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kondo-ex-ltd · 2 years
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mayusakazaki · 7 years
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PERK MAGAZINE(2016)
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ILLUSTRATION Yoshimi Hatori
her life(2016年10月掲載)
永遠のミューズから学ぶ スタイルを持った生き方
誰より美しく、そして気高い妃として愛されたモナコ公妃グレース・ケリー。52歳でこの世を去った彼女の人生は、それこそが映画のようにドラマティックだった。ハリウッド女優から本物のプリンセスへ、おとぎ話のつづきを生きた女性の物語。
肩書きに恥じぬ姿を自らの手で叶えてきた
“強くしなやか”な人生
 グレース・ケリー。彼女の美しい写真と経歴だけを眺めていると、才能と美貌に恵まれた華やかな生涯に思えるかもしれない。26歳の若さでオスカー女優からモナコ公妃になり、咲き誇るような美しさと洗練されたファッションで常に注目を集め、誠実な振る舞いでモナコの発展に尽くしてきたグレース。誰もが認めるプリンセスへと成長を遂げた彼女も、最初は夢見がちで内気な少女だった。「落胆することも人生の糧。大切なのは、悔やまず前に進むこと」。この言葉からは、彼女の人生に起こったであろうさまざまな困難が思いやられる。眩しいスポットライトの中でも自分自身の道を見失わず、ふさわしい女性でいるための努力を惜しまなかった人。そんな強く美しいプリンセスの一生を改めて紐解いていきたい。
 1929年、米ペンシルベニア州フィラデルフィア。ボート競技の金メダリストで煉瓦製造会社を営む父のもとに生まれたグレースは、他の兄弟のようにスポーツが得意でないことがコンプレックスだったという。シャイで人見知りの大人しい少女だったが、やがて彼女は演技や芸術の世界に憧れた。グレースは女優を目指しNYの演劇学校へ進むことを決める。両親の反対を押し切ってまで自らの道へ邁進したのは、家族に認められたいという思いが強かったからかもしれない。
 舞台女優としてキャリアをスタートさせるとすぐにハリウッドから誘いがかかり、22歳でスクリーンデビューを果たした。その後、『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーの相手役に抜擢される。彼女のエレガントな魅力はヒッチコック監督にも気に入られ、ハリウッドでは“クールビューティ”と呼ばれ一躍人気女優に。『モガンボ』ではアカデミー助演女優賞にノミネートされ、所属スタジオと対立しながらも出演を熱望した『喝采』でついに主演女優賞を手にする。ドレスを着て微笑むだけの置きものでいたくはないと、彼女には難しすぎると言われていたシリアスな役で女優としての評価を勝ち取った。オスカー像を手にした瞬間、「やっとケリー家の一員になれた」と漏らしたグレース。コンプレックスを乗り越え、ようやく自身を認めることができた瞬間だった。
 1955年、グレースは恋に落ちる。恋多き女性として知られていた彼女だけれど、今回は何かが違った。お相手となったモナコのレニエ3世とは雑誌の取材で対面し、2人はそれから手紙を通してお互いの気持ちを確かめあったという。出会いから7ヶ月後、プロポーズを受けたグレースは女優を引退し、彼の待つモナコへと旅立っていく。
 「おとぎ話の生活なんて、とんでもありませんでした」。たった一人で母国を離れ、モナコ公妃になったグレースにとっては、何もかもが初めて。言葉と習慣の違いや責任感から不安に苛まれていた彼女がまず挑戦したのは、伝統的なトップメゾンの洋服をまとうこと。それまでアメリカ人デザイナーの機能的なアイテムを重宝していたグレースは装いを一新させる。ディオールやシャネル、バレンシアガなどフランスを代表するメゾンを身につけることで、公妃としての威厳や品格を磨いていったのだ。ファッションは女優をやめた彼女に残された唯一の自己表現であり、その場にふさわしい服をまとうことは女性としての自信にもつながっていく。ハリウッド時代から洋服の持つ力をよく知っていたグレースにとって、伝統あるメゾンの装いはこの上ない味方となった。
 3人の子供にも恵まれ、公妃としての振る舞いを徐々に身につけていった彼女は、次にやるべきことを見つける。モナコと国民のために、病院や老人センター、赤十字の代表業を務め、その発展に尽力。グレース公妃基金やバレエスクールの立て直しによるアーティスト支援、ガーデンクラブの設立などによって国の文化をより豊かなものへと育てていった。そんなあるとき、ヒッチコック監督から最新作『マーニー』への出演依頼が舞い込む。グレースは映画界への復帰を喜び、夫のレニエ3世も出演を快諾したが、当時のモナコはさまざまな問題を抱えていた。近代化への国民の反発や、財政的、政治的な問題によるフランスとの溝。国民の不安を感じとったグレースは女優復帰をあきらめ、モナコという家族を守る道を選ぶ。これは、彼女が一国の公妃として「覚悟を決めた」象徴的な出来事であった。
 それからも文化や福祉関連の事業を積極的にこなし、夫と共にモナコの評価を高めていったグレース。40歳を超え、子供たちの手が離れてからは詩の朗読やフラワーアレンジメントなど表現者としての活動を精力的に行い、ふっきれたように本来の創造性を取り戻していく。花を通じた文化交流のため、1981年には日本へも訪れていた。そして、その翌年の秋のこと。運転中に脳梗塞を起こしたグレースの車は崖から転落。突然の事故により彼女は52歳という若さでこの世を去った。
 “父親に認められたい”という欲求から始まった彼女の人生は、いつしか自身の理想を叶える旅へと変わる。努力は自信になり、自信は気品になった。モナコという新しい家族を得たグレースは、最後には身も心も公妃になることができたのだろう。彼女の人生に学べることはいくつもある。困難な状況にぶつかったとしても、とても越えられない壁に感じたとしても、自分のやるべきことを見つけて挑戦しつづけること。強さとはそういうことなのだと、プリンセス・グレース・ドゥ・モナコは教えてくれる。
Grace Kelly
グレース・ケリー
1929年にフィラデルフィアで生まれ、22歳でスクリーンデビュー。アカデミー主演女優賞を受賞したのちにレニエ3世と恋に落ち、モナコ公妃となる。そして1982年まで生涯、モナコの芸術と文化を支えつづけた。
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