風船男
考えることが好きな、男がいた。 彼の頭の中にはいつも何かしらの思考の種がばらまかれており、彼は大切にそれらを育てていた。輪廻転生に思いを巡らせ、いつか、宇宙のはるか彼方から飛来するであろう隕石の、形から色、重量にまで見当をつけていた。彼の視野は広く、大きく開かれていた。 彼の中には過去も未来もなく、従って現在という観念の持ち合わせもほとんどなかった。彼の頭の中では、キリストも仏陀もムハンマドも、新興宗教の教祖でさえも、一つの知識として同列に扱われていた。天も地も海も山も、彼の開けた眼の前では、一個の知識でしかなかった。彼は全てを愛し、それ以上に考えることそれ自体を愛した。彼は薄っぺらい雑誌を好み、難解な論文を好み、そして同時に数列を好んだ。 彼は宇宙について考えた。 彼は地球について考えた。 彼は、自分が住むちっぽけな島について考えた。 彼は、自分がいる小さな家について考えた。 そして最後に、彼は彼自身について考えた。 彼自身について考える際、彼は人体について考えた。それはとてつもなく合理的な構造をしていて、彼からしてみればそれこそ小宇宙であった。彼は考えた。彼は考えに考えた。 彼の頭の中で、人体という小宇宙はもくもくと成長した。その宇宙のイメージは、人体という枠から外れて、生命という枠にまでその影響を及ぼしていった。彼の頭の中で、人体と生命のイメージは一緒くたにされて、宇宙の中に放り込まれた。しかし、それでも尚、宇宙のイメージはとめどなく肥大化していく。やがて、考え続ける彼の体は、静かに、けれど確実に、膨らんでいった。彼の頭の中で育った宇宙のイメージが、彼の頭から胴体を伝って、足の爪先へと移動し、そこから順に、彼の体を膨らませていった。傍から見れば、彼はまるで足先に空気ポンプを備え付けられた風船のようだっただろう。 けれど彼は、自分の体などに注意を払っていなかった。それは確かに、彼にとって見れば小宇宙であったのだけれど、考える対象以上の存在ではなかったのかもしれない。ともかく、彼は足先から見る間に膨らんでいった。彼の中の宇宙のイメージは、彼の中で益々大きく育っていく。 最早、彼の腹回りはぱんぱんに張り、着ていた燕尾服ははち切れんばかりに伸びきっている。彼は考え続けた。 とうとう、彼の身体は浮いた。彼しか住んでいない小さな家の、小さな居間で、彼はその巨体を動かすこともなく、ゆっくりと浮き上がった。彼の身体は、ものの見事に、開いていた天窓から、外へと飛び出した。 浮いている彼を見て、町の人々は一体何だろうと噂した。けれど、彼は眼下の人々を見下ろすこともなく、ただ無心に考え続けていた。彼の小さな頭で作り続けられる宇宙のイメージは、やがて彼のその頭自体をも満たし始めた。彼の顔は、出来の悪いシュークリームのように膨れ上がった。空の雲のように、ふわふわとしている。そしてその中で、彼は宇宙を生産し続けていた。夢見る瞳で、彼は風船と化した。 少しの間自分の家の上に留まっていた風船男だったが、いつしか風にさらわれて、いずこへともなく姿を消した。 町の人々は、すぐに彼の存在を忘れてしまった。
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桜花下
桜が散っていた。
私の足元では桃色の花弁が、歩道を覆いつくしていた。こんなにたくさんの花弁であるのに、しかしここに植わっている桜の木は立った一本なのである。そのたった一本の桜の木は、見事な古木、大木であった。私はその堂々たる姿に見とれていた。その間にも、桜は次々と散っていく。不思議なことには、それだけ沢山の花弁が散っているというのに、桜の木に咲く桜の花は、ちっとも減った様子が見られないのである。永遠に散り続け、咲き続けるとでも云うように、私の頭上に桃色を降らしていく。私はただただそれを見つめながら、黙って立っている。
もし、と声がしたのは昼ごろだった。金縛りにでもあったかのように身動き一つしない私に、一人の女が声を掛けてきたのである。振り向き見れば、其処にいたのは何処か見覚えのある、しかし何処で見たのだか全くわからない、髪が長くそれを結わえた女だった。もし、と女はまた云った。これまた聞き覚えのある、鈴を転がしたような声だった。
―――もし、其処で桜を見ていますのは、何か理由がございますのでしょうか。
私は無いと答えた。桜を見るのに、どうして理由など要ろうか。女は私の答えを聞き、俯いて云う。
―――理由が無いと仰りますのは、つまり、桜を見て何かを思い出すなどということもございませんのでしょうね。
全く以ってそうである、と私が頷くのを見て、女はその黒々とした小さな瞳で私を見た。
私はどきりとした。何処かで同じ瞳を見たような気がしたのだ。
だがしかし、次の瞬間には、その、後悔と罪悪感を含んだ感情は、また私の心の底のほうに引っ込んでしまった。女は云う。
―――私もここに立って、貴方様と一緒に、桜の散るのを見ていても、良いでしょうか。
私は別に構わない、と答えると、女は静かに私の隣に立った。
―――桜が、どうしてこんなに美しく咲くか、ご存知でしょうか。
知らない、と答えると、女はそうですか、と呟き、黙ってしまった。先ほどまでの私と同じように、身じろぎ一つさえしない。
私はいつの間にか、桜でなく女のほうを見ている。何故だか、この女はこの桜の下に埋まっているもののような気がしていた。桜の下で、根に養分を吸われながら、徐々に干からびていく、そんなモノのような気がするのである。
女はじっと動かない。じっと動かずに、自分の頭上にある、聳え立つ桜の古木に魅入られたように見入っている。女は、瞬き一つせず、私の隣で立ち続けている。私は、女から眼を逸らすことができずに、隣に立ち続けている。
―――桜が、こんなに美しく咲く理由を、お話いたしましょうか。
私は要らない、と答えようとした。だが、気づいたときには頷いていた。
女はつと伏し目がちだった黒目を上げて、私を見上げた。
私はその中に――その、黒々とした池のような、底なしの沼のような、静かな湖のような波紋の中に、おびえきって引きつった、私自身の顔を見た。
女が口を開くのと同時に、私は女の首に手をかけていた。女が何も言わぬうちに、絞め殺さねばならない。
女は口を開いたまま、私を見つめ続けた。私は首にかけた手に力を入れ、その顔が苦痛に歪むのを唯待った。しかし、女の顔は涼しげなままだった。その口元には、うっすらと笑みすら浮かんでいるようだった。私は益々手に力を入れた。最早女の気道は、完全に塞がっていた。女も、もう呼吸などしていなかった。死んでいた。死んでいたのに、カヲは笑っていた。眼も私を見つめ、口元に微笑をたたえていた。
私は、女が完全に死んでいるのを確かめて、その眼と口を閉じた。閉じてから、まるで当然のように、桜の根元に大きな穴を掘った。そして女をその中に入れて、また土を被せた。女は桜の古木を仰ぐような形で、土の中に埋まった。
私は其処から少し離れた場所に立って、桜の木を見上げた。とても美しい桜である。
私の足元では桃色の花弁が、歩道を覆い尽くしていた。私はその堂々たる姿に見とれていた。
もし、と声がしたのは昼ごろだった。
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