空座第七女子寮物語 15
目が覚めた時、自分の腕の中にルキアがいることに一護はたまらないなこれ、と寝起きだというのにくすりと笑った。
ルキアはくうくうと寝息をたてていて、まだ起きる気配がない。
それをいいことに、一護は無遠慮にルキアを眺める。
無理させたよなぁ……とそうっと額に張りついている前髪を掻き分けると閉じた瞼の長い睫毛が目に飛び込んできた。
また、ふ、と笑った。
そうだ、おじさんも睫毛が長かった
それも下睫毛
でも、顔は似てるか?
おじさんは俺に似てるなんて自慢気に言ってたけど
似てるかな
そうっと、布団を抜け出す。
散らかった洋服や下着をベッドの上において、一護は風呂を沸かした。
一緒に入ろうと言っても、あいつ嫌がるかな
と思いながら無精髭を撫でる。
て、いうかー
まさか昨日したこと忘れて1からやり直しとかさすがにないよな?
いやわからない。相手はルキアだ。猫みたいな女だ。昨日は溶けてべとべとに甘かったけど、起きたらどういう態度かわからない。
なんだ貴様、彼氏面するなとかルキアなら言いかねないかもしれない。
そんなことを考えながら、無意識に冷蔵庫を開けて何も無いことに気づいた。
腹減ったなぁ
昨日最後に食べたのはー
……牛丼食べたの何時だ?
あれから何も食べてないじゃねぇか
ていうかルキアは?
ルキアはそうだ、店にいたら何も食べない。休憩なんか全然とらないから、あいつ昨日何も食ってねぇじゃんか!
やべぇ、お腹空いた時の女はえてして皆機嫌が悪いもんだと一護は考える。
コンビニで何か買ってくるか、とシャツを羽織って下着も着けずにスエットを履いたところで、いちご、と声がした。
見ればルキアが目覚めたらしく、不安げにこちらを見ている。
その姿は、親猫を探して不安そうな仔猫のように見えて一護はふにゃりと頬が緩む。
ベッドに座り、頭を撫でてやった。
「わり、起こしたか?」
「どこか行くのか……」
ふにゃふにゃとした動きでルキアは上半身をさらけだして一護に抱きついてきた。
すりすり、と一護の髭面の頬に自分の頬を擦り付けて「ちくちくするなぁ」と、ぎゅうっと抱きついてこられれば一護の下半身は簡単に反応してしまう。
いや仕方ねぇし、これ
ずりぃだろ、こんなの
「起きる?腹減っただろ?何か買ってくるから……」
そう言いながら顔をずらして頬にチュッと音を発ててキスをすれば、ルキアはンフフ、と甘えるように笑った。
まだ寝ぼけてるからこんなに可愛い事するんだな、と一護はそれでも嬉しくてもう一度音を発てて唇にもキスをした。キスしながら無意識に胸に触れればやめろぉ、と笑いながら甘ったるい声を吐息混じりに漏らした。
「……おい、朝から誘うのかよ」
「誘う……?」
真顔で、でもぼんやりとした声で聞き返すルキアの顔は無垢な故に妖艶でもあり、一護はそのままずるずるとベッドに乗り上げた。掛け布団をはがせば真っ白な裸体が現れる。
「寒い!」
「誘われたからなぁ、当然断りませんて」
「え?何だと? だ、ダメだぁ」
布団を剥がされたことで、どうやらルキアは本当に目が覚めたようだった。頬が赤くなり始めてきて、瞳ももうぼんやりしていない。
「もう無理だな、せっかくのお誘いに乗ってから朝飯買いに行く」
「ば、ばかものぉ」
あたふたとするルキアの顎をかぷりと甘噛みすれば、んん~とまた甘い声をだして仰け反った。そのせいでルキアのささやかな胸が一護の胸に押しつけられる感じになってしまう。
「やる気満々じゃん」
「……ち、違うと言うのに!……ていうかダメだぁ!」
噛んだ顎を一舐めしてから解放して茶化すと、ルキアは怒ったような顔をして一護の頬と腕を押し返してきた。
「……誘いに乗るのは………ダメだ!」
「なんでよ」
「誘いに簡単に乗る一護は、やだ」
「はぁ?」
「……だから!誰の誘いでもそうやって…乗るのは、嫌だ!」
頬を赤く染めて、怒ったように困ったように言うルキアの言葉を一護が理解するのに5秒程かかった。
やばい、何だよそれ、と一護はたまらなくなってルキアを押し倒すと唇を思い切り塞いだ。舌で唇を押して唇をこじ開けさせると直ぐに舌を絡めた。苦しくなったルキアが一護の胸を叩きだしてから、唇を解放してやればはぁはぁと荒い息づかいで睨み付けてくる。その顔も煽られてるとしか思えない。
「オマエがいたら、他の奴等の誘いなんてのらねーよばーか。変なこと考えるな」
何可愛い心配してんだこいつ
ありえないから。絶対にありえないから、と一護はいっそ笑ってしまう。
やわやわと胸を揉みながら笑って、可愛いなーと言う一護に、ルキアは悔しくなる。やっぱり女慣れしてるのだなぁと思うと悔しいし、少し切なくなる。
「他の女の誘いに乗ったら、もう、もう……」
「もうなぁに?」
「……しない。一護とこーゆーことしない」
「こーゆーことって、なぁに?」
他の女の事なんかを気にするルキアが嬉しくて可愛くて、一護の意地悪は止まらなくなるし、そんな一護にルキアは悔しくて素直になれない。
その結果、一護はルキアに思い切りお腹を蹴られ踞る羽目になった。
痛ぇ~と一護が悶えている間にルキアはそそくさとベッドから抜け出て下着を探すが見つからない。
あれ?どこにあるのだ?
昨日私はどこにー
思い出せばルキアは1人赤面してしまう。
そうだ、確か一護の手でー
「下着欲しかったら……謝れクソおんな……」
まだ痛いのかゾンビのように這って一護がルキアの首を掴んできた。ひゃあ!と驚いて声をあげれば一護が笑った。その手にはルキアの下着上下を掴んでいる。
「か、返せ!」
「やだね。あーやーまーれー」
「 蹴って悪かった!さぁ返せ!」
「謝ったつもりなの?それ、ねえ?」
「ごめんなさい!ほら!謝った!」
あーそーかい、そんな態度ならどうしようかな、これの匂い嗅いじゃおうかな、と意地悪な顔で一護は下着を口許に持っていった。
うわぁぁぁ!?何をするのだ!ごめんなさいごめんなさい!ルキアが本気で謝りだしたのがおかしくて、一護は笑って下着をルキアに渡した。
本当おまえ面白いな、と楽しそうに笑う一護を憎たらしいとルキアは思う。
どうしたら、自分がこ奴を翻弄してやれるのだろうかと考えてしまう。
その時風呂が沸いた電子音が鳴り、一護は風呂入りな、とルキアの頭を一撫でした。
「飯、買ってくるから」
「……」
「ん? なに?」
帰ってくるよな?
と、ルキアに聞かれて一護は戸惑った。
コンビニ行くだけなのに何でそんな顔するんだこいつー
「コンビニだから、すぐ近くにあるからすぐ戻るって」
「……うん、わかった」
ほっとしたように笑うルキアに安心して一護はマンションを出た。
いつもと変わらない朝なのに
今朝の外は明るく感じた。陽の光りも雑踏も全てが幸せな朝の風景に感じた。
コンビニで朝飯を買うことはよくあった。
でも今朝は二人分の朝食を買う。
普段なら見ることのない、デザートコーナーからヨーグルトを手にして
缶コーヒーではなくドリップのコーヒーを買う。
食パンと卵も買い、出来合いのサラダも買った。
なんとなくー
甘いのが好きそうだからとジャムも買う。
それらを持ってマンションに戻ればルキアは今頃風呂に入っている。
俺も入ろう
怒るかな、怒りそうだな
でも入ろう、と一護は知らず横に伸びてしまいそうな口許を意識してへの時にした。
◾
◾
◾
約束したプラネタリウムに行こうと言えばルキアは喜んだ。
昨日と同じ格好だし、パチ屋にいたから臭いなぁとブツブツ言うルキアに一護は服を買ってやると言った。
「それは、だめだ。そこまで甘えられない」
「何で?下着も買うだろ?」
「はぁ!? 」
「はぁじゃねぇよ。嫌だろおまえだって」
「……う。でも……下着は恥ずかしいのだが……」
「さすがに店にはついてかねーよバカ」
「あ、そ、そうだよな」
「選んでもいいけど?」
「遠慮する」
「服は、俺が選んでもいい?」
そう聞くとルキアは恥ずかしそうに一護を見上げた。それから、コクンと頷いた。
「じゃあ超セクシーなヤツな」
「え?それは、やだ」
「嘘だよばーか」
結局一護が選んだのはアイボリーのニットのワンピースだった。それからロングカーデガンもおまけにと買ってもらった。
こんな可愛らしいの、私には着こなせないとルキアは最初抵抗した。
それでも無理矢理試着をさせれば、まるでルキアの為のワンピースのようにそれは似合っていた。下着もタイツも本当に一式揃えて着替え、ルキアはニコニコとご機嫌だった。
花小金井の駅で降りても田無の駅でも、そのプラネタリウムは同じぐらいの距離にあった。かなり歩くけど、とルキアに言うと全然大丈夫だ、とルキアから一護の右手をそうっと握ってきた。
それは、初めてのことだった
一護はなるべく自然に、当たり前のようにルキアの手を握りしめた。
ルキアから自分の手を求めてきたことが
馬鹿みたく嬉しくて一護は叫びたくなった。勿論そんなことはしないが、それでも嬉しいのは隠せない。指を絡めて繋ぎなおして、にこりとルキアに笑いかけた。
ルキアもふふ、と微笑んだ。
たわいもないことを話しながら、東京とはいえ畑のある田舎道をてくてくと歩く。
白雪姫は現代の洋服を着てもやはり可愛いと一護は思う。そしてこの手が自分を求めるのだから、それを絶対に自分から離さない、とまた自分に誓った。そんな都合のいい誓いに迷いはなかった。
たとえ狡くても汚くても
それでももうこの掌と笑顔は誰にも渡せないし、何があっても離さないし護りぬくから
だから
許してくれないか、おじさん
俺がルキアの隣にいることを
◾
◾
◾
その日もルキアは一護の家に泊まった。
一護は帰らなくていいのか?と聞かないし
ルキアも帰らないと、とは言わなかった。
部屋にいれば一護はずっとルキアに触れていた。明確に物事を進める為に触れるだけでなく、ご飯を食べるとかテレビを見るときでもルキアを離さなかった。
それがルキアは嫌ではなかった。
恥ずかしい、と思っていたのは最初だけで
一護に触れられ抱かれ撫でられるのがこの上無く気持ちよく幸せだった。
自分は人肌とか愛情に飢えていたのだろうか、それとも一護にこうされることが気持ちいいのだろうかー
一護の膝の上で、向きを変えて座り直してルキアは一護にそう聞いた。
一護は少し驚いた顔をしてから後ろに手をついたままの状態で、膝の上で仔猫のように自分の胸に体を押し付けるルキアに顔だけ近づけてキスをした。
「俺だから、と思えばか」
「そうなのかな、そうだな」
「人肌恋しいだけで甘えるなんて許さねえよ?じゃああのクソ眼鏡にもこうやって甘えるのかよ」
それはやだ!とルキアが笑った。
だろ?と一護も笑いながら手を前に持ってきてルキアをくるんと抱き締めた。
へへへ、と子供のように笑いながら顔を胸に押しつけているルキアを食べてしまいたい、どこにもやらない誰にも、それこそ眼鏡や織姫ちゃんにも渡したくないと一護は狂暴なまでに思いを膨らませた。
その時、ぽーん、というラインの着信音にルキアがひょいと携���を手にした。
「あ、織姫だ」
「……心配してるか?」
「んーとな、……ん?」
姿勢をただしてルキアが携帯に向かい合う。
どうした?と聞くと、織姫も昨日帰ってないそうだ、とルキアが呟いた。
織姫ちゃんが帰ってないー
一護は思わず考え込む。
昨日の昼、一護は織姫に全て話してしまった。ルキアと仲の良い織姫には負担を感じさせたかもしれなかった。
もしくはー
誰かに、警察などに、話をしただろうかー
織姫は優しかった。
牛丼屋を出てじゃーまたな、と別れたときも
「一護君は悪くないよ」
と織姫は一護を呼び止めて言ってくれた。
それから
「言わなくていいこと、知らなくていいことって、私はあると思う。何もかもを受け止めて頑張ってたら……人は、壊れちゃうよ」
そう一護に言った。言ってくれた。
その言葉が一護の足を動かしたのは間違いなかった。けれど一護の足はその時もうひとつの決意も持って動いたのも確かだった。
時効とかよくわからないが、
もしも自分の発言でおじさんが、ルキアが救われるかもしれないのなら
今からでも遅くないのなら
全てを警察で話そうと一護は思った。
その結果によっては、ルキアに警察から連絡がいくだろう。
そうすれば自分の存在は簡単に明かされてしまう。
そうなれば、ルキアは自分を許さないだろう。
パチンコ屋で話したり、たまには飲みに行ったりするこの関係ももう終わりなことは一護でもわかった。
もうルキアの瞳に自分は映らない。
当たり前だった、元より映ってなどいなかった。自分が強引にあの瞳に自分を植え付けたのだから。
その覚悟と、
最後なのであればルキアに気持ちを伝えておきたいと思う気持ちが
織姫という他人に話をしたことで
同時に一護の心と足を動かしたのだ。
けれどー
まさかルキアも自分を求めてくれるなんてー
それだけが、とても大きな計算間違いをおこしてしまった。
再び一護の足を絡ませ縺れさせ、また動けなくさせてしまった。
「……明日は、帰る」
ルキアの声に一護は我に帰り、なんで……とルキアをまた胸に押し付けた。
織姫にルキアを獲られる気がした。不安になったせいで、弱々しい声になってしまう。
「大事な話をしたいそうだ。なんだろうな」
と、ルキアが真面目な顔をして、指で自分の唇をふにふにと触った。
言い様の無い不安に一護はルキアをぎゅっと抱き締めた。
織姫ちゃんは言わないー
俺の事を、あの話を言ったりしないー
そう心で思いながらも一護の不安は膨れ上がった。そんな一護の思いを全くわからないルキアは、どうしたのだ?あまえんぼうめとクスクスと笑いながら一護の頭を撫でた。
明日織姫と話して、またここにくるよとルキアは笑った。
「なぁ、もうさ、寮出ちまえよ……」
「え?」
「俺のとこに来いよ、ここに、いろよお前」
そう言いながら一護は、部屋で着てろよと貸した一護のジャージを着ているルキアのファスナーを下ろした。あ、とルキアの声が漏れた。そのまま指でブラを捲し上げるとねとりと舌で舐めあげ音を発てて吸い付いた。
そうされてしまえばルキアはもう一護に逆らえない。心も体も考えることすら出来なくなるのだった。
荒い息遣いとピチャピチヤと音をたてる一護の愛撫にルキアは素直に感じ入る。
そんなルキアを上目使いに一護は獣のような瞳で見上げていた。
目開けて、と胸の尖りに唇をあてたまま囁けば恥ずかしそうにルキアは薄く目を開けた。
俺が何してんのかちゃんと見てて、と言えばふるふると首を振って目を反らす。
だめ、お仕置き、と軽く噛めばルキアはいやぁ、と甘い甘い声を漏らした。
「……もう一回言うな。……寮は出ろ。俺んちにいろよ、ずっと」
もう一度甘く尖りをかじれば、今度はルキアは簡単に頷いた。いい子だなルキアは、とそのまま片足を持ち上げ、一護はルキアを床に押し倒した。ルキアの顔には昨日のような怯えた様子も戸惑いもなく、一護に命令されて喜んでいるようにさえ一護には見えた。
ルキアを手に入れた
もうルキアは俺から逃げだせない
もっともっと
俺がいなきゃ生きてけないようにしなければ
長い年月仄かに抱いていた恋心が
どうしてこんな生々しく獣じみてしまったのか
頭の隅で感じるその思いを消したくて、されるがままに、たった1日で自分にすべてを委ねる愛しい存在を、
一護は壊れてしまうほどに強く抱き締めた。
言葉にするということは
迷わないと思うのは、誓うのは
迷っているという証拠なのだと
そんなことどうしてわかっちまうんだ、この腐った脳味噌はと
荒ぶる思いの行先がルキアに向かってしまう事に
恐怖を感じながら
それならせめて、この重たすぎる愛を優しさには変換できないだろうかと
愛するルキアを手にしているのに
その腕に抱いているというのに
たくさんの思いに、一護は泣きたくなった
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【小説】ひとでなし
このひとでなしが。
兄は吐き捨てるようにそう言って、席を立った。
真っ赤な顔をして、数人の客と店員たちの視線を集めながら、テーブルの隙間を縫うように店を出て行く。
私は目だけでその背中を追った。ガラスの向こう、陽の光を浴びた彼の背広が滑らかな光沢を放っている。そのどこか品のない銀色の上着を見て、私は鰯の群れを連想していた。
魚料理にすればよかった。
この後、運ばれてくるはずの料理のことを思い出して、少し後悔する。
「お客様、大丈夫でございますか」
年配の店員が近付いて来て、私にそう声をかけた。
「ええ、大丈夫です」
「お召しものが汚れてしまわれましたね」
「ご心配なく。よくあることなのです」
私はそう答えながら、店員が差し出してくれたタオルでメロンソーダが滴っている頭を拭った。店員は濡れたテーブルをせっせと拭いている。
「先程のお客様が注文された料理ですが、注文を取り消し致しましょうか?」
「彼は、何を注文したんでしたっけ」
「鮭のムニエル定食をおひとつ」
「では、私が注文した和風ハンバーグ定食を取り消して、ムニエルの方を持って来てもらうことはできますか?」
「はい、かしこまりました」
年配の店員は恭しく頭を下げて、テーブルを離れて行く。空になってしまったメロンソーダのグラスをさりげなく片付けることも忘れなかった。
あの店員は、どうして兄が注文した方の料理を私が食べたいと思っているのか、不思議に思っているかもしれないな、と予想する。
再びひとりになった私は、窓から表の通りへと目をやる。すでに兄の姿はどこにもなかった。彼は昔から、道の途中で別れた後、決して後ろを振り返ったりしなかった。あの男とは違う。私の姿が見えなくなるまで、いつまでもそこに立ち尽くしている、あの男と、兄は違う。
去り際、兄が私の顔にぶっかけていったメロンソーダは、髪や顎をつたってワンピースの胸元まで緑色に染めていた。黄色の花柄の中に浮かび上がる淡い緑色は、葉のようにも見えなくはない。全身をまんべんなくこの緑色に染めたら、この染みも目立たなくなるだろう。そういう柄の洋服にしか見えなくなるはずだ。
だが、「メロンソーダをもっとかけてください」なんて、店員にも、ときどきこちらの様子を窺うように見つめてくる他の客たちにも頼めない。
服のことは諦めよう。この後、身なりを気にしなければならない相手と会う予定がある訳でもない。砂糖水のにおいがする頭髪も、化粧が崩れた顔も、濡れた衣服も、街ですれ違う人々は誰も気に留めない。そう思うとなんだかほっとして、私はテーブルの隅にあった灰皿を手元まで引き寄せ、煙草に火を点けた。
兄は、私が煙草を吸うのをひどく嫌がった。女のくせに、と罵った。だが、それは私が女だからではなくて、彼が嫌煙家だっただけだ。だから今まで吸えなかった。鼻から煙を出しながら、ニコチンが身体じゅうに浸透するのを待った。
テーブルに出しておいたスマートフォンのLEDが青白く点滅していることに気が付いたのは、その時だった。手に取ると、不在着信を示している。その時刻はほんの数分前、ちょうど、兄がメロンソーダをぶちまけた頃だった。電話がかかってきたことに、気付かないでしまったようだ。
後で必ずかけ直そう、と思いながら、煙草を親指で弾いて灰を落とす。
まだ午前中、昼前であることもあって、店の中は比較的空いていた。混んでくるのはこれからだろう。客が少ない時間帯でよかった。後ろの席に誰かいたら、メロンソーダの飛沫が飛んでいただろう。
煙を吐きながら、心の中の穴がじわじわと塞がっていくを感じていた。気分が落ち着いたのだ、と思い、今までの状況においても私は常に落ち着いていた、取り乱していたのは兄であって私ではなかった、とも思った。
彼は私を「ひとでなし」と言った。
ひとでなし。
小さく声に出してみる。唇に挟んだ煙草が転げ落ちそうになる。
私はひとではなくなってしまったのだろうか。真っ昼間、小さな洋食屋で罵声を浴びせられ、緑色した甘い液体をかけられるような私は、ろくでなしではあるけれど、まだひとであるはずだ。
短くなった煙草を灰皿へと擦りつける。二本目の煙草に手を伸ばしながら、兄は今どうしているだろう、と考えた。
私は今、泣いてもいないし怒りもしてない。彼が嫌った煙草を吸いながら、彼が注文し、彼が食べるはずだったムニエルが出てくるのを、彼がいなくなった席で待っている。
彼は今、泣いているのかもしれないし、怒り狂っているのかもしれない。道端で誰かの副流煙に顔をしかめ、空腹を抱えたまま、どこへ向かっているのだろう。
私たちは一生わかり合えないし、もう会うこともないのだろう。でもそれが、なんだかごく自然で、当たり前のことのように感じる。もっと早くこうなるべきだったような気さえする。
私は少しして運ばれてきたムニエルを前に、両手を揃えて祈った。
それは彼がどこかで幸福になりますように、という意味を込めての祈りだったが、私の口はさも当たり前のように「いただきます」とつぶやいた。
電話をかけてきた相手に折り返し連絡しようとスマートフォンを手に取ったのは、部屋に帰ってシャワーを浴びた後だった。
メロンソーダが染みになったワンピースを脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びて化粧さえも落としてしまうと、身も心も軽くなったような気がした。裸のままバスタオルに包まってベッドに転がる。シャワーを浴びた後は、こうしているのが心地良い。こうしていると、自分が日頃、いかに多くのものを身に着けているのかを考えさせられる。
あの男は私がこうして寝転んでいると、決まってセックスに持ち込んだ。私が誘っているとでも思っていたのだろうか。彼は事が終わるとすぐに衣服を着た。何も身に着けないでいることが、恐らく不安だったのだ。いつもこまごまとした多くのものを鞄に入れて持ち歩いていた。何も持たないことの快適さなんて、知らないのだろう。
そんなことを思い出しながらスマートフォンを操作し、着信履歴を見る。「達」とだけ登録してあるその人物からの、不在着信があったことが記録されていた。
たつ。
その名前をそっと声に出してみる。名前を呼ぶことも、なんだかずいぶん久しぶりだった。彼から電話がかかってきたことなんて、今まで数えるほどしかない。何かあったのかもしれない。そう思いながら、リダイヤルの文字をタップする。
呼び出し音は鳴らなかった。間髪入れずに、彼が電話に出たからだ。
「もしもし」
「もしもし、達?」
「律。今、もう一度かけようかと思ってたところ」
達は電話の向こうで、どこか安堵したような、呆れているような、疲労の色を感じさせる溜め息をついていた。最後に耳にした時と変わらない、懐かしい声。
「さっきは電話、出なくてごめんなさい」
「いや、いいよ。少し、気分転換に話がしたくなっただけだから」
妙な感じがした。彼が今までそんなことを言ってきた覚えがなかったからだ。やはり、何かあったのだ。私は無意識のうちに、身体に巻き付けていたバスタオルの胸元をぎゅっと握っていた。
「何かあったの?」
「少しね」
私の声がこわばったのを感じ取ったのであろう達は、ははは、と小さな笑い声を漏らした。彼はわかっている。自分が笑うと、私が少なからず安心するということを。だからときどき、私のために笑ってみせてくれる。
「もしかして、またお母さんと揉めたの?」
「あの女はいないよ」
達はそう言ってから、少し間を空けて、
「もういない」
と、言い直した。
「達、会いに行こうか?」
私がそう提案した時、彼はしばらく返事をしなかった。長い長い沈黙だった。通話の向こうから、パソコンのマウスをクリックしているような音だけが断続的に聞こえていて、それさえなければ、私は通話が途切れてしまったのではないかと思っただろう。
「達?」
「ああ、ごめん。うん……」
彼はそう言ってからまたしばらく考え込んだ様子で、たっぷり黙り込んだ後、
「そうだな、会おうか」
と、答えた。
彼がそう言ったので、私は心底ほっとした。
「今、何してるの? もしかして、仕事中?」
「ソリティアやってる」
「ソリティア? ああ、パソコンに入っている、トランプのゲームのこと?」
「そう」
「忙しい訳じゃないのね?」
「ソリティアで忙しいよ」
私は彼の冗談に笑った。それから時計を見た。まだ午後一時を回ったところだった。時間は、まだある。
「これから支度して電車に乗るよ。三時か、四時くらいには、そっちに着くから」
「今から来るの?」
「だって、早い方がいいでしょう?」
そこで、達は何かを言いかけたが、でもはっきりとした言葉にすることはなかった。今度はほんの少し黙った後で、
「わかった」
と、返事をした。
「それじゃあ、また後でね。電車の時間がわかったら、また連絡するから」
「うん。じゃあ」
通話を終えてから、私は大急ぎで支度に取りかかった。服を着て、軽く化粧をして髪を梳かす。放ってあった鞄を拾い上げ、忘れずにスマートフォンと部屋の鍵を仕舞う。ストッキングを穿く時間も惜しく、素足のままサンダルを突っかけて外に出た。
達は少し、様子がおかしい。
電話では口にしなかったが、やはり何か、電話をかけてくるだけのことが、彼の身に起こったということだろう。
駅までの道を駆けた。改札を通り、目的の電車があと十分もすれば来ることを電光掲示板で確認して、そこでやっと一息つくことができた。売店でミネラルウォーターと、たまたま目についた小説の文庫本を一冊買った。
達の住む街まで、ここからだと電車で二時間かかる。その間の暇潰しが必要だった。
電車に長く揺られる時は、いつも何か書籍を買うことにしている。駅で購入して、読み終えたら駅で捨ててしまう。今日手にした小説は、知らない作家の作品だった。題名にも聞き覚えがない。普段は読書をしないので、私が詳しくないというだけかもしれない。
「暇なら、本を読んだら」
そう私に提案したのは、あの男だった。彼は読書家で、多忙な時間の隙間を見つけては本を読んでいた。自室の書棚には零れ落ちそうなほど本が積み上げられていた。
「そうしようかな」
私がそう答えた時も、彼は分厚い本を膝に乗せ、ソファに行儀よく座っていた。
「何か、本を借りて行ってもいい?」
あの男は開いた本のページに目線を落としたまま、ただ黙って眉間に皺を寄せていた。彼は自分の持ちものが自らの管轄から外れ、どこか遠くへ行ってしまうことを嫌っていた。結局、彼は死ぬまで、私に一冊も本を借りることを許さなかった。
走って汗ばんだ背中に衣服が張り付いているのを感じながらミネラルウォーターを飲んでいると、電車は時間通りにやって来て目の前で停車した。開いたドアから乗客が降りてきて、入れ違うように私は乗り込んだ。
車両の中に乗客の姿はまばらで、���後の日射しを受け、心地良い��かさに満ちている。
あと二時間。
どんなに気持ちが急いだところで、あと二時間、私はここで大人しく座っているしかない。その事実が私の焦燥感を少しばかり和らげた。早く会いに行かなくちゃと心は焦ってばかりいるのに、ゆったりと腰かけて二時間を過ごすなんて、不思議だ。
そうして走り出した電車の中で、私は文庫本を開く。
読み始めてわかったが、それは殺人事件を扱った小説だった。
河川敷で見つかった、ひとりの女子高生の死体。そこから始まった、少女ばかりを狙った連続殺人事件。主人公はその事件を追う刑事で、被害者と同じくらいの年齢のひとり娘が、別れた妻と一緒に暮らしている。殺された被害者の少女たちと、自分の娘を重ねつつ、犯人を追っていく。
『明日は私が殺されるかもしれない。今や、この街に住む誰もがそう思っていた』
そんな一文が、なぜか目に止まり、私はもう一度、その文章を目で追ってから、ページから目線を上げ、車両の中を見渡した。大学生らしい男性がひとりと、中年らしき女性が四人。お互い他人同士なのだろう、離れた席に座っていて、誰も口を利いていない。手元のスマートフォンを操作している人がふたり、ひとりは私と同じように何か書籍を読んでいて、最後のひとりは肩をすぼめるようにしてうとうととしている。
きっとこの車両の中には、明日自分が殺されるかもしれない、なんて不安に思っているような人間はいない。乗客たちは皆、落ち着き払った表情をして、のどかな午後を過ごしている。
誰も、自分が殺されるかもしれないなんて、普段は考えもしない。
街を歩いていたら突然、自動車が猛スピードで突っ込んでくるかもしれない。乗っていた電車が脱線して大事故を起こすかもしれない。人混みの中で通り魔に後ろから襲われることだってある。でも誰も、そんなことは考えない。この車両の中に、殺人犯がいるかもしれないなんて、思わない。
ああ、煙草が吸いたい。
私はそう思いながら、手元の文庫本を閉じた。本の内容に飽きてしまった。犯人がどこのどんなやつかなんて、興味がない。犯行の動機なんかどうだっていい。
窓の外に目をやった。ちょうど電車は川に架かる橋の上を走行していた。車窓の向こう、橋を構成する鉄骨の向こうに河川敷が見えた。小説の中では女子高生の死体が無残にも転がっているはずのそこは、西日をきらきらと反射する川面と、風にそよぐ青々とした草原、アスファルトで舗装された道を行く、犬を散歩させている老人の姿しかなかった。
もし今、私があの河川敷に立っていたら、きっと煙草を吸いたいなどとは思わなかっただろう。横たわる死体を前にして、もうすっかり満足するまで、いくらでもニコチンを吸っては吐き出すことができただろうから。
そう思いながら、私は座席に座り直し、殺人犯がいるかもしれない車両の中で忌々しく瞼を降ろした。
私の手の中にあるカードは機械に読み取られ、ぴっ、という短い音を立てた。帰りの電車賃がもう残っていないことを確認して、それでも開いた改札を出る。
「達」
「律」
電車は脱線することもなく無事に目的の駅に着き、私は改札の前に立っていた達と再会した。
彼は最後に会った時と変わらない、胸元がだらしなくたるんだ着古したTシャツと、すっかり色褪せて擦り切れそうなジーンズ姿だった。ただ、髪も髭も伸びすぎていた。目の下の濃い隈のせいで、まるで目玉が窪んでいるように見える。少しだけ、あの男の面影を思わせる容姿。
「早かったね」
「電車は時刻通りだったよ」
「うん。早かった」
そんな冗談にまた私が笑うと、達も少しだけ口元を緩めてみせた。彼は自分のために微笑んだりはしない。いつも誰かに笑顔を見せたくて、笑ったような表情をしてみせているだけだ。
「律、腹減ってない? 俺、まだ飯食ってなくて」
「そう。何か食べようか」
私はそう答えてから、胃の中にいるであろう鮭のことを思い出した。
「ファミレスでいい? 金ないから」
しかし、そう言いながら歩き出した彼に、私は何も伝えなかった。
達は、仕事を辞めてしまったのかもしれない。
根拠はわからないけれど、私はその時、そう思った。
「今日は、兄さんが訪ねて来たわ」
「へぇ」
「父が亡くなったんですって」
「そうなんだ」
達の声は、乾いていた。そこにはどんな感情にも濡れていない、まっすぐな響きがあった。
私は兄にメロンソーダをかけられて逆上された話をするべきか悩んだが、結局、口にはしなかった。きっと達は、そんな話をしたら不機嫌になるに違いなかった。
少し先を歩く彼の顔は、どこか遠くに思いを馳せているように見えた。私たちは一緒にいた頃から、あまり多くを語ってはこなかった。語る必要がなかったのだ。私たちは、とてもよく似た性質をしていたから。
駅を出てすぐのところにあるファミリーレストランに入った。安っぽいチャイムが私たちの存在を誰かに知らせている。いらっしゃいませ何名様ですか。二名で。お席の方、禁煙、喫煙、どちらになさいますか。きんえ、まで言いかけてから、達は、
「喫煙で」
と、答えた。私が喫煙者であるということを、その時思い出したのだろう。
午後四時を回ったファミリーレストランは、電車の車両のように人がまばらで、私たちは四人掛けの席に案内された。すぐ近くにふたり掛けのテーブルがあるにも関わらず。四人席が空いている時は、優先的にこちらへ振り分けされる仕組みなのだろうか。それがサービスというものなのかもしれないが、私も達も、まるで自身の半身を失ったかのように、隣を空席のままにして向かい合わなければならなかった。
私たちはメニューを開き、すべての品書きに目を通さないうちに注文したい料理を決めた。店員を呼ぶためのボタンを押したのは達だった。私は煙草に火を点けて、灰皿を引き寄せる。私はホットコーヒーを、達はエスカルゴの料理を頼んだ。
「エスカルゴ?」
店員が立ち去った後、私は煙を吐きながら達に尋ねた。
「好きなの?」
「不味いよ」
達はこちらを見もしないでそう答えた。今のは際どいジョークだった。私が思わず鼻で笑うと、彼も小さく笑ったので、それで冗談を言ったのだと気付いただけだ。
料理が運ばれて来るまでの間、会話はなかった。私たちは料理を待つこの時間が嫌いだった。酒を飲んでからアルコールが身体の隅々にまで回る、それまでの時間も同様に嫌っていた。私たちは不機嫌になると決まって口を閉ざし、そしてそれは、相手に対する最低限の誠意と優しさだった。
煙草が一本吸い終わった頃に料理は運ばれて来た。いただきます、と手を合わせ、達はお手拭きで乱暴に手を拭ってから、エスカルゴ料理に取りかかった。
「それで、一体何があったの?」
「人を殺したんだ」
彼はエスカルゴ料理を口へ運びながらそう言った。
そう、と私は返事をした。視界の隅、テーブルの上に達が指を拭いたお手拭きがくしゃくしゃに丸められて置かれており、それがまるでトマトソースでも拭き取ったかのように、うっすらと赤色に染まっていた。
「偶然ね、私もなの」
「律も?」
「そう」
「いつ?」
「今日」
「ふうん」
食事をしながらした会話は、それだけだった。
食事中は口を開くなと、あの男に厳格にしつけられた私たちは、今でもそれを守ろうとしている。達が母を殺し、私が父を殺した、今日でさえも。
食事の代金は、達がすべて払ってくれた。私たちは店を出て、川沿いにある寂びれたラブホテルまでの道を歩きながら、また少し言葉を交わした。
西日をさんさんと放っていた太陽はビル群の向こうに消え、空は幻想的なピンク色だった。吹いてくる風はどこか冷たく、私たちは下を向いて歩いた。まるで後ろめたいことでもあるかのように。
「殺して、どうだった?」
「別に何も」
「そう」
「うん」
道路を走る車の騒音に、私たちの会話は途切れ途切れになった。
ホテルのボーイは疲れた顔で私たちに部屋の鍵を渡した。ボーイが私と達の顔をほんの一瞬、交互に見比べていた。見比べたってわかるはずがない。私たちは二卵性で、外見は何も似ていないのだから。たとえ外見以外、すべてが非常に似通っているのだとしても。
部屋に入って、最初にシャワーを浴びたのは達だった。私は水が流れる音を聞きながら煙草を吸った。
今日は何回、シャワーを浴びることになるのだろう。頭からかけられたメロンソーダは、シャワーのうちに含まれるのだろうかと考えて、ひとりで可笑しくなった。
今日は二着もワンピースを駄目にした。どちらも服に染みをつけて。お気に入りのワンピースに染みついた血痕は、きっともう落ちないだろう。あれはあの男が、私が殺したあの父が、買ってくれたお気に入りだったのに。
私もシャワーを浴びてから、裸でふたり、シーツの中で遊びながら、また少しだけ会話をした。
「どうして殺したの?」
「理由なんてない」
「そうなんだ」
「そっちは、どうして?」
「どうしてかな……。何かちゃんと、理由があったような気がしたんだけど」
「理由っていうのは、行動する以前には必要だけれど、すべて終わってしまった後には、もうどうでもいいものだね」
「うん。確かに」
私たちの本質を覆い隠している膜が重なり合う。決して交わり合うことはないはずのその境界線が、不意に揺らぐ。溶けて、ほどけて、流れ出して。自在に動かせるはずの四肢は、自身の意思から遠く離れたところで、欲を貪る卑しい道具と化している。
こうしていると私はいつも、自分が粘土か何かになったような気分になる。人の手は容易く私をこね回し、形を変えていく。本来の形など、とっくに忘れた。抗おうと思えばそうできたはずなのに、私はただの土くれと化すばかりだ。兄の時も、父の時も、胎内で同じ時を過ごして共に産まれてきた、達が相手の時であっても。
こんな時、あの男は私のことを憐れんだ瞳で見下していた。父はいつもそうだった。可哀想なものばかり愛していた。喜劇よりも悲劇を好み、幸福よりも不幸を求めた。
夫に愛想を尽かされた妻。身体を交えた兄と妹。愛されなかった双子の片割れ。父に犯される娘。母を犯す息子。子供を猫のように捨てた親。子供に猫のように殺される親。
私たち双子はあの男に集められた、不幸の断片のひとつにすぎない。だから恐らく、これは私たちの意思ではなかった。
同じ親から同じ日に産まれた私たちが、偶然にも同じ日に、親を殺めた。
明日自分は殺されるかもしれない、なんて考える人はいない。同じように、明日自分は人を殺すかもしれないと考える人間も、またいない。私たちの生き死にと自らの意思が全く無関係であるように、私たちが自身の肉親を殺したこともまた、私たちの意思とは関係がない。
無責任だろうか。責任転嫁だろうか。
このひとでなしが。
兄に言われた言葉を思い出す。
遠くにサイレンが聞こえた。私たちの時間は、もう長くは残されていない。でも、私はまだ、ひとであるはずだ。
「ねぇ達、私はひとでなしだと思う?」
そう尋ねたのは、訊いてみたいと思ったからだ。私が唯一愛したこの同胞は、一体どう返事をするだろうか、と。
短い吐息と共に果てた私の弟は、のしかかるように身体を重ねたまま、つまらなそうに欠伸をしていた。それからおもむろに顔を上げ、私の顔をまじまじと見つめた。
「お前は、ひとでなしだよ」
あの男に少しだけ似た、私とは似ても似つかないその顔は、それから、ついばむようなキスをしてくれた。
了
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小説:空白と痛み
C94の新刊『Re:Bloom』に同一世界観の新作「Re:Bloom ~幻想と渇き~」が出るのを記念して、『Log in』(2014)に掲載された「空白と痛み」を全文Web公開いたします。
◯空白と痛み
汚染された荒野の中に立つ巨大情報都市。過去そこにあった超高度文明の遺産を解析しながら発展してきたその街は、無から有を生み出すように、技術を糧に資源を生みだしていた。発見から二百年が経った今でも解析出来ないその超技術の心臓部、“ブランク・ルーム”の秘密に都市は血眼になっていた。その影で痛みに震える���女アイリスと、静かにそれを見守る天才ハッカー、ミコトがいることも知らずに――(伊万里楽巳)
作者の中では「サイバネティカ」シリーズとして正統続編も構想中というSF作品。どうぞお楽しみください。
Scene 1 :
深い深い海の底のような暗い部屋にキーボードを叩く音が響いていた。ディスプレイの明かりによって映し出されるのは、まだ幼さを残した顔。ディスプレイ上では複雑なプログラム・コードが高速でスクロールしていき、眼鏡をかけた目は複数のスクリーンの間を行き来しつつも安定したリズムでコマンドを次々と入力していく。
殺風景な部屋だった。内装と言える物はほとんどなく、ところどころ鉄骨がむき出しになっている。窓はなく、代わりに壁を這うのは無数のコードやパイプなど。それらは壁から床へ、あるいは天井へと経由しながらこの部屋の中心に鎮座する大きなカプセルへ収束していく。赤みを帯びた液体で満たされたそのカプセルーー生命球を連想させる閉じた空間の中には一人の少女が浮かび、そして苦しんでいた。
『っ……』
歯を食いしばり、身体をよじるたびに水槽の中に細かい気泡が発生する。乱れた長い髪は一拍遅れて液体の中を泳ぎ回り、華奢な身体にまとわりつく。カプセルの上部から伸び、背中へと続いている大小二本の太いケーブルは彼女を磔にしているようにも見えるだろう。
『……んっ! 』
苦悶の表情を浮かべ続ける彼女、その右手の指先から更なる異変が始まった。少しずつ、しかし確実に。酸の海に溶かされるがごとく少女の指先は小さな泡となって消えていく。蝕まれるように消えていく。
少年はその傍らで淡々と作業を続けていた。時折様子を確認するようにカプセルに目を遣る以外はディスプレイ上に展開される情報に集中している。感情を殺した無表情と冷たい瞳はマシンのように決められた動作を繰り返す。
少女の侵蝕は既に肘の手前にまで達していた。痛みの間隔は狭くなり、押さえきれなかった喘ぎ声がスピーカーからこぼれ出る。一際大きな悲鳴が上がって、ようやく彼女の異変は収束した。
『はぁ……はぁ……』
「何度聞いてもキミのその声は慣れないな、アイリス」
少年は椅子から立ち上がり、カプセルの近くへと歩み寄った。そっとガラスの面に手を添える。
『……ごめんなさいね、ミコト。おさえようとは、思っているのだけど』
痛みが治まっていないのだろう。スピーカーから出るその声は途切れ途切れだ。ミコトと呼ばれた少年は、気にすることはないと首を横に振った。
『システムの方は、どう? 』
「問題なしだよ。上手く行っている。少し休むと良い……もう休眠に入ったか」
少女アイリスはミコトの返事を聞く前にその目を閉じていた。先ほどまでとは打って変わった穏やかな表情で目を閉じているが、だからこそ肘から先を失った右腕が痛々しい。どういうわけか傷口はすでに癒え、きれいに塞がっている。
ミコトは先ほどまで自分が座っていたところへ目をやった。三つ並んだディスプレイの内左右の二つはブラックアウトしており、動いているのはセンターのそれだけだ。ディスプレイは白い文字で簡潔に、システム移管シークエンスが滞りなく終了したことを告げてきている。
「『誰にも迷惑をかけずに死にたい』か」
ミコトはもう一度カプセルの中に浮かぶアイリスを見上げた。静かに微笑む少女の寝顔は初めて会った時と同じように穏やかで、だからこそ残酷だった。
Scene 2 :
荒野の中に立つ巨大都市。周辺他都市とは比べ物にならないほどの高度な科学技術を誇るこの都市だが特に情報技術に関しては飛び抜けていた。ありとあらゆるインフォメーション・テクノロジーがすべて市庁舎の巨大システムに統合され、管理されている。
高度に情報化された街。だが一歩外に出てみれば、そこで生きる市民の日常は案外変わらないということが分かるだろう。相も変わらず路上に店を出し、威勢のいいかけ声を上げ、品物を売りさばこうという気持ちのいい熱気にあふれている。ミコトはそんな繁華街の中を一人で歩いていた。右手には茶色い紙の袋をぶら下げている。
「はいはいはい、そこの兄ちゃんも姉ちゃんも! 天然肉のうちのホットドッグ買っていきな! うまいよ! 」
「新鮮採れ立て! 今朝工場から出荷されたばかりの青物野菜だ。お安くしとくよ! 」
ふと立ち止まって空を見上げる。灰色のビルに切り取られた空は、それでも気持ちのいいほどに青く澄んでいる。埃っぽいこの地上とは別の世界だ。
「あれ、ミコトじゃねぇか。元気にしてたか? 」
たたずむミコトに声をかけたのは近くの屋台の店主だった。オレンジ、アップル、グレープフルーツ。移動式のワゴンの中に所狭しと派手なフルーツが並んでいる。日ざしを受けて瑞々しく輝いていた。
「まあな……ターミナルの調子は? 」
「お前さんの調整のお陰で絶好調だよ。あれが動かないと売り上げの管理も出来ないからなぁ」
「そりゃよかった」
ミコトの横で果物を品定めしていた主婦が「これくださいな」といって青りんごを指差した。はいよと答えててきぱきと重さを量る店主。アナログなバネばかりがぎぃという軋んだ音を立てる。手慣れたようにバイオプラスチックのビニール袋に詰め込むと愛想の良い笑顔とともにお客さんに渡したのだった。
「商売の方は? 」
「ぼちぼちだな。この前市長が変わっただろ。あれで工場の方に新しい規制がかかるんじゃないかって噂があるんだが、ひどい話だよまったく」
店主はふんと鼻息をならして腕を組んだ。土地が汚染されたこの街では、食料生産はそのほとんどを工場ーーバイオプラントでの栽培にたよっている。よけいな物が入り込まないよう外界と隔絶されたボックスの中、産業用ロボットによってオートマチックに育てられる植物たち。その生産量、出荷量、税率などなどは何もかもが当局のコントロール下に置かれているのだ。
街の中心に立つ巨大な総合庁舎、オベリスク。真っ青な空を縦に切り裂くその塔は、遥かな高みから市井の生活を監視していた。
「おっと、噂をすればだ」
店主が向かいの電器屋を指差した。デモで置かれているいくつものテレビジョン。すべて同じチャンネルに合わされ、新任のキングストン=メイヤー市長の演説の様子が映し出されている。褐色の肌に短く刈り込んだ白い頭髪。大柄な身体をさらに大げさに動かしながら市民に語りかけるその顔には自信と野心があふれていた。
『ーー市民の皆さん。偉大な先人たちの努力によりこの街も多大なる発展を遂げてきました。しかしそれは未だ十分なものとは言えません。皆さんの更なる生活向上のため私キングストン・メイヤーはこの職に就きました。ありとあらゆる技術の発展、十分で安全な食料供給、行き届いた行政サービス。そしてなにより長年にわたり我々を悩ませ続ける”ブランク・ルーム”の解析を成し遂げることを、ここにお約束いたします』
「”ブランク・ルーム”の解析ね。どうなることやら」
この街を支える技術は実は自分たちで生み出した物ではない。荒野に打ち捨てられた廃墟、そこにまだ生きているネットワークシステムが発見されたことがこの街の始まりだ。廃墟の至る所に張り巡らされたネットワークと、莫大なテクノロジーのデータが詰まったセントラルサーバー。そういった名も知らぬ者たちの遺産を利用しながらこの街は発展してきた。
残されたシステムの解析を少しずつ進め、応用し、自分たちが使えるレベルに落とし込む。他の都市とは不釣り合いなほどの情報管理、交通管制、防衛体制などはそうやって生み出されてきたのだ。
しかし街の再発見から二百年以上が経った現在に置いても、システムの中枢に解析不可能な領域が残されていた。外部からの干渉をことごとく跳ね返す強固なプロテクトが張り巡らされたブラックボックス。都市の心臓とも言える存在。現在利用されているシステムも最終的には全てそこに集約、処理されている。いつ頃からかそれは”ブランク・ルーム”と呼ばれ、この街の更なる発展を妨げる大きな障害になっていた。
「ミコトは興味ないのか? お前さんほどの天才ならちょちょいのちょいと解析できちまうと思うんだけどなぁ」
「無茶をいわないでほしいね。そんなに簡単な仕事なら今まで残ってる訳ないだろ? 」
「そういうもんかね。どっちにしろお前さんがその気になればもっと稼げると思うんだけどな。その紙袋だって角のバーガー屋のだろ。だめだめそんな不健康な物ばっか食ってちゃ。ちょっとまってな」
店主はそういうと手近にあった果物を無造作にビニール袋につめ始めた。あっという間に袋がオレンジでいっぱいになる。
「ほいよ、持ってけ。プレゼントだ」
「おいおい、いいのか。簡単に商品渡しちゃって」
「いいっていいって、この前のお礼だ。少しは良いもん食べてまた活躍してくれよな。お前らエンジニアが俺たちの生活を支えてくれてるんだしよ」
混じりっけのない善意を断る訳にも行かず、ミコトは少し困った顔をしながらもその袋を受け取った。みっちりと詰まった袋は結構重く、あやうくバランスを崩しそうになる。
「おっと」
「大丈夫か? 」
「平気さ。ま、ありがたくもらっとくよ」
「たくさん食べて、でっかくならねぇとなぁ」
「痛てっ! 」
はっはっはと豪快に笑って、店主は小柄なミコトの肩を叩いたのだった。
Scene 3 :
光と影。活気のある露店街が光の世界なら今ミコトが歩いている裏道は影の世界だ。薄暗く、じめじめとしている。背の高いビルに囲まれ日の光も満足に届かない。そんな道を彼は静かに進んでいく。
いくつかの角を曲がったミコトは錆び付いた鉄の扉の前で立ち止まった。腰のホルダーからカードキーを取り出し、扉の脇の壁のひび割れに差し込む。ロックの外れるかすかな音。人目のないことを確認すると、ミコトはわずかな隙間にその身体を滑り込ませた。
カードキー、指紋、声帯、虹彩。いくつもの認証をパスして下層への階段を降りていく。暗闇はだんだんとその濃度を増し、地上の喧噪から遠ざかる。ミコトはここに来る度に自分が深い海の底へ沈んでいくような錯覚を感じていた。最後の扉を開けると、目に入るのは部屋の中心に鎮座するほのかに赤く光るカプセル。ミコトが足を踏み入れるとカプセルからの明かりが少し強さを増した。
『ミコト? いらっしゃい』
「こんにちはアイリス。……寝てたか? 」
『ううん、平気』
紙袋とビニール袋を作業用のテーブルに置く。手元を照らす最低限の照明をつけると、腰のケースからメディアキーを取り出しラップトップタイプのパソコンを起動させた。冷却用のファンが回りだす低い音。いくつかの認証を経てOSが立ち上がる。そのあいだ、ミコトは紙袋からハンバーガーと紙コップに入ったソーダを取り出していた。包装紙を剥き、ディスプレイに向かいながらかぶりつく。
『珍しいわね、ここで食事だなんて』
「まあな」
軽く答えて左手一本でキーボードを操作した。ラップトップのディスプレイ上ではいくつものウィンドウが消えたり現れたりを繰り返している。時折ケースから別のメディア取り出して差し替えつつ、何かプログラムを組んでいるようだ。
『今日は何の用? それともお仕事かしら? 』
カプセルの中からアイリスが話しかける。
「小遣い稼ぎさ。リニアトレインの運行システムの不具合が最近目立つんだと。バグだしと修正を頼まれたんだけど、リメイクした方が早そうだ」
『そんなにひどいの? 』
「素人がその場しのぎにいじりすぎてめちゃくちゃだよ。ったく、こんなざまじゃ作り手も浮かばれないな」
ミコトはアイリスに目をやった。十字架にかけられた聖女はカプセルの中、一糸もまとわぬ姿で漂っている。その身体からは右下腕だけでなく、すでに左足全体と右足首が失われていた。
『でも、ミコトならもっとキレイに直してくれるでしょ? わたしはその方が嬉しい』
「ふん」
微笑みかける彼女の表情は邪気を知らず、どこまでも純粋だった。
『それは? 』
「ん? これか? 」
『違うわ、そっちよ』
アイリスが左手で差したのは丁寧に畳まれたハンバーガーの包装紙が入った紙袋ーーではなくその隣に無造作に置かれた白いビニール袋だった。
「フルーツだよ。オレンジだったかな。知り合いの店の店長がくれたんだ」
答えるミコトの目は眠そうだった。まぶたを半分落としながらも、自由になった両手のタイピングは途切れることなく続いている。
『オレンジ……この辺りに出荷されているのだと二〇三ファクトリーのやつかしらね。ちょっとまって』
彼女はそう言って目を閉じた。オリジナルシステムの管理者でもあるアイリスはその気になればシティのあらゆるネットワークにアクセスできる。外部デバイスを介さない意識レベルでのネットワークとの同化。現実ではカプセルの外に出られない彼女にとって、世界はどう見えているのだろう。
『……やっぱりそうね。糖度高めにおいしく出来たみたいよ』
「甘いのか。それじゃ食べてみるかな。単調すぎると眠くてかなわない」
ミコトは小さくあくびをしながら立ち上がった。ツールボックスから折り畳みナイフを取り出し、アルコールを吹きかけて滅菌消毒。袋から適当なオレンジを一つ選び出しナイフの刃ををそっと滑らせると宝石のように輝く断面が現れた。食べやすい大きさに切りかぶりつく。
「……うまい」
『よかった。甘すぎるんじゃないかと思ったんだけど、安心したわ』
「……」
ミコトは何も言わずに二口目を食べる。一切れ食べ終え、次の一切れに手を伸ばそうとしたところでステータス・ウィンドウがイエローアラートに変わった。
『っ! 』
カプセルの中のアイリスが声を漏らして身体をのけぞらせた。水槽中の気泡が増えていく。アラートはイエローからレッドへ。市当局からのハッキングだ。
すぐにワークステーションの方に椅子を移し、スタンバイ状態から起動させる。次々と更新される情報の奔流。眼鏡越しに目だけを小刻みに動かしながら必要なデータを読み取り、コマンドプログラムを即応状態へと持っていく。
「少しペースが上がってきたか。今度はどこだ」
『……右脚。交通ネットワークの、管制領域』
喘ぐようにアイリスが答える。侵蝕はすでに始まっていた。足首から先だけでなく、その上までも培養液の中に溶かされて消えていってしまう。
メディアディスクを差し替え、ほとんど書き上がっていた新システムのデータをワークステーションに読み込ませる。コマンドスタンバイ。システム移管シークエンス起動準備。
『ねぇミコト』
「なんだ? 」
すでに弱々しくなってしまった声でアイリスが話しかける。右脚を襲う苦痛を押し隠しつつ、彼女はミコトに微笑んだ。
『お願い、ね』
「……まかせとけ。僕を誰だと思っている」
軽やかな音とともにキーボードに命令が入力される。天才とまで称された稀代のハッカーは少女の願いを叶えるため、今日も全てを統括するネットワークの中を駆けてゆく。
Scene 4 :
この街を支配する総合市庁舎オベリスク。市街のどの建物よりも、それどころか見える限りのあらゆる物よりも高く大きいそれは今日もシティを監視するようにそびえ立っている。その足下、オベリスクに隣接したセントラルホテルの一階ラウンジでミコトは柱に寄りかかりながら行き交う人々を眺めていた。
市直営のこのホテルの下層階は市民のための空間だ。最上のサービスをリーズナブルな価格で提供している。単調な生活の中に少しばかりの潤いを。市民の間では自らへのご褒美としてこのホテルを利用することがステータスとなっている。
あくまで市民サービスの一環としての下層階、それに対し上層階は市が接待するVIPのための宿泊フロアだ。政治家の密談、経済界の大物たちの会合、市外からの外交官の受け入れなどに利用される。彼らは空中回廊を通ってオベリスクと行き来するため、下層の宿泊客とは交わることはない。
ミコトは腕の時計にちらりと目をやった。アナログかつアナクロな機械式時計の針は九時を少し回ったところだ。ラウンジを行き交う人の流れも少し落ち着きを見せ始めている。軽くため息をつきながら、窮屈なスーツのジャケットの襟を直した。
「……お」
正面玄関から一人の男が入ってくるところが見えた。守衛にも親しげに挨拶するこの男は足早にラウンジの中へと進んでくる。ホールの中心でぐるっとあたりを見渡しーー柱に背を預けるミコトと目が合うとにんまりとした笑みを浮かべた。
「よおミコト」
「遅かったな、グレン。五分遅刻だ」
「わるいわるい。出がけに急な仕事が入ってな」
「相変わらず忙しそうだな」
「おかげさまでな」
ミコト=カツラギとグレン=カミンスキー。CCIC(市中央情報技術カレッジ)の同期である二人は再開を祝して軽く握手を交わした。
グレンに連れてこられたのはホテル最上階のバーラウンジだった。途中でエレベーターを乗り換え、ガードマンに見送られながらたどり着いたここからはシティを一望することが出来る。オベリスクに次ぐ超高層建築物、その最上階からミコトは街を見下ろしていた。
「何でも好きな物をたのんでくれ、ミコト。今日は俺のおごりだ」
「任せるよ。軽めのやつにしてくれ」
「まだ酒は苦手か? 」
「毎回入り口で年齢確認くらうんだ。めんどくさいから最近は行く気にもならない」
「はは。お前さん、いまだに高校生にも間違われそうな顔してるもんな」
グレンはカウンターの方に寄っていてバーテンダーに二言三言話しかけた。壮年のバーテンダーは慣れた手つきでシェーカーを操り、あっというまに二杯のカクテルが出来上がる。グレンはそれを受け取るとミコトと並んで街を見下ろせる席に腰掛けた。
「お前が市の技術局をやめて以来だから、直接合うのは二年ぶりか? 今日は来てくれて感謝してるよ」
「堅苦しいのはいいよ。もっとも格好はそうもいかないみたいだけどな」
わざとらしくジャケットの襟を直す。元々ミコトはこういうばっちり決めた服装が苦手なのだ。
「悪い悪い。さすがにここでTシャツジーパンはないだろうと思ってさ。ま、なにはともあれ乾杯しようぜ」
グラスを���く持ち上げる。ぶつけられたグラスは澄んだきれいな音を立てた。赤みを帯びたカクテルを口に含み、ミコトは感心したように呟いた。
「……悪くないな。さすがはセントラルホテルといったところか」
「だろ? ここで飲むと他の店のが物足りなくなっちまう。ま、俺もまだここに来るのは二回目なんだが」
くっとグラスを持ち上げあっという間に空けてしまうグレン。背が高く彫りの深いこの男はミコトとは対照的に良く飲む。アルコールに強く、悪酔いせずに味を楽しめる本当の意味での愛飲家だ。
豪快で人当たりのいいグレンと小柄で皮肉屋なミコト。貧乏な母子家庭から二十歳を過ぎて奨学金を得て入学してきた努力家と圧倒的な知能と技量で飛び級を繰り返してきた天才。カレッジ時代は好対照な二人として学内では良く知られた存在でもあった。
「髭、のばすようになったんだな。昔はおっさん臭いとかいって嫌ってたのに」
「嘗められないようにな。若造が年功序列すっとばして昇進していくのが気に入らないってやつもいるってことだ。特にこれからはいっそう大変になってくる」
グレンは顎の髭を撫でながらそう答えた。
ミコトは特例として在学中から、グレンも卒業後には市のシステムエンジニアとしてオベリスクに勤務していた。ミコトの方は二年前に技術局をやめてしまっていたが、残ったグレンは順調にキャリアを重ね若くして行政システム保守の責任者になったのだと人づてに聞いていた。
「……知っているかもしれないが、実は今度市長直属の主席エンジニアに抜擢されることになったんだ。メイヤー市長がまだただの議員だった頃に知り合ったんだが、腕の良さを覚えていてくれたらしい」
「……噂では聞いていたよ。それに、こんなところに入れるのは限られた階級だけだからな。下っ端公務員のままじゃむりだ」
主席エンジニア。市長直属のこの役職は他の一般エンジニアとは異なる職務を割り振られている。市の存在、その根幹をなすシステムと未知の領域”ブランク・ルーム”。歴代の主席エンジニアはそのセキュリティを突破・解析することを使命とし、数十万のシステムエンジニアの頂点として市長から特権的な地位を与えられているのだった。
「まだ三十にもなってない若造の抜擢は異例だそうだが、俺はやってみせるさ。先生も破れなかった”ブランクルーム”の謎、絶対に解明してやる! 」
「……」
グレンは強い口調で言い切った。二人の恩師、ジョン=スチュワート教授もまた主席エンジニアとして”ブランク・ルーム”の解析にあたっていたのだが、ついにその夢を叶えることはなく職を辞したのだ。
『あの中には人類の希望が詰まっています』
『この街、ひいては人類の発展のためにはあの”ブランク・ルーム”の解析が不可欠です。残念ながらわたしはその夢を果たすことは出来ませんでしたが、優秀なあなた方ならきっと出来ることでしょう。わたしの目が黒いうちに、全ての謎が解き明かされることを願っています』
講義中、年に似合わぬ熱っぽい口調でそう語った教授の姿と今目の前にいる親友グレン=カミンスキー。ミコトには二人の姿が重なって見えていた。
「今日ミコトに来てもらったのはほかでもない。勧誘にきたんだ」
「勧誘? 」
「ああ。お前、まだフリーでこまごまとした仕事をやってるんだろ? 別にそれが悪いこととは言わないが、お前ほどの実力があるんだったら他に使い道があると思わないか? 」
ミコトはグラスに口を付けた。透き通る、それでいて血のように赤いカクテル。アルコールの苦みが舌と脳を刺激する。
「部下になれといっているんじゃない。俺と同格の待遇で迎え入れられるよう市長に掛け合ってみるつもりだ」
ミコトは答えない。黙ってグレンの言葉を聞いている。窓の外、街はネオンに照らされ妖しく輝いている。
「なあミコト、俺と一緒にやってくれないか? ”ブランク・ルーム”を突破するにはお前の力が必要なんだ」
グレンの目は純粋で、だからこそ危うさをはらんでいるようにミコトには感じられた。あるいは少し前の自分も同じような目をしていたのかもしれない。静かにグラスをテーブルに置く。
「グレン。悪いがその話を受けることは出来ない」
「……なぜ? 」
「やりたいこと・・・・・・やらなきゃいけないことがあるんだ。お前の仕事は他の人でもできるかもしれないが、こっちの方は僕にしか出来ない」
「……」
「僕が、やらなきゃいけないんだ」
二人は無言でお互いを見つめていた。初めて出会ってから七年。別々の道を歩き始めてから二年。長い年月は親友だった二人の立ち位置を大きく変えてしまっていた。
ふぅ、とグレンは張りつめていた息を吐く。バーテンダーに三杯目のカクテルを注文し、軽くあおってから崩れるようにだらしなく座り直した。
「そこまでいうんじゃしかたないか。お前が隣にいてくれれば百人力だったのに」
「すまない」
「いや、気にするな。そっちにはそっちの都合があるだろうよ」
そういってグレンは唇の端を上げた。グラスを目の高さまで持ってきて、きらめきを楽しむように青のグラスをゆらゆらとさせる。
「なあ、最後にもう一つだけ聞かせてもらっても良いか? 」
「ん? 」
視線はグラスを眺めたまま、気安い口調でグレンがミコトに話しかける。七年前、カレッジのカフェでたわいもない話をしていて時の口調で。
「そのやらなきゃいけないことってのは……女か? 」
「そんなたいしたもんじゃないよ。でも……」
「でも? 」
「放っては置けない。それだけだ」
そっけない口調とは裏腹にその口もとが小さく笑っているのを、グレンは見逃さなかった。
Scene 5 :
「……コード認証、ダミー・プログラム適用……よし。シーリン、回線をこっちにまわしてくれ。直接仕掛ける」
「了解」
部屋の空気はまるでピアノ線のように鋭く張りつめていた。オベリスク上層階、オペレーション・ルーム。シティを代表する腕利きのエンジニアたちが真剣な面持ちでディスプレイの前に座ってキーボードを叩いている。グレン=カミンスキーはその中心として周囲に的確な指示を飛ばしながら自らも最前線で戦っていた。
「プロテクト五五六七七番から五六九二三番までクリア。最終フェイズに入ります」
この日のために綿密に組み上げた攻性プログラム群はその能力を存分に発揮していた。次々とセキュリティ防壁を突破し、”ブランク・ルーム”の扉の鍵を開けていく。
(順調だ。これなら……)
グレンはとっておきのツールを起動した。量子演算を応用した解析プログラム。オベリスクの超集積コンピュータ、その処理能力の大半を使用するこの重量級プログラムが”ブランク・ルーム”の扉を打ち砕かんとする。一撃、また一撃。そして……
「……最終プロテクト解除確認。第六六五ブロック、完全に解放されました」
オペレーション・ルームに歓声が上がった。わき上がる拍手。ある者は握手を交わし、ある者は抱き合っている。
一人のオペレーターが立ち上がり、グレンの元へと歩み寄っていった。脱力したように椅子に深く身体を預けていた彼だったが、その姿に気づくと軽く右手を上げて答える。
「やあ、シーリン」
「おめでとうございます、カミンスキー先輩。おつかれさまでした」
「ありがとう。それにしても肩が凝ったよ」
「ふふふ。ゆっくり休んでください」
大きめの眼鏡越しにシーリンはにっこりと笑いかけた。エンジニアの女性は概して無愛想だったり容姿に無頓着だったりするのだが、彼女は非常に可愛らしい。つられてグレンの口元も緩んでしまう。
「そうだな。よければ今度一緒に……」
「カミンスキー君」
引き締まった声がグレンの台詞を遮った。大柄な身体、褐色の肌、刈り込んだ白髪。発するオーラはこの部屋の誰よりも鋭く、歴戦の風格を漂わせている。グレンはすぐに立ち上がり姿勢を正した。
「メイヤー市長、いらしていたのですか」
「君を選んだのは私だからな。見届ける義務もあろうというものだ」
「光栄であります」
シーリンはグレンの大きな背中に隠れるように一歩引き下がった。先日選挙で前職のスティーブン=スミスを破り当選したこの市長に対し、彼女は何となく敬遠した想いを抱いていた。メイヤーとは直接目の合わない位置に立ち、二人の会話に耳を澄ます。
「君が主席エンジニアに就任してからの進展には目を見張るものがある。私としても誇らしいよ」
「すべてここの設備とすばらしい仲間たちのお陰です」
「仲間か……」
メイヤーはオペレーション・ルームの中を眺めた。市長に就任した際、私財を投じて設備を増強したこの部屋は従来を遥かに上回る処理能力を獲得している。そのスペックとグレンの能力が重なり合い、この一ヶ月で”ブランク・ルーム”のプロテクトの突破と解析は飛躍的に進んでいた。
「仲間と言えば、君が以前言っていたエンジニアはどうしたのかね。カツラギとかいったか」
「……残念ながら個人的な事情により協力することは出来ないとのことでした。彼がいればより早く、あるいは二週間もあればここまで到達できていたかもしれません」
「ほう」
市長はそう呟いて自らの髭を撫でた。顔の輪郭部に短くのびたその髭はメイヤーの顔立ちをより精悍な物にしている。
「まあいい。その彼がいなくてもここまで来れたのは事実なのだからね。残りはどうなっている? 」
「事前の分析に寄れば、あと一つです。予定通り五日後には最後のアタックを開始できるでしょう」
「よろしい。君の働きには期待しているよカミンスキー君。お母上にもよろしくな」
「はっ」
グレンの肩をポンと叩き、多くの秘書官を引き連れながら市長はオペレーション・ルームを後にした。
「いや、大変なお方だな、メイヤー市長は。プロテクトを相手にするよりも疲れたよ」
グレンは大げさに肩をすくませながらおどけた顔を見せた。わざとらしく汗など拭いてみたりもする。強ばっていたシーリンの表情もついつい緩んできてしまう。
「市長に失礼じゃないんですか、それって? 」
「いやいや、敬意の表明のつもりだよ、俺としては」
「ふふ。そういえばさっき言ってたエンジニアって、ひょっとしてあのミコト=カツラギですか? 」
名門CCICを史上最年少、それも主席で卒業した天才の名前はこのシティでは広く知れ渡っている。現在の動向についてはあまり情報が入ってこないが、てっきりどこかの企業の顧問エンジニアとして活躍しているのだとシーリンは思っていた。
「大学の同期なんだよ。この前久しぶりにあって勧誘してきたんだが、ものの見事に振られちまった」
「……ミコト=カツラギと言えば、あの噂って本当なんですかね? オベリスクの基幹システムに侵入したっていう」
シティの全てを管理するオベリスク。最高の技術がつぎ込まれ、そのセキュリティは”ブランク・ルーム”にも引けを取らないといわれている。しかしそんなオベリスクも過去に一度だけ外部からの干渉を許したことがあった。その“犯人”として噂されたのが当時情報技術局の副局長であったミコトだ。ろくな証拠もなく結局捕まることはなかったものの、彼女たちエンジニアたちの間でまことしやかにささやかれているこの噂がミコトの名を業界の中で忘れがたい物としていた。
「……真偽は知らないが、その実力はカレッジの時点ですでにあったと思うね。うちのカレッジの管理システムにも容易く侵入できちゃうようなやつだったし」
「そんな人がどうして不参加に……? 」
グレンは大きく首を振った。
「さあね。あっちにはあっちの都合があるんだろう。放っておけない女が出来たとか言ってたしな」
「それじゃ、ひょっとして今もデートの最中だったりして? 」
「どーだろうねぇ。そうだったらただじゃ置かないけどな。俺がこんなに苦労してるってのに! 」
グレンはいたずらっぽくにやりと笑い、笑顔がすてきなシーリンは再びふふふと微笑むのだった。
「ふぅ……」
仄かな赤い光に照らされる暗闇の中、ミコトはため息をついて背もたれに身体を預けた。ディスプレイは休む間もなく更新され彼に情報を送り続けている。
(さすがだな。ハッキングのペースが早い。予想通り……いやそれ以上か)
カプセルの中に浮かぶアイリスの身体はそのほとんどがすでに失われていた。右腕、左腕、右脚、左脚。四肢はとうに溶け去り胴体の方も胸部より下は残っていない。長い髪が顔にまとわりつき表情を隠しているため、呼吸の度に上下する肩のかすかな動きがなかったら死んでいると思われてしまったかもしれない。
『はぁ……はぁ……』
侵蝕が進むにつれアイリスが苦しむ時間も長くなっていった。彼女がどれほどの痛みを感じているのか、ミコトには知るすべもない。彼は自分の出来ること、自分に託されたことをするだけだ。ーーたとえそれがどのような結末をもたらすことになっても。
ミコトはキーボードを軽く操作してテレビ・チューナーを起動した。ディスプレイの隅に小さく新たなウィンドウが現れ、会見場の様子が映し出される。画面の中ではキングストン=メイヤーがいつかのように、市民に向けて熱弁を振るっていた。
『ーーついにここまでたどりつきました。あと一歩、あとほんの一歩です。我々は歴史の瞬間に立ち会おうとしています。未だかつて誰も見たことがない”ブランク・ルーム”、その秘密を解明する直前まで我々は来ているのです。五日後日曜日の午後七時、我々は最後の挑戦を”ブランク・ルーム”に対して行います。その挑戦が終わったあと、この街の歴史は新たなステージへと突入していることでしょう』
会見場で歓声が上がった。だれもが市長の巧みな弁舌にアジテートされ、熱狂している。おそらく家庭で、職場で、あるいは街角で。これを見ている市民も神経が興奮するのを感じているに違いない。彼は大衆をその主張に巻き込むことにかけて天才的な能力を持っている。そんなスクリーンをミコトは相変わらずの無表情で眺めていた。
『……ミコト』
「アイリス、起きて大丈夫なのか? 」
いつの間に目覚めたのか、アイリスが頭を起こしてこちらを見ていた。
『いよいよ、ね』
「……」
『ごめんね。こんなつらいこと頼んで。でも……』
「言わなくていい」
ミコトは乱暴にキーボードを操るとチューナーのウィンドウを閉じた。他のインフォメーションボードも次々と終了させ、あとにはブラックアウトしたディスプレイだけが残る。
「これは僕の義務だ。。キミが気にすることじゃない」
『……そうね、ごめん。でも一つだけ言わせて』
「……」
『ありがとう。今まで私の我がままにつきあってもらって、感謝している』
カプセルからの光が弱まった。アイリスが休眠モードに入ったのだ。要求される休眠時間は以前に比べ長くなってきていた。
穏やかな顔だった。寝ている彼女はいつだって静かな表情をしている。彼女は夢を見るのだろうか? ミコトは今までそんなことも考えなかったことに驚いた。
「……ふん」
大きく背中を後ろに投げ出すと、椅子のリクライニング部分がぎしぎしという音を立てた。頭上には暗闇が広がり、その先には何も見えない。
Scene 6 :
最後の五日間はあっという間に過ぎていった。。アイリスの消滅後、オリジナルシステムがクラッシュしないようにつなげるバイパスプログラムの構成と検証。ハッキング誘導経路の確認。緊急時の干渉ルートの確保。計画に一分の隙も出ないよう、いつも以上に繊細にコードを確認していく。
「大丈夫、だよな」
準備は怠っていないはずだった。千を越えるハッキングのパターンとその対処法はすでに用意している。さらに言えば以前までと違い、今では相手の顔が見えている。グレンの手法については誰よりも詳しいはずだ。それでもミコトの首筋にはちりちりと嫌な感触が焼き付いている。拭えない悪寒。思わず身震いしてしまったところをアイリスに見とがめられてしまった。
『ミコト、寒いの? 』
「……平気だよ、これくらい。多少寒い方が頭が冷えていい」
『私のせいで風邪なんて引かないでね。そんなの、イヤだから』
アイリスはまだ心配そうな表情で赤い液体の中に浮かんでいた。肉体の八割を失った、もはや人間と言えるのかさえ疑わしい状態の聖女。ミコトは顔を向けずに答える。
「僕のことは良い。それよりも、そろそろ時間だ」
ディスプレイの端に表示させたデジタル表示の時計が十八時五十七分を示している。ミコトはワークステーションを起こし、必要���アプリケーションを展開し始めた。最終チェック。あそこまで大体的に発表した以上、時間をずらしてくるということはないだろう。しかし時刻が予告されているというのは時限爆弾のタイマーを見せつけられているようで、かえって落ち着かなかった。
『……んっ! 』
アイリスの喘ぎ声とともに、カプセルの中が俄に騒がしくなった。細かい泡が次々と彼女の周りに立ち上る。
幾重にも張り巡らされたセキュリティ防壁がもろいところから突破されていく。だがこれはミコトの筋書き通りだ。
「よし、行くか」
十九時〇〇分ジャスト、最後のハッキングは定刻通りに開始された。
キーボードを操るグレンの額には汗がにじんでいた。ハッキング開始から既に二時間が経過している。”ブランク・ルーム”の最後の砦、第六六六ブロックはそう容易くは扉を開いてくれないようだ。
「……先輩、少し休んだらいかがですか」
「いや、変に流れを変えたくない。作業自体は順調だしこのまま行こう」
シーリンが声をかけるが、グレンは首を振った。差し出されたボトルだけを受け取り水分を補給する。疲労は隠しきれないが、それを上回る充実感が顔に表れていた。
「もう少しだ、もう少しで突破できる。休んでいる暇なんてないよ」
そういう間も手はキーを叩き続けている。ディスプレイは二八九番目のサブ・ブロックを開放したことを告げていた。
「キミも席に戻ってくれ、シーリン。終わったら何かおいしい物でも食べにいこう」
「……はい、楽しみにしています」
ぺこりと挨拶をして定位置にかえっていくシーリン。グレンはそれを見送るとよしと気合を入れなおしてディスプレイに向き直った。
「進行度九八パーセント、了解。残るサブ・ブロックももうわずかか……」
ミコトはインフォメーション・ボートからのメッセージを確認した。事態は順調に進んでいる。あと少し、最後までトラブルなく扉が開かれたときにミコトの仕事は終わる。
アイリスは今、声を上げることもなくケーブルに吊られてカプセルの中で目を閉じている。腕と胴の外縁部が僅かに溶けたあとはごくゆっくりとしか侵蝕は進んでいない。これはシステムの中核が彼女の頭胸部に集中しているためであり、これもまた予想通りだ。
予想通り、予想通りではあるのだが、ミコトはあのときに感じた嫌な感触を未だ拭えずにいた。
『……あっ』
ごぽっ、と大きな気泡が生まれてアイリスの下胸部が崩れ落ちた。肉の欠片は底につくまで��溶かされ、何も残らない。剥がれ落ちたあと、生身の人間であれば心臓があるであろう場所には赤く不気味に輝く結晶体が埋め込まれていた。
宝石のような煌めき。固形質の殻の内側にもやもやとしたものが閉じ込められている。彼女を磔にしていたケーブルは背中を貫通し、そのクリスタルに直結していた。アイリスの顔が苦痛に歪む。
「アイリス……」
『見ないでミコト。ちょっと恥ずかしい、かも』
笑おうとするその努力が痛々しい。彼女の見えないところで唇をかむ。最後のサブ・ブロックが突破された。残されたのは最後の領域、”キー・ストーン”だけだ。せめて彼女がこれ以上苦しむことのないように、ミコトはバイパスブログラムを接続する準備を開始するーーその時だった。
クリスタルの中のどす黒い物が急に実体を持ち始めた。それまで霞のようにぼんやりとしていた物がはっきりとした輪郭を持つように凝縮していく。ドクン、ドクン。本物の心臓のように脈拍を刻み始める。鳴り響くアラート。
「……なんだ? 」
こんなパターンは想定していない。ディスプレイはしきりに警告を訴えてくる。ドクン。自分の脈拍も早くなってくるのも感じる。アイリスが泣きそうな声で叫んだ。
『ミコト、おかしなプログラムが起動してる! システムの管理権が奪われそう! 』
「なに? 」
ミコトは素早くステータス・ウィンドウを開いた。外部からのハッキングではない。グレンの攻撃はまだ”キー・ストーン”の外側に向けられている。
(どういうことだ……? )
シティの総合管理システムの状態をモニターするウィンドウを開きチェックする。
……イースト・ステーションで信号トラブル、リニアのダイヤに乱れ……ウェストブロック、エンド地区で小規模の火災、通報と避難誘導を実施済み……セントラル・バンク第二支店で警報に反応、ガードマシンを派遣……
数百万の人口を抱える都市から溢れ出る情報の奔流。その中の一点に目を止めたミコトは吐き捨てるように呟いた。
「……お前を作った奴らはよほど意地が悪いらしいな、アイリス」
『どういうこと? 』
「内側から自壊プログラムが走り始めている。このままお前が消されると連動して総合管理システムがクラッシュする仕組みだ」
シティの全機能を統括する総合管理システム、それが機能不全を起こすということはこの街が終わることと同じだ。データサーバーは全て飛び、リニアトレインや無人フライヤーはコントロールを失い墜落、社会インフラは全て停止する。いや、それだけにとどまらない。農業や畜産のプラントが止まれば食料がなくなり、濾過装置が止まれば水がなくなる。数少ない生活物資を巡って暴動が起きるのはさけられない。
『そんな……』
グレンのハッキングは今も続いていた。完全に制圧されるのも時間の問題だ。そして今回の場合、それが破滅への引き金となる。
ミコトはラップトップPCを有線でワークステーションに接続した。極限までチューンした特注のハイエンドモデルだ。瞬発的な処理能力ならワークステーションにも負けない。
ワークステーションのリソースは今もシステム移管シークエンスに使われている。これ以上のことをこなすには多少のリスクは負わなければならないだろう。
「……オベリスクに干渉してハッキングの進行を遅らせる。時間を稼いでいる間に自壊プログラムへの対処だ。クラックするかループ回路に押しやって自滅させる」
ハンデというには大きすぎるビハインドだった。一人が背負うにはあまりにも重すぎる。
『……できるの? 』
「できるさ。伊達に天才やってる訳じゃない」
ミコトは彼女の不安を振り払うように不敵に笑うと、電子の海へとその意識を沈めていく。
「……ハッキングです! 攻性プログラムの能力六〇パーセントダウン! 」
「なんだって! 」
シーリンの悲鳴のような報告にオペレーション・ルームの空気が一変した。偉業達成を前にしたざわつきから、これからどうなるんだという混乱へ。伝搬した不安は一気に室内を覆い尽くそうとする。パニック寸前になったメンバーを引き戻したのはグレンの力強い声だった。
「落ち着け! まだ失敗した訳じゃない! ーーシーリン、ハッキングの発信元は!? 」
「はっきりとはわかりませんが……おそらく市内です。ローカルネットに直接割り込んできています」
「アルファチームは攻撃を続行。ベータチームはシステムを守れ、サーバーのリソースを一部まわす。シーリン、キミはガンマチームと発信源の探知だ」
元々ハッキングに対する防御なんて考えていなかったプログラムたちだが、それでも一度に六割も無力化されるとは想定外だ。いや、そもそもオベリスクのセントラルサーバーに置かれたこのプログラムが攻撃を受けているということがすでに異常なのだ。
(……オベリスクへの侵入か)
「まさか、な」
「先輩? 」
シーリンが心配げな視線をグレンに向けてくる。彼は首を振ってそれを打ち消した。
「……なんでもない。ベータチームの指揮は俺が直接執る。俺の目が黒いうちはここのシステムに好き勝手はさせない」
ミコトは自分の身体がだんだんと火照ってくるのを感じていた。こんな感覚はカレッジのシステム侵入を巡ってグレンとやり合ったとき以来だ。
焼き切れるまで頭のエンジンをまわし続ける。一瞬たりとも気は抜けない。付け込まれ、蹂躙される。相手はそのグレンと、この街の創造主とも言える存在なのだから。
「・・・・・・強制アクセス、フラッグナンバリング変更。よし」
画面の端に小さいウィンドウがポップアップする。送り込んだジャミング・プログラムからの救援信号だ。
「こんどはこっちか。プログラム二五八番から二八七番まで再展開」
グレンの力量は予想以上だった。妨害プログラムは送り出す端から無力化され逆襲を受けてしまう。偽装のためのサーバーを噛ませる余裕すらなさそうだ。
(ーーもとより覚悟の上だ。好きなだけ暴れてやるさ)
自壊プログラムの一部を切り離し、コマンドラインをループさせる。少しずつ自壊プログラムの攻撃能力を削ぎ落す。地味ながらも有効な戦術ではある。しかしーー。
『まただわ。いくら消しても次々発信されてくる』
プログラムのマスターデータを直接クラックしないかぎり、コピーをいくら壊したとしても際限なく修復されてしまう。相手は起動条件が揃えばオートマチックに動くアルゴリズムだ。持久戦を挑めば勝ち目がないのは分かりきっている。
「選択の余地は無い、か」
八十七回目のクラックを終えたあと、ミコトは吐き捨てるように呟いた。ため息をつき、電子キーを腰のケースから取り出すとワークステーションのメモリスロットに差し込む。
『……ミコト? 』
「ーー五分だけ時間を稼いでほしい。総合管理システムを一時的にダウンさせてその隙に”キー・ストーン”に侵入する」
自壊プログラムの本体を叩くにはそれを発信している”キー・ストーン”のプロテクトを突破しなければならないが、グレンとの二正面作戦ではここの設備はあまりに貧弱だ。向こうの動きを何とか封じ、全てのリソースを費やして初めて勝機が見えてくる。
『でも、それじゃ、街が全部止まっちゃうってことに……』
「だからキミに頼むんだアイリス。構造上、”ブランク・ルーム”の領域は外部からダウンさせることができない。オベリスクのシステムを止めている間、必要最低限のライフラインはキミが維持してくれ」
”キー・ストーン”から離れたアイリス自身の処理能力がどれほど残っているか。それはミコトにも分からない。あるいは彼女に大きな負担をかけてしまうことになるかもしれない。それも全て踏まえた上でアイリスは静かに頷いた。
『……わかったわ。街は任せて』
「すまないな。結局こんなことになって」
『いいの。みんなを守るのが私の仕事だから』
まだ痛みはあるはずだった。速度が落ちてきているとはいえ、身体の分解は続いている。
(ーーどうして彼女が苦しまなければならない? )
幾度となく繰り返してきた自問。答えは未だ見えてこない。これが彼女にとって最後の苦しみとなるようにと願いながら、ミコトはブレイク・プログラムの実行キーを入力した。
グレンはハッカーからの攻撃を跳ね返しながら、予感が確信に変わりつつあるのを感じていた。高度で洗練されたアルゴリズムは通常では考えられない速さでオベリスクの基幹部に侵入してくる。だが画期的なその手管も手の内を知ってしまいさえすれば対処は容易だ。グレンのカウンターアタックは徐々にではあるが侵入を跳ね返し、むしろ押し込みつつあった。
「すごいな……主席エンジニアに選ばれるだけのことはある」
「……」
隣では年上の部下が驚嘆の声をあげていた。主席エンジニアはそれには答えない。眉間にシワを寄せたままディスプレイを睨んでいる。
どれだけ優れたアルゴリズムだからといってそれがそのまま彼が組み上げたという証拠にはならない。むしろ元��なるアイデアさえ共通ならば洗練させればさせるほどその姿は似通ってくるものだ。
(だが……)
プログラムに限らず、人が作ったものにはその端々に作り手のクセが出る。これは消そうと思ってもそう簡単に消せるものではない。
理性ではわかっていた。ただ感情が、積み上げてきた信頼がその事実を否定していた。
「……なんだ? 」
オペレーション・ルームの照明が不意にちかちかと瞬いた。故障か? だとしたらずいぶんとタイミングの悪い……。
グレンの嘆きは長くは続かなかった。照明の明滅が予備動作だったかのように、次の瞬間には照明を含むほとんどの電子機器の電源が落ちた。窓一つない室内が暗闇に覆われる。
「どうした! 」
「わかりません! システムが全部止まっています! 」
叫び声での応酬は非常電源が作動するまで続いた。非常灯の頼りない明かりが室内をかすかに照らす。いくつも並べられたディスプレイが一斉に再起動を始めた。エラーログを読み取った各班から報告が上がってくる。
「アルファチーム、システムの強制終了のため接続がカットされました。制圧達成は未確認」
「ベータチームから報告、外部からの妨害は止まりましたがディフェンスプログラムにもエラーが発生しています。復旧までは時間がかかりそうです」
「ガンマチームは……」
シーリンが報告を述べようとしたところでエアロックのドアが開いた。足音も荒々しく、キングストン=メイヤーが秘書官を引き連れ入ってくる。
「カミンスキー君、なにが起きた? 」
「……オベリスクの基幹システムがダウンしています。しかし、正副予備の三系統が同時に不具合を起こすとは考えられません。おそらく外部からの攻撃です」
それもかなりの腕前の、とグレンは心の中で付け足した。心当たりは一人しかいない。
「それは先ほど解析の妨害をしてきたのと同じ輩かね? 」
「……確証はありませんが」
「ーーふむ。それなら……」
「あ、あの」
シーリンが二人の会話に割り込んだ。傍らに控えていた秘書官が露骨に嫌そうな顔をするが、意外にもメイヤーが続きを促した。
「どうした、コール技術官? 」
「さ、先ほどの大規模攻撃のお陰で侵入者の居場所が分かりました。サウスブロック第九地区、ウィークストリートからで間違いありません」
声は上ずっていたが端的に纏められた報告だった。メイヤーの顔つきが変わる。グレンが不可解そうに問いただした。
「フェイクという可能性はないのか? いくらなんでも特定が早すぎるが……」
「それがどういう訳か全く偽装がなされていなくて……」
ミスか? グレンは自問する。まさかあいつほどのやつがそんな初歩的なミスを犯すはずがない。ということは……
(ーーなにか向こうにとっても予想外の事態が起きている……? )
「市長……」
「この件はこちらに任せたまえ、カミンスキー君。君たちエンジニアにはシステムの復旧と、何より”ブランク・ルーム”へのアタックを再開をしてもらわなければならない」
「攻撃の再開ですか? しかしこの事態です、まずは市内の安全がどうなっているか確認しなければ……」
「カミンスキー君、考えても見たまえ。敵がオベリスクにハッキングするだけの技術力をもっているとして、どうしてこのタイミングなんだ? 」
「それは……」
「向こうは明らかに我々の解析を妨害したがっている。ここで引くのは敵に無駄に時間を与えるだけだ。今解き明かさなければ永遠に機を逸することになりかねない」
メイヤーの主張がもっともだということはグレンにも理解できた。あいつの目的が何であれ、”ブランク・ルーム”の中身を守りたがっている。次に相対したときにはさらに強固なプロテクトを築いていることだろう。
「ーーセントラルサーバー、一部ですが復旧しました! 情報処理能力平時の六〇パーセントまで回復しています! 」
「行きたまえシティ主席エンジニア、グレン=カミンスキー。私が何のためにキミを選んだのか分からない訳ではあるまい? 」
わずかな沈黙があった。シーリンの場所からはグレンの表情が伺えない。しかし彼は背筋を伸ばし、市長に向けて恭しく敬礼を捧げた。
「わかりました。攻撃を再開させていただきます」
シーリンが気遣わしげな目でこちらを見ているのが分かったが、グレンは気づかない振りをした。先ほどまでと同じように周囲に指示を飛ばし攻撃の準備を整えいく。市長はその様子を確認すると、足早にオペレーション・ルームを後にした。
かつかつと廊下に革靴の音が響き渡る。早足で進むメイヤーの顔は冷たく、険しいものになっていた。非常灯のみの明かりの中、落としたトーンで秘書官が彼に話しかける。
「……市長」
「”ハウンド”を出す。生け捕りが望ましいが最悪の場合射殺しても構わん」
秘書官は無言で頷くと暗がりの中へ消えていった。
エレベーターホールでメイヤーは立ち止まった。ガラス張りになった壁からは市街が一望できる。彼は窓際に立ち、数百万の市民の顔を思い描きながらそれを眺めた。
「ーーこの街は私たちのものだ。いつまでも掌の上で踊らされていると思うなよ」
常に明かりがともり不夜城とも称されるこの街が今では暗く沈みきっている。もう何年も見たことのない月と星が夜空の中に浮かんでいた。
『……』
アイリスは先ほどから目を閉じたまま一言も発していない。ライフラインの維持に集中しているのだろう。そしてミコト自身にも彼女を気にかけるような余裕は全くなかった。
シグマドライバ。大学時代にグレンと思いついたアイデアを元に生み出したとっておきのツールだ。それを駆使して”キー・ストーン”の中を、深く深く潜行していく。
システムダウンの影響はこの砦の中にも及んでいる。街の蠢きすら聞こえないしんと静まり返った部屋の空気は深海のように二人の身体を包んでいた。着底。システムの中の最古の記憶領域にミコトは辿り着く。
残された日付はもう何百年も昔の物だ。埃にまみれた記憶領域の中を慎重に探索する。潜行開始からすでに二分、時間はない。逸る気持ちを抑えつつも、先へ先へと進んでいく。
「……あった」
プログラム・アポトーシス。生命が個体をより良く保つために自らの細胞を死に至らしめてしまうという機構。そんな名を付けられたプログラムが深部階層に丁寧に格納されている。発動すれば数百万といった人々を殺しかねないそれは気が抜けるほど簡潔なアルゴリズムで記述されていた。
これを消せば終わる。コードを選択し、デリートキーを押し込んでーープログラムは消えなかった。
カチッ、カチッ。何度試してみてもプログラムは消えない。あざ笑うかのようにそこに存在し続けている。
「このっ……! 」
それなら上位階層ごと消し去ってやる。ミコトは選択範囲を広げようとするが、「彼女」の声がそのその動作を押しとどめた。
『無駄だよ。それは大事なシステムの一部だからね。消させるわけにはいかない』
声がしたほうにミコトは振り返った。赤い培養液に満たされたカプセルの中で、「彼女」はかすかに笑っていた。目は開かれ、身体の侵蝕も止まっている。確かに彼女の顔だった。確かに彼女の声だった。だがそこにいるのはミコトの知る少女ではなかった。
「アイリス……? 」
『アイリス、か。なるほど、確か前世紀の神話の中にそんな名を持つ女神がいたな。良い名だが、これにつけるには少々もったいない気もするな』
「誰だ、お前は」
問いつめる声が震えていた。得体の知れないおぞましさをミコトはこの声の主に感じていた。そんな彼の心のうちを知ってか知らずか、「彼女」は口の端をわずかにと持ち上げてにやりと笑った。
『ここまで来たのは私が生み残されてから初めてだ、ミコト=カツラギ。たかだか二百年程度でここまで辿り着けるとは想像もしていなかった。称賛に値するよ』
定型文のような祝辞を述べてから「彼女」は部屋の中をきょろきょろと見回し始めた。あちらからこちらへ。そっちから向こうの隅へ。興味深そうに眺め回す。
『よしよし。まだ設備自体に痛みは来ていないようだな。私の設計に誤りはなかったということか』
「さっきから何の話をしているんだ」
『おや、キミともあろうものがそんな質問をするのかな? どうせ察しはついているのだろう? 』
ミコトは顔をしかめた。
『分かってはいるが認めたくないーーそんなところかな。誰しも直視したくない事実というのはあるものだ』
「黙れ。お前には言ってやりたいことが山ほどある」
ほう、と「彼女」はわざとらしく目を大きく見開いてみせた。
『何かなーーといいたいところだが、まあ想像はつくよ。これのことだろう? 』
これーーもう胸から上しかなくなった少女の身体を示しながら答える。カプセルの中、ケーブルに繋がれた聖女。何もない場所(”ブランク・ルーム”)を守るために捧げられた生け贄。
『しかしこれは仕方のない犠牲なのだ、ミコト=カツラギ。優れた技能をもつキミなら分かるだろう』
「分からないね、分かりたくもない」
『まあそう言うな。ここは一つ昔話をしようじゃないか』
「……」
何も言い返さないのを了解の証と受け取ったのか、「彼女」は幾分芝居がかった口調で語り始めた。この街にとっての創世、その神話とも言うべき話を。
『あるところに、非常に科学が発達した街があった。彼らには作物を育てるための豊かな土地も、工業製品を作るために使える資源もなかった。ただ優れた頭脳と技術だけがそこにあった』
『街は技術を売り物にして生きてきた。人が生きるためには例外なく技が必要だ。技があればなんだって生み出せる、作り出せる。モノではなく技術を使い、街は偉大な発展を遂げた』
『ところがある日、街の中で諍いがおこった。技術は街の人々の生きる糧であり、富の源泉でもある。技術を独占しようとする人々とそれに反抗する人々の間の争いはほんの少しの火種のせいで大きく燃え上がった』
『街を守るための技術は街を焼くために使われた。人々を飢えから救うための技術は人々に毒を飲ませるために使われた。不釣り合いな技術に囲まれた人々は自分たちがどんなことを出来るモノを生み出してしまっていたのか、まったく自覚していなかった』
『街は滅び、人々は散り散りになった。後に残されたのは技術だけ。謝った使われ方をした可哀想な技術たちだ。数百年経ってーーそれを人々はまた手に入れようとしている』
「彼女」はそこで言葉を切った。哀れむような、あきらめたような、そんな不思議な目でミコトを見つめる。
『我々はキミたちに同じ過ちを繰り返して貰いたくないのだよ。技術は残す。だが管理しなければならない。過ぎたる炎はその身を焼く』
「ーーアイリス一人に罪を負わせてもか? 」
『最高のプロテクトのためには必要だったんだ。生体分子の振る舞いはもっとも解析が難しい物の一つだったからねーーもっとも、そのプロテクトもキミたちの前に破られてしまいそうだが。独自に発展したのはハッキング技術ばかりとはね。まったく人間というものは欲深い』
嘆くように「彼女」は言う。
『隠せば隠すほど暴こうとし、少しでも役に立ちそうなら何が副産しようが顧みない。そして今も技術を巡って争いを繰り広げている。何年何百年経とうが人間というものは変わらない』
「……なるほどね、アイリスが死にたがった気持ちも分かる気がする」
ミコトは立ち上がった。声はまだ震えていた。恐れではなく、怒りのために。
『キミの同情は理解できるよ。だが無闇な争いを起こさないためにもーー』
「言い訳は寄せ。お前らのつまらない自己顕示欲につきあう気はない」
『自己顕示欲? 』
「ああ。お前らはなんだかんだいって自分たちが作った技術を抹消するのが惜しかったんだよ。だからこんな回りくどい方法で封印した。使いたくなったらいつでもまた引っ張りだせるように。僕が彼女に同情したのはそのつまらないエゴにつき合わされているからだ」
ミコトはカプセルの中の彼女を見つめた。彼女の口を借りてしゃべっている「彼女」ではなく、だれよりもこの街と人々を愛していたアイリスを。誰にも知られることなく犠牲になっていた少女を。
『わからないね、ミコト=カツラギ。技術は富の源泉だ。何もないこの土地に人が生きるためには技が必要だった。我々の遺産がなければこの新たな街は存在しなかっただろう。もちろん、キミもだ』
「なければ良かったんだよ、この街なんて。過ぎた技術は世界を歪ませるーーお前の言った通りだ」
ミコトはキーボードを操作した。起動したハッキング・プログラムはいとも簡単にロックを打ち破る。創造主は今、ミコトの目の前で無防備な姿で晒されていた。「彼女」の顔が驚愕に歪む。
『そんな……! 』
「どうした。ここの人間がハッキングが得意だと言ったのはお前だぞ? 」
『……私を消去するというのかね、ミコト=カツラギ』
ミコトは答えない。
『いずれその決断を後悔することになるさ。パンドラの箱を開けてでてきたものが何か、知らない訳ではあるまい』
「でも最後に希望が残った」
かたんと軽い音を立て、エンターキーが入力された。強制終了、メモリ・フォーマットスタンバイ。再起動を開始します。
「……」
ミコトは無言でアイリスを見上げていた。ハッキングは再開され、わずかに残っていた身体の部分も分解が再び始まっている。まだ目は閉ざされたままだが、お陰で彼女が痛みを感じなくてもすむのならそれも良いだろう。
自壊プログラムはデリートされ、システムのダウンも回復した。妨害のなくなったグレンの解析は順調に進んでいる。使ったラップトップやメディアディスクは記憶媒体部分を粉々に砕いたのでデータの復元は不可能だろう。今度こそミコトのやることは残っていない。
長いようで短い二年間だった。心にぽっかりと穴があいてしまったような喪失感が身体の中を流れていた。
『……ミコ、ト? 』
「おはよう、アイリス」
彼女が目覚めたようだった。眠たげな目がゆっくりと開かれ、綺麗な虹彩が現れる。まだ夢の中にいるようなぼんやりとした眼差しをミコトに向けながら、彼女は呟くように話しだした。
『良い夢を、見ていた気がするの。街の中を自由に歩き回って、みんな笑顔で、風のにおいがして、それでーー』
不意に口をつぐむ。自嘲を感じさせる微笑みは諦めと憧れが入り交じっていて、ミコトは何も言えなかった。
『ごめんね。おかしな話をしちゃったみたい。忘れて』
「アイリス……」
侵蝕はやむことなく淡々と続いていた。美しい身体は美しく、煌めくように消えていく。
『どうしてかしらね。もう痛くないの。だから、心配しないで』
言葉が見つからなかった。ミコトは口を真一文字に強く結んだ。
『あなたにはいくら感謝してもしきれない。私の代わりに生きて、幸せになってほしい』
「……約束する。キミが安心して眠れるように」
アイリスは最後に花のように笑い、泡の中に消えていった。彼女を長い間戒めていたケーブルは、カプセルの底に落ちてカランという音を立てていた。
一人いて、二人になって、また一人になった。機能を果たしたカプセルはもはやその動作を止めている。静寂と余韻。苦闘の末に与えられた平穏。だがそれは長くは続かない。
「ーー突入! 」
キャットウォークの上の入り口扉がけたたましい音とともに蹴破られた。総勢七名、ライフルを構えた黒ずくめの男たちが無遠慮に入り込んでくるのをミコトは冷めた目つきで眺めていた。
「ハウンドか。市長も容赦がないな」
「ーー動くな、システム不正アクセスおよび国家反逆罪の疑いで逮捕する」
七つの銃口は訓練された動きでミコトの周りを取り囲んでいた。テーブルが押し倒され、上においてあった物が散乱する。床にぶつかったオレンジは無惨に砕けてその中身をさらけ出した。
「おいおい、あんまり汚さないでくれよ。ここの掃除は大変なんだ」
「黙れ! 必要とあれば射殺の許可も出ている! 」
リーダーの男が脅すように銃を構え直した。しかし彼はたじろがない。薄ら笑いさえ浮かべている。
「投降しろ。おとなしくしている限り身の安全は保証する」
「ーーいやだね。彼女を裏切るくらいだったら、約束を破る方がましだ」
「っこの! 」
ミコトはベルトに挟んでいた小型の拳銃を取り出しこめかみに押し当てた。乾いた銃声が、主のいなくなった部屋に鳴り響いた。
Scene 7 :
街は今日もいつも通りだった。今日という日を生き抜き、明日という日を迎えるため。人々は相も変わらず路上に店を出し、威勢のいいかけ声を上げ、市場には品物を売りさばこうという気持ちのいい熱気があふれている。グレンはそんな通りのオープンカフェの席に座り、売店で購入した新聞を広げていた。
「……」
ーーメイヤー市長ブランク ・ルームの完全解放を宣言。主席エンジニアのカミンスキー氏は特別表彰へーー
広場で演説する市長の写真がトップを飾り、紙面には長年の悲願がなされたことに対する威勢のいい言葉が並んでいる。しかし無表情なグレンの目は社会面の片隅に注がれていた。
「はぁはぁ、すみません。遅れてしまって」
駆け寄ってきたのはシーリンだった。いつもより少しだけ華やかな装い。走ってきたせいかその顔はほんのり上気している。
「いや、気にしなくていい」
「 でも……」
グレンは新聞を畳むと近くにあったゴミ箱の中に無造作に投げ込み立ち上がった。
「行こう、シーリン。時間というのはあっという間に過ぎてしまうよ」
二人連れ立って賑やかなストリートを歩く。ふとグレンは立ち止まって上を見上げた。真っ青な空を切り裂く総合市庁舎オベリスクは今日もそこにそびえ立ち、街のすべてを監視している。
「グレンさん? 」
「……いや、なんでもない」
グレンは巨大な墓標に背を向けると、シーリンと共に街の人混みの中へと消えて行った。
fin.
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