自殺未遂
何度も死のうとしている。
これからその話をする。
自殺未遂は私の人生の一部である。一本の線の上にボツボツと真っ黒な丸を描くように、その記憶は存在している。
だけど誰にも話せない。タブーだからだ。重たくて悲しくて忌み嫌われる話題だからだ。皆それぞれ苦労しているから、人の悲しみを背負う余裕なんてないのだ。
だから私は嘘をつく。その時代を語る時、何もなかったふりをする。引かれたり、陰口を言われたり、そういう人だとレッテルを貼られたりするのが怖いから。誰かの重荷になるのが怖いから。
一人で抱える秘密は、重たい。自分のしたことが、当時の感情が、ずっしりと肩にのしかかる。
私は楽になるために、自白しようと思う。黙って平気な顔をしているのに、もう疲れてしまった。これからは場を選んで、私は私の人生を正直に語ってゆきたい。
十六歳の時、初めての自殺未遂をした。
五年間の不登校生活を脱し高校に進学したものの、面白いくらい馴染めなかった。天真爛漫に女子高生を満喫する宇宙人のようなクラスメイトと、同じ空気を吸い続けることは不可能だと悟ったのだ。その結果、私は三ヶ月で中退した。
自信を失い家に引きこもる。どんよりと暗い台所でパソコンをいじり続ける。将来が怖くて、自分が情けなくて、見えない何かにぺしゃんこに潰されてしまいそうだった。家庭は荒れ、母は一日中家にいる私に「普通の暮らしがしたい」と呟いた。自分が親を苦しめている。かといって、この先どこに行っても上手くやっていける気がしない。悶々としているうちに十キロ痩せ、生理が止まった。肋が浮いた胸で死のうと決めた。冬だった。
夜。親が寝静まるのを待ちそっと家を出る。雨が降っているのにも関わらず月が照っている。青い光が濁った視界を切り裂き、この世の終わりみたいに美しい。近所の河原まで歩き、濡れた土手を下り、キンキンに冷えた真冬の水に全身を浸す。凍傷になれば数分で死に至ることができると聞いた。このままもう少しだけ耐えればいい。
寒い!私の体は震える。寒い!あっという間に歯の根が合わなくなる。頭のてっぺんから爪先までギリギリと痛みが駆け抜け、三秒と持たずに陸へ這い上がった。寒い、寒いと呟きながら、体を擦り擦り帰路を辿る。ずっしりと水を含んだジャージが未来のように重たい。
風呂場で音を立てぬよう泥を洗い流す。白いタイルが砂利に汚されてゆく。私は死ぬことすらできない。妙な落胆が頭を埋めつくした。入水自殺は無事、失敗。
二度目の自殺未遂は十七歳の時だ。
その頃私は再入学した高校での人間関係と、精神不安定な母との軋轢に悩まされていた。学校に行けば複雑な家庭で育った友人達の、無視合戦や泥沼恋愛に巻き込まれる。あの子が嫌いだから無視をするだのしないだの、彼氏を奪っただの浮気をしているだの、親が殴ってくるだの実はスカトロ好きのゲイだだの、裏のコンビニで喫煙しているだの先生への舌打ちだの⋯⋯。距離感に不器用な子達が多く、いつもどこかしらで誰かが傷つけ合っていた。教室には無気力と混乱が煙幕のように立ち込め、普通に勉強し真面目でいることが難しく感じられた。
家に帰れば母が宗教のマインドコントロールを引きずり「地獄に落ちるかもしれない」などと泣きついてくる。以前意地悪な信者の婆さんに、子どもが不登校になったのは前世の因縁が影響していて、きちんと祈らないと地獄に落ちる、と吹き込まれたのをまだ信じているのだ。そうでない時は「きちんと家事をしなくちゃ」と呪いさながらに繰り返し、髪を振り乱して床を磨いている。毎日手の込んだフランス料理が出てくるし、近所の人が買い物先までつけてくるとうわ言を言っている。どう考えても母は頭がおかしい。なのに父は「お母さんは大丈夫だ」の一点張りで、そのくせ彼女の相手を私に丸投げするのだ。
胸糞の悪い映画さながらの日々であった。現実の歯車がミシミシと音を立てて狂ってゆく。いつの間にやら天井のシミが人の顔をして私を見つめてくる。暗がりにうずくまる家具が腐り果てた死体に見えてくる。階段を昇っていると後ろから得体の知れない化け物が追いかけてくるような気がする。親が私の部屋にカメラを仕掛け、居間で監視しているのではないかと心配になる。ホラー映画を見ている最中のような不気味な感覚が付きまとい、それから逃れたくて酒を買い吐くまで酔い潰れ手首を切り刻む。ついには幻聴が聞こえ始め、もう一人の自分から「お前なんか死んだ方がいい」と四六時中罵られるようになった。
登下校のために電車を待つ。自分が電車に飛び込む幻が見える。車体にすり潰されズタズタになる自分の四肢。飛び込む。粉々になる。飛び込む。足元が真っ赤に染まる。そんな映像が何度も何度も巻き戻される。駅のホームは、どこまでも続く線路は、私にとって黄泉への入口であった。ここから線路に倒れ込むだけで天国に行ける。気の狂った現実から楽になれる。しかし実行しようとすると私の足は震え、手には冷や汗が滲んだ。私は高校を卒業するまでの四年間、映像に重なれぬまま一人電車を待ち続けた。飛び込み自殺も無事、失敗。
三度目の自殺未遂は二十四歳、私は大学四年生だった。
大学に入学してすぐ、執拗な幻聴に耐えかね精神科を受診した。セロクエルを服用し始めた瞬間、意地悪な声は掻き消えた。久しぶりの静寂に手足がふにゃふにゃと溶け出しそうになるくらい、ほっとする。しかし。副作用で猛烈に眠い。人が傍にいると一睡もできないたちの私が、満員の講義室でよだれを垂らして眠りこけてしまう。合う薬を模索する中サインバルタで躁転し、一ヶ月ほど過活動に勤しんだりしつつも、どうにか普通の顔を装いキャンパスにへばりついていた。
三年経っても服薬や通院への嫌悪感は拭えなかった。生き生きと大人に近づいていく友人と、薬なしでは生活できない自分とを見比べ、常に劣等感を感じていた。特に冬に体調が悪くなり、課題が重なると疲れ果てて寝込んでしまう。人混みに出ると頭がザワザワとして不安になるため、酒盛りもアルバイトもサークル活動もできない。鬱屈とした毎日が続き闘病に嫌気がさした私は、四年の秋に通院を中断してしまう。精神薬が抜けた影響で揺り返しが起こったこと、卒業制作に追われていたこと、就職活動に行き詰まっていたこと、それらを誰にも相談できなかったことが積み重なり、私は鬱へと転がり落ちてゆく。
卒業制作の絵本を拵える一方で遺品を整理した。洋服を売り、物を捨て、遺書を書き、ネット通販でヘリウムガスを手に入れた。どうして卒制に遅れそうな友達の面倒を見ながら遺品整理をしているのか分からない。自分が真っ二つに割れてしまっている。混乱しながらもよたよたと気力で突き進む。なけなしの努力も虚しく、卒業制作の提出を逃してしまった。両親に高額な学費を負担させていた負い目もあり、留年するぐらいなら死のうとこりずに決意した。
クローゼットに眠っていたヘリウムガス缶が起爆した。私は人の頭ほどの大きさのそれを担いで、ありったけの精神薬と一緒に車に積み込んだ。それから山へ向かった。死ぬのなら山がいい。夜なら誰であれ深くまで足を踏み入れないし、展望台であれば車が一台停まっていたところで不審に思われない。車内で死ねば腐っていたとしても車ごと処分できる。
展望台の駐車場に車を突っ込み、無我夢中でガス缶にチューブを繋ぎポリ袋の空気を抜く。本気で死にたいのなら袋の酸素濃度を極限まで減らさなければならない。真空状態に近い状態のポリ袋を被り、そこにガスを流し込めば、酸素不足で苦しまずに死に至ることができるのだ。大量の薬を水なしで飲み下し、袋を被り、うつらうつらしながら缶のコックをひねる。シューッと気体が満ちる音、ツンとした臭い。視界が白く透き通ってゆく。死ぬ時、人の意識は暗転ではなくホワイトアウトするのだ。寒い。手足がキンと冷たい。心臓が耳の奥にある。ハツカネズミと同じ速度でトクトクと脈動している。ふとシャンプーを切らしていたことを思い出し、買わなくちゃと考える。遠のいてゆく意識の中、日用品の心配をしている自分が滑稽で、でも、もういいや。と呟く。肺が詰まる感覚と共に、私は意識を失う。
気がつくと後部座席に転がっている。目覚めてしまった。昏倒した私は暴れ、自分でポリ袋をはぎ取ったらしい。無意識の私は生きたがっている。本当に死ぬつもりなら、こうならぬように手首を後ろできつく縛るべきだったのだ。私は自分が目覚めると、知っていた。嫌な臭いがする。股間が冷たい。どうやら漏らしたようだ。フロントガラスに薄らと雪が積もっている。空っぽの薬のシートがバラバラと散乱している。指先が傷だらけだ。チューブをセットする際、夢中になるあまり切ったことに気がつかなかったようだ。手の感覚がない。鈍く頭痛がする。目の前がぼやけてよく見えない。麻痺が残ったらどうしよう。恐ろしさにぶるぶると震える。さっきまで何もかもどうでも良いと思っていたはずなのに、急に体のことが心配になる。
後始末をする。白い視界で運転をする。缶は大学のゴミ捨て場に捨てる。帰宅し、後部座席を雑巾で拭き、薬のシートをかき集めて処分する。ふらふらのままベッドに倒れ込み、失神する。
その後私は、卒業制作の締切を逃したことで教授と両親から怒られる。翌日、何事もなかったふりをして大学へ行き、卒制の再提出の交渉する。病院に保護してもらえばよかったのだがその発想もなく、ぼろ切れのようなメンタルで卒業制作展の受付に立つ。ガス自殺も無事、失敗。
四度目は二十六歳の時だ。
何とか大学卒業にこぎつけた私は、入社試験がないという安易な理由でホテルに就職し一人暮らしを始めた。手始めに新入社員研修で三日間自衛隊に入隊させられた。それが終わると八時間ほぼぶっ続けで宴会場を走り回る日々が待っていた。典型的な古き良き体育会系の職場であった。
朝十時に出社し夜の十一時に退社する。夜露に湿ったコンクリートの匂いをかぎながら浮腫んだ足をズルズルと引きずり、アパートの玄関にぐしゃりと倒れ込む。ほとんど意識のないままシャワーを浴びレトルト食品を貪り寝床に倒れ泥のように眠る。翌日、朝六時に起床し筋肉痛に膝を軋ませよれよれと出社する。不安定なシフトと不慣れな肉体労働で病状は悪化し、働いて二年目の夏、まずいことに躁転してしまった。私は臨機応変を求められる場面でパニックを起こすようになり、三十分トイレにこもって泣く、エレベーターで支離滅裂な言葉を叫ぶなどの奇行を繰り返す、モンスター社員と化してしまった。人事に持て余され部署をたらい回しにされる。私の世話をしていた先輩が一人、ストレスのあまり退社していった。
躁とは恐ろしいもので人を巻き込む。プライベートもめちゃくちゃになった。男友達が性的逸脱症状の餌食となった。五年続いた彼氏と別れた。よき理解者だった友と言い争うようになり、立ち直れぬほどこっぴどく傷つけ合った。携帯電話をハイヒールで踏みつけバキバキに破壊し、コンビニのゴミ箱に投げ捨てる。出鱈目なエネルギーが毛穴という毛穴からテポドンの如く噴出していた。手足や口がばね仕掛けになり、己の意思を無視して動いているようで気味が悪かった。
寝る前はそれらの所業を思い返し罪悪感で窒息しそうになる。人に迷惑をかけていることは自覚していたが、自分ではどうにもできなかった。どこに頼ればいいのか分からない、生きているだけで迷惑をかけてしまう。思い詰め寝床から出られなくなり、勤務先に泣きながら休養の電話をかけるようになった。
会社を休んだ日は正常な思考が働かなくなる。近所のマンションに侵入し飛び降りようか悩む。落ちたら死ねる高さの建物を、砂漠でオアシスを探すジプシーさながらに彷徨い歩いた。自分がアパートの窓��ら落下してゆく幻を見るようになった。だが、無理だった。できなかった。あんなに人に迷惑をかけておきながら、私の足は恥ずかしくも地べたに根を張り微動だにしないのだった。
アパートの部屋はムッと蒸し暑い。家賃を払えなければ追い出される、ここにいるだけで税金をむしり取られる、息をするのにも金がかかる。明日の食い扶持を稼ぐことができない、それなのに腹は減るし喉も乾く、こんなに汗が滴り落ちる、憎らしいほど生きている。何も考えたくなくて、感じたくなくて、精神薬をウイスキーで流し込み昏倒した。
翌日の朝六時、朦朧と覚醒する。会社に体調不良で休む旨を伝え、再び精神薬とウイスキーで失神する。目覚めて電話して失神、目覚めて電話して失神。夢と現を行き来しながら、手元に転がっていたカッターで身体中を切り刻み、吐瀉し、意識を失う。そんな生活が七日間続いた。
一週間目の早朝に意識を取り戻した私は、このままでは死ぬと悟った。にわかに生存本能のスイッチがオンになる。軽くなった内臓を引っさげ這うように病院へと駆け込み、看護師に声をかける。
「あのう。一週間ほど薬と酒以外何も食べていません」
「そう。それじゃあ辛いでしょう。ベッドに寝ておいで」
優しく誘導され、白いシーツに倒れ込む。消毒液の香る毛布を抱きしめていると、ぞろぞろと数名の看護師と医師��やってきて取り囲まれた。若い男性医師に質問される。
「切ったの?」
「切りました」
「どこを?」
「身体中⋯⋯」
「ごめんね。少し見させて」
服をめくられる。私の腹を確認した彼は、
「ああ。これは入院だな」
と呟いた。私は妙に冷めた頭で聞く。
「今すぐですか」
「うん、すぐ。準備できるかな」
「はい。日用品を持ってきます」
私はびっくりするほどまともに帰宅し、もろもろを鞄に詰め込んで病院にトンボ帰りした。閉鎖病棟に入る。病室のベッドの周りに荷物を並べながら、私よりももっと辛い人間がいるはずなのにこれくらいで入院だなんておかしな話だ、とくるくる考えた。一度狂うと現実を測る尺度までもが狂うようだ。
二週間入院する。名も知らぬ睡眠薬と精神安定剤を処方され、飲む。夜、病室の窓から街を眺め、この先どうなるのかと不安になる。私の主治医は「君はいつかこうなると思ってたよ」と笑った。以前から通院をサポートする人間がいないのを心配していたのだろう。
退院後、人事からパート降格を言い渡され会社を辞めた。後に勤めた職場でも上手くいかず、一人暮らしを断念し実家に戻った。飛び降り自殺、餓死自殺、無事、失敗。
五度目は二十九歳の時だ。
四つめの転職先が幸いにも人と関わらぬ仕事であったため、二年ほど通い続けることができた。落ち込むことはあるものの病状も安定していた。しかしそのタイミングで主治医が代わった。新たな主治医は物腰柔らかな男性だったが、私は病状を相談することができなかった。前の医師は言葉を引き出すのが上手く、その環境に甘えきっていたのだ。
時給千円で四時間働き、月収は六万から八万。いい歳をして脛をかじっているのが忍びなく、実家に家賃を一、二万入れていたので、自由になる金は五万から七万。地元に友人がいないため交際費はかからない、年金は全額免除の申請をした、それでもカツカツだ。大きな買い物は当然できない。小さくとも出費があると貯金残高がチラつき、小一時間は今月のやりくりで頭がいっぱいになる。こんな額しか稼げずに、この先どうなってしまうのだろう。親が死んだらどうすればいいのだろう。同じ年代の人達は順調にキャリアを積んでいるだろう。資格も学歴もないのにズルズルとパート勤務を続けて、まともな企業に転職できるのだろうか。先行きが見えず、暇な時間は一人で悶々と考え込んでしまう。
何度目かの落ち込みがやってきた時、私は愚かにも再び通院を自己中断してしまう。病気を隠し続けること、精神疾患をオープンにすれば低所得をやむなくされることがプレッシャーだった。私も「普通の生活」を手に入れてみたかったのだ。案の定病状は悪化し、練炭を購入するも思い留まり返品。ふらりと立ち寄ったホームセンターで首吊りの紐を買い、クローゼットにしまう。私は鬱になると時限爆弾を買い込む習性があるらしい。覚えておかなければならない。
その職場を退職した後、さらに三度の転職をする。ある職場は椅子に座っているだけで涙が出るようになり退社した。別の職場は人手不足の影響で仕事内容が変わり、人事と揉めた挙句退社した。最後の転職先にも馴染めず八方塞がりになった私は、家族と会社に何も告げずに家を飛び出し、三日間帰らなかった。雪の降る中、車中泊をして、寒すぎると眠れないことを知った。家族は私を探し回り、ラインの通知は「帰っておいで」のメッセージで埋め尽くされた。漫画喫茶のジャンクな食事で口が荒れ、睡眠不足で小間切れにうたた寝をするようになった頃、音を上げてふらふらと帰宅した。勤務先に電話をかけると人事に静かな声で叱られた。情けなかった。私は退社を申し出た。気がつけば一年で四度も職を代わっていた。
無職になった。気分の浮き沈みが激しくコントロールできない。父の「この先どうするんだ」の言葉に「私にも分からないよ!」と怒鳴り返し、部屋のものをめちゃくちゃに壊して暴れた。仕事を辞める度に無力感に襲われ、ハローワークに行くことが恐ろしくてたまらなくなる。履歴書を書けばぐちゃぐちゃの職歴欄に現実を突きつけられる。自分はどこにも適応できないのではないか、この先まともに生きてゆくことはできないのではないか、誰かに迷惑をかけ続けるのではないか。思い詰め、寝室の柱に時限爆弾をぶら下げた。クローゼットの紐で首を吊ったのだ。
紐がめり込み喉仏がゴキゴキと軋む。舌が押しつぶされグエッと声が出る。三秒ぶら下がっただけなのに目の前に火花が散り、苦しくてたまらなくなる。何度か試したが思い切れず、紐を握り締め泣きじゃくる。学校に行く、仕事をする、たったそれだけのことができない、人間としての義務を果たせない、税金も払えない、親の負担になっている、役立たずなのにここまで生き延びている。生きられない。死ねない。どこにも行けない。私はどうすればいいのだろう。釘がくい込んだ柱が私の重みでひび割れている。
泣きながら襖を開けると、ペットの兎が小さな足を踏ん張り私を見上げていた。黒くて可愛らしい目だった。私は自分勝手な絶望でこの子を捨てようとした。撫でようとすると、彼はきゅっと身を縮めた。可愛い、愛する子。どんな私でいても拒否せず撫でさせてくれる、大切な子。私の身勝手さで彼が粗末にされることだけはあってはならない、絶対に。ごめんね、ごめんね。柔らかな毛並みを撫でながら、何度も謝った。
この出来事をきっかけに通院を再開し、障害者手帳を取得する。医療費控除も障害者年金も申請した。精神疾患を持つ人々が社会復帰を目指すための施設、デイケアにも通い始めた。どん底まで落ちて、自分一人ではどうにもならないと悟ったのだ。今まさに社会復帰支援を通し、誰かに頼り、悩みを相談する方法を勉強している最中だ。
病院通いが本格化してからというもの、私は「まとも」を諦めた。私の指す「まとも」とは、周りが満足する状態まで自分を持ってゆくことであった。人生のイベントが喜びと結びつくものだと実感できぬまま、漠然としたゴールを目指して走り続けた。ただそれをこなすことが人間の義務なのだと思い込んでいた。
自殺未遂を繰り返しながら、それを誰にも打ち明けず、悟らせず、発見されずに生きてきた。約二十年もの間、母の精神不安定、学校生活や社会生活の不自由さ、病気との付き合いに苦しみ、それら全てから解放されたいと願っていた。
今、なぜ私が生きているか。苦痛を克服したからではない。死ねなかったから生きている。死ぬほど苦しく、何度もこの世からいなくなろうとしたが、失敗し続けた。だから私は生きている。何をやっても死ねないのなら、どうにか生き延びる方法を探らなければならない。だから薬を飲み、障害者となり、誰かの世話になり、こうしてしぶとくも息をしている。
高校の同級生は精神障害の果てに自ら命を絶った。彼は先に行ってしまった。自殺を推奨するわけではないが、彼は死ぬことができたから、今ここにいない。一歩タイミングが違えば私もそうなっていたかもしれない。彼は今、天国で穏やかに暮らしていることだろう。望むものを全て手に入れて。そうであってほしい。彼はたくさん苦しんだのだから。
私は強くなんてない。辛くなる度、たくさんの自分を殺した。命を絶つことのできる場所全てに、私の死体が引っかかっていた。ガードレールに。家の軒に。柱に。駅のホームの崖っぷちに。近所の河原に。陸橋に。あのアパートに。一人暮らしの二階の部屋から見下ろした地面に。電線に。道路を走る車の前に⋯⋯。怖かった。震えるほど寂しかった。誰かに苦しんでいる私を見つけてもらいたかった。心配され、慰められ、抱きしめられてみたかった。一度目の自殺未遂の時、誰かに生きていてほしいと声をかけてもらえたら、もしくは誰かに死にたくないと泣きつくことができたら、私はこんなにも自分を痛めつけなくて済んだのかもしれない。けれど時間は戻ってこない。この先はこれらの記憶を受け止め、癒す作業が待っているのだろう。
きっとまた何かの拍子に、生き延びたことを後悔するだろう。あの暗闇がやってきて、私を容赦なく覆い隠すだろう。あの時死んでいればよかったと、脳裏でうずくまり呟くだろう。それが私の病で、これからももう一人の自分と戦い続けるだろう。
思い出話にしてはあまりに重い。医療機関に寄りかかりながら、この世に適応する人間達には打ち明けられぬ人生を、ともすれば誰とも心を分かち合えぬ孤独を、蛇の尾のように引きずる。刹那の光と闇に揉まれ、暗い水底をゆったりと泳ぐ。静かに、誰にも知られず、時には仲間と共に、穏やかに。
海は広く、私は小さい。けれど生きている。まだ生きている。
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#読書 #叩かれるから今まで黙っておいた世の中の真実 #ひろゆき 2020年の読書は誕生日鑑定の勉強本ばっかりだったから 2021年は社会に目を向けた知識のインプットの比重も戻していきたい。 #読書メモ #正しく考えるには正しい知識が不可欠だが実際には多くの人が間違った知識の上に立って考えているからフェイクニュースの拡散や怪しい陰謀論を語るインフルエンサーが増える #競争は激しいのに衰退していく日本の現状見えていますか? #日本だけが海外から取り残されたように物価が安いことを日本に住んでいる人は気づかない #世界競争力ランキングにおいて日本のビジネス効率性は62カ国中ほぼ最下位レベル #ほとんどの人は自分の仕事が誰でもできるようになったことに気付かず専門性の高い仕事に就いていると思い込んでいる #高齢社会において若者はおじさんに振り回されお金と仕事が奪われる #日本ではお金がない人をターゲットにしたビジネスがいくつも展開されているから格差が広がるのは当然 #日本に革命家は現れない #多くの組織で旧時代的なおっさん化した男女がまだ上の立場にいるために数々のばかげた不条理がまかり通っている #どんな境遇でも頑張れば報われるというのは美しい物語であり一生懸命努力をしているのになかなか成果が出ない人は活躍の場を間違えている #歴史に残るような偉業を成し遂げるケースにたまたまマーケットのあるところにいたからというだけの面白味のない理由が実は多い #最低賃金が上がるとアルバイトや派遣社員側が損をする #人件費が引き上げられれば企業は人件費に圧迫されて経営状況が悪くなり潰れるか人間に代わる機械の導入が進む #セルフレジの機械の導入費用は時給1000円の人件費を考えたときに50日以内に元が取れる #働き改革という全体主義は会社も個人も得をしないから働き方なんて会社と社員の間で決めればいい #労働人口の約15%にまで増えてきたフリーランスは未来の働き方の実践者 #これから会社に勤めている人たちがどんな働き方にシフトしていくべきかはフリーランスの人たちを参考にすれば答えが見えてくる #フリーランスの働き方は今後注目すべき存在となるのは間違いないが非常に不安定で頑張りすぎるフリーランスの人の傾向はひとりブラック企業化を生み出している #企業がブラック的な仕事をフリーランスに押して受けるようになってきた #現状の教育システムは100点に近い完璧主義で子どもたちを縛る #社会に出て求められることは100点ではなく7割でいいから早くたくさんアウトプットをしろということ #自分の子どもがいずれ大人になって自分自身で判断しなければいけなくなるということを理解していないから子どもにいろんな禁止を押し付ける #大学で学んだことを企業は無視をするが大卒には意味はないというのは嘘で軽視すべきではない #デジタルネイティブ世代はスマホは得意だがパソコンスキルに欠ける点が弱点であり盲点 #親からスマホやタブレットやゲームを与えられる子どもは消費者として成長しパソコンを与えられる子どもは生産者的な立ち位置に成長する #二人以上の子育ての成功を願う親でいたいのであれば現実的に考えて夫婦の世帯収入を何としてでも最低850万円以上にしろ https://www.instagram.com/p/CJiVQDXrei-/?igshid=1nsiof0mv3tca
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『貝ベースの醤油ラーメンを出す、あの店のこと』
ラーメン屋を閉める決意をしてからというもの、今どき流行らない古めかしい中華そばの店に父と二人で行った少年時代を思い出す夢ばかり見る。
何の変哲もない一杯六百円とかの、メンマ・チャーシュー・ネギが乗ったいわゆる普通の醤油ラーメン。
西陽が傾き加減で入ってきて少しノスタルジックさもあるような古臭い空気感と、時たま子供でも分かるようにして漂う煙草の薄い臭いと、べたついた床。上を見るとメニューがずらっと書いてあって、「どれにしようかな」と悩みながらも結局あのシンプルな中華ラーメンに行き着くのだ。
なんにも特徴のないのが特徴のラーメンだったけれど、そのときの俺はそれで満足だったし、父と言葉を交わさなくても味に集中している時間だけは何か空気が変わったように打ち解けられたような気がした。
「うまいな」
そう、生きて来て父と話した言葉なんて、そんなものである。
そして俺はその店を切り盛りする角刈りのおっちゃんに「また大きくなっとるやん! そうか、賢ちゃんももう今度は中学生かぁ。時の経つのは早いもんやな!」なんて言われてがしがしとひとしきり頭を撫でられたあと、俺が「ごちそうさまでした」と言ったところで、その夢は終わる。
そんな夢想をするくらいなら、サラリーマンをやっていた忌々しき時代の上司に受けたパワハラの夢でも見ていた方が今の自分にとっては百倍もマシであっただろうに……。スマホのアラームを止める手が、今日は一段と重かった。
そうか、もうこんな時間か……。いくら憂鬱でも、身体は何年も続けてきた仕込みと下準備の時間を覚えているし、勝手に手は動く。疲れているのに、心はやるべきことを為そうとしてくる。なのに俺は気持ち悪いざわめきを抑えることは出来ない。一度、便所で食べたものを全て吐き出した。
夜明け前、まだ暗い部屋の外を眺めて、こう思うのだ。
「……こんな店、早く潰れてしまえばいいのに。誰か火つけてくんねぇかな」
いつまで思い出に縋っているんだ、と誰の声だか知らないが、夜明け前の静寂から聞こえてくるのだ。だから、もうあと一週間で店を閉めてやる。
──この店は蝉のごとく、地面から地上に這い上がることができたのだろうか?
俺は心を無にして、そんな風に振り返ってしまう気持ちを蹴飛ばした。
◆閉店まで 七日
盆地の夏は蒸し暑く、たとえ朝でも日が昇ればあっという間に三十度は軽く超えてしまう。だから、もっと酷暑になる昼頃になんて、まず出歩いているのは夏休み中の下宿生か、物好きばかりで、店は繁盛しない。
いつもの夏の光景は、仕事を辞めて店を始めた十年前から、何一つとして変わっていない。
「ご馳走様でしたー」
「あいよー」
誰だか知らないが、この辺りに住む学生だろうか。律儀に声をかけてくれるので、こちらとしても気持ちがいい。ここに店を構えてよかったと、改めて思う。
俺は、この店を閉めることを事前に告知しないことを決めていた。もちろん申し訳無さはあるが、客に気を遣われても困る。むしろ、風のように消えて「えっ、あの店辞めちゃったの」と思い出される存在であるかどうかを試すために、誰にも言わずに店を閉める。
俺が出しているのも、夢の中で出てきたような、何の変哲もないように見えるだろう醤油ラーメンだ。もう、メンマもチャーシューもネギもそのままで、子供の頃から慣れ親しんだものにしか見えない。しかし、これこそが俺の答えであり、結晶である。
確かに、「あの店は良かった」と皆の記憶の中にどこまでも棲み着いて苦しめるような、そういうラーメンを作って、今まで来なかった奴らに復讐するということが目的なのは間違いない。
だが、俺にとっては、この答えとなる最高傑作を作っても『アイツ』が来なければ意味なんてないと思っている。
「暑いっすね」
「きょう真夏日だぞ。こまめに水とれ、水」
「ありがとうございます。でも、店長に倒れられると困るんで、程々でいきましょう」
バイトの大学生もこの辺りに居を構えているらしいが、地元とは違う気候にかなりやられているらしい。加えて厨房はこの熱気である。俺は彼を気遣ったが、彼も彼なりに俺のことを気遣ってくれているらしい。
「そりゃどうも。それで、大学はどうよ、友達は出来たか」
「おかげさまで手で数えられるくらいの付き合いしか。でも、それなりにうまくやってますよ」
うまくやる、という言葉の響きで、今の若者はそういう方向に特に賢いなと思った。コミュニケーション能力の鋭さや丁寧さは、今の世代からすると常識に等しいのかもしれない。
──ならばすれ違いながら生きてきた俺は間違っているのか?
答えはノー、だと思いたい。しかし、現実はそうではないのだろう。昔のことに囚われて今のことが見えなくなって、その結果、未来のことまで見えなくなってしまう性分には、「うまくやる」なんて洒落たことが出来ない。直情的なのに後ろ向き。それならいっそ、チョロQのようにゼンマイ式で後ろに引いて、それから猛スピードで直進できれば、なんて。
ドアの外から見えるのは、あるようでない日陰をうまく渡りながらはしゃいでいるアベックとか、カメラを首にかけて猫を追っている白いワンピースの少女とか、あるいは、あれは家族連れだろうか。帽子をかぶって真っ黒に日焼けした夏の象徴みたいな男の子がこちらを見ているような気がした。
ふと、その男の子に俺の子供の頃を重ね合わせる。
──お前は麒麟児だ! ラーメンの味が分かるんだろ? 天才さ!
麒麟児、という言葉の意味も分からなかったあのころ、わしゃわしゃされていた俺の髪の毛と、その子の天然パーマがかった頭とか、雰囲気とか、そういう物が似すぎていて、
「店長! お客さんですよ!」
という声がバイトの子からかかるまで、俺は来客にまったく気づけないでいた。
クソ、今日は調子が狂うな……。俺は、眩しすぎる若き煌めきを無視できない。歳を食うのはまったくいいことがないんだよな、とオーダーを取る。
◆閉店まで 六日
常連の青木さんは、すぐにご飯を済ませようとする。
「いつものヤツ」
「醤油ラーメンと半チャンのセットですね」
オーダーを聞いてから、俺が作ってサーブするまでの間、ずっと青木さんは貧乏揺すりで無言の圧力をかけてくる。別に声を荒げるようなことはしないが、その様子を見ている方はなかなかプレッシャーを感じるものだ。
しかも、バイトの子は青木さんに怒られたことがあるらしい。曰く、『サーブを早くしようとしているのは分かるが、そのせいで半チャンの出来が悪い、もっとパラパラにしろ』とのことだった。ただ、そのときだって味に文句をつけながらも、口にとにかく素早く運んで五分で食い終わっていた。
そう、青木さんに満足してもらえないまま店を閉めるのも確かに不本意ではあるのだ。ただ、遅くては文句をつけられてしまう。つまり俺は青木さんに味とスピードという、いい店の三拍子のうちの二つをいつの間にか鍛えてもらっていたといえる……かもしれない(三拍子の残り一つの『安さ』は、青木さんに言われなくとも、たぶんこの辺りでは一番だと思う)。
半チャンに使うのは、ご飯、卵、長ネギ、塩、油、水。手慣れた手付きで中華鍋へ遠慮のない量のごま油とご飯をどばっと投入し、その上にさらに溶き卵をかける。そして一気呵成の勢いでじゃかじゃかと鍋の中で暴れさせる。うまく炒められれば、そのあと塩・長ネギを加え、火を弱めてひとさじの水を軽くふりかける。最後の炒めを終わるまでに一分とかからない『タマゴ炒飯』とはこれのことである。
一方のラーメンは、朝から仕込んでおいたアサリ・昆布・シジミをベースにしたコクの深い秘伝の醤油スープに、勢いよく湯切りしたちぢれ麺を投入し、先に炒飯を作ったときに多めに切っておいた長ネギ、さらにメンマと、これまた夜が明ける前からトロトロに煮込んでおいたチャーシューを乗せる。要素はたしかにシンプルでサーブまでの手間は果てしなく短いが、それまでの準備がひたすらに長い。しかし、それをやっておくことにより、味にも速さにも自信が出るというもの。手は抜かない。
完成したラーメンと半チャンのセットは、まるでサイモン・アンド・ガーファンクルのようなコンビネーション、明日に架ける橋のような希望に満ち溢れた輝かしさである。
さあ、どうだ、青木さん。今日は俺の作る最後の一杯をお見舞いしてやる。
俺はそんな気持ちで、テーブルに「お待たせしました、ラーメンと半チャンセットになります」てな具合でそれを出した。
このとき、俺は思った。俺にとってはこの人に出すのは最後の一杯になることがもう分かっているけれど、青木さんや他の常連客にとってはいつもの一杯に過ぎない。それなのに、俺は空回りして変なことをやっているのはおかしい。いつものように、手は抜かずに気は程々に抜いて、ナチュラルな一杯を目指すべきなのではないかと……。
ラーメンを口にした青木さんが、麺をすすったときに少し表情が変わった。だが決して言葉にはしない。いつものように、腰の曲がり始めた汚れ混じりの作業着姿で、黙々と淡々と食べ続けている。その横顔を見つめていたバイトの子が、何かに気がついたような表情でポツリと漏らしている。
「青木さん、もしかして怒ってるんじゃないですか……?」
嘘だ。俺は気合を持って今日の一杯、ひと皿を出したはずだ。さっきは空回りしてちゃいけないんじゃないかと思ったが、それだって正しいという確証はないのだ。だから、俺は俺のベストを出しただけなのに……。段々と、分からなくなってくる。
俺の頭が堂々巡りしている最中、青木さんが席を立ち、店中に響き渡るようにデカい声でこんなことを言った。
「ご馳走さん。……一つだけ言わせろ! 半チャンを律儀に出してる時点で、お前はラーメン屋失格だ」
振り返らなかったので顔は見えなかったが、席にあったラーメンは半分程度で残されていた。時間を見ると、サーブしてから丁度五分が経っていた。
◆閉店まで 五日
昨日の青木さんの言葉は、まるで憲兵に銃を向けられたときの敵国の兵士のような感情を抱かせた。今から俺は死ぬのではないだろうか? そういう凄みさえあったのだ。
やはり俺の店はどこかで何かを間違えていたのかもしれない、と途端に不安にもなるのだ。
なぜ半チャンセットを頼まれていて、それで半チャンを出したらラーメン屋としては失格になってしまうのか、それはなるほど哲学的な問いとしか考えられなかった。
しかし日々はそんな俺のことを放っておいても、セーブポイントから続きがやってくる。どうやら人間というのは、昨日のことをずっと引きずっては生きられないように出来ているらしい。あまりやりたくなかったが、行きがけに度数の低い酒を一缶だけ煽ったら、すっと記憶の中とか頭とか身体から要らない力が抜けていくのを感じた。
ともに歩んできた『アイツ』のことを心配している余裕が今はない。俺は蝉なんだ。きっと死ぬ時くらいは自らの生涯を全うするために地上に出てくるんだ。
開店直後、とある珍客が現れた。
「なんだ、先輩じゃないすか」
「どうせ暇なんだろ。食いに来てやったよ」
この体重115キロという巨漢の男は、真正の食欲における猛者たる風格を漂わせているが、ただの公務員であり、俺が大学時代に部活で大いにお世話になった先輩である。陰では部員から豚とか言われていたが、本当は渾名をゴリ松先輩という。なんということはない、顔がゴリラそのものだから、ゴリラのゴリに、苗字の一部から松でゴリ松……先輩だ。
「まーたあっさりとしたもん作りやがって、もっと豚骨ラーメンとか作れよ」
「うちは豚骨置��てないっすよ、俺なんか豚骨とかインスタントでしか作ったことないから分かんないし」
「おいおい、それで何がラーメン屋だ!」
豪胆に笑って見せる顔が無邪気な子供そのものなので思わず吹き出しそうになる。昔と変わらないその心というのが、俺をひどく安心させるのだ。
「しゃーねーなー、醤油ラーメン一丁! それと餃子!」
「はいはい」
餃子セットは半チャンセットと並ぶ人気商品の一つで、とくに餃子は羽根付きのパリッとした感じに拘りを入れている。臭いが気になる人向けににんにくやニラを使わず、生姜などでその代わりのアクセントをつける。
ゴリ松先輩は営業の最中だろうか、スーツ姿でこの店にすっかり馴染んでいる。それを見て、俺も真っ当にサラリーマンやってたら結局こういう感じになって、どっかのラーメン屋で飯食ってるんだろうなという、そんな違う世界での自分を想像していた。
「あの」
「何?」
「ゴリ松先輩って、何で前の会社から転職したんすか?」
「言ってなかったっけ? 給料はまともに払われてねーし、上司は自分が失敗したのに責任を取ろうともしないしそれを部下に押し付けてくるし、上に刃向かったら左遷だし。ブラック企業ど真ん中よ、俺は人間だからそこから這いずり出てきただけ」
ゴリ松先輩は大学卒業後、某有名一流商社に就職し、華々しいビジネスマン人生を踏み出すかに思われた。しかし現実は昭和の軍隊統制さながらのブラック企業で、悪法も法なりと言わんばかりの労働基準法潜り抜けで精神も身体も限界までこき使われていたらしい。
「あー、一番酷かったのはやっぱアレだな、宴会で土下座させられて仕事でのミスを詰られるやつ。もはや仕事でもねーけど」
「マジすか、飲み会でそんな前にやったこととか根に持たれるんすか」
「そりゃあ、もうあんな職場で働いてるやつなんか頭おかしいやつしかいねえよ。大学卒業しても勉強だけ出来て後はゴミみたいな人間、本当にいるんだな」
先輩は昔からこんなに口が悪い、というわけではないのだ。あの中にいたら誰だっておかしくなるし幻覚のひとつやふたつくらい見るだろう、と尋常ではないほどの汗を拭って苦笑いした。
「そうだ、水、もらうよ」
「ああ、全然構いませんよ」
そういって先輩は小さな袋に入った錠剤を取り出した。
「それ、なんです?」
「もう俺も歳だからね。ダイエットしようと思って。本当は食前に飲まなくちゃいけないんだけど、ついつい忘れるね」
俺は驚いた。正直、もともと放漫な食生活をしていて、前の会社に勤めていたときの自暴自棄な暴飲暴食も重なってかなりの肥満体型にはなっていたが、ダイエットか……。自分の腹の肉が気になるお年頃なのは、俺も同じだったことを思い出させられる。
「そしたら、ラーメンはもう卒業ですか?」
「違えよ、これ飲んだら実質カロリーゼロだから」
「言い訳雑過ぎっしょ……」
昨日とは違って、帰り際にはスープ一滴、餃子のひとかけらも残ってはいなかった。
◆閉店まで 四日
壁に貼ったカレンダーに、「あと四日」の文字。そう、一日一日を刻んでいくことで、ゆっくりと自らの終わりを生活の実感と一致させていく。今日もジージーと蝉の鳴く声がずっと煩く響いている。
『アイツ』、まだ来ねえな。もう店閉めるまであと四日だぞ、早く来ないと手遅れになるぞ、と虚空に呟く。自分で選んだ未来を後悔しっぱなしでは終わらせられないのだ。そのためには『アイツ』が終わらせてくれないと、何も始まらない。
俺の店はビルの一階にあって、その賃料はそこそこのものだ。話は既につけてあるが、念のため会ってもう一度段取りを確認しておかなくてはならない。迷惑にならないように、早い時間にその人を訪ねた。
「ごめんください」
「ああ、どうも、ラーメン屋の方ですか。先日の話で何かありましたか」
「いえ、特にそういうわけではないのですが、再度、事情の再確認とか、まあ、ご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」
「何度でも確認していただければと思います。実は事情が変わった、というときに対応できないと大変でしょうし」
いつ会ってもこのお爺さんは腰が低い。年月を経て銀色になった髪が陽の光にふんわりと輝く。歳を正しくとるとはそういうことで、ちゃんと報われてきた人間の顔をしているという感じを受ける。
俺もこうなりたいな、と思ったことは一度や二度ではない。しかしそれは土台無理というものだ──正しく歳をとるというのは、たぶんきちんとした職に就き、社会の為に汗水を垂らし、たまに適度な休息を取って家族を養い愛することによって、普通の人間として為しうることなのだ、たぶん。俺にはその資格なんて、到底ない。
「どうにもならないとは思わないんですがねえ……私も醤油ラーメン、好きでしたよ。正直、廃業というのは心惜しいものです」
それでも、この大家さんにそこまで言ってもらえるのだから、俺はある意味ではとても幸せ者なのだろうな。
「それで、どうします? 一応、建物は残ってるんで、片付けに入るでしょう。そのときにもう一度引き払うときの条件だけ確認することにしましょうか」
「ええ、それで構いません」
「ありがとう。それでは、日課のジョギングにでも行ってきますよ。最近は妻も一緒に走りたいなんて言ってくるものでしてね」
そういうと、大家さんはそのまま川沿いに走り出していった。そうか、奥さんと一緒に走ってらっしゃるのか。こんな感じで生きている仲睦まじい熟年夫婦というのは、見ているだけでどこか心が癒されるものだ。まるで木々にとまる二羽の雀のように、心細い夜でも寄り添って生きることが出来る、『アイツ』とはそういう風になりたかったな……でも、それもいつかの話だから、今日は今日を生きる。
店はいつものように、繁盛するはずもなく、ただただ空席の目立つ日常だ。この店は別に儲からない。なんなら赤字で、店を維持するのにも金がかかる有様だ。それでいいとは俺は一度も思ったことがない。そして、閉めると決意してからもそれが変わらないのだから、もうラーメン屋に未練なんてない。
ふらっと、そのとき一人の女性が入って来た。
「いらっしゃい」
「あの、ひとりなんですけど、いいですかね」
「構いませんよ。そちらのカウンター席へ」
この店に初めてやって来るお客さんらしい。こんなところにやってくるなんて、相当な物好きしかいないだろうに──半ば同情めいた気持ちも持ちつつ、彼女がこの時期に似合わない薄めながらも長袖のジャケットを椅子にかけたところで、オーダーを伺う。
「ご注文は?」
「……醤油ラーメンの味玉つきで」
「かしこまりました、ラーメン味玉一丁!」
……お前以外誰もいなくてもオーダーを通すときに叫ぶのは雰囲気づくりだよ、ほっとけ。俺はバイトの子にそんな思いを込めて目線を向ける。
味玉は、前の日から煮込んでいることもしばしばあるくらい時間がかかる。きっちり濃い口の甘辛い醤油ベースのたれの味を染みこませて、あっさりした醤油ラーメンに合うようなしっとりとした半熟で仕上げてある。このラーメンと味玉のマリアージュはまさしくヒロシ&キーボー、『三年目の浮気』さながら。たぶん、食べた人は旨すぎて泣くんじゃないか? とすら思う。
そんな風に自分がトッピングやサイドメニューにラーメンと同じくらい拘るのは、ラーメンに自信がないからではないと自分でも信じている──というか、そう思いたいだけなのかもしれないけど。
半袖になったその女性は、一口食べるや否や、自分のスマホでそれを撮り始めた。何かグッとくるものがあったのだろうか、それとも今流行している写真投稿サイトにアップロードするのだろうか、とバイト先の子に言ったら、
「さすがに今どき写真投稿は古いですよ。時代はストーリーに動画を上げるのが鉄板です」
と言われて、おじさんは何を言われているのかさっぱりだった。
味わうようにして食べるということの尊さをそうして如何なる形で知るのだろう、そんな人は、と昔は否定的だったんだけれど、もうこんなに一般的な風景となった今では何も気にならなくなるものだなあ。そんなことを思った。
「食べることって幸せの源流なんでしょうね。ほら、あの人も幸せそうな顔してる」
「食事に集中してもらいたい気もするけど、まあ、あれも一つの形なんだろうな。食べるってことの」
「おっ、店長が珍しく納得した」
何が珍しくだ、俺はかなりお前の言っていることに同意しているぞ──と思っていたら、彼女は綺麗にラーメンを平らげてしまって、それから俺たちのほうに駆けよって来た。
「醤油ラーメンと味玉、ごちそうさまでした。すみません、写真とか撮ってばかりでお邪魔でしたよね。お詫びします」
「いえいえ全然、こちらとしては美味しそうに食べて、美味しそうに写してくれたら本当にありがたいですから……」
「そう言っていただけると本当にありがたいです。……ありがとうございました、ごちそうさまでした」
お金を支払ったその対価としてラーメンと味玉を魂込めて作り提供しただけなのに、その女性はやけに丁寧に礼を言った。そしてまた帰り際に見せた笑顔がまたぺかーっと明るくて、顔も性格も美人っていうのは世に二人以上もいるんだなと、やっぱり昔のことを思い出したものだ。
「どうしたんですか、店長?」
「いや、なんでもない。ただ何となく、あの人、凄いなって思っただけだ」
そのとき、一陣の強い風が町中をひと舐めした。何の予感なのだろう? 俺はとても不思議な気分になった。
◆閉店まで 三日
その日は、開店から尋常ではない忙しさだった。
何があったなんてことは、確認するヒマもなさそうだった。
「いらっしゃいませ! ここでお待ちいただけますか、すみません、慣れていないものでして」
この店では一切見たことのないような繁盛、行列、人の山。どんなに旨いラーメンだと言い張っても人が寄ってこなかった盆地の小さなラーメン屋に、こんなに人が集まるだなんて。何か、騙されるオチの夢を見ている気分だった。暑さと疲れで頭はずっと痛いが、その心地よい苦痛が俺に確かな生の実感をもたらしてくれた。
「お次のお客様は……二名様! ええ、どうぞこちらへ。そちらは五名様ですか、テーブルが空くまでお待ちいただけますか。すみません」
喉も痛いが、汗を拭いながら叫ぶ。人生のなかでこんなセリフを言うことになるとは思いもしなかった。これ、一度言ってみたかったんだ……。
「どうです、今日は流石にこの人数じゃ回せないでしょう」
大家さんが様子を見るついでに、ラーメンを食べに来てくれたらしい。どうやら奥さんも一緒のようだった。
「そうっすね……これは、バイト増員も考えなくちゃいけない」
「それでも、決めたことはするんですよね?」
『店を閉める』ということを、繁盛している店内で言うわけにもいかないという細やかな配慮にお礼を申し上げたい。俺は「そうっすね。もう決めたことなんで」と気持ちを傾けないように、自分を制御するようにして言った。
「そうですか。まあ、それも貴方が決断したことで、私がやいのやいの言えた話じゃないですものね。とりあえず、今はこの急場を凌いでいきましょう。頑張ってください」
大家さんからの応援は、かなり安心感をもたらしてくれることが分かった。実はこの店で食事をするのは初めてだということで、ラーメンの味を伺ったら「さっぱりしていてとても食べやすいですね」という高評価をいただいた。ますます閉めるのが申し訳なくなるから、本当は大家さんは一番最後に食べてもらうつもりだったのだが、こうなってしまっては仕方のないことだ。
そしてこの混乱じみた行列は午後になっても途切れない。何人捌いても、また後ろに列が出来て、みんな一様に醤油ラーメンを食べて帰るのだから驚きだ。全員が同じメニューを頼むなんて、普通じゃありえない。
これが、もっと昔、それこそ店が開店してすぐくらいの頃だったらな、と俺はまた昔のことを思い返すのだった。ずんどうから香る潮の香りのする醤油の匂いでいろんなことが思い出せるくらいには、この店にも歴史がある。
実はこの店が全国的に展開している雑誌に掲載されたことがあり、そのおかげで一時期は賑わっていた。当時の看板メニューは今と違って貝ベースの塩ラーメンだったが、今のようなシンプルさの欠片もないゴテゴテした作り方をしていたせいで店の受注能力を大幅に上回り、結果として俺が倒れてしまった。その間にその雑誌での宣伝効果が切れてしまい、今まで見たいな閑古鳥の鳴く店になっていたのだった。
それが、今はこんなことになっているなんて。
思い当たる節なんて殆どないのだけれど、あるとすれば昨日の女性が写真をたくさん撮っていたことくらいしかあり得ない。写真投稿サイトにレビュー付きで載せて、それが一気に情報として拡大した、ということは全くもってありうることだ。それ何て女神?
いやしかし、それならば昨日の今日でこんなに繁盛するものなのだろうか。
俺は、にわかには信じられないといったような顔でこの現状を精一杯もてなすことだけで大変だった。心は全然間に合っていない。
「売り上げ恐ろしいことになりそうですね」
「そうだな……いったい何諭吉だろうな…………」
「給料上がりますかね?」
「まあ、そのうちな」
バイトの子には申し訳ないが、給料が上がる前にこの店は閉まるし、何ならこの売り上げもあんまり意味がない──正直、あんまりラーメン屋で儲けるということにバカバカしさを感じるようにもなってきた。歳かな、と考え直そうとしても、その考えは抜けない。
恐らく翌日もこんな感じだろう。誰かに手伝ってもらわないと久しぶりに過労死しそうだ……そんなとき、頭の中でひとりだけ思い浮かぶ人物がいた。
──ああ、先輩なら手伝ってくれそうだな。
明日は土曜日で、客足はきょう以上のものになるだろう。ゴリ松先輩なら、土日は休みだし、たぶん副業も許可されているはずだし、後輩からの頼みを断るなんてことはしないんじゃないだろうか……と、甘いながらも色々と考えたのである。
早速、俺はメッセージでゴリ松先輩のアカウントをタッチする。
『先輩! なんか店が繁盛しちゃって、人手が足りないので手伝ってもらっていいですか! お金は出します』
我ながら軽いメッセージだとは思っていた。万が一怒られたらごめんなちゃいすれば、それで済む関係だから、それでもいいやと思っていた。俺と先輩の間柄はそういうものだったし、いつでも即返事が返ってくるのが基本だった。
しかし、いつまで待っても、夜まで待っても言葉は返ってこない。
心配になって電話をかけてみても、留守電になったままだった。
これはどういうことだろうと思って、ゴリ松先輩の会社に電話しようかとも思ったが、さすがに金曜の深夜に電話を受ける人間なんかいないと思って、もう先輩に店を手伝ってもらうのは諦めようと思った。
明日は絶対に修羅場になるだろうに、なんで既読無視してんすか……。俺はそう思っていた。
◆閉店まで 二日
十年の歴史の中で、こんなに気合を入れて一杯を仕上げられるのは今日くらいのものだろう。それも、沢山の人に。なかなか料理人のはしくれとしてではあるが、誇らしいものがある。なんとなく熱く生きているのは蝉だけじゃなくて俺もなんじゃないか、死ぬ間際にこんなことがあるのなら人生もアリすぎるだろうよ、と思っていた。
やはりというか、昨日連絡のつかなかったゴリ松先輩は来なかった。
そして慢性的な人員不足が続いたまま、昨日よりも大勢の人々がこの店に押し寄せてきた。流石に疲れからなのかぐっすり眠れはしたものの、働きだすと休みも食事も取れないのが結構つらい。同じものを淡々と作るという作業感も相まって、なかなかグロッキーである。
見渡すと、店の中にはアベックや家族連れも多いし、一人で食べに来る人もいる。別に何があったということはないんだろうけど、そういう普遍的で普通で気が狂うほど幸せな時間をこんな自分のどうでもいいラーメンで奪ってしまうことは許されるのだろうか、とか、そんな自己否定にまで考えが至ってしまう。
それでも、店を閉めるという考えに変化はなかったどころか、むしろそうしようと動機が強化された。もうこの状態をずっと続けていくなんてのは到底不可能なんだから、尚更パッと閉めてどこか沖縄にでも高跳びしてやろうという気持ちだったのだ。
この地方特有の蒸し暑さは益々凶暴さを増していて、ずっと家にいたほうが涼しいだろうに、と思うくらいに列はどんどんと長くなっていく。外を覗けばコンクリートから無色透明な逃げ水が噴き出しているようにすら見えた。
──あれ、俺、なんでラーメンなんか作りたいと思ったんだろう? 安定してたサラリーマンのままだって何にも困らなかったはずなのに。
暑さで少しボーっとしていると、俺の心のなかに潜む悪魔のような存在が俺のほうに囁いてくる。うるさい、俺の勝手だろう、と反論しようものなら、
「そんな風に思っているのは頑張って他力で得た絶頂を味わっているお前だけだ。本当は安定こそが大事で重要な価値観なんだ。それ以外に何を求める」
と口を塞ぎに来るのだ。ラーメンを作るというのは、恐らくその悪魔のいう『安定』とは真逆のことなのだと思う。想像するに、地震や台風、インフルエンザとかで店を開けられなくなることなんてザラにあるのかもしれないし、今までみたいに客が来ない状態がずっと続くように生きているなんてことだってありうるのだ。それは、サラリーマンを辞めなかった世界での『安定』から見ると全く物足りないし、面白くもないのだろうし、逆に言ってしまえば今の絶頂に終止符を打てる俺のことを嫉妬しているということなのかもしれない。
「醤油ラーメン以外も食べる人いないんですかね……」
「まあ、たぶんだけど、この前来た女の人がなんかでウチの写真を載せてくれて一気に繁盛したってことだろうな。ほんと、先輩が来てくれたら助かったんだけどなあ」
「どうしてるんでしょうね」
「どうせ二日酔いだろ。今の職場でもしこたま飲まされてるのは変わらんだろうね、あの性格だし断れないから」
そんな風に俺たちはゴリ松先輩のことを軽くしか心配していなかった。そして、それが彼に対しては真摯な態度だと思っていた。
「ああ、ヤバい! 長ネギを切らした。でも、買いに行くなんて暇はないな……。
よし、仕方がねえや、こっからはネギ抜きになるぞ」
「え、いいんですか。拘り抜いてるのに」
「これくらい平気だ。というか、それしかやれることがない」
厨房は戦場で、冷蔵庫は弾薬庫だった。ネギも弾薬のひとつなのだが、それが切れてしまっては戦えないといった性質のものではない。むしろ心配だったのは、麺とスープの弾切れのほうだった。完売次第閉店ってなわけだが、それが明日まで続くようなら、来るかどうかもわからない『アイツ』に食わせてやれないということを意味するわけだ。それだけは避けたかった。
「分かりました。その代わり、サイドメニューの提供をやめて���ラーメン一本に絞りましょう。そのほうがサーブも早くなりますし、ラーメンの味だけを味わってもらえるようになります」
そう主張するバイトの子の意見を採用して、前もって準備していた味玉以外のサイドメニューを全て提供取りやめにした。味に自信があり、シンプルな構造をしている麺だからこんな芸当が出来るわけだけれど、ここまでのことになると想定していなかったから、ラーメンを作り続けることへの疲れとか大変さを思い知らされた。名店の人たちはこれを毎日続けて繰り返しているんだな……と苦悩し、俺には到底こんなのは続けることができないと改めて思うのだった。
そのとき、ふと携帯が鳴った。
「店長、出なくていいんですか」
「うーん……そうだな。そっち、一人で回せたりするか」
「正直ちょっと厳しいですけど、五分くらいなら」
「なら、頼んだぞ。ちょっと出てくる」
そう言って、俺は店の裏手に出て震えるバイブレーションに応えた。
「もしもし」
「もしもし、すみません、大手市民病院です。横田賢治さんでございますでしょうか?」
「ええ、そうですが。病院が、どうかしましたか」
「こちらの取り違えでなければ、高松亮吾さんのご友人ということですよね──いえいえ、高松さんのご両親にもご連絡したのですが、全く連絡がつきませんもので、こちらから把握した情報でお電話をおかけした次第です。いまは面会謝絶状態なのですが、近く詳しく説明いたしますのでよくお聞きください──高松さんは薬物の過剰摂取が原因とみられる心肺異常を来しておりまして、現在はかなり大変な状況になっています」
ゴリ松先輩が、そんなことをしでかすとは思えず、言葉を失う。
「薬物、ですか」
「そうですね。警察の方からお話を聞く限りでは、MDMAではないかと」
思えば、そんなようなことを見たような気が──ああ、そうだ、あんなに露骨に錠剤を飲んでいたのに気が付かないはずがない。「ダイエットのため」と言われ、確かに痩せていたような気がしていたからそう思っていたけど、今こうして言われてみれば、覚せい剤であるという風にしか見えなくなってくるものだ。
そんな風に冷静に考えられる自分が、ひどく冷徹で無情な人間に思えてきた。あの先輩が薬物を使って倒れているなんて、という気持ちがないわけじゃない。だけど同時に、なんとなく憐れむような目で見てしまう自分がいる……つまり、あのブラックな環境に身を置いていたら薬という浮輪に頼りたくもなるけど、それなしではもう人生という海原を泳ぎ切ることはもう不可能になってしまうのだ、と。
「そうでしたか」
「ショックになられるお気持ちも痛いほどわかります。まずはゆっくり休んでいただき、可能であれば高松さんのご両親にも横田さんからご説明をお願いします」
全く無理難題なことを言い残して、失礼します、と通話が切れた。残された電話番号だけが表示されている携帯のディスプレイに、心を置いて行かれたような気がする。
あんなにラーメンを旨い旨いと言って食ってくれた先輩。部活で挫けそうになったときに助けてくれた先輩。前の職場で悩んでいた時に、自分も苦しいのに相談に乗ってくれて、脱サラを決意させてくれた先輩。それらが全て崩れていくのを見るのがつらいし、たぶん先輩は退院したら何らかの罪に問われて前科者となるのだろう。そうなれば、俺を支えてくれた精神的支柱のひとつを俺はなくすことになる。
ならば、尚更ラーメン屋なんてやっていて意味はあるのだろうか? 常連を失ってまで評判になるようなラーメン屋をしたいわけではない。街の喧騒とは無縁の場所に、来る人の人生を浮かべるようなラーメン屋のほうが俺には合っていて、いつかそこに先輩やバイトの子や『アイツ』を招くことが出来たなら……そんな軽い妄想をして現実逃避をするしかなかったのだ。
時間は、もうほとんど残されていない。蝉は墜落するまでが生なのだ。今から堕ちてどうするんだ、俺、とひとつ気持ちを入れなおして、また戦場に戻る。
暗い時間までずっと店の前には待っている人が絶えなくて、そのおかげで色んなことを考えなくて済んだ。だけど住処の小さなアパートに帰ると、何もない空間で空虚に今からのことを考えてしまうのだ。未来なんて嘯くけれど、そんなのは虚言に過ぎないのだ、と。
結局、誰もがただ一人で代わりのない人生という舞台に立って無頼、自分の後始末は自分でつけなければいけない。
俺は明日、あの店を絶対に終わらせる。性懲りもなく目指していた夢をここに臨終させる。
◆閉店まで 一日(最終日)
自分で作っていて、ラーメンを食べたいと思うことは、今まで一度もなかった。思えばそこからおかしいわけで、自分で作っていたラーメンに対して「食べたい」と思えないなんて、作っている労力とか材料とか結果として出来た麺そのものに対して可哀想とかそういう次元ではない虚しさすら発生させることなのだ。それは罪である。人に認められるためにラーメンを作るという発想を根本的に転回するのが、本当はアルチザンとしてあるべき姿なのだろうと信じるようになった。
その日は朝から雨だったが、徐々に雲間から陽の光が降り注ぐような、なんともいえない変な天候だった。
それで、またいつも見ている夢とダブるな、と忌々しげな気持ちにもなる。あの中華そばの暖簾を潜ると、雨が降っていても必ず食べた後には晴れているのだ。そういえば、あのおっちゃんはどうしているだろうなあ、俺の頭をがしがしと撫でてくれたおっちゃんはもう流石に死んでるか。俺のラーメン屋人生の最期を晴れで終わらせようとしてくれてるのは間違いなくあのおっちゃんの仕業だと思う。
相変わらず、今日も人が死ぬほどやってくる。来々、万客往来。謝謝。
は、はは、最後にこんなに俺のラーメンに時間を浪費しようってんだから、みんな愚かでみんな面白い人間なんだろう。本当にどうもありがとう。
今日の為に急きょ麺もスープも卵も全部三倍仕込んで、どうせだからと日が明けるまで営業しちまおうと思った。バイトの子には「別に途中で上がっちゃってもいいからね?」と言ったが、「店長がそこまでやるんだったらやらせてください。お祭りみたいで楽しいじゃないですか? ちゃんと手伝ってくれる友達も呼びますから」とむしろ臨戦態勢を約束されてしまった。そしてその通り、近くの大学に通う下宿生の子たちが手伝いに来てくれていることで、一昨日・昨日よりも負担は大きく減っている。
どれもこれも、『アイツ』が来ることを信じてやっているのだ。俺にラーメンだけをさせてくれた恩人がいなくなって、俺はどうしても今持てる最大級の力を注いだ味の結晶を食べさせなければいけないと思ってしまう、囚われてしまうようになった。でもいつまでもそれを待っているわけには行かない、それは歳を取ることによるタイムリミットも関係してい���し、もしくはこの不安定な職種においてずっとここにいるという保証があるわけでもないということがあるのかもしれないけれど。だから、今日をその期限として、『アイツ』にそれを味合わせるための挑戦を続けていたのだ。
実は、スープも麺もこの忙しい中でアンケートを取るなどして、細かく調整を加えている。どんなに完成されたラーメンでも、更なるアップデートが必要になってくるはずなのだ。それを体現するための手段なら、俺はどんなに煩雑なことでも鬱陶しがらないことをずっと前から誓っていた。
十年という道のりはやはり地下に潜っていて、思ったよりも長くて怠いものであったが、それでも最後に地上へ上がってきて命の尽きるまで暮らしを燃やすということが、こんなに美しく面白いものだとは。
「替え玉ください!」
「はい! 替え玉一丁ォー!」
自分が密かに憧れていた厨房の中の掛け声だって、複数人でやれば普通に楽しい。
色んな人と働く楽しみとか、お客さんとのコミュニケーションとか、お金の勘定とか、結局やっているのは脱サラする前と変わらない人間的に当たり前のことばかりだけど、きっとそれが一番良かったんだろう。
これからはそれを形を変えてやるだけだ。俺はそう自分に言い聞かせた。
……いや、でも今日はいくら待っていてもゴリ松先輩は来ないんだよな。いつもやっていたラーメン屋が無くなってたら、そりゃあ驚くことになるだろうなあ、青木さんだって、写真を送ってくれた女性だって。もちろんそれがどうということない人だっているのかもしれない。だけど、店には店で紡いでいた歴史とか物語があるのもまた確かなのだ。
そしてそう、俺にも歴史や物語があるのだ。
昔、誰かに聞かれたことがある。確か、元の会社の上司だったろうか。
「横井君はさ、誰に向けてラーメンを作りたいと思ってるの」
「俺は、親父に認めてもらえるような一杯が作れればいいなと思いながら、そういう風なことを前提にしながら、ラーメンを作ることになると思います」
「ふーん。で、君はラーメンなんて儲かりもしないものをどうしても作りたいんだ?」
そうだ、それで俺は喧嘩っ早いし耐え性もないから、すぐに襟首掴んで一発だけ強く頬を、年老いてもうボロボロの頬を殴ったんだった。その眼はニヤニヤと俺のほうを向いていて、今にも「殴ってもいいだろうけど、じきに真実だと分かるだろうに、愚かだねえ」と言いたげだった。
いや、ラーメン屋が儲からないなんてのは、俺が考えるよりもずっと真実に近いことなのだろう。だが、それを分かっていながらラーメンを作ろうという、そんな個人的な動機をビジネスの物差しで当てはめて全否定してくる人間にはとても腹が立ったのだ。
例えば、言葉だけでは出来ないコミュニケーションが食事を通じて出来たという自分の経験を元に何かするのは、そんなに責められるべきことなのだろうか? 何も俺の父に限ったことじゃない。ゴリ松先輩だって、大家さんだって、青木さんだって、あの女性だって、……もっと広げて言うのなら、どこかの国で戦争してる兵士でも、あるいは偉そうなことを言っている政治家も、近くにいるホームレスも、誰も一人で生きてきたわけではない。誰かと食事をした経験くらいあるさ。それだけが俺のモチベーションだったってだけだ。
気づけば、外は闇で、蝉はむしろピりつくような高音で鳴いている。もう終わりが近いことくらい、俺にも分かっていた。知らせなくてはいけない大家さん以外の誰もが俺の決意なんて知らないだろうけど、『アイツ』が来るか夜が明けるまでこの店は動き続けるぞ。
語らい合えるくらい店が静かになってから、そう、何事もなかったかのように、たぶんフラっとやってくるんだろう?
俺の今まであった辛いこと、これから起こる辛いこと、でもその中にある楽しくて面白い本質について、俺のそれに対しての解答としての一杯を挟んで語り合いたいんだ。
なあ、純菜。
俺に言いたいことがあれば、何でも言ってくれよ。だから早く来てくれよ。彼岸からこっちに来て、さ。
ついに一度も文句言ってくれなかったな。ラーメンなんて、とも言わなかったな。何だろうな、俺はとってもそのことに対して申し訳なくて苦しくて、結局何も食べさせてやれなかったんだっていう罪悪感に襲われていて、ああ、もうなんかダメだ。
涙腺が緩むのもやっぱり歳のせいかな。
脱サラするときだけ、ちょっと怒られたけどさ。本当は俺のやりたいことをめちゃくちゃ応援してくれてたんだよな。別居してからも色々面倒見てくれたり、ラーメンの味見してくれたりしたのって、そういうことだよな。そうだと言ってくれたら、それだけでもう嬉しくて飛び上がるような気がする。
蝉の堕ちるまでには食べきってくれよ、麺が伸びるから。線香も花もラブレターも指輪も何もかも渡せなくて、本当に申し訳ないけど。
それと、ありがとう。
俺の夜はどうやら明けたらしい。
蝉は鳴かなくなり、ぽとりと街路樹のそばに堕ちているのを見つけた。まるで俺だね。疲れ果てた世界の姿を見せてくれてありがとう。狂乱が嘘みたいに、静かに朝は来た。そして、眠っているバイトの子たちに今後の処遇と金とラーメンのレシピを書いた軽くない置手紙を残し、最低限の荷物だけを持って俺は旅に出る。重いずんどう? 好きにすればいい。この場所に縛られるのが馬鹿らしくなっただけだ。俺はまた新しい蝉に憑依するだけの魂なのだから、夢に終止符を打ったらまた新しい麺に出会うのみ。
それでも、この町はすこし幸せの残り香がする。お世話になった人がいっぱいいる。何より、純菜と過ごした年月がここには残っている。
だからこそ、俺はこの町にあの貝ベースの醤油ラーメンを置いて行ったのだ──幸せと永遠の後悔の象徴として。
相変わらずジリジリと焼くような陽射しなのに少し秋の匂いを感じて、背伸びをした。そこに、きっと、いや間違いなく純菜がいるような気がする。
「美味しかったよ」
本当にそこにいるみたいな、そんなホログラムみたいな幻影を見せられているのかもしれない。それが俺に涙を流させていることに、俺はまだ気づいていなかった。
ラーメン屋を閉めてからというもの、今どき流行らない古めかしい中華そばの店に純菜と二人で行った幸せな時代を思い出す夢ばかり見る。
何の変哲もない一杯六百円とかの、メンマ・チャーシュー・ネギが乗ったいわゆる普通の醤油ラーメン。
古臭い空気感と、時たま子供でも分かるようにして漂う煙草の薄い臭いと、べたついた床。上を見るとメニューがずらっと書いてあって、「どれにしようかな」と悩みながらも結局あのシンプルな中華ラーメンに行き着くのだ。
しかしそのときの俺はそれで満足だったし、純菜と言葉を交わさなくても、味に集中している時間だけは何か空気が変わったように打ち解けられたような気がした。
「美味しいね」
そう、純菜と真に心を交わすのは、デートでもセックスでもなく、この一杯を挟んでいた時間なのだ。
そして俺はその店を切り盛りする角刈りのおっちゃんに「お、今度は彼女を連れてきよったか! もうませてやがるな、最近のガキは!」なんて言われてがしがしとひとしきり頭を撫でられたあと、俺が「ごちそうさまでした」と言ったところで、その夢は終わる。
今ならそんな夢を見たって、魘されない。
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「すべての人たちが、人生に意義を感じられる目的感を持てる世界を作ろう」
今朝ツイッターを眺めていたら、フェイスブック創業者マーク・ザッカーバーグが母校ハーバード大学の卒業式に呼ばれてスピーチしてる動画のリンクが流れてきて、軽い気持ちで再生しはじめたら凄い迫力で、30分以上のスピーチ最後まで全部見てしまったってことがあった。
結構笑えるジョーク(窓ガラスに数式書いたりしないよ!・・・とかいう映画"ソーシャルネットワーク"を根に持ってるようなジョークとか)やハーバード内輪ネタ(と思われる・・・ちょっとググると出て来るのが今の時代の救いですが)も交えつつ、卒業生と10歳も離れてない立場から"僕ら世代の責任"という切り口で語る話は非常にグイグイ来る迫力がありました。
「すべての人たちが、人生に意義を感じられる目的感を持てる世界を作ろう」というテーマです。
僕らミレニアル世代なんだから、昔の世代の卒業式スピーチみたいに「自分の人生の目的を見つけよう」なんてそんなことは言われなくたって本能的にやってるでしょう? そうじゃなくて「みんながその気持を持てるようにすること」が重要なんだ・・・っていうのはなかなかパワーある話。
ケネディ大統領がNASAの清掃員さんに何やってるの?って聞いたら「人類を月に送る手伝いをしてるんです」って答えた話が好きで、そうやって「あらゆる人に"俺達はやれるんだという感覚"を持ってもらうこと」が今必要なことだ・・・っていうのは、あらゆる分断が社会を引き裂いていくこの時代に凄く重要なメッセージだと思いました。
(最近、凄いのは"日本"じゃなくて単にその技術の発明者個人であって、ネットでこの記事読んでるお前じゃねーよ!とかそういう言わずもがなのことをいちいち言ってタフぶってる人がいますが、そういう人は社会というのが色んな人のサポートしあいによって成立しているってことを軽視しすぎてると思います)
他にも、最初にフェイスブックをハーバードの寮で立ち上げた夜に、今日は自分がハーバードのメンバーを繋いだが、そのうち誰かが世界中を繋ぐだろうと思ったとか。そこで「自分じゃないだろうが誰かが」と思ってちゃダメでそれ「自分が」やるんだよ!というメッセージとか。最初期のマネジメントチームと、会社を売るか売らないかで大モメにモメて、その結果、共有できる大きな目的がなかったからああなったんだと気づいたという話など、なかなかドラマチックな話が満載で飽きさせません。
なんにせよ徹底的にアメリカンに理想主義的だから、骨絡みの懐疑主義者の日本人からすると具体案に近づけば近づくほど「え、さっきの超凄い話の具体例がそれ?」って感じもあるんだけど(笑)でもそんな疑問が沸いた時点でこっちが「俺って小せえ人間かも」ぐらいになってしまうほどの徹底的理想主義の迫力みたいなのがあって圧倒されて最後まで見てしまいました。
あなたの立場によってはこれはひょっとすると偽善そのものに見えるかもしれん・・・が、「超弩級に徹底した揺るぎない偽善」は、それ自体を多くの人が「善なるもの」として必要としているメカニズムというのもあるだろうというぐらいの迫力でした。
正直この前の大統領選の候補者のどれをとってもこんなスピーチの力はなかったし、オバマ大統領のスピーチは確かに「うまい」かもしれないけど、でもこんな迫力はない気がします。
個人的には、例のスティーブ・ジョブズのスタンフォード大学卒業式スピーチ(いわゆる"stay hungry, stay foolish"演説)に匹敵する何かなんじゃないかと思って、今日は自分の本の執筆にあてるはずの日だったんですが、脳が占拠されてしまって仕事にならないので、ボランティアで日本語訳をすることにしました。
(このスピーチとは別に、ザッカーバーグの理想主義すぎるプロジェクトが若い頃有名な大コケした事件があって、それについて語りながら、アメリカだからできることと、それに対抗するために日本だからできること・・・というブログを昔書いてかなり評判だったので、よかったらあとで読んでください。→こちら)
では以下、30分ほどのスピーチの日本語訳です。動画リンクはコチラ↓
https://www.youtube.com/watch?v=BmYv8XGl-YU
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ここに立てて嬉しいです。こんな土砂降りの中集まってくれて皆さんありがとう!皆さんにとって価値のあるものにしましょう!ファウスト大学総長、監督委員会のみなさま、教授陣、卒業生、友人たち、そして誇らしく思っているご両親、顧問委員会のみなさま、そして、”世界で最も偉大な大学の卒業生”のみなさん!
私は今日ここにいられることを誇りに思っています。なぜって、あなたがたは僕ができなかったことを成し遂げた(中退したザッカーバーグと違って卒業したこと)んですからね!・・・このスピーチをちゃんとやりとげたなら、これがハーバードで僕がちゃんと最後までやりとげた最初の何かってことになるでしょう。
2017年クラスの皆さん、おめでとうございます!
僕はちょっと珍しいスピーカーかもしれません。いや中退したってことだけじゃなくて、僕は皆さんとだいたい同じ世代の人間ですからね。僕とみなさんは、10年も離れていない時期に同じこのキャンパスを歩き、同じ概念を学び、同じEC10の講義で居眠りした仲というわけです。
確かに違う経路を辿ってここまで来ました。もしあなたが、遠路はるばるthe Quadエリアから歩いて来た人だったりすると特にね。しかし、今日僕は「同じ僕らの世代」から学んだことについて、そして僕らが一緒に作っていくべき未来についてお話するつもりです。
でもその前に、ここ数日の出来事は色んなことを思い出させてくれました。
みなさんの中でどれくらいの人が、ハーバードからの合格通知のEメールを受け取った時にまさにどこで何をしていたか覚えていますか?
僕は、テレビゲームのシヴィライゼーションをやってて、階段を降りていくと、父親に会ったんですが、どういうことか彼がやったことは、僕がEメールを開くところをビデオに撮ることでした。そんなことして落ちてたらどうするつもりだったんでしょうね。
誓って言いますが、ハーバードに入ったことは両親が僕について最も誇りに思っていることだと思います。ほら、ウチの母親が頷いてます。でもみんな、私の言ってることがわかるでしょう?ここを出てからだと、これ以上のことをするのが難しいってわかるよ!
ハーバードでの最初の講義についてはどうでしょう?僕の場合は素晴らしいハリー・ルイス教授によるコンピュータ・サイエンス121のクラスで、遅れて大急ぎだったのでTシャツを逆に着ていて、背中のタグが前にあるのにも気づいてませんでした。
そのことは後で気づくのですが、なんで周りの人たちは僕に話しかけてくれないのかな?と不思議に思っていたんです。でも、KX・ジンってヤツが唯一話しかけてきてくれて、一緒に問題集を解き始めることができました。今彼はフェイスブック社の重要な部分を担ってくれています。
そう、だからね2017年卒のみなさん、周りの人には優しくしておいたほうがいいよ。
しかし、僕のハーバードでの最高の思い出は、プリシラ(・チャン。ザッカーバーグの奥さん)に会ったことです。
その時僕はちょうどイタズラで作ったウェブサイトのフェイスマッシュを立ち上げたところでした。そのイタズラについて、大学の顧問委員会が僕に”会いたい”と言って来て・・・まわりのみんなが僕はもう大学を追い出されると思っていました。私の両親なんかは僕の荷造りを手伝いにわざわざやってきたぐらいで。友人たちはサヨナラパーティを開いてくれたりしました。そこまでするか?て話ですよね。
幸運なことに、プリシラはそのパーティに友達と来ていたんです。僕とプリシラはPfoho Belltower寮のバスルームで出会いました。そこでこれ以上ないくらいロマンティックな台詞を僕は言ったんです。
「ここ数日中に大学を追い出されちゃうからさ、できるだけはやくデートしよう」
みんな、この台詞、使っていいよ。
ともあれその時は退学にはならなかったんですが・・・まあ結局はあとで自分から退学することになったんだけど!
そしてプリシラと僕はつきあいはじめました。そう、あの映画”ソーシャルネットワーク”ではフェイスマッシュはフェイスブックを作る上で物凄く重要なステップだったように描かれてたけど、実際はそうでもなかったんですよ。でも、フェイスマッシュを作ってなかったらプリシラには出会えてなかっただろうと思います。そして彼女は僕の人生で最も大事な人だ。つまり、フェイスマッシュは僕がハーバードで作ったものの中でもっとも重要だったと言ってもいいかもしれないね。
私たちは、この大学で、一生モノの友達を得ます。そしてその中には家族となる者もいるでしょう。だから僕はこの場所に感謝してるんです。ハーバード、ありがとう。
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さて。
今日、僕は「目的」について話します。しかし「あなたの人生の目的を見つけなさい的なよくある卒業式スピーチ」をしたいわけではありません。僕らはミレニアル世代なんだから、そんなことは本能的にやっているはずです。だからそうじゃなくて、今日僕が話したいことは、「自分の人生の目標を見つけるだけでは不十分だ」という話をします。僕らの世代にとっての課題は、「”誰もが”目的感を人生の中で持てる世界を創り出すこと」なのです。
ジョン・F・ケネディがNASA宇宙センターを訪れた時のエピソードで僕の大好きなものがあります。ホウキを持ってる清掃員さんにケネディが何をしてるのかと訪ねたら彼はこう答えました。「大統領、私は人類を月に送る手伝いをしているのです」。
「目的」というのは、僕ら一人ひとりが、小さな自分以上の何かの一部だと感じられる感覚のことです。自分が必要とされ、そしてより良い未来のために日々頑張っていると感じられる感覚のことなのです。「目的」こそが本当の幸福感をつくるものなのです。
あなたがたは、このことが特に重要な時代に生きています。僕らの両親が卒業した時には、「目的感」は仕事や、教会や、コミュニティがたしかに与えてくれました。しかし今は、テクノロジーと自動化技術が沢山の仕事を消し去っていっています。コミュニティへの所属感も消えてきている。多くの人が取り残され、抑圧されていると感じ、その空白感をなんとか埋めたいとあがいている。
私は色々と旅をする中で、少年院や薬物中毒者の子供達の隣に座って、彼らが「もし自分の人生に何かするべきことがあったなら、学校帰りにどこかでとか・・・そしたらもっと違う人生になっていたかも」と語るのを聞きました。また、元の仕事が無くなって行くのを知って、自分の居場所を探している工場労働者の人たちにも出会いました。
この社会を前に進めること、それが僕ら世代の課題です。新しい仕事を作るだけじゃなくて、あたらしい「目的感」をも作り出さなくちゃいけない。
カークランド寮の自室でフェイスブックを立ち上げた夜のことを思い出します。Noch’s ピザ・レストランに友達のKXと一緒に行きました。僕はこう言ったことを覚えています。「今日僕がハーバードのコミュニティを繋いだってことには凄い興奮してるけど、でもそのうち誰かが世界中の人を繋ぐだろう」。
ここで重要なことは、「自分じゃないかもしれないが、誰かがやるだろう」というこの感じです。僕らはただの大学生のガキで、業界のことは何も知らなかった。大きなリソースのある色んなデカイIT企業がいくつもあってそれぞれが色々やってる。そのうちのどこかがやるだろうと思った。しかしこのことだけは物凄く確かにわかっていたんです・・・”人々は繋がりたがってる”ということだけは。だから僕らは毎日やることをやって前に進むだけなんです。
あなたがたの多くにも、似たような話があるはずです。「誰かが起こすであろう”ある変化”」があって、そのことが自分には明確に見えているという感じが。
しかし「誰か」がやるんじゃないんです。”あなたが”やるんです。
ただ、自分の人生の目標をそこで見つけるだけでは十分ではありません。あなたは、誰か他の人にもその「人生の目標」が持てるようにしてあげなくてはいけない。
それはとても大変なことでした。
実際、僕の望みは大きな会社を作るってことじゃなくて、社会にインパクトを与えることなんです。しかし、初期から一緒にやってくれてる人たちはそのことを当然わかってくれていると思っていたので一々説明はしませんでした。
でも数年たって、ある大きな会社が僕らを買いたいと言ってきた。僕は売りたくなかった。僕はもっと多くの人を繋げたいということだけを考えていた。その時は初期の「ニュースフィード機能」を作っていたところでした。そしてこの機能を公開できたら、人々が世界を知る方法を変えることができるだろうと思っていた。
でも、初期メンバーのほとんど全員が売りたがっていました。「より大きな目的感」がないなら、会社を売り抜けることはスタートアップの夢そのものだからです。このことで会社は分裂してしまいました。ある激論の後で、ある顧問が僕に「もし今売らなかったら、一生後悔するぞ」とまで言いました。人間関係はズタズタになり、一年ほどで経営陣チームの全員が会社を去りました。
その時が、フェイスブックを経営していて一番大変な時期でした。僕は自分たちがやっていることの価値を信じていたけど、でも孤独でした。しかも悪いことに、それは僕の過ちでした。自分は間違っていたのか?詐欺師なのか?それとも世間を知らない22歳のガキなのか?と悩んでいました。
そして今、何年もたって、私は、それは「より大きな目的意識」がない時に起きる自然なことなんだということがわかりました。そういう「目的感」を作れるかどうかは自分たち次第なんです。それがあればみんな一緒に前に進んでいくことができる。
今日、僕は世界に「目的感」を持ってもらうための3つの方法についてお話します。
その1・一緒に大きくて意味のあるプロジェクトについて語ること
その2・”平等性”を再定義して誰もがその目的に参加する自由を持てるようにすること
その3・世界規模のコミュニティを創り出すこと
です。
まず、「大きくて意味のあるプロジェクト」についてお話しましょう。
僕らの世代は、数千、数百万の仕事が自動運転車や自動トラックのような自動化技術によって置き換えられていく事態に対処しなくてはいけません。しかし、私たちはもっとそれ以上のことができるはずなのです。
どんな世代にも、その世代を特徴づける課題があります。30万人以上の人が、一人の人間を月に送るために働きました・・・清掃員さんも含めてね。百万人以上のボランティアの手によってポリオへの免疫を子供たちに獲得させることができた。百万人以上の人がフーバーダムを作った・・・などなど。
これらのプロジェクトは、その仕事をやった人たちに生きる目的を与えただけではありません。��全体に、「俺達は偉大なことができるんだ」というプライドを与えたのです。
次は僕ら世代の番です。あなたは「ダムの作り方なんて知らないし、百万人を動員する方法なんてわかんないよ」って思ってるでしょう?
しかし、秘訣をお教えしましょう。誰もそれを始めたときは知らないんです。アイデアはいきなり完成形でやってきたりしない。それについて取り組んでいるうちにだんだんクリアになってくるんです。とにかくまずは始めなくては。人と人を繋ぐ方法が全部わかるまで始められないのだとしたら、僕はフェイスブックを始められなかったでしょう。
映画やポップカルチャーは、ここのところがわかってません。「そうかわかったぞ!(エウレカ!)」と叫ぶ奇跡の一瞬があるというのはキケンな嘘です。自分にはそんな瞬間なかったぞ・・・と居心地の悪い思いをさせてきます。その嘘によって、「将来大きくなるはずのアイデアのタネ」を持っている人がとにかくそれを始めることを辞めてしまうかもしれない。あ、そうそう、イノベーションについて映画が間違ってることがもう1つあった・・・「誰も数学の方程式を窓ガラスに書いたりしません」。
理想主義的であること自体は良いんです。しかし、誤解しないようにしなくてはいけません。大きな目標に向かっているすべての人は狂人扱いされます。たとえ最後には正しかったとわかる場合でもね。複雑すぎる課題に向かっているすべての人が、自分がやっていることを十分に理解してないとか言って責められます。事前に全部わかってるなんてことが全く不可能な場合であってもです。
イニシアティブを取るすべての人が、急ぎすぎだと非難されます。いつだってもっとゆっくりさせたい人たちがいるからです。
僕らの社会では、あまりにミスを恐れるあまり、もし何もせずにいたらそもそも全てがダメになってしまうということを忘れてしまって、結局何もせずにいてしまうことがよくあります。そりゃ何をやっていても、それなりに未来に課題はうまれますが、しかしだからといって、「それを始める」ことから逃れることはできません。
じゃあ僕らは何を待ってるんですか?「僕らの世代の課題」に取り組むべき時です。僕らが地球を壊してしまう前に、数百万人の人々をソー��ーパネルの製造と設置に巻き込んで、気候変動問題を止めるというのはどうでしょう?すべての病気についてボランティアを募って彼らのヘルスデータと遺伝子データを集めるというのは?今日僕らは病気にならない予防法を見つけることよりも50倍以上もの費用を既に病気になった人の治療に費やしています。そんなことは馬鹿げていますね。なんとかしましょう。
オンラインで投票できるようにして民主主義を現代化するというのは?あるいは教育を個人化してすべての人が学べるようにするのは?
これらの課題はもうすぐ手が届くところにあります。すべての人に役割を与えるプロセスの中で、キッチリ全部実現させてしまいましょう。ただ「進歩」を実現するためだけでなく、多くの人のための「目的」を創り出すために。
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さて、「大きくて意味のあるプロジェクト」の話が、あらゆる人が人生に目的を持てる世界を作るための一つ目だったとして、二つ目は、”平等性”を再定義して誰もがその目的に参加する自由を持てるようにすること・・・です。
僕らの両親の世代の多くの人は、そのキャリア全体において安定した仕事がありました。しかし今はすべての人が”起業家的”です。何かスタートアップをやってる人にしろ、組織にポジションを得てる人にしてもね。それは凄いことです。企業家精神の文化とはつまり、沢山の進歩を創り出す方法ですから。
起業家文化は、多くの新しいアイデアを簡単に試せるようになっている時に栄えます。フェイスブックは僕が最初に作ったプロジェクトではありません。僕はゲームも作ったし、チャットシステムも作ったし、スタディツールも、音楽プレイヤーも作りました。こういうのは僕だけの話じゃないです。JKローリングはハリーポッターを出版できるまでに12回も断られました。ビヨンセですら!”Halo”を作るまでに何百曲と作ったんです。大きな成功は「失敗する自由」によって生まれます。
しかし今日、僕らの社会はどんな人にとっても問題であるほどの富の格差問題を抱えています。もし”ある人”がそのアイデアを実行に移す自由がなかったら、それは”僕ら全員にとっての”損失です。
今の僕らの社会は既に実現した成功に報いることを過剰に評価しすぎる一方、あらゆる人が十分にチャレンジできる余地を与えることはできていません。
そのことを直視しましょう。僕がこのキャンパスを去って10年以内に何十億ドルと稼げた一方で、何百万もの学生がその学資ローンの支払いにも困っていて、彼らのビジネスを始めることすらできていていない。そんな社会は、どこかが間違っている。
僕は色んな起業家を見てきて、その仕事じゃあ十分稼げないだろうから始めなかったっていう人は一人も知りません。しかし、それが失敗した時に致命的なことにならないようにする緩衝材としての経済的余裕がないために夢を追うこと自体をそもそも諦めてしまう人は沢山見てきました。
良いアイデアと、ハードワークがあれば必ず成功するわけではないことはみんな知っています。それだけじゃなくて運も必要です。もし僕がコードを書くかわりに家族を支えなくてはならなかったら、そしてもしフェイスブックがうまくいかなくっても死ぬわけじゃないってことがわかってなかったら、今日僕はここにいないでしょう。実際の話、今ここにいる人はそれだけで既に相当ラッキーな生い立ちなのです。
すべての世代が、「平等」という言葉の定義を押し広げてきました。上の世代は、投票権と公民権について戦った。それらはニューディール政策とグレイトソサエティ政策に結実しました。今、僕らの世代が僕らの世代の新しい社会契約を結ぶべき時なのです。
これからは、GDPのような経済的指標だけでなく、どれだけ多くの人間が、意味のあると感じられる人生を送れているか・・といった指標で社会の進歩を測っていくべきです。だれもが自分の新しい挑戦ができる余地が与えられるような、ユニバーサルベーシック・インカムのような制度が検討されるべきだ。
一生のキャリアの中で働く会社を何度も変えなくてはいけない時代だから、1つの会社に紐付けられていない形の、多くの人にとって手の届く育児とヘルスケアの仕組みが必要です。
誰しもがミスをします。だからこそ僕らには失敗者が身動きできなくなったり、汚名を着せられて社会的に抹殺されたりしない社会が必要です。そしてテクノロジーが変化し続ける時代ですから、(若い頃に一度だけの教育でなく)生涯に渡って継続的に教育を受けることにもっと目を向ける必要があります。
そして、そう、あらゆる人にその目的を追う自由を与えることはタダではできません。僕のような人間がそのコストを支払わなくてはならない。そして多くは富を得ることになるだろうあなたがたも、そうすべきです。
だからプリシラと僕は、チャン・ザッカーバーグ・イニシアティブを始めて、僕らの財産を機会均等の推進のために使っています。これが僕らの世代の価値観です。僕らはこれをやるかどうかについては、一度も疑ったことがありません。問題は”いつ”やるかだけでした。
ミレニアル世代は、最もチャリティに前向きな世代の1つです。アメリカでは、1年の間に4人中3人のミレニアル世代が何らかの寄付をし、10人中7人が何らかのチャリティ基金を呼びかけています。
しかし問題はお金のことだけではないのです。時間のこともある。週に1時間か2時間あれば、誰かに手を差し伸べることはできます。その人がその人の潜在的可能性に到達できる手助けができるのです。
そんなに時間取れないよ・・・と思うかもしれない。プリシラがハーバードを卒業した後彼女は教師になりました。そして彼女と教育関係の仕事を始める前に、彼女は僕に一度クラスを持ってみるべきだと言いました。僕は文句を言いましたよ・・・いや、っていうかね、僕も結構忙しいんだよ。この会社経営してるんだし・・・ってね。
でも彼女がどうしてもというので、地元の少年少女クラブでの中学生の起業についてのクラスを教えました。
僕はそこで製品開発やマーケティングについて教えて、彼らは僕に、自分の人種が社会から目の敵にされることや家族の一員が刑務所にいるってことがどういう感じなのかを教えてくれました。
僕は自分の学校時代のことを話しました。そして彼らも、いつか大学に行ってみたいという希望について語ってくれました。それから5年たちますが、僕は彼らと毎月食事をしています。彼らのうちの一人は、僕とプリシラにとってのはじめてのベイビーシャワーパーティを開いてくれました。そして次の年、彼らは大学へ行きました。一人残らず全員がです。彼らの家族でははじめてのことです。
僕らは誰しも、誰かに手を差し伸べる時間を作れます。すべての人に、自分の目的を追える自由を与えましょう。それはそうすることが正しいことだからというだけではありません。そうすることで、より多くの人がそれぞれの目的を追求できたら、僕らの社会全体がよくなるから、そのためにやるのです。それが理由なんです。
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さて、目的感は仕事からのみ来るものではありません。3つめの話は、コミュニティを作ることでみんなに「目的感」を与えることができるという方法です。そして僕らミレニアル世代が「everyone」という時、それは「(アメリカ国内だけでなく)世界中のみんな」のことです。
外国から来た人、手を上げてもらえますか?じゃあ、彼らと友達になっている人はどれだけいますか?・・・この通り僕らは「繋がっている時代」に育ってきたんです。
ミレニアル世代に、自分たちのアイデンティティを問うと、最も多い回答は「国籍」ではなく「宗教」でもなく「民族」でもなく、「世界市民」だという調査結果があるそうです。これは凄いことだ。
すべての世代が、「ぼくたち・わたしたち」という概念を押し広げてきました。僕らにとっては、ついにそれが世界中に広がることを目指しているわけです。
人類の歴史は、小さい集団からより大きな集団へ、部族から都市へ、そして国へ・・・と多くの人間が寄り集まり、協力しあうことで今までできなかったことを可能にしてきた物語であることを、僕たちは知っています。
そしてその最も大きなチャレンジが、今まさにグローバルに展開していて、僕らはまさに貧困や病気を終わらせることができる世代でもあるのです。そのためには世界中からの協力を得ることも必要です。気候変動問題や世界的な感染症の拡散問題について、どの国も一国だけで対処はできません。今目前にある問題は、都市単位や国単位でなく、グローバルコミュニティレベルでの協力関係が必要な課題なのです。
しかし、僕らは不安定な時代に生きています。世界中にグローバリズムに取り残されたと感じている人たちがいる。もし自分が暮らしているホームグラウンドでの人生に満足を感じられていない時、世界のどこか他の場所の人たちのことまで考えるのは難しいです。そういう時には内向き志向の圧力が高まります。
これは僕らの時代の課題です。自由と開かれたグローバルコミュニティに対する、権威主義や孤立主義、そして国家主義との争い。知と交易、移住する人の流れを促進していく力と、それをスローダウンさせようとする力とのぶつかりあい。これは国同士の争いではなく、考え方同士の争いなのです。どんな国にもグローバルな繋がりに賛同する人がいるし、またそれに反対する「良い人たち」もいます。
これは国連で何か決めたりできるような問題ではありません。もっとローカルなレベルで起きていることです。もし十分な数の人間が自分自身の人生に目的と安定を感じて生きられているとしたら、その時人類は「他の地域の人たちの問題」についてケアしあうことも可能になるのです。
だからこそ最善の対処法は、今ここで、ローカルなコミュニティを立て直すことなのです。
人間は人生の意味をコミュニティから得ています。エリオットハウスの人?ロウェルハウスは?あなたたちはコミュニティを見つけたんですね。文字通りその集団の上で生きている。
それがどんなものでも家だったり、スポーツチームだったり、教会だったりアカペラグループだったり、それらは自分がより大きな何かの一員であることを、そして一人じゃないってことを教えてくれます。それによって僕らは自分の可能性を押し広げる強さを得ることができる。
だからこそ、この10年であらゆる社会グループが4分の1も減少したことが致命的なことなのです。世界にはそれ以外のところで何とか人生の目的を見出さなくてはいけない人たちで溢れている。
しかし、人間はもう一度コミュニティを立て直すことができるし、多くの人はすでにそうしています。
僕はアグネス・イゴイェに出会いました。今日の卒業生です。アグネス、どこにいます?アグネスは子供時代を、人身売買の横行するウガンダの紛争地帯で過ごしました。そして今彼女は、ローカルコミュニティの安定に寄与する数千もの法律家のトレーニングをしています。
また、ケイア・オークリーとニハ・ジェインにも会いました。二人も今日の卒業生です。ほら、立って。ケイアとニハは慢性病に苦しんでいる人たちの、コミュニティ内部での助け合いの関係を繋ぐ非営利団体を立ち上げました。
そしてデイヴィッド・ラズ・アザール、ケネディスクール(政策大学院)を今日卒業した・・にも会いました。ほら、デイヴィッド、立って!彼は元市議会議員で、メキシコシティをラテンアメリカで最初の「婚姻の平等」を実現した都市に・・・サンフランシスコよりもはやく!導きました。
そしてこれは僕の物語でもあります。寮の部屋のある学生が、まずある1つのコミュニティを繋ぎ、そしてそれが世界中に広がっていったのです。
変化はローカルに始まります。グローバルな変化も最初は小さく始まる。僕らのような、僕らの世代において、もっと多くの人を繋ぐことができるかどうか、僕らの最大の課題が実現できるかどうかは、全てこのことにかかっているんです・・・あなたがコミュニティを創り出し、そしてありとあらゆる人が、自分の人生に目的感を感じられる世界を創り出すことができるかどうかにね。
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2017年クラスのみなさん、あなたがたは、「目的」を必要としている世界へと飛び込んでいきます。それが創り出せるかどうかはあなた方次第なんです。
そんなこと本当にできるかなあ!?って思っていますか?
僕が少年少女クラブで教えたクラスの話を思い出して下さい。ある日授業の後で、僕は彼らに大学の話をしました。そして彼らのうち最も優秀な一人が手を上げて、自分は不法移民だから大学に行けるかどうかわからないと言いました。彼が大学に行けるかどうか彼にはわからなかった。
去年僕は彼を誕生日に朝食に誘いました。何かプレゼントをあげたかったので何がいいか聞きました。そしたら彼は苦労している学生たちのことを話し始め、社会正義に関する本が欲しいかな・・・と言ったんです。
僕はびっくりました。彼は人生についてシニカルになってしまっても当然な状況にいるんですよ。彼のことを唯一知っている故郷であるまさにその国が、自宅に電話かけてきて、彼の大学への夢を断ってしまうかもしれない状況にいる。でも彼は自分を悲観したりしません。彼は自分のことを考えてすらいない。より大きな目的感の中で生きていて、人々を巻き込んで行くのでしょう。
彼の未来を危険にさらすことになるのでここで彼の名前すら言うわけにはいかないような社会状況ではありますが、しかし将来どうなるかも知らない高校三年生が世界を前に進めるために自分の責任を果たしているなら、我々にだって、我々の責任を果たすことでその世界に対して借りを返す義務があるのですはないでしょうか?
皆さんがこのゲートを出ていく前に、メモリアルチャーチの前に座って、僕はミ・シャベイラの祈りを思い出していました。それは僕が困難に直面した時にいつも唱える祈りです。自分の娘をベッドに連れていく時に彼女の未来を思っていつも歌っている祈りです。それはこう続きます。
「私たちに先立つ者たちに祝福を与えてきた力の源よ、私たち自身の人生に祝福を与える勇気を見いだせるよう助けてください。」
みなさんがそれぞれの人生を祝福する方法を見いだせることを願っています。
2017年クラスの皆さん、おめでとうございます!グッドラック!
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(スピーチは以上です)
・
・・・いかがでしたでしょうか。
「正しいことだからやるんじゃなくて、自分の可能性を追求できずにいる人が一人でもいたらそれは社会の損失だし、その人がそれを実現できたら社会全員が助かるからこそやるんだ」というメッセージ・・・この論法はついつい縮小均衡的な自己規制に走ってしまいがちな日本人・日本社会にとって、非常に眩しく映る「アメリカならではの価値」だと思いました。
それにザッカーバーグは本当に良い人感があって・・・最後の方で不法移民の生徒が大学に行けるかわからずにいる状況でも未来を信じている話で、彼が彼の可能性を追求できないなら、社会全員がその分をなんとか頑張って埋め合わせる責任があるってことじゃないでしょうか!!って言うシーンではもう本当に涙目で、感情を抑えきれなくなっています。聴衆もアツくなって歓声を上げている。
ただなんというか、懐疑主義な日本人からすると全体としてナイーヴすぎる感じが、特に細部の具体的な話に近づいてくると散見されるという感じは、どうしてもあるかもしれません。自分は大学中退しておいて、大学教育ってものに夢持ちすぎじゃないか?とも思いますし、非常に恵まれた立場の人間が、非常に困難な状況にある数少ない人たちとの交流の中で、「これをもっと横展開していけば世界は変えられる!」と無邪気に思い込んでいる感じ・・・に、危ういものを感じる人もいるかもしれない。
物凄くシニカルに言えば、「古代の王様の道楽で身の回りの奴隷に情けをかけてやっているが、それは絶対王と"ほんの少数の身の回りの人たち"というスケール感だからできていることで、圧倒的に大きな数の社会的な構造問題には無力なんだ」という批判は可能かもしれません。
しかし、だからといってその「夢か偽善か知らんがそれすらなくなった社会よりはあった方が当然いい」というところに、現代の、世界中から非難されながらもなんとか世界のリーダーの地位から滑り落ちずにいるアメリカの存在意義というものもあるのだろうと思います。
そして、ソレに対してシニカルにならざるを得ない社会にいる私たち日本人は、「その足りないところを補い、自分たちなりの貢献」ってものができればいいなと、私はいつもそういうことを考えて生きています。
この記事の冒頭にも書きましたが、ザッカーバーグのこの「物凄い理想主義」がどういう時にすっ転んでしまうのか、それを掛け声倒れに終わらせずに本当に「具現化する」ために日本社会ならではの提供出来る価値とは何か・・・ということについて昔書いた記事があって、相当評価を頂いたものがあるので、もしよければ多少長いですが、お読みいただければと思います↓
我々が起こすべき「静かなる革命」について・・・または「知性とは文脈力・空気を読む力」という時代の終焉)
ただ正直言って、このリンク先↑の話のレベルまで「アメリカ人」は決して理解できないだろうとすら思っていたのに、ザッカーバーグは彼なりのビジョンを透徹しながら同じ問題について切り込もうとしているのを感じて、今回本当に「単なるやり手経営者」ってだけじゃない凄い人なんだなって思いました。よもやユーチューブを再生しはじめた時には、最後までスマホにかじりついて見ちゃうなんて思ってもいなかったんだけど。まさに、例のジョブズの演説を超える、今の時代の決定版スピーチみたいな何かを個人的には感じました。
あなたはどうお感じになりましたでしょうか? よかったら、私のツイッターに話しかけていただくか、私のウェブサイトのコンタクト欄などから、感想・その他アンタ翻訳間違ってるぜというご指摘等(最後に近づくほど集中力が消えてきてて、結構ミスもあるように思います)、いただければ幸いです。
・
それでは、また次回お会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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妹さんと同居12
時間はあった。
俺なりに考えた。
しかし、それらのすべては徒労に終わった。
話し合いを終えた二十一時過ぎ。冷たい雨がじとじとと降る実家の玄関前で、俺は顔を覆って、呆然と立ち尽くしていた。
口から出てくる言葉といえば、たったひとつ。
「なんでこうなった……」
「えーと、この生シューと、そんでイチゴショート、それとモンブランと……」
雨ということもあって、人通りも少ない商店街。汐里からもそこそこご好評をいただいていたケーキ屋で、俺は註文をしている。一人あたり二つとして、六個も買えば充分だろう。
時刻は十七時半。雨だし、仕事ではないから原付ではないが、実家には余裕を持ってつける時間だ。
「そんで、あとこのイチゴのミルフィーユも。以上です」
最後に汐里の好きなケーキを思い出して、汐里のぶんだけ三個にするあたり、俺もたいがいである。
「お時間はどれほどかかりますか?」
「一時間くらいです」
「かしこまりました」
店員さんと会話をしつつ俺は考える。
優先順位その一。
汐里が傷つかないこと。
これが最優先事項だ。
大前提として、俺と汐里はまともな兄妹に戻らなければならない。これは家族である以上、覆らない。その前提において、最大限汐里が傷つかないような結果になること。これは両親の利害とも合致するだろう。
「ありがとうございましたー」
女性の店員さんの爽やかな挨拶に送られて店を出る。
もう外は暗い。
さてどうしたもんか。移動を開始するには早すぎる。
軒先でぼんやりしていた俺の前を、制服姿のカップルが相合い傘���通過していく。
「……」
なぜ、と思ったことがなかったといったら、嘘になる。
なぜ兄妹というかたちで出会ったのだろう。
しかしその疑問は、あたりまえのように反論を連れてくる。そもそもああいうかたちでなければ出会うこともなかった。だいたい汐里みたいなきれいな子を前にして俺になにができよう。それはそれとして制服カップルは妬ましいなあ。雨すらも世界から二人を隔絶するやさしいカーテンですか。人糞踏んで転べ。特に男のほう。
……落ち着こう。
「コーヒーでも飲んでくか」
赤い看板でおなじみのお安いチェーン店に入る。
頼むのはエスプレッソである。
店内の混雑ぶりはふだんと変わらない。この店は場所がいい。雨の日は客数が上がるとかそういうデータあるのかな。仕事柄こういうことはよく考えてしまう。
「さて」
優先順位その二だ。
家族に後腐れを残さないこと。
これは一番目とややかぶるが、少し違う。
単純にいうと、俺が汐里と今後会わなければ、問題の大半は解決する。が、それでは家族に重大なしこりを残す。俺もまた家族の一員だからだ。一人だけを切り捨てて安穏としていられるような人たちでもないし、なにより汐里が救われない。
だから、まともな家族に戻るためのロードマップをしっかりと提示しなければならない。
考えごとをするときに、メモを取るのは俺の癖だ。いまもテーブルの上にはコクヨの野帳がある。縦にして使うのが俺の流儀だが「汐里を傷つけてはならない」とか書いてあるメモ、素に返って見直すと、ほとんど黒歴史の生成現場である。マインドマップってあれか? 俺の心の地図? 僕の心の県庁所在地は横浜じゃない、汐里なんだ。
うん。だめだな。
死のう。
雨になるとバス停は混雑する。
二十四時間営業のスーパーの前のバス停は、人でごった返していた。十八時近くという時間帯も悪い。あと傘な。あれのせいで無駄に一人あたりの専有面積が増えてる。
雨だし、人は多いし、これからの用件はアレだし、ポジティブになれる要因がどこにもない。
何本か行き先の違うバスをスルーして、ようやく目的のバスが来た。
乗り込もうとバスのステップに足をかけたとき、ひとつの光景が見えた。
黄色い雨合羽を着た、小学生になるかならないかくらいの小さな女の子が、転んだ。
「……」
「乗るんですか?」
後ろの人に声をかけられた。立ち止まっていた。
「あ、すいません」
あわてて乗り込む。
圧縮された空気の漏れる音がして、ドアが閉まる。まもなくバスは発車した。
流れ出した車窓の景色は、ぎらつく車のライトと雨粒で見えづらい。にじんだ視界の向こうで、女の子が制服姿のだれかに手を引っ張られて立ち上がる光景が、一瞬、見えた。たぶん兄妹だろう。兄のほうは中学生くらいだろうか。
なぜだろう。
何度も自分のなかで殺したはずの疑問は、ゾンビのごとく蘇ってくる。
なぜなんだろう。
なぜ自分たちはあんなふうに、ふつうの兄妹ではあれなかったのか。
腹の底が熱くなるような悔しさと、同時に、ある種の空虚さみたいなものが心を支配する。なにをしたって結論は覆らないという諦めにも似た感情だ。わかりやすくいえば「俺はいったいなにと戦ってるんだ」という感じ。
バスが実家の最寄りのバス停に近づくにつれ、その空虚さはだんだんと俺を蝕んでくる。
バスを下りる。俺と一緒に下りた人たちが、それぞれの家のある方向へ散っていく。俺も家へ向けて歩き出す。どうせ、なるようにしかならないという気分とともに。
着いてしまった。
事前に「汐里のことで話がある」という連絡はしてある。
さて。呼吸を整えよう。最初になにが起きるのかはわかっている。
インターホンを押すと、まもなく玄関のドアが開いた。顔を覗かせたのは母さんだ。
「おかえり、貴大くん」
汐里によく似た、しかし汐里より数段ほんわかした笑顔が俺を迎える。いつも思うんだけど、この人いくつだったかな。
さて、ここからだ。
「ただいま」
そう言って、玄関に入る。
「おかえりー!」
抱きつかれた。
はい。これが最初に起こるイベントです。
通常攻撃が抱きつきでいいにおいの血のつながらないお母さんは好きですか。
そういう問題じゃないんだよなあ……。階段の陰から汐里がじっと見てるし。ちなみに、言うまでもなく、汐里の抱きつき癖は、子供のころからこの光景を見てきた影響だと思われる。
「よう汐里。約束どおりデザート持ってきたぞ」
「デザート?」
その言葉に反応したのは、汐里でなく母さんだ。
「どこの? おいしい?」
「汐里のお墨付きなんで、たぶん」
「楽しみだなあ!」
ようやく解放してくれた。
「ごはんできてるからね。ダイニングに行ってて」
廊下をぱたぱたと小走りに駆けていく母さん。
靴を脱いで上がる。
「ただいま汐里」
階段の陰に隠れた姿勢のままの汐里の頭にぽんと手を乗せてやる。
「……おかえり、お兄ちゃん」
「いちごのミルフィーユあるぞ」
「ほんと!?」
と、一瞬ぱーっと表情を輝かせてから、思い出したようにじとーっと俺を見る。
どう接していいかわからないので、とりあえず不機嫌になってみた。顔にそう書いてある。
「メシのあとでな」
「……うん」
俺を振り返りつつ、ダイニングへ向かう汐里。
俺は、息をひとつ吐く。
どう接していいかわからないのは、俺も同じだ。
しかし、ひとつ気がついたことがあった。この家にいる限り、俺はどうやら兄として自然にふるまえるらしい。内心でなにを思っていようとも、そのことは崩れない。
俺はそのことを確認して、少し安心した。
ダイニングには、汐里に加えて、親父もいた。本永利通、四九歳。ノートパソコンに向かってなにやらやっている。母さんは、キッチンに向かってなにかしている。
「おかえり貴大。ひさしぶりだな」
「ただいま」
デザートを冷蔵庫にしまって、手だけ洗ってきてからダイニングに戻る。
眼鏡がよく似合う、やや陰のある雰囲気のイケメン。それが俺の親父だ。俺も親父によく似た外見だといわれるが、引き継いだのは陰の部分だけである。つ��り、人相が悪い。
で、親父がどういう人間かというと……。
「貴大、今日は夕食が終わったら家族会議だ」
パソコンから目を離さずに、いきなり宣った。
びくっと汐里が固まった。
「……」
勘弁してくれ……。
親父は、ひとことでいうと変人だ。とある企業で研究職をやっており、かなりの高給取りである。汐里があんなお嬢様学校に行ってられるのも、親父の収入あってこそだ。頭はいい。ワケわかんないくらいいい。しかし、成果さえ出していれば文句を言われない人間特有の、圧倒的な協調性のなさがある。母親と死別して以来、俺は親父を反面教師としてずっと見てきた。
「はーい、ごはんできたわよー」
テーブルの上には卓上コンロがある。そこに母さんが土鍋をどんと置いて、夕食のスタートである。
夕食はつつがなく終わった。
母さんがよくしゃべり、汐里が相槌を打ち、親父は黙々とメシを食い、たまに「うまい」「早百合さんの料理は最高だ」「僕は幸福な人間だ」などと呟く。この家で暮らしていたころは日常の光景だったので疑問を持たなかったのだが、ひさしぶりに見ると、けっこう異様な光景である。
俺はタイミングを見計らっていた。どこかで汐里を席から外させなきゃならない。少なくとも、親父に仕切らせるのだけは絶対にまずい。
母さんと汐里が食器をかたづけて、テーブルの上がきれいになった。親父は席を外していた。言うとしたら、ここしかない。ケーキが出てきてしまっては、みんなで食う流れになってしまう。
「汐里には、ちょっと外しててほしいんだ」
「……どうして? これからケーキよ?」
「話があるって伝えてあったろ。汐里抜きで、俺から話したい」
いやな汗が背中をつたう。声が震えそうだ。
汐里が不安そうな顔で俺を見ている。
「んー、でも……」
「僕は認めない」
親父がダイニングに戻ってきた。手になにやら紙を持っている。
「僕は言ったはずだ。家族会議だと。であるなら、家族の構成員は参加する権利がある。汐里ちゃんはどうしたい?」
しまった。汐里に話を振られてしまった。
親父の口ぶり、家族会議という言葉。おそらく俺が話そうとする内容は、すでに察せられている可能性が極めて高い。
汐里がすがるような目で俺を見た。
「わ、私は……」
「汐里、部屋行ってろ。俺が話す」
「汐里ちゃんの権利については、汐里ちゃんがこれを行使する権利を有する。おまえは他者の権利を害するのか」
口で反論したら負ける。絶対に負ける。ゴリ押しだ。要は汐里が逃げ出せばそれでいいのだ。
「汐里、部屋行ってろ」
「ふむ」
親父はダイニングに座ると、手に持っていたA4の紙をぱさっとテーブルの上に置いた。
「まあいい。レジュメを見てから決めてもらおう」
「は? レジュメ?」
およそ家庭で出るはずのない言葉を聞いて、一瞬、頭が真っ白になった。
「早百合さん、あれを頼む」
「はーい」
ダイニングを出た母さんが、台車付きのなにやらでかくて薄いものをごろごろと押してきた。
「ほ、ホワイトボード……だと……!?」
「今日は重要な会議になると思ったのでな。購入しておいた」
「って買ったのかよ!」
レジュメにホワイトボードのある家族会議! なんだこれ! 俺なめてた。親父の変人っぷり完全になめてた! 汐里も完全に出ていく機会を失って呆然としている。
「それでは家族会議を始めよう。各自、レジュメを参照していただきたい。本日の議題は、貴大と汐里ちゃんの恋愛関係についてだ」
ぼきっと、心の折れる音が物理的に聞こえた気がした。
地獄の蓋が、まったく想像もしてない場所から、盛大に開いた。
もう、無理だ。
死のう。
会議は滞りなく進んだ。正確には、俺は完全に抜け殻になっていて、呆然と見ていただけだった。汐里なんか瞳のハイライト消えてる。俺もきっと消えてるんだろうなあ……。
ホワイトボードに書き込みをしつつ熱弁する親父。そこには、両親が再婚してからの七年の俺たちの動向などがびっしりと書き込まれていた。「汐里ちゃんは美少女」という書き込みにマルがついていて「貴大は極端な年下好き」にもマルがついていて、その二つの項目を二重線でつないで解説されるの、ほとんど殺人行為だと思うんです。こんなに効率的な家族内における公開処刑、聞いたこともねえ。
「以上だ。もう一度レジュメに目を通していただきたい。僕は早百合さんと結婚するにあたって、あらゆる可能性を考慮した。そのなかには、とうぜん、貴大と汐里ちゃんが恋愛関係になるという未来も含まれていた。予断は愚かな行為だが、仮説をもって経過を観察することは重要だ。そして、観察の結果、貴大と汐里ちゃんが恋愛関係にあることは検証されたと言ってよい。以上をもって、僕の発表は終了だ。ご清聴ありがとう」
「わー、ぱちぱちぱちー」
ぱちぱちぱちーじゃねえよこの母親。スキンシップが激しいだけの常識ある人間かと思ってたけど、それまともな反応じゃねえだろ。あの変人親父と再婚して今日まで続いてた理由がようやくわかったよ! こんなかたちで知りたくなかったよ!
「さて、以下、質疑応答の時間にしたい。なにか意見があるものは挙手してほしい」
「うわああああああああ!!!」
俺は立ち上がって、レジュメをテーブルに叩きつけた。
「僕は挙手をと言ったはずだ。叫べとは言っていない」
だめだこいつ。殺そう。机に突っ伏して痙攣してる汐里の敵を取ろう。安心しろ汐里。この化物は俺が殺る。犬に噛まれたと思って汐里はすべてを忘れるんだ!
「まず僕のほうから確認事項がある」
「黙れ妖怪!」
「性行為はしているか」
「……」
空気が、凍った。
机に突っ伏していた汐里が顔を上げて、ひきっと変な音を出した。
いやん。母さんが、場違いな恥じらいの声をあげた。
「伝わらなかったか。言い換えよう。セックス」
「うおおおお!」
俺は親父の首根っこを掴んでがくがくいわせた。
「なにをする貴大」
「おま、おま、おま! 言わせておけば! いますぐ謝れ! 日本中の童貞に土下座しろ! 泣いて詫びろ!」
「そうか、まだか」
がくん。
俺は親父の上着を掴んだまま、ずるずると膝から崩れ落ちた。
「そうです……僕は……童貞です……」
「あらあらあら」
ぽっと顔を赤らめる母さん。
ねえこれ、包丁持って暴れまわっても、俺無罪だよね? 情状酌量の余地すごいたくさんあるよね? むしろ正当防衛だよね……?
「座れ、貴大」
親父は、伸びた襟元を直しつつ、自分も着席した。
俺は、ずるずるともたれかかるように椅子に座った。
ああ、汐里が涙目だ……なんだこの修羅場……。
「それじゃ、ケーキ出しましょうね♡」
いそいそと冷蔵庫からケーキを運んでくる母さん。
ねえ、なにこの人……意味わかんないんだけど……。この状況で笑顔でこのセリフ言える人、ちょっと怖いんですけど……。
テーブルの上にケーキが並ぶ。
汐里の前にはいちごのミルフィーユ。
「っておまえ���食うのかこの状況で……」
「ケーキは……別腹……」
「あそう……」
まるでケーキが自分をこの世界につなぎとめる最後の糸であるかのように、無表情でケーキを食べる汐里。母さんも親父も食ってるので、俺だけ食わないわけにもいかない。
たぶん、このケーキの味は一生忘れない。思い出すたびに、布団のなかで死にかけのエビみたいな動きする自信ある。
カチャカチャと、フォークと食器が当たる音だけが響くダイニング。
親父がふと、手を止めた。
「僕には、夢があった」
その思いのほか真摯な声の���子に、家族全員が親父を見る。
「僕が家に帰るとおかえりと言ってくれる人がいる。愛する人がいる。子供がいる。みんなで夕食を食べる。それが僕の夢だった」
「親父……」
「そして、僕はもう、充分にそれをもらったと思う」
「……」
なんとはなしに、汐里と顔を見合わせる。
親父は、真剣なのだ。親父なりに考えて、今日の会議の準備し、こんなレジュメまで用意した。いかにやりかたが奇矯であろうとも、その真剣さだけは疑うわけにはいかない。やりかたはもう少し考えてほしかった。なんなら時間を巻き戻してやり直してほしいくらい考えてほしかった。いまなら俺、死に戻りにも耐える自信ある。
「あとは、貴大、汐里ちゃん、君たちの問題だ」
「……」
どこか陰のあるイケメンは、思いのほか、柔和な笑みを浮かべることができたらしい。
「とはいえ」
表情を引き締めて、親父は続けた。
「これは家族の問題もある。したがって、今後の貴大と汐里ちゃんの関係について、こんなレジュメを用意してみた」
「燃やせそんなもん!!」
こうして、本永家の家族会議は、無事終了した。
無事じゃねえよ……満身創痍だよ……。
「それじゃ、気をつけてね、貴大くん」
「ああ」
靴を履きつつ答える。ぶっちゃけ、体に力が入らない。俺、家までたどり着けるんだろうか。
見送りは、汐里と母さんだ。
「お兄ちゃん……」
「まあ、なるようにしかなんねーだろ。そんな顔すんな」
結局、有耶無耶のうちに俺と汐里の関係は親公認となった。俺が事前にあれこれ考えたことは、すべて無駄になりました! おめでとうございます!
ちなみにこれ、喜ばしい結末に見えるかもしんないけど、実際は死ぬほど気まずいからね。なに親公認の兄妹カップルって。脳湧いてんでしょ。軽めの地獄ですよ。
「あのね、貴大くん」
親父の作った地獄のレジュメを手に持った母さんが、話しかけてくる。
やだなあ。その話題もうやめてほしいなあ。
ちなみに親父が考えた今後の方針としては、三つあるようだ。前提条件として、俺はともかく、汐里はまだ高校一年生で、今後どんな出会いがあるかわからない、いまの感情だけがすべてだと思わないほうがよい、と掲げられているあたり、親父は本当に真剣に考えたのだと思う。
そのうえで、一つは、二人ができるだけ距離を置くこと。汐里は実家で暮らし、俺たちは会わないようにする。これは俺が事前に考えたことでもある。素直に考えれば、これがいちばんまともだ。
二つめは、現状維持。つまり汐里は俺のアパートに泊まりに来ることもあるが、基本は実家暮らしというもの。これについては親父の「あまり推奨できない」というコメントがついている。俺も同意できる。中途半端な状況は、あまりよくない。
そして三つめなのだが……。これには「母さん超おすすめ♡」という手書きのコメントがついている。ついているのだが……。
「ぶっちゃけ、親としてどうなのこれは。完全に同居してしまえってのは」
俺は呆れ半分に、レジュメを母さんに返す。
「あら、それは、あなたたちだけじゃなく、私たち夫婦にもメリットがあるのよ?」
「なんなんですか」
「心置きなくいちゃいちゃできるじゃない。私と利通さんが」
「……」
「……」
汐里と二人して絶句する。
「それにねえ」
母さんは、汐里の頭に手を置く。
「利通さんは、汐里がまだ若いからって前提で考えてるみたいだけど、この子たぶん、もう心変わりなんてしないわよ?」
「ちょっとお母さん、その話は」
え、どゆこと?
えーどうしようかなあ、などとにこにこと笑っている母さんと、ひたすら焦っている汐里。
母さんは、はいはい、などと汐里をいなしつつ言った。
「だから、母さん権力で決定します。近いうちに、貴大くんと汐里は同居することにしましょう!」
「なにそれちょっと待って。俺らの意見は?」
「あら、貴大くんはいやなの?」
「いやとかそういう……って汐里おい! なに顔あからめてもじもじしてんだよ!」
「えー、だってー♡」
くねくね。
だめだ。こいつ母親に取り込まれてる。
「それじゃね貴大くん」
「まだ話は終わって」
「それじゃあね、貴大くん!」
ぐいぐいと押される。
ついに外まで押し出されて、そこで玄関のドアがばたんと閉まった。
「……なんだこれ」
俺の悲壮な覚悟はいったいなんだったのか。
いまからドアを再び開けて、母さんに挑む気力がない。絶対に押されて終わる。
まあいい。よくないけど、まあいいよ。今日は帰ろう。死ぬほど疲れた。反論するにしても、きちんと体勢を整えてからだ。親父のいない場所で。これ重要。
傘を手に取って、開こうとしたそのときだった。
ポケットのなかのスマホが震えた。
取り出してみると、母さんからのメッセージが入っている。
『あ、でも汐里が高校を卒業するまでは、清い関係でいましょうね。えっちなことは禁止♡』
ガツン。俺の手からスマホが落ちた音がした。
なにか。あの母親は、汐里と俺を同居させておいて、あと二年近い日々を生殺しで過ごせと。そうおっしゃるか。
俺はスマホを拾うことも忘れて、風の加減で吹き込んでくる冷たい雨に濡れたまま、両手で顔を覆った。なんならさめざめと泣いた。
口から出てくる言葉はただひとつ。
「なんでこうなった……」
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TAV GALLERYのディレクターの佐藤栄祐です。2014年のTAV GALLERYの開廊以降、60本以上の企画展示をキュレーターや批評家、編集者と共に開催し、これまでに200名以上のアーティストと携わってきました。私は平成5年生まれ。26歳。国内最年少のギャラリストとして、現在の状況に対し、自分なりの見解を述べる必要を感じています。
それは現在、展示再開を目的としたクラウドファウンディングを実施中のアーティストコレクティブ、Chim↑Pomの「ReFreedom_Aichiはアーティストのネットワークとして、経済的な自立性を必要としています。」という一文についてです。この一文から読み解くコマーシャルギャラリーの機能不全およびアーティスト主導のマーケット。またジャーナリストの津田大介氏に関わる「「表現の自由」と「検閲」」の問題についてです。これから述べるのは、あくまでもギャラリストというマーケットに立つ自分としての意見になります。
さまざまな意見をできる限り読みました。それゆえにあまりにも根深い問題に、自分が話の論理的統合を成立させることは不可能に思え、かなり荒削りな議論かと思われますが、それでも、この文章を元に、自分と時間・空間を共にしてきたアーティスト、これから関わるであろうアーティストが、道を誤らないため (迷わないため) に、この文章を公表したいと思います。決して正論を述べたい訳でもなく、業界の対立関係を悪化させたい訳でもありません。一見解としてご参考いただけたら幸いです。
1. コマーシャルギャラリーは民間の検閲機関である
まず、私が当事者であったら。TAV GALLERYが取り扱うアーティストが「あいちトリエンナーレ」に出展していた場合、この「表現の不自由展・その後」の問題がおこった直後にすべてのアーティストに「出展を今すぐ取りやめをするように」と連絡を入れたに違いありません。理由は「マーケット価値が下がるから」であり、端的に言えば「売りづらくなる」ことが事実としてあるからです。そもそも、国内のマーケットにおいて政治性が直接的に (間接的にも) 内在する作品は、マーケット価値がつきづらい。ある程度の美術史を知っていて、セカンダリーマーケットの状況を見れば、この発言が嘘ではないことはわかる筈です。
TAV GALLERYは「企画」といった枠組みで芸術に内在する政治性を引き受け、いわゆる「政治性が喚起される」作品を数多く販売してきましたが、ここで言う自分がアーティストに出展の取り止めを促す理由と「政治性が喚起される作品」は全く関係していません。芸術や文化全般に政治性が内在するのは良い。しかし、芸術作品および、アーティストが政治やプロパガンダに「従事」している状況は、多様な芸術運動を認め、未開の表現をマーケットに紐づけたいとする私たちの経済活動にとって、何よりも苦しく、厳しい状況を引き起こすことになり兼ねません。
2. 買ったら殺される危険性のある作品を、誰が購入しますか?
問題となったキム・ウンソン夫妻の「平和の少女像 (2011) 」は、展覧会中止後にスペインの実業家に購入され、2020年に開設予定の世界で検閲にあった作品のみを展示する「Freedom Museum (自由美術館) 」に収蔵されることになりました。一見、拍手喝采のような、一つの成功事例として考えるかたも多く見られましたが、私は、この結末を何よりも恥ずかしく、日本国において「痛手」であったと考えています。表現の自由を訴える方々のなかに、日韓関係を良好としたいとする方々のなかに、本展の問題に言及していた方々のなかに、またこのような事態を招いた責任者のなかに「誰一人として、平和の少女像を購入する人間がいなかった。」と言った事実を露呈させてしまったからです。例えば「平和の少女像 (2011) 」が日韓関係を命運づける重要な作品となったとします。マーケット価値も上がり、数百億を超える作品になったとします。それほど遠くない将来、美術史のために、あるいは日韓関係のために「平和の少女像 (2011) 」を、どちらかの国は買い戻したい。その際に、数百億をスペインに支払わなければならなくなる。私はこれこそ「痛手」だと考えています。
また「買ったら殺される危険性のある作品を、誰が購入しますか?」と題した本意には、マーケットに立つ我々にむかってのメッセージも含めています。あの作品の購入に踏みきる日韓関係者がいなかったように、また、あの作品をこの状況下で販売を試みる人間もいなかったのではないだろうか。この命題を「この芸術作品に直接的な政治性が内在していることは確かだ。しかし、未来の日韓関係を良好な関係にするためにも、現在の政治情勢と切り離して、日韓のどなたかで、購入・保管して頂きたい。」と言い換え、公の場で発言していく勇気を、マーケットに立つ我々が持たなければならなかったのではないでしょうか。世界のビックコレクターや平和の少女像を購入したスペインのタチョ・ベネト氏のように、コレクターが公的に「購入の宣言」をする必要はありません。その情報公開を調整する仕事も、我々の仕事であったはずです。
3. 政治化するアーティスト主導/中心のマーケットは成長しない
アート業界に携わるかたと会うたびに、右派か左派かを宣言して、会話を進めなければならない状況が、今、自分のまわりにはあります。少し個人的な話をすると、私はChim↑Pomの卯城さんに一時期、芸術文化のことを教わっていたこともあって大変尊敬しているアーティストの一人でした。その社会的にも、親身的にも重要なアーティストが、まるで政治家のような記者会見をおこない、「アーティストの経済的な自立性を必要としています」とネットで語っている光景を「苦しい」と思わず、何と思えばいいのでしょうか。また、そのような発言をすべきなのは芸術の「価格的価値」を担保する我々の仕事であったはずです。
話を冒頭の「ReFreedom_Aichi」に戻します。このプロジェクトでは、Chim↑Pomを始めとする「あいちトリエンナーレ」の参加アーティストが主体となって、展示再開のためのクラウドファウンディングを主催し、民間から資金を集めています。私は「あいちトリエンナーレ」が「検閲」の象徴になったとは考えることができません。国際展といった規格を使った「失敗したプロパガンダ」の象徴と認識しています。なので、私の目からこの運動は、津田大介氏のプロパガンダが税金から民間のお金に切り替わって、アーティストがプロパガンダを助長しているように映ります。また、Chim↑Pomが発言した、アーティストのネットワークの経済的自立支援と、展示再開がどう繋がってるのか、さらに言えば、津田大介氏が引き起こした右派か左派かと芸術を二分化する状況に従事する彼等の行動は、自らのマーケット価値を下げているのではないでしょうか。彼等を重要なアーティストとみなし、購入を検討したいとしている。しかし、プロパガンダの運動を助長してしまったアーティストの「政治家としての振る舞い」を見て、購入に踏み込む事ができないのは、少なくとも私だけではないはずです。
4. 検閲が復活し得る未来
キュンチョメのホンマエリ氏が記者会見で「不自由でいっぱいになった扉を開けなければならない。」と、小泉明朗氏は「これは日本人の自己検閲」の問題であると言及されています。しかし私は、仮に扉が開いたとしても、闘争の末に具体的に死者がでて、日本国において「検閲」が復活せざるを得ない状況が、「ReFreedom_Aichi」の運動によって、むしろ引き起こされる未来を想像してしまいます。また、クラウドファンディングという税金から民間資金への切り替わりは、アーティストが集められ得る具体的な資本力や期待値を可視化させます。「ReFreedom_Aichi」が設定した1000万円は、金額的に非常に安い。展示再開が達成され、アーティストの自律的ネットワークが構築されるとは到底思えません。
芸術作品は貨幣と交換可能なものです。貨幣と作品では、作品の方が圧倒的に価値が高く「2.買ったら殺される作品を、誰が購入しますか?」で説明した通り、芸術作品にはナショナリズムを決定付ける力 (国家のアイデンティティを左右する) があり、金融商品としての信用をも復活させることが可能な、非常に重要性を帯びた文化財である訳です。その重要性を、いわゆる民主主義的アプローチを使ったクラウドファンディングで、政治性を帯びた芸術運動が「大して金が動かない」事実を露呈させる。政府がこの結果をみて、津田大介氏の仕事をみて、文化財のセキュアや保管にさらに投資をおこなっていくとは、私は到底思えません。なので、私はこれらの運動を「失敗したプロパガンダ」と考えます。その上、プロパガンダへの出資金が対価としての「作品」と交換され得るクラウドファンディングの構造では、コマーシャル・ギャラリーがおこなう価格の担保および信用商売のモデルまでをも崩壊させかねない。芸術作品の販売において、アーティストとコレクターの仲介に立って、売買の契約を結ぶ我々が、その契約は「プロパガンダの出資金」だった、とあとから言い換えなければならない状況は、信用商売そのものを崩壊させかねません。
このような状況をより良く復興すべく、私はマーケット側に立つ人間として、ギャラリストがリスクを取って、アーティストより前へ出ていく時代を扇動したいと思っています。ただでさえ、芸術作品は複雑な状況や歴史的背景を説明し得る「声を発する媒体」であるのに関わらず、「ReFreedom_Aichi」につづいて、現代に生きるアーティストたちが政治家としての振る舞いを強いられ、さまざまなことを公的に表���しなければならないといったルールが定説化されしまっては、未来に生きるアーティストたちが、あまりにも厳しく、苦しすぎませんか。
5. コレクティブと技術的な方法論を整える
アジアの文化情勢に詳しい役所の人間が日本のアートシーンを「コレクティブ・シンドローム」と揶揄していた事があります。直訳すると「集団症候群」とでもいえる印象的な言葉だと思います。しかし少なくとも私は集団的な芸術運動に影響を受け、この業界に携わることを決めた身であり、今も尚「芸術は集団を生成し、公共性を取り戻す機能がある」と信じています。さまざまな問題があり、消費が難しい時代だとは思います。たとえ、芸術の普遍的な定義が個人の崇高さと超越性を象徴するもの、であったとしても、日本が自然発生的に産んだ (語弊はあるかと思いますが) このシンドロームを、日本のアートを象徴するムーブメントとして、私たちが保護し、守らなければならないのではないでしょうか。
代表して、Chim↑Pomの作品は「無人島プロダクション」や「ANOMALY」などで購入することが可能です。もし仮にこの記事を読んで、「あいちトリエンナーレ」に関係するアーティストの作品の購入をご検討されるかたがいらっしゃいましたら、私が責任をもって、当ギャラリーやアーティストまでご案内差し上げますので、お気軽にお問い合わせください。この行動は、いわゆる利権商売にあぐらをかき、私の文脈こそ「歴史」であり「価値」であるとしてきた、多くのギャラリストが無意識的に分断化させた現在のマーケットに対するアンチテーゼでもあります。しかし、私はギャラリーを「どのような人間でも、介在することが可能な公共施設」と認識しています。また国有性を帯びた重要な作品は、国内で保管されるべきと考えています。そのためアーティストが多様な表現を試みるように、ギャラリストもまた国内における「需要」生成のためであれば、さまざまな施策を駆使するべきだと考えます。
6. オルタナティブは、新しい資本主義経済との付き合い方を模索する
また、私たちが整えなければならないのは技術的な方法論です。芸術作品は基本的に世界に一つしかない物です。そのため芸術作品の販売には民間と直結的に関わるギャラリーの信用が必要であり、マーケットの需要に答えなければなりません。芸術作品を社会の新たな需要として、認識をしてもらうまでの方法論を整える技術は、決して容易ではありません。であるがゆに、我々はどこまでも利権商売の規格から外れることことはできません。しかし、そもそも、その一つしかない芸術作品を沢山の方々に "欲っして" いただかない限り、国のアイデンティティを命運づけることも、芸術作品のマーケット価値が上がっていくこともないのです。私がTAV GALLERYの活動を通して、もっとも誇りに感じている部分は「国内顧客100%で5年間企画展示のみをつづけてきた」ことです。要するに、私は日本国のお金のみで、生かされているのです。これを実現させるには、優秀なスタッフやキュレーターの知見や優秀なアーティストたちによる目に見えない努力と多くのコレクターの協力が必要でした。次世代が負担すべき借金をアーティストではなく我々が背負うことで、あるいは今後のTAV GALLERYの活動によって、私は日本が「悪い場所」でないことを証明したいと思っています。
なので、この情報を目にしたマーケットに立つ皆さま、どうかご協力いただけませんか。日本に生きるアーティストにはまだまだ展覧会の機会が足りていません。同時に、多くの重要な作品も保管されていません。我々が利権商売の規格から離れることができないとしても、同業者として協力し合うことは可能なはずです。情報の交換、プライスシートの共有、取り扱い作家の交換的なキャリア作り、ギャラリーを公共空間と見立て「作品」と「作者」の価値を分断的に上げていくプロセス、連帯的にアーティストの展示機会をつくっていくなど。利権商売であるがゆえに、さまざまなトライ&エラーを私たちはクリアする必要があります。また環境的な問題として、私立美術大学の乱立や、利権化に走るインターネットプラットフォームなど。誰しもがアーティストになれる時代になったがゆえに、作品単価が下がり、作品の取り扱い方が重要視され、信用商売においての価格保障の方法論まで更新する必要があるとも言えます。アーティストが政治化しなければならない状況を私たちが産んでしまったように、私たちが主導となったマーケットを取り戻すことで、アーティストや作品の信用を落としてしまう可能性も懸念されます。
それでも、アーティストには作品のマーケット価値が上がっていくという希望を、諦めないでもらいたい。価値の絶対化からアーティストの表現の場における選択肢を増やすことによる多様性を。また、右派や左派の両義的価値を認め、アーティスト主導のマーケットから政治性を引き受け、コミュニティを誘発させる公共空間としてのコマーシャルギャラリーの機能性を、私は再編集したいと思っています。
7. 最後に
改めて私はアーティスト中心/主体のマーケットが活性化することに対して矛盾した見解を持っています。オルタナティブスペースやアーティストランスペースが小さな経済圏を維持し、独自の販売網をつくり守っていく。それは、コマーシャルギャラリーの政治性や信頼が薄れてしまったゆえの、必然的な状況だと考えています。私がTAV GALLERYをはじめた動機はいたって単純で、10代から運営していたオルタナティブスペースや、愛着を持って携わっていた「渋家」などの共同体のなかに、無数の才能と可能性を見出したからです。詳しくは過去に「BUG MAGAZINE」にてインタビュー (http://bugmag.xyz/articles/eisuke_sato/) が掲載されているので、ご興味のあるかたは是非、ご覧ください。ここでは、アーティスト主体のマーケットやオルタナティブスペースを批判していますが、アーティストが能動的に経済圏を確保していかなければならない必然性が、国内のマーケットにあります。しかし、アーティストが担保する芸術としての「価値」と我々が担保すべき「価格の価値」は切り離して考えなければなりません。
知人の経済学者から「政治を語るという事は、経済を語らなければならない。」と言われ、ハッとした記憶があります。表層的なアクティビズムにおける情報ばかりを、汲み取ってしまっていたのではないか、と深く反省させられました。金融商品と芸術作品の関係については、まだまだ答えがでない部分が多いです。2010年代以降の美術史を「誰しもがアーティストになれる時代は、誰も需要がつくれなくなった。」と、させてはなりません。また、その芸術における「需要」を私たちはあらゆる手段を持って、生成しなければなりません。私は、芸術領域がつくり得る公共性と、アーティストから政治性を引き剥がした上で、マーケット成長のための「需要」をアーティストコレクティブ時代の「成功」の元に、人生をかけて、つくり上げたいと思っています。それぞれの国家間の違いや歴史を、芸術作品を通し���考察させるきっかけを、コマーシャルギャラリー及び、ギャラリストが背負っていく未来をつくっていくことを、ここに宣言させていただきます。
居場所のなかった自分に、仕事を与えてくれたアート業界に携わる全てのかたに感謝しています。最後までお読みいただき、心から感謝申し上げます。今後とも、日本のコマーシャルギャラリーや、アーティストを何卒、宜しくお願いいたします。
佐藤栄祐
tavgallery.com
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[友の会メール]小松理虔『新復興論』刊行記念イベントが続々! 発売まで、あと4日!
☆**:..。o○o。:..**☆
[友の会メールvol.304]
小松理虔『新復興論』刊行記念イベントが続々! 発売まで、あと4日!
(2018年8月28日配信)
☆**:..。o○o。:..**☆
こんばんは、スタッフの堀内です。
ゲンロン叢書第一弾となる、小松理虔『新復興論』の発売まで、あと4日となりました。
まだまだゲンロンショップ、Amazonでは『新復興論』のご予約を受付中です。
ゲンロンショップでは、8/31(金)24時までにご予約をいただいた方には送料無料でお届け!
ぜひ、お早めのご予約をよろしくお願いいたします!
ゲンロンショップ → https://genron.co.jp/shop/products/detail/178
Amazon → https://amzn.to/2Ou7Dxd
また、8/31(金)にゲンロンカフェで開催する先行販売イベントは、
おかげさまで前売チケットは完売となりました。
当日券は、18時から会場受付にて、若干数販売予定です(立ち見の可能性あり)。
ちなみにこちらのイベントは、ニコニコ生放送&YouTube Liveで無料生放送いたします。
400ページもの大著を書き上げた小松氏が語る、熱い思いとは!?
くれぐれもお見逃しなく!
ニコニコ生放送 → http://live.nicovideo.jp/watch/lv314964985
YouTube Live → https://www.youtube.com/watch?v=IW1YUQGywNg
* * * * *
また『新復興論』刊行を記念して、さまざまなイベントや小松氏のメディア出演が続々と決定しています。
昨日8/27(月)には、J-WAVE「JAM THE WORLD」さらにニコ生「津田大介チャンネル」にて、
ジャーナリストの津田大介氏と小松氏との対談が放送されました。
J-WAVEはradikoのタイムフリーで、ニコ生もタイムシフトでそれぞれ1週間視聴が可能です。
JAM THE WORLD → http://radiko.jp/#!/ts/FMJ/20180827201900
津田大介チャンネル → http://live.nicovideo.jp/watch/lv315297488
9/14(金)には、青山ブックセンター本店にて、
創刊号「福島特集」が話題となった社会文芸誌『たたみかた』の編集長・三根かよこ氏と、
小松氏との対談イベントが開催されます。
http://www.aoyamabc.jp/event/values/
10/3(水)には、ゲンロンカフェにて、
民俗学者・赤坂憲雄氏と小松氏との対談イベントを開催いたします。
司会は『リスクと生きる、死者と生きる』の著者である石戸諭氏です。
福島県立博物館館長であり『東北学/忘れられた東北』『性食考』など多数の著作のある赤坂氏を迎え、
いまあらためて復興を語ることについて議論します。
上記以外にも企画進行中のものがさらに目白押し!
『新復興論』の書籍とともに、ぜひご期待ください!
* * * * *
それでは以下、今週のカフェ&編集部からのお知らせです。
◆◇ ゲンロンカフェからのお知らせ ◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◇◇ 今週・来週の放送情報 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆8/29(水)19:30-
【生放送】さやわか×佐々木敦
「ポップカルチャー(2nd cycle)」
【ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第4期 #6】
【チャンネル会員限定・生放送】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314965497
【講評・無料生放送】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314965418
◆8/30(木)13:00-
【再放送】佐々木敦×綾門優季×小田尚稔×額田大志
「現代日本演劇の新潮流」
(2018/4/2収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314784973
◆8/30(木)19:00-
【生放送】菊地成孔×佐々木敦
「音楽/時/空間」
【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #10】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314822450
◆8/31(金)13:00-
【再放送】石戸諭×小松理虔
「数字が語らないことを語りたい
――『リスクと生きる、死者と生きる』刊行記念トークショー」
【『新復興論』刊行記念再放送 #5】
(2017/9/29収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314889641
◆8/31(金)19:00-
【無料生放送】小松理虔
「『新復興論』先行販売特別イベント」
【ゲンロン叢書第一弾】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314964985
◆9/4(火)18:00-
【再放送】夏野剛×東浩紀
「2020以前/以後
――東京はこれからどうすべきか」
【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #4】
(2018/2/21収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315192252
◆9/5(水)18:00-
【再放送】津田大介×ばるぼら×さやわか
「あなたが日本のインターネット史について知っていることはすべて間違いである」
(2017/7/6収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315192489
◆9/6(木)13:00-
【再放送】清義明×速水健朗
「スポーツ、文化、ナショナリズム
――『サッカーと愛国』から考える現代社会」
(2017/5/9収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315195807
◆9/6(木)18:00-
【再放送】速水健朗×さやわか 生徒=東浩紀
「戦術のパラダイムシフトとペップコードの謎
――オフサイドの意味すらわからない超初心者・東浩紀が、
それでもハリル解任を許さない速水健朗と元サッカー部のさやわかに聞く」
(2018/7/15収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315196117
◆9/7(金)13:00-
【再放送】白石晃士×三宅隆太×渡邉大輔
「ホラー表現と物語」
(2018/4/10収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315196528
◆9/7(金)19:00-
【生放送】赤松健×さやわか×津田大介
「合法的漫画村のつくりかた
――ブロッキングの他にこんな手があった!
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315179949
◆9/9(日)15:00-
【生放送】田中圭一×西島大介×さやわか
「効果――展開2」
【ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第2期 #9】
【チャンネル会員限定・生放送】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315181909
【講評・無料生放送】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv315208802
◇◇ 現在視聴可能なタイムシフト ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆8/29(水)23:59まで
【再放送】小松理虔×東浩紀
「浜通りから考える新しい公共性
――原町無線塔展クロージングトーク」
【『新復興論』刊行記念再放送 #3】
(2014/8/9収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314768585
◆8/30(木)23:59まで
【再放送】黒瀬陽平×さやわか
「ゲンロン×DOMMUNE presents『ゲンロン8 ゲームの時代』発売記念5HOURS!!!!!」
(2018/6/11収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314947172
◆8/31(金)23:59まで
【再放送】鴻英良×危口統之×黒瀬陽平
「ラディカルな芸術とはなにか
――芸術祭におけるアーティストと観客」
(2016/4/28収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314784303
◆8/31(金)23:59まで
【再放送】小松理虔×津田大介×東浩紀
「福島は思想的課題になりえたか
――浜通り通信全50回完結記念トーク」
【『新復興論』刊行記念再放送 #4】
(2017/7/21収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314784668
◆9/3(月)23:59まで
【生放送】荻野慎諧×土屋健 司会=馮富久
「バケモノを科学する
――『怪異古生物考』『古生物学者、妖怪を掘る』刊行記念イベント」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314829672
◆9/4(火)23:59まで
【再放送】岡本吉起×さやわか
「『ストII』から『モンスト』まで! ゲームの成功の秘訣!?
──日本のゲームの生きる道」
(2018/3/30収録)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314768811
◆9/4(火)23:59まで
【生放送】西谷格×辻田真佐憲
「中国の抗日コンテンツはプロパガンダの最前線か?」
【愛国コンテンツの未来学 #10】
http://live.nicovideo.jp/watch/lv314768240
※ご視聴は23:59まで可能ですが、ご購入できるのは視聴終了日の18:00までです。ご注意ください。
◇◇ 今週のおすすめアーカイブ動画 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆【vimeo】宮台真司 × 東浩紀
「ニッポンの展望#5 2016・秋の陣」
https://vimeo.com/ondemand/genron20160921
(2016/9/21収録)
◆【vimeo】田中功起×梅津庸一×黒瀬陽平
「いま、日本現代美術に何が起こっているのか #2.5
──個と集団から考える現代美術」
https://vimeo.com/ondemand/genron20180126
(2018/1/26収録)
★ゲンロンカフェ Vimeo On Demand 公開動画一覧
https://bit.ly/2sybMGS
◇◇ 発売中の会場チケット ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★満員御礼!★
◆8/30(木)19:00-
菊地成孔×佐々木敦
「音楽/時/空間」
【ゲンロンカフェ@VOLVO STUDIO AOYAMA #10】
https://peatix.com/event/413176
◆8/31(金)19:00-
小松理虔
「『新復興論』先行販売特別イベント
──ゲンロン叢書第一弾��
https://riken0831.peatix.com/
◆9/7(金)19:00-
赤松健×さやわか×津田大介
「合法的漫画村のつくりかた
――ブロッキングの他にこんな手があった!」
https://peatix.com/event/409475
◆9/11(火)19:00-
吉田寛×土居伸彰×東浩紀
「ゲーム的リアリズムとアニメーション
――『ゲンロン8 ゲームの時代』刊行記念イベント #2」
https://peatix.com/event/409923
◆9/13(木)19:00-
さやわか×黒瀬陽平×東浩紀
「ゲームとアートは出会うのか
――『ゲンロン8 ゲームの時代』刊行記念イベント #3」
【ゲンロンカフェ@VOLVO STUDIO AOYAMA #11】
https://peatix.com/event/418827
◆9/18(火)19:00-
清水亮×夏野剛×東浩紀
「男たちが語るトニー・スターク
――男たちが語る映画シリーズ #3」
https://peatix.com/event/391138
★New!★
◆9/24(月)14:00-
黒瀬陽平×梅沢和木×藤城嘘
「おばけやしきをつくろう!
――第5回 シャーマンになる」
【ゲンロンこどもアート教室 #25】
https://peatix.com/event/420766
★New!★
◆9/28(金)19:00-
大澤聡×片山杜秀
「『平成』の終わりに考える日本思想
――教養主義、右翼思想、社会批評」
【四天王シリーズ #4】
https://peatix.com/event/423217
◆◇ 五反田アトリエからのお知らせ ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
開催予定の展示
◆8月31日(金)-9��9日(日)15:00-20:00 ※月曜休
みなはむ個展「みなはむ展」
8月31日18:00〜 オープニングレセプション
◆9月15日(土)-9月23日(日) ※開場時間・休廊日については追って告知致します。
ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第4期生展覧会グループA「オソレの品種改良」
五反田アトリエでは武蔵野美術大学を卒業したばかりの日本画科出身イラストレーター、みなはむさんの個展を開催いたします。
みなはむさんは自然の中にたたずむ少年少女をエモーショナルに描き出す作風で、ネット上で人気を集めるクリエイター。
本展では新作はもちろん、卒業制作の一部や同人イラスト集の原画、グッズなども展示販売される予定です。
たくさんの絵が並ぶ機会となります、どうぞお楽しみに!
そして、9月半ばには新芸術校4期生の展示がスタートします、要注目です!
(藤城嘘/カオス*ラウンジ)
◆◇ 編集部からのお知らせ ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
★小松理虔『新復興論』予約受付中!
ゲンロン叢書第一弾! 8月31日(金)24時までのご予約で送料無料!
https://genron.co.jp/shop/products/detail/178
★『ゲンロン8 ゲームの時代』絶賛販売中!
日本ゲーム盛衰史を語りつくす共同討議、充実のゲーム史年表など盛りだくさん!
https://genron.co.jp/shop/products/detail/160
→『ゲンロン8』特設ページはこちら!
https://genron-tomonokai.com/genron8sp/
★毎日出版文化賞受賞『ゲンロン0 観光客の哲学』絶賛販売中!
https://genron.co.jp/shop/products/detail/103
→『ゲンロン0』特設ページはこちら!
https://genron-tomonokai.com/genron0/
★友の会第8期入会はこちら!
https://genron-tomonokai.com/8th/
→ 会費1,500円オフの超お得な『ゲンロン8』『9』セットあります! 電子書籍版『ゲンロン7』もついてくる!
https://genron.co.jp/shop/products/detail/24
◆「ゲンロン友の声」サイト、質問募集中です!
知られざるTumblrサイト「ゲンロン友の声」では、
友の会会員のみなさまからお寄せいただいたご意見・ご質問に対して、
東浩紀をはじめとするスタッフがお返事を差し上げております。ご要望などもお気軽に!
http://genron-voices.tumblr.com/
◆◇ 東浩紀 執筆・出演情報 ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◆『AERA』の巻頭エッセイコーナー「eyes」に、東浩紀が連載!
最新の記事は「男女平等では現場は回らないというのなら、諸外国の『回っている現場』に学べばいい」です。
https://dot.asahi.com/aera/2018082200023.html
これまでの記事は朝日新聞のウェブサイト「.dot」で全文をお読みいただけます。
https://dot.asahi.com/keyword/%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80/
◆◇ その他のお知らせ ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◆友の会会員のみなさまへ
<クラス30以上の座席確保サービスについて>
ご好評いただいております座席確保サービスですが、
お席の希望のご連絡を、当日16:00までに
いただけますよう、よろしくお願いいたします。
<登録情報の変更について>
お引越しなどの理由で、ご登録いただいている住所や電話番号、
メールアドレスなどに変更があった方は、
友の会サイトのフォームから申請をお願いいたします。
会員サービスページ
https://genron-tomonokai.com/service/
※株式会社ゲンロンは、土曜、日曜は休業日となっております。
営業時間は、11時-20時です。
営業時間外のお問い合わせは、お返事が遅くなる場合がございます。
ご了承くださいます様、お願いいたします。
◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
株式会社ゲンロン
〒141-0031
東京都品川区西五反田1-16-6 イルモンドビル2F
tel.03-6417-9230 / fax.03-6417-9231
http://genron.co.jp Twitter:@genroninfo
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【インタビュー】フランスの国立劇場で日本語一人芝居を上演
三島景太(SPAC俳優)・平野暁人(通訳・翻訳)インタビュー
『磐谷和泉の栄光と倦怠』のリモージュ公演を終えて
聞き手・構成:片山 幹生(WLスタッフ)
〔平野暁人氏(左)、三島景太氏(右)。2017年1月21日(土)@静岡芸術劇場カフェ・シンデレラ。写真撮影:片山幹生〕
【フランスの国立劇場での単独公演への道のり】
2016年12月、フランスの中央部にある都市、リモージュの国立演劇センター(ユニオン劇場)でSPAC俳優の三島景太の一人芝居『磐谷和泉の栄光と倦怠』が上演された。異国の地の劇場に単身で乗り込み、公演を行うなんて見上げた心意気ではないか!こうした活動はがぜん応援したくなるのが人情というものだ。しかし果敢な挑戦ではあるけれども、フランスの地方都市の劇場で、無名の日本人俳優が日本語(フランス語字幕)で一人芝居を演じたところでそれがどれほどの注目を集めるだろう、とも正直思っていた。ところがこの公演が大成功を収めたのだから痛快だ。フランスを代表するメディア情報誌『テレラマ』の12/5号に劇評が掲載されたのを皮切りに、私が確認した限り、6媒体がこの公演を劇評で取り上げ、いずれも激賞していたのだ。この作品は2014年春に『ジャン×Keitaの隊長退屈男』のタイトルで、SPAC(静岡県立舞台芸術センター)が主催するふじのくに⇄せかい演劇祭で初演されたものだ。
〔リモージュ公演写真。photo: © Tristan Jeanne-Valè〕
初演こそSPACの演劇祭での上演だったが、この作品はSPACの主導で制作されたわけでなく、昨年のリモージュでの公演もSPACは関わっていない。作者・演出家のジャン・ランベール=ヴィルド(リモージュ国立演劇センター芸術監督)が、静岡で目にした三島景太の劇的身体にほれ込み、彼が17歳のときに書いたフランス語の戯曲を三島が演じるために大幅に書き換えた。平野暁人はジャンに見込まれ、翻訳・通訳だけでなく、作品の制作まで全面的に引き受けることになった。この三人の情熱によってこの作品の公演は可能になったのである。2014年の静岡、16年のリモージュでの公演を終え、彼らはこの作品をさらに別の場所で上演することを計画でいる。インタビューでは公演実現までの道のりで、三島と平野がフランス人演劇人とどのような共同作業を行い、一つのチームとしてどのように信頼関係を育んできたのかを聞いた。
【01:偶然のチャンスを逃がさない】
片山:この作品は一人芝居ですが、俳優の三島景太さん、作・演出のジャン・ランベール=ヴ���ルドさん、そして翻訳・通訳の平野暁人さんの三人四脚で作品を作っていったのですか?
平野:三人ではなく、五人のチームで作った作品ですね。三島、ジャン、僕以外に、アシスタントのアリシア、それから音響のクリストフが、このクリエーションの核になっています。
片山:作品の初演は2014年春のふじのくに⇄せかい演劇祭ですね。それ以前にランベール=ヴィルドとSPACの間で関わりはあったのですか?
平野:ジャンがSPACで最初に上演したのは、2011年8月の『スガンさんのやぎ』という親子向けの作品でした。この作品はSPAC以外でも北九州芸術劇場と鳥取の鳥の劇場でも公演がありました。これがジャンとSPACの最初の関わりになります。
三島:ジャンがフランスで作った作品をそのまま持ってきたもので、これもイタリア人の女性俳優による一人芝居でした。
片山:ジャンが三島さんのことを知ったのはいつだったのですか?
三島:この『スガンさんのやぎ』の公演の一年前の2010年秋にジャンが静岡芸術劇場に下見に来たのです。その時に僕は今井朋彦さん演出の『わが町』に出演していました。この『わが町』のときは、今井さんの演出が好きにやらせてくれたので、それまで長年やってきたスズキ・メソッドをベースにして、人形ぶりのような動きで激しく動き回って演じてみたんです。ジャンはそのときの僕の脚の動きを見て「この役者で昔書いたあの一人芝居をリクリエーションしてみたい!」と思ったそうです。
片山:劇評でこの作品は17歳のときにジャンが書いた作品だとあったのですが、その後、十数年間、この作品が上演されることはなかったのですか?
平野:そうなんですよ。十数年上演されることがなかった作品で、ジャンの大叔父さんでかつて第一次世界大戦にも従軍したフランス兵をモデルに書かれた一人芝居だったのに、三島さんの脚の動きを見て、突然、やりたくなったっていうんです。本当にドラマチックだと思います。その後、三島さんのほうにはSPACを通じてすぐにアプローチがあったんですよね?
三島:うん、そうだった。
平野:それからわずか数ヶ月後の2011年2月に『スガンさんのやぎ』の公演の準備のためジャンが再来日しました。僕はこの作品のナレーション録音の通訳として仕事に入ることになりました。その時にジャンが僕の仕事ぶりを買ってくれて、意気投合というか、半ば口説き落とされた感じですかね。「実は今後、これこれこういう一人芝居をミシマという俳優で上演しようと思っているんだけれども、ぜひ一緒にやってくれないか?」と。その流れで急きょ三島さんにもお会いすることになりまして。
三島:2011年2月は、僕はSPACでの仕事がなくて、東京でSPACとは別の芝居の公演をやっていたんです。ジャンのこのときの日本滞在は二、三日だけだったのですが、彼が空いている日時にちょうど僕も空いていて。本当に偶然のタイミングで東京で会うことができたのです。そのときにはじめてジャンと平野くんに僕は会いました。
片山:三島さんにはSPACを通じて連絡が入ったのですか?
三島:宮城聰さんから「ジャンが三島くんの動きに興味を持ったと言っていたよ」という話は聞いていたし、SPAC文芸部の横山義志さんからは、「ジャンが昔やった作品を三島くんとやりたいと言っていたよ」と聞きました。それで僕はこれは大きなチャンスだと思って、横山さんに「俺もこの話は絶対実現させたい。ジャンとの連絡をとってくれ」と頼んでいました。
片山:でもこの時点では一人芝居だということさえ知らなかったわけですよね?
三島:どんな作品だか全く知りませんでした(笑)。でも向こうが興味を持ってくれるのだったら、是非やりたいからと横山さんからジャンに伝えてもらったのです。それで2月に会ったときにはじめて台本を渡されました。
平野:2月に再来日したときに、ジャンはなにがなんでもこの作品を三島さんで上演するつもりで、台本の粗訳を既に用意していました。なにしろ思いついたら片っ端からどんどん進めていく人なので。三島さんを見初めた、自分はやると決めた、自分はフランスの劇場の芸術監督なので最低でもそこでの上演は可能なはずだ。できるところからとにかくやっていく。それでその粗訳のチェックをしてほしいと頼まれたのです。僕は当初、何度も断りました。人様が心血を注いで上げた仕事をパラパラと流し読みしてコメントするというのは本来、著しく敬意を欠いた、プロとしてあるまじき行為ですから。ところがジャンは先ほどもお話しした通り、一旦こうと決めたら意地でも退かない人。仕方なく僕のほうが折れ、その場で読んでみたところ、いろいろ問題があり、それを指摘しました。すると「ぜひ君が翻訳をやってくれ」と頼みこまれて。どうしてもというので、単なる翻訳のピンチヒッターとしてではなく、この先も一貫して責任ある立場でこのクリエーションに関わらせてもらえるなら、という条件を提示しました。するとジャンは僕の目の前でやおらiPhoneを取り出し、フランスへ電話をかけて制作主任(=ジャンの妻)を呼び出すと、「もしもし、我らがファミリーに新しい仲間を迎えることに決めたよ。今後、日本に関する事業展開はすべて彼とやっていくから」と。あっけにとられましたが、それ以上に感激し、高揚したのをよく覚えています。
【02:日仏の文化ギャップのすり合わせ作業】
片山:地方の劇場の公演であれだけ多くの劇評が出るということは、ジャンはフランスではすでに高い評価を得ている演出家なのでしょうか?
平野:ジャンは34歳くらいでカーンの公立劇場の芸術監督になっていて、これはとても若いです。しかも彼はフランスの国立高等演劇学校(コンセルヴァトワール)の出身ではないんですね。高卒でそのまま演劇の道に入ったかんじで、フランスではきわめて稀なケースといえます。僕は僕で博士課程ではアルジェリア戦争史を専攻していたまったくの門外漢なので、ジャンに「そもそも僕は演劇の研究なんかしたことない人間なんだよ、それでもいいの?」と言ったら、ジャンは「そんなの僕もしたことないさ」という返事で。ちなみにレユニオン島の出身です。生まれ育ちはレユニオンで、高校を出てから劇場などでバイトしながらお金をためて、確かパリで仲間と一緒に廃屋のようなところを借りて、自分たちで手直ししながらアンダーグラウンドで活動をはじめたと聞いた気がします。いわば雑草育ちの成り上がりですね。フランスの演劇人としては極めてユニークなキャリアの持ち主ですが、かなり早い段階でパリのシャイヨー国立劇場に招かれて作品を作っていますので、いわゆるエリートではないのだけれど、かなり若くから実績を積んできた人だといえます。
片山:翻訳にあたって、彼からリクエストはありましたか?
平野:翻訳と翻案の線引きですね。もともとはフランス軍人が主人公で第一次世界大戦の塹壕戦の話なのですが、それが日本人で第二次世界大戦になっている。骨格が大幅に変わるわけです。ジャンは、いかにも「西洋人がオリエンタリズムでやってみました」みたいにはしたくないと言っていました。かん違いしてわびさびにあこがれてとか、サムライやチャンバラとかに染まっているようには絶対したくないということで、丁寧に取材・調査していました。僕もそういう残念なフランス人には辟易していたので、ジャンの姿勢にとても好感をもちました。
片山:仏語版と日本語版の一番大きな違いは、第一次世界大戦が第二次世界大戦になったことみたいですが、他の状況設定については、あまり変更はなかったのでしょうか?
平野:あとは「神」の問題ですね。キリスト教的な発想を日本語版ではどうするのかという問題がありました。日本人兵士の話なので、キリスト教の一神教的世界観はあり得ない。ある程度は天皇であるとか、神道と仏教の混交など、日本的宗教観に寄せていかなければ説得力を持たない。この点についてはジャンと相当議論を重ねました
片山:このすり合わせで、フランス人であるジャンが持っている日本観とこちらの認識とのずれが問題になったりしませんでしたか?
平野:ジャンは勉強家で知識がありますし、他者や異文化に対する敬意もしっかり持っている人ですから、こちらが丁寧に説明すると「なるほど、それはきっとそうなんだろう」という受け取り方をしてくれました。「あなたがたはそう言うけれど、フランス人はこう思っているからこちらに合わせてほしい」というのはない人です。
片山:彼がレユニオン出身というのと、そういった相対化できる視点というのは関係あるかもしれませんね。
平野:そうですね。あの人は、いわゆる六角形のフランスについても距離のある人です。海外県、すなわち旧植民地であるレユニオンで育ったからこそ距離をとってフランスを見られる。それと同時に、レユニオン出身であるからこそ、フランスで活動するにあたっては、正統性を担保するというか、文学や哲学などのヨーロッパの教養の正統や根幹的部分は大事にしていますね。そこを押さえていないと軽んじられるというのがあるのかな。
片山:ジャンからは演出にあたってどのような要求がありましたか?
三島:最初は色んな映像を見せられました。外国の監督が撮った日本の軍人の映像とか、あとはフランスに行く前にこの作品を見ておいてくれというのがいくつかあって、それが市川崑監督の『ビルマの竪琴』と『野火』、それから小林正樹監督の『人間の条件』。
片山:演技のレファレンス資料としては、指定された映画の映像がベースだったのですね?
三島:それはもちろん、かなり参考にしました。この場面はあの映画のあの感じでという風に指示があって。「これで本当にいいのかな?」と思いながら、自分なりに考えてやったことを提示しました。お互いの誤解の中から、コミュニケーションが積み重なって、それが表現になっているように感じました。
【03:独立した個人のプロジェクトとして作品制作を始める】
片山:2010年の秋に三島さんを見て、それから2011年の2月にはもうこの作品を三島さんで再演することを決めていたんですね。でも初演は2014年春なので、それからかなり時間がたっていますね? 実際の稽古はSPACの公演が決まってからはじまったのですか?
三島:いえ、2012年の12月に、当時ジャンが芸術監督をやっていたカーンに呼ばれて、クリエーションしました。2週間で作ってしまう感じ。
平野:この時点ではSPACでは公演の話は全然出ていなくて。公演の可否については宮城さんも保留だったのですが、われわれはそういう状況のなかで実現に向けてできることを進めていきました。
三島:きっかけはSPACだったのですが、SPACとの契約ではなく、僕個人の活動としてこの作品の制作を行うというかたちで、作品を作っていったのです。平野さんもSPACとの契約ではなく、僕とジャンとの独立した仕事としてこの作品に関わることになりました。
平野:SPACの制作ではなかったので、稽古場をお借りするのもそう簡単ではなく、ジャンが当時、芸術監督をやっていたカーンの劇場が制作を丸抱えする形でのスタートでした。それでカーンにわれわれを呼んで、航空券、滞在費、ギャラもカーンの劇場が持つ。ジャンは男気のある人なので、自分がやると決めたら責任もって引き受ける、親分肌の人なんです。そこで2週間稽古を行いました。
片山:2012年の12月にカーンで2週間のクリエーションをやって、そこで試演会をやったのですか?
三島: 12月に劇場関係者の人に通し稽古は見せました。このときは美術はなしです。セリフも完全に覚えるのではなくて、台本を譜面台みたいなものに置いてそれを見ながら動くという感じでした。その一年後の2013年12月に美術も作り、字幕も出すかたちで、カーンでプレ公演を行いました。カーンの劇場からちょっと離れた場所にある稽古場のような場所です。その時点には2014年春のSPACふじのくに⇆せかい演劇祭で上演されることは決定していました。日本初演が決まっているなかでのフランス稽古というつもりで僕は行ったのですが、実際には稽古は一週間だけで、残りの一週間はほとんど色んな人に見せるプレ公演というという感じでした。
【04:ふじのくに⇄世界演劇祭での初演】
片山:ふじのくに世界演劇祭での公演はどういう風に決まったのですか?
三島:当初は春フェスでの上演ではなくて、SPAC俳優の自主企画公演、《ピアノと朗読》みたいな感じの延長線でできればいいなと僕は考えていました。そういう形でなら上演できるように思ったのです。ところがジャンが直接宮城さんに上演を売り込んだんです。ものすごく熱心に。メールはもちろん、仕事やバカンスで日本に来たとき、少しでも時間があると静岡にすっ飛んできて、「三島と創る芝居をSPACで上演させてくれ」と宮城さんに直談判したんです。しまいには「やってくれないと噛みつく」とか宮城さんに言ったそうです(笑)。宮城さんは最初はニコニコしながらいなしていたのですが、ジャンのその熱意は我々の作品の《SPACでの上演》という方向に宮城さんを動かしたのです。まさか芸術祭のプログラムとして上演されるとは僕は思っていなくて、芸術祭での上演が決まったときはものすごいプレッシャーを感じました。
片山:私が演劇祭での初演時にこの作品を見に行かなかったのはあのタイトルが実は引っかかったからなんですよ。フランス人の勘違いジャポニスムが盛り込まれた作品かなと思ってしまったのです。
平野:そうですか。あのタイトルは宮城さんの提案なのですが、我々としては演劇祭というこれ以上ない場を用意していただけた以上、あとはお任せしようと。ジャンは「宮城さんがやると言ってくれたんだから、細かいことはぜんぶ任せる」みたいな任侠の人のようなところがある人なんです。日本語のタイトルは『旗本退屈男』のもじりになっていて、実際にそれで興味を持って観に来てくださった観客の方も多かったと思います。
片山:静岡での初演の反応、感触はどうでした?
三島:正直、初日の舞台が終わるまでは、自分でもこの作品が日本人の観客にどう受け止められるか本当に不安でした。「こういうのもありだけれど……」という保留つきの反応が多いのではとか。
片山:静岡の前にやったカーンの試演会での反応はどうだったのですか?
三島:カーンでは評判がすごくよかったんです。ただ見に来ていたのはほぼ関係者だったので、一般の観客のフラットな評価というふうには受け取れませんでした。
片山:それでは日本での初演のときはかなり緊張されましたか?
三島:ものすごく緊張しましたね。終わって照明が消えたあと、ぱらぱらと拍手があるくらいかなと思っていたのですが、初日の舞台が終わってカーテンコールのときの拍手が、予想していたよりも熱狂的で、手ごたえを感じました。本番前の通し稽古を見に来てくれたSPACの人たちもいたのですが、一人芝居だったのでとりわけ感想を言うと僕が影響を受けると思って気をつかっていたみたいで。「がんばって」ぐらいで、感想については宮城さんも含め誰も一切何も言わなかったのです。
片山:平野さんも初日、当然劇場にいらしたと思うのですが、「やった!」という手ごたえはありましたか?
平野:実はあまりよく覚えてないんですよ(笑)。僕は上演中も字幕オペをやっていたんですが、これがかなり大変で。終演後はすぐにアフタートークの通訳をやらなくてはならなかったし。感慨とかお客さんの反応をうかがう余裕がなかったんですね。でも手前みそではありますが、宮城さんが翻訳をとてもほめてくださって。「これは平野君でなければできない仕事だったんでないか」と後からわざわざメールをいただきました。一方で非常に詩的なテクストだったので、耳で聞くだけでは理解しにくい箇所があるのではないかという懸念が稽古の段階から取沙汰されており、それについての具体的かつ有意義なご指摘もいただきました。
〔リモージュ公演写真。photo: © Tristan Jeanne-Valè〕
【06:制作チームの信頼関係】
片山:2014年春のSPACでの公演以降は、昨年末、2016年12月のリモージュでの公演まで、この作品の公演はなかったのですね? 「いったいどうなったのだろう?」と不安になったりしませんでしたか?
三島:ジャンは「いずれフランスで必ずやるから」と言っ��いたので、いつか上演の機会はあるだろうと思っていました。焦りは全くなかったですね。僕はこの作品は自分のライフワークとしてやることになる作品と考えています。長いスパンで上演を続けて、そのときどきの経験でゆっくり育てていく作品にしたいと思っていますので。
平野:その間にジャンはカーンの劇場からリモージュの劇場に移籍しました。われわれがなぜこんなに安心してこの作品に取り組んでいけるかと言うと、ジャンは本当に言ったことを全部やる男なんですよ。「リモージュには劇場だけでなく、俳優養成の学校がある。自分はそろそろ次代の俳優を育成することも考えていかなければならないと思っている。だから絶対リモージュに行くんだ」、と彼は前から言っていました。で、そのとおり移ったんですね。個々のプロジェクトから自分の進路まで、有言実行の人なんですよ。2014年にSPACでやって、当初はその翌年にフランスでやると言っていたんですけど、それがだめになっても、ジャンがやると言っているんだから、どうせいずれフランスでやるんだ、という気持ちでわれわれは待っていました。
片山:リモージュでの公演決定の連絡があったのはいつ頃だったのですか?
三島:2015年の秋ですね。ちょうど僕はSPACで『王国、空を飛ぶ』の稽古をやっていたときでした。『王国』のときは筋肉トレーニングをハードにやっていた時期で体がサイズアップしていたので、それを来年に向けて体を絞っていかなければならないなと思ったのを覚えています。
片山:フランスでの公演の場合、契約はどのように行ったのですか?
平野:この作品に関してはSPACを通しての契約ではなく、僕は翻訳、通訳、字幕オペのほか、契約手続きを含め、制作業務全般を行いました。スケジュール調整から航空券の購入、出演料、映像や写真の整理、稽古日を含めた日当の問い合わせなど全てです。またこの作品では、私は翻案で大きく関与したので、僕とジャンの共作になっています。権利を完全に二等分にしようとジャンの方から���先して提案してくれたのです。著作権使用料も僕はいただいています。こういう部分でジャンは本当に信頼できる人間なんですよね。ファミリーになったら駆け引きとかいっさいしない。ちょっとマフィアっぽいというか。もちろん外とはいろいろ交渉するんですよ。でも身内になったら何でもざっくばらんに言えるし、絶対に嘘はつかない。
三島:出演料、交通費、滞在費などすべてリモージュの劇場の負担でした。
片山:向こうでのクリエーション期間中はどこに滞在していたのですか?
三島:劇場から歩いて15分くらいのところにあるアパルトマンに滞在しました。
平野:公演の稽古の前にまず2週間、演劇学校での授業というのがあって。この演劇学校での授業と公演のセットで招かれたんです。前半2週間は授業、後半2週間は公演というかたちです。
片山:授業プログラムを考えて渡仏したわけですね。
三島:SPACでやっている俳優訓練法を柱にごく大ざっぱにプログラムをイメージしていました。2週間のワークショップの講師をやるのは僕にとっては初めての経験でした。現場で生徒たちの状態を見てから具体的にどうしようか決めました。
片山:最後に作品を上演したりしたのですか?
三島:俳優訓練法だけだと間が持たないかなと思って、後半の一週間は作品を作ろうかなと思って戯曲も用意していたのですが。実際には作品を作る時間はなかったです。一日6時間で2週間、月から金で10日間なのでけっこう時間があると思っていたのですが。
片山:フランスの俳優志望の生徒たちは、頭でっかちでフィジカル面で弱い人が多いと聞いたことがあるのですが、どうでしたか?
三島:いやフィジカルができていないなんてことはなかったです。リモージュの生徒たちはすごく優秀でした。ただ同じようなことを僕も聞いていたので、行く前は日本の高校演劇みたいな感じなのかなと思っていたのですが、とんでもなかったです。
平野:補足しますと、校長であるジャン自身がものすごく俳優の身体性に重きを置く人なんです。彼が三島さんにほれ込んだ最大の理由は、それこそ三島さんがフランス人俳優が持っていない身体性を持っている点で、逆に言うと三島さんがこれだけほれ込まれたのはジャンからするとフランス人俳優の身体に不満があったからですね。そういうこともあって、彼がリモージュに移って最初に選んだ生徒たちの選考においては、身体性を重視したそうです。500人からの応募があったと聞いています。
片山:現地ではコミュニケーションのギャップみたいなことはなかったですか?
三島:ないですね。コミュニケーションに対しては皆無。最初は言っていることがうまく伝われないとかあるんではないかと思ったのですが、そんなことはまったくなくて。ちょっと説明したら本当に本質的なところにたどり着く。あ、これできるんだったら、これもやろうという感じで、どんどん進んでいきました。思っている以上に何もかもがスムーズでしたね。
平野:学校だけでなく、2012年のジャンとの付き合い以来、われわれのあいだでコミュニケーションの行き違いみたいなことはまったくなかったです。ジャンの演出の面でも、スタッフとのコミュニケーション、劇場スタッフの受け入れ態勢にも。アシスタントもいつも身を粉にして働いていつも機嫌がいいし。ジャンはそういう環境づくりに長けているんですよね。気持ちよく仕事ができない人とは仕事はしない。
〔リモージュ公演写真。photo: © Tristan Jeanne-Valè〕
【07:リモージュ公演の様子】
片山:今回は公演のための稽古は現地でどれくらい行ったのですか?
三島:リモージュでの稽古期間は4日間だけでした。そのうちジャンがいたのが2日だけ(笑)。それも一日中やるわけではなくて、「疲れているだろうから2時入りでいいよ」みたいな。 稽古の初日にいきなり頭から最後までやりました。この初日稽古には演劇学校の生徒たちが見に来てくれました。
片山:日本でも相当な段階まで準備していたのですか?
三島:2014年にやったことを踏まえて、セリフだけはしゃべり込むだけしゃべり込んでいこうと思っていて、リモージュ行きの三か月前から準備していました。ノルマを決めて一日に何回、最初から最後までセリフを間違えずにしゃべるとか。本能に叩き込むという感じでなければだめだと思って。それでセリフは完璧に入れて向こうに行ったのです。しかしセリフ以外は全部忘れていました。でも音がかかった瞬間に、体の記憶というのは根深くて、その感じにすっと戻れた。
片山:リモージュ版では2014年のSPAC版からの変更点はありましたか?
三島:SPAC版では4面囲みだったのが、3面囲みになりました。これが大きい変更点ですね。日本の公演では真ん中に櫓にあって、客席が4面でした。背中まで見られていたのです。リモージュ公演では字幕をつけなくてはならないので、3面になりました。櫓は盆踊りの櫓がモデルなので、食卓テーブル二つ分くらいの広さです。
片山:日本の歌曲も作品で使ったようですが、これはジャンからそういうリクエストがあったのですか?
平野:一緒に調べました。例えば学校の愛唱歌で誰でも知っている曲とか、少し神秘的なものとか。一緒に探してYoutubeで聞かせてという感じで。
片山:今回、私が確認しただけでも劇評が6本ありました。これは異例なことだと思うのです。地方の劇場での公演で6本、しかも好意的でかなり熱い内容の劇評が多かった。向こうの観客の反応も熱狂的でしたか?
平野:お客様の反応は本当によかったですね。
片山:リモージュ公演のほうがむしろ日本での初演より緊張はなかったのですか?
三島:リモージュでの公演は、日本での初日ほどセンシティブというかナイーブ、不安になることはあまりなかった。体の状態が多少万全とは言えないところがあったので、最後まで同じ状態でいけるかなというのはありましたが、これはまあ普通によくあることなので。
片山:劇場のキャパはどれくらいだったのですか?
三島:150人くらいです。
平野:舞台上舞台の特設だったので、それくらいになりました。本来の座席数は400くらいです。
片山:今回の成功のカギは? やる前から「いけるぞ」という感じはあったのですか?
三島:僕はフランスに関しては大丈夫だと思っていました。カーンでやったときの感触からいって。
平野:カギはやはり三島さんの身体ですね。
片山:フランスの観客からすると非常に特異で印象的な身体性だったのですね?
平野:本当にそれはそうだと思います。90分という長時間、一人で舞台にたち、膨大な詩的なテクストを語る。字幕が観客にとってストレスになるかと思ったら、「いや、大丈夫。途中からそんなに読もうと思わなくなった(笑)。あの人を見ていればいいから、そんなに字幕が読めないストレスはない」といったことを言われました。書き手としては複雑かもしれないし、せっかく長台詞覚えた三島さんも気の毒だし、ついでに字幕をせっせと出している僕もちょっとだけ悲しいですけれど(笑)、それだけ三島さんの身体の存在感があったということだと思います。
三島:僕としては、ことばによって自分の身体が持っている潜在的な感覚を解放するという感じです。自分が何かをコントロールしているというよりは、言葉を発した時に体のなかに起こっていることにあらがわないでやっているだけなんです。それがいいのかもしれない。ジャンの演出自体、俳優の作為みたいなことを一切やらない。自然に出てきたもの自体をどう見せるかという感じなので。
片山:再演の予定はありますか?
平野:いろいろと話は出ていて固まりつつあるのですが、今の段階ではまだちょっと言えない状況ですね。フランスでも再演を目指していますが、まずは日本での再演を狙っています。
【プロフィール】
三島景太
1967年生。福岡県福岡市出身。水戸芸術館ACM劇場専属俳優を経て、1997年のSPAC創立時より所属。宮城聰、鈴木忠志、イ・ユンテク、竹内登志子、オマール・ポラス、原田一樹、今井朋彦、小野寺修二等、様々な演出家の作品に出演。国内外40都市以上での公演経験を誇る名優。主な主演作品『ロビンソンとクルーソー』『ドン・ファン』『ドン・キホーテ』など。
平野暁人
東京都出身。翻訳家、通訳(フランス語、イタリア語)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手がける。戯曲翻訳としてはパスカル・ランベール『愛のおわり』、モーリス・メーテルリンク『盲点たち』他多数。訳書にカトリーヌ・オディベール『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)、クリストフ・フィアット『フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ』(明石書店)他。演劇における日仏共同事業の仲介者として、青年団やSPACをはじめ、ジュヌビリエ国立演劇センター、リムーザン国立演劇センターなど国内外に複数の拠点を置き活動を続ける。
ジャン・ランベール=ヴィルド Jean Lambert-wild
劇作家・演出家。1972年、アフリカ・アジア・ヨーロッパの文化が混在するレユニオン島(フランス海外県、マダガスカル島の東方)生まれ。その特異な風土で培われた詩的想像力と、舞台技術に関する豊富な知識に支えられた魔術的演出術が高く評価され、2007年にノルマンディー国立演劇センター(コメディ・ド・カーン)、2015年よりリムーザン国立演劇センター(ユニオン劇場)の芸術監督、ユニオン・アカデミー、リムーザン国立演劇学校の校長。公式ウェブページ(英語):http://www.lambert-wild.com/en
【参考リンク】
・ 『磐谷和泉の栄光と倦怠(ジャン×Keitaの隊長退屈男)』舞台映像抜粋Splendeur et lassitude du capitaine Iwatani Isumi:https://youtu.be/x4dNBJw87nQ
・ ユニオン劇場アカデミーでの三島景太ワークショップ Stage « Méthode Susuki » dirigé par Keita Mishima : http://academietheatrelimoges.fr/stage-methode-susuki/
・ ユニオン劇場『磐谷和泉の栄光と倦怠』公演ページ:http://www.theatre-union.fr/fr/spectacle/splendeur-et-lassitude-du-capitaine-iwatani-izumi
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