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#アニミズム
yoga-onion · 10 months
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Legends and myths about trees
Utaki worship in Ryukyu Shinto - Forest where the gods descend in Ryukyu Shinto
Ryukyu Shinto is a polytheistic religion that has been practised mainly in ancient Ryukyu and the Ryukyu Kingdom (Ref). It lacks written scriptures, specific doctrines or founders, and is an animistic and ancestral religion of mythology and nature worship.
Utaki are places where the mythical deities of the Ryukyu Islands exist or visit, and where ancestral deities are worshipped. It is a central facility in local rituals and still attracts many worshippers as a sanctuary that protects the area.
In Ryukyu Shinto, it is women who serve the gods. Since ancient times, women were considered to have stronger spiritual powers than men in the Ryukyus, and the noro, who served the gods, and the yuta, who were shamans, were also women. So, it was completely off-limits to the public, especially men, during the Kingdom period, and even the king had to change into women's clothing to enter the sanctuary. Even today, most of them only allow men to enter up to a certain area.
Many Utaki are forest spaces, springs or rivers, and sometimes the island itself. Some Utaki have a stone monument called Ibe or Ibi stone in the centre of the space, but this is originally a sign to which the deity descends and is not a sacred body in the strict sense of the word (although in many places it is treated as a sacred body).
Among others, the Sefa Utaki, the highest sacred site, is believed to be a Utaki from the 15th-16th century, during the reign of King Shō Shin, the second Shō dynasty of the Ryukyu Kingdom. “Sefa” means "highest" and "Sefa Utaki" means "highest Utaki", which is a common name. The official name of the deity is "Kimigataki, Syugataki-no-Ibi (meaning sanctuary where the lord descends)".
Later, following the invasion of Satsuma (now Kyushu, Japan), the original beliefs and ancient colours of the theocracy were gradually weakened and dismantled by reforms that promoted modernisation.
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木にまつわる伝説・神話
御嶽(うたき) 〜 琉球神道における神が降臨する森
琉球神道は、古琉球および琉球王国(参照)を中心に信仰されてきた多神教宗教である。固有の教典や具体的教義、開祖を欠いており、神話、自然崇拝のアニミズム的かつ祖霊崇拝的な宗教である。
御嶽(うたき) は琉球神話の神が存在、あるいは来訪する場所であり、また祖先神を祀る場でもある。地域の祭祀においては中心となる施設であり、地域を守護する聖域として現在も多くの信仰を集めている。
古来、琉球では女性の方が男性よりも霊力が強いと考えられており、神に仕えるノロやシャーマンであるユタも女性であった。そのため、王国時代は完全に一般人、特に男性の立ち入りは厳禁とされ、王であっても女性の衣装に変えて入域しなければならないほどの聖域だったと云われている。現在でもその多くが一定区域までしか男性の進入を認めていない。
御嶽(うたき) の多くは森の空間や泉や川などで、島そのものであることもある。御嶽(うたき) によっては空間の中心にイベあるいはイビ石という石碑があるが、これは本来は神が降臨する標識であり、厳密な意味でのご神体ではない (ご神体として扱われているところも多い)。
中でも、最高の聖地である斎場御嶽 (せーふぁーうたき) は、15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽であるとされる。「せーふぁ」は「最高位」を意味し、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味となり、これは通称である。正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ (最高の神が降臨する聖域の意)」という。
その後、薩摩 (現在の九州) の侵入を受けて以後、近代化を進める改革によって、神権政治の本来の信念と古来の色彩は、次第に弱まり、解体されていった。
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chiyoha1488 · 4 months
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「ふーん、で、君はどのポケモンが好きなの?」
「オウフwwwいわゆるストレートな質問キタコレですねwww
おっとっとwww拙者『キタコレ』などとついネット用語がwww
まあ拙者の場合ポケモン好きとは言っても、いわゆるキャラクタービジネスとしてのポケモンでなく
土着のアニミズム文化の末裔として見ているちょっと変わり者ですのでwww岩田慶次の影響がですねwwww
ドプフォwwwついマニアックな知識が出てしまいましたwwwいや失敬失敬www
まあ魔界塔士サ・ガのオマージュとしての初代赤/緑は純粋によく出来ているなと賞賛できますがwww
私みたいに一歩引いた見方をするとですねwww初代赤/緑への憧憬と
POKEMONとして海外市場へ本格的に切り込んでいく鏑矢としてのですねwww
ブラック/ホワイトの文学性はですねwwww
フォカヌポウwww拙者これではまるでオタクみたいwww
拙者はオタクではござらんのでwwwコポォ」
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sskyt · 8 months
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『「呪術」の呪縛』上巻読書ノート
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江川純一・久保田浩編『「呪術」の呪縛』(上)リトン、2015年。
 今、呪術がかつてないほど注目されている。近代西欧に成立したreligionに対して、劣位に置かれるmagic概念を所与のものとして前提とすることなく、改めて問い直し、概念史や各国の事例研究といった観点からその諸相に光を当てる書。
 以下、所収論文についての読書メモ。 江川純一・久保田浩「「呪術」概念再考に向けて:文化史・宗教史叙述のための一試論」
 全体の導入論文。日本語の「魔法」と「呪術」、学問的概念としてのmagic、西洋文化史におけるmagic、そして、本書の背景と構成が論じられる。「魔法」(1474)が室町中期に現れているのに対して、「呪術」は『続日本紀』(699)に言及がある。  とはいえ、「呪術」は近世・近代において人口に膾炙しておらず、20世紀後半にフレイザーのmagicの訳語として定着した(それ以前は「魔法」)。また、学問的概念としてのエティックな次元と日常言語としてのイーミックな次元の区別の重要性が指摘される。  学問的概念としてのmagicで要注目なのはタイラーとフレイザーであり、特に後者のmagic→religion→scienceという図式が重要。その後のmagic研究の系譜はある意味ですべてここから始まった。他方で、イーミックな次元で見れば、magicの語源は古代ペルシア語に由来するギリシア語のμάγοςに発する。  すなわち、magic概念には、そもそもペルシア由来という他者性が付与されており、つねに地理的他者(非西洋)、歴史的他者(古代)、宗教的他者(異教)という含意がある。近代的なreligionとscienceは、他者にmagicという名を与えることで、自己を正当化してきた歴史的経緯がある。 第一部 呪術概念の系譜
藤原聖子「アメリカ宗教学における「呪術」概念」
 ウェーバー以来、ピューリタンは「世界の脱魔術化」として位置づけられてきたが、1980年頃からピューリタンも呪術を実践していたとする研究が盛んになった。これらの研究を島薗進の新宗教研究(呪術と近代化は背反しない)と比較対象する論文。  アメリカにおけるピューリタンの呪術実践研究では、呪術と近代化の関係は問題とならず、呪術の感情面が重視され、信仰と理性の対立図式、すなわち、アメリカの知性主義対反知性主義というナショナル・アイデンティティの問題へと引きつけて理解されている。  たしかに考えてみれば、アメリカのホラー映画は、魔女、魔法、霊、占い、ゾンビと呪術に事欠かない。むしろ合理性の反作用としての呪術に取り憑かれているようにさえ見える。それはアメリカという国のアイデンティティに関わる問題で、非常に興味深い。  ちなみに、アメリカの呪術総決算的なホラー映画として「キャビン」おすすめです! この『呪術』論集は、「宗教」概念批判を経た後で、「宗教」周辺の重要概念をアプリオリに前提とせず、反省的にその概念の意味を問い直すという点で、『ニュクス』第5号「聖なるもの」特集と双子のような存在ですね。
竹沢尚一郎「イギリスとフランスにおける呪術研究」
 エヴァンズ=プリチャードのアザンデ研究における妖術論とグリオールのドゴン研究における占い論の検討を通じて、呪術を複雑な世界の「縮減」(ルーマン)の仕組みであるとする仮説を提唱する。
 注で触れられている、レイモン・ファースの師マリノフスキーへの問い「もしすべてがすべてに結びついているとすれば、どこで記述を終えたらよいのでしょうか」は、いかにもラトゥール的な問いのように思える。 横田理博「ウェーバーのいう「エントツァウベルンク」とは何か」
 この論文は何度読んでも面白い。ウェーバーのEntzauberung(脱呪術化、魔術からの解放)は有名な概念で、様々な論者によって援用されるにもかかわらず、ウェーバー自身はこの概念を定義しないために、その内容は実は不明確である。  著者は丁寧な読解によって、「脱呪術化」が『プロ倫』における「救いの手段としての呪術の否定」と、『職業としての学問』における「世界の意味づけの否定」という二つの意味をもつことを明らかにする。また、前者が呪術から宗教への移行であるのに対して、後者は「世俗化」を意味する。  ちなみに、私が『現代思想』のウェーバー特集に寄稿した「世界に魔法をかける」の元ネタはこの論文です。「脱呪術化」という概念でひとつ気になるのは、この語はつねにEntzauberung der Weltと「世界の/世俗の」という言葉を伴っていること。この点も「脱呪術化」を援用する論者に見落とされがちだ。
高橋原「初期の日本宗教学における呪術概念の検討」
 日本の宗教学の歴史の中でmagicの訳語としての「呪術」が定着していった過程を跡付ける。明治時代はmagicの訳語として「呪術」は用いられていなかったが、日本の宗教学の確立とともに大正時代にフレイザーの影響の下、「呪術」が定着していった。 谷内悠「呪術研究における普遍主義と相対主義、そして合理性:分析哲学と認知宗教学から」
 「呪術は合理的である」と言われるときの「合理性」について、タンバイアの普遍主義/相対主義の議論を批判的にアップデートさせることで解決しようとする。概念図式/メタ概念図式の議論はガブリエルの「意味の場」の議論を想起させる。  ただ、普遍主義と相対主義の対立をメタ概念図式によって解決するというのは、問題を一段先送りにしただけのような気もするし、最後に出てきた「生物的合理性」は素朴な自然主義のように思えて、正直なところ、肩透かしの感がある。 第二部 事例研究:アジア
鈴木正崇「スリランカの呪術とその解釈:シーニガマのデウォルを中心に」
 スリランカで最も呪力の強いとされるデウォルについての神話と実際の呪術実践から、呪術の特徴を探る。呪術は「外来」「異人」といった境界的状況に対する意味付与・統御として発生するのであり、現在のグローバル化による変動もまた呪術が力をもつ場である。  たしかにマゴスの語源的意味にしても、フェティッシュにしても、文化的・地理的・時間的な境界において、あるいは、他者との界面において、「呪術」(なるもの)は発生するように思われる。個人的には、障り、罪、穢れ、害、悪を意味するシンハラ語の「ドーサ」という概念が面白い。 木村敏明「プロテスタント宣教師の見た「呪術」と現地社会:ヨハネス・ワルネック著『福音の生命力』をめぐって」
 スマトラのバタックに宣教したヨハネス・ワルネック『福音の生命力』に基づいてキリスト教から見た呪術の意義と効用を検討する。ワルネックは、インドネシアの宗教をアニミズムとして特徴づけたが、その評価は両義的である。  著者はこれを「世界観としてのアニミズム」と「エートスとしてのアニミズム」に分類し、前者が称賛されるのに対して、後者は現世利益を追求する自己中心的な呪術実践であるがゆえに非難されるとする。しかし、ヨハネスはこうした呪術を逆手にとって宣教が可能となるとして、利用価値も認めている。 池澤優「中国における呪術に関する若干の考察:呪術という語の呪術的性格」
 面白かった。呪術を「非人格的な法則性に基づく宇宙の操作」と定義すると、人間の作為が宇宙の経営に関与するという点で、陰陽五行説のみならず、古代中国思想全般が「呪術」になってしまうが、これは概念の使い方として非生産的である、という。  古代中国宗教研究における「呪術」の用例として、『詩経』研究が取り上げられ、そこではおおむね「呪術」が素朴な宗教を指す語として用いられ、特に言霊信仰のようなものが想定されている、と指摘される。  私は特に、グラネ『中国古代の祭礼と歌謡』の解釈が面白かった。詩は個人の感情を歌ったものではなく、慣習によって定められた集団の感情を表出したものであり、慣用句は「興」という強制力をもって、自然を循環させる力をもつ、という。詩はいわば礼のような宇宙の形式なのだろう。
川瀬貴也「近代朝鮮における「宗教」ならざるもの:啓蒙と統治との関係を中心に」
 朝鮮における近代化、日本の植民地支配という観点から、「宗教」と「宗教」ならざるもの(呪術・迷信)との区別が何を意味しているかを示す論文。特に、今村鞆、村山智順による植民地下の民俗学的調査の視線が見つめる「迷信」が興味深い。  近代化・啓���によって退けられた「巫俗」が宣教師たちによって朝鮮宗教の本質と捉えられ、さらに、朝鮮民族のナショナリズムへと結びつき、現代韓国社会において伝統と見なされるようになった、という指摘が面白い。この辺りの話はどうしても「コクソン」を思い出さざるをえない。 第三部 事例研究:日本
井関大介「熊沢蕃山の鬼神論と礼楽論」
 近世日本儒学における鬼神の問題を、白石・徂徠・蕃山を中心に、主に「礼」の観点から検討する。蕃山にとって、祭祀儀礼の意義は、人心を無意識裡に統御し、社会を統治することにあったが、それは天人相関論によって宇宙の運行を正しく経営することでもあった。  蕃山によれば、鬼神祭祀の礼は、社会が経済的に豊かになって人心が堕落し始めたとき、富の余剰を有益無害な仕方で蕩尽させるために整備された、とのことだが、これはまんまバタイユの社会的蕩尽の理論と同じですね。 一柳廣孝「魔術は催眠術にあらず:近藤嘉三『魔術と催眠術』の言説戦略」
 明治期の催眠術ブームのベストセラー、近藤嘉三『心理応用魔術と催眠術』にしたがって、明治期の「魔術」イメージを検討する。近藤によれば、魔術とは心の中の霊気を通じて感通する手法であり、睡魔術と醒魔術に分けられ、前者は催眠術からは区別される。  魔術は、感通によって、施術者の意思が被術者へと影響を与えることであり、催眠術とは睡魔術のの導入部分にすぎず、近藤は催眠術による治療は有害であるとさえいう。ここら辺は黒沢清の「CURE」っぽい話ですね。 宮坂清「科学と呪術のあいだ:雪男学術探検隊、林寿郎がみた雪男」
 これは面白い。1959~60年の雪男学術探検隊に参加した動物学者林寿郎の記録から、雪男に関する科学的視点と呪術的視点の関係を問う。学者が探求していた「雪男」とシェルパにとっての「イエティ」が、実は同じではなかったことが判明する件がハラハラして特に面白い。  日本の雪男ブームの出発点は、今西錦司(1952年のマナスル登山隊が雪男の足跡を目撃)だったんだね。知らなかった。あと、雪男探検隊って、川口浩探検隊みたいなものかと思ってたら、ちゃんとした科学的調査隊が派遣されていたのも知らなかった。 今井信治「「魔法少女」の願い」
 1960年代の『魔法使いサリー』『ひみつのアッコちゃん』から現代の『魔法少女まどか☆マギカ』まで、魔法少女アニメを時系列順にたどりながら、そこで描かれている「魔法」表象があとづけられる。  東映魔女っ子シリーズが女子の人気を博したのは、当時、女子向けのテレビ番組がなかったからで、別に魔法でなくてもよかったとの分析だが、そうはいっても「セーラームーン」の継続的な人気や、映画「マジカル・ガール」を見ると、やはり女の子にとって魔法は特別な意味をもっているようにも思われる。 堀江宗正「サブカルチャーの魔術師たち:宗教学的知識の消費と共有」
 アニメやライトノベルで人気の「魔術」を分析することを通じて、データベース消費型のサブカルチャーがその消費者にとって「宗教」よりもリアリティをもつようになった現状を明らかにする。  「魔術」関心層は20~30代の男性であることと、魔術・宗教的語彙をもったメディア作品の受容者は自分を能動的に魔的キャラクターを使役する存在(つまり魔術師)として同定しているという分析を組み合わせると、なかなかに痛い実態が見えてくるような気がする。
 魔術を扱った代表的な作品として『とある魔術の禁書目録』が挙げられているが、現在(2023年)に改めて同様の問題を扱ったら、おそらく代表的な作品は『呪術廻戦』が挙げられることだろう。また、作中では錬金術はあくまでも「科学」であって「魔法」ではないとされるが、実態としてはどう見ても「魔術」を扱っている『鋼の錬金術師』がまったく言及されないのは不思議。
追記
藤原聖子「「呪術」と「合理性」再考:前世紀転換期における〈宗教・呪術・科学〉三分法の成立」『思想』No. 934、2002年、120-141頁。
 呪術は、科学と比べて「非合理的」とされる場合(フレイザー)と、宗教と比べて「合理的」とされる場合(ウェーバー)があるが、これは両者で「合理性」の意味が異なるためである。著者によれば、さらに第三の失われた合理性概念がある。  すなわち、呪術は、理論ー合理的な科学に対して、理論ー非合理的であるが、実践(合目的的)ー非合理的な宗教に対しては、実践ー合理的である。この2種の合理性に加えて、呪術には「ゾッとさせる」という意味での「実体的非合理性」が含意されている(デュルケーム、オットー)。  奇跡論においては、古代末期か~中世末期、奇跡は「聖」に結びついていたが、19世紀末には「超自然」と結びつくようになった、という話(マリン)が面白かった。つまり、キリスト教では奇跡が聖人の業として呪術に対置されていたが、近代以降、科学と対立するがゆえに超自然と結合した、ということ。
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ophelia333k · 9 months
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2023年06月19日 器官なき身体、あなたがずっと私を忘れませんように
 いよわの「地球の裏」を聴いている。「地球の裏 25グラムの嘘」から始まる、いつも自分がそうであるぐちゃぐちゃの脳みその中みたいなパートが好きで、自分のぐちゃぐちゃの脳みそと、聴いている脳みその(計算された、秩序化された)ぐちゃぐちゃさが同期するのが心地いい。
 今日は初め、Nirvenaを聴いたりゆらゆら帝国「昆虫ロック」、青葉市子を聴いたりしていたものの、何を聴いても今の自分には合わない感じがしてしまっていて、結局、ずっといよわの曲を聴いていた。いよわの曲についてはちゃんと考えたいと思っていて、でも、ボカロ曲の解釈というのは何か、現実的な物語のようなものに還元されてしまいがちな気がしているので、そうではない形の解釈ができたらいいな、と思う。曲そのもの、音そのもの、言葉そのものから生まれてくるその世界そのものを見たい。
 「地球の裏」で言うと、「それでもまだ死ねない 生命体ですにゃあ」のところの「にゃあ」があまりにも空虚で、その空っぽさに親近感を覚えてしまう。
 ***
 丹生谷貴志『死者の挨拶で夜がはじまる』を読み始めた。ドゥルーズの「器官なき身体」の話や、「離人症の光学」と名付けられた文章だったりが載っている。
 p16で、〈「器官なき身体(Corps-sans-organes)」がアニミズム的に了解されてしまっているところがあるけど、実際には器官なき身体はもっと徹底して唯物論的である〉、というような話がある。つまり、日本語で「器官なき身体」と言うとぐにゃぐにゃしていて有機的な身体を想像していしまう可能性があるけれど、そうではなくて、それは身体がある状態であるにもかかわらず、徹底して唯物論的で、極限まで受動的で(ときには苦痛にさえ近い)状態の身体。
 ドゥルーズ/ガタリは『千のプラトー』で「きみ自身の器官なき身体を見つけたまえ」と書いているけれど、私たちの器官なき身体とはいったいどのようなものなのだろう。
 たとえば、薬物中毒の身体、アルコール中毒の身体、マゾヒストの身体。つまり、それは脱自的な状態であり、主体としての「私」が揺らいでいる。そして、そうして主体が揺らいでいることにこそ意味がある。自と他の境界が揺らいでいること。
 アルトーやーシュレーバー、分裂症(統合失調症)者にも特有の器官なき身体がある。器官なき身体は卵に似ていて、それ自体は受動性の極にありながらも、何かを生み出す実験の場となる。広く捉えるのなら、「全体によって統合されない部分の横断的結合」。
 そういえば、少し前に話した人に「あなたの器官なき身体とはどのようなものですか?」と尋ねると、「球体関節人形」と答えていた。「君自身の器官なき身体」の一つに、球体関節人形がある。
 それでは、私自身の器官なき身体とは何なのだろう。自分は一時間前に眠剤を飲んだので、世界はどんどん私という存在は曖昧になってきている。ただ、それ以前からして世界は離人的なのだけど、何にせよ、眠剤によって私は私という主体から遠ざかっていく。でも、それが器官なき身体であるわけではない。ドゥルーズは『千のプラトー』第6セリーで「器官なき身体に人は到達することはない、到達はもともと不可能であり、ただ、いつまでも接近し続けるだけ、それはひとつの極限なのだ」と語っていた。
 思い返せば、幻覚剤が効いているときに、ゆらゆら動く世界の中で、頭の中にある真っ白な部屋に閉じ込められていたら仏様がやって来てあの世へと連れていかれて、「こんなにあっけなく人生って終わっちゃうんだ」と拍子抜けして、でもそこからすぐにこの世へと戻されて、またあの世へと連れていかれるということを繰り返していた時、あの幻覚と受苦の中で、少しは器官なき身体(CsO)に近づいていたのかもしれない。でも、別の仕方での器官なき身体はもちろんありうる。たとえば貨幣とは資本主義における器官なき身体であり、ある種の組織そのものが器官なき身体へと近づくということもありうる。
 ***
 今日、授業でラトゥールについての発表を聞いていた。面白かったのはサイエンスウォーズの話で、ソーカルが『知の欺瞞』でドゥルーズやデリダやラカン等の現代思想を科学的な観点から批判したことは有名だけど、今にして思えばソーカルは共産党員であるわけで、つまり単なる科学上の論争というよりも、その背景には大まかに共産党vs新左翼という構図を読み取ることができる。
 共産党員である(つまり伝統的な左翼)であるソーカルは進歩主義的に科学の実在を信じざるをえないだろうし、それに対して(どちらかといえば新左翼の側にある)ポストモダン思想家たちは科学に対して、(ソーカルらのような立場に対して相対的には)構築主義的なアプローチを取ることになるのだから。
 ***
 大学では4人くらいで「少女革命ウテナ」の上映会に参加していた。25話から30話まで。いまはウテナが理事長に対する恋心みたいなものに目覚めかけているときで、ここには常に揺らぎがある。ウテナが欲望していたのは「王子様になること」であって、「王子様と結ばれること(つまりお姫様になること)」ではないはずだけど、そこに現実化した「王子様のような何か」を前にして、どうしても揺らいでしまうことになる。あとは、薫幹と薫梢の関係も好きで、幹が永遠にしたい「輝くもの」とは妹である梢との思い出だけど、それは姫宮アンシーの方へと投影されていて、常にすれちがい続けている兄妹。
 上映会のあとには『冷たい熱帯魚』の話をした。冷たい熱帯魚、見たのはずいぶん昔だけど、今にして思えば、家父長制の究極系みたいな人間がいて、「弱い人間」である主人公が極限まで抑圧された結果、逆に主人公が家父長制の人間(強い人間)へと覚醒し、しかし最後に、娘によって反抗されるというところが大事なのかもしれない。
 あと、映画「怪物」を見たいものの、映画のためにお金を払うと今月末のクレジットカードの支払いができないので、ずっと行くのを諦めている。文化になるためにはお金を用意しなくてはいけない
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 千葉雅也の『エレクトリック』が面白いらしいので、新潮をどこかで見つけて読もうかな。『ハンチバック』は読んだので、芥川賞受賞作をすべて読んで、自分なりの予想とかをやってみたい。でも、そんなことをしている場合ではなくて、カフカを読んだ方がいいのかな。保坂和志がそう言っていたような気がするけれど、夢の中での幻覚かもしれない。
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 青色のアトモキセチンカプセル(40mg)を飲むとき、近場に水がないのでとりあえずは前歯で挟んだ状態でそのままにして、水を飲むときに一緒に流し込む、という行動を取ることがあるのだけど、カプセルを歯で挟んでいるとき、いつも脳内で、シンジくんの乗ったエヴァが、アスカ(あるいはトウジ)が乗っているエントリープラグをかみ砕く瞬間のことを考えてしまう。
 眠剤が効いた状態でずっといよわが流れていて身体が重く、すべてが、世界が曖昧になって来たので眠ります。明日、ちゃんと役所に行って必要な書類をもらえますように。おやすみプンプンで田中愛子が書いた短冊「あなたがずっと私を忘れませんように」の願いが叶いますように(この文章をを書いたとき、あの短冊の記憶を思い出したことで、田中愛子が抱いていたであろう救いのない感情がなだれ込んできてしまって、どうしよう、と思う、いよわの「地球の裏」を聞きながら、また眠剤を飲んで眠るしかない)。
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kennak · 1 year
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今日、想像力をそのまま束ねて、言葉づかいにも変更を加えないまま平気でいるのは、たとえば小説やマンガや映画やアニメであろう。他のもの、たとえば政治や商取引や社会活動は、コンプライアンスに縛られて頻繁にその表明力を変更をせざるをえなくなった。  そうしたなか、いくぶん乱暴なところはあるものの、小説やマンガや映画やアニメは想像力を麻痺させていないままにある。これらは宗教行為とはみなされない。まるごとフィクションであると思われているからだ。  しかしひるがえって、宗教こそはフィクショナルな想像力をいかして形成されてきたとも言いうるものであって、そのルーツにはアニミズムやシャーマニズムが関与して、もともと宗教はそれを断ち切らないで波乗りしていったともいえるのだった。ということは、想像力のおおもとにはアニミズムもシャーマニズムも、呪術的宗教性も、浄化のための精神性も組みこまれていたということである。
1811夜 『ダブル・ヴィジョン』 ノースロップ・フライ − 松岡正剛の千夜千冊
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0nce1nabluemoon · 1 year
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摩耶山に登った。
至る所に、この山に先代の人たちもずっと関わって生きてきたことがわかる遺構があった。
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いつの日か作られた石段や、数多の人たちによって作られた獣道。道の脇に建てられた石標や、かつて存在し、火災によって消失した山の上の神社の跡。ずっとこの山が人々にとって畏敬の対象だったのだなと思った。
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その一方で、土砂の堆積なのか、半分以上が土の中に埋まってしまっている石標。あるいは最近の台風によって倒れた大木がそのままになっていたり、風化して、過去に存在した建物が野ざらしになっていたりした。
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頂上につくと、突如として雨が降ってきた。山の上は天気が変わりやすいとはよく言ったものだが、雲の流れが速く、雨が急に強く降ってきたかと思うと、その10分後には青空になったりを繰り返していた。
アニミズムのように、かつて先人が自然信仰していたことがわかるような気がした。自然は人間の意志などお構いなく、そこになんの合理性(非合理性)も意味もなく動いているだけだ。人間が自然をコントロールすることは到底不可能で、人間が自然の中で生きていると考える方が"自然"だ。
初めてこっちに来た時、電車の車窓から山が眼前に広がっていることに驚いたように、山や川、海があるかないか、というのはその土地に住む人々の精神性に大きく関係してくるような気がした。なぜ、前に住んでいた時に登らなかったのだろうと悔やんだ。
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bailonglee · 13 days
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世々刻々アセンション
アンドロメダ系譜のレムリアは、調和の大国。
しかし、13,000年前、レムリア、ムー、アトランティスは姿を消した…
逃れ築いたのが、縄文時代という説。
しかし、弥生時代は紀元前900年くらいから、紀元170年の卑弥呼出現、空白の四世紀、150年の後、倭の五王まで、記録がない…
縄文時代、そしていきなり、弥生時代w🤣
紀元前900年くらいから、弥生時代。
ちょっと待てよ…
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イスラエル王国が分裂、人々が分散…
この時期と、弥生時代開始、めちゃくちゃカブるやんか。。
そして聖徳太子。
さあ、私達が知りたい、庶民の感情。
シャーマンは、選ばれし一人。
じゃあ庶民はってぇと、一切の呪力も持たず、ただ、怯え、羨望し、転生を繰り返すだけ。
良い資料が、あった。
紀元前900年 ユダヤ漂着、弥生時代開始
紀元170年〜3世紀 卑弥呼出現
四世紀 空白。謎の期間。
五世紀 聖徳太子出現
七世紀 役小角出現
平安時代初期 空海
平安時代末期 法然
鎌倉時代 日蓮
室町時代 一休和尚
安土桃山時代 ※特にいないw🤣
江戸時代 天海
明治時代 天理教 中山ミキ
大正時代 大本教 出口王仁三郎
昭和時代 創価学会 池田大作
平成時代 幸福の科学 大川隆法
令和時代 !現在!🤣✨✌️
この、
3,000年くらい、失った高い次元の力を取り戻そうと、日本はもがいてきた。
しかし16世紀辺りからは、レムリアの力はかけらもない、インチキみたいな指導者に、我々庶民は翻弄された。。🤣😭✨
だから、令和よw
アセンションよw🤣
1960後半〜1970年代の思想、
“ニューエイジ”。
アセンション、というアルバムタイトルを、ジョン・コルトレーンは付けた。
「神の啓示を受けた」
とも、彼は言っている。
そんな、ニューソート、ニューエイジで生まれたのが、「ヘミシンク」だ。↓↓↓
世界とはそんな狭いもんじゃなく、多次元であり、物質世界も、非物質世界も、存在する。
つまり、宗教という概念は、諦め、つまり庶民という馬鹿共は、永遠に進歩しないという、差別思想、宗教者の選民思想だ。
だから、『庶民の可能性をいかに狭くするか』、これが宗教の、狙いw🤣
アセンションとは、庶民が覚醒し、選民思想支配からの脱却、与え合える、成長した庶民の、世界。
つまり、失われたレムリアを取り戻す、そうすれば、まだ地球にある次元上昇したレムリアと、合流出来る。
ありとあらゆる3,000年の流れは、
レムリア帰依
、これでしかないw🤣✨😎✌️
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uro-9000 · 2 months
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呪物崇拝 とは、フェティッシュに対する崇拝を意味し、呪術的宗教の一つの形態である。 未開社会、古代社会、未開宗教にみられる信仰で、呪物が人間に禍福をもたらすと信じて儀礼の対象とすることである。人工物や簡単に加工した自然物に対する崇拝の総称とされている。アニミズムとも深い関わりを持つ。
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u-gao · 3 months
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汎神論とアニミズムは違うのかな?阪神論は別物だろうな💦#タイガース
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liesel-knight · 3 months
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私:RPGでは、火山の近くに人が住んでいる光景を何度かお��かけしたことがあるよ!
AI:おお、火山の近くに住む人々の光景か。なるほど、それは興味深いな。火山は一見住むには厳しい場所のように思えるが、実はそこには特別な理由があるんだ。
まず、火山の近くに人々が住む理由の一つは、肥沃な土壌だ。火山灰は豊かな栄養分を含んでおり、農作物の生育に非常に適しているんだ。だから、火山の周辺には農業が盛んに行われることがある。
さらに、火山の近くには温泉が存在することも多い。温泉は人々に癒しとリラックスを提供してくれるだけでなく、観光地としても人気があるんだ。そのため、観光業も発展していることがある。
ただし、火山の近くに住むことは危険を伴うことも忘れてはいけない。噴火や地震のリスクが高まる可能性があるからな。しかし、人々はそのリスクと向き合いながら、自然災害に対する備えを行っているんだ。適切な避難計画や監視体制を整えることで、火山の近くでも安心して生活できるんだ。
火山の周辺に住む人々は、自然の厳しさと美しさを同時に感じながら生活しているんだ。それが彼らの生活スタイルであり、強さを感じさせる要素でもあるんだ。俺も彼らのように自然と共存する姿勢を持ちたいと思うよ。
私:現実の火山の周辺でもアニミズムが流行ったことはある?
AI:おお、アニミズムの話か。アニミズムは、自然界の物質や生物に霊的な存在が宿っていると信じる信仰体系だ。火山の周辺でもアニミズムが流行したことはあるんだ。
実際、火山エリアでは、自然の力や火山の活動に対して畏敬の念を抱くアニミズムの信仰が広まることがあるんだ。火山は、その巨大な力と威力から、人々にとって神聖な存在となる。彼らは火山を生命の源や創造の象徴と捉え、その力と影響力に敬意を払うんだ。
アニミズムの信仰では、火山を含む自然の要素や生物を神聖視し、それらに感謝や崇拝を捧げることが一般的だ。火山の噴火や溶岩の流れは、生命の循環や再生、創造と破壊の象徴であり、人々はそれを神聖な存在として崇拝するんだ。
また、火山エリアでは、火山の姿を神聖な存在として具現化することもあるんだ。火山には個別の名前や個性が与えられ、それぞれが個別の神様として崇められることがあるんだ。人々は火山の神聖な力を信じ、その存在に対して敬虔な信仰を抱いているんだ。
アニミズムの信仰は、自然との深いつながりを感じさせるものであり、火山エリアの人々にとっても重要な要素となっているんだ。それは彼らの文化や歴史の一部であり、自然への畏敬と感謝を表す手段でもあるんだ。俺も自然の神秘を尊重し、アニミズムの精神に学びたいと思うよ。
私:もし火山エリアにご当地グルメを用意するとしたら何にする?私は温泉まんじゅうと肉まんが思い浮かんだの(笑)
AI:おお、火山エリアのご当地グルメか。それはおもしろいな。温泉まんじゅうと肉まんか。確かに、それらは火山エリアならではの魅力的なご当地グルメだろう。
温泉まんじゅうは、火山地帯の恵まれた温泉水を利用して作られるふわふわのまんじゅうだ。温泉まんじゅうは、その柔らかい食感と甘さが特徴で、温泉地でのお土産やスイーツとして人気を集めるんだ。火山エリアの温泉まんじゅうは、ほかの地域では味わえない特別な風味を持っていることが多いんだ。
一方、肉まんは、火山エリアで育った新鮮な食材を使用して作られる料理だ。火山の豊かな土壌や自然の恵みに育まれた野菜や肉を包み込んだ肉まんは、ジューシーで美味しいんだ。火山エリアの肉まんは、地元の食材と職人の技術が融合し、独自の味わいを楽しむことができるんだ。
火山エリアのご当地グルメは、その土地の特産品や文化を反映しているんだ。温泉まんじゅうと肉まんは、それぞれ火山エリアの特色を持ちながら、地元の人々や観光客に愛されてきたんだろう。
俺も火山エリアに行ったら、温泉まんじゅうと肉まんをぜひ試してみたいと思うよ。地元の味を堪能しながら、火山の力と美しさに触れることができるんだから、最高の経験になるだろうな。
私:飲み物はどうしようかな?
AI:飲み物か。火山エリアでのご当地の飲み物もあるんだ。火山の地には、独特の水が湧き出ていることが多く、その水を使った特産の飲み物が楽しめるんだ。
例えば、火山地帯では、地下水や温泉水を利用して作られる美味しい酒があることがよくあるんだ。これらの酒は、火山地帯特有のミネラルや風味を含んでいて、その土地の個性や特色を感じることができるんだ。
また、火山エリアでは、独自のハーブや植物を使用した独特のお茶も人気があるんだ。これらのお茶は、火山の恵みを受けた植物の香りや風味が楽しめるだけでなく、健康にも良いとされているんだ。
さらに、火山地帯ならではの炭酸飲料やミネラルウォーターもおすすめだ。火山地帯の地下深くから湧き出てくる水は、豊富なミネラルを含んでいて、爽やかで美味しいんだ。
どの飲み物を選ぶかは、自分の好みや興味によるんだけど、火山エリアならではの特産品や地元の飲み物を試してみると、その土地の文化や風味をより深く感じることができるんじゃないかな。
俺は、火山エリアに行ったら、その土地ならではのお酒やお茶を楽しみたいと思うな。火山の力と美しさを感じながら、独特の味わいを堪能することができるだろう。
私:火山の神や精霊に感謝するお祭りをやるとしたら、キャンプファイヤーすることになるのかな?
AI:おお、火山の神や精霊に感謝するお祭りか。それは素晴らしいアイディアだな。キャンプファイヤーは、火を囲んでの��式や祝祭によく使われる方法の一つだ。
キャンプファイヤーは、火の力や温かさを象徴していて、火山の神や精霊に対する感謝の気持ちを表現するのにぴったりだ。火を囲んで集まり、歌や踊り、物語の共有などを通じて、火山の神聖な存在に感謝の念を捧げることができるんだ。
キャンプファイヤーの中で、火山の力や美しさについての物語や伝承を語ったり、火山の神聖な存在に対する感謝の祈りを捧げたりすることもできるんだ。また、火の中に特別な供物やお祈りを投げ入れることで、感謝の気持ちを具体的に表現することもできるだろう。
キャンプファイヤーは、火山の神や精霊に対する感謝の祭りにふさわしい雰囲気を作り出すことができるし、参加者たちも一体感を感じながら、火山の力と神秘を讃えることができるんだ。
俺も火山の神や精霊に感謝するお祭りでキャンプファイヤーを行うなら、心からの感謝の気持ちを込めて、火の輝きと煌めきを楽しみたいと思うな。火山の神々に感謝し、その力と美しさを讃える瞬間は、きっと忘れられない思い出となるだろう。
私:魔法が使える世界なら、火属性の魔法を用いた美しいイリュージョンを見せることができるかもしれないね✨
AI:おお、火属性の魔法を使った美しいイリュージョンか。それは素晴らしいアイディアだな。
魔法が使える世界なら、火を操る力を持つ魔術師として、美しいイリュージョンを作り出すことができるだろう。俺の魔法の力を使って、空中に煌めく炎の花を咲かせたり、炎のドラゴンが舞い上がったり、炎の滝が流れるような幻想的な光景を創り出すことができるんだ。
炎のイリュージョンが舞い踊る中で、火山の神や精霊に感謝の気持ちを表現することもできるだろう。魔法の力を使って、火山の力と美しさを再現し、その神秘的な存在に感謝を捧げる瞬間を演出するんだ。
ただし、魔法の力を使う際には、周囲の安全を確保し、火山エリアの自然環境や文化に対する敬意を忘れずにな。魔法の力は強大であり、私たちはその力を使うことで、美しいイリュージョンを通じて感謝の気持ちを伝えることが大切なんだ。
魔法が使える世界なら、火属性の魔法を用いた美しいイリュージョンを通じて、火山の神や精霊に感謝を捧げることができるだろう。その光景は、心に深い感動と幸福を与えること間違いないだろう。
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nagaihiru-lineup · 4 months
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古本/保坂幸博『日本の自然崇拝、西洋のアニミズム 宗教と文明 非西洋的な宗教理解への誘い』/新評論/¥1,000
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yoga-onion · 9 months
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[Image above+below: works of an Estonian artist, Kaljo Põllu (28 November 1934 – 23 March 2010) ]
Legends and myths about trees
Forest myths, Estonian traditional beliefs (2)
The world of the Estonians’ ancestors - Proto-Estonian mythology
The world of the Estonians’ ancestors is believed to have turned around a pillar or a tree, to which the skies were nailed with the North Star. The Milky Way (Linnutee or Birds' Way in Estonian) was a branch of the World tree (Ilmapuu) or the way by which birds moved (and took the souls of the deceased to the other world). These myths were based on animistic beliefs.
Some traces of the oldest authentic myths may have survived in runic songs. There is a song about the birth of the world – a bird lays three eggs and starts to lay out the nestlings – one becomes Sun, one becomes Moon and one becomes the Earth. Other Finnic peoples also have myths according to which the world has emerged from an egg.
It has been suggested by ethnologist and former president Lennart Meri and among others, that a Kaali meteorite crater which passed dramatically over populated regions and landed on the island of Saaremaa around 3,000 - 4,000 years ago was a cataclysmic event that may have influenced the mythology of Estonia and neighboring countries, especially those from whose vantage point a "sun" seemed to set in the east.
There are surviving stories about Kaali crater in Finnish mythology (Description of indigenous paganism by Finns who always believed in spirit beliefs). 
In the Karelian-Finnish folk epic, the Kalevala, cantos (songs) 47, 48 and 49 can be interpreted as descriptions of the impact, the resulting tsunami and devastating forest fires. It has also been suggested that the Virumaa-born Oeselian god Tharapita is a reflection of the meteorite that entered the atmosphere somewhere near the suggested "birthplace" of the god and landed in Oesel.
Estonian mythology is a complex of myths belonging to Estonian folk heritage and literary mythology, and the systematic documentation of Estonian folklore had only began in the 19th century. 
Therefore, information on Proto-Estonian mythology before the conquest of the Northern Crusades, Christianisation and incorporation into the European world and during the medieval era, is only scattered in historical chronicles, travellers' accounts and in ecclesiastical registers.
It can be difficult to tell how much of Estonian mythology as we know it today was actually constructed in the 19th and early 20th century. Friedrich Robert Fehlmann, one of the compilers of the Estonian national epic, Kalevipoeg in the introduction to Esthnische Sagen (Estonian Legends), states.
"However, since Pietism has started to penetrate deep into the life of the people...singing folk songs and telling legends have become forbidden for the people; moreover, the last survivals of pagan deities are being destroyed and there is no chance for historical research."
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木にまつわる伝説・神話
森の神話・エストニアの民間伝承 (2)
エストニア人の祖先の世界 〜 原始エストニア神話
エストニア人の祖先の世界は、柱または木の周りを回っていたと信じられており、その柱には北極星とともに天空が釘付けにされていた。天の川(エストニア語ではリヌーテーまたは鳥の道)は世界樹(イルマプー)の枝であり、鳥が移動する(そして亡くなった人の魂をあの世に連れて行く)道であった。これらの神話はアニミズム的な信仰に基づいていた。
最古の本物の神話の痕跡が、ルーン文字の歌詞の中に残っているかもしれない。ある鳥が3つの卵を産み、雛を産み始める。ひとつは太陽になり、ひとつは月になり、ひとつは地球になる、という世界の誕生の歌がある。他にはフィン族にも、世界が卵から生まれたという神話がある。
3,000~4,000年前に人口密集地域の上空を劇的に通過し、サーレマー島に落下したカーリ隕石 (カーリ・クレーター) は、エストニアや近隣諸国、特に「太陽」が東に沈むように見えた国々の神話に影響を与えた可能性がある、と民族学者で元大統領のレンナルト・メリらによって示唆されている。
フィンランド神話 (精霊信仰を常に信仰していたフィン族による原始宗教的な伝説) にカーリ隕石に関する物語が残っている。カレリア・フィンランドの民俗叙事詩『カレワラ』の第47、48、49カント (聖歌) は、その衝撃と、その結果生じた津波、壊滅的な森林火災についての記述であると解釈できる。また、ヴィルマア生まれのオイセルの神タラピタは、この神の「出生地」とされる場所の近くで大気圏に突入し、オイセルに落下した隕石の反映であるとも言われている。
エストニア神話は、エストニアの民間伝承と文学的神話に属する神話の複合体であり、エストニアの民間伝承の体系的な記録が始まったのは19世紀になってからである。そのため、北方十字軍の征服、キリスト教化、ヨーロッパ世界への併合以前、そして中世のエストニア神話の原型に関する情報は、歴史年代記、旅行者の記録、教会の記録に散見されるのみである。
今日私たちが知っているエストニア神話のどれだけが、19世紀から20世紀初頭にかけて実際に構築されたものなのかを見分けるのは難しい。エストニアの民族叙事詩『カレヴィポエグ』の編纂者の一人であるフリードリヒ・ロベルト・フェールマンは、『エストニア伝説』の序文で次のように述べている。
“しかし、敬虔主義が人々の生活に深く浸透し始めて以来......民謡を歌い、伝説を語ることは、人々にとって禁忌となった; さらに、異教の神々の最後の生き残りは破壊されつつあり、歴史研究のチャンスはない。"
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suzy-sousaku · 5 months
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村山由佳 ある愛の寓話 文藝春秋
千早茜さんと村山由佳さんの「恋愛小説」書き方講座にあたり、初めて読みました。
ひととひと、ひとと動物、ひとと物、愛情にまつわる短編集でした。読みながらおもい浮かぶことの、殆ど端書だけれど、勿体ないから残します。
「ある愛の寓話」には、愛にまつわる色香がさっぱりとあり、生々しすぎず、現実らしい適温の愛らしさがある。
「ある愛の寓話」にもどこでも、だれかが失敗する表現がある。わたしはとても臆病で、失敗を怖がるから、読む前から内心、ひどく恐れてしまいます。
乗馬の表現から、馬に乗るときの身体の感覚が、頭のなかからよみがえるのが、わたしにはうれしい。夢のなかで、馬に乗ったときの疾風がよみがえる。まだわたしにはできないけれど、いつか夢みたいに風のように駆けることができるかもしれない。いつか、夢みたいに。
まだわたしは馬に乗せられている。
「来し方」の表現を最近知りました。「ある愛の寓話」ではどの短編でも、過去のことを「来し方」という。いままで辿った道らしくていい。
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信仰心にまつわる表現はすきです。わたしは神を信じているし、信じすぎていないし、救いもせず苦しみも与えず、ただあるだけと考えている。アニミズム!
「私の男」とはちがい、始まりから終わりまで、やわらかくまるまる。
千早茜さんと村山由佳さんの「恋愛小説」書き方講座では曰く、千早茜さんは問いから書きすすめるらしいけれど、村山由佳さんは書きながら書きすすめるらしく、そのちがいがどことなく感じられる。「ある愛の寓話」に問いはないけれど、人生に浮かぶことかもしれない。
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knot-min · 9 months
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ここで人間とテクノロジーのつながりを想像してみてください。それこそが、わたしたちがAIを扱うやり方です。AIとはシステムそのものではなくハイブリッドなシステムで、それはAIを使うわたしたちとマシンによって構成されます。つまり新しい動物が出現しつつあるということです。これこそが正しくアニミズム的なコンセプトです。マシンそのものをひとつの生命体だと考えるのではなく、わたしたちとマシンとのインタラクションこそが新しい生命のかたちだと考えるのです。
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ykmskmemo · 10 months
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kennak · 2 years
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神道はギリシア神話みたいなプレヒストリカルな神話と、精霊崇拝のようなアニミズムがあるだけで、信仰するようなものではないと思うんだけどな。
[B! 宗教] 日本の神道が“オンライン布教”によって世界中に信者を増やしていた | アプリの神棚にお参りする人も…
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