなくなったと確定した今、 これ以上金剛の楽園に損失を出してはならないだろうが!」  「ですが…「くどいっ!!」 事情を知らない私にも赤僧衣の言っている事は正論だとわかるが、彼は肉襦袢に逆らえないようだ。
 「よかろう。お前がそこまでこの子の神聖を危惧するなら、この子に金剛の守護霊を与えてやろう」 肉襦袢は赤ちゃんの胸に煤煙の指を沈めた。  「な…待って下さい!肋骨なら、私の骨を!」 肋骨?  「ええい、既に『なぶろく』を捧げたお前に何の法力が残っているというのか?出涸らしめ! 『ろくくさびのひりゅう』は金剛の霊能力を持つ者の肋骨でなければ作れん!」 肉襦袢はわけのわからない専門用語を喚きながら、赤ちゃんの胸の中で… うそ、まさか!?  「この赤子に金剛の有明あれーーッ!」
 プチン!
 まるで爪楊枝でも折ったようなくぐもった軽い音がした後、  「ニイィィィーーーギャアァァアアアアァア!!!!!」 赤ちゃんは未経験の恐怖と激痛で雄叫びを上げた。  「みぎゃーーっ!」「あーーーん!」釣られて他の赤ちゃん達も阿鼻叫喚! すかさず看護師がベビールームに飛びこんで来るが、赤ちゃんを泣かせた原因を彼女らが知ることはない。
 「お前は石英で龍王像を彫り、この金剛の肋骨を楔として奉納するんだ。 さすれば『肋楔の緋龍(ろくくさびのひりゅう)』はこの子を往生の時まで邪道から守り、やがて金剛の楽園へ運ぶだろう。 象形は…そうだな、この福島の地に伝わる、萩姫と不動明王の伝説に因んで、倶利伽羅龍王像にするといい。 この子に金剛の御加護があらん事を…」 肉襦袢は赤ちゃんの小さな肋骨を赤僧衣に手渡すと、汚らしい煤煙を霧散するようにして消え去った。 霊的な力で肋骨を一本引き抜かれた赤ちゃんの胸には、傷跡の代わりに『E』『十』の形の痣ができていた。
 「すまない…ああ、本当にすまない…」 肋骨を奪われた赤ちゃんの横で、赤僧衣の霊魂は崩れ落ちるように土下座して咽び泣いた。 看護師さん達はそんな彼の存在を完全に無視して、この突然発生したパニックの対応に追われている。
「こんなん嘘やろ…」 譲司さんが裏返った声でそう呟いた時、私は『生まれつき一本少ない』と言い聞かされていた自分の肋骨のあたりを抑えて震えていた。 それから文字通り気が遠くなるような感覚を覚え、私達はこのサイコメトリー回想から脱出した。 不気味な如来を讃える赤ちゃん達の叫び声が、だんだんと遠ざかっていった。
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