Tumgik
#お顔がいつもとろ~んとしているせいでしょうか? じわじわ笑いを誘う、彼・・・真っ直ぐな目で、髭面なのにちょっと口が半開き
jako-jako · 1 year
Text
「彼が会いに来ない理由」
「彼が会いに来ない理由」【Chapter2】
"Why He Doesn't Come to See Me"
Chapter1はこちら↓
Tumblr media
ーChapter2
夜ベッドに入る前、コーヒーを片手にホブは今日のことを思い返していた。ふと誰かの気配を感じ顔を上げてみると、変わらぬ姿の彼が目の前にいた。込み上げてくる嬉しさに笑顔が抑えられなかったのを覚えている。
 
ここ100年ほどの間、彼には多くの困難が降りかかっていた。それによって引き起こされた問題もいろいろとあったそうで、最近やっとその後片付けが済んだそうだ。今は身の回りや自分に起きた変化を受け入れ始め、前を向いている様子で少し安心した。
 “変化”そう、変化だ…。今日1日ホブが強く感じたこと。捕らえられた100年あまりの時間と、それに伴う環境の変化が彼をどこか丸くしていた。ホブに対する謝罪の言葉と“友人”という言葉、以前では考えられないものだ。プライドの高い彼はこれまでなかなか自分の気持ちに素直になれず、その反面心の底ではずっと誰かとのつながりを求めていたのかもしれない。その気持ちを受け入れることができた結果彼は会いにきてくれた、ホブにとっては嬉しい変化である。そういえば、姉に会いにいくことを勧められたと言っていたな。いつかそのお姉さんにお礼を言わなければ、なんで俺のことを知っているのかは分からないが。
 そしてもう1つ気になる変化があった。これが問題なのだ。
 『別にダメとは言ってない。少しその、確認しただけだ…』
 『久しぶりの食事だ、せっかくだし君の好きなものを私も食べてみたい。』
 『また、会えないか?その…100年後ではなくもっと近い日に』
 時折彼の口から出る発言がなんだかホブをドキッとさせるのだ。それだけではない。ほんのりと赤らんだ耳、夕日に照らされた顔、別れ際の照れくさそうな表情、会話中じっとこちらを見つめる目…その全てが、なんというか…ホブを勘違いさせるのだ。
 “彼も”好いてくれてるのではないかと。
 薄々気づいてはいた、彼に会えなくなってからはより一層。自分は彼に友人として、そして同時に“友人として以外の好意”も抱いているのだと。
今日のあの態度を見ていると、心のどこかに潜めていた想いがどんどん出てこようとする。だが、この気持ちを伝えたからといってどうなるのだ。彼は今後も変わらぬ様子で自分に会いにきてくれるのだろうか。長年の友人に突然好きだと言われ、何食わぬ顔で酒を酌み交わし食事をするのも難しい話だろう。せっかく彼に友達と言ってもらえたのだ、今の関係を崩すようなことは正直したくない。それに、自分の気持ちを伝えたせいで彼と今後会えないなんてことになったら俺はそのことを一生ずるずると引きずり続ける気がする…。とりあえず、今はこれまで通り過ごそう。気持ちを伝えたくないと言えば嘘になるが、どんな関係であれ彼とああして一緒に過ごせるだけでも十分幸せなんだ。
 ホブはすっかり空になったマグカップを片づけ、気持ちを切り替えるように一度深呼吸をして眠りについた。
 
――
 9月某日
待ちに待ったひと月後は、大学での忙しない日々のおかげで案外すぐに訪れた。
酒場に着くと彼はすでに席で待ってくれていた。いつもと変わらぬ黒に身を包んで、満杯のグラスを静かに見つめている。
 「よお、モルフェウス。待たせてすまない。」
 「やぁ、ホブ。私もさっき来たところだ。」
 「先に飲んでくれてて良かったのに。俺も早く何か頼もう。」
 忙しなく席についたホブはメニューを手に取ることもせず、そばにいた店員に酒を注文した。
 
 「大学の仕事が忙しいと言っていたが、ひと段落ついたのか?」
 半分ほど減ったグラスを片手に、モルフェウスがそう言った。
「あぁ、とりあえずな。秋学期が始まってすぐだから、学年ごとに違った講義のアプローチを考えたり資料作ったり。新入生も多いから特にセミナーとかの少人数の活動の時は、個人の特徴をいろいろ観察して。新しく入ってきた教授も多いから、授業の段取りとか生徒の様子話したりもしてたよ。新学期は新しい空気で溢れてて楽しいけど、試行錯誤の連続で大変だな。」
「新しい環境は刺激があっていいか?」
 「もちろん!人や環境の変化は新鮮で、いつの時代も退屈しないよ。まぁ良い時だけじゃないけどな、栄枯盛衰っていうのか。今の時代の大きな変化でいうならコロナだよなぁ。今年あたりからやっと普段の生活に戻ってきたけど、大学も去年までリモートで仕事してたよ。」
「確か人々が直接会わずに活動することだな。」
 「そうそう、パソコンとか電話とか使って。感染症の対策にもなるし移動時間の手間も省けたりで便利だけど、俺はやっぱ直接人と会う方が好きだな。」
 「君は本当に誰かと関わることが好きなんだな。それほど生きていても、まだ飽き足りないといった様子だ。」
 「まぁな、それが俺の性分なんだろう。」
 「真摯に人と向き合える君のことだから、大学で慕ってくれる生徒も多いんだろうな。」
 「真摯に向き合えてるのか自分じゃ自信ないよ、そう努めてはいるけど。人と関わる上で今だに失敗することも多いし。」
 自嘲気味に笑うホブをモルフェウスは優しい表情で見つめていた。
 「でも、何人か慕ってくれてる生徒はいるよ。そうそう、2年生の学生で1人親しい生徒がいてね。その子とは普段から歴史についてよく意見を交わしたり、他愛の無い話をしたりしてるよ。ヨーロッパ史にも興味があるみたいで、いろいろと教えてあげてる。」
 「その子はいい教授と出会ったな。“本当の歴史”を学べるのだから。」
 「はは、そうだな。まぁその子はそんなこと思ってもみないだろうけど。」
 
だって、彼らが本当の歴史を学んでいることを知っているのは目の前に座るこの男だけなのだから…。 
――
 
12月某日
何度目かの飲み会を終えた2人。季節はすっかり色を変え、凍える寒さと肌を刺すような冷たい風が吹いていた。高くなった空には沈みかけの夕日と広がり始めた夜が共存しており、そのグラデーションはなんとも美しかった。
 隣で白い息を吐く友人、その頬は少し赤みを帯びている。寒さを感じないであろう彼の服は人に溶け込めるよう冬仕様になっていた。その真っ黒のコートと彼の白い肌が夕日に照らされホブの目に映る。そして、どこか思い耽るような彼の表情に見惚れてしまっていた。
 「なぁホブ。」
 「んっ、なんだ?」
 彼からの呼びかけに内心慌てながらも返事をする。自分は今どんな表情で彼を見つめていただろうか。大丈夫、横目だったし気づかれてはいないはず。そんなことを考えながらホブは隣を歩く友人の方を向く。
 「帰る時、君はいつも私を見送ってくれるだろう。だから今日は、私が君を見送ろうかと思っていたんだ。酒場から家は近いと言っていたし、もう少しついて行ってもいいか?」
 「本当に?もちろんいいさ…!ここからなら10分もかからないぐらいだよ。そうか、なら今日はもう少し話していられるな。」
 ダメなわけがない。彼との時間を思い返す帰り道もいいが、一緒にいられる方がいいに決まっている。嬉しくなったホブは思い切ってある提案をしてみようと、少し緊張しながら口を開いた。
 「なぁモルフェウス、次会うことについてなんだけどな。その…次はひと月後じゃなくてクリスマスにでも会わないか…?」
 「クリスマス、人間が降誕祭としている記念日のことか。でもなぜその日なんだ?」
 「クリスマスってのは家族とかそういう大切な人と過ごす日なんだ。いつもより豪華な料理を囲んで、酒飲んだりデザートをつまみながらゆっくり過ごす。俺は家族や親戚なんてもんはいないし、クリスマスムードの街を眺め��がらまったり酒を飲むのも悪くないから大抵1人で好きに過ごすことが多いんだ。でも今はこうして気心の知れた友達がそばにいるんだし、せっかくなら一緒に過ごすのも楽しいかなって。もちろん君が嫌なら全然断ってくれて構わない…!どうかな。」
 「そうなのか…私は別に構わない。では次はクリスマスに会うとしよう。」
 
優しい表情でそう答えるモルフェウス。ほんの一瞬見えたどこか寂しそうな視線は、彼が瞬きをすると消え去っていた。
 
 2人がそんな約束をしているうちに、気づけばもう家の前だった。空はすっかり深い黒になっており、辺りは街灯に照らされていた。
 「わざわざここまでありがとう、いつもより長く話せて楽しかったよ。月末楽しみにしてる。」
 「私も楽しみにしている、誘ってくれてありがとう。じゃあ…おやすみ、ホブ。」
 
冬の夜は一段と冷え込むが、彼の穏やかな声と笑みはそんな寒さを和らげてくれた。
 「あぁ、おやすみモルフェウス。」
 玄関ドアに向かうホブは立ち止まって、ふと彼がいる方へ振り返った。そこにあるのは吸い込まれそうな夜の闇と地面を舞う砂だけだった。
―あとがき
「彼が会いに来ない理由」Chapter2を読んで下さりありがとうございました!
今回は2人がクリスマスの約束をして終わりでしたね。モルフェウスの意味深な視線もありましたが、その意味がわかるときはくるのでしょうか…
Chapter2を書くにあたって、イギリスの大学について色々調べていました。ホブさんのセリフで秋学期(Autumn Term)という言葉が出てきましたが、イギリスの大学では3学期制が一般的で9月〜12月を秋学期としているそうです🍂 ですが学校によれば9月〜1月を1学期とするところもあるみたいですね。
さて、次回はクリスマス!順調に仲を深める2人ですが、今後どう発展していくのでしょうか?お楽しみ!
14 notes · View notes
sesameandsalt · 2 years
Photo
Tumblr media
職場でもらってきたポスター(年末、カレンダーだの何だのもらえる日本の会社の謎の儀式…)
兵長だ!!わーいと思って家で正式に開けたら
Tumblr media
このミカサのでかさにたまげた!!😲😲😲 下のほうじ茶(スケール比)ほうじ茶持てんべ、このねーちゃん エレン好き好きアッカーマンさんたちポスターだったんすね。バチバチしてら…クールビューティなお二人さんですね そしていよいよファイナル・シーズンパート2、開幕!!!!!!!🎊😭😭😭😭
#クッッッッッソ🤣😂😂😂やっぱり ウォールオブTHOMSONは罠だった、 無言で阻んできよるの…罠だとわかってたのに 好きだし泣いてしまった…#クッッTHOMSON…何故 しかしカカシ、THOMSONの隙間から見た昨晩、激アツ!!!ファイナル・シーズンパート2開幕、#直前にやってたNHKNEW-Sの視聴率凄そうだなと思ってみてたらOPが始まった まさかのクサヴァーさんオープニング入り!!!!!(要る?)#しかもなんでかちょっと朧気… はっきりうつさないところがさらに必要なのか放送禁止なのかクサ(ヴァーさん)らしい これ絶対我々の会話見てますよ#ハンジさんの格好よさに震えた…普通のマンガだったらリヴァイを抱え川に飛び込むなんて一大スペクタクルシーンだけど、#進撃は色々なことが同時に起こりすぎて…ちょっとした出来事のようなそれがクールで恐ろしいね…なんかもう!とにかくハンジさんかっっっけーーーー#ジーク戦士長の裸は pobiさまの声がはっきり聴こえた…みててくれよって…(クっソ笑った)#ジークの奇行を通してテレパシーをするという 進んだ霊能力を我々は持ってしまったことが分かった…#さすがは裸も戦士長の風格がありましたね。 エレン派のひとたちも どういう表情で見つめてたんですかね。#なんなんですかねあの間とあの一集団 あの目線😭😂🤣 ぜったいぶらぶらしてたもん ジーク…#あのやろ~~~#お顔がいつもとろ~んとしているせいでしょうか? じわじわ笑いを誘う、彼・・・真っ直ぐな目で、髭面なのにちょっと口が半開き#唖然としてるような、なにかに深く感動してるかのような…#あの顔(表情)のままで少女(始祖ユミ?ちゃん)に身体作られているトコとか なんであんな面白風味だせるんでしょうか…#「ものすごく長い時間だったような…一瞬だったような…」#完全にはじめて風俗(ソープ)行ったオッサンのセリフですよね。#アルミンくんはやはりエレンくんを信じていましたね、アルミンが出ると あ、こういうストーリーだったねと、我に返ります。#金髪少年がクサヴァーさんをいったん引っ込めます。 コニーが口を開くといつも泣ける。 感情の代弁者という役割なのでしょうか…#しかし作り手の意図をかんじさせないぐらい自然に感情移入できるキャラ作りが さすがというかんじがいたします。#笑いもとれるキャラはいちばん泣かせるもんですよね。#…という事は?#クサ…さん、あなたはいつかワタシを泣かせますか?#あなたが大泣きしようとボクぁ誘い泣きなんてしませんからね!💦💦💦#でも…最終回まで期待してます…♡ おっっもしろかったーーー#ちなみに、 我の、”せ”の変換は、戦士長 でした 無茶苦茶笑った、呼吸止まるかと思った かんっっぜんにpobiさまの ”せ”と繋がってしまうなんて…#こんなこと(呪い)、あるミン?
15 notes · View notes
koamisie · 5 years
Text
美しく燃える森
Tumblr media
2019.1.27発行※転載禁止
動物園
 ホッキョクグマ。クマ科クマ属。食肉類……    水槽に埋め込まれた金属パネルには動物の情報が表記されていた。その隣にあるアンドロイド用のタッチ端末を覗き込んでいると急に目の前が白く眩しく染まった。水槽が大きく波をたてて、子供たちの歓声が館内に響く。 シロクマが水に勢い良く飛び込んだのだ。青く輝くソーダのような水中を踊るように泳いで、シロクマは水面に顔を出した。オモチャのボールを掴むとプカプカ漂いくるりと回転する。 「へえ、よくできてるもんだな…」 ギャビンは水槽にそっと手を伸ばした。 シロクマの額にはアンドロイドを示すLEDが光っていた。 「ええ、私は映像と写真でしか見たことはありませんが、本物と変わらないように思います」 シロクマは飛沫を上げて泳ぎ、また歓声が上がる。 「そうか、もう居ないんだよな」 水面の模様が水槽や壁に反射して白く光り、ギャビンの表情はよく見えなかった。
 花曇りの空の下、動物園のエントランスは閉園前にも関わらず賑やかだった。ケージの中で飛びまわるサルや、カラフルな羽を広げる鳥たちの声が響く。園内で売られている軽食の油っぽくて甘い香り。校外学習だろう、同じ緑色の帽子を被った子供たちが園内をかけていく。 「どうだった?初、動物園は」 ギャビンと並んで売店の前のベンチに腰掛け、ワゴンで売られていくパンダやキリンのぬいぐるみを見つめている。先程見たシロクマにそっくりのぬいぐるみも山積みにされていた。 「はい、とても満足しました。ありがとうございます…ここへは来たことが?」 「いや初めて来た、ガキんとき行ったのは普通の動物園だったし」 春の夕暮れ、皮膚のセンサーが冷たい風を感知する。随分と暖かくなったとはいえ、日が沈めば気温はぐっと下がる。ギャビンはいつものインナーの上にゆったりとしたカーキー色のカーディガンを着ていたが、少し肌寒そうにしていた。 「冷えてしまいましたね、帰りましょう。本調子ではないのに、お付き合いさせてしまいすみませんでした」 「別に。自宅療養ってもやることねーし、暇つぶしには丁度良かったよ」まあ、自分がヘマした現場見に来るのも妙な感じだけどな。ギャビンはそう言ってベンチから立ち上がるとふらりと売店に入っていった。ついて行こうとすると、そこに居ろよと言われてしまったので再び腰を下ろした。 「………」 ガラス張りの売店の中を物色する彼を目で追いながら、一ヶ月ほど前にこの動物園で起きた事件を思い返していく。  子供のアンドロイドが誘拐されたとの通報でギャビンと共に駆け付けた。難解な事件ではなかったものの、ギャビンは運悪く犯人の所持していたナイフで脇腹を刺され、一週間ほど入院していたのだ。 売店のガラスに自分の黄色いLEDが映っている。 ガラス越しにギャビンと目が合うと、彼はにんまりと目を細めて笑った。  あの日、彼の異形に気づいた。 倒れたギャビンの傷口に押し付けた自分の上着。その血のぬくもりの下には、おおよそ人間とは言えない毛皮の身体があったのだ。 応援が来るまでの短い時間ではあったが、ギャビンが自分の知らない「なにか」なのだと理解するには充分すぎた。 店内をうろつくギャビンを目で追いながら、あの日の彼をメモリから検索する。彼が人間ではなく、アンドロイドでもないかもしれない。そんな非現実的な事があるのだろうか。 あのような事象が他にもあるのか調べてもキーワードすら浮上しないので、夢や妄想だったのかとも錯覚してしまいそうになるが、ウイルスや不正なプログラムも診断済みだし、なによりこうやってあの時の映像を鮮明に再生できるのが絶対的な証拠だった。 ���層のメモリに保存してある彼の呪文のような遺伝子。あの時舌で感じた彼の血液は、確かに彼ではあるが、どうしてもヒトの物ではなかった。 こうしていても答えは出ないのに。今も売店でぬいぐるみを手にとるギャビンを遠くから見つめているだけだ。 本人に聞くしかないのは明確であるのに、結局言い出せずに、あの日の彼を探すために動物園に行きたいなどと言ってしまったのだ。 ギャビンの姿は物陰に隠れて見えなくなってしまっていた。 (分からなかった…) ガラスに映る自分は、迷子のような顔をしていた。自分が変異体でなければ、こんなにも考え込まずに彼に聞けていたのだろうか?  変異に気づいた時、まず感じたのは、肌寒い春先の気温と沈丁花の香りだった。 変異はするとか、なるとか、そんな話をよく聞いていたが、自分の場合は「気づく」だった。動物園での犯人逮捕の後、病院に運ばれたギャビンは普段どおりで、とりたてて大きな問題も無かった。付き添って居た病室で肌寒さを感じて、慌てて窓を閉めたのだ。その時につんとした甘い香りを感じて、それが心地よいと思った。 あれだけ恐れ避けていた変異も、してしまえば「こんなものか」という感覚だった。幸いなことにサイバーライフも、DPDも大した言及はしてこなかったのだ。きっかけも「あの動物園での事件」としか言いようが無かった。 拍子抜けだった。  ギャビンは、変異した私に「ロビン」という名前を付けた。彼が病室で目覚めた時に私が着ていたサイバーライフ製の上着。事件時のまま、胸元の白が彼の血液でくすんだ赤に染まっていたそれを見て、アメリカコマドリを思い浮かべたのだという。 「だからロビンですか」「ああ、それにお前の目の色、コマドリのタマゴの色だしな」丁度良いだろうと彼はおかしそうに笑った。 変異する前からギャビンとはそれなりに良好な関係を持てていたと思う。最初こそ反発はあったが、慣れてしまえば彼の仕事の効率は上がり、私は彼の相棒という肩書きを手に入れた。名前こそ無かったが、いつの間にか冗談を言い合うような間柄になっていた。今も病み上がりの彼を看るために半同居状態だし、変異したということを伝えてからも関係は変わらなかった。 ただ一つ、あの時の毛皮に包まれたギャビンを知ってしまったことと、どうしてかそれを言い出せないことを除いては。 彼との関係が変わってしまうかもしれないということが、こんなにも怖いなんて。 「ロビン、おい」 「は、はい、おかえりなさい、ギャビン」 「フリーズか?」 すぐにギャビンは戻ってきた。売店は先程よりも人が増えて賑わっている。 「いえ、少しデータを…それより、買い物は終わりましたか?」 「ん」無言で差し出された物を受け取る。それは黒くて、胸元が赤い円らな目の小さな鳥のぬいぐるみだった。ふわふわとした合成繊維のさわり心地が好ましいが、尻尾の根元についた動物園のタグが大きくて少し気になった。 「アメリカコマドリですか」「お前にやるよ、動物園デビューの記念だ記念」彼から贈り物をもらったのは初めてだった。嬉しい。 「いいのですか?ありがとうございます」 「ああ。帰るか…どうせ明日も休みだ、酒買って…いや、めんどいしなんか食って帰るか」 「飲酒はまだ駄目です」 小鳥のぬいぐるみを上着のポケットに入れる。そういえば、今日は臙脂色のインナーに黒いジャケットを羽織っていた。名前も、色も、この小鳥のぬいぐるみとお揃いだ。  出口に向って歩き始めると共に閉園の放送と音楽が流れてきた。するとそのメロディに共鳴するように遠吠えが聴こえてきた。ここから程近い、オオカミのケージから聴こえる歌声だった。 ギャビンと共に誘われるようにオオカミのケージの前に来た。そこには六匹のオオカミが居て、その内の二匹はアンドロイドだった。各が走り回ったりじゃれあったりしては遠吠えを続けている。 「シンリンオオカミか」「ええ」 冬毛のオオカミは大きく、威厳に満ちている。ゴージャスなたてがみと、背中や肩の色の濃いコートのような毛皮。足先は骨ばってごつごつと逞しい。鋭い牙と爪、耳はふっくらとしていて厚みがある。 ギラリと光る目に捉えられ、一ヶ月前の彼の姿がフラッシュバックする。一瞬身動きが取れなくなるような感覚をおぼえた。 ギャビンは、ケージ前の手すりに肘をかけて、オオカミを眺めている。 弱弱しい北風が夜を運んでくる。ギャビンの髪に、桜の花びらが絡まった。ケージの中にある桜の木が、夕焼けの色に染められていた。 「ギャビン、私は、夢をみていたのかもしれないのですが」 「夢?」 「ええ。その夢ではあなたが、オオカミなんです」 ギャビンの目が静かに見開かれた。 「アンドロイドも、夢を見るんですね、変異体はみんなそうなのでしょうか?」 ざわざわと風が強くなって、桜の木がうめき声を上げる。枝が揺れて、薄桃色の花びらが吹雪のように舞った。 「ロビン…」 風に乗せるように、ギャビンが声を漏らす。 その姿は、普段通りのギャビンにしか見えない。 ケージの中のオオカミは力強く遠吠えを続けている。 ギャビンは何も言わなかった。彼の薄い若葉色の虹彩が、夕日を反射してギラリと光った。
ワタリガラス
「ある一羽のワタリガラスが、浜辺に落としたハマグリ。その中から生まれた人間が最初の人類である。
 それから、ワタリガラスはありとあらゆる植物、動物に魂を与え、その後ハクトウワシに命じて人間に火を与えた。そして人間は……ええと…」 獣人は文字を必要としないために、一切のその記録が無い。伝承は全て神話や歌のみで受け継がれ、現在まで至っているという。 ギャビンは円周率を思い出すかのように、その記憶の中に記された自らの種族の神話をポツポツと語ってくれた。 「お前が調べても分からなかったのはそもそも書くやつがいなかったからだし、まず獣人以外は獣人の存在も知らないんだよ」 「そうだったのですね」 「UMA居るだろ」 「UMA…未確認生物。ネッシーやイエティなどですか?」 「ああ。ああいうのは殆んど獣人だよ。ネッシーあたりは何なのか知らねぇけど」
 頭上で真っ黒いカラスがガアガアと声を上げた。雨に沈んだネオンが弱々しく光る裏通りは、錆びた鉄と排気ガスが混ざってひどい臭いがした。コンクリートを打つ雨音に混ざってクマネズミやコックローチが這いずる音が響く。 「くそ…」 ターゲットの臭跡は途絶えたようだった。 夏の雨は肌や服にまとわりついて、前を走っていたギャビンは不快感についに足を止めた。 「ギャビン、一先ず署に戻りましょう、あなたでなければこんなにも追跡できませんでしたよ」 ギャビンは不服そうに鼻を鳴らした。 「お前でも無理か」 「ええ、もうとっくにセンサーは感知していません」 ギャビンが雨避けに被っていたフードを取ると、先程まであったはずの獣の耳はすっかり消えていた。署に連絡を取りながら少しだけ彼を観察する。ターゲットを追っている最中、絶妙に揺れてはバランスを取っていた尻尾もジーンズの隙間から消えている。 今はもう、よく見知ったいつも通りのギャビンだ。 動揺の黄色いライトは誤魔化せただろうか。 「変異した動物のアンドロイドは人型のアンドロイドよりも厄介です」言語機能がプログラムされていないため意思の疎通ができない。変異すれば人型以上に人間の手に負える代物ではないのだ。 「見りゃわかる、アレはただの猛獣だ…作った奴馬鹿だろ」 「接続さえ出来れば」 「暴走してるコヨーテに触ろうなんてむちゃくちゃだな」 「ですがアンドロイドです…」 「知ってるよ」 触れさえすれば機体に接続して動きを止められるのだ。しかしそう簡単なことではないだろう。 待機中だった通信が入る。ギャビンもLEDの輝きに気づいたようだった。路地を抜けて広い通りに出たので、シャッターの下りた店先で雨を凌いだ。 「ギャビン、上からの指示でここから別行動になります。この先の通りにアンダーソン警部補とコナーが来ているそうなのであなたは二人に合流してターゲットをまた探してください」 「はあ?なんで俺が向こうなんだよ」 「ギャビンの方が動物の追跡に詳しいでしょう。私の判断です」 雨足が弱くなり、また頭上でガアガアとカラスが鳴いた。ギャビンは苛立たしげに唸り首筋を掻いた。 「分かった。お前は」 「私は別件で分析班に行きますが終わり次第合流します」 では、と体の向きを変える。自分は来た道を戻るほうが近い。 「ロビン!」 「?」 「まて、ちょっとこっち来い」 振り返ると、すぐ目の前にギャビンの顔があってうろたえる。耳に彼の髪が当たった。お互いの頬が擦れるようにぶつかってすぐに離れた。彼の髭が当たる感触が心地よかった。
「群れがお前と共に走ってくれますように」
ボソリと低い声でつぶやくと、彼は表通りへとかけていった。足音も気配もすぐに雨の中に消えてしまう。 取り残された路地に、雨の音と遠い街の喧騒だけが響く。彼が触れていた頬が熱を持ったように熱くなった。 「群れ…」 ギャビンが話してくれたワタリガラスの神話。秘密を教えてもらったあの日、彼の口から聞いた獣人の伝承を思い返す。ワタリガラスの落とした貝、つまり海洋から始まった生命は進化を続け、様々な生物が発生した。生存の日々、ひ弱な人間は他の動植物を捕食しその力を借りるという方法で生き延びてきた。元々は自然の循環の一部だった人間は、いつしかそのサイクルから離れ、自然を搾取するようになり、一方、植物や動物は生き残るために共生を選び、人間の繁殖力を利用して長い年月をかけ獣人へと進化を続けた。そして今はその殆んどが人間として社会に暮らしている… その一人が彼だ。 「…………」 気の遠くなるような時間だ。雨が河になり、岩を削り渓谷を作るくらい。遠い星が生まれ、その輝きが届くくらい。自分には無い、そして絶対に追いつけない時間。 そのゼロとイチでは測りきれないほどのギャビンとの距離を、あの一言が埋めてくれた。ギャビンにとっては何てこと無い挨拶なのかもしれない。しかしそれは、プラスチックの体を持つ自分が、40億年の遺伝子を持つ彼の群れの一頭になってしまうまじないだった。 頭上でまたカラスが鳴いた。 弾かれたように路地を駆け出す。いつの間にか、電気信号とブルーブラッドで動く二本の足は広大な地を蹴る四本の足に変わり、黒と白のジャケットは豊かな毛皮になって雨を弾いて風を切った。 彼が横を走っているような気がした。
灰色熊
 初雪に包まれた朝のDPDは騒がしい。電話が鳴り、怒号が飛び、ギャビンはずっと不機嫌に唸っている。 触らぬ神に祟りなしだ。気の毒にだれもが彼を避けて通っていた。 ギャビンにコーヒーを持っていくためにブレイクルームを出ると、コナーに呼び止められた。 「おはよう、ロビン。腕のところすごい毛がついてるけど、君、犬でも触ったのかい?」 「いえ、ああ、はい…それよりもコナー、警部補を起こした方が良いのでは?」 「えっ…もう!ハンク!お腹が一杯になったからって寝ないでください…!」 「それでは…」分析される前に足を速める。今はそれどころではないのだ。 ギャビンのデスクにコーヒーを置くと、突っ伏していた顔が上がる。 「おせーよ」 「1分もかかってません」 隣にある自分のデスクに戻る。彼は受け取ったコーヒーを一口飲むと、手元の端末を操作した。うつむいた項の生え際にふわふわとした毛が浮いている。うっとおしそうに首筋を掻くと重いため息をついた。 「はあーーーー痒い痒いかゆいかゆいかゆい…」 「ギャビン…あまり掻かないでください…」 席を立って彼の背中を強めにさすってやると、あーとか、うーとか…なんとも言えない声が出る。ひとまず顔周りをバリバリにさせることは防げたようだ。 「しんどすぎる…」 「春はそうでもなかったのにどうしたのでしょうか…何か心当たりは?」 例年より気温が高い日々が続いていたのが最近になって急激に下がったために、換毛がスムーズに行かなかったのだろうか。即座に「犬、換毛期、トラブル」で調べるが、目ぼしい情報は見当たらなかった。 視線を感じ顔を上げるとコナーと、その向かいにいるアンダーソン警部補が顔を突き合わせてニヤニヤとこちらを見ていた。 (良い旦那もらえてよかったな) 警部補が口の動きだけでそう言った。ギャビンは無言で中指を立てている。 「絶滅種が…冬眠してろや…」 「冬眠?」 唸るようなギャビンの声に首をかしげるとコナーから通信が入る。 《君たちはいつの間に結婚したんだ?》 《してません》
またギャビンがむずむずと動き出したので肩をさする。マルチタスクで業務の手は止めていないが、周りからすれば介抱しているようにしか見えないだろう。 《ところでリード刑事大変そうだけど、さっき君の袖に着いてた毛が原因なんじゃないか?…それで調べたんだけど、これ犬じゃなくて…オオカミみたいなんだけど、君たち動物園にでも行ったのかい?》 《………》 《ロビン?》 《ええ、そうなんです。それでちょっとアレルギーが出てるみたいで… それよりコナー、警部補は冬眠されるのですか?》 《冬眠?》 コナーは不思議そうに首をかしげた。
山鳩色のタペータム
 隣で小さく跳ねた体温が、穏やかにたゆたっていた意識を浮上させた。ゆっくりとスリープモードを解除する。 「ギャビン?」 「うーん…」 背中をむけて眠っていたギャビンは器用に寝返りをうつと、ごそごそとこちらの胸元にもぐり込んでくる。 寝ぼけていてもなかなか寝顔を見せようとしない様子に苦笑いする。静まり返った夜更けの空気が少しだけ震えた。朝日が入るようにと開けられたカーテン。少しだけ開けられた窓から花の香りがする。仕事を終えて静かに消えた街灯のむこうに、沈みかけの月が見えた。 肌のセンサーが気温を感知する。寝汗で彼の体が冷えないように毛布をそっと引きあげてやる。 「目がさめた…」 胸元からくぐもった声がする。枕に押しつけられてくしゃくしゃになっている髪をすいてやると、パッチリと目が合った。前髪を直す彼の癖。 「今何時だ?」 「3時45分12秒です」 声帯を震わさずに出す声は内緒話をしているようで楽しい。普段寝起きの良い彼の舌足らずな声を聞くのは久しぶりで、慌てて深層の保存領域にアクセスをする。 「あ?真夜中じゃねーか…」 「最近出ずっぱりで疲れすぎていたのかもしれませんね、眠れそうですか?」 「ん〜…」 「気温が急に上がったので体が慣れてないのかもしれません」 そっと頭を撫でると、ぐずるようにパジャマにしがみついてきた。今着ているのは、彼が買ってくれた綿と合成繊維でできた濃紺のパジャマだ。 彼はその匂いを分析するかのように鼻を動かすと、息を吐き出す。パジャマの下の機体がもわりとした湿度を感知した。 「変な夢見た…」 唇にやわらかな感触。彼の髪の毛から覗く、ふっくらとした毛皮。穏やかにとんがったシルエットはオオカミの耳だった。 「お前は夢見ないからいいよな…」 「はい、良いかは分かりませんが…人間のような夢を見ることはありません…」 満足そうな鼻息が聞こえる。 ギャビンのこの姿を見たのは数えるほどしかない。腕に触れるうなじの生え際や毛布の中で絡まる足先がうっすらと毛皮をまとって、フサフサとした感触が擽ったい。 体は人間のまま耳と尻尾だけオオカミの���のになっているのだ。獣人という種族の最も合理的な姿をしている。彼曰く、これが一番楽で自然体なのだという。 「ギャビン…?寝ぼけているんですか?」 「うん?起きてるよ」 「触れても、良いですか?」 欠けている方の毛皮の耳がぴくりと動いた。 「触んなって言ったら触んねーのかよ?」 毛布の中に隠れている、彼の尾骨から伸びる尻尾は苛立たしげに揺れただろうか。 「あなたの…嫌がることはしたくないので…」 ぴくぴくと動く耳は音を探しているだけではなく、落ち着かない彼の心情をそのままに伝えてくるようで、小さく笑みを漏らしてしまう。 「好きにしろよ」 そっと毛皮の耳に口付けると、データには無い、不思議な遺伝子情報が流れ込んでくる。 「ありがとうございます」 彼の目に見つめられると、その瞳から目が離せなくなる。霜がおりた木の葉のような、山鳩色の虹彩が、LEDの黄色を反射してギラリと色を変えた。オオカミのマナーを思い出す。目を逸らさなければならなのに動けなかった。オオカミに追い詰められ、凍った湖に足を取られて、動けなくなったアカシカになった気分だ。 このうつくしい獣に食べられてしまいたいとも思ってどうしようもない。 「おい、いつまで撫でてんだ…ぬいぐるみじゃねーんだぞ」 「ギャビ…」 唇に、毛皮とは違う柔らかな濡れた感触。いつもよりほんの少しだけ深く触れ合った舌に、かたい犬歯が当たる。 「味見」 「…食べられてしまうかと思った」 それを聞いた彼が静寂を揺らすように大きく笑う。開いた唇の隙間から長く鋭い犬歯が見えた。 「お前のこと食っちまいたいよ」 乱暴な言葉とは裏腹に、触れる手つきは優しい。うっすらと毛皮の生えた手の甲で頬を撫でられると、声が漏れそうになる。 「ーーーーー」 どこの国の言語とも一致しない不思議な言葉。喉を震わせる歌うような声。彼の言葉が理解出来ないのは、少し寂しい気持ちになる。しかしその顔を見ると、都合よく意味を解釈してしまう。 「私もですよ、ギャビン」 驚いたような、けれど嬉しそうな意地悪な彼の微笑み。きらきらと光を反射する不思議な色の瞳。それだけで今は十分に満足だった。
 中庭のジャカランダは、ここのアパートの大家がチリ旅行に出かけたとき気に入ってわざわざ植えたのだという。熱帯の植物だが、寒帯の気候に適応するまでそうかからなかったらしい。ギャビンのようだと思った。動物だけでなく、植物もこの世界での生き残りに必死なのだ。もしくは、温暖化が進んで平均気温が上がっているだけなのかもしれないが。 北米の初夏、紫雲木とも呼ばれているその木は、紫色の花が満開の見ごろをむかえていた。薄曇まばらな空から朝日が差し込んで、ジャカランダの透き通る青みの強い紫が照らされる。うつくしい色だ。 「こんな朝早くから…ピクニックだ?てか何年ぶりだよ。しかも家の前って…」 「綺麗ですね」 散った紫色の花が木の周り一面に絨毯を広げている。持ってきたラグを木の根元に敷いて腰を下ろすと彼も隣に座った。紫の地面に使い古された織物の白が映える。昨日の残りのポテトサラダをハムと一緒にパンに挟んで朝食を作った。 「ぜってー昼眠くなるだろこれ」彼は大きく口を開けるとそれを二口で食べてしまった。パン屑をねだりにムシクイがピョンピョンと木から下りてきた。 キスのあと二人は本格的に眠れなくなり、ベッドを抜け出すと早すぎる朝食を作ったのだった。 起き出す前「早く食っちまいたい」と彼は言ったけれど、しかしどうやらそれはまだらしい。 彼とはいつの間にか、ゆるやかに、人間でいうところの恋人のような関係になった。病み上がりの彼を診るために半同居をしていて、そのまま一緒に暮らすようになったのだ。 直接的な言葉はもらっていないし、渡していない。けれど彼からの接触は、グルーミング以上の意味があるように感じているし、それが嬉しくも思う。 「昨日と今日に0時という区切りがあるのは面白いですね」 「はあ?」 「朝と夜は繋がっている。暗い空の向こうから太陽が昇ってきて、明るくなる、そして沈んで暗くなる。正確には地球が回っているのですが…人間はそれの繰り返しに区切りを付けて日付をつけた」 「お前ってアンドロイドの癖に時々哲学的だよな」 日ごとに同じ長さ伸びる枝はありません。芽は随時伸びているし、鳥の雛も区切り無く成長している。そう言うと、彼は「そうだな」と一言、またサンドウィッチに手を伸ばした。聞いているのかいないのか、ムシクイにパンをちぎってやっていた。 「私は…あなたのことを愛していますよ」ギャビンの手が止まる。爽やかな夏の朝の風が吹いてジャカランダの筒状の花がぼとりと落ちてきた。 「………」 彼の耳が赤いのは、透ける朝日のせいだけではないはずだ。ふわふわのオオカミの耳も表情豊かだが、人間の薄い耳だってこちらが恥ずかしくなるほど彼のことを教えてくれる。 彼の特別な言葉が分からなくたって彼の大体のことは分かってしまうのだ。 ぼふんと毛皮の耳が現れる。この傲慢で世間を見下している一匹オオカミは、とんでもなく奥手で優しくて愛情深い。私がもしオオカミなら、尻尾を千切れんばかりに振って、くんくんと鼻を鳴らして彼におなかを見せていることだろう。 山鳩色の瞳がじっと見つめてくる。私は尊敬を込めて、ふいと視線を逸らした。
「ーーーーー」
やっぱり、確かに、幾度となく囁かれたこの歌うような言葉は。彼からの愛の言葉だ。
湖畔
 シャワーを浴びて部屋に戻ると、ソファーの上でロビンが縮こまってスリープモードになっていた。 付けっぱなしの電気、ヒーター、加湿器。煌々と明るく暖かい部屋。秋も終わると言うのに、ここだけはまるで春のような暖かさだ。 とっくに日付は変わっていた。早くこいつをを起こして寝床に移さないと面倒なことになる。寒さに弱いアンドロイドは機能を保つため冬は人間のように暖かい。そうすると暖を取ろうとしてくっついていたくなってしまうのだ。 (このままじゃ俺がソファーで寝ることになる…ていうかアンドロイドって寝落ちするんだな…) 電気を消す。やっと、この部屋にも夜が来た。どこからかキツネの声がする。
仕事が終わり家に帰ってくると、暗いはずの部屋の窓にあかりがついていた。
中古で手に入れた郊外のアパートの一室は隙間こそ多少あるが趣があって気に入っている。 駐車場兼中庭の葉の落ちたジャカランダが窓の明かりを鈍くはね返して陶器のように光る。 ウーフウーフとフクロウの鳴く声が遠くから聞こえた。 深緑色のサッシの窓がカラカラと音を立ててスライドする。 「おかえり、ギャビン」 「おう」 窓から顔を出したロビンがふわふわと笑っていた。自分の息が外気で白く凍る。 「寒かったでしょう」 バイクで風に当たり凍えた身体も少し暖かくなった気がした。 「今日は買い物をしに外に出ただけであとは家に居ました」 「そか」 ソファーで一息ついたら、ロビンがコーヒーを出して隣に座った。こっくりとした白練色の焼物のマグカップ。取っ手が欠けてしまったのをロビンが金継ぎで直したやつ。お気に入りにならないはずがなかった。コーヒーの香りが心地良い。 「お疲れ様」 「サンキュ」 あとは?と聞く。バラバラに過ごした日、お互いの出来事を話すささやかな日課だ。昼食が遅かったので、作ってもらっていた夕食は明日の朝にまわすことにした。 「昼間、中庭にハイイロリスが来てたのでクラッカーをあげました」「うん」「そしたらショウジョウコウカンチョウとアオカケスが大群で来て襲われました」「笑える」 ロビンはよく鳥たちの止まり木にされる。人間のように臭わないし、危害もくわえないので鳥たちも餌をくれる機械くらいにしか思ってないのだろう。ブルージェイやカーディナルに群がられているこいつを想像してにやけていると、ロビンは拗ねた顔になってしまった。が、かわいいのでそのまま無視した。頬に甘噛みしてやるとくすぐったそうに返される。グルグルと喉を鳴らしてわざとらしく匂いを嗅ぐ。石鹸の良い香りがした。 「あーだからお前小鳥臭いのか」 「もう…本当に意地悪なひとですね…」 「あはは」
 明かりを落とした部屋の中、カーテンからこぼれた細い光が、ベッドに横たわっているロビンの薄い頬を照らしていた。埃がキラキラと輝いている。満月が近いのかやけに外が明るい。窓に手を伸ばしそっとカーテンを開けると光は一気に溢れて洪水のように部屋中を満たした。まぶしい光に狭まった視界を暗い部屋に戻すと、世界が青みがかって見えた。ロビンの息遣いで静かな水面が揺れているようだ。 「すごい月だぞ」 返事は無く、静かに結ばれた口元が少し震えたように見えた。眩しそうに眉間に皺。完全なスリープモードではないのかもしれない。 もし今、こいつが目を開けたら凍った湖のような秘色色があふれるんだろう。 氷の張った湖に大きな月が反射する。それをどうしても手に入れたくて、湖畔から踏み出す。しかし向こう見ずのオオカミは、薄くなった氷に気づかず湖に捉えられて沈んでしまうのだろう。 大人しく湖畔のベッドに腰を下ろして月がロビンを照らすのをただ眺めていた。艶やかなエルクのような髪の色。水底の光をかき集めて、影を作る睫毛を、通った鼻筋をなぞる。人間と変わらない肌だ。 ロビンが身じろいだ。まるで視線で愛撫しているようでおかしいと思った。 ロビンが目を開けていた。 「起きてたのか」 凍った湖に自分が映っている。変な顔をした、赤茶けたオオカミの姿。ヒーターのジーという音がやけにうるさく感じて、耳をせわしなく動かしてしまった。 「貴方に食べられるのを待っていました」 気づけば足元は薄い氷だった。
六本足の踊り
 オオカミの背の毛皮はマホガニーのような色をしていて、波打つ度に金色にきらめいた。 横腹や足先の毛は銀色で雪を反射してキラキラと風のように光る。ようやく登ってきた太陽が森を照らしはじめて、オオカミのたてがみは一層きらめきを増した。遅い遅い朝が来た。 頭の上ではジョウビタキがさえずり、足元ではライチョウのグロロロという声が静かに響く。葉の残っているトウヒたちはさわさわと賑やかにお喋りをしては身体を震わせて雪を落とした。その間を縫うようにギャビンはどんどん走っていった。 オオカミの姿をした彼は四本のたくましい足で飛ぶように木々を抜ける。その後ろを離れないように、二本の足を懸命に動かしてついて行く。いくら自分が戦闘に特化しているといっても、雪深い木々の間を走るのは一苦労だった。小さな吹き溜まりに足を取られて転びそうになる。激しい動作により通常の機能では排熱が追い付かず、はあはあと口を開けて熱を逃がした。 「ギャビン、」 待ってくれと声をかけるが、前を走っていたギャビンはすでに姿を消していた。雪の上に、彼が残した足跡が転々と浮かんでいるだけだった。 溜息と共に口から出て行った熱は外気に白く溶けていく。幸いここはGPSも機能するし、ギャビンも相棒を置いてきたことに気づけば戻るか待つかしてくれるだろう。  足を止めてしまえば、雪を踏むザクザクとした音も、耳の側を駆け抜けていく風の音も止んで、自分の排熱音が響くだけだ。雪のツンとした香りがする。見上げると、カバノキの白い枝の間から薄い青空が覗いていた。 雪を掻き分けてようやく吹き溜まりから抜けた。相変わらずギャビンの気配はなく、どうしようかとLEDを回して立ち尽くしているとどこからかキツツキの笑い声が聞こえた。 ギャビンがいなければ自分はすっかりこの森の異物になってしまう。 足跡を辿ってゆっくり進むと沢の音が聞こえてきた。ネズの茂みに被った雪が固まり氷柱になって垂れ下がっている。沢の上まで来ると流れが良く見えた。黒々とした岩の間に飛び越えられるくらいの小さな流れを見つける。そこへ音も立てずヤマセミがとまり、捕まえた魚を岩に叩きつけていた。 気づけば一面足跡だらけだった。ギャビンの物を追うのは造作も無いが、その他にも賑やかに走り回るキツネやクズリ、アカネズミ、カワウソの様子が予測機能で次々に再現されていく。 足元に突き出ている枝に絡まっているのはノウサギの毛だろう。パキパキと後ろで音がして振り向くと、エルクの親子が鼻先で雪を退かして器用に苔を食べていた。鳥たちは騒がしく縄張りを取り合い、相変わらず木々は楽しげにお喋りを続けている。雪に覆われた世界は、生命に溢れていて、全てが自分に無関心だった。 すっかり落ち着いた機体が吐き出す息はもう白くはならなかった。  ゆっくりと歩きながらオオカミの足跡を辿っていく。頭に何かが当たり見上げるとハシバミが咲いていた。クリーム色の羊の尻尾のような花が辺り一面に垂れている。花を落とさないように薮をくぐっていると、夏にギャビンと羊を追いかけた事を思い出す。デトロイト郊外で飼われている羊が遠くまで行ってしまい、一日中追いかけ回したのだ。彼は終始悪態ばかりだったが楽しかった。 そんな事を考えながらハシバミを観察していると、峰の方でオオカミが吠えた。サイレンのように低く長く響き、最後は掠れて溶���るように途切れる。 ギャビンが自分を呼ぶ声だ。 『どこに居るんだー!さっさと来やがれ』といったところだろうか。その声に驚いたワピチがぴょんぴょんと茂みから飛び出して跳ねていった。 すると遥か遠くの山からオオカミの群れの声が届いた。 『きみはどこにいる?』 『ここはすばらしいぞ!』 『仲間がたくさんいる!獲物もたくさんいる!』 『オレたちはすばらしいところにいる!』 遠吠えがこだまする。大きい群れだろうか。物珍しそうに、ギャビンの返事を待っているのだ。しかし彼はその声を一切無視してまた自分を呼んだ。 『ロビンーーーー!』 「いま行く!!」 遠吠えではない、ただの大声でそう返すと、その音量に驚いたコガラがバタバタ逃げていった。 ビャクシンの間を抜けた先の山頂付近の雪原、ぽつねんと一本だけ立ったオークのそばにギャビンは居た。後ろから朝日に照らされて大きなオオカミの身体が黒く浮かび上がる。 「何してたんだよ」 不機嫌な声。鼻にシワがよっている。手を着いて雪原を登る。 「すみません、ヤマセミがいて、初めて見たので気になってしまったんです。マスを叩きつけて仕留めていたんですよ、エルクの親子もいました」 録画しましたよ。ギャビンの隣に腰を下ろすとふさふさの尻尾がおざなりに揺れて少しだけ手に触れた。 「ったく…オーロラが見たいの次は朝日が見たいときた…次は夕日か?」「よく分かりましたね」 ここはデトロイトから遠く離れたカナダの最北だ。極夜があけて初めての晴れた朝、ギャビンとともに泊まっていたロッジを飛び出して、朝日を見るために山頂まで走ってきたのだ。 氷河は溶け切り、森林限界は年々北上しているという。北極圏も近いというのに、賑わう森があった。 「年始休みは南の島にでも行こうかと思ってたのにな」 「北の果てに来てしまいましたね」 「ふん…」 「あなたと極夜のオーロラと朝日を見ることが出来て幸せです」 ギャビンが後足を崩してもたれかかってきて、右肩にずしりと重みを感じる。その毛皮の下の暖かさも知りたくなって、温度感知機能をオンにする。 「!さ、さむ…」 しかし、彼の体温を知る前に、外気の凄まじい寒さを感知してしまった。思わずギャビンにしがみつく。 「うわ!なんだよ」「さ、さむくて…!」 生体部品が凍りつかないように防寒はしているが、予想以上の寒さだった。 「お前、気温感じないようにしてたんじゃないのかよ」 「少しだけオンにしてみようとおもったんです」 ギャビンがずっとオオカミの姿をしていた理由に気づく。あたたかな毛皮と、雪に沈まないかんじきのような四本の足が羨ましくて、ぎゅうと抱きつく。 すると重みに耐えられなくなった足元の雪がズルズルと悲鳴を上げながら砕けて滑って、ギャビンと共に雪の中に放り出された。 「うわ!?」 なだらかな白い丘陵に描かれたいびつな線を、太陽がぬるく照らした。ごろごろと雪煙を上げてふたりもつれ合って転がっていく。視界が空と地面を何度も往復して、やっとのことで雪山にぶつかって回転が止まった。 重み、そしてゆっさりとした毛皮の感触。生暖かい息が顔にかかる。揺れていた視覚ユニットが正常に戻れば、ギャビンは雪まみれになって自分の上にいた。 「この、ポンコツ」言葉とは裏腹に、あたかく湿った舌でめろめろと顔をなめられた。お返しにと彼の鼻先とヒゲをなめる。毛皮にこびりついた雪が舌の上で溶けると、氷の成分と一緒に彼の情報が表示された。 その表示の向こうに見える空は果てのない黒々とした青空だった。薄い空気の先の宇宙が見えるようだ。目が痛くなるほどの白と青のコントラスト。 「もっと暖めてください」 ごろんと彼の上に乗ると、ギャビンは甘えるようにスピスピと鼻を鳴らした。 目の前で揺れる、木の色の毛皮に指をうずめて、顔をこすり付けて、彼の匂いを吸い込む。 あれだけ賑やかだった森を抜けてしまえば、雪の上にいるのは自分とギャビンだけだった。
美しく燃える森
 ミシガン最北の島、アイル・ロイヤルは紅葉の季節を迎え、森は宝石のように色づいていた。 エルクの群れはのんびりと苔を食んで、キツネの親子のお喋りが聞こえる。小鳥たちはうるさく囀り、木々は色鮮やかに染った葉を揺らして楽しげに歌った。 眩しいカエデの並木道を早足で進む。頭上を舞う木の葉も、足元でがさがさと音をたてる落ち葉もその全てが、金色や、アンバーに輝いた。ハクガンだろうか、白い鳥の群れがV字を描いて遠い青空に浮かんでいた。 しばらく森の中を歩きハイキングコースに出る。メタセコイアの横にある鉄の橋を渡ると、かつてビジターセンターだった小屋が現れる。木とレンガで出来た小さな一軒家だ。壁に葡萄が伝って実が成っている。ポストを確認すると、一通手紙が入っていた。餌を貰えると勘違いしたのだろう、アカリスがやってきた。秋バラの小さなゲートをくぐって、玄関扉を開ける。 「ただいま」 暗い室内。朝に出たときのまま、固く閉められていたカーテンを勢いよく開けると埃がきらめく。陽光が矢のように差し込んで部屋に色をつけた。 「ギャビン、起きてください、休みだからと言って寝すぎですよ」 窓辺の大きなベッドを独り占めするように、毛布やキルトに包まってくちゃくちゃになっているギャビンをたたき起こす。 持っていた籠いっぱいの野イチゴを掲げた。 「あなたの大好きなベリーをたくさん頂きました。食べませんか?」 「んー…?んー…たべたい…」 「ほら、起きて」 「ロビン……」 「もう」 毛布から顔を出したギャビンは髪をあちこちに跳ねさせて、おまけに耳も片方ひっくり返っていた。それが可愛くてくすくすと笑うと、すぐ不機嫌になって毛皮の耳は仕舞われてしまう。お詫びに籠から野イチゴを一つだけ抓むと、彼の口に運んで食べさせてやった。
「もうすぐシーズンが終わるので、仕事が少なくなると思います」 「ん」 温暖化は進み、地球上の生物の四分の一が絶滅したといわれている。 数年前に起きた都市大気汚染による獣人の大量死。環境悪化の魔の手はギャビンにも伸びて、ついに二人でデトロイトの街を出た。ここに来てからはギャビンは環境保護警察として、犬や外来種の規制、狩猟の取り締まりなどの仕事を任され、デトロイトに居た頃ほどではないが急がしく働いていた。 「今日は?」 「一組が今日の帰りだったのでビーバー島まで迎えに行ってきました」 ネイチャーガイド兼レンジャーの仕事は楽しい。DPDで勤務していた時とは違い、常にギャビンと共に居る事はなくなってしまったが、島で働く者もそう多くないので仕事場は近い。 「それで、ビジターがベリーをくれたんですよ」 「なるほど」 「野生のオオカミが見られなくて残念そうにしてたので行ってあげてくださいね」 「絶対嫌だね…お前言ってないだろうな…」 「まさか」 ギャビンは大きく口を開けて一気に野イチゴを頬張った。あとでジャムにしようと思ったのに、もう半分以上食べられてしまった。タンブラーにブルーブラッドを注ぐと、彼の金継ぎのマグカップにもコーヒーを用意する。ホーローのポットがおだやかに湯気を立てていて、漂う先を目で追う。ロフトやハシゴから吊るされているドライフラワー。暖炉の横に立てかけられたスノーボードと釣竿。薪置きには「アイル・ロイヤル・ナショナルパーク」の広報誌が溜まっている。古く歪んだガラスの窓に映る紅葉は絵画のようで、部屋の中の全てのものを優しく照らしていた。 「またすぐ冬が来ますね」 「ああ、そうだな」 「ギャビン、川の方の紅葉が見ごろでした。朝食が終わったら、ビジターの見送りついでに見に行きませんか?」 彼は頷いてから、今度はパンにかぶりついた。自家製の黒パン。これも職場で貰ったものだ。その他にも廃屋だったこのビジターセンターをリノベーションしてくれた島民、ブルーブラッドなどの物資を運んでくれる連絡船のアンドロイドたち。そして獣人のコミュニティ。随分と周りに支えられて生きていることに気づいて暖かな気持ちになる。 「そうだ、コナーから手紙が届いていました」 「手紙ぃ?あいつほんとアナログ大好きだな…さすがじじいのわんころ…」 「ギャビン、行儀が悪いですよ」 椅子の上に乗せられた足をポンと叩く。
 午後の日差しは暖かで、入り江は凪いで鏡のようだ。今シーズンで最後の旅行者になるだろう、彼等をカナダへの連絡船に乗せて、今日の仕事は終わりだ。 桟橋を戻ると、現ビジターセンターの小屋で待たせていたはずのギャビンはそこには居らず、すぐ近くのバーチの木立の中にいた。 「!」 白樺の白い幹とレモン色に染まった葉に紛れるように、5、6歳の子供がギャビンと話していた。雪のような肌と髪の、まっ白い少年だ。ギャビンは困ったような顔でしゃがみこんでいて、少年と目を合わせて何か喋っている。迷子だろうか。島は東西に長く、ビジターセンターや港、我が家がある西側とは違い、東側には少数だが島民が住んでいるのだ。急いで彼らに合流すると、ギャビンはホッと息をついた。 「ーーーー!」 「あ、」 ふと呼び声が聞こえて振り返ると、木立の向こうに人影を見つける。 「ママ!」 少年は弾かれたように駆けていった。彼と似たもう一人の子供をつれた、母親らしき人物がこちらに頭を下げていた。手を上げて応える。 少年は母親に抱きついて再会を喜んでいた。 「双子でしょうか?大事無くてよかったですね」 「オメー、来るのが遅いんだよ」 「ギャビンがワタワタしてるのを見るのがおもしろくて、つい」 「あ?型落ちロボコップは人助けの仕方も忘れたか?」 足に蹴りを入れられた。お返しにと落ち葉をかける。ヒートアップしそうだったので、彼を羽交い絞めにして動きを止めた。 親子はこちらに背を向けて森の道に入っていった。三人の白い髪と肌が、紅葉の中に溶けていくようだ。子ども達のころころとした笑い声が、爽やかな秋の風の中で響いた。
「シロクマ…」 「?」 ゆったりと遠ざかる親子を見て、シリウムポンプが強く脈打つような感覚に襲われた。あっと声を上げる。ギャビンは動きを止められたままの格好で不思議そうに彼等を見つめた。 「ギャビン、シロクマです、あの親子…」 「シロクマ?…ホッキョクグマはとっくに絶滅してるだろ」そう続けるギャビンはもがくのを諦めたようだった。 「でも、そんな気がするんです」 「ふーん…ならそうかもな」 ギャビンは彼等の消えた先を見つめて眩しそうに目を細めた。その表情に満足して、ふと腕の力を抜いてしまう。すると閉じ込めていた体が急にググっと動く。ズルズルと体の形を変えた彼は、器用に羽交い絞めから抜け出し、四つの足で落ち葉の絨毯の上に着地した。 「ざまぁねぇな!」 そのまま牙を見せて不敵に笑うと家の方向へ駆けていった。 「それは!反則!ですよ!」 敵わないのは分かっているが、必死に足を動かして彼を追いかけた。 「ギャビン、待って!」 転々と落ちている、彼が脱ぎ散らかした服を引っ掴んでは走る。 視界を流れていく、色とりどりの宝石のような紅葉。常緑樹に垂れ下がる不気味なサルオガセ、豊かな緑の苔、川の音。カラフルなキノコ。視覚ユニットが情報でどんどん溢れていく。 『おせーよ!ロビン!』 彼の呼び声が響く。蕩ける様な遠吠えだ。 足を止めて、手で口元を覆う。 「ゥワォーーーーーーーン!」 彼の遠吠えには似ても似つかない、ただ音量を最大にしただけの、人間の声に似せた音を響かせる。意味の無い、おまけに呼吸も必要無い、ただの叫び声。 けれど彼には届いているだろう。 二人の遠吠えはサイレンのように響き渡り、森の中に溶けていく。 騒がしい森。どんぐりをさがすアカリス、野ねずみの足音、薮に入ると絡んだウサギの毛が舞う。うるさく笑うキツツキをやり過ごして、ミツバチの羽音が耳元を掠める。木の洞ではワシミミズクがあくびをした。 エルクの群れを横切る、オオカミの足跡。この先に彼がいる。 ブルーブラッドが体中を巡る音。 生きている、何もかもが。美しく生命が燃えるこの森で。
Tumblr media Tumblr media
11 notes · View notes
hananien · 4 years
Text
【キャプトニ】フィランソロピスト
Tumblr media
ピクシブに投稿済みのキャプトニ小説です。
MCU設定に夢と希望と自設定を上書きした慈善家トニー。WS前だけどキャップがタワーに住んでます。付き合ってます。
ピクシブからのコピペなので誤字脱字ご容赦ください。気づいたら直します。
誤字脱字の指摘・コメントは大歓迎です。( Ask me anything!からどうぞ)
 チャリティーパーティーから帰ってきたトニーの機嫌は悪かった。スティーブは彼のために、知っている中で最も高価なスコッチウイスキーを、以前彼に見せられたyou tubeの動画通りのやり方で水割りにして手渡してやったが、受け取ってすぐに上品にあおられたグラスは大理石のバーカウンターに叩きつけられ、目玉の飛び出るくらい高価な琥珀色のアルコール飲料は、グラスの中で波打って無残にこぼれた。  「あのちんけな自称軍事評論家め!」 スティーブは、トニーが何に対して怒っているのか見極めるまで口を出さないでおこうと決めた。彼が摩天楼を見下ろす窓ガラスの前でイライラと足を踏み鳴らすのを、その後ろから黙って見つめる。  トニーは一通り怪し気なコラムニストの素性に文句を言い立て、同時に手元の情報端末で何かをハッキングしているようだった。「ほーらやっぱり。ベトナム従軍経験があるなんて嘘っぱちじゃないか。傭兵だと? 笑わせてくれる。それで僕の地雷除去システムを批判するなんて――」 左手で強化ガラスにホログラムのような画面を出現させ、右手ではものすごい勢いで親指をタップさせながら、おそらく人ひとりの人生を破滅させようとしているわりには楽しそうな笑みを浮かべてトニーは言った。「これで全世界に捏造コラムニストの正体が明かされたぞ! まあ、誰かがこいつに興味があったらニュースになるだろう」  「穏やかじゃないチャリティーだったようだな」 少しトニーの気が晴れたのを見計らって、スティーブはようやく彼の肩に触れた。  「キャプテン、穏やかなチャリティパーティーなんてないんだ。カメラの回ってないところじゃ慈善家たちは仮面を被ろうともしない。同類ばかりだからね」  トニーは振り返ってスティーブの頬にキスをすると、つくづくそういった人種と関わるのが嫌になったとため息をついた。「何が嫌だって、自分もそういう一人だと実感することがさ」  「それは違うだろう」  「そうか?」 トニーはスティーブの青い目を見上げてにやりと笑った。「僕が人格者として有名じゃないってことは君もご指摘のとおりだろ?」  「第一印象が最悪だったのは、僕のせいかい」 これくらいの当てこすりにはだいぶ慣れてきたので、スティーブは涼しい顔で返した。恋人がもっと悪びれると思っていたのか、トニーはつまらなそうに口をとがらせる。「そりゃそうさ。君が悪い。君は僕に興味なさそうだったし、趣味も好きな食べ物も年齢も聞かなかったじゃないか。友人の息子に会ったらまずは”いくつになった?”と聞くのがお決まりだろ。なのに君ときたらジェットに乗るなりむっつり黙り込んで」  「ごめん」 トニーの長ったらしい皮肉を止めるには、素直に謝るか、少々強引にキスしてしまうか、の二通りくらいしか選択肢がなかった。キスは時に仲直り以上の素晴らしい効果を与えてくれるが、誤魔化されたとトニーが怒る可能性もあったので、ここは素直に謝っておくことにした。  それに、”それは違う”と言ったのは本心だ。「君は自分が慈善家だと、まるで偽善者のようにいうけれど、僕はそうは思わない――君が人を助けたいと思うのは、君が優しいからだ」  「僕が優しい?」  「そうだ」  「うーん」 トニーは自分でもうまく表情を見つけられないようだった。スティーブにはそれが照れているのだとわかった。よく回る口で自分自身の美徳すら煙に巻いてしまう前に、今度こそスティーブは彼の唇をふさいでしまうことにした。
 結局、昨夜トニーが何に怒っていたのか、聞かずじまいだった。トニーには――彼の感情の表現には独特の癖があって、態度で示していることと、内心で葛藤していることがかけ離れていることさえある。彼が怒っているように見えても、その実、怒りの対象とは全く別の事がらについて心配していたり、計算高く謀略を巡らせていたりするのだ。  彼が何かを計画しているのなら、それを理解するのは自分には不可能だ。スティーブはとっくに、トニーが天才であって、自分はそうではないことを認めていた。もちろん軍事的なこと――宇宙からの敵に対する防備であるとか、敵地に奇襲するさいの作戦、武器や兵の配置、それらは自分の専門であるからトニーを相手に遅れをとることはない。それに、一夜にして熱核反応物理学者にはなれないだろうが、本腰を入れて学べばどんな分野だって”それなりに”モノにすることは出来る。超人血清によって強化されたのは肉体だけではない。しかし、そういうことがあってもなお、トニーの考えることは次元が違っていて、スティーブは早々に理解を諦めてしまうのだ。  べつにネガティブなことではないと思う。トニーが何をしようとも、結果は共に受け入れる。その覚悟があるだけだ。  とはいえ、昨夜のようにわざとらしく怒るトニーは珍しい。八つ当たりのように”自称軍事評論家”とやらの評判をめちゃめちゃにしたようだが、パーティーでちょっと嫌味を言われただけであそこまでの報復はしないだろう(断言はできないが)。彼への反感を隠れ蓑に複雑な計算式を脳内で展開していたのかもしれないし、酔っていたようだから、本当にただの”大げさな怒り”だったのかもしれない――スティーブは気になったが、翌日になってまで追及しようとは思わなかった。特に、隣にトニーが寝ていて、ジャービスによって完璧に計算された角度で開かれたブラインドカーテンから、清々しい秋の陽光が差し込み、その日差しがトニーの丸みを帯びた肩と長い睫毛の先を撫でるように照らしているのを何の遠慮も邪魔もなく見つめていられる、今日みたいな朝は。  こんな朝は、キスから始まるべきだ。甘ったるく、無駄に時間を消費する、意味だとか難しい理由なんかこれっぽっちもないただのキス。  果たしてスティーブの唇がやわらかな口ひげに触れたとき、トニーのはしばみ色の瞳が開かれた。  ……ああ、美しいな。  キスをしたときにはもうトニーの目は閉じられていたが、スティーブはもっとその瞳を見ていたかった。  トニー・スタークの瞳はブラウンだということになっている。強い日差しがあるとき、ごく近くにいるとわかる、彼の瞳はブラウンに緑かかった、透明水彩で描かれたグラスのように澄んだはしばみ色に見える。  彼のこの瞳を見たことのある人間は、スティーブ一人というわけではないだろう――ペッパー・ポッツ、有名無名のモデルや俳優たち、美貌の記者に才気ある同業者――きっと彼の過去に通り過ぎていった何人もの男女が見てきたことだろう。マリブにあった彼の自宅の寝室は、それはそれは大きな窓があり、気持ちの良い朝日が差し込んだときく。  けれど彼らのうち誰も、自分ほどこの瞳に魅入られ、囚われて、溺れた者はいないだろう。でなければどうして彼らは、今、トニーの側にいないのだ? どうして彼から離れて生きていられるのだ。  「……おはよう、キャップ」  「おはようトニー」 最後に鼻の先に口付けてからおたがいにぎこちない挨拶をする。この瞬間、トニーが少し緊張するよ���に感じられるのは、スティーブの勘違いではないと思うのだが、その理由も未だ聞けずにいる。  スティーブは、こと仕事となれば作戦や戦略のささいな矛盾や装備の不備に気がつくし、気がついたものには偏執的なほど徹底して改善を要求するのだが、なぜか私生活ではそんな気になれないのだった。目の前に愛しい恋人がいる。ただそれだけで、心の空腹が満たされ、他はすべて有象無象に感じられる。”恋に浮わついた”典型的な症状といえるが、自覚していて治す気もない。むしろ、欠けていた部分が充実し、より完全な状態になったような気さえする。ならば他に何を案じることがある? 快楽主義者のようでいてじつは悲観的なほどリアリストであるトニーとは真逆の性質といえた。  トニーが先にシャワーを浴びているあいだ、スティーブはキッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。スティーブと付き合うようになってから、いくつかのトニーの不摂生については改善されたが、起床後にコーヒーをまるで燃料のようにがぶ飲みする癖は変わらなかった。彼の天災のような頭脳には必要不可欠のものと思って今では諦めている。甘党のくせに砂糖もミルクも入れないのが、好みなのか、ただものぐさなだけかもスティーブは知らない。いつからかスティーブがティースプーンに一杯ハチミツを垂らすようになっても、彼は何も言わずにそれを飲んでいるので、実はカフェインが入っていれば味はどうでもいいのかもしれない。  シャワーから上がってきたトニーがちゃんと服を着ているのを確認して(彼はたまにごく自然に裸でキッチンやタワーの共有スペースにご登場することがある、たいていは無人か、スティーブやバナーなど親しい同性の人間しか居ないときに限ってだが)、スティーブもバスルームに向かった。着替えを済ませてキッチンに戻ると、トニーは何杯目かわからないブラック・コーヒーを飲んでいたが、スティーブが用意したバナナマフィンにも手をつけた形跡があったのでほっとする。ほうっておくとまともな固形食をとらない癖もなかなか直らない。スティーブはエプロンをつけてカウンターの中に入り、改めて朝食の用意を始める。十二インチのフライパンに卵を六つ割り入れてふたをし、買い置きのバゲットとクロワッサンを電子オーブンに適当に放り込んでセットする。卵をひっくり返すのは危険だということを第二次世界大戦前から知っていたので、片面焼きのまま一枚はトニーの皿に、残りは自分の皿に乗せる。半分に割ったりんご(もちろんナイフを使う。手で割ってみせたときのトニーの表情が微妙だったため)を添えてトニーの前に差し出すと、彼は背筋を伸ばして素直にそれを食べ始めた。バゲットはただ皿に置いただけでは食べないので手渡してやる。朝食時のふるまいについては今までに散々口論してきたからか、諦めの境地に達したらしいトニーはもはや無抵抗だ。  特に料理が好きだとか得意だとかいうわけでもないのだが、スティーブはこの時間を愛していた。トニーが健康的な朝の生活を実行していると目の前で確認することが出来るし、おとなしく従順なトニーというのはこの時間にしかお目にかかれない(夜だって、彼はとても”従順”とはいえない)。秘匿情報ファイルであろうとマグカップだろうと他人からの手渡しを嫌う彼が、自分の手から受け取ったクロワッサンを黙って食べる姿は、人になつかない猫を慣れさせたような甘美な達成感をスティーブに与えた。  「今日の予定は?」  スティーブが自分の分の皿を持ってカウンターの内側に座る。斜め向かいのトニーは電脳執事に問い合わせることなく、カウンターに置いたスマートフォンを自分で操作してスケジュールを確認した。口にものが入っているから音声操作をしないようだった。ときどき妙にマナーに正しいから面食らうことがある。朝の短時間できれいに整えられたトニーの髭が、彼が咀嚼するたびにくにくに動くのを見て、スティーブは唐突にたまらない気分になった。  「僕は――S.H.I.E.L.D.の午前会議に呼ばれてるんだ。食べ終わったら出発するよ。それから午後は空いてるけど、君がもし良かったら……」 トニーの口が開くのを待つあいだ、彼の口元を凝視していては”健全な朝の活動”に支障を来しそうだったので、スティーブは自分の予定を先に話し始めた。「……良かったら、美術館にでも行かないか。グッケンハイムで面白そうな写真展がやってるんだ。東アジアの市場のストリートチルドレンたちを主題にした企画で――」  トニーはスマートフォンの上に出現した青白いホログラムから、ちらっとスティーブに視線を寄越して”呆れた”顔をした。よっぽど硬いバゲットだったのか、ようやく口の中のものを飲み込んだ彼は、今度は行儀悪く手に持ったフォークをスティーブに向けて揺らしながら言った。「デートはいいが、そんな辛気臭い企画展なんかごめんだ」  「辛気臭いって、君、いつだったか、そういう子供たちの救済のためのチャリティーを主催したこともあったろ」  「ああ、僕は慈善家だからね。現地視察にも行ったし、NPOのボランティアどもとお茶もしたし、写真展だって行ったことがある、カメラが回ってるところでな」 フォークをくるりと回してバナナマフィンの残りに刺す。「何が悲しくて恋人と路上生活者の写真を見に行かなくちゃならない? ”世界の今”を考えるのか? わざわざ自分の無力さを痛感しに行くなんていやだね。君と腕を組んでスロープをぶらぶら下るのは、まあそそられるけど」  「まったく、君ってやつは……」 スティーブは苦笑いするしかなかった。「じゃあ、ただスロープをぶらぶら下るだけでいいよ。ピカソが入れ替えられたみたいだ。デ・キリコのコレクションも増えたっていうし、展示されてるなら見てみたい。噂じゃどこかの富豪が画家の恋人のために、イタリアのコレクターから買い付けて美術館に寄付したって」  「きみもすっかり情報機関の人間だな」  「まあね。絵が好きな富豪は君以外にもいるんだなって思った」  「君は間違ってる。僕は”超・大”富豪だし、べつに絵は好きで集めてるんじゃない。税金対策だよ。あと、火事になったとき、三億ドルを抱えるより、丸めた布を持って逃げるほうが効率いいだろ?」  「呆れた」  「絵なんて紙幣の代わりさ。高値がつくのは悪い連中が多い証拠だな」  ところで、とトニーはスマートフォンを操作し、ホログラムを解除した。「せっかくのお誘いはありがたいが、残念ながら僕は今日忙しいんだ。社の開発部のやつらが放り投げた……洋上風力発電の……あれやこれやを解析しなきゃならないんでね。美術館デートはまた今度にしてくれ。その辛気臭い企画展が終わった頃に」  「そうか、残念だよ」 もちろんスティーブは落胆なんてしなかった。トニーが忙しいのは分かっているし、それはスティーブが口を出せる範囲の事ではない。ふたりのスケジュールが完全に一致するのは、地球の危機が訪れた時くらいだ。それでもこうして一緒の屋根の下で暮らしているのだから、たかが一緒に美術館に行けないくらいで残念がったりはしない。ごくふつうの恋人たちのように、夕暮れのマンハッタンを、流行りのコーヒーショップのタンブラーを片手に、隣り合って歩けないからといって、大企業のオーナーにしてヒーローである恋人を前に落胆した顔を見せるなんてことはしない。  「スティーブ、すねるなよ」 しかしこの(肉体的年齢では)年上の恋人は、敏い上にデリカシーがない。多忙な恋人の負担になるまいと奮闘するスティーブの内心などお見通しとばかりに、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべてからかうのだ。「君だってこの前、僕の誘いを断ったろ? しかも他の男と会うとかで」  「あれはフューリーに呼び出されて……」  「ニック・フューリーは男だ! S.H.I.E.L.D.の戦術訓練なんて急に予定に入るか? あいつは僕が気に入らないんだ、君に悪影響を与えるとかで」  「君に良い影響を与えてるとは思えないのかな」  スティーブはマフィンに刺さったフォークでそれを一口大に切り分け、トニーの口元に運んでやった。呆気にとられたような顔をするトニーに、首をかしげてにっこりと微笑む。  トニーはしてやられたとばかりに、さっと頬を赤くした。  「この、自信家め」  「黙って全部食べるんだ、元プレイボーイ」  朝のこの時間、トニーはとても従順な恋人だ。
 トニーに借りたヘリでS.H.I.E.L.D.本部に到着すると(それはもはやキャプテン・アメリカ仕様にトニーによってカスタムされ、「なんなら塗装し直そうか? アイアンパトリオットとお揃いの柄に?」と提言されたが、スティーブは操縦システム以外の改装を丁重に断った)、屋内に入るやいなや盛大な警戒音がスティーブを迎えた。技術スタッフとおぼしき制服を来た人間が、地下に向かって駆けていく。どうやら物理的な攻撃を受けているわけではなさそうだったので、スティーブは足を速めながらも冷静に長官室へと向かった。  長官室の続きのモニタールームにフューリーはいた。スティーブには携帯電話よりもよほど”まとも”な通信機器に思える、設置型の受話器を耳に当て、モニター越しに会話をしている。というか、怒鳴っている。  「いつからS.H.I.E.L.D.のネットワークは穴の開いた網になったんだ? 通販サイトのほうがまだ上手にセキュリティ対策してるぞ!! あ!? 言い訳は聞きたくない、すべてのネットワーク機器をシャットダウンしろ、お前らの出身大学がどこだろうと関係ない。頼むから仕事をしてくれ、おい、聞いてるか? ああ、ん? 知るか、そんなの。あと二時間以内に復旧しなけりゃ、今後は機密情報はamazonのクラウドに保存するからな!!」  「ハッキングされたのか?」  長官の後ろに影のように控えていたナターシャ・ロマノフにスティーブは尋ねた。  「そのようね。今のところ、情報の漏洩はないみたいだけど、レベル6相当の機密ファイルに不正アクセスされたのは確定みたい」  「よくあるのか?」  「こんなことがよくあっては困るんだ」 受話器を置いたフューリーが言った。「午前会議は延期だ、午後になるか、夕方になるか、夜中になるかわからん」  「現在進行中の任務に影響は?」  「独立したオペシステムがあるから取りあえずは問題ない。だがもしかしたら君にも出動してもらうかもしれない。待機していてくれるか」  スティーブは頷いた。そのまま復旧までモニタリングするというフューリーを置いて、ナターシャと長官室を出る。  「S.H.I.E.L.D.のセキュリティはどうなってる? 僕は専門外だが、情報の漏洩は致命的だ。兵士の命に関わる」  「我々は諜報員よ、基本的には。だから情報の扱いは慎重だわ」 吹き抜けのロビーに出て、慌しく行きかう職員の様子を見下ろす。「でもクラッキングされるのは日常茶飯事なのよ、こういう機関である故にね。ペンタゴンなんてS.H.I.E.L.D.以上に世界中のクラッカーたちのパーティ会場化されてるわ。それでも機密は守ってる。長官があの調子なのはいつものことでしょ」  「じゃあ心配ない?」  「さあね。本当に緊急なら情報工学の専門家を呼ぶんじゃない。あなたのとこの」  すべてお見通しとばかりに鮮やかに微笑まれ、スティーブは口ごもった。  トニーとの関係は隠しているわけではないが、会う人間全てに言って回っているわけでもない。アベンジャーズのメンバーにも特に知らせているわけではなかった(知らせるって、一体どういえばいいっていうんだ? ”やあ、ナターシャ。僕とトニーは恋人になったんだ。よろしく”とでも? 高校生じゃあるまいし)。だからこの美しい女スパイは彼らの関係を自力で読み解いたのだ。そんなに難しいことではなかっただろうとは、スティーブ自身も認めるところだ。  ナターシャは自分がトニーを倦厭していた頃を知っている。そんな相手に今は夢中になっていることを知られるのは居た堪れなかった。断じてトニーとの関係を恥じているわけではないのだが……ナターシャは批判したりしないし、クリントのように差別すれすれの表現でからかったりもしない。ひょっとすると、彼女は自分たちを祝福しているのではないかとさえ思う時がある。だからこそ、こそばゆいのかもしれなかった。  「ところで……戦闘スタイルだな。出動予定があったのか」  身体にぴったりとフィットした黒い戦闘スーツを身にまとったナターシャは肩をすくめて否定した。「私も会議に呼ばれて来たの。武装は解除してる」  スティーブが見たところ、銃こそ携帯していないが、S.H.I.E.L.D.の技術が結集したリストバンドとベルトをしっかりと装着していて、四肢が健康なブラック・ウィドウは未武装といえない。だかこのスタイル以外の彼女を見ることが稀なので、そうかと聞き流した。  「僕は復旧の邪魔にならないようにトレーニングルームにいるよ。稽古に付き合ってくれる奇特な職員がいるかもしれない」  「私は長官の伝令だからこの辺にいるわ。復旧したらインカムで知らせるから、とりあえず長官室に来て」 踵を返して、歩きながらナターシャは振り向きざまに言った。「残念だけど電話は使えないわよ。ダーリンに”今夜は遅くなる”って伝えるのは、もうちょっと後にして」  「勘弁してくれ、ナターシャ」  聞いたこともない可愛らしい笑い声を響かせて、スーパースパイはぎょっとする職員たちに見向きもせず、長官室に戻っていった。
 トニーの様子がおかしいのは今更だが、ここのところちょっと度が過ぎていた。ラボに篭りきりなのも、食事を取らなかったり、眠らなかったり、シャワーを浴びなかったりして不摂生なのも、いつものことといえばいつものことで、それが同時に起こって、しかも自分を避けている様子がなければスティーブも一週間くらいは目をつぶっただろう。
 S.H.I.E.L.D.がハッキングされた件は、その日のうちに収拾がついた。犯人は捕まえられなかったが、システムの脆弱性が露見したので今後それを強化していくという。  スティーブがタワーに帰宅したのは深夜になろうかという頃だったが、トニーはラボにいて出てこなかった。これは珍しいことだが、研究に没頭した日には無いこともない。彼の研究が伊達ではないことはもうスティーブも知っているから、著しく不健康な状態でなければ邪魔はしない。結局、その日は別々に就寝についた。と、スティーブは思っていた。  次の日の朝、隣にトニーはいなかった。きっと自分の寝室で寝ているのだと思い、先に身支度と朝食の用意を済ませてから彼の居室を訪れると、空の部屋にジャービスの声が降ってきた。  『トニー様は外出されました。ロジャース様がお尋ねになれば、おおよその帰宅時間をお伝えするようにとのことですが』  「どこへ行ったんだ? 急な仕事が入ったのか?」  『訪問先は聞いておりません』  そんなわけがあるか、とスティーブは思ったが、ジャービスを相手に否定したり説得したりしても無駄なことだった。乱れのないベッドシーツを横目で見下ろす。「彼は寝なかったんだ。車なら君がアシストできるだろうけど、もし飛行機を使ったなら操縦が心配だ」  『私は飛行機の操縦も可能です』  「そうか、飛行機で出かけたんだな。なら市外に行ったのか」  電脳執事が沈黙する。スティーブの一勝。ため息をついて寝室を出た。  ジャービスはいい奴だが(このような表現が適切かどうか、スティーブには確信が持てないでいる)、たまにスティーブを試すようなことをする。今朝だって、”彼”はキッチンで二人分の食事を支度するスティーブを見ていたわけだから、その時にトニーが外出していることを教えてくれてよかったはずだ。トニーの作った人工知能が壊れているわけがないから、これは”彼”の、主人の恋人に対する”いじわる”なのだとスティーブは解釈している。トニーはよくジャービスを「僕の息子」と表現するが――さしずめ、父親の恋人に嫉妬する子供といったところか。そう思うと、自分に決して忠実でないこの電脳執事に強く出られないでいる。  「それで……彼は何時ごろに帰るって?」  『早くても明朝になるとのことです』  「えっ……本当に、どこに行ったんだ」  『通信は可能ですが、お繋ぎしますか』  「ああ、いや、自分の電話でかけるよ。ありがとう。彼のほうは、僕の予定は知ってるかな」  『はい』  「そう……」 スティーブはそれきり黙って、二人分の食事をさっさと片付けてしまうと、朝のランニングに出掛けた。  エレベータの中で電話をかけたが、トニーは出なかった。
 それが四日前のことだ。予告した日の真夜中に帰ってきたトニーは、パーティ帰りのような着崩したタキシードでなく、紺色にストライプの入ったしゃれたビジネススーツをかっちりと着込んでふらりとキッチンに現れた。スティーブの強化された嗅覚が確かなら、少なくとも前八時間のあいだ、一滴も酒を飲んでいないのは明らかだった。――これは大変珍しいことだ。今までにないことだと言ってもいい。  彼は相変わらず饒舌で、出来の悪い社員のぐちや、言い訳ばかりの役員とお小言口調の政府高官への皮肉たっぷりの批判を、舞台でスピーチするみたいに大仰にスティーブに話して聞かせ、その間にも何かとボディタッチをしてきた。どれもいつものトニー、平常運転だ。しかしスティーブは、そんな彼の様子に違和感を覚えた。  彼が饒舌なのはよくあるが、生産性のないぐちを延々と口上するときはたいてい酔っている。しらふでここまで滔々としゃべり続けることはないと、スティーブには思われた。べたべたと身体に触ってくるのに、後から思えば意図されていたと思わずにはいられないくらい、不自然に目を合わせなかった。スティーブが秘密工作員と関係のない職種についていたとしても、自分の恋人が何かを隠していると気付いただろう。  極め付けはこれだ。スティーブはトニーの話を遮って、「君の風力発電は順調?」とたずねた。記憶が確かなら、この二日間、彼が忙しかったのはそのためであるはずだ。  「石器時代のテクノロジーがどうしたって?」  スティーブはぐっと拳を握りたいのを我慢して続けた。「だって、君――その話をしてただろ?」  「ああ……」 トニーは一瞬だけ、せわしなく何くれと動かしていた手足を止めた。「おもい出した。言ったっけ? ロングアイランド沖に発電所を建設するんだ。もう何年も構想してるんだけど、思ったよりうちの営業は優秀で――何しろほら、うちにはもっと”すごいやつ”があるんだし――そう簡単に量産は出来ないけど――それで僕は気が進まないんだが、州知事がGOサインを出してしまってね、ところが開発の連中が怖気づいてしまったんだ、というか、一人失踪してしまって……すぐに見つけ出して再洗脳完了したけど――冗談だよ、キャップ――でも無理はない事だとも思うんだ、だって考えてみろ……今時、いつなんどき宇宙から未知の敵対エネルギーが降ってくるかもしれないのに、無防備に海の上に風車なんて建ててる場合か? 奴らも責任あるエンジニアとして、ブレードの強度を高めようと努力してくれてるんだが、エイリアンの武器にどうやったら対抗出来るってんだ? 塩害や紫外線から守って次元じゃないんだろ? いっそバリアでも張るか? いっそそのほうが……うーん、バリアか。バリアってのはなかなか面白そうなアイデアだ、しかしそうすると僕は……いやコストがかかりすぎると、今度は失踪者じゃすまなくなるかも……」  スティーブは確信した。  トニーは自分に何か隠している。忙しいとウソまでついて。しかもそれは――彼がしらふでこんなに饒舌になるくらい、”後ろめたい”ことだ。
 翌朝から今度はラボに閉じこもったトニーは、通信にも顔を出さなかった。忙しいといってキッチンにもリビングにも降りてこないので、サンドイッチやら果物をラボに届けてやると、その時に限ってトニーは別の階に移動していたり、”瞑想のために羊水カプセルに入った”とジャービスに知らされたり(冗談だろうが、指摘してもさらなる馬鹿らしい言い訳で煙に巻かれるので否定しない。羊水カプセル? 冗談だよな?)して本人に会えない。つまりトニーはジャービスにタワー内のカメラを監視させて、スティーブがラボに近付くと逃げているのだ。  恋人に避けられる理由がわからない。しかし嫌な予感だけはじゅうぶんにする。トニーが子供っぽい行動に走るときは、後ろめたいことがあるとき――つまり、”彼自身に”問題があると自覚しているときだ。  トニーの抱える問題? トニー・スターク、世紀の天才。現代のダ・ヴィンチと称された機械工学の神。アフガニスタンの洞窟に幽閉されてもなお、がらくたからアーク・リアクターを作り上げた優れた発明家にしてアイアンマン――億万長者という言葉では言い表せないほどの富と権力を持ち、さらには眉目秀麗で頭脳明晰、世間は彼には何の悩みも問題もないと思いがちだが――そのじつ、いや、彼のことを三日もよく見ていればわかることだ。彼は問題ばかりだ。問題の塊だといってもいい。  一番の問題は、彼が自分自身の問題を自覚していて、直そうとするどことか、わざとそれを誇張しているということだ。スティーブにはそれが歪んだ自傷行為にしか見えない。酒に強いわけでもないのに人前で浴びるように飲んでみたり、愛してもいない人間と婚約寸前までいったり(ポッツ嬢のことではない)、パーソナルスペースが広いわりに見知らぬファンの肩を親し気に抱いてみたり、それに――平和を求めているのに、兵器の開発をしたり――していたのは、すべて彼の”弱さ”であるはずだが、トニーはもうずいぶんと長いあいだ、世間に向けてそれが”強さ”だと信じさせてきた。大酒のみのパーティクラッシャー、破天荒なプレイボーイ、気取らないスーパーヒーロー、そして真の愛国者。アルコール依存症、堕落したセックスマニア、八方美人のヒーロー、死の商人というよりもよっぽど印象がいい。メディアを使った印象操作は彼の得意分野だ。トニーは自分がどう見られているか、常に把握している。  そういう男だから、性格の矯正はきかないし、付き合うのには苦労する。だからといって離れられるわけがないのだから、これはもう生まれ持ってのトラブル・メーカーだと割り切るしかない。  考えるべきことはひとつ。彼の抱える問題のうち、今回はどれが表面化したのか?
 トニーに避けられて四日目の朝、スティーブは再びD.C.のS.H.I.E.L.D.本部に出発しようとしていた。先日詰められなかった会議の再開と、クラッキング事件の詳細報告を受けるためだ。ジャービスによるとトニーはスティーブの予定を知っているようだが、ヘリの準備を終えても彼がラボ(あるいは羊水カプセルか、タワー内のいずれかの場所)から出てくることはなかった。見送りなんて大げさなことを期待しているわけではないが、今までは顔くらい見せていたはずだ。  (これじゃ、避けられてるどころか、無視されているみたいだ)  そう思った瞬間、スティーブの中でトニーの抱える問題の一つに焦点が合った。
 ナターシャはいつもの戦闘用スーツに、儀礼的な黒いジャケットを着てS.H.I.E.L.D.の小さな応接室のひとつにいた。彼女が忙しい諜報活動の他に、S.H.I.E.L.D.本部で何の役についているのか、スティーブは知らされていなかった――だから彼女が応接室のチェストを執拗に漁っているのが何のためなのかわからなかったし、聞くこともしなかった。ナターシャも特に自分の任務に対して説明したりしない。スティーブはチェストの一番下の引き出しから順々に中を改めていくナターシャの後ろで、戦中のトロフィーなどを飾った保管棚のガラス戸に背をもたれ、組んだ腕を入れ替えたりした。  非常に言いにくいし、情けない質問だし、聞かされた彼女が良い気分になるはずがない。だがスティーブには相談できる相手が彼女しかいなかった。  「ナターシャ、その――邪魔してすまない」  「あら構わないのよ、キャップ。そこで私のお尻を見ていたいのなら、好きなだけどうぞ」  からかわれているとわかっていても赤面してしまうのは、スティーブの純潔さを表すチャームポイントだ、と、彼の恋人などはそう言うのだが――いい年をした男がみっともないと彼自身は思っていた。貧しい家庭で育ち、戦争を経験して、むしろ現代の一般人よりそういった表現には慣れているのに――おそらくこれが同年代の男からのからかいなら、いくら性的なニュアンスが含まれていようが、スティーブは眉ひとつ動かさないに違いない。ナターシャのそれはまるで姉が弟に仕掛けるいたずらのように温かみがあり、スティーブを無力な少年のような気持ちにさせた。  「違う、君は……今、任務中か? 僕がここにいても大丈夫?」  「構わないって言ったでしょ。用があるなら言って」  確かにナターシャの尻は魅力的だが、トニーの尻ほどではない――と自分の考えに、スティーブは目を閉じて首を振った。「聞きたいことがあるんだけど」 スティーブは出来るだけ、何でもないふうに装った。「僕はその、少し前からスタークのタワーに住んでいて――……」  「付き合ってるんでしょ。なあに、トニーに浮気でもされたの?」  スティーブはガラス戸から背中を離して、がくんと顎を落とした。「オー・マイ……ナット、なんでわかったんだ」  「それは、こっちの……台詞だけど」 いささか呆気にとられた表情をして、ナターシャは目的のものを見つけたのか、手のひらに収まるくらいの何かをジャケットの内ポケットに入れると、優雅に背筋を伸ばした。「トニーが浮気? ほんとに?」  「ああ、いや……多分そうなんじゃないかと……」  「この前会ったときは、あなたにでろでろのどろどろに惚れてるようにしか見えなかったけど、ああいう男は体の浮気は浮気だと思ってない節があるから、あとはキャップ、あなたの度量しだいね」  数日分の悩みを一刀両断されてしまい、スティーブは一瞬、自分の耳を疑った。音もなくソファセットの前を通り過ぎ、部屋を出て行こうとしたナターシャを慌てて呼び止める。「そ、そうじゃないんだ。浮気したと決まったわけじゃない。ただトニーの様子がこのところおかしいから、もしかしたらと思って――それで君に相談ができればと……僕はそういうのに疎いから」  「おかしいって? トニー・スタークが?」  まる��スティーブが、空を飛んでいる鳥を見て”飛べるなんておかしい”と言ったかのように、ナターシャは彼の正気を疑うような目をした。「そうだよな」 スティーブは認めた。「トニーはいつもおかしいよ。おかしいのが彼だ。何でも好きなものを食べられるのに、有機豆腐ミートなんて代物しか食べなかったり――それでいて狂ったようにチーズバーガーしか食べなかったり――それでも、何か変なんだ。僕を避けてるんだよ。通信でも顔を見せない。まる一日、どこかに行ったきりだと思ったら、今度はラボにずっとこもってる。ジャービスに彼の様子を聞こうにも、彼はトニー以外のいうことなんてきかないし、もうお手上げだ」  ナターシャはすがめたまぶたの間からスティーブを見上げると、一人掛けのソファに座った。スティーブも正面のソファに座る。彼女が長い足を組んで顎に手を当て考え込むのを、占い師の診断を仰ぐ信者のように待つ。  「ふーん……それって、いつから?」  「六日前だ。ハッキング事件の当日はまだ普通だったけど、その翌日はやたらと饒舌で……きみも付き合いが長いから、トニーが隠し事をしているときにしゃべりまくる癖、知ってるだろ」  「それを聞いたら、キャプテン、私には別の仮説が立てられるわ」  「え?」  「来て。会議の前に長官に報告しなきゃ」  ナターシャの後を追いながら、スティーブは彼女が何を考えているか、じわじわと確信した。「君はもしかして、S.H.I.E.L.D.をハッキングしたのが彼だと――」  「最初から疑ってたのよ。S.H.I.E.L.D.のネットワークに侵入できるハッカーはそう多くない。世界でも数千人ってとこ。しかもトニーには前歴がある。でもだからこそ、長官も私も今回は彼じゃないと思ってた」  「どういうことだ」  「ハッカーにはそれぞれの癖みたいなのがあるのよ。自己顕示欲の強いやつは特に。登頂成功のしるしに旗を立てるみたいに、コードにサインを入れるやつもいる。トニーのは最高に派手なサインが入ってた。今回のはまるで足跡がないの。S.H.I.E.L.D.のセキュリティでも追いきれなかった」  「トニーじゃないってことだろう?」  「前回、彼は自分でハッキングしたわけじゃなかった。あの何か、変な小さい装置を使って人工知能にやらせてたんでしょ。今回は自分でやったとしたら? 彼がMIT在学中に正体不明のハッカーがありとあらゆる国の情報機関をハッキングした事件があった。今も誰がやったかわかってないけど――」  そこまで言われてしまえば、スティーブもむやみに否定することはできなかった。  「……ハッキングされたのは一瞬なんだろう。トニーがやったのなら、どうしてずっとラボにこもってる」  「データを盗めたとしても暗号化されてるからすぐに読めるわけじゃない。じつのところ、まだ攻撃され続けてる。これはレベル5以上の職員��しか知らされていないことだけど、現在進行形でサイバー攻撃されてるわ。たぶん、復号キーを解析されてるんだと思う。非常に高度なことよ、通信に多少のラグがあるだけで、他のシステムには全く影響していない。悪意あるクラッカーやサイバーテロ集団がS.H.I.E.L.D.の運営に配慮しながらサイバー攻撃するなんて、考えられなかったけど――もしやってるのがアイアンマンなら、うなずける。理由は全く分からないけど」  ナターシャはすでに確信しているようだった。長官室の扉を叩く前に、スティーブを振り返り、にやりと笑った。  「ねえ、よかったじゃない――浮気じゃなさそう」  「それより悪いかもしれない」 スティーブはほっとしたのとうんざりしたのと、どっちの気持ちを面に出したらいいか迷いながら返した。恋人が浮気したなら、まあ結局は許すか許さないかの話で、なんやかんやでスティーブは許してしまったことだろう(ああ、簡単じゃないか、本当に)。しかし、恋人が内緒で国際平和維持組織をハッキングしていたのなら、まるで話の規模が変わってくる。  ああ、トニー、君はいったい、何をやってるんだ。  説明されても理解できないかもしれないが、僕から隠そうとするのはなぜだなんだ。  「失礼します、長官。報告しておきたいことが――」 四回目のノックと同時に扉を開け、ナターシャは緊急時にそうするように話しながら室内に入った。「現行のサイバー攻撃についてですが、スタークが関わっている可能性が――」  「報告が遅いぞ」 むっつりと不機嫌なニック・フューリーの声が響く。部屋には二人の人物が居た――長官室の物々しいデスクに座るフューリーと、その向かいに立つトニー・スタークが。  「ところで、コーヒーはまだかな?」 チャコールグレイの三つ揃えのスーツを着たトニーは、居ずまいを正すように乱れてもいないタイに触れながら言った。ちらりと一瞬だけスティーブに目をくれ、あとはわざとらしく自分の手元を注視する。「囚人にはコーヒーも出ないのか? おい、まさか、ロキにも出してやらなかった?」  「トニー、君……」  スティーブが一歩踏み出すと、ナターシャが腕を伸ばして止めた。険の強い声音でフューリーを問いただす。「どういうことです? 我々はサイバーセキュリティの訓練を受けさせられていたとでも?」  「いや、彼は今朝、自首しにきたんだ、愚かにも、自分がハッキング犯だと。目的は果たしたから理由を説明するとふざけたことを言っている。ここで君たちが来るまで拘束していた」  ナターシャの冷たい視線を、トニーは肩をすくめて受け流した。  「本当か? トニー、どうしてそんなことをしたんだ」  「ここだけの話にしてくれ」 トニーはスティーブというより、フューリーに向かって言った。「僕がこれから言うことはここにいる人間だけの耳に留めてくれ」 全く頷かない長官に向かって、トニーはため息をついて両手を落とした。「あとは、そうだな。当然、僕は無罪放免だ。だってそうだろ? わざわざバグを指摘してやったんだ。表彰されてもいいくらいだろう! タダでやってやったんだぞ!」  「タダかどうかは、私が決める」 地を這うように低い声でフューリーは言った。「放免してやるかどうかも、その話とやらを聞いてから決める。さっさと犯罪行為の理由を釈明しないなら、この場で”本当”に拘束するぞ。ウィドウ、手錠は持ってるか」  「電撃つきのやつを」  「ああ、わかった、わかった。電撃はいやだ。ナターシャ、それをしまえ。話すとも、もちろん。そのためにD.C.まで来たんだ。座っていい?」 誰も頷かなかったので、トニーは再びため息をついて、革張りのソファの背を両手でつかんだ。  「それで、ええと――僕が慈善家だってことは、皆さんご承知のことだとは思うんだが――」  「トニー」 自分でもぎょっとするくらい冷たい声で名前を呼んで、スティーブは即座に後悔したが――この場に至っても自分を無視しようとするトニーに、怒りが抑えられなかった。  トニーは大きな目を見開いて、やっとまともにスティーブを視界に入れた。こんな距離で会うのも数日ぶりだ。スティーブは早く彼の背中に両手を回したくて仕方なかったが、その後に一本背負いしない自信がなかったので、ナターシャよりも一歩後ろの位置を保った。  「……べつに話を誤魔化そうってわけじゃない。僕が慈善家だってことは、この一連の僕の”活動”に関係のあることなんだ。というより、それが理由だ」 ゆらゆら揺れるブラウンの瞳をスティーブからそらせて、トニーは話し始めた。
 七日前にもトニーはS.H.I.E.L.D.に滞在していた。フューリーに頼まれていた技術提供の現状視察のためもあったが、出席予定のチャリティー・オークションのパーティがD.C.で行われるため、長官には言わないが、時間調整のために本部内をぶらぶらしていたのだ。たまに声をかけてくる職員たちに愛想よく返事をしてやったりしながら、迎えの車が来るのを待っていた。  予定が狂ったのは、たまたま見学に入ったモニタールームEに鳴り響いた警報のせいだった――アムステルダムで任務中の諜報員からのSOSだったのだが、担当の職員が遅いランチ休憩に出ていて(まったくたるんでいる!)オペレーション席に座っていたのはアカデミーを卒業したばかりの新人だった。ヘルプの職員まで警報を聞いたのは訓練以外で初めてという状態だったので、トニーは仕方なく、本当に仕方なく、子ウサギみたいに震える新人職員からヘッドマイクを譲り受け(もぎ取ったわけじゃないぞ! 絶対!)、モニターを見ながらエージェントの逃走経路を指示するという、”ジャービスごっこ”を――訂正――”人命と世界平和に関する極めて責任重大な任務”を成り代わって行ったのだ。もちろんそれは成功し、潜入先で正体がばれたまぬけなエージェントたちは無事にセーフハウスにたどり着き、新人職員たちと、ランチから戻って状況の飲み込めないまぬけな椅子の男に対し、長官への口止めをするのにも成功した。ちょっとしたシステムの変更(ほら、僕がモニターの前に座って契約外の仕事をしているところが監視カメラに映っていたら、S.H.I.E.L.D.は僕に時間給を払わなくちゃいけなくなるだろ? その手間を省いてやるために、録画映像をいじったんだ――もしかしたら。怖い顔するな。そんなような気がしてたんだ、今まで)もスムーズに成立した。問題は、そのすべてが完了するのに長編映画一本分の時間がかかったということだ。トニーの忠実な運転手は居眠りもしないで待っていたが、チャリティーに到着したのは予定時刻から一時間以上は経ったころだった。パーティが始まってからだと二時間は経過していた。それ自体は大して珍しいことではない。トニーはとにかく、パーティには遅れて到着するタイプだった(だって早く着くほうが失礼だろ?)。  しかし、その日に限って問題が発生する。セキュリティ上の都合とやらで(最近はこんなのばっかりだな)、予定開始時刻よりも大幅にチャリティー・オークションが早まったのだ。トニーが到着したのは、もうあらかたの出品が終わったあとだった。  トニーにはオークションに参加したい理由があった。今回のオークションに限ったことではない。トニーの能力のもと把握することが出来る、すべてのオークションについて、彼は常に目を光らせていた。もちろん優秀な人工知能の手も借りてだが――つまり、この世のすべてのオークションというオークションについて、トニーはある理由から気にかけていた。好事家たちの間でだけもてはやされる、貴重な珍品を集めるためではない――彼が、略奪された美術品を持ち主に返還するためのグループ、「エルピス」を支援しているからだ。  第二次世界大戦前や戦中、ヨーロッパでは多くの美術品がナチスによって略奪され、焼失を逃れたものも、いまだ多くは、ナチスと親交のあった収集家や子孫、その由来を知らないコレクターのもとで所有されている。トニーが二十代の頃に美術商から買い付けた一枚の絵画が、とあるユダヤ人女性からナチ党員が二束三文で買い取った物だと「エルピス」から連絡があったのが、彼らを支援するきっかけとなった。それ以来、トニーが独自に編み上げた捜索ネットワークを使って、「エルピス」は美術品を正当な持ち主に戻すための活動を続けている(文化財の保護は強者の義務だろ。知らなかった? いや、驚かないよ)。数年前にドイツの古アパートから千点を超す美術品が発見されたのも、「エルピス」が地元警察と協力して捜査を続けていた”おかげ”だ。時間も、根気もいる事業だが、順調だった。そして最近、「エルピス」が特に網を張っている絵画があった。東欧にナチスの古い基地が発見され、そこには宝物庫があったというのだ――トニーが調べた記録によれば、基地が建設されたと思わしき時期、運び込まれた数百点の美術品は、戦後も運び出された形跡がなかった――つまり宝物庫が無事なら、そこにあった美術品も無事だったということだ。  数百点の美術品のうち、持ち主が明確な絵画が一点あった。ユダヤ人投資家の男で、彼の祖父が所有していたが、略奪の目にあい彼自身は収容所で殺された。トニーは彼と個人的な親交もあり、特に気にかけていた。  その投資家の男がD.C.の会場にも来ていて、遅れてやってきたトニーに青い顔で詰め寄った。「”あれ”が出品されたんだ――」 興奮しすぎて呼吸困難になり、トニー美しいベルベッドのショール・カラーを掴む手にも、ろくな力が入っていなかった。「スターク、”あれ”だ――本当だ。祖父の絵画だ。ナチの秘宝だと紹介されていた。匿名の人物が競り落とした――あっという間だった――頼む、あれを取り戻してくれ――」  (なんて間の悪いことだ!) 正直なところ、トニーは今回のオークションにそれほど期待していたわけではなかった。長年隠されていた品物が出品されるとなれば、出品リストが極秘であろうと噂になる。会場に来てみてサプライズがあることなど滅多にない。それがまさかの大当たりだったとは! こんなことなら、時間つぶしにS.H.I.E.L.D.なんかを使うんじゃなかった。トニーは投資家に「落札者を探し出し、説得する」と約束し、その後の立食パーティで無礼なコラムニストを相手にさんざん子供っぽい言い合いをして、帰宅の途についた――そして、ジャービスに操縦を任せた自家用機の中で、匿名の落札者につ���て調べたが、思うように捗らなかった。もちろん、トニーが本気になればすぐにわかることだ――しかし、ちょっとばかり酔っていたし、別に調べることもあった。そちらのほうは、タイプミスをしてジャービスに嫌味を言われるまでもなく、調べがついた。  網を張っていた絵画と同じ基地にあった美術品のうち、数点がすでに別の地域のオークションや美術商のもとに売り出されていた。
 「これがどういうことか、わかるだろう」 トニーは許可をとることをやめて、二人掛けのソファの真ん中にどさりと腰かけた。デスクに両肘をついて、組んだ手の中からトニーを見下ろすS.H.I.E.L.D.の長官に、皮肉っぽく言い立てる。「公表していないが、ナチスの基地を発見、発掘したのはS.H.I.E.L.D.だろ。ナチスというより、ヒドラの元基地だったらしいな。そこにあった美術品が横流しされてるんだ。すぐに足がつくような有名なものは避けて、��品ばかり全国にばらけて売っている。素人のやり方じゃないし、僕はこれと似たようなことをやる人種を知っている。スパイだよ。スパイが物を隠すときにやる方法だ」  「自分が何を言ってるかわかってるのか」 いよいよ地獄の底から悪魔が這い出てきそうな不機嫌さで、フューリーの声はしゃがれていた。「S.H.I.E.L.D.の職員が汚職に手を染めていると、S.H.I.E.L.D.の長官に告発しているんだぞ」  「それどころの話じゃない」 トニーは鋭く言い放った。「頂いたデータを復号して、全職員の来歴を洗い直した。非常に臭い。ものすごい臭いがするぞ、ニック。二度洗いして天日干しにしても取れない臭いだ――」 懐から取り出したスマートフォンを操作する。「今、横流しに直接関わった職員の名簿をあんたのサーバーに送った。安心しろ、暗号化してある。解読はできるだろ?」 それからゆっくり立ち上がって、デスクの正面に立ち、微動だにしないフューリーを見下ろす。「……あんた自身でもう一度確認したほうがいい。今送った連中だけの話じゃないぞ。……S.H.I.E.L.D.は多くの命を救う。僕ほど有能じゃなくても、ないよりあったほうが地球にとっては良い」  「言われるまでもない」  「そうか」  勢いよく両手を合わせて乾いた音を響かせると、トニーは振り返ってスティーブを見つめた。ぐっと顎に力の入ったスティーブに、詫びるようにわずかに微笑んで、歩きながらまたフューリーを見る。「で、僕は無罪放免かな? それとも感謝状くれる?」  「帰っていいぞ。スターク。ひとりでな」  「そりゃ、寂しいね。キャプテンを借りるよ、長官。五分くらいいいだろう」  言うやいなや、トニーはナターシャの前を素通りすると、スティーブの二の腕を掴んで部屋を出ようとした。  「おい――トニー――……」  「キャップ」 ナターシャに視線で促され、スティーブはトニーの動きに逆らうのをやめた。うろんな顔つきで二人を見ているフューリーに目礼して、スティーブは長官室を後にした。
 「トニー……おい、トニー!」  トニーの指紋認証で開くサーバールームがS.H.I.E.L.D.にあったとは驚きだった。もしかしたらこれも”システム変更”された一つかもしれない――トニーは内部からタッチパネルでキーを操作して、ガラス壁を不透明化させた。そのまま壁に背をもたれると、上を向いてふーっと長い息を吐く。  スティーブは壁と同様にスモークされた扉に肩で寄りかかり、無言でトニーを見つめた。  「……えっと、怒ってるよな?」 スティーブが答えないでいると、手のひらを上げたり下ろしたりしながらトニーはその場をぐるぐると歩き出した。  「きっと君は怒ってると思ってた。暗号の解析なんか一日もかからないと思ってたんだが、絵画の落札者探しも難航して――まあ見つかるのはすぐに見つかったんだが、西ヨーロッパの貴族で、これがまた、筋金入りの”スターク嫌い”でね、文字通り門前払いをくらった。最初からエルピスの奴らに接触してもらえばもうちょっと話はスムーズについたな。それでも最終的には僕の説得に応じて、返還してくれることになった――焼きたてのパンもごちそうになったしね。タワーに帰るころには解析も済んでるはずだったのに、それから数日も時間がかかって――」  「何に時間がかかっていようが、僕にはどうだっていい」 狭い池で周遊する魚のように落ち着きのない彼の肩を掴んで止める。身長差のぶんだけ見上げる瞳の大きさが恋しかった。「僕が怒ってるのは、君が何をしていたかとは関係ない。それを僕に隠していたからだ。どうして、僕に何も言わない。S.H.I.E.L.D.に関わりのあることなのに――」  「だからだよ! スティーブ……君には言えなかった。確証を掴むまで、何も」  「何をそんなに……」  「わからないのか? フューリーも気付いたかどうか」 不透明化された壁をにらみ、トニーはスティーブの太い首筋をぐっと引き寄せて顔を近づけた。「わからないのか――ヒドラの元基地から押収した品が、S.H.I.E.L.D.職員によって不正に取引された――一人の犯行じゃない。よく計画されている。それに、関わった職員の口座を調べたが、どの口座にも大金が入金された痕跡がない。……クイズ、美術品の売り上げは、誰がどこに流してるんでしょう」  「……組織としての口座があるはずだ」  「そうだ。じゃあもう一つ、クイズだ。その組織の正体は? キャップ……腐臭がしないか」  「……ヒドラがよみがえったと言いたいのか」  「いいや、そのセリフを言いたいと思ったことは、一度もない」 トニーは疲れたように額を落とし、スティーブの肩にもたれかかった。「だから黙ってたんだ」  やわらかなトニーの髪と、力なくすがってくる彼の手の感触が、スティーブの怒りといら立ちを急速に沈めていった。つまるところ、トニーはここ数日間、極めて難しい任務に単独で挑んでいた状況で――しかもそれは、本来ならばS.H.I.E.L.D.の自浄作用でもって対処しなければならない事案だった。  体調も万全とはいえないトニーが、自分を追い込んでいたのは、彼の博愛主義的な義務感と、優しさゆえだった――その事実はスティーブを切なくさせた。そしてそれを自分に隠していたのは、彼の数多く抱える問題のひとつ、彼が”リアリスト”であるせいだった。彼は常に最悪を考えてしまう。優れた頭脳が、悲観的な未来から目を逸らさせてくれないのだ。  「もしヒドラがまだこの世界に息づいているとしても」 トニーの髪に手を差し入れると、そのなめらかな冷たさに心が満たされていく。「何度でも戦って倒す。僕はただ、それだけだ」  「頼もしいな、キャプテン。前回戦ったとき、どうなったか忘れた?」  「忘れるものか。そのおかげで、今こうして、君と”こうなってる”んだ」  彼が悲観的なリアリストなら、自分は常に楽観的なリアリストでいよう。共に現実を生きればいい。たとえ一緒の未来を見ることは出来なくとも、平和を目指す心は同じなのだから。  「はは……」 かすれた吐息が頬をかすめる。これ以上のタイミングはなかった。スティーブはトニーの腰を抱き寄せてキスをした。トニーはとっくに目を閉じていた。スティーブは長い睫毛が震えているのを肌で感じながら、トニーを抱きつぶさないように自分が壁に背をつけて力を抑えた――抱き上げると怒られるので(トニーは自分の足が宙をかく感覚が好きじゃないようだ、アーマーを未装着のときは)、感情の高ぶりを表せるのは唇と、あまり器用とはいい難い舌しかなかった。  幸いにして、彼の恋人の舌は非常に器用だった。スティーブはやわらかく、温かで、自分を歓迎してくれる舌に夢中になり、恋人が夢中になると、トニーはその状態にうっとりする。うっとりして力の抜けたトニーが腕の中にいると、スティーブはまるで自分が、世界を包めるくらいに大きく、完全な存在になったように感じる。なんという幸福。なんという奇跡。  「きみが他に――見つけたのかと思った」  「何を?」 上気した頬と涙できらめく瞳がスティーブをとらえる。  「新しい恋人。それで、僕を避けているのかと……」  トニーはぴったりと抱き着いていた上体をはがして、まじまじとスティーブを見つめた。 「ファーック!? それ本気か? 僕が何だって? 新しい……」  「恋人だ。僕が間違ってた。でも口が悪いぞ、トニー」  「君が変なこと言うから――それに、それも僕の愛嬌だ」  「君の……そういうところが、心配で、憎らしくて、とても好きだ」  もう一度キスをしながら、トニーの上着を脱がそうとしているうちに、扉の外からナターシャの声が聞こえた。  「あのね、お二人さん。いくら不透明化してるからって、そんな壁にべったりくっついてちゃ、丸見えよ」  スティーブの首に腕を回し、ますます体を密着させて、トニーは言った。「キャプテン・アメリカをあと五分借りるのに、いくらかかる?」  唐突にガラスが透明になり、帯電させたリストバンドを胸の前にかかげたナターシャが、扉の前に立っているのが見えた。  「あなた、最低よ、スターク」  「なんで? 五分じゃ短すぎたか? 心配しなくても最後までしないよ、キスと軽いペッティングだけだ、五分しかもたないなんてキャップを侮辱したわけじゃな……」  「あなた、最低よ、スターク!」  「キーをショートさせるな! 僕にそれを向けるな! 頼む!」  スティーブはトニーを自分の後ろに逃がしてやって、ナターシャの白い頬にキスをした。「なんだか、いろいろとすまない。ナターシャ……」  「いいわ、彼には後で何か役に立ってもらう」  トニーがぶつぶつと文句をつぶやきながらサーバーの間を歩き、上着のシワを伸ばすさまを横目で見て、ナターシャに視線を戻すと、彼女もまた同じ視線の動きをしていたことがわかった。  「……トニーを巻き込みたくない。元気にみえるけど、リアクターの除去手術がすんだばかりで――」  「わかってるわ。S.H.I.E.L.D.の問題は、S.H.I.E.L.D.の人間が片をつける」  ナターシャの静かな湖面のような緑の目を見て、自分も同じくらい冷静に見えたらいいと思った。トニーにもナターシャにも見えないところで、握った拳の爪が掌に食い込む。怖いのは、戦いではなく、それによって失われるかもしれない現在のすべてだ。  「……もし、ヒドラが壊滅せずにいたとしたら――」  「何度だって戦って、倒せばいい」 くっと片方の唇を上げた笑い方をして、ナターシャはマニッシュに肩をすくめた。「そうなんでしょ」  「まったく、君……敵わないな。いつから聞いてたんだ」  「私は凄腕のスパイよ。重要なことは聞き逃さない」  「いちゃつくのは終わったか?」 二人のあいだにトニーが割り入った。「よし。ではこれで失礼する。不本意なタイミングではあるが――ところでナターシャ、クリントはどこにいるんだ?」  「全職員の動向をさらったばかりでしょ?」  「クリントの情報だけは奇妙に少なかったのが、不思議に思ってね。まあいい。休暇中は地球を離れて、アスガルドに招待でもされてるんだろう。キャップ……無理はするなよ。家で待ってる」  「トニー、君も」 スティーブが肩に触れると、トニーは目を細めて自分の手を重ねた。  「僕はいつでも大丈夫だ。アイアンマンだからな」  ウインクをして手を振りながら去っていくトニーに、ナターシャがうんざりした表情を向けた。「ねえ、もしかしてこの先ずっと、目の前で惚気を聞かされなきゃいけないの?」 そう言って、今度はスティーブをにらみつける。「次の恋愛相談はクリントに頼んでよ!」
 ◇終◇
0 notes
pinoconoco · 7 years
Text
空座第七女子寮物語 15
目が覚めた時、自分の腕の中にルキアがいることに一護はたまらないなこれ、と寝起きだというのにくすりと笑った。 ルキアはくうくうと寝息をたてていて、まだ起きる気配がない。 それをいいことに、一護は無遠慮にルキアを眺める。 無理させたよなぁ……とそうっと額に張りついている前髪を掻き分けると閉じた瞼の長い睫毛が目に飛び込んできた。 また、ふ、と笑った。
そうだ、おじさんも睫毛が長かった それも下睫毛 でも、顔は似てるか? おじさんは俺に似てるなんて自慢気に言ってたけど 似てるかな
そうっと、布団を抜け出す。 散らかった洋服や下着をベッドの上において、一護は風呂を沸かした。 一緒に入ろうと言っても、あいつ嫌がるかな と思いながら無精髭を撫でる。 て、いうかー まさか昨日したこと忘れて1からやり直しとかさすがにないよな? いやわからない。相手はルキアだ。猫みたいな女だ。昨日は溶けてべとべとに甘かったけど、起きたらどういう態度かわからない。 なんだ貴様、彼氏面するなとかルキアなら言いかねないかもしれない。 そんなことを考えながら、無意識に冷蔵庫を開けて何も無いことに気づいた。
腹減ったなぁ 昨日最後に食べたのはー ……牛丼食べたの何時だ? あれから何も食べてないじゃねぇか ていうかルキアは? ルキアはそうだ、店にいたら何も食べない。休憩なんか全然とらないから、あいつ昨日何も食ってねぇじゃんか! やべぇ、お腹空いた時の女はえてして皆機嫌が悪いもんだと一護は考える。 コンビニで何か買ってくるか、とシャツを羽織って下着も着けずにスエットを履いたところで、いちご、と声がした。 見ればルキアが目覚めたらしく、不安げにこちらを見ている。 その姿は、親猫を探して不安そうな仔猫のように見えて一護はふにゃりと頬が緩む。 ベッドに座り、頭を撫でてやった。
「わり、起こしたか?」 「どこか行くのか……」
ふにゃふにゃとした動きでルキアは上半身をさらけだして一護に抱きついてきた。 すりすり、と一護の髭面の頬に自分の頬を擦り付けて「ちくちくするなぁ」と、ぎゅうっと抱きついてこられれば一護の下半身は簡単に反応してしまう。
いや仕方ねぇし、これ ずりぃだろ、こんなの
「起きる?腹減っただろ?何か買ってくるから……」
そう言いながら顔をずらして頬にチュッと音を発ててキスをすれば、ルキアはンフフ、と甘えるように笑った。 まだ寝ぼけてるからこんなに可愛い事するんだな、と一護はそれでも嬉しくてもう一度音を発てて唇にもキスをした。キスしながら無意識に胸に触れればやめろぉ、と笑いながら甘ったるい声を吐息混じりに漏らした。
「……おい、朝から誘うのかよ」 「誘う……?」
真顔で、でもぼんやりとした声で聞き返すルキアの顔は無垢な故に妖艶でもあり、一護はそのままずるずるとベッドに乗り上げた。掛け布団をはがせば真っ白な裸体が現れる。
「寒い!」 「誘われたからなぁ、当然断りませんて」 「え?何だと? だ、ダメだぁ」
布団を剥がされたことで、どうやらルキアは本当に目が覚めたようだった。頬が赤くなり始めてきて、瞳ももうぼんやりしていない。
「もう無理だな、せっかくのお誘いに乗ってから朝飯買いに行く」 「ば、ばかものぉ」
あたふたとするルキアの顎をかぷりと甘噛みすれば、んん~とまた甘い声をだして仰け反った。そのせいでルキアのささやかな胸が一護の胸に押しつけられる感じになってしまう。
「やる気満々じゃん」 「……ち、違うと言うのに!……ていうかダメだぁ!」
噛んだ顎を一舐めしてから解放して茶化すと、ルキアは怒ったような顔をして一護の頬と腕を押し返してきた。
「……誘いに乗るのは………ダメだ!」 「なんでよ」 「誘いに簡単に乗る一護は、やだ」 「はぁ?」 「……だから!誰の誘いでもそうやって…乗るのは、嫌だ!」
頬を赤く染めて、怒ったように困ったように言うルキアの言葉を一護が理解するのに5秒程かかった。 やばい、何だよそれ、と一護はたまらなくなってルキアを押し倒すと唇を思い切り塞いだ。舌で唇を押して唇をこじ開けさせると直ぐに舌を絡めた。苦しくなったルキアが一護の胸を叩きだしてから、唇を解放してやればはぁはぁと荒い息づかいで睨み付けてくる。その顔も煽られてるとしか思えない。
「オマエがいたら、他の奴等の誘いなんてのらねーよばーか。変なこと考えるな」
何可愛い心配してんだこいつ ありえないから。絶対にありえないから、と一護はいっそ笑ってしまう。
やわやわと胸を揉みながら笑って、可愛いなーと言う一護に、ルキアは悔しくなる。やっぱり女慣れしてるのだなぁと思うと悔しいし、少し切なくなる。
「他の女の誘いに乗ったら、もう、もう……」 「もうなぁに?」 「……しない。一護とこーゆーことしない」 「こーゆーことって、なぁに?」
他の女の事なんかを気にするルキアが嬉しくて可愛くて、一護の意地悪は止まらなくなるし、そんな一護にルキアは悔しくて素直になれない。
その結果、一護はルキアに思い切りお腹を蹴られ踞る羽目になった。 痛ぇ~と一護が悶えている間にルキアはそそくさとベッドから抜け出て下着を探すが見つからない。 あれ?どこにあるのだ? 昨日私はどこにー
思い出せばルキアは1人赤面してしまう。 そうだ、確か一護の手でー
「下着欲しかったら……謝れクソおんな……」
まだ痛いのかゾンビのように這って一護がルキアの首を掴んできた。ひゃあ!と驚いて声をあげれば一護が笑った。その手にはルキアの下着上下を掴んでいる。
「か、返せ!」 「やだね。あーやーまーれー」 「 蹴って悪かった!さぁ返せ!」 「謝ったつもりなの?それ、ねえ?」 「ごめんなさい!ほら!謝った!」
あーそーかい、そんな態度ならどうしようかな、これの匂い嗅いじゃおうかな、と意地悪な顔で一護は下着を口許に持っていった。 うわぁぁぁ!?何をするのだ!ごめんなさいごめんなさい!ルキアが本気で謝りだしたのがおかしくて、一護は笑って下着をルキアに渡した。 本当おまえ面白いな、と楽しそうに笑う一護を憎たらしいとルキアは思う。
どうしたら、自分がこ奴を翻弄してやれるのだろうかと考えてしまう。
その時風呂が沸いた電子音が鳴り、一護は風呂入りな、とルキアの頭を一撫でした。
「飯、買ってくるから」 「……」 「ん? なに?」
帰ってくるよな?
と、ルキアに聞かれて一護は戸惑った。 コンビニ行くだけなのに何でそんな顔するんだこいつー
「コンビニだから、すぐ近くにあるからすぐ戻るって」 「……うん、わかった」
ほっとしたように笑うルキアに安心して一護はマンションを出た。
いつもと変わらない朝なのに 今朝の外は明るく感じた。陽の光りも雑踏も全てが幸せな朝の風景に感じた。 コンビニで朝飯を買うことはよくあった。 でも今朝は二人分の朝食を買う。 普段なら見ることのない、デザートコーナーからヨーグルトを手にして 缶コーヒーではなくドリップのコーヒーを買う。 食パンと卵も買い、出来合いのサラダも買った。 なんとなくー 甘いのが好きそうだからとジャムも買う。 それらを持ってマンションに戻ればルキアは今頃風呂に入っている。 俺も入ろう 怒るかな、怒りそうだな でも入ろう、と一護は知らず横に伸びてしまいそうな口許を意識してへの時にした。
◾ ◾ ◾
約束したプラネタリウムに行こうと言えばルキアは喜んだ。 昨日と同じ格好だし、パチ屋にいたから臭いなぁとブツブツ言うルキアに一護は服を買ってやると言った。
「それは、だめだ。そこまで甘えられない」 「何で?下着も買うだろ?」 「はぁ!? 」 「はぁじゃねぇよ。嫌だろおまえだって」 「……う。でも……下着は恥ずかしいのだが……」 「さすがに店にはついてかねーよバカ」 「あ、そ、そうだよな」 「選んでもいいけど?」 「遠慮する」 「服は、俺が選んでもいい?」
そう聞くとルキアは恥ずかしそうに一護を見上げた。それから、コクンと頷いた。
「じゃあ超セクシーなヤツな」 「え?それは、やだ」 「嘘だよばーか」
結局一護が選んだのはアイボリーのニットのワンピースだった。それからロングカーデガンもおまけにと買ってもらった。
こんな可愛らしいの、私には着こなせないとルキアは最初抵抗した。 それでも無理矢理試着をさせれば、まるでルキアの為のワンピースのようにそれは似合っていた。下着もタイツも本当に一式揃えて着替え、ルキアはニコニコとご機嫌だった。
花小金井の駅で降りても田無の駅でも、そのプラネタリウムは同じぐらいの距離にあった。かなり歩くけど、とルキアに言うと全然大丈夫だ、とルキアから一護の右手をそうっと握ってきた。
それは、初めてのことだった
一護はなるべく自然に、当たり前のようにルキアの手を握りしめた。
ルキアから自分の手を求めてきたことが 馬鹿みたく嬉しくて一護は叫びたくなった。勿論そんなことはしないが、それでも嬉しいのは隠せない。指を絡めて繋ぎなおして、にこりとルキアに笑いかけた。 ルキアもふふ、と微笑んだ。
たわいもないことを話しながら、東京とはいえ畑のある田舎道をてくてくと歩く。
白雪姫は現代の洋服を着てもやはり可愛いと一護は思う。そしてこの手が自分を求めるのだから、それを絶対に自分から離さない、とまた自分に誓った。そんな都合のいい誓いに迷いはなかった。
たとえ狡くても汚くても それでももうこの掌と笑顔は誰にも渡せないし、何があっても離さないし護りぬくから
だから
許してくれないか、おじさん 俺がルキアの隣にいることを
◾ ◾ ◾
その日もルキアは一護の家に泊まった。
一護は帰らなくていいのか?と聞かないし ルキアも帰らないと、とは言わなかった。 部屋にいれば一護はずっとルキアに触れていた。明確に物事を進める為に触れるだけでなく、ご飯を食べるとかテレビを見るときでもルキアを離さなかった。 それがルキアは嫌ではなかった。 恥ずかしい、と思っていたのは最初だけで 一護に触れられ抱かれ撫でられるのがこの上無く気持ちよく幸せだった。
自分は人肌とか愛情に飢えていたのだろうか、それとも一護にこうされることが気持ちいいのだろうかー 一護の膝の上で、向きを変えて座り直してルキアは一護にそう聞いた。 一護は少し驚いた顔をしてから後ろに手をついたままの状態で、膝の上で仔猫のように自分の胸に体を押し付けるルキアに顔だけ近づけてキスをした。
「俺だから、と思えばか」 「そうなのかな、そうだな」 「人肌恋しいだけで甘えるなんて許さねえよ?じゃああのクソ眼鏡にもこうやって甘えるのかよ」
それはやだ!とルキアが笑った。 だろ?と一護も笑いながら手を前に持ってきてルキアをくるんと抱き締めた。 へへへ、と子供のように笑いながら顔を胸に押しつけているルキアを食べてしまいたい、どこにもやらない誰にも、それこそ眼鏡や織姫ちゃんにも渡したくないと一護は狂暴なまでに思いを膨らませた。 その時、ぽーん、というラインの着信音にルキアがひょいと携���を手にした。
「あ、織姫だ」 「……心配してるか?」 「んーとな、……ん?」
姿勢をただしてルキアが携帯に向かい合う。 どうした?と聞くと、織姫も昨日帰ってないそうだ、とルキアが呟いた。
織姫ちゃんが帰ってないー
一護は思わず考え込む。 昨日の昼、一護は織姫に全て話してしまった。ルキアと仲の良い織姫には負担を感じさせたかもしれなかった。 もしくはー 誰かに、警察などに、話をしただろうかー
織姫は優しかった。 牛丼屋を出てじゃーまたな、と別れたときも
「一護君は悪くないよ」
と織姫は一護を呼び止めて言ってくれた。 それから
「言わなくていいこと、知らなくていいことって、私はあると思う。何もかもを受け止めて頑張ってたら……人は、壊れちゃうよ」
そう一護に言った。言ってくれた。 その言葉が一護の足を動かしたのは間違いなかった。けれど一護の足はその時もうひとつの決意も持って動いたのも確かだった。
時効とかよくわからないが、 もしも自分の発言でおじさんが、ルキアが救われるかもしれないのなら 今からでも遅くないのなら 全てを警察で話そうと一護は思った。
その結果によっては、ルキアに警察から連絡がいくだろう。 そうすれば自分の存在は簡単に明かされてしまう。 そうなれば、ルキアは自分を許さないだろう。 パチンコ屋で話したり、たまには飲みに行ったりするこの関係ももう終わりなことは一護でもわかった。 もうルキアの瞳に自分は映らない。 当たり前だった、元より映ってなどいなかった。自分が強引にあの瞳に自分を植え付けたのだから。
その覚悟と、 最後なのであればルキアに気持ちを伝えておきたいと思う気持ちが 織姫という他人に話をしたことで 同時に一護の心と足を動かしたのだ。 けれどー
まさかルキアも自分を求めてくれるなんてー
それだけが、とても大きな計算間違いをおこしてしまった。 再び一護の足を絡ませ縺れさせ、また動けなくさせてしまった。
「……明日は、帰る」
ルキアの声に一護は我に帰り、なんで……とルキアをまた胸に押し付けた。 織姫にルキアを獲られる気がした。不安になったせいで、弱々しい声になってしまう。
「大事な話をしたいそうだ。なんだろうな」
と、ルキアが真面目な顔をして、指で自分の唇をふにふにと触った。 言い様の無い不安に一護はルキアをぎゅっと抱き締めた。
織姫ちゃんは言わないー 俺の事を、あの話を言ったりしないー
そう心で思いながらも一護の不安は膨れ上がった。そんな一護の思いを全くわからないルキアは、どうしたのだ?あまえんぼうめとクスクスと笑いながら一護の頭を撫でた。 明日織姫と話して、またここにくるよとルキアは笑った。
「なぁ、もうさ、寮出ちまえよ……」 「え?」 「俺のとこに来いよ、ここに、いろよお前」
そう言いながら一護は、部屋で着てろよと貸した一護のジャージを着ているルキアのファスナーを下ろした。あ、とルキアの声が漏れた。そのまま指でブラを捲し上げるとねとりと舌で舐めあげ音を発てて吸い付いた。 そうされてしまえばルキアはもう一護に逆らえない。心も体も考えることすら出来なくなるのだった。 荒い息遣いとピチャピチヤと音をたてる一護の愛撫にルキアは素直に感じ入る。 そんなルキアを上目使いに一護は獣のような瞳で見上げていた。
目開けて、と胸の尖りに唇をあてたまま囁けば恥ずかしそうにルキアは薄く目を開けた。 俺が何してんのかちゃんと見てて、と言えばふるふると首を振って目を反らす。 だめ、お仕置き、と軽く噛めばルキアはいやぁ、と甘い甘い声を漏らした。
「……もう一回言うな。……寮は出ろ。俺んちにいろよ、ずっと」
もう一度甘く尖りをかじれば、今度はルキアは簡単に頷いた。いい子だなルキアは、とそのまま片足を持ち上げ、一護はルキアを床に押し倒した。ルキアの顔には昨日のような怯えた様子も戸惑いもなく、一護に命令されて喜んでいるようにさえ一護には見えた。
ルキアを手に入れた もうルキアは俺から逃げだせない もっともっと 俺がいなきゃ生きてけないようにしなければ
長い年月仄かに抱いていた恋心が どうしてこんな生々しく獣じみてしまったのか 頭の隅で感じるその思いを消したくて、されるがままに、たった1日で自分にすべてを委ねる愛しい存在を、 一護は壊れてしまうほどに強く抱き締めた。
言葉にするということは 迷わないと思うのは、誓うのは 迷っているという証拠なのだと そんなことどうしてわかっちまうんだ、この腐った脳味噌はと
荒ぶる思いの行先がルキアに向かってしまう事に 恐怖を感じながら それならせめて、この重たすぎる愛を優しさには変換できないだろうかと
愛するルキアを手にしているのに その腕に抱いているというのに
たくさんの思いに、一護は泣きたくなった
6 notes · View notes
harudidnothingwrong · 5 years
Text
0 notes
kurihara-yumeko · 5 years
Text
【小説】ひとでなし
 このひとでなしが。
 兄は吐き捨てるようにそう言って、席を立った。
 真っ赤な顔をして、数人の客と店員たちの視線を集めながら、テーブルの隙間を縫うように店を出て行く。
 私は目だけでその背中を追った。ガラスの向こう、陽の光を浴びた彼の背広が滑らかな光沢を放っている。そのどこか品のない銀色の上着を見て、私は鰯の群れを連想していた。
 魚料理にすればよかった。
 この後、運ばれてくるはずの料理のことを思い出して、少し後悔する。
「お客様、大丈夫でございますか」
 年配の店員が近付いて来て、私にそう声をかけた。
「ええ、大丈夫です」
「お召しものが汚れてしまわれましたね」
「ご心配なく。よくあることなのです」
 私はそう答えながら、店員が差し出してくれたタオルでメロンソーダが滴っている頭を拭った。店員は濡れたテーブルをせっせと拭いている。
「先程のお客様が注文された料理ですが、注文を取り消し致しましょうか?」
「彼は、何を注文したんでしたっけ」
「鮭のムニエル定食をおひとつ」
「では、私が注文した和風ハンバーグ定食を取り消して、ムニエルの方を持って来てもらうことはできますか?」
「はい、かしこまりました」
 年配の店員は恭しく頭を下げて、テーブルを離れて行く。空になってしまったメロンソーダのグラスをさりげなく片付けることも忘れなかった。
 あの店員は、どうして兄が注文した方の料理を私が食べたいと思っているのか、不思議に思っているかもしれないな、と予想する。
 再びひとりになった私は、窓から表の通りへと目をやる。すでに兄の姿はどこにもなかった。彼は昔から、道の途中で別れた後、決して後ろを振り返ったりしなかった。あの男とは違う。私の姿が見えなくなるまで、いつまでもそこに立ち尽くしている、あの男と、兄は違う。
 去り際、兄が私の顔にぶっかけていったメロンソーダは、髪や顎をつたってワンピースの胸元まで緑色に染めていた。黄色の花柄の中に浮かび上がる淡い緑色は、葉のようにも見えなくはない。全身をまんべんなくこの緑色に染めたら、この染みも目立たなくなるだろう。そういう柄の洋服にしか見えなくなるはずだ。
 だが、「メロンソーダをもっとかけてください」なんて、店員にも、ときどきこちらの様子を窺うように見つめてくる他の客たちにも頼めない。
 服のことは諦めよう。この後、身なりを気にしなければならない相手と会う予定がある訳でもない。砂糖水のにおいがする頭髪も、化粧が崩れた顔も、濡れた衣服も、街ですれ違う人々は誰も気に留めない。そう思うとなんだかほっとして、私はテーブルの隅にあった灰皿を手元まで引き寄せ、煙草に火を点けた。
 兄は、私が煙草を吸うのをひどく嫌がった。女のくせに、と罵った。だが、それは私が女だからではなくて、彼が嫌煙家だっただけだ。だから今まで吸えなかった。鼻から煙を出しながら、ニコチンが身体じゅうに浸透するのを待った。
 テーブルに出しておいたスマートフォンのLEDが青白く点滅していることに気が付いたのは、その時だった。手に取ると、不在着信を示している。その時刻はほんの数分前、ちょうど、兄がメロンソーダをぶちまけた頃だった。電話がかかってきたことに、気付かないでしまったようだ。
 後で必ずかけ直そう、と思いながら、煙草を親指で弾いて灰を落とす。
 まだ午前中、昼前であることもあって、店の中は比較的空いていた。混んでくるのはこれからだろう。客が少ない時間帯でよかった。後ろの席に誰かいたら、メロンソーダの飛沫が飛んでいただろう。
 煙を吐きながら、心の中の穴がじわじわと塞がっていくを感じていた。気分が落ち着いたのだ、と思い、今までの状況においても私は常に落ち着いていた、取り乱していたのは兄であって私ではなかった、とも思った。
 彼は私を「ひとでなし」と言った。
 ひとでなし。
 小さく声に出してみる。唇に挟んだ煙草が転げ落ちそうになる。
 私はひとではなくなってしまったのだろうか。真っ昼間、小さな洋食屋で罵声を浴びせられ、緑色した甘い液体をかけられるような私は、ろくでなしではあるけれど、まだひとであるはずだ。
 短くなった煙草を灰皿へと擦りつける。二本目の煙草に手を伸ばしながら、兄は今どうしているだろう、と考えた。
 私は今、泣いてもいないし怒りもしてない。彼が嫌った煙草を吸いながら、彼が注文し、彼が食べるはずだったムニエルが出てくるのを、彼がいなくなった席で待っている。
 彼は今、泣いているのかもしれないし、怒り狂っているのかもしれない。道端で誰かの副流煙に顔をしかめ、空腹を抱えたまま、どこへ向かっているのだろう。
 私たちは一生わかり合えないし、もう会うこともないのだろう。でもそれが、なんだかごく自然で、当たり前のことのように感じる。もっと早くこうなるべきだったような気さえする。
 私は少しして運ばれてきたムニエルを前に、両手を揃えて祈った。
 それは彼がどこかで幸福になりますように、という意味を込めての祈りだったが、私の口はさも当たり前のように「いただきます」とつぶやいた。
     電話をかけてきた相手に折り返し連絡しようとスマートフォンを手に取ったのは、部屋に帰ってシャワーを浴びた後だった。
 メロンソーダが染みになったワンピースを脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びて化粧さえも落としてしまうと、身も心も軽くなったような気がした。裸のままバスタオルに包まってベッドに転がる。シャワーを浴びた後は、こうしているのが心地良い。こうしていると、自分が日頃、いかに多くのものを身に着けているのかを考えさせられる。
 あの男は私がこうして寝転んでいると、決まってセックスに持ち込んだ。私が誘っているとでも思っていたのだろうか。彼は事が終わるとすぐに衣服を着た。何も身に着けないでいることが、恐らく不安だったのだ。いつもこまごまとした多くのものを鞄に入れて持ち歩いていた。何も持たないことの快適さなんて、知らないのだろう。
 そんなことを思い出しながらスマートフォンを操作し、着信履歴を見る。「達」とだけ登録してあるその人物からの、不在着信があったことが記録されていた。
 たつ。
 その名前をそっと声に出してみる。名前を呼ぶことも、なんだかずいぶん久しぶりだった。彼から電話がかかってきたことなんて、今まで数えるほどしかない。何かあったのかもしれない。そう思いながら、リダイヤルの文字をタップする。
 呼び出し音は鳴らなかった。間髪入れずに、彼が電話に出たからだ。
「もしもし」
「もしもし、達?」
「律。今、もう一度かけようかと思ってたところ」
 達は電話の向こうで、どこか安堵したような、呆れているような、疲労の色を感じさせる溜め息をついていた。最後に耳にした時と変わらない、懐かしい声。
「さっきは電話、出なくてごめんなさい」
「いや、いいよ。少し、気分転換に話がしたくなっただけだから」
 妙な感じがした。彼が今までそんなことを言ってきた覚えがなかったからだ。やはり、何かあったのだ。私は無意識のうちに、身体に巻き付けていたバスタオルの胸元をぎゅっと握っていた。
「何かあったの?」
「少しね」
 私の声がこわばったのを感じ取ったのであろう達は、ははは、と小さな笑い声を漏らした。彼はわかっている。自分が笑うと、私が少なからず安心するということを。だからときどき、私のために笑ってみせてくれる。
「もしかして、またお母さんと揉めたの?」
「あの女はいないよ」
 達はそう言ってから、少し間を空けて、
「もういない」
 と、言い直した。
「達、会いに行こうか?」
 私がそう提案した時、彼はしばらく返事をしなかった。長い長い沈黙だった。通話の向こうから、パソコンのマウスをクリックしているような音だけが断続的に聞こえていて、それさえなければ、私は通話が途切れてしまったのではないかと思っただろう。
「達?」
「ああ、ごめん。うん……」
 彼はそう言ってからまたしばらく考え込んだ様子で、たっぷり黙り込んだ後、
「そうだな、会おうか」
 と、答えた。
 彼がそう言ったので、私は心底ほっとした。
「今、何してるの? もしかして、仕事中?」
「ソリティアやってる」
「ソリティア? ああ、パソコンに入っている、トランプのゲームのこと?」
「そう」
「忙しい訳じゃないのね?」
「ソリティアで忙しいよ」
 私は彼の冗談に笑った。それから時計を見た。まだ午後一時を回ったところだった。時間は、まだある。
「これから支度して電車に乗るよ。三時か、四時くらいには、そっちに着くから」
「今から来るの?」
「だって、早い方がいいでしょう?」
 そこで、達は何かを言いかけたが、でもはっきりとした言葉にすることはなかった。今度はほんの少し黙った後で、
「わかった」
 と、返事をした。
「それじゃあ、また後でね。電車の時間がわかったら、また連絡するから」
「うん。じゃあ」
 通話を終えてから、私は大急ぎで支度に取りかかった。服を着て、軽く化粧をして髪を梳かす。放ってあった鞄を拾い上げ、忘れずにスマートフォンと部屋の鍵を仕舞う。ストッキングを穿く時間も惜しく、素足のままサンダルを突っかけて外に出た。
 達は少し、様子がおかしい。
 電話では口にしなかったが、やはり何か、電話をかけてくるだけのことが、彼の身に起こったということだろう。
 駅までの道を駆けた。改札を通り、目的の電車があと十分もすれば来ることを電光掲示板で確認して、そこでやっと一息つくことができた。売店でミネラルウォーターと、たまたま目についた小説の文庫本を一冊買った。
 達の住む街まで、ここからだと電車で二時間かかる。その間の暇潰しが必要だった。
 電車に長く揺られる時は、いつも何か書籍を買うことにしている。駅で購入して、読み終えたら駅で捨ててしまう。今日手にした小説は、知らない作家の作品だった。題名にも聞き覚えがない。普段は読書をしないので、私が詳しくないというだけかもしれない。
「暇なら、本を読んだら」
 そう私に提案したのは、あの男だった。彼は読書家で、多忙な時間の隙間を見つけては本を読んでいた。自室の書棚には零れ落ちそうなほど本が積み上げられていた。
「そうしようかな」
 私がそう答えた時も、彼は分厚い本を膝に乗せ、ソファに行儀よく座っていた。
「何か、本を借りて行ってもいい?」
 あの男は開いた本のページに目線を落としたまま、ただ黙って眉間に皺を寄せていた。彼は自分の持ちものが自らの管轄から外れ、どこか遠くへ行ってしまうことを嫌っていた。結局、彼は死ぬまで、私に一冊も本を借りることを許さなかった。
 走って汗ばんだ背中に衣服が張り付いているのを感じながらミネラルウォーターを飲んでいると、電車は時間通りにやって来て目の前で停車した。開いたドアから乗客が降りてきて、入れ違うように私は乗り込んだ。
 車両の中に乗客の姿はまばらで、���後の日射しを受け、心地良い��かさに満ちている。
 あと二時間。
 どんなに気持ちが急いだところで、あと二時間、私はここで大人しく座っているしかない。その事実が私の焦燥感を少しばかり和らげた。早く会いに行かなくちゃと心は焦ってばかりいるのに、ゆったりと腰かけて二時間を過ごすなんて、不思議だ。
 そうして走り出した電車の中で、私は文庫本を開く。
 読み始めてわかったが、それは殺人事件を扱った小説だった。
 河川敷で見つかった、ひとりの女子高生の死体。そこから始まった、少女ばかりを狙った連続殺人事件。主人公はその事件を追う刑事で、被害者と同じくらいの年齢のひとり娘が、別れた妻と一緒に暮らしている。殺された被害者の少女たちと、自分の娘を重ねつつ、犯人を追っていく。
『明日は私が殺されるかもしれない。今や、この街に住む誰もがそう思っていた』
 そんな一文が、なぜか目に止まり、私はもう一度、その文章を目で追ってから、ページから目線を上げ、車両の中を見渡した。大学生らしい男性がひとりと、中年らしき女性が四人。お互い他人同士なのだろう、離れた席に座っていて、誰も口を利いていない。手元のスマートフォンを操作している人がふたり、ひとりは私と同じように何か書籍を読んでいて、最後のひとりは肩をすぼめるようにしてうとうととしている。
 きっとこの車両の中には、明日自分が殺されるかもしれない、なんて不安に思っているような人間はいない。乗客たちは皆、落ち着き払った表情をして、のどかな午後を過ごしている。
 誰も、自分が殺されるかもしれないなんて、普段は考えもしない。
 街を歩いていたら突然、自動車が猛スピードで突っ込んでくるかもしれない。乗っていた電車が脱線して大事故を起こすかもしれない。人混みの中で通り魔に後ろから襲われることだってある。でも誰も、そんなことは考えない。この車両の中に、殺人犯がいるかもしれないなんて、思わない。
 ああ、煙草が吸いたい。
 私はそう思いながら、手元の文庫本を閉じた。本の内容に飽きてしまった。犯人がどこのどんなやつかなんて、興味がない。犯行の動機なんかどうだっていい。
 窓の外に目をやった。ちょうど電車は川に架かる橋の上を走行していた。車窓の向こう、橋を構成する鉄骨の向こうに河川敷が見えた。小説の中では女子高生の死体が無残にも転がっているはずのそこは、西日をきらきらと反射する川面と、風にそよぐ青々とした草原、アスファルトで舗装された道を行く、犬を散歩させている老人の姿しかなかった。
 もし今、私があの河川敷に立っていたら、きっと煙草を吸いたいなどとは思わなかっただろう。横たわる死体を前にして、もうすっかり満足するまで、いくらでもニコチンを吸っては吐き出すことができただろうから。
 そう思いながら、私は座席に座り直し、殺人犯がいるかもしれない車両の中で忌々しく瞼を降ろした。
     私の手の中にあるカードは機械に読み取られ、ぴっ、という短い音を立てた。帰りの電車賃がもう残っていないことを確認して、それでも開いた改札を出る。
「達」
「律」
 電車は脱線することもなく無事に目的の駅に着き、私は改札の前に立っていた達と再会した。
 彼は最後に会った時と変わらない、胸元がだらしなくたるんだ着古したTシャツと、すっかり色褪せて擦り切れそうなジーンズ姿だった。ただ、髪も髭も伸びすぎていた。目の下の濃い隈のせいで、まるで目玉が窪んでいるように見える。少しだけ、あの男の面影を思わせる容姿。
「早かったね」
「電車は時刻通りだったよ」
「うん。早かった」
 そんな冗談にまた私が笑うと、達も少しだけ口元を緩めてみせた。彼は自分のために微笑んだりはしない。いつも誰かに笑顔を見せたくて、笑ったような表情をしてみせているだけだ。
「律、腹減ってない? 俺、まだ飯食ってなくて」
「そう。何か食べようか」
 私はそう答えてから、胃の中にいるであろう鮭のことを思い出した。
「ファミレスでいい? 金ないから」
 しかし、そう言いながら歩き出した彼に、私は何も伝えなかった。
 達は、仕事を辞めてしまったのかもしれない。
 根拠はわからないけれど、私はその時、そう思った。
「今日は、兄さんが訪ねて来たわ」
「へぇ」
「父が亡くなったんですって」
「そうなんだ」
 達の声は、乾いていた。そこにはどんな感情にも濡れていない、まっすぐな響きがあった。
 私は兄にメロンソーダをかけられて逆上された話をするべきか悩んだが、結局、口にはしなかった。きっと達は、そんな話をしたら不機嫌になるに違いなかった。
 少し先を歩く彼の顔は、どこか遠くに思いを馳せているように見えた。私たちは一緒にいた頃から、あまり多くを語ってはこなかった。語る必要がなかったのだ。私たちは、とてもよく似た性質をしていたから。
 駅を出てすぐのところにあるファミリーレストランに入った。安っぽいチャイムが私たちの存在を誰かに知らせている。いらっしゃいませ何名様ですか。二名で。お席の方、禁煙、喫煙、どちらになさいますか。きんえ、まで言いかけてから、達は、
「喫煙で」
 と、答えた。私が喫煙者であるということを、その時思い出したのだろう。
 午後四時を回ったファミリーレストランは、電車の車両のように人がまばらで、私たちは四人掛けの席に案内された。すぐ近くにふたり掛けのテーブルがあるにも関わらず。四人席が空いている時は、優先的にこちらへ振り分けされる仕組みなのだろうか。それがサービスというものなのかもしれないが、私も達も、まるで自身の半身を失ったかのように、隣を空席のままにして向かい合わなければならなかった。
 私たちはメニューを開き、すべての品書きに目を通さないうちに注文したい料理を決めた。店員を呼ぶためのボタンを押したのは達だった。私は煙草に火を点けて、灰皿を引き寄せる。私はホットコーヒーを、達はエスカルゴの料理を頼んだ。
「エスカルゴ?」
 店員が立ち去った後、私は煙を吐きながら達に尋ねた。
「好きなの?」
「不味いよ」
 達はこちらを見もしないでそう答えた。今のは際どいジョークだった。私が思わず鼻で笑うと、彼も小さく笑ったので、それで冗談を言ったのだと気付いただけだ。
 料理が運ばれて来るまでの間、会話はなかった。私たちは料理を待つこの時間が嫌いだった。酒を飲んでからアルコールが身体の隅々にまで回る、それまでの時間も同様に嫌っていた。私たちは不機嫌になると決まって口を閉ざし、そしてそれは、相手に対する最低限の誠意と優しさだった。
 煙草が一本吸い終わった頃に料理は運ばれて来た。いただきます、と手を合わせ、達はお手拭きで乱暴に手を拭ってから、エスカルゴ料理に取りかかった。
「それで、一体何があったの?」
「人を殺したんだ」
 彼はエスカルゴ料理を口へ運びながらそう言った。
 そう、と私は返事をした。視界の隅、テーブルの上に達が指を拭いたお手拭きがくしゃくしゃに丸められて置かれており、それがまるでトマトソースでも拭き取ったかのように、うっすらと赤色に染まっていた。
「偶然ね、私もなの」
「律も?」
「そう」
「いつ?」
「今日」
「ふうん」
 食事をしながらした会話は、それだけだった。
 食事中は口を開くなと、あの男に厳格にしつけられた私たちは、今でもそれを守ろうとしている。達が母を殺し、私が父を殺した、今日でさえも。
 食事の代金は、達がすべて払ってくれた。私たちは店を出て、川沿いにある寂びれたラブホテルまでの道を歩きながら、また少し言葉を交わした。
 西日をさんさんと放っていた太陽はビル群の向こうに消え、空は幻想的なピンク色だった。吹いてくる風はどこか冷たく、私たちは下を向いて歩いた。まるで後ろめたいことでもあるかのように。
「殺して、どうだった?」
「別に何も」
「そう」
「うん」
 道路を走る車の騒音に、私たちの会話は途切れ途切れになった。
 ホテルのボーイは疲れた顔で私たちに部屋の鍵を渡した。ボーイが私と達の顔をほんの一瞬、交互に見比べていた。見比べたってわかるはずがない。私たちは二卵性で、外見は何も似ていないのだから。たとえ外見以外、すべてが非常に似通っているのだとしても。
 部屋に入って、最初にシャワーを浴びたのは達だった。私は水が流れる音を聞きながら煙草を吸った。
 今日は何回、シャワーを浴びることになるのだろう。頭からかけられたメロンソーダは、シャワーのうちに含まれるのだろうかと考えて、ひとりで可笑しくなった。
 今日は二着もワンピースを駄目にした。どちらも服に染みをつけて。お気に入りのワンピースに染みついた血痕は、きっともう落ちないだろう。あれはあの男が、私が殺したあの父が、買ってくれたお気に入りだったのに。
 私もシャワーを浴びてから、裸でふたり、シーツの中で遊びながら、また少しだけ会話をした。
「どうして殺したの?」
「理由なんてない」
「そうなんだ」
「そっちは、どうして?」
「どうしてかな……。何かちゃんと、理由があったような気がしたんだけど」
「理由っていうのは、行動する以前には必要だけれど、すべて終わってしまった後には、もうどうでもいいものだね」
「うん。確かに」
 私たちの本質を覆い隠している膜が重なり合う。決して交わり合うことはないはずのその境界線が、不意に揺らぐ。溶けて、ほどけて、流れ出して。自在に動かせるはずの四肢は、自身の意思から遠く離れたところで、欲を貪る卑しい道具と化している。
 こうしていると私はいつも、自分が粘土か何かになったような気分になる。人の手は容易く私をこね回し、形を変えていく。本来の形など、とっくに忘れた。抗おうと思えばそうできたはずなのに、私はただの土くれと化すばかりだ。兄の時も、父の時も、胎内で同じ時を過ごして共に産まれてきた、達が相手の時であっても。
 こんな時、あの男は私のことを憐れんだ瞳で見下していた。父はいつもそうだった。可哀想なものばかり愛していた。喜劇よりも悲劇を好み、幸福よりも不幸を求めた。
 夫に愛想を尽かされた妻。身体を交えた兄と妹。愛されなかった双子の片割れ。父に犯される娘。母を犯す息子。子供を猫のように捨てた親。子供に猫のように殺される親。
 私たち双子はあの男に集められた、不幸の断片のひとつにすぎない。だから恐らく、これは私たちの意思ではなかった。
 同じ親から同じ日に産まれた私たちが、偶然にも同じ日に、親を殺めた。
 明日自分は殺されるかもしれない、なんて考える人はいない。同じように、明日自分は人を殺すかもしれないと考える人間も、またいない。私たちの生き死にと自らの意思が全く無関係であるように、私たちが自身の肉親を殺したこともまた、私たちの意思とは関係がない。
 無責任だろうか。責任転嫁だろうか。
 このひとでなしが。
 兄に言われた言葉を思い出す。
 遠くにサイレンが聞こえた。私たちの時間は、もう長くは残されていない。でも、私はまだ、ひとであるはずだ。
「ねぇ達、私はひとでなしだと思う?」
 そう尋ねたのは、訊いてみたいと思ったからだ。私が唯一愛したこの同胞は、一体どう返事をするだろうか、と。
 短い吐息と共に果てた私の弟は、のしかかるように身体を重ねたまま、つまらなそうに欠伸をしていた。それからおもむろに顔を上げ、私の顔をまじまじと見つめた。
「お前は、ひとでなしだよ」
 あの男に少しだけ似た、私とは似ても似つかないその顔は、それから、ついばむようなキスをしてくれた。
 了
0 notes
yaminabedoh · 6 years
Text
小説:空白と痛み
C94の新刊『Re:Bloom』に同一世界観の新作「Re:Bloom ~幻想と渇き~」が出るのを記念して、『Log in』(2014)に掲載された「空白と痛み」を全文Web公開いたします。
◯空白と痛み
汚染された荒野の中に立つ巨大情報都市。過去そこにあった超高度文明の遺産を解析しながら発展してきたその街は、無から有を生み出すように、技術を糧に資源を生みだしていた。発見から二百年が経った今でも解析出来ないその超技術の心臓部、“ブランク・ルーム”の秘密に都市は血眼になっていた。その影で痛みに震える���女アイリスと、静かにそれを見守る天才ハッカー、ミコトがいることも知らずに――(伊万里楽巳)
作者の中では「サイバネティカ」シリーズとして正統続編も構想中というSF作品。どうぞお楽しみください。
Scene 1 :
 深い深い海の底のような暗い部屋にキーボードを叩く音が響いていた。ディスプレイの明かりによって映し出されるのは、まだ幼さを残した顔。ディスプレイ上では複雑なプログラム・コードが高速でスクロールしていき、眼鏡をかけた目は複数のスクリーンの間を行き来しつつも安定したリズムでコマンドを次々と入力していく。
 殺風景な部屋だった。内装と言える物はほとんどなく、ところどころ鉄骨がむき出しになっている。窓はなく、代わりに壁を這うのは無数のコードやパイプなど。それらは壁から床へ、あるいは天井へと経由しながらこの部屋の中心に鎮座する大きなカプセルへ収束していく。赤みを帯びた液体で満たされたそのカプセルーー生命球を連想させる閉じた空間の中には一人の少女が浮かび、そして苦しんでいた。
『っ……』
 歯を食いしばり、身体をよじるたびに水槽の中に細かい気泡が発生する。乱れた長い髪は一拍遅れて液体の中を泳ぎ回り、華奢な身体にまとわりつく。カプセルの上部から伸び、背中へと続いている大小二本の太いケーブルは彼女を磔にしているようにも見えるだろう。
『……んっ! 』
 苦悶の表情を浮かべ続ける彼女、その右手の指先から更なる異変が始まった。少しずつ、しかし確実に。酸の海に溶かされるがごとく少女の指先は小さな泡となって消えていく。蝕まれるように消えていく。
 少年はその傍らで淡々と作業を続けていた。時折様子を確認するようにカプセルに目を遣る以外はディスプレイ上に展開される情報に集中している。感情を殺した無表情と冷たい瞳はマシンのように決められた動作を繰り返す。
 少女の侵蝕は既に肘の手前にまで達していた。痛みの間隔は狭くなり、押さえきれなかった喘ぎ声がスピーカーからこぼれ出る。一際大きな悲鳴が上がって、ようやく彼女の異変は収束した。
『はぁ……はぁ……』
「何度聞いてもキミのその声は慣れないな、アイリス」
 少年は椅子から立ち上がり、カプセルの近くへと歩み寄った。そっとガラスの面に手を添える。
『……ごめんなさいね、ミコト。おさえようとは、思っているのだけど』
 痛みが治まっていないのだろう。スピーカーから出るその声は途切れ途切れだ。ミコトと呼ばれた少年は、気にすることはないと首を横に振った。
『システムの方は、どう? 』
「問題なしだよ。上手く行っている。少し休むと良い……もう休眠に入ったか」
 少女アイリスはミコトの返事を聞く前にその目を閉じていた。先ほどまでとは打って変わった穏やかな表情で目を閉じているが、だからこそ肘から先を失った右腕が痛々しい。どういうわけか傷口はすでに癒え、きれいに塞がっている。
 ミコトは先ほどまで自分が座っていたところへ目をやった。三つ並んだディスプレイの内左右の二つはブラックアウトしており、動いているのはセンターのそれだけだ。ディスプレイは白い文字で簡潔に、システム移管シークエンスが滞りなく終了したことを告げてきている。
「『誰にも迷惑をかけずに死にたい』か」
 ミコトはもう一度カプセルの中に浮かぶアイリスを見上げた。静かに微笑む少女の寝顔は初めて会った時と同じように穏やかで、だからこそ残酷だった。
Scene 2 :
 荒野の中に立つ巨大都市。周辺他都市とは比べ物にならないほどの高度な科学技術を誇るこの都市だが特に情報技術に関しては飛び抜けていた。ありとあらゆるインフォメーション・テクノロジーがすべて市庁舎の巨大システムに統合され、管理されている。
 高度に情報化された街。だが一歩外に出てみれば、そこで生きる市民の日常は案外変わらないということが分かるだろう。相も変わらず路上に店を出し、威勢のいいかけ声を上げ、品物を売りさばこうという気持ちのいい熱気にあふれている。ミコトはそんな繁華街の中を一人で歩いていた。右手には茶色い紙の袋をぶら下げている。
「はいはいはい、そこの兄ちゃんも姉ちゃんも!  天然肉のうちのホットドッグ買っていきな! うまいよ! 」
「新鮮採れ立て! 今朝工場から出荷されたばかりの青物野菜だ。お安くしとくよ! 」
 ふと立ち止まって空を見上げる。灰色のビルに切り取られた空は、それでも気持ちのいいほどに青く澄んでいる。埃っぽいこの地上とは別の世界だ。
「あれ、ミコトじゃねぇか。元気にしてたか? 」
 たたずむミコトに声をかけたのは近くの屋台の店主だった。オレンジ、アップル、グレープフルーツ。移動式のワゴンの中に所狭しと派手なフルーツが並んでいる。日ざしを受けて瑞々しく輝いていた。
「まあな……ターミナルの調子は? 」
「お前さんの調整のお陰で絶好調だよ。あれが動かないと売り上げの管理も出来ないからなぁ」
「そりゃよかった」
 ミコトの横で果物を品定めしていた主婦が「これくださいな」といって青りんごを指差した。はいよと答えててきぱきと重さを量る店主。アナログなバネばかりがぎぃという軋んだ音を立てる。手慣れたようにバイオプラスチックのビニール袋に詰め込むと愛想の良い笑顔とともにお客さんに渡したのだった。
「商売の方は? 」
「ぼちぼちだな。この前市長が変わっただろ。あれで工場の方に新しい規制がかかるんじゃないかって噂があるんだが、ひどい話だよまったく」
 店主はふんと鼻息をならして腕を組んだ。土地が汚染されたこの街では、食料生産はそのほとんどを工場ーーバイオプラントでの栽培にたよっている。よけいな物が入り込まないよう外界と隔絶されたボックスの中、産業用ロボットによってオートマチックに育てられる植物たち。その生産量、出荷量、税率などなどは何もかもが当局のコントロール下に置かれているのだ。
 街の中心に立つ巨大な総合庁舎、オベリスク。真っ青な空を縦に切り裂くその塔は、遥かな高みから市井の生活を監視していた。
「おっと、噂をすればだ」
 店主が向かいの電器屋を指差した。デモで置かれているいくつものテレビジョン。すべて同じチャンネルに合わされ、新任のキングストン=メイヤー市長の演説の様子が映し出されている。褐色の肌に短く刈り込んだ白い頭髪。大柄な身体をさらに大げさに動かしながら市民に語りかけるその顔には自信と野心があふれていた。
『ーー市民の皆さん。偉大な先人たちの努力によりこの街も多大なる発展を遂げてきました。しかしそれは未だ十分なものとは言えません。皆さんの更なる生活向上のため私キングストン・メイヤーはこの職に就きました。ありとあらゆる技術の発展、十分で安全な食料供給、行き届いた行政サービス。そしてなにより長年にわたり我々を悩ませ続ける”ブランク・ルーム”の解析を成し遂げることを、ここにお約束いたします』
「”ブランク・ルーム”の解析ね。どうなることやら」
 この街を支える技術は実は自分たちで生み出した物ではない。荒野に打ち捨てられた廃墟、そこにまだ生きているネットワークシステムが発見されたことがこの街の始まりだ。廃墟の至る所に張り巡らされたネットワークと、莫大なテクノロジーのデータが詰まったセントラルサーバー。そういった名も知らぬ者たちの遺産を利用しながらこの街は発展してきた。
 残されたシステムの解析を少しずつ進め、応用し、自分たちが使えるレベルに落とし込む。他の都市とは不釣り合いなほどの情報管理、交通管制、防衛体制などはそうやって生み出されてきたのだ。
 しかし街の再発見から二百年以上が経った現在に置いても、システムの中枢に解析不可能な領域が残されていた。外部からの干渉をことごとく跳ね返す強固なプロテクトが張り巡らされたブラックボックス。都市の心臓とも言える存在。現在利用されているシステムも最終的には全てそこに集約、処理されている。いつ頃からかそれは”ブランク・ルーム”と呼ばれ、この街の更なる発展を妨げる大きな障害になっていた。
「ミコトは興味ないのか? お前さんほどの天才ならちょちょいのちょいと解析できちまうと思うんだけどなぁ」
「無茶をいわないでほしいね。そんなに簡単な仕事なら今まで残ってる訳ないだろ? 」
「そういうもんかね。どっちにしろお前さんがその気になればもっと稼げると思うんだけどな。その紙袋だって角のバーガー屋のだろ。だめだめそんな不健康な物ばっか食ってちゃ。ちょっとまってな」
 店主はそういうと手近にあった果物を無造作にビニール袋につめ始めた。あっという間に袋がオレンジでいっぱいになる。
「ほいよ、持ってけ。プレゼントだ」
「おいおい、いいのか。簡単に商品渡しちゃって」
「いいっていいって、この前のお礼だ。少しは良いもん食べてまた活躍してくれよな。お前らエンジニアが俺たちの生活を支えてくれてるんだしよ」
 混じりっけのない善意を断る訳にも行かず、ミコトは少し困った顔をしながらもその袋を受け取った。みっちりと詰まった袋は結構重く、あやうくバランスを崩しそうになる。
「おっと」
「大丈夫か? 」
「平気さ。ま、ありがたくもらっとくよ」
「たくさん食べて、でっかくならねぇとなぁ」
「痛てっ! 」
 はっはっはと豪快に笑って、店主は小柄なミコトの肩を叩いたのだった。
Scene 3 :
 光と影。活気のある露店街が光の世界なら今ミコトが歩いている裏道は影の世界だ。薄暗く、じめじめとしている。背の高いビルに囲まれ日の光も満足に届かない。そんな道を彼は静かに進んでいく。
 いくつかの角を曲がったミコトは錆び付いた鉄の扉の前で立ち止まった。腰のホルダーからカードキーを取り出し、扉の脇の壁のひび割れに差し込む。ロックの外れるかすかな音。人目のないことを確認すると、ミコトはわずかな隙間にその身体を滑り込ませた。
 カードキー、指紋、声帯、虹彩。いくつもの認証をパスして下層への階段を降りていく。暗闇はだんだんとその濃度を増し、地上の喧噪から遠ざかる。ミコトはここに来る度に自分が深い海の底へ沈んでいくような錯覚を感じていた。最後の扉を開けると、目に入るのは部屋の中心に鎮座するほのかに赤く光るカプセル。ミコトが足を踏み入れるとカプセルからの明かりが少し強さを増した。
『ミコト? いらっしゃい』
「こんにちはアイリス。……寝てたか? 」
『ううん、平気』
 紙袋とビニール袋を作業用のテーブルに置く。手元を照らす最低限の照明をつけると、腰のケースからメディアキーを取り出しラップトップタイプのパソコンを起動させた。冷却用のファンが回りだす低い音。いくつかの認証を経てOSが立ち上がる。そのあいだ、ミコトは紙袋からハンバーガーと紙コップに入ったソーダを取り出していた。包装紙を剥き、ディスプレイに向かいながらかぶりつく。
『珍しいわね、ここで食事だなんて』
「まあな」
 軽く答えて左手一本でキーボードを操作した。ラップトップのディスプレイ上ではいくつものウィンドウが消えたり現れたりを繰り返している。時折ケースから別のメディア取り出して差し替えつつ、何かプログラムを組んでいるようだ。
『今日は何の用? それともお仕事かしら? 』
 カプセルの中からアイリスが話しかける。
「小遣い稼ぎさ。リニアトレインの運行システムの不具合が最近目立つんだと。バグだしと修正を頼まれたんだけど、リメイクした方が早そうだ」
『そんなにひどいの? 』
「素人がその場しのぎにいじりすぎてめちゃくちゃだよ。ったく、こんなざまじゃ作り手も浮かばれないな」
 ミコトはアイリスに目をやった。十字架にかけられた聖女はカプセルの中、一糸もまとわぬ姿で漂っている。その身体からは右下腕だけでなく、すでに左足全体と右足首が失われていた。
『でも、ミコトならもっとキレイに直してくれるでしょ? わたしはその方が嬉しい』
「ふん」
 微笑みかける彼女の表情は邪気を知らず、どこまでも純粋だった。
『それは? 』
「ん? これか? 」
『違うわ、そっちよ』
 アイリスが左手で差したのは丁寧に畳まれたハンバーガーの包装紙が入った紙袋ーーではなくその隣に無造作に置かれた白いビニール袋だった。
「フルーツだよ。オレンジだったかな。知り合いの店の店長がくれたんだ」
 答えるミコトの目は眠そうだった。まぶたを半分落としながらも、自由になった両手のタイピングは途切れることなく続いている。
『オレンジ……この辺りに出荷されているのだと二〇三ファクトリーのやつかしらね。ちょっとまって』
 彼女はそう言って目を閉じた。オリジナルシステムの管理者でもあるアイリスはその気になればシティのあらゆるネットワークにアクセスできる。外部デバイスを介さない意識レベルでのネットワークとの同化。現実ではカプセルの外に出られない彼女にとって、世界はどう見えているのだろう。
『……やっぱりそうね。糖度高めにおいしく出来たみたいよ』
「甘いのか。それじゃ食べてみるかな。単調すぎると眠くてかなわない」
 ミコトは小さくあくびをしながら立ち上がった。ツールボックスから折り畳みナイフを取り出し、アルコールを吹きかけて滅菌消毒。袋から適当なオレンジを一つ選び出しナイフの刃ををそっと滑らせると宝石のように輝く断面が現れた。食べやすい大きさに切りかぶりつく。
「……うまい」
『よかった。甘すぎるんじゃないかと思ったんだけど、安心したわ』
「……」
 ミコトは何も言わずに二口目を食べる。一切れ食べ終え、次の一切れに手を伸ばそうとしたところでステータス・ウィンドウがイエローアラートに変わった。
『っ! 』
 カプセルの中のアイリスが声を漏らして身体をのけぞらせた。水槽中の気泡が増えていく。アラートはイエローからレッドへ。市当局からのハッキングだ。
 すぐにワークステーションの方に椅子を移し、スタンバイ状態から起動させる。次々と更新される情報の奔流。眼鏡越しに目だけを小刻みに動かしながら必要なデータを読み取り、コマンドプログラムを即応状態へと持っていく。
「少しペースが上がってきたか。今度はどこだ」
『……右脚。交通ネットワークの、管制領域』
 喘ぐようにアイリスが答える。侵蝕はすでに始まっていた。足首から先だけでなく、その上までも培養液の中に溶かされて消えていってしまう。
 メディアディスクを差し替え、ほとんど書き上がっていた新システムのデータをワークステーションに読み込ませる。コマンドスタンバイ。システム移管シークエンス起動準備。
『ねぇミコト』
「なんだ? 」
 すでに弱々しくなってしまった声でアイリスが話しかける。右脚を襲う苦痛を押し隠しつつ、彼女はミコトに微笑んだ。
『お願い、ね』
「……まかせとけ。僕を誰だと思っている」
 軽やかな音とともにキーボードに命令が入力される。天才とまで称された稀代のハッカーは少女の願いを叶えるため、今日も全てを統括するネットワークの中を駆けてゆく。
Scene 4 :
 この街を支配する総合市庁舎オベリスク。市街のどの建物よりも、それどころか見える限りのあらゆる物よりも高く大きいそれは今日もシティを監視するようにそびえ立っている。その足下、オベリスクに隣接したセントラルホテルの一階ラウンジでミコトは柱に寄りかかりながら行き交う人々を眺めていた。
 市直営のこのホテルの下層階は市民のための空間だ。最上のサービスをリーズナブルな価格で提供している。単調な生活の中に少しばかりの潤いを。市民の間では自らへのご褒美としてこのホテルを利用することがステータスとなっている。
 あくまで市民サービスの一環としての下層階、それに対し上層階は市が接待するVIPのための宿泊フロアだ。政治家の密談、経済界の大物たちの会合、市外からの外交官の受け入れなどに利用される。彼らは空中回廊を通ってオベリスクと行き来するため、下層の宿泊客とは交わることはない。
 ミコトは腕の時計にちらりと目をやった。アナログかつアナクロな機械式時計の針は九時を少し回ったところだ。ラウンジを行き交う人の流れも少し落ち着きを見せ始めている。軽くため息をつきながら、窮屈なスーツのジャケットの襟を直した。
「……お」
 正面玄関から一人の男が入ってくるところが見えた。守衛にも親しげに挨拶するこの男は足早にラウンジの中へと進んでくる。ホールの中心でぐるっとあたりを見渡しーー柱に背を預けるミコトと目が合うとにんまりとした笑みを浮かべた。
「よおミコト」
「遅かったな、グレン。五分遅刻だ」
「わるいわるい。出がけに急な仕事が入ってな」
「相変わらず忙しそうだな」
「おかげさまでな」
 ミコト=カツラギとグレン=カミンスキー。CCIC(市中央情報技術カレッジ)の同期である二人は再開を祝して軽く握手を交わした。
 グレンに連れてこられたのはホテル最上階のバーラウンジだった。途中でエレベーターを乗り換え、ガードマンに見送られながらたどり着いたここからはシティを一望することが出来る。オベリスクに次ぐ超高層建築物、その最上階からミコトは街を見下ろしていた。
「何でも好きな物をたのんでくれ、ミコト。今日は俺のおごりだ」
「任せるよ。軽めのやつにしてくれ」
「まだ酒は苦手か? 」
「毎回入り口で年齢確認くらうんだ。めんどくさいから最近は行く気にもならない」
「はは。お前さん、いまだに高校生にも間違われそうな顔してるもんな」
 グレンはカウンターの方に寄っていてバーテンダーに二言三言話しかけた。壮年のバーテンダーは慣れた手つきでシェーカーを操り、あっというまに二杯のカクテルが出来上がる。グレンはそれを受け取るとミコトと並んで街を見下ろせる席に腰掛けた。
「お前が市の技術局をやめて以来だから、直接合うのは二年ぶりか? 今日は来てくれて感謝してるよ」
「堅苦しいのはいいよ。もっとも格好はそうもいかないみたいだけどな」
 わざとらしくジャケットの襟を直す。元々ミコトはこういうばっちり決めた服装が苦手なのだ。
「悪い悪い。さすがにここでTシャツジーパンはないだろうと思ってさ。ま、なにはともあれ乾杯しようぜ」
 グラスを���く持ち上げる。ぶつけられたグラスは澄んだきれいな音を立てた。赤みを帯びたカクテルを口に含み、ミコトは感心したように呟いた。
「……悪くないな。さすがはセントラルホテルといったところか」
「だろ? ここで飲むと他の店のが物足りなくなっちまう。ま、俺もまだここに来るのは二回目なんだが」
 くっとグラスを持ち上げあっという間に空けてしまうグレン。背が高く彫りの深いこの男はミコトとは対照的に良く飲む。アルコールに強く、悪酔いせずに味を楽しめる本当の意味での愛飲家だ。
 豪快で人当たりのいいグレンと小柄で皮肉屋なミコト。貧乏な母子家庭から二十歳を過ぎて奨学金を得て入学してきた努力家と圧倒的な知能と技量で飛び級を繰り返してきた天才。カレッジ時代は好対照な二人として学内では良く知られた存在でもあった。
「髭、のばすようになったんだな。昔はおっさん臭いとかいって嫌ってたのに」
「嘗められないようにな。若造が年功序列すっとばして昇進していくのが気に入らないってやつもいるってことだ。特にこれからはいっそう大変になってくる」
 グレンは顎の髭を撫でながらそう答えた。
 ミコトは特例として在学中から、グレンも卒業後には市のシステムエンジニアとしてオベリスクに勤務していた。ミコトの方は二年前に技術局をやめてしまっていたが、残ったグレンは順調にキャリアを重ね若くして行政システム保守の責任者になったのだと人づてに聞いていた。
「……知っているかもしれないが、実は今度市長直属の主席エンジニアに抜擢されることになったんだ。メイヤー市長がまだただの議員だった頃に知り合ったんだが、腕の良さを覚えていてくれたらしい」
「……噂では聞いていたよ。それに、こんなところに入れるのは限られた階級だけだからな。下っ端公務員のままじゃむりだ」
 主席エンジニア。市長直属のこの役職は他の一般エンジニアとは異なる職務を割り振られている。市の存在、その根幹をなすシステムと未知の領域”ブランク・ルーム”。歴代の主席エンジニアはそのセキュリティを突破・解析することを使命とし、数十万のシステムエンジニアの頂点として市長から特権的な地位を与えられているのだった。
「まだ三十にもなってない若造の抜擢は異例だそうだが、俺はやってみせるさ。先生も破れなかった”ブランクルーム”の謎、絶対に解明してやる! 」
「……」
 グレンは強い口調で言い切った。二人の恩師、ジョン=スチュワート教授もまた主席エンジニアとして”ブランク・ルーム”の解析にあたっていたのだが、ついにその夢を叶えることはなく職を辞したのだ。
『あの中には人類の希望が詰まっています』
『この街、ひいては人類の発展のためにはあの”ブランク・ルーム”の解析が不可欠です。残念ながらわたしはその夢を果たすことは出来ませんでしたが、優秀なあなた方ならきっと出来ることでしょう。わたしの目が黒いうちに、全ての謎が解き明かされることを願っています』
 講義中、年に似合わぬ熱っぽい口調でそう語った教授の姿と今目の前にいる親友グレン=カミンスキー。ミコトには二人の姿が重なって見えていた。
「今日ミコトに来てもらったのはほかでもない。勧誘にきたんだ」
「勧誘? 」
「ああ。お前、まだフリーでこまごまとした仕事をやってるんだろ? 別にそれが悪いこととは言わないが、お前ほどの実力があるんだったら他に使い道があると思わないか? 」
 ミコトはグラスに口を付けた。透き通る、それでいて血のように赤いカクテル。アルコールの苦みが舌と脳を刺激する。
「部下になれといっているんじゃない。俺と同格の待遇で迎え入れられるよう市長に掛け合ってみるつもりだ」
 ミコトは答えない。黙ってグレンの言葉を聞いている。窓の外、街はネオンに照らされ妖しく輝いている。
「なあミコト、俺と一緒にやってくれないか? ”ブランク・ルーム”を突破するにはお前の力が必要なんだ」
 グレンの目は純粋で、だからこそ危うさをはらんでいるようにミコトには感じられた。あるいは少し前の自分も同じような目をしていたのかもしれない。静かにグラスをテーブルに置く。
「グレン。悪いがその話を受けることは出来ない」
「……なぜ? 」
「やりたいこと・・・・・・やらなきゃいけないことがあるんだ。お前の仕事は他の人でもできるかもしれないが、こっちの方は僕にしか出来ない」
「……」
「僕が、やらなきゃいけないんだ」
 二人は無言でお互いを見つめていた。初めて出会ってから七年。別々の道を歩き始めてから二年。長い年月は親友だった二人の立ち位置を大きく変えてしまっていた。
 ふぅ、とグレンは張りつめていた息を吐く。バーテンダーに三杯目のカクテルを注文し、軽くあおってから崩れるようにだらしなく座り直した。
「そこまでいうんじゃしかたないか。お前が隣にいてくれれば百人力だったのに」
「すまない」
「いや、気にするな。そっちにはそっちの都合があるだろうよ」
 そういってグレンは唇の端を上げた。グラスを目の高さまで持ってきて、きらめきを楽しむように青のグラスをゆらゆらとさせる。
「なあ、最後にもう一つだけ聞かせてもらっても良いか? 」
「ん? 」
 視線はグラスを眺めたまま、気安い口調でグレンがミコトに話しかける。七年前、カレッジのカフェでたわいもない話をしていて時の口調で。
「そのやらなきゃいけないことってのは……女か? 」
「そんなたいしたもんじゃないよ。でも……」
「でも? 」
「放っては置けない。それだけだ」
 そっけない口調とは裏腹にその口もとが小さく笑っているのを、グレンは見逃さなかった。
Scene 5 :
「……コード認証、ダミー・プログラム適用……よし。シーリン、回線をこっちにまわしてくれ。直接仕掛ける」
「了解」
 部屋の空気はまるでピアノ線のように鋭く張りつめていた。オベリスク上層階、オペレーション・ルーム。シティを代表する腕利きのエンジニアたちが真剣な面持ちでディスプレイの前に座ってキーボードを叩いている。グレン=カミンスキーはその中心として周囲に的確な指示を飛ばしながら自らも最前線で戦っていた。  
「プロテクト五五六七七番から五六九二三番までクリア。最終フェイズに入ります」
 この日のために綿密に組み上げた攻性プログラム群はその能力を存分に発揮していた。次々とセキュリティ防壁を突破し、”ブランク・ルーム”の扉の鍵を開けていく。
(順調だ。これなら……)
 グレンはとっておきのツールを起動した。量子演算を応用した解析プログラム。オベリスクの超集積コンピュータ、その処理能力の大半を使用するこの重量級プログラムが”ブランク・ルーム”の扉を打ち砕かんとする。一撃、また一撃。そして……
「……最終プロテクト解除確認。第六六五ブロック、完全に解放されました」
 オペレーション・ルームに歓声が上がった。わき上がる拍手。ある者は握手を交わし、ある者は抱き合っている。
 一人のオペレーターが立ち上がり、グレンの元へと歩み寄っていった。脱力したように椅子に深く身体を預けていた彼だったが、その姿に気づくと軽く右手を上げて答える。
「やあ、シーリン」
「おめでとうございます、カミンスキー先輩。おつかれさまでした」
「ありがとう。それにしても肩が凝ったよ」
「ふふふ。ゆっくり休んでください」
 大きめの眼鏡越しにシーリンはにっこりと笑いかけた。エンジニアの女性は概して無愛想だったり容姿に無頓着だったりするのだが、彼女は非常に可愛らしい。つられてグレンの口元も緩んでしまう。
「そうだな。よければ今度一緒に……」
「カミンスキー君」
 引き締まった声がグレンの台詞を遮った。大柄な身体、褐色の肌、刈り込んだ白髪。発するオーラはこの部屋の誰よりも鋭く、歴戦の風格を漂わせている。グレンはすぐに立ち上がり姿勢を正した。
「メイヤー市長、いらしていたのですか」
「君を選んだのは私だからな。見届ける義務もあろうというものだ」
「光栄であります」
 シーリンはグレンの大きな背中に隠れるように一歩引き下がった。先日選挙で前職のスティーブン=スミスを破り当選したこの市長に対し、彼女は何となく敬遠した想いを抱いていた。メイヤーとは直接目の合わない位置に立ち、二人の会話に耳を澄ます。
「君が主席エンジニアに就任してからの進展には目を見張るものがある。私としても誇らしいよ」
「すべてここの設備とすばらしい仲間たちのお陰です」
「仲間か……」
 メイヤーはオペレーション・ルームの中を眺めた。市長に就任した際、私財を投じて設備を増強したこの部屋は従来を遥かに上回る処理能力を獲得している。そのスペックとグレンの能力が重なり合い、この一ヶ月で”ブランク・ルーム”のプロテクトの突破と解析は飛躍的に進んでいた。
「仲間と言えば、君が以前言っていたエンジニアはどうしたのかね。カツラギとかいったか」
「……残念ながら個人的な事情により協力することは出来ないとのことでした。彼がいればより早く、あるいは二週間もあればここまで到達できていたかもしれません」
「ほう」
 市長はそう呟いて自らの髭を撫でた。顔の輪郭部に短くのびたその髭はメイヤーの顔立ちをより精悍な物にしている。
「まあいい。その彼がいなくてもここまで来れたのは事実なのだからね。残りはどうなっている? 」
「事前の分析に寄れば、あと一つです。予定通り五日後には最後のアタックを開始できるでしょう」
「よろしい。君の働きには期待しているよカミンスキー君。お母上にもよろしくな」
「はっ」
 グレンの肩をポンと叩き、多くの秘書官を引き連れながら市長はオペレーション・ルームを後にした。
「いや、大変なお方だな、メイヤー市長は。プロテクトを相手にするよりも疲れたよ」
 グレンは大げさに肩をすくませながらおどけた顔を見せた。わざとらしく汗など拭いてみたりもする。強ばっていたシーリンの表情もついつい緩んできてしまう。
「市長に失礼じゃないんですか、それって? 」
「いやいや、敬意の表明のつもりだよ、俺としては」
「ふふ。そういえばさっき言ってたエンジニアって、ひょっとしてあのミコト=カツラギですか? 」
 名門CCICを史上最年少、それも主席で卒業した天才の名前はこのシティでは広く知れ渡っている。現在の動向についてはあまり情報が入ってこないが、てっきりどこかの企業の顧問エンジニアとして活躍しているのだとシーリンは思っていた。
「大学の同期なんだよ。この前久しぶりにあって勧誘してきたんだが、ものの見事に振られちまった」
「……ミコト=カツラギと言えば、あの噂って本当なんですかね? オベリスクの基幹システムに侵入したっていう」
 シティの全てを管理するオベリスク。最高の技術がつぎ込まれ、そのセキュリティは”ブランク・ルーム”にも引けを取らないといわれている。しかしそんなオベリスクも過去に一度だけ外部からの干渉を許したことがあった。その“犯人”として噂されたのが当時情報技術局の副局長であったミコトだ。ろくな証拠もなく結局捕まることはなかったものの、彼女たちエンジニアたちの間でまことしやかにささやかれているこの噂がミコトの名を業界の中で忘れがたい物としていた。
「……真偽は知らないが、その実力はカレッジの時点ですでにあったと思うね。うちのカレッジの管理システムにも容易く侵入できちゃうようなやつだったし」
「そんな人がどうして不参加に……? 」
 グレンは大きく首を振った。
「さあね。あっちにはあっちの都合があるんだろう。放っておけない女が出来たとか言ってたしな」
「それじゃ、ひょっとして今もデートの最中だったりして? 」
「どーだろうねぇ。そうだったらただじゃ置かないけどな。俺がこんなに苦労してるってのに! 」
 グレンはいたずらっぽくにやりと笑い、笑顔がすてきなシーリンは再びふふふと微笑むのだった。
「ふぅ……」
 仄かな赤い光に照らされる暗闇の中、ミコトはため息をついて背もたれに身体を預けた。ディスプレイは休む間もなく更新され彼に情報を送り続けている。
(さすがだな。ハッキングのペースが早い。予想通り……いやそれ以上か)
 カプセルの中に浮かぶアイリスの身体はそのほとんどがすでに失われていた。右腕、左腕、右脚、左脚。四肢はとうに溶け去り胴体の方も胸部より下は残っていない。長い髪が顔にまとわりつき表情を隠しているため、呼吸の度に上下する肩のかすかな動きがなかったら死んでいると思われてしまったかもしれない。
『はぁ……はぁ……』
 侵蝕が進むにつれアイリスが苦しむ時間も長くなっていった。彼女がどれほどの痛みを感じているのか、ミコトには知るすべもない。彼は自分の出来ること、自分に託されたことをするだけだ。ーーたとえそれがどのような結末をもたらすことになっても。
 ミコトはキーボードを軽く操作してテレビ・チューナーを起動した。ディスプレイの隅に小さく新たなウィンドウが現れ、会見場の様子が映し出される。画面の中ではキングストン=メイヤーがいつかのように、市民に向けて熱弁を振るっていた。
『ーーついにここまでたどりつきました。あと一歩、あとほんの一歩です。我々は歴史の瞬間に立ち会おうとしています。未だかつて誰も見たことがない”ブランク・ルーム”、その秘密を解明する直前まで我々は来ているのです。五日後日曜日の午後七時、我々は最後の挑戦を”ブランク・ルーム”に対して行います。その挑戦が終わったあと、この街の歴史は新たなステージへと突入していることでしょう』
 会見場で歓声が上がった。だれもが市長の巧みな弁舌にアジテートされ、熱狂している。おそらく家庭で、職場で、あるいは街角で。これを見ている市民も神経が興奮するのを感じているに違いない。彼は大衆をその主張に巻き込むことにかけて天才的な能力を持っている。そんなスクリーンをミコトは相変わらずの無表情で眺めていた。
『……ミコト』
「アイリス、起きて大丈夫なのか? 」
 いつの間に目覚めたのか、アイリスが頭を起こしてこちらを見ていた。
『いよいよ、ね』
「……」
『ごめんね。こんなつらいこと頼んで。でも……』
「言わなくていい」
 ミコトは乱暴にキーボードを操るとチューナーのウィンドウを閉じた。他のインフォメーションボードも次々と終了させ、あとにはブラックアウトしたディスプレイだけが残る。
「これは僕の義務だ。。キミが気にすることじゃない」
『……そうね、ごめん。でも一つだけ言わせて』
「……」
『ありがとう。今まで私の我がままにつきあってもらって、感謝している』
 カプセルからの光が弱まった。アイリスが休眠モードに入ったのだ。要求される休眠時間は以前に比べ長くなってきていた。
 穏やかな顔だった。寝ている彼女はいつだって静かな表情をしている。彼女は夢を見るのだろうか? ミコトは今までそんなことも考えなかったことに驚いた。
「……ふん」
 大きく背中を後ろに投げ出すと、椅子のリクライニング部分がぎしぎしという音を立てた。頭上には暗闇が広がり、その先には何も見えない。
Scene 6 : 
 最後の五日間はあっという間に過ぎていった。。アイリスの消滅後、オリジナルシステムがクラッシュしないようにつなげるバイパスプログラムの構成と検証。ハッキング誘導経路の確認。緊急時の干渉ルートの確保。計画に一分の隙も出ないよう、いつも以上に繊細にコードを確認していく。
「大丈夫、だよな」
 準備は怠っていないはずだった。千を越えるハッキングのパターンとその対処法はすでに用意している。さらに言えば以前までと違い、今では相手の顔が見えている。グレンの手法については誰よりも詳しいはずだ。それでもミコトの首筋にはちりちりと嫌な感触が焼き付いている。拭えない悪寒。思わず身震いしてしまったところをアイリスに見とがめられてしまった。
『ミコト、寒いの? 』
「……平気だよ、これくらい。多少寒い方が頭が冷えていい」
『私のせいで風邪なんて引かないでね。そんなの、イヤだから』
 アイリスはまだ心配そうな表情で赤い液体の中に浮かんでいた。肉体の八割を失った、もはや人間と言えるのかさえ疑わしい状態の聖女。ミコトは顔を向けずに答える。
「僕のことは良い。それよりも、そろそろ時間だ」
 ディスプレイの端に表示させたデジタル表示の時計が十八時五十七分を示している。ミコトはワークステーションを起こし、必要���アプリケーションを展開し始めた。最終チェック。あそこまで大体的に発表した以上、時間をずらしてくるということはないだろう。しかし時刻が予告されているというのは時限爆弾のタイマーを見せつけられているようで、かえって落ち着かなかった。
『……んっ! 』
 アイリスの喘ぎ声とともに、カプセルの中が俄に騒がしくなった。細かい泡が次々と彼女の周りに立ち上る。
 幾重にも張り巡らされたセキュリティ防壁がもろいところから突破されていく。だがこれはミコトの筋書き通りだ。
「よし、行くか」
 十九時〇〇分ジャスト、最後のハッキングは定刻通りに開始された。
 キーボードを操るグレンの額には汗がにじんでいた。ハッキング開始から既に二時間が経過している。”ブランク・ルーム”の最後の砦、第六六六ブロックはそう容易くは扉を開いてくれないようだ。
「……先輩、少し休んだらいかがですか」
「いや、変に流れを変えたくない。作業自体は順調だしこのまま行こう」
 シーリンが声をかけるが、グレンは首を振った。差し出されたボトルだけを受け取り水分を補給する。疲労は隠しきれないが、それを上回る充実感が顔に表れていた。
「もう少しだ、もう少しで突破できる。休んでいる暇なんてないよ」
 そういう間も手はキーを叩き続けている。ディスプレイは二八九番目のサブ・ブロックを開放したことを告げていた。
「キミも席に戻ってくれ、シーリン。終わったら何かおいしい物でも食べにいこう」
「……はい、楽しみにしています」
 ぺこりと挨拶をして定位置にかえっていくシーリン。グレンはそれを見送るとよしと気合を入れなおしてディスプレイに向き直った。
「進行度九八パーセント、了解。残るサブ・ブロックももうわずかか……」
 ミコトはインフォメーション・ボートからのメッセージを確認した。事態は順調に進んでいる。あと少し、最後までトラブルなく扉が開かれたときにミコトの仕事は終わる。
 アイリスは今、声を上げることもなくケーブルに吊られてカプセルの中で目を閉じている。腕と胴の外縁部が僅かに溶けたあとはごくゆっくりとしか侵蝕は進んでいない。これはシステムの中核が彼女の頭胸部に集中しているためであり、これもまた予想通りだ。
 予想通り、予想通りではあるのだが、ミコトはあのときに感じた嫌な感触を未だ拭えずにいた。
『……あっ』
 ごぽっ、と大きな気泡が生まれてアイリスの下胸部が崩れ落ちた。肉の欠片は底につくまで��溶かされ、何も残らない。剥がれ落ちたあと、生身の人間であれば心臓があるであろう場所には赤く不気味に輝く結晶体が埋め込まれていた。
 宝石のような煌めき。固形質の殻の内側にもやもやとしたものが閉じ込められている。彼女を磔にしていたケーブルは背中を貫通し、そのクリスタルに直結していた。アイリスの顔が苦痛に歪む。
「アイリス……」
『見ないでミコト。ちょっと恥ずかしい、かも』
 笑おうとするその努力が痛々しい。彼女の見えないところで唇をかむ。最後のサブ・ブロックが突破された。残されたのは最後の領域、”キー・ストーン”だけだ。せめて彼女がこれ以上苦しむことのないように、ミコトはバイパスブログラムを接続する準備を開始するーーその時だった。
 クリスタルの中のどす黒い物が急に実体を持ち始めた。それまで霞のようにぼんやりとしていた物がはっきりとした輪郭を持つように凝縮していく。ドクン、ドクン。本物の心臓のように脈拍を刻み始める。鳴り響くアラート。
「……なんだ? 」
 こんなパターンは想定していない。ディスプレイはしきりに警告を訴えてくる。ドクン。自分の脈拍も早くなってくるのも感じる。アイリスが泣きそうな声で叫んだ。
『ミコト、おかしなプログラムが起動してる! システムの管理権が奪われそう! 』
「なに? 」
 ミコトは素早くステータス・ウィンドウを開いた。外部からのハッキングではない。グレンの攻撃はまだ”キー・ストーン”の外側に向けられている。
(どういうことだ……? )
 シティの総合管理システムの状態をモニターするウィンドウを開きチェックする。
……イースト・ステーションで信号トラブル、リニアのダイヤに乱れ……ウェストブロック、エンド地区で小規模の火災、通報と避難誘導を実施済み……セントラル・バンク第二支店で警報に反応、ガードマシンを派遣……
 数百万の人口を抱える都市から溢れ出る情報の奔流。その中の一点に目を止めたミコトは吐き捨てるように呟いた。
「……お前を作った奴らはよほど意地が悪いらしいな、アイリス」
『どういうこと? 』
「内側から自壊プログラムが走り始めている。このままお前が消されると連動して総合管理システムがクラッシュする仕組みだ」
 シティの全機能を統括する総合管理システム、それが機能不全を起こすということはこの街が終わることと同じだ。データサーバーは全て飛び、リニアトレインや無人フライヤーはコントロールを失い墜落、社会インフラは全て停止する。いや、それだけにとどまらない。農業や畜産のプラントが止まれば食料がなくなり、濾過装置が止まれば水がなくなる。数少ない生活物資を巡って暴動が起きるのはさけられない。
『そんな……』
 グレンのハッキングは今も続いていた。完全に制圧されるのも時間の問題だ。そして今回の場合、それが破滅への引き金となる。
 ミコトはラップトップPCを有線でワークステーションに接続した。極限までチューンした特注のハイエンドモデルだ。瞬発的な処理能力ならワークステーションにも負けない。
 ワークステーションのリソースは今もシステム移管シークエンスに使われている。これ以上のことをこなすには多少のリスクは負わなければならないだろう。
「……オベリスクに干渉してハッキングの進行を遅らせる。時間を稼いでいる間に自壊プログラムへの対処だ。クラックするかループ回路に押しやって自滅させる」
 ハンデというには大きすぎるビハインドだった。一人が背負うにはあまりにも重すぎる。
『……できるの? 』
「できるさ。伊達に天才やってる訳じゃない」
 ミコトは彼女の不安を振り払うように不敵に笑うと、電子の海へとその意識を沈めていく。
「……ハッキングです! 攻性プログラムの能力六〇パーセントダウン! 」
「なんだって! 」
 シーリンの悲鳴のような報告にオペレーション・ルームの空気が一変した。偉業達成を前にしたざわつきから、これからどうなるんだという混乱へ。伝搬した不安は一気に室内を覆い尽くそうとする。パニック寸前になったメンバーを引き戻したのはグレンの力強い声だった。
「落ち着け! まだ失敗した訳じゃない! ーーシーリン、ハッキングの発信元は!? 」
「はっきりとはわかりませんが……おそらく市内です。ローカルネットに直接割り込んできています」
「アルファチームは攻撃を続行。ベータチームはシステムを守れ、サーバーのリソースを一部まわす。シーリン、キミはガンマチームと発信源の探知だ」
 元々ハッキングに対する防御なんて考えていなかったプログラムたちだが、それでも一度に六割も無力化されるとは想定外だ。いや、そもそもオベリスクのセントラルサーバーに置かれたこのプログラムが攻撃を受けているということがすでに異常なのだ。
(……オベリスクへの侵入か)
「まさか、な」
「先輩? 」
 シーリンが心配げな視線をグレンに向けてくる。彼は首を振ってそれを打ち消した。
「……なんでもない。ベータチームの指揮は俺が直接執る。俺の目が黒いうちはここのシステムに好き勝手はさせない」
 ミコトは自分の身体がだんだんと火照ってくるのを感じていた。こんな感覚はカレッジのシステム侵入を巡ってグレンとやり合ったとき以来だ。
 焼き切れるまで頭のエンジンをまわし続ける。一瞬たりとも気は抜けない。付け込まれ、蹂躙される。相手はそのグレンと、この街の創造主とも言える存在なのだから。
「・・・・・・強制アクセス、フラッグナンバリング変更。よし」
 画面の端に小さいウィンドウがポップアップする。送り込んだジャミング・プログラムからの救援信号だ。
「こんどはこっちか。プログラム二五八番から二八七番まで再展開」
 グレンの力量は予想以上だった。妨害プログラムは送り出す端から無力化され逆襲を受けてしまう。偽装のためのサーバーを噛ませる余裕すらなさそうだ。
(ーーもとより覚悟の上だ。好きなだけ暴れてやるさ)
 自壊プログラムの一部を切り離し、コマンドラインをループさせる。少しずつ自壊プログラムの攻撃能力を削ぎ落す。地味ながらも有効な戦術ではある。しかしーー。
『まただわ。いくら消しても次々発信されてくる』
 プログラムのマスターデータを直接クラックしないかぎり、コピーをいくら壊したとしても際限なく修復されてしまう。相手は起動条件が揃えばオートマチックに動くアルゴリズムだ。持久戦を挑めば勝ち目がないのは分かりきっている。
「選択の余地は無い、か」
 八十七回目のクラックを終えたあと、ミコトは吐き捨てるように呟いた。ため息をつき、電子キーを腰のケースから取り出すとワークステーションのメモリスロットに差し込む。
『……ミコト? 』
 「ーー五分だけ時間を稼いでほしい。総合管理システムを一時的にダウンさせてその隙に”キー・ストーン”に侵入する」
 自壊プログラムの本体を叩くにはそれを発信している”キー・ストーン”のプロテクトを突破しなければならないが、グレンとの二正面作戦ではここの設備はあまりに貧弱だ。向こうの動きを何とか封じ、全てのリソースを費やして初めて勝機が見えてくる。
『でも、それじゃ、街が全部止まっちゃうってことに……』
「だからキミに頼むんだアイリス。構造上、”ブランク・ルーム”の領域は外部からダウンさせることができない。オベリスクのシステムを止めている間、必要最低限のライフラインはキミが維持してくれ」
 ”キー・ストーン”から離れたアイリス自身の処理能力がどれほど残っているか。それはミコトにも分からない。あるいは彼女に大きな負担をかけてしまうことになるかもしれない。それも全て踏まえた上でアイリスは静かに頷いた。
『……わかったわ。街は任せて』
「すまないな。結局こんなことになって」
『いいの。みんなを守るのが私の仕事だから』
 まだ痛みはあるはずだった。速度が落ちてきているとはいえ、身体の分解は続いている。
(ーーどうして彼女が苦しまなければならない? )
 幾度となく繰り返してきた自問。答えは未だ見えてこない。これが彼女にとって最後の苦しみとなるようにと願いながら、ミコトはブレイク・プログラムの実行キーを入力した。
グレンはハッカーからの攻撃を跳ね返しながら、予感が確信に変わりつつあるのを感じていた。高度で洗練されたアルゴリズムは通常では考えられない速さでオベリスクの基幹部に侵入してくる。だが画期的なその手管も手の内を知ってしまいさえすれば対処は容易だ。グレンのカウンターアタックは徐々にではあるが侵入を跳ね返し、むしろ押し込みつつあった。
「すごいな……主席エンジニアに選ばれるだけのことはある」
「……」
隣では年上の部下が驚嘆の声をあげていた。主席エンジニアはそれには答えない。眉間にシワを寄せたままディスプレイを睨んでいる。 
  どれだけ優れたアルゴリズムだからといってそれがそのまま彼が組み上げたという証拠にはならない。むしろ元��なるアイデアさえ共通ならば洗練させればさせるほどその姿は似通ってくるものだ。
(だが……)
プログラムに限らず、人が作ったものにはその端々に作り手のクセが出る。これは消そうと思ってもそう簡単に消せるものではない。
理性ではわかっていた。ただ感情が、積み上げてきた信頼がその事実を否定していた。
「……なんだ? 」
 オペレーション・ルームの照明が不意にちかちかと瞬いた。故障か? だとしたらずいぶんとタイミングの悪い……。
 グレンの嘆きは長くは続かなかった。照明の明滅が予備動作だったかのように、次の瞬間には照明を含むほとんどの電子機器の電源が落ちた。窓一つない室内が暗闇に覆われる。
「どうした! 」
「わかりません! システムが全部止まっています! 」
 叫び声での応酬は非常電源が作動するまで続いた。非常灯の頼りない明かりが室内をかすかに照らす。いくつも並べられたディスプレイが一斉に再起動を始めた。エラーログを読み取った各班から報告が上がってくる。
「アルファチーム、システムの強制終了のため接続がカットされました。制圧達成は未確認」
「ベータチームから報告、外部からの妨害は止まりましたがディフェンスプログラムにもエラーが発生しています。復旧までは時間がかかりそうです」
「ガンマチームは……」
 シーリンが報告を述べようとしたところでエアロックのドアが開いた。足音も荒々しく、キングストン=メイヤーが秘書官を引き連れ入ってくる。
「カミンスキー君、なにが起きた? 」
「……オベリスクの基幹システムがダウンしています。しかし、正副予備の三系統が同時に不具合を起こすとは考えられません。おそらく外部からの攻撃です」
 それもかなりの腕前の、とグレンは心の中で付け足した。心当たりは一人しかいない。
「それは先ほど解析の妨害をしてきたのと同じ輩かね? 」
「……確証はありませんが」
「ーーふむ。それなら……」
「あ、あの」
 シーリンが二人の会話に割り込んだ。傍らに控えていた秘書官が露骨に嫌そうな顔をするが、意外にもメイヤーが続きを促した。
「どうした、コール技術官? 」
「さ、先ほどの大規模攻撃のお陰で侵入者の居場所が分かりました。サウスブロック第九地区、ウィークストリートからで間違いありません」
 声は上ずっていたが端的に纏められた報告だった。メイヤーの顔つきが変わる。グレンが不可解そうに問いただした。
「フェイクという可能性はないのか? いくらなんでも特定が早すぎるが……」
「それがどういう訳か全く偽装がなされていなくて……」
 ミスか? グレンは自問する。まさかあいつほどのやつがそんな初歩的なミスを犯すはずがない。ということは……
(ーーなにか向こうにとっても予想外の事態が起きている……? )
「市長……」
「この件はこちらに任せたまえ、カミンスキー君。君たちエンジニアにはシステムの復旧と、何より”ブランク・ルーム”へのアタックを再開をしてもらわなければならない」
「攻撃の再開ですか? しかしこの事態です、まずは市内の安全がどうなっているか確認しなければ……」
「カミンスキー君、考えても見たまえ。敵がオベリスクにハッキングするだけの技術力をもっているとして、どうしてこのタイミングなんだ? 」
「それは……」
「向こうは明らかに我々の解析を妨害したがっている。ここで引くのは敵に無駄に時間を与えるだけだ。今解き明かさなければ永遠に機を逸することになりかねない」
 メイヤーの主張がもっともだということはグレンにも理解できた。あいつの目的が何であれ、”ブランク・ルーム”の中身を守りたがっている。次に相対したときにはさらに強固なプロテクトを築いていることだろう。
「ーーセントラルサーバー、一部ですが復旧しました! 情報処理能力平時の六〇パーセントまで回復しています! 」
「行きたまえシティ主席エンジニア、グレン=カミンスキー。私が何のためにキミを選んだのか分からない訳ではあるまい? 」
 わずかな沈黙があった。シーリンの場所からはグレンの表情が伺えない。しかし彼は背筋を伸ばし、市長に向けて恭しく敬礼を捧げた。
「わかりました。攻撃を再開させていただきます」
 シーリンが気遣わしげな目でこちらを見ているのが分かったが、グレンは気づかない振りをした。先ほどまでと同じように周囲に指示を飛ばし攻撃の準備を整えいく。市長はその様子を確認すると、足早にオペレーション・ルームを後にした。
 かつかつと廊下に革靴の音が響き渡る。早足で進むメイヤーの顔は冷たく、険しいものになっていた。非常灯のみの明かりの中、落としたトーンで秘書官が彼に話しかける。
「……市長」 
「”ハウンド”を出す。生け捕りが望ましいが最悪の場合射殺しても構わん」
 秘書官は無言で頷くと暗がりの中へ消えていった。
 エレベーターホールでメイヤーは立ち止まった。ガラス張りになった壁からは市街が一望できる。彼は窓際に立ち、数百万の市民の顔を思い描きながらそれを眺めた。
「ーーこの街は私たちのものだ。いつまでも掌の上で踊らされていると思うなよ」
 常に明かりがともり不夜城とも称されるこの街が今では暗く沈みきっている。もう何年も見たことのない月と星が夜空の中に浮かんでいた。
『……』
 アイリスは先ほどから目を閉じたまま一言も発していない。ライフラインの維持に集中しているのだろう。そしてミコト自身にも彼女を気にかけるような余裕は全くなかった。
 シグマドライバ。大学時代にグレンと思いついたアイデアを元に生み出したとっておきのツールだ。それを駆使して”キー・ストーン”の中を、深く深く潜行していく。
 システムダウンの影響はこの砦の中にも及んでいる。街の蠢きすら聞こえないしんと静まり返った部屋の空気は深海のように二人の身体を包んでいた。着底。システムの中の最古の記憶領域にミコトは辿り着く。
 残された日付はもう何百年も昔の物だ。埃にまみれた記憶領域の中を慎重に探索する。潜行開始からすでに二分、時間はない。逸る気持ちを抑えつつも、先へ先へと進んでいく。
「……あった」
 プログラム・アポトーシス。生命が個体をより良く保つために自らの細胞を死に至らしめてしまうという機構。そんな名を付けられたプログラムが深部階層に丁寧に格納されている。発動すれば数百万といった人々を殺しかねないそれは気が抜けるほど簡潔なアルゴリズムで記述されていた。
 これを消せば終わる。コードを選択し、デリートキーを押し込んでーープログラムは消えなかった。
 カチッ、カチッ。何度試してみてもプログラムは消えない。あざ笑うかのようにそこに存在し続けている。
「このっ……! 」
 それなら上位階層ごと消し去ってやる。ミコトは選択範囲を広げようとするが、「彼女」の声がそのその動作を押しとどめた。
『無駄だよ。それは大事なシステムの一部だからね。消させるわけにはいかない』
 声がしたほうにミコトは振り返った。赤い培養液に満たされたカプセルの中で、「彼女」はかすかに笑っていた。目は開かれ、身体の侵蝕も止まっている。確かに彼女の顔だった。確かに彼女の声だった。だがそこにいるのはミコトの知る少女ではなかった。
「アイリス……? 」
『アイリス、か。なるほど、確か前世紀の神話の中にそんな名を持つ女神がいたな。良い名だが、これにつけるには少々もったいない気もするな』
「誰だ、お前は」
 問いつめる声が震えていた。得体の知れないおぞましさをミコトはこの声の主に感じていた。そんな彼の心のうちを知ってか知らずか、「彼女」は口の端をわずかにと持ち上げてにやりと笑った。
『ここまで来たのは私が生み残されてから初めてだ、ミコト=カツラギ。たかだか二百年程度でここまで辿り着けるとは想像もしていなかった。称賛に値するよ』
 定型文のような祝辞を述べてから「彼女」は部屋の中をきょろきょろと見回し始めた。あちらからこちらへ。そっちから向こうの隅へ。興味深そうに眺め回す。
『よしよし。まだ設備自体に痛みは来ていないようだな。私の設計に誤りはなかったということか』
「さっきから何の話をしているんだ」
『おや、キミともあろうものがそんな質問をするのかな? どうせ察しはついているのだろう? 』
 ミコトは顔をしかめた。
『分かってはいるが認めたくないーーそんなところかな。誰しも直視したくない事実というのはあるものだ』
「黙れ。お前には言ってやりたいことが山ほどある」
 ほう、と「彼女」はわざとらしく目を大きく見開いてみせた。
『何かなーーといいたいところだが、まあ想像はつくよ。これのことだろう? 』
 これーーもう胸から上しかなくなった少女の身体を示しながら答える。カプセルの中、ケーブルに繋がれた聖女。何もない場所(”ブランク・ルーム”)を守るために捧げられた生け贄。
『しかしこれは仕方のない犠牲なのだ、ミコト=カツラギ。優れた技能をもつキミなら分かるだろう』
「分からないね、分かりたくもない」
『まあそう言うな。ここは一つ昔話をしようじゃないか』
「……」
 何も言い返さないのを了解の証と受け取ったのか、「彼女」は幾分芝居がかった口調で語り始めた。この街にとっての創世、その神話とも言うべき話を。
『あるところに、非常に科学が発達した街があった。彼らには作物を育てるための豊かな土地も、工業製品を作るために使える資源もなかった。ただ優れた頭脳と技術だけがそこにあった』
『街は技術を売り物にして生きてきた。人が生きるためには例外なく技が必要だ。技があればなんだって生み出せる、作り出せる。モノではなく技術を使い、街は偉大な発展を遂げた』
『ところがある日、街の中で諍いがおこった。技術は街の人々の生きる糧であり、富の源泉でもある。技術を独占しようとする人々とそれに反抗する人々の間の争いはほんの少しの火種のせいで大きく燃え上がった』
『街を守るための技術は街を焼くために使われた。人々を飢えから救うための技術は人々に毒を飲ませるために使われた。不釣り合いな技術に囲まれた人々は自分たちがどんなことを出来るモノを生み出してしまっていたのか、まったく自覚していなかった』
『街は滅び、人々は散り散りになった。後に残されたのは技術だけ。謝った使われ方をした可哀想な技術たちだ。数百年経ってーーそれを人々はまた手に入れようとしている』
 「彼女」はそこで言葉を切った。哀れむような、あきらめたような、そんな不思議な目でミコトを見つめる。
『我々はキミたちに同じ過ちを繰り返して貰いたくないのだよ。技術は残す。だが管理しなければならない。過ぎたる炎はその身を焼く』
「ーーアイリス一人に罪を負わせてもか? 」
『最高のプロテクトのためには必要だったんだ。生体分子の振る舞いはもっとも解析が難しい物の一つだったからねーーもっとも、そのプロテクトもキミたちの前に破られてしまいそうだが。独自に発展したのはハッキング技術ばかりとはね。まったく人間というものは欲深い』
 嘆くように「彼女」は言う。
『隠せば隠すほど暴こうとし、少しでも役に立ちそうなら何が副産しようが顧みない。そして今も技術を巡って争いを繰り広げている。何年何百年経とうが人間というものは変わらない』
「……なるほどね、アイリスが死にたがった気持ちも分かる気がする」
 ミコトは立ち上がった。声はまだ震えていた。恐れではなく、怒りのために。
『キミの同情は理解できるよ。だが無闇な争いを起こさないためにもーー』
「言い訳は寄せ。お前らのつまらない自己顕示欲につきあう気はない」
『自己顕示欲? 』
「ああ。お前らはなんだかんだいって自分たちが作った技術を抹消するのが惜しかったんだよ。だからこんな回りくどい方法で封印した。使いたくなったらいつでもまた引っ張りだせるように。僕が彼女に同情したのはそのつまらないエゴにつき合わされているからだ」
 ミコトはカプセルの中の彼女を見つめた。彼女の口を借りてしゃべっている「彼女」ではなく、だれよりもこの街と人々を愛していたアイリスを。誰にも知られることなく犠牲になっていた少女を。
『わからないね、ミコト=カツラギ。技術は富の源泉だ。何もないこの土地に人が生きるためには技が必要だった。我々の遺産がなければこの新たな街は存在しなかっただろう。もちろん、キミもだ』
「なければ良かったんだよ、この街なんて。過ぎた技術は世界を歪ませるーーお前の言った通りだ」
 ミコトはキーボードを操作した。起動したハッキング・プログラムはいとも簡単にロックを打ち破る。創造主は今、ミコトの目の前で無防備な姿で晒されていた。「彼女」の顔が驚愕に歪む。
『そんな……! 』
「どうした。ここの人間がハッキングが得意だと言ったのはお前だぞ? 」
『……私を消去するというのかね、ミコト=カツラギ』
 ミコトは答えない。
『いずれその決断を後悔することになるさ。パンドラの箱を開けてでてきたものが何か、知らない訳ではあるまい』
「でも最後に希望が残った」
 かたんと軽い音を立て、エンターキーが入力された。強制終了、メモリ・フォーマットスタンバイ。再起動を開始します。
「……」
 ミコトは無言でアイリスを見上げていた。ハッキングは再開され、わずかに残っていた身体の部分も分解が再び始まっている。まだ目は閉ざされたままだが、お陰で彼女が痛みを感じなくてもすむのならそれも良いだろう。
 自壊プログラムはデリートされ、システムのダウンも回復した。妨害のなくなったグレンの解析は順調に進んでいる。使ったラップトップやメディアディスクは記憶媒体部分を粉々に砕いたのでデータの復元は不可能だろう。今度こそミコトのやることは残っていない。
 長いようで短い二年間だった。心にぽっかりと穴があいてしまったような喪失感が身体の中を流れていた。
『……ミコ、ト? 』
「おはよう、アイリス」
 彼女が目覚めたようだった。眠たげな目がゆっくりと開かれ、綺麗な虹彩が現れる。まだ夢の中にいるようなぼんやりとした眼差しをミコトに向けながら、彼女は呟くように話しだした。
『良い夢を、見ていた気がするの。街の中を自由に歩き回って、みんな笑顔で、風のにおいがして、それでーー』
 不意に口をつぐむ。自嘲を感じさせる微笑みは諦めと憧れが入り交じっていて、ミコトは何も言えなかった。
『ごめんね。おかしな話をしちゃったみたい。忘れて』
「アイリス……」
 侵蝕はやむことなく淡々と続いていた。美しい身体は美しく、煌めくように消えていく。
『どうしてかしらね。もう痛くないの。だから、心配しないで』
 言葉が見つからなかった。ミコトは口を真一文字に強く結んだ。
『あなたにはいくら感謝してもしきれない。私の代わりに生きて、幸せになってほしい』
「……約束する。キミが安心して眠れるように」
 アイリスは最後に花のように笑い、泡の中に消えていった。彼女を長い間戒めていたケーブルは、カプセルの底に落ちてカランという音を立てていた。
 一人いて、二人になって、また一人になった。機能を果たしたカプセルはもはやその動作を止めている。静寂と余韻。苦闘の末に与えられた平穏。だがそれは長くは続かない。
「ーー突入! 」
 キャットウォークの上の入り口扉がけたたましい音とともに蹴破られた。総勢七名、ライフルを構えた黒ずくめの男たちが無遠慮に入り込んでくるのをミコトは冷めた目つきで眺めていた。
「ハウンドか。市長も容赦がないな」
「ーー動くな、システム不正アクセスおよび国家反逆罪の疑いで逮捕する」
 七つの銃口は訓練された動きでミコトの周りを取り囲んでいた。テーブルが押し倒され、上においてあった物が散乱する。床にぶつかったオレンジは無惨に砕けてその中身をさらけ出した。
「おいおい、あんまり汚さないでくれよ。ここの掃除は大変なんだ」
「黙れ! 必要とあれば射殺の許可も出ている! 」
 リーダーの男が脅すように銃を構え直した。しかし彼はたじろがない。薄ら笑いさえ浮かべている。
「投降しろ。おとなしくしている限り身の安全は保証する」
「ーーいやだね。彼女を裏切るくらいだったら、約束を破る方がましだ」
「っこの! 」
 ミコトはベルトに挟んでいた小型の拳銃を取り出しこめかみに押し当てた。乾いた銃声が、主のいなくなった部屋に鳴り響いた。
Scene 7 :
 街は今日もいつも通りだった。今日という日を生き抜き、明日という日を迎えるため。人々は相も変わらず路上に店を出し、威勢のいいかけ声を上げ、市場には品物を売りさばこうという気持ちのいい熱気があふれている。グレンはそんな通りのオープンカフェの席に座り、売店で購入した新聞を広げていた。
「……」
ーーメイヤー市長ブランク ・ルームの完全解放を宣言。主席エンジニアのカミンスキー氏は特別表彰へーー
 広場で演説する市長の写真がトップを飾り、紙面には長年の悲願がなされたことに対する威勢のいい言葉が並んでいる。しかし無表情なグレンの目は社会面の片隅に注がれていた。
「はぁはぁ、すみません。遅れてしまって」
 駆け寄ってきたのはシーリンだった。いつもより少しだけ華やかな装い。走ってきたせいかその顔はほんのり上気している。
「いや、気にしなくていい」
「 でも……」
 グレンは新聞を畳むと近くにあったゴミ箱の中に無造作に投げ込み立ち上がった。
「行こう、シーリン。時間というのはあっという間に過ぎてしまうよ」
 二人連れ立って賑やかなストリートを歩く。ふとグレンは立ち止まって上を見上げた。真っ青な空を切り裂く総合市庁舎オベリスクは今日もそこにそびえ立ち、街のすべてを監視している。
「グレンさん? 」
「……いや、なんでもない」 
 グレンは巨大な墓標に背を向けると、シーリンと共に街の人混みの中へと消えて行った。  
fin. 
新作「Re:Bloom ~幻想と渇き~」収録の新刊『Re:Bloom』は夏コミC94二日目・西あ-08bにて頒布予定です。
詳しくはこちらから! → 【新刊のお知らせ】テーマ誌『Re:Bloom』夏コミC94で頒布します!【2日目(土)西あ-08b】
0 notes
sakikosetaka · 6 years
Photo
Tumblr media
[差別と無知とハグの絡み合い。 Pride月間に思うこと]
6月はPride Month.
ゲイやレズビアン、トランスジェンダーの人々が自分たちの性的志向、思想にPride-つまり「誇り」を持とうという概念で、6月は欧米を中心に各地でプライドパレード、マーチが勃発する。
お祭り騒ぎとなるパレード当日だけでなく、月を通して、街中でレインボーフラッグがはためき、道端や店のショーウインドウで「PRIDE」を意味する様々なサインが揺れる。
2000年、ビル・クリントン元大統領が国民的祝祭として制定していたとは、今年になってようやく知った。
ポートランドのランドマーク的書店「パウエルズブックストア」に行ったら、いつもは子どもコーナーに一目散に突っ走る娘が、なぜかこの日は違うルートで階段を駆け上がり、ついた先が冒頭の写真の書棚。立ち止まり、七色の毛並みの馬グッズに腰をかがめて興味を示していた。きょうはお母さんと一緒に本屋さんを探検してみよう、とダメもとで誘ってみたら、全く拒否せず首を縦にふるではないか。
Tumblr media
出産前まではダウンタウンのお気に入りスポットだったパウエルズの最上階。アートには疎いが、適当に写真集や画集を書棚から抜きとって、(1−2階の激混み具合に比べると)がら空きのその床に座り込んで、のんびりするのが好きだった。
そこまで娘は流石にゆっくりさせてはくれないが、ぬり絵本をみたり、写真集で動物を探したり、いつもとは違った本屋の過ごし方を存分に楽しんだ。
話がずれたが、私はその本屋ではっきりと、プライドマンスであることを自覚したのだ。
そして本屋という高尚でいてカジュアルで知的でユニークで公平な場所で、プライドマンスを迎え入れ、訴えかけ、セレブレートするその姿勢に私は全身で感謝したくなった。そしてこの街の、その風潮を下支えする人々に囲まれて暮らせることは、とても幸運なことだと改めて感慨に浸った。
ホモセクシャルなんて、と唾を吐きそうな人間たちと彼らの大半が支持する大統領が実質的には台頭するこのアメリカという国で。
Tumblr media
子どもコーナーであっても、無視しない。子どもにはわからないだろ、なんて容赦しないのがまた素晴らしい。
ママが二人いる女の子の話。ピンクが好きな男の子の話。ポップを立て、面だしで、ずらりと並んでいた「Pride」にまつわる絵本のバリエーション。
2歳児の反応は薄めだったが、私は勝手に読み聞かせはじめた。彼女には、それを読んでいる私に異変があることは理解できていた。
おかあさん、なみだ、いっぱい
と膝に乗っけていたのに、なぜか感じて振り向く。
娘よ、感情とともに言葉もどんどん濃厚になっているではないか。
Tumblr media
パレードには偶然、居合わせたのだった。ストローラーに乗せてぐるぐると街をねり歩き、その後すぐに娘のまぶたがすっかり重く張り付いたすきに群衆の気配がする方へと舵を切った。
なんだか、「ちょっと先の未来」がここにあるような気がして小さな震えが全身から湧き出た。鳥肌よりもう少し、際立ったものが。
もともと、どっちの性としてこの世に生まれ落ちたかなんて関係ないんだな。でもどうしてこの世に生まれてくるときは男か女しかないのだろう。
哲学問答みたいなものを頭の中で巡らせていた。
性に関してプログレッシブで寛容なポートランドでさえも、女として生まれ、女として普通に生活していた���なかなか会えないような面持ちの人々が、家族連れや動物たちとハグしあっていた。モヒカンレインボーのおじさん &お兄さん、男 &女の中間の人が、パレードの道順について穏やかに始終笑顔で確認しあっていて、またまた私はその様子にふわーっと心が開いて鳥肌みたいものに襲われた。冗談じゃなく、その光景をブランケットに写して包まれたくなった。わかってる。デザイン的には如何なものかと思う。でも、テクノロジーがここまで来てしまった現代、映像がぬくもりやとなって服や寝具に投影される時代になってもおかしくないんじゃないかって、期待せずにはいられなくなるほどに。
Tumblr media
ああ、、、また話がズレた。
一方で、これが私の生まれ育った田舎だったらどうだろう、とも即座に考えた。地方都市にも入らない、人口減少も後継低下もシャッター商店街も抗えないその他大勢の街。アメリカ人の夫を連れてくると聞いただけで、町内の噂話しになり、にわかにお隣さんが見物人となるあの街で、うっすらと髭を生やしながらもそれ以外目をつぶれば女性と見まごう人や、ドラッグクイーンの集団が闊歩する通り。同様のことが起こるとは想像だにできない。
驚いて拒絶してしまう人もいるかもしれないし、どう反応していいかわからずに踵を返してしまうかもしれない。なんでなんだろう? って眉間にしわを寄せる人もいるだろう。
ではそれは「差別」なのか。
この世界にそういう人がいるとアタマでは理解していても、いざ目の前に現れたら、無意識に、正直な反応として、そういった態度をしてしまうのを
差別的、
と捉えるのはとても短絡的。
個人的には 差別ではない、と思う。
見慣れないもの、知らないもの、異質なもの、
それらに出会って、知って、愛していくのが「生きる」ってこと、と信じたい。
出会っていく過程での反応の度合いや仕方は人それぞれであって、そこだけをみてジャッジするものこそ、差別的なような気がしてらない。
Tumblr media
白人至上主義者に対し、ある黒人男性が「なぜ自分のことが嫌いなんだ」と詰め寄った。「肌の色か、歴史か、このドレッドヘアか?!」って無視し続ける白人男性。それに対して黒人男性は諦めることも怒りをあらわにすることもなく、、、
抱きしめた。
抵抗する相手をも包み込んで強く、深く抱きしめた。
硬直していたからだは生身の血が通ったように和らいでいく。
最後に、白人の男が理由を告白した。
「わからない」
そう、ただ、わからない。
抱きしめる、というシンプルかつパワフルな行動に出た黒人男性は「わかっていた」。
彼には何かが欠けている。
「愛が足りない」
彼は差別的か否かを超えて、ひとりの人間をしっかりと見据えて向き合うことで、救っていた。
Tumblr media
0 notes
robatani · 7 years
Text
剣と魔法少女(その3)
 ライヤボードは迷宮の街とも呼ばれている。増築に増築を重ねた結果地元民でもわからない位地上が入り組んでしまった上に、盗賊たちの隠し通路や網の目のように広がる下水路のせいで何処が何処に繋がっているか分からない有様だからだというのもある。しかし一番の理由は都市の地下に大迷宮が広がっているからというものであり、何故大迷宮の上に都市が立っているかといえば長い話になる。  昔々ライヤボードに魔術に長けた王様がいた。善人とはいわないまでも悪人でもなく、それなりに賢くて長生きをしてそこそこの善政をしいていた。とはいえ魔術師とはいえ人の子、長命を誇れども永遠に生きることは難しい。となると跡継ぎを選ばなければならない。だが悲しいかなこの王様の娘息子らは数多く、これまた運の悪いことに仲が極めて悪かった。兄妹内で挨拶代わりに殺し合いが始まる始末。  故に王様は考えた。――もう、こいつらに後を継がせなくてもいいんじゃないか。どうにでもなれ――と。思考を停止させた人間の行動は早い。王は魔術によって一つの宝冠と迷宮を作りだし、民に告げた。 「次の王は審判の宝冠によって示されるだろう」  そして迷宮に自己増殖の呪いをかけ、本人も宝冠を持ったまま迷宮の奥へと行方をくらました。有力な話ではアンデッド化の儀式を行って意識を保ったまま永久に生きる死霊に変化したらしい。  驚いたのは王子王女らである。ある者は王を僭称して殺され、ある者は迷宮の奥への無謀な旅を行って帰らず、ある者はライヤボードを諦め財産を持って異国へと渡っていった。  野心家の貴族、探求の騎士、一獲千金を目指す輩……様々な者らが宝冠を目指して迷宮に挑み怪物や罠に襲われて命を落としたが、やがて迷宮の中で財宝を見つける者がちらほらと現れはじめたのを切欠に、迷宮の奥を目指す者が増える。宝冠と財宝の噂を聞きつけた腕自慢の戦士や魔術師、大胆不敵な盗賊たちがお宝を狙ってライヤボードに集まって来て、やがて今のような胡乱な流れ者の集まる盗賊都市になったという次第。お宝を買い取る好事家や、胡散臭い護符や薬、あまり信用できぬ地図を売りつける奴らが迷宮の周りにうろつき、そいつらが盗賊ギルドに上納金を払うことでギルドは日々潤っている。  ライヤボードに生きている王がいないのはそんな理由だ。正確には死んだか生きているか分からない昔の王が迷宮の奥深くで跡継ぎを未だに待っていて、何時の間にか住み着いていたお飾りの領主一族がいて、実際の所を盗賊ギルドの議会が取り仕切っている。これからも王は現れないだろう。日々日々迷宮は呪いのままに広がり、審判の宝冠は地下の地下、四千ゲドンの地獄の底近くに到達しているかもしれない。
「長々と話したが、正直そんなことは地上に住んでいる人間には些細なことだ。少しでも頭のある普通のライヤボード民は地下迷宮の中には入らない。志半ばで倒れた奴らが死霊となって襲って来たり、呪いで生まれた怪物たちがうろついていたり、住む所のない流れ者達が住み着いていたり、胡乱な神々を祀る奴らが怪しい儀式をしていたり、迷い込んできた馬鹿を食い物にする追剥らがたむろしているからな。サフィ、分ったか」  ロウナが仕立て直した古着に身を包んだサフィはどこからどう���てもライヤボードの民なのだが、何故かお忍びのお嬢様といった様子であった。簡素なサンダルに農民の青といわれる安い水色の染料で染められた衣。青い石の付いた首飾りだけは外そうとしなかったため、色褪せて柄の分からなくなったスカーフで首を巻きそれを隠していた。 「はーい。危険だから近づいてはいけないのね」  あまりにも単純な返答におれは苦笑いするが、危険という単語以上にライヤボードの迷宮を説明できる言葉はない。 「そうだ、とても危険だ。魔術があっても無事に帰れるやつは少ない。後は慣れるまでは勝手に出歩くのも禁止だ。地上のライヤボードも地下のライヤボードも気分で道が変わるという噂があるくらいだからな」 「気分で道が……?」 「ああ。時折遠い世界と道がつながることもあるという話だ」  遠い世界と聞いてサフィは少し考え込んだ。 「……あたし、そこから来たのかもしれないわ」 「そりゃあ運の悪かったこった。戻ろうと思って裏路地を覗き込むなよ。下手に迷ったり消えられたらこっちでも探すことは出来ないからな」 「あたしが空から飛んで裏路地を探すのも駄目?」 「駄目だ。牛が空を飛んでいるくらい目立ちすぎる」  ぷい、と不満げに頬をふくらまして見せるサフィ。牛を例えに出したのがいけなかったのだろう。多分。  サフィが金鶏亭に住み着くことになってまず真っ先に始めたのがライヤボードがどんな街かというのを叩き込むことだった。サフィは真面目な生徒で、おれやイードニクセ、ロウナの授業を居眠りしたり飽きてどこかに逃げたりすることなく受けていた。おれがライヤボードについてのあれこれを教え、イードニクセがこの世界の魔術師の生き方や魔術の仕組みについて教え、ロウナが家事や面倒な客のあしらい方を教えているという次第。宿の他の客には(納得はいかないが)イードニクセのの押しかけ弟子だと説明され、髪の色の奇妙さは「魔術師ならそんなものだろう」という偏見によって深い追及はされずに済んだ。��髪がいる位なのだから空を映したような水色の髪の奴もこの広い世界にはいるだろう。第一染めているかもしれない。  もちろんおれはサフィの世話のお蔭で仕事をしなくて済む、等という甘い話があるわけもなく、ライヤボードのことを教え込みながら宿の店番をすることで日々をしのいでいた。盗賊ギルドに目を付けられた護符売りのレェロのことは少々心配だったが、ロウナ辺りから警告が飛んでいるはずなので後は自分でどうにかするだろうと思って後回しにしていた。自分のことは自分で面倒を見る。それがライヤボードの第一原則であり、どんな小さいガキどもでも知っていることだ。とはいえ関わった以上どうなったかを知らないことには気が落ち着かないので後でちょっと様子を見てこようかと思った。  ともあれ、このような街でいい大人三人得体のしれぬ少女の世話を焼いているというのは妙なものであるが、おれは単純に腕のいい魔術師を逃がしたくないという欲得ずくで動いているわけだし、同情心もあるとはいえロウナはサフィを働かせる気満々だ。イードニクセは新しい研究対象としてサフィを見ていることだろう……お人好しかつ女好きの奴のことだから震える華奢な少女を救う善い魔法使い役になりたがっている可能性も高いが。何しろここはライヤボードなのだから誰かが完全に善意で誰かを救うなんてことはありえない。サフィだって身の安全を確保するためにおれたちを頼っているんだろうし……と思ったが、何となく彼女の場合そんな計算をせずに天然で生きていそうな気もした。  ふと見るとサフィはふくれっ面を止めて、小首をかしげてこちらを向いていた。 「ケイウェンは迷宮に興味はないの」 「馬鹿か。あんなところに行くのは命知らずの物好きだけだ」 「そんなこといっても、迷宮のことにやけに詳しかったし、話している時目が生き生きしていたから」  じっと見つめられた。どうやらおれはサフィに見つめられるのが苦手だと最近分かって来た。きらきらと輝く蒼玉のような瞳で見られると何も言えなくなるのだ。降参したように両手を上げる。 「あーあーわかりましたよ、と。ガキの頃はそりゃあ迷宮にまつわる冒険譚に憧れていたさ。だがそれだけだ。実際に潜ったことはない」 「面白そうなのに……」 「馬鹿言うな。もしロウナの宿を追い出されて明日の飯にも困ったら目指すかもしれないが――最後の手段だ」 「そういうものなの?」  じっとサフィはおれのことを見つめたままだ。おれはばつの悪さやら小さなころの記憶やら様々な物を飲み込むようにして答えた。宝冠を戴いたまことの王……竜と戦う探求の騎士……きらめく鎧……。 「そういうもんだ。大人になれば安定した生活の素晴らしさがなんとなくわかるさ、サフィ」  サフィは不服だと言いたげに少しだけ口をとがらせると、もうすぐお昼だからイード先生の所に行ってくるわ、と駆け出して行った。イードニクセの朝は遅い。昼頃に目を覚まし、午後から夜にかけて活動し、深夜によくわからぬ儀式を行ってそれから眠るという生活を行っているせいである。行ってこいと背に声をかけてから、おれはしゃべりっぱなしで渇いた喉をロウナ特製の苦い薬草茶で潤した。 *  黒い髪を乱れさせ、しどけない姿で寝台に横たわっている乙女は小生を誘うかのように甘い声で語りかけてくる。もう一度楽しみましょうよ、まだ朝は来ていないのですからと。小生は無論乙女の誘いを無碍にするような無粋な性質ではないので喜んで彼女の身も心も堪能しようと腕を伸ばす。そしてもう一度甘い一時を過ごす――。 「おーきて! イード先生! もうお昼よ!」  黒髪を乱れさせた乙女のなまめかしい唇から不釣り合いな小鳥のような愛らしい声が聞こえ、はっと我に返るとそこは小生の城、金鶏亭の屋根裏もとい我が研究室。小生を起こそうと揺さぶっていたのは数日前にケイウェンが拾ってきて様々な理由で表向き小生の弟子、ということになった蒼い瞳のサフィ嬢である。本当の所をいうとこの小さなご婦人から学ぶことは多く彼女の弟子となりたい位なのだが、彼女の使う魔術は小生の知るどのような術とも一致しないため、まずはどのような仕組みで魔術を発動させているのか研究するところからということになった。 「おお、愛らしい空色の髪のサフィ。少々待ってはくれないかね。小生はまだ寝巻のままであることだし、髪の毛もとかしていなければ髭も剃っていない……毛づくろいをしなければならないのだよ。熱い湯を用意せねば」  サフィ嬢は熱いお湯、と聞いてスカーフの下にある青い石のネックレスに手を伸ばそうとする。魔術を使うつもりなのだろう。このまま頼り切れば丁度いい熱さのお湯と綺麗に砥がれた剃刀一式が現れるところだが――実際初日はそうやって出てきた――生憎こちらにも意地というものがある。 「心遣いはありがたいがご婦人、貴女の魔力を借りなくともこのイードニクセ、秘儀の伝授を受けた一端の魔術師。寝ぼけ眼でも湯を作ることは造作のないこと」  寝台からゆっくりと立ち上がり、水桶の所へ行き盥にちょうどいい量の水を汲む。それから呪文に必要な火打石の欠片と愛用の杖を取り出して呪文を唱え出す。魔術にしか使われない上代語である故聞いているものには神秘的ではあるが訳せば「水よ湯になれ」といった程度の簡単な物。だが少しでも音程や語調、身振りを間違えると効果が薄れるため、一瞬たりとも気を抜けない。しばらくすると手に握った杖と火打石の欠片が熱を帯び、それと同時にこぽこぽと盥に張った水が煮えはじめた。これで良し、と杖と火打石の欠片を置き、水を足して適度な熱さに調節する。  小さな拍手が聞こえて来たので後ろを見るとサフィ嬢が一連の魔術に感動したかのように手を叩いていた。小生は胸が熱くなった。神秘の塊である彼女がこのようなささやかな術にすら感動を覚えるとは。なんと純粋な娘なのだろうか。ケイウェンもこの反応を見習ってほしい所である。昔は素直な男であったのに、修行から戻って来てからはすっかり擦れてしまって……話がずれた。  髭を剃り、髪の毛を梳かし、いつもの衣装を身に着けた時には昼過ぎ。サフィ嬢は下の階からマダム・ロウナ特製の昼飯を持ってきていた。本日の献立は荒く引いた麦の粥に焼いた腸詰といったもので、珍しく付合せとしてあっさりと煮た野菜が添えられていた。 「少しだけあたしも作ったのよ、先生」  自慢げにサフィ嬢は胸を張る。どうやら野菜の煮物ががこの小さなご婦人の作のようだ。小生は寝台に腰かけてゆっくりと遅い昼食を楽しむことにした。 「おお、これこそ素朴な愛情の味。ケイウェンに出してやれば喜んだだろう……何せあやつの食事はパンか粥か芋のみばかりと来ているからな」  そうなの、という風にサフィ嬢は目をぱちくりさせる。 「じゃあ、今度会ったらちゃんと食べさせなくちゃ! 用意していたら用があるとかなんとかでパンだけ食べてさっさと出て行っちゃって……」  どうやらまたケイウェンは非常に軽い昼飯で済ませたらしい。長い縁の親友がそのうち栄養失調で倒れるのではないかと小生は長くため息をつく。 「何処に行ったかはわかるかね」 「ええと、護符売りのレェロさんがどうのこうのって……様子を見てくるだとか」  護符売りのレェロはケチで有名な男であり、また本人いわく霊験あらたかだがその実魔術的観点からはあまり効能のない護符を「迷宮潜り」どもや旅人に売りつけていた。とはいえ完全な偽護符売りというわけではなく、裏で迷宮で発見された本物の護符類を高値で売買しており、そうして手に入れた護符の写しを売りつけ大層稼いでいた。 「そういえば大層愚痴をこぼしていたな。「「ギルド」の手がしっかり握っていて仕事がわやになってしまった」やら、「レェロの奴一体どんな商売をしていたんだ」やら……」  サフィは小生が行ったケイウェンの口真似が面白かったようでくすくすと笑っていたが、ふいに真面目な顔に戻る。 「ねえ、イード先生はケイウェンと付き合いが長いのよね」 「ああ、小生の幼いころからの親友だ……向うは腐れ縁だのなんだのと言っているがなに、照れ隠しと思いたまえ」 「じゃあ、聞いてもいい? 何でケイウェンは本当のことを隠しちゃうのかしら」 「本当のこと?」 「そう。心の中の願いは綺麗な鎧だったのに嫌がるし、迷宮について聞いた時も――本当は好きなのに、嫌いなふりをしていたわ……こっそりと心の中を見たの。内緒だけど」  小生は驚いた。どうやらサフィ嬢は呪文を唱えなくとも人の心を読めるらしい。ああ、なんという神秘の塊だろう。このようなボロ宿――マダム・ロウナよお許しを――ではなく、しかるべき場所でしかるべき栄光や尊敬と共に暮らすのが似つかわしい……。 「イード先生?」 「いかんいかん、あまりのことに意識がぼう、としてしまっていた。ケイウェン、そう、ケイウェンだな。あやつは色々と彼なりに複雑な人生を送って来ている。地下迷宮での冒険や善行を成す輝く鎧の聖騎士に憧れながらも天からの呼び声はついに聞こえず、全てを諦めた顔をしてライヤボードに慣れた振りをしている……だからそういう心のきらきらした所をつつかれたくないのだよ、あやつは」  すっかりひねくれてしまった幼馴染の顔を思い浮かべながら、小生は残り少なくなった粥を混ぜる。 「聖騎士ってなあに、先生」 「天の呼び声を聞いた輩のことだ。徳高く、不正を許さず、善を成す煌めく鎧の騎士達だ……ライヤボードでは一番生きていけぬロマンチックな人種ではあるな。小生はそういう輩は嫌いではないが」  サフィはその説明に憧れのような表情を浮かべていた。いつだって物語に出て来る白馬の騎士達は乙女の憧れの的である。 「魔法少女と少し似ているかも」 「ほう、そうなのかね」 「魔法の力を使っていいことをしなさい、と言われているのが魔法少女だから。そっくりでしょう?」 「たしかに――それは――そっくりだ!」  そうでしょうそうでしょうと言いたげに誇らしげな笑みを浮かべるサフィ嬢の頭を撫でる。もしかしたら目の前の少女は年の割に重いものを背負って生きているのやもしれぬ。当人がその重さに気付いているかいないかは知れぬが……。 「まあ、ケイウェンは本人が気取っているほど悪人でも現実主義者でもない。それは真実だ。マルヘレスの眠らぬ目にかけて、な――さて、サフィ嬢。昼食も終わった。勉学に励む時が来たぞ!」 *  ――赤鼬印の秘薬はいらんかねぇ! 切り傷打ち身毒にも効く、南方渡の万能の秘薬だよぉ――  ――神秘をお探しならばカリンドウェルの秘儀庫へ、銀貨一枚であなたの望む物を探し当てましょう(恋愛相談も受け付けます)――  「迷宮の大路地」を歩く。迷宮探索者や物見遊山に来た奴らをカモにしようとやってくる胡散臭い客引きや店主の口上を受け流しながらおれは進む。すれ違う中には目を輝かせた年若い腕自慢の戦士――恐らく迷宮の噂を聞いて田舎から出てきたのだろう――から、大胆なことが好きなはねっかえりの貴族の令嬢、盗賊ギルドに所属しているだろう物乞いまで雑多な人種がいる。様々な品が並び声が行き交うライヤボード一活気の集まる場所、それが「迷宮の大路地」である。街の外に通じる大門から一直線に迷宮を目指して通る大路地の様子を再現する���は、この世の胡散臭い物と大量の貨幣の鳴る音、終わりのない喧噪に夢と嘘と敗北を煮詰めれば足りるだろうか。  ――慈悲の女王アルマスにかけてお恵みを、旦那様!――  ――さあさ、北の海に住まう白肌の人魚の踊りだよ! 歌う声はさざ波の如く、踊る姿は乱れに乱れ――  おれがこんな場所に来たのはもちろん迷宮に挑むわけではなく、勿論買い物のためでもなく、盗賊ギルドに目を付けられた護符売りのレェロの様子が気になったためだ。心配という程ではないが気になっていたので、暇が出来たのをいいことにちょっとばかり見に行こうかと思ったのだ。  ――迷宮産の品買い取ります。他の店より確かな鑑定、公正な値段! 貴方も私も幸せな迷宮生活を!――  ――おお、この欲深き都に禍あれ! 古の王はやがて蘇り、ライヤボードを冒涜するもの皆に審判と破滅を与えるであろう――  狂信者の戯言を受け流しながらレェロの店を目指す。件の店は「迷宮の大路地」から逸れた所にあり、奥まった場所にあるというハンデを神秘的なイメージという利益に変えてそこそこの客を集めていた。いかにもな魔術的な意匠を過剰にこらした品の無い看板には「レェロ珍品百貨店~護符の作成、買い取り承ります~」と書かれている。今日は休業らしく普段は店の前に出ている派手な露店はない。盗賊ギルドの件が耳に入ってしばらくほとぼりが冷めるまで旅にでも出たのかと思ったがそのような書付もなく、大路地からぼんやりと聞こえる喧噪と裏路地の静かさの対比がいやに不気味な雰囲気を醸し出していた。  なぁお、とふいに足下から鳴き声がしたので視線を下にやると、レェロが溺愛していた銀毛の猫が身を摺り寄せてきていた。普段は部屋の奥に鎮座している看板猫が外に出ているのは珍しい。猫は、顎の下を撫でるとごろごろと喉を鳴らした。  一体どこから出てきたのだろうと辺りを見回せば、レェロの店の扉は中途半端に開いたままだった。  猫がちらりと扉の方を見て、なぁおともう一度鳴いた。
「旦那、元気にしているか?」  妙に甘えてくる猫を小脇に抱きながら、おれはゆっくりとレェロの店の中へ入る。窓の少ない店内は昼間でも暗く、時折甘えるような猫の鳴き声以外は物音一つしなかった。愛猫家のレェロが猫を置いて旅に出るなど考えにくいため、奥で息をひそめているかと思ったがそれにしてもおかしい。そもそも返事がないのもおかしい。入れ違いで少し留守にしているのか、それとも昼から自棄酒でもくらっているのか――。  さらに奥に行く。人影はなく、レェロの私室に繋がる扉もやはり開かれたままで、焚き染めた香の中からうっすらとすえたような妙な臭いがしていた。おれはこの手の臭いには嗅ぎ覚えが沢山あった。例えば戦場で。例えば裏路地の奥で。猫を横に降ろし、剣を構え、おれは最悪の事態を想像して部屋に踏み込んだ。  部屋の中は寝心地のよさそうな寝台が一つ、更に寝心地がよさそうな猫用の寝台が一つ、物書き用の机が一つ。そして乾きはじめた血だまりとその中に倒れている屍が一人。背は低く、典型的な商人像のように太っている。商売用の笑みが張り付いていたはずのその顔は恐怖と絶望のまま固まっていた。壁には血で「宝玉を握った拳」と文字が描かれている。内容はこうだ――「「髑髏」にくみするものを、「拳」は決して許さない」。  ――厄介なことに巻き込まれた――  後ろからいつのまにかついてきた猫がなぁお、なぁおと鳴いているなか、おれは立ち尽くす。
 護符売りのレェロは殺されていた。
0 notes