Tumgik
#目が見える人は三次元のものを二次元化して捉え目が見えない人は三次元のものを三次元のまま捉えておりそもそも二次元的なイメージは概念として持っていない
thetaizuru · 6 months
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 美は存在すると信じているし、精霊とか妖精のように存在する美もあると思っている。  古代から美は感性の領域に属する概念であり、人は感性によって世界を認識する。認識という行為は、人間のあらゆる日常的、あるいは知的な活動の根源にある。  認識論という哲学分野では、人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか、人はなぜ誤った考えを抱くのか、ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法はあるのか、人間にとって不可知の領域はあるか、あるとしたらどのような形で存在するのか、などの問いが扱われた。19世紀末ごろまでに、認識論の一部が哲学の外に出て心理学という学問を成立させる。認識論で問われた問題を科学的方法論によって研究しようと試み、実験心理学も登場し、仮説を立て実験データとの照合を論じてはいたものの、その仮説自体はやはり思弁に過ぎなかった。人間の認識についての問いは「哲学的な問い」だった。
 近代的な意味での認識論を成立させたのはデカルトである。  デカルトは、人間の感性を、霊肉二元論の立場をとって、肉体的な「感覚」と霊的(精神的)な「理性」に分け、認識の起源は理性であるとした。デカルトは理性を、人間が生得的に持った「内なる自然の光」と呼んだ。デカルトを引き継ぐ立場は「合理主義 (理性主義、大陸合理主義)」と呼ばれる。  認識の起源は経験であるとしたジョン ロックを引き継ぐ立場は「経験主義 (イギリス経験主義)」と呼ばれ、経験に先立って何らかの観念が存在することはなく、人間は「白紙状態 (タブラ ラサ)」として生まれてくると考え、生得説に反対する立場をとった。  これらの思想の相違点は、たとえば「大陸的-イギリス的」という区別で呼ばれるものの、どちらの思想も、1648年の八十年戦争の終結と、それによるネーデルラント連邦共和国(ほぼ現在のオランダ)の独立が非常に大きく影響した。オランダは1648年から17世紀終わり頃まで「黄金時代」と呼ばれる時代に入る。オランダ黄金時代は、レンブラントやフェルメールなどの画家が活躍した時代としても知られる。オランダの歴史においても、貿易、産業、科学、軍事、芸術が世界中で最も賞賛された期間でもある。  オランダにとっての八十年戦争の一部でもある三十年戦争(1618年-1648年)は、ドイツ(神聖ローマ帝国)でカトリック対プロテスタントの構図で始まったが、ヨーロッパ全体の戦争へと拡大し、宗教戦争とは言えない国際的戦争となった。結果として、神聖ローマ帝国は弱体化した。これにより、教皇や皇帝といった普遍的、超国家的な権力がヨーロッパを単一のものとして統べる試みは事実上断念された。  イギリス(イングランド王国)は三十年戦争に参加しなかったが、清教徒革命の内戦下(1642年-1649年、広義には1639年の主教戦争から1660年の王政復古まで)にあった。  宗派対立激化の結果、民衆にはヘルメス主義などの神秘思想が流行し、自分の目も感覚も明らかな証拠も信用せず、自分の経験すら偽りとしてまで、自らの教義に一致しないものを認めようとしない独断主義的な風潮が蔓延するというような社会情勢にあった。  オランダは、信仰の自由と、経済的、政治的な独立のために八十年もの間戦って勝利したという誇りと、他国で思想信条を理由として迫害された人々を受け入れることで繁栄したという自負があり、寛容の精神を重視した。この寛容な風土により、書籍の出版も栄えた。国外では論争の的になるような宗教、哲学、科学に関する多くの本がオランダで出版され、秘かに他国へ輸出された。17世紀のネーデルラント共和国は、ヨーロッパの出版社のようになった。  バートランド ラッセルは『西洋哲学の歴史』(1945)で次のように述べた。「デカルトは、ビジネスでフランスに数回、イングランドに一度行った以外は、オランダに20年間(1629-49)住んだ。17世紀における思索の自由のあった国としてのオランダの重要性は、強調しても強調しすぎることはない。トマス ホッブズは、彼の著作物をここで印刷する必要があり、ジョン ロックは、1688年以前のイングランドにおける最悪の5年間の反動期間、ここに避難していた。」  デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題は、当時の保守的な思想である「信仰による真理の獲得」ではなく、人間の持つ「自然の光」を用いて真理を探求していこうとする姿勢を表現していると受け止められ、これが近代哲学の出発点となった。これは、「信仰の時代」から「科学の時代」への転換点でもあった。
 18世紀末に、合理主義と経験主義の両方の限界を示す形で二派の対立を統合したとされるのがイマヌエル カントであり、19世紀は、カントを受けつつその反動として、カントを批判し乗り越えようとする潮流が生まれる。19世紀のこの流れは、19世紀後半にはドイツ観念論と呼ばれるようになる。19世紀後半から20世紀頭にかけて、ドイツ観念論を批判し「カントに帰れ」という標語を掲げたカント的認識論の復興運動が起こり、これは新カント主義と呼ばれる。  日本に認識論が入ってきたのはこの頃で、日本語の「認識論」もドイツ語からの訳語であり、新カント主義の影響が大きいとされる。新カント主義者は「真善美」という言葉を好んで使い、この真善美の調和を人間の理想とする考えは、近代思想として日本にも受け入れられた。  カントによれば人間の認識には限界があり、神の存在証明や絶対的真理などの超越的で形而上学的な問題は原理的に答えを出せない問題であり、科学化もできないし、哲学として議論すべきものでもないと斥けられたが、ドイツ観念論の思索家たちはこれには不満で、カントが否定した神の認識可能性を再び主張する。またドイツ観念論は、カントへの反動として、あらゆるものを科学的方法により解明できるという信念を強めていく。  新カント主義は、当時西欧を席巻しつつあった無規範な科学的思惟に対抗した。特にドイツ観念論のヘーゲル派の流れを汲むマルクス主義は、精神や文化を物質の因果律により支配されるものとしていたため、人間もまた因果律に支配された機械とみなそうとしていると危惧し、彼らを批判して、カントに習い先験的道徳律の樹立と、精神と文化の価値の復権を試みた。
 19世紀後半の心霊主義ブームも、ドイツ観念論の潮流と同様に、精神や霊魂あるいは宗教などを科学的に解明しようという試みとしての側面があった。宗教の科学的解明というのは、特に心霊主義の初期においては、生活を縛り付ける教条主義的な権威からの解放や、腐敗の糾弾としての期待があった。あくまで科学だと主張を続けた団体も、科学化には至らず、ブームも去り、団体維持のためにオカルト(神秘主義)を取り入れた結果、当初の意味での心霊主義でもなくオカルトでもない疑似宗教となっていく。  心霊主義は自動筆記などの形で文学や美術にも影響を与え、また、文化的創作における精神面の科学的解明という期待があった。しかしこれも、インスピレーションやアイディアの作り方、根源的な創作動機などは、科学的あるいは論理的には説明することができないということを浮き彫りにした。  「芸術の社会理論」や「文化の科学的理論」などと呼ばれる、文化や芸術などを社会構造や時代的文脈などから読み解く考え方は、心霊主義やマルクス主義などと結びつく形で、特に評論においては現在においても影響を与えている。
 確かに、あらゆるものは社会や時代の産物であるという側面はあるのかもしれない。回帰運動や復古運動も時代を逆流させるわけではない。  20世紀が始まってから第一次世界大戦(1914年-1918年)までの期間、特にヨーロッパにおいては、見るからにこれまでと全く違う表現が現れる。歴史的に見ても特異な変化だが、1930年代の世界恐慌から第二次世界大戦(1939年-1945年)の間に世界もこれに続くことになる。大きな時代の変化により、まるで人の認識自体が劇的に変化したかのように、新しく現れた美術表現などは難解でわけがわからない。というか、これ自体が矛盾であり、現在においても一見わけがわからないってことは、人の認識自体は変化していない。  キュビズムや抽象主義、シュルレアリスムなどを読み解くキーワードとして使えるものに、20世紀頭に登場した「表現主義」の他に、「プラスチック」と「ディメンショニズム」というのがある。「表現主義(エクスプレッショニズム)」というのは、いわば「印象主義(インプレッショニズム)」の対義語であり、どちらも主観的リアリズムを描こうとしているが、印象主義は、目で見たものが、自分の内面でどのようなイメージ(認識。イデー。カントの用語では「表象」)になったのかを描こうとしているのに対し、表現主義は、もともと自分の内面にあるイメージをそのまま描こうとする。自己の内面にあるイメージを描くために、どのような形を与えるかというのが主要なテーマになり、これが「プラスチック(可塑性。形作ること)」であり、ニュアンスとしては「これまでにない自由な形を与えること」を意図している。そのため現実に既にある形(具象)ではなく抽象や非具象へと向かう。ピエト モンドリアンは自身の美術理論を「ネオプラスティシズム(新造形主義)」と名付けた。  そして20世紀頭に多くの人が世界認識の大きな変化だと捉えたのが、「この宇宙は四次元時空である」という概念の登場だった。H G ウェルズの小説『タイムマシン』(1895)でも「時間が第4の次元」だとされていたが、1907年ごろにドイツの数学者ヘルマン ミンコフスキーがアインシュタインの特殊相対性理論を四次元の空間として数学的に表したこと(ミンコフスキー時空)が多くの人にインスピレーションを与え、これをどのように表現するかという挑戦が始まった。1936年に美術理論化のチャールズ シラトが「ディメンショニズム(次元主義)」という語を作った。  またこれにより、これまでのヨーロッパの絵画表現は、三次元空間の中に、第4の要素として「光」を描くことを目的としていたということを再認識する。  相対性理論を始めとして、量子力学などの理論物理学が飛躍的に発展し、デカルトやカントが前提としていたニュートン力学に対する疑義が出され、認識論は改めて学問の基礎付けへと向かった。
 1960年代から1970年代にかけてアメリカを中心に世界的に行われた前衛芸術運動である「コンセプチュアルアート」は、マルセル デュシャンの、特に1910年代の作品や美術理論を、理論的支柱とした。デュシャンが、特に写実主義以降の19世紀の絵画を指して、美術が「網膜的になりすぎている」と批判していたことなどに影響され、「作品の具体化の否定」などにより、コンセプト(概念)を表現することを目指し、作品制作よりも芸術について論じることのほうを重要視した。  アンディ ウォーホルも、「コンセプチュアルな」実験映画を制作しており、コンセプチュアルアートの位置づけで見られてもいたが、「作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と言い続けていた。  1950年代からのアメリカの抽象表現主義、ミニマルアート、そしてコンセプチュアルアートには、CIAの支援があったことが、1960年代末から70年代にかけて、暴露と情報公開のかたちで明らかになる。直接的な思想介入や市場操作があったわけではなく、冷戦下においてアメリカの文化的優位を世界に示すという目的で、海外での美術批評活動への支援が主な内容で、アーティストたちも支援があることを知らなかったが、情報公開は多くの人々が一挙に文化的な運動から退却していくきっかけにもなった。  なんなのかわからないものをなぜか解説したり批評したり論じたりしていたが、一体なにを認識していたのかわからなくなる。
 網膜的ではない光もあると思う。
2023年10月 ターニング アンド ターニング イン ザ ワイドニング ジャイア
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takahashicleaning · 3 years
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TEDにて
マイケル・グリーン:社会システム進歩指数があなたの国家システムを暴く?
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
国内総生産は、よく「神から与えられた十戒の石板」のように言われます。しかし、それは1920年代に考案された物にすぎません。
当時は、そうですが、現代では、GDPは数ある代表的な経済指標の一つです。
私達には、21世紀に適合する、もっと有用な測るための新たなツール。「社会システム進歩指数」が必要であるとマイケル・グリーンは語ります。
ウィットに富んだ方法で、彼はこの社会システムを測るツールが、どのように実際の物事の3つの局面に関わっているか見せてくれます。そして、あなたが社会システム進歩指数を使うと劇的な再構成が起こることを明らかにします。
1934年1月4日のこと。ある若者が米国議会に報告を提出しました。80年前のものですが、それはここに出席している人たちだけでなく、地球上すべての人の生活を未だに形作っています。その若者は政治家ではなくビジネスマンでもありませんでした。
市民活動家でも 信仰指導者でさえありませんでした。彼は思いがけないヒーローでして、何と経済の専門家でした。彼の名前はサイモン・クズネッツ。彼の提出した報告のタイトルは「1929-1932年の国民所得」でした。
それは退屈で面白みの無い報告だろうと思われるでしょう。みなさんその通りです。ひどく退屈なものでした。しかし、その報告は、今では国の成功を測る基礎となりました。皆さんご存知の「国内総生産」「GDP」として知られています。
GDPは、その後80年を定義し、また形作りました。今日お話ししたい事は国の成功を測る別の方法について、次の80年の定義付けと形成をする別の方法についてです。
まず、始めにGDPがどのように私達の生活を支配しているか?理解しなければなりません。クズネッツは危機の時代に提出されました。アメリカの経済は世界大恐慌に向けて急降下しつつあり、政策立案者が苦闘している時代でした。
何が起こるのか全く分からず、苦闘していたのです。彼らはデータも統計も持ち合わせていなかったのです。そこでクズネッツはアメリカ経済が生み出したものについて、信頼できるデータを年次報告として彼らに提出したのです。
この情報を元に政策立案者は、ついに大恐慌を抜け出す事ができたのです。クズネッツの発明はとても便利だと思われたため、世界中に広がってゆきました。そして、今日、すべての国ではGDPが集計されています。
しかし、実のところクズネッツはそれに対して警告を唱えてもいたのです。
それは報告の序章にあります。
7ページ目で彼は述べています「国の社会福祉そのものは、上述した国家収入をものさしとして、推量することは滅多にできない」
もう一度言います!!「推量することは滅多にできない!!」
世界最高のキャッチフレーズではなく、経済学者の慎重な言いまわしでしたが、言いたいことははっきりしています。
GDPは道具に過ぎない!!経済のパフォーマンスを測るものに過ぎないと言っています。
私達の幸福を測るものではないのです!!すべての決定を導く手引きではないはずなのです。
しかし、クズネッツ氏の警告は無視され、私達の世界では、GDPがグローバル経済の成功を測る基準となってしまいました。
GDPが上がると政治家は自慢します。
マーケットは、動き、何兆ドルもの資本金が世界中をめぐっていきます。どの国で富が増えていてどの国で富が減っているかに基づいて、それらすべてはGDPで測られています。我々の社会が、さらなるGDPを創出するためのエンジンに成り果てたのです。
GDPには弱点があります。環境を無視して軍需産業や刑務所ビジネスを発展と捉えながら、幸福感や人々の事は考慮されません。そして、公平さや正義についてまったく言及されていません。
だとすれば、むしろ当たり前ではありませんか?GDPにのって進軍するこの世界が迫りくる環境災害の対応にもたつき、怒りと闘争に満たされているのは?
もっとふさわしい社会の測り方は、実際人々の上に起こっている事に基づいて測られるべきです。十分に食料があるか?読み書きができるか?治安は大丈夫か?権利があるか?差別の無い社会に住んでいるか?
自分の将来と子供達の将来は、環境破壊から保護されているか?これらはGDPが答えようとせず、また答える事のできない問い掛けです。
もちろん、これまでにもGDP論を超えてゆこうとする努力もありましたが、今こそ、社会の測り方に革命を起こす時が来たと私は信じています。今こそ、その時だと言えるのは、2008年の金融危機で経済発展への依存に惑わされた事を私達は目撃したからです。
そして、アラブの春でチュニジアのような経済の優等生のような国であっても、彼らの社会が不満に溢れていた事も私達は目撃しました。今では、クズネッツ氏の想像の及ばない方法でデータを集積、解析できるテクノロジーさえ持ち合わせている。
だからこそ、今が「その時」なのです。
今日は「社会システム進歩指数」を紹介します。それは、社会の幸福を測るものでGDPとは全く関係がありません。世界を同時並行的に見られるまったく新しい方法です。社会システム進歩指数は、3つの次元において良い社会とは何かを定義します。
第一に、すべての人に生活に必要な食料、水、住居、治安が備わっているか?
第二に、すべての人が教育、情報、健康、持続可能な環境などの生活を向上させるための構成要素が得られるか?
第三に、すべての個人に目標、夢、熱意を障害無く成し遂げる事のできる機会があるだろうか?
権利、自由な選択、平等を持ち合わせ、最先端の知識を得られているだろうか?最先端の知識を得られているだろうか?これら社会進歩の枠組みからなる12の要素が一緒になっています。
これら12の要素が、国々がどのように運営されているかを測る指標となっています。努力や意思の指標ではなく、本物の成果を測っています。国がどれだけ国民の健康に費やしたかではなく、国民の寿命の長さや生活の質を測ります。
行政府が偏見に立ち向かう法律を通過させたか?ではなく、人々が偏見を経験したか?で測ります。
警察の圧力や権力濫用も測ります。
歴史が示すところによれば、警察が、ひとたび大量のデータを保有し、無実の人々の追尾するようになると暴走し、拡大解釈をし続け、脅し、威嚇、特権意識の乱用や政治的な優位を得る行為、時には、法令を無視した同意や許可申請のない単なる覗き見行為へと濫用されがちです。
幸いにも、我々にも取るべき手段があります。市議会は、地方警察を統制できるので、条例を制定することによって無実の人々の情報を破棄し、保存期間も短期間にすることで、このような技術の合法的な使用のみを認可するのです。
オウム真理教の集団テロ事象の原因は開発独裁特有の当時、自民党55年体制の特権意識による負の遺産とインターネット黎明期にまだ周波数を独占的した民放テレビ局の暴走が談合を産み出し、警察機関が職権乱用して談合に便乗。監視も悪用し権力を思うままにふるまわせたことによる出来事にすぎない。
みなさん。考えてみてください!オウム真理教の集団テロ事象の後の警察権力は拡大してます!防衛庁は防衛省になりましたよね。拡大してます!スピード早くないですか?歴史的に見ると危険です。権力を思うままにふるまわせたことによる証拠です。憎しみの連鎖の起点の一つ。
テレビ潰れろ!なくせ!警察の職権乱用。警察が悪さしないようにまず監視カメラを警察内部につけろ!防衛省を防衛庁に格下げ、警察予算を削減してベーシックインカムの原資にすること。
今年、すでに非営利組織「Imazon」は初めてブラジルで地方での社会進歩指数の利用に着手しました。アマゾン地域で行いました。そこは、ヨーロッパと同じ程度のサイズで2400万の人々が住む貧しい場所です。
こちらがその結果です。800の自治体に分けられています。この地域における本当の生活の質についての詳細な情報がここに表されています。
アマゾンの熱帯雨林を保護しながら、人々の生活の質を向上させる発展計画をImazon、行政府、企業、自治体からのパートナーと共に作り上げています。これは始まりに過ぎません。
あなたもどの国、地域、都市や自治体でも社会進歩指数を作る事ができます。「TEDx」がそうであるようにこれは「社会システム進歩指数x」です。誰でも用いる事ができるツールです。
GDPは、20世紀の発明品で20世紀の問題に立ち向かいました。
21世紀には、高齢化、肥満、気候変動など。私達は新たな問題に直面します。
これらに立ち向かうためには、新たなツールが、新たな発展を評価する概念やツールが必要です。
マーガレット・サッチャーはこう言いました。
「社会などというものは存在しない」存在するのは社会ではなく個人とその家族だけなのです。
この誤解されたイデオロギーは、いまだに非常によく機能しており貧乏人が自らの貧困を恥じる理由となっています。
さらに、トニー・ブレア政権で、サッチャー政権の負の遺産を修正し、地方公共団体や公企業が復活、民営化によるサービス低下への対策が行われ
医療予算は大幅に増額させ、国民健康保険も立て直し、教育政策においても負の遺産であるサッチャー政権が導入した競争型の中等学校が事実上廃止!?公立学校の地位向上がなされ元に戻りました。
有名なサッチャリズムと呼ばれている政策は、ケインズの双璧をなすミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエクの経済学に対する思想が、のちの新自由主義的な経済改革の源です。
主に、小さな政府や政府の市場への介入を抑制する政策、国有企業の民営化や規制緩和、金融システム改革(金融ビックバン)など。
さらに、改革の障害になっていた労働組合の影響力を削ぎ、所得税、法人税、の大幅な税率の引き下げを実施。しかし、医療制度を機能不全に陥らせたり、金持ち優遇政策を採った副作用が起き始めます。
一方、付加価値税(消費税)は1979年に従来の8%から15%に引き上げられた。その後、小さな政府の柱の一つであった完全なマネタリズムを放棄し、リフレーション政策に転じていきます。
サッチャリズムと同時期に、アメリカでは、レーガノミクスが起きています。後に、「双子の赤字」と呼ばれる負の遺産を残します。その後、2008年の金融危機でレーガノミクスを改善したような対策。
2006年から2014年にかけて就任したFRBバーナンキ議長の経済対策のようなプロセスに到達しています。双子の赤字以上にアメリカの法人資産は金融工学を駆使しているし、黒字を維持し続けているので、膨大な金融政策でも成長しています。
2012年からの日本の経済政策も似ていますが、賃金だけが上がっていません。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて個人のプライバシーも考慮)
(個人的なアイデアIdeas personal)
According to Michael J. Sandel , because to move the society in accordance with the lowest layer of the benefit from the difference principle of John Rawls is justice
マイケルサンデルによると、ジョンロールズの格差原理から最下層の便益に合わせて社会を動かすことが正義であるため、日本では物価をあげて
And in Japan raise the price . Live while , circulating the money using the latest financial engineering and macro economics until the bottom layer is close to the annual income of about 6 million yen , and then re- distributed from the ultra- wealthy ?
いきつつ、超裕福層から再分配して年収約600万円(中央値)に最下層が近づくまで最新の金融工学とマクロ経済学を駆使してマネーを循環?
This , you might get out from the deflationary spiral will Purasusamu of the place referred to in game theory if the goals and objectives of the country’s elite .
これを、その国のエリートの達成目標にすればゲーム理論で言うところのプラスサムになりデフレスパイラルから抜け出せるかもしれません。
続いて
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
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sasakiatsushi · 5 years
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ジョナス・メカス論(『(H)EAR』より)
 ジョナス・メカスのフィルムを見ると、いつも強く感じることがある。それは、いま目の前に映っている光景が、まぎれもなく現実に起こったことだということ、それが過去のある時点にまちがいなく存在していたのだという、不意打ちの確信にも似た思いである。  『リトアニアへの旅の追憶』でも、『ロスト・ロスト・ロスト』でも、『時を数えて、砂漠に立つ』でも、その思いは何度となく僕を襲い、次第に激しい振動となって、やがては身体そのものに揺さぶりをかけてくる。僕にとってメカスを見るという体験は、映写の間中、不断に強度を増していく、この揺さぶりに身をさらすということである。そうだ、これはかつてほんとうに起こったことだ……  メカスの作品は、ほとんどが一種のドキュメンタリー映画と呼べるものなのだから、そんなことは当たり前だと思われるかもしれない。だが僕が言いたいのはそういうこととは少し違う。ちょっと回り道をしながら、もう少し詳しく説明してみよう。
●《それは=かつて=あった》
 映画というものは、アニメーションやCGといった人工的な映像でない限り、必ずその時、ムービー・キャメラが向けられていた現実を、丸ごと含み込んだ形で成立する。たとえ何らかのフィクションが演じられていたとしても、そこで誰かが何者かの振り=演技をしており、また多くの場合、虚構の外側にいて、それを演出している者や、演技に加わることなくそれを見ている者=撮影者がいたという現実が、そこには織り込まれているのだ。これもまた、当然のことと言っていいだろう。すべての映画はドキュメンタリーである。この認識はある意味で正しい。  だが、逆に言うと、記録映画と呼ばれているものだって、厳密には生の映像そのものとは違う次元を不可逆的に持ってしまっている。その理由は次の三つの点に集約されるだろう。第一に、キャメラがそこにあるということ、自分がいま映されていると意識すること自体が、たとえ普段と同じ行為を行っているとしても、被写体に何らかの影響を及ぼさずにはおかないだろうということ。第二に、例えば隠し撮りのような、被写体がキャメラの存在に気づいていない場合でも、ムービー・キャメラの矩形のフレーミングが−−撮影者の意図はどうあれ−−そこに意味(もしくは見る者それぞれが独自の意味を見出すような契機)を生じさせてしまうということである。第三に、映像が光学的な技術によってフィルムに焼き付けられたもの(ビデオでも同じことだ)である以上、どこまでいってもそれは結局、現実そのものではなく、その似姿に過ぎない、ということである。  すべての映画はドキュメンタリー映画である。そしてまた,すべての映画はドキュメンタリーではありえない。この背反する二つの定義に挟み撃ちされるようにして、映画というものは成り立っている。リュミエール兄弟とジョルジュ・メリエスの対立などない。そこにあるのは映画の二面性ではなく、単に物語ることや、擬装することの有無に過ぎない。映画と現実は不可分の、相互に嵌入し合うような、曖昧な(と、敢えて言っておく)関係を保っており、完全に重ねることも、切り離すこともできないのだ。  以上のことを踏まえた上で(いず���も常識に属することではあるが)話を戻せば、僕が捕らわれた「これは現実に起きたことだ」という思いは、メカスのフィルムが、時に「日記映画」とも呼ばれる、彼が過ごしてきた日常をランダムに、いや、ほとんど絶え間なく(この言葉は正確ではない。だがこの点については後で触れよう)記録したもの、つまりはドキュメンタリーであるから、という理由によるのではない。また、かといって、すべての映画が、ある意味では「現実に起きたこと」であるという、ありふれた事実の再確認が、メカスを見ることによって、他の数多の映画の場合よりも強力に引き起こされたということでも、むろんない。それはメカスの映画以外には成し得ることのない、比類なく衝撃的な、そして感動的な体験なのである。
 ところで、いささか唐突だが、ロラン・バルトは、写真についての有名な書物『明るい部屋』の中で、次のように書いている。
 絵画や言説における模倣と違って、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定がある。……それゆえ「写真」のノエマ(=本質を志向するもの)の名は、次のようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》……つまり、いま私が見ているものは、無限の彼方と主体(撮影者または観客)とのあいだに広がるその場所に、そこに見出された。それはかつてそこにあった。がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。(花輪光訳・以下同)
 もちろん、バルトが語っているのは、あくまでも写真に関してであって、映画については全く事情が異なると、はっきりと述べている。彼によれば、明確な違いが少なくとも二つある。まず,写真は過去のある瞬間を凍結したものだが、バルトはこれを逆転して「その瞬間には、どれほど短い瞬間であっても、ある現実もののが目の前でじっと動かずにいた」のだという。  この考え方はおもしろい。だが映画の場合は、瞬間の映像が連なって動くことによって、その神聖なる停止(バルトは”ポーズ”と呼ぶ)は押し流され、否定されてしまう。もうひとつ、既に確認したこととも繋がるが、映画では「二つのポーズ、つまり俳優自身の《それは=かつて=あった》と役柄のそれとが混ぜ合わされている」ので、「現前」とその喪失との二重措定を、純粋に抽出することがむつかしくなってしまっている。以上の二点ゆえに、映画は、写真のように《それは=かつて=あった》を刻印、いや、生産することができないと、バルトは述べている。「なるほど映画においても、写真の指向対象は依然として存在しているが、しかしその指向対象は、横すべりし、自己の現実性を認めさせようとはせず、自己のかつての存在を主張しない。それは私にとりつかない。それは幽霊ではないのだ」  バルトの写真論は、僕にとって頷けるところも、そうでないところもある(少なくとも−−たぶん誰もがそうだと思うが−−ある部分はあまりにナイーヴに感じられる)。だが、もちろんここはそうした問題を子細に検討する場所ではない。ただ、僕が主張したいことは、僕がメカスのフィルムから受ける強度の揺さぶりが、バルトの言う写真の《それは=かつて=あった》と、極めてよく似ている、ほとんどそっくりだ、ということなのである。  くりかえすが、バルトは写真と映画を厳しく区別していて、両者の機能は本質的に異なるとまで言っている。しかし、こうしたバルトの理解に一点、変更を加えざるを得ないような、いわば映画の特異点として、メカスのフィルムは存在しているのではないかと、僕は思うのだ。では、それは一体、どのようにして可能になるのだろうか?
●現実が明滅する
 リトアニアから弟のアドルファスとともにニューヨークにやってきたジョナス・メカスは、最初のうち、英語が全く話せなかった。知っている単語を大声で発音しても、誰にも通じなかったのだ。母国では詩人として活動していた彼は、言葉を使えない代わりに、借金をしてボレックスの一六ミリ・キャメラを手に入れる。NYに着いて二週間後のことだった。そして、それ以後、メカスはどこへ行くのにもボレックスを携えて、後に彼が「日記・ノート・スケッチ」と名付けることになる膨大なフィルム断片=集積を、ひたすら撮り続けるようになった。これが、良く知られたフィルムメーカー=ジョナス・メカス誕生のエピソードである。それはもはや神話といってもいいかもしれない。一九四九年、メカスは二五、六才の青年だった。  メカスのフィルムの、どれでもいい、ほんのわずかでも見たことのある人なら、誰もが覚えていることだろう。あの非常に独特な映像のありさまを。ほとんど全編が手持ちによる、ブレなどまったく気にしていない乱暴なキャメラ・ワーク。音楽でいうならスタッカートの連続のような、きわめて短い−−そしてアタックの強い−−ショットの連なり。時に軽やかに、時に目眩がするほどに、めまぐるしく移り変わるイメージ。それはあまりにも通常の映画とは形態が異なっているので、予備知識なしに見たとしたら、ひどく驚かされることはまちがいない。はたしてこんなものを映画と呼べるのか?  ボレックスは一六ミリのムービー・キャメラの中でも、一コマ単位での露光(俗に言うコマ撮り)ができることで、いわゆる「実験映画」の作り手からは重宝がられている機種である。メカスもこの機能をフルに使って、自分のフィルムを撮る。いくぶん比喩的な言い方になってしまうが、シャッターを一定時間、ジーッと押すのではなく、カチカチ、カチカチとやるわけだ。生活の中にキャメラを持ち込んだメカスは、あらゆるものにレンズを向けた(メカスに会うということは、彼に撮られるということを意味する)が、それは多くの場合、カチカチ、カチカチだった。だから前節で「絶え間なく」と書いたのは、やはり正確ではない。イメージは持続することなく、飛び飛びになっているのだから。  なぜこんなことをするのか? もしかすると、メカス自身がどこかで明確な理由を語っていたかもしれないが、残念ながら僕は知らない。ただ、それはたぶん、要するにボレックスにそういう機能が付いていたから、なのだろうと思う。何を馬鹿なと思われるかも知れないが、おそらく事実はそうなのだ。たとえば、文盲の者が拾った辞書に古語が載っていたとして、周りの誰ひとりとして、そんな言葉を話していなくとも、現に辞書にあるのだから躊躇なくそれを使った、ということなのではないか。少なくとも、ある時期までのメカスにとって、映画とは他者とのコミュニケーションのツールだったのだから、ボキャブラリーをフルに活用しようとしたのは、むしろ当然のことだろう。しかし、僕が強調しておきたいのは、メカスがコマ撮りならコマ撮りというものを、映画の「表現」の新しい手法として”発見”したのではなかった、そしておそらく今もそうではない、ということなのである。 「ヴィレッジ・ヴォイス」誌に連載していたコラム<ムービー・ジャーナル>の六五年一月九日付けの記事の中で、メカスは「逆説を一つ」と言い置いてから、次のように続けている。
 映画は、たとえ最も観念的で、抽象的なものであっても、その本質は具体的である。動きと光と色の芸術である。偏見や先入観を捨てさえすれば、純粋に視覚的で動美学的な体験の具体性、光と動きの”リアリズム”、純粋な目の体験、映画という物質がわかる。画家が絵という物質や絵具を意識するようにならなければならなかったように、彫刻家が、石や木や大理石を意識しなければならなかったように、映画も成熟してくると、映画という物質−−光や動きやセルロイドやスクリーンを意識しなければならなくなった。 (『メカスの映画日記』飯村昭子訳・以下同)
 「ニュー・アメリカン・シネマ」(米のインディペンデント映画作家による実験映画、個人映画を総称してメカスが用いた言葉。彼のいわゆる「ニュー・シネマ」とは別物)の運動家としてのメカスの功績については、いくら強調してもし過ぎるということはないが、彼自身のフィルムは、多くの「実験映画」の試みとは、実のところかなり位相が異なっているのではないかと思う。  何らかの意味での「実験映画」へと向かう心性には、次の二つのモメントがある。自己表現の探究、そして映画という形式自体の発展・進化である。誤解を恐れずに言えば、メカスはそのどちらにも興味がない。彼のフィルムには、メカスの「内面」は映っていない。より正確に言えば、メカスはフィルムに「内面」など決して移りはしないと言う真実に忠実である。あるのは、ボレックスというキャメラと、カチカチカチカチだけだ。それは徹底して、あっけないほどに具体的なのである。  また、メカスは映画というものを、さまざまな技法の束として捉え、やみくもにその先に進もうとするような、一種の進歩史観には与していない。彼の姿勢は、たとえば「拡張映画」といったような概念とは、ある意味では逆立するものだとさえ言っていい。映画は通常、一秒に二四コマの映像の連続から成っているが、メカスはそれはただの慣習に過ぎず、ムービー・キャメラと映写機のメカニズムからすれば、幾らでも変更が可能なのだという、単純極まりない原理に従っただけなのだ。  つまり、メカスのフィルムが革新的であることは疑いないが、しかしそれは映画という種に突然変異が起きたのではない。ただ単に、もともと潜在していた能力を露にしただけということなのである。だからこそ「成熟」であって「進化」ではないのだ。  ここでようやく、前節末尾のクエスチョン・マークに立ち戻ることができるように思う。映画とは言うまでもなくムーヴィング・ピクチャー、すなわち動く写真である。一定以上のスピードで写真が移り変わった時、網膜に受ける残像効果によって、実際には分断されたものでしかないイメージが、あたかも連続的に動いているかのような錯覚を与える、ということである。こんなことは確認するまでもないことだが、ではプロセスを逆さまに考えてみよう。ノーマルに動いている映像が、次第に速度を落とし始める。やがてそれはぎくしゃくした動きとなり、次第に紙芝居のようなものになって、ついには静止してしまう。そこにあるのはただ一枚の写真である。そこには確かに、ロラン・バルトが言う《それは=かつて=あった》が映っている……。  メカスのフィルム、それはむしろ、写真と映画の中間点に属しているのではないだろうか。むろんそれはムービー・キャメラで撮られ、映写機で再生されるのだから、映画と呼ばれるべきである。だが、それはいわば、写真の記憶を残しているのだ。バルトが写真のテーゼとしていたのは、止まることなく流れていく時間から、瞬間を抜き出すという「奇跡」である。時間は原理上、微分できないのに、ただ写真に撮るだけで、ありえざる無時間へと投げ込まれることになる(そこでは露光時間も抹消されてしまう)。それを永遠と呼ぶのはロマンチック過ぎるかもしれないが、時間が流れていないのだから、それもあながちまちがいではない。  おそらく、コマ撮りにも二種類あるのだ。運動へと向かうものと、静止へと向かうもの。それは一見、同じもののように思えるが、実は正反対なのである。メカスのフィルムは明らかに後者だ。たとえば石の写真を見ることと、それを延々と撮った映画を見ることは根本的に違う。ムービー・フィルムは−−現像処理でコマ延ばしでもしない限り−−まったく同一のイメージを記録することは不可能だ。それでも映画が写真を志向するとするなら、逆説的ではあるが、限りなく映像の持続を縮減していき、だが肉眼で把握できなくなるまでにはすることなく、連続写真がムーヴィング・ピクチャーへと至る境目に、いわば後ろ向きに到達するしかない。そう、メカスのフィルムは、めくるめく映像の奔流であるかに見えながら、実は一つ一つのイメージは止まりかかっているのである。  メカスのフィルムは、言うなれば映画の現像学が始まる以前に留まっている。カチカチ、カチカチという仕草によって、《それは=かつて=あった》が生まれては、また消える。写真的な無時間=神聖なる停止を、時間芸術である映画が欲望するという倒錯的な事態が、そこでは演じられているのだ。こう言い換えてもいいかもしれない。そこでは常に/既に過ぎ去ったものでしかない「現実なるもの」が明滅しているのだ、と。しかし、これだけではまだ十分ではない。語らねばならないことが、あともう少しだけ残っている。
●キャメラになった男
 メカスは<ムービー・ジャーナル>の一九七〇年六月二五日付けのコラムで、エド・エムシュウィラーの作品に触れて、こう書いている。
 カメラが人間のようになればいい、と彼が思っているわけではない。そうではなくてエムシュウィラーの本当の願いは自分がカメラになることなのだ! この男は狂っている。(略)彼はカメラになりたがっている。自分自身の道具になりたがっている。彼はカメラが盲目であることを承知している。カメラはすべて盲目である。カメラに世界をこのように見させているのはエムシュウィラーである。世界をこのように見る必要があるのは彼である。
 これはほとんどメカスその人のことを語っているように、僕には思える。「自分がカメラだと思いこめるのは気狂いだけだ」。メカスもまた、完璧な気狂いである。彼とボレックスはもはや一体化している。それは、メカスがどんな時にもキャメラを手離さないという表面的な事実よりも、もっとはるかに積極的な意味を帯びている。メカスがキャメラを通してものを見ているのではない。メカスが見ているものと、キャメラのレンズが対峙しているものが同じであるかどうかは、さしたる問題ではない。以外に思うかもしれないが、メカスとキャメラの一体化は、見ることの水準にはないのだ。  ここにはもうひとつ重要な指摘がある。それは「カメラはすべて盲目である」という断言だ。キャメラとは、目の代用物ではない。それは光が通過する機構でしかない。フィルムが露光されて初めて、それは映像を生産することになる。キャメラは何も見ていない。それは現実の光景を映像に転写するだけである。メカスとキャメラの一体化は、このことに関係している。つまりそれは、ある何かをそのままの姿で留めること、保持していくこと、要するに「記憶」の水準に属しているのである。ここでメカスのフィルムが「日記」と名付けられていることが、きわめて重要な意味を持ってくる。  メカスのフィルムは、最初の長編の『樹木の大砲』や、演劇を記録した『営倉』といった、やや特殊な成立背景を持つものを除いて、基本的にすべて「日記・ノート・スケッチ」に属している。そこから抜粋、編集して独立した一個の作品の形にしたものが、たとえば『リトアニアへの旅の追憶』であり、『ロスト・ロスト・ロスト』なのである。しかし、とりあえず完成したものとされているからといって、それぞれの内容が不変ということではない。そこには、いつでも手を加えることが可能だし、事実、そうされてもいる。つまり、実際には、膨大なフィルムのロールがあるだけなのであり、それはいま、こうしている間にも、絶えず増え続けているのだ。それは「日記」かもしれないが、ページが束ねられていないのだ。僕たちがその全てを読む=目にすることは決してないだろうし、メカス自身にさえ、もう一度、最初から全部を見直すことは不可能かもしれない。  その中には、同じ場所が、同じイメージで収められている。それはかつてそうであったものであり、今は別のものとなってしまっているものだ。圧倒的な量の「かつて」の集積。それはやはり「記憶」と呼んでいいのではないだろうか。ただ、それが人間の記憶と異なるのは、時の流れによって喪失してしまったり、何かを塗布されたり、美化されたりしない、ということである。それはただ、そこにある。ムービー・キャメラを持った時から、メカスはかれ自身のものとは別の、ジョナス・メカスという名のキャメラの記憶を育んできたのである。  映像の断片による記憶。それは歴史とは違う。歴史とは、整然と垂直に構成されているものだが、記憶はもっと茫然とした、海のような広がりとして、静かにたゆたっている。メカスのフィルムには日付が付けられているものが多いが、そんなものはただの記号にしか過ぎない。いまやこう言ってしまってもいいと思うのだが、それは時間から切り離されたところに、じっと佇んでいるのだ。  永遠という語を、いささかの恥ずかしさもなく、ここでもう一度使いたい。それは永遠の領域に属している。やがて、ある時、それはふたたび取り出され、まばゆい光を得てスクリーンに映しだされる。何百、何千の《それは=かつて=あった》が明滅する。そして僕はまた、身体の内側から激しく揺さぶられることになるのである。
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ari0921 · 5 years
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「麦の穂青し」③終
 知覧特攻基地と言えば、「富屋食堂」を営み、多くの特攻隊員の面倒を見て、“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメさんが有名ですが、地元の知覧高等女学校の生徒たちが特攻隊員を献身的にお世話したことも記憶に留めておく必要があります。
 本書には、知覧高女なでしこ会が刊行した『群青 知覧特攻基地より』の「まえがき」が引用されています。
 本書の第二部「征く人、送る人」の第二章「さらば、祖国よ」から、「知覧の少女たちが見た別れ」の箇所を、少々長くなりますが引用いたします。なお、文中に出てくる『空から轟沈』の唄はご存じない方が多いと思いますので、Youtubeから貼り付けました。
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 知覧基地に関しては、地元の知覧高等女学校の生徒たちによる特攻隊員に対する献身的なもてなしが、多くの特攻隊員につかの間の安らぎを与えたことはよく知られています。
 知覧高等女学校の生徒たちがなぜこのようなもてなしをするようになったかのいきさつは、「知覧高女なでしこ会」が昭和51年に刊行した『群青 知覧特攻基地より』の「まえがき」に、永崎(旧姓前田)笙子が次のように記しています。
 「昭和20年3月27日、知覧高等女学校の三年生進級を前にして、突然、私たちは勤労動員学生として、各地から知覧基地へ集結された特攻隊員の身の回りのお世話をすることになりました。敗色濃い戦局だったために、軍だけでは隊員たちを受け入れるゆとりもなく、その態勢も整っていなかったのでしょうか。激しい空襲のさなかを自宅から基地まで、遠い人は二時間もかかって通い、三角兵舎の掃除、食事の用意、洗濯、そしてつくろいものなどの雑用係として、14、15歳の少女だった私たちがあたることになったのです。最初18名だった女学生も、手が足りなくなって次第に増員されるようになりました」
 戦争末期のこの時期、日本軍には余力というものが全くなくなり、青壮年は根こそぎ軍隊にとられ、本来なら下級兵士や軍属がすべき雑用を、知覧基地では14、15歳の少女に任せるはかなかったのです。その期間は昭和20年3月下旬から6月下旬までの3ヶ月足らずですが、この聞に昼間出撃した特攻隊員を飛行場で直接見送るという稀有の体験を少女たちは重ねることになったのです。その点を永崎は次のように記しています。
 「多くの隊員は到着して4、5日間を基地の三角兵舎ですごして出撃されましたが、なかには、たった一夜だけの滞在で慌ただしく出撃された方もいらっしゃいました。それは、つかのまの出会いではありましたが、長い歳月を経た今でも、心の奥底に多くの隊員たちの思い出が生き続けているのは、平和な時代には想像もできないような異常な戦争体験だったからでしょうか。泣きながら桜の小枝をうち振って出撃を見送ったときの光景など、折にふれ鮮烈な思い出としてよみかえってまいりました」
 彼女たちは今で言えば中学二、三年生の純情で清潔で多感な少女でした。その少女たちが、「生き神様」と呼ばれ、明日には特攻散華するかも知れぬ、一死殉国の若者たちの身の回りの世話をし、共に語り、共に笑い、共に心を通わせたのですから、その印象は生涯消すに消されぬほど鮮烈なものであったに違いありません。
 特攻隊員でもっとも若い者は16、17歳であり、少女たちより二、三歳上に過ぎないのです。そうした若者たちが日本を救うために明日にはその身を敵艦上に爆裂させるかもしれないという切迫した状況が、少女たちを深く感銘させ、その感銘がまた少女たちの献身を引き起こしたのです。いわば特攻隊員の自己犠牲の崇高な精神が彼女たちに無償の奉仕という対価を求めぬ純粋な献身行動を呼び起こしたとも云えるのです。
 そして永崎はさらにこう続けます。
 「皆様の遺書や書簡を読ませていただき、あらためて現実の出来事のように、ありし日のあの方、この方をしのび、多くの若者を失ったあの戦争とはいったい何だったのだろうかと、新たな感慨に胸が締め付けられる思いでございます。生と死の狭間のなかで苦悩しながら、永遠の平和を願い、国の護りに殉じていった若い人々のために心から涙を流した愛惜の日々は、私たちの頭から生涯消え去ることはないでしょう」
 大東亜戦争は日本史上最悪の出来事でした。死者の総数は310万人を超え、日数でならすと一日に約2,300人の死者が出た計算になります。これほどの大悲劇はありません。ただその大悲劇の中で、唯一清冽な想い出を歴史に刻んでくれたのが特攻隊の若者たちの愛と勇気に満ちた身の処し方であり、このことは日本史がつづく限り、民族の誇りとして語り継がれてゆくに違いありません。
 戦争を経験せずに真の平和はあり得ないとされています。まだ逆に平和を獲得するのが戦争だという考えもあります。しかし戦争と平和の問題は個々に独立した概念として把握されるべきではなく、常に歴史の連続性の中で確認されねばならぬ最重要な国家的課題であり、永崎もその点を次のように説いています。
 「いま私たちが手にしている平和が、数多くの人生とかけがえのない青春の上に築かれていることを忘れ、自分の利害だけで、権利ばかりを主張して責任を果さない風潮が一般的になったと、よく人々から聞かされるようになりました。こんなとき、平和を願い、すべての私情を断ちきって短い人生を終えていった特攻隊員を、その出撃直前まで目のあたりにしてきた人々の中から、『歴史の証言として何かを残すべきではないか』という声がもちあがりました。それもある思想的な立場からの作為のもとに粉飾されたり、無意識のうちに変ってしまったものではなく、その時、その状況の中で真剣に綴られた生のままを残したほうがよいのではないかということでした」
 この群青というタイトルには、特攻隊員が出撃して征った沖縄の青い海や空がイメージされていることば確かですが、それよりも平和な時代の限りなく優しい海や空の青を思い描き、祖国防衛戦争にその尊い命を捧げた特攻隊の若者たちの自己犠牲の崇高な精神を、日本民族がつづく限り、永遠平和のために未来永劫語り継いでゆこうという強い意志がこめられているに違いありません。それゆえ永崎は次のように記してこの「まえがき」を閉じています。
 「本書は、還らざる方々の魂の証と、ささやかながら私たちの心の軌跡をまとめたものです。特攻隊に関する本は少なからず出版されていますが、数ある太平洋戦争史の大河の流れの一しずくとして、心ある方がもし拾いあげてくがさるならば、これにこした喜びはありません」
 本書が他の特攻関連の本と一線を画するのは、陸軍特別攻撃隊の若者たちと知覧高女の乙女たちの清楚で涼やかな心の交流が全編の至るところににじみ出ていることにあり、本書を心読すれば、当時の青春はこれほどまでに純粋で美しかったのかと強い感動に襲われるに違いありません。本書は特攻隊員の壮烈な遺書・遺稿を掲載しながら、それが壮烈であればあるほど、知覧高女の乙女たちの精神のたたずまいの美しさが際立ち、巧まずして平和の尊さを読む者の心に深く静かに訴えかける、稀有の鎮魂の書となっているのです。
 本書には、知覧高女の乙女たちの見た特攻出撃の光景が哀切に描かれています。たとえば永崎笙子は満開の桜の中を出撃して征く特攻隊の哀しいまでに美しい光景を次のように記しています。
 「ある日、私たちは当番兵から、徳之島前進の特攻機におにぎりを二個ずつ積むように言われました。徳之島前進というのは、航続距離の短い特攻機のために、徳之島を中継基地として出撃するため、知覧基地を飛び立って徳之島へ集結することを意味します。
 ただ、おにぎりを配るだけでは、どうしても私たちの気持ちをあらわすことができないような気がして、機中の隊員の方に桜の小枝を差し上げましたところ、隊員の方にたいへん喜ばれ、『ありがとう、ありがとう』と何度もくりかえしいわれました。その様子から、『時がくれば何の未練もなく散っていく桜のように、武士のいさぎよさを見た』と言った人もいました。それ以来、私たちは出撃する特攻機の操縦席を、桜の花で飾るようになりました。当時、知覧は桜の花盛りでした」
 俗謡に「富士と桜の日本によくぞ男と生まれける」とありますが、日本男子にとって桜ほどふさわしい花はありません。『仮名手本忠臣蔵』に「花は桜木、人は武士」とありますが、特攻隊の若者たちも自分は現代の武士であると堅く信じていましたから、この言葉には大いに魅かれましたが、これ以上に特攻隊員が共感したのは「花は散り際、武士は死に際」という言葉でした。ひとたび出撃した特攻隊員に残されたことは存分に戦って潔く死ぬことだけであり、それゆえ死に際の見事さを彼らは切に願ったのです。
 また彼らは出撃前の壮行会では必ず「同期の桜」を歌いました。「咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ、国のため」という文句ほど、彼らの特攻魂をたぎらせ、かつまた彼らに清冽な詩情を与える文句はありませんでした。そして彼らは「散るのは覚悟」と歌いきることによって、特攻死というものが決して恐怖であるばかりでなく、華と散ること、即ち散華の美学と直結することを理屈としてではなく、感覚として理解できたのです。
 さらに桜についていうなら、彼らが好んだ句は「散る桜、残る桜も散る桜」であり、「風吹かば、かねて覚悟の桜かな」でした。桜の花が真に美しいのは満開の時よりも花吹雪となって散り急ぐ時であり、宗宮亮平(陸軍特別攻撃隊飛行第六十六戦隊、昭和20年6月6日、出撃戦死、少年飛行兵、岐阜県、20歳)という若者は、日記の最後に、
 「身を清廉潔白に保ち、若桜の一陣の春風に散るが如き最期を遂げたきものなり」
と記して出撃して征きました。特攻隊の若者たちがいかに潔い死を望んでいたか、この清冽な一文を読めば誰でも納得がゆくでしよう。知覧高女の乙女たちが贈った一枝の桜ほど若い特攻隊員たちを元気づけたものはなく、特攻機の操縦席に桜を持ち込んだ彼らは、桜と共に散華できることを無上の喜びとし、日本武士の誇りを胸に敵艦めがけて突入して征つたに違いないのです。
 そして永崎は眼前に見た特攻出撃の光景を次のように記しました。
 「4月12日
  今日は晴れの出撃、征きて再び帰らぬ神鷲と私達をのせた自動車は誘導路を一目散に走り飛行機の待避させてあるところまで行く。途中『空から轟沈』の唄の絶え間はない。先生方と隊長機の擬装をとってあげる。腹に爆弾をかかへた隊長機のプロペラの回転はよかった。本島さんの飛行機もブンブンうなりをたててゐる。どこまで優しい隊長さんでせう。始動車(当時の飛行機は発進のときプロペラの回転が自動でできず、始動車によって始動した機が多かった)にのせて戦闘指揮所まで送られる。うしろを振り返れば可憐なレンゲの首飾りをした隊長さん、本島さん、飛行機にのって振り向いていらっしやる。桜花に埋まった飛行機が通りすぎる。私達も差上げなくてはと思って兵舎に走る。途中、自転車に乗った河崎さんと会ふ。
 桜花をしっかり握り一生懸命駆けつけた時は出発線に行ってしまひ、すでに滑走しやうとしてゐる所だ。遠いため走って行けぬのが残念だった。本島機が遅れて目の前を出発線へと行く。と隊長機が飛び立つ。つづいて岡安、柳生、持木機、九七戦は翼を左右に振りながら、どの機もどの機もにっこり笑った操縦者がちらっと見える。二十振武隊の穴沢機が目の前を行き過ぎる。一生懸命お別れのさくら花を振ると、にっこり笑った穴沢さんが何回と敬礼なさる。パチリ……後を振り向くと映画の小父さんが私たちをうつしてゐる。特攻機が全部出て行ってしまふとぼんやりたたずみ、南の空を何時までも見てゐる自分だった。何時か目には涙が溢れ出てゐた」
 知覧高女の生徒たちは、こうした別れを毎日のように体験したのです。彼女たちにとって特攻出撃は勇壮なものであると同時に、お世話した若者たちとは二度と会えぬことが定められた惜別の哀しみに満ち満ちたものでもあったのです。
 さらに永崎は出撃にまつわる次のような親子の哀切な別れも記しています。
 「ある日のこと、搭乗したばかりの特攻隊員のところへ息せききって走りよる初老の男の方がいらっしゃいました。ふたことみこと言葉を交してから着ていた羽織の紐をもぎとると、それを隊員に差し出し去した。二人は手を固くにぎりしめたまま、身じろぎもしないで思いをこめた眼差しを交していました。その様子から、その男の方が隊員のお父様であることがわかり、胸があつくなりました。
 やがて羽織の紐を乗せて特攻機は飛び立ちましたが、機影が開聞岳の向うへ消えたあとも、乱れた羽織姿のままで南の空をいつまでも見つめながら、悄然と立ちつくしておられました。親子のきずなを羽織の紐に託して永遠の別れを告げられたその情景に、私たちは思わずもらい泣きをしてしまいました」
 特攻は見方を変えれば、すべて哀切な別れのドラマといえます。両親との別れ、兄弟姉妹との別れ、妻子との別れ、恋人との別れ、あるいは戦友や朋友との別れといったように、徹頭徹尾、特攻は愛と別れのドラマといえるのです。そしてさらに永崎はこの日の出撃光景を続けます。
 「離陸した特攻機は、飛行場の上空を旋回しながら隊別に三機編隊を組み、編隊を組みおえると機首を戦闘指揮所へ向けて急降下をしました。そして、みんな一様に三回、翼を左右にふりながら最後の別れを告げると、急上昇して開聞岳の彼方へ消えていきました。
 基地に残った隊員や整備兵たちは、いっせいに帽子を振り、私たちも桜の枝やハンカチを振って見送りました。機影が見えなくなってからも、私たちはしばらく呆然と立ちつくし、そのあとで急に襲ってくるはげしい悲しみに堰を切ったように泣きだしました。
 でも私たちは涙のかわかないうちに、まだ次に到着される特攻隊の方々をお世話しなければなりませんでした。そんな悲しみに堪えながら三角兵舎へ戻ることがたびたびでした。寒々と静まり返った兵舎内に足をふみ入れますと新たな思いにかられて、とめどもなく涙が頬を流れ落ちました」
 このように優しい乙女たちに見送られたことは、特攻隊の若者たちにとっても何物にも代えがたい喜びであったことでしょう。彼らにとっては、この別れが生きる喜びを感じた人生最後の体験となったのです。そしてこの離陸から長くとも二時間か三時間で彼らの人生は終わりを告げることになるのです。しかも彼らは心身ともに健康で、本来なら夢と希望に満ち溢れた二十歳前後の青年なのです。この一事を捉えても、特攻隊を美化したり、戦争を肯定したりすることが、人間性の尊厳を否定する不遜な考えであることが自ずと明らかになるのです。
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tecchaso1988 · 3 years
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#読書 #世界最先端8社の大戦略 #田中道昭 ⁡ ⁡ 「いま、世界は信じられないほどの速さで変化している。5年前はスマートフォンを持っている人は少なかった。今となっては、スマートフォンがなかった時代に、どうやって生活していたのか思い出すのも難しい。5年後、いまとはまったく違う未来が待っている。」(#高城剛 2014年3月) ⁡ この本を読んでいて高城剛さんが見据えていた未来を思い出しました。 ⁡ 四季運 冬の今 3年間の準備を終えて 四季運が3年間 春 になる壬寅年から 一気に色々と形になっていくと思います✨ ⁡ ⁡ #読書メモ #イノベーションは経済的に厳しい時に加速して起きその力は解き放たれ経済が復活しはじめるそして力強い新たなテクノロジーの変化の波を先導していく #新型コロナを機に私たちは2ヶ月間で2年分のデジタルトランスフォーメーションが起こるのを体験した #非デジタルネイティブ企業でありながらDXに成功したウォルマートは非デジタルネイティブが多い日本企業が最もベンチマークすべき企業 #どこにでもいるような人が集まって誰にでもできないことを成し遂げたウォルマートがDXで最も重要とした作業はデジタルで人と繋がること #この1年間で最もDXが進んだウォルマートは5年以内に全米トップ10の広告プラットフォームになる #テスラは自動車メーカーではなくクリーンエネルギーのエコシステムを構築する企業そのミッションとビジョンは人類を救済するというスケールであり単なるEVメーカーではない #今まで実現させると言ってきたことは全て実現するだろうと信じてきたイーロンマスクにとってスケジュールを厳守することは最重要ではない #テスラは顧客ニーズからスタートしないテスラのミッションに基いたマスタープランに従って企画開発を突き進む #テスラ車は常時インターネット接続されておりスマホのようにソフトウェアをアップデートすることにより車というハードの刷新なしに性能を高め続ける #テスラは自動車産業の伝統的な企業がハードウェアで競っている傍らソフトウェアで儲ける構造をいち早く構築しようとしている #車を売ったら終わりの自動車メーカーと車を売ったあともソフトウェアのアップデートで利益が得られるテスラとでは収益機会がまったく違うのでテスラは自動車価格をどんどん下げられる #3年以内にテスラと共にアップルが自動車業界をデジタル化し破壊する #アップルはスマートカーを中心に置いた新しい生活様式のエコシステムを構築する #ティムクックが推し進めているのは社会的に正しいこと企業と社会ひいては人類が持続的に発展していくことの追求 #イノベーションを起こすのはいつもトレイルブルドーザー #こういう社会でありたいこういう社会に変革していきたいという願いをコアバリューに込めそれを社員が実践し社会の文化を創り出す #拡張現実AR仮想現実VRの次にくるテクノロジーはマイクロソフトが先導する複合現実MR #リアルとバーチャルを融合させるアジェンダは完成している #デバイスを意識することなくデバイスに縛られずにコンピュータを利用する技術アンビエントコンピューティング #本物のブランドになるには文化ブランドになることが不可欠だ #アマゾンはあらゆる産業を飲み込むエブリシングカンパニーの次なるターゲットはヘルスケア業界 #目が見える人は三次元のものを二次元化して捉え目が見えない人は三次元のものを三次元のまま捉えておりそもそも二次元的なイメージは概念として持っていない #本質的でインパクトがあり強く好ましくユニークなものであることを生命線とすること #もしアマゾンのジェフべゾフが自分の会社の社会だったらどんなデジタルシフト戦略を考えるだろうか? #今の日本の必要なのは国家としてのグランドデザイン https://www.instagram.com/p/CS6fyzopShs/?utm_medium=tumblr
#読書#世界最先端8社の大戦略#田中道昭#高城剛#読書メモ#イノベーションは経済的に厳しい時に加速して起きその力は解き放たれ経済が復活しはじめるそして力強い新たなテクノロジーの変化の波を先導していく#新型コロナを機に私たちは2ヶ月間で2年分のデジタルトランスフォーメーションが起こるのを体験した#非デジタルネイティブ企業でありながらdxに成功したウォルマートは非デジタルネイティブが多い日本企業が最もベンチマークすべき企業#どこにでもいるような人が集まって誰にでもできないことを成し遂げたウォルマートがdxで最も重要とした作業はデジタルで人と繋がること#この1年間で最もdxが進んだウォルマートは5年以内に全米トップ10の広告プラットフォームになる#テスラは自動車メーカーではなくクリーンエネルギーのエコシステムを構築する企業そのミッションとビジョンは人類を救済するというスケールであり単なるevメーカーではない#今まで実現させると言ってきたことは全て実現するだろうと信じてきたイーロンマスクにとってスケジュールを厳守することは最重要ではない#テスラは顧客ニーズからスタートしないテスラのミッションに基いたマスタープランに従って企画開発を突き進む#テスラ車は常時インターネット接続されておりスマホのようにソフトウェアをアップデートすることにより車というハードの刷新なしに性能を高め続ける#テスラは自動車産業の伝統的な企業がハードウェアで競っている傍らソフトウェアで儲ける構造をいち早く構築しようとしている#車を売ったら終わりの自動車メーカーと車を売ったあともソフトウェアのアップデートで利益が得られるテスラとでは収益機会がまったく違うのでテスラは自動車価格をどんどん下げら#3年以内にテスラと共にアップルが自動車業界をデジタル化し破壊する#アップルはスマートカーを中心に置いた新しい生活様式のエコシステムを構築する#ティムクックが推し進めているのは社会的に正しいこと企業と社会ひいては人類が持続的に発展していくことの追求#イノベーションを起こすのはいつもトレイルブルドーザー#こういう社会でありたいこういう社会に変革していきたいという願いをコアバリューに込めそれを社員が実践し社会の文化を創り出す#拡張現実ar仮想現実vrの次にくるテクノロジーはマイクロソフトが先導する複合現実mr#リアルとバーチャルを融合させるアジェンダは完成している#デバイスを意識することなくデバイスに縛られずにコンピュータを利用する技術アンビエントコンピューティング#本物のブランドになるには文化ブランドになることが不可欠だ#アマゾンはあらゆる産業を飲み込むエブリシングカンパニーの次なるターゲットはヘルスケア業界#目が見える人は三次元のものを二次元化して捉え目が見えない人は三次元のものを三次元のまま捉えておりそもそも二次元的なイメージは概念として持っていない#本質的でインパクトがあり強く好ましくユニークなものであることを生命線とすること#もしアマゾンのジェフべゾフが自分の会社の社会だったらどんなデジタルシフト戦略を考えるだろうか#今の日本の必要なのは国家としてのグランドデザイン
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daiichinichiyou · 6 years
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第1回 勉強会れぽ 2018年3月31日
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  (会場となった京都市立芸術大学 芸術資料研究センター)
毎月第1日曜日(もしくは土曜日)に京都市立芸術大学で開催する、勉強会。みんなで「ものしり」になることを目標に、ゆるっとおこなっています。
今回のれぽ担当者は佐々木です。(出席者:岡本、大槻、豊増、西原、佐々木)
——テーマについて
第1回目は「富岡鉄斎」がテーマでした。
2月の作品展で主催の岡本さんの作品を見て、橋本関雪や富岡鉄斎がおもしろいのではないかと教えてくださった方がいらっしゃったことがきっかけとなり、今回の勉強会の開催にいたりました。
富岡鉄斎(とみおかてっさい、1837-1924年)について、簡単に説明します。
『日本美術館』(小学館、1997年)を参照すると、 「新しい概念や制度から距離を保ちつづけた最後の文人」 と書かれています。
鉄斎の作品についてはこちら
近代の絵画では南画・文人画はあまり好まれず、制度的にも冷遇されるようになりました。
そのような時代のなかで、鉄斎は「詩書画三絶(漢詩、書、画、いずれも超絶していること)」の書画を描き、美術団体からは距離を置いて、徳を高める生活をおくっていました。
鉄斎は西洋のセザンヌに匹敵するほどの役割を果たした最後の文人画家であったそうです!
——課題図書について
さて、今回の課題図書は、戦暁梅『富岡鉄斎の画風についての思想的、藝術的考察 : 鉄斎画の賛文研究を通じて』です。
戦暁梅『富岡鉄斎の画風についての思想的、藝術的考察 : 鉄斎画の賛文研究を通じて』
鉄斎に関する文献は多くありますが、この本は鉄斎の絵画論に注目しているのが特徴的です。
作品の画と賛文とを分けて論じてきたこれまでの研究に対して、鉄斎の「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」という発言をとりあげて、画と賛文をともに読み解く試みがなされています。
第一章では、文人画家である鉄斎の生涯とその陽明学の思想が整理されており、鉄斎の性格や生き方が読み取ることができます。
第二章からは具体的な作品をとりあげて、画題と賛文の関係を探っています。
ところどころに日本と中国の文人画の紹介があり、興味を広げやすいテキストでした。
——文人画について
文人の余技として芽生えた文人画は、北宗と南宗とで系譜が分かれていきます。
詳細にいうと、まず、山水画には清時代まで大きく二つの流派がありました。 華北系・李郭(りかく)派と江南系・董巨(とうきょ)派です。 江南系・董巨(とうきょ)派から生じた文人画は、明中期から盛んになります。 さらに明末期に董其昌(とうきしょう)が南宗を高く評価したことがきっかけとなり、北宗=職業画家に連なる系譜、南宗=文人画家(董源・巨然から元末四大家)に連なる系譜という図式ができます。 元末四大家の作品はこちら
これらが日本に伝わり、日本では「南画」として発展します。
日本文人画としては富岡鉄斎が最後の巨匠となり、その後は南画においては伝統技法が継承されてきたようです。
——鉄斎の評価について
海外での評価について、まず、鉄斎はアメリカ、ヨーロッパどちらで先に評価されたのでしょうか。
1957年に開催された「アメリカの鉄斎展」では、 批評家が鉄斎と「抽象的表現主義」との関係性を示しています。
以下、引用  そして最近日本から帰ってきたメトロポリタン美術館極東美術部長のアラン・プリーストの言によれば、「鐡斎の美術史的位置がセザンヌのそれに相応することは、日本人も西洋人もともに認めるところである。 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の美術批評家、エミリー・ヂェナウァー——『東洋の藝術家の古典的理念であるところの「典雅なる精神の表現」が、鐡斎の真骨頂で、しかも、鐡斎の精神は、典雅なるのみならず、陽気で愉快であり、そこに鐡斎の魅力がある。』更に、ヂェナウァーは、三人の賢者が同じ舟に乗っている「聖者舟遊図」や、儒・道・佛の三宗教の代表者を示した面白い「三老吸酢図」を例にとって、鐡斎の魅力の根拠としての「フモール」について述べた。 ニューヨーク・タイムズ紙美術批評家のハワード・デヴリー——『鐡斎展について言えば、遠い中国絵画の伝統の趣を留めながらも、その個性と熱情との力により、例えば風景画に於けるボカシの仕方など、今日の表現主義的手法に近い感がある。いや、あちこちにフォーヴ的筆致もある。色彩は豊富ではないが、有効にアクセントを与え、空間処理と本質的に抽象的な形体の把握とは驚くべき完璧度に達している。タイム誌は『聖者周遊図』を掲げ、『鐡斎の作品は、日本画の精緻優雅な伝統から、大胆にも抜けだして、荒々しくも衝動的な筆遣いを用い、もはや東洋的といわんよりは西洋的な感じを起こさせる。…その筆力のほとばしる所、今日西洋で「抽象的表現主義」と呼ばれている、あの近代絵画の原型を、誇らかに示すのである』* (本文、7頁より) (*は レスリ・J・ポートナー氏「アメリカの鐡斎展」『藝術新潮』第8巻第7号、1957年7月より)
1957年ごろといえば、ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning, 1904-1997年)の『女』シリーズがすでに発表されていた時期です。
たしかに鉄斎の晩年の力強い筆跡には、共通点が見られるかもしれません。
一方、鉄斎の画風からの繋がりで考えると、 アンドレ・ドラン(Andre Derain, 1880-1954年)に代表されるような フォーヴィスムを連想することもできます。
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  (勉強会の様子) 具体的なものを立体物として写実的に描くのではなく、 むしろ光との関係といった見え方の本質を捉えた表現を追求した点に、 鉄斎との類似性があるのではないかと考えました。
日本においては、岡本太郎をはじめとする画家たちに一定の評価を得ている点も鉄斎の高評価の理由です。
——鉄斎の人間性について
第一章では鉄斎と陽明学との関係がくわしく述べられています。
陽明学は朱子学から発展したものですが、より人間の心や情を重視しました。
王陽明は、あるべき姿である「理」と、人間的な「心」は相反するものではなく、むしろ、人間的な「心」こそ規範となるべきであると説きます。
人間の直感感覚を肯定しており、人間の情の側面を重視する態度がみられます。
もともと鉄斎は「石門心学」という学問を学んでいたのですが、 その思想は、人間の本質に関わる部分においては陽明学ととても似ていました。
そのため、鉄斎は若い頃に陽明学に傾倒します。
鉄斎は生涯において「言行一致」「知行合一」を追求しました。
さまざまな相反するような思想をも自身のなかに取り入れ、吸収していく器の大きい性格だったことがうかがえます。
社会活動に熱心で国粋主義的な一面もあったことは、自由な制作活動を展開する鉄斎のイメージとはまたちがった印象を受けます。
もちろん、時代の波があり、作風も年代に沿って変化していく様子がみられます。
余談ですが、年齢による作風の変化というものはやはりあって、花鳥画のように繊細な絵になると、年をとるにつれて描きにくくなると一般的に言われています。
禅の作品などに共通して見られるゆるやかな曲線などは、年齢を重ねた身体の変化によるものでもあったのだろうかと考えさせられます。
——セザンヌとの比較
さきほど、新印象主義との関連性を述べましたが、テキストでは鉄斎とセザンヌとの関係性について、「輪郭を無くした混沌味」と「鮮やかな色彩」が共通点としてあげられています。(本文、8頁)
「輪郭を無くした混沌味」とは、たとえば作品《浮島原晴景》において、境界線は明示されず、色彩の明度によって対象の立体感を表しているが、その境界はぼかされ、細部は見えなくなり、全体の統一感が重視される様子と言うことができるでしょうか。
とはいえ、鉄斎の作品では部分のモチーフがある程度確認できるため、平面性が見られる点において、セザンヌのとの類似性が指摘できます。
また、鉄斎の作品においては、細かな線によってびっしりと画面が埋め尽くされるように描かれていることも特徴的です。
——《三聖吸酢図》(50代)について
さて、第二章からは、具体的に画と賛文を同時に見ることで、作品の解釈をおこなっています。
気になったのは、鉄斎50代のころの作品《三聖吸酢図》についての部分。(本文、41,42頁)
この「三聖吸酢図」の画題は鉄斎が40代から80代にいたるまで描きつづけたものでした。
三聖とは、道教の黄山谷、儒教の蘇東坡、仏教の佛印のことです。
佛印が訪れた黄山谷と蘇東坡に、上等な桃花酸(お酢)を差し出し、味見しようと誘います。
そのとき3人がそのお酢を味見して、3人ともそのお酢によって眉をしかめたことから、三教の説くところは異なるけれども、起源は同じだということを意味します。
賛文には以下のような意味が書かれています。
老子は、好んで清らかにして虚しきものを談じ、釈迦は専ら舎利を説く。孔子がこれを聞いて笑いこけている。(本文、41頁)
これまでの指摘では、「三聖吸酢図」についての内容ではないため、画と賛文が一致しないと考えられてきました。
ここで、筆者は画に注目し、「三聖吸酢図」ではありつつも、そのなかでも桃花酸(お酢)に興味を示している場面を描いているとし、 そのため、一見賛文は異なる内容を書いているようには思えるが、好奇心や面白みといった内容から考えると、同じことを追求していると述べます。
この面白みというのは難しく、主観的な意見であり、話し合いでは完全には納得できなかった部分です。
もともと画賛は画家本人ではなく、別の人が書くものでした。画と賛文の関係も興味が尽きない題材です。
——広がりとして
話し合いの結果、持ち帰って、 今後調べていくことになったのは以下の2つです。
①文人画 テキスト中には、中国文人画の「京派」「海上派」「嶺南派」が取り上げられていました。
そもそも文人画とはということを、遡って学びたいと思います。
②「写意」 テキストに「写意」という言葉が出てきたのですが、 これは家に帰って、
蘇軾 「形似」に対する「写意」(西洋の抽象表現主義に相当)
(中国絵画史ノート 宋時代 北宋花鳥画の革新 文人画の芽生え、http://www.geocities.jp/qsshc/cpaint/china9.html、2018年4月2日アクセス)
というものを知りました。
勉強会中では、この「写意」とは、たとえば岸田劉生がいう「質の実感」こそむしろ「写実の美」と考える思想のことだと考えていました。
(ちなみに岸田の思想は以下を参照 物体の正面から光線を与えて、影を作らぬと、その物体は厳しい写実的画境を与えられる。それに反し、そこに多くの影を造るときはそこには厳しさのかわりにロマンチックな感じが生じる。
西洋の美術が多く、美を厳粛なる写実境に見出せず、ロマンチックなところに求めたのは、その材料が皮想の如実感を出すに適し過ぎたが為ともう一つはその民族の科学的気凛に基するものという事が出来る。
(岸田劉生「東西の美術を論じて宋元の写生画に及ぶ」『岸田劉生美術思想集成 うごく劉生、西へ東へ 後編・「でろり」の味へ』書肆心水、2010年、190頁)
この文では岸田は、西洋の美術のように陰影をしっかりと描き、あたかも3次元空間に立っているかのように描くものは、ロマンチックな感じが生じると述べています。
しかし、東洋画では陰影を描かず、厳しい写実的画境を描き出します。
そこでは、形を超えた精神を描き出していると言えます。
質の実感も無論、形を超えたものである。美である以上それは形ではない。只心に影ずる時も、又それが表現される時も、形に宿るだけである。畢竟美とは形に宿る形以上の形である。かくて質の美は質の与える美的精神的感動である点で更に深きものと同じく無形である。しかし、更に深き美術の域の美的感動はその感じに於ては形に即さない。[中略]つまり、何が美しいというのではない。物の美ではない。作に籠る精神、又は画因に宿る精神と言うてもよい。
(岸田劉生「写実論」『岸田劉生美術思想集成 うごく劉生、西へ東へ 前編・異端の天才』書肆心水、2010年、227頁)
そのようなわけで、この「写意」については、「蘇軾 「形似」に対する「写意」(西洋の抽象表現主義に相当)」という意味があることを知り、これについては今後もくわしく調べていきたいと思います。
——余談
これから読みたい本
戦暁梅『鉄斎の陽明学』 (今回のテキストの同著者の本。興味が広がる)
岡﨑乾二郎『抽象の力』 (「写意」つながりで) 東田雅博『シノワズリーか、ジャポニスムか : 西洋世界に与えた衝撃』 (この図書自体が受けている影響について理知的に考えるため)
村山斉『宇宙は何でできているか』 (参加メンバーのおすすめ、ダークマターについて。鉄斎とは特に関係はない)
竹浪遠 『唐宋山水画研究』 (京芸の愛すべき東洋美術史の先生の著書。今回扱った近代とは時代が離れているのが残り惜しい)
『中国近代絵画と日本���京都国立博物館 編 (「海派」と「京派」について書かれている。わかりやすい。別の記事で紹介します)
「石岡さんと本屋に行こう!」http://www.kaminotane.com/series/1386/ (こんなふうに本が読めるようになりたい)
西槇偉『中国文人画家の近代 ――豊子愷の西洋美術受容と日本』 (受容研究の参考になった本。とてもよい。なにがよいかというと、豊子愷の絵からは愛情しか感じない。目の保養になる。そんな図版がたくさん。それから、作品記述がまるで物語のよう。こんな記述ができるようになりたい)
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  (桜がきれいに咲いていました)
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lubitelecaster2 · 5 years
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韻、偶然性、並行世界 ーー相対性理論の歌詞における主体性の変容と分離
 はじめに、相対性理論という音楽ユニットについて少し説明をしておく必要がある。ここで取り上げる相対性理論とは、アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)によって提唱された物理学における理論のことではなく、2006年に日本で結成されたポップミュージックユニットのことを指す。結成当時は四人組のバンド編成であったが、現在、当初のメンバーとしてはやくしまるえつこ(Vo)と永井聖一(Gt)のみが所属し、他メンバーは入れ替わったりパートの数を増やしたりしながら活動を続けている。
 結成時から一貫してユニットの中心人物として存在しているのがボーカル担当のやくしまるえつこである。初期(1stアルバム『シフォン主義』(2007))の頃にはメンバー全員で作詞作曲を行なっていたが、初期メンバーであった真部脩一(Ba)と西浦謙助(Dr)の脱退以降(4thアルバム『TOWN AGE』(2013)~)、ほとんどの楽曲の作詞作曲を手がけるようになる。2009年以降、やくしまるはソロ活動も積極的に展開しており、他アーティストへの楽曲提供や共同制作などを精力的に行なっている。
 以下では相対性理論による楽曲の歌詞における「主体性の変容と分離」という点に注目して論を進めていく。特に本稿ではやくしまるの作詞に焦点を当てて考察を行う。2ndアルバム『ハイファイ新書』(2009)以降、彼女は作詞作曲時の名義を���ィカ・α、あるいはTica・αに変更しており、やくしまるえつことは別の人格を設定している。その名義の使い分けと彼女の歌詞における主体性の問題は、同期的なものとして考えられるからだ。
 
◇エイドーロンーー”idol”の語源的考察
 以下では具体的な楽曲を取り上げてその歌詞の構造を分析していく。本節では『TOWN AGE』から、三曲目の「YOU & IDOL」という一曲を中心に見てみよう。
相対性理論『YOU & IDOL』MV https://www.youtube.com/watch?v=FYtBA-1eXhE
――――――――――
【サビ】 あなたそれはYOU 有名人なの
     わたしそれはI 愛のラビリンス
【A】   気づかないような気づいてるような
     勘違いかな本当かな
     キスしたいなら貢いじゃってね
     段違いな夢 見せてあげるわ
【B】        好き・嫌い・好き・嫌い・好き・嫌い・好き・嫌い・好き
                  好きみたい・好きじゃない・好きって何だろう
【サビ】 あなたそれはYOU 優柔不断な
     わたしそれはI 愛の戦士な
     あなたそれはYOU 憂鬱気取った
     わたしそれはI 愛のラビリンス
【A】   見た目上々 味は濃厚
                  味見ついでにグラス空ける
【B】   あなたは来る・来ない・来る・来ない・来る・来ない・来る
                  狂ったように繰り返す 夏のエンドロール
【C】   お茶して笑い合って喧嘩する
                  あたりまえの青春に恋してた
【サビ】 あなたそれはYOU 有名人なの
     わたしそれはI 愛の戦士な
     あなたそれはYOU 夕日に隠れた
     わたしそれはI 愛のラビリンス
――――――――――
 上記に歌詞の全文の引用と、メロディの振り分けがどのようになされているかを示した。まずはサビの部分について見てみよう。三回繰り返されているサビの歌詞では、「わたし」と「あなた」の混交および循��が起こっている。どういうことだろうか。
 冒頭、一回目のサビでは「あなた=YOU=有名人/わたし=I=愛のラビリンス」となっており、「あなた」と「わたし」はそれぞれ独立した存在として記述されている。ところが二回目のサビにおいては「あなた=YOU=優柔不断なわたし=I=愛の戦士なあなた=YOU=憂鬱気取ったわたし=I=愛のラビリンス」、三回目のサビでは「あなた=YOU=有名人/わたし=I=愛の戦士なあなた=YOU=夕日に隠れたわたし=I=愛のラビリンス」となっている。
 つまり太字で記した部分の主体を「わたし」=「あなた」として読み取ることができる。それは「優柔不断な」や「憂鬱気取った」というフレーズが、次行の「わたし」や「あなた」という主体を修飾する形容詞句として機能しているからだ。
 このように歌詞を見てみると、「わたし(I)」と「あなた(YOU)」という二人の主体のみがあるように見える。しかしこの楽曲のタイトルは「YOU&IDOL」となっている。そこでこの”IDOL"とは一体どの主体を指しているのだろうか。
 ”idol”とはもともと、崇拝の対象となる偶像や聖像のことを意味する語であるが、現在の日本においては、理想の対象となるいわゆる有名人や芸能人といった人物を指す方が一般的だ。そこでこの曲のサビにおける「あなたそれはYOU 有名人なの」というフレーズに注目してみると、「あなた」は閉じた主体性として提示されていると捉えることができる。このフレーズを素直に受け取るならば、曲名の”IDOL”とは「あなた=YOU」である。しかし二、三回目のサビを見てみると、「わたし」と「あなた」の主体性が相互に溶け合っている部分がある。「あなた」は「優柔不断なわたし」であり、「わたし」は「愛の戦士なあなた」なのだ。ここで再び”idol”という語についての検討を行ってみよう。
 “idol”の語源はギリシャ語の”eidôlon(以下、エイドーロン)”であり、またその語源は”eidos”まで遡る。”eidos”はアリストテレスによる哲学用語として「形相」と訳されるのが一般的だが、外見、見た目といった意味も含んでいる。そしてエイドーロンは、幻や映像、理想像といったような意味を示す語である。古代ギリシャ、ヘレニズム期の哲学者であるエピクロス(B.C. 341-270)はこのエイドーロンについて、原子論について論ずる流れの中で思索を展開している。彼はその定義について、ある固体と類似した形に象られたもの(テュポス)であり、もとの固体が持つ一連の順序だった配列と秩序を保ち続けている希薄な剥離物(アポスタシス)であると記している[1]。さらにあらゆる表象像(パンタスマ)は、このエイドーロン(映像)が凝集して生じるのだとも述べている。[2]
 ここで注目すべきは、エピクロスが表象像に先立つものとしてエイドーロンの存在を認めていることである。エイドーロンとは私たちが何かしらの対象を認識する際にその対象から発せられるものであり、それが私たちの感覚器を通じて内部に入り込むことによって、対象を知覚可能なものとする。彼は表象を作り上げるこのエイドーロンの特徴として、もとの対象に備わっている属性がそのままエイドーロンにも受け継がれることの連続性を強調している(この考え方は、絶対的に安定して存在するアトムについて述べる彼の原子論に由来している)。
 さて、エピクロスによるエイドーロンについての思索を概観したところで先ほどの歌詞へと戻ることにする。ここで起きている「わたし」と「あなた」の境目が曖昧になるという事態は、正確には「わたし」による「あなた」のイメージの取り込みである。「あなた」という対象から放たれるエイドーロンは「わたし」の内部へと入り込むことで、相互の主体性は混ざり合い、循環する。それはあくまでも「わたし」の視点において、その内部で起こっていることだ。その根拠となるのは、全てのサビを締めくくるフレーズが「わたしそれはI 愛のラビリンス」で一貫しているという点だ。「わたし」は、映像としてしか捉えることができない偶像化した「あなた」に同一化したいと願うことしかできず、迷宮の中に囚われている。
 そしてもう一つ、この歌詞における迷宮の構造を別の形で言い換えている部分がある。それはBメロにある「狂ったように繰り返す 夏のエンドロール」という箇所だ。この二箇所における反復という主題およびエンドロールというモチーフによって、「わたし」の��いの届かなさが強調されているとともに、失恋後の心情を綴ったものであるという解釈が可能となる。さらには先ほど太字で示したサビの部分において、「わたし」を修飾する語が「優柔不断な」、「憂鬱気取った」、「夕日に隠れた」と比較的ネガティヴな意味合いを帯びていることもその解釈に至ることを助けていると言えるだろう。
 ここまで、楽曲における語の意味とその循環的な構造を中心に考察を行ってきたが、その構造を作っている形式的な特質についても論じておこう。今ほど例に挙げたBメロの「狂ったように繰り返す」というフレーズは、直前にある「来る」という語の音(=kuru)と韻を踏み、接続されている。そして「狂ったように繰り返」されているのは「好き・嫌い…」、「来る・来ない…」というBメロのフレーズでもあるのだ。そしてまたサビにおける「I」は「愛の戦士」の「愛」の音(=ai)で結びつき、「YOU」は「優柔不断」、「憂鬱」、「夕日」の頭文字である音(=yû)によって接続されている。
 こうした韻を用いた偶然性によって異なる意味を持つ語が接続され、その間に新たな意味を発生させるという操作は他の楽曲においても頻繁に行われている。以下では他の楽曲における歌詞も具体的に検討しながら、その操作がどのように行われているのかを見ていこう。
◇韻と偶然性
 上記の「YOU&IDOL」を含むアルバム『TOWN AGE』は、全曲を通じて都市における日常性とでもいうべきものが主題となっている。例えば十曲目の「たまたまニュータウン」(多摩ニュータウンを想起させる)では、「ニュータウンで暮らす 2DKの入れ物で ミュータント増殖 なんてことない核家族」と皮肉めいたフレーズを織り交ぜながら、具体的な都市名を引用しつつ(他の曲では上海、ガンダーラ、ジャカルタなど)、単調な毎日の様子を綴るフレーズが目立っている。そのようなコンセプトを含むアルバムの中で、「YOU&IDOL」はかなり私的かつ「わたし」視点の内的な詞になっているように見える。
 一方、5thアルバム『天声ジングル』(2016)においては日常性と超越的なものの往復へと、そのスケールは拡大しているように見える。曲名だけをとってみても、一曲目の「天地創造SOS」や六曲目の「弁天様はスピリチュア」、十曲目の「おやすみ地球」など、都市から宇宙や神的なものへと、主題の拡張が見て取れる。しかしこのアルバムにおいても、「わたし」の内的な視点に焦点を当てた一曲がある。それは四曲目の「わたしはわたし」である。
――――――――――
【A】       昨日真夜中のコンビニで君を見かけたの 
      だけど昨日はもう今日じゃないから 
                   声はかけられなかった
【B】       明日にはきっと 
      今日も今日じゃないし 
                   いつもがいつもどおりでも 
                   なんか違う ちょっと違う
【A】       今日も真夜中のコンビニで君を見かけたの 
                   だけど明日はもう週末だから 
                   声をかけてみたい
【サビ】  ミッションコンプリートで深夜のハイテンション 
      ミッションコンプリートで深夜のハイテンション 
      いつかはコンビになりたいの 
      ふたりでコンビニ行きたいの
【B】         確かめてみたい 
                   今日が今日であるのかを 
                   いつもがいつもどおりでも 
                   なんか違う ちょっと違う
【A】       昨日真夜中のコンビニで君を見かけたの 
         もしかしてわたしがもうわたしじゃないなら 
                   声をかけられるかも
【サビ】  ミッションコンプリートで深夜のハイテンション 
      ミッションコンプリートで深夜のハイテンション 
      いい気分はふたり分ほしいの 
         いい気分にふたりでなりたい
    
       Why I am me? I don't know who I am 
       Why I am me? I don't know who I am 
       誰かがわたしになっていく 
       わたしがわたしになりたいの
――――――――――
 以上が「わたしがわたし」の歌詞とメロディの振り分けである。この詞において「わたし」と「君」が出会うのは超越的な場所などではなく、真夜中のコンビニという極めて日常的な場である。昨日見かけた「君」に声をかけられなかった「わたし」が、今日もコンビニで「君」を見かけ、声をかけてみようと決心するのだが、その心の変化はなぜ起こったのだろうか? 歌詞を追ってみよう。
 まず初めのAメロにおいて声をかけられなかったのは、それが昨日のことだからだ。今日から見て過去である、昨日の出来事を率直に反省していると解釈できる。そして二回目のAメロで「わたし」が声をかけてみたいと決心するのは、「明日はもう週末だから」である。これは、週末には「君」がコンビニに来ないことを「わたし」が知っているのだと推測することもできるが、その理由はあまり明確ではない。そして三回目のAメロでは、「わたし」がもう「わたし」でないのであれば声をかけてみたい、と思うのである。これはどういうことだろうか。
 これらの理由を考察する際に手がかりとなるのは、二つのAメロの前に共通して存在する、Bメロの「いつもがいつもどおりでも なんか違う ちょっと違う」というフレーズである。二回目のAメロにおいては、明日が週末であるということに加えて、単純に昨日から時間が進んでいるという事実が前提となっている。モーリス・ブランショ(1907-2003)によれば、日常的なものとは「再び見ることしかできないもの[3]」、つまり反復されることによって初めて認識できるものである。この歌詞における「わたし」は、そうした日常性、つまり「昨日と同じであること」を求めてはいない。昨日とは「なんか違う ちょっと違う」今日を求めているのだ。それは三回目のAメロで、「わたしがもうわたしじゃない」ことと対応する。したがって、時間が経過して昨日が今日に変わることが、「わたし」の変容と一致する。最後のサビ後半四行の歌詞における「誰かがわたしになる」とは、今日の「わたし」が昨日の「わたし」とは異なる主体に変容することを意味していると捉えられるだろう。だがそこには何ら必然的な結びつきはない、つまり「わたし」の偶然的な変容が起こるということだ。
 この偶然性による主体の変容という出来事は、言葉の繋がりの形式的な側面、つまり韻の持つ効果としても現れている。それは一回目のサビにある「いつかはコンビになりたいの ふたりでコンビニ行きたいの」に含まれている「コンビ」と「コンビニ」という二つの語において作動している。「コンビ」と「コンビニ」の間には、本来必然的な意味のつながりは何もないが、「コンビになる」ことと「コンビニに行く」ことが同じ文脈の中で並置されることで、「わたし」と「君」との恋の成就を示す連帯的な意味を帯びるのだ。
 こうした言葉の押韻が持つ偶然性の効果は、先ほどの「YOU&IDOL」のサビでも確認した通りだ。偶然性という問題について研究していた九鬼周造(1888-1941)は、偶然性を「独立なる二元の邂逅」と定義している。彼は主として日本の詩歌における押韻について考察した「押韻論」という論考を遺してもいるが[4]、韻とはまさに「独立なる二元の邂逅」なのだ。
 また彼は「偶然化の論理」の冒頭において、偶然性の哲学の意義についても述べている[5]。九鬼における偶然性への関心は、現実の世界が「他のあり得たかもしれない無数の世界の中の一つ」であることと、その現実を「動的に肯定する」ことと切り離せない。こうした思想の背景として、彼は一元論的汎神論を展開したバールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の思想を、「実体が一つしかないから、神も一つしかないといふ論理は単にスピノザの独断に過ぎない[6]」と批判した後で、ゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)の用いる共可能性(compossibility)という概念の重要性について触れている。共可能性とはまさに九鬼が述べている、現実とは異なる「他のあり得たかもしれない無数の世界」の可能性だ。さらに千葉雅也(1978-)は、九鬼による偶然的な時間とは、現在への徹底的な内在であるのだと述べる[7]。韻や地口の非因果的な形態の結びつき、つまり押韻も、九鬼はこの現在という時間への内在によって捉えているのだと千葉は続ける。過去からも未来からも自由である、事実としての現在。その現在における可能性としてのあり得たかもしれない世界は、別の名で並行世界(パラレルワールド)と呼ばれることがしばしばある。
 やくしまるえつこ=ティカ・αの作詞を含め、相対性理論の歌詞においてはこの並行世界の様相が、日常的な出来事や恋愛感情の描写とともに置かれることが最も重要な特徴であるように思われる。ここまで考察してきた二曲の歌詞においても、「わたし」という主体の変容あるいは分離が、韻を含む言葉の形式的な偶然性によって起きている。そこでも「わたし」が内在しているのは、昨日や過去を思い返している今日あるいは現在だ。
◇「わたし」の変容=世界の変容
 すでに考察した二曲では、日常の外にある世界というものは直接出てくることはないが、「わたし」の別の容態としての「あなた」、または昨日の「わたし」とは異なる別の「わたし」が描かれている。対して「わたし」のいる場における並行世界が描かれている、というよりもまさに文字通り、並行世界そのものが主題となっている楽曲を取り上げて本論を締めようと思う。それは3rdアルバム『シンクロニシティーン』二曲目の「ミス・パラレルワールド」という楽曲である。
相対性理論『ミス・パラレルワールド』MV https://www.youtube.com/watch?v=t2nTZrPQFFc
――――――――――
【A】       ひみつの組織が来て
       8時のニュースは大変
                 都会に危機がせまる
                 巨大な危機がせまる
                 暇ならわたしときて
                 こわれた世界を体験
                 時代の危機がせまる
                 稀代の事態になる
【B】     放課後 ふとよぎるテレパシー(シンパシー)
         わたし遠い未来にあなたとまた出会う
【サビ】   東京都心は パラレルワールド
【A】        ひみつの組織がきて
                  8時のニュースは大変
                  地球に危機がせまる
                  夜中にブザーがなる
【B】        十日も思いつめてジェラシー(くやしい)
                  わたし 遠い未来にあなたとまた出会う
【サビ】  東京都心は パラレルワールド
【C】         あなたはちょっと開けた
                   わたしの心のドアを
                   あなたはドアを開けた
【サビ】  まるで世界はパラレルワールド
                   パラレルワールド
――――――――――
 この歌詞においては、危機が迫る「地球」と、「わたし」の心のドアを開ける「あなた」という、スケールの異なる別の場における変容が比較的明確に描かれている。ここで既に考察した二曲とこの楽曲の共通点を確認してみよう。それは「あなた」、「YOU」、「君」といった二人称の相手の存在によって、「わたし」という主体に揺らぎが生じ、最終的に二者の関係性が安定しないということだ。「わたし」は変容の途上にある。それぞれの歌詞から抜粋すると、「当たり前の青春に恋してた」、「いつかはコンビになりたいの ふたりでコンビニ行きたいの」、「わたし 遠い未来にあなたとまた出会う」といった部分から、完全な恋の成就が達成されているわけではないことがわかる。
 「わたし」という主体の揺らぎが、「あなた」という二人称的存在によって引き起こされ、その揺らぎは同時に外部としての「世界」に訪れ��変容と一致するのだ。それまでは日常的であった「わたし」のあり方と「世界」のあり方が、「あなた」の出現という偶然的な出来事によって変容してしまうこと。あるいは外部的な「世界」が描かれない場合には、それは歌詞の中の「韻」という形で現れるだろう。別々の語における意味の外側に現れる「韻」も、また「あなた」の存在によって新たな文脈のなかで意味を与えられるのだ。
 先ほど少しだけ歌詞を取り上げた「たまたまニュータウン」は、そうした変容だけでなく日常的な現実もまた、全く偶然的な出来事によって起こりうるのだということを端的に主題にしている。「たまたまわたしがそこにいただけ それだけ たまたまあの日に目が合っただけ それだけだったんだ」(「たまたまニュータウン」Bメロ1番) 
 そのように歌うやくしまる自身にもまた、並行世界における別の主体がある。それがティカ・αである。彼女は自身が歌ったり、話したり、姿を見せてパフォーマンスを行ったりするときはやくしまるえつこの名を用いるが、作詞作曲を行う際にはこのティカ・αという名を用いる。二つの名義の間には身体の有無という差異がある。いわば前者は表舞台における名であり、ティカ・αは裏方の存在なのだ。したがって楽曲提供をする際にも、その作詞者あるいは作曲者名はすべてティカ・αとなっている。当然、実際はこの二つの名を持つ人間は同一人物なのだが、主体の分離という形をとっているやくしまる=ティカという構造は、その分身として楽曲の歌詞の中で繰り返されている。
 しかしやくしまるえつこという具体的な一人の人物のことを考えるとき、現実に存在するのは身体を伴うやくしまるえつこの方だけなのだ。なぜなら「他のあり得るかもしれない」並行世界におけるティカ・αと、現実におけるやくしまるえつこは同時に存在することはできないのだから。「YOU&IDOL」を再び思い出してみるとき、これもまた「わたし」の異なる二つのあり様、分離する「わたし」の片割れとして「あなた」があるという解釈が新たに可能になるだろう。「わたし」とあり得たかもしれない別の「わたし」=「あなた」は、「やくしまる=ティカ」という現実の主体に対して、無数にありうる並行世界の一つにおける主体のあり様なのだ。
[1] ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(下)』加来彰俊訳、岩波書店、1994年、238頁。
[2] 同上、242頁。
[3] モーリス・ブランショ「日常の言葉」西山雄二訳、『終わりなき対話II』、筑摩書房、2017年、305頁。「…パノラマ的な視野のうちに閉じ込めることができないという意味で、日常とは知覚されえないものである。日常とは私たちが第一回目にけっして見ることのないもの、再び見ることしかできないものだからである」
[4] 九鬼周造「邦詩の押韻に就いて」天野貞祐、澤瀉 久敬、佐藤明雄編『九鬼周造全集 第五巻』、259頁において九鬼は、「語呂合わせ」が韻の上での偶然的な符号一致であり、またポール・ヴァレリーの言葉を引用しつつ、詩が言語の音響における偶然的な関係に基づくと述べている。
[5] 九鬼周造「偶然化の論理」天野貞祐、澤瀉 久敬、佐藤明雄編『九鬼周造全集 第二巻』、354頁。「偶然生の哲学の形而上学的展望は、この現実の世界が、唯一可能な世界ではなく、無数の可能な世界の中の一つに過ぎぬとして、現実の世界を動的に肯定することに存する。」
[6] 同上、365頁。
[7] 千葉雅也「此性を持つ無ーーメイヤスーから九鬼周造へ」『意味がない無意味』、河出書房新社、2018年、219-220頁。
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ysformen · 5 years
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プロパガンダ映画『主戦場』の偽善 山岡鉄秀
2019.07.08
月刊『Hanada』2019年7月号に掲載され大反響!
山岡鉄秀「プロパガンダ映画『主戦場』の偽善」を特別公開!
※今月号(2019年8月号)に掲載されている藤岡信勝「慰安婦ドキュメント『主戦場』デザキ監督の詐欺的手口」と併せてお読みください。
■上智大学の思想環境  
私の元に興味深い報告が届いた。4月上旬、北海道のある小さな映画館に、ひとりの女性が映画の宣伝に訪れた。
「東京でたいへん話題になっていて人気だから、こちらの映画館でも上映していただけませんか?」 と言いながら示した映画が、『主戦場』だった。
その女性の名は石純姫(ソク・スニ)。苫小牧駒澤大学助教授だった。石氏は、2017年に『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』という著書を出版している。「強制連行されて日本国籍を持たない在日朝鮮人には平等な機会、権利は保障されておらず、生存が脅かされている」と主張する方だ。  
4月13日には映画『主戦場』のデザキ監督のロングインタビューが、朝日ファミリーデジタルに掲載された。
「僕はもともとユーチューバーで『日本における人種差別』という動画を自分のチャンネルにアップしたところ、日本の“ネトウヨ”と呼ばれる人たち(ネット上で活動する右翼)に見つかり、オンラインでものすごく叩かれた。 その後、元朝日新聞記者の植村隆さんが慰安婦について書いた記事で同じように叩かれているのを知り、慰安婦問題に興味を持った」
「植村さんと僕のケースは『ある人が語ろうとしている問題を語らせまいとしている』という点で共通していると感じた。 アメリカ人としての自分は、誰かが語ろうとする言葉が遮られようとしたら『それはいけない!』と反応する。なぜなら告発や発言の背景には、苦しんでいるマイノリティー当事者が必ずいるからだ。彼らはただでさえ差別を受けているのに、告発の声を遮られることで二重に苦しむことになる」
インタビュー映像が撮影された上智大学には『主戦場』のポスターが誇らしげに貼ってある場所があった。「上智大学グローバル・コンサーン研究所」だ。映画に登場する中野晃一氏がかつて所長を務め、現在も所属している。
当該研究所のホームページに行けば、思想的傾向が明確にわかる。たとえば、雑誌、新聞、メディア関係のリンクをクリックすると、各種刊行物のリンクがリストされている。岩波書店『世界』、『週刊金曜日』、人民新聞(天皇制廃止を主張)等々である。
デザキ氏がどのような思想環境に身を置いてきたか、どのような人々と繋がっているかを見れば、『主戦場』があのように偏向した映画になることもうなずける。最初からそういうスタンスだったのだ。 映画のナレーションで、デザキ氏は言う。
「驚いたことに、私に付けられた反日的なイメージにもかかわらず、多くの保守系論者が取材要求を受け入れてくれた」  
朝日ファミリーニュースのインタビュー記事のなかでデザキ氏は、「自分が日系アメリカ人であることがポジティブに影響した」と考える旨の発言をしている。
またもや完全な勘違いである。彼が日系アメリカ人であることは100%無関係だ。インタビューに応じた保守系論客たちは全員、「慰安婦の証言も矛盾しているんですよねえ」などと言うデザキ氏が「慰安婦性奴隷説に疑問を抱き、公正中立なドキュメンタリーを作ろうとしているまじめな大学院生」だ、と単純に信じ込んでいたのである。  
ケント・ギルバート氏は、試写会に行って驚愕したという。それほどまでに皆、人が良いのだ。
彼らがなぜデザキ氏を信用したのか? それは彼の国籍などではなく、彼が上智大学の大学院生だったからだ。「学生なら協力してあげなくてはいけない」という道徳観に従って動いたのだ。それにまんまと付け込まれてしまった。
■取材せずに虚偽を流布  
それにしても、特に災難だったのは櫻井よしこ氏だろう。ギルバート氏の紹介だったので、うっかり取材依頼を受けてしまったが、ひどい扱いを受けた。
突如、映画に登場し、慰安婦性奴隷否定派から肯定派に転向したと紹介されるケネディ日砂恵(ひさえ)氏は「深く考えずに米国人ジャーナリストに6万ドル支払ったことを後悔している」と語るが、この部分で登場回数が少ない櫻井よしこ氏にインタビューが飛ぶ。
「あなたもそのジャーナリストと関係があったと聞いたのですが?」と訊かれ、櫻井氏は表情を曇らせて「その件には触れたくありません。複雑なので」と短く答える。  
デザキ氏は、この櫻井氏の反応を、いかにも都合が悪くて言葉を詰まらせているかのように映画の宣伝バージョンに使用している。  
しかし櫻井氏が言葉を濁したのは、自身に後ろめたいことがあるからではなく、ケネディ氏のプライベートな問題(人間関係・金銭関係など)に触れたくなかったからである。ケネディ氏が様々なトラブルの果てに姿を消したのは、彼女を支援した人々にとっては苦い思い出だ。  
そして櫻井氏こそ、ケネディ氏に相談を受けてサポートしようとした人だ。コメントを避けるのは当たり前なのである。 櫻井氏の発言は少ないのだが、映画の後半ではさらに「明治憲法復活を目指す日本会議という恐ろしい軍国主義集団」の宣伝塔だとしてレッテルを貼られてしまう。
日本会議はすでに「映画は事実無根の妄想だ」という抗議の声明を発表している。取材もせずにこのような虚偽を流布するに至って、『主戦場』はもはやドキュメンタリーではなく、プロパガンダ映画の正体を晒す。  
それにしても奇妙なのは、ケネディ日砂恵氏の名前が映画のパンフレットのどこにも書かれていないことだ。出演者一覧のなかにも含まれていない。左派に転向したケネディ氏こそ、デザキ氏の最終兵器だったのだろうか? ちなみに、彼女が接触し、現金を渡したとする米国人ジャーナリストは「彼女に騙された」と激怒している。  
オウム真理教ウォッチャーで有名なジャーナリストの江川紹子さんが、『主戦場』を見て次のようにツイートしている。
〈《主戦場》見てきた。最初は面白いなと思ったし、よくまあこれだけの否定論者を引っ張り出したなあと感心しながら見ていたが、作りのあまりのアンフェアさにうんざり。一人一人が考える機会をくれる作品かと期待していたけど、むしろ分断と対立を煽る作りに、かなり落胆した〉(6:20 - 2019年5月7日)  
慰安婦問題に関する知識の多寡や立場に関係なく、冷静な人が客観的に見れば、極めてアンフェアなプロパガンダ映画なのが明白なのである。
■慰安婦の涙を政治利用  
後半、荒唐無稽になってしまう『主戦場』だが、最後の最後にデザキ氏が登場させるのが、生前の金学順さんだ。幼い頃、初めて客を取らされた時の驚きと恐怖と苦痛を思い出して涙する金さんの姿を見て、「日本人は反省しろ」というわけだ。  
私は、このような手法は苦難の人生を生きた女性への冒瀆であり、偽善の極みだと思っている。
金学順さんは基本的に正直な方だと思う。だから、これまでにも最初から包み隠さず、自分が幼くして親にキーセンに売られたことも、キーセンのオーナーに中国へ連れて行かれたことも率直に話している。長いこと日本でも、貧困から娘を遊郭に売る悲劇があったし、さらに貧しかった朝鮮半島ではなおさらだった。
幼くして親から離された少女たちはどんなに不安だっただろうか。また、芸人として生きていくと思って修行していたら売春をさせられてしまった彼女たちは、どれほど傷ついただろうか。金学順さんの悲しみを他人が推し量ることは難しい。しかし、彼女の涙は本当の心の叫びだと思う。  
だからこそ許せないのが、金さんのような人を利用しようとする人々だ。朝日新聞の植村隆記者は金学順さんについて初めて報道したが、彼女がキーセンに売られた事実を書かなかった。植村氏の韓国人義母が会長だった太平洋戦争犠牲者遺族会は「日本政府を訴えれば賠償金を取れますよ!」と嘯いてお金を集め、本人を含めて詐欺罪で逮捕者を出し、有罪判決を受けた者もいる。
当時、慰安婦問題が国際問題にまで発展したのは、単純に慰安婦が存在したからではなく、日本軍が組織的に人間狩りのように女性を駆り集めて慰安婦にしたとか、勤労奉仕の女子挺身隊として集められたのに慰安婦にされたとか、朝日新聞が流布した虚報を日韓の国民が信じて衝撃を受けたからだ。  
西岡力氏は、金学順さんがキーセンに売られた女性で、軍隊に拉致されたわけではないことを『文藝春秋』誌上で指摘した。 これを受けて、吉田清治の慰安婦奴隷狩り証言の検証をすべく済州島に向かう準備をしていた秦郁彦氏が、金学順さんの弁護士である高木健一氏に電話をして「金さんは親にキーセンとして売られた人ではないのか?」と訊いた。
高木弁護士は「あれは玉が悪かった」と言い、「いま、次のいいのを準備している」と答えたという。彼らにとって元慰安婦は、反日活動と金もうけのツールでしかないのだ。  
西岡氏はソウルで金学順さんに会おうとするが果たせず、代わりに日本語通訳を務めていた韓国人女性に会って話を聞く。 彼女によれば、彼女が「おばあちゃん、なんで出てきたの?」と訊いたら、金学順さんはこう言ったという。
「寂しかったんや。親戚も誰も訪ねてこない。食堂でテレビを見ていたら、徴用された人が裁判を起こしたと報じられていたから、私も入るのかなと思った」
■壮絶な人生を歩んだ女性  
日本人として初の従軍慰安婦被害者として祭り上げられたのが、城田すず子さん(仮名)だ。城田さんは下町でパン屋を営む裕福な家庭で育つが、切り盛りしていた母親が急死すると家は急速に困窮化し、神楽坂の芸者置屋に奉公に出される。最初は雑用をしていたが、やがて座敷に上げられるようになる。
彼女はあとで、父親が置屋から多額の借金をしていたことを知る。近所の学生との初恋もつかの間、遊び人の男に水揚げされて、いきなり淋病をうつされる。その後は台湾、サイパン、トラック島、パラオと転々とするが、南洋諸島には自分の意思で行き、内地とはうって変わった伸び伸びとした生活を送る。  
米軍の攻撃が迫ると内地に返されるが、恋人に会いたくて無理やり舞い戻り、激しい空襲を体験する。 日本軍人との恋、米軍兵士との恋と彼の帰任に伴う自殺未遂、学徒動員から帰国した男性との駆け落ちと流浪の果ての心中。自分だけ蘇生して知る恋人の死。
途中、何度も彼女を救い出そうとする人も現れるが、恋は成就せず、覚醒剤、賭博、たばこ、飲酒に溺れて立ち直ることができない。最後の最後に、奇跡的に知り合った赤の他人に助けられてキリスト教団体が運営する支援施設に転がり込み、やっと更生するが、作業中に腰骨を折って寝たきりとなった末に他界する。  
私は、彼女の自伝である『マリヤの讃歌』(日本基督教団出版局、1971年初版)を読んで何度も目頭が熱くなった。裕福な家庭に育ったおきゃんな少女が、母親の死を境になんと壮絶な人生を生きなくてはならなかったことか。彼女は自分の境遇を嘆きながらも、「貧乏が悪い」と人を責めず、苦労する兄妹のために借金を繰り返す。  
しかしひとこと、「父親はなんと無慈悲な人だろう」と本音を漏らすシーンが胸を打つ。もし、彼女の父親に命がけで娘を守る気概があったら、きっと彼女はここまで悲惨な人生を生きなくても済んだだろうに、と思わずにはいられない。
■碑文にある虚偽の一文  
だが、自伝を読んではっきり言えることは、彼女は人生のかなりの部分を売春婦として生きたとはいえ、従軍慰安婦ではなかったということだ。軍隊によって強制連行されたわけでもない。日本軍人も米軍兵士も相手にしたし、恋愛関係に陥ったりもした。
せっかく借金を返してまとまったお金を得ても、贅沢三昧で散財したりもした。親切にしてくれる人もいたが、守ってくれる親や親戚がいなかったばかりに、社会の底辺をひとりで彷徨わなければならなかったのだ。  
まだ貧しかった日本が大戦争を経て��け野原に帰した時代、彼女のような人生を歩まざるをえなかった人も少なくなかった。心から哀悼の意を捧げたい。  
彼女の写真が、北米で初めて慰安婦像が建てられたカリフォルニア州グレンデール市の図書館に掲げられた。2013年、韓国人反日活動家たちが開催した慰安婦関連パネル展に、唯一の日本人女性として登場したのが城田さんだったのだ。  
彼女の写真の下には「I was their slave. 私は彼らの奴隷だった」と書かれ、英文の説明が続く。
〈1938年、城田すず子さんは17歳の時、父親の借金返済のため日本軍に身売りされた。戦争が終わるまで城田さんは台湾やサイパンの慰安所で働き、日本軍の性奴隷となった〉  
完全な虚偽である。 そして、慰安婦像の脇にはめ込まれている碑文には次のように書いてある。
〈1932年から1945年まで、日本帝国軍によって、朝鮮、中国、台湾、日本、フィリピン、タイ、ベトナム、マレーシア、東ティモール、インドネシアで家から連れ出され、性奴隷にされた20万人以上のアジア人とオランダ人女性に捧げる〉  
これもまた虚偽である。前述の弁護士といい、韓国人活動家といい、女性の人権を云々しながら、女性たちを政治的ツールに利用しようとする人々を私は心から軽蔑する。  
このような碑文とともに像が建ち、故人を虚偽の経歴で利用されたら、当然コミュニティに悪影響を及ぼし、侮辱されたり嫌がらせをされる日系人も出てくる。日本のブランド力低下にもがる。  
韓国人の反日メンタリティは中国共産党の「超限戦」にとことん利用される。豪州ストラスフィールド市のケースでも、突然、中華系の「日本の戦争犯罪を糾弾する会」が結成されて、韓国人会に慰安婦像設置をけしかけたのだ。日本政府が謝罪したり補償したりすればするほど、「弱さ」と捉えられて激しく攻撃される。
■問題が解決されない構図  
そのような事態になってしまったから、学者ではない者まで反論せざるを得ない状況に追い込まれてしまったのが現状なのだ。だから、『主戦場』に登場した保守派の人々は総じて、前述した反日団体のプロパガンダに反対意見を述べているのだ。  
たとえ左派でもまともな学者なら、反日団体の主張は学術的にも虚偽が多いことはわかるはずだ。デザキ氏でもある程度は気付くだろう。しかし、「反日団体の主張は学術的に正しくないし、強引に無関係な土地に慰安婦像を建てる行為は非生産的だからやめるべきだ。慰安婦をめぐる議論は自分たち学者に任せるべきだ」と主張する左派の学者を私は見たことがない。
それどころか、「性奴隷」や「強制連行」の定義を拡大して、反日団体や活動家を後押ししているようにさえ見える。それは偽善的で、問題の解決を遠ざけるだけの行為だ。だから、いつまでたっても議論がみ合わないのだ。  
ちなみに、『主戦場』の慰安婦性奴隷派のメイン話者の吉見義明氏は著書にこう書いている。
〈「官憲による奴隷狩りのような連行」が朝鮮・台湾であったことは、確認されていない。また、女子挺身勤労令による慰安婦の動員はなかったと思われる。(中略)しかし、「官憲による奴隷狩りのような連行」が占領地である中国や東南アジア・太平洋地域の占領地であったことは、はっきりしている〉(『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』大月書店)  
つまり、法律が存在し、統制が取れていた朝鮮半島や台湾では権力による強制連行は行われなかったが、それ以外の前線では統制が崩れて犯罪行為も散見され、記録にも残っている、というわけだ。  
しかし、前述の碑文を予備知識のない人が読めば、当然、「武装した日本軍が組織的に民家に押し入って、一般女性を拉致して性的目的で奴隷のように酷使した」と理解するだろう。これは吉見氏らの学説とも明らかに異なる。明らかな虚偽なのだから、反論せざるを得ない。  
すると、デザキ氏のような活動家が現れて「歴史修正主義者」 「否定論者」と侮蔑的な表現でレッテル貼りを行う。それを吉見氏や林博史氏らが後押しするという構図になっている。
吉見氏も林氏も、慰安婦制度とは日本軍が単独で創り上げていたわけではなく、女性の人権を完全に無視する朝鮮半島の儒教的な封建制と徹底的な男尊女卑文化が背景にあったことを指摘している。  
今日的価値観からすれば、日本軍や日本政府にも道義的責任があると主張するのは自由だが、現実には娘を売る朝鮮人の親がいて、女衒がいて、客としての朝鮮人もいたわけで、それが当時の朝鮮社会における現実の一部(fact of life)だったから、ただの一件も暴動が起きなかったし、日本軍に所属していた朝鮮人兵士も反乱を起こさなかった。
また、反日の李承晩政権でさえ、日本の責任を追及して賠償を求められるものとは考えなかったのである。それもまた現実なのだ。  
にもかかわらず、ことさらに慰安婦制度は「日本軍性奴隷制度だった」と強調し、政治的目的を持って明らかに事実に反するプロパガンダを展開する反日団体を容認する姿勢は独善的で、学者としての誠意(integrity)を疑わざるを得ない。  
吉見氏や林氏がその時代に生まれ、目の前に金さんや城田さんのような女性がいたとしたら救うことができたとでも言うのだろうか? 金さんや城田さんの境遇に胸を痛めるのであれば、困窮した元慰安婦がいたら労り、政治活動に巻き込むようなことをしてはいけない。  
それどころか、現在も存在している女性の人権侵害問題に取り組むべきである。韓国で売春が違法とされたあと、大勢の韓国人女性が世界中に進出して売春をしている。悪質な業者に拘束されている女性も多い。  
シドニー空港の税関で止められた若い韓国人女性はテレビカメラの前で、「私は韓国にいたら気が狂う」(Korea drives me crazy)と泣きながら訴えた。北朝鮮から命からがら中国へ脱出した朝鮮人女性は、文字どおりの性奴隷にされていると報告されている。  
それらの、いまそこにある問題に取り組むこともせず、慰安婦像を建てたり、偏向した映画を作ってあたかも女性の人権を擁護する善人のように振る舞う人々とそれを応援する人々は、極めて独善的で偽善的だと言わざるを得ない。
■今度は植村隆記者の映画  
驚くべき情報が飛び込んできたので、最後に報告しておく。なんと、元RKB毎日放送社員で映画監督の西嶋真司氏が起案者となって、植村隆元朝日新聞記者を支援する映画の製作が企画されているというのだ。タイトルは『標的』。植村氏が不当な言論弾圧の標的にされているという主張を展開する映画だそうだ。  
チェックしてみると、A-Port という朝日新聞社のクラウドファン���ィングサイトで資金集めをしていることが確認できた。反日急先鋒のテッサ・モーリス=スズキ(オーストラリア国立大学教授)も絡んでいることがわかる。
資金調達達成率は、残り約100日を残して56%とのことだが、すでに完成している部分があり、プロモーション動画の冒頭には「日本の正義が問われている」と書かれている。うんざりだが、裁判では飽き足らず、情報戦まで仕掛けてくる執念は見習うべきか。  
貧しい時代の不条理を生き抜いた、同情すべき女性たちを政治ツールに利用する反日勢力からの攻撃は止むことがない。彼らは慰安婦問題を円満に解決したいとは考えていない。どんな手口を使ってでも日本を世界史上に例を見ない犯罪国に貶め、永遠に日本人と日本政府を糾弾し続けたいのだと見做されても仕方がない。デザキ氏と『主戦場』が、そのことを改めて教えてくれた。
彼らが「標的」にしているのは日本の名誉だ。
(初出・月刊『Hanada』2019年7月号)
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アイドルアニメレビュー:プリティーシリーズ編
アイドルアニメ、近代においてメディアなどの集合的装備によって、絶えず主観性というものが生産されるようになった、そして僕たちは新しく主観性を生産しなければならないとかきたてられている。シミュラークル化が起こっている。アイドルアニメはその典型と言えるかもしれない。 現代の消費社会では、ものが氾濫し、アイドルアニメのキャラクターグッズなどもたくさん発売されているし、そういう店に行けばグッズに囲まれることになる、そして自分の顔が見えなくなり、個人の解体と共にその実体は商品への欲望になるという。これは主体というものは欲望機械という中心において揺れ動いており、自己同一性というものを保持しているように見えるが、それはまがいものであるという考え方に近い、僕らは欲望機械における生産過程の中におり、絶えずその消費の中で欲望機械という中心の近傍に主体は存在する。大好きな三次元アイドルがいたとするが、その人が手で触れられそうな距離にいたとしてもなんら問題にはならない、僕らはその人のポスター、要するに実体としての三次元アイドルのコピー(代理)に欲望できてしまう、そうなると、そのアイドルの実体ではなく、ポスターが欲望を持ってしまうという考え方になる。これがシミュラークル、実体より幻像というまがいものに欲望がくっついてしまっている、機械が欲望している=欲望機械、アイドルアニメというのは、フィジカルというものでないがフィジカルイメージとしてはありうることができる、これは実体というのがもはや重要ではなくなってしまっているということを表し、現代のシミュラークルの典型物と言えるかもしれないと思った。そしてその個人が解体され、消費されていく主観性を、個人が再生産しなければならない、それが特異性である。僕らはアイドルアニメによって作られ、それに意味を付与し、アイドルアニメを作り、自身を編んでいく。
・プリティーリズム・オーロラドリーム(51話) 評価:★★★★★
これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそおそらく最良の教育に他ならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作り上げるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。カラマーゾフの兄弟 エピローグ
阿世知今日子が46話にて「プリズムジャンプは心の飛躍 心にプリズムの輝きを込めれば身体は自然に天高く舞い上がる」と言っているが、オーロラライジングを飛ぶには心をなくす必要があり、心残すと魂をもぎ取られる。よって飛べたとしても心の闇に引き込まれたら終わるわけだが、オーロラライジングを飛び、それによって終わった人物がりずむのお母さん、神崎そなたである。そして神崎そなたはある言葉を残して蒸発した。そしてその後の神崎そなたの指導により、33話で登場する久里須かなめというキャラクターは心をなくす術を習得し、平然とオーロラライジングを飛んでみせた。りずむは発達早期の幼児期の段階で、お母さんがいなくなったという喪失体験をしており、25話にて、りずむは母がオーロラライジングを飛んだとき何��起こったのかと言って、それを飛ぶことに固執している。理想化された親のイマーゴとそうでない親のイマーゴの板挟みになっているような感じがした。イマーゴ(無意識の中の基本イメージ)、理想化された親のイマーゴとは、要するにお母さんは完全だ、そして私もその一部であるというような考え方で、理想化され同一化されて自己に取り込まれ、自己愛というものが生まれる。その親のイマーゴに障害があると、妄想の形をとり、させられ思考のようになるらしい。りずむは確かに昂然としているように見えるが、だが時より自信のなさというものが見られるように思う。りずむは、オーロラライジングを飛ぶことに血まなこになっていたのに、50話でまさかのあいらのテレキネシス、これは深く言わない方がいいだろう、成功したのか失敗したのか、このシーンが一番感動ものだ。 ここであいらについて、あいらは母がいなくなったりずむと違い、両親もともに健在で、家庭生活に支障があるわけでなく、幼児期から親の家で思い出をたくさん溜め込んで育ってきた、魂をもぎ取られるというオーロラライジングだが、あいらは魂が寄りかかることのできる根強い場所を心に持っていた。 ここで、ちょっと別作品への言及を挟みたい、このアニメは、間違いなくスターウォーズや、伝説巨神イデオン、機動戦士ガンダム(サイコフレームが使われた逆襲のシャアからの時代、主にガンダムUC)と同じ題材を含蓄する女児向けアイドルアニメという伝説級のアニメである。 オーロラドリーム50話「この輝きはみんなの心」ガンダムUC episode7「この光は俺たちだけが生み出しているものじゃない」 アクシズ・ショックとは、小惑星墓地が地球に落下するのを押し戻した超常現象のことであるが、サイトによると、「アムロの緊急時の脳波をνガンダムのサイコフレームが増幅、更に共鳴した事で際限無く増幅しアクシズの軌道を変える程の磁場の歪みを形成して起こした物」であるらしい。 そしてイデオン、これもサイトからの引用になるが、「イデの力は第6文明人の数十億の意識を集めたもの、イデは第6文明人の精神の一部をエネルギー利用する実験の失敗により誕生したものであり、その際に第6文明人はすべての精神を吸い取られて滅亡した」であるらしい。要するに、意識の集合体であり、人の意思をエネルギーの源にする。そして、これはイヤホンをつけていないと気づかないと思うが、50話、オーロラライジング・ドリームを出現させた際に、間違いなくイデオンのSEのようなものが流れている…。これはイデオンのSEをそのまま使っているのか、それとも音響監督が似せて作ったのかはわからない。 要するに、あいらは幼児期の思い出による魂の依拠する場所、器を持っており、それに人の総意が集合し、◯◯◯を発生させた。それは善の心によるイデの発動であり、サイコ・フィールドである。無重力を作り出すなんて考えられない。このシーンが一番感動ものだ。
・プリティーリズム・ディアマイフューチャー(51話) 評価:★★★★ オーロラドリームの地続きのアニメ。プリティーシリーズでの破天荒キャラ上葉みあ。鉄柱から飛び降りて地面に直撃しても死なないなどギャグ要素が盛りだくさんである。また韓国人のキャラクターを多数登場させ、作中ではバリバリのK-POP調の音楽が使用される。正直このアニメはハイパーアクティブな上葉みあを見ているだけでも楽しい。個人的に37話の最後から面白くなる、それは心が引き裂かれたあいらの姿であった、あいらはその気質ゆえに優しい心をもつキャラクターであり、その分、果断な面に乏しい、ゆえに振り回されやすいともいえよう。それがだんだんあいらの精神を荒廃させていった。物理的に会場に存在しているあいらに久里須かなめは「あいらいないよ」と言った。オーロラドリームのあいらが善き心によるイデの発動であったのに対し、悪しき心によるイデの発動のようでもある。ダークナイトのような映画をみればわかると思うが、善の心は少し背中を押してあげれば悪の心に変容する。善と悪は包含しあって、その一部としてある。シンフォニア���レスに魅せられ、スターウォーズのアナキンがパルパティーンに洗脳されていったのと類似し、阿世知欽太郎に支配されていく、38話ではロードトゥシンフォニアの場面でまたもやイデオンのSEが流れ、あいらを救出するという展開になり、ここからが個人的に面白くなる、阿世知欽太郎という野心を抱いたキャラクターの手中に収まっていくユニットの中で最後あのユニットに、ここからは言わないほうがいいだろう。
・プリティーリズム・レインボーライブ(51話) 評価:★★★★ とりあえず人物たちが交錯しまくっている、写実的な文学作品の登場人物のように、掘り下げていくことのできる人物ばかり、この時点でアイカツ!などとはまさに対極にある作品、家庭生活に不調を抱いたキャラクター多数、ボタンのかけ違い、それを昇華させていく舞台装置としてプリズムショー、プリズムライブが存在する。女児向けアニメを完全に逸脱していると言えるほどに重く、きな臭い人間ドラマの雰囲気で、また毎回引きがうまく見るのに疲れてくる、またプリズムワールドとはなんなのか、51話見た限りなど全くわからないし、今も説明できるほどわかっていない。それほど微細に観察していないとわからない作品である。天羽ジュネとりんねの関係ってなに?考察などを見れば腑に落ちるのだろうが、プリズムワールドからやってきて、最後にプリズムワールドに戻っていくりんねもその後のプリティーシリーズ、プリパラには登場していない。最終話のタイトルはりんねの楽曲もなっている「gift」、50話にてプリズムのきらめきが失われた中でのプリズムショー、これは言わないほうがいいだろう。ハッピーエンドなのかそうでないのかわかりません。言いたいのは女児向けアニメのノリで見るとかなり疲れます。主人公の彩瀬なるはすぐ泣くが、気性がさっぱりしていていいのですが。前二作品で登場した高峰みおんのポスターが登場するが、前作とは繋がっているわけではない、はず。
・プリパラ(140話) 評価:★★★★★ 64話から出てきた黄木あじみのパニックラビリンスの動画を見たのがきっかけで見始めた最初の女児向けアイドルアニメであり、140話、最終話の黄木あじみのおしモアイで終わった。女児向けアイドルアニメにハマるきっかけを作ってくれた最高のアニメ。とにかくレインボーライブとは正反対で気軽な感じで見れるアニメ。楽曲の充実性も半端ではない。 プリパラ、それは制度化された自己と他者の発見のための出会いの場である。人には自己充実欲求と繋合希求性の欲望を抱えて生きているというが、それが満たされる場所である。(しかしながら研究生→デビュー→メジャー→トップ→神というヒエラルキーは存在する…)真中らぁら、アイドルユニット、セインツに憧れるが自分にはアイドルなんて無理だという、しかし、お母さんに買い物を頼まれて目的地に向かう道中にてプリチケファイルバッグを見つけ、プリパラへの入り口であるプリズムストーンにいるみれぃに届ける過程でプリチケが届き、プリチケが届ないと入れないプリパラの世界に入れるようになる。二人チーム限定のオーディションライブに申し込んでしまったクマの不手際によって、みれぃに誘われ真中らぁらもオーディションライブに参加することになるのが一話、ぷり。それからいろんな困難をくぐり抜けながらアイドル活動を続けていきます。最初の困難は小学部はプリパラを禁止するという大神田グロリア。語尾アイドルはディアマイフューチャーでもあったかもしれんが、語尾をつけるアイドルが多数。一話からちらっと写っていたファルルが26話で初めてライブをする、アイドルになりたいという願望が集まってできたボーカルドールでプリパラの世界でしか存在できないプリチケが擬人化したファルルは、三幅対の概念でいう所の想像界=イメージすることができ同一化が起こる領域であり、そのファルルは始め、言葉の意味などがわからず、ライブでのメイキングドラマ(メイキングドラマ=脳内映像。これがどうやって外在化されているのか、考えてはいけない)の演出をコビーしているが、徐々に言葉のシステムに参入していき、そのシステムを前提とした発話、行動を取れ、象徴界の規範で、ソフィスティケートに洗練されるようになっていく。そしてそのボーカルドールに憧れているキャラクターがいた。最初怪盗ジーニアスとして登場した紫京院ひびきである。性悪な訳ではないが、自分が認めないキャラクターのフィギュアをボックスに投げ込んだり、才腕を振るう是々非々として判断するようなキャラクターである。プリパラという作品においての唯一のカウンターであり、思い出すだけでも凍りつきそうな過去の経験もあって、一見優生思想のような考えになってしまった。なんでそんな考え方になったかというと、ピクシブウィキを参照すると、ひびきはパプリカ財閥の御曹司で、別荘も持っている金持ち、そこで友達と楽しく遊んでいたのだが、ある時、両親の乗っていた客船が難破し生死不明になって使用人達が退職金代わりに財産を盗んで友達も「お金持ちじゃない人とは友達じゃない」と言ってきたが、両親が生きていることが判明したら手のひらを返したような態度をとったそう、これはアルジャーノンに花束をの小説のようでもある(この辺は詳しく覚えてなかった)そして人間不信に陥った。そして嘘偽りの現世でプリパラの世界だけが真実という理想的な「向こう側」を志向するようになっていく。天国、浄土、エデンの園、ユートピア、アルカディア、エルドラド、シャンバラ、プリパラ。ここら辺でopがGoin'onという楽曲になると思うのだが、この映像では、「向こう側」を追い求める現世に苦しむひびきが、近傍の「ここ」という世界に帰ってくることを示唆しているように思えるし、(be going on)に「近づいている」という意味があるし、繋合希求性のユートピアを描いているようでもある。ドロシーとレオナとひびきが一緒に歌って踊っているというのはこの映像だけであるし、映像を見るたびに涙腺崩壊しそうになる、プリパラの中で一番好きな楽曲だ。そして怪盗ジーニアスへの警察、プリパラポリスに任命されたのが黄木あじみ。プリティーシリーズで一番癖の強いバグっているキャラクター、語尾にアート関連の用語をつけて激烈モノローグで喋りまくる。あまりにもぶっ飛び過ぎていて、言葉で説明するのが不正確であるように思う。登場シーンでいきなり走ってやってきて引き返して「遊ぼダヴィンチ!」からの人の顔に絵の具をかけるように塗る。ボードリヤールのいうところの詩的実践をしているよう。家庭環境など一切不明、子供の頃はひびきの別荘に無断侵入してフルーツを盗み食いしていて管理主義的権力の外の世界から飛び出してきたようなキャラクターで規律諸装置から完全に外れているように見える、だが教員免許を持っている美術教師。鳥になって空を飛べたり、無数に分裂したり、麗子像になったり、オディロン・ルドンの蜘蛛になったり、複数のものに変化することができ、潜在力を発現している。 「外観(仮象)への意思、幻想と錯覚への意思、生成と変化(客観的錯覚)への意思(ニーチェ)」を満たしてくれるキャラだとも言える。捉えどころのないキャラクターでプリパラでは一番好きだ。またプリパラには他にも魅力的なキャラクターが存在する。大好きなキャラクターが見つかること間違いなし。プリパラのキャラは垂直的な奇想天外さを持つものが多数おり、それがどんどん濃縮されていき、祝祭的な雰囲気をもたらし、全てのキャラクターのネタキャラ化が起こるので見ていて飽きない。赤井めが兄ぃもなかなかにおかしいし、118話の「先延ばし」を連呼する場面はこのアニメやっぱりおかしいんじゃないか?と笑いがこみ上げてくる。 87話「プリパラは好きぷり?ならできるぷり、みんなはアイドルの歌を待っているぷり、世界中に向かって届くように思いっきり歌うぷり、ここでは全ての女の子にそれが許されているぷり」
・アイドルタイムプリパラ(51話) 評価:★★★★ 「プリパラはなりたい自分のなれるところ(15話)」プリパラの地続きのアニメ。すみません、全話視聴しましたが、ストーリーの基軸だけしか覚えていません。言いたいのは、プリパラでの「研究生→デビュー→メジャー→トップ→神」というヒエラルキーなんて存在しなかった。プリパラから真中らぁらがある役目のために他校に転入することになる。そこで、夢川ゆいという今作の主人公であるキャラクターに出会う。が、◯◯◯になった真中らぁらの存在を知らない、(は?)存在を知っても対して驚いた様子を見せない。プリパラの蛇足と言われることがあるようですが僕は蛇足とは思いません。真中らぁら以外のキャラクターもしれっと登場し、らぁらもパラ宿に戻る回もあり、やがてはガァルマゲドンが転入して来ます。黒須あろまは給食の際にカレーうどんの汁を生徒にぶちまけたり、個人的に黄木あじみの次にぶっ飛んでいるキャラクター。また、システムが、アイドルを目指す気持ちがライブ時間に反映されるというアイドルタイムというものに変わる。ファララと、ガァララが女神であるジュリィ、ジャニスの姉?らしいが、そこら辺の把握ができていない。この作品のカウンターは人々の夢を食らうという悪獣となったパック。47話にて、らぁらの夢について、幸せについて語られます。パックの中に取り込まれたらぁらの言葉一つ一つが琴線に触れるものであり、プリパラというものを視聴して来たものにとって必ず意味のあるものであり、オーロラドリームの最終局面などと同様、らぁらの思いと人々の総意が溶け合う瞬間。「みんな友達、みんなアイドル」ここでのサイリウムタイムは感動もの。だが、らぁらにあることが起き、らぁら救出作戦というような展開になる。48話「プリパラはみんなが笑顔になれる場所、それが私の夢なのに(ゆい)」トリコロールが登場する場面は感動もの。また、神アイドルに等しいゴッドアイドルというものが登場し、唐突かつ簡潔な説明がなされ、最後はあのユニットに、言わないほうがいいだろう。
・プリチャン(61話まで) 評価:★★+ プリパラ、アイドルタイムプリパラにおける月川ちり、幸多みちるなどのプリパラチェンジでの容姿、人格の変化、潜在的願望の顕現みたいな設定がなくなったが、第二期からバーチャルプリチャンアイドルの、だいあというキャラクターが登場し、その本体が前髪で目が完全に隠れていて、いかにも自信なさげでおどおどしている虹ノ咲さんであるならば、プリパラチェンジと同様なことが行われていると言えなくもない。(61話の時点で同一なのかは不明)また、プリチャンは「やってみた」というユーチューバーのような数、触覚的で量的な形態に重きが置かれ、メディアに内面が肩代わりされており、個人の情報化が起こっている現代のスペクタクルかつトレンディーなものをアイデアとして取り扱ってるが、それが大味であるため、内容に薄さを感じる。また主人公もいまいちパッとせず、出てくるキャラクターにもプリパラのような色彩は感じられず、非固定的ではなく固定的な感じが否めない。二期の金森まりあの登場にて面白さ一変したという声が聞かれる、僕もそう思う。この作品は電信に仕えなければならない産業構造の変化が生んだことが如実にわかる作品であるため、社会学などの諸学に結びつけて熟慮し、いくらでも言及できると思うが、物語的な面からしたら、プリティーリズムシリーズのようなストーリーがほぼないに等しく、いかにも大衆娯楽を「やってみた」という平面的な作品になってしまったように思う。これからも見続けていく。
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takahashicleaning · 3 years
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TEDにて
ヒラリー・コッタム:機能不全の社会福祉システム制度を立て直すには?
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
失業や薬物、家庭内不和が原因で、または、運に恵まれないせいで起こってしまう社会システム内での一般家庭の危機。
そこに介入し、立て直す役目を持つ社会福祉システム制度が、機能していないといいます。
ヒラリー・コッタムによれば、イギリスでは、典型的な、いわゆる崖っぷちの庶民の家庭を支える機関が、70以上あるのにも関わらず、本当に効果を上げている事業は存在していない。
支援を必要とする人々と福祉事業の間に親身で協力的な関係を築く仕組みを作るには?
自身が、ソーシャル・ワーカー(社会福祉士)であるコッタムが、社会システムに根深くはびこる複雑な問題を解決するにはどうするべきかを問いかける。
時に、貧困、社会格差、健康障害、失業、暴力、薬物中毒など。あらゆる問題がまとめて1人に降りかかっているようなケースがありますよね。そんな人のお話です。
福祉の定義は、「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味する言葉で、社会システム内にいるすべての市民に最低限の幸福と社会システム的援助を提供するという理念を示しています。
介護の定義は、障害者の生活支援をすること。 また、高齢者・病人などを介抱し世話をすることとされている。
福祉とは、概念が異なります。
世界初の社会保障制度の設計に貢献し「ベヴァリッジ報告書」を発表したウィリアム・ベヴァリッジの時代の人々は、いわゆる「世俗的な人間」は、信頼できないからと。
代わりに、人格や感情を持たない「制度」やその中で機械的に働く役人などを重んじました。現代の制度の社会問題の捉え方にベヴァリッジが与えた影響は、計り知れないものがあります。
1948年。晩年のベヴァリッジは第3の報告書を発表しました。そこに、大変な失敗を犯してしまったと記しています。人とコミュニティを取り残す結果になってしまった。
そして、その結果として、制度も人々自身も制度や手続の範疇でしか、人を見ないようになってしまったと書いています。残念なことに、この第3報告書は、彼の前の報告書に比べてほとんど読まれませんでした。
しかし、現代では、人間の限界をはるかに超えたテクノロジーの力を使えば、人間関係でもってベヴァリッジのモデルをひっくり返せることが可能になっています。
ここでも、人間の限界をはるかに超えたテクノロジーのパワーを借りましたが、ソーシャル・ネットワークサイト(SNS)的な人と人の繋げ方はしません!
だからこそ、何十万、何百万ではなく、1,000人くらいの洗練された規模に集約できるのです。
巨大法人であれば、悪性になってしまい、必ずしも、巨大法人が、善性にはならないことの良い例です。
従来のシステムとこの新システムの結果を比べるのは、非常に難しいのですが、最初の登録者1,000人だけ見ても従来の福祉サービスの3倍の成果です。
費用は従来に比べてほんの僅かです。
人と人が顔を合わせて繋がり、真の人間関係を築くため、そして、仕事探しを支援するために人間の限界をはるかに超えたテクノロジーを活用しています。
そして、政治にはまったく興味はありません。テクノロジーに興味が有ります。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
マイケルサンデルは、メリトクラシー(能力主義)の陳腐さを警告し、諌め(いさめ)ています!
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて個人のプライバシーも考慮)
<個人的なアイデア>
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
ロビンハンソンの言うように、現実の脳自体をデジタルデータにして、人間のシナプスやニューロンの動きを数値化していくことで、現在では、数値化できない概念をコンピューター上で数値化していくということかもしれない。
ヘンリーマークラムが、人間のシナプスやニューロンの動きを数値化しようとしているが、より大きく人間の限界を遥かに超えるような発想で。
しかし、人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
<おすすめサイト>
この世のシステム一覧イメージ図2012
ルトハー・ブレフマン:貧困は「人格の欠如」ではなく「金銭の欠乏」である!
個人賃金保障、ベーシックインカムは、労働市場に対する破壊的イノベーションということ?2021(人間の限界を遥かに超えることが前提条件)
世界の通貨供給量は、幸福の最低ライン人間ひとりで年収6万ドルに到達しているのか?2017
ベティーナ・ウォーバーグ: ブロックチェーンが経済にもたらす劇的な変化
<提供>
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独自サービス展開中!服の高橋クリーニング店は職人による手仕上げ。お手頃50ですよ。往復送料、曲Song購入可。詳細は、今すぐ電話。東京都内限定。北部、東部、渋谷区周囲。地元周辺区もOKです
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sasakiatsushi · 6 years
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言葉と物と音について ー一多和田葉子とカールステン・ニコライ一一
 文字は数字になり、数字は点になる。 「ラビと二十七個の点」
 多和田葉子と「音楽」との関わりといえば、彼女と同じドイツ在住のジャズ・ピアニスト高瀬アキとの長年に渡るコラボレーションがつとに有名である。二人は日本、アメリカ、ドイツなど数カ国で朗読+ピアノのジョイント・ツアーを行なっている。だがもうひとり、あるドイツ人ミュージシャンと共同で一枚のコンパクト・ディスクを発表していることは、おそらくほとんど知られていないのではないか。yoko tawada + noto名義で一九九九年にリリースされた『13』がそれである。  ノトことカールステン・ニコライ(Carsten Nicolai)は、美術と音楽という異なる二つの領域と、両者を横断する「サウンド・アート」と呼ばれる分野において、近年めざましい活躍を続けている人気アーティストである。美術家としては、日本を含む世界各国で個展が催されており、ドクメンタを始めとする国際的に著名な展覧会にも度々参加している。音楽の世界では、ノトもしくはアルヴァ・ノト(alva.noto)名義で数多くの優れた作品を発表しており、エレクトロニカと総称される現在の電子音楽の一潮流において、シーンの最前線を牽引する存在として高い評価を受けている。『13』はニコライ自身のレーベルから限定盤CDとしてリリースされたものである。  筆者の知り得た限りでは、日本語で刊行されている多和田葉子の文章で、この作品に触れたものは存在していない(どういうわけか公式サイトのビブリオグラフィーにも載っていない)。それゆえ、どのような経緯で二人が知り合い、共同作業をすることになったのかは今なお不明なのだが(筆者はニコライ本人から直接CDを貰ったのだが、馴れ初めについては聞き損ねた。だがニコライが作家多和田葉子のファンであったことは間違いない)が、この一度限りの試みは、多和田葉子の「言葉」の特異な有様を考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれるように思う。
 高瀬アキとのコラボレーションに関しては、多和田葉子は何度か書いている。たとえば「音楽と文学の境界を越えて、などといかにも新しいことのように言うのは正直言って恥ずかしい」などと言いながらも、言葉と音楽との出会いを、繊細かつ緻密に描写した以下の文章。
 音と言葉のパフォーマンスでは、ピアノの即興演奏と詩の朗読が同時進行するのだが、この同時進行というのは「あわせる」というのとはちょっと違う。わたしは、足の親指から喉までの領域は音楽に聞き入って音楽に応えながらも、舌から脳に至る区域は言葉の意味を追って進む。あるいはピアノの方に向いた左半身は音に向かって発熱させ、右半身はテキストの中に沈み込ませようとしてみる。すると、自分というものが二つに分裂して大変気持ちがよい。両者の間には溝がある。半分は言葉の世界の外に出ていて、半分は中に入っているような気持ちでもある。もちろん、つながりもある。しかし、そのつながりは、歌のメロディーと歌詞の間の関係のようにべったりしたものではない。両者は不思議な空間を屈折して進む振動によって、間接的に繋がっている。あるいは分離している。そうでなければ、「音楽に合わせて読んでいる」ことになってしまう。 「フライブルク一音楽と言葉」『エクソフォニー 母語の外に出る旅』
 フリーの即興演奏と、詩人や小説家による朗読のパフォーマンスという組合せは、特にヨーロッパにおいては、とりたてて珍しいものではないが、その際に現場でリアルタイムに起こっている、実のところかなり錯綜した、ある種の「戦い」にも似た事態を、この文章ほど見事に解き明かしているものはない。だがしかし、ここに記されている音と言葉の交感の明晰かつ詩的な自己分析は、ノトとの『13』の場合は、ほとんど当てはまらない。  『13』には一九分二五秒の長いトラック一曲のみが収録されている。最初に音楽抜きで「ヨーコ・タワダ、ドライツェーン(DREIZEHN=13)」と無造作にタイトルが告げられ、一拍置いてから、ノトのトレードマークである厳密に構成された電子音が、ミニマルでモノトナスなパルス=リズムをゆっくりと刻み出し、数秒の後に朗読が始まる。言葉が読まれる速度は非常に速く、切れ目もほとんどない。バックのサウンドにメロディ的な要素は皆無であり、朗読の調子も、極度にストイックで無機質なサウンドと同様に、ほとんど機械を思わせるような無表情さをひたすら保ち続ける。  朗読されるテクストは、題名の通り、十三の断片に分かれており、最初から九番目までがドイツ語、残りの四つが日本語で読まれる。内容はほぼ「詩」と呼ぶべきものであり、脈絡を断ち切られ縫合されたアブストラクトな言葉の連なりが、奇妙にコミカルな雰囲気を醸し出す。日本語によるパートの最初の断片は、たとえばこんな具合である。
 まくらするならだれもいないんでよなきするまくらしらないスリッパ あさおきるのがつらいんでいぬのとおぼえまねしているのがやかんねっとうそれからカーテンのやくそく ゆれながらさゆうにどんどんおおきくふくらんでいってめをあけてもちょくりつするのはだれ めがさめたときのわたし からだがいつものさんばいも (注:原文を参照できない為、CDから聞き取ってひらがなとカタカナのみで表記した)
 自然な抑揚を欠いた、だがいわゆる一本調子とはやはり違う不思議な韻律の、とはいえしかし六を挟む数字で割り切れるようなアルカイックな「日本語」の懐かしさがどこかで谺しているようでもある多和田の朗読。その背景で、エレクトロニックな発信音が整然と流れていく。その単調でマシニックな反復は、人間の「声」の寄り添いによって、初めてやっとかろうじて「音楽」と呼ぶことができるようなものであり、と同時に、そのような「人間」的な要素など、そもそもまったく必要としていないようにも聞こえる。  先のエッセイの続きで、声に出して読むこと=音読という行為(いや、運動と言った方がより正しいだろうか?)が、音楽の演奏と直に掛け合わされることによって、「言葉」が俄かに「音=響き」として浮上してくる驚きについて、多和田葉子は書いている。
 たとえば、「食べたがる」という表現に現れた「がる」という単語などは、「がる、がる、がる」と繰り返してみると分かるが、随分個性的な響きをもっている。ところが、普通に読書している時には、なかなかそのことには気がつかない。「がる」がその前にある動詞から切断されてたっぷり発音された瞬間に、その響きがいわゆる「意味」に還元しきれない、何か別のことを訴えかけてくる。言葉をたずさえて音楽という「もうひとつの言語」の中に入っていくと、そ���いった言葉の不思議さが自分のテキストの中から立ち現れてきて驚かされる。音楽を通して、言葉を再発見するということかもしれない。 (同前)
 音楽は「もうひとつの言語」である。多和田葉子の朗読と高瀬アキのピアノの共演は、まったく異なる二つの「言語」によって、手探り状態で対話をしているようなものだ。相手の「言語」が及ぼすエフェクトによって、自らが操る「言語」も刻々と異化されてゆくことになる。両者の間に完全な交通などはありえないが(それにもしもそうなったら「対話」の意味もなくなるだろう)、そうであるからこそ、そこにはマジックが生じ得る。  ピアノの音に対峙しながら、口唇から発される言葉は「意味」を脱色され、バラバラの音韻へと分節され、語の響きの肌理が、ざわめきとともに立ち上がってくる。つまり、言葉は「もうひとつの音楽」である、と言っても同じことではないか。「対話」であり「双奏」でもあるような、二つの「言語/音楽」による交通=コミュニケーション(それはもちろん、多和田の言うように「反コミュニケーション的なコミュニケーション」でもあるのだが)。「耳をすましても決して一致はしない、もどかしい、余りだらけの割算をお互いに繰り返しながら、発見を重ねていくことに、音と言葉の共演の楽しさがあるように思う」と、先の文章は結ばれている。  しかし『13』の場合には、そもそも言葉と音はまったくコミュニケーションしていないのではないか。サウンドは無骨にパルスを繰り返す。声は黙々と言葉を発音していく。あたかもそれは二台の機械が互いに無関係に駆動しているさまを見せられて(聴かされて)いるかのようなのだ。「不思議な空間を屈折して進む振動によって、間接的に繋がっている。あるいは分離している」などとは、とても呼べない。それらは繋がっても分離してもいない。そこには厳密な意味で「交通」は存在していない。アコースティックな即興演奏とエレクトロニックな反復音響という違いはあるにせよ、この共演はほとんど異様である。 実際のレコーディングがどのように行なわれたのかは不明だが、多和田葉子はノトと「対話/双奏」していない。  なるほど確かにひとつのポイントは、ノトの「音楽」自体がいわゆる「生演奏」ではない、ということにある。それはあらかじめ録音されたものであり、デジタルに記録されたオーディオ・データが機械的に再生されているのにすぎないからだ(もちろん、ニコライがその場でエレクトロニクスを操っていた可能性もゼロではないが、そのような想定はおよそナンセンスというものだろう)。当然のことながら、音楽がリアルタイムで声に反応JGすることはありえない。だから「交通」があるとしても、それは一方通行でしかない。この考えはまったく正しいが、しかし問題の本質は実はそこにはない。  たとえ既に完成されたバック・トラックをヘッドフォンなどで聴きながら多和田葉子の声が録音されたのだとしても、そのことが朗読にどのような影響を齎したのかは、完成した『13』からは聴き取ることができない。反対に、朗読が事前にレコーディングされており、音楽の方が後から付け加えられたのだとしても、結果はほとんど相違ないのではないかとも思える。つまり、言葉と音の時空間的なズレは、この作品の本質には関係しておらず、むしろこの無関係さこそが問題なのである。多和田葉子とカールステン・ニコライが一度も直接会ったことがなかったとしても、この作品は十分に成立可能であり、言葉と音が完全に別々に録られていようと(筆者はそう思っている)、あるいはそうでなかろうと、『13』の仕上がりには関係がない。そこに厳密な意味で「交通=コミュニケーション」が存在していないというのは、このような意味である。  では結局のところ、多和田葉子とノトの一度限りの共同作業は、多くの豊かな可能性を孕みつつ現在も継続中の高瀬アキとの共演と較べて、いわば試しに行なってみた無味乾燥な実験のひとつでしかなく、そこにはおよそ得るものはなかったということになるのだろうか。なるほど確かにそこでは「音楽を通して、言葉を再発見する」というような体験は、ほぼ皆無であったかもしれない。しかし、そのような言葉と音楽の生産的な交流とはまったく別の次元で、この出会いには明らかな必然が潜んでいたのだと、筆者には思える。そしてそれは何よりもまず、多和田葉子の言葉とカールステン・ニコライの音の「組成」が、極めてよく似ている、両者はほとんど同じ物である、という点に存している。
「私が目的としているのは、幾何学的な体験をするということであって、美的なものを追求していくということではありません」 カールステン・ニコライ
 音楽家としてのカールステン・ニコライは、デュオ・ユニット「cyclo.」として共同制作も行なっている池田亮司などと並んで、しばしば「サイン・ウェイヴ派」などと呼ばれている。「サイン・ウェイヴ」とは、一定の周波数を示す「サイン=正弦曲線」のみで表される「波=音」のことであり、倍音の要素を一切含まないことから、「純音」とも呼ばれる。言うまでもなく、「音」とは空気中の振動という物理的な現象なのだが、あらゆる「音(響)」は、フーリエ変換という数学的なプロセスによって、「サイン・ウェイヴ」の重ね合わせに分解することができる。ニコライと池田は、このような「純音」それ自体を、楽曲の素材として全面的に使用しており、ある意味では「電子音楽」の黎明期に立ち戻ってみせたかのような(既に五十年代にシュトックハウゼン等がフーリエ変換を用いて「サイン・ウェイヴ」による作品を発表している)、彼らのラディカル=原理的=急進的な方法論と、旧来の「音楽」の美学的価値判断を揺るがすような姿勢は、90年代の「テクノ」以後の環境の中で、極めて強力な影響力を持つことになった。  「サイン・ウェイヴ」の特質は、あらゆる「音」の原基を成すものでありながら、それ自体は徹底して人工的なものだということである。自然界には「サイン・ウェイヴ」は存在していない。現実の世界でも、たとえば時報や横断歩道のシグナル等といった限定されたもの以外では、正確な周波数だけの「音」を耳にすることは滅多にない(そしてこのことが「サイン・ウェイヴ派」が音色の点でも新鮮に受け止められた理由でもあるだろう)。いわばそれは「数」としての「音」だといっていい。  ところで、興味深いことに、「音」を「数」として、すなわち周波数の厳密な値として捉えることによって(それゆえ「サイン・ウェイヴ派」は「周波数音楽」などと一ある種の揶揄や批判も含めて一呼ばれることもある)、個々の「音」そのものを、まるで一種の彫刻のように磨き上げたり、ブロックのように連結したりといった、嘗ての「音楽」では考え方自体がありえなかったような作業が可能になった。言い換えればそれは、「音」を「物質的」に扱えるようになったということである。たとえば、1キロヘルツ(ヘルツは周波数の単位)の一秒の「音」は、「数」で表示されるものであるのと同時に、削ったりバラしたり、あるいはつまんだりすることもできるような、一種の「物」でもある。  更に現在のデジタル・テクノロジーは、「音」のサンプリングを一秒の四万四千百分の一(もしくは四万八千分の一)の精度で行なうことを可能にしており(更にいわゆる次世代オーディオではその二倍以上のサンプリング・レートが達成されている)、カ−ルステン・ニコライや池田亮司は、そのようなミクロな「音」の単位で制作を行なっている。比喩的に言えば、「サイン・ウェイヴ」が「音」を水平にバラしたものだとすれば、「ミクロ・サンプリング」は「音」を垂直に切り刻む。そうすることによって「物質」としての「音」が抽出されてくることになる。純粋で超微細な、分子のような,点のような「音」。  「数」であり「物」である「音」。このような意味での「音」は、およそ「音楽」の歴史において、作曲や演奏の俎上には上ってこなかったものである。今なお大半の音楽家にとって、それは「音ー楽」の「音」ではない。ちなみに『13』をリリースしたカールステン・ニコライ自身のレーベルの名称は「noton.archiv fur ton und nichtton(ノートン、音と非=音のための収蔵庫)」という。ノートンとはドイツ語で音を意味するtonに英語のnoを加えた造語であり、ノトというアーティスト・ネームも、ここに由来している。
 言うまでもなく、人間の「声」も「音」であることに変わりはない。「言葉」が「声」として発された瞬間、それは「音」になり、必然的に「サイン・ウェイヴ」の集積に分解され得る。そしてまた、たとえば「食べたがる」の「がる」は、もっと短い「が」の更に何万分の一ものミクロな「音」に分割され得る。このようなマセマティカルかつマテリアリスティックな観点に立った時、『13』における多和田葉子の朗読は、「言葉」としての「意味」を失うどころか、最終的には、ノトが用意したエレクトロニックな「音」との差異さえ消滅させてしまうことになる。「物」としての「音」に区別はありえないからだ。  もちろん、それはあらゆる「音」に関して等しく言えることであり、『13』の多和田葉子の「声」が殊更に「物質的」に振る舞っているわけではない。だが、カールステン・ニコライの「音」に対する幾何学的かつ唯物論的なアプローチは、多和田葉子の「言葉」へのアプローチと、明らかに通��していると思える。そしてそれは、朗読=音読によって生じる「音」としての「言葉」というよりも、むしろ「音」以前の書かれた「言葉」、すなわち「文字」の審級、そして更にその根元に在る「言語」の審級において、そうなのではないか……おそらくカールステン・ニコライは、このことに気付いており、それゆえ二人のアーティストは出会うことになったのではないだろうか?    私はよく、言葉のklangkorperとschriftkorperということを考える。これらは決してよく使われる合成語ではないが、klang(響き)とschrift(文字)は、大変一般的な単語である。それらの単語にkorperを付ければ出来上がり。言葉は意味を伝達するだけではなく、たとえば響きというものがあり、響きそのものが作り出す意味もある。文字についても、同じことが言える。 「からだからだ」『エクソフォニー』
 korperとは「からだ」(この「から」には「空」や「殻」も潜んでいる)の意である。「言葉+響き+からだ」と「言葉+文字+からだ」。「文字」と「響き」とが、同じ「からだ=言葉」の中に入れられる。それはいわば「グラモフォン(「文字」+「音声」/蓄音機)」(デリダ)としての「言語」ということであろう。だが、今や「音声/響き」は「物」でもある。ならば当然、もう一方の「文字」もまた「物」として捉えられなくてはならない。「グラモフォン」はそれ自体、すこぶる唯物論的な装置なのである。  断っておかねばならないが、それはしかし、ただ単に「文字」がインクの分子や、フォントのドットに分解可能だという、言わずもがなのことを意味しているの(だけ)ではない。「言葉」も「音」も「物」である、ということは端的な事実でしかない。だが、カ−ルステン・ニコライが、「音」が「物」で(も)あるという事実を潔く受け入れた地点から、彼の「非=音楽としての音楽」を開始し、旧弊な美学では太刀打ちできない、唯物論的なポエジーとでもいうべき「音響」の世界を切り拓いてみせたように、多和田葉子は、「文字」が「物」で(も)あることを、「書くこと」の始源において絶えず意識しながら(意識させながら)、すぐれて「詩」的でありながらも同時にやたらゴツゴツとした手触りを持った「非=言葉的な言葉」を駆使して、「グラモフォン」としての「言語」をアップデイトさせていると思えるのだ。そしてこの時、ドイツ語と日本語の境界は、もはや意味を成さなくなっている……。
 ここで俄に想起されるのは、ベンヤミンが「翻訳者の使命」で唱えた、あの非常に理解しにくい「純粋言語」なる概念である。
 二つの言語間の親縁性は、歴史的親縁性を除くとすれば、いかなる点に求めることができるだろうか。(中略)むしろ、諸言語間のあらゆる歴史を超えた親縁性の実質は、それぞれ全体をなしている個々の言語において、そのつど一つの、しかも同一のものが志向されているという点にある。それにもかかわらずこの同一のものとは、個別的な諸言語には達せられるものではなく、諸言語が互いに補完しあうもろもろの志向(Intention)の総体によってのみ到達しうるものであり、それがすなわち、〈純粋言語(die reine Sprache)〉なのである。 「翻訳者の使命」ヴァルター・ベンヤミン/内村博信訳
 ベンヤミンのもっとも有名な、かつもっとも難解なテキストの一つというべきこの論考は、しかし知られているように、もともとはボードレール『パリ風景』のベンヤミン自身によるドイツ語訳の序文として書かれたものである。であるならば、どれほど高度に観念的な思考が繰り広げられているように読めたとしても(そしてそれは勿論そうなのだが)、しかし一方ではそれは、ベンヤミ��その人による具体的な翻訳作業の経験と、より正しく言うならば「翻訳」という行為に内在する紛れもない「物質性」と、密接に結び付いていると考えられなくてはならない。
 ひとつの言語形成物[作品]の意味が、その伝達する意味と同一視されてよい場合でも、意味のすぐ近くにあってしかも無限に遠く、その意味のもとに隠れあるいはいっそうはっきりと際立ち、意味によって分断されあるいはより力強く輝きつつ、あらゆる伝達を超えて、ある究極的なもの、決定的なものが依然として存在する。あらゆる言語とそれぞれの言語による形成物には、伝達可能なもののほかに、伝達不可能な何かがなおも存在するのだ。それが象徴するものとなるのは、ただ諸言語で書かれた有限の形成物においてのみであって、これに対して諸言語そのものの生成のうちにおいては、それは象徴されるものとなる。そして、諸言語の生成のなかでみずからを表現し、それどころかみずからを作り出そう(herstellen[復元する])とするものこそ、純粋言語というあの核そのものなのである。 (同前)
 「象徴するものを象徴されるものそのものにすること」が「翻訳のもつ強力な、しかも唯一の力なのである」とベンヤミンは言う。「純粋言語」という概念は、そのような意味での「翻訳」を可能ならしめるものであり、と同時に、その絶対的な困難の根源に横たわるものでもあるように見える。それは「翻訳」を包含するあらゆる「言語表現」の基底であり、また限界でもあるようなものであり、しかし「翻訳」というあくまでも具体的な行為=運動によって、はじめてその存在を証立てるものとしてある。つまり「純粋言語」というもの自体は抽象的だが、それはいわば「言語表現」の「物質性」の果てしない乗数の狭間から立ち上がってくるのである。
 純粋言語とは、みずからはもはや何も志向せず、何も表現することなく、表現をもたない創造的な語として、あらゆる言語のもとに志向されるものなのだが、この純粋言語においてついに、あらゆる伝達、あらゆる意味、あらゆる志向は、それらがことごとく消滅すべく定められたひとつの層に到達する。 (同前)
 「翻訳者の使命」とは「異質な言語の内部に呪縛されているあの純粋言語をみずからの言語のなかで救済すること」だと、ベンヤミンは述べている。しかし彼は「みずからの言語=母国語」と「異質な言語=外国語」の非対称性について語っているのでは無論ない。当然ながら「みずからの言語」の内部にも「純粋言語」は呪縛されている。ここでの「呪縛」とはむしろ「みずからの」という自明性の中に潜在し隠蔽されている、というような意味なのである。  周知のように、多和田葉子には「翻訳」を主題とする一連の作品群が存在している。中編『文字移植(旧題『アルファベットの傷口』)』を始めとして、短編「大陸へ出掛けて、また戻ってきた踵」、パウル・ツェランを論じたエッセイ「翻訳者の門」など。ドイツ語と日本語を併記した詩集『あなたのいるところだけなにもない/Verlag Claudia Gehrke』もある。  多和田葉子は、彼女が「最も尊敬するドイツ語詩人」だというツェランの「詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない」という言葉に関して、次のように述べたことがある。
 「一つの言語で」という時の「一つの言語で」というのは、閉鎖的な意味でのドイツ語をさしているわけではないように思う。彼の「ドイツ語」の中には、フランス語もロシア語も含まれている。外来語として含まれているだけではなく、詩的発想のグラフィックな基盤として、いろいろな言語が網目のように縒り合わされているのである。だから、この「一つの言語」というのはベンヤミンが翻訳論で述べた、翻訳という作業を通じて多くの言語が互いに手を取り合って向かって行く「一つの」言語に近いものとしてイメージするのが相応しいかもしれない。 「パリー一つの言語は一つの言語ではない」『エクソフォニー 母語の外に出る旅』
 「ベンヤミンが翻訳論で述べた」「一つの言語」とは、言うまでもなく「純粋言語」のことである。晦渋なベンヤミンの文章が一挙にクリアになった感があるが、しかし「多くの言語が互いに手を取り合って向かって行く」という明快な表現を、単純な意味でのポリグロット的な理想像や、あるいは間違ってもいわゆるクレオール的な言語様態への素朴な称揚と捉えてはならない(たとえ多和田葉子がしばしばクレオールへのシンパシーを表明しているとしても)。この文章を多和田葉子はこう結んでいる。
 ツェランを読めば読むほど、一つの言語というのは一つの言語ではない、ということをますます強く感じる。だから、わたしは複数の言語で書く作家だけに特に興味があるわけではない。母語の外に出なくても、母語そのものの中に複数言語を作り出すことで、「外」とか「中」とか言えなくなることもある。 (同前)
 「翻訳者の使命」を司る「純粋言語」なるものは、たとえば「日本語」と「ドイツ語」の「間」にあるのではなくて、それぞれの言語の内部につねに/すでに巣食っているのである。「一つの言語」の中に生成する「複数の言語(むしろ「無数の言語」と呼んだほうが正確かもしれないが)」と、「複数の言語」を貫通する「一つの言語」とは、つまりはまったく同じことを指しているのであり、「それ」すなわち「純粋言語」が露出する瞬間を、「翻訳」と呼んでいるのである。  しかしそれにしても、やはりもうすこし具体的な話にならないものだろうか。ジャック・デリダは、ベンヤミンの「翻訳者の使命」を論じた講演の中で、「純粋言語」を次のように定義している。
 それは言語の言語ー存在(=言語であること)、そのものとしてのかぎりでの言語ないしは言葉である。すなわち、諸言語が存在するようにさせ、そしてそれらが諸言語であるようにさせるといった、いかなる自己同一性も有しないそういう一者である。 「バベルの塔」『他者の言語  デリダの日本講演』ジャック・デリダ/高橋允昭訳
 ますます具体的から遠ざかったかにも思えるが、必ずしもそうではない。ここにふたたびカールステン・ニコライによる「純粋音響」を接続してみることで、何かが仄見えてくるように思う。だがそのためには「翻訳者の使命」に先立つベンヤミンのもうひとつの奇怪な言語論「言語一般および人間の言語について」を参照する必要がある。  「人間の精神生活のどのような表出も、一種の言語(Sprache)として捉えることができる」と書き出されるこの論考は、したがって「音楽の言語、彫刻の言語、といったものを論ずることができる」のだとした上で、極めて特異な一種の「汎ー言語論」を展開していく。
 言語は事物の言語的本質を伝達する。だが、言語的本質の最も明晰たる現われは言語そのものである。それゆえ、言語は何を伝達するのか、という問いに対する答えはこうなる一一どの言語も自己自身を伝達する。たとえば、いまここにあるランプの言語は、ランプを伝達するのではなくて(なぜなら、伝達可能な限りでのランプの精神的な本質とは、決してこのランプそれ自体ではないのだから)、言語ーランプ[言語となったランプ]、伝達のうちにあるランプ、表現となったランプを伝達するのだ。つまり言語においては、事物の言語的本質とはそれらの事物の言語を謂う、ということになる。言語理論の理解は、この命題を、そこに含まれているかに見える同語反復性を完全に払拭してしまうような明晰さにもたらしうるかどうかにかかっている。この命題は同語反復なのではない。というのもそれは、ある精神的本質にあって伝達可能なものとはこの精神的本質の言語を謂う、ということを意味しているからである。一切はこの〈……を謂う〉(これは〈そのまま直接に……である〉と言うに等しい)に基づいている。 「言語一般および人間の言語について」ヴァルター・ベンヤミン/浅井健二郎訳
 ベンヤミンが自ら先回りして注意してみせているように、ここで主張されていることは、いや、このような記述それ自体が、一見したところ、あからさまなまでにトートロジックに思える。「この命題は同語反復なのではない」とわざわざ述べることによって、それは却ってますます深刻な「同語反復」に陥っているようにさえ見える。字面だけでロジックを辿ると、ベンヤミンはほとんど「言語とは何ものでもない(もしくは、それと同じ意味として「何ものでもある」?)」ということを語っているようにさえ思われてくるかもしれない。長くなるが続きをもう少し引用する。
 ある精神的本質にあって伝達可能なものが、最も明晰にこの精神的本質の言語のうちに現われるのではなく、その伝達可能なものがそのまま直接に言語そのものなのである。言いかえるなら、ある精神的本質にあって伝達可能なものが、そのまま直接に、この精神的本質の言語にほかならない。ある精神的本質にあって(an)伝達可能なものにおいて(in)、この精神的本質は自己を伝達する。すなわち、どの言語も自己自身を伝達する。あるいは、より正確に言えば、どの言語も自己自身において自己を伝達するのであり,言語はすべて、最も純粋な意味で伝達の〈媒質〉(Medium)なのだ。能動にして受動であるもの(das Mediale/媒質的なるもの)、これこそがあらゆる精神的伝達の直接性[無媒介性]をなし、言語理論の根本問題をなすものである。 (同前)
 このようなベンヤミンの独特と言ってよい「言語」観は、先のデリダによる「言語ー存在」という語によって端的に言い表されている(もっともデリダは引用した講演原稿の中で「言語一般および人間の言語について」は自分の手には負えない、というようなことを語っているのだが。「その試論の性格が私の眼にはあまりにも謎めいているし、また豊かで多元決定もいろいろとあるので、私はその試論の読解を延期せざるを得なかった」)。「いかなる自己同一性も有しない一者」というデリダの表現にも現れていることだが、ベンヤミンの初期言語論は、ゲルショム・ショーレムによるユダヤ神秘主義から非常に強い影響を受けている。「言語一般および人間の言語について」や「翻訳者の使命」で語られていることは、つまるところ「言語」なるものを通したメシアニズムなのだと考えれば、明らかに理解はしやすくなる。そして、「言語一般および人間の言語について」と同年に成立した「同一性の諸問題についての諸テーゼ」や、「翻訳者の使命」より十年ほど後に書かれた「模倣の能力について」などの論考を読む限り、要するにそういうことなのだと考えて恐らくは差し支えない。  ベンヤミンの論述が過度に難解に見えるのは、彼がたとえば「精神的本質」という言葉で表そうとしているものの内容を、けっして直接には示そうとしないから、正確には示すことは不可能だし、またすべきでもない、と考えているからである。それでも人間はそれを「言語」において、あるいは「言語」的なるものにおいて掴まえようとするしかない。そして/しかし、「言語」は「同語反復」という形式によってのみ、それを表すことが出来る。  だとすれば、ある意味では「精神的本質」の内容は、もはや問題ではないのではないだろうか。極端に言えば、それはいわば一種の空集合のようなものである。いや、それ自身のみを要素として持つ集合のごときものなのであって、そして/しかし、「それ」を名指そうとした途端に、こう言ってよければ、この形式はあからさまに「宗教」的な色彩を帯びることになる(デリダの「いかなる自己同一性も有しない」という表現は、このことを更に逆説的に捉えたものだとも考えられる)。しかしここでは「純粋言語」とは「どの言語も自己自身を伝達する」のだということ、すなわち「言語ー存在」である、ということを、敢て専ら形式的に捉えてみたい。  たとえば「言語は言語である」はトートロジーである。しかし総てのトートロジーはオントロジーを稼働する。それは言うなれば「自己自身を伝達する」ことしかしていない。それは「言語がある」とだけ記しても、ほとんど同じ意味である。逆に言えば、それだけで足りるのに「言語である」ではなく、「言語は言語である」という無意味で非生産的な反復を必要とするところにこそ、「純粋言語」の核心がある。それが「純粋」であるというのは、「自己自身を伝達する」という運動=現象の純度を指しているのである。  ではここに「音は音である」というトートロジーがあるとしよう。空気中の振動現象を人間の鼓膜ー聴覚が認知することで生起するのが「音」である。前述したように、カールステン・ニコライが自らの音楽に用いている「サイン・ウェイヴ」は、あらゆる「音」の原基を成す、周波数成分としてはそれ以下に分解できない「音」、という意味で「純粋音響」と呼ぶことが出来る。それはすべての「音」の中に潜んでいるものではあるが、当然ながらわれわれは特定の音楽を「サイン・ウェイヴ」の重ね合わせにフーリエ変換して聴取する耳を持っているわけではない。それはあくまでも原理的にそうであることが知られるようになっただけなのだが、しかし同時にそれは厳然たる物理的な事実でもある。  カールステン・ニコライは、そのような「純粋音響=サイン・ウェイヴ」を、そのまま音楽の素材、構成要素として用いている。そこで次のようには言えないだろうか。「純粋音響」のみから成る「音楽」は、ただフーリエ的な意味で「純粋」であるというだけではなく、「音は音である」ということを極限的に明示し、「自己自身を伝達する」ということに収束しているという意味で、トートロジカルな存在なのであり、そのことによって、「音」のオントロジーを、すなわち「音ー存在」を証明しているのだ、と。そして極めて重要なことは、この「音ー存在」は、現実に聴くことが出来るということである。  ベンヤミンの「純粋言語」とニコライの「純粋音響」のアナロジー、そして両者の決定的な違いは、ほぼ明らかだろう。われわれは「純粋言語」を実際に読むことは出来ないが(それはたとえば「翻訳」という運動=現象の中でしか触知し得ない)、「純粋音響」は具体的な聴取が可能である。もちろん、ベンヤミンによれば「人間の精神生活のどのような表出も、一種の言語として捉えることができる」のであり、したがって「音楽の言語」というものが想定し得るのだった。しかし「音楽」を「言語」として捉えた上で、そこにおいての「純粋言語」を考えたとしても、結果としては同じことだ。つまるところ、われわれは「言語」においては、「音」における「サイン・ウェイヴ」に相当するものを、いまだ発見していない、ということなのである。
 多和田葉子が、自らの「言葉」によって検証し析出し探求しつつあることとは、ベンヤミンの不可能な「純粋言語」を可能ならしめようとするおそるべき試みであり、そしてそれはまた、カールステン・ニコライが「音楽」と「音」に対して行なってみせたのとほとんど同じことを、「言葉」において行なおうとする試みである。高瀬アキとのコラボレーション・パフォーマンス(朗読+ピアノ演奏)のために書き下ろされた「脳楽と狂弦」や、連作詩編「傘の死体とわたしの妻」などは、その最新の成果である。そこでは「言葉」が「文字」であり「音響」であり「物質」であるということが、「言葉」が「言葉」であるということが、驚くべき強度で反復されている。  おそらく「言語」には「サイン・ウェイヴ」は存在しない。だがしかし、ベンヤミンが漸近してみせたように、それが在ると考えることで露わになる真理がある。そしてわれわれは多和田葉子の他に、この真理を実践する者を、未だほとんど持ち得てはいない。
(『(H)EAR』青土社刊)
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keijukita2018 · 5 years
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戦略会議 #02 展示まわり/ HAMAMATSU SESSIONS 2019
浜松、Hirano Art Galleryで開催中の3人展「HAMAMATSU SESSIONS 2019」へ 世界で活躍する浜松出身のアーティストである若木信吾氏、多和田有希氏、Nerholの三組による現代写真アート展。 本当は休館日なのだが静岡までいく用事があったので、無理を行って開けてもらった。おかげで広い館内をじっくりと時間をかけて堪能することが出来た。 はじめて訪れたのだが、とても広くすばらしいスペースだった。
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展示を全体に関して、まず本展「HAMAMATSU SESSIONS 2019」は「浜松出身アーティストたち」としてはいるが、それだけがこの3組を繋ぐテーマはやはりそれだけではないと感じた。 現代写真アート展とうたっていることもあり、この展示は単なる写真展ではない。3組はそれぞれの方法で、写真というものを文字通り物理的にも、概念的にも切り刻み、解体、再編、再構築した表現を持つ。それが単なる写真展ではなく、現代写真であり、アートとして3組を繋ぐ展覧会としてのもうひとつの線であると感じた。 多和田有希氏: 多和田さんの展示している作品のシリーズのいくつかを昨年2月に観に行った「写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−」(21_21 DESIGN SIGHT)で一度、鑑賞している。その時もヴィジュアルのインパクトはかなり受けたが、2度目である今回の方が作品としっかりと向き合い解釈を進めることが出来たと思う。
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彼女の作品はプリントという物質そのものに穴を空けられたものとなっている。1枚のプリントのものもあれば、焼き切られて輪郭を持ったプリントを素材とし透明な板の上で複雑に組み合わされ、さらにそれが3層構造になっていたりなど複雑なレイヤー構造を成すオブジェとして鑑賞者と向き合う。
文字通り、写真そのものを切り刻み、解体し、再編、再構築することで作品とされている。 解説で使われていた「人間の精神的治療のシステム」という言葉に引っ張られるわけではないが、作品と向き合った時に、作品を写真として観ようとする僕自身がまず穴が空いて、プリントの向こう側が見えることに混乱をし、そこから徐々に自身の想像力によって穴を埋めるようにしてイメージを再構築していることがわかる。いかに写真を想像力ではなくまず写真として観ているのかということに囚われた自身の概念的能力の狭さにやや愕然とさせられる。 複雑にレイヤー構造で組み上げられたオブジェは儀式に使われる何かにも、中世のシャンデリアのような象徴的なものとしてのフォルムのようにも見え、写真というメディアそのものが排除してきた魔術的な要素を感じるのはこの作品がいわゆる写真ではなく、写真を使った彼女の手仕事によるアートであることが大きいと感じた。 作品の中に辛うじて見つけられる人物の頭と肩から伸びる先が、手であると思うとそうではなかったりする。 この階層構造と複雑なフォルムは鑑賞者の視線の先にあるリアリティを引き裂く。 作品によって表現されるものは「何かであって、何かでない」 向き合った鑑賞者としては頭の中に作品のその触手を脳に突っ込まれ、想像力を引き摺り出される感覚に陥る。 Nerhol: 彼らの作品は好きなこともあり、都内で観れる展示には割と行っているので今回も再度目にする作品もいくつかあった。 彼らは数百枚という重ねられた写真を彫刻のように掘り出すことで作品としている。
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数百枚に重ねられた写真の層の厚みはある瞬間ではなくある時間の幅を示す。現実である3次元に時間という概念を加えた4次元という時空を2次元の重なりで変則的に新たな3次元の実体を作り出しているのだ。 そこから掘り出されたイメージは時空を歪め、時間的にも空間的にもループし、はじまりも��わりもないメビウスの輪のように現実世界とは違ったパラレルワールドを映し出す。 若木信吾氏: 今回はじめて作品を拝見するのは若木さんだけだ。 3組の中では一番写真らしい写真作品ではあるが、若木さんの作品も確かに写真を切り刻み、分解していると感じた。 3つのシリーズの作品から数点ずつ作品が展示された構成であった。
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「川」のシリーズ。 静岡は熱海から入って浜名湖を抜けるまでに6つの新幹線の駅を持つほどに東西に長い県で、二つの大きな川(富士川、大井川)で東部、中部、西部に分けられる。それぞれに地域性がちがうことを大学時代から最初の就職まで9年の間過ごしたころによく聞かされた。さらに僕が居た静岡市ならば安倍川という川が市内を南北に流れ、歴史的な背景から「川向こう」といった差別的な呼び名があったりした。浜松市も天竜川が東側の豊田町との境を流れ、そこから西側が浜松市となっている。 静岡にいたことから感じるのかもしれないが「川」というのは「分断」をイメージさせるモチーフなのだ。地域、文化、感情といったものがそれを挟んだこちらとあちらで違うものだという意識がいつの間にか形成されている。
展示されていた若木さんの他のシリーズも後景と全景の間に車がイメージを分断したものや、歩道が道路と建物の地域を分けたものなど、イメージ内を何かしらのモチーフが横切り、分断したものであった。 若木さんの作品は写真そのものではなく、モチーフによって示されるイメージ内を分断することで写真の伝える概念を切り刻み分解している。 しかし、作品としっかり向き合う中で「分断」といったネガティブなイメージは必ずしもこの作品の最終的に示そうとしているものではないのではないかと感じる。 全てのイメージで「川」は実際には何かを分断するものとして捉えられてはいない。川の向こうの土地が左右にイメージをしっかりと横切っていたり「川」が分断のモチーフであることを逆に否定するかのようにイメージは丁寧にモチーフである川を扱っている。むしろ左右に横断する土地が川と空という二つの広大な空間を分断しているようにすら見えてくる。 他のイメージも然りであった。
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後景の壁のグラフティと左右に画面を大きく遮る車のグラフティの対比はむしろ両者を分断するものではなく、同一平面として観ているものが平面作品であることを思い出させる。 一度解体させられたイメージを想像力により再構築、再編させられ、別の違った見え方がしてくる。それは僕の持っていた「川」に対する「分断」というネガティブなイメージを逆に切り刻むものでもあった。
浜松というある地方都市にとって、写真というものに対する歴史的意識を切り刻み、解体、再編、再構築させるある意味で暴力的でエッジのきいた意義ある展覧会となると感じる。
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angyeong-12 · 5 years
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「ライブやイベント参加に関するアンケート」を実施しました
今回は、前回行ったアンケートでライブに関する疑問がいくつか寄せられていましたので、それを元に調査を行いました。
もう結果行ってもいいですか?いいですね。
▼アンケート概要
コンサートやイベントなど現場に関するアンケート
アンケート実施期間:3/5〜3/10
アンケート回答数:115件
▼アンケート「共通質問項目」
【お住まいの地域を教えてください(都道府県)】
1位 東京都 17 件(14.8%)
2位 大阪府 11件(9.6%)
3位 埼玉県 9件(7.8%)
4位 兵庫県&愛知県 8件(7%)
6位 神奈川県&石川県 6件(5.2%)
都心&都心のベッドタウンの方が多かったですね今回
【イベント参加の有無】
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4人に1人はイベントに参加したことがある、という計算になりますね。 次の項目の「年齢」と一緒に見ると、「みんな若いのにすごいなあ」という気持ちになります(もっと良いこと言えないのか)
【年齢を教えてください】
(※任意回答)
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このアンケートで一番多い層は「高校生」ですね。
第三次韓流ブームが中高生中心に広がっているということが分かります (ようやくそれっぽいこと言えた)
中学生の方が、20%以上いらっしゃるのは驚きました。
���が中学生の頃は、吹奏楽部が変な挨拶をする風習があったので、それを真似するとか、そんなしょうもないことばかりしてました。 今は、中学生でもネットに触れる機会が多いので、流行しているものを取り入れやすいんでしょうね。
私が中学の頃なんて、銀魂中心にみんな生活してましたよ、、毎週木曜18時半、、
▼ライブやイベントに行ったことが無い方への質問
上記の共通質問項目「イベントに行ったことはありますか?」という質問に「無い」と回答した方への質問セクションです。
【今まで、イベントに参加しなかったのはなぜですか?】
機会がなかったから
お金が無い
暇とお金がなかったのと一緒に行く人もいなかったから
当選しなかった
子供が年子で小さいから
今までアイドルに興味が無かったから。
そもそもない
親に許可がもらえなかったから。
受験生だったから
日程が合わないから
受験があったのと、住んでいるところが鹿児島なので遠征費(?)がかかってしまってアルバイトをしていない身なので参加できなかったから。
周りに同じグループのファンがおらず、年齢的に一人で参加できなかった
現地まで遠い、金銭的余裕がない
最近好きになり始めたから
地方に住んでいて遠征費がまずい、貯金がない
そもそもイベント自体が無いという方も多数いらっしゃいました。
その他にも、時間や金銭が無く、参加を諦めたという方も多いようです。
地方にお住まいの方は、東京や大阪に出てくるだけで一苦労、という方も多いようで、、、、
最近好きになり始めた、という方はこれからどんどん色んな現場に行けるといいですね〜
【イベント参加に関する意欲に関して】
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頼む〜〜〜〜!!みんなが現場行けますように〜〜!!ナムナム🙏
▼ライブやイベントに行ったことがある方への質問
上記の共通質問項目「イベントに行ったことはありますか?」という質問に「ある」と回答した方への質問セクションです。
【現場に参加した回数】
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6回や9回の方は、ご自身で回数をカウントしてらっしゃるんですね!その記憶力が羨ましい!!
「10」に関しては、「10回以上」も含んでおります。
このアンケートに参加した方の割合としては、1回の方と10回以上の方がかなり多いですネ。
現場行き始めです〜!という方と、もうベテランです!っていう方に大きく分かれるんですかね〜
【普段の現場参加に関して】
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「連番した数」ですので、どうしても5人以上は無理ですよね(笑)
現場によっては、4連番出来ますよね、でも多いのは2連ですかね。 (今思い返せば、私は2連が多かったです)
ここで、「1人」と回答した方と、複数人の方は、次のセクションが変わります。
【遠征経験の有無】
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半数が遠征の経験アリなんですね〜!!
遠征って楽しいよね!!!!!今度韓国とか行きたいんですよね私も!!!!
【遠征はどこへ行きましたか?】 (遠征した理由等もあれば教えてください) ※遠征したことがある方のみ
大阪(2018SMTOWNが大阪でしかやらなかったり、SHINeeの公演があったので)
福岡ヤフオクドーム
韓国のソウル。ツアーの最終公演があった為。
会場が小さく観光としても興味があるという理由で仙台に行きました。
関東から関西に(遠征と呼べるのか否か
応募してみたら当たったので福井に行きました
福岡 クリスマスの公演に行きたかったから
大阪、北海道→東京より会場が狭いから(近い距離で観れる)
福岡、同じ九州でも簡単に日帰りできる距離ではあまりないから。
実家にいたときは東京へ遠征しました
大阪、千葉(会いたいから)
福井県(アリーナツアーで1番の近場) 宮城県(LIVE当日誕生日だったので)
東京(たまたま旅行に行く予定ですだったため)
家から行くには遠すぎるから、ライブは毎回東京
大阪(福岡住みのため)
幕張(幕張でしかペンミがなかったから)
福岡・名古屋・福井・和歌山・神戸 理由は好きな人にできるだけ会いたいと思ったから・チケットが当たったから
遠征してみたくて大阪に応募したら当たったから大阪に行った
家から行くには遠すぎるから、ライブは毎回東京
東京(たまたま旅行に行く予定ですだったため)
一番上の大阪SMTOWNとは私です()
ツアー最終公演を狙って韓国に行った方羨ましい〜〜〜!!!
この結果から、遠征は大きく分けて3パターンくらいあるんですね。
①「近くでイベントが開催されないため、都市に出るパターン」 ②「観光を兼ねて遠征するパターン」 ③「会場が小さいから近い、できるだけ多く会いたいなどの熱意に由来するパターン」
ツアー全通マンさんは、③熱意遠征組に分類されるのかな 私は2018のSMTOWNの時は、①でしたが、SHINeeのFromNowOnの時は③でした。
みなさんの遠征は、どの分類ですか??
【会場到着時間は、開演時間を基準として何時間前ですか?】
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2時間前と3時間前が圧倒的に多いですね、1時間前という方もいらっしゃいます。
次いで多いのが「5時間前」ですが、おそらく物販やご飯ですかね。
「その他」を選択した右らへんの少数は、10時間前や前日から、という方々です。
て、、、徹夜組、、、、!!!!
平日か休日かで大きく変わる方も多そうですネ
【どのような服装で参加していますか?】
動きやすさ重視!Tシャツorトレーナー&スキニー+スニーカーを基本に、推しのカラーを取り入れた服装が主ですかね〜〜〜
お気に入りの服(メンバーカラーがあれば取り入れる、、)
そのまま推しにお持ち帰りされてもいいような格好
写真映えしそうな服
普段とあまり変わらない
全身グッズ!
清楚系
スカート
推しが好みの服装
その季節に合った服装
BT21の服装
EXOならユニフォーム 他グルは推し色
スニーカー必須でスニーカーファッションでおしゃれできる服
量産
派手すぎない服装
バリバリの勝負服
韓国系意識の私服
自分の中で一番自分が可愛くなってると思える服装
黒系!
私服。誰かと連番する時はシミラールックが多いかも
機能性(動きやすさなど)を重視している方と見た目(単純な可愛さや派手さ、友人とのお揃いなど)重視の方にわかれましたネ。
グループカラーや推しカラーを取り入れる方も多いですね。
私はあまり何着ていこうとか、昔より考えなくなりました。 (いわゆる普段どおりというやつですな、、、)
【物販で必ず買うものはありますか?】 (理由もあれば教えてください)
会場限定のランダムグッズ:オンラインでは買えないグッズはどうしても買っておかなければという信念にかられるから。それでも可愛いいと思わなかったものは買わない
うちわがあればうちわ!ライブ中片手にペンライト、片手にうちわ!手が空いてるとどうしたらいいのか分からなくて← ジャニーズは固定ペンラがないので、買います!
推しの顔が見れるもの (見返して、胸がときめくもの…….)
うちわ、フォトカード、会場限定のキーホルダー?みたいなの(理由)そこでしか買えないから
Tシャツ
ピンバッチやキーホルダーなど(洋服はあまり使わないので買わない)
推しのうちわ理由アピールするため。ペンライトが新しければ買う
トレカ(収集癖のため)、うちわ
タオル等日常的に使えるものだけ買います
ない
うちわめっちゃ人気やん
いや、この表だけ見ると「何言ってん」って感じかもしれませんが、ここに載せる前に被り等を消しています。
うちわとペンライト、何回消したかわからないよ、、、、、、
でも、顔がドカンと載ってるタイプのうちわがみなさん好きなんですね。
トレカ系集めちゃうの分かります〜
チェミノのポラなんて2セット買いました(末期)
【会場で「特典付きCD」が売られていた場合、次のうちの何が特典の場合、CDを買いたいと思いますか?】
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おい、セジュンシッパーおるぞ
この質問は、私が元イベント会場CD売り場マンだったので、気になって追加しました。(たぶんここで書いた)
3年間働いていたので、ある程度は売れるものと売れないものの予想が当たるんですが、このグラフも「まあそうですよね」という結果です。
ミーグリ抽選券よりも若干トレカが強い、、それなら、ミーグリ抽選付きトレカを特典にして販売するのがいいんじゃないか、、、?おや、、、?
なお、キッスさん系のいわゆる接触系特典券が抽選関係無しについてくるパターンは想定していません。
学生の間は、クリアファイルや缶バッチ、ポスターも嬉しかったですが、今はトレカの方が嬉しいですね(まあ、結局なんでも嬉しいですけど)
▼普段、「1人で現場に参加する」と回答した方への質問
ここからは、ライブの参加人数によって質問を少し分けてみました。
【お一人で参加した理由を教えてください】
周りに友達がいなかった
1人の方が参戦できやすい
一緒に同じグループを応援している幼馴染はいるが、仕事の都合でなかなか予定が合わなかったりするから。私は平日休みのシフト制。友人は土日休みの仕事。あと友人はそこまでアクティブではない。Youtubeで推しをみているだけでも幸せで充分だと感じるみたいです。だけど私がライブに行くことはやはり羨ましいそうです。矛盾してますが…
友達のファンがいないため。1人の方が当選率や席が良さそうなイメージがあるため。
「1人のが楽です〜」派と「致し方なく」派がいらっしゃいますね。
1人の方が当選しやすいのは、座席の関係ですね。
【2人以上での参加に関して】
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真っ二つ!!
私は、時と場合によります〜
韓流系は友達と行って、「全自動尊いbot」になりたいですが、バンドの場合は1人で行きたいかな、、、なんでしょうね(笑)
【上記の「二人以上でのライブ参加」に関する質問の理由】
1人の方が1日自由に動けて気楽なため。
色々気を使うのが面倒
以前友人と連番して単コンに行ったが予約しているマスタニムグッズを取りに行くのに2人だと面倒くさかったから、それ以来1人で行くようになった。
心細いからです。あと、感動を共有したいからです
一緒に参戦できる子が欲しい
ひとりでのライブ参戦を特につらいと思ったことはない。むしろ気楽。会場でSNSで繋がっている方とお会いすることもできる。だけど同じグループを推している気の知れた友人とライブ参戦したときは、ひとりのときにはないワクワク感と高揚感を感じられるのでやはり楽しい。
「1人のが断然楽」派、「でもやっぱり人と行きたい」派、「どっちでも大丈夫」派にわかれました。
私もどっちでも大丈夫な方です!
私は周りに結構韓流好きな子が多いので、そういう子と行きますね。 (高校の頃の同級生です)
ツイッターなどのSNSで仲良くなった方にお会いするのも楽しいと感じる方です〜!!
▼普段、「2人以上で現場に参加する」と回答した方への質問
ここからは、複数人でライブに参加される方への質問です。
【どのような間柄の方と参加されていますか?】
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ちょっと複雑だったので、まとめて単語の回数検索をしました。
結果的に、友人と親御さんがとても多く、実際のアンケート結果を見ても、「SNS上の友人」と答えた方はそんなにいなかったです。
【1人での参加に関して、どう思いますか?】
FC限定などは基本一人参戦で楽しいです。ただ1度友達と参戦したことがありその後互いに語れるのがとてもたのしかったです(母の場合はどちらかと言うと一方通行に語ってる)
そのアイドルへの愛を感じるのでよいと思う
ぼっちは寂しいので、できれば誰かと行きたいですが、1人で行ける人��ことを羨ましく思います。いつかやってみたい。
全然あり!自分も1回1人で参戦した!
少し寂しいと思う、始まる前の緊張を誰かと共有したい
あり!
自分も良くするので特に何とも思わない。強いて言うなら1人参戦をみて馬鹿にするのをやめてほしい
全然いいと思うただ終わってから騒ぐ相手がいないのが悲しい!
以前に1人で参加したことがあるが、自分の好きなように行動できるし集中できるので良かった。1人で鑑賞したい人の気持ちはとても良く分かる。
ちょっとしてみたい
なるべく2人以上で入りたいけど、予定が合わなかったり、チケットが1人1枚しか取れないときは1人でも参加してます。
トイレやグッズ列は1人で行動なので楽だが、いざライブが始まり楽しさを共用できる人がいないので寂しさも覚える。
1人で参戦できる勇気が欲しい
1人での参加に憧れるという方もいらっしゃいました。
よく、「1人なんです、、、、」という方を見かけますが、あまり気負う必要は私も無いと思います。
推しを愛する気持ちが重要なわけですから、、、、、、、
1人映画、1人水族館、1人ディズニー、1人渡韓、、、、
みなさんやったことありますか?私は全部あります
(ディズニーは、年パス持ってたので)
▼最後の項目ダヨ!!!
ここからは、共通の質問に戻りますアンド最後のセクション
【毎月いくらほど韓流にお金を使っていますか?】
10万円 1件
5万円 3件
3万円 9件
2万円 7件
1万円 22件
5000円 15件
3000円 7件
2000円 2件
1000円 3件
0円 3件
5000円〜1万円が平均的な金額みたいですね!
月によってバラバラという方も多くいらっしゃったので、大体の平均として捉えてください。
私ですか、、?私は、、、、1万、、、、? (意外と穏やかなオタク)
ンマ、カムバやイベントがあれば別だけどね。
▼長いアンケートにお付き合い頂きまして、ありがとうございました。
以上で、アンケート結果の集計は終わりです〜!!
今回のアンケートはちょっと長かったですか?? 分岐がたくさんありましたよね(複雑でごめんなさい)
みなさんがとにかく現場大好きなようで、とてもほっこりしました(笑)
この結果がオタクのみなさんにとって少しでも身になるものであることを祈ります!
▼番外編(今後の参考)
【知りたい情報やアンケートはありますか?】
韓国語の覚え方みたいなやつ
トレカを携帯ケースの裏に入れている方って、普段(仕事や学校に持って行く際)も入れているのか、休日やイベントの際のみ入れているのかちょっと気になりますね(しょーもな)
セジュンシッパーは人口の何割程度存在しているのか
推しの誕生日などで渡韓する際に、推しのグループのゆかりの地というか、ここは行っとけ!みたいな情報が知りたいです。
韓国で旅行をする時にオススメのホテルや交通機関
サイン会の行き方、応募の仕方
自分のライフスタイルの変化(特に結婚という点に特化して)で、独身時代と比べて推しを応援する活動に変化はあったか(金銭面や遠征回数、気持ちの面など)
みんなが推しのグループを好きになったきっかけ
EXOちゃんは誰と誰がリアルなんでしょうか
特に希望はございませんが、まためがねさんがアンケートをしてくだされば回答したいと思います。
キャ〜〜〜〜〜うれP〜〜〜〜〜!!
推しを推すことになったきっかけはすごくいいですね!
次回の参考にします〜〜!
そして最後に、「その他のご要望コーナー」もありましたが、温かい皆さんのお言葉がたくさんありましたので、独り占めさせてください(笑)(笑)
それでは次回は、「推しを推すことになった理由アンケート」を実施します
ご協力いただけますと幸いです!!
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mikeneko28 · 7 years
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aoki yutaka/lost in forest 2017年1月18日発売。ロックバンドdowny、unkieのギタリストを務めMORRIE.黒夢などのヴィジュアル界隈からBOOL.aureole.101A、worlds end girlfriendなどのインディー界隈の数多くの作品にも参加しているギタリストの待望のソロアルバムです。ソロ名義としては古くはdhal主催のコンピ、class-plan Bのgreed、kilk records主催のコンピ、helping hands/radio headのExit music(For A Film)ソロアルバムにも収録されているvirgin babylon records主催のコンピ、one minute olderのI'm waldなどで、その片鱗を聴かせて頂きました。他にもdownyのアルバムで御馴染みの「  」シリーズも4thと6thはaoki yutaka名義となっており、そのどれもが技術的な畏敬を感じさせ、そして暗く陰鬱、異形な音をしていますが、卓越した超人的なギターテクニック、エフェクターを駆使したギター離れした音作りなどは、青木裕さんを語る上で絶対に外せないアイデンティティなのですがソロアルバムを聴いて僕の中で改めて一番思った事はフレーズの決定力と言いますかdownyもunkieもソロ名義も勿論、スタイルやアプローチは違うのですが一つだけ共通点があるとすれば、ループされるフレーズによる、そしてループだからこそ、その一つのフレーズにもっと言えばこの小節の、この1音に楽曲に対して命を賭けているぐらいの徹底的に選び抜かれた音運びにとても感銘を受けました。メロディが良い。と言う事は音楽にとって必須であるのですが他の要素も同じぐらい割り振ると、かなり難易度が上がってしまう音楽の要素だと思うのですよ。さらに実験的な要素を合わせると世に流れている音楽では殆ど皆無だと思っています。このソロアルバムは制作期間10年、数千トラックのギター(一部、ボーカルやバイオリン)だけで構築されていると言われているアルバムなのですが日本は元より世界でも類を見ないほどに実験的、唯一無二なコンセプトを合わせながら、メロディもハーモニーもリズムも最大限に美しいです。単純にかっこいい!とか真似をしたい!というリズムは今までにも色々聴いてきたのですがリズムに対して美しいという概念を感じたのはギターインストでありながら、このアルバムが初めてです。僕は暗い音楽や陰鬱な音楽がとても好きなのですが、何故かというと個人差にもよりますが記憶というのは悲しかったり嫌な記憶ほど脳裏に染み付いている物だと思っていて暗い音楽や陰鬱な音楽を聴くと、その悲しかったり嫌な思い出が振り返られるのですね。明るい曲や楽しい曲を聴いても何故か楽しい記憶や良い記憶は浮かびませんが(笑)自分の中で暗い音楽や陰鬱な音楽はその暗さや陰鬱さが濃ければ濃いほど、それが懐かしさに変換されるのです。例えどんなに嫌な思い出だとしても懐かしさを感じた時点で=快楽に結びつく。そんな僕にとってこのアルバムは史上最高に暗く陰鬱であり、これ以上ない程に快楽を与えてくれるアルバムだと思っています。ゲストもかなり豪華でMORRIE.SUGIZO.薫といった、とんでもない面子が一同に集結しております。僕はこの界隈にはあまり、詳しくは無いのですがどの方も本当に素晴らしく、このソロアルバムを彩っています。近年ではdownyの十六月でミキシング、4thリマスターアルバムではマスタリングも務めていて、今回のソロアルバムでもミキシング、マスタリングも青木裕さんが施しており、プレイヤーとしてだけではなく多面的な様々な視点でアルバムに手を加えており、少しでも音楽を齧っている人なら卒倒するであろうくらいに念密に慎重に圧倒的な音像で作り上げられていると思います。ジャケのイラストも青木裕さん自身がデザインしており、これまた卒倒するレベルに緻密に細部まで作り上げられていて、しかし青木裕さんの音楽が具現化されていると思えば納得の作り込みだと思っています。音楽は作り始めるより終わらせる方が圧倒的に難しいと思っていまして、制作期間やトラックなどの情報を聞くと世に出すタイミングなんかも相当考えていらしただろうし、同じ時代にこの作品を世に出す決定をして下さった事は本当に感謝です。この作品と共にこれからを生きて行くと思うと最大限の幸せを改めて感じております。
1.I am Lost
アルバムの一曲目に相応しい徐々に世界観に引き込まれる様なMORRIEさんの抑え目かつ威厳を感じる囁きの歌声にシグナル(危険信号)の様な音が暗に引き返せなくなる様な焦燥感を曲全体に引き立たせていて危機感を感じる様な始まり方がとても素晴らしいです。22秒頃に頭で鳴らされる裕さん独特の質量を持ったノイズ音の後に続く様な38秒頃のギターフレーズが荒々しく且つ規則性があるノイズ音との絡み方が既にこの楽曲がギターだけで作られていると言った概念を失わせます。ヘッドホンなどで聴くと一秒頃に右にだけパンニングされる風圧の様な音が入るのですが、その瞬間にとてつもない緊張感が身体を走るんですよね。このアルバムを聴く行為が単純に聴くという簡単な行為なのですがとてつもなく覚悟がいると言う風に自分は感じました。あのジャケの動物の目に睨みつけられるような錯覚が音を通じて体感しました。
2.Open The Gate
この楽曲はIm Waldを除けば、初めてトレーラーとして、世に届けられたソロアルバムの断片的音源で、この曲を聴いた衝撃は計り知れなかったです。トレーラーがUPされてから何度も聴いていた楽曲なのでソロアルバムの中でも、思い入れはひとしおです。この曲もMORRIEさんが歌声を担当しており、I am Lostの様な抑制的な囁きとは対照的に、ファルセットを駆使した感情的な歌になっておりトラックとの相性もお互いを引き立たせる様な役割を感じ歌の為のトラック、その逆にトラックの為の歌の様な理想的な楽曲でとても素晴らしい楽曲だと思いました。先程も書きましたが、この楽曲を通じて改めてループに対する感銘を受け、自分の耳では主に三つに分けられていて、無限回廊の様な基軸にループする電子音、変幻自在なリズムの役割も合わせ持つインダストリアルなノイズ音、アタック感を一切感じさせない周囲を包み込む様なストリングス音。さらに言えば時折鳴らされる不規則でヒステリックな鳥類の咆哮の様な音が曲に凄まじい緊張感を与えてくれています。
3.851
僕はクラシックの知識は殆ど無いのですがこの楽曲が最も自分がイメージするクラシックに近い楽曲では無いのかなと感じました。downyの62回転然りdhalの−344281然り数字を使ったタイトルはどういう意味で付けられているのかすごく気になりますよね。そういうところを考察するのもすごく楽しいのでは無いのかなと思います。イントロのアンビエンスな音から脈拍音を連想させる音を皮切りに3を基調にしたフレーズは小節の頭と終わりを感じさせない流れるようなグルーヴで一種のトランス状態の様な酩酊感を感じさせてくれます。そしてメロディがとても美しく本当に周到に練られているフレーズだと感じました。ここまで聴くと予想がつかない展開や次はどんな音が待ち受けているのかなというリアルタイムでは感じる事のない様なワクワク感が体感でき凄く、不思議な気持ちになったターニングポイントは個人的にこの楽曲です。アウトロはまた打って変わって別のベクトルな陰鬱で重苦しい雰囲気で、Waltz Of the Bugsの伏線とも言える様な展開で楽曲を終了させます。
4.Waltz of the Bugs
先程の851のアウトロの流れからは想像つかない程、生々しく叙情的なオルゴールの様な音を基調に時折不穏な音も導入されますが、ソロアルバムの中では唯一と言っていい程、明の雰囲気を醸し出しており、僕は廃墟の遊園地のメリーゴーランドの様なイメージを想像しました。楽しい雰囲気を介した寂れた様な楽曲のイメージは単に暗く怖いというよりも更に濃い暗明感を醸し出しておりアルバムの中でも一番、恐怖を感じた楽曲でもあります。1:52秒頃にギターの早弾き?最早、速いと言った概念も超える様なタイトルにもある通りBugs、大量の虫が蠢いている様なイメージで楽曲に対する違和感の相乗効果で更に不穏感を与えております。アウトロの侘しげに残される様な音も本当に素晴らしいです。イントロは勿論の事なのですが青木裕さんが手掛ける楽曲はどれもアウトロの余韻がとても心地よくてこの楽曲で改めてそれを感じました。
5.Fury
本当にどの楽曲も甲乙つけがたいのですが、もし一番好きな楽曲は?と問われたらこの楽曲を選ぶと思います。アコギの幽玄的なフレーズとボディを叩いた音のタイム感が本当に素晴らしくアルバム名のForestの通り生い茂った森林の中に佇むような印象がこの楽曲で浮かびました。その流れで楽曲が進んでいくと思いきや19秒頃に突如、ハードロックを彷彿させる超人的なまでの速弾きが披露されて言葉を失ったことを覚えています。こんなアプローチの楽曲は世界でも本当に唯一無二ですし、この楽曲で個人的に青木裕さんの歴史という物を覗いたような気がしました。速弾きのフレーズもインプロ的でありながら、どこを切り取っても本当に素晴らしいフレーズで、徐々に崩壊していく様な音が本当に青木裕さんらしくて様々なフレーズ、プレイ、スタイルを破壊、再生、構築している様な楽曲だなと自分は感じました。
6.Missing
数千トラックを使って作成されたアルバムらしいのですが、当たり前ながら完璧に分別は、自分の耳では補えなく部分的に感じ取るしかないのですが、それでもこの楽曲が一番トラック数が多いのでは無いのかなと思っています。耳をすませば済ますほど、楽曲を聴けば聴くほど新たな音を発見できる楽曲といいますか、視点を変えれば違う風に聞こえると言った騙し絵の様な楽曲だと僕は感じました。音の蠢き様も音の色もこの楽曲が圧倒的だなと個人的に感じましたし、そして青木裕さんを語る上で忘れてはいけない静と動のダイナミズムと音価の抜群なコントロールもこの楽曲の随一に現れていると思います。音の概念を改めて考えさせていただいた楽曲でもあります。ノイズを操ることは期待感や予想をコントロールする事なのかなと思っていまして、期待に応えることは一流の仕事ですが、青木裕さんのノイズは期待に応えると同時に予想を超えると言ったとてつもなく難しい事を随所に楽曲に盛り込んでいると思います。
7.Witch Hunt
DIR EN GREYのギタリスト、薫さんが参加しておりこの楽曲はDIR EN GREYの楽曲、滴る朦朧のremixを手掛けた青木裕さんのトラックを主軸に作成されているみたいです。確かに時計の秒針の音などが入っており、もし手にある方がいれば聞き比べたりするのもすごく面白いかもしれないですね。時折、女性のコーラスの様な音が随所に導入されていて、この音すらもギターで作られていると思うと本当に畏敬の念を感じます。2:25秒頃にこれぞ、インダストリアルノイズのお手本の様な素晴らしくダイナミズムのある音が聞こえたり、本当にギターだけなのかなというぐらいに音圧も凄まじいです。だからこそ、静の部分の緊張感も凄まじくストリングスの様な音も一層際立って楽曲に壮大な雰囲気を醸し出しております。周りは表情を変えども秒針の音は一切ブレずに主軸の役割を持ち淡々と進むからこそ、追われている迫害されている様な焦燥感が正にタイトルの様な魔女狩りのイメージが浮かんで凄く悲しい気持ちになってくる楽曲だと思っています。
8.Im Wald
この楽曲はVirgin Babylon Records主催のコンピOne Minute Older、一分間の楽曲をテーマに様々なアーティストが収録されており、その中の一つとしてソロアルバムより先に世に出された楽曲でもあります。MIXの質?も若干ソロアルバムとは変わっており、聞き比べたりするのも面白いかもしれないですね。この楽曲もループによる酩酊感を生んでおり、全体的にソロアルバムは西洋的な匂いがするのですが僕の中では古びた洋館で甲冑の亡霊が彷徨っているようなイメージが頭の中で沸きました。アタック感の無い亡霊のような声に悲しげなピアノの様な旋律、足音をイメージさせる様な規則的で迫り来る様なギターフレーズ。アウトロのメロディの運び方も好きですし、ディレィ?で徐々にフェードアウトしていくミュート音の様な音も凄く印象に残りました。1分という短さなのですが、この楽曲だけでもアルバム1枚分ぐらいの満足感があり、この短さだからこそ、もっとこの旋律を聴いていたいというジレンマと次の楽曲はどうなんだろう?早く聴きたい!というジレンマが生まれると個人的に思いました。
9.Ghost In The Mist
この楽曲の要とも言える、鐘の音は何かの楽曲で凄く聞き馴染みがあると思っていたのですが、最近、青木裕さんご本人からdownyの楽曲「月宿る善良」で使われているエフェクターを使用しているとの情報がありました。downyでは荒々しいバンドアンサンブルの中で、一際目立った異形の音として捉えてた認識ですが、こちらは鐘の音が全ての役割を担っているほど、印象深く紡がれているので更に細部まで感じ取れる鐘の音では無いのかと思います。エフェクターの音は自己満足的な音でアンサンブルに組み込むバンドも決して少なくは無いのですが、青木裕さんの場合はエフェクターとフレーズ、メロディの相性を際限なく練られていてそこが本当に凄いと感じました。ギターで鐘の音という衝撃はさることながらメロディもリズムも本当に美しいのです。理想的なエフェクターの使い方とはこういうことなのかなと改めて認識しました
10.Gryphon/Burn The Tree
この楽曲はタイトルを見ると二つの楽曲として組み込まれているのかな?と自己解釈をしているのですが2:30秒頃に切り替わっているのかなと、穏やかなフレーズの紡ぎ方が区切りに変わり、微かに蠢いているような音に開放的であり壮大な宇宙を感じさせるような音に切り替わっているので。この楽曲もWaltz In The Bugs同様、アルバムの中では穏やかな印象を持つフレーズの旋律なのですが、不穏な音が終始蠢いているので穏やかな気持ちにはなれるけど、気を抜くと一瞬でもっていかれるようなそんな印象が浮かびました。正直、downy然りunkie然り、青木裕さんの旋律で何度も涙腺をやられているのですが、2:30秒頃の旋律は凄い泣きそうになりました。過去では、downyの「月が見ている」やunkie「Body」なんかは何回泣かされそうになったか分かりません。様々な気持ちが配合され昇華される、そんな楽曲だなと個人的に解釈しました。
11.Cave
僕は表面的な事しか分からないのですがアルバムの中でも凄くブルージーな印象を持ち、肉体的なグルーヴ、指のタッチの繊細な感じや絶妙なピッキングのタイム感などがひしひしと伝わって来る楽曲と感じました。様々なアプローチでソロアルバムを魅せてくれましたが本当に底が見えないと言いますか、ギターという一つの楽器でここまで様々な音を聴かせて頂いたのは世界でもこのアルバムぐらいじゃないでしょうか?全体的にもの悲しいイメージのフレーズなのですが、ただ悲しいだけではなく良い意味でもがいているような希望を探しながら絶望の淵を彷徨う感じのフレーズで刹那的な希望を紡ぎ出すも向かう先は闇。みたいなイメージが個人的に浮かびました。このアルバム程、頭の中にイメージが浮かぶアルバムは無いと思いますが、そのイメージも十人十色だと思うので、その自己解釈の共有もすごく楽しいのでは無いのかな?と改めて思いました。
12.B
この楽曲も851同様、自分の中ではクラシックなイメージを感じ、もう聞けるかどうかは分からないのですが、青木裕さんのsound cloudにこんな感じのデモが上がっていた記憶があります。全体的に奥で鳴っているような歪なオーケストラの様な旋律が本当に素晴らしく、この楽曲が個人的に一番、ギターだけで作られていると言った概念を失わせました。頭の中では指揮者も存在する様な大人数のオーケストラが浮かぶのです。元のエフェクターを介していないフレーズを想像したりするのですが、この楽曲は本当にどう弾いているのか想像がつきませんでした。音価の流れも本当に素晴らしく絶妙なタイム感でフレーズを紡いでくれています。Bと言うタイトルも凄くこちらの考察欲をくすぐる様なタイトルで本当に色んな部分で楽しませて頂けるアルバムだなと改めて思いました。
13.Colling
この楽曲もMorrieさんが参加しており、トラックに対しての間を置いた囁き声が本当に絶妙に楽曲に不穏感を与えていて改めて人の声というのはダイレクトに感情を揺さぶる音だな。と個人的に思いました。裕さん独特の質量を持ったノイズ音の区切り方が素晴らしく、雨の様な音が周囲を包んでいて、個人的に映画ブレードランナーの、あの名シーンが浮かびました。雨の音をサンプルなどで入れるトラックメーカーは、星の数ほどいますがさらにそれをギターで作り出すと言った本当に誰にも成し遂げられない偉業を惜しげもなく楽曲に注いでくれています。アウトロの無機質な音のディレィもバッティの止まってしまった時の様なイメージが勝手ながら頭の中に浮かびました。
14.Shape of Death
このアルバムはLUNA SEAのSUGIZOさんがバイオリンで参加しており、曲に幽玄な印象や幕引きを助長する様な本当にラストの楽曲に相応しいプレイを魅せてくれます。前のdownyレビューでも仰いましたが僕は、ラストの楽曲は本当に終わりの様な楽曲が好きで、それを踏まえるとこの楽曲は本当に自分の中で理想の様な終わり方で、アルバムが終わってしまう寂しさと同時に掛け替えのない体験をしたという余韻が身体を突き抜けます。この楽曲も様々な音が鳴っているのですが蠢くというよりは全ての音が塊になって昇華されていく様な感じで、一つの音を集中して聴くのも凄く楽しいのですが、この楽曲に関しては全てのトラックがそれぞれに相乗効果をなしており、それぞれのメロディの紡ぎ方やリズムの拍における音の置き方などが本当に素晴らしい楽曲だと思っています。
aoki yutaka/trailer.Part1(Open The Gate)
https://www.youtube.com/watch?v=0phzW9LMoXY
aoki yutaka/trailer.part2(I am Lost.Fury.Ghost In The Mist)
https://www.youtube.com/watch?v=ZLyQiFJVOCM
aoki yutaka/trailer.part3(Witch Hunt.Missing.Colling
https://www.youtube.com/watch?v=KsGbYEHLXOM&t=6s
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m2chen · 4 years
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建築における形態・空間加工の自由度について
京都大学・立木先生との対談を経て
まず、美しい形の背後に「うんちく」があるといいよね、という話はお互いに得られた共感である。「うんちく」とは形を、立木先生の場合であれば数学の論理を用いて説明できる形成ルールのことである。僕が考えていることも似たようなことであり、建築の形において「出自」、または「ストーリー」たるものがあるとこの形態においてもう一つ味わう、レイヤーができるのではないか、と考えているからである。 そこでおそらく分かれ目となるのは、そのストーリーには合理性を下支えする論理が存在するのかどうか、である。建築の場合はなんらかの構造の合理性、機能の合理性が伴っているのかどうか、である。つまりこのストーリーによって、この形態の構造の合理性、機能の合理性を説明しつくせるか、ということにも等しい。または、以上の述べてきた合理性とは全く無関係の、この形態自身が持っている、自律的な合理性、というもの、そもそも合理性というものを全く目指していない、宙ぶらりんの状態。ただ、それがある言語、事象的なバックグラウンドをもとに、説明できるに過ぎない、という状態であればまた何か面白い。 数学的に説明し得たとしても、それが何の意味になるのか?それは立木先生が突きつけられていた疑問である。役に立つ必要が果たしてあるのか?役に立つ、立たない、という視座以外に、この形態を、空間を見ることはできるのではないのか?とは強く感じた。 数学というルール、論理を用いることで、合目的的な応用とは全く異なる次元での、表現という次元で形態を純然に採用することは大きな可能性なはずなのである。
数学が、狭めれば、幾何学が、現象すること、これは幾何学がモデルの世界から実体の世界に飛び出してくるときに与えられた質であると考えられる。ギャスケットがもたらす幻想的な陰影は非常に代表的なものである。幾何学的な性質がそのまま、現象の特徴にも表れている。様々な幾何学的立体が持つ「身体性」は注目に値すると感じた。 ただ、ギャスケットがどのような影を落とすのか、これはこの形態と現象の関連付けにおいて非常に予想がつきやすいものであると感じている。想定外の「驚き」はない。さらなる驚きをもたらすためにはどうすればいいのか、これは僕たちが考えていくべきところである。
対談の冒頭は、イマジナリーキューブの話を伺った。イマジナリーキューブは先生の自信作らしく、嬉々として解説してくださった。まずその姿が印象的であった。先生は数学を様々な人に普及するような取り組みも行なっていることから、いかに数学の持つ驚き、楽しみを人に伝えるかについて人一倍熱量がこもっているはずである。 さて、ざっと言えばイマジナリーキューブは3方向対称の立体図形であり、平面投影すると正方形に見える。さらにわかりやすく言えば、ある立方体を取り、三つの隣接しない頂点をとり、その間にある辺の中点を頂点になる、凸な立体図形である。以上のルールを用いると、合計16種類のイマジナリーキューブが得られる。 さてこのイマジナリキューブにはH型とT型の二つがあり、H3つ、T6つを用いることで、これらを両者の型となる立方体の各辺2倍となった大きい立方体にはめ込められる。本来は2の3乗数で8つはめられるのに、立体を9つ入れられるのは非常に興味深い。つまり、多い、1つの立体をどこにはめ込むのかが問題となった。それはイマジナリーキューブ自体が立方体を削って作ったもの、と捉えれば容易で、8つのキューブの中心にできた隙間に残りの一つがはまるようになっている。 この過程で先生は僕に実際のイマジナリーキューブのパズルを解かせた。身体的に捉えることで、共通する面や、辺の長さ、などなどが分かってくるし、それを実際に大きいキューブにはめ込むことで充填のイメージを行ったりする。身体的にも幾何学が扱えることは非常に興味深かった。パズルを解いた後に、先生は実際に合同という中学・高校生でも理解できるルールでこれらを説明してくださった。 身体を通した理解とその背後にちゃんとした数学の理論があること、この二つの側面が存在していることが非常に魅力を感じた。数学のような厳密になりきった説明は究極のところ数学と比較してしまえば難しいと思っているが、身体的な体験による空間の理解など、やはりこの両者は近しいものがあるのではないかと感じずにはいられない。
グレイコードについての話は非常に興味深く聞かせていただいた。いわゆるコンピュータープログラムにおいては構成的な方法を用いることで、0か1か、という計算の世界である。つまり離散的なものなのである。通常の公理を用いた抽象数学の進め方であれば実数の存在が許容される。つまりこのデジタルの計算に0と1の間にある、または連続的な概念を導入することで、異なった世界観が見いだせるのではないか、という研究である。 ここで伺ったのは、それによってデジタル系さんが不可能にしたものを可能にさせるような念頭が有ったのか、ということなのだが、その問題解決のための目的で行った研究ではそもそもないとの話である。つまり、これが実際に役にたつかどうかという視点で研究を行うというよりも、デジタルにおいての計算の世界観を拡張するために新しく概念を導入しよう、というのが目的であった。それもそのはず、全てが問題と解決策のセットとして行われるような研究であるはずがない、と。何かそこに数学の研究における純粋な、世界観の拡張への挑戦のようなものが見えた。
さて、今回の対談で、どうしても聴きたかったのは、「崩す」ということである。数学上の手続きは非常に構築的であり、その整然とした手続きの反映とも言えるように造形も非常に均整のとれた、リジッドな、シンメトリーである。これは何を意味するのかというと、幾何学、または数学自体が一つ��閉じた系であることである。そこで一つ完成してしまっている。竹山先生の言葉を思い出せば、建築は不完全さに美しさがある。その欠けた部分に想いを馳せる、人々がそこの部分をイメージで補う。完全な均整のとれてしまったと自他系としての幾何学にはそれがどうも難しそうである。建築家はそれをどうしても崩したがる。ある種の完全さへの反逆とも言えるのか。またはそこで作家性を発露させようというのか。どちらもあり得るのではないのか。 関連して、先生はイマジナリーキューブ16種を、正八面体をジョイントとして用いて構築したモデルをあげてくださった。これも同様にイマジナリーキューブの性質を受け継いでいて、ある方向から観察すれば正方形に見える。その不思議な錯視的な性質に加えて、ディフォームされているようで均整のとれた不思議なバランス感を持っている造形が非常に印象深い。それもそのはず、ユニットによる構成を見れば、それ自体はシンメトリックである。構成要素自体も、元となる立体は立方体であるわけで、そこでもバランス感が見え隠れしている。ただし、その構成要素それぞれは、異なるイマジナリーキューブを用いていて、「似ているようで似ていない」ものたちの、微妙な差によって、アンバランスさが表現されている。このように、幾何学においても構成と誤差の組み合わせによって、「崩れた」造形をすることは可能であることがわかる。 ただし、ここにも端正な完成されているものが見える。真の意味でデコンストラクトされたような造形は数学的な操作ではできないのか。数学的な論理で。「崩す」ことを目的とした、というところがすでに良くないのかもしれない。数学はある意味目的から独立しているものだから。そこに僕自身がツールとしての可能性を見いだせるかどうかに関わってくる。 つまりだ。やはり、操作に関しての恣意性は建築の造形を作る僕たち自身が持っている最大の自由なのかもしれない、そう感じてならない。敷地のどのような部分に要素を応答させるのか、そのためにどのような形態のルールを使うのか、または目的・機能とは全く無関係の、ルールをどう選別し、どう建築化させるのか、このような部分には必ず恣意性が現れる。というよりもそれがあなたのオリジナリティ・作家性の現れなのかもしれない。我を殺すような、客観的、科学的(に見える)な手法を用いることで自分の手元から離れたような形態・空間を作り出せることは魅力的であるし、有用な方法である。(これまで取ってきた自分の方法論を否定する気は全くないし、その効果を自分自身が最も認識している)ただし、それは果たして、本当に、自我(または作家性)を捨象した結果なのか。そうではないのかもしれない。
建築における形態操作は、いい意味でも悪い意味でも、無責任であっていい、というよりは、恣意性を介入させてもいい、と感じるようになった。これは当然であるし、どんな方法を用いても皆結果としてそうなっているよう��感じる。建築は閉ざされていない、開いている系である。それは建築そのものの実体として持っているシステムの性格でもあるし、建築の思考についても同様のことが言えるはずであるからである。 崩す、ほぐしてあげるのであれば、もっと直感的な操作(半自動生成的な方法を使うのであれば、そのシステムの設定)が可能である。それがむしろ数学や他の分野が渇望していた、自由さなのかもしれない。(まだ彼らの分野を知りきっていない、大変失礼な話になるかもしれないけれども) 分野固有の記述言語に基づいた厳密性は突き詰めていけば、やはり建築における引用はどうしてもボロが出てしまうのではないのか。そこはやけに弱気になってしまっているのが僕である。そこにある数学的背景はそれなりにそうなのかもしれないけれども、数学的意義が果たしてあるのか、それは数学者には理解を示されない、少なくとも行った素数による形態化の研究はそういうリアクションであった。見る角度が違うからである。あくまで、数学を建築の言語として考えて、捉えているから。そこの先に見えるイメージ、というものが建築であるから、空間であるから。そこで共感がない限りは、「意義」を感じ得ないのかもしれない。ピントが揃えば意義の共感もなされるであろう。ただ、(数学的)意義の共感を求めて作っているのか?そうではない、あくまでも、建築を、空間を、形態を、作りたいからである。その時点で僕たちはすごくわがままで、身勝手なように感じる。そこに囚われてもいけないし、だれもその意義の共感にとらえようともしていない。つまりだ、勝手にがんじがらめになろうとしているようにも見えてしまうのだ。誰も、数学者も、建築も、そこは問題にしていないような気がする。 ならば、そう、もっと自由になってもいいのだ。引用は行ってもいい、もちろんその機構がそれらしく、そうであるように、事象・現象・理論に対しての理解は透徹に行う必要がある、それは引用する側の最低限の敬意である。同時に、破天荒に、建築に生かしていくよう、空間を描くよう、荒々しくそれを乗りこなしていく姿勢も求められる。野性的に、だ。 話に戻るが、だからこそ、建築の固有の操作、固有の要素による構成論に閉じて、作っていくわけではない。むしろ、様々な言語・構造を受けとめて、それをハイブリッドさせていく。それによって、建築の記述言語をさらに増やしていく。これは建築の特権であるのかもしれない。様々な分野が、思いもよらなかった出会いを遂げる「場」であるのかもしれない。
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afiri8backlog · 4 years
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イギリスやオランダの5G電波塔破壊騒動を利用した5Gについての議論や疑惑を封鎖する社会的なレッテルを貼る動きがついに日本のメディアでも始まった事について考察
東奥日報に5Gをデマと記載する記事が載った
本日、2020/4/15日、今まで政府与党や野党、テレビやネットなどあらゆる公式メディアでは明確に触れなかった5Gの危険性、リスクについて東奥日報が「デマ」と見出しをうち
5Gについての発言やネットの情報は全て根拠のないデマであり迷惑な陰謀論である。こういう状況だからみんなストレスのはけ口を求めているものだ・・と言い切る某教授の考察やらWHOの言い分を引用元として伝える内容を記載した
何も知らない人はこれを読んだら・・開口一番にこう思うだろう
5G?・・新型コロナ?・・陰謀論?!?なんじゃそりゃ!(゚д゚)!
そう!そもそもとして5Gと新型コロナの相関性や因果関係について懸念して調べて動いている個人の市民オウンドメディアというのは、その存在すらも今まで一切ネットやメディアにも取り上げられず、政府はおろかマスコミも全スルーしていたのだから
一般の人がいきなり新型コロナウイルスの発生源が5G設備がある場所と因果関係があるかも?なんて議論は一切見た事も聞いた事もないから
鳩が豆鉄砲くらうほどに(“゚д゚)ポカーン になる
にも関わらず、いきなり5Gについて出回っている情報はデマ!という論調で、尚且つ5Gについて情報を探っている人は陰謀論者!というレッテルを押し付け、「そういう否定派の人たちの情報に流されないでください」 的な方向性に誘導している
至極まともな意見だ (゚д゚)(。_。)ウン Σ(゚Д゚)
確かに根も葉もないおひれはひれがついた憶測も含まれているのだからそれは間違いではない。でも詳細の検証を追求する事なく、都合よくひとまとめにして一方に肩をもつ情報発信は・・
とてもジャーナリズムに欠けた不公平の現れだと言える
なぜなら日本では5Gはメリットだけしか語られていない 誰も5Gの電磁波の危険性という議論のテーマは上がってないから
そこを勘違いしてはいけない!
そもそも5Gについて陰謀論が起き始めた根本の理由
5Gのメリットある世界は誰でも希望が持てるし、昔思い描いたハイテクSF社会の到来といっても過言ではないが、現実問題、それを実現する技術が、表現できるならば電子レンジと同レベルの周波数(ミリ波)を使うという事
これについては専門家も「絶対に大丈夫です!」なんて声を大にして宣言できる人はいないが、一部の人は「距離を保てば特に影響はない・・」と口を濁すくらいだろう
では、5Gの電波は距離が短く、直進性が強い=短距離で大量に設置しなければいけないとなった時、自分の周囲にそういった電磁場ゾーンが何重にも重なった空間がある時、それは人体に影響はないんですか?
という至極まっとうな当たり前の疑問について・・5G推進派何も答えない。というか、5Gを知らないんだから、誰も何も言えない
だから、懸念される想像、想定、可能性というのはどんどん膨れ上がる
例えば、電磁波が影響するなら人間の体内にある金属との反応はどうなんだ?とか 例えば、空からばら撒かれていて頭痛を引き起こすあの成分との干渉は?とか 例えば、5Gの電磁波で免疫システムに異常が出てるから味覚障害という亜鉛欠乏症が発生してるのでは?とか 例えば、亜鉛欠乏症は抗ガン剤飲んだ時の副作用と一緒だけど5Gは抗ガン剤とも関係が?とか
一方ですでに5Gが始まった国の地域からは、医療従事者や化学や物理の専門家団体が、実際に症状(電磁波過敏症)を訴える患者等が増えている事から健康や安全性の見直しについて、WHO(世界保健機関)に危険を促すように5年も前から提言をしている・・
にも関わらず、WHOはその内容について考慮の余地もないとスルーして認めていない。安全ガイドラインを決めるWHOが認めないのだから、医学的にも科学的にもエビデンスを出す事ができない
そこらの陰謀論を騒いでる一般人ではなく、医療や電磁波関連の科学など世界42か国の専門家団体が、安全性についての危惧を訴えて、5Gはやめるべきだ!と言っているにも関わらず、その専門家の意見を一切無視するのが・・
あのテドロス率いるWHO ちなみにWHOは電磁波過敏症も認めていない。WHOが認めない電磁波過敏症のファクトチェックのやり方については、不透明な部分があり納得できないと研究した専門家も考えているようだ
WHOは電磁界プロジェクトに対し、十分な学識を持つ委員を選出し、科学的に妥当かつ公正なプロジェクトを遂行させる義務がある。そのためには、市民もWHOの活動の公平性をチェックし続ける必要があるだろう。
WHOという世界に安全性を示す機関が5Gのリスクや危険性を公式に認めない以上、5G推進派にとってやりたい放題の大義名分を得たも同然の状況
こうなってくると、もう専門家は諦めてこういう
5Gは止められない・・私たちにできるのは神に祈る事(ノД`)・゜・。
ここで勘違いしてほしくない一番大事な事を言います
5Gを反対してるのではなく、5Gの安全性を明確にするために、危険性の部分についての議論を多くの人が真剣に考えるための情報を提示しろ!という事です
5Gのハイテクな未来を望まない人はいません だけど、その5Gに一切の危険はないのですか?
という安全性や危険性の確認を訴えて、その目線に気づかない人たちに知らせるべき情報発信も含めて・・それを5Gの陰謀論にひっくるめるのは卑怯なやり方ではないのですか?という事
こうやってメディアが新聞が、何の予備知識もない、CMで5Gはすげぇ!としか伝えられていない人たちが今後、「5Gって便利だけど危険な事ってないの?」という何気ない会話をすると
周囲「おまえさぁww5G陰謀論信じてるのか?wwマジかよ電波かよww」
という同調圧力の中で、本人が素直に思った疑問ですら打ち消される世の中になる事になります
5Gの安全性については、国策としてテレワークを導入するなら、国民が利用するしないを別として、その環境に巻き込まれる事をふまえて、説明責任が必要なんだと思うが・・やっちまったな?
メディアで違う5Gへの対応
東京新聞は5Gの危険性について言及した記事を出したと話題になっている
これは5Gの危険性についてちゃんと周りが認知して議論を深め話し合うべき流れを求めている人たちからすると、東京新聞にはジャーナリズム(事実を追求する姿勢)が生きていると感じた
一方で今までどのメディアも5Gに関する記事は「携帯会社が5G始めました!こんな未来になっていきます」といった良い未来展望しか語っていなかった
そこへきて、今回イギリスとオランダで起きた5G電波塔襲撃事件を利用して、5Gについて語られる情報(陰謀論や安全性を危惧した議論)は全てデマという切り捨ての内容
新聞メディアがひとつの情報を真っ向から違う形で取り扱った事になる
東京新聞:5Gの安全性と危険性について問うべき 東奥日報:5Gについてのネット情報はデマです。陰謀論です(レッテル張り)
一部の過激な行動を利用して、全ての5Gに関するネットの情報の印象を全て悪い物へと認知を変える。この情報操作はかつて、日本で起きた事があります
官邸ドローン墜落からの最速ドローン改正航空法
かつてドローンという概念がまだ日本になかった頃、総理官邸にドローンが墜落するという事件があった。その翌日には、大々的にメディアがテロの可能性!と取り上げ、急速に異例の速度でドローン改正航空法が立案され、一週間ほどで施行された
当初メディアではドローン=テロだとか、日本で普及した場合、盗撮やプライバシーの問題等、リスクや危険性ばかり伝え、様々なレッテルでイメージ操作し、ドローン=不快感を与える というあまり良い印象を持たれにくくなった
あえて、ここで言わせてもらえば、ドローンはめっちゃ楽しいし見識が広がる素晴らしいテクノロジーだ
日本で飛ばせるMAVIC miniレビューとドローン登録義務化の法整備に思う事
つまり、都合よくドローン墜落事件(テロ疑惑)が起き、都合よくドローンの法律が改正される
今回のイギリスやオランダの5G電波塔襲撃というケースについても、陰謀論者ならやりかねない!という印象を受けるが、一方で、それを自作自演で仕込み、それを理由に印象をがらっと変えるための政治利用の可能性もある
結果、今まで一切触れてこなかった5Gについて、ここぞとばかりにメディアは取り上げ、新聞やテレビで「5Gの陰謀論者って怖いですね・・こんな時だからデマ情報に流されないように気を付けましょう」と正論のように伝える
そうすると、テレビの情報を信じた人たちが、5Gって安全なのかな?という疑問の言葉を発する人を見つけた瞬間に、正義を振りかざすマンになって罵倒し、頭おかしいと決めつけ、多数派の同調圧力でただ疑問を持っただけの人を社会的弱者に変えていく
そうならないために、空気を読んだ人は5Gについて語る言葉を控えるだろう・・その流れを作るのがメディアであり、メディアしか情報源がない、思考停止で与えられた情報を精査もせず、自分で真偽も考える事もせず、周りの顔色を伺って責任転嫁の多数派の同調圧力の中、それを正義に置き換えて振りかざす人をが増える
わかるかこれ? いじめを助長してんだよ?
だからおかしいんだよ!
5Gって安全なんですかー? っていう声を上げる事は変なのだろうか?だって、誰も危険性について一切触れてない事気持ち悪いでしょ?
車だって免許取る時に、どんだけハイリスクか教え込まれるでしょ?それでも車を使いたい!と思わない人は自分で運転したくねーよってくらいリスクあるからね?
危ないとわかって利用する
危なくないと理解して利用する
危ないかどうかわからないで利用する
この3つは似ているようでまるで違う
だから5Gの危険性については徹底的に討論や議論、それこそ、朝まで生テレビとか、真剣しゃべり場10代とかでNHKが社会的に取り扱うべきテーマなのに、そういう流れにもならない・・
とても気持ちがわるい
ならないまま「5Gは安全なの?健康に問題は起きないの?」という疑問の声は完全に封殺されて・・そのほんの当たり前の「なぜ?」という疑問を言葉にしただけで
はいはいww陰謀論、陰謀論ww┐(´∀`)┌ヤレヤレ という流れに置き換えられ、疑問に対する回答はなくなる
国民の多くは海外の情報まで自分で取得しにいかず、国内のテレビ、ニュース、ラジオ、新聞でストップ、与えられた情報でしか考える材料がない
だから与えられる情報の中に意図的に検閲で省かれた情報があっても気づく事もない
もちろん、ここに書いている情報もGoogleは拾わない(そういう情報は省くようになっている)、検索結果にどんなキーワードでも載る事はないのは100も承知
情報探すならbing「今の」Googleに公平性はない
だけど、書きのこす事で、同じ気持ちの人は少なからずいるか��!と少数派のまともな人には表明しておきたい(同調に負けるなとエール)
まとめ:過激な行動は自作自演のマッチポンプ
香港の雨傘デモ→内部工作で過激な暴動に発展
武漢の市民デモ→死傷者がでて軍事介入に発展
アメリカの個人バイオハッカー問題(遺伝子組み換えは個人ではなく企業が管理する流れに)
全ては工作とメディアによる印象操作
5Gを反対してる訳じゃない
5Gの安全性や危険性についての議論がされないまま、全国で普及が進み始まっている事 たまたまにしては多すぎる、新型コロナ発生源と5Gとの繋がり
新型コロナウイルスと5G(ファイブジー)の不思議な繋がり
逆に5G所か電波が一切ない地域で新型コロナが発生しない謎
電磁波過敏症と新型コロナウイルス感染者0人のウエストバージニア州の事情
5G反対派とよばれる一部の過激な行動だけが大きくメディアに取り上げられ、タイミングをあわせたかのように、5G陰謀論者というレッテルを強調し、発信や疑問されている情報について真偽不明のまま全てデマと決めつける
本当にメディアにジャーナリズムが生きているなら、双方の間をとって、なぜこうも5Gには陰謀論と呼ばれる賛否の情報があるのか?を言及してほしい
そうすれば・・
他の国に対して異常に高すぎる5Gの電波安全ガイドライン 国策でテレワークを推し進めているのに5Gというワードを使わないのか
5G 安全神話はこうして創られる
メディアが公平性を持って政府の考え、国民の疑問を取り上げれば、少なくとも、片方が訴える「安全なのか?危険じゃないのか?」を無視し
5Gに関する陰謀論は全てデマ! という対応はおかしい という事は指摘されるべきである
5Gのデマは確かに想像や尾ひれはひれがついた真偽不明のSFホラーみたいなのが色々あるだろう
だけど、そこじゃない
5Gは人体に影響はないのか?危険性はないのか? そこを明確に政府に説明を求めている訳じゃない
どうせ(知識のない政治家)は、担当大臣に丸投げして会見させて、「総務省のガイドラインがこうなってるから・・」としか説明できないだろう
そもそも、その安全ガイドラインはどこの誰が決めたんだ?って話 原発の時も安全基準値の引き下げという事も多くの国民が目にして知っている事実
だから命や健康面に関わる技術のガイドラインの線引きはとても大事な事
それが5Gは危険です!という国の600倍近い高い安全基準値を設定してるとなれば、そりゃなんでだよ?って思うでしょ(その差は何?)
だから、世界中のその道のプロの医療従事者や遺伝子工学やら、電波や通信などの専門家たちの忌憚なき意見をちゃんと議論させてみんなに届ける事が重要
一般の人で5Gについて情報を集めている人でも普通にこういう議論や有意義な考察をしている
そういう議論や検証の機会を根こそぎ社会的に奪う 5Gについての陰謀論はデマ という決めつけの論調は作為的でとても5G推進派に都合が良すぎる
東奥日報は「・・ってこの教授やWHOが言ってますよ?」という内容を掲載してたので、無責任メディアだなってわかった(゚д゚)(。_。)ウン
こうやって国民にとって信用できるメディアそうではないメディアが少しずつ浮き彫りになっていくだろう
5G反対な訳じゃない、5Gの人体への影響が問題ないレベルなのか?を明確に出してほしい
0歳児が新型コロナに感染?感染経路不明?納得できるか? 幼少の頃の子供に与える電磁波の影響って情報を色々調べてみればいい
それが明確な理由かどうかはわからないにしても、少しはリスクを考える知識にはなるだろう
別に不安を植え付けたい訳じゃない 正しく知って、正しく警戒する
目に見えないリスクはどうにもならないが、リスクが目に見えるなら、どうするべきか?を考える余地がある。だけど、リスクを隠されたままだと自由意志の選択の余地すらない
5Gのおひれはひれがついた陰謀論は信じるも信じないもあなたしだいだが、5Gの安全性やリスクについてはWHOも言及を避けているというのが事実だ
誰も安全だと言いきってはいない
いち地方新聞メディアが5Gの情報がデマ!と取り上げたのは極めて驚きだが(圧力でもかかったのか?)、うのみにしないで、なんで?と疑問を持ったら、調べていこう
メディアは情報操作の道具なのだから
おっと・・これもデマ?になるのか?(笑)都合いいな
実際のNYではパニックなんて起きてないし、医療崩壊?長蛇の列?もないそうだが?
メディアでの死傷者や感染者数を増やせば増やすほど、みんな自主的に外出を控えるようになる。これは世界でも日本でも同じ。でも、その背景で海外でも5Gの設備設置などが進んでるのは一緒な模様
先日公開したこちらの記事(どんどん活用してください)
5G基地局の場所を調べるなら無線局を見よう
先日も福岡で感染者が増えたという事から、基地局を確認した所、着々と最新の認可の期日が増えていて、最新だと3/30日になっている所があった。この新型コロナ騒動で外出自粛の流れでも、携帯事業会社は工事業者に依頼して急ピッチで全国に5Gアンテナを設置していっている
東奥日報は「5Gの陰謀はデマ」と伝えたが、東京新聞は「5Gは危険性はないのか?」と疑問を呈した・・という事は
東奥日報は東京新聞はデマに流されている!と言ってるのと同じ(笑) なんだかもう・・語るに落ちるとはこの事だな┐(´д`)┌ヤレヤレ
実際、5Gが人体に与える影響なんてわかんねーよ?わかんねーからわかる人が説明してくれよ!っていう声が封殺される事に疑問を持つ事って変なのか?どうして安全基準が各国でこんなに違うの?専門家で危険だっていう人がWHOではスルーされるってどういう事よー?
っていえば陰謀論!(# ゚Д゚)ノ って決めつけられる変な話
あなたは・・どっちの人間なんでしょうね?
アインシュタインの一枚の画像から気づいた事ですが・・
∂は境界(位相空間論)位相空間とは集合にある種の情報を付け加えたもの Pとは【特定の集合】を意味する記号(Prime number)素数全体、射影空間
∂=p 境界とは射影空間である
つまり意図的に与えられたある種の情報、次元nであるとき(n + 1)個の「数」の比全体からなる空間の集合。社会というものは、その情報を是とする者たちで構成されている次元
今回の5Gの陰謀論はデマ!と切り捨てる流れは与えられたある種の情報であり、狙いは「深堀させない」「遠ざける」「関わらせない」「考えさせない」です
とてもわかりやすい動き(笑)
だからこそ、物事を捉える目線が違う=次元が違う思考を持ってください
詳しくはこちらの記事から気づきや閃きを感じてください
アインシュタインの一枚の写真からの閃き
新型コロナと5Gだけの話ではないですよ?この騒動の終焉とその後の世界の導線もしっかりと考えましょう
続!アインシュタインの一枚の写真からの閃き その4 ウイルス
ウイルス騒動のその後 自国生産のナショナリズムが大事と世界が気づく
トランス・ヒューマニズム 変わっていく人間性のお話
結局の所、情報が二転三転コロコロコロナしてますが、最初に言った通り、偶然は必然!なぜ日本であのタイミングで鬼滅の刃が爆発的な流行をして認知を得たのか?私は認知を変える見えない力が働いたと思ってます(ペルソナの心の怪盗団みたいなのがいるのか?w)
ウイルスVS鬼滅の刃 霊的な戦いのメッセージに気づけ!
  社会問題・テクノロジー
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