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#国の富をなす根源は何かといえば社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ
tecchaso1988 · 3 years
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#読書 #論語と算盤 #守屋淳  Amazonの誕生日欲しいものリストから @1213takumi はまちゃんが選んでくれた本が届きました🙏 良本をチョイスしてくれて感謝✨   道徳と経済的利益追求 両立の可能性を追求する日本人としての志を 後世の僕らに示してくれた方 #渋沢栄一   僕もその遺志 を担う一人の日本人で在れるように頑張ります🙏   #読書メモ #実業とは多くの人にモノが行き渡るようにするなりわいなのだこれが完全でないと国の富は形にならない #国の富をなす根源は何かといえば社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ #一個人の利益になる仕事よりも多くの人や社会全体の利益になる仕事をすべきだ #徳川家康という人ほどうまく適材を適所に配置して自分の権勢を上手に広げた謀事の達人は他にいない #人が世の中を渡っていくためには成り行きを広く眺めつつ気長にチャンスが来るのを待つということも決して忘れてはならない心がけである #世間には随分と自分の力を過信して身の丈を超えた望みを持つ人もいるが進む事ばかり知って身の丈を守ることを知らないととんだ間違いを引き起こすことがある #名声とは常に困難でいきづまった日々の苦闘のなかから生まれ失敗とは得意になっている時期にその原因があるこれは真理である #一生涯を通じて大きな志からはみ出さない範囲のなかで小さな志を立ては移り変わり工夫をする #志を立てる要はよく己を知り身の程を考えそれに応じてふさわしい方針を決定する以外にないのである #本当の経済活動は社会のためになる道徳に基づかないと決して長く続くものではない #高い道徳を持った人間は自分が立ちたいと思ったらまず他人を立たせてやり自分が手に入れたいと思ったらまず人に得させてやる #お金の本質を本当に知っている心ある人は良く集めて良く使い社会を活発にして経済活の成長を促すことを是非とも心がけてほしい #世間はお金を大切にするという意味を間違って解釈しているお金に対して無駄に遣うことは戒めなければならないが同時にケチになることも注意しなければならない #人が何か自分の務めを果たすというときにはワクワクするような面白みを強く持ってほしい #理解することは愛好することの深さに及ばない愛好することは楽しむ境地の深さに及ばない #一日を新たな気持ちで日々を新たな気持ちでまた一日を新たな気持ちで #勝つことばかり知ってうまく負けることを知らなければそのマイナス面はやがて自分の身に及ぶ #自分磨きは自分の心を正しくして魂の輝きを解き放つことなのだ #個人の豊かさとはすなわち国家の豊かさだ個人が豊かになりたいと思わないでどうして国が豊かになっていくだろう #信用こそすべてのもととなるわずか一つの信用もその力はすべてに匹敵する #自分ができることをすべてしたうえで運命を待て #人は人としてなすべきことを基準として自分の責任を果たし自分の人生の道筋を決めていかなければならない #現代人の多くはただ成功とか失敗とかいうことがけを眼中に置いてそれよりももっと大切な天地の道理を見ていない #普通の人は往々にして巡り合った運命に乗っていくだけの智力が欠けている #正しい行為の道筋は天にある日や月のようにいつでも輝いて少しも陰ることがない #成功や失敗といった価値観から抜け出して超然と自立し正しい行為の道筋にそ��て行動し続けるなら成功や失敗などとはレベルの違う価値のある生涯を送ることができる https://www.instagram.com/p/COadXnQL1Mv/?igshid=1fyqnna6bgrtb
#読書#論語と算盤#守屋淳#渋沢栄一#読書メモ#実業とは多くの人にモノが行き渡るようにするなりわいなのだこれが完全でないと国の富は形にならない#国の富をなす根源は何かといえば社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ#徳川家康という人ほどうまく適材を適所に配置して自分の権勢を上手に広げた謀事の達人は他にいない#人が世の中を渡っていくためには成り行きを広く眺めつつ気長にチャンスが来るのを待つということも決して忘れてはならない心がけである#世間には随分と自分の力を過信して身の丈を超えた望みを持つ人もいるが進む事ばかり知って身の丈を守ることを知らないととんだ間違いを引き起こすことがある#名声とは常に困難でいきづまった日々の苦闘のなかから生まれ失敗とは得意になっている時期にその原因があるこれは真理である#一生涯を通じて大きな志からはみ出さない範囲のなかで小さな志を立ては移り変わり工夫をする#志を立てる要はよく己を知り身の程を考えそれに応じてふさわしい方針を決定する以外にないのである#本当の経済活動は社会のためになる道徳に基づかないと決して長く続くものではない#高い道徳を持った人間は自分が立ちたいと思ったらまず他人を立たせてやり自分が手に入れたいと思ったらまず人に得させてやる#お金の本質を本当に知っている心ある人は良く集めて良く使い社会を活発にして経済活の成長を促すことを是非とも心がけてほしい#世間はお金を大切にするという意味を間違って解釈しているお金に対して無駄に遣うことは戒めなければならないが同時にケチになることも注意しなければならない#人が何か自分の務めを果たすというときにはワクワクするような面白みを強く持ってほしい#理解することは愛好することの深さに及ばない愛好することは楽しむ境地の深さに及ばない#一日を新たな気持ちで日々を新たな気持ちでまた一日を新たな気持ちで#勝つことばかり知ってうまく負けることを知らなければそのマイナス面はやがて自分の身に及ぶ#自分磨きは自分の心を正しくして魂の輝きを解き放つことなのだ#個人の豊かさとはすなわち国家の豊かさだ個人が豊かになりたいと思わないでどうして国が豊かになっていくだろう#信用こそすべてのもととなるわずか一つの信用もその力はすべてに匹敵する#自分ができることをすべてしたうえで運命を待て#人は人としてなすべきことを基準として自分の責任を果たし自分の人生の道筋を決めていかなければならない#現代人の多くはただ成功とか失敗とかいうことがけを眼中に置いてそれよりももっと大切な天地の道理を見ていない#普通の人は往々にして巡り合った運命に乗っていくだけの智力が欠けている#正しい行為の道筋は天にある日や月のようにいつでも輝いて少しも陰ることがない#成功や失敗といった価値観から抜け出して超然と自立し正しい行為の道筋にそって行動し続けるなら成功や失敗などとはレベルの違う価値のある生涯を送ることができる
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takahashicleaning · 4 years
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TEDにて
アラナ・シェイク:コロナウィルスから予想される感染症の未来
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
国際保健の専門家、アラナ・シェイクが、2019年に発生したコロナウィルスのアウトブレイク(突然発生)の現状と、そこからわかる今後起こりうるエピデミック(地域的大流行)について語ります。
アラナ・シェイク。国際保健コンサルタントであり、エグゼクティブ・コーチ。個人・組織・社会全体のエピデミックに対する抵抗力を専門とする。ジョージタウン大学で学士号を、ボストン大学の公衆衛生修士号取得。これまでに7ヶ国に居住し、著書に「What's Killing Us: A Practical Guide to Understanding Our Biggest Global Health Problems(私たちを殺すもの:人類最大の世界保健問題を理解するための実践ガイド)」がある。
最近は、英国の「デイリー・テレグラフ」紙に国際保健安全保障についての記事を寄稿し、Annual Review of Comparative and International Education誌にエッセイが掲載された。
コーチングや個人の抵抗力に関するブログ(www.thisworldneedsbrave.com)を書いている。このビデオは、TEDカンファレンスの形式で地元コミュニティが独自に運営するTEDxイベントにおいて収録されたものです。詳しくは http://ted.com/tedx をご覧ください。
この話をするにあたりまず、私自身の経歴を少し紹介しておきます。というのも言わせてもらうと、今、けっして耳を貸すべきでないのが、COVID-19についての年配の人の意見だからです。私は、国際保健の仕事を始めて20年になり、専門としている分野は医学/医療制度で、医学/医療制度が重度の打撃を受けた時、どんな対処が可能かです。国際保健の報道に従事したこともありますし、国際保健と生物テロに対する安全措置についての記事を新聞やウェブ上のメディアに寄稿したこともあり、数年前には本も書きました
人類が直面する大きな健康上の脅威についての本です。私がこれまで支援・主導してきた疫学に関する取り組みは、エボラ治療センターの評価から医療施設内における結核伝染の分析。鳥インフルエンザ対策まで様々です。私は、国際保健の修士号を持っていますが、医師でも看護師でもありません。私の専門は患者や個人に対する個別のケアではなく、国民と医学/医療制度との関わりを調べ、大規模な疾病が発生するとどうなるかを調べることです
医療情報を国際保健に関する専門性の観点から1〜10の間で評価するとして、無名の誰かのフェイスブック投稿が1で世界保健機関(WHO)からの情報が10なら、私の言うことは7か8程度に考えてください。それを前提に私の話をお聞き��ださい。
まずは基本情報から入ります。COVID-19に関する質の低いメディア情報のせいで失われているように思うからです。COVID-19とは、コロナウイルス感染症のことで、コロナウイルスとは、あるウィルスの特定の亜種です。ウイルスのなかでも、変わった特徴を持っています。遺伝物質としてDNAではなく、RNAを使うウィルスで、ウィルス表面がぐるっと突起で覆われていて、これを細胞に侵入する際に利用します。
この王冠(corona)のような突起が「コロナ」と言われる所以です。COVID-19は新型コロナウイルス感染症として知られていますが、なぜかというと、2019年12月までは、コロナウイルスは6種類しか知られておらず、COVID-19が7種類目だからです。新発見で新しいゲノム構造で新しく名前がついたばかりだから「新型」なのです。
SARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)を覚えていますか?どちらもコロナウイルスの一種です。両方とも呼吸器症候群と呼ばれています。それがコロナウイルスの特徴だからです。肺を攻撃するのです。嘔吐も眼球からの出血もありませんし、他の形での出血も起こりません。代わりに肺がやられます。
COVID-19も同じです。幅広い呼吸器症状を引き起こします。乾性(痰のない)の咳や熱に始まり、致命的なウィルス性肺炎まで、この症状の幅広さが一因でアウトブレイク(突発的発生)の追跡が、こんなにも難航しているわけです。たくさんの人が COVID-19に感染しますが、症状があまりに軽いために医療機関にかかることもなく、医療機関のシステムにも認識されません。
コロナウイルスは、動物由来感染症といって動物から人へと伝染するウイルスです。COVID-19など一部のコロナウイルスは、人から人へも伝染します。人から人へと伝染するウイルスは、移動速度が速く、移動範囲も広いです。COVID-19が良い例です。動物由来感染症の撲滅は非常に困難です。動物というウイルス源があるからです。
例えば、鳥インフルエンザ、シチメンチョウやカモなど、畜産されている鳥獣からは駆逐できます。それでも毎年、再発生し続けているのは、野生の鳥から感染するせいです。あまり話題にならないのは、人から人へと伝染しないからですが、毎年、世界中の食鳥飼育場でアウトブレイクが起こっています。
COVID-19の場合。中国の武漢にある野生動物市場で動物から人間へ伝染したという線が濃厚です。ここからは基本情報から離れた話になります。大規模なアウトブレイクはこれが最後ではありません。今後も繰り返し起こります。エピデミック(地域的大流行)も然りです。「起こるかもしれない」ではなく「起こる」です。それは、私たち人間の地球との関わり方がもたらした結果なのです。
人間がとっている選択こそが、今後もアウトブレイクが繰り返される状況へと私たち人間を追い込んでいるのです。
つまり、人里離れた場所を人里に近づけ続ける限り、アウトブレイクはこれからも起こり続けます。検疫や渡航制限といった措置では、アウトブレイクを食い止めることはできません。直感的には誰もがそうしたがります。人々が移動しなければ、アウトブレイクを防げるはずだ!と。しかし、現実では、効果的な検疫の仕組みを整えるのは非常に困難ですし、渡航制限を設けるのも非常に困難です。
公衆衛生の整備にしっかり力を入れてきた国。例えば、米国や韓国などでさえ、この種の渡航制限を設けるとなるとアウトブレイクを直ちに食い止められるほど迅速にはできません。それには物流上の理由があり医学的な理由もあります。COVID-19でいえば、現時点では、感染してから全く症状のない期間が最長で24日だということがわかっています。
アウトブレイクの深刻化を防ぐ、長期的な対策とは、ラリーブリリアントも提唱しているように、国際的な医学/医療制度を築き、世界中すべての国における基本的な医療の仕組みを整える支援をして、貧しい国であっても全世界各国で新たな感染症が現れしだい、迅速に特定・処置できるようにすることです。
日本は、国民皆保険が整備されていますが、世界では医療格差や不平等が死者を出しているのです。まず、アウトブレイク初期に貧しい人々が死亡します。そして、アウトブレイクが広がると世界中で死亡者が出ます。私たちが、本当にアウトブレイクを緩和し、被害を最小に留めたいのなら、世界中すべての国が新たな疾病を特定し、治療し、情報共有のため報告する能力を備えるように手を尽くす必要があります。
COVID-19は、医療/医学研究機関に甚大な負荷をかけるでしょう。今日は、致死率の話をするつもりはありません。現時点でCOVID-19の致死率について統一見解など存在しないからです。しかし、見解が一致する数字が今あるとすれば、それは COVID-19感染者の20%が、入院を要するということです。
しかし、こういった準備が万端だったとしても、アウトブレイクは起こります。地球にどのように住むかという私たちの日々の選択の結果、避けられないことなのです。
最後に、私からのアドバイスです。手を洗うこと! まめに手を洗いましょう。皆さん清潔な方々でしょうから、すでにこまめな手洗いはされているでしょうが、洗う頻度をもっと上げてください。手���いを思い出すヒントや習慣を生活の中に設定しましょう。建物に入るとき、出るとき、毎回手を洗いましょう。会議室に入る前も出た後も手を洗いましょう。手洗いに関する「儀式」を設けましょう。携帯電話を消毒しましょう。
皆さん、洗っていない汚い手でしょっちゅう携帯を触りますね。トイレに持っていっていることもお見通しですよ。ですから、携帯電話は消毒し、公衆の場での使用を控えましょう。顔を触らない。目をこすらない。爪を噛まない。手の甲で鼻をこすらない。そもそも見てて汚いのでやめましょう。
アウトブレイクに対処するにあたり、地味ですが有効な選択肢もあります。例えば、医療の改善。地元であらゆる場所で取り組むこと。医療の基盤整備への投資。新しい疾病が発生したらわかるよう、疾病の実態調査への投資。全世界で医学/医療制度を整えること。サプライチェーンの強化を検討し緊急事態の需要に備えること。
そして、人々がわけもわからず、ただパニック状態になったりしないで、疾病のアウトブレイクやリスクの数字の話ができるように教育の質を上げること。公平さを考慮して進めるべきです。
今日は、ご静聴いただきありがとうございました。そして、一番に言わせていただきますが、会場を出たらまず手を洗ってください。
(個人的なアイデア)
アメリカのノーベル賞受賞経済学者ミルトン・フリードマン、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」も言うように、金融危機2008、コロナショック2020などの急落に直面する対策として、ゼロ金利、マイナス金利、金融政策が出尽くした後に、よく登場する最速実行再分配政策が、個人への緊急的な現金給付!!!
各国によってスピードは異なるが、政策閣議決定後、人間の限界を遥かに超えるスピード。1秒以内で現金到着が理想。各国競争してみれば、今後の恒久対策として中央銀行のデジタル通貨なども考慮しつつ、新産業が産まれプラスサムになるかもしれません。
MMT(Modern Monetary Theory)によると、現状の貨幣での現実的なアイデアとして、社会保障に還元される日本の消費税は現状維持しつつ、現金給付額にも消費税がかかるので現金給付額を上げて、毎月給付にすると消費税率と社会保障費下支えとが均衡状態になる?と同時に、実体経済の経済成長率「g」の下支えにも寄与する?
これらの総量が、急激な不況時の資本収益率「r」以上なら、もしかして?回復して正常な経済環境に戻る期間も短縮できるかもしれません。
スペイン風邪から国民皆保険を構築した岸総理(他には、国民皆年金、最低賃金法もあります)現政権の安倍総理、母方の祖父を見習いコロナウイルスから、毎月の国民皆給付を構築すれば歴史に残る業績になるし、継承する権利もある!
現政権の安倍総理、麻生副総理。この二人でしかできない天命を果たせ!アベノミクスの最終地点がコレだ!この絶妙のタイミング!
天命と言わずにはいられない!
感染症との戦いは、人類の宿敵とも言っていい未知のウイルスとの戦争です!
今までは、パンデミック時の対策としてデータのないスペイン風邪の書物や言葉を参考にしていたが、インターネットの発展やCPU、GPUがムーアの法則によりスーパーコンピューターの領域に現代は突入している。
情報技術が発展し、スマートフォンとして手のひらサイズに収まり、ウイルスを感染予防するための距離を広げながらも、データとして全世界と光速で共有できるため、そのスピードとウイルス伝播のスピードと伍している?
局面ごとに対策を適性に行えば伝播速度を上回りコントロールできる感じもある!ラリーブリリアントが構築したシステムの功績もあります。
量子コンピューターも量子超越性を達成してることもプラスです。
ジョンズ・ホプキンス大学のシステム科学工学センター(The Center for Systems Science and Engineering:CSSE)感染者ダッシュボード
新型コロナウイルスの場合、新規感染者数が、2倍になる日数が10日以上になれば、R0(アールナート)が1以下に減衰してピークアウト状態になると理解できる。
日本の場合、PCR検査の結果が判明する14日後より短いから、検査結果日数を10日以下にできれば、ヤキモキせずスピード感ある判断が可能になりそうだ。
つまり、未知のウイルス。アウトブレイク発生確認後の緊急事態宣言発動は、クラスターが発生しやすいチェーン店などの大規模な場所から早期閉鎖が原則とデータから判明した!
日本の場合、アウトブレイク発生確認後から緊急事態宣言発動までの余裕日数は、新規感染者数が、2倍になる日数です。例えば、5日で2倍なら、5日以内で初動初速最大化発動しないと危険ということ!
R0が2.5付近では、発動日から10日でピークアウトが最速値。7、8割の人の外出制限要請StayHome(元々、人がいない地域での7、8割削減は意味ないし不可能だから政令指定都市だけにすること)ソーシャルディスタンス。などの初動初速最大化すれば、収束までさらに10日で計算上は20日で解除可能領域に近づける目安となります。
生産管理手法のクリテカルチェーンもリアルタイムの感じた感覚で考慮すると余裕バッファーをもう10日で、ひと月。えっ。ここまで自分で書いてよく見ると現実の数値にかなり符号する。
休業要請解除を10段階くらいに分けて地域ごとに段階的に基準を決めて行う。
日本の場合。緊急事態宣言、休業要請は現金給付や保証とセットで最速実行が原則。
日本の場合、透明性を持たせて休業要請解除の基準を決め、きめ細かく設定しないと現在の都知事とか権力者の気分で権力濫用されたり選挙に悪用される危険性がある。
今後の医療崩壊回避のため、医者を含めた疾病や保健所などの医療従事者を単純に現在の倍に育てて増員したら余裕バッファーが半分くらいになりそうな直観が出た。
今後は、休業要請解除!スペイン風邪同様第二波三波、第四第五の小波に備え、国からの現金給付支給をもう数度実行してもいい。Rtが1以下になり次第、休業要請解除!の後に、緊急事態宣言を機動的に解除。
この局面でもっとも効果的なソーシャルディスタンス領域をかんたんに実行。かんたんに実現できる小規模な所から。
時間軸のあるR0をRtとした都道府県別。新型コロナウイルスリアルタイムデータ
クラスター発生地点の見守りを継続する。再びアウトブレイクになり次第。最速で緊急事態宣言を再び発動して、1年かけて5、6回繰り返し、新規感染者数をピークアウトさせて分散、減少させていく!
何度も言うが、スペイン風邪同様第二波三波、第四第五の小波に備えるため!
小池百合子都知事という悪徳政治家は即刻辞職して、後世の女性への権力に固執しない手本を示し、的確に新型コロナウイルス対策できる人間に変われ!以下の指摘3つを真摯に受け止めて瞬時に改善しろ!(全世界に拡散希望)
1)休業要請緩和の各ステップの目安日数(1週間の平均感染者数:20人未満、感染経路の追えない感染者の割合:1週間平均が50%未満、1週間単位の感染者の増加比:1以下)をごまかして各段階を具体的数値で表現しない。クソロードマップだ!!今回の都知事選挙のために政治悪用してるのは明白!!的確に新型コロナウイルスに対策できる人間に変われ!
2)再要請の目安(1日の感染者数:50人、感染経路の追えない感染者の割合:1週間平均が50%以上、1週間単位の感染者の増加比:2以上)も隠すように表示してるクソロードマップだ!今回の都知事選挙のため政治悪用してるの明白‬!!的確に新型コロナウイルスに対策できる人間に変われ!
3)2週間単位じゃなく1日単位にしないと一つずつ緩和のステップを進めていく意味がないクソロードマップだ!!今回の都知事選挙のために日数伸ばすために政治悪用してるのは明白!!的確に新型コロナウイルスに対策できる人間に変われ!
具体的には、2020年5月中旬に、緊急事態宣言を1日単位でスピード解除(現都知事は、説明責任をせず気分で言葉を変えて言葉で惑わし政治悪用するので、数値を基準にした休業要請を1日単位でスピード解除)を早期に行う。
こうすることで、マクロ経済的にもバランスを維持していく。
前提として、直近1週間10万人あたり新規感染者0.5人位?(わかりやすく言うと、1400万人いる東京都は7 日間で、70 人位。一日7人位)で緊急事態宣言解除。
他には、神奈川県は46人位一日6人位。埼玉県は37人位一日5人位。千葉県は31人位一日4人位。とざっくりとした目安になります。
以降は、30日間経過観察し2回目に備える。オーバーシュートし始めたら2回目の緊急事態宣言を再び発動(現金給付とセット:一回目の延長の分も含めて一律20万円)し、1回目と同じように繰り返し、50日でスピード解除。つまり、最速80日周期で1年かけて4、5回繰り返し、新規感染者数をピークアウトさせて分散、減少させていく!
データから判明した6割程度の人の接触制限(元々、人がいない地域での削減は意味ないし不可能)で増加しないフラットな均衡状態を維持できる。
しかし、わかりやすく言えば、10人を4人にし続けたら商売にならないのは明らか。これでは、マクロ経済活動を維持できないため、その減少分を法人は、巨額な内部留保があれば、それを金融工学で資金繰りを下支えしつつ
国民皆給付で一律毎月10万円の庶民生活を下支えし続ける!(ボーナスも危ういので多少なりとも毎月気持ち分補助してもらう)これがベスト。
新規感染者を数人位の緊急事態宣言解除直後の低水準で均衡させつづければ、6割程度の人の接触制限してマクロ経済を維持できそうな感じは現時点ではする。
未知のウイルスは、医療従事者や専門家も素人同然に成り下がるのは、東日本大震災2011の地震学者(こちらは理論破綻)で証明されてる。
にもかかわらず、今回、新型コロナウイルス2020でも、プライド、特権意識が邪魔をして、アマチュアの意見も引用して受け入れないため、未知のウイルスの伝播力で後手に回る。
現場で経験したアマチュアを含めて知見が集まるまでの人の手でデータにするまでの時間は、 CPU、GPU、量子コンピューター、インターネットで情報を光速で共有できるメリットを最大化できなくなると判明もした!
理論も大事だが現場経験が先!まぁ、カントも言ってることだから専門家、教授レベルなら熟知してると思うけど、知らないのかな?
日本の場合、ウイルス感染力低減対策のひとつ。緊急事態宣言後、最速で、高速道路、鉄道の法人であるJR、私鉄が協力体制をとって、都道府県内で折り返し運転をして他県に移動しづらくする方法。
それか、違う効果的なアイデアがあればいい?たしか、東日本大震災の時も実行してたような?
サブスクシェア経済は、具体的に言うとウイルスをベタベタな手で撒き散らすような強欲不潔感なイメージ。
食品扱うなら公衆衛生は最高レベルで!
公衆衛生の��務を厳格徹底し、感染症に欲のスキを突かれるため、強欲不潔な法人を規制して、事業停止を保健所は機動的に強制執行できるように法律を改正。
デフレスパイラルも危険なので、最低賃金以上を義務化、公衆衛生の義務を厳格徹底することで、抑止力をサブスクシェア経済に与えること!
さらに、人間を追跡する人工知能のストーカーアルゴリズムのみを今後禁止にして、ベンチャー企業がサブスクを開発したら高額罰金を与えるのはどうだろうか?
すでにある企業にも、悪用予防で高額罰金をかけていく。個人情報保護法に追加。GAFAは、指摘を受け止めて改善するが、それ以外の中小規模がより危険。
Uberなどは、その一つです。ドン・タプスコットが「ブロックチェーンレボリューション」の中で、UberやAirbnbやTaskRabbitやLyftといった。共有経済について話題にしています。対等な個人がいっしょに富を生み出し、共有するというのは。とても強力なアイデアです。
でも、私に言わせるとそういった企業は本当に共有をしてはいません!!実際、これらの企業が成功しているのは、まさに共有しないことによってなのです。さらに、高インフレの国でないとデフレスパイラルが起きてしまい、次第に賃金が上昇しなくなります。
現在の唯一の解決法は富の再分配でデファクトスタンダードをとっているプラットフォーマー企業に課税して広く配分するということです。ここが重要!!と言っています。
情報技術の発展とインターネットで大企業の何十万、何百万単位から、facebook、Apple、Amazom、Google、Microsoftなどで数億単位で共同作業ができるようになりました。
現在、プラットフォーマー企業と呼ばれる法人は先進国の国家単位レベルに近づき欧米、日本、アジア、インドが協調すれば、中国の人口をも超越するかもしれません。
法人は潰れることを前提にした有限責任! 慈愛や基本的人権を根本とした社会システムの中の保護されなければならない小企業や個人レベルでは、違いますが・・・
ヨーロッパでの一般データ保護規則(GDPR)でも言うように・・・
年収の低い個人(中央値で600万円以下)から集めたデータほど金銭同様に経済的に高い価値を持ち、独占禁止法の適用対象にしていくことで、高価格にし抑止力を持たせるアイデア。
自分自身のデータを渡す個人も各社の取引先に当たりデータに関しては優越的地位の乱用を年収の低い個人(中央値で600万円以下)に行う場合は厳しく適用していく。
キャシーオニールによると・・・
思考実験をしてみましょう。私は、思考実験が好きなので、人種を完全に隔離した社会システムがあるとします。どの街でも、どの地域でも、人種は隔離され、犯罪を見つけるために警察を送り込むのは、マイノリティーが住む地域だけです。すると、逮捕者のデータは、かなり偏ったものになるでしょう。
さらに、データサイエンティストを探してきて、報酬を払い、次の犯罪が起こる場所を予測させたらどうなるでしょう?
あら不思議。マイノリティーの地域になります。あるいは、次に犯罪を犯しそうな人を予測させたら?あらら不思議ですね。マイノリティーでしょう。データサイエンティストは、モデルの素晴らしさと正確さを自慢するでしょうし、確かにその通りでしょう。
さて、現実は、そこまで極端ではありませんが、実際に、多くの市や町で深刻な人種差別があり、警察の活動や司法制度のデータが偏っているという証拠が揃っています。実際に、ホットスポットと呼ばれる犯罪多発地域を予測しています。さらには、個々、人の犯罪傾向を実際に予測しています。
ここでおかしな現象が生じています。どうなっているのでしょう?これは「データ・ロンダリング」です。このプロセスを通して、技術者がブラックボックスのようなアルゴリズムの内部に醜い現実を隠し「客観的」とか「能力主義」と称しているんです。秘密にされている重要で破壊的なアルゴリズムを私はこんな名前で呼んでいます「大量破壊数学」です。
民間企業が、私的なアルゴリズムを私的な目的で作っているんです。そのため、影響力を持つアルゴリズムは私的な権力です。
解決策は、データ完全性チェックです。データ完全性チェックとは、ファクト(事実)を直視するという意味になるでしょう。データのファクトチェックです!
これをアルゴリズム監査と呼んでいます。
人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
未知のウイルス。新型コロナウイルスでは、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
しかし、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
さらに、2020年5月21日。ついにリリースしました。AppleとGoogleが、協調してプライバシーに配慮し高いセキュリティの、APIを提供してます(中国のアプリは危険なため)
以下は、iOS、Androidアプリの作成に当たってライセンス上、守るべきガイドラインです。
第一に、アプリは公衆衛生当局が自ら作るか、外部機関に依頼して作らせたものでなければならず、しかも「COVID-19対応」以外の目的では利用することができないライセンスになっている。できるだけ多くの人が、同じアプリを使用し分断が起きないようにAPIの利用は1カ国1アプリのみ。
第二に、Exposure Notification API(濃厚接触通知API)の利用の前に、ユーザーの同意を得る必要がある。
第三に、利用者のCOVID-19感染が確認された場合、結果を共有する前に、必ず利用者の同意を得る必要がある。(同意を得ると当局が利用者のデバイスにひも付いた「Diagnosys Key : 診断鍵」に対して「陽性」の情報を登録する。二段階でキー生成がなされます。)
第四に、アプリは、利用者のスマートフォンから可能な限り最小限の情報しか獲得してはならず、 その利用はCOVID-19対策に限られる。ターゲティング広告を含め、それ以外のあらゆる個人情報の利用は禁じる。
第五に、アプリは、スマートフォンの位置情報獲得を求めてはならない。
などの個人を特定しにくくする工夫が加えられている新型コロナウイルス「濃厚接触通知」のプライバシー強化がほどこされています。
具体的に、AirDropやApplePayの仕組みを応用し、通信方法はBluetooth経由で、暗号化された毎日ランダムに15分単位で生成されるお互いのキー情報のみを相互接続します。
ApplePayの仕組みについて(当店サイトからも曲購入にて対応しております)
GPS情報、ユーザーの氏名や性別、年齢も原則取得しない
ユーザー同意のもと感染報告者の「キー(その1)」は、政府か保健機関が提供するアプリを通じてサーバーへ送られる。
続いて、API対応アプリは、定期的に全国から報告される「キー(その1)」をダウンロードする。そして、端末上で、誰かと会ったときの「キー(その2)」とマッチするかどうか判定し濃厚接触の可能性を判定する仕組み。
日本では、行政府の内閣直轄チームが進めるアプリ開発で同APIを利用します。このAPIは、常にAppleとGoogleが改善して全世界同時アップグレードされます。
<提供>
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shibaracu · 4 years
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●記紀   ●魏志倭人伝は偽書
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●記紀   ●『古事記』と『日本書紀』との総称である。 ★記紀(きき)http://wkp.fresheye.com/wikipedia/記紀 古事記』と『日本書紀』との総称である。『古事記』の「記」と『日本書紀』の「紀」を併せて「記紀」という。 両書とも、奈良時代に編纂された日本の神話や古代の歴史を伝えている重要な歴史書である。 序盤は神話そのものであり、執筆年代に近づくにつれ歴史書としての性格が強くなる。 ただし後半においてもなお疑義がもたれる記載内容もあるとの見方もある一方、近年の考古学的発見の多くは記紀の記事の正確さをより裏付ける結果となっている(法隆寺再建の記事や蘇我氏の甘樫丘など)。 慎重な検証が必要であるが、同時代史料が極めて少ないことから、重要な史料であることには変わりがない。 室町時代までは日本の神話や古代の歴史を伝えている重要な歴史書として『先代旧事本紀』を含めて「三部の本書」とされることが多かったが、江戸時代に入って「先代旧事本紀」が偽書であると考えるようになって以後この二書のみで記紀とされることが多くなった。   ★記紀神話 http://wkp.fresheye.com/wikipedia/記紀神話 日本神話(にほんしんわ)とは日本に伝わる神話のことである。 現在、日本神話と呼ばれる伝承はそのほとんどが、『古事記』、『日本書紀』および各『風土記』の記述をもとにしている。 すなわち、高天原の神々を中心とする神話がその大半を占め、一方で、その出典となる文献は決して多くはない。 奈良時代初頭から神社において神宮寺を建立する動きが出始め、715年(霊亀元年)には越前国気比大神が、また満願禅師らによる鹿島神宮が、ほか賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。   ★神宮寺(じんぐうじ)http://wkp.fresheye.com/wikipedia/神宮寺 日本において神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。 別当寺、神護寺、宮寺ともいう。   ★氣比神宮(けひじんぐう)http://wkp.fresheye.com/wikipedia/氣比神宮 福井県敦賀市にある神社である。 式内社、越前国一宮で、旧社格は官幣大社。   ★記紀神話が創られた時代 http://www.ten-f.com/kojikinojidai.html ここでは大体6世紀末から8世紀前半の間に限って抜き出し   ★日本神話を読み解く|天地開闢まとめ 『日本書紀』第一段本伝から ... https://nihonshinwa.com/archives/746 2016/01/07 天地開闢 てんちかいびゃく 」とは、はじめて世界が生まれた時のこと。 「 開闢 かいびゃく 」の「開」は開くこと、「 闢 びゃく 」も左右に押し開くことをいいますので、 「天地開闢」とは、文字通り、天と地が開かれること、を言います。 日本神話のみなら ...   ★出雲神話とゆかりの地|縁結びパワースポットと出雲神話|島根浪漫旅 http://www.izumo-shinwa.com/izumoshinwa_spot.html 神話に登場する場所が、今も数多く現存する聖地 出雲。特に有名な国引き神話・国譲り神話・ヤマタノオロチ伝説・大国主神にまつわるお話を紐解き、パワースポットと呼ばれる場所の詳しいお話をご紹介します。   ★スサノヲのヲロチ退治神話(三浦佑之) http://miuras-tiger.la.coocan.jp/orochi.html この神話はヨーロッパから東アジアまで世界的に分布し、ペルセウス=アンドロメダ型と名づけられた英雄神話の一つである。大林太良によれば、それは、多頭の竜や大蛇が定期的に人身御供を要求し続けるのに悩まされる村人たちが、最後にのこった王の娘を捧げようとしていたちょうどその時、ひとりの若者が現れてその怪物を退治し、王の娘と結婚するという共通の内容をもって語られている神話である(『日本神話の起源』)。この内容はスサノヲのヲロチ退治ともほぼ一致するわけで、世界的な視野からの比較分析も必要なのだが、ここでは、ヲロチ退治神話に語られているスサノヲ像から見出せる英雄的な性格にかぎって考察を加えてゆくことにする。   ★昔 話 に み る 悪 と 欲 望    -継子・少年英雄・隣のじい- http://miuras-tiger.la.coocan.jp/sub1-104.html 三浦 佑之 (MIURA Sukeyuki) 新曜社 1992年3月10日刊 46判 292頁 ¥2,200+税    【目次】          はしがき        一 継子いじめ譚の発生         1 シンデレラ         2 日本のシンデレラ         3 おちくぼの君の物語         4 古代の家族と嫉妬譚         5 男の継子から女の継子へ        二 英雄譚のゆくえ         1 古代の英雄         2 昔話の少年英雄         3 狡猾な英雄         4 笑われる英雄        三 隣のじい譚のリアリティ         1 笠地蔵         2 福慈の神と筑波の神         3 蘇民将来         4 隣のじいの心        結 昔話と神話 http://miuras-tiger.la.coocan.jp/yokubo-ketsu.html          参考文献/あとがき   ★昔話と神話-古代の民間伝承(三浦佑之) http://miuras-tiger.la.coocan.jp/mukashi-to-shinwa.html 古代の散文伝承を研究対象にしている者にとって、昔話の発生、あるいは昔話と神話との関係は、魅惑的なテーマのひとつである。ただ、記紀風土記に霊異記を加えても四本の作品しか存在しない古代文学のなかに昔話の痕跡を辿ろうとしても、指摘できることは限られている。しかも、近代になって成立した「神話」とか「昔話」とかの分類概念を用いて何かを論じることの有効性も問題になるだろう。それを承知の上で、ここでは、昔話と神話との関係に目を向けながら、古代の民間伝承について考察してみたい。   ★神のやしろを想う 記紀神話の神様 http://jinja-kikou.net/kamigami.html ★天皇系図 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/3sankou.pdf 則として皇統譜に基づく。 天皇系図. 神武天皇. 綏靖天皇 安寧天皇 懿徳天皇 孝昭天皇 孝安天皇 孝霊天皇 孝元天皇 開化天皇 崇神天皇   ★雑記 - 記紀神話の不思議 https://w.atwiki.jp/bogard/pages/60.html ★古事記編さんに関わった稗田阿礼ってどんな人? ★末梢しきれなかった記紀神話の真と偽 http://bit.ly/H3mdUJ ★天皇と記紀神話  日本・天皇・神道・記紀神話 http://bit.ly/H3mEy9 ★【関西の議論】 日本最古?の神話「ホツマツタヱ」とは…古事記、日本書紀より古い?学界は疑問視も愛好家の研究盛ん  (1/4ページ) https://www.sankei.com/west/news/161215/wst1612150005-n1.html 多くの謎に包まれた古代史の世界で、50年前に国内で発見された「ホツマツタヱ(秀真伝)」という歴史書が一部の愛好家たちを惹きつけている。漢字が伝わる以前の日本にあった「ホツマ文字」という文字でつづられ、古事記や日本書紀よりも古い書物…と愛好家は信じる。もちろんさまざまな矛盾点から学界では疑問視する声が強いが、研究熱は止まず、11月には発見50年を記念した全国フォーラムが同書の全巻が見つかった滋賀県高島市で開かれた。関係者は「ホツマ文字」で書かれた文献はまだどこかに眠っている、と大真面目だ。歴史ファンを熱くする「ホツマツタヱ」っていったい何? 古代の国造り描く!?   ★記紀神話を読みなおす その︵1 - 城西大学 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/JOS-KJ00000589067.pdf 1 はじめに一記紀神話の差異  中国の史書編纂の様式に、古くからく書〉〈紀〉〈記〉〈実録〉〈志〉 〈史〉〈伝〉など、それぞれ用途に応じて明確な区別や使い分けがあり、  そのためのさまざまな書式があったことは広く知られている。  それは中国のように、早くから国家を成立させ、国家意識や歴史認識が  必要不可欠なこととして問われる社会にあっては、社会や文化の  史的富開のあらゆる局面において・より深くゆき届いた史的分析や  その把お 紘握が広く求められたからであろうと思える。  いきおい、あらゆる分野 備において、異質性や微妙な差異をはらんだ  多用な史的認識も生まれ、幅酔そうした叙述を可能にする様々な  表現様式も果敢に試行されたとみて譜いい。  上掲のバラエティにとんだ史的叙述様式の成立などもそうした事の現あろう。   ★邪馬台国と卑弥呼-215  記紀神話と魏志倭人伝 http://bit.ly/Hjf9zA ★『記紀神話』に関連する質問・疑問一覧    http://bit.ly/H0NfyZ ★ブログテーマ[記紀神話]  (11件)  外交は別?? http://amba.to/HnEDPi ★のぞきの系譜@記紀神話 (11件 http://amba.to/HsEB6x ★記紀神話:古事記と日本書紀 - 史書から読み解く日本史 - Goo ブログ https://blog.goo.ne.jp/sansui-ou/e/dba42fcd5b1ce3fa694a9d15fe3583cd 2019/10/06 「記紀」とは言うまでもなく『古事記』と『日本書紀』を指し、どちらも奈良時代に成立した我が国の史書の原点であり、神話に始まるこの国の歴史を今に伝えます。 記紀共にその原典となっているのは、両書以前に存在したとされる帝紀及び旧辞という史伝で、一般に帝紀は天皇の系譜や妻子の名前、在位中の主な業績、宮殿や陵墓の場所等を、旧辞は神話や様々な逸話等を伝えていたと解説されますが、その辺りの整合性については不明な点も多く、どちらも原文は早くに散逸しているため、後世の我々は記紀を通してその面影を探るしかありません。 ★古事記・日本書紀の謎-その9-記紀神話の総て http://bit.ly/HhZYwZ ★記紀神話など - 皇居の落書き http://bit.ly/H0LpOm 天の岩屋と国難打開における知恵の重要性  2004-10-27 ★「剣」@記紀神話(Wikipedeaより) http://bit.ly/HjiluY ★第六回 熊野の神々降臨の地 神倉神社 新宮市 神倉神社と記紀神話 http://www.chuokai-wakayama.or.jp/wadensho/kinokunisansaku/kinokunisansaku6.htm 新宮市街の西の小高い山の上に、通称“ゴトビキ岩”と言われる巨石をご神体として崇める神倉神社があります。ゴトビキとはこの地方の言葉で、ヒキガエルのことらしいですが、そう言われて見れば・・・・・見えなくも・・・・・?ウーン?・・・・・? 熊野といえば熊野三山と言われる、本宮、速玉、那智が圧倒的にメジャーですが、これら熊野の神々が最初に天上から降り立った“天磐盾(あまのいわだて)”と言うのが実はこの岩山であったと伝えられ、その意味で熊野信仰の根本とされています。   ★記紀神話を読む--出雲王国は存在したか? ③ http://bit.ly/HkORCb ★国生み | 神社本庁 https://www.jinjahoncho.or.jp/shinto/shinwa/story1 遠い昔、日本の国ができる前のことです。 澄み渡った高い空の上に、高天原という神々のお住まいになっているところがありました。 ある時、神々は下界に新しい国を造ることをご相談になられました。そこで伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神さまに国作りを命じられ、天の沼矛という矛を授けられました。 二柱の神さまが、天の浮橋という大きな橋の上に立ち、下界の様子を眺めてみますと、国はまだ水に浮いた油のように漂っていました。   ★日本神話の深層についての一考察「地の王・天の王」: http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-145.htm 天孫たちはなぜ海神の娘と結婚したのか、あるいは天照大神はなぜ女神なのか2003年08月02日  萬 遜樹        ▼天孫たちは「地の王」と婚姻を結んだ         「海と天皇」という面白いテーマがある。「海と天皇」とは、天下った天孫たちの血筋が海神と深い関わりがあることを指す。初代神武天皇の母は玉依姫[注1]という海神の娘だ。神武の父はウガヤフキヤアエズ尊というが、この尊の父は彦ホホデミ尊、母は豊玉姫である。彦ホホデミ尊とは、「日向神話」の海幸・山幸物語で名高い山幸彦のことだ。母の豊玉姫は玉依姫の姉で、ウガヤフキヤアエズ尊を産むときに「ワニ」の正体を現したことで有名だ。そして彦ホホデミ尊の父が、アマテラスの命で降臨した天孫ニニギ尊なのだ。このように、神武の母も祖母も海神の出自で、彼の血の半分以上は海神のものなのである。        (天孫の系譜)   ★個人的に和風創作(神話・古代)に役立つサイト https://matome.naver.jp/odai/2140326363855681601 更新日: 2019年07月12日 ★補説:記紀神話 「天の石屋」について 1  http://bit.ly/GYnlKZ (「邪馬台国の習俗」)の次の書き込みですが、補説よいうか、記紀神話の「天の石屋」(天の岩戸)について、kitunoさんのHPの掲示板に書き込んだのですが、そのHPが消滅したので、改めて書き込み、記紀神話が中国の商(殷)などの持つ神話に近い古層の面影を伝えており、決して天武天皇の時代に机上で、帰化人の史官などによって造作された(勿論、当時の「現代風解釈」は為されたでしょうが)ようなものではない事を主張したいと思います。 記紀神話といっても、日本書記は、「一書」などの異説が多く、どの説を採るかの検討がまず検証されなければならず、その作業にかかる時間を節約するため、ここでは「古事記」の神話・伝承に拠り、書記は用字の異同などの際に引用する程度に留めたいと思います。 ★記紀神話:ファンタジィ事典mini http://bit.ly/H0Rbim ★日本の神話学 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の神話学 日本の神話学とは、日本神話の研究を行う学問の一領域である。 本項では、神話学等による日本の神話の研究について概説する。 日本神話は、古事記および日本書紀、風土記などにおいて記録された。日本神話において天津神・国津神の神々のなかでもとくに三柱の御子が尊いとされ、その天照大神は主宰神となっている。また、神道、民間信仰で多数な神がおり、総称して「八百万(やおよろず)の神」といわれる。   ★日本神話の伝承地450カ所以上の取材記録を基に記紀神話の世界を机上で体験できる「神話のふるさと歩き」の決定版ガイドブック『日本神話の「謎」を歩く 幾千年の時空の彼方へ』(藤井勝彦・著)を発刊。 https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000002443.000005875.html 2018/11/14  東京オリンピックが開かれる2020年は、『日本書紀』の成立1300年の節目の年となります。折しも同年には2019年の譲位(約200年ぶり)を受けて、新天皇の即位の礼・大嘗祭が行われます。これを受けて今、「日本とは何か?」「天皇制とはなにか?」に大きな関心が寄せられつつあります。  こうしたなか、注目を集めるのが『日本書紀』『古事記』(記紀)です。記紀は虚実取りまぜた歴史書ですが、日本の成り立ちについて考える際には避けて通れない重要な資料となります。本書は旅行作家で写真家でもある作者が、記紀神話に記された450カ所以上の伝承地を訪ねた取材記録を基に、現代と神話の世界の接点を探った日本神話入門書です。   ★「記紀神話」にみる倭人文化 http://bit.ly/HsY9Yl  2009.09.18 ★日本神話を読み聞かせする - 近藤光弘 http://kondo.cool.coocan.jp/nihonshinwanoyomikikase.htm 2000/08/27 一つの話が、3分から8分でまとめています。 朝の会や隙間の時間で読み聞かせができます。 歴史学習の前に是非、使ってください。 低学年から使えます。 ●神話の読み聞かせ一覧表. ・天地のはじめ (4分),  日本人は、宇宙の始まりをどのように想像したのでしょう。 ・黄泉の国 (5分),  いざなぎの命が、黄泉の国(死の国)で見たものは ? ・天照大御神 (4分),  万物を生かす太陽として現れた神、天照大御神。 ・天の岩戸       (3分)  光が消えたとき、切り開く道は、陽気な踊りと、笑いと、・・。 ・八岐の大蛇      (4分)  大蛇の尻尾から出てきたものは、熱田神宮に・・・ ? ・因幡の白兎     (4分)  日本神話の代表作。大国主の命、登場。 ・国ゆずり       (4分)  出雲の多芸志に壮大な神殿が完成する。 ・天孫降臨       (4分)  木花開耶姫との婚姻により、地上の生命は限りあるものに。 ・海幸彦山幸彦    (6分)  なくした釣り針は、竜宮界にて見つかる。 ・神武天皇       (8分)  困難を乗り越えた遠征の旅。日向より大和の地へ。 ・日本武尊「熊曾建」  (3分)  少女になりすまして、熊曾建の反乱を平定する。 ・日本武尊「草薙の剣」(2分)  火攻めにあう日本武尊を助けた剣と火打ち石。 ・日本武尊「弟橘比売命」(2分)  日本武尊の身代わりになって荒海に飛び込む弟橘比売命。 ・日本武尊「白鳥になって」 (2分) “大和は 国のまほろば ・・・” ・番外編 邪馬台国  3世紀の女王 卑弥呼の正体は? ★ ★日本の神話 古事記 http://bit.ly/zfHqA0 日本の神話を読んだことはありますか? 子どもも大人も、楽しく日本の神話を読んでみましょう! ★日本神話 ‐ 通信用語の基礎知識 https://www.wdic.org/w/CUL/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1 読み:にほんしんわ外語:Japanese mythology 英語 品詞:名詞. 日本に古来より伝わる神話。日本の国の誕生と神々が語られていて、太安万侶が編集した古事記、舎人親王が編集した日本書紀、その他多くの書物に記されている。 書物によって若干、神の神の名前や物語に違いが存在するが、その場合は日本最古の書籍とされる古事記の記述が尊重されることが多い。 神話の流れ 概ね、次のように物語が続いている。    天地開闢    イザナギとイザナミの誕生    国生みの物語    黄泉の国の物語 (天照大神の誕生)    高天原の物語 (誓約、天岩戸)    出雲国の物語 (八岐大蛇、大国主神、稲羽の素兎)    国譲り    天孫降臨    筑紫国の物語 (海幸彦と山幸彦、神武天皇) ちなみに世界的には、一般に神話では人間は神が創った旨が描かれるが、こと日本神話においては神は人間を作っていない点が特徴的である。 従って、日本人がどこから来たのかは、神話には描かれていない。   ★高校日本史用語事典 日本神話(にほんしんわ) https://nihonshiyougo.blog.fc2.com/blog-entry-525.html日本神話(にほん日本神話(にほんしんわ) 日本に伝わる神話。 国生み神話、高天原神話、出雲神話、日向神話などからなる。 『古事記』『日本書紀』の記紀神話の他に、『風土記』や祝詞などにも残されている。 関連記事 ・上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ) ・元興寺縁起(がんごうじえんぎ) ・道教(どうきょう) ・古神道(こしんとう) ・社(やしろ) ・氏神(うじがみ) ・産土神(うぶすながみ) ・日本神話(にほんしんわ) ・神代(かみよ、じんだい) ・高天原(たかまがはら、たかまのはら) ・葦原中国(あしはらなかつくに) ・根の国(ねのくに) ・天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) ・国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国之常立神(くにのとこたちのかみ) ・伊弉諾尊、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)   ★日本神話とは?多彩で豊かな神々の世界「日本神話」を分かり ... https://nihonshinwa.com/stance 日本神話とは?多彩で豊か��神々の世界「日本神話」を分かりやすく徹底解説! Contents 1 日本神話とは? 2 日本神話とは ... そうなんす、なぜか世界の始まりから神様たちのいろんなアレコレを語ってるうちに、奈良県橿原市にたどり着くんですよね。 ★平成24年は「古事記編纂1300年」~神話のふるさと「島根」推進事業について~ http://www.nga.gr.jp/pref_info/tembo/2010/07/post_946.html  「島根」は、豊かな自然に恵まれ、古き良き伝統文化とその中で育まれた温かい人間関係や地域社会が残る魅力あふれるところです。  平成24年は、日本最古の歴史書「古事記」が編纂されてから1,300年という記念すべき年に当たりますが、「島根」は、スサノオノミコトのオロチ退治やオオクニヌシノミコトの国譲りなど古事記の神話部分の実に3分の1に舞台として登場しています。また、翌25年には、60年に一度となる出雲大社の大遷宮が行われるなど、島根の貴重な歴史や文化に、大きな注目が集まることが期待されています。 ★日本の神話(アニメ子供と見る日本の神話) - 宮城県神社庁 https://miyagi-jinjacho.or.jp/shinwa.html 日本の神話(アニメ子供と見る日本の神話). ・国生み神生み ・天の岩戸開き ・八岐大蛇退治 ・因幡の白うさぎ ・天孫降臨 ・海幸彦と山幸彦 お子さま向けに「アニメでわかる、神社と神さま」ページを開設しております。
★神話の衣装? http://bit.ly/Ho3VN8 http://bit.ly/H3FJfB http://bit.ly/HjLmH9 http://bit.ly/H3JgP3 ★神道と人間の不完全性ー国生み神話考ー - 神田哲拓の神道大意録 https://www.solyruna.com/神道と人間の不完全性ー国生み神話考ー 2019/08/17 神道は不完全性を認めてくれます。実はそれだけで救いだったりするんです。 神様だって失敗する話が沢山あるのですから、我々人も失敗はどうしても起こり得ます。ではその時にどの様に考えれば良いのでしょうか。 目次    全知全能ではない神々    国生みは鶺鴒との合一、共同作業だった   ★日本神話に見る(日本文化考)_百度文庫 https://wenku.baidu.com/view/af66fab169dc5022aaea0098.html 2018/07/02 日本神話に見る日本文化考出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノオ ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:なぜスサノオ神話が作られたのか? 『出雲国風土記』に登場するスサノオ命(須佐之男命?素盞鳴命?素戔鳴尊)は、おお ら ... ★ハツクニシラス考 http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/hatsukuni.htm 2002/02/17 目次    「二人のハツクニシラス」    「初国」の用例について    「所知」について    神武の称号 以下に要約しよう(井上『神話から歴史へ』(『日本の歴史』1)、直木『日本神話と古代国家』による)。 1、神武と崇神の両者が同じ「ハツクニシラススメラミコト」の称号を持っていて、この称号は「建国第一代」を示す。 始馭天下之天皇(神武)< ...   ★「れんだいこ、れんだいこ史観」の由来と解説 2017年2月13日 (月) http://08120715.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-2d47.html 「れんだいこ、れんだいこ史観」の由来と解説  本稿が未投稿だったので投稿しサイトアップしておく。課題は「『れんだいこ、れんだいこ史観』の由来と解説」である。   「れんだいこ史観」とはれんだいこの史観であり、れんだいこが勝手に命名しただけのことである。ますます判明しつつあるが、世の歴史観、歴史論と相当に隔絶している。例えば、最近、明治維新を評する視座に於いて様々な是非論が登場している。中には我慢の限界を超えるような幕藩体制万歳論まで登場し持て囃されている。残念ながら、私論は既成のどの論とも一致しない。且つ我が輩の政論の方がはるかに正鵠を得ていると自賛している。為に区別する意味で自ら銘打っている。   ★日本の神話・伝説の武器 《第5展示室》  http://bit.ly/H3PsTU ★薬草に親しむ-日本神話の植物 http://bit.ly/Hnx0Ld ★日本の神話  http://bit.ly/GZtn9y ★日本の神話・日本の神の系図 http://bit.ly/H4xFjD ★天照大神が女神だからと女系天皇を主張するノーナシ左翼を一網打尽に論破、撃沈さす! ~ 男系継承を堅持したアマテラスとスサノオの子供たち http://bit.ly/H3Nk1Y ★日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》 【京都】 http://susanowo.kyo2.jp/ ★日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》 【浜松】 http://susanowo.hamazo.tv/ ★日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》 【和歌山】 http://susanowo.ikora.tv/ ★日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》 【滋賀】 https://susanowo.shiga-saku.net/   ★日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》 【郡山】 http://susanowo.365blog.jp/e236.html 2006年07月07日 ◆七夕の起源、「棚機津女」と「牽牛織女」(六) ◆◇◆七夕の起源:(6)、スサノオ命(須佐之男命)とアマテラス(天照大御神)  『古事記』「高天原」説話に、スサノヲ命(須佐之男命)とアマテラス(天照大御神)誓約(うけひ)の際、「天の安の河」を挟んで相対する。ここには「天の真名井(神聖な井)」が登場し、誓約の儀式に「水」が非常に重要な意味を持つことがわかる。  次に高天原において、アマテラス(天照大御神)の弟神であるスサノヲ命(須佐之男命)が荒れ狂い、乱暴狼藉の限りを尽くす場面がある。畦を壊し、水路を潰し、神殿を汚し、更には皮を剥いだ馬を屋内に投げ込む(天津罪)。これはアマテラスの天岩戸隠れの原因になる事件なので多くの方が知っている話だ。   ★爺の戯れ事:秋季展「日本の神話」(熱田神宮) https://titogy.naturum.ne.jp/e1321881.html 2011年11月10日 秋季展「日本の神話」(熱田神宮) 熱田神宮宝物館の秋季展「日本の神話」へ行ってきました 古事記や日本書紀に代表される日本の神話を描いた近・現代絵画を中心に展示   ★日本の神話と縁の社 ぶらり寺社めぐり - Wix.com https://ooki-h.wixsite.com/jisyameguri/blank-9 「古事記」「日本書紀」に記されている日本の神話。 その主な内容と縁の神社をご紹介いたします。 ※神話の内容や御神名は、 古事記の内容・表記をメインに、日本書紀をサブ的に参考にしました。 神代(かみよ) 天地開闢(てんちかいびゃく)と国産み 渾沌たる世界が「陰・陽」に分離して「天・地」と成った。 ★日本の神話・歴史・伝説 http://bit.ly/H3QdQ9 ★日本の神話と酒造り (H21.9.3) http://bit.ly/GZm7hT ★龍と牡牛 | ひめごと日誌 https://ameblo.jp/fumifumi-company/entry-10509608672.html 2010/04/18 宇宙人の問題は刺激が強すぎるというか、多くの方にとっては 荒唐無稽と思われる恐れがあったので本当は触れたくないと考 えていた。 別に宇宙人の話を抜きにしても、この世に不思議なことはいく らもある。なのに鬼の話へ踏み込んでしまったばかりに後戻り ができない。 世界の神話や考古学を検討していると、世界の神は龍と牡牛に 二分されることに気付いた。 圧倒的にアジア世界は龍信仰に彩られ、西洋はほとんどが牡牛 の支配下にある。と言っても牡牛の信仰なんて聞いたことがな いよ、と首を傾げる人が大半だろう。 意外に思われるかもしれないが聖書に登場する神は牡牛なので ある。これははっきりと旧約聖書に記されている。 ★曳山のデザイン - 日本の神話 - いこまいけ高岡 http://bit.ly/H146ku ★島根県:「神々の国しまね」プロジェクト(トップ / 観光 / 観光振興 ... https://www.pref.shimane.lg.jp/tourism/tourist/kankou/kamigami/kamigami/ 平成24年、「古事記編纂1300年」。平成25年、出雲大社「平成の大遷宮」(外部サイト)    この歴史的な節目は、「しまね」が全国から脚光を浴び、神々の時代から受け継がれてきた「しまね」の魅力を、多くの方々に知っていただく絶好の機会です。    古(いにしえ)から古事記・出雲国風土記・万葉集などに描かれ、今もこの地に残る自然・景観・伝統文化・歴史遺産など、県内各地域の資源を活用。    県・市町村・民間団体・経済界等が一体となって「しまね」の存在感を情報発信し、国内外から多くの方々に訪れていただくためのプロジェクトを展開します。    そして、県民の皆さま一人ひとりに郷土の素晴らしさを再発見いただき、ふるさとへの愛着と誇りにつながるように、県民の皆さまとともに進めてまいります。
★古事記編纂1300年、奈良「記紀・万葉」プロジェクトが発進-NAVER まとめ http://bit.ly/GZ4jQs   ★古事記1300年ナイト参加報告(~保守派の限界を超えて~) - アニオタ http://bit.ly/HqeW38   ★竹の間―竹田恒泰のホームページ 古事記1300プロジェクト http://www.takenoma.com/   ★古事記完成1300年(1)古事記とは何か(by 世界大百科事典) http://bit.ly/GZ5Gyv   ★邪馬台国  これを書くに当たって、陳寿は、邪馬台国に来ていません。卑弥呼に会って、話を聞いて書いた���けでもありません。 以前に書かれた中国の歴史書「魏書」や「魏略」を参考にしたり、倭国に派遣された二人の使節の帰国報告書を元に書いたとされています。 しかも、この使節は陳寿と同様、邪馬台国まで行っていません。 九州の福岡止まりでした。 「邪馬台国」という名は、記紀にはありません。中国の歴史書「三国志」の一部である「東夷伝」の中の「倭人条」というニ千字余りの文章に出てきます。 これが有名な魏志倭人伝。 当てはめた漢字には、「倭国」など日本のことを表すのにあまりいい意味がありません。 倭(したがう)卑(いやしい)邪(心が曲がっている)奴(めしつかい)夷(野蛮人)   ★魏志倭人伝 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。   ★東夷伝(原文と和訳) http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/index_toi.htm 魏志倭人伝(原文、書き下し文、和訳) 魏志倭人伝の構造(採用史料別色分け) 魏略逸文と魏志倭人伝 魏志韓伝・解説 魏志濊伝 魏志東沃沮伝 魏志高句麗伝 魏志夫餘伝と夫餘史 html pdf 魏志挹婁伝 後漢書倭伝・解説(構造分析付き) 後漢書韓伝・解説 晋書倭人伝 梁書倭伝・解説 漢書地理志 燕地  呉地  楚地  粤地 隋書倭国(俀国)伝 隋書地理志 揚州  荊州 東亜古代史研究所 塚田敬章   ★唯一の文献「魏志倭人伝」に根拠なし! だから邪馬台国論争は迷走する https://ironna.jp/article/4552 里中満智子 日本国内において大規模な弥生時代の遺跡が発見されるたびに「ヤマタイ国か!」とメディアも一般人も色めき立ってしまう。 少しでも古代史に関心のある人にとって「ヤマタイ国はどこか?」は興味の尽きない話題だろう。  ヤマタイ国の候補地は大きく分けて九州説と機内説がある。もちろんそれ以外にも候補地はあるのだが、みな「目安」としているのは「遺跡の規模」と中国の史書の中の「魏志倭人伝」だ。  「魏志倭人伝」に記された倭人の暮らしは興味深い。「男性は皆顔や身体に墨や朱で入れ墨をし、そのデザインは国により、また身分により違う」「人々は争いを好まず女は慎み深く嫉妬しない」「集会では男女の区別が無く、みな酒を好む」「温暖な気候で生野菜を食べる」「海に潜って魚や貝類をとる」「稲、苧麻、桑、蚕を育て、上質の絹織物をつくる」「喪に服す10日間は肉食を避け、泣き続ける。親族以外は酒を飲み歌い踊る。埋葬後は水に入って浄める」「真珠と青玉(サファイア)がとれる。山椒やみょうがもとれるが倭人はそれらが美味しい事を知らない」「長命の者が多く、百歳の人もいる」など。   ★邪馬台国論争(その一) - 日本の歴史捏造研究所 - FC2 http://mayonokuni.web.fc2.com/kenkyu01.htm ①      倭は日本なのか? 邪馬台国はどこにあるのだろう。そして卑弥呼とは誰なのだろう。 私も歴史を志す者であるから当然これには没頭せざるを得なかった。 悪戦苦闘の中で私も罠にはまっている事に気づいた。それまでに数限りなく本に目を通してきた。 大きく分けて三つあるのではないだろうか。 一つは、魏志倭人伝が取るに足らないいい加減な資料で、これを真面目に取り上げる必要はないという立場だ。 もう一つは、日本書紀が偽書であり、魏志倭人伝は正しいと言う前提だ。 前者は例を挙げるなら、「新しい歴史教科書」の会の(今は追い出されたけれど)西尾幹二さんかな。 後者は魏志倭人伝を信じてツアーを組み、韓半島から船に乗り、陸に上がり船に乗り込み又陸に上がって徒歩で数ヶ月、皆さん行方不明になったようだ。ある者は九州で、又ある者は近畿までたどり着いたのだろう。ご苦労様でした。 そして卑弥呼は天照大神なのだ、とか、神功皇后だとか言っている。 もう一つは、どちらも正しいか、どちらも変だと言う人。 ちょっと待って欲しい。誰が倭の国が日本であると決めたのだろうか。どの本もまず何のためらいもなく、日本はむかし倭とか倭国と呼ばれた、から始まっている。 まず、第一歩からしておかしいのではないか。出発点が違っていては前に進めないのではないか。 日本が日本である事は認めても良いだろう。 しかし、倭の国が現在の日本の地域のことであると、どこに記されているのだろう。 どこで証明されているのだろう。   ★古代日本の歴史!「魏志倭人伝」《日本貶め》のからくり・ともはつよし社 https://00m.in/hFjM5 ¥3,666 (税込) 著者名:正氣 久嗣 単行本ソフトカバー 〜絶賛発売中〜 ISBN:978-4-9908081-5-0 amazon購入 説明 ◎ 倭国は日本ではない!韓国の影の存在としてでっち上げられた架空の国だった! 「魏志倭人伝」は占いの書!その破壊的超POWERの真実を開示する! ◎ シュメール人は太古日本の皇統を乗っ取るため「天孫降臨神話」をでっち上げた ◎ 天孫降臨神話により、純朴な日本人は世界の王・日本のスメラミコトを忘れてしまった…… ◎ 世界大戦後、敗戦国日本は「天孫降臨神話」すら否定するよう仕向けられる ◎ 古代日本が中国の属国であったという偽りの歴史書「魏志倭人伝」。この影にはフリーメーソンの存在があった ◎ 「魏志倭人伝」は全くの空想に過ぎず、でたらめの羅列であった!なぜなら、それは歴史書ではなく〝占いの書〟だから ◎ ここまで完璧に仕組まれたからくりが存在するとは!著者・陳寿の心の中をのぞきながら謎を解いていこう! ◎ は中国は大恩ある韓国を貶めるための偽書「魏志韓伝」を捏造し、その返す刀で「魏志倭人伝」をも捏造し、御親国・日本を葬り去るための道具とした! ◎ 「倭人伝」と「韓伝」の比較対照は動かぬ証拠となり、易経の占筮法がさらなる奥深き封印を解き明かす ◎ 邪馬台国の卑弥呼によって日本の歴史は根底からくつがえされてしまった…… ◎ 中国を世界の中心に定め、周辺諸国を属国にしなければならないという慢心の中華思想 ◎ 国家の権威を高めるため漢字を悪用せよ、漢字とはまさに化けものだ! ◎ 中華思想と漢字は不離一体となって発展してきた ◎ 倭国とは韓国の影の存在、決して日本のことではない ◎ 魏志倭人伝にある倭国の方へ向っても倭国を見ることは出来ない…… ◎ 卑弥呼には世界再統一の捨石としての役目があった ◎ 万世一系の皇統は倭国大乱という発想によって完全に抹殺された ◎ 太古の世界は日本のスメラミコトによって平和に統一されていた ◎ 今こそ偽りの「天孫降臨神話」も「魏志倭人伝」も棄て去り、宇宙の中心点、日本の王・スメラミコトを取り戻すのだ!   ★説得力の無い説 - 卑弥呼と魏志倭人伝 - 邪馬台国 https://00m.in/ROvt7 https://www.xhimiko.com/魏志倭人伝/各種論争/説得力の無い説/ 邪馬台国を語る人の中には、延々と講釈を垂れる輩がたくさんいます。一つの例として、以下の文章を紹介します。誰も納得しないでしょう。  ①「卑弥呼はシャーマンであった。」  ②「卑弥呼体制は合議制である。」 この2つはおもしろい命題なので、追及したいと思います。(特に①は自明のようにも思えるし) そこでまた「卑弥呼が共立された。」という一文に登場してもらいます。 そもそもなぜ共立という事態が起こったのか、これは一種の異常事態です。 そこでその時の状況を想定してみたいと思います。とりあえず考えられるのは下記2つの状況です。
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q-food · 7 years
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社会学ノート
ノート 文明化 :予測困難な中世の生活は、気まぐれで感情的な振る舞いに満ちていた。これに対し、暴力・租税の独占に基づく近代的国家の形成や市場経済の発達、上流社会での差異化の競争によって、感情や振る舞いの自己規制を強いる社会的なルールが広がっていく。人間の行動様式や感情の構造に見られるこの意図せざる長期的な変化を、文明化という。
・権力による暴力独占と文明化(N.エリアス)  より安定した暴力独占をもつ社会、さし当りそれは領主ないし王の、かなり大きな宮廷に現れるが、このような社会では人びとの不快感と羞恥心を感じる範囲がひろがり、皆がより文明化された態度をとるようになる。
「文明化の仮定とは、人間の感情や行動の自己規制がますます強化・細分化されてゆく」過程のことであり、それは「社会が国家という解体に組織され、広い地域にわたって物理的暴力が独占化・集権化される」ことによって起こるのである。
・文化地帯(W.F.オグバーン)  近代文化の諸部分は同一の割合で変化しているのではなくて、ある部分は他の部分よりもはるかに急速に変化する。文化の一部分にまず変化がおこり、それに従属して文化の他の部分にも変化が生じる場合、従属部分の変化はしばしば遅延する。
物質文化(工業技術など)→非物質文化へ(制度、観念、慣習的なもの、イデオロギー)
近代化 :産業化や技術革新などの原因により、社会は「前近代」的状態から「近代」的状態へと変化する。この移行のプロセスにあって、合理的精神が支配したり、民主的な政治体制が出来上がったりなど、経済以外に文化や政治などの領域でも変化が生じ、多くの社会が似た特徴を示すようになる。
資本主義と世界システム  世界システム視角の基本的な特徴は、①資本主義を国民経済を基礎単位としたものとする視点を批判し、それを部分での経済活動の特性からではなく、世界経済の総体の構造特性からとらえる点、②世界を中核、半周辺、周辺の三層構造ととらえたうえで、この不均等発展を経済領域のみならず社会・政治の領域も含めて統合的に分析する点、③時間的な周期的変動とそれを通じての全体的な再編成のメカニズムに注目する点の3点に集約できる。そして、これらを貫くメタ理論的な水準には、市場における均衡ではなく、市場の不均衡と不可逆的な累積的構造生成のメカニズムを強調する基礎視点があり、この発想を彼は「史的システムとしての資本主義」という概念に集約させた。 + ブローデルをはじめとする社会史のアナール学派から引き継いだ人口・物価の歴史統計的視点を駆使して、ヨーロッパ世界経済が13世紀以降に経験した拡張収縮の周期的パターンを分析し、それがどのようにシステムの再編成に影響したかを論じた。
アナール学派:現代フランス歴史学の一潮流。研究対象を長期持続や日常性な���の歴史の深層にすえた点、および問いの水準で「現在と過去との対話」を重視する点において、社会科学の領域のも大きなインパクトを与えている。
従属理論:第三世界の低開発は、先進国による支配の結果であり、前者の発展のためには後者への従属を断ち切らねばならないと主張するラディカルな経済社会理論。
社会史:社会史とは、複数の社会集団・社会階級とそれらの相互関係の歴史である。従来、社会史という用語はつぎの3つの意味に使われてきた。①下層階級の生活と運動を扱う歴史②風俗・慣行・日常生活など人間行動の社会的側面を扱う歴史③社会構造よりも経済構造の変動に重点を置きつつ、経済から社会を説明していく歴史。
エスニシティとナショナリズム&想像の共同体と伝統の創造 ゲルナーによるナショナリズムの定義 :ナショナリズムとは政治的単位と文化的単位の境界線が一致しなければならないと主張する政治的原理である。 →産業社会と分業体制、中央集権国家、文化的標準化といった近代的条件がネーションの形成を推進し、ナショナリズムが国境内の産業社会に新たな秩序を与えた。 アンダーソンによる定義 :ネーションを「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」と定義し、①想像されたもの(=たとえ小さなネーションでも、そこに属する人々は大勢の自分の同胞に会うわけでもなく、また彼のことについて聞いたり、知ったりすることもないが、心の中に「共同の聖餐のイメージ」をもっている)②限られたものとして想像される(=どれほど多くの人々を擁するネーションでも、そこには国境があり、その先には他の国民が存在している)③主権的なものとして想像される(=主権国家としての自由や権利が保障されており、成員がこれを統治している)④一つの共同体として想像される(そこに不平等や搾取が存在しても、成員同士が「常に水平的な深い同志愛」を思い描いている)という特徴を持っている。
ホブズボウムの創られた伝統論 ;彼によれば、「伝統」には、「実際に創りだされて、構築され、形式的に制度化されたもの」と「容易に辿ることはできないが、数年間など日付を特定できるほど短期間に生まれ、急速に確立されたもの」の2つがあり、「創りだされた」伝統は、「歴史的な過去との連続性がおおかた架空のもの」となると指摘。
エスニシティ:エスニック集団への帰属状態、ないしはエスニックな自己意識。エスニック集団は、客観的には言語、宗教、歴史的集合体験等の文化的指標による集団的境界をもち、主観的には集団メンバーの所属意識により定義される。
エスノセントリズム;自らの人種ないし民族を美化してこれを至上のものとする反面、他人種、他民族を偏見・差別の対象とする思想や生活態度をいう。
啓蒙の弁証法 :『啓蒙の弁証法』の主題は、人間の優れた能力とされてきた理性の中には暴力の契機が含まれており、文明が巻き起こす野蛮状態をそうした暴力性の歴史的帰結と見ることにある。まず理性には、自然的世界がもっている本来の豊かな質的多様性を抽象化してとらえ、一面的な操作と支配の対象にする傾向がある。また理性は、人間の自己保存のための道具と化して、内的な自然(感情や欲望)、外的な自然環境、社会的世界を暴力的に支配する。アドルノとホルクハイマーは、こうした理性の暴力性や道具と化した理性の歴史を「啓蒙と神話の絡まり合い」として描いた。
・抑圧と文化の理論(S・フロイト)  人間は自己自身を抑圧する動物である。自らを抑圧することにより一方で文化を創出するが、また他方で自ら創出した文化により抑圧される。
・ルサンチマンと道徳(ニーチェ)  キリスト教道徳の起源は、抑圧された弱者の抱くルサンチマン(怨恨)にある。弱者は、その無力さのゆえに、自分たちのルサンチマンを報復行動に移すことができないので、ただ「想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつける」。換言すれば、「恐るべき整合性をもって貴族的価値方程式に対する逆倒を敢行し、最も深刻な憎悪(無力の憎悪)の歯ぎりしをしながら、この逆倒を固持した」弱者たちによってキリスト教道徳は形成された。この意味で、それは「道徳上の奴隷一揆」の所産にほかならない。
cf)社会学は、私たちの「日常政界の意識からしばしば隠されている意味のレベル」をさぐり、「社会の公式的な解釈のなかに与えられている現実」とは違ったレヴェルの現実を探求する。したがって、社会学的意識のなかには、現実を暴露し、お上品な体裁を否定し、すべてを相対化していくというモチーフが内在している。
合理化のパラドクス 『プロテスタンティズムと資本主義の精神』 :カルヴァン系宗派の信者は、自らが救済されるに違いないという確証を強く求めるようになった結果、浪費衝動・怠惰心を抑制し、神の栄光に不断に奉仕し続けることによって、自分は救われる人間だと思おうとした。このような意図せざる結果によって、禁欲的に職業に励��信者が生みだされ、富や消費への誘惑を断ち、余剰を投資するという資本主義的な動機づけが強化されていく。 合理化の逆説的帰結 ①「合理化に伴う非合理化の先鋭化」 ②「合理化の衝突」 ③「合理化に伴う意図せざる社会淘汰」
世俗化 ウェーバー:近代化とは、人々が伝統的な慣習や自らの感情ではなく、目的合理的に思考、行動するようになるという意味での合理化(「脱呪術化)である。さらに、近代化は、政治や経済などの自律的な価値原理をもつ世俗的領域を分化させるプロセスでもあった。その結果、伝統的な宗教は、新たに生まれた近代社会の多元的価値の競合に敗れて衰退していくものと捉えた。 デュルケム:宗教を「聖なるものに関する象徴と儀礼の体系」と定義し、その存在や働きが完全に損なわれることはないとしつつ、共同体の道徳として社会統合に資することを宗教本来の機能とし、近代化に伴い高度な社会分化が進行するなかで、宗教はこの機能を十分に果たせなくなると考える。
・「神の道具」と教養人(M.ウェーバー)  ピューリタニズム(あるいは禁欲的プロテスタンティズム一般)は「神の道具」として仕事に励む人間を生み、儒教は自己完成をめざし教養をつむことに努める人間を生んだ。
官僚制と近代組織 ウェーバーの官僚制論 :官僚制は、合法的な支配の純粋型。 特徴①権限の原則(活動の規定・権力の規定・計画的な任命)②一元的で明確な上下関係③文書による職務遂行ならびに公私の分離④専門化した活動⑤職務への専念⑥一般的な規則の基づく職務遂行 →官僚制原理は、正確性や恒常性や信頼性に優れ、計算可能性に富んでいるおり、それは普遍的な適用が可能なもんであり、ウェーバーにおいては形式的にもっとも合理的な支配のありようだった。 →それ以降の研究による官僚制のまとめ ①専門性(諸活動がはっきりと区切られていること)②集権制(指揮命令系統がしっかりしていること)③公式性(それらが文書によって明確に規定されているこおt)
支配と権力 支配の3類型(ウェーバー) ⑴合法的支配:合理的に制定された規則には従うべきであり、しかもその規則に定められた限界(権限)の範囲では支配者の命令に服従すべきであるという信仰。 ⑵伝統的支配:古くからある秩序は侵してはならないという伝統的な規範への信仰に基づく。伝統的な規範は曖昧であり、合法的支配での明確に制定された規則と違い、権限は不明確である。それゆえ伝統的支配では、支配者に対する恣意的な命令を下す余地がある。しかし恣意も、実際には伝統的な規範によって制約されており、無制限というわけではない。 ⑶カリスマ的支配:支配者が特異な(非日常的な)能力を有しているとの信仰に基づく。
基礎集団と機能集団、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 基礎集団:地縁や血縁などに基づいて自然に成立しているように感得される集団 機能集団:特定の目標の達成のために人為的に創られた集団 ゲマインシャフト:家族、村落、近隣、仲間など、本質意志に基づいた実在的で有機的な生命体で、根本的なところで結合している。 ゲゼルシャフト:企業、大都市、国家など、選択意志に基づいた観念的で機械的な構成体で、結合を見せたとしても結局は分離している。
生活世界の植民地化 :生活世界の植民地化とは、私たちの日々の生活が営まれている世界が行政や経済の肥大化によって内側から浸食され掘り崩される事態をさす。植民地化の結果、意味喪失をはじめとする病理現象が生じる。
生活世界:知識のストックであり状況を解釈し意味づけることを可能にする文化、社会的集団への帰属を規制する社会、自己同一性の基礎である人格の三要素によって成り立っており、言語を基盤にしたコミュニケーションによる秩序形成がなされている。 ※生活世界の植民地化は、このような生活世界のなかに行政や経済の肥大化によって貨幣と権力が侵入する事態をさす。
シュッツによる日常生活世界の定義 :日常生活世界とはまず<私>が<私>の身体によって繋留されている世界である。<私>が日常生活世界で経験する現実は、<私>の身体が位置する<いま>と<ここ>をそれぞれ時間・空間の原点として、過去—未来、上—下、前—後、左—右、遠—近に従って組織されている。日常生活世界は理論的関心の対象ではなく、実践的関心の対象であり、<私>は日常生活世界において常識的知識を用いて対象に働きかけ、実践的な目的を追求する。また日常生活世界は他者とともに生きられている間主観的な世界である。<私>はもっとも身近な対面状況に直接的に経験できる<あなた>を見いだす。しかし、<あなた>以外にも、<私>は同時代をともに生きる他者たち、すでに亡くなっている過去の他者たち、これから生まれてくる未来の他者たちについても多くのことを知っており、この知識を介してこれらの他者たちを間接的に経験している。
ハビトゥスと文化的再生産 ハビトゥス:人々は社会生活の中でさまざまな経験を積み重ねる。これら過去の社会的諸経験は、反復を通じて身体へと刻み込まれ、人々の性向を形作る。このように過去の諸経験を通じて身体化された社会的性向は、いったん獲得されれば、今度はある種の図式となって、あらゆる文脈で、必ずしも自覚を伴わずとも、一定の傾向性や規則性を備えた知��・思考・評価・感覚・行為を生み出すように人々を駆動していくことになる。ブルデューは、こうした実践を生成する、持続的で移調可能な性向システムを、ハビトゥスと呼ぶ。 + ハビトゥスは、人々が組み込まれる社会階級的な位置との関係において規定づけられる。
文化資本:個人または集団がそれぞれの社会的活動の場において有する文化的有利さの可能性の大小をさす。家族その他の社会的環境のもとで伝達される文化的財・知識・言語能力、その他諸々のハビトゥス等によって構成される。この文化資本は、文化的再生産のメカニズムを説明するうえで必要な概念として設定された。
階級・階層と社会移動 階級:階級というのは、近代社会の産業経済の仕組みに人々がどのように位置づけられているかということに重きを置いた見方である。そのため階級は職業的地位と切り離し難句関連する。これを社会学の言葉として理論化したのは、マルクスとウェーバーである。マルクスは生産手段の所有/非所有という観点をとりわけ重視し、産業社会のシステムに資本家階級と労働者階級の対立構図を見だした。これに対してウェーバーは、実体として存在している地位集団について、財の所有、技能の有無、ライフチャンスなどの多様な観点から説明した。 階層:階層の方は、明瞭な境界のない地位の連続体、あるいはいくつかの地位や属性が重なり合って成立している複合的な不平等の在り方を指す。社会的出自、学歴、職業的地位、財や経済力などのような社会的地位の関連構造を総体としてさすには、「階層」が用いられる。
・文化としての性差(M・ミード) ジェンダー :生物学的・解剖学的な男女の違いを意味する「性」に対して、社会的文化的に形成される男らしさ、女らしさを表す概念。ジェンダー概念を重視することによって、政治・経済・教育・文化・家族など、社会生活のあらゆる領域で女性が男性とは異なる位置を占め、異なる役割を与えられていることの意味が問われるようになった。
家族 :夫婦関係を基礎にして、そこから親子関係や兄弟姉妹の関係を派生させるかたちで成立してくる親族関係者の小集団。しかも感情融合を結合の紐帯にしていること、ならびに成員の生活保障と福祉の追求を第一義の目標としていることにその基本的特徴がある。それだけでなく、家族は人間社会の基本的単位であり、また人間形成、したがって社会化の基礎的条件を提供する最も重要な社会集団である。
近代家族とジェンダー アリエス以降登場した「新しい家族史」は、近代家族の概念その��のを脱構築するものだった。その一人であるショーターは、家族に対する人々の感情の変化(「感情革命」)こそが近代家族を誕生させたと述べる。ショーターによると家族にまつわる感情の変化は、①男女関係②母子関係③家族と周囲の共同体との間の境界線、の3つの分野にわたり起きたという。すなわち①男女が結婚相手を選ぶ際に、愛情(ロマンティック・ラブ)が重視され、結婚後もそれが夫婦を結びつける絆となる、②母親にとって子どもがもっとも重要なものとなり、母性愛が子どもの幸福に何よりも必要だと思われるようになる、③家族と社会の間に境界が引かれる一方で、家族を結びつける絆がより強調され、プライバシーが誕生する、といった感情革命が資本主義の進展とともにわき起こり、近代核家族が誕生したのだとショーターは指摘する。
落合+西川の近代家族論 ①家内領域と公共領域の分離②家族成員相互の強い情緒関係③子ども中心主義④男は公共領域、女は家内領域という性別分業⑤家族の集団性の強化⑥社交の衰退⑦非親族の排除⑧核家族⑨この家族を統括するのは夫である⑩この家族は近代国家の基本単位をなす ※西川がつけ加えたのは⑨と⑩
家父長制 :性と世代に基づいて、権力が不平等に、そして役割が固定的に配分されるような規範と関係の総体
個人化 :近代化の高度化段階を特徴づける概念で、その内容は近代化初期段階で形成された企業・近代家族といった集団が人々を包摂する力を弱め、堅固なものから流動的なものへと変化していく過程のことを指す。これによって企業共同体や近代家族がうさん霧消してしまうわけではなく、結果として人間関係の流動化の度合いが高まるなかで、個々人が文字通り「個人」として、生活やキャリア、そして自らのアイデンティティを形作っていることを余儀なくされる。こうした個人化は、一方では社会変動や社会状況の変化によって構造的に生みだされてくる問題が、それを構造的に解決することが困難であるがゆえに、個人の自己決定に委ねられ、自己責任の名のもとにおいてそれを個人の問題に転化する社会状況の現出という文脈のなかで生まれたものでもある。
感情労働 :職務上で要請される労働場面において適切とされる感情を保持したり維持したりすることで対価を得ているさまを指す。また、その中で人は自己感情からの疎外を経験しているとする。 ・抽象的公民の誕生(K.マルクス) (近代資本主義社会にあっては)現実の人間は利己的な個人の姿においてはじめて認められ、真の人間は、抽象的な公民の姿においてはじめて認められる
疎外 :人間の社会的活動による産物、例えば頭の活動の産物である観念や、手の活動の産物である生産物が、それ自身の生命を与えられ、独自の力をもつかのように見え、それを作り出した人間に対して、逆に彼を支配する疎遠な力として現れるようになることをいう。
アノミー :適切な規制を欠いている状態。 :社会的規範の動揺・弛緩・崩壊などによって生じる欲求や行為の無規制状態。 →アノミー的自殺(デュルケム):どれほど努力を続けたとしても、抱く欲望がさらに膨れ上がってしまい、現状に決して満足できず、苦しい努力の報われない自らの人生を苦痛にしか考えられなくなり起こる自殺。
逸脱行動とアノミー(マートン) :制度的規範が揺らぎ、目標を効率的に達成するためならば、社会的に許容されていない手段にでも訴える状況。 ラベリングと逸脱(H.S.ベッカーほか) 1. 人が逸脱者というラベルを貼られるのは、逸脱行為のゆえにというより、社会的マジョリティによって定められた同調・逸脱に関するルールが恣意的に適応されたためである。したがってこのラベルは、とりわけ社会的弱者に対して適応されやすい。 2. 人は、他者によって逸脱者というレッテルを貼られ、他者から逸脱者として処遇されることによって、逸脱的アイデンティティと逸脱的生活スタイルを形成する。
ラベリング :統制活動は、3つの位相において逸脱現象の生成に寄与する。第1に、特定の行為類型を逸脱と定義する位相において。第2に、その定義を具体的な行為者に適用する位相にいて。第3に、被適用者が否定的な自己形成を進める位相において。いずれの位相においても、生成の行方を左右するのは統御側と逸脱側の相互作用である。
社会統合と自殺 デュルケム『自殺論』 社会統合:個人が社会に結びつく様式をさす。個人と個人、あるいは個人と社会集団との結びつき。 自己本位的自殺:社会集団の統合度が弱いときに生じる自殺。「常軌を逸した個人化」によって生じる。 集団本位的自殺:社会統合が高いケースにおいて、社会集団との結びつきが強いために、個人の生命が集団の利益や規範よりも軽視され、また個人が集団のなかに埋没することによって生じる。 アノミー的自殺:社会的規範がアノミー状態に陥り、人々の欲望が際限なく広がり、欲求不満状態に陥るため起こる自殺。 宿命的自殺:社会規制が強い場合に起き、社会が人々の欲望や行動を過度に規制することによって起きる。
アイデンティティ :エリクソンの中心概念の一つで、客観的には人格の統合性と一貫性を示す概念。主観的には自分がほかならぬ自分であるという確信ないし感覚をいうが、それは同時に自分の不変性と連続性を周囲の他者も認めているという確信・感覚に裏づけられている。
自我の社会性(G・H・ミード)  自我の社会性とは、人間の自我が他者との関連において形成され、展開されることである。自我は真空の中で生まれるわけではなく、孤立した形で存在するのでもない。自我は常に他者とのかかわりあいにおいてその姿を現す。 ミード:「役割取得」(role taking) →人間は他者の役割期待との関連において自らの自我を形作る。「一般化された他者」 社会化 :人が社会の中でルールや価値を学び、そのことで他者と相互に役割行為を遂行できるようになるプロセスのこと。 第一次社会化は、家族や学校のなかで親や友だちと遊びやゲームなどを通してルールや価値を内面化していく過程として現れる。 第二次社会化は、社会集団のなかで他者と交代可能な「匿名的」な役割を果たしていくなかで、ルールを内面化していく過程である。
準拠集団と予期社会化 準拠集団:人が自分自身を関連づけることによって、自分の態度や判断の形成と変容に影響を受ける集団。一般的には、家族・友人集団などの身近な所属集団からなることが多い。しかし、人が現在所属していない集団、つまり過去に所属した集団、あるいは将来所属したいと思っている集団、つまり非所属集団もまた準拠集団となりうる。
予期社会化:現在自分が所属していない集団を準拠集団とし、そのうえでその準拠集団のルールや価値を学び取るプロセスを指す。
自己 :自分自身との関係である。 →自己の自己たる固有性がそれ自身に言及し、また働きかけることができるという点。自己は他者との関係として成り立つが、他なるものとの関係において成り立つ対象は自己に限られるわけではなく、関係的に成り立つあらゆる対象の中で自己だけが固有にもつ形式、それが自己自身への関係。
『日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』 p.45-6 傍注より  アンソニー・ギデンズは「諸個人がみずからの行為に関する情報を、その行為の根拠について検討・評価し直すための材料として活用すること」を「再帰性」と呼び、これの諸個人への浸透を近代社会の特徴とする。 たとえば、「再帰性」が浸透するにつれて、各地の伝統は「これまで伝承されてきたから」という理由だけではその継承が是認されなくなり、ある伝統が尊重される場合でも「なぜその伝統を守るのか」とその根拠がつねに問題視されるようになる。 「みずからの行為に関する情報を、その行為の根拠を検証し直す材料にすること」。 それがループ化すると、「自分はこれでいいんだろうか」という循環的な問い詰めが強迫化し、収拾がつかなくなる。 「自分の状態についての問題意識が高まれば高まるほど、勉強して病理に詳しくなればなるほど状態が悪くなってゆく。 フロイトのモデルの逆」(斎藤環、「ICCシンポ」)。 既存のひきこもり支援は、「オタクになれ」という斎藤環氏まで含めて、再帰性を減衰・忘却させる方向を目指している。 たとえば自転車に乗るときには、操作方法を意識してしまってはうまく運転できない。 自転車に乗るというのは、あれほど細い車輪でバランスを取り、よく考えるとものすごく高度なことをしているのだが、それは「意識しないから」できている。できない人は、操作方法をいちいち意識するので、かえってできなくなる。――同じ事情が、社会生活や人間関係にも言える。
自我 :行動や意識の主体とされ、他とは区別された自己のパーソナリティの中核をなすもので、社会的行動の理解における重要な準拠枠とされる。
・自己呈示のドラマツルギー(E.ゴフマン)  社会的状況のもとでの行為は演技の要素を含む。行為者は同時に演技者(パフォーマー)であり、観客(オーディエンス)を意識した「印象の演出者」である。
共同主観性(間主観性) :他人は自分と同じような意識を持ち、自分と同じように世界を見ていると思い、その仮定の上に立って思考し行為している世界体系。
再帰的近代化 近代化は伝統社会から単純な近代へ、そして単純な近代から再帰的な近代へという2段階で展開してきた。再帰的近代の段階では、社会活動全般が、それに関して新たに得られた情報や知識によって絶えず検討・改善され、その結果として当の営みがそれ自体、大きな変貌を遂げることになる。
理性それ自体を合理化する再帰的な力が見境もなく働くと、因習・習俗・教理といったものだけでなく科学的な知識さえもが特権的な立場を失い、あらゆるものが疑義や吟味や修正の対象となってくる。こうして前近代にも近代初期にも健在であった基礎づけ志向は極端に衰微し、また歴史の進歩イメージも大きく揺らぐことになった。だが、この新たな時代の位相を脱近代と呼ぶことにギデンズは強く反対する。近代とはまったく異質な時代が立ち現れたというわけではなく、むしろ近代的な合理化の作用が再帰的に徹底するような時代になったという点に着目したギデンズは、これを専らハイ・モダニティという言葉で表現している。
消費社会:ボードリヤールによれば、現代高度産業社会は、生産よりも消費、モノの機能性よりもコード化された差異が優位となっている「消費社会」である。消費は、消費者個人の自律的で自発的な享受というモノの「効用」のレベルから、差異化されたモノ=記号のシステムへの個々の消費行動の強制的な組み込みという「意味作用」のレベルへと転位している。
近代社会と大衆社会 近代社会:近代社会とは、政治的世界における市民革命、経済の領域における産業革命によって誕生した資本主義・民主主義によって支えられる社会であり、貴族階級に代わって台頭した新興市民階級が歴史の表舞台に立った時代であった。その意味で、近代社会はしばしば「近代市民社会」と称される。一般的に「市民社会」は、その理想形において教養と財産を有する「自由」な個人とそうした個人の間の「平等」な連隊によって形成された社会とされている。
大衆社会:20世紀に入り、科学技術の発展によって、大量生産・大量消費のシステムが実現するが、こうしたシステムを維持するため、大量の労働者階級に加え、新中間層―事務・管理業務を担うホワイト・カラー―と呼ばれる新しい社会層が登場したのである。また、社会全体の生産力を向上させ、それらを効率的に管理するために障害となる中間諸集団が排除され、その結果、一方では所属集団を失い、原子化した個人が社会に溢れ、他方ではそうした彼ら/彼女らを画一的で巨大な官僚制的組織が吸収していった。さらに、コミュニケーション技術の高度な発展により、新聞・雑誌、そして映画・ラジオなどのマス・コミュニケーションが発達したが、その負の側面としてメディアを通して大衆の社会心理を操作する大衆操作や大衆支配の可能性が高まった。こうした過程を経て、19世紀まで社会をリードした能動的で自立した「市民」は姿を消し、画一的・没個性的な労働者と新中間層からなる「大衆」の時代が到来した。
エポケー:フッサールが主題化している、現象学的・反省的態度が成立するための方法概念であり、自然的態度に特徴的な外的世界の存在に対する素朴な信念を括弧に入れ、したがってまた、外的世界の存在を前提にしているすべての学の妥当をも「遮断」すること。
機能主義 :実体概念を排斥し、要素間の相互作用の見地から対象を機能的に把握する立場に立ち、その結果、あらゆる現象を動的に、つまり絶えざる生成・消滅の過程として理解することを強調する。19世紀末に台頭した科学方法論。
構造主義:一般に構造を要素と要素間の関係からなる全体として捉え、事象をその構造の要素間の関係や変換の結果として見る方法的な視点をいう。 →「構造」とは、あるひとまとまりの現象の中で変わりにくく、比較的安定的な関係性のパターンを意味し、「機能」とはある事象がそれを含む全体に対して果たす有益な作用のことをいう。
機能=構造主義 :社会を実体的な統一体というよりは、多様に分化した構造(=制度)として関係論的に捉える見方のことで、文化規範や地位・役割体系といった観点から制度を把握するとともに、社会システムの存立を規定する機能要件の定式化やその体系的把握を推し進めた。
ポスト構造主義 :1960年代末にフランスで現われた思想運動。「主体」の脱中心化、関係の論理、啓蒙的・進歩史観批判、「記号」・「差異」の戦略的使用など構造主義の諸要素を含む。しかし、構造主義がレヴィストロースのように静態的・閉鎖的システムとしての「構造」を措定し、科学の方法たろうとするのに対し、ポスト構造主義はデリダのように構造の生成・連動・流動を強調し、世界や現象を「差異の戯れ」にまで解体しようとして形而上学批判の方向をとる。
ポストモダニズム :近代の後にくる発想法を総称する言葉で、効率性と合理性を追求する機能主義(モダニズム)思想に対する批判を表明し、遊び、象徴的表現、自由発想などを取り入れる運動を指す。
公共性と市民社会 公共性:経済システムの「貨幣」や国家の「権力」というメディアによるのではなく、言語メディアを用いた主体同士コミュニケーションによって形成される圏域としての「生活世界」を土台としつつ、そこでの自由で平等なコミュニケーションが生む「合意」によって構成される領域。
リスク社会 :産業社会が出現する頃より、新たな危険との向き合いが一般的なものになっていく。そこでは、医学の進歩が乳児死亡率を飛躍的に減少させたように、科学技術の発展は数多くの危険を排除していった。危険はもはや個人を超越した統制不可能な事柄ではなく、人間の力によって克服可能なもの、すなわち「リスク」として人々に認識されるようになったのである。  逆説的なことに、このような近代特有のリスクに対する向き合い方が変化するきっかけは、産業社会の「失敗」ではなく、その「成功」であった。科学技術の発展は、補償不能・限定不能・知覚不能といった新たな特徴をもつリスクを次々に生み出していった。そうしたリスクは、かつてのように社会の外側にあって統制可能で克服可能なものではなく、社会の内側から社会の変化を駆動し始めたのである。 + 福祉国家の成立、教育の普及、ジェンダー革命、雇用システムの変化などに伴って、個人化が進行していく、そこでは、人々はさまざまなリスクと、そこから生じる不安や不確実性を、集団ではなく個人で処理・克服しなければならない。
格差社会 :社会成員が、特定の基準から見て隔絶された階層に分断された社会。特に、所得・資産面での富裕層と貧困層の両極化と、世代を超えた階層の固定化が進んだ社会。日本の場合、戦後の階級社会から、中間層を軸にした階層社会へ進み、雇用の不安定化などが原因となって現状では流動化した格差社会になっている。
人的資本 :当該社会の人口の規模と健康状態、特にその教育・技術水準及び肉体的・精神的能力などがその内容を指す。人は、知識や技能などの自らの人的資本形成に投資し、生産性を高めることで、より大きな便益を得ることができる。すなわちここで重要なのは、人間を投資対象として認識すること、また人的資本蓄積によって将来リターンが得られることへの期待である。
・多集団の交錯と個性の発達(ジンメル) 新たに集団に所属することは、個性にとってはそれだけ広い活動領域が与えられることになり、これを積み重ねていけば、必然的に個性はより高度に発達する結果となる。
社会分化:一方で集団の規模が拡大していくとともに、他方で集団の内部で個人間の差異が高まり個性が発達していくという二重の過程である。 →集団の規模が大きくなるにつれて、集団内部での生存競争が激しくなり、各メンバーがその競争において優位に立とうとするがゆえにメンバーの間に差異が生まれ、メンバーが個性的になっていく。その反面、メンバーが個性的になると同時に反比例して集団は個性を失っていく。 「分化と個体化とは隣人との紐帯をふるめるが、そのかわりにより多くの人びととの新しいそれを紡ぐ」(ジンメル) 社会分化は、一方で個人がさまざまな可能性を発展させ人格を完成させるための条件を作り出すにもかかわらず、他方では個人を特定の機能の担い手に押し込め人格の完成を阻害している。
機能分化社会 ① 個人が階層などの社会の特定の一部分に埋め込まれるということがない。 ② 様々な機能が独自の論理に基づいて展開し、機能分化が貫徹すると、統治者/被統治者、生産者/消費者、教師/生徒といった役割が相互に独立となり、特定の階層がこれらの役割の一方を束ねるということはもはやなくなる。 ③ 特定の階層やそこで繰り広げられる相互作用が社会全体を代表しているとみなすことは不適切となり、集合的単数名詞としての抽象的な社会の概念が形成・受容されるようになる。
顕在機能と潜在機能 制度が社会の存立に果たす客観的機能と、制度を実践する行為者の主観的意図は必ずしも一致しない。制度がどういった機能をもつかは、それをどういった視点でとらえるかによって、多様かつ可変的である。顕在機能とは当事者の視点から定義される機能であるのに対し、潜在機能とは、当事者の意図とは無関係に、観察者によって発見される機能である。
・動機の語彙(C.W.ミルズ)  動機は、ある行為の「原動力」となる内的状態というよりは、人びとが自己および他者の行為を解釈し説明するために用いる「類型的な語彙」である。
社会学者や心理学者たちは、それぞれの専門知識や語彙を動員してさまざまな行為に対してしかるべき動機を「付与」する。
・相関主義(K.マンハイム) ▶︎人間の意識の真理性に対する懐疑の念は、敵対者に対する不信と疑念としてまず成立し た ▶︎部分的イデオロギー :敵対者は事実を正しく認識しようという気はなく、その理念や考えにしたがって、多かれ少なかれ故意に、事実を覆い隠そうとしている。 =相手の特定の理念を利害・関心から暴こうとする場合に成立 ▶︎全体的イデオロギー :敵対者の世界観全体がその個人的真理からのみならず、その背後の集団・社会状況に関係づけられて暴露される。 ⇒相関主義 :特定の歴史的時点に立った特定の集団に所属していくことによってのみ接近しうる真理があり、このような特定の立場に立つことによってのみ到達しうる部分的真理を、全体的観点から相関させる作業が進展していけば、無限に全面的な真理にたどり着けるとする立場。 ※イデオロギー:人間、自然、社会についての一貫性をと論理性をもった表象と主張の体系であり、それによって諸個人の生活に根底的な意味が与えられ(価値体系)、自己と環境世界および両者の関連についての合理的認識をもたらし(分析体系)、自己の願望と確信とによって潜在的エネルギーを意志的に活性化する(信念体系)とともに、具体的なイッシューについての日常的な意見の体系(政治的プログライム)を提起する。
・多元的現実の構成(A.シュルツ、P.L.バーガー)  われわれが<現実>とよんでいるものは、実体的実在でも、先験的な所与でもない。それは多元的な領域からなる意味の秩序として主観的に構成されたものにすぎない。にもかかわらず、<現実>が客観的な拘束力をもつのは、それが主体に構造的に<内在化>されるからである。そして、そのような<現実>構築のプロセスは、本質的に社会的相互作用の場と切り離すことができない。
・認知的不協和の理論(L.フェスティンガー) 不協和を増大させる傾向のある新しい情報に、強制的にかあるいは偶然にさらされると、強制的にかあるいは偶然にさらされると、その人は不協和の増大を避けようとして、しばしば新しい情報を誤解または誤認することになるであろう。
・預言の自己成就(R.K.マートン) ある状況が起こりそうだと考えて、人びとが行動すると、そう思わなければ起こらなかったはずの状況が、実際に実現してしまう。 「危惧の念を実在に転化する預言の自己成就は、慎重な制度的規制が欠如した場合にのみ作用するものである」 ・欲望の模倣とモデル=ライバル論(R.ジラール) 欲望は、他者の(モデル)の欲望を模倣することによって発生する。それゆえ、欲望主体はモデルと同一物を欲望することになるから、欲望を貫徹しようとすれば、モデルは主体の欲望を妨げる障害(ライバル)に変わる。このような他者をモデル=ライバルという。
・志向のくいちがいと羞恥(M.シューラー) 羞恥の発生パターン ⑴自分は個別者として与えられているにもかかわらず、他者がそれを普遍化しようとする場合 ex)自分が相手にとって恋人らしく振る舞おうとするときに、相手は自分との関係を単なる恋愛の1ケースとしてしかみなしていないような場合 ⑵自分は普遍者として与えられているにもかかわらず、他者がそれを個別化しようとする場合 ex)患者である自分を、恋人の医者が診察しようとする
・道徳意識の発達―義務と善(J.ピアジェ)  一方的尊敬によって特徴づけられる上下的な社会関係からは義務と他律の道徳が、相互的尊敬によって特徴づけられる平等的な社会関係からは善と自律の道徳が生まれる。子どもの道徳的発達、すなわち義務と他律の道徳から善と自律の道徳への進化は、かれらが仲間との平等的な関係を経験することを通して生じる。
・結合定量の法則(高田保馬)  個人の結合の傾向には定量がある。それゆえ一方の人びとと強く結合すれば、他方の人びととの結合は弱くなる。同様に全体社会にも結合の傾向の定量がある。それゆえ一つの部分社会の結合強度が増大すると、他の部分社会のそれは減少する。 EX)恋愛に熱中する人は親不孝となり友人から離れる、社交的で多くの友人を持つ者は、真の知己を持ち得ない。
裏命題:一つの結合が刺激となって、他の結合が活性化または強化される。 →国家は家族の拡大図というメタファー=家族への忠誠が国家の忠誠を意味する。 But,矛盾の存在:ex)親孝行すべきなので、軍隊にはいくべきではない。
・外集団への敵対と内集団への親和(G.ジンメル)  外部社会や集団と対立関係にある集団では、成員相互の連帯感が強まり、結合的な相互作用が促進され、集団としての凝集性が高くなりやすい。その点で、対立・抗争は社会化の一形式でありうる。
さまざまな形をとった対立が一つの統一体のなかで、あたかもタテ糸にたいするヨコ糸のように、結合的な相互作用で互いに織りなされることによって、むしろ積極的に―結合に活気を与えたり、新しい結合の契機を導いたり、結合をさらに促したりというふうに―作用していると見ているのである。
・インフォーマル組織の発見(G.E.メイヨー)  フォーマルな集団のなかに自然発生的に形成されたインフォーマルな組織が、フォーマルな組織の生産性を左右する。
インフォーマルグループはより具体的には、「ある特定の働き方を通じて得られた個人関係のネットワーク」であり、「組織の経済的目標に対して多くの点で反対するような、メンバーが共通してもっている一連の習慣や信念」でもある。しかし、またあるときには、「個人の希望を叶えると同時にマネジメントの目標に対して好意的に働くもの」であった。つまりそれは職業集団が実際に形成されたのち、そこでの関係を通じて事後的に発生するものであり、その意味では事前に計画や予測することのできない関係から構成されている。
・準拠集団と相対的不満(R.K.マートン)  人は自らの行動や態度を決定するさいに、その指針となる係留点を必要とする。この係留点が、とりわけ評価の基準点となる場合、人はその基準点として採用する個人や集団と自己とを比較することによって、満足を覚えたり、不満を抱いたりする。 ・多集団の交錯と個性の発達(ジンメル)  人格とは、文化の諸要素を個別的な様式で結合させたものである。それらの要素は集団に所属することによって個人へ伝えられる。したがって、個人が所属する集団の数が増やせば、それだけ、人格はより個性を発達させることになる。
・裹頭制の鉄則(R.ミヘルス)  大規模の組織においてその存続の必要上始動的地位の分化が生じ、この地位が固定化されるが、このことがさらに指導を支配へ転化させる。このようにして、あらゆる組織は必然的に裹頭制へ向かう。
・部分の機能的自律性とシステム内緊張(A.W.グールドナー) グールドナーは、社会システム内の相互依存はヴァリエーショ��をもつという見方に立ち、<諸部分の相互依存度が低いということは、その部分が自らの存続上の欲求を充足するにあたって、他の諸部分に依存する度合いが低いということを意味する>と見て、「各部分は機能的自律性(functional autonomy)をもつものである」という見方を導入した。
・互酬の不均衡と権力の発生(P.M.ブラウ)  ある社会関係の一つの側面における互酬の成立は、他の側面における互酬の破綻を伴う。社会的交換の過程には、互酬上のバランスをめざすストレインとインバランスをめざすストレインの二つがせめぎ合っており、この二つのストレインが一つの社会関係の表裏に同時にあらわれるからである。権力はこのインバランスから派生する。
・世界の複雑性と自己準拠システム(N.ルーマン)  この世界には実現される体験や行為よりもはるかに多くの体験や行為の可能性が常に存在しており(世界の複雑性)、われわれが生きてゆくためにはこの無数の可能性のなかから限られたものを選択せざるを得ない(複雑性の縮減)。この「複雑性の縮減」という機能を担うのが「意味」であり、この「意味」を構成する主体が「システム」である。
世界の複雑性とは、われわれに選択を迫る体験や行為の可能性が無数に存在することをいう。 「世界の複雑性の縮減」とは、体験や行為の無数の可能性を秩序化し、意思決定によって一定のものを選ぶと同時に、他のものを排除する、という行為によってである。 意味は一定の前提や戦略に基づく選択遂行をつうじて、数ある体験や行為の可能性のなかから限られたものを選び出し、他のものは否定することによって複雑性を縮減する。
・犯罪の潜在的機能(E.デュルケム)  犯罪は、その被害者はもちろん、当の犯罪者も意図せず、あるいは認知すらしていないような、何らかの有用な結果を社会全体に対してもたらす。
・閉じた社会と開いた社会(H.ベルクソン)  閉じた社会とは、その成員が外部に対してみずから防衛しながら、責務の圧力によって相互に結ばれている社会であり、蟻塚を思わせるような生命進化の一到達点である。これに対して開いた社会とは、原理上全人類を包容する社会であり、生命の根源から愛の力を汲み出す少数の選ばれた魂によって渇望され、彼らの招きによって成員がみずからを変質させてゆく。
・集合行動の理論(N.J.スメルサー)  ストレイン(社会的な矛盾や緊張状態)に直面した人びとは、それを軽減・緩和する何らかの方法についての「一般化された信念」にもとづいて、社会秩序を再構成するために集合行動をおこす。
自己呈示 :他者と愛呈する対面的な状況のなかにおいて、コミュニケーションをとろうという意志に関わりなく、すでにそこにいるだけで自分に関する情報を伝えている。このことを自己呈示という。
社会理論:「人間の行為や社会とはそもそもこうなっている」という説明をめざした理論体系のこと。 「構造の二重性」 エイジェンシー:行為者個人あるいは行為のこと。エイジェンシーには「媒介」「代理」といった意味合いがあり、人びとの行為がエイジェンシーとして働くのは、それが構造を媒介して社会システムを再生産するから。規則=構造が維持されるのは、行為の意図せざる結果にすぎない。このように、構造はエイジェンシーの条件となり、またその結果でもある。それが構造の二重性である。
・聖―俗―遊(R.カイヨワ)  聖なるものは俗なるものの違背と侵犯であり、同時に<戦慄すべきもの>でも<魅了するもの>でもある。聖なるものから緊張と恐怖をとり去り、興奮と解放をもたらす自由な活動が遊びであり、聖と同様に俗と対立する。
・贈与論(M.モース)  贈与は、外見上、自発的、一方的、断片的な現象であるけれども、根底においては、拘束的、互酬的システム的な実在である。つまり、贈与は「物」の提供というよりも、むしろ「シンボル」の交換である。
・女性の交換と近親婚の禁止(C.レヴィストロース)  近親婚の禁止は(インセクト・タブー)は、母、姉妹、あるいは娘を娶ることを禁止する規則であるよりはむしろ、母、姉妹あるいは娘を他人に与えることを強いる規則である。すなわちそれは、女性を与え、また受け取る集団相互の互酬的交換体系を始動させる規則なのである。
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「狂気、障害、そして《Untitled》シリーズ」①
Frederick Grossの著作 Diane Arbus’s 1960s: auguries of experience (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2012)所収の”Madness, Disability, and the ”Untitled ” Series ”というダイアン・アーバスの《Untitled》を主題にした論考を邦訳してみる。
註は割愛したものもある。文意を通りやすくするために意訳したところがあるから差し引いて読んでほしい。引用文に邦訳があるときはそれに拠ったが、一部拠っていないところがある。 原文中の ” ” や斜体字、大文字は、強調の意味の場合は太字に、邦訳されているものに限り書名・演劇・映画の題名の場合は『』、論文・雑誌の題名等の場合は「」、芸術作品・展示会の題名の場合《》で表記した。
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《Untitled》シリーズとして知られるアーバスの最後の作品は、知的障害者のイメージを扱っている。1969年11/28のアラン・アーバスへの手紙で、彼女はこの作品の重要性を「最終的に私が探し求めていたもの」と表現している。では彼女が探していたものとはなにか?なぜアーバスはこのテーマの虜になったのか?以前言及したように、アーバスの《Untitled》シリーズは知的障害者や精神異常者の写真というカテゴリに結びついている。同じカテゴリという点で、アーバスはアウグスト・ザンダーに目を向けていたかもしれない―彼は1930年の《精神病棟の収容者〔Inmate of an Asylum〕》など正面から繊細に精神病の写真を撮った。アヴェドンの『Nothing Personal』も同じく精神病の写真の先駆けだが、一要素として扱ったに過ぎないようである。
その手紙でアーバスは、自身の持つ知的障害者のイメージを表現した写真集をつくりたいという望みを記している。「知的障害の女性の写真集については本当にわくわくしているの。年内には仕上げられそうよ…(写真の枚数の)多い〔multiplicity〕のが大事な被写体なんて初めてのことだわ。つまり、単に彼女らの最高の一枚を模索してるだけじゃないってこと。たくさん撮りたいの…書き物もしなきゃ。わたし彼女たちのことがほんとに大好きなんですもの。」しかし、アーバスがその写真集に着手することはなかった。それらのイメージが世に出たのはずっと後で、『Untitled』と題された写真集が出版された1995年だった。*₁1969年から翌年にかけてアーバスは知的障害者施設を訪れ、踊りやお祭り、ピクニック、ハロウィーンのパレードなどを撮影した。彼女は被写体に関する文献を読み漁った。彼女の本棚にはStigma: Notes on the Management of Spoiled Identity〔アーヴィング・ゴッフマン著・石黒毅訳『スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ』せりか書房、1970年〕やSanity, Madness and the Family: Families of Schizophrenics〔R.D.レイン、A.エスターソン著・笠原嘉、辻和子訳『狂気と家族』みすず書房、1972年〕、The Divided Self: An Existential Study in Sanity and Madness〔R.D.レイン著・天野衛訳『引き裂かれた自己:狂気の現象学』筑摩書房、2017年〕、Autobiography of a Schizophrenic Girl〔マルグリート・セシュエー著・村上仁、平野恵訳『分裂病の少女の手記』みすず書房、1971年〕などの本が並んでいた。*₂とはいえ結局、彼女がこのシリーズを出版したかった意図は不明のままである。アーバスがどのイメージを写真集に組み込もうとしていたか、どんなタイトルをつけるのか、なにを書くのか、知る術はない。彼女が撮影した知的障害者の何人かについてのメモが残るのみである。ただ、彼女の作品の根幹に形式的変化が表現されていることは確かである。アランへの手紙のなかでアーバスが言う「彼女らの最高の一枚を模索してるだけじゃない」とは、一枚ないし二枚の際立った写真を意味していて、さらに彼女は「たくさん撮りたいの」と言う。この作品は、出版された五枚によって定着したような、彼女の主たる手法―すなわちフォトストーリーというフォーマット―において現れたものとするよりは、おびただしい写真の枚数、つまり「多さ〔multiplicity〕」という側面から読まれるべきだろう。
この形式についての転換で殊にラジカルで、彼女がずっと持ちつづけたタイポロジーについての批評性の一つを構成するものとは、これらの琴線に触れる儚い写真が、写真を観る者のフリークの顔つきに関する狂気のスティグマを脱臼させていると言われているということだろう。ザンダー《精神病棟の収容者〔Inmate of an Asylum〕》とリチャード・アヴェドン《精神病院患者〔Patients in a Mental Institution〕》(1962年に撮影され、『Nothing Personal』の最後に載っている。)は、アーバスの《Untitled》シリーズが世に出るための下地となった。ここの連関を分析することで、狂気表象の歴史、それが1960年代にどう展開したかを端的に追うことになるだろう。
ポートレートにおける狂気の表象には、テオドール・ジェリコの連作ポートレート《偏執狂〔Monomania〕》やゴヤのボルドーでの狂人のスケッチから、ヒュー・ウェルチ・ダイアモンドやドゥシェンヌ・ド・ブーローニュなどの一九世紀の写真家、アウグスト・ザンダーなど今日に至るまで長い歴史がある。*₃ほとんどの場合、写真は出版物において例証という役割を持った。アントナン・アルトーは、写真が狂気についての真実主義的な記録とする解釈に疑義を呈し、芸術と文学を並行したアヴァンギャルド的実践によって認められた先駆けの一人である。アルトーは、狂気を構成する精神状態について、感情の表現/理解に伴う主観の自覚を導入することで、人相学の定説を否定し、狂気の表象を明らかにした。アーバスは間違いなくアルトーを意識していた。というのも彼女自身、Antonin Artaud: Anthology (1965)の第二版を所有していたのである。
かような文脈において、フーコー『狂気の歴史』(1961)のいくつかの議論は、60年代の狂気という語の用法についての議論に突出した理論モデルを提供する。1965年英語版初版のこの本は1955-65年の文学のトレンドだった。ジョセフ・ヘラー『キャッチ=22』(1955)ケン・キージー『カッコーの巣の上で』(1962)カート・ヴォネガット『スローターハウス5』(1969)などは、制度化された狂気という概念に疑義を呈した最も有名なものだろう。狂人という語の新たな用法によって、皮肉やブラックユーモアが香る不条理主義が流行する。患者は正気なものとして、病棟側は狂人として描かれるのだ。この語用法の根底には、社会制度や政策のひどい欠陥、すなわち、苦しみや人間性、そして個人といったものへの無関心がある。心理学者でさえその仲間なのだ。精神分析医T.S.サズは『精神医学の神話』で、精神病という概念は「科学的に無価値で社会的に実害がある」と論じる。R.D.レインは『狂気と家族』や『引き裂かれた自己:狂気の現象学』で、精神分裂病患者はしばしば社会的恐怖に抗うように狂人を演じることがあると主張する。
さらに、この時代を象徴するのはペーター・ヴァイスの戯曲『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』(1965)である。この戯曲は批評家の注目を集め、雑誌「パーティザン・レビュー」にスーザン・ソンタグの論評が掲載された。ソンタグは劇中の狂気と演劇性の結合について記したうえで、ハプニングと呼ばれる類の演劇や芸術にアルトーが大きな影響を与えたと論じた。アルトーは患者の革命への欲求を鎮静化するために電気ショック療法を使う精神病院を、社会的抑圧の装置と考えた。精神病院を非難した「精神異常と黒魔術〔Madness and Black Magic〕」*ⅰと冠するテクストでアルトーは、そこを黒魔術的な拷問所という風に表現する。人間の身体は、彼の著作やドローイングの中心にあった。アルトーの研究者スティーヴン・バーバーによると、アルトーは身体について、「野蛮で柔軟性に富むが、いまだ完結しえないと同時に欠陥だらけの器官だと考えた。その身体は、悪意ある収奪(社会と家族と宗教による)を経験しているために硬直して不毛であり、決定的に全体性を欠き、あらゆる表現性を奪われるまでに抑圧されている。アルトーはその生涯をかけて、この無用の身体を、自己変革を可能にする無限の能力を秘めた狂乱的舞踏の新たな身体へと粉砕してしまうための、概念やイメージを生み出そうとしたのである。」*₁₁彼は狂気に対する近年の制度を強く非難したが、傷ついた身体の再生の可能性に再び救いを見出す。後述するように、アーバスの《Untitled》シリーズも身体に救いを見ていた。
フーコーは60年代の身体と国家の衝突についての理論に強い発言力を持っていた。アラン・セクーラは、フーコーの著作、主に『監獄の誕生』に依って、監視や権力が個人を識別するニーズという側面から写真を分析し歴史化した。*₁₂わたしは『狂気の歴史』を理論モデルとして採用して、(アーバスの全作品を分析するための理論モデルではなく)ただ《Untitled》シリーズにのみ関係するテーマの類似を肉付けすることで、理論の枠組みを架橋するときの落とし穴を回避する。わたしはこのアプローチで、社会に「狂人」というレッテルを張られた個人とアーバスの写真とが理論的にパラレルであること描き出すのみならず、思想的領野を共有し、同意見を持つプロジェクトの分析に寄与することを試みるのである。
フーコーにとっても、アーバスにとっても(わたしはそう信じている)、身体はある種のキメラ―フーコー曰く「さまざまな出来事の刻みこまれる平面(言語はそれらをうち出し、観念はそれらを分解させる)」―として描かれる。身体は「自我の解体の場(その自我にひとは実質的な統一性という妄想をおしつけようとする)」であり「不断に風化状態にある量塊」*₁₃である。この「刻み込まれた面〔inscribed surface〕」という身体の捉えかたは「意図と効果のずれ」を表現したいというアーバスの欲求に共鳴する。身体は文化の力―私たちはこれに常に自覚的というわけではない―によって不断に変形させられる。フーコーの言う身体は、競合する社会の力と個人の力の間でアイデンティティが骨折している在りようを示している。身体は時間と言語によって移り風化していくシニフィアンなのだ。「意図と効果のずれ」を撮りたいという欲求の中で、明らかにアーバスの写真は「実質的な統一性という妄想〔the illusion of a substantial unity〕」或いは、障害のせいで見られたい(=意図)自分のまま写らない(=効果)アーバスの被写体の無力さに焦点を当てている。まるでフーコーのテクストはアーバスの写真の「効果」の側面に向かって影を落としているかのようだ。エリザベス・グローツの言葉を借りるならば、「身体とは…身体的であると同時に心理的なものだ。身体が自然と文化の要、または閾であるという理解は、遺伝学(解剖学/生理学)的に身体を扱う限界を明らかにする。」フーコーにとっても、おそらくアーバスにとっても、狂気にはフーコーの言う「接近できない原初の純粋さ〔inaccessible primitive purity〕」という点で見る価値があった。概して狂人は野性/自由/原始の意識をそなえ、そしてそれは観る者に有益だった。
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���ころで、どうしてアーバスやアヴェドンは精神病院に赴き、患者を撮影したのだろう。彼らはそこで何を求めていたのだろう。ここで今やおなじみのアーバスの姿勢に立ち戻らねばならない。その姿勢とは、アーバスが「フリーク」と「常人」のどちらも同じフォーマットで撮影することで、中流階級の白人プロテスタントという伝統的な表象とその他という見えない境界線を取り除き、自己認識の崩壊を描こうというものである。『狂気の歴史』のなかでフーコーは、狂人/障害者/変質者(=フリーク)のように他者という烙印を押す制度的慣習を批評する。写真における狂気の他者性は、被写体の人相によって特徴づけられ、精神病患者を体系化するために施設が用いたマグショットと全く同じやり方で分類された。アーバスに比べると、フーコーの方法論は、市民社会において欠陥のある主体と分類される方法の正統性に疑義を呈し、主体というものを文化人類学的に歴史化する。「この別種の狂気の傾向について歴史を書く必要があるのである。―その傾向によって、人間は隣人を監禁する最高の権威たる理性のはたらきを通して伝達し、非狂気の無情な言語を介して認知しあう。しかも、理性のこの陰謀が、心理の支配のなかで決定的に完了してしまわないうちに、抒情中心の抗議の声によって息を吹きかえさないうちに、この陰謀の契機を発見しなおす必要がある。」*₁₇ドキュメンタリー写真というものの背後に隠れているイデオロギー装置に不信を抱き始めた写真家たちのように、フーコーは実験心理学や臨床精神医学などの領域の出現や実証的科学の歴史に見る狂気について考究した。
『狂気の歴史』では16~19世紀における所謂「狂気のアルケオロジー」が考究されているが、彼はそれを20世紀に接続する。「時間的に連続し断絶しているこの狂気、世界を一夜の輪〔the ring of a single night〕に歪めてしまうこの狂気は、今日のそれとはかなり異質なものであり、ニーチェやアルトーが受け取れたような、この古典主義時代の非理性のかすかな囁きは伝わらない。」フーコーは狂気の歴史の「零度」に立ち戻る必要性を説く。「狂気の歴史の零度を、つまり狂気が未分化の経験であり、分割じたいによってまだ分割されていないである、あの零度を、歴史のなかに発見しなおす必要がある。狂気のあの「別種の傾向」は、そのはたらきのいたるところで、〈理性〉と〈狂気〉を、これからさき相互に無関係で、あらゆる交換をこばみ、いわば互いに死せるものと化しているのであって、こうした「別種の傾向」を、その歪みの根源にまでさかのぼって描き出す必要があるのである。」*₁₈この本の設定する時間枠にかかわらず、読者が、哲学的歴史主義の新たな型として、また、フランスの崇高な美徳である自由の現代における寓話として、この本を受け入れるだろうことをフーコーは承知していた。フーコーは狂気への今日のまなざしが限定的決定論によって導かれたものとして以下のように描写する。「今ではわれわれは狂気を、―自由のすべての形式が漸次でなくなっていく―一つの決定論への落下として知覚するのが習慣となってしまっている。もはや狂気はわれわれに、決定論のもつ当然な規則性、その諸原因の連鎖、その諸形式の論理的な運動しかしめさない。実際、狂気が現代人をおびやかすのは、狂気が動物および物の暗い世界への回帰、それらの束縛された自由への回帰であるということのほかにはない。」*₂₁
フーコーの見立てでは、狂気のイメージは二つの形式とる。ひとつは人間のある種の「動物性」―19世紀のカリカチュアにおいて流行した擬人観に接続する―としてであり、もうひとつは主体の側の倫理的に劣った精神の証拠としてである。このような動物性への科学的証拠が不幸で神聖な結果をもたらしたとフーコーは論じる。「同じこの古典主義時代には実証的な動物学を組みたてようとする努力が認められるが、にもかかわらず、狂気の自然的空間として知覚されている動物性の、こうした強迫観念は、たえず古典主義時代の地獄にはびこりつづけたのである。ほかならぬ、この強迫観念が想像上の要素となって、そこから生まれたのが、監禁のあらゆる実際面とその野蛮さのきわめて異様な側面だった。」*₂₂19世紀、精神や身体、魂の退行によるものと信じられた狂人のイメージは、気質や精神的内面の欠陥の証拠として写真が機能することによって助長された。
「精神の感受性という考え方は、かつて古典主義時代の狂気経験にまったく特有ではなかった、罪過や倫理的制裁や当然な罰という一つの内容をそっくり、この狂気に加える。この感受性は、こうしたすべての新しい価値で非理性に重みをあたえる。すなわち、盲目を、狂気のすべての現われの可能条件とするかわりに、狂気を、倫理的な罪の心理的結果として表わす。かつて盲目とされていた事柄がやがて無意識になり、かつての錯誤とされていた事柄が、やがて罪となる。そして、狂気は存在せざるものの逆説的な現われという考え方が、倫理上の悪に対する当然な懲罰になるだろう。要するに、さまざまな具体的原因の円環にはじまって妄想の超越状態にいたる、古典主義時代の狂気構造を組���立てていた鉛直なあの階層序列のすべてが、今や動揺するようになり、いずれ心理学と倫理学とによってともに占められる領域の平面に分散されるようになろう。しかも、心理学と倫理学がこの領域を相争って、相手を否認する日もそう遠くない。〔こうして〕十九世紀の《科学的な精神医学》が実現可能になった。この精神医学が、その起源を見出すのは、これらの《神経病》とこれらの《ヒステリー》においてであるが、それらは、この精神医学にたいして皮肉な役目をはたすようになろう。」*₂₃
フーコーによる狂気の再定義は、修辞学的な機能として、当時の読者に狂気という語の多価性への考えとその文化的位置の変遷を接続させる。狂気は、人相学的徳目による「罪過や倫理的制裁という新たな内容」を含む、イメージや分類法と関係するようになる。無論、フーコーは「古典主義時代」や19世紀について論じたといえるが、読者がフロイト派の精神分析批評の台頭を頭に浮かべるだろうことを彼自身想定している。精神分析学者が普通であるとか合理的であると考える中心には、一般市民の価値観や倫理観が据えられていることは周知の事実である。こうして、1960年代、雑誌「ライフ」や「ルック」を購読するような流されやすい中流階級の白人のもつイメージのレパートリーに当てはまらない人たちは、他者―もっと言えば「非理性」―として扱われた。フリークをフリークたらしめる身体的特性は、フリークと反対の、正常という考えが存する場合にのみ、そのフリーク性を発揮できる。『狂気の歴史』に並行して、フーコーの師であるジョルジュ・カンギレムは『正常と病理』のなかで、医学史において「正常」という状態を構築する、そんな制度的論理に真っ向から挑んだ。
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『狂気の歴史』や『正常と病理』と比べると、アーバスの作品は、写真における(芸術写真やスチール写真、報道写真、ドキュメンタリー写真などの)異なる有力な喩法の対話である。そしてそれは、実証主義者や人相学の盲点をむき出しにさせ、ポートレート写真を「未分化の経験」にする写真の「零度」を求めて、その歴史の深みを押し広げ、正統性を批評するだろう。だが、こうして喩法を開陳することが精神病の表象に対してどんな意味をもつのだろうか。本質を言えば、それはその歴史的な分類法に疑問を投げかけることである。『言葉と物』でフーコーは、公の文化の庇護のもとにある人間の分類法を説明することで、『狂気の歴史』で含みを持たせた箇所に答えを与えている。フーコーはいわゆる知のアルケオロジー―生物学の知、文献学の知、経済学の知―に着手し、それらを17世紀~19世紀という時期を経た同時代の哲学的言説と接続しようとした。この目的のためにフーコーは、彼の言葉で言う「知の実証的無意識〔the positive unconscious of knowledge〕」、すなわち「その妥当性を疑ったり、その科学的性質を減じたりせずに、科学者の意識をすり抜けながら科学的言説の一部を為す基準」を明かすことに関心を寄せる。フーコーは科学の心の闇を明かそうと意図したわけではない。というよりも、カンギレムのように、文化的な死角に媒介されている科学理論の形成原理を明らかにしようとしたのだ。『言葉と物』において重要であり、そしてこれまで見てきたように、フーコーとアーバスの作品群とを結びつけるものとは、「古典主義時代における博物学や経済学、哲学のいたるところにちりばめられた科学的な〈表象〉や〈産物〉のすべてに普遍的な基盤、或いはアルケオロジーの機構」を定めることに関心があったということである。ただしフーコーの大きな狙いは、論証的実践がどう科学の言説について歴史的分析に関わっているかという点にある一方、アーバスのそれは「常人」と「その他」の境界を消すところにある。
フーコーは『言葉と物』の序文で、その狙いを、アーバスもいたく敬愛していたボルヘス*ⅱに結び付けて語っている。そこで彼は、非線状になっていて一見奇妙な分類法、西洋の実証科学の土壌にある我々からは完全に取り去られてしまっただろう分類法によって動物が分類される、ボルヘスの「シナのある百科事典」に言及する。これは「つまり、この寓話により、まったく異った思考のエクゾチックな魅力として我々に指ししめされるのは、われわれの思考の限界、調和のとれたその他の分類体系を思考するにあたっての、まぎれもない不可能性にほかならない」*₃₀ことをわれわれに理解させる分類法なのである。
* ⅰ『アルトー後期集成Ⅰ』291~299頁、河出書房新社、2007年。
*ⅱちなみに、アーバスはボルヘスのポートレートも撮影している。Diane Arbus: Magazine Works (New York: Apature, 1992) 118,119頁。
【原註】
*₁Diane Arbus, Untitled (New York: Apature,1995)
*₂ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)の写真部門のキュレーターであるロバート・ソビーズゼック氏が、2004年2/29~3/31の期間、LACMAで催された《Diane Arbus: Revelations》という写真展で展示されたアーバス所蔵の337冊もの本のリストの記録を親切にも提供してくれた。これは私の研究にとって天の恵みだった。展示会場でこれらの本は、ぼんやり照らし出されたうえに、観客の頭上にある本棚に置かれ、たくさんある本のタイトルは見えないようになっていた。私は過去にアーバスの財産権所有者に全所蔵本を見たいというリクエストを断られていた。展示された337冊もの本は、アーバスの財産権所有者が全図書から選んだものだった。
*₃ アーバスはオルダス・ハクスリーのThe Complete Etching of Goya (New York: Crown, 1943)の複写を所有していた。19世紀の精神異常者の描写に関する素晴らしい議論については、サンダー・ギルマンのSeeing the Insane (Lincoln: University of Nebraska Press, 1982)を見よ。
*₁₁ S.バーバー著、内野儀訳『アントナン・アルトー伝:打撃と破砕』10頁、白水社、1996年。
*₁₂ 論集The Contest of Meaning (Cambridge, Mass.:MIT Press, 1977)所収のアラン・セクーラの論考”The Body and the Archive ”を見よ。
*₁₃ 「ニーチェ・系譜学・歴史」(『フーコー思考集成Ⅳ』20頁、筑摩書房、1999年。)
*₁₇ M.フーコー著、田村俶訳『狂気の歴史―古典主義時代における―』7頁、新潮社、1975年。
*₁₈『狂気の歴史―古典主義時代における―』7頁。
*₂₁『狂気の歴史―古典主義時代における―』181頁。
*₂₂ 『狂気の歴史―古典主義時代における―』175頁。
*₂₃ 『狂気の歴史―古典主義時代における―』316‐317頁。
*₃₀ M.フーコー著、渡辺一民・佐々木明訳『言葉と物―人文科学の考古学』13頁、新潮社、1974年。
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進化心理学と反市場バイアス
Toban Wiebe, “Evolutionary Psychology and the Antimarket Bias,” mises.org, 09/15/2010.
 経済的な非リテラシーが広く行き渡っているが、なぜこれを問題にしなければならないのか。無知はマイクロ電子工学とコンピューター・プログラミングでもっと広く浸透しているけれども、コンピューター技術はまったく驚愕ものである。
人々はほとんどの研究の分野で科学を専門家に委ね、彼らの結論の正しさを信用する。経済学ではそうではない。経済学者にことを任せるよりも、人々はむしろ明らかに虚偽である立場を固持する。経済的無知それ自体は問題ではない。マレー・ロスバードが言うとおり、[1]
経済学に無知であることは犯罪ではない。結局、それは専門化した学科であり、ほとんどの人々が「陰鬱な科学」と考える学問である。しかし経済的主題についてこの無知の状態のままでありながら大声で喧しい意見をもつのは完全に無責任である。
人々が経済理論を職業経済学者に託すならば、彼らの経済的無知は他のほぼすべての主題にかけての彼らの無知と同じだけ無害であったことだろう。
人間本性
ポール・ルビンはこの普遍的な悪い経済学を(民間物理学folk physicsや民間心理学folk psychology〔あるいはfolkの代わりに素朴naiveとも〕)「民間経済学」(folk economics)[2]と呼んだ。経済学を研究した人々は民間経済学によく気づいている。我々が果てしなく反論している反市場な現状のことだ。我々はみな経済学を学ぶ前はこれら、情緒的に魅了してくる立場をとっている。
非経済学者は市場に対して体系的にバイアスがかかっているので、これは単なる無知の問題ではなくて、もしそうであったら一方的なバイアスではなくむらがあると期待されるだろう。[3]民間経済学は自由市場の道を阻む、まさに最大の障壁である――ゆえにその原因と治療の理解が重要となる。ルビンは民間経済学の頑迷な粘り強さを説明するために進化心理学に頼る。
進化心理学は我々の進化史が我々の心に及ぼした影響を研究することで人間本性を大いに説明する。それは心が空の状態で世界に入る、全面的に環境と条件付けの産物であると、すなわち、人間本性などない、と述べる過激な育ち(「白紙」blank-slate)派の立場に反対するための強い証拠を差し出す。進化心理学はそうではなく、人間本性はあり、我々自身の進化した選好に根付いていることを発見し、これが文化的普遍[4]――あらゆる文化に現れる行動を説明する。進化心理学はもっと明白な、進化した選好、たとえばなぜ我々は逆の性別に魅了されるのか、なぜ我々は砂糖と脂肪を食べるのを楽しむのか、を説明する。それはまた、たとえば我々の道徳的諸制度と民間経済学のような、人間本性のあまり明白ではない諸要素をも説明する。
脳は同質的な思考器官ではない。異なる領域は異なる仕事に特化しているのである。たとえば、脳には視覚、聴覚、言語、顔認識などに特化した部位がある。これらの能力はすべて教育の必要なく自然にできる。しかしながら、脳は数学や読み書きのような今では非常に有用な領域での特化を欠いている。これらのことは直感的にも自動的にもできず、それらを学ぶために意識的な努力を要する――しばしば遅く、難しい努力だ。そのうえ、我々は世界を扱うための直感的な諸理論をもっており、これは決して直観物理学と直観道徳、直観心理学、直観経済学に限られない。[5]この進化的負担は否応なく人間本性の一部であり、根付いている。
民間経済学の核
進化適応環境(EEA)――新石器時代アフリカの狩猟採取社会――が人間本性とその民間経済学のルーツを説明するための基盤を差し出す。遊牧的狩猟採取者は小集団で、ほとんど財産と市場交換なしで生活していた。生産は自然が提供するものの収穫に限られていた。我々の脳は我々自身とは非常に異なる世界での機能に適応している。民間経済学は我々の進化史の遺産である。
ここではEEAの二つの主な特色に関心をおく。第一に、それはゼロサム世界であった。我々の狩猟採取先祖は何であれ自然に提供されるもので生活していた。そこには事実上、経済的進歩はなかった――確かに、或る人物の一生涯の間にはない。或る人物の消費は他の万人の支出からなる。特化や生産、財産がほとんどなく、交易範囲は最小限であった。社会は基本的に小さく、平等主義的なコミューンであった。第二に、EEAは市場的交換ではなく互酬的交換に特徴付けられた。互酬的交換とは贔屓(favor)の受け取りとお返しである。たとえば、あなたが将来わたしに返してくれるという理解の上で、わたしの獲物をあなたと分かち合うことだ。ゼロサム思考と互酬的交換の論理が我々の直観経済学の核心を形成する。
ゼロサム世界では、資源の平等主義的な分配が有利である。豊かな人物は固定規模のパイの大きな一片を手に入れることで他人から枢要な資源を奪っているだろう。結果として、我々は直観的に、一方の人の富を他人の犠牲から来るものと感じる。ゼロサム世界ではインセンティブは到底問題にならないから、富を再分配することで失われるものはほとんどない。これが社会経済的な平等主義の人気を説明する。
しかも、狩猟採取社会は一夫多妻制であり、豊かな男性で多数の妻をもつ者が文字通り他の男性から遺伝的生存を奪っているだろう。[6]非支配的な男性が支配的な者を制約することには大なる便益があったであろう。これが富を邪悪と連合する我々の傾向性、反富裕バイアスを説明する。
今では、これらの感情は無益であるのみならず極度に有害である。自由市場では規模の経済のおかげで、多く需要される財ほど多く生産されて安くなる。かくて消費とはまさに他人から奪うのとは反対のことをしている。インセンティブが生産を駆り立てるが、非自発的な再分配はパイを縮めながらインセンティブを損なう。自由市場での富の取得は各取引が第二者を利する場合にしか可能ではなく、ゆえに関心は衝突しない。最後になるが、我々は一夫一妻的社会で生活しており、遺伝的関心でも紛争しない。
互酬的交換の論理は幾つかの経済的誤謬に光を当てる。それは客観価値の誤謬へと真っ直ぐ導く。わたしがあなたを贔屓するとき、需給条件が変化しようとしまいと、あなたは「わたしに一つ貰っている」。この贔屓の価値は客観的かつ恒常的であり、わたしはお返しに相応の贔屓を期待する。これが公正価格と価格統制、特に高利法のような混乱した諸観念の人気を説明する。
行き渡った反中間商人な感傷も、客観価値の誤謬の結果である。中間商人は財に物理的なものを何も加えないので、彼らの取引は搾取的に思われる。反利潤バイアスも同様だ。わたしが互酬的交換で利潤を上げるならば、我々の交換は平等財のものではなく、わたしはあなたを騙していた。反富裕バイアスに貢献する要素のもう一つが、EEAでの富裕者がほとんど非互酬者か詐欺師であっただろうことにある。
互酬的交換の要点は、必要なときに助けてもらうために助けが必要な人を助けることにある。市場交換では買い手に助けが必要か否かにかかわらず市場価格が決定される。結果として、我々の経済的直観は互酬的交換を好む――市場交換は必要なときに人々を気にかけておらず心が冷たいと! これこそはかくも多くの人々が、貧困者と困窮者が関わる何かに自由市場を許したがらない理由である。必需品にかけて貧しい人々に請求を行うのは間違っていると、端的に感じるのである。そのような状況では、市場交換は我々の利他的感情に逆行しており、これが互酬的交換の基盤を形成する。
民間経済学、さらに
EEAではうまく働いた心的ヒューリスティックスも、現代世界を明晰に考えることの大きな障害でありうる。そのような心的短絡のうち経済学者を特に残念がらせるのは、成果より意図で行為を判断する我々の傾向性である。EEAでは動機は結果に直結していた。利己的な動機は利己的な結果を生み、利他的な動機は利他的な結果を生んだ。これは互酬的交換が利他的な贔屓の交換だからであり、利己的な行動は贔屓には数えいれられないのである。このヒューリスティックは、生産し交換する利己的な諸個人が彼ら自身のみならず多くの他人を利するところ、市場を完全に取り壊す。我々は統計上の人々に対して名と顔を知る人々に相当の重きを置く。EEAでは、バンド[7]の全員が互いに名と顔を知っているので、このバイアスはこの集団のために働いた。[8]市場社会では、これは見えるものへの焦点と見えないものへの無知に結果する。これは経済的誤りの紛れもない泉である。事実上、消費者の関心より生産者の関心を贔屓する事例のすべてがこのバイアスから流れ出てくる。わずかな例でも、生産より雇用創出への強調、保護主義、地方主義、財政援助、貯蓄より支出を好む、など。そのような場合のすべてにおいて、利益は同定可能な諸個人に発生し、費用は数え切れない匿名の諸個人に生じる。
我々の反外国バイアス、今ではかくも有害であるが、これはEEAでは有益であっただろう。狩猟採取者の間では部族間交戦は実にありふれていた。他の部族との協調を確立する試みはきわめて危険であっただろう。なぜならば、彼らはあなたの部族の男性を殺して女性を奪うことで、彼らに残された自然資源の量を増加させながら利益を得る立場にあったからである。結果として、我々は簡単に敵意を激化させることができる外人不信に進化した。我々はこれらの選好に耽ることで多大な犠牲を払う。貿易制限は我々の暮らし向きを悪くし、移民制限は我々から安い労働を不必要に奪う(もっと重要なことに、潜在的な移民から良い生活を奪う)、[i]そして何より、戦争の荒廃がある。
関連するバイアスは大企業への嫌悪である。我々は顔のない大企業よりも小地方の者を扱うことを選好する。EEAでは、知らない大集団よりも知り合いを扱う方がかなり安全であっただろう。今日の大規模生産の世界では、この選好に耽ることはますます高くつくようになっている。我々はいまやいつもどおり、ウォルマートがいかに地方の商売を破壊したか大声で嘆きながら端的にそっちの方が良いからとそこで買い物し続ける人々を目撃している。
利得より損失に重きを置く我々の傾向性、損失回避は、自由市場を掘り崩すもう一つのバイアスである。[9]損失回避は損失が大抵死を意味するEEAでは人にうまく働いた――子孫を二人設けるのは一人より二倍良いが、一人設けるのは一人も設けないより無限に良い。近代世界では、損失回避は問題に当たる。労働者は、変化する市場条件への滑らかな調整を妨げながら、名目賃金の減少に(よしや実質賃金が増加しようとも)抵抗する。人々は、所得増加の印象が与えられるから、デフレーションよりインフレーションを選好する。特に悪い結果の一つは政治的なラチェット効果である。[10]すなわち、損失を蒙る者はその廃止を妨げるよう強く動機付けられるから、悪い政策を撤廃することはきわめて難しい、しかし、損失は一般的には消費者の大部分に薄く広がるから、悪い政策を導入することは相対的に容易である。
民間経済学に多くの例があるのは疑いない。[11]結局、我々は高度に社会的な種であり、社会組織は我々の進化にとって非常に重要な要素であった――脳の大部分が社会環境を扱うことに専念している。この短い概要から、体系的な反市場バイアスは我々の進化的な過去の遺産であることが明らかである。
民間経済学の普遍性
この進化的説明の証拠の幹線は、民間経済学が時と所を越えて残存していること――文化的普遍であることだ。民間経済学はつねにあちこちにあった。歴史を振り返れば、あらゆる時代と場所の人々が同じバイアスをもっていたことが分かる。トマス・モアの『ユートピア』[12]は今日の社会主義ファンタジーとちょうど同じように読める十六世紀の卓越した例である。しかも、経済科学の進歩にもかかわらず、民間経済学はかつてと同じだけ強いまま残っている。数世紀前に完全に論駁されたのと同じ誤りが今での公共での広い流通を享受している。公衆の経済的ナンセンスに対するサイモン・ニューカムの一八九三年の嘆きには今も同じ真実が響いている。[13]経済科学は世論への手がかりをほとんど掴んでいない。
これら二つの事実――その普遍性とその理性への抵抗――は民間経済学が文化的普遍であり、この種の遺伝的構成に帰せられることを強く示唆する。そうでなければ、我々はリバタリアンな理念がそれを採用した文化に成功をもたらし、その成長と模倣を経て広がっているだろうと期待するところだ。言うまでもないが、こうなったわけではなかった。進化心理学はこの普遍的反市場バイアスの唯一道理に適った説明を差し出している。
経済教育の重要性
原因が同定されれば、民間経済学の治療は明らかになる。粘り強い教育だ。我々はこの進化的な選好とバイアスを背負い込んでいるけれども、その奴隷ではない。我々はこれを制御できる――自由市場を選好する我々の存在が生きた証である。唯一現実的な解決は人々が市場の論理を学ぶための意識的な努力を行うことである。経済教育は強力な道具であり、その試練は人々に学習の努力を行わせることにしかない。
自由社会は民間経済学が蔓延るところには存在できない。基本的な算術技能が本質的であると考えられるのと同じように、経済リテラシーは社会の全メンバーに本質的であると考えられなければならない。民間経済学の誤りは経済学の基本原理の教育で直接的に扱われなければならない。経済教育の任務は決して終わらない。ちょうど万人が数学に無知に生まれるように、万人が民間経済学に生まれるのである。自由市場のイデオロギッシュな根底を維持するためには、すべての新世代が経済学を学ばなければならない。これの重要性は強調するにしすぎることができない。ミーゼスが『ヒューマン・アクション』の結びの言葉で警告したとおり、
経済的知識の体系は人間文明の構造の本質的な要素であり、近現代の産業主義と先立つ数世紀の道徳的、知性的、技術的、及び治療的な業績が拠って立つところの基盤である。この知識に提供されるその豊かな財宝を、人々が適切に使用するか、それともそれを使わないまま放っておくかは、彼ら人々にかかっている。しかし、その最善の活用を怠り、その教えと戒めを軽んじるならば、彼らは経済学を無効にするどころではない。社会と人類を根絶やしにするだろう。[14]
これは公衆に経済学を教育すること、すでに多くの諸個人と諸集団になされた仕事の、途轍もない重要性を際立たせている。言うまでもなく、ここでなされるべきことはもっと幾らでもある。
[1] http://mises.org/daily/2197
[2] http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=320940
[3] Brian Caplan, “Systematically Biased Beliefs About Economics: Robust Evidence of Judgmental Anomalies from the Survey of Americans and Economists on the Economy,” Economic Journal, Vol. 112, No. 479 (2002): pp. 433–58; and The Myth of the Rational Voter (Princeton: Princeton University Press, 2007).
[4] http://en.wikipedia.org/wiki/Cultural_universal
[5] Steven Pinker, The Blank Slate: The Modern Denial of Human Nature (New York: Viking, 2002), pp. 220–21.
[6] Paul Rubin, Darwinian Politics: The Evolutionary Origin of Freedom (London: Rutgers University Press, 2002), pp. 103–4.
[7] https://en.wikipedia.org/wiki/Band_society
[8] Rubin, Darwinian Politics, pp. 162–64.
[9] Rubin, Darwinian Politics, pp. 173–74.
[10] http://mises.org/daily/4640
[11] See Rubin, Darwinian Politics.
[12] http://en.wikipedia.org/wiki/Utopia_%28book%29
[13] Simon Newcomb, "The Problem of Economic Education," Quarterly Journal of Economics, Vol. 7, No. 4 (1893): pp. 375–99.
[14] Ludwig von Mises, Human Action: A Treatise on Economics (Auburn, AL: Ludwig von Mises Institute, 1998), p. 881.
[i] ここで著者は間違えている。移民規制は反市場バイアスとは無縁である。
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benediktine · 7 years
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【あのパタゴニアだって、最初は事務作業だけで、手っ取り早く儲けるために作られた会社だった。】 - ハウスコム株式会社 : http://media.housecom.jp/macro_003/ 著者:森本 伊知
パタゴニアは自然環境保護の必要性を理解する企業同盟を設立するなど環境に関する取り組みにおいて世界的に高く評価されていますが、元々は手っ取り早くお金を儲けられるように作られた会社であり、最初から環境問題を追求した会社ではありませんでした。
人間とネズミの遺伝子の構成は99パーセント同じだと言われ、それは恐らく企業という仕組みにも当てはまることでしょう。(1)
パタゴニアもユニクロやしまむらと同じようにコストを削減しながら利益を追求しなければならないのは当然ですが、パタゴアニアが残り1パーセントの部分で違って見えるのは、オーナーのイヴォン・シュイナード氏が本気で社会や環境を変えたいと願っているからであり、イヴォンはこれからの企業責任について次のように述べています。(2)
「今後、顧客の要求はエスカレートし、環境規制は強化され、資源は余裕がなくなり価格が上昇し、投資家の目も厳しくなっていく。そのなかで、あらゆる側面で事業責任を全うしようとする企業が増えるだろう。正しいことだからするという面もあるが、そうしなければ成功できなくなるからだ。そのような企業と競うためには、自社も同じくらいに責任ある行動をとらなければならない。」
 {{ 図版 (省略) : 企業も99パーセントの遺伝子は同じ、1パーセント唯一違っているのはどれだけ本気でそれを想っているか }}
今日、企業が地球の資源を消費するスピードは既に限界を突破し、2012年の時点で、地球が負担できるスピードの1.5倍もの資源を使い続けていることはよく知られている話です。(3)
ベストセラーとなった「バカの壁」の著者で東京大学名誉教授でもある養老孟司氏によると、走行中の自動車の窓に大量の虫がぶつかり続ける結果、一台の車が廃車になるまでに1000万匹の虫が死ぬという驚くべき試算が存在します。(4)
また、全国に約5万店あるコンビニでは1店舗あたり1日平均約30食、衣類に関しては繊維製品を含めると年間約200万トンが廃棄されており、そのうちたった2割だけがリユースやリサイクに回され、残りの8割はそのまま埋められるか焼却ゴミになるそうです。(5)(6)
 {{ 図版 1 : たった1台の車が廃車になるだけで1000万匹の虫が死ぬ }}
過去200年ほどの間に、人間が自然に対して行ってきたことがボディブローのように効き始めているこのような環境下では政府の視点も変わりつつあり、国際連合は企業活動を利益(profit)、人(people)、地球(planet)の3つの側面から評価する原則を取り入れています。
しかし、企業が社会貢献や環境保護活動に本気で取り組むためには、財務状態を健全に保つことが最優先の責任であり、しっかりとしたビジネスの基盤と社会貢献のバランスを取りながら、アジア最貧国のバングラデシュからブランド「マザーハウス」を立ち上げた山口絵理子さんは自身の事業に関して次のように述べます。(7)
「ビジネスはビジネス。利益が出なけりゃやっていけない。社会貢献も何もない……ということ。『利益第一』になるという意味ではなくて、NGOではなく、『かわいそうだから買ってあげる』商品でもなく、商品として勝負すると決めたのだから、価格、品質、デザインで勝たなければ、生き残れない。」
 {{ 図版 2 : 同情では、食べていけない。価格、品質、デザインで勝って、本当の価値を出さなければ真のビジネスとしては成り立たない }}
新潟県三条市の本社敷地内に、スタッフがいつでもキャンプを楽しめるためのキャンプ場を設けているアウトドアメーカー、スノーピークの代表の山井太さんは、ビジネスを考える時はロマンだけではご飯は食べられず、企業として結果を出すためにロマンと経営を両立して売れる仕組みを作る必要があると断言します。(8)
スノーピークの製品には保証書がついておらず永久的に製品の保証をしていますが、その根底には製品期限を定めているのは利益が損なわれるのを恐れる作り手側の一方的な都合にすぎず、「もっといい製品が欲しい」と思う消費者が本当に欲しいと思う製品を提供するのが本来の企業の姿だという気持ちの現れでもあります。(9)
 {{ 図版 3 : ロマンと経営の狭間から、本当に付加価値の高いモノやサービスが生まれる }}
最近の知識層や若い世代の人たちには安いモノやかっこいいモノを売る企業より、しっかりと見える形で社会的価値を提供している企業を応援したいという気持ちが強くあります。
冷蔵庫や車など、日常に必要なものが一通り揃って、日本が成熟社会に入っていく過程では、モノやサービスのクオリティーに加えて、製品にまつわる企業の考え方が、今まで以上に利益や長期的な成長に大きく影響を及ぼしてくることでしょう。
パタゴニアで仕事をしている人がパタゴニアに入りたいと思う理由として、会社と自分の価値観が一致していることを挙げる人が多く、パタゴニアが社員だけでなく農場や工場で働くパタゴニアに関わるすべてのスタッフの活動や、パタゴニアのジーンズを染めたインディゴ染料が川に垂れ流されているかどうかといった、製品を作った時に発生する社会的負荷や環境的負荷をしっかり説明しようとする姿勢に多くの人が惹きつけられているのは間違いありません。(10)
 {{ 図版 4 : 21世紀の経営は市場のシェアを伸ばすよりも、マインドのシェアを伸ばす }}
「洗練されたデザインで環境にも優しい」と世界的な評価を受けている無印良品は「MUJIは控えめさが売り。国外の誰かがそれをクールだと思ってくれるかもしれないが、自分たちからは言わない」として世界で注目されています。(11)
「無印らしさ」は大量消費社会に対するアンチテーゼから生まれ、禅や茶道といった日本の美意識や精神性が色濃く反映されたものであり、日本人が当たり前のこととして持っている自然に対する精神が海外ではブランドの個性として高く評価されるのでしょう。
 {{ 図版 5 : 自分で自分のことをクールだというのは、ただのバカである。クールだと言ってくれるのは、ユーザーや消費者 }}
もともと日本人には「環境」という自然を自分自身から切り離すという概念がなく、山も川も自分たちの一部であるという意識がありました。
江戸時代には誰も環境のことを語らずとも米をといだ後のとぎ汁は拭き掃除や植木の水やりに使うなど自然を綺麗にすることは当然のことで、来日した外国人はみんな江戸の清潔さに感嘆したと言いますが、日本に「環境省」というものができたことで、日本人の一部であった自然が切り離され、自然をわざわざ「環境」という別の存在として認識するようになってしまったのです。(12)(13)
 {{ 図版 6 : 自然の概念は、日本人の遺伝子から取り出されて、「環境省」になった }}
自然を人間から切り離す価値観は地震や津波を経験しない西欧で生まれたもので、環境の世紀とも呼ばれる21世紀において、ただ売るだけの時代が終わりつつある中、今こそ自然と共存していた日本人の意識を再認識するべきではないでしょうか。(14)
日本の伝統文化である書道は横にお手本を置いて模倣をする臨書からはじまり、最初は個性を意識的に殺していきます。これは欧米の発想でいう独創性やオリジナリティがないということではなく、一見個性に見える我流の癖を徹底的に捨てた後にこそ自分独自の世界が表れるという考えに基づいた精神の修行です。
個より全体を重んじる日本人の精神性は、様々な気候や春夏秋冬の季節、そして地震や災害など自然の変化や脅威に合わせながら生きなければならない日本独特の自然観から生まれたもので、例えば、会社は株主だけのものではなく、従業員、顧客、仕入先、地域社会みんなのものという日本人の考え方にも影響していると考えられます。(15)
ダライ・ラマ法王は「日本は21世紀には非常に大切な国になります。これからは日本人の出番がきますよ」と述べていますが、自然と共に暮らし、周りの人と助け合いながら生きる日本人の伝統的な調和の精神や文化こそが今の世の中に必要なものにちがいありません。(16)
 {{ 図版 7 : 日本人の全体を重んじる価値観は、自然の変化や脅威に対応する過程で作られたもの }}
地球や人々にとって本当にいい社会を目指すにおいて注目すべきなのは、ブータンが最初に取り組んだ経済以外の要因を含んだGNH(国内総幸福量)の導入です。
実際にお金の使い方を変えるだけでその日全体の幸福感が変わるという結果が出ており、例えばグーグルは傑出した管理職にお金ではなくグーグルの経営幹部たちとの旅を報酬として与えたところ、お金を与えるよりはるかに大きい影響力が組織全体に与えられたといいます。
現在の資本主義には商品を安くすることで労働力が安くなり、労働力が安くなるとさらに商品が安くなる無限の連鎖が続き、結果的に商品も労働力も質が悪くなるという悪循環が生まれていますが、そもそも自分たちが貧困であれば環境のために活動しようなんて気持ちは生まれず、経済と環境の両立が求められる今日において、働く人々の福祉を高めることを一国の繁栄を測る際の指標にしていかなければ、環境のために何かをしようと言う人は、本当に一部の余裕のある人に限られてしまうことになってしまうでしょう。(17)(18)
 {{ 図版 8 : 自分の生活や仕事に満足していない人が、環境のために何かをしようなんて思うはずがない }}
近年、どんな人材も引き抜き放題だといわれていたアップルから多くの社員がイーロン・マスク率いるテスラモーターズへ引き抜かれており、その数は総勢150名以上にもなるそうです。
アップルからテスラへ移籍を決断する理由の多くにはマスクの存在が大きく、かつてアップルの商品開発担当副社長であったダグ・フィールドは、アップルでの仕事環境には十分満足でアップルを辞めることなど考えてもみませんでしたが、マスクの呼びかけに迷うことなく応じ、あっさりとアップルを辞めてしまいました。
 {{ 図版 9 : 「世界最高の自動車を開発する」テスラの目標はアップルの社員をも魅了する }}
マスクは地球温暖化の解決策を本気で考え、エンジンを使わない100パーセント エレクトリックの自動車を完成させましたが、これは輸入原油に膨大な資産が使われていたアメリカにとって問題解決の大きな一歩となり、2010年にテスラが上場を果たした際には多くの投資家にテスラの未来に賭けることを決意させました。(19)
テスラは家庭用ソーラー蓄電池の開発も手掛けており、マスクは経済と環境の両立を目指すには企業活動に炭素税を導入して再生可能エネルギーへ転換することが必要だと考え次のように述べています。
「今の化石燃料の価格水準は、間違った行動を奨励しているようなものだ。果物や野菜に高い税率を課し、タバコや酒に低い税率を課すとしたら、筋が通らないだろう。しかしエネルギーに関してはその問題が起きている。」
 {{ 図版 10 : 環境問題を含め、もう世の中の決定的な問題を解決する企業しか、人もお金も集められない }}
今後、遅かれ早かれ、すべての企業が利益だけを重視した経済システムから環境を配慮した新しい経済システムへとシフトチェンジを余儀なくさせることになるでしょう。
震災後の海は生物が育つ条件を十分に保つという調査結果や、実際に1960年のチリ地震津波の後にはカキの成長が倍になり今でも平年の倍ぐらいのスピードで生き物が育っていることをふまえると、東日本大震災後の今こそ自然サイクルが変わる時代の大きな転換点だと考えられ、ビル・ゲイツはこれからの世の中について次のような展望を語っています。(20)(21)
「だれもがそれぞれの役割を果たせば、世界は着実によくなっていくだろう。そして50年後にふり返ったとき、何億人もの命を救ってきたと言うことができるだろう。今世紀が平和の世紀だったと胸を張って言える日が、きっと来るだろう。」
 {{ 図版 (省略) : 大きな災害の後こそ、自然のシステムが大きく変かわる転換期 }}
利益重視で企業が生み出したガラクタはお金では変えられない地球の資源を奪いましたが、地球支援は慈善活動ではなくビジネスに必要な支出と考える企業が少しずつ成功し始めており、この流れに乗り遅れることこそが企業にとって大きなダメージです。
日本は東日本大震災を経験したことで自然の���威を改めて知り、これ以上今のままの経済システムを続けていては地球がもたないというメッセージを感じたはずで、生命に対する慈しみや正義を求める人間の倫理観を活かした企業活動にシフトすることが早急に必要とされているのではないでしょうか。
◆《参考書籍》
●1. イヴォン・シュイナード+ヴィンセント・スタンリー「レスポンシブル・カンパニー パタゴニアが40年かけて学んだ企業の責任とは」(2014年、ダイヤモンド社)Kindle ●2. イヴォン・シュイナード+ヴィンセント・スタンリー「レスポンシブル・カンパニー パタゴニアが40年かけて学んだ企業の責任とは」(2014年、ダイヤモンド社)Kindle ●3. イヴォン・シュイナード+ヴィンセント・スタンリー「レスポンシブル・カンパニー パタゴニアが40年かけて学んだ企業の責任とは」(2014年、ダイヤモンド社)Kindle ●4. 養老孟司「日本のリアル」(2012年、株式会社PHP研究所)Kindle ●5. 渡邉格「田舎のパン屋が見つけた腐る経済」(2015年、株式会社講談社)Kindle ●6. 岩元美智彦「捨てない未来はこのビジネスから生まれる 赤字知らずの小さなベンチャー日本環境設計のすごいしくみ」(2015年、ダイヤモンド社)Kindle ●7. 山口絵理子「裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記」(2016年、株式会社講談社)Kindle ●8. 山井太「スノーピーク 好きなことだけ!を仕事にする経営」(2014年、日経BP社)Kindle ●9. 山井太「スノーピーク 好きなことだけ!を仕事にする経営」(2014年、日経BP社)Kindle ●10. イヴォン・シュイナード+ヴィンセント・スタンリー「レスポンシブル・カンパニー パタゴニアが40年かけて学んだ企業の責任とは」(2014年、ダイヤモンド社)Kindle ●11. 松井忠三「無印良品が、世界でも勝てる理由」(2015年、株式会社KADOKAWA)Kindle ●12. 歴史の謎を探る会(編)「日本人なら知っておきたい江戸の庶民の朝から晩まで」(2006年、河出書房新社」Kindle ●13. 養老孟司「日本のリアル」(2012年、株式会社PHP研究所)Kindle ●14. 岩元美智彦「捨てない未来はこのビジネスから生まれる 赤字知らずの小さなベンチャー日本環境設計のすごいしくみ」(2015年、ダイヤモンド社)Kindle ●15. 寺田寅彦「日本人の自然観」(2003年、青空文庫作成ファイル)Kindle ●16. ダライ・ラマ法王、村上和雄、志村史おっと、佐治晴夫、横山順一、米沢富美子、柳沢正史、矢作直樹、河合徳枝「こころを学ぶ ダライ・ラマ法王仏教者と科学者の対話」(2013年、株式会社国宝社)P2 ●17. エリザベス・ダン、マイケル・ノートン、古川奈々子「幸せをお金で買う5つの授業」(2014年、株式会社KADOKAWA)Kindle ●18. 渡邉格「田舎のパン屋が見つけた腐る経済」(2015年、株式会社講談社)Kindle ●19. アンシュリー・バンス「イーロン・マスク未来を創る男」(2015年、株式会社講談社)Kindle ●20. 養老孟司「日本のリアル」(2012年、株式会社PHP研究所)Kindle ●21. 五井平和財団「これから資本主義はどう変わるか17人の賢人が語る新たな文明のビジョン」(2010年、英治出版株式会社)P21
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soyatoyoshima-blog · 7 years
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経済史 レポートまとめ
イギリスの産業革命では、「貧困の再発見」「社会主義の復活」が発生した。これは、現代でも問題になっていることの歴史的な起源である。もともと、封建制では、主従関係であるため、両者の信頼、絆は強く、たとえ働けなくなった老後であっても養ってあげるなど、道徳的一面が産業革命前には存在した。しかし、人と人との関係がお金で結ばれるようになっていくとこの関係は劇的に弱くなる。これは、戦後の日本を見るとわかりやすい。戦後日本は、アメリカの支配のもと資本主義制度が発展したが、鎖国が遅くまで行われていたこともあり、封建制というのは明治維新後でも根強く残っていた。今でいうところの会社に対する、主従関係も裏では根強く残っており、「うち」と言われるような強い忠誠心が人々の心の中にはあった。このいわば当時世界でも珍しかった団結力が高度経済成長へと導いたとの見方が強い。私は1960年代日本の、このような関係や状況を19世紀イギリスでも想起すればいいのだと思う。ところが、イギリスの産業革命期においては工場にある機械が発展したことにより、人と人との関係が金銭の関係になる。すると、その関係は非常に希薄で働けなくなった人間は次々に「使い捨て」されることになった。ここで、日本とイギリスで時期はずれるが同じ封建制の崩壊を経験した。しかし両者には異なる点があり、それは崩壊がもたらした結果であると私は思う。日本経済は個人主義と自由主義の台頭により停滞していたが、イギリスは産業革命の絶頂期に上り詰めたのだった。またそのころ一方ロシアでは、1917年にロシア革命が起き、社会主義体制が発達した。資本主義国家はこの社会主義革命の波及をどう食い止めるかが、重要な課題になっていた。その結果、米国やイギリスなどの資本主義国家は、国家が利潤追求を抑制してでも、雇用対策や福祉政策を行うようになった。そうすることで、資本主義国家でもみんなが安全で最低限の暮らしができることを認識させることに成功したのである。もっとも、今世界では、そんな資本主義、自由主義に疑問がいだかれ、世界は変わろうとしている。
ところで、アメリカの経済学者ロストウは産業革命を「離陸」と称したそうである。しかし、現代の研究状況を見ると、産業革命と呼ばれる現象がどこまで本当に革命的であったのかには強い疑念が出されている。蒸気機関と工場制度という古典的な産業革命観はどこまで成り立つのか。修正されねばならないとしたら、それはどの点においてであろうか。まず確かに、技術革新・工場制など変化した部分もあった。そして木綿製品や鉄製品、石炭や建築の生産高に占める割合は急増し、木綿製品や鉄製品は価格が急降下している通り、産業構造の変化は急激でもあった。しかし、それは経済の中でごく一部にしかすぎず、手工業は根強く残っていた。範囲が狭かったのである。また、古典的な考え方では、国内総生産の高い成長率に帰結し、長期的には国民一人当たりの所得水準も増大すると予想されていた。これを実際に検証したのが、フィリス・ディーンであった。ところが、彼女が調べたデータによると、国民所得の成長率が目に見えて高かったとは考えられないことになる。これは典型的な前近代の経済であった。革命性を強調した伝統的な見解の根拠は、この時期に活発になった固定資本投資には蒸気機関の工場への導入といった新しい技術が退化しており、その成長促進効果が革新的であったということがある。しかし、クラフツの新水系ではこれは成り立たない。たしかに資本投資は増大しているが、人口増加率が加速したことを背景に労働投入もまた同様の速度で増大したのであって、全体としては生産要素投入の寄与が圧倒的に大きい。
それでは何が一体産業革命の本質なのであろうか。
 そもそも、産業革命には第一次と第二次とが存在する。第一次とは 動力を蒸気力に原力を石炭とした軽工業の発展である。一方、第二次産業革命は、別名鉄鋼革命とも呼ばれ、電力を使用し、新産業である電機、化学などが初めて発展したことを指している。 またイギリスの産業革命は概して自生的で内発的に発展を遂げている。世界初の産業革命であるため、自分たちの進んでいる道はどこに行くかわからず、試行錯誤を栗化して進んでいった。その一方、後発国の産業革命は外発的で、そのプロセスはイギリス風にならざるを得ないという特徴があった。こうしてイギリスは産業革命を成熟させていく中、後発国は前提となる基盤が未成熟なまま先へと進まねばならなかった。 アダムスミスの『国富論』にも出てくるように、分業していったほうが効率は格段に向上するという、分業論が広く取り入れられていたのもイギリス産業革命の特徴の一つである。また、イギリスは発達した市場組織を持っていた。石炭を利用した鉄道が有名ではあるが、実は作られたのは最後で、産業革命期の物流を担ったのは主にターンバイクを利用した陸路、そして、運航であった。
 そして、その結果、イギリスでは金融制度が発展した。交通体系が発達するとその運航を担うものに対して手形を発行するようになる。これが流通商業信用になり、銀行の銀行としてのイングランド銀行が誕生した。産業革命では、製造業の発展が最も重要なのではなく、金融・サービス部門がつねに格上とされ、社会的にも経済的にも優位であったということが大切なのである。この新しい解釈によると、産業革命で出現した産業資本家の富は小さく、社会的には「成り上がりもの」としてさほど尊敬されず、英社会の伝統的な支配的エリート層に容易に食い込めなかった。イギリスは、産業革命の結果としての「世界の工場」としてではなく、むしろシティに代表される「世界の銀行」「成果の海運業者」「世界の手形交換所」として、黄金期を迎えたため経済的繁栄がピークに達したのである。20世紀になると、英経済の衰退が論じられてきたが、それは工業・製造業を中心とした見方であり、シティの金融・サービス部門は、二つの世界大戦を乗り越えて、英経済を支える機軸であり続け、現在にも至っている。ロンドンが三大証券取引所であることからも、その強さは際立っていた。しかし昨年、イギリスがEUから離脱した。外資系の金融機関は、モノ・カネ・サービスの自由な移動が可能になったEUのメンバーとしてのイギリスのメリットを最大限享受していた。その金融・サービス部門はイギリスGDPの10%強を占めており、英経済の競争力の根幹をなしている。経済成長率は7~9月の四半期では前期比0.5%増となっており、これもサービス産業がけん引役となっている。イングランド銀行は今年の経済成長率を1.4%と予想をしており、また、国債の爆買い、法人税率の日知下げ、企業の先端技術に資金の追加をするなどの政策を発表し、経済面ではそれほど大きな動きはいまのところ見られてはいない。しかし、イギリスがEUから離脱することにより、外資の傘下にある英国製造業は真っ先に影響を受けるのは確かである。その結果、EUを離脱したことにより、シティの国際競争力��低下してしまうのではないかと個人的には考えている。
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shibaracu · 4 years
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★善と悪について
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★善と悪について 難しい問題。  人は日々 善と悪の心と戦っている。  今している事 考えている事  自信を持ち胸張って言える人は居ないと思う。  善行 悪行 この思想は仏教その他の周囲から入って来た尺度で考える事。  日本には元来 無かったのではないだろうか。  外へ出れば野山や海川に食べるものは豊富に有った土地柄。  済むのにも困らない。  人の数が増えれば色んな意見が出てくる。  正義は人の数ほど有る。  こうしたら良い ああしたら悪いの境目は厳密には決めかねる。  でも生きていく時は必ず何らかの決定をしなければならない。  戦争は善でテロは悪。  今はこういう公式が世界の常識になっている。  行為自体は非難の対象になるがソレを実行している人はそれなりに  自分の信念を持っている。  悪とされる行為は当事者の言い分を聞くと変に納得してしまう。  コレも日本人の心の現れかな。  善と悪 いつまでたっても交わることはない。  いろんな解釈の仕方がある。  哲学者 宗教家 一般市民  それぞれの立場で主張は異なる。  時々 何が善で 何が悪か 判断に苦しむことが多いコノ頃である。    ★善と悪について http://bit.ly/AAa6Kv 「何が良いことで、何が悪い事なのでしょうか?」これがそれに対する解答です。 ▲みなさんは善と悪について考えたことはありますか。善とは良いことであり、悪とは悪いことです。これは当たり前のことです。では、どんなことが善で、どんなことが悪なのでしょうか。 ▲答えは簡単です。「すべての人の幸福を実現するのが人類の目的」なのですから、その目的にかなっていることは良いことであり、逆に少しでも人を不幸にすることは悪いことなのです。   ★悪 - Wikipedia http://bit.ly/zJRcCH 悪(あく)とは、文化や宗教によって定義が異なるものの、概ね人道に外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念である。
★善 - Wikipedia http://bit.ly/yVIWfn 善(ぜん、Goodness)は、道徳的な価値としての良さ。道徳的に正しい事、多くの人が是認するようなもの。
★道徳(どうとく、英: morality)http://bit.ly/AnNzXs 道徳的規範や道徳性などのこと。倫理はいくつかの意味をもち、道徳を表すことが多い。モラルとも称される。
★倫理学(りんりがく)http://bit.ly/yOWlNo 倫理学(りんりがく、英: Ethics)あるいは道徳哲学(どうとくてつがく、英: Moral philosophy)とは一般に行動の規範となる物事の道徳的な評価を理解しようとする哲学の研究領域の一つである。 法哲学・政治哲学も規範や価値をその研究の対象として持つが、こちらは国家的な行為についての規範(法や正義)を論ずることとなる。ただしこれら二つの学問分野が全く違う分野として扱われるようになったのは比較的最近である。   ★善と悪 - いい言葉は、いい人生を作る  http://bit.ly/A0WmI1 ・悪とは弱さである。 ・最善の敵は善である。 ・正義とは勝者、悪は敗北者。 ・悪には悪の、正義がある。 ・無知は罪なり。無視は悪なり。 ・もともと、物事に善悪はない。人間のエゴで決まる。
★多神教の善と悪とは http://bit.ly/ycjjFk 多神教の善と悪とは. 我々は、かなり自然に「神」や「悪魔」と言う言葉を使う。 でも神とか 悪魔ってのは一体なんだ。 そんな疑問をふと抱いたのは、エジプト本にいきなり「悪魔」 という言葉が出てきたからだ。 (汗) 邪悪なものをさす言葉はあるけど、悪魔なんて単語は無いぞ。 思うに、悪魔というのは、神に対する敵意を持つとか、人を間違った道に導くとかで、存在してはいけないもののことではないのか。 神は善という存在だが、悪魔は存在自体が悪なのではないか…?   ★第四十回 <善と悪>の研究 http://igallery.sakura.ne.jp/iken40/iken40.html 1988年ロンドン、医師であり科学者であるヘンリー・ジキルは、「人間の善と悪の両極端の性格を分離できれば、人間のあらゆる悪を制御し、最終的には消し去ることが出来る」という仮説を立て、それを立証すべく7年前から研究に没頭していた。 ジキルは病院の理事会で人体実験の承諾を得ようとするが、理事たちは道徳無視、神に対する冒涜であると拒絶する。 ジキルの婚約者エマの父親であるダンヴァース卿のとりなしもむなしく、理事会はジキルの要請を却下した。 ジキルは親友の弁護士アターソンに怒りをぶつける。 理事会の連中はみんな偽善者だと。   ★人間の心に潜む「善と悪」 普通の人が どうやって怪物や英雄に変貌するか(日本語字幕付) http://karapaia.com/archives/51971193.html 2011/02/13  人間には「善と悪」という対極した2つの面が、「陰と陽」の関係のように刻み込まれている。  善良な人が悪人に変貌することはとても簡単で、また悪人が善良な人に変貌することも可能であるということを、アメリカの心理学者「フィリップ・ジンバルド」がわかりやすく説明してくれている映像が公開されていた。   ★カラパイアの歩き方 : カラパイア http://karapaia.com/archives/51249039.html みんな違ってみんないい  カラパイアは、「不思議と謎」をテーマに、宇宙規模の森羅万象を観察していくニュースバラエティサイトです。  自然界でも宇宙でも、そして人間社会でも、日々様々な分野で、それぞれの興味深いことが起きています。変化は必然であり止めることはできません。昨日までの真実が今日覆されることだってあるのです。  その瞬間を見守りながら、心に差し込んできた話題を、毎日楽しくご紹介できたらと思っています。   ★善悪判断科学で語れるか | 日経新聞連載・松沢哲郎「チンパンジーと博士の知の探検」第16回 https://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/nikkei/16-2015-08-30.html 2015/08/30    京都大学霊長類研究所教授 松沢哲郎 京都東山の空気はしっとりと重く、夜の深まりとともに肌に冷気を感じた。日暮れて庭の緑は色を失い、裏山の森から木々の香りが漂ってきた。 6月最後の日曜日、法然院が開いた「夜の森の教室」で話をした。さまざまな分野の研究者が、研究や社会とのかかわりについて講演する。13年前に始まったときに第1回を担当し、以来毎年1回、チンパンジー研究の成果を話してきた。   ★善悪判断における直感の役割に関する予備的研究 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/2EVB02.pdf 寺井朋子 (武庫川女子大学教育研究所) キーワード:直感、善悪判断、中学生 目 的. 従来の心理学における道徳性研究では、道徳的な善悪判断時の意図と結果や、判断に至る理由づけ等、言語化されやすい論理的な側面に注目されてきた。 しかし、「理由は分からないが判断はできる」という直感に基づく判断もありうることが示唆されている(Haidt, 2001)。ここでは、道徳的な判 断時における直感の役割を検討する基礎的研究として、論理力と直感力の程度を測定する質問紙を作成し、論理と直感という二つの力の程度が善悪判断とどのように関連している のかを検討する。   ★善悪の区別 | 臥竜塾 https://00m.in/xi0Tr 2015/10/08 ブルームらの研究から、赤ちゃんは、良い行いと悪い行いを、 だいたい理解していると言えることがわかりました。 しかし、赤ちゃんの反応には、大人の道徳的判断と同じ、 ある重大な特性があるようです。 赤ちゃんは、自分自身に影響しない行為についても、 公平な判断を下すことができるのです。 それは、大人が、良いとか悪いと評するであろう行為に対する判断です。 実際、まったく同じ劇を幼児に見せて、 「親切な子どもは誰?よい子は誰?」 「意地悪な子は誰?悪い子は誰?」と尋ねると、大人が考えるように、 助ける者を親切な子、邪魔する者を意地悪な子と答えたそうです。   ★科学で迫る「善」と「悪」 鍵となる「共感」の能力|ナショジオ https://style.nikkei.com/article/DGXMZO25978330S8A120C1000000/ 2018/01/31 殺人や性的暴行、誘拐や拷問といったおぞましい行動を取る人間がいる。 2017年10月には、米国ネバダ州ラスベガスで開かれたコンサートの会場で銃乱射事件が起きた。 死者は58人、負傷者は546人にのぼる極めて異常な事件だったが、似たような事件はしばしば発生し、私たちに暗い現実を突きつける。 私たちは、自己犠牲的な行為や寛大さといった崇高な性質を「善」、それとは正反対の自己中心性や暴力、破壊衝動などを「悪」と認識している。人を善行、あるいは悪行に駆り立てるものは何なのか。 米国では脳科学を通じた研究も進められている。   ★6か月の赤ちゃんでも物事の善悪が分かる? 米大学研究者らが検証。. https://www.narinari.com/Nd/20100513530.html 2010/05/11 赤ちゃんは6か月の時点でも、物事の善悪を理解している――。そんな研究結果を米エール大学の研究者らが発表した。赤ちゃん自身がまだ言葉を話せないだけでなく、その頃を振り返っても鮮明な記憶が残っているという大人がほとんどいない中、なぜそのような結論を導くことができたのだろうか。   ★人間は生まれながらにして”善”が備わっている。その根拠となる10の科学的研究結果 http://karapaia.com/archives/52172320.html 2014/09/06  昔から世界中には紛争や犯罪といった不協和音が鳴り続いている。今尚それは鳴りやむことがない。人間の心に潜む闇や理不尽な側面は、科学の力により暴かれつつあるが、逆に、人間が潜在的に持つ”善”も明らかになりつつある。  ここでは人間に備わった良心に関する10の研究結果を見てみることにしよう。やはり人間は生まれながらにして善悪の両方が備わっているようだ。   ★丘浅次郎  動物界における善と悪 - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001474/files/57424_61243.html  善とは何か、悪とは何か、善はなにゆえになすべきか、悪はなにゆえになすべからざるか等の問題は、すでに二千何百年も前のギリシア時代から今日にいたるまで、大勢の人々の論じたところであるが、昔の賢人の説いたところも、今の学者の論ずるところも、みな万物の霊たる人間についてのことばかりで、他の動物一般に関したことはほとんど皆無のようであるから、この点について日ごろ心に浮かんだことを試みに短くここに述べてみよう。  動物には単独の生活をなすものと、団体を造って生活するものとあるが、全く単独の生活をなす動物の行為は、善悪の二字をもって批評すべき限りでない。世人は狼が羊を捕えて噛み殺すのを見れば、羊の苦しみを憐れむ心から狼の所行を悪と名づけたく感ずるが、これは罪なき他人を害する人間を悪人と呼ぶのから連想したことで、単に狼のみについて言えば、その羊を食うのはあたかも人間が飯を食うのと同じく、ただ生活に必要な��とをするというだけで、善とも名づけられねば、また悪とも名づけられぬ。かかる動物では各自の行為の結果は、ただその個体自身に影響をおよぼすだけで、成功しても他に利益を与えることもなく、失敗しても他に迷惑をかけるでもなく、強ければ栄え、弱ければ滅び、たれの恩をこうむることもなく、たれの巻き添えに遇うこともない。それゆえ、かりに身をこの境遇において想像してみると、善悪という文字は全くその意味を失ってしまう。   ★善と悪の違いは? 仏教 浄土真宗 https://youtu.be/VZbsvcrboPw 煩悩は合計で108あります。その108の中に代表するのは欲、怒り、愚痴があります。欲、怒り、愚痴の他に105の煩悩があります。 欲は合計で五つあります。食欲、財欲、色欲、睡眠欲、名誉欲がそれです。安らかに在りたい、という気持ちはおそらく睡眠欲になります。 なぜ煩悩は悪になるのか。そして善とは何か。私の仏教の先生である高森顕徹はこのように教えています。 「自分さえよければ、他人はどうでもよい、という考え方を、仏教では我利々々亡者といって、地獄ゆきだと教える。」 仏教では悪のこと我利我利亡者と言います。自分さえよければ、他人はどうでもよいという考え方。 そして 「光明輝く浄土に向かう者は、相手も生かし己れも生きる、自利利他の大道を進まなければならない。」 仏教では善のことを自利利他と言います。相手を幸せにしたい心。 「私の死によって、一人でも真実の仏法を知り、真実の幸福に救われるならば、これにすぎたる本望はございません。」 これはフルナ尊者の言葉。フルナ尊者は釈尊の弟子の一人。 ここではフルナ尊者は、相手を幸せにするため、自分は死んでもいいという勇気を現している。 勇気とは何か。高森先生はこのように教えています。 「誰でも元来、偉人となるチャンスや才能は恵まれているのだ。 ただ、それを発揮するか否かは、その人が安全を犠牲にしても、信念を貫くかどうかにかかっている。  古人はこれを勇気と言ったが、危険を怖れざる心と言いたい。 生命の恐怖心を克服することである。」 勇気とは危険を恐れざる心である。生命の恐怖心を克服する心である。死を恐れざる心である。 これが善悪の違いになります。 悪とは我利我利亡者のことで自分さえよければいい、他人はどうでもいいという考え方。他人を殺してでも自分の命を守りたい、死にたくない、毎日が恐怖、不安、という卑怯者の世界。この卑怯者の世界を地獄といいます。 善とは自利利他のことで相手を幸せにすれば自分も幸せになれる。相手を幸せにするならば自分は死んでもいいという勇気の世界。この勇気の世界を仏の世界であり、極楽浄土と言います。   ★【3分間仏道】善と悪【楽に生きるヒント】 https://youtu.be/o42tLsJ-9FA 【ルール】 ・動画時間は3分以内にする ・動画を見る順番は関係なく、単発で見てもOKにする 【補足】 ・原始仏教(初期仏教)を元にしています。 ・八正道の正業、正語、正思惟、正命を具体的にご紹介するものです。   ★仏道入門【原始仏教】http://bit.ly/wrpS1X 原始仏教は宗教ではありません。  釈迦は神の存在は認めていません。  ~~如来、~~仏というのは釈迦が亡くなった後、  バラモン教、ヒンドゥー教、道教、儒教などの影響を受けて  後から作られたものです。  現在の日本の仏教とは全く別物だと考えて下さい。   ★善と悪・動機と結果・良心と神 - 不合理ゆえに我信ず - Goo ブログ https://blog.goo.ne.jp/forest1957/e/040bc6ba5df73e5e50667fd10e091443 きすぎじねんさんに「人間にとって自由とは何か」に対するコメントをいただきました。今日は、これを元に私の考えを書かせていただこうと思います。(きすぎじねんさん、お許しください。) 私は善と悪の定義を、けっこう簡単に考えています。 (A)人の命や心を助けたり守ったり元気づけたりすること。 (B)人の命や心を無視したり傷つけたり抹殺したりすること。
(A)が善で(B)が悪です。   ★人類創成から始まる:善と悪の闘い http://bewithgods.com/hope/ 庶民のつぶやきだから、人の意見には馬耳東風、唯我独尊にはご容赦を (*^ー゜)v ⇒[マッカーサ証言][中国:民族絶滅の危機][捏造 南京大虐殺][真実の沖縄] ⇒[慰安婦強制連行はなかった][戦後補償問題][慰安婦基金][日韓併合百年] ⇒ [朝鮮学校教科書問題][北朝拉致問題][尖閣を守れ!][外国人参政権] ⇒ [世界が裁く東京裁判][GHQが強制した教育基本法][国旗国歌と教育勅語] ⇒[サッチャー教育改革][米国教育改革][ブッシュ大統領の靖国参拝] ⇒[財務省が日本を滅ぼす][自治労の正体][マスコミ岩盤規制][財務省の岩盤規制]   ★第6話 善とは何か?悪とは何か? #平和 #戦争 #心理学 #哲学 ... https://kakuyomu.jp/works/1177354054881067746/episodes/1177354054881150629 善とは何か?悪とは何か? 古来より、善悪論は数多く行なわれてきた。 多種多様な善悪論があり、それぞれに参考になる点がある。それらを踏まえた上で、筆者の考えを記そうと思う。 善や悪といった事は、具体的な行動��エピソードと共に説明される事が多い。 しかし、善悪の意味の境とは何かという議論は、なかなか難しいものだ。   そこで、次の様な例え話を使って考えて見る。 良い行いの例として 1、 本当の事を話し、嘘を言わない。 2、 人に施す、盗まない。 3、 人助けをする。 悪い行いの例として 1、 嘘を付き、本当の事を言わない。 2、 人に施さず、人の物を盗む。 3、 人を殺す。 仮に、これらの事を、全ての人が同時に行なった場合、世界がどうなるのか、と考えてみよう。 良い行いの例として 世界中全ての人が同時に、本当の事を話し、嘘を言わないと、世界はどうなるだろうか?   ★善悪の起源  http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/029zenaku.htm 私たちの世界にはなぜ、善と悪、 命と死、幸福と不幸が同居しているのか   ◆ぜんあく 【善悪】  世界宗教用語大事典 かつて宗教を自然的宗教と倫理的宗教とに分ける説があり、倫理的宗教は、廃悪修善説の仏教や、山上の垂訓を示すキリスト教などがそれだとされた。確かに宗教の教義の中には、倫理・道徳を強く説くものもあるが、しかし、宗教の名のもとに大量殺人(戦争)が行われることもあるから、宗教と倫理の問題は同一次元とは言い切れない面をもつ。だが現今では善悪という場合、その概念は、だれでもある程度経験によって直観的に判断されると見てよいのであって、その標準思弁などよりは、行為論によって明瞭なものをもつ。仏教や旧約聖書に説く十戒は、その代表的なものといってよいであろう。そこでは少なくとも、他者への迷惑行為が悪であるとの意味が示唆されているのであり、その反対が善となる。→ 十戒   ◆ぜん あく【善悪】 〔連声(れんじよう)して「ぜんなく」「ぜんまく」とも〕 一( 名 ) 善と悪。また、善人と悪人。よしあし。 「 -をわきまえる」 二( 副 ) よきにつけ、あしきにつけ。どうあろうとも。是非とも。 「さては-為義まづ命を捨て/保元 中」 [句項目] 善悪の報いは影の形に随うが如し   ◆勧善懲悪(かんぜんちょうあく) https://ameblo.jp/shibaracu/entry-11169016458.html?newwindow=true 「善行を勧め励まし、悪事を懲らしめること。」が意味になる。 言葉としての意味は凄く良い。 でも総てにこの意味を持たせた組織が出来たら怖いことになる。 イスラムには この言葉が現実に使われて取り締まる組織まであるという。 理念としては日本では江戸時代からが始まり。 現在の日本では 水戸黄門漫遊記にしろ、大岡越前にしろ、遠山金四郎にしろ、 悪党は、最初から決まっていてそれを主人公がやっつける。 こんな感じで扱われる事が多い。 現実は違うとある程度の年齢に達すると思い始める。 だから、今では、勧善懲悪は、少年少女の物語だと思われている。 知らない事が余りにも多い。   ◆勧善懲悪 - 学校では教えられない現代社会(諒真) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054882211066/episodes/1177354054882708224 前回の稿は水戸黄門を「悪役側」から見た悲劇です。 これを授業では写真や絵を使って物語として話していたのですが、 昨年こんな広告がSNSで拡散され話題を呼びました。 「新聞広告クリエーティブコンテスト」で最優秀作品賞とった 「ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました」 と鬼の子どもが呟いている絵です。 これもまさに「悪役側」からみた悲劇ですよね。 これを一枚の絵と数行のセリフにまとめたこのセンスは素晴らしいと思いました。 しかし、私たちは「勧善懲悪」がやっぱり好きなんですよね。 そして、一方を徹底的に悪に描くことで善を際立たせていくわけです。   ◆勧善懲悪 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/勧善懲悪 勧善懲悪(かんぜんちょうあく) 「善を勧め、悪を懲らしめる」ことを主題とする物語の類型の一つ。 勧懲(かんちょう)とも略す。   ◆図書カード:勧善懲悪 - 青空文庫  織田作之助 https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46171_23899.html      一  ざまあ見ろ。  可哀相に到頭落ちぶれてしまったね。報いが来たんだよ。良い気味だ。  この寒空に縮の単衣をそれも念入りに二枚も着込んで、……二円貸してくれ。見れば、お前じゃないか。……声まで顫えて、なるほど一枚ではさぞ寒かろうと、おれも月並みに同情したが、しかし、同じ顫えるなら、単衣の二枚重ねなどという余り聴いたことのないおかしげな真似は、よしたらどうだ。……それに、二円貸せとは、あれは一体なんだ? 同じことなら、二千円貸せ……と、大きく出るんだね。だいいち、その方がお前らしいよ。  もともとヤマコで売っていたお前の、そんな惨めな姿を見ては、いかな此のおれだって、涙のひとつも……いや、出なんだ。出るもんか。……随分落ちぶれたもんですね、川那子さん、ざまあ見ろ。ああ、良い気味だ……と、嗤ってやった。驚きもしなんだ。なに、驚くもんか。判っていたんだ。こう成るとは、ちゃんと見通していたのだ。   ◆山子(読み)ヤマコ    さんし    デジタル大辞泉の解説 1 《「やまご」とも》きこりなど山で働く人。 2 山中に住む妖怪。山の精気の凝ったもの、また、猿の年を経たものという。〈和名抄〉
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shibaracu · 4 years
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●お膳●お膳立てする●チャブ台
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●お膳●お膳立てする●チャブ台 昔は必ず家族団らんに使っていた。 今では殆ど見えなくなった。 コレ見ている人も知らないことが多いだろう。 特に時代劇の大衆ドラマでは必ず出てきた。 時代劇を見ない人には馴染みの無いものばかりだろうね。 寂しい限りだ。   ★驚愕の事実・・・「巨人の星」 星一徹は、ちゃぶ台を返していなかった!! (9) https://plaza.rakuten.co.jp/shiawasenohana/diary/200802120000/ 2008/02/12 「ちゃぶ台返し」と言えば、アニメ「巨人の星」の主人公・星飛雄馬の父、星一徹ですよね!? https://multimedia.okwave.jp/image/questions/17/175751/175751.jpg ところが、です。 星一徹は、一度も、ちゃぶ台返しをしていなかったという事実を最近知って驚きました。 いや!!!絶対、見たことがあるというあなた。 実は、本編では、一度も、星一徹はちゃぶ台を返しておらず ただ一度だけ、飛雄馬の言動に激怒して 殴りかかりに行ったとき、ちゃぶ台にぶつかって、結果としてひっくり返ったということが あったのみなんですって。   ★星一徹 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/星一徹 星 一徹(ほし いってつ)は、梶原一騎原作・川崎のぼる作画の野球漫画『巨人の星』に登場する架空の人物で、主人公である星飛雄馬の父である。右投げの三塁手だった。現役時代は右投げ左打ちだったか、引退後、飛雄馬を鍛えるときと中日コーチ就任時は右投げ右打ちとなった。 アニメ版での声優は加藤精三。 年齢、生年については原作ではどこにも触れられていない。一徹現役時代に川上哲治を呼び捨てにしてタメ口で話していた(飛雄馬の巨人入団以降は「川上さん」と呼んで敬語使用)ことから河崎実は『「巨人の星」の謎』で「一徹は川上と同い年」と推定している。すると一徹初登場の昭和32年(アニメ)または昭和33年(原作)で37歳か38歳。『新・巨人の星II』最終回で川上哲治と同い年だったとすると58歳になる。   ★お 膳 の 起 源 と変遷(Adobe PDF) file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/no17_j_011_014.pdf 日本の「食」は、中国をはじめさまざまな国の食文化を受容し、融合し合いながら 独自の文化として発達し、現在にいたっている 。 そして食文化を構成する要素は食材だけではない。 その発達を支えたのは調味料や調理道具であり、食具や什器類にいたる脇役たちの 存在を疎おろそかにすることはできない 。 今回は、「お膳」を取り上げ、古代から今日までの変遷をたどりながら、 日本の食文化を探ってみる 。 「膳」の 文 字 は 神 話 か ら まず「 膳 」の文字の初出は『日本書紀』である   ★膳(読み)ぜん 食器を載せる盤または食卓をいう。日本料理独特のもので,古く平安時代から食事の際に使われた。種類も今日の食卓と同じような大きな4脚つきの台盤 (だいばん) ,1人用の懸盤 (かけばん) ,1人用で脚のない折敷 (おしき) ,あるいは高い脚のある皿様の高坏 (たかつき) などがあった。これらは主として会食用として用いられ,膳の上の食物の配置なども決められていた。この風習は近年まで伝えられ,1人用の膳は懐石料理,本膳料理などに欠かせないものとなっている。   ★かしわ‐で〔かしは‐〕【膳/膳夫】 《古代、カシワの葉を食器に用いたところから。「で」はする人の意》 1 古代、宮中で食膳の調理をつかさどった人々。 「水戸神(みなとのかみ)の孫(ひこ)、櫛八玉神(くしやたまのかみ)、―となりて」〈記・上〉 2 中世、寺院で食膳調理のことをつかさどった職制。 3 食膳を供すること。また、食膳。〈色葉字類抄〉   ★ぜん【膳】 [名] 1 料理をのせて人に供する台。脚付きのものや、折敷(おしき)などがある。「膳につく」 2 調えられた料理。また、食事。「10人分の膳」 [接尾]助数詞。 1 食器に盛った飯を数えるのに用いる。「2膳の御飯」 2 はし2本を一対として数えるのに用いる。「5膳のはし」 ぜん【膳】[漢字項目] [常用漢字] [音]ゼン(呉) [訓]かしわで 1 料理した食物。「膳羞(ぜんしゅう)」 2 食物を載せて出す台。また、それに載せた料理。「膳部/饗膳(きょうぜん)・御膳・食膳・配膳・本膳」 [名のり]よし [難読]膳夫(かしわで)
★かえし - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/かえし かえしとは「煮かえし」の略された物で、蕎麦汁(そばつゆ)に使われる調味料。このかえしを出汁で割って蕎麦汁が作られる。また、ラーメンにおいてもスープで割る前のタレの事をかえしと呼ぶ事がある。   ★御膳味噌(ごぜんみそ)は、徳島県で生産されている味噌の一種。 https://ja.wikipedia.org/wiki/御膳味噌 「御膳味噌」の名は天正15年(1589年)、阿波藩邸に仕えていた茶人の考案により当時の藩主蜂須賀家政の御膳に焼き味噌が供されたことに由来する。   ★御膳海苔(ごぜんのり)https://ja.wikipedia.org/wiki/御膳海苔 徳川家(江戸城)及び上野寛永寺へ御菜魚と同様に海苔運上(税)の意味で上納した新海苔を指す。   ★海苔(のり)https://ja.wikipedia.org/wiki/海苔 海苔(のり)とは、紅藻・緑藻・シアノバクテリア(藍藻)などを含む、食用とする藻類の総称。日本では、古く「紫菜」「神仙菜」と呼ばれた。食品として、それら藻類を加工した「生海苔」や「板海苔」などが食されており、米飯のおかずや江戸前寿司などで重要な材料となっている。 日本語の「ノリ」はヌラ(ぬるぬるするの意)を語源とする。水中の岩石に苔のように着生する藻類全般を表す語で、広義には食用とする紅藻類・藍藻類の総称である。平安時代末期は「甘海苔」といい、アマノリを板海苔に成形した「浅草海苔」が江戸時代以降に広まった。 海苔はタンパク質、食物繊維、ビタミン、カルシウム、EPA、タウリン、ベーターカロテン、アミノ酸などが豊富に含まれており、栄養に富んでいる。日本のほか、中国、韓国、イギリス、ニュージーランドで養殖もされている。1980年代にアメリカでも養殖が試されたが、失敗に終わっている。   ★御膳酒(ごぜんしゅ)https://ja.wikipedia.org/wiki/御膳酒 江戸時代の日本において将軍や大名など、いわゆる殿様の飲用として醸造・納品された日本酒をいう。 文脈的に何も特記がない場合は徳川将軍家の御膳酒をさす。   ★薬膳(やくぜん)https://ja.wikipedia.org/wiki/薬膳 中医学理論に基づいて食材、中薬と組合せた料理であり、栄養、効果、色、香り、味、形などすべてが揃った食養生の方法である。   ★薬膳の基礎知識 http://www.tokyoyakuzen.jp/kisotishiki.html 薬膳とは、中医学(中国伝統医学)の理論に基づいて季節・年齢・体質・環境などの目的に合った食物や中薬(生薬)を組み合わせる料理処方です。季節や体質との調和を配慮しながら、病気にかかりにくい体づくりを目的にしています。医の源は食であり、食物も中薬と同じように使用されるという「医食同源」の思想が基本にあります。薬膳学習にあたって、知っておくべき基礎知識をこちらにまとめました。ご活用ください。   ★お膳立て 意義素 何かをするための手はずを整えること 類語: ⇒ くわだて【企て】 ⇒ ようい【用意】 ・仕度 ・ 準備 ・ 支度 ・ 下拵え ・ お膳立て ・ 下準備   ★膳立て【ゼンダテ】デジタル大辞泉の解説. [名](スル) 1.膳の上に食器・料理を並べること。また、膳を据え並べること。 2.(多く「お膳立て」の形で)すぐにとりかかれるように準備をすること。また、その準備。 「お膳立てが整う」「見合いをお膳立てする」   ★ぜん【膳】 類語: 御膳 食膳 箱膳  ▽本膳  二の膳  三の膳  珍膳  献立(こんだて)  膳立て  料理 ⇒ りょうり【料理】   ★ちゃぶ台 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/ちゃぶ台 ちゃぶ台、チャブ台(ちゃぶだい)は、日本で用いられる四本脚の食事用座卓である。 一般的に方形あるいは円形をしており、折り畳みができるものが多い。 上座、下座という上下の関係があまり感じられず、昭和初期の家族の団欒を象徴する シンボルとして取り上げられる。 1887年(明治20年)ごろより使用されるようになり、1920年代後半に全国的な普及を見た。 しかし1960年(昭和35年)ごろより椅子式のダイニングテーブルが普及し始め、利用家庭は減少していった。 チャブダイと書く漢字としては卓袱台以外にも、茶袱台、茶部台、食机、その他にも古くは森田草平の『煤煙』や徳田秋声の『黴』で書かれている餉台などがある。 また、地域によっても呼称は異なり、富山県、岐阜県、三重県、兵庫県、佐賀県、長崎県、熊本県などの一部ではシップクダイ、シッポクダイ、ショップクダイと、岩手県、富山県、岐阜県、滋賀県、鳥取県、島根県、愛媛県などの一部では飯台と呼称される場合がある。 語源についても諸説あり、正確には判っていない。 有力なものとしては中国語でテーブル掛けを意味する卓袱(南中国音ではチャフ)から来たとするもの、同じくご飯を食べることを意味する吃飯(チャフン、ジャブン)から来たとするもの、中国人移民からアメリカへ広まった料理チャプスイ(英語: Chop Sui、チョップスウイ、チョプスイ)が元になったとするものなどがある。   ★飯台(はんだい)hhttps://ja.wikipedia.org/wiki/飯台 ・寿司を入れる櫃、寿司桶 ・卓袱台(ちゃぶだい)の別名   ★朝ドラの「ちゃぶ台押さえ」が面白い 星一徹のような「昭和の父親像」の誤解 https://news.yahoo.co.jp/byline/horiikenichiro/20191129-00152929/ 2019/11/29 連続テレビ小説『スカーレット』は楽しく見られるドラマである。 細かいセリフ廻しがなかなか素敵である。 戸田恵梨香のコメディ演技がとてもおもしろい。 それはたとえば父役の北村一輝とのやりとりで絶妙な味わいを出している。 父はよく喋るが、頑固親父である。おそらく大正生まれだろう。 戦争に行って、戦地で助けた戦友(マギー)を頼って滋賀の信楽に来ている。 この世代はだいたい亭主関白である。とにかく偉そうにする。 たとえばこの父は「女には教育はいらん」といつも言っている。 娘にもそう言わせている。 いまとはまったく違う時代のまったく違う家庭の風景である。 亭主関白というか、一家の主人というだけで精一杯偉そうにする時代だった。 それは社会と国家が後押しする制度だったので、日本国中はそういう家庭でいっぱいだった。 戦争に負けてそのシステムは終わったはずなのだが、そう簡単に人は変われない。 昭和の中期まではそんな頑固親父で溢れかえっていた。 ただ本当に強い人だったらいいのだが、そんなに強くもなく、心が弱い人でもその強い“亭主”を演じなければならなかった。いろいろ破綻する。弱い人が無理に偉そうにしようとすると、やたら攻撃的になってしまう。それはいまも昔も変わらない。 『スカーレット』は「ちゃぶ台押さえ」のドラマである ドラマ『スカーレット』では11月に入って、主人公が滋賀の信楽に戻ってきてから、父の傍若無人ぶりが目立つようになった。 主人公の妹たちが大きくなって、父の言うことをきかなくなったからだろう。 ときどき「ちゃぶ台をひっくり返す」シーンが出てきている。 最初に出たのは38話。帰りが遅くなった主人公が家にたどりつくと、父が怒ってちゃぶ台をひっくり返したあとだった。 理由は風呂がわいてなかったことと、次女が、いちいちうるさいねん、と口答えしたことである。ちゃぶ台には食器だけが乗っかっていた。食事はまだ準備中で、茶碗と箸だけである。それを父がひっくり返した。 ただ、きちんとひっくり返すシーンがあったのはこの回だけだったようにおもう。 そのあと42話では、酒だと騙されて水を飲まされた父が怒ってちゃぶ台をひっくり返そうとしたのだが、主人公の喜美子が父と重なるように上から押さえた。ちゃぶ台はひっくり返されずに、押さえつけられた。 また45話でも同じく、次女の口答えに怒った父がひっくり返そうとるすが、主人公が父の近くで、三女はその後ろでちゃぶ台を押さえ、ひっくり返されなかった。 娘の勝ちである。「ちゃぶ台押さえ」がひっくり返しに勝った。 このときの主人公(戸田恵梨香)の表情がたまらなくいい。というか、ただおもしろい。 傍若無人な父の「ひっくり返し」を押さえきり、ひっくり返させない。その目を見開いて父を睨む表情を見てると、おもわず噴き出してしまう。父の暴力シーンのはずが、とてもコミカルなシーンになっている。 このあたりの味わいが『スカーレット』の魅力だとおもう。 いまはこういう所作を「ちゃぶ台返し」と呼ぶようだが(私にとってはけっこう新語である)、この主人公喜美子の所作は「ちゃぶ台返し返し」とでもいうような技になる。佐々木小次郎もびっくりだ。あっさり言うなら「ちゃぶ台押さえ」だろう。 『スカーレット』は「ちゃぶ台押さえ」のドラマなのだ。 ただ、「ちゃぶ台をひっくり返す」という行為について、かなり大きな誤解があるとおもうので、その点を説明しておきたい。 『巨人の星』では一度たりともちゃぶ台はひっくり返されていない 「ちゃぶ台をひっくり返す」というと、出てくるのは『巨人の星』の主人公の父・星一徹であり、ドラマ『寺内貫太郎一家』の主人公、小林亜星演じる寺内貫太郎である。 『巨人の星』はまさにどんぴしゃの世代なので、もともと深く読んでいたし、のちすべてのコマを真剣に読み込んで本も書いた。(『巨人の星に必要なことはすべて人生から学んだ。あ。逆だ』)。 原作漫画を仕事として何度も読んだから、断言できるが、星一徹は一度たりともちゃぶ台をひっくり返していない。 『スカーレット』で父がやるように、ちゃぶ台の端を持って、上に乗っているものをぶちまけることが目的で、ちゃぶ台をひっくり返すということは、一度たりともしていないのである。 そしてドラマの『寺内貫太郎一家』も同じである。 かつてとびとびに見ていた印象で、星一徹はひっくり返してないが、寺内貫太郎はひっくり返していた、というふうにおもいこんでいて、それをどこかで書いたような記憶があるが、このたび第一シリーズを全話きっちりと見て確認したので、それを訂正したい。 寺内貫太郎も、一度たりとも、ちゃぶ台をひっくり返したことなどない。 大事なことなので、もう一度書いておきます。 昭和時代、星一徹や寺内貫太郎は、ちゃぶ台を意図的にひっくり返す、ということは一度たりともしていない。 両作品をすべて調べたので、(寺内貫太郎は基本である第一シリーズ全編)そう断言します。訂正できるものは、いまからでも訂正したほうがいとおもう。 「誤った昭和の父親像」 そもそも昭和時代、現実世界でも強権的な父親は、ちゃぶ台をあまりひっくり返していなかったのではないだろうか。あらためて、それは平成時代に作られた「誤った昭和の父親像」ではないかとおもっている。 彼らはそんな生やさしい存在ではないのだ。 ちゃぶ台をひっくり返しても、後片付けをすればすむだけである。誰も痛いおもいをしなくてすむ。(人に当たらなければ、だけど、だいたいちゃぶ台をひっくり返してる人は当たらないようにしている) 怒ったときの星一徹も寺内貫太郎も、そんなやさしい存在ではない。 怒らせた原因を痛めつけようとする。それが戦場に駆り出された世代である。 もし、ちゃぶ台が言うことを聞かず、しかも口答えしたのなら、ちゃぶ台を痛めつけただろう。いろいろ殴ったりひっくり返したかもしれない。でも『巨人の星』でも『寺内貫太郎一家』でも、ちゃぶ台は喋らない。 口答えするのは、だいたい子供である。(そういえばどちらも姉と弟の二人姉弟である:寺内は第一シリーズに限るが)。強権親父は、口答えしたやつ、約束を守らないやつを殴る。投げる。平手打ちをする。ちゃぶ台なんかひっくり返さない。そんな無駄はしない。 徴兵された世代をなめないほうがいい。 ちゃぶ台をひっくり返すというのは、弱者の抵抗である。直接、怒りたい相手にぶつけられないからモノに当たってる人である。 大正生まれの強い父はそんな面倒なことはしない。 そういうのはその子供の世代、反抗することがいいことだ、とおもってた世代のやりそうなことである。具体的に言うなら戦後にまとまって生まれたベビーブームの世代、学生運動でしきりに造反有理と謳っていた世代。彼らは自分たちの心情を反映する形で、歴史を歪め、自分の親世代をそう描いてしまったのではないだろうか。 無意識だろうが、かなり意図的な歪曲である。上の戦争体験世代に対するアンチテーゼの一種だろう。 大正生まれは、子供をふつうにひっぱたく。(もちろん人によりますが)。 寺内貫太郎もちゃぶ台を一度も返していない 星一徹がちゃぶ台をひっくり返す人として誤解されたのは、ちゃぶ台にかまわず息子の飛雄馬を殴ったからである。飛雄馬は秘密の練習器具(大リーグボール養成ギブス)を絶対に見せないという約束を破ったうえに、父にうそをついた。そのために父はめちゃくちゃ怒った。まあ、怒るのは正しい。そして当時はそういう子供を殴るのも正しいとされていた時代である。(書いていてどうかとおもうが、歴史的事実なのでそう書くしかない)。 前にちゃぶ台があり、食事中だったのもかまわず、殴ったのだ。 ちゃぶ台が傾き、上の皿や小鉢がすべり落ちていった。 それだけのことである。 ただこのカットがアニメのエンディングで毎週流れた。殴る一徹。殴られる飛雄馬。傾き皿が落ちているちゃぶ台と、驚く姉の明子。このシーンが視聴率20%を超える人気番組で毎週流れたので、ちゃぶ台をひっくり返したかのように信じ込まれているのである。 『寺内貫太郎一家』も同じである。 このドラマが放送されたのは、昭和49年、1974年のことである。 寺内貫太郎の設定はこのときで50歳。大正末年の生まれとなる。 石屋の主人。頑固親父で、妻も子供にも、すぐ手を出す。 第一シリーズだけで39話あった。昭和49年の1月から10月初頭までの放送だ。その第一シリーズ全39話を見た。 こちらも同じである。 寺内貫太郎は、ちゃぶ台をひっくり返していない。 星一徹とまったく同じである。 ちゃぶ台というより6人から8人くらいで囲んでいるから食卓といったほうがいいのだけど、その食事中に家族に怒って、平手で打ったり、投げたり、突き飛ばしたりするから、食卓の上の皿が落ちていってしまう。それだけである。 寺内貫太郎も、ちゃぶ台の端に手をかけて、ちゃぶ台をただひっくり返すということは一度たりともしていない(第一シリーズは全話そうである) ドラマは1月から放送されたので、1話から9話までは、こたつで食事をしていた。10話から最終39話まではちゃぶ台(食卓)である。 だいたい貫太郎と長男(西城秀樹)がとっくみあいの喧嘩をする。 食卓や皿、小鉢のことはまったく構わず喧嘩をするので、女性陣がさっと食卓を隣室に引っ張っていった。後半はそれは祖母(樹木希林、当時の芸名は悠木千帆)とお手伝いのミヨちゃん(浅田美代子)の役目だった。それっと息を合わせて二人で隣室に引っ張っていく。 それでも投げ飛ばされた長男がちゃぶ台の上にひっくり返り、そこにある料理の乗った皿や小鉢がすべてすべり落ちていくことがある。 それも、そんなに多くない。 ちゃぶ台の上のものがすべり落ちたのは、27話、34話、37話の3回だけである。 ほかにちゃぶ台の脚が折れたことが7話、25話、33話、34話の4回。 ちゃぶ台や、乗っかってるものに被害があったのはその6回だけだ。(34話は脚が折れて、上の枝豆と灰皿が落ちたので重複している) ただとっつかみあいの喧嘩はほぼ毎回あったので、きちんと記録して見てないと記憶は混濁するだろう。 貫太郎は一度たりとも、ちゃぶ台をひっくり返していない。『巨人の星』と同じく、ちゃぶ台は斜めになって、上に乗ってるものがすべり落ちていくだけである。 ちゃぶ台に証言させても「傾けられたことはありますが、返されたことはありません」と言うだろう。 ちゃぶ台ひっくり返す男、というのは幻の存在ではないだろうか。 1980年代にいろんなものが変わった もちろん日本は広いから、実際に食卓をひっくり返した父というのはいただろう。 ただ申し訳ないが、それはかなり弱い人物だとおもう。完全なやつあたりである。 強い父は、妻にも子にも直接向かわなければいけない。 直接向かわず家具に当たるのは、相手より弱い存在である。かつての日本では一家の主人はそんな立場にはないはずである。 ちゃぶ台をひっくり返すというのは、本来は反抗する子供がやることである。 1980年代にいろんなものが変わって、1960年代の『巨人の星』や1974年の『寺内貫太郎』の世界がまったくわからなくなった。 1980年代の大人が、記憶を改変していった。 戦争に加わった人の心情を想像せずに(彼らは国家から暴力装置になることを強制され身体に刻み込まれた世代なのだ)、反抗を美学とする世代が大人になったときに、記憶が変えられたのではないだろうか。 「ちゃぶ台返し」という言葉が生まれたのも、1980年代以降、おそらく平成に入るころだとおもわれる。パロディ番組で、それまで存在しなかった「ちゃぶ台そのものをひっくり返す」というシーンが描かれるようになったところからだろう。そのときに生まれた新語である。(30年ほど経ってるから昭和世代にとっての新語でしかないですが)。 おそらくみんなちゃぶ台を一度、ひっくり返してみたかったんではないか。気持ちはわかる。 くどいが、繰り返しておく。昭和時代はちゃぶ台は「返されて」はいない。傾いていただけだ。傾いて皿がすべり落ちてることを「ちゃぶ台返し」と呼ぶものではない。 そして、令和となると娘にちゃぶ台を押さえられてしまうようになった。 なかなか素敵である。見ていて楽しい。歴史的事実と関係なく、そういう世界観はとてもいいとおもう。 『スカーレット』は、傍若無人な父の「ちゃぶ台返し」に負けない娘の物語だ。 まだまだ「ちゃぶ台押さえ」の戸田恵梨香の表情を見てみたい。   ★ちゃぶ台返しとは - はてなキーワード 1.ちゃぶ台とは四脚の低い食事用の台。円形または矩形であることが多い。「ちゃぶ」は「卓袱」の中国音 zhuofu(チュオフー) の転で、卓袱(しっぽく)は中国で食卓の被いのこと。転じて、その食卓の称となった。 2.星飛雄馬の父、一徹がひっくり返すことで有名*1。 3.ストレス解消の手段、あるいは激しい怒り・もやもやの表現。 4.あめぞう掲示板ちゃぶ台返し板では以下のような顔文字が使用されてきた(細部に各種バリエーションあり)。ちゃぶ台をひっくり返したら、ちゃんと後の人のために元に戻しておくこと。ちなみに、ちゃぶ台返し板でひっくり返したり戻したりする人たちは「ちゃぶ隊」と呼ばれている。   (ノ ̄□ ̄)ノ ~┻━┻   (ヽ´~`)ヾ┳━┳”(ちゃぶ台を戻して片付け)   (ヽ ̄ー ̄)ヾ┳━━┳ ┳━━┳~(^^~) (お片付け)   (о^◇^)⌒”┳━━┳ (ふきふき)   ★軽くて丈夫な丸型ちゃぶ台(卓袱台) - ダンボール倶楽部 https://www.dumboo.com/SHOP/DF011.html 星一徹になれる!?^^ 「ちゃぶ台」 軽くて丈夫な折り畳み式の卓袱台です。 二層強化段ボールと三層強化段ボールを組み合わせた頑丈なつくりに、 段ボールのぬくもりと、かわいらしさを持っているでしょ! 足の微妙なカーブがそれを演出しています。 使わないときは簡単に折りたため、収納の隙間に入り邪魔になりませんよ。   ★【レシピ記事】 DIYキットに挑戦【折りたたみちゃぶ台】 - フェリシモ女子DIY部 https://www.felissimo.co.jp/diy/blog/diyworks/table/lowdiningtablekit/ 2018/09/13 フェリシモ女子DIY部のオリジナルDIYキット、第二弾が誕生しました! 今回ご紹介するのは「折りたたみちゃぶ台 DIYキット」。 キットの新作をみんなで考えていたときに、部員のももちゃんから出た言葉。 「ちゃぶ台がほしいです。」 「!!」 まじかー!思いつかなかったわ!ちゃぶ台をDIY!! ただ、このキットの実現にはたくさんの壁がありました。一度は心が折れ、あきらめそうになりました。 でもフェリシモ女子DIY部のおかんこと、けびょにお尻を叩かれながらいろいろと思案し、なんとか実現したのがこのキットです。   ★配膳【ハイゼン】デジタル大辞泉の解説. [名](スル)食膳を客の前に配ること。料理や箸・茶碗などを食卓に出すこと。「客室ごとに―する」「―係」   ★マナーを守ると美しい!ご飯と味噌汁の正しい位置を確認しよう 2017年6月7日 更新 https://macaro-ni.jp/38018 和食の配膳には、じつはいろいろな理由があります。たとえば、ご飯と味噌汁の位置、ご存じですか?毎日の食卓でも正しい配膳ができるよう見直してみましょう!今回は、ご飯と味噌汁の正しい位置や、配膳マナーについてまとめました。   ★一汁三菜とは?日本の食卓を彩る基本の献立・和食の正しい配膳方法 https://allabout.co.jp/gm/gc/71497/ 2019/12/17 毎日の食卓の一汁三菜、それぞれの意味と正しい置き方はご存知でしょうか? ご飯におかずにおみそ汁。日本人ですから、和食の基本の作法はおぼえておきたいですね。今さら人に聞けない、日本料理の献立の基本中の基本、正しい配膳方法をおとどけします。 毎田 祥子 執筆者:毎田 祥子 家事ガイド ご飯におかずにおみそ汁。毎日の食卓、それぞれの置き場所は正しいでしょうか?日本人ですから、きほんの作法はおぼえておきたいですね。今��ら人に聞けない、献立の基本中のきほんをおとどけします。 <目次>    一汁三菜とは、日本料理の献立の基本    一汁三菜の配膳方法……ご飯は左、お味噌汁は右   ★なかい[―ゐ]【中居・仲居】大辞林 [1]料亭などで、料理を運んだりして客に応接する女性。《仲居》 [2]将軍・大名などの奥向きに仕える女性。また、その詰めている部屋。おすえ。《仲居》 [3]近世、商家などで、奥女中と下女の中間の奉公人。中通り女。   ★仲居(なかい)https://ja.wikipedia.org/wiki/仲居  仲居(なかい)は現在は旅館で給仕や接待をする女性の職業。 古くは中居と記されて、公家や門跡の邸宅で主人の側で奉仕する人の控室を指し、後に料理の配膳室や家政・経理部門及びその職員の意味でも使われた。宮中では御末とも称した。 上代においては上女中と下女との中間の、小間使の女を意味した。 転じて遊女屋・料理屋、旅館などで、客に応接しその用を弁ずる女性の接待業を意味する。 多くの場合住み込みで、長時間労働である。収入はチップによる歩合を取ることもある。 江戸時代に旅籠や宿場において設置されることがあった公娼である飯盛女とは全く異なる職業である。   ★飯盛女(めしもり おんな、飯売女[めしうり おんな]とも称する) https://ja.wikipedia.org/wiki/飯盛女 近世(江戸時代)日本の宿場にいた、奉公人(cf.)という名目で半ば黙認されていた私娼。 「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女」と表記されていた。 その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に売春婦のみを指すわけではない。   ★私娼(ししょう)http://bit.ly/IaJLJU 娼婦に公に営業の許可をあたえる制度がある場合、娼婦のうち、公の営業許可を得ていない娼婦をいう。 公(おおやけ)に営業を許された公娼に対する。 日本における私娼 日本における私娼の歴史は、必ずしも明らかではない。奈良時代、天平年間に遊行女なるものがあったことが知られ、これを私娼とする向きがある。『万葉集』には、大宰帥大伴卿が都に上るときに卿に侍した遊行女、児島の、「やまと路は雲かくれたりしかれどもわがふる袖をながしと思ふな」という歌もある。のちに娼婦は遊行女のほかに、白拍子、遊女、傾城、傀儡女などに分かれたが、鎌倉時代は遊女と呼ばれるようになった。   ★公娼(こうしょう)https://ja.wikipedia.org/wiki/公娼 日本における娼婦の種別である。 公に営業の許可をあたえる制度がある場合、娼婦のうち、公に営業を許された娼婦をいう。 公の営業許可を得ていない私娼に対する。 ・関連項目  ・赤線・青線・白線 (性風俗)  ・岡場所  ・歓楽街・風俗街   ★赤線 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/赤線 赤線(あかせん)は、GHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間に、半ば公認で売春が行われていた日本の地域である。赤線区域、赤線地帯などとも。   ★青線 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/青線 青線(あおせん)とは 1.日本で売春防止法施行以前に非合法で売春が行われていた地域の俗称。この項目で記述。 2.法定外公共物である水路の通称。「青道()」「青地()」ともいう(法定外公共物である里道の通称は「赤線」「赤道」「赤地」)。
1の青線は、1946年1月のGHQによる公娼廃止指令から、1957年4月の売春防止法の一部施行(1958年4月に罰則適用の取締りによる全面実施)までの間に、非合法で売春が行われていた地域である。青線地帯、青線区域ともいわれる。   ★白線 (ぱいせん・ばいせん)https://ja.wikipedia.org/wiki/白線 日本で非合法の売春行為の俗称。また、日本で売春防止法施行以前にあった、米軍基地周辺などの白人兵士相手の売春街。読み方は「ぱいせん」あるいは「ばいせん」。白線 (性風俗)を参照   ★白線 (性風俗)  https://ja.wikipedia.org/wiki/白線_(性風俗) 白線 (ぱいせん・ばいせん) は、1958年4月の売春防止法の全面実施後も、もぐりで行われていた非合法の売春行為を指す。   ★岡場所(おかばしょ)https://ja.wikipedia.org/wiki/岡場所 江戸時代、江戸における女郎屋を集めた吉原などの公許の遊廓に対し、私娼屋が集まった歓楽街のことである。 「岡」は「傍目」(おかめ)などと同じく、「脇」、「外」を表す言葉である(例:傍目八目)。 吉原の浅草堤移転にともない、湯女風呂に替り、江戸周辺部の寺社門前地の茶屋から発展した。宝暦から天明年間にかけて最盛期を迎えたが、寛政改革における統制強化により、整理統合が進められた。天保改革により廃絶された。岡場所は私娼窟だけでなく、寺社門前地や広小路に展開した盛り場を形成する要因の一つであった。   ★吉原遊廓   https://ja.wikipedia.org/wiki/吉原遊廓 吉原遊廓(よしわらゆうかく)とは、江戸幕府によって公認された遊廓である。始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
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ポリティカル・コレクトネスの台頭
〔訳注:コデヴィッラは二〇一七年アメリカ大統領選にポリコレの一つの節目を見出し、そのルーツの一つとしてグラムシを研究する。英語圏ポリコレとグラムシの関連性について、Sean Gabb, Cultural Revolution, Culture Warを見よ、いわく、マルクス主義的共産主義の仮説「は虚偽である。……プロレタリアの貧窮化も一般的過剰生産危機も存在しない。……二十世紀初期、この問題に対する二つの反応が現れた。……一つ目は……レーニンを見よ……。二つ目は本来のイデオロギーから経済的決定論を削ぎ落としつつもその救世主的な熱狂を保ったまま仮説を救出することだった。その最も重要な企画者三人はアントニオ・グラムシとルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコーであった」。イギリスでは「教師はグラムシとアルチュセール、フーコーの作品を読書、討論し、そうして吸収することを要求される」。〕
アンジェロ・M・コデヴィッラ[1]
Angelo M. Codevilla, “The Rise of Political Correctness,” Claremont, Vol.xvi, No.4, Fall 2016.
 「同士、あなたは事実上間違っています」
「ええそのとおり。でも政治的には正しいんですよ」
 ポリティカル・コレクトネスの概念は一九三〇年代に共産党員の間で、党利とは現実それ自体を超えた現実として扱われるべきものであるという半ば滑稽な催促として使用されるようになった。共産党員含む進歩派はみな新人類の現実を創造しつつあると主張するから、彼らは自然の法則と制限に対する永続戦争の構えにある。しかし現実は屈するものではないから、進歩派は行き詰まって、彼ら自らこれらの新現実を体現している振りをするようになった。それゆえ、進歩主義運動の名目的目標はいずれも、運動それ自体の力に関する喫緊で最も重要な疑問の下におかれてしまう。その力は進歩主義者が彼ら自身と世界について言っていることを他人が質疑できるかぎり不安定であるから、進歩主義運動は、約束上の新現実を創造することより、あたかもそれらが現実であるかのように――すなわち、政治的に正しいこと、党利に奉仕する思考が、事実として正しいかのように――人々を喋らせ行為させるための強制の方で努力することに終わる。
共産主義諸国家はそのような未遂の集団思考の最も顕著な事例を差し出すにすぎない。彼らの親指の下で彼らの歌を歌うか、それとも黙るかを人々に強いるため、進歩主義政党はどこでも教育制度と文化制度を独占しようと努めてきた。しかし彼らのイデオロギーが宣伝する繁栄や健康、知恵、幸福の逆を生み出してきたから、彼らはポリティカル・コレクトネスと現実の間のギャップを無視するよう民を強いることができなかった。
特にソビエト帝国の内破以来、左翼は共産主義がユートピアを創造し損ねたのは軍事的経済的権力の不足ではなくこのギャップに打ち勝てなかったせいだと論じるようになった。したがって、今の進歩派にとっての教訓は、ポリコレをかつてより厳しく押し付けること、反対者への処罰を一層苛烈にすることではないか? ソビエト型の抑圧力を揮うことはできないと知っているが、なお彼らの企画に対する増大中の大衆的抵抗を叩き潰す意志をもって政府と社会の管制高地に居座る、現在のもっと識別力に富んだヨーロッパ・アメリカ進歩主義者の多数は、文化的抵抗を粉砕するためのもう一つのアプローチを探し求める。彼らはますます、「文化的覇権」をその闘争の主な手段のみならず目的そのものともした華々しい共産主義理論家アントニオ・グラムシ(1891–1937)の名を引く。彼の著述が思い描くのは進歩主義への文化的抵抗の可能性それ自体が除去された全体主義である。しかし彼の著述はマルクスやレーニンよりマキャヴェリに負うから、手段に関して少なからず複雑であり、ソビエト帝国が実施した生硬な文化権力と同一とは言いがたいし、ついでに言えば、それは今我々の間で飛び交っているものである。
私の本稿の目的は進歩主義者がレーニンの日から彼らの文化戦争をどう理解し実行してきたか、彼らが我々の時代と境遇でその戦争を行う際に直面する選択肢――わけても現在の文化戦争でのポリティカル・コレクトネスに関するもの――がグラムシ自身の曖昧な著述でどう例証されるかを説明することである。
文化戦争
あらゆる形態の進歩主義は、人間性の何が間違っているかとそれをどう直せばいいかに関する特殊な、「科学的」な知識の主張に基づく。その定式は率直だ。すなわち、世界はあるべきすがたではない、なぜならば社会の基本的「構造的」特色が悪く秩序立てられているからだ。他のすべては「上部構造」である、というのは、それは単に社会の根本的特色の反映をしているにすぎないということを意味する。マルクスと彼の追随者にとって、その特色とは「現在社会」の生産手段をめぐる紛争である。時代の始まりから、この階級闘争は「矛盾」へと導いてきた。労働の種類の矛盾、都市と田舎の矛盾、迫害者と被迫害者の矛盾などだ。この紛争でのプロレタリアートの勝利はあらゆる矛盾を粉砕して滅ぼすことで新現実を確立するだろう。進歩主義の他の諸部門は別の構造的問題を指摘する。フロイディアンにとっては性的不適応であり、ルソーの追随者にとっては社会的束縛であり、実証主義者にとっては科学的方法の不十分な適用であり、その他にとっては或る人種による他の人種の迫害である。いったん社会の支配が専ら適当な進歩主義者の集まりの手に渡されたら、基本的構造的問題が直されるにつれて各セクトの矛盾が消滅するに違いない。
しかし進歩主義者が権力を握ったところではどこでも、あらゆる種類の矛盾がそのまま残っており、新しい矛盾まで生まれている。進歩主義運動はそれら自体の存在理由になることでこの失敗に反応してきた。理論的には、かの革命とは人類を再創造する権力と必要のことである。それは実践では、ほとんどすべての進歩主義運動にとって、革命家が権力を得ること、邪魔者と戦争することである。たとえば、労働者/農民プロレタリアはその核心的な主唱者ではなかったが、それと同じだけ、私有財産と分業、政治的迫害を超越することは決してマルクス‐レーニン主義の核心的動機ではなかった。実際、共産主義とはこれらのイデオローグ自身に権力を与え、彼ら自身を褒め称えることに終わるところの、イデオローグによる、イデオローグの、イデオローグのためのイデオロギーである。これはマルクス主義に当てはまるのと同じだけ進歩主義の他の諸部門にも当てはまる。
レーニンの種子的な貢献は革命的政党の比類なき至上性を明示的に認識し、政党の権力と威信を革命への手段から革命のあからさまな目的に変えたことであった。レーニンの著述はマルクスのそれと同じく将来の経済的配置の積極的記述を含まない。ソビエト経済はその非能率性にもかかわらず、スイス製じみた精密さでもって、幾人かにとっては特権のエンジンとして、それ以外の人々にとっては殺人的な剥奪と困窮のエンジンとして機能した。共産党は共産主義を超越していたのである。政権の座の進歩主義政党がすることを理解する鍵は、どんな組織の実際的目標も結局はその指導者の利害関心と悪い性癖に奉仕するようになるという、ヴィルフレド・パレートとガエタノ・モスカのような「エリート理論家」が強調した概念である。
進歩的革命家の利害関心に奉仕するのが何であるかは疑問の余地がない。進歩主義の各部門は社会の「構造的」罪科をどう定義するかにかけて異なっているけれども、十九世紀から我々の時代までの進歩主義は、克服しようとする人間的現実の名称それ自体と、その目的を達するための手段にかけて、彼らの一人格的偏愛において――彼らが何を愛するかよりも、彼らが何を、誰を憎悪するかについて――ほとんど同一性を保っている。彼らはマルクス主義者が「ブルジョワ道徳」と呼ぶ文化を彼らのアイデンティティと権威の否定であると見る。このアイデンティティ、彼らのアイデンティティは、この文化に対する永続的な闘争によって永続的に促進されなければならない。こういうわけで、さもなくば相異なるはずの諸々の進歩主義の文化的キャンペーンはかくも似ていたのである。レーニン主義ロシアは多様な西洋民主主義者に劣らず宗教を根絶するため、男女と子供が家族として存在するのを困難にするため、そして彼らのアイデンティティを反映する新秩序を褒め称えるところに彼らの国民が参加することを要求するために、努めてきた。注意――文化戦争の実質的目標は戦士自身のアイデンティティの肯定よりは重要ではない。これこそが文化戦争を行ってきた進歩主義者のアニムスを説明するものである。
けれども、個人の心は社会の基本構造を反映するにすぎず、ゆえに独立して真偽、善悪を推理することはできないという進歩主義の前提にもかかわらず、現実はやはり、諸個人がどう思考するか、どう行為するかの「構造的」基礎を欠きつつも、しばしば思考と行為を選択しているし、あるいは進歩主義理論が人類を分断する経済的、社会的または人種的「階級」に逆らって行為していると認めるよう進歩主義者たちを強いる。彼らは人の心のこの自由を「虚偽意識」と呼ぶ。
虚偽意識と戦うことは共産党員と他の進歩主義者が想定場では「上部構造」であるはずの文化的問題をあたかも構造的で基礎的であるかのように扱ってしまうことの理由の一つである。彼らは人々につねに圧力をかけて、進歩主義の理論に批准させ、誰が誰に何を言うかに対し支配力を揮うことで歴史の流れに「逆」行する者に対する勝利のミサに加えることでそうするのである。
ソビエト・モデル
ソビエト政権は全体主義権力を最大限行使することでの「ブルジョワ文化」の強制的超越を目指した。ブルジョワ文化の拒絶を支配階級での出世条件にするのはもちろん、ほとんどすべての協会を破壊し、ほとんどすべての司祭を殺害し、かすかな反対の兆候さえ処罰することで、この古い文化を破壊も同然まで追いやることに成功した。しかしこの歩みは、最終的で最善のはおろか、新しくてもっと良い文化を確立するのではなく、むしろソビエト権力の基礎そのものを破壊してしまった。
進歩主義諸政権が要求するには、仕事や特権を失ったり――たとえ犯罪者としては扱われなくとも――政権支持者の忌避や憤怒を蒙ったりしたくなければ、公共(はおろか私事)に表れる人物は政権のアイデンティティに相応しい一切合財を肯定しなければならない。しかし全体主義政権でさえ一時に褒章したり処罰したりできる人数は多くない。唇を噛み締める数百万人の暗黙の協力は、贔屓漁りの数千人のリップサービスよりはるかに本質的である。それゆえ、少なくとも受動的な協調を刺激するため、政党は「みんな」がすでにこちら側にいるという印象を与えることに励む。
しかしそしたら、なぜ共産党はつねに、わずかながら教会を残していたのか。なぜ国外からの党自身への批判を報告したのか。なぜ党はときおり反体制派の人々を公表したのか。党が文化政治的な大義のためにキャンペーンを始めるとき、それはいつでも、反対を少数の人々に象徴せしめ、社会的に容認可能な機関と広報をすべて差し向けて、彼らに反対派の最悪のものを押し付けるだろう。ソビエト連合から中国とキューバまで、党学校はなぜ、貧者、老人、社会的に不快なアウトカーストたちが通う礼拝を、若い中核に観察させ、あざ笑わせるのだろうか? 理由の一部としては、文化的な敵に襲い掛かることが中核のアイデンティティを再強化したからである。それで彼らは好い気持ちになって、もっと強い気分になった。古い社会や反対派の名残がなくなれば、党がそれらを製造することはできるかもしれなかった。
しかし人々に党の代用現実を賞賛させて、彼らが知っていることは真実ではないと肯定させ、彼らが知っている以外のことを真実であると否定させるための継続的な努力には、彼らを仲違いさせて恐ろしい孤立の感覚に突き落とし、彼らの自尊心と他人を信頼する度量を破壊することが要求される。ジョージ・オーウェルの小説『1984』はこの文化戦争の目的と手段をドラマにした。すなわち、人間の感性と理性が伝える現実を政党の権威に置き換えることにほかならない。ビッグ・ブラザーのエージェントは、社会の命令より彼自身の見解を好むかどでウィンストンを叱責しながら、四本の指を挙げながら五本の指が見えると認めさせることでウィンストンの精神の壊しおおせた。
かくてソビエト政権は冷笑的で怨恨を抱いた機能不全の国民を創造する。かの共産主義は「ブルジョワ文化」の破壊を文化的征服と混同したから、あらゆる文化闘争で勝利を収め、そのかたわらで政治的に崩壊するはるか前から文化戦争には負けていた。人民の心で共産党員が虚偽と詐欺に同定されるにつれて、人民は真理を公務員以外の一切、彼らの学説以外の一切と同定するようになった。彼らとそれらを腐敗と窮乏に同定することも避けられなかった。そしてそれは、当局の権威者が大収穫だったと公表したら人民がポテトを買いだめするということであり、当局の権威者に呪詛を吐かれているとしかキリスト教のことを知らない人民はいよいよ十字架を身に着け始めるようになったということである。
ゆかれなかった道
ソビエト経験を理解して「ブルジョワ」文化を彼ら自身のものと置き換えるより良い道を探すほど謙虚な進歩主義者は少なかった。アントニオ・グラムシはそのような道しるべをつけたが、その曖昧さのせいで、進歩主義者はまったく異なる方向を追っていった。
グラムシは混合的な哲学的前提��ら始めた。第一に、正統派マルクス主義から。彼は「固定的で不変な『人間本性』のようなものはない」と記す。むしろ、「人間本性とは歴史的に決定された社会関係の総体である」。近現代の君主の仕事はこれを変えることだ。しかしながら、彼のまったき非正統性は、経済要素が根本的で他をすべて上部構造とするマルクス主義の強弁への嘲りだった。いな、「そういうのは庶民向けのもの」で、「頭を使いたくない中衛知識人」用の「矮小な決まり文句」である。グラムシにとって、経済関係は社会的現実のほんの一部分にすぎず、その主要部分は知的で道徳的なものだった。彼はアリストテレス主義のルーツを忘れない。彼にとって、物理科学とは「目的論」と「終局因」が存在する「不変の現実の考察」である。しかし正統派マルクス主義とアリストテレスは、彼が「弁証法」と称したもの、古い現実から新しいそれを創造するという点において一緒にやっていく。
グラムシは一九二一年に共同でイタリア共産党を結成した。一九二六年、ムッソリーニは彼を投獄。十一年後に亡くなるまで、彼は十二冊の『獄中ノート』を著した。彼は私的所管ではスターリンの文芸判断を批判し、彼のレフ・トロツキーへの攻撃を「無責任で危険」と考えた。しかし彼は公的にはソビエトの党是転換をすべて支持した――彼の党の上司パルミロ・トリャッティに、彼の著述を修正する権威さえ与えている。彼は投獄されて健康を害したので、彼の仲間をかくも多く殺した共産党内の粛清に晒されるよりは知的に自由で肉体的に安全だった。
グラムシの「文化的覇権」の概念もまた両方に振れる。敵をすぐ殺すよりは変えることへの強調は、共産党のブルートフォース・アプローチとは相容れなかった。彼の文化問題への集中は、構造と上部構造を標準どおり区別しつつも引っくり返しており、心の自律への信念を仄めかしていた。他方、自然に照らして真偽と善悪を推理するのではなく歴史的新現実を創造することで心を説得するという理念それ自体はまさに彼がマルクスその他の進歩主義者と――実に、近現代思想の源泉たるニコロ・マキャヴェリと――共有するものであった。
グラムシは既存秩序を置き換えてその置換を保障する最善の方法を発見するためにマルクスよりもマキャヴェリに頼る。マキャヴェリの『君主論』の第五章は自分たちの法律の下で生活することに慣れきった人々を支配する「唯一確実な方法」は破壊することであると述べた。��かしマキャヴェリの目標は彼らを破壊することではなく、彼らの心を介して人々を支配することであった。彼が『君主論』第六章に記すには、「新しい様式と秩序」を確立するより難しいことはなく、これは人々に一定の事柄を「説得」することが必要であり、それは「彼らが力で信じさせられたとはもはや信じないとき」必要であり、これは「非武装預言者」にとっては特に難しい。しかしマキャヴェリはまた、そのような預言者は新しい信念の集合を教え込むことに成功したら「強力、安全、栄誉、幸福」を期待できるとも記した。彼はこの洞察を『リウィウス』第二巻第五章で明晰化した。「新宗教の創始者が異言語を話すようになるとき、古い宗教は簡単に破壊される」。そしたら、マキャヴェリ派の革命家は新しい言語に相応しい新しい考え方と話し方を教え込まなければならない。マキャヴェリは『言語論』において、敵の思想に浸透するための彼自身の言語の使用を、同盟軍を支配するためのローマの自軍の使用と比較した。これはグラムシが共産革命の問題に重ね合わせる雛形である――他人の使用のために「非武装預言者」が拵えた雛形だ。
マキャヴェリはグラムシの『獄中ノート』での、政党が「近現代の君主」としてどう支配すべきかを記す一節の出発点である。しかし近現代の君主の任務は、彼が「行為を介して自覚的になった集合的意志としてすでに結晶化し始めた社会の複雑で集合的な要素、有機体」と定義する、政党(約五十回の言及において、彼は「共産」という言葉を省いている)しか真剣に引き受けることができないほど多い。この君主、この政党は、「経済的綱領とは結びつき得ない……道徳的及び知的改革の組織者兼能動的表現」たるべきである。むしろ、経済改革が道徳的及び知的改革から、「普遍的かつ全体的になりがちな集合的意志の芽生え」から成長するとき、それはあらゆる生活と習慣の世俗化の基盤になることができる。
政党君主は「歴史的概念的な意味での」ジャコバンであることによりこれを成し遂げる。グラムシは記す――「これこそマキャヴェリが民兵改革で意味したことであり、ジャコバンがフランス革命で実行したことである」。自分の生き方とは急進的に異なる生き方を考えたこともなかった人々を、そのような生き方に参加するよう説得――誘導――することで、党は社会の離散的な諸部分から合意を集めなければならない。党は「その組織的な力」を、「果てしない量の書籍と冊子、雑誌と新聞の記事に表れる、細心の注意を払った分子的、毛管的な過程、無限に繰り返される私的な討論」によって開発し、それは「その巨大な全体において、一定の同質性が備わった集合的意志を生むものによって成り立っている。しかし刮目せよ、ジャコバンは「軍事国」を達成するためにちっとも文字通りの強要を用いなかった。
グラムシはどちらに賛成か? 政党は、合意を鼓吹する――ことによると丸め込むか、それとも強制するか。彼の答えは曖昧だ。「マキャヴェリは美徳ある市民が恣意的な処置に対して安全に暮らせるような固定的な原理によって国家が運営されることをかなり明快に肯定する。しかしながら、マキャヴェリはいみじくも、彼らの永遠の合意を保証する統治者の技術に、つまり政治に万事を還元する」。彼が記すには、問題は「マキャヴェリのケンタウロスの二重の本性、獣性と人間性、強制と合意、権威と覇権……戦術と戦略に応じて……『二重の視座』」から考えられなければならない。実際、「なんとしても」こそはマキャヴェリの要点である。
グラムシの一般性と機微の鍵は、政党とキリスト教の関係に関する彼の用心深い議論に見出されるべきだ。「他の政党はもはや存在しないかもしれないが、そこにはつねに事実上の党や傾向性が存在するだろう……そのような、文化的な問題が重要な党においては……政治的討論は文化的形態をとり、そのようなものとして、解決不可能になる傾向がある」。解説:進歩主義政党国家(政府として振舞う政党、政党として振舞う政府)は文化問題に関わる社会的紛争の権威的――おそらく強制的――仲裁の役割を避けることができず、自らの仕方でそれらの責任を引き受けなければならない。
具体的には:グラムシが記したとおり、ムッソリーニのバチカンとの一九二九年コンコルダート(政教条例)は彼の最も上出来な政治工作であることが分かった。教会とフランス革命後国家の公式の敵意を解消し、カトリック教を国家宗教としてそのヒエラルキーに施しをすることで、ムッソリーニはイタリアの最も浸透的な文化的制度を敵から友好的な配下に変えてしまった。数千人の司祭と数百万人の信徒が、思想を、言葉を、行動を、政党国家の良い市民の定義に適うように曲げたものだ。グラムシはコンコルダート以降の教会を「自らの独占をもっと良く維持するため、教会に代表される市民社会の部分の支持をもって自らの下に教会を集約した一定の特権的集団に独占される政治的社会の、つまり国家の、統合的部分になった」と記述した。ファシスト国家の手で道徳的にも知的にも妥協した教会、ムッソリーニが望み、グラムシが恐れた教会は、その教えと社会的圧力をファシスト仕様に再定義した。この転覆――ファシズムの名において教会を誹謗し規制すること――に代わるものは、多くのカトリック教徒を駆り立てて、この政党に対してつねに厳しく反対していた彼らの教理の根本を信奉させることになった。コンコルダートはムッソリーニが企業国家と称した残りの部分の効果的な雛形になった。
グラムシは同じ現象をblocco storico(ブロッコ・ストーリコ)――「歴史的ブロック」と称した。これは社会の多様な諸部門を政党国家の指導の下に集約する。グラムシは知識人がこのブロックの指導的要素であると言う。所与のどんな時代においても、彼らは労働者と農民、教会などの集団を、人民が生活し、運動し、存在するところの一つの単位、それ以外を想像することは不可能ではなくとも困難であるような一つの単位に溶接する。権力は、賢明に使われれば、太陽がヒマワリに作用するような仕方で人民に作用する。このブロックの中では、新言語が有機的に成長するかたわらで、理念は実質を変えながらもその名前を保つかもしれない。グラムシが書き留めたとおり、マキャヴェリは言語が意識支配の鍵であると論じた――実力のみでなしうる何かより安全な支配の鍵である、と。しかしマキャヴェリの言語闘争の比喩はみな暴力に言及することに注目せよ。この歴史的ブロックを密着させて、その中に強情な抵抗者を押し留めるには、どれほどの実力行使がいるだろうか? グラムシの沈黙は「必要とあらば、なんとしても」と言っているようだ。結局、ムッソリーニは彼が必要と考えたかぎりを行使した。
要するに、スターリンではなくムッソリーニ、強姦ではなく強制的誘惑こそが、「文化的覇権」に関するグラムシの実践的助言である。彼はこの選好をマキャヴェリに転嫁する。マキャヴェリは「新しい力関係を創造したがっており、自らしかるべき場所を占めなければならない」。しかしこれは「恣意的な選択ではないし、単なる願望や現実離れした愛でもない」。マキャヴェリのような政治家は「無からは創造しないし、願望と夢想のうつろな渦には立ち入らない」創造者にして煽動者である。「彼は自らを効果的な真理……恒常的な運動と均衡の力の関係に基礎付ける」。グラムシは西洋文化と戦うよりも、それに自らを再定義させること、転覆することでそれを置き換えるつもりなのである。
グラムシの選択
グラムシ派の対文化覇権のビジョンは万能薬ではない。実際、今の進歩的知識人はマルクスやレーニン、ムッソリーニと同じ苦境に陥っている。すなわち、「労働者」がマルクス主義革命の破城槌となるために突進していってはいないのと同じだけ、社会の社会経済的な力はグラムシ派の「歴史的ブロック」に加わるほどにはドアを打ち破っていない。文化闘争に深く携わる今日の進歩的知識人はレーニンやムッソリーニと同じ選択に突き当たっている。社会のそれぞれ異なる文化的な諸部門を、賢く権威的に溶接するか、それとも破壊するか。この選択肢は基本的にはこうだ。ムッソリーニの誘惑か、レーニンの強姦か。
この選好の違いは大陸ヨーロッパのグラムシ派をアングロ=アメリカのそれとざっと分け隔てるものである。
一九七〇年代までには、ヨーロッパの社会主義政党は政治的権力の独占に似た何かを達成していた。しかし「労働階級」は不満足な政府への怨恨に加えて社会主義者が押し付けた文化的選好にも怨恨を抱くようになった。現在、ヨーロッパ社会主義政党は十幾つか一桁の票を集める。幾人かの進歩的政治家はグラムシ――主としてグラムシ政治のムッソリーニ版――に言及することでその理由と改善を求めてきた。フランス社会主義者ガエル・ブリュスティエと彼の本À demain Gramsci(『さよならグラムシ』2015)が原型的である。
ブリュスティエは著す。「左翼はもはや文化的覇権の立場にはない」。なぜならばそれは「グラムシが『常識』と称したもの、人々が当然と思う理念と信念の複合体」を手放したからだ。それを手放したのは、権力それ自体を征服してきた力の在り処を誤解したからである。それゆえ、左翼が「自分に関する幻覚を育んだ」かたわら、右翼は普通の人々の「階級身分の衰退と喪失に刺激された集団的苦悶から利を得る」ことで「精力的な文化戦争に勝って」いた。ブリュスティエは「もはや誰も信じない政治システムにおいて何をすべきなのか」と問うことで締めくくる。
彼の同士のツラに対するこのビンタは事実上、左翼の文化的政治的覇権の遺産である形式的非形式的「一党」連合を拒む脱文化的大衆と右翼を混同する点でしか間違っていない。事実、前ソビエトの地においてと同様、ヨーロッパの進歩的覇権は何も信じない人々を生み出した。にもかかわらず、これらの人々は左派知識人が生きる世界とはとても異なった世界に住んでいる。ブリュスティエは進歩派がこの文化的相違を「虚偽意識」のせいにしないよう警告した。彼はグラムシの教えを思い出させる。「人々は盲目でなければ馬鹿でも奴隷でもない」。ブリュスティエが同士に思い出させたとおり、グラムシの核心は、知識人とは異なる階級をして知識人を信奉させることであった。「したがって、価値観に対する闘争はそれ自体が文化的覇権の否定である」。彼の苦情によれば、彼の仲間は「インターナショナル」を歌って好い気になっていると苦情を言うが、現在の問題への答えには「服従」しか差し出さない。この行動は反生産的である。
ブリュスティエは「社会党が〔文化的覇権の好機をすべて台無しにしながら〕カトリック世界を〔典型的な過ちと〕考える尊大さ」を引用する。彼が言うには、これは数百万人のフランス人が社会主義政権の二〇一三年と十四年の同性婚拡張に対しパリの路上デモで抗議する前から左翼にとって明らかでなければならないはずだった。左翼はこの法律を広めながら、「世界がそのメンバーの日々の経験に意味を与えるときの意味の与え方」を侮辱した。それは数十万人もの若者を「古い偏屈者」と呼ぶことで、かつては敵でなかった人々を敵に回した。彼は訝る。強要できない人々を相手にイチャモンを付けるとはどういう了見だ。あの法律は社会主義者を好い気分にした。しかし、そのための戦いは社会主義革命を前進だったのか? グラムシ派の標準では、あの法律は愚かである。
しかしこの標準によれば、ブリュスティエが記すには、アメリカの同士は一層愚かである。アメリカ左翼はノーム・チョムスキーのような人のアドバイスに従って「『帝国』(アメリカ合衆国)の敵の数を潜在的な仲間の数と認識する」ところまで行ってしまった。「これは確実にアメリカ人民の多数派の感情とは対応しない」。ブリュスティエはアメリカ左翼がそのようなことをして自分を「政治的周縁」にしていると論じる。
しかしながら、アメリカ進歩的知識人はアメリカ支配階級を率いる民主党の精髄を自認する。ヨーロッパの片割れが経験した種類の拒絶をまだしらないから、彼らは過去半世紀でにアメリカ文化を変化させた成功体験に舞い上がって、グラムシ派の文化的覇権の概念を、彼ら自身の文化的アイデンティティをアメリカに強いる実践の確証と考えている。民主党の得意客はすでに、社会の残りを納得させるのではなく制圧するという知識人の狙いを是認している。彼らにとっては、これが革命である。彼らはムッソリーニの代替案よりむしろレーニンを選択したのだった。
彼らはアメリカの社会政治的秩序が経済的搾取と同じだけレイシズムと家父長制、虐殺的帝国主義に基づいていると推論する。グラムシの「歴史的ブロック」は人種的正義とジェンダー正義、経済的正義、反帝国主義の合同追求で起こすことができる。革命とは要���、被迫害の各人が切望した報復を迫害者に課すための被迫害階級の団結である。この間主観的共同体はそのアイデンティティがアメリカ文化――宗教、人種、性癖、経済――を一片でも否定する集団を含む。彼らは集まって、その何もかもを否定する。社会の残りの人々を転覆し変貌させるために文化的制度への政党国家権力の行使についてグラムシが何と書いたか、何を意味したかにかかわらず、アメリカ左翼にとっての文化的覇権とは、ユダヤ・キリスト文明をその揺り篭の中で窒息させるため、公的談話で政党構成諸集団のアイデンティティに奉仕する思考しか許さないため、そしてその他の全員を中傷し、脱正当化し、ことによっては無法者と宣するためにこの権力を使うことを意味する。それは要するに、我々が知るとおりの、ポリティカル・コレクトネスを意味するのである。
ポリティカル・コレクトネス
グラムシの文化的覇権の概念を耳にしたアメリカ人のほぼ全員にとって、それはポリコレの目的、窒息を意味する。しかしポリコレとはまさしく、グラムシが完全には支配できない人々の常識へのイチャモン付けと非難したものから成り立つから、アメリカ左翼の文化的覇権の理解はその意図のとおり、その文化戦争が終わらないことを暗示している。
一九六〇年代初頭、ボストンからバークリーまでにおいて、アメリカの教師の教師は新しいクリフスノート式の新しい神聖な歴史を吸収し、教育した。すなわち、アメリカは生まれながらにして西洋文明の原罪で穢れていた――偽善的な自由と平等の約束に基づいてすべて宗教的蒙昧主義に包まれた、レイシズム、セクシズム、強欲、原住民と環境へのジェノサイド。レイシストでセクシストだが結局は馬鹿なアメリカ大衆からの抵抗に直面してなお、ハーバート・クローリーとウッドロー・ウィルソンからフランクリン・ルーズベルトとバラク・オバマまでの世俗の聖人は、アメリカを偉大な正義の道に乗せて、これらの約束の罪を償った。そのような人物を同じ理由で目上と考えるのは、オバマ大統領が言ったとおり、「偽の等価」であろう。そのように信任状を授かって、型に嵌められ、自説に固執して、均一な階級がいまや、ほとんどすべての連邦及び州政府官僚を、メディアを、教育機関を、大企業を統括している。それは友愛と同じように、正しい側に就いていると示す「内輪」言語を話すことを要求し、そのメンバーと衝突する「アウトサイダー」アメリカ人を酷い目に合わせる。デイヴィッド・ダライデンとサンドラ・メリットのように、政府出資のプランド・ペアレントフッドによる中絶胎児の身体部位の違法取引映像を公開したら重罪で起訴されてしまう。支配階級は映像が映したことを映さない世界のことを語るからだ。
アメリカ進歩派支配階級が真善美のビジョンや社会の残りの人々を自分に惹きつけるための強みを差し出さないのはヨーロッパの片割れと同じである。アメリカ進歩主義が差し出したのは、ヨーロッパの同類と同じように、ポリティカル・コレクトネスに施行されての支配階級への隷属である。共産主義に終わりがなかったのと同じだけ、政治的な正しさにはエンドポイントがない。それは今やここでは落ちぶれて、いつものとおり、どこでも同じように、党を祭り上げ残りの人々を卑しめるものになっている。
もしも文化的覇権とは支配階級のアメリカ文化制度のほとんどの独占を意味するにすぎないならば、かかる紛争は一世代前に終わっていただろう――支配者の勝利で。しかし支配階級は、古い文化の強情な名残があたかもその粉砕のためのさらに激しい努力に値するかのように振舞うから、ポリコレでの文化的覇権とは紛争の永続性を保証する永久的な侮辱と怨恨のサイクルを意味するのである。対照的にも、(マキャヴェリに倣う)グラムシの文化的覇権の概念は明確な勝利を求める――幾つもの文化的階層を、もう誰も振り返ることができないほど超越した何かにするような、社会の変貌と総合だ。たとえば、キリスト教がローマと野蛮人の神々を除去したような。もっと重要なこととして、グラムシが従うマキャヴェリは、文化的覇権の権力密閉をもっと大いなる目的への手段と考えていた。マキャヴェリにとって、それはローマのそれのような政治的威厳を意味したのである。それはグラムシにとってはマルクス主義ユートピアの達成を意味した。
なぜアメリカ左翼はつねに新しいポリコレへの服従を要求するのか。アメリカ法に安置されたとおりに一男一女の結婚を定義することが、罰金の対象にしてほぼ無法者の地位に置かれる「ホモフォビア」とかいう不埒な心理に動機付けられる人々としての烙印を押されるだろうとは、二〇一二年には誰も考えなかっただろう。二〇一五~一六年までは、男性用公衆便所を使うために男性の配管工事を求めることが同じ病理の印だったとは誰にも思われなかった。なぜ以前はこれらがポリコレの要求の一部にならなかったのか。いったん埋められたら更なる追加を要求しないポリコレのカノンがないののあなぜか。
なぜならばポリコレの要点は、それが押し付ける諸項目のいずれでもないし、そのようなものをもったこともない――押し付けることそれ自体が要点だからである。ましてや定義可能な共通文化を創造したり定義可能な善を達成したりすることではない。それは小売りの水準では、民主党の得意客から投票者の参加を最後の一滴まで搾り取るアメリカ支配階級のニーズに関するものである。卸売りの水準では、アイデンティティ政治に耽るための、文明に対する戦争である。
この映画はどう終わる?
ポリコレの押し付けは論理的な決着がつかない。なぜならば他人に罪を告白させ、辱めて傷つけることで好い気持ちになるのは中毒的な快感で、満足するたびに燃え上がる欲望の類だからである。わたしはお前の中に落ち度を見出すほどお前より尊くなる(あるいは少なくともトレンディーになる)。お前が悪であるほどわたしは善になり、わたしはもっとお前に対する権力をもつべきなのである。アメリカの支配階級はアメリカの残りの人々が再教育営の収容者として扱われなければならないという見解を採用したようだ。ハーバードの法学部教授マーク・タッシュネットが今年の早い頃にブログの投稿で論じたとおり、これが意味するのは、「リベラル〔英米リベラル〕がちっとも規範的引力を認めないような立場を擁護したし今なお擁護している敗者を収容する試み〔ではない〕。敗者に優しくする試みは、内戦後にはうまくいかない」。
しかしながら、この内戦勝者の代理的な権力切望は、決してマキャヴェリと心を一つにしてはいないグラムシには関わらなかった。彼は、屈辱を味合わせて敵の精神を挫くことの享楽ではなく、むしろ殺せない敵の転覆という観点で考えた。彼が記すには、人々は「愛撫されるか、それとも絶滅させられるべきもの」である。永久に無力化されたとわけではない人々を侮辱するのは楽しいが、危険で高くつく楽しみである。なぜならば、それは服従と同じだけ陰気と反逆を生むからである。ガエル・ブリュスティエがフランス社会党に尋ねたあの質問はアメリカ支配階級にも尋ねることができる。あなたがたは、あなたがたがしていることを、何だと思っているのか。あなたがたは、潜在的な同盟へのかつてなく侮辱的な条件を要求することで、あなたがたのために順調に進んでいる転覆キャンペーンを危うくしている。なぜ敵に武装するよう求めているんだ?
大敵たる宗教のことを考えてみよ。アメリカの本線たるプロテスタントの宗派は長らく、彼らの(減少中の)信者を支配階級の進歩主義的なプライオリティーに明け渡してきた。
教皇フランシスコは、聖職者への殺害も含む西洋文明への攻撃について、判断することの拒絶を公言した。彼が七月に〔ポーランド〕クラクフの世界青年日で述べたとおりの、「新人類」を作ることへのカトリック教会の関与は、カトリック教会がキリスト教を進歩主義の用語での進歩主義の伝道と再定義するための道を開いた――かつてはアメリカ・カトリック教の砦だったが今ではアメリカ進歩主義の砦になったジョージタウン大学とノートルダムなどでは、すでに達成された伝道だ。福音派の指導者は遅れを取らないよう熱心である。支配階級のもっと大きなプライオリティーのためのアメリカの宗教的体制派の徴用に、ムッソリーニが一九二九年に支払ったほどの費用をかける必要はなかったのに、とグラムシは助言しただろう。核心への正面攻撃を控えても十分に足りるだろう。
アメリカの進歩派はそうではなく、同性結婚と同性愛、「地球温暖化」などを押し付けることで、危害に侮辱を加えた。なぜならば、彼らには本当は彼ら自身を超えたプライオリティーなどなかったからである。アメリカの進歩的支配者は、フランスのと同じく、支持を集める政治家としてでではなく、テーブルがひっくり返るのを気にせず捕虜の処罰を楽しむ征服者として振舞っている。
しかし進歩的文化覇権の転機は、他所と同じくアメリカにも訪れているように思われる。良い市民が恣意性からの安全を感じられるような王国について、グラムシはマキャヴェリの『君主論』と彼自身の『新君主論』のことを著した。しかし恣意性こそは我らがポリコレご主人さまがアメリカの政治システムにしっかりと組み付けてきたものなのである。
我々の支配階級の最新の要求を考えてみよ。アメリカ人はペニスの付いた女性がありうること、ワギナの付いた男性がありうると同意しなければならない。そのような恣意に従うことは人間の度量を超えている。オーウェルの『1984』ではビッグ・ブラザーのエージェントが指を四本挙げながらウィンストンに五本見えていると認めさせる。しかしこれはアメリカ支配階級が自由民に要求していることに比べればチャチなもんだ。宮廷と官庁は説得の試みに悩むことなくただ彼らの命令を押し付けるだけで、安定性を重んじるタイプの数百万人の市民が、次に何が起こるのかも気にせず、なけなしのアメリカ共和国に鉄球をぶち込むのも本意になってしまっているのだから。
二〇一五~一六年において我々の支配階級がドナルド・トランプに驚いたのには驚かされる。彼はポリコレの具体的要求のほとんどに従順なままで、概してリベラル[左翼リベラル]な民主党派のままだったが、彼としてはポリコレ一般を嘲ってその仕出し屋を侮辱すれば十分だった。トランプにとっては、リベラリズムのパブリック・エネミー・ナンバーワンになれば十分だったのである。『ウォール・ストリート・ジャーナル』のウィリアム・ガルストンの社説は彼の階級のレーニン主義的なアメリカ文化奪取がどうして不発に終わったのかを感じ取り始めている。
〔トランプの〕キャンペーンは教養中流階級――わたしのような人々――の幻想を無慈悲に暴露した。我々は法律と公的規範の変化が諸々の党派とイデオロギーの路線に行き渡る私的態度の変化を漸進的にもたらしてきたと信じていた……。
トランプ氏は我々が間違っていることを証明した。彼のポリティカル・コレクトネス批判は多くのタブーを破壊し、彼の支持者に対し、彼らが本当に考えていることを言うライセンスを与えた。我々が嘲ってきた信念がいまや、世界で最も古い政党の一つで、ときには有権者全体において、多数派を集めている。
要点はトランプではなく、支配階級は西洋文明を追いやってもグラムシ‐マキャヴェリ派の意味での文化的覇権に取って代わりはしなかったという事実にある。進歩派はむしろ、侮辱の押し付けと定義されるとおりのポリコレを押し出すことで、一切合財の権威の正統性を、何にもまして、彼ら自身の正統性を破壊したのだった。
『アメリカン・スペクテーター』での私の二〇一一年の記事「支配階級と革命の危機」は、「アメリカ人のおよそ三分の二――わずかな民主党投票者、ほとんどの共和党投票者、すべての無党派――は選挙政治の捌け口をもたない」と論じた。支配階級がポリコレによる文化戦争に伴ってアメリカ人の生活に行き渡らせた、あからさまな憲法と法律の軽視への鬱憤は、「遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ、多数派の代表要求でいっぱいになるだろう」ことを意味していた。「あいにくと宮廷や官公の不正行為を嫌う者にとっては、全政党を真理の基盤に引き戻すよりも他の不正行為でこれに反撃することの方が簡単である」と書き留めた。
アメリカの多数派は――憲法と法律が彼らの生き方を絶え間ない名誉毀損から保護するのをやめてしまったと気づいており、「イリディーマブル」(「救いようのない」)「ディプローラブル」(「惨めな」)レイシストだのセクシストだのと侮辱され���怒り、その緩和を、ああ、利子の払い戻しを求めながらも、支配階級が下々とみなす者からの議論を締め出していることを知っていて――支配階級も同じ種類の侮辱的迫害を受ければ自分が他人に取り成されたいのと同じように他人を取り成す価値を学ぶかもしれないと期待してテーブルを引っくり返すしか選択肢がない。あるいはもっとありそうなこととして、これは革命の典型である報復の螺旋の一巡りなのであろう。けれども、これの避け方があるようには思われない。
もはや誰も信じない政治システムにおいて何をすべきか。これは革命的な問題である。なぜならばアメリカの支配階級は、それ自体の信憑性を破壊するに伴って、真理への尊敬を大いに破壊し、アメリカ人民を自由と繁栄の独特の世話人にしてきた制約の文化を大規模に破壊したからである。文明から疎外された片意地な大衆はみな、実に自然に革命の自然な指導者へ向かう。ドナルド・トランプは「ライオンの家族、鷲の部族」に属するとエイブラハム・リンカーンが警告した、手に負えない男たちの前兆にすぎない。
要するに、支配階級が想像したとおり(そしてグラムシが承認したであろうとおり)に「諸々の党派とイデオロギーの路線に行き渡る私的態度の変化を漸進的にもたらしてきた」ではなく、むしろ支配階級がアメリカの残りの人々に押し付けた「法律と公的規範の変化」(ガルストンの再引用)、ポリコレは、革命を引き起こしたのである――それは綺麗ごとにはならないだろうとしか、我々には分からない。
[1] アンジェロ・M・コデヴィッラ(Angelo M. Codevilla)はクレアモント研究所の上級研究員兼ボストン大学国際関係の名誉教授である。
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