在日をやってると97
僕が、大阪入管に収容されている在留資格の無い外国人の面会支援をするようになって今年で5年になるけれど、状況は相変わらずで、死亡事件などの酷すぎるニュースが続いているし、人が死んでも制度は改善されず、それどころか改悪されようとしていて愕然としてしまう。
入管の面会支援をするようにわかったこと、感じたことはたくさんあるけれど、その一つは、そもそも、無期限で長期に人の自由を奪っている日々の”収容”がとても残酷で大きな問題だということ。それは、面会での聞き取りで被収容者の1日の生活を知って感じただけでなく、身体的、精神的な調子の変化だったり、表情や言葉だったり、彼・彼女らと接しながら強く感じてきたこと。
「人とハグしたり、乾杯したり、(外にいる)あなたたちが日々やっているなんでも無いことがここ(収容所内)ではとても特別なこと」
僕にこう言った人は強制送還されてしまい、乾杯もハグもすることは叶わなかった。仮放免されて(多くの制限があるとは言え)やっと外に出れた時の彼・彼女ら嬉しそうな表情や言葉、仮放免中の定期的な出頭(突然収容されるかもしれない)の時の不安そうな表情や言葉も忘れることができない。
前にも書いたと思うけれど、入管の面会をするようになってすぐに精神科病棟に強制入院させられて死んだ自分の父親のこととリンクするようになった。
父は脱走しようとしてリンチされたらしい。”らしい”というのは母がこのことについてほとんど口を開いてくれないから。精神科病棟では本人の同意なしに強制的に入院させられる制度があって、父は母のサインで強制的に入院させられていた。その後悔もあり母はこのことを尋ねてもほとんど話してくれなかった。
父は僕が小学校の3年生くらいのころにはアルコール依存症で入退院を繰り返すようになった。家にいる時はテレビの前が酎ハイの空き缶で一杯になっていて、僕はよく父のお腹の上に乗っかり一緒にテレビを見ていた。子どもにはいつも優しかったので僕は父のことが嫌いになれなかったし、めちゃくちゃ好きだった。母が仕事から帰ると喧嘩が始まるのもよくある光景。
母は仕事と子育てと父の世話をしながら病院や治療施設を探し回っていた。父が家にいては生活が成り立たない。やっとのことで入院先を見つけても父がお酒を飲んで病院を追い出される、それでまた病院を探す、でもまた追い出される。そんなことを何度も何度も繰り返していた。
最近、やっと気持ちの整理がついてきたのか、少しずつだけどいろいろと話してくれるようになった。つい最近、父が入院していた精神科病院のこんな話を聞いた。
「閉鎖病棟の中に(勝手に?)入って中を見ると、鉄格子にコンクリートの床、剥き出しの便器……(泣き出して言葉を詰まらせながら)人が生活できる空間じゃ無いねん。あれは。」
ある病院では医者から退院・転院するように言われた時にこんなことを言われたそう。
「もう紹介できるところは大和川病院しかない。でも、あそこに行ったら人生終わりですよ。それでもいいですか?」
その病院から転院はしなかったけれど、父は最終的には大和川病院に行き着き、死んでしまった。母が父や自分達のために大変なのは十分理解していたつもりだったけれど、まだまだ理解できていないように思う。父に起こったことをある程度ちゃんと知ったのは、死んで少し経ってから。家に「ルポ・精神病棟」という本を発見して興味本位で読んだのがきっかけだった。ただ、その頃は人権感覚がなかったからなのかピンとこず、父に起こったことに関連んする本だとは理解したが、ただ興味深く読んだだけで他人事でいられたように記憶している。
少し長くなってしまったけれど、そんなこともあって、入管の収容施設で起こっていることと、過去に精神科病棟で起こっていたことがそれほど違うように思えないなと思いながら入管の面会をしていたし、面会の行き帰りにはどうしても当時の母の気持ちを想像してしまうようになった。
僕が面会していた方が精神的に不安定な状態になり、精神科病院に入院したことがる。知らせを聞いてすぐに、大阪入管からは随分離れた場所にある病院に面会に行った。初めての精神科病院の閉鎖病棟。父のことや母のことも頭に浮かんだりしながら面会の申請をした。病棟は比較的きれいで、面会を待つ間に連れられたのは他の患者の様子が見える空間。面会室もきれいで、しかもアクリル板が無いので触れ合える。想像していた精神科病棟とも、普段面会に訪れている入管とあれもこれも違��てとても驚いた。いつもはアクリル板越しに話をしていたのでなんとなくぎこちなく会話をしたのを覚えている。帰り際にやっと握手をしてハグをした。でも、面会の後、病状が悪化したのか一時的に隔離室に閉じ込められて身体拘束を受けていたというのも聞かされ、理由もすぐには知らされず、精神科病棟もまだまだ危うい場所だなとも感じた。
その後、2020年3月に神戸の精神科病院での患者への虐待事件(神出病院事件)があり、精神科病院も父の頃から大きくは変わっていないことを知った。
そういうことがあって、入管の収容施設の中で起こっている人権侵害は実は日本のいろんなところでも日々起こってることなんじゃないか、そもそも人の自由を奪うということはどういうことなのか、それを管理するというのはどういうことなのか、そういうことを一から考える必要があるんじゃないかと、そういうことを考えるようになった。
自分が、子どもの頃、在日であるということをあまり意識せずに育ったのは、差別を受けた経験がなかったことが大きいけれど、最近は、日々の生活がそれどころではなかったんだなと強く感じている。入管での面会で知り合った在留資格を取り消された日系の人たち。子どもの頃に日本に連れられまともに勉強も受けることができず、日本語もそれほど上達せず働くしかなかった人たちが多い。背景に貧困がある彼らの生活環境を見ると、まるで自分の親の世代を見ているように見えて、自分の育った環境を振り返る機会になった。
昔は自分の家庭が他と違うのは、父親が"ダメな人"だったからだとだけ思っていたけれど、そもそもなぜ父親が"アル中"になったのか、なぜお金がなかったのか、とかそういうことに在日であるということが繋がった。それだけでは無いのだろうけど、全くの無関係では無いんだなと。その上で日本社会全体を見渡した時に同じように貧困に苦しんでいる人たちがいて、いろいろなことが地続きで連続しているんだなというのを強く意識するようになった。
自由を奪われる人、家族や友人の自由を奪う選択を迫られる人を少しでも減らしたい。とにかくもっとマシなあり方を見つけたい。そういうことをずっと考えていて、入管のことで一緒に活動している仲間と一緒にイベントを企画しました。3月5日(日)18:30から。気軽に参加してくれたら嬉しい。
ウィシュマさんのご命日の前日である3.5(日)に、大阪で入管の問題で活動しているSaveImmigrantsOsakaと、東京で活動しているfreeushikuと共同で、入管に限らず、人��自由を奪い管理することが行われている収容施設の歴史、現状、課題を学ぶイベント「自由を奪われるひとびと ~ 収容する社会を考える ~」を東京と大阪、LIVE配信で開催することになりました。
会場では仮放免中のムジブラさんが書いた世界人権宣言第一条でデザインしたトートバッグ(¥1500)販売も予定しています。(めちゃくちゃかっこいいやつ!!)
東京会場:LOFT9 Shibuya
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/loft9/240350
大阪会場:Loft PlusOne West
https://https://www.loft-prj.co.jp/schedule/west/240351
配信視聴
https://twitcasting.tv/loft9shibuya/shopcart/218794
ツイッター告知
https://twitter.com/SaveImmigrantsO/status/1629675099954597889?s=20
Facebookイベントページ
https://www.facebook.com/events/1135451947115049
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在日をやってると98
また、入管法が改悪されようとしています。廃案になった2年前とほとんど同じ内容です。昨日(2023年4月21日)に僕が参加しているSave Immigrants Osakaも主催に加わらせてもらい、国会前で大きなアクションを呼びかけました。
「入管法改悪反対」国会前で約2000人が入管法改正案の廃案を訴え
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/448722
今日にも採決されるかもしれないという状況なのに、大阪で仕事があるため国会のアクションには参加できませんでしたが、スピーチを代読してもらったので載せておきます。2年前とあまり変わらない内容ですが。
国会での審議で、改悪を進めたい側の議員や参考人、入管庁が犯罪歴のある人たちがまるで極悪人かのように言っていて本当に悔しいです。
今の社会では犯罪歴があるというと、それだけで拒否反応が本当に強くてなかなか理解してもらえない。ネットを見ると入管で起こった事件や事故も被害者の落ち度(デマもたくさんある)を持ち出して正当化する発言がうんざりするくらいに溢れかえっています。
それもあってか、法案に反対する人たちの側からは犯罪で在留資格を取り消された人たちに関する言及がどうしても少なくなっているように感じています。仕方ないのかなと思いつつ、1人くらい犯罪で在留資格を取り消された人たちのことを話す人間がいても良いのかなと思っていて、いつもそのことを話しています。2年前のスピーチでも今回のスピーチでも。
以下、スピーチの内容です。少しでも実際の彼らのことを想像してもらえたら嬉しいです。
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気がつけば、大阪入管に収容されている人たちの面会や仮放免中の人たちの支援をするようになって5年になりました。
難民、オーバーステイのまま長年日本に滞在し働いてきた人たち、犯罪で在留資格を取り消された人たち、非正規滞在の両親を持ち日本で生まれ育った未成年の子どもたち。
どの人たちも事情があって国籍のある国に帰れない人たちです。入管はそういう人たちをなんとかして追い出そうと、強制的に収容し極限まで自由を奪ったり、仕事も健康保険の加入もできない仮放免という状態で放置して心が折れて帰国するのを待っています。私の周りだけでも心も身体もボロボロになりながら耐えている人がたくさんいます。
彼らの側にいるといろいろなことが見えてきます。犯罪で在留資格を取り消されたという友人の家を初めて訪ねたとき、まず目にしたのはボロボロの団地でした。部屋の中に入ると新聞紙で補強した襖が並んでいて、奥には寝たきりのお父さんがいました。中学生の頃に親に連れられて日本にきて、日本語もほとんどわからないまま働いたという彼がどんな環境で育ったのか少しわかったように思います。
別の友人は仮放免中に怪我をしてしまい、相談にのっていたところ、彼を支える家族もお金がなくて健康保険料を滞納していることがわかりました。
コロナ禍に家族の収入を聞き取りし、支援の対象になりそうな人を行政の支援に繋げようとしたのですが、役所に相談に行ったら、まともに説明もしてもらえず「あなたは無理ですよ」と追い返されてしまったという人もいます。
日本人は、日本社会は、彼らのSOSをどれだけキチンと受け止めてきたのでしょうか。社会が彼らを同じ市民として受け入れていたら彼らにはもっと違う人生があったんだろうなとよく考えます。
ずっと続く差別と貧困。解決するべきなのはそこではないでしょうか。排除しようとすることで家族や親戚まで貧困��ら抜けだせなくしてしまっていることに早く気がついてください。
かつては強制送還の対象(※厳密には今の送還はあり得ますが)・標的だった、在日コリアンが特別永住の在留資格を得ることで在留資格が安定し、社会保障の適応対象が広がり、3世、4世、5世となって差別や貧困の問題が少しずつ解消されていくとともに、生活が安定してきたという歴史を見ればわかることです。
いま安定した在留資格で生活できている3世の在日朝鮮人として、そして何よりも、ひとりの人間として、排除しか考えていない今回の法案に反対します。彼ら・彼女らに必要なのは在留資格です。
ありがとうございました。
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追記
非行歴や前科を有する人を支援する者、およびそうした人がやり直すことのできる社会の実現を目指す者による「入管法改定に反対する声明書」の賛同者を受け付けているそうです。声明本文も必読です。
資格等関係なく上記の社会の実現を目指す方であればどなたでもとのこと。4/25前中締め切りです。
こういうアクションが出てきたのがとても嬉しい。1人でも多くの賛同が集まれば良いですね。よろしくお願いします。↓
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScU-H9SfUCDwpjoCOZKhfLxWqx-w4CaEExUnkZ-E04LKT_d-w/viewform?vc=0&c=0&w=1&flr=0&fbclid=IwAR2Ep3XsgcBcW5ehIOr-DIZnvPrx1VjZRBL8emoXgSxGSOYrpPlSBgTVkPQ
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在日をやってると99
社会学者の岸政彦さんが監修の「大阪の生活史」に聞き手として参加しました(昨年12月発売)。語り手は在日朝鮮人2世の母です。
母からの聞き取りは、ずっと前からやらなきゃやらなきゃと思っていたのになんだかんで後回しになっていたので、とても良い機会になりました。
本に載るとなると、母の承諾を得ないといけない。「嫌がるかもしれないなぁ」と思いながら本人に相談してみたところ、
僕「本に載るから母さんの人生聞かせて欲しいねん」
母「何それ?」
僕「岸政彦って学者さんの呼びかけで、大阪に関わりのある人150人の生活史をまとめて本にするっていう企画があるねん。東京バージョンがでてるねんけど、めちゃくちゃ売れてるらしいで。」
母「私の話なんか聞いて何になるん?お母さんの人生なんか聞いても何にもおもしろいことないやんか。」
僕「そんなわけないやろ。笑。まあ、それはそれでええねん。そういう企画やし、読む人が判断することやろ。」
母「うーん。まあ、別にええよ。」
とこんな感じで、意外とあっさりとOKに。
そして、やっと実現した聞き取り。これまでほんとうに何も聞いてこなかったので、知らないことばっかり。ほんとうにおもしろかった。
何回も大阪を離れて、その度に大阪に戻ってくるので、本のタイトル「大阪の生活史」にめっちゃ合っているやんと思いつつ、家族・コミュニティに振り回されながらも、なんだかんだで家族・コミュニティから離れられない人生だなと感じた。
(カットした部分も含めて)母の話からでてくる男性は、僕の父や祖父、伯父、etcとダメな人ばっかりだった。当時は就職差別なんかもあっただろうし、簡単に仕事も見つからなかったりしたんだろうなとか、在留資格の無い外国籍住民の支援をしていることもあってか、将来に希望を持てずにダメになってしまったりする感じみたいなのは想像できてしまう。そして、その分の、負担が女性にのしかかる。(知ってはいたけど)母も祖母もほんとうにほんとうに苦労してきたんだなと、今回の聞き取りであらためて思った。
関西人だからなのか、どんなに大変な話もオチがついて笑いに転換してしまう。聞き手である僕がついそういう流れを作ってしまったところもある。聞き取りが終わって文字起こしをするのに録音を聞き返していると、その場では気が付かなかった母の声のトーンに気がついた。大笑いしているようで、ものすごく辛そうに話している、笑っているシーンがちらほらと。全然感じを読み取れてなかったなぁと大反省しつつ、「笑わなやってられへんよな」とも。
在日の話が取り上げられる時、今の時代でも、男性の話が取り上げられることがまだまだ多いように感じる。学校にも通わせてもらえずに、文字の読み書きや簡単な計算すらできずに育ったり、家事や育児、時には仕事も何もかも押し付けられて、自分の人生をあきらるしかなかったり、そんな在日女性たちの声が埋もれていっているなと感じる。
そういう意味でも、今回、母の生活史が書籍になったことで、いろんな人に読まれているのは参加できて良かったかもしれない。個人的には、子どものためだけに生きてきたのに、酔っ払うと口癖のように「あんたには苦労をかけてほんとうに情けないし、ほんとうに申し訳ない」という言葉がでてくる母が、自分の人生を��ょっとだけでも肯定できるきっかけになってくれたらと思う。(「大きい本屋に平積みやで」と伝えたら少し嬉しそうだった。笑)
まあ、興味のある人は読んでみてください。
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「自分の目の前にかわいい子がいるんなら、触ってやれ。ここからは逃げられないだろ」とNOFXのボーカル、ファットマイクは言う。
2000年、サンフランシスコでのワープドツアー、14歳の私にとって初めてのパンクショー。
全身が硬直する。MCでそう言われた途端、もうすでにそれは起こっていた。まるで当然の行為だとでも言うかのように、誰かの両手によって乱暴にシャツをたくし上げられる。『やめて』と思うことしかできない。自分が本気で怖い目に遭ったとき、あれこれ理屈を考えることなんてできない。
暑い。その手は汗ばんでいる。私がその手を離そうとしたら、さらに手に力を込めてくる。もう私の体が自分の物になったとでも思っているようだ。
「手を!離して!」私は叫ぶ。自分の首を振ることしかできない。周りを見ても人がぎゅうぎゅうで身動きがとれない。彼のニヤついた笑みだけが目に入った。
それがひきがねとなった。私は彼の腹にエルボーを食らわす。ちょうど私のすぐ横にできたモッシュピットに合わせるようにして。でもそこは学校のフットボールパーティー程度のパンク度だったから、リアルなモッシュピットではなかった。私が目にしたのは全員白人で、ちゃらそうな男ばかり。と思ったらその彼に思いっきりぶっとばされ、私は一人地獄のモッシュピットに叩き込まれた。
ピットで何が起きているのか理解できない。誰かが私の顔にエルボーを食らわてくせる。後ろから殴ってくる。この地獄のピットで女は私一人、私はすぐに倒れてしまった。私は地面にひざまづきここから出してくれるようお願いする。でも誰一人助けようとしてくれない。顔に膝蹴りを食らう。そしてこの状況に抵抗しないとどうなるか、私は悟った。それがこれ。
私は自分の両腕を振り回し、立てるようになるまで目の前にあるもの全てを殴りまくった。私の前にはまだ人がいっぱいいるのがかろうじて見えた。
「離して、離して」
そう呪文のように繰り返し、延々パンチをし続ける。人混みを脱出し、呼吸ができるようになるまで、どれくらいそうしていただろう。私のベースボールシャツはびちゃびちゃ、ジーンズは泥だらけ。自分が不潔に、卑猥な存在に思えた。
あれから15年経っても、私は未だにNOFXのレコードが聴くことができない。
どうしたって善良なファット・マイクが歌っているとは思えない。ファット・マイクは天才。ベイエリアの有名人。でも私にとってファット・マイクは、バリウムを売るために、そして自分のファンだというコンキスタドール(スペイン語で征服者)達のハイタッチのために、女性ファンを見捨てた裏切り者だ。誰かが彼を称賛するなら私はこう言いたい。「ふざけんな、あんたも共犯よ。自分の見たくないものを知らないふりするなんてクソだわ」
ステージで政治的な発言をすることについて、ラティーノ/クィアパンクバンド Downtown Boysのシンガー、ヴィクトリア・ルイスはこう言う。(彼女は歌うのと同じくらい喋るらしい)「先頭に立つ必要がある人達やライブに来てくれる人達と、どのように話したらいいのか、どうやって信頼できる関係を築いたらいいのか?私たちは一体どう決断したらいいのか、権力の力関係についてどういう決断を下せばいいのか?そういうことはアクティビズムや組織の活動に通じることだから、現状を変えようとしている人や変えてきた人達をたくさん呼んでくるんだと思ってる。」
ルイスのバンドはレイシズムに立ち向かい、さらに包括したパンクショーを作るために奮闘している。
ルイスとDowntown Boysのソングライターであるジョーイ・デフランセスコは、ロードアイランド州プロヴィデンス市のホテルで一緒に働き知り合いとなり、そこで組合を組織した経緯がある。ホテルが白人以外の人々を搾取していることに気づき、それに対し何かしようと決めた。そしてそれは組合を組織し、バンドを結成するということにつながっていく。
「私たちの言葉とか、ライブ以外で普段していること、活動のために築いている人間関係なんかを通して、自分たちが実際に力を持っているのでない限り、つまりそのとき私たちが実際に力を持っていなければ、それはただ自分たちに風変わりなアイデンティティポリティクスを当てはめることにしかならないけど、Downtown Boysは常にアイデンティティを超えて、権力構造とその力関係を変えていきたいと思っている」とルイスは言う。
既存の権力構造は、現状を維持し白人以外の功績をなかったことにするが、それはパンクシーンの中でさえもそうなりがちだ。パンクには無数のサブカルチャーがある。ストレートエッジからアナキスト、クラストからSHARPまで様々だ。しかしアーティスティックなムーブメントであってもその基となった文化の写し鏡となってしまうことはままある。もともと白人以外を軽視する傾向があるアメリカでは、大きく成長したパンクシーンにおいても同様のことが起きている。
しかしラティーノパンクやラティーノパンクフェスティバル(以下LPF)の出現は、そのようなヘゲモニーに対して挑戦している。ラティーノパンクバンドRumoresとニューウェイブバンドPopulationのボーカル、ベニー・ヘルナンデスは、2006年に1回目のLPFをオーガナイズしたが、そのきっかけは当時シカゴでは誰もラティーノパンクバンドをブッキングしなかったからだという。伝説的なラティーノパンクバンドLos Crudosが解散した後、プロモーター達はラティーノパンクを目新しいものと考えたが、やがてそれは使い捨てとなり、シカゴパンクシーンが多くのラティーノによって成立するようになっても状況は変わらなかった。
「地元の多くのバンドやラティーノバンドは露出する機会がなかった。ライブのオファーをもらえなかったんだ。俺たちは郊外から移住してきた白人の派閥ではなかったんだけど、そいつらが来ていきなりシカゴをレペゼンしだしたんだ」とヘルナンデスは言う。
「ちょっと待て!って感じだったよ。メインアクトがまじですごいバンドのライブに行っても、オープニングアクトはショボい白人バンドだったりして、俺はこう思った。”あんなショボいオープニングアクトが出れるんなら、ショボいラティーノパンクバンドに声がかかってもよくねえか?”って。それでピンときたんだ。俺たちは別にあいつらと分離しようとか、白人バンドより優れてるなんて言うつもりもなくて、ただそっちのパーティーにブッキングしてくれないから自分らでブッキングするパーティーを企画したわけで、ラティーノパンクバンドで成功するやつらが出てきた時にはそいつらをメインにするつもりだよ。」
イデオロギーとして、LPFはDIY精神のパンクカルチャーをさらに拡張させたものである。しかしLPFはその同じカルチャーからつまはじきにされたところから成長してきたものでもある。私たちの文化が選択的に消去してきた行いに対する反抗の形なのだ。
私たちはここにいる、そして私たちはどこにもいかないって言う方法だった。
It was a way of saying we’re here, and we’re not going anywhere.
***
あのNOFXのライブから間もなくして、私は地元の小さいパンクイベントに行くようになった。そこにいるのは顔なじみばかりで、私を所有物としてではなく、仲間の一人としてみてくれるような人たちだった。
9月のある運命的な夜、その日は最大のラティーノパンクバンド、LAから来たSuicidal Tendenciesがヘッドライナーだった。私にとってラティーノパンク初体験のイベントで楽しみだった一方、ライブはソールドアウトとなっていてそのことでナーバスにもなっていた。1000人もの人がライブに来るのだ。
でもNOFXのライブのようにはならない。そこにいるのは��色の人たち。チョラの人たち。そこにいるのはmi gente(私の仲間)だ。
相変わらずの白人の語り口は同じパンクシーン、同じ歴史の一部を担った多くのバンドを除け者にする。mi genteはどこにいる?
私はそれまでパンクイベントでラティーノの男を見かけたことがなかった。何ヶ月間かペタルーマ郊外(サンフランシスコの北に位置する町)のアンダーグラウンドのパンクショーに通っていたが、白人以外は二人しか見たことがない。でも今夜、彼らはいたる所にいる。ノースベイのあちこちから来た階級も様々な人達。まるで誰かがラティーノたちにソナーでメッセージを送り、みんなそれを聞きつけて来たようだ。
最初のバンドが始まったとき、私は本物のサークルピットを見た。みんながぐるぐる回り、誰かが倒れてもすぐに助けられている。殴り合いはないし、敵意もない、無礼もない。
私はピットをじっと見つめていた。でも私はよく知っている。そこにすごく混ざりたいと思っても、そこは自分の居場所じゃないってことを初めから知っている。
10cmくらい私より背が低くて、黒いサングラスをした、やばいモヒカンの男の子が、私を見ながら微笑む。
「入りたいの?」と彼は尋ねる。
私は頷く。
彼は私の背中に手をおいて、私を放り込むタイミングが来るのを待っている。ビートのリズムに合わせて頭を振る…1…2…今だ。私はピットに勢いよく突っ込み、親しみを込めてみんなを押しのける。でもすぐに私は前と同じように倒れてしまった。
私の心も挫ける。いや、そうじゃない…そう考える間もなく、床に打ち付けられる前に4つの腕が私を起こしてくれた。私は二人の男を見上げる。ラティーノ達が聞く。「大丈夫かい?」
彼らは私を気にかけてくれる。私たち全員がこの場を作り上げている。私は頷く。何も恐れる必要がないことを実感する。
「もう一度入るかい?」一人がそう聞いた。
私は頷く。でも今度は自分で入っていく。
「私たちをレペゼンするメインストリームなんて必要ない。自分としてもそういうのは望まない。」
ラモーンズ、クラッシュ、セックスピストルズ。相変わらず白人の語り口は同じパンクシーン、ヒストリーの一部を担った多くのバンドを除け者にする。mi genteはどこにいる?どうして私たちも同じタッチで描かれないのか?
白人以外の人々がアートから歴史、そしてパンクにおいても抹消された存在であることについて、ルイスはこう言う。「いい例がフリーダ・カーロね。アメリカでは、ディエゴ・リベラと付き合った女性、弱々しく美しいアーティストで、セルフポートレイトを病んだ感じで傷つけたりした人っていうイメージだと思う。それからもっと彼女にについて学ぶと、彼女はコミュニストであり、アーティストになろうと頑張って、様々な人から尊敬し愛された人だったということがわかる。トロツキーが彼女と関係があったとかね。」
「彼女は明らかに、かなり白人化された存在だわ。わざわざホワイトって言葉を使わなくても、彼女のアイデンティティにおいて、た���さんのパワーを内包したある部分が文字通り剥奪されている。で、私はこれと同じことが音楽やアーティストにも適用されてると思うわ。」
しかし自分たちのアイデンティティを剥ぎ取ることにわざわざ加担する必要はない。ラティーノパンクは自分たちで話を紡いでいく。
スサナ・セペルベダはRiot Grrrl Carnivalの設立者で、ラティーノパンクバンドLas Sangronas y El Cabronのフロントウーマンだ。ロサンゼルスのタジャンガ出身で、現在はアリゾナ大学でジェンダー、女性に関する研究で博士号をとろうとしている。
「パンクは根本的にアンダーグラウンドでD.I.Yなものだと思ってる。そしてP.O.Cパンクス(People of Color=白人以外のパンクスの意)はいつだってパンクの本流を象徴することはないけど、私たちは私たち自身の歴史を記録し、声をあげる道を作っていく。私たちをレペゼンするメインストリームなんていらないし、私としても別にそういうのは望まない。」
ラティーノパンクとLPFの盛り上がりは、帝国に対する挑戦であり、存在そのものを可視化させることになる。
私たちは目に見えない存在ではない。私たちがカルチャーであり、ホームである。
We are not invisible. We are culture. We are home.
2016年1月28日 OBSERVERの記事より
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